世界のお墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

彫刻家、写真家、建築家、工芸家、陶芸家コーナー


★34名


●彫刻家・仏師
カミーユ・クローデルの墓
ドナテッロの墓

ブランクーシの墓
ミケランジェロの墓
ヘンリー・ムーアの墓
ロダンの墓
運慶の墓
円空の墓
定朝の墓
西村公朝の墓

●写真家
ロバート・キャパの墓
ユージン・スミスの墓
グレッグ・トーランドの墓
※映画
メイプルソープの墓
マン・レイの墓
沢田教一の墓
土門拳の墓
星野道夫の墓
横山松三郎の墓
●建築家
アルヴァ・アールトの墓
アスプルンドの墓
アントニオ・ガウディの墓
エッフェルの墓
夢窓疎石の墓

●工芸家(陶工、刀工他)

ウエッジウッドの墓
エミール・ガレの墓
ティファニーの墓
ルネ・ラリックの墓
本阿弥光悦の墓
尾形乾山の墓

川喜田半泥子の墓
左甚五郎の墓
棟方志功の墓
野々村仁清の墓
正宗の墓
樂長次郎の墓



★ミケランジェロ/Michelangelo Buonarroti 1475.3.6−1564.2.18 (イタリア、フィレンツェ 88歳)1994&2004 彫刻家
Santa Croce Church, Florence, Toscana, Italy










1994
ダ・ヴィンチと並ぶ、人類の限界を超えた究極生物!


「ピエタ」はキリストの亡骸を抱え嘆き悲しむ
聖母マリアの姿。作者が署名を刻んだ唯一
のもので、なんとまだ24歳の頃の作品だッ!
※キリストの右脇の肌のたわみがスゴイ
ダビデ像は高さ4.3m!4年
の歳月をかけて彫り上げた












『モーセ』
2本の角が生えてるのは聖書のラテン語訳の
誤訳(光を放つ→角が生える)を彼が信じた為
『最後の審判』
中央のキリストを挟んで左側が天へ昇天
する人々、右側は地獄へ落ちていく人々
『天地創造』
旧約聖書『創世記』から「光と闇の分離」「アダムの創造」「イブの創造」
「原罪と楽園追放」「大洪水」など9場面を、4年がかりで一人で描いた

「アダムの創造」












2004 再巡礼

2004 上方に絵画

親友の建築家ジョルジョ・ヴァザーリが1570年に
デザイン。3人は彫刻、絵画、建築を象徴している

「最大の危険は、目標が高すぎて、達成出来ないことではない。目標が低すぎて、その低い目標を、達成してしまうことだ」(ミケランジェロ)
美術史上、最も偉大な芸術家の一人。ミケランジェロは盛期ルネサンスの頂点を築いた彫刻家、画家、建築家、詩人であり、そのどれもが傑作ぞろいというスーパー人類。人々は彼を「神のごときミケランジェロ」と呼んだ。フィレンツェ近郊のカプレーセ村出身。「ミケランジェロ」の名は天使長ガブリエル、天使長ウリエル、天使長ラファエルらを束ねる大天使長ミカエル(Michael)と天使(angelo)を併せたもの。5人兄弟の次男で父はフィレンツェの役人。早くから芸術家を夢見ていた為、13歳の時に父がフィレンツェの画家ドメニコ・ギルランダイオ(1449-94)に入門させてくれた。同年、すぐに画才を発揮し、マルティン・ショーンガウアーの銅版画を模写・着色した『聖アントニウスの誘惑』を完成させる。13歳とは思えぬ実力に兄弟子たちは仰天。ミケランジェロはフレスコ画の名手であった師から1年ほどで学び尽くした。1489年(14歳)、芸術家保護で著名な大富豪メディチ家の当主“豪華王”ロレンツォから才能を見出され、メディチ家の“彫刻家学校”で修業することを認められた。ロレンツォ邸で暮らすことになり、この生活は1492年(17歳)にロレンツォが他界するまで2年続き、メディチ家が収集した古代彫刻の逸品に触れることができた。また、後にローマ教皇レオ10世(ロレンツォ次男)やクレメンス7世(ロレンツォ甥)になるメディチ家の若者たちと親交を結ぶ機会に恵まれた。
 
1494年(19歳)、フランスのシャルル8世がイタリアに侵攻すると、メディチ家はフランスに接近しすぎたことでフィレンツェ市民の反感を買い、一時的に街から追放される。ミケランジェロはメディチ家と交流があったことから暴徒の襲撃を恐れ、フィレンツェを去ってボローニャで作品を制作した。この頃、ミケランジェロは人体解剖を体験し、これによって骨格や筋肉の構造や働きを科学的に理解し、以降の彫刻・絵画に大いに生かされていく。
1496年(21歳)、ミケランジェロの『眠れるキューピット』を“古代彫刻”と信じ込んで購入した枢機卿が、ミケランジェロの腕に惚れ込み、彼をローマに招いた。初めてローマの地を踏んだミケランジェロは、発掘されたばかりの古代彫刻の調査や研究に携わった。23歳からは、生涯で署名を入れた唯一の作品、傑作『ピエタ』の制作を開始し、翌年に完成する。十字架から降ろされたキリストの亡骸を抱える若きマリアの彫像は、ローマの人々の心に深く響き、24歳のミケランジェロの名声は瞬く間に広がった(500年以上経った現在もサン・ピエトロ大聖堂で来訪者に感動を与え続けている)。
 
翌年、フィレンツェに“凱旋”したミケランジェロは、26歳から30歳まで4年の歳月をかけて、野心的な大作である4.3mもの大理石像『ダビデ』(1501-05)に挑む。古代イスラエル王国の王ダビデは青年時代に石投げで巨人ゴリアテを打ち倒した。ミケランジェロは左肩に投石器を乗せて今まさにゴリアテを討ち果たさんと遠方を睨み付ける姿を彫り上げる。ミケランジェロがこの大作に挑む際、習作を作らずいきなりノミで刻み始めたことから、驚いた周囲の人々が「なぜそれほど急ぐのか」と尋ねると、彼は「石の中に埋もれている人が早く解放してくれ、早く自由にしてくれと、私に話しかけているのだ」と答えたという。旧約聖書の英雄を燃え上がる内面の炎まで表現したこの作品を、人々は「古代ギリシャ・ローマ彫刻を超越した」と絶賛し、市庁舎の前にフィレンツェのシンボルとして設置した(アトリエから4日がかりで運搬!)。
※フィレンツェ市庁舎前で風雨にさらされていた『ダビデ』は、完成から373年が経った1873年にアカデミア美術館に移され、レプリカが代わりに置かれた。
 
ミケランジェロは『ダビデ』制作中の1503年に壁画『カッシーナの戦い』の注文を受けた。フィレンツェ市庁舎会議室のための大壁画であり、真向かいではあのレオナルド・ダ・ヴィンチ((1452-1519)が『アンギアーリの戦い』に取り組んでいた。ミケランジェロは23歳も年上のレオナルド(当時51歳)のことを尊敬する一方で、28歳の若者らしく画家としての力量を巨匠に見せつけようとした。残念ながら、この世紀の対決は互いの多忙さから共にカルトン(下描き)より先に進まなかった。
 
1505年(30歳)、ミケランジェロは空前絶後の規模となった天井画や、教皇ユリウス2世の墓の制作のためローマに呼び戻される。当初、ミケランジェロは天井画の制作に乗り気ではなく、この仕事を辞退していたが、同時期に8歳年下のラファエロ(1483-1520/当時25歳)がヴァチカン宮殿に見事な壁画を完成しつつあり、1508年(33歳)、新たな若い才能への対抗心もあって絵筆を取る決心をした。最初は5人の助手を使って制作していたが、完全主義者で短気なミケランジェロは助手を追い出し、ひとりで土を練り、壁を塗り、絵筆を握り続けた。
ミケランジェロは完成を急かすユリウス2世とぶつかり合いながら、1512年(37歳)まで4年をかけて、礼拝堂に組まれた高さ約20mの足場で“立ったまま海老反り”になり、上を向いて奥行き約40m、幅約14mの絵画を描ききった。それらは旧約聖書「創世記」に記された「光と闇の分離」「イブの創造」「原罪と楽園追放」「大洪水」などの9場面からなり、中でも神がアダムに指先から生命をふきこんでいる「アダムの創造」は劇的なものとなった。登場する人間の数は400人に達し、それらすべての人物1人1人に個性があった。天才と呼ばれたラファエロは、ミケランジェロの天井画に感動し、人物の描き方が彫刻的でダイナミックなものに変わった。
 
システィナ礼拝堂の天井画が完成した翌年にユリウス2世は他界。完成を急かしていたのは死期を感じ取っていたからか。ミケランジェロはユリウス2世の墓のためにルネサンス彫刻の頂点のひとつ、傑作『モーセ』(1515)を彫り上げた。右腕に十戒の石板を抱え、遠くを見つめている族長。モーセの頭からは2本の角が生えており、これはラテン語版聖書の“誤訳”(光を放つ→角が生える)をミケランジェロが信じたためだ。
※現在『モーセ』はローマのサン・ピエトロ・イン・ビンコリ聖堂に安置。同じくユリウス2世廟のために造られた『瀕死の奴隷』はルーブルが所蔵。
 
ミケランジェロは40代半ばから本格的に建築家としての活動を開始する。図書館や教会を設計し、1527年(52歳)に神聖ローマ帝国皇帝カール5世の軍がローマを残虐に略奪した際は、共和制支持者としてフィレンツェ防衛のための城塞の建設を監督した(メディチ家は再び追放され共和国になっていた)。だが2年後、ミケランジェロは反逆者とされることを恐れ、フィレンツェを捨てヴェネチアに逃れる。これは彼の中で恥の感情となった。
戦後、10年以上前から取り組んでいたサン・ロレンツォ教会のメディチ家廟墓の制作を続けるためフィレンツェに戻り、ロレンツォ・デ・メディチとジュリアーノ・デ・メディチの墓を制作した。内省的な性格であったロレンツォの座像の下には「朝」「夕」、外交的なジュリアーノの座像には「昼」「夜」を象徴する裸体像を設置し、ミケランジェロはこの四体について次の四行詩を書いた「われ、石に眠るこそ、楽しみなり/破壊、恥辱の多き世に/見ず聞かざるは、幸せなり/されば目覚ますな、ひそかに語れ」。
1534年(59歳)、メディチ家が専制化したことを嫌いローマに移り住んだミケランジェロは他界するまでフィレンツェには戻らなかった。
 
1536年(61歳)、ミケランジェロは24年前に天井画を完成させたシスティナ礼拝堂にて、今度は祭壇後方の壁にルネサンス期最大となるフレスコ画『最後の審判』(タテ13.7m×ヨコ12.2m)を描き始め、5年を費やして完成させた。中央に右手を掲げて審判を行うキリストを配置し、その左側には祝福され天国に昇る人々を、右側には罰せられダンテ『神曲』の地獄に墜ちる人々を描いた。ミケランジェロはこの作品に自画像とされる、異形の“人間の皮”を「地獄側」に描き込んだ。フィレンツェ防衛を任されていながらヴェネチアへ逃げた自分自身を糾弾し、抜け殻になった自画像を描いたと言われる。以降、ミケランジェロの創作エネルギーは建築に向かっていく。
楕円形に構成したカンピドリオ広場にローマ皇帝マルクス・アウレリウスのブロンズ騎馬像を置き、周囲の建築物を設計した。そして1546年(71歳)にブラマンテが設計したサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命され、ドームの最終的な形を決定した。このドーム様式はワシントンの連邦議会議事堂をはじめ、後世の多くのドームのモデルとなった。
 
ミケランジェロは17歳のときにケンカで鼻が曲がってしまい、容姿に対するコンプレックスが気難しく頑固な性格の大きな要因になったと友人のジョルジョ・ヴァザーリは記している。同性愛者として女性にあまり興味がなかったとされているが、60歳で貴族未亡人ヴィットリア・コロンナと出会ってからは、彼女に多くのソネット(詩)を捧げ、彼女をマリアのモデルにして「最後の審判」を描いた。
1564年、88歳のミケランジェロが死を前に呟いた言葉は「私が残念に思うのは、やっと何でも上手く表現出来そうになったなぁ、と思うときに死なねばならぬことだ」。遺作となった『ロンダニーニのピエタ』を死の6日前まで彫り続けた。
7人のローマ教皇に仕えたミケランジェロは、引き受けた仕事のために後半生の大半をローマで過ごしたが、心の奥でフィレンツェに愛着を抱き続けていた。遺言で「フィレンツェに葬って欲しい」と希望し、フィレンツェでは盛大な葬儀が行われた。現在、ガリレイやマキャベリの墓があるサンタ・クローチェ教会に眠っている。
 
僕らは日々の生活の中で、「人間の一生なんて短い、出来ることなどしれている」、そんな言葉を聞くことがある。でも、僕はシスティナ礼拝堂の天井画や『最後の審判』の前に初めて立ったとき、“人間はたった一人でこんなことが出来るのか!4年でここまで描けるものなのか!”と、人間の可能性の極限を見た思いがした。そしてサン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』の美しさに、キリスト教徒ではなくても涙腺が熱くなった。無実で処刑されたキリストと、死んだ子を抱く親の気持ち。文化や言葉を超えて伝わる悲しみ。これほど精神的な深みをたたえた作品を24歳の青年が彫り上げたことに驚愕すると共に、石ゆえの堅固さから500年前の当時の姿のまま今に残り、僕らがルネサンス時代の人々と時間を超越して感動を共有している心持ちがして胸が熱くなった。

「生命ある像が、荒々しく硬い石から余分な物を取り除くことによって得られ、石が減るにしたがって像が大きくなるように、肉体という余分なものは、その粗野でむき出しの硬い皮の下に震える魂に溢れた良き作品を宿している」(ミケランジェロ)
 
※ミケランジェロはシスティナ礼拝堂の天井画を描きながら、気持ちは彫刻に向かっていた。彼いわく「辞めたい。私は彫刻家であり画家ではないからです。だから私は時間を無駄にしています。神様、お助け下さい」。そう言いつつ、あの大傑作を仕上げるのだから凄すぎる。
※『ピエタ』の聖母マリアが“若すぎる”と批判を受けたことに対して、ミケランジェロいわく「貞淑な女性は不貞な女性よりもずっと長く若さを保てるのをご存知か」。
※ミケランジェロもユリウス2世も激情家であったことからしばしば対立し、ローマを立ち去ったミケランジェロが連れ戻された際、ミケランジェロは抗議の意味で自ら首に縄を巻いて謁見にのぞんだ。
※ミケランジェロが制作した青銅製のユリウス2世の座像は完成から3年が経った1511年に怒れる市民たちに破壊された。
※完成当時の『最後の審判』は全員が裸体で描かれた。しかし、風紀的な問題から約10年後に別の画家が下半身に布を描いた。この画家は「腰布描き」と人々から揶揄された。
※ミケランジェロは存命中に伝記が出版された初めての西洋美術家となった。
※「ミケランジェロのような人は、いまだかつて地上に存在したことがなかった。彼は、絵画・彫刻・建築・詩のすべてを把握し、そのすべてに、激しい理想主義と、たくましいエネルギーを叩き込んだ。彼の芸術は、後に続く幾世代もの芸術家たちを支配し、虜にした。彼の強烈な個性を反映した作品の1つ1つが、見る人の心を貫き、ねじ伏せるような力を発揮するのだ」(ロマン・ロラン)

【ミケランジェロの詩】(高田博厚訳)

●花冠と腰帯 ※好きな女性のアクセサリーの気持を歌う

何という花の歓び方。楽しげにもつれあって/金色の女の髪につけた花冠。/互いに前へ押し重なり/
まるでわれ先にと彼女の額に接吻したいよう。/衣裳は彼女の胸を包み、下の方でひろがって/ひと日ひねもす満足している。/
その金色の飾りレースは余念なく/彼女の頬やのどに触っている。/なかで一番可愛いのは、あの嬉しげなリボンの紐/
先に付けた鍍金の飾り。一寸むつかったように/締められた胸に衝ったり、触れてみたりする。/
そして腰を結んだ帯は、こう言っているよう/――わたしはしょっちゅう、ここを引き締めていたいの!/
――おお、そんならわたしの腕はどうしたらいいんだろう?

