作曲家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

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★プロコフィエフ/Sergei Sergeevich Prokofiev 1891.4.23-1953.3.5 (ロシア、モスクワ 61歳)1987
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 

バレエ組曲ロミオ&ジュリエット。よくぞシェイクスピアの台本にここまで完璧な音楽をつけたもの。
運命的かつ官能的な楽曲は、正直、舌を巻かずにはおれぬ!

●墓所はモスクワのノヴォデヴィッチ修道院/Novo-Devichy (Nowodjewchij) Cemetery
最寄り駅は地下鉄スポルチーヴナヤ駅(徒歩10分)。他にショスタコーヴィチ、スクリャービン、リヒテルらが眠る。




★ヘンデル/Georg Friedrich Handel 1685.2.23-1759.4.14 (イギリス、ロンドン 74歳)2002
Westminster Abbey, London, England







作曲家で最初の国際人 バッハと同い年、故郷も近い 墓所のウェストミンスター寺院




壁際のヘンデル像。最初はこれがお墓と思ってた(汗) こちらが本当のお墓!

バロック後期の代表的作曲家“音楽の母”ヘンデルは1685年2月24日、ドイツ中部のハレに生まれた。奇遇にも100キロ西の隣州アイゼナハではバッハが翌月に生まれている。父は宮廷理髪師(兼外科医)、母は牧師の娘。音楽一家のバッハ家と違ってヘンデルの家系は音楽と無縁であり、父は息子を法律家にしようとした。少年ヘンデルは音楽を好んだが、楽器演奏を禁じられていたため真夜中に屋根裏部屋に忍び込み、月の光のもとで鍵盤楽器(クラヴィコード)を弾いたという。
1692年、7歳のときにザクセン公の前でオルガンを演奏して楽才を認められた。領主はヘンデルが音楽を学ぶための資金提供を申し出、両親は説得されて10歳から地元オルガン奏者に師事させる。同時にハープシコード、バイオリン、オーボエを学んだ。1696年(11歳)、ベルリンで行った御前演奏が大きな評判になるも12歳で父が他界。“堅実な仕事を”という父の遺志に従って17歳で大学の法律学科に入学したが、音楽の情熱を抑えがたく、教会の見習いオルガン奏者となり作曲を始めた。

1703年(18歳)、ドイツのオペラの中心地ハンブルクに出てヴァイオリン奏者兼チェンバロ奏者となる。すぐに4歳年上の作曲家マッテゾン(1681-1764)と親友になったが、翌年マッテゾンのオペラ公演でチェンバロ奏者の座を取り合い(当時の作曲家は指揮や演奏も担当していた)、ハンブルクの市場で決闘となった。マッテゾンの剣先がヘンデルの胸に当たったが、胸ボタンに守られ大事に至らなかった。後日、両者は和解。
19歳でオペラ第1作の『アルミーラ』を作曲。翌年に初演され成功をおさめる。1706年(21歳)、ヘンデルにはハンブルク音楽界が物足りず、当時最先端のイタリア音楽を深く学ぶべく、オペラ発祥の地イタリアへ向かい、ローマ、ベネツィア、フィレンツェ、ナポリに3年間滞在した。イタリアではスカルラッティやコレルリと交流し、教会音楽やイタリア歌唱法を身につけ、100曲以上の世俗カンタータを作曲したほか、オペラやオラトリオも書いた。
1709年(24歳)、オペラ第5作『アグリッピーナ』がベネツィアで初演され、連続27回公演という当時前例のない大ヒットとなった。そもそも外国人の作品がベネツィアでヒットすることが珍しく、ヘンデルの名は欧州に広まった。物語はローマ皇帝クラウディオの後妻アグリッピーナが前夫の子ネロを皇帝に即位させんと画策するもの。ちなみに、同時期にベネツィアでは7歳年上のヴィヴァルディ(1678-1741)が活躍していた。

翌1710年(25歳)、ヘンデルの噂を聞いたハノーファー選帝侯ゲオルク・フリードリヒから宮廷作曲家・指揮者に招かれ、イタリアを離れてドイツに戻った。だが、才能を活かせる環境を求めて同年暮れに休暇をとってイギリスに渡り、スチュアート王朝最後の君主、アン女王(1665-1714)の知遇を得る。ヘンデルは名前を英語読みで「アンデル」と呼ばれた。
1711年(26歳)、ロンドンでオペラ『リナルド』を初演し再び成功を手にする。本作は第1回十字軍のエルサレム奪回の物語でヘンデル存命中に50回以上も上演されたカストラート(去勢男性歌手)のための作品。主人公リナルドは十字軍の勇者。敵エルサレム王にさらわれた恋人アルミレーナが歌うアリア『私を泣かせてください』が特に有名。この頃、イギリス音楽は作曲家パーセル(享年36)を失って停滞していたことから、イタリア・オペラの形式をとった『リナルド』は新鮮さがあり、イタリア帰りのヘンデルの作品は注目を集めていく。

いったんハノーファー宮廷に戻り、選帝侯から短期間の渡英許可を得てイギリスに入ったが、ヘンデルは再三にわたる帰国命令を無視してイギリスに滞在した。アン女王はヘンデルを寵愛し、彼は外国人でありながらイギリス王室から年金を支給される。1714年(29歳)、アン女王との出会いから4年、女王は49歳で急死した。死去によりドイツからハノーファー選帝侯ゲオルク・フリードリヒがイギリス国王として呼ばれ、「ジョージ1世」となる(ハノーファー朝の始祖。母が英国王室出身)。ヘンデルはハノーファーの宮廷楽長の職を放棄しており、顔を合わせづらい巡り合わせとなった。
ジョージ1世はヘンデルの不義理に怒って宮廷から遠ざた。即位から3年が経った1717年(32歳)、国王がテムズ川で舟遊びをした際に、ヘンデルは50人の楽団を引き連れて船上で管弦楽組曲『水上の音楽(Water Music)』(第1番〜第
3番/計20曲の小曲集)を演奏した。音楽好きのジョージ1世は、この華やかな野外音楽をいたく気に入り、1時間におよぶ曲を船が往復する間に3度も演奏させたという。有名な「アラ・ホーンパイプ」は第2組曲の第2曲。この作品のおかげでヘンデルは許され、アン女王の時代よりも重用された。音楽の力が不和を解いた。

1718年(33歳)、代表作のひとつ、妖精ガラテアと羊飼いエイシスの悲恋を描いた仮面劇『エイシスとガラテア』を作曲。
1719年(34歳)、イタリア・オペラ上演と貴族の投資を目的としたオペラ団体「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」を王の支援を得て設立、ヘンデルは音楽監督に就任した。この当時、作曲家は最初に歌手を選び、歌手の実力を最大限に引き出せる楽曲を書いた。同年、オペラ歌手の引き抜きを目的にドイツへ帰り、故郷ハレにも短期間帰った。その際、バッハがヘンデルに会うために訪問したが、既にヘンデルはイギリスに向かった後だった。巨匠たちの世紀の対面は残念ながら実現しなかった。
1724年(39歳)、ヘンデル絶頂期のオペラ『エジプトのジューリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)』初演。エジプト遠征中のシーザーとエジプト女王クレオパトラの物語。ドラマチックな史劇であり、ヘンデルのオペラで上演回数が最も多い人気作となる。同年、オペラ『タメルラーノ』初演。タタール人(モンゴル人)に捕らえられたトルコ皇帝の悲愴な決意を描く。
1725年(40歳)、オペラ『ロデリンダ』初演。北イタリアの王国を舞台にした夫婦愛を描く史劇。
1727年(42歳)、イギリスに帰化して名前をゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルから英語綴りの「George Frideric Handel(ジョージ・フリデリック・ヘンデル)」に変更する。
同年、ジョージ1世が脳卒中で他界し、子のジョージ2世(1683?1760)が即位する。この戴冠式のため英語による「戴冠式アンセム(礼拝用合唱曲)」を作曲し、後の英語オラトリオに繋がっていく。
※イギリス国教会の礼拝用合唱曲=「アンセム」は、プロテスタント教会の「カンタータ」、カトリック教会の「モテット」に相当。ヘンデルの『ジョージ2世の戴冠式アンセム』の第1曲目「司祭ザドク」はサッカーチャンピオンズリーグのテーマ曲の原曲になっている。
1728年(43歳)、「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」は9年間にオペラを487回(うちヘンデル作品245回)上演し、観客動員も多かったが、オペラ界のスター歌手を呼んだことでギャラがかさみ、収益は思うように上がらなかった。劇場経営者が資金を持ち逃げしたことも。また、この年に別の劇場でヘンデル作品をパロディ化&風刺した英語のオペラ『乞食オペラ』が記録的ヒットとなり、イタリア語にこだわるヘンデルの人気に陰りが出た。英語オペラの楽しさに気づいた民衆は、ヘンデルのイタリア語のオペラを貴族趣味の輸入品と見なすようになった。
1732年(47歳)、ペルシャ王の后となったユダヤ人女性エステルの知恵と勇気を描いた最初の英語オラトリオ『エステル』を上演。その幕間にヘンデルが弾いた2曲のオルガン協奏曲が好評を得る。
※オラトリオは衣装や舞台装置を使用しない音楽劇であり、公演費が安くついた。題材の大半が旧約聖書。
1733年(48歳)、恋に狂った英雄オルランドの四角関係を描いたイタリア・オペラ『オルランド』初演。同年ヘンデルの独裁支配に対する反発が起きて「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」が分裂解散。翌年、ヘンデルは新オペラ団体「イタリアオペラ協会」を旗挙げし、反ヘンデル派もオペラ団体「貴族オペラ」(有名なカストラート、ファリネッリが所属)を設立した。両者がイタリア・オペラのファンを奪い合うなか、ヘンデルは英語による劇形式のオラトリオに活路を見出す。オラトリオ『アタリア』作曲。
1734年(49歳)、物語がドラマチックで挿入されたバレエが人気のオペラ『アリオダンテ』を作曲。王の後継者アリオダンテを狙う謀略が描かれる。
1735年(50歳)、イタリア・オペラの最後のヒット作『アルチーナ』初演。魔法で男を虜にしてきた冷酷な魔法使いアルチーナが、初めて失恋して歌う美しいアリア『ああ!私の心の人よ!』で知られる。同年、名曲『オルガン協奏曲第4番』を作曲。
※『オルガン協奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=INIq2O2fr401737
1736年(51歳)、アレキサンダー大王のペレスポリス(ペルシャの首都)占領を祝賀する饗宴を舞台にした英語オラトリオ『アレクサンダーの饗宴』初演が大成功。
1737年(52歳)、中風にかかり体調を崩す。さらに卒中で右手が麻痺し指揮が不可能になった。「イタリアオペラ協会」もライバルの「貴族オペラ」も共に経営に行き詰まる。
1738年(53歳)、経済的に苦しくなるなか作曲活動を再開、年2作のペースでオラトリオを書き続ける。同年、ペルシャ時代の恋模様を描いたオペラ『セルセ』(伊語セルセ、別名クセルクセス)を作曲。第1幕で主人公のペルシャ王・クセルクセス1世が樹を愛でるアリア『樹木の陰で(オンブラ・マイ・フ)』は、あまりに旋律が美しいために「ヘンデルのラルゴ」の曲名で単独でも歌われる名歌となった。歌詞の内容は「このような木陰は今までになかった どれよりも愛しく 愛らしく そして優しい」。この曲は1906年

クリスマスイブにラジオ実験放送でレコードが流れ「世界で初めて電波に乗せて放送された音楽」になった。同年、イスラエル王国の初代国王サウルを描いたオラトリオ『サウル』作曲。
1739年(54歳)、モーセたちの紅海横断を描いた英語オラトリオ『エジプトのイスラエル人』初演。エジソンが発明したフォノグラフ(蝋管再生機)を使って、1888年に曲中の「モーセとイスラエルの子供たち」(出演者4千人の大コーラス)を録音。2008年にフランス民謡「月の光」(1860年録音)が再生されるまで“世界最古の録音”とされた。同年、ソロとオーケストラが交代しながら演奏する『合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)』を作曲。

1741年(56歳)、オペラの最終作となる『デイダミア』上演。ウリッセ(オッデュッセウス)がアキレウスとデイダミアを結婚させる物語。イタリア語のオペラであったため、既にロンドンの人々は興味を失っており興行は大失敗。ここ何年もヘンデル嫌いの貴族たちの妨害でオペラの失敗が増えていたことから、彼はイギリスを去ることを決意、アイルランド・ダブリンに渡った。以降、オラトリオを中心に作曲していく。
そんな失意のヘンデルに、ダブリン市から慈善演奏会用のオラトリオのリクエストが届く。それまでのヘンデルのイタリア語オペラは人気歌手のためのアリアとレチタティーボ(叙唱)ばかりで合唱曲はなかった。イギリスで普及していた合唱音楽に刺激を受けたヘンデルは、本格的な大規模合唱曲の作曲に取り掛かり、傑作オラトリオ『メサイア(救世主)』をわずか24日間で書きあげた。
1742年(57歳)4月13日、アイルランド・ダブリンにて代表作となる『メサイア』を自身の指揮により初演。第1部「メシア到来の預言と誕生、メシアの宣教」第2部「メシアの受難と復活、メシアの教えの伝播」、第3部「メシアのもたらした救い〜永遠のいのち」で構成され、第2部最終曲の「ハレルヤ(Hallelujah)」(通称「ハレルヤコーラス」)が高い人気を呼び、『メサイア』は大成功を収めた。同年、盲目になったサムソンがペリシテ人の神殿を崩壊させるスペクタクルなオラトリオ『サムソン』を作曲、これもヒットする。
※『ハレルヤコーラス』 https://www.youtube.com/watch?v=5NokjNCbCY4
1743年(58歳)、『ハレルヤ』のロンドン初演が実現したが、宗教作品を劇場で演奏することを批判する反対派の妨害で失敗に終わった。

1746年(61歳)、従来の演奏会は富裕階級だけを対象とした予約演奏会だったが、この年からオラトリオを市民に公開するようになる。
1747年(62歳)、紀元前にエルサレムを奪還し圧制からイスラエルを解放した英雄ユダ・マカバイを描いたオラトリオ『マカベウスのユダ(ユダス・マカベウス)』を作曲。第58曲『見よ、勇者は帰る』は表彰状の授賞式で流れる得賞歌として有名。ヘンデルは本作で「勇者」をスコットランドで勝利を収めた「イングランド軍」と重ねており、この愛国的なオラトリオは英国民から喝采を受けた。
※『マカベウスのユダ』 https://www.youtube.com/watch?v=939-BHNKWNI
※『マカベウスのユダ』の哀切なメロディー
https://www.youtube.com/watch?v=939-BHNKWNI#t=17m50s

1748年(63歳)、旧約聖書のソロモン王の英知を称えたオラトリオ『ソロモン』作曲。第3幕の「シバの女王の到着」が2012年のロンドン・オリンピックで演奏された。
1749年(64歳)、敬虔なキリスト教徒テオドーラと彼女を愛した男が互いを助けようと殉教する姿を描いたオラトリオ『テオドーラ』を作曲。オラトリオでは定番のハッピーエンドでない重い展開から観客は不入りだった。この年、前年のアーヘンの平和条約(オーストリア継承戦争の講和条約)の成立を祝う王宮の花火大会のため、ジョージ2世の意向を汲んだ勇壮な組曲『王宮の花火の音楽』を作曲。24本のオーボエ、9本のホルンとトランペットという大規模な編成。1万2千人の観客を前に花火を打ち上げる最中に演奏された。音楽は好評でヘンデルは再評価されると共に、ロンドンでは反応が悪かった『メサイア』の真価が認められ始める。『メサイア』は孤児院の募金を集めるために毎年上演されるようになった。
1750年(65歳)、バッハ他界。
1751年(66歳)、事実上の最後のオラトリオとなる『イェフタ』を作曲。白内障にかかったヘンデルは、この作品を視力が減退するなか執念で完成させた。古代イスラエルの指導者イェフタは、神との約束によって戦の勝利と引き換えに最愛の娘イフィスを生贄に出すことになり、心の葛藤を描く。
1753年(68歳)、完全に失明し作曲活動が不可能になり、演奏活動のみ続ける。
1758年(73歳)、有名な眼科医テイラーに眼の手術を受けたが失敗。この医者はバッハの眼の手術でも失敗している。
1759年4月14日にロンドンで他界。死の8日前に『メサイア』の演奏会に足を運び、これが人生で最後に聴いた音楽となった。享年74歳。生涯独身で子供はいなかった。『メサイア』はヘンデルが没するまでに68回も上演されたという。ドイツ人でありながら歴代の王族や、ニュートン、ダーウィンら英国の偉人が眠るウエストミンスター寺院に葬られた。
翌1760年に伝記が刊行され、ヘンデルは伝記が書かれた最初の音楽家となった。同年にヘンデルが30年仕えていたジョージ2世も76歳で他界し、ウェストミンスター寺院に埋蔵された最後の王となった。
生誕100年を機に楽譜全集が出版され(1797年完結)、ベートーヴェンは全40巻を宝物にしていた。ベートーヴェン「ヘンデルは追従を許さぬ巨匠中の巨匠だ」。
1883年、第1回万国博覧会のためにロンドン郊外に建てられた水晶宮で、500人の大規模オーケストラと4000人もの合唱団で『メサイア』が上演された。
1884年、『マカベウスのユダ』の「見よ、勇者は帰る」にスイスの牧師バドリーが歌詞をつけ、賛美歌「Thine Is the Glory(栄光は汝に)」として広まる。

若い頃からドイツ、イタリア、イギリスなど各地の文化・芸術を吸収して国境を超えて活躍したヘンデル。高い教養と外国語の上手さから宮廷で重用され、国際的な名声を得たコスモポリタンだった。趣味は絵画の収集。劇場経営では苦難を重ねながらも、イギリスにおけるイタリア・オペラの確立に尽力し、46曲のオペラと29曲のオラトリオ、多数の室内楽曲を残した。生涯ドイツから出ることがなかったバッハとは対照的だ。作品内容もバッハより分かりやすく、イタリア仕込みのくっきりとした明快な旋律とハッピーエンドの調和感のある展開、理解しやすい作風で多くの人に愛された。近年、オペラを中心にヘンデル作品を復活上演する試みが次第に増えている。

〔墓巡礼〕
ヘンデルが眠るロンドンのウェストミンスター寺院はイングランド国教会の教会。国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)が隣接しており、1987年にユネスコの世界遺産に登録された。11世紀にエドワード懺悔王が建設し、1066年から国王の戴冠式が行なわれ、内部の壁と床には歴代の王族やイギリスを代表する芸術家、科学者、政治家らが多数埋葬されている。墓地としては既に満杯状態で、新たに埋葬するスペースはなくなっているが、2018年3月に没した理論物理学者スティーヴン・ホーキング博士の遺骨が埋葬されることになった。日本の学校のチャイム(♪キーンコーンカーンコーン)は当寺院のために1927年に作曲された「ウェストミンスターの鐘」がオリジナル。
初めてヘンデルを墓参したのは1989年。飛行機でイギリス・ヒースロー空港に降り立ち、シャトルバスでロンドン市内へ。地下鉄のウェストミンスター駅から地上へ出て、テムズ河を背にビッグベンで有名な国会議事堂を左に見ながら200m歩くと巨大なウェストミンスター寺院に着く。入場料は1.8ポンドだったが、今は10倍以上の20ポンド(3000円)もする!現在は内部の撮影が禁じられているが、以前は撮影可能だった。
入口から入ると最初に王室の墓がある。聖エドワード(懺悔王)、ヘンリー5世、エリザベス1世、悲劇のメアリー・スチュアートなど多くの著名王族の壮麗な墓に圧倒された。ヘンデルを寵愛したアン女王や“王宮の花火”ジョージ2世もここに眠る。“水上の音楽”ジョージ1世だけは故郷ドイツのハノーファーに永眠している。僕にとってウェストミンスター寺院の最重要エリアは寺院の南翼廊「ポエッツ(詩人)コーナー」。ここにはテニソンやチョーサーといった国民的詩人だけでなく芸術家も数多く眠っている。ディケンズ、ローレンス・オリビエ、ハーディ、キップリング、パーセル等々。『メサイア』の楽譜を持ったヘンデルの石像が壁面にあるため、僕はそこが墓と思って頭(こうべ)を垂れ、彼が残してくれた美しい音楽の御礼を言った。中央の身廊にはニュートン、北翼廊(聖歌隊席通路)にはダーウィンやヴォーン・ウィリアムズの墓がある。
帰国後、2、3年が経ったある日、音楽誌をめくっていると見たこともないヘンデルの墓写真があった。「えっ、これはどこ!?なになに…ウェストミンスター寺院!?嘘だろ!?」。どうやら、僕が感謝を捧げたのは記念碑の方で、本当の墓は同じ詩人コーナーの床にあったようだ…ショック。13年後に同寺院を再訪、まっすぐ詩人コーナーを目指し、床に「HANDEL」の名を確認した。今度はちゃんとお墓に「サンキュー」と伝えることができた。

※英国では神を讃える歌が演奏される際に起立する習慣があり、この伝統が広がって他国の演奏会でも歌手や聴衆が「ハレルヤ」で立ち上がるようになった。
※18世紀当時のドイツの新聞が作曲家の人気投票を実施した結果、1位テレマン、2位ヘンデル、7位バッハだった。
※ヘンデルが1723年から他界まで暮らしたロンドンの住居は、ヘンデルの博物館として公開されている。住所はBrook Street 25。2階から上。
※故郷のザクセン・アンハルト州ハレに生家が「ヘンデルハウス」として保存・公開されている。マルクト広場にヘンデル像あり。
※ヘンデル名曲集 https://www.youtube.com/watch?v=yVfimoazs4s




★シベリウス/Jean Sibelius 1865.12.8-1957.9.20 (フィンランド、アイノラ 91歳)2005
Ainola (Jean Sibelius Home), Jarvenpaa, Finland





駅員に道を尋ねようと思っていたので駅に
降りて絶句!無人駅!目の前は野原!
周辺地図ナシ!
シベリウスの墓は彼の家の庭にあると
のこと。しかし、誰かに方角を聞くにも、
通行人が一人もいないッ!
ようやく遭遇した民家。
突撃して住人のお婆さん
から道を教えてもらう
「ホントにあってるのか…?」
この地味で目立たない門が
シベリウス・ハウスの入口だった




この家がシベリウス博物館になっている 裏庭の奥の方にあったシンプルな墓。デカい!

フィンランドの国民的作曲家。祖国の自然と歴史に根ざした交響詩などを書いた。「フィンランディア」は第2の国歌。
シベリウスは交響曲第7番を完成させた後、第8番の作曲に取り掛かったが、7番を超えるような納得いく作品を書けずに苦悩。
書いては破棄を繰り返し、1929年、64歳で創作活動を停止し、91歳で他界まで28年間も沈黙を続けた。遺言によって残された楽譜を娘が燃やした。

昔、僕がまだクラシック・ファンでなかったころ、クラシックはどの曲も同じに聴こえた。作曲家の違いはもちろんのこと、作曲家が暮らしていた国なんて見当もつかなかった。なのにシベリウスを聴き込むにつれ、彼が愛してやまない北欧の自然、森や湖へ連れて行かれてしまうのが分かるんだ。部屋の空気が一変する。

晩年の言葉「こんなにも自然が美しいのに、この世に別れを告げるのはつらい」



★ストラビンスキー/Igor Fyodorovitch Stravinsky 1882.6.17-1971.4.6 (イタリア、ヴェネチア 88歳)2002
Cimitero di San Michele, Venice, Veneto, Italy





水の都ヴェニスには墓地だけの島がある! 船に乗ってここまでやって来た!

