フォービズム(野獣派) のリーダー |
『赤い部屋』 |
『ダンス』 マティス作品は生命が溢れエネルギッシュ |
墓地入口。最寄りはニース駅 | “マティスの墓はこっち”の看板 | 墓地の奥から階段で下へ |
なんとマティスだけ特別区に! | 2002年 初巡礼はドシャ降りだった! | 2014年 12年ぶりの巡礼。父子で画家に感謝 |
装飾が一切ないとてもシンプルな墓 | タンポポの花をお供え | 墓地の高台から地中海が見えた |
フランスの画家。フォービスム(野獣派)運動をブラマンクらと主導。 マティスは法律家を志していたが、21歳の時に虫垂炎を患い、長い入院生活の中で絵画に目覚め画家に転向、ギュスターヴ・モローの門を叩く。ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホの絵を深く愛し、34歳でシニャックらの点描主義を知ってからはその技法を発展させ、色彩のみで形を描く革命的スタイルに到達した。1905年(36歳)、大胆な色彩で妻を描いた『緑の線の肖像』などの作品で、ブラマンクらと共にフォーブ(野獣)と呼ばれる。 マティスは画家の直感を重視し、絵描きが意思をもって色や形をコントロールするのではなく、色や形自身が絵描きの感性に命じて配置を決めると考えていた。死の数年前からは色と形を追求してきた男の集大成として「切り絵」の制作に没頭した。ニースにて84歳で他界。代表作に「ダンス」「オダリスク」、南仏ヴァンス「ドミニコ会修道院礼拝堂装飾」など。 ※僕は黒にも“明るい黒”というものがあるのだと、マティスの絵を通して初めて知った。 晩年は切り紙絵を制作。 初巡礼の際は大雨。明るい絵を描いた彼の墓にせっかく来たのだから、溢れんばかりの陽光の中で会いたかった。そう思いながら12年、再巡礼は願い通りに雲一つない好天だった! 「私が目指す絵画は、調和のとれた、純粋で静謐(せいひつ)な芸術だ。人の心を乱したり、気を滅入らせる主題が無いものだ」(マティス) |
僕は2002年にパリのペール・ ラシェーズ墓地で「CARLIER」 の墓参をおこなった |
だがスペルが違った! 「CARRIERE」はモンパル ナスにいた!(画像元) |
●ブレイクの詩から 一粒の砂に世界を見 一輪の野の花に天国を見る 手の平に無限を 一瞬の内に永遠をつかむ |
ダリ(左)とアンディ・ウォーホル。これは酷い!(笑) | 『記憶の固執』 |
代表作『蛇使いの女』 | パリの旧墓所は、穴ぼこしかないッ!(2005) |
ルソーのレリーフ(ラバル/ペリーヌ公園) | 朝日の中のルソー(2018) | 右下にアポリネールのサイン |
絵画の専門教育を受けず、税関職員を務めながら独自の作品世界を切り開いていったアンリ・ルソー。展覧会では「6歳児の殴りがき」と侮辱され、私生活では2人の妻に先立たれ、子ども7人のうち5人が早逝した。だが若い芸術家に慕われ、27歳のピカソは64歳のルソーのために「励ます会」を催した。有志がルソーの墓を建て、墓碑には詩人アポリネールが「やさしいルソーよ、聞こえますか」と追悼詩を綴っている。アポリネールは「僕たちの持ち物は無税で天国の門を通して下さい」と冗談を言いつつ、ルソーが天国でも絵を描けるように「筆と絵具とカンバスを届けます」と語りかけている。この愛にあふれた墓は戦後にパリから故郷ラバルに改葬された。 美術学校に通わず、別の職業を持ちながら、絵画を独学で自由に表現した画家たちを指す「素朴派(ナイーフ派)」の祖であり、キュビスムやシュルレアリスムの先駆けとなった画家アンリ・ルソー。印象派からキュビスムの時代を生きた。 彼は1844年5月21日にフランス北西部のマイエンヌ県ラバルに生まれた。父は板金工。7歳の時に父は不動産業に乗り出して失敗、家を失う。リセ(高校)を中退、絵と音楽のみ好成績だった。 1863年(19歳)、アンジェの法律事務所に見習いとして勤務するが、切手を含む20フランを盗み、ナントで1ヵ月の禁錮刑に服する。その後、入隊し歩兵連隊に配属される。「ナポレオン3世とメキシコ遠征に参加した」と本人は主張しているが行ってない。 1868年(24歳)、5年間の兵役を経て除隊。父が他界し、パリに移る。執行官の事務所に勤務。 1869年(25歳)、裁縫職人のクレマンス・ボワタ一ル(18歳)と結婚。