作曲家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

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★プロコフィエフ/Sergei Sergeevich Prokofiev 1891.4.23-1953.3.5 (ロシア、モスクワ 61歳)1987
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 

バレエ組曲ロミオ&ジュリエット。よくぞシェイクスピアの台本にここまで完璧な音楽をつけたもの。
運命的かつ官能的な楽曲は、正直、舌を巻かずにはおれぬ!

●墓所はモスクワのノヴォデヴィッチ修道院/Novo-Devichy (Nowodjewchij) Cemetery
最寄り駅は地下鉄スポルチーヴナヤ駅(徒歩10分)。他にショスタコーヴィチ、スクリャービン、リヒテルらが眠る。




★ヘンデル/Georg Friedrich Handel 1685.2.23-1759.4.14 (イギリス、ロンドン 74歳)2002
Westminster Abbey, London, England







作曲家で最初の国際人 バッハと同い年、故郷も近い 墓所のウェストミンスター寺院




壁際のヘンデル像。最初はこれがお墓と思ってた(汗) こちらが本当のお墓!

バロック後期の代表的作曲家“音楽の母”ヘンデルは1685年2月24日、ドイツ中部のハレに生まれた。奇遇にも100キロ西の隣州アイゼナハではバッハが翌月に生まれている。父は宮廷理髪師(兼外科医)、母は牧師の娘。音楽一家のバッハ家と違ってヘンデルの家系は音楽と無縁であり、父は息子を法律家にしようとした。少年ヘンデルは音楽を好んだが、楽器演奏を禁じられていたため真夜中に屋根裏部屋に忍び込み、月の光のもとで鍵盤楽器(クラヴィコード)を弾いたという。
1692年、7歳のときにザクセン公の前でオルガンを演奏して楽才を認められた。領主はヘンデルが音楽を学ぶための資金提供を申し出、両親は説得されて10歳から地元オルガン奏者に師事させる。同時にハープシコード、バイオリン、オーボエを学んだ。1696年(11歳)、ベルリンで行った御前演奏が大きな評判になるも12歳で父が他界。“堅実な仕事を”という父の遺志に従って17歳で大学の法律学科に入学したが、音楽の情熱を抑えがたく、教会の見習いオルガン奏者となり作曲を始めた。

1703年(18歳)、ドイツのオペラの中心地ハンブルクに出てヴァイオリン奏者兼チェンバロ奏者となる。すぐに4歳年上の作曲家マッテゾン(1681-1764)と親友になったが、翌年マッテゾンのオペラ公演でチェンバロ奏者の座を取り合い(当時の作曲家は指揮や演奏も担当していた)、ハンブルクの市場で決闘となった。マッテゾンの剣先がヘンデルの胸に当たったが、胸ボタンに守られ大事に至らなかった。後日、両者は和解。
19歳でオペラ第1作の『アルミーラ』を作曲。翌年に初演され成功をおさめる。1706年(21歳)、ヘンデルにはハンブルク音楽界が物足りず、当時最先端のイタリア音楽を深く学ぶべく、オペラ発祥の地イタリアへ向かい、ローマ、ベネツィア、フィレンツェ、ナポリに3年間滞在した。イタリアではスカルラッティやコレルリと交流し、教会音楽やイタリア歌唱法を身につけ、100曲以上の世俗カンタータを作曲したほか、オペラやオラトリオも書いた。
1709年(24歳)、オペラ第5作『アグリッピーナ』がベネツィアで初演され、連続27回公演という当時前例のない大ヒットとなった。そもそも外国人の作品がベネツィアでヒットすることが珍しく、ヘンデルの名は欧州に広まった。物語はローマ皇帝クラウディオの後妻アグリッピーナが前夫の子ネロを皇帝に即位させんと画策するもの。ちなみに、同時期にベネツィアでは7歳年上のヴィヴァルディ(1678-1741)が活躍していた。

翌1710年(25歳)、ヘンデルの噂を聞いたハノーファー選帝侯ゲオルク・フリードリヒから宮廷作曲家・指揮者に招かれ、イタリアを離れてドイツに戻った。だが、才能を活かせる環境を求めて同年暮れに休暇をとってイギリスに渡り、スチュアート王朝最後の君主、アン女王(1665-1714)の知遇を得る。ヘンデルは名前を英語読みで「アンデル」と呼ばれた。
1711年(26歳)、ロンドンでオペラ『リナルド』を初演し再び成功を手にする。本作は第1回十字軍のエルサレム奪回の物語でヘンデル存命中に50回以上も上演されたカストラート(去勢男性歌手)のための作品。主人公リナルドは十字軍の勇者。敵エルサレム王にさらわれた恋人アルミレーナが歌うアリア『私を泣かせてください』が特に有名。この頃、イギリス音楽は作曲家パーセル(享年36)を失って停滞していたことから、イタリア・オペラの形式をとった『リナルド』は新鮮さがあり、イタリア帰りのヘンデルの作品は注目を集めていく。

いったんハノーファー宮廷に戻り、選帝侯から短期間の渡英許可を得てイギリスに入ったが、ヘンデルは再三にわたる帰国命令を無視してイギリスに滞在した。アン女王はヘンデルを寵愛し、彼は外国人でありながらイギリス王室から年金を支給される。1714年(29歳)、アン女王との出会いから4年、女王は49歳で急死した。死去によりドイツからハノーファー選帝侯ゲオルク・フリードリヒがイギリス国王として呼ばれ、「ジョージ1世」となる(ハノーファー朝の始祖。母が英国王室出身)。ヘンデルはハノーファーの宮廷楽長の職を放棄しており、顔を合わせづらい巡り合わせとなった。
ジョージ1世はヘンデルの不義理に怒って宮廷から遠ざた。即位から3年が経った1717年(32歳)、国王がテムズ川で舟遊びをした際に、ヘンデルは50人の楽団を引き連れて船上で管弦楽組曲『水上の音楽(Water Music)』(第1番〜第
3番/計20曲の小曲集)を演奏した。音楽好きのジョージ1世は、この華やかな野外音楽をいたく気に入り、1時間におよぶ曲を船が往復する間に3度も演奏させたという。有名な「アラ・ホーンパイプ」は第2組曲の第2曲。この作品のおかげでヘンデルは許され、アン女王の時代よりも重用された。音楽の力が不和を解いた。

1718年(33歳)、代表作のひとつ、妖精ガラテアと羊飼いエイシスの悲恋を描いた仮面劇『エイシスとガラテア』を作曲。
1719年(34歳)、イタリア・オペラ上演と貴族の投資を目的としたオペラ団体「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」を王の支援を得て設立、ヘンデルは音楽監督に就任した。この当時、作曲家は最初に歌手を選び、歌手の実力を最大限に引き出せる楽曲を書いた。同年、オペラ歌手の引き抜きを目的にドイツへ帰り、故郷ハレにも短期間帰った。その際、バッハがヘンデルに会うために訪問したが、既にヘンデルはイギリスに向かった後だった。巨匠たちの世紀の対面は残念ながら実現しなかった。
1724年(39歳)、ヘンデル絶頂期のオペラ『エジプトのジューリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)』初演。エジプト遠征中のシーザーとエジプト女王クレオパトラの物語。ドラマチックな史劇であり、ヘンデルのオペラで上演回数が最も多い人気作となる。同年、オペラ『タメルラーノ』初演。タタール人(モンゴル人)に捕らえられたトルコ皇帝の悲愴な決意を描く。
1725年(40歳)、オペラ『ロデリンダ』初演。北イタリアの王国を舞台にした夫婦愛を描く史劇。
1727年(42歳)、イギリスに帰化して名前をゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルから英語綴りの「George Frideric Handel(ジョージ・フリデリック・ヘンデル)」に変更する。
同年、ジョージ1世が脳卒中で他界し、子のジョージ2世(1683?1760)が即位する。この戴冠式のため英語による「戴冠式アンセム(礼拝用合唱曲)」を作曲し、後の英語オラトリオに繋がっていく。
※イギリス国教会の礼拝用合唱曲=「アンセム」は、プロテスタント教会の「カンタータ」、カトリック教会の「モテット」に相当。ヘンデルの『ジョージ2世の戴冠式アンセム』の第1曲目「司祭ザドク」はサッカーチャンピオンズリーグのテーマ曲の原曲になっている。
1728年(43歳)、「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」は9年間にオペラを487回(うちヘンデル作品245回)上演し、観客動員も多かったが、オペラ界のスター歌手を呼んだことでギャラがかさみ、収益は思うように上がらなかった。劇場経営者が資金を持ち逃げしたことも。また、この年に別の劇場でヘンデル作品をパロディ化&風刺した英語のオペラ『乞食オペラ』が記録的ヒットとなり、イタリア語にこだわるヘンデルの人気に陰りが出た。英語オペラの楽しさに気づいた民衆は、ヘンデルのイタリア語のオペラを貴族趣味の輸入品と見なすようになった。
1732年(47歳)、ペルシャ王の后となったユダヤ人女性エステルの知恵と勇気を描いた最初の英語オラトリオ『エステル』を上演。その幕間にヘンデルが弾いた2曲のオルガン協奏曲が好評を得る。
※オラトリオは衣装や舞台装置を使用しない音楽劇であり、公演費が安くついた。題材の大半が旧約聖書。
1733年(48歳)、恋に狂った英雄オルランドの四角関係を描いたイタリア・オペラ『オルランド』初演。同年ヘンデルの独裁支配に対する反発が起きて「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」が分裂解散。翌年、ヘンデルは新オペラ団体「イタリアオペラ協会」を旗挙げし、反ヘンデル派もオペラ団体「貴族オペラ」(有名なカストラート、ファリネッリが所属)を設立した。両者がイタリア・オペラのファンを奪い合うなか、ヘンデルは英語による劇形式のオラトリオに活路を見出す。オラトリオ『アタリア』作曲。
1734年(49歳)、物語がドラマチックで挿入されたバレエが人気のオペラ『アリオダンテ』を作曲。王の後継者アリオダンテを狙う謀略が描かれる。
1735年(50歳)、イタリア・オペラの最後のヒット作『アルチーナ』初演。魔法で男を虜にしてきた冷酷な魔法使いアルチーナが、初めて失恋して歌う美しいアリア『ああ!私の心の人よ!』で知られる。同年、名曲『オルガン協奏曲第4番』を作曲。
※『オルガン協奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=INIq2O2fr401737
1736年(51歳)、アレキサンダー大王のペレスポリス(ペルシャの首都)占領を祝賀する饗宴を舞台にした英語オラトリオ『アレクサンダーの饗宴』初演が大成功。
1737年(52歳)、中風にかかり体調を崩す。さらに卒中で右手が麻痺し指揮が不可能になった。「イタリアオペラ協会」もライバルの「貴族オペラ」も共に経営に行き詰まる。
1738年(53歳)、経済的に苦しくなるなか作曲活動を再開、年2作のペースでオラトリオを書き続ける。同年、ペルシャ時代の恋模様を描いたオペラ『セルセ』(伊語セルセ、別名クセルクセス)を作曲。第1幕で主人公のペルシャ王・クセルクセス1世が樹を愛でるアリア『樹木の陰で(オンブラ・マイ・フ)』は、あまりに旋律が美しいために「ヘンデルのラルゴ」の曲名で単独でも歌われる名歌となった。歌詞の内容は「このような木陰は今までになかった どれよりも愛しく 愛らしく そして優しい」。この曲は1906年

クリスマスイブにラジオ実験放送でレコードが流れ「世界で初めて電波に乗せて放送された音楽」になった。同年、イスラエル王国の初代国王サウルを描いたオラトリオ『サウル』作曲。
1739年(54歳)、モーセたちの紅海横断を描いた英語オラトリオ『エジプトのイスラエル人』初演。エジソンが発明したフォノグラフ(蝋管再生機)を使って、1888年に曲中の「モーセとイスラエルの子供たち」(出演者4千人の大コーラス)を録音。2008年にフランス民謡「月の光」(1860年録音)が再生されるまで“世界最古の録音”とされた。同年、ソロとオーケストラが交代しながら演奏する『合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)』を作曲。

1741年(56歳)、オペラの最終作となる『デイダミア』上演。ウリッセ(オッデュッセウス)がアキレウスとデイダミアを結婚させる物語。イタリア語のオペラであったため、既にロンドンの人々は興味を失っており興行は大失敗。ここ何年もヘンデル嫌いの貴族たちの妨害でオペラの失敗が増えていたことから、彼はイギリスを去ることを決意、アイルランド・ダブリンに渡った。以降、オラトリオを中心に作曲していく。
そんな失意のヘンデルに、ダブリン市から慈善演奏会用のオラトリオのリクエストが届く。それまでのヘンデルのイタリア語オペラは人気歌手のためのアリアとレチタティーボ(叙唱)ばかりで合唱曲はなかった。イギリスで普及していた合唱音楽に刺激を受けたヘンデルは、本格的な大規模合唱曲の作曲に取り掛かり、傑作オラトリオ『メサイア(救世主)』をわずか24日間で書きあげた。
1742年(57歳)4月13日、アイルランド・ダブリンにて代表作となる『メサイア』を自身の指揮により初演。第1部「メシア到来の預言と誕生、メシアの宣教」第2部「メシアの受難と復活、メシアの教えの伝播」、第3部「メシアのもたらした救い〜永遠のいのち」で構成され、第2部最終曲の「ハレルヤ(Hallelujah)」(通称「ハレルヤコーラス」)が高い人気を呼び、『メサイア』は大成功を収めた。同年、盲目になったサムソンがペリシテ人の神殿を崩壊させるスペクタクルなオラトリオ『サムソン』を作曲、これもヒットする。
※『ハレルヤコーラス』 https://www.youtube.com/watch?v=5NokjNCbCY4
1743年(58歳)、『ハレルヤ』のロンドン初演が実現したが、宗教作品を劇場で演奏することを批判する反対派の妨害で失敗に終わった。

1746年(61歳)、従来の演奏会は富裕階級だけを対象とした予約演奏会だったが、この年からオラトリオを市民に公開するようになる。
1747年(62歳)、紀元前にエルサレムを奪還し圧制からイスラエルを解放した英雄ユダ・マカバイを描いたオラトリオ『マカベウスのユダ(ユダス・マカベウス)』を作曲。第58曲『見よ、勇者は帰る』は表彰状の授賞式で流れる得賞歌として有名。ヘンデルは本作で「勇者」をスコットランドで勝利を収めた「イングランド軍」と重ねており、この愛国的なオラトリオは英国民から喝采を受けた。
※『マカベウスのユダ』 https://www.youtube.com/watch?v=939-BHNKWNI
※『マカベウスのユダ』の哀切なメロディー
https://www.youtube.com/watch?v=939-BHNKWNI#t=17m50s

1748年(63歳)、旧約聖書のソロモン王の英知を称えたオラトリオ『ソロモン』作曲。第3幕の「シバの女王の到着」が2012年のロンドン・オリンピックで演奏された。
1749年(64歳)、敬虔なキリスト教徒テオドーラと彼女を愛した男が互いを助けようと殉教する姿を描いたオラトリオ『テオドーラ』を作曲。オラトリオでは定番のハッピーエンドでない重い展開から観客は不入りだった。この年、前年のアーヘンの平和条約(オーストリア継承戦争の講和条約)の成立を祝う王宮の花火大会のため、ジョージ2世の意向を汲んだ勇壮な組曲『王宮の花火の音楽』を作曲。24本のオーボエ、9本のホルンとトランペットという大規模な編成。1万2千人の観客を前に花火を打ち上げる最中に演奏された。音楽は好評でヘンデルは再評価されると共に、ロンドンでは反応が悪かった『メサイア』の真価が認められ始める。『メサイア』は孤児院の募金を集めるために毎年上演されるようになった。
1750年(65歳)、バッハ他界。
1751年(66歳)、事実上の最後のオラトリオとなる『イェフタ』を作曲。白内障にかかったヘンデルは、この作品を視力が減退するなか執念で完成させた。古代イスラエルの指導者イェフタは、神との約束によって戦の勝利と引き換えに最愛の娘イフィスを生贄に出すことになり、心の葛藤を描く。
1753年(68歳)、完全に失明し作曲活動が不可能になり、演奏活動のみ続ける。
1758年(73歳)、有名な眼科医テイラーに眼の手術を受けたが失敗。この医者はバッハの眼の手術でも失敗している。
1759年4月14日にロンドンで他界。死の8日前に『メサイア』の演奏会に足を運び、これが人生で最後に聴いた音楽となった。享年74歳。生涯独身で子供はいなかった。『メサイア』はヘンデルが没するまでに68回も上演されたという。ドイツ人でありながら歴代の王族や、ニュートン、ダーウィンら英国の偉人が眠るウエストミンスター寺院に葬られた。
翌1760年に伝記が刊行され、ヘンデルは伝記が書かれた最初の音楽家となった。同年にヘンデルが30年仕えていたジョージ2世も76歳で他界し、ウェストミンスター寺院に埋蔵された最後の王となった。
生誕100年を機に楽譜全集が出版され(1797年完結)、ベートーヴェンは全40巻を宝物にしていた。ベートーヴェン「ヘンデルは追従を許さぬ巨匠中の巨匠だ」。
1883年、第1回万国博覧会のためにロンドン郊外に建てられた水晶宮で、500人の大規模オーケストラと4000人もの合唱団で『メサイア』が上演された。
1884年、『マカベウスのユダ』の「見よ、勇者は帰る」にスイスの牧師バドリーが歌詞をつけ、賛美歌「Thine Is the Glory(栄光は汝に)」として広まる。

若い頃からドイツ、イタリア、イギリスなど各地の文化・芸術を吸収して国境を超えて活躍したヘンデル。高い教養と外国語の上手さから宮廷で重用され、国際的な名声を得たコスモポリタンだった。趣味は絵画の収集。劇場経営では苦難を重ねながらも、イギリスにおけるイタリア・オペラの確立に尽力し、46曲のオペラと29曲のオラトリオ、多数の室内楽曲を残した。生涯ドイツから出ることがなかったバッハとは対照的だ。作品内容もバッハより分かりやすく、イタリア仕込みのくっきりとした明快な旋律とハッピーエンドの調和感のある展開、理解しやすい作風で多くの人に愛された。近年、オペラを中心にヘンデル作品を復活上演する試みが次第に増えている。

〔墓巡礼〕
ヘンデルが眠るロンドンのウェストミンスター寺院はイングランド国教会の教会。国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)が隣接しており、1987年にユネスコの世界遺産に登録された。11世紀にエドワード懺悔王が建設し、1066年から国王の戴冠式が行なわれ、内部の壁と床には歴代の王族やイギリスを代表する芸術家、科学者、政治家らが多数埋葬されている。墓地としては既に満杯状態で、新たに埋葬するスペースはなくなっているが、2018年3月に没した理論物理学者スティーヴン・ホーキング博士の遺骨が埋葬されることになった。日本の学校のチャイム(♪キーンコーンカーンコーン)は当寺院のために1927年に作曲された「ウェストミンスターの鐘」がオリジナル。
初めてヘンデルを墓参したのは1989年。飛行機でイギリス・ヒースロー空港に降り立ち、シャトルバスでロンドン市内へ。地下鉄のウェストミンスター駅から地上へ出て、テムズ河を背にビッグベンで有名な国会議事堂を左に見ながら200m歩くと巨大なウェストミンスター寺院に着く。入場料は1.8ポンドだったが、今は10倍以上の20ポンド(3000円)もする!現在は内部の撮影が禁じられているが、以前は撮影可能だった。
入口から入ると最初に王室の墓がある。聖エドワード(懺悔王)、ヘンリー5世、エリザベス1世、悲劇のメアリー・スチュアートなど多くの著名王族の壮麗な墓に圧倒された。ヘンデルを寵愛したアン女王や“王宮の花火”ジョージ2世もここに眠る。“水上の音楽”ジョージ1世だけは故郷ドイツのハノーファーに永眠している。僕にとってウェストミンスター寺院の最重要エリアは寺院の南翼廊「ポエッツ(詩人)コーナー」。ここにはテニソンやチョーサーといった国民的詩人だけでなく芸術家も数多く眠っている。ディケンズ、ローレンス・オリビエ、ハーディ、キップリング、パーセル等々。『メサイア』の楽譜を持ったヘンデルの石像が壁面にあるため、僕はそこが墓と思って頭(こうべ)を垂れ、彼が残してくれた美しい音楽の御礼を言った。中央の身廊にはニュートン、北翼廊(聖歌隊席通路)にはダーウィンやヴォーン・ウィリアムズの墓がある。
帰国後、2、3年が経ったある日、音楽誌をめくっていると見たこともないヘンデルの墓写真があった。「えっ、これはどこ!?なになに…ウェストミンスター寺院!?嘘だろ!?」。どうやら、僕が感謝を捧げたのは記念碑の方で、本当の墓は同じ詩人コーナーの床にあったようだ…ショック。13年後に同寺院を再訪、まっすぐ詩人コーナーを目指し、床に「HANDEL」の名を確認した。今度はちゃんとお墓に「サンキュー」と伝えることができた。

※英国では神を讃える歌が演奏される際に起立する習慣があり、この伝統が広がって他国の演奏会でも歌手や聴衆が「ハレルヤ」で立ち上がるようになった。
※18世紀当時のドイツの新聞が作曲家の人気投票を実施した結果、1位テレマン、2位ヘンデル、7位バッハだった。
※ヘンデルが1723年から他界まで暮らしたロンドンの住居は、ヘンデルの博物館として公開されている。住所はBrook Street 25。2階から上。
※故郷のザクセン・アンハルト州ハレに生家が「ヘンデルハウス」として保存・公開されている。マルクト広場にヘンデル像あり。
※ヘンデル名曲集 https://www.youtube.com/watch?v=yVfimoazs4s




★シベリウス/Jean Sibelius 1865.12.8-1957.9.20 (フィンランド、アイノラ 91歳)2005&18
Ainola (Jean Sibelius Home), Jarvenpaa, Finland

 
ヘルシンキ空港のシャトルバスは『フィンランディア』の楽譜が内外にラッピングされてます!

フィンランドでも豚は「ブハブハ」鳴く 「トナカイ注意」もフィンランドならでは 態度がでかすぎるドナルド





駅員に道を尋ねようと思っていたので駅に
降りて絶句!無人駅!目の前は野原!
周辺地図ナシ!
シベリウスの墓は彼の家の庭にあると
のこと。しかし、誰かに方角を聞くにも、
通行人が一人もいないッ!
ようやく遭遇した民家。
突撃して住人のお婆さん
から道を教えてもらう
「ホントにあってるのか…?」
この地味で目立たない門が
シベリウス・ハウスの入口だった




家がシベリウス博物館になってる 裏庭の奥の方にあったシンプルな墓(2005) 再巡礼は天候に恵まれた(2018)

墓所の入口。自然の中に眠る 木洩れ陽が心地よさそう 墓所から見たアイノラ(家)

シベリウス愛用のピアノ ベッド付きの書斎 シベリウス像@髪の毛あり

フィンランドの作曲家。フィンランド国民主義音楽の創始者、作曲家ジャン・シベリウスは1865年12月8日にロシア帝国支配下のフィンランド南部ハメーンリンナに生まれた。デンマークのニールセンと同い年。近い世代にマーラー、R・シュトラウス、ドビュッシー、サティ。本名ヨハン・ユリウス・クリスティアン・シベリウス。軍医の父は2歳のときに患者から感染して病死。15歳で始めたヴァイオリンに夢中になり音楽家を志すが、家族は音楽家という不安定な職業に猛反対。大学の法学部に通いながらこっそり音楽の勉強を続け、やがて家族の理解を得た。1885年、20歳からヘルシンキ音楽院でヴァイオリンと作曲を学び始め、当初はヴァイオリニストを目指しウィーン・フィルのオーデイションなども受けたが、あがり症のためステージで失敗し作曲家の道を歩む。
1889年(24歳)、音楽院の優れた成績により政府奨学金を受けベルリンに留学。ドイツ・ロマン派の手法を習得する。
1890年(25歳)、ベルリン留学中にワーグナーのオペラ『タンホイザー』や楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を鑑賞し感銘を受けたが、ワーグナーのスコアを研究しているうちに大げさでわざとらしく感じ、オペラよりもリストが開拓した「交響詩」の方が自分に合っていると感じるようになる。この年、新たに政府奨学金を受け、ウィーン音楽院でも学ぶ。
1892年(27歳)、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』に基づく1時間以上の大曲、合唱つきの交響詩『クレルヴォ』を作曲し、フィンランドの民族主義的ロマン主義の道を開き注目を浴びる。クレルヴォは復讐のために生まれたが、不運にも兄妹相姦の罪を犯し、ついに自刃する悲劇の英雄。悪の象徴である北の国ポホヨラの女主人ロウヒなどをめぐって物語が展開する。『クレルヴォ』の成功で作曲の依頼が入り、交響詩『エン・サガ(ある伝説)』を作曲。シベリウスいわく「『エン・サガ』は、私の青春のすべてが含まれていると言っても構いません。作曲中、私は自分を混乱させたあらゆることを無事に切り抜けなければならなかった。『エン・サガ』ほど私をヘトヘトとにさせた作品は他にありません」。
シベリウスは同年にアイノ・ヤルネフェルトと結婚して六女をもうけ、母校ヘルシンキ音楽院で5年間音楽理論を教える。
※カレワラ(Kalevala)…フィンランドの民族叙事詩。おもにフィンランド南東部カレリア地方で何代にもわたって口承で歌い継がれてきた物語詩、古代歌謡。「カレワラ」は「英雄(カレワ)の地」の意。3人の伝説的英雄、半神半人の老ワイナミョイネン、魔法の臼をつくる鍛冶屋イルマリネン、色好みの若者レンミンカイネンの冒険を描く。中心となる物語は、ワイナミョイネンが北の国ポホヨラの支配者ロウヒの娘に求婚するもの。他に、天地創造にかかわる寓話や、持ち主に無限の塩と食物と金をもたらす魔法の石臼サンポをめぐる英雄たちの冒険、フィンランド人のキリスト教改宗なども描かれている。
フィンランドは1809年にロシア帝国に編入され、これを機に民族意識が高まり、民間伝承が固有の文化として認識されるようになった。1822年、フィンランド人作家ザカリアス・トペリウスが民間説話の一部を採録&編集した「カレワラ」を発表。これはスウェーデン語を使ったものだった。13年後の1835年に民俗学者・医師のエリアス・リョンロート(1802-1884)がフィンランド語で約1万2000行を採録、2巻32章からなる長編叙事詩として出版。さらに1849年には2万3000行近くに増補した全50章からなる改訂版を出し、これが決定版となった。「カレワラ」は芸術家や作家に深い感銘を与え、フィンランド新ロマン主義誕生の母体となり、さらには民族団結の象徴として、ロシア帝国からの独立運動を支えた。
※交響詩『エン・サガ』 https://www.youtube.com/watch?v=1YIEAL7tI2I (18分)
1893年(28歳)、ヘルシンキ大の学生から野外歴史劇の付随音楽を依頼され、そこから3曲「間奏曲」「バラード」「行進曲」を選んだ組曲『カレリア』を発表。この曲も北欧的な郷土色をたたえている。同年、長女誕生。
※組曲『カレリア』 https://www.youtube.com/watch?v=UNK9DmbkFqk (16分)全曲ハズレなし!
1895年(30歳)、民族叙事詩「カレワラ」のオペラ化を考えていたシベリウスは、情景描写のための楽曲をいくつか完成させたが、オペラには不向きと判断し、「レンミンカイネンと島の乙女たち」「トゥオネラの白鳥」「トゥオネラのレンミンカイネン」「レンミンカイネンの帰郷」の4曲を選んで交響詩『4つの伝説曲(レンミンカイネン組曲)』を発表する。
※レンミンカイネンの伝説…冒険好きの英雄レンミンカイネンは美女の島で恋を楽しみ結婚するが、妻が約束を破って祭りで踊ったことから、新しい妻を探しに北国ポホヨラへ向かう。彼はポホヨラの老婆から娘をやる条件に「トゥオネラ川の白鳥を一矢で射る」よう言われる。トゥオネラとは黄泉の国であり、トゥオネラ川は冥界との境を流れる川。レンミンカイネンは白鳥を狙うが水蛇に噛まれて死んでしまう。彼の体はトゥオネラで切り刻まれるが、息子の異変を察知した母親がトゥオネラ川から体を掻き集め、魔法で蘇生させた。レンミンカイネンは帰郷する。
※幻想的な『トゥオネラの白鳥』 https://www.youtube.com/watch?v=wkF501ctVDE(10分)
1897年(32歳)、政府から終身年金が与えられたことから、ヘルシンキ音楽院の教壇を降り、ヘルシンキ近郊ヤルベンパー(エルベンペー)の私邸にひきこもって作曲活動に専念した。
1898年(33歳)、ベルリンでベルリオーズの『幻想交響曲』を聴いて大きな感銘を受け、『交響曲第1番』の作曲に取り掛かる。
※ウィキによると、この頃のシベリウスの私生活は乱れており、酒に酔ったあげく乱闘騒ぎを起こし、浪費癖も問題だったというが、僕の手持ち資料にそれらの記述はなく初耳。シベリウスは“ザ・真面目”の代表のようなイメージなんだけど…(汗)。
1899年(34歳)、情熱的な祖国愛を表現し、後に“第2の国歌”といわれ代表作となる交響詩『フィンランディア』を作曲、国民を熱狂させる。シベリウスは国民音楽家として圧倒的な名声を手に入れた。この曲は元々フィンランド民族の覚醒を描いた歴史劇『愛国記念劇』の最終幕「フィンランドは目覚める」の劇伴音楽であり、翌年に交響詩として改訂され、1901年に管弦楽版のタイトルを『フィンランディア』に改名した。西洋音楽では馴染みの薄い“5拍”のティンパニー付きメロディは民族叙事詩「カレワラ」のものであり、民族色を濃く反映させている。1809年以来、帝政ロシアの圧制下にあったフィンランドでは独立の気運が高まっており、ロシア政府は『フィンランディア』が愛国心をかきたてることを恐れて演奏禁止にした。曲の冒頭はロシアの弾圧を思わせる重苦しい序奏で始まり、やがて闘争が描かれ、その後「フィンランディア賛歌」と名づけられた美しい旋律を中心に展開していく。輝かしい勝利の光に包まれ曲は幕を閉じる。
※『フィンランディア』バルビローリ指揮ハレ管弦楽団 https://www.youtube.com/watch?v=Y2Q6v0FvtlQ (8分35秒)
また、この年は『交響曲第1番』が完成しており、『クレルヴォ』『4つの伝説曲』など交響詩の力作を書いてきたシベリウスにとって、満を持しての交響曲であり初演は大成功を収めた。
1900年(35歳)、パリの万国博覧会にフィンランドのオーケストラと参加して自作を指揮し、存在が国際的に認知される。同年、三女が2歳で早逝。
1901年(36歳)、上半期にシベリウスの支援者であるアクセル・カルペラン男爵(1858-1919)の援助を受けイタリアを旅行。創作欲を刺激され、滞在中、骨太の力強さ、北国の渋い響き、くっきりとした輪郭、炸裂する郷土色、栄光ある凱旋、シベリウス芸術の特色すべてを含んだ大傑作『交響曲第2番』(略称シベ・ツー)の大半を作曲し、帰国後に仕上げた。翌年初演。
※『交響曲第2番』ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィルの名盤 https://www.youtube.com/watch?v=256BIBzhdhA (40分)
1903年(38歳)、古今のヴァイオリン協奏曲の中でも屈指のスケール感をもつ『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。男性的な荒削りの太い線と、エネルギーを溜め込んだ暗い情熱に満ちた、いぶし銀のヴァイオリン協奏曲。初演後、ブラームス(1833-1897)が書いたヴァイオリン協奏曲を聴いたシベリウスは、交響曲のように豊かに響くブラームスの音色に衝撃を受け、後日大きく改訂している。
※『ヴァイオリン協奏曲』ハイフェッツ独奏、ヘンドル指揮シカゴ響の名盤 https://www.youtube.com/watch?v=am0rFQOnyKw (26分40秒)
同年、劇作家の義兄が書いた劇『クオレマ(死)』の付随音楽を作曲。病床の女性が幻聴のワルツに身を起こし、幻の踊り子と一緒に踊っていると、死神が迎えに来るというもの。
※「悲しきワルツ」 https://www.youtube.com/watch?v=qGzcM2fE2xs (6分22秒)
1904年(39歳)、シベリウスは世界的な名声を得たものの、不摂生な生活で身体を壊し、創作活動にも支障が出たことから心機一転をはかる。ヘルシンキ郊外の自然豊かなヤルヴェンパーに自邸「アイノラ」(“妻アイノの地”)を建て、妻と3人の娘と移り住み、以降の活動拠点とした。
1905年(40歳)、メーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』(スウェーデン語版)のヘルシンキ上演に合わせた付随音楽を作曲。上演ではシベリウス自身が指揮した。上演後、シベリウスは次の8曲「城門にて」「メリザンド」「海辺にて&庭園の噴水」「3人の盲目の姉妹」「パストラーレ」「糸を紡ぐメリザンド」「間奏曲」「メリザンドの死」を選び組曲にした。
※管弦楽組曲『ペレアスとメリザンド』 https://www.youtube.com/watch?v=I06-fQMxxeo (31分)
※フィンランドは13世紀からスウェーデンに支配され、16世紀にスウェーデン公国フィンランドとなり、1600年頃は全行政機関がストックホルムに移されていた。ロシアとスウェーデンの戦争では、フィンランド人がスウェーデン兵として戦い、17世紀末に戦乱と凶作でフィンランド人の4人に1人が死亡する悲劇に見舞われる。1809年からロシア帝国の領土となり圧政に苦しんだ。約600年もスウェーデンに支配されたことから、シベリウスは母語としてスウェーデン語を話す家庭に育っており、また歌曲の多くをスウェーデン語の詩に作曲している。フィンランド人の作家トーベ・ヤンソンが『ムーミン』をスウェーデン語で書いているのも同じ理由による。
1906年(41歳)、民族叙事詩「カレワラ」を題材に交響的幻想曲『ポホヨラの娘(ポヒョラの娘)』を作曲。吟遊詩人の英雄ヴァイナモイネンが、虹の橋に腰掛けて糸を紡ぐ美しい「北国ポホヨラの娘」に心を奪われるが、娘が出す試練をクリアーできず、怪我までしてしまい、娘を諦めて旅を続ける。娘の嘲り笑うようなヴァイオリンの連続した高音は、後に映画『サイコ』の襲撃時の音楽のインスピレーションとなった。
1907年(42歳)、軽快な『交響曲第3番』を作曲。本作は第2番ほど受け入れられなかった。後日、シベリウスがマーラーにこの件を話すと、マーラーは「新たな交響曲を発表するとファンは去って行くものです」とリアルな体験を語った。
1908年(43歳)、喉の腫瘍を摘出する手術を受ける。大好きだった酒と葉巻を禁止されてしまう。同年四女が生まれる。
1909年(44歳)、『弦楽四重奏曲“内なる声”』を作曲。躍動感あり緊張感もあり。
※『弦楽四重奏曲“内なる声”』 https://www.youtube.com/watch?v=3ywncteIf7M
1911年(46歳)、闘病生活で感じた死の不安と、病を克服した安堵が反映され、シベリウス自身が「心理的交響曲」と呼んだ『交響曲第4番』が完成。低く垂れ込める雲のような暗い旋律と重い和声で始まり、時折、かすかな光を感じながら終曲へ向かう。息詰まるような緊張感が延々と続き、初演を聴いた聴衆は戸惑ったが、シベリウスは自信作として動じなかったという。同年五女が生まれる。
※『交響曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=q-OVggmfM44 (34分39秒)
同年、組曲『恋人』を作曲。「恋人」「恋人の道」「今晩は、わが愛しい人…告別」の3曲で構成。
※組曲『恋人』 https://www.youtube.com/watch?v=LjrsAI234RI (13分)映画を一本観た気分になる動画
1913年(48歳)、交響詩『吟遊詩人』を作曲。ハープが効果的に使用され、夢見心地の甘美な叙情性をもった作品。
※交響詩『吟遊詩人』 https://www.youtube.com/watch?v=CwRFit-2Bsc (8分14秒)
1914年(49歳)、米国に招かれ、初演用に交響詩『大洋の女神(海神)』を作曲。シベリウスが「カレワラ」から離れてギリシャ神話の海の女神を題材にとっているのが珍しい。音の風景画家の本領発揮。同年7月第一次世界大戦が勃発。
※交響詩『海神』 https://www.youtube.com/watch?v=HSDoYJC4DCk (11分)
1915年(50歳)、自身の生誕50年記念行事の祝賀演奏会で初演される交響曲として『交響曲第5番』を作曲。癌による死の恐怖から解放された喜びを伸び伸びと歌いあげ、終楽章は明るい輝きに満ち、交響曲第2番に次ぐ人気曲となった。
※『交響曲第5番』終楽章(バーンスタイン/ウィーン・フィルのLIVE) https://www.youtube.com/watch?v=dACRUFfmMeo#t=27m42s はうう!素晴らしい!
1917年(52歳)、ロシア革命が起きて帝政ロシアが滅ぶと、フィンランド議会はこの機を利用して共和国として独立を宣言、悲願の国家独立を成し遂げた。
1918年(53歳)、11月、第一次世界大戦が終結。翌年、恩人のアクセル・カルペラン男爵が他界。
1922年(57歳)、弦楽四重奏曲『アンダンテ・フェスティーヴォ』を作曲。シベリウスのお気に入りの曲で、1930年に弦楽合奏版に編曲され、自身が指揮した演奏会のアンコールで好んで取り上げた。
※弦楽合奏版『アンダンテ・フェスティーヴォ』 https://www.youtube.com/watch?v=2tUmZAOVhMs (4分37秒)
1923年(58歳)、爽やかな風のような『交響曲第6番』を作曲。終楽章は清らかな響きを残して消えて行く。
※『交響曲第6番』 https://www.youtube.com/watch?v=uV2Sh56TK_g (28分52秒)
1924年(59歳)、最後のシンフォニーとなる『交響曲第7番』を作曲。4つの楽章がひとつに繋がった単一楽章という変則的な形式を採用。音楽という有機的な生命がシベリウスの手で単一楽章に融合し、様々な楽想が統合されてひとつの結晶となった。
※『交響曲第7番』ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィル https://www.youtube.com/watch?v=YH-AVbumQ2s (21分24秒)
※『交響曲第7番』ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル https://www.youtube.com/watch?v=x8H15wX7lI8 (20分19秒)爆裂トロンボーン
1925年(60歳)、最後の交響詩となる『タピオラ』を作曲。森の神タピオの土地=森。シベリウスは曲の内容を次の詩に綴った。「北国の彼方に暗い森が広がる/太古の、神秘に満ちた夢を秘めて/そこに大神が住み/闇の中に森の精が生きている」。従来の「カレワラ」を題材にしたものと異なり、フィンランドの森を念頭に置いた気分画的な印象スケッチ。北国の森の荘厳さと神性が空間を支配する、シベリウスの交響詩の頂点。
同年、フィンランド政府はシベリウスに支給する終身年金を10万マルッカに増額した。28年前、最初にこの年金を受け取った際は2千マルッカだった。実に50倍であり、シベリウスに対する政府の期待がよくわかる。しかも年金とは別に、60歳記念として国民が寄付金27万マルッカを贈っている。…だが、この周囲の想いがシベリウスにはプレッシャーだったのか、なんとこれ以降、32年後に他界するまで重要な作品を生み出せなくなった。
1929年(64歳)、この年を最後に新作が発表されなくなり、事実上の引退生活をおくる。シベリウスの家族や秘書が証言するところには、『交響曲第8番』は“何度も”完成したが、シベリウスは内容に満足できず、その度ごとに燃やされるなど廃棄の憂き目に遭ったという。人々は約30年に及ぶシベリウスの沈黙を“アイノラの静寂”と呼んだ。
1939年(74歳)、第二次世界大戦が勃発。スターリンの命を受けソ連軍がフィンランドを侵略開始。祖国防衛の「冬戦争」を経て和平を締結。
1941年(76歳)、独ソ戦が勃発しフィンランドが独軍に国土通過を許したことから、ソ連軍が報復で都市爆撃を行う。詩人コスケンニエミによって『フィンランディア』の旋律に歌詞がつけられ、シベリウスはこれを合唱用に編曲し『フィンランディア賛歌』とした。讃美歌としてもこの旋律に詞をつけ「やすかれわがこころよ」として歌われる。
1945年(80歳)、第二次世界大戦が終結。
1957年9月20日、ヤルヴェンパーで脳出血を起こし91歳で他界。約30年もの長い沈黙のまま北欧の巨匠は旅立った。晩年の言葉「こんなにも自然が美しいのに、この世に別れを告げるのはつらい」。ヘルシンキの大聖堂で国葬が執り行われた後、棺は墓地ではなく自邸アイノラに運ばれ、裏庭に葬られた。
1969年、シベリウス他界の12年後、妻アイノが97年の長寿をまっとうした。
1972年、没後15年を機にシベリウスの娘達がアイノラを国家に譲渡。その後アイノラ財団が設立され1974年にアイノラが一般公開された。
 
祖国の神話や歴史、自然に着想をえた作品を次々に発表し、生前から既に国宝的作曲家となったシベリウス。「フィンランディア」は第2の国歌となった。ロマン派と国民主義が同居した楽曲は、線が太くて力強く、男性的な悲愴味を含んでいる。ドイツロマン派の影響を受けると共に、北国に固有の重く暗い和声や民俗音楽のリズムをもちいた。
音楽史においても、19世紀ロマン派音楽の伝統をうけついだ最後の作曲家であり、20世紀屈指の管弦楽曲の大家として、グリーグと共に北欧の音楽的水準を向上させた。国民楽派ではあるが、フィンランドの民謡を丸ごと引用するのではなく、民俗音楽に特有の旋律型やリズム・パターンを取り込み反映させた。
晩年のシベリウスは28年間も沈黙を続けていたが、実際は交響曲第7番を完成させた後に、第8番の作曲に取り掛かり、納得いく作品を書けずに苦悩、書いては破棄を繰り返していた。遺言によって残された楽譜は娘の手で燃やされた。人一倍、自分に対して厳しい作曲家だったことがわかる(ファンとしては燃やしてほしくなかったけど…)。
僕がクラシックを聴き始めたころ、クラシックはどの曲も似たものに聴こえたし、作曲家が暮らしていた国なんて見当もつかなかった。だけどシベリウスは特別だった。音楽が始まると、彼が愛してやまない北欧の自然、森や湖へ連れて行かれてしまう…部屋の空気が一変する。それが不思議だった。
死後に人気が出たビゼーやサティ、ムソルグスキーと比べ、シベリウスは経済面では幸福な生涯であった。だが、後年に30年も新作を書けなくなったのはクリエイターとして本当に苦しかったと思う。会う人、会う人に、「マエストロ、今はどんな曲を書かれているですか」と質問されるわけで…。
 
〔墓巡礼〕
初巡礼は2005年。フィンランドの首都ヘルシンキ中央駅から北に向かう列車に乗って約30分、Ainola駅で下車。そこから西へ1kmの距離にシベリウスの家と彼の墓がある。駅員に道を尋ねようと思っていたので駅に降りて絶句した。「無人駅…だと!?しかも周辺地図ナシ!?」。目の前は野原!とりあえず、西に向かって歩き出す。「1kmなら15分くらいだ。大丈夫、じきに着くさ…」。こう思ってまともに着いたことはない。案の定、ホームの南口から出れば車道沿いに簡単に行けたのに、北口から出てしまい農道の中へ。どこにもシベリウス邸を示す道案内の標識がなく、完全に迷ってしまった。今ならスマホのグーグルマップで簡単に位置確認が可能だけど、当時はそもそも旅に携帯を持参してない。道を聞くにも通行人は1人もおらず、お手上げ状態に。やがて視界に一軒の民家が見えてきた。“アジア人がいきなり呼び鈴を押して出てきてくれるだろうか”。不安はあったが勇気を出して呼び鈴を押し、「ハロー!ハロー!」とアピールした。間もなくお婆さんが扉を開けてくれた。怪訝な顔をしている(そりゃそうだ)。僕は数語しかフィンランド語が話せないので「パイヴァー(こんにちは)」「アイノラ」「シベリウス」と言いながら手のひらを額にかざして“探してる”とキョロキョロするジェスチャーをした。すると「オーゥ、アイノラ」とお婆さんはニッコリ。指先で方向を教えてくれた。アイノラまで既に300mの距離まで近づいており、そこからは早かった。農道からアイノラに続く道は死角になっていたので、お婆さんが教えてくれないと分からなかった。お婆さん、キートス(ありがとう)!
アイノラは最初にカフェテリアやトイレが設置されたビジターセンターがあり、そこでチケットを購入。林道を少し歩くとアイノラが見えてくる。2階建ての1階部分が公開されており、居間、食堂、書斎、仕事部屋兼寝室が見学できた。「ここでシンフォニーが書かれたのか」と感慨深く見入った。家具や食器の一部は木工学校に通ったことのあるアイノ夫人が設計したという。グランドピアノは生誕50年記念に音楽仲間から贈られたもので、食堂の月桂樹の輪は85歳の誕生日に国民から贈られたものだ。40歳頃のシベリウス像もある。シベリウス夫妻の墓は裏庭の奥の木立の中にあった。平たい緑色の墓石。頭上で木の葉が揺れ、その隙間から陽射しが差していた。鳥の声と風の音しかしない。自然を愛したシベリウスにとって理想的な墓所だろう。



★ストラビンスキー/Igor Fyodorovitch Stravinsky 1882.6.17-1971.4.6 (イタリア、ヴェネチア 88歳)2002
Cimitero di San Michele, Venice, Veneto, Italy





水の都ヴェニスには墓地だけの島がある! 船に乗ってここまでやって来た!

