〔 この寺へ行け!京都・奈良 お薦め古寺15選 〕

★ディープ版★

【京都ディープ版】

4.大徳寺

臨済宗の大寺院。山号は竜宝山。1315年に大燈国師・宗峰妙超が開創。南から勅使門・山門・仏殿・法堂・唐門・方丈(本堂及び住職の居間)と並ぶ。方丈と聚楽第から移築した唐門は国宝。山門は1階を一休が、2階を利休が築き、利休が自身の木像を2階に置いたことに秀吉が激怒し、切腹を命じたとされている。後醍醐天皇の庇護を受け発展。当初は京都五山の第1位におかれたが、足利政権になって冷遇されたことを機に、庶民から離れていた五山派を抜け野に下る。応仁の乱で荒廃するも一休が復興。境内には諸大名が建てた塔頭(たっちゅう、小寺)が24院もあるが、これは信長の葬儀を秀吉が大徳寺で行ない菩提を弔う総見院を建立&寺領を寄進したこと、また茶道の祖・村田珠光が一休に参禅したことをきっかけに茶人が大徳寺に集まり、武将達が競うように塔頭を建立したことによる。24院の各塔頭が枯山水の庭園や茶室、貴重な文化財を持つ。ただし、常時拝観可能な寺は、龍源院・瑞峯院・大仙院・高桐院のわずか4院のみで、一休開祖の真珠庵、利休と縁の深い聚光院など他の塔頭は春と秋に一部公開される事がある。
※主な寺宝は10月第2日曜に公開。
※京都五山の基本は天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。南禅寺は別格。

●龍源院
1502年に能登の畠山氏が創建した大徳寺最古の建物。一ヶ所で4種類の趣きが異なる名庭を見られる。方丈を囲む枯山水庭園は、北が「竜吟庭」(相阿弥作)、南が「一枝坦(いっしだん)」、東が「東滴壺(とうてきこ)」、書院軒先は「こ沱底(こだてい)」と呼ばれている。書院には秀吉と家康が対局したという基盤や種子島銃を展示。
・竜吟庭…須弥山(しゅみせん)式枯山水の名園。青々とした杉苔の大海原の中に、石組の須弥山(世界の中心にあると言われる山)がそびえている。須弥山は3個の石で構成されることから、釈迦・文殊・普賢(寺によっては阿弥陀・観音・勢至)を表す三尊石とも呼ばれる。 
・一枝坦…白砂は大海原の中に、苔と石組みで表現された蓬莱山、鶴島、亀島がある蓬莱式庭園。
・東滴壷…日本一小さな壷庭(中庭)にもかかわらず、たった一滴の波紋が大海原となって広がっていく光景を見事に描いた奇跡の庭。この壷庭を見ていると、庭は広ければ良いってもんじゃないと強烈に実感する。
・こ沱底…聚楽第の2個の礎石を配した石庭。それぞれが阿吽の呼吸を表し、全てが循環している宇宙の真理を語っている。
●瑞峯院
1535年にキリシタン大名・大友宗麟が創建。「閑眠庭」は禅寺であるにもかかわらず、地中にマリア像が彫られたキリシタン灯籠を中心に、縦4個、横3個の石を配置して巨大な十字架を形作っている珍しい石庭。方丈前の「独坐庭」は、打ち寄せる荒波を白砂で描いたダイナミックな石庭だ。
●大仙院
1509年に大聖国師が創建。枯山水には青石など名石を数多く使用。方丈北東の巨石を組んで表した蓬莱山から、水流が滝となって流れ落ち、鶴島と亀島を通ってやがて大河となり、最後は方丈南側の静寂の白砂の大海に注ぐという、壮大なスケールの設計になっている。まるで立体の山水画だ。境内の木は沙羅双樹。有名な沢庵和尚も一時滞在していた。
※国の特別名勝に指定されるほどで、いつも修学旅行生や外国人でいっぱい。
●高桐院
1601年に、「利休七哲」の細川忠興(三斎)が建立。書院「意北軒」は利休邸の広間を移築したもの。三斎が建てた2畳の小さな茶室「松向軒」もあり、秀吉の北野大茶会で使われた名茶室だ。庭の一部は細川家の墓所で、三斎とガラシャ夫人の墓がある。墓に使われている美しい石灯篭は利休秘蔵のもの。秀吉と三斎から譲ってくれと言われた利休は、わざと裏面を削り壊し「キズモノですから」と秀吉を退け三斎に贈ったという。墓塔なのに「無双」という銘があるのがカッコいい!表門から玄関までの参道は木々が非常に美しく、紅葉の名所として有名。出雲阿国の墓もあるが残念ながら非公開。


