世界巡礼烈風伝・72
《チリ編》

●燃え尽きたビオレータに捧ぐ


チリの首都サンチアゴの国民墓地には、東門から入ってすぐの場所に軍事独裁政権下で軍部によって突然連行されたまま行方不明になっている、無数の市民のための巨大なメモリアルがある。
メモリアルと道を挟んで反対側に色とりどりの花が咲き乱れる美しい墓があり、それが女性フォークシンガー、ビオレータ・パラのものだ。
※ビオレッタ・パラともいう。ビクトル・ハラと名前の響きが似ているけど、まったく別人です。念の為。

ビオレータ・パラは1917年10月4日、チリ南部に生まれた。家は貧しく、中学には1年しか行けず、10代から姉と共に歌って生計を立てていた。
35才の時にチリ全土を廻って古い民謡と出会い、詩人パブロ・ネルーダの家を会場に借りて、口伝えに伝承した歌を、ギターに合わせて発表し始めた。やがてそれが話題になってラジオに乗り、40才頃から録音、リサイタルが相次ぎ、彼女の名はそのしわがれた声と共にチリ・フォルクローレの代名詞になった。

有名にはなったが、反抗的な歌で役人や金持ちからは嫌われていたし、金ができると貧しい人に皆与えてしまうので、本人はサンチアゴの街外れに建てた質素なテント小屋に住んでいた。
民謡に自分でメッセージを付けて歌うといった、ビオレータの『新しい歌』運動は、その後ビクトル・ハラに受け継がれていった。

1967年2月5日早朝、ビオレータはギターを胸に抱き、右のこめかみへピストルの弾丸を撃ち込んだ。49才の彼女は独りで逝った。原因は、社会変革の戦いに疲れ果てたことと、失恋の深いダメージだった。どちらの理由も、激しく真直ぐな彼女の性格ゆえだ。

前者の気持が吐露されている曲を紹介しよう。

●マスルキカ・モデルニカ〜現代のマズルカ(ダンス)


『♪色んな人が私に尋ねた 
“扇動的な歌”は大衆からブレーキを奪い危険じゃないのかと
ああ、なんてガキっぽい質問なんでしょ
内心じゃ私はそう言ってやりたかった

で、訊きたがりやに私は答えたの
人々がどうにもひもじくなった時は
豆や玉ねぎの為に政府に断然戦争をしかけるもんだ
ブレーキなんか関係ない
もしも大衆が飢えているなら
軍隊は彼らを止められないって

糊(のり)の利いた服を着た
糊の利いたお大臣がたは
火事場に油を注ぐだけ
で、ソファにふんぞり返ったままで
まるで取るに足らぬものみたいに
“デモ隊の死者たち”を数えるのよ

これ以上歌うのはもうイヤだ
私ゃ 靴もいかれたし
髪や 服もおかしいし
腎臓も みんなダメなの』

次に後者の失恋について。彼女は30代に2度の離婚を経験していて、深く愛情面で傷ついていたが、それでも熱い奔放な魂を抑えることが出来ず、43才の時に年下の若い音楽家と恋に落ちた。

まずはその頃のハッピー系のラブソングを…

●♪全身で


『人間ってものは精神と肉体とで作られているのよ
それに感情の響きの通りに脈打つひとつの心臓とで

魂だけの愛なんて分からない
身体だって波形の美しい1本の川なんだから

波立ちの美しい、そうですとも
それは命のもと

分かってね あなたが全身で好き!』

…と、もうベッタベタ。40代半ばの女性の歌詞とは思えん肉感的な歌だ。
続いて彼に逃げられた破局後の作品。音楽家の彼の歌についての曲だ。

●♪一節、私に歌ってくれた


『私のとても大切な人が 一節 私に歌ってくれた
ナイフみたいなその歌で 
私の声から血の気を抜いてしまったの

私は彼に 一杯の水を求めたんだわ
たしかに彼はそれをくれたわ
けれどそれは 余った残りの水を
犬にやるようなやり方だった

どんな歌を彼が歌ったか知りたい?
それは音もせず響きもせず
人を殺す銃と同じものよ』

この曲は太鼓の重い響きから始まり、陰鬱なメロディーの歌声がゆらゆらと漂う極上の怨み節だ。かなり辛い3分47秒だが、ここまで究めると聴いてる側も快楽の一歩手前を味わえる。
恋愛をするのに歳は関係ないとはいえ、50才を目前にして失恋が自殺の引き金になるっていうのは、なんていうか…す、すごすぎる。

