〜信号が青ばかりで渋滞が一度もなければ理論上は可能〜
2018 南欧巡礼・管理人用詳細レジュメ

20日間(8/6-8/26):10カ国 50カ所 約70名〜レンタカーで“人類の恩人たち”へ感謝の旅


スペイン→ポルトガル→ジブラルタル→アンドラ→フランス→モナコ→イタリア→ヴァチカン→サンマリノ→(飛)フィンランド



永久保存版!約650カ所の欧州著名人墓所マップ2018 // 人物概要


スペインの面積  506,000 km2
ポルトガルの面積 92,210 km2
フランスの面積   643,800 km2
イタリアの面積   301,300 km2
日本の面積     378,000 km2

 
【行程表・予想到着日】
すべての信号が青信号なら、計算上は実現可能!あとは車体トラブル、墓地・教会のシエスタ(昼休み)、疲労蓄積等々で計画を変更していくことに。
1日1回はツイッターで現在地点を報告します。緊急の連絡は移動中のメールアドレスに。

8/6(月)関空10:45(フィンランド航空) 20:25バルセロナ着
バルセロナで借りたレンタカーを、最後にイタリア南端から返却するため戻ってきます。
 
8/7(火)
バルセロナ発5:30
9:00フエンデトドス:ゴヤの生家9:30発(途中にザビエルの生家)
12:00ログローニョ:チェーザレ・ボルジア13:00発
14:00パンプローナ:サラサーテ14:30発
16:00ルネ・クレマンの村調査16:45発※フランスの端っこ
18:15ゲルニカ平和博物館19:00発
(ア・コーニャまで6時間、どっかで泊)
 
8/8(水)
ア・コーニャ:ヘラクレスの塔6:40発
7:30サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂:聖ヤコブ9:00発
10:30トライ:聖エルモ11:00発
【ポルトガル】
13:30コインブラ:アフォンソ1世14:00発
15:00バターリャ:エンリケ航海王子ほか15:30発
16:30サンタレン:ペドロ・アルヴァレス・カブラル17:00発
18:00リスボン:バスコ・ダ・ガマ18:30発
18:40リスボン:エンリケ発見のモニュメント19:00発
19:10リスボン:ジョゼ・サラマーゴ
リスボン泊
 
8/9(木)
9:00リスボン:サン・ロッケ教会(天正遣欧少年使節)9:30発
10:00リスボン:アマリア・ロドリゲス10:30発
【スペイン】
15:30セビリア:コロンブス16:00発
16:10ムリーリョの家16:30発
16:40闘牛士墓地17:30発
18:00コリア・デル・リオの支倉常長像19:00発
コリア・デル・リオ泊
 
8/10(金)
コリア・デル・リオ7:15発
8:45サンルカル:Rocio Jurado9:15発
10:00カティス:ファリャ11:00発
12:30アルヘシラス:パコ・デ・ルシア13:00発
【ジブラルタル】
13:30ジブラルタル墓地など15:00発
【スペイン】
17:00ロンダ:オーソン・ウェルズ18:00発
19:30マラガ:ピカソの生家19:45
ラ・マンチャまで4時間、どっかで車中泊
 
8/11(土)
ラ・マンチャ風車5:00
7:00セゴビア:アルカサル、水道橋8:00発
9:00エル・エスコリアル近郊:戦没者の谷9:30発
9:45エル・エスコリアル:フェリペ2世ほか11:30発
12:30マドリード:ゴヤの旧墓13:30発
13:40マドリード:ゴヤの新墓14:00発
14:10マドリード:ゲルニカ(絵)14:40発
15:00マドリード:フェルナンド・レイ15:30発
15:40マドリード:ベラスケス16:00発
19:30テルエル:恋人たちの霊廟20:00発
21:30カステリョ・デ・ラ・プラナ泊
 
8/12(日)
9:00カステリョ・デ・ラ・プラナ:タレガ9:30発
11:30ベンドレル:カザルス13:00発
14:30バルセロナ:サグラダ・ファミリア17:00発
【アンドラ】
アンドラまで3時間、どっかで泊
 
8/13(月)
アンドラ8:00発
【フランス】
14:00セリニャン:ファーブル墓&博物館15:00発
15:30アヴィニヨン:ミル16:00
16:10アヴィニヨン:カミーユ・クローデル16:40
17:10サン・レミ:ゴッホの病院17:40発
18:10アルルの跳ね橋、黄色い家、ゴッホの夜のカフェテラス
ヴェネチアまで7時間、どっかで泊
 
8/14(火)
【イタリア】
ヴェネチア:ストラビンスキー、モンテベルディ、ドップラー11:00発
12:00パドヴァ:聖アントニオ12:30発
13:30エステ近郊:ペトラルカ14:00発
16:00ラヴェンナ:ダンテ16:30発
17:30リミニ:フェリーニ18:00
【サンマリノ】
18:30サンマリノ墓地など
ウルビノまで90分、どっかで泊
 
8/15(水)
9:00ウルビノ:ラファエロの生家9:30発
12:30フィレンツェ:ガリレオ、ミケランジェロ13:30発
13:40フィレンツェ:メディチ家14:30発(ピサ経由)
16:00リボルノ:マスカーニ16:30発
17:30フォッローニカ:ジャック・マイヨール17:45
18:45ポルト・エルコレ:カラヴァッジョ
ポルト・エルコレのキャンプ場泊
 
8/16(木)ローマ
7:00ヴァチカン:サンピエトロ大聖堂、礼拝堂11:00発
11:15サンタンジェロ城(ハドリアヌス霊廟)13:10発
13:30アッピア街道ドミネ・クォ・ヴァディス教会13:50発
14:00カタコンベ:聖チェチーリア15:00発
15:20ヴェラーノ墓地:ロッセリーニ等6名17:00発
17:15第38代教皇シリキウス17:45発
18:00ジュリアーノ・ジェンマ
ローマ泊
 
8/17(金)ローマ
※オール徒歩!
7:00 Santa Maria Maggiore ベルリーニ等2名7:30発
7:50 Basilica di San Giovanni in Laterano(旧教皇庁)176代教皇インノケンティウス3世等3名8:20発
8:35 Basilica di San Clemente 4代教皇クレメンス1世8:55発
9:05 コロッセオ ジョジョ立ち記念写真9:20発
9:35 Trajan's Forum:トラヤヌスの記念柱/13代皇帝トラヤヌス9:50発
10:00 Chiesa del Gesu/ザビエル10:20発
10:25 Basilica di Santa Maria Sopra Minerva/フラ・アンジェリコ、教皇3名10:50発
10:55 Pantheon/ラファエロ、コレルリ11:20発
11:30 Santa Maria in Monserrato/214代教皇アレクサンデル6世11:45発
11:50 Chiesa di Santa Maria in Vallicella/グレゴリオ・アレグリ12:10発
12:15 Santa Maria dell'Anima/218代教皇ハドリアヌス6世12:30発(ここからテヴェレ川沿いに20分)
12:50 Basilica di Santa Maria del Popolo/ネロ 13:20発
13:30アウグストゥス霊廟:初代ローマ皇帝アウグストゥス等5名13:15発
13:25 San Lorenzo in Lucina/プッサン13:40発
13:45 San Silvestro in Capite/25代教皇ディオニュシウス14:00発
14:10 トレビの泉(休憩)14:40発
15:00 真実の口15:15発
15:25 Basilica di Santa Cecilia in Trastevere/聖セシリア16:00発
16:05 San Francesco a Ripa/キリコ 16:20発
ナポリまで2時間半、どっかで泊
 
8/18(土)
8:00ポッツォリ:ペルゴレージ8:30発
8:45ナポリ:ウェルギリウス、スカルラッティ、マッシモ・トロイージ12:00発
13:30アマルフィ:聖アンドリュー14:30発
15:30サレルノ:157代教皇グレゴリウス7世16:00発
シチリア島まで8時間、どっかで泊
 
8/19(日)
シチリア島シラクサ:アルキメデス9:30発
18:30モンテ・カッシーノ:聖ベネディクト19:00発
ローマまで90分、どっかで泊
 
8/20(月)
8:00ポメーツィア(ローマ近郊):セルジオ・レオーネ8:30発
9:00ローマ郊外:ピエトロ・ジェルミ9:30発
13:30トレ・デル・ラーゴ:プッチーニ14:00発
16:00パルマ:トスカニーニの家、パガニーニ16:30発
18:30ベルガモ:ドニゼッティ
ベルガモ泊
 
8/21(火)
ベルガモ7:30発
8:00ミラノ:トスカニーニ、ホロヴィッツ他9:15発
9:25ミラノ:ヴェルディ10:00発
10:15ミラノ:聖アンブロジウス10:45発
13:00ジェノバ:パガニーニのバイオリン、コロンブスの家14:00発
15:30マリーナ・ディ・アンドーラ:ヘイエルダール16:30発
【モナコ】
17:30モナコ:シェリング、グレース・ケリー
超高級ホテル地帯、確実に車中泊
 
8/22(水)
【フランス】
8:00ニース:ガストン・ルルー8:30発
9:00カーニュ:ルノワールの家10:00発
10:15ヴァンス:シャガール11:15発
12:15モントルー近郊:ディオール12:45発
17:00グルノープル近郊:メシアン
ルールマランまで3時間、どっかで泊
 
8/23(木)
7:30ルールマラン:カミュ8:00発
9:30ピカソ城10:30発
11:00エクス・アン・プロヴァンス:セザンヌ墓、セザンヌの家、銅像12:30発
14:30セート:ポール・ヴァレリー15:00発
18:00アルビ:ロートレックの生家18:30
19:00ロートレックの城
ジャルクまで2時間、どっかでテント
 
8/24(金)
6:00ジャルク近郊サガン6:30発
9:30カルカッソンヌの城塞10:30発
15:30プラード:カザルス教会16:30発
20:00バルセロナ空港22:45発
 
8/25(土)
【フィンランド】
3:35ヘルシンキ着、市内まで30分。レンタカーで仮眠。
8:00ヘルシンキ:トーヴェ・ヤンソン、マンネルヘイム9:00発
9:45ヘルシンキ:エイノ・イルマリ・ユーティライネン10:15発
10:30アイノラ:シベリウス12:00※空港まで30分
3時間休憩
15:25ヘルシンキ空港
17:25ヘルシンキ発
 
8/26(日) 8:55 関西空港着、帰宅即、昏倒。



【人物概要】

★スペイン 
マドリード
●ゴヤ Francisco de Goya(1746-1828)人間の暗部を照らしたスペインの画家。宮廷画家長。聴覚を失いながらも、性格描写に優れた肖像画や戦争の残忍さを告発する銅版画を多数残した。フランスで客死。「裸のマハ」「五月三日の処刑」「カルロス4世の家族」
・San Antonio del la Florida, Madrid, Provincia de Madrid, Madrid, Spain
・En la Sacramental de San Isidro de Madrid
●Pepita de Tudo(1779.5.19-1869.9.20)ゴヤのモデル。マハ。
Cementerio Sacramental de San Isidro, Madrid, Provincia de Madrid, Madrid, Spain
●ベラスケスDiego Velazquez(1599.6.6-1660.8.6)バロック期のスペイン宮廷画家。17世紀スペイン絵画の黄金時代を代表し、写実的技巧、空間構成に優れ、肖像画の傑作を多く残した。マネいわく“画家の中の画家"。「ラス・メニーナス(女官たち)」「ブレダの開城」
※ベラスケスはマドリードのthe Church of San Juan Bautistaに埋葬されたが、後に教会は破壊された。
Burial:Body lost or destroyed Plot: Madrid, Spain
Madrid,San Juan Bautista
●【Not墓参】フルヘンチオ・バチスタ Fulgencio Batista(1901.1.16-1973.8.6)キューバの独裁者。カストロ&ゲバラのキューバ革命によってドミニカに逃亡、ポルトガルを経てスペインで没した。
Cementerio Sacramental de San Isidro, Madrid, Provincia de Madrid, Madrid, Spain
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フアン・デ・ラ・シエルバJuan De La Cierva(1895.9.21-1936.12.9)航空エンジニア。1923年に初めて人間が乗れるオートジャイロ(回転翼航空機/ヘリコプターの前身)を発明。1928年にイギリス海峡を横断。
●フェルナンド・レイFernando Rey(1917.9.20-1994.3.9)スペイン出身の俳優。「フレンチ・コネクション」のボス。カンヌ国際映画祭男優賞を受賞。
●Jose Cubero(1964.4.16-1985.8.30)闘牛士。墓は闘牛士の手にハト!
●Memorial for the Thirteen Roses(1939)1939年8月5日、独裁者フランコに殺された13人の反ファシスト闘士=13本のバラの追悼碑。犠牲者(すべて若い女性)は共和国防衛のために戦い拷問死。
Cementerio de la Almudena, Madrid, Provincia de Madrid, Madrid, Spain
 
●カルロス1世=カール5世 King Carlos I:Karl V (1500.2.24-1558.9.21)神聖ローマ帝国皇帝カール5世(在位1519〜56年)であり、スペイン王カルロス1世(在位1516〜56年)。カスティリャ王フェリペ1世とスペイン王女フアナの長男。父方の祖父はハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世。父の死後ブルゴーニュ公国を相続、16年にフェルナンド5世が没しスペイン王位をついだ。19年、マクシミリアン1世が没し中欧のハプスブルク家領を獲得、これを弟フェルディナント(のちの神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント1世)に統治させる。同年、選帝侯を買収して神聖ローマ帝国皇帝に選ばれた。領土はかつてのフランクのカール大帝をはるかにこえ、スペイン、ネーデルラント、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、アメリカとアフリカのスペイン領、ハプスブルク家の領地を含み、キリスト教世界で並ぶ者がいない君主となった。晩年、ネーデルラントとスペインを息子のフェリペ2世に、帝位を弟のフェルディナント1世にゆずり、スペインのトレド西方ユステで死去。
Real Sitio de San Lorenzo El Escorial, Madrid, Provincia de Madrid, Madrid, Spain//Plot: Panteon de los Reyes
●フェリペ2世 King Felipe II(1527.5.21-1598.9.13)ハプスブルク家のカスティーリャ王国・アラゴン王国(=スペイン)の国王(在位:1556年 - 1598年)。スペイン帝国の最盛期に君臨した絶対君主の一人。ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、オスマン帝国を退けて勢力圏を拡大。1580年にはポルトガル国王も兼任しイベリア半島を統一した。繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された。また、イングランド女王メアリー1世と結婚期間中、共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有した。
Real Sitio de San Lorenzo El Escorial, Madrid, Provincia de Madrid, Madrid, Spain//Plot: Panteon de los Reyes
●ドン・カルロス Don Carlos de Austria(1545.7.8-1568.7.24)スペインの王太子、アストゥリアス公。父はフェリペ2世。フェリペ3世の異母兄。記録に「カルロスは肩の高さが違い、右足が左足より長く、頭が大きすぎる。胸はくぼみ、背中にこぶがある。まるで子供のように愚かしい質問ばかりする。高尚なことに興味を示したことはなく、食べることにしか感心がない。際限なく食べ続けているので、よくいろいろな病気にかかり、顔色はひどく悪く、長生きはできないだろう」とある。父に反逆してネーデルランドに行こうとして逮捕監禁され、24歳で牢死した。
Real Sitio de San Lorenzo El Escorial, Madrid, Provincia de Madrid, Madrid, Spain
 
●Praxedes Mateo Sagasta(1825-1903)スペインの政治家。墓に優れた彫像
Panteon de Hombres Ilustres, Madrid, Provincia de Madrid, Madrid, Spain// Plot: Tomb 4. 
●Memorial To The Victims Of Terrorism [memorial]2004年3月11日朝、アルカイダの爆弾10個が通勤電車4両で爆発し191人が死亡、1800人以上が負傷した。
Estacion Atocha, Madrid, Provincia de Madrid, Madrid, Spain// Plot: Memorial only
●ロドリーゴ Joaquin Rodrigo(1901-1999)盲目の作曲家。1939年(38歳)、ギター協奏曲の傑作「アランフェス協奏曲」を発表。97歳の長寿。
Aranjuez Cemetery, Aranjuez, Provincia de Madrid, Madrid, Spain//Plot: Family Pantheon
 
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セビリア
●ファン・ベルモンテJuan Belmonte(1892.4.14-1962.4.8)伝説的マタドール(闘牛士)。ジプシーの息子。病気で不自由な脚を引きずって戦い続けた。牛の角の間に体を入れて牛を誘う“クルサード"を披露し革命を起こした。
Seville Cemetery, Sevilla La Nueva, Provincia de Madrid, Madrid, Spain
Plot: About three hundred feet past the main entrance on the left
●ホセリートJoselito(1895.5.8-1920.5.16) 天才闘牛士。1912年、17歳という歴代最年少のマタドールになった。ライバルは3歳年上のベルモンテ。共に闘牛に革命をもたらした。墓石は棺を運ぶ人々の彫像。
Seville Cemetery, Sevilla La Nueva, Provincia de Madrid, Madrid, Spain
Plot: One hundred feet in and to the left
●Cabello Gonzalez(1929.11.7-1987.12.25)闘牛士。墓石に闘牛のマント!
Cementerio de San Fernando, Sevilla, Provincia de Sevilla, Andalucia, Spain
●Ignacio Sanchez Mejias(1891.6.4-1934.8.13)闘牛士。引退復帰の戦いで腿を突き刺され2日後に死亡。友人ロルカが詩を献呈した。
Cementerio de San Fernando, Sevilla, Provincia de Sevilla, Andalucia, Spain
●ムリーリョBartolome Esteban Murillo(1617.12-1682.4.3)「スペインのラファエロ」。ベラスケスと並ぶスペイン・バロックを代表する画家。聖母や街角の少年少女を優しい目線で生き生きと描いた。「無原罪の御宿り」「蚤をとる少年」※セビリアのサンタ・クルス地区の教会に墓があったが、教会は取り壊された。同地区には現在ムリーリョ美術館が建っている。
Church of Santa Cruz(demolished), Sevilla , Spain
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●コロンブス Christopher Columbus(1451-1506)大聖堂の床にはコロンブスの息子が埋葬されている。
Catedra de Sevilla, Sevilla, Provincia de Sevilla, Andalucia, Spain// *This location is unconfirmed or in dispute.
●フランシスコ・ゲレーロFrancisco Guerrero(1528.10-1599.11.8)中世の作曲家。叙情的な旋律が人気。海賊の襲撃に2度あう。
Sevilla Cathedral, Sevilla, Provincia de Sevilla, Andalucia, Spain//Plot: Chapel of Nuestra Senora de la Antigua
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●アンドレ・セゴビアAndres Segovia(1893.2.21-1897.6.2)20世紀を代表するクラシック・ギター奏者の1人。
Casa Museo de Linares, Sevilla, Provincia de Sevilla, Andalucia, Spain
 