『春の祭典』はリズム地獄が心地よい。ある種、快楽の極み。

★ヨハン・シュトラウスT世/Johann Strauss 1804.3.14-1849.9.25 (オーストリア、ウィーン 45歳)1989&94&02
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group 32 A, Number 15






珍しい三角形の墓 45歳で他界 左後方に見える墓は息子(U世)のワルツ王

オーストリアの作曲家。「ワルツの父」。ウィンナ・ワルツの基礎を作った。「ラデツキー行進曲」など約250曲を遺す。



★ヨハン・シュトラウスII世/Johann Strauss II 1825.10.25-1899.6.3 (オーストリア、ウィーン 73歳)1989&94&02&05&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria


親友のブラームス(右側)と 左がシュトラウス、右がブラームス(2005)

1994 2002 2015

親子でワルツ王。ウィンナー・ワルツはクラシック・ファンに“思想性が皆無”と小馬鹿にされがちだが、
ド硬派ガチガチのブラームスさえ、シュトラウスの流れるような楽曲を絶賛していた。




★ガーシュウィン/George Gershwin 1898.9.26-1937.7.11 (USA、NY郊外 38歳)2000&09
Westchester Hills Cemetery, Hastings-on-Hudson, Westchester County, NewYork, USA /400 Saw Mill River Road




 
ジャズとクラシックを融合! 彼の墓は正門をくぐるとすぐ右側に見えてくる





庭師たちが墓前の木陰でちょっとひと休み(2000) 9年後に再訪。緑が美しかった(2009) 扉から中を覗くとジョージの名前が見える

ロシア・ユダヤ系移民の2世としてNYブルックリンに生まれる。16歳から楽譜商の試奏ピアニストとして働き、20歳ごろには兄と組んで流行歌を生み出していた。26歳(1924年)、当時ダンス用の低俗な音楽と軽視されていたジャズと、クラシックを融合した『ラプソディー・イン・ブルー』を発表。保守的な批評家からは「クラシックの冒涜」と叩かれたが民衆は喝采した。2年後に『パリのアメリカ人』を完成。この曲は途中で“自動車の警笛”が登場するなど実に型破り。36歳(1934年)、ガーシュウィンの最高傑作となるオペラ『ポーギーとベス』を発表。ゴスペルや黒人霊歌を愛していた彼は、このオペラの主要キャストをなんと全員黒人にした(警官役だけが白人=歌はなし)。まだ人種差別が激しかった時代、これは前代未聞の「事件」だった。意味のない偏見を無視し「良いものは良い」とする彼。同作品からはスタンダードの名曲「サマータイム」が誕生した。この子守歌は3幕まで各幕に登場するが、3幕目は両親を失った子どもに歌われ悲痛極まりない…。娯楽オペラに社会問題を入れ込んだガーシュウィン革命。未来を期待されていた彼だが、脳腫瘍の為わずか38歳で旅立った。

「ピアノの鍵盤に触れたとたん、指先からメロディーが流れ落ちてきた」(ガーシュウィン、“ラプソディー・イン・ブルー”の作曲時に)
「ガーシュインこそ唯一、真のアメリカ音楽だ」(トスカニーニ)




★ロベルト・シューマン/Robert Alexander Schumann 1810.6.8-1856.7.29 (ドイツ、ボン 46歳)1989&1994&2015
★クララ・シューマン/Clara Josephine Wieck-Schumann 1819.9.13-1896.5.20 (ドイツ、ボン 76歳)1989&1994&2015
Alter Friedhof, Bonn, Germany






16歳のクララ ヨーロッパ最大の女性ピアニスト! 作曲家でもあった 女手一つで7人を育てる







青春時代のシューマン クララと炎の大恋愛 有名なポートレート 1847年、37歳と28歳 クララに夢中のブラームス




ボン旧墓地の中央部に眠る 上部のレリーフ クララとよく似たミューズ





1994年 手前に2人の名前 シューマンが身を投げた、父なるライン川

ロマン主義運動の旗手を自任したドイツの作曲家。1810年6月8日生まれ、ザクセン出身。5人兄弟の末子。書籍商の父は少年シューマンをベートーヴェンの交響曲や著名ピアニストの演奏会に連れて行き、シューマンは音楽の素晴らしさを早くに知った。父はシューマンの楽才に気づいてピアノを買い与え、彼はピアノに夢中になった。7歳頃にピアノ曲を作曲し、11歳で合唱と管弦楽からなるオラトリオ(宗教音楽)を書いている。シューマンは早くから文学にも目覚めており、15歳でドイツ文学サークルに入りゲーテやシラーを愛読、中でもジャン・パウルの小説に熱中した。この頃、ピアノ連弾でベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を演奏。16歳の時に姉が川で入水自殺し、同年に父も他界しショックを受ける。1827年、17歳の年にベートーヴェンが死去。
1828年(18歳)、友人と旅行して詩人ハイネに会う。この年、シューマンの自作詩が夕刊に掲載された。母の意向で法律家になるべくライプツィヒ大学の法学部に進んだが、音楽好きの学友たちと室内楽(シューベルトのピアノ三重奏曲第1番など)の演奏に熱中し、学業がおろそかになっていった。
夏にライプツィヒの知人家の音楽会で、シューマンはピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク(1785-1873)と娘クララ(ドイツ語ではクラーラ/1819-1896)の父娘と運命的な出会いをする。クララはまだ9歳だったが、5歳から父の指導を受け、この年にゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でモーツァルト・ピアノ協奏曲を弾き大成功を収めていた。彼女はプロデビューを果たし、神童としてドイツ全土に名が知れ渡っていった。
同年11月にシューベルトが31歳で夭折。シューマンは「私だけのシューベルト」と語るほどシューベルト作品を好んでいたため、訃報に接し一晩中泣いたという。

翌年、ハイデルベルク大学に転校すると、シューマンはピアノの名手として当地で評判になり、バーデン大公妃に招かれて演奏を披露した。自由な学生の街ハイデルベルクでシューマンは青春を謳歌し、酒を飲み葉巻を吸った。
1830年(20歳)、友人と訪れたフランクフルトで天才ヴァイオリン奏者パガニーニ(1782-1840)の演奏を聴き深く感動し、母に法律を捨て音楽で身を立てる決意を伝えた。母が反対したことから、ピアノの師ヴィークがシューマンの母に息子の音楽的才能を保障し、住み込みでレッスンさせることを約束した。10月、ライプツィヒのヴィーク家でシューマンの新たな生活が始まった。ヴィークのレッスンは極めて厳格で容赦なかった。この年、公式に作品番号1となったピアノ曲『アベッグ変奏曲』を作曲。
1831年(21歳)、シューマンは無理な練習がたたって右手の指を負傷し、ピアニストになる夢を断たれてしまう。その後は作曲と音楽評論に力をそそいだ。同年、ジャン・パウルの小説に霊感を得たピアノ曲『蝶々(パピヨン)』を書く。一方、12歳になったクララはヨーロッパ各地で演奏を行い、先々で皇帝から市民まで聴衆を感動させた。シューマンはクララに手紙を書く。「私はよくあなたのことを考えます。妹や女友達としてではなく、巡礼者が遠く離れた祭壇画に想いを馳せるように」。

1832年(22歳)、同い年のポーランド人ショパン(1810-1849)の演奏(『ラ・チ・ダレム変奏曲』)を聴いたシューマンは「諸君、脱帽したまえ、天才だ」とショパンを讃える論文を音楽雑誌『一般音楽新聞』(ドイツ最初の音楽雑誌)に寄稿、これが最初の音楽評論となる。ただ、同誌は保守的で、以降、シューマンの寄稿は掲載されなくなっていった。同年、13歳のクララが作曲したオーケストラ曲が演奏されている。
最初の交響曲『ツヴィッカウ交響曲』に着手するが未完成に終わる(第2楽章まで完成)。この曲は第1楽章のみが初演され、これが作曲家シューマンのデビュー作となった。
1833年(23歳)、兄夫婦が相次いで病死。シューマンは後に生命を奪うことになる精神病の最初の兆しを日記に記した。「10月から12月にかけ、怖ろしい憂鬱病に悩む。気が狂うという固定観念が僕をとりこにした」。シューマンは“思考力を失ったらどうなるのだろう”と怯え、医者に「自分の生命に暴力をふるわないと約束できない」と相談した。

1834年(24歳)、ドイツの保守的な音楽批評に風穴を開け、若い音楽家の作品に耳を傾けさせる目的で友人らと『新音楽時報』を創刊(なんと現在も隔月で刊行中)。同誌で10年間ペンを執り、闘士風のフロレスタン、詩人風のオイゼビウスといったペンネームで新進音楽家ショパン、メンデルスゾーン、ベルリオーズらを世に紹介した。『新音楽時報』はドイツでもっとも影響力のある音楽雑誌に成長していった(後にワーグナーも編集部員となった)。シューマンは作曲家としてよりも批評家として最初に名声を得た。同年、ヴィークの新しい弟子、18歳のエルネスティーネ・フォン・フリッケンがヴィーク家に住み込み、シューマンと彼女は恋愛関係となり半年で婚約まで進む。だが、後に両者の合意で婚約は解消された。理由は彼女の複雑な家庭事情と、シューマンがクララへの愛に気づいたこと。

シューマンのピアノ曲はその多くが短い小品を集めた組曲形式をとり、小規模な枠組みの中でひとつの世界観を描いている。1835年(25歳)に書かれた全20曲の初期の傑作『謝肉祭』はエルネスティーネとの恋愛から生まれた。同年、初めてソナタ形式の大作に挑んだ『ピアノソナタ第3番』はクララに献呈された。技巧的で華やかな5楽章の『ピアノソナタ第3番(グランドソナタ)』には“管弦楽のない協奏曲”のタイトルが付けられた。エルネスティーネの父が作曲した主題を使った変奏曲『交響的練習曲』(1837年)もオーケストラの響きを持つ名曲として知られる。
この年、ひとつ年上のメンデルスゾーンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任し、暮れに15歳のクララがメンデルスゾーンの指揮で、彼女が書いた『ピアノ協奏曲第1番』を演奏した。

エルネスティーネと別れた後、それまで兄妹のようだったシューマン(25歳)とクララ(16歳)は恋愛関係になっていく。クララの父ヴィーク(50歳)は弟子と愛娘の関係に気づいて驚愕した。ヴィークはクララが幼い頃に歌手の妻と離婚しており、ヴィークにとって彼女は男手一つで育てた宝物だった。コンサート・ピアニストとして活躍させるのが夢であり、主婦として家庭に入るなど考えられなかった。前年にクララは15歳にして3楽章の『ピアノ協奏曲』を完成させており、作曲家としても前途有望だった。
1836年(26歳)、ヴィークが2人を引き離すためクララをドレスデンに引っ越しさせると、シューマンは彼女を追ってドレスデンに行き4日間を2人で過ごした。直前にシューマンは母を失っており人恋しさが増していた。この密会を知ってヴィークは激怒し、クララをライプツィヒに連れ戻すと、手紙の検閲を行い、単独外出禁止を命じた。シューマンはヴィーク家に出入り禁止となる。
ヴィークは娘を失う恐怖のあまり、「シューマンは大酒飲み」とデマを流して新聞で中傷し、街角でシューマンを見かけると罵詈雑言を浴びせて唾を吐きかけ、クララの声楽教師にクララの恋人役を演じさせようとするなど、異常な行動を取るようになった。父想いのクララは「このままでは父は死んでしまう」といったん別れを決意し、シューマンの手紙をすべて送り返した。

1837年(27歳)8月、シューマンを心から愛していたクララは、自分の演奏会でシューマンが献呈してくれた『ピアノソナタ第1番』を弾き、その数日後に結婚を承諾する手紙を彼に送った。この婚約を踏まえ、翌月、シューマンはヴィークと話し合うために面会を求める手紙を書く。結果はシューマンいわく「会見は僕への敵意に満ちた恐るべきものでした」「父上は人の胸に言葉の刃物を突き刺してくるのです」。ヴィークはシューマンの収入面も懸念しており、結婚は許可されなかった。クララの手紙「父の無礼な振る舞いの数々を心苦しく思います。私を幸福に出来るのは愛だけです。あなたのためだけに生き、すべてをあなたに与えましょう」。シューマン「どちらか一人を君は諦めねばならない。父か、それとも私か」。

1838年(28歳)、クララと会うこともできず、苦悩の日々を送るシューマンだったが、彼女への想いを作品に昇華することで次々と傑作が生まれていった。「トロイメライ」を含む優しさあふれるピアノ曲集『子供の情景』は、少女時代のクララを思い浮かべて書かれた。ひとつ年下のフランツ・リスト(1811-1886)は『子供の情景』に感動し、シューマンへの手紙に「この曲のおかげで私は生涯最大の喜びを味わうことができた」「週に2、3回は娘のために弾いています」「しばしば第1曲を20回も弾かされ、ちっとも先に進みません」と書き綴った。ショパンに献呈された傑作『クライスレリアーナ』は、ホフマンの著作に登場する人物にクララの姿を重ね合わせて書かれた。『幻想曲 ハ長調』はボンにベートーヴェン記
念像を建てるための寄付金目的で書かれたが、ベートーヴェンの歌曲『遥かなる恋人に寄す』を引用することでクララへの想いを込めた。前年には各曲に文学的な標題が付いた抒情的なピアノ曲集『幻想小曲集』を作曲している。

同年秋から半年間、シューマンはウィーンに滞在した。そして敬愛するベートーヴェンとシューベルトの墓参りを実現させた。このときベートーヴェンの墓前で鉄製のペンを拾い、後にこのペンで交響曲第1番が書かれる。生前のシューベルトの話を聞きたくてシューベルトの兄の家を訪ね、そこで遺稿の中から『交響曲第8番“ザ・グレート”』の草稿を見つけるという大発見をする。シューマンは“ザ・グレート”を「天国的な長さ」と紹介、数ヶ月後にライプツィヒにてメンデルスゾーンの指揮で初演され空前の成功を収めた。
一方、クララは10代後半にしてその名がヨーロッパ中に伝わり、演奏を聞いたショパンは「僕の練習曲集を弾ける唯一のドイツ人女性」と激賞。オーストリア皇帝フェルディナント1世から最も栄誉ある「王室皇室内楽奏者」(外国人女性で初)の称号を授与され、ゲーテからは「才能ある芸術家クララ・ヴィークのために」と銘文が刻まれたメダルを贈られた。クララは当時では珍しい女性作曲家でもあり、リストはその独創性を讃えてクララの3つの歌曲をピアノ独奏曲に編曲した。
この年6月20日の手紙「クララ、君はもっと早く僕と一緒にならなければいけない。性急だと言わないでほしい。1分でも遅れたら死ぬも同然だ。これ以上は耐えられない」。9月、クララはリサイタルで左手の薬指に指輪をしてステージに出た。シューマンは感動を手紙に綴る「昨日、僕はずっとステージの君を見ていた。何という指輪の輝きだったろう。君をしっかり、しっかり抱きしめたい。美しい心と完璧な偉大な芸術を備えた我がクララ」。

1839年(29歳)6月、クララは経済上の不安に触れた手紙を書く「父はあなたが生活の成り立つ未来を約束できると分かり次第、すぐにでも同意してくれるそうです。実際、(生活費の)心配のために素晴らしい芸術家の生活が曇ると、あなたはご自分をとても不幸と感じるでしょう。そのようなことからあなたを守ることが私の義務と心得ています」。シューマンは自尊心が傷つく。「まるで死者のように冷たい手紙だった。友人たちはみんな僕への愛を疑っている。愛するクララ、もっと慎重に言葉を選んで欲しい」。その2週間後、言い過ぎたと思ったのか次の手紙を出す「いつも側にいてもらうためには、僕は自分を高めなければ。君の心には大きく豊かな愛が宿っている。たくさんの美しい特性がそこにある」。
ヴィークは「シューマンが求婚を諦めないなら撃ち殺す」と語っており、もはや和解は不可能と悟ったシューマンは、7月、裁判で結婚許可を得るべく、クララの同意のもと訴訟に踏み切った。訴状にはシューマンとクララのサインがあった。シューマンの手紙「今なら君が僕を誠実に愛してくれていると実感できる。君が署名しているところを見たから。愛しいクララ、この世が君にとってずっと良きものであってほしい!」。憤慨したヴィークはクララを家から追い出し、彼女はベルリンの実母に引き取られた。ヴィークは街でシューマンに平手打ちを食わせ、偽名を使ってシューマンの悪口を並べ立てた手紙を書き、クララに送りつけた。この手紙にはさすがのシューマンも怒ってヴィークを名誉毀損で訴える。

高名なメンデルスゾーンまでがシューマンに有利な証言をしたことから、ヴィークは法廷闘争を諦め、1840年8月12日、裁判所から待望の結婚許可が下された。ヴィークは偽手紙の件で2週間の禁固刑に処された。判決から1カ月後の9月12日にシューマン(30歳)とクララ(20歳)は結婚し、クララは翌日に21歳の誕生日を迎えた。リストも結婚式に駆け付けた。クララの結婚承諾から3年を経てのゴールインだった。シューマン夫妻は共通の日記を付け、日々の出来事や悩みごとを書き記し、日曜日のコーヒータイムに一週間分を朗読し、2人で生活改善に向け何をすべきか話し合った。
1ページ目はシューマンが書いた。「2人の願いや悩みを記そう。お互いに対する希望のノートだ。2人に誤解が生じたときは仲介と和解のノートにしよう。ここに全てを打ち明け心を開こう。そして日曜日には一週間を振り返り、品位があり活動的だったかどうか、内面的にも外面的にも満たされた状態で安定していたか、僕たちの愛すべき芸術がさらに完璧に近づいていったかどうかを吟味しよう」。続く第一週。「あふれんばかりの幸福。妻は真の宝で、しかも日増しに大きくなる。君はどれほど僕を幸福にしているかしっかり感じて欲しい。初めての料理も素晴らしく美味しかった」。クララの最初のページ「私は今までにこれほど幸福な日々を経験したことはありません。私はこの世で一番幸福な妻なのです。私は毎分ごとにあなたをさらに愛するようになっていく気がします」。

シューマンは当初ピアニスト志望だけあってこれまでピアノ曲を中心に作曲していたが、この結婚の年に歌曲の創作に目覚め、1840年は彼にとって“歌の年”となった。シューマンいわく「ほかの音楽には全く手がつかなかった。私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」。わずか一年のうちに、実に120曲以上もの歌曲を生み出した。アイヒェンドルフの詩による『リーダークライス』、ゲーテ他の詩人の詩による『ミルテの花』、シャミッソーの詩による『女の愛と生涯』、ハイネの詩による『詩人の恋』などの連作歌曲を次々に書きあげた。これらは詩の行間まで美しく繊細な音楽で描写され、ピアノの役割は単なる歌の伴奏ではなく、歌とピアノが対等の立場で詩の世界を表現した。
新婚の2人は一緒にバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、次にベートーヴェンの弦楽四重奏曲を読み込んだ。

1841年(31歳)、『交響曲第1番“春”』が完成、シューマンは日記に「このような大曲をかくもたやすく、かくも短期間に完成させたまう神に感謝する」と綴った。初演は成功を収め、以降シューマンが本格的に交響曲を書き始めた点から、本年は「交響曲の年」と呼ばれる。長女が生まれ、生活費のためにクララは演奏旅行の回数を増やした。
1842年(32歳)、リストの勧めで室内楽曲の研究を開始、渋みが光る『ピアノ五重奏曲』を6日間で、朗々とした『ピアノ四重奏曲』を5日間という驚異的な速筆で書きあげた。本年は「室内楽曲の年」と呼ばれる。同年の北ドイツの演奏旅行で、クララだけが宮廷に招待され、傷ついたシューマンは一人ライプツィヒに戻った。同年、シューマンは過労で倒れボヘミアの温泉で療養した。

1843年(33歳)、ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者メンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院の講師に招かれ『新音楽時報』を去る。ベルリオーズとの交流で創作欲が刺激され、同年、エジプトやインドを舞台にしたオラトリオ『楽園とペリ』を完成させ、初演で大成功を収めた。名声を手に入れたシューマンのもとへ、クララの父から「親愛なるシューマン、対立していても芸術において私たちはつねに一つでした」と和解を求める手紙が届いた。年末に両者は長年の確執を超えついに和解し、クララは「これでようやく私の切なる願いが聞き届けられました」と喜びを日記に記す。子ども達はお爺ちゃん(ヴィーク)からクリスマスプレゼントをたくさん買ってもらった。
1844年(34歳)、5カ月に及ぶロシア訪問。クララはショパン、リスト、アントン・ルビンシテインと並ぶ19世紀の最も有名なピアニストの一人であり、帝都サンクトペテルブルクでロシア皇帝の前で御前演奏を行った。かたやロシアでは知名度の低かったシューマンは「ピアニストの夫」という扱いに終わった。シューマンは現実を受け入れた。「芸術家が結婚すれば、当然そうなるに違いないのだ。結局のところ、大切なのは幸せをずっと永続きさせることである」。
だが、シューマンは帰国後に重度の神経疲労に陥った。高所恐怖症、体の震え、鋭利な金属への恐怖症に苦しみ、幻聴が作曲を不能にした。クララは夫が恐ろしい妄想で一睡も眠れず涙に暮れている姿を見て胸を痛めた。シューマンは環境を変えることを決意し、ライプツィヒ音楽院の職を辞しドレスデンに転居した。

1845年(35歳)、ドレスデンは音楽家の地位が低く、保守的な空気が支配しておりシューマンを失望させたが、それでも4年がかりの労作『ピアノ協奏曲イ短調』を書きあげた。初演でクララがピアノを弾いたこの曲は、豊かな音色が奔流となって聴く者を包み込む名曲で、シューマンの代表曲のひとつとなった。年末の演奏会で病気のクララの代役で登場した14歳の天才ヴァイオリン奏者ヨーゼフ・ヨアヒムは、後にシューマンとブラームスを巡り合わせる。
翌1846年、幻聴と戦いながら『交響曲第2番』を完成させ、1847年(37歳)に『ピアノ三重奏曲』を書いた。この時期、夫婦には4人の子がおり、生活費を稼ぐために演奏旅行を繰り返した。だが、ウィーンの演奏会は不評で、楽屋で荒れるクララをシューマンが「落ち着きなさい、10年経てばすべてが変わるよ」となだめた。 ウィーンから帰ると長男が1歳で早逝、秋には
盟友メンデルスゾーンが38歳の若さで他界し、シューマンには辛い出来事が続く。その中で、生まれ故郷ツヴィッカウで開催されたシューマンを讃えた記念祭が慰めになった。
1848年(38歳)、おそらく長男の追悼の想いを込めたのであろう、「楽しき農夫」を含む『子供のためのアルバム』を作曲。同年6月、シューマン家をリストが訪問した。37歳のリストは強烈な上昇志向を持ち、皮肉屋の一面があった。シューマンがセッティングした晩餐会を2時間も遅刻してきたうえ、シューマンの親友かつ前年に他界したばかりのメンデルスゾーンの批判を始めた。リストはメンデルスゾーンの2つ年下だ。怒りの沸点に達したシューマンは両肩を鷲掴みにし、「そんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫び部屋を出ていった。リストはクララに謝罪した。「ご主人は、私がきつい言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」。この騒動にもかかわらず、リストはシューマンの作品を積極的に演奏し続け、後にシューマンはリストへの手紙に「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と書いて水に流した。
1849年(39歳)、オペラ『ゲノフェーファ』を発表するが台本に一貫性がなく不成功に終わった。劇付随音楽『マンフレッド序曲』完成。

1850年(40歳)、バッハ没後100年。「バッハは芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」「我が手本とする双璧はバッハとベートーヴェン」「バッハには到底かないません。彼は桁違いです」とバッハを崇拝していたシューマンは、バッハ作品がほとんど出版されていない現状に憤り“バッハ協会”設立のために奔走した。
同年、デュッセルドルフの音楽監督を引き受け、秋にドレスデンから移住。憂鬱なドレスデンの日々が終わり、ライン河畔で明るい新生活がスタートしたことに胸を弾ませ、『交響曲第3番“ライン”』を1カ月強で書きあげた。シューマンには『交響曲第4番』もあるが、そちらは出版が10年以上も遅れた作品であり、時系列ではこの『ライン』が最後の交響曲となった。病気については、宿の2階の部屋にいられないほど高所恐怖症が悪化していたが、2週間で『チェロ協奏曲』を作曲するなど創作能力は研ぎ澄まされていた。

1851年(41歳)、シューマンは神経の発作に悩まされながらも、4日間で『ヴァイオリンソナタ第1番』を、一週間で『ピアノ三重奏曲第3番』を完成。7人目の子が生まれ、クララは演奏家と母親、妻の両立に追われた。
1852年(42歳)、神経症が悪化し言語障害も出て創作活動が滞る。当初はシューマンに好意的だったデュッセルドルフの音楽関係者は、指揮棒を落としたり、楽団員との意思疎通が不得手なシューマンを批判し、オーケストラの理事会は音楽監督職の辞任を求めて総辞職した。

1853年(43歳)、9月に当時20歳のブラームスがヨアヒムの紹介状を持って訪れてきた。ブラームスが自作のピアノソナタを弾き出すと、シューマンは才能に驚いてすぐにクララを呼びに行き「もう一度最初から弾いてくれ」と頼んだ。翌月、その興奮を胸に10年ぶりに『新音楽時報』に寄稿、「新しい道」と題してブラームスを熱烈に賞賛、彼の名を広く楽壇に紹介した。ブラームスにとってシューマンは生涯の恩人となった。ヨアヒムに触発され遺作となる『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。
同年秋、シューマンの病気が進行し、演奏を開始できないという事件が起きる。それまでも楽団員に演奏指示を出せないシューマンの代わりに、クララが「ここは弱く演奏して欲しいと主人は思っています」など代弁していたが、“事件”をヨアヒムはこう証言している。「彼は指揮棒を振り上げたまま立っていて、オーケストラ・メンバーは楽器を構えたまま、いつ弾き始めたらよいかわからないのだった。コンサートマスターと私が手で合図して演奏を開始すると、シューマンは嬉しそうに笑いながらついてくるという有様だった」。この日を最後にシューマンが指揮台に上ることはなかった。麻痺の発作も出て、会話の内容が次第に意味不明になっていった。

1854年2月10日、シューマンは耳の激痛に襲われた。その4日後、レストランで読んでいた新聞を置き「とてもこれ以上読んでいられない。ラの音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と知人に苦しみを訴えた。クララは日記で「かわいそうなロベルト」と同情する。「彼にはどんな音も音楽に聞こえ、これが止まらなければ気が狂ってしまうと何度も訴えています」。
2月17日、シューマンは天使たちの歌を聴き、翌日は悪魔の幻覚に襲われた。その後は発作と小康状態を繰り返し、26日に「妻子を傷つける前に精神病院に入れてほしい」と訴えた。翌日(2月27日)、クララが医師と話し合っている間にシューマンはガウンとスリッパのままで家を抜け出した。寝室には「2人で結婚指輪をライン川へ投げ入れよう、そして二つの指輪をひとつにしよう」と書き置きがあった。シューマンは橋の上から結婚指輪を投げ込むと真冬のライン川に身を投げた。たまたま落ちるところを目撃した漁師に助けられ一命を取り留めた。クララは妊娠中で非常に疲労していたことから、医師は自殺未遂のことを伏せておいた。翌月、シューマンは自身の希望でボン近郊エンデニヒの精神病院に入院、3カ月後に末子フェリックスが生まれた。
医師はシューマンの神経を刺激しないよう家族に面会を許さなかったが、友人のブラームスやヨアヒムは許可された。ワインを飲んでいたシューマンが、突然「毒が入っている」と床に流しまうこともあった。
当初、シューマン自身は回復して退院するつもりだったが、症状は進行し、常に室内を歩き回り、食事を拒否してやせ衰えていった。翌夏は“バネが壊れた機械のように”ピアノを弾いていた。
1856年6月8日、ブラームスが見舞いに行くとシューマンは足が腫れ上がって寝たきりになり、地図の地名をアルファベット順に並べていた。翌月、クララが生活費を得るために敢行したイギリス演奏旅行から帰宅すると、「患者が存命のうちにお会いになりたければ至急おいで下さい」と病院から容体悪化の電報が届いた。クララは7月27日に着き、シューマンと2年ぶりに再会する。シューマンはクララに微笑みかけ、自由がきかない体で懸命に腕を回した。クララの回想「私はそれを決して忘れません。世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」。
2日後の1856年7月29日午後4時、シューマン他界。享年46。最後の言葉は「おまえ…ぼくは知っているよ」。
翌々日、ボンで葬儀があり、ブラームスら友人が棺を担ぎグリルパルツァーが弔辞を述べた。他界2年後にシューマンの友人でバイオリン奏者のヴァジェレフスキが最初の伝記を出版した。この年、クララは夫がライン川で自殺未遂をしたことを知った。