●システィナ礼拝堂天井画 ※天井画を4年間も描き続ける苦しみを嘆く

わたしはこの困厄の中でもう喉を害(いた)めてしまった。/まるでロンバルディアやあの辺りの澱んだ水で猫がやられるように。/
そこで腹は胸の下へぐっと引きつられ、/髯(ひげ)は天を向き、うなじは肩にくっついている。/わたしはまるでアルピア(怪鳥)のようだ。/
そして、顔の上にある筆が滴を落して/顔を彩られた床模様にするのだ/腰は腹へめり込んで、/臀(でん)で体の平均をとり、/
目前(めさき)めくらで足を空に動かす。/皮膚は前に引き延び、身を後に屈めるとまた皺よる。/
わたしはアッシリアのアーチみたいにふんぞり返る。/こんなわけでわたしの思考は/曲がりくねり汚れて頭から湧き出る。/
曲がった火縄銃を撃っても駄目なように。/わたしの死せる絵とわたしの栄誉を、/ジョヴァンニよ、今守護(まも)ってくれ。/
この場所は悪いし、わたしは絵描きでもないのだから。



★ロダン/Auguste Rodin 1840.11.12-1917.11.17 (フランス、ムードン 77歳)2002 彫刻家
Musee Rodin, Meudon, France
















国立西洋美術館(上野)にそびえる
ロダンの最高傑作『地獄の門』。
高さ5.4m、幅3.9m、重さは7トン!
地獄に転落していく無数の人々。「考える人」が地獄の中を
覗き込み苦悩している(画像中央)。戦慄の大作だ。この「地獄の
門」はパリや東京のものを含めて、世界に7つ鋳造されている
赤ちゃんまで地獄に
いるのが衝撃的。
しかも複数…

ロダンが40歳の時にフランス政府は国立美術館建設を計画。ロダンにモニュメントの依頼が来た。彼はダンテの『神曲/地獄篇』に出てきた
「地獄の門」を題材に制作を開始。だが建設は中止になり作品依頼も白紙になる。ロダンは自分のライフワークとして、自腹で彫り続けた。


そして、『地獄の門』を見つめる男を独立した作品として制作したのが、有名な『考える人』だ。発表時の
作品名は『詩人』。それ以前は『詩想を練るダンテ』だった。この男性はロダン自身であるとも言われている。




神の手を持つ男!
極端に近視だったという


写真右端の階段に座っているのが、閉館日
なのに入れてくれた優しい守衛さん!


ロダン美術館の「考える人」の台座の下が彼の墓!
※知り合いの石材屋さんいわく「“考える人”の下という
ことは“地獄”にいるってこと?」。確かに『地獄の門』的
にはそうなる。これはロダンの意図なのだろうか…!?

「芸術家である前に人間であれ」(ロダン)。豊かな生命力と、力強い精神性を秘めた人物彫刻を多数生み出した近代彫刻の父。ミケランジェロ以来の最大の彫刻家で、外面をモデルに似せるのではなく、モデルの内面を形にしようとした。従来の彫刻の様に神話や聖書の一場面を再現するだけでなく、そこに身を置く人間の心の声を表現した。
ロダンは1840年にパリで生まれた。父は警視庁勤めの下級事務員。10歳の時に絵を描くことが好きになり、14歳から17歳まで工芸学校に通った。この3年間で粘土を握る楽しさに開眼する。その後、美術の専門教育を受けたくて国立美術学校エコール・デ・ボザール入学を目指したが3度にわたって失敗。入学を断念し、建築装飾の工房で職人となり独学を続けた。1862年(22歳)、最大の理解者だった姉マリアが修道院で病死(自殺とも)。姉が修道女になったのは酷い失恋を体験したからで、相手の男性はロダンが紹介した画家であったことから彼は自分を責めた。そしてロダンも俗世を捨て修道院に入ったが、院長から芸術家として生きるよう説得を受け翌年に還俗する。

1864年(24歳)、生涯の伴侶となる裁縫職人ローズ(20歳)と出会い長男が誕生。同年、サロン(美術展)に『鼻のつぶれた男』を出品するが落選。以降13年間、世に出ることもなく黙々と作品を造り続けた。1870年(30歳)、フランスとプロシアの間で普仏戦争が勃発し、建築装飾の仕事が激減したことから、ロダンは家族を養う為にベルギーで仕事を探す(7年間滞在)。31歳、ベルギーの彫刻家カリエ=ベルーズの助手となってブリュッセル証券取引所の建築装飾を制作。ロダンは生活を切り詰めながら貯金し、1875年(35歳)、念願のイタリア旅行(フィレンツェ&ローマ)を行った。そこでルネサンス時代の彫刻家ドナテロやミケランジェロの作品と出会い、強い存在感を持つ人体表現に衝撃を受ける。「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」(ロダン)。
1877年(37歳)、サロンに男性像『青銅時代』(初期題名“自然に目醒めていく男”)を出品して初めて美術界の注目を集めるが、等身大で生き写しのようなリアリティがあったことから「生身の人間から直接石膏の型をとったのでは」とあらぬ中傷を受け、サロンでも落選した。翌々年、怒ったロダンは人間よりずっと大きな彫刻を造って疑う者をねじ伏せ、誤解が解けたことでフランス全土に名声が広まり、『青銅時代』も制作3年後にサロン入選を果たした。

1880年(40歳)、聖人をあくまでも一人の人間として造型した『洗礼者ヨハネ』によってロダンの名声は益々高まる。同年、政府から依頼を受けて国立装飾美術館のブロンズ門扉『地獄の門』の制作をスタート。この門はダンテ「神曲」の「地獄編」をモチーフにしており、制作期間が30数年に及ぶライフワークとなった。高さ5mを超える大作であり、何度も構想を練り直して作業は遅れた。この生みの苦しみを味わっている時にロダン(43歳)の心を捉えたのが、19歳の美しい女弟子カミーユ・クローデル(1864-1943)。カミーユは才気に溢れ、高い彫刻技術を持っており、ロダンは彼女にのめり込む。だが、内妻ローズと別れることは出来ず、ドロドロの三角関係が15年も続くことになる。カミーユは20代後半にロダンの子を中絶するなど辛い経験をするが、最終的にロダンはローズを選んだことから、彼女は精神のバランスを崩し発狂してしまう。
1886年(46歳)、英仏百年戦争でカレー市を救った6人の彫像『カレーの市民』を制作。これは自己犠牲を行った歴史上の人物の内面(苦悩する英雄)を巧みに表現し、人々を圧倒するブロンズ群像となった。

  『青銅時代』  『カレーの市民』

1888年(48歳)、装飾美術館の建設が立ち消え『地獄の門』の買い手はいなくなったが、ロダンは自腹で制作を続行した。翌1889年(49歳)、『地獄の門』で扉の上部から地獄の情景を見下ろしている男を単独作品『詩人』として発表(初期題名は“詩想を練るダンテ”)。この像は後に鋳造した人物が『考える人』と名付けた。地獄の門にはカミーユや私生児の姿もあることから、“詩人”はロダン本人とも言われている。

1897年(57歳)、肖像彫刻の傑作『バルザック像』を発表。1913年(73歳)、既に40代後半になっていたカミーユは家族によって精神病院に入れられた。その4年後の1917年。長く内縁の妻だったローズは73歳になり死期が迫る。ロダンは正式に彼女と結婚し、その16日後にローズは世を去った。そして9カ月後の11月17日、パリ近郊のムードンでロダンも後を追うように他界した。享年77。末期の言葉は「パリに残した若い方の妻に逢いたい」と伝えられ、これはカミーユのことと考えられる。ロダン他界から26年が経った1943年、カミーユは身内に看取られることなく転院先の南仏の精神病院において78歳で死去した。
パリのロダン美術館や東京の国立西洋美術館には『地獄の門』などまとまったコレクションがある。『地獄の門』は未完に終わったとはいえ186もの人体で埋め尽くされた驚愕の力作。高さ5.4m、幅3.9m、重さは7トン!ロダンの死の21年後(1938年)に鋳造され世界に7つある。

ロダンが晩年に暮らしたムードンまでパリから約2時間。何度も電車を乗り継ぎ、駅からは徒歩で『ロダン美術館』に向かった。ロダン邸を改装した美術館は住宅街の中にあり、めちゃくちゃ探しまくった。ようやくたどり着くと、なぜか門が閉まっていた。
「お昼休みか?あ、看板だ…えーと、ゲゲッ!週の後半しか開いてないじゃん(この日は火曜日)!NOーッ!」。僕は狂ったようにインターホンを鳴らしまくった。インターホンの向こうからは英語で「トゥデイ・クローズド、ソーリー・マダム」との声。“マダム!?なんでマダム!?”どうやら門の上に監視カメラがあり、小さなモニターを見て勘違いしてるようだ(確かにこの時はパーマを当てていたけど…声で気づけよッ!)。
とにかく、日本からここまで来て“ハイ、そうですか”と帰れるかっつーの!「ソーリー・インポッシブル」を繰り返す相手に、ひたすら「シル・ブ・プレ(お願い)」「トンブ!トンブ!(墓!墓!)」と10分近く連呼し、“美術館が休館でも良い、中庭のロダンの墓を墓参したいだけ”と想いをぶつけた。やがて涙声に向こうが折れ「ワン・モメント」と言って守衛が出てきた!そして“考える人”の下に眠るロダン御大に謁見させてもらったァーッ!

※『地獄の門』では“考える人”の足下は地獄。つまりロダンは地獄にいるってこと?これがロダンの意図とすると、彼は地獄こそ自身に相応しいと思っていたのだろうか。
※ミケランジェロ生誕の365年後にロダンが生まれている。
※ロダン美術館はパリ、ムードン、フィラデルフィア、東京にある。
※カミーユは心の病になって自作を大量に破壊したが、彫像や絵画が約90点現存している。死の8年後(1951)、弟ポールはパリのロダン美術館で姉の作品を展示した。
※『考える人』は右肘を右膝ではなく左膝に置いている。そのため、体がよじれ緊張感が生まれている。
※「ロダンは内部の炎だけで燃える炉である」(弟子ブールデル)
※「深く、激しく、真実を語りなさい。世の中の考えと対立しても感じたまま臆せずに」(ロダン)



★カミーユ・クローデル/Camille Claudel 1864.12.8-1943.10.19 (フランス、アヴィニヨン 78歳)2005 彫刻家
Centre Psychotherapique Departemental de Montfavet, Avignon, France

24歳のカミーユが制作した
師匠・ロダン像(1888)
『ワルツ』(1895)
カミーユ31歳。素晴らしい造形美
衝撃作『分別盛り』(1898、カミーユ34歳)
カミーユはロダンの手を取ろうとするが、ロダンの内縁の
妻ローズがさらってしまう。ローズは“死神”の姿…



カミーユは心の病にかかり、この病院で亡くなった 病院の前の石碑。3行目にカミーユ・クローデルとある
アヴィニヨンの街中で見つけた

彫刻家オーギュスト・ロダンの弟子になり、やがて愛人となる。後にクローデルは精神に異常をきたし、
アヴィニヨン近郊モンドヴェルグの精神病院に入院。そのまま院内で人生を閉じた。
1988年のフランス映画『カミーユ・クローデル』は必見。イザベル・アジャーニの熱演に圧倒された!
ちなみに『機動戦士Zガンダム』の主人公カミーユの名前は彼女から。あの結末は第1話から決まっていたということか…

 

ベトナム人のタクシー運転手タン君。カミーユの事を初めて知った彼は、僕が墓参している間、病院の守衛さんから話を聞いていた。



★エミール・ガレ/Emile Galle 1846.5.4-1904.9.23 (フランス、ナンシー 58歳)2005 ガラス工芸家
Cimetiere de Preville, Nancy, France

 
ガレは、なかなかのハンサム




墓地の一番奥の壁沿いに眠っている 晩年の傑作“ひとよ茸” 好んで植物を描いた

ガラス工芸家。19世紀末にブームとなったアールヌーボーの先駆者。少年時代から植物をこよなく愛していた彼は、「私は工芸家である前に植物学者だ」とし、地元の植物協会の会員となり、後に植物園の責任者となっている。
ガレの生きた時代は産業革命が進み、文明は機械化され、生活から自然が切り離されつつあった。「もはや人が木の下で眠らず、花の中で暮らさないのなら、逆に森を家の中に入れよう」--植物の美しさに自然の尊さを感じていた彼は、草花への感謝の意味を込めて、自らが制作する家具、ガラスの器、ランプなどのモチーフを植物とした。

白血病のために58歳で他界したガレは、死の2年前に傑作『ひとよ茸』を発表している。このキノコは“一夜茸”という名の通り、森の奥深くで夜のうちに傘を開いて胞子を放ち、夜明けには朽ちていく。たった一晩の短い命。ガレは傘が3段階に開いていく(成長する)様子を描くことで生命賛歌を形にした。さらに当時発明されたばかりの電球を使うことで文明と自然との融合を試みた。ロウソクの光と違って電気の光は燃え尽きることがない。そして、ガラスは朽ちることがない。ガレは自らの芸術によって、はかない一夜の命を永遠に変える奇跡を起こしたのだ。



★ルネ・ラリック/Rene Lalique 1860.4.6-1945.5.5 (パリ、ペール・ラシェーズ 85歳)2005
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France

 

ガラスの十字架がハメ込まれていた。ガラス工芸家らしい美しい墓だ。



★西村 公朝/Koutyo Nishimura 1915.6.4-2003.12.2 (京都府、右京区、愛宕念仏寺 89歳)2005 仏師

“最後の仏師”超優しい公朝さん










公朝さんが眠る京都・愛宕念仏寺 羅漢さんやシャガの花で埋め尽くされた階段を上っていくと… 公朝さんが待ってマス!