彼女の代表曲『人生よありがとう』は死の直前に発表されたアルバムに入っている。アルバムのタイトルは彼女自身が『Ultimo作品集』と名付けた。スペイン語のUltimoは一般には“最新の”という意味だが、同時に“最後の”という意味も持っている。失恋が決定的になってから発作的に大量の薬を飲み込む騒ぎを数回起こしており、彼女が後者の意味でアルバムを作っていたのは間違いない。

人生に感謝を捧げる歌を書き、そしてすぐに自殺したビオレータの気持が下の歌詞を読んで伝わるだろうか。

●♪人生よありがとう


『人生よありがとう たくさんのものをくれたわね
おまえがくれた ふたつの瞳をあければ 
白と黒がはっきり分かるわ
天高く空の彼方 星までも見える
人ごみのなか あの人も見つけられるわ

人生よありがとう おまえがくれた
耳はいつも働き続け
コオロギ、カナリヤ、ハンマー、タービン、犬や時雨
優しいあの人の声を刻み込む 

人生よありがとう おまえがくれた
音 文字 言葉
自分の考えたことが言える言葉
母や友や兄弟や
あなたの魂の道筋が分かる

人生よありがとう おまえがくれた
足は疲れ なおも歩き続ける
町並みを 水溜まりを
海辺や砂漠を 山や野原を
そしてあなたの家 あなたの庭を

人生よありがとう たくさんのものをくれたわね
笑いを そして涙をくれた
私の歌がそこで生まれる 
私の歌はあなた方の歌
あなた方の歌は私の歌

ありがとう いのち』

…どうだろう、彼女は“生ききった”のだと感じられはしまいか。

僕は徹夜をして朝を迎えた時、夜明け直前の紺青の大気の中を好んで散歩する。この時間帯、世界は昼とも夜とも異なる表情を持っている…それはエネルギーゼロの深遠で冷たい世界だ。自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなる。そんなことが重要に思えなくなって、それが心地良い。昼と夜はあくまでも同じ世界の裏表だが、あの時間帯(おそらく半時間ほど)は根っこの部分から異質の空間になっている。

“きっとビオレータが死んだのはこういう朝だったんだろうな”
ここ残月庵の前は公園だ。木のベンチに座ってそんなことを考え、再び部屋に戻る。今日も次の烈風伝を書くために。僕はまだ死ねん。


(P.S.)
ビオレータもビクトル・ハラ同様、軍事政権時代は放送禁止になっていた。日本国内ではオーマガトキ社が近年初CD化している。ここってハラのCDも出してるし、う〜む、素晴らしい経営方針だ。
『ビオレータ・パラ/最後の、そして永遠の作品集』(OMCX−1063)

(P.S.2)
ビオレータは歌い手の一方刺繍の名手でもあり、1964年にはなんとルーヴル美術館が彼女の作品を陳列したほどだ。南米人の作品がルーヴルに登場したのは、これが初めてだった。





世界巡礼烈風伝・73
《チリ編》

●詩人ネルーダは歌う

「詩は書いた人間の物ではない。必要な人間の物だ」〜パブロ・ネルーダ

僕がこのノーベル賞詩人を初めて知ったのは1996年の映画『イル・ポスティーノ』からだ。本作品は、反体制の詩を書いたかどでチリ政府の弾圧を受け、国外追放になったネルーダが、亡命先のイタリア・ナポリ沖の小島で島民の郵便配達人と親交を温めるといった物語だ。最初は文字を読むことすらままならなかった郵便配達人が、ネルーダと出会ったことで自作の愛の詩を創り出す、そんな素晴らしい映画だった。

彼の墓は、サンチアゴから約120キロ西の海辺の村、イスラ・ネグラにあると米国の墓サイトで紹介されていた。その村ではネルーダの旧邸を博物館として公開しており、同じ敷地内に墓があるとのことだった。ただしそのサイトの管理人は“自分の目で確かめたわけではない”、というのでこれまた未確認情報の域を出なかった。
(実際、某『歩き方』にもイスラ・ネグラのネルーダ博物館が小さく紹介されていたが、一言も墓には言及していなかった…)