20世紀音楽の進路に決定的な方向づけをおこなったロシア出身の作曲家。
1882年6月17日、ペテルブルグ郊外の現ロモノソフに生まれる。父はマリインスキー劇場づきの有名バス歌手。父の意思に従ってペテルブルグ大学法学部に進むと、級友に作曲家リムスキー=コルサコフ(1844-1908)の息子がいた。
1902年(20歳)、級友を通してリムスキー=コルサコフ(当時58歳)の知遇を得、作曲法と管弦楽法の個人授業が受けられることになった。
1906年(24歳)、幼なじみの従姉カーチャと結婚、二男二女を授かる。
1907年(25歳)、リムスキー=コルサコフの指導を受けながら『交響曲第1番』(作品1)を完成させる。
1908年(26歳)、蜂の生活を描いた管弦楽作品『幻想的スケルツォ』を作曲。同曲はメーテルリンクの『蜜蜂の生活』を読み着想を得た。この年、恩師リムスキー=コルサコフが64歳で他界。翌月、リムスキー=コルサコフの娘の結婚を祝って幻想曲『花火』を作曲。5分間の短い曲ながら、後のストラビンスキー芸術の特徴が炸裂している。
1909年(27歳)、『幻想的スケルツォ』が初演され、会場にいた芸術プロデューサー・興行師で10歳年上のセルゲイ・ディアギレフ(当時37歳/1872-1929)に才能を見出された。この年、ディアギレフはバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を結成、パリで行う旗揚げ公演『レ・シルフィード』のため、ショパンのピアノ曲の編曲をストラビンスキーに依頼した。バレエ・リュスは喝采を浴び、ディアギレフは翌年のパリ公演に向けストラビンスキーに楽曲を追加発注し、これをきっかけにストラビンスキーの三大バレエ音楽『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』が生まれる。

1910年(28歳)、バレエ・リュスのため舞踏組曲『火の鳥』を作曲。6月25日にパリ・オペラ座で初演された。ロシアのおとぎ話「火の鳥」は、悪魔カッチェイにさらわれて魔法の園に幽閉された美しい王女を、王子イワンが救出する物語。王子は火の鳥からもらった魔法の羽の力で悪魔を倒す。随所にロシア民謡が使用され、リムスキー=コルサコフから伝授された色彩効果の高い管弦楽が聴衆を魅了し、初演は大成功を収めた。『火の鳥』はストラビンスキーの出世作となった。
1911年(29歳)、スイスで作曲したバレエ曲『ペトルーシュカ』をバレエ・リュッスが初演し、『火の鳥』に続いて大成功を収めストラビンスキーは再び名をあげた。主人公は魔術師に命を吹き込まれたピエロの人形ペトルーシュカ(ペーター、ピョートルの愛称)。彼はバレリーナに恋するが、彼女はたくましいムーア人と仲が良い。ペトルーシュカは激しく嫉妬するが、最後はムーア人に返り討ちにされ殺される。振付師フォーキンの傑作であり、ニジンスキーの当り役の一つとなった。
※『ペトルーシュカ』(バレエ映画)
https://www.youtube.com/watch?v=XvXlFKvpoOg (34分)

1913年5月29日(31歳)、聴衆の間で怒声が飛び交った20世紀最大の問題作にして、20世紀近代音楽の傑作『春の祭典』初演。2幕のバレエ。完成したシャンゼリゼ劇場の?落としの目玉としてバレエ・リュスの『春の祭典』が披露された。振付は天才舞踏家ニジンスキーが行い、120回もの稽古を経て本番に挑んだ。主役の生贄の乙女はニジンスキーの妹ニジンスカが妊娠したため急遽代役となった。

『春の祭典』は春による冬の征服、大地と太陽の神への賛美と崇拝を、古代ロシアの春の原野を舞台に描く。第一部では、春の訪れに人々が沸き立ち、大地の恵みに感謝して踊る。だが、大地への祝福が太陽神イアリロの怒りに触れることを恐れ、太陽神に花嫁として捧げるため、生け贄として1人の乙女を差し出すことに。第二部では、選ばれた娘が息絶えるまで生け贄の踊りを舞い続け、亡骸が高くかかげられ幕を閉じる。ストラビンスキーが考えたストーリーだ。
振付は天才舞踏家ニジンスキー。冒頭、短い序奏の後に幕が開くと、ダンサーはバレエの常識を破って“内股”になっており、首を傾げ、腰を曲げたまま、舞台上を跳ね回る。観客は従来のバレエとは全く違う動きに面食らった後、保守派は嘲笑し、怒り始めた。ストラビンスキーによる不協和音を大胆に採用した耳慣れない音楽、荒々しく肉感的な変拍子のリズムが轟くなか、「なんだこの騒音は!」「ロシアに帰れ!」とブーイングがどんどん大きくなり、やがてオーケストラの音が聞こえないほどの大騒ぎになった。ダンサーたちが頬杖をつくようなポーズをとると、「お前ら歯が痛いのか!」「歯医者を2人頼む!」と野次がとんだ。
一方、若い聴衆を中心に「これこそ新しいバレエだ!」と革新的な舞台に喝采を送る者もいて、支持派とアンチ派が互いに罵り合い、殴り合いの喧嘩に発展し警察が止めに入った。
ステージまで音楽が聞こえないため、ニジンスキーが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図し、劇場オーナーが「とにかく最後まで聴いて下さい」と客席に叫んだ。序曲の冒頭でファゴットが不得手な音域を演奏させられており、作曲家サン・サーンス(当時78歳/1835-1921)は「楽器の使い方がなっていない!そんな者の曲は聞きたくない」と最初のフレーズだけで席を立ったという。ストラヴィンスキーいわく「不愉快極まる示威は次第に高くなり、やがて恐るべき喧騒に発展した」「我々は興奮していた。(客席の反応に)腹が立ちむかついていたが、幸せだった」。新聞は生け贄という野蛮な世界観もあって「春の虐殺」と書き立てた。

『春の祭典』以前のバレエが描いていたのはロマンチックなおとぎ話や神話の世界。『春の祭典』は生々しい人間の生命の躍動を描き、この曲の登場により音楽の歴史は大きく転換していく。『春の祭典』の賛美者は、音の輪郭線が甘い印象派音楽の響きと全く異なる、エキゾチックで野性味のある原始のリズムに興奮し、熱狂的に『春の祭典』を支持した。ストラビンスキーは現代音楽の旗手と目されるようになった。
一方、初演4ヶ月後にニジンスキーが巡業先の南米で電撃結婚を行ったことで、同性愛関係だったディアギレフが嫉妬から激怒しニジンスキーを解雇した。その結果『春の祭典』はわずか8回上演されただけでバレエ・リュスのレパートリーから外された。
この年、紀貫之、山部赤人らの和歌を題材にしたロシア語歌曲集『3つの日本の抒情詩』を作曲。ストラビンスキーは別荘の壁を浮世絵で飾っていた。
1914年(32歳)、第一次世界大戦が勃発。この頃ストラビンスキーは、夏はロシア、冬はスイスで過ごしていたが、戦争のためロシアに帰れなくなり、スイスに居を定めた。
同年、アンデルセンの童話『小夜鳴き鳥と中国の皇帝』にもとづく全3幕のオペラ『夜鳴きうぐいす』初演。
1916年(34歳)、ストラヴィンスキーはバレエ・リュスの踊り手リディア・ロポコワと不倫関係を持つ。リディアは9年後に経済学者ケインズと結婚した。
1917年(35歳)、ロシア革命が起き、ストラビンスキーはロシア国内に所有していた資産を没収され、ストラヴィンスキーは経済的苦境に陥った。音楽面ではジャズに傾倒していく。
同年、ロシアの民話にもとづくバレエ付きカンタータ『結婚』を作曲。物語自体は結婚式の男女をスケッチした他愛のないものだが、初演の振付をブロニスラヴァ・ニジンスカ(ニジンスキーの妹)が行い、後に「20世紀のバレエ作品の最高傑作の一つ」と評価されている。『結婚』は原始主義のを最後の作品となった(バレエ・リュスのために書いた最後の曲でもある)。この年、ストラビンスキーは自動ピアノ用に『ピアノラ(自動ピアノ)のための練習曲』も作曲している。

1918年(36歳)、ロシア民話をもとにした、語り手と7つの楽器による舞台作品『兵士の物語』をスイスで初演。悪魔に丸め込まれる兵士の悲劇を描く。音楽にはジャズの要素が取り入れられ、第1次世界大戦中で物資が欠乏しているため、使用楽器がクラリネット、バスーン、コルネット、トロンボーン、パーカッション、バイオリン、コントラバスの7種類のみという特殊編成となった。登場人物は、語り手、兵士、悪魔、王女。俳優3人、ダンサー1人で上演できる。同年、ドビュッシー他界。
1919年(37歳)、ディアギレフの提案でオペラ『夜鳴きうぐいす』を交響詩に編曲、バレエ化した。色彩的な管弦楽法による音楽の絵巻物とした。マティスがデザインした舞台衣装(シラサギの羽毛帽子)は予算オーバーとなり、マティスとストラビンスキーが自腹を切ってダンサーのために用意した。
同年、ジャズに感化され打楽器としての可能性を追求した『ピアノ・ラグ・ミュージック』を作曲。これは大戦中にストラヴィンスキーの窮状を知ったピアニストのアルトゥール・ルビンシュタインが、5000フランを送ってくれたことの返礼として作曲した。

1920年(38歳)、イタリアの古典的な仮面劇を題材にしたバレエ『プルチネルラ』の音楽を作曲…といっても、ペルゴレージなど18世紀イタリアの楽曲の旋律をほぼそのまま使っており編曲に近い。ピカソは『パラード』、『三角帽子』に引き続き舞台美術と衣裳を担当。ドジな男たちの恋の駆け引きというコミカルな内容から、本作はパリの聴衆に愛されバレエ・リュス解散まで繰り返し再演された。
同年、バレエ・リュスが『春の祭典』を再演。ディアギレフは財政難に苦しんでいたが、ストラビンスキーと一時不倫関係にあったココ・シャネル(当時37歳/1883-1971)が、30万フランも援助してくれたお陰で再演が実現した。新たにレオニード・マシーンが振付を担当。服飾デザイナーとして成功したココ・シャネルはストラヴィンスキーより1歳年下であったが、彼の才能に惚れ込み、パリで家を探すのに困っていたストラビンスキーの一家を自分の別荘を提供した。

1921年(39歳)、オーストリアの作曲家シェーンベルクが『五つのピアノ曲』で十二音技法を体系化。同年、バレエ・リュスの舞台美術に関わっていたロシアの画家セルゲイ・スデイキン(1882-1946)の妻でバレリーナのヴェラと不倫関係になる。スデイキンは8年前に美人女優の妻を捨ててヴェラと駆け落ちし再婚したが、ヴェラはストラビンスキーと出会うと愛人になり、今度はスデイキンが捨てられた(ヴェラは翌年離婚)。
1922年(40歳)、ストラビンスキーにとって新古典主義音楽の幕開けとなる喜劇オペラ『マヴラ』(原作プーシキン)を作曲。恋人の家で密会したい軽騎兵が、女装して料理人(偽名マヴラ)となって雇われるが、相手の母親に正体がバレて逃げ出すというもの。ストラビンスキーいわく本作から国民楽派を離れて西欧派の立場に立つようになったという。
1923年(41歳)、後期ロマン派に対抗できるのは客観主義だと考え、17〜18世紀の楽曲形式に強い関心をむけた。
1924年(42歳)、『ピアノと管楽器のための協奏曲』を作曲。ストラビンスキーはその長い人生の中で通常のピアノ協奏曲を書いておらず、この吹奏楽版だけが存在する。バッハ風の旋律が登場。
1926年(43歳)、ロシア正教会に回帰。
1927年(45歳)、イギリスの音楽誌上で『新古典主義』を宣言、「バッハにかえれ」と呼びかけた。同時に「演奏者は作曲者の意図に忠実に従うべき。自分の解釈を付け加えてはならない」とも主張。この年、ディアギレフの舞台活動20周年を祝うサプライズとしてストラヴィンスキーとコクトーはオペラ・オラトリオ『エディプス王』を完成させる。ソフォクレスのギリシャ悲劇『オイディプス王』をもとにコクトーがフランス語で台本を書き、神学者がラテン語に翻訳している。作曲家にとって新古典主義を代表する作品となった。
1928年(46歳)、バレエ音楽『ミューズを率いるアポロ』を作曲。弦楽合奏のみで演奏され、ストラビンスキー作品と思えぬほど不協和音が少なく聴きやすい。新古典主義時代の代表的作品の一つ。振付を担当したロシア出身の振付家ジョージ・バランシンは本作で名声を確立した。
同年、かつてバレエ・リュスの旗揚げ公演にも参加しパントマイムで観客を魅了したイダ・ルビンシュタイン(43歳/1885-1960)が一座を旗揚げし、バレエ『妖精の接吻』の音楽をストラビンスキーに依頼。チャイコフスキーの没後35年であり、アンデルセンの『氷姫』を題材に、チャイコフスキーにインスピレーションを得た楽曲を書く。ちなみにこの一座に委嘱されラヴェルは『ボレロ』を作曲している。
※『ミューズを率いるアポロ』 https://www.youtube.com/watch?v=wR7EE0iATS4
(32分)

1929年(47歳)、8月19日、恩人ディアギレフが旅行中に糖尿病が悪化、ヴェネツィアで客死しストラビンスキーはショックを受ける。享年57歳。葬儀費用の全額をシャネルが負担した。ディアギレフの死でバレエ・リュスは解散した。
1930年(48歳)、ラテン語聖書に基づいた合唱と管弦楽のための『詩編交響曲』を発表。新古典主義は本作でピークに達する。ストラヴィンスキー「これは詩篇の歌唱を組み込んだ交響曲ではない。反対に、私が交響化した詩篇の歌唱なのだ」。
※『詩編交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=DqWZGUO_eoc (21分)
1931年(49歳)、唯一の『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。
1936年(54歳)、ディアギレフの他界以来、7年ぶりにバレエ音楽『カルタ遊び』を作曲。ダンサーはトランプに扮する。ベートーヴェン、ロッシーニ、ヨハン・シュトラウスなどの音楽がパロディに。
1938年(56歳)、パリで長女を結核で失う。音楽面では8年近く低迷しており、フランスではマンネリと評された。ドイツではナチス政府がストラヴィンスキーの前衛作品を「退廃音楽」と誹謗した。
1939年(57歳)、前年に続いて結核で妻と母を失う。9月、第2次世界大戦が勃発、米ハーバード大学からの依頼で渡米し講義を行い、戦火をさけてそのまま米国ハリウッドにとどまる。米国では指揮者として自作初演を多く手がけた。
1940年(58歳)、ストラビンスキーはアメリカに約20年愛人だったヴェラを呼び寄せ再婚する。同年、シカゴ交響楽団の創立50周年を祝う『交響曲ハ調』が完成。ハイドンの古典交響曲の顔を持ちながら、中身はストラビンスキーの現代交響曲になっている。この年、ウォルト・ディズニー制作のアニメ映画『ファンタジア』に『春の祭典』が使われ、音楽に合わせて地球の誕生から恐竜の絶滅までが描かれた。
1945年(63歳)、ストラビンスキーは新興国アメリカの聴衆を前に創造力を取り戻し、第二次世界大戦のドキュメンタリー映像から着想を得た『3楽章の交響曲』を完成。曲調にはジャズも反映されている。本作は高く評価され、ストラビンスキーは長い沈滞から脱した。
※『3楽章の交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=FB-NzpYwC3Y
同年、クラリネットとジャズバンドのための協奏曲『エボニー協奏曲』を作曲。題名の「エボニー」はクラリネットの原料の黒檀(こくたん、エボニー)に由来。ストラヴィンスキー「ブルース風の緩徐楽章を持つ、"ジャズ・コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)"である」。
1947年(65歳)、バレエ音楽『オルフェウス』を作曲。亡き妻エウリュディケーを冥界から連れ戻そうとするオルフェウス。彼は地上に出るまで決して妻の顔を見てはいけない、この約束を妻に説明しないとの約束を神々と交わしていた。エウリュディケーはオルフェウスが目隠しをして顔を見てくれないので愛が失われたと悲観、地上に帰ることを拒否する。たまらず目隠しを外した瞬間、彼女は死に彼も魔物に八つ裂きにされる。作曲の翌年バランシンの振付でバレエ協会が初演、成功を収めたことから「ニューヨーク・シティ・バレエ団」が誕生した。
1948年(66歳)、『ミサ曲』完成。ストラヴィンスキーが委嘱を受けずに自発的に書いた数少ない作品のひとつ。作曲の動機は「モーツァルトのミサ曲のロココ・オペラ的な罪の甘さに苛立った。本物のミサを書かねばならないと気付いた」。ストラビンスキーは正教徒だったが、正教会は礼拝時の楽器使用を禁じているためカトリック教会のミサをテキストに使った。
※『ミサ曲』 https://www.youtube.com/watch?v=iRi_MDy_ks0

1951年(69歳)、最後にして最長のオペラ『道楽者のなりゆき』(全3幕)初演。『夜鳴きうぐいす』『マヴラ』に次ぐ30年ぶり3作目のオペラ。新古典主義の集大成。遺産で大金を得た怠け者の青年トムが、悪魔につけ込まれてロンドンで身を持ち崩し、純朴な元恋人はトムを救済しようとするが、彼は発狂し精神病院で死ぬ…。けっして明るい物語ではないが、途中でコミカルな演出もあり、初演は大好評で世界的人気を博した。
同年、シェーンベルクが他界。ストラビンスキーはそれまで十二音技法に否定的だったが少しずつ自作に採用し始め次の段階に進化し、没するまで約20曲を生み出していく。
1953年(71歳)、最後のバレエ音楽となる『アゴン』を作曲。『ミューズを率いるアポロ』『オルフェウス』と共にストラビンスキーと振付バランシンが組んだギリシア3部作の一つ。音楽の一部に十二音技法が用いられた。ストーリーはなく題名(アゴン)は古代ギリシア語の「集まり・競争・闘争」の意。初演は4年後のニューヨーク・シティー・バレエ団。
1954年(72歳)、英ウェールズの詩人ディラン・トーマス(1914-1953)と共同でオペラを作ろうとしたところ、ディランが前年に18杯のストレート・ウィスキーを飲み39歳で急死。ストラビンスキーは歌曲『ディラン・トーマスの思い出に』を作曲して追悼した。
1955年(73歳)、ラテン語の歌詞による宗教曲『カンティクム・サクルム』を作曲。初めて十二音からなる音列を採用した(オクターブ中の12の音を重複させずに並べて音列を作成し、それを基に作曲)。詩篇や申命記のほかヴェネツィアの守護聖人マルコによる福音書を歌詞に使っている。旋律らしい旋律がなく初演の聴衆はついていけなかった。晩年の音楽は声楽曲が多い。
1958年(76歳)、旧約聖書を題材とし、ストラヴィンスキーが十二音技法で全曲を書いた最初の曲、カンタータ『トレニ:預言者エレミアの哀歌』を作曲。パリでの初演時に聴衆から馬鹿され、怒ったストラヴィンスキーは「二度とパリでは指揮しない」と宣言した。以降、、宗教音楽にどんどん傾斜していく。
1959年(77歳)、春にストラビンスキーは初来日、東京と大阪で演奏会を行う。滞在中、独創的な武満徹(当時29歳/1930-1996)の作品を知り世界にその才能を紹介する。また、日本の雅楽の楽器の響きに魅了された。 帰国後、ストラビンス
キーは最も難解な作品のひとつ『ピアノと管弦楽のためのムーブメンツ』全5楽章を作曲。ストラビンスキー「この曲のリズム言語は自分の書いた曲のうちでもっとも進んだもの」。
※ピアノと管弦楽のための『ムーブメンツ』
https://www.youtube.com/watch?v=y0lQUQzmD-8 (8分22秒)

1961年(79歳)、新約聖書を題材としたカンタータ『説教、説話、祈り』を作曲。旧約聖書を題材にした3年前の『トレニ』にリンクした作品。
1962年(80歳)、ノアの箱舟を題材にした劇音楽『洪水』を作曲。CBSテレビの委嘱で書かれグラミー賞のクラシック現代作品部門を受賞した。舞踏パートの振付はバランシン。同年、フルシチョフの招きで48年ぶりに故国ロシアに帰郷、モスクワとレニングラードを訪れる。
1964年(82歳)、声楽以外では最後の作品となる『管弦楽のための変奏曲』(変奏曲―オルダス・ハクスリー追悼)を作曲。作家オルダス・ハクスリーは1932年にディストピア小説『すばらしい新世界』を発表し、機械文明の発達の中で尊厳を見失う人間たちを描いた。同作はジョージ・オーウェル『1984年』と並ぶアンチ・ユートピア小説の傑作として知られている。先の大戦中、ストラビンスキーが米国で生活を始めた際の隣家の住人がハクスリーで家族ぐるみのつきあいをしていた。この年、前年に暗殺されたケネディ大統領を悼み、歌曲『J.F.ケネディへの哀歌』も作曲している。奇しくもケネディ暗殺とハクスリーの死は同じ11月22日だった。
※『管弦楽のための変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=Sz5TEbH9Hok (5分)非常に難解!

1966年(84歳)、最後の作品、宗教曲の大作『レクイエム・カンティクルズ(頌歌集)』を作曲。曲は最後に弔いの鐘の音を響かせながら終わっていく。
※『レクイエム・カンティクルズ』 https://www.youtube.com/watch?v=O01ExbFaHQ4
(15分)
1967年(85歳)、80代半ばの高齢と病身をおして指揮棒をとり、最後の自作録音をおこなった。胃潰瘍と血栓症で長期間入院。以降ベートーヴェンなどレコードを聞いて過ごす。
1971年4月6日、肺浮腫によりニューヨークの自宅で他界。享年88歳。遺言によりディアギレフが眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島墓地に埋葬された。42年前に他界したディアギレフが。埋葬の日、ストラビンスキーの『レクイエム・カンティクルズ』が演奏された。後年、妻ヴェラも隣に埋葬された。ストラビンスキーの子どもたちは後妻ヴェラと仲が悪く8年間も遺産相続で争った。奇しくも同じ1971年1月10日(ストラビンスキー他界の3カ月前)にシャネルも永眠している。
1977年、米国NASAは惑星探査機ボイジャー2機に人類から異星人への贈り物として、ストラビンスキー自身の指揮、コロンビア交響楽団による『春の祭典“生贄の踊り”』を収録したゴールデンレコードが搭載。

※原始主義、ジャズ、新古典主義、複調性、無調主義、セリー主義など、頻繁に音楽様式を変えたストラビンスキーだが、作曲活動は大きく3期に分けられる。「セリー主義」とは和声とメロディの調性的関連を無視し、一連のセリー(音列)によって無調メロディを生みだす作曲法。
(1)第1期…原始主義時代。ディアギレフ率いるバレエ・リュスの委嘱によるバレエ曲の作曲。三大バレエ『火の鳥』(1910)、『ペトルーシュカ』(1911)、『春の祭典』(1913)。
(2)第2期…新古典主義時代。オペラ・オラトリオ『オイディプス王』(1927)、『詩篇交響曲』(1930)、『3楽章の交響曲』 (1942〜45) など。
(3)第3期…十二音技法時代。『カンティクム・サクルム』(1955)、『アゴン』(1953〜57)、『トレニ』(1957〜58) など。
※1918年の『11楽器のためのラグタイム』は楽譜の表紙絵をピカソが描いている。
※メーテルリンクは訴訟魔で、20代のストラビンスキーに『幻想的スケルツォ』に原案料を要求、ドビュッシーに対しても『ペレアスとメリザンド』で告訴している。
※ネット上には「ストラビンスキーの墓がペテルブルクのチフヴィン墓地にもある」との情報がありますが、あれはお父さんのフョードル・ストラヴィンスキー(1843-1902)の墓です。マリインスキー劇場の著名なバス歌手として活躍。
※イタリアの都会の墓地は土葬のため慢性的に敷地不足になっている。埋葬から2年後に掘り出され、再埋葬の手続きを経て永代供養されるという。
※シャネルのあだ名は“19世紀を抹殺する皆殺しの天使”。新しい価値観で女性の自立を体現した。

【墓巡礼】
ストラビンスキーが眠るヴェネチアはイタリア北東部に位置し、地域の人口は約26万人。120の島からなり、運河の数は177本、400にも及ぶ橋が架かっている。自動車はおろかバイクも自転車さえも乗り入れが禁じられており、建築物や運河の美しさから「アドリア海の女王」と讃えられてきた。2月末に始まる仮面カーニバルのほか、世界三大映画祭のひとつベネツィア国際映画祭(リド島)や、現代美術の祭典ベネツィア・ビエンナーレなど文化的な催しでも知られている。特産品は華麗なガラス工芸とベネツィアン・レース。
本島の面積はわずか5平方キロメートルしかなく、東京で一番狭い台東区の半分ほどしかない。そこに人々が密集して生活しており、過去に何度もコレラやペストが流行してきた。中でも14世紀のヴェネチアは、イタリアの都市で最悪の10万人のペスト死者を出している(パリは5万人)。街が水路で分断され墓地をつくるスペースがないこともあり、1837年、市当局は衛生上の理由から本島の北東500mに浮かぶサン・ミケーレ島を墓地に特化させ、本島に点在する教会墓地の墓を一カ所に集めた。ヴァポレットの停留所はサン・ミケーレ・イニーゾラ教会の前にある。墓地の敷地は、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、正教会など宗派別に分れている。

初めてストラビンスキーの墓参をしたのは2003年の夏。ローマからイタリア国鉄で向かい、イタリア本土とヴェネチアを結ぶ4kmの海上鉄道橋=リベルタ橋を渡ると、窓から車内から涼しい海風が吹き渡った。終着駅である「水の都」ヴェネチアの玄関口、サンタルチア駅で下車して驚いた。駅前広場がいきなり全長約3kmの大運河(カナル・グランデ)に面していて、バスもタクシーもパトカーも救急車もすべてが船になっていた。ゴンドラの映像は知っていたけど、水路の他に車が走る道もあると思っていた。ヴェネチア本島の中央に逆S字型の大運河が走り、大きなリアルト橋(1591年完成)の下を次々と小舟が行き交っていた。ちなみに車で訪れた場合は、ヴェネツィア本島西端のトロンケット地区で巨大駐車場に車を停め、そこからヴァポレット(水上バス)で中心部に移動する。
目的地のサン・ミケーレ島は、ヴァポレットの停留所名が「CIMITERO(墓地)」。島に墓地しかないから名前も実に分かりやすい。路線図を見ると41番と42番のヴァポレットが乗り換えなしで行けそうだった。イタリア語の辞書を見ながら乗り場を探すと、今にも41番の船が出発しそうだった。大慌てで一日券を購入して飛び乗ると、船はすぐに桟橋を離れた。ホッとして額の汗をぬぐい、水上からヴェネチアの街を眺める。「このまま6駅で墓地だ」。テレビで見たゴンドラがあちこちに浮かんでおり、水の都に来たと実感がわいた。だがひとつめの停留所で異変に気づいた。「路線図と名前が違う!?」。そして僕は自分が反対方向のヴァポレットに乗っていることに気づいた。42番が正解だった!ガーン。41番でも乗り続ければ行けるけど逆方向だから17駅、1時間以上もかかってしまう(汗)。二つ目の停留所で降りて42番が来るのを待った。ヴァポレットは場所によっては同じ路線番号でも向きによって桟橋が異なることも分かった。
僕が何度も手元の路線表と看板をチェックしていると、眼鏡をかけた工学部オーラの地元青年が「どこに行きたいの?」と声をかけてくれた。ストラビンスキーの墓参りに来たことを話すと「音楽が好きならモンテベルディの墓がある教会や、ワーグナーが亡くなった建物を見ながら歩いて行った方がいいかも」とアドバイスしてくれた。「そうします!」。地図に印をつけてもらい、徒歩でヴァネチア中心部を突っ切り、モンテベルディやワーグナーの聖地を巡った。そして島の北東部に出ると、海の向こうにサン・ミケーレ島が見えた。「あれが全部墓地なのか」。島の広さは500m×400m、そこに8万5千人が眠っているという。もちろん、島が丸ごと墓地なんて初めてだ。ヴァポレットの停留所を見つけ、あと一駅なので因縁の41番に乗る。10分ほどでサン・ミケーレ島の桟橋に着いた。

島の墓地は敷地が広く、ストラビンスキーの墓の方向を示す案内板はあるものの、地図なしで墓前にたどり着くのは困難。なんせ8万5千人が眠っている。管理人さんからストラビンスキーの墓のほか、彼が慕っていた興行師ディアギレフや“ドップラー効果”で有名な科学者ドップラーの墓も教えてもらった。ストラビンスキーとディアギレフは墓地の中央やや東寄りのエリアにいた。表面に小さな十字架の絵と名前が刻まれただけのシンプルな墓石。右隣にはヴェラ夫人の墓が並ぶ。そして30mほど左にディアギレフの墓があった。そちらは墓石にドームがついている変わった形で、バレエのトゥシューズが6足ほど供えられていた。ディアギレフがバレエ・リュスを旗揚げするまで、欧州ではバレエを芸術と捉えず、単なる娯楽として軽視する風潮があった。ディアギレフが若きストラビンスキーの才能を見出し、数々の優れた楽曲を提供したことで、バレエは新しい地平を切り拓き、芸術として進化した。従来の約束事から解放された20世紀のバレエが花開いた。
2018年3月、ストラビンスキーの墓に近い場所が競売にかけられ、フランスの製薬会社の社長が約35万ユーロ(約4600万円!)で落札。社長いわく「私も妻も、この世界にまれな島が大好きで、この地で将来2人が永遠の眠りにつけることを、この上ない幸せと思う」。落札額が高騰し約5000万に達したことに、ディアギレフもストラビンスキーもあの世で驚いているだろう。



『春の祭典』はリズム地獄が心地よい。ある種、快楽の極み。

★ヨハン・シュトラウスT世/Johann Strauss 1804.3.14-1849.9.25 (オーストリア、ウィーン 45歳)1989&94&02
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group 32 A, Number 15






珍しい三角形の墓 45歳で他界 左後方に見える墓は息子(U世)のワルツ王

オーストリアの作曲家。「ワルツの父」。ウィンナ・ワルツの基礎を作った。「ラデツキー行進曲」など約250曲を遺す。



★ヨハン・シュトラウスII世/Johann Strauss II 1825.10.25-1899.6.3 (オーストリア、ウィーン 73歳)1989&94&02&05&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria


親友のブラームス(右側)と 左がシュトラウス、右がブラームス(2005)

1994 2002 2015

親子でワルツ王。ウィンナー・ワルツはクラシック・ファンに“思想性が皆無”と小馬鹿にされがちだが、
ド硬派ガチガチのブラームスさえ、シュトラウスの流れるような楽曲を絶賛していた。




★ガーシュウィン/George Gershwin 1898.9.26-1937.7.11 (USA、NY郊外 38歳)2000&09
Westchester Hills Cemetery, Hastings-on-Hudson, Westchester County, NewYork, USA /400 Saw Mill River Road




 
ジャズとクラシックを融合! 彼の墓は正門をくぐるとすぐ右側に見えてくる





庭師たちが墓前の木陰でちょっとひと休み(2000) 9年後に再訪。緑が美しかった(2009) 扉から中を覗くとジョージの名前が見える

クラシックとジャズの融合に成功したアメリカの作曲家。ミュージカルとポピュラー音楽の両分野で名曲を書き、生涯に約500作にのぼる歌曲を手がけた“20世紀のシューベルト”。
1898年9月26日、ニューヨークのブルックリンにユダヤ系ロシア移民の貧しい商人の次男として生れる。本名、ジェイコブ・ガーショヴィッツ。この年、スコット・ジョプリン(当時30歳)がラグタイムの最初の全米大ヒット曲『メープル・リーフ・ラグ』を作曲。欧州では2年前にブルックナー、前年にブラームスら巨匠が他界している。また、ガーシュウィンが1歳の時にワルツ王ヨハン・シュトラウス2世が没している。

小学生の頃、弟がバイオリンで弾いたドヴォルザークの「ユーモレスク(奇想曲)」を聴き初めてクラシック音楽に触れた。両親は音楽と無縁だったが、12歳のときに父が兄アイラのために買った中古ピアノを弾いて遊ぶようになり、翌年から正式にピアノと和声を習い始めた。
ピアノの腕前はめきめき上達し、16歳の時に商業高校を中退してマンハッタンのティン・パン・アレー(Tin Pan=釜鍋を叩く音=楽譜出版社街)のピアニストして新曲宣伝係をつとめた。この当時、レコードはまだ高価であったため、音楽産業の中心は楽譜販売であり、各会社は売り場に試演ピアニストを置き、客がその場で聴けるようにしていた。ガーシュウィンはこの仕事を通して様々な楽曲に触れ、とりわけ仕事場の近所のカフェで演奏されるラグタイムに魅了された。
1916年(18歳)、独学で作曲を学び、歌曲『欲しいときには手に入らない、手に入ったときはもう欲しくない』を書き、楽譜が発売され5ドルの報酬を得た。
※『欲しいときには手に入らない、手に入ったときはもう欲しくない』
https://www.youtube.com/watch?v=WKXtleLs4-c
1919年(21歳)にラグタイム風の楽曲『スワニー』を作曲(作詞アーヴィング・シーザー)、人気歌手アル・ジョルソンに歌われて楽譜の売り上げは100万枚を突破、弱冠21歳にしてブロードウェー・ミュージカルの作曲者として名声を得た。
同年、弦楽四重奏のための約7分の小曲『子守歌(ララバイ)』を作曲。
1922年(24歳)、初のオペラ『ブルー・マンデー』を発表。ハーレムを舞台にした全1幕の短い恋物語だが、批評家から「黒塗り役者による前代未聞の馬鹿げた芝居」と酷評され大失敗に終わる。ガーシュウィンは力不足を思い知らされ、和声や管弦楽法を学び直した。『ブルー・マンデー』は3年後にグローフェが編曲し『135番街』のタイトルで再演された。
1923年(25歳)、ロンドン旅行の際、パスポートを見たポーターから「『スワニー』の作曲家ですか」と質問され、ガーシュウィンは欧州でも名前が知られていることに感激した。
1924年(26歳)、この当時ニューヨークのコンサート・ホールで演奏されるのは、チャイコフスキーやドボルザークなど欧州の音楽ばかりであったため、国民の間にはアメリカならではの音楽を待ち望む空気があった。そこで、アメリカの最初のジャズ王であり、ジャズ・バンドリーダーのポール・ホワイトマンが『新しい音楽の試み/アメリカ音楽とは何か』という音楽祭を考案、新聞紙上に「このコンサートに向けてガーシュウィン氏がジャズ風のピアノ協奏曲を制作中」と広告を打った。寝耳に水のガーシュウィンがホワイトマンに怒って断りの電話を入れると、「既に新聞に告知してしまい後戻りできない」と説き伏せられ、依頼を受けることにした。

この演奏会は国民の大きな期待を集めていたことから、ガーシュウィンの創作欲を刺激した。ガーシュウィンはラグタイムやブルースを吸収した魂を土台に、ダンス用の低俗な音楽と軽視されていたジャズとクラシックをひとつに融合し、アメリカを音で描いた歴史的名曲『ラプソディ・イン・ブルー』を約2週間で書きあげた。曲のイメージが浮かんだときの気持ちをガーシュウィンはこう語っている「ピアノの鍵盤に触れたとたん、指先からメロディーが流れ落ちてきた」「私にはこの音楽がアメリカの万華鏡のように聞こえる。我らが巨大な人種のるつぼの、我らがブルースの、我らが都会的狂騒の音楽的万華鏡として」。ラグタイムのノリの良さ、デキシーランドジャズの明るい高揚感、ブルースの哀愁、すべてがそこにあった。当時のガーシュウィンはオーケストレーションにまだ自信がなかったため、6歳年上の作曲家ファーディ・グローフェ(1892-1972)がオーケストレーションを担当した。
翌日の新聞は「アメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のための作品が誕生した」と激賞。この曲はシンフォニックジャズ、ジャズ協奏曲として大衆からも批評家からも支持され(一部の保守的な批評家は「クラシックの冒涜」と叩いた)、ガーシュウィンがクラシックとジャズの橋渡し役となった結果、クラシック界はジャズの要素を取り入れ始め、ジャズもクラシック音楽の手法を使い始めた。初演時の客席にはストラヴィンスキー、ラフマニノフ、スーザなどがいた。『ラプソディー・イン・ブルー』は海を越えてラヴェルなど欧州の作曲家に多大な影響を与えていく。
『ラプソディー・イン・ブルー』は大成功したものの、ガーシュウィンは音楽学校に通ったことがないため自身の作曲法と管弦楽法の不備を痛感し、あらためて複数の音楽家に師事するなど知識を深めた。
同年、ミュージカル『レディ・ビー・グッド』を作曲し、挿入歌の『ザ・マン・アイ・ラブ(邦題:私の彼氏)』が後に単独で人気を得ていく。このミュージカルは読書家の兄アイラ・ガーシュウィンが作詞を担当しており、ガーシュウィン兄弟は数々の名歌を生み出していく。
1925年(27歳)、ニューヨーク交響楽団(現ニューヨーク・フィル)の依頼で『ピアノ協奏曲ヘ長調』を作曲。カーネギー・ホールにて作曲家自身がピアノを弾いた。本作はオーケストレーションを他人に頼まず、ガーシュウィン自身が管弦楽も書きあげた。
1926年(28歳)、ジャズやブルースの語法を持ったピアノ曲集『3つの前奏曲』を作曲。様々な楽器のために編曲され、20世紀アメリカ音楽の古典となった。同年、ミュージカル『オー・ケイ!』を作曲、挿入歌『サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー(邦題:やさしい伴侶を)』がヒット。
1928年(30歳)、ガーシュウィン自身のパリ旅行の紀行文とも言うべき標題音楽『パリのアメリカ人』を作曲。陽気なアメリカ人が好奇心いっぱいにパリの街を歩く様子、ウキウキした気持ちが全編から伝わってくる。車のクラクションの描写などユーモアもあり、『ラプソディ・イン・ブルー』に次ぐガーシュウィンの人気器楽曲に。
※『パリのアメリカ人』 https://www.youtube.com/watch?v=A_6Jdl08UK8 バーンスタイン指揮
この年、『ボレロ』を発表した作曲家ラヴェル(当時53歳)が初めてアメリカを訪問。ガーシュウィンがオーケストレーションのコツについて尋ねると、ラヴェルは「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」と教えられた。

1930年(32歳)、ミュージカル『ガール・クレイジー』(後の『クレイジー・フォー・ユー』)を作曲、挿入歌の『アイ・ガット・リズム』『バット・ノット・フォー・ミ』『エンブレイサブル・ユー』がヒット。ジャズの要素をもりこんだ『アイ・ガット・リズム』(作詞アイラ)を発表し、後にジャズのスタンダード・ナンバーとなる。本作の独特なコードの進行は「リズムチェンジ」として有名。
※『アイ・ガット・リズム』ガーシュウィン自身のピアノ演奏
https://www.youtube.com/watch?v=1bKstQNsQKc
1931年(33歳)、アメリカの政治の風刺劇『オブ・ジー・アイ・シング(邦題:君がために歌わん)』で、ミュージカル初のピュリッツァー賞戯曲部門受賞。作詞はアイラ。441回も上演され興行的に成功した。
同年、ピアノとオーケストラのためのシンフォニック・ジャズ『第2のラプソディ(狂詩曲第2)』を作曲。
※ピュリッツァー賞…アメリカの文化賞。ジャーナリズム、文学、演劇、音楽の4分野21部門における年間のすぐれた業績が対象。新聞経営者ジョーゼフ・ピュリッツァーがコロンビア大学に遺贈した寄付金の利子を基金として1917年に創設された。毎年5月にコロンビア大学学長が授与する。
1932年(34歳)、キューバ旅行でルンバに魅了されたガーシュウィンはボンゴやマラカスを購入、これらを打楽器に加えた『キューバ序曲』を作曲。シンフォニックで華やかな作品。
1935年(37歳)、ガーシュウィンはミュージカルで高い評価を得たが、作曲家としての社会的地位はクラシックよりも低く見られていた。そして彼は13年前、若き日にオペラ『ブルー・マンデー』で失敗していた。ガーシュウィンは音楽界で最高峰とされるオペラで勝負する腹を決める。ヴェルディのようなイタリア語オペラ、ワーグナーのようなドイツ語オペラではなく、アメリカの言葉で書かれた大作オペラ、「アメリカのフォーク・オペラ」(ガーシュウィン)を生み出そうとした。そして、ジャズ、黒人民謡、ポピュラー、クラシックなど多様な音楽を高次元でミックスした全3幕9場の傑作オペラ『ポーギーとベス』を書きあげる。当時は人種差別がはびこっていたが、ガーシュウィン自身もユダヤ人として差別されていたため黒人への共感を感じていた。ガーシュウィンは“オール黒人キャスト”という挑戦的な舞台にした。ガーシュウィンは実際に南部の港町チャールストンを訪れて黒人音楽や日常生活の売り子の節といった風習まで心血を注いで研究し、黒人の村をリアルに描きあげた。麻薬に溺れたチンピラの情婦と足の不自由な障がい者の物乞いの恋という馴染みのない設定に初演のボストン公演では観客が戸惑い不評だったが、10日後のNY公演は観客に心の準備が出来ており作品の真価を認められて成功を収め、その後も評価は高まっていった。ニューヨークでは実に124回もの連続公演を達成した。挿入歌『サマータイム』(デュボース・ヘイワード作詞)は翌年にジャズ・シンガーのビリー・ホリデイが歌って大ヒットし、現在までに2600以上ものカヴァーが発表される人気曲となった(ジャンルを超えロックのジャニス・ジョプリンにも名唱がある)。挿入歌では『くたびれもうけ』『俺にはない物ばかりだぞ』『それがそうとは決まっちゃいない』も人気に。

※ポーギーとベス…原作は作家デュボース・ヘイワード(1885-1940)の小説『ポーギー』。その舞台版を兄アイラと協力してオペラ化した。舞台は1930年代の南部チャールストンの海辺の町、黒人居住区キャットフィッシュ・ロウ(なまず横丁)。冒頭、赤ん坊を抱いた漁師の妻クララが子守歌で『サマータイム』を歌う。彼女は子供の成長を願い「♪夏になったよ…豊かになれる、魚は跳ねて、綿の木は伸びる。父さんは金持ち、母さんはきれい。だから坊や、泣くのはおよし。やがてある朝、お前は歌いながら立ち上がる、そして翼を広げて飛んでいく。その日が来るまではお前は心配ないんだよ、父さん母さんがついてるからね」と歌う。
ある日、情婦ベスの内縁の夫、ならず者のクラウンが賭博で争い相手を殺し逃亡する。ベスに想いを寄せていた足の不自由な乞食のポーギーは、独りぼっちになったベスを家にかくまい一緒に暮らす。その後、村に戻ったクラウンとポーギーは乱闘になり、ポーギーはクラウンを殺してしまう。警察に拘留されたポーギーが証拠不十分で一週間後に帰宅すると、ベスはポーギーがいつ帰ってこれるか分からないという不安から、キザな麻薬の売人スポーティング・ライフに誘惑されニューヨークへ向かった後だった。ポーギーは彼女を見つけるためヤギ車を用意して遠いニューヨークを目指し旅立ち終幕となる。
※名歌『サマータイム』は第1幕冒頭と合わせて3回登場する。第2幕では嵐の海でクララの夫が遭難し、不安を打ち消すべく再びクララが『サマータイム』を歌う。そして第3幕では夫を追ってクララが海で死んだために孤児になった赤ん坊をベスが抱っこして『サマータイム』を歌う。悲惨な境遇でも前を向いて強く生きんとする作品を象徴するアリア。
※『ポーギーとベス』 https://www.youtube.com/watch?v=HdRTfqGy9TE 名演!フィナーレのコーラスが壮大

1937年2月、ガーシュウィンは指揮台で突然バランスを崩し、このときは軽い疲労と思われた。5月、ガーシュウィン兄弟が音楽を担当したミュージカル映画『踊らん哉』が公開される。主演はフレッド・アステアとジンジャー・ロジャース。ガーシュウィンの体調は次第に悪化し、頭痛と吐き気、意識障害の回数が増え、7月9日に脳腫瘍のため昏睡状態となる。翌日に開頭手術が行われたが、7月11日、再び目覚めることなくなりカリフォルニア州ビバリーヒルズで他界した。享年38。遺作は寸劇を集めた映画『華麗なるミュージカル』(The Goldwyn Follies)の音楽だが日本未公開。
1945年、ガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』公開。翌年、戦争後に日本で劇場公開された最初のアメリカ映画となった。
1951年、ガーシュウィンの音楽を全編に使ったミュージカル映画『巴里のアメリカ人』(主演ジーン・ケリー)が公開され、アカデミー作品賞など最多6部門を受賞。
1957年、ルイ・アームストロングとエラ・フィッツジェラルドが『ポーギーとベス』から15曲をジャズアレンジしてアルバムにし、翌年マイルス・デイヴィスとギル・エヴァンス・オーケストラも同オペラから13曲をアレンジ。
1965年、ガーシュウィンが『ラプソディー・イン・ブルー』で切り開いたシンフォニックジャズに答える形で、ジャズ界からはデューク・エリントンが『シンフォニック・エリントン』を発表した。

〔墓巡礼〕
ガーシュウィンは38年という短い生涯の中で、500曲もの歌曲、50曲のミュージカル、10曲のピアノ曲、7曲の管弦楽曲、4曲の映画音楽、2曲のオペラと室内楽曲を残した。ガーシュウィンの音楽が音楽史上で意義を持つ理由は、芸術的な音楽の立場から民族的なジャズ要素を加えたのではなく、ジャズそのものを芸術的な水準にまで高めたところにある。アメリカのジャズの手法と管弦楽の豊かな音響効果を巧みに融合させ、近代音楽史上、唯一無二とも言うべき足跡を残した。

お墓はニューヨークの「ウェストチェスター・ヒルズ墓地」にある。マンハッタン中心部から30kmほど北、市内バスの「0005」番線のバス停「マウントホープ墓地」で降車すると、目的の「ウェストチェスター・ヒルズ墓地」の正門が目の前にある。「マウントホープ墓地」は隣接する巨大墓地のこと(バス停の名前が変わっている可能性があるので運転手さんに要チェック)。正門をくぐるとすぐ右側にガーシュウィン家の霊廟が見えてくる。扉のガラスを覗くと中段あたりの壁面に「ジョージ・ガーシュウィン」の名前が見えた。

※現代音楽の作曲家シェーンベルクと親交があり、テニスを楽しんだり肖像画を描いて送ったという。
※「ガーシュウィンこそ唯一、真のアメリカ音楽だ」(トスカニーニ)



★ロベルト・シューマン/Robert Alexander Schumann 1810.6.8-1856.7.29 (ドイツ、ボン 46歳)1989&1994&2015
★クララ・シューマン/Clara Josephine Wieck-Schumann 1819.9.13-1896.5.20 (ドイツ、ボン 76歳)1989&1994&2015
Alter Friedhof, Bonn, Germany






16歳のクララ ヨーロッパ最大の女性ピアニスト! 作曲家でもあった 女手一つで7人を育てる







青春時代のシューマン クララと炎の大恋愛 有名なポートレート 1847年、37歳と28歳 クララに夢中のブラームス




ボン旧墓地の中央部に眠る 上部のレリーフ クララとよく似たミューズ





1994年 手前に2人の名前 シューマンが身を投げた、父なるライン川

ロマン主義運動の旗手を自任したドイツの作曲家。1810年6月8日生まれ、ザクセン出身。5人兄弟の末子。書籍商の父は少年シューマンをベートーヴェンの交響曲や著名ピアニストの演奏会に連れて行き、シューマンは音楽の素晴らしさを早くに知った。父はシューマンの楽才に気づいてピアノを買い与え、彼はピアノに夢中になった。7歳頃にピアノ曲を作曲し、11歳で合唱と管弦楽からなるオラトリオ(宗教音楽)を書いている。シューマンは早くから文学にも目覚めており、15歳でドイツ文学サークルに入りゲーテやシラーを愛読、中でもジャン・パウルの小説に熱中した。この頃、ピアノ連弾でベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を演奏。16歳の時に姉が川で入水自殺し、同年に父も他界しショックを受ける。1827年、17歳の年にベートーヴェンが死去。
1828年(18歳)、友人と旅行して詩人ハイネに会う。この年、シューマンの自作詩が夕刊に掲載された。母の意向で法律家になるべくライプツィヒ大学の法学部に進んだが、音楽好きの学友たちと室内楽(シューベルトのピアノ三重奏曲第1番など)の演奏に熱中し、学業がおろそかになっていった。
夏にライプツィヒの知人家の音楽会で、シューマンはピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク(1785-1873)と娘クララ(ドイツ語ではクラーラ/1819-1896)の父娘と運命的な出会いをする。クララはまだ9歳だったが、5歳から父の指導を受け、この年にゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でモーツァルト・ピアノ協奏曲を弾き大成功を収めていた。彼女はプロデビューを果たし、神童としてドイツ全土に名が知れ渡っていった。
同年11月にシューベルトが31歳で夭折。シューマンは「私だけのシューベルト」と語るほどシューベルト作品を好んでいたため、訃報に接し一晩中泣いたという。

翌年、ハイデルベルク大学に転校すると、シューマンはピアノの名手として当地で評判になり、バーデン大公妃に招かれて演奏を披露した。自由な学生の街ハイデルベルクでシューマンは青春を謳歌し、酒を飲み葉巻を吸った。
1830年(20歳)、友人と訪れたフランクフルトで天才ヴァイオリン奏者パガニーニ(1782-1840)の演奏を聴き深く感動し、母に法律を捨て音楽で身を立てる決意を伝えた。母が反対したことから、ピアノの師ヴィークがシューマンの母に息子の音楽的才能を保障し、住み込みでレッスンさせることを約束した。10月、ライプツィヒのヴィーク家でシューマンの新たな生活が始まった。ヴィークのレッスンは極めて厳格で容赦なかった。この年、公式に作品番号1となったピアノ曲『アベッグ変奏曲』を作曲。
1831年(21歳)、シューマンは無理な練習がたたって右手の指を負傷し、ピアニストになる夢を断たれてしまう。その後は作曲と音楽評論に力をそそいだ。同年、ジャン・パウルの小説に霊感を得たピアノ曲『蝶々(パピヨン)』を書く。一方、12歳になったクララはヨーロッパ各地で演奏を行い、先々で皇帝から市民まで聴衆を感動させた。シューマンはクララに手紙を書く。「私はよくあなたのことを考えます。妹や女友達としてではなく、巡礼者が遠く離れた祭壇画に想いを馳せるように」。

1832年(22歳)、同い年のポーランド人ショパン(1810-1849)の演奏(『ラ・チ・ダレム変奏曲』)を聴いたシューマンは「諸君、脱帽したまえ、天才だ」とショパンを讃える論文を音楽雑誌『一般音楽新聞』(ドイツ最初の音楽雑誌)に寄稿、これが最初の音楽評論となる。ただ、同誌は保守的で、以降、シューマンの寄稿は掲載されなくなっていった。同年、13歳のクララが作曲したオーケストラ曲が演奏されている。
最初の交響曲『ツヴィッカウ交響曲』に着手するが未完成に終わる(第2楽章まで完成)。この曲は第1楽章のみが初演され、これが作曲家シューマンのデビュー作となった。
1833年(23歳)、兄夫婦が相次いで病死。シューマンは後に生命を奪うことになる精神病の最初の兆しを日記に記した。「10月から12月にかけ、怖ろしい憂鬱病に悩む。気が狂うという固定観念が僕をとりこにした」。シューマンは“思考力を失ったらどうなるのだろう”と怯え、医者に「自分の生命に暴力をふるわないと約束できない」と相談した。

1834年(24歳)、ドイツの保守的な音楽批評に風穴を開け、若い音楽家の作品に耳を傾けさせる目的で友人らと『新音楽時報』を創刊(なんと現在も隔月で刊行中)。同誌で10年間ペンを執り、闘士風のフロレスタン、詩人風のオイゼビウスといったペンネームで新進音楽家ショパン、メンデルスゾーン、ベルリオーズらを世に紹介した。『新音楽時報』はドイツでもっとも影響力のある音楽雑誌に成長していった(後にワーグナーも編集部員となった)。シューマンは作曲家としてよりも批評家として最初に名声を得た。同年、ヴィークの新しい弟子、18歳のエルネスティーネ・フォン・フリッケンがヴィーク家に住み込み、シューマンと彼女は恋愛関係となり半年で婚約まで進む。だが、後に両者の合意で婚約は解消された。理由は彼女の複雑な家庭事情と、シューマンがクララへの愛に気づいたこと。

シューマンのピアノ曲はその多くが短い小品を集めた組曲形式をとり、小規模な枠組みの中でひとつの世界観を描いている。1835年(25歳)に書かれた全20曲の初期の傑作『謝肉祭』はエルネスティーネとの恋愛から生まれた。同年、初めてソナタ形式の大作に挑んだ『ピアノソナタ第3番』はクララに献呈された。技巧的で華やかな5楽章の『ピアノソナタ第3番(グランドソナタ)』には“管弦楽のない協奏曲”のタイトルが付けられた。エルネスティーネの父が作曲した主題を使った変奏曲『交響的練習曲』(1837年)もオーケストラの響きを持つ名曲として知られる。
この年、ひとつ年上のメンデルスゾーンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任し、暮れに15歳のクララがメンデルスゾーンの指揮で、彼女が書いた『ピアノ協奏曲第1番』を演奏した。

エルネスティーネと別れた後、それまで兄妹のようだったシューマン(25歳)とクララ(16歳)は恋愛関係になっていく。クララの父ヴィーク(50歳)は弟子と愛娘の関係に気づいて驚愕した。ヴィークはクララが幼い頃に歌手の妻と離婚しており、ヴィークにとって彼女は男手一つで育てた宝物だった。コンサート・ピアニストとして活躍させるのが夢であり、主婦として家庭に入るなど考えられなかった。前年にクララは15歳にして3楽章の『ピアノ協奏曲』を完成させており、作曲家としても前途有望だった。
1836年(26歳)、ヴィークが2人を引き離すためクララをドレスデンに引っ越しさせると、シューマンは彼女を追ってドレスデンに行き4日間を2人で過ごした。直前にシューマンは母を失っており人恋しさが増していた。この密会を知ってヴィークは激怒し、クララをライプツィヒに連れ戻すと、手紙の検閲を行い、単独外出禁止を命じた。シューマンはヴィーク家に出入り禁止となる。
ヴィークは娘を失う恐怖のあまり、「シューマンは大酒飲み」とデマを流して新聞で中傷し、街角でシューマンを見かけると罵詈雑言を浴びせて唾を吐きかけ、クララの声楽教師にクララの恋人役を演じさせようとするなど、異常な行動を取るようになった。父想いのクララは「このままでは父は死んでしまう」といったん別れを決意し、シューマンの手紙をすべて送り返した。

1837年(27歳)8月、シューマンを心から愛していたクララは、自分の演奏会でシューマンが献呈してくれた『ピアノソナタ第1番』を弾き、その数日後に結婚を承諾する手紙を彼に送った。この婚約を踏まえ、翌月、シューマンはヴィークと話し合うために面会を求める手紙を書く。結果はシューマンいわく「会見は僕への敵意に満ちた恐るべきものでした」「父上は人の胸に言葉の刃物を突き刺してくるのです」。ヴィークはシューマンの収入面も懸念しており、結婚は許可されなかった。クララの手紙「父の無礼な振る舞いの数々を心苦しく思います。私を幸福に出来るのは愛だけです。あなたのためだけに生き、すべてをあなたに与えましょう」。シューマン「どちらか一人を君は諦めねばならない。父か、それとも私か」。

1838年(28歳)、クララと会うこともできず、苦悩の日々を送るシューマンだったが、彼女への想いを作品に昇華することで次々と傑作が生まれていった。「トロイメライ」を含む優しさあふれるピアノ曲集『子供の情景』は、少女時代のクララを思い浮かべて書かれた。ひとつ年下のフランツ・リスト(1811-1886)は『子供の情景』に感動し、シューマンへの手紙に「この曲のおかげで私は生涯最大の喜びを味わうことができた」「週に2、3回は娘のために弾いています」「しばしば第1曲を20回も弾かされ、ちっとも先に進みません」と書き綴った。ショパンに献呈された傑作『クライスレリアーナ』は、ホフマンの著作に登場する人物にクララの姿を重ね合わせて書かれた。『幻想曲 ハ長調』はボンにベートーヴェン記
念像を建てるための寄付金目的で書かれたが、ベートーヴェンの歌曲『遥かなる恋人に寄す』を引用することでクララへの想いを込めた。前年には各曲に文学的な標題が付いた抒情的なピアノ曲集『幻想小曲集』を作曲している。

同年秋から半年間、シューマンはウィーンに滞在した。そして敬愛するベートーヴェンとシューベルトの墓参りを実現させた。このときベートーヴェンの墓前で鉄製のペンを拾い、後にこのペンで交響曲第1番が書かれる。生前のシューベルトの話を聞きたくてシューベルトの兄の家を訪ね、そこで遺稿の中から『交響曲第8番“ザ・グレート”』の草稿を見つけるという大発見をする。シューマンは“ザ・グレート”を「天国的な長さ」と紹介、数ヶ月後にライプツィヒにてメンデルスゾーンの指揮で初演され空前の成功を収めた。
一方、クララは10代後半にしてその名がヨーロッパ中に伝わり、演奏を聞いたショパンは「僕の練習曲集を弾ける唯一のドイツ人女性」と激賞。オーストリア皇帝フェルディナント1世から最も栄誉ある「王室皇室内楽奏者」(外国人女性で初)の称号を授与され、ゲーテからは「才能ある芸術家クララ・ヴィークのために」と銘文が刻まれたメダルを贈られた。クララは当時では珍しい女性作曲家でもあり、リストはその独創性を讃えてクララの3つの歌曲をピアノ独奏曲に編曲した。
この年6月20日の手紙「クララ、君はもっと早く僕と一緒にならなければいけない。性急だと言わないでほしい。1分でも遅れたら死ぬも同然だ。これ以上は耐えられない」。9月、クララはリサイタルで左手の薬指に指輪をしてステージに出た。シューマンは感動を手紙に綴る「昨日、僕はずっとステージの君を見ていた。何という指輪の輝きだったろう。君をしっかり、しっかり抱きしめたい。美しい心と完璧な偉大な芸術を備えた我がクララ」。

