日本初のクラシックの作曲家! |
明治・大正期の音楽界の女性の第一人者。
クラシックの分野で日本最初の作曲家であり、滝廉太郎や山田耕筰の師であった音楽教育家・ピアノ奏者、幸田延(のぶ)は1870年4月19日に東京下谷で生まれた。ラフマニノフの3歳年上、シェーンベルクの4歳年上にあたる。父は幕府で大名に給仕を行う表坊主、長兄の成常は実業家、次兄は海軍軍人・探検家(千島探検)の郡司成忠、三兄は文豪の幸田成行(露伴)、弟に歴史学者の幸田成友、妹にヴァイオリニストの安藤幸(こう)という著名人一家。 文部省音楽取調掛(とりしらべがかり/のち東京音楽学校、現東京芸術大学)のお雇い外国人、アメリカ人メーソンは合唱指導で訪れた小学校で10歳の延に楽才を見出し、延の父母に「個人教授をしたい」と訴え、週末はメーソンの元へピアノを弾きに行った。 1880年、音楽取調掛に初めてメーソン持参のピアノが設置される。翌年、ムソルグスキー他界。 1882年、帰国前にメーソンが延の母親に音楽の専門教育を受けさせるよう助言し、延は12歳で小学校を卒業すると音楽取調掛に進む。ピアノの先生は前年に10年間の米国留学から帰国したばかりの“第一回海外女子留学生”瓜生繁子だった。翌年、ワーグナー他界。 1885年に15歳で音楽取調掛全科第1回卒業生となる。卒業演奏会ではピアノでウェーバーの『舞踏への招待』、ヴァイオリンでアイルランド民謡『ラスト・ローズ・オブ・サマー』を演奏した。卒業後は母校の研究科に在籍しつつ、お雇い外国人の助手となった。翌年リスト他界。 1887年(17歳)、音楽取調掛が改組され、日本唯一の音楽の専門教育機関「東京音楽学校」が設立される。延は東京音楽学校の初代外国人教師、オーストリア人ルドルフ・ディードリッヒ(ブルックナーの弟子)の助手をしていたが、ディードリッヒは延の楽才に驚き、海外留学を熱心に勧めた。 1889年、延はディードリッヒの推薦を得て19歳で日本初の文部省“音楽留学生”となり海外へ出国。アメリカ・ボストンのニューイングランド音楽院に1年(ドヴォルザークの渡米は3年後)、オーストリアのウィーン音楽院に5年、計6年留学し、作曲法、ヴァイオリン、ピアノを学ぶ。 ※これより18年前、1871年に永井(瓜生)繁子が明治新政府の第一回海外女子留学生5人の1人に選ばれ、1878年から名門女子大ヴァッサー・カレッジの音楽学校に入学している。つまり幸田延の場合は、「文部省音楽留学」としての第1号。 1872年(10歳)、コネティカット州でホームステイしながら初等・中等教育を受ける。他の2人もそれぞれのホームステイ先で同様に教育を受け、全員がキリスト教に入信した。 1892年(22歳)、読売新聞社の婦人音楽家の人気投票で(日本不在にもかかわらず)栄えある1位に輝く。2位は師の瓜生繁子。翌年、チャイコフスキー他界。 1895年、ウィーン音楽院時代に『ヴァイオリンソナタ第1番変ホ長調』(3楽章、未完※楽譜を池辺晋一郎が補筆)を作曲、これが日本人による初のクラシック音楽作品となる。同年25歳でウィーン音楽院を卒業し帰国、東京音楽学校(現東京芸術大学)の助教授に就き、主にピアノ教師として瀧廉太郎(1879-1903※延の一番弟子)、山田耕筰(1886-1965)、女性ピアニストの久野久(くの・ひさ/1886-1925※ウィーンで投身)らを育てた。翌年、ブルックナー他界。 ※『ヴァイオリンソナタ変ホ長調』 https://www.youtube.com/watch?v=yryTmyT_0QA (15分) 1896年(26歳)、帰朝披露演奏会でメンデルスゾーン『バイオリン協奏曲ホ短調』第一楽章の独奏、声楽ではシューベルト『死と乙女』、ブラームス『五月の夜』の独唱などを行った。 1897年(27歳)、『ヴァイオリンソナタ第2番ニ短調』(1楽章のみ)を作曲。同年、ブラームス他界。翌々年、ヨハン・シュトラウス2世他界。 ※『ヴァイオリンソナタ第2番ニ短調』 https://www.youtube.com/watch?v=K6hBx-Ue6eg (7分) 1899年(29歳)、教授に就任、のちに首席教授となる。 1903年(33歳)、瀧廉太郎が23歳で早逝。 1909年(39歳)、延は豪放な性格から「上野の西大后」と呼ばれる一方、成功者として嫉妬の対象となり、また生徒の風紀問題に悩まされ、東京音楽学校の教授を辞す。その後、翌年にかけて欧米を視察。 1912年(42歳)、帰国後、家庭音楽の普及を目指して自宅に審声会をを開き、ピアノの個人教授を行う。以後、東宮職御用掛となり皇族に音楽を教授。 1915年(45歳)、日本の女性の手による初の交響曲『大礼奉祝曲』を作曲。これは大正天皇御即位を祝した混声4部合唱付交響曲である。 1916年(46歳)、唯一の歌曲作品となる神奈川県立高等女学校(現・神奈川県立横浜平沼高等学校)校歌を作曲。冒頭で滝廉太郎の『荒城の月』の旋律を引用し、早逝した愛弟子を追悼した。 1931年(61歳)、音楽生活50周年を記念した祝賀演奏会にて、明治天皇の御製に曲を付けた「あさみどり」演奏。 1937年(67歳)、帝国芸術院設立とともに、女性初、楽壇初の帝国芸術院会員となる。 1946年6月14日に76歳で他界した。生涯独身。 延が育てた音楽家は、作曲家の瀧廉太郎(「荒城の月」「お正月」「花」)、本居長世(「赤い靴」「七つの子」「十五夜お月さん」)、ピアニストの久野久(くの・ひさ)、日本人で初めて国際的名声をつかんだオペラ歌手・三浦環など。皇族の音楽指導にも当たった。 〔墓巡礼〕 著名人一族の幸田家の墓所は東京都大田区にある日蓮宗の四大本山の一つ池上本門寺にある。延がクラシックの分野で日本最初の作曲家であったこと、日本初の文部省音楽留学生であることを知る日本人は少ない。兄の幸田露伴や姪の幸田文と同じ墓域に彼女も眠っている。墓石には「幸田延子墓」とあるが正しくは“延”。親しみを込めて「子」が付けられたのかも知れない。ヴァイオリン、ピアノ、声楽、すべてに秀でていたうえ、瀧廉太郎、山田耕筰、本居長世、久野久、三浦環を育てた日本音楽界のゴッドマザーであり、彼女の功績を考えると現在の知名度の低さはと理不尽なものに見える。 |
墓の側には『嗚呼天才音楽家 瀧廉太郎君碑』の石碑が建つ(改葬前の墓) | 終焉の地は史蹟に指定(大分市) |
終焉の地には瀧の銅像があり、若死にしたので台座にはギリシャ人ヒポクラテスの言葉『人生は短し芸術は長し』が彫られている(涙) |
日本初のピアノ曲を書き、西洋音楽の技法を使って日本人による最初の合唱曲を書いた明治期の作曲家・ピアニストの瀧廉太郎は、1879年8月24日に東京で生まれた。イタリアのレスピーギと同い年。山田耕筰の7歳年上。先祖は豊後(ぶんご)国日出藩の家老を代々つとめた上級武士。父は明治政府の内務官僚で、家にはヴァイオリンやアコーディオンがあり、幼い頃から西洋音楽は身近な存在だった。父は大久保利通に近かったために大久保暗殺後に失脚、地方官に左遷となった。父の転勤にともない、7歳で横浜の小学校に入学、その4カ月後に富山に転居し、9歳で東京に移る。 1887年(8歳)、東京音楽学校(現東京芸術大学)が設立される。 1889年(10歳)、この年、文豪・幸田露伴の妹で、後に廉太郎が師事する音楽家、幸田延(のぶ/1870-1946)が、日本初の音楽留学生として19歳でアメリカに1年、オーストリアに5年留学し、作曲法、ヴァイオリン、ピアノを学んでいる。 ※これより18年前、1871年に永井(瓜生)繁子が明治新政府の第一回海外女子留学生5人の1人に選ばれ、1878年から名門女子大ヴァッサー・カレッジの音楽学校に入学している。つまり幸田延の場合は、「文部省音楽留学」としての第1号。 1891年(12歳)、父の故郷・大分の竹田市に家族で移住。幸運なことに、通学する高等小学校には大分県では数少ないオルガンがあり、新たに赴任してきた教師はオルガンが弾けた。お陰で廉太郎は音楽の手ほどきを受けることができた。 1893年(14歳)、音楽の道に進みたいと望む廉太郎だが、父は“女子のするもの”と猛反対。当時、男子が音楽を職業にすることは考えられなかった。だが、従兄弟の建築士・瀧大吉(浅草の“十二階”凌雲閣を設計)が、廉太郎の夢を応援し父を説得してくれた。 1894年(15歳)、4月に音楽の勉強のため上京し大吉の家に身を寄せる。7月に日清戦争が勃発し、世間では軍歌がもてはやされていた。この軍歌こそが日本で最初に流行した西洋音楽であり、軍歌調の唱歌がもてはやされていた。 9月、廉太郎は東京音楽学校(現東京芸術大学)予科に開学以来最年少の15歳で入学する。ここで初めて“楽器の王様”ピアノと出会う。竹田にはなかった楽器であり、ピアノの美しい音色の虜になった。すぐにピアノと作曲の才能を発揮し、常にトップクラスの成績を保った。また、テノールの美声に恵まれたほか、クラリネット演奏にも優れた。廉太郎が学生服の第一ボタンだけ締めて通学すると、学友たちが真似をして大ブームになった。 1895年(16歳)、4月日清戦争終結。幸田延が留学中に『ヴァイオリンソナタ変ホ長調』(3楽章は未完、楽譜出版時に池辺晋一郎補筆)を25歳で作曲、これが日本人による初のクラシック音楽作品となる。同年、彼女はウィーン音楽院を卒業して留学から帰国し、東京音楽学校教授に就任。初めて本格的な音楽留学を果たした日本人であり、幸田が弾くヴァイオリンの美しい音色に感動した廉太郎は弟子入りを志願、一番弟子となった。幸田はピアノ演奏もうまく、廉太郎は師の家でピアノの個人指導を受けてみるみる上達した。(『知ってるつもり』で6歳差とナレーションがあったけど9歳差だと思う、汗) 1896年(17歳)、廉太郎は初めて演奏会に参加し聴衆の前でピアノを独奏、ベートーヴェンを弾いた。新聞評は好評だったが、この頃、幸田延の妹で、廉太郎より一つ年上の幸(こう/安藤幸1878-1963)の高いピアノ演奏技術に打ちのめされ、ピアニストになる夢が打ち砕かれる。同年、幸は音楽学校を首席で卒業し、その後も研究科に進み、勉学と演奏会を両立させていく。 1897年(18歳)、廉太郎は流行に乗った単純で明快な軍歌調の曲『日本男児』を書く。『日本男児』は雑誌『おんがく』に掲載されて評判になり、廉太郎は「作曲であれば一番になれるかも」と音楽の情熱を取り戻す。同年、ブラームスが他界。 1898年(19歳)、西洋音楽を理解するべく、がむしゃらにピアノを弾く毎日。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマンなどを演奏会で弾いた。7月に本科へ進み、廉太郎も“首席”で卒業する。9月に研究科に入り、ドイツ人の雇われ外国人教師ラファエル・フォン・ケーベルにピアノを学び、「音符の魂を心の耳で聞いて表現せよ」と指導を受ける。 1899年(20歳)、音楽学校から嘱託のピアノ教授となり2年間勤務し、後進の指導に当たる一方で、自分の勉強も続けた。同年、幸田幸が先に文部省の音楽留学生に選ばれドイツへと出発し、廉太郎はショックを受ける。ピアノの腕前では彼女に勝てない。一番になるため作曲で勝負することにした。 1900年(21歳)、廉太郎の創作活動が頂点に達する。現存する34曲のうち24曲が約1年半に生み出された。幸田幸が優れた音楽家であればこそ、廉太郎がこれだけの曲を書きまくったわけで、真によきライバルに巡り会えたと思う。 6月、廉太郎にも文部省から「ピアノ及び作曲研究のため3年間ドイツへの留学を命ず」と命令書が届いたが、留学で先を越された幸田幸へのライバル心から、文部省に異例の「出発延期願い」を提出した。ピアニストとして敗れた以上、作曲で誇るべき成果をあげてから留学したかった。折しも東京音楽学校が「中学唱歌」のための作品を募集しており、廉太郎はここに狙いを定めた。 当時の文部省唱歌は海外の民謡などに日本語の歌詞を無理にはめ込んだもので、日本語のアクセントと旋律が合っておらず、日本人の手による日本人のための唱歌が必要とされていた。応募条件は、事前に選ばれた100編の詩の中から、好きなものを選んで曲をつけるというもの。廉太郎は詩人・土井晩翠(ばんすい/1871-1952)の『荒城の月』を選んだ。晩翠は2年前に東京音楽学校から依頼されて中学唱歌としてこれを作詞した。晩翠は荒れ果てた城跡に立ち、昔の情景を想像してうたった。「春高楼(こうろう)の花の宴 めぐる盃かげさして 千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ」。8月、廉太郎は少年時代に父の故郷、大分県竹田市で見た岡城跡をイメージして哀愁のある旋律を書きあげた。 ※『荒城の月』 https://www.youtube.com/watch?v=SbLuhlq-qik (4分) ※スコーピオンズ『荒城の月』 https://www.youtube.com/watch?v=fXIr27OdDGE (3分)山田耕筰が「花の宴(えん)」の「え」の#をとったものが普及しているが、このライヴでは原曲の音階で再現されてる! 同じく8月、日本人による最初の合唱曲となった“春のうららの隅田川”で有名な二重唱『花』を含む組歌『四季』を作曲する。ピアノの伴奏がついた歌曲というのも日本で第一号だった。また、ピアノはただの伴奏でなく、シューマンのようにピアノ・パート自体に詩心があった。廉太郎はこの『四季』で「日本語の歌詞に作曲した曲を世に出すことによって日本歌曲の発展に寄与したい」と作曲に挑んだ。第1曲は『花』で、作詩は武島羽衣。第2曲は東くめ作詩「納涼」、第3曲は廉太郎作詩「月」、第4曲は中村秋香作詩「雪」からなる。「納涼」以外は合唱曲であり、のちに山田耕筰が「月」を独唱曲「秋の月」に編曲した。11月に歌曲集(組歌)『四季』として楽譜が刊行された。 10月1日、廉太郎は日本人作曲家による初めてのピアノ独奏曲『メヌエット』を作曲。 ※『メヌエット』 https://www.youtube.com/watch?v=egvGnKcjsao (2分) この年10月末、西欧音楽を血肉とするため洗礼を受けてクリスチャンになる。 1901年(22歳)3月、文部省編纂の『中学唱歌』(全38曲)が出版され、廉太郎が応募した『荒城の月』『箱根八里』『豊太閤』の3曲すべてが採用された。 翌4月、廉太郎は胸を張ってドイツに出発する。日本人の音楽家では男子初の国費留学生であり、幸田姉妹に続く3人目の留学生(瓜生繁子は音楽家の肩書きで留学していない)だった。作曲家としての海外留学も前例がなかった。5月18日にベルリン到着。東京音楽学校でピアノを指導してくれたケーベル先生が名門ライプツィヒ王立音楽院(メンデルスゾーン設立)あての推薦状を書いてくれたこともあり、無事に入学が認められ、和声法や対位法などの作曲技法を学んだ。他国の生徒に『荒城の月』をピアノ演奏すると「ブラームスの旋律のように素晴らしい」と讃えられ、廉太郎は作曲家としての自信を深める。だが、入学して2カ月が経った冬、オペラを観劇した帰りに風邪をひき、無理をして勉強を続けたことで風邪が慢性化し、入院先の病院で結核が発覚した。廉太郎は休学届を出して養生に努めたが回復の見込みが立たず、断腸の思いでクリスマスに音楽院を退学した。 