世界巡礼烈風伝(第63回)
《アルゼンチン編》


    
     この人に会いに行く…嗚呼!渋すぎッス!ピアソラさん!!(T_T)

〜タンゴの革命児、アストル・ピアソラ!〜その1


いきなり余談から始まるけど、今回の巡礼先となったアルゼンチンは僕のペンネームと関わりが深い…。かつて日曜夜の名作アニメ劇場で『母をたずねて三千里』なる作品が放映されていた。これはイタリアからアルゼンチンに出稼ぎに出て消息が途絶えたおっかさんを探す為に、9才の少年がはるばる海を越えて南米の地へやって来るというハードな物語だ。彼の旅は悪党に騙されたり、有り金をすられたり、ようやく会えると思ったら既にそこにはいなかったりの繰り返しで、かなりトホホなものだった。だが窮地に陥る度に人の心の深い温かさに触れ、最終回で彼は“僕の旅は素晴らしかった!”と叫ぶに至る。
この少年の名はマルコ・ロッシ。1996年、自作世界巡礼烈風伝シリーズの原点版ともいうべき『墓をたずねて三千里』を発表する際に、このマルコ少年の名を敬意を込めてミドルネームに冠させてもらった。

ちなみにカジポンは本名の音読、残月は朝9時頃、とっくに自分の出番が終わってるのに白月がウジウジと空に残ってるあの往生際の悪さ、未練がましさ、その上自分で輝けず他者(太陽)に照らしてもらってる情けない姿、そーゆーのが全て愛しくて付けた名前だ。僕は昔からカッコ悪いのが大好きなんだ。だから太宰や啄木、ビートルズの歌詞は大のお気に入り。カッコ悪いって、何てカッコ良いんだろう!
それに希少価値もある。子供の頃、青空に残月を見つけた時に“おっ、残月発見!”って少しトクした気分にならなかった?太陽の影で何の役にも立たぬ存在となっても、ちょっぴり人を喜ばせることの出来る残月に憧れてたんだ。とっても。

とまあ、脱線はこれくらいにして本題の墓巡礼へ。

●悟りの世界へ〜フライト30時間


熱き魂を持った情熱的芸術家を多数輩出している南米大陸。そこに墓がある限り地の果てまで這っていく巡礼ターミネーターを自称する僕だが、南米は日本列島からあまりに遠く簡単には行けないので、これまでずっと羨望の地だった。
今回の巡礼行脚のメインはチリの音楽家ビクトル・ハラと、アルゼンチンのネオ・タンゴ創造主アストル・ピアソラ。広大な南米大陸の中でも、アルゼンチンは地理学上日本の真裏にあたり究極の遠さなのだ。

大阪からアルゼンチンへ。
これは三蔵法師が長安からガンダーラ(現パキスタン)まで旅した3500キロの約6倍、20000キロという途方もない距離になる。
2001年3月21日19時。その南米大陸を目指して、僕は関空から夕闇の中へフライトした。
“つ、ついに僕もマルコと同様、念願のアルゼンチンを訪れるのだ!”
気持はいやが上にも高まった。

しかし、地球の裏側まで無着陸で飛ぶなんてB52長距離戦略爆撃機でもない限りインポッシブル。僕はまず関空からアメリカ中南部のダラスへ12時間かけて飛んだ。ダラスはケネディが暗殺された街として一般に知られているが、世界のコアな墓マイラー間では映画『俺たちに明日はない』のモデルになった実在のアウトロー、ボニー&クライドの墓で断然有名だ。
僕はものすごくソソられたが、3時間後のマイアミ行きに乗り継がねばならんかったので、今回は涙を呑んでこらえた。

時差で言うと日本から過去に遡っているので、ダラスからフライトする際に再び3月21日の夕陽を拝んだ。そして3時間近く東南へ飛びマイアミへ。そしてマイアミから、ようやくアルゼンチンの首都ブエノスアイレスへの直行便に乗り込んだ。ラストバトルは9時間のフライトだった。離陸した時点で僕の腰はすでに鋼鉄の硬さになっていた。

この最後のフライトでは、隣席の54歳の白人米国男性がいきなり
「アナタノナマエハナンデスカー?ワタシハ“ジム”デス!」
と聞いてきておったまげた。この紳士は2年間横浜で働いていた親日家で、9時間の間ずっとノンストップで話し掛けてきた。しかも後ろの席には大阪のJAZZバー『ブルーノート』に長く出演していたというミュージシャンたち。彼らもカタコトの日本語を話した(しかも大阪弁)。アルゼンチンはスペイン語圏。そこでは英語すらほとんど通じぬというのに、日本から一番遠い上空で大阪弁が飛び交うこの異国情緒のなさは何なのだろうと、クラッときた。