1839年(29歳)6月、クララは経済上の不安に触れた手紙を書く「父はあなたが生活の成り立つ未来を約束できると分かり次第、すぐにでも同意してくれるそうです。実際、(生活費の)心配のために素晴らしい芸術家の生活が曇ると、あなたはご自分をとても不幸と感じるでしょう。そのようなことからあなたを守ることが私の義務と心得ています」。シューマンは自尊心が傷つく。「まるで死者のように冷たい手紙だった。友人たちはみんな僕への愛を疑っている。愛するクララ、もっと慎重に言葉を選んで欲しい」。その2週間後、言い過ぎたと思ったのか次の手紙を出す「いつも側にいてもらうためには、僕は自分を高めなければ。君の心には大きく豊かな愛が宿っている。たくさんの美しい特性がそこにある」。
ヴィークは「シューマンが求婚を諦めないなら撃ち殺す」と語っており、もはや和解は不可能と悟ったシューマンは、7月、裁判で結婚許可を得るべく、クララの同意のもと訴訟に踏み切った。訴状にはシューマンとクララのサインがあった。シューマンの手紙「今なら君が僕を誠実に愛してくれていると実感できる。君が署名しているところを見たから。愛しいクララ、この世が君にとってずっと良きものであってほしい!」。憤慨したヴィークはクララを家から追い出し、彼女はベルリンの実母に引き取られた。ヴィークは街でシューマンに平手打ちを食わせ、偽名を使ってシューマンの悪口を並べ立てた手紙を書き、クララに送りつけた。この手紙にはさすがのシューマンも怒ってヴィークを名誉毀損で訴える。

高名なメンデルスゾーンまでがシューマンに有利な証言をしたことから、ヴィークは法廷闘争を諦め、1840年8月12日、裁判所から待望の結婚許可が下された。ヴィークは偽手紙の件で2週間の禁固刑に処された。判決から1カ月後の9月12日にシューマン(30歳)とクララ(20歳)は結婚し、クララは翌日に21歳の誕生日を迎えた。リストも結婚式に駆け付けた。クララの結婚承諾から3年を経てのゴールインだった。シューマン夫妻は共通の日記を付け、日々の出来事や悩みごとを書き記し、日曜日のコーヒータイムに一週間分を朗読し、2人で生活改善に向け何をすべきか話し合った。
1ページ目はシューマンが書いた。「2人の願いや悩みを記そう。お互いに対する希望のノートだ。2人に誤解が生じたときは仲介と和解のノートにしよう。ここに全てを打ち明け心を開こう。そして日曜日には一週間を振り返り、品位があり活動的だったかどうか、内面的にも外面的にも満たされた状態で安定していたか、僕たちの愛すべき芸術がさらに完璧に近づいていったかどうかを吟味しよう」。続く第一週。「あふれんばかりの幸福。妻は真の宝で、しかも日増しに大きくなる。君はどれほど僕を幸福にしているかしっかり感じて欲しい。初めての料理も素晴らしく美味しかった」。クララの最初のページ「私は今までにこれほど幸福な日々を経験したことはありません。私はこの世で一番幸福な妻なのです。私は毎分ごとにあなたをさらに愛するようになっていく気がします」。

シューマンは当初ピアニスト志望だけあってこれまでピアノ曲を中心に作曲していたが、この結婚の年に歌曲の創作に目覚め、1840年は彼にとって“歌の年”となった。シューマンいわく「ほかの音楽には全く手がつかなかった。私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」。わずか一年のうちに、実に120曲以上もの歌曲を生み出した。アイヒェンドルフの詩による『リーダークライス』、ゲーテ他の詩人の詩による『ミルテの花』、シャミッソーの詩による『女の愛と生涯』、ハイネの詩による『詩人の恋』などの連作歌曲を次々に書きあげた。これらは詩の行間まで美しく繊細な音楽で描写され、ピアノの役割は単なる歌の伴奏ではなく、歌とピアノが対等の立場で詩の世界を表現した。
新婚の2人は一緒にバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、次にベートーヴェンの弦楽四重奏曲を読み込んだ。

1841年(31歳)、『交響曲第1番“春”』が完成、シューマンは日記に「このような大曲をかくもたやすく、かくも短期間に完成させたまう神に感謝する」と綴った。初演は成功を収め、以降シューマンが本格的に交響曲を書き始めた点から、本年は「交響曲の年」と呼ばれる。長女が生まれ、生活費のためにクララは演奏旅行の回数を増やした。
1842年(32歳)、リストの勧めで室内楽曲の研究を開始、渋みが光る『ピアノ五重奏曲』を6日間で、朗々とした『ピアノ四重奏曲』を5日間という驚異的な速筆で書きあげた。本年は「室内楽曲の年」と呼ばれる。同年の北ドイツの演奏旅行で、クララだけが宮廷に招待され、傷ついたシューマンは一人ライプツィヒに戻った。同年、シューマンは過労で倒れボヘミアの温泉で療養した。

1843年(33歳)、ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者メンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院の講師に招かれ『新音楽時報』を去る。ベルリオーズとの交流で創作欲が刺激され、同年、エジプトやインドを舞台にしたオラトリオ『楽園とペリ』を完成させ、初演で大成功を収めた。名声を手に入れたシューマンのもとへ、クララの父から「親愛なるシューマン、対立していても芸術において私たちはつねに一つでした」と和解を求める手紙が届いた。年末に両者は長年の確執を超えついに和解し、クララは「これでようやく私の切なる願いが聞き届けられました」と喜びを日記に記す。子ども達はお爺ちゃん(ヴィーク)からクリスマスプレゼントをたくさん買ってもらった。
1844年(34歳)、5カ月に及ぶロシア訪問。クララはショパン、リスト、アントン・ルビンシテインと並ぶ19世紀の最も有名なピアニストの一人であり、帝都サンクトペテルブルクでロシア皇帝の前で御前演奏を行った。かたやロシアでは知名度の低かったシューマンは「ピアニストの夫」という扱いに終わった。シューマンは現実を受け入れた。「芸術家が結婚すれば、当然そうなるに違いないのだ。結局のところ、大切なのは幸せをずっと永続きさせることである」。
だが、シューマンは帰国後に重度の神経疲労に陥った。高所恐怖症、体の震え、鋭利な金属への恐怖症に苦しみ、幻聴が作曲を不能にした。クララは夫が恐ろしい妄想で一睡も眠れず涙に暮れている姿を見て胸を痛めた。シューマンは環境を変えることを決意し、ライプツィヒ音楽院の職を辞しドレスデンに転居した。

1845年(35歳)、ドレスデンは音楽家の地位が低く、保守的な空気が支配しておりシューマンを失望させたが、それでも4年がかりの労作『ピアノ協奏曲イ短調』を書きあげた。初演でクララがピアノを弾いたこの曲は、豊かな音色が奔流となって聴く者を包み込む名曲で、シューマンの代表曲のひとつとなった。年末の演奏会で病気のクララの代役で登場した14歳の天才ヴァイオリン奏者ヨーゼフ・ヨアヒムは、後にシューマンとブラームスを巡り合わせる。
翌1846年、幻聴と戦いながら『交響曲第2番』を完成させ、1847年(37歳)に『ピアノ三重奏曲』を書いた。この時期、夫婦には4人の子がおり、生活費を稼ぐために演奏旅行を繰り返した。だが、ウィーンの演奏会は不評で、楽屋で荒れるクララをシューマンが「落ち着きなさい、10年経てばすべてが変わるよ」となだめた。 ウィーンから帰ると長男が1歳で早逝、秋には
盟友メンデルスゾーンが38歳の若さで他界し、シューマンには辛い出来事が続く。その中で、生まれ故郷ツヴィッカウで開催されたシューマンを讃えた記念祭が慰めになった。
1848年(38歳)、おそらく長男の追悼の想いを込めたのであろう、「楽しき農夫」を含む『子供のためのアルバム』を作曲。同年6月、シューマン家をリストが訪問した。37歳のリストは強烈な上昇志向を持ち、皮肉屋の一面があった。シューマンがセッティングした晩餐会を2時間も遅刻してきたうえ、シューマンの親友かつ前年に他界したばかりのメンデルスゾーンの批判を始めた。リストはメンデルスゾーンの2つ年下だ。怒りの沸点に達したシューマンは両肩を鷲掴みにし、「そんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫び部屋を出ていった。リストはクララに謝罪した。「ご主人は、私がきつい言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」。この騒動にもかかわらず、リストはシューマンの作品を積極的に演奏し続け、後にシューマンはリストへの手紙に「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と書いて水に流した。
1849年(39歳)、オペラ『ゲノフェーファ』を発表するが台本に一貫性がなく不成功に終わった。劇付随音楽『マンフレッド序曲』完成。

1850年(40歳)、バッハ没後100年。「バッハは芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」「我が手本とする双璧はバッハとベートーヴェン」「バッハには到底かないません。彼は桁違いです」とバッハを崇拝していたシューマンは、バッハ作品がほとんど出版されていない現状に憤り“バッハ協会”設立のために奔走した。
同年、デュッセルドルフの音楽監督を引き受け、秋にドレスデンから移住。憂鬱なドレスデンの日々が終わり、ライン河畔で明るい新生活がスタートしたことに胸を弾ませ、『交響曲第3番“ライン”』を1カ月強で書きあげた。シューマンには『交響曲第4番』もあるが、そちらは出版が10年以上も遅れた作品であり、時系列ではこの『ライン』が最後の交響曲となった。病気については、宿の2階の部屋にいられないほど高所恐怖症が悪化していたが、2週間で『チェロ協奏曲』を作曲するなど創作能力は研ぎ澄まされていた。

1851年(41歳)、シューマンは神経の発作に悩まされながらも、4日間で『ヴァイオリンソナタ第1番』を、一週間で『ピアノ三重奏曲第3番』を完成。7人目の子が生まれ、クララは演奏家と母親、妻の両立に追われた。
1852年(42歳)、神経症が悪化し言語障害も出て創作活動が滞る。当初はシューマンに好意的だったデュッセルドルフの音楽関係者は、指揮棒を落としたり、楽団員との意思疎通が不得手なシューマンを批判し、オーケストラの理事会は音楽監督職の辞任を求めて総辞職した。

1853年(43歳)、9月に当時20歳のブラームスがヨアヒムの紹介状を持って訪れてきた。ブラームスが自作のピアノソナタを弾き出すと、シューマンは才能に驚いてすぐにクララを呼びに行き「もう一度最初から弾いてくれ」と頼んだ。翌月、その興奮を胸に10年ぶりに『新音楽時報』に寄稿、「新しい道」と題してブラームスを熱烈に賞賛、彼の名を広く楽壇に紹介した。ブラームスにとってシューマンは生涯の恩人となった。ヨアヒムに触発され遺作となる『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。
同年秋、シューマンの病気が進行し、演奏を開始できないという事件が起きる。それまでも楽団員に演奏指示を出せないシューマンの代わりに、クララが「ここは弱く演奏して欲しいと主人は思っています」など代弁していたが、“事件”をヨアヒムはこう証言している。「彼は指揮棒を振り上げたまま立っていて、オーケストラ・メンバーは楽器を構えたまま、いつ弾き始めたらよいかわからないのだった。コンサートマスターと私が手で合図して演奏を開始すると、シューマンは嬉しそうに笑いながらついてくるという有様だった」。この日を最後にシューマンが指揮台に上ることはなかった。麻痺の発作も出て、会話の内容が次第に意味不明になっていった。

1854年2月10日、シューマンは耳の激痛に襲われた。その4日後、レストランで読んでいた新聞を置き「とてもこれ以上読んでいられない。ラの音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と知人に苦しみを訴えた。クララは日記で「かわいそうなロベルト」と同情する。「彼にはどんな音も音楽に聞こえ、これが止まらなければ気が狂ってしまうと何度も訴えています」。
2月17日、シューマンは天使たちの歌を聴き、翌日は悪魔の幻覚に襲われた。その後は発作と小康状態を繰り返し、26日に「妻子を傷つける前に精神病院に入れてほしい」と訴えた。翌日(2月27日)、クララが医師と話し合っている間にシューマンはガウンとスリッパのままで家を抜け出した。寝室には「2人で結婚指輪をライン川へ投げ入れよう、そして二つの指輪をひとつにしよう」と書き置きがあった。シューマンは橋の上から結婚指輪を投げ込むと真冬のライン川に身を投げた。たまたま落ちるところを目撃した漁師に助けられ一命を取り留めた。クララは妊娠中で非常に疲労していたことから、医師は自殺未遂のことを伏せておいた。翌月、シューマンは自身の希望でボン近郊エンデニヒの精神病院に入院、3カ月後に末子フェリックスが生まれた。
医師はシューマンの神経を刺激しないよう家族に面会を許さなかったが、友人のブラームスやヨアヒムは許可された。ワインを飲んでいたシューマンが、突然「毒が入っている」と床に流しまうこともあった。
当初、シューマン自身は回復して退院するつもりだったが、症状は進行し、常に室内を歩き回り、食事を拒否してやせ衰えていった。翌夏は“バネが壊れた機械のように”ピアノを弾いていた。
1856年6月8日、ブラームスが見舞いに行くとシューマンは足が腫れ上がって寝たきりになり、地図の地名をアルファベット順に並べていた。翌月、クララが生活費を得るために敢行したイギリス演奏旅行から帰宅すると、「患者が存命のうちにお会いになりたければ至急おいで下さい」と病院から容体悪化の電報が届いた。クララは7月27日に着き、シューマンと2年ぶりに再会する。シューマンはクララに微笑みかけ、自由がきかない体で懸命に腕を回した。クララの回想「私はそれを決して忘れません。世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」。
2日後の1856年7月29日午後4時、シューマン他界。享年46。最後の言葉は「おまえ…ぼくは知っているよ」。
翌々日、ボンで葬儀があり、ブラームスら友人が棺を担ぎグリルパルツァーが弔辞を述べた。他界2年後にシューマンの友人でバイオリン奏者のヴァジェレフスキが最初の伝記を出版した。この年、クララは夫がライン川で自殺未遂をしたことを知った。

37歳で夫を失ったクララは女手ひとつで7人の子を育て上げた。女性が作曲することへの偏見が強かったことから作曲をやめてピアニストとして生き、ベルリンを拠点にして精力的に演奏活動をおこなった。そして夫のピアノ協奏曲を広め、また心の友ブラームスの音楽を世間に伝えるべく尽力した。
その後、1872年(53歳)から20年間フランクフルトの音楽院で教師を務める。1879年(60歳)から14年をかけて全29巻のシューマン作品全集が刊行された。1893年(74歳)、クララは夫を精神病のイメージで語られることを避けたい気持ちから、最晩年の病状が悪化していた頃の作品(1853年の『ピアノとチェロのためのロマンス』など)や手紙の多くを廃棄したため、シューマンの支持者にとって大きな損失となった。
クララは76歳まで生き、1896年5月20日に脳出血で没した。ボンのシューマンの墓に葬られ2人は40年ぶりに再会。ブラームスがクララの棺に土をかけた。

シューマン夫妻は旧西ドイツの首都、ボンのアルター・フリードホフ(旧墓地/Alter
Friedhof)に眠っている。ボン中央駅から西へ徒歩1キロ、墓地の門をくぐると墓地の案内図があり、シラーの妻など著名人の墓に印が入っている。敷地は3ヘクタール。右側の壁沿いに1787年7月に他界したベートーヴェンの母親の墓があり(ベートーヴェンは当時16歳)、さらに先に進むと墓地の中央部に白亜のシューマン夫妻の墓が見えてくる。上部にはシューマンの横顔のレリーフがあり、その下に白鳥、左側にヴァイオリンを持つ天使、右側に楽譜を読む天使、下からクララに似た音楽の女神がシューマンを見上げている。シューマン記念碑とも言うべきこの美しい墓は、シューマン没後24年目の1880年に除幕されたもの。その16年後にクララは亡くなった。近年改修の手が入り2016年3月に作業が終わった。
ドイツではひとりひとり独立した個人墓が主流だけど、シューマンとクララは同じ墓に眠っている。シューマンが先立った後、40年間再婚せずにいたからこそ、再び2人はひとつになれた。再婚していれば再婚相手と眠っていただろう。シューマンはクララと再会できて喜んでいるはず。いつまでも墓前にいたくなるような、そんな心温まる墓だった。

「今世紀後半の音楽は、芸術の歴史の中に、後の世がシューマン時代と呼ぶような、そういう時期として入ってゆくに違いない」(チャイコフスキー)
「シューマンは詩人であり、ショパンは芸術家である」(作家アンドレ・ジッド)
「シューマンは実は協奏曲作家だ」(池辺晋一郎)
「シューマンの歌曲は詩と音楽の香気あふれる合一である」(横溝亮一)
「シューマンの交響曲の美しさは、その細部とロマン主義的な精神の燃焼にある」(ドナルド・グラウト)
「シューマンは保守的すぎて、私の考えを受け入れることができない」(ワーグナー)

※シューマンは字が下手だった。クララが初めてシューマンに出した手紙には、追伸に「すぐお返事下さいね。ただ、字は綺麗に、ハッキリと分かるように書いて下さいね」と念押しがある。
※生涯で270曲以上の歌曲を作曲したシューマンは、それまで単なる歌の伴奏という扱いだったピアノの地位を向上させた。ピアノ・パートのこのうえない美しさから「歌の伴奏を持つピアノ曲」ともいわれる。
※シューマン夫妻の物語は『愛の調べ』『哀愁のトロイメライ』『クララ・シューマン  愛の協奏曲』と3度映画化されている。
※ブラームスとクララの物語はタカラヅカの舞台になっている。
※生誕地ツヴィッカウのシューマンの生家はシューマン博物館として公開。
※クララはユーロ通貨導入前の最後の100マルク紙幣の肖像だった。
※シューマン最後の直弟子アデリーナ・ダ・ララ(187-1961)が世界初のシューマンのピアノ独奏作品選集を録音した。
※シューマンの『ピアノ協奏曲』は『ウルトラセブン』の最終回で、『ピアノ五重奏曲』はNHK『映像の世紀』で使用された。
※末子フェリックスはシューマン他界時に2歳であり、ブラームスの子ではないかと噂が飛び交った。
※三男は父の年齢に近い42歳でモルヒネ中毒により衰弱死。
※シューマンの兄弟は全員短命でシューマンより早く没している。
※シューマンの神経症の原因は若い頃に感染した梅毒とする説が有力。
※シューマンが音楽談義をしていたライプツィヒのコーヒー・ハウス「カフェ・バウム」はドイツ最古のコーヒー店として現存。
※クララは父から演奏家は作曲家の意図を尊重した演奏をするべきと教えられており、リストのように自由に装飾する演奏スタイルには否定的だった。
※シューマンの交響曲は一般に雄大さに欠け、楽器の色彩感に乏しく、楽器の特性を引き出してないと評されるが、そこにシューマンらしい魅力がある不思議な作曲家。そして美しい。
※ボンのシューマンハウス(精神病院跡)は図書館として無料で公開されている。開館は月・水・木・金の11時〜13時半、15時〜18時。
※シューマンが歌曲で選んだ詩人は、ハイネが最多で44篇、続いてリュッケルトが42篇。ちなみにゲーテは18曲。
※ワーグナーはバイロイトで総合芸術を目指し、リストはワイマールを拠点に標題をベースにした交響詩で勝負をかけた。一方、シューマンやブラームスは交響曲を守ろうとした。
※シューマン夫妻は日常生活や芸術観で時おり対立したものの、互いに助け合い、補い合った理想的な夫婦だった。
※シューマン22歳、クララ13歳の時の作品が演奏されたプログラムには、他に当時の人気作曲家だったカール・ライシガー、ハイドン、ヨハン・ピクシス、ヨゼフ・ウォルフラム、イグナーツ・モシェレス、アンリ・ヘルツ、シャルル・ド・ベリオ、フリートリヒ・ヴィークらの名があるが、今も名が残っているのはハイドンとシューマンだけだ。

〔参考資料〕『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、『尚美学園大学芸術情報学部紀要第6号 クララ・シューマン』ほか。



★ベルリオーズ/Louis Hector Berlioz 1803.12.11-1869.3.8 (パリ、モンマルトル 65歳)2002&09&15
Cimetiere de Montmartre, Paris, France



失恋が音楽史を変えた! 作曲家きっての暴走機関車 求愛されたハリエット




黒光りする重厚な墓(2002) 7年後。若干、花の色が変わった(2009)


市民の寄付で墓が建った(2015) 前妻ハリエットと後妻マリーの名 モンマルトル墓地の陽気な管理人たち

フランス近代音楽の開祖。音楽で物語や自然を描写する「標題音楽」という新しいジャンルをつくり出した作曲家エクトル・ベルリオーズは、1803年12月11日、南仏ラ・コート・サンタンドレで医者の長男として生まれた。翌年、ナポレオンが皇帝になる。1815年、12歳のときに祖父が暮らす片田舎で18歳の女性エステルに初恋。彼女の存在は晩年に再び心の拠り所になる。
ベルリオーズは医者となるべく教育を受けていたが、14歳のときに父の机の引き出しから縦笛を見つけ、楽器演奏の楽しさに目覚める。その様子を見て、父はフルートとギターを習わせたが、医学の勉強がおろそかになっては困るためピアノは習わせなかった(そもそも家にピアノがなかった)。18歳でパリの医科大学に合格するが、最初の解剖学の実習で倒れ込みそうになる。「屍体室の恐ろしい光景。バラバラになった手足、しかめっ面をした頭部、切り裂かれた頭蓋骨、血の滴る汚物捨場、発散する耐え難い臭気、骨をかじっている鼠。私は恐ろしさに心乱れて教室の窓を飛び越えると、一目散に逃げ出した。私は激しく心打たれたまま24時間を過ごした。二度と解剖とか、切開とか、医学という言葉さえも聞きたくない」(回想録※伝記本によって「失神状態で運び出された」とあるが、回想録には「逃げ出した」とある)。
医者に不向きであると痛感すると共に、これまで押さえつけていた音楽への情熱が燃え上がる。国立音楽院の図書館が一般公開されていることを知った彼は、楽譜の研究で入り浸った。だが、規則を破って音楽院の女生徒用の門から入ったことで音楽院長ケルビーニの逆鱗に触れ、図書館への出入り禁止にされた。
1823年、20歳のときにグルックのギリシャ悲劇オペラ『タウリスのイフィゲニア(アウリスのイフィゲニエ)』を聴いて大感動し、「父母、叔父叔母、祖父母、友人たち、誰が何と言おうと、私は音楽家になると心に誓った」という。この決断に対する父からの手紙は「お前の決心は狂気の沙汰だ。そんな夢のような空想を追わないで医学の道に早く帰れ」。
1824年(21歳)、独学して初の本格的な作品『荘厳ミサ曲』を作曲。翌1825年、借金して『荘厳ミサ曲』の初演を教会で行った。
1826年(23歳)、ベルリオーズは親を説得してパリ音楽院に入ったが、借金して演奏会を開いたことを知った父は、音楽を断念させるため仕送りを絶つ。ベルリオーズは生活費を稼ぐため、笛やギターの生徒をとったり、劇場の合唱団員になるなど苦学した。「私には薪が必要だった。そうして暖かい着物が必要だった」。やがて根負けした父が仕送りを再開した。

1827年(24歳)、ベルリオーズは音楽家の道に反対する両親を納得させるため、新進音楽家の登竜門「ローマ大賞」を獲得することを決意。夏に初めて応募した結果2位に選ばれた。この年は1位が「該当なし」であったため事実上のトップであり、両親は息子の才能が本物であることを知った。
秋、パリで初めてシェイクスピア劇が上演されることになり、文学青年でもあったベルリオーズは人気の英国劇団の公演に足を運んだ。そして『ハムレット』『ロミオとジュリエット』を観劇し、前者でオフィーリア役を、後者でジュリエット役を演じた3歳年上の人気女優ハリエット・スミスソン(アイルランド人)に一目惚れする。彼は何通も彼女に恋文を送り面会を求めた。「私の死をお望みでないなら、同情の名において、どうか、いつ貴女にお会いできるのか教えて下さい!ひざまづき涙に暮れつつ、お慈悲とお許しを懇願いたします!!おお、なんと不幸な私!これほどの苦悩を得ようとは思いもよりませんでした。まるで裁判官の判決のように貴女のご返事を待っております H・ベルリオーズ」。むろん、無名
の彼が相手にされるわけもなく返事はない。
ベルリオーズの回想。「一行の返事ももらえなかった。何通も手紙を書いたが彼女を感動させるどころか、かえって恐れさせただけだった」。思案して劇場側に序曲を提供するなど劇場支配人に接近し、彼女のリハーサルを見学できる立場を手に入れた。ハリエットは稽古を見つめる彼を見て叫び声をあげ、舞台から指差しつつ「あの目つきが悪い男に注意して下さい」と役者仲間に訴えた。同年、ウィーンにてベートーヴェンが56歳で他界。

1828年(25歳)、有名になってハリエットの気を惹きたいベルリオーズは「ローマ大賞」に再度挑むが2度目の落選(2票差で2位という惜敗)。この年からパリ音楽院管弦楽団の定期演奏会が始まり、ベートーヴェンを追悼して9つの交響曲がすべて演奏された。客席にいたベルリオーズは交響曲第3番『英雄』や第5番『運命』に感動し、とりわけ交響曲第6番『田園』に心を奪われた。田園交響曲はベートーヴェンが音楽で雷鳴や小鳥のさえずりなど自然を描写した作品。ベルリオーズは音楽で情景を描けることを知り、この分野を発展させようと決意する。
ベルリオーズはハリエットの歓心を買うために自腹を切ってオーケストラを雇い、会場を借りて自作の演奏会を開催して彼女を招待するが、聴きに来てくれる訳もなく負債だけが残った。彼にはすべてが絶望的に感じられたが、この思い込みの激しい性格が後に傑作『幻想交響曲』を生む原動力となる。英国劇団は次の公演先に向かい、ベルリオーズは恋が完全に終わったと悟った。

1829年(26歳)、3度目の「ローマ大賞」応募も落選。応募資格は30歳まで。恋に破れ、両親とも和解できず、うっ屈した気持ちがベルリオーズを支配した。だが夏に小さな転機が訪れる。ある寄宿女学校にギターの教師として招かれたところ、ピアノを教えに来ていた18歳の若く魅力的な女性ピアニスト、マリー・モーク(1811-1875)と出会った。彼女はピアノの名手で幼い頃は神童と呼ばれていた。当初、マリーはベルリオーズのもっさりした風貌を面白がって「あなたに興味を持つ人がこの世にいるのか」などとからかっていた。ところがベルリオーズが無関心でいたことが彼女の心に火をつけ、彼のことを好きになってしまう。ベルリオーズもまた内なる失恋の悲しみが彼女に慰められるように感じ始めた。
この年、愛読書のゲーテ『ファウスト』から名場面を音楽にした『ファウストからの8つの情景』を作曲し、自身満々でゲーテに総譜を贈ったが、送り返されてしまう。ベルリオーズはショックを受けてこの曲を長く封印する。

1830年(27歳)、2月に代表曲となる『幻想交響曲』(作品14/原題「ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲」)の作曲を開始する。『幻想交響曲』はハリエットに対する片想いから着想を得ており、作曲を進めていくうちに彼女が恋文の受け取りを拒否したことなどを思い出し、憎しみに近い感情が沸き起こっていった。『幻想交響曲』は4カ月で完成したが、演奏してくれるオーケストラがなかなか見つからず、パリ音楽院での初演は12月5日までずれ込んだ。この間、声楽曲『サルダナパールの死』(楽譜は紛失)が高く評価され、4度目の挑戦でついにローマ賞を受賞した。

『幻想交響曲』はオペラでないにもかかわらずストーリーがある。作曲家いわく「恋に悩んだある音楽家青年が、苦悩の果てにアヘンで服毒自殺をはかったが、致死量に達しなかったため死にきれず、もうろうとして悪夢を見る」というもの。作中には彼が熱愛するハリエット・スミスソンを表す旋律が、様々な場面に登場する。いわば“ハリエットのテーマ”として繰り返されるこの旋律を、ベルリオーズは「イデー・フィクス(固定楽想)」と呼んだ。固定楽想が各楽章に姿を変えて現れるといった手法は、それまでの音楽になかった。各楽章に標題が付けられ、演奏会ではベルリオーズ自身が解説を書いたプログラムが配られた。

第1楽章の副題は「夢、情熱」。序奏は芸術家の青年が想い人を見初める前の状態で、暗い憂愁の中にいる。そこへ優雅に想い人が現れ、青年の動悸が速くなる。熱狂し、陶酔し、嫉妬し、慈しむ、感情の嵐が展開する。
第2楽章は「舞踏会」。ワルツが流れる賑やかな舞踏会の会場で、青年は想い人と再会し胸がときめく。
第3楽章は「田園の風景」。青年は恋の苦しみから逃れるように郊外の田舎におもむき、のどかな景色を眺めながら時間を過ごす。だが想い人が頭をよぎり、失恋の不安に包まれ、胸が締め付けられる。やがて日は暮れ遠雷だけが聞こえる。
第4楽章は「断頭台への行進」。青年は失恋し、悲嘆のあまり毒をあおぐが死にきれずに恐ろしい夢を見る。夢の中で彼は想い人を殺した罪で死刑を宣告され、断頭台まで街中を引き回され、通りの左右で野次馬たちがはやし立てる。死刑囚が断頭台に上ると一瞬音楽が止んで想い人が天使のように現れるが、ギロチンの一撃で想い人は消え青年は昇天する。
一般的に交響曲は4楽章形式であるが、ベルリオーズはベートーヴェンが田園交響曲で試みたように“第5楽章”を用意した。副題は「ワルプルギスの夜の夢(魔女の夜宴の夢)」。青年は天国へ行けず、目覚めた場所はサバト(魔女の饗宴)。妖魔の群れが青年を弔うために周囲に集まり、下品に歌い踊る。そして青年は愕然とする。魔物の踊りの輪の中にあの想い人がいて、一緒に青年を笑い者にしているのだ。想い人を表す上品で美しいメロディーは醜く変化し、その醜悪さに青年は気が狂いそうになる。妖魔の底抜け騒ぎは百鬼夜行となり、鐘が鳴り響くなか賛歌「怒りの日」が猥雑にふざけて歌われ、混沌と狂乱の中で終曲となる−−。

『幻想交響曲』は内容の衝撃性もさることながら、音楽史を変えた2つの大きな功績、「固定楽想」と「楽器法の革新」によって楽壇を感嘆させた。ベルリオーズが発明した「固定楽想」は当初フランスの楽壇で異端視され、隣国ドイツの作曲家が最初に共鳴した。8歳年下のフランツ・リスト(1811-1886)は標題を全面に出した「交響詩」を創始し、10歳年下のワーグナー(1813-1883)は固定楽想=ライトモティーフをオペラ(楽劇)に使った。『幻想交響曲』で用いられた固定楽想は、一人の女性のみを象徴するものだったが、ワーグナーはオペラの複数の登場人物に別々の固定楽想を与えてそれぞれのテーマ音楽とした。
「楽器法の革新」では、オーケストラに馴染みのなかった様々な楽器(鐘を含む)を導入したほか、ティンパニーを4台も使用したり、バイオリンの弓をひっくり返して「裏側の木の部分」で弦を叩くという常識外の指示を出した。ティンパニーを叩くマレット(ばち)についても、木、皮張り、スポンジと、細かく固さの指定を行い、変化に富んだ音色によって、従来は美しい音を紡いできたオーケストラが、狂気やグロテスクさまで表現できるようになった。ベルリオーズが「近代管弦楽法の父」「楽器法の革命児」といわれる由縁である。音色の豊かさは、この時代に金管楽器のバルブが開発され、半音階が簡単に出せるようになったことも大きい。
ベルリオーズはアヘンを吸ったときの体験を終楽章に込めているといい、後世の指揮者レナード・バーンスタインは「(幻想交響曲は)史上初のサイケデリックな交響曲だ」と評した。
『幻想交響曲』の初演は大成功し、アンコールに応えて第4楽章がもう一度演奏された。ベルリオーズは一躍時の人となり、成功を手に入れたことでマリー・モークと婚約に至る。

1831年(28歳)、ローマ賞に輝いた者はイタリアへの2年間の留学が義務づけられており、婚約者マリーのいるパリから離れたくなかったベルリオーズの気持ちを沈ませる。彼は留学後の結婚を約束してイタリアに向かった。イタリアではローマ滞在中のメンデルスゾーンらと交流したが、到着から3週間が経ってもマリーから手紙が一通も届かないことが彼を不安にさせた。彼は音楽院の館長にパリに戻る意向を伝えたが、留学中にイタリアから出ると寄宿生の資格を失うため館長は思いとどまるよう説得する。だが、その制止を振り切ってローマを出発した。するとフィレンツェまで北上したところで、マリーの母親から衝撃的な手紙が届く。それは“婚約破棄”を通告すると共に、マリーは有名なピアノ製作者プレイエルの御曹司と「既に結婚した」という内容だった(プレイエル社のピアノはショパンが愛したピアノとして知られる)。
一方的に婚約破棄を告げられたベルリオーズは烈火のごとく激怒し、「すぐさまパリに戻って、罪ある2人の女(マリー母娘)と罪なき1人の男(プレイエル)を問答無用で殺した後に自殺する」と決心する。これは本気だった。パリでは顔が知られているため、警戒されず相手に接近するため小間使いに変装することにした。まず婦人洋服店を訪れ、不審がられながらも自分のサイズの小間使い用の着物と帽子、そして化粧道具と青いヴェールを入手。そして2連発のピストル2挺に弾丸を装填し、火薬が不発だった場合に備えて自害用の毒薬を揃えた。夜の駅馬車に飛び乗り、パリを目指す。ところが、翌日に駅馬車を乗り換える際に女装セットを置き忘れてしまう。彼は「殺害計画の実行を善き天使が妨げようとしているのか」と思ったが、「いいや、殺す」と北イタリア・ジェノヴァで店を何軒も回って再び女装セットを買い揃えた。経由地のニースに向かいながらベルリオーズは“段取り”を練った。
「まず夜の9時頃、皆がお茶を飲んでいる時刻に乗り込む。小間使い姿の私が“某伯爵夫人の急ぎの手紙を持ってきた”と告げ、部屋に通してもらう。相手が偽手紙を読んでいる間に懐から2連発のピストル2挺を取り出し、1人目と2人目の頭にズドン。次いで3人目の髪の毛を引っ掴んで私が誰だか知らせる。相手の叫び声を聞き流して3発目をお見舞いする。人声と銃声で人々が駆け付けないうちに、自分のこめかみに4発目をズドン。不発だったら小瓶(毒)の助けを借りる。おお、なんと美しい情景だ!」(回想録)。

夜間、国境付近の海岸線を走っているときに馬車はブレーキの調整でいったん止まった。波の砕ける音を聞いているうちにベルリオーズは我に返る。「自殺してこの世の芸術に別れを告げる、これは馬鹿げていないか。最初の交響曲だって仕上げていない(注:彼は『幻想交響曲』の改訂中だった)。もっと壮大な曲のアイデアがあるのに、それを頭の中にしまい込んだまま死ぬのか?」。彼は、自分のような天才が自殺することは人類の損失と考え直し、計画中止を検討する。そして、ニース(当時はイタリア領)からローマの音楽院長に手紙を出し、まだ除籍されていなければローマに戻り、除籍後であればパリに向かって決行することにした。結果、まだ除籍されていないことが判明し、ローマに戻って『幻想交響曲』の続編となる独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』を作曲した。この続編には『幻想交響曲』の想い人のメロディーがそのまま登場する。語り手のレリオはベルリオーズの分身。レリオは冒頭で「死は私を受け入れず、そっと押し返した。ならば、生きよう」と宣言する。
※殺されずに済んだマリー・モーク(プレイエル婦人)はその後どうなったか。彼女は当時珍しいプロの女性ピアニストとなり、作曲も少し手がけた。夫はピアノ製作者ということもあり、大ピアニストのリストやショパンと友人だった。ショパンはマリーのために名曲『ノクターン 作品9』を献呈している。リストは友人の妻、つまりマリーに手を
出し不倫関係になった。逢い引きの場所としてこっそりショパンの部屋を使っていたことから(リストは鍵を預かっていた)、怒ったショパンはリストと疎遠になる。ベルリオーズはマリーと別れてから約20年後に、指揮者としてピアニストのカミーユ・プレイエル夫人(マリー)とロンドンで共演している。

1832年(29歳)12月9日、2年間のローマ留学を終えてパリに戻ったベルリオーズは、帰国後最初の演奏会で『幻想交響曲』を再演し、自らティンパニー奏者のひとりとしてステージに立った。このとき、ハリエット・スミスソンの英国劇団が再びパリで公演を行っていたが、既にシェークスピア・ブームは落ち着いており、5年前のような人気はなく、32歳のハリエットは劇団マネージャーとして負債を抱え失意の中にいた。ベルリオーズの友人は『幻想交響曲』を彼女に聴かせることを思い立ち、「気晴らしに音楽会に行きましょう」と誘い出した。ハリエットはベルリオーズのことをすっかり忘れていたが、会場に入ると観客が自分をやけに注視することに気づいた。プログラムの標題や人々が彼女を見てヒソヒソ話す様子もあって、音楽の中のヒロインが自分ではないかと疑い始め、同日初演された『レリオ』の第4曲『幸福の歌』にあった「あのジュリエット、オフィーリアになぜ会えないのか」を聴いて、すべてを理解した。ハリエットは極めて深い感動を覚え、この演奏会をきっかけに交際が始まった。
※再演を客席から聴いていた詩人ハイネの回想。「隣りの若者が言った。“最前列をごらんなさい。あの太った女がミス・スミスソンです。ベルリオーズは3年越しに恋い焦がれていましてね。今日の『幻想交響曲』だって、恋い焦がれての情熱が生み出したものなんですよ”。ベルリオーズは壇上からひたと目をすえて彼女を見つめている。視線が交わる度に猛烈な勢いでティンパニーを打ち鳴らした」。

しばらく後、ハリエットは馬車から落ちて足に重傷を負ったことから、彼は負債に苦しむ劇団を助けるための支援コンサートを企画、リストやショパンも演奏してくれた。そして再会から約一年後の1833年10月、ついにベルリオーズの夢が叶い、2人は結婚した。ときにベルリオーズ29歳、ハリエット32歳。イギリス大使館で開いた挙式にリストが立ち会い、翌年には長男ルイも生まれた。ところがベルリオーズは結婚して間もなく、自分が夢中になっていたのは舞台上のジュリエットやオフィーリアであったことに気づく。加えてハリエットの嫉妬深さを重荷に感じるようになり、2年ほどで夫婦仲は冷え込んでいった。
1834年(31歳)、ビオラ独奏つきの交響曲『イタリアのハロルド』完成。バイロンの詩に登場するチャイルド・ハロルドのように、ベルリオーズがハロルドとなってイタリアを旅する。各楽章の標題は、第1楽章「山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面」、第2楽章「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」、第3楽章「アブルッチの山人が、その愛人によせるセレナード」、第4楽章「山賊の饗宴、前後の追想」。巡礼の一行が通り過ぎるのをハロルドが眺める第2楽章が素晴らしい。終楽章でハロルドは山賊の手にかかって命を落とす。ベルリオーズはこの曲を「ストラディバリウスのビオラを入手したパガニーニの依頼で作曲した」と記している。

1835年(32歳)、音楽評論を日刊紙『ジュルナル・デ・デバ』に書き、ベルリオーズは文才を高く評価され、以降晩年(63年)まで30年近く執筆も貴重な収入源となる。彼は“音楽評論家”の先駆けとなった。
1837年(34歳)、レクイエム『死者のための大ミサ曲』を作曲。1830年の7月革命の犠牲者を追悼するため仏政府から依頼を受け作曲。ベルリオーズは演奏者にホルン12人、ティンパニー10人など空前の規模を求めており、メインのオーケストラの他に離れた場所でラッパを吹く4組の“別動隊”を指定している。
1838年(35歳)、オペラ第1作となる『ベンベヌート・チェリーニ』が2年がかりで完成。チェリーニはルネサンス期の偉大な彫刻家。音楽的には充実した作品になったが、ベルリオーズは音楽誌に厳しい音楽評論を書き続けてきたことから、周囲が敵ばかりになって初演を叩かれ失意のどん底を味わう。
1839年(36歳)、合唱付きの劇的交響曲『ロメオとジュリエット』作曲。第3部の愛の場面の音楽を、ワーグナーは「今世紀における最も美しいフレーズ」と激賞。同時に「全く素晴らしい旋律の間に屑(くず)の山が積みあげられている」と厳しい言葉も。同年、パリ音楽院の司書となる。ベルリオーズはかつて出入り禁止にされた図書館の司書となったことを感慨深く思った。
1840年(37歳)、政府から再び7月革命の犠牲者を追悼する音楽の依頼があり、最後の交響曲となる『葬送と勝利の大交響曲』を作曲。当初は大編成の軍楽隊(吹奏楽)の野外演奏を念頭に書かれ、後に弦楽器や合唱のパートが追加された。この年、結婚7年目にして別居する。
※『葬送と勝利の大交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=BEcSQ8BTlPQ
1841年(38歳)、スペイン人の歌手マリー・レシオと同棲を開始。彼女は恋の達人でありベルリオーズは翻弄された。
1842年(39歳)から約20年間、経済的な理由から指揮者としてヨーロッパ大陸の各地へ演奏旅行を行う。この旅にマリー・レシオを同行した。
1843年(40歳)、不評だったオペラ『ベンベヌート・チェリーニ』の第2幕への前奏曲が気に入っていたベルリオーズは、これを抜粋して序曲『ローマの謝肉祭』とした。目論み通り人気を博す。
1844年(41歳)、著書『近代の楽器法および管弦楽法』を刊行。管弦楽法について書かれた最初の理論書で、手引き書であると同時に音楽美学の解説書でもあり、のちの作曲家に多大な影響をあたえた。
1845年(42歳)、『幻想交響曲』の楽譜が出版される。初演から15年が経っていた。
1846年(43歳)、『ファウスト』へのが想いが再燃し、17年ぶりに『ファウストからの8つの情景』の楽譜を引っ張り出し、これを元にオラトリオ『ファウストの劫罰』を作曲。初演の評判はイマイチだったが劇中の「ラコッツィ行進曲」は人気を集めていく。

1850年(47歳)、偽作曲家の嘘つき作戦が成功する。ある夜、ベルリオーズは友人の家でふざけて作った中世風のメロディーに自作の歌詞をくっつけた。そこで悪戯を思いつく。この合唱曲に『羊飼いたちの別れ』という題名をつけ、コンサートでは自分の名を伏せて173年前の作品に仕立てたのだ。そしてベルリオーズの音楽を毛嫌いする批評家連中をひと泡吹かせるべく、演奏プログラムに「パリの宮廷礼拝堂の楽長ピエール・デュクレが1679年に作曲した古風なオラトリオの断章」と発表した。もちろんピエール・デュクレなど存在せず、友人の名前をもじったものだ。批評家達は考古学的珍しさもあって作品に注目、「これこそ本当の音楽、本物のメロディー!」「現代の作曲家には書けまい」「ベルリオーズとは大違いだ」と手放しで絶賛し、ベルリオーズは“発見状況”を、「修復中の礼拝堂の古いタンスの中から見つけた」とそれらしく説明した。後日、ベルリオーズは自作であることを明かしたが、今さら批評家達は意見を変えるわけにもいかず、傑作として認定された。
https://www.youtube.com/watch?v=G-Aa-5dwrY4#t=46m27s これかな?
1852年(49歳)に図書館長に就任。著書『オーケストラ夜話』刊行。
1854年(51歳)、偽作曲家騒動の『羊飼いたちの別れ』に楽曲を追加・発展させ、マタイ伝のヘロデ王による幼児虐殺と聖家族のエジプトへの逃避を描いたオラトリオ『キリストの幼時』を初演。同年、ハリエット・スミスソンが他界。かつて脚光を浴びた元女優は世間から忘れ去られ、アルコール中毒になり、身体が麻痺した状態で世を去った。享年54歳。自責の念にかられたベルリオーズをリストが慰めた。「彼女は君に霊感を与えた。君はその彼女を愛し、歌いあげた。双方の役目は十分に果たされたのだ」。後日、ベルリオーズはマリー・レシオと再婚。
※『キリストの幼時』 https://www.youtube.com/watch?v=G-Aa-5dwrY4
1855年(52歳)、パリ万国博覧会の開幕記念行事の一つとして、自身の指揮により大規模宗教音楽『テ・デウム』が初演される。パイプオルガンと児童合唱が加わったこの壮大な作品は代表曲のひとつになった。
※『テ・デウム』 https://www.youtube.com/watch?v=1OQxmhJDQHA
この年、ベルリオーズはロンドンで当時42歳のワーグナーと交流し友人になっている。ワーグナーはリスト宛の手紙に記す。「芸術上の諸問題、哲学から生活についてまで、非常に魅力ある会話を5時間にわたって交わすことが出来た。我々は突然、自分たちが同じ様な受難者仲間であることが分かった。しかも思うに、おおむね私の方がベルリオーズよりまだ幸運なようなのだった」。これに対するリストの返事。「君のベルリオーズとの友情関係を知って喜んでいる。現代の作曲家の中では、彼は最も自分を飾らずに、最も開けっぴろげに、そして最高に興味の持てる会話の出来る人物だと思う。彼なら全面的に受け入れたまえ」。

1856年(53歳)、フランス国立アカデミーの名誉ある学士院会員に選ばれる。
1858年(55歳)、トロイ戦争と後日談を壮大なスケールで描いたグランド・オペラ『トロイアの人々』を作曲。全5幕、所要6時間という規模の大きさから生前は全曲が上演されることはなかった。本作は後にベルリオーズの最高傑作と讃えられる。
1862年(59歳)、「シェイクスピア風のオペラ」と銘打った最後のオペラ『ベアトリスとベネディクト』が完成、ドイツで初演。原作はシェイクスピアの陽気な戯曲『空騒ぎ』。最後のオペラがコメディというのは、後のヴェルディも同じ。同年、後妻マリー・レシオに先立たれる。
1864年(61歳)、最後の恋愛。片想いの相手は12歳のときに好きになった初恋の人、6歳年上のエステルだった。彼は67歳のエステルに手紙を書く。「どうかお考え下さい、子どもの時分から私が49年間あなたを愛し続けていることを。この感情がもしたった一日でも途切れていたら、今になって再びかきたてられることなどなかったでしょう。どうか私の3つの願いをお聞き届け下さい。時々あなたに手紙を書いてもいいという許可、年に一度はお会いできるようご招待下さるという約束、そしてご好意を得るために私が何か試みることの許可を」。エステルの返事は「新しい友情関係を結ぶつもりはなく、生活を乱すようなことはすべて避けたい」。それでも、翌年に彼は恋文を書き続ける。「あなたと共にあれば、私の空はもう曇ることはありません。あなたは私の輝ける星なのです、わがステラ(星)!ああ、また私は禁じられた文体に陥ってしまいました。お許し下さい、どうしようもなく無分別なのです…ですが、あなたの友情あふれる援助があればきっと直してごらんにいれます」。
1866年(63歳)、船乗りをしていた一人息子ルイが33歳の若さでキューバに死す。既に2人の妻も既に先立ち、ベルリオーズは孤独に包まれる。彼は2人の妻が眠るモンマルトル墓地を好んで散歩した。同年、エステルからこれまでやり取りした手紙をすべて廃棄するよう要求される。彼は手紙を焼き、「すべて燃やしてしまい、残っているのは封筒だけです」と報告した。本当は最後の手紙だけはとっておいた。
1869年3月8日、パリで死去。享年65歳。回想録の最後の言葉は「ステラ、ステラ!今や私は苦しみなしに死ぬことが出来る…」。
他界翌年、内容が同時代人に言及していることから、“生きている間は発表しない”と決めていた『回想録』が出版される。

1882年、『ベルリオーズ書簡集』が出版され、作曲家グノーが次の序文を書いた。「群衆は先を目指す者を鞭打って十字架にかける。最初は、である。しかし、時を経過して必ず後悔し、やがて自らの決定をくつがえすものだが、それもきまって同時代のことではなくて、はるか後々の子孫の後悔によるのであって、天才の墓の上に、自分の額(ひたい)には到底被せてもらえぬ“不滅”の王冠を雨と降らすのだ」「現代における成功とは、おおむね単なる流行の問題でしかない場合がきわめて多い。それは、作品が時代の水準に達していることを証明しはするが、時代を超えてなお生き延びる保証には全然ならない。だからそれ(成功)を手にしたからといって誇るべきことは何もないのだ」「彼の『幻想交響曲』は、まさに音楽における一大事件であった。その重要さは、ある者の熱狂的な賞賛と同様、他の者の激烈な反対によっても鮮やかに証明されたのである。ベルリオーズが考案した固定楽想は、以降の多くの作曲家が取り入れている。また、器楽用法の領域でも革命を起こした。しかし、複数の輝かしい功績にもかかわらず、彼は生涯を通じて、フランスにおいても外国においても、強い憎しみの対象だった。聴衆は彼を見捨て、思わしいだけの人気を得ることが出来ぬうちに死んだ」「ベルリオーズの作品にあっては、すべての印象や情感は、極端なまでに拡張展開させられている。彼は、喜びや悲しみを狂気の態でしか知らなかった者のようだ。自分自身で言っていたように、彼はまさに“火山”であった。彼のとどまるところを知らぬ感受性は、我々を悲しみの果てへと同様、喜びの極みにも深く連れ込んでいく」
1890年、他界21年後に『トロイアの人々』が、初めて全曲上演される。ただし、会場はドイツであり歌詞もドイツ語版だった。同年、『ベアトリスとベネディクト』のパリ初演。
1969年、没後100年を記念して、ついに本家フランスでフランス語版の『トロイアの人々』が全曲上演される。指揮はコリン・デイヴィス。
1989年、フランス革命200周年を祝ってオペラ・バスティーユ(新オペラ座)が建設され、?落としにベルリオーズの『テ・デウム(神への讃歌)』が選ばれた。
1990年、オペラ・バスティーユで最初に上演されるオペラに大作『トロイアの人々』が選ばれた。生前は前衛すぎるとして国民にそっぽを向かれていたベルリオーズの音楽だが、今やフランス人の大規模なセレモニーで欠かせない作曲家となった。…というか、その後のフランスを代表する作曲家、ドビュッシー、フォーレ、サティ、ラヴェルらの音楽には、国家的な式典に相応しいスケールの曲がないという現実もある。文字通り、ベルリオーズはフランス音楽史の巨星となっている。


〔墓巡礼〕
標題音楽を確立し、色彩豊かな管弦楽曲を生んだベルリオーズ。彼が登場する前にも音楽による標題的表現を試みた作品はあり、ベートーヴェンが1808年に交響曲第6番『田園』を完成させている。だがベートーヴェンが描いたものは風景や気分であり、物語を描いたのはベルリオーズが最初だった。
18世紀後半まで、パリのド真ン中に1300年もの歴史を持つサン・イノサン教会の巨大共同墓地があった。土葬であったため屍体の腐敗臭が酷く、井戸水が汚染され疫病の発生源になり、衛生状態が限界に達したことから、フランス革命の4年前、1785年に当局はサン・イノサン墓地の閉鎖を決定した。パリ中心部での埋葬が禁じられたことを受けて、19世紀初頭に北のモンマルトル墓地、東のペール・ラシェーズ墓地、西のパッシー墓地、南部のモンパルナス墓地が建設された。
ベルリオーズの墓はパリ北部(18区)のモンマルトル墓地にある。メトロ2号線のブランシュ駅から地上にあがり、クリシー通りを300m北西に進むと墓地の入口に着く。道の途中には有名なキャバレー「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」がある。たくさんの画家が暮らすこの地区は、かつてモンマルトル採石場があった。1798年、採石場の跡地に現在のモンマルトル墓地の原型となった墓地が開かれ、1825年に本格的に利用が開始された。
芸術家の街ゆえモンマルトルには作家や画家が多く眠る。文豪スタンダール、アレクサンドル・デュマ、ゾラ(旧墓)、詩人ハイネ、画家のドガ、ギュスターヴ・モロー、映画監督のフランソワ・トリュフォー、ダンサーのニジンスキー、音楽関係ではベルリオーズ、オッフェンバックの他にクラリネットを改良してサクスフォンを発明したアドルフ・サックスがいる。

ベルリオーズの墓は墓地の20区にある。管理人事務所でマップをもらい歩き始めると、メインストリートに面しているため彼の墓はすぐに見つかった。立派な黒大理石の墓は、没後100年を機にフランス国民の寄付で1970年に建てられた。墓石の右側面に先妻ハリエットと後妻マリーの名があり、左側には国民の寄付で建立されたことが刻まれていた。

※早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。
※文人テオフィル・ゴーティエいわく「ベルリオーズはユーゴー(作家)やドラクロワ(画家)とともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」
※ベルリオーズはオーケストラを育成し、技量を高めた点で指揮者としても第一級の巨匠となった。一方、ピアノは苦手だった。演奏しない音楽家であり、音楽史に名を刻む作曲家でピアノが不得手なのは彼くらいではないだろうか。
※ホラーSF小説『ユーフォニア』を執筆している。
※ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていた。
※日本初演は1929年5月9日、近衛秀麿と新交響楽団(現NHK交響楽団)が行った。
※ベートーヴェンは『荘厳ミサ曲』の草稿を10歳年上の作曲家ケルビーニに捧げ、「この曲で何か気づいた点があったら言って頂きたい」と指導を求めている。一方、ベルリオーズはケルビーニを「かの高名な老いぼれ」とこき下ろした。
※ベルリオーズ「神が神であるごとく、バッハはバッハなのだ」
※グランド・オペラ…19世紀フランスで成立したオペラの様式のひとつ。4幕か5幕からなり、大規模編成の管弦楽を伴う群衆による合唱を重視。題材は神話や歴史的人物などの叙事詩からとられ、舞台装置を活用して天変地異を表現し、派手な照明効果を使う。途中で華麗なバレエが挿入され、語りの部分は音楽にのせて行われる様式(レチタティーボ)。語りの部分に音楽がなく、セリフだけのものがコミック・オペラ。グランド・オペラの代表的作曲家は「ユグノー教徒」(1836)のジャコモ・マイヤーベーア。グランド・オペラは派手さを好む新興ブルジョワの圧倒的支持を得、オーベールの「ポルティチの唖娘(おしむすめ)」(1828)、ロッシーニの「ウィリアム・テル」(1829)、ベルリオーズの「ベンベヌート・チェリーニ」(1838)などがある。

〔参考資料〕『ベルリオーズ回想録』(ベルリオーズ/清水修訳/音楽之友社)、『音楽のグロテスク』(ベルリオーズ/森佳子訳/青弓社)、『大作曲家は語る』(小林利之編/東京創元社)、『クラシックの偉人伝』(クラシックジャーナル/自由国民社)、『中欧・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社)、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『裏側から見るクラシック作曲家』(上原章江/yamaha)、『世界人物事典』(旺文社)、『名曲事典』(音楽之友社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)ほか。



★ショスタコーヴィチ/Dmitrii Shostakovich 1906.9.25-1975.8.9 (ロシア、モスクワ 68歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 

墓に刻まれた楽譜はショスタコーヴィチが自分を表すモティーフとして使用していた音符。
楽譜はドイツ音名「D・Es・C・H」で日本語の発音では「デー・エス・ツェー・ハー」(イタリア音名だとレ・ミ♭・ド・シ)。
つまり、名前のドミトリー・ショスタコーヴィチ "D"mitri  "S""C""H""ostakovitchにかけているわけ!
ヴァイオリン協奏曲や、弦楽四重奏曲など多くの作品に使用されている。※情報を下さったS.Jさん、有難うございます!

