世界のお墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

番外編コーナー


★37名&2匹

アーサー王の墓
クフ王/世界最大墓
サリエリの墓
メアリー・スチュアートの墓
ストーンヘンジ周辺墓
ドラキュラの墓(ブラド・ツェペシュ)
ジョシュア・ノートンの墓
ヴィクトール・ノワールの墓
ネロ&パトラッシュの墓
フマユーンの墓
マオリ族の墓
マザーグースの墓
ムムターズ・マハル&シャー・ジャハーンの墓
マリー・アントワネットの墓(&ルイ16世)
ムー帝国の王の墓
イースター島古墳“モアイ”

チャップリンの母ちゃんの墓
デ・ニーロの親父さんの墓

セイジ・スタローンの墓
アマミチュー(アマミキヨ)の墓
安寿姫&厨子王丸の墓
イザナミノミコトの墓
浦島太郎の墓
大石先生の墓
弟橘姫の墓
かぐや姫の墓
河童の墓
凶首塚
川口浩の墓
金太郎の墓
コノハナサクヤビメの墓
ニニギノミコトの墓
光源氏の墓
野中元右衛門の墓
力塚

仁徳天皇陵
ハチ公の墓
桃太郎の墓



★アーサー王/King Arthur 450〜550年頃 (イギリス、グラストンベリー)2005
Glastonbury Abbey*, Glastonbury, Mendip District, Somerset, England



畑の中にあるひなびたキャッスル・シティー駅 そこから667番のバスを利用 ほとんど農道の道を進む


やがて巨大な僧院の廃墟に到着。英国南西部の
グラストンベリーにはキリスト教最古の聖堂がある
遺跡は点在しており、この一帯に
壮麗な建築群があったことが分かる

「え!?これがそうなの!?」
めちゃくちゃ素朴なアーサーの墓
悠久の時の流れを感じているのか、子どもが見入っていた

アーサー王はサクソンと戦ったケルトの伝説的英雄。6世紀のウェールズの武将、のちブリタニア王。
9世紀初めの文献にその名が見える。トーマス=マロリーの「アーサー王の死」は伝説の集大成。




★世界最大墓“クフ王”/King Khufu 紀元前26世紀(エジプト、カイロ、ギザ)1994&2000


















高さ150m、一辺の長さは230mとメチャメチャ
巨大!石ひとつで2トン半。それを230万個も積み
上げているのだ。もう何がどうなっているのやら!
石の高さは人間くらい


はっきり言って、僕はクフ王に深い思い入れは
ない。ピラミッドの建設の為に命を失った名もなき
民衆を哀悼するために、この地へ足を運んだんだ

 

2000年に訪れた時は霧で上部が霞んでいた

はるか5000年前、20万人でこれを作った。アテネに大神殿(パルテノン)が作られたのが2500年前。それでも充分に古代遺跡なのに、さらにその2倍も昔にさかのぼるとは!石を運ぶ道を作るのに10年、土台の地下室にまた10年、さらにもう20年かけて上に石を積み重ねたんだって。クラッときた。

 

スフインクスは正面手前に座っている。座っているといっても高さが20メートルあり(ガンダムは18メートル)、
近くで見るとかなり大きい。ちなみに背後に周りこむとしっぽがある。これは知らなかった!


吉村作治氏の最新エジプト学から。ピラミッドは奴隷の強制労働で造られたのではなく、農民の“失業対策”。当時のエジプトには奴隷がいなかった。つまり、ナイルの氾濫で土地を失った農民の為の公共事業。住居と食糧が与えられ給料も払われ、造る事に皆が拍手喝采していたという。近年発見された“出勤簿”には遅刻理由に「ビールで二日酔い」と書かれているなど、強制労働とはほど遠い(笑)。ピラミッドが墓かどうかは不明だが、実はスフィンクスの方が200年も昔から先に造られていた。スフィンクスの語源は古代エジプトの“シェプス・アンク”(復活の神)なので、同じ土地に造られたことから再生を象徴する意味があると思われる。スフィンクスはエジプトから欧州に伝わり、ギリシャ(グリフィン)→イラン(ベルセポリスの獅子)→インド(アヨーカ王柱)→中国(紫禁城の獅子)→最後は日本の“狛犬”の原型になったという。神社の狛犬がエジプト文明から来てるというのにビックリ!



★ドラキュラ公ブラド・ツェペシュ:ワラキア公ヴラド3世/Vlad Tepes 1431.11.10-1476.12.19 (ルーマニア、ブカレスト郊外、スナゴヴ 45歳)2005
Monastery of Snagov Church, Near Bucharest, Romania



ブラド公 ブカレスト市内の胸像 ブラド公が15世紀に築いた砦跡に建っている

持参した資料を片手に 「オーッ、ドラキューラ!」 「このまま南へ行け!」 「逆だ、北へ進め!」

タクシーの運転手も「行ったことがない」という田舎に、ルーマニアを他国の侵略から守った英雄、そして敵兵を
串刺しにしたことでドラキュラのモデルとなったツェペシュ公は眠っている。道中、地元の人に道を聞きまくった。

正式な名前は「ヴラド」であり、ツェペシュ(ルーマニア語「串刺しにする者」)はニックネーム。
本人は好んで「ヴラド・ドラキュラ(竜の息子)」とサインしていたらしい。











なんと、タクシーから降りて、湖に
浮かぶ小島へボートで渡ることに
このスナゴヴ修道院に墓はあった

ロウソクが置いてある床の長方形部分がお墓!


小島から陸地に戻るとき、渡し船の料金が往復5ドルから20ドルに跳ね上がった。泳ぐわけにも行かず、
泣く泣く支払い。貧乏旅行者の財布から金を搾り取る吸血鬼。ドラキュラの血族はまだルーマニアにいた…。




★イースター島古墳“モアイ”/Easter Island,Moai (チリ、イースター島)2001

あまり知られてないが、モアイの台座の部分はお墓。つまり先祖が村の守り神となり見守っているんだ。正式名バスクア島。




人影と比べると巨大っぷりがわかる 島中にゴロゴロあって普通に触れる


殆どのモアイは戦乱や津波で倒れている 「ニョホ」重みで沈んでいるのも多い モアイ小道

昔の墓 現在の墓

イースター島ではほとんどの大木がモアイ運搬の為に切り倒されてしまった為、材木はとっても貴重品。
だから、現在の島民は墓の十字架を木で作らず、写真のように岩に直接絵を描いて代
用している。
これは他の土地ではあまり見られない独自の墓文化(ハカルチャー)だ。




【おまけ】ナスカ平原/Nazca(ペルー、ナスカ)2002


地上絵まではこのセスナで片道30分かけて飛ぶ

ペルーの首都リマに眠る聖ローザを巡礼した時に、時間を工面してバスでナスカ地方まで南下した。飛行場からセスナ機で飛び立った。
急旋回、急降下の連続でめちゃくちゃに酔う。6人いた乗客は全員が白目をむき吐く寸前だった。死力を尽くしてシャッターを押した。






ハチドリ 宇宙飛行士



★ストーンヘンジ/Stonehenge (イギリス、ソールズベリー郊外)2005







巨石の直径は30m、周囲の堀の直径は100m いくつもある周囲の古墳

作られ始めたのはB.C.3000年。宗教施設とも、天文台とも言われているストーンヘンジが、
何の目的で作られたのか分かっていない。そして、周囲を取り巻くように長(オサ)たちの墓があった。




★ムムターズ・マハル(タージ・マハル)/Mumtaz Mahal 1595-1631.6.17 (インド、アーグラー 36歳)2007
★シャー・ジャハーン/Shah Jahan 1592.1.5-1666.1.22 (インド、アーグラー 74歳)2007


















インド人にとっても観光名所 タージ・マハルは宮殿ではなくお墓!完璧な左右対称(シンメトリー)に思わずウルウル 人はこんなに小さい

ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、愛する妃ムムターズ・マハルの墓として22年の歳月を費やし1653年に完成させた。
高さ67m、四方は57m。どの角度から見ても調和のとれた造形から、 世界一美しい墓と言われている。建物の中心に2人の棺が
並んでいる。(本物は地下。ただし、数年前に爆弾テロ騒ぎがあって地下に行けない。レプリカの写真撮影すらできない)








近くで見ると表面が細かな装飾で覆われてて2度ビックリ みんな、言葉を忘れたように見入っていた 白以外の石も使われている。足下は全て大理石



壁一面に浮き彫りの花 葉っぱの一枚一枚まで精密に刻まれている 夕暮れ時のタージ・マハル



★フマユーン/Humayun 1508.3.6-1556.2.22 (インド、デリー 47歳)2007





“赤いタージ・マハル”ともいえる美しさ。安定感があり見飽きない 赤砂岩に白大理石がはめこまれている 夕陽に浮かび上がる王の棺(本物は地下)

ムガル朝第2代皇帝フマユーンの墓。死因はちょっとトホホで、図書館の階段で足を滑らして転げ落ち、
頭を打って他界してしまった。妃が1565年に建造したイスラム建築の傑作。世界遺産!



