★ウィーン・フィルの闘い

昨年欧州オーストリアの内閣に、『ナチス支持』と公言してはばからない、とんでもない極右の人物が入閣した。先月、ウィーン・フィルの全メンバーが自分たちの政府の政治姿勢に抗議するため、なんとユダヤ人の強制収容所跡地でベートーヴェンの第九を演奏したのだ。
演奏するにあたってウィーン・フィルの代表者が淡々と聴衆に語った。

「国境を持たず無限に広がる芸術は、権力者に情報操作されずメッセージを伝えることが出来る。だからこそ、我々はこの地で演奏しなければならないと決意した。」

第九(歓喜の歌)は人類愛をたからかに歌い上げた音楽史上最高のメッセージソングであり、同時に統合欧州の“国歌”でもある。演奏会終了後、数千人の観客がいっせいにロウソクに灯をともし、55年前に同じ場所で起こった惨劇を胸に刻みつけたという。

僕がここで強調したいのは、国立歌劇場直属のウィーン・フィルのメンバーは、全員が国家公務員だということだ。それにも関わらず、彼らは抗議の意味を込めて、閣僚を誰一人この演奏会に招待しなかった。立場を考えるとすごく勇気ある行動だし、それだけに意味深い。

昔から“芸術と政治をからめるべきではない”こんな意見があるが、肩をすくめて「それは違う」と答えたいな。理由は簡単。この世から人間がいなくなれば、芸術作品も存在理由がなくなるからだ。彫刻、CD、絵画、詩集、それらすべては鑑賞する者がいて初めて“ただの物体”から“作品”に変化するのだから。




★ブータンという国
チベットやインドと隣接するブータン王国。この王国は1970年半ばまで鎖国政策をとっていたため、ほとんど欧米文化の侵略にさらされていない。
欧米がもたらして環境破壊につながったものに、プラスチックがある。プラスチックは安価で便利だが、不要になると“腐らないゴミ”として半永久的に残り、しかも燃やした時にダイオキシンが発生するのが問題化している。
そこでブータンでは、なんと今夏から法律でプラスチックの使用、販売が禁止されるのだ。

「私たちはGNP(国民総生産)重視型ではなくGNH重視型でいく」国王はこう語った。

GNHのHはhappinessの略だ。GNH、つまり国民総幸福度という
わけだ。このGNHはブータン国王のオリジナル造語だが、なかなか
ユニークでいいのでは。


★与謝野晶子・ MY・ LOVE

ときは1904年。日露戦争の真っ只中。敵国ロシアの文豪トルストイが、自国のロマノフ王朝に向けて以下の戦争批判の声明文を6月に発表した。

「聖書の“なんじ殺すなかれ”の教えに背き、人と人が野獣の様に殺し合うとは、そもそも何事か!この戦争は宮殿に安住し、名声と利権を求める野心家どもが、ロシアと日本の人民を犠牲にしているのだ!」

2ヶ月後の8月、日本の新聞にもこの文章が掲載された。自分の弟が出征中だった与謝野晶子は、当時25歳。翌月、彼女は『明星』誌上で返歌として応えた。

「君死にたまふことなかれ(弟よ死なないでおくれ)
すめらみことは戦ひに、おほみづからは出でまさね
(天皇自身は危険な戦場に行かず宮中に安住し)
かたみに人の血を流し、獣(けもの)の道に死ねよとは…
(人の子を獣の道におちいらせている)」

この返歌は大きな反響を呼ぶ。文壇の重鎮は“皇国の国民として陛下に不敬ではないか”と激怒した。彼女はこの国を愛する気持ちは誰にも負けぬと前置きしたうえで、次のように反論する。

「乙女と申すもの、誰も戦争は嫌いで候」

彼女は非難に屈するどころか、翌年刊行された詩歌集に再度これを掲載した。庶民の娘だった彼女は、敵国内部からの勇敢な反戦の叫びに心底共鳴し、日本からも誠実に応じようと“決意”したのではないだろうか。

15年後、40歳の晶子はシベリヤ出兵についてもこう記している。「戦争を“人道をほろぼす暴力”とするトルストイの抗議に、私は無条件に同意する!なるほど、自衛の範囲の軍備はやむえないとしよう。しかし決して“積極的自衛策”の口実に惑わされてはならない。出兵すれば膨大な戦費も負う。この理由からも私は出兵に対して、あくまで反対しようと思う!」

長くなった。
今回のカジポン・タイムズ最後の言葉は58歳の晶子に締めくくってもらおう。以下は日増しに言論の自由が奪われていく中、死の6年前に彼女が思想統制について書き残した一文だ。