37歳で夫を失ったクララは女手ひとつで7人の子を育て上げた。女性が作曲することへの偏見が強かったことから作曲をやめてピアニストとして生き、ベルリンを拠点にして精力的に演奏活動をおこなった。そして夫のピアノ協奏曲を広め、また心の友ブラームスの音楽を世間に伝えるべく尽力した。
その後、1872年(53歳)から20年間フランクフルトの音楽院で教師を務める。1879年(60歳)から14年をかけて全29巻のシューマン作品全集が刊行された。1893年(74歳)、クララは夫を精神病のイメージで語られることを避けたい気持ちから、最晩年の病状が悪化していた頃の作品(1853年の『ピアノとチェロのためのロマンス』など)や手紙の多くを廃棄したため、シューマンの支持者にとって大きな損失となった。
クララは76歳まで生き、1896年5月20日に脳出血で没した。ボンのシューマンの墓に葬られ2人は40年ぶりに再会。ブラームスがクララの棺に土をかけた。

シューマン夫妻は旧西ドイツの首都、ボンのアルター・フリードホフ(旧墓地/Alter
Friedhof)に眠っている。ボン中央駅から西へ徒歩1キロ、墓地の門をくぐると墓地の案内図があり、シラーの妻など著名人の墓に印が入っている。敷地は3ヘクタール。右側の壁沿いに1787年7月に他界したベートーヴェンの母親の墓があり(ベートーヴェンは当時16歳)、さらに先に進むと墓地の中央部に白亜のシューマン夫妻の墓が見えてくる。上部にはシューマンの横顔のレリーフがあり、その下に白鳥、左側にヴァイオリンを持つ天使、右側に楽譜を読む天使、下からクララに似た音楽の女神がシューマンを見上げている。シューマン記念碑とも言うべきこの美しい墓は、シューマン没後24年目の1880年に除幕されたもの。その16年後にクララは亡くなった。近年改修の手が入り2016年3月に作業が終わった。
ドイツではひとりひとり独立した個人墓が主流だけど、シューマンとクララは同じ墓に眠っている。シューマンが先立った後、40年間再婚せずにいたからこそ、再び2人はひとつになれた。再婚していれば再婚相手と眠っていただろう。シューマンはクララと再会できて喜んでいるはず。いつまでも墓前にいたくなるような、そんな心温まる墓だった。

「今世紀後半の音楽は、芸術の歴史の中に、後の世がシューマン時代と呼ぶような、そういう時期として入ってゆくに違いない」(チャイコフスキー)
「シューマンは詩人であり、ショパンは芸術家である」(作家アンドレ・ジッド)
「シューマンは実は協奏曲作家だ」(池辺晋一郎)
「シューマンの歌曲は詩と音楽の香気あふれる合一である」(横溝亮一)
「シューマンの交響曲の美しさは、その細部とロマン主義的な精神の燃焼にある」(ドナルド・グラウト)
「シューマンは保守的すぎて、私の考えを受け入れることができない」(ワーグナー)

※シューマンは字が下手だった。クララが初めてシューマンに出した手紙には、追伸に「すぐお返事下さいね。ただ、字は綺麗に、ハッキリと分かるように書いて下さいね」と念押しがある。
※生涯で270曲以上の歌曲を作曲したシューマンは、それまで単なる歌の伴奏という扱いだったピアノの地位を向上させた。ピアノ・パートのこのうえない美しさから「歌の伴奏を持つピアノ曲」ともいわれる。
※シューマン夫妻の物語は『愛の調べ』『哀愁のトロイメライ』『クララ・シューマン  愛の協奏曲』と3度映画化されている。
※ブラームスとクララの物語はタカラヅカの舞台になっている。
※生誕地ツヴィッカウのシューマンの生家はシューマン博物館として公開。
※クララはユーロ通貨導入前の最後の100マルク紙幣の肖像だった。
※シューマン最後の直弟子アデリーナ・ダ・ララ(187-1961)が世界初のシューマンのピアノ独奏作品選集を録音した。
※シューマンの『ピアノ協奏曲』は『ウルトラセブン』の最終回で、『ピアノ五重奏曲』はNHK『映像の世紀』で使用された。
※末子フェリックスはシューマン他界時に2歳であり、ブラームスの子ではないかと噂が飛び交った。
※三男は父の年齢に近い42歳でモルヒネ中毒により衰弱死。
※シューマンの兄弟は全員短命でシューマンより早く没している。
※シューマンの神経症の原因は若い頃に感染した梅毒とする説が有力。
※シューマンが音楽談義をしていたライプツィヒのコーヒー・ハウス「カフェ・バウム」はドイツ最古のコーヒー店として現存。
※クララは父から演奏家は作曲家の意図を尊重した演奏をするべきと教えられており、リストのように自由に装飾する演奏スタイルには否定的だった。
※シューマンの交響曲は一般に雄大さに欠け、楽器の色彩感に乏しく、楽器の特性を引き出してないと評されるが、そこにシューマンらしい魅力がある不思議な作曲家。そして美しい。
※ボンのシューマンハウス(精神病院跡)は図書館として無料で公開されている。開館は月・水・木・金の11時〜13時半、15時〜18時。
※シューマンが歌曲で選んだ詩人は、ハイネが最多で44篇、続いてリュッケルトが42篇。ちなみにゲーテは18曲。
※ワーグナーはバイロイトで総合芸術を目指し、リストはワイマールを拠点に標題をベースにした交響詩で勝負をかけた。一方、シューマンやブラームスは交響曲を守ろうとした。
※シューマン夫妻は日常生活や芸術観で時おり対立したものの、互いに助け合い、補い合った理想的な夫婦だった。
※シューマン22歳、クララ13歳の時の作品が演奏されたプログラムには、他に当時の人気作曲家だったカール・ライシガー、ハイドン、ヨハン・ピクシス、ヨゼフ・ウォルフラム、イグナーツ・モシェレス、アンリ・ヘルツ、シャルル・ド・ベリオ、フリートリヒ・ヴィークらの名があるが、今も名が残っているのはハイドンとシューマンだけだ。

〔参考資料〕『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、『尚美学園大学芸術情報学部紀要第6号 クララ・シューマン』ほか。



★ベルリオーズ/Louis Hector Berlioz 1803.12.11-1869.3.8 (パリ、モンマルトル 65歳)2002&09&15
Cimetiere de Montmartre, Paris, France



失恋が音楽史を変えた! 作曲家きっての暴走機関車 求愛されたハリエット




黒光りする重厚な墓(2002) 7年後。若干、花の色が変わった(2009)


市民の寄付で墓が建った(2015) 前妻ハリエットと後妻マリーの名 モンマルトル墓地の陽気な管理人たち

フランス近代音楽の開祖。音楽で物語や自然を描写する「標題音楽」という新しいジャンルをつくり出した作曲家エクトル・ベルリオーズは、1803年12月11日、南仏ラ・コート・サンタンドレで医者の長男として生まれた。翌年、ナポレオンが皇帝になる。1815年、12歳のときに祖父が暮らす片田舎で18歳の女性エステルに初恋。彼女の存在は晩年に再び心の拠り所になる。
ベルリオーズは医者となるべく教育を受けていたが、14歳のときに父の机の引き出しから縦笛を見つけ、楽器演奏の楽しさに目覚める。その様子を見て、父はフルートとギターを習わせたが、医学の勉強がおろそかになっては困るためピアノは習わせなかった(そもそも家にピアノがなかった)。18歳でパリの医科大学に合格するが、最初の解剖学の実習で倒れ込みそうになる。「屍体室の恐ろしい光景。バラバラになった手足、しかめっ面をした頭部、切り裂かれた頭蓋骨、血の滴る汚物捨場、発散する耐え難い臭気、骨をかじっている鼠。私は恐ろしさに心乱れて教室の窓を飛び越えると、一目散に逃げ出した。私は激しく心打たれたまま24時間を過ごした。二度と解剖とか、切開とか、医学という言葉さえも聞きたくない」(回想録※伝記本によって「失神状態で運び出された」とあるが、回想録には「逃げ出した」とある)。
医者に不向きであると痛感すると共に、これまで押さえつけていた音楽への情熱が燃え上がる。国立音楽院の図書館が一般公開されていることを知った彼は、楽譜の研究で入り浸った。だが、規則を破って音楽院の女生徒用の門から入ったことで音楽院長ケルビーニの逆鱗に触れ、図書館への出入り禁止にされた。
1823年、20歳のときにグルックのギリシャ悲劇オペラ『タウリスのイフィゲニア(アウリスのイフィゲニエ)』を聴いて大感動し、「父母、叔父叔母、祖父母、友人たち、誰が何と言おうと、私は音楽家になると心に誓った」という。この決断に対する父からの手紙は「お前の決心は狂気の沙汰だ。そんな夢のような空想を追わないで医学の道に早く帰れ」。
1824年(21歳)、独学して初の本格的な作品『荘厳ミサ曲』を作曲。翌1825年、借金して『荘厳ミサ曲』の初演を教会で行った。
1826年(23歳)、ベルリオーズは親を説得してパリ音楽院に入ったが、借金して演奏会を開いたことを知った父は、音楽を断念させるため仕送りを絶つ。ベルリオーズは生活費を稼ぐため、笛やギターの生徒をとったり、劇場の合唱団員になるなど苦学した。「私には薪が必要だった。そうして暖かい着物が必要だった」。やがて根負けした父が仕送りを再開した。

1827年(24歳)、ベルリオーズは音楽家の道に反対する両親を納得させるため、新進音楽家の登竜門「ローマ大賞」を獲得することを決意。夏に初めて応募した結果2位に選ばれた。この年は1位が「該当なし」であったため事実上のトップであり、両親は息子の才能が本物であることを知った。
秋、パリで初めてシェイクスピア劇が上演されることになり、文学青年でもあったベルリオーズは人気の英国劇団の公演に足を運んだ。そして『ハムレット』『ロミオとジュリエット』を観劇し、前者でオフィーリア役を、後者でジュリエット役を演じた3歳年上の人気女優ハリエット・スミスソン(アイルランド人)に一目惚れする。彼は何通も彼女に恋文を送り面会を求めた。「私の死をお望みでないなら、同情の名において、どうか、いつ貴女にお会いできるのか教えて下さい!ひざまづき涙に暮れつつ、お慈悲とお許しを懇願いたします!!おお、なんと不幸な私!これほどの苦悩を得ようとは思いもよりませんでした。まるで裁判官の判決のように貴女のご返事を待っております H・ベルリオーズ」。むろん、無名
の彼が相手にされるわけもなく返事はない。
ベルリオーズの回想。「一行の返事ももらえなかった。何通も手紙を書いたが彼女を感動させるどころか、かえって恐れさせただけだった」。思案して劇場側に序曲を提供するなど劇場支配人に接近し、彼女のリハーサルを見学できる立場を手に入れた。ハリエットは稽古を見つめる彼を見て叫び声をあげ、舞台から指差しつつ「あの目つきが悪い男に注意して下さい」と役者仲間に訴えた。同年、ウィーンにてベートーヴェンが56歳で他界。

1828年(25歳)、有名になってハリエットの気を惹きたいベルリオーズは「ローマ大賞」に再度挑むが2度目の落選(2票差で2位という惜敗)。この年からパリ音楽院管弦楽団の定期演奏会が始まり、ベートーヴェンを追悼して9つの交響曲がすべて演奏された。客席にいたベルリオーズは交響曲第3番『英雄』や第5番『運命』に感動し、とりわけ交響曲第6番『田園』に心を奪われた。田園交響曲はベートーヴェンが音楽で雷鳴や小鳥のさえずりなど自然を描写した作品。ベルリオーズは音楽で情景を描けることを知り、この分野を発展させようと決意する。
ベルリオーズはハリエットの歓心を買うために自腹を切ってオーケストラを雇い、会場を借りて自作の演奏会を開催して彼女を招待するが、聴きに来てくれる訳もなく負債だけが残った。彼にはすべてが絶望的に感じられたが、この思い込みの激しい性格が後に傑作『幻想交響曲』を生む原動力となる。英国劇団は次の公演先に向かい、ベルリオーズは恋が完全に終わったと悟った。

1829年(26歳)、3度目の「ローマ大賞」応募も落選。応募資格は30歳まで。恋に破れ、両親とも和解できず、うっ屈した気持ちがベルリオーズを支配した。だが夏に小さな転機が訪れる。ある寄宿女学校にギターの教師として招かれたところ、ピアノを教えに来ていた18歳の若く魅力的な女性ピアニスト、マリー・モーク(1811-1875)と出会った。彼女はピアノの名手で幼い頃は神童と呼ばれていた。当初、マリーはベルリオーズのもっさりした風貌を面白がって「あなたに興味を持つ人がこの世にいるのか」などとからかっていた。ところがベルリオーズが無関心でいたことが彼女の心に火をつけ、彼のことを好きになってしまう。ベルリオーズもまた内なる失恋の悲しみが彼女に慰められるように感じ始めた。
この年、愛読書のゲーテ『ファウスト』から名場面を音楽にした『ファウストからの8つの情景』を作曲し、自身満々でゲーテに総譜を贈ったが、送り返されてしまう。ベルリオーズはショックを受けてこの曲を長く封印する。

1830年(27歳)、2月に代表曲となる『幻想交響曲』(作品14/原題「ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲」)の作曲を開始する。『幻想交響曲』はハリエットに対する片想いから着想を得ており、作曲を進めていくうちに彼女が恋文の受け取りを拒否したことなどを思い出し、憎しみに近い感情が沸き起こっていった。『幻想交響曲』は4カ月で完成したが、演奏してくれるオーケストラがなかなか見つからず、パリ音楽院での初演は12月5日までずれ込んだ。この間、声楽曲『サルダナパールの死』(楽譜は紛失)が高く評価され、4度目の挑戦でついにローマ賞を受賞した。

『幻想交響曲』はオペラでないにもかかわらずストーリーがある。作曲家いわく「恋に悩んだある音楽家青年が、苦悩の果てにアヘンで服毒自殺をはかったが、致死量に達しなかったため死にきれず、もうろうとして悪夢を見る」というもの。作中には彼が熱愛するハリエット・スミスソンを表す旋律が、様々な場面に登場する。いわば“ハリエットのテーマ”として繰り返されるこの旋律を、ベルリオーズは「イデー・フィクス(固定楽想)」と呼んだ。固定楽想が各楽章に姿を変えて現れるといった手法は、それまでの音楽になかった。各楽章に標題が付けられ、演奏会ではベルリオーズ自身が解説を書いたプログラムが配られた。

第1楽章の副題は「夢、情熱」。序奏は芸術家の青年が想い人を見初める前の状態で、暗い憂愁の中にいる。そこへ優雅に想い人が現れ、青年の動悸が速くなる。熱狂し、陶酔し、嫉妬し、慈しむ、感情の嵐が展開する。
第2楽章は「舞踏会」。ワルツが流れる賑やかな舞踏会の会場で、青年は想い人と再会し胸がときめく。
第3楽章は「田園の風景」。青年は恋の苦しみから逃れるように郊外の田舎におもむき、のどかな景色を眺めながら時間を過ごす。だが想い人が頭をよぎり、失恋の不安に包まれ、胸が締め付けられる。やがて日は暮れ遠雷だけが聞こえる。
第4楽章は「断頭台への行進」。青年は失恋し、悲嘆のあまり毒をあおぐが死にきれずに恐ろしい夢を見る。夢の中で彼は想い人を殺した罪で死刑を宣告され、断頭台まで街中を引き回され、通りの左右で野次馬たちがはやし立てる。死刑囚が断頭台に上ると一瞬音楽が止んで想い人が天使のように現れるが、ギロチンの一撃で想い人は消え青年は昇天する。
一般的に交響曲は4楽章形式であるが、ベルリオーズはベートーヴェンが田園交響曲で試みたように“第5楽章”を用意した。副題は「ワルプルギスの夜の夢(魔女の夜宴の夢)」。青年は天国へ行けず、目覚めた場所はサバト(魔女の饗宴)。妖魔の群れが青年を弔うために周囲に集まり、下品に歌い踊る。そして青年は愕然とする。魔物の踊りの輪の中にあの想い人がいて、一緒に青年を笑い者にしているのだ。想い人を表す上品で美しいメロディーは醜く変化し、その醜悪さに青年は気が狂いそうになる。妖魔の底抜け騒ぎは百鬼夜行となり、鐘が鳴り響くなか賛歌「怒りの日」が猥雑にふざけて歌われ、混沌と狂乱の中で終曲となる−−。

『幻想交響曲』は内容の衝撃性もさることながら、音楽史を変えた2つの大きな功績、「固定楽想」と「楽器法の革新」によって楽壇を感嘆させた。ベルリオーズが発明した「固定楽想」は当初フランスの楽壇で異端視され、隣国ドイツの作曲家が最初に共鳴した。8歳年下のフランツ・リスト(1811-1886)は標題を全面に出した「交響詩」を創始し、10歳年下のワーグナー(1813-1883)は固定楽想=ライトモティーフをオペラ(楽劇)に使った。『幻想交響曲』で用いられた固定楽想は、一人の女性のみを象徴するものだったが、ワーグナーはオペラの複数の登場人物に別々の固定楽想を与えてそれぞれのテーマ音楽とした。
「楽器法の革新」では、オーケストラに馴染みのなかった様々な楽器(鐘を含む)を導入したほか、ティンパニーを4台も使用したり、バイオリンの弓をひっくり返して「裏側の木の部分」で弦を叩くという常識外の指示を出した。ティンパニーを叩くマレット(ばち)についても、木、皮張り、スポンジと、細かく固さの指定を行い、変化に富んだ音色によって、従来は美しい音を紡いできたオーケストラが、狂気やグロテスクさまで表現できるようになった。ベルリオーズが「近代管弦楽法の父」「楽器法の革命児」といわれる由縁である。音色の豊かさは、この時代に金管楽器のバルブが開発され、半音階が簡単に出せるようになったことも大きい。
ベルリオーズはアヘンを吸ったときの体験を終楽章に込めているといい、後世の指揮者レナード・バーンスタインは「(幻想交響曲は)史上初のサイケデリックな交響曲だ」と評した。
『幻想交響曲』の初演は大成功し、アンコールに応えて第4楽章がもう一度演奏された。ベルリオーズは一躍時の人となり、成功を手に入れたことでマリー・モークと婚約に至る。

1831年(28歳)、ローマ賞に輝いた者はイタリアへの2年間の留学が義務づけられており、婚約者マリーのいるパリから離れたくなかったベルリオーズの気持ちを沈ませる。彼は留学後の結婚を約束してイタリアに向かった。イタリアではローマ滞在中のメンデルスゾーンらと交流したが、到着から3週間が経ってもマリーから手紙が一通も届かないことが彼を不安にさせた。彼は音楽院の館長にパリに戻る意向を伝えたが、留学中にイタリアから出ると寄宿生の資格を失うため館長は思いとどまるよう説得する。だが、その制止を振り切ってローマを出発した。するとフィレンツェまで北上したところで、マリーの母親から衝撃的な手紙が届く。それは“婚約破棄”を通告すると共に、マリーは有名なピアノ製作者プレイエルの御曹司と「既に結婚した」という内容だった(プレイエル社のピアノはショパンが愛したピアノとして知られる)。
一方的に婚約破棄を告げられたベルリオーズは烈火のごとく激怒し、「すぐさまパリに戻って、罪ある2人の女(マリー母娘)と罪なき1人の男(プレイエル)を問答無用で殺した後に自殺する」と決心する。これは本気だった。パリでは顔が知られているため、警戒されず相手に接近するため小間使いに変装することにした。まず婦人洋服店を訪れ、不審がられながらも自分のサイズの小間使い用の着物と帽子、そして化粧道具と青いヴェールを入手。そして2連発のピストル2挺に弾丸を装填し、火薬が不発だった場合に備えて自害用の毒薬を揃えた。夜の駅馬車に飛び乗り、パリを目指す。ところが、翌日に駅馬車を乗り換える際に女装セットを置き忘れてしまう。彼は「殺害計画の実行を善き天使が妨げようとしているのか」と思ったが、「いいや、殺す」と北イタリア・ジェノヴァで店を何軒も回って再び女装セットを買い揃えた。経由地のニースに向かいながらベルリオーズは“段取り”を練った。
「まず夜の9時頃、皆がお茶を飲んでいる時刻に乗り込む。小間使い姿の私が“某伯爵夫人の急ぎの手紙を持ってきた”と告げ、部屋に通してもらう。相手が偽手紙を読んでいる間に懐から2連発のピストル2挺を取り出し、1人目と2人目の頭にズドン。次いで3人目の髪の毛を引っ掴んで私が誰だか知らせる。相手の叫び声を聞き流して3発目をお見舞いする。人声と銃声で人々が駆け付けないうちに、自分のこめかみに4発目をズドン。不発だったら小瓶(毒)の助けを借りる。おお、なんと美しい情景だ!」(回想録)。

夜間、国境付近の海岸線を走っているときに馬車はブレーキの調整でいったん止まった。波の砕ける音を聞いているうちにベルリオーズは我に返る。「自殺してこの世の芸術に別れを告げる、これは馬鹿げていないか。最初の交響曲だって仕上げていない(注:彼は『幻想交響曲』の改訂中だった)。もっと壮大な曲のアイデアがあるのに、それを頭の中にしまい込んだまま死ぬのか?」。彼は、自分のような天才が自殺することは人類の損失と考え直し、計画中止を検討する。そして、ニース(当時はイタリア領)からローマの音楽院長に手紙を出し、まだ除籍されていなければローマに戻り、除籍後であればパリに向かって決行することにした。結果、まだ除籍されていないことが判明し、ローマに戻って『幻想交響曲』の続編となる独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』を作曲した。この続編には『幻想交響曲』の想い人のメロディーがそのまま登場する。語り手のレリオはベルリオーズの分身。レリオは冒頭で「死は私を受け入れず、そっと押し返した。ならば、生きよう」と宣言する。
※殺されずに済んだマリー・モーク(プレイエル婦人)はその後どうなったか。彼女は当時珍しいプロの女性ピアニストとなり、作曲も少し手がけた。夫はピアノ製作者ということもあり、大ピアニストのリストやショパンと友人だった。ショパンはマリーのために名曲『ノクターン 作品9』を献呈している。リストは友人の妻、つまりマリーに手を
出し不倫関係になった。逢い引きの場所としてこっそりショパンの部屋を使っていたことから(リストは鍵を預かっていた)、怒ったショパンはリストと疎遠になる。ベルリオーズはマリーと別れてから約20年後に、指揮者としてピアニストのカミーユ・プレイエル夫人(マリー)とロンドンで共演している。

1832年(29歳)12月9日、2年間のローマ留学を終えてパリに戻ったベルリオーズは、帰国後最初の演奏会で『幻想交響曲』を再演し、自らティンパニー奏者のひとりとしてステージに立った。このとき、ハリエット・スミスソンの英国劇団が再びパリで公演を行っていたが、既にシェークスピア・ブームは落ち着いており、5年前のような人気はなく、32歳のハリエットは劇団マネージャーとして負債を抱え失意の中にいた。ベルリオーズの友人は『幻想交響曲』を彼女に聴かせることを思い立ち、「気晴らしに音楽会に行きましょう」と誘い出した。ハリエットはベルリオーズのことをすっかり忘れていたが、会場に入ると観客が自分をやけに注視することに気づいた。プログラムの標題や人々が彼女を見てヒソヒソ話す様子もあって、音楽の中のヒロインが自分ではないかと疑い始め、同日初演された『レリオ』の第4曲『幸福の歌』にあった「あのジュリエット、オフィーリアになぜ会えないのか」を聴いて、すべてを理解した。ハリエットは極めて深い感動を覚え、この演奏会をきっかけに交際が始まった。
※再演を客席から聴いていた詩人ハイネの回想。「隣りの若者が言った。“最前列をごらんなさい。あの太った女がミス・スミスソンです。ベルリオーズは3年越しに恋い焦がれていましてね。今日の『幻想交響曲』だって、恋い焦がれての情熱が生み出したものなんですよ”。ベルリオーズは壇上からひたと目をすえて彼女を見つめている。視線が交わる度に猛烈な勢いでティンパニーを打ち鳴らした」。

しばらく後、ハリエットは馬車から落ちて足に重傷を負ったことから、彼は負債に苦しむ劇団を助けるための支援コンサートを企画、リストやショパンも演奏してくれた。そして再会から約一年後の1833年10月、ついにベルリオーズの夢が叶い、2人は結婚した。ときにベルリオーズ29歳、ハリエット32歳。イギリス大使館で開いた挙式にリストが立ち会い、翌年には長男ルイも生まれた。ところがベルリオーズは結婚して間もなく、自分が夢中になっていたのは舞台上のジュリエットやオフィーリアであったことに気づく。加えてハリエットの嫉妬深さを重荷に感じるようになり、2年ほどで夫婦仲は冷え込んでいった。
1834年(31歳)、ビオラ独奏つきの交響曲『イタリアのハロルド』完成。バイロンの詩に登場するチャイルド・ハロルドのように、ベルリオーズがハロルドとなってイタリアを旅する。各楽章の標題は、第1楽章「山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面」、第2楽章「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」、第3楽章「アブルッチの山人が、その愛人によせるセレナード」、第4楽章「山賊の饗宴、前後の追想」。巡礼の一行が通り過ぎるのをハロルドが眺める第2楽章が素晴らしい。終楽章でハロルドは山賊の手にかかって命を落とす。ベルリオーズはこの曲を「ストラディバリウスのビオラを入手したパガニーニの依頼で作曲した」と記している。

