世界のお墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

その他(ワン&オンリー)のコーナー


★23名

安倍晴明の墓(陰陽師) ナイチンゲールの墓(看護婦)
伊能忠敬の墓(測量家) シュリーマンの墓(考古学者)
ヘレン・ケラー&サリバンの墓(教育者) 勅使河原蒼風の墓(華道家)
淀川長治の墓(映画評論家) 三人の東方賢者の墓(占星術師)
北大路魯山人の墓(料理研究家) レニー・ブルースの墓(エンターテイナー)
深田久弥の墓(山岳研究家) ルードウィヒ2世の墓(芸術擁護者)
山田康雄の墓(声優) 安珍の墓(行者)
ジョゼフ・ピュリツァーの墓(ジャーナリスト) 檀君の墓(古代人)
宮武外骨の墓(ジャーナリスト) 安徳天皇の墓(天皇)
尾崎秀実の墓(ジャーナリスト) ダビデ王の墓(ユダヤ王)
ゾルゲの墓(スパイ) ツタンカーメンの墓(エジプト王)
横川省三の墓(スパイ) 杉原千畝の墓(外交官)
大川常吉の墓(警官) 児島惟謙の墓(裁判官)
芦屋道満の墓(陰陽師)



★ヘレン・ケラー/Helen Keller 1880.6.27-1968.6.1 (USA、ワシントンDC 87歳)2000&09 社会事業家
★サリバン/Anne Sullivan 1866.4.14-1936.10.20 (USA、ワシントンDC 70歳)2000&09 教師
Washington National Cathedral, Washington, District of Columbia, District Of Columbia, USA

ケラー24歳 ケラー8歳、サリバン22歳

巨大なワシントン大聖堂

祭壇の左奥に地下霊廟へ続く
階段がある。気付く人は少ない
地下礼拝堂の一角に2人の墓がある。
写真中央の大きな柱の左横に遺灰が入っている


2000 2009 墓碑は点字の部分だけ色が変わっている

アメリカの著述家・社会事業家。平和主義者。三重苦を克服し、障害をもつ人々の救済のために生涯を捧げた。1880年6月27日、アラバマ州タスカンビア生まれ。父は退役軍人。1歳9カ月のときに胃と脳髄の急性充血による高熱で、視覚と聴覚を失い、言葉が不自由になった。両親は沈黙の世界にいたヘレンが短気でワガママな子どもになるのを見るにつけ、教育の必要性を痛感。6歳の時に、アレグザンダー・ベル(電話の発明家であり熱心な盲人教育者)に相談し、その縁で翌1887年3月3日からパーキンス盲学校の卒業生アン・サリバン(通称アニー、当時20歳)が家庭教師として派遣された。サリバン自身も3歳で失明し、手術によって視力を取り戻した過去があった。「私の生涯を通じて忘れられない最も重要な日は、サリバン先生が来て下さった日です」「それは私の魂の誕生日だった」(ヘレン)。
1887年4月5日、サリバンがケラー家にやって来て33日目。サリバンはヘレンと散歩中に井戸へ寄った。そしてヘレンの手に水を注ぎながら「w-a-t-e-r」と指文字(指話法)で何度も綴っていると、突如としてヘレンは言葉と物を結びつけ、すべての物に名前があることに気づいた。2歳から5年間身を置いた暗闇に光が差した!ヘレンはポンプなど数語を尋ねた後、サリバンの方を向いて名前を聞いた。手の平に綴られたのは「t-e-a-c-h-e-r 」。“先生”の名の通り、サリバンは人生の先輩として、全存在をかけてヘレンに向き合っていく。「water」を理解した同日夕刻には、「give」「go」「baby」「door」「open」「come」など30もの単語を覚えていた。「言葉の存在を最初に悟った日の夜。私は嬉しくて嬉しくて、ベッドの中で、この時初めて“早く明日になればいい”と思いました」(ヘレン)。翌朝の様子をサリバンはこう記す。「彼女は妖精のようにベッドから跳ね起きると、手当たり次第に物の名前を尋ね、一語学ぶ度に感激して私にキスしました」。3カ月後には300個以上の単語を記憶し、「very」という言葉を知った時は、「very happy」のように他の単語を組み合わせて表現することに夢中になった。
 
ヘレンは「water」事件の翌月に点字の本を読めるようになり、翌々月には簡単な手紙を書けるようになっていた。ヘレンが非常に高い知性を持っていたことが明らかになり、それまで聾唖者の知的発達を疑っていた人々がみな驚いた。ヘレンの噂は米国に広まり、1888年(8歳)、ホワイトハウスに招待され 第22代大統領クリーブランドと面会した。大統領はヘレンと会えたことを大いに喜んだ。
ヘレンは3年間をパーキンス盲学校(国内最大の盲人用蔵書が図書館にあった)で暮らした後、1890年(10歳)に発声法を学び、1カ月の練習で話し方を身に付けた。ただし、近親者しか理解できず、他人が聞き取るのは困難だった。
サリバンは常にヘレンに寄り添い、世界のすべてを指文字で通訳した。グラハム・ベルがバッキンガムに送った雑誌記事を通してヴィクトリア女王もヘレンのことを知っていたし、12歳の頃には“ヘレン・ケラー”という名前が世界の人々に知れ渡っていた。ベルはヘレンに普通の子どもの体験をさせてあげたくて、ワシントンの動物園に連れて行った。1893年(13歳)のシカゴ万国博では、“何でも触って良い”と許可を受けたことから、バイキング船、ダイヤモンド鉱石、エジプトのミイラ、蓄音機など世界中の珍しいものに触れることが出来た。「私は指で博覧会の素晴らしさを吸収しました」(ヘレン)。1894年(14歳)、ニューヨークの口話学校で2年間学び、大都会でスラム生活者の苦しみを初めて知り、社会問題に関心を持つようになった。
 
1896年(16歳)、父が他界。ボストンのケンブリッジ女学校に入学。当初、校長は「我が校には聴視覚障害者に対応できる設備がない」と入学に難色を示していたが、ヘレンと直接対面して聡明さを知り、考え方が180度変わった。サリバンはヘレンと同じ学生寮に住み、目となり耳となって全授業に出席し、講義内容を手の平に伝えた。ヘレンは歴史、文学、外国語、数学など猛烈に知識を吸収し、1900年(20歳)には名門ラドクリフ女子大学(1999年ハーバード大に吸収)に入学。他の生徒と同様に扱われ、4年後に“優等”で卒業し、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語を身に付けた。彼女が特別待遇なしに大学課程を終えたことを人々は喝采した。1905年、サリバンはハーバードの講師ジョン・メイヤーのプロポーズを承諾し結婚する。
 
卒業後のヘレンは“盲人のために尽くすことが終生の使命”と確信し、全身全霊をこの目的に捧げた。まず、ボストンで盲人が就職可能な社会整備を訴え、その結果設けられたマサチューセッツ州盲人委員会の委員に26歳で就任する。1909年(29歳)、「貧困が社会の不平等と不幸を生む」という信念からアメリカ社会党に入党。当時としては進歩的な思想を持ち、婦人参政権運動(NYやD.Cでデモ行進に参加)や公民権運動など多くの人権運動に関わり、若年労働や死刑制度にも反対した。1913年(33歳)、社会問題をテーマにしたエッセイ集『暗闇から外へ』を出版。同書は社会主義的傾向が批評家や保守派から批判され、それまで好意的だったメディアはヘレンが時事問題を語った記事を掲載拒否するようになった。
1914年(34歳)、ヘレンたちは経済的に追いつめられ、さらにサリバンの目の状態が悪化したことから、ヘレンは講演を通して生活費を稼ぐ決心をした。人前で話すことは大きな勇気が必要で、最初は講演を苦痛に感じていた。だが、どの講演でも聴衆が感動し熱狂的に受け入れてくれたので、次第に自信を持つようになり大陸横断の講演旅行を敢行する。聴衆はヘレンの発音を理解できなかったが、言葉の奥底にあるヘレンの思いをサリバンの通訳で汲み取り喝采を贈った。一方、ヘレンとサリバンがますます有名になったことでサリバンの夫ジョンは心の距離を感じ、1人の“良き友人”となって別々に暮らすようになった(ジョンは18年後に他界)。
別居後、サリバンはメーン州のホテルで倒れてしまう。行き詰まったヘレンを金銭的に援助してくれたのは実業家アンドリュー・カーネギーだった。おかげで1人の秘書を雇うことが可能になり、求人広告を見て応募してきた陽気なスコットランド人女性ポリー・トンプソンとの3人の生活が始まった。同年7月に第一次世界大戦が勃発すると、ヘレンは平和主義の立場からNYで次のようにスピーチした。「私の祖国は世界です。それゆえ、どんな戦争も私にとっては同胞を争わせる非常に嫌悪すべきものなのです」。
 
1916年(36歳)、ヘレンは7歳年下の若きジャーナリスト、ピーター・フェイガン(29歳)からプロポーズを受けた。サリバンが結核になり、ポリーが療養に付き添った為、臨時で雇った秘書がピーターだった。それまでヘレンは恋愛をこう捉えていた「私と結婚したい男性などいるはずがありません。彫像と結婚するようなものですから」。だが、ピーターは誠実にヘレンを愛した。「彼が本気で私を想っていることに驚きました。私を幸せにするための様々な計画を彼が持っており、結婚後は人生のどんな苦境に直面しても、常に側で私を助けたいと彼は言いました」。だが、政治的に保守思想を持っていたヘレンの母は、労働運動に身を投じていたピーターを認めず、婚約していた2人を無理やり引き裂いた。ピーターは簡単に諦めなかったが、ヘレンの妹の夫からライフルを向けられついに断念した。「(ピーターとの)短い恋愛は、私の人生の中で、暗い水に囲まれた小さな喜びの島です」。これがヘレンにとっては最初で最後の恋となった。
その後、ヘレンは労働者への共感をより深め、戦争の暴力を批判し、1917年(37歳)に起きたロシア革命を擁護した。1919年、ヘレンはハリウッドの誘いで喜劇役者チャップリンと映画『救い』で共演を果たす。
1921年(41歳)、母が他界。同年、ヘレンの発案で米国盲人援護協会が創設された。サリバンの健康は快復と悪化を繰り返し、1924年頃には視力を殆ど失ってしまったが、ヘレンと共に米国盲人援護協会の支援者を求めて各地を訪れ、3年間に250回以上も集会を開き25万人以上に声をかけた。ヘレンが持つ不屈の精神、ユーモアと楽天主義が出会う人をことごとく虜にし、ヘンリー・フォードやロックフェラーをはじめ多くの国民が米国盲人援護協会に寄付をし、100万ドル以上が集まった。ヘレンはまた、それまで欧州式、米国式など5種類に分かれて不便だった点字を、ひとつに統合すべく尽力した。そして1932年(52歳)、ルイ・ブライユが1824年に作った6点式の点字が国際標準化された。
 
1936年(56歳)、70歳のサリバンは目の手術が体の負担になって衰弱していき、ポリーが最期の言葉を書き留めた。「(ずっと昔)ヘレンが孤独な私の人生にやって来た。続いてポリーも。私たちはいつも幸せだった。神よ、私が居なくてもヘレンが生きていけるよう助けたまえ」。10月20日、アニー・サリバン逝去。次第に冷たくなっていく恩師の手を、ヘレンは力一杯に握りしめて「生命の光、音楽、栄光が消え去ってしまった」と泣き崩れた。
約50年にわたって共に生きたサリバンが没し、人々はヘレンの心が折れることを心配したが、彼女は盲人救済活動をやめなかった。翌1937年、日本語の点字を考案した盲目の社会実業家・岩橋武夫(ライトハウス館長)からの来日要請を受け、4月に横浜港へポリーと到着。残念なことに横浜港の待合室でヘレンは財布を盗まれてしまった。この事件が報道されると、日本全国から見舞金が寄せられ、4カ月後にヘレンが日本を離れる頃には盗難された金額の10倍以上が集まった。ヘレンは新宿御苑の観桜会で昭和天皇に拝謁し、日本各地を巡った。奈良では大仏を自由に触ることを許された最初の女性となった。その後、朝鮮や満州も訪問し、97回の講演で20万人に盲人の福祉や教育の向上を力説した。
 