バルセロナ
 
●ミロJoan Miro(1892-1983)スペインの画家。パリでシュールレアリスムに傾倒、明るい色彩と抽象化された記号デザインを使った。版画・彫刻・陶器も制作。「アルルカンの謝肉祭」「星座」
●アルベニスIsaac Albeniz(1860-1909)スペインの作曲家・ピアノ奏者。スペイン国民楽派の確立者。
●モンポウFrederic Mompou(1893.4.16-1983.6.30)20世紀スペインの作曲家。内省的な響きの小品が特徴
Cementiri de Montjuic, Barcelona, Provincia de Barcelona, Cataluna, Spain
●アントニオ・ガウディAntonio Gaudi(1852-1926)スペイン・カタルニアの天才建築家。サグラダ・ファミリア教会を設計するなど、自然をモティーフに特異な造形を残した。
Sagrada Familia, Barcelona, Provincia de Barcelona, Cataluna, Spain
●ダリ Salvador Dali(1904-1989)シュールレアリスムの画家。意識下の幻覚や欲望を写実的にビジュアル化。奇想天外な世界を表現。
Dali Theatre-Museum, figueres, Cataluna, Spain
 
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●Mass Grave to People Killed in Spanish Civil War(las victimas del franquismo en Paterna)スペイン内乱の際、共和国政府をフランコ将軍のクーデターから守って死んだ人々の集団墓所。フランコ治世でファシストに殺された人々もここに。
Cementerio de Paterna, Provincia de Valencia, Valenciana, Spain
●パブロ・カザルスPablo Casals (1876-1973)史上最高のチェロ奏者。フランコ独裁政権と戦った。
Cementiri De El Vendrell, Tarragona, Provincia de Tarragona, Cataluna, Spain
●ファリャManuel de Falla(1876.11.23-1946.11.14)作曲家。印象主義にスペインの民族音楽(特にフラメンコ)を取り入れた国民音楽の発展に貢献。南米に亡命。バレエ音楽「恋は魔術師」「三角帽子」
Cathedral de Cadiz, Cadiz, Provincia de Cadiz, Andalucia, Spain
●【Not墓参】フランコ Francisco Franco Bahamonde(1892.12.4-1975.11.19)スペインの独裁者。1936年、人民戦線政府にモロッコから反乱を起こし、ドイツ・イタリアの援助を受けてスペイン内戦に勝利、1939年独裁制を樹立。大戦後、ヒトラー、ムッソリーニが死ぬ一方で、自身は失脚せずに36年間も君臨して没した。
Valle de los Caidos, Guadarrama(グアダラマ), Provincia de Madrid, Madrid, Spain
●チェーザレ・ボルジアCesare Borgia(1475-1507.3.12)ルネサンス期の軍人・政治家。マキャヴェリズムを体現。教皇ユリウス2世と対立、戦死した。名は「ヴァレンティーノ公」が一般的。伊では「チェーザレ」=ガイウス・ユリウス・カエサル(ガイオ・ジュリオ・チェーザレ)。
Iglesia de Santa Maria de Viana, Viana, Provincia de Cantabria, Cantabria, Spain
●イサベル1世 Isabella I(1451.4.22-1504.11.26)夫フェルナンド2世(アラゴン王)とイスラム勢力下のグラナダを陥落させ800年に及んだレコンキスタを完成。コロンブスを援助。遺骸はアルハンブラ宮殿からグラナダ大聖堂の王室礼拝堂に改葬。
Royal Chapel of Granada, Granada, Provincia de Granada, Andalucia, Spain
●Rocio Jurado(1944.9.18-2006.6.1)歌手、女優。フラメンコを歌い人気に。墓はめっさリアルな人物像。
Cementerio Municipal de San Jose, Cadiz, Provincia de Cadiz, Andalucia, Spain
●パコ・デ・ルシア Paco de Lucia(1947.12.21-2014.2.25)スペインが誇るギタリスト。フラメンコやジャズで活躍。12歳で兄と初レコーディング。享年66。
Cementerio Viejo de Algeciras,Cadiz,Provincia de Cadiz,Andalucia, Spain//Plot: Patio de San Jose
●Merce Rodoreda(1908.10.10-1983.4.13)カタロニアの作家。イーゼルみたいな墓!
Cementeri de Romanya de la Selva, Barcelona, Provincia de Barcelona, Cataluna, Spain
●サラサーテ Pablo Sarasate(1844.3.10-1908.9.20)バイオリン奏者、作曲家。8才でデビューした天才バイオリニスト。高度な演奏技巧と美麗な音色で知られる。「チゴイネルワイゼン」
Cementerio de San Jose, Pamplona(パンプローナ), Provincia de Navarra, Navarra, Spain//Plot: Mausoleum
●タレガ Francisco Tarrega(1852.11.21-1909.12.15)ギタリスト、作曲家。“ギターのサラサーテ"の異名を持つ技巧派だが、詩心も大切にした。「アルハンブラの思い出」
Cementeri de Castello, Castellon de la Plana, Provincia de Castello, Valenciana, Spain
●聖エルモElmo(1190-1246.4.15)
Cathedral of Tuy,Tui, Provincia de Pontevedra, Galicia, Spain
●オーソン・ウェルズOrson Welles(1915.5.6-1985.10.10)アメリカの映画監督・俳優。完全主義制作で有名。1938年、23歳でラジオドラマ「火星人襲来」を演出して脚光をあび、26歳の時に革新的技法の「市民ケーン」(1941)を監督・主演。シェークスピアを積極的に映像化。「第三の男」に出演。
Orson Welles Last Resting Place, Spain ※Ashes are buried in an old well covered by flowers, within the rural property of retired bullfighter Antonio Ordonez, Ronda, Spain
●聖ヤコブJacobus(ヤコブ)十二使徒の1人。弟は使徒ヨハネ。ガリラヤ湖の元漁師。この大聖堂は聖ヤコブの墓の上に建てられており、ヴァチカン、エルサレムと並ぶキリスト教の3大聖地。巡礼ルートは全長800kmもあり、中世の最盛期は年間50万人が巡礼した。ヤコブのシンボルは帆立貝。※“ヤコブ"は「ジャック」「ジェームス」の名の由来。
Catedral de Santiago de Compostela(サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂), Spain


★ジブラルタル
Gibraltar Cemetery:イベリア半島南端の英国植民地(1713〜)。ジブラルタル海峡(約14km)の向こうにアフリカ大陸が見える。人口2万8千。


★ポルトガル 
●バスコ・ダ・ガマ Vasco Da Gama(1469-1524)探検家。喜望峰(1497-1499)航路でインドルートを発見。1524年にインド総督として送られたが病気のためコーチンで死亡。体はポルトガルに運ばれた。
Monastery of Jeronimos, Lisbon, Lisboa, Portugal
●ルイス・デ・カモンイス(Luis Vaz de Camoes、1524年頃 - 1580年6月10日)ポルトガル史上最大の詩人。墓所はジェロニモス修道院。
●フェルナンド・ペソア(Fernando Antonio Nogueira Pessoa、1888年6月13日-1935年11月30日)…ポルトガルの国民的作家。詩人。生前は無名だったが、死後にトランクいっぱいの膨大な遺稿が発見され脚光を浴びる。墓所はジェロニモス修道院。
●アマリア・ロドリゲス Amalia Rodrigues(1920.7.23-1999.10.6)ファドの女王。※ファドはポルトガルギターで伴奏するポルトガルの民衆歌謡。
Panteao Nacional, Lisboa, Lisboa, Portugal
パウル・ランゲルハンス Paul Langerhans(1847.7.25-1888.7.20)ドイツの病理学者、医師。後世のインスリン発見の糸口を見つけたが40歳で他界。
British Cemetery, Funchal(フンシャル), Madeira Regionマテイラ諸島), Portugal
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=27918412
●サン・ロケ教会 天正遣欧少年使節団が滞在
●エンリケ航海王子(Henrique o Navegador1394-1460)…ポルトガル王ジョアン1世(1357-1433/大王)の王子。大航海時代の幕を開いた航海者たちの支援者。北アフリカのセウタを攻略。マデイラ諸島などの植民地化、アフリカ西岸の探検に尽力。ポルトガル人のアフリカ周航およびインド航路開拓の先駆。エンリケが派遣した探検隊はアゾレス諸島・ベルデ岬諸島に達した。日本を一番初めに見つけた有名人のひとり。
ジョアン1世と王妃フィリパの墓の南側には、ペドロ王子、エンリケ航海王子、フェスで客死したフェルナンド聖王子の墓がある。また、歴代のアヴィス家の国王であるアフォンソ5世、ジョアン2世(遺骨なし)、17歳の若さで夭逝したジョアン2世の息子であるアフォンソ王子の墓もある。墓は世界遺産・バターリャ修道院
Mosteiro da Batalha /Largo Infante Dom Henrique, Batalha, ポルトガル
●アフォンソ1世(1109年-1185年12月6日)…初代ポルトガル国王。コインブラのサンタ・クルース修道院に葬られた。
●ジョゼ・サラマーゴ(ノーベル文学賞作家)ジョゼ・サラマーゴ(Jose Saramago)1922年11月16日-2010年6月18日)作家・劇作家・ジャーナリスト。1998年にポルトガル語世界初のノーベル文学賞受賞作家となった。『白の闇』(ブラインド・ネス)が映画化。灰はリスボンのAlfama(彼の名前を冠する財団の将来の本部)の隣にあるCasa dos Bicosの隣の公共広場。
★フランス
【中部】
●サガンFrancoise Sagan(1935.6.21-2004.9.24)フランスの女性作家。18歳の時に「悲しみよこんにちは」でデビューし、時代の寵児となった。
Cimetiere de Seuzac, Cajarc, Departement du Lot, Midi-Pyrenees, France
●オリビエ・メシアン Olivier Messiaen(1908.12.10-1992.4.27)フランスの作曲家。音楽における人間性の回復を目指す。カトリック神秘主義に立ち、鳥の歌などの素材を駆使。「トゥランガリラ交響曲」※墓が白鳥!
Cemetery of Saint Theoffrey, Saint-Theoffrey, Departement de l'Isere, Rhone-Alpes, France
●ルネ・クレマンRene Clement(1913.3.18-1996.3.17)フランスの映画監督。1945年(32歳)、ナチス占領下フランスの鉄道労働者の反抗を描いた『鉄路の闘い』が第1回カンヌ国際映画祭グランプリと監督賞を獲得。1951年(38歳)、反戦映画『禁じられた遊び』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー外国語映画賞に輝く。他に『太陽がいっぱい』『居酒屋』『雨の訪問者』など
St Pee sur Nivelle, France※この村のどこかの私有地に墓があるらしい。墓参難易度S級!
【南仏 Provence】
●マルタン・デュ・ガールRoger Martin du Gard(1881-1958)フランスの作家。20世紀初頭から第一次大戦に至るフランス社会の時代的な苦悩を描いた大河小説「チボー家の人々」で知られる。ノーベル文学賞。
Musee Franciscain-Eglise et Monastere de Cimiez, Cimiez, Departement des Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●デュフィ Raoul Dufy(1877-1953)フランスの画家。フォーヴィスム(野獣派)の一人。装飾的で明るい画風を確立。
Musee Franciscain-Eglise et Monastere de Cimiez, Cimiez, Departement des Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●マティス Henri Matisse(1869-1954)フランスの画家。フォービスム(野獣派)運動をブラマンクらと主導。その後、色彩効果を強調した平面的かつシンプルな線による洗練された独自の画境を拓く。晩年は切り紙絵を制作。「ダンス」「オダリスク」、南仏ヴァンス「ドミニコ会修道院礼拝堂装飾」など。
Musee Franciscain-Eglise et Monastere de Cimiez, Cimiez, Departement des Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
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●ル・コルビュジエ Le Corbusier(1887-1965)スイス出身のフランスの建築家。近代建築の祖。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、グロピウスと共に近代建築の四大巨匠とされる。住宅建築から都市計画まで機能的合理主義に立った現代建築を主導。本名Charles Edouard Jeanneret-Gris。代表作にポワッシーのサボア邸、ロンシャンの礼拝堂など。
Cimetiere de Roquebrune-Cap-Martin, Roquebrune-Cap-Martin, Departement des Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●イエーツ William Butler Yeats[original burial site](1865-1939)詩人。
Cimetiere de Roquebrune-Cap-Martin, Roquebrune-Cap-Martin, Departement des Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
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●セザンヌ Paul Cezanne(1839-1906)近代絵画の父、フランスの画家。フォーヴィスム・キュビスムの先駆となった後期印象派の巨匠。造型そのものに価値を見出し、印象派が軽視した物の形や輪郭線、固有色を重視。「自然は円筒・円錐・球によって構成されている」と画家の主観で対象を再構成する独自の画境を拓いた。「サント‐ヴィクトワール山」など。
Cimetiere de Saint Pierre, Aix-en-Provence, Departement des Bouches-du-Rhone, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●ダリウス・ミヨー Darius Milhaud(1892.9.4-1974.6.22)フランスの作曲家。フランス六人組の中心的存在。多調和音を使い独特の音色を紡ぎ出した。
Cimetiere de Saint Pierre, Aix-en-Provence, Departement des Bouches-du-Rhone, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
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●メリメ Prosper Merimee(1803-1870)フランスの作家。歴史に博学で、運命や情熱をテーマに簡潔な文体で描いた。考古学や言語学にも精通。「カルメン」「コロンバ」など。
Cimetiere du Grand Jas de Cannes, France
●クラウス・マンKlaus Mann(190611.18-1949.5.21)劇作家。トーマス・マンの息子。命を絶った。Plot: Carre 16
Cimetiere du Grand Jas de Cannes, France
●ボナールPierre Bonnard(1867-1947)フランスの画家。色彩そのもの美を追求した“色の魔術師"。パステルカラーが美しい。ナビ派の創始メンバー。「浴槽の裸婦」など。
Cimetiere Notre-Dame-des-Anges, France
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●ビアズリーAubrey Beardsley(1872-1898)イギリスの挿絵画家。世紀末耽美主義を象徴。流麗な曲線を多用した黒白画の新形式を創始。オスカー=ワイルド「サロメ」の挿絵で著名。享年25歳。
Cimetiere du Trabuquet, Menton, Departement des Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●ガストン・ルルー Gaston Leroux(1868.5.6-1927.4.15)フランスの作家。生前は推理作家としてモーリス・ルブランと並ぶ人気を誇った。30代前半から怪奇小説を書き始め、1907年(39歳)にミステリーの古典的傑作『黄色い部屋の秘密』を発表。1910年(42歳)の『オペラ座の怪人』は存命中に映画化されるなど大評判となった。享年58。没後約60年を経て1986年にアンドリュー・ロイド=ウェバーがミュージカル化した舞台はミュージカル史上最大のヒット作となった。
Cimetiere du Chateau, Nice, Departement des Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France//Plot: Immediately to the left of the main entrance, from Allee Francoise Aragon
●キスリング Moise Kisling(1891.1.22-1953.4.29)ポーランド出身のフランスの画家。エコール・ド・パリ(パリ定住の外国人芸術家)の一人。色彩あふれる裸婦を多く描いた。20代後半で成功し「モンパルナスの帝王」と呼ばれる。作「モンパルナスのキキ」など。
Cimetiere de La Valette, La Valette, Departement des Alpes-de-Haute-Provence, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●ジャン・マレー Jean Marais (1913-1998)フランスの俳優。ジャン・コクトー監督の『美女と野獣』『オルフェ』に出演。コクトーの長年の愛人でもあった。
Vallauris, Cannes, Departement des Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●シャガール Marc Chagall(1887-1985)ロシア(現ベラルーシ)出身の画家。故郷や旧約聖書、愛を題材とする幻想的作風で知られ“絵画の抒情詩人”と讃えられる。
Saint Paul Town Cemetery, Saint-Paul-de-Vence, Departement des Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France//Plot: The most westerly aisle upon entering the cemetery
●ノストラダムスNostradamus (1503.12.14-1566.7.1)フランスの医師・占星術師。警鐘を混ぜた長大な予言詩「諸世紀」を残す。
Collegiale Saint-Laurent(Saint Laurent's Church, Salon-de-Provence, Departement des Bouches-du-Rhone, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France//Plot: Stones are in a wall of the church
●ピカソ Pablo Picasso(1881-1973)フランスで活躍したスペインの画家。作風は20〜23歳に表現主義的な「青の時代」、24〜25歳に抒情性が増した「バラ色の時代」を経て、1907年、26歳の時に『アビニョンの娘たち』でブラックと共に新しい造形表現となるキュービズム(立体派)を創始。その後、45〜55歳までシュールレアリスム(超現実主義)に近づき、1937年、56歳で反戦メッセージを込めた3.5m×7.8mの巨大壁画『ゲルニカ』を完成させる。版画・陶器・彫刻のほか舞台装置も手がけ、無数の作品を残した。「三人の音楽師」「泣く女」など。
Castle Vauvenargues Estate Grounds, Vauvenargues, Departement des Bouches-du-Rhone, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●カミーユ・クローデル Camille Claudel(1864-1943)彫刻家。19歳の時にロダン(当時42歳)に弟子入り。ロダンには内妻ローズがいたが、美貌と才能を持ったカミーユに惹かれ、三角関係が15年続く。20代後半で妊娠するも出産を断念。最終的にロ
ダンはローズを選び、カミーユは40代後半に統合失調症を発症。南仏モントヴェルク精神病院で生涯を過ごす。ロダンを憎み続け、身内に看取られることなく78歳で他界。自作の大半を破壊し、約90の彫像と絵画が残った。Cimetiere de Montfavet, Montfavet, Departement du Vaucluse, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France//Plot: Remains in ossuary(納骨堂)
HOPITAL MONFAVETにも慰霊碑
●ディオール Christian Dior(1905.1.21-1957.10.24)フランスの服飾デザイナー。1947年(42歳)、ニュールックと呼ばれるシルエット“8ライン”を発表して成功。A ライン、H ラインなど独創的デザインを考案。
Cimetiere de Callian, Callian, Departement du Var, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●カミュ Albert Camus(1913-1960)フランスの作家。アルジェリア出身。第二次大戦中はレジスタンスに参加。不条理の哲学を探究し、政治的暴力を否定、ヒューマニズムを追求した。「異邦人」「ペスト」「シジフォスの神話」など。ノーベル文学賞。
Lourmarin Cemetery, Lourmarin, Departement du Vaucluse, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●J・S・ミル/ジョン・ミル John Stuart Mill(1806.5.20-1873.5.8)イギリスの哲学者・経済学者。ベンサムの功利主義を擁護、発展させ、功利主義の社会倫理説を主張。思想・言論の重視性を説いた。
Cimetiere de St. Veran, Saint-Veran, Departement du Vaucluse, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France
●ジェラール・フィリップ Gerard Philipe(1921-1959)フランスの俳優。気品漂う二枚目として戦後フランス映画を代表する俳優となったが、肝臓ガンのため36歳で早逝した。「肉体の悪魔」「花咲ける騎士道」「モンパルナスの灯」
Cimetiere de Ramatuelle, Ramatuelle, Departement du Var, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France//Cimetiere de Ramatuelle, Gerard Philipe