 
目の不自由な方でも触れることで慈悲が伝わるようにと、公朝さんが
彫り上げた「ふれ愛観音」。触ることができる仏像は珍しい
公朝さんは21年をかけ、この三十三間堂
の千体の観音のうち600体を修復したッ!

昭和・平成と活躍し、その卓越した技術と膨大な仕事量から“最後の仏師”と言われた西村公朝は、1915年大阪高槻に生まれた。1935年(20歳)、現代彫刻に憧れ東京美術学校(東京芸大)に入学。1940年、彫刻科を卒業。中学で美術を半年教えた後、翌年に26歳で美術院国宝修理所へ就職。 そして、4年前(1937年)から始まっていた京都・三十三間堂の千体千手観音像の仏像修理(毎年50体を修理する大事業)に加わった矢先、1942年(27歳)、召集令状を受け取り中国へ出征する。
公朝は中国戦線で夜間行軍中、あまりの疲労の為に不思議な夢を見る。1人で銃を持って前進する自分の左右に無数の仏様が現れたのだ。その仏様をよく見ると、どれもが割れたり欠けたりしている痛々しい仏像だった。公朝は「私に直してほしいのか?ならば無事に日本へ帰してくれ」と声をかけた。果たして公朝は終戦まで大陸を転戦したが、自らが死ななかっただけでなく、1人の人間も殺さずに済んだという。
1945年(30歳)、帰国した公朝が三十三間堂に戻ると、修復作業は敗戦直後の混乱の中もずっと続いていた。「天命だ」こう感じた公朝は現代彫刻の道に進まず、仏師の道一本に進んでいく。1958年(43歳)、21年をかけてついに1000体すべての千手観音像の修理が完了。その内、公朝は600体の修理に携わった。三十三間堂での大仕事が終わった翌年、44歳で美術院国宝修理所の所長に就任する。1974年(59歳)には東京芸大教授に着任。

この間、公朝は仏師として活躍するかたわらで、37歳の時に得度して僧侶になっており、1955年には40歳で天台宗・愛宕念仏寺の住職に任命されている。
愛宕念仏寺は約1250年前に京都東山に建立された古刹だが、平安初期に鴨川の洪水で寺が流され、醍醐天皇の命を受けた天台僧・千観内供(せんかんないぐう)によって千年前に比叡山の末寺として再興された。その後、次第に寺運は傾き、公朝が赴任した時、愛宕念仏寺は京都一の荒れ寺と言われ、檀家もおらず境内は雑草が生い茂り荒廃しきっていた。本堂もかなり傷んでいたが、仏像たちの置かれている状況はもっと深刻だった。前住職は生活苦の為に次々と仏像を売り払い、本尊の千手観音は、腕を一本ずつバラ売りした挙句、42本中、残っていたのは僅かに4本のみだった。公朝は自分で足りなかった38本を彫り、数百年が経ったような退色した色を作ってこれに塗り、完璧に修復した。以後、全国各地の仏像を修理しながら、寺に戻っては少しずつ境内を整備していった。

「何とかして、現代を生きる人々に、もっと仏の教えを身近に感じてもらいたい」。長年こう思っていた公朝は、仏師の第一人者として「祈る気持ちさえあれば誰だって仏像を彫れるんだ」という確信から、そして寺の復興を祈願する思いも込めて、1981年(66歳)、一般参拝者に向かって「羅漢さんを彫りませんか」と呼びかけた。羅漢(らかん、正式には阿羅漢)とは釈迦の弟子となって仏教を広め伝えた僧侶のこと。釈迦が他界する時に立ち会った羅漢は500人と言われており、彼らは「五百羅漢」と呼ばれている。釈迦入滅の100年後に、教義が誤って伝えられていくのを防ぐ為に、700人の羅漢が大集会を開いて、釈迦の教え(言葉)を全員で再確認したとされている。公朝の呼びかけに全国から人が集まり、彼らは全く素人ながら公朝の指導を受けて石を刻み続け、彫り始めて10年後(1991年)、ついに願いは達成され1200羅漢が境内を埋め尽くした。時に公朝76歳。
※これより前、1986年(71歳)に天台大仏師法印号を授かる。

1994年、最晩年の大仕事となる釈迦十代弟子の制作を開始。2003年、十代弟子の最後の1人を彫り上げた2ヵ月後に他界した。初めて三十三間堂でノミを握ってから62年。この間、公朝が修復した仏像は、広隆寺・弥勒菩薩(折れた指を復元)や平等院・阿弥陀如来など、実に1300体以上!仏教と仏像の素晴らしさを、時にはお寺から飛び出して、著作、講演、様々な媒体でやさしく説き続け、愛宕念仏寺を立派に復興させて旅立った。これら全ての根底にあるのは20代後半に戦場の夢で出会った、壊れた仏像たちとの約束。公朝は晩年になっても、口癖のように繰り返していた「あの仏像たちを思い出すと、約束を果たしたなんて到底言えない。見渡す限り何万とあったのだから」。

「現代の材料を仏像の修理に使うと、それが何十年、何百年たってどう変質するか分からないから、自分は“こくそ漆”など昔からのものを使う」(公朝)
「仏教には色々な宗派がありますが、どれも仏教の一部に過ぎないんです。それなのに各宗派の人は自分たちの教祖のことばかり話している。みんな、お釈迦さんのことを忘れている」(公朝)〜仏像修理の際には宗派など問題じゃない。釈迦は釈迦だ。そんな公朝の言葉だからこそ説得力がある。
※公朝は絵もよくした。愛宕念仏寺の羅漢洞(集会所)には巨大な天井画があるほか、多数の仏画が拝観できる。

●「ふれ愛観音」について
愛宕念仏寺の境内には1991年に76歳の公朝が制作した「ふれ愛観音」が安置されている。お寺の仏像は触ってはいけないのが普通だけど、この観音様は手で触れられることを喜んで下さる仏様だ。この仏像が誕生した経緯や後日談を最後に紹介したい。

公朝が亡くなった後、生涯を綴った追悼番組が放映された。僕はその中でとても懐かしい顔を見た。川島さんという全盲の女性だ(約15年前にドキュメンタリーで見て覚えていた)。当時27歳の彼女は美術館でロダンの彫刻に触れた時のことを「6歳で失明して以来、約20年間で初めての強烈な体験」と語り、「(ロダンの彫刻は)脈を打ってるのが分かる。このまま柔らかかったら人を直接触ってるみたい」と熱く話していた。作者の生命が彫刻から直接伝わって来る事に気付いた彼女が、ぜひ触ってみたかったもの…それが仏像だった。これまでお寺に御参りする事はあっても、仏像の形が全く想像できず、自分がどんなものを拝んでいるのか分からなかったからだ。しかし、大切な仏像を触らせてくれる寺など聞いたことがない。

この時、理解を示してくれたのが、仏師として誰よりも仏像を愛していた公朝だった。「仏師は観賞用に仏を彫るんじゃない。人々と共に在って初めて仏も生きる」そう言って川島さんを京都仁和寺に招待した。この時公朝が案内した仏像は、平安初期の国宝・阿弥陀如来!川島さんは阿弥陀の足、手、頬に触れ、1200年前の仏師の息づかいを聞いたという。仏師たちの「この仏で苦しむ人を一人でも救いたい」という祈りに触れた川島さんは、阿弥陀仏の両手をジッと握ったまま「安心する…なんだろう…とても身近な気がします」と照れるように語った。
川島さんは言う「私は触れる事で生きている。触れるという事、それは時に危険だったり、恐ろしいものであるかもしれない。でも、私はぶつかって行くしかない。触れる事が私にとって世界を確かめる術(すべ)なのだから」。
この川島さんとの出会いがきっかけとなって、公朝は「ふれ愛観音」を彫り上げた。

その川島さんが公朝の追悼番組に出ていた。15年ぶり。ブラウン管の中の少し歳をとった川島さんは、今度は国宝の阿弥陀仏ではなく、公朝が残していった「ふれ愛観音」を優しく撫でさすっていた。「先生(公朝)、ここにいらっしゃたんですね」。
川島さんは目を潤ませながらも、笑顔を作ってこう続けた「先生が彫られた、一つ一つのもの全ての中に、ずっと先生の命と心が宿っているから、亡くなった今も、こうして先生の存在を確かめることが出来て、私はとても嬉しいです」。

※ふれ愛観音座像は2003年の時点で、京都清水寺や鎌倉長谷寺など、既に全国60カ所に安置されているとのこと。



★定朝/Jocho ?-1057.8.1 (京都府、北区、上品蓮台寺&上京区、廬山寺)2008&10 仏師

 
平安時代を代表する傑作仏、癒しまくりの平等院・阿弥陀如来像。完成の4年後に定朝は他界した

聖徳太子が創建した上品(じょうぼん)蓮台寺に眠る。
本堂の左手から墓地に入ってすぐのところ(2008)
墓石の表記は「常朝」。これは
朝廷からの諡(おくり名)だ
2年後。墓石の周囲の“緑化”
が進んでいた(汗) (2010)









廬山寺(ろさんじ)墓地の奥にも墓がある(2007) 「元祖定朝法印」の墓 大佛師職

平安時代を代表する大仏師・定朝!寄木造(パーツ合体)の手法を完成させ、大型仏像ブームを巻き起こす。
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像が遺作かつ代表作。定朝は初めて高僧の位に昇進した仏師であり、仏師の社会的地位を上げた。




★アントニオ・ガウディ/Antoni Gaudi 1852.6.25-1926.6.10 (スペイン、バルセロナ 73歳)2000&14 建築家
Cathedral Sagrada Familia, Barcelona, Cataluna, Spain

『全体的な美的無意識、節度の観念の絶無、溶けて崩れ落ちる肉の海、それがガウディの建築だ』(画家ダリ)







2026年に完成予定!(2014) サグラダファミリア教会の地下礼拝堂 ガウディはこの教会の胎内に抱かれて眠る

「石の聖書」サグラダ・ファミリア教会!夜は昼間以上に神秘
的。訪れた際は、必ず昼夜両方の表情を見て欲しい(2000)
地下礼拝堂最深部に眠るガウディ。
頭上で聖母子像が見守っている。

アントニオ・ガウディは1852年に北東スペイン、カタルニャ地方のレウスに生まれた。父は彫金師。母は子ども時代に亡くなり、兄や姉も学生時代に早逝している。10代の頃は経営学校で学んでいたが、タラゴナのローマ遺跡やポブレー修道院(共に世界遺産)に感動し、21歳の時にバルセロナ県立建築専門学校に入学した。在学中に発表した県議会堂中庭の設計図がコンペで特賞を受賞し、学校課題で市内の噴水や桟橋の設計を手がけた。
この頃から既にガウディのデザインは奇抜だったようで、卒業にあたって学長アリアス・ルジェンはこう語ったと言う。「私は建築士の称号を一人の天才に与えようとしているのか一人の狂人に与えようとしているのか分からない」。
卒業後、26歳の若さでバルセロナ市役所から市内の街灯の設計を依頼され、その後も着々と実績を積み重ねていった。手袋店ショーケースのデザインでガウディの才能に惚れ込んだ富豪エウセビオ・グエル(繊維会社経営)は、以降、没するまで40年もパトロンとして援助を惜しまなかった。
そして1883年、31歳でサグラダ・ファミリア大聖堂(聖家族贖罪教会)の建設主任に抜擢され、他界するまで43年間この任を務めることになる。

1905年(53歳)、“アンデルセン童話のような建物”と形容されたアパート『カサ・バトロ』を設計。青タイルと色ガラスで出来た外壁は波状に削られ海を表している。あたかも貝殻とサンゴで出来ているようだ。鉄製のバルコニーは龍の頭蓋骨という造形。
翌1906年、ガウディ最後の住宅設計となるカサ・ミラを手掛ける。嵐の海をイメージしたアパートであり、最も野心的な仕事となった。外壁は波打つ曲線であり、屋根も同じく波のごとくうねり、バルコニーは海草がへばり付いたかのようなデザイン。屋上には奇怪な形の煙突や換気塔が林立している。約100部屋ある巨大アパートは全室の設計が異なっており、同じ間取りの部屋はひとつもない。窓も全て形が異なる、建物丸ごと美術作品という驚嘆の居住空間だ。

ガウディは生涯独身であったが、人生で3度恋に落ちている。これはすべて悲恋だった。1度目は既に婚約者がおり、2度目は神に仕える尼僧、3度目がこれまた婚約者持ちという具合に、不器用で恋愛が苦手であったのに、高いハードルの相手ばかりを好きになった。3度目に恋した女性とは地中海である約束をした。
「僕ら2人の思い出の、この地中海を表現した建築をたてる」
そのアパートが“カサ・ミラ”だった。ガウディはマリア像に見立てた彼女の像を屋上に置こうとしたが施主から許可が出ず、ローマ遺跡の彫刻を外壁に小さく刻んだ。
「私が結婚することは天命ではなかった」--後年、ガウディは弟子たちにこう語っている。