ヘレンはリベラルな反戦・政治思想によって保守派から激しく中傷されることもあった。FBIの要調査人物に指定され、初来日の際は日本の特高警察が監視していた。そんなヘレンだが、1941年(61歳)の日本による真珠湾奇襲には憤った。1943年から、戦争で視力や聴覚を失った兵士を慰めるため軍病院を巡り始めた。ルーズベルト夫人いわく「(ヘレンの訪問は)負傷兵たちが体験した、おそらく最大の癒しでした」。ヘレン自身も、頭にキスしたり手を置くという、たったそれだけのことが傷ついた者を救うことを知って胸を動かされた。1946年からヘレンとポリーは海外盲人アメリカ協会の代表として、各国で障害者のために講演活動を続けた。1948年(68歳)、再来日。1950年に現在の東京ヘレン・ケラー協会と西日本ヘレンケラー財団が設立された。外交官の重光葵(まもる)は戦犯として巣鴨プリズンに収監されていた時、元将校の中に「あれは盲目を売り物にしている」とヘレンをけなす者がいたことから、日記に「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや」と怒りをぶつけた。1952年、仏からレジオン・ド=ヌール勲章を授けられ、同年から2年間の講演旅行が始まる。中東、中部アフリカ、北欧などを訪れた。1955年(75歳)、前年に没した岩橋武夫を弔うため3度目の来日を果たす。ヘレンとポリーの遠征は、1946年〜1957年の11年間で5大陸35カ国にのぼった。
 
1960年、3年前に脳出血を起こした秘書ポリー・トンプソンが他界。サリバンの死後、ポリーはどんなに困難な時も、真摯に、そして笑顔で助けてくれた。「きっと天国で2人は再会し、先生はポリーのことをとても誇りにしているはずです」。1961年(81歳)、ヘレンは軽い発作に襲われ、以降はコネティカット州イーストンの自宅で体を休めた。7年後の1968年6月1日、自宅で永眠。享年87。没後、日本政府は勲一等瑞宝章を贈った。
著作活動としては、1903年(23歳)に『私の生涯』を執筆し高く評価されたことを皮切りに、『私の住む世界』(1908※「心理学的古典」と絶賛された)、社会派エッセイ『暗闇から外へ』(1913)、自伝第2巻『流れの直中で』(1929)、『中流?私の晩年』(1930)、『私の宗教』(1940)、恩師を讃えた『教師、アン・サリバン・メーシー』(1955)、『オープン・ドアー』(1957)などを刊行。1954年(74歳)、『征服されざるもの』で生涯が映画化され、1959年(79歳)には米作家ウィリアム・ギブソン作の劇『奇跡の人』(ピュリッツァー賞受賞)でサリバンの偉業が舞台化され、同作は3年後に映画化された。
 
ヘレンの生涯は、三重苦に始まり波乱に満ちたものだったけれど、世界への飽くなき好奇心と強靱な精神力、そして根っからの楽天主義で様々な壁を乗り越えていった。ヘレンを知る多くの人が、人間の可能性の無限さを見せられた思いがしただろう。
 
墓は米国の首都ワシントンD.C.の巨大なワシントン大聖堂にある。祭壇の左奥に地下霊廟へ続く階段があり、地下礼拝堂の一角にサリバンと一緒に眠っている。ポリーの遺灰も側にあるらしいが僕は気づかなかった。
2人の名前が刻まれたプレートは、写真のように点字の部分だけ表面の色が異なっており、どんなに多くの目の不自由な人が墓を訪れ、触れていったのかが良く分かる。点字になった彼女の名を指でなぞっていると、無人の霊廟にいながら、これまでにヘレンを愛し、僕同様に墓前に立った何千、何万もの人と心が繋がった気がした。
 
「マーク・トウェーン(作家。『トム・ソーヤの冒険』)と握手した際、その目の輝きを手の内に感じました」(ヘレン)
「19世紀にはふたりの偉人が出た。ひとりはナポレオン一世であり、いまひとりはヘレン・ケラーである。ナポレオンは武力で世界を征服しようとして失敗に終わった。しかしヘレンは三重苦を背負いながら、心の豊かさ、精神の力によって今日の栄誉を勝ち得た」(マーク・トゥエイン)
 
〔ヘレン・ケラー語録〕
●「幸せの一つの扉が閉じると、別の扉が開く。しかし、私たちは閉じた扉ばかり見ているために、せっかく開かれた扉が目に入らないことが多いのです」
●「不幸のどん底にいるときこそ、信じてほしい。世の中にはあなたにできることがある、ということを。他人の苦痛を和らげることができるならば、人生は無駄ではないのです」
●「世界を動かすのは、英雄の強く大きなひと押しだけではありません。誠実に仕事をするひとりひとりの小さなひと押しが集まることでも、世界は動くのです」
●「言葉というものがあるのを、はじめて悟った日の晩。ベットの中で、私は嬉しくて嬉しくて、この時はじめて、“早く明日になればいい”と思いました」
●「私は一人の人間に過ぎないが、一人の人間ではある。何もかもできるわけではないが、何かはできる。だから、何もかもはできなくても、できることを拒みはしない」
●ロックフェラー所有の炭坑で労働争議が起き、機関銃で鎮圧された事件について。「女性と子供たちをあんなに無慈悲に虐殺するなんて、ミスター・ロックフェラーは資本主義の化け物です。慈善事業の裏では無力な人たちが殺されるのを許しているのです」
●「ナイアガラの滝の突出部に立ち、周囲の大気が震動し、足下の大地が震えるのを感じた時の感情は表現し難いです」
●「私の祖国は世界です。それゆえ、どんな戦争も私にとっては同胞を争わせる非常に嫌悪すべきものなのです」(第一次世界大戦に反対して声明)
●アイゼンハワー大統領の顔を触ったときのジョーク。「あなたの微笑みは美しいですね。でも髪の毛のほうはそうでもありませんよ」。
●ヘレンは楽器やスピーカー、口元に指を触れて音楽を楽しんだ。世界的バイオリニスト、ヤーシャ・ハイフェッツのバイオリンに触れた感想「個々の音譜がアザミの毛のように指先の上に留まり、それが私の顔や髪に触れるのです。まるでキスの感覚のように」。
 
〔関連語録〕
●アインシュタインからサリバンへの言葉「あなたの仕事は近代教育の他のいかなる業績よりも興味深いです。あなたはケラーに言葉を伝授したばかりでなく、彼女の個性を開花させました」。
●イタリア女性で近代教育法を革新したマリア・モンテッソーリ博士のサリバン評「私はこれまでパイオニアと呼ばれてきましたが、そこにはパイオニアであるあなたがいます」。
●オペラ歌手エンリコ・カルーソーいわく「ヘレン・ケラーよ、私はあなたのために人生の中で一番よく歌うことができました」。
 
※よく誤解されているけど、“奇跡の人”とはサリバン先生のこと。サリバンは教育者として傑出した能力を持っていた。
※ヘレンは三重苦の反面、味覚、嗅覚、触覚がケタ違いに鋭敏だった。
※子ども時代のヘレンは、母親から江戸時代の盲目の国学者、塙(はなわ)保己一のことを聞かされ、塙を手本に勉強したという。
※ヘレンは20世紀の三大重要人物に、エジソン、チャップリン、レーニンの名をあげた。
※1948年の来日ではハチ公像を触った。「(この動物愛は)日本人の人間愛を証明するもの」。

〔参考文献〕
『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、『世界大百科事典』(平凡社)、『ブリタニカ国際大百科事典』(ブリタニカ)、ウィキペディアほか。こちらのサイトでは海外のヘレン伝記を翻訳されており、大いに参考にさせて頂きました。素晴らしい労作!



★ナイチンゲール/Florence Nightingale 1820.5.12-1910.8.13 (イギリス、ロムジー 90歳)2002 看護婦
East Wellow Churchyard (St. Margaret's), Hampshire, England








“クリミアの天使”

ロンドンのセントポール寺院
には、追悼碑だけがある
お墓はイーストウィロー教会の墓地に


付近の墓とはまったく異なる家の形をした墓 遺言でイニシャルのみ墓碑に求めた

イギリスの看護婦、人道主義者、病院改革者。近代的看護を確立した。
両親はイギリス人の地主。長期の新婚旅行中にイタリアのフィレンツェで生まれたことから、フローレンス(フィレンツェ)と名付けられた。子ども時代のお気に入りの遊びは、人形に包帯を巻くなどの看護ごっこだった。
1949年(29歳)、イギリスを出て欧州各地やエジプトで病院システム・看護の研究をした。1953年(33歳)、ロンドンの婦人病院の院長に就任。
クリミア戦争(1853-56)が勃発すると、トルコのイギリス軍野戦病院の衛生状態が悲惨な状況を知り、彼女は38人の看護婦を率いて従軍。5000人が収容されたトルコ・スクタリの野戦病院で献身的に傷病兵を看護した。彼女は20時間連続で立ったまま働き、毎夜ランプを片手に巡回したことから「ランプを持った貴婦人」「クリミアの天使」と称えられた。野戦病院は衛生状態が改善され、彼女が赴いてからわずか4ヶ月の間に、傷病者の死亡率が42%から2%に激減した。
ナイチンゲールの活躍が本国イギリスに伝えられると、彼女の人気が沸騰。帰国用の軍艦や盛大な歓迎会が用意されたが、彼女は注目を浴びることを避け、ひっそりフランスの船で帰国した。
当時の社会では看護婦は卑しい職業とされていたが、彼女のおかげで社会的地位が高まった。活動に対して寄付金が集まると、それを基にしてロンドンに看護婦養成学校を創設、職業としての看護婦教育が始まった。これによって、看護婦は召使いから医学の専門家にひきあげられ、1872年(52歳)に引退するまでに数千人の看護婦を養成した。著作「看護ノート」(1860)は看護婦を目指す者の最初の教科書となった。
1907年(87歳)、女性として初めて英国最高峰のメリット勲章を受章。彼女の活動は赤十字運動の先駆けとなった(赤十字運動には関わっていない)。
英国ハンプシャー州、ロムジーの近くにあるイーストウィロー教会の墓地に眠っている。ナイチンゲールは有名になり過ぎたことを嫌い、遺言で墓碑にはイニシャルと生没年「F.N.  Born 1820-5-12 Dead 1910-8-13」のみ刻むことを許した。
※1920年以来、赤十字国際委員会は優秀な看護婦にフローレンス・ナイチンゲール記章をさずけている。



★淀川 長治/Nagaharu Yodogawa 1909.4.10-1998.11.11 (兵庫県、神戸市、須磨寺 89歳)2000映画評論家



TVで解説を始めた頃 “サヨナラおじさん”の名で愛された 最晩年、宮崎駿監督と







素晴らしい名解説をもっと聞きたかったです〜ッ!
(兵庫・須磨寺にて)
生涯を銀幕に捧げた
「映画の伝道師」
05年の淀川長治賞に輝いて
喜ぶジャッキー・チェン

映画評論家。神戸出身。ハイカラな港街で芸者小屋を営む両親に連れられ、4歳の頃から映画を見まくった。子どもの頃から良い作品は他人に紹介せずにいられなかった性分らしく、一人で面白い映画に出くわすと、劇場の電話を借りて家に連絡し、親類の席を約10人分予約して、改めてもう一度観たという。
中学時代、「映画ばかり見ずに数学の勉強をしろ」と説教した先生に、「公開中の『ステラ・ダラス』を観てからそれを言って下さい」と抗議し、先生が数人で劇場に足を運んだところ、感動的な自己犠牲のラブ・ストーリーに一同はむせび泣き、以降は学校行事として映画を見に行くようになった。作品の選定は淀川に一任され、自分が薦めた映画で級友たちが、笑い、泣き、楽しむ様子を見て、「もっと多くの人に映画の素晴らしさを伝えたい!」と思うようになった。

1927年(18歳)、上京して雑誌「映画世界」編集部でアルバイト。1932年(23歳)には、米国の映画会社ユナイトの大阪支社宣伝部に入った。1936年3月(27歳)、『チャップリンと新妻ポーレット・ゴダードが、新婚旅行で極秘に神戸港へ船で立ち寄る』という大ニュースをキャッチ、ホノルルからクーリッジ号で入港したチャップリン(当時47歳)にアポなし突撃取材を敢行する。甲板で5分間だけという約束だったのが、淀川がチビッコ時代から観てきたチャップリン・ムービーの様々な名場面をパントマイムで再現しているうちに、炎のファン魂がチャップリンのハートに燃え移ったのか、「ねぇ、君!中に入って話をしよう!」と船室に招待してくれ、そこで一時間も2人きりで話をするという、人生最大最高の体験をする。チャップリンは淀川に、買い物に出るポーレット・ゴダードの為の神戸ガイドを依頼した。

