カントレフ、彷徨
                                         
                              
カジポン・マルコ・残月

第13回

 (四)青に溺れて・前編

 
何度列車を、そして何台の馬車を乗り継いだことか。イルクーツクからモスクワを経由して十日、その後キエフから二日、ついに彼はラスコーリニコフの故郷の村に着いた。重い画材道具を道づれにしたロシア横断の旅は、ソーニャへと続く一本の道であり、それは彼にとって修業僧の巡礼の旅を彷彿させた。乗り物に揺られ続けて、背骨が砕け散りそうだった。そして、やっと今、彼は村の入り口に立った。
 (最悪でもひとめ彼女の姿を、そう、あのロシアの冬晴れの青空と同じ空色の瞳を一瞬でも見られたら俺は満足だ。もはや失うものは何もない。当って砕けろだ!)
彼は村の門をくぐった。

 着いたのが日曜日の午前中だったせいか、みんな村外れの教会に行ってしまい、村中がひっそりと静まり返っていた。猫が一匹、道の真ん中で我がもの顔で眠っていた。歳をとって足を悪くしたのか、教会へは行かずに玄関先の椅子に座って往来を眺めている人も何人かいた。当然、画材を担いだカントレフは彼らの熱い視線を集めることになった。彼は一番近くの目があった老人に、ラスコーリニコフの家を教えてもらった。
 その家は、村の中心からやや奥まった所にあり、木と石で作られたごく普通の家だった。緊張してちょっと小窓から室内を覗くと、やはり家人はミサに行ったらしくもぬけの殻だった。しかし、沢山の積み木や可愛い木馬が窓越しに見えたので、夫妻が子供たちに囲まれた平和な暮らしをしているだろう事はすぐに察しがついた。
 しばらくして教会の鐘が聞こえてきた。どうやらミサが終わったらしい。

 村から教会まで一本道が伸びていて、次々と人がそこを通って帰って来始めた。彼は画材を足元に置いて、一本道が終わる所で待っていた。
 (約二十年が経って随分俺の風貌も変わってしまった。髭モジャだしな。う〜む、何と言って声をかけようか?)
腕を組んでそんなことを考えていると、ちょうど目の前を、空色の瞳をした小さな二人の姉弟たちを連れた、背が高くて若干やせ気味の眼光の鋭い男が通りかかった。
 (空色の瞳!)
彼の体は弾けるように躍動し、その四十才前後の男の前にスッと立ちはだかった。
 「失礼、ロジオン・ラスコーリニコフ氏だとお見受けしましたが?」
 「いかにもそうですが、あなたは?」
 「申し遅れました。私はペテルブルグで絵をやっているA・D・カントレフという者です(この子たちはソーニャと本当に同じ目をしている!)。と、言ってもまったく無名ですが。」
ラスコーリニコフは画材道具に目をやった。
 「しかし、画家の方がこの私に何の用でしょう?それもはるばると帝都から。」
その時、子供たちがイーゼルに触ろうとしたので、ラスコーリニコフが短く『コラッ!』と怒ると、慌てて二人は手を引っ込めた。カントレフが『いえ、別に触ってもらっても構いませんよ』と軽く微笑むと、彼は静かに首を振った。

 「何の用かとお尋ねですが…実はその…どう申し上げてよいか…。」
 「?」
 「えい、言います、言いますとも!かつて、というと二十年ほど前ですが、私は若い時分に、熱烈に奥さんのソーニャさんに憧れておりまして、ええ、それはもう、とにかくすごい熱の上げようだったんです。それで何が言いたいかと申しますと…画家になった現在、御迷惑を承知でお願いに上がったのです…あなたの奥さんを描かせて下さいと!!」
言ってしまった。全部言った後、さすがに顔を上げていられなくて彼は目線を下に落とし瞼を閉じた。
 (どんな結果になろうと後悔はせんぞ!)