1835年(32歳)、音楽評論を日刊紙『ジュルナル・デ・デバ』に書き、ベルリオーズは文才を高く評価され、以降晩年(63年)まで30年近く執筆も貴重な収入源となる。彼は“音楽評論家”の先駆けとなった。
1837年(34歳)、レクイエム『死者のための大ミサ曲』を作曲。1830年の7月革命の犠牲者を追悼するため仏政府から依頼を受け作曲。ベルリオーズは演奏者にホルン12人、ティンパニー10人など空前の規模を求めており、メインのオーケストラの他に離れた場所でラッパを吹く4組の“別動隊”を指定している。
1838年(35歳)、オペラ第1作となる『ベンベヌート・チェリーニ』が2年がかりで完成。チェリーニはルネサンス期の偉大な彫刻家。音楽的には充実した作品になったが、ベルリオーズは音楽誌に厳しい音楽評論を書き続けてきたことから、周囲が敵ばかりになって初演を叩かれ失意のどん底を味わう。
1839年(36歳)、合唱付きの劇的交響曲『ロメオとジュリエット』作曲。第3部の愛の場面の音楽を、ワーグナーは「今世紀における最も美しいフレーズ」と激賞。同時に「全く素晴らしい旋律の間に屑(くず)の山が積みあげられている」と厳しい言葉も。同年、パリ音楽院の司書となる。ベルリオーズはかつて出入り禁止にされた図書館の司書となったことを感慨深く思った。
1840年(37歳)、政府から再び7月革命の犠牲者を追悼する音楽の依頼があり、最後の交響曲となる『葬送と勝利の大交響曲』を作曲。当初は大編成の軍楽隊(吹奏楽)の野外演奏を念頭に書かれ、後に弦楽器や合唱のパートが追加された。この年、結婚7年目にして別居する。
※『葬送と勝利の大交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=BEcSQ8BTlPQ
1841年(38歳)、スペイン人の歌手マリー・レシオと同棲を開始。彼女は恋の達人でありベルリオーズは翻弄された。
1842年(39歳)から約20年間、経済的な理由から指揮者としてヨーロッパ大陸の各地へ演奏旅行を行う。この旅にマリー・レシオを同行した。
1843年(40歳)、不評だったオペラ『ベンベヌート・チェリーニ』の第2幕への前奏曲が気に入っていたベルリオーズは、これを抜粋して序曲『ローマの謝肉祭』とした。目論み通り人気を博す。
1844年(41歳)、著書『近代の楽器法および管弦楽法』を刊行。管弦楽法について書かれた最初の理論書で、手引き書であると同時に音楽美学の解説書でもあり、のちの作曲家に多大な影響をあたえた。
1845年(42歳)、『幻想交響曲』の楽譜が出版される。初演から15年が経っていた。
1846年(43歳)、『ファウスト』へのが想いが再燃し、17年ぶりに『ファウストからの8つの情景』の楽譜を引っ張り出し、これを元にオラトリオ『ファウストの劫罰』を作曲。初演の評判はイマイチだったが劇中の「ラコッツィ行進曲」は人気を集めていく。

1850年(47歳)、偽作曲家の嘘つき作戦が成功する。ある夜、ベルリオーズは友人の家でふざけて作った中世風のメロディーに自作の歌詞をくっつけた。そこで悪戯を思いつく。この合唱曲に『羊飼いたちの別れ』という題名をつけ、コンサートでは自分の名を伏せて173年前の作品に仕立てたのだ。そしてベルリオーズの音楽を毛嫌いする批評家連中をひと泡吹かせるべく、演奏プログラムに「パリの宮廷礼拝堂の楽長ピエール・デュクレが1679年に作曲した古風なオラトリオの断章」と発表した。もちろんピエール・デュクレなど存在せず、友人の名前をもじったものだ。批評家達は考古学的珍しさもあって作品に注目、「これこそ本当の音楽、本物のメロディー!」「現代の作曲家には書けまい」「ベルリオーズとは大違いだ」と手放しで絶賛し、ベルリオーズは“発見状況”を、「修復中の礼拝堂の古いタンスの中から見つけた」とそれらしく説明した。後日、ベルリオーズは自作であることを明かしたが、今さら批評家達は意見を変えるわけにもいかず、傑作として認定された。
https://www.youtube.com/watch?v=G-Aa-5dwrY4#t=46m27s これかな?
1852年(49歳)に図書館長に就任。著書『オーケストラ夜話』刊行。
1854年(51歳)、偽作曲家騒動の『羊飼いたちの別れ』に楽曲を追加・発展させ、マタイ伝のヘロデ王による幼児虐殺と聖家族のエジプトへの逃避を描いたオラトリオ『キリストの幼時』を初演。同年、ハリエット・スミスソンが他界。かつて脚光を浴びた元女優は世間から忘れ去られ、アルコール中毒になり、身体が麻痺した状態で世を去った。享年54歳。自責の念にかられたベルリオーズをリストが慰めた。「彼女は君に霊感を与えた。君はその彼女を愛し、歌いあげた。双方の役目は十分に果たされたのだ」。後日、ベルリオーズはマリー・レシオと再婚。
※『キリストの幼時』 https://www.youtube.com/watch?v=G-Aa-5dwrY4
1855年(52歳)、パリ万国博覧会の開幕記念行事の一つとして、自身の指揮により大規模宗教音楽『テ・デウム』が初演される。パイプオルガンと児童合唱が加わったこの壮大な作品は代表曲のひとつになった。
※『テ・デウム』 https://www.youtube.com/watch?v=1OQxmhJDQHA
この年、ベルリオーズはロンドンで当時42歳のワーグナーと交流し友人になっている。ワーグナーはリスト宛の手紙に記す。「芸術上の諸問題、哲学から生活についてまで、非常に魅力ある会話を5時間にわたって交わすことが出来た。我々は突然、自分たちが同じ様な受難者仲間であることが分かった。しかも思うに、おおむね私の方がベルリオーズよりまだ幸運なようなのだった」。これに対するリストの返事。「君のベルリオーズとの友情関係を知って喜んでいる。現代の作曲家の中では、彼は最も自分を飾らずに、最も開けっぴろげに、そして最高に興味の持てる会話の出来る人物だと思う。彼なら全面的に受け入れたまえ」。

1856年(53歳)、フランス国立アカデミーの名誉ある学士院会員に選ばれる。
1858年(55歳)、トロイ戦争と後日談を壮大なスケールで描いたグランド・オペラ『トロイアの人々』を作曲。全5幕、所要6時間という規模の大きさから生前は全曲が上演されることはなかった。本作は後にベルリオーズの最高傑作と讃えられる。
1862年(59歳)、「シェイクスピア風のオペラ」と銘打った最後のオペラ『ベアトリスとベネディクト』が完成、ドイツで初演。原作はシェイクスピアの陽気な戯曲『空騒ぎ』。最後のオペラがコメディというのは、後のヴェルディも同じ。同年、後妻マリー・レシオに先立たれる。
1864年(61歳)、最後の恋愛。片想いの相手は12歳のときに好きになった初恋の人、6歳年上のエステルだった。彼は67歳のエステルに手紙を書く。「どうかお考え下さい、子どもの時分から私が49年間あなたを愛し続けていることを。この感情がもしたった一日でも途切れていたら、今になって再びかきたてられることなどなかったでしょう。どうか私の3つの願いをお聞き届け下さい。時々あなたに手紙を書いてもいいという許可、年に一度はお会いできるようご招待下さるという約束、そしてご好意を得るために私が何か試みることの許可を」。エステルの返事は「新しい友情関係を結ぶつもりはなく、生活を乱すようなことはすべて避けたい」。それでも、翌年に彼は恋文を書き続ける。「あなたと共にあれば、私の空はもう曇ることはありません。あなたは私の輝ける星なのです、わがステラ(星)!ああ、また私は禁じられた文体に陥ってしまいました。お許し下さい、どうしようもなく無分別なのです…ですが、あなたの友情あふれる援助があればきっと直してごらんにいれます」。
1866年(63歳)、船乗りをしていた一人息子ルイが33歳の若さでキューバに死す。既に2人の妻も既に先立ち、ベルリオーズは孤独に包まれる。彼は2人の妻が眠るモンマルトル墓地を好んで散歩した。同年、エステルからこれまでやり取りした手紙をすべて廃棄するよう要求される。彼は手紙を焼き、「すべて燃やしてしまい、残っているのは封筒だけです」と報告した。本当は最後の手紙だけはとっておいた。
1869年3月8日、パリで死去。享年65歳。回想録の最後の言葉は「ステラ、ステラ!今や私は苦しみなしに死ぬことが出来る…」。
他界翌年、内容が同時代人に言及していることから、“生きている間は発表しない”と決めていた『回想録』が出版される。

1882年、『ベルリオーズ書簡集』が出版され、作曲家グノーが次の序文を書いた。「群衆は先を目指す者を鞭打って十字架にかける。最初は、である。しかし、時を経過して必ず後悔し、やがて自らの決定をくつがえすものだが、それもきまって同時代のことではなくて、はるか後々の子孫の後悔によるのであって、天才の墓の上に、自分の額(ひたい)には到底被せてもらえぬ“不滅”の王冠を雨と降らすのだ」「現代における成功とは、おおむね単なる流行の問題でしかない場合がきわめて多い。それは、作品が時代の水準に達していることを証明しはするが、時代を超えてなお生き延びる保証には全然ならない。だからそれ(成功)を手にしたからといって誇るべきことは何もないのだ」「彼の『幻想交響曲』は、まさに音楽における一大事件であった。その重要さは、ある者の熱狂的な賞賛と同様、他の者の激烈な反対によっても鮮やかに証明されたのである。ベルリオーズが考案した固定楽想は、以降の多くの作曲家が取り入れている。また、器楽用法の領域でも革命を起こした。しかし、複数の輝かしい功績にもかかわらず、彼は生涯を通じて、フランスにおいても外国においても、強い憎しみの対象だった。聴衆は彼を見捨て、思わしいだけの人気を得ることが出来ぬうちに死んだ」「ベルリオーズの作品にあっては、すべての印象や情感は、極端なまでに拡張展開させられている。彼は、喜びや悲しみを狂気の態でしか知らなかった者のようだ。自分自身で言っていたように、彼はまさに“火山”であった。彼のとどまるところを知らぬ感受性は、我々を悲しみの果てへと同様、喜びの極みにも深く連れ込んでいく」
1890年、他界21年後に『トロイアの人々』が、初めて全曲上演される。ただし、会場はドイツであり歌詞もドイツ語版だった。同年、『ベアトリスとベネディクト』のパリ初演。
1969年、没後100年を記念して、ついに本家フランスでフランス語版の『トロイアの人々』が全曲上演される。指揮はコリン・デイヴィス。
1989年、フランス革命200周年を祝ってオペラ・バスティーユ(新オペラ座)が建設され、?落としにベルリオーズの『テ・デウム(神への讃歌)』が選ばれた。
1990年、オペラ・バスティーユで最初に上演されるオペラに大作『トロイアの人々』が選ばれた。生前は前衛すぎるとして国民にそっぽを向かれていたベルリオーズの音楽だが、今やフランス人の大規模なセレモニーで欠かせない作曲家となった。…というか、その後のフランスを代表する作曲家、ドビュッシー、フォーレ、サティ、ラヴェルらの音楽には、国家的な式典に相応しいスケールの曲がないという現実もある。文字通り、ベルリオーズはフランス音楽史の巨星となっている。


〔墓巡礼〕
標題音楽を確立し、色彩豊かな管弦楽曲を生んだベルリオーズ。彼が登場する前にも音楽による標題的表現を試みた作品はあり、ベートーヴェンが1808年に交響曲第6番『田園』を完成させている。だがベートーヴェンが描いたものは風景や気分であり、物語を描いたのはベルリオーズが最初だった。
18世紀後半まで、パリのド真ン中に1300年もの歴史を持つサン・イノサン教会の巨大共同墓地があった。土葬であったため屍体の腐敗臭が酷く、井戸水が汚染され疫病の発生源になり、衛生状態が限界に達したことから、フランス革命の4年前、1785年に当局はサン・イノサン墓地の閉鎖を決定した。パリ中心部での埋葬が禁じられたことを受けて、19世紀初頭に北のモンマルトル墓地、東のペール・ラシェーズ墓地、西のパッシー墓地、南部のモンパルナス墓地が建設された。
ベルリオーズの墓はパリ北部(18区)のモンマルトル墓地にある。メトロ2号線のブランシュ駅から地上にあがり、クリシー通りを300m北西に進むと墓地の入口に着く。道の途中には有名なキャバレー「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」がある。たくさんの画家が暮らすこの地区は、かつてモンマルトル採石場があった。1798年、採石場の跡地に現在のモンマルトル墓地の原型となった墓地が開かれ、1825年に本格的に利用が開始された。
芸術家の街ゆえモンマルトルには作家や画家が多く眠る。文豪スタンダール、アレクサンドル・デュマ、ゾラ(旧墓)、詩人ハイネ、画家のドガ、ギュスターヴ・モロー、映画監督のフランソワ・トリュフォー、ダンサーのニジンスキー、音楽関係ではベルリオーズ、オッフェンバックの他にクラリネットを改良してサクスフォンを発明したアドルフ・サックスがいる。

ベルリオーズの墓は墓地の20区にある。管理人事務所でマップをもらい歩き始めると、メインストリートに面しているため彼の墓はすぐに見つかった。立派な黒大理石の墓は、没後100年を機にフランス国民の寄付で1970年に建てられた。墓石の右側面に先妻ハリエットと後妻マリーの名があり、左側には国民の寄付で建立されたことが刻まれていた。

※早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。
※文人テオフィル・ゴーティエいわく「ベルリオーズはユーゴー(作家)やドラクロワ(画家)とともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」
※ベルリオーズはオーケストラを育成し、技量を高めた点で指揮者としても第一級の巨匠となった。一方、ピアノは苦手だった。演奏しない音楽家であり、音楽史に名を刻む作曲家でピアノが不得手なのは彼くらいではないだろうか。
※ホラーSF小説『ユーフォニア』を執筆している。
※ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていた。
※日本初演は1929年5月9日、近衛秀麿と新交響楽団(現NHK交響楽団)が行った。
※ベートーヴェンは『荘厳ミサ曲』の草稿を10歳年上の作曲家ケルビーニに捧げ、「この曲で何か気づいた点があったら言って頂きたい」と指導を求めている。一方、ベルリオーズはケルビーニを「かの高名な老いぼれ」とこき下ろした。
※ベルリオーズ「神が神であるごとく、バッハはバッハなのだ」
※グランド・オペラ…19世紀フランスで成立したオペラの様式のひとつ。4幕か5幕からなり、大規模編成の管弦楽を伴う群衆による合唱を重視。題材は神話や歴史的人物などの叙事詩からとられ、舞台装置を活用して天変地異を表現し、派手な照明効果を使う。途中で華麗なバレエが挿入され、語りの部分は音楽にのせて行われる様式(レチタティーボ)。語りの部分に音楽がなく、セリフだけのものがコミック・オペラ。グランド・オペラの代表的作曲家は「ユグノー教徒」(1836)のジャコモ・マイヤーベーア。グランド・オペラは派手さを好む新興ブルジョワの圧倒的支持を得、オーベールの「ポルティチの唖娘(おしむすめ)」(1828)、ロッシーニの「ウィリアム・テル」(1829)、ベルリオーズの「ベンベヌート・チェリーニ」(1838)などがある。

〔参考資料〕『ベルリオーズ回想録』(ベルリオーズ/清水修訳/音楽之友社)、『音楽のグロテスク』(ベルリオーズ/森佳子訳/青弓社)、『大作曲家は語る』(小林利之編/東京創元社)、『クラシックの偉人伝』(クラシックジャーナル/自由国民社)、『中欧・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社)、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『裏側から見るクラシック作曲家』(上原章江/yamaha)、『世界人物事典』(旺文社)、『名曲事典』(音楽之友社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)ほか。



★ショスタコーヴィチ/Dmitrii Shostakovich 1906.9.25-1975.8.9 (ロシア、モスクワ 68歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 

墓に刻まれた楽譜はショスタコーヴィチが自分を表すモティーフとして使用していた音符。
楽譜はドイツ音名「D・Es・C・H」で日本語の発音では「デー・エス・ツェー・ハー」(イタリア音名だとレ・ミ♭・ド・シ)。
つまり、名前のドミトリー・ショスタコーヴィチ "D"mitri  "S""C""H""ostakovitchにかけているわけ!
ヴァイオリン協奏曲や、弦楽四重奏曲など多くの作品に使用されている。※情報を下さったS.Jさん、有難うございます!

交響曲の歴史は1732年(ハイドン誕生)に始まり1975年(ショスタコービチ死去)に終わった、そう考えるクラシック・ファンが多い




★シェーンベルグ/Arnold Schoenberg 1874.9.13-1951.7.13 (オーストリア、ウィーン 76歳)1994&2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria 本名:Arnold Schonberg

 

現代音楽の作曲家シェーンベルグの墓は、デザインの方も超モダン。

中期以降のシェーンベルグは難解すぎて全くついていけないけど、初期の『浄夜』は素晴らしい。やっぱり音楽はメロディーが肝心!




★サン=サーンス/Charles Camille Saint-Saens 1835.10.9-1921.12.16 (パリ、モンパルナス 86歳)1989&2002

Cimetiere de Montparnasse, Paris, France

1989 2002

オペラ作曲家だけが重んじられ、器楽曲の作曲家が軽視されていた19世紀フランス楽壇にあって、数多くの優れた器楽曲を書いた作曲家。
1835年10月9日にパリで生まれた。父はサン=サーンスが赤ん坊のときに30代で若死にしており、母クレマンスの手ひとつで育てられた。ピアノの名手だった大叔母から2歳でピアノを習い始め、3歳で絶対音感を会得して4歳でピアノ小品を作曲。1846年、10歳(誕生日前)のときにパリの有名音楽堂で演奏会を開き、ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第3番』とモーツァルトを弾きこなし、ピアニストとして本格的にデビューする。この時、アンコールに際してサン=サーンス少年は「ベートーヴェンの32曲のピアノソナタを全部覚えているので、どれでもリクエストして下さい」と告げ、この“神童”ぶりに新聞は「モーツァルトの再来」と称えた。
1848年、13歳でパリ音楽院に入学し作曲とオルガンを学ぶ。
1852年(17歳)、若手音楽家の登竜門「ローマ賞」に挑戦するが落選。
1853年、18歳で『交響曲第1番』を作曲。初演は作曲者名を隠して行われた。会場にいたベルリオーズ(当時50歳/1803-1869)やグノー(当時35歳/1818-1893)から高く評価されるなど成功を収めたことで、作曲家となる決心をする。フランスではベルリオーズが1830年に『幻想交響曲』を発表してから23年が経っていたが、いまだ器楽曲は未成熟であり、同時代のフランス音楽に理解があった聖セシリア教会の演奏会で披露された。同年、音楽院を卒業しパリのサン=メリ教会のオルガニストとなる。
1857年(22歳)、オルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せたサン=サーンスはパリの教会オルガニストの中で最高の地位となるマドレーヌ教会のオルガニストに抜擢され、20年近く務めた。
1858年(23歳)、『ピアノ協奏曲第1番』を作曲。ホルンのファンファーレで始まり、フィナーレを絢爛豪華に締めくくる意欲的なこの作品はサン=サーンスの独奏で初演された。この作品によって「本格的なピアノ協奏曲を書いた最初のフランス人」と見なされるようになった。
※『ピアノ協奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=GFPBIZenrqk
1859年(24歳)、『ヴァイオリン協奏曲第1番』を作曲。若々しく伸びやかな作風。
1861年(26歳)、パリの宗教音楽学校の校長ニデルメイエールが他界し、サン=サーンスが教師として呼ばれる。彼は生徒のフォーレたちに宗教音楽学校の正規授業には含まれていない、ショパン、リスト、シューマン、ワーグナーなどの音楽も紹介し、最新の音楽に触れる機会を与えた。約4年間教職に就く。
1863年(28歳)、名ヴァイオリニストのサラサーテのために『序奏とロンド・カプリチオーソ』を作曲。ヴァイオリンと管弦楽のための協奏的作品。スペイン風のメランコリックな響きもあって初演当時から人気曲となる。
1864年(29歳)、応募資格が30歳までの「ローマ賞」に12年ぶりにラストチャレンジしたが、審査員好みの曲を書かなかったため落選した。
1868年(33歳)、『ピアノ協奏曲第2番』を作曲。サン=サーンスの代表作の一つとなる。アンチ派には「(曲調が)バッハに始まり、オッフェンバックに終わる」と揶揄されたが、当時最高のピアニスト、フランツ・リスト(1811-1886)が高く評価し人気曲となった。
1870年(34歳)、プロイセンとの間に普仏戦争が勃発。サン=サーンスも従軍する。翌年、敗戦。
1871年(36歳)、ドイツ音楽の模倣でないフランス音楽の普及を目指したサン=サーンスは、若手作曲家たちに器楽作品の発表の場を与えて作曲活動を鼓舞する目的で、フランク、フォーレたちと『国民音楽協会』を組織した。そして自ら率先して多数の優れた器楽作品を書きあげた。同年、リストに刺激をうけ初めて交響詩『オンファールの糸車』を作曲。小アジアの女王オンファールが回す糸車を音で表現するなど、ヘラクレスを虜にした彼女の魅力を描いた。
※『オンファールの糸車』 https://www.youtube.com/watch?v=96aapx3DFdM
1872年(37歳)、『チェロソナタ第1番』が初演され成功したが、聴いていた母にフィナーレが気に入らないと言われ、後日書き直す。サン=サーンスは母の感想を重視した。同年『チェロ協奏曲第1番』を作曲。
1873年(38歳)、2作目の交響詩『ファエトン』を作曲。ファエトンはギリシャ神話の太陽の神ヘリオスの子。ある日、ファエトンは太陽の馬車を操って天空を駆け巡った。そのために地上が炎上しそうになり、激怒したゼウスの雷に打たれてファエトンは絶命する。サン=サーンスはこの物語を10分間の音詩にし、太陽の馬車の疾走を表現した。
※『ファエトン』 https://www.youtube.com/watch?v=PDS1yWhmONA
1874年(39歳)、交響詩『死の舞踏(Danse macabre)』を作曲。サン=サーンスが描いた内容は「冬の真夜中に死神が舞踏曲を奏で、墓石の上で骸骨が踊り狂う。骨はガチャガチャとぶつかり、やがて鶏が鳴き、骸骨は我先にと墓へ戻る」というもの。24時の鐘はハープで、鶏の鳴き声はオーボエで描かれている。現在は人気曲だが、初演時は「シロフォン(木琴)による骨のかち合う表現などは作曲者の悪趣味の極み」と非難された。
※『死の舞踏』 https://www.youtube.com/watch?v=71fZhMXlGT4
1875年(40歳)、『ピアノ協奏曲第4番』を作曲。サン=サーンス自身のピアノで初演。主題を循環させて全曲の音楽的統一を高めた。協奏曲では珍しく2楽章で構成されているが、各楽章が複数の部で成り立っている。終盤部のピアノのうねるようなグルーヴ感が素晴らしい。コンサートで演奏される機会も多い。
※『ピアノ協奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=xUvLt9QonGk (26分)
※上のサビ https://www.youtube.com/watch?v=xUvLt9QonGk#t=20m47s
この年、サン=サーンスは教え子の妹で19歳のマリ・ロール・エミリ(21歳差)と結婚する。年末に長男アンドレが生まれる。

1876年(41歳)、弟子のフォーレが傑作『ヴァイオリンソナタ第1番』を作曲し、初演を聴いたサン=サーンスは「子供が成長して自分の手元を離れてゆく時に覚える母親の悲しみを今晩味わった」とフォーレに語った。室内楽ソナタの不毛の地であったフランス楽壇は、サン=サーンスやフォーレがこの分野を開拓したことで、多くの作曲家が後に続くようになる。
1877年(42歳)、オペラ『サムソンとデリラ(ダリラ)』(全3幕)初演。サン=サーンスが生涯に作曲した13曲のオペラのうち、最大のヒット作。旧約聖書「士師記」第13章から第16章のサムソンの物語に基づく。初演はリストの強い要望で現ドイツ・ワイマールの宮廷歌劇場で行われ、現地で大成功を収めた。フランス初演は13年後の1890年。物語の舞台はパレスチナ。神から与えられた怪力で怖いものなしのサムソン。対立するペリシテ人は美しいデリラを利用してサムソンを誘惑させる。デリラは言葉巧みにサムソンの弱点が「髪を切ること」と聞き出す。髪を切られ目を潰されたサムソンは、デリラの誘惑に負けたことを深く後悔した。サムソンが神に祈ると再び力が戻り、鎖で繋がれていた柱を引き倒す。神殿は崩壊し、サムソンもデリラもすべてを押し潰すのであった。宗教的でありながら、誘惑を描くなど官能的でもある物語。
同年、最後の交響詩『ヘラクレスの青年時代』を作曲。『サムソンとデリラ』とテーマが似ており、ヘラクレスはニンフの誘惑をふりきって英雄としての自覚を取り戻す。自作の交響詩についてサン=サーンスいわく「『死の舞踏』は“死の恐怖と風刺”、『オンファールの糸車』は“誘惑”、『ファエトン』は“誇り”、『ヘラクレスの青年時代』は“英雄主義と性的な快楽との煩悩”が表現されている」。この年、すべての役職を放棄して作曲に専念する。次男ジャン・フランソワ誕生。
1878年(43歳)、3歳の長男アンドレがアパートの窓から転落死、続けて生後7カ月の次男ジャンが肺炎で旅立つ悲劇が襲う。
1880年(45歳)、アルジェリア旅行の印象をもとに管弦楽のための組曲『アルジェリア組曲』を作曲。「アルジェを目指して」「ムーア風狂詩曲」「夕べの幻想 ブリダにて」「フランス軍隊行進曲」の4曲
で構成。冒頭の船旅を思わせる地中海から見たアルジェの景色が素晴らしい。
同年、傑作『ヴァイオリン協奏曲 第3番』を作曲。華やかで優美な旋律があふれ、アリアのような叙情性もあり、サン=サーンスが書いた器楽曲の代表曲のひとつ。第2楽章の舟歌が心地良い。初演者のサラサーテに献呈された。。
1881年(46歳)、妻マリと別れる。6年間の結婚生活だった。以降、サン=サーンスは母クレマンスと暮らし、10年後に母が他界すると30年を1人で過ごす。同年アカデミー会員に推薦される。
1885年(50歳)、『ヴァイオリンソナタ 第1番』を作曲。全2楽章。暗い情念が渦巻く冒頭から緊張感が漂う。緊密な構成で展開される人気曲。