1938年(29歳)、次第に日本が戦争に深入りしていく中、東京支社に転勤となり両親と上京。1940年(31歳)、彼が担当した『駅馬車』が空前の大ヒットを記録する。しかし、翌年に日米開戦となり、ハリウッド作品は敵性映画として終戦まで公開禁止になる。この当時、ディズニーの長編アニメ『白雪姫』を会社の試写室で密かに見た淀川は、色彩あふれるカラー映像に驚愕し「こんな国と戦争したら絶対に負ける」と絶句したという。1942年、東宝の宣伝部に移籍。

1945年、36歳で終戦を迎えてセントラル映画社に入社。翌年、雑誌『スクリーン』の編集委員となる。1947年(38歳)、映画世界社の「映画之友」編集部に入り、翌年から1967年まで20年も同誌の編集長を務める。その間、1951年(42歳)に初めてハリウッドを訪れ、念願だったチャップリンとの再会を果たす。スタジオで『ライムライト』を撮影していたチャップリンの第一声は「アイ・リメンバー・ユー!」。神戸港でのあの楽しいひと時を彼は忘れておらず、淀川をスウィート・ボーイと呼んだ。チャップリンは62歳。淀川は15年の間にチャップリンの髪の色がすっかり変わったことを知り、思わず泣きそうになる。「なぜ泣く?」「グレー・ヘアー」「……」。チャップリンは黙って淀川の肩を抱いた。

「映画之友」編集長として、彼は読者との定期的な交流会(友の会)を企画。映画への一途な熱愛ぶりが参加者に伝わり、映画ファンの間で名が知れ渡っていく。テレビでの初仕事は1960年のTVシリーズ『ララミー牧場』の解説。51歳のブラウン管デビュー。親しみやすい解説で一躍脚光を浴びた。
1966年(57歳)、新番組『日曜映画劇場』がスタート。この番組は劇場映画を毎週オンエアするという、業界初の試みだった。解説を依頼された淀川は「より多くの人へ映画の魅力を伝える」ことが可能なこの仕事を喜んで引き受けた。以後、一度も休むことなく32年間も(死の前日まで)解説を続けることとなった。
放送が始まると、丁寧で分かりやすい解説だけでなく、番組冒頭の「ハイ、またお会いしましたね」から最後の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」に続く一連の「淀川節」が大ブレイク。独特の口調で映画の素晴らしさを嬉々として語る姿は人々に愛され、“サヨナラおじさん”の愛称でお茶の間の人気者となった。当初は「サヨナラ」の回数が毎回異なっていたが、子ども達が回数を賭けているという噂を聞き、それからは3回に決めた。
1967年(58歳)、テレビ、ラジオ、雑誌で引っ張りだこになった淀川は、「映画之友」を離れてフリーになり、各方面に活動の場を広げていく。

※たぶん、どの本にも載っていないエピソードを紹介。80年代前半、まだレンタルビデオ店というものが世になかったので、高校生の僕は『日曜洋画劇場』を毎週必ず観ていた。一度、酒に酔ったまま解説した回があって、あの衝撃を今でもハッキリと覚えている。「ハイ、皆さん今晩は。今日は私の顔、赤いですね。ちょっとスタジオに入る前、お酒を呑みましたね。フラフラですね。そういうわけで、今日は私、少しご機嫌さんでキャメラに向かってますが、舌がもつれたら皆さんごめんなさいね。さて、今日の映画は…」。師匠も凄いがこの収録をボツにせずオンエアしたテレ朝もブッ飛んでると思った。そしてこう考えた。つまり、番組の現場スタッフは日頃からその人間的魅力に惚れ込んでいて、親近感の湧く“ご機嫌さん”バージョンをどうしても人々に見せたかったのだと。翌週のオンエアでは「あらまあ、先週はごめんなさいね」と謝っていた(笑)。
あと、「サヨナラ」ではなく「にぎにぎバイバイ、にぎにぎバイバイ」と右手を“にぎにぎ”した回があった。翌週から「サヨナラ」に戻ったけど、あれは一体…!?

『日曜洋画劇場』で解説を収録する前に、「それだけ責任あるから」と作品を三回以上見たという。映画文化を支えていく強い自負がそこにはあった。しかし、理由はそれだけではない。毎週の放送ともなると、“箸にも棒にもかからぬ救い難い駄作”を解説する回もあった。「どんな映画でも何か一つは必ず良いところがある。それを拾って皆に説明するのが私の使命」、この映画愛のたまものだ。
また“吹替え版”には次の意見を持っていた。「吹替え版はセリフのノーカット版。字幕は一度に2行しか表示できず、どうしても要約せざるをえない。複数の人間が同時に喋る場面にも対応できない。この問題を克服し、全てのセリフを楽しめるのが吹替え版のメリットだ」。

淀川は自分の人生観、人間観について、よく次の様に語っていた。
「私はいまだかつて嫌いな人に会った事がない。好きになる事がどんなに人を助けるか私は知っている」
「ウエルカム・トラブル、苦労来たれ、苦労が人間を強くするんだ。悲しいなぁ辛いなぁと泣いたことがある人が偉いんだ」
「最近の親友と申したい監督が、香港生まれのウェイン・ワン監督。親友といってもじかに話したこともない。好きな映画を見せてくれた監督は私には親友だ」
「イランがどこにあるのか調べるといい。各国の映画が国境を越えて日本に訪れ、“人間”は同じという事を知る。これほど平和を生むものは他にはない」(イラン映画『友だちのうちはどこ?』のコメント)
“好きになることが相手を助ける”“知識は(異文化への)恐怖を取り除く”…これらはすべて映画が教えてくれたのだという。

名シーンを細部まで再現する驚異的な記憶力は、年をとっても全く衰えず、「映画の生き字引」と呼ばれた。1984年(75歳)、勲四等瑞宝章受章。1992年(83歳)、雑誌「ROADSHOW」創刊20周年記念として、映画文化の発展に功績のあった人や団体に贈られる“淀川長治賞”を集英社が設立(第1回受賞者は翻訳家・戸田奈津子)。晩年の口癖は「明日、来週、新しい映画がくるかと思うと、死ねない」。そして『日曜映画劇場』の為に、テレビ朝日に近い全日空ホテルで生活していた(まるで出家者のようだ)。
 
後期の黒澤映画が、世間から「“七人の侍”の頃のエネルギーがなくなった」「クロサワはもうダメだ」と叩かれていた頃、淀川は『夢』(1990)を「日本映画史上最高の映画美術と申したい」と評し、『まあだだよ』(1993、遺作)には次のコメントを残した。
「若い映画ファンの多くが、この師弟の物語を観て“時代おくれ”“照れくさい”“ついていけない”と言う。馬鹿かと思った。なぜ監督の、美を一途に追い求める姿勢が分からないのか。日本中が今、この温かさを受けつけなくなった。怖いし、悲しい。干からびた地面からは、このような枯れ木の若者が伸びるのか。この映画、乾いた土に水の湿りを与える」。
 
1998年9月、長年親交があった黒澤監督が他界。ひとつ年上の淀川は、自らの死を予期していたのか、棺で眠る黒澤に「泣かないよ。僕もあとから追いかけるから、もうすぐだよ」と語りかけた。
2ヶ月後の11月10日、『日曜映画劇場』の解説用にブルース・ウィリスの『ラストマン・スタンディング』を観て、番組の収録を終えた後に体調を崩して倒れる。そして翌11日午後8時7分、腹部大動脈瘤(りゅう)破裂が原因による心不全で逝去した。享年89歳。最期の言葉は、病室に駆けつけた姪御さんに言った「もっと映画を見なさい」だった。
名物の「サヨナラ」は32年間に1500回以上も流れ、多くの日本人が、これからもずっと日曜夜に繰り返されると漠然と思っていたのが、突然4日後(15日)のオンエアで最後になった。

※その日、僕は朝から緊張していた。新聞に「最後の解説」と書かれていたからだ。午後9時、放送開始。89歳の淀川翁が、かすれた声を振り絞って、懸命に作品の見所を伝えている。すると画面の下方にテロップが静かに流れ始めた--『ご覧の映像は永眠される前日に収録された最後の解説です』。…激涙。僕は“翌日に亡くなった”という事実に圧倒された(収録は何週も前だと思っていた)。まさに、映画に殉じたのだ。死ぬまで映画に身を捧げた、本物の「映画の伝道師」だった。
『ラストマン・スタンディング』は、邦画の『用心棒』をハリウッドがリメイクしたもの。若い頃から外国映画の魅力を語り続けてきた淀川が、最後に日本映画が外国からリスペクトされた作品を解説する、そこにもまた感慨深いものがあった。まして『用心棒』は盟友・黒澤監督の作品。運命的なものさえ感じた。

葬儀の『淀川長治さん・さよならの会』には、杉浦孝昭(おすぎ)ら親しかった映画関係者ら約500人が出席。祭壇の遺影には、本人が最も気に入っていたという、チャプリン『独裁者』のポスター前でニッコリ笑う淀川の写真が選ばれた。棺には愛用の眼鏡やチャプリンの写真が収められ、黒澤監督が愛用したひざ掛けがかけられた。
チャプリンの『ライムライト』の美しいテーマ音楽が流れる中、全国から集まった一般ファン約2500人が白いカーネーションを祭壇に献花した。各国からの弔電もたくさん届き、そこにはベルナルド・ベルトルッチ監督、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督、アラン・ドロン、ブラッド・ピット、アーノルド・シュワルツェネッガー(“シュワちゃん”は淀川のネーミング)、スティーブン・セガールなど、名監督や銀幕のヒーローたちのそうそうたる名前が並んだ。アカデミー賞ともカンヌとも関係ない、ただ一人の映画評論家の死を、こんなにも多くの人々が国境を越えて悲しんだ。

「淀川さんが一番いいね。純粋に映画を楽しんでいる。映画は理屈じゃないんだよね」(黒澤明)

※戒名は「長楽院慈眼玉映大居士」。意味は“慈しみの目であらゆる映画を珠玉の名作として長く楽しんだ者”。
※「批評家は多いが、無声映画時代から映画に人生をささげた方は、ただ一人だと思う」(戸田奈津子)
※淀川は「邦画に関して私はアマチュアだ」と公言しており、仕事柄、筆で評論することはあっても、テレビで解説することはなかった。
※「結婚をしていないと映画の中の男の気持ち、女の気持ちの両方がわかる」と生涯独身を通したが、同性愛者でもあった。しかしそれは“あっけらかん”としたものであり、本人は特に隠してなかったし、恥じてもいなかった。
※「映画館で映写が終わったのに、まだ座っている老人がいる。従業員が終わりましたよと声をかけると、死んでいた」--理想の死をそう語った。
※僕が今改めて脱帽するのは、その膨大な知識(記憶力)はもちろんのこと、作品の魅力が10あれば10すべてを聞き手に伝えきる天才的な話術。解説が、分かりやすく、かつ熱狂的。この“熱狂”がないと人は引き込まれない。しかし“分かりやすさ”と“熱狂”は、非常に両立が難しい!映画に詳しい人はゴマンといるが、相手の心を掴むトークをできる人は少ない。氏は声色を巧みに使い分け、話のポイントを確実に押さえ、作品に対する自分の主張を明確に伝えている。そしてまた、(これは非常に重要な点だけど)自虐的なユーモアをふんだんに散りばめる為、評論家にありがちな傲慢な姿勢、権威主義的な部分がこれっぽちも感じられず、聞いてて押し付け感が全くないんだ。ホント、偉大な方でした。m(_ _)m

〔淀川長治が選んだ各ベスト〕

外国映画ベスト5(1980年)
1.黄金狂時代(チャールズ・チャップリン)
2.戦艦ポチョムキン(セルゲイ・エイゼンシュテイン)
3.グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)
4.大いなる幻影(ジャン・ルノワール)
5.ベニスに死す(ルキノ・ヴィスコンティ)

日本映画ベスト3(1979年)
1.残菊物語(溝口健二)
2.羅生門(黒澤明)
3.戸田家の兄妹(小津安二郎)