★モナコ
●グレース・ケリー Grace Kelly(1928-1982)アメリカの映画女優・モナコ公国王妃。清楚な気品と美貌。事故死。「真昼の決闘」「裏窓」「泥棒成金」。
●モナコ大公レーニエ3世 Grimaldi III, Rainier Louis Henri Maxence Bertrand de(1923-2005)グレース・ケリーと結婚。
Cathedral of Saint Nicholas, Monaco, Monaco
●ヘンリク・シェリングHenryk Szeryng(1918.9.22-1988.3.3)バッハの名演奏で知られるヴァイオリニスト。ユダヤ系ポーランド人で後にメキシコ帰化。7歳からバイオリンを習い、15歳でデビュー。パリ音楽院を首席で卒業し、二次大戦中の慰問演奏を通してメキシコの大学に就職、1946年(28歳)、メキシコに帰化した。1954年、NYのリサイタルを機に世界的に注目され、積極的に近現代作品にもとり組む。同じポーランド出身のピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインとよく組んだ。愛用楽器は1743年製グァルネリ「ル・デューク」。
Cimetiere de Monaco,Monaco, Monaco


★イタリア
ローマ
【アウグストゥス廟/Mausoleum of Augustus
●ローマ帝国初代皇帝カエサル・アウグストゥスAugustus Caesarアウグストゥス(B.C.63-14)カエサルの養子。アントニウスとクレオパトラを滅ぼし、内政改革も行い、アウグストゥス(崇高なる者)の尊号を元老院から受けた。「アウグストゥスの平和」
●2代皇帝ティベリウスTiberius Julius Caesar(B.C.42-A.D.37)先代アウグストゥスの養子。キリスト刑死時のローマ皇帝。財政引き締め政策を断行。身分出身地の分け隔てなく能力に応じて登用。
●3代皇帝カリグラGaius Julius Caesar Augustus Germanicus(12-41)カリグラ(カリギュラ)。父母双方にアウグストゥスと血縁がありガイウス帝とも呼ばれる。浪費癖の暴君となり、皇帝親衛隊の将校らに惨殺。
●4代皇帝クラウディウスTiberius Claudius Nero Caesar Drusus(B.C.10-A.D.10)先帝カリグラが崩壊させたローマ財政を建て直し、ブリタンニア(英国)南部の征服成功。毒キノコで暗殺?
●12代皇帝ネルウァMarcus Cocceius Nerva Caesar Augustus(35-98)五賢帝の1番目。歴代君主から崇敬される王朝の祖。後継ぎがおらず腹心トラヤヌスを王朝の後継者に。
 
【ハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)/Mausoleum of Hadrian
●14代皇帝ハドリアヌス Publius Aelius Hadrianus (76-138)五賢帝の3番目。トラヤヌスの養子。領土拡大路線を変更し、辺境の属州を放棄、英国に「ハドリアヌスの防壁」を築く。教養人で詩人や思想家、学者が集まった。パンテオンや自分の霊廟=サンタンジェロ城など壮大な建造物を建てた。ちなみに初めて髭を生やしたローマ皇帝。
ハドリアヌス霊廟…サンタンジェロ城自体が墓。カラカラまでの歴代皇帝(14〜21代)が永眠。
●15代皇帝アントニヌス・ピウス Antoninus Titus:慈悲深きアントニヌス(86-161)20年以上の治世で軍事遠征はゼロ。最も平穏を維持した証。解放奴隷への道を大きく開き、市民への拷問を制限した。
●16代皇帝マルクス・アウレリウス Marcus Aurelius Antoninus(121-180)五賢帝の最後の皇帝。ピウスの養子。学校、孤児院、病院を建設するなど公共福祉に尽力。帝室財産を売却し、飢えや疫病対策に当てた。貧者のために減税し、刑罰を軽くし、奴隷の待遇を改善。同時に辺境防衛にも力を注ぐ。「自省録」に道徳的生活が平静を導くと記した。唯一のミスは、12代ネルウァから有能な人物を養子にして後継者に指定してきたのに、無能な実子コンモドゥスを後継者に指定したこと。これで五賢帝時代は終わった。 
●20代皇帝セプティミウス・セウェルス Lucius Septimius Severus(146-211)初のアフリカ人皇帝。セウェルス朝の創始者。ローマ中心の姿勢を改める体制刷新を進め、ローマ出身者の親衛隊を解散して属州出身者を登用した。
●21代皇帝カラカラ Caracalla(188-217)ケルト人の長いコート(カラカラ)をローマに持ち込み流行させた。ローマ史上に残る暴君の一人。歴史家ギボンはカラカラを「人類共通の敵」とまで痛罵。東方属州はカラカラの略奪・虐殺の対象となり、エジプトでは無抵抗の民衆2万名以上が殺戮された。メソポタミア遠征中、立ちション中に暗殺され絶命。
 
●139代教皇シルウェステル2世Silvester II(950-1003)フランス人初のローマ教皇。古代ローマ時代の著作の写本を積極的に収集。理性により感情と外界の障害を克服しようとした。近親者の登用禁止を推進。
●176代教皇インノケンティウス3世 Innocentius III(1161-1216年)ローマ教皇の権力を最高潮にした教皇「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である」。第4回十字軍がキリスト教徒の町ツァラを襲い略奪を行なったことに激怒し、十字軍を全て破門。フランス王フィリップ2世と英の失地王ジョンも破門。少年十字軍の悲劇が起こった。
●256代教皇レオ13世Leo PP. XIII(1810-1903)信仰と科学思想が共存しうることを訴えた。フランス革命以来、共和制フランスを初めて認めた教皇。労働者の権利を擁護し、搾取とゆきすぎた資本主義に警告を行いつつ、マルクス主義や共産主義も批判。
 
●フラ・アンジェリコ Fra Angelico(1395-1455)ルネサンス初期の画家・修道士。敬虔さあふれる清らかな画風で主に天上界を描いた。「受胎告知」
●217代教皇レオ10世Leo X(1475-1521)メディチ家出身。派手好き、イベント好きで、ルネサンス文化は最盛期に。ユリウス2世の死後、最年少37歳で即位。サン・ピエトロ大聖堂の建築費を賄うために贖宥状を販売し、怒ったルターが九十五ヶ条で抗議、宗教改革のきっかけとなった。
●219代教皇クレメンス7世Clemens VII(1478-1534)メディチ家出身。フランス王・フランソワ1世と同盟を結んだ報復として、神聖ローマ帝国皇帝カール5世の軍がローマに侵攻、市内では殺戮、破壊、略奪、強姦等の惨劇が繰り広げられた。ローマは見る影もなく荒廃。カール5世に皇帝の戴冠を行った。離婚問題で紛糾していたイングランド王・ヘンリー8世と対立。宗教改革の嵐にも晒された。
●228代教皇ウルバヌス7世Papa Urbanus VII(1521-1590)僅か13日の在位期間は歴代最短。死因はマラリア。教皇着座式も行われていない。墓は祝福を授けるポーズ
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●マルチェロ・マストロヤンニ Marcello Mastroianni(1924-1996)イタリアを代表する俳優。アニタ・エクバーグソフィア・ローレンカトリーヌ・ドヌーヴ等と浮名を流す。戦時には捕虜収容所から脱走に成功している。「甘い生活」「8 1/2」
Plot: Entering the Verano Cemetery and taking a right turn it's a walk of appr. 200 meters to the family grave that has room for 8 bodies. On the stone is written MASTROJANNI.
●ロッセリーニ Roberto Rossellini(1906-1977)映画監督。戦争の現実を直視したネオ‐リアリスモ運動の代表者。「無防備都市」「戦火のかなた」
ランベルト・マジョラーニLamberto Maggiorani(1909.8.28-1983.4.22)俳優「自転車泥棒」で名演。
●ジュゼッペ・シノーポリGiuseppe Sinopoli(1946.11.2-2001.4.20)指揮者、精神医学者。
●ジッロ・ポンテコルヴォGillo Pontecorvo(1919.11.19-2006.10.12)映画監督「アルジェの戦い」
●アリダ・ヴァリ Alida Valli(1921.5.31-2006.4.22)女優。「第三の男」「さすらい」「夏の嵐」
Cimitero Comunale Monumentale Campo Verano, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
Plot: Nuovo reparto XV, section 85
●ニーノ・ロータGiovanni "Nino" Rota(1911.12.3-1979.4.10)イタリアの作曲家。ミラノ出身。13歳でオペラを作曲。1951年(40歳)に9歳年下の新人映画監督フェリーニと出会い、その大半の音楽(「道」「アマルコルド」等)を手がけることになった。また、「ゴッドファーザー」(コッポラ)、「太陽がいっぱい」(ルネ・クレマン)、「ロミオとジュリエット」(ゼフィレッリ)など多数の名曲を遺す。心臓発作により67歳で他界。
Cimitero Comunale Monumentale Campo Verano,Rome,Provincia di Roma,Lazio, Italy
Plot: Number 8, Row 97, Zone: Nuovo Reparto (XV) - Monte Portonaccio Gradone 1'
 
ラファエロRaphael(1483-1520)ルネサンスの天才画家。その名はダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び称せられる。
●コレルリ Arcangelo Corelli(1653.2.17-1713.1.8)作曲家。合奏協奏曲の形式を完成し、ビバルディら次代の音楽家に多大な影響を与えた。
Pantheon Church, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
 
●キーツJohn Keats(1795-1821)英国ロマン派の詩人。芸術至上主義。「エンディミオン」
●シェリーPercy Bysshe Shelley [Body (except for heart)](1792-1822)英国人。キーツ、バイロンと共にロマン派の代表的詩人。情熱と抒情性。イタリアでボートが転覆し溺死。妻は怪奇小説「フランケンシュタイン」を書いたM.シェリー
Campo Cestio, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
 
グレゴリオ・アレグリ Gregorio Allegri(1582-1652.2.7)イタリア作曲家司祭歌手ローマ楽派。秘曲「ミゼレーレ」をモーツァルトが暗記。
Chiesa di Santa Maria in Vallicella/Chiesa Nuova, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy//Plot: Chapel of St. Philip Neri
●ベルニーニ Gian Lorenzo Bernini(1598.12.7-1680.11.28)天才彫刻家。作品は壮大絢爛。「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」
Santa Maria Maggiore, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
●聖セシリアSaint Cecilia 禁教時代、2世紀頃の殉教者。1599年に発掘された際の聖セシリアを、そのまま彫刻で再現。音楽と盲人の守護聖人。
Basilica di Santa Cecilia in Trastevere, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
●キリコ Giorgio De Chirico(1888.7.10-1978.11.20)画家。シュールレアリスムの先駆。内面の不安を夢幻的な作品で表現。「廃墟と馬」
Chiesa di San Francesco a Ripa, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
●ザビエルFrancis Xavier(1506.4.7-1552.12.3)日本に渡来した最初のイエズス会士。スペイン貴族。日本滞在後、中国に入ろうとしてマカオで病没。
Chiesa del Gesu, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy//Plot: right forearm
●ニコラ・プッサン Nicolas Poussin(1594.6.15-1665.11.19)バロック時代期、17世紀フランスを代表する画家だがローマで活躍。細部まで描き込む。「アルカディアの牧人」
Basilica di San Lorenzo in Lucina, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
●ジュリアス・シーザー/ユリウス・カエサル Julius Caesar (B.C.100-B.C.44)古代ローマの将軍・政治家。各地の内乱を平定、独裁者の地位に就いたが元老院議事堂で暗殺された。「カエサル」は後にローマ皇帝の称号となる。カイザー・ツァーリなどの称号の語源。
Forum Romanum, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy//Plot: Remains of the Caesar
●ピエトロ・ジェルミPietro Germi(1914.9.14-1974.12.5)映画監督、俳優。社会派ドラマを次々と発表。「鉄道員」「刑事」
Parrocchia Spirito Santo/Castel di Guido Cimitero, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
http://www.inmiamemoria.com/scatole_dei_ricordi/Germi/Pietro/Germi_Pietro___171762.php
●ジュリアーノ・ジェンマGiuliano Gemma(1938.9.2-2013.10.1)俳優。マカロニウエスタンのトップスター。交通事故。
Cimitero Flaminio, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
●38代教皇シリキウス Siricius(?- 399.11.26)「教皇」という称号を名乗った最初の人物。古代ローマの最高神祇官に司祭として初めて就任。教皇教令を発した初の教皇でもあった。
CATACOMBS OF PRISCILLA, Rome
●255代教皇ピウス9世 Pius IX(1792.5.13-1878.2.7)31年7ヶ月という最長の教皇在位記録を持つ。『誤謬表』を発表して近代社会との決別を宣言。
5代皇帝ネロ Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus(37.12.15-68.6.9)17歳で皇帝就任。母や妻、セネカを殺害、ローマを燃やしてキリスト教徒のせいにし、ペテロを逆さ十字の磔で処刑。最後は元老院に「国家の敵」と宣告され自害。カエサル直系のローマ皇帝は断絶した。自称アーティスト、ワンマンショーの鬼。ヘブライ文字を数値化した「666」はネロを指す。
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(Basilica di Santa Maria del Popolo)に皇帝ネロを埋葬するドミティアヌス家の墓(Mausoleo dei Domizi Enobarbi)
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フィレンツェ
【Basilica di Santa Croce】
●ミケランジェロ Michelangelo Buonarroti(1475-1564)ルネサンス期の天才芸術家。人類の奇跡。彫刻では「ピエタ」「モーセ」「ダヴィデ」、絵画ではシスティナ礼拝堂の「天地創造」「最後の審判」が代表作。
●ガリレイGalileo Galilei(1564-1642)天文学者。命がけで地動説を主張。「それでも地球は回っている」
●ロッシーニGioacchino Rossini(1792-1868)作曲家。歌劇「ウィリアムテル」「セビリアの理髪師」
●マキャベリNiccolo Machiavelli(1469-1527)政治思想家。政治を宗教・倫理から独立した存在として捉え、近代政治学の祖となる。「君主論」
Basilica di Santa Croce, Florence, Provincia di Firenze, Toscana, Italy
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【Basilica di San Lorenzo】
コジモ・デ・メディチ Cosimo De Medici(1389.9.27-1464.8.1)メディチ家のフィレンツェ支配を確立した銀行家。ルネサンスの学問・芸術の保護者。一族からローマ教皇・フランス王妃各2名を輩出。
●コジモ1世Cosimo I de' Medici(1519-1574)フィレンツェの門閥貴族。都市改造事業ウフィツィ美術館ヴァザーリの回廊などを建設。ミケランジェロの葬儀も行った。
●ドナテロDonatello(1386-1466)彫刻家。初期ルネサンス様式彫刻の創始者。写実技巧に優れる。「ダビデ」
●コジモ1世Cosimo I de' Medici(1519.6.12-1574.4.21)フィレンツェの門閥貴族。18歳でフィレンツェ公を継ぎフィレンツェの中央集権体制を確立。都市改造事業ウフィツィ美術館ヴァザーリの回廊などを建設。再びフィレンツェでルネサンス文化が花開いた。ミケランジェロの葬儀を行った。初代トスカーナ大公
Basilica di San Lorenzo, Florence, Provincia di Firenze, Toscana, Italy//Plot: Cappelle Medicee
 
●ボッティチェリSandro Botticelli(1445-1510)初期ルネサンスの画家。優雅繊細な画風。「ヴィーナスの誕生」「春」
Abbazia Di Ognissanti, Florence, Provincia di Firenze, Toscana, Italy
●ジョットGiotto di Bondone(1266-1337)イタリア中世末期の画家・建築家。ヨーロッパ近代絵画の創始者。写実的描写と劇的な表現。
Cathedral of Florence*, Florence, Provincia di Firenze, Toscana, Italy
 
ヴェニス:ヴェネツィア
【Cimitero di San Michele】Venice, Provincia di Venezia, Veneto, Italy
●ストラビンスキーIgor Stravinsky(1882-1971)ロシア出身の作曲家。バレエ音楽「火の鳥」「春の祭典」。民族・原始主義的な独自世界を確立
Plot: Greek Orthodox Section ("Rec. Greco" on cemetery map), grave 36
●ディアギレフSerge Diaghilev(1872-1929)興行師。総合芸術としての新しいバレエを創造。
Plot: Greek Orthodox Section
●ドップラー Christian Andreas Doppler(1803.11.29-1853.3.17)オーストリアの物理学者。“ドップラー効果"を解明
ヴォルフ=フェラーリErmanno Wolf-Ferrari(1876.1.12-1948.1.21)作曲家。コミック・オペラが得意。「マドンナの宝石」
Cimitero di San Michele, Venice, Provincia di Venezia, Veneto, Italy
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●モンテベルディClaudio Monteverdi(1567.5.15-1643.11.29)初期バロックを代表する作曲家。歌詞重視。オペラ「オルフェオ」やマドリガル(多声世俗化曲)を作曲
●ティツィアーノ Tiziano Vecellio(1490-1576)画家。ジョルジョーネとともにヴェネツィア派の最盛期を築く。暖色系の豊かな色彩。Plot: Right side after church entrance
●アントニオ・カノーヴァ Antonio Canova(1757.11.1-1822.10.13)彫刻家。演出過剰なバロック美術から、古典主義の洗練さに回帰する新古典主義の代表。※美しい三角の墓に心臓が入っている。
Basilica di Santa Maria Gloriosa dei Frari, Venice, Provincia di Venezia, Veneto, Italy
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●ティントレットTintoretto (1518-1594)画家。ティツィアーノの色彩とミケランジェロの形態を融合、ドラマチックな宗教画を描いた
Church of Madonna dell'Orto, Venice, Provincia di Venezia, Veneto, Italy
●アルビノーニ Tomaso Albinoni(1671-1751)バロック盛期の作曲家。ベネチア楽派。エレガントな旋律美が特徴
Basilica Cattedrale Patriarcale di San Marco, Venice, Provincia di Venezia, Veneto, Italy
 