5.東寺

平安遷都直後の796年に建立された真言宗東寺派の総本山。別名教王護国寺。本尊・薬師如来。かつては西寺とペアで平安京の入口「羅城門(羅生門)」を挟み、都を鎮護していた。嵯峨天皇の命を受けて823年に空海が入寺してからは、真言密教の根本道場として急速に発展した。空海の没後、火災や地震にあい寺運も傾いた時期があったけど、その都度、頼朝、足利氏、豊臣秀頼、徳川家光を始め、公家と武家の双方からの援助を受けて再興されてきた。また江戸時代には空海ブームが庶民に広がって参拝者が激増した。
境内は南大門の東に五重塔、西に灌頂院が配され、北には真っ直ぐ金堂、講堂、食堂(じきどう)が並んでいる。家光の寄進で再建された五重塔は高さ約55mで、日本の塔の中で一番高い(1644年完成)。
講堂の内部は空海が21体の仏像を配置、自らの世界観を反映した立体曼荼羅になっている。足を踏み入れた瞬間、約1200年をかけて堂内に満ち満ちた名仏たちのオーラ(霊気)に圧倒され、一瞬、自分の立っている場所が現実世界かどうか分からなくなった。クラッときた。壇上の中心に座すのが大日如来で、その周囲を阿弥陀など4体の如来が囲んでいる(五智如来)。向かって左に五大明王、右に五菩薩、その外側に梵天と帝釈天、そして四隅には四天王が配されている。一番人気は何といっても国宝「帝釈天半跏像」(839年制作)!京都だけでなく日本全体、否、世界全体を見渡しても、この帝釈天よりハンサムな仏像は存在しないだろう。金縛りにあったように動けなくなった女性を僕は何度も目撃している。帝釈天は魔物から仏界を守る戦闘部隊の隊長。スッキリしたお顔立ちで眼は伏目がち。これが超クール。よく見ると額に第3の眼がある。
春秋に開館される宝物館は密教美術の宝庫。「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)像」は、長く羅城門の楼上に安置され、都の守護神として人々の信仰を集めていた仏像で、鳳凰の冠を被り、鎖で編んだマントを身につけている。ギロリと眼をむいた任侠系のヒーローだ。
※講堂の21体のうち、実に15体が国宝に指定されている。


6.広隆寺

広隆寺といえば記念すべき国宝第1号(1951年)となった「弥勒(みろく)菩薩半跏(はんか)像」!穏やかな微笑が見る者に時間を忘れさせる。赤松を彫った飛鳥時代の仏像で、腰掛けて足を組み、右手の指をそっと頬に当てている。これは、釈迦の後継者として、どのように人々を救えばいいのかを思索している姿だ。片足を下ろしているのは、瞑想中でも苦しんでいる者を救いに行きたいという、居ても立ってもいられない気持ちの表れ。口元の微笑みは、救い方を悟ったその瞬間のもの。この極限まで優しい仏像は、人間の手で彫り上げられたものとは思えない。弥勒仏を前に哲学者カール・ヤスパースはこう感嘆した「私はこれまでに古代ギリシャの神々の彫像も見たし、ローマ時代に作られた多くの優れた彫刻も見てきた。だが、今日まで何十年かの哲学者としての生涯の中で、これほど人間の本当の平和な姿を具現した芸術品を見たことはなかった!」。1960年、この麗しい姿に我を忘れた大学生が、頬ずりをしようとして右手薬指を折ってしまう事件があった。呆れてしまうが、吸い寄せられたその気持ち、分からんでもない…。霊宝殿は修学旅行生でスシ詰め。はしゃぎ声の中、とてもじゃないけど心静かに対面なんかできない。閉館1時間前に行かれることをお薦め。最後の数分間、弥勒さんと1対1になれます。

右京区太秦にある真言宗御室派の大本山。603年、渡来人・秦河勝(はたのかわかつ)が創建。京都には平安遷都以前から多くの寺があった。日本書紀によると、622年に聖徳太子が他界したことを受け、同年に太子から授けられた新羅の仏像(これが弥勒菩薩半跏像)を安置したという。
今に伝わる広隆寺の国宝は20点、重要文化財は48点。中には3mを超える不空羂索(けんじゃく)観音立像もある。この寺は天災や戦火の中、何度も全焼と再建を繰り返してきた。多くの仏像がここまで残ったのは、人々が火災の中から必死に救出してきたからだ。霊宝殿を見渡した時、このことに思わず感動してしまう。

※当初は金箔が貼られ光り輝いていたという。でも、今の木目があらわになった弥勒さんも渋くていいよね。
※広隆寺には他にも一見泣いている様に見える「泣きミロク」と言われる弥勒菩薩半跏像がある。



7.龍安寺

臨済宗妙心寺派の寺。1450年に細川勝元が創建。しかし勝元自らが東軍大将となった応仁の乱で焼失。1488年に子の政元が再興した。
龍安寺の石庭は枯山水の頂点、侘びさびの極致と言われており、日本の美の象徴として世界遺産(文化遺産)に登録されている。白砂が敷かれた長方形の庭は約25mX10m。そこに大小15個の自然石が向かって左から順に、5・2・3・2・3と数個ずつまとまって配置されている。大まかに分けると7・5・3となることから、陰陽道の吉数(祝いの数字)に例えて「七・五・三の庭」ともいわれる。

※「七五三」が好まれる理由…偶数は「割れる」数なので縁起が悪く、1は小さすぎて貧相、9は「苦」に繋がるのでNG、結果3、5、7が残る。3月3日、5月5日、7月7日が吉日なのもここから。

それぞれの石組みの周囲を緑の苔が縁取っており、島が大海原に浮かんでいるように見えるし、雲海の中から山の頂が突き出しているようにも見える。人によって自由な解釈が可能であり、変化し続ける“生きた庭”だ。各石の距離を始め庭内全体に黄金律が発生していて、幾ら眺めていても見飽きない。庭の三方を柿葺き油土塀が囲み、境内の植栽を借景(しゃっけい、遠景)としている。また、少しでも石庭を広く見せる為に、左右の塀は遠くに行くにつれ徐々に低くなっている。遠近法を巧みに利用したものだ。15個の石はどの角度から見ても、必ず1個は別の石に隠れて、14個しか見えない設計になっている。これは「この世界はあなたという最後の石があって完成する」「不完全に見えても実は15個ある。見かけに惑わされて真理を見落とすな」「“不足の美”を、足ることを知れ」など、様々なメッセージを含んでいる。まったくもって、空前絶後の庭だ。

※1975年に来日したエリザベス女王が石庭を絶賛し、海外でも一躍有名になった。
※1797年の大火で大被害を受け、最盛期に21院を数えた塔頭は、現在、西源院、大珠院、霊光院の3院を残すのみ。
※平成18年3月31日まで油土塀・柿葺屋根は葺替え工事でシートがかけられているのでイマイチ。



