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| 自殺直前の自画像 | 『星月夜』 | 『ひまわり』 |
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| 『夜のカフェ・テラス』 | 『カラスのいる麦畑』(これが最後の作品と言われている) |
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| パリ、ルピック通り(Rue Lepic) 54番地にあるゴッホの家 |
この最上階右端に住んでいた (2009 撮影) |
門の左にゴッホ兄弟とゆかりが あることを示すプレートがある |
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| パリのサン・ラザール駅。オーベールへはここから北上する | ポントワーズでローカル線に乗り換え | オーベール・シュル・オワーズ駅に到着! | |
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| 駅を出るとすぐドービニーの庭がある | ゴッホ公園のゴッホ像。彫ったのはザッキン | ゴッホ像は観光客に大人気だ | |
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| 深い親交があったガシェ医師の家 | 有名なオーヴェールの教会(05) | 09年は補修中!あんまりだ〜(涙) |
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| ゴッホがピストル自殺した麦畑(2005、2009) | 遺作「カラスのいる麦畑」 |
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| ゴッホが下宿していたラヴー亭は現在ゴッホの部屋が公開されている。 彼が息絶えた部屋は3畳ほどの狭い空間だった(撮影許可済) |
花屋で墓参用のヒマワリを購入。 いよいよ彼のもとへ! |
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| 墓地の正面ゲート | 周辺は畑。遠くに山が見える。とっても平和な世界 |
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| 1989 | 2005.7.29 | 2009 |
| 夜まで6時間ほど彼らと喋っていると、嵐がきてズブ濡れに (大きな雨粒がそれ) |
僕は彼と同じ37歳になった時、命日に絶対来ようと決めていた |
さらに4年後。この時はゴッホの墓の側に たくさんのバラが咲いていた |
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| このツタの葉はテオの妻ヨハンナが植えたもの。彼女は兄弟の墓に次の言葉を捧げた 「二人は生くるにも死ぬるにも離れざりき」(サムエル記・下1章23節)。そして、2人の墓石の間には 数本の麦が生えていた。「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、 死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネ伝第12章24節)というキリストの言葉を彷彿させた(2009) |
バラからは命の輝きを感じた! |
| 「私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを表現したい」(ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ) ※以下、文中で宛名を表記していない手紙は、すべて弟テオへ書いたもの。 ●画商、教師、本屋、伝道師〜転職と苦悩の日々(1853-1880) 1853年3月30日、オランダ南部ベルギー国境沿いのフロート・ズンデルト村に生まれる。碧眼、赤毛。“ヴィンセント”の発音は独語読みではフィンセント、仏語ではヴァンサン。祖父と父は牧師。男3人、女3人の6人兄弟の事実上の長男(初子は死産)で、4つ年下の弟テオドルス(通称テオ)と終生固い兄弟愛で繋がっていた。ヴィンセントは少年時代から思い込みの激しい性格で、熱烈な片想いと失恋を繰り返し、就職しては客や上司と衝突していく。1869年(16歳)、美術商グーピル商会の共同経営者である伯父の取り計らいで同社に就職、ハーグ支店で画商として働き始めた。1872年(19歳)、この年からテオとの文通が始まる。 熱心な仕事ぶりが評価され、20歳の時にロンドン支店に栄転。テオもブリュッセル支店に就職した。ロンドンでは下宿先の娘ウルスラに惚れ、相思相愛と信じて告白するも既に婚約者がいて玉砕。1875年(22歳)、失恋から立ち直れないヴィンセントは仕事への熱意を失い、彼の精神状態を心配した伯父の計らいでパリ本店に配属された。この頃、ミレーなど農村を描いたバルビゾン派の絵画に心を惹かれていく。画商にもかかわらず、自分が気に入らない絵を買おうとした客に「これは買わない方がいい」と“助言”したり、クリスマス商戦を放り出して無断でエッテン(父の新しい赴任地)に帰るなど勤務態度が問題になった。「私に何かご不満がおありですか?」と支配人に尋ねたことが決め手となり、翌春に解雇される。 1876年(23歳)、新聞広告で知った英国の小学校教師の職を得て、仏語、独語を教える。ロンドン近郊の貧民街の様子にショックを受けたヴィンセントは、この年の後半に副説教師の職にも就き、初めて福音の説教を行った。聴衆の反応に手応えを感じたことから、貧者を救う為に伝道活動に身を投じる覚悟を決める。翌年、聖書の研究をしながら、伯父が見つけてくれたオランダ・ドルトレヒトの書店に勤めるが4ヶ月間で退職。キリスト教への情熱が加速し神学校に入るが、語学教科のギリシャ語で挫折。棍棒を自分の背中に打ちつけ“体罰”を与えた。 1878年(25歳)、ブリュッセルの伝道師養成学校に入ったが、見習い期間が終わっても伝道の仕事が与えられなかった。同年暮れ、聖職者の仕事を探してベルギー南部のモンス、ボリナージュ炭鉱地帯へ向かう。この頃、ヴィンセントはテオ宛ての手紙に「僕は他人の為にどうすれば役に立てるのかずっと悩んでいる」と苦悩を綴っている。 翌年、半年間の期限付きではあるが、ついに伝道師として認められる。ヴィンセントは劣悪な環境で働く炭鉱夫に心から同情し、懸命に伝道活動を行う。「僕はこの貧しく、闇に埋もれて働く労働者たちの中に、何か人の心を感動させるものを見出し、痛ましいような悲しさを覚える。このドン底の連中、世間からまるで悪人か泥棒みたいに見なされている、これら最も蔑まれた人たちに対してそう思うのだ。もちろん悪人や飲んだくれ、泥棒はどこにもいるようにここにもいる。だがそんなやつらは、1人として本当の坑夫じゃない」。半年後、任期延長を期待していたがそれは認められなかった。理由は“常軌を逸した熱心さ”。ヴィンセントは聖書の「汝の持ち物を売りて貧しき者に施せ」を実践し、ひどい掘っ立て小屋に住み、伝道師の衣服は坑夫にやり、手製のズック地のシャツを着ていた。顔は炭で汚れ、落盤事故で負傷者が出ると下着を引き裂き包帯にした。これらが聖職者の権威を傷つけると判断された。その後の9ヶ月間はテオにさえ連絡をとらず音信不通となる。ヴィンセントいわく「羽毛の脱け替わる時期は人前に出ず身を隠さねばならない」。 ●27歳、画家としてスタート(1880-1884) 「伝道師として挫折した私は絵画を通じて、救い、救われたかった」。1880年(27歳)、ヴィンセントはテオへの手紙の中で画家を目指すことを告白し、取りつかれたように素描(デッサン)の特訓を開始する。伝道師として人々に光を与えることが出来なかった為、絵によって光を与えようとした。芸術は彼にとって「愛を訴える方法」だった。テオは兄の生活を助けるべく仕送りを始め、10年後に兄が自殺するまで毎月続いた。質素に暮らしていることを報告する為か「僕の主食は乾パンとジャガイモ、或いは街角で売っている栗だ」「4日間で23杯のコーヒー以外に殆ど何も食べなかった」と弟に書き送っている。テオが多忙で返事を書けないでいると「君が手紙を寄越さないのは僕が金をせびるのを警戒しているのか」と嫌味を書いたが、テオが表向きは親からの送金といって自腹を切っていたことを父より聞かされ、恥じ入ると共に「心から感謝しているし、君が(仕送りを)後悔しないよう決して期待を裏切らない」と誓った。 テオに対する負い目を感じていたヴィンセントは、絵をすべて送ることで心の重荷から逃れようとした。「僕は君が送ってくれる金を自分で稼いだ金と考えたいのだ。だから僕は毎月君に作品を送る」。ヴィンセントは当初独学でスケッチしていたが、秋からブリュッセルの美術学校で遠近法と解剖学(人体構造)を学ぶ。 ※この時代の画家の関係を年齢から見てみると、ミレーがゴッホより39歳年上、セザンヌが14歳年上、モネとロダンが13歳年上、ルノワールが12歳年上、クリムトがゴッホより9歳年下、ムンクが10歳年下、ロートレックが11歳年下、マティスが16歳年下、ピカソは28歳年下になる。ゴッホが死んだ時、ピカソは9歳だった。日本の絵師ではゴッホが生まれる4年前に葛飾北斎が他界し、歌川広重はゴッホが5歳の時に他界。 翌年(28歳)、エッテンの家族の元へ戻り、風景や農民を描き続けた。「もう、以前のように自然を前にして為す術を知らずに手をつかねているようなことはない」。その夏、牧師館には夫を亡くしたばかりの子持ちの従姉ケーが、ヴィンセントの父の招きで共に暮らしていた。父はケーの悲しみが癒えるまでゆっくり過ごさせるつもりだった。ところがヴィンセントはそのケーに惚れてしまう。彼女を真実の愛で救おうと求婚するが、ケーはヴィンセントの想いに驚愕してこれを拒絶、家を去ってしまう。父は“未亡人の気持ちを理解していない”と激怒した。ヴィンセントは自分の誠実な想いがケーに伝わっていないと感じ、再度求婚するべくケーの実家のあるアムステルダムまで追いかけた(この旅費もテオが送った)。だが、ケーは会おうともしてくれず裏口から逃げ出した。彼女の両親に「会わせて欲しい」と懇願し、愛の強さを“証明”するために左手の指をロウソクの火にかざした。その苦痛を我慢できる間だけケーと話をさせて欲しいと頼んだようだ。ケーの父は慌てて火を吹き消し、結局会うことは許されなかった。 父との衝突が続いて居場所を失ったヴィンセントは、クリスマスに「教会制度なんて唾棄すべきもの」と、捨て台詞を吐いて家を出た。さすがにテオもこの悪態が許せず「意見が合わないからと言って両親をあんなふうに痛めつけて、どうしてそう子どもっぽく恥知らずなことが出来るのですか」と叱り、兄は腹立ちのあまり理性を失ったことを詫びた。「父と母が僕を本能的にどう見てるかがよく分かる。家の中に入れることに恐怖を感じているのだ。ちょうど、大きな野良犬を家に入れたのと同じなんだ。犬は濡れた足で部屋に押し入る。みんなの邪魔だし、やたら大声で吠える。ようするに汚い獣(けだもの)なのだ。いいだろう。だがこの獣にも人間らしい魂がある。犬には違いないかも知れないが、人間の魂を、それもとびきり敏感な魂を持っている。おかげで人々からどう見られているか分かるのだが、これは普通の犬に出来る芸当じゃない」。 1882年(29歳)、年明けにハーグで家を借りて従兄の画家アントン・モーヴ(マウフェ)から絵を学ぶ。だがモーヴが石膏像のデッサンを重視すべきと助言すると、ヴィンセントは石膏像を粉砕して石炭入れにブチ込み、「僕が描きたいのは生命であって冷たい石膏じゃない」と言い放った。呆れたモーヴはしばらく距離を置く。ヴィンセントは焦燥感を胸にテオへ書き送る「一体人々の目に僕はどういう人間に見えているのだろう?取るに足らぬ存在、あるいはひどく風変わりで不愉快な男、社会的地位を何も持たず、将来も最低の地位すら持てそうにない男。結構だ…それなら、そういう男の胸中に何があるか、僕は作品によって見せてやろう。これが僕の野心だ。この野心は、何と言われようとも、怒りよりも愛に基礎を置いている」。 ハーグに住み始めて1ヶ月が経った頃、ヴィンセントは街で出会った娼婦シーンと同棲を始めた。シーンは30歳。子持ちで、妊婦で、性病に感染し、アルコール中毒だった。性病が移ったヴィンセントは3週間入院する。その後、シーンをモデルにデッサンを続けた。 1883年(30歳)、何とか彼女を救済したいと結婚を考えるが周囲は猛反対。夏にはテオがやって来てシーンと別れるよう強く説得した。これを受けて彼はハーグを去ってオランダ東部ドレンテ地方へ向かい、農民の過酷な暮らしを描き始める。3ヶ月後、ヴィンセントは次第に孤独感がつのり、年末に両親の元へ戻った(一家はニューネンに赴任)。翌年、ミレーに心酔していたヴィンセントは、ニューネンで農夫と同じ環境で暮らしながら、仕事着の農民や職人を描き続けた。炭鉱夫も娼婦も救えなかった彼は、貧しい人々への愛を絵で表現しようとした。「巨匠たちの絵の中の人物は生きて働いていない。働く農民の姿を描くことは近代美術の核心である」「僕はいくら貧乏になっても絵を描き続ける。そして自然に背を向けず、その懐の中に入って人間的に生きるのだ」。やがて隣家の娘マルホット・ベーヘマンから求愛され(ヴィンセントが惚れられた!)、彼はその気持ちを受け入れようとしたが、生活能力の問題から双方の親に交際を禁じられ、彼女は服毒自殺を図った。 ●“ゴッホ”誕生『じゃがいもを食べる人たち』(1885-1886.2) 1885年(32歳)、3月に父が脳卒中で急死する。父子は最後まで理解し合えず、他界の2日前に父はテオに「どんな仕事でもいいから、(兄が)成功してくれればよいのだが」と書いた。ニューネンに来て以来、40点以上も農民の顔をスケッチしていたヴィンセントは、父他界の翌月、初めての人物画の大作となる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。画家を志してから、ひたすらデッサンを続けてきた5年間の総決算。神話の神々や歴史上の英雄を描いたものでも、裕福な貴族の肖像画でもない、農村の厳しい暮らしぶりを熟知しているヴィンセントならではの、胸に迫るような農民画。画中の家族の晩飯はゆでたジャガイモだけだ。現実世界の真実を切り取ったものであり、ここに画家ゴッホが誕生したと言っていい。 「僕がこの絵で強調したかったことは、ランプの下で皿を取ろうとしている、まさにその手で土を掘ったと言うことだ。つまりこの絵は“手の労働”を語っているのだ。彼らが正直に自分たちの糧(かて)を稼いだことを語っているのだ。誰もがすぐにこの絵を好きになったり褒めたりしてくれるとは思わない。だが“これこそ本当の農夫の絵だ”と、やがて世間の人は悟るだろう」(画中にコーヒーが見えるけど、本物のコーヒーは高くて買えなかった為、チコリという野菜の根を乾燥させたものを代用コーヒーとして呑んでいた)。モデルを引き受けた農民はヴィンセントの手で不滅の姿をとどめた。この家族絵は評価されなかったが、ハーグの画材店がヴィンセントの作品を初めてショーウインドウに展示してくれた。秋になると、以前モデルとして描いた女性が妊娠し、ヴィンセントは無関係なのに地元の教会が彼のモデルになることを禁じる布告を出した。誰もモデルになってくれなくなったため、11月、2年間家族と過ごしたニューネンを出てベルギーのアントワープに移る。3ヶ月滞在したこの街で、日本の浮世絵と出会い、その構図や色使い、力強い輪郭線に感銘を受けた。 