 …少し間を置いて、恐る恐る瞼を開いていくと、最初に見えたものはラスコーリニコフの震える指先だった。
 「カーシャ、ミーチャ、少し向こうで遊んでいなさい。」
父親は子供たちにそう告げると、一度軽く咳払いしてから話し始めた。既にカントレフは視線を上げていた。
 「せっかく遠い所をおいで頂いたあなたに、この様な事を伝えねばならぬ事は、私にとっても非常に辛いのですが…妻は、亡くなりました…五年前の冬…下の子の出産直後、弱っている所をはやり病いに肺をやられて…。」
日曜の昼、空高く陽の光が降り注ぎ、風はなく、大気はどこまでも穏やかだった。耳に聴こえるのは鳥のさえずりと、カーシャとミーチャが遊んでいる声だけだった。
 「二人の子供たちはね、妹のドゥーニャが世話をしてくれているんですよ。」
カントレフはこの会話に返事をしたという記憶はない。そのまま卒倒してしまったのだ。彼が気を失ったのは人生においてこれが二度目であり、二十一年前のあの時も、やはりソーニャが彼の前から姿を消した時だった。彼自身、よもや二度もこの様な辛い別れを体験するとは思いもよらなかった。

 夕刻、彼の意識が戻った。
 (積み木…木馬…。)
ラスコーリニコフが、彼の家に運んでくれたのだった。部屋の反対側の窓際で、子供たちが静かに遊んでいた。彼がソファで上半身を起こしたのを見て、子供たちが駆け寄った。
 「おじちゃん、もう平気なの?」
カーシャはそう言って、空色の瞳でカントレフの顔を覗き込んだ。ミーチャは姉の背後に隠れていた。
 「うん、もう大丈夫だよ。おじさん、驚かせてしまったね。」
 「少し待っててネ。お父さんを呼んでくる!」
二人とも、転がるように外へ飛び出して行った。ラスコーリニコフはドゥーニャの家で夕食のパン作りを手伝っていたのだ。

 カントレフはそのままソファに、ポツンと座っていた。まだ少しぼんやりした頭で部屋を見渡すと、暖炉の上に三枚の写真立てが置かれていた。
 (写真?珍しいな。キエフまで行って撮ってきたのかな?)
その三枚とは、夫婦で正装して写っているもの(おそらく結婚式のものだろう)、彼女が赤ん坊を抱いて三人で写っているもの、そして新たに子供が一人加わり四人揃って写っているものであった。四人で写っている分は、他の写真よりひとまわり大きかった。
 彼は、それらの写真に釘付けになった。写真の中の彼女は、カントレフがそれまでに見たことがないような素晴らしい笑顔だったからだ。その笑顔の輝きたるや、世界中の絵画が束になってかかっても、足元にさえ及ばなかった。ひとつの笑顔の中に、母親としての喜びや、夫を恋する女としての喜びなど、様々な歓喜がこれ以上はないという程満ち溢れていた。
 (俺は彼女の笑顔を目の前で幾つも見てきたが、ここまで嬉しそうな表情は見たことがない!…と言うより、彼女がこんな風に笑うなんて想像もしなかった!)
不思議なものだ。彼はラスコーリニコフに男として敗けたという気持ちよりも、彼女の幸福を心から願っていた同じ男として、これほどの笑顔をソーニャがするに及んだ彼の愛に感謝したい気持ちになった。彼は写真を見つめながら語りかけた。 
 「ソーニャ、よ、良かったじゃないか。君はこんなに幸せだったんだね!」

 そうして棒立ちになったまま、無垢で純粋なソーニャの笑顔に身を浸していると、突如、一筋、また一筋と、涙がこぼれだした。“…この彼女がもういないのだ”そう思うと、今まであまりの衝撃に麻痺していた心の奥底が、急速にうずき始めた。最初は、静かにむせび泣いていたが、側にあった手編みのレースや、その上に置かれた青い髪止めに気がついた瞬間、それが嗚咽へと変わった。それは、かつて体験したことがない、大地を引き裂くような慟哭だった。
 (彼女はまだ三十四才だった!三十四!これからって時だった!畜生、神はなぜもう少し待てないんだ!そんなに早く天界に上げたかったのか!?ほっておいても我々はどのみちすぐ死んでしまうんだ。だのになぜそれが待てないっ!!)

