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| 農民出身でありながら、最後は幕府旗本の武士として薩長と戦った近藤勇。剣の達人。 怖そうに見えるが、両頬に笑いエクボがあったという。拳を大きな口に入れるのが特技だった |
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| 近藤局長の生家跡。かつてここには面積約7千平方メートルもの大屋敷があったが、 残念ながら1943年に取り壊された。現在の跡地は屋敷の東南部にあたる(2010) |
生家跡に残っている「近藤勇 産湯の井戸」。 リアルに当時のもの! |
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| 生家跡に隣接して局長を祀る近藤神社が建つ |
天然理心流道場「撥雲館」(はつうんかん)。養子の勇五郎が後継者となり、1933年に他界する まで教えていた。生家跡と道を挟んで建つ。※“撥雲”とは雲を蹴散らすこと。命名は山岡鉄舟! |
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| 近藤らが京都で最初に身を寄せた八木邸。 新選組発祥の地ともいえる |
『新選組屯所遺蹟』 芹沢は八木邸で散った |
壬生寺の境内。ここで沖田や 古参の隊士たちが訓練をした |
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| 壬生寺の近藤勇像 |
近藤の遺髪塔 (壬生塚) |
八木邸の向かいにある前川邸。一般隊士 はこちらに住み、八木邸は幹部が使った |
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| 前川邸。山南が切腹したのはこの建物! (売店のすぐ裏の部屋とのことデス) |
近藤が雨戸に書いた 「勤勉・努力・活動・発展」 (展示パネルより) |
池田屋騒動の発端と なった拷問部屋。 くわばらくわばら… |
庭には顔出しパネルが あった。これで貴殿も新選 組隊士の仲間入り! |
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| 京都市東山区の霊山護国神社にある「古高俊太郎之墓」。1864年、新選組に捕縛された商人・古高は苛烈な拷問を受ける。逆さ吊りにされ足の甲に五寸釘を 打たれ、突き抜けた釘に蝋燭を立てられ火をつけられるというエグさ。古高は耐えきれず隠し持っていた大量の武器弾薬が攘夷派志士のものであると 自白した。これを受けて新選組は池田屋に潜伏する志士を急襲する。事件の翌月、禁門の変の火災が古高の獄舎に迫り、逃亡防止の為に斬首された |
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| 現在の池田屋の前の道。先は三条大橋。 旅籠の池田屋は明治初期まであった |
池田屋跡は貸店舗になってる。以前はパチンコ屋 だったらしい。う〜ん、これは寂しい!(2008) |
2年後に再訪。なんと「池田屋」が復活ッ!09年7月に 海鮮茶屋として開店。東映が内装に協力したとのこと! |
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| 『池田屋騒動之址』の石碑と事件の顛末を記した案内板 |
“誠コース”“土方コース”等々。 龍馬が好きだった軍鶏鍋もあり |
カクテルの名前が「斉藤一」「山南敬助」。近藤は 下戸なのでノンアルコールの名前になっていた(笑) |
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| 池田屋から約150mの賀茂川に架かる三条大橋。その下流側欄干の西から 二つ目の擬宝珠には池田屋騒動時についたとされる三本の刀傷がある(2010) |
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| 京都市左京区岩倉花園町の三縁寺。 池田屋の近くから移転してきた(2010) |
山門脇の石柱「池田屋 事変殉難烈士墳墓」 |
寺墓地の一角に、新選組に斬られた志士たちの墓所が ある。正面の鳥居の奥に宮部鼎蔵と松田重助の墓碑 |
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| 左側に吉田稔麿、杉山松介、北副佶摩、望月亀彌太、石川潤次郎、廣岡浪秀の 6人の合同碑があり、その隣に大高又次郎の碑が建つ(白い石柱) |
右側には後年の改葬時に偶然発見 された宮部と松田の旧墓碑が建っている |
京都の霊山護国神社に ある宮部鼎蔵の墓(2010) |
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| 新選組はこの西本願寺の境内で、大砲を撃ったり 豚を飼って肉を食べ、僧侶たちを激怒させた(オイオイ) |
新選組がいた当時のままの太鼓堂(右手前の建物)。 白人男性2人が見学している。完全に攘夷失敗! |
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| “禁門の変”で長州藩を撃退した京都御所の蛤御門 | 蛤御門には多数の弾痕(白い部分)が残る |
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| 3番目の屯所跡に建つリーガロイヤルホテル。 ホテルの前に「不動堂尊屯所」の石碑がある |
西本願寺からさらに引っ越したのが、広さ1万平方メートルで 大名屋敷のように立派だったと伝わる「不動堂尊屯所」 |
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| 島原の大門。新選組の隊士達もこの幕府公認 の花街に繰り出し、酒を呑んで恋をした |
島原の提灯 |
角屋(すみや)は幕末の京都で最大の宴会場 だった。芹沢はここで呑んだ夜に粛清された |
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| 知る人ぞ知る新選組記念館。何もかも手作り。2階の天井に傘がぶら下がってるのは、 雨漏り対策とのこと(今にも天井が落ちそう!)。いろんな意味で衝撃的だった |
天満屋事件の場所。“勤王之士中井正五郎受難之地”とある。 旅籠・天満屋で新選組と土佐藩士が激突した |
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| 一番隊隊長・沖田総司。命日 のみ公開(東京・専称寺) |
総長・山南敬助 (京都市・光縁寺 |
初代筆頭局長・芹沢鴨 (京都市・壬生寺) |
三番隊隊長、斎藤一/藤田家 (会津若松、阿弥陀寺) |
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| 元参謀・伊東甲子太郎 (京都市、戒光寺) |
香川敬三(1841-1915)。流山で近藤を捕縛した水戸 藩士。陸援隊に参加後、戊辰戦争で大軍監になった (東京都、青山霊園)2010 |
加納鷲雄(道之助 1839-1902)。元新選組隊士。偽名で 投降した近藤を見破った。大河ラストの「お久しぶり です、加納君」の名シーンが蘇った!(青山霊園)2010 |
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| 東京・王子の寿徳寺。門の脇に局長のレリーフがある | 石碑には「新選組隊長近藤勇菩提寺」とある |
| 近藤の墓は各種文献に寿徳寺と書かれているので、住宅街の中に埋もれていたこの寺を30分かけて探し出した。門前の局長の肖像を見て テンションがマックスになったのも束の間、境内にそれらしい墓はない。お寺の方に尋ねたところ「ここにお墓はなく、板橋の駅前に墓だけがある んです」とのこと。グハ〜ッ!まさか寺と墓地が分かれていたとは!(いわゆる境外墓地ってやつだ!) これにはまいった。さぁ板橋へ! |
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| 板橋刑場跡に永倉新八が整備した新選組の墓所(2008)。 近藤は処刑後、首は京へ送られ、胴はここに埋められたという |
局長だけでなく、下っ端の隊士も皆が弔われている |
この小ぶりの石が 近藤局長の墓石! |
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| 近藤と土方、両者の名が刻まれた3.6mの巨大な供養塔 ※側面には源さんたち他の隊員(110名)の名前もある ※本名昌宜だけど、これは宜昌って間違えてる…(汗) |
多数の隊士が祀られた無縁塔 |
新選組二番隊組長・永倉新八の墓。 永倉の本墓は北海道小樽だが、遺言で 分骨され、遺骨と遺髪が納められている |
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| 日本酒とオツマミがあり、小梅ちゃんもあった | ここにも例のレリーフが | 微妙な局長の像 |
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| 天寧寺前の柱に 「嗚呼」とあった |
墓前まで少し距離があり、 道標を頼りに山道を行く |
ジーン。近藤の墓(左)と土方の供養塔が並ぶ。後世の優しい 人が“土方を並べてあげようよ”って提案したんだろうね (>_<) |
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| 法蔵寺の山門。家康は幼少の頃、当寺で勉強したそうだ | 「新撰組隊長・近藤勇首塚」 | 境内の奥に進むと階段の先に赤い「誠」の旗が! |
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| この寺の39代目住職と近藤局長が親しかったという | 墓前には青い「誠」の旗もたなびいていた | このド迫力!墓と一緒に見るとすごい存在感! |
| いったいなぜ局長の墓が愛知県に?寺伝には次のように伝えられている→ 『板橋での処刑後、近親者の依頼を受けた人夫たちが、夜中密かに胴体を掘り出し、三鷹の竜源寺(近藤家の菩提寺)に埋葬した。一方、勇の首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋の西側に晒された。それを同志が三晩目に持ち出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の空義天大和尚(おしょう)に埋葬を頼もうとしたところ、和尚は半年前に三河国法蔵寺に転任していた。法蔵寺は大木が生い茂る山中にあり、隠れ墓を作るのに適していた。かくして埋葬後、世間に悟られぬよう、石碑を土で覆い無縁仏のようにした。近年、石碑から土砂を取り除いたところ、台座に土方たちの名前が見つかった』。けっこう具体的で説得力がある。 |
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| 銅像の右側が墓。建立者の名前が土台にある | よく見ると一番右側に…ゴゴゴゴゴ… | 「土方歳三」とハッキリある! |
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| 局長の胸像は背中に家紋が入ってマス |
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| 近藤家の菩提寺、竜源寺の山門(2010) | 壬生寺や法蔵寺で謁見した局長の胸像がこちらにも! | 本堂の裏、一番手前が近藤家の墓所 |
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| 初巡礼。到着した時はもう真っ暗!(2001) | 3年後。墓前はお花がいっぱい!(2004) | さらに6年後。右から2番目が局長。木が成長しまくり(2010) |