交響曲の歴史は1732年(ハイドン誕生)に始まり1975年(ショスタコービチ死去)に終わった、そう考えるクラシック・ファンが多い




★シェーンベルグ/Arnold Schoenberg 1874.9.13-1951.7.13 (オーストリア、ウィーン 76歳)1994&2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria 本名:Arnold Schonberg

 

現代音楽の作曲家シェーンベルグの墓は、デザインの方も超モダン。

中期以降のシェーンベルグは難解すぎて全くついていけないけど、初期の『浄夜』は素晴らしい。やっぱり音楽はメロディーが肝心!




★サン=サーンス/Charles Camille Saint-Saens 1835.10.9-1921.12.16 (パリ、モンパルナス 86歳)1989&2002

Cimetiere de Montparnasse, Paris, France

1989 2002

オペラ作曲家だけが重んじられ、器楽曲の作曲家が軽視されていた19世紀フランス楽壇にあって、数多くの優れた器楽曲を書いた作曲家。
1835年10月9日にパリで生まれた。父はサン=サーンスが赤ん坊のときに30代で若死にしており、母クレマンスの手ひとつで育てられた。ピアノの名手だった大叔母から2歳でピアノを習い始め、3歳で絶対音感を会得して4歳でピアノ小品を作曲。1846年、10歳(誕生日前)のときにパリの有名音楽堂で演奏会を開き、ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第3番』とモーツァルトを弾きこなし、ピアニストとして本格的にデビューする。この時、アンコールに際してサン=サーンス少年は「ベートーヴェンの32曲のピアノソナタを全部覚えているので、どれでもリクエストして下さい」と告げ、この“神童”ぶりに新聞は「モーツァルトの再来」と称えた。
1848年、13歳でパリ音楽院に入学し作曲とオルガンを学ぶ。
1852年(17歳)、若手音楽家の登竜門「ローマ賞」に挑戦するが落選。
1853年、18歳で『交響曲第1番』を作曲。初演は作曲者名を隠して行われた。会場にいたベルリオーズ(当時50歳/1803-1869)やグノー(当時35歳/1818-1893)から高く評価されるなど成功を収めたことで、作曲家となる決心をする。フランスではベルリオーズが1830年に『幻想交響曲』を発表してから23年が経っていたが、いまだ器楽曲は未成熟であり、同時代のフランス音楽に理解があった聖セシリア教会の演奏会で披露された。同年、音楽院を卒業しパリのサン=メリ教会のオルガニストとなる。
1857年(22歳)、オルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せたサン=サーンスはパリの教会オルガニストの中で最高の地位となるマドレーヌ教会のオルガニストに抜擢され、20年近く務めた。
1858年(23歳)、『ピアノ協奏曲第1番』を作曲。ホルンのファンファーレで始まり、フィナーレを絢爛豪華に締めくくる意欲的なこの作品はサン=サーンスの独奏で初演された。この作品によって「本格的なピアノ協奏曲を書いた最初のフランス人」と見なされるようになった。
※『ピアノ協奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=GFPBIZenrqk
1859年(24歳)、『ヴァイオリン協奏曲第1番』を作曲。若々しく伸びやかな作風。
1861年(26歳)、パリの宗教音楽学校の校長ニデルメイエールが他界し、サン=サーンスが教師として呼ばれる。彼は生徒のフォーレたちに宗教音楽学校の正規授業には含まれていない、ショパン、リスト、シューマン、ワーグナーなどの音楽も紹介し、最新の音楽に触れる機会を与えた。約4年間教職に就く。
1863年(28歳)、名ヴァイオリニストのサラサーテのために『序奏とロンド・カプリチオーソ』を作曲。ヴァイオリンと管弦楽のための協奏的作品。スペイン風のメランコリックな響きもあって初演当時から人気曲となる。
1864年(29歳)、応募資格が30歳までの「ローマ賞」に12年ぶりにラストチャレンジしたが、審査員好みの曲を書かなかったため落選した。
1868年(33歳)、『ピアノ協奏曲第2番』を作曲。サン=サーンスの代表作の一つとなる。アンチ派には「(曲調が)バッハに始まり、オッフェンバックに終わる」と揶揄されたが、当時最高のピアニスト、フランツ・リスト(1811-1886)が高く評価し人気曲となった。
1870年(34歳)、プロイセンとの間に普仏戦争が勃発。サン=サーンスも従軍する。翌年、敗戦。
1871年(36歳)、ドイツ音楽の模倣でないフランス音楽の普及を目指したサン=サーンスは、若手作曲家たちに器楽作品の発表の場を与えて作曲活動を鼓舞する目的で、フランク、フォーレたちと『国民音楽協会』を組織した。そして自ら率先して多数の優れた器楽作品を書きあげた。同年、リストに刺激をうけ初めて交響詩『オンファールの糸車』を作曲。小アジアの女王オンファールが回す糸車を音で表現するなど、ヘラクレスを虜にした彼女の魅力を描いた。
※『オンファールの糸車』 https://www.youtube.com/watch?v=96aapx3DFdM
1872年(37歳)、『チェロソナタ第1番』が初演され成功したが、聴いていた母にフィナーレが気に入らないと言われ、後日書き直す。サン=サーンスは母の感想を重視した。同年『チェロ協奏曲第1番』を作曲。
1873年(38歳)、2作目の交響詩『ファエトン』を作曲。ファエトンはギリシャ神話の太陽の神ヘリオスの子。ある日、ファエトンは太陽の馬車を操って天空を駆け巡った。そのために地上が炎上しそうになり、激怒したゼウスの雷に打たれてファエトンは絶命する。サン=サーンスはこの物語を10分間の音詩にし、太陽の馬車の疾走を表現した。
※『ファエトン』 https://www.youtube.com/watch?v=PDS1yWhmONA
1874年(39歳)、交響詩『死の舞踏(Danse macabre)』を作曲。サン=サーンスが描いた内容は「冬の真夜中に死神が舞踏曲を奏で、墓石の上で骸骨が踊り狂う。骨はガチャガチャとぶつかり、やがて鶏が鳴き、骸骨は我先にと墓へ戻る」というもの。24時の鐘はハープで、鶏の鳴き声はオーボエで描かれている。現在は人気曲だが、初演時は「シロフォン(木琴)による骨のかち合う表現などは作曲者の悪趣味の極み」と非難された。
※『死の舞踏』 https://www.youtube.com/watch?v=71fZhMXlGT4
1875年(40歳)、『ピアノ協奏曲第4番』を作曲。サン=サーンス自身のピアノで初演。主題を循環させて全曲の音楽的統一を高めた。協奏曲では珍しく2楽章で構成されているが、各楽章が複数の部で成り立っている。終盤部のピアノのうねるようなグルーヴ感が素晴らしい。コンサートで演奏される機会も多い。
※『ピアノ協奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=xUvLt9QonGk (26分)
※上のサビ https://www.youtube.com/watch?v=xUvLt9QonGk#t=20m47s
この年、サン=サーンスは教え子の妹で19歳のマリ・ロール・エミリ(21歳差)と結婚する。年末に長男アンドレが生まれる。

1876年(41歳)、弟子のフォーレが傑作『ヴァイオリンソナタ第1番』を作曲し、初演を聴いたサン=サーンスは「子供が成長して自分の手元を離れてゆく時に覚える母親の悲しみを今晩味わった」とフォーレに語った。室内楽ソナタの不毛の地であったフランス楽壇は、サン=サーンスやフォーレがこの分野を開拓したことで、多くの作曲家が後に続くようになる。
1877年(42歳)、オペラ『サムソンとデリラ(ダリラ)』(全3幕)初演。サン=サーンスが生涯に作曲した13曲のオペラのうち、最大のヒット作。旧約聖書「士師記」第13章から第16章のサムソンの物語に基づく。初演はリストの強い要望で現ドイツ・ワイマールの宮廷歌劇場で行われ、現地で大成功を収めた。フランス初演は13年後の1890年。物語の舞台はパレスチナ。神から与えられた怪力で怖いものなしのサムソン。対立するペリシテ人は美しいデリラを利用してサムソンを誘惑させる。デリラは言葉巧みにサムソンの弱点が「髪を切ること」と聞き出す。髪を切られ目を潰されたサムソンは、デリラの誘惑に負けたことを深く後悔した。サムソンが神に祈ると再び力が戻り、鎖で繋がれていた柱を引き倒す。神殿は崩壊し、サムソンもデリラもすべてを押し潰すのであった。宗教的でありながら、誘惑を描くなど官能的でもある物語。
同年、最後の交響詩『ヘラクレスの青年時代』を作曲。『サムソンとデリラ』とテーマが似ており、ヘラクレスはニンフの誘惑をふりきって英雄としての自覚を取り戻す。自作の交響詩についてサン=サーンスいわく「『死の舞踏』は“死の恐怖と風刺”、『オンファールの糸車』は“誘惑”、『ファエトン』は“誇り”、『ヘラクレスの青年時代』は“英雄主義と性的な快楽との煩悩”が表現されている」。この年、すべての役職を放棄して作曲に専念する。次男ジャン・フランソワ誕生。
1878年(43歳)、3歳の長男アンドレがアパートの窓から転落死、続けて生後7カ月の次男ジャンが肺炎で旅立つ悲劇が襲う。
1880年(45歳)、アルジェリア旅行の印象をもとに管弦楽のための組曲『アルジェリア組曲』を作曲。「アルジェを目指して」「ムーア風狂詩曲」「夕べの幻想 ブリダにて」「フランス軍隊行進曲」の4曲
で構成。冒頭の船旅を思わせる地中海から見たアルジェの景色が素晴らしい。
同年、傑作『ヴァイオリン協奏曲 第3番』を作曲。華やかで優美な旋律があふれ、アリアのような叙情性もあり、サン=サーンスが書いた器楽曲の代表曲のひとつ。第2楽章の舟歌が心地良い。初演者のサラサーテに献呈された。。
1881年(46歳)、妻マリと別れる。6年間の結婚生活だった。以降、サン=サーンスは母クレマンスと暮らし、10年後に母が他界すると30年を1人で過ごす。同年アカデミー会員に推薦される。
1885年(50歳)、『ヴァイオリンソナタ 第1番』を作曲。全2楽章。暗い情念が渦巻く冒頭から緊張感が漂う。緊密な構成で展開される人気曲。

1886年(51歳)、サン=サーンスが「この曲には私が注ぎ込める全てを注ぎ込んだ」と語った『交響曲第3番 オルガン付き』を作曲。オーケストラの編成にパイプオルガンが加わる交響曲は非常に珍しいうえ、ピアノが協奏曲の主役ではなく一つの楽器として4手(よつで、連弾)で参加しているのもユニーク。管弦楽の華麗な響きを存分に楽しめ、輝かしいオルガンの音色とフィナーレの息詰まる興奮でサン=サーンスの代表曲となった。本作は『ピアノ協奏曲第4番』『ヴァイオリンソナタ第1番』と共に全2楽章(ここでは「第1部・第2部」としている)という特徴を持っている。サン=サーンスはドビュッシーら若手印象派から保守的な作曲家と思われているが、伝統的なスタイルも踏まえつつも、固定の旋律を変化させて再登場させる循環形式を用いるなど、新たなスタイルに挑戦していた。この『オルガン付き』は初演直後に他界した友人リストに献呈された。リストは交響詩の創始者であり主題変容の先駆者だった。後に作家マルセル・プルースト(1871-1922)は『失われた時を求めて』に登場する音楽家ヴァントゥイユのソナタをこの曲から着想した。
この1886年にはサン=サーンスの名を不朽にした人気曲「白鳥」を含む、2台のピアノと小オーケストラのための組曲『動物の謝肉祭』も作曲されている。様々な動物を描いた全14曲で構成。
第1曲「序奏と獅子王の行進曲」…序奏に続いてライオンの歩みと吠える声。
第2曲「めんどりとおんどり」…ピアノと弦楽器が鶏の鳴き声を模倣しあう。
第3曲「らば」…走り回る野生のらば(ロバと馬の雑種)。
第4曲「亀」…オッフェンバックの『天国と地獄』のカンカンをわざとゆっくり演奏するパロディー曲。
第5曲「象」…コントラバスによる象のワルツ。ベルリオーズの『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」、メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』の「スケルツォ」を低音に引用。
第6曲「カンガルー」…ピアノで飛び回るカンガルーを描写。
第7曲「水族館」…透明感のあるグラスハーモニカの幻想的なメロディーにピアノのアルペジオ(分散和音)が寄り添う。映画やテレビでよく使用される。
第8曲「耳の長い登場人物」…ロバの鳴き声。サン=サーンスを敵視する音楽評論家をロバと見なしての皮肉。
第9曲「森の奥のカッコウ」…ピアノが奥深い森を表現し、クラリネットがカッコウの鳴き声を模倣。
第10曲「大きな鳥籠」…フルートが小鳥になって軽やかに飛び回る。
第11曲「ピアニスト」…サン=サーンスのユーモアが炸裂。わざと下手にピアノの練習曲を弾き、何度も調を変えて弾き直す。
第12曲「化石」…『死の舞踏』の「骸骨の踊り」の旋律で始まり、“音楽の化石”としてロッシーニの『セビリアの理髪師』の「ロジーナのアリア」の他、「きらきら星」など古い民謡が組み合わされる。ロッシーニはかつて欧州で人気があったが今はフランス・オペラがあり化石のようなものとする皮肉。
第13曲「白鳥」…きらめく湖面のようなピアノのアルペジオの上を、チェロの白鳥が優雅に泳ぐ。ミハイル・フォーキンの振付や、アンナ・パヴロヴァの舞踊によるバレエ「瀕死の白鳥」によって、この曲の知名度が一気に上がった。
第14曲「終曲」…カーテンコールとして今までの各曲の旋律が登場し華やかに終わる。

この『動物の謝肉祭』は非公開のプライベートな夜会のために作曲されたものであり、他人の楽曲を風刺的に用いていることもあって、サン=サーンスは自身が死去するまで出版・演奏を禁じた。例外的に完全オリジナルの「白鳥」だけは生前の公開演奏と楽譜出版が許された。プロコフィエフの『ピーターと狼』、ブリテンの『青少年のための管弦楽入門』と共に子ども向け管弦楽曲として重宝されている。
※『動物の謝肉祭』 https://www.youtube.com/watch?v=_2mgi0eL9Sw(動物の写真つき。カッコウは間違ってるけど)
1887年(52歳)、『ホルンと管弦楽のための演奏会用小品』を作曲。約9分の短い曲だが、ホルンが主役という、世のホルン奏者にとってかけがえのない宝物となる。
1892年(57歳)、ケンブリッジ大学から音楽博士の称号を贈られる。
1896年(61歳)、避寒先のエジプト・カイロで『ピアノ協奏曲第5番』を作曲。第2楽章のエキゾティックな雰囲気から「エジプト風」の愛称で呼ばれる。第3楽章では航海の楽しみが描かれ、船のプロペラの動きが模されている。デビュー50周年の記念コンサートで初演され、61歳のサン=サーンスがピアノ独奏を担当した。
1905年(70歳)、円熟の『チェロソナタ第2番』を作曲。サン=サーンスは第3楽章について「繊細な人々に涙を流させるでしょう」、第4楽章について「前の楽章で眠ってしまった皆の目を覚まさせるでしょう」と手紙に記した。
1908年(73歳)、世界初の映画音楽を『ギーズ公の暗殺』のため作曲する。サイレント映画ゆえスクリーンの前で楽士たちによって約18分間生演奏された。フランスで起きた1588年のギーズ公アンリ1世暗殺事件を描く。
※『ギーズ公の暗殺』(L'assassinat du Duc de Guise)
https://www.youtube.com/watch?v=bh0tonXPEKQ
1913年(78歳)、最高勲章のグラン・クロワを贈呈される。晩年は北アフリカや南北アメリカなど世界各地をひろく演奏旅行。
1919年(84歳)、オルガンと管弦楽のための作品『糸杉と月桂樹』を作曲。西洋では糸杉は死や葬送を、月桂樹は栄光を象徴する植物であり、前年に終結した第一次世界大戦の犠牲者の鎮魂と、勝利の凱歌。名オルガニストのサン=サーンスが、人生の最晩年に13年前の『交響曲第3番』に続くパイプオルガンを活躍させる作品を書いた。
※『糸杉と月桂樹』 https://www.youtube.com/watch?v=GTqdwd0QaNg (オルガンとトランペットが爽快!)
1921年(86歳)、サン=サーンスはレパートリーに恵まれていない楽器に貢献したいと考え、「ほとんど顧みられてこなかった楽器」を取り上げ、『オーボエ・ソナタ』『クラリネット・ソナタ』『バスーン・ソナタ』を完成させた。そのシンプルで澄み切った響きによって楽器奏者の重要なレパートリーとなっている。クラリネット・ソナタの第3楽章は厳粛な空気に包まれており別れの言葉にも聞こえる。しかも続く終楽章の最後で第1楽章の冒頭の旋律に戻るため、生命の環のようにも思える。この他にフルート、アルト・オーボエなど3つの楽器のソナタを書く計画があったという。
1921年12月16日、アルジェリアの旅行中に首都アルジェで客死した。ピアノを練習中に他界したとも伝わる。享年86歳。人生のほとんどを作曲に捧げた人物の死に際し、フランス政府はその功績に敬意を払って国葬とした。門下からはフォーレがでた。

サン=サーンスやフォーレの努力によってオペラ以外の器楽曲=純音楽がフランスでも認められるようになった。サン=サーンスはドビュッシーら印象派作曲家から古い保守主義者と見なされていたが、2楽章形式の交響曲・ソナタを書いたり、映画音楽を最初に作曲したり、『動物の謝肉祭』でパロディーをやるなど、様々な音楽分野で意欲的な試みを行っている。人生の一番最後に、ヴァイオリンやピアノといったスター楽器ではない、陽の当たらない木管楽器のためにソナタを書いていたことに、すべての楽器を愛する彼の優しさ、室内楽を開拓した先駆者のエネルギーと音楽全体への愛を感じる。

〔墓巡礼〕
墓所はセーヌ川左岸パリ14区のモンパルナス墓地(1824年開設)。入口の事務所で墓マイラー用の地図がもらえるので、それを見ながら第13区画へ行こう。サン=サーンスの墓はタテ長の聖堂型。周囲に似た墓がたくさんあるうえ、通りから離れた場所に建っているため、発見までかなりの時間がかかった。足を運ばれる方は時間に余裕をもって訪れてほしい。墓前にて、繊細かつ優美な旋律と、厳格に守り抜いた古典主義的表現のバツグンの安定感で穏やかに聴き手を魅了する彼に感謝を伝えた。
同墓地には作家モーパッサン、詩人ボードレール、哲学者サルトル、写真家マン・レイ、20世紀を代表するフルート奏者のジャン・ピエール・ランパル(フルートをピアノのようにソロ演奏会が可能な楽器と初めて世界に知らしめた)、シャンソン歌手のセルジュ・ゲンズブールらも眠る。

※音楽だけでなく、ラテン語、文学、天文学(天体望遠鏡を購入)、考古学、幾何学にも論文を残すなど造詣が深かった。
※チャイコフスキーのように同性愛者とも伝わる。
※サン=サーンスは黒い愛犬をデリラと名付けた。
※グノーの個人教授を受けた。
※ドビュッシーは印象主義に否定的なサン=サーンスの保守性を批判しながらも、「サン=サーンスほどの音楽通は世界広しといえどもいない」と優れた知性を認めていた。
※パリの有名墓地は古い順に、東のペール・ラシェーズ墓地(1804年開設、約43ヘクタール)、西のパッシー墓地(1820年開設、約2ヘクタール)、南のモンパルナス(1824年開設、3万5千の墓石、18.8ヘクタール)、北のモンマルトル(1825年開設、10.5ヘクタール※原型となった墓地は1798年からある)



★ロッシーニ/Gioacchino Antonio Rossini 1792.2.29-1868.11.13 (イタリア、フィレンツェ 76歳)2004
Santa Croce Church, Florence, Toscana, Italy

フィレンツェの墓(2004) パリの墓(2009)※最初の墓

イタリアの作曲家。わずか19年という作曲期間に39編ものオペラを作曲し、後半生の40年を美食家として悠々自適に過ごした。1792年2月29日、ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニはアドリア海沿岸のイタリア・ペーザロで音楽一家に生まれた。父はトランペット奏者、母は歌手という恵まれた音楽環境にあり、一人っ子ゆえ一身に愛を集めた。1796年、ロッシーニが4歳のときに、フランス革命に共感していた父は投獄されてしまう。1800年(8歳)、母親はボローニャに移住、劇場で歌手として働いた。ロッシーニも早くから教会で歌うなど声楽家を目指すようになるが1807年(15歳)にボローニャ市立音楽学校に入学すると作曲家を志すようになった。
在学中の1808年(16歳)に劇場作品の処女作『デメトリオとポリービオ』を作曲(初演は4年後)。1810年(18歳)、一幕オペラ『結婚手形』をヴェネチアで初演しオペラ作曲家としてデビューした。1812年(20歳)に初演した『試金石』が初のヒット作となり兵役を免除される。楽想があふれ出て、この一年だけでオペラを5作も書きあげた。ちなみに7年後の1819年にも5作完成。1819年までの8年間(20歳〜27歳)に生涯の39曲中、実に27曲を集中的に作曲している。

翌1813年(21歳)、ヴォルテールの悲劇作品を脚色した初の本格的オペラ・セリア(シリアス劇)『タンクレーディ』が大ヒットし、ロッシーニの名はイタリア全土で高まった。続くオペラ・ブッファの『アルジェのイタリア女』もヒットしたことで、名声は国境を超えてヨーロッパ中に広まる。1814年ベートーヴェンが交響曲第8番第2楽章のフィナーレでロッシーニのパロディをした。1815年(23歳)、ナポリで『エリザベッタ』初演。同地のサン・カルロ劇場の音楽監督としてオペラ・セリアの傑作を生み出す。

1816年、24歳のときにローマで初演した『セビリアの理髪師』は生涯最大の成功作となり、オペラ・ブッファ(喜劇)作曲家として音楽界に君臨した(ただし初演そのものはライバル劇場が動員した野次軍団の妨害や舞台にネコが乱入して大失敗だった)。『セビリアの理髪師』はモーツァルトが30年前(1786年)に作曲した『フィガロの結婚』の前日談でフランスの劇作家ボーマルシェ(1732-1799)の喜劇三部作の第一部にあたるもの。ロッシーニは『セビリアの理髪師』をわずか13日間で完成させた。同年にオペラ・セリアの『オテロ』完成。
翌1817年にブッファの『チェネレントラ(シンデレラ)』『泥棒かささぎ』を発表。1822年(30歳)、スペイン出身のソプラノ歌手イザベラ・コルブランと結婚する。
数年前からウィーンでもロッシーニは大人気であり、この年に『ゼルミーラ』上演でウィーンを訪れると市民から大歓迎を受けた。ウィーンの人々はベートーヴェンやシューベルトよりロッシーニに夢中になった。ロッシーニが22歳年上のベートーヴェン(当時52歳、他界5年前)に会いに行くと、ベートーヴェンから『セビリアの理髪師』を賞賛され、「あなたはオペラ・ブッファ以外のものを書いてはいけません」とアドバイスを受けた。
1823年(31歳)イタリア時代の最後のオペラ、表情豊かな序曲で知られる愛の悲劇『セミラーミデ』(ヴォルテール原作)初演。同年、パリを訪問。フランスの文豪スタンダールいわく「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」。

1824(32歳)にパリのイタリア座の音楽監督に就任。翌1825年(33歳)、フランス国王シャルル10世即位を記念し、オペラ・カンタータ『ランスへの旅』を国王に献呈、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得た。
1829年(37歳)、中期の代表作であり最後のオペラ『ウィリアム・テル』をパリで初演。26歳のベルリオーズ(1803-1869)は『ウィリアム・テル』を見て「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と感嘆した。ところがロッシーニは、それからまだ約40年も生きていたにもかかわらず、オペラ作曲の筆を断ってしまう。そして1832年以降は、宗教曲、歌曲、ピアノ曲、室内楽曲などの小品を作曲した。1836年(44歳)、1歳年上のマイアベーア(1791-1864)の大規模なグランド・オペラ『ユグノー教徒』の大成功で新時代の到来を認識、不眠症に悩まされたことから休養のためイタリア座を辞めて、ボローニャの父のもとに帰国した。1837年イザベラと離婚、尿路結石の手術。1839年、若い頃に音楽を学んだボローニャ音楽学校の校長となり、穏やかな日々を過ごす。食通だったロッシーニは、芸術家としての情熱が創作料理に向かっていった。
※マイアベーアの『ユグノー教徒』は1572年にカトリックがプロテスタントを大量虐殺した「聖バーソロミューの虐殺」を描き、この“他者への不寛容”は現在に通じるテーマになっている。1906年、パリ・オペラ座で1000回以上公演された初のオペラとなった。

1842年(50歳)、後期の唯一の代表作となる宗教曲『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』を発表。歌詞は中世の詩「悲しみの母は立っていた/十字架の傍らに、涙にくれ/御子が架けられているその間」など極めて哀切なもの。ロッシーニはこの曲を教会儀式から解放し、コンサート用の宗教音楽として書いた。
1845年(53歳)、イザベラが他界。1846年(54歳)、美術モデルでバルザックの元愛人オランプ・ペリシエと再婚。1848年(56歳)、フィレンツェに移住。1855年(63歳)、グルメの追求と病気治療をかねて再びフランスに渡り、パリで高級レストランを経営する。
晩年は淋病、躁鬱病、慢性気管支炎で苦しみ直腸癌を発症。手術はうまくいかず、オランプ夫人の看病のもと1868年11月13日パリ近郊のパッシーで没した。享年76歳。ロッシーニは死後に天国でモーツアルトに会えるのを楽しみにしていた。

ロッシーニは生前に絶大な人気を誇っていたのに、死後はみるみる存在を忘れ去られ、『セビリアの理髪師』の一発屋として人々に記憶された。『チェネレントラ(シンデレラ)』『ウィリアム・テル』の作曲家としてだけ名をとどめるた。ロッシーニ全集の出版を経て1970年代にオペラの再評価が始まり、アバドが『ランスへの旅』を約150年ぶりに再上演するなど、ロッシーニの愛好家がロッシーニ・ルネサンスを開始。故郷ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルは大盛況になっている。

ロッシーニは陽気なモーツァルトの作品を愛し、オペラ・セリア(シリアス劇)よりもオペラ・ブッファ(喜歌劇)を得意とした。オペラ・ブッファはユーモラスな演技とメロディアスな歌、軽妙な物語で構成された。ロッシーニは親しみやすく分かりやすいフレージングと歯切れの良いリズムで観客の心を捉え、18世紀前半から続いたオペラ・ブッファの最後のきらめきを飾った。ロッシーニの明快で聴きやすい旋律と華やかな作風は今も世界中の音楽ファンから愛されている。

【墓巡礼】
ロッシーニの墓は2箇所ある。最初の埋葬地は、ロッシーニが没する19年前に他界したショパン(1810-1849)や、7年後にビゼー(1838-1875)が眠るパリのペール・ラシェーズ墓地。1804年に開設された同墓地はパリ市内で最大の墓地で、世界一訪問者が多い墓地(年間数十万人以上)として知られている。モジリアニ、オスカー・ワイルド、ドラクロワ、エディット・ピアフ、ジム・モリソンらも同じ墓地に眠る。地下鉄メトロ3号線に乗ってペール・ラシェーズ駅で降りるとすぐだ。面積は43ヘクタール、甲子園球場の約11倍もあるが、ロッシーニの墓は正門から続くメイン・ストリートに面しているため簡単に見つけられる。門から100mほど進むと左手に「ROSSINI」と上部に彫られた縦長の霊廟が建っている。
ロッシーニの亡骸は、他界19年後にオランプ夫人の遺言(ロッシーニの希望でもあったという)によって1887年5月2日にイタリア・フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に改葬された。フィレンツェ最古の広場、サンタ・クローチェ広場に面したこの聖堂は、アッシジのフランチェスコが創建。1294年に再建を開始し14世紀後半に完成した。内部には276もの墓があり、ミケランジェロ、ガリレオ、マキャベリなどイタリアの英雄が多数眠ることから、別名「イタリアの栄光のパンテオン」と呼ばれている。世界最大のフランシスコ会の教会でもある。フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅から徒歩20分。イタリアの人々が、ミケランジェロの側に眠る資格があるとみた男ロッシーニ。前半生で作曲をやめてしまったのはもったいないけど、本人が納得しているなら、それはそれでアリ。むしろイタリア人らしいおおらかさを感じる。墓前で手を合わせ、明るく陽気な歌で僕らの人生に潤いを与えてくれた彼に感謝した。

※ロッシーニが好んで使った浮き立つようなクレッシェンドは「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれている。
※ロッシーニはよく同じ旋律を使い回した。1813年(21歳)のときに書いた『パルミーラのアウレリアーノ』の序曲を、2年後に『イングランドの女王エリザベッタ』の序曲にそのまま再利用しており、3年後にはあの『セビリアの理髪師』の序曲としてまた使っている!
※オペラ『ランスへの旅』の細部を手直してコミックオペラ『オリー伯爵』に作り替えた。
※生前はベートーヴェンよりも人気があり、またショパンなど同時代の音楽家にも人気があった。ベートーヴェンはウィーンの聴衆が自分の音楽を理解せず、ロッシーニの作品に浮かれていることを嘆いた。
※ロッシーニはベル・カント様式の3大作曲家のひとり(他にドニゼッティ、ベルリーニ)にあげられる。“ベル・カント”はイタリア語で「美しい歌唱法」の意味。ベル・カントは17世紀後半〜19世紀初期に盛んだった。従来の「歌詞優先主義」の反動として誕生し、劇の内容や感情表現よりも旋律の美しさを最優先させた。美声が重視され、うまく歌をコントロールしながら柔らかな響きと滑らかな節回しで優雅に歌いあげる名人芸が賞賛された。今でも、古典派からロマン派にかけてのイタリア・オペラのアリアはベル・カントで歌われる。その後、19世紀後半にベルディやワーグナーなどのドラマチックなオペラが台頭し、より重厚な歌唱法に変わっていった。
※オペラ・ブッファ(喜劇)はパイジェッロ、チマローザ、モーツァルトによって頂点を迎えた。オペラ・ブッファでは誇張されたメークやおどけた衣装で観客を楽しませた。
※『フィガロの結婚』は貴族をおちょくった政治的風刺(貴族がバカで下僕の方が賢い)により、舞台版はフランス革命までフランスでは上演禁止になっていた。これにオーストリアでモーツァルトが音楽をつけた。
※ロッシーニに憧れていた21歳年下のワーグナー(1813-1883)は、引退後のロッシーを自宅まで訪ねた。ワーグナーはオペラについて熱く語ったが、ロッシーニはそんなことより料理中の鹿肉の焼き具合を気にしていた。
※海外では2月29日生まれの著名芸術家はロッシーニだけ。日本では映画監督のマキノ雅弘、俳優の原田芳雄、峰竜太、作家の赤川次郎。



★ハイドン/Franz Joseph Haydn 1732.3.31-1809.5.31 (オーストリア、アイゼンシュタット 77歳)1994
Bergkirche, Eisenstadt, Eisenstadt Stadt, Burgenland, Austria//Plot: Private Mausoleum

パパ・ハイドンと慕われた アイゼンシュタットのハイドンハウス この家にハイドンは住んでいた







墓所のベルク教会。霊廟の入口は裏手ゆえ要注意 ここから入っていく。車道から見えず迷った 教会内のハイドン顕彰碑

受付で拝観料を払うと自動で扉が開く この鉄柵の向こうに→ ハイドンが眠っていた!

ウィーン「ハイドンパーク」の端っこに… 移転前の最初の墓が記念碑として残っている

「ハイドンはふざけながら感動を与え、笑いと深い感銘を備え持っている。自分のような者を2人合わせても、まだハイドンの域には到達し得ない」(モーツァルト)

オーストリアの作曲家。106曲もの交響曲を書いた“交響曲の父"。弦楽四重奏曲や交響曲の形式を大成して古典派様式を確立し、モーツァルトやベートーヴェンに多大な影響を与えた(その両者と共にウィーン古典派三巨匠の一人と称えられる)。1797年にナポレオン軍のオーストリア侵攻に対抗して書いた「皇帝賛歌/神よ、皇帝フランツを守り給え」(弦楽四重奏曲第77番「皇帝」第2楽章)は現在のドイツ国歌。68曲の弦楽四重奏曲、62曲のピアノ・ソナタ、オペラ、宗教曲、ダンス音楽、あらゆるジャンルで作曲し、総数は約1000曲(現存約700曲)にのぼる。オーストリア東端のアイゼンシュタットに居城を持つハンガリーのエステルハージ侯爵の宮廷楽長。エステルハージ宮はウィーンから40km離れていたが、楽譜出版により名声はヨーロッパ中に広がった。

1781年(49歳)、25歳のモーツァルトと親しくなり、モーツァルトから6つの弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を献呈されるなど交流を深め、モーツァルト死後は遺児の音楽留学に尽力する。1809年、ナポレオン軍のウィーン侵攻の砲弾が降り注ぐ中で死去。1759年に27歳で最初の交響曲を書き、77歳で没するまで創作意欲が衰えることがなかった。

遺体は熱烈な崇拝者の手で密かに頭部を切り離され、脳容量の研究対象にされたが、約150年を経た1954年に、無事に胴体の元へ戻った。代表作にオラトリオ「天地創造」、交響曲ではロンドンで披露した第94番「驚愕」、第100番「軍隊」、第101番「時計」、第103番「太鼓連打」、第104番「ロンドン」など、ハイドンを英国に招いた興行師の名にちなんだ“ザロモン・セット"の人気が高い。気取りのない人柄と作風から、人々に“パパ・ハイドン"と慕われた。

墓はウィーン郊外(南東、バスで70分)、アイゼンシュタット(Eisenstadt)のベルク教会(Bergkirche)。

※ハイドンの妻アンナ・マリアは、夫が書き上げた楽譜をケーキの台紙や鍋敷にしていた。それゆえか妻の死後「悪妻」という曲を書いている。

 
ハイドンの弟ミヒャエル・ハイドンとモーツァルトの姉ナンネルの墓(ザルツブルク、ザンクト・ペーター教会)



★エルガー/Edward William Elgar 1857.6.2-1934.2.23 (イギリス、リトル・モルビン 76歳)2005
Saint Wulstan's Roman Catholic Churchyard, Little Malvern, Worcestershire,England



コルウォール駅前の郵便局
(英国の郵便局は雑貨も売って
いてコンビニ化している)
お墓への道を尋ねたところ、なんと
ご主人が店番を奥さんに任せて、ガレージ
からマイカーを出してきてくれた!




ダンナさんの名前はロウさん。僕が
「あわわ、仕事中なのに!」とテンパると
「いいんだよ気にするな」。神ですか!?
ダッシュボード上に『ウォレス
とグルミット』のプルプル!

山道を抜け約20分後、リトル・モルビン
の教会に到着。ところが、この墓地に
エルガーの墓はなかった!真っ青の僕
「慌てるな、村人に訊いてみよう」
「ハ、ハイ!」僕はロウさんの後を
ついて行った。(T_T) ウルウル







馬具店で聞き込み中のロウさん

「あの教会だ!今度こそ墓がある
ハズ!」ロウさんもエキサイト
ドキドキ…

「エルガー・グレイブ」
キターッ!





 





エルガー


「やったー!エルガーさんだ!」墓前で思わず僕らは抱き合った。
エルガーさん、あなたがこの土地に眠って下さったおかげで、ここを訪れ
ロウさんと出会えました!ロウさんに会わせてくれて本当に有難う!
ロウさんスマイル

現代イギリス音楽の先駆者、国民的作曲家のエドワード・エルガーは1857年6月2日に英国中部ウスターシャー州のウスター近郊ブロードヒースで生まれた。父は楽器商・オルガン奏者で、エルガーは子ども時代からピアノやヴァイオリン演奏の手ほどきを父から受けた。10歳頃から作曲も始め、12歳のときに兄弟が演じる劇のために劇付随音楽を作曲している(この曲は40年後に日の目を見る)。
16歳のときに父の希望でロンドンの弁護士事務所で働くが、音楽を愛する気持ちから独学で作曲や演奏の技術を学んだ。1877年(20歳)、ハンガリーの有名ヴァイオリニスト、アドルフ・ポリツァーにバイオリンを習う。22歳から病院の付属楽団の指揮者や盲学校の音楽教師、バーミンガムの管弦楽団のヴァイオリン奏者など職歴を重ね、一方でドボルザーク本人の指揮で作品を聴いたり、パリでサン=サーンスのオルガン演奏を聴くなど、音楽体験を積んでいく。常に金欠で27歳のときに友人宛の手紙に「1セントもない」と記す。1885年(28歳)に父の後を継いでウスターの聖ジョージ教会のオルガン奏者となった。
1886年(29歳)、陸軍少佐の娘キャロライン・アリス・ロバーツ(当時37歳)をピアノの弟子にとる。彼女は8歳年上だったが、エルガーは利発なアリスを愛するようになり、彼女もまたエルガーに惹かれた。
1888年(31歳)、婚約記念にヴァイオリンとピアノの小品『愛の挨拶』(当初のタイトルは“アリスのために”)を贈る。だが、無名の作曲家と少将の娘という身分格差や、カトリックのエルガーとプロテスタントのアリスは宗教が異なるなど、アリスの親族は結婚に猛反対し、彼女は勘当されてしまう。
1889年(32歳)、2人は反対を押し切って結婚。エルガーの才能を見抜いたアリスは作曲活動に専念するよう提案、エルガーはオルガン奏者をやめて作曲に集中すると共に、チャンスを求めてロンドンに出た。翌年、一人娘のキャリスが誕生。ときにエルガー33歳、アリス41歳。アリスは生涯にわたって良き妻、優しい母であり、同時に最良の音楽批評家であり、マネージャーであり、霊感を与えるミューズであり、荒波を乗り越えていく同志だった。
※後年、アリスは日記に記す。「天才の面倒を見るというのは、いかなる女性にとっても生涯の仕事として十分なものです」。

1890年(33歳)、ロンドンで鳴かず飛ばずの日々を送るなか、故郷ウスターから音楽祭の楽曲を依頼される。騎士風の序曲『フロワサール』の初演は好評で、エルガーは作曲家として認知された。生活費を稼ぐため、地元で指揮や音楽教師をしばらく続ける。
1892年(35歳)、妻アリスに3回目の結婚記念日のプレゼントとして湯ガウガナ『弦楽のためのセレナード』を作曲。この頃、エルガーは混血の作曲家で「黒いマーラー」と呼ばれたサミュエル・コールリッジ=テイラー(1875-1912※享年37)の作曲活動を応援している。
1898年(41歳)、比較的小規模の作品を書いてきたエルガーは、大曲で世に出たいと思いつつも筆が進まず思い悩む。3歳年下の親友、音楽出版者アウグスト・イェーガー(1860-1909)はそんなエルガーを「神が君に与えた創造力が訓練される時期にあるだけだ、君が世界に認められる時はやってくる」と励まし続けた。ある日、エルガーがピアノに向かって即興のメロディーを物憂げに弾いていると、妻アリスが「今の旋律をもう一度弾いて欲しい」と頼み、エルガーは彼女を喜ばせる為にその旋律を様々に変奏してみせた。エルガーは各変奏の標題に親しい友人のニックネームを暗号のように置き、14の変奏で音楽による肖像画を描き、これを大きな管弦楽作品とした。
1899年(42歳)、ついにエルガーの人生が開かれる。管弦楽曲『謎の変奏曲(正式名称:創作主題による変奏曲)』がロンドンで大喝采を受けた。第9変奏「ニムロッド」は親友イェーガーを描いており、雄大な旋律で特に人気が高い。エルガーはイェーガーと2人でベートーヴェンの音楽の魅力を夜通し語り合い、そのときの雰囲気を美しい音楽にした。ちなみにイェーガーの名前が「ニムロッド」になっているのは、イェーガーにはドイツ語で“狩人”の意味があり、『創世記』に登場する狩人ニムロッドとかけてある。初演の指揮者が高名なハンス・リヒター(1843-1916)であったことも幸運だった。リヒターは第1回バイロイト音楽祭でワーグナーの『ニーベルングの指環』全曲を初演した巨匠。『謎の変奏曲』は第9変奏の甘美なメロディー、アイデアの独自性、構成の精巧さから楽壇で高く評価され、リヒターの絶賛もあってエルガーの名は国際的に知られるようになった。
※この曲の通称「謎(エニグマ)」は主要主題がぼんやりとしていること、そしてエルガーが全曲の底に共通する隠れた主題があることを示唆していることによる。
※『謎〜ニムロッド』 https://www.youtube.com/watch?v=aqvOVGCt5lw

1900年(43歳)、かつて結婚式でニューマン枢機卿から長編詩『ゲロンティアスの夢』を贈られたエルガーは、詩の内容に感動してオラトリオにすることを決意、構想から8年の年月を経て『ゲロンティアスの夢』が完成した。内容は第1部でこの世から旅立った主人公ゲロンティアスが、第2部で天使から祝福を受け、最後の瞬間に神の姿を垣間見てすべてが浄化されるというもの。歴史上の偉人を登場させず、レクイエムという形をとらずに“死”を描いた画期的な作品であり、詩情や精神性がバーナード・ショーやリヒャルト・シュトラウスから絶賛された。リヒャルト・シュトラウス「イギリスの最初の進歩的な作曲家マイスター・エルガーの成功と健康のために乾杯」。イギリスにおいて、「オラトリオ=ヘンデル」という固定観念に250年ぶりの変革をもたらした。以降、ヘンデル『メサイア』、ハイドン『天地創造』、メンデルスゾーン『エリヤ』などと並ぶ傑作オラトリオとして愛聴されている。前年の『謎の変奏曲』に続いて『ゲロンティアスの夢』を発表したことで、エルガーの名は不動のものとなった。
※『ゲロンティアスの夢』 https://www.youtube.com/watch?v=9Bg52cVVmTc

1901年(44歳)、“イギリス第2の国歌”とまで称えられ、エルガーの代表作となる管弦楽行進曲『威風堂々 第1番』を作曲。原題はシェイクスピア『オセロ』の台詞「Pomp and Circumstance」で、これを“威風堂々”と意訳している。サビの旋律がひらめいたとき、エルガーは「とてつもないメロディーを思いついてしまった!」と大いに興奮したという。初演は8週間に及ぶ世界最大のクラシック音楽祭「BBCプロムス(プロムナード・コンサート/ロンドン)」の最終夜。演奏が終わると聴衆は立ち上がって歓声をあげ、プロムスの歴史で初めて管弦楽曲が2度のアンコールを受けた。国王エドワード7世(1841-1910)はサビの旋律に歌詞を付けることを希望し、エルガーは翌1902年に王のための『戴冠式頌歌(しょうか)』を作曲、その終曲『希望と栄光の国』(Land of Hope and Glory)に第1番の旋律を使った。『威風堂々』は全6曲あり順次作曲され、第1番は最も人気がある。プロムスでは最終日に『希望と栄光の国』が演奏されるのが恒例となった。同年、第2番を作曲。1953年のエリザベス2世の戴冠式(即位は前年)では歌詞のKingがQueenに変更された。
※イギリスと何度も戦争してきたフランス人が演奏!フランス国立管弦楽団によるエッフェル塔前での『威風堂々第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=Ghxwky3Qt4U

1903年(46歳)、オラトリオ『使徒たち』作曲。壮大な世界観で12使徒を描いた。イタリア旅行を満喫、翌年その印象をもとに管弦楽曲『南国にて』を作曲。
https://www.youtube.com/watch?v=5r4SXkRu0bE
1904年(47歳)、バッキンガム宮殿にてナイトに叙される。イングランドの作曲家で初めてロイヤル・オペラ・ハウスにおいて3日間のエルガー音楽祭が催され、好評のうちに終わった。タイムズ紙「4、5年前に、もしイングランド人のオラトリオを聴くためにオペラ・ハウスが床から天井までの超満員になると予言した人がいたとしたら、おそらくその人は正気ではないと思われたことだろう」。
1905年(48歳)、自作を指揮するためアメリカを訪れ、イェール大学から博士号を授与された。このときに『威風堂々第1番』が演奏されたことから、米国ではほぼすべての高校・大学の卒業式で威風堂々が流れるようになった。
1906年(49歳)、『使徒たち』の続編となるオラトリオ『神の国』を作曲。3部作の完結となる『最後の審判』は計画のみで終わった。
1907年(50歳)、管弦楽曲『子どもの魔法の杖』を作曲。この作品は12歳の頃にスケッチブックに書いた劇音楽をオーケストレーションしたもの。それゆえ、エルガーは本作を「作品1」とした。同年、『威風堂々第4番』を作曲し、エルガー自身の指揮により初演。『威風堂々第1番』に続く人気曲となる。※第3番は2年前に発表。
1908年(51歳)、10年前から構想を練っていた『交響曲第1番』が完成。既に50代であり満を持しての交響曲への挑戦だった。喝采で迎えられ、指揮者リヒターは「当代最高の交響曲」と称え、指揮者アルトゥル・ニキシュも「ベートーヴェンやブラームスの偉大な交響曲の模範と並び位置づけられるべき第1級の傑作」と論じた。欧米ではこの年だけで100回以上も演奏された。楽譜には「ノビルメンテ(気品を持って)」とエルガーの指示が入っている。この頃、エルガーの人気は頂点に。

1910年(53歳)、名ヴァイオリニストのクライスラー(1875-1962)から『バイオリン協奏曲』を委託され、クライスラーの独奏で初演。コンサートは輝かしく忘れ得ぬものとなったが、この曲がエルガーの最後の成功作となる。
1911年(54歳)、『交響曲第2番』を作曲。終楽章が静かに終わるため初演は聴衆の反応が鈍く、熱狂と万雷の拍手を期待していたエルガーを失望させた。「(聴衆は)皆、腹一杯になったブタのように座っている」。英国王エドワード7世に献呈される予定だったが、王が前年に崩御したことから、エドワード7世の追悼として捧げられた。ジョージ5世の戴冠に際し、名誉あるメリット勲章が授けられる。
1913年(56歳)、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世』の登場人物フォルスタッフの様々な登場シーンを描いた交響的習作『ファルスタッフ』を作曲。リスト(1811-1886)や7歳年下のリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)が開拓した交響詩にエルガーも挑んだ。
1914年(57歳)、第一次世界大戦が勃発。翌年、ドイツの侵略を受けた中立国ベルギーを応援する『カリヨン』、ポーランドを励ます『ポローニア』を作曲。戦時中は他に児童演劇の付随音楽やバレエ音楽を書いた。

1918年(61歳)、円熟期に入ったエルガーはイギリス南部で静養しながら室内楽曲の3曲の傑作『ヴァイオリン・ソナタ』『弦楽四重奏曲』『ピアノ五重奏曲』を完成させる。アリスは3つの室内楽曲を聴いて「エドワードは素敵な新作を書いた」と書き残す。マンチェスター・ガーディアン紙の論評「この四重奏曲は途方もないクライマックス、舞踏のリズムの興味深い洗練、完璧な対称性を備えており、五重奏曲はより抒情的かつ情熱的で、両曲ともそうした形式による偉大なオラトリオにも引けを取ることのない理想的な室内楽曲の見本である」。
1919年(62歳)、『チェロ協奏曲』作曲。第1楽章は劇的な宿命感があり、オブザーバー紙は「簡素さの下には深遠な知恵と美が隠されている」と評したが、楽団の練習不足もあってエルガーが期待した聴衆の反応を得られなかった。この後、チェロ協奏曲は1年以上もロンドンで再演されることはなかった。
1920年(63歳)、肺がんに侵された妻アリスに先立たれる。享年72歳。葬儀ではアリスが気に入っていた『弦楽四重奏曲』の第2楽章が演奏された。以降、アリスを失ったエルガーは創作意欲が急速に減退していく。
1924年(67歳)、国王の音楽師範を務める。
1926年(69歳)、マイクが開発されたことから『エニグマ変奏曲』や2つの交響曲など自作の録音を開始。これらは蓄音機用の78回転ディスクとしてリリースされた。エルガーは録音技術を最大限に活用した最初の作曲家となった。
1930年(73歳)、『威風堂々第5番』を作曲。
1931年(74歳)、『威風堂々第1番』の録音セッションに挑むエルガーの姿が撮影されニュース映画となる。同年、幼少期のスケッチブックをもとにした組曲『子供部屋』を作曲。准男爵に叙される。
1932年(75歳)、友人のバーナード・ショーに新しい交響曲を書くよう勧められ、ショーのサポートでBBCがエルガーに作品を委託、21年ぶりに交響曲の作曲を開始する。
1933年(76歳)、愛犬をモチーフにした小品『ミーナ』を作曲。これが最後の完成作品となった。9月、病に倒れて作曲活動は中断。
※『ミーナ』 https://www.youtube.com/watch?v=ZTFVfKV6vYM (5分13秒)
1934年2月23日、大腸がんのためウースターで他界。享年76歳。リトル・マルヴァーンの聖ワルスタン・カトリック教会(St. Wulstan's Church)に眠る妻アリスの隣に埋葬された。『交響曲第3番』の約130ページのスケッチが残され、歌劇『スペインの貴婦人』、ピアノ協奏曲も未完に終わった。
1997年、BBCから『交響曲第3番』の補筆完成を依頼されたは作曲家アンソニー・ペイン(1936-)が、エルガーが1923年に作曲した劇付属音楽『アーサー王』から多くの旋律を引用したことを念頭に、同曲から素材をとって「ペイン推敲版」として第3番が63年を経て完成した。
2005年、未完成だったエルガーの唯一の『ピアノ協奏曲』をイギリスの作曲家ロバート・ウォーカーが補筆完成させた。
2006年、エルガー没後に見つかったスケッチをアンソニー・ペインが補筆した『威風堂々第6番』が初演された。

〔墓巡礼〕
200年におよぶイギリス音楽史で、初めて世界的名声をえた国民的作曲家エルガー。古典形式にイギリスの民俗性を加えて独自のロマンティシズムを確立し、「イギリス音楽のルネサンス」と呼ばれる時期の代表的作曲家の一人となった。
最初の墓参は1989年。ロンドンのウェストミンスター寺院を訪れた際、そこにある墓標はすべて本物で地下に故人が埋葬されていると思っていた。寺院の北翼にあるエルガーの石板を墓と信じて巡礼し、その数年後に、エルガー、ファラデー、T.S.エリオットをはじめ同寺院の墓石の一部は“記念碑”であり、本当の墓は故郷などゆかりの地に建っているというケースが存在することを知り、「もう一度渡英して墓参りし直さないと…」と気持ちが焦った。貯金して再び英国を訪れたのは16年後の2005年。ネットで墓所を調べると、イギリス西部(ロンドンの西200km)ウスターのコルウォール駅(Colwall)から2km南東、リトル・マルヴァーンの聖ワルスタン・カトリック教会(St. Wulstan's Church)にエルガー夫妻が眠って
いることがわかった。「2キロなら歩いて行けるな。重たいバックパックはコインロッカーに入れておこう」。電車を降りたのは正午、ホームには僕1人。そして驚いた。ロッカーがないどころか無人駅!墓地の方角を駅員さんに確認したかったけどそれも不可能。すぐに作戦を変更する。困ったときは、郵便局か警察だ。どちらも地理に詳しく、交渉次第で荷物を預かってもらえる。
村人が駅から2分の距離に郵便局があると教えてくれたのでさっそく向かう。空は晴天、昼下がりのまったりした雑貨屋兼郵便局で、おじさんとおばさんが郵便物の整理をしていた。どうやら経営者の中年夫婦らしい。お客さんはマダムが1人。僕がエルガーの教会の方向を聞くと、2人は「リトル・マルヴァーンは山の向こうよ!?」「直線距離は2キロでもぐるっと迂回するから往復20km近くある。無茶だ、迷うと帰りは山で夜になるぞ」。ガーン、2kmじゃないのか。だが、ここまで来るのだって大変だったんだ。なんとか地図だけでも書いてもらおうとした。しかし「遠すぎるし山道のグニャグニャは説明できない」とのこと。「この村にはバスなんかないし、タクシーを呼ぶしかないわ。でも、タクシーを呼ぶと言ってもどこから…」。奥さんは夫の目を見つめた。夫「よし!分かった!車を出してやる!」。なんと、奥さんに店を任せて、ガレージからマイカーを出してきてくれた!
ダンナさんの名前はロウさん。僕が「あわわ、仕事中なのに!」とテンパると「いいんだよ気にするな」。神ですか!?山道を抜け約20分後、リトル・マルヴァーンの教会に到着。ところが、その墓地にエルガーの墓はなかった!真っ青の僕。「慌てるな、村人に訊いてみよう」「ハ、ハイ!」。ロウさんは馬具店に入って情報収集。「よし、わかったぞ。500m北の教会だ!今度こそ墓があるハズ!」。エキサイトするロウさん。聖ワルスタン・カトリック教会に着くと、「エルガー・グレイブ」と表示された小さな案内板があった。キターッ!2人とも自然と急ぎ足になる。墓地に入ると地元の人がいたのでロウさんが「どのお墓がエルガー夫妻ですか」と質問。壁際にその墓があった。「やったー!エルガーさんだぁあああ!」。墓前で思わず僕らは抱き合った。「ロウさん、5分だけエルガーさんと話してもいいですか」「もちろん。好きなだけ話しな」。
エルガーの墓前でまず作品に感謝し、次に「あなたがこの土地で眠られたおかげで、ここを訪れ優しいロウさんと出会えました。ロウさんに会わせてくれて本当に有難うございます!」。帰路は15分で郵便局へ。別れ際、ロウさんはカウンターで売っているポストカードを「この日の思い出にとっとけ」と僕にくれた。いつになってもいい、絶対にまたコルウォールを訪れロウさんに会いたい。

※エルガーの故郷ウスターにエルガー像がある。同地はソース発祥の地であり、ウスターソースの語源となった。
※ブロードヒースのエルガーの生家は「エルガー生誕地博物館」として公開されている。


ロンドンのウエストミンスター寺院には彼のメモリアルがある(以前はこれを墓と思ってた)

エルガーは傑作「威風堂々」を完成した時、“うひゃー!俺はとんでもないメロディーを書いてしまった!”と
大興奮したという。実際、英国では現在“第二の国歌”と言われてるもんね。※チェロ協奏曲も最高!




