【 あの人の人生を知ろう〜棟方志功編 】

1903.9.5-1975.9.13



30歳。この頃油絵から
板画に移行しつつあった
66歳。めっさ豪快に笑う棟方!

左目は失明しており、右目も極度の近眼だった



「棟方志功のお墓」案内板。ゴッホの象徴であるヒマワリが描かれていた ここを登っていく

2000年 初巡礼
没年は永遠の命を表す「∞」!
2012年 12年ぶりの再巡礼
“静眠碑"と彫られている
背面に戒名
「華厳院慈航真毎志功居士」

志功はゴッホの大ファン。墓を同じ形にした ゴッホ兄弟の墓。左がヴィンセント 左が志功、右は「棟方家」の墓

墓石の後方に石板→ 「驚異モ 歓喜モ マシテ悲愛ヲ 盡(ツク)シ得ス」 近辺には三内丸山遺跡がある








善知烏(うとう)版画巻/
夜訪(よどい)の柵 35歳
釈迦十大弟子/
目けん連の柵 36歳
花狐の柵 53歳
「嬉しさの狐手を出せ曇り花」
空晴の柵 54歳
「今日 空 晴レヌ」
ある修行僧が、漁師の霊に“妻子を訪ねて
欲しい”と頼まれ、夜半に戸を叩いた場面。
能の幽玄と北国独自の悲しみを刻んだという
板木を一杯に使って木の持つ
生命力を出し切り、仏に近づき
つつある人間像を彫り上げた
桜にうかれて踊る陽気な狐
棟方の動物はどれも味がある
力強くピチャンと跳ねる魚
短い言葉と相まって気持ち良い

※棟方曰く、「柵(さく)」とは巡礼が寺々を回って納めるお札で、一作ごとに念願をかけて無限に続く道標としているとのこと。

棟方志功(むなかた・しこう)は、1903年、青森に鍛冶屋の三男坊として生まれる(9男6女の15人兄弟)。豪雪地帯であり、囲炉裏の煤で眼を病み、極度の近視となる。小学校卒業後、すぐに家業の手伝いに入ったため中学には行けなかった。17歳の時に母が病没し、家運も傾き父親は鍛冶屋を廃業。棟方は青森地方裁判所の給仕となった。絵が好きだった棟方は、仕事が終わると毎日公園で写生をするなど絵画を独学し、描き終わると風景に対して合掌したという。

18歳の時、友人宅で文芸誌『白樺』に掲載されたゴッホの『ひまわり』と出会う。炎のように燃え上がる黄色に、そのヒマワリの生命力と存在感に圧倒された。カンバスに刻まれたヒマワリから、ゴッホその人が立ちのぼった。
※この『白樺』に関するエピソードは詩人・小高根二郎が『棟方志功』に次のように記している。
棟方は友人宅を帰る時に呼び止められた。
「ゴッホさ、ガ(君)にける(あげる)」
友人は棟方に白樺をプレゼントした。棟方の指がスッポンの口ばしの様に談笑中ずっと白樺を手放さなかったことに気付いたからだ。
「ワ(我)のゴッホさ、ガ(君)にける」
と繰り返して言うと、棟方は狂喜して踊り上がった。
「ゴッホさ、ワに?ゴッホさ、ワに?」
棟方がこの恩寵が信じきれないという顔をしていると、
「ンだ。ガにける」
贈呈の意志が変わらないことを、友は3度重ねて表明した。棟方は白樺を胸に抱きしめ、歓喜の笑みで「ワだば、ゴッホになる!ワだば、ゴッホになる!」
と友人の好意に応える覚悟で叫んだ。その後、友の気持ちが変わらぬうちにと、そそくさと帰ったという。 この誓い通り、棟方は油絵にのめり込んでいく。