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| 千羽鶴はこれまで局長、沖田、龍馬の墓前のみで確認! | 正面から。「近藤勇墓」と刻まれている(2010) |
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| 墓前の箱にはなんとファンのメッセージ・ノートが!しかも相当な量ッス!(約25冊) | 近藤の首が晒された京都の三条河原。池田屋から近い |
| 新選組局長。名は昌宜(まさよし)。武蔵国(東京・調布市)の農家、宮川久次郎の三男。幼名、勝五郎。1849年(15歳)、天然理心流3代目宗家・近藤周助の道場(試衛館)に入門して剣術を磨き、盗人退治などで知勇を発揮。周助の望みで近藤家の養子となった。26歳で結婚し、同年に天然理心流4代目家元となる。2年後に長女が誕生。 1863年(29歳)、14代将軍家茂の上洛を警護する「浪士隊」に応募し、門下の土方歳三(1歳年下)、沖田総司(8歳年下)らと共に京に入る(浪士隊は234名)。ところが浪士隊盟主の清河八郎が上洛するやいなや幕府を裏切り「将軍警護より倒幕こそ重要」と主張。感銘を受けた200余名が江戸に戻ってしまう(2ヶ月後、清河は江戸で暗殺される)。 京都に残ったのは近藤たち試衛館の者と、水戸郷士・芹沢鴨ら24人のみ。彼らは壬生(みぶ)村・八木源之丞邸に駐屯した。そして京都守護職、会津藩主・松平容保の配下として「壬生浪士組」を名乗り治安維持活動を行った。同年、会津藩&薩摩藩が攘夷派の長州藩を京都から追い出した宮中クーデター“八月十八日の政変”が勃発。壬生浪士組は御所の警護や長州藩士の捕縛が評価され、会津藩別動隊「新選組」の呼称を拝命した。翌月、乱行の目立った初代局長・芹沢鴨が土方、沖田らに暗殺され、近藤を局長とした強固な組織が完成する。新選組は尊王攘夷運動を繰り広げる尊攘攘夷派志士の取り締まりを強化していく。 元治元年(1864年)6月5日(30歳)、肥後勤王党の熊本藩士・宮部鼎蔵(ていぞう)の同志で商人の古高俊太郎を捕縛。古高が多数の武器弾薬を保管し長州藩と親しかったことから、“鬼の副長”土方歳三が拷問にかけた。それは逆さ吊りにして足の甲に五寸釘を打ち、貫通した釘にロウソクを立て火をつけるという苛烈なもので、古高は「京都御所に火を放ち、混乱に乗じて一橋慶喜(後の15代将軍)・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州に連れ去る」という大胆な計画を自白した。 近藤は直ぐさま過激派志士の捜索を開始、近藤隊10名、土方隊24名の二手に分かれて都を駆け巡る。22時過ぎ、近藤隊が旅館・池田屋に潜伏している尊攘派を発見した(古高捕縛後の対策を練っていた)。事態は火急であり、近藤は土方らの到着を待たずに突入を決定。近藤、沖田、永倉新八、藤堂平助のわずか4名で、志士20数名が潜む屋内に踏み込んだ。藤堂が額を斬られ、沖田が喀血し、一時は近藤と永倉の2人になるも、やがて土方隊が合流。激闘の末に、長州、土佐、熊本藩士ら9名を斬り捨て、4名を捕らえた。新選組側は裏口を守っていた3人が死亡(奥沢栄助は当日死亡、安藤早太郎と新田革左衛門は後日死亡)。翌朝、新選組は諸藩と連携して逃亡した志士の掃討戦を行い、会津藩5名、彦根藩4名、桑名藩2名の死者を出しつつも20余名の捕縛に成功した。新選組は正午に壬生村の屯所まで凱旋し、多くの見物人が沿道を埋めた。 この池田屋事件で御所焼討ち計画を防いだ新選組の名声は都中に広まり、幕府から多額の褒賞金を賜った。 多数の犠牲者を出した長州藩では武闘派の怒りが爆発し、池田屋事件の翌月に挙兵。上洛して禁門の変(蛤御門の変)を起こすが、またしても会津藩&薩摩藩に蹴散らされた。新選組も長州軍を撃退し、大いに活躍する。同年秋、藤堂平助の仲介で北辰一刀流の達人・伊東甲子太郎を参謀として新選組に迎え、伊東の盟友も数名が隊士となった。 1867年(33歳)、新選組隊士105名が幕臣となる。農民出身の近藤が旗本へと登りつめた。目出度いことではあるが、この時期、新選組は分裂の危機にあった。佐幕攘夷派の近藤・土方らと、勤王攘夷派の伊東には、攘夷の方法をめぐって路線の違いがあり、伊東は藤堂平助ら同志14名と共に御陵衛士(高台寺党)を結成して3月に新選組を離脱した。本来であれば脱走者は切腹であるが、薩摩藩の動向を探る“分隊”という形をとり衝突を避けた。新選組の奮闘も時代の流れを止める事はできず、10月に幕府は大政奉還を受け入れ、徳川の治世は終焉を迎える。1ヶ月後の11月15日、京都近江屋にて坂本龍馬が暗殺される。人々は龍馬殺害の犯人を新選組と噂し合ったが、近藤は明確に否定した。 龍馬暗殺の3日後、近藤は伊東との共闘は不可能と判断し御陵衛士の粛清を決行する。剣豪である伊東を歓待し、酔わせた上で隊士に暗殺させ、その遺骸を路上に放置した。これは罠であり、遺骸を引き取りに来た御陵衛士たち(藤堂も)を待ち伏せて斬り捨てた。御陵衛士残党は復讐を誓い、翌12月に伏見街道で近藤を狙撃。右鎖骨上から上斜脊椎の肩にかけ銃創を負った近藤は大坂城で療養することになり、1868年正月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いには参戦できなかった。 その後、江戸に戻り大久保剛と改名し、幕命により甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織する。3月に甲斐国勝沼(山梨県甲州市)で新政府軍と戦い敗北。永倉新八、原田左之助は離別した。近藤はさらに改名して“大久保大和”と名乗り、下総国流山(千葉県流山市)で再起を図るが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され出頭する。近藤はあくまでも“自分は大久保大和である”と名乗っていたが、新政府軍にいた元御陵衛士の加納鷲雄に“近藤勇”と見抜かれ、4月25日に江戸・板橋の刑場で斬首された(土佐藩は龍馬を新選組が殺した思っており斬首にこだわった)。戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。近藤の首は焼酎に浸され、京都に運ばれて三条河原にさらされた。娘は長男久太郎を産み25歳で早逝。久太郎は日露戦争で戦死し、直系の子孫は絶えた。 幕府は次々と志士を捕縛する近藤の手腕に感服し、何度か要職に採り立てようとしたが、近藤は誘いがある度に「逆賊を捕らえるのが仕事であり当たり前のことをしてるだけ。お心遣い下さらなくて結構。私は今のまま新選組隊長でいるのが一番いい」「高い地位は私の任ではないから」と固辞し続けたという。厳格な身分制度の世にあって、百姓として生まれ幕臣として散った、嵐のような33年であった。 【墓について】 近藤の首は三条河原で晒された後に行方不明になったとされているが、それにも諸説があり、全国に6カ所の墓所が確認されている。どこか1カ所が正しいというより、各所に分骨されたのかも知れない。 ・新選組墓所(東京都板橋区)…元処刑場に新選組二番隊組長・永倉新八が墓を建立。首は京へ送られ、胴体はここに埋められたという。ちなみに本名の昌宜が、誤って宜昌と彫られている。 ・竜源寺(東京都三鷹市)…近藤家の菩提寺。養子の勇五郎が刑場から亡骸(胴体)をもらいうけ、生家に近い竜源寺に葬ったという。頭部を竜源寺に葬ったとする説もある。墓前にはたくさんの千羽鶴がある。歴史上の人物で、墓所に千羽鶴があったのは、近藤局長、沖田、龍馬だけでしか見たことがない。また、墓前には約25冊ものメッセージ・ノートがあった。 ・天寧寺(福島県会津若松市)…天寧寺の裏山に、会津藩が建てた墓がある。京都三条大橋下流に晒された首を何者かが持ち去り当地に埋めたといい、土方らが会津に来た時にこの墓に参詣している。土方が遺体の一部を葬ったとも。今は近藤の墓(左)と土方の供養塔が並ぶ。後世の優しい人が“土方を並べてあげようよ”って提案したんだろう。 ・壬生塚(京都市中京区)…新選組の最初の屯所、八木邸のそば。遺髪を埋葬。 ・法蔵寺(愛知県岡崎市)…勇と懇意だった僧侶が埋葬した首塚。なぜ局長の墓が愛知県に?寺伝には次のように伝えられている。『板橋での処刑後、近親者の依頼を受けた人夫たちが、夜中に胴体を掘り出し、三鷹の竜源寺に埋葬した。一方、勇の首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋の西側に晒された。それを同志が三晩目に持ち出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の空義天大和尚(おしょう)に埋葬を頼もうとしたところ、和尚は半年前に三河国法蔵寺に転任していた。法蔵寺は大木が生い茂る山中にあり、隠れ墓を作るのに適していた。かくして埋葬後、世間に悟られぬよう、石碑を土で覆い無縁仏のようにした。近年、石碑から土砂を取り除いたところ、台座に土方たちの名前が見つかった』。けっこう具体的で説得力がある。 ・高国寺(山形県米沢市)…首塚。米沢で織物業を営む従兄弟の近藤金太郎が晒されていた勇の首を盗み出し、板橋の刑場から7kmほど北の赤羽近くの河原で焼いた後、紙に包んで米沢に持ち帰り、高国寺(鍛治町)の近藤家墓地に埋葬したという(金太郎の孫・利三郎が残した「覚書」による)。 西郷や龍馬を愛する僕がなぜ新選組の墓を訪れるのか。簡単だ。討幕派、幕府派ともにその思想こそ違えども、自分の命を勘定に入れず、真に国や社会を憂いて生き抜いた連中だからだ。考えてみれば、あの時代はどの陣営に属していようと行動した者は、ほとんど非業の死をとげている。吉田松陰を無残に処刑した井伊直弼は暗殺され、志士を血祭りにあげた新選組も全滅し、西郷を討った大久保利通も殺された。生き残ったのは世渡りのうまい大商人だけだ。 【 新選組局中法度 】 一. 士道に背きまじきこと 二. 局を脱するを許さず 三. 勝手に金策いたしべからず 四. 勝手に訴訟取り扱うべからず 五. 私の闘争を許さず 右の条々あい背き候者は切腹申しつくべき候なり 【 新選組・組織構成表 】 局長・近藤勇(天然理心流) 副長・土方歳三(天然理心流) 総長・山南敬助(北辰一刀流) 参謀・伊東甲子太郎(北辰一刀流) 一番隊・沖田総司(天然理心流) 二番隊・永倉新八(神道無念流) 三番隊・斎藤一(一刀流) 四番隊・松原忠司(関口流) 五番隊・武田観柳斎(北辰一刀流) 六番隊・井上源三郎(天然理心流) 七番隊・谷三十郎(新陰流) 八番隊・藤堂平助(北辰一刀流) 九番隊・鈴木三樹三郎(北辰一刀流) 十番隊・原田左之助(宝蔵院流) ※志士の恨みを買った近藤は何度も命を狙われた。ある時、志士十数人に待ち伏せされたが、彼は逆に「お前たちに死の贈り物をしよう」と叫んで斬りまくり、暗殺者たちは逃げ去ったという。 ※新選組の全隊士は456人。 ※池田屋事件は、有能な志士が一掃されて維新が数年遅れたという説と、逆に志士たちに怒りを生み維新を早めたという説がある。 ※写真の近藤は怖そうに見えるが、両頬に笑いエクボがあったという。拳を大きな口に入れるのが特技だったが、これは敬愛する加藤清正の特技をあやかったもの。 ※剣術の師匠、近藤周助いわく「気迫で人を倒すのが彼の剣法だ」。 ※愛刀は講談のセリフ「今宵の虎徹は血に餓えている」で知られる“虎徹”。近藤の虎徹は偽物という説もある。 ※忠臣蔵の大石内蔵助を尊敬しており、赤穂浪士を真似て新選組の隊服をデザインしたという。 ※生家は太平洋戦争中の調布飛行場延長工事で取り壊された。 ※壬生村屯所となった前川邸には近藤が「勤勉・努力・活動・発展」と書いた雨戸が現存する。 ※「新選組」は「新撰組」とも表記されるけど、新選組の公印や近藤勇の書状では“しんにょう”になっており「新選組」が相応しい。 |
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| 上野公園にある彰義(しょうぎ)隊の墓。新選組解散後は彰義隊に合流して薩長と戦った者もいた(2008) |