「目前の動きばかりを見る人たちは“自由は死んだ”と云うかもしれない。しかし“自由”は面を伏せて泣いているのであって、死んでしまったのではない。心の奥に誰もが“自由”の復活を祈っているのです。」

自由が泣いている、こんな表現もあるのかと、しばし文章に釘付けになった。



★不屈のロック・バンド、U2

ある音楽雑誌のインタビューにこんなやりとりが載っていた。

質問者
「なぜCM出演の依頼を断るだけでなく、一度もCMに自分たちの曲を使わせないのですか?」

答えるボノ(ヴォーカル)
「CMには出ない、曲も使わせない、それがファンとの取り決めだと思うんだ。俺たちに金をくれるのは彼らだ。その際の要求は、俺たちが休日にどこに行こうと構わない、どこで暮らそうと構わない。ただ、良い音楽を創ってくれよ、馬鹿なことはしてくれるなよってことなんだ。」

U2は何年も爆弾テロが続発してきたアイルランド出身ということもあり、世界的なスーパー・バンドになった今も、人権擁護団体のアムネスティや環境保護団体グリーン・ピースを、精神と金銭の両方から支援していることで知られている。ヴォーカルのボノは「偽善者の俺に騙されちゃいけないぜ」と、うそぶいているけど(笑)。

彼らはアメリカの中南米諸国への政治介入を公然と批判し、人種問題についてもツアーの途中でキング牧師の墓参りをしたり、南アがかつてアパルトヘイトを続けていた時代に、南アの“最大貿易相手国”だった日本を「最も卑劣で醜い国」と公言し、日本の音楽産業がバブル期に大金を積んでU2を招致しようとしても、「貿易を中止するまで来日コンサートはしない」と表明するなど、ビジネス重視で来日する他のバンドとは明らかに一線をかくしていた。

ボノは語る---
「あれは初めて全米ツアーをした時のことだ。俺たちは正直言ってビビッていた。ツアーの前から事務所に米国から脅迫状が何通も届いていたからだ。『貴様らがアメリカに入国したら撃ち殺してやる』といった内容ばかりだ。はっきり自分がKKKだと名乗るヤツもいた。冗談じゃない、コイツらは本気だぜ、って真剣にツアーを中止するか考えたよ。連中は黒人や同性愛者、“アカ”の味方をする奴は皆殺しにしてやる、そう言うんだ。
俺たちは話し合った結果、“どうせデビュー前に路地裏の倉庫で練習してた頃から、自分たちには失うものなんて何もなかったじゃないか”こう結論に達し、ツアーを敢行することにしたんだ。

俺たちは空港でリンチにあうことを覚悟してアメリカに入った。ところが地元の警察にも脅迫状がいってたらしく、権力の象徴である警官が俺たちをガードしてくれたので苦笑したよ。
しかも彼らは、俺たちが撃たれるとしたらロスだと御丁寧に死の予告までしてくれたんだ。嬉しくて涙が出たね。俺たちは全米を回りはじめ、汚い野次を浴びながらツアーし続けた。
そして運命のロスに入ったんだ。

ロスは2日間のライブだった。
今までにない数の警官が導入されコンサートが始まった。そして、実際に客の何人かがボディーチェックを受けて銃を取られてるのがステージから見えたんだ。泡食って青くなったよ。
コンサート後、警備担当のチーフが、タレ込みや事前情報から明日の夜がヤマだと言いに来た。

2日目。
何も知らずに盛り上がり興奮する客を相手に、緊迫した雰囲気でライブが始まった。
約30分が経過した。
曲が暗殺されたキング牧師に捧げる『プライド』になった時、“殺られるとしたら、この曲の間だ”そう感じた俺は怖くなってステージにうずくまり、小さく身を伏せながら歌っていた。…本当に怖かったんだ。

曲の後半になって恐る恐る顔を上げたら…アダム(ベース担当)の背中が見えたんだ。つまり、ヤツは俺と客席の間で壁になって、ベースを弾いてたんだ。…盾になってくれてたんだ。
コンサートは無事終了した。あの夜、あそこで見たヤツの背中を、俺は一生忘れない」。


※(83年のインタビューから)「日本の皆へ。ここ(日本)がニューヨークやロスじゃないからロック出来ないと言う奴がいる。確かに難しいさ。だからやり甲斐がある。僕達だってダブリン出身なんだ。そんな事はネックじゃない。日本のグループも世界に出るべきだ。日本人にしか出来ない事があるはずさ」
※ボノはチャップリンが反戦映画『独裁者』で使用した衣装を執念で競り落とした。
※2006年の来日時の超カッコいいインタビュー(9分47秒)はコチラで!

  

1968年メキシコ・オリンピックにて。直前にキング牧師が暗殺され、無言で追悼&怒りの拳をあげる黒人選手。


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