ナポリ:カンパーニャ州
●スカルラッティAlessandro Scarlatti(1659-1725)作曲家。多くのオペラやカンタータを作曲
Chiesa di Santa Maria de Montesanto(Church of Montesanto), Naples, Provincia di Napoli, Campania, Italy
●カルーソーEnrico Caruso(1873-1921)伝説的テノール歌手。端整なベルカント唱法による美声。
Cimitero Monumentale di Poggioreale, Naples, Provincia di Napoli, Campania, Italy
●ペルゴレージGiovanni Battista Pergolesi(1710-1736)    b. January 4, 1710  d. March 16, 1736
Giovanni Battista Pergolesi(1710-1736)作曲家。ナポリ楽派。オペラ・ブッファ(風刺喜歌劇)の先駆者
San Procolo Cathedral, Pozzuoli, Provincia di Napoli, Campania, Italy//Plot: Unmarked, gravesite lost
●マッシモ・トロイージMassimo Troisi(1953.2.19-1994.6.4)「イル・ポスティーノ」の撮影完了12時間後に他界。心臓が悪いのに手術を延期していた。
Cimitero di San Giorgio, San Giorgio a Cremano, Provincia di Napoli, Campania, Italy
●ウェルギリウス Publius Vergilius Maro(B.C.70-B.C.19)古代ローマの詩人。古典ラテン文学のみならず世界文学の傑作であるローマの国民的叙事詩「アエネーイス」を書き、後代のヨーロッパの作家たちに絶大な影響を与えた。ほかに「牧歌(詩選)」、田園生活とイタリアの大地に対する賛歌「農耕詩」など。「アエネーイス」の執筆に11年をかけたが、旅先で病没する直前に未完ゆえ原稿焼却を希望。アウグストゥスはそれを認めず刊行を命じ、ラテン文学の金字塔となった。「アエネーイス」は韻律の音楽的な響きと技術的な精密さを究めた文学的到達の極致。その規模の大きさ、文体の洗練された美しさ、情感の優しさにより、「アエネーイス」は普遍的な広がりをもつ。イギリスのチョーサー、スペンサー、ミルトン、テニソンなど多数に影響を与えた。ダンテは『神曲』で主人公の「師」としてウェルギリウスを案内役に登場させている。
Tomba di Virgilio, Parco Vergiliano a Piedigrotta (Napoli)ウェルギリウス公園内
 
●聖アンドリュー Saint. Andrew [partial remains](部分的な残り)十二使徒の1人で、使徒ヨハネと最初の弟子になった。聖ペテロの兄弟。当初は洗礼者ヨハネの弟子でガリラヤ湖の漁師。黒海沿岸地方で伝道、パトラス(ギリシャ)で磔刑。X形十字架にかけられた(アンドレアス十字架)。 
Cattedrale di Sant'Andrea, Amalfi, Provincia di Salerno, Campania, Italy
 
ミラノ:ロンバルディア州
【Cimitero Monumentale di Milano】Milan, Provincia di Milano, Lombardia, Italy
●トスカニーニ Arturo Toscanini(1867-1957)指揮者。楽譜にウルトラ忠実な演奏態度が逆に新鮮
●ホロヴィッツVladimir Horowitz(1903-1959)ピアニスト。ヴィルトゥオーソ(名演奏家)
●エビータ Eva Peron 最初の埋葬地[original burial site](1919-1952)アルゼンチンの政治家。ペロン大統領の夫人。癌により33歳で早逝。
●ヴェルディGiuseppe Verdi 最初の埋葬地[original burial site]19世紀イタリア歌劇作曲家の代表的存在。「椿姫」「アイーダ」「オテロ」「リゴレット」
アミルカレ・ポンキエルリ Amilcare Ponchielli(1834.8.31-1886.1.16)作曲家。バレエ音楽「時の踊り」
Cimitero Monumentale di Milano, Milan, Provincia di Milano, Lombardia, Italy
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●ヴェルディGiuseppe Verdi(1813-1901)19世紀イタリア歌劇作曲家の代表的存在。「椿姫」「アイーダ」「オテロ」「リゴレット」
Casa di Reposo per Musicisti, Milan, Provincia di Milano, Lombardia, Italy//Plot: Verdi Tomb
●聖アンブロジウス Saint. Ambrosius(340-397)4世紀のミラノの司教(主教)。ミラノの守護聖人。四大ラテン教父の一人。アウグスティヌスに影響を与えた。374年、ミラノ司教の後継人事問題が紛糾し、調停役のアンブロジウスに白羽の矢が立った。その気がないため、家に売春婦を泊めるなど“不適格"をアピールし、ミラノから逃亡を試みるも民衆に捕まえられ、ついに司教職を承諾した。テッサロニキでローマ皇帝テオドシウス1世が民衆を虐殺すると、破門を宣言して公開謝罪させた。ギリシャ語に精通し、東方の思想を学び、西方教会の神学の水準を高めた。若きアウグスティヌスもアンブロジウスに出会って回心。アウグスティヌスいわく「アンブロジウスは“声を出さない読書"を最初に行った人物」。
Basilica of Sant'Ambrogio, Milan, Provincia di Milano, Lombardia, Italy//Plot: In Basilica's crypt, open to public on Ambrose's feast day(Basilicaの地下室にてアンブローズの祭日に市民に一般公開
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ロンバルディア州
●ヴェルサーチGianni Versace[cremated remains](1946.12.2-1997.7.15)ファッションデザイナー。スーパーモデルブームの火付け役。作品は華やかでアート指向。ジャンフランコ・フェッレ、ジョルジオ・アルマーニで「ミラノの3G」。
※ヴェルサーチ邸に一時遺灰が安置されていた。その後Cemetery of Moltrasioに墓ができたというが未確認。
Cemetery of Moltrasio, Como, Provincia di Como, Lombardia, Italy
●ドニゼッティGaetano Donizetti(1797-1848)作曲家。歌劇「愛の妙薬」
Basilica of Santa Maria Maggiore, Bergamo, Provincia di Bergamo, Lombardia, Italy
ヴァルテル・ボナッティWalter Bonatti(1930.6.22-2011.9.13)イタリアの登山家。ベルガモ出身。1954年のイタリア隊K2初登頂時に「抜け駆けした」「仲間の酸素を勝手に吸った」と中傷されていたが、半世紀後に新証言が出て2007年(他界3年前)に名誉回復された。マッターホルン北壁の冬季単独初登攀(1965)など記録多数。ポルトヴェネーレに埋葬。
http://www.ecodibergamo.it/stories/Cultura%20e%20Spettacoli/bonatti-riposa-a-portovenere-accanto-a-rossana-podesta_1078131_11/
●ストラディバリAntonio Stradivari(1644-1737)伝説的バイオリン職人
Basilica of San Domenico(今はPiazza Roma), Cremona, Provincia di Cremona, Lombardia, Italy
 
ボローニャ:エミリア・ロマーニャ州
●レスピーギ Ottorino Respighi(1879.7.9-1936.4.18)作曲家。色彩的管弦楽法を駆使し、オペラに偏っていたイタリア音楽を純器楽の方向に発展させた。交響詩「ローマの噴水」「ローマの松」
Cimitero Monumentale della Certosa di Bologna, Bologna, Provincia di Bologna, Emilia-Romagna, Italy//Plot: Campo Carducci. Lato destro C1
●ファリネッリ(カーロ・ブロスキ)Farinelli(1705.1.24-1785.7.15)最も偉大なカストラート・オペラ歌手。カーロ・ブロスキは声変わりしないよう8歳頃に去勢され、声楽を学び始めた。
Cimitero Monumentale della Certosa di Bologna, Bologna, Provincia di Bologna, Emilia-Romagna, Italy//Plot: Campo Maggiore a Levante.Arco 2
フェルッチオ・ランボルギーニ Ferruccio Lamborghini(1916.4.28-1993.2.20)自動車メーカー「アウトモビリ・ランボルギーニSPA」(現ランボルギーニ)の設立者。フェラーリの品質に満足できず起業
Cimitero Monumentale della Certosa di Bologna, Bologna, Provincia di Bologna, Emilia-Romagna, Italy
●グリエルモ・マルコーニGuglielmo Marconi(1874.4.25-1937.7.20)無線の父。無線電信を発明しマルコーニ無線電信会社を創立。1909年、無線通信の発展に貢献を称えられノーベル物理学賞を受賞。
Villa Falcone, Sasso Marconi, Provincia di Bologna, Emilia-Romagna, Italy
 
Emilia-Romagna エミリア・ロマーニャ州
●フェリーニFederico Fellini(1920-1993)映画監督。社会の繁栄の中での精神の退廃を描いた。「道」「甘い生活」「8 1/2」
Rimini Cemetery, Rimini, Provincia di Rimini, Emilia-Romagna, Italy//Plot: To the left from the entrance
●パガニーニNiccolo Paganini(1782-1840)天才バイオリン奏者・作曲家。悪魔呼ばわりされるほど演奏が上手かった。「24の奇想曲」
Cemetery Della Villetta, Parma, Provincia di Parma, Emilia-Romagna, Italy
●エンツォ・フェラーリ Enzo Ferrari(1898.2.18-1988.8.14)フェラーリ創設者。F1の名門スクーデリア・フェラーリのオーナー。1947年に自社製レーシング・マシンを開発。モータースポーツ参戦資金を稼ぐため高級スポーツカーを販売した。国内では「北の教皇」と呼ばれるほど言動に影響力があった。
Cimitero di San Cataldo, San Cataldo, Provincia di Modena, Emilia-Romagna, Italy
●パヴァロッティ Luciano Pavarotti(1935.10.12-2007.9.6)テノール歌手。よく伸び、明るく輝く高音から“キング・オブ・ハイC(ツェー)”と讃えられた20世紀後半を代表するオペラ歌手。3大テノールの1人(他にプラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス)
Cimitero di Montale(Montale Rangone Cemetery), Montale, Provincia di Modena, Emilia-Romagna, Italy
●ダンテDante Alighieri(1265-1321)イタリア最大の詩人。「神曲」「新生」「饗宴」。フィレンツェの行政長官に選出されたが政争によりフィレンツェを追放(戻れば死刑)。放浪しながら文学に精進。
Tomba di Dante, Ravenna, Provincia di Ravenna, Emilia-Romagna, Italy
●ミケランジェロ・アントニオーニMichelangelo Antonioni(1912.9.29-2007.7.30)映画監督。愛の不毛を描く。「さすらい」「情事」「夜」(ベルリン国際映画祭金熊賞
Cimitero della Certosa, Ferrara, Provincia di Ferrara, Emilia-Romagna, Italy
●【Not墓参】ムッソリーニ Benito Mussolini(1883.7.29-1945.4.28)独裁者。ファシスト党を結成、政権掌握後にエチオピア併合。連合軍のシチリア上陸で失脚。パルチザンに銃殺された。
Cimitero di San Cassiano, Predappio, Provincia di Forli, Emilia-Romagna, Italy
●カルロ・ランバルディCarlo Rambaldi(1925.9.15-2012.8.10)視覚効果アーティスト。「E.T.」「エイリアン」でアカデミー視覚効果賞
Cimitero Comunale di Vigarano Mainarda, Vigarano Mainarda, Provincia di Ferrara, Emilia-Romagna, Italy//Plot: Cremated. The ashes buried near to parents
●カルロ・ルスティケッリCarlo Rustichelli(1916.12.24-2004.11.13)映画音楽作曲家。1940年代から250本以上を手がける。「鉄道員」「ブーベの恋人」
Cimitero di Carpi, Carpi, Provincia di Modena, Emilia-Romagna, Italy
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トスカーナ州
●マスカーニ Pietro Mascagni(1863.12.7-1945.8.2)作曲家。オペラカヴァレリア・ルスティカーナ
Cimitero Della Misercordia, Livorno, Provincia di Livorno, Toscana, Italy
●ジャック・マイヨールJacques Mayol(1927-2001)フランスのフリーダイバー。イタリア・エルバ島没。トスカーナ湾に散骨され、一周忌の際に沖縄・与那国の海底遺跡にも散骨。「グラン・ブルー」主人公のモデル
●プッチーニGiacomo Puccini(1858-1924)オペラ作曲家。流麗で感傷的な旋律が聴衆を虜に。「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」
Puccini Estate Grounds(Villa Puccini), Torre del Lago, Provincia di Lucca, Toscana, Italy//Plot: Private Chapel of His Home
カラバッジョ Michelangelo Merisi da Caravaggio(1571.9.28-1610.7.18)宗教画に写実性とコントラストの強い明暗法を導入、バロック美術に大きな影響を与えた。「聖マタイの召命」「キリストの埋葬」。記録上に残る墓碑銘「自然そのもの以外に比肩しうるもののいない画家 ナポリからローマへと向かう途中のポルト・エルコレにて36年と6カ月12日の人生を生きて1610年8月15日に客死した- 法学者マルツィオ・ミレージが、この異常なまでの才能を持った友人に捧ぐ」2010年に漁村ポルトエルコレ(Porto Ercole)の小さな教会(約200人の墓)の地下聖堂で本人のものと見られる頭骨や大腿骨が発見された。1956年に掘り起こされて納骨室にあった骨を科学的に徹底調査した。
※修道院(1500年代末〜1800年まであった)のサントステファノ墓地に葬られた。2014年7月19日にカラヴァッジオ(骨)公園が出来る。
Cimitero San Sebastiano*, Porto Ercole, Provincia di Grosseto, Toscana, Italy *This location is unconfirmed or in dispute.
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●聖ベネディクトSaint. Benedict(480-547.3.21)ヌルシアのベネディクトゥス。「西欧修道士の父」。修道制度の創設者。中世の修道院長。529年、モンテ・カッシーノに修道院を設け、後に修道会則(戒律)を定めた。
Abbey of Montecassino, Cassino, Provincia di Frosinone, Lazio, Italy//Plot: Beneath the altar
●パゾリーニPier Paolo Pasolini(1922.3.5-1975.11.2)詩人・作家・映画監督。社会から爪弾きにされている青少年の思いを自らの作品の根拠とした。
Cimitero di Casarsa, Casarsa della Delizia, Provincia di Pordenone, Friuli-Venezia Giulia, Italy//Plot: Buried close to his mother, to the left of the entrance.
●マルチェロ Benedetto Marcello(1686.8.1-1739.7.24)作曲家。
Chiesa di San Giuseppe, Brescia, Provincia di Brescia, Lombardia, Italy
●トール・ヘイエルダールThor Heyerdahl(1914.10.6-2002.4.18)ノルウェーの人類学者、海洋生物学者。筏(いかだ)船のコンティキ号でペルーから南太平洋ツアモツ島まで4,300マイル(8千km弱)の航海。
Heyerdahl Family Estate, Colla Micheri, Provincia di Savona(サヴォーナ県), Liguria, Italy
http://www.panoramio.com/photo/86973109 ※ホントにこの場所?
 
●セルジオ・レオーネ Sergio Leone(1929.1.3-1989.4.30)映画監督ローマ出身。「荒野の用心棒」「続・夕陽のガンマン」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」。世界中でマカロニ・ウェスタンブームを巻き起こした。
Cimitero di Pratica di Mare, Pratica di Mare, Provincia di Roma, Lazio, Italy
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=7856551
●ペトラルカFrancesco Petrarcah(1304.7.20-1374.7.19)イタリアの詩人・人文主義者。文芸復興期最大の抒情詩人でソネットの確立者。1341年に名誉ある桂冠詩人となった。
Arqua Petrarca, Arqua Petrarca, Provincia di Padova, Veneto, Italy//Plot: Square
 
●アッシジのフランチェスコ Saint. Francis 'Francesco'(1181-1226)無欲の極地として知られる聖人。
Basilica di San Francesco d'Assisi , Assisi, Provincia di Perugia, Umbria, Italy
Plot: Lower level of the basilica, behind an altar
 
★サンマリノ共和国 San Marino
ヨーロッパ最古(4世紀初頭の建国)の小共和国。イタリアのチタノ山(738メートル)にある。首都も同名。面積61平方キロメートル。人口2万9千(2004)。
 
★ヴァチカン市国
Saint Peter's Basilica Vatican City 20
●初代ローマ教皇ペトロSaint Peter(生年不明- 67)十二使徒の一人。
皇帝ネロのキリスト教迫害で逆さ十字磔刑。ペトロの墳墓の上にサンピエトロ大聖堂が築かれた。
●45代教皇レオ1世 Papa Leo I(
390-461)「大教皇」。聡明かつ雄弁な人物。フン族やヴァンダル族のイタリア侵攻を平和的に解決し、王や諸侯を上回るキリスト教の権威が生まれるきっかけになった。
64代教皇グレゴリウス1世 Gregorius I(540-604)「
大聖グレゴリウス」。典礼の整備、教会改革で知られ、四大ラテン教父の一人。多くの聖歌を作曲し、グレゴリオ聖歌の名の由来となった。
●76代教皇ウィタリアヌスVitalianus(生年不詳- 672)教会儀式でオルガンの使用を定めた最初の教皇。
●79代教皇アガトAgatho(577 - 681)シチリアの修道士から教皇に。コンスタンティノス4世の東西教会一致政策を支持。103歳の長寿は歴代教皇で最長。
●96代教皇レオ3世Papa Leo III(750 - 816)ローマの貧民階級出身。西欧に新たな歴史の扉を開いた教皇。東方教会と対抗するためフランク王国のカール1世(大帝)に西ローマ皇帝の帝冠を授けた。
●98代教皇パスカリス1世Paschal I(生年不詳 - 824)カタコンベの発掘に務め、膨大な数の殉教者の遺骨を整理移転した。
●113代教皇ステファヌス7世Stephanus VII(生年不詳 - 897)先々代の教皇フォルモススに恨みを抱いていたため、遺体を掘り起こして教皇の衣服を着させ模擬裁判にかけた後、祝福を与える指を切り落とした上で遺体を川に流した。結果、反発した民衆に殺害される。
●159代教皇ウルバヌス2世Urbanus II(1042-1099)聖職売買の禁止など教会改革を断行。第1回十字軍の派遣を呼びかけた。
●193代教皇ボニファティウス8世Bonifatius VIII(1235-1303)フランス王フィリップ4世と聖職者への課税問題で対立し、幽閉され「憤死」。この後フランス王により教皇庁がアヴィニョンに移転させられ、7代にわたった教皇のバビロン捕囚が始まる。
●216代教皇ユリウス2世 Julius II(1443-1513)多くの芸術家を支援したことでローマにルネサンス芸術の最盛期をもたらす。ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画製作を依頼(というか強要)。
●220代教皇パウルス3世Paulus III(1468-1549)イエズス会を認可し、反宗教改革を主導。ミケランジェロに「最後の審判」を依頼。英国ヘンリ8世の離婚に反対し破門。その結果、イギリスには英国教会が誕生。
●226代教皇グレゴリウス13世Gregorius XIII(1502-1585)ユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用。学問を好み奨励。天正遣欧使節の少年が謁見した。
●235代教皇ウルバヌス8世 Pope. Urban VIII(1568-1644)ガリレオ裁判の悪役だが、一方で学問と芸術の守護者。ベルニーニはウルバヌス8世の援助を受け、「聖テレジアの法悦」やサン・ピエトロ大聖堂の内装で能力を発揮できた。ペトロの墓の天蓋は教皇領の年間歳入の10倍の費用。「聖ペトロの司教座」は絵画・彫刻・建築の特質を融合した総合舞台芸術。サンマリノの独立を承認(1631)。
●242代教皇インノケンティウス12世 Innocentius XII(1615-1700)「私の親戚は貧しさだよ」。清廉潔白な人柄でカトリック教会の悪習、ネポティズム(親族登用主義)と聖職売買(シモニア)の根絶を目指す。
●259代教皇ピウス11世Pius PP. XI(1857-1939)世界最小の国家バチカン市国を建国。ムッソリーニとは互いに独立国と認め合う「ラテラノ条約」を締結。1937年、「ナチスが人種・民族・国家を神格化している」と回勅で非難。
●261代教皇ヨハネ23世 Ioannes PP. XXIII(1881-1963)他教会や他宗教との対話に積極的。飾らない態度と親しみやすさ、ユーモアのセンスによって世界を魅了した。
●263代教皇ヨハネ・パウロ1世 Ioannes Paulus PP. I(1912- 1978)教皇名として初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を採用。豪華な教皇戴冠式や教皇冠も拒否。マフィアと対決。在位わずか33日の急逝には暗殺説あり。
●264代教皇ヨハネ・パウロ2世 Ioannes Paulus PP. II(1920-2005)。ポーランド出身。455年ぶりの非イタリア人教皇。世界平和と戦争反対への呼びかけと、呼びかけだけにとどまらない数々の平和行動を実践。ガリレオ裁判の過ちを認めて謝罪した。
●ジョヴァンニ・パレストリーナGiovanni Palestrina(1525-1594)ルネサンス後期の音楽家。カトリックの宗教曲を多く残した「教会音楽の父」。
Saint Peter's Basilica, Vatican City//Plot: Tomb destroyed in the 1700's by new construction.※新規建設によって1700年代に破壊された
 