男優ベスト5(1985年)
1.チャールズ・チャップリン
2.オーソン・ウェルズ
3.ルイ・ジューヴェ
4.ローレンス・オリヴィエ
5.スペンサー・トレイシー

女優ベスト5(1985年)
1.メアリー・ピックフォード
2.グレタ・ガルボ
3.マレーネ・ディートリッヒ
4.ベティ・デイヴィス
5.イングリッド・バーグマン

「映画は皆のもの。映画館の中で、こっちに学校の先生、あっちにソバ屋のおかみさんがいる。お爺ちゃんも、子供もいる。皆が学問や教養に関係なく、一緒になってひとつの映画をみている。僕はそういうのが好きなの。映画は人の垣根も国の垣根も取り払ってくれる。それがいいの。それが映画なの」(淀川長治)



★伊能 忠敬/Tadataka Inou 延享2年1月11日(1745年2月11日)- 文化15年4月13日(1818年5月17日)
(東京都、台東区、源空寺 73歳)2000&02&10 測量学者







214枚の日本大図はこんなに巨大だッ!
※’04年、名古屋ドームにて(撮影kooichi.ikaiさん)

56歳を過ぎてから肉体をメジャーに、
17年間をかけて全国を歩ききった、
その不屈の精神力とパワーに脱帽



江東区の富岡八幡宮。境内に忠敬像がある 忠敬は富岡八幡宮の近所に住み、毎回ここへ参拝してから測量遠征に出発していた(2009)

源空寺は上野駅から歩いてスグ 道路を挟んだ場所に墓地 案内板があるので分かりやすい


手前が忠敬、左端に忠敬が尊敬していた
高橋至時の墓。遺言で並んでいる
ドグサレ漫画家のS氏(左)と。2年前と比べて花が
たくさんあり伊能先生もゴキゲンに見えた(2002)
2010年、3度目の巡礼。木洩れ陽の中の先生


正面(2010) 右面 左面 背面 このように3面に伝記がビッシリ

忠敬の恩師、高橋至時。この墓
の隣りに眠ることを忠敬は希望
至時の子で、シーボルト事件
の罪で獄死した高橋景保
忠敬の墓域全景。台東区教育委員会が建てた
案内板は外国人用に英語翻訳されている

●故郷佐原にて(2012)

千葉佐原の諏訪神社は伊能家の氏神 測量中の忠敬像が1919年に建てられた 小型羅針盤を見ながら記録をとる忠敬

佐原の「伊能忠敬旧宅」。小野川沿い 東日本大震災の翌年ゆえ、屋根にブルーシート 中の様子を覗くことができた。ここに暮らしていた

奥に見えるのが「伊能忠敬記念館」。旧宅の対岸
にある。かなり資料が充実した記念館だった!
故郷佐原では大河ドラマ化
を求めるキャンペーンを展開

江戸後期の測量家。初名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、1762年、17歳の時に佐原(さわら)の酒造家伊能家の婿養子となる。忠敬が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状況だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業の酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で経営を完全に立て直す(29歳の時の伊能家の年間収益は351両=約3500万円)。
36歳で名主となり、1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力し、忠敬の村は一人の餓死者も出さなかった。1793年(48歳)の伊能家の収益は1264両(約1億2640万円)にまで増える。
この間、独学で暦学をおさめ、49歳で家業を全て長男に譲って隠居。1795年、50歳を機に幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出た。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があった。折しも天文方は改暦作業の最中。忠敬が江戸に家を構えた同年春に、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき 1764-1804/当時31歳)と間重富(1756-1816/当時39歳)が幕府の天文方に登用されていた。この2人は大阪で日本初の月面観測を行った麻田剛立(ごうりゅう 1734-1799/当時61歳)の一門のツー・トップだ。
忠敬は高橋至時を訪ね弟子入りした。当初、至時は20歳も年上の忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず勉強する忠敬の姿に感動し、“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになる。至時が不在の際は観測機器に精通した間重富から指導を受け、忠敬は巨費を投じて自宅を本格的な天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過の観測に成功する。
 
1797年(52歳)、高橋至時と間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させたが、至時は地球の正確な大きさが分からず暦の精度に不満足だった。“いったい地球の直径はどれくらいなのか”。暦局の人々は、オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、子午線1度の長さは25里、30里、32里など意見が分かれていた。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。至時は忠敬の案に賛同した。2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が減るため、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることが望ましかった。
だが、当時は幕府の許可が無ければ蝦夷地には行けない…。そこで至時が考えた名目が“地図制作”だった(つまり暦制作が本来の目的で、地図制作は移動の自由を得るための口実だった)。この頃、蝦夷地では根室にロシア特使が上陸して通商を要求し、ロシア人の択捉島上陸事件も起こっており、国防のために正確な地図が必要だった。至時・忠敬の師弟はそこを突き、結果的に幕府は蝦夷地のみならず、東日本全体の測量許可を出す(ただし幕府の財政援助はなく、すべて自費。伊能家の3万両=約30億円とも言われる資産が役立った)。
 
●第一次測量(1800年)〜蝦夷地太平洋岸
1800年(55歳)、測量調査の出発直前、忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」。同年、閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発。富岡八幡宮に参拝後、奥州街道を北上しながら測量を開始した。一行は忠敬、息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人の計9人。これに馬2頭が加わった。
測量方法は、歩幅が一定(約70cm)になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、そこから距離を計算するというもの。目撃者の記録に「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあるように、雨、風、雪をはね除け、危険な海岸線も果敢に測量した。夜は宿で天体観測を行い、昼間に得た測量結果と両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。至時は江戸から手紙で励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。
忠敬一行は、寒くなる前に蝦夷測量を済ませるべく、1日に約40kmを移動した。そして出発から21日目の5月10日、津軽半島北端(三厩/みんまや)に到達する。天候不順で船が出ないなど、苦労しながら箱館に入ったところで下男の1人が病気で脱落。本格的に蝦夷地で測量を開始したのは上陸から10日経った5月29日。地図制作の重要さを理解しない役人によって蝦夷地で測量器具運搬用の馬は1頭しか使う許可が下りなかった為、箱館で器具を減らさねばならなかった。蝦夷地は宿が無いため、村の集会所や役人の仮家で眠った。一行は東へ進み、8月7日に釧路より先のニシベツ(別海町)まで達したが、漁の最盛期で多忙な地元民の協力を得られず、東端の根室までは行けなかった。江戸に向かって一路南下し、10月下旬、180日ぶりに帰宅した(蝦夷滞在は117日)。測量で得たデータを元に、約3週間をかけ地図が完成。12月21日に地図を下勘定所に提出した。一週間後、測量手当として22両(約220万円)を受け取ったが、70両(約700万円)以上を負担した。これとは別に自腹で70両分の測量機具を購入しており計140両(約1400万円)以上の身銭を切った。
師である高橋至時は間重富に宛てた手紙に「このように測れと指図したが、これほどきちんとやれるとは思わなかった」と感嘆した。
この翌年、故郷佐原の住民たちが一昨年から運動を起こしていた「功績ある伊能忠敬・景敬親子に幕府から直々に苗字帯刀の許可を」とする請願が実り、忠敬は幕府から苗字・帯刀を許された。
 
●第二次測量(1801年)〜伊豆・東日本太平洋側
蝦夷地の地図に対する高い評価が郷土の藩主・堀田正敦(まさあつ)の耳に届いたこともあり、忠敬は周囲から第二次測量を勧められ、伊豆から太平洋側北端・尻屋崎までの測量を決意する。享和元年(1801年)4月2日に江戸を出発した。今回は街道を管理する道中奉行から測量隊来訪の先触れが出され、各地で地元の協力を得やすくなった。また、前回のような歩測ではなく、一間(いっけん、約180cm)ごとに印がついた縄=間縄(けんなわ)を使って測量することにした。三浦半島、鎌倉と回って伊豆下田に到着したのが5月13日。伊豆の断崖絶壁の測量は海上で縄を張るなど苦労した。いったん江戸によって6月19日に房総半島へ出発。7月18日に関東西端の銚子に到着。太平洋沿いを北上し、東北に入って地形が入り組んだリアス式海岸に苦闘する。10月1日に岩手・宮古湾を越え、10月17日に目標地点の下北半島・尻屋にたどり着いた。12月7日、230日間の測量を終え江戸に帰還。地図を幕府と藩主に提出した。子午線一度の距離を28.2里と導き出した。また、子午線一度の距離を28.2里と導き出した。
 
●第三次測量(1802年)〜東北日本海側
享和2年(1802年)6月3日、藩主堀田摂津守から「東北の日本海側を測量し、東日本地図を完成させよ」と命令が下る。第一次測量の頃とは大きく違い、藩から人足5人、馬3頭、長持人足4人が与えられ、手当も60両支給された(収支トントンに近づいた)。命令を受けた8日後(6月11日)には早くも出発している。一行は白河、会津若松、山形、新庄を経て、7月23日に秋田の能代(のしろ)に到着。日食の観測を行い、8月15日に三厩(青森)に到着した。その後、秋田の沿岸を男鹿(おが)半島、象潟(きさかた)と測量しつつ南下、10月4日に新潟の現上越市に達する。冬に突入することもあり、これで日本海を離れ10月23日、132日ぶりに帰宅。この第三次測量では協力的でない役人を叱りつけることが度々あった。個人的な測量ではなく幕府からの請負事業を行っているというプライドの現れと考えられている。東日本地図の完成は次の測量に持ち越された。
 
●第四次測量(1803年)〜東海・北陸地方
享和3年(1803年)2月18日、前年に続いて堀田摂津守から辞令が下る。今回指示された測量地域は駿河(静岡)から尾張(愛知)までの東海地方、能登半島や佐渡島といった北陸地方だった。旅費は82両(約820万円)まで増額された。2月25日に江戸を発ち、沼津、御前崎(静岡)、渥美半島(愛知)、知多半島と測量を行い、5月6日に名古屋に入った。そこから北上して岐阜を通過し、5月27日に福井・敦賀に到着。その後の約1カ月は複数の隊員が病気になり、父子だけで測量することもあったという。6月24日から北陸の雄藩・加賀藩に入ると、藩の地理情報が外部に漏れることを警戒して現地案内人が地名を黙秘するなど抵抗にあい難儀する。
能登半島や佐渡は測量効率化のため二手に分かれて行動した。9月17日に佐渡を離れ、10月7日、219日ぶりに江戸へ戻った。ここに3年がかりで行った東日本の海岸線測量が完結した。帰宅後、さっそく当初の目的であった地球の大きさの計算に取り組むと約4万キロいう結果になった。師の高橋至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると数値が一致し、師弟は手を取り合って大喜びしたという。忠敬が弾き出した数値は、地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!
だが、それから間もなく、至時は天文学書の翻訳等で無理を重ねて床に伏し、年明けに39歳の若さで他界した。出会いから別れまで9年。忠敬は嘆き悲しみ、師の墓がある上野・源空寺の方角に毎朝手を合わせた。天文方には跡継ぎとして、子の高橋景保が登用された。
1804年(59歳)、これまでの測量データを「日本東半部沿海地図」としてまとめあげる。大図69枚、中図3枚、小図1枚という大規模なもの。同年秋、11代将軍徳川家斉が江戸城大広間で上覧。そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は驚愕する。忠敬の身分では将軍に接見できなかったが、その3日後、小普請(こぶしん/禄高三千石未満の御家人)組として10人扶持(ふち/一日玄米五合を一日扶持と計算した一年間分の米や金。この場合その10人分)を与えるという通知が届いた。そして忠敬に“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。
 