8.清凉寺

浄土宗知恩院派。山号は五台山。通称嵯峨釈迦堂。本尊・釈迦如来。この地には元々『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとされる左大臣・源融(みなもとのとおる、嵯峨天皇第12皇子)の山荘があった。融が熱心な阿弥陀信者だったことから、彼の山荘が一周忌(896年)に阿弥陀三尊像(現存、国宝)を抱く棲霞寺(せいかじ)となった。それから120年後の1016年、僧の盛算(じょうさん)が宋から師・「然(ちょうねん)が持ち帰った釈迦如来立像(国宝)を、棲霞寺内に建てられた新堂・清凉寺(釈迦堂)に安置。この釈迦仏が信仰を集め、やがて清凉寺は母体の棲霞寺よりも大きな寺となった。

本尊の釈迦如来立像は、釈迦を慕った古代インドの王が、当時37歳の釈迦の姿を弟子に彫らせた生身の仏像と言われており、最初にインドからヒマラヤを越えて中国へ伝わった。続いて、大陸で修行中の東大寺出身の僧・「然(ちょうねん)が、985年に現地の仏師に頼んで模刻してもらい日本へ持ち帰ったのだ。これが「三国伝来の釈迦像」といわれる由縁だ。それまで日本人が見てきた釈迦像とは明らかに異なる、ガンダーラ風の釈迦の姿は鮮烈で、人々から熱狂的に崇拝された。そして「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる模造が約100体も作られ全国に広がった。
1954年、修復作業に取り掛かった仏師たちから驚きの声があがる。仏像の胎内から絹製の内臓(五臓六腑)と、霊魂としての鏡が発見されたのだ。そればかりじゃない。レントゲン撮影から目に黒水晶、耳に水晶が入れてあり、額に銀の一仏がはめ込まれていることが分かったのだ!外見を写しただけではなく、心臓や肺といった臓器まで作り、よりいっそう生身に近い釈迦像にしようとしたんだ。

境内には、宝物を収蔵展示する霊宝館、豊臣秀頼首塚、源融、「然、嵯峨天皇などの墓があり、境外北側墓地には遊女夕霧太夫の墓がある。
霊宝館は春秋に2ヶ月ずつ特別公開され、源融を模したという阿弥陀三尊像、釈迦十大弟子像、四天王立像、兜跋毘沙門天立像(素肌に鎖の鎧がセクシー)など平安期の数々の名仏を拝観できる。釈迦仏の「五臓六腑」は2階に展示されているのでお見逃しなく。

※清凉寺釈迦像は日本にはない魏氏桜桃という樹で作られているという。また胎内からはこの像の誕生エピソードを記した文書も発見され、三国伝来の伝承が裏付けされた。
※釈迦の「五臓六腑」を縫ったのは中国の5人の尼僧。千年も昔に中国の人々が正確に人体構造を知っていた証拠で、医学史上も貴重な資料である。



【奈良ディープ版】


10.興福寺/新薬師寺

法相宗大本山。藤原鎌足の妻が夫の病気平癒を祈願して宇治に建てた山階寺が、飛鳥に移され厩坂寺と名付けられ、最終的に710年、平城京遷都の際に藤原不比等(鎌足の次男)によって移転され興福寺と改名された。以後、都が平安京に移ってからも、朝廷や藤原氏の庇護を受け「北の比叡山、南の興福寺」と並び称されるほど一大勢力となっていく。平安後期には神道の春日社まで支配して、僧兵も非常に強力になった。
1180年の平重衡(しげひら)の南都焼き討ちで東大寺の巻き添えを食って全焼。しかし朝廷・幕府のW支援と、荘園からの巨額の収入ですぐに復活。焼けた仏像は運慶ら慶派一門に制作を依頼したほか、過激な僧兵たちが飛鳥の山田寺を襲撃し本尊の薬師三尊像を強奪、興福寺のものにした(この仏は後に火災に遭い“仏頭”になる)。

鎌倉・室町の両幕府は興福寺の権勢に恐れをなし、大和国の守護職に幕府の人間ではなく興福寺を任命した。つまり、一つの寺が一国を支配したんだ。江戸時代には寺社領として、東大寺の3700石に対し、2万1千石(!)を受け、法隆寺や薬師寺など他の名刹を支配下においた。興福寺は高僧になる為の登竜門となり、最盛期には175棟が境内に建ち、169体の仏像を安置するまでになった。

諸行無常。幾人も名僧を輩出した興福寺だったが、1717年の大火で殆どの建物を焼失。そして明治に入り状況はさらに深刻に。神道を重視する新政府が主導した、1868年から1876年まで8年間続いた廃仏毀釈の嵐は、国内の半数の寺院を廃墟と化した。興福寺も例外に漏れず、寺領は没収、僧は春日社の神官に転職させられ、せっかく焼け残った三重塔や五重塔が250円で売りに出され、境内は塀が取り払われ鹿が遊ぶ奈良公園となり、僧侶の食堂は奈良県庁に売却された。そしてついに、興福寺は誰もいない無住の荒れ寺となってしまう。明治政府も「さすがにこれはやりすぎだろう」ということになり、1881年に興福寺復興の許可が出てたものの、今も興福寺には塀が無く公園と完全に一体化している。

とにかく、7回以上も焼失と再建を繰り返したが、鎌倉時代の北円堂と三重塔、室町時代の東金堂と五重塔は残った。多くの日本人が愛する奈良期の仏像『阿修羅像』も無事だった。北円堂には運慶の遺作であり最高傑作でもある『無著(むじゃく)・世親(せしん)菩薩立像』(1212年作)が安置されており、本当にここが焼けなくて良かった。無著と世親の兄弟は実在したインドの修行僧。運慶は様々な仏を彫り続けた人生の最後に、迷いながらも悟りに近づこうと懸命に努力する人間の姿を彫ったんだ。そう、阿弥陀仏や観音ではなく「ただの人間」を。まさに“人類へのエール”とも言うべき遺言を刻んで彼は旅立った。