スコット・ジョプリン/Scott Joplin 1868.11.24-1917.4.1 (NY、クイーンズ 48歳)2000
Saint Michaels Cemetery, East Elmhurst, Queens County, New York, USA



フォスターが世を去って4年後の1868年11月24日、テキサス州東部に「ラグタイム音楽」の発展に尽力した黒人作曲家、“ラグタイム王”スコット・ジョプリンが生まれた。この年、欧州ではオペラ王ロッシーニが他界。また、ピアノ音楽に革命をもたらしたエリック・サティの2歳年下にあたる。南北戦争は3年前に終わっており、父は黒人元奴隷農夫。6人兄弟の次男。

1875年(7歳)、テキサス州テクサーカナに移住。早くから楽才を発揮しバンジョーを巧みに奏でた。黒人は教育を受ける機会もなく仕事も限られていたため、両親はジョプリンが将来自活できるよう、生活費を削ってピアノを買い与えた。
1876年(8歳)、近所のオペラ好きのドイツ移民ジュリアス・ワイスからクラシック音楽の魅力を教わり、独学でピアノを習得。

1880年代に入ると、ミズーリ州やルイジアナ州ニューオーリンズの黒人ピアノ演奏家の間で新しいピアノ演奏様式“ラグタイム”が生まれる。小粋でリズミカルなラグタイムは、4分の2拍子の規則正しい左手のベース・リズム(マーチ)と、強弱の位置をずらして緊張感を生む右手のシンコペーション・リズムによるメロディの組み合わせを特徴とする。おもにピアノ・ソロで演奏され、作曲家・演奏家に黒人が多い。クラシック音楽のリズムに比べてずれて聞こえるため、「rag time(時間をくずす)」と呼ばれるようになったという。別説では「ラグ(ぼろ)を着た演奏家」の音楽とも。
裏拍を強調し、シンコペーションが多用されたたラグタイムはジャズやブルースの前身となったが、即興演奏を重視するジャズと異なり、ラグタイムはきっちり譜面通りに演奏し、即興は行わない。ラグタイムの特色であるスピード感の強調は後世のユーロビートへ発展した。

1882年頃(14歳)、ジョプリンは10代でプロのピアニストとなるが、黒人にはピアノ演奏の仕事が少なく、アメリカ中西部を転々としながらサロンや娼家で演奏した。
1885年(17歳)、ミズーリ州セントルイスの酒場に落ち着く。
1891年(23歳)、この頃テキサスのミンストレル・ショー楽団に在籍。
1893年(25歳)、自身のバンドを率いてシカゴ万国博覧会で演奏。
1894年(26歳)、ミズーリ州セデリアに転居。仲間8人と「テキサス・メドレー・カルテット」を結成し、ニューヨークに演奏旅行。
1895年(27歳)、ニューヨークで2曲の歌曲を収めた最初の楽譜を出版。クラシック音楽の道に進むべく黒人向けの大学の音楽科で学び、欧州のクラシックと黒人のリズム&ハーモニーを融合した音楽を探求する。
1896年(28歳)、テキサスでマーチやワルツなど3曲のピアノ曲を出版。
1897年(29歳)、3歳年下のトム・ターピン(1871-1922)が黒人作曲家として“ラグ”(『ハーレム・ラグ』)を初めて出版し触発される。
※トム・ターピン作曲『ハーレム・ラグ』
https://www.youtube.com/watch?v=sP7oFkyfvG8
1898年(30歳)、この頃、黒人社交クラブ「メープル・リーフ・クラブ」におけるジョプリンのピアノ演奏が、新聞評で「当地きっての最高のピアニスト」と賞賛される。
1899年(31歳)、初期の代表曲『オリジナル・ラグス』と『メープル・リーフ・ラグ』を出版。『オリジナル・ラグス』の表紙にはボロ切れを拾い集める黒人の姿が描かれ、背後の看板に「この男がスコット・ジョプリンだ」(=ジョプリンが集めたぼろ切れのような音楽)と書かれた屈辱的なものだった。『メープル・リーフ・ラグ』はジョプリンが友人に「この曲は僕をラグタイムの王様にするよ」と予言した通りに大ヒットし、ラグタイムの全米流行に火をつけた。同年、音楽教室を開設。この頃からの15年間が活動の最盛期。多くのラグが誕生する。
※『メープル・リーフ・ラグ』 https://www.youtube.com/watch?v=sE86FR2SzBo 当時のピアノで演奏
1900年(32歳)、大きな都会に活路を求めてセントルイスに移住。トム・ターピンと交流した。
1901年(33歳)、『イージー・ウィナーズ』作曲。ジョプリンの音楽活動はセントルイス交響楽団の音楽監督・指揮者といったクラシック界からも讃えられた。同年、弟子の黒人作曲家スコット・ハイデン(1882-1915)の妹ベルと結婚。ベルは音楽に対する関心が低く2年で離婚。
※陽気な『イージー・ウィナーズ』 https://www.youtube.com/watch?v=55kMps8QMmE 映画『スティング』でも使用
1902年(34歳)、現在ジョプリンの曲として最も有名な『ジ・エンターテイナー』を作曲。また、ラグタイムの芸術的価値を高めるべくバレエ音楽『ザ・ラグタイム・ダンス』も作曲した。
※映画『スティング』のテーマ曲となったジョプリンの代名詞『ジ・エンターテイナー』
https://www.youtube.com/watch?v=fPmruHc4S9Q 本人演奏
1903年(35歳)、黒人指導者がホワイトハウスに招待された実話を題材にしたオペラ『ゲスト・オブ・オナー(名誉ある客)』を作曲、上演もされたが、売上げを持ち逃げされて多額の借金を負い、楽譜が差し押さえられ現存せず。
1904年(36歳)、19歳の女性フレディと結婚したが、新妻は結婚のわずか10週後に肺炎で世を去る。
1905年(37歳)、フレディの死の衝撃で約半年間も作曲が遠のいていたが傑作コンサートワルツ『ベセーナ』(Bethena)を発表。ラグタイムとしては6分近い大曲。
※ゆったりとした良い曲『ベセーナ(Bethena)』
https://www.youtube.com/watch?v=BP69-iS4GzU “ベセーナ”は女性の名前。映画『ベンジャミン・バトン』で使用。

1907年(39歳)、シカゴで会った26歳の若手作曲家ルイス・ショーヴィン(1881?1908)と非常に美しいラグタイム『ヘリオトロープ(香水草)・ブーケ』を共作。ルイス・ショーヴィンは翌年に27歳で病死した。同年、作曲中のオペラの後援者を探すためニューヨークに移住。6歳年下の女性ロッティと出会い没するまで共に暮らす。
※珠玉の名曲『ヘリオトロープ・ブーケ』
https://www.youtube.com/watch?v=UxjNEWpAEao
1908年(40歳)、ごきげんな『パイン・アップル・ラグ』を作曲。
※『パイン・アップル・ラグ』 https://www.youtube.com/watch?v=nhQvqK67Iwc
1909年(41歳)、『ソラース』『ピアノのための6つの練習曲、スクール・オブ・ラグタイム』作曲。後者の練習曲集にはラグタイム・スタイルの説明を書いた。
※ラグタイムの傑作バラード『ソラース』(Solace)。ソラースの意味は“慰め”。
https://www.youtube.com/watch?v=GOwachalNNw

1911年(43歳)、脚本から作曲まで手がけたオペラ『トゥリーモニシャ』を自費出版する。ジョプリンは自分がただの酒場のピアニストではなく、クラシック最高峰のオペラも作曲できることを証明しようとした。登場人物がすべて黒人というオペラは画期的で、同じくオール黒人キャストのガーシュウィン『ポーギーとべス』(1935)より15年も早く書かれた。ジョプリンは黒人音楽をベースにした民族オペラの創造に挑戦した。劇中では迷信に対する教育の重要性を説いたほか、クライマックスで黒人の村のリーダーに若い黒人女性が選ばれるという先進的な内容で、主人公トゥリーモニシャのモデルは19歳で病死したジョプリンの2人目の妻フレディと見られている。
『トゥリーモニシャ』…舞台は奴隷解放後の南部アーカンソー州。黒人の村にやってきた怪しい魔術師ゾデトリックが、迷信深い人々に“幸運のお守り”を売りつけようとする。村で唯一教育を受けている少女トゥリーモニシャが魔術師を説教すると、逆恨みした魔術師は彼女を誘拐する。村の若者達は案山子(かかし)の怪物に変装するなどして魔術師のアジトに乗り込み、トゥリーモニシャを奪還する。村人たちは捕らえた魔術師に罰を与えようとするが、彼女は許すように諭す。これからの村を率いるリーダーにトゥリーモニシャが選ばれ、村人は明るい未来を感じてダンスを踊る。

1914年(46歳)、生前に発表された最後の作品『マグネティック・ラグ』を作曲。同年7月、第一次世界大戦勃発。
※『マグネティック・ラグ』 https://www.youtube.com/watch?v=CNMQ0-iBkQ4
1915年(47歳)、ピアノ伴奏(ジョプリン演奏)による演奏会形式ながら『トゥリーモニシャ(Treemonisha)』上演にこぎつけたが、聴衆の支持をえることに失敗。精神的に衝撃を受ける。
2年後の1917年1月、梅毒が身体をむしばみ認知症を発症、ブルックリンの病院に入院。4月1日、肺炎により失意のうちに世を去った。享年48。ジョプリン「死後、私が真に評価されるまで四半世紀が必要だろう」。実際、ジャズの大流行と共にラグライムは忘れ去られていった。
1973年、他界から56年が経ったこの年、アカデミー作品賞に輝いた映画『スティング』に「ジ・エンターテイナー」など数曲が使用され、ジョプリン再評価のムーヴメントが起きる。
そして1975年、楽譜の出版から64年を経てヒューストン・グランド・オペラが『トゥリーモニシャ』を上演、大成功をおさめた。ジョプリン自身のオーケストラ譜は紛失されたが、ジョプリン再評価の流れの中でオーケストレーションされオペラ上演が実現した。
1976年、オペラ『トゥリーモニシャ』がピューリッツァー賞を獲得した。
※オペラ『トゥリーモニシャ』 https://www.youtube.com/watch?v=OLyh2jCvzG0 劇中歌『ア・リアル・スロー・ドラッグ』が最後にもう一度演奏されたときの高揚感が素晴らしい。曲名のドラッグはDrag(引きずる)でありDrug(薬)ではない。
※『ア・リアル・スロー・ドラッグ』(『トゥリーモニシャ』から)のジョプリン自身の演奏(ピアノロール) https://www.youtube.com/watch?v=-ZdbmeBB3yA
※『ア・リアル・スロー・ドラッグ』
https://www.youtube.com/watch?v=y2k74DyUxW0 テンポがいい
※『ア・リアル・スロー・ドラッグ』舞台の頭出し
https://www.youtube.com/watch?v=OLyh2jCvzG0#t=76m49s

凄まじい人種差別のなか、48年の人生で50曲以上のピアノ曲とオペラ2曲(ひとつは現存せず)を生み出したスコット・ジョプリン。第一次世界大戦前、ラグタイムは世界中で流行していた。ラグタイムは世界的に受け入れられた最初のポピュラー音楽であり、ジョプリンは世界の音楽シーンに影響を与えた最初の黒人作曲家となった。

〔墓巡礼〕
映画『スティング』が大好きでサントラ盤を購入、僕は何度も繰り返して聴き(特に『ソラース』)、かねてからスコット・ジョプリンに墓参したいと思っていた。墓所はニューヨーク・クイーンズ地区のEast Elmhurst、セント・マイケルズ墓地。地下鉄のAstoria Blvd駅で下車、北側のプレイグラウンドに面するバス停でバス路線Q19に乗り「Astoria Bl/49 St」で降車、東に向かうとセント・マイケルズ墓地の正門に着く。
2000年に訪問した際、クイーンズ地区はあまり治安が良くないと聞いていたので、地下鉄を出てバスを待っている間は緊張した。バスを降車後、セント・マイケルズ墓地は400mほど離れていたので急ぎ足で向かった。管理人事務所でジョプリンの墓を聞いて墓前に立つと、名前と生没年、そして「AMERICAN COMPOSER」と刻まれた小さな墓石があった。生前は自信作のオペラを仕上げても上演できなかったジョプリンだが、映画『スティング』で爆発的にラグタイム・ブームが起き、スコット・ジョプリンの名はアメリカ音楽史で最初に人気を得た黒人作曲家として不滅のものとなった。
私事だけど、ジョプリンの墓石を見て1868年11月24日生まれと知り、自分が1967年11月24日生まれであるため親近感が湧いた。あと1年遅く生まれていたらピッタリ100年後、惜しい。

※スコット・ジョプリン集
https://www.youtube.com/watch?v=z86Hs7gm0tU
https://www.youtube.com/watch?v=Ks2OnCIhBts
https://www.youtube.com/watch?v=bpZlkDpmUVs
https://www.youtube.com/watch?v=ZmioM8FDD6M
https://www.youtube.com/watch?v=dqZ4_TD8-3c

※セントルイスで2年間住んでた家が博物館「Scott Joplin State」として公開されている。
※セントルイス・スタイルとよばれるジョプリンのラグタイムは比較的ゆっくりしたテンポで演奏されたが、のちのジェリー・ロール・モートンらニューオーリンズの演奏家はテンポを速めて熱狂的な要素をくわえた。
※ラグタイムの他の代表的な作曲家は、トマス(トム)・ターピン、ジェームズ・スコット、ユービー・ブレークなど。
※ルイス・ショーヴィン(Louis Chauvin)はインディアンと黒人のハーフ。ミズーリ州セントルイスのカルヴァリー墓地に埋葬されている。
〔参考〕『ららら♪クラシック』(NHK)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『世界人物事典』(旺文社)。
『スコット・ジョプリン Scott Joplin〜伝記風の手短なスケッチ』(エドワード・A・バーリン) http://home.att.ne.jp/star/ragtime/ar003.htm
『オペラ対訳プロジェクト』 https://www31.atwiki.jp/oper/pages/1255.html



★バルトーク/Bela Bartok 1881.3.25-1945.9.26 (ハンガリー、ブダペスト 64歳)2005
Kerepesi Cemetery, Budapest, Hungary

 
雨上がり、光り輝くバルトークの墓!

20世紀音楽の中で特に独創的な作品を書いたハンガリーの大作曲家。自作を速度記号だけでなく「4分15秒」「60分」など演奏時間まで厳密に指定したことでも知られる。1881年3月25日にハンガリー南部のナジュセントミクローシュ(現ルーマニア、シンニコラウ)で生まれた。両親共に音楽好きで、ピアノ教師の母からピアノを習い、4歳で既にレパートリーが40曲もあったという。7歳で父は病没。
1898年、17歳でウィーン音楽院に入学を許可されるが、ハンガリーの作曲家としてのアイデンティティーを重視して、翌年にブダペスト王立音楽院(リスト音楽院)に入った。21歳の時に17歳年上のリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の『ツァラトゥストラはこう語った』に大きな衝撃を受ける。
1903年(22歳)、19世紀に“フランス2月革命”に呼応して起きた対オーストリア帝国のハンガリー独立運動の英雄、コシュート・ラヨシュを讃えた交響詩『コシュート』を作曲。当局に警戒される。楽曲はリヒャルト・シュトラウスの管弦楽法の影響を受けている。
※交響詩『コシュート』 https://www.youtube.com/watch?v=Ik8nZrMQ0Hw (26分)
1904年(23歳)、初めて地方のマジャール人(ハンガリーの主要民族)の民謡に触れ、感銘を覚える。
1905年(24歳)、ピアニストとして卓越した技能を身に付けていたバルトークは、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。ピアノ部門で後の大ピアニスト、3歳年下のヴィルヘルム・バックハウス(1884-1969)に負けるも第2位となる。作曲部門では入賞できず。このパリ滞在中に『牧神の午後への前奏曲』『ペレアスとメリザンド』でフランスを席巻していたドビュッシーの音楽を知る大収穫を得た。
この年、バルトークの音楽人生を変える大きな出会いがあった。下宿先で女性が口ずさんでいた素朴な民謡に心を奪われた。楽譜にもなっていない短い歌であったが「これこそが私の求めるものだ」と感嘆した。ルーマニアは民謡の宝庫だったが、長年クラシックの楽壇から軽視されてきた民謡は、彼にとって手付かずの宝だった。そして埋もれている民謡を記録するため、重たい蓄音機(録音可能)を持って遠くの村まで出かけた。ところが、村人たちは“怪しい機械を持った都会からのよそ者”を警戒し、また「蓄音機に魂を吸い取られるという恐怖心」もあって民謡を録音させてくれなかった。宿が見つからず野宿をすることも。村人がなかなか心を開いてくれないため、彼は信用を勝ち取るために農作業を手伝い、村の集会に参加し一緒に酒を呑み、少しずつ信頼を得ていった。やがて蓄音機の前で歌ってくれる村人が現れ始め、ヴァイオリンで演奏しれくる者も出てきた。バルトークはこれら採集した音楽をひとつひとつ楽譜に書き起こしていった。バルトーク「彼らの仲間に入って間近で観察する特権を与えられたことは、非常に光栄なことです。農民たちと過ごした日々は、私の人生で最も幸せな時間でした」。こうしたフィールドワークで約2万もの民謡を集めた。

1906年(25歳)、知人の女性作曲家シャーンドル・エンマの紹介で、同じハンガリー人で1歳年下の作曲家コダーイ・ゾルターン(1882-1967)と出会う。コダーイは前年からハンガリーの村々をまわって民謡の収集を始めていた。コダーイは民謡の魅力を熱く語り、共感を覚えたバルトークは2人で一緒にハンガリー各地の民謡収集(採集)を行うようになる。
1907年(26歳)、母校ブダペスト王立音楽院のピアノ科教授となる。この職を1934年(53歳)まで27年間続けた。生活拠点は常にハンガリー国内にあったため、国内の隅々まで民謡の採集に出かけることができた。
1908年(27歳)、『ヴァイオリン協奏曲 第1番』を作曲。全2楽章しかなく、既に伝統から外れた構成になっており、民謡風の響きもあった。献呈先の女性ヴァイオリニストが初演しなかったため、バルトークの生前未発表曲となった。
同年、『弦楽四重奏曲第1番』完成(初演は1910年)。ベートーヴェンが16曲の不滅の弦楽四重奏曲を書いて以来、あまり注目されなかったこのジャンルをバルトークは生涯に6曲の弦楽四重奏曲を書いて開拓した。第1楽章は葬送の音楽。シェーンベルクが十二音技法を確立する以前の曲にして、冒頭3小節の間に12の音がすべて使用されている。第3楽章の変奏技法は民謡採取のフィールドワークが反映されており、村から村へ移動しながら民謡を採集しているうちに同じ曲が変形してゆき、また同じ村であっても老人と若者で少し異なるなど、音楽が変化てゆく過程に着想を得て、弦楽四重奏曲の変奏が書かれているという。
※『弦楽四重奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=rmXmDCJXM00
1909年(28歳)、音楽院の女学生マルタ・ツィーグラーと結婚。翌年には長男ベーラが生まれる。英国の作曲家フレデリック・ディーリアスと交流。
1910年(29歳)、ドビュッシー風の輪郭が溶けた気分画のような管弦楽曲『2つの映像』を作曲。第1曲「花ざかり」、第2曲「村の踊り」。
1911年(30歳)、出世作となるピアノ独奏曲『アレグロ・バルバロ(野蛮)』を作曲。フランスの新聞がバルトークとコダーイの演奏会について「ハンガリーの2人の若き野蛮人」と書いたことを皮肉ってこの題名にした。
※『アレグロ・バルバロ』 https://www.youtube.com/watch?v=Q3NQvDTpbqw (2分)

この年、バルトーク唯一のオペラとなるハンガリー語オペラ『青ひげ公の城』全1幕が完成(初演は7年後)。原作は18世紀にフランスの詩人シャルル・ペロー(1628-1703)が民間伝承をまとめた童話集に収めた「青ひげ」(後にグリム兄弟も収録)。殺人鬼の青ひげ公と、秘密を知った妻ユディット(ユーディト)の葛藤を、両者の対話を通して描く。コダーイのルームメイトが台本を書き、コダーイの紹介でバルトークがオペラ化した。ハンガリー語のアクセントにシンクロしたメロディーゆえ、他国語に翻訳するとブチ壊しになるという、民族色が前面に出た作品。

『青ひげ公の城』
舞台は青ひげ公の城の広間。吟遊詩人の前口上の後、青ひげと新妻ユディットが城に到着する。城内には7つの開かずの扉があり、ユディットは夫のすべてが知りたいから扉を開けるよう頼む。第1の扉は拷問部屋。第2の扉は血がついた武器庫。第3の扉は血がついた宝物庫。第4の扉は血のついた花の庭園。第5の扉は広大な青ひげの領土。雲から赤い血の影が落ちる。青ひげは「ここまでにしよう」と言うが、ユディットは残りの2つも開けてと急かす。第6の扉は涙の湖。第7の扉の中には生きている3人の美しい先妻がいた。3人はそれぞれ「夜明け」「真昼」「夕暮れ」を支配しており、ユディットは「真夜中」を支配する4人目の妻となって第7の扉に消えていった。
https://www.youtube.com/watch?v=p9Aq2WWds8k

『青ひげ公の城』を作曲するにあたり、バルトークは城の凄惨さを見せつける第2の扉までを短調で、青ひげの富を見せつける第5の扉までを長調で、秘密が明かされる第7の扉までを再び短調で描いた。照明についても調による色彩の変化を重視、扉が開くたびに音楽に合わせた照明の色指定、たとえば第1の扉は「血のような赤」、第2の扉は「黄色がかった赤」と演出を指示した。バルトークはこのオペラをコンクール(ハンガリー芸術委員会賞)に応募したが、芸術委員会から「演奏不能」と判断され上演してもらえなかった。バルトークは失望し、2年間ほとんど作曲せず、民謡の収集と研究に尽力した。
ちなみに『青ひげ公の城』はバルトーク以外に4人の作曲家が同じ題材をオペラにしている。オッフェンバックのパロディ版「青ひげ」、デュカスの唯一のオペラ「アリアーヌと青ひげ」、グレトリーの「青ひげラウール」、レズニチェクの「青ひげ騎士」。

1914年(33歳)、第一次世界大戦が勃発。戦火のため民謡の収集が困難になり作曲活動に復帰。
1915年(34歳)、6曲のピアノの小品組曲『ルーマニア民俗舞曲』を作曲(注・現ルーマニアのトランシルバニア地方は当時ハンガリーの領土だった)。旋律が魅力に富んでおり、後に管弦楽版、管楽アンサンブル版ほか、様々なバージョンが生まれた傑作。
※『ルーマニア民俗舞曲』 https://www.youtube.com/watch?v=lJL2iNK0r8c (5分)

1917年(36歳)、唯一のバレエ音楽となった『かかし王子』初演され成功を収める。バルトークはこの曲を「踊れる交響詩」とした。魔法で王子になった案山子(かかし)を恋してしまう王女と、案山子に負けてしまう人間の王子の絶望、そして真実の愛に気づき外見に振り回されなくなった人間の王子と王女が結ばれるまでを描いた。
同年、『弦楽四重奏曲第2番』完成。終楽章は短いため息のようなフレーズが延々と重なっていく。
https://www.youtube.com/watch?v=-J0StLkcTn0

1918年(37歳)、『かかし王子』のヒットのおかげで、お蔵入りになっていたオペラ『青ひげ公の城』が5月にブダベスト国立歌劇場で初演された。1906年に始めた民謡の採集活動はこの年で終了。第1次世界大戦が集結し、ハンガリーは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」から分離独立したものの、敗戦国であるため2年後のトリアノン条約で、自国領土のうちスロバキア、クロアチア、トランシルヴァニアを戦勝国のチェコスロバキア、後のユーゴスラビア、ルーマニアに割譲した。
1919年(38歳)、パントマイムのための舞台音楽『中国のふしぎな役人』を作曲。初演は7年後。当初は上演のたびに内容が不謹慎すぎるとして、指揮者が厳重注意を受けたり上演禁止になるなどスキャンダルになった。後にバレエとしても上演された。

『中国のふしぎな役人』
舞台は3人の悪党の隠れ家。彼らはアパートの窓から仲間の少女に通行人を誘惑させ、部屋を訪れた者から金品を奪う計画を建てる。年老いた伊達男や少年が罠にかかるがお金を持っていなかった。3人目は見るからにリッチな中国人の役人だった。役人が部屋の入口に立つと、少女は官能的な踊りで部屋の奥へ誘う。悪党たちは役人の身ぐるみを剥ぎ殺害しようとするが、マットレスで圧殺しようとしても、ナイフで腹を3回刺しても、首を吊っても死ぬことはなく、蘇生しては少女を追い求めた。役人のまっすぐな想いに心を打たれ、少女が役人を抱擁すると、役人は至福の境地に至り息絶えた。
https://www.youtube.com/watch?v=deIuFgBNjSU

上記のように退廃的、エロティック、グロテスクのトリプル・コンボになっているが、バルトークは「気持ちがどんどん高まっていく素晴らしい筋書き」と絶賛。ひた向きに愛を求め、愛を手に入れるまでは殺されても死なない、そんな強烈な生命力が、おぞましいストーリーの中に一種の感動を呼ぶ。

1921年(40歳)、『ヴァイオリンソナタ第1番』を作曲。この曲から作品番号をつけなくなる。翌年にかけてイギリスやフランスに演奏旅行を行い、ラヴェルやストラヴィンスキーと交流した。
1923年(42歳)、14年連れ添ったマルタ夫人と離婚し、ピアノの生徒パーストリ・ディッタと再婚。翌年に次男ペーテル誕生。以降、しばらく民俗音楽の研究に時間を当てる。
1926年(45歳)、『ピアノ協奏曲 第1番』完成。3年間の沈黙を打ち破る超パワフルな楽曲となった。翌年の初演では自身がピアノを演奏し、巨匠フルトヴェングラーが指揮を振った。この会場でバルトークはヤナーチェクと出会う。ヤナーチェクはスロヴァキア民謡の研究を通してバルトークの名前を知っており、ヤナーチェクはバルトークの演奏会をモラヴィア(チェコ)で開催しようとしたこともあった。
1927年(46歳)、『弦楽四重奏曲第3番』を作曲。単一楽章からなり、激しいアレグロの第2部に弓の背中で弦を打楽器のように叩く奏法コル・レーニョを導入している。ちなみにコル・レーニョで有名な曲は、ベルリオーズ『幻想交響曲』の終楽章、モーツァルト『ヴァイオリン協奏曲第5番“トルコ風”』の終楽章、ショパンの『ピアノ協奏曲第2番』の終楽章、ホルスト『惑星』の「火星」など。
※『弦楽四重奏曲第3番』 https://www.youtube.com/watch?v=ZmpFASWRr_k
1928年(47歳)、『弦楽四重奏曲第4番』を作曲。5つの楽章で構成。打楽器的奏法や連続グリッサンド、“バルトーク・ピツィカート”(超強烈なピツィカート/第4楽章)の要求など特殊奏法が山盛りで、弦楽四重奏曲の屈指の難曲。
※『弦楽四重奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=NlBBpSbdxm8
1929年(48歳)から翌年にかけてアメリカやソヴィエトへ演奏旅行を行い、名チェリストのパブロ・カザルスや同郷のヴァイオリニスト・シゲティらと共演している。
1931年(50歳)、『ピアノ協奏曲第2番』を作曲。数あるピアノ協奏曲の中でも最高難度の一角とされている。第1楽章のオーケストラは弦楽器に出番がなく管楽器との協奏曲になっている。逆に第2楽章は弦楽器だけが登場し、終楽章でフルオーケストラとなる。同年、管弦楽組曲『ハンガリーの風景』を作曲。第1曲の「トランシルヴァニアの夕べ」が穏やかな夕暮れを描写しており美しい。第3曲「メロディ」も色彩感にあふれている。
※『ピアノ協奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=bAi6Xwz5X8Q (30分)
※『ハンガリーの風景』 https://www.youtube.com/watch?v=rJSOGdNRQWA (12分)

1934年(53歳)、『弦楽四重奏曲第5番』を作曲。同年、音楽院教授を退任し、科学アカデミーの民俗音楽研究員となる。
1936年(55歳)、『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』を作曲。略称『弦チェレ』で親しまれ、熱狂的なフィナーレで終わる人気曲。映画『シャイニング』で使用された。この年、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスがストラビンスキーやシェーンベルクの音楽を退廃芸術と非難したことから、バルトークはドイツ外務省に抗議の手紙を送った。
※『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』
https://www.youtube.com/watch?v=CAeM1L8T-rQ
1937年(56歳)、『2台のピアノと打楽器のソナタ』を作曲。ピアニスト2人と打楽器奏者2人の編成という非常に珍しい作品。
※『2台のピアノと打楽器のソナタ』
https://www.youtube.com/watch?v=PNRYp6ArLdU
1938年(57歳)、クラリネットとヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲『コントラスツ』を作曲。翌年のカーネギー・ホールの初演では、クラリネットを「スウィングの王様」ジャズ・クラリネット奏者のベニー・グッドマンが担当した。バルトーク自身がピアノで参加した公演もある。同年、『バイオリン協奏曲第2番』を作曲。
※『コントラスツ』 https://www.youtube.com/watch?v=-zMALN04umw (17分)
1939年(58歳)、153曲の小品からなるピアノのための練習曲集『ミクロコスモス(小宇宙)』(全6巻)が完成。演奏時間1分弱から2分程度までのごく短い曲だけで構成されている。巻数が進むにつれ難易度が上がっていく。同年、『弦楽のためのディヴェルティメント』を作曲。原始的なリズムとセレナードが融合。また、最後の弦楽四重奏曲となった『弦楽四重奏曲第6番』を作曲。世界大戦直前の空気が反映され、バルトークは各楽章の冒頭に“メスト(悲しげに)”と記された共通の主題を置いた。9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発。
※『ミクロコスモス(小宇宙)』第一巻
https://www.youtube.com/watch?v=PbEkw7WUhEg&list=PL992FD73576ED529B
※『弦楽のためのディヴェルティメント』 https://www.youtube.com/watch?v=fICnE6sWTnI (27分)
※『弦楽四重奏曲第6番』 https://www.youtube.com/watch?v=9PBadVH-PGw (29分)

1940年(59歳)、ナチス嫌いのバルトークはファシスト政権の弾圧を避けてアメリカへの移住を決意。10月、長男とコダーイに後を託し、民謡の膨大な研究資料と一緒に夫婦で渡米した。アメリカではコロンビア大学の客員研究員として南スラブの民俗音楽の研究に取り組む。翌年、次男ペーテルも渡米し、後にアメリカ海軍に招集されている。
1941年(60歳)、戦争の混乱で印税が滞るなど生活は苦しく、アメリカの人々はバルトークの作品に無理解であったため、すっかり創作意欲を落としてしまう。渡米後の3年間は作曲できず、収入は5分の1に激減し、生活のため大切なピアノを手放した。さらには白血病を発症し(バルトーク本人は知らず、結核と思っていた)、体重が40kgまで落ちてしまう。一足先に渡米していたハンガリーの音楽仲間たち、ヴァイオリン奏者ヨーゼフ・シゲティや指揮者フリッツ・ライナーらはバルトークの衰弱ぶりに驚き、生活費だけでも援助したいと申し出たが、バルトークは「たとえ飢え死にしようとも、いわれのないお金は受け取れない」と断った。

1942年(61歳)、友人たちは「このままでは3年前に書いた『弦楽四重奏曲第6番』が遺作となってしまう」と鬱状態のバルトークを心配し、当時のアメリカ音楽界のドン、ボストン交響楽団のロシア出身指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーを頼った。
クーセヴィツキーは現代音楽の普及に熱心で、ブリテンやメシアンなど世界中の作曲家に新曲を依頼していた。その流れでクーセヴィツキーからバルトークに「ボストン響の音楽監督就任20周年を記念するオーケストラの新作って欲しい」と手紙を出して欲しいと願った。ギャラは当時のサラリーマンの給料半年分に相当する1000ドル。
1943年(62歳)、バルトークがすぐに返事を出さずにためらっているとクーセヴィツキーが乗り込んできた。「病気で作曲できる自信がありません」と決心がつかないバルトークに、クーセヴィツキーは「心配は無用です。この依頼には(締めきりなど)何の強制力もなく、将来、機の熟したときに取り掛かって頂ければいいのです」と説得し、強引に手付金の500ドルを渡して帰って行った。バルトークは、単なる金銭の援助ではなく、作曲家としての実力を認めてもらえたことに感激して魂に火がつき、40分の大曲『管弦楽のための協奏曲』全5楽章を55日間で書きあげた。
バルトークはこの曲に故郷への愛とファシズムや戦争への皮肉を込めた。旋律にハンガリー人なら誰も知っているメロディ、1930年頃の流行歌『美しきハンガリー』が使われている。歌詞は「ハンガリーは美しく麗しい、世界のどこよりも美しい(略)祖国の草木や花々に誘われてヴァイオリンが呼んでいる、美しく麗しい故郷が待っている」というもの。亡命先で暮らすバルトークの「祖国に帰りたい」という強い望郷の念が伝わってくる。そして第4楽章にはヒトラーを揶揄するメロディが登場する。ヒトラーが大好きだったレハール作曲のオペレッタ「メリー・ウィドー」の一節が流れるが、このメロディはショスタコーヴィチが交響曲第7番「レニングラード」の中で行軍するドイツ軍の象徴として引用しており、バルトークはこれを“孫引き”する形で、ヒトラー、ファシズム、戦争を笑い飛ばすようなメロディに変えて使っている。全体主義を嫌って祖国を離れざるを得なかったバルトークによる抗議の音楽であり、2年後に他界することになるバルトークの、戦争への怒りと祖国への愛を託した人生最後の叫びとなった。明るく前向きな曲調がアメリカの聴衆に受け、翌年の初演は大成功。本作は晩年の代表作であるだけでなく、バルトーク作品の最高傑作のひとつとなり、発表後、国際指揮コンクールの課題曲に何度もなっている。
※『管弦楽のための協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=C68SkzGb6Ww (40分)

1944年(63歳)、白血病の闘病生活のなか、ユーディ・メニューインの委嘱を受け『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ』を作曲。楽章の構成がバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番のオマージュになっており、バッハの無伴奏を「旧約聖書」、バルトークの無伴奏を「新約聖書」と呼ぶことがる。
※『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ』 https://www.youtube.com/watch?v=J83gR8evOeI (28分)
1945年9月26日、白血病のためニューヨークの病院で他界。享年64歳。バルトークは遺言で「ナチスドイツや共産主義ソ連の影響が残る間は祖国ハンガリーに埋葬しない」と求めたことから、亡骸はニューヨーク州のファーンクリフ墓地に埋葬された。バルトークの遺族は葬儀費用もないほど貧しかったため、アメリカ作曲家協会が費用を丸ごと負担した。
その後、ハンガリーで共産政権が一党独裁を放棄するなど民主化が進んだことから、バルトークの弟子だったハンガリー人指揮者ゲオルク・ショルティ(1912- 1997)と、バルトークの2人の息子の尽力で、1988年7月に棺がハンガリーに移され、国葬を経てブダペストのファルカシュレーティ墓地に改葬された。11年後にショルティが他界し、今、バルトークの隣りに眠っている。
ピアニストでもあったディッタ夫人の誕生日プレゼントとして書いていた、軽快な『ピアノ協奏曲第3番』は遺作となり、ほとんど完成していたことから友人のハンガリー系作曲家が完成させた。また、ヴィオラの独奏パートがほぼ完成していた『ヴィオラ協奏曲』も補筆完成され、ヴィオラの音色の向こうには異国の地で孤高に立つ老バルトークの姿がそこにあった。

バルトークは民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカのアルジェリアまで足を伸ばすなど精力的に活動した。盟友コダーイらと集めた民謡の収集成果はマジャール民謡2700、マジャール・ルーマニア民謡3500、トルコと北アフリカのアラビア民謡200、合計6400以上にのぼり、これらは民謡集12巻にまとめられた。
バルトークは他の国民楽派と異なり、民謡を直接自作に取り入れることは殆どなかった。彼はハンガリー民謡の音階、旋律、躍動的なリズムを自身の内部で消化して、独自の力強い音楽様式を打ち立てた。調性を最後まで捨てず、代わりに独自の手法で調性を確立した。複数のメロディ・ラインが絡み合った先に不協和音を置く技法を得意とした。

※バルトークの最初の墓が建てられたファーンクリフ墓地に記念碑が残されている。同墓地にはマルコムXやジュディ・ガーランドが眠っている。
※交響詩で採り上げたハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュの墓はブダペストのケレペシ墓地にある。
※フランツ・リストの弟子トマーン・イシュトバーン(1862-1940)からピアノの教えを受けている。
※曲がったことが大嫌いだったバルトーク。ハンガリー人の知人が昼間に陶器のボールでパンの生地をこねていると、「パンというものは早朝に木製のボールでこねるべきだ!」と憤慨したという。

〔墓巡礼〕
バルトークと盟友コダーイが眠る墓は、ハンガリーの首都ブダペストのファルカシュレーティ・テメトゥー(墓地)にある。かつての社会主義国時代は、隣国オーストリア・ウィーンのハンガリー大使館で入国ビザを手に入れてから向かっていたけど、今はノー・ビザで行けるのでラクになった。ファルカシュレーティ墓地は国際列車が発着するブダペスト東駅から西へ約7キロ。少し距離があるので、駅の近くから4番のトラムに乗り、「Blaha Lujza」駅で8Eのバスに乗り継ぐと、ドナウ川を超えて墓地のゲート前まで運んでくれる。ファルカシュレーティ墓地は端から端まで1キロはある大きな墓地。正門の近くに墓地の全体図があり、バルトークとコダーイの墓に印が入っている。デジカメで写してから正門の左手の道を進むと最初に指揮者ゲオルグ・ショルティの墓があり、その右隣にバルトークの墓があった。彼の墓所には鳥の彫刻が墓石として置かれていた。音楽の翼にのって自由に世界を駆け巡っている、そんな解放感を感じる墓だった。ニューヨークで没し、遺言でナチスや共産政権が去った民主化されたハンガリーに帰ることを願ったバルトーク。他界43年後にハンガリーは民主化され、息子やショルティら周囲の尽力で彼は祖国に帰ってこられた。本当によかったね、バルトーク。※盟友コダーイの墓は墓地の中央付近。



★モンテベルディ/Claudio Monteverdi 1567.5.15-1643.11.29 (イタリア、ヴェネチア 76歳)2002
Iglesia de Santa Maria Gloriosa dei Frari, Venice, Veneto, Italy



墓参した作曲家の中では最も昔に活躍した人物。クラシック音楽創成期の作曲家だ。



★リムスキー・コルサコフ/Nikolai Andreevich Rimskii-Korsakov 1844.3.6-1908.6.8 (ロシア、ペテルブルグ 64歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation



レーピンが描いた肖像 全体に苔むした感じ(2005) 4年後、墓石上部がきれいになってた(2009)

上部のキリストのイコン、土台の装飾的な文字など、この墓は非常に凝っている!

手前から、コルサコフ、ムソルグスキー、ボロディン、
チャイコフスキー。ウィーンの楽聖墓地と並ぶ絶景なり!

アラビアン・ナイトの物語を音楽にしたのが、この曲『シェエラザード』だ。シンドバットの船が大海を航行するのが目に見えるような雄大さは圧巻!