5人の子を儲けるが次々と早逝し、娘ジュリアだけが成長する。 1871年(27歳)から22年間、パリの入市税関(街に運び込まれる物品の税を徴収する役所)の職員となり、のちにあだ名が「ル・ドゥアニエ(税関吏)」となる。この頃から仕事の余暇に絵を描き始めた。 1879年(35歳)頃に描かれた初期の作品が現存する。 1884年(40歳)、本格的に絵と向き合い始め、国立美術館における模写の許可を得る。同年、無審査・無賞・自由出品を原則とする美術展=アンデパンダン展がパリで初めて開催される。 1885年(41歳)、作品2点を「落選者展覧会」に出品。同年、作曲家としても才能を発揮し、『ヴァイオリンもしくはマンドリンのための序奏付きワルツ、クレマンス』によってフランス文芸音楽協会の学位を得た。 1886年(42歳)、画家仲間に勧められて同年からアンデパンダン展に出品、この年は『カーニバルの夜』など4点を出した。ルソーは遠近法を無視した平面的な構図や、のっぺりした人物にリアリティが無いと馬鹿にされ、「6歳の子どもが筆の代わりに指を使い、パレットの代わりに舌を使った殴りがき」と酷評された。展示会場では絵の前で笑い転げた者もいた。だが、一般からは認められなくても、印象派の長老カミーユ・ピサロ(当時56歳/1830-1903)など一部の画家は好感を持った。 当初ルソーは肖像画やパリの情景を描いていたが、1890年代に非常に独創的な幻想の描写へと踏み出し、スポーツや遊びを楽しむ人々や、息をこらすような静寂の中にたたずむ獣のいる熱帯風景を、独特の様式でえがいた。 1888年(44歳)、最初の妻クレマンスが結核のため37歳で他界。同年、画家ルドン(当時44歳/1840-1916)に作品を評価される。 1889年(45歳)、パリ万国博覧会に興奮し、戯曲『1889年の万博を見学して』を書きあげる。 1890年(46歳)、『私自身、肖像=風景』(『風景の中の自画像』)をアンデパンダンテ展に出品、ゴーギャン(当時42歳/1848-1903)が絶賛する。この年、ゴッホが37歳で自殺。 1891年(47歳)、のちにルソーの代名詞となるジャングルものを描き始め、第一作となる『不意打ち』を制作。ルソーは実際にジャングルを訪れたことはなく、パリ植物園で写生したり、子ども用の図鑑から得た知識を総動員し、豊かな想像力で空想のジャングルを創造した。 ★1893年(49歳)、自分が絵の天才だと信じて疑わないルソーは、画業に専念するため22年間勤めていた入市税関を早期退職し、年金を得て制作に没頭、職業画家となる。とはいえ年金は乏しく、絵や音楽を子どもに教える塾も開いた。代表作の大半は税関退職後の50歳代に描かれている。ルソーは画壇にあまり興味がなく、この年、挨拶してくれた10歳年上の巨匠エドガー・ドガ(59歳/1834-1917)が誰か分からなかったという。 1894年(50歳)、『戦争』(オルセー美術館蔵)を描き、アンデパンダン展で初めて話題を集め、ゴーギャンも衝撃を受けた。ゴーギャンはルソーの幻想世界を非常に評価していた。 1897年(53歳)、ひとりの女性が砂漠の中で眠り、尻尾を上げたライオンがじっと見守っている『眠れるジプシー女』(ニューヨーク近代美術館蔵)を描き、素朴で単純な形態と抒情的な幻想の世界がコクトーやアポリネールにも注目された。 1898年(54歳)、フリーメーソンに加入。 1899年(55歳)、2番目の妻ジョゼフィーヌと結婚。 1901年(57歳)、ルノワールが『邪悪な不意打ち』を激賞。同年、妻が文具店を開く。 同年、ピサロとロートレックが他界。 1902年(58歳)、急進的社会主義者アドルフ・メッシミーを支持し選挙を応援。 1903年(59歳)、再婚から4年、ジョゼフィーヌが他界。2枚目のジャングル作品『虎に襲われた斥候』を描く。同年、ゴーギャンがタヒチで他界。 1905年(61歳)、2年前にマチスやルオーが創設した新進美術家の展覧会「サロン・ドートンヌ(秋のサロン)」に、ルソーは『飢えたライオン』などを出品。 1906年(62歳)、『ライオンのいるジャングル』を完成させる。同年、詩人ギヨーム・アポリネール(当時26歳/1880-1918)と知り合う。 1907年(63歳)、ルソーの画風をあますところなく伝えるジャングル作品の代表作『蛇使いの女』(オルセー美術館蔵)を描く。