 床に手をついてさんざん泣いた後、彼の頭の中をよぎったのは、レンブラントやイゴーリンの事だった。
 (こういう体験を二人は何度も味わったのか…愛する者がいなくなっても世界はそ知らぬ顔で存在し続ける、この現実の酷さ!どんな朝にでも太陽が平然と昇って来るのは“非情”なのか、それとも“優しさ”なのか!?)
 「おじちゃん、どうして泣いてるの?どこか痛いの?」
後ろから声をかけたのは小さい方のミーチャだった。三人は帰って来ていた。カーシャは大人が泣いているのを初めて見て、自分がどう反応してよいのか分からず、ギュッと父親の上着の裾をつかんでいた。ラスコーリニコフは…あえてカントレフの涙には触れず、今夜の宿について質問をした。
 「もし近くに宿をおとりになっていないのでしたら、もう今晩はここに泊まっていかれてはいかがです?」
思わぬ提案にカントレフは戸惑った。心の準備が出来ていなかったのだ。するとカーシャが近づいてきて、その小さな手を伸ばし“大丈夫?”と彼の髪を撫でるではないか!心配気な空色の瞳で…。
 カントレフの全身に電気が走った。独り身で家庭を持たぬ彼には、子供に触られるという経験が一度もなかったのだ。
 (信じられん、一瞬にして俺の何かが浄化された!少し触られただけで、俺は自分が少し“まっとうな”人間に近づいた気がした。何という不思議で暖かい感覚なんだ…!)
その瞬間、彼の身にデジャヴ(既視感)が起こった。かつて帝都の娼館で、今と同じ様に“大丈夫?”と幾度か髪を撫でられた事があったのだ。その時にも目の前に美しい空色の瞳があった。
 (ああソーニャ…、この子は確かに君の子だ!)
カントレフは再びうつむいて少し肩を震わせた後、そのまま全く動かなくなった。ラスコーリニコフは元来他人とは大きく距離をとるタイプの人間であったが、さすがに目の前の男のことが心配になった。
 「本当に、泊まっていかれてはどうです?子供たちにとっても、久しぶりのお客が嬉しい事のようですし。」

 カントレフがじっとしていたのは、ある決意を固めていたからであった。彼は静かに立ち上がり、まっすぐにラスコーリニコフの目を見据えて口を開いた。
 「やはり奥さんを描かせて下さい!五日、いや、三日で結構です、ここに居させて下さい!」
 「妻を、ですか?妻は申し上げた通り、もう既に…。」
 「写真があります!この三枚の写真が!」
 「写真…。」
 「画家の中には、写真を絵画の亜流だとニセモノ呼ばわりする連中がいますが、ここにある写真はそんな議論レベルの遥か圏外です。これがソーニャ本人でなくて誰なんです!?どうか描かせて下さい!」
この日突然現われて死んだ妻を描かせてくれと叫ぶ野人に、ラスコーリニコフは“相手を警戒して見極める”という彼独自の対人ルールが全く適用できない事を悟った。そして胸中で『こんな人間は初めて見た』と感嘆した。
 しかし、ラスコーリニコフの決断は早かった。ソーニャが亡くなって五年。彼自身、あらゆる状況に対する覚悟は出来ていたのだ。
 「お断わりする理由はありません。日中、私は村人と畑仕事に出ていますし、子供たちは妹の家で預かってもらっていますので、どうせここには誰も残っていません。三日でも、五日でも、どうぞ御自由に。」

 …カントレフの人生はひとつのクライマックスを迎えようとしていた。 


このまま第14回“青に溺れて・後編”へ!