マイアミを飛び立ってすぐにキューバの上空を通過する。しかもゲバラの眠るサンタクララ周辺。深夜で殆ど明かりはなかったが、3ヶ月前にホセ&カルロスと疾走した土地が眼下にあった。あの時は“2度とキューバなんて拝めないだろう”と思っていたのに、今また彼らの国土を見つめている人生の不思議。カルロスは相変わらず調子こいて観光客に“特製シガレット”を売りつけてるのだろうか。※烈風伝ゲバラ編参照

結局、各空港でのフライト待ち時間を含めると約30時間の行程になった。時差のため3、4時間ごとに機内食が配られており、僕の体重は一夜にして3キロも増加した。2度の夜を体験してるにもかかわらず、カレンダー上では一夜しか経ってないなんて、時差って訳わからん。

憧れのアルゼンチンには昼前に到着。
「おお太陽の大地、ラテンアメリカ!」
と叫ぶつもりで飛行機のタラップから降りた僕の目に映ったものは、暴風雨の真っ只中、悪天候の極致のブエノスアイレスだった。ギョヘーッ。
南米アルゼンチンは雨期だったのだ。

とりあえず市内の宿にチェックインし身軽になってから、街角で折りたたみ傘を買った。だが、突風のせいで2分後には骨が半分折れてしまう。
「おんどりゃ〜!なんで30時間かけてズブ濡れにならにゃならんのだ〜!」
と怒りに任せて傘をうち捨て、そのままヤケクソになって濡れネズミ状態でブエノス最大の観光局(旅行案内所)に足を運んだ。むろん、ピアソラの墓情報を収集するためだ。

僕が水もしたたる何とやらになってまで巡礼しようとしている、タンゴ奏者ピアソラとは何者か?何がそこまで人を虜にするのか?読者諸君、次号を待たれよ!


(第64回)


『立ち止まることは精神の腐敗を招く』(アストル・ピアソラ)


とにかく僕はピアソラのような音楽を今まで聴いたことがない。通常、美しいものは心を和ませるものだが、彼の生み出す美は、常に聴き手に緊張を要求する。この上もなくロマンチックな旋律が続いた後に、突然ダムが決壊したかのように不協和音が襲いかかって来る。それはとてつもなく凶暴なリズムだったりする。我々はスピーカーの前でめった打ちにされたり、天使の羽が目前に広がるのを目撃したりと、それはまるでジェットコースターに乗っているようなのだ。

アストル・ピアソラは1921年3月11日、アルゼンチンで生まれた。幼少のある日、ピアソラは父からタンゴの花形楽器バンドネオンをプレゼントされる。彼はすぐにその深みのある音色の虜になった。
バンドネオンは外観こそアコーディオンと似ているが、鍵盤の代わりに71個のボタンが左右バラバラに並んでおり、非常に指運びが難しい。しかも蛇腹を開く時と閉じる時で、同じボタンを押していても違う音が出るという複雑さ。アコーディオンなら指1本で出せる和音が、バンドネオンでは両手の8本を阿修羅の如く使わねばならない。
このように両者の奏法の難易度は比較にならない。ピアソラはこう語る、

  ギュイ〜ン!

『バンドネオンは複雑で非常に難しい。きっと正気では習えないだろうな』

それでもこの楽器にタンゴ演奏者がこだわるのは、アコーディオンと違って音を短く切った鋭いスタッカート演奏が可能で、ドラマチックな緊張感を曲に与えることが出来るからだ。陰のある抑えた音色が、人間の情念を表現するタンゴに向いていた。隣国ブラジルの外交的なサンバと違い、内向的な悲しい調べがタンゴの特徴だった。

ピアソラは18才頃からプロの音楽家を目指し始め、様々なタンゴ楽団に参加しては腕を磨いた。そして25才で自身の楽団を結成する。33才の時には、自らの内的音楽世界をさらに充実させるべく、本格的にクラシックの作曲方法を学ぶためフランスへ渡っている。

『私が30代半ばの頃、国内でタンゴの衰退が始まった。ロックが登場したからだ。若者にはタンゴがつまらなかったんだ。そして40才を過ぎた時、タンゴは終わった。もちろん、原因はビートルズの出現だ』