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| 京都・壬生の八木邸お茶席にあったこのポスター、3枚とも超欲しいんですけど!!(☆o☆) |
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| カリスマ性バツグン! | 現代なら俳優になれそうなイケメン |
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| 生家近くの高幡不動尊(東京都日野市) | 高幡不動尊に建つ超カッコいい土方歳三像!男も惚れるぜ! |
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| 歳三の生家は1846年の大洪水で被害を受け、300m西に移築された。現在「土方歳三資料館」として遺品等を公開しているが、 近年の新選組ブームで来客が増えすぎ、今は毎月第1&第3日曜日の正午〜16時という4時間のみの開館となっている。 ※大阪から日野市まで行って閉まっていたので涙目に… |
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| 土方家の菩提寺・石田寺(日野市) | 境内にある土方歳三顕彰碑 |
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| 画面中央が歳三の墓(2009) |
土方一族の墓所の一角に眠る |
墓前に肖像写真があったけど、 変色して可哀相なことに… |
こちらは9年前(2000年)の墓! この3ヶ月後に建て直されたので 今となっては貴重な写真だ |
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| 「鳥羽伏見戦跡碑」。当地から歴史が変わった!(2010) |
薩摩の砲声を機に両軍が最初に激突した小枝橋 | 小枝橋は近年の拡張工事でグンと大きくなった |
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| 小枝橋のすぐ近くにある鳥羽離宮公園に建つ「鳥羽伏見の戦い (戊辰戦争)勃発の地」碑。生垣で解説の下半分が読めません… |
新選組は会津藩と幕府軍の間に布陣! ※鳥羽離宮公園の解説板より(2010) |
薩摩藩の本営があった伏見の城南宮 (2010) |
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| 函館市内の称名寺 | 歳三と新選組隊士の供養塔 | 供養塔の手前には千羽鶴や墓参ノートがあった |
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| 函館どっくの入口付近。新選組が守備した 弁天岬台場の砲台陣地は公園になっていた |
「弁天岬台場跡」。この案内板がなければ ここが激戦地だったとはまず分からない |
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| 五稜郭から箱館中心部に続く一本木の関門 |
「土方歳三最後之地」。歳三は弁天岬砲台で
孤立した仲間を救出するためここから出撃した |
午前10時頃、一本木関門において 腹部に銃弾を受けて戦死した |
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| 戊辰戦争で決戦の舞台となった五稜郭。 近年“五稜郭タワー”が高くなったので、 美しい五稜郭の全容が見渡せる |
五稜郭の敷地には土饅頭が幾つもあり、管理事務所に 隣接するこの木の根元からも人骨が出て来たとのこと。 歳三たちもこのように葬られたと見られている |
五稜郭の中心に復元中の 箱館奉行所(2010年完成予定) |
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| 五稜郭タワー。60mだったのが 06年に107mにリニューアルされた |
タワーの1階に大砲と歳三の銅像がある |
生誕地の銅像と異なり こちらは晩年の洋装 |
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| タワーの展望台には五稜郭の歴史がフィギュアで解説されている。 この『土方歳三最期の突撃』は鬼神の如き表情で引き込まれる |
ツーショットで撮られまくり だった歳三の座像 |
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| 函館の碧血(へっけつ)碑 (1998) |
箱館に散った旧幕府軍約800名の慰霊碑。中国の故事 は「義に殉じた血は3年後に碧色に変わる」と伝える |
明治8年に榎本武揚らが 供養のため建立(2009) |
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泣く子も黙る新選組の鬼の副長。本名義豊。雅号は豊玉。現・東京都日野市の農家に生れる。幼くして両親を亡くし、次兄に育てられた。11歳で上野の呉服商松坂屋に丁稚奉公に出るが番頭と衝突して帰郷、家伝の打身薬「石田散薬」の行商を手伝う。23歳の時に天然理心流剣術の師範に入門し、近藤勇と同門となる。1863年(28歳)、14代徳川家茂の上洛を警護する浪士隊に近藤や沖田らと参加。京都では新選組を組織し副長となる。陣中法度や局中法度など厳しい隊規を定め、違反者は容赦なく斬り捨てた。入京の半年後、傍若無人であった初代局長・芹沢鴨を暗殺。2代目局長の近藤を助けて京都の警備に当たった。1864年(29歳)の池田屋事件で諸藩の倒幕派志士を一掃し、新選組の名は世間に轟く。
大政奉還の翌年、明治元年(33歳)。戊辰戦争の初戦となる鳥羽・伏見の戦では、負傷した近藤に代わって隊を指揮するが敗れて江戸に戻る。その後、名を内藤隼人と改名し、近藤らと甲陽鎮撫隊を組織して山梨県勝沼で維新軍と戦うが、その圧倒的火力の前に敗北。捕われた近藤を助けようと土方は勝海舟を頼るが、願いかなわず近藤は斬首。一ヵ月後には弟のように可愛がっていた沖田も結核で病没する。その後、土方は小山、宇都宮、会津と各地を転戦し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流、蝦夷地に渡った。
1969年(34歳)、箱館に成立した蝦夷島政府で陸軍奉行並に選任される。同年5月、土方は維新軍との最終決戦となった箱館五稜郭の戦いで、旧幕府軍が降伏する直前に「ここで降伏しては、地下の近藤に合わせる顔がない」と一人敵地に突撃を敢行し、異国橋付近で腹部に銃弾を受けて戦死した。最後まで背中に新選組の『誠』を背負って戦い抜いたのだ。土方は戦死の6日前に自らの死を覚悟して、写真や毛髪等の遺品を小姓の市村鉄之助に託し、郷里・日野に届けさせていた。 この函館における最終決戦で戦死した旧幕府軍幹部は、土方たった1人。残りの閣僚は上手く世を渡って、後に明治新政府に仕えるなどした。土方と近藤の友情、その出会いから別れまで9年。農家に生まれ、己の武士道を貫いた土方歳三はこのように生き、そして散っていった。武士よりも、武士らしく。「歳三は、鋭敏沈勇、百事を為す雷の如し。近藤に誤なきは、歳三ありたればなり」(幕府典医)。
※新選組の前身、新徴組隊士の証言 「土方は近藤と共に名高いが、彼は温厚の君子で、近藤のような覇気はなかったが、近藤と非常に仲良しで、近藤を兄として敬っていた。近藤も、土方がいなかったら、或いは勤王党の者に不意の襲撃を受け、もっと早く京都で殺されていたかも知れぬが、土方が細心の注意を払って、近藤に余り無謀なことをさせなかったから、近藤の命もあれだけ続いたのだろうと思う。土方がおらねば、近藤は部下を御する才が欠けているから、新選組はもっと早く分裂したろうが、土方が近藤と隊員との間の連鎖となって、よく隊員等の面倒をみていたから、うまくいったのだ。土方とは対座しても決していやな感じがせず、まことに親しみのある人物だという感じがした。」 ※二本松藩士の証言 「色は青白い方、身体もまた大ならず、漆のような髪を長ごう振り乱してある、ざっと言えば、一個の美男子と申すべき相貌に覚えました」 ●墓巡礼記
墓は故郷日野市の石田(せきでん)寺にあり、土方一族の墓所の一角に眠っている。田舎者で武士ですらない人間が、天下国家を左右する渦の中に飛び込み、命果てるまで戦い抜く…しかも、時流とは全く逆の方へ向かって。幕府がどれほど死に体であっても、自らの立場の正当性を顧みることもなく突っ走っていく姿は、理屈ばかり優先される現代にあってなんと鮮烈に映ることか。墓前で冥福を祈って、ふと目を開くと墓前の写真が視界に飛び込み、僕は合わせた手に力が入った。 |
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| 新選組の元参謀。近藤らとの 路線違いから御陵衛士となる |
新選組を脱退後、粛清された4人。左から 毛内監物、伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄 |
脱退後は孝明天皇の御陵を守って いたので「宮内省」の文字が見える |
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| 2年後に再訪。ガーン!柵が出来て墓前に行けず! | 鍵がかかっていたので柵の隙間から撮影(2010) |
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| 『伊東甲子太郎外数名殉難之跡』 襲撃を受けた伊東はこの寺まで逃げて息絶えたという |
事件があった油小路の地名はそのまま残っている |
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| こちらは京都東山・高台寺の「御陵衛士屯所跡」。彼らは“高台寺党”とも呼ばれた |
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新選組参謀、御陵衛士盟主。常陸生まれ。最初の名は鈴木大蔵。水戸で学び強い勤王思想を持つ。江戸に出て北辰一刀流の伊東道場に入門すると、剣才を発揮し跡継ぎを任されるほどの腕前となる。1864年(29歳)、同門で新選組8番隊組長を務めていた藤堂平助から説得されて新選組に入隊し京都へ上る。新選組には粗野な荒くれ者が多かった為、インテリで弁が立ち、伊東道場の道場主という文武両道の彼を、「欲しかった人材」として近藤は歓迎し、いきなり参謀かつ文学師範という破格の待遇で抜擢した。しかし、外国を排斥する攘夷という思想では新選組と一致していた伊東だが、あくまでも幕府に忠誠を誓う新選組と、倒幕を視野に入れた勤王思想を持っていた伊東は次第に対立し、入隊から3年後の1867年3月に新選組を離脱する。伊東は御陵衛士(高台寺党)を結成し、伊東道場出身の新選組隊士(藤堂平助を含む)が行動を共にした。伊東は国力がないままでは攘夷不可能と見て、やがて積極的開国と富国強兵が必要と考えるようになる。
伊東らが新選組を離脱してから8ヶ月後。新政府の構想を練る伊東の粛清を近藤は決定。伊東が優れた剣術の持ち主なので、まずは近藤の妾宅にて伊東を酒に酔わせ、帰宅途中の油小路で相馬主計、大石鍬次郎ら隊士数名に暗殺させた。伊東の亡骸はわざと道端に放置され、御陵衛士の面々が収容に来たところを新選組が待ち伏せして襲いかかった(藤堂死亡)。※こういうところ、近藤は鬼になるよね…。
死から半世紀を経た1918年、朝廷は伊東に従五位を贈った。墓は当初新選組ゆかりの光縁寺に造られたが、4ヶ月後に御陵衛士たちが戒光寺に改葬した。諱は武明。
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| 御陵衛士たちの墓所(2008) |
元々は新選組8番隊組長だったが、 離脱後に新選組に粛清された |
戦死! |