スメタナ/Smetana Bedrich 1824.3.2-1884.5.12 (チェコ、プラハ 60歳)1994&2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

1994 スメタナが愛したプラハの河、モルダウ 2005

チェコの作曲家でチェコ国民楽派の始祖。祖国の民謡や民俗舞曲をベースに創作し、メロディは民族性が強い。自身の音楽を発展させ、17歳年下のドボルザーク(1841-1904)に手渡した。
7世紀、チェヒ族がボヘミアとモラヴィアを建国、スロヴァーク族がスロヴァキアを建国。
11世紀、ハンガリー系のマジャール族がスロヴァーク族を支配。この頃、ボヘミア王国も神聖ローマ帝国の支配下となり、ドイツ系農民の移住が始まる。
14世紀、ボヘミア王国の国王カレル4世が神聖ローマ帝国の皇帝となり、国家は大いに発展する。
1348年、プラハ大学(カレル大学)が創立される。
15世紀初頭、プラハ大学の総長で聖職者のヤン・フス(1369-1415)が宗教改革を訴え始める。これはルター(1483-1546)よりも1世紀早い。
1415年、フスは異端者としてプラハの広場で火刑にされた。翌年、怒ったチェヒ族が反カトリックを掲げて蜂起しフス戦争が勃発、17年間にわたる反乱となり1436年に鎮圧される。
1618年、フス系プロテスタントのチェコ貴族達がハプスブルク家のオーストリア帝国に反抗し、三十年戦争が勃発。チェコは敗れ、第一次世界大戦の終結まで300年の長きにわたってオーストリアの属国となる。
1780年、オーストリア皇帝に保守的な女帝マリア・テレジアに代わって啓蒙専制君主のヨーゼフ2世が即位。崩御する10年の間、民衆に自由な空気が流れる。

1824年3月2日、ベドルジハ・スメタナがボヘミア東部の小都市リトミシュルに生まれる。ドイツ語名フリードリヒ・スメタナ。3歳の時にウィーンでベートーヴェンが他界。父はビール工場の支配人で、自ら弦楽四重奏に興じる音楽好き。3度結婚した父にとって11番目の子で初の男子となり溺愛された。スメタナは4歳にして父の代役でバイオリンを弾き、6歳でピアノリサイタルを行うなど“神童”とうたわれる。15歳のときにプラハでフランツ・リストの演奏を聴いて感動し、自らもポルカを作曲するなど音楽の道に進むことを希望する。たが、父の願いは生活の安定した役人であり、音楽家を目指すことに反対する。
1842年、18歳のスメタナは日記に「モーツァルトのように作曲し、リストのようにピアノを演奏したい」と記す。この年、15歳の少女カテルジナ(カタリーナ)に初恋。日記に想いを綴る。「彼女の傍にいないと、僕は赤く熱された石炭の上に座っているかのように、平穏でいることがきない」。
1843年、19歳の時に父に自活を約束してプラハに出てピアノと作曲を学ぶ。たちまち生活は苦しくなったが、翌年ピアノの腕前が評価され貴族のトゥーン卿に雇われた。

1846年(22歳)、ベルリオーズがプラハで行ったコンサートに足を運ぶ。そして音楽教師先のトゥーン卿の家でシューマン夫妻に面会し、その際に自作のピアノソナタを見てもらった。夫妻の感想は「あまりにもベルリオーズからの影響が強すぎる」。翌年トゥーン家の音楽教師の職を辞し、コンサート・ピアニストとしての名声を求めて西ボヘミアへ演奏旅行を行う。

1848年(24歳)、手紙を書いたことをきっかけに個人的に親しくなったリストの援助を受け、プラハに音楽塾を開設。以後9年間、この学校を経営し後進の指導にあたる。同年、“フランス2月革命”に触発され、支配者オーストリアに対する民主化革命運動が起きると、これを熱烈に称えて参加し、『国民義勇軍の行進曲』『自由の歌』を作曲した。ハンガリーでも反乱が起きてオーストリアの皇帝フェルディナント1世は退位し、まだ18歳のフランツ・ヨーゼフが皇帝となった。革命運動はオーストリアに厳しく弾圧されたため、スメタナは民族色の強い音楽を書くことを通してチェコの人々を団結させようとしていく。オーストリア当局はスメタナを反逆者と見なして警戒した。
1849年(25歳)、音楽塾はリストが定期的に訪れたこともあって評判が高まり、スメタナの収入はようやく安定し、7年間想い続けたカテルジナと結婚。新妻は日記に記す「結婚式では愛しい両親の祝福、その愛の印に、誰にもまして私は感動しました」。
1855年(31歳)、スメタナが音楽の才能を見出していた自慢の愛娘ベドルジーシカ(4歳)が伝染病で早逝し、スメタナを打ちのめす。その衝撃のなか『ピアノ三重奏曲ト短調』を書いた。カテルジナが生んだ4人の女の子のうち成人したのは次女ジョフィエ(1853-1902)だけだった。
※『ピアノ三重奏曲ト短調』 https://www.youtube.com/watch?v=qVxCQlt-vKo (29分)

1856年(32歳)、オーストリアの支配下にあった祖国の状況や、コンサート・ピアニストになれない不満から、スウェーデンからの招きを受け入れて出国、両親に「プラハは私を認めようとはしない。だから私はそこを離れる」と手紙を書いた。スウェーデンのイェーテボリで音楽学校をひらき、5年間同地の音楽協会の指揮者となる。スメタナの指導の下、イェーテボリのオーケストラや合唱団はみるみる技術が上達し、評判を聞いてピアノの弟子も増え、高い収入が得られた。

1858年(34歳)、13歳年上のリスト(1811-1886)の強い影響のもとに交響詩『リチャード3世』を作曲。愛妻カテルジナが感染していた肺結核が北欧の寒さで悪化。スメタナは妻を経済的に助けようとしてスウェーデンで仕事を続けたが、慣れない気候と異国の生活環境で妻の健康状態を悪化させたことを後悔した。
1859年(35歳)、カテルジナの容体が厳しいものとなり、故郷の風土を求めていったん帰国することに。だが帰路の途上、ドイツのドレスデンで妻は旅立った(享年32歳)。スメタナの日記「何もかも終わってしまった!深く愛した我が宝、妻は今朝5時に息を引き取った。あまりにも穏やかに眠りについたため、私たち(看病していた妻の母も)は彼女が旅立ったことがしばらく分からなかった。さようなら、私の天使!」。スメタナは妻の亡骸を早逝した3人の娘達の側に埋葬し、生活の基盤があるスウェーデンに戻る。
1860年(36歳)、兄弟の義父の家で知り合ったバルバラ(ベッティーナ)・フェルナンディ(20歳)と再婚。バルバラはスメタナが作曲したポルカにダメ出しするなど気が強く、彼は手紙に記す「できることなら私は最下級の召使いとしてあなたのもとに仕えたい」。
1861年(37歳)、祖国チェコで民族運動が盛り上がってボヘミア憲法が制定されたことから帰国を決断。帰国後、スメタナは国民主義音楽を確立するため全精力を注いでいく。長くオーストリアに支配され都市部に育ったスメタナは公用語のドイツ語を話していたため、チェコ語を学んだ(逆に田舎生まれのドボルザークはドイツ語を勉強した)。同年、交響詩『ハーコン・ヤール』を作曲。
1862年(38歳)、幻聴が聴こえ始め、これは聴覚喪失の前兆だった。プラハでは仕事が少なく、ピアニストとして演奏旅行を行う。
1863年(39歳)、チェコ語による最初のオペラ『ボヘミアにおけるブランデンブルク家の人々』を書きあげ初演で好評を得る。プラハで再度音楽塾を開き、その後、フラホル合唱協会の指揮者に就任。

1865年(41歳)、スメタナは「民謡の旋律やリズムを引用したからといって国民音楽が形成されるのではない」と表明する。スメタナは後の“モルダウ”のような標題音楽を創作することで国民性を獲得しようとした。民族独自の伝説や詩歌を題材としても、あくまでも西欧音楽=バッハやベートーヴェンが切り開いたドイツ音楽の語法(伝統)に立ち、チェコの国民音楽を諸外国に伝えようとした。その考えのもと、民謡・舞曲の引用を極力避け、場面描写に限定した。この姿勢は、「国民音楽とはローカル色を出すこと」と考える人々から、「スメタナの音楽は国民音楽ではなくドイツ音楽である」と批判された。

1866年(42歳)、ボヘミアの農村を舞台にしたチェコ語オペラ第2作『売られた花嫁』を完成させる。プラハではチェコ語オペラ上演のための国民劇場の建設計画がすすみ、その仮劇場にて5月30日に『売られた花嫁』は初演された。普墺(ふおう)戦争の開戦2週間前という緊迫した状況で劇場は不入りになり赤字を出したが、4年後の再演で圧倒的成功をおさめる。当時のオペラはイタリア語が主流であり、独・仏語に属さない、ローカルな母国語オペラの先駆けとなった。『売られた花嫁』は誤解が巻き起こすコミカルな恋愛騒動を描き、ポルカやフリアントといったボヘミアの農民の踊りを巧みに織り込み、ヴェルディのイタリア語オペラやワーグナーのドイツ語オペラにはない地方的な味わいで人々を魅了した。初演半年後、スメタナは念願だった仮劇場の首席指揮者に任命される。その所属オーケストラのヴィオラ奏者に25歳の若きドボルザークがいた。

1868年(44歳)、国民劇場の建設工事が始まり、その初日にスメタナはチェコ民族を代表して、6万人が見守るなかで槌打ち役を務めた。同年、オペラ『ダリボル』を作曲。主人公は、囚われの身となり処刑を待つ誇り高き騎士ダリボル。彼を救出をすべく奔走する人々との物語。スメタナ本人が初演の指揮を振ったが、美しくドラマチックな旋律が多いにもかかわらず、悲劇的な全滅ラストのせいか当初はさほど人気がなかった。またライバル音楽家たちから、「チェコ民族の音楽よりもワーグナーに近く、国民劇場仮劇場の音楽監督に相応しくない」とバッシングされた。スメタナの死の数年後、再演をきっかけに『ダリボル』は再評価され、現在では『売られた花嫁』に肩を並べる作品と称えられている。

1872年(48歳)、チェコの伝説に登場する女王リブシェを描いたオペラ『リブシェ』を作曲。公正で頭脳明晰、未来も予知でき、“プラハ(鴨居)”の名付け親となったリプシェの物語。スメタナは『ダリボル』がワーグナー的と批判されたことに反発するかのように、方針を変えるどころかよりワーグナー的な響きを発展させた。翌年、仮劇場の芸術監督に昇進するが、聴覚は悪化していく。
※オペラ『リブシェ』 https://www.youtube.com/watch?v=PpuX7MszD18

1874年(50歳)、幻聴はさらに進んで頭がグルグルと廻り、指揮をしているとコーラスや弦楽器の音がぐちゃぐちゃに混ざって轟音となり、「大きな滝の側に立っているよう」になった。秋になると右耳、左耳の順で聴こえなくなり、聴覚を完全に失った。スメタナは仮劇場の指揮者を辞任、舞台から引退する。失聴後も耳鳴りだけは続き、それがさらにスメタナを苦しめた。だが、その不幸にめげず作曲を続け、女心を描いたオペラ『2人のやもめ』を作曲。そして同年より6曲からなる連作交響詩『わが祖国』の作曲を開始する。同年、第1曲「ヴィシェフラド」、第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」完成。
1875年(51歳)、地方にある次女ジョフィエの嫁ぎ先で静養。『わが祖国』の第3曲「シャールカ」、第4曲「ボヘミアの森と草原から」完成。
1876年(52歳)、傑作『弦楽四重奏曲第1番(わが生涯より)』を作曲。同曲では、青春時代の音楽への傾倒と将来の不安、初恋の人で最初の妻となったカテルジナへの想い、音楽上の戦い、そして終楽章で国民主義音楽の勝利が描かれ、同時に聴覚の異常を示す口笛のようなヴァイオリンの高音(ホ音)を響かせた。友人への手紙「聴覚を失う数週間前からピッコロのような高音が聴こえていた。だから弦楽四重奏曲の最後にホ音を入れて、私の恐ろしい運命を描こうとした」。後年、この曲を聴いた晩年のリストは感嘆し絶賛した。同年、恋愛ドラマのオペラ『接吻』を作曲。
※『弦楽四重奏曲第1番(わが生涯より)』
https://www.youtube.com/watch?v=_L1lPraMNUk (28分)
1878年(54歳)、2組の結婚を描くオペラ『秘密』を作曲。『わが祖国』の第5曲「ターボル」完成。
1879年(55歳)、『わが祖国』の第6曲「ブラニーク」を書きあげ、これで5年をかけて全6曲を揃えた連作交響詩『わが祖国』が完成した。『わが祖国』のうち、チェコ人が愛してやまない“母なる川モルダウ”を描いた第2曲『モルダウ(ブルタバ)』と、祖国の自然風土を描いた第4曲『ボヘミアの森と草原から』は特に人気が高く、しばしば単独で演奏される。同年、初演の機会がなかった弦楽四重奏曲(わが生涯より)が友人宅で演奏され、ドヴォルザーク(当時38歳)がヴィオラ奏者を務めた。

※連作交響詩『わが祖国』…「ヴィシェフラド」「ヴルタヴァ」「シャールカ」「ボヘミアの森と草原から」「ターボル」「ブラニーク」の6曲で構成。
第1曲「ヴィシェフラド」はかつてボヘミア王の居城だったプラハのヴィシェフラド城をモチーフにした叙事的なもの。「ヴィシェフラド」の意味は「高い城」。冒頭で吟遊詩人がハープを奏でながら、今や廃墟となった城の栄枯盛衰を歌うというもの。ヴィシェフラド城をあらわすメロディーは、第2曲と第6曲の最後に再登場する。
第2曲「ヴルタヴァ(独語モルダウ)」はプラハを流れる大河で、スメタナ自身が楽曲を詳しく解説している。「2つの源流から流れ出した水が合流し、森林や牧草地を経て、農夫たちの結婚式の傍を流れる。夜となり、月光の下、水の妖精たちが舞う。岩に潰され廃墟となった気高き城と宮殿の傍を流れ、ヴルタヴァ川は聖ヤン(ヨハネ)の急流で渦を巻く。そこを抜けると、川幅を広げながらヴィシェフラドの傍を流れてプラハへと流れる。そして長い流れを経て、最後はラベ川(エルベ川)へと消えていく」。
第3曲「シャールカ」はプラハ北東の谷の名前。伝説によると、ボヘミアの女戦士シャールカは手酷い失恋を体験し、全男性への復讐を誓い、宴で酔い潰れた騎士達を奇襲して皆殺しにしたという。伝説の内容に従い劇的な曲調となっている。
第4曲「ボヘミアの森と草原から」は風景画のようにボヘミアの田舎の美しさを描写したもの。大平原にさんさんと降り注ぐ夏の陽光から始まり、収穫を喜ぶ農民の踊り、祈りの情景、喜びの歌が繰り広げられ、後半は国民的舞踊のポルカとなる。
第5曲「ターボル」は南ボヘミア州の古い町の名前。同地は15世紀のフス戦争でフス派の重要拠点だった。宗教改革の先駆者ヤン・フスを信奉する信徒たちの英雄的な戦いを讃えた。フス派讃美歌『汝ら神の戦士』(歌詞「最後には彼とお前が常に勝利と共にある」)が曲の全体を貫く。
第6曲「ブラニーク」はボヘミアの山の名前。この山にはチェコの守護聖人・聖ヴァーツラフが率いる戦士たちが眠るとの伝説がある。聖ヴァーツラフと戦士たちは祖国が危機に直面した時、国家を助けるために復活するという。曲の最後にフス教徒の讃美歌『汝ら神の戦士』が再び高らかに響き、チェコの最終的勝利をうたいあげて華々しく終わる。
『わが祖国』全曲 https://www.youtube.com/watch?v=Mrr7zLuaRBk (75分)

1881年(57歳)、チェコ国民音楽のシンボル、念願の国民劇場が完成。?落としで9年前に完成していたオペラ『リプシェ』が初演され、聴衆は熱狂的な喝采をおくった。ところが悲惨なことに、13年かけて完成した国民劇場がわずか2カ月後に工事関係者の火の不始末で全焼してしまう。耳の聴こえないスメタナが劇場再建のため資金集めに奔走する姿は人々の心を打ち、急ピッチで再建が進む。
1882年(58歳)、『売られた花嫁』の第100回記念公演。失語症の障害が現れる。完成作としては最後のオペラ『悪魔の壁』を初演。教会と悪魔を描くシリアス作品。この年、初めて連作交響詩『わが祖国』6曲が全曲初演され、聴衆は6つの楽曲ごとに立ち上がって割れんばかりの喝采を送った。チェコの未来を明るくうたった第6曲「ブラニーク」が終わると劇場は興奮のるつぼとなった。
1883年(59歳)、焼失から2年でチェコ国民劇場は再建され、その?落としで再び『リプシェ』が上演された。同年、『弦楽四重奏曲第2番』を作曲。スメタナは幻聴に加えて幻覚に襲われるようになり精神病を発症、急激に体調が悪化していく。
1884年、モーツァルトやベートーヴェンに手紙を書いて切手を求めるなど精神錯乱が高じ、4月に発作を起こしプラハの精神病院に強制入院させられる。スメタナは食事もせずに大声で叫んだり同じ場所をぐるぐる歩き、突発的に高笑いをした。その翌月、5月12日に痩せ衰えて他界した。享年60。穏やかな最期であったという。失聴と狂気は脳梅毒が原因と推察されているが、認知症とする意見もある。3日後に葬儀がプラハ旧市街のティーン教会で行われ、亡骸はヴィシェフラット民族墓地へ埋葬された。
1902年、晩年のスメタナの世話をしていた次女ジョフィエ(ゾフィー)が49歳で他界。
1918年、ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアの3つの地方が一つのチェコスロヴァキア共和国となり、悲願の独立を果たす。
1926年、スメタナ・ミュージアムが完成。
現在、チェコでは毎年命日の5月12日から“プラハの春・国際音楽祭”が開催され、その開幕コンサートで必ず交響詩『わが祖国』6曲が通しで演奏される。

昔からボヘミア人は枕の下にヴァイオリンを置いて寝ていると言われるほど、豊かな音楽的才能の持ち主と認められてきた。スメタナはオペラ『売られた花嫁』や連作交響詩『わが祖国』などでチェコ国民の素朴な暮らしを見事に描きあげた。
音楽の力はすごい。スメタナと同じくチェコに生まれた画家ミュシャは、晩年このモルダウを聴いて作風がガラリと変わったと告白している。
スメタナの墓は剣のような石柱で土台の黒い石板に名前と生没年が金色の文字で刻まれていた。ベートーヴェンを襲った失聴と、シューマンを苦しめた狂気の2つと戦ったスメタナ。国民楽派の先駆者の労をねぎらった。



★ロドリーゴ/Joaquin Rodrigo 1901.11.22-1999.7.6 (スペイン、アランフェス 97歳)2005
Cementerio Municipal Santa Isabel, Aranjuez, Madrid, Spain

  
ギターの形をした墓石には代表曲「アランフェス協奏曲」の第2楽章が彫られていた!

ファリャ以後のスペインを代表する作曲家となったホアキン・ロドリーゴは、1901年11月22日にスペイン東部バレンシア州サグントで生まれた。3歳のときに悪性ジフテリアにかかり失明。8歳でピアノとヴァイオリンの学習を始め、バレンシア音楽院で作曲やピアノを学ぶ。

1924年(23歳)、管弦楽曲『子どものための5つの小品』でスペイン国家賞を授与される。
※『子どものための5つの小品』 https://www.youtube.com/watch?v=4E9Pl51UGWM(13分)
1927年(26歳)、パリへ留学。エコール・ノルマル音楽院でポール・デュカス(1865-1935)に作曲を師事。25歳年上のファリャ(51歳)とも知り合い音楽活動を励まされた。
1933年(32歳)、トルコ人ピアニストのビクトリア・カムヒと結婚。
1936年(35歳)、7月17日スペイン内戦が勃発。ロドリーゴは戦乱を逃れてフランスやドイツに身を置いた。
1939年(38歳)、4月1日、3年に及んだ祖国の内戦が終結する。ロドリーゴは、マドリード南部の古都アランフエスが内戦で被害を受けたことに胸を痛め、スペインの国民楽器であるギターに光を当て、祖国とアランフエスの平和への想いを込めて、ギターと管弦楽のための『アランフェス協奏曲』を作曲する。イングリッシュ・ホルンからギターに引き継がれる哀愁を帯びた冒頭の旋律が有名な第2楽章「アダージョ」は、20世紀のクラシック音楽の中で最も有名な楽曲となる。音量の小さなギターとオーケストラの組合せは非常に珍しく、当時の聴衆を驚かせた。同年帰国し、マドリードに定住する。
※『アランフェス協奏曲〜アダージョ』
●イエペス驚異の10弦ギター!ただし動画の録音に難あり
https://www.youtube.com/watch?v=CY29JlyAH7c
●切れ味良し!アンヘル・ロメーロ
https://www.youtube.com/watch?v=G0tY8REYdYE
●変わり種!ギター練習用のカラオケ版!
https://www.youtube.com/watch?v=m4DwinYKrQk
1940年(39歳)、『アランフェス協奏曲』がバルセロナで初演され、非常に高い評価を得た。フランス6人組の作曲家フランシス・プーランクいわく「一音の無駄もない」。以後、スペインを代表する作曲家として幅広く活躍する。
1941年(40歳)、一人娘のセシリアが生まれる。
1943年(42歳)、ピアノ協奏曲の『英雄的協奏曲』を作曲。
※『英雄的協奏曲』第2楽章いいです!頭出し済み
https://www.youtube.com/watch?v=cEQBjl8MNls#t=13m49s
1944年(43歳)、バイオリン協奏曲の『夏の協奏曲』を作曲。
1947年(46歳)、歌曲においても才能を発揮し『四つの愛のマドリガル』を作曲。「君ゆえに死ぬ思い」が有名。同年、マドリード大学の哲学科・文学科の教授として音楽史を担当。
1949年(48歳)、チェロ協奏曲の『ギャラント協奏曲』を作曲。
1952年(51歳)、ハープ協奏曲の『セレナード(セレナータ)協奏曲』を作曲。
1954年(53歳)、ギターの名手アンドレス・セゴビアの依嘱により、ギター協奏曲の『ある貴紳のための幻想曲』を作曲。全楽章の主題を17世紀スペインの音楽家ガスパル・サンスの作品(舞曲)から借りている。
※『ある貴紳のための幻想曲』 https://www.youtube.com/watch?v=ic3XTt7FNfQ
1960年(59歳)、ジャズの帝王マイルス・デイヴィスがアルバム『スケッチ・オブ・スペイン』で、ギル・エヴァンス編曲の『アランフェス協奏曲』を大きく取り上げる。
1963年(62歳)、ギター独奏曲『3つのスペイン風小品』を出版。「ファンダンゴ」「パッサカリア」「サパテアード」で構成。
※『3つのスペイン風小品』演奏の映像がカッコいい
https://www.youtube.com/watch?v=7xB_eCoga_M (11分半)
1967年(66歳)、4つのギターと管弦楽のための『アンダルシア協奏曲』を作曲。本作は著名なギター・ファミリーであるセレドニオ・ロメロ(1913-1996)から息子3人と共演できる作品を求められ作曲。
1968年(67歳)、2つのギターと管弦楽のための『マドリガル協奏曲』全10曲を作曲。スペインの古い旋律や民謡を題材にしつつロドリーゴの個性を盛り込んだ作品。
1973年(72歳)、最初で最後の来日。
1982年(81歳)、ギターと管弦楽のための『宴の協奏曲』を作曲。編成は『アランフェス協奏曲』と同じ。この曲もまた良い。81歳と思えないみずみずしさ。
※『宴の協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=F3ojFgSFZmY (28分)
1991年(90歳)、スペイン国王ファン・カルロスより貴族に列せられ、アランフエス庭園侯の爵位を授かる。
1996年(95歳)、スペイン国民にとって最高の名誉となるアストゥリアス王太子賞を授与された。
1998年(97歳)、フランス文化勲章を受章。
1999年7月6日、マドリードの自宅にて老衰のため他界。97歳まで長寿し、家族に看取られながら旅立った。亡骸はアランフエスの墓地に埋葬され、ビクトリア夫人も共に眠る。ロドリーゴの没後、娘セシリアは「ホアキン・ロドリーゴ財団」を創設した。
ロドリーゴは近代フランスの作曲家の影響を受けつつも、スペイン情緒と古典派的な楽想が一体となった独自の作風をつらぬいた。独奏楽器と管弦楽の協奏曲形式の作品が多く、旋律が美しい。97歳まで生き、家族に看取られながら“老衰”で永眠という、こんな幸福な最期を迎えた有名作曲家を僕は他に知らない。シューベルトの3倍も生きている。シベリウスは91歳まで生きたけど30年も新曲が書けずに苦しみ死因は脳出血、ストラヴィンスキーも88歳まで長寿したけど最後の3年は長期入院。ロドリーゴは、独裁者フランコが世を去って民主主義国家として歩き出した新生スペインを生きることもできた。3歳で失明したが、美しい音楽に彩られた人生がその後に90年以上も待っていた。

〔墓巡礼〕
マドリードの50km南にロドリーゴが眠る古都アランフェスがある。鉄道を使えば45分。夏のアランフェスは酷暑、駅は閑散としており、アランフェス宮殿は待ち時間なしで入れた。ロドリーゴの墓所がある「Cementerio Municipal Santa Isabel」は、宮殿とは駅を挟んで反対側。炎天下を1kmほど歩くと墓地の入口に着いた。管理人のお兄さんは少しワイルドなイケメン。その場でロドリーゴの墓への行き方を書いてもらったけど、敷地に入ると墓地のド真ん中に巨大なロドリーゴの墓があるため地図は無用だった。黒い巨石に現代アート風にデザインされたギターが彫られており、下部に『アランフェス協奏曲』の第2楽章の楽譜が刻まれていた。この曲はスペイン内戦に心を痛めたロドリーゴが平和への願いを込めて書きあげたという。優しきロドリーゴに合掌。

※“ギターの父”タレガとは違ってロドリーゴ本人はピアニストであり、ギターは演奏しなかった。
※『アランフェス協奏曲』第2楽章は、重病の妻や最初の子どもの死の追悼が込められているとも。名ギタリストのアンドレス・セゴビアはこの名曲を生涯に一度も演奏しなかった。献呈を受けられなかったこと、ナルシソ・イエペスが同曲でデビューして大注目されたこともある。



★パガニーニ/Nicolo Paganini 1782.10.27-1840.5.27 (イタリア、パルマ 57歳)2005&18
Cemetery Della Villetta, Parma, Emilia-Romagna, Italy


2005 2018
悪魔扱いされて教会から埋葬を拒絶された音楽家は彼だけ。静かで美しい墓地が最後に見つかってよかった

 
ナポレオンの2人の妹と浮名を流したり、賭博狂で公演前日にヴァイオリンを巻き上げられたりと破天荒


 
愛器は1743年製のグァルネリ「カノン(大砲)」。遺言で故郷のジェノバに寄贈され、市庁舎で遺品と共に展示されている

 
二度目の墓参時、レンタカーで別の墓地に行ってしまい、正しい墓地まで車で先導して下さった親切なパルマの御夫妻

イタリアの作曲家であり、音楽史上最高のヴァイオリンの名手。スーパースター。1782年10月27日にイタリア北西部の港町ジェノバで生まれる。5歳でマンドリンを始め、7歳から湾岸労働者でアマチュア音楽家だった父の指導でヴァイオリンの特訓を始めた。朝から晩まで毎日10時間も練習し、集中が切れると罰として食事抜きの練習になるというスパルタ教育を受けた。間もなく父は息子に優れた楽才を見出し、プロのヴァイオリニストや作曲家にも師事させる。そんな生活が10年以上続いたが、パガニーニ自身は後に「一度も辛いと感じたことはなかった。演奏技術が向上すると嬉しかった」と回想している。
初の公開演奏は9歳。13歳でヴァイオリンのあらゆる演奏技法を習得し、もはや学ぶべきものがなくなったため、自分で作曲した練習曲で腕を磨いた。
1797年(15歳)頃から積極的に活動を始め、ミラノ一帯のロンバルディア地方を演奏旅行し、たちまち人気者になった。
1800年(18歳)、パガニーニは表舞台から突然姿を消し、約3年間雲隠れする。フィレンツェの貴婦人、女性ギター奏者ディダと恋に落ち、世間の目を欺くために“庭番”となって彼女の邸宅で暮らし愛を育んだ。彼女に勧められてギターを弾き始め、ギターでも演奏技術を極めていった。以降しばらく作曲に集中し、数多くのギター曲を作曲する。//1805年まで4年間ほど作曲に集中する。
※『37のギター・ソナタ』 https://www.youtube.com/watch?v=JVbA70FCpgA (95分)
※『ヴァイオリンとギターのためのソナタ集』(12曲) https://www.youtube.com/watch?v=XEL4qNdWxrQ (21分)
1801年(19歳)、ヴァイオリン独奏のための特殊技法を駆使した『24のカプリッチオ(奇想曲)』の作曲を開始。従来のヴァイオリン演奏は弦を弾くピチカート奏法の際に右手で行っていたが、パガニーニはギター演奏で行う左手によるピチカートをヴァイオリンに取り入るアイデアを思いつき、作品に反映させた。
1802年(20歳)、賭博で大負けして演奏会前日に大切なヴァイオリンを巻き上げられたパガニーニに、ある商人が秘蔵のグァルネリのヴァイオリン(1743年制作)を貸し出し、演奏会で聴いた美しい音色に感動した商人は「生涯使い続ける」ことを条件に譲渡した。パガニーニはこのヴァイオリンが大きな音を出すことから「カノン(大砲)」と名付けた。
1805年(23歳)からナポレオンの妹でルッカ公妃のエリーザ・ボナパルト(当時28歳/1777-1820)に招かれて宮廷オペラの指揮者、音楽監督の地位に8年間就く。エリーザは既婚者にもかかわらずパガニーニに熱をあげ、彼を愛人にするために「侯爵夫人付き独奏者」に任命し、パガニーニは寵愛を一身に受けた。パガニーニの気持ちが離れそうになると、エリーザは音楽家の彼を近衛騎兵隊の隊長に任命し、パガニーニが宮廷の女官を好きになると嫉妬のあまり失神したという。
1807年(25歳)、6年がかりで作曲に取り組んでいた『24のカプリッチオ』が完成。本作の最終曲は実に華々しい変奏曲で、たった16小節の主題が後世の多くの作曲家を魅了し、リスト「パガニーニ練習曲第6番」、ブラームス「パガニーニの主題による変奏曲」、ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲」などに編曲されている。現代ではアンドリュー・ロイド・ウェバーが弟のチェロ奏者のために変奏曲「Variations」を書いている。第4番はシューマン「練習曲作品10第4」の原曲となった。
1808年(26歳)、イタリア・トリノで演奏会を開いたところ、聴衆の中にナポレオンの別の妹ポーリーヌ・ボナパルト(当時28歳/1780-1825)がおり、彼女もまたパガニーニにぞっこんになった。彼はここでも浮名を流したが、ポーリーヌが異常に熱をあげ愛人になれと強要するので辟易し、半年でトリノから逃げ出した。
1810年(28歳)、ミラノスカラ座のコンサートマスターに任命される。
1813年(31歳)、ビルトゥオーソとして認知されるべく、イタリア各都市で自作の演奏会を開催。その演奏技術の高さは各地でパガニーニ・ブームを巻き起こした。
1814年(32歳)、ジェノバで出会った若い女性と恋に落ち、パルマへ駆け落ちしたところ、相手の親から誘拐罪で訴えられ数日間を獄中で暮らす。
1815年(33歳)、ジェノバがサルデーニャ王国領となり、国王の御前で自作の弦楽四重奏曲を演奏。
1818年(36歳)、『ヴァイオリン協奏曲第1番』完成(1811年説、1816年説あり)。翌年の初演ではヴァイオリンだけを半音上げて明るく響くように演奏した。オーケストラはソリストの演奏を最大限に目立たせるように書かれている。
1819年(37歳)、ロッシーニのオペラ『エジプトのモーゼ』に触発され、ヴァイオリンと管弦楽のための『モーゼ幻想曲』を作曲。ヴァイオリンの一番低い音域=4番線(G線)のみで演奏される変わった曲。「エジプトのモーゼ」の『汝の星をちりばめた王座に』の旋律の変奏曲。同様にロッシーニのオペラ『タンクレディ』『チェネレントラ(シンデレラ)』のアリアから管弦楽作品を書いた。ロッシーニはパガニーニを気に入り、2年後に作品の初演を依頼している。
1820年(38歳)、それまで自作品の楽譜を門外不出とし、楽譜を出版しようとしなかったパガニーニだったが、初めて『24のカプリッチオ』をミラノで出版した。曲芸師のように評価されることに反発したパガニーニは、秘蔵の超絶技巧が盛り込まれている同曲をもって、自らの超人的なテクニックがテクニックのためのものでなく、自分の音楽を表現するための手段であることを伝えようとした。『24のカプリッチオ』はヴァイオリニストの聖典となった。
1822年(40歳)、歌手アントニア・ビアンキと同棲を開始。
1823年(41歳)、梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与を開始。
1825年(43歳)、2度目のイタリア演奏旅行。同年、一人息子アキーレが生まれる。
1826年(44歳)、この頃『ヴァイオリン協奏曲第2番』完成(完成年は諸説あり)。同じ旋律を何度も繰り返すロンド(輪舞曲)形式の第3楽章「鐘のロンド(ラ・カンパネッラ)」が有名で、リストは12年後(1838年)にこの旋律を変奏曲形式によるピアノ曲に編曲した「パガニーニによる大練習曲」を書きあげ、第3番「ラ・カンパネッラ」が絶賛された。また“ワルツの父”ヨハン・シュトラウス1世が同旋律で『パガニーニ風のワルツ』を書いている。
※ヨハン・シュトラウス1世『パガニーニ風のワルツ』 https://www.youtube.com/watch?v=kmqhml3bjSk
1827年(45歳)、もはやイタリア国内にパガニーニと比較されるヴァイオリニストはいなくなった。同年、ウィーンでベートーヴェンが他界。享年56歳。
1828年(46歳)、6年に及ぶ演奏旅行を行うため、アントニアと3歳の息子を連れて初めて国外に出る。3月29日にウィーンでデビュー、同地にて7月まで14回の公演を行った。ヴァイオリンの超絶技巧奏者としてセンセーションを巻き起こす。最晩年のシューベルト(1797ー1828)は、ウィーンに来たパガニーニの演奏を聴くために本や家財道具を売ってまで高いチケットを手に入れ、「鐘のロンド」で知られる『ヴァイオリン協奏曲第2番』を聴き、「アダージョ(第二楽章)では天使の声が聞こえたよ」と感激した。その半年後の11月19日、シューベルトは31歳で他界した。パガニーニの名声は全ヨーロッパに広まっていく。一方、アントニアと金銭面で衝突し、パガニーニは彼女と別れてアキーレを引き取った。
1829年(47歳)、ドイツ・ベルリンで公演、ここでも大成功し、以後2年間ドイツとポーランド各地で公演。シューマン夫妻やゲーテと交流する。演奏を聴いたゲーテいわく「彗星か何かのように聞こえた」。様々なヴァイオリニストがパガニーニの演奏技法を研究するため、公演先についてまわり、楽譜が未出版の曲を五線紙に書き起こした。この頃、『ヴァイオリン協奏曲第4番』『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』を作曲。5月、ワルシャワでパガニーニは自作の新曲『ヴェネツィアの謝肉祭』を演奏、会場にいた若きショパン(当時19歳/1810ー1849)はピアノ変奏曲『パガニーニの思い出』を作曲した。
※ショパン『パガニーニの思い出』 https://www.youtube.com/watch?v=qu3ancVGojc
1831年(49歳)、パリ、ロンドン、アイルランドで公演し空前の成功を収める。フランスでもウィーンと同様に14回公演し、パリの新聞は「悪魔的な神技であり、人々はみな狂気に走った」と会場の沸騰ぶりを伝えている。当時19歳で失恋の痛手に沈んでいた作曲家兼ピアニストのフランツ・リストは、パリの公演を聴いて感激し「ピアノのパガニーニになる!さもなければ気狂いになる」と決意、猛練習で超絶技巧を身に付け、パガニーニがバイオリンの演奏の上で開発した技法を、ピアノの演奏技法として発展させた。一方、フランスの公演で12万フランを稼ぎながら、一度もチャリティーの慈善演奏会(パリはコレラが流行していた)に参加しなかったことから「守銭奴」との悪評が立ってしまう。パガニーニは「慈善演奏会の日は体調がすぐれなかった」と弁明した。この頃、『常動曲(モト・ペルペトゥオ)』を作曲。
※メニューイン演奏の『常動曲』。原題の「moto perpetuo(モト・ペルペトゥオ)」は“永久機関”の意。
https://www.youtube.com/watch?v=dPRWshWq9E4 (3分)

1833年(51歳)、パリに移住。作曲家ベルリオーズ(当時30歳/1803-1869)の演奏会に足を運び、ベルリオーズと親交を結ぶ。会場にはショパンも来ていた。(この年ベルリオーズは『幻想交響曲』を完成させており、その演奏会かも?)
1834年(52歳)、梅毒治療のための10年に及ぶ水銀中毒が進行し、次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、この年ついに引退する。この頃、パガニーニはヴィオラの音色に心惹かれており、ベルリオーズにヴィオラと管弦楽のための交響曲を委嘱し、ベルリオーズは『イタリアのハロルド』を書きあげた。同年、ロンドンで出会った女性と駆け落ち未遂事件を起こし、パリの新聞がこのスキャンダルを大々的に報じたためフランスにいられなくなり、6年ぶりにジェノバに帰郷する。
1838年(56歳)、ベルリオーズの『イタリアのハロルド』を演奏会で聴き、終演後、指揮をしていたベルリオーズの楽屋を訪れてその才能を讃えた。この頃のベルリオーズは、新作オペラの失敗や妻の多額の借金などで生活が困窮していた。2日後、パガニーニはベルリオーズに手紙と小切手を送った。「親愛なる友よ、ベートーヴェン亡き後、後継者となり得る者はベルリオーズしかいません。あなたの素晴らしい作品を心から賛美しており、2万フランを贈り物としてお受け取り下さい」。この翌年にベルリオーズが就いたパリ音楽院の仕事は年俸1500フランであり、その13倍の大金だった。
1839年(57歳)、ベルリオーズが劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成させ、パガニーニに献呈する。
1840年5月27日、水銀中毒による上気管支炎、慢性腎不全によりニース(当時はフランスではなくサルデーニャ王国領)で他界。享年57歳。遺言により愛用のヴァイオリン「カノン」は「他人に譲渡、貸与、演奏をしない」ことを条件に故郷ジェノヴァ市に寄贈された。パガニーニは自分が編み出した演奏技術を他人に知られないよう、生前は自分の曲をほとんど出版しなかった。演奏旅行中はホテルの部屋から外に音が漏れると盗作されると警戒し、ほとんど練習しなかった。ヴァイオリン協奏曲など自作の演奏会では、共演するオーケストラに演奏会の数日、もしくは数時間前でパート譜を配らず、本番が終わると楽譜を回収した。しかもリハーサルでパガニーニはソロを弾かず、楽団員は本番でしかソロ・パートを聴けなかった。さらに死の直前に自作の楽譜をほとんど焼却したうえ、残った楽譜も遺族が売却して散逸したため、多くの作品が失われてしまった。12曲あったというヴァイオリン協奏曲は6曲しか見つかっておらず、うち第3番と第6番が見つかったのは20世紀に入ってからだ。たった一人しか弟子をとらず、その弟子も演奏技法を秘密にしたことから、演奏家としては一代で流派が途絶えた。ベルリオーズは「百年に一度の超人が一人の後継者も残さず去ってしまうのは実に残念」と惜しんだ。
1925年、オーストリアの作曲家レハールがオペレッタ『パガニーニ』を作曲。
2013年、ドイツ映画『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』が公開。主演は“21世紀のパガニーニ”、デイヴィッド・ギャレット。5億円のストラディバリウスで演奏した。

奔放な性格で知られ、生涯、恋愛とギャンブルを好んだパガニーニ。その人間離れしたヴァイオリンの演奏技術ゆえに「パガニーニは悪魔に魂を売り渡して高い演奏技術を手に入れた」と噂され、聴衆の中には本気で十字を切る者がいた。しかもパガニーニは病気がちで細身かつ肌が浅黒いうえ、鷲鼻で目つきが非常に鋭かったことから、この容姿も悪魔伝説に信憑性を与えた。
それに加え、パガニーニは教会にビタ一文寄付せず、息子に洗礼を受けさせず、日曜ミサにも行かず、死の床の終油の秘蹟すら受けなかったため、没後はニースの司教が埋葬許可申請を拒否。遺体は防腐処理を施され、4年間野戦病院の地下納骨堂に安置されていたが、近隣の住民から「毎晩ヴァイオリンのすすり泣くような声が聞こえる」と苦情が出たことから、さらに各地を転々とし、息子アキーレは埋葬地を探して奔走、没後56年も経った1896年(1876年説あり)にローマ大司教から埋葬許可が下り、ようやくパルマの共同墓地が永眠の地となった。
パガニーニはヴァイオリンの4本の弦のうちの1本だけで難曲を弾くことができた。それをアピールするため、演奏中に弦を高い方から爪でわざと切り、最後に残ったG弦で弾きこなし、聴衆を驚かせた。さらに2音や3音の和音を同時に出すことで、あたかも複数のヴァイオリンが演奏されているように錯覚させる響きを生み出して人々を圧倒した。
作曲家としては8曲のヴァイオリン協奏曲と複数のヴァイオリン・ソナタを残したが、2音を同時に出すダブルストップ奏法を高速で連続させたり、ピチカートの際に左手て弦に軽く触れて倍音を響かせるフラジョレット奏法を要求するなど、どれも高度な技術を必要とする難曲ばかり。名人芸的演奏効果はリストのほかラフマニノフにも影響を与えた。

〔墓巡礼〕
初巡礼は2005年。パガニーニが眠るパルマのヴィレッタ墓地(Cimitero della Villetta)はパルマ駅の近くから市バス1番で行けた。バスは墓地の前で停まってくれる。パガニーニの墓は正門から50mほど進んで最初の四つ辻を左折すると正面に見える。胸像付きだから分かりやすかった。悪魔と思われて、半世紀以上もお墓を建てられる場所が見つからなかったパガニーニ。遠回りになったけど、パルマの美しい墓地に眠ることができて良かったじゃないか。
再巡礼は13年後の2018年。レンタカーで墓参したけれど、カーナビに登録する際に間違えて異なる墓地を入れてしまい、気づかないまま現地へ。「あれ?おかしい、前回来たときと景色が違うような…」。違和感を覚えながらも、まさか別の墓地にいると思わず、石屋さんや墓参に来た人に片っ端から「パガニーニのお墓はどの辺ですか?」と聞いた。英語を話せる人が全然いなくて、こちらが何とか簡単なイタリア語で質問できても、肝心の相手の言葉が理解できなかった。「質問したものの、返事が理解できない」、これは墓マイラーあるあるだ。とはいえ、「パガニーニ、ノー、ノー」と言っていたので、ここではないことには気づいた。この日は2時間前にiPadを作曲家マスカーニの墓地に置き忘れるという痛恨のミスを犯しており、これで心が折れ、パガニーニの本当の墓地を探す気力が湧かなかった。断念して次の目的地ミラノに出発しようとすると、先刻質問した地元の中年夫婦に呼び止められ、旦那さんが言葉とジェスチャーでこう言ってくれた。「パガニーニの墓地まで車で先導するから、後ろからレンタカーでついてきて」。なんて親切なんだろう!正しい墓地は500m北にあり、たった2分で到着。こんなに近いのに、パガニーニに墓参せずに帰るところだった。老夫婦が声をかけてくれたお陰で再びパガニーニに会えた。本当にありがとうございます!

※入場料が3倍に跳ね上がっても完売し、どの会場も開演の1時間前には超満員になった。
※極端に痩せていたのは、少食が健康をもたらすと信じ、朝食抜き、昼は一杯のココア、夜は生薬と少ない食事をとるだけで済ませていたため。
その代わり朝は遅くまで眠っていました。
※金銭面に非常にシビアだったと伝えられ、偽造チケットが多く出回ったことから、自ら会場の入口でチケットをチェックしたという。
※木靴に弦を張って楽器として演奏したこともあった。
※ロッシーニ「イタリア人音楽家にとってパガニーニがオペラに興味を示さなかったのは幸運だった。あの才能を前に我々は消し飛んでいただろう」。
※パガニーニはアンコール演奏をしない主義であり、サルデーニャ国王からのアンコールも断った。その結果、サルデーニャを2年間追放になった。

※歌心たっぷりの『カンタービレ』
https://www.youtube.com/watch?v=2llF6u_H7Cs (4分)

※中国のヴァイオリニスト、ニン・フェンの超絶技巧
無伴奏ヴァイオリン独奏曲『独奏ヴァイオリンのためのデュオ(Duo for One Violin)』
https://www.youtube.com/watch?v=iBuBfLsf4xI (2分23秒)
無伴奏ヴァイオリン独奏曲『ゴッド・セイヴ・ザ・キング(クイーン)』英国国歌による変奏曲
https://www.youtube.com/watch?v=JSyRzUv6VDM (3分41秒)

※冒頭から引き込まれる『弦楽四重奏曲第1番』
https://www.youtube.com/watch?v=efCGGIufArg (18分27秒)なぜ音楽史で殆ど無視されているのか…

〔参考資料〕『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『ららら♪クラシック』(NHK)、『名曲事典』(音楽之友社)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト)、『ブリタニカ国際大百科事典』(ブリタニカ)、ウィキペディアほか。
『神か悪魔か?』 http://www.geocities.jp/kim39570741/column/Column016.html



★スクリャービン/Alexander Nikolayevich Scriabin 1872.1.6-1915.4.27 (ロシア、モスクワ 43歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation



従来の一般的な3度和音を使わずに、4度音声を基本にした不安定な不協和音「神秘和音」を
使うことで、彼にしかない独自の音楽世界を創り上げた。(ピアノ・ソナタ第10番など)

「リストは自分の持てるテクニックをすべて、ショパンは自分の持てる気持ちを曲に、スクリャービンは個人ではなくピアノという楽器を最大限に生かす方法を楽譜にできた」(篠崎史紀)




★アルビノーニ/Tomaso Giovanni Albinoni 1671.1.17−1751.6.14 (イタリア、ヴェネチア 80歳)2005
Church of San Marco, Venice, Veneto, Italy
※誕生日は6.8説、6.14説もあり。命日は1.17説があり。



『アルビノーニのアダージョ』、もう何回聴いたか分からない。彼の墓は写真のサン・マルコ寺院の中と伝えられているが、
僕が行った時は、警備員も、お坊さんも、売店の人も、全員が「見たことない」という返事だった。仕方なく外観をパチリ。




★ボロディン/Aleksandr Porfiryevich Borodin 1833.11.12-1887.2.27 (ロシア、ペテルブルグ 53歳)2005&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

2005 美しい金のモザイクで楽譜が刻まれていた。
ボロディン像はとても穏やかな顔をしている
2009 手前に小さな台座があり清楚な花が供えられていた


●“ロシア五人組”全員集合!!(撮影はすべて2009年。みんな同じ墓地)

アレクサンドル・ボロディン
(1833-1887)
享年53歳
ツェーザリ・キュイ
(1835-1918)
享年83歳
ミリイ・バラキレフ
(1836-1910)
享年74歳
モデスト・ムソルグスキー
(1839-1881)
享年42歳
リムスキー=コルサコフ
(1844-1908)
享年64歳

ボロディンは19世紀後半のロシアで、反西欧・反アカデミズムを掲げて民族主義的(ロシア的)な音楽の創造を目指した作曲家集団「ロシア五人組」の一人。“五人組”の呼称は1867年に芸術評論家スターソフが命名した。
五人の顔ぶれは年齢が高い順に、ボロディン、キュイ、バラキレフ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ。ボロディンとコルサコフの年齢差は11歳。
※バラキレフ(Balakirev)…26歳で無料音楽学校を設立した五人組のリーダー格。グリンカの弟子。バラキレフの作品は少なく運動の理論的指導者だった。多くの音楽書籍やウィキでは「1837年生まれ」になっているけど、墓が「1836年」だったので当サイトはそれを尊重。
※キュイ(Cui)…音楽評論家としても活躍したが毒舌ゆえ敵だらけだった。晩年は失明し口述で作曲を続けた。

●09年5月、読者のVindobonaさんがボロディンの墓の曲名を全て解読して下さいました!有難うございます!

1段目 交響曲第2番第1楽章
2段目 歌劇『イーゴリ公』の「だったん人の踊り」
3段目 歌曲『暗い森の歌』
4段目 交響曲第3番第2楽章 スケルツォ
5段目 交響詩『中央アジアの草原にて』



★山田 耕筰/Kosaku Yamada 1886.6.9-1965.12.29 (東京都、あきる野市、西多摩霊園 79歳)2000


   



東京生まれ。日本の近代音楽界の先駆者であり、育ての親。東京芸大声楽科で学んだ後に作曲の道を志すが、明治の日本には作曲の先生などまだいなかった。それゆえ1910年(24歳)、ベルリン国立音楽学校の作曲クラスに留学。最初に「序曲 ニ長調」を書く。26歳、卒業制作に日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲し、オペラも手がけた。28歳、帰国と同時に国内初の交響楽団「東京フィルハーモニー管弦楽団」を組織し、日本最初の交響楽演奏会を開催する。34歳、カーネギーホールで自作の管弦楽曲による演奏会を開く。36歳、日本語による日本の歌を生み出すべく、北原白秋と雑誌『詩と音楽』を創刊。50歳でフランスのレジオン・ドヌール勲章、70歳で文化勲章を受賞。1965年(79歳)、心筋梗塞のため死去。「からたちの花」「赤とんぼ」「この道」など日本語のアクセントを効果的に使った童謡、歌曲など、作品総数は約1600曲におよぶ!

耕筰はかなり気が強かったらしくプロコフィエフと喧嘩したとか、幾つかエピソードが伝えられている。海外で作曲家ブロッホから「日本人であるのに、あなたは何故日本の音楽を書かないのです、何故歌麿の音楽を書き、北斎の音楽を書かないのです」と問われ、「もしもあなた方が私どもの国と、私どもの国民に対して、そうした要求をなさるのならば、何故私どもの鎖国の夢を破ってまで、あなた方欧米人の尊い文明の恵みを私どもに与えたのですか」と答えたという。



★オッフェンバック/Jacques Offenbach 1819.6.20-1880.10.4 (パリ、モンマルトル 61歳)2002
Cimetiere de Montmartre, Paris, France



音楽と喜劇との融合を果たし、オペレッタの原型を作った作曲家。「シャンゼリゼのモーツァルト」とロッシーニに称えられるほど美しいメロディーを次々と生み出した。
ジャック・オッフェンバックは、1819年6月20日にドイツ・ケルンで生まれ、後にフランスに帰化した。本名はヤーコプ・レヴィ・エーベルストで父親の出身地オッフェンバッハをペンネームとした。合唱指揮者の父からバイオリンを学ぶ。
14歳の時にチェロを学ぶためフランスに出てパリ音楽院に通い、1837年(18歳)にパリのオペラ・コミック座のチェロ奏者となる。やがて演奏のかたわら作曲を始めた。
1849年(30歳)、テアトル・フランセ(共和国劇場/テアトロ・フランセーズ)の指揮者となる。テアトル・フランセは1680年に太陽王ルイ14世の号令で誕生した王立コメディ・フランセーズ劇団の本丸となった劇場。
1853年(34歳)、オッフェンバックが作曲した最初の1幕物オペレッタ『ペピト』がオペラ・コミック座で初演される。
※オペレッタ(喜歌劇)…セリフが入った歌と踊りからなる舞台劇。18世紀には短いオペラをさしたが、19世紀以降は大衆に向けた軽い音楽劇を指すようになった。
※日本では「コメディ」は喜劇だけど、フランスでは“演劇”のこと。同様に「コメディアン」は喜劇役者ではなく“俳優”を指す。

1855年(36歳)、1幕物のコメディーを上演する劇場として「ブフ・パリジャン」と名付けた小劇場をシャンゼリゼ通りに自ら開き、いくつものオペレッタを上演。国民的人気を呼び、名声により皇帝ナポレオン3世との謁見に至る。この年、フランス内務省の劇場経営規則が出され、俳優やダンサーの人数制限やコーラスの禁止などが厳しく指定された。オッフェンバックは規則の撤廃運動を開始、3年をかけ登場人物数、コーラスともに制限無しという条件を獲得することに成功した。
1858年(39歳)、初めて長編作品に挑み、全2幕の『地獄のオルフェ(邦題:天国と地獄)』を作曲。ブフ・パリジャン座で初演され、連続228回公演を記録、人生最大のヒット作となった。この作品はギリシア神話の悲劇を題材にしたグルック作『オルフェオとエウリディーチェ』をパロディ化したもの。神話ではオルフェオが亡き妻を愛するあまり地獄に赴く物語なのに、本作は互いが愛人を持ち、体面だけを気にしてしぶしぶと妻を取り戻しにいくという内容で、偽善の夫婦愛を風刺した。初演翌日の日刊紙『フィガロ』は、「前代未聞、とにかく楽しい。気が利いていて、聴衆を魅了してやまず、見事としか言いようがない」と称えた。地獄で繰り広げられるダンスシーンとフィナーレのソプラノ独唱と合唱で歌われる「カンカン(ギャロップ)」は特に人気を集めた。フレンチカンカンに使われる有名な序曲は、2年後に上演されたウィーン版のためのオリジナル曲で、当初のフランス版にはなかった。カンカンは日本でも運動会のBGMとして小学生でも知っているクラシックの名曲に。
1864年(45歳)、全3幕のオペレッタ『美しきエレーヌ』を作曲。古代ギリシャのスパルタを舞台に、トロイア戦争の原因となったパリスによるスパルタ王妃ヘレネの誘惑を通して、社会的地位のある人々の放蕩ぶりを風刺。『地獄のオルフェ』と並ぶ人気オペレッタとなる。

1880年10月5日、61歳で他界。晩年は人気に陰りが出てきたことから、オッフェンバックは新境地を開くため初の本格的オペラ『ホフマン物語』を作曲していたが未完に終わった。生涯に102曲のオペレッタを作曲。
1881年、死の4カ月後に作曲家エルネスト・ギロー(1837-1892/ビゼーの死後『アルルの女』第2組曲を編曲、発表した人物)が『ホフマン物語』を補筆完成させ、パリのオペラ=コミック座で初演される。グランド・オペラの『ホフマン物語』は、ドイツの詩人E.T.A.ホフマンの小説を元にした戯曲をオペラ化したもの。詩人ホフマンが学生たちに自分の破れた三つの恋物語を語っていく物語。ホフマンは人形のオランピア(人形と知らずに恋する)、瀕死の歌姫アントーニア、ヴェネツィアの娼婦ジュリエッタと次々に恋に落ちるが、どれも悲恋に終わる。初演は大成功し、中でもヴェネツィア編で歌われるソプラノとメゾソプラノの二重唱「ホフマンの舟歌(バルカローレ)」(正式名「美しい夜よ、おお恋の夜よ」)は特に有名。ただし「ホフマンの舟歌」のメロディーは、オッフェンバックのオペレッタ『ラインの妖精』からの流用。
1976年、オッフェンバックの自筆楽譜が大量に発見され、以降、『ホフマン物語』の新しい版が複数発表されている。
オッフェンバックの軽妙でウィットに富む風刺オペレッタは、国民に爆発的な人気を呼んだ。彼の墓はベルリオーズやハイネが眠るモンマルトル墓地にある。

※語りの部分が音楽をともなうもの(レチタティーボ)がグランド・オペラ、セリフだけのものがコミック・オペラ。
※ヒット作を量産しても、舞台セットや豪華な衣装で常に劇場の経営状態は厳しかった。
※オペレッタは徹底した娯楽路線から芸術的に低く評価され、作家エミール・ゾラは「オペレッタとは、邪悪な獣のように駆逐されるべき存在」と批判した。
※ベルリオーズの16歳年下。



★グルック/Christoph Willibald Gluck 1714.7.2-1787.11.15 (オーストリア、ウィーン 73歳)2002
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



オペラの改革者。当時のオペラは歌手の技巧、テクニックを誇示するものが中心だったが、彼は作品の装飾的な部分よりも、内容(ストーリー)を
最重視する運動を展開した。祖父、父とも森林監視員で音楽とは全く縁のない家に生まれ、オペラ作曲家としてデビューしたのがユニーク。




★フーゴー・ウォルフ/Hugo Wolf 1860.3.13-1903.2.22 (オーストリア、ウィーン 42歳)2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



詩と音楽を巧みに融合させ300曲以上の歌曲を残した。37歳から心の病気で入院生活を送り43歳で死去。



★グリンカ/Mikhail Ivanovich Glinka 1804.6.1-1857.2.15 (ロシア、ペテルブルグ 52歳)2005&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation



2005 2009 大きな花が供えてあった

ロシア音楽の父。曲の中にロシア民謡を多く取り入れた国民楽派の創始者。ベルリンで死去。
※最初の埋葬場所はベルリンのRussisch-Orthodoxen Friedhof。




★マックス・ブルッフ/Max Bruch 1838.10.6-1920.10.2 (ドイツ、ベルリン 82歳)2002
Friedhof III, Berlin-Friedenau, Germany
※誕生日は1月6日説あり



ヴァイオリン協奏曲第一番の第一楽章はバリ渋ッ!!