『実際、タンゴは古い曲を繰り返すだけで退屈だった。タンゴは50年近く演奏スタイルが何も変わっていなかったんだ。革命が必要だった』

欧州渡航の翌年、帰国した彼はそれまでただの踊りの伴奏音楽と考えられていたタンゴ音楽を、充分“鑑賞するに値する”音楽にすべく自ら作曲や編曲を手がけ始めた。リズムが複雑に変化し、メロディーラインの起伏が極端に激しい破天荒な曲。これの意味するところはつまり…誰も踊れないということだ。ピアソラの頭にダンサーの存在はなかった!

『独自のタンゴを始めた時、私は周囲の猛反発を買った。他のタンゴ関係者全員との闘いが始まったんだ。あれは本当にひどい状況だった。私だけでなく息子や娘まで脅かされた。通りで殴られたこともあった。私がタンゴを変えたからだ。音楽家なのに音楽だけでなく、護身術も学ばねばならなかったんだ。教訓を言おう。音楽を変えようとする時はボクシングや空手を身につけておくべきだ』

パリから帰国してエレキギターを加えた八重奏団で革命的演奏を披露したものの、たちまち「タンゴの破壊者」「頭が狂っている」「あんなものはタンゴではない」と非難ごうごうの嵐が巻き起こった。
皆に叩かれて四面楚歌に陥った彼は、37才の時にニューヨークに落ち延びる。米国での生活は経済的にとても苦しく、父親が死んでも飛んで帰る旅費すらない辛い日々だった。訃報を聞いた彼は何日も自室に閉じこもり、ただ泣きながらピアノに向った。やがて扉を開けて出てきた時、彼の手には楽譜が握られていた。
それが父への鎮魂歌であり、彼の代表曲となった『アディオス・ノニーノ』(さようなら、お祖父さん)だった。本来なら祖父ではなく父なのだが、ピアソラの子供たちがすごくお祖父ちゃん子だったので、曲名を“ノニーノ”にしたのだ。

1959年、NYのナイトクラブで懸命に働いたお金で帰国を果たす。
40才間近になった翌年、彼はコンサート会場でタンゴ音楽を鳴り響かせるべくアストル・ピアソラ五重奏団を結成。以後70才で倒れるまで約30年間この5人スタイルを基本に様々な編成のユニットを組み、同時にジャズメンとの共演や、クラシック&映画音楽の作曲など、幅広くジャンルを超えて精力的に活動した。

『実験音楽に近い「インスピラシオン」が初演された夜、この曲の演奏が始まった途端に踊っていたカップルの動きが止まった。ある人たちはステージの周りに集まって最後まで聴き入り、残りの連中はきびすを返すと会場から出ていった。あれは、音楽を聴きに来ている人も少なからず存在していることが証明された、実に感動的な瞬間だった』

ピアソラは1990年欧州を巡業中に脳溢血で倒れ、2年後の1992年7月5日、ブエノスアイレスで71年の波乱に満ちた生涯を閉じた。

彼の音楽が世界的ブームになったのは死後4年を経た1996年。クラシック界から楽曲の再評価が始まり、一斉にCDが出回った。日本ではチェリストのヨー・ヨー・マがサントリーのCMでピアソラの名曲“リベルタンゴ”を弾いてから、一気にブームとなったのは記憶に新しい。

記録によると、彼は日本に計4回来日し、何度もコンサートをしていたという。グヌヌ、何たる不覚!もし今生きて来日していたら、GLAYの30万人ライヴなど前座も同然、300万人ライヴになっていたのに〜!

膨大な数のピアソラ作品からの僕のおすすめ曲BEST10は以下の通り。これらの曲が入っているアルバムを選ぼう。すべて彼自身の演奏でCDになっている(輸入版を含め)。