★ネロ&パトラッシュ/Nero (ベルギー、ホーボーケン)2002




 
アニメ『フランダースの犬』涙の最終回で、ネロが絶命したアントワープのノートルダム教会。とてつもなくデカイ。

これが、ネロが夢にまで見た憧れの絵、ルーベンスのキリスト昇架だ!彼はこの前でパトラッシュと共に昇天した。

 
アントワープから路面電車で30分。ネロが住んでいた小さなホーボーケンの町へ。この写真に映っている教会手前の芝生は、かつて墓地だった。ネロとパトラッシュはここへ手厚く葬られたと記されている。
(残念ながら墓碑はない)


どわーっ!旧墓地で拙者が「ここにネロの墓が…」としんみりたたずんでいると、ネロとパトラッシュの幻影が見えてきたではないか!なんてこった!



 
ネロとおじいさんが毎朝アントワープへ向けて牛乳を運んでいた並木道。

な、なんと、今度は並木道の途中で、拙者はアロアの幻覚を見た!しかも、ベビーかごを持った母親になっていた!




並木道の終わりには作品が書かれた頃の風車があった。アロアのモデルが住んでいた家のものを再現。



ホーボーケンの観光局前に最近出来た記念碑。実は日本のアニメが数年前にベルギーで放映されるまで、ネロの物語は現地で無名に等しかった。地元のおじさんの話では、なぜこんなさびれた町に観光客が訪れるのか(それも日本人ばかり)、住民は不思議がっていたという。アニメがオンエアされて“納得”したとのこと。



★サリエリ/Salieri Antonio 1750.8.18-1825.5.7 (オーストリア、ウィーン、中央墓地 74歳)2002&05&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group O, Row 1, Number 54

2002 2005 2015
作曲家サリエリは映画『アマデウス』で一躍有名になった!

イタリアの作曲家。華麗なオペラで成功しウィーンの宮廷楽長となる。ベートーヴェン、シューベルトらを教育。映画『アマデウス』で有名。

哀れサリエリ!モーツァルト毒殺犯の嫌疑をかけられた男。かつては宮廷楽長でありながら、同墓地中央に眠っているベートーヴェンやシューベルト、ブラームスたちから遠く引き離され、一番壁際の、それも真後ろに市電が走っていて、騒音でまったく魂が安らげない場所に埋葬されていた。(背後に市電のパンタグラフが写っている)

※動画があります!サリエリの墓(4秒)



★仁徳天皇/Nintoku Tennou 生年不明-399?(大阪府、堺市、百舌鳥耳原中陵)2003


日本最大の墓!堀は3重だ!(画像元=エンカルタ百科事典)
墳長486m、後円部径245m、同高さ34m、前方部幅300m、同高さ34m!

1周約3kmの外堀。ずっと奥まで続いている… ドヒーッ!これはもう墓ではなく山だぁ〜ッ!!
※2万体もの埴輪が発見された。

仁徳は第16代天皇で応神天皇の長男。仁徳以前は末っ子が王位を継いでいたが、彼の代から長子の相続に変わった。
朝鮮から貰った「七枝刀(ななさやのたち)」が石上神宮に現存するという。



★マリー・アントワネット/Marie Antoinette 1755.11.2-1793.10.16 (フランス、パリ郊外、サン・ドニ 37歳)2002
★ルイ16世/Louis XVI de France 1754.8.23- 1793.1.21(フランス、パリ郊外、サン・ドニ 38歳)2002

Saint Denis Basilique, St. Denis, France

教会内のアントワネット&ルイ16世の彫像 左がアントワネットの墓 フラッシュなし

マリー・アントワネットはルイ16世の妃。母マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世との末娘。フランス革命の混乱の中、1793年1月21日に夫ルイ16世が処刑され、10カ月後の10月16日に自身もギロチン処刑となった。パリ北部のサン・ドニ大聖堂の地下に歴代ルイ王朝の王や王妃が眠っている。

息子(次男)のルイ17世は幼児期に兄が病死し王太子(ドーファン)となる。1789年、彼が4歳のときにフランス革命が勃発。国王一家は共にタンプル塔に幽閉され、革命4年後に両親は処刑された。8歳のルイ17世は塔の屋上を散歩した際に見つけた花を摘み、花好きの母のために無人と知らずに母の部屋の前にそっと置いたという。両親を失った後は、少年にとって書くこともおぞましい凄惨な日々となった。トイレも窓も玩具もない部屋に2年間閉じ込められ、後見人や看守から日常的に暴力をふるわれ、性的虐待も行われた。他界3カ月前に診察した医師の報告書「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で、最も残忍な仕打ちを受けたのだ。私には元に戻すことができない。なんたる犯罪だ!」。そしてルイ17世は解放されることなく10歳で病死した。最後まで母が処刑されたことを知らず、死後に独房から墨で書かれた「ママ、あのね…」という言葉と花の絵が見つかった。
ルイ17世の遺体は共同墓地のサン・マルグリット墓地に葬られたが、検視官ペルタンが心臓をハンカチに包み、コートに入れて持ち出した。ペルタンは蒸留ワインのアルコールを塗って自宅の書棚に隠していたが、アルコールは蒸発し心臓は石のごとく硬くなり、現在はサン=ドニの両親の墓の側に納められている。



★メアリー・スチュアート/Mary Stuart 1542.12.8-1587.2.8 (イギリス、ロンドン、ウェストミンスター 44歳)2005
Westminster Abbey, London, England

 

スコットランド女王。権力闘争に敗れ露と消えた。マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』第1部でタルカスとブラフォードが仕え、さらに有名に!




★マオリ族の墓/Maori Grave (ニュージーランド、北島)2005

 

山の斜面を利用しており、高い場所に眠る人ほど族長など身分の高い人らしい。マオリでは霊魂の復活が信じられており、
肉体はそのまま土葬にされている。ただし殺人犯などの極悪人は、2度と甦って欲しくないと意味で火葬にされるという
(じゃあ大半の日本人は復活できないね…)。所変われば死生観や埋葬のあり方も違うという意味で、ここに紹介してみた。




★マザーグース/Mother Goose -1690 (USA、ボストン)2000
Granary Burial Ground, Boston, Suffolk County, Massachusetts, USA

    





  
ビミョ〜な墓だ。そもそもマザーグースは人ではなく童謡集の俗称のはず。しかし墓は1690年と彫られており、アメリカ独立(1783年)より約百年も前。新興国家としては最古級クラスだし、作者の墓であれば古さ的に説得力充分。当時は英国の植民地、英米で童話が広まったのも話が合う。ドクロに天使の羽という不気味さもマザーグースの墓って雰囲気にピッタリだよね。 アメリカは古都の多い東海岸と、新しく開拓された西海岸では墓地の雰囲気が随分違う。西海岸はモダンな真新しいプレート式の墓ばかり。でも、歴史の古いボストンは写真のように石盤型のゴシック・ホラーのような墓がある。墓地に十字架が全く見当たらないのが興味深い。※最近は『Mother Goose』という題名ではなく『Rhymes』と呼んでいる本が多いとのこと。



★ムー帝国の王/King Mu (ミクロネシア、ポンペイ島)2001



南太平洋に浮かぶ島々の集合国家ミクロネシア連邦。首都があるポンペイ島にある海上遺跡ナンマドールは
12000年前に水没した巨大王国ムーの聖都だと言われている。遺跡全体は数百万本の玄武岩の六角柱が
精密に組み合わされてできている。このムーの王墓は遺跡の入口(船着き場)付近にある。



★忠犬ハチ公/Hachiko 1923.11.10-1935.3.8 (東京都、港区、青山霊園 11歳)2000&2002&10

2000年 ハチ公の墓を横から 2002年 墓を正面から  2010年 英語の手紙があった!