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| 隣は元新選組参謀・伊東甲子太郎 | 2年後。柵ができた理由は甲子太郎の項で(2010) |
| 新選組8番隊組長。江戸生まれ。小柄で美男子、剣術(北辰一刀流)にも学問にも長けたと伝わる。近藤、土方、沖田、山南らとは新選組結成当時からの同志。池田屋事件では最初に斬り込んだ4人の1人で、事件後は幕府から近藤、土方につぐ褒賞金を下賜されたというから、凄まじい活躍だったことが分かる(額を負傷しながらも刀がボロボロになるまで戦ったという)。しかし、総長の山南が切腹するなど粛清が吹き荒れる新選組の中で、隊の方向性に疑問を感じたのか、1867年3月に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく、参謀の伊東甲子太郎らと共に新選組を離脱している。 それから8ヶ月後の同年11月18日、下京区の油小路で御陵衛士たちは新選組の襲撃を受けた。この粛清の前に近藤は永倉新八に「藤堂だけは生かしておきたい」と語ったが、新入りで事情を知らない新選組隊士・三浦常三郎が藤堂の顔面を縦に斬りつけ、藤堂は即死した。諱は宜虎(よしとら)。 事実上、辞世の句となった歌は「益荒男の七世をかけて誓ひてし ことばたがはじ大君のため」。墓は同日に油小路で殺害された伊東甲子太郎、毛内監物、服部武雄らと並んで建つ。(隣は甲子太郎) |
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| 芹沢鴨と平山五郎は共に 水戸藩出身の新選組幹部 |
同じ夜に土方たちに 粛清された |
花街の角屋(すみや)。芹沢はここで 酒を呑んだ夜に八木邸で絶命した |
芹沢の斜め前には勘定方で切腹 した河合耆三郎の巨大墓がある |
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水戸藩浪士、新選組初代筆頭局長。神道無念流免許皆伝。トレードマークは「盡忠報國の士、芹澤鴨」と刻まれた鉄扇。1863年(36歳)2月、清河八郎の呼びかけで将軍警護の為に結成された浪士組に参加。剣術道場・試衛館の近藤勇、土方、沖田、山南たちも加わり京へ向う。上洛後、壬生の八木邸に宿を取る。ところが、浪士組結成の目的が将軍警護ではなく攘夷の決行部隊と判明。江戸に帰還するというので芹沢と近藤は脱退して京都に残った。残留メンバーは芹沢ら水戸グループ5人と近藤グループ8人の計13人。彼らは京都を警護する会津藩の庇護を受け、八木邸を屯所として「壬生浪士組」を結成し、芹沢が筆頭局長に就任した。八月十八日の政変を機に会津藩は壬生浪士組を新選組と命名。酒乱の芹沢は、酔っ払っては店を破壊し、一般人に暴行を加え、芸妓の髪を無理やり切るなど狼藉三昧。近藤らは新選組の綱紀粛正を理由に『新選組局中法度』を決め、違反者は例外なく切腹とした。同年9月13日、近藤は芹沢グループのナンバー2、新見錦を狼藉の法度違反として切腹させる。翌日、朝廷が芹沢の逮捕命令を出し、会津藩は近藤に芹沢暗殺の密命を下した。
暗殺の決行は9月18日の夜。その日、近藤は大宴会を島原・角屋で催し、芹沢グループを泥酔させた。深夜、八木邸に戻って眠りこける芹沢たちの部屋に、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助の4人が押し入り、最初に副長助勤の平山五郎の首をはね、芹沢に襲いかかった。芹沢は八木家の家人の部屋に逃げ込むが、文机につまずいて転んだところをメッタ斬りにされた(愛妾のお梅も殺害)。この事件は表向きには長州藩の犯行とされ、翌々日に芹沢と平山の葬儀が盛大に執り行われた。諱は光幹。
※平山五郎は花火の暴発で片眼を失い隻眼だった。 ※芹沢の墓の側にある河合耆三郎(きさぶろう)は、新選組の財布を管理している勘定方。何らかの金銭トラブルが原因で切腹させられた。息子の切腹を知った耆三郎の両親は新選組の非情を咎め、激しく怒り、新選組が光縁寺に建てた墓とは別に、立派な巨大墓を壬生塚に建てて耆三郎の菩提を弔った。 |
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| 壬生塚には以下の隊士7名の合祀墓もある ●阿比類鋭三郎…壬生浪士組隊士。剣豪千葉周作の弟。病死? ●田中伊織…命日が副長・新見錦と同じなので、田中伊織=新見錦っぽい ●野口健司…副長助勤。芹沢派として理由不明の切腹 ●奥沢栄助…伍長。池田屋事件で戦死 ●安藤早太郎…副長助勤。野口健司を介錯。池田屋事件で戦死 ●新田革左衛門…平隊士。池田屋事件で戦死 ●葛山武八郎…伍長。永倉・原田の造反事件で見せしめの切腹 |
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| 大河ドラマのせいで「山南さん」と 言っただけでウルウルっすよ… |
表面はかなり痛みが 激しい。可哀相…! |
山南と同じ墓に河合、柴田、施山、 石川という他の隊士も合葬 |
近くには四番隊組長の 松原忠司らの墓もあった |
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新選組総長。仙台藩出身。新選組の屯所があった壬生では「親切者は山南、松原(※四番隊組長)」という言葉が明治初期まで残っていたといい、温厚な人柄が偲ばれる。また北辰一刀流の門人で文武両道の人だった。
近藤勇がまだ江戸の天然理心流道場・試衛館で剣術を指南していた頃、山南は他流試合を挑んで敗北。その際、近藤の人間の大きさに感服して試衛館の人々(土方、沖田等)と行動を共にするようになる。1863年(30歳)、将軍警護の為に上洛し壬生浪士組のメンバーになった。それから半年後の9月、酒飲みで乱暴狼藉を繰り返す初代筆頭局長の芹沢鴨の暗殺に参加。壬生浪士組は新選組となり、組織再編で局長近藤、総長山南、副長土方という序列になった。 翌年、江戸からインテリの伊東甲子太郎らが入隊すると、近藤は山南よりも上位となる参謀職にいきなり伊東を置いた。この頃、手狭になった屯所を西本願寺へ変更する計画が立ち、山南は殺生を禁じる寺院に屯所を置くことを反対したが近藤・土方に却下された。それから3ヶ月後、山南は胸に思うところがあったのか、「江戸へ行く」と置き手紙を書いて組を脱走した。山南は追っ手の沖田に追いつかれて屯所に戻され、前川邸で切腹となった。山南の希望で介錯は沖田が務めた。山南には人望があり多くの隊士から慕われており、鬼の副長の土方でさえ涙に濡れたと伝えられている。 ●山南と合葬されていた隊士 河合耆三郎…勘定方。隊のお金をめぐる何らかのトラブルで切腹 柴田彦三郎…平隊士。脱走して捕まって切腹 施山多喜人…平隊士。人妻との不倫を咎められ切腹 石川三郎…死因不明 ●付近の墓に葬られていた隊士 松原忠司…四番隊組長だったが、自分が斬った男の妻と親しくなり、土方に咎められて切腹(心中説もアリ) 田内知…愛人の浮気相手に斬られて助けを呼んだことが士道不覚悟で切腹 桜井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉の3人は理由分からず。普通に病気かも? |
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| 龍馬暗殺の真犯人はいまだに学界でも論争中なのに、この「会津武家屋敷」という 歴史ミュージアムは、大々的に犯人を佐々木只三郎と断定していた。 r(^_^;) |
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| 「会津出身見廻組輿頭 佐々木只三郎之墓」 |
只三郎の横は「戊辰戦争戦没者供養塔」 |
“佐々木只三郎”と何とか見える。 和歌山の墓地から改装された |
| 京都見廻組隊士。唯三郎とも書く。会津出身。奥義を究めた神道精武流は、幕府講武所の剣術師範を勤めるほどの腕前。なかでも小太刀の技を得意とし「小太刀をとっては日本一」と称された。1863年(30歳)、浪士組の清河八郎を暗殺。上洛して京都見廻組を率い新選組と共に京都の治安維持に努め、尊攘派志士を取り締まる。1868年、鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として加わったが1月6日に八幡で腰を撃たれて重傷を負い、和歌山に運ばれ6日後に他界した。享年35歳。明治に入って元見廻組隊士・今井信郎が「坂本龍馬暗殺は佐々木只三郎が主犯」と証言。だが、他の見廻組隊士との食い違いもあり真相は不明。 当初、只三郎の墓は和歌山市の紀三井寺に造られたが、1973年頃に墓石が真っ二つに割れ倒壊しているのが発見された(墓の上部は草むらから出て来た)。坂本龍馬ファンの恨みが爆発したと噂され、会津藩士の血を引く作家・早乙女貢(みつぐ)らがこの事態を憂い、会津若松市の武家屋敷内に只三郎の倒壊墓を改葬した。※後日、和歌山にも新しい墓が再建された。 |
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| 戦場でも悠々と三味線を弾いていた豪傑! | 京都市東山区元吉町。この付近に滞在(2010) |
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| 下関の東行庵にある晋作の墓。木戸孝允いわく「高杉、俺もお前のように自由に暴れてみたかった」(2000) | 付近の墓は奇兵隊隊員のものばかり! |
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| こちらは萩にある晋作の墓(2006) | 同じく萩の生誕地と、晋作の初湯の井戸(2006) |
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| さらに京都・霊山護国神社にも墓がある (2006) |
右から晋作、来島(きじま)又兵衛、久坂義助(玄瑞)、寺島忠三郎、入江九市、 有吉熊次郎。晋作以外は全員が「禁門の変」で戦死、又は自刃している(2010) |
「男は常に男(あなた)を目指す!」。晋作の墓を巡礼し、 熱く吠える若者たち。怖い晋作の似顔絵があった(2006) |
| 長州藩士・高杉晋作は明治維新のスイッチを押した漢!“動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し”と言われた。彼が組織した奇兵隊は、3500人の兵力で10万の幕府軍を打ち破ったことも!残念ながら、大政奉還まであと8ヶ月という時に肺結核で夭折した。彼は天才的な戦略家であったが、同時に楽器を弾き歌を詠む(300首以上も作った!)風流人でもあった。辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく…」で、上句を詠んだところで生き絶えた。号は東行。 墓は山陽本線小月駅からバスで。彼の号である東行を冠した“東行庵”に晋作は眠っている。付近の墓はそのすべてが奇兵隊員のものだった。27歳で死んだ高杉晋作にしろ、29歳で逝った松陰にしろ、この当時、歴史の表舞台に出る人物はメチャメチャ若い! |

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| 雄大な桜島。西郷、大久保、小松、篤姫の心の情景だ | 上野公園の西郷さん | 夕陽に染まる桜島 |
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| 鹿児島市内の「西郷隆盛君誕生之地」。 100mちょいの距離に大久保誕生之地がある |
共研公園の「西郷南州翁宅地跡」。 29歳から住む。斉彬と出会い、 遠島事件など激動の日々を送る |
鹿児島市南州寺にある僧・月照の墓。西郷と月照 は2人で入水自殺をし、西郷だけが生き残った |
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| 京都市中京区の薩摩藩邸跡。手狭に なると現・同志社大の敷地にも 建った。1864年の蛤御門の変で焼失 |