1914年(62歳)以降、宗教施設ではないアパートの設計などの依頼はすべて断り、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注ごうとした。だが、親族や友人の相次ぐ死によって仕事は停滞し、またバルセロナ市が財政危機に見舞われて、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止となった。1918年、追い打ちをかけるように長年のパトロンだったエウセビオ・グエルが死去する。
第一次世界大戦の後、スペイン経済は沈み込み、労働運動が激化すると共に、カタロニアでは独立を求める声が高まった。
バルセロナが属しているカタロニア地方は、中央のマドリードとは異なる独自の言語や文化を千年以上も育んでおり、人々は伝統を重視し「カタロニア魂」とも呼ぶべき民族意識を持っている。歴史上、カタロニア共和国は4度建国され、それが潰されると自治権の拡大を求めてきた。住民の独立心を封じるためカタロニア語は何度も禁じられた。
ガウディもカタルロニア解放運動に深い関心をよせ、老齢ながら主導者のひとりとなって活動した。
1923年(71歳)、独裁者プリモ・デ・リベーラが軍事クーデターを起こし、カタロニアの地方議会は解散させられ、言論統制が行われた。軍事独裁政権は地方自治運動を弾圧した。
1924年のある日、散歩中のガウディを警官が呼び止めた。警官はガウディのみすぼらしい服装や、足をリューマチで引きずる姿を見て浮浪者と勘違いした。警官のカスティリア語(首都マドリードで使われる言葉)に対しガウディはカタロニア語で返した。
“カスティリア語を話さなければ貴様を投獄する”と威圧する警官に、ガウディは譲ることなくカタロニア語で答え続けた。やがて相手がガウディであることを知った警官は“今回は見逃す"と告げる。
ところがガウディは「いいや、投獄してもらおう!」と最後までカタロニア語で続けた。結局、弟子たちが連れ戻しに来るまで4時間ほど投獄された。
サグラダ・ファミリアにスペイン国王が訪問したときもガウディは臆することなくカタロニア語で聖堂の説明をしたという。
自宅とサグラダ・ファミリアを移動する時間がもったいないと感じたガウディは、着のみ着のままの姿で聖堂の敷地の小屋で寝泊りし始める。訪れた客はあまりに質素な部屋に、貧しい画学生か彫刻家のねぐらと思ったという。

1926年、突然の不幸がガウディを襲った。ミサに向かう途中、大聖堂の近くで接近する路面電車に気づかずはねられてしまったのだ。当日は工事が忙しく、頭の中は建築の段取りで一杯だったのでは、と言われている。
倒れたガウディに駆け寄った通行人は、服装が小汚く古びていたため、誰一人それが巨匠ガウディだと気付かなかった。居合わせたタクシーは運ぶのを拒み、通りすがりの人々が近所の医者に運び込んだ。そこから更に、身許不明者として救急車で慈善病院に移され、意識不明のまま3日後に死亡した。享年73歳。遺体はサグラダ・ファミリアに埋葬された。遺言書は死の数年前に作られていた。自宅を売却して全額をサグラダ・ファミリアの建設費に当てること、建築学などの蔵書すべてを後世の若い建築家の為に図書館に寄贈することの2点が書かれていた。

ガウディが他界すると建設資金の不足から工事は完全に中断し、さらにスペイン内戦が勃発して人々はサグラダ・ファミリアどころではなくなってしまった。工事が再開されたのは独裁者フランコの死後、1979年になってからで、中断から53年も経過していた。ガウディの当初のプランにそって建築は再開された。
他界から62年後、1984年にグエル公園、カサ・ミラ、パラシオ・グエルのガウディ作品群がユネスコの世界遺産に登録された。2005年、建設途中ながらサグラダファミリアの「生誕のファサード」「地下聖堂」が追加登録された(その2カ所だけが、ガウディが生前に建造できた場所)。

30年ほど前の観光ガイドブックでは「完成まであと200年」とあったが、近年、建築工法を昔のやり方(自然石の積み重ね)から、鉄筋とセメントを使った工法に変えたこと、最新の3D構造解析技術、コンピュータ制御の加工機などの導入、入場料15ユーロ(約2千円)にもかかわらず連日大行列ができ、お陰で多くの作業員を雇うことができる点から、9代目設計責任者はガウディ没後100年にあたる「2026年」に完成予定と発表している。あと200年から、残り11年へ。この尋常ではない工期短縮のおかげで、多くの人が存命のうちに完成した姿を見ることが出来る。ちなみに最初に作った部分が崩れ始めており、その修復作業も平行して行われている。

「自然は常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物である」。サグラダ・ファミリアは非生物でありながら生きている。とにかく、石が尋常でないほど、なまめかしいのだ。真下から見つめていると、聖者の人体、植物、動物、貝殻が混沌として見る者に押し寄せてくる。教会の内側にも外側にも、動植物をモチーフとした装飾彫刻があふれている。ガウディは「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」と、自然の中にこそ究極の美の造形があると確信していた。「色彩とは、強烈で、豊饒で、なおかつ論理的でなければならない」とも。

●サグラダ・ファミリアの尖塔(せんとう)は18本建てられる予定。内訳は以下の通り。

〔十二使徒を表す12本の塔。各々102〜107m〕
生誕の門(東、日が昇る側、キリスト誕生の祝福を表す)に4本(完成)
栄光の門(南側、キリストの昇天を表す)に4本
受難の門(西、日が沈む側、処刑の悲しみを表す)に4本(完成)
〔四人の福音書家を表す塔〕
4本、各130m。
〔マリアとキリストを表す塔〕
中央の2本。キリストは175m!
このように18本のうち10本が未完成だが、内陣、身廊などはほぼ完成した。
サグラダ・ファミリアを訪れる人は、是非あらゆる角度から見て欲しい。1メートル移動するだけで違う建物に見えてくるはずだ。

ガウディの独創性は人間の想像力に限界がないことを教えてくれる。かつてゲーテは「建築とは氷結した音楽なり」「良い空間は、目を閉じて歩き回っていても、その良さを身体で感じることが出来る」と語った。ガウディの作品はその言葉を地で行くようなもの。サグラダ・ファミリアの前に立つと、聴こえないはずの様々な音色に包まれる。ガウディの原案ではトウモロコシ型の尖塔のうち12本を鐘楼にすることになっており、いつの日か12個の鐘がいっせいに鳴り響くはずである。

※生前に描かれた設計図はスペイン内戦で焼失、模型も破片となった。建築に関わった職人の伝承や、大まかな外観のデッサンというわずかな資料を元に、各時代の建築家がガウディの構想を推測しながら工事が進められている。
※20年以上前のテレビ番組で、サグラダ・ファミリアの建築に参加している唯一の日本人男性が、「完成した姿を見られないのは残念だと思わないですか?」と問われ、「神はお急ぎにならない」と答えたのが印象的だった。聖堂の正面を支えている2本の柱の下には亀がおり、ガウディがこの教会を“ゆっくり作れ”と遺言で言っているようだと語る人もいる。親子三代に渡って工事に関わっている職人もいるそうだ。
※2004年の統計でサグラダ・ファミリアはアルハンブラ宮殿やプラド美術館を抜いて、スペインで最も観光客を集めた。2008年の訪問者は270万人。15ユーロで計算すると年間予算は50億円超えだ。
※バルセロナ市のシンボル、サグラダファミリアの建築にこれまで公共の資金は全く使われていない。この教会は贖罪教会という懺悔を信仰の中心に置く特別な宗派に属しており、贖罪の意を込めた寄付によって建てられなければ意味がないという。計画当初から個人のお布施と心ある人の寄付、それに拝観料のみで建設されることを前提としていた。バブルのころ、ある日本企業が多額の寄付を申し出て断られたのは同様の理由による。大勢の人が小額ずつ出し合って建てられることこそが重要。ガウディは資金難になると自らバルセロナ市内を歩いて寄付金を集め、道行く人がガウディと知らずに小銭を施してくれた時も、その僅かなお金を拾い集めて寄金とし、大切に扱ったという。1990年代から訪問者が急増し財政状況が好転した。
※サグラダファミリアは異端の教会であったが、2010年11月にローマ教皇ベネディクト16世が訪れてミサを執り行い、また聖堂に聖水を注いだことで、サグラダ・ファミリアはバシリカ(カトリック教会堂)となった。ミサには司教達を含む6500人が参列、聖歌隊も800人に及んだ。

【巡礼記】
ガウディは自ら設計したサグラダ・ファミリアの地下礼拝堂に眠っている。地下鉄サグラダ・ファミリア駅から階段で地上へ出ると、振り返った瞬間に異形の大聖堂が視界いっぱいに飛び込んでくる。付近では多くの観光客が息を呑んで立ち尽くす。理解を超えた建造物が天へ向かってそそり立っている。眼前の光景に圧倒され思考がとぶ。
入口で建設資金となる拝観券を買い内部へ。世界中の観光客がトウモロコシ型の尖塔群を唖然と見上げる中、僕は反対に地下へ降りる階段を探してキョロキョロ。工房の職人さんに墓所を聞くと、いったん教会の外に出て異なる入口から入るとのこと。墓参だけなら無料であり、チケットを買う必要はなかったようだ(汗)。
礼拝堂はいつも開放されているわけではなく、1日に6回ほど開け閉めをしている。ラッキーなら1回で墓参できるけど、僕は4回のうち2回は閉まっていた。サグラダ・ファミリアとは“聖家族”の意味だ。階段を下って礼拝堂に入ると、ヨセフ、マリア、イエスの像が立ち、その最深部にガウディの墓があった。周囲ではロウソクの灯が揺れていた。生涯かけて建設に心血を注いでいたサグラダ・ファミリアの胎内で眠るガウディは、その一部となったのだ。

(ガウディの巡礼ルポ)



★棟方 志功/Shiko Munakata 1903.9.5-1975.9.13 (青森県、青森市、三内霊園 72歳)2000&12 板画家



30歳。この頃油絵から
板画に移行しつつあった
66歳。めっさ豪快に笑う棟方!

左目は失明しており、右目も極度の近眼だった



「棟方志功のお墓」案内板。ゴッホの象徴であるヒマワリが描かれていた ここを登っていく

2000年 初巡礼
没年は永遠の命を表す「∞」!
2012年 12年ぶりの再巡礼
“静眠碑"と彫られている
背面に戒名
「華厳院慈航真毎志功居士」

志功はゴッホの大ファン。墓を同じ形にした ゴッホ兄弟の墓。左がヴィンセント 左が志功、右は「棟方家」の墓

墓石の後方に石板→ 「驚異モ 歓喜モ マシテ悲愛ヲ 盡(ツク)シ得ス」 近辺には三内丸山遺跡がある








善知烏(うとう)版画巻/
夜訪(よどい)の柵 35歳
釈迦十大弟子/
目けん連の柵 36歳
花狐の柵 53歳
「嬉しさの狐手を出せ曇り花」
空晴の柵 54歳
「今日 空 晴レヌ」
ある修行僧が、漁師の霊に“妻子を訪ねて
欲しい”と頼まれ、夜半に戸を叩いた場面。
能の幽玄と北国独自の悲しみを刻んだという
板木を一杯に使って木の持つ
生命力を出し切り、仏に近づき
つつある人間像を彫り上げた
桜にうかれて踊る陽気な狐
棟方の動物はどれも味がある
力強くピチャンと跳ねる魚
短い言葉と相まって気持ち良い

※棟方曰く、「柵(さく)」とは巡礼が寺々を回って納めるお札で、一作ごとに念願をかけて無限に続く道標としているとのこと。

1903年、青森に鍛冶屋の三男坊として生まれる(15人兄弟)。小学校卒業後、すぐに家業の手伝いに入ったため中学には行けなかった。17歳の時に母が病没し、家運も傾き父親は鍛冶屋を廃業。志功は裁判所弁護士控所の給仕となった。絵が好きだった棟方は、仕事が終わると毎日公園で写生をし、描き終わると風景に対して合掌したという。

18歳の時、友人宅で文芸誌『白樺』の挿し絵に使われていたゴッホの『ひまわり』と出会う。炎のように燃え上がる黄色に、そのヒマワリの生命力と存在感に圧倒された。カンバスに刻まれたヒマワリから、ゴッホその人が立ちのぼった。

※この『白樺』に関するエピソードは小高根二郎が『棟方志功』に次のように記している。
棟方は友人宅を帰る時に呼び止められた。
「ゴッホさ、ガ(君)にける(あげる)」
友人は棟方に白樺をプレゼントした。棟方の指がスッポンの口ばしの様に談笑中ずっと白樺を手放さなかったことに気付いたからだ。
「ワ(我)のゴッホさ、ガ(君)にける」
と繰り返して言うと、棟方は狂喜して踊り上がった。
「ゴッホさ、ワに?ゴッホさ、ワに?」
棟方がこの恩寵が信じきれないという顔をしていると、
「ンだ。ガにける」
贈呈の意志が変わらないことを、友は3度重ねて表明した。棟方は白樺を胸に抱きしめ、歓喜の笑みで「ワだば、ゴッホになる!ワだば、ゴッホになる!」
と友人の好意に応える覚悟で叫んだ。その後、友の気持ちが変わらぬうちにと、そそくさと帰ったという。

この誓い通り彼は油絵の道にのめり込み、21歳のとき上京した。ところが、簡単には世間に認められない。コンクールに落選する日々が続く。3年、4年と時間だけが経っていった。画家仲間や故郷の家族は、しきりに棟方へ有名画家に弟子入りすることを勧めた。
だが、彼は激しく抵抗した。
“師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない!”