墓域全景。中央が飼い主・上野博士の墓、
右手前(竹垣の背後)がハチ公の墓
こう見るとハチ公像はけっこうデカい。
像の左横の人、鞄とか寅さんっぽい
晩年のハチ公


秋田犬。飼い主である東大農学部教授・上野英三郎(1872-1925)は講義中に脳溢血で倒れ急逝。ハチ公は帰りを10年間も
渋谷駅前で待ち続けた。ハチ公の身体は国立科学館に寄贈され、身体ははく製に、骨は上野博士の墓前に埋葬された。




★川口 浩/Hiroshi Kawaguchi 1936.8.22- 1987.11.17 (東京都、豊島区、雑司ヶ谷霊園 51歳)2002 探検家
 

川口浩の墓は花がいっぱい

日本が世界に誇る有名な探険家だ。生物学会の通説をひっくり返すような、数々の貴重な生物を発見してきた。



★光 源氏…源融、みなもとのとおる/Toru Minamoto 822- 895.8.25 (京都府、右京区、清凉寺 73歳)2002&10



清凉寺境内の源融の墓(2002) 8年後に再巡礼。右手前の案内板が消えていた(2010) 彼こそが光源氏のモデルという(2010)

嵯峨天皇の12男。左大臣の地位まで昇ったが、藤原基経(日本初の関白)との政治権力争いを嫌い、876年頃(54歳)から8年間ほど自邸に引籠もった。美男子で知られ、紫式部が『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルにしたという。融は風流人であり、宮城県塩釜の風景をイメージして六条河原院(東本願寺渉成園)を造営した。この河原院には後に融の亡霊が現れたことが『今昔物語』に記されている。右京区の別荘跡には嵯峨釈迦堂・清凉寺が建ち、融の姿を模した阿弥陀如来座像が安置されているほか、境内には融の墓がある。源融が宇治に持っていた別荘が、後に藤原頼通によって平等院とされた。



★チャップリンの母ちゃん/Hannah Chaplin (USA、ロス、ハリウッド)2009
Hollywood Forever, Hollywood, Los Angeles County, California, USA


ハンナ・チャップリンの墓

ちなみにこちらは同墓地のチャップリンの息子の墓
※2番目の妻リタ・グレイとの子

チャップリンは戦前、ヒトラーが一番力を持っている時に、ファシズム批判の傑作映画『独裁者』を勇気を
出して作った。脅迫を受けながらの撮影はチャップリンに死の覚悟をさせ、彼は作品のヒロインの名を
母親と同じ『ハンナ』にした。嗚呼、この世界にチャップリンを産んで下さって本当に有難うございました!
※ハリウッドで成功後、心の病だった母を英国から呼び寄せ、海岸の一軒家に看護婦をつけて住まわせた。




★ロバート・デ・ニーロの親父さん/De Niro’s father (USA、NY郊外)2000
Kensico Cemetery, Valhalla, Westchester County, New York, USA



名優ロバート・デ・ニーロは拙者の大好きな役者。極貧文芸研究家の拙者は何度も渡米できる
巡礼資金がないので、まだ存命中だけど先手を打ってデ・ニーロ家の墓を激写!(オイオイ…)




★野中 元右衛門/Motoemon Nonaka -1867.5 (フランス、パリ、ペール・ラシェーズ)2005
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France

 

パリで最初に没した日本人。肥前藩の者のようだ



★大石先生(『二十四の瞳』の先生)/Ohishi teacher (香川県、小豆島、二十四の瞳映画村)2006


小豆島・土庄港の“二十四の瞳”像 小豆島南東の“二十四の瞳”映画村

 

壺井栄の小説『二十四の瞳』の映画版ロケ地にあった大石先生のお墓。なぜか墓前にはお賽銭がいっぱい。



★力塚/Tikaraduka (東京都、墨田区、回向院)2004



大相撲の聖地・両国にある回向院にはこんなに巨大な塚がある。歴代の親方を
慰霊する「力塚」だ。力士達の髷なども納められているということだ。




★ヴィクトール・ノワール/Voctor Noir 1848.7.27-1870.1.10 (フランス、パリ、ペール・ラシェーズ 21歳)2005&09
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France



彼の墓はパリの女性の間では名物なんだって



光ってます…(2005) ウットリしています… ええ、光っていますとも…

 
4年後、この時はシルクハットの中に花が入っていた。下半身のある部分が光っているのは、
いつ頃からか手で触れると恋がかなうという噂が流れ始め、パリの女性たちが触っていくため。
不謹慎、みだら過ぎるという理由で、墓が高い柵で囲われていた時代もあったらしい。(2009)

ナポレオン3世の第2帝政に真っ向から対決を挑んだ共和派のラ・マルセイエーズ紙の最年少記者。21歳で射殺された。本名イヴァン・サルマン。時計職人の弟子だったが、ジャーナリストに転向して各紙を渡り歩き、1869年12月19日(21歳)、前月に創刊したばかりのラ・マルセイエーズ紙に所属した。ラ・マルセイエーズ紙は反帝政キャンペーンを全面的に展開する反体制新聞の急先鋒。「ラ・マルセイエーズ紙は帝国海軍の鋼鉄艦に体当たりする水雷艇であった。乗組員達は決死の覚悟であった。我々の信条はいとも簡単明瞭、分かりきっていた。帝国を撃沈することにあった」(パスカル・グルーセ)。同紙の主宰アンリ・ロシュフォールのことを目の仇にしていたのが、ナポレオン一世の甥(弟リュシアンの子)、ピエール・ボナパルトだ。ピエールはナポレオン一族が手を焼く粗暴な男で、論戦の挙句の果てにロシュフォールに決闘を申し込んだ。一方、ピエールはコルシカ島の反体制新聞ラ・ルヴァンシュ紙とも対立しており、同紙のパリ代表者パスカル・グルーセからの果たし状を、グルーセと交流のあるラ・マルセイエーズ紙のヴィクトール・ノワールが代理人となってピエール邸に届けた。ピエールにとって最大の敵はロシュフォールであったため、パスカル・グルーセのことは眼中になく、その代理人ノワールを口汚く侮辱した。両者は口論となり、激高したピエールがその場でノワールを射殺した。ノワールはまだ21歳で、2日後に結婚式を控えていた。

入社したて(まだ3週間)のノワールの悲報を聞いたロシュフォールは、ラ・マルセイエーズ紙を通して市民に呼びかけた。「我がフランスは18年もの間、ナポレオン一族という殺し屋どもの血みどろの手で牛耳られてきたが、連中は共和主義者たちを一斉射撃することに飽きたらず、今や彼らを卑劣な罠でおびき寄せ、私邸において殺害しようとしている。フランスの人民よ、もういい加減にしろ、とは思わぬか」。事件の2日後、ノワールの民衆葬が行われ、約20万もの人々が街頭を埋め尽くした。葬列の内乱化を恐れた当局は10万の軍隊を投入した。射殺犯のピエールは皇帝の身内ゆえ無罪となり、フランス各地でナポレオン3世を批判する共和派の大規模デモが発生。ロシュフォールは民衆を煽動した罪で逮捕され、ラ・マルセイエーズ紙は創刊から約半年で弾圧を受けて廃刊となった。だが、ナポレオン3世もプロイセンとの戦争に敗れるなどして、ノワールの死の8ヶ月後に退位し帝政は崩壊した。翌1871年3月、民衆蜂起によってパリに自治政府(パリ・コミューン)が樹立された。
 
ヴィクトール・ノワールは射殺された際に、決闘状を突きつける役柄を引き受けたことから正装をしていた。友人達が亡骸と対面した時も、服は乱れずネクタイも手袋もそのままで、ただ心臓の部分だけが鮮血に染まっていた。穏やかな死に顔を見た友人は、大きな赤子が眠っているように感じたという。パリの墓の上のヴィクトール・ノワール像が正装なのはそういう経緯からだ。パリには今でも「ヴィクトール・ノワール」の名を冠した並木通りがある。

参考資料(PDFファイル)、エンカルタ百科事典



★桃太郎/Momotaro (香川県、高松市、桃太郎神社)2006&10

桃太郎の墓が香川県にある--最初にこの話を知った時はトンデモ伝説のひとつと思って聞き流していたけど、調べてみると墓のある土地が「鬼無(きなし)」と呼ばれていることが分かり、好奇心が抑えられず現地へ足を運んでみた。実在したのであれば、民衆を救ったヒーローに巡礼しない訳にはいかない!
 
