世界の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

冒険家、スポーツ選手、落語家、棋士コーナー


★48名

●冒険家
アムンゼンの墓
ガガーリンの墓
バスコ・ダ・ガマの墓
ジェームズ・クックの墓
コロンブスの墓
ロバート・スコットの墓
ハインリッヒ・ハラーの墓
ロバート・ピアリーの墓
ダニエル・ブーンの墓
マルコ・ポーロの墓
リビングストンの墓
リンドバーグの墓
植村直己の墓
小野妹子の墓
ジョン万次郎の墓
白瀬矗の墓
大黒屋光太夫の墓
支倉常長の墓
間宮林蔵の墓

●落語家・漫才師
安楽庵策伝の墓
5代目古今亭志ん生の墓
3代目古今亭志ん朝の墓
2代目桂枝雀の墓
8代目桂文楽の墓
6代目三遊亭圓生の墓
三遊亭圓朝の墓
7代目立川談志の墓
5代目柳家小さんの墓
初代林家三平の墓
7代目林家正蔵の墓
ミスワカナの墓
横山やすしの墓
●スポーツ、武道関係
サルコウの墓
ベーブ・ルースの墓
ルー・ゲーリックの墓
ヘンリー・チャドウィックの墓
ジョー・ディマジオの墓
アンディ・フグの墓
ジャイアント馬場の墓
3代目朝潮太郎の墓
植芝盛平の墓
大山倍達の墓
谷風梶之助の墓
当麻蹴速の墓
出羽海の墓
橋本真也の墓
双葉山の墓
船越義珍の墓
雷電爲右エ門の墓
力石徹の墓
力道山の墓

ンドゥールの墓
ジョセフ・ジョースターの墓

●棋士&チェス王者
天野宗歩の墓
大橋宗桂の墓
坂田三吉の墓
本因坊算砂の墓
本因坊秀策の墓

ボビー・フィッシャーの墓






★ロバート・スコット/Robert Falcon Scott 1868.6.6-1912.3.29 (南極 43歳)2008
Body frozen near the South Pole



全滅したスコット隊、南極点にて。後列左からウィルソン(動物学者、39歳)、スコット(隊長43歳)、エヴァンズ(水兵37歳、最初の死者)。
前列左からパワーズ(船上勤務から本隊に急遽抜擢、28歳)、オーツ(馬担当32歳、行方不明)。1912年1月18日の正午近くに撮影













スコット、パワーズ、ウィルソンの日記が発見され最後の様子が明らかになった スコット隊の“雪塚"

南極の絶景! 南極の山は高い。アンデス山脈に連なる山系だ






アルゼンチン最南端・ウシュアイア チリ南端・プンタアレナス

初日 2日目
本来ならスコット隊の終焉の地--南緯79度50分、東経178度の場所まで足を運んで墓参したかったけど、
さすがに今の僕にはそこまでの予算も装備もない。持参した方位磁石でスコットの墓の方向を調べ、
心を込めて遙拝することに。ところが!あまりに南すぎて、コンパスの針が回らなかった!これにはビックリ。
とにかく、太陽の位置や船の進行方向、周囲の地形をもとに方向を割り出し、スコットに感謝の言葉を捧げた!

 
左写真は海外の墓サイトに掲載されている現在のスコットの墓。そして右地図の赤い×印がスコットの遭難地。地図を見れば海岸の基地まで
あともう一息だったことが分かる…。そして左上の青い×印は僕が巡礼したポイント。いつか本当に墓前まで行って手を合わせたい

●詳しくは『2008 南極・スコット巡礼』の特設ページへ!



★白瀬矗(のぶ)/Nobu Shirase 1861.6.13-1946.9.4 (秋田県、にかほ市、浄蓮寺 85歳)2008








陸軍中尉だった 最終到達地の“大和雪原”にて 南極へ向かった開南丸 防寒着の中尉



秋田までやって来た!

さっそく駅でペンギンがお出迎え。
さすが白瀬中尉の故郷
途中の公園にもペンギン!
この町だけ異なる世界(ペンギン村)のようだ





生家の浄蓮寺。お墓もここに 境内の白瀬中尉と2匹のペンギン ちょっと特撮チックに



白い石と石灯籠など枯山水庭園のような墓域 ドドーンと巨大な墓石!法名は「南極院釈矗往(しゃくじきおう)」 「白瀬矗之墓」


●愛知県西尾市西林寺の墓

西林寺の山門。敷地はガランとしている 墓地に続く坂道。登っていく 『吉良の子らへ』。地元の地名は“吉良”
『吉良の子らへ』〜白瀬南極探検隊長に学ぶこと(1)少年時代の夢を実現したこと(2)自分を信じ、くじけなかったこと(3)仲間を信じ、約束を固く守ったこと



『南極探検隊長 大和雪原開拓者之墓』 墓前の巨大円形モニュメントは南極大陸図 「南極の極点」と墓石のツーショット

 
『白瀬南極探検隊長墓碑建立の由来』の碑文とペンギン親子像。
この墓地から秋田の墓へ分骨されたとあった。ではこちらが本墓?

なんと墓の横には2008年に退役した海自の南極
観測船、初代「しらせ」の本物のスクリューが!
※4枚羽根の一枚。約3.4トン、高さ2メートル!

日本初の南極探検家。陸軍中尉。秋田県金浦町の浄蓮寺に生まれる。11歳の時に寺子屋で北極の話を聞いて胸を高鳴らせ、自身も極地探検に挑まんと大志を抱く。白瀬は夢の実現に向け、苛酷な環境に耐えうる体を作るべく(1)酒を飲まない(2)煙草を吸わない(3)茶を飲まない(4)湯を飲まない(5)寒中でも火にあたらない、という五箇条を定め努力を続けた。1879年(18歳)、「僧職につくと探検ができない」と考え、東京の陸軍教導団騎兵科に入校。卒業後に伍長として仙台へ移り、同地で結婚した。
1893年(32歳)、予備役となった白瀬は将来の北極探検に備えて、千島探検隊に参加。この探検は遭難や壊血病による死者が30名以上という酷烈なもので、白瀬は出発から2年後にかろうじて救助された。1900年(39歳)、アラスカにて半年間の予備調査を行う。日露戦争の従軍後も常に北極探検の機会を狙っていたが、1909年(48歳)に米国の探検家ピアリーが北極点踏破に成功、“先をこされた”と打ちのめされる。翌年、目標を南極点到達に変更し、英国スコット隊の南極探検計画を聞いて早期の南極行きを決断する。
1910年(49歳)、独自に南極探検を企画し10万円の支援を国に訴えるが、帝国議会は3万円の支援を議決したものの、実際は一銭も援助金を出さぬという極めて冷淡な対応だった(英国スコット隊やノルウェー・アムンゼン隊は政府の援助で派遣された)。だが、国民は白瀬を熱烈に応援して、渡航費用をカンパした。新聞社も協力し「南極探検後援会」の会長に大隈重信が就いた。船の調達に難航したが、千島探検で使用した木造帆船を手に入れて蒸気帆船に改造、これを東郷平八郎が「開南丸」と命名した。ただし、開南丸はわずか204トンで、外国探検隊の船の半分しかなかった。同年11月29日、白瀬以下27名の隊員がついに南極へ向け出港する。

出港後、南極の地に立つまでも苦難の連続だった。まず、犬ぞり用に用意した犬の大半が航海中に寄生虫症で死亡。1911年(50歳)2月にニュージーランド・ウェリントン港に入港して、犬や物資を補給。3月に南極ロス海に到着したが、南極の夏が終わりを迎え、船が氷に阻まれ立往生寸前になった。これ以上南極の海に留まることは危険と判断し、5月にいったんシドニーまで戻り、半年後の夏を待つことに。遠征の日程が延びたことで、資金調達のために船長と書記長が帰国。2人が再合流し、11月にシドニーを出港したが、南極に向かって航海中の12月14日、アムンゼン隊が南極点一番乗りを果たした。白瀬は後れを取ったものの、1912年(51歳)1月16日に日本人初の南極大陸上陸に成功し、上陸地点を「開南湾」と命名した(この翌日、スコット隊が極点踏破)。
4日後の1月20日、極点突進隊の白瀬ら5人は、2台のソリと28頭の樺太犬を使って、南極点及びに学術調査、領土確保を目的に出発した。だが、スコット隊の生命を奪うことになる悪天候(氷点下20度のブリザード)に白瀬隊も苦しんだ。そして、スタートから9日目、走行距離282キロとなる南緯80度5分、西経165度37分の地点で、帰路の食料を考えて前進を断念。その地を大和雪原(やまとゆきはら)と命名し、日の丸を掲げて万歳を唱和し、支援者への感謝の気持を込めて「南極探検同情者芳名簿」を埋め撤退した。2月4日、南極を離脱。白瀬隊が撤退した後もスコット隊は帰途に苦しみ続け、3月29日に全滅してしまう。
※“大和雪原”の地名は世界地理学会が1933年に公認。

失意の帰途となったが、本当の悲劇はここからかも知れない。国民の声援に応えられなかったことに消沈した隊員たちは気持が荒れ、部隊では深刻な内紛が何度も起き、帰途のニュージーランド・ウェリントンで白瀬を含む白瀬派5名は開南丸から降りざるを得なくなる。白瀬不在の開南丸は約1年7カ月の長旅を終えて6月20日に帰国。乗員達は約5万人の市民から熱狂的な歓迎を受けた。白瀬たちが別の船(貨客船)で何とか帰国すると、後援会が遊興飲食費として国民の募金を使い込んでいたことが発覚(会長の大隈は何をやってたの!)。
探検の総費用は約12万円。募金を差し引き白瀬は4万円(現在の1億5千万円)もの借金を背負い、隊員に給料すら払えぬ始末。その後20年は借金の返済に奔走。家財道具の他に軍人の魂である軍刀まで売却し、日本、満州、台湾、朝鮮半島と探検の様子を講演し続けた(後に南極地域観測隊第一次隊越冬隊長となる西堀栄三郎は、京都南座で講演を聞いて南極探検を志した)。だが、数年すると講演の依頼もなくなり一層の赤貧生活となる。
そして白瀬は、敗戦の混乱が続く1946年9月4日、次女タケコが住み込みで働いていた愛知県豊田市の魚料理仕出屋の一室で腸閉塞により没した(餓死とも)。享年85歳。近隣の住民は白瀬が住んでいたことを知らず、葬儀の祭壇はみかん箱だった。辞世の歌「我れ無くも 必らず捜せ 南極の 地中の宝 世にいだすまで」。
白瀬の死後、浄覚寺の住職が貧困をみかねて遺族を引き取った。翌1947年、やす夫人は次女タケコ、孫の喜子と共に吉良町に転居。1951年にやす夫人が他界すると、タケコは両親の骨を西林寺の墓地に仮埋葬し、翌年喜子と東京に移住した。1957年、故郷の秋田県金浦町の白瀬知燈(白瀬の甥)が吉良町を訪れて分骨を請い、吉良町の人々は白瀬隊の骨が残されていることを知った。同町史跡保存会が「大和雪原開拓者之墓」を建立し、1991年に経緯を記した石碑を西尾市教育委員会が建立した。

白瀬他界の15年後(1961年)、南極ロス海棚氷の東岸は白瀬海岸(Shirase Coast)と命名された。1970年、白瀬の弟の孫・白瀬京子が日本人女性初となるヨット世界一周に成功。没後37年の1983年、白瀬の功績を称えて3代目南極観測船が「しらせ」と命名され(公式には「白瀬氷河」が由来)、没後44年の1990年、郷土の秋田県にかほ市に白瀬南極探検隊記念館が開館した。
約100年も前に南極に上陸し、全滅する他国探検隊がいる一方で、白瀬は1人の犠牲者も出さなかったことは、もっと評価されるべきだと思う!

〔参考〕白瀬南極探検隊記念館HP、世界人物事典(旺文社)、エンカルタ総合大百科(マイクロソフト)、ブリタニカ国際大百科事典(ブリタニカ)、ウィキペディアほか。



★ロアール・アムンゼン/Roald Engelbregt Gravning Amundsen 1872.7.16-1928.6.18 (北極圏 55歳)2009
Body lost or destroyed, Remains Lost in the Barents Sea

  
ノルウェー沖をどんどん北上すると、北極圏の入口に立つ地球儀型のモニュメントが見えてくる!

 

6月でも風は冷たい。このノルウェー海に隣接してアムンゼンが消息を絶ったバレンツ海がある

バレンツ海の方角に向き感謝。いつかバレ
ンツ海まで行って彼の為に祈りたい!








白夜。夜中の2時でも陽が沈まない クジラだ! 時々、流氷が流れてくる

ノルウェー・オスロ近郊に生まれる。16歳の時にナンセンがグリーンランド横断に成功したことに感動。22歳、ノルウェー海軍に入隊。その後、探検家を目指してアザラシ漁船で航海術を身につけ、当初は北極点到達を試みていたが、1909年(37歳)、米国のロバート・ピアリーが先に北極点へ到達した為に目標を南極点に変更。アムンゼンはスコットに宛てて南極に向かう旨の電報を送った。これは、「事前の連絡をスコットにせずに南極で遭遇するのは無礼」と考えたからだ。

アムンゼンはナンセンが使ったフラム号に乗って南極に渡り、犬ゾリ(116頭)を移動手段&食糧に使って、1911年12月14日、39歳にして人類初の南極点到達に成功した(スコットより35日早い)。その後も飛行艇で北極点に達し、人類で初めて両極点を制覇する。
1928年、友人でありライバルのイタリア人探検家ノビレが北極で遭難したと知らせを受け、アムンゼンは捜索の為に飛行機で飛び立つ。ノビレは無事に救出されたが、アムンゼンはバレンツ海(北極海、フィンランドの北)で消息不明となった。機体の残骸は発見されたが、彼の体は見つかっていない。享年55歳。



★ロバート・ピアリー/Robert Edwin Peary 1856.5.6-1920.2.20 (USA、ヴァージニア州アーリントン 63歳)2009
Arlington National Cemetery, Arlington, Arlington County, Virginia,  Plot: Section 8, Lot S-15, Grid X-8.5

 

西洋人で初めて北極点を征服!墓の上には地球儀があり、北極点に星印が入っていた。



★ジェームズ・クック(キャプテン・クック)/James Cook(Captain Cook) 1728.10.27-1779.2.14 (アメリカ、ハワイ州ハワイ島 50歳)2017
Kealakekua Bay, Captain Cook, Hawaii County, Hawaii, USA

  

「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」(クック)。南太平洋や北米沿岸を探検したイギリスの探検家ジェームズ・クック=通称キャプテン・クックは、1728年10月27日に英国ヨークシャー州マートンで貧農の子として生まれた。若くして石炭運搬船の船乗りになり、1755年に27歳でイギリス海軍に入隊し7年戦争に加わった。1756〜67年にはカナダ東岸のニューファンドランド島やノバスコシアの沿岸、トロントやモントリオールから大西洋に至るセントローレンス川の測量などを行った。その過程で、クック作成の海図がケベック奇襲上陸作戦の成功をもたらすなど能力を高く評価され、わずか4年で水兵から艦長に昇進する。

1768年(40歳)、クックは世界最古の学会ロイヤル・ソサエティ(王立協会。1660年設立、最古の学術雑誌を刊行)が立案した、惑星の太陽からの距離を測るため金星観測をタヒチ島で実施する目的で太平洋探検を命じられ、小型帆船エンデバー号(370トン)の艦長となって第1回航海に出発した。博物学者の“自然史の父”ジョゼフ・バンクスも同行した。翌年、クックの手でタヒチ島に送り届けられた天文学者は金星の太陽面通過を観測することに成功した。
この航海で海軍はクックに密命を与えていた。天文観測は隠れ蓑であり、真の目的は伝説上の南方の巨大大陸テラ・アウストラリス(ラテン語で南方大陸。オーストラリアの語源)の発見だった。同大陸はマゼラン(Magallanes)の名をもじってメガラニカとも呼ばれる。タヒチを出たクックは、ニュージーランドで海岸線を測量し、北島・南島の間にクック海峡を発見、両島の一部をイギリス領と宣言した。
1770年(42歳)にオーストラリア東海岸やグレートバリアリーフを探検、珊瑚礁で座礁して危うく沈没するところだった。クックは東海岸をニューサウスウェールズと命名してイギリス領と宣言、同地はオーストラリアで最古の植民地となった。また、オーストラリアは想定より小さく、メガラニカの一部ではないことも報告した。先住民アボリジニとは平和的な友好関係を築いた。翌1771年にインド洋を経て帰国し、欧州から西回りの世界周航を成し遂げた。
※ちなみにオーストラリア大陸はオランダの航海者ウィレム・ヤンソンが1606年に“発見”した。クックは東海岸に到達した最初のヨーロッパ人。

この第一回航海で、クックは地理上の発見だけでなく、3年間の長期航海で史上初めて壊血病(ビタミンC不足による出血)による死者を1人も出さずに探検を終えるという偉業を成し遂げた(病死者はいたが死因はマラリアと赤痢)。当時の長期航海は壊血病で死亡する乗組員が多く、1497年からのヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見の航海では180人の船員のうち100人までもが壊血病で命を失っており、船乗り達は海賊以上にこの病気を恐れていた。1753年にイギリス海軍省のジェームズ・リンドが新鮮な野菜や果物(特に柑橘類)の摂取で予防できることに気づき、クックは15年後の南太平洋探検でザワークラウト(キャベツの漬物)や果物の摂取に気を配り、乗組員の生命を守った。当初、乗組員は食べ慣れないザワークラフトに手を付けなかったため、クックはあえて“艦長と士官だけの特別食”にした。プレミア感が出たところで乗組員に提供したところ皆が競うように食べたという。これらの功績から、クックは帰国後、大尉から中佐へと一気に昇進した。
※ただし、クックは壊血病防止の主役がザワークラウトと気づいていなかった。キャベツは豊富なビタミンCを含み、乳酸発酵によってさらにビタミンCが増えた。当時はまだビタミンCが加熱で失われると分かっておらず、クックは(既にビタミンCが消えた)麦汁で救われたと誤解していた。またザワークラウトといえども缶詰にして加熱殺菌すれば多くのビタミンCが壊れてしまう。生のままが重要。

1772年(44歳)、王立協会の命令でオーストラリアよりさらに南方にあると信じられたテラ・アウストラリスを発見すべく、小型帆船レゾリューション号(460トン)で2度目の大航海に出航した。結果、クックは1773年1月にヨーロッパ人として史上初めて南極圏に突入した。クック以降、南極海に至った航海者は半世紀先までいない。クックは「これ以上南下しても寒くて人は住めない」「伝説のテラ・アウストラリスがあっても氷の塊で探索は無意味」と判断、惜しくも南極大陸まで121kmの地点で発見前に引き返してしまった(ちなみに南極大陸の最初の発見者は未確定。遠方から見てもただの氷か大陸の上の氷か分からないため)。
その後も、クック諸島(現ニュージーランドの島々)、ニューカレドニア島(現フランス領)、ニウエ島(現ニュージーランド自治領)、トンガなど、数々の島を“発見”するとともに、南太平洋のニューヘブリディーズ諸島(バヌアツ)、マルキーズ諸島(タヒチ)、イースター島(チリ)の測量を実施した。3年に及ぶ大航海を経て1775年7月に帰国し、南極調査の業績を評価されて大佐に昇進、王立協会の会員に選出されコプリー・メダル(最古の科学業績者へのメダル)を授与された。

1776年(48歳)、北米大陸の北方に大西洋と太平洋を結ぶ航路があるか調査するため、レゾリューション号で3度目の航海に出航。僚船ディスカバリー号の指揮をチャールズ・クラークがとった。インド洋でクリスマス島、ポリネシアでクック諸島を発見し、2年目の1778年、太平洋中部でハワイ諸島を発見。クックは最北端のカウアイ島(オアフ島の西に位置)に上陸し、探検の有力な支持者だった海軍大臣サンドウィッチ伯(仕事中にパンに干し肉を挟んで食べた逸話で有名)の名を冠して「サンドウィッチ諸島」と命名した。
その後、北米の西海岸を測量しながらカリフォルニアからアラスカまで北上し、アンカレジの南のクック湾を発見。さらに進んでアラスカの端を突き止め、ベーリング海峡から北極海に入った。初冬に入っており、そこから先は氷のために帆船では進めなかった。

1779年1月17日、ハワイ諸島まで戻ったクックは最南端にして最大の面積を持つハワイ島を初めて訪れ、ケアラケクア湾(ハワイ島サウス・コナ地区)にレゾリューション号の錨を降ろした。ちょうどこの時期は「マカヒキ」というハワイ先住民の新年の収穫祭と重なっていた。ハワイ神話ではマカヒキの間はロノ神を祭るヘイアウ(聖所)に白い布を垂らして祝っていた。ちょうどそこへ白い帆を付けたクックの船が来航し、白人を見るのも初めてであり、しかも偶然にもケアラケクア湾にロノを祭るヘイアウがあったことからクックは島民からロノ神と間違えられて大騒ぎになり、盛大に歓迎された。約1カ月ほど滞在して大いに英気を養い、北太平洋の探検に向けて出航する。ところが、不運なことにすぐに嵐に遭って帆柱が破損してしまう。2月14日、修理のためにケアラケクア湾に再び寄港したが、既にマカヒキ祭が終わっていたので先住民に戸惑いが走った。しかも、前回の滞在時に航海で死亡した船員の葬式を行ったことから、「神なのに命を救えないのはおかしい」「偽物のロノ神ではないか」と先住民から疑いの目を向けられた。
威光は消え、クックは小舟のひとつを島民に盗まれてしまう。取り戻すために先住民の長、カラニオプウ王を人質に取って取引を試みたが、長の1人がクックたちに殺されたというデマが流れ、槍や投石の攻撃が始まった。身の危険を感じたクックたちは発砲しながら退却したが、クックは小舟に乗り込む際に背後から頭部を殴られ、転倒と同時に刺し殺された。そこはちょうど初上陸を果たした場所の近くだった。享年50歳。
クックの遺体は先住民に持ち去られ、ニセ神の疑いをかけられながらも信仰の対象となった。探検隊のメンバーは遺体の返還を懇願し、その一部が引き渡されたことから、正式な水葬が執り行われた。一年半後、レゾリューション号は英国へ帰国した。
1782年、クック他界の3年後にカラニオプウ王は没し、息子のキワラオ王が後を継ぐが、甥で24歳のカメハメハ1世(1758-1819)がハワイ統一を目指して蜂起し、キワラオ王は倒された。ハワイ島には他に2人の有力者がいたが、1人は隣りのマウイ島の大王・カヘキリの陰謀で倒され、もう1人はカメハメハを襲撃しようとしてキラウエア火山の大噴火に軍が巻き込まれ、運を味方に付けたカメハメハに捉えられた。1794年、大王カヘキリが老衰で没するとカメハメハはマウイ島を陥落させ、翌1795年にオアフ島でカヘキリの息子を打ち倒し、ホノルルにハワイ王朝の樹立を宣言した。クックの非業の死から16年後のことだった。
1797年、カメハメハは非戦闘員の保護を明文化した先進的な法典「ママラホエ・カナヴィ(経験で学ぶ他人への思いやり)」を自ら編纂した。「すべての老人、女性、および子供が、路傍で安全に休息できるように」と、今もハワイ州の憲法第9項の第10章に採用されている。戦時の民間人や非戦闘員の扱いについての近代人権法のモデルになっており
1810年、未支配だったカウアイ島とニイハウ島が服属し、カメハメハはここに国家統一を成し遂げハワイ王国を建国、初代国王となった。9年後にカメハメハ大王は61歳で没したが、墓荒しを防ぐために墓の場所は秘密にされ今も謎のままだ。
クック来航から約100年後の1874年、ケアラケクア湾の北側にクックの業績を称えた白亜の巨大な8mのキャプテン・クック上陸記念碑が建立された。
1878年、「キャプテン・クックによるハワイ発見100周年」を記念してカメハメハ1世の銅像が造られ、法典「ママラホエ・カナヴィ」の功績を称えるためにホノルルのダウンタウンにあるアリイオラニ・ハレ(最高裁判所)前に設置された。
1973年、クック終焉の地となった一帯がケアラケクア湾歴史地区に指定された。

優れた航海術と地図作成能力を持ち、地理や文化の綿密な観察記録を残すなど、従来の冒険者的な探検とは異なる科学的探検を行った点で、ジェームズ・クックは近代的探検の先駆者といえる。世界各地に点在するクックの名を冠した地名からも、彼の偉大な業績に感嘆するばかりだ。

【墓巡礼】
2017年の夏、僕はクック船長に墓参するため初めてハワイ島に上陸した。まず関空からオアフ島ホノルルに飛び、そこから国内線に乗り換えてハワイ島のコナ国際空港に降り立った。空港でレンタカーを借り、カーナビを起動。30分ほど南下してケアラケクア湾に面した“キャプテン・クック”という名の町に着いた。ガイドブックには「ケアラケクア湾のはるか向こう側に白亜の記念碑が見える」とある。“記念碑”ではあるが、ここがクックの終焉の地であり、亡骸の一部は水葬に、一部はどこかに葬られたというのであれば、これは事実上の墓石だ。湾岸に着き、記念碑を眺望できる場所に車を停めると、既に10人ほどが遠くの白い記念碑を見つめていた。記念碑は高さ8メートルもある大きなものなのに、湾の対岸まで約2キロもあるため、予想以上に小さく見える。っていうか、肉眼だと白い点だ。ガイドブックの写真はプロが高性能の望遠レンズを使って撮ったものだった。「覚悟はしていたけど、これほど小さく見えるとは…」。ガイドブックに記念碑までの行き方は書かれていなかったが、ネットを検索すると記念碑周辺はハワイ全島で最も透明度が高く珊瑚礁も美しいそうで、129ドルのシュノーケリング・ツアー(BBQランチ付き)に申し込めば船で記念碑の近くまで行けるとのこと。ただし、上陸はできないうえ朝9時発の一度きりと条件が厳しい。
ネットには“カヤックで行ける”とも書かれていた。ここに来るまでは「記念碑まで行けなけかったら、対岸から遥拝(ようはい)できれば良い」と思ってたけど、遥拝するにしてもあまりに遠すぎる。とはいえ、僕はカヤックなんて一度も乗ったことがない。穏やかな川ならともかく、波のある海で初チャレンジする自信がなかった。そうこうしていると、小型船が記念碑に向かうのが見えた。シュノーケリング・ツアーの時間帯ではなく、僕はガイドブックにはない連絡船があるのではと、入り江に来る人に片っ端から「あの船がどこから出ているか知りませんか?」と尋ねまくった。だが、誰も知らないという。後で分かったが、どうやらどこかの学校が遠足でチャーターしたようだった。
“連絡船の乗り場もカヤックの乗り場も見当たらんぞ…”。途方に暮れていると、地元のヒゲを生やした親父さんが話しかけてきた。「お前はカヤックであそこへ行きたいのか?」「はい。でも、カヤックは初めてなので出来れば船で行きたいです」「簡単、簡単、私がパドルも貸してあげよう」。恥ずかしながら、「パドル」がカヤックのオールとは知らず、僕には「ペダル」に聞こえた。“ペダルだって!?池の白鳥ボートみたいな足こぎペダルのボートがあるのか!”と心が躍った。値段を聞くと50ドル。安くはないがこれが相場だろう。「お願いします!」。
 
親父さんは車で来ていて、レンタカーでついて来いと言った。“この人は何者なんだろう”と不安になったが、クック船長の墓参が出来るという喜びが勝った。僕は2、3分の距離にある岩場に案内され、親父さんはポツンと一艘だけある黄色いカヤックを浅瀬に引き出そうとした。“あれ?白鳥ボートは?”。戸惑う僕に「先払いだ」と親父さん。ここまで来たら行くしかない。親父さんは「20分であっちまで行ける」という。だが、初心者の僕が炎天下の中を往復するのにどれくらい時間がかかるか分からず、飲み水が絶対に必要と思った。親父さんに少し待ってもらって、付近の海の家(?)っぽい店で「何か飲み物を売って下さい」とお願いした。するとコップに氷と水を入れてくれたので、「カヤックで湾を渡るので、少しずつ飲んで後でコップを返しに来ます」とそのまま貸してもらった。
親父さんのところへ戻ると、既にカヤックは浅瀬に浮いていた。「さあ、カヤックを押さえているから乗れ。そして大事なことを言うからよく聞け。クックの記念碑はカヤックを繋ぐ場所がないから上陸できない」「ええっ!?上陸できないんですか!?」「そうだ。カヤックから離れるとカヤックが流されてしまう。海から写真を撮れ」。ガーン。ショックすぎる。でも、もう50ドル払ったし、近づけるとこまで近づこう…。とにもかくにも、カヤックに乗った。浅瀬は小さな入り江になっていて、まずはそこから出る必要があった。ところがパドルをうまく扱えず、同じ場所をクルクル。あまりのヘタクソさに親父さんは驚き「右を漕げ!右だ右!ノー、そっちは左だ!どうなっている!」と岩場から叫んでいた…。すみません、だからガチで初めてなんです。
もしカヤックがクルッとひっくり返れば、デジカメもビデオもアイフォンもパスポートも、すべて海水に浸かってしまう。絶対に横転できない。そして重要な事実に気づいた。ライフジャケットを着ていない。乗るまでドタバタしてそのことを忘れていた。僕は極度の緊張に包まれながら沖へ出て行った。
「暑い…そして全然進まない…」。パドルを強く回しても少ししか前進せず、本当にたどり着けるのか怖くなった。でも、クック船長の3度にわたる世界大航海を思えば、2キロの湾を横断するのは幼稚園のお遊戯みたいなもの、とにかくパドルを回し続けた。全身から汗が噴き出し、手の平にマメができ始めた。それでも無心になって漕いでいるうちに、だんだん対岸の記念碑が近づいて来た。40分が経過し、ついに記念碑の手前まで到達、ここまで来ると高さ8mの大きさがよくわかった。揺れるカヤックの上でカメラを構えたが、6人ほどの家族連れが記念碑の前でくつろいでいる。彼らはチャーター船か何かで来たのだろうか。クックの記念碑だけを撮影したかったので「ハロー!ホントすみません!写真を撮りたいので1分だけ横に移動してくれませんか」とお願いした。ファミリーの父親は「オッケー、ノー・プロブレム」と笑顔で移動してくれた。シャッターを切っていると「君は本当にクックが好きなんだねぇ。記念碑にタッチしたいだろ。カヤックを押さえているから上陸したら?」とめっさ有難い言葉!信じられない幸運!僕は「イエス!プリーズッ!」と即答した。このファミリーは20分くらい前からここに来ていた。たまたま居合わせたわけで、時間帯がズレていたら僕は海上から手を合わせて帰っていた。
 