1.天使のミロンガ…彼の作った作品中、最も美しいバラード。この世のものとは思えん天上のメロディー。ミロンガは人名ではなくリズムのことで、テンポは全然違うけど、天使のワルツ、天使のボレロ、そういった感じのもんです。
2.リベルタンゴ…この曲は血沸き肉踊る名演が多いが、何と言っても『Live In Wien(1983)』に収録されてるものがズバ抜けてすごい。それはもう、鬼気迫って怖いくらいだ!
3.ブエノスアイレスの冬…しぶい、実にしぶい。ラスト15秒で絶対泣く!
4.アディオス・ノニーノ…父親への鎮魂歌。非常にドラマチック。
5.天使の復活…曲の流れの緩急、メリハリが見事としか言いようがない。
6.ブエノスアイレスの夏…深い精神性を感じさせる素晴らしい名曲。
7.AA印の悲しみ…まるで1本の映画を観たような錯覚になる、人生のエッセンスがギュッと詰まった曲。AA印とはバンドネオンの名器に入っている刻印のこと。
8.南へ帰ろう…ピアソラが作曲した歌。重いメロディーがカッコ良い。
9.天使の死…七色に変化するリズムの妙を楽しめる。高度な演奏技術に圧倒されるだろう。
10.バンドネオン協奏曲…第2楽章のひなびた感じが、縁側で昆布茶というたたずまいで何ともたまらない。

★ピアソラのDVDは『プレイズ・ザ・タンゴ』『ライブ1984』で迷うところ。前者は天使のミロンガ、天使の死&復活、アディオス・ノニーノ、ブエノスアイレスの夏が入っている。後者は天使の死&復活、アディオス・ノニーノ、AA印の悲しみが入っている。どちらもピアソラ本人が演奏している姿を見られるし、音質も良い!CDで最も名曲を網羅しているのは『アストル・ピアソラの輝かしき軌跡』。なんてったって、ミロンガ、リベルタンゴ、アディオス・ノニーノ、ブエノスアイレスの夏、天使の復活が全部入ってる。これは鼻血モノだ!

(第65回)

ピアソラはアルゼンチンの国民的英雄だから楽勝と思いきや、その墓参までの苦闘ヒストリーは、出発前、日本にいた時から始まっていた。

今回のアルゼンチンのように滅多に行けない場所を訪れる時は、いつも必ず正確な墓地名、そこまでの交通機関などを徹底的に事前調査した上で出発している。っていうか、売れない文芸研究家の僕には信憑性の疑わしい情報で海外まで足を延ばすリスクを負う余裕はない!
で、ピアソラの墓情報をひとつでも多くゲットする為に、ピアソラの研究本、インターネット、CDの解説書他、あらゆる方法で手がかりを探し求めた。

特に最新情報が手に入りやすいネットに関しては、海外のサイトを含め数日間に渡ってひたすら検索を繰り返した。…と・こ・ろ・が。
いくらネットサーフィンしても誰一人墓の話題に触れていないのだ!信じられなかった。まるでCIAのサイバーチームに情報封鎖されているようだった。
検索の過程で2人のアルゼンチン人とメル友になったが、彼らもピアソラの墓の場所など聞いたことがないという。

今まで世界中の誰も墓参してないんじゃないかと思うほど情報が枯渇していたので、“実はピアソラもプレスリーのようにまだ生きてるんじゃないのか?”とか思い始めた頃、幾冊か刊行されてるピアソラ研究本の中から、《ブエノス郊外のピラールに埋葬》と一冊に記されてるのを発見!本を持ったまま、ふるふると歓喜にむせんだ。

とはいえ、ただ一冊の情報ではあまりに心もとない。すぐさまピラールという地名の詳細を調べ始めた。しかし、いくらピアソラと組合わせて検索しても表示は『該当情報なし』。結局、具体的な墓地名も分からず、ピラールの正確な場所も分からぬ以上、直接アルゼンチンに乗り込んで調査するしかないということになった。

前々回に書いたように、到着初日のブエノスアイレスは暴風雨。僕はボロ雑巾の如くヨレヨレのズクズクになりつつ、市内の中央旅行案内所に足を運んだ。20代半ばの女性職員が応対に出た。
「あの…郊外のピラールにピアソラの墓があると聞いたのですが…」
「あら、彼のお墓はそんな郊外にあるの?」
僕に聞き返してどうするんだ〜!ど〜して政府の旅行案内所のあんたが知らないの〜!?
彼女いわく、
「今まで誰もピアソラの墓地を尋ねた人はいないのよ」

途方に暮れガックリと案内所を出ようとしたその時、郵便配達のおばさんが入って来た。先程の女性職員がスペイン語で何やらやり取りしていたが、どうやら僕のことを話しているようだった。そして“あなたはとてもラッキーよ”と目を丸くしながらこちらへ歩いて来た。
「あのおばさんはピラールに昔住んでいたんですって!それで、ピアソラの墓はハルディン・デ・パスという墓地にある可能性が高いそうよ」
いやはやキワドイとこだった!もう少し早く案内所を出ていたら、丸一日かけても墓地の名前が分からなかったかもしれない。くわばらくわばら。