●第五次測量(1805年−1806年)〜近畿・中国地方
東日本の地図完成から一年間のブランクをあけ、文化2年(1805年)2月25日に西国測量計画が実行された。忠敬ときに60歳。この測量は晴れて幕府直轄事業となる。忠敬の測量はもはや個人的な仕事ではなく、人々の期待を担う国家事業に変わった!測量隊員には幕府の天文方が加わり一行は16人に増え、各藩の受け入れ態勢が強化された。測量隊は時に100人以上になることもあったという。当初の計画では2年9カ月の大遠征であり、忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
浜松、紀伊半島を経て、大阪に入ったのが8月18日。人数が多くなった分、病気になる者も増え、大阪で3人が脱落した。京都を経由して琵琶湖を37日かけて測量。その後、2名補充して中国地方に向かったが、想定以上に瀬戸内の海岸線が入り組み、姫路沖の家島諸島の測量にも手間取った。さらに2名を増員し大晦日を岡山で迎える。
文化3年(1806年)1月18日に岡山を出発。本格的に瀬戸内海の島々の測量を開始した。3月29日に広島到着。防府を越えて4月30日に秋穂浦(現山口市)まで来たところで、忠敬はマラリアを発症。それでも下関まで達して、さらに山陰へ向かい6月18日より松江にて治療逗留した。忠敬が闘病している間、隊員たちは隠岐を測量し8月4日に松江で合流。忠敬は健康になり山陰の日本海沿岸を東に進んだが、忠敬不在の1カ月半の間に、隊員たちは禁酒の規律を破るなど風紀が乱れ、住民を見下す態度をとる者もいた。これが幕府の知ることとなり、戒告状が景保から届いた。島根、鳥取、若狭湾を測量して山陰の測量を終え、11月15日、1年9カ月ぶりに江戸へ帰着。その後、規律を乱した2名を破門にし、3名を謹慎処分にした。近畿・中国地方の地図制作は、長期間の測量ゆえデータが多く作図に1年を要し、翌年末に完成した。
 
●第六次測量(1808年)〜四国
文化5年(1808年)1月25日、四国測量のため江戸を出発。前回は約2年にわたる測量で風紀に問題が起きた為、忠敬は第六次測量を四国だけにとどめた。淡路島を経由して3月21日に鳴門から徳島に入り、南下して4月21日に室戸岬到着。29日に高知に入る。続いて海岸線に沿って北上し、8月11日に愛媛・松山到着。瀬戸内海の島々を測量しながら東進し、高松、鳴門を経て11月21日に大坂に戻った。四国各藩は測量隊のために道を整備するなど協力的で、精度をあげるため支隊が内陸部縦断測量を行った。年明け1月18日に江戸へ帰着。
 
●第七次測量(1809年−1811年)〜九州前半
西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、3年経っても九州は全く手付かずだった。文化6年(1809年)8月27日、全国地図の完成に向けて最後の大仕事となる九州遠征が始まる。中山道、山陽道を通って北九州の小倉で年を越し、ここをスタート地点に定めた。九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。
一行は太平洋側を南下して2月12日に大分、4月27日に宮崎・日南に到着。大隅半島を回って6月23日に鹿児島へ到達した。一行はさらに南下して薩摩半島南端の山川港(現指宿市)に着き、そこから種子島、屋久島に渡る機会をうかがったが、悪天候により渡航を断念、北上して天草諸島を測量した。天草には小島がたくさんあり測量は時間がかかった。隊員の体調もよくなく、今回の九州測量はここで切り上げることを決定。帰途、大分で年を越し、中国地方の内陸部を測量しつつ上京した。江戸に着いたのは5月8日、第4次と同じく1年9月ぶりの帰宅となった。
 
●第八次測量(1811年−1814年)〜九州後半
幕府は種子島・屋久島測量にこだわっており、忠敬は前回の九州遠征から半年後、年も変わらぬうちに第二次測量に出発することになった。これは江戸からはるかに遠い薩摩藩の実態を、測量を通して把握しようという幕府の思いが見える。文化8年(1811年)11月25日、一行は九州北部や離党を測量するため江戸を出た。忠敬は66歳。出発前に息子景敬に隠居資金の分配など遺言同然の書状を残しており、不測の事態を覚悟した出発だった。年明け1月25日に小倉到着。内陸部を通って鹿児島・山川港に再び至った。そして船で屋久島に向かい3月27日に無事上陸を果たす。測量隊は北と南の二手に分かれ、13日間で測量を終えた。風待ち後、4月26日に種子島に上陸、半月で測量終了。5月23日に山川港に戻った。その後、内陸部を小倉まで北上し、博多、佐賀、島原半島などを測量し、今回の測量で2度目の越年を佐世保で迎えた。1813年(68歳)の新年、忠敬は「七十に近き春にぞあひの浦 九十九島をいきの松原」(69歳の春を相浦で迎えたが、さらに99歳まで生きて測量を続けたいものだ)と詠んだ。忠敬は九十九島、平戸、壱岐島を経て対馬に上陸し、5月21日に測量を終えた。続く五島列島では忠敬が本隊を率い、副隊長の坂部貞兵衛が坂部隊を率いて、東西の海岸を南下していった。
ここで予想もしなかった悲劇が忠敬を襲う。万全の信頼を寄せていた坂部が6月下旬にチフスに冒され、急速に容体が悪化して7月15日に息を引き取ったのだ。翌日、忠敬は両隊を集めて葬儀をおこなった。忠敬は深く落ち込み「鳥が翼を取られたようだ」と打ちのめされた。
8月15日から長崎半島を一周し、小倉より帰途につく。姫路にて3度目の越年。1814年、京都から長野に向かい、中山道を通って江戸に戻ったのは実に913日間ぶりとなる5月22日。過去最長の長期測量となり、これが最後の遠征となった。郷土では忠敬の長男景保が病死していた。
九州の測量データから地図を作成していたある日、蝦夷探検で間宮海峡を発見した間宮林蔵が訪ねてきた。忠敬は1週間かけて測量技術を林蔵に伝授した。
 
●第九次測量(1815年)〜伊豆諸島
これまで遠隔地の屋久島や対馬、佐渡島などは測量したが、江戸に近い三宅島など伊豆諸島は未測量だった。70歳という高齢の忠敬は、病没した坂部貞兵衛の代わりに支隊長となった永井甚左衛門に測量を託し、一行は文化12年(1815年)4月27日に江戸を出発した。永井らは三宅島、八丈島、新島、大島などを一年かけて測量し、翌年4月12日に江戸へ戻った。
 
●第十次測量(1815年、1816年)〜江戸
文化12年(1815年)2月3日、各街道から日本橋までの間を測量するため、第九次測量と並行して江戸府内を測る第十次測量を実施した。これは半月ほどで片付き2月19日に帰宅。翌1816年、幕命により8月8日から10月23日まで江戸府内の地図作りにたずさわった。これが最後の測量となる。時に忠敬71歳。17年かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことに!
 
こうして1800年の蝦夷地測量から17年がかりで集めた全国の測量データを用いて、前代未聞の全日本地図の作成作業が始まった。1817年(72歳)、かつて忠敬が測量を果たせなかった蝦夷地北西部の測量データを間宮林蔵が持って現れた。あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面ゆえ、平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、この局面で忠敬は持病の慢性気管支炎が悪化し、急性肺炎(老人性肺炎)に冒されてしまう。
病床で門弟の質問に返事を書くなどしたが、文政元年(1818年)4月13日、弟子に見守られながら73歳で世を去った。高橋景保や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”と世間に伝える為に、その死を伏せて地図の完成を目指した。
忠敬の死から3年後の1821年7月10日。江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、景保や忠敬の孫・忠誨(ただのり/15歳)、弟子たちの手で日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。3万6000分の1の大図214枚、21万6000分の1の中図8枚、43万2000分の1の小図3枚という、途方もない規模のものだった。地図は幕府に献上され、紅葉山文庫に秘蔵された。翌々月の9月4日、忠敬の喪が発せられる。祖父の功績により、忠誨は五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許されたが、1827年に21歳で病没し忠敬直系の血筋は途絶えた。
 
忠敬の死から43年後の1861年、イギリス測量船アクテオン号が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府役人が持っていた伊能図の一部を船長が見て仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにもかかわらず正確に描かれている。今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまった。イギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。西洋の知識人は長く鎖国していた日本を未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き、見下すことを改めたという。
幕府に献上された伊能図の原本は、残念ながら1873年の皇居火災で大図、中図、小図すべて失われ、翌年に伊能家が明治政府に納めた写し(控え)も1923年の関東大震災で焼失した。ところが2001年にアメリカ議会図書館で大図214枚のうち207枚の写本が発見され、さらに国内の国立歴史民俗博物館などから大図3枚が見つかり、2004年には欠落分残り4枚の写し(1/2縮小版)が海上保安庁の海洋情報部で発見された。奇跡的に大図214枚の全容が明らかになり、2006年に大図全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行された。
 
忠敬が弾き出した緯度1度の距離は、現在の値と比較して誤差が約1000分の1という驚異の正確さだ。これは忠敬が誤差を減らすために太陽や星の天体観測を徹底し、遠くの山を目印にして測量結果を確かめる方法や、その他様々な測定法を活用した成果だ。南中高度、日食、月食、木星の衛星食などの天体観測を、全測量日数3754日のうち1404日で実施している。多い日は1日で20個〜30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めた。第三次測量からはメジャーの代わりに長さ一尺の鉄線を60本つないだ鉄鎖(縄のように伸び縮みしない)を使用し、これも忠敬の発案だった。
 
56歳の1800年から測量を始め、1816年まで17年間かけて日本全国を踏破した忠敬。その偉業と生涯が多くの人に知られたきっかけとなったのは忠敬の墓だ。忠敬は遺言にこう残した--「私が大事を成し遂げられたのは、高橋至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、源空寺の高橋至時・景保父子の墓と並んで忠敬は眠っている。没後4年目(1822年)に建てられた墓石正面には隷書で「東河伊能先生」と刻まれ(東河は号)、左右及び背面の3面に忠敬の生涯が漢文で刻まれている。その文面には“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と彫られている。
つまり、この墓碑銘こそが人々が読んだ最初の伝記であり、その後の忠敬像のベースとなった。墓碑銘を書いたのは忠敬と親交があり、門下生3000人を誇る江戸後期の著名な儒学者佐藤一斎(1772-1859)。墓石建立時の一斎は忠敬が江戸で第二の人生を歩み始めた年齢と同じ50歳ゆえ、刻む文字にも思うところがあったのではないか。一斎は伊能家にあった私的な一族史『旌門金鏡類録(せいもんきんきょうるいろく)』などをを参考にしつつ、忠敬が西洋技術を学び知識が高まったことも記している(ちなみに一斎が育てた弟子に幕末に活躍する佐久間象山、横井小楠、渡辺崋山等がおり、孫娘は吉田茂の養母になっている)。
 
明治政府の元老院議長・日本赤十字創立者の佐野常民は、1882年に初めて忠敬をテーマにした講演「故伊能忠敬翁事蹟」を東京地学協会で行った。この時も墓碑銘をもとに生涯が紹介され、伊能図の完成度を讃えている。この講演は後の忠敬評に大きく影響を与えた。講演翌年(没後65年)に忠敬には「正四位」が贈られ、1889年、芝公園に遺功表が建てられた。10年後、文豪・幸田露伴が『少年読本』に忠敬伝を発表し、序文でこう讃えている「伊能翁の如く華麗ならずして摯実(しじつ)なる一生の経歴を具せる人は、最も国家民人に対して益を与ふるにも関せず、世間は之を尊重称讃すること余り深からざるが如し。されど世間は其実多くの伊能翁の如き人を有せざるべからず。これ予の敢(あへ)て再び伊能翁を伝ふる所以なり」。
1903年に最初の国定教科書が作られた際に、佐野常民の講演を元にした忠敬の生涯が国語教科書に載り、後に修身教科書に掲載された。これらはすべて、源空寺の墓石から始まったことである。
近年は井上ひさしが1977年に忠敬を主人公にした小説『四千万歩の男』を発表し、50歳の隠居後に大きな挑戦を始める「一身にして二生を得る」という生き方が注目された。没後180年の1998年に故郷佐原市(現香取市)に伊能忠敬記念館が開館した。測量開始200年にあたる2001年に忠敬の銅像が富岡八幡宮(江東区)に建立。忠敬は測量遠征に出る前に、必ず隊員と富岡八幡宮に参拝してから旅立っていた。10回に及んだ測量事業の出発地は常に当地であり、力強く一歩を踏み出す姿の忠敬像となった。2010年、伊能図や使用した測量器具、関係文書など2345点が、「伊能忠敬関係資料」の名称で国宝に指定された。
 
人生50年と言われていたこの時代、隠居後は盆栽を育てたり孫と遊んだり、のんびり余生を送るものだけど、50歳から“勉強の為に”江戸に向かう知識欲、知的好奇心の大きさにオドロキ!
忠敬が50歳で高橋至時に弟子入りしたとき、至時はまだ31歳だった。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。時代はメンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて入門を請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだったんだ!
「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線など、道なき道に等しいものだ。コンビニがある今だって徒歩で一周なんて考えられない。しかも、忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較しても誤差が約1000分の1という正確さ。忠敬が残してくれたのは地図だけじゃない。彼は人間の底知れぬ可能性を後世の僕たちに見せつけてくれた!本当に有難う、推歩先生!!
 