アントワープの美術学校に通い始めたヴィンセントの元へ、その頃グーピル商会のパリ・モンマルトル支店長となっていたテオから、パリの美術界に“印象派”と呼ばれる新しい画風が広まっていることを手紙で知らされる。彼は好奇心を抑え付けられなくなった。 ●パリ時代(1886.3-1887) 1886年(33歳)3月、テオに事前連絡もせずパリにやって来て、弟の部屋に転がり込んだ。「突然来てしまったがどうか怒らないでくれ」。テオは戸惑いながらも自分の部屋で兄と共同生活を始める。ヴィンセントは画家コルモンの画塾で若いロートレック(22歳)やシニャック(23歳)と友情を育み、画材屋のタンギー爺の店でも芸術家たちと知り合った。パリ画壇は印象派の大ブーム。画風においては印象派の重鎮ピサロや、点描法を得意とした6歳年下のスーラ(1859-91)の絵画から影響を受け、それまでの武骨で暗い絵から、明るく輝かしい色調の作品へと大きく変わっていった。テオは妹宛ての手紙に「兄は絵がめきめきと上達している。太陽の光を絵に取り込もうとしているのだ」と記す。モデルを雇う金がないため、パリ滞在の2年半で27点も自画像を制作した。画材店のタンギー爺さんは、貧乏な画家たちを損得抜きで助け、飯を食わせ、画材を買えない画家には作品と引き換えに絵の具やカンバスを渡してやった。売れない画家の絵でも店に飾ってあげ、セザンヌの絵がタンギーの店にしかない時期もあった。「タンギー爺さんは何と言っても長年にわたって苦労し、堪え忍んできた。だからどこか、昔の殉教者や奴隷に似たところがある。現代のパリの俗物どもとは全く違うんだ。僕がもし老人になるまで長生きしたら、タンギー爺さんみたいになるかも知れないよ」。 ※ヴィンセントの死後、ある美術評論家がタンギー爺さんの店でヴィンセントの静物画を発見した。買い求めたところ、爺さんは古い帳簿を調べて「42フラン」と言った。なぜ半端な金額か尋ねられると「可哀相なファン・ゴッホが死んだとき、ワシは42フランの貸しがあったんですよ。これでやっと返してもらいました」と返答したという。 ※パリの画塾でヴィンセントを見た女流画家シュザンヌ・ヴァラドンの証言「彼は重いカンバスを抱えてやってくると、光線の具合の良さそうな片隅に立てかけ、誰かが注意を払ってくれるのを待っていた。しかし、誰もそれを気にとめないでいると、絵に向かい合って座り、会話には殆ど加わらず、みんなの視線をうかがい、やがて疲れ切ってその最新作を抱えて立ち去った。けれども次の週にはまたやって来て、同じパントマイムを繰り返した」。 1887年(34歳)、死まであと3年。北斎や広重の作品を集めたり、自ら模写を試みていたヴィンセントは、カフェ『ル・タンブラン』で浮世絵の小さな展覧会を企画し好評を得た。ゴッホ兄弟の浮世絵コレクションは500枚以上もあった(特に広重の『名所江戸百景』を好んだ)。「日本の芸術を研究すると、明らかに知恵者であり哲学者である。しかも才能に溢れた1人の人間に出会う。今その人はどんな風に生きているのだろうか。地球と月との距離を研究しているのか、ビスマルクの政策を研究しているのか。いいやそうじゃない。その人はただ草の芽のことを調べているのだ。しかしその一本の草の芽から、やがてあらゆる植物を描く道が開かれる。四季の変化も山野の風景も、動物を、人間を描く道が開かれる。まるで自らが花であるかのように、自然の中に生きている素朴な日本人が僕らに教えるものこそ真の宗教ではなだろうか。僕たちは決まり切った世間の仕事や教育を捨てて自然に還らなければいけない」。 同年、モンマルトルのレストラン『デュ・シャレ』で、気の合うロートレックやベルナールらとグループ展を催した。この展覧会にふらりと現れた画家ポール・ゴーギャン(39歳)は、ゴッホの『ひまわり』(有名な絵とは別。枯れかけた2本を描いたもの)を気に入り、「私の作品と交換したい」と申し出た。2人は意気投合し、作品交換をきっかけに交流を重ねていった。「ゴーギャンには人間として、とても興味をそそられる。画家などという絵の具まみれの汚い仕事には、労働者のような手と胃袋を持った人間が最もふさわしいのだ。ゴーギャンは野生の本能を持った無垢な人であることは疑いない」(友人ベルナールへの手紙)。 ※ゴーギャンは1848年にパリで生まれた。株式仲買人として成功し、5人の子を持つ裕福で洗練された男だった。御者付きの四輪馬車も持っていた。1874年(26歳)の第1回印象派展で絵画の魅力に目覚め、日曜画家として絵筆をとり始める。1880年(32歳)、第6回印象派展に出品した『裸婦習作』が、批評家から「裸婦を描いている現代作家の中で、これほど激しく真実を見つめた者はいない」と絶賛され、1883年、35歳の時に会社を辞め、すべてを捨てて画家になった。だが、絵は全く売れず妻は子を連れて実家に帰ってしまった(家具も全部持って帰った)。やむなく、ポスター貼りをしながら生活費を稼ぐ。建築場で連日12時間もツルハシをふるった時期もあった。1886年(38歳)、パリからブルターニュ地方ポン=タヴェンに拠点を移し、安宿に泊まって新しい絵画芸術を模索。そして誕生したのが、見たままを描く印象派を脱し、想像力で独自の世界を築いた記念碑的作品『説教の後の幻影・ヤコブと天使の闘い』(1888/40歳)。この作品で現実と幻想をひとつの画面に融合した新しいスタイルを獲得した。ただし、当時はあまりに前衛的で世間から全く評価されなず、教会に寄贈を申し出たものの司祭から冗談と思われ断わられた。その後、印象派の画家が時々刻々と変化する光と空気の効果を捉えようとしていたことに対し、ゴーギャンは「絵を自然の移ろいに従わせることから解放する」と真逆の態度を取った(この前年1887年11月、パリに出た際にゴッホと初めて出会っている)。 パリは刺激に満ちていたが、大都会に息苦しさを覚えたヴィンセントはアルコールに手を出し、テオは万事に強情な兄との生活を負担に感じ、喧嘩が絶えなくなる。「彼の中にはまるで2人の人間がいるようだ。1人は才能に溢れて優しく繊細な心を持つ人間だが、もう1人は自己中心的で、かたくなな人間だ。2人は代わる代わる現れる。1人の話を聞くと、次にもう1人の話を聞かねばならない。2人はいつも喧嘩している。彼は彼自身の敵なのだ」(テオから妹への手紙)。妹が「お願いだからもうヴィンセントと別れて下さい」と書くと「彼が画家でなければ、君に言われるまでもなく、とっくに僕たちは別れて暮らしているだろう。しかし彼は間違いなく芸術家だ。僕は彼を助けなくてはならない」と返答した。一方、ヴィンセントも“このままでは自分がダメになる”と気づいていた。 ●南仏アルルへ〜愛憎ゴーギャン(1888.2-1888.12) 1888年(35歳)2月19日、ヴィンセントは心機一転を図るべく、冬の陰鬱なパリを離れ、南仏プロバンス地方に向かった。南仏出身のロートレックから、明るく暖かい太陽のことを聞かされていたのだ。光が溢れる国・日本を夢見た彼は光に満ちた南仏に日本を求めた(浮世絵の人物には足下に影がないので、日本をいつも真上に太陽がある国と勘違いしていた)。暖かいアルルに到着したヴィンセントはすぐに同地を気に入り、麦畑や花が咲き乱れる果樹園、跳ね橋を好んで描いた。「アルルはまるで日本の夢のようだ。僕たちは日本の絵を愛し、その影響を受けている。印象派の画家はみなそうだ。それならどうして日本へ、つまり日本のような南仏へ行かずにおられようか」「影ひとつない麦畑で、真昼の照りつける太陽を浴びて仕事をしているが、それでもセミのようにご機嫌だ」「まるで絵を描く機関車みたいに僕は爆進しているんだ」。一方、パリのテオは妹に寂しさを綴る「このアパートに1人になった今、空虚さが身に染みる。誰か相棒を見つけて一緒に住んでみようとも思うのだが、ヴィンセントのような人間の代わりはなかなか見つかるものではない。兄さんがどれほど深くモノを知っていたか、どれほど明瞭に世の中のことを分かっていたか、とても信じられないほどだ。もし兄さんが長生きすれば、きっと名声を得るに違いないと信じている」。 アルルでマダム・ジヌーが経営する「カフェ・ド・ラ・ガール」に下宿したヴィンセントは、やがてこの土地に芸術家共同体“南仏派”を築くというアイデアに夢中になり、5月になるとアルル中心街に1階をアトリエに整備した「黄色い家」を借りた。ヴィンセントはパリの画家仲間十数人に手紙を送った。「ギリシャの彫刻家や、ドイツの音楽家、フランスの小説家が到達した、あの澄み切った境地に画家が匹敵するようになるには、個人個人が独立していたのではとても無理だ。そうした絵画は共通の理想を追求する画家集団によって作り出されるだろう」「現状では画家たちは互いに非難攻撃し合うだけで共倒れにならないのが不思議なくらいだ」。特にゴーギャンには“友情の証”として『坊主としての自画像』を贈り、「新しい芸術を一緒に目指そう」と熱心に誘った。「数人の画家が共同生活を営むことになると、秩序を保つ為に責任者が必要になる。その役にはゴーギャンがうってつけだ」。ゴーギャンは申し出を受け入れ、自身をお尋ね者ジャン・バルジャンになぞらえた『自画像(レ・ミゼラブル)』に“我が友ヴィンセントへ”とサインを入れてゴッホに贈った。 ゴーギャンが来ることになり大喜びするヴィンセント。さっそくゴーギャンの部屋を飾るために『ひまわり』の連作を制作した。「君(テオ)が泊まりに来たり、ゴーギャンが来たりした時に使う部屋には、白い壁の上に大きな黄色いヒマワリの絵を飾るつもりだ。僕は本気で芸術家の家を創ろうと思っているんだ」。ヴィンセントはゴーギャン用の家具を買い揃え、ヒマワリを何枚も描きながらひたすら到着を待つ。アルル行きをゴーギャンが承諾したのは、非常に経済的に困窮しており、テオが提案した「月々の手当のほか、交通費、家賃、画材代を負担するから兄のもとへ」という条件をアテにしたことも背景にあった(テオは、まっこといいヤツ!)。10月23日、ゴーギャン到着。自室に掛けられた『ひまわり』をとても気に入った。「私の部屋にはヒマワリの絵が飾られている。黄色い壺に活けられたヒマワリ。絵にはヴィンセントと署名が入っている。私の部屋のカーテン越しに太陽が差し込んで、花々をすべて金色に染める。朝、目が覚めたとき、私はこうしたものは皆とても良い匂いがすると思う。ヴィンセントは黄色を、彼の心を熱くする太陽の光を愛していた」(ゴーギャン)。 ヴィンセントは目の前にあるものを見たままに描くことしか出来なかったけど、ゴーギャンは想像力を駆使して描くことが出来たため、ヴィンセントは5歳年上のゴーギャンを崇拝していた。「ゴーギャンは全く偉大な芸術家だ。僕に想像で絵を描く勇気を与えてくれる」。ヴィンセントは“想像力で絵を描け”というゴーギャンの言葉に従い、記憶をもとに『エッテンの庭の思い出』(1888)なる家族を描いたが、想像で描くことは苦痛でしかなかった。「抽象画は魔法の領域なのだ。たちまち壁に突き当たってしまう」。共同生活の初期こそ和気あいあいとしていたものの、あまりに両者の個性は強すぎた。画風や芸術観の違いもあって意見の衝突が増え、緊張が高まっていく。「彼(ゴッホ)は噴火山のように燃えたぎっていたし、私の心の内もまた沸騰していた。ゴッホと私は意見が合わなかった。絵に関して特にそうだった。彼はロマン派的だが、私はむしろ原始的なものに関心を持っていた」(ゴーギャン)。「2人で議論になると電気のように火花が散る。時にはまるで放電が終わった電池のように頭がクタクタになったあげく、ようやく議論から抜け出る」(ヴィンセント)。 12月に入るとゴーギャンはパリに帰ることを考え始め、テオに手紙を出した「ゴッホと私とでは性格の違いがあって、トラブルを起こさずに一緒に暮らすことは絶対に不可能です。仕事には静けさが必要であり私はここを去ります」。ヴィンセントはゴーギャンがアルルを去るのではないかと不安に脅えながら過ごし、アブサンという強い酒に逃げるようになる。ゴーギャンいわく「ある晩、カフェで彼はアブサンを飲んでいたのだが、突然グラスを中身もろとも私の顔めがけて投げつけた」。 そんな折り、ヴィンセントを大きく動揺させる手紙がテオから届いた。物心両面で頼りにしてきたテオが“婚約”したというのだ。ヴィンセントは今まで独占していた弟の愛情を奪われてしまうことを恐れた。援助が途切れることを心配した。友人宛の手紙に「お祝いを言いつつも、何とも言えない漠(ばく)とした悲しみがある」と吐露。 そしてアルルでの共同生活9週目、テオの婚約直後の12月23日に決定的な事件が起きる。この日、テオに「ゴーギャンはこの素晴らしいアルルにも、僕らの小さな黄色い家にも、そしてとりわけ僕自身にも、少し嫌気が差したんだと思う」と書いたヴィンセントは、夜になってゴーギャンをカミソリで襲ったのだ。「夕方、食事が終わると私(ゴーギャン)は月桂樹の香りに誘われて散歩に出た。ユゴー広場を通り過ぎたとき、背後に聞き慣れた小刻みな足取りが急に近づいて来た。振り向くと、ヴィンセントがカミソリを手に飛びかかってきた。私が睨み付けると彼は立ちすくみ、首うなだれて家の方へ走り去った」(回想録)。黄色い家に戻ったヴィンセントは、左耳の下部を切り取り、止血後に大きなベレー帽をかぶって馴染みの娼婦に届けるという奇怪な行動に出た。“耳切り”はゴーギャンを引き止めるため同情を買おうとしたとも、ゴーギャンから「自画像の耳の形がおかしい」と指摘され怒って切ったとも言われている。翌朝、癲癇(てんかん)の発作を起こして意識不明になっているところを警察に発見されて病院に運ばれ、ゴーギャンは荷物をまとめてアルルを去った。共同生活はわずか9週間で破綻した。テオはゴーギャンの電報を受けてクリスマス・イブに夜行に乗り、17時間かけてアルルに向かった。 ※事件当時のアルル新聞「昨日、日曜日の夜11時30分、オランダ生まれの画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、1号娼館に現れ、ラシェルという女を呼んで自分の耳を渡し、“これを大事に持っていてくれ”と言いおいて姿を消した。不幸な狂人の仕業としか考えられないこの事件の通報を受けた警察は、翌朝この人物が瀕死の状態で自宅のベッドに寝ているのを発見した」。 『花咲く桃の木(モーヴの思い出)』(1888.4)…アルル時代の初期に描かれた。かつてヴィンセントに絵を教えてくれ、故人となった画家アントン・モーヴの思い出に捧げた。 『種まく人』(1888.6)…圧倒的な黄色い太陽。同じ農夫を描いた作品でも、初期の暗い灰色の世界とは全く異なる。 『郵便配達人ルーラン』(1888.8)…「ルーランは僕に対してどこかベテランの兵隊が新兵に対してするような、黙々とした優しい態度で接してくれる。一言も喋らないけれどいつもこんな風に言ってる気がする“明日がどうなるかは分からないが、どんなことになっても俺のことを考えろ”と」。一家全員を赤ん坊まで描いた。 『ひまわり』(1888.8)…“Vincent”と署名が入った黄色い花瓶は、2人が共同生活する「黄色い家」を表している。西洋ではヒマワリは生命の源である太陽の象徴であり、花瓶のヒマワリ一本一本が、これからアルルに集まるであろう芸術家たちを表している。※『ひまわり』の連作は12点あった。十二使徒を意味しているらしい。 『夜のカフェテラス』(1888.9)…“現場に行って描く”ことしか出来なかったゴッホは、夜景を描く為に、昼夜逆転の生活をしばらく送った。青色と黄色の対比が美しい。多くの印象派は昼間に屋外で絵筆を取ったが、彼は夜の町にもイーゼルを担いで繰り出した。共同生活に入る前に描かれた。 『ローヌ川の星の夜』(1888.9)…「星を描くことで希望を、輝く夕陽を描くことでひたむきな魂を表現したい」と語っていたゴッホ。いわば希望の絵だ。火を灯したロウソクを何本も帽子にくくり付け、明け方まで絵筆を握った。 『アルルの寝室』(1888.10)…「この絵の意図は、精神あるいは想像力に安らぎを与えることだ」。