カントレフ、彷徨
                                         
                              
カジポン・マルコ・残月

第7回


 (二)エデンにて

 
イゴーリンが部屋の扉を開けた時、カントレフは目をみはって立ちすくんだ。どこもかしこも、本、本、本…。
 「これはまた、いや、驚きました。さすが先生でいらっしゃるわけで…。」
 「なに、単に私は本を捨てることが出来ない性分でね。本を捨てた時のあの後味の悪さが、どうにも苦手なんです。ある意味、人を殺したのと同じですから。」
 「しかし、これは本当に床が抜けかねませんよ。」
それを聞いて、教授は笑った。
 「心配はいらないよ。この下は例の大家の部屋なんだ。頭上から本が降ってくれば、それこそ爺さんも大喜びさ。それに私はこの焼けたような香ばしい古紙の香りが何より大好きでね。」
そんな会話をしながら外套を脱いで室内に入って行くと、なるほど辺り一面から心地よい甘い香りが漂っていた。彼はイゴーリンが『そこへ』と言った、これまた年代物のソファに深々と身を沈めた。
 (不思議だ。書店でも本に囲まれるわけだが、決してこんな風に落ち着いた気分にはならない。ここの本にはぬくもりがある。俺は、全身が本の香りに包まれて、疲れた心がみるみる穏やかになっていくのが分かる。)
彼は、ワインやチーズを用意している教授に声をかけた。
 「ここはまるで教授の為のお城のようですね。」
教授は『そうかい?』と軽く答えただけで、ワインのコルク抜きに専念していた。

 「宇宙に!」
これがイゴーリン流の乾杯の音頭だった。“我々二人に”でもなく“母なるロシアに”でもない。こういう言葉が出てくる人物と杯を重ねることができ、カントレフは幸運だと思った。
 そして約二時間の間、二人はワインの深い味わいを堪能しながら、ざっくばらんな雰囲気の中で雑談を楽しんだ。アルコールがゆっくりと体を巡り、ほろ酔い気分で話が興に入った頃、カントレフは部屋に足を踏み入れた時からずっと聞いてみたかった、ある質問をぶつけてみた。
 「教授、ひとつ質問させて頂いてよろしいでしょうか?」
 「何ですかな、改まって。私に答えられる事であればいいのですが。」
 「はい、質問というのは、つまりその、お一人で寂しくはな…」
 「ないね!」
イゴーリンはまだ質問が終わらぬうちに、きっぱりとそう言い放った。それは、この問題に関してはすでに結論が出ていると言わんばかりの、強い語調だった。カントレフは文字通り面食らってしまった。イゴーリンは萎縮してしまった彼の様子を見て、自分が大人げないと思ったのか、一転して柔らかい声で言葉を続けた。
 「失礼、五十才が近づくと、この手の問題には“信念”を持って答えねば、一歩間違えると全人生を指の間から取りこぼすことになりかねんのでね。」
 「すみません、立ち入った質問でした。ただどうしてもお聞きしたかったのです。これは私自身の問題でもありますので…。」
 「というと?」
 「察して頂けませんか?」
 「フム。」
イゴーリンは口髭をしばらく触った後、五本目の葉巻を深々と吸い、ゆっくりと口を開いた。
 「要は、どこで事足りるかということです。」
 「それは無欲になるということですか?」
 「いや、そうではない。欲の大小はむしろ別問題だ。話が拡がり過ぎると的を得ないので、この際、君が言わんとしている“独りで生きる”という事についてのみ、話を絞ってみようか。」
 
「はい。」
 「君はどうも、結婚しさえすれば“孤独感”は消滅して、寂しさという感情からオサラバ出来ると盲信しているようだがちがうかね?」
カントレフは思わず座りなおした。
 「そうではないと?」
 「残念ながら、私の周辺では、結婚してますます孤独感を深める事例が少なくないのだよ。彼らの子供でさえも、その気持を埋めることが出来ないくらいにね。」
 「…。」
 「さて、私が寂しくない理由は実に簡単だ。何の事はない、充分に満たされているからだ。何によってか?もちろん先人たちが身を挺して残してくれた書物によって、また芸術によってだ。私はこの部屋に独りでいる時、最も孤独という言葉から遠い所にいるんですよ。」
 「部屋にこもっている時が一番孤独ではないとは…。教授は人間がお嫌いなのですか?」
イゴーリンはその言葉を待ち構えていたように、両腕を組んで問いに答えた。
 「それでは逆に聞かせてもらうが、人間に興味を持たない者が、文学を面白く感じると思うかね?人間観察の集大成ともいえる文学を。」
カントレフは思わず大きく首を振った。そしてつまらない質問をしてしまったと思った。その気持がイゴーリンにはちゃんと分かっていたので、黙ったまま、まだ少し残っていたワインを相手のグラスに注いだ。