※2001年公開の映画『伊能忠敬-子午線の夢』(小野田嘉幹監督、加藤剛主演)はDVDになっていな〜い!これを書くために観たかったのに視聴不可能。東映さん、ソフト化お願いしますーッ!
※体格は着物の寸法から身長160cm前後、体重55kg程度と推定。
※伊能図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出した。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した--「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保)
※幕府に対して北方警備のための出兵の正確な人数を書いた手紙や、ロシア海軍軍人ゴローニンの尋問の様子を記した手紙を送っており、測量だけを行っていた訳ではないようだ。
※故郷佐原の観福寺(千葉県香取市)にも遺髪をおさめた参り墓がある。
 
※墓碑銘全文(フォントにない字は置き換え。5カ所不明)
 
〔左側面〕
東河伊能君墓銘并叙  江都 一斎佐藤担爲文
君諱忠敬字子齊伊能氏號東河稱三郎右衛門晩稱勘解由北総香取郡佐
原村人本姓神保氏南総武射郡小堤村神保貞恒之第三子出冒伊能氏伊
能氏世爲閭右族其先出於大和高市郡西田郷大同中有諱景能者知北総
香取郡大須賀荘居伊能村因以氏焉子孫蝉聯占其地至永禄中有諱景久
者始徒佐原天正中爲居民開●塵貿易實君九世祖也高祖諱景利曾祖諱
昌雄祖諱景慶考諱長由長由無子其配神保氏君之從祖姑也因●君爲嗣
長由不幸●歿産頗荒君既來嗣慨然以幹蟲爲志听夕黽勉務検禁奢靡
家衆百口以躬率先之天明三年關東大饑君爲發私儲賑貸郷里施及旁近
村落多所全活六年又饑救之如初地頭津田日州君並優賞之君好星暦至
寛政六年委家事於子景敬躬獨来江都而従事暦學當時所傳層法君疑其
 
〔背面〕
有所不合偏就暦家質之猶未釋然既而 官會有改層之擧召高橋東岡者
新自浪速来君執贅往見始聞西洋暦法理精数密宿疑乃解遂棄舊學學之
推歩測量之精東岡之門獨推君云寛政十二年閏四月 官命君測量北陸
道及蝦夷地方東南沿海以定地度明年正月 官賜君父子銀各十錠許佩
刀稱姓氏賞其於天明年内兩救窮民也享和元年三月又 命測量伊豆相
摸二総常陸陸奥沿海六月又 命測量出羽三越佐渡能登駿河遠江三河
尾張沿海至文化紀元集地方各圖爲一大圖進呈其九月 官賞賜廩米擢
爲小普請組属天文方既而又 命測量山陽山陰西海南海四道壹岐対馬
二島官道及沿海十二年又 命測量伊豆七島及箱根湖既竣事測量江都
府内十四年四月府内圖成進呈自蝦夷測量之初至此閲十有八年五畿七
道無地不渉●陬僻壌盡測量而圖之最後有 命集成寓内沿海輿地全圖
 
〔右側面〕
及度数譜行程記至文政元年齢七十有四罹病其四月十三日劇殆不起至
四年七月輿地全圖等成進呈以其九月四日歿 官追賞其功賜廩米宅地
於孫忠誨以旌之君為人真率不修邊幅精力絶人毎測量 命下轍喜見顔
色不日而發乃躬歴険阻凌海濤奔走数十百里風雨寒暑未嘗少沮喪何其
氣之邁而事之勤也哉所著有國郡書夜時刻考対数表紀源術並用法割圓
入線表紀源法地球測遠術問答凡若干巻皆藏於家君先配長由之女繼配
桑原氏皆先歿得三男二女昆季並殤仲子景敬嗣亦先歿孫忠誨嗣君之葬
在城北淺草源空寺東岡君之塋域從遺嘱也忠誨以状来請余銘乃畧叙之
爲銘日源深以遠流長以?善積之厚慶則有?叩天之?極坤之輿瘴烟毒
霧不能爲瘉祈寒暑雨不能爲痛乃如之人能有幾興貞a可●跡則不(渝?)
文政五年壬午嘉平月下澣淡海關研書 孝孫忠誨立
 
伊能忠敬e史料館

上が岡山(備前)、下が香川(讃岐)瀬戸内の
小豆島なども詳細に測量されているのが分かる!

主な参考文献:NHK「その時歴史が動いた」、エンカルタ総合大百科、世界人物事典(旺文社)、ウィキペディアほか。





★ルードウィヒ2世/Ludwig von WittelsbachU1845.8.25-1886.6.13 (ドイツ、ミュンヘン 40歳)2002 芸術擁護者
Saint Michaels Church, Munich (Muenchen), Germany
 
 

欧州一の美城ノイシュバンシュタイン城(白鳥城)を建設した王として知られる(2015撮影) 王の墓。侍従医と謎の水死。暗殺の可能性が高い

 
ドイツ・バイロイトのワーグナー邸の前に建つルードウィヒ2世像

国家財政が傾くまで芸術を愛しまくったルードウィヒ2世。最後は狂王として国政を追放され、湖で溺死体と
なって発見された(おそらく暗殺だ)。僕は軍備にばかり金を使うより、よほど人間として正常だと思うが。
※心臓のみ溺死したStarnberg湖水辺の教会に納められている。




★ゾルゲ/Richard Sorge 1895.10.4-1944.11.7 (東京都、府中市、多磨霊園 49歳)1991&2005&10 スパイ
Tama Reien Cemetery (Fuchu City), Tokyo, Tokyo, Japan

  

世界史の流れを変えたスパイ



1991.3.15 2005 14年ぶり。側の木が変わってた ロシア語で名を刻む

なんとロシア人の墓参者と遭遇!ここは日本か!?(2010)

 
「ゾルゲとその同志たち」と彫られた墓誌。11名の名があり、それぞれ“刑死”“獄死”とある。
死亡地は「巣鴨」「網走」など。みんな、終戦直前に非業の死を遂げている

世界史の流れを変えたスパイ。コードネームはイニシャルの頭文字RとZをとった「ラムゼイ」。1895年、旧ソ連・アゼルバイジャン共和国に生まれる。父はドイツ人鉱山技師、母はロシア人。3歳でベルリンに移住。1914年(19歳)、第一次世界大戦が勃発し、ゾルゲはドイツ陸軍に自ら志願した。戦傷を負って入院し、その際に社会主義思想と出合う。戦後、大学を最優秀で卒業し政治学の博士号を修得。1919年(24歳)、ドイツ共産党が結成されると入党し、1924年(29歳)にモスクワでソ連共産党に入り諜報部門に配属された。1930年(35歳)、ドイツの新聞記者に成り済まして上海に上陸。ゾルゲは半年で中華民国全土に情報網を構築した。そして日本の文化や言葉も学び、アジア情勢のスペシャリストとなる。この上海滞在時に、後にゾルゲの右腕となる朝日新聞記者の特派員・尾崎秀実と知り合った。
1933年(38歳)、前年の上海事変で日中両軍が軍事衝突したこともあり、日独の情報を得る為に横浜へ渡航。ドイツ人記者の肩書き信じ込ませるためナチスにも入党した。彼は駐日ドイツ特命全権大使オイゲン・オットの信頼を勝ち取り、私的顧問に抜擢される。1936年(41歳)、二・二六事件に際し的確な情報分析を行ない、1939年(44歳)にドイツが戦争に突入すると大使館情報官に任命された。翌年、日独伊三国軍事同盟が締結。

ゾルゲが知りたかった主な情報は、(1)ドイツのソ連侵攻作戦の日時(2)日本が狙うのは南方かソ連か(3)石油の備蓄量や武器弾薬など日本の戦争継続能力の3つ。この情報を得るには日本の支配層に接近する必要があった。
ゾルゲは単にソ連の為に動いている訳ではなかった。反戦・平和活動の理念を持ち、日本の民主化や列強からのアジア解放を考えていた。こうしたゾルゲの理想主義に、新聞社を辞めて近衛内閣の顧問団になっていた尾崎秀実が同調し、また、同じく近衛内閣のブレーンだった西園寺公一(元首相・西園寺公望の孫)や犬養健(犬養元首相の三男)も心を打たれて仲間となった。彼らの協力で日本政府の機密情報が手に入るようになった。またドイツ人無線技士マックス・クラウゼン、フランスのアバス通信社特派員ヴーケリッチ、アメリカ共産党員の洋画家・宮城与徳らが同志となりゾルゲ・スパイ団を作り上げた。
彼らは無線技士のクラウゼンが特別に自作した短波送信機と改造ラジオ受信機を使い、暗号を生成してウラジオストックと交信した。日本側は東京発の怪電波を確認していたが、ゾルゲ達が街中を小まめに移動しながら交信していた為に発信源を特定できなかった。1941年6月、独ソ戦が勃発。ゾルゲが詳細なドイツ軍のソ連侵攻日を打電したにもかかわらず、スターリンはその情報を信じようとせず初戦で大敗した。

日本政府には同盟国のドイツから対ソ参戦しろと要求がきていた。だが、日本には南方の資源が必要だったし、日ソ中立条約が2ヶ月前に結ばれたばかりだった。9月の御前会議で南方進軍が決定されたことを尾崎が知り、ゾルゲは翌月にソ連へ「日本南進」を急報した。この打電が歴史を変えた。日本からの侵攻がないと分かったソ連は、対日本用に配備していた満州国境の精鋭部隊を、シベリア鉄道でどんどん西の欧州戦線へ輸送した。ドイツ軍はモスクワまで数十キロに迫っていたが、ソ連の増援部隊に押し返され、最終的に4年後のベルリン陥落へ繋がっていった。ゾルゲの活躍がなければソ連はどうなっていたか分からない。このようにゾルゲが本国に送った重要情報は約400件にのぼった。
ゾルゲ・スパイ団の破滅は突然訪れた。1941年6月、1人の日本共産党員が逮捕され、特高の拷問に堪えきれずに、国内で地下に潜っていたアメリカ共産党員の仲間を自白。そこからゾルゲ一味でアメリカ帰りの宮城与徳の名が浮かんで家宅捜索が入った。宮城は不覚にも多数の重要書類を自宅に置いていた為、10月にはメンバーが一斉逮捕される。スパイ容疑の逮捕者は35名にものぼり、ゾルゲ達が近衛内閣中枢に食込んでいたことから政府・軍部に衝撃を与えた(国民には翌年まで伏せられた)。ドイツ大使は「誤認逮捕」「冤罪だ」と外務省に抗議するほどゾルゲを信じ切っていた。

1942年(47歳)、ゾルゲ達は18名が国防保安法、治安維持法、軍機保護法など各法違反で起訴され、翌年の判決で全員が有罪となった。無期は2名、ゾルゲと尾崎には死刑判決が下った。そして巣鴨拘置所において、1944年11月7日のロシア革命記念日に死刑が執行された。処刑前にゾルゲが残した最後の言葉は「ソビエト赤軍、国際共産主義万歳!」。宮城やブーケリッチなど5人も獄死した。この国際諜報団事件を戦時中は東条内閣が、戦後はGHQが反共キャンペーンに利用した。
ソ連政府としてはスパイの存在を認める訳にはいかず、戦後もしばらくゾルゲに光が当たることはなかった。死刑から20年目の1964年に、ゾルゲは功績を認められて「ソ連邦英雄勲章」が贈られた。以来、現在までロシア駐日大使が新しく日本に赴任した際は、多磨霊園のゾルゲの墓参りをすることが慣例になっている。ゾルゲの墓には「戦争に反対し世界平和のために命を捧げた勇士ここに眠る」と刻まれている。

国王でも大統領でもなく、ただ一人のスパイが後世の歴史を変えた。ゾルゲの情報がナチス・ドイツを倒すきっかけとなった。かくしてファシズムに勝利したが、戦後半世紀を経た現在でも人類は戦争と訣別していない。ゾルゲの死を犬死にとするかどうかは後世を生きる人間次第だ。

※ゾルゲがターゲットから情報を聞き出す時の殺し文句は「あなたはそんなことも知らないのですか?」。相手は小者と思われるのが癪で、“俺はこんなことも知っている”とペラペラ喋り出す。
※墓碑には「妻石井花子」と刻まれている。彼女は銀座のドイツ料理店でウエートレスをしていてゾルゲと出会った。
※誕生日は4月10日とする説も多い。
※少し歩いた所に同志・尾崎秀実も眠っている。