よく見ると、2つの枕、2つの椅子になっていて、寂しさから生まれる未来への期待の念が込められている。 『赤い葡萄畑』(1888)…生涯で売れた唯一の作品。まばゆい夕陽の中、アルルの葡萄畑で農作業をする人々。対象から受けた感動を鮮烈な色彩で表現した。 『アルル・人間の悲劇』(1888/ゴーギャン)…ゴッホと同じ光景を見ながら全く違う作品に仕上げた。労働に従事する人間の悲劇性を想像で表した。現実の光景に題材を得ながら自分の世界に再構成した。 『アルルの女・ジヌー夫人』(1888)…アルル地方の正装で椅子に座る女性。行きつけのカフェの女主人にモデルになってもらった。ヴィンセントはモデルの姿を正確に描写し1時間で仕上げた。目にしたものをあるがままに描く彼の手法。一方、ゴーギャンはじっくり時間をかけ、想像力を駆使して作品を仕上げた(『夜のカフェ』)。煙草の煙の向こうでまったり時を過ごすカフェの客や娼婦たち。酒を前に頬杖をつく女主人。アトリエという殺風景な室内にいながら、イメージを膨らませてカフェの退廃そのものを表現した。 『ゴッホのいす』(1889.1)…白木の素朴な椅子。明るい色調で描かれた昼の世界。愛用のパイプと煙草が載っている。もう1作と共にゴーギャン滞在中に描き始め、破局後に完成した。 『ゴーギャンのいす』(1889.1)…ロウソクに照らされたゴーギャンのために購入した肘掛け椅子。本は博学のゴーギャンの象徴。椅子の絵ではあるが肖像画に見える。 『ひまわりを描くゴッホ』(1888年/ゴーギャン)…共同生活の破局直前に描かれた。ひまわりを描くゴッホを想像で描いたもの。ゴーギャンは背景に自分の作品『青い木』を描き込んでいる。ゴッホを見下ろす位置に自分の絵を置くことで自身の優位を示している。また、両者の友情の象徴であるヒマワリとゴッホがV字型に左右に引き裂かれている。この絵を見たゴッホいわく「これは確かに僕だ。だが、狂気の僕だ」。 『自画像』(1889)…耳を切った後に描かれた自画像。背後には浮世絵。以降、ゴッホの自画像はすべて右耳を鏡に向けている。 ●闘病、されど名画オンパレード(1889.1-1890.5) 1889年(36歳)、死の前年。耳切り事件から2週間後、1月7日にヴィンセントは退院し「黄色い家」へ戻る。平静を取り戻したヴィンセントは、一通の手紙をゴーギャンに送った。「友人が出発してしまったとなると、いささかやりきれない思いです。嗚呼、親愛なる友よ。悲しみに傷ついた心に慰めを与えるには絵を描き続けるしかありません」。彼はルーラン夫人をモデルに『子守女』(1889)を描いた。ゆりかごを揺らす子守女は、慰めや安らぎを与えてくれる母性の象徴。手にゆりかごのヒモをしっかりと握っている。ヴィンセントは救いを求めて『子守女』を何枚も描いた。「『子守女』を中央に、『ひまわり』を左右に置けば三双一局になる。そうすれば中央の黄色とオレンジの色調が隣り合った両翼の黄色の為にいっそう輝きを増す」。 テオは自分が結婚間近で幸福なだけに、兄のことを思って胸を痛めていた。ヴィンセントはそれを察し「これからは僕への愛情を出来るだけ妻に向けるのだ」と強がる手紙を出したが、翌月に癲癇の発作が再発した。付近の住民に耳切りのことは知れ渡っており、人々は“赤毛の狂人”と呼び恐怖した。住民たちは彼を危険人物として病院へ収容するよう嘆願書の署名を集め警察に提出した。ヴィンセントは病院の鉄格子の奥でテオに手紙を書いた。「僕は精神に異常をきたしているのではなく、全く普通の状態にある。それなのに住民が市長に嘆願書を送り、罪状が明らかにされぬまま独房に入れられてしまった。こんなに多くの人間が、卑劣にも病人の僕に向かって来るのを見たとき、まるで胸をこん棒で打たれたみたいだった」。春に退院すると、村の少年たちは“狂人”とはやし立て、石を投げつけて彼を追い回した。彼が「黄色い家」に逃げ込むと、少年たちは家に石をぶつけ、窓によじ登ってあざけった。 4月にテオがヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー)と結婚。これによって、ヴィンセントは以前のようにパリのテオの下に身を寄せることも不可能になり、その上いつ癲癇の発作が起きるかも分からないという状態に追い込まれ、アルルから25km離れたサン=レミの精神療養院の門を自らくぐった。 8畳ほどの病室にベッドが一つ、窓には鉄格子がはまっている。ここで1年間過ごすことに。「常に悲しみを要求する人生に対して、僕らにできる最良のことは、小さな不幸を滑稽だと思い、また大きな悲しみをも笑い飛ばすことだ」。担当医がヴィンセントに絵筆を握ることを許可したことから、テオは兄のアトリエ用に庭が見える部屋を借り、2部屋分のお金を払った。入院翌月、ヴィンセントはヨハンナが妊娠したことを知り翌日に発作を起こした(赤ん坊の誕生でテオ夫婦に見捨てられる不安を感じたのだろう)。その後、病状が安定したので戸外の制作も許可された。しかし、8月に錯乱して毒性の絵の具を食べたりランプの油を飲むなどした為、しばらくアトリエに入ることを禁止される。9月から絵筆を取ったが、ヨハンナの出産が近づくと12月にまたしても錯乱して絵の具を飲み込もうとし、この発作は一週間も続いた。医者は絵の具を没収し、スケッチだけを認めた。「もう2度と発作は起きないだろうと思いかけていた矢先に、またぶり返したのでとても気が滅入っている。何日も何日も完全に錯乱状態になっていた。今度の発作は、風の吹く日に野原で描いてる最中に突然起こった」。 このようにヴィンセントは発作の合間を縫ってしか絵を描けなかったが、まさにこの時期にこそ、『星月夜』『糸杉のある麦畑』『アイリス』『オリーブ園』『刈り取りをする人のいる麦畑』など、うねるようなタッチの数々の名画が生まれ、画家としての創作期のピークを迎える。襲いかかる狂気を鎮めるように絵筆を握り続けたヴィンセント。仕事こそ救いであり「狂気に対する避雷針」だった。 『星月夜』…鉄格子から見た夜景をモチーフに描かれた。黒々とうねるように天を目指す糸杉は死を意味している。星は生命の象徴。ゴーギャンにならって想像を駆使して描いた。アルルで過ごした1年3ヶ月に得たものを着実に自分のものにしている。『星月夜』を送られたテオはその美しさに息を呑んだ。「このところの君の作品は、みなかつてないほどの力強い色彩に彩られている。さらに先へ進み、多くの絵で形をねじ曲げディフォルメまでして、内なるモノを象徴させようと追い求めている。君が深い繋がりを感じている、自然や生きものへの思いを凝縮した表現に、それが見事に現れている。だがそれにたどり着くまでに、君はどんなに頭を酷使したことだろう。どんなに目まいするような極限まで、自分を追いつめる危険を冒したことだろう。君は仕事をすることによって病気を征服できると言うが、愛する兄よ、君があんまり猛烈に仕事をすると僕は気が気でならない。そんなことをしていれば必ず身体が参ってしまうからだ」。 ※糸杉について…プロヴァンスでは墓地に糸杉が植えられており、南仏の人間にとって糸杉から連想されるのは墓だ。ギリシャ神話では美少年キュッパリソスが誤って殺した鹿を弔う為に糸杉に変わった。欧州では古来から兵士が死んだときは糸杉で棺桶が作られ、それゆえに糸杉が死を象徴するようになり、また死者への哀悼のシンボルとなった。「糸杉をなんとか“ひまわり”のような作品に仕上げたいと思っている」。ゴッホの糸杉は苦悩する大地から身もだえしながらほとばしり出た黒い炎。 1890年(37歳)、死まで7ヶ月。1月、テオ夫妻に男の子が生まれ、テオは敬愛する兄と同じ“ヴィンセント”と名付けた。めでたいことではあるが、自分が見捨てられることを心配したヴィンセントは、出産後にまた発作に襲われた。同月、著名な批評家アルベール・オーリエがヴィンセントの作品を絶賛する評論を発表。「(ゴッホの)作品全体を通じて目につくのは、過剰である。力の過剰、情熱の過剰、表現の荒々しさの過剰…(略)彼の色彩は信じ難いほどにまばゆい。私の知る限り、彼は色彩というものを真に心得ている唯一の画家である」。2月、ヴィンセントは赤ん坊の誕生を祝福して『花咲くアーモンドの枝』を描き上げ、この絵はゴッホ家代々の家宝となった(可憐に咲く白い花に健やかに育って欲しいという願いが込められている)。 同月は画家として大きな出来事が起きた。ブリュッセルの『20人会』展に6作品が選出され、しかもそのうちの『赤い葡萄畑』が400フラン(今の4万円くらい?)で売れたのだ!ヴィンセントの絵が売れたのはこれが初めて。買い手はベルギーの女流画家アンナ・ボック。アンナはヴィンセントがアルルで友人となった画家兼詩人ウジェーヌ・ボックの姉だ。結局、この作品が生涯で売れた唯一のものとなった。一方病状は良好とは言えず、2月下旬に発作で倒れ、約2ヶ月の間創作から遠ざかった。3月、パリの『アンデパンダン展』に10点が展示され、画家仲間から好評を得る。特にモネは「今展で最も優れている」と激賞した。少しずつ、そして確実に世間に認められ出した。 ●終焉の地、オーヴェール(1890.5-7) 5月16日、サン=レミの病院を出て、夜行列車で新たな静養地、パリ北西部(30km)のオーヴェール・シュル・オワーズに向かう。同地は芸術家村として知られ、また画家兼精神科医のポール・ガシェ(当時62歳)がいることから、ピサロが芸術に造詣が深いガシェの下での療養を勧めてくれた。途中でパリのテオ一家を訪ね、初めて妻子と出会う。赤ん坊は4ヶ月。兄が次々と送った絵は、全く売れない為に家中に溢れかえっていた。ヨハンナが思い出を綴っている「テオは兄を坊やのゆりかごのある部屋へ通しました。兄弟は黙って眠る赤ん坊に見入りました。2人とも目に涙を浮かべていました」「私たちの家は彼の絵でいっぱいで、どの部屋の壁にも彼の絵が掛かっていました。食堂には『ジャガイモを食べる人々』、居間には『アルルの風景』と『ローヌ川の夜景』、ベッドの下もソファの下も、小さな空き部屋の押入れの下も、カンバスでいっぱいでした」。5月20日、オーヴェールに到着し、ラヴー夫婦が営むレストラン“ラヴー亭”の3階屋根裏に下宿した(2階は家賃が高かった)。天窓が唯一の窓で、夏は40度まで暑くなる3畳ほどの狭い部屋だ。 この南仏からオーヴェールへの転地療養は正解だった。絵筆がよく走り、発作の再発もなく、約2ヶ月という短期間に約80点もの作品を描き残した(一日に一作以上のハイペース!)。ガシェ医師もヴィンセントの作品をこよなく愛してくれた。6月8日にはテオ一家がピクニックで遊びに来てくれた。ヨハンナいわく「ヴィンセントは甥のオモチャとして小鳥の巣を持って駅まで迎えに来てくれました。彼は自分が赤ん坊を抱いて歩くと言い張り、ガシェ家の庭にいる動物(山羊、孔雀、犬、猫、兎、鳩、鴨、亀)をすっかり子どもに見せてしまうまで休みませんでした。私たちは戸外で食事をとり、ゆっくりと散歩しました。大変穏やかで、幸せな1日でした」。 翌月(7月6日、死の3週間前)、今度はヴィンセントがテオ一家に招待されパリを訪ねる。ヨハンナの兄夫婦やロートレックも招待され皆で楽しいひとときを過ごす…はずだった。テオは上司が印象派を低く見ているので画商として独立したいと言い、不安になったヨハンナが家計の苦しさを訴えて夫婦は喧嘩になり(テオは兄だけでなく母にも仕送りをしていた)、ヴィンセントは自分への援助がいかにテオ一家の負担になっているかを痛感した。 逃げるようにオーヴェールに戻ったヴィンセントは心労でヘトヘトになった。自分のためにテオ夫婦は喧嘩をしている…。「こっちに帰って来てから、僕もとても気が滅入っている。君たちを襲っているあの嵐が、僕の上にも重くのし掛かってくるのをずっと感じている。どうすればいいのか。僕も生活も根っこからやられており、そして僕の足もよろめいている。実は僕は心配でたまらなかった。僕のことが重荷で、君は僕を荷厄介に感じているのではないかと」。その後、『ドービニーの庭』を描き上げ、7月25日には遺作とされる『カラスのいる麦畑』を完成させた。「今にも嵐になりそうな空の下に麦畑が広がる絵だが、僕はここに究極の悲しさと孤独を表せないかと思った。この絵を早く君にも見て欲しい。なるべく早くパリに持って行こうと思っている。見ればきっと、口では言えないものを、じかに君に語ってくれると思うからだ」。 7月27日夕刻、ヴィンセントはオーヴェール城裏手の麦畑(農家の中庭とも)でピストル自殺を試み腹を撃った。だが、急所を逸れて死ぬことすら上手く行かなかった。宿に戻って苦しんでいるところを家主が見つけガシェが呼ばれた。ガシェが「大丈夫、助かる」と励ますと「それならもう一度撃たねばならない」とヴィンセント。テオの住所を言おうとしないので、ガシェはテオの職場に連絡をとった。そのため弟は翌朝まで事件を知らなかった。駆けつけて泣き濡れるテオに「また、しくじってしまったよ」とヴィンセント。そして「泣かないでおくれ。僕は皆のために良かれと思ってやったんだ」と慰めた。ヴィンセントは真夏のうだるように暑い屋根裏部屋で、2日間苦しんだ後、7月29日午前1時半にテオに看取られながら絶命した。最期の言葉はオランダ語で「家に帰りたい」。オーヴェールの司祭は自殺者の葬儀を拒否し、隣村の司祭が呼ばれた。 葬儀の様子は参列した親友の画家ベルナールが詳しく書き残している。「遺体が安置された部屋の壁には、晩年の作品すべてが掛けられていた。それは彼を取り巻く後光のように見えたが、絵が輝かしく天才的であるだけに、彼の死は我々画家にとっていっそう悲しいものだった。棺には質素な白布が掛けられ、大量の花が置かれていた。それは彼が愛したヒマワリや黄色のダリアなど黄色の花ばかりだった。黄色は彼の好きな色で、彼が芸術作品の中だけでなく、人々の心の中にもあると考えた光の象徴だった」「遺体は3時に友人たちの手で霊柩車に運ばれた。テオがずっとすすり泣いているのが哀れだった…。外は狂おしいほど太陽が照りつけていた。私たちは故人の人柄について、彼の芸術家としての勇気、画家の共同体の夢、彼から受けた影響について語り合いながらオーヴェールの丘を登った。彼が葬られる共同墓地はまだ新しく、新しい墓標が点在しているだけだった。青空の下、収穫間近の麦畑が眼下に広がっていた。気候はまさに彼の好みにぴったりで、彼はまだ幸福に生きられたのにと思わずにはいられなかった」。葬儀にはピサロやタンギー翁らも参列し、埋葬時にガシェは涙に暮れながら「彼は誠実な人間で、とても偉大な芸術家だった。彼には人間性と芸術というたった2つの目的しかなかった」と告別の言葉を捧げた。 ヴィンセントのポケットの中には最後の手紙が入っていた。「弟よ…これまで僕が常々考えてきたことをもう一度ここで言っておく。僕は出来る限り良い絵を描こうと心に決めて、絶対に諦めることなく精進を重ねてきたつもりだが、その全生涯の重みをかけてもう一度言っておく。君は単なる画商なんてものではない。僕を介して君もまた、どんな悲惨にあってもたじろぐことのない、絵の制作そのものに加わってきたのだ。ともかく、僕は自分の絵に命を賭けた。そのため、僕の理性は半ば壊れてしまったも同然だ」。 『ジキタリスを持つ医師ガシェの肖像』(1890)…変わり者で気むずかしい性格を見事に描きあげている。 『オーヴェールの教会』(1890)…死の前月の作品。深いコバルトの空の下、教会が揺れ動くように描かれている。ゴッホは他の画家と異なり教会の風景画を殆ど描いていない(っていうか、この絵以外にあるのかな?)。おそらく、牧師を目指して成れなかったこと、父との確執があって、辛くて描けなかったのでは。死の直前の当作品で父と和解したように思う。しかも、手前左の女性はオランダの衣装を着ており(オーヴェールは仏なのに)、僕には教会がゴッホの父、女性が母親に見える。 『カラスのいる麦畑』(1890)…ゴッホが「極度の悲しみと孤独感を表現した」と語った遺作。