※『阿修羅像』(734年、将軍万福作)の名は古代インド語の「ア(否定)スラ(天)」からきている。阿修羅は帝釈天(仏側戦闘部隊総大将)と互角に渡り合った悪の最強戦闘神。元々は正義の神だったけど、あまりに正義感が強すぎた為に人を許す慈悲心を失い魔物化した。その阿修羅が釈迦の説法を聞き感銘を受けた瞬間を描く。阿修羅はこの後、仏法の守護神となった。
※興福寺は奈良仏師たちの名腕を満喫できる。『八部衆像』『十大弟子像』『金剛力士立像』は国宝館に常設展示、北円堂の運慶仏は春秋に特別公開される。
※五重塔は全高50m。東寺の五重塔に次いで日本第2位の高さ。



●新薬師寺

747年に光明皇后(皇族以外の初めての皇后)が夫・聖武天皇の眼病が治るように名僧行基に建立させた。かつては大伽藍があり千人の僧侶を抱えていたが、戦乱に巻き込まれて炎上、現在はただひとつ本堂のみが残る。本尊の『薬師如来坐像』の目がパッチリと大きく開いているのは眼病治癒を願ったもの。新薬師寺で有名なのが円陣を組んで薬師如来を守っている眷属(けんぞく、従者)の『十二神将立像』!人間と等身大の12体の戦闘神が武器を取り、様々なポージングで本尊を守護している。塑像(そぞう、土の像)に精緻な彫刻が施されており、当時は極彩色のド派手な色彩が塗られていた。近年、本堂の東側にステンドグラスの窓が入り、午前中に行くと朝の光で堂内がたいそう美しいとのこと。

新薬師寺も秋篠寺と同じく、屋根のラインがとてつもなく穏やかで優しい。微妙に中央が下がっており、優美で繊細な曲線を作っている。また、屋根の両端は鋭角に伸びており爽快感がある。鳥が羽を開いているようにも見える。建物は無言でそこに“ただ在る”だけ。何も押し付けてこない。屋根に癒され、シルエットにぬくもりを感じ、見れば見るほど気持ちが安らいでいく…そんな建造物がこの世にあることを、ぜひその目で確かめて欲しい。

新薬師寺では“写経”に挑戦できる。二千円で写経用紙と見本のお経を購入し、墨と筆を借りていざトライ。写経自体は各地の寺でやってるけど、この寺は一味違う。何と国宝(本尊薬師如来)の真正面で写経できるんだ!国宝を前に写経できるのは日本でココだけとのこと。約1時間の写経は書き進むに連れ心の余分なものがそぎ落とされていく感じ。とても落ち着く。驚いたのはここから。なんと写経した経文を薬師さまの膝元に奉納する為に、国宝が並ぶ聖域に入れてもらえるんだ!十二神将の円陣内に入った瞬間、視界の360度が国宝になって失神寸前だった。薬師さまの背後に彫られた文様を見てまた仰天。アカンタスというギリシャの植物だった。1250年前の仏像にギリシャの植物!この寺もまたシルクロードの終着点!くーっ、ロマン爆発!

※写経に住所を書いておけば、後日、同寺から“写経証明書”が郵送されてくる。
※十二神将像は一体だけ国宝に指定されていない。安政地震で倒壊したんだって。残念。
※本堂の屋根にある鬼瓦は1250年前の日本最古のもの。


11.東大寺

華厳宗総本山。良弁僧正が開山。南都七大寺(東大寺、興福寺、薬師寺、西大寺、大安寺、元興寺、法隆寺)のひとつ。聖武天皇が1歳で亡くなった息子の供養の為に728年に建てた金鐘寺が、後に東大寺になった。
743年、知恵と慈悲の光で世界を満たす『盧遮那(るしゃな)仏』の造立を聖武天皇が計画、金鐘寺で制作が始まる。中国に対して東の大寺とするべく国家財政が傾くほど資金を費やし、国家事業として人々に就労を呼びかけ、資金調達の勅命を受けた名僧・行基が寄進を募る勧進行脚を行なった。大仏は8度の鋳造で約500トンの銅と、440kgのメッキ用の金を使用し、9年間で延べ260万人が工程に係わった。

日本書紀に記された552年の仏教伝来から200年目にあたる752年4月9日。金色に光り輝く高さ約16m(耳だけで3m)の大仏が、世界最大の木造建築となる大仏殿と共に完成したことを受け、国立寺院となった東大寺で大仏開眼供養会が催された。開眼の儀をインド人の高僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が務めたように、この大法要は非常に国際色が強く、海外から多数の名僧を招待し、クライマックスでは内外1万人の僧侶による地鳴りのような読経が行なわれたという。
その後も高さが100mに達する超高層の七重塔(現在最も高い京都東寺の塔のさらに倍!)が東と西に建てられ、789年に発願から46年をかけ全工程が完了した。ひとつの宗派に捉われず、華厳宗、法相宗、律宗など南都六宗(後に真言宗、天台宗も加わる)を兼学できる学問の場として、境内に修行道場が並んだ。学僧たちは自由に宗派間を行き来し、東大寺は総合大学のような存在だった。
※現在「華厳宗」を名乗っているのは、明治政府が「一寺一宗」と定めたから。

855年、地震で大仏の頭部が落ち6年越しで修復。しかし1180年、源平戦争のあおりで平重衡(しげひら、清盛の五男)に焼き討ちされ、東大寺は殆ど全域が焼失した。その後、高僧・重源(ちょうげん)が後白河上皇や頼朝の支援を受け復興させ、15年後に2度目の大仏殿落慶供養が催行された。寺運も上昇し、多くの名僧を生んだ。
天才仏師運慶ら慶派も大活躍。復元された南大門には、1203年、運慶作・吽形(うんぎょう)像、快慶作・阿形(あぎょう)像という、共に8mを超える2体の巨大な金剛力士像が安置された。2体の制作は運慶が一門の総指揮をとり、一体が3千個以上という気の遠くなるようなパーツを組み上げ、僅か69日間で完成させた。それだけじゃない。近年の調査で大仏の周囲には、チーム運慶が造った「大仏よりも巨大な四天王」が4体も立っていたという!