父親の名前はジョセフさん、サンフランシスコから旅行に来ているそうだ。「3分で戻ります」と記念碑までダッシュ。手の平を置いて、クックを追悼すると共に、彼の勇気を讃えた。正面や斜め前から写真を撮っていると、お嬢さんが「一緒に撮ってあげましょうか?」と声をかけてくれた。なんて優しい家族なんだ。巡礼を終えてカヤックに戻り、僕がヘタクソに乗り込む様子を見て、「もしかして初めて?」とジョセフさん。うなづくと、「よくここまで渡って来たな!気をつけて良い旅を!」「ジョセフさんたちも良い旅を!」。
僕はカヤックを返すために再び漕ぎ出した。少し慣れたので往路より早く渡れるかと思ったけど、マメが痛くて結局は40分かかった。最初の岩場に戻ると親父さんはおらず、おばさんがカヤックを受け取った。民家にコップを返しに行くと「何か飲む?あげるから。ソーダが良い?」と聞かれた。ジュースより水が欲しいとお願いすると、キンキンに冷えたミネラルウォーターをくれた。「マハロ!(ありがとう!)」と大感謝。まさに生命の水といった美味さだった。優しさに触れた旅だった。

帰国後に知った3つの重要情報。(1)記念碑から左に100mほど離れた場所に、カヤックの係留場所があるらしい。それを教えてくれよカヤックの親父さん…。(2)カヤックは付近の『ハワイ ベルト ロード』でライフ
ジャケットを含めてレンタル可能とのこと。(3)なんと陸路でも行けるらしい!岩だらけでカンカン照りの急斜面にキャプテン・クック・トレイル(Captain Cook Trail)という往復8kmの道があり、片道1
時間の過酷なトレッキングにはなるがアクセス可能という。トレッキング後のシュノーケリングが最高らしく、次の機会があれば是非チャレンジしたい。ナポオポオ・ロードからの細い道を利用。

※スペースシャトルのエンデバー号の名は、クックが最初の航海で使ったエンデバー号からきている。
※ハワイ島のクックが没した土地の近くに「キャプテン・クック」という町があり、オーストラリアにはエンデバー号が座礁した海岸近くにクックタウンがある。
※英国にクック博物館が2箇所、オーストラリアにも歴史博物館とクックの両親の家(英から移築された)がある。
※クックの船に乗船していた士官候補生ジョージ・バンクーバーは、後に北アメリカ太平洋岸の調査航海を指揮し、カナダのバンクーバー市の名の由来となった。一方、第3回航海の航海長ウィリアム・ブライは帆船バウンティの指揮をとり、有名な“バウンティ号の反乱”に遭い、救命艇で漂流した。
※「カ・メハメハ」はハワイ語で「孤独な人」、「静かな人」の意。2世以降の王族の墓は1865年完成のホノルルのロイヤル・モーソリアムに安置されている。



★チャールズ・リンドバーグ/Charles Lindbergh 1902.2.4-1974.8.26 (アメリカ、ハワイ州マウイ島 72歳)2017
Kipahulu, Maui County, Hawaii, USA

  

  

リンドバーグの墓はハワイにある。ハワイなら簡単に行けるイメージがあるけど、ワイキキビーチで有名なホノルルはオアフ島で、彼の墓があるのは離島のマウイ島だ。墓マイラーの間では秘境にある墓として墓参難易度Aランクに位置づけられている。週に何便フライトがあるか分からず、墓のあるマウイ東部は公共交通がなく、“ダメだ、ハードルが高すぎる”、そう思って長く巡礼を先延ばしにしていた。ところが2017年夏に仕事でホノルルに行くことになり、フライト情報を調べると、オアフ島からマウイ島まで毎日10便以上飛んでいたことから「千載一遇のチャンス」とレンタカーを予約し、1日早く渡航して墓参に挑んだ。

チャールズ・リンドバーグは 1902年2月4日にアメリカ中西部デトロイトで生まれた。スウェーデン系移民の3代目。父は共和党議員で第一次世界大戦への参戦に反対した。少年時代は内気で友達と遊ばず、一人で釣りをしたり切手を集めていた。10歳頃に航空ショーを見て「いつか飛んでみせる」と大空への夢を抱く。10代後半、射撃に才能を発揮し、大学の射撃チームを主将として全国優勝に導いた。その後、大学を中退して飛行学校に通い20歳ごろ初めて空を飛ぶ。当時は飛行機の操縦に免許は必要なく、21歳のときに訓練用の飛行機を手に入れ曲芸飛行士になった。同年、最新型の飛行機に乗りたいという一心でテキサスの陸軍飛行学校に志願。
1924年(22歳)、訓練中に空中衝突し墜落するもパラシュートで降下し一命を取り留めた。この年、父が脳腫瘍で他界。翌年、陸軍飛行学校を“首席”で卒業し予備役の陸軍少尉となり、秋には中尉に昇格した。同年、ホテル経営者レイモンド・オルティーグが「5年以内にニューヨークからパリまで、またはその逆のコースを無着陸で最初に飛んだ飛行士に2万5000ドルを授与する」と宣言。
1926年(24歳)、シカゴとセントルイスを結ぶ郵便飛行の主任パイロットとして郵便航空操縦士になる。同年、再び墜落事故から生還。州軍飛行隊を指導し大尉に昇格。

1927年(25歳)、懸賞金2万5000ドルがかかった史上初の大西洋単独無着陸飛行に挑戦するため、カリフォルニアの小型機メーカーと交渉。時速100マイル(161キロ)、380ガロン(1438リットル)の燃料でニューヨークからパリまでノンストップで飛べる飛行機を発注する。資金はセントルイス財界人を訪ね歩いて確保した。2カ月で単葉単発単座の特注機スピリット・オブ・セントルイス号が完成。単座にしたのは「死ぬときは自分1人でいい」と思ったから。小さすぎる飛行機を揶揄し、リンドバーグの挑戦を「飛行機馬鹿の自殺的冒険」という人もいたが、リンドバーグは32回のテスト飛行で“行ける”と確信。そして5月20日午前7時52分(54分説あり)にニューヨーク郊外のルーズベルト飛行場を飛び立った。

出発するとメディアは大応援団となり、若者の勇気を讃え、無事を祈った。特注機のスピリット・オブ・セントルイス号は大量の燃料が積めるように操縦席の前方に燃料タンクがあり、そのため座席から前方が見えなかった。リンドバーグは窓から顔を出したり潜望鏡を使って飛び続けた。最大の敵は“睡魔”だった。30時間以上も変化のない海を見続け、夜は暗闇に包まれる。眠れば死が待っており、リンドバーグは眠気に耐えた。そして33時間32分後の午後10時24分(現地時間)、パリ郊外北部のル・ブールジェ空港に着陸した。飛行距離は5,810km。当初、リンドバーグは目的地に着いたという確証がなく、最初に発したのは「英語を話せますか、ここはパリですか」。空港には15万人が押し寄せ、さほど注目されていないと思っていたリンドバーグを仰天させた。彼は25歳にして世界的な英雄となった。後にスピリット・オブ・セントルイス号はワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館に展示される。
リンドバーグは若いにもかかわらず発言が謙虚で、それによって人々はますます彼を愛した。
米国のクーリッジ大統領はリンドバーグのために“帰国便”として戦艦を用意、これを利用し翌月に戻った。港には若者をひとめ見ようとした人々がつめかけ、彼がどこに行っても大興奮が起きた。映画やCMの出演依頼が殺到し、契約料の総計は懸賞金の200倍となる500万ドル以上に達したが、リンドバーグは「お金のためにやったのではない」とそれらをすべて断った。大統領は彼のために急遽“航空殊勲十字章”を作って授与、一気に大佐へと特進させた。祝賀ムードはニューヨークで挙行された凱旋パレードで頂点に達した。視界が見えなくなるほどマンハッタンに紙吹雪が舞った。

1929年(27歳)、駐メキシコ大使ドワイト・モローの次女で内気な性格のアンと結婚。飛行機乗りはいつも死と隣り合わせであり、結婚式の後、新妻に遺産相続の書類を渡した。同年、メキシコ上空を飛行した際に、密林の中に点在するマヤ遺跡を目撃し、考古学界に航空視察の重要性を説いた。また、ロケット研究者ゴダード博士に会いに行き、月面到達を夢見て年間5千ドルの寄付を約束した。この秋、ウォール街から世界恐慌が起きる。
1930年(28歳)、長男が誕生、過剰取材に疲弊する。不況が深刻化するにつれ、幸福なリンドバーグ家をやっかみ、憎しみの対象とする人々が増えていく。嫌がらせの手紙や電話も激増した。
1931年(29歳)、大西洋横断の快挙から4年。この年、リンドバーグはアンを副操縦士・無線係に迎え、水上機チンミサトーク(イヌイット語で“大鳥”)号で北太平洋横断飛行に成功する。ただ、ニューヨーク、カナダ、アラスカを飛んでサハリンまで来たところで嵐に遭い、遭難寸前のところで日本船に救助された。2人は北海道の根室から東京のアメリカ大使館に向かい、その途中で10万の群衆がリンドバーグのために「万歳」と歓声をあげるのを見た。そして若槻首相に表敬訪問し、日米親善の役割を果たした。このナマの日本人を知ったことが、後の太平洋戦争の衝撃に繋がる。また、日本の後に中国・南京を訪れて長江洪水被害の救援に尽力、上空から危険な堤防を指摘し、避難民に医師や薬品を運び、蒋介石から最高勲章を授与された。南京の人々の生命を救った体験から、この6年後に南京を日本軍が侵略した際に普通の米国人以上にショックを受けたことは想像に難くない。10月、客船で帰国。

1932年(30歳)、まだ1歳8か月の長男ジュニアが自宅から誘拐され、身代金5万ドルを払うも2カ月後に遺体が見つかるという痛ましい事件が起きる。しかも何者かが息子の棺を開けて死に顔を撮影し、写真が売られるという信じ難い出来事もあった。この事件をきっかけに、複数州にまたがる誘拐事件を連邦犯罪とする“リンドバーグ法”が成立する。同年、ルーズベルトが新大統領に選出。
1934年(32歳)、航空会社が担っていた郵便飛行業務をルーズベルトが一方的に取り上げ、陸軍飛行隊に肩代わりさせる。リンドバーグはこれに怒り、「郵便飛行は特別な操縦技術が不可欠であり、軍人がいきなり飛ぶのは危険」と抗議した。不安は的中し墜落事故が相次ぎ、ルーズベルトとの間に確執が生まれる。ルーズベルト「あの若僧の翼をへし折ってやりたい」。秋に誘拐犯の大工職人ハウプトマンが逮捕される。
年末にアンの姉エリザベスが急死する。エリザベスは心臓病で、人工ポンプさえ発明されれば手術ができ生命が助かっていた。リンドバーグは各方面に働きかけフランスの生理学者アレクシス・カレルと共同研究を開始。カレルの医学知識と、リンドバーグの工学知識が結びつき、翌年に血液環流ポンプ「カレル・リンドバーグポンプ」を開発したが、エリザベスの手術には間に合わなかった。このポンプが現在の人工心臓に発展した。

1935年(33歳)、長男誘拐事件の裁判で死刑判決が出たが、被告は無実を訴えていたため紛糾、証拠品の一部に矛盾もあったことから死刑反対派のキャンペーンが反リンドバーグの空気を生み、人間不信になったリンドバーグ夫妻は大晦日にイギリスに移住した。翌年、米軍の要請を受けベルリンでドイツ空軍の新鋭機を視察、航空相ゲーリングの招待でベルリン・オリンピックの開会式に出席した。同年、ハウプトマンに死刑が執行される。
1937年(35歳)、ナチスに危機感を抱き母国アメリカの空軍力を確認するため一時帰国、翌年イギリスに戻り、日記をつけ始める。
1938年(36歳)、3月にドイツがオーストリアを併合。同年、ヘルマン・ゲーリングから名誉勲章を授与され、米国ではナチスと親密になり過ぎだと非難が起きる。これにリンドバーグは「ドイツへの過剰な非難」と反論。同年、生理学者アレクシス・カレルとの共著『臓器培養』に共同研究をまとめる。
1939年(37歳)、9月にドイツがポーランドを侵攻し第2次世界大戦が勃発。共和党員のリンドバーグは米国の紛争不介入の立場を支持、参戦反対の講演を行い再び親ナチス的と非難される。
1941年(39歳)、1月のアメリカ連邦議会で「ドイツと中立条約を結ぶべき」と演説。9月に英国とユダヤ人が参戦を働きかけていると発言、ユダヤ系アメリカ人の反発を受け、ルーズベルトは陸軍航空隊の視察委任を解除する。12月に日本軍が真珠湾を奇襲、日米開戦となる。リンドバーグは陸軍航空隊への復帰を試みるも拒否され、民間会社のテストパイロットとして前線を支援していく。
1944年(42歳)、4月にF4Uコルセア戦闘機(単発単座)の性能テストのため同機で南太平洋戦線に向かう。ハワイ経由でソロモン諸島ガダルカナルに入り、ニューギニアで日本軍の拠点ラバウルを3週間攻撃した。6月、高速戦闘機P-38ライトニングに乗り換え出撃。この間に九九式襲撃機を撃墜している。F4Uの離陸法やP-38の長距離航法をオーストラリア駐留中のマッカーサー総司令官に伝え、民間人の身分ながら自由な出撃許可を得る。8月、パラオ・ペリリュー上空で初めてゼロ戦と空戦、米側は5機編隊で2機を撃墜したが、援軍のゼロ戦の追撃でリンドバーグは被弾、機体が白煙をあげ死を覚悟するが、間一髪で味方機に助けられた。リンドバーグが捕虜、もしくは戦死すると、日本側に格好の宣伝材料となるため、極東航空部隊のケニー司令官は彼に飛行禁止を命じた。

【南太平洋戦線においてリンドバーグは日本人にとって衝撃的な日記を書いている】
※以下『リンドバーグ第二次世界大戦日記 下』(新庄哲夫訳/角川文庫)より抜粋

●1944年6月21日
日本軍兵士殺害に関する将軍の話…数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、もう二年以上も太平洋地域で、戦闘部隊と行動を共にしながら、ついぞ実戦に参加した経験がなく帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。
軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。今こそ日本兵を殺すチャンスだと、その捕虜は軍曹の前に引き立てられた。
「しかし、俺はこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」「ちえっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」。偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻き付き、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた。私がそのやり方に反対し、どうしても捕虜を殺さねばならないのなら疚(やま)しくない、蛮行に非ざる方法に訴えるべきだと主張すると、私は悠然たる侮蔑と哀れみの態度に接した。「野郎どもがわれわれにやったことだ。やつらを扱うたった一つの方法さ」

●1944年6月26日
(第四七五戦闘飛行連隊の居住区で数名の将校連と会議)談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」「*****では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。 残りの連中にはちょっとした出来事
があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる。「たとえば***隊だが、かなり残酷なやり方で切り刻まれている隊員の遺体を発見した。それ以来、連中は日本兵をさほど多く捕虜にしなくなったと考えて間違いない」
話は次いで空中戦やパラシュート脱出に移る。一座の操縦士は一人残らず、パラシュートで降下中の敵のパイロットを撃ち殺して差し支えないと主張した。もっとも、自分ならそんな真似はしたくないと断る者が数名いた。「これも、最初はジャップの方からやり出した。やつらがその手を使いたければ、我々にだって同じ手が使えるということだ」。パラシュートにぶら下がったまま、日本軍に撃ち殺されたアメリカ軍パイロットの話が幾つか披露された。

●1944年6月28日
第四七五飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過す。話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。日本兵の死体から略奪したり、略奪の最中に死者を”野郎(サノヴァビッチ)”呼ばわりしたりすることも意に介さぬ。ある議論の最中に私は意見を述べた。日本兵が何をしでかそうと、われわれがもし拷問をもって彼らを死に至らしめれば、われわれは得るところが何一つ無いし、また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを殺してからそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。
(略)写真には“戦利品”を奪われた死体の兵士も写っていた−−15歳から17歳ぐらいの少年であった。

●1944年7月13日
わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが南大平洋における戦争をこの眼で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う。事実、この点に関するわれわれの成績が日本人のそれより遙かに高いという確信は持てないのだ。

●1944年7月21日
(ビアク島の断崖に何週間も立てこもっている日本兵について)250名から700名の間と推定されるいわばひと握りの日本軍は圧倒的な強敵に対して、また充分に補給された火器が撃てる限りの猛砲撃にも、その拠点を死守し続けてきたのだ。仮に攻守ところを変えて、わが方の部隊がかくも勇敢に立派に拠点を死守したのであれば、この防衛戦はわが国の歴史上、不撓(ふとう)不屈と勇気と犠牲的精神との最も栄光ある実例の一つとして記録されたに相違ない。が、安全でかなり贅沢な将校クラブに座しながら、これらの日本軍を「黄色いやつら」と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けねばならないのである。彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、むごたらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えは全くない。
自分が最も気にしているのは、わが将兵の側にある殺戮の欲望ではない。それは戦争に固有なものである。問題は敵の尊敬に値する特質にさえ敬意を払う心を欠いていることだ−−勇気、艱難(かんなん)、死、信念に殉ずる覚悟、卓越した訓練と装備にもかかわらず次々と殲滅されて行く部隊等に対し敬意を払う心が全くない。われわれには勇敢な行為であっても、彼らがそれを示すと狂信的な行為ということになる。われわれは声を限りに彼らの残虐行為をいちいち数え立てるが、その一方では自らの残虐行為を包み隠し、ただ単なる報復措置として大目に見ようとする。
(略)私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、日本軍が身を隠している洞窟と思しき断崖の黒点を眺めやる。あの焼けただれた地域の地表下に極限の苦悶が隠されているのだ−−飢餓、絶望、そして死体や死に瀕した男たち。ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとはしない、なぜならば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るよりも明らかなのだから。
(略)われわれがもし日本兵の歯をもぎとったり、ブルドーザーで遺体を穴の中に押しやり、さらった土をかぶせたりする代わりに、人間にふさわしい埋葬を営んでやることが出来るのであれば、私はわが国民性にもっと敬愛の心を抱けたに相違ない。ブルドーザーで片付けたあとは墓標も樹てずに、こう言うのである。「これが黄色いやつらを始末するたった一つの手さ」と。

●1944年7月24日
(日本軍が最も頑強に堅守した拠点の一つ、モクメル西方の洞窟へ出掛けてみる)洞窟群へたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らねばならぬ。山道の片側にある爆弾でできた穴の縁を通り過ぎる。穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。敵を殺す、これは理解できる。戦争の欠くべからざる要素だ。敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。しかし、わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸くそが悪くなる。
(略)小屋の一つが病院に使われていたことは明らかだ。床にある死体の一つは担架の上に横たわり、半ば布地に覆われたままの姿だ。ここは日本軍が投降を試みた洞窟だといわれ、わが軍から「顔を洗って出直して来い」とやられたそうである。奥は第二の洞窟に通じ、そこも死体が散乱していた。これ以上耐えられそうもなくなったので、ジープのところへ引き返す。海岸へ出て、小さな泉の冷たい、透明な水を浴びた。洞窟内の日本軍将兵も、たった数週間前まで使っていた泉であろう。

●1944年8月30日
タラワは多くの血が流された戦場にしては驚くほど小さな島だ。(略)日本軍将兵数千人の墓地には墓標らしきものさえ立っておらぬ。死体はブルドーザーがさらって穴の中に放り込み、その同じブルドーザーが掻き集めた石灰岩で上からおおったのである。島が小さかったので、敵の死体さえ埋めねばならなかったということだ!(略)海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかったそうである。激戦であった。わが方も将兵の損害が甚大であった。敵をことごとく殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、あとの連中は「一人も捕虜にされなかった」という。

●1944年9月9日
将校の話によれば、穴の中の遺体を「ブルドーザーにかける」前に、何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯捜しに棒で口をこじ開けたりした。金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに、耳や鼻を切り落とされている日本兵の戦死体を幾つか見たとも言った。「兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。日本兵の生首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり過ぎたので、首を取りあげねばなりませんでした」。行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ。

●1944年9月15日
(真珠湾で撃沈された戦艦アリゾナの生存者と出会う)頭のてっぺんには、燃える油の中を泳いで助かった際の傷跡が今なお歴然と残っていた。真珠湾で完全に虚を突かれた理由がどうしても納得できぬと言う。なぜなら、奇襲攻撃の数日前に、わが艦艇は敵の潜水艦に対して爆雷を投下しており、また魚雷の航跡を警戒するようにという命令が出ていたからである。数人の海軍士官からも、われわれが奇襲攻撃の何日か前、日本の潜水艦に爆雷を投下していると聞かされた。

●1945年6月11日※最後の日記
(ナチスの捕虜収容所に来て)人骨の溢れた穴の周辺には、こぼれた骨灰の跡が小径のように尾を引いていた。われわれが暖炉用の石炭殻を投げ捨てるように、骨灰はぞんぱいに投げ捨てられたのだ。(略)一種、異様な困惑が襲ってきた。以前にかかる困難を覚えたのはどこでだっただろうか。南太平洋でか。そうとも、ビアク島の洞窟で日本兵の遺体が腐りかけるのを見掛けたときだ、爆撃穴に埋まる日本兵の遺体の上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ緑色を呈する日本兵の頭蓋骨が飾り付けてあるのを見掛けたときだ。
かりそめにも人間が−文明人が、かかる次元まで堕落できるとは考えられないことのような気がする。にもかかわらず、彼らは現実にこうして堕落したのである。ここドイツのキャンプ・ドラにおいて、また、かのビアク島の洞窟において。しかも、ビアク島ではわれわれアメリカ人がそれをやってのけたのである。それとは異なる価値のために立ち上がったと主張するわれわれが、だ。ドイツ人はユダヤ人の扱い方で人間性を汚したと主張するわれわれアメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのである。「やつらは本当に獣以下だ。どいつもこいつも皆殺しにすべきだ」。耳にたこができるほど、南太平洋のアメリカ軍将校から聞かされた台詞だ!「何故、兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木(うつばり)を認めぬか」

私はポーランド少年を見やった。このような飢餓状態をどこで見たろうか。それも、ビアク島においてだ。原住民の操るカヌーの光景が記憶に甦ってきた−われわれのキャンプ近くの岸辺に向かってゆっくりと漕ぎながら、半裸体の武装した原住民に護送される日本軍の捕虜たちだ。列の後尾にいた若干名は歩行できないほど飢えており、このポーランド人少年より痩せ細っていた。勿論、ドイツ人が捕虜収容所でポーランド少年を飢えさせたように、アメリカ人が日本人を飢えさせたわけではない。われわれがあまりにも”文明化”し、手際が良すぎただけの話である。ただ日本人の投降を受け付けないことにより、彼らをして密林内で飢えさせたに過ぎぬ(彼らの責任において)。単純明快な事態であった。飢餓のために眼がぎらつこうと疾病(しっぺい)の危険性があろうと、われわれは心を動かされなかった。数マイルにわたる密林がそれを覆い隠し、消し去ってくれたからだ。両手を挙げて投降しようとする先頭の日本兵を撃ち殺しさえすればよかった。(「ジャップの投降は信用できない。手榴弾を投げつけるからね。即座に撃ち殺してしまう手しかないよ」)。あるいはただぶっきらぼうに振舞い、白旗を掲げて来た敵の使者を怒鳴りつければよいのだ。歩兵部隊の将校連が洞窟で、「顔を洗って出直して来い、畜生め」と勝ち誇ったように。

かかる一連の出来事が走馬灯のように脳裏をかすめて行く。わが海兵隊が、ミッドウェーの砂浜に寸鉄を帯びないで泳ぎつこうとする日本軍の生存者を撃ち殺した話。ホランディア飛行場で、我が軍が日本軍の捕虜に機銃掃射を浴びせた話。ニューギニアの山越えに南へ飛ぶ輸送機の上から、オーストラリア人が日本軍の捕虜を突き落した話(「オーストラリア軍は捕虜がハラキリを演じたとか”抵抗”したからと報告してるんだ」)。ヌルフォール島で殺されたばかりの日本兵の死体から脛骨(けいこつ)を切り出し、ペーパー・ナイフやペン皿を造った話。「そのうちに、あのジャップの野戦病院をたたき潰してやるぞ」と豪語した若いパイロットの話。金歯を求めて日本兵の遺体の口をこじ開けたアメリカ兵の話(「そいつは歩兵お得意の内職でね」)。「記念品としてこぎれいにするため」日本兵の生首を蟻塚に埋めたという話。ブルドーザーで日本兵の死体を道路の片側に寄せ、浅い、墓標の無い穴に放り込んだ話(「それが近くにあったりすると、我慢ができないので埋めてしまうんだ」)。イタリアの町でムソリーニと愛人が逆さ吊りにされた写真を、高い文化的理想を主張する何千というアメリカ人が容認したこと。歴史を遡れば、かかる残虐行為は古今東西を問わず続けられてきたのであった。ドイツのダハウ、ブッケンワルト、キャンプ・ドラといった収容所においてばかりではない、ロシアから太平洋にかけても、またアメリカ本国の暴動や私刑(リンチ)、中南米のさほど喧伝されぬ蜂起や中国の残酷事件においても、さらに数年前のスペインで、往時のユダヤ人虐殺で、ニューイングランドの魔女焼き、イギリスの八つ裂き刑、キリストと神のみ名において行われてきた火刑においても。

私は人骨の灰に埋まる穴を見降ろした(「一年半に二万五千人だ」)。かかる行為はなにも特定の国家や民族に限って行われたのではないことに気付く。ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じようなことを、われわれは太平洋で日本人に行ってきたのである。ドイツ人が人間の灰を穴に埋めることで自らをけがしたと同じように、われわれもまた、ブルドーザーで遺体をさらい、墓標もない熱帯地の穴に放り込むことにより、自らをけがしたのである。地球の片側で行われた蛮行はその反対側で行われても、蛮行であることに変わりがない。「汝ら人を裁くな、裁かれざらん為なり」(新約聖書・マタイ伝第七章一節)。この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃とをもたらしたのだ。(日記終わり)

1953年(51歳)、リンドバーグは単独飛行の回想録『The Spirit of St. Louis(邦題「翼よ、あれがパリの灯だ」)』を出版、翌1954年のピュリッツァー賞を受賞した。アイゼンハワー大統領によって予備役空軍准将に任命される。
1957年(55歳)、ビリー・ワイルダー監督による『翼よ! あれが巴里の灯だ』が公開され大ヒットする。同年、ミュンヘンの帽子屋ブリギッテ・ヘスハイマーと恋仲になり密かに子をもうける。この事実は2003年に判明した。
1967年(65歳)、ブリギッテとの間に3人目を授かり、最後の子となった。
1970年(68歳)、大阪万博を訪れるため訪日。

戦後のリンドバーグは自然環境の保全に力を注ぐようになり、世界各地を回って多額の資金を寄付した。野生動物の保護、少数民族の援助、医療器具の開発などにも打ち込んだ。一方、厭世的にもなり、ハワイ諸島マウイ島の美しい景色に惹かれてアンと過ごすことが多くなった。そして島東部の秘境に別荘を建築し、毎年2カ月を同地で過ごした。70歳を過ぎたころ、癌を発症する。

1974年の夏、リンドバーグは癌が進行し、医者から余命が短いことを告げられた。本土の病院のベッドで最後を迎えるよりマウイ島で旅立ちたいと考え、8月にマウイ島の別荘に移住した。そして8月26日の朝、リンパ腫瘍により他界した。享年72歳。穏やかな最期であったという。伝統的なマウイのスタイルで葬儀が行われ、亡骸はパラパラ・ホオマウ教会(1857年完成)の敷地に埋葬された。ハワイの歌「天使のお迎え」を4人のコーラスが歌い手向けとした。リンドバーグは生前に墓の造形を決めており、マウイの石灰岩を積み上げ、名前が入ったプレートを中央に設置するよう指示していた。教会の敷地からは故人が魅入られたマウイの青い海が見える。墓に刻まれた言葉は旧約聖書の詩篇第139章「If I take the wings of the morning,and dwell in the uttermost parts of the sea(たとえ暁の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにいる)」。

2001年2月7日、アンが米国バーモント州パサンプシックで他界。94歳まで長寿した。この年、ドイツでブリギッテも他界している(享年74歳)。
現在、ハワイでは孫のエリン・リンドバーグがスポーツインストラクターとして活躍しているとのこと。