夜の密林で笛を奏でる蛇遣いのシルエットが満月の光で神秘的に浮かび上がる幻想的な作品。何層にも重なりあった草や葉が生みだす整然とした構図、誰も見たことのない絵画だった。 1908年(64歳)、ピカソ(当時27歳/1881-1973)が古物商でルソーの『女性の肖像』をわずか5フラン(3500円くらい?)で購入。ピカソはルソーの才能を讃え、老画家を励ますために、モンマルトルの古アパートの一室、アトリエ“洗濯船”で自らが呼びかけ人になって「アンリ・ルソーの夕べ」(ルソーを励ます会)を主宰した。詩人アポリネール(当時28歳/1880-1918)、画家マリー・ローランサン(当時25歳/1883-1956)、ジョルジュ・ブラック(当時26歳/1882-1963※キュビズムをピカソと創始)らモンマルトルを拠点とする芸術家が集まり、ルソーを称える詩が披露された。ルソーはヴァイオリンを手に現れたという。 1909年(65歳)、手形詐欺事件に巻き込まれ(?)、罰金200フランと執行猶予付き禁固2年の判決を受ける。裁判では“正直さと才能”の証拠として作品が法廷に出された。同年、アポリネールの依頼で『詩人に霊感を与えるミューズ』を描く。 1910年、3番目の妻にと思っていた未亡人レオニーに熱を上げるが失恋し、ショックを受ける。同年、巨大植物が埋め尽くす夜のジャングルで裸婦が長椅子に横たわり、側にライオンが潜んでいる遺作『夢』を描く。 同年9月2日、肺炎、敗血症、足の壊疽(えそ)のためパリの慈善病院にて66歳で他界。亡骸はパリ南部バニューの共同墓地に葬られたが、哀れに思った友人たちが翌年に個人墓地へ改葬する。 1913年、ブランクーシらが墓碑を造り、アポリネールが墓碑銘を起草した。 1947年、墓が生まれ故郷ラバルに改葬された。 ルソーの作品はゴーギャンやピカソの他にも、ロートレック(1864-1901)、藤田嗣治(1886-1968)らから称賛された。ピカソはルソーの絵を4点所持していた。 平面に固定された人物像、非日常的な空間、大胆でエキゾチックな色彩、不思議な郷愁、植物の細部へのこだわり、性的感情の暗示など、魔術的な雰囲気を漂わせるルソーの絵。一方で、素朴な筆致で明快に描かれた童話的な世界、事物を単純化した明確な構成力はのちのキュビスムに通じ、印象派の画家からもキュビスムの画家からも絶賛された。現実と空想に境界線がない絵画空間は、作家アンドレ・ブルトン(1896-1966)らシュルレアリストに強い影響を与え、20世紀前半の天才たちを生み出すきっかけになった。 ※子どもは7人のうち5人が夭逝した。 ※ゴーギャン「ルソーの黒は誰にも真似できない」。 【墓巡礼】 ルソーの巡礼は一筋縄ではいかなかった!巡礼に旅立った2005年、ルソーの墓は世界最大の海外墓検索サイトに「パリ南部郊外のパリジアン・ド・バニュー墓地(Cimetiere parisien de Bagneux)」と記されており、2020年時点でもそうなっている。グーグルで検索してもこのバニュー墓地がヒットする。その情報を信じて僕は現地へ向かった。パリ中心部からメトロを使ってモンルージュ駅に着いたのが朝7時半、そこから20分ほど歩いてバニュー墓地に到着。「ルソーほどの有名人なら案内板を見たり守衛さんに聞けばすぐに墓がわかるだろう」、そう思って正門をくぐったが地図に表記がない。守衛さんは「私はわからないから管理事務所で聞け」とのこと。事務所に行くと“9時オープン”となっていた。まだ1時間ある…。「とにかく墓を探してみよう」、そう思って歩き始めたが、この墓地は南北に1kmもある巨大墓地だった。メインストリートがずっと奥まで続く。一番奥まで行くと、フェンスの向こうに隣接する墓地「コミュナル・ド・バニュー墓地」が見えた。「もしかして、こっちかも」と訪問、既に事務所には人がいたのでパソコンで埋葬者リストを調べてもらったが名前は見当たらず。残念。バニュー墓地に戻ると9時を過ぎており事務所が開いていた。文学者風の眼鏡をかけた管理人さんは「ルソーの墓がここに?聞いたことないが…。亡くなったのは1910年だね?」と、古くてぶ厚い埋葬者台帳を調べてくれた。しばらくして「あった、確かにこの墓地に墓があった。だが…記録には“改葬”とあり、今はないようだ」と衝撃の言葉。