この間、7月に『幼稚園唱歌』が刊行され『お正月』が採用されており、日本の最も古い童謡作品のひとつとなり、言文一致唱歌運動に貢献している。 ※『幼稚園唱歌』に廉太郎の「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」「桃太郎」もあるが、有名な「ポッポッポッ」は『鳩』、「ゆ〜きやこんこん」は『雪』、「も〜もたろさん」は別人の『桃太郎』なので要注意! 1902年(23歳)、ドイツ留学は3年の予定であったが、帰国命令が下されてしまう。滞在を1年3カ月で切り上げて7月にドイツを発つ。別れ際、ライプツィヒの日本人留学生約15名が廉太郎のために送別会を催してくれた。10月17日横浜に到着、帰国第一声は「やられたよ」。帰国後は東京の従兄・瀧大吉宅で療養に入る。病気の廉太郎に政府の対応は冷たく、教師の資格を取り消された。同年10月末、混声四部合唱曲『別れの歌』を作曲。詞は「名残を惜しむ ことの葉も/今はのべえで ただつらし/明日はうつつ 今日は夢/残る 想いを いかにせむ」。 瀧大吉は傷心の廉太郎を気遣い元気づけようとするが、その大吉自身が翌月に過労による脳溢血で急死する(享年40)。東京に居場所がなくなり、父の郷里大分にて静養するが、オルガンを借りて作曲は続けた。12月29日、徳川光圀の詩に曲をつけた独唱曲『荒磯の波』を作曲。 1903年、最後の力を振り絞り、曲を発表するあてもないまま死の4か月前に絶筆となるピアノ曲『憾(うらみ)』を作曲。“憾”とは未練や無念という意味であり、恨みの意味ではない。自筆譜の余白に「Doctor Doctor」と走り書きがあり、生を繋ぎとめようとする滝の叫びが伝わる。 ※『憾(うらみ)』 https://www.youtube.com/watch?v=b15iAiLgEYU (2分50秒) 同年6月29日午後5時、肺結核のため大分にて他界。わずか23歳10カ月という夭折だった。最期の言葉は枕元の父親に語った「お父さん、意気地なく、御恩の万分の一もお返しできず…お許し下さい」。葬儀後、父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られる。戒名は「直心正廉居士」。34曲が残っているが、死因が結核であるため没後に多くの楽譜が焼却されたといい、それもまた廉太郎の悲劇といえる。同年、幸田幸が帰国し、名ヴァイオリニストになっていく。 1916年、恩師の幸田延が自身の唯一の歌曲である神奈川県立高等女学校(現・神奈川県立横浜平沼高等学校)校歌を作曲。曲の冒頭が『荒城の月』とまったく同じ音型であり、愛弟子へのオマージュと見られている。 ※神奈川県立横浜平沼高校校歌 https://www.youtube.com/watch?v=-Q-T-G6gclw (2分)完全に一致! 1931年、東京音楽学校に作曲科が設置される。 2019年、廉太郎の手紙や譜面など200点以上の史料が竹田市(大分)に寄贈された。 ※『荒城の月』はベルギーで讃美歌になった。 ※廉太郎はテニスの名人でもあった。 ※大分竹田市で住んでいた家が瀧廉太郎記念館として残されている。 〔参考資料〕『知ってるつもり?!』(日テレ)、『ららら♪クラシック』(Eテレ) 《墓巡礼》 23年間という短い生涯のうちに、100年後も歌いつがれる名曲の数々をのこした廉太郎。日本で初めて近代西洋の作曲技法を用い、7歳年下の山田耕筰など以後の日本の歌曲の創作に大きな影響を与えた瀧廉太郎。絶筆となったピアノ曲『憾(うらみ)』は素晴らしい楽曲であり、豊かな歌心を持つ廉太郎が長生きしていたら、交響曲やオペラの分野にどんな傑作が書かれていただろうかと、早逝がこれほど残念な日本の音楽家はいない。墓石は100年近く大分駅から東1kmに位置する大分市金池町の万寿寺にあったが、没後108年の2011年、“祖先とともに葬りたい”という親族の意向を受けて、20km北の別府湾対岸に位置する瀧家の菩提寺、速見郡日出町の龍泉寺に改葬された。墓の側には『嗚呼天才音楽家 瀧廉太郎君碑』の石碑が建つ。 龍泉寺にはドイツ留学時に愛用していた火鉢も残る。大分市には廉太郎の銅像があり、その夭折を惜しみ台座にはギリシャ人ヒポクラテスの言葉『人生は短し芸術は長し』が彫られている。 |
ドイツに留学、日本人初の交響曲を作曲! |
「からたちの花」の楽譜と歌詞が 刻まれた石灯籠がお墓の前に |
2000年に初巡礼 | 10年後に再巡礼。「山田耕筰 眞梨子」は直筆 | 管理事務所から比較的に近い(2010) |
日本で最初に交響曲を作曲、日本の近代音楽界の最大の指導者となった山田耕筰は、1886年6月9日に東京で生まれた。この年ドイツではリストが他界している(ワーグナーは3年前に他界)。世代的にはストラヴィンスキーの4歳年下、プロコフィエフの5歳年上にあたる。父は医師。 1895年(9歳)、ウィーン音楽院に留学中の幸田延(のぶ)が『ヴァイオリンソナタ第1番変ホ長調』(3楽章、未完)を作曲、これが日本人による初のクラシック音楽作品となる。ウィーン音楽院を卒業し帰国、東京音楽学校(現東京芸術大学)の助教授に就き、主にピアノ教師として瀧廉太郎(1879-1903※延の一番弟子)、山田耕筰(1886-1965)、女性ピアニストの久野久(くの・ひさ/1886-1925※ウィーンで投身)らを育てた。翌年、ブルックナー他界。 1896年、10歳の時に父を亡くす。翌年、ブラームスが他界。 1898年(12歳)、姉の恒(つね)がイギリス人宣教師エドワード・ガントレットと結婚する。ガントレットは英語教師、オルガン奏者でもあり、耕筰は14歳のときに姉夫婦に引き取られ西洋音楽の手ほどきをうけた。16歳で最初の作品「MY TRUEHEART」を作曲。 1903年(17歳)、瀧廉太郎が23歳で早逝。 1904年(18歳)、東京音楽学校予科に入学。同年、母が他界。 1908年(22歳)に東京音楽学校(現・東京芸術大学)本科声楽科を卒業、研究科へと進み、作曲の道を志すが、東京音楽学校に作曲科がなく、そもそも日本に作曲の先生はまだいなかった。演奏者を見ても、外国人教師は音楽技術だけを教えるため、芸術的な内容のある演奏家はほとんど育っていないに等しかった。 1909年(23歳)、オラトリオ『誓の星』を作曲、小山内薫演出で上演。 1910年(24歳)、東京音楽学校のチェロ教師が三菱財閥総帥で音楽愛好家の岩崎小弥太(当時31歳、岩崎弥太郎の甥/1879-1945)と引き合わせてくれ、作曲を学ぶため岩崎から奨学金を受けて3年間ドイツに留学する。耕筰はベルリン国立音楽学校(ベルリン王立高等音楽学校/ベルリン王立芸術アカデミー)の作曲科でブルッフらに師事した。リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の弟子になりたかったが講師料が高額で断念する。同年、日本では岩崎が音楽鑑賞サークル「東京フィルハーモニー会」を設立し、スポンサーとなった。 1912年(26歳)、ベルリン時代に日本人による初めてのオーケストラ作品『序曲 ニ長調』を作曲。続いて卒業制作に日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。また、坪内逍遥原作のオペラ『堕ちたる天女』(全一幕)を作曲。このオペラの初演は17年後。 ※『序曲 ニ長調』 https://www.youtube.com/watch?v=1d_9yRe4b4k (3分13秒) ※交響曲『かちどきと平和』 https://www.youtube.com/watch?v=sY7He5w_5cY (36分10秒) 1913年(27歳)、留学最後の年、交響詩『曼陀羅(まんだら)の華』を作曲。非常に色彩的な管弦楽作品。作品のスケッチ(ピアノ譜)に曲想のもとになった詩が記されており、大意は「赤い夕陽が沈んだ後の湖畔、花の咲く音が聞こえるほど静かな暗黒の夜、遠方に明かりのついた宮殿が見える。老人がそこへ向かう姿が見え、私が老人を追うと、宮殿は明るく輝いたあと真っ暗になった。私の爪から血が垂れ、闇に曼荼羅の華が散っていた」。 ※『曼陀羅の華』 https://www.youtube.com/watch?v=mscdjnohI24 (7分37秒) 1914年(28歳)、日本に帰国。その途上でモスクワに寄り、スクリャービンの作品を聴いて深い感銘を受ける。1月帝国劇場で凱旋演奏会を行い、交響曲『かちどきと平和』を指揮する。その後、耕筰はドイツに戻ってオペラ『堕ちたる天女』を初演するつもりだったが、欧州で第一次世界大戦が勃発し、日本に留まることに。 1915年(29歳)、岩崎の依頼を受け、国内初の常設の交響楽団「東京フィルハーモニー管弦楽団」を組織し、指揮者として日本最初の交響楽演奏会を帝国劇場で開催、交響楽を定着させる活動を開始する。ところが、聴衆が集まらないうえ、秋に声楽家の永井郁子と結婚した後、すぐに帝劇の女優・村上菊尾(22歳)と不倫したことが発覚。激怒した岩崎が管弦楽団への資金を断ち、楽団は6回の定期演奏会を開いたのちに翌年2月解散に追い込まれる。同年、ソプラノ歌手の三浦環(1884-1946)がロンドンで「蝶蝶夫人」を演じて認められ、日本の生んだ初の世界的プリマドンナとなった。 1916年(30歳)、 郁子夫人と離婚し、村上菊尾と再婚。同年、小山内薫と〈新劇場〉を結成。舞踊詩劇『マリア・マグダレーナ』を発表。 1917年(31歳)12月から1年半ほど米国に滞在する。 1918年(32歳)、近衛秀麿の支援を受けて10月にカーネギー・ホールで東洋人として初めてコンサートを開催。ニューヨーク交響楽団を指揮して自作の交響詩『曼陀羅の華』『暗い扉』などを披露し、大成功を収めた。 1919年(33歳)、1月にカーネギーで第2回演奏会を行い、交響曲『かちどきと平和』、ワーグナー『ニュールンベルグのマイスタージンガー』前奏曲などを演奏。この時、憧れのリヒャルト・シュトラウスと5分ほど対面し、ベルリン時代に初めてオペラを聴いて大感激したこと、劇場から尾行したこと、弟子入りしたかったことを熱く語った。耕筰はニューヨーク近代音楽協会および全米演奏家組合の名誉会員に推挙された。22年後にその米国の人々と戦争になると知るよしもなかった。この米国滞在時、ニューヨークのクラブでプロコフィエフ(1891-1953)と芸術論をめぐって口喧嘩したエピソードが伝えられている。 1920年(34歳)、日本にオペラや交響楽を浸透させるため「日本楽劇協会」を設立(1919年説もあるが公式サイトに1920年とある)。12月帝国劇場でワーグナー『タンホイザー』の一部などを日本初演。 1921年(35歳)、交響曲『明治頌歌』を作曲。この年、文化学院音楽科主任となる。 ※『明治頌歌』 https://www.youtube.com/watch?v=eNrgeL-cSg8 (18分20秒) 1922年(36歳)、詩と音楽の融合、日本語による日本の歌を生み出すべく詩人北原白秋と共同編集の月刊『詩と音楽』誌を創刊。連作歌曲を発表し、国民音楽樹立運動を開始する。同年、歌曲『六騎』『曼珠沙華(ひがんばな)』を作曲。以後、耕筰と北原白秋が組んだ作品は生涯300曲にのぼる。 1923年(37歳)、関東大震災。その日、耕筰は遠く満州のハルビンにいた。雑誌『詩と音楽』は版元が焼失し休刊、13号の短命で終わってしまう。 1924年(38歳)、常設オーケストラを作ることを夢見た耕筰は4月に日本交響楽協会を設立。これに欧州留学から帰国した近衛秀麿が助力を約束してくれた。 1925年(39歳)、当時アジアで最高峰のハルビンの東支鉄道交響楽団を招き、歌舞伎座で「日露交歓交響管弦楽演奏会」を四夜にわたり成功させる。耕筰と近衛秀麿がタクトを振り、ハルビン在留ロシア系演奏家35名と日本人演奏家の合同チームが、ベートーヴェンの運命交響曲やチャイコフスキーの悲愴交響曲を奏でた。同年、北原白秋の詞で『からたちの花』を作曲。 1926年(40歳)、1月に日本交響楽協会の定期演奏会を開始し日本のオーケストラ活動の基礎をつくり上げる。半年で12回の演奏会を開いたが、耕筰が金銭にルーズであったために、秋になって不明朗経理による内紛が起き、近衛が協会を退会。楽団員のうち44人が近衛と行動を共にして新交響楽団(現NHK交響楽団)を設立し、耕筰のもとにはヴァイオリン奏者の黒柳守綱(当時18歳/黒柳徹子の父)などわずか4名だけが残った。耕筰はこの失敗で多額の借金を抱える。同年、湘南・茅ヶ崎に転居、約6年間暮らす。この茅ヶ崎で多くの童謡を生み出していく。 1927年(41歳)、三木露風の詞で『赤とんぼ』、北原白秋の詞で『この道』を作曲。『この道』は変拍子が取り入れられ、西洋音楽の作曲技法と日本語の旋律をあわせた耕筰独自の作曲法が完成する。同年、日本初のトーキー映画『黎明』の音楽を担当。1929年(43歳)、オペラ『堕ちたる天女』が歌舞伎座で初演される。 1930年(44歳)、同姓同名の人間が多いため、名前を耕作から「耕筰」へ改名。 1931年(45歳)、耕筰と近衛秀麿が和解。黒柳らは新響に合流する。同年、ピギャール座の招きにより渡仏し、当地でオペラ『あやめ』(全一幕)が完成。同年満州事変が勃発、以後、耕筰は100曲以上の愛国歌を書く。 1932年(46歳)、満州国国歌を作曲したが、軍政を批判する歌詞が含まれていたため当局の反応はよくなかった。「善守國以仁、不善守以兵(善く国を守るは仁をもってし、善く守らざるは兵をもってす)」。 1933年(47歳)、ソヴィエト政府より招請を受け、菊尾夫人と訪ソ。 1935年(49歳)、新響で内紛が起き、近衛が新響を追い出される。 1936年、50歳でフランスのレジオン・ドヌール勲章(1802年ナポレオン創設の勲章)を受賞、1956年に70歳で文化勲章を受賞した。同年、新交響楽団が赤坂公会堂で行ったベートーヴェン『交響曲第五番』を指揮、録音が残る。 ※山田耕筰指揮の運命交響曲 https://www.youtube.com/watch?v=A3WQXouKmPE (34分) 1937年(51歳)、耕筰の指揮でベルリン・フィルと交響曲『明治頌歌』を録音。同年、盧溝橋事件が起き日中戦争が始まる。耕筰は植民地支配は文化の同化政策が重要とし、“音楽が最も受け入れられやすく、占領地で日本の音楽を流行させるべき”と考える。愛国歌『南京にあがる凱歌』を作曲。 1940年(54歳)、“日本人による本格的なオペラを上演したい”、その思いがついに実現する。日本人が作曲した最初の3幕物で大規模なオペラ『夜明け』(のち『黒船』)を初演。完成は2年前。初演では序景“下田の盆まつり”がカットされ、2008年に完全初演が行われた。日米開戦の前年に、日米友好のオペラを上演することは、戦争にひたはしる潮流への抵抗とも考えられ、満州国国歌といい、耕筰を単純に軍国主義者とするのは正しくないようだ。『黒船』(夜明け)…舞台は1856(安政3)年の伊豆・下田。美人で歌が上手い芸者お吉は、尊王攘夷派の恋人・吉田から、アメリカ人駐日総領事暗殺の密命を帯びている。だが、2度までも領事に命を救われ、両者に愛が芽生える。吉田は激怒し、2人とも斬ろうとするが、天皇の「外国人を傷つけてはならない」という言葉を知り、一念を果たせず切腹する。