〔墓巡礼〜マウイの奥地に眠る英雄のもとへ〕
2017年7月12日朝9時半にマウイ島北部のカフルイ空港に到着。仕事の関係で18時半に空港へ戻らなければならず、与えられた時間は8時間オンリー。地図を見ると目的地まで片道100キロ、ハナ・ハイウェイもある。「ハイウェイがあるなら100キロなんて1時間で行ける。アメリカは道が広いしな」、そうたかをくくっていた。リンドバーグが眠るパラパラ・ホオマウ教会は地図上ではおおよその場所しか分からなかったけど、現地で聞き込みをする時間を入れても往復3時間あれば空港に戻ってこられると予想していた。
ところがだ。ガイドブックに不覚にも見落としていたページがあり、そこを読むと「ハイウェイとは名ばかりで途中から未舗装のオフロード」「東マウイは悪路が続きレンタカーは保険適用対象外で事故は全額負担」「崖崩れでよく通行止めになる」「見通しがきかない617ものカーブがあり、すれ違うことができない小さな石橋が56か所ある」「海岸沿いの細い道は側面が崖っぷち」「できるだけ朝早く出発して15時には帰路につかないと夜になり危険」「レンタカーよりバス・ツアーがお薦め」…そんなそら恐ろしい言葉が並んでいた。“地球の歩き方”には「東マウイのハナがリゾート開発の波にのみ込まれないでいられるのは、そこへいたる険しい道のりのおかげ」とあった。目指す教会があるキパフル地区は、そのハナよりさらに13キロ先にある…。速度10キロ以下で曲がるカーブが600以上。順番を待って通過する石橋が56か所。距離は100キロでもハナまで片道3時間かかるという。そして、もっと悪路になるキパフル地区まで1時間、現地の墓参に1時間…ガーン、往復だと9時間かかりフライトに間に合わない!ここまできてショックすぎる…。かくなる上は、たとえ墓前にたどり着けなかったとしても、ここまでは行けたという“最長不倒距離”を計測するために墓を目指そう、そう思ってレンタカー店へ。手続きが終わると車高のあるジープのキーを渡された。つまり、この島はジープが向いているのか。ジープなんて初めてだ。
カーナビにキパフル地区をインプット。もう10時。「到着時間は14時くらいか…休憩を入れると15時…。あれ!?12時半に着くの?なんで!?」。一瞬何が起きたのか分からなかった。地図を拡大すると、ルートがハナを通過する最短距離の北海岸ルートではなく、いったん南下してから北上するルートを表示していた。南下すると距離的には遠回りになるけど、細い道やカーブが少ないのでその分早く着くといういうのだ。本当に12時半に着くなら、滞在時間を含めても16時に戻ってこられるじゃないか!俄然元気を取り戻し、意気揚々と出発した。

空は晴天、海は青く、風は爽やか。窓を全開にしてカーラジオをつけ南マウイの海岸線を疾走した。「リンディ(リンドバーグの愛称)、待っとけよ〜!いま会いに行くから!」。時々牧場や風車の側で休息を取りながらハンドルを握る。走り出して2時間、最初の“すれ違い不可能の石橋”が登場。カーブも増えてきた。なるほど、こっちのルートでも橋とカーブはあるのか。
ところで何かおかしい。随分前に僕を追い抜いた車が、続々と引き返してくるじゃないか。しかもライトをチカチカさせながら。嫌な予感がしてきた。この先で何か起きている。5分後、衝撃の事実が。道路が封鎖され「通行禁止」の看板が出ていた!え、え、ええーっ!!道路工事のおじさんが、手でリターンしろと合図している。降りて事情を聞くと、数日前の大雨で道路が崩れて、復旧中というのだ。「そ…そ…そんな…」。ここまでなのか。この旅はここまでなのか。カーナビには墓まであと30分と出ている。この逆境…関西人の表現力が試されるとき!地図にリンドバーグの名前を書いてペンで印をつけ、それを持って道路工事の人に駆け寄り、涙目で「プリーズ!リンドバーグ・グレイブ!フロム・ジャパン!ベリー・ファー!プリーズゥゥゥゥウウウ!」と訴えた。おじさんはビックリしつつ、「フム、リンドバーグの墓な…確かにこの先にあるわ」。そして「お前は運がいい。もうじき工事が終わるところだ。道路の端に寄って工事車両を抜けて行け。リンディによろしくな」。なんと、おじさんは道路を横切るように並べていた三角コーンをどけてくれた!深々と礼をして先へ進む。しばらく進むと確かに道路の補修工事をしている。付近の住民の車と思われたのか、特に止められることもなく側を通過できた。
あとは、墓地へまっしぐら…という訳にはいかなかった。未舗装の場所はデコボコでスピードが出ず、「落石注意」の看板を見ながら車一台がギリギリの道を行く。反対方面のゲートは開いているらしく、ときおり対向車がやってくるため、カーブの度に「対向車よ来ないでくれ」と祈っていた。この区域で事故をすると保険がきかないので、いやが上にも慎重になる。結局、残り30分の距離を1時間かけて走破し、13時にキパフル地区に入った。小さな村だが目的の教会が見当たらず、庭いじりをしていた村人に道を尋ねた。教会まで3分の場所にいることがわかり、胸を弾ませて先を急ぐ。樹木の生い茂る村道を進むと、すぐに教会が見えてきた。日陰に車を停めて即座に敷地へ。建物の裏手に墓地があり、中央に広い墓域を持つ特別感のある墓が見えた。近づくと、墓石の上にミニチュアのプロペラ機があり、碑銘を読む前にリンドバーグと確信。ついに墓前に到達!空の冒険で勇気をくれたこと、太平洋戦争で日本軍兵士の亡骸に敬意を払ってくれたことなど、墓前で御礼を言った。墓は島に打ち寄せる波の音に包まれていた。

※単独でない大西洋無着陸飛行は1919年にジョン・オールコックとアーサー・ブラウンの2人組が成功している。ただしカナダ東岸のニューファンドランド島からアイルランドと距離が短く(1,890km)、リンドバーグの半分ほどしかなかった。飛行時間も16時間とこちらも半分。
※妻のアンも作家となり北太平洋航路調査を記録した『 NORTH TO THE ORIENT 』がベストセラーになっている。
※有名な「翼よ、あれがパリの灯だ!」というパリ上空の言葉は存在せず、あくまでも自伝『The Spirit of St. Louis』の和訳題。
※スピリット・オブ・セントルイス号の機体名「NYP-1」はニューヨークとパリのイニシャルを取って命名された。
※東マウイは、もしぬかるみにタイヤをとられると救援を待つだけで2時間はかかるそうだ。

〔参考資料〕『リンドバーグ 第二次大戦日記 下』(角川文庫)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ)、『世界人物事典』(旺文社)、『映像の世紀』(NHK)ほか。



★マルコ・ポーロ/Marco Polo 1254.9.15-1324.1.8 (イタリア、ヴェネチア 69歳)2002
Venezia, Italy

  

ポ−ロはヴェネチア生まれ。この再建されたサン・ロレンツォ・ディ・ヴェネツィア教会にマルコ・ポーロの墓があると文献には書かれているが、入口には巨大な錠がかけられており入れなかった。付近の住人に何時ごろ開くのか尋ねると「ここ何十年か開いているのを見たことがない」との返事。ギャフン。いったい司祭たちは何処へ?

彼の名を有名にした『東方見聞録』が出た際に、彼のことを“ホラ吹き”と中傷する連中がいた。これに対するマルコの答えがいい!〜
「私は見たことの半分も話していない」



★ガガーリン/Yurii Gagarin 1934.3.9-1968.3.27 (ロシア、モスクワ 34歳)2005
Kremlin Wall, Moscow, Russian Federation

  

クレムリンの壁にガガーリンの墓碑は埋め込まれている。墓前にはカメラを持ち込めないので超望遠で激写!



★植村 直己/Naomi Uemura 1941.2.12-1984.2.13 (東京都、板橋区、乗蓮寺 43歳)2000&10





優しい笑顔の植村さん 植村さんが最後に登ったアラスカのマッキンリー(米国)


板橋の乗蓮寺にて墓参(2000) 10年後に再巡礼(2010)。墓石には詩人・草野心平の追悼詩が刻まれている
『地球には もう彼はいない けれども生きている 修身に化けて 植村直己は 私たち心中に 生きつづける』

「自分の力で切り抜けられる時は、祈るよりも立ち向かうべきだと山は教えてくれた」(植村直己)
植村直己は1941年2月12日、兵庫県・現豊岡市の農家に6人兄弟の末っ子として生まれた。少年時代は目立たず地味な存在で、自分でも平凡を自覚し、長く自信を持てないでいた。同郷で単独登頂を多く成し遂げた登山家・加藤文太郎(1905-1936 享年
30)への憧れから、高校一年の時に地元の蘇武岳(1074m)に登頂し、これを皮切りに植村の冒険家人生が始まる。1960年(19歳)、明治大学農学部に進み山岳部へ入部。不器用でよく転ぶため、“ドングリ”というあだ名を付けられたが、精力的に登山を重ねる姿、経験を積むための努力が認められてサブリーダーに抜擢された。

1964年(23歳)、卒業後に就職試験で失敗。山岳仲間から海外の氷河の絶景を聞かされ渡航を決意する。欧州のアルプス氷河へ行く資金を米国で稼ぐため、アルバイトで貯めた金と長兄の援助を元手に移民船で米西海岸ロスに上陸した。同年、ブドウ農場での不法就労で捕まりフランスへ。待望の外国の登山で最初に選んだのは西欧最高峰モンブラン(4810m)。単独登頂に挑んだ植村は新雪で隠れていたクレバス(氷河の底なしの裂け目)に落下してしまう。奇跡的にアイゼンの刃と荷物が氷壁に引っ掛かって宙づりになり、2mの落下で済んだが、通常なら命を落としている事故だった。植村は恐怖で心が折れ、モンブラン登頂を断念し下山した。この事故の教訓から、以降の危険な登山では、4mの竹竿2本を横に倒して両端を前後に胴につけ、転落防止のストッパーとした。

西欧最高峰モンブラン(4810m) クレバス落下防止用の竹竿を腰に装着

1965年(24歳)、世界第6位ヒマラヤ山脈チョ・オユー(8201m)の明大登頂隊に参加し登頂に成功。翌1966年7月(25歳)、モンブランで2年前の登頂挫折のリベンジを果たし、同月マッターホルン(4478m)単独登頂にも成功する。秋にはアフリカ最高峰キリマンジャロ(5895m)の単独登頂に成功した。1968年(27歳)、南米最高峰アコンカグア(6961m)の単独登頂に挑み、現地では“20日かかる”と言われたが、たった15時間で山頂に立った。世界的なアルピニストとなった植村は、ここでいったん山から離れ、アマゾン川6000kmの単独いかだ下りに挑戦し、ピラニアとバナナを食べながら2カ月かけて河口に出た。この後、4年ぶりに帰国。

アフリカ最高峰キリマンジャロ(5895m) 南米最高峰アコンカグア(6961m)

1970年5月11日(29歳)、日本山岳会派遣のエベレスト(チョモランマ 8848m)登頂隊に飛び入りの裏方として参加したところ、タフな体力と慎重な判断力を買われて第1次アタック隊に選ばれ、エベレスト南東稜から先輩登山家の松浦輝男と共に日本人初登頂を果たす。植村はアタック隊の先頭にいたが、頂上を前に「いよいよ頂上です。松浦さん先に登ってください」と先を譲り、頂上では次のように交信した「ありがとうございます。私だけが登ったのではありません。皆さんの力が私を頂上にあげてくれたのです!」。同年8月26日、アラスカにて北米最高峰マッキンリー(6168m)の単独登頂を成し遂げ、20代最後の年に『世界初の五大陸最高峰登頂者』(エベレスト・モンブラン・キリマンジャロ・マッキンリー・アコンカグア)となった。

アジア最高峰エベレスト(8848m) 北米最高峰マッキンリー(6168m)

翌1971年、30歳になった植村は、新たなる冒険の場を極地探検に定めた。最終目標は南極大陸3000km横断。この距離を体感するため、同距離となる北海道稚内から九州鹿児島を51日間で踏破した。1972年9月から5カ月間、グリーンランドでエスキモーと共同生活を行い、狩猟や犬ぞり操縦技術を学び、そのままグリーンランドで3000km犬ゾリ単独行を行った。1974年(33歳)、前年にトンカツ屋で出会い、一目惚れをした公子夫人と結婚。グリーンランドの経験を踏まえ、74年から76年まで1年半をかけ、北極圏12000kmの犬ぞり探検に挑み、そりの“海中”水没や、犬の全頭逃亡という死の危機に直面しながらも、これらを乗り越え成功させる。1976年(35歳)、ロシア・コーカサス山脈のヨーロッパ最高峰エルブルス(5642m)に登頂。

1978年(37歳)、米国ナショナルジオグラフィック協会から資金提供を受け、史上初の単独北極点到達を犬ぞりで成し遂げ、日本人として初めて『ナショナル・ジオグラフィック』の表紙を飾った。この冒険はたまたま同時期に日本の大規模隊が同じ北極点を目指しており、彼らに良い犬を独占されてしまい、植村は犬集めに苦労した。実際、北極点に到達するまで真剣に犬ぞりをひいたのは7頭ぐらいで、他の犬はエサを食べるばかりで役に立たなかったという。その4カ月後、白熊のテント襲撃に遭いながらもグリーンランド単独縦断にも成功し、冒険家ウエムラの名を世界に轟かせた。極地探検で無線機を持ちサポートを受けたことについて、一部から“冒険と呼べない”と批判する声があった。これに対し植村はこう反論した。(1)無線はオーロラが出ると電波状態が悪化し使用できない(2)無線で救援を求めても飛行機到着まで12時間以上かかるため、緊急事態には間にあわない(3)何より私は通信網に頼りすぎてはならないことを肝に銘じている。

  北極点で日本、カナダ、デンマーク、米国の国旗を掲げる

※植村の犬ぞりは全長約4メートル。荷物の重量は多いときで500kg。これを12頭〜17頭が引く。天候が良好なら時速10km。犬の食料はアザラシの凍肉だが、植村も毎日1キロ食べてエネルギー源とした。肉が不足するとオヒョウ(大型カレイ)を釣った。「(カリブーの)獲りたての生温かい肉はそうおいしくないです。やはり、冷凍した生肉を口の中に入れ、アイスクリームのように溶けだすのがいちばんうまく、量も多く食べられます」。元気を出すために紅茶(大量の砂糖入り)、コーヒー、ビスケットを重宝した。毎日朝夕、荷物・テントの積み降ろしや犬の世話に1時間以上要する。植村の記録「テントに入るとまず石油コンロに火をつけ、履いていた靴、内靴、毛皮の手袋、毛糸の手袋、帽子、マフラー、ヤッケをテント内にわたした紐に吊り下げて乾かす。テントの天井はたちまち一杯になってしまう。石油コンロは身動きしたときひっくり返さないように木箱の中に入れておく。氷を溶かしたお湯で紅茶をのみ、カンテラの明りを頼りに地図を見ながら食事をとる。セイウチの肉には塩をつけるが、肝臓やキビアにはなにもつけない。腹いっぱいに、これ以上は何も入らないというところまでつめ込む…約1キログラムだ。食事がすむと、その日切れたりほころびたりした犬の胴バンド、ムチ、靴の修理をすませ、紅茶をのみながら日記をつける。瞬く間に十二時をすぎ、ときには一時、二時にもなる。日中の疲労で、ほころびをつくろう縫針をもったまま、眠ってしまうこともあった」。

  極地が平地とは限らない!

数々の冒険で名声を得た植村だったが、80年代に入ると試練が続く。1980年(39歳)、自身が隊長となったエベレスト厳冬期登頂で隊員が事故死したうえ、悪天候が続き登頂断念を決断。1982年(41歳)には12年越しの夢だった南極大陸単独横断と、南極最高峰ビンソン山(4897m)登頂を実現するため、南極のアルゼンチン軍基地まで行き、“あとは出発するだけ”という状況で、アルゼンチンVS英国のフォークランド紛争が勃発。10カ月も基地に足止めされた挙げ句、必要とした軍の協力が得られなくなり横断を断念。植村は打ちひしがれる。
だが、簡単に夢を諦める植村ではない。新たに南極のアメリカ基地をスタート地点にする計画を練った。その為にはアメリカに対して冒険家として存在感をアピールする必要があった。そこで、成功すれば世界初となる北米最高峰マッキンリーの冬期単独登頂を敢行した。

この最後の登山では、かつて「探検家になるために必要な資質は臆病者であることです」と持論を語っていた植村が、悪天候のため雪洞で待機中に「何が何でもマッキンレー、登るぞ」(2月6日)と記すほど焦っていた。山頂はマイナス50度。「何が何でも」は本来の植村の哲学=『冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である』とは異なる。
1984年2月12日、43歳の誕生日のこの日、植村は世界で初めてマッキンリー冬期単独登頂を果たし、山頂付近に日の丸を建てた。ところが翌13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、下山途中で消息不明となってしまう(16日に捜索機に手を振ったという証言があったが、後に目撃者が誤認の可能性を認めた)。最後の交信は「私がいるのはサウスピークからずっとトラバースして…標高…えーあとは…20000フィート(約7千メートル)。えー、私もよくわかりませんが約20000…20000、20000フィートです、どうぞ。20000、20000、20000フィート」。

  太陽に染まるマッキンリー

2月20日、救援隊が4200m地点の雪洞で植村の日記を発見、4900m地点の雪洞には食べ残しの食糧や装備の一部があった。さらに5日後、5200m地点の雪洞にて35点もの装備と整理された食糧が見つかった。食糧も雪洞もあるのに、ただ植村の姿だけがなかった。植村の身に何が起きたのか…。
明大山岳部OBによる第二次捜索隊はマッキンリー山頂で日の丸を見つけたが消息の手掛かりはなく、最後の交信があった2月13日が命日とされた。他界の2カ月後、日本政府は国民栄誉賞を贈る。同年、デンマーク政府は植村に敬意を表し、かつて植村がグリーンランド縦断で到達したヌナタック峰を「ヌナタック・ウエムラ峰」と改称した。

  山頂で見つかった植村さんの日の丸

捜索活動が打ち切りになった際、10年の短い夫婦生活(一緒に暮らした期間は実質5、6年)となった公子夫人は悲しみを抑えて記者にこう語った。「(夫は)好きなことを好きなだけやれて最高に幸せだったと思います」「『必ず生きて帰る事が本当の冒険だ』といつも偉そうに言ってたくせに…ちょっとだらしないんじゃないの?と言ってやりたい気持ちです」。
消息を断って2年後に、公子夫人はマッキンリーを訪れ手記を記した。「あの人は、大学を出て、日本を飛び出した頃とちっとも変わっていなかった、いえ、変われなかった。自分の世界の堂々巡りの輪から抜け切れなかった。日記を読んでいるとそれが伝わってきて、せつなくって先に進めない。もう少し、目を他に向けて見ることができたら、違った生き方ができたのにと悔しく思ってみたりもしたが、あの人は過酷な楽しみを選んだ。私はそれをそばで見ているだけだった。ごめんなさい。植村さん、あなたの旅は、楽しいものだったのでしょうね。そう信じさせて下さい。そして、こんどは、できることなら消えてしまったあなたの夢の続きを一緒に旅したいと思っています」。

  公子夫人と直己さん

1985年1月(消息不明の翌年)、北海道の帯広動物園に植村直己記念館“氷雪の家”が建てられた。植村と帯広動物園は、北極圏12000kmの犬ぞり探検後に連れ帰ったエスキモー犬を寄贈したことで縁ができた。“氷雪の家”にはマッキンリー、北極点、グリーンランドで使用された遺品や犬ぞりが展示されている。没後20年にあたる1994年3月に、東京都板橋区に植村冒険館が開館し、翌月に故郷の神鍋高原(豊岡市日高町)に植村直己冒険館が開館した。1996年、日高町は植村直己冒険賞を創設した。植村の著書は『青春を山に賭けて』『極北に駆ける』『エベレストを越えて』など約10冊。

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山を通して人生を語った植村直己さん。植村さんが冬期マッキンリーで消息を絶ったのは、僕が16歳のとき。今でもニュース番組で大きく取り扱われていたのを覚えている。国民栄誉賞が授与され、かけがえのない人物を失ったのだと肌身で感じていた。その後、人物像を知るにつれ、植村さんは決して特別な能力を持つスーパーマンではなく、少年時代から自らの平凡さを自覚し、「これぐらいやらなければ、誰もオレを認めてくれない」と、劣等感をバネに偉業を成し遂げていったことを知り、強く親近感を持つようになった。
「自然は征服するものではなく、学ぶものである」という植村さんの哲学は、エスキモーと共同生活をして極北で生きる術を身につけてから冒険に挑むという姿勢に現れており、大量の物資を投入して力押しで自然をねじ伏せる西洋型の冒険とは異なる点でも感銘を受けた。
後に墓マイラーとなった僕は、各地で偉人の墓を巡礼していく中で、東京・板橋区の乗蓮寺と、故郷の兵庫県豊岡市日高町・頼光寺に植村さんの墓があることを知った。植村さんは20代後半から晩年まで15年ほど板橋に住んでいた。乗蓮寺は東京大仏や将軍家ゆかりの寺として知られてる名刹だ。寺を訪ねて墓前に立つと、墓石には詩人草野心平(1903-1988)の追悼詩『地球には もう彼はいない けれども生きている 修身に化けて 植村直己は 私たち心中に 生きつづける』が刻まれていた。
植村さんの体は没後30年を経た現在も見つかっておらず、ご遺骨はない。でも、魂というものがあるならば、大勢の人が手を合わせに来るこの場所に戻って来ていると、そう感じられる墓所だった。合掌しつつ、植村さんの行動力に勇気をもらった御礼を伝えた。

  生誕70年の2011年、グリーンランドで切手になった

※頼光寺の墓には遺品が納められている。ある意味、巨大なマッキンリーそのものが植村の墓標ともいえる。
※『植村直己 妻への手紙』の公子夫人のあとがき−『厳冬期のエベレスト、南極のビンソンマシフと失敗が二度続いて彼の中に穴があいたように感じました。その穴の大きさや深さを窺い知ることはできませんでしたが、時折その穴に入り込んでいる彼を見るのは辛いものがあり、失敗は自分自身どうしても許せなかったのでしょう。その果てが厳冬のマッキンリーになり自爆してしまったと哀しく思うのです。堂々めぐりのなかから抜けられなかった。ちょっと気持ちをそらせば違う生き方だって出来たのにと切なく思うのですが、それとて長い時間の中からの結果論であって、当時はとにかく夢中で暮らしていて今となってはあの頃の緊張感が懐かしいのです。』
※登山することも大変だけど、現地で登山の許可を得ることも相当困難だった。例えばマッキンリーは「4人以下の登山は禁止」という国立公園法があった。
※先祖の名と干支と合わせて「直巳」と名付けられたが、大学時代から「直己」を名乗る。
※「私には誇らしいより前に、切ない人なんです」(公子夫人)

【参考資料】
エンカルタ総合大百科、ナショナル・ジオグラフィック(貴重な証言)、谷底ライオン(圧巻の読書量!)、ウィキペディアほか。



★間宮 林蔵/Rinzo Mamiya 1780-1845.2.26 (東京都、江東区、間宮林蔵墓所 65歳)2008
※生年は1775年説アリ

  

江戸時代後期の冒険家&幕府隠密。名は倫宗(ともむね)。茨城県の農家に生まれる。10代後半、堤防工事で幕府役人に数学的才能を認められ地理学を学ぶ。20歳頃、蝦夷地で測量中の伊能忠敬に会い測量術を学んだ。1808年(28歳)、サハリン(樺太)を探検してサハリンが離島であることを初確認。翌年にサハリンと大陸間の海峡を探索して離島であることを再確認し、シーボルトがこの海峡を間宮海峡と名づけた。晩年は幕府隠密として活躍した。



★リビングストン/David Livingstone 1813.3.19-1873.5.1 (ロンドン、ウェストミンスター 60歳)2002
Westminster Abbey, London, England

  
イギリスの探検家。アフリカ探検の第一人者であると同時に、奴隷制度廃止を主張した先駆者。宣教師として南部アフリカに派遣され、多数の地理的発見をした。一時行方不明になるも、タンザニアのタンガニーカ湖畔でスタンリーに発見される。心からアフリカを愛していた為、欧米社会からの帰国の勧めを断り、そのままアフリカで生をまっとうした。
死後、亡骸は英国に運ばれたが、本当はアフリカの大地に眠りたかったんじゃないかな…。ウェストミンスター寺院の入って右奥に眠っている。



★コロンブス/Christopher Columbus 1451.9.1-1506.5.20 (スペイン、セビリア 54歳)2005
Sevilla Cathedral, Sevilla, Andalucia, Spain





評価は真っ二つ セビリア大聖堂はスペイン最大の教会建築。写真に全景が入らない!

  
当時スペインを構成したアルゴン王国、カスティーリャ王国、レオン王国、ナバラ王国の4人の王が遺骨の入った棺を支えている

イタリア・ジェノバ出身の航海者。スペイン語名コロン(Colon)。1492年(41歳)、スペイン女王イサベル一世の援助を得て大西洋をアジアに向け出発、西インド諸島のサン・サルバドル島に上陸、キューバ島・ハイチ島を探検した。以後三回の航海でジャマイカ、南アメリカ北部、中央アメリカの海岸に到達。これらは「新大陸の発見」として重視されたが、一方で新大陸に伝染病を持ち込み、住民に深刻な被害を与える負の面も大きかった。コロンブスは最後まで中米をインド(アジア)と信じながら1506年に北部パリャドリッドで病没した。享年54歳。

コロンブスは遺言で自身が発見したカリブ海のドミニカ共和国サント・ドミンゴに埋葬するよう希望していた為、遺骨がセビリアの修道院からサント・ドミンゴ大聖堂に移された。その後、スペインはフランスに敗れてサント・ドミンゴがフランス領になった為、スペイン領(当時)キューバの大聖堂に改葬された。1898年、今度はスペインがアメリカとの戦争に敗れてキューバを失ったことから、遺骨は1902年にセビリア大聖堂に移された。セビリアはコロンブスが新大陸発見の旅の拠点にした場所だ。

コロンブスの棺はかつてスペインを構成したアルゴン王国、カスティーリャ王国、レオン王国、ナバラ王国の4人の王の人形が支えている。
セビリア大聖堂はスペイン最大の聖堂であり、サンピエトロ大聖堂(バチカン)、セントポール大聖堂(ロンドン)に次いでキリスト教建築として世界3番目の大きさ。1401年から約120年をかけて建築された。
※大聖堂の床にはコロンブスの息子が埋葬されている。
※ドミニカ共和国にもコロンブスのものと伝えられる墓がある。ドミニカ共和国はコロンブスの“息子”の遺骨がキューバに渡り、クリストファーの遺骨はサント・ドミンゴにあると主張している。現在、1992年に建設された「コロンブス記念灯台」に遺骨が納められているらしい。



★バスコ・ダ・ガマ/Vasco da Gama 1469‐1524.12.24 (ポルトガル、リスボン 55歳)1994
Monastery of Jeronimos, Lisbon, Lisboa, Portugal

  

ヨーロッパから喜望峰を越えインドに至る新航路を発見した冒険野郎。168名で出航した一行のうち、無事にポルトガルに戻れたのは55名だった。
1524年にインド総督として送られたが病気のため同国コーチンで死亡。体はポルトガルに運ばれ、リスボンの聖ジェロニモス修道院にて永眠。



★大黒屋光太夫/Daikokuya Koudayu 1751-1828.4.15 (三重県、鈴鹿市、南若松墓地 77歳)2008









JR伊勢若松駅前の光太夫像 片足を少し前に出す小粋なポージング 町をあげての大歓迎 大黒屋光太夫記念館の前にも




神昌丸の模型。実物は体育館ほど
もある大きな船!(帆だけで25m)
なんと江戸時代中期に日本からペテルブルグまで行って帰ってきた!
帰国の翌年、光太夫と磯吉は11代将軍家斉の面前でロシア見聞を報告した
映画『おろしや国酔夢譚』使用
のエカテリーナ2世の衣装





光太夫の故郷にある千代崎港 今も漁師たちが次々と沖へ出ていた 光太夫も立ったであろう若松海岸



遭難の2年後、全員が死んだともの
と思われ故郷に建立された供養碑
うっすら“俗名光太夫”と見える
(2008)
若松海岸に立つ光太夫顕彰碑


 
こちらは東京都墨田区の回向院にある大黒屋光太夫供養碑。帆掛け舟の形をした大変珍しいお墓だ。こちらもまだ光太夫が生きていたのに全員遭難死したと早合点され建たったもの。光太夫の死後、江戸本郷の興安寺に墓が建てられたが、その後に無縁仏となり墓石の行方はわからないという。故郷の子孫も近年絶えたとのこと(2004)

三重県鈴鹿市に生まれる。1782年、光太夫(31歳)が船長を勤めた神昌丸(総員17名)は、江戸に向けて鈴鹿から米などの物資を運ぶ途中で暴風雨に合い、帆柱は折れ、櫨も失って操船不可能になり漂流する(ここで1人死亡)。7ヶ月後にアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した彼らは、島民らとラッコ等の海獣を狩猟して生を繋げる(厳しい寒さで7名が死亡)。何とか日本に帰国したい彼らは、ロシアの役人に陳情するため、4年後にカムチャツカに渡る(ここで3名死亡)。しかし、そこでは願いを聞き取られず、生き残りの6名は帰国嘆願書を携え、2年後にシベリア総督のいるイルクーツクに向かった。だがここでも良い返事は返ってこない。イルクーツクで知り合った植物学者キリル・ラクスマンは、彼らに深く同情し、かくなるうえは首都ペテルブルグで皇帝に直訴しようと提案する。1791年(40歳)、光太夫とラクスマンの2人は首都に到着。直訴の前に宮廷マナーやロシア語の読み書きを身につけ、女帝エカチェリナ2世との謁見を果たし、ついに帰国の許可と援助を得た(エカチェリナは鎖国中の日本との貿易を望んでいた)。イルクーツクに戻ると1名が病死しており、5人のうち2人はロシアに永住する道を選び(1人はロシア人と結婚していた)、光太夫を含め3名だけが帰国の途へつく。1792年、漂流から10年後に根室に帰着(根室で1名死亡)。2年後(43歳)、江戸に入った光太夫と磯吉(28歳、最後まで残った船員)は、悲惨なことに鎖国の禁を破った犯罪者として江戸番町の薬園に軟禁されてしまい、後半生を約30年間、軟禁生活のまま終えた(一度だけ鈴鹿に戻ることを許された光太夫だが、故郷では彼を死んだと思った妻が他の男と再婚していた…)。江戸時代に稀有な体験をした男たちだった。
※井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』は彼らを描いたもの。

日本まで戻って来られたのに根室で病死した小市を憐れみ、故郷の人が地元に建てた供養碑



★小野 妹子/Imoko Ono 6世紀末〜7世紀初め (大阪府、南河内郡太子町、小野妹子墓)2005

 
大陸への渡航は難破・漂流が当たり前だった時代に2度も渡航した
勇気ある男。スーパー外交官にして華道池坊の始祖!