彼は新しい道を模索し始めた。当時の画壇で名声の頂点にあった安井曽太郎、梅原龍三郎でさえ、油絵では西洋人の弟子に過ぎなかったことから、この頃の気持を自伝にこう書いている「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました」。

そして、とうとう棟方は気付く。
“そうだ、日本にはゴッホが高く評価し、賛美を惜しまなかった木版画があるではないか!北斎、広重など、江戸の世から日本は板画の国。板画でなくてはどうにもならない、板画でなくてはわいてこない、あふれてこない命が確実に存在するはずだ!”
『この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)』…この言葉が棟方の座右の銘となった。

  

33歳、上京から12年目にして、ついに自分の作品が売れる。
35歳、帝展で版画界初の特選になる。
36歳(1939年)、大作『釈迦十大弟子』を下絵なしで一気に仕上げる。制作中の彼はこんな談話を残した…「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」
39歳、論集『板散華(はんさんげ)』にて、今後は「版画」という文字を使わず「板画」とすると宣言。版を重ねて作品とするのではなく、板の命を彫り出すことを目的とした芸術を板画とした。
40歳、ベートーヴェンと出会う。その宇宙的な包容力に深く胸を打たれる。
49歳、ルガノ国際版画展で優秀賞を受賞。
52歳、サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞を受賞。
53歳(1956年)、ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタに。「会場へ来た人のほとんどすべてが、棟方の木版画の前に愕然としていました。」(当時会場で働いていた人の証言)
56歳、フランスへゴッホ兄弟の墓巡礼に行く(!)
57歳、『歓喜自板像の柵』(自画像)を彫る。酔っ払って幸せそうにひっくり返る自分の背後に、写生に出かけるゴッホと、ベートーヴェンをたたえる言葉を刻み込んだ。この頃、朝日賞を受賞するなど、ようやく国内の美術界で正当に評価される。眼病が悪化し、左目を失明。
61歳、自伝『板極道』を出版。
66歳、ヨコ27m、タテ1.7mという世界最大の版画『大世界の柵』を完成。巨大さゆえ板壁画と呼ばれた。
67歳(1970年)、文化勲章を受章。コメントは「僕になんかくるはずのない勲章を頂いたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします」。
70歳、板画と肉筆画を融合させていく。

1975年72歳で永眠。、自ら“板極道”を名乗った男は、「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。他には何もなくていい」という遺言を残した。

墓は青森三内霊園にある。棟方は死を予感したのか、亡くなる前年に自分の墓の原図を描いていた。忠実に作られたその墓は、なんと敬愛するゴッホの墓と全く同じ大きさ、デザインのものだった!前面には『棟方志功 チヤ』と夫婦の名を刻み、没年には永遠に生き続けるという意味を込めて「∞」(無限大)と彫り込まれていた。※墓の背後には「驚異モ/歓喜モ/マシテ悲愛ヲ/盡(ツク)シ得ス」《不盡(ふじん)の柵》と彫ったブロンズ板がはめ込まれている。

最後に彼が板画について残した言葉を記そう。
「愛シテモ、アイシキレナイ。
驚イテモ、オドロキキレナイ。
歓ンデモ、ヨロコビキレナイ。
悲シンデモ、カナシミキレナイ。
ソレガ板画デス。」

僕が棟方のとりこになってる理由を、少しでも伝えることができただろうか?あと、詩と画との合体の妙も楽しんで欲しい。画の背後に彫られた詩が、これまた良い味を出しているのだ!どうかぜひ、明日にでも本屋で彼の作品集を手にとって、あのパワフルな情熱を体験して欲しい!

※毎年9月13日の命日には、第九が流れる中で「志功忌」が開かれる。棟方が好んだ第九はコンヴィッツニー指揮、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団のもの。

『歓喜自板像の柵』 57歳
大好きな先人たちに囲まれ、酒を酌み交わしている幸福感いっぱいのセルフ・ポートレート。左上は「エヲカキニデル」
ゴッホ、中央の石塔は尊敬する民芸学者・柳宋悦の象徴(柳の字が見える)、右上は「ヨロコビノウタ」ベートーヴェンを
讃える言葉、茶碗は陶芸家の河井寛次郎の象徴、そして中央に酔っ払って幸せそうに寝転ぶ自分自身。さらに棟方の
右手には愛するチヤ夫人の白く美しい手が繋がれている。なんて幸せな作品なんだ〜ッ!

「わだばゴッホになる」 草野心平

鍛冶屋の息子は。
相槌の火花を散らしながら。
わだばゴッホになる。
裁判所の給仕をやり。
貉(むじな)の仲間と徒党を組んで。
わだばゴッホになる。
とわめいた。
ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。
ゴッホにはならずに。
世界の。
Munakataになった。
古稀の彼は。
つないだ和紙で鉢巻きをし。
板にすれすれ獨眼の。
そして近視の眼鏡をぎらつかせ。
彫る。
棟方志昴を彫りつける。※原文のまま



【 キャパをたずねて三千里編 】

★ロバート・キャパ/Robert Capa 1913.10.22-1954.5.25 (NY、アマウォーク 40歳)2003&09
Amawalk Friends Cemetery, Amawalk, Westchester County, New York, USA
本名:エンドレ・フリードマン

キャパの巡礼については、まず3年前の墓参挫折から語らねばなるまい。NYは大都会のイメージが強いと思うが、あれはマンハッタン
だけ!マンハッタンの郊外はさびれた田舎町。キャパが眠っているアマウォークという村は、電車もなければバスもタクシーもない、
二本の足だけが村に入る交通手段という、駅から徒歩往復8時間(山越えアリ)という、とんでもない場所にあった。実は3年前、自分は
ヒッチハイクでアマウォークに向おうと試みたことがあった。しかし、犯罪多発のヒッチハイクは州令で禁止されており困難を極めた!


●2000年7月

国道35号線。この道の先にアマウォークが
ある。ダンプが猛スピードで突っ切っていく。
『アマウォーク』と大きく書いた紙を掲げ、
ドライバーに熱い視線を送る。15分経過。
全く車が止まらないのは、帽子で目が隠
れて、警戒されてるのかもと、帽子を脱ぐ。
30分経過。

45分経過。次第に泣きが入ってくる。 そして1時間が経ち、ついに号泣。無念だが、
キャパの墓参は作戦練り直しとなった。

●2003年8月 リベンジ!

マンハッタンから2時間。懐かしのカトナー駅。
この無人駅から戦いは始まる。新たな作戦は
“往復8時間歩きまくれ”作戦であった!!
前回はサンダルだったが今回はスニーカー。しかも
車にはねられないよう、目立つ黄色のTシャツを
着用!気合十分、曇り空で涼しく気候も味方した。
ビュンビュン車が飛ばしてるんだけど、歩行スペース
はわずかに10cmほど。めっちゃ怖かった!

杖をゲット!しかし、トレッキングをしてると思わ
れ、ますますどの車も止まってくれなくなった。

山越え。右に『鹿とび出し注意』の看板が。


以前にテレビで「杖は1本より2本の方が
飛躍的に楽になる」と言ってたのを思い出し、
スキーヤーのような2本体制に。すると、ホント
に嘘みたいに歩くのが楽になった!


あの遠くに見える緑の看板はもしや…!



嗚呼!ここは夢にまで見たアマウォーク!




とにかく田舎!ここが村のメインストリートだ。写真
中央の犬はどこかの番犬で、狂ったように吠えなが
ら向ってきた。こっちは4時間も歩いて思うように動け
ず、この場でバトルに突入。2本の杖で追い払ったが
マジでビビッた。誰もいないんだもの!涙チョチョ切れ。



ネットで調べた墓地の名前と違うんだけど、
アマウォークを端から端まで歩いてもここしか
墓地はなく、キャパが確実にここにいるという
確証がないまま墓地に入っていった。

最初に管理人事務所を訪れたんだけど無人だった!
っていうか何年も使われた形跡が建物になかった。
ガーン。小さな村のわりに墓地の面積は広く、
しかも丘の上なので登り下りが大変だったが、
ともかくひとつひとつの墓を調べていった。
いくら探せどキャパは見つからない。帰り道も
4時間歩くとなると、山越え中に日が暮れると
危険なので、そうそう長くこの墓地で探しても
いられない。ここまできてキャパに会えずに
帰るなんて…思わず涙が頬をつたった。


この時、墓地には村人が一人だけいた。ダイアン
さんという50代後半のオバサンだ。彼女は杖を
2本つきながらズタボロでキャパの墓を尋ねる
アジア人に、最初はひきまくっていた(キャパを
知らなかった!)。でも、キャパがヒューマニスト
であったことや、その彼にお礼を言う為に日本か
ら来て、朝から4時間歩いて来た事を説明すると
、ダイアンさんは大ハッスル。「家に帰って村一番
の物知りのお婆ちゃんに電話で墓の場所を訊い
てあげる」といい、ぼくに空のペットボトルを渡し、「ポンプで水を汲んで、しばらく休憩してなさい」
と言い残して車で去って行った。

しばらくして一台の大きなワゴン車がやって
きた。運転していたのはお婆ちゃん!この人が
村の生き字引なのか!「キャパはこの墓地に
眠っているのですか!?」「まあ、ついてらっし
ゃい」お婆さんはキャパの元へ案内してくれた!







これは分からない!墓地の隅の小さな2つ
の墓石がキャパだった!まるで俗世間から
隠れるように、ひっそりと眠っていた!!














Robert Capa
「この10年でキャパを訪ねて来た
のは、あなたを入れて2人だけよ」
お婆さんはこう言った。もう一人の
巡礼者は米国人だったとのこと。

お婆さんが帰った後、ダイアンが入れ違いに様子を見に
墓地へ入って来た。ぼくは大きく手を振って「ここ!ここ!
キャパはここです!」と叫ぶと、ダイアンは何かを天に叫ん
で走ってきた。彼女は「サッチ・ア・ワンダフルストーリー!」
を連発。2人で狂ったように手をつないで飛び跳ねた。
キャパは戦場の最前線で、戦争の悲惨さと
非人道性を訴える写真を撮り続けた。最後は
地雷を踏んで40歳の若さで亡くなった。
キャパの影響を受けていない報道カメラマン
はいないとまでいわれている。



世界を震撼させた代表作『崩れ落ちる兵士』
「戦争写真家の切なる願いは”失業”だ」(キャパ)
“ちょっとピンボケ”に。キャパへのオマージュ!

興奮しすぎて声が裏返ったダイアンさん。






ダイアンは鉄道にアクセスしている路線バスが通って
いるヨークタウンまで、車で送ってくれた。ううっ、本当に
ありがとうダイアン!なんて良い人だったんだ。ジーン。
バスの時刻表を見て絶句。「うげっ!たった
の8本しかない!」1時間ちょい待った。
良かった!本当に来た!(バスを利用しても
鉄道駅に着くまで1時間半かかった。遠い!)

●2009年、再々巡礼を敢行!



今回はレンタカーを利用ッ!超らく!スイスイ巡礼できたー!

6年ぶりの再会!キャパはハンガリー人(ブダペスト
生まれ)なので、墓前にハンガリーの国旗があった
前回にはなかった長椅子があり、
墓も2基から4基に増えていた

手前の墓は08年に他界した弟コーネル・キャパ。彼も
写真家で1974年にICP(国際写真センター)を創設した
「心から尊敬していますーッ!」
感涙むせぶリスペクトの土下座!



★沢田 教一/Kyouichi Sawada 1936.2.22-1970.10.28 (青森県、青森市、三内霊園 34歳)2000 写真家


  

ジャーナリスト界の最高峰「ピュリッツァー賞」を30歳で受賞した戦場カメラマン・沢田教一


「安全への逃避」
ベトナム戦争時、米軍の爆撃で自分たちの村を焼かれ、川を渡って必死に避難する親子。
この写真は、ピューリッツア賞と世界報道写真展大賞をダブルで受賞した。(画像UPI-サン社)


1936年生まれ。青森出身。地雷で死んだ報道写真家ロバート・キャパの戦場写真に心を揺さぶられた沢田は、25歳でUPI通信社のカメラマンになる。東京支局で働いていたが30歳を機に自費でベトナムへ渡り、同年、最前線で戦火から逃げる母子を撮った写真が、いきなりジャーナリスト界の最高峰ピュリッツァー賞に輝く。沢田は両手をあげて喜ぶ訳にはいかなかった。題材が戦争であり、“平和で撮るネタがない”状態の方が良いに決まってるからだ。

沢田の写真はその多くが戦争の悲惨さや愚かしさを伝えており、シャッターの対象は犠牲になる弱者に向いていた。正式にサイゴン特派員に任命された彼は「寝る時間が惜しい」を口癖に、凄まじい勢いで最前線から戦争の実態を知らせ続けた。沢田は安全圏から望遠レンズで撮るのではなく、敬愛するキャパと同じく広角レンズを片手に2、3メートルの至近距離で戦争と向き合った。戦地から遠く離れた人々に現場を体感させたかったのだ。

『安全への逃避』では戦火の中逃げ惑う民衆を、『泥まみれの死』では米軍戦車に両足をロープで縛られ、死体となって引きずられていた解放軍の兵士を、『タバコを吸う負傷兵』では放心状態でカメラを見つめる若い米軍兵というように、民衆、解放軍、米軍兵と、その立場を問わず、彼のファインダーは傷ついた者すべてをとらえ、その痛ましさを世界に告発する窓となった。

「遺体をしょっちゅう見ていると、当たり前のことになる。それが怖い」。死に対して無感覚になっていく周囲の者を見て、自分がそうなってしまうことを何よりも恐れた。しかし、ピュリッツアーを受賞したことで、周囲はより突っ込んだ“刺激的な”写真を彼に期待する…。次第に沢田は無口になった。一度はUPI通信社から香港支局部長のポストを提供されるが、戦場への思い入れが強く、志願して再びベトナムに渡った。
1970年10月28日、カンボジア戦線を取材中の彼をスナイパーが狙撃した。即死だった。それから5年後にベトナム戦争が終結する。生前に沢田は同僚にこう語っていた。「おい、平和が来たら俺は人間と人間の殺し合いではなく、南ベトナムから北ベトナムまで、美しい田園風景をとことん撮りまくるぞ」。享年34歳。早すぎる死だった。

●墓巡礼記
僕は棟方志功の墓参のために青森市の三内霊園を訪れた。そして霊園事務所の案内図を見て卒倒しかけた。「この沢田教一って、あの沢田教一!?」。憧れの人にいきなり出会い、思考停止状態に陥った。「ンだ。カメラさ撮ってる人じゃ」。緊迫した表情で確認した僕に、管理人はサクッと答えてくれた。足がガクガク震えた。なんという偶然、なんという展開!今ならネットを調べれば簡単に墓所は分かるけれど、2000年頃まではこういう偶然から巡礼できた恩人も少なくなかった。墓は霊園事務所の近くにあり、多くの人が訪れているのか、美しい花が咲き乱れていた。
※沢田と寺山修司は高校の同級生。



★マン・レイ/Man Ray 1890.8.27-1976.11.18 (パリ、モンパルナス 86歳)2002&09 写真家
Cimetiere de Montparnasse, Paris, France









2002 2009 カメラのフィルムが供えられてた




左の円形部分がレイ、右側は
15年後に他界した夫人の墓碑
夫人には“TOGETHER AGAIN(再び
一緒に)”の文字が…感動!

本名エマヌエル・ラドニツキー。「マン・レイ」とは“光の人”の意味。まだ写真が芸術として低く見られていた
20世紀前半に、彼は次々と質の高い実験作品を発表し、“フォト・アート”を確立させた偉大な先駆者だ。
歴史に門を閉ざすことは出来ない。歴史は戸を蹴破っても進入してくるからだ。
時流に乗らなければならない。いや、それ以上に歴史を先取りしなければならない。
ゆっくり歩いていてはいけない。走って歴史を迎えに行け」(マン・レイ)



★樂 長次郎/Tyoujiro Raku 1516-1592.9.7 (京都府、上京区、妙覚寺 76歳)2003&08 陶工

赤樂茶碗 銘『夕暮』 黒樂茶碗 銘『俊寛』 赤樂茶碗 銘『道成寺』※釣鐘型!