同年、皇紀2600年祝典曲の1つ、交響詩『神風』を作曲。いわゆる神風特攻が始まるのは4年後であり、ここでいう神風はあくまでも護国の奇跡。 ※『神風』 https://www.youtube.com/watch?v=sGZ3imSOiEU (13分) この年、耕筰は演奏家協会を発足させ会長に就任した。警視庁は「興行取締規制」を施行、警視総監の許可を得たものだけに「技芸者之証」を交付し、これがなければ音楽家は戦時下で演奏会を開けなかった。 1941年(55歳)、太平洋戦争が始まる。情報局管轄下の「日本音楽文化協会」発足、副会長に就任。スローガンは「音楽は軍需品」。“軍需品”であるからこそ戦時下も音楽は生き延びた。「この非常時に音楽などけしからん」と封印されるところだった。音楽挺身隊(隊員3千人)を結成して自ら隊長となり、占領地での音楽指導にも携わった。軍では将官待遇となり、自作の軍服姿で行動したため戦後の「戦犯論争」の槍玉に挙げられる。同年、北原白秋と組み皇軍を讃える全五楽章の大規模カンタータ『聖戦讃歌』を作曲。この年、音楽世界社、月刊楽譜発行所、管楽研究会が合併され「音楽之友社」が創立。音楽言論の統合のもと、4つの音楽誌が併合され月刊『音楽の友』の発行が当局から認可された。 1942年(56歳)、北原白秋が57歳で永眠。耕筰は追悼文で作詞家を夫にたとえた。「私は彼が青年期の異国趣味、官能描写、浪漫的情感の噴出から次第に日本趣味に変わつて行き、詩の色彩も幻惑的な油絵風から水墨風に変化した時代に、自分の愛する夫を見出した訳である」。同年、『皇軍行進曲』を作曲。また、新交響楽団と日本放送協会を設立者として日本交響楽団(現NHK交響楽団)が設立される。 ※『皇軍行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=MqLwapwsDNo (3分) 1943年(57歳)、『アッツ島血戦勇士顕彰国民歌』を作曲。アリューシャン列島西端のアッツ島で山崎大佐率いる守備隊が全滅した。南方戦線では玉砕突撃が始まっていた。 ※『アッツ島血戦勇士顕彰国民歌』 https://www.youtube.com/watch?v=DrJ9JTiECKs(3分51秒) 1944年(58歳)、日本音楽文化協会会長に就任。 1945年(59歳)、『米英撃滅の歌』を作曲。8月敗戦。12月、戦時中の耕筰の行動に関し、東京新聞で音楽評論家・山根銀二が3日間連続で耕筰を批判、これに反論を書き戦犯論争が勃発する。山根は、1941年に発足した音楽文化協会は、軍官僚が音楽を軍国政策に利用するこへの音楽家の抵抗を保護することが任務であったのに、1944年に耕筰が会長になってからは「文化的意義の総てを喪失して全くの反動的な機関となり下がった」と批判。耕筰のことを、「憲兵及び内務官僚と結託して行われた楽壇の自由主義的分子並びにユダヤ系音楽家の弾圧」に協力した「典型的な戦争犯罪人」と糾弾した。耕筰は同じ新聞に「果たして誰が戦争犯罪者か〜山根氏に答える」を寄稿、反論した。 「山根君!私は今あなたの楽壇時評を拝見して唖然としています」「戦時中国家の要望に従ってなした愛国的行動があなたのいうように戦争犯罪になるとしたら、日本国民は挙げて戦争犯罪者として拘禁されなければなりません」「私も徳川侯(初代会長)も単なる置きものとして会の代表者という地位に据えられたに過ぎません。(略)吾々は理事としての資格も無く、理事会に発言する自由すらも正式にはなかった」 「この戦争を阻止し得なかった吾々日本人は一人残らず戦争に対して責任がないとはいえません。そうした吾々が果たして同胞を裁く資格があるでしょうか」 そして耕筰は文末に映画監督伊丹万作が敗戦の一年後に語った言葉をそのまま引用した。 「多くの人が、今度の戦争で騙されていたという。皆が皆口を揃えて騙されていたという。私の知っている範囲では俺が騙したのだといった人間は未だ一人もいない。騙されたということは不正者による被害を意味するが、しかし、騙されたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはいないのである。騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるよう勘違いしている人は、もう一度顔を洗い直さなければならぬ……我々は、計らずも、今政治的には一応解放された。しかし、今迄、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ、負担させて、彼等の跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われる時はないであろう。(伊丹万作)」 ※戦時中の耕筰については音楽批評家おかやままりこ氏の考察が非常に詳しい。労作に感謝。 http://www.hansen-jp.com/210okayama.htm 1948年(62歳)、脳溢血で倒れ体が不自由となる。1949年(63歳)、被爆者の追悼歌『南天の花』(副題“長崎の哀歌”)を作曲。耕筰は長崎の原爆で妻を失った白血病の医師・永井隆(1908-1951)の詩に曲を付け、この作品を永井家に捧げた。“南天”は永井の妻が好きだった花。2番は特に哀切の響きがある。「南天の花 散りぬ/ひそかに 散りぬ/おもかげは ほのかなるも の/この花の はかなさに似て/焼跡に われのみ生きて/南天の花に 泣きぬ」。 ※『南天の花』 https://www.youtube.com/watch?v=geRzsyARf9E (3分24秒)のちに耕筰夫人となる辻輝子が歌っている 1950年(64歳)、日本指揮者協会会長に就任、放送文化賞を受賞。 1951年(65歳)、「山田耕筰賞」を創設し、第1回を團伊玖磨『夕鶴』に贈る。同年、自伝『若き日の狂詩曲』刊行。この年、指揮者・作曲家の尾高尚忠が過労のため39歳で急逝し、これがきっかけとなり日本交響楽団が「NHK交響楽団」に改組。 1954年(69歳)、オペラ『黒船』上演。 1955年(69歳)、今井正監督の映画『ここに泉あり』に本人役で出演、「赤とんぼ」を演奏。 1956年(70歳)、文化勲章を受章。菊尾と離婚し、弟子で声楽家の辻輝子(当時49歳/1907-1973)こと山田眞梨子と再々婚。輝子は体が不自由になった耕筰を最後まで支え、耕筰は彼女の誕生日に『みぞれに寄する愛の歌』を贈った。 1965年12月29日、自宅にて心筋梗塞のため79歳で他界。日本での本格的なオペラ上演と常設オーケストラの設立を志し、日本の洋楽普及に多大な貢献をした、まさに日本西洋音楽史上の巨人だった。作風は後期ロマン派の流れをくむもので、作品はオペラ、交響曲、交響詩、歌曲、童謡、軍歌など多岐にわたった。欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家だ。「からたちの花」「赤とんぼ」「この道」など日本語のアクセントや抑揚を効果的に使った童謡、歌曲など、作品総数は約1600曲におよぶ。日本に西洋の作曲技術を導入し芸術歌曲の創始者となった。海外で作曲家ブロッホから「日本人であるのに、あなたは何故日本の音楽を書かないのです、何故歌麿の音楽を書き、北斎の音楽を書かないのです」と問われ、「もしもあなた方が私どもの国と、私どもの国民に対して、そうした要求をなさるのならば、何故私どもの鎖国の夢を破ってまで、あなた方欧米人の尊い文明の恵みを私どもに与えたのですか」と答えたという。 ※夏の甲子園『入場行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=VBq4sLV7HZ4 (2分40秒) ※『弦楽四重奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=vU5lnNlpSFY (5分)素晴らしい! 〔墓巡礼〕墓所は東京都あきる野市の西多摩霊園。JR五日市線・秋川(あきがわ)駅から北に約2km。約4km東の福生(ふっさ)駅からだと土日に無料の送迎バスが1時間に3本出ているけれど、平日は1本しかないので要注意。僕はいつも、最寄りの秋川駅から歩いてる。広大な墓地だが墓はわかりやすい。門を入ってすぐ、管理事務所の近くに笑顔の耕筰先生と略歴が彫られた山田耕筰碑、そして「赤とんぼ」の楽譜と自筆歌詞が刻まれた歌碑がある。そこから坂道を上って行くと左手に耕筰先生の胸像があり、右手に夫妻の墓所がある。墓石には直筆で「山田耕筰 眞梨子」と入っている。戒名は「響流院釈耕筰」。付近には「からたちの花」の楽譜と歌詞が刻まれた石灯籠も建つ。同じ霊園に俳優・松田優作の墓もある。ちなみに、多くの歌曲・童謡でタッグを組んだ国民的詩人・北原白秋(1885-1942)の墓は多磨霊園にある。神道式の巨大墓で、台座には大きく「北原白秋墓」と横書きで彫られている。 ※耕筰はかなり気が強かったらしくプロコフィエフと喧嘩したとか、幾つかエピソードが伝えられている。海外で作曲家ブロッホから「日本人であるのに、あなたは何故日本の音楽を書かないのです、何故歌麿の音楽を書き、北斎の音楽を書かないのです」と問われ、「もしもあなた方が私どもの国と、私どもの国民に対して、そうした要求をなさるのならば、何故私どもの鎖国の夢を破ってまで、あなた方欧米人の尊い文明の恵みを私どもに与えたのですか」と答えたという。 |
飛鳥時代からの名家! | 手形付きの墓が指揮者らしい | ナチスからユダヤ人音楽家を守った |
山田耕筰と並ぶ 戦後、各地を回って子ども達に生の楽器の音を聴かせた90余の交響楽団を指揮し、日本クラッシックを育てた日本音楽界の先駆者としてオーケストラ音楽の普及と向上につとめた指揮者、作曲家。1898年11月18日に
東京で生まれる。五摂家筆頭の近衛家は飛鳥時代から続く藤原氏の直系。後陽成天皇の子孫。父は学習院院長・貴族院議長などを歴任した華族の近衛篤麿(1863-1904)。7歳年上の異母兄は首相となった近衛文麿(1891-1945)。弟は雅楽研究家の直麿。6歳で父を亡くす。 1915年(17歳)、ドイツの作曲留学を終えて前年に帰国した12歳年上の山田耕筰(当時29歳/1886-1965)に作曲を学び始める。東京音楽学校にあった交響曲を片っ端から写譜した。学習院を経て東大文学部に進むが中退。 1920年(23歳)、毛利泰子と結婚。 1923年(25歳)、ヨーロッパへわたり、ベルリンで巨匠エーリッヒ・クライバーに指揮法を師事し、パリでは作曲を学んだ。この渡欧には秀麿の助言でドイツ留学を決めた当時21歳の斎藤秀雄が一緒に渡航している。同年、関東大震災で津波に2歳の長男を奪われる。 1924年(26歳)、自費でベルリン・フィルを雇い、アジア人として初めてこの世界最高峰のオーケストラを指揮し、ヨーロッパでの指揮者デビューを果たした。9月に帰国。半年前に師の山田耕筰が「常設オーケストラの設立」という夢を叶えるべく日本交響楽協会を設立しており、秀麿は助力を約束した。 1925年(27歳)、山田と共に当時アジアで最高峰のハルビンの東支鉄道交響楽団を招き、歌舞伎座で「日露交歓交響管弦楽演奏会」を四夜にわたり成功させる。耕筰と秀麿がタクトを振り、ハルビン在留ロシア系演奏家35名と日本人演奏家の合同チームが、ベートーヴェンの運命交響曲やチャイコフスキーの悲愴交響曲を奏でた。 1926年(28歳)、1月に日本交響楽協会の定期演奏会を開始し山田と日本のオーケストラ活動の基礎をつくり上げる。半年で12回の演奏会を開いたが、山田が金銭にルーズであったために、不明朗経理による内紛が起き、秀麿が協会を退会。秀麿は日本放送協会の援助のもと、彼についてきた楽団員44人らと新交響楽団(現NHK交響楽団)を結成する。以降、10年間にわたって同楽団の常任指揮者をつとめ、ベートーベンやモーツァルト、マーラーの交響曲を日本初演するなど、日本に交響楽を根付かせる運動に奔走する。また欧米に演奏旅行を12回行い、日本のオーケストラの基礎を築くとともにその育成に大きな功績を果たした。 1927年(29歳)、2月20日、新交響楽団は初めての定期演奏会を秀麿の指揮で開催。1928年(30歳)、新交響楽団と初のセッションを行い『君が代』『扶桑歌(陸軍分列行進曲)』をレコード録音する。秀麿が行った『君が代』の編曲がオリンピックの表彰式で採用されるなどスタンダードとなる。 ※『君が代』 https://www.youtube.com/watch?v=hj0T1KeckaM (2分16秒) ※『扶桑歌』 https://www.youtube.com/watch?v=lMoHr9W2wq8 (3分) 1930年(32歳)、秀麿は当時のヨーロッパ現代音楽の紹介にも力を入れており、この年新交響楽団とマーラー『交響曲第4番』のレコード録音を行い、マーラーの交響曲を世界初録音した。秋からヨーロッパに単身演奏旅行に出かけ、フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、E・クライバーらが指揮するベルリン・フィルなどの演奏を聴き、日本とレベルが違い過ぎることに焦りを覚える。結果、帰国後に荒っぽい楽団員のリストラをやり、クビになった約20名は「コロナ・オーケストラ」(のち東京放送管弦楽団)を新たに結成する。秀麿は新交響楽団に4名の女性楽員を入れ、日本のプロ・オーケストラに初めて女性を採用した。 ※マーラー『交響曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=OZZZTB04E_A (10分25秒) 1931年(33歳)、雅楽『越天楽(えんてんらく)』をオーケストラに編曲、モスクワにて自身の指揮で初演した。邦楽器の龍笛はフルートに、ひちりきはオーボエに、箏はピアノとハープ、笙(しょう)は弦楽器群のように雅楽の楽器を音色に従って西洋の楽器に代え、国際的に高く評価された。秀麿はこの作品をひっさげて欧州50都市で100回以上も演奏した。 ※近衛秀麿『越天楽』 https://www.youtube.com/watch?v=d7ZzZcbH3pg (9分) 1933年(35歳)、再びドイツを訪れる。まさにこの年、ヒトラー内閣が成立しドイツはナチスに支配されていく。同年、兄文麿が貴族院議長になる。 1934年(36歳)、スーザ『星条旗よ永遠なれ』を新交響楽団と録音。メリハリがあり歯切れのいい名演。7年後に真珠湾攻撃を敢行、日米開戦に至っており、悲劇を避けられなかったことを無念に思う。 ※『星条旗よ永遠なれ』 https://www.youtube.com/watch?v=lU71E2yfh2g (3分18秒) 1935年(37歳)、ラヴェル『ボレロ』を新交響楽団と録音。同年、不明朗経理問題をきっかけに秀麿は新交響楽団を退団。 ※『ボレロ』 https://www.youtube.com/watch?v=FgZCMY5gkHQ (3分36秒) 1936年(38歳)、アメリカのストコフスキー&フィラデルフィア管弦楽団から客演要請があり、広田弘毅首相によって音楽使節に任命され再び海外に向かう。