   
実物大・遣唐使船が平城遷都1300年祭に登場!妹子の遣隋使船もこんな感じだったのか。当時の渡航成功率は50%以下。まさに命がけ!(2010)





科長(しなが)神社の参道から約120段の石段を登った高台にある
階段脇の石柱
登りきった所にあった妹子の墓。約15mの楕円形の古墳だ






古墳を撮影しているのは一緒に同行したNH○の取材クルー カメラさんと音響さん 一帯は推古天皇らが眠る「王陵の谷」。歴史ロマン爆発

時は589年!『隋』の文帝が後漢の崩壊以来、実に約370年ぶりとなる中国統一を果たした。超巨大帝国の誕生を受け周辺国には緊張が走る。朝鮮半島の三国、百済・新羅・高句麗は、隋の建国後すぐに使者を送って国交を結んだ。一方、日本は100年以上も中国と公式に交流を持っておらず、大陸の情報が極端に不足していた。大和政権の聖徳太子は、渡来した高僧から隋が高度な文明社会を築いていることを聞かされる。隋では政治に儒教を導入して役人に道徳を重んじさせ、法律と官僚制による優れた行政システムを持ち、首都長安では仏教芸術が花開いていることを知った。当時の日本は大豪族が一族の利益を最優先に互いに争い、民衆の暮らしは常に困窮しており、あまりに政治制度が立ち遅れていた。太子は先進国の隋と国交を結ぶことで、最先端の文化・技術を採り入れると共に、交流を通して日本の国際的地位を向上させようと思った。
 
そして600年、ついに太子は120年ぶりに使者を大陸に派遣する。隋の文帝は官僚の登用に際し、貴族が世襲制で就任していた伝統を廃して、真に優秀な人材を確保する為に、全ての人々に登用の機会を与える科挙(国家試験)を導入した人物。日本の政治システムを問われた使者は、大和政権に法令もなく政治的に未成熟だったことから、天皇の権威を全面に出す為に古来の日本神話を引き合いに出してしまう。文帝は呆れて「倭国(日本)の政治は道理にかなっていない。指導して改めさせねば」と語り、使者は外交関係を結んでもらえなかった。
日本にとって屈辱的とも言える、この第1回遣隋使の失態は『日本書紀』には記載されておらず、中国側の歴史書にのみ載っている。発奮した太子は603年に官僚制の基礎となる冠位十二階を、翌604年には十七条憲法を制定し、蘇我馬子と協力して606年には金色に輝く飛鳥大仏を造らせた。
もう以前の大和政権ではない。リベンジの体勢は整った。翌607年、太子は『日本書紀』に記されている“第1回”の遣隋使を派遣した。

小野妹子は近江国滋賀郡小野村出身。600年頃に聖徳太子に見出され、冠位十二階の中位・大礼(だいらい)という位に就く。小野氏が代々学問に優秀な一族であったことから、妹子は遣隋使の代表として選抜された。通訳は鞍作福利(くらつくりのふくり)。607年の遣隋使は、大阪の住吉津(住吉大社近辺)から出航し、瀬戸内海、玄界灘を経て黄海を北上し、大陸を西に進んで長安に至った。
妹子が謁見したのは、3年前に父(文帝)と兄を暗殺して2代皇帝に即位した暴君・煬帝(ようだい)。聖徳太子が記した国書の文面はこうだった。

「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」
“日が昇る東の国の天子(天皇)が、日が沈む西の国の天子(皇帝)に手紙を送ります。お元気ですか?”

これを読んだ煬帝は激怒。隋は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅を属国扱いしていたが、島国日本はさらにその下の後進国と見なしていた。そんな国が対等に振舞うばかりか、隋を没落国家のように「日没する国」とは無礼千万。しかも「天子」という中国の皇帝にしか使われぬ尊い言葉を日本の王に使うとは何事か。煬帝は隋の外交官に「今後、無礼な蛮族の書はワシに見せるな」と命じるほど憤慨する。
妹子は処罰されそうになったが、このころ隋は高句麗への遠征で苦戦しており、「ここは高句麗の背後に位置する日本と手を結んだ方が得策」と、煬帝は友好姿勢をとることにした。太子の「これからは対等な関係で行くのでヨロシク」という目論見は見事成功した。

翌608年4月、煬帝は外交官・裴世清(はいせいせい)に妹子を日本まで送らせた。この時の隋の使節団は12人。難波津(大阪湾)から大和川を上り奈良桜井に上陸し、歓迎の飾り馬75頭に率いられて飛鳥に入り、8月に推古天皇に謁見して煬帝の国書を読み上げた--「倭王は海の彼方にいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗は穏やかだと知った。遠く朝献して来た心を、朕は嬉しく思う」。天子ではなくあえて倭王と言うところに煬帝のプライドが垣間見える。
煬帝は妹子にも返書を持たせていたが、妹子は帰国途中で百済人の盗賊に奪われたと言って、これを朝廷に提出しなかった。隋の使節団や警護兵らと多数で行動していたはずなのに、彼1人が「奪われた」というのはあまりに不自然。これは返書の内容が日本をひどく属国扱いした内容だったり、大和政権に朝鮮系の渡来人が多くいたので彼らの隋への反感を考えて、嘘をついて破棄したと見るのが定説。推古天皇もこれを内心で察していたらしく、臣下たちが“返書紛失の大失態により妹子を流刑せよ”と騒ぐのを、勅命で「一切罪に問わない」と救った。

翌月、妹子を見送った裴世清が帰国する際に、見送り役として妹子が選ばれた(裴世清は“貴殿を送ってきたのに”と笑っただろう)。これが公的な第2次遣隋使となり、18名の留学生・学僧が「世界をこの目で見たい」と乗船している。その中には30年後に帰国して私塾を開き、藤原鎌足と中大兄皇子の師となる南淵請安(みなみぶちしょうあん)の顔もあった。
煬帝に宛てた2通目の国書は、煬帝が「天子」→「倭王」とした部分を「倭王」→「天皇」に変え、『東天皇敬白西皇帝』(東の天皇、西の皇帝に啓白す)とした。※古代日本では天皇を大王(おおきみ)と呼んでいたので、推古天皇が文字として「天皇」を使ったことから初代天皇とする説もある。

一年後、609年に妹子が帰国。遣隋使はその後も数回派遣されたが、隋の国内で煬帝の圧政に対する反乱が相次ぎ、9年後(618年)に煬帝は側近(近衛兵)に暗殺され隋は滅ぶ。遣隋使も614年が最終便となり、16年後(630年)の第1回遣唐使派遣まで大陸との交流が途絶えた。

帰国後の妹子は、冠位十二階の第5階大礼から第1階大徳まで華々しく昇進し、小豪族としては異例の大出世をした。後半生は聖徳太子が創建した京都・六角堂の守護を太子に命じられ、出家して名を「専務(せんむ)」と改める。
彼は太子が沐浴した池のほとりに暮らし、六角堂の仏前に、朝夕に花を供えた。これが華道の始まりとなり、坊舎が池の側にあったことから「池坊(いけのぼう)」と呼ばれるようになる。以後1400年間、池坊代々の家元が六角堂の住職を務めると共に「供花(くげ)」の習慣が受け継がれてゆく。室町期に12世専慶が立花の名手と称えられ、13世専応が『池坊専応口伝』を表し、一瓶の花を独立して観賞するという、生け花の理念を体系化した。
妹子によって六角堂は生け花の発祥地となり、『池坊華道』は華道界の一大流派に発展する。※境内の井戸が太子沐浴の池の名残。

季節風や海流の深い知識もなく、船体強度も弱かった飛鳥時代。遣唐使が12回のうち7回も難破漂流しているように、この時代に外洋へ出ることは死の覚悟をすることだった。死者・行方不明者が続出する大陸への渡航を2度も行なった妹子は、非常に勇気のある男だ。妹子のおかげで、大陸の進んだ文化を多く学ぶことが出来たし、未開の島国と思われていた日本の国際的地位は大きく向上した。

※小野一族は、平安期に歌人・小野小町や書家・小野道風を輩出している。

京都市中京区に残る六角堂(頂法寺)

太子が沐浴されたと伝えられる池跡。妹子の坊舎は
現在「池坊会館」(池坊総務所)になっている
華道発祥之地















華道家元 六角堂に向けて今も供花 池坊会館の3Fは華道の資料館だ かなり凶暴な白鳥らしい!(笑)



★ジョン万次郎/Jhon-Manjiro 1827.1.27-1898.11.12 (東京都、豊島区、雑司ヶ谷霊園 71歳)2007&08&10




江戸時代に“世界”を見た男 傍らには「贈正五位」と刻まれた巨大石碑が建つ

2007 冬だったので17時もう真っ暗 2008 この時は花があってホッコリ 2010 墓域はけっこう広い

本名、中浜万次郎。高知(土佐)出身。1841年、14歳の時にカツオ漁に出て漂流し、米国の捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助される。そのまま捕鯨船で働き、太平洋、大西洋、インド洋などを巡り、江戸時代の日本人でありながら世界を見た。1851年(24歳)、貯金で自ら捕鯨船を購入し帰国。土佐藩での取り調べは坂本龍馬の視野を広げ影響を与えた。その後、幕府や明治政府で英語を教えるなど要職を得、波乱の人生を閉じた。
※鎖国中に渡米したことから、彼は日本人で初めて鉄道や蒸気船に乗った人間となった。



★支倉 常長/Tunenaga Hasekura 元亀2年(1571年)−元和7年7月1日(1621年8月7日) (宮城県、仙台市、光明寺 51歳)2007
※没年はこれまで1622年が通説だったが、資料の発掘で今は1621年に

  
仙台城(青葉城)の本丸跡に向かう途中で、たまたま見つけた支倉常長像。“誰だろう?”と近づくと常長だったので「うおッ!」と興奮した








光明寺にて。常長の墓は数カ所に伝えられている 常長に同行した宣教師の石碑が側に 墓前には常長を讃えるとてつもなく巨大な碑文があった

太平洋と大西洋を最初に横断し、日本初の対ヨーロッパ外交交渉を行った日本人、支倉常長。伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節の正使(交渉相手によって副使になる)。ちなみに初めて欧州の地を踏んだ日本人は、常長の渡欧の約30年前、1582年にインド洋、アフリカ沿岸を進む西回り航路を使った伊東マンショら4人の少年使節。
支倉常長は1571年に陸奥国に生まれた。幼名与市、通称は六右衛門、自筆の文書では諱を常長ではなく「長経」と記す。伊達氏の家臣・山口常成の子として生まれ、6歳で父方の伯父・支倉時正の養子となり、後に600石の分家となった。7歳から陸奥国の支倉村(現・宮城県川崎町支倉地区)の支倉氏の居城・上楯(かみだて)城で青年期を過ごす。伊達政宗に仕え、1591年(20歳)、一揆鎮圧の城攻めに際し政宗の伝令役を務め功を立てる。1592年(21歳)、文禄の役に従軍し釜山に渡り、鉄砲隊の指揮で戦功をあげ政宗の信頼を得た。
1596年(24歳)、土佐にスペイン船「サン=フェリペ号」が漂着し、秀吉はスペインが侵略戦争の前に宣教師を派遣することを乗組員から聞き、禁教に踏み切った。
1597年(25歳)、長崎にて秀吉の命令により26人のカトリック信者が磔の刑に処される(二十六聖人の殉教)。翌年、秀吉が他界すると、家康は貿易を重視しキリシタンの存在を黙認した。1599年嫡男常頼が誕生。1600年、実父が身内の領地争いに巻き込まれて死罪を命ぜられ自刃する。

1603年、家康が江戸に幕府を開いたこの年、スペイン・セビリアから名門貴族出身で29歳の若い宣教師ルイス=ソテロ(1574-1624)が来日する。当時の日本はローマ教皇から日本布教の独占権を得ていたイエズス会が信者を増やしていたが、ソテロは対立するフランシスコ会の宣教師。日本に同派の信者を増やそうとしていた。ソテロは頭が良くすぐに日本語を習得する。その後、将軍家の許可を得て、江戸、府内(大分)、大坂などで布教し、聖堂を建設、浅草にハンセン病の病院を設立した。
1609年(38歳)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの「サン・フランシスコ号」が台風に遭い千葉の海岸で座礁難破する。乗組員317人が地元民に救助され、ソテロは通訳として立ち会った。ドン・ロドリゴらに家康は三浦按針(本名ウィリアム・アダムス、1600年に日本に漂着した英国人)の建造したガレオン船「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」(120トン)を贈った。
1610年(39歳)、ドン・ロドリゴの一行がスペイン領ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ/ノビスパン)に「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」で帰郷することになったので、家康は京都の貿易商人・田中勝介(生没年不詳)をメキシコに派遣、田中は史上初めて太平洋を横断かつ往復し、アメリカ大陸に初上陸した日本人となった。
1611年(40歳)、「サン・フランシスコ号」救助の答礼使として、ヌエバ・エスパーニャ副王からスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノ(1548-1624)が浦賀に来日し、同船で田中勝介も帰国した。ビスカイノはスペイン艦隊司令官の経歴を持ち、鉱物資源探索の密命を帯びていた。家康は事実上の全権大使であるビスカイノと通商交渉を試みたが、家康がキリスト教の布教に後ろ向きであったため不調に終わった。家康から日本沿岸の測量の許可を得たビスカイノは仙台で政宗に謁見、奥州沿岸を測量する。その後、ヌエバ・エスパーニャへの帰途で暴風雨に遭い船が大破、ビスカイノは日本に戻るも帰国船を失い途方に暮れる。幕府に支援を求めたが、ライバルのオランダが「スペイン(当時世界最大の植民地帝国)は日本侵略を計画してている」と吹き込んだため協力を得られなかった。実際は1588年にスペイン無敵艦隊が英蘭に大敗し海軍は弱体化していた。
この年、仙台藩ではソテロが政宗から許可をもらってキリスト教の布教を開始している。

1612年(41歳)、家康はスペインの植民地主義を警戒しながらもメキシコの鉱物採掘・製錬技術を強く求め、メキシコとの交易を目的に幕府の「サン・セバスチャン号」を浦賀から出航させた。この船にはソテロと2人の仙台藩士も乗船したが、すぐに暴風のため座礁し計画は宙に消えた。家康の関心は、キリスト教の布教とセットになったカトリック国スペインとの交易より、無条件で交易だけを行うプロテスタント国のイギリス・オランダに関心が移っていく。
一方、ソテロは政宗に接近し、メキシコとの貿易を強く勧めた。ソテロには新たな布教区(日本)の司教の座を望む野心もあった。政宗はメキシコとの通商を自身が実現すると決意、家康から“外交権”を獲得する。そして慶長遣欧使節の正使にソテロと常長の2人を選んだ。ソテロは常長の3歳年下。両者は交渉相手によって、ときに正使、ときに副使となった。

新たな船が必要となり、政宗は短期間で大型船を建造するべく、仙台藩に滞在中だったセバスティアン・ビスカイノ、そして幕府・向井忠勝から派遣された船大工の協力を得て、最初の日本製西洋型軍船、木造ガレオン(南蛮)船「サン・ファン・バウティスタ(=洗礼者・聖ヨハネ)号」(全長55m、幅11m、高さ40m、約500トン)を現・石巻市で建造した。船名は政宗とビスカイノが初めて会った日が聖ヨハネの祭日であったことに由来。
巨大帆船ガレオン船の造船技術はスペインの国家機密であったが、ビスカイノは母国に帰国するため、不本意ながら造船を指導、大工800人、鍛冶600人、雑役3000人の人手を使い、約45日で完成させた。外板や甲板など造船に使う材木はすべて仙台藩領から切り出した。

1613年(42歳)、7月に徳川秀忠が行った江戸のキリシタン迫害で22名が処刑され、ソテロも囚われ死刑を宣告される。遣欧使節派遣を目前にしたソテロの危機に、政宗はすぐさま幕府に助命嘆願を行い、その命を救った。ただし、ソテロが身を寄せていた宿の主が、ソテロの代わりに処刑されている。救出されたソテロは仙台へ向かった。
同1613年10月28日(慶長18年9月15日)、常長、ソテロ、ビスカイノらは「サン・ファン・バウティスタ号」に乗船し、睦奥国・月ノ浦(宮城県石巻市)から欧州へ出港した。乗船者は使節68名、スペイン人40名、複数の日本人商人や水夫らを含め計180名。商人達が持ち込んだ積み荷だけで行李は数百個に及んだ。常長が政宗から託された通商交渉の書状には、仙台藩でキリスト教布教を認可するかわりに、イスパニア(スペイン)との交易を求める旨が書かれていた。同年、徳川秀忠の命令でキリシタン禁教令が全国に発布されたが(幕府直轄地には前年発布)、この時点ではまだ死罪といった激しい弾圧はなかった。幕府はオランダと国交を結び東インド会社と交易をスタート、長崎・平戸には「オランダ商館」が建った。

1614年(43歳)、使節団は3カ月をかけて太平洋を横断し、1月25日にスペイン領メキシコ・アカプルコへたどり着く。本来、旅程はメキシコで終わるはずだった。だが、通商交渉はスペイン本国で行う必要があると分かり、陸路でメキシコを横断、同年6月10日にスペインの軍艦でメキシコの東海岸から出港、キューバ経由(半月滞在)で大西洋を渡り、4カ月後の1614年10月5日にスペイン南部サンルーカル・デ・バラメーダに到着した。両大洋を横断した一行は、さらに小型帆船を使ってグアダルキビール川を約100km北上し、コリア・デル・リオに上陸。続いてセビリアから陸路で北上し、12月5日にスペインの首都マドリードに到着した。日本出発から約1年2カ月が経っていた。同年、日本では禁教令が強化され、宣教師や高山右近らキリシタン武将がマカオやマニラに国外追放されている。

1615年(44歳)1月30日、マドリードに入って40日、常長はついにエスパーニャ国王フェリペ3世と謁見、通商を希望する『奥州国王・伊達政宗』の書状を届けた。この書状は幕府に無許可で書かれたものだ。2月17日、マドリードにて国王列席のもと、壮大な儀式の中で洗礼を受け、ドン・フェリペ・フランシスコの洗礼名を与えられる。
いざ通商交渉が始まると、既にイエズス会によって幕府によるキリシタン弾圧の強化が先方に伝わっており、交渉は難航。常長は劣勢を挽回するため、ローマ教皇との謁見を計画する。8月22日にマドリードを発ち、バルセロナ港から海路でイタリアに進み、10月29日にローマ入市式を行う。その5日後、1615年11月3日にヴァチカンにてローマ法王パウロ5世に謁見を果たした。使節団はジパングからの使者として市民から熱狂的に歓迎され、全員に公民権がおくられた。常長に至ってはアジア人としてただひとりローマ貴族に列せられている。また、常長は自身の肖像画(日本人を描いた油絵としては最古)など様々な記念品を受け取った。

常長はローマ教皇にスペインとの通商の斡旋と奥州司教区の創設を求める政宗の書状を渡し、「奥州王が日本での布教を希望している」と伝えたが、ローマ教皇の耳にも過酷な禁教令の実態が届いており、政宗が主張するキリスト教布教への熱意や肩書き“奥州王”に疑惑を持ち、使節に疑いの目を向けるようになる。結果、教皇からの回答は、宣教師派遣には同意するものの、交易はイスパニア王に一任するというものだった。同年、日本では「大坂夏の陣」で豊臣家が滅亡。
1616年(45歳)1月7日、約2カ月のローマ滞在で教皇の助力を得られないと悟った使節団は、肩を落としてローマを出発。マドリードに戻ると既に使節への歓迎ムードは消えていた。予定以上の長旅で旅費は欠乏し、常長は心労で健康を害するが、それでもフェリペ3世とローマ教皇に通商許可の請願を繰り返した。6月13日、常長らはスペイン政府から国外退去を命じられてしまう。常長は病気(時に仮病)を口実に出発を延ばし、なおも食い下がった。同年、家康が他界。

1617年(46歳)7月4日、3年間のヨーロッパ滞在を切り上げ、使節団は失意の中でスペインを出発し、10月20日にメキシコ市まで戻る。
1618年(47歳)4月2日、迎えのサン・ファン・バウティスタ号でメキシコ・アカプルコを出港。8月10日にフィリピンのマニラに到着。ここで日本国内のキリシタンの厳しい実状を知る。マニラ滞在は約2年に及んだ。
1619年(48歳)、徳川秀忠は禁教令のさらなる徹底を通達、10月に京都でキリシタン52名(うち子ども4名、妊婦1人)が市中引き回しのうえ六条河原で火刑となった(京都の大殉教)。
1620年(49歳)、マニラのスペイン艦隊がオランダとの軍事衝突に備えてサン・ファン・バウチィスタ号の売却を要求、常長はこれに従うしかなかった。ソテロは日本への再入国を断念、使節団は8月に別の船で長崎に帰国し、9月20日、7年ぶりに仙台に帰着した。
それから1年後、1621年8月7日に、常長は失意のなか仙台で病死した。享年51歳。
翌1622年9月、長崎ではキリスト教徒55名が火刑・斬首で処刑されるという、日本キリシタン迫害史で最も多くの信徒が同時に処刑される「元和(げんな)の大殉教」が起きる。マニラにいたソテロは周囲の忠告を受けて日本再上陸を思いとどまっていたが、布教への熱情を抑えがたく、同年10月末に中国船で日本に潜入。長崎で役人に捕縛され大村藩の牢に繋がれ、2年後の1624年に大村郊外にて火刑となり殉教した。享年49歳。政宗は以前のようにソテロの助命嘆願を行ったが今回は聞き届けられなかった。ソテロは243年後の1867年に殉教福者としてヴァチカンに列福(聖人に次ぐ福者に認定)された。
1636年、伊達政宗他界。
支倉家を継いだ嫡男・常頼は、常長他界から18年後の1840年に、家臣がキリシタンであった責任を問われて処刑され、支倉家はお家断絶となった。その翌年、出島にオランダ人が移住させられ鎖国完成。1868年(明治元年)、孫・常信の代で赦され家名を再興し、禄50石を与えられる。第10代当主までが宮城県大郷町に住み、現在の第13代支倉常隆までが仙台市に住んでいる。2013年、遣欧使節団400年記念行事で現当主の支倉常隆がスペインに招かれた。

〔墓所〕
太平洋を越えメキシコで終わるはずの旅が、大西洋の向こうのスペイン、さらにはイタリアまで行かねばならなくなった常長。主君政宗が抱いた欧州との交易の夢を果たすため、極限まで努力を続けた。記録では帰国の翌年に病死。晩年は不遇だったが、当時の日本人は誰1人見ることが出来なかった“世界”を目撃し、また体験した。江戸初期の人間であるにもかかわらず、その銅像がメキシコ、キューバ、スペイン、イタリア、フィリピンの5カ国に設置されていることに驚く。そんな日本人を他に知らない。人生の幸福が単なる長寿ではなく、いかに多くの経験をしたであるならば、常長は日本史上最も幸福な男に思える。
現在、常長の墓と伝わるものが宮城県に3箇所存在している。仙台市青葉区北山の臨済宗の名刹・光明寺の墓(1893年発見)が最も有名で、側には仙台医師会が寄贈した「IN MEMORIAM L.SOTELO」と刻まれたソテロの追悼碑もある。常長の故郷、川崎町支倉地区には支倉氏の居城・上楯(かみだて)城跡があり、城下の円福寺に墓がある。円福寺はマリア観音がある隠れキリシタンの寺。墓地内の宝篋印塔が常長の墓と伝えられており、1991年に同墓地からイカリ印の墓石が見つかり常長の同行者と推測されている。
大郷町東成田西光寺(寺院ではなく地名)の「支倉常長メモリアルパーク」の墓には興味深い伝承がある。仙台藩は政宗の命令で渡欧し苦労して帰国した支倉常長に同情し、このままではキリシタンとして処刑されるため1622年に偽物の死亡届を幕府に提出、常長の義理の弟・支倉常次の領地である大谷成田村(現・大郷町)に隠棲させ、“梅安 清”の名で人目に触れない山林の中で静かな余生を送らせたという。常長は他者との接触を避けるように暮らし、33年後の1654年に84歳で往生し、鍛冶屋沢御林中に埋葬され、常次の子孫が代々密かに墓を守ってきたとのこと。墓石には「承応三年 梅安清公禅定門 二月十七日 支倉氏」と彫られている。この墓石がいつ建立されたか不明だが、風化が進んでおり長い年月が経っていることが分かる。
墓に刻まれた命日は3箇所とも異なり、光明寺は元和七年(1621年)、円福寺は元和八年(1622年)7月1日、大郷町メモリアルパークは承応三年(1654年)2月17日。通説の没年と一致しているのは仙台市内の光明寺の墓、故郷に眠っていれば円福寺、伝承の詳細さでは大郷町の墓ということになる。常長が他界した当時は、藩主や重臣を除き、武士階級が寺院に墓を造る風習はなかったという。
※正確には宮城県に4箇所目の墓(五輪塔)が常長の知行地である大和町の共同墓地にある。ただし、根拠は1970年頃の祈祷師のお告げ「支倉常長が供養してほしいと言っている」のみであり、説得力が弱いため、常長の墓として同列で語るのはちょっと厳しい。その五輪塔は祖先が隠れキリシタンの農家に供養されている。

〔銅像がいっぱい〕
支倉常長の銅像は仙台城の銅像をオリジナルとした常長像が、国内に3体、海外に5体、計8体ある。
1972年、支倉常長生誕400年記念事業で仙台城二の丸に常長の銅像が建立された。
1973年、仙台市と姉妹都市になったメキシコ・アカプルコ市の日本広場に常長像を太平洋の先にある仙台の方向に向けて設置。
1987年に宮城県石巻市・月の浦公園にも設置された。
1991年、イタリア・チヴィタヴェッキアの港に面したカラマッタ広場に、石巻市との姉妹都市締結20周年を記念して常長像が建ち、同地の日本聖殉教者教会のドーム壁画に支倉常長の肖像が掲げられる。
1992年、スペイン・セビリアのコリア・デル・リオにて、グアダルキビール川に面したカルロス・デ・メサ公園に慶長遣欧使節団渡航380年記念事業として常長像建立。残念ながら悪戯で太刀が壊され航海図のプレートが持ち去られてしまう。
1996年、宮城県黒川郡大郷町の「支倉常長メモリアルパーク」に常長像が建つ。
2001年には仙台開府400年を記念してキューバ・ハバナに、ローマの方向を指している常長像が建った。
他にもフィリピン・マニラに常長像があるという。

※かつてヴァチカンの人類博物館には、ローマ教皇パウロ5世に拝謁した際に常長が鼻をかんだ懐紙が展示されていた。当時の西洋人はハンカチで鼻をかんでおり、懐紙で鼻をかむことが非常に珍しかったため。
※バチカンの教皇庁宝物館に政宗が「奥州王」の名で送った親書が保管されている。
※ちなみに、「南蛮人」はカトリックのスペイン人やポルトガル人を指し、プロテスタントのイギリス人やオランダ人を日本人は「紅毛人」と呼んで両者を区別していた。
※1873年、岩倉使節団がイタリアのヴェニスで常長の書状を発見。
※1993年、出帆380周年を記念して寸法図を元にサン・ファン・バウティスタ号が復元され進水式が行われた。同船は1996年から石巻市の渡波漁港に係留・展示されていた(宮城県慶長使節船ミュージアム)。2011年の東日本大震災に伴う津波は軽微な損傷で乗り換えたが、直後の暴風でマスト2本が大きなダメージを受けた。修復は2013年に完了したが、船体の腐食が進んでおり2017年から乗船が禁じられた。
※常長自身は生前に「常長」という諱を使っておらず、支倉家の一時断絶後に子孫が家系図の中で「常長」を使用した。家紋は「右卍」。
※家康は当時世界最大の植民地帝国だったスペインにカトリックの布教を許せば植民地にされかねないと全面開放には慎重だった。
※常長らが持ち帰った肖像画など「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵、2001年に国宝に指定された。常長が記録した訪欧中の日記が1812年以降行方不明であり、発見されれば即国宝となるだろう。大正時代まであったという説もあり、写本を作成しなかったことが悔やまれる。2013年、「支倉常長像」「ローマ教皇パウロ5世像」「ローマ市民権証書」の3点がユネスコの世界記憶遺産に指定。
※慶長遣欧使節団はスペインの小さな港町コリア・デル・リオに帰路で9カ月も長期滞在しており、禁教下の日本に帰国せず、現地で生きることを選んだ使節団メンバーもいた。現在、町にはハポン(Japon/Xapon=日本)姓が830人も住んでおり、使節団員の子孫と言われている。



★力石 徹/Tooru Rikiishi (東京都、文京区、護国寺) プロボクサー




 





在りし日の力石選手。デビュー以来13連続KOの快進撃!