怒りに満ちた空は2つの雲を圧倒し、泥の道は曲がりくねって消え、麦畑もまた空と戦う怒れる海のように沸き立っている。水平線(世界)は容赦なくこちらへ押し寄せるが、大地は盛り上がり、天は垂れ込めて観る者の退路を防ぐ。※本物の絵の前に立つと、悲しい絵のはずなのに、彼の澄み切った精神を感じた。不思議だけど…。 『自画像』(1890)…ヴィンセントの最後の自画像。ひとりでいるときに襲って来る恐怖感が発作を引き起こす。繰り返し襲いかかる狂気を、凄まじい意思の力で抑え付けながら、画家の目で毅然と観察し、内面の魂を描いた。 ●テオの死と、その後のゴッホ家 兄の死の直後にテオは母親へ手紙を書いた。「お母さん。どんなに悲しいか書き表せません。何も慰めにはなりません。僕は生ある限り、この悲しみを背負っていかなくてはなりません。一つだけ言えるのは、兄さんはずっと望んでいた安らぎを手に入れたのです。死に際に兄さんは言いました。“もうそろそろ逝けそうだよ”と。30分後、彼の望みは叶えられました。人生はそれほど彼にとっては重荷でした。それにしても、よくあることですが、今や誰もが彼の才能に賛辞を惜しまないのです。嗚呼、お母さん!彼はあんなに僕の、僕だけの兄さんだったのに!」。 テオはただの一度も送金停止をほのめかさなかったけど、それでも援助のことで兄を不安にさせたことや、妻子を得て兄を孤独の恐怖に追い込んだのではと責任を感じ、葬儀後も全身全霊で兄の作品を世に紹介しようとした。個展の実現に向けて奔走した。しかしどこも会場を貸してくれず、2ヶ月後(9月20日)にやむなく自宅のアパートで初の回顧展を開いた。部屋中に兄の絵が掛けられ、妹に次の手紙を出した「君にも見てもらえたら、と思うよ。そうすれば兄さんの絵が決して病んだ心から生まれてきたものではなく、偉大な男の情熱と人間性から生まれてきたのだということが君にも分かるよ」。膨大な作品群から個展用の傑作選を決める作業でテオは疲労が蓄積し、職場で上司と大喧嘩して辞表を叩き付けた。 そして…テオは回顧展の翌月に錯乱し、11月18日にユトレヒトの精神病院に入院した。そして兄の死からわずか半年後の1891年1月25日に、兄の絵が死後になって売れ始めた世の皮肉を呪いながら病院で衰弱死した。享年33歳。 その後、ヨハンナはオランダに帰り、小さな下宿屋を営みながら、テオの子、ヴィンセント・ウィレムを育て上げた。テオの墓は没後23年が経った1914年にヴィンセントの墓の隣りに改葬され、ヨハンナは兄弟の墓をツタで覆い、聖書の次の言葉を捧げた。「二人は生くるにも死ぬるにも離れざりき」(サムエル記・下1章23節)。同年、ヴィンセントの命日にテオ宛ての書簡集がヨハンナの尽力で刊行された。 ヨハンナは義兄の作品を幅広く売却することで知名度をあげようとしたが、ウィレムは反対に特定の場所に集めることを重視した。そのお陰で作品が過度に散らばることなく保管された。そして1960年代にゴッホ財団の創設を条件に作品群を寄贈し、1973年に国立ゴッホ美術館がアムステルダムに誕生することになった。世界のゴッホ・ファンはゴッホ美術館にさえ行けば、絵画、素描、手紙など膨大な作品資料(所蔵1000点以上)に触れることが出来る。 ●ゴーギャンの心にずっとヴィンセントはいた(ゴッホLOVEの僕は喧嘩別れしたゴーギャンに対して以前は良いイメージを持ってなかった。しかし文献を調べていくうちに、ゴーギャンがすごく良い奴ということが分かって大好きに!) アルルを去ったゴーギャンはすぐに『黄色いキリストのある自画像』(1889)を描いた。自分の顔を中央に、隣りにキリストの受難を描き、芸術の為に殉教も辞さない覚悟を示した。「私は敗北したと宣言しよう。様々な出来事、人間に、家族に敗北した。しかし世間に負けたのではない。世間などはどうでもよい。私は叫ばずにはいられないんだ。これが自称イエス・キリストの今の姿だよ」(ゴーギャンの手紙)。ゴーギャンは悪意があってヴィンセントに冷たくしたのではなく、自分の事で精一杯で、他人にまで親切に出来なかったんだ。 テオからヴィンセントの死を知らされたゴーギャンはすぐに追悼の手紙を書いた。「痛ましい知らせを受け取り、深い悲しみに沈んでいます。このようなときに、月並みなお悔やみの言葉をかけるつもりはありません。あなたもご承知のように、彼は誠実な友人でした。そして私たちの時代における数少ない本当の芸術家でした。作品の中に彼はずっと生き続けることでしょう。彼がいつも“岩はいずれ砕けるが言葉は残る”と言っていたように。 私もこの眼と心で、作品の中の彼に会うつもりです〜P.ゴーギャ ン」 ヴィンセントの死の翌年、ゴーギャンは当時の欧州人には地の果て同然のタヒチに渡った。ゴッホ兄弟が死んだことも含め、すべてに行き詰まったのだ。タヒチでは文明に犯されていない素朴で野性的な人々の暮らしがあった。人々に原始の美を見出したゴーギャンは彼らの姿をカンバスに刻んだ。2年後に楽園の作品60点以上たずさえてパリに帰ったが、人々が普段見慣れた絵画とあまりに異なっていたため理解されず、たったの2、3点しか売れなかった。新聞からも酷評された「お子さんを喜ばせたかったらゴーギャンの展覧会へ連れて行くとよろしい。呼び物としては、猿のような原始人の女が緑色の玉突き台に寝そべっている絵もある」。 『帽子をかぶった自画像』(1893-94)はそんな世間への怒りに満ちている。ゴーギャンは欧州から永遠に離れる決心をした。「47歳にもなって私は惨めな境遇になりたくない。今だって決して良いとは言えないが。私が倒れたって、誰1人私に手を貸してくれる者はいない。自分の問題は自分自身で解決すべきという言葉は、深い叡智の現れだ。私はその言葉に愛着さえ覚える。確かに私は太陽なしでは生きていけないのだ」(手紙)。そして2年間のフランス滞在後、「腐りきったヨーロッパ!」と叫んでタヒチへ旅立った。出発前に最後の展覧会を開いたが、入札者はゴーギャンがつけた最低の値段にも反応しなかった。友人が励ますために夕食に連れて行くと、ゴーギャンは“子どものように泣いた”という。 タヒチに戻ると2年間で土地開発が進み、かつての楽園は消えていた。電灯が灯り、メリーゴーランドのある遊園地までできていた。彼は病魔に冒された。『ゴルゴダの丘の自画像』(1896)のゴーギャンは、囚人服を着て処刑を待っているかのようだ。以前の傲慢な表情は消え、精気も無い。「私は今やひざまづき、自尊心さえも捨ててしまっている。もはや、落伍者以外の何ものでもない」。さらに追い打ちをかけたのが最愛の娘アリーヌの死(享年19歳)。アリーヌは父親が家族を捨てて芸術に身を捧げていることを理解し、13歳の時に「私が大きくなったら、お嫁さんになってあげる」と真顔で言ってくれた娘だ。「彼女の墓はここに、私の側にある。私の涙こそ生きた花なのだ」「神よ、もしあなたが存在するなら、私はあなたの不正を、意地の悪さを咎めよう。そう、憐れなアリーヌの死を知って、私はすべてを疑い、神に挑むように笑ったのだ。美徳が、仕事が、勇気が、知性が、一体何の役に立つというのだ」(手紙)。 あらゆることに絶望したゴーギャンは自殺を決意し、娘の死の8ヶ月後、最後に全身全霊を賭けた幅約4メートルの大作『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』(1897)を完成させ遺書として残した。原始の楽園の中で、右端の赤ん坊(人類の起源)から左端の老人(滅亡)までが象徴的に描かれている。中央は禁断の果実を摘むイブに見える。この作品を描き上げると、密林に分け入ってヒ素をあおり、横になって死を待った。しかし、呑み込んだヒ素が多すぎた為に吐き出してしまい、朝まで嘔吐に苦しんだ後「生きるさだめを背負って」アトリエに戻った。 命を取り留めた彼はフランスの友人に手紙を送った。「ヒマワリの種を送って欲しい」。彼はヒマワリを“ゴッホの花”と呼んでいた。ヴィンセントの死から11年。種を取り寄せ自分で植え、ゴーギャンの筆による『いすの上のひまわり』(1901)が完成した。アルルでゴッホが用意してくれたものとよく似た肘掛け椅子の上にヒマワリを乗せて描き、ゴッホ風に署名した。ゴーギャンは胸の奥底に、ずっと深い友情を抱いていたんだ。 同年、ゴーギャンはタヒチ本島から1200kmも離れた絶海に浮かぶ、マルケサス諸島ヒバオア島に旅立った。病が悪化し治療のため帰国の希望を匂わせる手紙を友人に送ると、絶対に帰って来るなと返事が届いた。「今、パリではどんどん評価が上がってきている。君は太平洋の彼方から素晴らしい傑作を送ってくる伝説的画家なのだ。帰国すれば名声がぶち壊しになってしまう」。最後の『自画像』(1902-03)に描かれた顔には若い頃の野獣のような迫力はなく、達観した僧侶のように静けさをたたえていた。 「こと芸術に関しては、私は正しかったと思う。たとえ私の作品が後世に残らなくても、絵画を解放した芸術家の記憶は永遠に残るだろう。私の本質は野性にある。文明人たちもそのことは分かっているだろう。私の芸術が人を驚かす奇抜なものであるのは、私の中の野性がそうさせたのだ。だからこそ、誰も私を模倣することが出来ないのだ」(手紙)。ゴーギャンは“私の作品が後世に残らなくても”と、最終的に自分の作品は残らぬと思っていた。 1903年5月8日、心臓発作で他界。享年54歳。誰にも看取られず自分の小屋で息絶え、原住民が亡骸を発見した。島のカトリック司祭はフランス本国に次のように知らせた「卑しむべき人物ゴーギャンが急死した。彼は評判の高い画家であったが、神と品位ある人々すべての敵だった」。 ゴーギャンは死の直前にヒバオア島のアトリエで回想録を書き残し、アルルのことをこう刻んだ。「どれくらい私たちは一緒にいたのだろうか。破局が急速に訪れたにもかかわらず、この期間は私には1世紀にも思えた。2人の男はそこで世間の気づかぬうちに大きな仕事をした。2人にとっても、たぶん他の人にとっても有益だった。そのうちのあるものは実を結んでいる」。 《まとめ&墓巡礼》 点火、爆発、炎上、沈没といった感じのヴィンセント。彼の描く風景画や静物画はすべて自画像に思える。今にもうごめきそうな筆致はまるで生きているようで、生命の炎が揺れているようにも見える。カンバスに盛り上がった絵の具は力強く、そのまばゆい色彩が心を鷲掴みにする。27歳から画家として歩み始めたヴィンセントの活動期間は、37歳で命を断つまでのわずか10年。しかも最初の4年間は素描(デッサン)しか描いていない。その中で1600点の水彩・素描と800点以上の油彩画という膨大な作品を残した。ヴィンセントが描いたのは貧農ばかりで、“ピアノを弾く御令嬢”なんて絵は一枚もない。結果、生涯で売れた絵はたった一枚だけ、それも友人の姉が買ってくれたもの。ヴィンセントにはモデルを雇う金がなく、自画像が40点以上もある。今や花瓶のヒマワリが60億円。人生は非情だ。庶民の為に絵筆をとっていたヴィンセントにとって、大金持ちしか作品を手に出来ぬという現状は不本意なものかも知れない。 ヴィンセントは極度の寂しがり屋で、テオに鬼の如く手紙を書きまくった。テオとの文通は死の間際まで18年間続き、テオが兄の手紙を一通目から大切に保管していたので661通が現存している(テオ宛て以外は135通現存)。これだけ数が多く長期間に及んでいると、いわば“自伝”も同然だ。お陰でヴィンセントが19歳から晩年までどのように人生を捉え、芸術をどう考えていたか、何が創作の原動力になったのかなど、様々な思索の変遷に触れることが出来る。一方、テオからの手紙は最後の36通しか残っていない(ヴィンセントよ…)。 僕は10代の頃、“ゴッホの絵は木や建物がクネクネしていて訳が分からない”と見向きもしなかった。でも、“絵が実物とソックリかどうかが問題なのではなく、どうして彼の目に世界がのたうつように、うねって見えたかが問題だ”と意識したとき、彼の全作品がかけがえのない愛しいものとなった。小林秀雄氏が『彼の絵を見ると、こちらが絵を見るのではなく、向こうがこちらを見つめている気がする』と著作で語っていたが超同感。自分のことを野良犬と呼んでいたヴィンセント。“聖なる野良犬”、そんな言葉があってもいい。 終焉の地オーヴェールに向かう列車の中では「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」が全く通じず、仏語では「ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ」であることを知った。墓地はオーヴェールの麦畑の中にある。兄弟の墓が並んでいるのを見て強く胸を打たれた。ヴィンセントにたくさん御礼を伝えた後、テオにも感謝を告げようとして、没年を見て兄の死の翌年に早逝していることを知り絶句した。33年の生涯!まっこと、テオがいなければ僕らはこんなにも多くのヴィンセントの作品を味わうことは出来なかった。テオは家計の貧しさを訴える妻に「兄さんにお金を送ることは自分に送っていることと同じなんだ」と、弁明しながら仕送りを続けてくれた。本当に、本当に、ありがとうテオ!あなたは人類の恩人です! ●ゴッホ語録 「死んだらば汽車に乗れないように、生きている限りは、星へ行かれないからね。船や汽車が地上の交通機関ならば、コレラや結核や癌は天上へ行く交通機関のように思われてくる」 「一塊のパンと共にレンブラントの絵の前に2週間座らせてもらえるなら10年寿命が縮まっても良い」 「素描とは何か?それは、感じていることと自分で表現できることとの間に立ちはだかる、見えない鉄の壁を自ら突き破ることである」 「人の本当の仕事は30歳になってから始まる」 「絵画は狂気に対する避雷針だ」 「虫だって光の好きなのと嫌いなのと二通りあるんだ!人間だって同じだよ、皆が皆明るいなんて不自然さ!」 「僕はずっと一人ぼっちでいるせいか、人と話すと自分のことばかり話してしまう」 「太陽が絵を描けと僕を脅迫する」(これは黒澤映画『夢』に登場したゴッホが語った言葉。黒澤監督がゴッホの文章から持ってきたのか、監督のオリジナルかは不明。あまりにゴッホの書簡があり全てを検証するのは困難) ●ゴッホ評 「ゴッホの後期の絵の明るい透明な色調には、言うに言われぬ静けさがある」(カール・ヤスパース)哲学者 「人々は、ゴッホが精神的に健康だったと言うことが出来る。彼は、その生涯を通じて、片方の手を焼いただけだし、或るとき、自分の左耳を切りとったに過ぎないのだ」(アントナン・アルトー) 「君の描き方は気違いじみているな」(セザンヌ、初対面時に) 「ファン・ゴッホは気違いになるか、我々全部を置き去りにするか、どちらかと思っていたが、その両方をやってのけようとは思わなかった」(ピサロ) ※画商としてのテオの鑑識眼は傑出していた。テオの上司は頭が古く、テオの後任に就いた支店長に「(テオは)新人画家のろくでもない絵をため込んでいた。これらをうまく処分できなければ画廊を閉めねばならなくなる」と腹を立てた。テオが買い上げた“ろくでもない”絵の作者の名は、モネ、ルノワール、ゴーギャン、ドガ、ロートレック、ルドンなど、近代美術の創始者がズラリ。美術史上、テオほど高い鑑識眼を持った画商はいない。 ※日本人に人気の高いゴッホ。最初に国内へ紹介したのは武者小路実篤で、1911年に文芸誌『白樺』誌上に掲載した。1919年に白樺派のパトロンで実業家の山本顧彌太(こやた)が『ひまわり』を購入して日本に持ち込んだが、終戦9日前の神戸空襲で燃えてしまった。贋作説もあるが、灰となった今では検証不能だ。1987年に安田火災海上(現損保ジャパン)が約58億円で『ひまわり』を落札し、新宿の東郷青児美術館が展示している。 ※ゴッホの絵で最も高値で取引された作品は『ガシェ医師の肖像』。バブル期の1990年、なんと125億円で落札された!これは当時の新記録。