カントレフ、彷徨
                                         
                              
カジポン・マルコ・残月

第9回

(このページの末尾に画集リンクあり)

  (四)今、扉は開かれ

 
同日、深夜。
 (これを啓示というのだろうか!?)
カントレフは真冬だというのに、額の汗を拭いながら三冊の画集をむさぼりめくっていた。
 (お…俺は、俺は絵というものを見くびっていたのかも知れん!)
彼の背中は汗でびっしょりとなり、ページをめくる指先が動揺して小刻みに震えていた。続いて彼は、いつの間にか自分の頬や喉までもが濡れている事に気づいた。
 (涙?これは一体どういうことだ?俺の体はどうなってしまったんだ!?)
彼が絵に対する自身の反応に戸惑っていたのは、それまで彼の頭の中には、絵に感動して泣くという発想自体が一度も湧かなかったからだ。

 話は二時間前までさかのぼる。帰宅したカントレフが初めに開いた画集はルーベンスだった。最初は単純に、ダイナミズム溢れる神話(ギリシャ)画の数々に驚嘆していた。次に壮絶なキリストの一連の処刑画に圧倒されて目を丸くしていたが、宗教心の薄い彼は特にそれで涙を流すことはなかった。ところが、たった一枚の絵で天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたのだ。それが『ルーベンス版“最後の晩餐”』の絵だった。それはこういう絵であった。捕われる直前のキリストと彼の前に置かれた食卓を中央にして、そこを十二人の弟子たちが前後左右から取り囲んでいた。弟子たちは皆キリストの顔を見ているのだが、一人だけ師の方を向かずに振り返って画面のこちら側を、つまり我々の方をひきつった顔で凝視している者がいた。それが、この晩餐の前に師のことを密告していたユダだった。ふところには銀三十枚が入っていた。
 ユダの顔は極度の緊張感で蒼白になっており、追いつめられた目は“裏切った”彼を糾弾する我々の視線を明らかに意識していた。彼はすっかり怯えきっていたのだ。
 カントレフの視線は、このユダの目に釘づけになった。昔から見覚えのある目だったからだ。
 (俺は、この男を知っている…!これは、俺だ!俺はこれまでに一体何度、鏡の中にこの表情を見てきたことか。これは俺そのものだ!)
彼は思わず本を閉じた。あまりに強烈過ぎた。だが考えてみれば、この表情は想像して描けるシロモノではなかったので、実際にルーベンスも見ていたということになる。なんと三百年の時を超えた、ベルギー人の同胞だった。
 カントレフは、絵画によっては“鑑賞”などという悠長な言葉が当てはまらぬ、まさに“体験”そのもの作品があることを思い知った。

 次に手に取った画集は、レンブラントのものだった。この自画像だらけの画集には、野心に満ちていた二十三才の駆け出し当時のものから、人気画家となってその名を覇せた三十代を経て、やがて全てを失った最晩年の六十三才のものまで、丸四十年分が収められていた。全てを失った、というのは巻末の解説によると『最初の妻に先立たれ、息子夫婦にも、そして二人目の妻にも先立たれたあげく、裁判所に破産宣告を申し渡され、全ての絵を競買用に没収されてしまった。死後に残ったものは僅かな絵の具だけであった。しかも競買の結果は二束三文だった。』とのことだった。
 カントレフが絶句したのは、失意の真っ只中で描かれた幾枚かの最晩年の自画像を見た時だった。それらは、立て続けに彼を襲った非運や、彼について無理解だった世間に対する恨みと怨念の影など、何処にも見当らなかった。それどころか全く正反対であった。誰をも非難する事はなく、絶望に打ちひしがれているのでもなく、全てを受け入れた人間の、言うなれば“達観した”表情だった。非運と戦うことを止めたのはその不毛さに気づいた為であり、決して逃げたわけではない。その証拠に目は敗者の目ではなかった。要するにレンブラントは何もかもを“許してしまった”のだ。
 (何ということだ。この男は、いつまでも続く激痛に、とうとう慣れてしまったのだ!)
カントレフはこれまでの人生でその様な顔を見たことが無かったので、凄まじい衝撃を受けた。そして僅か数枚の絵だけで、何の言葉も使わずに、人間はこんなにも崇高な生物なのだと教えてくれる絵画というものに、改めて畏怖を覚えた。レンブラントの名を、ゲーテやシェイクスピアと同列に並べる事に何のためらいもなかったし、それどころか、絵画は文学と違って、中間に見知らぬ翻訳家を中継する必要がない分、つまり作り手と直接じかに向き合える点で、むしろ文学を超えているとさえ思った。
 次の画集に移ろうとした時、彼は急に教授のことを思い出した。妻子に先立たれていることが両者に共通していたからだ。
 (教授にはレンブラントのこの穏やかな顔が、道しるべにはならなかったのだろうか?)
彼はそう疑問を抱いたが、すぐに『あまりに何度も見過ぎてすっかり覚えてしまった』という教授の言葉が思い浮かび、胸が熱くなって次の瞬間吐くように泣いていた。
 (あの人が自分も彷徨者だと言ったのは、この絵にどうしてもたどり着けぬ事を指していたんだ…。)
 教授は神を許すことを拒否し、自らレンブラントに続く道を閉ざし、たった一人、あのエデンで血を吐きながら神と戦っていた。
 (しかし教授、その恩讐の果てには何があるというのですか?)
カントレフは、常々自分の非力さを感じていたが、例え僅かでも教授の為に自分を役立てる事が出来ぬだろうかと真剣に考えた。