鹿児島市内のド真ン中で直立不動。 観光客が次々と来てはパチリ。実は この銅像、小松帯刀像と向き合っている |
上野の西郷さんに比べると かなりイカつい感じ! |
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| 「西南戦争の銃弾跡」。この場所には薩摩藩の私学校があった。生徒たちが武装蜂起したのが西南戦争の始まりだ |
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| 西南の役で最大の激戦地となった田原坂。両軍の弾丸が空中でぶつかるほど飛び交った |
墓地の感動的な歌碑「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」(勝海舟) |
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| 鹿児島・城山の「西郷洞窟」。田原坂から敗走した西郷は、この洞窟に身を隠し次の手を考えた | 「西郷隆盛終焉の地」。西郷が“もうここいらでよか”と自決した場所だ |
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| 中央が西郷。西郷を慕う若者たちが周囲を囲んでいる | ヒマワリと西郷どん | 今の日本をどう思っているだろう |
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| 2000年の巡礼。この時は前日に桜島が噴火して墓地に火山灰が積もっていた! | 西南戦争で散った西郷軍の墓前からのぞむ桜島 |
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| JR田町駅近くの『江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見の地』碑。かつて当地は海岸に面し薩摩藩邸があった(2009) | 妻・西郷糸子の墓(青山霊園) |
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| 勝海舟の墓所に隣接している西郷を祀る神社。勝は西郷の人間性に惚れ込み、西南戦争で西郷が死ぬと心から悲しんだ。 そして西郷を称える為に、西郷の書いた漢詩を建碑し、さらに没後5年目に神社を建て追慕した。神社や碑文は勝が生前に 自分の墓と並べて欲しいと希望していたことから、勝の死から14年後(1913年)に移転され、両雄は再会した |
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| 京都市上京区の「薩摩藩邸跡」。現在は同志社大学が建つ(2010) | 左の薩摩藩邸跡の近くにある「薩藩戦死者墓」。蛤御門の変や戊辰戦争で散った72名を合葬 |
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幼なじみの大久保利通、長州の木戸孝允らと共に維新の三傑と呼ばれる。薩摩藩の下級藩士出身。名君・島津斉彬(なりあきら)に重用されたが、1858年(31歳)に斉彬が急死、さらに安政の大獄が始まって失脚する。西郷は奄美大島に流された。1862年(35歳)に復権するも、島津久光と考えが合わず再度流罪。大久保の尽力で薩摩に戻されると、家老の小松帯刀と組んで巧みに倒幕運動を展開。坂本龍馬の仲介で長州と軍事同盟(薩長同盟)を締結する。江戸に進軍した際は勝海舟と会談し、江戸城の無血開城を実現させた。西郷は維新後に帰郷。新政府は様々な改革に乗り出すが、抵抗を受けてスムーズに行かず国政が難航する。そこで西郷の人気を頼って政府に入るよう説得。1871年(44歳)、西郷は新政府の参議となった。そして岩倉使節団の外遊中に留守政府を預かり、地租改正・学制・徴兵制などの革新的政策を推し進める。1873年(46歳)、征韓論問題で対立して職を辞し(真相は西郷が武力行使に反対した)、再び鹿児島に戻る。その頃の鹿児島は私学校生徒を中心とした独立王国状態。新政府に不満を抱く生徒たちは西郷に“再維新”を訴え、新政府による西郷暗殺計画が露見したことを気に、西郷を盟主と仰いで武装蜂起した。西郷は「早まったことを!」とショックを受けるが、生徒たちの情熱に心を動かされ西南戦争を起こす(1877年)。西郷たちは激戦のすえに敗北し、鹿児島の城山を死地に選んで自決した。翌日の新聞は「賊軍の首領・西郷を成敗」と書き、明治の学校で子供たちは“卑しき反乱軍の大罪人、西郷”と教えられた。
※「西郷一人、なぜ生かせなかったのか…!」(自決の報を聞いた福沢諭吉) |
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| 鹿児島中央駅で借りた電動式のレンタサイクル。広い鹿児島 の街を疾走できたのは君のおかげ!城山や多賀山公園の 上り坂だって君の電動パワーで楽勝だった。本当にありがとう! |
最後に食べた「しろくまアイス」 の美味しさったら、もう…! (2008年8月5日) |
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| 有馬が「おい(俺)ごと刺せ!」 と叫んだ寺田屋の壁はここ。 剣先が2寸(6cm)突き破った |
西郷は薩摩藩士が互いに斬り合う悲劇に胸を痛め、 命を散らした9名の墓を大黒寺に建てたという (この寺の近所に薩摩藩邸があった) |
右端が有馬新七の墓。 明治維新は有馬の死で 始まったともいえる |
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| 骨の髄まで尊皇攘夷 | 萩の松陰墓所に眠る |
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| 京都市の霊山護国神社にも墓がある。右から、久坂義助(玄瑞)、 寺島忠三郎、入江九市、有吉熊次郎。全員が「禁門の変」で死亡 |
同じく霊山護国神社。右から高杉晋作、 来島(きじま)又兵衛、久坂玄瑞 |
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| 快速“あいづライナー”は赤くてカッコイイ | 会津若松の駅前には白虎隊の銅像が! | |
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| 維新軍との決戦の地となった若松城(鶴ヶ城) | 飯盛山の墓地への参道 |
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| 一列に並ぶ19人の白虎隊隊士の墓 | 「自刃 永瀬雄治 十六歳」とある | 次々と墓参者が訪れ線香の煙が絶えることはない |
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| 白虎隊墓所の全景(2008) | 唯一の生存者・飯沼貞吉 | 夕陽にたたずむ白虎隊 |
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| 会津藩戦死者の墓所の門には徳川の葵紋があった。義に散った人々だ(2008) | 身元不明も多く「戦死者」とある |
| 会津藩戦死者の遺骸は西軍の命で放置されたまま触ることさえ許されなかった。民衆の嘆願で 終戦4ヶ月後に埋葬の許可が下り、会津若松市の阿弥陀寺には1300人の遺骸が埋葬された。 |
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| 会津若松の西軍墓地。会津戦争では西軍側にも被害が出た。この西軍墓地には 十余藩174人の墓がある。墓地の門には薩摩、長州、土佐など複数の紋が入って いる。家紋がこのように並んだ墓地を見たのは初めて。諸藩の連合軍ならでは |
薩摩藩戦死者の墓。右後方は 長州藩、左後方は備州藩。 (2008) |
| 会津藩の少年兵士隊。会津藩では年齢別に部隊編成されており、16〜17歳の白虎隊、18〜35歳の朱雀隊、36〜49歳の青竜隊、50歳以上の玄武隊と、それぞれに呼称があった。白虎隊の内訳は計6中隊343名。1868年8月に新政府軍が会津へ侵攻を開始すると、白虎士中隊37名は戸ノ口原の戦に出陣して迎え撃ったが、新政府軍の圧倒的な物量の前に敗走。翌日(8月22日)、飯盛山に逃げ込んだ20名は、会津市中が煙に包まれているのを見て、ただの城下の火災を会津若松城の落城と思い込み集団自決した。1人だけ息をふきかえし、白虎隊の悲劇が人々に知られることになった。 ※生存者の飯沼貞吉は、咽喉を突いたものの、刃先が骨の部分に当たって上手く貫けなかった。何度か突いてるうちに気を失い一命を取り留めた。 多くの日本人は人気のある坂本龍馬や西郷どんの影響から、維新派を善玉、会津藩を抵抗勢力、そんな風に見ている。だけど、この地で敗者の側に立って見れば、ただ誠実に徳川への義理を通そうとしただけなんだよね。 |
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| 東京・多磨霊園の本墓。隣は山本五十六の墓だ。 都心から離れている多磨霊園は平八郎が眠った おかげで現在のような人気霊園になった |
故郷の鹿児島・多賀山公園の墓。こちらには遺髪が入っている。墓前は花がいっぱい! |
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| 1879年、31歳の 平八郎in英国 |
鹿児島中央高校の一角にある石碑「東郷平八郎君誕生之地」。 西郷や大久保も同じ鍛治屋町に生まれている |
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| あんな上にいる! | 多賀山公園から鹿児島市街や鹿児島湾、そして桜島を望む東郷 |
| 海軍元帥。17歳で薩英戦争に出陣。戊辰戦争では軍艦春日丸に乗船。維新後は海軍の留学生として帆船ハンプシャー号で世界一周を体験し、英国の造船所で日本軍艦の建造に立ち会って新鋭艦で帰国した。日露戦争では旗艦の三笠から「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と将兵を激励。見事にロシア・バルチック艦隊を壊滅させ、海外でも“東洋のネルソン”として知られる。 東郷は秀吉軍が朝鮮を侵略した時に防戦した韓国側の軍師・李舜臣(イ・スンシン)を尊敬していた。李舜臣は潮の満ち引きや、海岸線の地形を利用した臨機応変な戦術を駆使し、当時世界最強の鉄甲船を考案した。日露戦争終結後の祝勝会の席で、東郷は「イギリスのネルソン提督と李舜臣に並ぶ」と褒め称えられると、「(ナポレオンを破った)ネルソン提督はともかく、自分は名将・李将軍にはとても及ばない」と賛辞を返上した。明治政府が格下と思っている朝鮮軍の武将を、大ロシアを破った東郷が賛辞する謙虚さに人徳が垣間見える。 |
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| 海津城主(松代城)高坂弾正も眠るので軍旗がたなびく | 明徳寺の山門に「エコール・ド・マツシロ」の暖簾 | お寺と仏語のコラボに驚いた(佐久間象山筆?) |
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| 正面の案内板に「栗林忠道」の名前がドーンと出ている |
「硫黄島からの手紙・上映記念 クリント・ イーストウッド監督」と刻まれた境内の石柱 |
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| 夕陽を浴びる栗林忠道の墓。日米開戦に反対していた | 「陸軍大将」とある | 硫黄島の日本兵は水不足で苦しんだので、ミネラルウォーターが4本も供えられていた |