大昭和製紙の齊藤了英名誉会長が購入し、「死後は寄付する」と説明していたが、没後その約束は果たされず密かに競売に出され米国の投資家が落札。その投資家も破産してサザビーズが引き取り、今はどこにあるのやら。人類の遺産レベルの作品は、公開前提の美術館しか所持できないという制度を作るべき! ※アルルの「黄色い家」は1944年に連合軍の爆撃で破壊されてしまった。裏手に駅や橋があり爆撃の巻き添えになってしまった。無念! ※ロートレックは他の画家がヴィンセントの絵をけなすのを聞いて、相手に決闘を申し込むほどヴィンセントに敬意を持っていた。 ※絵の具は安くないのに、ゴッホはカンバスに直接塗りつけて地図模型並に盛り上げた。尋常ではない厚塗り。貧乏画家の描き方ではない。恐ろしいほどのスピードで絵の具が消費された。 ※大抵の画家はファミリーネームを署名に使っている。だが彼のサインは“ヴィンセント”であり名字の“ゴッホ”ではない。まるで友人として親しみを込めた挨拶をしているようだ。 ※ゴッホ兄弟の実家では、父の死後、母が引っ越しの際に約70点の作品を古物商にまとめて売り、その古物商は格安で投げ売りをした後、残った作品を焼いてしまったという。200点以上の油絵が古カンバスとしてリサイクルされたという説もある。うおお…。 ※ウィキによると『医師フェリックス・レイの肖像』は、贈与した相手が鶏小屋の穴を塞ぐのに使っていたという。 ※ゴッホは生涯に38回引っ越しをした。現在、最後のラブー亭はゴッホが住んだ100年以上前と全く同じ状態で公開されている。 ※独自のスタイルを編み出したことから、署名がなくてもゴッホの作品とすぐ分かる(ウチの2歳児でも分かった)。これこそ芸術家の究極の姿。 ※後世の画家は様々な影響をゴッホから受けているが、なかでもスーティン、ココシュカ、ノルデ、キルヒナーはその筆頭。 ※ヴィンセントが生まれるちょうど1年前の同じ3月30日に、長子ヴィンセントが生まれたが死産だった。 ※耳切り事件の真相について“ゴーギャンがフェンシングの剣で斬った”と主張する研究者もいる。 ※ヴィンセントは右利きなのに銃弾が左脇腹から垂直に入っていることから他殺説もある。 ※映画監督のテオ・ファン・ゴッホはテオの曾孫。イスラムに批判的な態度をとっていたことから、2004年11月にモロッコ系青年から8発の弾丸を撃たれて殺害された。享年47歳。ちなみにテオの子ウィレムは大正期に約1年間神戸で暮らしている。 ※ゴッホが生まれた1853年は日本にペリーが黒船でやって来た年。その2、3年後に欧州の人々は初めて浮世絵を知った。ジャポニズム抜きの印象派は考えられず、大袈裟に言えばペリーがゴッホを生んだことに…。 参考文献…『ゴッホの手紙』(岩波文庫)、『巨匠の世界ファン・ゴッホ』(タイムライフブックス)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、『巨匠立ちの肖像〜ゴッホ 炎の絆』(NHK)、『ゴッホとゴーギャン二人のひまわり』(NHK)、『日曜美術館』(NHK)、『ゴッホ展図録2002』等々。 |
| ※僕はこれまでに読んだどんな美術評論家のゴッホ評よりも、川上未映子さんのゴッホに対する熱い想いが 爆発した詩「私はゴッホにゆうたりたい」(私はゴッホに言ってやりたい)詩に胸を揺さぶられた。読み返す度に、 もらい泣きしそうになる。たまらない。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 私はゴッホにゆうたりたい 川上未映子 春が煙っておる。なんか立ち込めている。 何でもないよな一面をさあっと塗ったようなこんな空も、 ゴッホには、 うろこみたいに、飛び出して、 それは憂う活力を持ち、美しく、強く、見えておったんやろうか。 春がこんこんと煙る中 私は、 ゴッホにゆうたりたい。 めっちゃゆうたりたい。 今はな、あんたの絵をな、観にな、 世界中から人がいっぱい集まってな、ほんですんごいでっかいとこで 展覧会してな、みんながええええゆうてな、ほんでな、どっかの金持ちはな、 あんたの絵が欲しいってゆうて何十億円も出して、みんなで競ってな、なんかそんなことになってんねんで、 パンも食べれんかったし最後のパンも消しゴム代わりに使ってな、 あの時もどの時も、あんたはいっつもおなじように、描いててな、苦しかったな、 才能って言葉は使わんとくな、なんかの誰からかの命令なんかな、 なんか使命なんかな、 多分絶対消えへんなんか恐ろしいもの、恐ろしいくらいの、美しい、でも苦しい、 そういう理みたいな、そんなもんに睨まれてあんたは、 いっつも独りで絵を、絶対睨まれたものからは絶対逃げんと、や、逃げる選択もなかったんかな、 それでもとにかく、絵を、絵を描いて、 そら形にするねんから、誰かに認めてもらいたかったやろうな、 誰かに「この絵を見て感動しました、大好きです」 ってゆわれたかったやろうな、 それでもいつまでも独りぼっちでよう頑張ったな、淋しかったし悲しかったな、 それが今ではあんたは巨匠とかゆわれてんねんで、みんながあんたをすごいすごいってゆってほんで、 全然関係ない時代の日本に生まれた私も、あんたの絵が大好きになった、 教科書にも載ってるねんで、 夜もな、空もな、ベッドの絵もな、麦畑も、月も、デッサンいっぱい練習したやつもな、 全部観たで、きれいなあ、あんな風に観てたんやなあ、 みんなあんたの生きてきたことを知ってるねんで、 耳をちぎったことも、キチガイ扱いされたことも、 悲しくて悲しくて悲しくてしょうがなかったこと、 そんなあんたが書いた絵が、ほんまにほんまに美しいことも、 今はみんな、あんたのことを思ってんねんで、 私の知り合いの、男の職業絵描きの人とな、 随分前にあんたの話になってな、 私はあんたの生き様、芸術って言葉も使わんとくわな、 もう、それをするしかなかったっていうものと死ぬまで向き合ってな、そういう生き方を思うと、 それ以上に、なんていうの、ほんまなもんってないやろって思うわ、私は信頼するわって話をしたん、 そしたらその絵描きな、未映ちゃんがそう思うのは全然いいけど、 あんな誰にも認められんで苦しくて貧しくて独りぼっちでゴッホが幸せやっと思うかってゆわれてん、 俺は絶対にいらんわってゆわれてん、 ほんでそっからしばらくあんたの幸せについて考えてみてん、 幸せじゃなかったやろうなあ、お金なかったらおなかもすくし、惨めな気持ちに、なるもんなあ、 おなか減るのは辛いもんなあ、ずっとずっと人から誰にも相手にされんかったら、死んでしまいたくもなるやろうな、 いくら絵があっても、いくらあんたが強くても、しんどいことばっかりやったろうなあ、 そやけど、多分、 あんたがすっごい好きな、すっごいこれやっていう絵を描けたときは、 どんな金持ちよりも、どんな愛されてる人よりも、比べるんも変な話やけど、 あんたはたぶん世界中で、一番幸せやったんやと、私は思いたい。 今はみんながあんたの絵を好きで、世界中からあんたが生きてた家にまで行って、 あんたを求めてるねんで、 もうあんたはおらんけど、今頃になって、みんながあんたを、 今頃になって、な、それでも、あんたの絵を、知ってんねんで。知ってるねんで。 あんたは自分の仕事をして、やりとおして、ほいで死んでいったなあ、 私は誰よりも、あんたが可哀相で、可哀相で、それで世界中の誰も適わんと思うわ あんたのこと思ったらな、 こんな全然関係ないこんなとこに今生きてる私の気持ちがな、 揺れて揺れて涙でて、ほんでそんな人がおったこと、絵を観れたこと、 わたしはあんたに、もうしゃあないけど、 やっぱりありがとうっていいたいわ だからあんたの絵は、ずっと残っていくで、すごいことやな、すごいなあ、よかったなあ、 そやから自分は何も残せんかったとか、そんな風には、そんな風には思わんといてな、 どんな気持ちで死んでいったか考えたら、私までほんまに苦しい。 でも今はみんなあんたの絵をすきやよ。 私はどうにかして、これを、それを、 あんたにな、めっちゃ笑ってな、 ゆうたりたいねん。 ゆうたりたいねん |
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| 『巨人』 (弟子の作品説アリ) |
『マドリッド1808年5月3日』 |
『我が子を喰らう サトゥルヌス』 |
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| ゴヤが眠る聖堂 | 祭壇の前にゴヤの大きな墓がある |
| 40代で宮廷画家までのぼりつめ、スペイン最高の画家という栄誉を得たゴヤ。だが彼は、1792年(46歳)に高熱で聴覚を失った。また、ナポレオン戦争で冷酷で残忍な蛮行を目撃し、以後の絵は人類史上最もダークなものとなった。 彼は人間の暗部に情け容赦なく光を当て、その全てを白昼の下にさらけ出した。この目撃者に徹した“怒れる画家”の絵は、同時に哀しみも満ちている。死後自宅から出てきた作品群『黒い絵』の中に、“犬”という砂地獄に飲まれていく犬の絵がある。胴を飲まれ身動き出来ずわずかに頭だけ地上に出ているその絵は、僕が見てきたあらゆる絵の中で、最も絶望的な作品だ。 ※ 『1808年5月3日』『着衣のマハ』『裸のマハ』など有名な絵は、すべて耳が聞こえなくなってから描かれたもの。 ※ゴヤには尼寺に忍び込んだり、刃傷事件を起こして国外へ逃亡したりと、様々な逸話がある。 |
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| 【情報募集中!】 他にもゴヤの墓があるらしい!画像はこちらの海外サイトより。 このお墓がどこにあるのか情報を求めています! |
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| 『自画像』(1661) |
『夜警』(1642)…代表作であると同時に、注文主の 意向を無視して描いた為に彼の人生を暗転させた |
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| アムステルダムの西教会の共同墓地に身元不明の老人として埋葬された |
墓碑の下に“夜警”の小さな複製画と、ここに 彼が埋葬されたという当時の記録(?)があった |
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| 光と影の魔術師、魂の画家レンブラント。金色(こんじき)の光に照らされて闇の奧から浮かび上がる人物たちは、聖者も妻も商人も誰もが神聖かつ崇高な空気で包まれている。 最初の妻に先立たれ、息子夫婦にも、そして2人目の妻にも先立たれた上に、裁判所から破産宣告を突きつけられ全ての絵を競売用に没収されたレンブラント。晩年の彼が描いた何枚もの自画像には、いつまでも続く激痛にとうとう慣れてしまった、いわば“達観”した静かな目がそこに描かれていた。 「一塊のパンと共にレンブラントの絵の前に2週間座らせてもらえるなら10年寿命が縮まっても良い」(ゴッホ) ※エルミタージュ美術館の『ダナエ』は、作品の虜になった錯乱した青年によって硫酸をかけられ、ナイフで切り裂かれた。修復には12年の月日を要した。 |
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| ミスター印象派・モネ | 『日傘をさす婦人』 | 『睡蓮の池』 | |
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| モネがジヴェルニーの自宅に造った庭園 (一般公開されている) |
あの日本の太鼓橋も現存。 池には睡蓮がいっぱい浮かんでいる |
中央の木の背後に2階建てのモネ邸がある。 家の中には浮世絵が飾ってあった |
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| モネ邸の2階から庭園を望む。観光客が たくさんいて人の列が途切れることはない |
墓は村はずれの教会墓地にある。庭園に行く人は 多いけれど、ここまで来る人は殆どいない |
| 高校の図書館でモネの画集に感動してから、18年目にしてついに直接お礼を言うことが出来たッ! |
| 「モノは形を見るのでなく、色のかたまりと思え」(モネ) 「睡蓮のおかげで、もう眠ることが出来ない」(モネ) 「影には色があることをモネが発見するまで、影は黒いものと決まっていた。」(サマセット・モーム) 「モネがいなければ絵筆を捨てていた」(ルノアール) 総作品数、2045点。光というつかみ所のないモノを、キャンバスの中に閉じこめることが出来た奇跡の画家。モネ以前は“雪は白く、影は黒い”とされていたが、モネが「私は影や雪に様々な色が含まれていることを発見した」と語るように、この印象派の旗手は美術界に色の革命を起こしたのだった。たかが一個の積みわらに、一体何色の色がちりばめられていることか! 対象物を輪郭線で囲むのではなく、線を使わず色の塊として表現する…当時の画壇は本当に目からウロコだっただろう。睡蓮にしろ大聖堂にしろ、日射し(光)が異なるだけで、同じ対象物を何枚も何枚も描き続ける画家魂に感服。 ※モネは自分の名前が大先輩のマネに似ているため、恐縮してわざわざフルネームで「クロード・モネ」と絵にサインしているのがカワイイ! ※モネは自分に厳しい芸術家で、満足のいかぬ作品は自らの手で廃棄した。死の半年前ですら60点もの作品を燃やしている。 |
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| 『二十歳の自画像』 | すごい存在感 |
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| 3.5m×8mもある大作『ゲルニカ』。これは独裁者フランコと手を組んだナチス空軍に、人類史上初めて無差別爆撃を受けたスペイン・ゲルニカ市を描いたもの。パリがドイツ軍に占領された時、アトリエに兵士が押し入りピカソに詰め寄った。「ゲルニカを描いたのは貴様か!」「いや、あなた方だ」--ピカソは冷静にそう答えたという。 |
| とにかく大変だった。ヴォーグナルグ行きのバスは、バス会社の発行している時刻表だと16番乗り場から出ていると印刷されているのに、いくら探してもバス停には12番乗り場までしか存在してないのだ。ハリー・ポッターの気分どころじゃない。ヴォーグナルグ村に向かうバスは本数が少なく、何としても乗らねばならないのだ。半泣きで色んな人に尋ねた結果、16番ではなく10番ということが判明。6と0の誤植だった…(しかも僕が見てたのは日曜の時刻表。アホ!) |
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| オオーッ!あれがピカソの眠るヴォーグナルク城の雄姿だ!朝陽の中で輝いて、めちゃくちゃカッコ良かった! |
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| 入口の門の側に看板が。“ここはプライベート・エリアなので、入ってはいけません”とのこと |
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| ピカソが触ったであろう門のノブを、バンダナで力強く拭いた。これでいつでもピカソと“間接握手”が出来る ようになった!帰りのバス(写真右)はスムーズに乗れた。ホッ。ちなみに乗客は最後まで僕一人 |