1886年(51歳)、サン=サーンスが「この曲には私が注ぎ込める全てを注ぎ込んだ」と語った『交響曲第3番 オルガン付き』を作曲。オーケストラの編成にパイプオルガンが加わる交響曲は非常に珍しいうえ、ピアノが協奏曲の主役ではなく一つの楽器として4手(よつで、連弾)で参加しているのもユニーク。管弦楽の華麗な響きを存分に楽しめ、輝かしいオルガンの音色とフィナーレの息詰まる興奮でサン=サーンスの代表曲となった。本作は『ピアノ協奏曲第4番』『ヴァイオリンソナタ第1番』と共に全2楽章(ここでは「第1部・第2部」としている)という特徴を持っている。サン=サーンスはドビュッシーら若手印象派から保守的な作曲家と思われているが、伝統的なスタイルも踏まえつつも、固定の旋律を変化させて再登場させる循環形式を用いるなど、新たなスタイルに挑戦していた。この『オルガン付き』は初演直後に他界した友人リストに献呈された。リストは交響詩の創始者であり主題変容の先駆者だった。後に作家マルセル・プルースト(1871-1922)は『失われた時を求めて』に登場する音楽家ヴァントゥイユのソナタをこの曲から着想した。
この1886年にはサン=サーンスの名を不朽にした人気曲「白鳥」を含む、2台のピアノと小オーケストラのための組曲『動物の謝肉祭』も作曲されている。様々な動物を描いた全14曲で構成。
第1曲「序奏と獅子王の行進曲」…序奏に続いてライオンの歩みと吠える声。
第2曲「めんどりとおんどり」…ピアノと弦楽器が鶏の鳴き声を模倣しあう。
第3曲「らば」…走り回る野生のらば(ロバと馬の雑種)。
第4曲「亀」…オッフェンバックの『天国と地獄』のカンカンをわざとゆっくり演奏するパロディー曲。
第5曲「象」…コントラバスによる象のワルツ。ベルリオーズの『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」、メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』の「スケルツォ」を低音に引用。
第6曲「カンガルー」…ピアノで飛び回るカンガルーを描写。
第7曲「水族館」…透明感のあるグラスハーモニカの幻想的なメロディーにピアノのアルペジオ(分散和音)が寄り添う。映画やテレビでよく使用される。
第8曲「耳の長い登場人物」…ロバの鳴き声。サン=サーンスを敵視する音楽評論家をロバと見なしての皮肉。
第9曲「森の奥のカッコウ」…ピアノが奥深い森を表現し、クラリネットがカッコウの鳴き声を模倣。
第10曲「大きな鳥籠」…フルートが小鳥になって軽やかに飛び回る。
第11曲「ピアニスト」…サン=サーンスのユーモアが炸裂。わざと下手にピアノの練習曲を弾き、何度も調を変えて弾き直す。
第12曲「化石」…『死の舞踏』の「骸骨の踊り」の旋律で始まり、“音楽の化石”としてロッシーニの『セビリアの理髪師』の「ロジーナのアリア」の他、「きらきら星」など古い民謡が組み合わされる。ロッシーニはかつて欧州で人気があったが今はフランス・オペラがあり化石のようなものとする皮肉。
第13曲「白鳥」…きらめく湖面のようなピアノのアルペジオの上を、チェロの白鳥が優雅に泳ぐ。ミハイル・フォーキンの振付や、アンナ・パヴロヴァの舞踊によるバレエ「瀕死の白鳥」によって、この曲の知名度が一気に上がった。
第14曲「終曲」…カーテンコールとして今までの各曲の旋律が登場し華やかに終わる。

この『動物の謝肉祭』は非公開のプライベートな夜会のために作曲されたものであり、他人の楽曲を風刺的に用いていることもあって、サン=サーンスは自身が死去するまで出版・演奏を禁じた。例外的に完全オリジナルの「白鳥」だけは生前の公開演奏と楽譜出版が許された。プロコフィエフの『ピーターと狼』、ブリテンの『青少年のための管弦楽入門』と共に子ども向け管弦楽曲として重宝されている。
※『動物の謝肉祭』 https://www.youtube.com/watch?v=_2mgi0eL9Sw(動物の写真つき。カッコウは間違ってるけど)
1887年(52歳)、『ホルンと管弦楽のための演奏会用小品』を作曲。約9分の短い曲だが、ホルンが主役という、世のホルン奏者にとってかけがえのない宝物となる。
1892年(57歳)、ケンブリッジ大学から音楽博士の称号を贈られる。
1896年(61歳)、避寒先のエジプト・カイロで『ピアノ協奏曲第5番』を作曲。第2楽章のエキゾティックな雰囲気から「エジプト風」の愛称で呼ばれる。第3楽章では航海の楽しみが描かれ、船のプロペラの動きが模されている。デビュー50周年の記念コンサートで初演され、61歳のサン=サーンスがピアノ独奏を担当した。
1905年(70歳)、円熟の『チェロソナタ第2番』を作曲。サン=サーンスは第3楽章について「繊細な人々に涙を流させるでしょう」、第4楽章について「前の楽章で眠ってしまった皆の目を覚まさせるでしょう」と手紙に記した。
1908年(73歳)、世界初の映画音楽を『ギーズ公の暗殺』のため作曲する。サイレント映画ゆえスクリーンの前で楽士たちによって約18分間生演奏された。フランスで起きた1588年のギーズ公アンリ1世暗殺事件を描く。
※『ギーズ公の暗殺』(L'assassinat du Duc de Guise)
https://www.youtube.com/watch?v=bh0tonXPEKQ
1913年(78歳)、最高勲章のグラン・クロワを贈呈される。晩年は北アフリカや南北アメリカなど世界各地をひろく演奏旅行。
1919年(84歳)、オルガンと管弦楽のための作品『糸杉と月桂樹』を作曲。西洋では糸杉は死や葬送を、月桂樹は栄光を象徴する植物であり、前年に終結した第一次世界大戦の犠牲者の鎮魂と、勝利の凱歌。名オルガニストのサン=サーンスが、人生の最晩年に13年前の『交響曲第3番』に続くパイプオルガンを活躍させる作品を書いた。
※『糸杉と月桂樹』 https://www.youtube.com/watch?v=GTqdwd0QaNg (オルガンとトランペットが爽快!)
1921年(86歳)、サン=サーンスはレパートリーに恵まれていない楽器に貢献したいと考え、「ほとんど顧みられてこなかった楽器」を取り上げ、『オーボエ・ソナタ』『クラリネット・ソナタ』『バスーン・ソナタ』を完成させた。そのシンプルで澄み切った響きによって楽器奏者の重要なレパートリーとなっている。クラリネット・ソナタの第3楽章は厳粛な空気に包まれており別れの言葉にも聞こえる。しかも続く終楽章の最後で第1楽章の冒頭の旋律に戻るため、生命の環のようにも思える。この他にフルート、アルト・オーボエなど3つの楽器のソナタを書く計画があったという。
1921年12月16日、アルジェリアの旅行中に首都アルジェで客死した。ピアノを練習中に他界したとも伝わる。享年86歳。人生のほとんどを作曲に捧げた人物の死に際し、フランス政府はその功績に敬意を払って国葬とした。門下からはフォーレがでた。

サン=サーンスやフォーレの努力によってオペラ以外の器楽曲=純音楽がフランスでも認められるようになった。サン=サーンスはドビュッシーら印象派作曲家から古い保守主義者と見なされていたが、2楽章形式の交響曲・ソナタを書いたり、映画音楽を最初に作曲したり、『動物の謝肉祭』でパロディーをやるなど、様々な音楽分野で意欲的な試みを行っている。人生の一番最後に、ヴァイオリンやピアノといったスター楽器ではない、陽の当たらない木管楽器のためにソナタを書いていたことに、すべての楽器を愛する彼の優しさ、室内楽を開拓した先駆者のエネルギーと音楽全体への愛を感じる。

〔墓巡礼〕
墓所はセーヌ川左岸パリ14区のモンパルナス墓地(1824年開設)。入口の事務所で墓マイラー用の地図がもらえるので、それを見ながら第13区画へ行こう。サン=サーンスの墓はタテ長の聖堂型。周囲に似た墓がたくさんあるうえ、通りから離れた場所に建っているため、発見までかなりの時間がかかった。足を運ばれる方は時間に余裕をもって訪れてほしい。墓前にて、繊細かつ優美な旋律と、厳格に守り抜いた古典主義的表現のバツグンの安定感で穏やかに聴き手を魅了する彼に感謝を伝えた。
同墓地には作家モーパッサン、詩人ボードレール、哲学者サルトル、写真家マン・レイ、20世紀を代表するフルート奏者のジャン・ピエール・ランパル(フルートをピアノのようにソロ演奏会が可能な楽器と初めて世界に知らしめた)、シャンソン歌手のセルジュ・ゲンズブールらも眠る。

※音楽だけでなく、ラテン語、文学、天文学(天体望遠鏡を購入)、考古学、幾何学にも論文を残すなど造詣が深かった。
※チャイコフスキーのように同性愛者とも伝わる。
※サン=サーンスは黒い愛犬をデリラと名付けた。
※グノーの個人教授を受けた。
※ドビュッシーは印象主義に否定的なサン=サーンスの保守性を批判しながらも、「サン=サーンスほどの音楽通は世界広しといえどもいない」と優れた知性を認めていた。
※パリの有名墓地は古い順に、東のペール・ラシェーズ墓地(1804年開設、約43ヘクタール)、西のパッシー墓地(1820年開設、約2ヘクタール)、南のモンパルナス(1824年開設、3万5千の墓石、18.8ヘクタール)、北のモンマルトル(1825年開設、10.5ヘクタール※原型となった墓地は1798年からある)



★ロッシーニ/Gioacchino Antonio Rossini 1792.2.29-1868.11.13 (イタリア、フィレンツェ 76歳)2004
Santa Croce Church, Florence, Toscana, Italy

フィレンツェの墓(2004) パリの墓(2009)※最初の墓

イタリアの作曲家。わずか19年という作曲期間に39編ものオペラを作曲し、後半生の40年を美食家として悠々自適に過ごした。1792年2月29日、ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニはアドリア海沿岸のイタリア・ペーザロで音楽一家に生まれた。父はトランペット奏者、母は歌手という恵まれた音楽環境にあり、一人っ子ゆえ一身に愛を集めた。1796年、ロッシーニが4歳のときに、フランス革命に共感していた父は投獄されてしまう。1800年(8歳)、母親はボローニャに移住、劇場で歌手として働いた。ロッシーニも早くから教会で歌うなど声楽家を目指すようになるが1807年(15歳)にボローニャ市立音楽学校に入学すると作曲家を志すようになった。
在学中の1808年(16歳)に劇場作品の処女作『デメトリオとポリービオ』を作曲(初演は4年後)。1810年(18歳)、一幕オペラ『結婚手形』をヴェネチアで初演しオペラ作曲家としてデビューした。1812年(20歳)に初演した『試金石』が初のヒット作となり兵役を免除される。楽想があふれ出て、この一年だけでオペラを5作も書きあげた。ちなみに7年後の1819年にも5作完成。1819年までの8年間(20歳〜27歳)に生涯の39曲中、実に27曲を集中的に作曲している。

翌1813年(21歳)、ヴォルテールの悲劇作品を脚色した初の本格的オペラ・セリア(シリアス劇)『タンクレーディ』が大ヒットし、ロッシーニの名はイタリア全土で高まった。続くオペラ・ブッファの『アルジェのイタリア女』もヒットしたことで、名声は国境を超えてヨーロッパ中に広まる。1814年ベートーヴェンが交響曲第8番第2楽章のフィナーレでロッシーニのパロディをした。1815年(23歳)、ナポリで『エリザベッタ』初演。同地のサン・カルロ劇場の音楽監督としてオペラ・セリアの傑作を生み出す。

1816年、24歳のときにローマで初演した『セビリアの理髪師』は生涯最大の成功作となり、オペラ・ブッファ(喜劇)作曲家として音楽界に君臨した(ただし初演そのものはライバル劇場が動員した野次軍団の妨害や舞台にネコが乱入して大失敗だった)。『セビリアの理髪師』はモーツァルトが30年前(1786年)に作曲した『フィガロの結婚』の前日談でフランスの劇作家ボーマルシェ(1732-1799)の喜劇三部作の第一部にあたるもの。ロッシーニは『セビリアの理髪師』をわずか13日間で完成させた。同年にオペラ・セリアの『オテロ』完成。
翌1817年にブッファの『チェネレントラ(シンデレラ)』『泥棒かささぎ』を発表。1822年(30歳)、スペイン出身のソプラノ歌手イザベラ・コルブランと結婚する。
数年前からウィーンでもロッシーニは大人気であり、この年に『ゼルミーラ』上演でウィーンを訪れると市民から大歓迎を受けた。ウィーンの人々はベートーヴェンやシューベルトよりロッシーニに夢中になった。ロッシーニが22歳年上のベートーヴェン(当時52歳、他界5年前)に会いに行くと、ベートーヴェンから『セビリアの理髪師』を賞賛され、「あなたはオペラ・ブッファ以外のものを書いてはいけません」とアドバイスを受けた。
1823年(31歳)イタリア時代の最後のオペラ、表情豊かな序曲で知られる愛の悲劇『セミラーミデ』(ヴォルテール原作)初演。同年、パリを訪問。フランスの文豪スタンダールいわく「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」。

1824(32歳)にパリのイタリア座の音楽監督に就任。翌1825年(33歳)、フランス国王シャルル10世即位を記念し、オペラ・カンタータ『ランスへの旅』を国王に献呈、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得た。
1829年(37歳)、中期の代表作であり最後のオペラ『ウィリアム・テル』をパリで初演。26歳のベルリオーズ(1803-1869)は『ウィリアム・テル』を見て「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と感嘆した。ところがロッシーニは、それからまだ約40年も生きていたにもかかわらず、オペラ作曲の筆を断ってしまう。そして1832年以降は、宗教曲、歌曲、ピアノ曲、室内楽曲などの小品を作曲した。1836年(44歳)、1歳年上のマイアベーア(1791-1864)の大規模なグランド・オペラ『ユグノー教徒』の大成功で新時代の到来を認識、不眠症に悩まされたことから休養のためイタリア座を辞めて、ボローニャの父のもとに帰国した。1837年イザベラと離婚、尿路結石の手術。1839年、若い頃に音楽を学んだボローニャ音楽学校の校長となり、穏やかな日々を過ごす。食通だったロッシーニは、芸術家としての情熱が創作料理に向かっていった。
※マイアベーアの『ユグノー教徒』は1572年にカトリックがプロテスタントを大量虐殺した「聖バーソロミューの虐殺」を描き、この“他者への不寛容”は現在に通じるテーマになっている。1906年、パリ・オペラ座で1000回以上公演された初のオペラとなった。

1842年(50歳)、後期の唯一の代表作となる宗教曲『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』を発表。歌詞は中世の詩「悲しみの母は立っていた/十字架の傍らに、涙にくれ/御子が架けられているその間」など極めて哀切なもの。ロッシーニはこの曲を教会儀式から解放し、コンサート用の宗教音楽として書いた。
1845年(53歳)、イザベラが他界。1846年(54歳)、美術モデルでバルザックの元愛人オランプ・ペリシエと再婚。1848年(56歳)、フィレンツェに移住。1855年(63歳)、グルメの追求と病気治療をかねて再びフランスに渡り、パリで高級レストランを経営する。
晩年は淋病、躁鬱病、慢性気管支炎で苦しみ直腸癌を発症。手術はうまくいかず、オランプ夫人の看病のもと1868年11月13日パリ近郊のパッシーで没した。享年76歳。ロッシーニは死後に天国でモーツアルトに会えるのを楽しみにしていた。

ロッシーニは生前に絶大な人気を誇っていたのに、死後はみるみる存在を忘れ去られ、『セビリアの理髪師』の一発屋として人々に記憶された。『チェネレントラ(シンデレラ)』『ウィリアム・テル』の作曲家としてだけ名をとどめるた。ロッシーニ全集の出版を経て1970年代にオペラの再評価が始まり、アバドが『ランスへの旅』を約150年ぶりに再上演するなど、ロッシーニの愛好家がロッシーニ・ルネサンスを開始。故郷ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルは大盛況になっている。

ロッシーニは陽気なモーツァルトの作品を愛し、オペラ・セリア(シリアス劇)よりもオペラ・ブッファ(喜歌劇)を得意とした。オペラ・ブッファはユーモラスな演技とメロディアスな歌、軽妙な物語で構成された。ロッシーニは親しみやすく分かりやすいフレージングと歯切れの良いリズムで観客の心を捉え、18世紀前半から続いたオペラ・ブッファの最後のきらめきを飾った。ロッシーニの明快で聴きやすい旋律と華やかな作風は今も世界中の音楽ファンから愛されている。

【墓巡礼】
ロッシーニの墓は2箇所ある。最初の埋葬地は、ロッシーニが没する19年前に他界したショパン(1810-1849)や、7年後にビゼー(1838-1875)が眠るパリのペール・ラシェーズ墓地。1804年に開設された同墓地はパリ市内で最大の墓地で、世界一訪問者が多い墓地(年間数十万人以上)として知られている。モジリアニ、オスカー・ワイルド、ドラクロワ、エディット・ピアフ、ジム・モリソンらも同じ墓地に眠る。地下鉄メトロ3号線に乗ってペール・ラシェーズ駅で降りるとすぐだ。面積は43ヘクタール、甲子園球場の約11倍もあるが、ロッシーニの墓は正門から続くメイン・ストリートに面しているため簡単に見つけられる。門から100mほど進むと左手に「ROSSINI」と上部に彫られた縦長の霊廟が建っている。
ロッシーニの亡骸は、他界19年後にオランプ夫人の遺言(ロッシーニの希望でもあったという)によって1887年5月2日にイタリア・フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に改葬された。フィレンツェ最古の広場、サンタ・クローチェ広場に面したこの聖堂は、アッシジのフランチェスコが創建。1294年に再建を開始し14世紀後半に完成した。内部には276もの墓があり、ミケランジェロ、ガリレオ、マキャベリなどイタリアの英雄が多数眠ることから、別名「イタリアの栄光のパンテオン」と呼ばれている。世界最大のフランシスコ会の教会でもある。フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅から徒歩20分。イタリアの人々が、ミケランジェロの側に眠る資格があるとみた男ロッシーニ。前半生で作曲をやめてしまったのはもったいないけど、本人が納得しているなら、それはそれでアリ。むしろイタリア人らしいおおらかさを感じる。墓前で手を合わせ、明るく陽気な歌で僕らの人生に潤いを与えてくれた彼に感謝した。

※ロッシーニが好んで使った浮き立つようなクレッシェンドは「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれている。
※ロッシーニはよく同じ旋律を使い回した。1813年(21歳)のときに書いた『パルミーラのアウレリアーノ』の序曲を、2年後に『イングランドの女王エリザベッタ』の序曲にそのまま再利用しており、3年後にはあの『セビリアの理髪師』の序曲としてまた使っている!
※オペラ『ランスへの旅』の細部を手直してコミックオペラ『オリー伯爵』に作り替えた。
※生前はベートーヴェンよりも人気があり、またショパンなど同時代の音楽家にも人気があった。ベートーヴェンはウィーンの聴衆が自分の音楽を理解せず、ロッシーニの作品に浮かれていることを嘆いた。
※ロッシーニはベル・カント様式の3大作曲家のひとり(他にドニゼッティ、ベルリーニ)にあげられる。“ベル・カント”はイタリア語で「美しい歌唱法」の意味。ベル・カントは17世紀後半〜19世紀初期に盛んだった。従来の「歌詞優先主義」の反動として誕生し、劇の内容や感情表現よりも旋律の美しさを最優先させた。美声が重視され、うまく歌をコントロールしながら柔らかな響きと滑らかな節回しで優雅に歌いあげる名人芸が賞賛された。今でも、古典派からロマン派にかけてのイタリア・オペラのアリアはベル・カントで歌われる。その後、19世紀後半にベルディやワーグナーなどのドラマチックなオペラが台頭し、より重厚な歌唱法に変わっていった。
※オペラ・ブッファ(喜劇)はパイジェッロ、チマローザ、モーツァルトによって頂点を迎えた。オペラ・ブッファでは誇張されたメークやおどけた衣装で観客を楽しませた。
※『フィガロの結婚』は貴族をおちょくった政治的風刺(貴族がバカで下僕の方が賢い)により、舞台版はフランス革命までフランスでは上演禁止になっていた。これにオーストリアでモーツァルトが音楽をつけた。
※ロッシーニに憧れていた21歳年下のワーグナー(1813-1883)は、引退後のロッシーを自宅まで訪ねた。ワーグナーはオペラについて熱く語ったが、ロッシーニはそんなことより料理中の鹿肉の焼き具合を気にしていた。
※海外では2月29日生まれの著名芸術家はロッシーニだけ。日本では映画監督のマキノ雅弘、俳優の原田芳雄、峰竜太、作家の赤川次郎。



★ハイドン/Franz Joseph Haydn 1732.3.31-1809.5.31 (オーストリア、アイゼンシュタット 77歳)1994
Bergkirche, Eisenstadt, Eisenstadt Stadt, Burgenland, Austria//Plot: Private Mausoleum

パパ・ハイドンと慕われた アイゼンシュタットのハイドンハウス この家にハイドンは住んでいた







墓所のベルク教会。霊廟の入口は裏手ゆえ要注意 ここから入っていく。車道から見えず迷った 教会内のハイドン顕彰碑

受付で拝観料を払うと自動で扉が開く この鉄柵の向こうに→ ハイドンが眠っていた!

ウィーン「ハイドンパーク」の端っこに… 移転前の最初の墓が記念碑として残っている

「ハイドンはふざけながら感動を与え、笑いと深い感銘を備え持っている。自分のような者を2人合わせても、まだハイドンの域には到達し得ない」(モーツァルト)

オーストリアの作曲家。106曲もの交響曲を書いた“交響曲の父"。弦楽四重奏曲や交響曲の形式を大成して古典派様式を確立し、モーツァルトやベートーヴェンに多大な影響を与えた(その両者と共にウィーン古典派三巨匠の一人と称えられる)。1797年にナポレオン軍のオーストリア侵攻に対抗して書いた「皇帝賛歌/神よ、皇帝フランツを守り給え」(弦楽四重奏曲第77番「皇帝」第2楽章)は現在のドイツ国歌。68曲の弦楽四重奏曲、62曲のピアノ・ソナタ、オペラ、宗教曲、ダンス音楽、あらゆるジャンルで作曲し、総数は約1000曲(現存約700曲)にのぼる。オーストリア東端のアイゼンシュタットに居城を持つハンガリーのエステルハージ侯爵の宮廷楽長。エステルハージ宮はウィーンから40km離れていたが、楽譜出版により名声はヨーロッパ中に広がった。

1781年(49歳)、25歳のモーツァルトと親しくなり、モーツァルトから6つの弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を献呈されるなど交流を深め、モーツァルト死後は遺児の音楽留学に尽力する。1809年、ナポレオン軍のウィーン侵攻の砲弾が降り注ぐ中で死去。1759年に27歳で最初の交響曲を書き、77歳で没するまで創作意欲が衰えることがなかった。

遺体は熱烈な崇拝者の手で密かに頭部を切り離され、脳容量の研究対象にされたが、約150年を経た1954年に、無事に胴体の元へ戻った。代表作にオラトリオ「天地創造」、交響曲ではロンドンで披露した第94番「驚愕」、第100番「軍隊」、第101番「時計」、第103番「太鼓連打」、第104番「ロンドン」など、ハイドンを英国に招いた興行師の名にちなんだ“ザロモン・セット"の人気が高い。気取りのない人柄と作風から、人々に“パパ・ハイドン"と慕われた。

墓はウィーン郊外(南東、バスで70分)、アイゼンシュタット(Eisenstadt)のベルク教会(Bergkirche)。

※ハイドンの妻アンナ・マリアは、夫が書き上げた楽譜をケーキの台紙や鍋敷にしていた。それゆえか妻の死後「悪妻」という曲を書いている。

 
ハイドンの弟ミヒャエル・ハイドンとモーツァルトの姉ナンネルの墓(ザルツブルク、ザンクト・ペーター教会)



★エルガー/Edward William Elgar 1857.6.2-1934.2.23 (イギリス、リトル・モルビン 76歳)2005
Saint Wulstan's Roman Catholic Churchyard, Little Malvern, Worcestershire,England



コルウォール駅前の郵便局
(英国の郵便局は雑貨も売って
いてコンビニ化している)
お墓への道を尋ねたところ、なんと
ご主人が店番を奥さんに任せて、ガレージ
からマイカーを出してきてくれた!




ダンナさんの名前はロウさん。僕が
「あわわ、仕事中なのに!」とテンパると
「いいんだよ気にするな」。神ですか!?
ダッシュボード上に『ウォレス
とグルミット』のプルプル!

山道を抜け約20分後、リトル・モルビン
の教会に到着。ところが、この墓地に
エルガーの墓はなかった!真っ青の僕
「慌てるな、村人に訊いてみよう」
「ハ、ハイ!」僕はロウさんの後を
ついて行った。(T_T) ウルウル







馬具店で聞き込み中のロウさん

「あの教会だ!今度こそ墓がある
ハズ!」ロウさんもエキサイト
ドキドキ…

「エルガー・グレイブ」
キターッ!