 最後に出会ったフェルメールは、ただもう、ひたすらどの絵も美しかった。大作に取り組んだ先の二人とは随分違い、描かれたものは小品ばかりであったが、それがまた画家を愛すべき理由にもなっていた。カントレフにはモデルがどうとか、構図がどうとか、そういう細かいことは分からなかったが、フェルメールの作品はともかく画面全体を支配する澄みきった空気が実に心地よく、どの絵にも決して見飽きるということがなかった。
 この画家は四十三才で死んでしまった為に、その生涯については殆ど判明しておらず、残された作品の枚数もごく僅かだというのを読んで、カントレフは本当に残念に思った。画集の帯にはフェルメールのことが『今も世界中の画家に最も愛されている画家』と記されていた。それを見て、彼はまるで自分が褒められたような気持ちになった。
 (普通の一般の人々だけでなく、同じ画家連中から愛されているということが、まさにフェルメール絵画の奥の深さを如実に語っているよな。)
そう考えると、ますます作品が愛おしくなって、思わず画集を強くその胸に抱き締めた。そして、改めて絵画には色々なものがあるのだと、心から感服した。


 時計は午前三時をまわっていた。仕事があるので早く眠らねばならなかったが、すっかり興奮してしまって、なかなか寝つけなかった。
 目を閉じると、特に強烈に脳裏へ焼付いた三色の色が現われては消えた。その三色とは、求めた色を出すために時には自分の血を混ぜたというルーベンスの赤、神々しさと枯淡さを同時に秘めた黄金の様なレンブラントの黄、他の画家をして『フェルメール・ブルー』と言わしめた透明感溢れるフェルメールの青であった。赤、黄、青。カントレフには絵画の知識が全く無かったが、その三色は偶然にも色の根幹をなす究極の『三原色』だった。イゴーリンはそのことを意図してこの三冊を選んだわけではなかったが、カントレフはまだ本人も気づいていない敏感な色彩感覚で、無意識の内にその三原色を画集から全身で感じ取っていたのだ。
 ベッドの中で寝返りをうっている内に、ふと、誕生日だったことを思い出した。
 (書店で教授と出会って以来、すっかり誕生日のことを忘れていたな。)
ネヴァ河からの凍てついた風が、絶え間なく窓ガラスをカタカタと打ちつけている。
 (結局、今俺はこの暗く寒い小さな部屋で、片隅に置かれた壊れかけのベッドの中に独りぼっちで毛布にくるまっている。だが、滅入っているわけではない。今日はいい誕生日だった。もし教授と出会わなかったら、俺は一生絵画と向き合った時の涙を知らぬまま死んでいただろう…。)
彼は、現にこういう出会いがあったのだから、自分の人生もそう捨てたものではないと思った。
 (きっかけをくれたドストエフスキーに感謝状でも書くか!)
短くカントレフの笑い声が深夜の凍りついた部屋に響き、そして闇へ吸い込まれた。睡魔が徐々に忍び寄ってきた。
 (不世出の灯台守…三十五からでもなれるんだろうか…。)

(★カントレフの画集へ)



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