《讃岐地方に残る伝承は実に興味深かった》
 
『古事記』『記紀』には第7代孝霊天皇の子、キビツヒコ兄弟が播磨(兵庫)から西へ進み吉備(岡山)を平定したとある。兄の名は大吉備津日子命(オオ“キビツヒコ”ノミコト)、弟は若日子建吉備津日子命(ワカヒコタケ“キビツヒコ”ノミコト。別名、稚武彦命/ワカタケヒコノミコト。第8皇子)。『日本書紀』でも吉備津彦が大和朝廷から四道将軍の一人として西道に派遣されたとある。兄は陸路を、弟は海路を進んだことから、瀬戸内を荒らしまわった海賊=鬼を滅ぼした弟が桃太郎のモデルという。
 
事の起こりは稚武彦命が讃岐国に暮らす姉・倭迹々日百襲媛命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)を訪ねた時のこと。本津川をドンブラコと進んでいた彼は、川辺で洗濯をしていた美しい娘(宇佐津彦の子孫)に一目惚れし、婿養子として彼女と共に暮らすことになった。
当時は高松港沖の女木(めぎ)島&男木(おぎ)島を拠点に海賊(鬼)たちが暴れまくっていて、恐怖に脅える民衆の姿を見て義憤に駆られた稚武彦命は、海賊の征伐を決意。この討伐隊の構成は、弓矢の名人が多い雉ヶ谷(鬼無町佐料)の住民たち、火や土を巧みに操る陶工の集落・陶(すえ)村(綾南町)猿王の住人たち、航海術に優れた岡山・犬島の住民たちという陸海空の三軍だった。
※この戦の兄・吉備津彦命からの援助を“きび団子”=軍資金とする解釈もある。

稚武彦命は生島湾(高松市の西)付近の泉へ水汲みに来た海賊の子分を捕らえ、鬼ヶ島(女木島)のアジトへ案内させた。最初の海戦では“犬”の見事な操舵術で敵を圧倒し、陸戦では“雉”の弓矢攻撃でひるんだ敵を“猿”が火攻めにした。島中央部の岩窟(現存、奥行き450m)に逃げこんだ海賊はついに稚武彦命に降伏。稚武彦命は民衆が奪われた宝物を取り返して凱旋した。
後日、海賊達は逆襲したものの返り討ちにあってとうとう全滅した。彼らの屍を埋めた塚が現在の“鬼ヶ塚”で、最終決戦の地は鬼が完全に滅んだことから鬼無と呼ばれるようになった。
 
この鬼退治(海賊征伐)の逸話は、886年から6年間讃岐守に就いていた菅原道真が漁師より聞き及び、各地に伝えたという。


正式名:鬼無桃太郎駅。この土地で
鬼が退治されたので鬼無というらしい

ギャフ!ホームの上ではゲーム『桃太郎電鉄』
のキャラがお出迎え。貨車がベンチになってた

桃太郎が眠る神社は「駅から2つ目の信号を右」
とのことだけど、信号、見えないッス…。車が
はねる水を浴びながら、テクテク歩き続けた





なんと!鬼無を流れている本津川の川辺に「おばあさんの洗濯場」が!

ここを巨大桃が流れてきたのか…!?

おばあさんが使った梯子(笑)
※桃ではなく「おーいお茶」がドンブラコ



『桃太郎神社前』というバス停があったが、
時刻表もなく観光ガイドにも載ってなかった
この看板は新しい!ずっと案内板
がなく不安だったけど一安心
ハンター警報。
ちょっとビビッた
ガイドブックには『桃太郎の家』とあったが近所
の人は「え?そうなの?」。知名度は低いようだ

「桃太郎神社」。この道の奥だ

桃太郎神社の鳥居が見えてきた!

かつて神社の南方には“柴山”があったそうだ
(今は削られて老人ホームになっている)


熊野権現・桃太郎神社


神社前に設置された『鬼無』解説文。「桃太郎は孝霊天皇第八皇子の稚武彦命(わかたけひこのみこと)」
と断言。そして「地方開拓のためこの地へ来られ、鬼が島(高松港外)で海賊を平定、鬼塚、犬、猿、雉の墓
なども残されています」。“学説は諸説云々”じゃなく、これくらいスパッと言い切ってくれると気持ち良い(笑)

桃太郎神社を鳥居正面から望む!

本殿の前には観光地によくある「顔出しパネル」があった。
だがしかし、顔の位置が高すぎて子どもは無理(笑)
神社の名に桃の絵が描かれている!


『桃太郎の凱旋』を彫った境内のレリーフ。宝物を取り返している。レリーフの左右には桃! いよいよ墓へ。本殿の左後方に墓所がある

2006年はここで超ドシャ降りに!ま、前が、見えぬ…! 雨宿りすること小一時間。ようやく雨が上がった こちらは4年後の再巡礼。この時は良い天気♪(2010)





墓前の案内石碑「桃太郎の
遺跡。桃太郎・爺婆犬猿雉之墓」
お爺さんとお婆さんの墓!

桃太郎と家来たちの墓!(2010)

これが桃太郎の墓だ!
「左堂神」と刻まれている










左から雉(キジ)、猿、桃太郎、犬の墓。墓前の木札のおかげで誰の墓か分かった 雉ヶ谷/雉 陶村/猿 犬島/犬
※「犬」は岡山県犬島の住人、「猿」は香川県綾川町陶の陶芸師猿王(さるおう)、「雉」は鬼無町雉ヶ谷の住人とのこと!



鬼ヶ島の戦いで敗北した鬼達は、当地で再戦を挑み完全に滅び去ったという。その鬼達を供養したのが“鬼ヶ塚”だ。
桃太郎の墓、鬼ヶ塚、洗濯場、桃太郎の家、地名の“鬼無”…何もかもが伝説の信憑性を高めている!(☆o☆)


写真左奥に見える女木(めぎ)島は別名
“鬼ヶ島”。島中央の洞窟が瀬戸内を荒らす
海賊のアジトと言われる。手前の男木島には
逃亡した鬼の副将が隠れた洞窟がある(06)




こちらはJR岡山駅前の桃太郎像 肩のキジの他にハトも頭にお供(笑)

※桃トリビア…日本神話の時代から桃は魔除けの聖なる果実とされている。『古事記』にはイザナギノミコトが黄泉の国から逃げ帰る際に、追って来た黄泉の魔物たちに黄泉比良坂(よもつひらさか)で3個の桃を投げて撃退したエピソードがある。桃はイザナギから神名・大神実命(オオカムヅミノミコト)を与えられ、桃太郎神社の祭神となった。
 
※鬼トリビア…鬼は鬼門からやって来るとされる。鬼門とは丑寅(北東)の方角。牛の如く角を生やし、虎模様の腰巻をしているのは“丑寅”を象徴しているという。
 
※桃太郎神社は愛知県犬山市や宮城県桃生郡河南町にもある。犬山の神社には桃の形の鳥居があり、桃太郎一行や鬼の人形が30体以上も境内に並んでテーマパーク状態。ご利益は「悪は去る(猿)、病いは去ぬ(犬)、災いは来じ(雉)」というもの。桃太郎の逸話は各地に残るが、多くが桃を食べたお爺さんとお婆さんが若返って夜の営みを再開、桃太郎を生んだという艶っぽい物語になっている。国定教科書に採用された明治20年、それでは教育的にマズいということで「桃から生まれた桃太郎」に変更された。
 
※岡山県では兄の大吉備津彦命を桃太郎と呼んでいる。兄もまた吉備の山賊=鬼を退治しているので間違ってはいない。兄の墓は茶臼山古墳と呼ばれ、吉備中山の山頂にある。ただ、岡山・吉備津神社の社伝では、大吉備津彦命の寿命が281歳、岡山名品の桃の栽培開始は明治以降、「黍(きび)団子」は“吉備”だけでなく全国で普通に食されたという点など、ビミョ〜なものがある。大和朝廷と渡来人の武力衝突が御伽噺になったとする説もあり。
 
※桃太郎=稚武彦命説を調査し体系づけたのは小学校教師の橋本仙太郎。1930年の「四国民報」(現・四国新聞)で同氏の論文『童話「桃太郎」の発祥地は讃岐の鬼無』が発表され話題を呼んだ。
 
※姉・倭迹々日百襲媛命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)は巫女であり、奈良桜井の箸墓古墳に眠っている(讃岐から大和へ戻ったのだろう)。巫女の為の巨大古墳は例がなく、天皇でさえ彼女に政事のあり方を伺っていたことから“卑弥呼”とする説が根強い(年代も近い)。仮にそうであれば、桃太郎は卑弥呼の弟というちょっと面白いことになる。百襲媛(モモソヒメ)の弟なので桃太郎と呼ばれるようになったいう説もある。

帰りに鬼無の讃岐うどん屋で。巨大ナスビの天ぷらがついて300円強。コシがありメチャウマだった!



★浦島 太郎/Urashima Taro(神奈川、横浜市、蓮法寺)2006

玉手箱を開けて老人になった太郎。室町時代の『御伽草子』(おとぎぞうし)から

●墓所のある横浜市神奈川区は浦島関連の地名だらけ!

浦島町! 浦島丘! 亀住町!公民館に浦島地蔵がある 浦島町内会掲示板!





浦島公園を発見 お約束の亀! 謎の古代壁画 超リアルな肖像画(笑)




浦島小学校 校庭の巨大亀型すべり台 太郎人気は国際的 浦島丘中学校








東神奈川駅の近くにある成仏寺。ローマ字
で有名な米国人ヘボンが本堂に住んでいた
成仏寺の庭には亀の形に石が配置されている

「竜宮が恋しい」と太郎が
腰掛けて泣いた「涙石」
付近の鉄柱は全部亀!