 





エルガー


「やったー!エルガーさんだ!」墓前で思わず僕らは抱き合った。
エルガーさん、あなたがこの土地に眠って下さったおかげで、ここを訪れ
ロウさんと出会えました!ロウさんに会わせてくれて本当に有難う!
ロウさんスマイル

現代イギリス音楽の先駆者、国民的作曲家のエドワード・エルガーは1857年6月2日に英国中部ウスターシャー州のウスター近郊ブロードヒースで生まれた。父は楽器商・オルガン奏者で、エルガーは子ども時代からピアノやヴァイオリン演奏の手ほどきを父から受けた。10歳頃から作曲も始め、12歳のときに兄弟が演じる劇のために劇付随音楽を作曲している(この曲は40年後に日の目を見る)。
16歳のときに父の希望でロンドンの弁護士事務所で働くが、音楽を愛する気持ちから独学で作曲や演奏の技術を学んだ。1877年(20歳)、ハンガリーの有名ヴァイオリニスト、アドルフ・ポリツァーにバイオリンを習う。22歳から病院の付属楽団の指揮者や盲学校の音楽教師、バーミンガムの管弦楽団のヴァイオリン奏者など職歴を重ね、一方でドボルザーク本人の指揮で作品を聴いたり、パリでサン=サーンスのオルガン演奏を聴くなど、音楽体験を積んでいく。常に金欠で27歳のときに友人宛の手紙に「1セントもない」と記す。1885年(28歳)に父の後を継いでウスターの聖ジョージ教会のオルガン奏者となった。
1886年(29歳)、陸軍少佐の娘キャロライン・アリス・ロバーツ(当時37歳)をピアノの弟子にとる。彼女は8歳年上だったが、エルガーは利発なアリスを愛するようになり、彼女もまたエルガーに惹かれた。
1888年(31歳)、婚約記念にヴァイオリンとピアノの小品『愛の挨拶』(当初のタイトルは“アリスのために”)を贈る。だが、無名の作曲家と少将の娘という身分格差や、カトリックのエルガーとプロテスタントのアリスは宗教が異なるなど、アリスの親族は結婚に猛反対し、彼女は勘当されてしまう。
1889年(32歳)、2人は反対を押し切って結婚。エルガーの才能を見抜いたアリスは作曲活動に専念するよう提案、エルガーはオルガン奏者をやめて作曲に集中すると共に、チャンスを求めてロンドンに出た。翌年、一人娘のキャリスが誕生。ときにエルガー33歳、アリス41歳。アリスは生涯にわたって良き妻、優しい母であり、同時に最良の音楽批評家であり、マネージャーであり、霊感を与えるミューズであり、荒波を乗り越えていく同志だった。
※後年、アリスは日記に記す。「天才の面倒を見るというのは、いかなる女性にとっても生涯の仕事として十分なものです」。

1890年(33歳)、ロンドンで鳴かず飛ばずの日々を送るなか、故郷ウスターから音楽祭の楽曲を依頼される。騎士風の序曲『フロワサール』の初演は好評で、エルガーは作曲家として認知された。生活費を稼ぐため、地元で指揮や音楽教師をしばらく続ける。
1892年(35歳)、妻アリスに3回目の結婚記念日のプレゼントとして湯ガウガナ『弦楽のためのセレナード』を作曲。この頃、エルガーは混血の作曲家で「黒いマーラー」と呼ばれたサミュエル・コールリッジ=テイラー(1875-1912※享年37)の作曲活動を応援している。
1898年(41歳)、比較的小規模の作品を書いてきたエルガーは、大曲で世に出たいと思いつつも筆が進まず思い悩む。3歳年下の親友、音楽出版者アウグスト・イェーガー(1860-1909)はそんなエルガーを「神が君に与えた創造力が訓練される時期にあるだけだ、君が世界に認められる時はやってくる」と励まし続けた。ある日、エルガーがピアノに向かって即興のメロディーを物憂げに弾いていると、妻アリスが「今の旋律をもう一度弾いて欲しい」と頼み、エルガーは彼女を喜ばせる為にその旋律を様々に変奏してみせた。エルガーは各変奏の標題に親しい友人のニックネームを暗号のように置き、14の変奏で音楽による肖像画を描き、これを大きな管弦楽作品とした。
1899年(42歳)、ついにエルガーの人生が開かれる。管弦楽曲『謎の変奏曲(正式名称:創作主題による変奏曲)』がロンドンで大喝采を受けた。第9変奏「ニムロッド」は親友イェーガーを描いており、雄大な旋律で特に人気が高い。エルガーはイェーガーと2人でベートーヴェンの音楽の魅力を夜通し語り合い、そのときの雰囲気を美しい音楽にした。ちなみにイェーガーの名前が「ニムロッド」になっているのは、イェーガーにはドイツ語で“狩人”の意味があり、『創世記』に登場する狩人ニムロッドとかけてある。初演の指揮者が高名なハンス・リヒター(1843-1916)であったことも幸運だった。リヒターは第1回バイロイト音楽祭でワーグナーの『ニーベルングの指環』全曲を初演した巨匠。『謎の変奏曲』は第9変奏の甘美なメロディー、アイデアの独自性、構成の精巧さから楽壇で高く評価され、リヒターの絶賛もあってエルガーの名は国際的に知られるようになった。
※この曲の通称「謎(エニグマ)」は主要主題がぼんやりとしていること、そしてエルガーが全曲の底に共通する隠れた主題があることを示唆していることによる。
※『謎〜ニムロッド』 https://www.youtube.com/watch?v=aqvOVGCt5lw

1900年(43歳)、かつて結婚式でニューマン枢機卿から長編詩『ゲロンティアスの夢』を贈られたエルガーは、詩の内容に感動してオラトリオにすることを決意、構想から8年の年月を経て『ゲロンティアスの夢』が完成した。内容は第1部でこの世から旅立った主人公ゲロンティアスが、第2部で天使から祝福を受け、最後の瞬間に神の姿を垣間見てすべてが浄化されるというもの。歴史上の偉人を登場させず、レクイエムという形をとらずに“死”を描いた画期的な作品であり、詩情や精神性がバーナード・ショーやリヒャルト・シュトラウスから絶賛された。リヒャルト・シュトラウス「イギリスの最初の進歩的な作曲家マイスター・エルガーの成功と健康のために乾杯」。イギリスにおいて、「オラトリオ=ヘンデル」という固定観念に250年ぶりの変革をもたらした。以降、ヘンデル『メサイア』、ハイドン『天地創造』、メンデルスゾーン『エリヤ』などと並ぶ傑作オラトリオとして愛聴されている。前年の『謎の変奏曲』に続いて『ゲロンティアスの夢』を発表したことで、エルガーの名は不動のものとなった。
※『ゲロンティアスの夢』 https://www.youtube.com/watch?v=9Bg52cVVmTc

1901年(44歳)、“イギリス第2の国歌”とまで称えられ、エルガーの代表作となる管弦楽行進曲『威風堂々 第1番』を作曲。原題はシェイクスピア『オセロ』の台詞「Pomp and Circumstance」で、これを“威風堂々”と意訳している。サビの旋律がひらめいたとき、エルガーは「とてつもないメロディーを思いついてしまった!」と大いに興奮したという。初演は8週間に及ぶ世界最大のクラシック音楽祭「BBCプロムス(プロムナード・コンサート/ロンドン)」の最終夜。演奏が終わると聴衆は立ち上がって歓声をあげ、プロムスの歴史で初めて管弦楽曲が2度のアンコールを受けた。国王エドワード7世(1841-1910)はサビの旋律に歌詞を付けることを希望し、エルガーは翌1902年に王のための『戴冠式頌歌(しょうか)』を作曲、その終曲『希望と栄光の国』(Land of Hope and Glory)に第1番の旋律を使った。『威風堂々』は全6曲あり順次作曲され、第1番は最も人気がある。プロムスでは最終日に『希望と栄光の国』が演奏されるのが恒例となった。同年、第2番を作曲。1953年のエリザベス2世の戴冠式(即位は前年)では歌詞のKingがQueenに変更された。
※イギリスと何度も戦争してきたフランス人が演奏!フランス国立管弦楽団によるエッフェル塔前での『威風堂々第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=Ghxwky3Qt4U

1903年(46歳)、オラトリオ『使徒たち』作曲。壮大な世界観で12使徒を描いた。イタリア旅行を満喫、翌年その印象をもとに管弦楽曲『南国にて』を作曲。
https://www.youtube.com/watch?v=5r4SXkRu0bE
1904年(47歳)、バッキンガム宮殿にてナイトに叙される。イングランドの作曲家で初めてロイヤル・オペラ・ハウスにおいて3日間のエルガー音楽祭が催され、好評のうちに終わった。タイムズ紙「4、5年前に、もしイングランド人のオラトリオを聴くためにオペラ・ハウスが床から天井までの超満員になると予言した人がいたとしたら、おそらくその人は正気ではないと思われたことだろう」。
1905年(48歳)、自作を指揮するためアメリカを訪れ、イェール大学から博士号を授与された。このときに『威風堂々第1番』が演奏されたことから、米国ではほぼすべての高校・大学の卒業式で威風堂々が流れるようになった。
1906年(49歳)、『使徒たち』の続編となるオラトリオ『神の国』を作曲。3部作の完結となる『最後の審判』は計画のみで終わった。
1907年(50歳)、管弦楽曲『子どもの魔法の杖』を作曲。この作品は12歳の頃にスケッチブックに書いた劇音楽をオーケストレーションしたもの。それゆえ、エルガーは本作を「作品1」とした。同年、『威風堂々第4番』を作曲し、エルガー自身の指揮により初演。『威風堂々第1番』に続く人気曲となる。※第3番は2年前に発表。
1908年(51歳)、10年前から構想を練っていた『交響曲第1番』が完成。既に50代であり満を持しての交響曲への挑戦だった。喝采で迎えられ、指揮者リヒターは「当代最高の交響曲」と称え、指揮者アルトゥル・ニキシュも「ベートーヴェンやブラームスの偉大な交響曲の模範と並び位置づけられるべき第1級の傑作」と論じた。欧米ではこの年だけで100回以上も演奏された。楽譜には「ノビルメンテ(気品を持って)」とエルガーの指示が入っている。この頃、エルガーの人気は頂点に。

1910年(53歳)、名ヴァイオリニストのクライスラー(1875-1962)から『バイオリン協奏曲』を委託され、クライスラーの独奏で初演。コンサートは輝かしく忘れ得ぬものとなったが、この曲がエルガーの最後の成功作となる。
1911年(54歳)、『交響曲第2番』を作曲。終楽章が静かに終わるため初演は聴衆の反応が鈍く、熱狂と万雷の拍手を期待していたエルガーを失望させた。「(聴衆は)皆、腹一杯になったブタのように座っている」。英国王エドワード7世に献呈される予定だったが、王が前年に崩御したことから、エドワード7世の追悼として捧げられた。ジョージ5世の戴冠に際し、名誉あるメリット勲章が授けられる。
1913年(56歳)、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世』の登場人物フォルスタッフの様々な登場シーンを描いた交響的習作『ファルスタッフ』を作曲。リスト(1811-1886)や7歳年下のリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)が開拓した交響詩にエルガーも挑んだ。
1914年(57歳)、第一次世界大戦が勃発。翌年、ドイツの侵略を受けた中立国ベルギーを応援する『カリヨン』、ポーランドを励ます『ポローニア』を作曲。戦時中は他に児童演劇の付随音楽やバレエ音楽を書いた。

1918年(61歳)、円熟期に入ったエルガーはイギリス南部で静養しながら室内楽曲の3曲の傑作『ヴァイオリン・ソナタ』『弦楽四重奏曲』『ピアノ五重奏曲』を完成させる。アリスは3つの室内楽曲を聴いて「エドワードは素敵な新作を書いた」と書き残す。マンチェスター・ガーディアン紙の論評「この四重奏曲は途方もないクライマックス、舞踏のリズムの興味深い洗練、完璧な対称性を備えており、五重奏曲はより抒情的かつ情熱的で、両曲ともそうした形式による偉大なオラトリオにも引けを取ることのない理想的な室内楽曲の見本である」。
1919年(62歳)、『チェロ協奏曲』作曲。第1楽章は劇的な宿命感があり、オブザーバー紙は「簡素さの下には深遠な知恵と美が隠されている」と評したが、楽団の練習不足もあってエルガーが期待した聴衆の反応を得られなかった。この後、チェロ協奏曲は1年以上もロンドンで再演されることはなかった。
1920年(63歳)、肺がんに侵された妻アリスに先立たれる。享年72歳。葬儀ではアリスが気に入っていた『弦楽四重奏曲』の第2楽章が演奏された。以降、アリスを失ったエルガーは創作意欲が急速に減退していく。
1924年(67歳)、国王の音楽師範を務める。
1926年(69歳)、マイクが開発されたことから『エニグマ変奏曲』や2つの交響曲など自作の録音を開始。これらは蓄音機用の78回転ディスクとしてリリースされた。エルガーは録音技術を最大限に活用した最初の作曲家となった。
1930年(73歳)、『威風堂々第5番』を作曲。
1931年(74歳)、『威風堂々第1番』の録音セッションに挑むエルガーの姿が撮影されニュース映画となる。同年、幼少期のスケッチブックをもとにした組曲『子供部屋』を作曲。准男爵に叙される。
1932年(75歳)、友人のバーナード・ショーに新しい交響曲を書くよう勧められ、ショーのサポートでBBCがエルガーに作品を委託、21年ぶりに交響曲の作曲を開始する。
1933年(76歳)、愛犬をモチーフにした小品『ミーナ』を作曲。これが最後の完成作品となった。9月、病に倒れて作曲活動は中断。
※『ミーナ』 https://www.youtube.com/watch?v=ZTFVfKV6vYM (5分13秒)
1934年2月23日、大腸がんのためウースターで他界。享年76歳。リトル・マルヴァーンの聖ワルスタン・カトリック教会(St. Wulstan's Church)に眠る妻アリスの隣に埋葬された。『交響曲第3番』の約130ページのスケッチが残され、歌劇『スペインの貴婦人』、ピアノ協奏曲も未完に終わった。
1997年、BBCから『交響曲第3番』の補筆完成を依頼されたは作曲家アンソニー・ペイン(1936-)が、エルガーが1923年に作曲した劇付属音楽『アーサー王』から多くの旋律を引用したことを念頭に、同曲から素材をとって「ペイン推敲版」として第3番が63年を経て完成した。
2005年、未完成だったエルガーの唯一の『ピアノ協奏曲』をイギリスの作曲家ロバート・ウォーカーが補筆完成させた。
2006年、エルガー没後に見つかったスケッチをアンソニー・ペインが補筆した『威風堂々第6番』が初演された。

〔墓巡礼〕
200年におよぶイギリス音楽史で、初めて世界的名声をえた国民的作曲家エルガー。古典形式にイギリスの民俗性を加えて独自のロマンティシズムを確立し、「イギリス音楽のルネサンス」と呼ばれる時期の代表的作曲家の一人となった。
最初の墓参は1989年。ロンドンのウェストミンスター寺院を訪れた際、そこにある墓標はすべて本物で地下に故人が埋葬されていると思っていた。寺院の北翼にあるエルガーの石板を墓と信じて巡礼し、その数年後に、エルガー、ファラデー、T.S.エリオットをはじめ同寺院の墓石の一部は“記念碑”であり、本当の墓は故郷などゆかりの地に建っているというケースが存在することを知り、「もう一度渡英して墓参りし直さないと…」と気持ちが焦った。貯金して再び英国を訪れたのは16年後の2005年。ネットで墓所を調べると、イギリス西部(ロンドンの西200km)ウスターのコルウォール駅(Colwall)から2km南東、リトル・マルヴァーンの聖ワルスタン・カトリック教会(St. Wulstan's Church)にエルガー夫妻が眠って
いることがわかった。「2キロなら歩いて行けるな。重たいバックパックはコインロッカーに入れておこう」。電車を降りたのは正午、ホームには僕1人。そして驚いた。ロッカーがないどころか無人駅!墓地の方角を駅員さんに確認したかったけどそれも不可能。すぐに作戦を変更する。困ったときは、郵便局か警察だ。どちらも地理に詳しく、交渉次第で荷物を預かってもらえる。
村人が駅から2分の距離に郵便局があると教えてくれたのでさっそく向かう。空は晴天、昼下がりのまったりした雑貨屋兼郵便局で、おじさんとおばさんが郵便物の整理をしていた。どうやら経営者の中年夫婦らしい。お客さんはマダムが1人。僕がエルガーの教会の方向を聞くと、2人は「リトル・マルヴァーンは山の向こうよ!?」「直線距離は2キロでもぐるっと迂回するから往復20km近くある。無茶だ、迷うと帰りは山で夜になるぞ」。ガーン、2kmじゃないのか。だが、ここまで来るのだって大変だったんだ。なんとか地図だけでも書いてもらおうとした。しかし「遠すぎるし山道のグニャグニャは説明できない」とのこと。「この村にはバスなんかないし、タクシーを呼ぶしかないわ。でも、タクシーを呼ぶと言ってもどこから…」。奥さんは夫の目を見つめた。夫「よし!分かった!車を出してやる!」。なんと、奥さんに店を任せて、ガレージからマイカーを出してきてくれた!
ダンナさんの名前はロウさん。僕が「あわわ、仕事中なのに!」とテンパると「いいんだよ気にするな」。神ですか!?山道を抜け約20分後、リトル・マルヴァーンの教会に到着。ところが、その墓地にエルガーの墓はなかった!真っ青の僕。「慌てるな、村人に訊いてみよう」「ハ、ハイ!」。ロウさんは馬具店に入って情報収集。「よし、わかったぞ。500m北の教会だ!今度こそ墓があるハズ!」。エキサイトするロウさん。聖ワルスタン・カトリック教会に着くと、「エルガー・グレイブ」と表示された小さな案内板があった。キターッ!2人とも自然と急ぎ足になる。墓地に入ると地元の人がいたのでロウさんが「どのお墓がエルガー夫妻ですか」と質問。壁際にその墓があった。「やったー!エルガーさんだぁあああ!」。墓前で思わず僕らは抱き合った。「ロウさん、5分だけエルガーさんと話してもいいですか」「もちろん。好きなだけ話しな」。
エルガーの墓前でまず作品に感謝し、次に「あなたがこの土地で眠られたおかげで、ここを訪れ優しいロウさんと出会えました。ロウさんに会わせてくれて本当に有難うございます!」。帰路は15分で郵便局へ。別れ際、ロウさんはカウンターで売っているポストカードを「この日の思い出にとっとけ」と僕にくれた。いつになってもいい、絶対にまたコルウォールを訪れロウさんに会いたい。

※エルガーの故郷ウスターにエルガー像がある。同地はソース発祥の地であり、ウスターソースの語源となった。
※ブロードヒースのエルガーの生家は「エルガー生誕地博物館」として公開されている。


ロンドンのウエストミンスター寺院には彼のメモリアルがある(以前はこれを墓と思ってた)

エルガーは傑作「威風堂々」を完成した時、“うひゃー!俺はとんでもないメロディーを書いてしまった!”と
大興奮したという。実際、英国では現在“第二の国歌”と言われてるもんね。※チェロ協奏曲も最高!




スコット・ジョプリン/Scott Joplin 1868.11.24-1917.4.1 (NY、クイーンズ 48歳)2000
Saint Michaels Cemetery, East Elmhurst, Queens County, New York, USA



ラグタイムの父。黒人作曲家としては初の成功者ではないだろうか。



★バルトーク/Bela Bartok 1881.3.25-1945.9.26 (ハンガリー、ブダペスト 64歳)2005
Kerepesi Cemetery, Budapest, Hungary

 

雨上がり、光り輝くバルトークの墓!
※最初の埋葬場所はNYのFerncliff Cemetery and Mausoleum。




★モンテベルディ/Claudio Monteverdi 1567.5.15-1643.11.29 (イタリア、ヴェネチア 76歳)2002
Iglesia de Santa Maria Gloriosa dei Frari, Venice, Veneto, Italy



墓参した作曲家の中では最も昔に活躍した人物。クラシック音楽創成期の作曲家だ。



★リムスキー・コルサコフ/Nikolai Andreevich Rimskii-Korsakov 1844.3.6-1908.6.8 (ロシア、ペテルブルグ 64歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation



レーピンが描いた肖像 全体に苔むした感じ(2005) 4年後、墓石上部がきれいになってた(2009)

上部のキリストのイコン、土台の装飾的な文字など、この墓は非常に凝っている!

手前から、コルサコフ、ムソルグスキー、ボロディン、
チャイコフスキー。ウィーンの楽聖墓地と並ぶ絶景なり!

アラビアン・ナイトの物語を音楽にしたのが、この曲『シェエラザード』だ。シンドバットの船が大海を航行するのが目に見えるような雄大さは圧巻!



スメタナ/Smetana Bedrich 1824.3.2-1884.5.12 (チェコ、プラハ 60歳)1994&2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

1994 スメタナが愛したプラハの河、モルダウ 2005

組曲“わが祖国”の中に有名な『モルダウ』が挿入されている。音楽の力はすごい。スメタナと同じくチェコに生まれた
画家ミュシャは、晩年このモルダウを聴いて作風がガラリと変わったと告白している。※スメタナは晩年に発狂した。




★ロドリーゴ/Joaquin Rodrigo 1901.11.22-1999.7.6 (スペイン、アランフェス 97歳)2005
Aranjuez Cemetery, Aranjuez, Madrid, Spain

  

ギターの形をした墓石には代表曲「アランフェス協奏曲」の第2楽章が彫られていた!



★パガニーニ/Nicolo Paganini 1782.10.27-1840.5.27 (イタリア、パルマ 57歳)2005
Cemetery Della Villetta, Parma, Emilia-Romagna, Italy

   

パガニーニは作曲家としてより演奏家として有名だ。彼があまりに超絶技巧を駆使するので人々は
「悪魔と取引したのだ」と噂しあった(実際、彼の死の際にカトリック教会は葬儀を拒否した)



★スクリャービン/Alexander Nikolayevich Scriabin 1872.1.6-1915.4.27 (ロシア、モスクワ 43歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation



従来の一般的な3度和音を使わずに、4度音声を基本にした不安定な不協和音「神秘和音」を
使うことで、彼にしかない独自の音楽世界を創り上げた。(ピアノ・ソナタ第10番など)




★アルビノーニ/Tomaso Giovanni Albinoni 1671.1.17−1751.6.14 (イタリア、ヴェネチア 80歳)2005
Church of San Marco, Venice, Veneto, Italy
※誕生日は6.8説、6.14説もあり。命日は1.17説があり。



『アルビノーニのアダージョ』、もう何回聴いたか分からない。彼の墓は写真のサン・マルコ寺院の中と伝えられているが、
僕が行った時は、警備員も、お坊さんも、売店の人も、全員が「見たことない」という返事だった。仕方なく外観をパチリ。




★ボロディン/Aleksandr Porfiryevich Borodin 1833.11.12-1887.2.27 (ロシア、ペテルブルグ 53歳)2005&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

2005 美しい金のモザイクで楽譜が刻まれていた。
ボロディン像はとても穏やかな顔をしている
2009 手前に小さな台座があり清楚な花が供えられていた


●“ロシア五人組”全員集合!!(撮影はすべて2009年。みんな同じ墓地)

アレクサンドル・ボロディン
(1833-1887)
享年53歳
ツェーザリ・キュイ
(1835-1918)
享年83歳
ミリイ・バラキレフ
(1836-1910)
享年74歳
モデスト・ムソルグスキー
(1839-1881)
享年42歳
リムスキー=コルサコフ
(1844-1908)
享年64歳

ボロディンは19世紀後半のロシアで、反西欧・反アカデミズムを掲げて民族主義的(ロシア的)な音楽の創造を目指した作曲家集団「ロシア五人組」の一人。“五人組”の呼称は1867年に芸術評論家スターソフが命名した。
五人の顔ぶれは年齢が高い順に、ボロディン、キュイ、バラキレフ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ。ボロディンとコルサコフの年齢差は11歳。
※バラキレフ(Balakirev)…26歳で無料音楽学校を設立した五人組のリーダー格。グリンカの弟子。バラキレフの作品は少なく運動の理論的指導者だった。多くの音楽書籍やウィキでは「1837年生まれ」になっているけど、墓が「1836年」だったので当サイトはそれを尊重。
※キュイ(Cui)…音楽評論家としても活躍したが毒舌ゆえ敵だらけだった。晩年は失明し口述で作曲を続けた。

●09年5月、読者のVindobonaさんがボロディンの墓の曲名を全て解読して下さいました!有難うございます!

1段目 交響曲第2番第1楽章
2段目 歌劇『イーゴリ公』の「だったん人の踊り」
3段目 歌曲『暗い森の歌』
4段目 交響曲第3番第2楽章 スケルツォ
5段目 交響詩『中央アジアの草原にて』



★山田 耕筰/Kosaku Yamada 1886.6.9-1965.12.29 (東京都、あきる野市、西多摩霊園 79歳)2000


   



東京生まれ。日本の近代音楽界の先駆者であり、育ての親。東京芸大声楽科で学んだ後に作曲の道を志すが、明治の日本には作曲の先生などまだいなかった。それゆえ1910年(24歳)、ベルリン国立音楽学校の作曲クラスに留学。最初に「序曲 ニ長調」を書く。26歳、卒業制作に日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲し、オペラも手がけた。28歳、帰国と同時に国内初の交響楽団「東京フィルハーモニー管弦楽団」を組織し、日本最初の交響楽演奏会を開催する。34歳、カーネギーホールで自作の管弦楽曲による演奏会を開く。36歳、日本語による日本の歌を生み出すべく、北原白秋と雑誌『詩と音楽』を創刊。50歳でフランスのレジオン・ドヌール勲章、70歳で文化勲章を受賞。1965年(79歳)、心筋梗塞のため死去。「からたちの花」「赤とんぼ」「この道」など日本語のアクセントを効果的に使った童謡、歌曲など、作品総数は約1600曲におよぶ!