この時点で14時。
墓地は通常17時までなので、郊外に行くには時間的に厳しかった。で、ピアソラの墓には明朝向かうことにして、この日は市内の墓地を周ることにした。地下鉄網がとても充実していたので、ガンガン駆使して以下の3人を巡礼した。

●エビータ(1919〜1952)…レコレータ墓地
ミュージカルで御馴染みのエビータことエヴァ・ペロン。彼女は田舎の貧しい私生児から大統領夫人になったその劇的な人生で有名だ。彼女は女性の選挙権を確立させたり、軍人出身のダンナ(大統領)に労働者優遇政策をとらせたりと、国民からは絶大な人気を博したが、白血病のため33才の若さで亡くなった。
レコレータ墓地は上流階級専用で、世界一美しい墓地と言われている。通常のように個人別に墓が並んでいるのではなく、ファミリー別に石造りの“宮殿”が建てられ(高さ5m以上とか、内壁がステンドグラスになってるのも多い)、その内部に個人の棺がズラリと収められていた。金持ちの対抗意識で(笑)、どの墓宮殿も外観の彫刻はとても美しく、ホント、墓地というより美術館に近かった。
エビータの墓には様々な労働組合から贈られた彼女を称えるプレートがはめ込まれていた。権力者の墓でこんなプレートがくっついてるのはエビータだけかも。墓前は世界中の観光客でゴッタ返していた。(映画『エビータ』にはチェ・ゲバラと踊るシーンがる。あそこは良かった!)

●サン・マルティン将軍(1778〜1850)…大聖堂
日本での知名度はゼロだが、この人は南米で一番の有名人だ。彼はスペイン軍人でありながら、南米の(スペインからの)独立運動に共鳴し、34才で解放軍を指揮してアルゼンチンの独立を成功させたんだ。その後も、チリ、ペルーの独立の為に各地でスペイン軍を打ち倒して見事に独立を成就させ、南米の英雄となった。南米を旅する者はどんな小さな町を訪れても「サン・マルティン通り」や「サン・マルティン公園」とかちあう。
現在、ブエノスの中心部にある大聖堂には彼の棺が収められており、棺の側では2人の衛兵が身じろぎせずじっと立っていた。(アルゼンチンでは彼の命日を休日にしている)

●カルロス・ガルデル(1887〜1935)…チャカリータ墓地
世界最初のタンゴ歌手。『喉に涙を持つ男』『ガルデルの前にガルデルなく、ガルデルの後にガルデルなし』とまで言われている。僕もCDを手に入れて聴いてみたが、力強い男性的な声質でありながら、同時に涙を溜めたように震えるあの声は、確かに一度耳にすると忘れられない。
1917年、彼が30才の時に歌った“我が悲しみの夜”が、それまで音楽のみだったタンゴに歌をのせた第一号となった。そのカリスマ的人気は、かのクラーク・ゲーブルが「俺もガルデルくらい歌が上手くて人気があれば…」と思わず漏らしたほど。
彼は作詞作曲にも素晴らしい才能を持ち、数々の名曲を残している(映画“セント・オブ・ウーマン”でA・パチーノが踊っている曲もそう)。47才の円熟期に飛行機事故で逝ったことが、ますますガルデルを伝説化した。彼の墓には銅像が建ち、死後70年近く経った今もたくさんの花束に囲まれていた。
ここで皆さんにぜひ伝えたいエピソードがある。僕が、“墓を見ただけでこんなに人々から愛されてるのが分かるのは
あまりないな〜”と感心していると、一台の乗用車がやって来た。乗っていたのは60才位の白髪のじいさん。墓の手前で車から降りたかと思うと、一輪のカーネーションをガルデル像の足元に置き、しばしその顔を見つめた後、再び走り去った。この間、約1分。あまりに粋な光景に僕は固まってしまった。あのじいさんにとっては、明らかに日常の1ページになってるように見えた。なるほど、こういう人たちの存在がいまだに墓に温かさを感じさせているのだと納得させられた。
墓巡礼15年目にして、すごく良いものを見た。

宿に戻ったのは19時。明朝の決戦に備え20時に床に入った。30時間のフライトの後、さらに半日動き回っていたので横になるなり体のヒューズがぶっとんだ。

P.S.この原稿を書く為に色々調べてるうちに、ガルデルのお墓の正面ボタンを押すと歌声と曲が流れる仕掛が付いてたことが判明!ドヒャーッ、ボタンなんか気付かんかった!ウググ、これは何としても押しに行かねば…。