1924年に21歳で上京。故郷を旅立つ際、見送りに来た人々の前で「帝展に入選するまで何があっても青森に帰りません」と誓っていた。だが、帝展や白日会展などに油絵を出品するも落選が続いた。
1926年(23歳)、版画家の川上澄生(すみお/1895−1972、当時31歳)が、初夏の恋の幻想を描いた木版画の代表作『初夏の風』を国画会に出品、棟方はすっかり心を奪われる。
1927年(24歳)、4回連続で帝展に落選。棟方の絵はなかなか世間に認められず、時間だけが経っていった。画家仲間や故郷の家族は、しきりに棟方へ有名画家に弟子入りすることを勧めたが、かたくなに抵抗した。
“師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない!”
棟方は新しい道を模索し始めた。当時の画壇で名声の頂点にあった安井曽太郎、梅原龍三郎でさえ、油絵では西洋人の弟子に過ぎなかったことから、この頃の気持を自伝にこう書いている「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました」。

1928年(25歳)、上京から4年、帝展への5回目のチャレンジで油絵作品『雑園』が悲願の初入選を果たす。棟方は5年ぶりに帰郷し、両親の墓へ入選を報告した。
…だが、棟方は気付いた。“そうだ、日本にはゴッホが高く評価し、賛美を惜しまなかった木版画があるではないか!北斎、広重など、江戸の世から日本は板画の国。板画でなくてはどうにもならない、板画でなくてはわいてこない、あふれてこない命が確実に存在するはずだ!” 。
棟方は油彩画から木版画に転じ、のちに“木版画の神様”と讃えられる平塚運一(うんいち/1895-1997、当時33歳)に木版を学び、木版画の制作に没入していく。また、国画会会員となり同展に出品を続けた。
「この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)」、この言葉が棟方の座右の銘となった。棟方は文字を画面に入れ込み、絵と文字を同次元に扱い、統合させた独特の「板画」を確立する。

                       

1930年(27歳)、文化学院で美術教師を務め、同年に赤城チヤ(21歳/1909生)と結婚し、2男2女に恵まれる。当初、棟方は貧乏ゆえに東京で仲間と共同生活を送り、チヤ夫人は青森で呼び寄せられるのを待った。「昭和5年、わたくしは、チヤコと一緒になりました。 (中略)しみじみの想いというか、わたくしの足りないものを持って来てくれたチヤコであったのでした」。この年、国画会の展覧会に『貴女裳を引く』など4点が入選。
1931年(28歳)、初めての版画集『星座の花嫁』出版。
1932年(29歳)、日本版画協会会員となる。国画奨励賞を受賞した版画4点が米仏の美術館に買い上げられる。 チヤ夫人がしびれを切らして上京し一緒に暮らし始める(1934?)。
1936年(33歳)、国画会展に棟方版画の原型となった『大和し美し(やまとしうるわし)』を出品。ヤマトタケルノミコトの古代神話をうたった佐藤一英の壮大な詩と、棟方の土俗的で生命力のある絵が融合した作品となった。『大和し美し(やまとしうるわし)』は民芸運動の柳宗悦(むねよし)、河井寛次郎らの目にとまって交友が始まり、柳が日本民藝館の所蔵品として『大和し美し』を購入。棟方は上京から12年目にしてついに自分の作品が国内で売れた。

棟方は民芸運動に参加し、日本民芸派との交流は制作上の転機となった。縄文的、民芸的特質をもった棟方板画と呼ばれる独自の作品が生まれ、宗教的(仏教的)主題の多くの傑作が誕生する。棟方は「無私の心に咲く無名の美」を創作の根本とすることを自覚し、素朴な情念、原始の呪術性、広大な宇宙観を、簡潔なフォルムで大画面の版画に表現した。
※棟方はいったん彫刻刀を持つと一心不乱に彫り上げたが、彼が創作に集中できたのはチヤ夫人が支えてくれたから。棟方の作品が安定して売れ始めたのは結婚6年目になってから。幼子を抱え貧しい日々が続いても、夫人はずっと応援し続けた。

1937年(34歳)、国画会同人となる。日本浪曼派の文芸評論家・保田与重郎(やすだ・よじゅうろう/1910-1981)らとの交友から日本的情感、東洋的美に開眼し、民話を題材に制作するようになった。
1938年(35歳)、帝展(文展)で『善知鳥(うとう)』が版画界初の特選に輝く。
1939年(36歳)、大作『釈迦十大弟子』を下絵なしで一気に仕上げる(興福寺の十大弟子から着想)。制作中の棟方の談話「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」。