左から、宗入、道入、長次郎、常慶、一入。
中央の長次郎だけひとまわり大きい!
ズラリと並んだ樂家代々の墓。壮観ッ!
全部で17基あった。
キューン!墓はこんなに
ちっちゃい(十六茶を持参)

 
5年ぶりに再訪!(2008) 墓前の小さな卒塔婆(札)には当代の「楽吉左衛門」の文字があった!

楽焼(らくやき)の始祖。楽焼は茶の湯の世界で「一楽、二萩、三唐津」と萩焼や唐津焼を抑えて最高度の評価を受けている。朝鮮半島の帰化人の子として生まれ、信長、秀吉に仕えた。姓となった“樂”は、桃山を代表する名建築で秀吉の邸宅だった「聚楽第(じゅらくだい)」に由来しており、当初の楽焼が「聚楽焼」と呼ばれたのはそのためだ。長次郎は秀吉から楽の金印を賜ったという。

陶工・長次郎の人生を変えたのは、茶の湯に侘(わ)びを求めた利休との出会い。「表面の形式より精神を重んじるべし」という利休の思想に深く共鳴した彼は、人間としての成長を茶の湯に求めた利休哲学を完璧に造形化し、黒色赤色の2種の楽茶碗を50代に生み出した。
軟質陶器の楽焼で使用される土は80年以上も寝かされた(乾燥した)特別な土。その粒が細かくなった土を使って、急熱急冷で焼く。この焼き方の陶器は熱の伝わり方が遅く、手を湯の熱さから守ると同時にお茶が冷めにくい。
樂焼はその性格上、華美な装飾を嫌い、渋みと重厚さを重んじるけど、ロクロを使わない手びねりという製法が、シルエットをえも言われぬ優しいものにしている。手に取ればとても軽く、厳粛なたたずまいの内にも、両手の中で陽だまりの土のぬくもりを感じさせる。

一般の工房では制作コストを下げる為に一度に数百個を焼くのが普通だけど、長次郎は巨大な窯(かま)による大量生産に背を向け、ひとつの窯で焼く茶碗は一品のみという「一碗一窯」のポリシーを貫いた。このこだわりが、気迫のこもった多くの傑作を誕生させた。花瓶やお皿、壺は造らず、ひたすらストイックに利休の求める茶碗を生み続けた長次郎は、「単なる食事の為の器」ではなく、「茶の湯の為の芸術作品」という新たな陶芸世界を作り上げたんだ!

長次郎から400年を経た現在の樂家は15代目。ここまで長い歴史を持つ陶芸一家は他に存在しない。歴代の樂家は、初代長次郎、2代常慶(じょうけい)、3代道入(俗称のんこう、初代に次ぐ名匠)、4代一入(いちにゅう)、5代宗入、6代左入、7代長入、8代得入、9代了入、10代旦入、11代慶入、12代弘入、13代惺入、14代覚入、15代(当代)吉左衛門。樂家では代を子どもに譲るまでは吉左衛門を名乗る。また、樂家は精神&技術の停滞を避ける為に、親子間でも技を伝えないという。歴代の樂家は、各々が生きた時代の中で真摯に世界と向き合い、独自の美意識を追求してきたんだッ!

僕が好きな長次郎の5大作品は、グラデーションの美しい赤樂茶碗・銘『夕暮』、深い精神性をたたえた漆黒の黒樂茶碗・銘『俊寛』、伏せると釣鐘のような赤樂茶碗・銘『道成寺』、上部が四角形、下部が円形という、遊び心が楽しい黒樂茶碗・銘『ムキ栗』、柔らかな曲線が見ているだけで穏やかな気持ちになる赤筒(あかつつ)樂茶碗・銘『白鷺』。

※楽家直系を本窯、直系以外で楽焼の製法をマスターした本阿弥光悦などは脇窯、別窯という。
※京都にある樂美術館では毎月第一土曜、日曜日に、歴代当主の作品を直接手に取って鑑賞出来る「樂茶碗観賞会」が開催されている。学芸員の解説付きなので初心者にはとても勉強になります。本物の茶会のように温めた状態で鑑賞させてくれる配慮も嬉しい。

※樂家の超名作茶器軍団はコチラ!



★野々村 仁清/Ninsei Nonomura 1613頃-1681頃 (京都府、右京区、妙光寺 68歳?)2002&10 陶工

『色絵梅花図平水指』(重文) 『色絵鱗波文(いろえうろこなみもん)茶碗』 『色絵七宝繋文茶碗』
梅の老樹を側面にドーンと描き、紅梅の部分
部分に金・銀の花を混ぜて変化を与えている
能装束のような絵柄が描かれた、雅の極みのような茶碗ッ!

このモダンなデザイン・センス!






『色絵牡丹文(もん)水指』 『色絵月梅図茶壺』(重文) 『吉野山図茶壺』(重文) 『色絵藤花紋茶壺』(国宝)
窓絵の構図が斬新!牡丹も見事
まろやかな曲線ラインにウットリ 金銀の桜が咲き乱れる吉野の山々 仁清の色絵陶器はホント美しい!
※仁清の茶壷はすべて春と関係したデザインっす!
『色絵雉(きじ) 香炉』(国宝)
キジはそれぞれ上下に分かれ、中にお香を入れて炊く。煙は背中の穴から
出てくる。雄(右)が国宝、雌(左)は重文。両方とも国宝でいーじゃん!




妙光寺は歴史のある寺。南朝と縁が
深く、2度も三種の神器が安置された
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」は妙光寺から建仁寺に
移された。墓所は境内の奥にあり、朱色の門が入口だ
このように赤い門をくぐって墓所に入ったのは
ここだけ。旅立ちが明るいものに思える

中央の小さな墓石が仁清。苔むした墓地だ。
仁清の墓は西向き(2002)
8年後に再訪。砂利が敷かれるなど整備され、
同じ場所じゃないみたい。墓も南向きになってた
「仁清之墓」と書かれたシブい木札。これは変化なし(2010)



 
花入れの裏に水鉢(2002) 墓石と花入れの間に空間ができた。戒名は「吟松庵元龍恵雲居士」のようだ(2010)

江戸前期の京焼の名手。卓越したデザイン・センスを持ち、神のような手で優美な作品世界を作り上げた。丹波国野々村の出身。通称野々村清右衛門。12歳頃からロクロを回し始め、茶の湯ブームに湧き立つ京に出る。東山の粟田口(あわたぐち)で腕を磨いた後、より高度な技を求めて高級茶碗の産地瀬戸(愛知)に移り住み、さらに修業を積んだ。都に戻った仁清は、唐物や高麗など海外の優れた陶器の“写しもの”(レプリカ)を制作していたが、宮中へ出入りしていた茶人・金森宗和と出会い、洗練された宮廷文化と、その美意識に新たに触れる。宗和のアドバイスで仁清の優雅な作風が形作られていった。

1647年(34歳)頃、京都洛北の御室(おむろ)・仁和寺門前に窯を開く。この当時、素地の陶器は吸水性が高くて色彩を施すのは困難と言われていたが、仁清は苦心して半透明で柔らかな肌合いの釉薬(ゆうやく、うわ薬)を調合し、この「仁清釉」をかけて下地を作り、そこに鮮やかな色をのせていった。仁清は1世紀前の桃山時代に利休&長次郎が確立した、「侘びさび」の渋い陶器と全く異なる、華麗できらびやかに彩色された王朝風の色絵陶器を生み出した!これらは「綺麗さび」と呼ばれ、どれも作品世界は非常に明るい。仁清は本来生活道具としての実用的な陶器を、眺めて楽しむ陶器へと画期的に変えた。

開窯から10年を経た頃に色絵陶器の技術を完成させた彼は、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」をあわせて「仁清」と名乗り、全ての作品の底に「仁清」の印を押すようになる。約半世紀前に本阿弥光悦が日本で最初に自分の名を“茶碗の箱”に記したが、仁清は初めて名前を“直接作品に”刻んだ陶芸家となった(今、陶器の底に作者の印があるのは仁清が始めたから)。

仁清はまた、色絵だけでなくロクロの技術も天才的で、高さ40cm近くの大型陶器でも均一の厚さでつくり上げた。そして最も驚異的なのはその薄さ!仁清は従来の厚手の陶器とは異なる、誰も真似できないような極限まで薄手の陶器を成形した。だから大ぶりの茶壷でも非常に軽い。薄さは繊細な印象を与え、まろやかな曲線ラインが見る者の心を溶けさせる。

一大ブームとなった彼の色絵陶器は「仁清手」(にんせいで)と呼ばれ、その結果、“写しもの”が中心だった京都の各窯は、優雅な色彩の色絵陶器(現在「古清水」と総称されている)が主流になったのみならず、他の産地の作風にまで影響を与えた。
金銀を巧みに使い、ゴージャスなのに派手に走らず、あくまでも上品で雅(みやび)な茶碗や茶壺。仁清の印が押された陶器はどれも、諸大名や貴族、豪商たちにとって、垂涎の名品となった。
※優雅さや艶やかさが特徴にあげられる仁清だが、作品からはにじみ出てくる優しさがあることも付け加えておく。

仁清が眠る妙光寺は村上天皇陵の隣にある。この寺は南北朝時代に、後醍醐天皇が三種の神器を持って隠れ住んだほど歴史のある名刹だが、現住職が来るまでは、長い間無人の荒れ寺だったという。実際、僕が2002年に訪れた時は、山門に寺の名前も掲げられてなかった(住職さんはご自分で畑を耕して糧としておられるとのこと)。山門を自分で開けて本堂に向かうと、境内右奥の竹やぶに沿った道の先に朱塗りの門がある。そこを入って道なリに進んでいくと、どん突きにこじんまりとした墓地がある。仁清の墓は奥の方だが「仁清墓」の立札があるので分かりやすい。彼の墓石は驚くほど小さく、膝ほどの高さしかなかった。仁清は時代の寵児になったにもかかわらず、晩年の様子も、没年もハッキリ分かっていない。文字通り彗星のように現れ、珠玉の作品を残して消えていった。

※現存する仁清の作品のうち、2点が国宝に、16点が重文になっている。
※従来は無地の茶壺に銘(名前)を付けて膨らんだイメージを楽しんだが、仁清は意欲的に美しい絵をどんどん描き付け、新たな楽しみ方を示した。芸術家として過去の真似ばかりしてられないという自負心か。
※43歳頃に宗和が没してからは、よりカラフルな色絵(赤絵)が中心になっていく。
※尾形乾山も金森宗和の弟子であり、仁清の後を継ぐ形で、御室で作陶した。仁清の息子は後に乾山の養子となり、二代目尾形乾山と称した。



★本阿弥 光悦/Kouetu Honami 1558-1637.2.3 (京都府、北区、光悦寺 79歳) 工芸家

京都生まれ。工芸家、書家、陶芸家、画家、出版者、作庭師、能面打ち、様々な顔を持つマルチ・アーティスト。優れたデザイン・センスを持ち、すべてのジャンルに名品を残した日本のダ・ビンチ。特に書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となった。

生家の本阿弥家は京の上層町衆。足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だ(主なパトロンは加賀の前田利家)。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)など刀身以外の製作工程に、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育んでいった。その後、父が分家となり家業から自由になった光悦は、身につけた工芸知識を元に、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになった。

やがて40代に入った光悦は、才能があるのに世に出る機会に恵まれない1人の若手絵師、俵屋宗達と出会う。1602年(44歳)、光悦は厳島神社の寺宝『平家納経』の修理にあたって宗達をチームに加え、彼が存分に実力を発揮できる晴れの舞台を提供した。宗達は見事期待に応え、この後『風神雷神図屏風』など次々と傑作を生み、30年後には朝廷から一流のお墨付き(法橋)を授かるほど成長した。
※後年、宗達は若い頃を「光悦翁と出会わなければ、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」と回想している。

 
『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(重文)※これはほんの一部です
そして50代になった光悦は俵屋宗達との“合作”に取り組み始めた。天才と天才の共同制作。それが『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』だ。光悦は時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人。彼は三十六歌仙の和歌を、宗達の絵の上に書こうというのだ。この大胆な提案を引き受けた宗達は、目を見張るほど無数の鶴を、約15mにわたって筆先で飛ばせ、これを華麗に対岸に着地させた。宗達からの“挑戦状”(下絵)を受け取った光悦は、どこに文字を置けば最高度に栄えるのか、最適の文字の大きさはどうなのか、書が絵を活かし、絵もまた書を活かす、これしかないという新しい書を探求した。そして!後に「光悦流」と呼ばれる、従来の常識を打ち破った、極限まで装飾化した文字がほとばしった!光悦の筆から生まれた文字は、時に太く、時に細く、ここでは大きく、そこでは小さく、あたかも音楽を奏でる如く、弾み、休み、また流れていった。文字を超えて絵画となった新しい「書」だった。型破りな2人の天才のセッションが完璧に調和したのだ。

1615年、大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられる。そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れた。徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられたのだ。師の織部に連座して都の郊外へ追い出されたとする説もあるが、いずれにせよ光悦は俗世や権力から離れて芸術に集中できる空間が手に入ったと、この事態を前向きに受け止め、新天地に芸術家を集めて理想郷とも言える芸術村を築きあげようとした。以後、亡くなるまで20年強この地で創作三昧の日々を送る。

光悦の呼びかけに応えて、多くの金工、陶工、蒔絵師、画家、そして創作活動を支える筆屋、紙屋、織物屋らが結集し、彼はこの「光悦村」の経営と指導に当たった。文字通り、日本最初のアート・ディレクターだ。有志の中には尾形光琳の祖父もいた。風流をたしなむ豪商も住み、村には56もの家屋敷が軒を連ねていたという。光悦の友人は、武士、公家、僧など広範で、宮本武蔵も吉岡一門との決闘前に光悦村に滞在している。
茶の湯も大いに賑わい、それに関連して光悦は今まで以上に熱く陶芸(茶碗づくり)に力を入れてゆく。

赤樂茶碗 通称『加賀光悦』 国宝の『不二山』 黒樂茶碗 銘『雨雲』
紅蓮の炎! 雪を戴く富士! 雨雲から降り注ぐ!
作陶は楽焼の2代常慶、3代道入から指導を受け、ロクロを使用せず手とヘラで整えた手びねりで制作した。本職の陶芸家ではなく外野から参加している分、自由な発想で個性あふれる茶碗を生み出した。革命的だったのは、光悦が茶碗の箱に自分の署名を入れたことだ!制作者が名を刻んだのは日本陶芸史上初めてのことだった。それまでは陶芸家でさえハッキリと茶碗を芸術作品とは認識していなかったのを、光悦が名前を入れたことで、茶碗を通して作者の自我を主張できるようになったんだ。現在国産の焼き物で国宝に指定されているのは2つだけ。その1つが光悦の銘『不二山』だ。雪を冠した富士のような景色からこの名が付いた。他にも『雨雲』『雪峰』『時雨』『加賀光悦』などの傑作茶碗を後世に残した。

『船橋蒔絵(まきえ)硯(すずり)箱』(国宝)
硯箱の表面に書かれた文字は『後撰和歌集』の源等(みなもとのひとし)の歌「東路(あづまぢ)の佐野の船橋かけてのみ 思ひ渡るを知る人のなき」“東国佐野に長い舟橋(舟と舟に架かる橋)が架かっているように、あなたをずっと想い続けているのにちっとも気づいて下さらない”。ただし遊び心でわざと「東路乃 さ乃ゝ“ ”かけて」と、途中の「舟橋」の言葉が抜かれている。そのかわりに舟橋そのものを箱に描いている心憎い演出だ。下地に波を描き、そこへ並んだ小舟を彫り、その上に鉛の板を橋に見立てて配置している。丸々と盛り上がった蓋のデザインも斬新だ。古典文学と硯箱のコラボに光悦の“キマッタ!”という満足気な顔が見えそうな逸品だ。






日本のダ・ビンチ、光悦の墓 色紙帖『薄(すすき)に月図』 『山姥』
洛北の鷹ヶ峰は静かで落ち着く良い場所だ。芸術村に
あった彼の屋敷の跡が、そのまま光悦寺になっている。
美しい庭の外れに眠っていた。※千葉県市川に分骨あり
これも光悦筆・宗達画のコラボ。半月は銀色
だったのが、今は酸化して黒ずんで残念。
当初は手前のススキが浮かびあがっていた
能面も打った!