管理人さんは「とりあえず、墓があった区画はここだ」と地図を描いてくれた。“まさか、改葬されていたとは…”。僕は肩を落とし、地図の場所に行ってみた。そして思わず見入った。「ほんとに穴ぼこしかないッ!」。主(あるじ)のいない穴がそこにあった。事務所に戻って御礼を言うと、管理人さんが「ルソーの墓は40年くらいここにあった。今は故郷のラバル(Laval)にあるらしい」と追加情報をくれた。ラバル。シャルトルやル・マンよりさらに西だ。この時は、時間もお金もなく、墓参のリベンジを誓って帰国した。 それから10年後の2015年、ドイツでレンタカーを友人と借り、ルソーの墓参を含めた欧州墓巡礼を敢行したが、北フランスのオーヴェールで車上荒らしに遭い、荷物をすべて盗まれるという驚愕の事態に。日程変更を余儀なくされ、ラバルに行けなくなった。 そして初巡礼から13年後の2018年、まったく予想もしない形でルソー墓参が実現した。日本テレビ『笑ってコラえて!』の取材を受け、番組でフランス・ロケを行うことになり、墓参希望リストにルソーを入れて上奏したところ、日テレがGOサインがを出してくれた!ルソーが眠るラバルはパリから車で3時間。TGVならモンパルナス駅から約90分。墓所はラバル駅から徒歩15分ほどのペリーヌ公園の一角とのことだったが、広大な公園のどこかは分からなかった。散歩中の紳士に聞くと、「友人の家に行くところだったが、ここからお墓まで近いので案内するよ」とのこと!お名前はミッシェルさん。公園の北西、アドリアン・ブルノー通りの門から入ると左手に庭園があり、西側の壁沿いにルソーの墓があった。庭園は丘の上にあり、墓前からは街を見渡せた。うおお、メルシー、ミッシェルさん!墓にはルソーの横顔のレリーフがはめこまれ、墓石にアポリネールの次の追悼詩が刻まれていた。 「やさしいルソーよ、聞こえますか 僕たちはあなたに挨拶を送ります ドローネ夫妻とクヴァルさんと僕 僕たちの持ち物は無税で天国の門を通して下さい あなたに筆と絵具とカンバスを届けます かつてあなたが僕の肖像を描いたように 聖なる余暇に、永遠の真実の光の中で 星たちの顔が描けるように」 ギョ−ム・アポリネール この心温まるアポリネールの詩。ルソーの人生は試練が多かった。2人の妻に先立たれ、子ども7人のうち5人が早逝し、絵画は「6歳児の殴りがき」と侮辱され、安い値段がつけられた。だが64歳のルソーのために、20代のピカソやアポリネールら若者たちが“励ます会”を開いて元気づけてくれるなど、少ないながらも理解者はいたし、人柄は愛された。なかなかこのようなお墓を造ってもらえる人はいない。それも親族ではない有志に。お墓の肖像レリーフを見つめ、「こんな素敵なお墓はそうそうないですよ、ルソーさん」と声をかけた。 |
ユトリロが愛したモンマルトル | パリを描きまくり | 『コタン小路』 |
モンマルトルは坂が多く墓も斜めに(2002) | 7年後。この時は右手前の植木も青々と茂ってた(2009) | 女神がパレットを持っている |
モンマルトルには巨大墓地があるが、ここはそことは別のとても小さな墓地。管理人は「日本人がユトリロを訪ねてきたのは初めてだ」と言うので少し驚いた。だって日本でユトリロはけっこう人気あるもの。 母親のシュザンヌ・ヴァラドンは、ロートレック、ルノワール、ドガなどのモデルで、自身も絵筆を握った。奔放な性格の彼女が18歳の時に産んだ子どもがユトリロで、父親が誰なのか分からず彼は祖母に育てられた。父はルノアールという噂もあったが、最終的にスペイン人ジャーナリストのミゲル・ユトリロが認知。ユトリロは10代でアルコール中毒になり更生施設に入所。治療の一環で医師に絵を勧められたのが画家になるきっかけだった。 |
2002 | 2009 | 墓前のコロー像 |
彼の風景画は、薄い銀色のレースを通して見える光景と言おうか、光が鉄分を含んでいる感じの独特のくすんだ色合いだ。僕は渋めの絵が好きなので、コローは大のお気に入り。(学生時代に趣味で絵筆を握り、初めて模写したのもコロー)。彼は“コローおじさん”と呼ばれ印象派の若手連中から慕われていた。「コローは印象派の師である」(モネ)。 ※コローが一生独身を通したのは一人で森と向き合う時間が欲しかったから。それほど自然を愛していた。 |
グレコが愛したトレドの夕暮れ(世界遺産) |