海外では「プリンス・コノエ」と呼ばれ、アメリカではトスカニーニとも面会した。11月にはヨーロッパへ移りBBC交響楽団や各地の歌劇場などに客演。以降、100以上の主要オケに客演し、フルトヴェングラー、R・シュトラウス、ケンプ、シゲティらとも交流した。同年、新交響楽団の常任指揮者にポーランド出身のヨーゼフ・ローゼンシュトックが着任し、演奏技術を大きく向上させ、現在のN響の高技術に繋がる。 1937年(39歳)、兄文麿の政権下で日中戦争が勃発。アメリカの対日感情悪化で以後の客演は欧州がメインになる。 1938年(40歳)、翌年にかけミュンヘン、デンマーク、スウェーデンなどで指揮。 1939年(41歳)、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まる。秀麿はドイツ留学時代の友人からユダヤ人迫害があまりに酷いため力を貸してほしいと頼まれた。後年こう記している。「ユダヤ人に関してナチスドイツ政府の為すことに絶対に協調できない。力の及ぶ限りユダヤ人の国外脱出を援助することを決意した」「1940年以降、スイス、オランダなどの越境の危険を侵しながら出国に成功したユダヤ人の数は10家族を超えた」。 1940年(42歳)、ミュンヘン、ベルリン、ウィーンなどで指揮。兄文麿の内閣はドイツに接近し日独伊三国同盟を締結する。秀麿は“音楽大使”の肩書きを与えられ、日独友好の架け橋となっていく。その裏側で、ドイツ政府にも日本政府にも隠れてユダヤ人音楽家を支援していた。 1941年(43歳)、ヘルシンキで指揮し、シベリウス(1865-1957)と親交を結ぶ。同年、兄文麿は米国との戦争を避けるため第3次組閣を行ったが、東条陸相の対米主戦論に敗れて辞職する。12月に日米開戦。 1942年(44歳)、ブレスラウ、ハンブルクなどドイツで客演。国威発揚のため、ナチスのゲッベルスが指定する楽曲を演奏させられることが増えていく。 1943年(45歳)、ベオグラード、ソフィアで客演。秀麿によるユダヤ人救出の噂が、ゲッベルスや駐ドイツ日本大使・大島浩の耳に入り、ドイツで指揮活動ができなくなり、8月にベルリンを離れ、ポーランド国境近くの町に転居する。9月、ポーランドのクラクフなど3都市で演奏。ワルシャワ公演をポーランド人だけのオーケストラで行い、聴衆のナチス将校に演奏を叩きつけた。ポーランド人音楽家はこのオーケストラがあったお陰で強制労働を免れたという。10月、ベルギー・ブリュッセルで客演。 1944年(46歳)、1月パリで客演。戦下の音楽家のシェルターにするべく、4月パリでユダヤ人音楽家が加わった自分のオーケストラ「コンセール・コノエ」を設立、連合軍がノルマンディーに上陸する6月まで活動し、ギャラを払い、団員の命と生活を保護する。 1945年(47歳)、4月ドイツの敗戦によりライプツィヒでアメリカ軍に投降、抑留される。8月、日本が降伏。12月にようやく帰国したが、直後の16日、戦犯出頭命令を受けた兄文麿が服毒自殺する。 1946年(48歳)、創設されたばかりの東宝交響楽団(現・東京交響楽団/テレビ『題名のない音楽会』のオケ)の指揮者をつとめる。 1948年(50歳)、日本芸術院会員。1949年(51歳)、子ども達に生の楽器の音を聴かせるため、知人の音楽家を集めて学校での音楽教室を主活動とする「エオリアン・クラブ」を結成。 1950年(52歳)、東宝争議のあおりをうけ、秀麿は東宝交響楽団から去る。 1951年(53歳)、指揮者・作曲家の尾高尚忠が過労のため39歳で急逝。古巣の新交響楽団は日本交響楽団を経て「NHK交響楽団」に改組。 1952年(54歳)、エオリアン・クラブを発展させた「近衛管弦楽団」を結成。 1956年(58歳)、近衛管弦楽団を「ABC(朝日放送)交響楽団」に改組。同年、36年を共にした泰子夫人と離婚。そして、近衛管弦楽団の事務をしていた長井和子(23歳)と再婚。 1960年(62歳)、ABC響のヨーロッパ演奏旅行が挙行され、公演は高い評価を受けたが、途中でプロモーターが逃げて資金が底をつき、ほうほうのていで翌年帰国する。秀麿は再びフリーの指揮者になった。同時期に海外遠征していたNHK交響楽団は大成功を収めた。 1965年(67歳)、山田耕筰が79歳で他界。 1966年(68歳)、音楽学校設立に関する手形詐欺事件に巻き込まれ、金融業者から手形をだまし取られ、6000万円の損害賠償を命じられる。最終的に負債を清算するため赤坂の自宅を手放す。 1967年(69歳)、N響の第484回、第485回定期演奏会に出演。 1968年(70歳)、N響とともに「明治100年記念式典」に出席。同年7月に民社党から参院選に立候補するが落選。 1967年(69歳)、自伝『風雪夜話』出版。 1973年6月2日、東京にて就寝中に脳内出血を起こし急死。享年74歳。追悼演奏会で前年に分裂した「日本フィル」と「新日本フィル」双方の楽員が、立場を超えて共に演奏した。主な編曲作品に雅楽『越天楽』、ショパン『ピアノ協奏曲第1番』、ムソルグスキー『展覧会の絵』、シューベルト『弦楽五重奏曲D.956』、ベートーベンの交響曲など。NHK交響楽団の前身など複数のオーケストラ設立や育成に関わったにもかかわらず、どれも手元には残らず最後はフリーの指揮者となる不遇の晩年を過ごした。だが、生涯にわたって日本のオーケストラの普及に尽力し、各地の学校を訪れて音楽教室を開いたことなど、音楽界への貢献は計り知れないものがある。欧米でも指揮者としての力量は批評家に「日本人がここまで西洋の音楽を理解していることに驚く」など高く評価された。100団体近いオーケストラを指揮し続けた。 ※童謡『ちんちん千鳥』を作曲。 https://www.youtube.com/watch?v=8K-vNtXDV9c ※編曲した『君が代』の著作権代をNHKが支払わなかったため受信料を払わなかったという。 ※秀麿の恋愛黒歴史。ドイツ陥落時の投降後、米軍の尋問で子どもの数を聞かれた際は、澤蘭子(映画女優)、北澤栄(ソプラノ歌手)、坪井文子(時計商の娘)、ドイツ人女性など複数の愛人がいたため沈黙した後「今何人いたか数えているところだ」と言い放った。その後、秀麿はシベリアに抑留される愛人澤蘭子と娘・曄子を見捨てて外交特権で帰国。娘は帰国前に5歳で夭折、蘭子は激怒し、月刊「読売」に手記「愛に破れて」を掲載、月刊「青春タイムス」にはペンネームで暴露小説「実名小説色魔近衛秀麿」を発表した。 ※法政大学校歌、立命館大学校歌を作曲。 〔参考資料〕ラジオ「OTTAVA Navi」(2017.12.16 ゲスト: 菅野冬樹『戦火のマエストロ 近衛秀麿』著者) https://www.youtube.com/watch?v=1a36bsRm0NE 〔墓巡礼〕 墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺。西武池袋線の桜台駅から北西1.5km。広徳寺は江戸時代に諸大名の帰依を受け、「びっくり下谷(したや)の広徳寺」と言われるほど大いに栄えた。墓地には近衛秀麿だけでなく、剣豪の柳生一族や、茶人の小堀遠州、織田信長の子孫、猛将立花宗茂の墓などがある。周囲は安土桃山や江戸時代の武将、大名の墓が多いので、近衛秀麿だけが昭和の人で不思議な空間になっている。墓石には漢字と英語で自筆の署名が入り、驚いたことに左手の手形が押してある。力士の墓に手形があるのは見たことがあるけど、力士以外では初めて見た。左手だけがあることで、右手は今もタクトを握って颯爽と指揮をしているように見えた。 |
兄の尾高鮮之助(1901-1933)の墓。東洋美術研究家 | 「尾高尚忠墓 妻節子墓」とある |
墓石に刻まれた楽譜。これは何の曲だろう? |
墓域にヨハネ福音書の石碑 「われは甦りなり生命なり」 |
昭和時代の指揮者、作曲家の尾高尚忠(ひさただ)は1911年9月26日に東京で生まれた。祖父は富岡製糸場の所長。父は漢学者・銀行家、母は渋沢栄一の三女、兄は法学者。兄も音楽が好きで、尚忠が学生時代にトイレでベートーヴェンの第九を口笛で吹いたところ、外へ出ると兄が激怒しており、「ベートーヴェンを便所の中で、口笛で吹くとは何事だ」とビンタされたという。 1931年(20歳)、幼少から音楽に親しんできた尚忠は成城高校を中退しウィーンに留学、ウィーン音楽院で作曲と指揮法を学ぶ。 1932年(21歳)、一時帰国し武蔵野音楽学校で教鞭を執る傍ら、ドイツ人音楽家クラウス・プリングスハイム(1883-1972※マーラーに指揮を師事)に作曲を学び、日本滞在中のピアニスト、レオ・シロタ(娘は日本国憲法の人権条項作成に関わったベアテ・シロタ・ゴードン)にピアノを師事した。 1934年(23歳)、再度ウィーンに留学。 1936年(25歳)、ウィーン音楽院の卒業課題用にピアノ曲『日本組曲』を作曲。 1938年(27歳)、『日本組曲』を管弦楽版に編曲し、自身がブダペストで初演。各楽章の副題は「朝に」「遊ぶ子供」「子守歌」「祭り」。この曲は出世作になると共にワインガルトナー賞に輝き、それが契機となって名匠フェリックス・ワインガルトナー(1863-1942)の指揮科に入ることができた。「遊ぶ子供」は中間部に「もういいかい」の童歌が引用されている。 ※『日本組曲』管弦楽版 https://www.youtube.com/watch?v=cbXL7wS4_7M (15分) 同年、交響詩『蘆屋乙女(あしやおとめ)』を作曲。万葉集にみえる“菟原処女の伝説”が楽想のもと。芦屋(兵庫)の乙女が、2人の男から求婚されて“私には選ぶことができない”と自ら命を絶ち、男達も後を追って自決するというもの。また、この頃からベルリン・フィルやウィーン交響楽団の指揮台に立つなど、ヨーロッパ各地で指揮者として活躍する。 1940年(29歳)、ウィーン音楽院作曲科のマスタークラスを優等で卒業し帰国する。 1941年(30歳)、新交響楽団(現NHK交響楽団)を指揮し、日本デビューを飾る。 1942年(31歳)、新交響楽団と日本放送協会を設立者として、日本交響楽団(現NHK交響楽団)が誕生、常任指揮者にユダヤ系ポーランド人のジョセフ・ローゼンストック、1歳年下の山田一雄(1912-1991)と共に就任。戦時下で活動が制限されていたローゼンストックを支えると同時に、日本に交響曲を普及させる交響楽運動に貢献した。 1944年(33歳)、長男・尾高惇忠(あつただ)が生まれる。惇忠は作曲家となり、東京芸術大学名誉教授、桐朋学園大学特任教授に就任。門下に指揮者の広上淳一。妻の尾高綾子は声楽家。同年、妻の親族(義弟/チェロ奏者)のために『チェロ協奏曲』を作曲。 ※『チェロ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=NZf7T1w_pPg (39分) 1947年(36歳)、次男・尾高忠明が生まれる。忠明は桐朋学園大学で斎藤秀雄に師事して指揮者となり、NHK交響楽団正指揮者、札幌交響楽団名誉音楽監督、大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督、東京芸術大学音楽学部指揮科名誉教授に就任。妻の尾高遵子はピアニスト。 1948年(37歳)、『交響曲第1番』を作曲し、「平和の鐘楼建立会」が公募した「平和のために世界に送る交響曲懸賞」に応募、團伊玖磨の交響詩「平和来」(「挽歌」)を押さえ第1位に輝いた。 ※尾高尚忠『交響曲第1番』のフィナーレ(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=yhBmMDHN98Q#t=17m02s 同年、最後の完成作品となる『フルート協奏曲』(室内楽伴奏版)を作曲、尚忠の指揮で初演された。当時フルート奏者として活躍していた森正の依頼で書かれたもの。 1951年2月16日、尚忠は極度の過労のために39歳で急逝する。死因は出血性上部灰白質脳炎。死の直前、尚忠は自身の日々を“強行軍的演奏旅行”と呼んでいた。翌3月、山田一雄指揮&日本交響楽団による「尾高尚忠追悼演奏会」が催され、ここで『フルート協奏曲』の管弦楽伴奏版が初演された。この作品は終結部の数小節のオーケストレーションだけが未完であったため、尚忠の門下で当時19歳(誕生日前)の林光(ひかる/1931-2012)が補筆完成させた。 ※管弦楽伴奏版『フルート協奏曲』フルートはジャン・ピエール・ランパル!魅力的な多数の旋律と躍動感にあふれた傑作だ。 https://www.youtube.com/watch?v=LkvUwxOdIPY (14分39秒) 尚忠の早逝を惜しんだ音楽評論家・野村光一は「尾高を殺したのはNHKである。NHKがすべて面倒を見ていれば、楽員は多忙から解放されたはずだ」と新聞に寄稿、これをきっかけに、尚忠の死の約半年後、日本交響楽団はNHKの全面支援を受け「NHK交響楽団」に改称された。翌年、功績を記念して日本人作曲家に与えられる「尾高賞」が設けられる。妻の尾高節子(みさおこ)はピアニスト。2点の録音、1点の映像のみが残る。 ※尚忠は作曲家ガーシュウィン(1898-1937)と誕生日が同じだった。ガーシュウィンを描いた映画『アメリカ交響楽』を鑑賞後、妻に「おれもガーシュインと同じく39歳で死ぬよ」と語ったという。 〔墓巡礼〕 指揮にも作曲にも才能を持ちながら39歳で急逝した尾高尚忠は、斎藤秀雄と同じ多磨霊園に眠る(12区1種1側)。長男・惇忠は現代音楽作曲家で東京芸大名誉教授、次男・忠明は指揮者として活躍中。墓所は真正面に東洋美術研究者の兄・尾高鮮之助が眠り、右手に尾高尚忠・節子夫妻の洋型の墓が建つ。墓碑には楽譜がはめ込まれ、左手には十字架の彫刻と共に「われは 甦えりなり 生命なり ヨ ハネ11-25」と彫られた石碑がある。最後の完成作となった『フルート協奏曲』は、フルート奏者が音楽を奏でる喜びが聴き手に伝わってくるような心が踊るような楽想。もっとその作品に触れたかった! ガーシュウィン(1898-1937)と誕生日が同じのーシュウィンを描いた映画『アメリカ交響楽』を鑑賞後、妻に「おれもガーシュインと同じく39歳で死ぬよ」と語ったという。 |
「夕鶴」「ぞうさん」を作曲 |
名門・團家の墓所。右手前は三井の 総帥、琢磨。中央が伊玖磨の墓(2009) |
翌年に再巡礼。境内奥の花屋さんの左側が墓所(2010) |
墓域全景(2010) | 中央「團家累代墓」の背後に名があった |