1942年(39歳)、随筆集『板散華(はんさんげ)』にて、今後は「版画」という文字を使わず「板画」とすると宣言。板の声を聞き、板の命を彫り出すことを目的とした芸術を板画とした。
1943年(40歳)、棟方は自身がお遍路さんのように祈りを込めて1枚1枚彫っているため、この頃から自作に「○○の柵」とタイトルをつけるようになる。この年、ベートーヴェンの音楽と出会い、その宇宙的な包容力に深く胸を打たれる。
1945年(42歳)、富山県福光町に疎開。棟方は当地の自然をこよなく愛し、敗戦後も6年8カ月滞在する。浄土真宗にふれる。
1946年(43歳)、富山県に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付ける。この住居は谷崎潤一郎が「愛染苑(あいぜんえん)」と命名。
1951年(48歳)、東京に戻る。
1952年(49歳)、ルガノ国際版画展で優秀賞を受賞。 『天地乾坤韻』を制作。日本版画協会を脱退して、笹島喜平らと日本板画院結成。
1953年(50歳)、『湧然する女者達々する女者達々(ゆうぜんするにょしゃたちたち)』を制作。
1955年(52歳)、サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞を受賞。

1956年(53歳)、ベネチア・ビエンナーレにて『湧然する女者達々』『柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)』などを出品、日本人として最初の国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタとなる。「会場へ来た人のほとんどすべてが、棟方の木版画の前に愕然としていました。」(当時会場で働いていた人の証言)。棟方は以後も数々の国際展で受賞をかさね、その芸術はひろく知られるようになった。
1958年(55歳)、日本画の「双妃図」を描く。版画を「板画」としたように、彼は日本画を「倭画(やまとえ)・倭絵」と称した。『柳緑花紅板画柵』を制作。
1959年(56歳)、初めての海外旅行で欧米を訪れ、アメリカでは各地の大学で板画の講義をおこない、ヨーロッパではフランスで念願だったゴッホのお墓参りを実現する。その際、チヤ夫人の眉墨を使い碑文の拓本をとったという。以降、この年を含めアメリカには4度訪れている。
1960年(57歳)、代表作を網羅した大巡回展が米国で前年に続いて開催され好評を博す。同年、『歓喜自板像の柵』(自画像)を彫る。酔っ払って幸せそうにひっくり返る自分の背後に、写生に出かけるゴッホと、ベートーヴェンをたたえる言葉を刻み込んだ。この頃、朝日賞を受賞するなど、ようやく国内の美術界で正当に評価される。眼病が悪化し、左眼を失明、右眼のみで彫り続ける。
1961年、敬愛する柳宗悦が72歳で他界。
1963年、倉敷市の大原美術館内に棟方板画館が開設。
1964年(61歳)、自伝『板極道』を出版。
1969年(66歳)、ヨコ27m、タテ1.7mという世界最大の版画『大世界の柵』を完成。巨大さゆえ板壁画と呼ばれた。 同年、青森市名誉市民第1号に選ばれる。

1970年(67歳)、文化勲章を受章。コメントは「僕になんかくるはずのない勲章を頂いたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします」。そして長年サポートしてくれたチヤ夫人に感謝し、「この勲章の半分はチヤのもの」と讃えた。
1972年(69歳)、詩人の草野心平とインドを旅行する。
1973年(70歳)、板画と肉筆画を融合させていく。
1974年(71歳)、自分で設計したお墓を8月5日に建立する。生前墓であり夫婦墓。
1975年9月13日、肝臓癌のため72歳で永眠。自ら“板極道”を名乗った男は、「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。他には何もなくていい」という遺言を残した。同年11月、郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。
民芸的、縄文的生命感をもった“板画”を創作。代表作「二菩薩釈迦十大弟子」など。
代表作に「華厳譜」「釈迦十大弟子」「女人観世音板画巻」「湧然たる女者達々」「東海道棟方板画」など。