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硫黄島の戦いを指揮した陸軍大将。長野生まれ。若い頃はジャーナリストを志望していた。1914年(23歳)、陸軍士官学校卒業。1923年(32歳)、陸軍大学校を次席で卒業し、天皇から恩賜(おんし)の軍刀を授与される。同年結婚し三子を授かった。
1927年(36歳)、武官補佐官として米国ワシントンD.C.に駐在し、ハーバード大で学ぶ。1931年(40歳)、カナダ公使館付武官となりカナダへ赴任。1940年(49歳)、陸軍少将に昇進。日米間に戦争の気運が高まるなか、海外生活が長く米国通の栗林は最後まで開戦に反対する。1941年(50歳)、12月に開戦すると第23軍参謀長として香港へ。1943年、陸軍中将に昇進。そして1944年(53歳)6月8日に硫黄島の守備隊総司令官として着任する。
栗林は米国との圧倒的な戦力差を熟知しており、硫黄島に巨大な地下陣地を築き全島を要塞化し、米軍上陸前の艦砲射撃をトンネルでしのいだ。1945年2月19日に米軍が硫黄島に上陸を開始すると、最新鋭の装備でかためた米海兵隊7万人に対し、武器も食料も乏しい日本兵2万人がゲリラ攻撃で徹底抗戦した。2月23日に拠点の摺鉢山を米軍に占領されるも抵抗は続く。栗林は兵たちに無謀な玉砕突撃を禁じ、本土防衛の時間稼ぎのために持久戦へ持ち込んだ。硫黄島の面積は東京都の面積の100分の1しかなく、米軍司令部は「5日間で攻略可能」と考えていたが、日本軍はこれを一ヶ月半も守りきった。3月16日、栗林は大本営に最後の決別電報を打電。兵たちに最後の指令を下した「兵団は17日夜総攻撃を決行し敵を激砕せんとす。最後の一兵となるもあくまで決死敢闘すべし。私は常に諸君の先頭にあり」。これを受けて大本営は、栗林を陸軍最年少となる53歳で陸軍大将に昇進させた。決別電報の10日後、3月26日に行なわれた日本軍最後の総攻撃に栗林は階級章を外して加わり散った。栗林は日本軍で史上初めて敵陣へ突撃死した陸軍大将となった。辞世の句は「国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」。
死後22年が経った1967年に勲一等に叙せられ、旭日大綬章が授与される。2006年、栗林の最後を描いた映画「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督、渡辺謙主演)が公開され、その名が広く知られるようになった。
硫黄島の戦いでは、日本軍20,933名のうち、実に96%を超える20,129名が戦死した。一方、米軍側もまた戦死者6,821名、戦傷者21,865名という膨大な犠牲を出した。1平方キロあたり1400名の両軍兵士が死んだ硫黄島は、今、日米双方が合同慰霊祭を行なう世界で唯一の土地になっている。
※硫黄島から幼い次女(たこちゃん)に送った手紙。「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」。 |
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| 栗林の墓は舞鶴山の大本営跡のすぐ近く。 戦争末期、陸軍はここに政府機関を移転しようとした |
皇居の予定地は現在気象庁地震観測室になっている。 パネルで「天皇の間」「皇后の間」が公開されている |
内部の見取り図。天皇の間は1号庁舎だ。 終戦時に松代大本営は75%まで完成していた |
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| 大坑道(地下壕)の入口 | 地下御殿へ続く階段 | ここを降りてきた | これより先は立入禁止ゾーン |
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太平洋戦争末期、日本の国家中枢機能移転のために松代の山中に掘られた地下壕。舞鶴山、皆神山、象山の3箇所の地下壕の長さは計10kmにもなる。僕が訪れた舞鶴山は“天皇の間”など皇居の予定地だった。松代が選ばれた理由は次の6点。(1)近くに飛行場がある(2)岩板が固く10t爆弾にも耐える(3)山に囲まれている(4)長野は労働力が豊富(5)長野の人は純朴で口が堅い(6)信州=神州。1944年11月から掘削が始まり、この突貫工事にはのべ300万人の人員が強制的に動員された(最盛期は朝鮮人7千人、日本人3千人が12時間交替で投入)。敗戦時は既に75%まで完成していた。現在は気象庁が1947年から日本最大規模の精密地震観測室を置いている。
※陸軍主導で造られた松代大本営に対し、海軍は奈良県天理市(一本松山)に大本営の移転を考えていた。 ※僕が乗ったタクシーのオヤジさんは「大本営が来る前に戦争が終わって良かった。来ていたら何度もここが空襲され、まだ5歳にもなってなかった自分は生きていたかどうか分からない」。
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| 「アメリカと戦争することになれば、この日本は2度3度も焦土と化すだろう」(山本五十六) 「知米・非戦派」として知られる第26、27代連合艦隊司令長官。新潟県出身。旧越後長岡藩士の父(高野貞吉)が56歳の時に生まれたことから“五十六”と名付けられた。1901年(17歳)、海軍兵学校に200名中2番で入校。同級生は嶋田繁太郎、堀悌吉、塩沢幸一、吉田善吾など。1904年(20歳)、日露戦争が勃発。同年、海軍兵学校卒業。翌年、少尉候補生として巡洋艦「日進」に乗船し、日本海海戦でバルチック艦隊と対決。敵砲弾が炸裂し、左手の人さし指と中指を失った。 1915年(31歳)、2年前に両親が他界したことから、旧長岡藩家老・山本帯刀家の養子となる。 1916年(32歳)、海軍大学校を卒業。1919年(35歳)、米国にて駐米武官となりハーバード大学に留学。3年後に帰国。1925年、駐米大使館付武官として再び渡米。1928年(44歳)、巡洋艦「五十鈴」艦長、空母「赤城」艦長を歴任。大艦巨砲主義が軍にはびこるなか、いち早く航空隊の育成に尽力した。1936年(52歳)、二・二六事件では反乱派の海軍青年士官を一喝して追い返している。同年、永野修身海軍大臣の熱望により海軍次官に就任。1939年に55歳で艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官となる。1940年、“56歳”で大将に昇進した。 アメリカ暮らしの体験がある山本は、日米の圧倒的な国力差を熟知しており、断固として日米開戦に反対する。当然ながら、敵対行動となる日独伊三国同盟にも、海軍の米内光政、井上成美(しげよし)らと共に反対していた(非戦派3人衆)。この頃、山本は急進派に暗殺されることを想定して遺書を書いている。その後、日本は開戦へと突き進み、皮肉なことに山本が真珠湾攻撃を立案する立場になってしまう。 1941年12月2日、最後まで戦争回避の望みを捨てなかった山本は、昭和天皇の弟である海軍参謀・高松宮宣仁親王に頼み込み、兄(天皇)に開戦を避けるよう直訴してもらった。これを受けて天皇は東條ら4人に相談したが、開戦路線に変更は無かった。山本は軍令部に対し、真珠湾攻撃の前に宣戦布告を行うことを何度も念を押した。 第4艦隊司令長官・井上成美の開戦決定後の回想「山本さん、大変な事になりましたねと言うと“うん”と言ってました。一体、嶋田海軍大臣はこういうことになったことも、国家の大事だということを分かってんでしょうかねと、非常に私は不安ですがと言ったのが、山本さんこう言ったですよ、“あれはおめでたい男だからな”って。だから山本さんも“ああ、ここまで来たけども、ああ”と考えたんじゃないですか」。 真珠湾攻撃は成功したが肝心の米空母が港に不在。ミッドウェー海戦の前に、井上成美第四艦隊長官、草鹿龍之介機動部隊参謀長、山口多聞第二航空戦隊司令官らが準備不足による作戦延期を求めたが、米国の国力を考えて早期決着にこだわった山本は作戦を遂行した。その結果、日本海軍は正規空母4隻を失う大敗北を喫し、優秀な山口多聞を失った。ガダルカナル島で孤立していた日本兵救出には成功(駆逐艦1隻を失ったが約1万名を救出)。 1943年4月18日、ラバウルからブーゲンビル島バラレ基地へ視察飛行中、暗号電報を解読した米軍P-38戦闘機18機の待ち伏せを受け撃墜された(海軍甲事件)。享年59。この攻撃の前、太平洋艦隊司令長官ニミッツは“山本よりも優秀な軍人が後任になるなら攻撃を手控えねば”と本国に伺いを立てた。回答は「山本に代わるような軍人は山口多聞だが、彼は先のミッドウェー海戦で戦死しているので山本機を撃墜して構わない」。山本の亡骸は日露戦争で失われた左手の指で本人確認がされた。6月5日、元帥として国葬。戒名は大義院殿誠忠長陵大居士。正三位・大勲位・功一級。「予備役になったらモナコに住み、ルーレットで世界の閑人の金を巻き上げてやる」と語っていた。 多磨霊園7番特別区の山本の墓は米内が揮毫。右に東郷平八郎、左に古賀大将の墓が並ぶ。後年、遺骨は新潟県長岡市の長興寺に改葬されたが墓石は多磨霊園に残された。 ※三国同盟締結決定に際し、「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客顛倒もはなはだしい」。 ※近衛首相に対し「是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」 ※「一将一友を失いしを惜しむのときにあらず。ただ、この人去って、再びこの人なし」(堀悌吉) |
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| 無人駅のモートンから徒歩でドーセットの町へ | 片道45分。樹のトンネルを歩き続ける |
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| とにかく歩け!ひたすら歩け! | 側にはゆっくりと草をはむ牛たち | やがて見えてきた墓地の門! | 朝陽に輝くロレンス! |
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| 背後に猫がいたとは知らなんだ | これほど人懐こい猫も珍しい | 墓石の上を散歩。やりたい放題 | バイク事故で死去 |
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| ロンメル通り。彼は村の英雄だ | 墓地入口の案内板 | 山間の小さな墓地の一番奥が彼の墓 |
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| 北アフリカ戦線を風のように疾走し、英軍からは“砂漠の狐”と呼ばれた。トレードマークのゴーグルは英軍のもの! | |||
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| ドイツの将軍でありながら堂々と ヒトラーを批判した勇気ある漢 |
花であふれかえったお墓。そして左手前の赤い花輪はッ! |
なんと!この花をそえていたのは イギリス戦車部隊!敵からの献花! |