(第66回)

翌朝!
宿の朝食はバイキング形式だったので、これはしめしめとビニール袋に昼食用のパンやバナナをしこたま詰め込む。

さて、郊外のピラールへ向う為に、まずイタリア広場というバスターミナルに行った訳だが、ここでえらい苦労をした。昨日57番のバスに乗れと教えてもらったのだが、やってくるのは全然違う路線のバスばっかり。その一方、“ピラール・エクスプレス”という直行便が15分間隔で目の前を通過していた。
「ムキキーッ!」
直行便は車体が立派で急行料金も高そうだったので利用をためらっていたが、そのうちシビレを切らして乗ることにした。チケット代を聞くと全部で2ペソ(1ペソ=1ドル)。ホッ。

バスが発車する前に一応ハルディン・デ・パス墓地の近くを通ることを尋ねてみた。すると運ちゃんはスペイン語で何か懸命に説明し始め、それが「スィー(イエス)」と言ったり「ノー」と言ったりハッキリしない。僕はチンプンカンプンだったが、彼の困惑した目とその語調からこう推測した…このバスは確かにピラールに行くが、ピラールはとても広く墓地はコースから離れている、だが別路線のピラール・エクスプレスは墓地に行くぞ、と。
僕はそのバスから降り、次の便を待った。新しく到着したピラール行きのバスでもドライバーと同じやり取りになった。さらに次のバスを待つ。今度は大当たりだった。運ちゃんは親指をグッと突きたて、白い歯を見せ一言「スィー!」。た、助かった。
今思い返しても、どうやって現地の人は同じピラール行きなのにルートの違いを見分けてたのか分からない。とにかく、運ちゃんだけでなく乗客を含め誰一人英語が通じないので大変だった。

乗車後、ネクスト・バトルが始まった。運ちゃんに墓地が近づいたら教えてくれるよう頼んでおいたが、彼がうっかりしてた場合に備えて、自分で外の風景を秒単位でチェックする必要があった(今までの経験上、後で地獄を見ないためにこの作業は絶対に不可欠だ)。
事前情報ではピラールはブエノスの“郊外”とあった。“郊外”という言葉から、僕は20〜30分後の到着を予想していた。

しかし!1時間経ってもバスは走っていた。そのうち通路を挟んで3つ手前に座ってたおばさんが、こちらを振り向いて心配そうにハラハラしているのが分かった。彼女は僕と目が合うと前方を指差した。僕は事態を一瞬で把握し運転席へ走った。

運ちゃんは小さく「オゥ!」と声を出した。やっぱり忘れていたよ〜。
でも幸いまだ通過はしてなかったようで、30秒ほど走ってバスを路肩に寄せた。彼はここで降りろと言ったが、僕はあせった。そこはバス停でもなんでもなく、車が100キロ出してビュンビュン走ってる6車線の幹線道路の端っこだったからだ!
「の、の、のわ〜っ!」
運ちゃんは前方に陸橋が架かってるのを指差し、
「あれを渡って反対車線をどんどんまっすぐ歩いて行け」
みたいなことを言っていた(ような気がした)。

降りる時に、満席の車内から心配そうな視線が僕に降り注いだので、皆を心配させないよう、これ以上はないという満面の笑顔で
「セメタリオン(お墓)、ピアソラ、タンゴ、ムイ・フェリース(メチャ幸せ)!」
と、バンドネオンを弾くポーズで皆にトボケてみせた。車内がドッとなった。そうそう、ラテンの国なんだから、皆そうでなくちゃ!

とはいえ、猛烈な排ガスをあげて走り去るバスを見送る僕の心は、この先どうなっちゃうんだろうという、下駄箱に恋文を入れた乙女のような不安感で一杯だった。墓地は敷地が広いから遠目にもそれとなく分かるはずなのに、視界には墓の“ハの字”も見えなかったからだ。
運ちゃんに教えられた通り反対車線に渡り、歩道がないので車線の一番端をずっと歩き続けた。それはもう恐ろしいの何の!身体の真横を大型ダンプやタンクローリーが猛スピードで疾走するのだ。ラテンのトラック野郎たちはクラクションを遥か彼方から鳴らしまくるので、それがまた怖かった。
「ヒーッ!ほ、ほ、ほんとにこの道であってるのかな」
震えながら歩くこと20分。ついに墓地のゲートが見えた。僕は狂喜乱舞しつつ、管理人室を目指してダッシュした。