耕筰はかなり気が強かったらしくプロコフィエフと喧嘩したとか、幾つかエピソードが伝えられている。海外で作曲家ブロッホから「日本人であるのに、あなたは何故日本の音楽を書かないのです、何故歌麿の音楽を書き、北斎の音楽を書かないのです」と問われ、「もしもあなた方が私どもの国と、私どもの国民に対して、そうした要求をなさるのならば、何故私どもの鎖国の夢を破ってまで、あなた方欧米人の尊い文明の恵みを私どもに与えたのですか」と答えたという。



★オッフェンバック/Jacques Offenbach 1819.6.20-1880.10.4 (パリ、モンマルトル 61歳)2002
Cimetiere de Montmartre, Paris, France



音楽と喜劇との融合を果たし、オペレッタの原型を作った作曲家。「シャンゼリゼのモーツァルト」とロッシーニに称えられるほど美しいメロディーを次々と生み出した。
ジャック・オッフェンバックは、1819年6月20日にドイツ・ケルンで生まれ、後にフランスに帰化した。本名はヤーコプ・レヴィ・エーベルストで父親の出身地オッフェンバッハをペンネームとした。合唱指揮者の父からバイオリンを学ぶ。
14歳の時にチェロを学ぶためフランスに出てパリ音楽院に通い、1837年(18歳)にパリのオペラ・コミック座のチェロ奏者となる。やがて演奏のかたわら作曲を始めた。
1849年(30歳)、テアトル・フランセ(共和国劇場/テアトロ・フランセーズ)の指揮者となる。テアトル・フランセは1680年に太陽王ルイ14世の号令で誕生した王立コメディ・フランセーズ劇団の本丸となった劇場。
1853年(34歳)、オッフェンバックが作曲した最初の1幕物オペレッタ『ペピト』がオペラ・コミック座で初演される。
※オペレッタ(喜歌劇)…セリフが入った歌と踊りからなる舞台劇。18世紀には短いオペラをさしたが、19世紀以降は大衆に向けた軽い音楽劇を指すようになった。
※日本では「コメディ」は喜劇だけど、フランスでは“演劇”のこと。同様に「コメディアン」は喜劇役者ではなく“俳優”を指す。

1855年(36歳)、1幕物のコメディーを上演する劇場として「ブフ・パリジャン」と名付けた小劇場をシャンゼリゼ通りに自ら開き、いくつものオペレッタを上演。国民的人気を呼び、名声により皇帝ナポレオン3世との謁見に至る。この年、フランス内務省の劇場経営規則が出され、俳優やダンサーの人数制限やコーラスの禁止などが厳しく指定された。オッフェンバックは規則の撤廃運動を開始、3年をかけ登場人物数、コーラスともに制限無しという条件を獲得することに成功した。
1858年(39歳)、初めて長編作品に挑み、全2幕の『地獄のオルフェ(邦題:天国と地獄)』を作曲。ブフ・パリジャン座で初演され、連続228回公演を記録、人生最大のヒット作となった。この作品はギリシア神話の悲劇を題材にしたグルック作『オルフェオとエウリディーチェ』をパロディ化したもの。神話ではオルフェオが亡き妻を愛するあまり地獄に赴く物語なのに、本作は互いが愛人を持ち、体面だけを気にしてしぶしぶと妻を取り戻しにいくという内容で、偽善の夫婦愛を風刺した。初演翌日の日刊紙『フィガロ』は、「前代未聞、とにかく楽しい。気が利いていて、聴衆を魅了してやまず、見事としか言いようがない」と称えた。地獄で繰り広げられるダンスシーンとフィナーレのソプラノ独唱と合唱で歌われる「カンカン(ギャロップ)」は特に人気を集めた。フレンチカンカンに使われる有名な序曲は、2年後に上演されたウィーン版のためのオリジナル曲で、当初のフランス版にはなかった。カンカンは日本でも運動会のBGMとして小学生でも知っているクラシックの名曲に。
1864年(45歳)、全3幕のオペレッタ『美しきエレーヌ』を作曲。古代ギリシャのスパルタを舞台に、トロイア戦争の原因となったパリスによるスパルタ王妃ヘレネの誘惑を通して、社会的地位のある人々の放蕩ぶりを風刺。『地獄のオルフェ』と並ぶ人気オペレッタとなる。

1880年10月5日、61歳で他界。晩年は人気に陰りが出てきたことから、オッフェンバックは新境地を開くため初の本格的オペラ『ホフマン物語』を作曲していたが未完に終わった。生涯に102曲のオペレッタを作曲。
1881年、死の4カ月後に作曲家エルネスト・ギロー(1837-1892/ビゼーの死後『アルルの女』第2組曲を編曲、発表した人物)が『ホフマン物語』を補筆完成させ、パリのオペラ=コミック座で初演される。グランド・オペラの『ホフマン物語』は、ドイツの詩人E.T.A.ホフマンの小説を元にした戯曲をオペラ化したもの。詩人ホフマンが学生たちに自分の破れた三つの恋物語を語っていく物語。ホフマンは人形のオランピア(人形と知らずに恋する)、瀕死の歌姫アントーニア、ヴェネツィアの娼婦ジュリエッタと次々に恋に落ちるが、どれも悲恋に終わる。初演は大成功し、中でもヴェネツィア編で歌われるソプラノとメゾソプラノの二重唱「ホフマンの舟歌(バルカローレ)」(正式名「美しい夜よ、おお恋の夜よ」)は特に有名。ただし「ホフマンの舟歌」のメロディーは、オッフェンバックのオペレッタ『ラインの妖精』からの流用。
1976年、オッフェンバックの自筆楽譜が大量に発見され、以降、『ホフマン物語』の新しい版が複数発表されている。
オッフェンバックの軽妙でウィットに富む風刺オペレッタは、国民に爆発的な人気を呼んだ。彼の墓はベルリオーズやハイネが眠るモンマルトル墓地にある。

※語りの部分が音楽をともなうもの(レチタティーボ)がグランド・オペラ、セリフだけのものがコミック・オペラ。
※ヒット作を量産しても、舞台セットや豪華な衣装で常に劇場の経営状態は厳しかった。
※オペレッタは徹底した娯楽路線から芸術的に低く評価され、作家エミール・ゾラは「オペレッタとは、邪悪な獣のように駆逐されるべき存在」と批判した。
※ベルリオーズの16歳年下。



★グルック/Christoph Willibald Gluck 1714.7.2-1787.11.15 (オーストリア、ウィーン 73歳)2002
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



オペラの改革者。当時のオペラは歌手の技巧、テクニックを誇示するものが中心だったが、彼は作品の装飾的な部分よりも、内容(ストーリー)を
最重視する運動を展開した。祖父、父とも森林監視員で音楽とは全く縁のない家に生まれ、オペラ作曲家としてデビューしたのがユニーク。




★フーゴー・ウォルフ/Hugo Wolf 1860.3.13-1903.2.22 (オーストリア、ウィーン 42歳)2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



詩と音楽を巧みに融合させ300曲以上の歌曲を残した。37歳から心の病気で入院生活を送り43歳で死去。



★グリンカ/Mikhail Ivanovich Glinka 1804.6.1-1857.2.15 (ロシア、ペテルブルグ 52歳)2005&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation



2005 2009 大きな花が供えてあった

ロシア音楽の父。曲の中にロシア民謡を多く取り入れた国民楽派の創始者。ベルリンで死去。
※最初の埋葬場所はベルリンのRussisch-Orthodoxen Friedhof。




★マックス・ブルッフ/Max Bruch 1838.10.6-1920.10.2 (ドイツ、ベルリン 82歳)2002
Friedhof III, Berlin-Friedenau, Germany
※誕生日は1月6日説あり



ヴァイオリン協奏曲第一番の第一楽章はバリ渋ッ!!



★ブゾーニ/Ferruccio Benvenuto Busoni 1866.4.1-1924.7.27 (ドイツ、ベルリン 58歳)2002
Friedhof III, Berlin-Friedenau, Germany



「シャコンヌ」といえばバッハが有名だが、プゾーニもなかなか良い。



★ヴォーン・ウィリアムズ/Ralph Vaughan Williams 1872.10.12-1958.8.26 (イギリス、ロンドン 85歳)2005
Westminster Abbey, London, England



エルガーに続く現代イギリスの代表的な作曲家。イギリス民謡を熱愛し、20世紀のイギリス音楽の復興に貢献した。
1872年10月12日にイングランド南西部グロスターシャーのダウン・アンプニーで生まれた。牧師の父は3歳の時に他界。6歳から叔母ゾフィー・ウェッジウッドに音楽を学ぶ。母方の高祖父(ひいひい爺)は高名な陶器職人ジョサイア・ウェッジウッド。ダーウィン家も母方の親戚であり、チャールズ・ダーウィンは大おじにあたる。
1890年(18歳)、ロンドンの王立音楽大学に入学。途中の一時期、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで歴史学と音楽を専攻。
1895年(23歳)、学生仲間で2歳年下の作曲家ホルスト(1874-1934)と知り合い親友になる。後にケンブリッジ大学でも学ぶ。
1897年(25歳)、ベルリンでドイツの作曲家ブルッフに2年間師事。同年結婚。
1904年(32歳)、ウィリアムズはイングランドの各地方で口頭伝承された民謡が、識字率向上で急速に失われつつあることに気づき、田舎を訪ね歩いて民謡を収集、保存した。後年、自身の音楽様式にそれらのリズム、音階、旋律の一部を取り入れていく。
1905年(33歳)、ドーキング(ロンドンの30km南西)の第1回レイス・ヒル音楽祭を指揮し、以降、1953年まで50年近く同音楽祭の指揮者を務める。
1909年(38歳)、パリに8カ月滞在し、3歳年下の作曲家ラヴェル(1875-1937)に作曲と管弦楽法(オーケストレーション)を習った。
イギリスの合唱の伝統に深い関心を持っていたウィリアムズは、この頃から約40年の間、音楽祭で地方の様々な合唱団を指揮(1909〜53)した。
1906年(34歳)、17世紀のイギリス音楽や讃歌を愛し『イギリス讃歌集』を監修。著名な讃歌『シネ・ノミネ(名もなく)』を作曲。
1910年(38歳)、出世作となる『トマス・タリスの主題によるファンタジア』(タリスの主題による幻想曲)を作曲。トマス・タリスは16世紀イングランドの作曲家。2003年の映画『マスター・アンド・コマンダー』でも使用された。
アメリカの詩人ホイットマンの詩集『草の葉』をテクストとし、7年がかりで作曲した合唱付きのシンフォニー『海の交響曲』(交響曲第1番)初演。各楽章に標題があり、第1楽章「全ての海、全ての船の歌」、第2楽章「夜、渚に一人いて」、第3楽章「波」、第4楽章「探求する人々」となっている。初演は大きな成功を収めた。

1913年(41歳)、『ロンドン交響曲』(交響曲第2番)を作曲。音楽でロンドンの風物を描き、第1楽章でウェストミンスター寺院の朝の鐘がハープで表現されている。第一次世界大戦で戦死した友人の作曲家ジョージ・バターワース(享年31)に献呈。初演で喝采を浴びた。
同年、第一次世界大戦が勃発すると、志願して陸軍医療軍団に義勇兵として入隊、前線の担架卒となる。
1917年(45歳)、砲兵守備隊の少尉に任命される。砲火の爆音に長期にわたって晒された結果、老後に酷い難聴で苦しむ。
1918年(46歳)、陸軍の音楽監督に任ぜられ終戦を迎える。
1919年(47歳)、王立音楽大学で作曲の教授に就任。
1920年(48歳)、ヴァイオリンとオーケストラのための管弦楽曲『揚げひばり』を作曲。美しい牧歌的雰囲気から現代でもイギリス人に大人気の曲。
1921年(49歳)、イギリスの田園風景を描いた『田園交響曲』(交響曲第3番)を作曲。オーケストラのミュートされた音色と民謡からとりいれた和声に特色がある。第一次世界大戦の犠牲者への挽歌。
1923年(51歳)、吹奏楽曲『イギリス民謡組曲』を作曲、この作品は民謡の親しみやすい曲調や演奏の容易さから、吹奏楽のレパートリーの古典的名曲となる。
1931年(59歳)、『ピアノ協奏曲』を作曲。バルトークのようにピアノを打楽器的に使用。
※『ピアノ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=tB72RETYua4 (画像が素晴らしい)
1934年(62歳)、不協和音と緊張感に満ちた『交響曲第4番』を作曲。曲調の荒々しさに聴衆は度肝を抜かれ困惑した。ウィリアムズ「自分自身でも気に入っているかどうかはわからないが、曲は私の意図した通りのものである」。同年、ウィリアムズの代名詞となる『グリーンスリーヴスによる幻想曲』を自身の指揮で初演。古いイングランド民謡『グリーンスリーヴス』に基づく小品。ウィリアムズは6年前にオペラの間奏曲でこの旋律を用い、それをラルフ・グリーヴズが編曲した。この年、親友グスタフ・ホルストが59歳で他界。
1943年(71歳)、『交響曲第5番』を作曲。第二次世界大戦の真っ只中にあって安らかなる楽曲になっている。ウィリアムズは7歳年上のシベリウス(1865-1957)を非常に尊敬しており、本作をシベリウスに献呈した。
1947年(75歳)、『交響曲第6番』を作曲。不協和音と闘争性から“戦争交響曲”とも評される。終楽章の静けさは核戦争後の世界を思わせる。高い評価を得て初年度だけで100回も演奏された。同年、探検家ロバート・スコットの南極探検を描いた映画『南極のスコット』のサウンドトラックを担当し、2年後のプラハ映画祭で音楽賞を受賞する。
1951年(79歳)、妻アデリーンが他界。
1952年(80歳)、映画『南極のスコット』の音楽を再構成した『南極交響曲』(交響曲第7番)を作曲。チェレスタ、ウィンドマシーン、女声合唱で南極の厳しい自然とスコットの英雄性を描く。楽章ごとの以下の標題(引用句)を朗読することがある。前奏曲:シェリーの詩『鎖を解かれたプロメテウス』、スケルツォ:詩篇第104篇、風景:コールリジ『シャモニー渓谷の日の出前の讃歌』、間奏曲:ジョン・ダン『夜明けに』、終幕:スコット大佐の最後の日記「私はこの探検を悔いない。危険を冒したことは知っているが、物事に遮られたまでだ」。ヴォーン・ウィリアムズの“英雄交響曲”ともいえる。
1953年(81歳)、39歳年下の女流詩人アーシュラ・ウッド(1911-2007※42歳)と再婚。ウッドとは15年前から妻公認の不倫関係にあった。
1954年(82歳)、ロンドン交響楽団の委嘱で『チューバ協奏曲』を作曲。世界のチューバ奏者の最重要レパートリーとなる。
1955年(83歳)、『交響曲第8番』を作曲。第1楽章は主題の変奏曲、第2楽章は吹奏楽器だけの演奏、第3楽章は弦楽器のみ、終楽章は打楽器が主役という、83歳とは思えない老いてなお挑戦的な作品となっている。
1957年(85歳)、『交響曲第9番』を作曲。第2楽章の物憂げで印象主義的な展開にドビュッシーの影響が見てとれる。
1958年、4月に交響曲第9番を初演。8月26日 、ロンドンにて心臓発作のため他界。享年85歳。遺灰はウェストミンスター寺院の北翼聖歌隊席通路に埋葬。近くに大おじのダーウィンの墓がある。

民謡や賛美歌など様々なイギリス音楽から発想をえたウィリアムズは、9曲の交響曲、6曲のオペラのほか管弦楽曲、合唱曲、歌曲などを残し、20世紀のイギリスにおいて国民主義的な音楽様式を確立した。その功績により、イングランドの伝統的な民謡や旋律はより高い評価を受けることになった。ウィリアムズは田園風景を彷彿とさせる牧歌的な作風の印象が強いが、交響曲には激しい不協和音の作品もある。日本ではホルストの方が知名度は高いが、欧米ではホルストより高い評価を受けている。

※名前のRalph は通常「ラルフ」と読むが、本人が古風な発音の「レイフ」にこだわった。
※ラヴェル「ウィリアムズは弟子の中で唯一ラヴェル風の音楽を書かなかった人物」。
※音楽評論家ジョン・メイトランド「(ウィリアムズの作風は)聴いていて非常に古い音楽なのか非常に新しい音楽なのか分からなくなる」。
※ドーキングにヴォーン・ウィリアムズの像。
※英国民族舞踊民謡協会の会長を務めた。



★スッペ/Franz von Suppe 1819.4.18-1895.5.21 (オーストリア、ウィーン 76歳)20025
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



オペレッタ『軽騎兵』『詩人と農夫』などの序曲が有名。



★ヤナーチェク/Leos Janacek 1854.7.3-1928.8.12 (チェコ、ブルノ 74歳)2005
Central Cemetery, Brno, Czech Republic

 

チェコの民俗音楽をモチーフに作曲。※この曲の曲名が分かればお知らせ下さい!m(_ _)m



★コダーイ/Kodaly Zoltan 1882.12.16-1967.3.6 (ハンガリー、ブダペスト 84歳)2005
Farkasreti Cemetery, Budapest, Hungary

  

女性が寄りかかっている墓。ちょっと羨ましいかも…



★プーランク/Francis Poulenc 1899.1.7-1963.1.30 (パリ、ペール・ラシェーズ 64歳)2005
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France



プーランクの墓はステンドグラス入りで美しい。



★チェルニー/Carl Czerny 1791.2.21-1857.7.15 (オーストリア、ウィーン 66歳)2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



ピアノの教本でお馴染みのチェルニー。名前を聞いただけで逃亡する人も多いとか(笑)
ベートーヴェンの弟子であり、リストの師匠だった。




★サリエリ/Salieri Antonio 1750.8.18-1825.5.7 (オーストリア、ウィーン 74歳)2002&2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria

2002 2005
作曲家サリエリは映画『アマデウス』で一躍有名になった!

哀れサリエリ!モーツァルト毒殺犯の嫌疑をかけられた男。かつては宮廷楽長でありながら、同墓地中央に眠っているベートーヴェンやシューベルト、ブラームスたちから遠く引き離され、一番壁際の、それも真後ろに市電が走っていて、騒音でまったく魂が安らげない場所に埋葬されていた。(背後に市電のパンタグラフが写っている)

※動画があります!サリエリの墓(4秒)



★シャルル・グノー/Charles Francois Gounod 1818.6.17-1893.10.18 (フランス、パリ 75歳)2009
Cimetiere d'Auteuil, Paris, France




1800年からある非常に古い墓地 墓地内のメインストリートにあるグノー家の霊廟

廟内の祭壇 08年に供えられた生誕190年カード シャルル・グノーの名がある

1818年6月17日にパリで生まれる。ピアニストの母にピアノを学び、パリ音楽院に進む。1839年に21歳で新人音楽家の登竜門「ローマ大賞」第1位を獲得。国費による2年間のイタリア留学で宗教音楽を集中的に研究する。帰国後、パリのサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊楽長・オルガン奏者を務め、また神学校の聴講生となって神学を勉強した。
1850年(32歳)、後に大画家となる当時23歳のルノワール(1841-1919)がグノーの聖歌隊に数年間所属しており、歌の才能を見込んだグノーが声楽を教えた。グノーはルノワールの両親に「息子さんをオペラ座の合唱団に入れましょう」と提案したが断られたという。
1851年(33歳)、最初のオペラ『サフォ』が初演され、以降は作曲に専念するが、鳴かず飛ばずの状態が7年間続く。
1854年(36歳)、交響曲第1番を作曲。2年後に第2番を書いた。若きビゼーはこの2つの交響曲を手本にして交響曲を作曲した。
1858年(40歳)、劇作家モリエールの喜劇を題材にした小コミック・オペラ『心ならずも医者にされ』で初めて成功する。
1859年(41歳)、文豪ゲーテの劇詩に基づくオペラ『ファウスト』(全5幕)が初演され、これにより不動の名声を得た。物語は、老学者ファウストが悪魔メフィストフェレスから若返りの薬をもらい、代わりに死後の魂を渡す契約を結ぶ。若返ったファウストは純真な村娘マルグリート(グレートヒェン)と愛し合うが、冒険を求めて彼女のもとを去る。久々に村に戻ると、ファウストを待ち続けていたマルグリートはやつれ果てていた。ファウストは後悔するが、彼女の兄に決闘を挑まれ殺してしまう。心を病んだマルグリートは子を殺めて牢獄に入る。ファウストが助けに来ると、彼女はファウストの帰還を確認し天に召されていった。
同年、グノーはバッハの『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』のプレリュードに、歌詞としてラテン語の聖句「アヴェ・マリア」をのせた歌曲を書き、人々に愛される名歌となった。
1867年(49歳)、オペラ『ロミオとジュリエット』が初演される。ちょうどパリ万国博覧会が開催中で連日満員となる大成功を収め、この年のうちにイギリス、ドイツ、ベルギーでも上演された。
1869年(51歳)、オペラ座で『ファウスト』が上演されることになり、慣例に従って第5幕にバレエ音楽が追加された。このバレエ音楽だけが単独で演奏されることも多い。
1872年(54歳)、ピアノ曲『操り人形の葬送行進曲(Funeral March of a Marionette)』を作曲。約80年後、ヒッチコック監督が同曲の管弦楽版をテレビシリーズのテーマ音楽に用いて有名になった。
1893年10月18日、パリ近郊のサン=クルーで他界。享年75歳。墓所はメトロ9号線のExelmans駅から南100mのオートゥイユ墓地。1800年からある非常に古い墓地で、墓地内のメインストリートにあるグノー家の霊廟の中に眠っている。
1894年11月24日、他界の翌年に『ファウスト』が日本で初演される。日本で最初に上演されたオペラであり、11月24日がオペラの日となった。
1949年、バチカンが実質的な国歌としてグノーの『賛歌と教皇の行進曲』を採用した。
抒情的で魅力あふれる旋律と、色彩感のある優れたオーケストレーションにより“フランス近代歌曲の父”とも呼ばれる。



★フランソワ・クープラン/Francois Couperin 1668.11.10-1733.9.11(フランス、パリ 64歳)2009
Church of St. Joseph, Paris, France

ビックリ!このモダンなビルが聖ヨセフ教会だった! 礼拝堂は地下にあった 教会の中庭。このどこかに埋葬されている?

バッハに影響を与えたバロック音楽の大作曲家クープラン。ラヴェルは最後のピアノ独奏曲の題名を『クープランの墓』としており(正確な訳は“クープランを偲んで”)、どんな墓か楽しみにしていた。ところが!聖ヨセフ教会がなかなか見つからない。それもそのはず、外観が写真のように近代的なビルだったんだ。こっちは昔ながらの古い教会をイメージしていたので前を素通りしていた。中に入っても墓地がなくポカ〜ン。神父さんに質問すると「教会の敷地のどこに埋葬されたかわからない」とのこと。うーむ。とりあえず、中庭全体を墓所とみなして合掌した。※場所はメトロのTernes駅から南へ300m。凱旋門の近く。



★アレクサンドル・グラズノフ/Aleksandr Konstantinovich Glazunov 1865.8.10-1936.3.21 (ロシア、ペテルブルグ 70歳)2009
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

   

ロシア民謡を作品に取り入れるなど、ロシアの大地に根ざした音楽を目指したロシア国民楽派の最後の大物作曲家。
師匠はリムスキー・コルサコフ。1898年(33歳)、バレエ音楽「ライモンダ」を作曲。サンクトペテルブルク音楽院の
院長も務めた。1928年(63歳)にスターリン暴政下のソ連へ別れを告げ、パリ近郊で死去。享年70歳。




★ジョン・ケージ/John Milton Cage 1912.9.5-1992.8.12 (USA、ニューヨーク州 79歳)2009
Ashes scattered, scattered , NY at the Gate Hill Cooperative, USA

    

前代未聞の異色曲「4分33秒」などで知られる現代音楽の巨匠ジョン・ケージ。彼の遺灰はNYの「Gate Hill」に撒かれたとのこと。調べたところ、
NYで「Gate Hill」という地名はここしか見つからず、おそらくこの付近で土に帰ったんだと思う。(別情報をご存知でしたらご一報を!)




★エンリケ・グラナドス/Enrique Granados y Campina 1867.7.27-1916.3.24 (大西洋 48歳)2009
Body lost or destroyed

 

  
1916年3月24日、グラナドスはこの大西洋に散った

第1次世界大戦のさなか、英国汽船「サセックス」号で米国からスペインに帰国する途中、ドイツのUボートに撃沈され妻と共に大西洋に消えた。



★カール・ニールセン/Carl August Nielsen 1865.6.9-1931.10.3 (デンマーク、コペンハーゲン 66歳)2009
Vestre Kirkegard (Western Churchyard), Copenhagen, Denmark

  
なんかこう、少しオドロオドロしかったんですけど…

更新中。交響曲第4番『不滅』で知られる。



★スティーヴン・フォスター/Stephen Collins Foster 1826.7.4-1864.1.13 (USA、ペンシルバニア州 37歳)2009
Allegheny Cemetery, Pittsburgh, Allegheny County, Pennsylvania, USA  Plot: Section 21, Lot 30


非常に歴史が古い墓。門は古城のよう 独立記念日に生まれた 墓地の中央付近の丘に眠る

更新中。『草競馬』や『ケンタッキーの我が家』で知られるアメリカの作曲家。早逝した。



★サミュエル・バーバー/Samuel Barber 1910.3.9-1981.1.23 (USA、ペンシルバニア州 70歳)2009
Oaklands Cemetery, West Chester, Chester County, Pennsylvania, USA

 

更新中。『弦楽のためのアダージョ』で知られる。

【おまけ〜この墓の形に惚れたッ!】

 

なんとこれは木に見えて、石の墓だった! 背後は奥さん♪

バーバーの右斜め後方にあったウィリアム・ビーティーさん(1834-1882)という方の墓は、木の形に彫られた石!
幹に名前が刻まれていてカッコイイ!しかも夫婦で相合い傘のように背中合せになっている。今までに見たお墓で一番素敵な造形かも!




★バーナード・ハーマン/Bernard Herrmann 1911.6.29-1975.12.24 (USA、ニューヨーク州 64歳)2009
Beth David Cemetery, Elmont, Nassau County, New York, USA Plot: Section BB2



更新中。『サイコ』などヒッチコック映画のサントラで有名。



★ハロルド・アーレン/Harold Arlen 1905.2.15-1986.4.23 (USA、ニューヨーク州 81歳)2009
Ferncliff Cemetery and Mausoleum, Hartsdale, Westchester County, New York, USA Plot: Hickory, Grave 1666

 

更新中。『オズの魔法使』の名曲『オーバー・ザ・レインボー』などを作曲した。



★ジョルジュ・ドルリュー/Georges Delerue 1925.3.12-1992.3.10 (USA、カリフォルニア州ロス 66歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Triumphant Faith Terrace, lot #4063A

 

フランソワ・トリュフォー監督の大半の映画で音楽を担当。その他『プラトーン』『ジュリア』『リトル・ロマンス』などでもスコアを書いた。



★ジェリー・ゴールドスミス/Jerry Goldsmith 1929.2.10-2004.7.21 (USA、カリフォルニア州ロス 75歳)2009
Hillside Memorial Park, Culver City, Los Angeles County, California, USA  Plot: G/M Truth 265



左端の下から2段目に眠る

墓碑には「彼の音楽の贈り物を
世界中が大切にしている」とあった

更新中。有名な『スタートレック』『パピヨン』『オーメン』『グレムリン』『氷の微笑』『エイリアン』『ランボー』など、名だたる有名作品の映画音楽を作曲した。



★ビクター・ヤング/Victor Young 1899.8.8-1956.11.10 (USA、カリフォルニア州ロス 57歳)2009
Hollywood Forever, Hollywood, Los Angeles County, California, USA

 

『八十日間世界一周』『シェーン』『誰が為に鐘は鳴る』などの映画音楽を作曲。脳出血のために急死し、
死後に『八十日間世界一周』がアカデミー作曲賞に輝いた。




★アルフレッド・ニューマン/Alfred Newman 1900.3.17-1970.2.17 (USA、カリフォルニア州ロス 69歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Great Mausoleum, Sanctuary of Eternal Prayer

この堅牢な古城の如き大霊廟にニューマンは眠る。一般非公開につき、泣く泣く外部から遙拝!