光悦は平安朝から続く伝統文化を深く愛し、それをベースに様々な創意工夫を加えて新しく甦らせた。従来の蒔絵(まきえ、漆を塗って金銀粉を蒔いたもの)についても、見た物をそっくりに描いて「ハイ、おしまい」ではなく、対象となった物をデザイン化して再構成したり、文字を絵の一部として装飾化して加えるなど、変幻自在にスタイルをかえた。その斬新な造形感覚は他に比類のない独自のもので、屏風、掛軸、うちわ、本の表紙など各種生活実用品まで多岐にわたって創作の対象とした。装飾を凝らした日用品を創ることで、光悦は美術品を観賞用ではなく、生活道具の一部として暮らしに密着させようとした。光悦村が美術史の中で日本のルネサンス(文芸復興)の地と呼ばれる由縁だ。そして特筆したいのは、そこに軽妙な遊び心があったこと。この明るさがまた人々を惹きつけた。
光悦は宗達と共に琳派の創始者となり、その精神は半世紀後に尾形光琳に受け継がれていく。光悦が日本文化に与えた影響は計り知れない。享年79歳。

※光悦は名器(瀬戸の茶入れ)の購入の際、相手が値引きしようとしたのを断って、あえて言い値で買い取ったという。芸術家として、鑑定家として、自分がその価格に見合う真に価値ある作品だと思えば、それを値切ることは作者への冒涜だと思ったのかもしれない。
※本阿弥家は法華経の有力信徒。光悦村そのものが法華経信徒の牙城となった。
※1604年(46歳)から2年をかけ光悦の書を版下にした『方丈記』『徒然草』『伊勢物語』などが出版された(嵯峨本と呼ばれる)。

【おまけ】“弘法も筆の誤り”というが光悦も間違うことがある。冒頭の『鶴下絵』をよく見ると、宗達の絵に
見とれ過ぎたのか、柿本人丸(麻呂)と書くべきところを、“柿本丸”と書いてしまった。墨なので
消すわけにもいかず、“柿本丸”の隣に申し訳なさそうに薄く“人”と付け加えられている。かわいい!



★尾形 乾山/Kenzan Ogata 1663-1743.6.2 (京都府、上京区、妙顕寺泉妙院 70歳)2003 工芸家


さび絵滝山水図茶碗

墓地の門に鍵がかかりこれ以上墓に接近出来なかった。灯篭が邪魔ッ!!(中央が乾山、左端が兄・光琳)

幼名権平、本名深省。京焼きの名手。京都の高級呉服商の家に生まれる。天才絵師・尾形光琳は5歳年上の兄。派手好きで女性関係も賑やかだった光琳に対し、弟の乾山は物静かで読書が趣味。隠遁を好み生涯独身だった。キャラが正反対の兄弟だが、終生支えあい仲が良かった。1687年、24歳の時に父が他界し、息子たちは莫大な遺産を継いだが、光琳の経済観念はゼロ。みるみる資産は減少していく。しかも1693年(30歳)には金を貸していた大名に債権を踏み倒され回収不能になり、光琳は弟に金を借りに来る始末。「兄上は根本的に生き方を変えないと、このままでは兄上の為にもならない」と乾山は手紙をしたため、自身はそれまで趣味で習っていた陶器づくりを商売とする為に、本腰を入れて野々村仁清に陶法を学び、1699年(33歳)、仁和寺近くの鳴滝に自分の窯を構えた。そこが京都の乾(いぬい、西北)の方角になることから乾山の号を名乗った。弟が自立した姿を見て兄の光琳も絵筆で立つ決心をし、2年後に作品を発表し始めた。

1712年(49歳)、窯を開いて16年。郊外で焼いているだけでは生活が苦しくなり、焼き物店を出す為に街の中心へ居を移し、再出発を試みる。これに呼応するように数年前から江戸に出ていた光琳が戻って来て、乾山の作品に名声のある光琳が絵付けをするようになった。ここに兄弟合作、黄金タッグによる多数の傑作が誕生した!今度は兄が弟を手助けしたんだ。描かれた絵は、笑顔の七福神など楽しげで微笑ましいものが多い。乾山は兄の死後も30年近く生き、70歳頃から江戸に上がって筆を握り、文人趣味の優れた書画などを残した。

※二代目尾形乾山…野々村仁清の息子が初代乾山の養子となり二代目を名乗る。乾山の名はその後も受け継がれ、現在は8代目乾山(山本如仙)を数えている。



★ウエッジウッド/Josiah Wedgwood 1730.7.12-1795.1.3 (イギリス、ストーク・オン・トレント 64歳)2005
Saint Peter ad Vincula Churchyard, Stoke-on-Trent, England

 

ストーク・オン・トレントの駅前に立つウエッジウッド像。食卓の器をアートに昇華させた男だ。


 

古い教会墓地の中心に、柵に囲われて眠っていた。ウェッジウッドの娘は進化論を発表したダーウィンの母。つまり、ダーウィンは孫!



★正宗/Masamune 鎌倉時代末期 (神奈川県、鎌倉市、本覚寺)2005&09 刀工






名刀と言えば正宗! 国宝の名刀“相州正宗”

数々の名刀を生み出した正宗の供養塔 2005 2009

びっくり!最初の巡礼時には、冒頭に載せた墓石が正宗のお墓と思っていた。ところが再巡礼の際に
住職さんに確認をとったところ、それはあくまでも供養塔で、本物は本堂裏の墓地にある“卵形”の
墓とのことだった! 向かって右が正宗、左が子の貞宗。この墓には今も子孫が墓参に来ているそうだ
本覚寺の境内では名物の枝垂れ桜が満開だった!
こりゃ、良い時期に訪れたなぁ。本覚寺は鎌倉駅から
歩いてスグ。日蓮上人の分骨が納められている

本名、岡崎五郎入道正宗。天下一の名刀を生み出した伝説の刀匠。日蓮(法華経)と正宗は同時代の人物で、日蓮に帰依していた正宗は、「正しい宗教」=「正宗」という名を日蓮に付けてもらったという。国宝となっているのものは刀4口、短刀5口。鎌倉の正宗の屋敷跡に刃稲荷(やいばいなり)が建っている。
今でも正宗の弟子の子孫(24代目)綱廣が鎌倉駅北側に『正宗孫刀剣鍛冶綱廣』という鍛冶屋を開いており、“正宗”の文字が刻まれた包丁や鋏を購入できる。

【豆知識】現在の銃砲刀剣登録規則…刃渡り60cm以上が太刀(刀)、30cm以上60cm未満を脇指、30cm以下ものを短刀と呼ぶ。



★ブランクーシ/Constantin Brancusi 1876.2.19-1957.3.16 (パリ、モンパルナス 81歳)2002 彫刻家
Cimetiere de Montparnasse, Paris, France



「人は真実にせまろうとすると…単純さにかならず到達するものだ」(ブランクーシ)

ルーマニア生まれの前衛彫刻家ブランクーシ。作品『鳥』はその抽象的な形から、空港の税関でなかなか
芸術作品と理解されず、ブチ切れたブランクーシは「金属」とだけ書いて申請したという。




★ドナテロ/Donatello 1386-1466.12.13 (イタリア、フィレンツェ 80歳)2005
Chiesa di San Lorenzo, Florence, Toscana, Italy
本名:ドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディ



墓は地下にあって非公開。神父さんにどんな形か聞いたら「何の装飾もない極めてシンプルな石棺」とのことだった。




★ヘンリー・ムーア/Henry Moore 1898.7.30-1986.8.31 (イギリス、ロンドン 88歳)2005
Saint Thomas's Church, Perry Green, Hertfordshire, England
 


20世紀のイギリスを代表する前衛彫刻家。収入のほぼ全てを後進の芸術家を育てる為の基金に寄付していた人格者だ。



★エッフェル/Gustave Eiffel 1832.12.15-1923.12.27 (フランス、パリ郊外 91歳)2002 建築家

Cimetiere de Levallois-Perret, Paris, France

 
エッフェル家の廟(2002) いつまで見ていても見飽きない美しさ(2009)

完成当時はパリの美観を損なうとして非難の嵐を受けたエッフェル塔(当時世界最高の300m)だが、
今や凱旋門と並ぶフランスの象徴だ。実際、塔のデザインは見れば見るほど美しく、優れた芸術作品
だと思う!エッフェルはパナマ運河の水門工事や自由の女神像の設計にも参加している。




★土門 拳/Ken Domon 1909.10.25-1990.9.15 (千葉県、松戸市、八柱霊園 80歳)2007 写真家


 
セルフ・ポートレート 仏像、昭和の子ども達、労働者、“日本”をフレームに収めた

車椅子になってもカメラを離さなかった 育て上げた弟子の数も多い

山形県酒田市出身。「鬼の土門」と呼ばれた、日本を代表する絶対非演出のリアリズム系写真家。
仏像や古寺など日本の美も撮り続けた。名文家としても知られる。11年間の昏睡の後に他界。




★左 甚五郎/Jingoro Hidari 1594-1651.12.29 (香川県、高松市、四国村 57歳)2008 彫刻家


「史蹟 左甚五郎利勝墓所」
高松市内の地蔵寺から道路拡張で四国村に移設された
墓石の側面に「初代左甚五郎利勝」とある


「甚五郎の彫った鯉が泳いだ」「鶴が飛ぶので足に鎖をした」「竹の水仙を水にいけると花が開いた」など、その天才ぶりを伝える逸話が各地に残る。播州明石出身。子供時代に父をなくし、飛騨高山の伯父宅に身を寄せる。13歳で京都伏見禁裏大工棟梁・遊左与平次に弟子入り。1619年(25歳)、江戸に上ってさらに腕を磨き、堂宮大工棟梁として名を馳せる。ところが江戸城改築に関わったところ、西の丸地下道の秘密保持のために口封じで殺されそうになる。甚五郎は刺客を返り討ちにしたが、1634年(40歳)、ツテを頼って讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに逃れた。1640年(46歳)、京都にて禁裏大工棟梁を拝命、芸術家として最高栄誉となる官位“法橋”を朝廷から受ける。2年後に高松藩の大工棟梁となり1651年に他界。享年57歳。“左”の由来は、嫉妬した大工に右腕を斬られた説、左利き説、“飛騨の甚五郎”が訛った説など色々ある。
 
【伝・左甚五郎の作品】
日光東照宮の眠り猫(栃木県日光市)
上野寛永寺の竜(東京都台東区)
秩父神社の“つなぎの龍”(埼玉県秩父市)
妻沼聖天山・歓喜院(埼玉県熊谷市)
国昌寺(さいたま市緑区大字大崎)
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町) 
淨照寺(山梨県大月市)
誠照寺の山門、駆け出しの竜、蛙股の唐獅子(福井県鯖江市)
鯉山の鯉(京都・祇園祭)
北野天満宮の透彫(すかしぼり)(京都市)
豊国神社の竜の彫り物(京都市)
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
圓教寺の力士像(兵庫県姫路市)
加太春日神社(和歌山県和歌山市加太)
出雲大社の八足門、蛙股の瑞獣、流水紋(島根県出雲市)  
※変わったところでは京都・知恩院の御影堂天井に甚五郎が置き忘れた「忘れ傘」というのもある。



★円空/Enku 1632-1695.7.15 (岐阜県、関市、弥勒寺跡 63歳)2008 仏師









一両編成のかわいい長良川鉄道 『円空入定塚』。死期を悟りここで自ら土中に入った 即神仏となった塚の前には美しい長良川










12万体も仏像を
彫りまくった
この山中に円空の墓が…!

お菓子のカールのように曲がったお墓!
円空らしい素朴でユーモラスな墓だ
“円空上人”と読める
(すごい蚊だった)

江戸時代前期の天台宗の僧。岐阜県生まれ。奈良の大峯山(おおみねさん)で修行した後、生涯に12万体の仏像を彫るという大願を立て、各地を遍歴しながら仏像を彫り上げていった(青森にまで足跡がある)。仏像を通して民衆を救済した“今釈迦”。個性豊かで鋭さの中にもユーモアがある独自の造形は「円空仏」と呼ばれ、数千体の木彫り(一刀彫)の作品が見つかっている。円空は仏像を彫った時に出た木の破片(削りカス)からも、さらに小さな仏像を彫った。岐阜県内だけで千体以上も残っている。晩年、円空は生きながら土中に入る。空気を送る竹筒からは読経の声が聞こえ、やがて静寂が訪れたという。
※手塚治虫の傑作『火の鳥・鳳凰編』のモデル。



★川喜田 半泥子/Handeishi Kawakita 1878.11.6-1963.10.26 (三重県、津市、玉保院納所道場 84歳)2008 陶芸家














伊賀水指 銘「慾袋」
でっぷり感が“慾”袋(笑)
半泥子のひょうひょうとした
作風を多くの人が愛した
志野茶碗 銘「赤不動」
すごい迫力!