苦労してやっては来たが、ピアソラ関係のネットを検索してもハルディン・デ・パスなんて言葉は一度も登場しなかったし、ここに来たのは、研究本にあった『ピラールの墓地』という文と、昨日の郵便配達のおばさんが偶然この墓地の名前を知っていたという2点だけの理由だ。ここでピアソラを墓参したという確実な情報にはついに出会えなかった。そのままあくまでも“ここであって欲しい”という希望的観測だけで這って来たのだ。

祈るような気持で管理人室の扉をノックした。レスラーの天龍と顔がそっくりの中年女性が座っていた。
「え〜と、ピアソラね…彼の墓は区画4の3の16にあるわ」
僕はマジで両手をあげて『わーい、わーい!』と管理人の前でチビッコのようにピョンピョン跳ねまくった…!
ピアソラを訪ねてここまで来た日本人は初めてとのこと。“天龍”から墓地内の地図を貰うと、一目散に外に飛び出した。(つづく)

(P.S.)
ブエノスとピラールの距離を後で地図で調べたら、大阪〜滋賀間に等しかった。この距離は“郊外”ではなかろう…。

(P.S.2)
読者の方からアコーディオンも最近は鍵盤式よりボタン式が主流とメールをいただきました。あと“ノニーノ”がスペイン語で「おじいちゃん」ではなく、イタリア語の「おじいちゃん」ということも判明しました。


(第67回)


喜び勇んで区画4にたどり着いたものの、僕はそこで固まった。付近一帯の墓は全部プレート式で、まったく同じ形の墓が芝生の上に見渡す限り並んでいたのだ。“3の16”には何か意味があるはずなので3列目や16列目から調べ始めたが、そのラインにピアソラはいなかった。次に“国民的英雄なんだから昨日のガルデルのように花束があるはず”、と花がそえられた墓から順に探し出してみた。それでも見つからなかった。昨日の大雨で芝生は最悪のコンディション。場所によっては足がめり込み、スニーカーの中まで冷たい水が入ってきた。
「なんてこったい、すぐ側まで来てるハズなのに!」

半ベソで30分ほど探していたら、運良く墓掃除の職員が電動車で通りかかった。僕は腕を振りながら道の真ん中に立ちふさがり、乗っていた髭モジャのおじさんに両手の平を合わせ、
「タンゴ、ピアソラ、ポルファボール(プリーズ)!」
と、一緒に探してくれるよう懇願した。さすがはおじさんの支配テリトリー。たった18秒でピアソラを発見した。
おじさんは“ほう、なんと日本から!君はタンゴ・ダンサーなのか!?”と目を丸くしながら去って行った。

2001年3月23日午前10時。
ついにピアソラ本人の前に立った。たまりかねて“オロロ〜ン”と嗚咽した!そんでもってヘナヘナって感じ。初めて彼の音楽を聴いて以来ずっと、いつかは話がしたい、感謝を伝えたい、と思っていたので、雨が跳ねた土で泥んこになっていた墓をハンカチで綺麗に拭いながら、忘我の状態で延々と話しかけた…。「ち、地球の裏側から、あなたの音楽に感動して会いに来ました!あなたの音楽は日本にまで、しっかりと伝わっています!!」

それはタテ60センチ、ヨコ40センチの本当に小さな墓で、名前と生没年のみが、これまた小さく彫られただけの質素なものだった。エビータの観光客、サン・マルティンの衛兵、ガルデルの銅像、そんな墓の光景を見てきただけに、彼の功績を讃える碑文も、バンドネオンの絵も何も彫られてない素朴な墓は、愚直なまでに誠実なピアソラの芸術への求道心を印象付けた。

ただ、それにしても花が一輪もないのはどうしてだろう。長い間誰も墓参した痕跡がないのだ。ブエノスアイレスから遠いから?僕はピアソラのネオ・タンゴが大好きだが、アルゼンチンでは彼がジャズやクラシック音楽をタンゴに取り入れたことについて、死後10年が経とうとしている今でも賛否両論が続いているという。
とにかく墓を見る限り、国民的英雄というより一匹狼のアウトローといった感じだったし、事実晩年でさえそうだったのかも知れない。

ピアソラの墓には花が一本もない。 どの墓も同じ形で探すのが大変だった!