それなのに、嗚呼それなのに、室町末期の1567年、東大寺に陣を張った三好氏を松永久秀が攻め(三好・松永の乱)大仏殿が炎に包まれてしまう(チクショー!何てことしてくれたんだ!)。そして時代は戦国期に突入。諸侯から再興の資金も集まらず、大仏は木造になり、頭部を銅板で作っただけで野ざらしという悲惨な状態が約150年続いた。1709年、ようやく5代将軍徳川綱吉と母・桂昌院(けいしょういん)の援助を得ることに成功し、3度目の大仏殿落慶供養とあいなった。大仏殿は当初の3分の2の規模になってしまったが、これで風雨からは守られた。
1868年の神仏分離令に始まる廃仏毀釈で寺院への国家給付が途絶えると、檀家制度が存在しない南都の寺は困窮し、東大寺も他の寺と同様に、寺宝や境内の一部を売却して生き残りを図った。その後は観光の名所としても参拝者が増え、2002年には大仏開眼1250周年の大法要が5日連続で盛大に営まれ、10万人もの人々が参拝した。

東大寺に行って大仏と仁王像だけ見て帰る人が多いけど、それはあまりにもったいない!法華堂(通称三月堂)には10体もの天平の仏像があり、そのすべてが国宝だ。それぞれが僅かな間隔で林立していることから“国宝の森”と言われている。本尊は『不空羂索(けんじゃく)観音像』(749年作)。“不空”とは虚しくないこと、“羂索”は救済の為のロープ。よく見ると、合掌した手の間に水晶が挟まっているのが見える。
そして絶対に足を運んで欲しいのが、大仏殿の西へ10分ほど行った所の戒壇堂。院内の『四天王立像』4体は興福寺の『阿修羅像』と並ぶ天平彫刻の最高傑作!特に西を守る「広目天立像」がド迫力。武器を持たずに筆を持ち、説得で悪鬼を改心させる仏だ。あの鋭い眼光が発する「凄味」は半端じゃないッ!運慶が活躍するより400年も昔に、これほど気迫に満ちた仏像が既にあったことに仰天するだろう。(足元の邪鬼たちの踏まれっぷりもいい)

※東大寺の大仏は『盧遮那仏』。大乗仏教では宇宙は仏であり、仏は宇宙であると説く。だから宇宙の前にいる実感を掴む為にもあの巨大さが必要だった。
※平城京の東に位置するため、いつの頃からか「東の大寺(おおてら)」と呼ばれ東大寺になったとも言われている。
※日本最初の大僧正となった行基は、大仏開眼を見ることなく3年前に他界。多くの無料宿を設けて貧民を救ったことから、人々から「菩薩さま」として生き仏のように崇められた。彼は国内初の日本地図「行基図」も作成した。
※東大寺の道場からは栄西・永観・重源など多くの名僧を輩出し、明恵上人も華厳宗の学頭として招かれた。
※「華厳…“華”やかであり“厳”(おごそ)か。それはまさに生命のことです。花の生命も華厳です」(東大寺前住職・清水公照)
※東大寺は「発願・聖武天皇」「勧進・行基菩薩」「開山・良弁僧正」「開眼・導師菩提僊那」という4人を称え「四聖建立の寺」とも呼ばれる。
※755年、唐僧・鑑真和尚は大仏殿前に設けられた日本初の戒壇で、聖武上皇や孝謙天皇に戒を授けた。鑑真はその後、戒壇を大仏殿から現在の場所に移築し、戒壇堂を設置して恒久的な受戒の場とした。九州の観世音寺、関東の下野薬師寺と共に「天下の三戒壇」と呼ばれる。当時、僧侶が増えすぎるのを防ぐ為(僧には納税義務がなかった為)に、国は戒壇で受戒した者だけを僧と認定するようになった。
※今の大仏は二度の大火にあい、当初から残る部分は腹部から膝と台座のみ。創建時より身長は1m低いがそれでも重さは380トンある。
※実は奈良の大仏を上回るビッグな大仏があった。秀吉が京都東山の方広寺(「国家安康・君臣豊楽」の鐘で有名)に造らせたもので、東大寺の約15mに対し、東山大仏は19mだった(ただし木造だけど)。1595年に完成した直後、翌年の地震で倒壊。秀吉は「京の町を守るべきお前が真っ先に倒れるとは!この慌て者が!」と激怒し、崩れた大仏に弓矢を放ったらしい。後に秀頼が再建したが落雷で焼失。再々建したのも火災で灰に…。こうして東山大仏は歴史の波間に消えていった。
※最初に復興させた重源は大仏の中にこんな言葉を納めていた「巡礼修行年々、秋月を只親友とす」。
※聖武天皇の没後、遺品や大仏開眼時の法具類が大仏に献納され、今の正倉院の宝物となっている。