 しばらくの間、それぞれが葉巻なり、ワインなりを味わった後、カントレフが切り出した。
 「寂しさが身を包むことがあまりないと?」
 「読みたい作品が多すぎて、孤独を感じている暇がないんですよ。」
これはイゴーリンの本心だった。教授にとって、この世で最も気を滅入らせる場所は、皮肉にも書店の新刊本コーナーだった。どうあがいても一日は二十四時間しかないのに、一方でどんどん本が出版される…彼はいつも自分の好奇心の貪欲さを呪いながら、両脇に本を抱えて絶望的な気持で書店を出るのだった(その一方で足どりはかろやかなのだが)。
 カントレフにはまだひとつ、どうしても聞いてみたいことがあった。ワインを飲み干し、教授がチーズを食べ終わるのを見計らって質問を続けた。
 「では、別の角度からもうひとつ。あえて無礼を承知でお聞きします。『文学はあくまでも文学、所詮現実ではない』という意見が世間にありますが…。」
 「いいや、現実だね。それも紛れもなく。いいかい、来年は一九〇〇年だ。世界は中世の頃と違い、日々加速度的に変化している。つい昨日まで時代を支配していた価値観が、明日には跡形もなく消滅してしまうような世の中だ。文学は時代ごとの価値観の激変という嵐の中をくぐり抜け、古代ギリシャ時代から決して絶滅しなかった。約二五〇〇年前のソフォクレスから、ダンテ、シェイクスピア、ゲーテ、そして我らのドストエフスキーへと、人類の旅路を照らす灯台守たちは、  その出身国も生きた時代をも越えて灯を受け継いできた。私が強調したいのは人々が過去の灯台守たちの存在を、このひどい戦乱の歴史の中でもついに忘れなかったという事だ。ひとつの書店に一ヵ月前に書き上げられた作品と、二五〇〇年前の作品が並ぶこの不思議。両者の確実な共通点は、受け継がれなければ残らないということ。三ヵ月で消える新刊がある一方、シェイクスピアは三百年、ダンテは六百年も、既に店頭に並び続けているこの快挙、この奇跡!」
ここで教授は少し咳き込んだ。カントレフがハンカチを出して立とうとすると、教授は“大丈夫”と手を振って、彼を座らせた。教授は話を続けた。
 「私は『残った』というこの一点のみで、先の『所詮現実ではない』に反論したいんだ。灯台守たちは多少の差はあれ、作中に自らの人生体験やその思想を必ず盛込む。虚偽に満ちたものであれば、たとえ数年間は人を騙せても、数百年は騙せぬ。さすれば『残った』作品をどうして現実ではないと軽視できよう。現実そのものではないか。」
考えてみれば、売れない本はすぐに廃刊になっていくという、この非情な市場システムの中で『残り続ける』ことは、とてつもなくすごい事だとカントレフは思った。
 (数人の人間が読んで感銘を受けたところで、その程度では後世に残らない。人は皆それぞれ別の人生を歩んでいるにも関わらず、大勢の人間が一律にこれは真実だと叫ぶことで、初めて作品は未来に受け継がれる可能性を秘める事になるんだよな。)
 教授は立ち上がり、手を後ろで軽く組み、ゆっくりと室内を歩き始めた。
 「最大の壁は『時の審判』だ。時代が変わったとたん感銘を受ける者がいなくなれば、即、作品は歴史の谷間に落ち込む。価値観の変化に左右されない人類史的な選考をかいくぐったものだけが、この世界の真理として残り、その真理ゆえに読み手にとって自分が独りぼっちではないと強く確信する根拠となりうる、強力な精神的支えとなるんだ。優れた文学は“孤独を殺す”、そういうことだ。」
 「お話はよく分かります…でも、既に死んでしまった者と会話するより、生きている者と会話したくなりませんか?相手が過去の人間では、吸収は出来ても、与えることが出来ませんよ?」
 「与えることが出来ない?私ごときが他人に何かを“与える”などと、そこまで自惚れてはおらんよ。」