地図に「龍宮橋」とあったので“これはスッゲー観光名所なハズ!”と
たどり着いたら、めっさ超フツーの橋。ガクッ。地元の人に慰められた
橋の反対側は「龍宮橋」の文字さえツタで覆われて見えなかった。
横浜市はまったくこの橋に興味をもっていないようだった…


太郎ゆかりの慶運寺。門前の石碑が江戸時代の浮世絵に
描かれており(右図)、古くから観光の名所だったようだ
巨大石碑には「浦島観世音浦島寺」と刻まれていた。
側の看板にも「うらしま寺」と併記されている
石碑を背負う巨大な亀。耳と巨大な尾が
付いていることから聖獣の亀趺(きふ)だろう

※ちなみに台座の亀趺の原型は中国に伝わる架空の神獣「贔屓(ひいき)」。江戸期に伝わって来た。大切な碑文や墓石を下から支える姿から、
好きな俳優をファンが下積みとなって支えることを“贔屓にする”という言い方が生まれる。亀趺付きの墓では大久保利通楠木正成らが有名!




  
慶運寺の本堂。当地は幕末に
フランス領事館が置かれていた
境内には浦島父子塔が建つ。この寺には太郎が龍宮城から持ち帰ったという亀乗
浦島観音立像が現存し(写真は境内の看板から)、12年に一度、子の年に開帳される


そして、ついに墓のある蓮法寺に到着! 石庭には石亀が泳いでいた(笑)



浦島父子の墓所。どちらの供養塔が太郎かは、文献が残って
おらず、住職も分からないという。敷地には漁師たちの墓がある
中央の亀塚はとても愛嬌のある顔 (*^o^*)
この地は漁師の町だった
慶運寺の浦島観音を写した石仏。
漁師が拝むと大漁になるとのこと

浦島太郎の物語は数ある昔話の中でも非常に古くから伝わっており、『日本書紀』や『万葉集』という最古級の文献に登場している。
古文書に出てくる彼の名前は水江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)。『日本書紀』雄略紀や丹後国『風土記』、905年に編纂された『延喜式神名帳』の“浦嶋神社(宇良神社)”の項を総合すると、丹波国与謝郡(京都北部)の筒川の漁師、浦嶋子は478年7月7日に姿を消し、それから347年後の825年に帰ってきたという。当時の淳和天皇はこの話にたいそう驚き、浦嶋子を筒川大明神と名付け、勅命を受けた小野篁(たかむら)が浦嶋神社を造営し嶋子を祀ったとのことだ。※この神社は京都府伊根町(旧・筒川)に現存する。篁は小野妹子の子孫で小野小町の祖父。
 
初期の浦島物語は現在知られているものと少し異なっている。ある日、浦嶋子が大亀を釣り上げると、亀は美しい乙女に変身して自分が海神の娘・亀姫(乙姫)であること、以前から漁をする嶋子に恋していたことを告げ、“夫婦となって愛し合いましょう”と告白した。愛を受け入れた嶋子は遠く海を越えて蓬莱山(伝説の理想郷)に案内され、宴の夜に2人は結ばれる。室町時代の『御伽草子』の頃から蓬莱山が龍宮城として定着し、さらに1910年(明治43年)に国定教科書に載った際に、出会いの場面が“女性から告白するのは不謹慎”とされ、浜辺で子供達にイジメられていた亀を助けた恩返しに龍宮城へ案内される物語に、大幅に書き換えられた。 
 
蓬莱山で御馳走を食べ、歌い踊りながら亀姫と幸せに暮らしていた浦嶋子だが、3年目になると故郷の父母が気になり始め、「少しの間だけ帰らせて欲しい」と亀姫を説得した。亀姫は「必ず戻って来るという証にこの玉手箱を大切に持ち、けっして開けないで下さいね」と箱を渡した。
※玉手箱は女性の命ともいえる櫛や化粧道具を納めるもの。これを大事にするのは浮気をしないということ。
さて、浦嶋子が故郷の筒川の里に戻ってみると付近の様子が一変しており、両親どころか家も消えている。村人との会話で、既に300年も経っていた事が分かり彼は絶句。猛烈な孤独感に襲われると亀姫が恋しくなって、思わず玉手箱を開けてしまう。白い雲が立ちのぼり途端に彼は白髪の老人になってしまい、涙を流しながらどこかへ去って行ったという。万葉集(巻九)のオチはもっと悲惨で、“箱を開ければ世界が元に戻るかも”と思って開けたところ、一気に老いてそのまま絶命してしまう。
『風土記』版は最後に“後の人が作った歌”を紹介している--「水の江の 浦嶋の子が 玉匣(たまくしげ、玉手箱) 開けずありせば またもあはましを」(浦嶋子は玉手箱を開けさせしなければまた会えたのに)
 
さて、なぜ浦島太郎の墓が横浜にあるのか。物語の舞台となった京都の丹後半島とはあまりに遠い。しかし、神奈川には実に様々な言い伝えがある。伝承では太郎の父親は元々相模国(神奈川)の人間で、赴任先の丹後で太郎が誕生したという。亀姫の一件があって300年後に戻って来た太郎は父が故郷に眠っている事を知り、竜宮城のお土産の観音菩薩像を背負って墓参の為に神奈川を目指した。今の横浜市浦島丘で急に背中の観音様が重くなり、そこが父の眠る場所と悟ったという。そして菩提を弔うために観福寿寺(通称・浦島寺)を建て、本尊として観音菩薩像を安置した。
異説では龍宮城から戻った太郎が“両親に会いたい”と観音菩薩に祈ると、夢の中で“私を背負い関東へ行け”とお告げを受ける。太郎は三浦半島で浦島家の9代後の子孫から、横浜市浦島丘に両親の墓があると知らされたという。
戦国期の浦島一族は神奈川で成功し、小田原北条氏の治世では浦島和泉と呼ばれ、江戸時代の記録(新編相模国風土記稿)にも浦島清五郎という大庄屋がいて、丹後国の浦島家の子孫と記されている。
明治元年に観福寿寺は火災で焼け落ちたが、太郎が納めた亀乗聖観世音立像は無事に運び出され、付近の慶運寺に安置され現在に至る。
 

★先述したように浦島伝説の記録が古いこともあって、太郎ゆかりの地は国内に116カ所(!)も伝えられている。
●丹後半島の伊根町の浦島神社には玉手箱が現存している。ただし、中身は煙ではなく室町時代の化粧道具。太郎が龍宮城から帰ってきた時の「龍穴」も伝わる。近隣の網野町には、浦嶋子の名を冠した「島児(しまこ)神社」があり、太郎と乙姫が出会ったとされる場所には、彼女を祀った西浦島神社がある。
●香川県西部の荘内半島・詫間町も浦島関連地として有名。町の伝承では、太郎の父は“与作”、母は“おしも”、生里が太郎の生地とされている。太郎が亀を救ったとされる海岸には浦島神社があり、玉手箱を開けた場所は“箱浦”と呼ばれ、そこに浦島父子の墓がある。亀は沖合いの粟島に葬られといい、亀戎社が建つ(いつかコチラにも墓参したい!)。
●長野県南部、上松町の木曽川上流の景勝地・寝覚ノ床には故郷を捨てた太郎が訪れ、この地で玉手箱を開けたという。老人になった太郎は長い夢が終わり目覚めたように感じたことから“寝覚ノ床”の名がついた。同地には浦島大明神を祀った浦島堂や、太郎がうたた寝した床岩も伝わっている。
●九州の浦島伝説では龍宮城が「琉球城」とされ、沖縄に渡ったことになっている。薩摩半島の最南端の岬には乙姫を祀る龍宮神社もある。龍宮と琉球は響きが似ており、これも面白い。
 
【世界各地に“戻って来たら未来になってた”というオチの物語がある】
●『洞庭湖の竜女』(中国)。作品の舞台は海ではなく湖だが、姫に渡された玉手箱を開けると白い煙が出てきて老人になる展開までそっくり。最後は煙を浴びた主人公が湖のほとりで野垂れ死ぬ。合掌。
●『鯉を放ち龍女を得る』(韓国)。日本版では玉手箱の用途がハッキリしないが、韓国版では箱に呪文を唱えると、海が割れ龍宮城から陸に続く道が現れる。陸で箱を開けた為に使用不能になり、龍宮城に戻れなくなる。
●『ギンガモール』(フランス)。騎士が理想郷から故郷へ戻ったら、既に300年経ってたというのが一緒。玉手箱でなく、リンゴを食べて老人になっちゃうのが欧州っぽい。
●『不死の国』(ロシア)。こちらも理想郷に300年滞在している(300年というのは特別な数字なのかも)。望郷の念に取りつかれた主人公は「故郷が恋しくてたまらない。若さや永遠の命は、もうこの胸を熱くしない」と故郷へ戻るが、親も友人も愛する人は全て他界していて絶句する。永遠の命が必ずしも幸せではないというメッセージが哲学的。
●一番ブッ飛んだ説は日本発の「宇宙旅行」説。風土記の中で浦嶋子が蓬莱山で昴(すばる、プレアデス星団)と畢(あめふり、牡牛座)という名前の童と会っていること、アインシュタインの理論によると物体が光速に近づくほど時間のスピードが遅くなることから、亀型のUFOに載った太郎が帰ってきた時に地球の時間が先に進んでいたというのだ。