12.薬師寺/秋篠寺

法相宗の大本山。天武天皇が妻(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して建て始めたが、先に自身が没してしまい持統天皇が698年に藤原京に創建した。710年の平城京への遷都を受け、薬師寺も718年に移った。1528年、豪族間の戦火で大半が焼失。1976年以降、失った建物の再建が続き、この30年間で金堂、西塔、中門、大講堂が順に復元されてきた。創建時の建物で現在まで残った唯一のものが高さ33.6mの東塔。三重塔だが各層に裳階(もこし)という小さな屋根があるので六重塔に見える。大小の屋根が重なってリズムを生み出しており、フェノロサは「凍れる音楽」と驚嘆した。

金堂には本尊の『薬師如来座像』と『日光・月光菩薩立像』の薬師三尊像がまつられている。薬師如来は肉体の病だけでなく心の病も治癒して下さる仏。僕はこの寺の薬師如来ほど健康的で生命力に溢れた如来像を他に知らない。張りがあり引き締まった肉体には活力が満ちていて、ひと目見ただけで病気が飛んで行きそうだ。当時の日本には銅がなく、大陸から取り寄せて鋳造したという。「銅という文字は“金と同じ”って書くでしょう。この時代、それくらい銅は貴重だったんです」と薬師寺のお坊さん。かつては金が表面を覆っていたが、度重なる火災で銅に溶け込んでしまい、これが却って黒光りの中にも黄金の輝きが見えるという、不思議な美しさを醸し出している。
薬師如来が座す台座も必見だ。ギリシャの葡萄、ペルシャの蓮華、インドの力神、中国の四方四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)など、当時の世界文化を表す模様が刻まれている。これを見ると、1300年前の時点で、既にギリシャから日本までシルクロードを通して国際的な文化交流があったことが分かり、あまりに壮大なスケールに卒倒しかけた。
薬師如来の両脇に立つ『日光・月光菩薩立像』も良い。軽く腰をひねって動きがあり、しかも均整のとれた抜群のプロポーション。3mという大きさもあって、つい見入ってしまう。
そして!そしてッ!日本の美麗仏トップ3に入るであろう『聖観音立像』!境内の東院堂に安置されたこの観音は、足が透けるほど衣が薄く、それが左右対照に柔らかく広がっており、この仏が銅で出来ていることを忘れさせてしまう。嗚呼、この至福!美しすぎる。

※今は法然・親鸞の活躍で阿弥陀仏が庶民に多く慕われるようになったけど、仏教伝来当初は薬師如来が最も信仰を集めていた。
※観音の「観」は“心の目で見る”ということ。人々が心の奥に秘めている悲しみや苦しみ、そういった声なき声の「音」を観て、救って下さるのが「観音」さまだ。
※講堂が(本尊の座す)金堂より大きいのは、奈良では仏教が学問として重んじられ、多くの学僧が講堂で経典を勉強した為。かつては講堂に持統天皇が天武天皇の菩提を弔う為の巨大な刺繍(阿弥陀浄土が描かれていた)があったといい、講堂は妻から夫への、薬師如来のいる金堂は夫から妻への、互いが2人を想う夫婦愛が込められた寺だ。
※毎年1月1日〜15日まで日本最古の麻布の彩色画『吉祥天女画像』(国宝)を拝観できる。


●秋篠寺

780年、興福寺の僧・善珠が秋篠の地に開山。平安末期に戦火のため大半が焼け落ちた。鎌倉前期に再建された本堂は国宝に指定されている。この寺の一番人気は芸術の守護神『伎芸(ぎげい)天立像』!日本唯一の技芸天像であり、多くのアーティスト、芸能関係者に慕われている。2mと大きいうえ、伏目がちに首をかしげているので、前に出ると自然と目が合い、大きな優しさに包み込まれる。
特筆したいのが秋篠寺本堂の外観!とても穏やかな屋根の勾配、正方形に近いお堂の縦横の対比、温かく響き合うクリーム色の壁と焦げ茶色の柱、圧迫感のない屋根の高さ、何もかもが完璧に調和している。建物から優しさがにじみ出ているんだ。古代建築は横長のものが多いだけにすごく新鮮。もう、ゆるやかに広がるあの屋根を見てるだけで骨抜きになってしまう…!

※隣に競輪場が出来た時、景観がぶち壊しだと建設反対運動が市民から起きた。これに関する秋篠寺住職の談話「まあ千年も昔から建っていれば競輪場が隣接する時期もあるでしょう。うちの寺は千年後もありますが、競輪場さんは100年後に残っていますかねぇ」。住職は超余裕だった(笑)。


13.法隆寺/中宮寺

聖徳宗の大本山。別名斑鳩(いかるが)寺。世界最古の木造建築として、1993年、日本で初めてユネスコの世界文化遺産に登録された。聖徳太子(574-622)の父・用明天皇が病いの治癒を薬師如来に祈願する為に寺の建立を試みたが病没。その意志を受けて太子が607年に完成させた。その後、670年に落雷で全伽藍が灰燼と化したが、40年かけて711年に再建された。これが今の金堂、五重塔を中心とする西院伽藍となる。739年には太子を慕う僧・行信(ぎょうしん)が、太子の住居があった斑鳩宮跡に夢殿を中心とする東院伽藍を造営、根性でコレクションした太子グッズを献納した(これが現在の国宝に。行信さん有難う!)。その後、数度の大修理を受けながら、多くの太子信仰者に守られ、奇跡的に約1300年前の飛鳥の姿を現代に残してきた。これは斑鳩の地が、戦乱の舞台となった興福寺や東大寺のあるエリアから離れていること、太子があらゆる武将から崇敬されていたことによる。
創建当時、仏教は宗教ではなく哲学として、つまり学問の対象と考えられていた。まだ宗派もなく、法隆寺は学びの場として「法隆学問寺」と呼ばれていた。