〔墓巡礼〕
墓は青森三内霊園の「静眠碑」。棟方は死を予感したのか、亡くなる前年に自分の墓の原図を描いていた。忠実に作られたその墓は、なんと敬愛するゴッホの墓と全く同じ大きさ、デザインのものだった!前面には『棟方志功 チヤ』と夫婦の名を刻み、没年には永遠に生き続けるという意味を込めて「∞」(無限大)と彫り込まれていた。墓の背後には「驚異モ/歓喜モ/マシテ悲愛ヲ/盡(ツク)シ得ス」《不盡(ふじん)の柵》と彫ったブロンズ板がはめ込まれている。今でも毎年9月13日の命日には、第九を流しながら焼香をあげ「志功忌」が開かれている。

※青森市には「棟方志功記念館」「浅虫温泉 椿館」「青森県立美術館」で棟方の作品に会える。
※棟方が好んだ第九はコンヴィッツニー指揮、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団のもの。
※長男は元俳優・棟方巴里爾(ぱりじ/1998年没)、次男は棟方令明(元棟方板画美術館長)、長女は宇賀田けよう、次女は小泉ちよえ。巴里爾は墓所の向かって右側のお墓に眠っている。
※お墓はゴッホのオリジナルより少し大きく作ったとのこと。
※30代に借家のふすまにタコが何匹も泳ぎ回る絵を描き、大家さんからえらく怒られた。
※ねぶた祭りが大好き。
※棟方が富山に建てた住居は移築保存され、鯉雨画斎として一般公開されている。
※劇団ひとりが棟方を熱演したドラマ『我はゴッホになる』(107分)が素晴らしいデキ!

『歓喜自板像の柵』 57歳
大好きな先人たちに囲まれ、酒を酌み交わしている幸福感いっぱいのセルフ・ポートレート。左上は「エヲカキニデル」
ゴッホ、中央の石塔は尊敬する民芸学者・柳宋悦の象徴(柳の字が見える)、右上は「ヨロコビノウタ」ベートーヴェンを
讃える言葉、茶碗は陶芸家の河井寛次郎の象徴、そして中央に酔っ払って幸せそうに寝転ぶ自分自身。さらに棟方の
右手には愛するチヤ夫人の白く美しい手が繋がれている!なんて幸せな作品なんだ〜ッ!


「わだばゴッホになる」 草野心平

鍛冶屋の息子は
相槌の火花を散らしながら
わだばゴッホになる
裁判所の給仕をやり
貉(むじな)の仲間と徒党を組んで
わだばゴッホになる
とわめいた
ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし
ゴッホにはならずに
世界の
Munakataになった
古稀の彼は
つないだ和紙で鉢巻きをし
板にすれすれ獨眼の
そして近視の眼鏡をぎらつかせ
彫る
棟方志昴を彫りつける ※原文のまま


参考文献:現代日本の美術14・棟方志功(集英社)、ARTISTS JAPAN8・棟方志功(同朋舎)
スペシャル・サンクス:ゴビィさん


《あの人の人生を知ろう》
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・西行法師
・与謝野晶子
・茨木のり子
●尾崎放哉
・種田山頭火
●松尾芭蕉
・ドストエフスキー

★学者編
●南方熊楠
●湯川秀樹

★思想家編
●チェ・ゲバラ
・坂本龍馬
●大塩平八郎
・一休
・釈迦
・聖徳太子
・鑑真和上
・西村公朝
・フェノロサ

★武将編
●明智光秀
●真田幸村
・源義経
・楠木正成
●石田三成
・織田信長




★芸術家編
●葛飾北斎
・尾形光琳
・上村松園
●黒澤明
・本阿弥光悦
・棟方志功
・世阿弥
・伊藤若冲
●グレン・グールド
●ビクトル・ハラ
●ベートーヴェン
●ゴッホ
・チャップリン

★その他編
●伊能忠敬
・平賀源内
・淀川長治
●千利休

●印は特にオススメ!

※番外編〜歴史ロマン/徹底検証!卑弥呼と邪馬台国の謎(宮内庁に訴える!)




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