| 「敵の指揮官ロンメルは、きわめて勇敢な、きわめて巧みな敵将だ。戦争という行為は別として、偉大な人物だ。…悔しいが!」(byチャーチル) 物資不足の少数ドイツ軍戦車隊を率いて、数倍の兵力のイギリス軍をアフリカ戦線で撃破し続けた敵将エルウィン・ロンメルに、英首相チャーチルが思わずもらした言葉だ。 “砂漠の狐”ロンメル将軍。様々な奇策で敵軍を翻弄した彼だが(わずか300人の兵力で8000人の敵兵を捕虜にした)、中でもリビア砂漠の戦いは特に有名だ。彼は自軍を大軍に思わせる為に、最前列だけ本物の戦車を配置し、後方は自動車に木枠をかけたニセ戦車を大展開し、しかもニセ戦車にほうきや鎖を引きずらせて大規模な砂煙を立たせる周到ぶり。英軍は2ヶ月をかけてやっと占領した陣地を戦わずして放棄、我先にと撤退した。 英軍が去った後には砂漠用のゴーグルが落ちていた。彼はそれを手に取り言った。「良いデザインだ。もらうよ。」それ以来、彼は敵軍のゴーグルを使っていた。他の将軍は“敵の物を身につけるとは何事か”と非難したが、ロンメルは素知らぬ顔。これは彼のトレードマークになった。 実は英軍がパニックを起こした理由はもうひとつあった。ドイツ軍が事前に行なった軍事パレードを見た英国のスパイが、「ロンメル部隊に大戦車隊あり」と報告していたからだ。しかし、いくらなんでもスパイがニセモノの戦車に騙されるはずないとお思いだろう。何のことはないパレード自体が既にロンメルの罠だったのだ。パレードの戦車は会場を中心に円を描き、ひたすらグルグルまわっていたのだ! しかし僕はロンメルが才将だった為に惚れたのではない。ロンメルは当時貴族出身か特権階級の士官しかなれなかった師団長の地位を、平民出身で初めて手に入れたからでもない。彼が己の信念で最後までナチスに入党しなかったからだ。 彼の息子はこう回想している…彼が15歳の頃、ナチの人種差別理論を得意げに父に語った時、「私の前でそういう馬鹿げたことを2度と喋るな!」と激高したという。 ロンメルは他の士官がやるように、自分の家族をヒトラーやナチス幹部に引き合わせたりしなかった。社交界へは妻にせがまれて、渋々と一度だけ舞踏会に顔を出した。『英雄ロンメル』は会場に入るなり着飾った女性たちに取り囲まれ身動き出来なくなった。この時の彼の反応がケッサクだ。彼はすごい形相で「私を通して下さいっ!」そう怒鳴り、周囲が静まり返ったという。 戦力で勝るのに連戦連敗が続いた英軍内には“神がロンメルを守っている”と噂が流れた。また、ロンメルがユダヤ人部隊を捕虜にした際に、ベルリンの総司令部が“捕虜として扱わず、即射殺せよ”と指示を出したが、ロンメルはその命令書を焼き捨てたというニュースが報道され、いよいよ英軍兵士には彼に“敬意”を表わす者が続出し、実際に英軍司令部が『ロンメルは人間である』という内容の、前代未聞の布告を出したのだった。 ロンメルは自殺した、というより自殺“させられた”。いよいよ連合軍の総反撃が開始した時に、勝ち目がないと判断した彼は撤退の許可をベルリンに求めた。 ヒトラー「勝利か死か。それ以外に道はない」 ロンメル「総統は犯罪者だ。祖国が壊滅するまで戦うつもりか」 彼は、独断で退却を命令した。ベルリンに戻った彼はノルマンディーの敗退を見て、ヒトラーに戦争の終結を進言しようとした。ヒトラーは怒りを爆発させた--「元帥、出て行きたまえ!」。 3ヶ月後、ヒトラーの使者がロンメル邸に現れる…毒薬を持参して。「貴公に総統暗殺未遂の疑いがかかりました。この毒を飲むなら家族の命は保証しましょう」ロンメルは家族の一人一人に別れを告げた後、そのまま自宅の裏の林に入り、木々の間で毒をあおいだ。 “なんだかんだ言っても軍人は軍人だ”、そんなことは百も承知している。ただ、僕はドイツを吹き荒れたあの狂気の中で、良心のかけらを見出したことが嬉しいのだ。 ●ロンメル語録X2 『軍の上層部は、表面だけスベスベで中は腹黒い大理石野郎ばかりだ』 『死んだヒトラーは生きているヒトラー以上に危険だ』 最近のネオナチの活発な動きを考えると、2番目の言葉は重い。 ロンメルの死は、国民には「戦傷で死亡」と報道され、形ばかりの国葬が行われた。 主な参考文献「100人の20世紀」(朝日新聞社) |
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| シャンゼリゼ通りの西端に建つ | 無名戦士の墓 | 月桂冠をかぶるナポレオン像 |
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| 鎖国を終わらせた男 | 日本上陸地(久里浜)にあるダンディな銅像 | 当時の肖像画。天狗だ! |
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| 函館のペリー広場に立つ『ペリー提督来航記念碑』。1854年、ペリーは開港される函館港を下検分する為に5隻の艦船を率いて来航。 これを契機に五稜郭が築造された。2002年に建立されたこのペリー像はかなり良いデキ!3方向から激写! |
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| 京浜急行電鉄の浦賀駅 |
横須賀市久里浜のペリー公園 |
有名な狂歌「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」 |
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| ペリーたちが上陸したのはこの久里浜の海岸。 すぐ側にペリー公園がある |
ペリー公園のびくっりするほど巨大な上陸記念碑。 右後方の建物はペリー記念館。なんと入場無料だ |
「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」 背後は英文で書かれていた |
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| ペリー記念館のジオラマに見入った! | ナレーション&効果音付きで臨場感たっぷり | 江戸時代に描かれた黒船。煙突は火山のようだ(笑) |
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| ロードアイランド州にあるペリー提督一族の墓域。海軍で代々活躍してきた名門だ(2009) |
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| ドドーンと重厚感のあるペリーの墓! | 墓碑に海軍の指揮官であったことが書かれている | こちらは海軍が作ったペリーの追悼墓 |



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| 墓参を通してサウスダコタの雄大な自然に抱かれ、心身共に生き返った気がしたよ〜 |
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| 白人と戦ったスー族の指導者 | 騎兵隊を襲撃し、カスターの死を預言した | 罠にはまり最後は暗殺された |
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| TATANKA(タタンカ)の意味はブル、つまりバッファロー。映画 『ダンス・ウィズ・ウルブズ』で有名になったスー族の言葉だ |
ブル像の視線の先には湖が広がっている |
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| スー族と騎兵隊が戦った古戦場フォート・ロビンソン | 古戦場の池に朝陽が反射する | この大地をスー族の戦士クレイジー・ホースが疾走した |
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| フォート・ロビンソン(ロビンソン要塞)の看板と騎兵隊の宿舎 | 周囲を複雑な岩場に囲まれた自然の要害だ | |
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| 復元された白人の裁判所。この前でクレイジー・ホースは処刑判決を受け銃剣で刺殺された | 「クレイジー・ホースはここで殺された」とある | |
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| 佐賀士族を率いた | 墓地入口の一角に江藤家の墓所がある | 「江藤新平君之墓」 |
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| 大政奉還で活躍 | 左右から先妻と後妻に挟まれている |
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| 正面「宏徳院殿道誉哲心元曄大居士」 | 背後「正一位勲一等伯爵後藤象二郎之墓」 |
| 土佐藩士。藩参政(家老)の吉田東洋は義理の叔父。幕末、公武合体派の先頭に立ち土佐勤王党の武市瑞山らを切腹させる(27歳)。1867年(29歳)、坂本龍馬と接近した際に、平和的に倒幕を成し遂げる“船中八策”を提案される。同年、象二郎は山内容堂と連名で幕府に建白書を提出し、15代慶喜に大政奉還を認めさせた。維新後は明治政府の要職を歴任する一方で、幼なじみの板垣退助の自由党結成に協力した。娘婿は三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助(弥太郎の弟)。長男は日活の前身、日本活動フィルム会社の初代社長。 |
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| なんと95歳まで生きた維新志士 |
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| 護国寺本堂右手にある光顕の墓所 | 『従一位勲一等 田中光顕之墓』 | 右が光顕、左は田中家累代の墓 |
| 土佐藩士。通称顕助。武市半平太に心酔して土佐勤王党に参加し、19歳で藩の重臣・吉田東洋暗殺にかかわる。1863年(20歳)、土佐勤王党が弾圧されると翌年に脱藩し、高杉晋作の弟子となる。新選組に追われながらも薩長同盟に貢献。第二次長州征伐に際して長州藩の軍艦で幕府軍と戦った。その後、土佐の陸援隊に入隊。1867年(24歳)、龍馬と陸援隊の隊長・中岡慎太郎が襲撃されると、光顕はいち早く近江屋に駆けつけて瀕死の中岡から暗殺の様子を聞く。光顕は陸援隊副隊長となり戊辰戦争で奮戦した。 維新後は新政府の要職を歴任し、日露戦争時に皇后が「枕辺に立つ龍馬の夢」を見た際に、龍馬の写真を見せて確認をとった。1909年(66歳)、収賄疑惑の責任をとって政界を引退し、故郷の桂浜に龍馬の巨大な銅像を建て、武市半平太の遺族を支援する。短命な志士が多いなか、光顕は95歳と群を抜く長寿で、晩年まで維新志士の業績を伝えることに努力した。 |
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| 蜂起後に都で政変が起きて、あれよあれよという間に天誅組は義軍から逆賊に立場が逆転していた…どうしてこうなった! |
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| 同じ墓地に建つ天誅組40名の合葬墓。一つの墓に40名…あまりに痛ましい… |
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| 京都三条の「吉村寅太郎寓居之址」。左隣には武市半平太が住んでいた |
| 倒幕の急先鋒、天誅組の総裁。土佐藩出身の志士。1861年(24歳)、武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟し、尊皇攘夷にのめり込んでいく。やがて半平太よりも思想が先鋭化し、脱藩後に寺田屋事件で捕縛され、土佐で8ヶ月間入牢する。その後、各藩から飛び出した過激派の志士集団“天誅組”を組織。 孝明天皇を奉じて討幕運動の牽引者となるべく、神武天皇陵を擁する大和国で挙兵するが、直後に“八月十八日の政変”が起きて攘夷派の長州藩が都を追われるなど、情勢が180度ひっくり返る。 悲惨なことに孝明天皇から逆賊扱いされた天誅組は、諸藩の猛攻を受け、敗走の果てに寅太郎は射殺、天誅組も壊滅した。辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」。 死の14年後(1877年)に名誉回復となり、その4年後に、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎らと一緒に正四位が贈られた。諱は重郷。 |
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| 『坂の上の雲』のモックン は確かに似ている |
広大な鎌倉霊園に眠る |
第17区9側を入ってしばらく歩くと、右手に秋山家の墓がある |