僕が墓参した時、先に来てる青年がいた。彼はこう話しかけていた。
「たっぷり飲め力石。減量の心配は、もうねぇんだからよ」

1970年3月24日、力石徹選手(バンダム級)の告別式が特設リングの設けられた講談社講堂で執り行われた(喪主は寺山修司)。
追悼のテンカウントと読経の後は、追善試合やミュージカルまで上演された。全国から集まった弔問客は800人を超えたという。合掌。

※力石選手のファンの方で、彼の年齢(享年)をご存知の方がおられましたら、ぜひ当方までご連絡下さい。m(_ _)m




僕が墓地で見かけたのはこの選手かもしれない。髪型が特徴あるし…。考えすぎだろうか?



★ンドゥール/Ndour 生年不明-1989?(エジプト、アスワン近郊、砂漠)スタンド使い



視力にハンディがあったがたくましく生きた 没後、自身への敬意から敵が墓を造ってくれた

水を自由自在に操る暗殺者。「悪には悪の救世主が必要」という切実な言葉を残して自害。



★ジョセフ・ジョースター/Joseph Joestar 1920-1939※生存(アメリカ、ニューヨーク)波紋使い

生きてるのに早とちりで葬儀が営まれた 自分の墓を見てビックリ仰天

古代からの恐るべき究極生物を宇宙へ放逐し、人類を救った青年ジョセフ・ジョースター。この墓は、いわゆる生前墓である。
イタリアで遭難したジョセフを周囲が死亡と判断。救出後、夫人の連絡ミスも重なって葬儀とあいなった。
その後、1999年に日本の東北地方で生存(当時78歳)が確認されている。




★力道山/Rikidouzan 1924.11.14-1963.12.15 (東京都、大田区、池上本門寺 39歳)1994

   

ここはプロレスファンの聖地エルサレム!猪木と馬場を育て上げた力道山の墓は、新日&ノア&全日ファン共通の御神所なのだ。

本名金信洛(キムシンラク)、北朝鮮・咸鏡南道生まれ。日本名は百田光浩。175cm116kg。3歳で父を亡くし、母の手で育てられる。体格の良さから大相撲の二所ノ関部屋にスカウトされて来日し、1940年に16歳で初土俵をふむ。力道山の名は同部屋に飾られた近衛文麿の揮毫「力心一道」に因むとも、朝鮮半島にある同名の山に因むともいわれている。
22歳で入幕をはたし、25歳の時に関脇に昇進するが、肺を病んで翌年自ら髷(まげ)を切り廃業。その後、進駐軍の慰問興行でプロレスを見てレスラーに転向する(彼をレスラーに誘ったのは“007ゴールドフィンガー”で帽子を使う殺し屋を演じたハロルド坂田。坂田が米国からレスラーを連れてきていた)。1951年(27歳)、元世界チャンピオン、ボビー・ブランズとのエキシビション・マッチでデビュー。翌年、武者修業のために渡米し約1年間に260戦以上をこなす。29歳、帰国後に日本プロレス協会を発足させる。30歳、柔道出身の木村政彦を破って初代日本ヘビー級王者となった後、31歳の時に元横綱東富士と組んでハワイ・タッグマッチ選手権を制覇。1956年(32歳)、遠藤幸吉と組んで有名なシャープ兄弟を破り、世界タッグマッチ王座を奪取!敗戦の影響で外国にコンプレックスを抱いていた日本人は、力道山が必殺技・空手チョップで戦勝国アメリカ人レスラーをなぎ倒すのを街頭テレビで見て拍手喝采した。
※36歳、ブラジル遠征中に移住日本人の中にいた17歳の猪木寛至をスカウト、少年はアントニオ猪木となった。彼は同じ日にデビューした5歳年上のジャイアント馬場とライバルになっていく。
1963年12月、赤坂キャバレー「ラテンクォーター」で口論となった暴力団員に登山ナイフで腹部を刺され入院、医療ミスや手術後の不養生が重なって腸閉塞を併発、7日後に39歳の若さで死去した。

「力道三は泣きません。涙が流れているだけです!」



★船越 義珍/Gichin Funakoshi 1868.12.23-1957.4.26 (神奈川県、川崎市、善正寺 88歳)2016





空手道の始祖 沖縄の唐手を空手として普及 松濤館流


川崎市の善正寺 本堂左手の水道の前に墓 桶置き場のお陰ですぐに場所が分かった



綺麗に整備された墓域 ついにお会いできました! 「船越家之墓」 空手の稽古、頑張ります!


先生に感謝し、平安四段の型を奉納 鎌倉・円覚寺の境内に建つ船越先生の顕彰碑 「昭和四十三年十二月 松濤同門会建立」

世界で最も門下生の多い空手の最大流派“松濤館流”の創始者。明治元年生まれ。沖縄出身で、唐手を空手道と改称して世の中へ広めた。
童名は思亀(ウミカミ)、唐名は容宜仁。一族は首里王府に仕えた下級士族だが、父が大酒飲みで没落し、貧困の中で生まれた。16歳の時に中国武術を那覇の人々が独自に発展させた「那覇手(なはて)」を短期間習い、次に「首里手(しゅりて)」を本格的に学び、得意型となる公相君(観空)の型を身に付けた。※唐手の三大系統は、那覇手、首里手、泊手(とまりて)。泊村は琉球第二の貿易港。
琉球士族の秘術であった“唐手”の近代化に最初に着手したのは、船越より37歳年上の糸洲 安恒(いとす あんこう 1831-1915)。糸洲は琉球王国時代から明治にかけて活
躍し、ピンアン(平安)初〜五段の型を作ったと言われている。船越はピンアンを糸洲の弟子で糸東流の開祖・摩文仁賢和から学んだ。
船越は小学校の教師となり、生徒にピンアン(平安)やナイファンチ(鉄騎)の型を伝授。教員生活を終えると、本腰を入れて唐手の普及に尽力した。
1921年(53歳)、首里城で子どもたちが昭和天皇(当時・皇太子)の前で行った唐手御前演武を指揮。翌年、上京して文部省主催の第一回体育展覧会で唐手の写真をパネル展示、講道館に招かれ嘉納治五郎ら柔道の名手に唐手を解説&公相君を演武で披露した。これを機に東京で唐手の指導にあたり、同年初の空手本となる『琉球拳法 唐手』(型の挙動解説)を刊行した。
当初、唐手には型しかなく、組手(対戦)はなかった。柔道界からは“これでは実力が分からない”と声があがり、1924年(56歳)、「唐手研究会長」として空手史上、初めての段位を発行。大塚博紀、小西康裕、粕谷真洋、儀間真謹らが段位を授与された。弟子の大塚博紀や小西康裕らは対戦用の“約束組手”を作り上げたが、船越はあくまでも型を重視しており、実戦となる“自由組手”の導入に反対。後年、師と意見が対立した大塚は和道流の開祖に、小西は合気道などを融合させた神道自然流の開祖となっていく。
1925年(57歳)、解説に写真を取り入れた『錬胆護身 唐手術』を出版。船越は東大や慶応大の唐手研究会の初代師範を務めていたが、1929年(61歳)、唐手試合化に肯定的な東大唐手研究会に抗議して、東大師範を辞任する。
1935年(67歳)、船越は慶大唐手研究会の機関誌で『唐手』を般若心経の「空」の概念から、『空手』に改めると発表。“空手”という呼称は、沖縄では30年前(1905年)から花城長茂が使用していたが、船越が東京で使用するようになって急速に認知された。
1936年(68歳)、三冊目の著書『空手道教範』を出版し、同書にて空手に「道」の字を付けて空手道に改める。
1940年(72歳)、待望の「松濤館」道場を建設したが5年後、1945年に戦災で焼失。1948年、船越の門弟達が日本空手協会を結成、初代最高師範に就任する。1957年4月26日、90歳で永眠。墓所は神奈川県川崎市の善正寺。船越本人は自らの流派を名乗らなかったが、系統は雅号・松濤にちなんで松濤館流と呼ばれている。
「空手は湯の如し絶えず熱度を与えざれば元の水に還(かえ)る」
「男子門を出づれば百万の敵あり」

〔空手の四大流派〕
・松涛館…首里手を継承
・和道流…首里手をベースに本土の神道揚心流柔術を発展。大塚博紀が開祖。
・剛柔流…那覇手を継承
・糸東流…首里手と那覇手を継承

鎌倉・円覚寺の顕彰碑に刻まれた言葉は「空手道始祖 松濤船越 義珍先生之諭“空手に先手なし”」。先制攻撃でねじ伏せるのではなく、相手が腕力に訴えたときに、初めてこちらが対応(反撃)するというもの。超カッコイイ言葉!
現在僕は松濤館流の茶帯。2006年に入門してからずっと船越先生の墓所を探してきた。ウィキには川崎市に墓があると書いてあったけど、東京の日本空手協会本部も、川崎支部も、電話で問い合わせると「川崎に墓があるなんて聞いたことがない」との返事(2012年頃)。円覚寺の顕彰碑前では、1968年から半世紀近くも毎年4月29日(命日は26日)に日本空手協会・門下生が集まり手を合わせている。“もしや分骨墓では”と訪れたんだけど、お寺の方いわく「ここに骨はありません」。やはり故郷の沖縄に墓があるのだろうか…。
そんなふうに考えて、当サイトに「沖縄在住の読者の方、船越義珍先生の墓に関するどんな小さな情報でも結構ですので、教えて頂けると助かります!」と掲載したところ、2015年に「沖縄の新聞に船越義珍の詳細な墓情報を載っていました」と連絡が!感動!翌年、川崎市に行き善正寺で念願の墓参ができた。嬉しかった!



★大山 倍達/Masutastu Oyama 1923.7.27(旧暦6月4日)-1994.4.26 (東京都、文京区、護国寺 70歳)2009&10

  

極真空手の創始者!ビール瓶の手刀斬りは海外の人々を驚嘆させた
「雲を得て龍となりカラテの父となる」とあった

大山家の墓所は護国寺本堂の右手にある(2009) 墓前には7重塔を模した小塔が建っている(2010)

極真空手十段。国際空手道連盟総裁・極真会館館長。ソウル出身。本名、崔永宜(チェ・ヨンイ)。帰化後、大山倍達を名乗る。この名前は書生時代に世話になった大山家、そして古代朝鮮の伝説(檀君神話)に登場する王朝“倍達国”からとられた。
1938年(15歳)、空手道を松濤館流の“空手の父”船越義珍(ぎちん)に学び、1年3か月で初段に合格した。柔道、ボクシングも学び、1947年(24歳)に空手道選手権で優勝。1954年(31歳)、猛牛47頭と戦い4頭を即死させた様子を収めた映画『猛牛と戦う空手』が公開される。
やがて直接打撃制の空手、極真空手(フルコンタクト空手)を生み出した。1964年(41歳)、国際空手道連盟極真会館を設立。握力は100kgを超えており、3本の指で10円玉を曲げることが出来た。1994年、肺癌から呼吸不全となり他界。享年70歳。半生は劇画『空手バカ一代』の主人公として描かれた。



★アンディ・フグ/Andy Hug 1964.9.7-2000.8.24 (京都府、北区、大徳寺芳春院 35歳)2003





この喪失感…!




若き日のフグ

“青い目のサムライ”アンディ・フグ。愛称鉄人。身長180cm、体重98kg。カカト落としや下段後ろ回し蹴り(フグトルネード)を得意とした。
急性前骨髄球性白血病により他界。彼は禅思想に傾倒していたので、京都の禅寺に分骨されている。(本墓はスイスにあるとのこと)
※自炊してご飯にバナナとヨーグルトをかけて食べていたらしい。味はともかく栄養価はバツグンだ。
※大徳寺芳春院は一般には非公開。




★ジャイアント馬場/Giant Baba 1938.1.23-1999.1.31 (兵庫県、明石市、本松寺 61歳)2005&16

馬場さんの実家は八百屋さんで有名
(新潟県三条市 2008)
兵庫の本松寺にて。2005年5月の時点では
納骨されておらず布が巻かれていた
このお寺には宮本武蔵が
設計した名庭がある


11年ぶりに再訪!既に
布が外されていた(2016)
『馬場家各霊位』。当寺は“墓"
ではなく大半が“霊位"に
馬場さんの生前墓と聞いていたのですが、墓石の
側面に他界4カ月後に夫人が建てたとあった
『平成十一年五月吉日
馬場元子建立』

本名馬場正平(しょうへい)。元プロ野球選手。身長209cm、全盛期の体重は145kg。生涯に5769試合を行う。新人時代に
猪木と十数回対戦して全勝したが、馬場は一度も自分からその話をしなかった。ラスト・ファイトは1998年12月5日。


『没後実に19年…故ジャイアント馬場さんの納骨式執り行われる』 2018年6月3日 16時45分 東スポWeb

“世界の16文”“東洋の巨人”として一時代を築いた不世出の名レスラー、故ジャイアント馬場さん(享年61)と、4月14日に肝硬変のため死去した夫人・元子さん(享年78)の納骨式が3日、兵庫・明石市の本松寺でしめやかに営まれた。
 元子さんの四十九日法要に合わせて行われたもので、1999年1月31日に死去した馬場さんは、実に没後19年余りで最愛の夫人と同じ墓に納骨された。式には元子さんの親族のほか、全日本プロレスからは和田京平レフェリー(63)が参列した。
 馬場さんの遺骨は長く東京・渋谷区恵比寿の自宅に保管され「なぜお墓をつくらないのか」との声も多かった。実は元子さんの実父で故伊藤悌(やすし)さんが85年に死去した際、同寺の墓の前で号泣する元子さんを、馬場さんは「もう泣くなよ。お父さんのお墓の隣に、馬場家のお墓を建てるから。そこに一緒に入ろう。そうすれば永遠にお父さんの隣にいられるだろ」となぐさめて、数年後に墓を建立した。その約束は四半世紀を超えて、果たされたことになる。
 7月18日には都内のホテルで元子さんの「お別れ会」が行われる予定。明石は元子さんが生まれ育った場所で、2人が知り合った思い出の土地でもある。昭和のプロレス黄金時代を支えた夫婦は、海から程近い静かな土地で永遠の眠りについた。
【和田京平レフェリーの話】これでファンの皆さんがお参りできる。心底これで良かったと思います。遺骨は重かったです。

JR三条駅で見かけた白ポスト。「大人が変われば子どもも変わる」。
その通り!子供ではなく大人に訴えているのが素晴らしい



★橋本 真也/Shinya Hashimoto 1965.7.3-2005.7.11 (岐阜県、土岐市、嶋香寺徳風霊苑 40歳)2008












徳風霊園は嶋香寺から北東へ約1km
戦う姿からたくさんの感動をもらった!

橋本選手と酒を
飲みたかった

「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」(橋本真也)
『破壊王』と呼ばれたプロレスラー。岐阜県土岐市出身。身長183cm、全盛期の体重は135kgのスーパーヘビー級。新日本プロレス(以下、新日本)の選手時代は、3歳年上の武藤敬司(後に全日本プロレスへ移籍)や、2歳年上の蝶野正洋と「闘魂三銃士」を結成。ヘビー級IWGP王座を通算20度も防衛した記録は現在(2008年)もまだ破られていない。
橋本は中学の頃に父が蒸発し、高校時代に母を亡くしている。1984年(19歳)、アントニオ猪木に憧れて新日本に入門。半年後に後藤達俊戦でデビューを飾る。海外のリングで武者修行を行ない、帰国後は前述した闘魂三銃士として売り出される。
橋本ほどの巨漢であれば、パワーボムなど体重を利用した技を得意にするものだが、橋本はキックを中心としたキレの良いファイティング・スタイルでファンの心を掴んだ。先にIWGPヘビー級王座を手に入れた武藤や、リーグ戦“G1 CLIMAX”を2連覇した蝶野に比べ、スタートダッシュで遅れた橋本だったが、1993年(30歳)の9月にグレート・ムタ(武藤のヒール版)を倒して第14代IWGPヘビー級王者に輝いた。橋本は当時の連続防衛記録を塗り替える活躍を見せ(9連続防衛)、翌1994年には栄誉ある「プロレス大賞MVP」を獲得した。
その後、橋本は武藤にベルトを奪われるが、武藤が他団体“UWFインターナショナル”の総大将、高田延彦に敗北してベルトが外へ流出してしまう。1996年4月29日の東京ドーム大会で、当時選手会長だった橋本が高田と対決し、垂直落下式DDTからの三角絞めで見事にベルトを奪還した。日本中のプロレス・ファンが熱狂し、この頃は橋本の入場曲『爆勝宣言』が流れるだけで、会場は割れんばかりの歓声に包まれた。1998年(33歳)、念願のG1初優勝を果たす。

大きな転機となったのは全日本柔道選手権で優勝7回の実力者、小川直也のプロレスデビュー。橋本は結果的にこのライバルから新日本での選手生活にピリオドを打たれることになる。対戦成績3勝1敗で迎えた2000年4月東京ドーム大会。「負けたら引退」を宣言してリングにあがった橋本は、小川と死闘を繰り広げてあと一息というところまで追い詰めたが、鬼門の技STOを連続で食らってしまい無念の敗北。橋本は辞表を出し、新日本を去った。
同年11月新団体『ZERO-ONE』を設立し翌月にはプロレスリング・ノアに参戦。団体の枠を超えた自由な活動に共感し、新日本から大谷晋二郎、高岩竜一が仲間に加わった。この後、宿敵だった小川直也と和解し、2人のタッグは「OH砲」として人気を呼んだ。2003年(38歳)、全日本プロレスに勝負を挑みグレート・ムタとの三冠戦に勝利。2004年は因縁の長州力と対決してこれを粉砕、ハッスルにも戦いの場を広げる。しかし、この年の冬に団体の方向性をめぐって所属レスラーとの間に亀裂が生じ、左肩の手術による欠場という不運もありZERO-ONEは活動停止する。それから約半年後。1匹狼としてフリーとなった橋本は、痛めていた右肩も手術し、復帰に向けてリハビリを続けていたが、2005年7月11日の午前8時頃、突然脳幹出血で倒れ、その2時間半後に病院で息を引き取った。まだ40歳の若さだった。
橋本の急死から5日後に葬儀が行なわれ、元三銃士の蝶野や武藤はもちろん、様々な団体からレスラーが参列し、ファンを含めて実に1万人以上が橋本を見送った。出棺の際は『爆勝宣言』が流れ、普段はクールな蝶野が号泣。ファンが投げる無数の赤いテープとハシモト・コールの大声援を受けながら橋本は旅立った。

---水面蹴り、袈裟斬りチョップ、燕返し、垂直落下式DDT。昭和30年代を生きた人にとって力道山がヒーローだったように、1990年代の「破壊王」黄金時代を見てきた僕にとって、橋本選手は文字通りヒーローだった。古代の古墳や戦国武将への墓巡礼と違い、その声や表情を知っている人間への墓参は、言葉にできない喪失感や寂しさを感じるものだった。とても真面目で後輩の面倒見がよかった橋本選手。その戒名は“天武真優居士”(てんぶしんゆうこじ)。“武”の文字と共に“真に優しい”という文字の入った、多くの人に愛された橋本選手らしい戒名だと僕は思う。たくさんの感動を本当に有難うございました!!

※YouTubeにあった『爆勝宣言』




★植芝 盛平/Morihei Ueshiba 1883.12.14-1969.4.26(和歌山県、田辺市、高山寺 86歳)2001&10






50歳(1933) この圧倒的な存在感!ド迫力 最強お爺ちゃん 77歳(1960)


田辺市・扇ケ浜公園の盛平像。
合気道創始者として田辺市名誉市民に!
合気道は相手の暴力を制するものであり、
生命の殺傷を目的としたものではない
南紀の輝く太陽を背にした翁の勇姿!





墓地の右手奥に眠ってられます(2001) 9年後。前年より僕も合気道を習い始め、どうしてももう一度お目にかかりたかった!(2010)

合気道の創始者。出身は和歌山県田辺市。1900年、17歳で商人になるため上京し、親戚の文房具店で働く。夜間は天神真揚流で柔術を稽古。20歳、入隊して2年後に満州へ出征(日露戦争)。23歳、除隊後に帰郷。軍隊時代に柳生心眼流柔術の免許皆伝を受けた。20代後半の頃、地元の学者・南方熊楠が「神社合祀反対運動」を繰り広げ、これに激しく共鳴する。
1912年(29歳)、北海道へ開拓団のリーダーとして田辺の54戸と渡り、北端に白滝村(遠軽町)を建設した。1915年(32歳)、高名な大東流合気柔術の宗家・武田惣角と出会い、高弟となる。惣角は敵の攻撃から気を吸収して(受け流して)威力を封じる「合気」の使い手。37歳、自身が師範となって「植芝塾」を開く。盛平は日本古武道の各流派から長所を吸収し、身を守る為に全ての攻撃パターンを想定した上で、当身(あてみ)と関節技を軸に総合的防御術を生み出した。
1922年(39歳)、“ある時は空気のごとく、またある時は水の流れのごとく、相手の動きに応じて身体を預ける”とした自らの武術を「合気武道」と呼称。1924年(41歳)、宗教家・出口王仁三郎(大本教聖師)が満州に宗教国を建設する野望を持って渡航、これに随行した盛平は出口と共に中国当局に逮捕され死刑を宣告される(ギリギリで日本政府が救出)。

1927年(44歳)、軍部や財界の武道愛好家から「合気武道」が高く評価され、東京で講義する回数が増え、家族と共に上京する。1931年(48歳)、新宿に道場「合気会」(旧皇武会)を発足させた。 その後、イラスト付の教則本を著し、1941年には天覧演武を行なった。1942年(59歳)、公式に「合気道」と呼称。戦況悪化にともなって若い弟子たちは大半が出征し、道場はもぬけの殻となった。60歳、盛平は茨城県岩間町に転居し、農耕と武道の生活を開始する。同年、当地に合気神社を建立。戦前に入門した弟子達の中で、生きて帰ってきた者は殆どいなかった。

1953年(70歳)、弟子の藤平光一がハワイに合気道を紹介すると、そこから全米へ普及していった。1956年(73歳)、合気道が国際化へ歩み出したこともあって、盛平も再び動き始める。東京・高島屋の屋上での公開演武会を皮切りに、本格的に活動を再開。新たに戦後の弟子が続々と入門してきた。彼らは盛平の流れるように優美な動きや、合気道が勝利のみを求めるのではなく、倫理を重視する武道であることに引き付けられた。

70代半ばになると、当然ながら体力も衰えて以前のように素早く動けなくなったが、盛平はそのことを逆手に新たな技を練り上げていった。余分な動きは極限まで省略され、相手の呼吸を読み、軽く手でいなしたり、少し叩くだけで、若い巨体の弟子達は宙を舞った。
やがて、公開演武会だけでなく、映像でも盛平の「呼吸技」が伝えられるようになり、小柄な白髪の老人が腕一本、しかも触れるだけで大男を引っくり返す様子が“インチキ”“八百長”と疑う格闘家も出てきて、実際に勝負を挑んでコロコロと床を転がされ、即座に弟子入りということも少なくなかった。1960年(77歳)、このころ高弟の富木謙治が乱取法を創案し、従来は“形”しかなかった合気道に試合が導入されると、加速度的に世界中へ広まった。
※70代の盛平は、人差し指のみを壁につき、その腕に2人の柔道家(約150s)をぶら下がっても平然としていたという。

    「ドヒーッ!」吹っ飛ぶ弟子

1969年、正月15日の鏡開きの演武を最後に肝臓癌で他界。享年86歳。子の吉祥丸、さらに孫の守央が道主となって技が受け継がれている。1975年、国際合気道連盟設立。関係書籍は数十ヵ国語で出版され、和の精神を受け継いだ弟子は世界56ヶ国150万人に及んでいる。

「合気は他者と共に切磋琢磨し、自己の人格完成を目指す武道である」。盛平は心技体を磨き続け、ついに“天地人和合の道”に至ったという。「合気とは敵と戦い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」。この信念を基に、力に力で応えるのではなく、相手の攻撃を受け流し、戦わずに争いを解決する事を目指して合気道は発展していった。

「合気にてよろづの力を働かし、美しき世と安く和すべし」(植芝盛平)

※現在は、塩田剛三創設の戦前スタイルの「養神館合気道」、藤平光一創設の健康法重視の「心身統一合氣道」、小西康裕創設の「神道自然流」、富木謙治が試合形式を導入した「日本合気道協会」、望月稔による総合武道としての「養正館合気道」など諸派がある。
※合気道関係者は盛平を「開祖」と呼び、高弟は「翁先生」と呼んでいる。
※1988年に故郷田辺市で第5回国際合気道大会が開催され、扇ケ浜公園内に銅像が建てられた。


●全国の合気道場のリスト

41歳になってから合気道を始め、1年がかりでやっと5級に合格。この日の
墓参は合格報告!一教(いっきょう)の右表(おもて)を奉納!(2010)



★ベーブ・ルース/George Herman “Babe” Ruth 1895.2.6-1948.8.16 (USA、NY郊外 53歳)2000&09
Gate of Heaven Cemetery, Hawthorne, Westchester County, New York, USA











野球の神様 国民的英雄の墓にはキリストと野球少年が彫られている! ジョージ・ハーマン・ルースが本名






2000 ベーブの墓前は大賑わい 2009 前回あった木のバットが金属バットに進化! ベーブの野球選手カード!