※龍宮城の周囲には春夏秋冬が同時に存在したという。季節が移ろわない=時間が止まっていることの暗示だ。
※丹後から神奈川へ向かう旅路で、玉手箱を開いた場所が“箱根”という説もある。
※浦嶋子の祖先は月読命(ツキヨミノミコト)とも言われている。月読命は天照(アマテラス)大神の弟でスサノオノミコトの兄。
※浦島関連の主な参考サイト
http://enkan.fc2web.com/minwa/urasima/00.html

 

蓮法寺の門前にあった、有り難い&ビミョ〜なお言葉



★金太郎/Kintaro (兵庫県、川西市、満願寺)2006



一陽斎豊国の金太郎

歌川国芳の金太郎

酒匂川・足柄大橋の
リアル・プロポーション金太郎

阪急宝塚線「ひばりがおかはなやしき」駅
駅からバスで10分の満願寺に眠る


創建は奈良時代(728年頃)と非常に古い 寺は室町時代に一度戦乱で消失した


境内には金太郎、熊、ウサギのパネルがあった。ウサギはかなりテンションが高い(笑)

 
金太郎は坂田金時の幼名。墓への案内板はちょっとホラー・タッチ。熊の絵もかなり微妙…

 
付近にあった源氏武士団の墓 寺の裏山の、奥へ、奥へといざなわれて行く

 
これが金太郎の墓だ!扉に鍵がかかっていたので、お寺に内部を聞いたところ何も入ってないらしい

金太郎は実在した平安末期の猛将・坂田金時の幼名だ。駿河国(静岡県小山町)出身。金太郎は足柄(がら)山の山姥に育てられ、血色が良いため顔も全身も非常に赤かったという。熊を相撲で放り投げ、大木を引き抜く怪力の持ち主。山中の動物たちを手なずけて遊び、江戸期の絵本や浄瑠璃の中で“快童丸”と呼ばれている。

成長した金太郎は足柄峠で、この当時都で最強の武将と言われた源頼光(948-1021)と出会う。頼光は東国から都へ戻る途中だった。金太郎の腕力と器量に惚れた頼光は彼を臣下として召抱え“金時”の名を授ける。『今昔物語集』によると金時は頼光配下の平貞道、平季武と並んで器量と武勇に長じた三人衆として名を連ねている。室町時代の『御伽草子』では、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光と共に「頼光四天王」と呼ばれ、都を荒らす鬼・酒呑童子一味を退治する討伐隊に加わり、頼光が成敗するのを助けたという。その一方、東国で手柄をたてた勇猛な金時が、賀茂の祭(葵祭)で初めて牛車に乗り、車酔いでヘロヘロになったというユーモラスな逸話も伝わる。

※頼光の命を受けて諸国で強者を探していた碓井貞光(うすいのさだみつ、四天王の一人)に、金時はスカウトされたという説もある。
 
金時が他界したとき、力自慢で弓や馬術の名手だった彼の死は各方面から惜しまれ、摂政・藤原道長の日記(御堂関白記)の1017年8月24日分にも「相撲使の公時(きんとき)が死んだという。近衛兵の最強の男として日頃から噂になっていたので、彼の死を皆が憐れんでいる」と刻まれている。
金時の主君・源頼光は平安時代中期に初めて源氏武士団を形成した源満仲の息子。本拠地が兵庫県川西市多田(かつての摂津国)にあったので武士団は摂津源氏・多田源氏と呼ばれる。彼らは主に宮中の警備を担当した。金時の墓所は多田源氏ゆかりの川西市・満願寺にあり、同寺には源氏の墓が多い。
※源満仲の墓は3kmほど北の多田神社。正月の3日間だけ墓参可能。高野山にも墓があり、同山最古の供養塔らしい。
 
金時の死には異説がある。九州・筑紫国への遠征の途中、美作国勝田荘(岡山県勝央町)で豪雪にあって進路を阻まれ、熱病の為に1110年12月15日、55歳で他界したという。地元民は金時の豪傑を讃えて金時塚に祠を建て、この祠は後に栗柄神社に祀られた。当地では今も“金時まつり”が催されている。一方、富山県大沢野町にも金時と伝わる墓があり、町には子孫を名乗る坂田公時さんが住んでいる(代々、公時の名を受け継ぐそうだ)。
 
金太郎は死後1000年を経た現在、五月人形のモデルとなって親しまれ、男の子の節句に“気は優しくて力持ち”の金太郎のようにスクスク育って欲しいと願いを込め、親は熊にまたがった彼の姿を飾っている。

※酒呑童子(しゅてんどうじ)…日本最強の鬼。丹波国に拠点を持ち、人肉を喰らう。白面金毛九尾の狐(玉藻前)、大天狗(崇徳天皇)と並び日本三大悪妖怪とされ、手下には茨木童子を筆頭に多くの鬼がいた。最後は体がシビれる神便鬼毒酒を源頼光に飲まされ首を斬られた。陰陽師・安部晴明も戦っている。
※1673年、初代市川団十郎は13歳で歌舞伎『四天王幼立(おさなだち)』の初舞台を踏み、この時の役柄が坂田金時だった。団十郎は顔に派手な隈取を描き、まさかり(大斧)を担いで酒呑童子を相手に大立ち回りを演じ、やんやの大喝采を浴びた。市川家の代名詞となる「荒事」はこの金時役から。また1712年には、近松門左衛門が金時の活躍を描いた浄瑠璃『嫗(こもち)山姥』を発表し、大ヒットとなった。こうして庶民の間に広く金時ヒーロー伝説が広まっていった。

【各地の伝説】
・神奈川県箱根町…金太郎が山姥と住んでいた金時山(足柄峠)、猪の鼻を折って埋めた猪鼻神社
・宮城県村田町…金太郎の生地という蝦夷岩、姥が子守しながら歩いた子守沢
・長野県八坂村…熊と遊んだ熊穴、産湯となった池、大姥山、誕生した洞窟
・長野県南木曽…金時岩、金時の遊び場、足跡石
・静岡県小山町…山姥が金太郎を生んだ子産田、金時の足跡石、金時の爪切り地蔵
・高知県日高村…金太郎と山姥がすんだ山姥洞、金太郎が投げた大石
・岡山県勝田郡勝央町…金太郎の終焉地

※本来の山姥は鬼女ではなく山の神に仕える女であり、金太郎は「山の生命力の化身」と考える研究者もいる。

山姥が金太郎を生んだと伝承される大穴(長野八坂村) 岡山・勝央町の金太郎の祠

【金太郎トリビア】
・かき氷などで小豆は金時と呼ばれるが、これは肌が赤かった坂田金時からきている。
・「きんぴらゴボウ」の語源は息子の坂田金平。硬くて辛いゴボウに金平の勇猛さを見てとったとも、金平がゴボウを食べて滋養をつけたとも、歌舞伎で金平を演じた役者の髪型が刻みゴボウの形だったとも言われている。
・「♪まさかりかついだ金太郎」の童謡は1900年に刊行された「幼年唱歌」に載り、子供たちにとって馴染みのキャラクターになった。
・金太郎飴は江戸時代中期に発明された。
・週刊少年ジャンプの『銀魂』の主人公・坂田銀時の名は坂田金時のパロディ。
・桃太郎や浦島太郎の元となった物語が日本書紀など古代の文献にあるのに対し、金太郎は紫式部と同時代に生きていたことになり、昔話の中では比較的新しい主人公だ。

金太郎と桃太郎が相撲をとるという珍しい浮世絵。やはり金太郎の身体は赤い

※源氏嫡流(ちゃくりゅう、正統後継者)…9世紀初頭、嵯峨天皇は増えすぎた皇族が朝廷財政を圧迫しているとして、30数名の皇族を一気に臣下(民間)に降ろした。この時、皇子達に与えた姓が「源」で、彼らは嵯峨源氏と呼ばれる。この中の源融(とおる)は光源氏のモデルとなった。次代の天皇も次々と臣籍降下を行なった為、最終的に源氏は21流にもなる。最も有名なのは清和天皇の皇子達=清和源氏。坂田金時の主君・源頼光は清和源氏の血統だ。本拠地を摂津国に定めて初の武士団を作った彼らは清和源氏の中の「摂津源氏」として勢力を伸ばし、源氏嫡流となった。しかし、血を受け継いだ頼政一族は平清盛に滅ぼされてしまう。だが、清和源氏には頼光の弟・頼信の流れを汲む「河内源氏」が健在だった。彼らは平家から逃れて全国へ散らばり、その中の源頼朝が鎌倉幕府を開いて源氏嫡流を名乗ったことから、河内源氏が嫡流となった。頼朝一族が3代で滅びた後、室町幕府を開いた足利氏も元は河内源氏(清和源氏)だ。