★ブゾーニ/Ferruccio Benvenuto Busoni 1866.4.1-1924.7.27 (ドイツ、ベルリン 58歳)2002
Friedhof III, Berlin-Friedenau, Germany



「シャコンヌ」といえばバッハが有名だが、プゾーニもなかなか良い。



★ヴォーン・ウィリアムズ/Ralph Vaughan Williams 1872.10.12-1958.8.26 (イギリス、ロンドン 85歳)2005
Westminster Abbey, London, England



エルガーに続く現代イギリスの代表的な作曲家。イギリス民謡を熱愛し、20世紀のイギリス音楽の復興に貢献した。
1872年10月12日にイングランド南西部グロスターシャーのダウン・アンプニーで生まれた。牧師の父は3歳の時に他界。6歳から叔母ゾフィー・ウェッジウッドに音楽を学ぶ。母方の高祖父(ひいひい爺)は高名な陶器職人ジョサイア・ウェッジウッド。ダーウィン家も母方の親戚であり、チャールズ・ダーウィンは大おじにあたる。
1890年(18歳)、ロンドンの王立音楽大学に入学。途中の一時期、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで歴史学と音楽を専攻。
1895年(23歳)、学生仲間で2歳年下の作曲家ホルスト(1874-1934)と知り合い親友になる。後にケンブリッジ大学でも学ぶ。
1897年(25歳)、ベルリンでドイツの作曲家ブルッフに2年間師事。同年結婚。
1904年(32歳)、ウィリアムズはイングランドの各地方で口頭伝承された民謡が、識字率向上で急速に失われつつあることに気づき、田舎を訪ね歩いて民謡を収集、保存した。後年、自身の音楽様式にそれらのリズム、音階、旋律の一部を取り入れていく。
1905年(33歳)、ドーキング(ロンドンの30km南西)の第1回レイス・ヒル音楽祭を指揮し、以降、1953年まで50年近く同音楽祭の指揮者を務める。
1909年(38歳)、パリに8カ月滞在し、3歳年下の作曲家ラヴェル(1875-1937)に作曲と管弦楽法(オーケストレーション)を習った。
イギリスの合唱の伝統に深い関心を持っていたウィリアムズは、この頃から約40年の間、音楽祭で地方の様々な合唱団を指揮(1909〜53)した。
1906年(34歳)、17世紀のイギリス音楽や讃歌を愛し『イギリス讃歌集』を監修。著名な讃歌『シネ・ノミネ(名もなく)』を作曲。
1910年(38歳)、出世作となる『トマス・タリスの主題によるファンタジア』(タリスの主題による幻想曲)を作曲。トマス・タリスは16世紀イングランドの作曲家。2003年の映画『マスター・アンド・コマンダー』でも使用された。
アメリカの詩人ホイットマンの詩集『草の葉』をテクストとし、7年がかりで作曲した合唱付きのシンフォニー『海の交響曲』(交響曲第1番)初演。各楽章に標題があり、第1楽章「全ての海、全ての船の歌」、第2楽章「夜、渚に一人いて」、第3楽章「波」、第4楽章「探求する人々」となっている。初演は大きな成功を収めた。

1913年(41歳)、『ロンドン交響曲』(交響曲第2番)を作曲。音楽でロンドンの風物を描き、第1楽章でウェストミンスター寺院の朝の鐘がハープで表現されている。第一次世界大戦で戦死した友人の作曲家ジョージ・バターワース(享年31)に献呈。初演で喝采を浴びた。
同年、第一次世界大戦が勃発すると、志願して陸軍医療軍団に義勇兵として入隊、前線の担架卒となる。
1917年(45歳)、砲兵守備隊の少尉に任命される。砲火の爆音に長期にわたって晒された結果、老後に酷い難聴で苦しむ。
1918年(46歳)、陸軍の音楽監督に任ぜられ終戦を迎える。
1919年(47歳)、王立音楽大学で作曲の教授に就任。
1920年(48歳)、ヴァイオリンとオーケストラのための管弦楽曲『揚げひばり』を作曲。美しい牧歌的雰囲気から現代でもイギリス人に大人気の曲。
1921年(49歳)、イギリスの田園風景を描いた『田園交響曲』(交響曲第3番)を作曲。オーケストラのミュートされた音色と民謡からとりいれた和声に特色がある。第一次世界大戦の犠牲者への挽歌。
1923年(51歳)、吹奏楽曲『イギリス民謡組曲』を作曲、この作品は民謡の親しみやすい曲調や演奏の容易さから、吹奏楽のレパートリーの古典的名曲となる。
1931年(59歳)、『ピアノ協奏曲』を作曲。バルトークのようにピアノを打楽器的に使用。
※『ピアノ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=tB72RETYua4 (画像が素晴らしい)
1934年(62歳)、不協和音と緊張感に満ちた『交響曲第4番』を作曲。曲調の荒々しさに聴衆は度肝を抜かれ困惑した。ウィリアムズ「自分自身でも気に入っているかどうかはわからないが、曲は私の意図した通りのものである」。同年、ウィリアムズの代名詞となる『グリーンスリーヴスによる幻想曲』を自身の指揮で初演。古いイングランド民謡『グリーンスリーヴス』に基づく小品。ウィリアムズは6年前にオペラの間奏曲でこの旋律を用い、それをラルフ・グリーヴズが編曲した。この年、親友グスタフ・ホルストが59歳で他界。
1943年(71歳)、『交響曲第5番』を作曲。第二次世界大戦の真っ只中にあって安らかなる楽曲になっている。ウィリアムズは7歳年上のシベリウス(1865-1957)を非常に尊敬しており、本作をシベリウスに献呈した。
1947年(75歳)、『交響曲第6番』を作曲。不協和音と闘争性から“戦争交響曲”とも評される。終楽章の静けさは核戦争後の世界を思わせる。高い評価を得て初年度だけで100回も演奏された。同年、探検家ロバート・スコットの南極探検を描いた映画『南極のスコット』のサウンドトラックを担当し、2年後のプラハ映画祭で音楽賞を受賞する。
1951年(79歳)、妻アデリーンが他界。
1952年(80歳)、映画『南極のスコット』の音楽を再構成した『南極交響曲』(交響曲第7番)を作曲。チェレスタ、ウィンドマシーン、女声合唱で南極の厳しい自然とスコットの英雄性を描く。楽章ごとの以下の標題(引用句)を朗読することがある。前奏曲:シェリーの詩『鎖を解かれたプロメテウス』、スケルツォ:詩篇第104篇、風景:コールリジ『シャモニー渓谷の日の出前の讃歌』、間奏曲:ジョン・ダン『夜明けに』、終幕:スコット大佐の最後の日記「私はこの探検を悔いない。危険を冒したことは知っているが、物事に遮られたまでだ」。ヴォーン・ウィリアムズの“英雄交響曲”ともいえる。
1953年(81歳)、39歳年下の女流詩人アーシュラ・ウッド(1911-2007※42歳)と再婚。ウッドとは15年前から妻公認の不倫関係にあった。
1954年(82歳)、ロンドン交響楽団の委嘱で『チューバ協奏曲』を作曲。世界のチューバ奏者の最重要レパートリーとなる。
1955年(83歳)、『交響曲第8番』を作曲。第1楽章は主題の変奏曲、第2楽章は吹奏楽器だけの演奏、第3楽章は弦楽器のみ、終楽章は打楽器が主役という、83歳とは思えない老いてなお挑戦的な作品となっている。
1957年(85歳)、『交響曲第9番』を作曲。第2楽章の物憂げで印象主義的な展開にドビュッシーの影響が見てとれる。
1958年、4月に交響曲第9番を初演。8月26日 、ロンドンにて心臓発作のため他界。享年85歳。遺灰はウェストミンスター寺院の北翼聖歌隊席通路に埋葬。近くに大おじのダーウィンの墓がある。

民謡や賛美歌など様々なイギリス音楽から発想をえたウィリアムズは、9曲の交響曲、6曲のオペラのほか管弦楽曲、合唱曲、歌曲などを残し、20世紀のイギリスにおいて国民主義的な音楽様式を確立した。その功績により、イングランドの伝統的な民謡や旋律はより高い評価を受けることになった。ウィリアムズは田園風景を彷彿とさせる牧歌的な作風の印象が強いが、交響曲には激しい不協和音の作品もある。日本ではホルストの方が知名度は高いが、欧米ではホルストより高い評価を受けている。

※名前のRalph は通常「ラルフ」と読むが、本人が古風な発音の「レイフ」にこだわった。
※ラヴェル「ウィリアムズは弟子の中で唯一ラヴェル風の音楽を書かなかった人物」。
※音楽評論家ジョン・メイトランド「(ウィリアムズの作風は)聴いていて非常に古い音楽なのか非常に新しい音楽なのか分からなくなる」。
※ドーキングにヴォーン・ウィリアムズの像。
※英国民族舞踊民謡協会の会長を務めた。



★スッペ/Franz von Suppe 1819.4.18-1895.5.21 (オーストリア、ウィーン 76歳)20025
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



オペレッタ『軽騎兵』『詩人と農夫』などの序曲が有名。



★ヤナーチェク/Leos Janacek 1854.7.3-1928.8.12 (チェコ、ブルノ 74歳)2005
Central Cemetery, Brno, Czech Republic

 
墓石の拡大画像。男性合唱曲『さまよえる狂人』の一節が刻まれていた

20世紀初めのチェコの作曲家。スメタナ、ドヴォルザークの後継者として、スラブ人の独自性を主張する民族主義音楽の作曲を行なった。モラヴィアの民俗音楽から影響をうけた様式で知られる。
1854年7月3日にオーストリア帝国モラヴィア北部の山村フクバルディ(現チェコ東部)で生まれた。父は教師で音楽家。1865年、11歳からモラヴィアの首都ブルノのアウグスティノ修道院で生活し、少年聖歌隊員として音楽教育を受けた。この修道院には修道士に“遺伝学の祖”植物学者メンデル(1822-1884当時43歳)がいて、「メンデルの法則」なる遺伝の法則を発見した論文を翌年に発表している。12歳で父が他界し伯父の後見を受ける。19歳でスヴァトプルク合唱協会(労働者の歌唱クラブ)の指揮者に就任し、合唱協会のために四声部の世俗歌を作曲。

1874年(20歳)、教職試験に合格。かつてドヴォルザークも在籍したプラハのオルガン学校で学び、この1年間のプラハ滞在中に13歳年上のアントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)と親交を深め、その音楽に傾倒した。そして、「全スラブ民族の理想の源泉」とロシアを位置付け、独学でロシア語を学んだ。
1879年(25歳)、ドイツの音楽の中心地ライプツィヒの音楽院に入学するも、授業内容に満足できず翌年ウィーンへ。そこでも収穫はなく「正規の教育を受ける必要はもはやない」と痛感した。
1881年(27歳)、ブルノの王立師範学校長の娘ズデンカと結婚。だが、親族の問題や幼子の病死などで夫婦の間に距離が生まれ、離婚はしなかったが10年ほどで結婚生活は破綻した。
1882年(28歳)、長女オルガ誕生。ヤナーチェクはブルノにオルガン学校(現ヤナーチェク音楽院)を設立。19年間教鞭を執る。
1884年(30歳)、音楽雑誌『ブデブニー・リスティ』を創刊。同年、チェコ国民音楽の祖スメタナ(1824-1884)が60歳で他界。
1886年(32歳)、民俗学者と協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を行う。モラヴィアでは約3000曲もの民謡が歌われていた。ヤナーチェクはこれらの民謡に強い関心を抱き、作曲家としてよりも民俗音楽学者として有名になった。
1888年(34歳)、長男ウラジミール誕生。
1890年(36歳)、結婚以来、音楽院設立、音楽雑誌創刊、民俗音楽調査などで10年近く作曲活動はほぼストップしていたが、モラヴィアの民俗音楽に霊感を受けた『ラシュスコ舞曲』(全6曲)を作曲。作曲家としての成熟期の幕開けとなる。一方、私生活では長男ウラジミールが2歳で病死し悲しみに暮れる。
1891年(37歳)、モラヴィア人が自国の民俗的資料に基づいて作曲した初のオペラ『物語の始まり』を作曲。
1894年(40歳)、オペラ『イェヌーファ』の作曲を開始。だが、同時並行でオルガン学校の校長、師範学校の音楽教師、合唱指揮者、オルガニストなども務めていたため、なかなか作曲の時間が確保できなかった。
1895年(41歳)、『イェヌーファ』の序曲として民謡を自分の作品に引用した『嫉妬』を作曲。だがこの曲は実際には使用しなかった。作曲の過程で、ヤナーチェクは民謡ではなく、モラヴィア語のアクセントをそのままメロディーにする音楽語法「発話旋律」(旋律曲線)と呼ばれる旋律を着想の材料とし、言葉と音楽を融合させた。
1898年(44歳)、ロシア愛好者協会を設立して1914年(60歳)まで会長を務める。
1900年(46歳)、オルガは生まれつき心臓が弱かったが、美しい18歳の娘に育った。ある舞踏会で彼女を見初めた青年がオルガに熱を上げる。その青年の評判は悪く、ヤナーチェク夫妻は心配した。
1901年(47歳)、民俗学者と行なった民謡の共同研究の集大成、二巻の『モラヴィア民謡新収集』を完成。同年、オルガが手紙でハッキリと相手の青年を拒絶すると、青年は逆上しオルガを殺すと返事を書いてきた。
1902年(48歳)、ヤナーチェクはオルガの身を案じ、ロシア・ペテルブルクに住む兄にしばらくオルガを預けることにした。一方、オルガは体調を崩しており、妻ズデンカはロシア行きの中止を訴えた。3月、ヤナーチェクを妻の声に耳を貸さずペテルブルクに娘を連れて行った。ヤナーチェクが帰国して一ヶ月、ペテルブルクからオルガが伝染病(チフス)に感染して入院したと急報が入った。歩けなくなった娘を夫婦で支えながらブルノに連れ帰り看病したが、医者は覚悟を求めた。
1903年(49歳)、オルガは「死にたくない」と嘆き、ヤナーチェクはその言葉を手帳に音階をつけ書き留める。2月22日、オルガは父に「もう生きられないのでお父さんがずっと(9年間)書いていた『イェヌーファ』を聴きたい」と願い、父はピアノで聴かせてあげた。2月25日、オルガは「天使たちが見える、弟も待っている」とうわごとを言い危篤に陥った。妻は夫に「あなたが無理にペテルブルクに連れて行くからこんなことになった」と責め立てた。その翌日、2月26日の朝、愛娘オルガは20歳という短い生涯を終えた。娘が旅立った5日後に『イェヌーファ』(全3幕)が完成した。第3幕で歌われる、子どもを死なせてしまった人物のアリア「私を許しておくれ、どうか許しておくれ」がヤナーチェクの心の叫びに聞こえる。
1904年、オペラ『イェヌーファ』初演、ブルノの劇場は割れんばかりの拍手に包まれた。モラヴィアの村を舞台に、田舎社会の息苦しさ、宗教を背景とした保守的な道徳観に縛られる人間の悲劇と、悲しみの中で見つけた希望を描いた。モラヴィア語の言葉の抑揚を旋律に応用し、神話や歴史的事件でなく等身大の人々を描いたリアリズムのオペラは斬新だった。同年、敬愛するドヴォルザークが62歳で他界。

『イェヌーファ』
モラヴィアの美しい村娘イェヌーファは、従兄のシュテヴァと恋仲で子どもを身ごもっている。だがシュテヴァは酒飲みのプレイボーイ。イェヌーファの母コステルニチカはシュテヴァが1年間禁酒しないと結婚を認めないという。シュテヴァの異父兄のラツァもまた心からイェヌーファを愛しているが、もっさりした容姿で、連れ子ゆえに家業の相続権もない。ラツァはシュテヴァが家業もイェヌーファも手に入れたことに嫉妬する。シュテヴァは本気で結婚する気がないのにそれを見抜けないイェヌーファ。逆上したラツァはイェヌーファと口喧嘩になり、思わず手に持っていたナイフで彼女の頬を切りつけてしまう。やがてイェヌーファは出産するが、シュテヴァはイェヌーファを裏切って村長の娘カロルカと婚約する。
シュテヴァとの結婚が消えたため、イェヌーファの母コステルニチカは娘とラツァを夫婦にしようと考えるが、ラツァはイェヌーファがシュテヴァの子を産んだと聞かされて思い悩む。コステルニチカは、赤子が娘の結婚の妨げになると思い、娘が産後の熱でうなされている間に赤ん坊を凍った川へ沈め、娘とラツァには「病気で死んだ」と嘘をついた。コステルニチカは赤ん坊を殺した良心の呵責に苦しみ、死神の幻覚を見る。
春、ラツァとイェヌーファの結婚式の日。コステルニチカはますます赤ん坊のことで苦悩し「どうか許しておくれ」と1人懺悔する。折しも雪解けの川から赤ん坊の死体が見つかって村は大騒ぎに。村人はイェヌーファが犯人と思い込み、彼女に石を投げようとし、ラツァが身を呈して彼女を守る。自らの罪に押し潰されそうだったコステルニチカはすべてを告白し連行される。イェヌーファはラツァに「これ以上私の惨めな運命に付き合うことはない」と、結婚の中止をうながすが、ラツァは「どんな苦労も2人で耐えよう」と真心を込めて誓う。イェヌーファとラツァはついに本当の愛を見つけた。「神が、大きな愛に導いてくれた」と抱擁のために2人が接近して幕となる。
※『イェヌーファ』 https://www.youtube.com/watch?v=DFbRCiChA1g

ヤナーチェクは『イェヌーファ』で世界的な名声を確立することになるが、それは13年後のプラハ初演での大成功による。1903年の時点では、プラハの音楽界はヤナーチェクのことを田舎の民俗学者が道楽で作曲している程度にしか思っておらず、プラハでの上演は1916年まで待つことになった。ウィーンで活躍していたマーラーに手紙を出し、ウィーン公演の可能性を探るなどもした。

1905年(51歳)10月1日、「オーストリア=ハンガリー帝国」統治下のブルノで、チェコ人のためのチェコ語大学創立を求める住民の集会があり、これに反対する支配層のドイツ系住民が集会の解散を求めて軍の出動を要請、大学設立を請願していた20歳の労働者フランティシェーク・パヴリークが軍の銃剣で殺害される事件が起きる。激怒したヤナーチェクは2楽章のピアノソナタ『1905年10月1日 街頭にて』を
作曲し、労働者の魂を追悼した。第1楽章「予感」、第2楽章「死(悲歌)」。ヤナーチェクは楽譜の冒頭に次の言葉を添えた。「ブルノの芸術会館の白い大理石の階段。庶民の労働者フランティシェク・パヴリークは倒れ、血に染まった。彼は大学の設立を求めただけなのに、残酷な殺人者によって殺された」。元々は第3楽章「葬送行進曲」もあったが完成度に納得できず初演前に暖炉の炎の中に投げ込み、初演後に残りの楽譜もヴルタヴァ川(モルダウ)に沈めたが、約20年後に初演者が手書きコピーを持っていることが分かり、70歳になっていたヤナーチェクは喜んで出版を許可した。こうして『街頭にて』はヤナーチェクが遺した唯一のピアノソナタとなった。社会問題をとりあげたピアノ・ソナタはあまり例がない。
以降の数年間は男声合唱曲を主に作曲。
※『1905年10月1日 街頭にて』 https://www.youtube.com/watch?v=zUTeiCby33k
(13分)

1906年から1909にかけ、男性合唱曲の大傑作と評価される3つの男声合唱曲『ハルファール先生』、『マルイチカ・マグドーノワ』、『7万年』を作曲。
1908年(54歳)、ヤナーチェクが大切な思い出をピアノで綴った10曲のピアノ曲集『草かげの小径にて』(第1集)を発表。各曲にヤナーチェクが添えた題名は「われらの夕べ」「散りゆく木の葉」「一緒においで」「フリーデクの聖母マリア」「彼女らは燕のように喋り立てた」「言葉もなく」「おやすみ」「こんなにひどく怯えて」「涙ながらに」「ふくろうは飛び去らなかった」。最後の題名はチェコの伝承の「ふくろうが飛び去らない家の病人は召される」を反映したもの。なんとも悲しいタイトルだ。
このうち、オルガの他界前に書かれたものは、「われらの夕べ」「散りゆく木の葉」「フリーデクの聖母マリア」「おやすみ」「ふくろうは飛び去らなかった」の5曲、つまり、“ふくろう”の曲は先に2歳で夭折した長男ウラジミールを追悼したもの。オルガに関するものは、元気な頃のオルガを描いた第5曲「彼女らは燕のように喋り立てた」、死の影に怯えるオルガを描いた第8曲「こんなにひどく怯えて」。「フリーデクの聖母マリア」は故郷の思い出。
※『草陰の小径にて/第1集』 https://www.youtube.com/watch?v=rqIS06fR4Io (32分)

※『草陰の小径にて〜われらの夕べ』
https://www.youtube.com/watch?v=dVFixhauFgU (7分)

1916年(62歳)、『イェヌーファ』の念願のプラハ初演が実現する。プラハの楽壇はヤナーチェクの才能に驚嘆し、『イェヌーファ』はウィーンやベルリン、ニューヨークで上演されるようになる。ウィーンでのカーテンコールは20回に及び、作曲家は何度も舞台に上がらされた。ヤナーチェクは60歳になるまでブルノ以外では無名に近かったが、ついに世界はヤナーチェクを“発見”した。
1917年(63歳)、夏にボヘミアの温泉保養地ルハチョヴィツェで38歳年下で二人の子どもを持つカミラ・シュテスロヴァー(25歳)と知り合い、老年の恋の炎が燃え上がる。以後、片思いではあったが、ヤナーチェクは11年後に没するまで700通にものぼる文通をカミラと続けており、晩年のヤナーチェクに多くの音楽的霊感を与えた。
1918年(64歳)、ゴーゴリの小説に着想を得て、ロシア人をスラヴ民族の救済者と捉え、コサックの指導者タラス・ブーリバとポーランド軍の戦いを描いた管弦楽曲『タラス・ブーリバ』を作曲。「(次男)アンドレイの死」「(長男)オスタップの死」「タラス・ブーリバの予言と死」の3曲で構成。スラヴの民族愛を炸裂させた。同年、第一次世界大戦が終わり、チェコスロバキア建国。チェコスロバキアはオーストリア=ハンガリー帝国から独立した。この日が訪れるのを待望していたスメタナの死から34年、ドヴォルザークの死から14年が経っていた。
1919年(65歳)、22曲の連作歌曲集『消えた男の日記』を作曲。ジプシーの娘ゼフカと村から駆け落ちする若い農夫を描き、愛するカミラとの出逢いを重ねた。ヤナーチェクはカミラに次の手紙を書いている。「『日記』を作曲している間、あなたのことしか考えませんでした。あなたはゼフカであったのです!」。

1920年(66歳)、オペラ『プロウチェク氏の旅行』初演。主人公の男性が夢の中で月の世界へ行ったり15世紀にタイムスリップするなど、19世紀のオペラにはないSFの要素が登場する。この年から5年間プラハ国立音楽院ブルノ分校で教鞭をとり、作曲を教えた。
1921年(67歳)、ロシアのアレクサンドル・オストロフスキーの戯曲『嵐』を、ヤナーチェク自身がチェコ語に翻訳し台本を手掛けた『カーチャ・カバノヴァー』を作曲。音楽による心理描写に長けていて、場面場面で登場人物の気持ちが鋭く伝わる名作である。ヤナーチェクは他界の半年前にこの作品をカミラに捧げた。

『カーチャ・カバノヴァー』
舞台は1860年代のロシアのヴォルガ河畔の町。豪商カバノヴァー家に嫁いだカーチャは、毎日のように姑のカバニハから小言を言われて気が滅入っている。ある日、夫チホンが商用で長旅に出発し、日々の閉塞感から自分を恋している青年ボリスと浮気をしてしまう。直後から夫への後ろめたさに苦しんでいたところ、夫の帰りが早まり突然帰宅する。狼狽したカーチャは衝動的に不義を告白し、嵐の中に飛び出していく。「いっそボリスと駆け落ちしよう」と夢想しているとボリスが現れ、家の事情でシベリアに行くことを告げる。独りぼっちで行き場を失ったカーチャは「何もかも終わった」と川に身を投げる。必死で妻を探していたチホンは「母さんがいじめるからだ!」と責め立てていると、カーチャの亡骸が発見される。チホンは泣き崩れるが姑は顔色ひとつ変えることなく、この騒動で集まった村人に「皆さんお騒がせしました」と告げて幕となる。
https://www.youtube.com/watch?v=qtLd9ZNX350

1923年(69歳)、トルストイの小説『クロイツェル・ソナタ』に触発され『弦楽四重奏曲 第1番“クロイツェル・ソナタ”』を作曲。妻の不倫を知った主人公が妻の殺害に
至る過程を全4楽章で表現している。
1924年(70歳)、『イェヌーファ』と並ぶ代表作、オペラ第7作『利口な女狐の物語』初演。ここでもヤナーチェクの音楽語法発話旋律」が効果的に使用され、話し言葉の抑揚とメロディが見事に一致している。舞台の深い森に登場するのは、森番夫婦、校長、牧師、行商人ら人間の他、キツネ、穴熊、番犬、キツツキ、フクロウ、カケス、鶏、ハリネズミ、リス、蛙、トンボ、コオロギ、キリギリス、蚊、ハエ、蟻んこなど多数の森の生き物たち。彼らが生き生きと生命讃歌をうたいあげる。特殊な衣装が多数必要という点で上演のハードルは高い。

『利口な女狐の物語』
深い森の中でバッタが奏でる音に合わせて蛙が歌い、その声に女狐ビストロウシュカが引き寄せられる。狐に驚いた蛙が近くで居眠りしていた森番の顔に飛び乗り、森番は驚いて目を覚ます。彼は子どもたちを喜ばせる為、お土産にトンボの舞いに見とれていた狐を連れ帰った。狐は自由を失いブルーな気持ちに。森番の家では番犬や鶏が人間に従属する現状に甘んじており、「自由を求めるべきだ」と訴えるが、「人間とうまく付き合え」と逆に嘲笑されてしまう。女狐には雌鶏(めんどり)たちが雄鶏の支配下にあるのも気にくわなかった。女狐は雄鶏をかみ殺し、縄をかみ切って森に逃げた。女狐は雄狐と出会い初恋に落ち、結婚してたくさんの子狐を産む。森では行商人が恋人のために両手の防寒マフを作ろうと歌い、女狐は命を狙われる理不尽さに憤慨、行商人をいっぱいくわせて逆に行商人の籠の鳥を食い荒らした。激怒した行商人は女狐を撃ち殺し、子狐たちは森に消えていった。夜の森は女狐の屍をのみ込み、次の生命を育む。ある日、森番は日没の強い陽射しの中で、森がまばゆいほどに輝いていることに胸を震わせ「この時間帯が好きだ」と歌う。少し横になっていると、女狐ビストロウシュカの子どもが、かつてと同じようにトンボの舞いに見とれていることに気づく。同じように蛙が現れ、森番が「顔に飛び乗った蛙かい」と話しかけると、蛙は「あれはお爺さんだよ、あなたのことは何度も聞かされたよ」と答える。森番は生き物たちの濃密な生命の渦の中、満面の笑みで森の土を手ですくっては全身に塗りたくり、夕陽の森との一体感に酔いしれるのであった。
https://www.youtube.com/watch?v=hWHveSST26Y

原作は女狐と雄狐が結婚する第2幕のラストで終わっている。あえてヤナーチェクは女狐の死を描く第3幕を加筆し、生命循環のテーマや支配からの解放、自然への畏敬の思いを強調した。ヤナーチェクは遺言として、終幕の夕陽の森の歓喜の歌を葬儀で演奏するよう願った。この年、70歳を祝う記念演奏会が催され、チェコスロバキアの大統領が出席した。『イェヌーファ』がプラハで初演されてから8年で大統領が演奏会に足を運ぶまでになった。

1926年(72歳)、若い人妻カミラが創作の原動力になった『カーチャ・カバノーヴァ』『利口な女狐の物語』に続く“カミラ・オペラ”三部作の一本、8作目のオペラ『マクロプロス事件』を作曲。原作は“ロボット”という言葉を考案したチェコの作家カレル・チャペックで、主人公が337歳というSF的な作品。ここでも生命の価値がメインテーマになっている。

『マクロプロス事件』
舞台は1922年のプラハ。法律事務所を人気女性オペラ歌手エミリア・マルティが訪れる。彼女はある相続問題の裁判をめぐって、100年前の書類の署名と自分の筆跡が同じである理由を説明する。彼女の年齢は337歳で、生まれは中世のギリシャ・クレタ島という。本名はエリナ・マクロプロス。皇帝ルドルフ二世の侍医を務めていた父は不老長寿の薬作りを命令され、実験台として最初に彼女が飲まされた。それから300年間世界を放浪し、様々な恋を体験、今はオペラ歌手となっている。そんなマルティもいよいよ薬が切れ始め、死を迎えようとしていた。やがて意識の混濁が始まり、言葉にギリシャ語が混じり出す。そこへ父が遺した処方箋が発見されたとの知らせが届く。だが、マルティは秘薬を作ることをあえて断った。限りある生命だからこそ価値があることに気づいたからだ。マルティ「300年の命は人生から全ての意味を奪った」。そしてマルティは「もはや処方箋は必要ない」と新人オペラ歌手クリスティーナに処方箋を渡すが、クリスティーナはマルティの最期を見て処方箋を火にくべて幕となる。
https://www.youtube.com/watch?v=ISAWeF1cV4s

同じく1926年(72歳)、カミラに霊感を得たヤナーチェクが「勝利を目指して戦う現代の自由人の精神的な美や歓喜、勇気や決意」を讃えた管弦楽曲『シンフォニエッタ』を作曲。堂々たる金管ファンファーレで知られ、組曲は「ファンファーレ」「城塞(シュピルベルク城)」「修道院(ブルノの王妃の修道院)」「街路(古城に至る道)」「市庁(ブルノ旧市庁舎)」の5曲で構成。チェコスロバキア共和国軍に捧げた。
※管弦楽曲『シンフォニエッタ』 https://www.youtube.com/watch?v=NCXRqgXiARA

1927年(73歳)、20世紀の傑作の一つ、合唱曲『グラゴル・ミサ』初演。グラゴルの意味は古スラヴ語の「言葉」であり、グラゴル文字は現在スラブ人が使っているキリル文字の元になった最古の文字で500年間使用された。その言葉によるミサ曲であるが、性格的には宗教曲というより、スラブ民族・スラブ文化を讃え団結させんとする情熱的なもの。この曲もカミラが霊感となって書かれた。同年、死期が近づいているのを感じとったのか11月にカミラへ向けて心情を書く。「私はまるで人生の決済を間もなく済ませなくてはならぬかのように、作品をひとつ、またひとつと完成させている」。
※『グラゴル・ミサ』 https://www.youtube.com/watch?v=nS3KPowJENM (39分)

1928年、人生最後の年に『弦楽四重奏曲第2番“ないしょの手紙”』を書きあげる。ヤナーチェクにとってのミューズ、38歳年下の人妻カミラに触発されて作曲されたもの。活躍するヴィオラはカミラの象徴。当初のタイトルは『恋文』であったが、他人の目を気にしたのか“ないしょの手紙”に変更された。作曲家自身が副題を付けている弦楽四重奏曲は珍しい。彼はカミラに作品をこう解説している。「1音1音の陰には、活き活きと力強い、愛すべき君がいるよ。君の体の香り、君の口付け…いや、君のじゃなかった、僕のだね。僕のすべての音符が君のすべてに口づけしているよ。君を激しく必要としているんだ」。カミラに恋い焦がれる自分の全存在を、すべての想いをこの一曲に凝縮した。
※『弦楽四重奏曲第2番“ないしょの手紙”』
https://www.youtube.com/watch?v=94I2GtzIrDs
8月、チェコ東部オストラバで、カミラ母子と森や丘を散歩中に雨に打たれて肺炎になり、4日後の8月12日に急死した。享年74歳。ヤナーチェクの訃報がブルノに届くと、スメタナ『売られた花嫁』を公演していたブルノ歌劇場は、上演後に追悼演奏でベートーヴェン・英雄交響曲の葬送行進曲(第2楽章)を捧げた。ブルノに帰還したヤナーチェクの棺は、かつて11歳のときに聖歌隊員として音楽生活を始めた聖アウグスティノ修道院の祭壇に安置された。他界3日後、棺はヤナーチェクと縁の深いブルノ歌劇場に運ばれ、葬儀では故人の遺言に従い、生命の循環を描いたオペラ『利口な女狐の物語』のラストシーンで森番が歌うエピローグが演奏された。この歌は東洋の輪廻思想を思わせる生命のサイクル、生命のリレーをテーマにしており、ヤナーチェクの魂は音楽に導かれて大きな自然界の環の中に溶け込んでいった。最後にドヴォルザークの『レクイエム』が演奏され、棺はブルノの中央墓地に埋葬された。

他界時、ヤナーチェクの机の上には3ヶ月前に書き上げた9曲目のオペラ『死者の家から』終幕(第3幕)の楽譜があった。原作はロシアの文豪ドストエフスキーの小説『死の家の記録』。清書前の自筆譜をヤナーチェクの弟子2人が加筆して没後2年の1930年にブルノ国民劇場で初演された。本作の主人公はドストエフスキー自身が投影された政治犯ゴリャンチコフ。極寒のシベリアに流されたゴリャンチコフが、収監初日に理不尽なムチ打ちにあい、一命を取り留めた後、刑務所を出るまでに出会った囚人達との交流エピソードが綴られる。最後に自由の尊さを歌い、囚人たちは鳥籠の鳥を大空へ逃がしてやる。
ドストエフスキー文学との格闘は生易しいものではなく、本作を作曲中のヤナーチェクは書き始めて3年経っても終わりが見えないことを、「音符をただ積み重ねておりバビロンの塔が高くなってゆく」と表現している。
1935年、ヤナーチェクが没した7年後にカミラ・ストスロヴァーが癌で他界。43歳の若さだった。
1938年、夫の没後10年に妻ズデンカも他界。彼女の遺志で、ヤナーチェクの全スコアや資料がモラヴィア博物館や国立マサリク大学に遺贈された。9月のミュンヘン会談でナイツドイツにチェコ西部が奪われ、その後、チェコ全土がドイツ軍の支配下となった。ユダヤ人のカミラが眠るユダヤ人墓地はナチスの暴力に晒され、カミラの墓は破壊された。ヤナーチェクの愛弟子はアウシュビッツに送られ戻ることはなかった。
1942年、未発表だったピアノ作品5曲をまとめた『草かげの小径にて』(第2集)が出版される。静かで透明感のある美しいピアノ曲集だ。
※『草かげの小径にて』(第2集) https://www.youtube.com/watch?v=EcCx9Ub0qRE

熱烈な民族主義者で、チェコの民族音楽、特に故郷モラビア地方の民謡の収集家として知られるヤナーチェク。音楽学校の教壇に立ち、民俗音楽雑誌を出版するなど、50歳まではほぼ教育者として名を成していた。後世に残るオペラ傑作群の多くが、晩年に出会った最愛のカミラ夫人に触発されて書かれており、その尽きぬエネルギーは彼女と交わした700通にものぼる手紙からも伝わってくる。夫人を知る前の『イェヌーファ』だけでも音楽史に名を刻むに値するが、カミラとの出会いがなければ、『カーチャ・カバノーヴァ』『利口な女狐の物語』『マクロプロス事件』が生まれなかった可能性が高く、音楽ファンとしてヤナーチェクに訪れた幸運を祝いたい。彼は同じ様なオペラを作ることはなく、常に新たな地平を切り開いていた。カミラは作曲家の人生の最後の10年を輝かしいものにした。

※墓石に関するエピソード。ヤナーチェクは1921年にプラハでインドの詩人ラビンドラナート・タゴール(アジア人初のノーベル文学賞受賞者)の講演を聞き、チェコ語版詩集から『さまよえる狂人』を選び、タゴールの詩に基づく男性合唱曲を作曲(動画)した。別説では、ある合唱指導者が『さまよえる狂人』を持ってヤナーチェクの家を来訪し、詩に興味を持ったヤナーチェクがその場で3つのモチーフを書き、この詩をもとに合唱曲を書いたとのこと。
★歌詞の部分の訳はこんな感じで良いでしょうか?
'With spent forces, with his body bent, his heart in the dust, like a tree that has been uprooted.'"
「彼の力は消え去り、塵の中に心だけが残った。引き抜かれた樹のように」
タゴールは塵にすら美を見出したので、この塵は悪い意味ではなさそうです。でも「引き抜かれた樹」だから、たっぱり哀しい意味なのかな…。

※チェコの中にも差別があり、プラハなどチェコ西部に暮らすボヘミア人は、東部農村地帯のモラヴィア人を見下す傾向があった。その意味で、ヤナーチェクはオーストリア帝国とボヘミアという二重の壁と戦っていた。
※ヤナーチェクは路面電車の案内表示がドイツ語で書かれている事に反発し、独立後(1918)にチェコ語の表示になるまで乗らなかったという。
※ドストエフスキーのオペラ化の後、トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』やゴーゴリ『生ける屍』のオペラ化も考えていたという。
※オルガの墓はブルノ中央墓地の32区144番とのこと。同墓地のヤナーチェクの墓とは別の場所。
※「作曲家が書いた音符には血が通っており、ひどい演奏をすると血がにじむ」(ヤナーチェク)
※「弦楽のための牧歌」 https://www.youtube.com/watch?v=3dItG8VMaM0 (5分41秒)



★コダーイ/Kodaly Zoltan 1882.12.16-1967.3.6 (ハンガリー、ブダペスト 84歳)2005
Farkasreti Cemetery, Budapest, Hungary

  
女性が寄りかかっている墓。ちょっと羨ましいかも…

ハンガリーの民謡をつかった教育法「コダーイ・システム」で知られ、バルトークと並ぶ20世紀前半を代表する作曲家・民俗音楽学者・教育家。声楽曲に優れた。1882年12月16日、コダーイ・ゾルターンはハンガリー中部のケチケメートに生まれた。幼児期にヴァイオリンを習い、18歳のときにブダペスト大学とリスト音楽院に入り、ハンガリー民謡を研究、22歳で卒業する。
1905年(23歳)から、これまで知識人・文化人から価値を認められてこなかったマジャールの民謡の収集を始め、人里離れた村を訪れては曲を集めていった(同じ東欧チェコでは19年前、1886年からヤナーチェクが同じことをしている)。同年、19歳年上の女性作曲家シャーンドル・エンマ(1863-1958)と出会い、エンマは既婚者だったが2人は恋に落ちる。
1906年(24歳)、同じハンガリー人で1歳年上の作曲家バルトーク・ベーラ(1881-1945)を、エンマがコダーイに初めて引き合わせた。コダーイはバルトークに民謡の魅力を語り、2人で一緒に民謡の収集を行うようになる。一方、パリではドビュッシー(1862-1918)の印象派音楽に触れ感動する。
1907年(25歳)、ブダペスト音楽院の教授に任命され、1941年まで在職。仕事の合間を縫って民謡収集の旅へ出かけ、論文や民謡集を出版していく。
1910年(28歳)、エンマ(当時47歳)は離婚してコダーイと再婚する。
1915年(33歳)、ハンガリー民謡をベースにした情感豊かな『無伴奏チェロソナタ』を作曲。全3楽章。使用音域が5オクターヴにも及ぶ技巧的な作品。ハンガリーの名チェロ奏者シュタルケルの歴史的録音で知られる。
※『無伴奏チェロソナタ』(終楽章)
https://www.youtube.com/watch?v=ZvOEwGlwgJo 超絶技巧!
1923年(41歳)、ブダペスト市50周年祭記念の委嘱作品であるテノールと合唱とオーケストラのための『ハンガリー詩篇』を作曲。16世紀の詩人がハンガリー語訳した詩篇55番に作曲した雄大で美しい作品。初演は大成功を収め、作曲家として国際的に認知される。
※『ハンガリー詩編』 https://www.youtube.com/watch?v=uysbQwJ8pz0 (28分)
1925年(43歳)、合唱曲『ジプシーがチーズを食べている』を作曲。『ハンガリー詩篇』の児童合唱パートを練習していたブダペストの子どもたちを見て、これに触発されて書きあげた。本作をきっかけにコダーイは教育用の児童用合唱曲を次々と書くようになる。
※『ジプシーがチーズを食べている』
https://www.youtube.com/watch?v=3ZCpWmuYSzo (2分)
1926年(44歳)、オペラ『ハーリ・ヤーノシュの5つの冒険』をブダペストの王立歌劇場で初演。ハンガリーの伝説に登場する初老の農民ハーリ・ヤーノシュの荒唐無稽な冒険談。ホラ話は「七つの頭のドラゴンを退治」「ナポレオンに勝って捕虜とした」「オーストリア皇帝フランツの娘から求婚されたが断った」等々。コダーイがオペラから6曲を抜粋した組曲『ハーリ・ヤーノシュ』は、第3曲と第5曲にハンガリーの民族楽器ツィンバロンが使用される異国情緒もあって人気を呼び、コダーイの代表的な管弦楽作品となった。冒頭の奇抜な音はクシャミの描写。ハンガリーの「話の前に聞き手の誰かがクシャミをすればその話は真実」という言い伝えを音で描いている。
※組曲『ハーリ・ヤーノシュ』 https://www.youtube.com/watch?v=ym2QvHQNyPU
(27分)
1939年(57歳)、第2次世界大戦が勃発。コダーイは国内外のファシストに対して自由と人間性の擁護を掲げる抵抗曲として管弦楽曲『ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲』を作曲。ハンガリーの古い民謡『孔雀は飛んだ』をそのまま主題に使っており、この民謡はかつてオスマン帝国支配下にあったマジャール人(ハンガリーの主要民族)を囚人になぞらえ、「孔雀は飛んだ 牢獄の上に 哀れな囚人たちを 解放するために」と自由への情熱を歌っている。
※『ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲』
https://www.youtube.com/watch?v=Vb4N_ydyVYI (28分)
1944年(63歳)、オルガン伴奏の『ミサ・ブレビス』を作曲。後に管弦楽伴奏版も書いている。
※『ミサ・ブレビス』 https://www.youtube.com/watch?v=35Uenj8fIPw
1945年(63歳)、第二次世界大戦が終わり、ハンガリー国民芸術会議の議長となる。コダーイは民謡にもとづく歌を子どもたちにたくさん歌わせる「コダーイ・システム」を考案。このハンガリーの学校教育システムは世界的に普及した。同年9月、盟友バルトークがアメリカ滞在中に客死する。
1946年(64歳)、ハンガリー科学アカデミー総裁となる。
1951年以降、故バルトークとの民謡の研究成果を形にした『ハンガリー民謡大観』を刊行。
1958年、妻エンマが他界。翌年に再婚。
1961年(79歳)、故トスカニーニ(1867-1957)の助言で作曲した唯一の交響曲『交響曲ハ長調』全3楽章を30年がかりで完成させる。
※『交響曲ハ長調』 https://www.youtube.com/watch?v=egCoHksU6Zc (26分)
1967年3月6日、ブダペストで他界。享年84。亡骸はブダペストのファルカシュレート墓地に埋葬された。
1988年、バルトークの墓がコダーイと同じファルカシュレート墓地に改葬され、一緒に民謡集の出版を手がけた同志は再会した。
コダーイは20年以上もハンガリーの村々を回り、民謡を3500曲以上も収集し続け、自ら民謡に基づく合唱曲を作曲し、民俗音楽に関する多数の研究論文も執筆した。自作にはハンガリーの民俗音楽の和声、リズム、形式を取り込み独自の作風を形成し、ハンガリー人の魂として世に出した。ほぼ全生涯をハンガリーで送った、全身、全細胞ハンガリー愛。



★プーランク/Francis Poulenc 1899.1.7-1963.1.30 (パリ、ペール・ラシェーズ 64歳)2005
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France



プーランクの墓はステンドグラス入りで美しい。



★チェルニー/Carl Czerny 1791.2.21-1857.7.15 (オーストリア、ウィーン 66歳)2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



ピアノの教本でお馴染みのチェルニー。名前を聞いただけで逃亡する人も多いとか(笑)
ベートーヴェンの弟子であり、リストの師匠だった。




★サリエリ/Salieri Antonio 1750.8.18-1825.5.7 (オーストリア、ウィーン 74歳)2002&2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria

2002 2005
作曲家サリエリは映画『アマデウス』で一躍有名になった!

哀れサリエリ!モーツァルト毒殺犯の嫌疑をかけられた男。かつては宮廷楽長でありながら、同墓地中央に眠っているベートーヴェンやシューベルト、ブラームスたちから遠く引き離され、一番壁際の、それも真後ろに市電が走っていて、騒音でまったく魂が安らげない場所に埋葬されていた。(背後に市電のパンタグラフが写っている)

※動画があります!サリエリの墓(4秒)



★シャルル・グノー/Charles Francois Gounod 1818.6.17-1893.10.18 (フランス、パリ 75歳)2009
Cimetiere d'Auteuil, Paris, France




1800年からある非常に古い墓地 墓地内のメインストリートにあるグノー家の霊廟

廟内の祭壇 08年に供えられた生誕190年カード シャルル・グノーの名がある

1818年6月17日にパリで生まれる。ピアニストの母にピアノを学び、パリ音楽院に進む。1839年に21歳で新人音楽家の登竜門「ローマ大賞」第1位を獲得。国費による2年間のイタリア留学で宗教音楽を集中的に研究する。帰国後、パリのサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊楽長・オルガン奏者を務め、また神学校の聴講生となって神学を勉強した。
1850年(32歳)、後に大画家となる当時23歳のルノワール(1841-1919)がグノーの聖歌隊に数年間所属しており、歌の才能を見込んだグノーが声楽を教えた。グノーはルノワールの両親に「息子さんをオペラ座の合唱団に入れましょう」と提案したが断られたという。
1851年(33歳)、最初のオペラ『サフォ』が初演され、以降は作曲に専念するが、鳴かず飛ばずの状態が7年間続く。
1854年(36歳)、交響曲第1番を作曲。2年後に第2番を書いた。若きビゼーはこの2つの交響曲を手本にして交響曲を作曲した。
1858年(40歳)、劇作家モリエールの喜劇を題材にした小コミック・オペラ『心ならずも医者にされ』で初めて成功する。
1859年(41歳)、文豪ゲーテの劇詩に基づくオペラ『ファウスト』(全5幕)が初演され、これにより不動の名声を得た。物語は、老学者ファウストが悪魔メフィストフェレスから若返りの薬をもらい、代わりに死後の魂を渡す契約を結ぶ。若返ったファウストは純真な村娘マルグリート(グレートヒェン)と愛し合うが、冒険を求めて彼女のもとを去る。久々に村に戻ると、ファウストを待ち続けていたマルグリートはやつれ果てていた。ファウストは後悔するが、彼女の兄に決闘を挑まれ殺してしまう。心を病んだマルグリートは子を殺めて牢獄に入る。ファウストが助けに来ると、彼女はファウストの帰還を確認し天に召されていった。
同年、グノーはバッハの『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』のプレリュードに、歌詞としてラテン語の聖句「アヴェ・マリア」をのせた歌曲を書き、人々に愛される名歌となった。
1867年(49歳)、オペラ『ロミオとジュリエット』が初演される。ちょうどパリ万国博覧会が開催中で連日満員となる大成功を収め、この年のうちにイギリス、ドイツ、ベルギーでも上演された。
1869年(51歳)、オペラ座で『ファウスト』が上演されることになり、慣例に従って第5幕にバレエ音楽が追加された。このバレエ音楽だけが単独で演奏されることも多い。
1872年(54歳)、ピアノ曲『操り人形の葬送行進曲(Funeral March of a Marionette)』を作曲。約80年後、ヒッチコック監督が同曲の管弦楽版をテレビシリーズのテーマ音楽に用いて有名になった。
1893年10月18日、パリ近郊のサン=クルーで他界。享年75歳。墓所はメトロ9号線のExelmans駅から南100mのオートゥイユ墓地。1800年からある非常に古い墓地で、墓地内のメインストリートにあるグノー家の霊廟の中に眠っている。
1894年11月24日、他界の翌年に『ファウスト』が日本で初演される。日本で最初に上演されたオペラであり、11月24日がオペラの日となった。
1949年、バチカンが実質的な国歌としてグノーの『賛歌と教皇の行進曲』を採用した。
抒情的で魅力あふれる旋律と、色彩感のある優れたオーケストレーションにより“フランス近代歌曲の父”とも呼ばれる。



★フランソワ・クープラン/Francois Couperin 1668.11.10-1733.9.11(フランス、パリ 64歳)2009
Church of St. Joseph, Paris, France

ビックリ!このモダンなビルが聖ヨセフ教会だった! 礼拝堂は地下にあった 教会の中庭。このどこかに埋葬されている?

バッハに影響を与えたバロック音楽の大作曲家クープラン。ラヴェルは最後のピアノ独奏曲の題名を『クープランの墓』としており(正確な訳は“クープランを偲んで”)、どんな墓か楽しみにしていた。ところが!聖ヨセフ教会がなかなか見つからない。それもそのはず、外観が写真のように近代的なビルだったんだ。こっちは昔ながらの古い教会をイメージしていたので前を素通りしていた。中に入っても墓地がなくポカ〜ン。神父さんに質問すると「教会の敷地のどこに埋葬されたかわからない」とのこと。うーむ。とりあえず、中庭全体を墓所とみなして合掌した。※場所はメトロのTernes駅から南へ300m。凱旋門の近く。



★アレクサンドル・グラズノフ/Aleksandr Konstantinovich Glazunov 1865.8.10-1936.3.21 (ロシア、ペテルブルグ 70歳)2009
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

   

ロシア民謡を作品に取り入れるなど、ロシアの大地に根ざした音楽を目指したロシア国民楽派の最後の大物作曲家。
師匠はリムスキー・コルサコフ。1898年(33歳)、バレエ音楽「ライモンダ」を作曲。サンクトペテルブルク音楽院の
院長も務めた。1928年(63歳)にスターリン暴政下のソ連へ別れを告げ、パリ近郊で死去。享年70歳。




★ジョン・ケージ/John Milton Cage 1912.9.5-1992.8.12 (USA、ニューヨーク州 79歳)2009
Ashes scattered, scattered , NY at the Gate Hill Cooperative, USA

    

前代未聞の異色曲「4分33秒」などで知られる現代音楽の巨匠ジョン・ケージ。彼の遺灰はNYの「Gate Hill」に撒かれたとのこと。調べたところ、
NYで「Gate Hill」という地名はここしか見つからず、おそらくこの付近で土に帰ったんだと思う。(別情報をご存知でしたらご一報を!)