城壁の中は細い路地が網の目のように入組んでる。 方角が分からないし目印になる建物もないし、 なかなかグレコが眠る教会にたどりつけなかった(涙) |
やっと見つけたサント・ドミンゴ・ エル・アンティーグオ教会! |
グレコの墓は地下にあって一般の人は近づけないけど、教会の 床が一部ガラス張りになってて、彼の棺を見ることは可能! |
『ゴールデン・フィッシュ』 |
『不吉な家の上にのぼった星々』 |
代表作のレリーフが彫られていた | 『メデュース号の筏(いかだ)』 |
沈没する船を脱出し、大海をいかだで漂流している人間が、水平線上に船影を見とめた劇的瞬間を描いた“メデュース号のいかだ”。人肉食もあったというこの実際に起こった事件を題材にした作品は、一大センセーションを巻き起こした。製作中のジェリコーのアトリエを訪れたドラクロワは、作品の力強さに衝撃を受け、自ら画中に描かれる死者のモデルをかってでたという。 |
「干草車」 | 鉄の柵で守られている | 右上にコンスタブルの名前があった |
フランスのミレーは他人だぜッ! | 『オフィーリア』 彼女の瞳は見開かれ、体の周りを編みかけた花輪がユラユラ |
よくミレーと間違えられるけど、こちらはミレイ。ハムレットの恋人「オフィーリア」を描いた傑作で知られる。オフィーリアは(1)ハムレットに父を殺される(2)なのに、めっちゃ冷たくあしらわれる(3)発狂する(4)花を摘もうとして川に落ちて死ぬ、というフルコースを満喫した。 この絵でモデルを担当した女性は、中世のドレスを着たままバスタブに4ヶ月間浸かり続け、肺炎になってしまった。ちなみに彼女は、後に画家ロセッティの妻となった。 |
2002 植物が育ちすぎピサロが見えん(笑) |
2009 7年後。植木鉢から移されたみたい |
心臓しか入っていない | 『ナポレオンのアルプス越え』 |
20世紀の抽象画の巨匠 | 「コンポジション8」(1923) 57歳の作品 |
閉門時間にギリギリセーフ!一緒に 喜んでくれたタクシーの兄ちゃん(2009) |
カンディンスキーはグランダルシュ (新凱旋門)が見えるエリア53に眠っている |
墓参の帰り。最寄りの駅(デファンス駅) は巨大な新凱旋門の地下だ |
案内してくれた管理人さんは、「写真を撮るんだったら先に 花の手入れをしてあげよう」。おかげでキレイになりました♪(2005) |
4年後。植物の種類がすっかり変わっていた(2009) |
背中からダンディズムが漂う、007のダニエル・クレイグに似た管理人さん!(2009) |
ピカソやブラックとも親しい | 『マダム・シャネルの肖像』 |
広大な墓地の一番奥に眠っている(2002) | 7年後。植木が成長していた(2009) | ローランサンの名前はかすれて判別が困難 |
野獣派 | 『コンポートのある室内』 |
2002 大雨の中の巡礼 | 2014 12年ぶりの巡礼。この時は好天 |
墓地の一番奥。地中海が見える高台に眠る | 十字架が彫り込まれている | 冷や奴っぽい |
2005 | 2009 | アングル像つき |
壁面には「フラゴナール」とあったが棺がない。この下に埋蔵されているのか?(大きな棺は他人のものデス) |
マネと同じ墓に彼女も眠っている |
ウージェーヌはマネの弟。 モリゾはウージェーヌと結婚した |
マネが描いたモリゾ |
『赤・青・黄のコンポジション』 | 『ブロードウェイ・ブギウギ』 |
ボックさんが買った『赤い葡萄畑』は400フラン(今の約15万円) |
彼女も画家だったらしい。でも知名度は低く 殆ど一般市民。会える確証はなかった |
管理人さん「訪ねて来たのは君が初め てだ」。書庫から70年前の埋葬名簿を 出して、墓の位置を調べてくれた |
「こっちか?…いや、あっちだ!」 管理人さんと一緒に墓地を右往左往 |
ついにアンナ・ボックさんを発見! |
「よくぞ買って下さいましたーッ!」 僕が御礼を言うのもヘンだけど(#^.^#) |
「どうだ!満足したか!」 見送ってくれた管理人さん |
自画像 友達思いのすごく良いヤツ! |
晩年のレーピンは右手が不自由になったが、 パレットを胴体に巻き左手で描き続けた! |
『ボルガの舟曳(ひ)き』 貧困と重労働にあえぐ民衆の姿を描くことでレーピンはロマノフ王朝の理不尽さを告発した |