作曲家、エッセイストの團伊玖磨は1924年4月7日、東京に生まれる。祖父は三井財閥を指導した実業家の団琢磨、父は元参議院議員、現・日産自動車社長の男爵・団伊能。妹はブリヂストン会長石橋幹一郎の妻。7歳からピアノを学び始める。 1932年(8歳)3月、血盟団事件が起き祖父・團琢磨が暗殺される。この事件で物質的な栄達への疑問を抱くようになり、後に芸術を志す動機のひとつとなった。 12歳のときに「ピアノを練習するなら自分で書いた曲をやった方が楽しい」と初めてピアノ曲を作曲し、これを皮切りに歌曲なども書くようになった。父は作曲を志す息子の将来を不安に思い、山田耕筰の口から作曲の道の険しさを伝えてもらい断念させようと、12歳(要検証。『ステージドア』のインタビューだと10代後半っぽい?)の伊玖磨を耕筰に会わせた。父は前日、耕筰に「先生反対して下さいよ」と電話していた。耕筰は「何か書いたのを持ってきたか」と言うので、伊玖磨は自信作を渡した。すると耕筰はロクに見もしないで「やりたまえ、そして、やるからには、最も正統的な勉強を積んで、最も本格的にやりためえ」と激励した。後日、伊久磨が「どうして楽譜を見ずにあんなことを言ったのか」と尋ねると「君の真剣な目だ。“作曲をやめろ”と言ったら、君は死んでいただろ?」とのことだった。伊玖磨は作曲で生きる決心をし、耕筰を師と仰ぐようになる。ある本に「日本でまともな作曲家は山田耕筰くらい」という一文を読み、自分がこの分野を開拓しようとさらに意思を固める。 1941年(17歳)、太平洋戦争が勃発。 1942年(18歳)、東京音楽学校(現東京芸術大学)作曲部に入学、下総皖一(しもふさ・かんいち)に和声学と対位法、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学ぶ。学外で山田耕筰に作曲を師事した。耕筰は「日本語の中に内在する音楽をどう引き出すか」ということを重視した。 1944年(20歳)、音楽学校に在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。バスドラムを担当し、芥川也寸志と編曲も担当する。 1945年(21歳)、敗戦で学業に復帰し、東京音楽学校を卒業。諸井三郎に対位法、楽曲分析を学ぶ。 1946年(22歳)、近衛秀麿(1898-1973)に管弦楽法、指揮法を学ぶ。この年、管弦楽付き独唱曲『二つの抒情詩』で日本音楽連盟委嘱コンクールに入選。 1947年(23歳)、焼け野原になった日本がやがて花で埋まることを願って歌謡曲『花の街』を作曲、最初に注目される。 ※『花の街』 https://www.youtube.com/watch?v=EgPLCtaZuEA1948年(24歳) 1948年、NHK専属作曲家となる。当時の童謡は商業的利益が優先された「レコード童謡」が多く、幼児の生活からはかけ離れがちだった。レコード童謡の量産が質の低下をもたらしており、伊久磨は「若い世代が新しい童謡を作り出さなければならない」と自負、自ら幼児番組を志望してラジオ『幼児の時間』を担当した。また、ラジオ番組『歌のおばさん』では本格派の作曲家と歌唱経験の豊かな「おばさん」が起用され、童謡の名称を用いず〈こどものうた〉と呼ばれ、中田喜直(1923-2000)が作曲した『ちいさい秋みつけた』『めだかの学校』のように簡単な旋律でありながら芸術味のある歌が誕生した。 1949年(25歳)、『交響曲第1番イ調』を作曲。木下順二作品の民話劇『夕鶴』の演劇付帯音楽を作曲。その後、木下にオペラ化を希望したところ「台詞を一切変えない」という条件で許可が出た。 ※『交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=-5uhaNhG-DM (23分) 1950年(26歳)、NHK創立25周年記念管弦楽曲募集コンクールで『交響曲第1番』が親友・芥川也寸志の『交響管弦楽のための音楽』と共に特賞(第1位)を受賞、作曲家としてデビューし注目を集める。『交響曲第1番』は近衛秀麿指揮、日本交響楽団(現NHK交響楽団)が初演。同年、ラジオ『幼児の時間』のために“あんまりいそいでごっつんこ”の童謡『おつかいありさん』を作曲。 1951年(27歳)、木下順二の戯曲を元にした初のオペラ『夕鶴』が完成。同年、指揮者・作曲家の尾高尚忠が過労のため39歳で急逝。これがきっかけとなり日本交響楽団が「NHK交響楽団」に改組。 1952年(28歳)1月30日、藤原歌劇団によってオペラ『夕鶴』が初演される。本作で毎日音楽賞、山田耕筰賞など数々の賞を受賞。以来、600回以上も公演され、『夕鶴』は日本の国民的オペラとなった。初演5年後にスイス・チューリッヒで上演され、海外で最初に公演された日本のオペラとなっている。ドイツ(1959)、アメリカ(1960)など世界7カ国で上演され好評を博した。同年、童謡『やぎさんゆうびん』を作曲。 『夕鶴』…百姓の“与ひょう”が罠にかかった鶴を助けると、「女房にしてくれ」と女性“つう”が訪ねてくる。つうが織った布は、「鶴の千羽織」と呼ばれ、知人の“運ず”を介し高値で売られ、与ひょうにもお金が入った。“惣ど”と運ずは、もっと織らせろ与ひょうをけしかけ、お金の魔力に取り憑かれた与ひょうは、つうを酷使した。「織ってる姿を覗かない」という約束を破って姿を見ると、自らの羽を抜いて生地に織り込む鶴の姿があった。正体を見られたつうは悲しみながら「さようなら」と天に飛び去る。 ※伊久磨「(夕鶴について)お金というものが人間の心を汚し果ててしまう。すると、純粋な人はそこにいられなくなるという、世界中に通用するひとつの寓話。つうの美しさと、お金の汚さの相克(そうこく)」 ※『夕鶴』つう役ソプラノ鮫島有美子https://www.youtube.com/watch?v=5_JzKntlwNk(123分)600回公演記念、伊久磨さんの解説つき 1953年(29歳)、1歳年下の芥川也寸志(1925-1989)、5歳年下の黛敏郎(1929-1997)と自作発表のための「三人の会」を結成(3人なら公演費用が3分の1になる)。1962年まで5回演奏会を開催し、作品発表会のたびに注目を浴びた。同年、童謡『ぞうさん』を作曲。 1954年(30歳)、この頃(未確定)、6歳年下の作曲家・武満徹が結婚し、武満夫婦が病弱であったことから鎌倉の自宅を提供し、自身は横須賀市に転居した。 1955年(31歳)、日本の民族的題材を扱ったオペラ『聴耳頭巾(ききみみずきん)』を作曲、初演。 1956年(32歳)、『交響曲第2番』を作曲。 ※『交響曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=Klq8hbPG1vk (50分)雄大である! 1958年(34歳)、オペラ『楊貴妃』(大佛次郎台本)初演。慶應義塾創立百周年記念式典のため混声合唱と管弦楽のための「慶應義塾式典曲」(作詞:堀口大學)を作曲、NHK交響楽団を指揮初演。 1959年(35歳)、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚を記念して吹奏楽曲『祝典行進曲』を作曲(パレード当時は演奏されていない)。 1964年の東京オリンピック]、1990年の即位の礼などで演奏された。 ※『祝典行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=7C1HtgMLbTs (5分51秒) 1963年(39歳)、聴く者を内省と思索に誘う混声合唱組曲『岬の墓』が芸術祭賞文部大臣賞を受賞。同年、八丈島に仕事場を建て、しばしば作曲のために長期滞在した。 ※『岬の墓』 https://www.youtube.com/watch?v=s26zTVH--O4 (14分12秒) 1964年(40歳)、東京オリンピック開会式にて『オリンピック序曲』、『祝典行進曲』を演奏。エッセイ『パイプのけむり』の連載を開始、ユーモアのきいた文章でしたしまれ30年以上も続くものになる(のちに読売文学賞受賞)。 1965年(41歳)、 『交響曲第5番』作曲。山田耕筰が79歳で他界。管弦楽組曲に「シルクロード」、交響幻想曲に「万里長城」 1966年(42歳)、20年間の作曲活動により日本芸術院賞を受賞。 1968年(44歳)、阿蘇に生まれた一滴の水が、大河となって海へ出て行く様子を描いた『混声合唱組曲“筑後川”』を作曲(作詞丸山豊)。全5楽章「みなかみ」「ダムにて」「銀の魚」「川の祭」「河口」からなり、楽譜は20万部を超すヒット作になった。 ※『筑後川』 https://www.youtube.com/watch?v=TSSKYgO9E4c (16分41秒) ※『筑後川 T.みなかみ』録音状態がいいhttps://www.youtube.com/watch?v=ny6YqykCMzc 1972年(48歳)、社会的な題材を扱った心理劇オペラ『ひかりごけ』(武田泰淳原作)で芸術選奨文部大臣賞を受賞。真冬の北海道知床岬の沖で難破した陸軍徴用船の船長が、マッカウス洞窟の中に逃れ、極限状態で仲間の船員の遺体を食べて生き延びたという1944年の事件を描く。伊久磨は八丈島の小屋に籠もって作曲した。 1973年(49歳)、日本芸術院会員に就任。 1974年(50歳)、交響詩『長崎』を作曲。 1985年(61歳)、『交響曲第6番“HIROSHIMA”』(全3楽章)を広島平和コンサートで初演。第5番から20年ぶりの交響曲であり、原爆の惨禍から40年目の8月に完成した。第3楽章にはソプラノ独唱がイギリスの詩人エドマンド・ブランデン詩「HIROSHIMA, A SONG」を歌う。ブランデンは原爆投下から4年後の1949年に広島を訪れ、廃墟から立ち上がった人々の手で街が力強く復興しつつあることに胸を打たれ、その感動を詠んだ。 1997年(73歳)、山田耕筰が日本にオペラや交響楽を浸透させるため「日本楽劇協会」を1920年に設立して以来、音楽関係者・ファンが80年近く待ち望んでいたオペラ専用の劇場、新国立劇場がついに完成する。その?落し公演(10月13日)のため、伊久磨は3年をかけて神話を扱った『建・TAKERU』(オペラ第7作)を書きあげた。父帝に命じられてのヤマトタケルの遠征、敵の火攻めを受け草薙の剣を取り出しての脱出、妻オトタチバナヒメの自己犠牲、故郷ヤマトを想うタケルが最期にうたう「国よ安かれ、国よ病むことなかれ、人よ幸く暮らせ、永遠に幸く、人よ!」を描く。公演初日、伊久磨は病み上がりでオープニングの『君が代』のみ指揮をした。同年、日中文化交流協会会長に就任し、日中の文化交流に尽力した。 ※『建・TAKERU』 https://www.youtube.com/watch?v=xnfbDWn5JD41999年(75歳)、文化功労者に列せられる。 2000年(76歳)、妻の和子が急性心筋梗塞で急死。 2001年5月17日、日中文化交流協会主催の親善旅行で中国旅行中に心不全を起こし、江蘇省蘇州市の病院で他界。享年77歳。戒名は「鳳響院殿常楽伊玖磨大居士」。北原白秋「邪宗門」をテキストに合唱付きの交響曲第7番を作曲していたが未完となった。團伊玖磨は、7曲の歌劇、6曲の交響曲、歌曲などのクラシック音楽のほか、合唱曲、映画音楽、童謡など幅広いジャンルの作曲を手がけた。西洋近代音楽のスタイルに基づくオーケストレーションを軸に、美しい抒情性、雄弁で色彩的なオーケストラ語法で聴衆を魅了した。 ※趣味は京野菜の栽培。「京野菜が栽培できる南限を探っている」とのこと。 ※「僕の名前は團であって団では無いのだから、他人宛の手紙は読んでは悪かろうと遠慮するからである」と“団”で届いた手紙は読まずに捨てた。 ※伊久磨が書いた小説「日向村物語」は映画「馬鹿が戦車でやって来る」などの「馬鹿シリーズ」の原案となった。 ※NHK特集でムソルグスキー「展覧会の絵」の原画を探し当てた時の団伊玖磨さんの情熱に感動! 〔墓巡礼〕 墓所は東京都文京区の護国寺。徳川幕府の祈願寺という由緒ある寺で皇族墓地が隣接している。大隈重信、益田孝、安田善次郎、山縣有朋、大山倍達、梶原一騎などこちらも著名人が多く眠る。團家の墓所は境内の花屋さんのすぐそば。墓域には3基が並び、右手前が三井財閥を指導した実業家の祖父・団琢磨夫妻。元参議院議員の父・伊能と伊久磨本人は中央の「團家累代墓」に眠っている。戒名は「鳳響院殿常楽伊玖磨大居士」。 |
墓前に「見上げてごらん夜の星を」の楽譜 | 本名の今泉で眠っている | 作曲家であり参議院議員 |
東京生まれ。本名、今泉隆雄。1950年(20歳)、舞台芸術学院演劇学科を卒業。芥川也寸志に師事し作曲を始める。歌謡曲、童謡、アニメソングから交響曲まで幅広いジャンルの作品を手がけ、生涯の作品数は約15000曲!1969年(29歳)、佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』で第11回日本レコード大賞を受賞。1989年(59歳)、参議院に“第二院クラブ”から入る。政治的立場は極めてリベラル。「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」と訴え、文教関係予算の増額のために尽力。3年後の1992年に、現職議員のまま肝不全で他界した。享年62。 主な作品…「太陽がくれた季節」(青い三角定規)、「ゲゲゲの鬼太郎」(主題歌)、「見上げてごらん夜の星を」(坂本九)、「いい湯だな」(ザ・ドリフターズ)、「手のひらを太陽に」(作詞はやなせたかし!)、「チョコレートは明治」(CMソング)、「バーモントカレーの歌」(CMソング)、「徹子の部屋」(テーマ曲)など。遺作は病床で口述筆記させた「アンパンマンとなかまたち」(ミュージカル『アンパンマン』)。 |
有名な「うれしいひなまつり」を作曲! 墓前の正面右側の石碑は→ |
“童謡一路”の文字の下に 「かもめの水兵さん」の楽譜 |
福岡県出身。1920年(23歳)、ロシア音楽を研究するためモスクワを目指して出国するも、ロシア革命の混乱で政情不安定であるため、朝鮮で学校の音楽教師となる。4年後に帰国し、東京音楽学校選科(現・東京芸大大学院)で音楽理論を就学。1926年(29歳)頃から自作曲を発表する。 その後、小学校の音楽教師を務めながら楽曲を発表し、1936年(39歳)にキングレコードの専属作曲家となった。河村光陽と改名し、同年、「うれしいひなまつり」(山野三郎作詞)が大ヒットする。翌年には「かもめの水兵さん」(武内俊子作詞)が大当たりとなり、「赤い帽子白い帽子」「早起き時計」「仲良し小道」「りんごのひとりご」「船頭さん」「雨傘唐傘」など多数の童謡を発表していくが、9年後の1946年12月24日、胃潰瘍による出血のため急逝する。享年49。 |
『ゴジラ』を作曲 | 宇倍神社の鳥居。ここから石段を登っていく | 社殿。伊福部家は明治まで当神社の神主だった |
墓所は境内右側の山道から | 3分ほど歩いていると… | 右手に墓所に続く別れ道が出てくる |
伊福部家の墓所に到着!先生の墓は後列の左端 | 日本を代表する作曲家の1人 | 周囲の山林からウグイスの鳴き声。素敵な墓所 |
娘さんが作った動物(ニワトリや魚)の焼物が 囲んでおり、これなら寂しくない |
本物のコーヒーが供えられた墓は 初めて!良い香りがした♪ |
「ゴ」と描かれた石板が置かれていた! 『ゴジラ』のテーマ曲が頭に浮かぶ |