★エンリケ・グラナドス/Enrique Granados y Campina 1867.7.27-1916.3.24 (英仏海峡 48歳)2009
Body lost or destroyed

 

  
1916年3月24日、グラナドスはこの英仏海峡に散った

第1次世界大戦のさなか、英国汽船「サセックス」号で米国からスペインに帰国する途中、ドイツのUボートに撃沈され妻と共に大西洋に消えた。



★カール・ニールセン/Carl August Nielsen 1865.6.9-1931.10.3 (デンマーク、コペンハーゲン 66歳)2009
Vestre Kirkegard (Western Churchyard), Copenhagen, Denmark

  
墓地中央の池の南側、A区5-3に墓が建つ。レリーフのニールセン像は彫刻家の夫人が制作

デンマーク最大の作曲家。国民楽派。北欧の作曲家に共通である線の太さと息の長さを持つ。半音階的和声と力強い躍動的なリズムが特徴。
1865年6月9日、コペンハーゲンを擁するシェラン島の西隣り、フュン島のオーゼンセ近郊ネレ・リュネルセに生まれる。父はヴァイオリンをたしなむ貧しいペンキ屋。同年、半年後にフィンランドではシベリウスが生まれている。6歳から地元の楽団でヴァイオリンを弾いた。10歳のときに同郷のアンデルセンが他界している。
1879年(14歳)、オーデンセの軍楽隊に入り歩兵連隊のラッパ手を務める。
1884年(19歳)、真剣に音楽を学ぶべくコペンハーゲンの王立音楽院の作曲科に進み、デンマークの著名作曲家ニルス・ゲーゼに師事。
1888年(23歳)、王立音楽院を卒業した直後に、“作品1”となる弦楽合奏曲『小組曲』を作曲。チボリ公園のコンサートで初演され成功を収め、翌年に楽譜が出版された。
※『小組曲』 https://www.youtube.com/watch?v=iIhufkXFtEE (15分)
1889年(24歳)、王立劇場オーケストラのヴァイオリン奏者となる。後に指揮者としてノルウェー出身の作曲家兼指揮者ヨハン・スヴェンセン(1840-1911)を補佐し、国民楽派スヴェンセンに作曲家としても影響を受ける。
1891年(26歳)、パリで2歳年上の彫刻家アンネ・マリーと出会い、結婚。
1892年(27歳)、若々しさに満ち溢れた『交響曲第1番』を作曲。牧歌的な第2楽章が美しい。ニールセン節ともいえる、炎や蜃気楼がユラユラとするようなトレモロの旋律が第3楽章に早くも登場している。
※『交響曲第1番』ブロムシュテット指揮サンフランシスコ響 https://www.youtube.com/watch?v=NvmJ55kE7KI (33分)
1896年(31歳)、自作の歌詞をラテン語に翻訳してもちいた初期のカンタータ『愛の賛歌』を作曲。
1901年(36歳)、全4幕のオペラ『サウルとダヴィデ』を完成。
1902年(37歳)、『交響曲第2番 四つの気質』を作曲。人間の4つの性格をコミカルに描写。
1903年(38歳)、妻とギリシャを旅行し、アテネのホテルから見たエーゲ海の日の出に感激する。そして、夜明けから日没までの太陽を音で描きだした序曲『ヘリオス』を作曲する。
※序曲『ヘリオス』 https://www.youtube.com/watch?v=0jikeQdzv3s (9分41秒)

1906年(41歳)、オペラ『仮面舞踏会(マスカラデ)』を作曲。
1907年(42歳)、ノルウェーの偉大な作曲家グリーグが64歳で他界。
1908年(43歳)、 スヴェンセンが王立劇場楽長を引退し後継となる。
1911年(46歳)、『交響曲第3番 広がり(広がりの交響曲)』を作曲。第2楽章で舞台裏からソプラノとテノール歌手がおおらかにヴォカリーズを歌い、のどかなたたずまいから「ニールセンの田園交響曲」とも言われる。
※『交響曲第3番』第2楽章の後半 https://www.youtube.com/watch?v=40-1Ww-uXJk#t=16m20s
同年、『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。ニールセンは尊敬するグリーグが使用していた作曲小屋や邸宅でこの曲を書きあげた。 
1914年(49歳)、第一次世界大戦が7月に勃発。ニールセンはこの夏、生命讃歌をうたった『交響曲第4番 不滅』の作曲を開始する。
1915年(50歳)、王立音楽院の教授になる。
1916年(51歳)、代表作となる『交響曲第4番 不滅(滅ぼし得ざるもの)』が2年をかけ完成する。ニールセン「地球上における生きとし生けるものの生命力の不滅。仮に洪水や噴火などの天変地異によって生物が一度生命を絶たれたとしても、再び繁殖を始め栄えるであろう」。第一次世界大戦という未曾有の人類史の悲劇にあって、ニールセンは音楽と生命の不滅を高らかに歌い上げた。「単一楽章」という珍しい形式の交響曲。シベリウスは1924年に単一楽章の『交響曲第7番』を書いているが、ニールセンの方が「8年」早い!同年、ピアノ曲『シャコンヌ』を作曲。
曲想の力強さが不滅の生命力を表している。第4部では、2群のティンパニが活躍し)2群のティンパニによる競演を特徴とし、ニールセンが手がけた交響曲の中でも特に劇的な作品と目されている。
※『交響曲第4番 不滅』 https://www.youtube.com/watch?v=niF6Y7ZNqys (36分10秒)
※ピアノ曲『シャコンヌ』 https://www.youtube.com/watch?v=mrjR1SL2lyY (10分33秒)終わり方がめちゃくちゃ綺麗
1918年(53歳)、第一次世界大戦が終結。
1919年(54歳)、コペンハーゲンの王立劇場の委嘱により劇付随音楽『アラジン』を作曲。異国風のメロディーを導入。没後、「アラディン」組曲としてポピュラーに。
1922年(57歳)、戦争を内面的に掘り下げた2楽章の『交響曲第5番』が完成。“20世紀最高の交響曲”とも呼ばれる第5番。この頃から作風が変化し、難解で内向的なものになっていく。ニールセン「皆、戦争を経験して、心が戦争と同じになっていた」。第一楽章は“小太鼓協奏曲”に近い。スウェーデンでの初演時は、不吉な不協和音、「悪」のモチーフを奏でる木管楽器、旋律とズレた小太鼓のマーチが聴衆を混乱させパニックが起きた。ニールセンが指示した小太鼓奏者のアドリヴ・ソロは「まるでどんな犠牲をはらってもオーケストラの進行を止めることを望んでいるかのように」。第一楽章は最終的に小太鼓も全体と融合し、クラリネットが追悼の調べを奏でる。
ニールセン「“悪”のモチーフが木管と弦で割って入るとドラムはますます怒り、攻撃的になる。しかし、自然のテーマが金管で平和に純粋に育っていく。ついに悪が敗北しなければならなくなり、最後の逆襲をしたあとに逃げ出す。そしてその後の部分で慰めに満ちた長調でソロのクラリネットが静かな自然を表現して、この長大な牧歌の楽章を終える」。
※『交響曲第5番』 https://www.youtube.com/watch?v=y6o3JnyVRCw (33分)
1924年(59歳)、混声合唱曲『美しい国』を作曲。
※『美しい国』 https://www.youtube.com/watch?v=Q4VAe5Anw_g
1925年(60歳)、無邪気で陽気な最後のシンフォニー、『交響曲第6番 シンプル(素朴な交響曲)』を作曲。第2楽章は当時の音楽界の風刺で、トロンボーンは批評家たちの嘲笑をイメージさせる。重厚な交響曲を書いてきたニールセンは、最後にこのようにユーモア、ウィットに富む楽想に至った。
※『交響曲第6番 シンプル』ライブ動画 https://www.youtube.com/watch?v=SRLT5vq1weM (34分)
1927年(62歳)、回想録「わがフューネンの幼年時代」を執筆。
1931年、 オルガン曲『コンモツィオ』を作曲。王立コペンハーゲン音楽院の院長に就任。10月3日、コペンハーゲンで他界。享年66歳。彫刻家の妻アンネがデスマスクを制作した。
1945年、ニールセン他界の14年後にアンネ夫人が逝去し、同じお墓に入る。
※『コンモツィオ』 https://www.youtube.com/watch?v=8KM_WfaN9c0 (25分34秒)壮大なパイプオルガン・サウンド

〔墓巡礼〕
デンマーク語の墓地はKirkegard(キルケゴール)。哲学者セーレン・キルケゴールと同じ綴りであり、キルケゴールは日本語だと「お墓さん」ということに。コペンハーゲンの墓地といえば、アンデルセンやキルケゴール、ニールス・ボーアが眠るAssistens Kirkegard(アシステンス教会墓地/Assistens=補助※他の墓地の混雑解消を目的に作られた)が有名だが、ニールセンが眠るVestre Kirkegard(ヴェストラ墓地/Vestre=西)はアシステンスから4km南に位置する。コペンハーゲン中央駅から2駅南西に向かいCarlsberg駅で下車すると、徒歩5分で墓地の入口に着く。墓地中央の池の南側、A区5-3に墓が建つ。アンネ夫人の名も刻まれていた。墓石上部にある人物レリーフは、おそらく彫刻家の夫人が制作したニールセンの肖像レリーフだと思う。このレリーフに言及した文献がなく要検証。最初、見た瞬間に「え?メドゥーサ?」と思ってしまった(汗)。よく見るとニールセンと眉のあたりが似ている。荒ぶるニールセン。

※故郷オーゼンセのアンデルセンの生家の近くにカール・ニールセン博物館がある。
※デンマークの同時代の作曲家ルドルフ・ニールセン(1876-1939)は縁戚関係がない完全に別人なので注意。



★スティーヴン・フォスター/Stephen Collins Foster 1826.7.4-1864.1.13 (USA、ペンシルバニア州 37歳)2009
Allegheny Cemetery, Pittsburgh, Allegheny County, Pennsylvania, USA  Plot: Section 21, Lot 30


非常に歴史が古い墓。門は古城のよう 独立記念日に生まれた 墓地の中央付近の丘に眠る

アメリカ合衆国が建国したのは1776年7月4日。このとき、欧州では既に大バッハが世を去って四半世紀が経ち、20歳のモーツァルトが活躍、6歳のベートーヴェンは酒浸りの父にピアノのスパルタ教育を受けていた。それから50余年が経ち、ベートーヴェンが9つの交響曲を書きあげ、波乱に満ちた生涯をまさに終えようとしたその前年に、アメリカ北東部で生まれたのが、“アメリカの音楽の父”スティーブン・フォスターだった。誕生日の1826年7月4日は、アメリカ独立50周年当日(独立記念日)という、後に彼が国民的音楽家になる運命を象徴するかのような日だった。
生誕地はペンシルベニア州ピッツバーグの郊外で祖先はアイルランド系移民。大家族の白人家庭に生まれ(第9子)、「白壁の家」で音楽好きの家族に囲まれて育ち、2歳のときにギターでメロディーを奏でた。やがて父が事業で失敗し、一家は苦境に立たされるが、7歳の少年フォスターは母から贈られたフルートを吹いて家族を楽しませた。

1841年、15歳の時に初めて作曲した『ティオガ・ワルツ』を教会にてフルート演奏。近所の少女のために16歳で書いた『窓を開け、恋人よ』が最初の歌曲となった。
1844年(18歳)、『窓を開け、恋人よ』の楽譜が出版され、フォスターは作曲家になる道を進むべく、ドイツ人音楽家にクラシック音楽を学んだり、街角に出ては移民たちの様々な民俗音楽を楽しんだ。
19歳、弟が所属する合唱団のために『ルイジアナの美人』『ネッド叔父さん』を作曲。

1846年(20歳)、前年にピッツバーグが大火に見舞われたこともありオハイオ州シンシナティに転居し、兄が経営する海運会社で簿記係を務める。港には黒人労働者たちの音楽があふれ、フォスターの楽才を刺激した。この西部開拓時代の娯楽の王様「ミンストレル・ショー」は、白人が煤(すす)で顔を黒く塗り、歌とダンスで黒人を面白おかしく表現するというもの。現代の感覚では考えられない差別的な大衆娯楽であり、白人社会の中でも貧しい階層が優越感に浸るために足を運んでいた。若きフォスターはこのショーの歌の作詞、作曲を行うようになる。
1847年9月11日(21歳)、ピッツバーグのミンストレル・ショーで黒人霊歌風の『おお!スザンナ』初演。しょんぼりしているスザンナを、あべこべ言葉のジョークを聞かせて元気を出させようとする歌。「♪おいらはバンジョーを膝にアラバマからやって来た ルイジアナに真実の愛を探しにいくんだ 出発した日は雨だけど乾燥していて
晴れて暑かったけど凍え死にそうだったぜ おおスザンナ、泣かないでおくれ」。
ユーモラスな歌詞と陽気なメロディーが好評を得て、翌年(22歳)に楽譜が出版された。他のミンストレル・ショーの一座もこの歌を演奏し人気が広まったが、当時は著作権の意識が低く、フォスターは安い印税率で契約し出版者は大儲けした。以降3年間で16の出版社が30種以上の『おお!スザンナ』を無断で出版し、トータルの販売部数が10万部に達する大ヒットとなったが、彼がこの歌で得た収入はわずか100ドル(今の2653ドル/約30万円)に過ぎなかった。とにもかくにも、この『おお、スザンナ』のヒットで、フォスターには印税が入るようになり、アメリカで最初のプロのソングライター(歌謡作家)になった(当時、音楽教師などが作曲を兼業するのが一般的だった)。
※現在、日本の文科省唱歌に指定されている『おお!スザンナ』だが、初版の歌詞は一線を超えた黒人差別表現がある。2番の歌詞は「De lectric fluid magnified, And killed five hundred nigger(電流をあげて500人のニガーを殺した)」という耳を疑うもの。この歌詞は後に大きく変更された。
※ちなみに『おお!スザンナ』を日本に広めたのは土佐国の漁師ジョン万次郎=中浜万次郎(1827−1898)。彼は1841年に漂流し、143日後、米国の捕鯨船に救助されアメリカへ。1849年、帰国費用を得るためにゴールドラッシュに沸くのカリフォルニアで金鉱掘りとなり、このとき坑道で流行していたアメリカ民謡『おお!スザンナ』を耳にした。1851年、無事に帰国したフォスターは、翌1852年『おお!スザンナ』を初めて日本に紹介した。

1849年(23歳)、『やさしいネリー(ネリーはレディ)』を含む歌曲集『フォスターのミンストレル・ソング集』を出版。『やさしいネリー』は黒人奴隷の夫が亡き妻を想う追悼歌。フォスターが書いた歌詞では、奴隷が妻のことを「レディ」と呼んでおり、これは当時の白人社会の感覚と大きく異なっていた。同年、ペンシルベニアに戻る。
「♪ネリーはレディだった 彼女は昨晩死んでしまった 愛するネルのために鐘よ鳴れ 私の黒いヴァージニアの花嫁のために」
https://www.youtube.com/watch?v=Rbh2n95HbX4
歌詞 http://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S1624.htm

1850年(24歳)、躍動感のある『草競馬』を作曲し、手紙に「オペラ・ファンに見下されているミンストレル歌曲の地位をあげたい」と記す。人気者となったフォスターはピッツバーグの名医の娘“ジェニー”ことジェーン・マクドエル(19歳)と結婚、翌年に娘マリアンを授かる。家庭の安定を得たフォスターは名歌を次々と生んでいく。

1851年(25歳)、フォスターはミンストレル・ショーのように黒人を嘲笑する演芸に協力することに後ろめたさを感じ、次第に黒人を1人の人間として真っ当に扱う曲を書きたいと思うようになった。そしてまだ見ぬ南部フロリダ州のスワニー川を題材に、生涯最大のヒット作となる『故郷の人々(スワニー河)』を書きあげた。サビのコーラスは黒人奴隷への共感を示した「♪この世はどこもかしこも悲しく憂うつだ
おお、黒人の同朋たちなら分かるだろう 故郷の人々から遠く離れて暮らす、この心の憂いが」というもの。ただし、奴隷制支持者からの批判を懸念し、この時はまだ黒人歌の作家として認知されることに抵抗があったフォスターは、作者の名を15 ドルで売ってしまい、楽譜の表紙ではミンストレル・ショーの興業主E・P・クリスティが作詞作曲したことになっている。また、フォスターは歌手に「あくまでも同情的に、決してコミカルには歌わないように」と念を押している。

1852年(26歳)、フォスターが暮らした当時のシンシナティは奴隷制度廃止運動の中心地。この街の女性作家ハリエット・ビーチャー・ストウ(1811-1896)はこの年小説『アンクル・トムの小屋』を3月に発表。本作は白人に虐待され死に至る優しい黒人奴隷トムと、彼を救出しようとする白人ジョージを描いた物語で、奴隷解放を呼びかけるきっかけとなった。これを読んだフォスターは大きな影響を受け、黒人の境遇をテーマに芸術性の高い歌曲を作ることを目指す。彼はアメリカ南部を音楽で描いた。
そして『故郷の人々』の楽譜を見る度に、表紙に他の作家名が載っていることを恥じ、自分の名を載せる覚悟を決めた。手紙に「これからは何も恐れず、恥じることなく仕事に取り組み、最高の黒人歌作家として世間に認められたく思う」と決意を刻む。そして『故郷の人々』の作家名の返還を求めたがE・P・クリスティに拒絶され、結局、没後15年が経ってフォスターの名が楽譜を飾るようになった。

同1852年、新婚旅行で南部ニューオーリンズを訪問。また、南部ケンタッキー州バーズタウンで家を追われる黒人を目にしたフォスターは、アメリカ人すべてが共感できる望郷の想いを歌に込め、代表曲の一つとなる美しい『ケンタッキーのわが家』を作詞・作曲する。この曲の当初の題名は「哀れなアンクル・トム、おやすみ」。フォスターは人種を超えて人間そのものの姿に目を向けるようになった。
「♪ケンタッキーのわが家に陽は輝く この夏、黒人たちは陽気だ 穀物は実り、野原は花ざかり 鳥たちは美しい旋律を一日中さえずる 子ども達は小屋を転げ回り みんな明るく幸せで楽しかった でも辛い時代がすぐそこまでやってくる だからケンタッキーのわが家よ、さようなら 愛しい人よ 泣くのはおやめ さあもう泣かないで 懐かしいケンタッキーのわが家の歌を歌おう 遙かなケンタッキーのわが家のために」
また、この年に黒人奴隷たちが皆に慕われていた優しい農園の主人の死を悼んだ歌『主人は冷たい土の下に』を発表。「♪ ツタが生い茂る草葉の陰の墳丘に あの優しかった主人は眠る」。
※南北戦争のさなか、『アンクル・トムの小屋』の作者ストウ夫人と会見したリンカーンは、夫人を讃えて「あなたのような小さな方が、この(奴隷解放の)大きな戦争を引き起こしたのですね」と語った。現代では「アンクル・トム」の名は“白人に媚びる従順な黒人”として、黒人社会では蔑称として使われているが、一方で受難者としてアンクル・トムの中にキリストを見ることも出来る。

1853年(27歳)、「ミンストレル・ショーではなく、より多くの人々の心に届く音楽が書きたい」と、故郷に妻子を残して音楽出版社のある大都会ニューヨークに出る。そして前年に書いた『ケンタッキーのわが家』を出版。この曲は、移民国家アメリカの見知らぬ土地で、不安を抱えていた多くの人々の心を掴んだ。人々はフォスターの歌曲に触れ、甘美な旋律と歌詞により郷愁の念を起こさせ、フォスターの名はアメリカ全土に広まった。同年、人生を老犬としみじみ振り返る『老犬トレイ』を発表。次第に歌の主題が黒人から普遍的な人間像に移っていく。

1854年(28歳)、離れて暮らす妻ジェーンへの想いを切ない旋律にのせた『金髪のジェニー』を作曲(原題は“Jeanie with the Light Brown Hair”、薄茶色の髪)。同年、妻子もニューヨークに移り住む。
「♪夢に見る明るい茶色の毛のジーニー 霞のようにその髪は 夏の空気にたなびいている きらめく川の流れが戯れる場所を 彼女は歩いて行く 道々のヒナギクのように楽しそうだ」

1855年(29歳)、両親の具合が悪くフォスターはピッツバーグに戻り、妻子も追う。手早く金を稼ぐにはミンストレル・ショーの歌を書けば良かったが、抵抗を感じて書けないなったことから、次第に収入が減り借金暮らしに転落した。そのうえ母イライザと父ウィリアムが相次いで他界し、翌年には兄も死去。家計は火の車となり、貧困に耐えかねて妻子の心が離れていく。フォスターは自暴自棄となり酒に溺れつつ、いつか音楽家として成功することを信じて作曲を続けた。
同年、『すべては終わりぬ(つらい時代はもう真っ平だ)』を発表。フォスターの心の叫びが聞こえてくるようだ。
「♪つらい時代よ つらい時代よ もう二度と来ないでくれ 長いことお前は小屋の戸口でうかがっていた おお、つらい時代よ もう二度と来ないでくれ」

1857年(31歳)、出版者との先払い契約で得た金でギリギリの生活を続ける。
1860年(34歳)、ニューヨークに再び出て『オールド・ブラック・ジョー』を発表。老いた黒人奴隷が人生の終わりを迎えて胸の内を語る名歌で、妻の実家の奴隷のことを歌った。
「♪若く楽しい日々は過ぎ去り綿花畑の友人たちは既に旅立った みんな地上から離れ天にのぼった 彼らが優しい声で“オールド・ブラック・ジョー”と呼んでいるのが聞こえる 私もまもなく行くよ もう行くよ 頭を低く垂れて みんなが優しく“オールド・ブラック・ジョー”と呼んでいる」

1861年(35歳)、4月に南北戦争(1861-1865)が勃発し、世間は音楽どころではなくなる。奴隷制に反対し北軍を支持したフォスターの曲は南部で演奏されなくなり、戦争による出版事情の悪化も相まってヒット作が出なくなった。極度の生活の困窮から全曲の版権を売却するが、著作権の交渉に不慣れなフォスターは、出版社に安く買い叩かれてしまう。あまりの貧しさから妻子は親戚の家で暮らし、3年後に没するまで別居状態となった。フォスターは酒に溺れ、孤独感に包まれていく。

1862年(36歳)、フォスターは安宿と転々とし、すさんだ生活の中で『夢見る人』を書きあげる。また、リンカーンと北軍の応援歌『父なるアブラハム、我々も続きます』(We Are Coming,Father Abraam)を書いた。
1863年(37歳)、2種類の讃美歌集を発表。
1864年1月10日、肺病で長い間発熱に苦しんだフォスターは、マンハッタンのホテルの浴室で転倒し、洗面台が粉々になるほど頭部を痛打、破片で首と頭を切り大量出血する。倒れているところを若い作詞家G・クーパーに発見されベレビュー病院に搬送されたが、3日後の1月13日に発熱と出血多量で他界した。まだ37歳の若さだった。遺品となった財布にはわずか小銭38セントの所持金と、「dear friends and gentle hearts(親愛なる友だちとやさしき心よ)」と走り書きされた紙片だけが入っていた。電報交換手として働いていたジェニーはニューヨークに駆け付け、身体が冷たくなったフォスターと2年ぶりに対面し泣き崩れた。亡骸は鉄道でピッツバーグに運ばれ、1月21日にアレゲーニー墓地に埋葬された。葬儀ではヘンデルのオラトリオが演奏された。
死の2ケ月後、発表作としては遺作となる『夢見る人』の楽譜が出版され、人々がフォスターの才能に気づき、同時にアメリカが天才音楽家を失ったことを知った。
「♪夢見る美しい人 目を覚ましておくれ 星の光と露のしずくがあなたを待っている
日々聞こえる俗世のざわめきは 月の光に静まり消え去った 夢見る美しい人、歌の女王よ 優しい歌で愛を捧げるのを聴いておくれ この世の煩わしい人々を気にかけることは もうないんだよ」
南北戦争が泥沼化するなか、フォスターは「歌の女王」に「優しい歌で愛を捧げるのを聴いておくれ」と音楽家としての詩心をすべて差し出している。つま先から髪まで芸術家となっていた。
翌年、南北戦争は北軍勝利で終戦となる。
1903年、ジェーン夫人が他界。享年76歳。娘マリアンの消息は分かっていない。
1928年、『ケンタッキーのわが家』がケンタッキー州議会により州歌として採用され、後に黒人奴隷を指す「darkies(黒んぼ)」を「people」に変更される。
1935年に『故郷の人々』がフロリダの州歌となる。歌詞に農園(プランテーション)を懐かしむくだり「longing for de old plantation」があることから、奴隷制度を美化しているとして変更された。
1937 年、ピッツバーグ大学に「フォスター記念館」(現・アメリカ音楽センター)が完成し、歌曲の初版や伝記的な資料、フォスター作品がアメリカ音楽や世界の文化へおよぼした影響を証明する資料などが収蔵されている。記念館の向かいのシェーンリー・パーク入口にバンジョーを弾く黒人奴隷を伴ったフォスター像(1900年完成、1944年に移設)が建つ。
1951年(没後87年)、アメリカ連邦議会が命日の1月13日を「フォスターの日」と定めた。

フォスターの歌曲は歌詞の大半が自作であり、黒人差別が当たり前だった時代に、勇気を出して黒人を励ますメッセージを入れた。彼が書く歌曲は、親しみやすい旋律と簡素な和声で構成され、心に染み入る讃美歌のような響きを持つ。南北戦争以前の南部の農園で働く黒人奴隷の苦しみに共感を示し、黒人霊歌などを取り入れ、20年間に135曲のパーラーソング(家庭歌)と28曲のミンストレル・ソング、合計約200曲の歌を書いた。器楽曲など入れると285曲にのぼる。『やさしいネリー』『オールド・ブラック・ジョー』『ケンタッキーの我が家』で黒人奴隷に尊厳を与え、反奴隷運動に力を与え、最後に「人間そのもの」を歌い上げた。移民の国アメリの人々にとって、誰もが胸に抱く故郷への郷愁を揺り動かした。
誰もが知る数多くの名曲を残しながらも、経済的には恵まれず、貧困と孤独のうちに37歳で世を去ったが、音楽で19世紀アメリカを生き生きと表現した彼の歌曲は、アメリカ民謡として150年以上も歌い継がれ、「アメリカ音楽の父」として国民の心に生き続けている。
日本では1888年(明治21年)に『故郷の人々』が『明治唱歌第二集』に『あはれの少女』(大和田建樹作詞)として採用され、『草競馬』も文部省唱歌(1910-1944)に指定された。フォスター作品は、敵性音楽となった太平洋戦争の間を除き、多くの国民に親しまれてきた。敗戦後の日本で戦後初めて演じられたミュージカルはフォスターの生涯を描いた1947年の『マイ・オールド・ケンタッキーホーム』だ。150年前に遠いアメリカの地で書かれたノスタルジーあふれる民謡が、日本人の胸をも打つ不思議。全人類の民俗音楽なのかもしれない。

※アメリカにはフォスター以外の伝統音楽がない。
※フォスターの生家「白壁の家」は今でも解体されずに残っている。
※フォスターは白人作曲家として最初に仲の良い黒人夫婦を描き出し、黒人活動家フレデリック・ダグラス(1818-1895)から称賛される。
※フォスターの6歳年下でコネチカット生まれの作曲家ヘンリー・クレイ・ワーク(Henry Clay Work, 1832-1884)も有名。フォスターと並ぶ19世紀アメリカを代表する歌曲作曲家で約80曲を書いた。1876年に『大きな古時計』を発表し、楽譜が100万部売れる歴史的ヒットとなる。この曲は宿の主人から聞いたエピソードに着想を得た。奴隷制廃止運動の地下鉄道に協力したとのこと。
※フォスターが眠るペンシルベニア州ピッツバーグはニューヨーク州の西隣にある。隣りと言ってもNYとピッツバーグは東京と函館ほど離れているが。

〔参考資料〕『ららら♪クラシック』(NHK)、『日本人の知らないスティーブン・フォスター』(宮下和子/鹿屋体育大学外国語教育センター)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト)、『ブリタニカ国際大百科』(ブリタニカ)
『世界の民謡・童謡 フォスター』
http://www.worldfolksong.com/foster/index.html
『スティーブン・フォスター歌曲集』
http://a-babe.plala.jp/~jun-t/Foster_Songs.htm



★サミュエル・バーバー/Samuel Barber 1910.3.9-1981.1.23 (USA、ペンシルバニア州 70歳)2009
Oaklands Cemetery, West Chester, Chester County, Pennsylvania, USA

 

更新中。『弦楽のためのアダージョ』で知られる。

【おまけ〜この墓の形に惚れたッ!】

 

なんとこれは木に見えて、石の墓だった! 背後は奥さん♪

バーバーの右斜め後方にあったウィリアム・ビーティーさん(1834-1882)という方の墓は、木の形に彫られた石!
幹に名前が刻まれていてカッコイイ!しかも夫婦で相合い傘のように背中合せになっている。今までに見たお墓で一番素敵な造形かも!




★バーナード・ハーマン/Bernard Herrmann 1911.6.29-1975.12.24 (USA、ニューヨーク州 64歳)2009
Beth David Cemetery, Elmont, Nassau County, New York, USA Plot: Section BB2



更新中。『サイコ』などヒッチコック映画のサントラで有名。



★ハロルド・アーレン/Harold Arlen 1905.2.15-1986.4.23 (USA、ニューヨーク州 81歳)2009
Ferncliff Cemetery and Mausoleum, Hartsdale, Westchester County, New York, USA Plot: Hickory, Grave 1666

 

更新中。『オズの魔法使』の名曲『オーバー・ザ・レインボー』などを作曲した。



★ジョルジュ・ドルリュー/Georges Delerue 1925.3.12-1992.3.10 (USA、カリフォルニア州ロス 66歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Triumphant Faith Terrace, lot #4063A

 

フランソワ・トリュフォー監督の大半の映画で音楽を担当。その他『プラトーン』『ジュリア』『リトル・ロマンス』などでもスコアを書いた。



★ジェリー・ゴールドスミス/Jerry Goldsmith 1929.2.10-2004.7.21 (USA、カリフォルニア州ロス 75歳)2009
Hillside Memorial Park, Culver City, Los Angeles County, California, USA  Plot: G/M Truth 265



左端の下から2段目に眠る

墓碑には「彼の音楽の贈り物を
世界中が大切にしている」とあった

更新中。有名な『スタートレック』『パピヨン』『オーメン』『グレムリン』『氷の微笑』『エイリアン』『ランボー』など、名だたる有名作品の映画音楽を作曲した。



★ビクター・ヤング/Victor Young 1899.8.8-1956.11.10 (USA、カリフォルニア州ロス 57歳)2009
Hollywood Forever, Hollywood, Los Angeles County, California, USA

 

『八十日間世界一周』『シェーン』『誰が為に鐘は鳴る』などの映画音楽を作曲。脳出血のために急死し、
死後に『八十日間世界一周』がアカデミー作曲賞に輝いた。




★アルフレッド・ニューマン/Alfred Newman 1900.3.17-1970.2.17 (USA、カリフォルニア州ロス 69歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Great Mausoleum, Sanctuary of Eternal Prayer

この堅牢な古城の如き大霊廟にニューマンは眠る。一般非公開につき、泣く泣く外部から遙拝!

『王様と私』『南太平洋』『慕情』『七年目の浮気』といった映画音楽のほか、有名な20世紀フォックス・ファンファーレもニューマンが作曲!

世界一、墓マイラー泣かせの墓所、それがロスのフォレストローン墓地。ここはセレブ用の特別区画があり、一般人は純粋に墓参が目的でも入ることができない。
ハンフリー・ボガード、メアリー・ピックフォード、サム・クック、彼らはその区画に墓があり巡礼不可能だ。またこの墓地には、クラーク・ゲーブル、マイケル・ジャクソン、
ハロルド・ロイドなど、名だたるスターが眠る大霊廟があるが、そこに至っては建物が丸ごと一般立入禁止という始末。欧米の墓地は基本的にとても外に開かれた
空間であり、墓ツアーを企画したり、ガイドさんがいる墓地も多い。フォレストローンのように霊廟を立入り禁止にするなんて聞いたことがない。おそらく、マイケルが
ここに永眠したことで多数の巡礼者がやって来る思う。世界中から来たファンを全員門前払いにするつもりなのか…。もっと墓参者の善意を、人間を信じて欲しい。



★マックス・スタイナー/Max Steiner 1888.5.10-1971.12.28 (USA、カリフォルニア州ロス 83歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Great Mausoleum, Sanctuary of Enduring Honor

 
スタイナーはアルフレッド・ニューマンと同様、一般非公開のこの大霊廟の中に眠る。無念!

『風と共に去りぬ』『カサブランカ』『トップ・ハット』などの映画音楽を作曲。



★アーヴィング・バーリン/Irving Berlin 1888.5.11-1989.9.22 (USA、ニューヨーク州ブロンクス 101歳)2009
Woodlawn Cemetery, Bronx, Bronx County, New York, USA




バーリン家の墓所。右から2番目がアーヴィング

『ゴッド・ブレス・アメリカ』は第2の
国歌とまで言われている

 『ゴッド・ブレス・アメリカ』、『ホワイトクリスマス』など、アメリカ国民にとってのソウル・ソングを多数作曲!



★瀧 廉太郎/Rentaro Taki 1879.8.24-1903.6.29 (大分県、大分市、万寿寺 23歳)2008

 
墓の側には『嗚呼天才音楽家 瀧廉太郎君碑』の石碑が建つ 終焉の地は史蹟に指定(大分市)

  
終焉の地には瀧の銅像があり、若死にしたので台座にはギリシャ人ヒポクラテスの言葉『人生は短し芸術は長し』が彫られている(涙)

東京生まれ。「荒城の月」「花」「鳩ぱっぽ」「桃太郎」「雪やこんこ」「お正月」など多数の名歌を作曲。肺結核の為にわずか23歳で他界した。



★古賀 政男/Masao Koga 1904.11.18-1978.7.25 (東京、杉並区、築地本願寺・和田堀廟所 73歳)2008



本名、古賀正夫。国民栄誉賞を受賞した、昭和の歌謡界を代表する作曲家。
「誰か故郷を想わざる」「人生劇場」など心に残る歌謡曲を約5千曲も生み出した。




★服部 良一/Ryoichi Hattori 1907.10.1-1993.1.30 (東京都、杉並区、築地本願寺・和田堀廟所 85歳)2008



大阪府出身。「青い山脈」「東京ブギウギ」など作曲し、古賀政男に次いで作曲家として2人目の
国民栄誉賞に輝いた。作曲家一族であり、息子は服部克久、孫は服部隆之。




★團 伊玖磨/Ikuma Dan 1924.4.7-2001.5.17 (東京都、文京区、護国寺 77歳)2009&10







「夕鶴」「ぞうさん」を作曲

名門・團家の墓所。右手前は三井の
総帥、琢磨。中央が伊玖磨の墓(2009)
翌年に再巡礼。境内奥の花屋さんの左側が墓所(2010)



 
墓域全景(2010) 中央「團家累代墓」の背後に名があった

東京生まれ。祖父は戦前の三井財閥の総帥で、右翼に暗殺された團琢磨。父は元参議院議員の団伊能。現東京芸大で山田耕筰に師事。その後NHKの専属作曲家となる。1952年(28歳)、木下順二の『夕鶴』をオペラ化。『夕鶴』は国内外で600回以上も公演され、伊玖磨の名を高めた。翌1953年、芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」を結成。オペラ、交響曲、合唱曲、映画音楽、様々なジャンルを手掛け、童謡の『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』『おつかいありさん』も作曲した。2001年、中国旅行中に蘇州市にて心不全のため客死。戒名は鳳響院殿常楽伊玖磨大居士。
※NHK特集でムソルグスキー「展覧会の絵」の原画を探し当てた時の団伊玖磨さんの情熱に感動!



★いずみ たく/Taku Izumi 1930.1.20-1992.5.11 (東京都、豊島区、雑司ヶ谷霊園 62歳)2010





墓前に「見上げてごらん夜の星を」の楽譜 本名の今泉で眠っている 作曲家であり参議院議員

東京生まれ。本名、今泉隆雄。1950年(20歳)、舞台芸術学院演劇学科を卒業。芥川也寸志に師事し作曲を始める。歌謡曲、童謡、アニメソングから交響曲まで幅広いジャンルの作品を手がけ、生涯の作品数は約15000曲!1969年(29歳)、佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』で第11回日本レコード大賞を受賞。1989年(59歳)、参議院に“第二院クラブ”から入る。政治的立場は極めてリベラル。「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」と訴え、文教関係予算の増額のために尽力。3年後の1992年に、現職議員のまま肝不全で他界した。享年62。

主な作品…「太陽がくれた季節」(青い三角定規)、「ゲゲゲの鬼太郎」(主題歌)、「見上げてごらん夜の星を」(坂本九)、「いい湯だな」(ザ・ドリフターズ)、「手のひらを太陽に」(作詞はやなせたかし!)、「チョコレートは明治」(CMソング)、「バーモントカレーの歌」(CMソング)、「徹子の部屋」(テーマ曲)など。遺作は病床で口述筆記させた「アンパンマンとなかまたち」(ミュージカル『アンパンマン』)。



★河村 光陽/Koyo Kawamura 1897.8.23-1946.12.24 (東京都、文京区、吉祥寺 49歳)2013

有名な「うれしいひなまつり」を作曲!
墓前の正面右側の石碑は→
“童謡一路”の文字の下に
「かもめの水兵さん」の楽譜

福岡県出身。1920年(23歳)、ロシア音楽を研究するためモスクワを目指して出国するも、ロシア革命の混乱で政情不安定であるため、朝鮮で学校の音楽教師となる。4年後に帰国し、東京音楽学校選科(現・東京芸大大学院)で音楽理論を就学。1926年(29歳)頃から自作曲を発表する。
その後、小学校の音楽教師を務めながら楽曲を発表し、1936年(39歳)にキングレコードの専属作曲家となった。河村光陽と改名し、同年、「うれしいひなまつり」(山野三郎作詞)が大ヒットする。翌年には「かもめの水兵さん」(武内俊子作詞)が大当たりとなり、「赤い帽子白い帽子」「早起き時計」「仲良し小道」「りんごのひとりご」「船頭さん」「雨傘唐傘」など多数の童謡を発表していくが、9年後の1946年12月24日、胃潰瘍による出血のため急逝する。享年49。



★浜口 庫之助/Kuranosuke Hamaguchi 1917.7.22-1990.12.2 (東京都、府中市、多磨霊園 73歳)2010

 

兵庫県神戸市出身。愛称ハマクラ。作詞作曲に「バラが咲いた」「夜霧よ今夜も有り難う」。作曲に「人生いろいろ」(島倉千代子に提供し大ヒット)。



★伊福部 昭/Akira Ifukube 1914.5.31-2006.2.8 (鳥取県、鳥取市、宇倍神社 91歳)2014




『ゴジラ』を作曲 宇倍神社の鳥居。ここから石段を登っていく 社殿。伊福部家は明治まで当神社の神主だった

墓所は境内右側の山道から 3分ほど歩いていると… 右手に墓所に続く別れ道が出てくる





伊福部家の墓所に到着!先生の墓は後列の左端 日本を代表する作曲家の1人 周囲の山林からウグイスの鳴き声。素敵な墓所





娘さんが作った動物(ニワトリや魚)の焼物が
囲んでおり、これなら寂しくない
本物のコーヒーが供えられた墓は
初めて!良い香りがした♪
「ゴ」と描かれた石板が置かれていた!
『ゴジラ』のテーマ曲が頭に浮かぶ

「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」(伊福部昭)
北海道釧路出身。アイヌ文化から影響を受ける。1954年、40歳のときに『ゴジラ』のサウンドトラックを手掛けた。『座頭市』シリーズ、『ビルマの竪琴』なども担当し、SFから時代劇まで幅広いジャyンルに作品を遺した。門下に芥川也寸志・黛敏郎。平和主義者であり、池辺晋一郎、三善晃、加藤登紀子、湯川れい子、千住真理子らと共に、“音楽・九条の会”呼びかけ人になる。
伊福部家は古代豪族(因幡国/鳥取)・伊福部氏を先祖とする。祖父の代まで宇倍神社の神官であり、墓所も同神社。宇倍神社は648年創建、因幡国一の宮で格式が高い。境内右脇の山道を登っていくと茂みの中に伊福部家の墓所がある。

※『音楽・九条の会』呼びかけ人(アイウエオ順)
池辺 晋一郎(作曲家)/伊藤 強(音楽評論家)/井上 鑑(キーボード奏者・アレンジャー・プロデューサー)/伊福部 昭(作曲家)/桂 直久(大阪音楽大学名誉教授・オペラ演出家)/笠木 透(フォークシンガー)/加藤 登紀子(歌手・俳優)/上條 恒彦(歌手・俳優)/上村 昇(チェロ)/川本 守人(N響団友会会長、元首席オーボエ奏者)/亀渕 友香(ゴスペルシンガー)/喜納 昌吉(歌手)/日下部 吉彦(音楽評論家)/黒崎 八重子(ホール支配人)/小室 等(ミュージシャン)/櫻井 武雄(大阪芸術大学名誉教授)/さとう 宗幸(歌手)/菅原 洋一(歌手)/茂山 千之丞(狂言役者)/千住 真理子(ヴァイオリニスト)/高石 ともや(フォークシンガー)/高橋 アキ(ピアノ)/竹本 節子(アルト)/田村 拓男(日本音楽集団)/外山 雄三(音楽家)/中澤 桂(ソプラノ)/成田 繪智子(アルト)/新実 徳英(作曲家)/西村 朗(作曲家)/野口 幸助((財)関西芸術文化協会名誉会長、関西歌劇団団長)/広上 淳一(指揮者)/藤井 知昭(音楽学)/普天間 かおり(歌手)/三原 剛(バリトン)/三善 晃(作曲家)/湯川 れい子(音楽評論家・作詞家)/横井 和子(ピアノ)。



★弘田 龍太郎/Ryutaro Hirota 1892.6.30-1952.11.17 (東京都、台東区、全生庵 60歳)2010


唱歌をたくさん作曲 「弘田家之墓」 墓前に『叱られて』の譜面

高知県出身。東京音楽学校で本居長世に師事。1928年(36歳)、文部省在外研究生としてドイツ・ベルリンに留学。帰国後、東京音楽学校の教授となったが、2カ月後に作曲活動に集中するため辞任。素朴さと叙情性をたたえた童謡「雀の学校」「春よこい」「靴が鳴る(♪おててつないで 野道をゆけば)」「鯉のぼり(♪いらかの波と雲の波)」「浜千鳥」「られて」などを作曲。



★ウェーベルン/Webern Anton 1883.12.3-1945.9.15 (オーストリア、ミッタージル 61歳)2015
Mittsersill Kirchhof, Mittersill, Zell am See Bezirk, Salzburg, Austria 

  

前衛音楽家。新ウィーン楽派。第二次世界大戦の終戦直後、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、
オーストリア占領軍の米兵から闇取引の合図と誤解を受け射殺された。悲惨すぎる…。墓の文字がカッコ良い。



★ウェーバー/Carl Maria von Weber 1786.11.17-1826.6.5 (ドイツ、ドレスデン 39歳)2015
Alter katholischer Friedhof(Old Catholic Cemetery), Dresden, Dresdener Stadtkreis, Saxony (Sachsen), Germany



墓地中央のチャペルの後方に墓域 壁際にウェーバー家の墓が並ぶ “マリア”と書いてるけど男性

生前から評価が高かった “壺が割れてる?”いえいえ花瓶です 手前には名前の刻まれたプレートがあった

ドイツの作曲家。指揮棒を初めて用いた。モーツァルトのドイツ語オペラを継承、中世・近世の伝説を
題材にドイツ・ロマン派歌劇を確立。「魔弾の射手」を作り、ワーグナーへの橋渡し役となった。
モーツァルトの妻は父方の従姉。オーケストラの配置を現在に近い形にする。「舞踏への勧誘」もヒット。




★フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト/Franz Xaver Mozart 1791.7.26-1844.7.29 (チェコ、カルロビ・バリ 53歳)2015
Saint Andrews Chapel Churchyard, Karlovy Vary, Karlovarsky (Karlovy Vary), Czech Republic


大作曲家の息子

フランツ7歳(左)1798年
※右は7歳年上のカール

チェコのカルロビ・バリはかつての独領カール
スバート。温泉保養地として知られている

ネットには墓のおおよその場所しか出て
おらず現地で情報収集する必要があった。
画面右の看板(地図)には載ってなかった
誰に尋ねても「聞いたことがない」と言われる
なか、左のマダムが墓地を知っており、右の
学生さんが英語で通訳してくれた

マダムに教えられた方向へ行っても墓地が
なく、このペンションで聞き込みをした。
オーナー「モーツァルトの息子か。あと500m
先に昔の墓地があるぞ。きっとそこだ」


確かに史跡っぽい古い墓地があった。
庭師さんが耳栓(ヘッドフォン)をして掃除
していたので、視界に入るように手を振った。
「モーツァルトの息子!奴の墓はここじゃ
ないぞ。地図を持っているか」「はい」
「ペンを貸せ。墓の場所はここだ」「おおきに」
この白髭のオジサンが地図に印を入れて
くれたことで、少なくともこの町にフランツ
の墓があることが確実になった。直前まで
“ネット情報はガセネタでは”と疑い始めて
いたので、一気に元気が出た。さあ行こう!


…教えてもらった場所は小さな山だった。
これのどこに墓地が…。とにかく通行人を
見つけては「この辺らしいのですが」と
聞きまくったのだけど→
「モーツァルトの息子?お墓?」
「30年住んでるけど初耳だわ」
ダメだ…地元では有名人かと
思ったけどこうも知らない人ばかりとは
この2人には「お父さんのお墓が
ウィーンにあるのだから、ウィーンの墓地
を調べてみたら?」とアドバイス
されてしまった。既に1時間が経過…

50年住んでるお爺さんが知らなかったので心が折れ、「これ以上時間をかけると次の目的地に着いたら夜になる」と墓参を断念。うなだれてレンタカーに戻ると、道の反対側にiPhoneを聞きながら散歩している若者がいた。「ご老人に聞いても分からなかったんだ。こんな若者が知ってるはずない」と思いつつ、最後にダメ元で聞いてみた。
彼は“ちょっと待って”と考える仕草をした後、“モーツァルトの子、モーツァルトの子…”と呟き、指をパチン。「うん、なんかそれらしいのを見たことがあるぞ。着いてきて!」。
マジか!やった!と喜んだものの、彼は「近道をする」とひとけのない雑木林にズンズン入っていった。ぶっちゃけ、街中は落書きが多く、あまり治安の良いエリアじゃなさそうだ。僕は“初対面の人を疑うなんていけない”と思いつつ、“もし雑木林で事件に巻き込まれたら、それが僕の人生だったと、そういう宿命だったと受け入れよう”、そんなことを考えながら彼について行った。

ここを入っていく。海外では昼間でも
ひとけのない場所を避けていたので緊張。
名前はレナド君とのこと
15分で雑木林を抜け、山の斜面を降りると
レナド君が「YES!LOOK!」と前方を
指差した。うおっ、墓石が何個か見える
「MOZALT」の文字が見えた!ウオオ!
レナド君、本当にありがとう!一瞬でも疑
ってゴメン!君のおかげでたどり着けた!

レナド君「じゃ僕はこれで。ベトナムから来たの?チャイナ?」(旧共産圏
の交流国)。日本と答えると「ジャパン!ハイク!クロサワ!アイ・ラブ!」。
まさかの俳句、黒澤明。なんて渋い若者なんだ。今時、日本の若者
でも黒澤映画はすぐ出てこない。もはや同志、思わず固い握手。
墓碑銘が本名のフランツ・クサーヴァー・モーツァルトではなく、父の
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになっているのは、彼が“2世”
をアピールしていたからだろう。生没年はちゃんとフランツになっていた


聞けばレナド君は散歩が大好きで、音楽を聴きながら町中を歩きまくってるという。しかもこの時クラシックを聴いていた。通りで墓を知ってたはず!
僕がレナド君に巡り会うまで、18人に道を尋ねた。その結果は「この街にモーツァルトの子の墓があるなんて聞いたことがない」と肩をすくめた人が10人、「知っている」と言いつつ違う墓地を教えてくれた人が8人。うう…教えてくれる優しさに感謝だけど、知らない場合はそう言って欲しい。2時間ほど行ったり来たりでヘトヘトに。
それにしても、諦めて帰る前に、“最後の一人”とレナド君に訊いて良かった。彼に会えなければ、フランツの墓巡礼ができぬまま帰国していた。間一髪だった。
レナド君と別れた後、故井上ひさし氏の言葉を思い出した。「オーストラリアで黒澤監督特集が催され、そのおかげで日本人観まで好転した。パスポートだけでなく芸術の力で私達がいかに守られていることか」

【フランツ・クサーヴァー・モーツァルト】…作曲家、ピアニスト。天才モーツァルト他界の4カ月前に生まれた末子で四男。6人兄妹(4男2女)のうち成人できたのは次男カール・トーマス(1784-1858)と四男フランツ・クサーヴァーだけ。宮廷音楽長サリエリなどに学び「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世」の名で活動した。洗練されたピアノ協奏曲やヴァイオリン・ソナタを作曲したが、30代になると筆を置き、ピアニスト活動に特化していった。1844年、カールスバート(現カルロビ・バリ)にて53歳で病没。死因は胃癌。兄カールは役人となり、フランツの死の14年後に他界した。兄弟どちらも生涯独身だったことから、大作曲家の血筋はここで途絶えた。
※父の弟子にフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー(1766-1803)がいる。“フランツ・クサーヴァー”という名が全く同じなのは、敬意を表してつけられたという説、母コンスタンツェとの不倫の子という説がある。



★ホルスト/Gustav Holst 1874.9.21-1934.5.25(イギリス、チチェスター 59歳)2015
Chichester Cathedral, Chichester, Chichester District, West Sussex, England


墓石には「THE HEAVENLY SPHERES MAKE MUSIC FOR US」(天の球体は私たちのために音楽を作る)

グスターヴ・ホルストはイギリスの作曲家。イギリス中南部グロスターシャー州チェルトナムにて1874年9月21日に生まれた。少年時代から父に音楽教育を受け、1893年に19歳でロンドンの王立音楽大学に進む。1895年(21歳)、故郷が同じグロスターシャーで2歳年上のヴォーン・ウィリアムズと出会い親交を深めた。卒業後、トロンボーン奏者や指揮者で生活費をかせぎながら、作曲家スタンフォードに師事する。
1905年(31歳)、セント・ポール女学校の音楽教員になる。
1907年(33歳)、妻イゾベルとの間に娘イモージェン・ホルストが生まれる。
1908年(34歳)、室内オペラ『サービトリー』を作曲。バラモン教の経典に音楽をつけたものである。
1909年(35歳)、『吹奏楽のための組曲第1番』『第2番』を作曲。両曲とも吹奏楽の古典的な演奏会用作品として後に重用される。
その後は、親友の作曲家ボーン・ウィリアムズのようにイギリス民謡に関心をむけ、数多くの民謡をブラスバンド、オーケストラ、合唱などのために編曲した。
1913年(39歳)、学生たちの演奏用に相応しい曲がないことに気づき『セント・ポール組曲』を作曲。
1915年(41歳)、日本人舞踊家・伊藤道郎の依頼で6楽章のバレエ音楽『日本組曲』を作曲。「ねんねんころりよおころりよ」のメロディーなど日本民謡の旋律で構成され、「前奏曲 漁師の歌」「儀式の踊り」「操り人形の踊り」「間奏曲 漁師の歌」「桜の木の下での踊り」「終曲 狼たちの踊り」と標題がついている。
1916年(42歳)、代表作となる管弦楽組曲『惑星』を作曲。占星術から着想を得て書かれた作品で、「惑星」より「運星」に近い。太陽系の惑星の特徴が音楽で表現され、占星術の他にイギリス民謡やヒンドゥー教神秘主義の影響も受けている。全7楽章の構成は、第1曲「火星、戦争をもたらす者」、第2曲「金星、平和をもたらす者」、第3曲「水星、翼のある使者」、第4曲「木星、快楽をもたらす者」、第5曲「土星、老いをもたらす者」、第6曲「天王星、魔術師」、第7曲「海王星、神秘主義者」。最後の「海王星」では舞台裏に配置された女声合唱が使われる。楽譜の最後の1小節に反復記号が記され、「この小節は音が静寂の中に消え入るまでリピートせよ」と指示されている。初演の際に聴衆は斬新な響きに驚くと共に、絶賛をもってホルストに応えた。「火星」と「木星」が特に有名だが、ホルスト自身は「土星」を気に入っていた。
1918年(44歳)、管弦楽付きコラール『我は汝に誓う、我が祖国よ』(I vow to thee, my country)を作曲。組曲『惑星』の1曲「木星」中間部の旋律を編曲し、イギリスの外交官スプリング=ライスが第一次世界大戦中に作った詩をのせた愛国歌であり、イングランド国教会の聖歌。歌詞の1番は祖国への忠誠心、2番は平穏の理想の国家について歌う。ダイアナ妃がこの聖歌を好んだことから結婚式で演奏され、葬儀の際も長男ウィリアム王子の要望で演奏された。
※讃美歌『我は汝に誓う、我が祖国よ』
https://www.youtube.com/watch?v=bvouc8Qs_MI
1919年(45歳)、王立音楽大学の教授になる。
1925年(51歳)、ホルストの最高傑作とされる1幕オペラ『ボアズ・ヘッド亭にて』を作曲。
1926年(52歳)、第一次世界大戦休戦協定記念式典で『我は汝に誓う、我が祖国よ』が演奏され、以降イギリスでは11月11日のリメンブランス・デーで戦没者の追悼歌として歌われるようになった。同年、賛美歌集『ソングス・オブ・プライズ』に収録され、監修したホルストの友人ヴォーン・ウィリアムズが自身の暮らした街の名にちなんで『サクステッド』と名付けた。これによって、『我は汝に誓う、我が祖国よ』の旋律は「サクステッド」と呼ばれるようになり、様々な音楽家が歌詞を付けるようになった。
1927年(53歳)、全英ブラスバンド選手権大会決勝の課題曲の委嘱を受け『ムーアサイド組曲』を作曲。ブラック・ダイク・バンドが優勝した。
1934年5月25日、出血性胃潰瘍のためロンドンにて他界。享年59。この4年前に冥王星が発見されたことから、ホルストは新たに『惑星』の冥第8曲「冥王星」の作曲を開始したが、脳卒中で倒れて実現しなかった。2006年の惑星の新定義で冥王星が惑星から除外されたことで、『惑星』は再び太陽系と一致した。
1961年頃、ヘルベルト・フォン・カラヤンがウィーン・フィルの演奏会で『惑星』を取り上げレコードを発売。これが大ヒットとなり、ホルストの名が日本でも知られるようになった。
1976年、冨田勲がシンセサイザー版『惑星』を発表。
1986年、エマーソン・レイク・アンド・パウエルのアルバムにプログレ版の「火星」が収録。
2003年、「サクステッド」に吉元由美が日本語歌詞をつけ、平原綾香がデビューシングル『Jupiter』としてリリースされた。

〔墓巡礼〕
ホルストはイギリス南部ポーツマスに近い古都チチェスターのチチェスター大聖堂に眠っている。堂内の北袖廊の床の墓石には2つの惑星が彫られ、「THE HEAVENLY SPHERES MAKE MUSIC FOR US」(天の球体は私たちのために音楽を作る)と言葉が刻まれている。チチェスター大聖堂は12世紀からの歴史ある大聖堂で、シャガールのモダンなステンドグラスでも有名だ。

※ホルストは東洋哲学を学びサンスクリットの研究も行った。
※ホルストの名が命名された小惑星(3590)がある。
※チェルトナムにホルストの鋳像が建つ。
※娘のイモージェン・ホルスト(1907-1984)は王立音楽大学でヴォーン・ウィリアムズに師事し、彼女もまた作曲家になった。オールドバラ音楽祭を芸術監督として6歳年下の作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913-1976)と共に発展させ、1984年に76歳で他界。オールドバラの聖ピーター&聖ポール教会の墓地にてブリテンと彼のパートナーだったテノール歌手ピーター・ピアーズの墓の真後ろに眠っている。



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