「とにかく現地に行くっきゃない!」
そう思い、午前中にハラやビオレータの墓参を終えた僕は、昼頃首都最大のバスターミナルへ向かった。数社のバス会社が乗り入れていたが、イスラ・ネグラ(以下、イスラ)はよほど田舎なのか
「残念、ウチは行かないヨ〜」
という答えばかり。しかも彼らは暇だったので“行かない”ことをすぐに教えてくれず、僕の某『歩き方』を“日本語って面白〜い”と回し読みする始末。半時間以上かけて、やっとイスラを通過するという1社を見つけた。

イスラはマイクロソフト社の世界地図にも載ってない小さな村。所要時間が分からないので、出発前に琥珀色の液体を排水しにへ行くと、なんと有料だった。入場料を払うと専用のコインを渡され、それを入口に差し込むとバーが回転して入場できる仕組みだった。有料にしたのは犯罪の温床になるのを防ぐ為だそうだ。

サンルーフ全開、赤ん坊泣きまくりのローカルバスで移動すること2時間、太平洋が見えて来た。海辺の村々に到着する度に“ここがイスラでは!?”と車掌(助手?)に尋ねていたが、段々阿吽(あうん)の呼吸が生まれだし、僕が不安げに目を合わせるだけで車掌が首を振るという流れができた。(チリのバスは運転手の他にチケット係の車掌が乗っているケースが多い)

「ハポネースッ!(日本人!)」
海辺に出たのにいっこうに着く気配がないので、豪快に鼻ちょうちんを作っていたら、車掌が僕の肩をアグレッシブに揺さぶった。
14時半、イスラ・ネグラ到着。

僕は村のメインストリートっぽい場所でバスから降りたが、視界には人っ子一人入って来ず、黒い小犬がトボトボ歩いているだけだった。一応商店はあったけど、大半がシエスタ(お昼寝タイム)で無人。めちゃくちゃ静かで、まるで時間が止まっているようだった。カンカン照りの太陽が、村の静けさをさらに強調していた。

開いていた数件の店で博物館の方向を尋ねると、村には観光名所がそこしかないらしく、“ネルーダ”と言っただけで意味が通じた(笑)。教えられたとおりに、浜へ続く小道を歩いていくと、やがてポツンと一軒の家が見えて来た。
門の手前で年の頃30代半ば、銀縁メガネをかけたインテリ風の男が椅子に座って新聞を読んでいた。
「ここって博物館ですか?」
「いかにも」
男は博物館の職員らしく(休憩中?)、英語OKということで墓のことを尋ねてみた。彼の話では確かにネルーダはここに眠ってるし、墓参だけが目的なら入場料はタダとのこと。
0.1秒後、もう男の視界に僕はいなかった。


★パブロ・ネルーダPablo Neruda(1904〜1973)

20世紀最高の詩人のひとりとされるネルーダ。特にスペイン語圏における影響力は絶大だ。彼は生後すぐに母を亡くし、その孤独感ゆえ多感な幼少期を送り、10代から詩作を始め、19才の時に処女作『たそがれ』を発表。20才で『20の愛の歌と1つの失望の歌』というロマン心爆発の叙情的な詩集を発表し、若年にして内外の名声を獲得した。


《20の愛の歌と1つの失望の歌》(抜粋)

『今夜は悲しい詩が書けそうだ
例えばこんな
「夜には星がちりばめられ 蒼く 遠くに輝いてる
夜の風が空を巡り 歌う」
今夜は悲しい詩が書けそうだ

僕は彼女を愛した 彼女も僕を愛することがあった
こんな夜は彼女を両腕に抱いた
無限の空の下で幾度となくキスした
じっと見つめるあの大きな眼をどうして愛さずにいられただろうか
今夜は悲しい詩が書けそうだ
彼女がいないことを考える 彼女を失ったことを感じる
広大な夜 彼女がいないと余計に広大な夜を聞く

牧場に朝露が降りるように魂に詩が降りてく
僕の愛で彼女を守れないのがなんだっていうんだ
夜には星がちりばめられ 彼女はそばにいない
ただそれだけ 

魂は彼女を失ったことに満足しない
視線は彼女を捜す
心は彼女を捜し そして彼女はそばにはいない
以前の僕たちとは もう同じじゃない

声は乗るべき風を探していた 彼女の耳に触れるように
もう他の奴のものなんだろう 僕がキスをする前のように
彼女の声 澄んだ体 限りのない瞳
愛は束の間で そして忘却はずっと