★尾崎 秀実/Hotsumi Ozaki 1901.4.29-1944.11.7 (東京都、府中市、多磨霊園 43歳)2005 ジャーナリスト

 
戦時にあって理想主義を捨てなかった男

 
ゾルゲに情報をリークしていた尾崎秀実の墓。なんと三島由紀夫の斜め
後ろに墓がある。思想的には両極の2人がすぐ側で眠っているのも墓地ならでは

岐阜県出身。生後まもなくジャーナリストの父と共に日本統治下の台湾へ渡り中学まで台北で育つ。少年尾崎は台湾人を三級市民として差別する日本人の姿を見て胸を痛めた。1922年(21歳)、一高を経て東京帝大に入学。翌年関東大震災の混乱の中でアナーキストの大杉栄が虐殺されたことにショックを受ける。農民運動者への弾圧事件などもあり、抑圧された人々を救いたいという義憤から共産主義に傾いていった。1926年(25歳)、朝日新聞社に入社。1928年(26歳)、上海支局に特派員として配属され、滞在中に人道主義者の女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーの紹介でリヒャルト・ゾルゲと出会う。1932年(31歳)、帰国。翌年、来日したゾルゲからスパイ組織に勧誘される。

1937年に盧溝橋事件が勃発すると、尾崎は中国問題の評論家として日中戦争拡大方針を論壇で訴えたが、これは世論が対ソ開戦に向かわないよう、中国や南方に引きつけるためだった。徹底抗戦を説く尾崎は支配層に気に入られ、1938年(37歳)、朝日新聞社を退社し、第1次近衛内閣のブレーンとなる。翌年、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に就職(近衛内閣の中枢にはいたまま)。1941年、日米開戦の気配が次第に濃くなり、9月の御前会議で決まった「対米開戦、日本南進」の情報をゾルゲに報告。これによってソ連は日本と対峙していた極東部隊を欧州戦線へ移送可能となり、ドイツとの戦いに戦力を集中できた。
10月14日、ゾルゲ・スパイ団の活動が発覚し一斉逮捕される。近衛文麿首相は側近の尾崎の正体に仰天し、天皇に「全く不明の致すところ」「深く責任を感ずる次第に御座候」と謝罪した。1944年11月7日に、国防保安法違反などで巣鴨拘置所にてゾルゲと共に絞首刑となった。翌年、終戦。

尾崎はスパイであることを徹底して隠していたので、妻でさえ気付かなかった。“非国民”となって牢獄にいる夫に対し、妻は「私や子ども達のことを考えていない」と手紙で責めた。遺書で尾崎はこう綴った「ただ、私には迫り来る時代の姿があまりにもはっきり見えているので、どうしても自分や家庭のことに特別な考慮を払う余裕が無かったのです。というよりもそんなことを考えたとて無駄だ、一途に時代に身を挺して生き抜くことのうちに、自分もまた家族たちも大きく生かされることもあろうと真実考えたのでありました」。つまり、家族を守る為に時代を変革しようとしていたのだ。
そして追伸で冷夏に触れ「一番暑熱の必要なこの頃、この涼しさはお米のことが心配になります」と、全国の真面目な農民のことを心配し、遺書を締めた。戦後、尾崎が獄中から妻子に宛てた書簡集は『愛情はふる星のごとく』として出版されベストセラーとなった。

※右派の中に反ファシズムの信念を持った尾崎を売国奴という人がいる。日本人としてスパイされたことが憎いのは分かるけど、大局を見て欲しい。尾崎の情報でダメージを受けたのは独ソ戦に敗れたナチス・ドイツだけ。右派はヒトラーに世界を支配して欲しかったのか。また、尾崎は戦時中の右翼と同じで対中徹底抗戦を主張した。本心はソ連を守る為だが、表面的には同じ事を言っている。その尾崎を批判するなら大東亜戦争肯定論も否定することになるけど、右派はそれでいいのか。勝算もなく開戦に踏み切り、補給を軽視して多数の兵士を餓死させた連中より、尾崎の方が売国奴とは思えない。誤解を恐れずに言うならば、お札に登場してもいいほどの人物。
※尾崎の遺言は全文が青空文庫で公開されてマス。



★ツタンカーメン/King Tutankhamun B.C.1343-B.C.1325 (エジプト、ルクソール 18歳)1994 エジプト王
Valley of the Kings, Qina(Luxor), Egypt 


ルクソール

カイロ
王位継承をめぐる政争に巻き込まれ、18歳の若さで毒殺
された悲劇の王ツタンカーメン。彼はエジプト南部ルクソー
ルにある、王家の谷のこの石窟に何千年も眠っていた!
※後述の記事によると死因は骨折&マラリアとのこと
ミイラが納まっていた黄金の棺は、現在カイロの国立
博物館で公開されている。よく盗掘されなかったものだ!




「ハローマイフレンド、ノータカーイ、ヤスイネー」
王家の谷の商人たち。めちゃめちゃ強引に土産物を売りつけてくる(笑)

●ツタンカーメンは兄妹婚の子=死因は骨折とマラリア−米医学誌 2010.2.17配信 時事通信
【カイロ時事】黄金のマスクで知られる古代エジプト王、ツタンカーメン(新王国第18王朝、紀元前14世紀)は、アクエンアテン(アメンホテプ4世)とその姉妹の1人との間に生まれ、骨折にマラリアが重なって死亡した可能性が高いことが、エジプト考古学チームによるDNA鑑定やコンピューター断層撮影装置(CT)の調査で分かった。
 17日付の米医学誌「ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション」が伝えたもので、最新科学で古代エジプト史の謎の一つが解き明かされた。イタリア、ドイツの専門家も加わり、ツタンカーメンを含むミイラ16体を2年がかりで調査した。
 10歳で即位し19歳で早世したとされるツタンカーメンの父親は、唯一神信仰をもたらした異端の王アクエンアテンとされ、アメンホテプ3世やスメンカーラ王が父との説を否定。当時兄妹婚は一般的だった。母親の名は特定されていない。またツタンカーメンには2人の女児ができたが、いずれも母親の胎内で亡くなった。
 荘厳で華麗な黄金マスクに象徴されるツタンカーメンだが、「腐骨や内反足を患い、転倒して足を骨折し、マラリアが命取りになった」という。同誌は「歩くのにつえをついていた虚弱な王だった」としている。
 1922年に英考古学者ハワード・カーター氏によってエジプト南部ルクソールで王墓が発見されたツタンカーメンの死因をめぐっては、ミイラの頭蓋骨にある損傷などを根拠に他殺説も指摘されてきた。



★シュリーマン/Heinrich Schliemann 1822.1.6-1890.12.26 (ギリシャ、アテネ 68歳)2002 考古学者
First Cemetery, Athens, Attiki, Greece
本名:Johann Ludwig Schliemann



どんなに世間から馬鹿にされても自らの仮説を信じ、ついにはトロイアの古代遺跡を発見したシュリーマン。彼はドイツ人
だが、墓はギリシャにあった。しかしアテネの観光案内所で尋ねても誰一人シュリーマンが当地に眠っていることを知らな
かった(結局、アクロポリス付近の墓地に墓はあった!)。コラー、観光局の職員はもっとちゃんと勉強しとけーい!
※シュリーマンはラテン語、ロシア語、アラビア語など、実に13ヶ国語をマスターしていたという。




★深田 久弥/Kyuya Fukada 1903.3.11-1971.3.21 (石川県、加賀市、本光寺 68歳)2001 山岳研究家


墓前にはカラフルな石が
敷き詰められていた
登山を身近にした
功績は計り知れない

心から山を愛し、「日本百名山」を選出した深田久弥。最後も登山中に旅立った。
※山梨県・茅ケ岳山頂近くの尾根にて脳卒中により急死。




★ダビデ王/King David B.C.1040頃-B.C.970頃 (イスラエル、エルサレム 70歳?)1994 ユダヤ王
King David Burial Site, Jerusalem, Israel

ミケランジェロ作『ダビデ像』 撮影デジカメを盗難に(涙)。それ
ゆえ、Wikiから墓画像を借りました

全イスラエルを統一したB.C.10世紀頃のイスラエル王国第二代の王(在位B.C.1010頃〜B.C.970頃)。エルサレムを攻略して都に定め、初代の王サウルの後を受けて近隣諸国を征服&併合した。支配はダマスカスから紅海に及び、イスラエルの最盛期を築く。旧約聖書サムエル記によると、青年時代にペリシテ人の巨人ゴリアテを石投げで打ち殺したという。
※メシアはダビデの系譜を継ぐものとされる。



★山田 康雄/Yasuo Yamada 1932.9.10-1995.3.19 (東京都、府中市、多磨霊園 62歳)2001&05&10 声優




2001 2005 2010




唯一無二の名優だった!!

宮崎監督の名作『ルパン三世・カリオストロの城』収録風景。
担当キャラは、右からルパン、次元、不二子、五
門、銭形

東京生まれ。俳優エノケン(榎本健一)を尊敬していた山田は、22歳の時に早大英文科を中退して「民芸」に入団し、続いて27歳からは劇団「テアトル・エコー」に所属する。「日本人のへそ」「表裏源内蛙合戦」「珍訳聖書」「道元の冒険」といった一連の井上ひさし作品では看板俳優として好演した。一方、海外TVドラマが全盛だった60年代当時、吹き替えの役者は新劇団の若手が務めていたことから、山田は西部劇「ローハイド」のヒーローや、クリスト・イーストウッド、ジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えを担当した。また「お笑いスター誕生」では中尾ミエと司会を担当した(デビュー当時のドリフターズに演技指導をしたという裏話も)。1995年、突然の脳出血により大田区の都立病院で急逝する。享年62歳。『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』で追悼テロップ「永遠のルパン三世 山田康雄さん ありがとう」が流された。声優とは役者の一部という信念から、若い声優に対するアドバイス--「声優を目指すな。役者を目指せ。演技は全身でするものだ」が口癖だった。
 
山田康雄といえば切っても切り離せないのが、1971年から放送が始まった『ルパン三世』!当初、ルパン三世の声には野沢那智や広川太一郎などの候補がいたが、「オレは信用のおける泥棒だぜ」といったキザでトボケた味わいのあるセリフを、違和感なく言いのける声優を、演出担当の大隈正秋は、なおも必死で探していた。その時、井上ひさしの『日本人のへそ』に出演中だった山田(当時38歳)を発見、電気が走ったという。
「舞台狭しと軽やかに飛び回り、時にニヒルで、どこかに暗さがあって、まさに僕の思い描いていたルパンがそこにいた、その男こそ山田康雄です」(大隈正秋)
「“ルパンやんない?”“やるッ”、これで決まり。原作のまんが読んでて、すごく好きだったし」(山田康雄)
以降、彼は日本一有名な声優として知られることになった。

 
●次元役の小林清志が語る思い出〜「ルパン三世よ永遠に・山田康雄メモリアル」(徳間書店)から
 
『ある収録の時である。「ドリフターズ」の長さんが、顔を出した。続いてドリフの面々が顔を出す。口をそろえて、「山田さん、どうも。」と挨拶をしにくる。隣のスタジオで連中が仕事をしていたらしいな。なにせ小生の息子が、当時夢中になってテレビにかじりついて見ていた人気者たちを、直に見たから小生も、興奮の極みである。ヤスベエ(山田康雄)はというと「よう、お前たち頑張ってるか、おい」ってなもんである。どうしたもんだ、これ。何か、いわくがあるなと思って聞いてみたら、ドリフの面々のデビューしたてに、なんと演技指導をしたというのだから、そりゃ挨拶にやってくるわな。納得。榎本健一さん、エノケンさんを崇拝していたというヤスベエのこと。そういう世界の名人っちとの交流もあったのは、当然のことと言えよう。
それから苦言まじりにひとこと。最近のアニメの番組制作のなかで気になるのは、線画だけ、色も動きも口の動きもひどい時にはどんな人物なのかわからない仕上がりで声を入れなければならない場合が多い。それまでのスタッフの苦労も充分わかるのだが、なんとかならないかなぁと思う。しかし「ルパン三世」に限っては、それがないのだ。これは山田康雄が口をすっぱくして、スタッフに要望した結果である。
ともかく、愛すべき、そして見事なルパンを作りあげた男、山田康雄に、乾杯!』



★安倍 晴明/Seimei Abe 921-1005.9.26 (京都市、右京区、安倍晴明墓所 84歳)2001&06&10 陰陽師


『不動利益縁起』から
この絵は病気を治す為の呪法を描いたもの。祭文を読む晴明の背後にいる2人は晴明が召使として
使っていた式神(鬼神)。晴明が調伏しようとしている異形の5匹は、厄病神と呼ばれるモノノケたちだ。







『鬼の上前をはねる奴』は
実に上手いキャッチ・コピー
夕日の中にたたずむ安倍晴明。墓所は住宅街の中にあり
非常に分かりにくい。式神を使って根性で探そう(2001)
正面に五芒星
(ごぼうせい)が!