「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」(伊福部昭) 民族的な色彩の濃い作品や『ゴジラ』など300曲もの映画音楽で知られる伊福部昭は、1914年5月31日に北海道釧路で生まれた。9歳のときに父が音更(おとふけ)の村長となり、アイヌの人々も用事があると家を訪れた。間もなく伊福部少年は友達になってアイヌの集落に行くようになった。こうして子ども時代からアイヌ民族の音楽や、全国から移住してきた開拓者が口ずさむ各地の民謡に触れ、豊かな音楽体験を重ねていった。中でもアイヌの叙事音楽「シノッチャ」に深い感銘を受けたという。中学に入るとクラシック音楽が大好きな兄の影響でギターやバイオリンを演奏し、ストラヴィンスキー『春の祭典』のレコードを聴いて「アイヌのようにリズムが前面に出ている」「これが音楽なら俺にも書ける、書いてみよう」と考え、13歳の頃から独学で作曲を始めた。 1932年(18歳)、北海道大学農学部林学科に入学。 1933年(19歳)、中学時代からの親友、のちの音楽評論家・三浦淳史に作曲を勧められ、独学でピアノ独奏曲『ピアノ組曲』を書きあげる。本作は後に管弦楽版、箏曲版、弦楽オーケストラ版などに編曲されていく。作曲のきっかけは、伊福部と三浦の2人で音楽評論家から酷評されていた米国人ピアニスト、ジョージ・コープランド(当時51歳/1882-1971/ドビュッシーの親友)のレコード「スペイン音楽集」を聴いたところ、素晴らしい内容に感動しファンレターを書いたのが始まり。コープランドの返事は「地球の反対側にいながら私の音楽を理解するのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」。三浦は伊福部に無断で「良い作曲家がいるので曲を送る」と返事を書き、「これで曲を書かなかったら国際問題だな」と伊福部を脅した。伊福部はそのころ2年がかりで作曲していたピアノ作品をまとめ、これが『ピアノ組曲』となった。バッハの組曲を参考にし、ガボットやジークは踊りの曲であることから、日本人が同じ方法で作曲するなら盆踊りや“ねぶた”といった祭りのリズムや民謡を使えば組曲になると考えた。作曲では、まずリズム、次にメロディーだった。 ※『ピアノ組曲』 https://www.youtube.com/watch?v=_F9UOJ_C_XE (16分) これを19歳で書いたというから驚くしかない。日本的なリズムと旋律に満ちている。 第1曲「盆踊」リズミカルな和太鼓を模した舞踊楽章 第2曲「七夕」わらべうた風の旋律の変奏曲 第3曲「演伶(ながし)」遊女の哀しい物語を綴った浄瑠璃の新内節(しんないぶし)をイメージ 第4曲「佞武多(ねぶた)」行進曲風の曲調で壮大なクライマックスを描く クラシック音楽の組曲は各種の西洋の舞曲が取り入られるので、それを日本人が書くのならと、題材に日本の舞曲や芸能を取り入れて作った 1934年(20歳)、早坂文雄、三浦淳史らと札幌で「新音楽連盟」を組織し、サティ、ファリャ、ストラヴィンスキーなど現代音楽を演奏会で紹介する。 1935年(21歳)、卒業後に林務官として道庁に勤務するかたわら、三浦が文通していた指揮者セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)の依頼で、最初の管弦楽曲『日本狂詩曲』を完成させる。この作品を作曲家アレキサンドル・チェレプニン(1899-1977)主催の日本人を対象とした作曲コンクール、チェレプニン賞(審査会場はパリ)に応募したところ、見事第一席に輝き国際的に楽壇デビューを飾る(審査員にオネゲル、イベールなど)。ラヴェルはパリで『日本狂詩曲』の楽譜を購入した。 ※『日本狂詩曲』 https://www.youtube.com/watch?v=AiceSBPCc8Y (16分)まだ21歳! 瀧廉太郎、山田耕筰、先人音楽家がみんなドイツへ留学するなか、伊福部は東京に出ることすらなく北海道で作曲の勉強を続け、国際的な賞を受賞した。 1936年(22歳)、チェレプニンが来日し、伊福部は1ヶ月の無料レッスンを受ける。チェレプニンは「ナショナルである事こそがインターナショナルである」と、民族音楽への傾倒に賛同とエールを送り、以降、アイヌ音楽などを取り入れた独自の作風を展開していく。1937年(23歳)、14人からなる室内管弦楽のための『土俗的三連画』を作曲、チェレプニン夫妻に献呈。 1938年(24歳)、5年前に書いた『ピアノ組曲』がベネチア国際現代音楽祭に入選する。 1940年(26歳)、林務官を辞め、北大嘱託になる。 1941年(27歳)、勇崎アイと結婚。太平洋戦争勃発。 1943年(29歳)、前年に病没した次兄の追悼のための管弦楽曲『交響譚詩(たんし)―亡兄に捧ぐ』を作曲し、ビクター管弦楽コンテストに入賞、SPレコードが文部大臣賞を受賞。伊福部の作品として初めてレコード化される。 ※『交響譚詩(こうきょうたんし)』https://www.youtube.com/watch?v=t_9OAow-LUg (15分20秒) 同年、吹奏楽曲『古典風軍楽「吉志舞」』を作曲。 ※『吉志舞』 https://www.youtube.com/watch?v=3PABaF_vnOI (4分28秒)1945年、31歳で敗戦を迎える。音楽で生きていくことを決意し上京。 1946年(32歳)、東京音楽学校(現・東京芸術大学)の作曲家講師となり1953年まで7年間教鞭をとる。教え子に芥川也寸志(1925-1989※菅野よう子、いずみたくの師)、黛(まゆずみ)敏郎(1929-1997※千住明、佐橋俊彦、岩代太郎の師)、松村禎三(ていぞう/1929-2007※吉松隆の師)など。芥川は伊福部に心酔し、2回目の授業後に奥日光の伊福部家を探し当て数日逗留した。同年、北方少数民族ギリヤーク族の伝承音楽の研究成果となる『ギリヤーク族の古き吟誦歌』を作曲。歌詞は伊福部がギリヤーク語から訳した。 ※『ギリヤーク族の古き吟誦歌』 https://www.youtube.com/watch?v=IcHmBZh9gPM(20分) 1947年(33歳)、黒澤明脚本、三船敏郎のデビュー作となった谷口千吉監督の映画『銀嶺(ぎんれい)の果て』で、初めて映画音楽を作曲する。この作品を皮切りに、伊福部は生涯に300作品以上の映画音楽を手がけていく。同年、バレエ曲『エゴザイダー』作曲。 1948年(34歳)、『ヴァイオリンと管弦楽のためのラプソディ』(改題前『ヴァイオリン協奏曲』)を作曲。この曲は3年後にジェノバ国際作曲コンクール管弦楽の部で入選している。 ※『ヴァイオリンと管弦楽のためのラプソディ』https://www.youtube.com/watch?v=IFoWFOV-Vis (23分42秒) 同年、バレエ音楽『サロメ』を作曲。 ※『サロメ』 https://www.youtube.com/watch?v=YlooqVm72qc1950年(36歳)、バレエ音楽『プロメテの火』を作曲。 ※『プロメテの火』第三景「火の歓喜」https://www.youtube.com/watch?v=fjfCcW6UFv8 1951年(37歳)、指揮者・作曲家の尾高尚忠が過労のため39歳で急逝。これがきっかけとなり日本交響楽団が「NHK交響楽団」に改組。 1953年(39歳)、東京音楽学校の音楽科講師を退任。バレエ音楽『人間釈迦』作曲。『管絃楽法』刊行。ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』が文部省芸術祭賞受賞。 1954年(40歳)、アイヌの人々への共感とノスタルジアを源流とした代表作のひとつ、交響曲『シンフォニア・タプカーラ』を作曲し三浦に献呈。“タプカーラ”はアイヌの民族舞踊の種類のこと。四拍子の踊りで「立って踊る」の意。第3楽章は足踏みのドンが反復されるたびに熱狂へ近づいていく。自然への畏怖と生命の喜びを感じながら大地を踏みしめていく。 ※『シンフォニア・タプカーラ』 https://www.youtube.com/watch?v=L9R5dNSB2QU(27分44秒)同年、映画音楽『ゴジラ』のサウンドトラックを手掛けた。アイヌの音楽は短い旋律の繰り返しが多く、ゴジラのテーマに見られる繰り返しに応用された。 1956年(42歳)、市川崑監督の名作『ビルマの竪琴』の映画音楽を担当する。 1961年(47歳)、ピアノ協奏曲となる『ピアノと管弦楽のためのリトミカ・オスティナータ』を作曲。リトミカ・オスティナータとは「執拗に反復する律動」の意で、本作は『シンフォニア・タプカーラ』と並び伊福部の代表作となった。民族的な六音音階の旋律がダイナミックに展開していく。中国旅行で四方の壁全面に仏像がはめ込まれた光景を見て、これに圧倒された体験が曲想となっている。 ※『リトミカ・オスティナータ』 https://www.youtube.com/watch?v=5JCZm-D4XVw(21分)冒頭から鷲づかみ。 1965年(51歳)、山田耕筰が79歳で他界。 1967年(53歳)、哀愁のあるギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌(とうか)』を作曲。 ※『古代日本旋法による蹈歌』 https://www.youtube.com/watch?v=8F675C4lbbA(15分)傑作 1970年(56歳)、ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』作曲。 1974年(60歳)、東京音楽大学作曲科教授に就任。 1976年(62歳)、東京音楽大学の学長に就任、11年間務める。同年オーケストラとマリンバのための『ラウダ・コンチェルタータ』を作曲。 ※『ラウダ・コンチェルタータ』 https://www.youtube.com/watch?v=t_7MWPZLW3g(26分41秒) 1980年(66歳)、芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展4 伊福部昭」が開催される。 1983年(69歳)、管弦楽曲『SF交響ファンタジー第1番〜3番』作曲。ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」が開催される。 ※『SF交響ファンタジー第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=Ydx0nWC3LbI(15分15秒) 1984年(70歳)、『日本の太鼓 ジャコモジャンコ』を作曲。※『〈ジャコモコ・ジャンコ〉より W八ツの鹿の踊りhttps://www.youtube.com/watch?v=Ab_1STC0K-s (8分14秒)伊福部先生の指揮!太鼓は門下生たち 1985年(71歳)、東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。 1987年(73歳)、東京音楽大学の学長を退任。 1989年(75歳)、バレエ音楽『人間釈迦』を合唱付きの『交響頌偈“釈迦”』に編曲。頌偈(じゅげ)は御仏を讃える詩。第一楽章「カピバラツの悉達多(シッダールタ)」、第二楽章「ブダガヤの降魔」、第三楽章「頌偈」。※『交響頌偈“釈迦”』 https://www.youtube.com/watch?v=d_Hi8sIb5T8 (45分)すごいスケール感、めっちゃ良いと思う 1991年(77歳)、『ピアノ組曲』を改作した『管絃楽のための日本組曲』を作曲。 ※『管絃楽のための日本組曲』 https://www.youtube.com/watch?v=8bh9B0MuRJI(19分) 1993年(79歳)、交響的音画『釧路湿原』作曲。釧路生まれの伊福部が描く。 ※『釧路湿原』から夏 https://www.youtube.com/watch?v=FecY74yj1CE (8分10秒) 1994年(80歳)、独唱曲『因幡(いなば)万葉の歌五首』作曲。 ※『因幡万葉の歌五首』 https://www.youtube.com/watch?v=wUKybMu-i-w (21分43秒) 1998年(84歳)、『ピアノ組曲』を改作した『絃楽オーケストラのための日本組曲』を作曲。 2003年(89歳)、文化功労者。チェンバロ独奏曲『小ロマンス』を作曲。 2005年(91歳)、幼少期を過ごした北海道音更町で「伊福部昭音楽祭 in 音更」が開催され『管弦楽のための日本組曲』『リトミカ・オスティナータ』『シンフォニア・タプカーラ』などが演奏される。 2006年2月8日に多臓器不全のため91歳で他界。 アイヌ音楽をはじめ日本の民族音楽を採り入れた楽想で独自の境地をひらいた伊福部昭。管弦楽、歌曲、バレエ音楽、300作もの映画音楽など幅広い作品を発表、オスティナート(一定の音型を繰り返す手法)を強調したリズムで聴く者を高みに連れて行った。 平和主義者であり、池辺晋一郎、三善晃、加藤登紀子、湯川れい子、千住真理子、高橋アキ、外山雄三、広上淳一らと共に、“音楽・九条の会”呼びかけ人になる。 ※伊福部は絵が好きで作曲家にならなければ絵描きになっていたという。 ※「演技者に被せる劇伴音楽のボルテージというものは、その俳優さんの演技力に反比例するもののようです」 ※『音楽・九条の会』呼びかけ人(アイウエオ順) 池辺 晋一郎(作曲家)/伊藤 強(音楽評論家)/井上 鑑(キーボード奏者・アレンジャー・プロデューサー)/伊福部 昭(作曲家)/桂 直久(大阪音楽大学名誉教授・オペラ演出家)/笠木 透(フォークシンガー)/加藤 登紀子(歌手・俳優)/上條 恒彦(歌手・俳優)/上村 昇(チェロ)/川本 守人(N響団友会会長、元首席オーボエ奏者)/亀渕 友香(ゴスペルシンガー)/喜納 昌吉(歌手)/日下部 吉彦(音楽評論家)/黒崎 八重子(ホール支配人)/小室 等(ミュージシャン)/櫻井 武雄(大阪芸術大学名誉教授)/さとう 宗幸(歌手)/菅原 洋一(歌手)/茂山 千之丞(狂言役者)/千住 真理子(ヴァイオリニスト)/高石 ともや(フォークシンガー)/高橋 アキ(ピアノ)/竹本 節子(アルト)/田村 拓男(日本音楽集団)/外山 雄三(音楽家)/中澤 桂(ソプラノ)/成田 繪智子(アルト)/新実 徳英(作曲家)/西村 朗(作曲家)/野口 幸助((財)関西芸術文化協会名誉会長、関西歌劇団団長)/広上 淳一(指揮者)/藤井 知昭(音楽学)/普天間 かおり(歌手)/三原 剛(バリトン)/三善 晃(作曲家)/湯川 れい子(音楽評論家・作詞家)/横井 和子(ピアノ)。 〔墓巡礼〕 伊福部家は古代豪族(因幡国/鳥取)・伊福部氏を先祖とする。明治期の祖父の代まで因幡国一の宮、宇倍神社(648年創建)の神官であり墓所も同神社。境内右脇の山道を登っていくと茂みの中に伊福部家の墓所がある。後列の左端が伊福部先生。周囲の山林からウグイスの鳴き声が聞こえ、動物(ニワトリや魚)の焼物が囲んでおり、これなら寂しくない。「ゴ」と描かれた石板が置かれていたので、目に入った途端『ゴジラ』のテーマ曲が脳内再生された。墓前には本物のコーヒーが供えられた。缶コーヒーは見たことがかるけど、コーヒーカップに入ったものは初めて。これなら香りが楽しめますね、先生。 〔参考資料〕『ららら♪クラシック 伊福部昭』(Eテレ)、『名曲解説全集』(音楽之友社)、『世界人物事典』(旺文社)ほか。 |
唱歌をたくさん作曲 | 「弘田家之墓」 | 墓前に『叱られて』の譜面 |