こんな夜は彼女を両腕に抱いたから 彼女がいないと魂が満足しない
たとえこれが彼女から受ける最後の痛みだとしても
そしてこれが彼女に書く最後の詩だとしても』

いやはや、これが20才の作品とは。“朝露が降りるように魂に詩が降りてく”なんて、僕は1000年生きても書けん…。

彼は41才で上院議員に選出されたが、最初に書いたように反体制的な言動のため上院議員資格を剥奪され国外追放になった。亡命中に書いた詩を以下にひとつ。これは先の映画でネルーダが海を見つめながら歌ったものだ。

『波は絶えずあふれ出る
良いと言い
嫌と言い
また嫌と言う
青い波と泡と動きの中で
嫌だと繰り返し
静かにしていない
“私は海”と言いながら岩にすがる
でも岩を口説けない
岩を撫で 口づけし濡らす
我が胸を打ち 名を繰り返す』

なんとも美しい詩だ。

亡命後、地下活動といった反骨の時代を経て、1971年67才の時にノーベル文学賞を受賞する。小説ではなく“詩”というジャンルでノーベル文学賞に選ばれるのはとても珍しいことだ。

ネルーダは一貫して平和主義を通し、民衆の視点からヒューマニズムを歌いあげる詩を発表し続けた。ビクトル・ハラは右派の不穏な空気に対するネルーダの声明を受けて、彼の詩に曲をつけ、反右派キャンペーンのテーマ曲として発表した。

1973年、ネルーダは軍事クーデターの12日後に心臓発作を起こすが、軍の圧力で救急車が出動しなかった為に絶命した。親友のハラやアジェンデの死を知らされた直後の、失意の中の死であった。そして死後、彼の詩はチリの民主化運動のひとつの象徴になった…。



「ウ〜ム、こりゃ気がつかんぞ」
ネルーダの墓は、なるほど、博物館の敷地にはあったが、建物から少し離れた場所だったので、あらかじめ墓がここにあるという予備知識がなければ、来訪者は博物館だけ観光して帰っちゃうだろうな、と思った。彼の墓は海岸線ギリギリの高台にあり、妻と2人並んで真っ青な大海原を見つめていた。

墓地の中で周囲の塀を見つめている一般の墓とは違い、浜辺で水平線と向き合っている彼の墓はなんとも解放感に満ちていた。
“墓の前に遮るものが何もないと、こんなにも自由なのか〜っ!”
墓域全体が重力の鉄鎖から解き放たれて、大袈裟ではなく本当に、海、大空、果ては宇宙にまで繋がっているようだった。

考えてみれば、海外で墓前から海を見たのはネルーダが初めてだ。国内でも海に面しているのは函館の啄木、神戸の平敦盛、島原の天草四郎、鹿児島の西郷の4人くらいで、山や丘陵の斜面を利用した墓地が圧倒的に多い。つまり、365人のうちたったの5人というわけだが、このうち4人は殺されているし、啄木だって26才で病死してるので、全員非業の死を遂げたといっていい。にも関わらず、彼らの墓の印象はいたって穏やかな表情だった。広大な海を毎日見ているとそうなっちゃうのかな。

その中でもネルーダは最も海面に近く、南米のゆっくりとした時間の流れとあいまって、一番墓参して魂の自由を感じた墓だった。旅の終わりの素晴らしい出会いだった。これだから巡礼はやめられない。

僕の2001年南米巡礼行脚はこうして幕を閉じた。




●おまけ…チリ滞在中に見た面白いもの
(1)女子高生のルーズソックス。世界中でこんな文化があるのは日本だけだと思っていたが、なぜか日本の裏っかわのチリでもグシュグシュソックスを履いていた(基本色はグレー)。
(2)揚げパン屋の看板に描かれたハエ、蚊の絵。小鳥や花ではなく、なぜハエ、蚊なのか?しかも足の関節まで描き込んだ激リアルな絵だった。食べ物を売ってるのになんで…??
(3)チリだけでなくペルー、ブラジルなど南米全体にいえることだが、ドラゴンボールとピカチュウの人気はすごい。どんな田舎のおもちゃ屋でも悟空の人形はゲット出来る。ベジータもかなり有名人。


      


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