★フィンランド
●トーヴェ・ヤンソンTove Jansson (1914-2001)作家、画家。ムーミンの原作者。反ファシズムの風刺画も描いた。
Hietaniemi cemetery Helsinki Finland
グスタフ・マンネルヘイム Carl Gustaf Emil Mannerheim(1867-1951)フィンランド大統領。軍最高司令官として内戦、対ソ戦の冬戦争&継続戦争を指揮、フィンランド独立を保つ。2000年、国民からフィンランドで最も偉大な人物として選ばれた。
Hietaniemi cemetery Helsinki Finland
●シベリウス Jean Sibelius(1865.12.81957.9.20)国民的作曲家。祖国の自然と歴史に根ざした交響詩などを書いた「フィンランディア」
●アールネ・エドヴァルド・ユーティライネン Aarne Edward Juutilainen(1904.10.18-1976.10.28)フィンランドの軍人。侵攻ソ連軍との激戦「コッラーの戦い」において、少ない兵力で撃退し続けた国民的英雄。弟イルマリは「無傷の撃墜王」。
Malmin hautausmaa, Malmi, Helsinki Municipality, Uusimaa, Finland
●エイノ・イルマリ・ユーティライネンEino Ilmari Juutilainen(1914.2.21-1999.2.21)フィンランド空軍のトップエース・パイロット「無傷の撃墜王」。ソ連との冬戦争・継続戦争で、出撃437回、94機の撃墜を記録。ドイツ空軍以外では世界最高位。
Tuusulan kirkko,Kirkkotie 34, 04300 Tuusula, Finland
●シモ・ヘイヘ Simo Hayha(1905.12.17-2002.4.1)フィンランドの軍人“白い死神"。伝説の狙撃手。対ソ戦で史上最多の確認戦果505名。
Ruokolahti:ルオコラハティ, Finland
●エリアス・リョンロートElias Lonnrot(1802.4.9-1884.3.19)フィンランドの民間説話『カレワラ』の収集家。
Sammatti,Finland
Catherine (Karin Mansdotter)(1550.6.11-1612.9.13)スウェーデン女王。リアル・シンデレラ。
Turku Cathedral, Turku, Turku Municipality, Finland Proper, Finland//Plot: Kankas Chape



 
〔歴代ローマ法王詳細〕

●初代ローマ教皇ペトロSaint Peter(生年不明- 67)12使徒の一人。シモン・ペトロ。聖人の概念をもつ全てのキリスト教諸教派(正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)において聖人とされ、記念日(聖名祝日)は6月29日。
皇帝ネロのキリスト教迫害で殉教。
325年のニケーア公会議で三位一体説を主張するアタナシウス派がカトリック(普遍的)であると認められ、5世紀以降ローマ司教がペトロの後継者として教皇となった。
Saint Peter's Basilica, Vatican City
Plot: Crypt, in the basement
 
●4代クレメンス1世 Pope I. Clement(91-101)ペトロを直接知る人物。「クレメンスの第一の手紙」で教会同士のトラブルを仲裁。諸教会の仲介役を既にローマ司教が果たしていた。クリミア半島ケルソネソスで落命。
Basilica di San Clemente, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
ペトロを直接知る人物。「クレメンスの第一の手紙」(96年)はコリントスの教会で起きたトラブルを仲裁しようとしたクレメンスの書簡。カトリックを中心に、ここから諸教会の仲介役としてローマ司教が役割を果たしていたと考え、それが後の教皇制度の萌芽になっていくと見るむきもある。クリミア半島のケルソネソスで致命したという伝承。
 
●25代教皇ディオニュシウスDionysius(? - 268年12月26日)は、ローマ教皇(在位:259年7月22日 - 268年12月26日)。おそらくギリシャの生まれ。258年に殉教したシクストゥス2世を継いで教皇となった。キリスト教徒が直面していた迫害によって新教皇の選出は困難だったため、教皇座は1年近く空席になっていた。迫害がおさまり始めると、ディオニュシウスはローマ教皇に就いた。迫害を主導した皇帝ウァレリアヌスはペルシアのシャープール1世に捕らえられ260年に殺された。新皇帝ガリエヌスは信仰寛容令を発し、迫害を終わらせ教会を合法化した。ディオニュシウスは混乱に陥っていたローマ教会の再建を背負った。アレクサンドリアの信徒の抗議によって、アレクサンドリア司教から神とロゴスを関係させる教義についての説明を求められ、満足な回答を与えた。ディオニュシウスは、ゴート人の襲撃により荒廃したカッパドキアの教会に多額の金を送り、教会を再建させ捕虜の身代金を払った。303年まで続く信仰寛容令によって、教会は秩序と平和が保たれ、ディオニュシウスは殉教せずに死んだ最初の教皇となった。
San Silvestro in Capite、Roma
 
●38代シリキウス(Siricius, ? - 399年11月26日)は、第38代ローマ教皇(在位:384年12月11日 - 399年11月26日)。
「教皇」という称号を名乗った最初の人物。382年に古代ローマの最高神祇官に司祭として初めて任じられた(後にローマ皇帝グラティアヌスによって職を解かれた)。384年には対立教皇ウルシヌスとの選挙に勝って満場一致でローマ教皇に選出。教皇教令を発した初の教皇でもあった。最初の教皇教令はヒスパニアのタラゴナの司祭に対するものだった。さらに聖職者の非婚に関する2つの教令を出した。
異端の同僚司祭に迫害されたヒスパニアの禁欲的なプリスキリアヌス派の司祭が西ローマ帝国の皇帝マグヌス・マクシムスによって魔術を行った罪で処刑された時、シリキウスはミラノの司教アンブロジウスとトゥールのマルティヌスを伴って、この判決に異議を唱えた。シリキウスの祝日は11月26日である。
CATACOMBS OF PRISCILLA
 
●45代レオ1世(Papa Leo I、390年 - 461年11月10日)は、ローマ教皇(在位:440 - 461年)。大教皇。390年、ピサ近郊で生まれた。聡明かつ雄弁な人物で、440年に教皇として即位した後は地方教会の改革や教皇権の強化などに務めた。教義論争でも異端説を弾圧し、正統論を確立した。この頃のイタリアはフン族の首長・アッティラが侵攻してきていたが、レオ1世はアッティラと会見して平和的解決を図った。中世ハンガリーの年代記によると、教皇はアッティラへ、もしも平和裏にローマから去るならば、彼の後継者の一人が「聖なる王冠」を受け取るであろうと約束。その結果、452年にアッティラはローマから撤退している。ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件をキリスト教が布教活動に利用、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになった。また、455年にヴァンダル族の王ガイセリックの軍勢がローマに侵攻してきたときも、その責任者と会見することで虐殺やローマの破壊をしないよう要請し、平和的な解決に努めている。また、この教皇は、副助祭に至るまで、聖職者のあらゆる結婚を禁じた。 461年、72歳で死去した。レオ1世が即位した頃の欧州では、ゲルマン民族の大移動による紛争時代であったが、レオ1世は常に平和的な解決を図り、武力による解決を好まなかった。このため、レオ1世は「大教皇」と称されている。
 
 
★64代グレゴリウス1世(Gregorius I, 540年? - 604年3月12日)は、ローマ教皇(在位:590年9月3日 - 604年3月12日)。問答者グレゴリウス(Dialogos Gregorios)、大聖グレゴリウスとも呼ばれる。
典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇である。四大ラテン教父の一人(他にアンブロジウス、ヒエロニムス、アウグスティヌス)。ローマ・カトリックでは聖人、教会博士であり、祝日は9月3日。
東方正教会でも聖人で記憶日は3月25日。日本ハリストス正教会では先備聖体礼儀の作成者・ロマの「パパ」問答者聖グリゴリイ(鍵括弧原典ママ)と呼ばれる。
グレゴリウスはローマの貴族の家庭で生まれ、政治家としてのキャリアを積んでいたが、思うところがあって修道院に入り、590年に教皇に選ばれた。グレゴリウスは教皇に選ばれると精力的に教会改革に乗り出し、三章問題の解決をはかったり、カンタベリーのアウグスティヌスをイングランド宣教に派遣するなどした。グレゴリウスは西方だけでなく東方においても著名な存在であり、ローマ司教の域を出なかった教皇職の権威を高めることになった。
グレゴリウスは同時に(ヌルシアの)聖ベネディクトゥスの伝記を含む多くの著作を残したことで知られ、教皇として書いた多くの書簡が残されている。グレゴリオ聖歌の名は彼に由来しており、伝承では彼自身多くの聖歌を作曲したとされている。また、東方正教会でも大斎中の平日の奉神礼に用いられる先備聖体礼儀の祈祷文はグレゴリウス1世が編纂したものとされる。

●76代ウィタリアヌス(Vitalianus、生年不詳 - 672年1月27日)(在位657年7月30日 - 672年1月27日)。典礼規定に準拠するオルガンの使用を定めた最初の教皇として知られる。オルガンは宗教儀式の中で使われた。使用目的は会衆の聖歌の歌唱を指導するためだったと言われる。663年6月、ランゴバルド討伐のため南イタリアに遠征した東ローマ帝国皇帝コンスタンス2世とローマで会見する。668年3月26日、タルソスのテオドルスに第7代カンタベリー大司教として叙階を授ける。http://it.m.wikipedia.org/wiki/Papa_Vitaliano

Saint Peter's Basilica, Vatican City

●79代アガト(Agatho、577年 - 681年1月10日)は、第79代ローマ教皇(在位678年6月27 - 681年1月10日)。
シチリアの修道士から、教皇に選ばれる。東ローマ皇帝コンスタンティノス4世によって召集された第3コンスタンティノポリス公会議を支援し、キリスト単意論を攻撃。「単意」という用語を創始した第70代教皇ホノリウス1世を正式に異端宣告した。
これに先立ち、ミラノ、イングランド、ローマなどで教会会議を開催し、西方教会の強化を図り、3人の代表を派遣した。コンスタンティノス4世の東西教会一致政策を支持し、東西教会の信仰一致を主張し、公会議に書簡を送り、キリスト両性説を積極的に展開した。また、イングランドにおけるローマ教会儀式の執行を強化した。681年1月10日、103歳の長寿を以て死去。歴代のローマ教皇の中で最も長寿の人物だった。
聖人に列せされており、祝日は1月10日。
 
●96代レオ3世(Papa Leo III、750年? - 816年6月12日)は、ローマ教皇(在位:795年−816年)。
ローマの貧民階級の出身者であったが、聖職者の道を歩んで頭角を現してゆき、遂に795年にローマ教皇に就任。しかし貧民階級出身者であるレオ3世に対して反発する者も少なくなく、799年には暗殺者に襲われて危うかったところをかろうじて脱出してアルプスを越え、フランク王国のカール1世(大帝)のもとへ逃げ込んだ。カール1世の保護を受けてローマ教皇としてローマに戻った後、カール1世に受けた恩や東ローマ帝国庇護下にある東方教会と対抗するという経緯から800年12月のクリスマスの日、サン・ピエトロ大聖堂でのミサの最中、カール1世に西ローマ皇帝の帝冠を授けた。ここに、西ローマ帝国復活、そしていわゆる欧州の大実力者とローマ教皇の提携という、欧州の新たな歴史が花開くこととなったのである。カール1世に帝冠を授け、西欧に新たな歴史の扉を開いた教皇として、評価されている。 東ローマのビザンツ皇帝の権力から脱却し、ローマ教会の権力確立に努め、カール大帝の戴冠と同時に西ローマ帝国の再興を宣言し、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化の融合が図られ、その後の西ヨーロッパ文化の基礎になった。
 
●98代パスカリス1世(Paschal I、生年不詳 - 824年)は、第98代ローマ教皇(在位817年 − 824年)。
822年、教皇ハドリアヌス1世から再建の始まったサンタ・プラッセーデ教会を完成させた。 教会内に母テオドラの墓所としてサン・ゼノーネ礼拝堂を建設した。 教会のアプスのモザイクをビザンツ様式で製作しており、これは、この時代のローマのモザイクで最も重要なものの1つである。また、カタコンベの発掘に務め、膨大な数の殉教者の遺骨を移転したことで知られる。 サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会に聖女チェチリアの遺体を運び教会を再建したことも、その一つである。
 
●113代ステファヌス7世(Stephanus VII、生年不詳 - 897年8月)は第113代ローマ教皇(在位:896年 - 897年)。
教皇フォルモススに恨みを抱いていたため、896年、フォルモススの遺体を掘り起こして遺体に教皇の衣服を着させ模擬裁判をかけた後、祝福を与える指を切り落とした上で遺体を川に流した。このことに反発した民衆は暴動を起こし、ステファヌス7世を捕らえ殺害した。この前にも、882年に教皇ヨハネス8世が初の教皇暗殺によって命を落とすなど、当時の混乱ぶりが伺える。
Saint Peter's Basilica , Vatican City
 
●139代シルウェステル2世(Silvester II, 950年? - 1003年5月12日)は、フランス人初のローマ教皇(在位:999年 - 1003年)。本名オーリヤックのジェルベール(仏:Gerbert
d'Aurillac)、ラテン語名ゲルベルトゥス(Gerbertus)。千年紀をまたいだ教皇であり、数学者・天文学者として10世紀の西欧世界において傑出した人物である。生涯にわたって、古代ローマ時代の著作の写本を積極的に各地から収集。理性により感情と外界の障害を克服しようとするボエティウスの思想を実践。アラビア数字を西欧世界で用いた初期の人物。教育方法は理論のみならず実践を重視し、算術ないし幾何学ではアバクスを、天文では天球儀を用いた。音楽では一弦琴を利用して音階と和音の数学的観察を行った。修辞学では議論を戦わせ、また図式を用いて解説していた。金銭で聖職者の位階を取引するシモニアの禁止や、聖職者の独身制、近親者の登用の禁止などを推し進めた。
 
●149代教皇クレメンス2世Clemens II(1005-1047)在位は1046年12月25日-1047年10月9日。名はモールスレーベンのスイドガー。ザクセンのホルンブルク出身。バンベルクバイエルン地方の都市)の司教から教皇に即位。ハインリヒ3世に神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。墓はバンベルク聖堂の西側内陣にあり、アルプス山脈より北では唯一の教皇の墓。
 
●157代グレゴリウス7世(Gregorius VII,1020年? - 1085年5月25日)(在位:1073年 - 1085年)。本名はイルデブランド(Ildebrando)。聖職売買や聖職者の結婚を禁止するなど、グレゴリウス改革といわれる教会改革で成果をあげ、教皇権の向上に寄与。大司教などの高位聖職者を任命する権利=叙任権闘争で対立した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門し、1077年に謝罪させ(カノッサの屈辱)、聖職叙任権を教皇が保持するようになった。カトリック教会聖人であり、記念日は5月25日。教会刷新運動の中心だったベネディクト派のクリュニー修道院出身。
di Salerno
 
●159代ウルバヌス2世(Urbanus II, 1042年 - 1099年7月29日)は、11世紀のローマ教皇(在位:1088年 - 1099年)。本名ラゲリウスのオド(Odo Lageriae)またはウード・ド・シャティヨン(Eudes de Chatillon)。グレゴリウス7世によって引き立てられ、その遺志をついで教会改革を達成した。1095年、イスラム勢力の侵攻を受けていた東ローマ帝国の要請を受け、クレルモン宗教会議を招集し、第1回十字軍の派遣を呼びかけた。聖職売買の禁止、司祭の独身制の徹底、俗権からの叙任権の奪回(叙任権闘争)を教会改革の柱として強力に推進、実際に教会の綱紀粛正という目に見える成果を上げていた。
Saint Peter's Basilica , Vatican City
 
●176代インノケンティウス3世(Innocentius III、1161年 - 1216年7月16日)(在位:1198年 - 1216年)。ローマ教皇の権力を最高潮にした教皇「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である」。本名はロタリオ・ディ・コンティ(Lotario dei Conti)。教皇権全盛期時代の教皇で、西欧諸国の政治に介入した事で有名である。第4回十字軍を提唱する。しかし軍費が足りなかったために遠征ができず、キリスト教徒の町であるツァラを襲い占領して略奪を行なった。これに激怒した教皇は十字軍を全て破門したが、1204年に東ローマ帝国(コンスタンティノープル)は十字軍によって滅ぼされ、ラテン帝国が建国され、一時的にビザンツ帝国は滅亡した(半世紀後に東ローマ帝国は復興)。また少年十字軍の悲劇が起こったのも、この教皇の時代である。フランス王フィリップ2世とイギリスの失地王ジョンを破門。
 
●192代ケレスティヌス5世(Caelestinus V, 1210年頃 - 1296年5月19日)は、中世のローマ教皇(在位:1294年7月5日 - 12月13日)。修道士として有徳の人であったが、教皇空位の混乱を収拾するために政治的に一時的に「つなぎ役」の教皇として選出。しかし教皇の座を厭い、在位約半年で自ら退位した[1][2]。イタリアのイゼルニア出身、本名はピエトロ・ダ・モローネ(Pietro da Morone, モローネのピエトロ)である。
ケレスティヌス自身、不本意な形での教皇での擁立であり尚且つ政争の具として利用された格好でもあり、本人にとっては一種の災難であった[2]。在位数か月にしてケレスティヌス5世は、自ら「教皇の器にあらず」と述べて退位を希望し、教会法に詳しい教皇官房のベネデット・カエターニ枢機卿に相談した。カエターニ枢機卿は教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ケレスティヌスは自ら「教皇に選ばれた者は、選出を拒否する権利をもつ」という法令を出し、結局、半年たらずで教皇を退位した[1]。ここに存命のまま教皇が退任するという異例の事態が発生した。存命のままの教皇の退位としては、1415年、教会大分裂の際に3教皇鼎立の状態を解消するためアヴィニョンのベネディクトゥス13世とローマのグレゴリウス12世が退位した例がある。また、2013年2月のベネディクト16世の退位は、自由意志にもとづくものであり、ケレスティヌスから719年後のこととなる。
 