 そう言った後、イゴーリンは歩くのを止め、カントレフの正面に椅子を置いて腰掛けた。そして相手の目を真っすぐに見て、今から微妙な話題に触れる事を匂わすように意図的に声のトーンを落して話し始めた。
 「話を続けます。が、その前にひとつ確認しておきたいことがあります。」
 「何でしょう?」
 「私は人類を愛しています。この点は疑いなく信じてもらえていますね?」
 「はい。」
 「よろしい。では続けましょう。先ほどあなたは生きている者と会話したくないかと尋ねましたね。」
 「ええ。」
 「では、本の中の登場人物の方が、普段私の周りにいる人間よりも強い生命力を持っているとしたら?」
 「そんなことがあるのですか?」
 「存在感がまるで違うよ。だってネフスキーを歩いてみたまえ、ほとんどの人間が生きる屍じゃないか!」
 「申し上げにくいのですが、その意見は傲慢とみられても…。」
 「事実そうなのだよ!」
イゴーリンは側にあったテーブルを拳で叩き、反動でワインの空ボトルが床に落ちた。部屋の中は外気が流れ込んだように張り詰め、カントレフは身じろぎひとつせず凝固していた。教授は六本目の葉巻を葉巻入れから取り出し、静かに火を付けた。
 一服しながら、教授は再び室内を歩き始めた。カントレフはその様子をずっと目で追っていた。その状態が五分ほど続いた後、教授はカントレフの背後から彼の肩に手を置いて話し出した。
 「初めに君が部屋に入って来た時、君はここを私の城だと言ったが、私は気のない返事しかしなかった。あれはなぜだか分かるかい?」
カントレフは黙って首を横に振った。
 「城は城でも、ここは宮廷ではなく要塞の方だからだ…神と戦う為の。私は神と戦闘状態にあるんだ。無論、先にしかけてきたのは向こうだ。私は神とは違って平和を愛しているからね。」
 「神?神ですか?なぜ神と戦う必要があるのです?」
 「…ワインを楽しむ為に君には黙っていたが、実は私には妻と二人の子が、かつていたんだ。」
 
「かつて、ですか。」
 「…みんな…みんな病に奪われてしまった…下の子はわずか半年しかこの世界にいなかった。私は神が何をしたいのか分からない。妻も子も暖かく優しい心を持っていた。出来損ないの私を心から愛してくれた妻はもちろんのこと、まだ年端もゆかぬあの子らに何の罪があるというのか!たとえ聖書の予言通り復活する日が来たとしても、高熱にうなされ続けた子供の苦しみも、二人の子を失った妻や私の絶望も、事実体験したことに変わりはなく“すべてが夢だった”ことにはならない。実際、妻は悲しみの内に衰弱する様に死んでいったんだ。簡単に後で帳消しに出来る悲劇なんかじゃない!」
カントレフはただ黙って話を聞いているしかなかった。いや、相槌を打とうにも言葉が何も出てこなかったのだ。教授はなおも続けた…。
 「確かに私はお世辞にも聖人とは言えないし、時には悪の中にも美を見出し、それに魅了される事もあった。イエスを売ったユダを、彼のその弱さゆえに愛してやまぬくらいだからな。畜生、罰するなら私を罰すればいい!なぜ直接私を狙わず、何の罪咎もない周りの無関係な人間を卑劣にも攻撃するのだ。神なら何をしても許されるのか?絶対者だからか?我々はヤツのペットなどではないぞ!」
イゴーリンは再び咳き込んだ。今度は前よりも激しかった。カントレフは急いで水を汲んできて、彼に差し出した。教授は胸を叩きながら一気に飲み干し、大きく息を吸い、静かに吐き出した。彼は少し落ち着きを取り戻した。
 「どこか具合が悪いのではないでしょうか?」
心配してカントレフが尋ねると、教授は悲しみとも苦笑ともつかぬ表情で答えた。
 「別に私は死を恐ろしいと思ってはおらんよ。私の専攻であるギリシャ・ローマ哲学の一部には面白い死生観があってね、『死とは生まれる前に居た世界へ還ることだ。』というやつだ。単に懐かしい故郷へ還るだけの事という訳だ。セネカたちストア派のこの思想に全く同感だね。だが、同感した上で、私は“あえて”生きる。なぜならユダを自殺まで追い詰めた様に、神はあの手この手を使って私を自殺させたがっているとしか考えられんからだ。となると、できるだけ長く生き続けてやることが神への復讐になる。違うかい?」
 「生き続けることが復讐…。」
カントレフは、初め書店で笑みを交わしながら自己紹介しあった同じ人間の内に、この様な燃えさかる情念が秘められていた事に驚き、改めて人間とは何と壮絶な生き物なのだろうかと、ある種、畏敬の念を感じた。彼はまじまじと教授の顔を見つめた。
 外はすっかり吹雪になっていた。教授は立ち上がってしばらく窓の外を眺めた後、“寂しくなどない…か。”と呟いた。そしてカントレフの側に来ると再び肩に手を置き、憂いを帯びた表情で口を開いた。
 「“寂しい”という感情は、全ての感情の中で最も危険なんだよ。寂しさから誰かを好きになったり、自分の生活に巻き込んだりするとね、いざ自分が寂しくなくなった時に傷つくのは、必要とされなくなった相手の人間だからね。私は沢山の人を傷つけ、そして学んだんだ。“寂しさ”を克服する強さを持つことは、人類全体の一人一人に課せられた『義務』なんだとね。」
教授は吸い終わった葉巻の火をもみ消すと、黙って彼に右手を差し出した。それは“もう帰りたまえ”という合図だった。カントレフはしっかりと強くその手を握った。そして本当に貴重な夜だったと、心からそう思った。


(次回第8回“教授からカントレフへ”)