●静岡県小山町のPRサイトでは動画の金太郎に会える!楽しい映像だよ。オネショ編もあります(笑)

●金太郎研究のお薦めサイト『金太郎のふる里』

スヌーピーの金太郎人形。顔は可愛いけどまさかりを持つとシュール(ジェイソン化している、汗)



★かぐや姫/Kaguya-Hime 782-805? (静岡県、富士市、竹採塚)2009

かぐや姫伝説の発祥の地と思われる富士市には、昔から次の伝承が残っている。

「延暦年中(782〜805年)、籠畑(かごばたけ)の地に籠を作ることを仕事とした翁夫婦が住んでいた。ある日、翁が竹の中から一寸あまりの少女を授かった。少女は大変美しく育ち“かぐや”と名付けられた。美女の噂を聞いた国司(地方官)は宝物を持って姫を邸に招いたが応じなかったので、自ら姫のもとへ押しかけて数年を共に暮らした。ある時、姫は国司に暇をもらい、富士山の“仙洞(せんどう)へ帰りたい”と願うがこれを許されず、箱を1個おいて国司のもとを去って行った。国司は深く悲しみ、姫の後を追って富士山の山頂に登ったところ、そこには大池があり、池には宮殿があった。出て来た姫はもはや人間ではなく天女になっていた。すっかり容姿の変わった姫を見た国司は、絶望のあまり姫の残した箱を抱えて池に身を投げて死んでしまった」

別の伝説では、姫が残した箱には不老不死の妙薬が入っていたが、悲しんでそれを富士山の頂上で焼いたことから、不死=不二(富士)となったという。富士山の麓にはかつて大きな湖だったと思われる湿地帯(浮島沼)があり、大池はそのことを指すのかも。

平安時代の地名(竹採公園にて)

931年(平安時代中期)に源順がまとめた辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によると、現在の富士市の比奈一帯(吉永地区)には、『かぐや姫』を思わせる地名が数多く載っている。画像の地図で色が付いている土地名の由来は次の通り。

・見返し(青色)…かぐや姫が富士山に向かいながら、翁夫婦が恋しくて何度も見返した“見返し坂”
・天上(黄色)…天上と名付けられた高台で、かぐや姫が富士山に登る所(昔はこの場所から頂上まで続く一本道があったという)
・赫夜姫/かぐやひめ(ピンク)…姫と国司が住んだ所
・竹採塚、籠畑/かごばたけ(オレンジ)…竹採翁が住み、竹籠を作っていた所。姫を授かったのもここ※現在の竹採公園
・権現原(緑)…寒竹翁(作竹翁)が竹を採った所※寒竹翁は別のかぐや姫伝説に登場する翁







初めて乗った岳南鉄道 当地は「姫名郷(ひなのごう)」と呼ばれた 竹採公園。比奈駅の北1.5km、吉原第3中学の南側





竹採翁の竹採屋敷がここにあったという。子孫の岡田氏の
敷地の一部が公園に。確かに美しい竹林が待っていた
今の竹林は大陸からの孟宗竹(モウソウチク)が多い
けれど、以前は日本原産の苦竹の竹林だったらしい
管理人さんが案内して下さった。
たくさん資料を頂いた。めっちゃ良い人!



これが竹採塚!石には小さく『竹採姫』と彫られている 『竹採姫』 “塚”というからは墓だと思って来たんだけど…

伝説通りなら、富士山そのものが、かぐや姫の墓ということか?

富士市内には浅間神社が約24社ある。浅間神社といえば祭神は基本的に木花咲耶姫命だけど、かぐや姫関連の神社が8社もある。

滝川浅間神社…竹採翁を祀る
今宮浅間神社…竹採婆を祀る
飯盛浅間神社…姫の下女を祀る
富知六所浅間神社…赫夜姫を祀る
寒竹権現浅間神社…寒竹翁(作竹翁)と香久耶姫伝承
愛鷹山頂愛鷹明神…竹採翁を祀る。翁は鷹を愛した
須津犬飼明神…竹採婆を祀る。婆は犬を愛した
富士山美女二人…赫夜姫と富士浅間大菩薩(木花咲耶姫)

冒頭に紹介した比奈地域の地名といい、この地域には古代にかぐや姫伝説のもとになった何かしらの故事が実際にあったことは確実だろう!



★安寿姫&厨子王/Anju&Zushio 鎌倉末期 (新潟県、上越市、直江津)2008

関川河口西岸に供養塔が並ぶ 地元の人がきれいな花を供えていた


写真の奥に海が見えている 海岸まですぐ近く。海を越えれば佐渡島だ

家臣の陰謀で筑紫に流された父親、陸奥領主・岩城判官正氏に会うために、安寿(あんじゅ)姫と厨子(ずし)王丸の姉弟は、乳母や母と一緒に旅に出た。しかし、途中の越後直江津で人買いに騙されて、姉弟は丹後の山椒大夫の元へ売られ、母は佐渡島へ売り渡されてしまう。奴隷として虐待される苦難の日々。1313年、安寿姫(16歳)は弟の厨子王丸(13歳)を逃がすために犠牲となって死に、厨子王丸は脱走に成功。出世して朝廷に父の無罪を認めさせ岩城家再興を果たす。そして、安寿姫の仇討ちで人買い連中を倒し、厨子王丸は佐渡島へ渡り母と再会した。供養塔は母子が引き離されたという直江津・関川河口の西岸に建っている。姉弟の物語は浄瑠璃などで語られ伝説化した。



★イザナミノミコト/Izanami (島根県、松江市、岩坂陵墓参考地)2008



「黄泉の国への入口 黄泉比良坂(よもつひらざか)」。本当にこんな案内板がある 空もソレっぽい雰囲気に…






日本神話では魔物を「桃」で撃退
したとあるが、確かに生えてた…
黄泉比良坂の遠景。右手に門、左奥が黄泉の国

桃がなかったので柿で代用。
もしもの時はこれで…(汗)


イザナギはここからイザナミを迎えに行ったのか 魔物が出てこられないよう巨石で道を防いでいる



揖夜(いや)神社。境内に入るだけで妙に緊張した

名前に“夜”が入るって
天照大神と正反対っすね
白い紙を地面に突き刺すとか、
馴染みのない祈りの形にドギマギ








石灯籠を亀が背負ってるんだけど、首が切断されてる…ママン! 山中の暗闇へと続いていく鳥居… 狛犬の顔、溶けてますが(涙)

 


この小山がイザナミの墓と伝えられている。宮内庁が立入禁止にしていた 付近には八百万の神々が集う神魂神社(国宝)が建つ

日本神話の女神。「古事記」では伊邪那美命、「日本書紀」では伊弉冉尊と記されている。神世七代の最後にイザナギと一緒に現れ、2神はまず最初に淡路島を生み、続けて四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬島、佐渡島、本州と、次々に日本列島を生んでいった。そして、山や海、草木などあらゆる自然物と森羅万象の神々を生んだ。イザナミは最後に火の神・カグツチを生み落とすが、このとき陰部に火傷を負い死んでしまう。
イザナミに会いたくて黄泉国(よみのくに)まで追いかけていったイザナギは、「私を見てはいけません」という禁を破って彼女を見てしまう。イザナミは既に体が腐敗してウジがわいていた。怯えきったイザナギが逃げ出すと、見られたことを恥じたイザナミは怒り、魔物の群れが彼を追いかけた。イザナギは桃を魔物にぶつけながら黄泉国の入口まで逃げ切り、両世界を結ぶ黄泉比良坂(よもつひらさか)を大きな千引の石(ちびきのいわ)で塞いだ。追って来たイザナミが石の反対側から「あなたの国の人を1日に1000人殺す」と呪いをかけると、イザナギは「それでは私は1日に1500人生もう」と答えた。

黄泉国から生還したイザナギが穢(けがれ)をはらう禊(みそぎ)で体を洗ったところ、左目からアマテラス(天照大神)が生まれた。さらにツクヨミノミコト、スサノオノミコトも誕生し、この三柱の神を三貴子(さんきし)という。イザナミの墓の伝承地は、島根県安来市の比婆山や船通山の北の御墓山、三重県熊野市有馬など各地にあるが、宮内庁はその中で唯一、八雲村(松江市)の神納山を最有力候補として「陵墓参考地」に認定している。
※古事記には黄泉比良坂の場所を「出雲国の伊賦夜(いふや)坂」としており、島根県出雲地方の揖屋(いや)を指すと思われる。



★凶首塚/Kyosyu-zuka (大分県、宇佐市、凶首塚古墳)2008



怖すぎる名前 草原をかき分けて丘を登っていくと… 凶首塚古墳があった!岩の部屋の中に小さな鳥居だけがある…

宇佐八幡宮の西側に『凶首塚』という、文字だけでブルッちまう塚がある。伝承によると、720年に“大隅の隼人”らの「隼人の乱」を鎮圧した朝廷軍が、勝利の証拠として隼人の首級100個を持ち帰り、当地に埋葬したらしい。その後、凶作や疫病の被害を受けたことから、人々がタタリを恐れて近くに百体神社を建て霊を慰めると、隼人の怒りは鎮められたという。※名前を変えてあげた方が良いと思うよ〜。

鹿児島県のJR隼人駅。駅の近くに「隼人塚」があるのが電車から見えた!