●196代ヨハネス22世(Ioannes XXII、1244年? - 1334年12月4日)は、アヴィニョン捕囚の時期のローマ教皇(在位1316年 - 1334年)。魔女を異端として扱うことを決めた。また、異なる思想の神学者を異端審問で次々と火あぶりに。
Saint Peter's Basilica , Vatican City
 
●193代。ボニファティウス8世(Bonifatius VIII 1235年ころ - 1303年10月11日)は、中世のローマ教皇(在位1294年 - 1303年)。中央集権化を進めるフランス王フィリップ4世と聖職者への課税問題で対立し、アナーニに幽閉され「憤死」。この後フランス王により教皇庁がフランスのアヴィニョンに移転させられ、以後7代にわたった教皇のバビロン捕囚が始まる。学術・文化の保護者としても知られる。一方、ダンテはフィレンツェ使節の1人として教皇に会ったが、帰途シエーナに滞在中、永久追放の判決を受け、亡命生活を余儀なくされた。ダンテの代表作『神曲』第1部(「地獄篇」)では、ボニファティウス8世は地獄に堕ちた教皇として、逆さまに生き埋めにされ、燃やされる姿が描かれている。
Saint Peter's Basilica , Vatican City
 
●214代アレクサンデル6世(Alexander VI, 1431年1月1日 - 1503年8月18日)は、15世紀のローマ教皇(在位:1492年 - 1503年)。
本名はロデリク・ランソル(Roderic Lanzol)であるが、母方の伯父であるカリストゥス3世の教皇就任に伴って、母方の苗字であるボルハ(ボルジャ、Borja)に変えたため、ロデリク・ボルハのイタリア語読みであるロドリーゴ・ボルジア(Rodrigo Borgia)[1]の名前で知られることになる。
ルネサンス期の世俗化した教皇の代表的存在であり、好色さ、強欲さやジロラモ・サヴォナローラとの対立によっても非難されることが多い。また、息子のチェーザレ・ボルジアを右腕とし、一族の繁栄とローマ教皇庁の軍事的自立に精力を注いだことで、イタリアを戦火に投じることになった。
アレクサンデル6世に関しては、史上最悪の教皇、カトリック教会の権威を失墜させた張本人という評価から、バランスのとれた政治家という評価まで様々な評価が行われている。生前から既に彼を悪魔に擬した絵が出回るなど、非常に長い間誹謗と中傷にさらされてきた。
Iglesia de Santiago y Montserrat, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
Plot: Chapel of San Diego de Alcala
 
●216代ユリウス2世(Julius II 1443年12月5日 - 1513年2月21日)は、16世紀初めのローマ教皇(在位:1503年 - 1513年)。本名はジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ。芸術を愛好し、多くの芸術家を支援したことでローマにルネサンス芸術の最盛期をもたらしたが、その治世において教皇領とイタリアから外国の影響を排除しようとした奮闘が、戦争好きの政治屋教皇というレッテルを彼にもたらすことになった。自らの栄誉や一族の繁栄よりも教会の権威と影響力を強力にすることに専心した。ブラマンテやラファエロ、ミケランジェロなどがユリウス2世の援助を受けて優れた創作活動をおこなった。特にミケランジェロにはシスティーナ礼拝堂の天井画製作を依頼(というか強要)している。また、ローマの補修・美化にもつとめ、サン・ピエトロ大聖堂の新築を決定し、1506年に定礎式を執り行ったのもユリウス2世であった。この様にユリウス2世は、ローマをルネサンスの中心地へと変貌させたのである。
Saint Peter's Basilica , Vatican City
 
●217代教皇レオ10世(Leo X 1475年12月11日 - 1521年12月1日)は、ルネサンス期のローマ教皇(在位:1513年 - 1521年)。本名はジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de Medici)。メディチ家出身で、派手好き、イベント好きの教皇のもと、ローマのルネサンス文化は最盛期を迎えた。ユリウス2世の死後、37歳で即位する(「最年少にして、最も醜男の教皇」と呼ばれた)。戦争好きであったユリウス2世とは対照的に、平和主義者として振る舞い、外交ではイタリアを巡るフランスと神聖ローマ帝国の対立の中にあって、父譲りの政治感覚を発揮した。前教皇に続きラファエロを贔屓にし、自らの肖像画やシスティーナ礼拝堂の壁掛け、バチカン宮殿回廊の天井画・壁画などを制作させた。ラファエロが若くして亡くなったときは非常に悲しんだ。サン・ピエトロ大聖堂の建築費を賄うために贖宥状を販売し、怒ったルターが九十五ヶ条で抗議、宗教改革のきっかけとなった。
 
●218代教皇ハドリアヌス6世(Hadrianus VI ,1459年3月2日 - 1523年9月14日)はオランダ出身、ヘールト・デ・フローテのつくった共同生活兄弟団のメンバーで神聖ローマ皇帝カール5世の個人教授という異色の経歴を持つローマ教皇(在位:1522年 - 1523年)。本名はアドリアン・フロリス(Adriaan Florenszoon)とされているが、フロレス・ボイエンス(Florenszoon Boeyens)などと書かれる事もあり、記録によって諸説ある。芸術への出費を削減するなどルネサンス期としては異色の教皇であった。教会改革を志していたが、治世が短すぎた為、果たされなかった。
1522年のニュルンベルクの帝国議会で教皇使節フランチェスコ・キエレガーティ枢機卿は、「教会の混乱の原因が教皇庁と高位聖職者の腐敗にある」事を率直に認め、「教会改革を推進する事を約束する」という教皇のメッセージを伝えた。このように教皇が自らの誤りを認めて公式に発言する例は史上稀有のものであり、現代のパウロ6世やヨハネ・パウロ2世に至るまで類例をみない。
 
●219代教皇クレメンス7世(Clemens VII 1478年[1]5月26日 - 1534年9月25日)は、ローマ教皇(在位:1523年 - 1534年)。メディチ家の出身で、本名はジュリオ・デ・メディチ(Giulio de' Medici)。2代前のレオ10世の従弟に当たる(パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児)。教皇・レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたが、教皇に即位した後は不安定な国際情勢に翻弄され、ローマ略奪の惨事を招く。宗教改革という事態に対しても何ら有効な手が打てず、メディチ家の権益擁護に終始した。芸術・文化のパトロンという面では、枢機卿時代にラファエロを引き立て、1520年に政敵であるマキャヴェッリに『フィレンツェ史』の執筆依頼をしている。後には天文学者コペルニクスの研究も支援した。晩年にはフィレンツェからミケランジェロを呼び寄せ、システィーナ礼拝堂の壁画の作成を依頼する(ミケランジェロは気が進まず、実際に「最後の審判」を手掛けたのはクレメンス7世死後の1536年から1541年である)。
在世中はイタリアを巡ってフランスと神聖ローマ帝国との戦闘が続き(イタリア戦争)、マルティン・ルターによる宗教改革運動もあって、不安定な状況であった。1527年、フランス王・フランソワ1世と同盟を結んだ教皇への報復として、神聖ローマ帝国皇帝カール5世の軍がローマに侵攻する。クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃れるが、市内では殺戮、破壊、略奪、強姦等の惨劇が繰り広げられた(サッコ・ディ・ローマ、ローマ略奪)。他の都市へ逃れる市民も多く、ルネサンスの中心であったローマは見る影もなく荒廃した。クレメンス7世が優柔不断だった面もあるが、むしろイタリア戦争、宗教改革、オスマン帝国のヨーロッパへの圧力と、カトリック教会史上最悪の状況であった事から、教皇個人の資質のみを責めるのは酷かもしれない。イタリアとヨーロッパが分裂し、混乱を重ねる時代だったのである。クレメンス7世はカール5世と和解し、カール5世に皇帝の戴冠を行う。これ以後もイタリアを巡ってフランスと神聖ローマ帝国の戦闘は続くものの、後者の優位がほぼ確定する。
なお、この間にメディチ家のアレッサンドロ(クレメンス7世の庶子)は教皇の後見のもとでフィレンツェを統治していた。1527年、ローマ略奪の報が伝わると一時追放されるが、1530年にカール5世の支援により復帰、1532年にはフィレンツェ公に叙任され、メディチ家は名実ともにフィレンツェの君主となった。晩年の1533年には、遠縁のカテリーナ・デ・メディチとフランス王子・アンリ(のちのアンリ2世)の結婚式に出席。離婚問題で紛糾していたイングランド王・ヘンリー8世とは対立を深めたが、その1年後の1534年9月25日に死去。時代の激しい荒波にもまれた「悲劇の教皇」であった。
 
●220代パウルス3世(Paulus III、1468年2月29日 - 1549年11月10日)(在位:1534年 - 1549年)。反宗教改革を主導した教皇。本名はアレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese)。イエズス会を認可し、プロテスタント側との対話を求め、教会改革を目指してトリエント公会議を召集した事で知られる。ルネサンスの文人でもあった教皇はミケランジェロの才能を高く評価し、システィーナ礼拝堂の最後の審判(1541年)を描かせた。また、カンピドリオ広場の整備、サン・ピエトロ大聖堂の建設にも従わせた。英国ヘンリ8世の離婚に反対し破門。その結果、イギリスにはカトリック教会とは異なるイギリス国教会が誕生。
※逝去の年にあたる1549年8月、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが宣教師として初めて日本に到来、以降1551年まで薩摩(鹿児島)、平戸(長崎)、山口、堺(大阪)、京都、豊後(大分)と各地を訪れ、積極的にキリスト教の布教を行っている。
Saint Peter's Basilica , Vatican City
 
●226代グレゴリウス13世(Gregorius XIII,1502年1月7日 - 1585年4月10日)は、第226代ローマ教皇(在位:1572年 - 1585年)。本名はウーゴ・ブオンコンパーニ(Ugo Buoncompagni)。学問を好み、奨励したことで知られ、その治世にずれが累積していたユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用したことでも有名。天正遣欧使節の少年たちは、この教皇の治世最晩年にあたる1585年3月に教皇の謁見し、ローマ市内でも大歓迎を受けた。
 
●227代シクストゥス5世(Sixtus V、1520年12月13日 - 1590年8月27日)は、16世紀後半のローマ教皇(在位:1585年 - 1590年)。本名はフェリーチェ・ペレッティ(Felice Peretti)。教皇領の治安回復、ローマ教皇庁の財政立て直しに辣腕をふるい、公共事業に惜しみなく投資して都市ローマを現代に近い形に整備した。批判も多いが、残した業績の大きさでは歴代教皇随一である。みずからの目標に対して全力で取り組んでおり、手をつけた事業のほとんどを完成している。歴史の中で彼ほどの有形無形の業績を残している教皇はいない。サン・ピエトロ大聖堂にはドーム屋根が乗せられ、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂にはシクストゥスのロッジアが、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂にはプレセペのチャペルが建てられ、クイリナーレ、ラテランおよびバチカンの教皇宮殿が改修され、サン・ピエトロ大聖堂広場などに四本のオベリスクが建てられ、六本の新街路が建設され、6世紀頃に破壊されていたローマ水道を復旧し(フェリクス水道の建設)、数知れぬ道路と橋が補修され、農業と工業が推奨された。
Santa Maria Maggiore, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
Plot: Blessed Sacrament/Sistine Chapel
 
●228代ウルバヌス7世(Papa Urbanus VII, 1521年8月4日 - 1590年9月27日)はローマ教皇(在位:1590年9月15日 - 9月27日)。僅か13日の在位期間は歴代教皇の中で最短。本名はジョヴァンニ・バッティスタ・カスターニャ(Giovanni Battista Castagna)。
ジェノヴァ出身の一族の出だが、本人はローマ生まれ。ボローニャの使節や ロッサーノの司教を経て、スペインでの教皇使節を長く務めた。シクストゥス5世の後継者としてスペイン系枢機卿達の後押しで1590年9月15日に教皇に選出された。が、2週間もたたずにマラリアのため病没。教皇着座式も行われておらず、在位の最短記録となった。
※祝福を授けるポーズの教皇ウルバヌス7世(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニとその生徒による1635年-1640年の作品、サン・ピエトロ大聖堂内の墓の彫像)
 
●235代教皇ウルバヌス8世 Pope. Urban VIII(1568-1644)
ガリレオ裁判の悪役だが、一方で学問と芸術の守護者。ベルニーニはウルバヌス8世の援助を受け、「聖テレジアの法悦」やサン・ピエトロ大聖堂の内装で能力を発揮できた。ペトロの墓の天蓋は教皇領の年間歳入の10倍の費用。「聖ペトロの司教座」は絵画・彫刻・建築の特質を融合した総合舞台芸術。サンマリノの独立を承認(1631)。
Saint Peter's Basilica , Vatican City
 
●242代インノケンティウス12世(Innocentius XII,1615年3月13日 - 1700年9月27日)はローマ教皇(在位:1691年 - 1700年)。本名はアントニウス・ピニャテッリ(Antonio Pignatelli)。清廉潔白な人柄で贅沢を嫌い、中世以来のカトリック教会の悪習であったネポティズム(親族登用主義)と聖職売買(シモニア)の根絶を目指した。彼は教皇が莫大な富を持つことと親族を大量に登用することが当たり前だった前任者達と自分を比べて「私の親戚は貧しさだよ」といっていた。彼の教皇在位中は、神聖ローマ帝国との関係でてんてこまいだった前任者達と違いフランスとの折衝に力をいれた点できわだっている。この徳に秀で自制心の強かった教皇は1700年9月27日にこの世を去った。
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●255代ピウス9世(Pius IX、1792年5月13日 - 1878年2月7日)は、カトリック教会の司祭、第255代ローマ教皇(在位:1846年6月16日 - 1878年2月7日)。本名はジョヴァンニ・マリア・マスタイ=フェレッティ(Giovanni Maria Mastai-Ferretti)。31年7ヶ月という最長の教皇在位記録を持ち、イタリア統一運動の中で、古代以来の教皇領を失い、第1バチカン公会議を召集し、『誤謬表』を発表して近代社会との決別を宣言。また、聖母マリアの無原罪の御宿りの教義を正式に制定した。カトリック教会の福者。ピオ9世と表記されることもある。
 
 
●256代レオ13世/近代化(Leo PP. XIII,1810年3月2日 - 1903年7月20日)はローマ教皇(在位:1878年2月20日-1903年7月20日)、カトリック教会の司祭。本名、ジョアッキノ・ヴィンチェンツォ・ペッチ(Gioacchino Vincenzo Pecci)。『誤謬表』(シラブス)の発表以来、完全に断絶していたカトリック教会と近代社会の相互理解を目指した。社会問題を扱った初の回勅『レールム・ノヴァールム』を発表したことで有名。19世紀のカトリック教会は近代思想と科学思想のすべてを否定することで自らのアイデンティティーを保持しようとしてきた。その頂点が1864年の『誤謬表』(シラブス)であり、近代社会とカトリック教会は相容れないという印象を世界に与えていた。レオ13世はこの状況を憂慮し、トマス・アクィナスの「理性と信仰の調和」という思想に解決を見出した。彼はトマスを示すことで、信仰と科学思想が共存しうることを訴えたのである。レオ13世はバチカン図書館の資料を一般に公開し、神学校の設立にも力を注いだ。また、フランス革命以来、共和制フランスをはじめて認めた教皇となった。業績でもっとも有名なものは初の社会回勅にしてカトリック社会教説(英語版)の先駆ともなった『レールム・ノヴァールム』を発表したことであった。労働問題を扱ったこの回勅に於いてレオ13世は労働者の権利を擁護し、搾取とゆきすぎた資本主義に警告を行いながらも、一方で台頭しつつあったマルクス主義や共産主義を批判している。レオ13世は25年という長きにわたって教皇の座にあり、1903年に93歳でこの世を去った。
 
30人●259代ピウス11世(Pius PP. XI、1857年5月31日-1939年2月10日)はローマ教皇(在位:1922年2月6日-1939年2月10日)、カトリック教会の司祭。本名 アキッレ・ラッティ(Achille Ratti)。二つの世界大戦のはざまの時期にあって、世界平和の実現に奔走し、19世紀以来とだえていた諸国と教会の関係正常化をはかった。ピオ11世とも表記される。ピウス11世はムッソリーニと交渉し、1929年2月11日ラテラノ条約が結ばれた。これはバチカンがイタリア政府を認め、同時にイタリア政府もバチカンを独立国として認めるというものであった。これによって「ローマの囚人」状態が解消され、世界最小の国家バチカン市国が成立した。それは同時に、かつてよりバチカンが求めていた広大な教皇領の返還をあきらめるというこ
ムッソリーニ政権下のイタリアとバチカンの関係は必ずしも良好ではなく、1931年には回勅『ノン・アビアモ・ビゾーニョ』(『我々は必要としない』)で公式にファシスト党を非難している[3]。1937年の回勅『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ(英語版)』(『とてつもない懸念とともに』)で、ナチスが人種・民族・国家を神格化していると非難し、その非人道的行動を非難
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●261代ヨハネ23世(ラテン語: Ioannes PP. XXIII、英語: John XXIII、1881年11月25日-1963年6月3日)はローマ教皇(在位:1958年10月28日-1963年6月3日)、カトリック教会の司祭。本名は、アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリ(Angelo Giuseppe Roncalli)。第2バチカン公会議の実施を指示して世界を驚かせ、実際に開会までこぎつけたが、会期途中で世を去った。エキュメニズム(教会一致)の精神に従って、他教会や他宗教との対話に積極的であった。カトリック教会の聖人である。ヨハネス23世とも表記される。15世紀に対立教皇ヨハネス23世が存在することにも注意すること。飾らない態度と親しみやすさ、ユーモアのセンスによって世界を魅了した。
2013年7月5日、バチカンはヨハネ・パウロ2世と共にヨハネ23世を列聖することを発表[1]、翌2014年4月27日に教皇フランシスコによって列聖式が執り行われた[2]。
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●263代ヨハネ・パウロ1世(羅: Ioannes Paulus PP. I、伊: Giovanni Paolo I、1912年10月17日 - 1978年9月28日)はローマ教皇(在位: 1978年8月26日 - 1978年9月28日)、カトリック教会の司祭。教皇名として初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を採用。宗教事業協会の改革を表明した一方、在位わずか33日の急逝には暗殺説が根強い。
複合名を初めて採用したことを皮切りに、虚飾的な事柄に対して非常に改革的に臨み、例えば、教皇演説の中で、これまでの教皇が伝統的に自らを「朕」と呼んでいたのを初めて「私」に変えた他、豪華な教皇戴冠式や教皇冠も拒否した。教皇用の輿の使用も拒否したが、これは周囲の圧力で使わざるを得なかった。さらに、難解な宗教用語やラテン語を多用していた表現を、ジュール・ヴェルヌやピノキオなどを引用した、一般人にも理解しやすい平坦な表現へと改めたが、「威厳を損なう」などとして保守派からは反感を買うこととなった。また、中南米やアフリカ諸国の聖職者をバチカンの要職につけた他、中南米やアフリカ諸国の貧困や独裁体制下で苦悩する民衆への同情を示し、アルゼンチンで行われていた「汚い戦争」を進めていたホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領(上記の「ロッジP2」は同大統領を支援していた」)が戴冠式に訪れた際には、直接的な表現でアルゼンチンの現状を非難した。
就任後間もなくバチカン銀行の不透明な財政についての改革を表明し、実際に、かつてカトーリカ・デル・ベーネト銀行の売却で暗闘し、その後も「ロッジP2」のリーチオ・ジェッリ代表を含むメンバーや、マフィアなどと深い関係を持ち汚職を続けていただけでなく、贋造公債の発注がFBIの捜査対象になるなど、その言動が国際的にも問題視されていたマルチンクス総裁の更迭を決めていた。また、マルチンクス総裁以外にも、ジャン=マリー・ヴィヨ国務長官をはじめとするバチカン銀行の汚職に関係するバチカン内部の関係者の更迭を死去直前に決定し、その更迭者リストの内容をめぐって様々な噂が流れていた。
上記のような改革を表明したことが、多くのバチカン内の改革派と信者からの支持と喝采(そして対象者とその利害関係者からの抵抗と非難)を受けたにも関わらず、ヨハネ・パウロ1世は、教皇在位わずか33日目の1978年9月28日の午前4時45分にバチカン内の自室で遺体となって発見された。わずか33日の教皇在位は、20世紀に入ってから最短の在位記録となった。ヨハネ・パウロ1世の遺体が発見されてから15分と経たず、医師団への連絡も行われていない午前5時前には、早くもバチカン御用達の葬儀社であるシニョラッティ社に連絡が行った上に、遺体解剖も行われず、明確な死因もわからないうちから防腐処理が行われたことなど、バチカンによる「証拠隠滅」や「情報操作」と思われる行為が矢継ぎ早に行われたことが、信者やイタリア政界関係者、マスコミだけでなく、バチカン内部関係者からも大きな疑惑を呼んだ。
 