この労働者の表情に見入ってしまう ※ウィキペディアに超拡大画像あり |
『イワン雷帝と皇子イワン』 息子が謀反を企んでいると誤解したイワン雷帝は、杖で我が子を殴り殺す。我に返った雷帝は 死にゆく息子を抱きしめた…。“ロシアのレンブラント”と呼ばれるように光と影の演出が劇的だ |
『帝国枢密院設立100周年記念の儀礼』 写真に見えるけどこれは絵!レーピンは様々なタッチで描くことが できた。4m×8.7mという彼の最大の作品。ロシア政府の依頼で描かれた |
ムソルグスキー | トルストイ | リムスキー=コルサコフ | メンデレーエフ |
レーピンは交流のあった当時の芸術家、文豪、学者たちをリスペクトして描きまくった! 作曲家ムソルグスキーが貧困の中で死んだ時、レーピンが埋葬費用を負担し葬式を出した |
ペテルブルグのフィンランド駅。ここから郊外に向かう。 外国人にとってロシアの旅は本当に大変!案内板は ロシア語表記しかなく、基本的に駅員は英語を話せない |
切符売り場ではどの窓口に行けばいいのか分からず、ホームもたくさんあってどの列車に 乗ればいいのか分からなくて狼狽していたら、剣道の面と竹刀袋を持った青年が! “彼はきっと日本が好きだ”と思い駆け寄ると、大ハッスルで助けてくれた!彼の名前は アレクサンドル君。あ、あ、ありがとう!君のお陰で無事に乗ることができたよ〜(涙) |
しかし!列車が動いてからも緊張MAX。日本と 違って時刻表は当てにならないし、車内放送は 当然ロシア語オンリーだし、窓から駅名が見えにく かったりで、いつ目的地に着くのか分からない |
駅が停車する度に、僕が必死こいて 涙目で窓から駅名を見ていると、初老 の男性が声をかけてくれた。この イワノフさんがめっさ良い人だった! |
プリントアウトしたレーピンの家(記念館)の写真を見せると、イワノフさんは 指を6本立てた。“残りの駅かな?”と思っていると、次の駅で指が5本になった ので間違いなかった。さらにイワノフさんはレーピンの家に行ったことがある らしく、駅からの地図を書いてくれた!「歩き方」には載ってないので助かった! |
車窓はずっと白樺の林が続く |
約1時間で目的の「レーピノ」駅に到着!ちなみに「P」はロシア語では「L」の 音に、「H」は「N」の音になる。ここでイワノフさんに丁寧に御礼を言って 別れた。※“有難う”は「スパシーバ」。“ボリショイ”をつけると“すごく”になる |
午前10時半。てくてくと駅から歩き始める。 前方にはお婆さんが1人だけ |
レーピンの家まで約30分かかる |
途中の団地の中にひっそりとレーニン像が残っていた。ソ連崩壊時に ニュース映像で各地の像が撤去される様子が流れてただけに新鮮 |
さらに進むとこの公園が。敷地に点在して いた動物たちのオブジェが可笑しかった! |
君は…“ハチ”なのか? | 病気っぽい顔色のカタツムリ。口紅を塗りすぎだよ〜 | 可愛いような殴りたいような(笑) |
レーピンの自宅「ペナトゥイ」の正門に到着! ※ペナトゥイ=「家庭」「郷里」の意 |
“ペナトゥイ”10:30-18:00 |
晩年の住居兼アトリエがそのまま記念館に。 1940年に開館し、今は世界遺産に登録されている |
●玄関脇の銅鑼(どら)と帽子かけ※撮影許可済 彼は生き方として召使いを置かず、自分の事は自分で やった。玄関脇の銅鑼の上には次の言葉が。 「客は自分で帽子とコートを壁に掛け、明るく楽しげに 銅鑼を叩いて訪問を知らせること」。レーピンのひょう きんな人柄が分かり親しみやすさがグンとアップ! |
●レーピンのアトリエ※撮影許可済 大型の絵も描けるよう広々としたアトリエ。冒頭の写真にある腰巻きパレットがそのまま 展示されていた。係員の人はとても親切で、僕が日本人と分かると日本語の解説テープを スピーカーで流してくれた(まさかここで日本語!仰天した!ツアーの人が来るのかな?)。 館内は撮影禁止だったけど、1人でここまで来る日本人は珍しいらしく、その熱意に免じて(?)、 アトリエと玄関の撮影許可をもらえた。有難い!※ただ録音テープはボリュームがデカすぎ、 静かに見学している他のロシア人観光客に申し訳なく、すっごい肩身が狭かったよ〜(汗) |
家は地図下方。墓所は一番上 | 肩車で墓所に向かう親子♪ | ムムッ、人だかりが見えてきた! | お墓の写真を撮っていた!無事に着いた〜! |