高知県出身。東京音楽学校で本居長世に師事。1928年(36歳)、文部省在外研究生としてドイツ・ベルリンに留学。帰国後、東京音楽学校の教授となったが、2カ月後に作曲活動に集中するため辞任。素朴さと叙情性をたたえた童謡「雀の学校」「春よこい」「靴が鳴る(♪おててつないで 野道をゆけば)」「鯉のぼり(♪いらかの波と雲の波)」「浜千鳥」「られて」などを作曲。 |
芥川也寸志の墓。40mほど南には父龍之介の墓もある(2013) | 慈眼寺は染井霊園からすぐ(2017) |
戦後の日本音楽界をリードした作曲家の1人。1925年7月12日に芥川龍之介(1892-1927)の三男として東京に生まれる。兄は俳優の芥川比呂志(1920-1981)。次兄は多加志(1922-1945)。 1927年、2歳の時に父が自殺。その遺品にあったストラヴィンスキーのSPレコード『火の鳥』『ペトルーシュカ』を愛聴し、幼児の頃は絵本の詩を即興で作曲することもあった。10代後半で音楽家を志し、ピアニストの井口基成に師事して猛勉強を開始。1943年(18歳)、東京音楽学校(現東京芸術大学)予科作曲部に無事合格したが成績は最下位だった。校長に呼び出され「大芸術家の倅(せがれ)として、恥ずかしく思え!」と痛罵される。 1944年(19歳)、学徒動員で軍楽隊のテナーサックスを担当。いつ召集令状が来てもおかしくなかったが、東京音楽学校の校長が軍楽少佐を通して陸軍大将・阿南惟幾に働きかけ、也寸志や團伊玖磨は前線への徴兵対象から外された。 1945年(20歳)、学徒兵として召集されていた次兄・多加志はミャンマーで戦死する(享年23歳)。陸軍中尉の兄は内地配属で生き延びた。也寸志は敗戦とともに東京音楽学校に復学。 1946年(21歳)、東京音楽学校の作曲家講師として伊福部昭が着任すると、大きな影響を受け心酔、伊福部の2回目の授業後に奥日光の自宅を探し当て数日逗留した。 1947年(22歳)、東京音楽学校本科を首席で卒業する。伊福部が初めて映画音楽を担当した『銀嶺の果て』でピアノ演奏を担当。 1948年(23歳)、『交響三章』を作曲、のちに人気作となる。同年、ピアノ組曲『ラ・ダンス』を作曲。この年、東京音楽学校で知り合った声楽科の山田紗織と結婚。妻の音楽活動を禁じる。 ※『交響三章』 https://www.youtube.com/watch?v=-G_YNUz4mhU (23分47秒) 1949年(24歳)、東京音楽学校研究科を修了。 1950年(25歳)、出世作であり代表作となった活気溢れる『交響管弦楽のための音楽』を発表。NHK放送25周年記念管弦楽懸賞で親友・團伊玖磨の交響曲第1番とともに特選入賞を果たす。伊福部に強く影響を受けた同作は、近衛秀麿指揮の日本交響楽団(現NHK交響楽団)に初演された。明快なメロディー、歯切れの良いリズム、艶やかで無駄がないオーケストレーションにより比呂志は作曲家として広く認知される。同年、映画『また逢う日まで』(今井正)にピアノを弾く学生役で出演。 ※『交響管弦楽のための音楽』 https://www.youtube.com/watch?v=ceqgO3M-L7s(9分11秒) 1951年(26歳)、指揮者・作曲家の尾高尚忠が過労のため39歳で急逝。これがきっかけとなり日本交響楽団が「NHK交響楽団」に改組。 1953年(28歳)、『弦楽のための三楽章』(弦楽のためのトリプティーク)を作曲。同年ソ連のショスタコーヴィチらを訪問。初期の作風は現代ロシア音楽の影響を強く受けている。 ※『弦楽のための三楽章』ゲルギエフ指揮https://www.youtube.com/watch?v=0PZS8p3ixSQ(13分42秒)キレが良い この年、団伊玖磨(いくま)、黛(まゆずみ)敏郎と「三人の会」を結成し、作曲者主催の演奏会を行うなど、戦後派の第一線に立って前衛的な音楽を発表した。毎日映画コンクールで『煙突の見える場所』が音楽賞を獲得。 1954年(29歳)、『交響曲第1番』を作曲。同年、国交がなかったソ連に自作を携えて単身で密入国。ソ連政府から歓迎され、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキーの知遇を得て、自作の演奏、出版を実現した。当時ソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家となった。半年後に帰国。 ※『交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=G84bQfQQ-WM (28分32秒)ソ連音楽に影響を受けた物々しさが好き 1956年(31歳)、アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて新交響楽団を結成、無給の指揮者、音楽監督としてオーケストラを育成する。著書『私の音楽談義』刊行。 1957年(32歳)、紗織夫人と離婚、のちに紗織は画家として活躍。同年、ヨーロッパ旅行の帰途、インドのエローラ石窟寺院を訪れる。 1958年(33歳)、アジア的世界や性と音楽を表現した20楽章の『エローラ交響曲』を作曲。同年、京都の旅館で作曲中、也寸志を一方的に慕う京大医学部助教授夫人(35歳)が部屋に乱入して服毒自殺を遂げる。 ※『エローラ交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=gkwIlaRabLY (17分19秒) 1960年(35歳)、オペラ『暗い鏡』(旧題『広島のオルフェ』)を作曲。同年、女優の草笛光子と再婚するが、子どもと草笛が不仲で2年後に離婚。 1961年(36歳)、「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」。 1964年(39歳)、大河ドラマ『赤穂浪士』の音楽を作曲。 ※『赤穂浪士』メインテーマ https://www.youtube.com/watch?v=c2bHPvjPEPA (1分44秒) 1965年(40歳)、山田耕筰が79歳で他界。1967年(42歳)、著書『音楽を愛する人に―私の名曲案』刊行。1969年(44歳)、『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』を作曲。快活な楽曲の多い也寸志には珍しく、苦渋に満ちた旋律のチェロ協奏曲。 ※『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』https://www.youtube.com/watch?v=-cQj6H4zfdM (17分40秒) 1970年(45歳)、作曲家・江川真澄と再々婚。 1974年(49歳)、映画『砂の器』で音楽監督を務め、作曲家の菅野光亮(かんのみつあき/1939-1983※9年後、過労により44歳で急逝)が傑作『ピアノと管弦楽のための組曲 宿命』を書きあげるまで協力した。 1975年(50歳)、ショスタコーヴィチが68歳で他界。 1976年(51歳)、日本人作曲家の作品のみによるコンサート「日本の交響作品展」を開催。 1977年(52歳)、NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子と1984年まで7年間出演。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で人気だった。 1978年(53歳)、第1回日本アカデミー賞で『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞。 ※『八甲田山』 https://www.youtube.com/watch?v=5_g4PaIDVvw 1981年(56歳)、音楽家の活動基盤を確保するため、日本音楽著作権協会理事長に就任し、著作権擁護などに尽力。著書『音楽の旅』刊行。兄・芥川比呂志が結核のため61歳で他界。 1982年(57歳)以降は「反核・日本の音楽家たち」運動に奔走。 1984年(59歳)、『N響アワー』の司会を癌で降板するまで4年半務める。 1986年(61歳)、『オルガンとオーケストラのための響き』を作曲。 1988年(62歳)、日ソ音楽交流のイベントで訪ソの準備をしていたところ、夏に肺がんが見つかる。手術後、合唱曲『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の作曲を続けたが、11月に再入院。黛の弟子・鈴木行一に残りのオーケストレーションを依頼。 1989年1月31日に東京で他界。享年63歳。前日、黛敏郎の手を握り「あとをたのむ」と願う。最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」。5月、サントリーホールで「芥川也寸志追悼演奏会」が開催され、鈴木が補作した『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』が初演された。 ※『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』詞はなかにし礼 https://www.youtube.com/watch?v=Kv2TodmGrYk (13分37秒)何度も繰り返される「南無妙法蓮華経」でトランス状態に。 1990年、音楽界への貢献を記念しサントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。放送、バレエ、映画音楽、童謡まで手がけ、幅広く活動。ラジオ劇や映画音楽の作曲,指揮者として新しい交響楽団を育成、テレビ司会者としても人気を集めた。 ※ショスタコーヴィチの交響曲第4番の日本初演を行う。 ※「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」。 〔墓巡礼〕 東京都豊島区巣鴨の慈眼寺に文豪・芥川龍之介の墓所があり、龍之介愛用の座布団と天頂部が同じ大きさの有名な墓が建つ。同じ墓域に長兄で俳優の比呂志、次兄で戦死した多加志が眠る。也寸志の墓は40mほど北側にあり、正面に「芥川家之墓」、右側面に戒名の「揮心院聚楽日靖居士」が刻まれている。慈眼寺には谷崎潤一郎の分骨墓や江戸時代の洋風画家・司馬江漢の墓もある。 |
日本を代表する現代音楽の作曲家。1930年10月8日に東京に生まれる。父は海上保険勤務、祖父は衆議院議員。生後1ヶ月で父の勤務先の満洲に渡る。7歳のときに小学校に入学するために単身帰国し7年間叔父の家に身を寄せる。叔母は箏曲の名手だった。 1945年(15歳)、陸軍食糧基地に勤労動員され、軍の宿舎で下士官が隠れて聞いていたリュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』に胸を打たれる。8月敗戦。 ※『聴かせてよ、愛のことばを』リュシエンヌ・ボワイエ https://www.youtube.com/watch?v=rIAQWr34De0 (3分) 16歳で作曲を志し、横浜の米軍キャンプで働きジャズに接し、ほとんど独学で作曲を学ぶ。 1948年(18歳)、作曲家の清瀬保二(当時48歳/1900-1981)に短期間師事。 1949年(19歳)、東京音楽学校(現・東京芸術大学)作曲科の1日目を受験するが、控室で会った青年と「作曲に教育は無関係」と結論を出し、2日目の試験を欠席した。ピアノを買う金がなく、街中でピアノの音を聞くと頼み込んで弾かせてもらった。後年、芥川也寸志(1925-1989)からこの話を聞いた黛敏郎(1929-1997)が、面識もないのに余っていたピアノを贈ってくれたという。 1950年(20歳)、清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」でピアノ曲『2つのレント』を発表し作曲家デビュー。終演後、この曲に感動した1歳年上の作曲家・湯浅譲二(1929-)と音楽評論家・秋山邦晴(1929-1996)は真っ先に初対面の武満に駆け寄り称賛した。一方、ベートーヴェンに造詣が深い音楽評論家の山根銀二(1906-1982※山田耕筰を戦犯と批判した人物)から「音楽以前である」と新聞で酷評され、傷ついた武満は映画館の暗闇の中で涙したという。以降、シュルレアリスムの芸術運動や、ドビュッシー、ウェーベルン、ベルク、メシアンの強い影響を受けながら、独自の美学に基づくピアノ曲や室内楽曲を発表する。 ※『2つのレント』 https://www.youtube.com/watch?v=H8fpdTCaRd0 (10分50秒)約40年後(1989)に再構成され『リタニ』となったので、この旧稿の演奏は貴重 1951年(21歳)、詩人の瀧口修造(当時48歳/1903-1979)と知り合い、彼をリーダーとした芸術家グループ「実験工房」を湯浅譲二、秋山邦晴らと結成して、世界の新しい音楽動向を視野にいれた活動を開始。同年、指揮者・作曲家の尾高尚忠が過労のため39歳で急逝。これがきっかけとなり日本交響楽団が「NHK交響楽団」に改組。 1954年(24歳)、劇団四季女優・若山浅香と結婚。4年前『2つのレント』を発表した「新作曲派協会」のチケットをプレゼントしたことがきっかけ。この頃(未確定)、病弱だった夫妻に6歳年上の作曲家・團伊玖磨(当時30歳/1924-2001)が鎌倉の自宅を提供してくれ、伊久磨は横須賀市に転居した。 1955年(25歳)、映画『サラリーマン目白三平』の音楽を芥川也寸志と共作し、もともと大の映画ファンだった武満は、以後、毎年のように映画音楽を作曲し、40年間で約100本(106本?)もの映画音楽を手がける。音響・録音技術を使った電子音楽の一種、日本における初期のミュジック・コンクレート(テープ音楽/具体音楽)のひとつ『ルリエフ・スタティク』を作曲。 ※『ルリエフ・スタティク』 https://www.youtube.com/watch?v=NLaHFGC730o (6分42秒) 柴田南雄(1916‐96)の《立体放送のためのミュジック・コンクレート》 1956年(26歳)、ミュジック・コンクレート『ボーカリズムA・I』を作曲。 ※『ボーカリズムA・I』 https://www.youtube.com/watch?v=Bf9WCEoaUH0 (4分14秒)これは音楽…なのか? 1957年(27歳)、早坂文雄(1914-1955)に捧げた『弦楽のためのレクイエム』を発表。日本の楽壇はこの作品を黙殺した。 ※『弦楽のためのレクイエム』 https://www.youtube.com/watch?v=iSUPX0sOgjc(8分) 1958年(28歳)、「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長)の作曲コンクールで8つの弦楽器のための『ソン・カリグラフィI』が入賞。翌年、同研究所に参加。 ※『ソン・カリグラフィI』 https://www.youtube.com/watch?v=BNvpeUudv14 (3分) 1959年(29歳)、77歳のストラビンスキーが初来日し、東京と大阪で演奏会を行う。滞在中に『弦楽のためのレクイエム』のテープを偶然NHKで聴いて絶賛、「厳しい、実に厳しい。