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| 一般にピカソの絵といえば幾何学的な人物画。難解だと思われがちだけど、実は超簡単。ピカソがやろうとしたことは、“ひとつの方向からしか描けない”という一般常識を打ち破り、複数の角度から見たモデルを同一画面に表現しただけ。人間という生き物は、外面的にも内面上も、誰もが様々な側面を持っているから、色んな角度からその人を表現した方が、より現実に近いリアルな絵になると彼は考えたんだ。だから目は正面を向いているのに鼻が横を向いていたりするんだ。 ピカソの本名について雑学を少し。本名がとにかく長い!“パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・クリスピン・クリスピニアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダッド・ルイス・イ・ピカソ”だ。名の由縁は最初のパブロが伯父の名、以下、ディエゴ(祖父)、ホセ(洗礼時の司祭)、フランシスコ・デ・パウラ(母方の祖父)、ファン・ネポムセノ&マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ(洗礼時の立会人)、クリスピン・クリスピニアーノ(誕生日の守護聖人)、デ・ラ・サンティシマ・トリニダッド(三位一体)、ルイス(父の姓)、ピカソ(母の姓)となる。ピカソは生まれた時に息をしてなかったので、この長い長い名前には、両親の“色んな人に赤ん坊を守ってもらおう”という必死の思いが込められているんだって。良い名前だね! |
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| 『モナリザ』 | 『洗礼者ヨハネ』 | 『岩窟の聖母』 |
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| ダ・ビンチが設計したアンボワーズ城 | 庭園にあるダ・ビンチ像 | 城内のこの礼拝堂に眠っている |
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| 内部にステンドグラスからの光が満ちる | ゴゴゴゴゴ… | ついに人類史上最大の天才に謁見! |
| こちらは1994年に僕がお墓と勘違いして巡礼したフィレンツェのダ・ビンチ・メモリアル。 それ以来、ずっとアンボワーズの本物の墓に行きたいと思っていた。11年越しに悲願がかなった! |
| “ノートの落書きすら名画”といわれるほど、そのデッサン力の素晴らしさは他に例を見ない。モナリザには筆の跡が全く残っておらず、絵が完璧すぎてどう考えても同じ人類が描いたモノには思えない。 ダ・ビンチは絵画が得意なだけではなく発明の天才だった。人類で初めて飛行機を設計し、人体の解剖図を初めて作成。エレベーターも考案した。当時は平べったかったパスタを細長いスパゲティにしたのもダ・ビンチだし、三又のフォークを考案したのも彼だ(それまでのフォークは二又だった)。 それにしても、つくづくモナリザは不思議な絵だ。写真がなかったあの時代、生きた証となる肖像画では、モデルは誰が描かれているのか分かるように家紋の入った服を着たり特徴的なアクセサリーを身につけるもの。でも、ダ・ビンチは彼女に指輪、イヤリングなど全て外させ、服はアピール度ゼロの黒生地とした。わざと身元不明にさせてるとしか思えない。顔は片方が微笑んでいるのに一方は悲しんでいるし、背景に至っては左右の地平線がずれていて景色も全然違う。ウーム。 ※ダ・ビンチはオトコ好きで、絵のモデルにちょっかいを出して2回捕まったという説アリ。 ※1994年、ビル・ゲイツはダ・ビンチのメモ72枚を30億円で買った。 ※『モナリザ』の時価は今や200億円以上と言われている。 |
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| あのダ・ビンチが実力を認めた |
代表作『アテネの学堂』。プラトンのモデルはダ・ビンチ、ヘラクレイトス (手前で大理石に肘)はミケランジェロ、前列右から2番目にラファエロ 画家自身がいる。「我らの時代こそ、かつて最も偉大だった古代ギリ シャの時代と肩を並べるほど素晴らしい時代なのだ」(ラファエロ) |
ラファエロが描く聖母子像は温かい |

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| 自画像 | 『落穂拾い』 | 『晩鐘』 | 『種まく人』 |
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| 画家たちが愛したフォンテーヌブローの森 | パリから列車で一時間ほど。ビバ森林浴! | 拙者も思わず水を一杯 |
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| バルビゾン村が見えてきた! | 村のメインストリート。ほんと小さな村 | 墓地の入口 |
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| 村に今も残るミレーの家 | 内部は見学可能。この部屋はアトリエだった | ミレーの聖書 | 山梨県立美術館の券! |
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| バルビゾンの森 | 森の木々の間に石切場(?)があり、ミレーとルソーの友情のレリーフがあった |
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| 2002 | 2009 親友の画家テオドール・ルソー(左)と2人並んでいる | 鳥の声が聞こえる静かな墓地だった |
| 日本人にバカ受けの有名な落穂拾いの絵は、のどかな農作業を描いたものではなく、画面奧の富農が刈り残した穂を、懸命に拾い集めている貧農たちの過酷な労働を描いたもの。決して“楽しい田園風景”なんかじゃない。『種まく人』は人物の顔がぼやけているが、これはミレーの意図したもので、つまり人物をはっきり特定しないことで逆にすべての農民を描き出そうとしたんだ。何枚も何枚も、名もなき農民に永遠の命を吹き込み続ける…、農民出身のミレーだからこその作品群! |
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| ルソーの家 | 家の前の庭で子ども達が写生していた |
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| 岩の上に鉄の十字架が建つ独特の墓 | 右隣の白い墓はあのミレーの墓だ |
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| ロートレックが愛したキャバレー「ムーランルージュ」 | 『アリスティード・ブリュアン』 | 『カフェ・タンブランにいるゴッホ』 |
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| ロートレックはゴッホの唯一に近い親友だった |
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| びえ〜ん!ずっと会いたかったデスーッ! | 墓にはこんなキュートなプレートが | 生前はゴッホの一番の友人だった |
| 「醜さの中に美を見ること、それは刺激的だ」(ロートレック) 彼は始め貴族として生を受け城の中で暮らしていたが、子供の時に落馬などで両足を骨折してしまい下半身の成長が止まってしまった。極度に背が低かったので、青年貴族の社交行事である乗馬や狩り、ダンスに全く参加できず、そんな彼を周囲の者は必要以上に気づかった。それを逆に辛く感じた彼はパリの裏通りへ逃げ込む…唯一の友であった絵筆と共に。 酒場では口の悪い下町連中が彼を“小さな貴族”と呼んでからかったが、それまでずっと孤独だった彼は、そうからかわれることを凄く喜んでいた。酒がある所では肩書きなど意味がなく、コップが廻ればみんなが友達になった。彼はそんなユートピアに入り浸ったのだ(彼の絵が酒場モノばかりなのはそういうわけだ)。差別を受けてきたからか、娼婦、酒場の踊り子といった、日陰の世界に生きる女たちに深く共感し描き続けた。 アルコール中毒になった彼の人生はわずか37年という短さで、結局は酒に殺された形になったが彼は決して後悔はしていないと思う。自分自身で選んだ道だからね。 ポスター画家の彼の魅力はズバリ構図だ。斜めになった群衆の影、画面手前へ大胆に置かれた後ろ姿など「何でこんなカッチョエエのん!?」と叫ばずにおられないほど画面構成が心ニクイのだ(絵に描かれている文字の字体まで超イカス)。 ※ロートレックはほとんど風景画を描かなかった。理由は「自然は僕を裏切ったからだ」。 |
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| 晩年、リウマチで苦しみ ながらも執念で描き続けた |
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』 この絵の為に、人数分の帽子を彼が用意したという |
『イレ−ヌ・カーン・ ダンヴェール嬢』 |
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| ルノアールが住んでいた家 | 付近のセーヌ川。上流なのでまだ小さい |
| この空の美しいこと!こんな光が降り注いだら、誰でも絵を描きたくなると思う! | 4時間も一緒だったタクシーの運転手さん |
| 「人生には不愉快なことがたくさんある。なぜこれ以上、不愉快なものを作る必要があるんだ?」(ルノアール) 「裸婦を見れば、そこには何千というかすかな色合いが見える」(同) ルノアールを語るときの僕のスタンスは実に微妙だ。なぜならルノアールはゴッホの絵を「泥臭い。嫌いだ。」とこきおろしたからだ。ゴッホの農民画に対して、彼が描くモデルときたら、ピアノを弾いたりする金持ちの御令嬢ばっかし。しかし、やはり美は美だ!ルノアールが描き出す美しい世界は、心を捉えて離さない。 中部フランスの田舎町に彼は眠っていた。そこは鉄道はおろかバスも走っておらず、往復4時間もタクシーに乗るという、極貧文芸研究家でありながらルイ14世なみの贅沢をすることに。 ルノアールの最期の言葉は「まだ上達しているぞ」だった。 |
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| 今も熱狂的ファンが多い | 代表作は『接吻』! | 晩年のクリムトはまるで脱獄囚 |
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| クリムトが描いたシューベルト。絵画と音楽の融合だ | 『ユーディット』は官能の極み |

| 19世紀末のウィーンに君臨したクリムト。金という色は濃淡を出せないので絵にとって実に不向きだ。しかも使い方を間違えると、たちどころに絵が下品になってしまうので厄介なことこの上ない。クリムトはその金を使って、艶めかしい官能、生命のきらめきを描いた。 男殺しのファム・ファタール(運命の女)を描かせたら彼の右に出る者はおらん! |
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| 床の小さな石板が墓石 | 『ターバンの少女』 |
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| 『地理学者』 |
| オランダの古都デルフト。彼はこの小さな街に生まれ、生涯を通して一歩も街から出ることもなく、この地で眠りについた。墓の側には代表作『ターバンを巻いた少女』のレプリカが飾られていた。彼は40代前半で亡くなっている上、一年で2枚ほどしか描かなかった為(ゼロの時もあった)、現存する彼の作品わずか30数点だけ。そして、そのどれもが人類史に残る傑作といわれている。 美術界には“フェルメール・ブルー”という言葉がある。フェルメールが使った青絵の具はこの世で最も美しいブルーであり、特殊な原材料とその時代の湿度がマッチした超激レアの絵の具で、精製工程が謎ということもあり二度と作られていない。彼の絵を見るときは、ぜひ青に溺れて欲しい。 ※ヨーロッパ中の美術館を手中に収めたヒトラー(学生時代、ヤツは画家志望だった)が、兵士に真っ先に奪わせた絵が『ターバンを巻いた少女』。この絵は別荘の正面に飾られていた。 |

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| モジリアニ | ジャンヌ・エビュテルヌ |
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| モジリアニはジャンヌを描きまくった!! |
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| 2009 モジリアニとジャンヌは同じ墓に眠る | 墓石の上にメトロの切符が無数にあった。「これを使って会いにきて」という意味らしい | |
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| 2005 | 「彼は成功の暁に世を去った」と刻まれているとの事 | 2002 ヒシッ! |
| ハイパー極貧画家モジリアニを語るとき、決して忘れぬことが出来ぬのが、その妻ジャンヌのこと。彼女は彼にメチャ惚れ。1920年厳冬のパリ。モジリアニは世に認められないまま、失意の内に35歳の若さで病死する。彼が息をひきとったのは午後8時50分。その8時間後の朝5時に、妻ジャンヌはお腹に9ヶ月の子を身篭ったまま、アパートの5階から身を投げた。彼女はまだ21歳だった。生きて愛する男の忘れ形見を育てる…そんな選択肢が微塵も存在しない翌日の死。壮絶!2人は今、同じ墓の中で安らかに眠っている。 僕は一枚だけジャンヌをモデルに描いたレプリカを持っているが、その絵はモジリアニには珍しく瞳がちゃんと入っていて、まるですぐそこにジャンヌが居るようだ。その絵との付き合いは随分長く、引っ越しする時もずっと持ち歩いているので、独身時代はジャンヌと同棲している様な錯覚に陥っていた。もっとも、ジャンヌには不本意だろうけど(笑)。 |
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| 『自画像』 | 『雨、蒸気、速度』 | 『ノラム城、日の出』 |
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| 2002 | 2005 |
| ターナーはすごい!もっともっと彼を評価すべきだ。フランスでモネやルノワールらが第一回の印象派展を催す“半世紀”も前に、ターナーは英国において、光や霧で輪郭線が消え去った“印象派”の絵を既に完成させていたからだ! 当時の画家はアトリエから一歩も外へ出ずに作品を仕上げていたけれど、“行動する画家”ターナーは嵐の海を描く際に、悪天候をついて出航する船長に頼んで、なんとロープで自分の体を船の先端に縛り付けてもらったという。ド根性アーティスト! |