川喜田家は地元の名士。一族の墓所の
向って右端から3番目が半泥子の墓
遺言通り半泥子の骨は母がわりの祖母と同じ墓に納められた。
死後50年も経ってないのに江戸時代の墓並に古くて驚いた!

「東の魯山人、西の半泥子」と称された川喜田半泥子。生家は伊勢の豪商・川喜田久太夫家。創業が寛永年間の木綿問屋で半泥子は16代にあたる。本名、川喜田久太夫政令(まさのり)。生まれてすぐに両親と別れ1歳で家督を継ぐ。祖母が母代わりに半泥子を育て上げた。百五銀行の頭取、三重県議会議員など要職を歴任する一方で、陶芸、書画、俳句など茶文化に通じた文化人。才能のある陶芸家を経済的に支援しながら、本阿弥光悦や尾形乾山など桃山陶芸をリスペクトするあまり、1933年(55歳)に自分の窯を築き生涯に3万5千個以上を焼き上げた。

半泥子は“趣味の道楽焼き”を自認しており、師匠もおらず、号も半泥子の他に「莫加野廬(やろう)」「鳴穂堂主人」「無茶法師」「反古(ほご)大尽」など奇天烈なものを使った。※半泥子の意味は「半ば泥みて半ば泥まず」。何事もほどほどに、ということ。
作品に付けた銘も「昔なじみ」「おらが秋」「ねこなんちゅう」「すず虫」「むかし話」など実に楽しい。美濃、楽、志野、織部、萩、なんでもありの、“素人”ならではの枠に囚われない大胆かつ自由奔放な作風が多くの人を魅了している。そのおおらかさに癒されるのだ。

※戒名
は『仙鶴院半泥自在居士』。この“自在”という言葉が半泥子らしくていいね!
※半泥子の肩書きを陶芸家と書いたけど、それが本職というわけじゃないので広い意味での芸術家が正しいデス。っていうか、半泥子は生前に茶碗をひとつも売ったことがなく、人にあげたり普通に自分の茶会で使っていた。



★夢窓 疎石/Soseki Muso 1275-1351.9.30 (京都市、右京区、臨川寺 76歳)2007 作庭家

多くの名庭を設計した名僧 美しい西芳寺の苔庭(画像元・ウィキペディア)

  
疎石が開いた臨川寺に眠る(写真のお廟の地下)。非公開だけど腰をかがめると格子の間から墓石っぽいのが見えた

室町前期に活躍した臨済宗の名僧で、禅精神を現した庭の設計にも天才的な才能を発揮した。西芳寺(苔寺)と天龍寺庭園はその代表的名庭。道号が夢窓、法諱が疎石。三重県生まれ。1283年、8歳で山梨・平塩山寺に出家。18歳で東大寺にて受戒するも進路に迷い道場で瞑想。その際夢の中で見知らぬ老人に疎山と石頭の両寺へ案内され、禅宗の開祖・達磨大師の画を授けられたことから禅宗に進む。京都建仁寺、鎌倉の円覚寺、建長寺、万寿寺など名刹で学び、1305年(30歳)、浄智寺で印可(いんか、悟りの証明書)を授かる。これを受け、かつて夢に登場した寺から1字ずつとり疎石と名乗った。しかし、仲間の僧から印可を嫉妬され師に悪口を吹き込まれたことから名声争いに嫌気がさし、幕府のお膝元・鎌倉を離れて、美濃、土佐、相模、上総など各地の庵に隠居し、若い僧たちの指導に務めた。

だが、世の中と距離を置こうとするほど逆に“地位を求めぬ名僧”と噂になり、1325年(50歳)には、とうとう後醍醐天皇から懇請を受けて京都・南禅寺住職となる。54歳、鎌倉幕府第14代執権・法条高時の依頼で円覚寺住職となり禅を教え、翌年に甲斐で恵林寺(後の武田家の菩提寺)を開く。1333年(58歳)の鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇の招きで上洛し、60歳で嵯峨・臨川寺(りんせんじ)の初代住職となった。疎石は教育者としても大いに人望を集め、この臨川寺は京都を代表する五山派中の最大門派となった。南北朝の戦いを制した足利尊氏もまた疎石を尊敬していたため、室町幕府が開かれた後も足利家の内紛調停に一役かった。尊氏は疎石の薦めで後醍醐天皇を弔う天龍寺や、戦死者を慰霊する為の安国寺を建立。疎石は各地の禅寺に名庭を残し76歳で人生を終えた。7人の天皇から国師号(朝廷が高僧に贈った称号)を授かり夢窓国師とも呼ばれる。
※甥の春屋妙葩(みょうは)は京都相国寺を開創。



★グンナール・アスプルンド/Erik Gunnar Asplund 1885.9.22-1940.10.20 (スウェーデン、ストックホルム 55歳)2009
Skogskyrkogarden (The Woodland Cemetery), Stockholms lan, Sweden




中央の大きな木の下、壁沿いに眠る 墓碑銘 この壁の下の花が彼の墓

“森の墓地”は墓地の暗さはゼロ! アスプルンドの墓の側の大きな十字架 世界遺産指定!“調和”という言葉しか見つからない

北欧近代建築の礎を築いたスウェーデンの天才建築家。洗練されたデザインと自然回帰の思想は、アールトなど20世紀の北欧の建築家に絶大な影響を与えた。
アスプルンドは自身が設計した「森の墓地」(スコーグスシュルコゴーデン)に眠る。この「森の墓地」は、20世紀以降の建築物の中では世界遺産の登録第1号に選ばれた伝説の墓地だ。

“大人の事情”でボカシます
仰天、アスプルンドの墓の背後でV6のO.J君がロケをしてた!まさかストックホルムの墓地で日本人と、それもO.J君と会うとは。
事実は小説よりも奇なり。彼は気さくに「墓参り?」。短い会話だったけどアスプルンドの墓参に来たことを伝えた。




★アルヴァ・アールト/Hugo Alvar Henrik Aalto 1898.2.3-1976.5.11 (フィンランド、ヘルシンキ 78歳)2009
Hietaniemi Cemetery, Helsinki, Finland

  

美しく機能美を備えた“北欧デザイン”で世に知られた、フィンランドを代表する建築家&デザイナー。冷たいイメージのあるモダニズム全盛の中で、木や曲線をデザインに取り入れた。彼のガラス器は“アールト・ベース”として、今も高い人気を持つ。



★ルイス・カムフォート・ティファニー/Louis Comfort Tiffany 1848.2.18-1933.1.17 (USA、ニューヨーク州 84歳)2009
Green-Wood Cemetery, Brooklyn, Kings County, New York, USA  Plot: Section 65, Lot 619








宝飾デザイナーとして成功

この一角にティファニー家が全員集合!

背後の墓は創業者の
チャールズ・ルイス・ティファニー

更新中。アメリカのアールヌーヴォーの代表格!




★ロバート・メイプルソープ/Robert Mapplethorpe 1946.11.4-1989.3.9 (USA、ニューヨーク州クイーンズ 42歳)2009
Saint John Cemetery Middle Village Queens County New York, USA  Plot: Section 48, Range B Lots 131-133

 

更新中。性的な写真が、アートか猥褻かで大論争になった。



★ユージン・スミス/William Eugene Smith 1918.12.30-1978.10.15 (USA、ニューヨーク州 59歳)2009
Crum Elbow Cemetery, Hyde Park, Dutchess County, New York, USA



優しさが溢れるカメラマンだった 『楽園へのあゆみ』(1946)



墓参時に夕立があり、楽園へ歩んでいくようだった

名前の他に「PHOTOJOURNALIST」
「LET TRUTH BE THE PREJUDICE」と刻まれていた
“造花お断り”の看板。米国の墓地には
プラスチックの花を禁じる墓地が多い

更新中。水俣病の患者を人間愛の視点で撮るなど日本とも関わりが深かったスミスさん。



★グレッグ・トーランド/Gregg Toland 1904.5.29-1948.9.26 (USA、カリフォルニア州ロス 44歳)2009
Hollywood Forever, Hollywood, Los Angeles County, California, USA Plot: Chapel colonade, lower floor


上から2段目がトーランド 本の形をした骨壺がシブイ

画面のすべてにピントを合わせる「パン・フォーカス」という新しいカメラ技術を開発した名カメラマン&映画撮影監督。『市民ケーン』の映像は
映画界の伝説に。『怒りの葡萄』や『我等の生涯の最良の年』などでも巨匠に重用された。『嵐ケ丘』(1939)でアカデミー撮影賞を受賞。




★横山 松三郎/Mastusaburo Yokoyama 1838年11月26日(天保9年10月10日)-1884年(明治17年)10月15日
(北海道、函館市、高龍寺 45歳)2009



渋いルックスの写真師 横山家の墓所。一番右が松三郎 斜面で少し傾いている

更新中。気球から日本初の航空写真を撮るなど、日本の写真術創生期に活躍した写真師。



★運慶/Unkei 1150年頃-貞応2年12月11日(1224年1月3日) (京都府、東山区、六波羅蜜寺 74歳頃)2010

息子の湛慶が彫った父・運慶像 運慶20代半ばのデビュー作・大日如来坐像

 
運慶が晩年に手掛けた、日本、いや、世界の肖像彫刻の最高傑作・無著菩薩立像

京都市東山区の六波羅蜜寺


かつて六波羅蜜寺の境内にあった十輪寺は運慶一派の菩提寺だった。応仁の乱をはじめ、度重なる戦火で
諸堂は燃えてしまい、運慶の墓も行方不明に。しかし、この地面のどこかに運慶一派は眠っているはずだ。
僕は墓地に向かって合掌した。現在、六波羅蜜寺が収蔵する運慶像も、当初は十輪寺に置かれていたものだ

平安末期から鎌倉初期に活躍した慶派の仏師。平安貴族に好まれた従来の温厚な仏像ではなく、武士の世を反映した写実的な荒ぶる仏を彫り上げた。父は奈良仏師の康慶。1176年、20代半ばで奈良・円成寺の大日如来像を制作(現存する最古の作品)。1180年、平家(平重衡)の“南都焼討”によって東大寺や興福寺など巨大寺院が灰燼と化す大事件が起きる。運慶の目の前で、500年という歳月を越えてきた天平の傑作仏像たちが炎に焼かれていった。1185年(35歳頃)、壇ノ浦の戦で平家が滅亡。翌年、運慶は東国武士たちの依頼で、静岡・願成就院に阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を、1189年(39歳頃)に神奈川・浄楽寺で阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を彫像した。

1196年(46歳頃)、父康慶、ライバル快慶らと東大寺大仏の両脇侍像&四天王像の巨大仏像6体を制作。現存していれば国宝間違いなしのこの6体は、1567年に戦国きってのワル・松永久秀が敵陣ごと焼き払った。1203年(53歳頃)、東大寺南大門に立つ高さ8mの金剛力士の巨像を、“チーム運慶”を率いて約2ヶ月という短期間で完成させる。この偉業が評価され仏師の最高位“法印”を受けた。1212年(62歳頃)、4年前から取り組んでいた興福寺北円堂の本尊弥勒仏坐像、そして肖像彫刻の最高傑作“無著(むぢゃく)・世親(せしん)像”を完成。無著と世親は実在したインドの高僧。運慶は若き日に仏のトップ・大日如来像でデビューし、最後は2人の人間を彫った。仏で始まり人間で終わる…何かを悟ったかのような仏師人生だった。
※正確にはその4年後に神奈川の称名寺光明院に大威徳明王像を残しているが(1998年発見)、これは高さ21cmのミニ仏像ゆえ、大仕事は無著・世親が最後かと。
※チーム運慶…弟の定覚、運慶の長男湛慶、父康慶の弟子快慶、その他多数の弟子で構成された運慶工房。

●現存する仏像で100%運慶の作品と分かっているもの(年代順)
・奈良〜円成寺 大日如来坐像(国宝)安元2年(1176年)
・静岡〜願成就院 阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像(重文)文治2年(1186年)
・神奈川〜浄楽寺 阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像(重文) 文治5年(1189年)
・奈良〜東大寺南大門 金剛力士立像(国宝)建仁3年(1203年)※チーム運慶
・奈良〜興福寺北円堂 弥勒仏坐像(国宝)建暦2年(1212年)※チーム運慶
・奈良〜興福寺北円堂 無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)建暦2年(1212年)※チーム運慶
・神奈川〜称名寺光明院 大威徳明王像(重文)建保4年(1216年)
●作風や納入期から、かなり真作の可能性がある仏像
・奈良〜興福寺 木造仏頭(重要文化財) 文治2年(1186年)
・和歌山〜金剛峯寺 八大童子立像(国宝)建久8年(1197年)※2体は後世のもの
・京都〜六波羅蜜寺 地蔵菩薩坐像(重文)
・栃木〜光得寺 大日如来坐像(重文)
・愛知〜滝山寺 聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像(重文)建仁元年(1201年)
・東京〜宗教法人真如苑蔵 大日如来坐像(重文)※東京国立博物館に寄託



★星野 道夫/Michio Hoshino 1952.9.27-1996.8.8 (千葉県、市川市、市川霊園 43歳)2012


なんて優しい笑顔!

ロシアのカムチャツカ半島で熊に襲われ他界。死は
悲しみであるが星野さんの場合自然に還った気がする
冬の早朝に訪れた。澄んだ空気の中、
柔らかな光に包まれる星野さん

道路に第5区。この歩道沿いに墓がある 「生命の光をさがしもとめて道夫は逝く 安らかれ」 作品を通してファンが増え続けている

更新中。写真家、探検家、詩人。千葉県市川市出身で墓も市川に。
「“風こそは信じがたいほど柔らかい真の化石だ”と誰かが言ったのを覚えている。私たちを取り巻く大気は、太古の昔からの無数の生き物たちが吐く息を含んでいるからだ」
「やりたいことが頭の中にギッシリ詰まっていた。大切なことは、出発することだった」(星野道夫)



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墓地(日)、cemetery(英)、cimetiere(仏)、friedhof(独)、cimitero(伊)、cementerio(西)、cemiterio(ポ)


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