現在、法隆寺は38件の国宝と190件の重文という膨大な寺宝を所蔵している。飛鳥期を代表するものは、まず金堂の『釈迦三尊像』。これは渡来系仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)が、太子の死の翌年(623年)に追善の為に制作したもので、完璧な二等辺三角のシルエットとアルカイック(古典的)・スマイルが美しい。『百済観音』『救世(ぐぜ)観音』も優美の極み。また、玉虫の羽を装飾に使い漆で仏画が描かれた玉虫厨子も有名だ。
奈良期には五重塔の四面に「維摩・文殊の問答」「釈迦涅槃(羅漢だけでなく観音や阿修羅に見守られ感動的)」「分舎利」「弥勒浄土」を塑像(土)で表現した『塔本四面具』が作られた。金堂には全面に美しい浄土の壁画があったが、1949年1月、解体修理中に電気座布団の出火(ストーブは危険だから電気製品にしたのに)で大半が失われた。1300年を耐えた壁画が1日で消えたこの痛恨の“金堂壁画焼失事件”がきっかけとなって、翌年に文化財保護法が制定された。(戦前の国宝保存法で選ばれた旧国宝をいったん全て重要文化財とし、そこから新たに国宝を厳選しなおした。そして広隆寺の弥勒菩薩が認定第1号に!)

※五重塔の心柱(中央の柱)が、太子の摂政就任の翌594年に伐採されたことが近年判明。塔は670年の火災を免れたのではないかと議論されている。ちなみに4本の鎌が塔のてっぺんに刺さっているのは、雷の魔物が塔に降りられぬようにしたものだ(落雷防止祈願)。釈迦の遺骨が塔の根元に納めれている。
※百済観音…「東洋のヴィーナス」と海外でも絶賛され、ルーブル美術館に展示された時は1ヶ月に30万人(!)が訪れた。クスノキから彫られた。朝鮮半島にクスノキを仏像に使った例がないことから日本で造られた可能性が高い。  
※救世観音像…761年の古文書にも存在が記されている、太子と等身大の観音。歴代住職さえ見ることが出来ない、法隆寺の絶対秘仏として800年以上も夢殿に封印されていた。1884年、フェノロサと岡倉天心が文化財調査を理由に夢殿を開扉し光を当てた。春と秋の1ヶ月間、特別公開されている。


●中宮寺

中宮寺は法隆寺・夢殿に隣接する日本最古の尼寺。621年、太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が没し、その住まいが尼寺となった。本尊はモナリザやスフィンクスと並んで「世界三大微笑像」にあげられる国宝・半跏思惟(はんかしい)像。飛鳥の時代から、1300年以上も尼僧に守られてきた気品が漂う仏像だ。この世のものとは思えない優しい笑みで、あらゆる罪を許す慈悲の姿がそこにある!
当時の仏像は1本の木から掘り起こすものが主流。しかしこの像は、11個のパーツを組合わせた世界最古の寄木彫刻だ。今は下地に塗った黒漆で光っているが、もともと皮膚は肌色で衣は朱色、敷布は緑青、宝冠や胸飾りをつけ、光背も彩色されたカラフルな像だった。高さは167.6cm。
日本最古の刺繍(天寿国繍帳、国宝)を所蔵。中宮寺は聖徳太子建立七カ寺のひとつ。

※聖徳太子建立七カ寺→法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺(蜂岡寺)、法起寺(池後寺)、葛城尼寺(廃寺)。


14.室生寺

戦乱や火災に巻き込まれたことがなく、都会から遠く離れた山中にあるという点で、ここまで紹介してきた他の寺と色合いが違う。奈良の山里、室生村一帯は深山幽谷という言葉がぴったりで、水神の聖地という伝承があるのも頷ける。
680年、修験道の祖で呪術師の役行者(えんのぎょうじゃ)が天武天皇の命を受け、室生の地に修験道の霊場を開き、各地から山林修行者が集った。役行者は本名役小角(おづぬ)といい、『続日本紀』『日本霊異記』によると、634年元旦に大和国で生まれ、葛城山の岩窟で孔雀明王の呪力を身につけ、生駒山で調伏した2匹の鬼と八大金剛童子を日頃から従え、彼らに水を汲ませたり薪を集めさせていたという(陰陽師の原型)。頭巾を被り、錫杖(しゃくじょう)を持ち、高下駄を履いていた。699年、妖術で民を惑わしていると弟子に密告され伊豆に流刑となった。その後、毎夜富士山で修行を積み空を飛べるようになり、新羅に行って云々…。701年6月7日逝去と伝えられており、とにかく実在したことは確からしい。

777年、桓武天皇(当時は山部皇太子)の病気平癒を祈願する為に、山岳信仰の霊場として知られた室生に興福寺の5人の学僧が入山。祈願の結果、見事に桓武天皇は病から回復した。これを受けて天皇の勅命により、本格的に寺院が建設される。室生寺を開山したのは高僧・修円。空海が最澄に出した手紙に「私と最澄さんと修円さんの3人で集まり、一度仏法のことを一緒に勉強しませんか」と書くほどの名僧だった。以降、様々な宗派が一緒に学ぶ道場として発展する中で、次第に真言密教との結びつきを深めてゆく。
やがて室生寺は「女人高野」と呼ばれるようになった。これは真言宗の総本山・高野山が女人禁制である一方、室生寺が女性に開放されている真言寺院だったことによる。室生寺は同じ「女人高野」の金剛寺(大阪河内長野市)、九度山の慈尊院と共に、多くの女性参拝者が訪れるようになった。