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ドイツ史上最大の画家デューラーは、ケタ違いに優れたデッサン力を身に付けていた。ミケランジェロとちょうど同世代(ダ・ビンチは年上)。思索活動を好む、哲学者の側面もあった。彼はゴッホやレンブラントと同様、生涯に何枚も自画像を描いており、28歳の時の絵は描かれた年から『1500年の自画像』と呼ばれている。彼はこの自画像で自身をキリストに似せて真正面から描いたが、これは当時ドイツで画家が卑しい職業と思われていたことへの、怒りと抵抗だった。左写真は一緒に墓を探した英国人夫婦。御主人は画家だそうだ。右写真がデューラー。墓に埋め込まれた銘文には、先の28歳の時に自ら自画像に書き込んだ「アルブレヒト・デューラー、28歳。不滅の光を持ってこの絵を描く」という言葉が刻まれていた。カッコ良い! このニュルンベルクの聖ヨハネ墓地こそが、世界で最も美しい墓地だと僕は断言する!この世界最高の墓地の魅力をより深く味わってもらう為に、以下に特別コーナーを作った!是が非でもクリックすべし! |
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| おすましドガ |
手洗いかと思って近づいたら ドガのお墓だった。ゴメン!(2002) |
この鉄扉は押せば開く。 ドガ家の小さなお廟だ(2009) |
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| 鉄扉の内部。右下のプレートがドガのもの。手前の祭壇には ドガに宛てたファンからのメッセージがたくさんあった(2002) |
7年前は右上に花が挿してあった (2002) |
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| ドガは名もなき庶民を好んで描き… | そして、踊り子たちをこよなく愛した |
| 「芸術というものは手仕事で成り立っているんですよ。詩人ポール・ヴァレリーが画家ドガについて語った有名な話がある。ヴァレリーは若い頃にドガと知り合った。ある時、屋外で樹を描いているドガと出会うんだけど、ドガが葉っぱの一つ一つをとても細かく丁寧に描いていたので、思わず“一つ一つ描くなんて、絵描きはなんて辛抱のいる仕事だろう!”と言った。ドガの返事は“お前は何て馬鹿なんだ。こうやって描くことが楽しいのが絵描きなんだ。樹があります、なんて描くのは絵描きの仕事じゃないよ。樹を描くんじゃなくて、こうやって一つ一つの葉っぱを描いていくこと、それが絵なんだよ”。--原稿を書くのも同じ。一字一字の言葉をよく考え選択していくのが、書くっていうことなんですよ」(吉田秀和)音楽評論家 |

| シーレの絵は“不道徳”のかどで、法廷で裁判官に焼かれた。画家の目の前で。彼の描くヌードは生々し過ぎると非難する人々へ向け、シーレは怒りのメッセージをぶつける--「芸術作品にはひとつとして猥褻なものはないのだ。それが猥褻になるのは、それを見る人間が猥褻な場合だけだ」。 墓を巡礼して驚いたのは、彼と彼の奥さんが2人とも同じ1918年に亡くなっていたこと。帰国後、文献を調べるとスペイン風邪という流行り病に命を奪われていた。シーレはまだ28歳だった。この年はクリムトもスペイン風邪に倒れており、ウィーンの芸術運動の灯が消えてしまった悲しみの年だ。 ※スペイン風邪(インフルエンザ)は1918年から翌19年にかけて世界的に流行し、感染者数6億人、死者4千万人以上を出した。 「僕は人間だ。生を愛し、死を愛す」(エゴン・シーレ) |
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| 20歳の青年ミュシャ | 自分の作品に囲まれて | 晩年のミュシャ |
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| 『黄道十二宮』 | 『ジョブ』 | 『月桂樹』 | 『サラ・ベルナール』 |
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| ミュシャも内装を担当したプラハの市民会館(スメタナホール)。こんな美しいホール、今まで見たことない! |
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| ヴィシュフラド墓地の奥、高台の霊廟に眠っている |
ドドドドド… 黒字に金文字がカッコイイ! |
ゴゴゴゴゴ… 生没年の表記方法もオシャレ! |
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アール・ヌーボーを代表する画家。チェコ(モラヴィア)に生まれる。19歳でウィーンに出て働きながらデッサン学校に通い、25歳の時にミュンヘン美術アカデミーに入学。卒業後は28歳でパリに移りアカデミー・ジュリアンで学ぶ。雑誌の挿絵で細々と生計を立てるなか、1895年(35歳)に女優サラ・ベルナールの舞台「ジスモンダ」のポスターを描く。この作品でのサラの堂とした存在感、文字・背景の優美で細かな装飾が大きな話題を呼び、彼は一気にアール・ヌーヴォーの旗手となる。植物をデザイン化し曲線を強調した流麗なデザインは実にエレガント。サラはミュシャを大いに気に入り、以後、ミュシャは彼女をモデルに「トスカ」「椿姫」「メディア」「ラ・プリュム」など名作を残す。ミュシャは業界で引っ張りだこになり、JOB社の煙草用巻紙、モエ・エ・シャンドン社のシャンパンなど様々なポスターを描き、アクセサリーや室内装飾等も手がけた。大成功を収めたミュシャはチェコの作曲家スメタナの組曲『わが祖国』を聴いて望郷の想いを強くし、1910年(50歳)、フランスを去ってチェコに帰国。スラブ民族の歴史を描いた連作「スラブ叙事詩」に取りかかる。チェコ人の愛国心を呼び起こす歴史画は20年をかけた大作となった。
1939年、プラハはナチスの手に落ち、進駐したドイツ軍はミュシャの作品が「ドイツの支配に対するチェコ人の愛国心を刺激する作品」として危険視し、ミュシャを逮捕。79歳の老ミュシャはドイツに反抗しないよう厳しく尋問され、釈放後に体調を崩して4ヶ月後に他界してしまう。戦後、ソ連の機嫌を伺うチェコ政府は国民の愛国心を刺激しないようミュシャの業績を無視していたが、1960年代にアールヌーボーが世界的に再評価され、民主化された近年にミュシャ美術館がプラハに建立された。
※「ミュシャ」はフランス語読みであり、チェコ語では「ムハ」。 ※アルフォンス・ミュシャ館…実は世界トップ・レベルのミュシャ・コレクションが大阪・堺市にある!プラハのミュシャ美術館の3、4倍も作品が充実している。ミュシャの息子ジリ・ミュシャと親交を結んでいた日本人実業家・土居君雄が大量に集めていたものが、堺市にまとめて寄贈されたのだ。氏に感謝! ※美画像いっぱいのお薦めサイト。 |
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| 1994 めっさ大ファンっす | 2005 11年ぶりの再会。は〜、幸せ… |
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| 墓の上にルーベンスの絵 |
ルーベンスといえば“フランダースの犬”!最終回でネロが見ていた『キリスト昇架』は アントワープのノートルダム寺院にあり、お墓からも歩いて行ける距離! |
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| 『キリスト昇架』 | 『キリスト降架』 |
| ルーベンスの眠る教会に12時を5分オーバーで着くと、『午後3時まで休憩』の札が!むせび泣きつつシエスタ(昼休み)が終わるのを待って教会に入ると、墓の側には彼が描いた素晴らしい作品が。3時間も待ったけど、その甲斐あり!※墓がある教会と、ネロが昇天したノートルダム寺院は異なる教会です。 |
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| 自画像 | 『民衆を導く自由の女神』 |
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| 『サルダナパールの死』 | 『ダンテの小舟』 | |
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| 2002 黒色の巨大墓 | 2009 木漏れ日の中のドラクロア。大きく重量感のあるこの棺はいかにも彼に相応しい | |
| 有名な“民衆を導く自由の女神”をはじめ、ドラマチックな作品を数多く描いたドラクロワ。彼の真骨頂はダークな絵。地獄で亡者に襲われるダンテ(『ダンテの小舟』)や、降伏直前の王宮内で繰り広げられた大虐殺の図(『サルダナパールの死』)など、公開当時はあまりに衝撃的で女性が失神したという。生涯独身だった。 |
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| 2002 墓地の中央付近にマネは眠る | 7年後。後方、ペンキ塗り替えてるね(09) | マネ像を拡大 |
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| 「笛を吹く少年」 | パッシー墓地からはエッフェル塔がよく見える |
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| 自画像 | 『出現』 |
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| 2002 寂しげな墓だった | 2009 この時は鉄柵や墓石の上に花があった! |
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| 『大家族』 | 『白紙委任状』 |
| ベルギーは墓マイラーにとって鬼門の地。欧州の墓地は、夏期には閉門時間が18時以降と遅くなるものだが、ベルギーの墓地は16時頃に閉ざされてしまうのだ!僕はこの前日、17時頃に訪れて涙をのんだ。さて、このマグリットだが、一輪の花すらなかった。首都にある墓だというのに。ウーム、これはどうしたことか。 |
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| 墓の上にムンク像があった | 『叫び』 |
| “この絵は狂人だけに描き得る”(ムンクが『叫び』の画中に書いた落書き) ムンクの『叫び』は多くの人に誤解されている。『叫び』というタイトルは、大気を引き裂くような全世界の悲鳴のことを指し、男はその悲鳴を聞くまいとして両手で必死に左右の耳を塞いでいる。つまりあの男が叫んでいるわけではないんだ。 極度に人間嫌いだったムンクは、人里から遠く離れた地に、自分の家の周囲を巨大な壁で囲ませて隠者の様に暮らしていた。その為、ムンク本人を直接知る者は極めて少ないという。 ムンクはノルウェー人。墓参では、それだけを手がかりに僕は北欧ノルウェーに入国した。首都オスロ駅の切符窓口で働く職員を物色し、最もインテリっぽい兄ちゃん(銀ぶち眼鏡&七三分け)を選んで、祈る思いで墓のありかを尋ねた。返事は「墓はこのオスロだよ。場所も知ってるぞ」。僕の「ビンゴ!」の絶叫が駅構内に響いた! 「もう、これからは読書し、編物をする女たちを描くべきではない。生きていて呼吸し、感じ、苦悩し、愛する人間を描くべきだ」(ムンク) |
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| 『泉』 |
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| 墓地からは崖マニアのクールベが好きそうな断崖が見えて いた。オルナンの生家はクールベ美術館になっている。 |
ビバ!フォンソンさん! |
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| メキシコ・シティーのコヨアカン地区にある“青い家”。これが カーロの生家だ。遺灰はこの中の壷に納められている。 |
“青い家”は地下鉄駅から離れており、タクシーを利用。 ところが運ちゃんは場所を知らず、2人で通行人に 道を尋ねながら向った。たどり着けて喜ぶ彼! |
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| この生家は現在「フリーダ・カーロ博物館」として公開されて いる。近年の彼女のブームもあり、ものすごい人出だった。 |
青い家の中庭。まるで小さな植物園のようだった。 |
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| 生家の2階にあるカーロの遺灰(壷)。花の絨毯の上にあった。身体が不自由だった彼女は「私は横になった 姿勢で苦しみ続けた。もうこの格好はイヤ」と死後に棺の中で寝かされることを拒み、火葬され立てられた。 |
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| 「カード遊びをする二人の男」 |
彼がこよなく愛し、何度も絵の題材に したサント・ヴィクトワール山 |
| セザンヌ関連の観光ポイントを結ぶ“Cプレート” (Cは彼の頭文字)が街の通りに埋めてあった |
墓地では入口の街灯に荷物をチェーンで 結び、身軽になって墓探索を開始 |
| な、なんで墓に花が一輪も無いわけ!?最近、誰かが来たという形跡が何もない。花で覆われてると思い込んでた分、発見するのに時間がかかった。“まさかこれではないだろう”と思っていたのがセザンヌだったのだ。街の英雄ならもっと彼を大切にすべし! |
| 「私は左か右にちょっと動くだけで、何ヶ月も同じ場所で絵が描けると思う」(最晩年、死の数日前の言葉) 構図の鬼セザンヌ。彼は遠近法を無視して静物画を描いた。そこまでして一番良い構図を求めたのだ。セザンヌが起こした絵画史上の革命は、従来の画家がひとつの視線(方向)から対象物を描いていたのに対し、複数の視点から描いて一枚の作品にまとめあげたこと。あちこちから物体を掘り下げることで、対象物の「存在感」(本質)を表現したんだ。 ※あちこちから見る、これがやがてピカソのキュビズムに発展していく。ピカソは「唯一影響を受けた先人はセザンヌ」とまで言い切った。 セザンヌの絵はなかなか世間から認められず、友人の審査委員に頼み込んで初めてサロンに作品『画家の父』が入選したのは43歳の時だった。自然主義文学の創始者ゾラは少年の頃から親友だったけど、ゾラの小説「製作」がセザンヌの失敗を揶揄していると47歳の時に絶交する。人付き合いの苦手なセザンヌは印象派のグループに友達はいなかった。ただし最年長者のピサロにだけは心を開き、共同制作も行なっている。 「自然を模写してはいけない。自然を解き明かすことだ」(セザンヌ) |
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| 『サロメ』 |
| 地図上では駅から墓地まで1キロ半しかなかったので、全荷物を背負って歩き出す。ところが、なんと墓地は山の上だった!猛暑の中、写真奥の海岸沿いからフラフラになってここまで登って来る。 |
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| 墓地に着いてからが本当の地獄だった。大規模な墓地なのにビアズリーの墓が案内板に載っておらず、しかも管理人は不在!そのため、ひとつひとつの墓を確認していくという、気の遠くなる過程を踏むことに。墓地は斜面に沿って階段状になっており、上り下りがこれまたキツかった。 |
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| 「せっかくここまで来たのに…」探し始めて1時間。何の手がかりも得られず涙の撤退を開始した時、僕を呼び止める声が!彼らはノルウェーから旅に来た兄妹で、町全体の眺望を写真に収めるためにこの墓地へやって来ていた。実は30分ほど前、ビアズリーの墓を探しているという会話を彼らと交わしており、弟のポール君が「見つけたよッ」と伝えに来てくれたのだ! |