2000 2009 ベーブに贈られた賛辞

アメリカ国民に夢を与えた「野球の神様」、希代のホームラン王。アメリカ大リーグの“球聖”ベーブ・ルースは1895年2月6日にメリーランド州ボルティモアに生まれた。本名ジョージ・ハーマン・ルース。身長約188cm。両親はドイツ系移民で酒屋を経営。母は15歳のときに病没し、父は23歳のときに客同士のケンカに巻き込まれて死亡している。子ども時代のルースは街角でケンカや万引きを繰り返す手に負えない悪童で、7歳にして全寮制の矯正学校兼孤児院「セント・メアリー少年工業学校」(生徒800人)に送られ、以降12年間をここで過ごす。ルースは裁縫技術を学んで仕立て屋になるつもりだった。教官のマシアス神父がルースに野球を教えると、ルースはたちまち才能を開花させ野球部のエースとなった。ルースはマシアス神父を「育ての父」と生涯慕った。
1914年、ルースの活躍が試合を見に来ていた野球関係者の目にとまりスカウトされ、19歳でマイナーリーグ(インターナショナル・リーグ)のオリオールズ(注・同名のメジャーリーグ球団とは別)の左腕投手となった。年俸は現在の700万円ほどで、ルースは好きな野球ができてお金までもらえることを喜んだ。ルースいわく「もともと仕立て屋として就職する予定であり、手先が大事な仕事だから、野球を辞めるつもりだった」。
オリオールズの監督から「ベーブ(赤ん坊)」と呼ばれて可愛がられ、遠征中に初めて乗ったエレベーターで首を挟まれかけてチームメイトから「お前はまるっきりのベーブだな!」とからかわれるなど、ベーブの呼び名が定着していった。同年7月、球団の経済的理由でトレードに出されたルースは、メジャーリーグ(アメリカン・リーグ)のボストン・レッドソックスに投手として移籍した。デビュー戦で初登板初勝利を記録。この年、レッドソックスはリーグ優勝を果たした。10月、ボストンでウェイトレスのヘレン・ウッドフォードと出会い結婚。

1915年(20歳)、ルースはレッドソックスの投手として、アメリカン・リーグでトップとなる18勝6敗の好成績をあげ、この年レッドソックスはワールドシリーズを制覇する。
1916年(21歳)、ルースはさらに調子をあげて23勝を記録、リーグ1位の防御率と完封数(年9回)を誇り、チームは2年連続でワールドシリーズの栄冠に輝く。このワールドシリーズではドジャースを相手に延長14回をたった一人で投げきり、ワールドシリーズの勝利投手最長投球記録を樹立した。
1917年(22歳)、ファーボールと判断した審判を殴って10試合の出場停止。第一次世界大戦の長期化で大リーグからも選手が出征し、レッドソックスは人手不足になりルースは外野を任されることが増える。
1918年(23歳)、投手として13勝7敗の二桁勝利、打者としてホームラン11本を放ち、人生初の本塁打王となる。ルースが成し遂げた「年間10勝かつ10本塁打」は、今でもメジャー・リーグで唯一の記録だ。同年、ワールドシリーズでは投手として29イニング連続で無失点記録を作る大記録を築き、ワールドシリーズでレッドソックスに優勝をもたらす。
1919年(24歳)、強打者として外野手に転向し、当時のメジャー記録となる年間29本塁打を放ち、2年連続の本塁打王となる。人々はルースの豪華なホームランに沸いた。この年ワールドシリーズでシカゴ・ホワイトソックスがシンシナティ・レッズに八百長でわざと負けるブラックソックス事件が起き、ホワイトソックスの主力8選手が刑事告訴される大不祥事となる。米国社会に衝撃を与え、球界に不信の目が向けられる中、ルースの猛打が野球人気を支えた。ルースの年俸は高騰し、他事業に資金が必要だったレッドソックスは年末にルースをトレードで手放し、ニューヨーク・ヤンキースへの移籍が決まった。ルースを放出したレッドソックスは以降2004年までワールドシリーズに86年間も優勝できず「バンビーノ(ベーブ)の呪い」と呼ばれた。

※史上唯一“6冠王”(1909/最多安打、打点王、首位打者、本塁打王、盗塁王、最多出塁率)のタイ・カッブ(デトロイト・タイガース)いわく「(当初の)ルースは投手だったからあの大振りが許されたんだ。もし野手だったらもっと粘ったり、当てにいく打ち方が求められただろう。大振りして無様な三振をしようものなら、それも奴は若造だったから、大目玉を食らっていただろうよ。だけど奴は投手だったから誰も気にしなかった。だから奴は自分なりの打ち方をいろいろ試すことが出来て、打者転向の頃には、確固たるものに仕上がっていたんだ」。

1920年(25歳)、ニューヨーク・ヤンキースはまだアメリカン・リーグで一度も優勝したことがないチームだった。ルースはチームメイトで8歳年下の強打者ルー・ゲーリッグ(1903-1941)と3、4番コンビを組み、15年にわたって在籍する。ルースはこの年54本という本塁打を放つ。2位の選手は19本であり、ルースの54本は驚異的な数字だった。ルースは投手が勝負を避けて四球を選ぶことを阻止するため、次の打順の強打者として新人のゲーリッグを直接指導した。
1921年(26歳)、ヤンキースの第1期黄金時代(〜1928)が始まる。ルースは前年を上回る本塁打59本を叩き込み、ヤンキースを初のリーグ優勝に導いた(ワールドシリーズは負傷して途中から欠場)。この年にルースが記録した総塁打数457本、長打数119本、出塁数379回はまだ誰にも破られていない。当時はファウルポールに当たったボールは本塁打に認定されず、球場も今より広かったため、現在の基準だと本塁打数は100本を超えていると言われている。同年、175メートルの特大場外ホームランをかっ飛ばしている。
1922年(27歳)、審判に泥を投げて退場処分を受け、観客とも乱闘する事件を起こす。35本塁打を打ちリーグ優勝するが、ルースは苦手なカーブで攻め込まれワールドシリーズ制覇はお預けに。
1923年(28歳)、ヤンキー・スタジアムが完成、「ルースが建てた家」と呼ばれた。41本塁打を記録し、ヤンキースはついにチーム初のワールドチャンピオンに輝く。
1924年(29歳)、打率.378でルースは生涯で唯一の首位打者に輝く。46本塁打。
1925年(30歳)、不摂生で体調を崩し最低のシーズン(打率.290、25本塁打)となる。

1926年(31歳)、バットの快音が復活し、47本塁打、146打点を挙げる。子どもが好きなルースは、カージナルスとのワールドシリーズに挑んだ際、落馬による負傷で入院し、気持ちが塞いでいた11歳のジョニー・シルベスター(1915?1990)を見舞う(ジョニーの両親がルースファンの子どものためにダメ元で球団に頼んだ)。ルースは「ワールドシリーズでホームランを打って」と頼まれ、約束を守って4本の本塁打を放ち、喜んだジョニーは早く治ったという。
1927年(32歳)、年間60本のホームランをスタンドに叩き込む新記録を樹立。以降、この記録は30年以上も破られなかった。チームもリーグ記録となる110勝を達成し、ワールドチャンピオンに輝く。4番打者のルー・ゲーリッグも絶好調で、投手は3番のルースと勝負せざるを得ず、これも本塁打60本を生む要因となった。この頃のヤンキース打線は「殺人打線」と呼ばれた。
1928年(33歳)、54本塁打。ワールドシリーズでルースが打率.625、ゲーリッグが打率.545を記録し、2年連続でワールドチャンピオンとなる。
1929年(34歳)、ヤンキースは日常的に背番号制を導入した初めての球団となり、ルースは打順と同じ3番になった。同年、3年前から別居していたヘレン夫人が火災により焼死する。3カ月後、ルースは女優クレア・メリット・ホジソン(1897?1976)と再婚した。
1932年(37歳)、41本塁打。ヤンキースはワールドシリーズでカブスに4連勝し、4度目のチャンピオンに。シリーズ第3戦のルースが人差し指をスタンドに向けた「予告ホームラン」を放ち、球史に刻まれる。実際はビーンボールに怒ったルースがピッチャーに「この野郎!」と指差し、本塁打を打ったらしい。
1933年(38歳)、34本塁打。初のオールスターゲームが開催され、オールスター史上第1号本塁打を放つ。同年、投手として1試合を投げ、これが人生最後のマウンドとなった。ヤンキース時代に5試合を投げ、すべてで勝ち投手になり通算94勝46敗の成績を残した。
1934年(39歳)、22本塁打。ルースはヤンキースのリーグ優勝7回、ワールドシリーズ制覇4回に貢献するなど黄金時代を築き、ヤンキース時代に10回ホームラン王に輝いた。だが、40歳を前に体力は落ち、打率は2割2分8厘に下がった。球団の主力打者はルー・ゲーリッグになっていた。同年11月、アメリカ大リーグ選抜チームとしてゲーリックらと船で来日。沢村栄治はルースと直接対戦し、クリーンナップ4連続奪三振という伝説を生んだ。試合後、全米選抜チームの訪日歓迎パレードが行われ、銀座が何キロも群衆で埋め尽くされた。
この2年後、1936年に日本にも初のプロ野球リーグができる。

1935年(40歳)、かねてからルースは大リーグの監督になりたいと思っていたところ、ナショナル・リーグのボストン・ブレーブスから選手兼助監督を打診されて移籍。試合ではパイレーツから1試合3ホームランをかっ飛ばした。ルースはまだやれる、人々がそう思った矢先に脚に麻痺が起きた。6月1日、ルースは新聞記者をロッカールームに集めて現役引退を表明する。
1936年(41歳)、最初に野球殿堂入りを果たした5人の中の1人となる。同年、ヤンキースに約20歳年下のジョー・ディマジオ(1914-1999)が入団。
1938年(43歳)、ブルックリン・ドジャースの一塁コーチに就任。翌年に辞任。
1939年(44歳)、連続試合出場記録2130試合を達成するなどアイアン・フォース(鉄の馬)の異名を持つルー・ゲーリッグが筋萎縮性側索硬化症(後のルー・ゲーリッグ病)にかかり、選手生活を断念。ヤンキースはメジャーリーグ史上初めてゲーリッグの背番号「4」を永久欠番に指定した。
1941年(46歳)、ジョー・ディマジオが大記録56試合連続安打を達成(2017年時点も破られていない)。同年、ルー・ゲーリッグが37歳の若さで他界する。ゲーリックはアメリカン・リーグの打点王を5回獲得し、連続試合出場記録は1995年まで半世紀以上破られなかった。通算本塁打は493本、生涯打率3割4分。翌年に生涯が映画『打撃王』で描かれた。
1946年(51歳)、ルースは再婚相手のクレア夫人に付き添われてニューヨークで入院、腫瘍の手術を受ける。

1948年6月、ヤンキー・スタジアム開場25周年記念のイベントに参加。ヤンキースは背番号「3」を永久欠番に指定した。闘病中のルースがバットを杖代わり立つ姿を捉えた写真は後日ピュリッツァー賞を受賞している。7月、ルースは自伝映画『ベーブ・ルース物語』の試写会に参列。8月16日、18カ月の闘病を経て喉頭癌のためニューヨークにて53歳で他界。入院中のルースに全国から3万通もの見舞いの手紙が届いた。通信社は全世界に向けて以下の電文を打った「野球史上最大の強打者であり、最も魅力的な人物ベーブ・ルースは氏は、8月16日午後8時1分に永眠した。死因は癌であった」。亡骸はヤンキー・スタジアムに2日間安置され、ファン15万人(半数が子ども)が別れを惜しんだ。セント・パトリック大聖堂で葬儀が行われ、ニューヨーク州ホーソーンのゲート・オブ・ヘヴン墓地に埋葬された。
ルースは22年間の大リーグ生活で、合計12回ホームラン王になり、22シーズンを通じて生涯通算本塁打714本という大記録を残した。出場試合数は2503回、通算打率は3割4分2厘。アメリカン・リーグで11回の優勝経験を持ち、ワールドシリーズを6回制した。投手としても優秀で、163試合に登板し、92勝44敗、勝率6割7分6厘の記録を残している。ボストン・レッドソックス時代はワールドシリーズで29イニング無失点という投手としての輝かしい記録もある。
1949年、阪神甲子園球場の「野球王ベーブ・ルースの碑」レリーフが制作される。
1951年、ジョー・ディマジオが現役引退。ディマジオの背番号「5」がヤンキースの永久欠番に指定される。
1954年、ジョー・ディマジオがマリリン・モンローと結婚、ディマジオの嫉妬深さにモンローが音をあげ、わずか274日で離婚。
1961年、ニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリスが年間61本のホームランを放ち、ルースの年間本塁打記録が34年ぶりに更新された。
1974年、ハンク・アーロンがルースの生涯通算本塁打714本を39年ぶりに更新。
1976年、クレア夫人が79歳で他界。ルースの隣に埋葬された。
1999年、ジョー・ディマジオが肺がんで他界。享年84。最期の言葉は「死んだら、マリリンのところへいける」。

※ボルチモアの『ベーブ・ルース記念館』にルースの遺品や資料が所蔵されている。
※ルースは回転しているレコードのタイトルを読めるほどの優れた動体視力を持っていた。
※ヤンキースのユニフォームが縦縞なのはルースを細く見せるためという。
※ルースは仕立屋を目指していたため、野球選手になってからも「1時間あればシャツを4枚縫い上げてみせる」と語り、自分やチームメイトのユニフォームの修繕をやった。
※ルースは「育ての親」マシアス神父を生涯忘れず、プロ入り後も母校セント・メアリーを何度も訪問して多額の寄付を行った。
※ルースの墓と同じセクション25に、ヤンキースの監督に5回就任し、5回解雇された“ケンカ屋”ビリー・マーティン元監督(1928-1989)の墓がある。墓石には永久欠番に指定された背番号「1」と一緒に、小さな文字で『私は偉大ではなかったかもしれないが、ユニフォームを着ることを最も誇りにしていた』と彫られている。マーティン監督が1989年のクリスマスに交通事故で他界した際、ヤンキースの元オーナー・スタインブレナーが、ルースの墓に近い墓域を3万5千ドルで手に入れマーティンの遺族に提供したという。

〔墓巡礼〕
初巡礼は2000年。ベーブ・ルースはニューヨークに眠っている。「ニューヨークに墓がある」と聞いて、僕は当初マンハッタンの都会の墓地をイメージしていた。マンハッタン島は約20キロしかなく、ニューヨーク州の大半は森やのどかな田園風景。鉄道路線も少し東に行くと単線になり驚いた。ルースが眠るゲート・オブ・ヘブン墓地は、マンハッタン中心部から約45キロ北。メトロノース鉄道のハーレム(Harlem)線で1時間20分もかかる場所。2駅にわたって複数の墓地が集まったエリアだ。マウント・プレザント(Mount Pleasant)駅で下車すると、100m西
にゲート・オブ・ヘブン墓地がある。管理人事務所で墓石の場所を教えてもらいセクション25へ。丘を登って行くと「野球の神様」の墓が見えた。墓前には父子(6歳くらい)がいて、父親が熱心にルースの偉大さを語っていた。身振り手振りを交えながら熱弁しているため、父子の特別な空間を邪魔しないよう少し離れて待機。アメリカ人男性の野球愛の深さを改めて知る。7月初旬で気候も良く、空は快晴、丘から遠方の景色をのんびり眺めた。
10分ほどして父子が墓参を終えたので、「ハーイ」と小さく手を挙げて彼らとすれ違い、僕も墓前に。お墓の中央ではキリスト像が野球のユニフォームを着た少年に手を差し伸べ、その右側にルースとクレア夫人の名前、左側にはニューヨーク大司教フランシス・スペルマン(1889-1967)の言葉「MAY THE DIVINE SPILIT THAT ANIMATED BABE RUTH TO WIN THE CRUCIAL GAME OF LIFE INSPIRE THE YOUTH OF AMERICA!(ベーブ・ルースを人生の重要な試合で勝たせた精霊が、アメリカの若者を奮起させますように!)」が刻まれている。墓前にはニューヨーク・ヤンキースの帽子2つ、ボール8個、バット2本、星条旗の小旗8本のほか、手紙や大リーグ・カード(ブロマイド)なども供えられていた。なぜか他球団シカゴ・カブスの帽子まで。カブスはルースが「予告ホームラン」をかっ飛ばした球団だからかな?あふれんばかりの供え物から、多くのファンが訪れていることが分かった。
ゲート・オブ・ヘブン墓地の南隣りには広大なケンシコ墓地があり、ルースと伝説の強力打線を組んだルー・ゲーリッグ(1941年没)が眠っている。



★ルー・ゲーリック/Lou Gehrig 1903.6.19-1941.6.2 (USA、NY郊外 37歳)2000&09
Kensico Cemetery, Valhalla, Westchester County, New York, USA





めっちゃ優しい笑顔!! 眩しいほど緑が輝くルー・ゲーリックの墓 37年の人生は短すぎる







2000 2009 ヤンキースの旗や帽子があった

2130試合連続出場を果たした“鉄人”ルー・ゲーリック。1939年5月の試合でこの記録が中断されたのは、筋萎縮性側索硬化症という難病の為だった。2ヵ月後にヤンキースタジアムで引退式(史上初)が行われた際に、「私はこの世界で一番幸せな男です」とスピーチ、全米が泣いた。史上最年少で野球殿堂入りを果たし、背番号4はヤンキースの永久欠番(これもメジャー初)となる。引退の2年後、37歳の若さで生を閉じた。

ニューヨークのケンシコ墓地に眠る。ゲーリッグはベーブ・ルースより7年早く没しており、仮にルースがゲート・オブ・ヘブン墓地を自分で選んだのであれば、無数にある墓地からゲーリッグのすぐ隣りの墓地に決めたということ。両者の不仲説(ルースとゲーリッグ夫人のゴシップが発端)が噂されていたので、2人のファンとしては嬉しいところ。
墓地事務所でゲーリッグの他に作曲家ラフマニノフ、俳優ダニー・ケイの墓も尋ねると、中年の女性職員が若い男性職員に「歩いて全員墓参するのは大変だから、車を出してあげて」と、車でケンシコ墓地を巡ることに。途中で「あれはロバート・デ・ニーロの親父さんの墓だよ。ロバートもここに入るんじゃないかな」と教えてくれた。
“鉄の馬”ゲーリッグの墓はシンプルな横幅の広い墓石で、てっぺんにボールやファンレターが置かれていた。巡礼後、「ここまで来ると最寄りの駅はヴァルハラ駅だよ。2キロあるから駅まで送ってあげる」と、なんと僕を送り届けてくれた!墓地の職員が車で墓地をガイドしてくれたうえ、帰りの駅まで送ってくれたのは後にも先にもこの時だけ。なんて親切なんだ。スター選手に会えた興奮、墓地職員の優しさ、感動的で忘れ難い墓参となった。



★ジョー・ディマジオ/Joe DiMaggio 1914.11.25-1999.3.8 (USA、カリフォルニア州 84歳)2009
Holy Cross Catholic Cemetery, Colma, San Mateo County, California, USA /Plot: Section I, Row 11 Area 6/7

  

  

更新中。ニューヨーク・ヤンキーズの名バッター。マリリンと結婚した。



★ヘンリー・チャドウィック/Henry Chadwick 1824.10.5−1908.4.20 (USA、ニューヨーク州 83歳)2009
Green-Wood Cemetery, Brooklyn, Kings County, New York, USA





「FATHER OF BASE BOLL」とある

“野球の父”チャドウィックの墓は野球グッズだらけ

墓石の左側面にグラブ&バット。
ボールが供えられたよ〜♪





墓の周囲の4方向にベースがあった 墓石の右側面にはマスク&バット 墓石のてっぺんには巨大ボール!

打率や防御率の計算方法やスコアの付け方を考案するなど“野球の父”の異名を持つ。



★サルコウ/Ulrich Salchow 1877.8.7-1949.4.18 (スウェーデン、ストックホルム 71歳)2005
Norra begravningsplatsen (Northern Cemetery), Stockholm, Stockholms Lan, Sweden

 

左足を軸に後ろ向きに跳ぶ、スケートの代表的なジャンプ技“サルコー”の生みの親!
没後半世紀が経ち、かなり「侘び・さび」な墓になっとりマス。




★五代目 古今亭 志ん生/Shinsyou Kokontei 1890.6.28-1973.9.21 (東京都、文京区、還国寺 83歳)2000 落語家
★十代目 金原亭 馬生/Basyou Kingentei 1928.1.5-1982.9.13 (東京都、文京区、還国寺 54歳)
★三代目 古今亭 志ん朝/Shinsyou Kokontei 1938.3.10-2001.10.1 (東京都、文京区、還国寺 63歳)


五代目古今亭志ん生
今も熱狂的ファンが多い
長男・十代目金原亭馬生
54歳で早逝
次男・三代目古今亭志ん朝
6代目襲名を控えていた



墓前で大胆にも師匠の十八番
“火焔太鼓”に挑戦
本名は美濃部。「美濃部家之墓」に全員が眠る

こちらは新宿区に建つ
3代目志ん生の墓

桂文楽、三遊亭円生と並んで昭和の落語界を代表する巨匠。明治23年、東京神田に生まれる。本名、美濃部孝蔵。初代(1809〜1856)からは5代目にあたる。「火焔太鼓」「らくだ」などの滑稽噺(ばなし)、「三枚起請」「五銭の女郎買」などの廓(くるわ)噺を得意とした。
素行不良で小学校を退学になった後、すぐに酒の味を覚え、金さえあれば吉原へ行くなど、10代で飲む打つ買うを極める。激怒した父親に家を叩き出され、17歳で三遊亭円盛に弟子入りする。以後、次々と師を変えながら27歳で二ツ目、31歳で真打ちに昇進していく。人気が出始めたのは7代目金原亭馬生をついだ44歳の頃から。志ん生ほど頻繁に名前を変えた落語家はいないだろう。1939年に49歳で五代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)を襲名をするまで、なんと16回も改名を重ねた!(貧乏で借金取りから逃れる手段だった、というのもある。)稼いだ金はことごとく酒に消え、一時(35歳頃)は講釈師に転向した時期もあった。
1945年(55歳)、酒がたんまり飲めるという話を聞いて、満州へ慰問に行き巡礼先で終戦を迎える。ソ連軍の南下で帰国できなくなり、寂しさから“ウオッカで死ぬなら本望だ”と自殺覚悟で6本飲み干し、数夜寝たっきりになったことも。2年後にようやく帰国を果たす(ずっと音信普通だった)
 
戦後は、軽妙でトボケた味や自由気ままな芸風にさらに磨きがかかり、酒をあおって高座に上がり、そのまま酔い潰れて寝てしまうこともあったという(客もまた粋なもので、志ん生を起こさず待っていた)。志ん生落語を愛した人々は、芸術的ともいえる間の取り方や、毎回違ってくる枕の入り方、噺の運び方を楽しんだ。
演目の多さから“落語博物館”と呼ばれた円生も「(志ん生と)道場でやれば相当打ち込めるが、野で真剣勝負となるとだいぶ斬られる」と評した。
67歳、落語協会会長に就任。71歳、脳溢血に倒れ、2年後に復帰。74歳、紫綬褒章の受賞に際し「“シジュホーショーって何です”と人に聞いたら、“世の中の為になった人にくれる勲章だ”というのでビックリ仰天した。他の事ならともかく、そんな事あたしは身に覚えがねえ」。80歳になった時のコメントは「まごまごしてると90まで生きちまうかも知れない。実際、ここまで来ると、どこまで生きりゃいいんだって言いたくなっちまう」。
最期は脳溢血が再発し、1973年、83歳でこの不世出の天才は人生の高座を降りた。
死後30年経った現在でも志ん生の人気は一向に衰えず、「現役も含めた全落語家」の中で、一番CDやテープが売れているというからスゴイ。

志ん生が亡くなった9年後(1982年)に、長男の10代目金原亭馬生(きんげんてい ばしょう、本名・清)が食道ガンのため54歳で早逝。2001年には次男の3代目古今亭志ん朝(本名・強次)も肝臓ガンに侵され63歳で病没した。志ん朝はテレビを通して広く親しまれた人柄や、高座での緻密な話芸が高く評価され、30代の頃から6代目志ん生の襲名話が持ち上がっていたが、その名を受け継ぐこともなく人生の幕を閉じたのだった…。

還国寺は地下鉄江戸川橋駅を出てすぐ。墓石は本堂左横にあり分かりやすい。ただし、“古今亭志ん生”で探していた僕は自力で発見できず、お寺の方に本名の美濃部で眠っていることを教えて頂き、ようやく墓参ができた。この「美濃部家之墓」には志ん生、馬生、志ん朝の3人が永眠している。再会した3人はどんな話に花を咲かせているのだろう?

※40歳、夜逃げ同然で一家が引っ越してきたのが埋立地にあった「なめくじ長屋」。あまりに湿気がひどく住人がいないので、第一号の入居者が欲しかった大家はタダでいいからと、入居させてくれた。夏は喋ると蚊が口に飛び込み、常に丼2杯分のなめくじがいたという。
※巨体の横綱双葉山と飲み比べしてぶっ倒れたこともあった。
※「貧乏ってのはするもんじゃねえ。たしなむもんです」(志ん生)



多くの落語ファンに愛された父子3人




★二代目 桂 枝雀/Shijyaku Katsura 1939.8.13-1999.4.19 (兵庫県、宝塚市、中山寺 59歳)2014




『東の志ん朝、西の
枝雀』とも称された
本名の前田姓で眠っている

中山寺の墓地は広い。信徒会館の手前の崖下だ


「(何も話さなくても)枝雀の顔を見ただけであ〜、おもろかったと満足していただけるような芸人になりたい」(枝雀)。古典落語を現代風にアレンジするなど新境地を開拓し“爆笑王”と呼ばれた。本名、前田達(とおる)。1939年8月13日に神戸で生まれる。父はブリキ職人。戦時中、神戸大空襲があり5歳で鳥取に疎開。終戦後、兵庫県伊丹市に移住。10代で父を亡くし、家計を支えるため工場で働く一方で、学問にも精を出し、高校にトップで合格、新入生代表の挨拶を務めた。また、この頃から5歳年下の弟と素人漫才を始め、「伊丹の前田兄弟」としてラジオに出演、数々の素人お笑いトーナメントで賞金を得て生活の足しにした。

1960年(21歳)、神戸大学文学部に入学するも、大学で得るものなしと翌年に中退。同年、3代目桂米朝に入門し、内弟子としては一番弟子となり、「10代目桂小米(こよね)」を名乗る。翌年(23歳)、千日劇場にて初舞台。芸風は後のエネルギッシュなスタイルと異なり、繊細で理知的なものだった。1970年(31歳)、女性浪曲漫才トリオのメンバーだった良子夫人と出会い結婚、2年後に長男が誕生する。家族を抱えて一層稽古に励む小米だったが、1973年(34歳)、最初のうつ病が発症する。タクシーで劇場へ向かうはずが、「怖い、行かへん」と車から降りてしゃがみ込んだ。生真面目な小米は、自分の芸をいくら磨いても満足できないことから、高座に上がるのが怖くなり、家にこもってしまう。医者からは休息が必要と診断され、心身を休ませた結果、3カ月で高座に戻る気力を取り戻した。それまで高座では明るく振る舞っても家庭では陰気になっていたが、「ずっと笑いの仮面をかぶり続ければ、いつかその仮面が自分の顔になる」と、常に明るく過ごすよう心がけていく。

復帰後、同年10月に大阪道頓堀の角座で「2代目桂枝雀」を襲名。それまでのストイックなスタイルを大きく変えて、人物を戯画的なオーバーアクションで演じるようになった。“つま先さえ座布団に残っていれば落語だ”と腹をくくり、高座中はこれでもかと全身を動かした。パワフルで突き抜けた演技に観客は大爆笑、客席は常に満員になり1983年(44歳)に芸術選奨新人賞を受賞した。そして翌1984年(45歳)、銀座・歌舞伎座の大舞台で「第一回桂枝雀独演会」を開催する(歌舞伎座での落語は上方落語家として初)。前座を桂雀々、桂べかこ(南光)が務め、枝雀は超満員の観客を前に「かぜうどん」、大長編の「地獄八景亡者戯」を演じた。終了後、延々と拍手が鳴り止まず、枝雀は感謝の挨拶を行った。
40代から英会話学校に通い、1987年(48歳)に米国やカナダで英語による落語(「ロボットしずかちゃん」)を敢行し、海外興行を成功させた。翌年、映画『ドグラ・マグラ』で俳優としても高く評価される。1991年、奇術師として活躍していた弟が病死(享年47)。

1994年(55歳)、枝雀は上方落語協会の新会長に副会長を2度務めた米朝が就くべきと思っていたところ、“露の五郎”が就任したことに反発。枝雀一門8人は抗議の意志から上方落語協会を脱退する。1996年(57歳)、NHKの朝ドラ『ふたりっ子』で棋界のドン・永世名人を演じ好評を博す。翌年、うつ病を再発。今度のうつ病は前回より重度だった。枝雀の寄席はいつも満員だったし、師匠の米朝は「最近の枝雀は無駄がなくなって前よりいい」と誉めていたが、枝雀は「もっと面白くできるはずだ」と苦悩。古典ネタを練り上げて完成度を高めたが、気持ちが焦り空回りした。「色んなことを試みてるうちに、自分の落語が分からなくなってきた」ともがき、自分の落語に納得できず、ついに何も話せなくなった。
1999年3月13日、自宅で首吊り自殺を図っているところを発見され、弟子の桂雀々が体を降ろし病院に搬送。だが、意識が戻ることなく37日後の4月19日に心不全のため他界。享年59。復帰後に計画していた独演会『枝雀六十番』では、一日3本、20日連続公演で持ちネタの60本をすべて演じる予定だった(初日「延陽伯・一人酒盛・どうらんの幸助」〜千秋楽「つる・景清・崇徳院」)。
愛弟子の死に米朝は打ちのめされる。「枝雀がいなくなって、私は荷物が重くなった。ぼつぼつ楽しようと、仕事の半分ぐらいを任せかけていた時だったのに。もう私なんか、ムチ打ってもあきまへんわな。なのに、そうもいかなくなってしまいました」「枝雀は私よりも大きい存在になると、ずっと思っていたからね。自分よりも一皮むけて上に行くことを私は期待していた」。

深夜に夜道でブツブツとネタ繰りをして警察に通報されるなど、稽古に明け暮れた枝雀さん。人々は一日8時間働いており、落語家は15分、20分の高座に対して8時間ぶん稽古しなければ世間に顔向けできぬと精進した。散歩中にネタを繰り出すと、とんでもなく遠くまで歩いて行き、その間の記憶がなかった。心底から落語を愛していた枝雀は、自分の弟子と向き合って稽古をつける際、弟子の噺を聞いていつも大笑いしていたという。そして弟子が新しい解釈や小ネタを披露すると、「そうきたか」と心から感心してみせた。演目の中で登場人物が死ぬよう場面は改変して殺さないなど、心優しかった枝雀さん。
“緊張と緩和”のメリハリが笑いを生むという独自の笑いの理論を掲げ、表情ゆたかに巧みにネタを展開した枝雀さんは、僕から見ればとてつもなく語り口が見事なのに、それでも「もっと上手く話せるはずだ」と、常人の考えが及ばぬほど、遙かな高みを目指していた。そんな枝雀さんがいなくなって、寂しい世になってしまった。もっと噺を聞きたかった。
墓所は宝塚の中山寺。信徒会館の手前の断崖の下に本名の“前田”で眠っている。努力家の爆笑王に合掌。

※十八番の『宿替え』(27分/YouTube)。めちゃくちゃ面白い!
※「自分を思うことが自分を滅ぼすこと。人を思うことが本当は自分を思うこと」(枝雀)。
※弟子は9人。故・桂音也と桂南光がダブルで一番弟子。続いて、桂雀三郎、桂雀松、桂雀々、桂九雀、桂文我、桂む雀、桂紅雀。
※“すみません”を「すびばせんねぇ」というなど、個性的な言い回しを多用した。
※「私の中に私を見てる枝雀がいてこれが私になかなかオーケーを出してくれなかったんです。それがこのごろはだいぶオーケーに近づいてきた。見ててください。もうじき自分の落語を完成させます。」(1996年、死の3年前)
※松本人志「最高にノッている枝雀寄席はなぜか分からないけど鳥肌が立って泣けてくる。もちろん本人はそんな意図ではやっていないだろうけど」
※千原ジュニア「落語が上手な噺家さんはいっぱいいらっしゃるけど、枝雀師匠は”面白い”。ほかの人は一眼レフで撮ってるのに、『写ルンです』ですごくいい写真を撮る、みたいな感じですよね。」「ファミレスなのに高級フレンチ並みの料理を出すような、すごいんだけどお手軽に見せている感じなんですよ」
※父の死の理由について、次男・一史の言葉「一般的には噺家として突き詰めすぎたと言われていますけど…僕は巷間で言われているようなことではないのではないかと思うんです…癌になった人に、なぜ癌になったかとか聞かないでしょう…かなりシンプルに、病気になったんだと思います」
※山崎邦正(月亭方正)は枝雀落語に傾倒して落語の道へ進んだ。
※枝雀が選んだ持ちネタ60(アイウエオ順)
「青菜」「あくびの稽古」「愛宕山」「池田の猪買い」「いらちの愛宕詣り」「植木屋娘」「牛の丸薬」「うなぎや」「延陽伯」「親子酒」「親子茶屋」「かぜうどん」「義眼」「口入屋」「くっしゃみ講釈」「首提灯」「くやみ」「蔵丁稚(四段目)」「高津の富(宿屋の富)」「鴻池の犬」「仔猫」「瘤弁慶」「子ほめ」「米揚げ笊」「権兵衛狸」「鷺とり」「佐々木裁き」「皿屋敷」「算段の平兵衛」「蛇含草」「崇徳院」「住吉駕籠」「千両蜜柑」「代書」「ちしゃ医者」「茶漬えん魔」「次の御用日」「壺算」「鉄砲勇助」「天神山」「胴切り」「道具屋」「胴乱の幸助」「時うどん」「夏の医者」「猫の忠信」「寝床」「軒付け」「八五郎坊主」「はてなの茶碗」「花筏」「七度狐」「質屋蔵」「一人酒盛」「ふたなり」「不動坊」「舟弁慶」「まんじゅうこわい」「宿替え」「宿屋仇」
※初代の桂枝雀は江戸時代後期(1862年)に生まれ、1928年に66歳で他界。奇声で観客を沸かせるなど、桂派で一番の人気者だったという。

〔参考:日本人名大辞典、ウィキペディア、追悼番組など〕



★7代目(自称5代目)立川 談志/Danshi Tatekawa 1936.1.2-2011.11.21 (東京都、文京区、本郷さくら霊園 75歳)2013


 


古典落語を全身全霊で愛していた! 浄心寺の門前には巨大な七福神・布袋尊が立つ 本郷さくら霊園は浄心寺の墓地と繋がっている

花が溢れる墓前。
熱烈なファンが多い
談志さんの自筆!