深山の四季に抱かれ、自然と調和した伽藍の中に、多くの優れた仏教美術が保存されてきた。弥勒堂の『釈迦如来座像』は写真家の土門拳が「これほど利口で頭の良い顔をした、そして天下第一の美男の仏像はない」と感嘆した平安前期の傑作木彫り仏だ。この釈迦像は衣も非常に美しく、衣紋はまるで清流の波のようだ。金堂内陣に並ぶ鎌倉時代の『十二神将像』は、12体の全てが個性的で、躍動感があったりユーモラスだったりでいつまでも見飽きない。
※ただひとつ残念のは、参拝者から仏像まで距離が遠いこと!双眼鏡が欲しいと真剣に思った。

室生寺のランドマークといえば五重塔!平安初期に建てられたこの塔は、国内の五重塔の中で最も小さい。高さ16mといえば奈良大仏と同じだから大きく思えるけど、それが五重塔と考えればあまりに低い。でも小柄ながら漂う気品や優美さは無比のもので、「女人高野にこの塔あり!」って思える。霊気が満ちた山々の中で、室生寺はこれからも悠久の時の流れにその身を任せていくのだろう。
※1998年、台風の強風で倒れてきた杉の巨木がこの塔に大被害を与えた。2000年に修復作業が完了し、現在は美しい姿が完全復活している。


15.三井寺(園城寺)

滋賀比叡山の麓にある天台寺門宗の総本山。正式名は園城寺(おんじょうじ)。672年、大海人皇子(天智天皇の弟、後の天武天皇)と大友皇子(天智天皇の子)が皇位継承を争い“壬申の乱”が勃発。大友皇子は戦に敗れ、その子どもが父の霊を弔う為、686年に創建した寺が園城寺の始まりという。境内の井戸に湧き出る霊水が天智・天武・持統天皇の産湯に用いられたことから「御井の寺(三井寺)」と呼ばれるようになった。

平安初期(859年)に、5代天台座主(天台宗のトップ)に就いた智証大師・円珍が、唐から持ち帰った千巻とも言われる膨大な経典をここに納めた。この縁もあって三井寺は866年に円珍を住職(別当)に迎え、天台宗の別院となる道を選んだ。
5代天台座主の円珍と先輩の3代天台座主の慈覚大師・円仁(えんにん)は互いに尊敬しあう仲だったけど、2人の死から百年後に、両者の弟子同士で主導権争いが起こり、円仁派が円珍派の坊舎を襲撃するほど対立が激化した。993年、坊舎を破壊された円珍派は比叡山から一斉に下りて麓の三井寺に避難した。こうして天台宗は、寺門派(三井寺)と山門派(延暦寺)に大分裂し、長期間の抗争が続くことになる。
ただ“抗争”といっても殆どが延暦寺側の僧兵による襲撃で、大規模なものが10回、小規模なものを含むと50回も三井寺は焼き討ちに遭っている。弁慶はまだ延暦寺の僧兵だったころ三井寺攻めに加わり、鐘を戦利品として強奪し、怪力でこれを引摺りつつ延暦寺に持ち帰った。いざ撞いてみたら「イノー・イノー」(逝ぬ=帰る)と響くので、憤慨した弁慶は「そんなに逝にたきゃ逝ね!」と谷底へ投げ捨てたという。この鐘は現存していて、今も三井寺の境内にある(鐘にはヒビが入り、本当に引き摺った跡があちこちに残っている)。

こうした襲撃以外にも、三井寺は平家に焼き討ちされたり、秀吉に寺領、本尊、宝物を没収され廃寺同然に追い込まれる(秀吉は死の直前に再興を許可した)など受難が続いた。しかし、一方では皇族の入寺が相次ぐなど朝廷の庇護を受け、秀吉の妻(北の政所)の援助や徳川幕府の支援で、何度も何度も窮地から復興してきた。こうしたことから「不死鳥の寺」とも称され、東大寺・興福寺・延暦寺と並ぶ天下の四寺として歴史に名を刻んでいる。
寺の創建は686年まで遡るが、波乱万丈の歩みから、現存する最古の建物は1340年に再建された鎮守社新羅善神堂だ。如意輪観音を安置する観音堂は西国三十三箇所・14番札所になり今も参拝者が絶えない。

金堂には各時代の仏像が揃っている上にガラスケースに入っておらず、超至近距離で拝観することが可能だ。ズラリと並んだ仏像の中でも、北極星を神格化した『尊星王(そんじょうおう)像』の彫りの緻密さ、正面右側の手前に安置された『阿弥陀如来坐像』の強烈な存在感には、思わず息を呑んで見入るだろう。居並ぶ傑作仏像を約50cmの距離で思う存分堪能できる素晴らしいお寺だ。
「弁慶鐘」のことを書いたけど、この寺には平等院や神護寺の鐘と並んで日本三名鐘に数えられる大鐘「三井の晩鐘」がある。1602年に鋳造されたこの鐘の音色は必聴だ。「ゴォーン」という暗くこもった音ではなく、「バアーン」という突き抜けた明るい音がする。この重文の名鐘は一回300円(パンフ付)で誰でも撞けるので是非挑戦しよう。とても綺麗な余韻が長〜く聴こるので、鐘の真下に入り目を閉じていると、体中の水分に波紋が広がる感じがした。鳴り終わった後、すべての体液が新鮮なものにすっかり入替わった気がした。

※1996年、「三井の晩鐘」の音色は環境庁の「残したい日本の音風景100選」に選定された。
※延暦寺は信長に全山が破壊し尽くされ、三井寺も秀吉によって廃寺同然にされたことから、寺門派と山門派の対立はなくなり、今日まで協力し合って復興してきたとのこと。
※寺宝の絵画『不動明王画像』(黄不動)は、高野山の赤不動、京都東山青蓮院の青不動と共に三大不動とされている。
※瀬戸内聴寂は「(出家前から)琵琶湖の見えるこの寺の広々とした、いつでも森閑とした清浄な雰囲気に魅せられていた」と三井寺への想いを語っている。




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