「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)!レーピンさん!」 レーピンはロシア画壇最大の有名人だけあって、 ひっきりなしに墓参者が訪れていた |
レーピンの墓はまるで花壇のよう。花は手入れがよく行き 届いていた。オーチン・ハラショー!(めっさ素晴らしい!) |
ロシア正教徒の墓は十字架の上下 に横線がある特徴的な形。お陰で 他国でもロシア人の墓はすぐ分かる |
ロシア写実主義を代表する画家。1844年、現ウクライナのチュグーエフに生まれる。美術アカデミーに反旗を翻し、貧困に苦しむ民衆に共感を表明、庶民の生活を丹念に描き、絵画を通してロマノフ王朝を批判した。1873年(29歳)、牛馬のように働く労働者を描いた『ボルガの舟曳(ひ)き』の圧倒的なパワーにより、画壇で一躍注目される。
30代前半に印象派全盛のパリで学ぶも、古典的な写実主義路線を堅持。その後も多くの画家仲間がキュービズムなど前衛絵画に走っていく中、古典絵画の王道を究めていった。作曲家ムソルグスキーは、庶民への共感に満ちたレーピンの眼差しを見て「画家達は民衆の中に入り戦っている、音楽家は何をしている」と自らを叱責した。 1885年(41歳)の『イワン雷帝と皇子イワン』では、息子殺しの父親の鬼気迫る表情をレンブラントのように劇的な筆致で描き、人々に息を呑ませた。1903年(59歳)、『帝国枢密院設立100周年記念の儀礼』を政府の依頼で描き、これは横幅が約9mという彼の最大の絵となった。レーピンはトルストイやムソルグスキーなどロシアの芸術家や文豪の肖像画を多く残したほか歴史画にも挑み、ロシア革命後も高い評価を受け続ける。 1930年に86歳で他界し、死の10年後にペテルブルグ郊外クオッカラにある晩年の住居&アトリエ「ペナトゥイ」が記念館として一般公開された。死後、大画家の偉業を称えてクオッカラの土地は「レーピノ」に改名された。 |
『雄羊の頭とタチアオイ』 | 『ポピー』(1927) | 『ピンク・チューリップ』(1926) |
オキーフを写した写真 | オキーフの手の写真 |
あまりに荒涼として世界の果てに来たようだった | この2人が「ここで間違いない」と証言 | うわ…“雄羊の頭”だろうか? |
南部ニュー・メキシコ州に画家ジョージア・オキーフの遺灰が撒かれたという土地を訪ねた。 僕は到着した場所に確信が持てず、日没間近ということもあって、付近の一軒家に近づいた。カウボーイハットを被った男性2人が出てきて、明らかに怪しんでいる。先にこちらから「Excuse me! Help!」と大きな声でオキーフの散骨地はここで合っているか尋ね、自分が泥棒でないことを知らせた。海外では初対面の相手にこちらから話して安心させることが鉄則だ。 「オキーフ?その通り。お前は絵が好きなのか?こんな所にアジア人が来るわけないから、もうちょっとで撃つところだったぞ」「ああ、撃たれても仕方ないぞ」と警告され肝を冷やす。「お前は何者だ」と問われたので「美術学校の生徒」という設定にしておいた。 そして、オキーフの遺灰が撒かれた荒野へ。視界に入る家は2件しかなく、動物の骨が転がってたり、めっさ寂しい場所だった。 その帰り。レンタカーでしばらく走っていると、後方からハイビームを点灯させ猛スピードで追っかけて来る車が。同行していた友人M氏と顔を見合わせ、「悪党が迫ってきた」とブルっていたところ、クラクションを鳴らして降りてきたのは先ほどのカウボーイの親父さんだった。手に持っていたのはなんと“額縁”。 そして「俺の弟が絵描きでな。君は絵をやるんだろ。もらってくれ」と絵をプレゼントしてくれた!熊と馬が描かれており、この超展開にびっくり。その絵はM氏が今も大切に持っている。 |
ダンディなホッパー | シカゴ美術館にある代表作『ナイトホークス』は大人気! |
素晴らしい墓地。丘の上にホッパーの墓がある | ホッパーもここに眠れて嬉しいと思う |
立派な角を持つ鹿に見とれた(ここは墓地です!) | ウサちゃん! |
グリーンリバー墓地 | 手前の墓は夫人のリー・クラスナー・ポロック | この巨岩がポロックの墓だ!! |