水入らずでたっぷり喋った後はお約束の写真タイム。僕は文芸研究家であると同時に徹底的ド根性ミーハー。カメラを構えるその瞬間は、羞恥心を忘れた一人の追っかけファンに他ならない。
ただしこだわりが違う。普通のミーハーなら単純に写真を撮って終わりだが、ド根性ミーハーは空が曇っていたら晴れるまで待つ。墓の激写には太陽光線がモスト・インポータントだからだ。
日差しが墓石に劇的な陰影を生み、立体感と生命力を与える(墓に生命力ってのも変だけどね)。特に北米、南米に多いプレート式の墓は、晴れてる時と曇ってる時で、周囲の芝生の色が全然違う。プレート・タイプはペッチャンコなので、造形的にも芸術性に欠ける。写真のインパクトとして青い芝生のきらめく美しさが絶対に欲しかった。

たとえ何時間かかろうと太陽が顔を出すまで“張り込む”腹をくくったが、濡れた芝生には座れないので、墓から30mほど離れた所のベンチで待機した。靴を脱ぎ、ビショビショになった靴下を背もたれにぶら下げ乾かす。

本を読みながら待つこと2時間。薄日になってきたと思ったら、突然雲が割れた。慌てふためいて墓に駆け寄り、無我夢中でシャッターを切った。芝生の水滴がキラキラ輝き、青さが目に沁みた。待ってて良かった!
そして3分後、空は再び厚い雲に覆われた。文字通り一瞬のチャンスだった。

帰りはローカル・バスを乗り継いでブエノスに帰還した。チケット代は2ペソ30センターボ。急行の方が安いとはこれまた謎だ。車体もポンコツだったが、車内のスピーカーからエアロスミスが流れていたのに驚いた。一度スペインの国鉄でU2のアルバムがかかっていたことがあったが、公共の交通機関でロックが流れてるのは新鮮で良い。日本だと新聞に投稿されるだろうけど。

ブエノス市内では、やはり地下鉄が便利。何度も乗りまくっただけに、車内では色んな出来事があった。日本で考えられないのが、次々に乗ってくる物売りや大道芸人。物売りは文房具が一番多かった。8才くらいの男の子が車内に入って来るなり、いきなり次々と乗客の膝に絵の具セットを載せ始め、次の駅が近づいた頃に回収に来るという例もあった。あれは、もし気に入ったら買ってくれということだろうが、主婦はともかく、スーツを着て新聞読んでるサラリーマンに水彩絵の具を載せても、買わんと思うけどな〜。

また、こんなエピソードもあった。40才位の男性サックス吹きが乗って来て、『吹き終わったら金をくれなくても、せめて拍手か口笛をくれ』と前口上を述べてから演奏し始めたんだ。彼は車内を移動しながら吹いていたが、僕の正面から動かなくなった。理由はひとつ、僕がサックス奏者のジョン・コルトレーンのTシャツを着ていたからだ。そして彼が演奏したのはコルトレーンの十八番“コートにすみれを”(!)
「アッチャ〜」
これは逃げられない、と観念した。吹き終わり、やんやの喝采を受ける彼が差し出す帽子に、手持ちのコインをほとんど入れた。クーッ、美味しいヤツじゃの〜う。

この日の夜は無事ピアソラに会えたお祝いをする為に、派手にマクドナルドに繰り出した。そしてチーズバーガーを3個も食べる贅沢を自分に許す。さらに道端の売店で紙パックに入ったバナナ・オレを買い、喉が渇いていたので一気に飲み干し…否、飲み干せなかった。
「ブヘヘッ!」
それはヨーグルトだった。スペイン語、もっと勉強しなくちゃね。



(P.S.)
この後、昨日ズブ濡れになったことや、目的を達成して緊張の糸が切れたことで、夜半過ぎから39度の高熱が出た。それも3日間。若い時はこんなことなかったんだけどねえ。

(P.S.2)
『奇抜な音楽をやったからといって現代的であるとは言えない。だが現代音楽や、新しいポピュラー音楽を作曲している者の中にはそういう勘違いをした例がたくさんある。彼らはとにかく奇抜なことをやることが現代的だと思ってるんだ。人生において失敗する人に共通することは、そうやって違うものに“なろう”とする人たちだと思う。人はそれぞれが違いを持って生まれてくる。既に違っているのに、違うものに“なろう”とする必要はないんだ』〜アストル・ピアソラ




      

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