●264代ヨハネ・パウロ2世(羅:Ioannes Paulus PP. II、英:John Paul II、伊:Giovanni Paolo II、波:Jan Pawe? II、1920年5月18日 - 2005年4月2日)は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ラテン語表記に基づきヨハネス・パウルス2世とも表記される。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Jozef Wojty?a)。ハドリアヌス6世(オランダ出身、在位:1522年 - 1523年)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラヴ系教皇。同時に20世紀中最年少で着座した教皇でもある。神学と哲学の2つの博士号を持っていた。世界平和と戦争反対への呼びかけと、呼びかけだけにとどまらない数々の平和行動を実践し、母国ポーランドを初めとする民主化活動の精神的支柱としての役割も果たした。生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行い、また、宗教間の問題に温和な態度で臨み、他宗教や文化との対話を呼びかけたことは宗教の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、多くの信者・宗教関係者から尊敬されている。
1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世はサンピエトロ広場にて、トルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャに銃撃された。銃弾は2発命中し、ヨハネ・パウロ2世は重傷を負ったが、奇跡的に内臓の損傷を免れ、一命を取り留めた。2005年4月8日に行われた葬儀は、参加人数において史上最大規模のものとなった。
ヨハネ・パウロ2世の他宗教との対話推進という姿勢を評価して、キリスト教他派(英国聖公会、東方正教会など)やユダヤ教などの聖職者も多数参列した。カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズも参列したが、これはヘンリー8世によるイングランド国教会創設以来、はじめてのことであった。一般信者も約30万人参列した他、サン・ピエトロ広場に入れなかった信者や一般市民は約200万人にも及び、ローマ市当局は彼らのために大型のディスプレイを路上に設置して葬儀の様子を実況中継する措置を取った。また、参列者によって満室になる宿が続出し、ローマ市当局は野宿する参列者のためにテントを無料で貸し出すなどの緊急措置を取った。葬儀後、ヨハネ・パウロ2世の遺体を納めた石棺はサン・ピエトロ大聖堂の地下にある墓地のヨハネ23世の石棺(ただし2000年の列福の際に取り出されて現在は大聖堂入口を入り右側に埋葬されている)の下の土中に埋葬された。一部の報道によればヨハネ・パウロ2世自身は生前に書いた遺書で、故郷での葬儀と埋葬を希望していたともいわれており、バチカンに埋葬した教皇庁の判断に異議を申し立てる声もあった。
『人間ひとりひとりと諸国の民の母マリアよ、私達をおびやかす悪の力に打ち勝てるようお助け下さい。
現代人の心にこれほど容易に根ざしてしまう悪、そのもたらす計り知れないもろもろの結果によって、すでに現代の人々のいのちを危険にさらし、未来への道を閉ざそうとしている悪から私達をお救い下さい。
飢餓と戦争、核戦争、計り知れない自己破壊、あらゆる戦争より、主よ、私達をお救い下さい。
あがないと救いの無限の力、神の慈愛の力が世界の歴史において、再び発揮されますように。
神の慈愛が悪をおしとどめ、人間の良心を正し、あなたの汚れなきみ心によって、希望の光が全ての人々に示されますように。』
●266代フランシスコ(羅: Franciscus、伊: Francesco、西: Francisco、英: Francis、1936年12月17日 - )は、第266代ローマ教皇(在位:2013年3月13日 - )。就任[注 1]は3月19日であり、この日にサン・ピエトロ広場において就任ミサを執り行った[1][2]。
2014年6月聖体の祝日に先立ちフランシスコはイタリアのカラブリア州を訪れ、ミサを執り行い会衆を前に「マフィアは聖体拝領にあずかることはできない。彼らを破門する」と宣言した。ミサで教皇は「主への崇敬がカネへの崇敬に変わるとき、それは罪と個人的な利益と権力への道へと人を導く」マフィアの行動を非難した。そして「希望を奪われないようにしましょう」と会衆に呼びかけた。同州は犯罪組織ンドランゲタ(Ndrangheta)の拠点であり、同年1月には3歳の子どもが、3月にはプッリャ州で3歳の子どもがマフィアに殺される事件が起きて教皇は犠牲者の遺族に面会し慰めの言葉をかける一方で、マフィアのような反社会的勢力の組織犯罪から社会が決別するように呼びかけていた。

聖ペテロ(初代)、レオ1世(大法王)、グレゴリウス7世(カノッサの屈辱)、グレゴリウス13世(太陽暦)、ユリウス2世(ミケランジェロ援助)、レオ10世(ラファエロ援助)、レオ13世(近代化)、ヨハネ・パウロ2世(平和外交)。
 
 


〔歴代ローマ皇帝詳細〕

●初代ローマ皇帝アウグストゥス(ガイウス・オクタウィアヌス) Augustus 前63〜後14 帝政ローマ初代皇帝。在位、前27〜後14年。ほぼ1世紀にわたった内乱後のローマに、統一と秩序ある政治を復活させた。平和と繁栄と文化隆盛の時代、いわゆる「アウグストゥスの平和」をもたらした。カエサルの姉の孫にあたりカエサルの養子。カエサルの部下アントニウスとアントニウスを支持する将軍レピドゥスの3人で三頭政治を成立させ、政敵の元老院議員300人(キケロなど)と、騎士身分の200人の大量粛清を行った。やがてイタリア支配をめぐって衝突し、レピドゥスは失脚。アントニウスはエジプトの女王クレオパトラと結婚し、彼女がカエサルとの間にもうけた息子カエサリオンを、彼女の共同統治者として承認。オクタウィアヌスはアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの連合軍をやぶり、翌年ふたりを自殺に追い込み、カエサリオンは殺害された。前29年、オクタウィアヌスは34歳でローマ世界の単独支配者になり、前27年、ローマの元老院は、オクタウィアヌスに「崇高なる者」という意味の称号「アウグストゥス」をあたえた。元老院が属州総督命令権を授与したので、帝国全土にわたる支配権を獲得し、大神祇(じんぎ)官長にも就任し、ローマの宗教をつかさどる権利も獲得。さらにインペラトル(尊厳者・最高司令官※インペラトルから「エンペラー」という語が派生)であったにもかかわらず、アウグストゥスは独裁君主と思われないようにつねに注意し、自分がローマ共和国を復興させていることを強調した。芸術の擁護者でもあった彼は、歴史家リウィウスをはじめ、詩人のオウィディウス、ホラティウス、ウェルギリウスらと親しくまじわった。壮麗な建築をこのみ、「レンガのローマをうけついで、大理石のローマにした」と自負したといわれている。アウグストゥスのもとで体制整備のため、さまざまの施策が講じられた。属州の人口調査をおこなって徴税の基礎をかためるとともに、各属州のローマ化をすすめて、都市の自治を拡大。共和政以来の悪習を排するため奢侈(しゃし)取締法、姦通(かんつう)処罰法など種々の法が定められ、社会秩序の安定と道徳の確立がはかられた。また、彼はイタリア農業の復活をこころみてもいる。意図した後継者は次々に先だち、アウグストゥスが後14年8月19日南イタリアのノラで他界。血縁者の中から取った養子に次々に先立たれ、結果的に妻の連れ子ティベリウスが消去法で残って後をついだ。タキトゥスのような頑固な共和制支持者でさえ、彼の統治者としての業績をみとめている。
 
●2代ティベリウス(古典ラテン語:Tiberius Julius Caesar、紀元前42年11月16日 - 紀元後37年3月16日)は、ローマ帝国の第2代皇帝(在位:紀元14年 - 37年)。初代皇帝アウグストゥスの養子(妻の連れ子)。イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝である。イエスの言葉である「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」の「カエサル」とは、ティベリウスのことである。放って置けば際限なく拡大する国家財政を、増税することなく健全に保とうとしたために、皇帝主催の戦車競技会を中止する等の財政引き締め政策を断行した。そのためローマ市民、元老院の人気は低かった。人材登用に卓越した手腕を発揮し、身分出身地の分け隔てなく能力に応じて適材適所に登用。ティベリウスは嫁や側近に裏切られたこともあり疑心暗鬼を強め、治世終盤は恐怖政治に。だが歴史家モムゼンは「ローマがもった最良の皇帝の一人」と賞賛。
 
●3代カリグラ(古典ラテン語: Gaius Julius Caesar Augustus Germanicus)12年8月31日 - 41年1月24日)は第3代ローマ帝国皇帝(在位:37年 - 41年)。アウグストゥスの姉を祖母とするゲルマニクスと、アウグストゥスの実孫である大アグリッピナの間に生まれた男子であり、父母双方を通じてアウグストゥスと血縁がある。カリグラ(カリギュラ)の名で知られているが、個人名からガイウス帝とも呼ばれる。「カリグラ」は幼少の頃に履いていた小さな軍靴に由来する愛称である。壮大な建設事業と領土の拡大に力を注いだ。また最高権力者としての威信を高めることに努め、彼を打ち倒そうと繰り返される陰謀から自身の地位を懸命に守りつづけたが、誇大妄想と暴君に走り、元老院も関与した陰謀により、41年にプラエトリアニ(皇帝親衛隊)の一部将校らによって妻、娘とともに暗殺された。享年28。その治世を通じてローマ市民からは人気が高かったが、現存する後代の史料ではいずれも、カリグラは狂気じみた独裁者であり、残忍で浪費癖や性的倒錯の持ち主であったとしている。次代の皇帝クラウディウスの甥、その次の皇帝ネロの伯父にもあたる。カリグラの父ゲルマニクスは、ユリウス・クラウディウス朝の家系に属する著名な人物で、ローマ帝国で最も重用された将軍の一人として尊敬をかちえていた。
 
●4代クラウディウス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus, 紀元前10年8月1日 - 54年10月13日)。アントニウスの孫であり、アウグストゥスの妻リウィアの孫にあたる。第2代皇帝ティベリウスの弟大ドルススの息子でゲルマニクスの弟。第3代皇帝カリグラや最後の妻となる小アグリッピナの叔父に当たる。生来病弱で、吃音や片足を引きずる。歴史家としての側面を持つ。カリグラが暗殺されると、プラエトリアニ(皇帝親衛隊=1000人)に担がれる形で皇帝に就任。以降、軍事力がローマ皇帝を決定する最初の例となった。即位すると同時に、先帝カリグラが崩壊させたローマの財政を建て直した。軍事的にはブリタンニア(英国)南部の征服に成功。毒キノコによって暗殺?実子ブリタンニクスも養子としたネロに殺された。
 
●5代ネロ(羅: Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus、37年12月15日 - 68年6月9日)。在位54〜68年。コンスル(執政官)グナエウスと、アウグストゥスの曽孫アグリッピナ(小)の子。49年、アグリッピナは自分の叔父にあたる皇帝クラウディウス1世と結婚し、翌年、息子ネロを養子にさせた(前名はルキウス)。クラウディウス帝はネロを娘のオクタウィアと結婚させ、実子のブリタニクスより年長のネロを優先して後継者にさだめた。帝が没すると、アグリッピナの手先の親衛隊が17歳のネロを皇帝と宣言した。治世の最初の5年間は哲学者セネカの指導に従い穏健な政治。ブリタニクスを毒殺。愛人のポッパエアと母アグリッピナが衝突し、母親を殺害。オクタウィアを離縁しポッパエアと再婚した。その後、オクタウィア、セネカを殺害し、64年7月、ローマ市の大半が焼失する火事が起きると、当時まだ少数派だったキリスト教徒に罪をかぶせ、彼らを迫害。一方、家をうしなった人々に避難所をあたえ、火災の予防も考慮にいれて市街を再建した。芸術家を自任し宗教劇の俳優のようにふるまい、軍隊や貴族から愛想をつかされた。戦争は敗戦が続き、アルメニアはパルティアの支配下におかれ、ブリタニアとユダヤでも、反乱がおきた。ポッパエアを蹴り殺し、スタティリアと結婚、彼女の元夫は処刑された。68年、ガリアとヒスパニア(スペイン)の部隊が、親衛隊とともに蜂起し、ネロはローマ市をのがれたが、元老院によって「国家の敵」と宣告され、同年6月、ローマ近郊で「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われることか」と言い自殺した(喉を剣で貫くも自分では死にきれず奴隷に切らせた)。ネロが多くの帝位後継者を殺したため、ネロの死とともに、カエサル直系のローマ皇帝は断絶した。ユリウス・クラウディウス朝は5代94年の歴史に幕を下ろし、断絶。以後、軍が武力を背景に皇帝を擁立するようになり、ローマ内戦に突入することとなる。
※当時のローマ市内は木造建築がメインだったが、大火以降にネロが建築したドムス・アウレア(黄金宮殿)は、ローマン・コンクリートの普及に一役買っている。また、ネロがローマの大火以降行った貨幣改鋳は、その後150年間も受け継がれた。ただし、この大火もネロ自身が裏で暗躍し、自分好みの街を作りたかったという望みから起こされたとも言われている。一方で数千人に及ぶ観衆を集めコンサート(ワンマンショー)を開くのが趣味だった。詩の独唱会は出入り口に人員を配置して客が逃げられないようにしたが、あまりの退屈さに逃げる者が続出。部下や親族の美男・美女を皇帝の権限で搾取をするなど、国家元首の振る舞いとしては明らかに問題だった。スポルスという美少年を去勢させ妻に迎え歴代の皇后の装身具で着飾らせた。謀反を企てた者も、ネロの政治姿勢、政策より、このような振る舞いこそが皇帝にふさわしくないとしていた。
※人類史上初めてキリスト教徒を迫害し、初代ローマ教皇・ペテロはネロの迫害下で逆さ十字架(ペテロがイエスと同じでは恐れ多いと逆十字を望んだ)にかけられ殉教したとされる。ヘブライ文字を数値化した「666」はネロを指す。
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(Basilica di Santa Maria del Popolo)に皇帝ネロを埋葬するドミティアヌス家の墓(Mausoleo dei Domizi Enobarbi)
 
?●6代ガルバ(Servius Sulpicius Galba, 紀元前3年12月24日 - 69年1月15日)はローマ帝国の皇帝である。在位は68年から死亡した69年まで。「四皇帝の年」の最初の皇帝である。タキトゥスはその『年代記』にて、「もしガルバが皇帝にならなければ、万人はガルバが皇帝に値すると述べたであろう」と評している。
Via Aurelia, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
Plot: Private tomb.
 