よく見るとカラースプレーが墓のあちこちにくっついてた。墓でもアクション・ペインティング | 墓の上に巡礼者が石を積んでいた |
車道から墓地は見えない。白い建物の背後にある | ロスコの墓は入口近くの右側にある |
画風の変化を見るため左から年代順に並べてみた。女性像は30歳当時のもの。若い頃はロスコも一般的な人物画を描いていた。だが40代半ばから “色の重なり”に純化した絵になっていく。右端の赤い絵は自殺直前の最晩年の作品。死を決意した画家の目には世界が赤一色に見えるのだろうか |
2007年5月、マーク・ロスコの『ホワイト・センター』がNY・サザビーズで競売にかけられ、現代美術としては史上最高額の87億円で落札された!絵の真ん中に白い線が入っているので“ホワイト・センター”と呼ばれる抽象画だ。 ロスコの絵は「子供でも描ける」「俺の方が上手い」とかジョークで言う人もいるけど、いつまでも見飽きない色の調和、色面の配分は、シンプルであるほど難しいもの。優れた感性のたまものだ。数色しか使っていなくても、見ているだけで自然に気持が落ち着くのは、実に不思議というか、神秘としか言いようがない。 こう書いても「ふーん」って感じの人もいると思うけど、美術館で本物を前にすると、写真やポスターでは伝わらない異様な迫力に包み込まれ、圧倒されてしまう。絵の前で足が釘付けになり、離れがたくなるんだ。それは彼が自殺したという事実も大きな理由になっている。 ロスコは心が繊細過ぎて世界と折り合いが付けれなくなり、両手首を切って命を絶った。それも普通にカミソリで横切りするのではなく、“縦”に切って肉を開いて動脈を取り出し、直接血管を切るという壮絶な死…。 作品のぼやけた輪郭と色からにじみ出てくる、言葉にならない静かな悲しみ。ロスコの絵の前で泣いている人が時々いるけど、絵を見る前に、その人からもらい泣きしそうになる。響き合う色を見ているだけなのに、宗教画のような崇高さを感じてしまう芸術の奇跡。 国内では千葉の川村記念美術館がロスコ・コレクションで有名なので、興味を持たれた方はぜひ実物を。ロスコの展示室が薄暗いのは本人の意思とのことデス。 ※ロスコの絵をネットで探しているうちに、ロスコを235点も閲覧できるバケモノみたいな海外美術サイトを発見。1920年から他界する70年まで50年間の作品が年代順に掲載されているので、画風の変遷がよく分かった(GOボタンはリンク先の左上)。 |
「ディスカバリング・サンタ」 | いくら探しても墓がなかなか見つからず涙目に… | 諦めかけた時、墓地の奥の茂みに気がついた |
生け垣の隙間から、墓石らしいものが見える! | うおお、ロックウェル家だった! | 家族の石碑の背後にノーマンの墓 |
キュールンゲンが描いた |
『霧の海を眺めるさすらい人』(1818) | 『山の中の十字架』(1812) |
『氷の海』(1823-24) |
『キュールンゲンの墓』※キュールンゲンはカス パーの2歳年上の画家。48歳で山賊に殺された |
『雪の中の修道院の墓地』(1817-19) カスパーは墓地の絵が多く墓マイラー御用達 |
ドナウ川が流れる古都ドレスデン | 墓地の左奥に眠っている | 古い墓だが文字はハッキリと読める |
ドイツ・ロマン主義絵画を代表する画家。ベートーヴェンやゲーテと同時代を生きている。宗教的含意を込めた静寂感のある風景画で知られ、人が背後からしか描かれないのも特徴(人物と共に風景を見ている)。 人生で母、姉、弟、妹の死に接しており、人格や画風に影響を受けている。主要作品はドレスデン美術館に。代表作「霧の海を眺めるさすらい人」「氷の海」「山の十字架と聖堂」。 |
グハーッ、教会まで行ったものの日曜ミサ の最中でお墓を探す状況ではなかった! |
教会の窓にはキリコのポスターやサイン。 めっさ“ココに墓あり”って感じなのに…残念! |
このサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会は、ベルリーニ の傑作彫刻「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」で有名 |
確かに『GIORGIO DE CHRICO』と書いてある!(撮影 ユアサさん) |
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