立川雲黒斎家元勝手居士!
(うんこくさいいえもとかってこじ)

浄心寺側から入って左側の2列目奥に墓所がある 巡礼中に初めて自ら撮影していたのは→ 談志さんの絵!「さァて人生ねぇ…」

「落語とは、人間の業の肯定である」(談志)。
東京生まれ。落語立川流家元。本名は松岡克由(かつよし)、トレードマークはヘアバンド。5代目三遊亭圓楽(談志は4歳年下)、5代目春風亭柳朝(同7歳年下/8代目橘家圓蔵)、3代目古今亭志ん朝(同2歳年上)と並ぶ“江戸落語四天王”の1人。古典落語の中に自らの人生哲学を語った。独自の説得力ある話芸と、古典落語の圧倒的な知識、ストイックな求道心から天才と呼ばれる。芸域が広く、講談、漫談も高評価。

1952年に高校を中退し16歳で6代目柳家小さんに入門、小よしと名のる。2年後に二つ目となり、小ゑんを襲名。26歳のときに自分より5年遅く入門した古今亭志ん朝が“36人抜き”で先に真打になり、大きな屈辱を味わう。翌1963年(27歳)4月に7代目立川談志を襲名し真打昇進を果たす。
1966年(30歳)、企画発案した『笑点』のオンエアが開始、初代司会者を務める。番組は人気を博したが、1969年、方向性を巡って談志に反発した5代目圓楽ら大喜利メンバー全員が降板し、視聴率低下にともない談志も3年半で司会を降りた。
1971年(35歳)、参議院議員に無所属で当選、自民に入党して沖縄開発庁政務次官に就いたが深酒問題により36日間で辞任し離党。1977年に離職。談志いわく「政治家としての経歴がマイナスになるのは俺ぐらいだろう」。
1978年(42歳)、大量の真打ち昇進に反対した6代目三遊亭圓生(1900-1979)ら三遊派が落語協会を脱退し、『落語三遊協会』を設立する一大騒動が起きる。当初は談志も行動を共にする予定だったが、三遊協会の次期会長がライバルの志ん朝と知り落語協会に残った。翌年、孤立した圓生が心筋梗塞で急逝。

1983年(47歳)、談志の弟子が落語協会の真打昇進試験に合格できず、実力で劣ると思った者が合格したことで、試験制度を巡って協会会長かつ師匠の小さんと激突。協会を脱退して「落語立川流」を創設し家元となる(小さんからは破門されたが交流は続いた)。
1997年(61歳)、食道癌を告白。摘出後、喉頭癌を発病。落語家の命である声帯の摘出手術が必要となったが、談志は拒否し続けた。1999年(63歳)、闘病の中で高座に出ているのに、1人の客が居眠りしていたことで憤慨し、その客に退場を勧告した(後に客は裁判を起こしたが請求棄却)。
2011年3月6日、立川談志一門会にて、生涯最後の高座となる『長屋の花見』『蜘蛛駕籠』を演ずる。同月、声門癌の進行で呼吸困難となり、ついに声帯にメスを入れる気管切開手術を行った。これにより声を失い筆談生活となる。10月に昏睡状態に陥り、意識が戻ることなく11月21日に病没。享年75。訃報について、談志は生前に「上から読んでも下から読んでも、『談志が死んだ!』と書いてくれ」と希望しており、各紙がその見出しとなった。
生前に葬儀もお経も無用と言い、戒名は自身が考えた「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。墓所は浄心寺に隣接した本郷さくら霊園。夫人が墓を建立し、遺骨の一部は海に散骨された。

談志は古典落語を現代の感性(解釈)で次々とリニューアルしていったが、それらは古典落語への心からの敬愛に裏付けられていた。落語のあり方に対する確固たる信念と、シャイな性格の照れ隠しから、しばしば過激な発言をして世間を騒がす。歯に衣着せぬ物言いから敵が少なくなかったが、それ以上に熱烈なファンを多く獲得した。著書に「いずれ、オレは小さんに、5代目圓楽は圓生に、志ん朝は志ん生になるべき」と記した『現代落語論』。得意とした演目は「芝浜」「文七元結」「よかちょろ」「あくび指南」「粗忽(そこつ)長屋」など。持ちネタの多さは落語界でトップクラスだった。

※手塚治虫と親交があり、熱烈なファンだった。
※『笑点』で座布団運びをしていた石井伊吉に毒蝮三太夫と命名。
※「あわわ」という言葉を一般化した。
※「(志ん朝は)さっさと死にやがって、俺は死にたくても死ねないのに…。志ん朝と言い、枝雀と言い、俺がライバルと思ったやつはみんな先に死んでしまう。死なれちゃあ、勝てないじゃないか」(談志)



★三遊亭 圓朝/Entyou Sanyutei 1839.4.1-1900.8.11 (東京都、台東区、全生庵 61歳)2004&10







鏑木清方「三遊亭円朝像」(1930)
晩年の円朝を知る鏑木清方が「内面を深く究めて伝記を
書く気でいった」と、円朝の没後30年目に描きあげた傑作
肖像画。高座が始まる直前の一瞬を見事に描き出している!
無数にある墓石から目的の墓を探し出すのはめっさ
大変!墓石はどれも似ているし…。その点、全生庵は
墓前まで親切な標識が出ていてメチャクチャ助かった。
まさに墓地の鑑!日本中の墓地が見習って欲しい!

2004 初巡礼 2010 再訪時。墓前の標識が石柱に変わっていた



 
全生庵の山門(2010)

夕陽を浴びる圓朝師匠!山岡鉄舟の筆で
「三遊亭円朝無舌居士」と刻まれている

近代落語の祖。本名出淵次郎吉。江戸末期、浮世絵師・歌川国芳の内弟子をへて、17歳で真打となり初代円朝を名のる。絵師として腕を磨いた体験は、芝居の背景、道具づくりに役立ち、派手な衣装と薄化粧という容姿で歌舞伎と落語を合体させた「鳴り物、道具入り芝居噺」を演じ大衆の心を掴む。円朝は膨大な人情噺、怪談噺を創作したが、これは得意の芝居噺のネタを、師匠の円生が毎晩先にやってしまうので、「人の知らない噺を作る」と創作を思いついたのがきっかけ(21歳当時)。
明治に入ると「人気取りの派手な芝居噺より、人間の情念を掘り下げた高座がしたい」と考え、原点の素噺(扇子、手ぬぐいのみ使用)に立ち戻る。代表作は怪談噺の「怪談牡丹灯篭」「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」「塩原多助一代記」など。文人との交友も多い。“死ねば熱くも冷たくもないから、火葬でも土葬でも良い”というのが遺言だった。毎年、8月11日の命日には墓のある東京谷中の全生庵で「円朝祭」が催される。



★5代目 柳家 小さん/Kosan Ynagiya 1915.1.2-2002.5.16 (東京都、世田谷区、乗泉寺世田谷別院 87歳)2008


















噺家で初の人間国宝 どえらい量の花で埋もれていた 案内板「是より二墓目…」 花桶には「小さん」の文字

長野県出身。本名、小林 盛夫。1995年(80歳)、落語家として初めて人間国宝に認定された。ソバをすする芸が絶品。
北辰一刀流の達人で二・二六事件の際は反乱軍だった。息子は6代目柳家小さん、孫は柳家花緑。乗泉寺は豪徳寺の近く。



★7代目 林家 正蔵/Shozo Hayashiya 1894-1949.10.26 (東京都、足立区、常福寺 55歳)2008
★初代 林家 三平/Sanpei Hayashiya 1925.11.30-1980.9.20 (東京都、足立区、常福寺 54歳)2008






本名の海老名で正蔵、三平父子は眠っている 墓誌の三平 「海老名家之墓」

林家正蔵…初代柳家三語楼に入門。7代目柳家小三治襲名。その後、落語協会の内部分裂の煽りを受けて改名し、1930年(36歳)に7代目正蔵襲名。歴代正蔵は怪談噺や芝居噺を得意としたが、7代目は爆笑落語を貫いた。風土病で早逝。

林家三平…“昭和の爆笑王”。本名、海老名泰一郎。テレビで売れっ子になり、これをひがんだ一部同業者から軽い芸と揶揄されたが、「下ネタは芸を腐らせるもの」として一切語らず品格を重んじた。十八番のギャグ「どうもすみません」や、額にゲンコツをかざす仕草は父親(7代目正蔵)から受け継いだもの。肝臓癌で早逝。



★八代目 桂 文楽/Bunraku Katura 1892.11.3-1971.12.12 (東京都、世田谷区、妙法寺 79歳)2004

  

右側面に「いま更に あばらかべっそんの 恥かしさ」と彫られている

本名、並河益義。気品のある芸風で「昭和の名人」と呼ばれた。本当は六代目だけど縁起が良いので八代目
にしたという。『大仏餅』の高座で神谷幸右衛門の名を忘れてしまい、「申し訳ありません。もう一度勉強し直して
参ります」と頭を下げて楽屋に戻り、それから約3ヵ月後に肝硬変で亡くなった。ライバルの志ん生は訃報の
前日に妻が死に、その時に我慢していた涙が、文楽の死を聞いて「みんな先いっちゃって」と号泣した。




★六代目 三遊亭 圓生/Ensyo Sanyutei 1900.9.3-1979.9.3 (東京都、世田谷区、永隆寺 79歳)2004

  

左の「村田家之墓」が五代目円生、右の黒御影の「山崎家之墓」が六代目圓生

本名、山崎松尾。芸域の広さは落語界で一番と言われていた。十八番は人情噺。真打ち昇進問題で
小さんと対立、落語協会を脱会して“落語三遊協会”を発足させた。誕生日に亡くなった。



★安楽庵 策伝/Sakuden Anrakuan 1554-1642.1.8 (京都府、中京区、誓願寺 88歳)2008




僧侶の墓なので茶筅(せん)型だ 本堂の落語の祖・策伝上人像 「策伝日快上人」とある





誓願寺の境内にある「扇塚」。舞踊家が芸道の上達を
祈願して扇子を奉納するという
誓願寺の阿弥陀如来
は白眼がある!
山門前の顔出しパネル。
外国人が大喜びで撮ってた

墓地は誓願寺の境内から少し離れており、しかもこのような『墓地参拝許可証』がなければ、敷地に入ることができない。
京都には一般人の墓参を禁止する寺が多いので、手続きさえちゃんと踏めば許可してくれる誓願寺さんに御礼を言いたい!

落語の祖といわれる浄土宗の高僧。安土桃山時代から江戸時代前半という激動の時代に生きた。俗名、平林平太夫。諱は日快。1560年に6歳で美濃国(岐阜県)浄音寺に出家。10歳で京に入り禅林寺(永観堂)で学ぶ。20代半ばより中国地方で寺々を再興し、堺の正法寺住職を一時務めた後に、42歳で浄音寺に戻り17年間を住職として過ごす。1613年(59歳)、京都・誓願寺の第55世に就任。1615年(61歳)に僧として最高の栄誉となる紫衣(しえ)を後水尾天皇から下賜(かし)された。69歳で同寺塔頭の竹林院に隠居し、小堀遠州が境内に作った茶室を安楽庵と名付け、そこで約20年ほど悠々として余生を送った。策伝は小さな頃から面白い話を耳にする度に書き留めており、信徒が眠らないように法話にも得意の笑い話を小ネタ的に取り入れていた。多くの民衆が「策伝さんの説教は面白い」と話を聞きに詰めかけたという。
ある時、京都所司代(治安担当)の板倉重宗に小話を幾つか披露したところ、重宗はこれを大いに笑い楽しみ、「是非これは本にまとめるべきだ」と策伝を説得。それではと、策伝が書き記したものが全8巻42項目1039話という膨大な笑い話を収めた『醒睡笑』(せいすいしょう、“眠りを覚まして笑う”の意)だ。策伝は同書を1628年(74歳)に完成させ重宗に献呈した。収録話は『宇治拾遺物語』『イソップ物語』『笑府』(中国の笑話集)、同時代の人気草子など実に幅広く題材を得ている。後世の落語家たちが『醒睡笑』を噺のネタに重宝したことから、策伝は近世落語の祖と称えられるようになった。1642年に永眠。享年88歳という、当時としては異例なほどの長寿だった。よく笑い暮らしたことが長生きの理由だったかも。将軍家光や小堀遠州とも交流があったという。
※策伝は椿の収集マニアで、100種類もの椿の特色や命名の由来をまとめた『百椿集』も書き残している。



★横山 やすし/Yasushi Yokoyama 1944.3.18-1996.1.21 (大阪府、河内長野市、南大阪霊園 51歳)2005


コンビ結成当初の2人 80年代の漫才ブームの頂点に君臨した やすしのレコード(作詞作曲兼)


とても見晴らしの良い丘陵地帯に眠っている 墓石の側にはやすしのレコード・ジャケットと歌詩が刻まれていた

漫才師。本名・木村雄二。戦争末期の1944年、高知県南西部に浮かぶ沖ノ島(島民350人)に生まれ、大阪堺市で育つ。中学時代にラジオの「漫才教室」で才能を発揮し、中学卒業後に松竹芸能に入社。「堺正スケ・伸スケ」の伸スケとしてプロデビュー。ほどなく相方が音楽の道に行ってしまいコンビ解散。一人になったやすしは名門屋号の“横山”への憧れから、吉本興業に移籍し横山ノックに弟子入り。横山やすしとして活動を再開する。横山プリン、レツゴー正司らと組むが、相性が悪く共にケンカ別れ。芸歴7年目で3度もコンビを解消した彼は「コンビ潰しのやすし」と言われるようになる。22歳、吉本は漫才師やすしの才能を高く評価していたので、何とか世に出そうと画策し、2つ年下の西川きよし(20歳)とコンビを組むよう命じた。

西川きよし(本名・潔)は高知出身。吉本がきよしを相方に選んだのは、彼も同じ高知生まれであり、同郷の者なら上手く行くかも知れないと考えたから。きよしは8歳の時に父の会社が倒産し、夜逃げ同然で大阪に出てきた。18歳で吉本新喜劇に入り、漫才師ではなく舞台役者として活躍していた(ただし“活躍”といっても、コンビ誕生の時点ではまだ駆け出しなので、ぬいぐるみの中に入ったりしていた)。コンビを作ることになり、喫茶店で初めて顔を合わせた時のやすしの言葉は「横山や。わし自分と漫才せな困んねん。頼むで」だった。※関西では相手のことも“自分”という。
1966年5月、後に漫才史の金字塔となる伝説のコンビ『やすし・きよし』がここに誕生した。

天衣無縫で豪放なやすしと、どこまでも生真面目なきよし。正反対のキャラが客に大ウケし、コンビ結成の翌年にはさっそく新人賞に輝いた。4年後の1970年(26歳)には上方漫才大賞を受賞。このまま破竹の快進撃を続けると誰もが思っていた。しかし同年暮れに、やすしが無免許運転でタクシーに接触、運転手を殴ってしまう。判決は懲役3カ月執行猶予2年。吉本は執行猶予中のTV出演を禁止する。やすしは一升瓶を持ってきよしの家を訪れ「きー坊(きよしの愛称)、わしのことはええ。わしのことはええから他の人と漫才やれ」と言葉を絞り出した。
大人気コンビの長期間の謹慎は経営側にとってもダメージが深く、吉本はきよしに「やすしを切り、別の相方とコンビを再結成せよ」と通達した。これをきよしは頑なに拒否する。きよしは一人身の時期を修業期間と位置づけた。「僕はあまりにやすしと漫才の実力に差がありすぎる。彼がいない間にもっと芸を高め、謹慎があけたら唸らせてやりたいと思った」(きよし)。

そして1973年3月(29歳)、2年4ヶ月の謹慎処分が解け活動再開!“僕はただ何もせず待っていた訳じゃない”と、きよしが普通ならタブーにするべきタクシー事件の話を、逆にネタとしてユーモアに昇華させたセンス、きよしの芸域の広がりにやすしは愕然としたという。1977年(33歳)、年々完成度を高めていく「やすきよ」に2度目の上方漫才大賞が贈られた。

「これを言ったらどう返してくるか、舞台ではネタの裏切り合いをしていた」(きよし)。本番で詰まったり不発だった時は「あそこは絶対に明日も同じネタをふってくれ」と相手に言い、その夜に家で切り返しを考えて翌日の舞台に挑んだと言う。
「僕らには暗黙の了解があった。相手がネタを間違えたら“いま間違えただろ”という目で相手を見ない。“大丈夫やで、そのネタは俺が拾うから。ちょっと間が空いたけど、それを拾ってふり直すから、もう1回行こうぜ”という心を見せる。するとやすしは“悪かったな”という顔をしながらも、もう次の瞬間にはお客さんを沸かしていた」(きよし)。

1979年秋から演芸番組『花王名人劇場』の放映が始まり、徐々に漫才の人気が出てきたところに、翌1980年(36歳)、本来はプロ野球中継の雨天用に制作されたというバラエティ特番『The MANZAI』が起爆剤となり、空前の漫才ブームが巻き起こった。時代はザ・ぼんち、のりお・よしお、紳助・竜介、B&B、ツービートなどスター漫才コンビを次々と輩出し、その中で結成14年目のベテラン・コンビ「やすし・きよし」は、各漫才番組のオオトリとして出演、人気は絶頂に達する。そしてこの年、「やすし・きよし」は文化庁の芸術祭優秀賞に輝いた。2人は以後も数々の賞を受賞し続け、芸の円熟味が増していった。
1984年(40歳)、『唐獅子株式会社』、翌年『ビッグ・マグナム黒岩先生』と連続で映画の主演を務める。
1986年(42歳)、きよしが参議院選に出馬することになり、コンビは7ヶ月間活動を停止。この時はやすしがきよしの復帰を待ち続けた(きよしは最多得票で当選)。

1988年(44歳)。この年から、やすしの人生は急速に暗転していく。11月に作詞作曲と歌をこなしたレコード『俺は浪花の漫才師』を発売。その4日後に、長男のタレント・木村一八が泥酔してタクシーを蹴り、注意しに出てきた運転手を殴る蹴るの暴行、現行犯逮捕される。運転手は入院するほど重傷を負い、吉本興業は一八の永久追放を発表、やすしも監督不行き届きで謹慎処分になった。
翌1989年2月、謹慎中のやすしが阪神高速で無理な追い越しをしかけて事故を起こし、相手がケガを負う。2ヵ月後、大酒飲みのやすしは仕事を干されてますます酒に溺れるようになり、ラジオ番組収録中にウイスキーを飲み、その帰りに飲酒運転でミニバイクと衝突事故を起こした。激怒した吉本は「情状酌量の余地なし」として、やすしを問答無用で解雇する。これで20世紀を代表する名コンビ「やすし・きよし」は事実上消滅した。
やすしの転落は続く。解雇の4ヵ月後、やすしは赤穂市で酔っ払い、海岸の観光用クルーザーに勝手に乗り込み、注意をした相手を平手で叩き背後から蹴り、書類送検される。

1992年(48歳)、参院選に「風の会」から立候補するも落選。選挙後に自宅前で何者かに襲撃され、頭部に言語障害が残るほどの重傷を負う。やすしはこれでもう“しゃべくり”が出来なくなった(犯人未逮捕)。
1995年(51歳)、少年院を退院した息子・木村一八が、六本木の路上で肩がぶつかった米国人と口論となり、相手に左まゆ外側挫傷となる顔面蹴りを入れ、麻布署に逮捕される。
そして翌1996年1月21日。やすしが自宅の居間で倒れ死亡しているのを帰宅した夫人が発見。死因はアルコール依存症による肝硬変だった。享年51歳。

告別式では“やすきよ漫才”が映像で流れ、きよしは嗚咽しながら弔辞を読み上げた。「自分は幸せやったと思うわ。ほんまに…。今日はもう泣かんとこ思って…絶対に泣かんとこ思って来たんや。漫才が流れるの知らなんだんや…。あの漫才見て、笑うてた、さっき…。おもろい漫才や、ええコンビやと自分でも思う。あの漫才見て、笑うて、よけい泣いてもうたわ、ほんまに…。もうゆっくりしいや。何にも考えんと、ゆっくりしいや…」。

やすしは無類のボート好きで、レーシングチームを結成する一方、自身もレースに出場し全日本アマチュア選手権で優勝するなど、通算400勝を超える成績を残している。遺骨は河内長野市・南大阪霊園の墓所に納められたほか、ボート仲間や夫人によって、やすしがホームグラウンドにしていた広島の宮島競艇場にも散骨された。散骨後の夫人のコメント「8年間仕事もなく船にも乗れませんでしたから…(散骨は)本人が一番喜んでいるでしょう。ボートが心の支えでしたから」。

「あの身のこなしと、発声と動きと間の使い方は、やすしだけのもの。誰も真似できない」(藤本義一)
「(やすきよの様に)アドリブで2人がかみ合うのは至難の技。これを芸と言う。永遠に残る芸だ」(立川談志)
「仕事を干されて楽屋にも入れなくなった時、夜中に電話してきて、延々と芸について熱弁をふるっておった。寂しかったんやろな」(喜味こいし)

やすしは漫才の神様の申し子だった。天才的な切り返しと絶妙のタイミングで入るギャグで不動の人気を獲得し、漫才界に“やすきよ”時代を築き上げた。その一方で、何度も番組収録をすっぽかし、生放送に酒を呑んで遅刻して久米宏をマジギレさせたり、仕事を後回しにしてモーターボートをかっ飛ばし、セスナ機を乗りまわし、滅茶苦茶をやり続けた。天性の才能があるのに、溢れるエネルギーを自分でコントロールできず、自ら破滅していった。死後10年が経ち、近年はその強烈な個性と生き様から「最後の破滅型芸人」と呼ばれている。
きよしは単独で売れっ子になっても、やすしが謹慎処分になる度にずっと待っていた。「きよしさんなら1人で出来るじゃないですか、なぜコンビを解消せずいつも(復帰を)待ってるのですか?」こう問われたきよしは、次のように答えたと言う。「僕は面白ないんです。やすしが面白いんです。やすしと離れたら僕は何も出来ないんです。だからやすしを待っているんです。私達は“きよ・やす”ではなく“やす・きよ”なんです」。

※コンビを組んで5年目、漫才の方向性を巡って2人は京都で背広がボロボロになるまで殴りあったという。
※きよしは弟子をあまり取らなかったが、やすしは20数人の弟子を取った。ただし、愛の鉄拳制裁が乱れ飛び、2度同じミスをすれば即破門という厳しさから、最後まで残った弟子は3人だけだった。
※大平サブローが演じるやすしの物真似は、やすし自身も生前から評価していた。近年、きよしはサブローと『新やすし・きよし』を結成している。
※「最後の昔かたぎの芸人。漫才に関しては天才でした」(きよし)



★ミスワカナ/Miss Wakana 1910.10.20-1946.10.14 (京都府、北区、光念寺 36歳)2010

天衣無縫の人生 「ミスワカナ・玉松一郎」のコンビ名で大ブレイク!













光念寺本堂の右側にワカナは眠っている 36年という短い生涯 側面に一郎の名 通路沿いなので見つけやすいデス

本名、川本キクノ。鳥取県出身。9歳で初代河内家芳春に入門。1925年(15歳)、大阪の千日前楽天地に出演した際、大阪出身で4歳年上の玉松一郎(1906-1963)と恋に落ちる。1928年(18歳)、鳥取に戻って別の男性と結婚し女児を産むが、翌年に一郎と再会して再び恋の炎が燃え上がり、2人で中国・青島へ駆け落ちした。1931年(21歳)、都家若菜の名で一郎と九州に巡業。1937年(27歳)、吉本興業に入社。「ミスワカナ・玉松一郎」のコンビ名で寄席やラジオなど様々なジャンルで活躍した。当時は封建時代の名残で家庭内の女性の地位は低かったが、ワカナは一郎をコテンパンにやっつける夫婦漫才(それも超ハイスピード)を行なったことから、その新鮮さが大ウケし、以降に誕生する男女コンビの多くが同じスタイルを踏襲していった。「ミスワカナ・玉松一郎」の人気は横山エンタツ・花菱アチャコと並ぶまでになった。

1938年(28歳)、軍への慰問団“わらわし隊”として中国戦線へ派遣される。ワカナは常人離れした記憶力の持ち主であり、日本中の方言で漫才を披露。地方出身の前線の兵から大喝采を受けた。そして同時に高い歌唱力で聴衆を唸らせた。
一方、ワカナは戦地の悲惨さに衝撃を受ける。“わらわし隊”は南京にも入っており、一座には捕虜の虐殺を目の当たりした者、流れ弾で死亡した女性漫才師も出て来た。しかし、国からは現実を無視するように戦意高揚の漫才を強いられ、次第にワカナの心は押し潰されていく。そして彼女は薬物(ヒロポン)に手を出してしまう。
※ワカナは軍上層部の目を盗んで、末端兵士の手紙(もちろん未検閲)を家族に届けてあげていた。

1939年(29歳)、吉本興業から新興キネマ演芸部に電撃移籍。1940年(30歳)、内務省の通達を受けミスワカナから玉松ワカナに改名。その後、既婚の男優を愛してしまい、薬物依存も激しくなって1944年(34歳)に離婚するが、一郎との漫才コンビは続けた。
1946年、阪急西宮球場で開催された演芸会に出演後、阪急西宮北口駅のホームで心臓発作により急死した。享年36歳。女優の森光子はワカナの弟子。
※その後、一郎は2代目ワカナ(ミヤコ蝶々)、3代目ワカナ(初代ワカナの娘)、4代目ワカナ(河村節子)とコンビを変え、1963年に他界した。享年57歳。



★坂田 三吉/Sankichi Sakata 1870.6.3-1946.7.23 (大阪府、豊中市、服部霊園 76歳)2000











将棋の駒型!参拝者が強運のお守りに
持って帰るのかベコベコに削られていた
「王手ーッ!」将棋の神様との、
時空を超えた男と男の死闘だ!
1925年(55歳)の坂田三吉


本名は阪田三吉(坂田ではない)。大阪堺市生まれ。9人兄弟の長男。家業の草履づくりを手伝いながら、大人が路地裏で将棋を楽しむのを見て5歳の時に自分でも指し始めた。貧しくて学校に行けなかった為、「馬」と「三」しか書けなかったが、将棋の腕は子どもの頃から敵知らずで、青春期は賭将棋で食い扶持を繋いでいたという。連戦連勝で鼻高々だった三吉だが、1891年(21歳)、生涯のライバルとなる関根金次郎四段(三吉より2歳年上)と堺の料亭で初手合わせし、1勝2敗と負け越してしまう。「俺は自分の実力を過信していた」三吉はショックのあまり10日間も寝込んでしまう。
※この頃、関根は武者修行のためプロ棋士であることを隠して全国を回っていた。

三吉は関根へのリベンジを誓い、実戦に次ぐ実戦で鬼神の如く将棋の腕を磨き続けた。師匠を持たず独学で鍛えたゆえの定跡を無視した奔放自在な戦法は、乱戦に真価を発揮する超攻撃型の「坂田将棋」に結実してゆく。35歳、竹田コユウ(25歳)と結婚。彼女は三吉の最大の理解者になってくれた。
1906年(36歳)、既に関根は当時の将棋界の最高位・八段まで上りつめていた。その関根と15年ぶりに対局する好機が到来する。しかし九十二手で『指し掛け』(時間切れで中断)とされ三吉は憤慨、2週間後の再戦では「千日手」(互いに同じ手の繰り返しになる状態が3度起きた場合、1手目を指した方が負け)のルールを知らなかった三吉がまたしても敗北する。翌年11月にも神戸で対局するが敗戦。この時は、終局後に三吉は深夜大阪まで茫然と歩いて帰ったという。

「打倒関根!」込み上げてくる悔しさが、さらなる闘志となった。ひたすら修業を続け、1913年(43歳)、初対決から22年目にしてついに関根八段に勝利(五番勝負の三勝二敗)!この時の最終戦で、敵陣に攻め込んだ三吉の銀駒がどこにも動かせない状況になり、自らの不覚を嘆いた有名なセリフ「銀が泣いている」を残した。この戦いは後に“泣き銀の一局”と呼ばれるようになる。
1915年(45歳)、念願の八段まで昇進した三吉は、その後も1917年、18年と2年連続で関根との八段対決を制するまで強くなった。関根との対局はこれが最後となり、三吉は両者の宿命の対決を16勝15敗1分と勝ち越す。

1921年(51歳)、十二世小野名人が他界すると、次の名人が誰かという話題で棋界は沸騰した。“次は坂田に”というのが故小野名人の意向だったが、「自分の名前さえ正確に書けない無学な者は名人に相応しくない」という声が多く聞かれ、心技体を兼ね備えた関根が十三世名人に決まった(三吉も関根の名人襲名を称え、東京の祝賀会に駆けつけている)。
52歳、三吉は白内障の悪化で失明しかけたが、手術が成功して無事に視力を取り戻す。