●12代ネルウァ(ラテン語: Marcus Cocceius Nerva Caesar Augustus[1] 35年11月8日 - 98年1月27日。五賢帝の1番目。後継ぎがおらず腹心トラヤヌスを王朝の後継者とした。以降、トラヤヌスの親族により帝位は継承されていった為、新王朝成立の重要な契機を与えた存在でありながら歴代君主と血縁関係にないという特異な立場を持つ事になった。即位から15ヶ月後にネルウァ帝は病没し、トラヤヌスが義理の息子として帝位を継承した。歴代君主から崇敬される王朝の祖であった。
 
●13代トラヤヌス Marcus Ulpius Trajanus 53頃〜117 ローマ皇帝。在位98〜117年。五賢帝の2番目で、その治世中にローマ帝国の領土は最大となった。
文武の両面で辣腕を揮い、帝国内の公共施設の強化と領土の拡大に成功した。特に対外面ではダキア(ルーマニア)・パルティア(イラク・イラン)で功績をあげ、ローマ帝国史上最大の版図を現出した。イタリカ(現スペイン)で生まれる。並はずれて有能な将軍として名をあげ、91年にコンスル(執政官)にえらばれた。97年には、共同統治者および後継者として、ネルウァ帝の養子にむかえられた。即位時に兵士たちに贈り物をあたえ、ローマをはじめイタリア諸都市でまずしい自由民の子たちの養育費を支給するなど、ネルウァ帝の慈善事業をひきついだ。トラヤヌスは治世の大半を戦場ですごしたにもかかわらず、内政にも細心の注意をはらい行政改革をおこなった。新しい道や運河、橋がつくられ、アッピア街道も修復された。一方、3ヶ月間にわたって大規模な剣闘技大会をコロッセウムで開催して民衆の歓心を買おうとした。500万人の観客を動員したこの競技によって、1万1000名の奴隷が殺害されたと伝えられる。96年のネルウァからはじまり、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスとつづく時代(96〜180)は、ローマ帝国の黄金期となり、五賢帝時代とよばれる。トラヤヌスは同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝であり、後世の君主たちからも讃えられた。
Trajan's Forum, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy
Plot: Ashes interred in a chamber in the base of the column.
アウグストゥス霊廟がネルウァの埋葬で満席になってしまったため、トラヤヌスの遺体はトラヤヌスの記念柱の基部に埋葬された。
 
【Publius Aelius Hadrianus】
 
●14代ハドリアヌス Publius Aelius Hadrianus (76-138)ローマ皇帝。五賢帝の3番目。トラヤヌスの養子。領土拡大路線を変更し、辺境の属州を放棄、英国に「ハドリアヌスの防壁」を築く。教養人で詩人や思想家、学者が集まった。パンテオンや自分の霊廟=サンタンジェロ城など壮大な建造物を建てた。ちなみに初めて髭を生やしたローマ皇帝。
ハドリアヌス霊廟…サンタンジェロ城自体が墓。カラカラまでの歴代皇帝(14〜21代)が永眠。
●15代アントニヌス・ピウス Antoninus Titus:慈悲深きアントニヌス(86-161)20年以上の治世で軍事遠征はゼロ。最も平穏を維持した証。解放奴隷への道を大きく開き、市民への拷問を制限した。
●16代マルクス・アウレリウス Marcus Aurelius Antoninus(121-180)五賢帝の最後の皇帝。ピウスの養子。学校、孤児院、病院を建設するなど公共福祉に尽力。帝室財産を売却し、飢えや疫病対策に当てた。貧者のために減税し、刑罰を軽くし、奴隷の待遇を改善。同時に辺境防衛にも力を注ぐ。「自省録」に道徳的生活が平静を導くと記した。唯一のミスは、12代ネルウァから有能な人物を養子にして後継者に指定してきたのに、無能な実子コンモドゥスを後継者に指定したこと。これで五賢帝時代は終わった。 
●20代セプティミウス・セウェルス Lucius Septimius Severus(146-211)初のアフリカ人皇帝。セウェルス朝の創始者。ローマ中心の姿勢を改める体制刷新を進め、ローマ出身者の親衛隊を解散して属州出身者を登用した。
●21代カラカラ Caracalla(188-217)ケルト人の長いコート(カラカラ)をローマに持ち込み流行させた。ローマ史上に残る暴君の一人。歴史家ギボンはカラカラを「人類共通の敵」とまで痛罵。東方属州はカラカラの略奪・虐殺の対象となり、エジプトでは無抵抗の民衆2万名以上が殺戮された。メソポタミア遠征中、立ちション中に暗殺され絶命。
 
●14代ハドリアヌス Publius Aelius Hadrianus (76-138) ローマ皇帝。在位117〜138年。五賢帝の3番目。伯父のトラヤヌス帝とともにドナウ国境周辺の戦闘に参加して殊勲をあげ、数回コンスルに指名された。117年、トラヤヌスが死去すると、その養子になり後継者に指名されたハドリアヌスを軍が皇帝におし、のちには元老院も承認した。当時、ローマ帝国はたび重なる支配下民族の反乱と辺境民族の侵入におびやかされていた。整理統合によって国をかためる必要があると判断したハドリアヌスは、辺境の属州を放棄することにきめ、イギリスにのこる有名な「ハドリアヌスの防壁(長城)」など一連の防御要塞を築く。これによって、ローマ帝国の領土拡大はおわったとされる。ローマの属州をほとんどたずねてまわり、地方の政治・軍事・経済をととのえるとともに、ローマへの忠誠をかためさせた。すぐれた教養人だったハドリアヌスの周りには、詩人や思想家、学者があつまった。建築にも深い興味をしめし、ローマ市内に、アテネウム、ウェヌスとローマの神殿、パンテオン、自分の大規模な霊廟であるサンタンジェロ城など、壮大な建造物をたてたほか、アテネにも多くの建物を建設した。ローマ皇帝のなかで初めて髭を生やした皇帝。
※「ハドリアヌスの長城」…全長117km、高さ約6m、幅約2.4m。途中に17の城塞と約1.5kmごとに20名の守備兵がまもる小要塞がもうけられていた。カーライル市北東のグリーンヘッドからソウイングシールズの間に良い遺構。
ハドリアヌス霊廟…サンタンジェロ城自体がハドリアヌス帝の墓。完成は次の皇帝アントニヌス・ピウス治下。以後、カラカラまでの歴代皇帝がここに永眠。
 
●15代アントニヌス・ピウス(ラテン語: Titus Fulvius Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pius[1][2]、86年9月19日 - 161年3月7日)。妻の甥であるマルクス・アウレリウスと娘の小ファウスティナを結婚させた上でアウレリウスを後継者とし、娘と甥の間に生まれた孫コンモドゥスにまで3代に亘る家族間での帝位継承の基盤を作った。「アントニヌス・ピウス」(Antoninus Pius、慈悲深きアントニヌス)の名で知られるが、これは先帝ハドリアヌスが元老院から憎まれていたにもかかわらず、神として祭るように奔走したことが美談として受け取られたことに由来。『ローマ皇帝群像』はハドリアヌス帝によって処刑されることになっていた人々を救ったためであると主張している。
アントニヌス帝の20年以上に亘る治世で大規模な軍事遠征が行われた記録は一切残っておらず、軍に対する命令や記録も僅かである。現代における古代ローマ史の研究誌『The Journal of Roman Studies』は「23年の治世においてアントニヌス帝は軍団に対して命令や指揮はおろか、根拠地の500マイル以内に近付いた経験すらなかった」と評している[20]。同時にそれは彼の治世が前期帝政(プリンキパトゥス)の中で最も平穏を維持した証でもある。法改革によって奴隷の市民権獲得に関する必要条件が緩和され、狭き門であった解放奴隷への道が大きく開かれた。また衛兵によって拘束された人間をまず罪人である事を前提に扱う慣習を廃止し、容疑者と罪人の立場を明確に分離した。取調べにおける拷問の使用についても新たな制度を設け、14歳以下の市民権保持者に対する拷問は特例を除いて違法とした。遺灰はハドリアヌス廟に葬られた。
 
●16代マルクス・アウレリウス Marcus Aurelius Antoninus 121〜180。在位161〜180年。五賢帝の最後の皇帝で、ストア学派の哲学者でもあった。ピウスの養子にむかえられ、145年にその娘と結婚、161年に即位した。在位中は、北方と東方辺境の防衛に力をそそぎ、166年にパルティア人のシリア侵入を撃退したが、ゲルマン諸族が北イタリアへ攻めいり、ローマ軍はふたたび戦闘をよぎなくされた。公共福祉に心をくだき、国内に蔓延した飢えや、パルティア戦線からローマ軍がもちかえった疫病のために、帝室財産を売却した。180年3月17日、北方辺境の陣中、ウィンドボナ(現ウィーン)で疫病のため志をはたせずに死去した。才能に欠ける実子コンモドゥスを帝位後継者に指定したため、統治に有能な人物を養子縁組によって後継皇帝に指定することで成立していた五賢帝時代は、終わりをつげた。内政においては、学校や孤児院、病院を建設し、減税などまずしい者に配慮した。法律を整備し、刑罰を軽くし、奴隷の待遇を改善した。哲学者としては、道徳的訓戒をギリシャ語であらわした12章におよぶ断片録「自省録」によって知られる。ストア派哲学の貴重な公式化であるこの著作では、道徳的生活が平静をみちびくという彼の信念が表明され、知識、正義、不屈の精神、節制といった美徳が強調されている。
 
●20代セプティミウス・セウェルス Lucius Septimius Severus 146〜211 在位193〜211年。193〜235年までつづいたセウェルス朝の創始者で、はじめてのアフリカ人皇帝。北アフリカのレプティス・マグナの騎士身分の家系に生まれる。ペルティナクス帝が暗殺されたため、軍団によって皇帝に推挙、帝位を僭称したライバルを次々とたおして197年に支配権を確立した。さらに東方遠征にのりだし、メソポタミアをふたたび属州化した。208年から家族とともにブリタニア(イギリス)に遠征中、エブラクム(現ヨーク)で病死した。即位の際、従来ローマ出身者で占められていた親衛隊を解散して属州出身者を登用し、さらに元老院の権限を制限して代わりに騎士身分を重用するなど、従来のローマ中心的な姿勢をあらためる体制の刷新化をおしすすめた。また、権力基盤が軍隊にあることを認識していたので、とくに軍隊を重視し、現役兵士の結婚をみとめ、給与を増額するなどの優遇策をとり、このために経済の統制化もすすんだ。彼の妻ユリア・ドムナはシリアの都市エメサの太陽神の神官の娘であり、これはのちにセウェルス朝における太陽神崇拝導入をもたらすこととなった。
 
●21代カラカラ Caracalla 188〜217 ローマ皇帝。在位211〜217年。カラカラとよばれるケルト人が着ていた長いコートをローマにもちこみ、流行させたことからつけられた。ローマ史上に残る暴君の一人。歴史家エドワード・ギボンはカラカラの治世を「人類共通の敵」とまで痛罵。横暴を一身に受けたのは殆どが東方属州の諸都市・諸地域であり、カラカラの残りの治世はこれらの地域に対する略奪と虐殺に費やされた。
ガリアのルグドゥヌム(現リヨン)で生まれる。弟のゲタとともに共同皇帝になったが、やがてゲタを殺して支持者数万人を粛清し単独支配者となった。東方属州最大の都市アレクサンドリアでは、カラカラが実の弟を殺害した事を正当防衛だと主張した事を揶揄する詩が流行した。この噂を聞きつけたカラカラ帝はアレクサンドリアへと赴き、民衆の誤解を解く場を持ちたいと提案した。民衆は感心して皇帝の弁明を聞く為に集まったが、カラカラは集まった無抵抗の民衆を兵士に命じて虐殺させた。集会に集まった民衆を殺し尽くしただけでは満足せず、数日間にわたってアレクサンドリア市内を徹底的に破壊して2万名以上の民衆を殺戮した。相続税の増収をはかるために、帝国内のすべての自由民にローマ市民権をあたえたが、このためローマの優位がくずれ、市民権をつかった属州への支配がゆらぎはじめた。遠征を盛んにおこない、メソポタミア外征中、道端で放尿している所を近衛兵に後ろから刺されて絶命した。公共の大浴場(カラカラ浴場)を建設。
 
 
 
●23代ヘリオガバルスHeliogabalus(ラテン語: Marcus Aurelius Antoninus Augustus、203年3月20日 - 222年3月11日)。ローマ史上最悪の君主。わずか14歳で皇帝に即位。シリア出身。ローマ入城の際、人びとは新皇帝の出で立ちをみて驚愕した。少年皇帝は女装していたからである。退廃的な性生活に耽溺し、しかもその性癖は倒錯的で常軌を逸したものであった。巫女を無理やり手込めにしたり、美しい人妻は夫を処刑して手に入れた。皇帝は全裸で廷臣や警護兵を甘い声で誘い、男娼として売春する一方、金髪の奴隷ヒエロクレスに対しては「妻」として従っていた]。厚化粧して妻になりきり、しかも、「ふしだらな女」と噂されるのを好んで、他の男性とも肉体関係を結んだ。これを知ったヒエロクレスは「妻」である皇帝の不貞をなじり、罵倒し、しばしば殴打におよんだ。そして、皇帝は、殴られて自分の眼の周りがどす黒く腫れ上がったことを悦んだという。客人に薔薇の山を落として窒息死させるのを楽しんだ。シリアの太陽神エル・ガバルを古代ローマの多神教における最高神に位置づけた。最期は反乱軍に捕らえられ、遺体は激昂した市民たちによって切り刻まれたうえテヴェレ川に捨てられた。享年18。「ヘリオガバルスは全ての点においてローマ史上最悪の皇帝」(エドワード・ギボン) 
“遺体をテヴェレ川に投げ込まれる際、埋葬されるどんな可能性も失くす為に、浮かんでこないように重石をつけられた。元老院からも民衆からも兵士からも愛されなかった男は、埋葬される価値さえなかった”。
 
●25代マクシミヌス・トラクスMaximinus Thrax(ラテン語: Gaius Julius Verus Maximinus、 173年頃 - 238年5月10日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:235年 - 238年)であり、最初の軍人皇帝として知られる。トラキア(トルコ・ブルガリア)出身であったため、マクシミヌス・トラクス (Maximinus Thrax、トラクスは「トラキア人」の意)として知られる。また、マクシミヌス1世とも呼ばれる。マクシミヌスは生粋の軍人であり、北方民族(ゴート族など)討伐で目覚しい戦果を挙げた。軍隊への給与を倍額としたが、これは増税を招き、徴税人が暴力や不正な手段で税を取り立てることにつながり、ローマの支配層との不和を招いた。その粗野な書簡などから元老院の憎悪を買い破滅した。
Body lost or destroyed
マクシミヌス・トラクスはアクレイアの包囲戦時に暗殺され、首は切り落とされローマへ。体はそのまま犬や鳥が漁るに委せたらしく墓は無さそう(汗)。ちなみに身長240cm!ラオウか!
 
●クラウディウス・ゴティクス(ラテン語: Marcus Aurelius Claudius Gothicus、213年/214年5月10日 - 270年1月)は、ローマ帝国の皇帝(在位:268年 - 270年)。クラウディウス2世とも。軍人皇帝の一人。三世紀の危機にあったローマにおいて、優れた業績を残す。ローマ市民には人気を博し、神として祀られた。その統治は比較的堅実であり、たびたび北方民族の襲来を破った。弟にクィンティッルスがいる。
 
●アウレリアヌス(ラテン語: Lucius Domitius Aurelianus, 214年9月9日 - 275年9月または10月)は、軍人皇帝時代のローマ皇帝(在位270年 - 275年)である。当時3つに分裂していたローマ帝国を統一した。元老院から「"Restitutor Orbis" (世界の修復者)」の称号を得た。
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コンスタンティヌス1世(大帝)Constantinus I, Flavius Valerius(274-337)キリスト教に改宗した最初のローマ皇帝。東西の帝国を再統一し、専制君主制を発展。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を建設。教会は手あつい財政援助をうけた。最初はローマの太陽神の信奉者だった。
ユリアヌスFlavius Claudius Julianus(331-363)最後の「異教徒皇帝」。古代ギリシャ・ローマの神々への崇拝を復活させた。背教者ユリアヌス。ペルシャ軍と戦い戦死。
テオドシウス1世(大帝)Theodosius I(347-395)統一ローマ帝国を統治した最後の皇帝。スペイン出身。没後、2人の息子がローマ帝国を東西に分割した。
 
●コンスタンティヌス1世 Constantinus I, Flavius Valerius 274?〜337 ローマ皇帝。在位306〜310年副帝、310ころ〜337年正帝。帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と称される。キリスト教に改宗した最初のローマ皇帝。1453年まで東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都であったコンスタンティノープル(現イスタンブール)を建設した。現セルビア出身。父コンスタンティウス1世はディオクレティアヌスの譲位によって、305年に東方のガレリウスとともに西方の正帝となった。コンスタンティヌスは東方で戦功をあげたあと、306年にブリタニアで父と合流した。兵士に人気があり、父がその年の末に死ぬと、部下から正帝に推挙された。しかし、東方正帝ガレリウスは副帝としかみとめず、西方正帝にセウェルス、ついで308年にはリキニウスをおいたため、コンスタンティヌスは310年にみずから正帝を名のった。
父帝や3世紀の皇帝たちと同じく、コンスタンティヌスも最初はローマの太陽神の信奉者だった。しかし、311年にガレリウスが死んだあとローマを実質的に支配していたマクセンティウスとの312年の戦いの前夜、キリストが夢にあらわれ、兵士の甲冑にキリストの頭文字をしるすようつげたという。翌日には、太陽に十字が重なり、中空に「この十字によりてなんじは勝利せん」というラテン文字がうかぶのをみたと、伝記作者はつたえている。ローマ近郊のミルウィウス橋の戦闘でマクセンティウスをやぶり、元老院はローマの解放者として勝者コンスタンティヌスをむかえ、今日にのこる凱旋門をたてた。コンスタンティヌスは、キリスト教の神を勝利をもたらすものとして信仰するようになった。キリスト教徒への迫害はおわり、ミラノで会した共同皇帝リキニウスも同調して、いわゆるミラノ勅令(313)が発布され、ローマ帝国でキリスト教が公認されることになった。教会は法的な権利をあたえられ、手あつい財政援助をうけた。やがて東西を統一して単独の皇帝となったコンスタンティヌスは、行政改革に着手。軍隊を再編成し、ディオクレティアヌスをひきついで民政と軍政の分離を完成させた。中央政府はコンスタンティヌスと側近からなる枢密顧問会議によって運営された。3世紀に力をうしなった元老院を復権させた。
 
●ユリアヌス Flavius Claudius Julianus 331頃〜363。在位361〜363年。最後の「異教徒皇帝」。コンスタンティヌス1世によるキリスト教の公認後に、ギリシャ・ローマ神への信仰を復興させようとつとめた。コンスタンティヌス1世の甥で、キリスト教徒としてそだったが、のちにその信仰をすてたため、キリスト教世界では「背教者ユリアヌス」とよばれる。355年、従兄のコンスタンティウス2世から副帝の称号をあたえられ、ガリア駐留ローマ軍の将軍に任じられた。その後3年にわたって戦役に従軍し、ガリアに侵入していたアレマン族やフランク族を、ライン川の対岸へおしもどした。360年、配下の部隊がパリでユリアヌスを皇帝に宣した。361年にコンスタンティウス帝が没したため、かろうじて内戦は回避され、ユリアヌスはコンスタンティノープルに入城した。翌年アンティオキアへ侵攻し、古代ギリシャ・ローマの神々への崇拝を復活させた。363年6月、メソポタミアでのペルシャ軍との戦闘中に戦死し、その短い治世をとじた。
 
●テオドシウス1世 Theodosius I 347〜395 ローマ皇帝。在位379〜395年。統一ローマ帝国を統治した最後の皇帝で、大帝とよばれる。スペイン出身。西ゴート族との戦いで、東の正帝ウァレンスが戦死したときに、西の正帝グラティアヌスから東方の統治者に指名され、翌年帝位についた。383年、グラティアヌス帝が殺されると、帝位簒奪者マクシムスを西方の皇帝とみとめたが、イタリアはグラティアヌス帝の合法的な継承者であるウァレンティニアヌス2世がひきつづきおさめることとした。388年、イタリアに侵入したマクシムスをやぶって殺害すると、ウァレンティニアヌスを西の正帝に復位させた。テオドシウスはカトリックの強力な擁護者だった。古代ローマ多神教の礼拝をみとめなかった。390年にギリシャのテッサロニキで反乱をおこした市民7000人の虐殺を命じたことから、ミラノ司教アンブロシウスに破門され、それを解いてもらうために、おおやけに懺悔しなければならなかった。392年、軍司令官アルボガストがウァレンティニアヌス帝を殺害し、かわりに傀儡皇帝エウゲニウスをすえた。テオドシウスはふたたびイタリアに進攻し、394年9月に、アルボガストとエウゲニウスを撃破、その後の4カ月間、帝国の西と東を統治した。ミラノでテオドシウスが死去すると、2人の息子がローマ帝国を東西に分割し、アルカディウス帝が東ローマ帝国、ホノリウス帝が西ローマ帝国の皇帝になった。






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※墓地の具体的な場所はマップにすべて掲載済み。



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