『王様と私』『南太平洋』『慕情』『七年目の浮気』といった映画音楽のほか、有名な20世紀フォックス・ファンファーレもニューマンが作曲!

世界一、墓マイラー泣かせの墓所、それがロスのフォレストローン墓地。ここはセレブ用の特別区画があり、一般人は純粋に墓参が目的でも入ることができない。
ハンフリー・ボガード、メアリー・ピックフォード、サム・クック、彼らはその区画に墓があり巡礼不可能だ。またこの墓地には、クラーク・ゲーブル、マイケル・ジャクソン、
ハロルド・ロイドなど、名だたるスターが眠る大霊廟があるが、そこに至っては建物が丸ごと一般立入禁止という始末。欧米の墓地は基本的にとても外に開かれた
空間であり、墓ツアーを企画したり、ガイドさんがいる墓地も多い。フォレストローンのように霊廟を立入り禁止にするなんて聞いたことがない。おそらく、マイケルが
ここに永眠したことで多数の巡礼者がやって来る思う。世界中から来たファンを全員門前払いにするつもりなのか…。もっと墓参者の善意を、人間を信じて欲しい。



★マックス・スタイナー/Max Steiner 1888.5.10-1971.12.28 (USA、カリフォルニア州ロス 83歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Great Mausoleum, Sanctuary of Enduring Honor

 
スタイナーはアルフレッド・ニューマンと同様、一般非公開のこの大霊廟の中に眠る。無念!

『風と共に去りぬ』『カサブランカ』『トップ・ハット』などの映画音楽を作曲。



★アーヴィング・バーリン/Irving Berlin 1888.5.11-1989.9.22 (USA、ニューヨーク州ブロンクス 101歳)2009
Woodlawn Cemetery, Bronx, Bronx County, New York, USA




バーリン家の墓所。右から2番目がアーヴィング

『ゴッド・ブレス・アメリカ』は第2の
国歌とまで言われている

 『ゴッド・ブレス・アメリカ』、『ホワイトクリスマス』など、アメリカ国民にとってのソウル・ソングを多数作曲!



★瀧 廉太郎/Rentaro Taki 1879.8.24-1903.6.29 (大分県、大分市、万寿寺 23歳)2008

 
墓の側には『嗚呼天才音楽家 瀧廉太郎君碑』の石碑が建つ 終焉の地は史蹟に指定(大分市)

  
終焉の地には瀧の銅像があり、若死にしたので台座にはギリシャ人ヒポクラテスの言葉『人生は短し芸術は長し』が彫られている(涙)

東京生まれ。「荒城の月」「花」「鳩ぱっぽ」「桃太郎」「雪やこんこ」「お正月」など多数の名歌を作曲。肺結核の為にわずか23歳で他界した。



★古賀 政男/Masao Koga 1904.11.18-1978.7.25 (東京、杉並区、築地本願寺・和田堀廟所 73歳)2008



本名、古賀正夫。国民栄誉賞を受賞した、昭和の歌謡界を代表する作曲家。
「誰か故郷を想わざる」「人生劇場」など心に残る歌謡曲を約5千曲も生み出した。




★服部 良一/Ryoichi Hattori 1907.10.1-1993.1.30 (東京都、杉並区、築地本願寺・和田堀廟所 85歳)2008



大阪府出身。「青い山脈」「東京ブギウギ」など作曲し、古賀政男に次いで作曲家として2人目の
国民栄誉賞に輝いた。作曲家一族であり、息子は服部克久、孫は服部隆之。




★團 伊玖磨/Ikuma Dan 1924.4.7-2001.5.17 (東京都、文京区、護国寺 77歳)2009&10







「夕鶴」「ぞうさん」を作曲

名門・團家の墓所。右手前は三井の
総帥、琢磨。中央が伊玖磨の墓(2009)
翌年に再巡礼。境内奥の花屋さんの左側が墓所(2010)



 
墓域全景(2010) 中央「團家累代墓」の背後に名があった

東京生まれ。祖父は戦前の三井財閥の総帥で、右翼に暗殺された團琢磨。父は元参議院議員の団伊能。現東京芸大で山田耕筰に師事。その後NHKの専属作曲家となる。1952年(28歳)、木下順二の『夕鶴』をオペラ化。『夕鶴』は国内外で600回以上も公演され、伊玖磨の名を高めた。翌1953年、芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」を結成。オペラ、交響曲、合唱曲、映画音楽、様々なジャンルを手掛け、童謡の『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』『おつかいありさん』も作曲した。2001年、中国旅行中に蘇州市にて心不全のため客死。戒名は鳳響院殿常楽伊玖磨大居士。
※NHK特集でムソルグスキー「展覧会の絵」の原画を探し当てた時の団伊玖磨さんの情熱に感動!



★いずみ たく/Taku Izumi 1930.1.20-1992.5.11 (東京都、豊島区、雑司ヶ谷霊園 62歳)2010





墓前に「見上げてごらん夜の星を」の楽譜 本名の今泉で眠っている 作曲家であり参議院議員

東京生まれ。本名、今泉隆雄。1950年(20歳)、舞台芸術学院演劇学科を卒業。芥川也寸志に師事し作曲を始める。歌謡曲、童謡、アニメソングから交響曲まで幅広いジャンルの作品を手がけ、生涯の作品数は約15000曲!1969年(29歳)、佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』で第11回日本レコード大賞を受賞。1989年(59歳)、参議院に“第二院クラブ”から入る。政治的立場は極めてリベラル。「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」と訴え、文教関係予算の増額のために尽力。3年後の1992年に、現職議員のまま肝不全で他界した。享年62。

主な作品…「太陽がくれた季節」(青い三角定規)、「ゲゲゲの鬼太郎」(主題歌)、「見上げてごらん夜の星を」(坂本九)、「いい湯だな」(ザ・ドリフターズ)、「手のひらを太陽に」(作詞はやなせたかし!)、「チョコレートは明治」(CMソング)、「バーモントカレーの歌」(CMソング)、「徹子の部屋」(テーマ曲)など。遺作は病床で口述筆記させた「アンパンマンとなかまたち」(ミュージカル『アンパンマン』)。



★河村 光陽/Koyo Kawamura 1897.8.23-1946.12.24 (東京都、文京区、吉祥寺 49歳)2013

有名な「うれしいひなまつり」を作曲!
墓前の正面右側の石碑は→
“童謡一路”の文字の下に
「かもめの水兵さん」の楽譜

福岡県出身。1920年(23歳)、ロシア音楽を研究するためモスクワを目指して出国するも、ロシア革命の混乱で政情不安定であるため、朝鮮で学校の音楽教師となる。4年後に帰国し、東京音楽学校選科(現・東京芸大大学院)で音楽理論を就学。1926年(29歳)頃から自作曲を発表する。
その後、小学校の音楽教師を務めながら楽曲を発表し、1936年(39歳)にキングレコードの専属作曲家となった。河村光陽と改名し、同年、「うれしいひなまつり」(山野三郎作詞)が大ヒットする。翌年には「かもめの水兵さん」(武内俊子作詞)が大当たりとなり、「赤い帽子白い帽子」「早起き時計」「仲良し小道」「りんごのひとりご」「船頭さん」「雨傘唐傘」など多数の童謡を発表していくが、9年後の1946年12月24日、胃潰瘍による出血のため急逝する。享年49。



★浜口 庫之助/Kuranosuke Hamaguchi 1917.7.22-1990.12.2 (東京都、府中市、多磨霊園 73歳)2010

 

兵庫県神戸市出身。愛称ハマクラ。作詞作曲に「バラが咲いた」「夜霧よ今夜も有り難う」。作曲に「人生いろいろ」(島倉千代子に提供し大ヒット)。



★伊福部 昭/Akira Ifukube 1914.5.31-2006.2.8 (鳥取県、鳥取市、宇倍神社 91歳)2014




『ゴジラ』を作曲 宇倍神社の鳥居。ここから石段を登っていく 社殿。伊福部家は明治まで当神社の神主だった

墓所は境内右側の山道から 3分ほど歩いていると… 右手に墓所に続く別れ道が出てくる





伊福部家の墓所に到着!先生の墓は後列の左端 日本を代表する作曲家の1人 周囲の山林からウグイスの鳴き声。素敵な墓所





娘さんが作った動物(ニワトリや魚)の焼物が
囲んでおり、これなら寂しくない
本物のコーヒーが供えられた墓は
初めて!良い香りがした♪
「ゴ」と描かれた石板が置かれていた!
『ゴジラ』のテーマ曲が頭に浮かぶ

「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」(伊福部昭)
北海道釧路出身。アイヌ文化から影響を受ける。1954年、40歳のときに『ゴジラ』のサウンドトラックを手掛けた。『座頭市』シリーズ、『ビルマの竪琴』なども担当し、SFから時代劇まで幅広いジャyンルに作品を遺した。門下に芥川也寸志・黛敏郎。平和主義者であり、池辺晋一郎、三善晃、加藤登紀子、湯川れい子、千住真理子らと共に、“音楽・九条の会”呼びかけ人になる。
伊福部家は古代豪族(因幡国/鳥取)・伊福部氏を先祖とする。祖父の代まで宇倍神社の神官であり、墓所も同神社。宇倍神社は648年創建、因幡国一の宮で格式が高い。境内右脇の山道を登っていくと茂みの中に伊福部家の墓所がある。

※『音楽・九条の会』呼びかけ人(アイウエオ順)
池辺 晋一郎(作曲家)/伊藤 強(音楽評論家)/井上 鑑(キーボード奏者・アレンジャー・プロデューサー)/伊福部 昭(作曲家)/桂 直久(大阪音楽大学名誉教授・オペラ演出家)/笠木 透(フォークシンガー)/加藤 登紀子(歌手・俳優)/上條 恒彦(歌手・俳優)/上村 昇(チェロ)/川本 守人(N響団友会会長、元首席オーボエ奏者)/亀渕 友香(ゴスペルシンガー)/喜納 昌吉(歌手)/日下部 吉彦(音楽評論家)/黒崎 八重子(ホール支配人)/小室 等(ミュージシャン)/櫻井 武雄(大阪芸術大学名誉教授)/さとう 宗幸(歌手)/菅原 洋一(歌手)/茂山 千之丞(狂言役者)/千住 真理子(ヴァイオリニスト)/高石 ともや(フォークシンガー)/高橋 アキ(ピアノ)/竹本 節子(アルト)/田村 拓男(日本音楽集団)/外山 雄三(音楽家)/中澤 桂(ソプラノ)/成田 繪智子(アルト)/新実 徳英(作曲家)/西村 朗(作曲家)/野口 幸助((財)関西芸術文化協会名誉会長、関西歌劇団団長)/広上 淳一(指揮者)/藤井 知昭(音楽学)/普天間 かおり(歌手)/三原 剛(バリトン)/三善 晃(作曲家)/湯川 れい子(音楽評論家・作詞家)/横井 和子(ピアノ)。



★弘田 龍太郎/Ryutaro Hirota 1892.6.30-1952.11.17 (東京都、台東区、全生庵 60歳)2010


唱歌をたくさん作曲 「弘田家之墓」 墓前に『叱られて』の譜面

高知県出身。東京音楽学校で本居長世に師事。1928年(36歳)、文部省在外研究生としてドイツ・ベルリンに留学。帰国後、東京音楽学校の教授となったが、2カ月後に作曲活動に集中するため辞任。素朴さと叙情性をたたえた童謡「雀の学校」「春よこい」「靴が鳴る(♪おててつないで 野道をゆけば)」「鯉のぼり(♪いらかの波と雲の波)」「浜千鳥」「られて」などを作曲。



★ウェーベルン/Webern Anton 1883.12.3-1945.9.15 (オーストリア、ミッタージル 61歳)2015
Mittsersill Kirchhof, Mittersill, Zell am See Bezirk, Salzburg, Austria 

  

前衛音楽家。新ウィーン楽派。第二次世界大戦の終戦直後、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、
オーストリア占領軍の米兵から闇取引の合図と誤解を受け射殺された。悲惨すぎる…。墓の文字がカッコ良い。



★ウェーバー/Carl Maria von Weber 1786.11.17-1826.6.5 (ドイツ、ドレスデン 39歳)2015
Alter katholischer Friedhof(Old Catholic Cemetery), Dresden, Dresdener Stadtkreis, Saxony (Sachsen), Germany



墓地中央のチャペルの後方に墓域 壁際にウェーバー家の墓が並ぶ “マリア”と書いてるけど男性

生前から評価が高かった “壺が割れてる?”いえいえ花瓶です 手前には名前の刻まれたプレートがあった

ドイツの作曲家。指揮棒を初めて用いた。モーツァルトのドイツ語オペラを継承、中世・近世の伝説を
題材にドイツ・ロマン派歌劇を確立。「魔弾の射手」を作り、ワーグナーへの橋渡し役となった。
モーツァルトの妻は父方の従姉。オーケストラの配置を現在に近い形にする。「舞踏への勧誘」もヒット。




★フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト/Franz Xaver Mozart 1791.7.26-1844.7.29 (チェコ、カルロビ・バリ 53歳)2015
Saint Andrews Chapel Churchyard, Karlovy Vary, Karlovarsky (Karlovy Vary), Czech Republic


大作曲家の息子

フランツ7歳(左)1798年
※右は7歳年上のカール

チェコのカルロビ・バリはかつての独領カール
スバート。温泉保養地として知られている

ネットには墓のおおよその場所しか出て
おらず現地で情報収集する必要があった。
画面右の看板(地図)には載ってなかった
誰に尋ねても「聞いたことがない」と言われる
なか、左のマダムが墓地を知っており、右の
学生さんが英語で通訳してくれた

マダムに教えられた方向へ行っても墓地が
なく、このペンションで聞き込みをした。
オーナー「モーツァルトの息子か。あと500m
先に昔の墓地があるぞ。きっとそこだ」


確かに史跡っぽい古い墓地があった。
庭師さんが耳栓(ヘッドフォン)をして掃除
していたので、視界に入るように手を振った。
「モーツァルトの息子!奴の墓はここじゃ
ないぞ。地図を持っているか」「はい」
「ペンを貸せ。墓の場所はここだ」「おおきに」
この白髭のオジサンが地図に印を入れて
くれたことで、少なくともこの町にフランツ
の墓があることが確実になった。直前まで
“ネット情報はガセネタでは”と疑い始めて
いたので、一気に元気が出た。さあ行こう!


…教えてもらった場所は小さな山だった。
これのどこに墓地が…。とにかく通行人を
見つけては「この辺らしいのですが」と
聞きまくったのだけど→
「モーツァルトの息子?お墓?」
「30年住んでるけど初耳だわ」
ダメだ…地元では有名人かと
思ったけどこうも知らない人ばかりとは
この2人には「お父さんのお墓が
ウィーンにあるのだから、ウィーンの墓地
を調べてみたら?」とアドバイス
されてしまった。既に1時間が経過…

50年住んでるお爺さんが知らなかったので心が折れ、「これ以上時間をかけると次の目的地に着いたら夜になる」と墓参を断念。うなだれてレンタカーに戻ると、道の反対側にiPhoneを聞きながら散歩している若者がいた。「ご老人に聞いても分からなかったんだ。こんな若者が知ってるはずない」と思いつつ、最後にダメ元で聞いてみた。
彼は“ちょっと待って”と考える仕草をした後、“モーツァルトの子、モーツァルトの子…”と呟き、指をパチン。「うん、なんかそれらしいのを見たことがあるぞ。着いてきて!」。
マジか!やった!と喜んだものの、彼は「近道をする」とひとけのない雑木林にズンズン入っていった。ぶっちゃけ、街中は落書きが多く、あまり治安の良いエリアじゃなさそうだ。僕は“初対面の人を疑うなんていけない”と思いつつ、“もし雑木林で事件に巻き込まれたら、それが僕の人生だったと、そういう宿命だったと受け入れよう”、そんなことを考えながら彼について行った。

ここを入っていく。海外では昼間でも
ひとけのない場所を避けていたので緊張。
名前はレナド君とのこと
15分で雑木林を抜け、山の斜面を降りると
レナド君が「YES!LOOK!」と前方を
指差した。うおっ、墓石が何個か見える
「MOZALT」の文字が見えた!ウオオ!
レナド君、本当にありがとう!一瞬でも疑
ってゴメン!君のおかげでたどり着けた!

レナド君「じゃ僕はこれで。ベトナムから来たの?チャイナ?」(旧共産圏
の交流国)。日本と答えると「ジャパン!ハイク!クロサワ!アイ・ラブ!」。
まさかの俳句、黒澤明。なんて渋い若者なんだ。今時、日本の若者
でも黒澤映画はすぐ出てこない。もはや同志、思わず固い握手。
墓碑銘が本名のフランツ・クサーヴァー・モーツァルトではなく、父の
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになっているのは、彼が“2世”
をアピールしていたからだろう。生没年はちゃんとフランツになっていた


聞けばレナド君は散歩が大好きで、音楽を聴きながら町中を歩きまくってるという。しかもこの時クラシックを聴いていた。通りで墓を知ってたはず!
僕がレナド君に巡り会うまで、18人に道を尋ねた。その結果は「この街にモーツァルトの子の墓があるなんて聞いたことがない」と肩をすくめた人が10人、「知っている」と言いつつ違う墓地を教えてくれた人が8人。うう…教えてくれる優しさに感謝だけど、知らない場合はそう言って欲しい。2時間ほど行ったり来たりでヘトヘトに。
それにしても、諦めて帰る前に、“最後の一人”とレナド君に訊いて良かった。彼に会えなければ、フランツの墓巡礼ができぬまま帰国していた。間一髪だった。
レナド君と別れた後、故井上ひさし氏の言葉を思い出した。「オーストラリアで黒澤監督特集が催され、そのおかげで日本人観まで好転した。パスポートだけでなく芸術の力で私達がいかに守られていることか」

【フランツ・クサーヴァー・モーツァルト】…作曲家、ピアニスト。天才モーツァルト他界の4カ月前に生まれた末子で四男。6人兄妹(4男2女)のうち成人できたのは次男カール・トーマス(1784-1858)と四男フランツ・クサーヴァーだけ。宮廷音楽長サリエリなどに学び「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世」の名で活動した。洗練されたピアノ協奏曲やヴァイオリン・ソナタを作曲したが、30代になると筆を置き、ピアニスト活動に特化していった。1844年、カールスバート(現カルロビ・バリ)にて53歳で病没。死因は胃癌。兄カールは役人となり、フランツの死の14年後に他界した。兄弟どちらも生涯独身だったことから、大作曲家の血筋はここで途絶えた。
※父の弟子にフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー(1766-1803)がいる。“フランツ・クサーヴァー”という名が全く同じなのは、敬意を表してつけられたという説、母コンスタンツェとの不倫の子という説がある。



★ホルスト/Gustav Holst 1874.9.21-1934.5.25(イギリス、チチェスター 59歳)2015
Chichester Cathedral, Chichester, Chichester District, West Sussex, England


墓石には「THE HEAVENLY SPHERES MAKE MUSIC FOR US」(天の球体は私たちのために音楽を作る)

グスターヴ・ホルストはイギリスの作曲家。イギリス中南部グロスターシャー州チェルトナムにて1874年9月21日に生まれた。少年時代から父に音楽教育を受け、1893年に19歳でロンドンの王立音楽大学に進む。1895年(21歳)、故郷が同じグロスターシャーで2歳年上のヴォーン・ウィリアムズと出会い親交を深めた。卒業後、トロンボーン奏者や指揮者で生活費をかせぎながら、作曲家スタンフォードに師事する。
1905年(31歳)、セント・ポール女学校の音楽教員になる。
1907年(33歳)、妻イゾベルとの間に娘イモージェン・ホルストが生まれる。
1908年(34歳)、室内オペラ『サービトリー』を作曲。バラモン教の経典に音楽をつけたものである。
1909年(35歳)、『吹奏楽のための組曲第1番』『第2番』を作曲。両曲とも吹奏楽の古典的な演奏会用作品として後に重用される。
その後は、親友の作曲家ボーン・ウィリアムズのようにイギリス民謡に関心をむけ、数多くの民謡をブラスバンド、オーケストラ、合唱などのために編曲した。
1913年(39歳)、学生たちの演奏用に相応しい曲がないことに気づき『セント・ポール組曲』を作曲。
1915年(41歳)、日本人舞踊家・伊藤道郎の依頼で6楽章のバレエ音楽『日本組曲』を作曲。「ねんねんころりよおころりよ」のメロディーなど日本民謡の旋律で構成され、「前奏曲 漁師の歌」「儀式の踊り」「操り人形の踊り」「間奏曲 漁師の歌」「桜の木の下での踊り」「終曲 狼たちの踊り」と標題がついている。
1916年(42歳)、代表作となる管弦楽組曲『惑星』を作曲。占星術から着想を得て書かれた作品で、「惑星」より「運星」に近い。太陽系の惑星の特徴が音楽で表現され、占星術の他にイギリス民謡やヒンドゥー教神秘主義の影響も受けている。全7楽章の構成は、第1曲「火星、戦争をもたらす者」、第2曲「金星、平和をもたらす者」、第3曲「水星、翼のある使者」、第4曲「木星、快楽をもたらす者」、第5曲「土星、老いをもたらす者」、第6曲「天王星、魔術師」、第7曲「海王星、神秘主義者」。最後の「海王星」では舞台裏に配置された女声合唱が使われる。楽譜の最後の1小節に反復記号が記され、「この小節は音が静寂の中に消え入るまでリピートせよ」と指示されている。初演の際に聴衆は斬新な響きに驚くと共に、絶賛をもってホルストに応えた。「火星」と「木星」が特に有名だが、ホルスト自身は「土星」を気に入っていた。
1918年(44歳)、管弦楽付きコラール『我は汝に誓う、我が祖国よ』(I vow to thee, my country)を作曲。組曲『惑星』の1曲「木星」中間部の旋律を編曲し、イギリスの外交官スプリング=ライスが第一次世界大戦中に作った詩をのせた愛国歌であり、イングランド国教会の聖歌。歌詞の1番は祖国への忠誠心、2番は平穏の理想の国家について歌う。ダイアナ妃がこの聖歌を好んだことから結婚式で演奏され、葬儀の際も長男ウィリアム王子の要望で演奏された。
※讃美歌『我は汝に誓う、我が祖国よ』
https://www.youtube.com/watch?v=bvouc8Qs_MI
1919年(45歳)、王立音楽大学の教授になる。
1925年(51歳)、ホルストの最高傑作とされる1幕オペラ『ボアズ・ヘッド亭にて』を作曲。
1926年(52歳)、第一次世界大戦休戦協定記念式典で『我は汝に誓う、我が祖国よ』が演奏され、以降イギリスでは11月11日のリメンブランス・デーで戦没者の追悼歌として歌われるようになった。同年、賛美歌集『ソングス・オブ・プライズ』に収録され、監修したホルストの友人ヴォーン・ウィリアムズが自身の暮らした街の名にちなんで『サクステッド』と名付けた。これによって、『我は汝に誓う、我が祖国よ』の旋律は「サクステッド」と呼ばれるようになり、様々な音楽家が歌詞を付けるようになった。
1927年(53歳)、全英ブラスバンド選手権大会決勝の課題曲の委嘱を受け『ムーアサイド組曲』を作曲。ブラック・ダイク・バンドが優勝した。
1934年5月25日、出血性胃潰瘍のためロンドンにて他界。享年59。この4年前に冥王星が発見されたことから、ホルストは新たに『惑星』の冥第8曲「冥王星」の作曲を開始したが、脳卒中で倒れて実現しなかった。2006年の惑星の新定義で冥王星が惑星から除外されたことで、『惑星』は再び太陽系と一致した。
1961年頃、ヘルベルト・フォン・カラヤンがウィーン・フィルの演奏会で『惑星』を取り上げレコードを発売。これが大ヒットとなり、ホルストの名が日本でも知られるようになった。
1976年、冨田勲がシンセサイザー版『惑星』を発表。
1986年、エマーソン・レイク・アンド・パウエルのアルバムにプログレ版の「火星」が収録。
2003年、「サクステッド」に吉元由美が日本語歌詞をつけ、平原綾香がデビューシングル『Jupiter』としてリリースされた。

〔墓巡礼〕
ホルストはイギリス南部ポーツマスに近い古都チチェスターのチチェスター大聖堂に眠っている。堂内の北袖廊の床の墓石には2つの惑星が彫られ、「THE HEAVENLY SPHERES MAKE MUSIC FOR US」(天の球体は私たちのために音楽を作る)と言葉が刻まれている。チチェスター大聖堂は12世紀からの歴史ある大聖堂で、シャガールのモダンなステンドグラスでも有名だ。

※ホルストは東洋哲学を学びサンスクリットの研究も行った。
※ホルストの名が命名された小惑星(3590)がある。
※チェルトナムにホルストの鋳像が建つ。
※娘のイモージェン・ホルスト(1907-1984)は王立音楽大学でヴォーン・ウィリアムズに師事し、彼女もまた作曲家になった。オールドバラ音楽祭を芸術監督として6歳年下の作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913-1976)と共に発展させ、1984年に76歳で他界。オールドバラの聖ピーター&聖ポール教会の墓地にてブリテンと彼のパートナーだったテノール歌手ピーター・ピアーズの墓の真後ろに眠っている。



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