側面には「天保八年十二月十六日」 | 名前は「釜屋忠兵衛」さん |
鳥の声もにぎやか | 墓石が青い花に埋もれている | あんな斜面どうやって墓参するんだ? |
涙がチョチョ切れそうな美世界… | わわ…こ、ここを歩いちゃっていいの!? |
梅に雪が積もって寒そう | シーン。静かだ…ネコ一匹いない… |
いやネコはいた!足跡発見! |
隅っこで足が揃ってる(笑) あそこでジャンプしたな |
「ニャンか用か」 お前か〜ッ! |
お墓のピラミッド見たのは初めて(真光寺) | 斜め前には一遍上人がいる! |
ロケット型 | UCCのカップ墓 | 天辺にフクスケ(逆光で不気味に…) | 「しろあり やすらかにねむれ」 |
あまり知られていないことだが、日本には庶民が墓を作ることを禁ずる法律が長くあった。古くは701年に制定された大宝律令。ここには「(階級が)三位以上の者しか墓を作ってはならぬ」とある。当時の墓は面積の多い古墳タイプ。誰もが墓を造ると大変なことになってしまう、そんな事情から発布された法令だが、この束縛は形を変えながら1831年まで千年以上も続く。江戸時代には「領地はすべて藩主のもの」という観点から墓石禁止令が出された。藩にとっては、領民に墓石を置かれてしまうと、たとえ1m四方であっても、そこが永久に“占拠”されることになるわけで、これを防ぐ為だった。有力大名や大商人など、中には富と権力にモノを言わせて墓を建てる者もいたが、それはほんの一部。多くの庶民は村外に指定された遺骸置場や野山に運ばれてそれでおしまい。国内に江戸以前の庶民の墓地が現存していないのは、こういう事情からだ。この写真で紹介している能登の砂の墓は非常に珍しい江戸以前の庶民の土葬墓。海岸沿いの林の中にあり、藩主の目を盗んで造られたのだろうか?これだけきれいに昔の墓が大量に残っているのは、国内で他にないと思う。 |
大宝律令/庶民の墓を禁ず |
着いた時はドシャ降り。小雨になるのを待った。この、土を 盛った土饅頭がお墓だ。当初はどの墓にも石仏が載って いたと思うけど、石の重みで沈んでしまったようだ |
この石仏は手を合わせたまま 下半身が土中に埋まっている |
もう頭の先しか見えていない |
林の中の隠れ墓で周囲から全く見えない |
徐々に雲間から陽が差してきた |
写真では分かりにくいけど、赤っぽい石や、緑、青色の石 等なかなかカラフル。死者が寂しくないよう、少しでも賑や かにしたいという追悼の気持ちだろう。愛されてるネ! |
完全に晴れた!雨の時の物悲しい雰囲気とうってかわって、とても ぬくもりのある墓地になった。こんなにも表情が変わるものかと驚いた |
手前右の墓は天保2年とあった。1831年、約170年前だ。 石が残ってて170年前ということは、同墓地には200年〜 300年前(もっと昔?)という墓があるかもしれない… ※天保年間の墓が多いのは“天保の大飢饉”の為かも |
北陸の夕陽に照らされた石仏たち。たとえ身体が欠けていても、言葉にならない暖かな波動が周囲に満ち、生者も死者も穏やかに 包み込んでいくのを感じた。ジッと見てると、その優しさに泣けてきた…合掌。 |
場所は石川県羽咋市一ノ宮町(リンクから地図へ) 折口信夫博士の墓の周辺になります |
折口信夫の墓 |
光がサンサンと降り注ぐ | 故人の名前は根元の小さなプレートに刻まれている |
小道に沿って、赤、黄色、白、ピンク、様々な色のバラが咲き乱れている |
こんな風に通り道に墓を作る人も欧米には多い。教会の廊下や出入り口もよく見れば墓だったりする。生前、無意識に 他人を踏みつけてきたことへの懺悔の念を込め、死後は人に踏まれ他人の為の道になりたい、そう願っているんだ |
奥の芝生にはバラがないけど、あそこもお墓!遺灰を大地にまいて欲しいと願った人の為の散骨地なんだ |
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