1924年、東京将棋連盟が設立され一気に4人を八段に昇格させたことから、関西では「八段を乱発し過ぎだ!」と抗議の声が上がった。1925年(55歳)、関西財界を中心に80名を超える三吉の後援者が彼を名人に推薦し、彼はその流れで「関西名人」を名乗ることに。これに対し東京将棋連盟(今の日本将棋連盟)は“名人は一世一人”として以下の決議文を発表した。
「東京将棋連盟は先に阪田八段の名人昇格の噂に対し反対の決議を為したが、阪田氏は何ら考慮する事もなく、名人披露を為したり。東京将棋連盟は飽くまでかかる暴挙を承認せず」
三吉は“名人の地位を汚した”とされ、なんと棋界を追放されてしまう。しかも2年後には妻が病没、苦難の時期が続く。

1935年(65歳)、三吉と将棋連盟が絶縁状態にある中、棋界に大事件が起きる。関根名人が「引退して名人位を返上する」と表明したのだ。当時は一度名人になれば終生名人のままという“一代一名人制”だったのを、関根は「その時々の一番強い者が名人になるべき」とリーグ戦による“実力名人制”に変えたのだ。1612年に大橋宗桂(そうけい)が初代名人となって以来、約320年目の大変革だった(十一世までは世襲制、以後は推薦制だった)。※「親の七光や師弟云々ではなく強い者が頂点に」とした関根金次郎。彼が近代将棋界の父とされる由縁だ。かっこいい。

1937年2月(67歳)、棋界の大変動の中で三吉と東京勢はようやく和解し、彼は12年ぶりに日本将棋連盟に復帰する。そして復帰の記念対局として、京都南禅寺にて当時東京棋界で最強と言われた木村義雄八段(31歳、関根の愛弟子)と対戦した。これは『南禅寺の決戦』と呼ばれ、「370年に及ぶ将棋の歴史の中で、最大の一番」と評された。この戦いは三吉が後手にも関らず、2手目に「9四歩」、つまり意味の無い一番端っこの歩を進めたのだ。後手でしかも1手損となるこの指し手は、三吉が東京に見せた反骨精神そのものだった。結果は木村に負けてしまうが、自分の年齢の半分以下という若き天才棋士・木村に対し、あえて2手出遅れで老棋士のプライドを見せた三吉に、全国の将棋ファンは唸った。続いて嵐山天龍寺にて、これまた東京棋界の勇・花田長太郎八段との対局で、“南禅寺”と同様、初手に「端歩」をついた。勝負は接戦になり、ギリギリで制した花田は「とても68歳とは思えない、脅威の耐久力に恐怖心すら感じた」と語る。

翌1938年(68歳)、三吉は高齢をおして2年にわたる名人リーグ(実力名人戦)に参加。長いブランクも影響し1年目こそ2勝6敗と負け越したものの、2年目は5勝2敗とグングン調子を上げてきた。69歳になってもまだ成長する三吉に周囲は驚嘆する。三吉は翌年のリーグ戦にも参加するつもりだったが、日中戦争の長期化、日米開戦などでしばらくリーグ戦が中止になる。対局する機会がないまま終戦の翌1946年3月に関根が他界。そしてまるでその死を追うかの如く、4ヵ月後の7月に阪田三吉も逝去した。享年76歳。
生涯名人位に就くことはなかった三吉だが、死後9年が経った1955年、日本将棋連盟は三吉の功績を称えて名人位と王将位を追贈し、10回忌の歳に大阪豊中市の服部霊園に将棋の駒型の墓石を建立した。三吉と関根は今、思う存分駒を指しあっているのだろう。

※三吉の劇的な生涯は、死の翌年にはもう『王将』の名で舞台化された(北条秀司作)。
※村田英雄が三吉のことを歌った『王将』が大ヒット。
※関根の墓は千葉県野田市。
※1969年、地元・新世界の有志により通天閣の真下に三吉の偉業を称えた王将碑が建立された。命日となる7月23日は「王将祭」が催され大勢の将棋ファンが集う。
※この人物伝を書くに当たって、日本将棋連盟棋士(6段)の方のご意見を参考にさせて頂きました。



(左)関根八段/49歳、(右)阪田八段/47歳 ※1917年10月22日



★大橋 宗桂(そうけい)/Sokei Ohashi 1555-1634.3.9 (京都府、伏見区、霊光寺 79歳)2008

 
写真では分り難いけれど、めちゃくちゃ巨大な墓石だ!しかも将棋の駒! 裏側は名の由来となった「桂馬」

京都市上京区の本法寺の一画に集められた無縁仏。
当初はこの寺に埋葬されたと伝わっている

近年になって将棋の駒型
の墓石が見つかった

「寛永十一年 南無妙法蓮華経
玉淨院宗桂日龍 三月九日」
戒名も命日もドンピシャ!

安土桃山時代の棋士。初代名人で最古の詰将棋集『象戯造物』の作者。京都生まれ。もとは医者だが将棋が上手く、宗金を名乗って戦っていた。「宗桂」と名乗るようになったのは、信長から桂馬の使い方を褒められたのがきっかけとも。宗桂より4歳年下となる囲碁の初代本因坊、本因坊算砂と共に信長、秀吉、家康という英雄に仕えた。碁や将棋を好んだ家康は幕府に碁将棋所を設け、当初は両方を算砂が兼任していたが(当時の棋士は碁も将棋も打てた)、宗桂57歳のおりに将棋所が独立し、初代将棋所(どころ)を宗桂が宣言する(1612年)。将棋所となった宗桂は将軍の将棋を指導し相手をした。以降、大橋本家、大橋分家、伊藤家の御三家が幕府から禄を受け、名人を交互に輩出しながら将棋を発展させた。棋士にとっての晴れ舞台は、毎年11月17日に将軍の前で開催された「御城(おしろ)将棋」。今も確認できる宗桂の対局棋譜は8局だけで、成績は7勝1敗。ちなみに現存する最古の棋譜は、将棋所になる前の1607年(52歳)に豊臣秀頼公の御前で戦った算砂との対局で、宗桂が133手で勝っている。二世名人は宗桂の子・二代大橋宗古。維新後も世襲名人制は続いたが、1935年に名人・関根金次郎13世が「これからは世襲制をやめて実力制でいく」と宣言(翌年には21世の本因坊秀哉も世襲制をやめ、本因坊の名跡を日本棋院に譲渡した)。リーグ戦が2年がかりで催され、阪田三吉とも戦い、後年14世名人に襲位する木村義雄が新制度の第1期名人となった。

宗桂の墓は京都市伏見区の霊光寺にあり、また墓石のみであるが上京区本法寺でも確認されている。本法寺は東京の墨田区にもあり、そちらには伊藤家の墓がある。大橋本家の三代宗桂以降の墓は、神奈川県伊勢原市の上行寺に建つ。
※三代宗桂&四代宗傳の墓は最初から上行寺にあり、1933年に京都・本法寺にあった五代宗桂から十四代の墓が上行寺へ改装された。現在、二代大橋宗古の墓石だけが行方不明。
※現在のタイトル戦は竜王戦、名人戦、棋聖戦、王位戦、王座戦、棋王戦、王将戦の7つ。日本将棋連盟に所属する棋士は約140名。
※「御城(おしろ)将棋」が催されていた11月17日は、現在日本将棋連盟によって「将棋の日」に制定されている。
※この人物伝を書くに当たって、日本将棋連盟棋士(6段)の方のご意見を参考にさせて頂きました。



★天野 宗歩/Souho Amano 1816-1859.5.13 (京都府、伏見区、霊光寺 43歳)2008

薄くピンクがかった墓が棋聖・天野宗歩のもの。左奥は初代名人の大橋宗桂の墓。
名人でも大橋家でもない宗歩が、宗桂と同じ大きさの墓石で並んでいることに驚いた
背面は「歩兵」が宗歩、「桂馬」が宗桂


近代将棋の父。江戸後期の天才棋士で、名人より強い「実力十三段」と讃えられた。江戸生まれ。5歳から11代名人・大橋宗桂の弟子となり、31歳で七段まで進んだ。1852年(36歳)に11代宗桂が江戸城での御城将棋に宗歩を推薦するなど、その実力は当時から高く評価されていたが、この頃の名人は世襲制だったので宗歩は名人になれなかった。角使いの名手で、現存する棋譜の多くは、宗歩があまりに強すぎるため駒落ち上手になっている。著書は『将棋精選』。賭将棋をしたり素行は悪かったらしいが、その圧倒的な才能から後世に棋聖戦として名を残す尊称“棋聖”の代表格とされた。
※巣鴨の本妙寺にも墓がある。
※この人物伝を書くに当たって、日本将棋連盟棋士(6段)の方のご意見を参考にさせて頂きました。



★本因坊 秀策/Syusaku Honinbou 1829.5.5‐1862.8.10 (東京都、豊島区、本妙寺 33歳)2001&2010


 
温厚そうな秀策の肖像画 07年から墓域に案内板が登場



歴代本因坊の墓の配置図 秀策は右から5番目 右から2番目が秀元




これが史上最強の棋士、
秀策の墓だ!
各本因坊の墓前には碁石が!

秀策(左)の隣はもう一人の
碁聖、第4世道策!

本因坊二十余基の墓がズラリと並ぶと壮観の一言!
※初代算砂のお墓は京都にある
中央の墓は“最後の
本因坊”秀哉(21世)
毎年1月18日に“秀哉忌”が
現本因坊・祭主で行なわれる

“碁聖”本因坊秀策は江戸後期に活躍した碁の天才。幼名桑原虎次郎。信長の寵遇を得た初代本因坊から14代目にあたる。1846年(17歳)の井上幻庵因碩との対局中、秀策の鋭い一手で井上の耳が赤くなった「耳赤(みみあか)の一局」は、古今の名局とされている。江戸城では年に一度、国内最強の棋士を選ぶ御城碁(おしろご)が開催されたが、秀策は21歳の初戦から33歳で亡くなる(若い!)まで13年間全戦無敗の大記録を打ち立てた。
秀策の名は大ヒットマンガ『ヒカルの碁』に何度も登場したことから、最近の子供なら大抵は知っている。いやはや、マンガの力、恐るべし!

※歴代の棋士の中で「碁聖」と崇められるのは、秀策の他に戦い方の基礎を作った第4世「道策」の2人だけ。本因坊家は21世・秀哉(しゅうさい)まで続くが、秀哉はその時代の最強者が本因坊であるべきと考えて、「本因坊」の名をタイトル戦に変え日本棋院を設立した。



★本因坊 算砂/Sansa Honinbou 1559-1623.5.16(京都府、左京区、寂光寺 64歳)2005&08
※命日は6.13説アリ


 
おメメがとってもキュートな算砂 寂光寺の山門に掲げられた「碁道・
本因坊 元祖之道場」カッコイイ!

墓前には白と黒の碁石が1個ずつ置かれていた(2005) 3年後に再訪すると白石がなくて黒石が3個あった

京都大徳寺に伝わるこの碁盤は、「伏見城で秀吉が家康と対局時に使用」と算砂が奥書を残している!

本因坊家の開祖。本名加納与三郎。法名日海。7歳頃京都寂光寺に出家、同寺塔頭の本因坊に寄宿し、それが後に名となる。仏教を学ぶ一方で囲碁を習い始め、すぐに棋士の才能が開花、10代にして師を超えた。19歳の時、天才碁打ちの噂を聞いた信長に召し出されて、五子置いて対局。何度戦っても信長は勝てず、算砂の手筋に感服した信長は「まことの名人」と讃えた(名人の呼称の始まり)。

1582年(23歳)6月1日、本能寺。算砂は信長親子の前で深夜まで僧侶利玄(別説、林家初代・林利賢)と御前対局をする。この時に同じマス目で石を交互に獲り合う無限ループを禁じた「劫(コウ)」が三度も重なるという「三劫(サンコウ)」が起きる。算砂と利玄が“妙なこともあるものよ”と本能寺を後にした直後、未明に光秀が謀叛を起こしたことから、三劫は不吉の前兆とされるようになった。

1588年(29歳)、秀吉が関白就任の際に全国の碁打ちを集めて催した御前対局で、算砂が見事に全勝優勝。秀吉は寂光寺に米四石を与え、朱印状を贈った。また碁所(ごどころ)も設置する。33歳、算砂の名声は朝廷に及び権大僧都を任ぜられる。
1603年(44歳)、征夷大将軍となった家康に招かれ江戸に下り、本因坊算砂と改名。碁所に就き終身三百石を与えられ(破格の扱い!)、プロ棋士第一号となった。56歳、前田家から招待を受け金沢に2年間滞在。また50代後半に韓人李杓史と対決しこれに完勝している。
1623年(64歳)、碁所を弟子に譲り、同年5月「碁なりせば劫なと打ちて生くべきに 死ぬるばかりは手もなかりけり」(もし人生が碁であれば、何度も劫を打って生き続けるのに、寿命だけは延ばす手がなくどうすることもできなんのぅ)と辞世を詠み永眠。信長、秀吉、家康という三代に渡る天下人を碁盤で討ち取り、名人は去った。

奈良時代に遣唐船で渡来した囲碁は、後に平安貴族の間で大ブームとなった(源氏物語絵巻にも登場)。日本最古の棋譜は鎌倉初期の日蓮VS日朗の対局。室町時代には武士、商人、豪農の間にも囲碁が浸透していった。戦国期には戦略に役立つとして武将の間で熱心に碁が打たれ、武田信玄や真田親子は高度な棋譜を残している。現在のように庶民の間にまで広まったのは、1688年からの元禄年間。この時代に活躍した四代本因坊道策は、定石や布石理論をまとめ、名人(九段)、準名人(八段)、上手(七段)といった段位を設定、諸国の碁士の序列を分かりやすくした。

※現在、空手や剣道を始め、様々な分野で段位制が採られているけど、これを最初に始めたのが道策だ。
※本因坊家は血縁を重視せず、弟子の中から優れた者を跡目とした。1939年、21代本因坊(秀哉)は本因坊の名を棋界に譲渡した。これを受け、本因坊はタイトル戦の名称となる。
※最近ではマンガ『ヒカルの碁』に14代本因坊(秀策)が登場し話題を集めた。



★当麻 蹴速/Taima-no-Kehaya ?-B.C.22.7.7 (奈良県、葛城市、當麻・相撲館前)2008





墓は相撲の博物館(相撲館)の前にある 墓前には『史蹟当麻蹴速之塚』と刻まれた石碑が建つ 相撲関係者の信仰対象になっている

 
こちらは九州福岡の太宰府天満宮にある『野見宿禰公碑』。野見宿禰は菅原道真の祖先なんだって。
江戸時代はこの石碑の前にある3個の石“松・竹・梅”を使って若衆が力自慢をしたそうだ

大和国の豪族・当麻蹴速(當麻蹶速、たいまのけはや)は、日本書紀に出雲国の野見宿禰(のみのすくね)と共に登場する相撲の祖。開化天皇の系統の血を引く。B.C.29〜A.D.70年頃に活躍。力自慢で「誰にも負けない」と豪語していたが、垂仁7年7月7日の野見宿禰との対戦で蹴り殺された(腰骨を踏み折られた)。墓がある当麻の土地は垂仁天皇に没収され野見宿禰に与えられた。当麻蹴速は敗北こそしたが、都ずれしない素朴な性格が地元の人に愛され手厚く祀られている。



★谷風 梶之助/Kajinosuke Tnikaze 寛延3年8月8日(1750年9月8日)-寛政7年1月9日(1795年2月27日)
(宮城県、仙台市、谷風の墓 44歳)2009


身長約190cm、体重約170kg! 仙台市の勾当台公園に立つ谷風の等身大像 発進前のモビルスーツのようだ


「谷風の墓」。陸上自衛隊の霞目駐屯地に隣接している 松の木の下に谷風の墓所 戦時中に現在の場所に墓石が移されたとのこと

初代横綱。肩書きは第4代横綱だが、3代までは架空の人物ゆえ事実上の初代。1750年生まれ。現・仙台市出身。本名、金子与四郎。男性の平均身長が150cm台という時代に、身長約189cm、体重約169kgもあった超巨漢。仙台を巡業で訪れた2代伊勢ノ海に見出され、1769年(19歳)に初土俵を踏む。1781年(31歳)、当時の最高位の大関に昇進63連勝を記録する。全44場所、総取り組み数308のうち、負けはわずかに14という無敵ぶり。
1789年(39歳)にライバルの5代横綱・小野川喜三郎と共に初の横綱免許(将軍の上覧相撲でしめ縄をつけて土俵入りができる免許)を受けた。江戸で流行したインフルエンザのため、現役のまま44歳で他界した。生前の谷風は「土俵上でワシを倒すことはできない。倒れているのを見たければワシが風邪にかかった時に来い」と語っていた。

天を突く巨人でありながら、顔立ちが優しく人情家だった谷風。江戸の人々は彼を愛し、虚実とりまぜた美談も多く生まれた。中でも病身の母親を持つ貧しい力士との試合で、相手を押し出す時にわざと「勇み足」で先に足を出し、懸賞を与えた話が有名だ。
※徳川家斉の前で相撲を行った際に弓を賜り、これを持って土俵で舞ったことが弓取式の始まりとなった。

宮城県白石市傑山寺の初代谷風の墓。本名、鈴木善十郎。享保年間に
9年間無敗という記録を打ち立てた大力士。家は片倉家の鉄砲組足軽



★双葉山/Futabayama 1912.2.9-1968.12.16 (東京都、荒川区、善性寺 56歳)2008

 
「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」

昭和13年(1938年)に横綱となり、通算69連勝、優勝12回、全勝8回、史上最強の横綱・双葉山。
本名、龝吉定次(あきよしさだじ)。大分県出身。身長179cm、体重130kg。第35代横綱は昭和屈指の大力士となった。
10代で早逝した娘の為に建てた墓に自身も入った。



★出羽海(常陸山 谷右エ門)/Dewanoumi 1874.1.19-1922.6.19 (東京都、台東区、谷中霊園 48歳)2008

 
現在まで続く出羽海一門の礎を築く

第19代横綱。本名、市毛 谷。相撲の世界に武士道を導入、大相撲を国技と呼ばれるほど地位を高めた“角聖”。
32場所150勝15敗22分2預131休。優勝7回。身長174cm、体重146kg。1915年、初めて力士の米国巡業を行った。




★3代目朝潮 太郎/Taro Asasio 1929.11.13-1988.10.23 (東京都、港区、長谷寺 49歳)2010

  

第46代横綱。本名・米川 文敏。鹿児島(奄美諸島)徳之島出身。米軍占領下から密航して高砂部屋に入門。身長189cm、体重145kgの巨体は、当時「100年に1人」と言われた。太い眉毛の男性的な風貌や胸毛で人気があり、1959年(30歳)横綱に昇進。全5回の優勝のうち4回を大阪で達成し「大阪太郎」と呼ばれた。1962年(33歳)引退。大関・小錦を育てた。



★ボビー・フィッシャー/Robert James “Bobby” Fischer 1943.3.9-2008.1.17 (アイスランド、セルフォス 64歳)2009
Laugardaelir Church Cemetery, Selfoss, Hafnarfjordur, Iceland

〜ボビー・フィッシャーを探して〜

やって来ましたアイスランド!首都レイキャビクから出発
冬場は一面氷に閉ざされるという 轟音と共に水煙をあげる巨大な滝!(ゴールデンサークル)

 
ボビーの墓の最寄りの町はセルフォス。セルフォスにはレイキャビクから路線バスが
1時間おきに出ている。所要時間は約1時間。車窓から写真のように雄大な景色が見える
セルフォスからは地元のタクシーに乗り換え。
このお兄さんの本職は映画館の映写技師なんだって




















チェス王は教会墓地の片隅に眠る 数々の伝説を残して逝ったボビー! 墓石の傍らに小さなトロフィー?があった よく見るとチェスの絵が描いてあった!

更新中。チェスの天才、反逆児ボビー。近日中に人物伝を載せます!



★ダニエル・ブーン/Daniel Boone 1734.11.2-1820.9.26 (USA、ミズーリ州 85歳)2009
Old Bryan Farm, Marthasville, Warren County, Missouri, USA /Boone Monument Road Marthasville

 
墓石が建て替えられたばかり アメリカの西部開拓時代の探検家。国民的人気を誇っている

アメリカンスカウト協会の前身となった組織の名前は「Sons of Daniel Boone」。ダニエル・ブーンはボーイスカウト精神の象徴の
一つとして尊敬を集めている。また、小説『夏への扉』の主人公や『プライベート・ライアン』の米兵士の名前としても有名。




★雷電爲右エ門


寛政年間に先輩の谷風梶之助や小野川喜三郎らと共に最初の相撲黄金時代を築いた。



★ハインリッヒ・ハラー/Heinrich Harrer 1912.7.6-2006.1.7 (オーストリア)2015
Huttenberger Friedhof, Austria





アイガー北壁を初登頂 晩年のハラーとダライ・ラマ ブラピ主演で映画化

オーストリアの山間部、寒村の崖に… 突然現れた巨大なチベット仏画 付近にはチベット仏教の巡礼路“Lingkor”が作られている

村外れの墓地にハラー夫妻が眠る 門から入ってすぐの場所


夫人は2014年に他界されたばかり 墓石にはチベット仏画の布が掛けられていた!

スイス中部、西アルプスの高峰アイガー(3970m)は、北壁が高さ1800mの岩壁になっており、非常に危険なルートとして知られている。マッターホルン北壁、グランドジョラス北壁と共にアルプスの三大北壁と呼ばれ、滑落事故、凍死者の多さから一時期は地元ベルン州の州議会が登攀禁止の決議を採択するほどだった。1938年7月24日、このアイガー北壁を初登頂したのがオーストリア隊のハインリッヒ・ハラー(当時26歳)だった。
ハラーは1912年7月6日にオーストリア・ハンガリー帝国のケルンテンで生まれた。グラーツ大学で地理学を学び、卒業後にアイガーを制覇。その功績が認められ、世界第9位の高さを誇るヒマラヤのナンガ・パルバット(8125m)にドイツ隊が挑む際のメンバーに加えられた。ナンガ・パルバットはドイツ隊20名以上の命を奪い「人喰い山」と恐れられた(現在、冬季登頂未成功の8000m峰はK2とナンガ・パルバットのみ)。
1939年(27歳)、ナンガ・パルバット遠征中のドイツ隊は、第二次世界大戦の勃発によりイギリス領インドで敵国民として英軍に捕らえられた。ハラーは何度も捕虜収容所(2000人収容)から脱走を試み、その度に独房に入った。
1944年(32歳)4月29日、捕虜生活5年目についに成功した。捕虜2名がイギリス人将校の制服を身に着け、ハラーを含む5名が鉄条網の修理隊に変装し、7名で堂々とゲートから出ていったのだ。このうち、一週間後に無事にインドとチベットの国境にあるツァンチョクラ峠(5700m)を越えられたのは、ハラーとナンガ・パルバット遠征隊にいた登山家ペーター・アウフシュナイダーのみだった。アウフシュナイターは何年もかけてチベット語を独学していた。
ハラーの計画は中立国のチベットを通過して、同盟国・日本軍の前線があるビルマか中国に逃れるというものだった。「目の前にはヒマラヤがあった。峠を越えてチベットにたどり着くアイデアは登山家にとって非常に魅力的だった」「もし計画が失敗に終わっても、高山地帯でしばし自由を味わえるのだ、やってみる価値はあった」。ハラーはインド人になりすますためにブロンドの髪を黒く染め、肌も油脂などで黒くし、人目を避けるため昼は休み夜に移動した。ヒョウやトラなど野生の猛獣は危険だったが、熊が攻撃的なのは昼だけで、夜は臆病だった。
最大の問題はチベットが当時鎖国状態にあったこと。外国人は通行許可書がなければ入国できなかったうえ、ハラーたちにはパスポートがなかった。巡礼者のふりをして数週間進んでは、チベットの役人に見つかって追い出され、同情してくれた有力者に、ラサの中央政府に代理で滞在許可申請を出してもらうといったことを何カ月も繰り返した。キロンという村では申請の返事を待つために9カ月も滞在した。途中で捕虜収容所から脱走した仲間が1名加わったが、しびれを切らしてネパールへ渡り、その男はネパールの当局からインドの収容所に強制的に送り返された。
ハラーは手袋のかわりに靴下を使うような心細い装備で5000m級の峠をいくつも越え、一ヶ月まるまる人の住んでいる集落に遭遇しないこともあったし、山賊に殺されかけたこともあった。途中で終戦を知ったが、イギリスは第1次世界大戦の際に終戦の2年後まで捕虜の収容を続けた過去があり、ハラーは拘束を恐れてチベット奥地へ向かう試みを続けた。
「ツァンポ川は凍りつき、夜のテントは猛烈に寒かった。手元の温度計はマイナス30度で止まっていた。それ以下の目盛りがないからだ」
「ラサに入ることを認めてくれないチベット人を恨む気持ちは皆無だった。パスポートがないのだから当たり前だ。それにもかかわらず、チベットの人々は食べ物をくれ、ヤクやロバなど輸送手段を提供してくれるなど、他国では考えられないほど親切にもてなしてくれた。私とアウフシュナイターは鉄条網の外で8カ月も過ごせたことに感謝の念を抱いていた」
「広大なティングリ平野に入り、我々は息を呑んだ。背後には世界一の高さを誇るエベレストがそびえていた。驚嘆、興奮、畏怖の念と共に頂上を眺め、登頂に挑んで落命した勇者たちの数々の遠征に思いを馳せた。この場所からエベレストを見たヨーロッパ人は我々が初めてだろう」

1945年12月31日、チベットで迎える二度目の大晦日。許可証のないまま、なんとかラサの近くまでたどり着く。
「相変わらず“非合法”のまま国土をさまよい、二人とも落ちぶれ果てて、今にも餓死しそうな浮浪者であり、小役人に出くわすたびに身を隠さねばならない。しかも依然としてラサは幻の目的地であり“禁断の都”であった」
1946年(34歳)1月、捕虜収容所の脱走から21カ月をかけ、とうとうラサの潜入に成功した。ここからは奇跡の連続だ。幸運なことにたまたま屋根を借りた家が政府高官の館で、そこからダライ・ラマの母親との交流に繋がった。
1949年(37歳)、月に一度のダライ・ラマ母子の面会に同行したハラーは、当時14歳で好奇心いっぱいのダライ・ラマ14世と出会う。ハラーは英語を教えるなど個人教師となって親しく交流し、アウフシュタイナーも土木工事の指導を任されるようになった。
1950年、中国共産党の人民解放軍がチベットに侵略開始。1951年、ハラーとダライ・ラマの親密な関係は人民解放軍のラサ侵攻で終わりを告げ、ハラーは母国オーストリアに帰国した。1959年、ダライ・ラマはチベットを脱出し、インドに臨時政府を作った。
ハラーがチベットで過ごした7年間を綴った著書『チベットの七年』は48以上の言語に翻訳され、300万部以上のベストセラーとなった。同書は1997年に映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(主演ブラッド・ピット)として映像化され、多くの人々の知るところとなる。2006年1月7日、ハラーはオーストリア南部フリーザハの病院で他界。享年93。ハラーの故郷にハラー博物館があり、その近くにはチベット仏教の巡礼路“Lingkor”が作られている。
捕虜収容所を脱走した7人のうち、無事に逃げのびたのはハラーとアウフシュナイターの2人の登山家だけ。つまり、登山家でなければ成功しなかった。肉体的にも精神的にも過酷な高山地帯の逃避行に耐えられたのは、2人が登山家としての知識と生存技術を持っていたから。

ハラーとダライ・ラマは別離の後も親交を保ち続けた。訃報を聞いたダライ・ラマ法王は、ハラー夫人に次の追悼文を送った。「私の友人、ハインリヒ・ハラー氏の訃報を受け、悲しみの念に堪えません。奥様、そしてご家族の皆様に、衷心より哀悼の意を捧げます。私は悲しみに暮れています。なぜなら、ハインリヒ・ハラー氏は私個人の友人であり、私に英語を教えてくださったのもハラー氏だったからです。ハラー氏は、オーストリア人の英語の先生でした。ハラー氏に初めてお目にかかったのは1949年でした。未知の世界からやってきたハラー氏から、私は様々なことを学び、とりわけ、彼の出身地であるヨーロッパについては多くのことを学びました。『セブンイヤーズ・イン・チベット』というあまりに有名な本と講演活動を通して、チベットとチベット人への社会的関心を喚起してくださったハラー氏にたいする感謝の念はことばに尽くせませんが、この場をお借りして、心より深くお礼申し上げたく存じます。ハラー氏がチベット人に寄せてくださった敬愛の情は、誰の目にも明らかです。まだ自由であったころのチベットで7年間もの日々を過ごすという貴重な体験をした、西洋の、忠信の友を失ってしまったことを、チベット人は嘆き悲しんでいます。我々チベット人は、ハインリヒ・ハラー氏への想いを、これからも胸に抱き続けます。あなたとご家族のために、心より祈りを捧げます」(2006年1月10日)

※ハラーはスキーヤーとしても優れており、1936年(24歳)、冬季オリンピックの代表に選ばれている。ゴルフの才能もあり、オーストリアのアマ王者になっている。
※ダライ・ラマの名前の意味は“大洋に優る徳”。実兄はブータン国王の暗殺事件にかかわっているという。
※信仰上、チベットでは動物から食べ物を奪うことが禁じられているため、蜂蜜の採集も禁止。輪廻転生の概念から、畑でミミズを殺すことも許されない。
※黒歴史としてハラーはナチス親衛隊員に所属していた時期があるが、後に「大きな間違いだった、不快な思い出だ」と後悔している。
※アイガー北壁の初登攀を記した『白い蜘蛛』など20作以上の著作がある。



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