★アマミチュー(アマミキヨ)/Amamichyu (沖縄県、うるま市、浜比嘉島)2008



この小さな島アマジンに琉球民族の祖先が眠る 満潮でも歩いて渡れるようになっている アマミチューの墓





岩の中に階段がある 実に荘厳な空気 毎年正月、ノロ(祝女)により祭祀が執り行われる

沖縄中部の東側に位置する、うるま市の浜比嘉島(はまひがじま)。その東方海岸にアマンジと呼ばれる岩屋の小島があり、ここに琉球民族の始祖といわれる女神アマミチュ−の墓がある。日本神話ではイザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉冉尊)から大和民族が始まったとされているが、沖縄では女神アマミチューと男神シルミチューから琉球民族が始まったとされている。
※こういうことからも「日本は単一民族」的な発言を閣僚がすると脱力してしまう。

シルミチュー神に会いに
階段をずっと上っていく

浜比嘉島の南側に女神アマミチューと男神シルミ
チューが住んだ洞穴(どうけつ)がある。シルミチュー
は“シディーン”(生まれる)と“チュ”(人)の合成語だ
周囲はとても静かで、霊場なら
ではの独特の緊張感があった




★コノハナサクヤビメ/Konohanasakuyabime (宮崎県、西都市、西都原古墳群)2008





女狭穂(めさほ)塚陵墓参考地 伝承ではコノハナサクヤヒメとされている 林の奥が全部古墳になっている

日本神話の女神。子のホオリノミコトの孫が初代天皇・神武天皇にあたる。「古事記」の木花之佐久夜毘売、「日本書紀」の木花開耶姫。山の神オオヤマツミノカミ(大山祇神)の娘で、コノハナは桜の花。アマテラスなど神々が住む天上界・高天原(たかまがはら)より降臨したニニギノミコトは、笠沙の岬(鹿児島県南さつま市笠沙町)でコノハナサクヤビメに一目惚れ&結婚する。サクヤビメが一晩で懐妊したことから、ニニギが他の神の子ではと疑うので、彼女は無実を証明する為に「本当の子なら何があろうと無事に産めるはず」と誓約して産屋に火を放ち、火中でホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、神武天皇の祖父)の3神を無事に生んだ。出産祝いで父オオヤマツミが天舐酒(アマノタムケザケ、甘酒)を造ったことから、父娘は酒造の神ともされる。また、オオヤマツミは山の神であり、サクヤビメに富士山を譲ってあげた。火中出産によって火の神とされたサクヤビメは、富士山に鎮座し各地の浅間(せんげん)神社の祭神となった。安産の神、子育ての神でもある。



★ニニギノミコト/Niniginomikoto (宮崎県、西都市、西都原古墳群)2008

宮内庁による、『男狭穂(おさほ)塚・女狭穂
(めさほ)塚 陵墓参考地』の案内板
男狭穂塚はニニギノミコト、女狭穂塚はコノハナサクヤビメ
の墓と伝わる。円墳の男狭穂塚を卑弥呼の墓とする説も

宮内庁が立入禁止にしており望遠で撮影。分り難いけど
この林の奥がニニギノミコトの墓。土が盛り上がってる
少し離れた場所から。おそらく右の山がニニギノミコト、
左の山がコノハナサクヤビメのハズ!

日本神話の神。農業の神。子のホオリノミコトの孫が初代天皇・神武天皇にあたる。ニニギの父はアマテラスオオミカミ(天照大神)の子・天忍穂耳尊、母は高木神の娘・栲幡千千姫命の子。兄は天火明命(アメノホアカリ)。ニニギは天上界・高天原(たかばまはら)からアマテラスの命令で葦原中国(人間界)を統治する目的で、日向国(宮崎県)の高千穂峰に“三種の神器”を持って降臨する。そして笠沙の岬(鹿児島南さつま市県笠沙町)でオオヤマツミ(大山祇神)の娘・コノハナサクヤビメ(木花之開耶姫)に一目惚れ&求婚する。サクヤビメの父オオヤマツミは大いに喜び、一緒に姉のイワナガヒメ(石長比売)も差し出した。するとニニギは醜い姉を送り返してしまう。オオヤマツミは「もしイワナガヒメを妻にしていれば命は岩の如く永遠のものになっていたのに…。サクヤビメだけを妻にすれば木の花が咲くように繁栄しても、命は花のように短いだろう」と告げる。天皇の寿命が神々のように長くないのはこの為だ。サクヤビメがたった一夜で懐妊したので、ニニギは他の神の子ではと疑う。サクヤビメは無実を証明する為に「本当の子なら何があろうと無事に産めるはず」と誓約して産屋に火を放ち、火中でホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、神武天皇の祖父)の3神を生んだ。
※埋葬地の「筑紫の日向の可愛の山陵」伝承地は南九州各地に所在。宮内庁は宮崎県東臼杵郡北川町の可愛岳(えのだけ)の古墳を「可愛山陵伝承地」とし、西都原古墳群の男狭穂塚を「可愛山陵参考地」と定めた。



★弟橘姫/Ototachibana-hime 380年前後 (神奈川県、川崎市、富士見台古墳)2009

犬のフン!?あのう…お墓なんですけれど! 子どもの遊び場と化し、誰でも頂上に登れてしまう っていうか、ゴミ捨て場が隣接しているのはヒドイ!

ヤマトタケルの東征に同行し、荒れる海を鎮めるために海中に身を投じた弟橘媛の墓。かつてここは海辺で、
弟橘媛の衣服や冠が漂着したという。古事記には櫛が流れ着いたので、御陵を造って中に納めたと伝わる。
※最寄り駅はJR武蔵中原駅。




★河童/kappa 江戸中期 (大分県、中津市、円応寺)2008








河童の池。干からびてるけど…(汗) 河童は実在したッ!! 3匹の河童に戒名がついてる 墓前に夫婦河童♪





お寺の屋根の上に“水”! 円応寺は火難水難除けの御利益で知られる 非常に珍しい“水”の字が入った瓦。“水文瓦”という

江戸中期に寂玄(じゃくげん)上人が河童たちを仏道に入らせ、修行を終えた河童の頭目3匹に戒名を授けた。河童たちには人間の名もあり、岡本宇兵衛(本誉覚圓信士)・竹本三太夫(本誉覚心信士)・蔵本要助(本誉覚源信士)という。
河童たちは戒名の恩返しに寺を火災から守ることを約束し 以後は近所で火事が起きると瓦に刻まれた「水」の字からスプリンクラーのように放水されて寺を助けたと伝わる。寺では今でも法要時に河童たちの回向を行なっている。



★ジョシュア・ノートン/Joshua Abraham Norton 1819-1880.1.8 (USA、カリフォルニア州 61歳)2009
Woodlawn Memorial Park, Colma, San Mateo County, California, USA

 









墓石に刻まれているのは“EMPEROR”!
「合衆国初代皇帝ノートン1世」
本物のチョコケーキ

左奥が皇帝、右手前が奥さん。その墓碑には
EMPRESS(皇后)と彫られていた!

更新中。ノートン閣下のウィキの内容が爆笑なので一読をオススメ!



★セイジ・スタローン/Sage Moonblood Stallone 1976.5.5-2012.7.13 (USA、ロサンゼルス、36歳)2013
Westwood Memorial Park, Los Angeles, Los Angeles County, California, USA

 

シルヴェスター・スタローンの息子。1990年、14歳の時に『ロッキー5/最後のドラマ』でロッキーの息子役でデビュー。
20歳で『デイライト』で再び共演。短編映画の監督でもある。心臓発作によりハリウッドの自宅で死亡。





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