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| き、き、奇跡だった。ビアズリーの墓は何の特徴もない普通の墓であるうえ、刻まれた文字はまるで墓参者を拒むかのように小さかった。この、墓マイラー歴15年の僕でさえ発見できなかった墓を、彼らはよくぞ見出したものだ!僕は思わず2人の前に身を投げ出し、「は、ハハーッ」っと両手をついて感謝した。もうノルウェーに足を向けて眠れないッス。 | |
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| ポップアートの巨人! |
『Self-Portrait』(1986) トレー ドマークはシルバーのカツラ |
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| ウォーホルはスープ缶やコーラの瓶を好んで描いた | 『マリリン・モンロー』 |
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| 2009 なんて賑やかなウォーホルの墓! 彼は丘の中腹に眠っている |
キャンベル・スープ缶(トマト)の嵐!墓石の上には コーラの瓶が乗っている。ファンに愛されまくりだなぁ♪ |
ピンクのファイルは ファンの交流ノート |
| このマダムはウォーホルと面識があったそうだ。いわく、「彼は生涯独身だったので子供がおらず、墓を手入れする 家族がいないの。だから私が毎週墓の手入れをしているのよ」これらの花はすべて彼女が植えたものらしい(2000) |
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20世紀に誕生したポップ・アートの旗手。様々な分野に発表を残したマルチ・アーティスト。本名はアンドリュー・ウォーホラ(東欧スロバキア移民の家系)。ペンシルベニア州ピッツバーグ出身。トレードマークは銀髪のカツラ。父を14歳で亡くし、母の手で育つ。ウォーホルは身体が弱かったが、アルバイトをしながら高校に通った。カーネギー工科大に進学し広告芸術を学び21歳で卒業。その後、NYに出て『ヴォーグ』誌でイラストや広告を担当した。1952年(24歳)、新聞広告美術が評価され「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞。商業デザイナー・イラストレーターとして認知されていく。
1960年(32歳)、コミックを題材にした『スーパーマン』、『バットマン』などを制作するが、リキテンスタインが同様にアメコミをモチーフに作品を制作しているのを知り、コミックを題材にすることを止める。
1962年(34歳)、ポップ・アート元年!ウォーホルはシルクスクリーン技法を使い、アメリカの家庭ならどこにでもあるような、キャンベル社のスープ缶やコーラの瓶で画面を埋めた。また、同年に急逝したマリリン・モンローなど、有名人の写真を何度も反復させた作品を発表した。ウォーホルはコーラの瓶や有名人を繰り返して画面に並べることで、対象物の存在感を希薄にさせ、現代の大量消費社会と没個性化した人々をアートで表現した。もはや描かれているのもは個性を失った“記号”であった。「僕は退屈なものが好きだ。同じ物の繰り返し…物の意味は消えていき、快適な虚無の世界に浸れるというわけさ…」(ウォーホル)。作者の感情を何も表現しないことで、時代の空気を取り込んだ戦慄のアート。
『マリリンの2連画』(1962)ウォーホルは自分の作品をどんどん量産していった。彼は時代の寵児となる一方で、自動車事故などの報道写真まで反復させて作品としたことから“やりすぎだ”と批判を受けた。1963年、眠っている男を8時間延々と撮り続けた映像作品『眠り』を制作。 1964年(36歳)、NYにスタジオとなるファクトリー(工場)を構える。内部は大量生産時代の主役である工場をイメージし、無機質に銀色のアルミホイルが貼られていた。作家のカポーティ、ミュージシャンのミック・ジャガーやルー・リードなど、様々なアーティストがファクトリーを訪れ、シーンの最先端をいく社交場となった。1966年、台本のない210分に及ぶ実験映画「チェルシー・ガールズ」を発表。1967年(39歳)、ロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ」のデビューアルバムをプロデュースし、ジャケットに描いたバナナの絵が人々にインパクトを与えた。
1968年(40歳)、ウォーホルの人生で最大級の事件が起きる。ファクトリーに出入りしていた女性で、「全男性抹殺団」のメンバー、バレリー・ソラナスがウォーホルに向けて3発の銃弾を撃ち込んだのだ。このうち一発が肺を貫通した。彼の人生はここで終わってもおかしくなかったが、ギリギリで一命をとりとめた。1970年(42歳)、「1960年代にもっとも影響力のあった人物」としてライフ誌がビートルズと並んでウォーホルを選出。
1970年代のウォーホルは、著名人からの依頼を受けてポートレイト(肖像写真)のシルクスクリーンプリントを多数制作するようになる(ウォーホルにプリントしてもらうことが成功者のステイタスになっていた)。46歳で初来日。1985年(57歳)、現代のアメリカ文明を痛烈に批評した写真集『アメリカ』を発表。1986年、最晩年の作品となる、レーニンのポートレートが完成。
ウォーホルの死はあっけなく訪れた。1987年2月21日、胆嚢(たんのう)の手術を受けた際、術後に容体が悪化し、翌日に心臓発作で死亡した。これは医療ミスの疑いが指摘されている。享年58歳。最後まで独身だった。他界の7年後(1994年)、「アンディ・ウォーホル美術館」がピッツバーグに開館。これは1人の芸術家の美術館としてはアメリカ最大のものだ。
※1983年、55歳のウォーホルは日本のTV-CM(TDKのビデオテープ)に出ていた(動画15秒)。
※ウォーホルが題材にした有名人→エルヴィス・プレスリー、エリザベス・テイラー、イングリッド・バーグマン、クリストファー・リーブ、公女カロリーヌ、ジミー・カーター、ジョン・F・ケネディ、ジャクリーン・ケネディ、トルーマン・カポーティ、マイケル・ジャクソン、マリリン・モンロー、マーロン・ブランド、ミック・ジャガー、チェ・ゲバラ、毛沢東、モハメド・アリ、ウラジーミル・レーニンほか。 ●ウォーホル言語録
「20万ドルの絵の隣りに20万ドルをまとめて壁にかけてみな。もし誰かが訪ねて来たら、彼らが最初に目にするものは、壁の上のお金の方だ」
「美に関する人々のセンスはまちまちだ。全く似合わない、ぞっとするような服を着ている人を見ると、僕は彼らが『これは素敵だ。気に入った。これを買おう』と思って、その服を買っているところを想像してみる。アクリル製のタンクトップで、胸に光る文字で“マイアミ”なんて書いてあるのを買わせる、何が彼の頭をよぎったのか想像もつくまい」 「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」
「『それがどうした!』は僕の大好きな言葉のひとつだ。これを学ぶにはずいぶんかかったけど、一度コツがわかれば、もう二度と忘れることはない」
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| 『ヴィーナスの誕生』 | 『春(プリマヴェーラ)』 |
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| 2004 午後に行ったら閉まっていた | 2005 午前中は開いていた!この中のどこかに墓があるハズ |
| 中世の厳格なキリスト教社会では、絵画でヌードは御法度だった。そこでボッティチェリはギリシャ神話を題材に使い、“女神ならオッケーじゃろ?”と神話にかこつけて裸体を描く革命を起こした。 500年も昔の絵だというのにヴィーナスの桜色の頬は今でもドキドキさせる。あのダ・ビンチが一目置いてたというのだから、彼の実力は折り紙付きだ。後にボッティチェリは異端裁判にかけられそうになり、火刑を恐れて自らの手で殆どの作品を燃やしてしまったのが残念。でもまぁ、そりゃ命をとるよね。 ボッティチェリはフィレンツェ駅の近くにあるOgnissanti教会に眠っている。2004年に行ったら閉まってて、伊語が分からない僕は「きっと改修工事中で非公開なんだ」と勝手に思い込んで帰国。ところが伊語の分かる友人が現地のサイトを調べてくれた結果、午前中は開いてることが判明。ショック!翌年、執念で再訪問。今度は開いていた!やった!だが、喜びは束の間。内部が広くてボッティチェリの墓が分からず、さらに尋ねようにも堂内には教会関係者が一人もおらず、事務所もないときた。ここまできて墓を発見できずに涙の撤退…悲惨!! ●サイト読者のRYANRYANさんから貴重な情報を頂きました! 『ボッティチェリのお墓の場所を探していらっしゃるとの事なのですがネットで探しまくって見つけました。オニサンティ教会の右翼廊にありまして、アメリカの由来にもなりましたアメリゴ・ヴェスプッチのお墓もそこにあるそうです。“ボッティチェリ”とは「あだ名」なそうで本名の「Alessandro di Mariano Filipepi」と言う名で葬られているようです』 ※墓標画像(ウィキペディアより)●2010年3月、サイト読者のユアサさんが巡礼されました! ![]() 撮影はユアサさん。これで100%確実にボッティチェリがこちらの教会に眠っている事が判明!情報を有難うございました! |
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| もっと評価されるべき! |
代表作『グランド・ジャット島の休日』※小さな点々で描かれている! 気の遠くなる作業であり、この作品を完成させるのに2年もかかったという。 制作中はゴッホ兄弟がアトリエまで見学に来て、補色の使い方に感嘆した |
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| 霊廟の中を覗くとGeorges Seuratの名前が見えた | |
| 31歳という若さで病に倒れたスーラ。彼は絵の具をパレットで混ぜず、カンバスに極小の点として配置し、鑑賞者が目の中で色を混ぜるという画法=点描法の第一人者。 長生きしていれば、どれだけ多くの傑作が世に残っただろう!いまだに彼以上の点描法の使い手は現れていない。もっと長生きして欲しかった。彼の夭折は人類全体の損失だ。 |
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| 『Cycle(循環)』 |

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| 『上昇と下降』 | 『Sky and Water 1』 |
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| 『白衣の少女、白のシンフォニーNo.1』 |
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| 背景に黄色いキリストがいる自画像 |
『我々はどこから来たか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?』 自殺を決意したゴーギャンが、遺作のつもりで描いた渾身の大作(横約4m)。右端の赤ん坊が生の 象徴、左に向かって時間が流れ、中央でリンゴを摘んでいるのはイブ。そして左端の老婆が死の象徴。 一番左の白い鳥は“言葉の虚しさ”を表している。死後の批評に意味はないということだろうか。 |
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| タヒチの本島から遠く離れたヒバオア島に眠る | 実際に巡礼したなんて自分でもいまだに信じられない。それくらい日本とは別世界 |
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| 墓前から南太平洋が見える | ゴッホの「アルルの部屋」Tシャツ! | ゴーギャンのアトリエを復元 |
| ゴーギャンが画家になったのは35才と、非常に遅いスタートだ。それまで彼は株式仲買人をしていた。タヒチに渡ったのは43才! ゴーギャンは友人ゴッホと喧嘩別れしたことから、ゴッホLOVEの僕はゴーギャンに対して以前は良いイメージを持ってなかった。しかし文献を調べているうちに、ゴーギャンがすごく良い奴ということが分かって大好きに。ゴーギャンは西洋文明に疲れ果て、当時の欧州人には地の果て同然のタヒチに渡ったけど、それはゴッホ自殺の翌年であり、自責の念がゴーギャンにあったことも理由の一部と思ってる(ゴッホの弟テオにもお悔やみの手紙を出している)。 ゴーギャンは芸術論でゴッホと衝突したものの、けっしてゴッホを嫌っていた訳じゃなかった。ゴーギャンは遠い異国の島でゴッホを懐かしみ、わざわざパリから(ゴッホが愛した)ヒマワリの種を取り寄せ自分で植えている。そして、かつてゴッホがゴーギャンにプレゼントした椅子とよく似た形の椅子を用意し、育てたヒマワリを置いて絵を描き、ゴッホ風に署名している。ゴーギャンは胸の奥底に、ずっとゴッホへの深い友情を抱いていたんだ。 彼は一度パリに戻って個展を開いたものの、作品は酷評されて全く売れず、再びタヒチへ。そしてゴッホの死から10年後、孤独地獄の中でゴーギャンもまた自殺を試みる。だが大量に劇薬を飲み過ぎて体が拒絶反応を起こして吐き出し、倒れているところを発見された「私は落伍者だ。もはや自尊心すらない」。 晩年の自画像には若い頃の野獣のような迫力はなく、達観した僧侶のように静けさをたたえていた。享年54歳。 死の直前の手紙--「こと芸術に関しては私は正しかったと思う。たとえ私の作品が後世に残らなくても、絵画を解放した芸術家の記憶は永遠に残るだろう」。ゴーギャンは世間から無視されていたので、自分の作品が残らぬと思っていたのだ。 ゴーギャンが眠るヒバオア島の宿は4軒のみ。そしてレストランが2軒、小さなスナック・バーが2軒あるだけ。観光案内所は“土日が休み”というから、観光させる気はナッシングだ。この地に訪れる者の目的は2つしかない。ゴーギャンの墓と、彼の家(アトリエ)を再現したゴーギャン博物館だ。僕が泊まった宿は嬉しいことに墓地のすぐそば。滞在中、彼に会いたくなったら何度でもすぐに会いに行けた。かつて墓の上には島の若い友人が「ポール・ゴーギャン1903年」と刻んだ粘土焼きの記念碑があったが、戦後に盗まれたという。 ゴーギャンの墓前からは美しい稜線を描く山や、白波が寄せる海岸が見え、素晴らしい場所だった。文章ではイメージが湧き難いと思い、彼の墓と、墓から見えるヒバオア島の景色を動画で紹介。そそり立つ緑の山、遠くから聞こえる海の音、村のニワトリのコケコッコーなど、1分間の短い動画ですが、南洋の墓地の雰囲気が伝わると思いマス。かつて文明社会に背を向けて、遠く海を渡ったゴーギャン。つい3日前にここに居たというのが信じられない。 ★ゴーギャンの墓・動画→朝7時半頃の撮影。色んな鳥の声、墓前で呟いた「ゴーギャン」など、色んな音が入ってます。最後に映ってる黒い犬は、墓守のようにずっと彼の墓に付き添っていたんだ。不思議なワンちゃん。※動画1分 |
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