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| すっきりとシンプルな洋風の墓 |
著名な軍人であることは外見から分からず、 真之の真摯な人間性が伝わるようで好感 |
うっすら名前 が確認できる |
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| 青山霊園の南端近くに墓がある | 鎌倉に眠る弟・真之に比べ墓域はかなり広い | 写真の後方に見えるのは六本木ヒルズ |
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| 日本騎兵の父 | 司馬遼太郎『坂の上の雲』で一般人にも有名に | 都心にあり墓参しやすい | 好古(よしふる)確認 |
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| 日露戦争で戦死し軍神第1号となった | 右が武夫。左は兄で帝国海軍少将の広瀬勝比古 |
| 「軍神」第1号。明治の大日本帝国海軍軍人。現大分県竹田市出身。小学校教師を経て海軍兵学校に入校。1894年(26歳)、日清戦争に従軍。翌年、大尉に昇進する。1897年(29歳)、ロシアに留学して語学を学びながらロシア貴族や軍人と交流する(露海軍大佐の娘アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと親しくなった)。そのままロシア駐在武官となり、1900年に31歳で少佐となる。翌年帰国。1904年(35歳)、日露戦争が勃発し、ロシア艦隊を旅順港に閉じ込める閉塞作戦(港の入口に意図的に艦船を沈没させ港を使用不能にする)に参加。第2回閉塞作戦で閉塞船福井丸を指揮し、撤退時に行方不明となった部下(杉野孫七上等兵曹)を救助するべく船内を3度捜索。その後、救命ボート上で頭部に敵砲弾が直撃し即死した。享年35。没後、中佐に昇進。明治政府は広瀬を神格化し、軍神として讃え、他界8年後(1912年)に文部省唱歌『廣瀬中佐』が作られた。
※大侠客、清水次郎長と親交があった。
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| 小島・木村両家の墓域。正面奥が総三の姉の夫・木村敬弘の墓。その左手前の小さな墓が相楽総三(小島将満)夫婦の墓 | |
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| 高い理想を持って維新に参加した のに“偽官軍”と呼ばれるなんて… |
夫婦揃って明治元年に 死んでいるのが可哀相 |
正面「赤報隊隊長 正五位 相楽総三之墓所」 背面「慶応四年三月三日 長野県下諏訪にて没す」 |
| 尊攘派志士。本名、小島四郎左衛門将満、通称四郎。相楽総三は変名。父は下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士。江戸出身。1861年(22歳)に志士となり、東国各地で同志を集め、1863年に赤城山挙兵を計画するも失敗。翌年、水戸藩尊攘派の天狗党による筑波山挙兵(天狗党の乱)に加わるが意見の相違があり離脱。1866年(27歳)、京入り。翌1867年、薩摩藩・西郷隆盛の密命をうけて江戸薩摩藩邸を拠点とする浪士隊を結成。相楽総三の変名で総裁に就任した。浪士隊の任務は幕府側に“先に手を出させる”こと。薩摩はそれによって、大政奉還で失った幕府武力討伐の大義を得ようとした。総三は江戸で治安を撹乱し、挑発にのった幕府軍(屯所を襲撃された庄内藩)が薩摩藩邸を焼き討ちし、作戦は成功した。これをきっかけとして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。 京都に逃れていた総三は、再度西郷の命を受けて赤報隊(東征軍の先鋒隊)の結成に参加、1番隊隊長となる(全3隊)。総三は庶民の為に新政府に提言した年貢半減令が採用されて喜び、新政を布告しながら東山道を進軍した。ところが、新政府は軍資金が不足し、年貢半減令を取り消した上で、赤報隊に引き返すよう命令。総三率いる1番隊がこれを無視して官軍先鋒嚮導隊(きょうどうたい)の名で進軍したことから、偽官軍として捕縛され、同年3月3日、官軍参謀・進藤帯刀によって信濃国下諏訪で斬首された。 妻・照子は総三の訃報を聞き、息子を総三の姉に託して自害。総三の首級は親交があった国学者・飯田武郷の手で盗み出され、青山霊園立山墓地に眠る。孫の木村亀太郎の努力で名誉が回復され、1928年に正五位が贈られた。 ※墓石は正面に「明治元戌辰年 三月三日 天忠院教誉道順居士/鏡松院操誉妙麗大姉 明治元戌辰年 七月十四日」とあり、右側面に「小嶋将満墓」と本名が彫られている。 ※青山霊園の西側にある飛び地、立山地区は入口が分かり難かったけれど、2011年秋にスロープ付きの大きな坂道ができて墓参しやすくなった! |

| 海軍中将。日本海軍を代表する名提督。超名門の開成中学開校以来の秀才といわれ、1921年(29歳)、米国プリンストン大学に留学。1934年(42歳)には在米国大使館付武官となった。軽巡洋艦「五十鈴」艦長を経て、1937年(45歳)、戦艦「伊勢」艦長となる。1940年(48歳)、第二航空戦隊司令官に就任。山本五十六や井上成美と同じく日米の国力差を熟知しており、真珠湾攻撃では第二撃の必要性を暗に主張したが南雲司令は受け入れなかった。 ミッドウェー海戦に対しては“搭乗員の訓練時間が必要”と猛反対したが、作戦は決行されてしまう。山口は空母「飛龍」に乗艦し、敵主力空母「ヨークタウン」を大破させる。「飛龍」が被弾すると山口は総員退艦を命じ、自らは艦長・加来止男と共に艦に残って運命を供にした。 翌年、山本五十六の搭乗機がブーゲンビル島上空で撃墜される際、米情報部は「(ヤマモトが死んで山口がトップになるとやっかいだが)山口は既にミッドウェーで戦死しているから安心だ、ヤマモトに代わり得る人物は日本には他におらず撃墜可」と判断した。 正三位 勲一等功一級。兄の妻は大久保利通の姪。 |
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| 墓前で「他に方法はなかったのか」と問いかけた | 「東條家之墓」 |
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| ニャンコが墓前でくつろいでいた |
| 第40代総理大臣。陸軍大将。太平洋戦争開始時の首相。東京生まれ。父は陸軍中将。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。1928年(44歳)、陸軍軍務局長・永田鉄山の陸軍統制強化論に影響を受けて陸軍省に入省。陸軍内に一大勢力“統制派”を永田と作り上げた。統制派は“皇道派=急進的青年将校”の動きに反発し、クーデターなどの直接行動ではなく、法に従って国家改造を行おうとした。だが、1935年(51歳)、永田は皇道派に暗殺される。翌年、二・二六事件で皇道派が決起に失敗すると、東條ら統制派が一気に軍中央の権力を握った。当時関東軍(満州)の憲兵司令官だった東條は、亡き永田の弔い合戦で満州の皇道派軍人を片っ端から監獄に送った。いわく「これで少しは胸もすいた」。 1937年(53歳)に関東軍参謀長になると、満州国を通して中国支配に奔走し日中戦争を拡大。近衛内閣で陸相になると、日米開戦を避けたい近衛首相に逆らい、日独伊三国同盟締結や武力南進政策を押し進め内閣を総辞職に追い込んだ。 1941年(57歳)、近衛の退陣後、現役軍人のまま首相に就任し、対米英開戦を強行した…というのが従来の説だが、近年の研究では東條も戦争を煽る国民やメディアに追い込まれていたことが明らかに。開戦前に首相官邸へ届いた投書は3千通。その大半が日米開戦を求めていた。御前会議で日米開戦が決定した後の東條と秘書官の会話。秘書官「この頃は総理に対して何をグズグズしているのかという投書が多くなりました」東條「“東條は腰抜けだ”と言っているのだろう…」。 平和外交を望んだ昭和天皇が、あえてタカ派の東條に組閣を命じたのは、戦争回避に向けて陸軍に統制がきく人間が東條しかいなかったから。首相になれば重責から慎重になるのではという期待があった。内大臣・木戸幸一いわく「東條を推薦したのは私。政治家はどこに行ったかわからなくなってた。器は大きくなくても東條しかいない」。一方、企画院総裁・鈴木貞一いわく「東條は海軍がやっぱり戦に不同意と言うことになれば、陸軍だってそんな戦は強いて主張しないと言っていた」。このような証言もあり、強硬派とされる東條にも迷いはあったようだ。東條いわく「(中国で)あれだけの人間(日本兵)を殺して金も使って、手ぶらで帰ってこいと言うことは出来ない」。 陸軍省軍務課長・佐藤賢了いわく「独裁的な日本の政治では無かった。だから戦争回避は出来なかったんです。こうした日本人の弱さ、ことに国家を支配する首脳、東條さんはじめ我々の自主独往の気力が足りなかったことが、この戦争に入った最大の理由だと思う」。つまり、国民を戦争に引きずり込んだヒトラーと異なって、日本の場合、独裁者がいなかったからこそ、戦争が避けられなかった。日本のトップ=大本営政府連絡会議はみんな責任を負うのがイヤで、弱腰とみなされ失脚するのが怖くて、戦争は愚かと気付いていながら戦争という道を選んでしまった。 開戦後、東條は内務・外務・陸軍・文部・商工・軍需の各大臣を兼任し、さらに参謀総長まで務めて権力の集中を計る。そして「大東亜共栄圏建設」をうたって戦争を遂行したが、補給軽視のずさんな作戦で多くの兵士が餓死。戦局はどんどん悪化し、1944年(60歳)にはマリアナ沖海戦で敗れて海軍を失い、サイパンも陥落してしまう。これで本土空襲が決定的になった。この事態を受け、東條内閣は総辞職。1945年(61歳)、日本降伏。東條の娘婿、古賀秀正少佐は玉音放送開始と同時に自決した。東條自身はA級戦犯容疑で逮捕される直前にピストル自殺を試みるも未遂に終わり、東京裁判で死刑となった。従二位。勲一等。 |

| 「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と言われた陸軍きっての逸材。陸軍中将。陸軍大臣を通じて合法的に国家総力戦体制を樹立することを目指した「統制派」の中心人物。長野県出身。陸軍幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を2位で卒業し、恩賜の軍刀を授与される。1920年(36歳)、駐スイス大使館付駐在武官となり、翌年、陸士同期の小畑敏四郎、岡村寧次、一期下の東條英機らとドイツで密会し、陸軍近代化のために薩長閥を排除することを誓う。永田はエリート将校40人が結集した一夕(いっせき)会のホープで、ドイツの国防国家建設の思想を最初に陸軍へ持ち込んだ。1932年(48歳)、陸軍少将に昇進。その後、陸軍省軍務局長となる。永田には6年間の欧州駐在経験があり、日本と欧米の国力差を正確に把握していた。外務省が満州問題でこじれた国際関係の修復に乗り出すと、永田は「ソビエトと平和外交を進めようとする外務省の考えに賛成です」と外務省幹部に接近した。永田は宮中、元老、政党と支持を広げ、陸軍皇道派(急進派)を追い詰めていく。そして悲劇が。1935年8月12日、白昼の陸軍省で皇道派の相沢三郎中佐に斬殺された。享年51。発見時、刀が肺に突き刺さっていたという。 「永田が殺されていなければ日本の姿がよほど変わっていた。あるいは大東亜戦争も避けられたかもしれない」(元陸軍中将鈴木貞一)。 ※同郷出身の岩波茂雄(岩波書店創立者)は親友。 〔皇道派VS統制派〕 ※皇道派…天皇中心の国体至上主義を信奉し、直接行動による国家改造を企てた急進派。反ソ・反共。中心人物は荒木貞夫大将、真崎甚三郎大将。 ※統制派…合法的に陸軍大臣を通じて国家総力戦体制を樹立することを目指した。反英・反米。中心人物は永田鉄山、東條英機。永田の死後、全体主義色の強い軍閥に変容していく。永田さーん!! |
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