このような曲をあんな小柄な男が書くとは…」と世界にその才能を紹介する。武満は国際的に名声を確立し、それまで武満を冷遇してきた日本の批評家は一斉に手の平を返した。同年、ピアノ独奏曲『遮られない休息』(全3曲)が完成する。 1961年(31歳)、オーケストラのための『リング』を作曲。初演の指揮を務めた5歳年下の小澤征爾(当時26歳/1935-)とは生涯の友となる。同年、密度の高い緊張感に満ちた『ピアノ・ディスタンス』を作曲。ピアノの弱奏における色彩変化のグラデーションを描く。 ※『リング』 https://www.youtube.com/watch?v=aOjFozytMyc (9分23秒) ※『ピアノ・ディスタンス』 https://www.youtube.com/watch?v=54F6vz7zEUg (4分43秒) 1962年(32歳)、小林正樹監督の映画『切腹』で毎日映画コンクール音楽賞受賞。この作品で武満は初めて邦楽器(筑前琵琶と薩摩琵琶)を西洋の弦楽器と共に使用した。 1964年(34歳)、『テクスチュアズ』を作曲、翌年この曲で日本人作曲家として初めてユネスコ国際作曲家会議(国際現代作曲家会議)でグランプリを受賞。武満への評価はさらに跳ね上がった。同年、勅使河原宏監督の映画『砂の女』で毎日映画コンクール音楽賞受賞。篠田正浩監督の映画『暗殺』で再び和楽器を使用。 ※『テクスチュアズ』 https://www.youtube.com/watch?v=mDEhCoaOUQY (6分47秒) 1965年(35歳)、ベトナム戦争のさなか、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のために谷川俊太郎の依頼で反戦歌『死んだ男の残したものは』を作曲。作詞も谷川俊太郎。同年、小林正樹監督の映画『怪談』の音楽を担当し、琵琶を演奏した鶴田錦史(きんし)が2年後に『ノヴェンバー・ステップス』初演に抜擢されることになる。この年、山田耕筰が79歳で他界。 ※『死んだ男の残したものは』 https://www.youtube.com/watch?v=9o17ulcB7lg(6分)石川セリの歌、良いです! 1966年(36歳)、琵琶と尺八という従来の邦楽ではありえない楽器の組み合わせによる二重奏曲『エクリプス(日蝕)』を作曲。また、大河ドラマ『源義経』の音楽で邦楽器とオーケストラと組み合わせてみた。同年、クーセビツキー音楽財団の委嘱により17弦楽器のための『地平線のドーリア』を作曲。この年、勅使河原宏監督の『他人の顔』で毎日映画コンクール音楽賞受賞。 ※『エクリプス』 https://www.youtube.com/watch?v=68AD3-N1QDM (16分47秒) ※『源義経』 https://www.youtube.com/watch?v=HHoSjc7DfAY (2分17秒) ※『地平線のドーリア』 https://www.youtube.com/watch?v=de__3Adn74s (11分15秒) 1967年(37歳)、小澤征爾がニューヨーク・フィル音楽監督のレナード・バーンスタインに琵琶と尺八の二重奏曲『エクリプス(日蝕)』の録音を紹介したところ、バーンスタインは大いにこれを気に入り、ニューヨーク・フィル125周年記念の作品として「邦楽器とオーケストラの協奏曲を書いて欲しい」と武満に依頼が届く(他にコープランドやシュトックハウゼンらにも依頼)。3月、武満はドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』と『遊戯』の楽譜を携えて長野県・軽井沢の山荘に入り、作曲を開始。弦をギリギリと激しくこする琵琶や、息がもれるほど強く吹きつける尺八の音は、西洋の楽器では失敗とされる演奏であり、西洋的な見方をすると雑音(ノイズ)や自然の音に近い。これをどう一緒に演奏するか。西洋の音楽は、音を積み重ねて旋律を表現するが、邦楽器は1つの音に強弱を付け音楽にしており、その表現の違いもあった。武満は軽井沢の山林を歩き、目指すものは西洋音楽と東洋音楽の「融合」ではないと考える。 「森の中を散歩すると風が木の中を通っていき、いろんな音がしている。鳥が鳴いたりとか。そういう沢山の音は決してお互いを損なうようなことがない。お互いに助け合って音を聞かせている。そういう音楽を僕は書きたい」 「オーケストラに対し日本の伝統楽器をいかにも自然にブレンドするようなことが作曲家のメチェ(技法)であってはならない。むしろ、琵琶と尺八がさししめす異質の音の領土を、オーケストラに対置することで際立たせるべきなのである」 「洋楽の音は水平に歩行する。だが、尺八の音は垂直に樹のように起る」 武満はお互いに助け合って音を聴かせている 自然環境にヒントを得て作曲に取り掛かった。音楽オーケストラの音を微妙にずらして風やうねりのような雰囲気を作り出す。邦楽器の奏法は西洋人には耳慣れないものだが、音を緻密に濁らせるとオーケストラは和楽器の背景になり得た。自然環境のようにオーケストラを使い、そこに日本の楽器をもってくると、西洋と日本が互いに邪魔せず響き合う、そんな音楽としてこの曲は生まれた。後半は琵琶と尺八のみの掛け合いが約8分間続く。映画音楽で試みた邦楽器の使用と前衛的なオーケストレーションを一つに結晶し、西洋とはまた別の世界が存在することをこの曲で示した。できあがった楽曲は11月に初演されることから『ノヴェンバー・ステップス』と名付けられた。また音楽構造として11のステップ(短い変奏曲)=11の「段」(邦楽における音楽作品の節単位)を持つ。琵琶、尺八、オーケストラの共演という革新的な作品であり、鶴田錦史(当時56歳/1911-1995)が薩摩琵琶を、横山勝也(当時33歳/1934-2010)が尺八を担当することになった。ニューヨーク・フィルとの練習初日、琵琶と尺八の2人が羽織り袴姿で舞台にあがり楽団員に深々とお辞儀をすると、クスクスと笑う団員がいた。小澤が頭にきて“絶対こんなことさせない”とその団員を睨み付けると、殺気が全員に伝わり静かになったという。 11月9日、武満の代表作となる『ノヴェンバー・ステップス』が小沢征爾指揮ニューヨーク・フィルによって初演される。最初にベートーヴェンの交響曲第2番が演奏され、続いて鶴田と横山が舞台にあがる。日本の真価を問う19分、尺八の横山はこう回想する。「失敗したら武満さんの音楽生命も小澤さんの音楽生命も、日本の伝統楽器をひっさげてきた日本の文化に対する地位も全て失うことになるという、その重圧たるや凄かった。ほんと命懸けでした」。結果は大成功、バーンスタインは「なんと力強い音楽だ。人間の生命の音だ」と熱讃した。 主題らしい主題もなく、構成的な発展も盛り上がりもないが、それゆえに自然現象としての風の音、木のざわめきを無心に聞いていられるように抵抗がなく、展開される音の世界に東洋的な静寂が感じられる。基礎的な理論教育を受けていないためにかえって伝統の重荷を背負うことなく、個性を強烈に表現している。 「私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には、沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで、苦しい一つの音を得たいと思う。そしてそれは沈黙とはかりあえるほどに、強いものでなければならない」。 ※『ノヴェンバー・ステップス』 https://www.youtube.com/watch?v=xvWvByhklZk(19分) 1969年(39歳)、篠田正浩監督の映画『心中天網島』で音楽を担当。 1970年(40歳)、黒澤明監督(1910-1998)の『どですかでん』で音楽を担当。 1970年代以降は、不協和音が次第に減り、調性感のあるメロディや和声がみられるようになる。初の打楽器アンサンブルのための作品『四季』を作曲。 1971年(41歳)、フルート奏者が声を出しながら演奏するという前代未聞の『声(ヴォイス)-独奏フルート奏者のための』を作曲。フルートが演奏家の肉体の一部となっており、すべてのフルート奏者が驚き、また好奇心をそそられるであろう楽曲。同年、著書『音、沈黙と測りあえるほどに』を刊行。札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱によってオーケストラ曲『冬』を作曲。 ※『声(ヴォイス)-独奏フルート奏者のための』 https://www.youtube.com/watch?v=qmZPsq07gmU (6分43秒) 1973年(43歳)、自らの企画構成による現代音楽祭「今日の音楽 Music Today」をプロデュース、以後20年間にわたって毎年開催し、若手作曲家に発表の場を与えるとともに世界の演奏家を招いて現代音楽を国内に紹介した。同年、三面の琵琶のための『旅』を作曲。 1975年(45歳)、管弦楽曲『カトレーン』を作曲、文化庁芸術祭大賞に輝く。翌年尾高賞を受賞。同年、イェール大学客員教授。 ※『カトレーン』 https://www.youtube.com/watch?v=9ghq5NhdMw8 (17分) 1977年(46歳)、『鳥は星形の庭に降りる』を作曲。後頭部を星形に刈り上げたマルセル・デュシャンの写真に触発された夢。 ※『鳥は星形の庭に降りる』 https://www.youtube.com/watch?v=TewEIU0Fh7c (13分) 同年、ピアノと管弦楽のための『弧(アーク)』の全曲がブーレーズ指揮ニューヨーク・フィルにより初演される(完成は1966年)。アーヴィング・コロディンの批評「日本の画家たちは、作品の表面は西洋人のやり方とまったく異なった筆法で描く。それでもなおかつ、我々に語りかけてくるものがある。武満は独自のやり方で西洋のオーケストラの色彩的な手段を使っている。彼は国際間のギャップに橋渡しをすることを具体化し、我々は彼の姿勢を称賛する」。 1978年(48歳)、室内楽曲『ウォーター・ウェイズ』を作曲。 1980年(50歳)、前衛色が薄まったヴァイオリンとオーケストラのための『遠い呼び声の彼方へ!』を作曲、和声や歌に接近した晩年の作風へ転換する。ジョイスの小説で描かれたアイルランドの首都ダブリンに流れる川が海に注ぐ様子から着想。2度目の尾高賞を受賞。同年、著書『音・ことば・人間』を刊行。日本芸術院賞。 ※『遠い呼び声の彼方へ!』 https://www.youtube.com/watch?v=UUoJ57Wmtqg (15分7秒) 1984年(54歳)、著書『夢の引用』を刊行。 1985年(55歳)、黒澤明監督(当時75歳)の『乱』で音楽を担当。マーラー風の音楽を求められて喧嘩になった。フランス芸術文化勲章。同年、著書『音楽を呼びさますもの』を刊行。 ※『乱』サウンドトラック https://www.youtube.com/watch?v=DQURRm-1Ii8 (72分) 1987年(57歳)、前年にソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーが他界したことから、作品に心酔していた武満は死を悼んで弦楽合奏曲『ノスタルジア』を作曲した。 ※『ノスタルジア』 https://www.youtube.com/watch?v=CoKHj1-fFF8 (11分) 1989年(59歳)、ヴィオラ協奏曲ともいえる『ア・ストリング・アラウンド・オータム』を作曲。タイトルは大岡信の英詩集『秋をたたむ紐』の「沈め 詠うな ただ黙して 秋景色をたたむ 紐となれ」か ら。ドビュッシー的な繊細美にあふれ、翌年国際モーリス・ラベル賞を受賞している。 ※『ア・ストリング・アラウンド・オータム』 https://www.youtube.com/watch?v=LSQhnlNqYd0(16分) 1990年(60歳)、打楽器がメインの意欲作『フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム』を作曲。カーネギーホールからの委嘱作。 ※『フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム』 https://www.youtube.com/watch?v=LpzMI7pqv7E (30分) 1992年(62歳)、『系図 ―若い人たちのための音楽詩』を作曲。少女の語り手とオーケストラのための作品。詩人・谷川俊太郎の詩集『はだか』から武満が6篇を選出し曲をつけた。「むかしむかし」「おじいちゃん」「おばあちゃん」「おとうさん」「おかあさん」「とおく」全6曲で構成される。調性音楽であり、不協和音は影が薄い。 ※『系図』 https://www.youtube.com/watch?v=sZ7N9QKNnuw (25分40秒) 1995年(65歳)、過去に音楽を担当した映画3本『ホゼー・トレス』『黒い雨』『他人の顔』から編曲した『3つの映画音楽』を作曲。また、この年の『写楽』(篠田正浩監督)が最後の映画音楽となる。膀胱と首のリンパ腺に癌が発見され、一時退院中に遺作(完成作)となるフルート独奏曲『エア』を作曲。 ※『3つの映画音楽』から第3曲「ワルツ」 https://www.youtube.com/watch?v=CGNojPRSsjw (2分13秒) 1996年2月20日、東京にて65歳で他界。死の前日、ラジオから流れるバッハの『マタイ受難曲』をしみじみと聴いていたという。告別式では『エア』が日本初演された。墓所は東京都文京区の日輪寺。晩年、初めてのオペラ『マドルガーダ』(邦題夜明け前)を計画するが幻に終わった。 ※遺作『エア』 https://www.youtube.com/watch?v=1TwBdhUw3XM (6分) 「風よ 雲よ 陽光よ/夢をはこぶ翼/遥かなる空に描く/「自由」という字を」(「翼」作詞・作曲 武満徹) 東洋の感性が西洋の前衛的な音楽技法で表現された武満ワールド。ほぼ独学で作曲を学び、日本の伝統を受け継ぎながら独創的な音響世界を創りあげた。精緻な構成と、東西の音の感性を融合させ、繊細な感受性をもった独自の作風が響きの美しい旋律を生み出し海外でも高く評価された。前例の全くない透明に結晶された独自の音の世界。※若い頃から映画を深く愛し、年間に数百本の映画を新たに見ることもあった。 ※『ソン・カリグラフィー』『テクスチュアズ』『地平線のドーリア』は西洋の楽器を使ってトーン・クラスター(音塊)の手法で書かれている。 〔墓巡礼〕 墓所は東京都文京区の日輪寺。洋型の墓には尾高賞を受賞したヴァイオリン協奏曲のタイトル『遠い呼び声の彼方へ!』の文字と「 Far calls. coming, far! 武満徹(1930-1996)」とある。 幕末に生まれた瓜生繁子が米国の音楽学校で学んだ後、日本人音楽家はいかに西洋の表現を完璧に身につけるか、そこに血道を上げていた。時は移り、武満は西洋の模倣ではなく、東洋の感性をそのまま西洋の技法で表現し、唯一無二の武満ワールドを創造した。 |
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