2006年、5年ぶりに再訪!

“陰陽師”ではなく“陰陽博士”
と墓前には刻まれている
その後、いかがお過ごしですか

缶コーヒー(BOSS)とワインという
微妙な組合わせで供えられてた

2010年、4年ぶり3度目の巡礼。よく晴れた! 季節は6月。緑が目に眩しい! 初めて後方から激写。小さな五芒星で囲まれている



京都市上京区の晴明神社 鳥居の真ん中には五芒星!







晴明神社の本殿。五芒星尽くし!左右の提灯にも! 屋根の下の照明にも! 屋根の上にはダブルで五芒星!


夢枕獏、京極夏彦、荒俣宏、岡野玲子が
名前を連ねた豪華絵馬!欲しいッ!
野村萬斎!他にも沢口
靖子、今井絵理子等々
晴明と式神の顔出しパネル(笑)
テーマパーク状態


神社境内に移されてきた旧・一条戻橋 式神がいた! 現・一条戻橋。晴明はこの橋の下に“式神”を隠してた


「その占いの効果、神の如し」「わが国第一の陰陽家」と言われた平安時代の天才陰陽師。鎌倉から明治初期まで宮廷の陰陽寮(天文・暦のことを司る役所)を統括した安倍氏(土御門家)の祖。父は阿倍仲麻呂の子孫を称する下級貴族で、宮中の食事を担当した大膳大夫、安倍益材(ますき)。母は巫女といわれているが、白狐が人間に化けた葛乃葉(くずのは)という伝説もある。出身地は大阪説、讃岐説、茨城説など複数あるが、大阪市阿倍野区の安倍晴明神社には生誕地の碑(ただし江戸中期に建立)と晴明の産湯の井戸の跡があり、中世の人々は土地の名前を名字にしたので「阿倍野区」説はなかなか説得力がある。またこの神社には「晴明の生誕地へ帝が神社を建てさせた」という記録も残っている。
晴明がどんな青春期を送ったのかハッキリした記録はないが、没後まもなく編纂された『今昔物語集』では、当時最高の陰陽師、賀茂忠行&保憲父子に陰陽道を学んだとされている。何歳で結婚したのかは不明だが、33歳の時に長男吉平が生まれている。

※若い頃の晴明を『今昔物語集』はこう記す…ある夜、師匠・忠行が牛車で出かけた時に晴明がお供でついて行くと、前方から恐ろしい鬼の群れ、百鬼夜行がやって来るのが見えた。晴明が師匠に報告すると忠行は隠形呪文で自分たち一行の姿を鬼の視界から隠して無事にやり過ごした。忠行は鬼を見ることが出来る晴明の素質に惚れ込み、自身のすべての知識を受け継がせたと言う。(今昔物語巻二十四 安倍晴明、忠行に随ひて道を習ふ語、第十六)

当時の日本では科学と呪術(占い)がワンセットであり、宮廷には天体観測を基に国家の吉凶を占う役職“天文博士”があった。そして朝廷は、年中行事を成功させるために、儀式の日をいつにすれば縁起がいいのかを占わせた。「天の意志」を読み取った天文博士は、予測した未来の情報を極秘裏に天皇へ伝えた。晴明の陰陽道の師匠・賀茂保憲は同時に天文博士でもあり、960年(39歳)、師が天文博士を引退した時に、彼は天文博士の見習い、天文得業生となった。
晴明は唐に渡って、陰陽道の本場城刑山で伯道仙人に学び、帰国すると日本独特の陰陽道を築き上げる。972年(51歳)、12年間の修業を経て天文博士となった。晴明は6代の天皇(朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条)や藤原道長の信頼を集め、58歳で那智山の天狗を封ずる儀式を行ったり様々な記録を残している。晴明は天文博士の一方で陰陽師としても名を極め、呪術によって式神(鬼神)を自在に操るなどして、宮廷内の政争に一役買うことも少なくなかった。※晴明は、青龍、勾陳、六合、朱雀、騰蛇、貴人、天后、大陰、玄武、大裳、白虎、天空という12体の式神を下僕として使役させていたという。

後年は主計権助、大膳大夫、左京権大夫、播磨守などの官職を歴任し、最晩年の1001年(80歳)には従四位下まで出世した。晴明は一代にして超一流の陰陽師として天下に名を成し、2人の息子も優秀な陰陽師に育ったことから、阿倍家は師匠である賀茂家と並んで2大陰陽家となった。
※賀茂家は晴明が台頭するまでずっと天文道と暦道を担当していたが、保憲はあまりに晴明が賢い弟子なので、晴明には天文道、息子の光栄には暦道と分けて教えた。晴明の次男は晴明でさえなれなかった「陰陽頭」にまで出世している。
晴明は邸宅を平安京の鬼門に当たる北東に構え、都に侵入しようとする魔物や邪鬼を防いでいた。そうして1005年、84歳という当時ではかなりの長寿で人生の幕を閉じた。没後、晴明を惜しみ、彼に対する生前の官位が低すぎたと感じた時の天皇は、京都晴明町の住居跡を「晴明神社」に、大阪の生誕地を「安倍晴明神社」とした(晴明が稲荷大明神の化身と信じられていたことも神社で祀られる理由の一つ)。晴明桔梗印(五芒星)と呼ばれる祈祷呪符が神紋になっている。

晴明の墓は京福嵐山線嵯峨駅から南へ徒歩5分の角倉町、長慶天皇陵の横。墓の裏側は角倉神社。墓所までは細い路地裏が続くので迷いやすい。角倉町に入ったら地元の人に尋ねよう。命日の9月26日には毎年墓所祭が催されている。
晴明の伝説は『信田妻(しのだづま)』『蘆屋道満大内鑑』など文楽や歌舞伎になりいっそう世に広まった。1993年にはマンガの主人公となり、生誕1080年目(2001年)にはついに映画の中で大活躍した。

【晴明伝説】
晴明が他界した後、かなり早い段階から“鳥が話す言葉が分かった”など、その存在は伝説化されていた。晴明に関する逸話は『古事談』『大鏡』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』『今昔物語集』『體源抄』『日本紀略』『権記』『平家物語』『大江山絵詞』『元亨釈書』『源平盛衰記』『発心集』など、文献は多岐にわたっており、いかに当時の晴明がスーパー陰陽師だったかを雄弁に語っている。
伝承で最も有名なのは先述した『今昔物語巻二十四 第十六』。鬼の一群とすれ違う話以外にも、色々なエピソードが記されている。例えば…
・陰陽道を身につけて得意になった僧侶(智徳法師)が、噂に聞こえる晴明の実力を確かめようと自分の式神を連れて会いにいったら、晴明に式神を隠されてしまい、彼に謝って出してもらう話。
・仁和寺の僧侶らが晴明の力を試そうとして、陰陽術で庭先の蛙を殺すよう要求した。晴明は「罪作りなことを…」と言いつつ草の葉に呪文をかけて蛙に投げると、蛙は葉の下でペチャンコになった。僧侶らは真っ青になって震え上がった。
・晴明は客がいない時には家で式神を家事に使っており、人影がないのに勝手に戸が上下し、門が開閉していた。

他の文献でよく知られているのは…
・雨が降ると頭痛に苦しむ花山天皇について、晴明は天皇の前世の頭蓋骨が野ざらしで岩に挟まっていると指摘、実際にその通りで、雨が降ると岩が膨張し骨がきしんでいた。骨を取り出したら頭痛は治った。(古事談)
・天体の異様な動きから天皇が退位し出家することを予知。(大鏡)
・藤原道長が外出しようとすると愛犬に止められた。晴明は式神の攻撃を犬が察知したと判断。果たして道を掘り起こすと道長を呪う土器が埋められていた。晴明が紙を鳥形に折って空に投げ上げると式神=白鷺に変身して南へ飛び、犯人の陰陽師・蘆屋道満(あしやどうまん、道摩)の家に落ちた。道満は自分の黒幕が道長の政敵・藤原顕光であることを白状したので、道長はこれを赦して故郷播磨へ追い返した。(宇治拾遺物語 御堂関白の御犬晴明等奇特の事)

※道満は能力のある民間陰陽師で晴明のライバルと伝えられている。一条戻橋で道満に父を殺された晴明は、術を駆使して父を蘇生させた。この橋は今でも現存し、晴明は自分の式神2人をこの橋の下に普段は隠していたという(妻が式神を不気味がるんだって)。
※晴明の著書に「占事略決」がある。
※奈良・安倍文殊院境内の小高い丘(展望台)は、かつて晴明が天文観測を行った場所と伝えられている。
※晴明神社のある場所はかつて千利休の屋敷があり、利休が自害して果てた終焉の地でもある。
※ちなみにマンガ『陰陽師』で晴明の親友として登場する音楽好きの源博雅は実在の人物で、晴明よりも3歳年上の918年生まれ。966年(48歳)、「長秋譜」を作曲し、「博雅笛譜」「長竹譜」を作成した。980年に62歳で亡くなっている。今昔物語集でも源博雅は琵琶“玄象”を探して活躍する。




★芦屋道満/Ashiyadoman 平安時代/生没年不詳 (栃木県、那須塩原市、沼野田和・解脱塔)2012

金乗院の山門 金乗院から500mほど南下した林の中へ 右に曲がると案内板が見えてくる 市指定史跡「芦屋道満の墓」

東日本大震災で後方に倒壊していた… 「解脱塔」とある 石碑裏にあるという3基の五輪塔は確認できず

平安時代の吉凶を占う陰陽師。道摩法師(どうまほうし)とも。播磨国岸村(兵庫県加古川市)出身。陰陽博士・加藤保憲(917-977)の弟子。
保憲の死後、同じ門下の安倍保名と法力で競い勝ったが、保名の子・晴明が成人した後は、式神対決で敗れ故郷の播磨へ追放されたという。『宇治拾遺物語』には藤原道長が安倍晴明から「何者かが式神の呪いをかけようとしている」と告げられ、犯人と見なされた道満が播磨に流罪となる話が出てくる。藤原道長お抱えの陰陽師が安倍晴明で、“悪霊左府”藤原顕光のお抱えが芦屋道満だった。道満は道長の政敵・顕光から道長へ呪祖を命じられたとされる。
那須塩原に伝わる話では、道満が師・保憲の秘伝書を騙し取ったことが露見し、都から那須野ヶ原に逃亡、発見されて死刑となったとある。明治末、墓所とされる場所に近隣の金乗院の信浄和尚が道満の霊を慰めるために「解脱塔」を建立した。
※歌舞伎・浄瑠璃では竹田出雲の『芦屋道満大内鑑(おおうちかがみ)』(通称「葛の葉」)が有名。



★レニー・ブルース/Lenny Bruce 1925.10.13-1966.8.3 (USA、ロス郊外 40歳)2000 即興詩人
Eden Memorial Park, Mission Hills (Los Angeles County), Los Angeles County, California, USA
本名:Lenny Schneider



ブラック・ジョークの達人。権力者をこき下ろすので敵も多かった。ダスティン・ホフマンが彼を演じた映画はGOOD!



★三人の東方賢者/Casper,Melchior,Balthasar B.C.4頃 (ドイツ、ケルン)2002 占星術師
Cologne Cathedral(Kolner Dom),Koln, Germany



写真の奥の方に見える銀の棺がそう。イタリアからドイツへ運ばれてきた。

この3賢者(カスパール、メルキオール、バルタザール)のことを、新約聖書では「マギ」と呼んでいる。
・カスパール(没薬)は白髪白髭の老アラブ人。象徴は受難(死)と信仰。
・メルキオール(黄金)は青年のインド人。カスパールの弟。象徴は王権と愛。
・バルタザール(乳香)は中年のエジプト人。象徴は神性と善行。



★檀君/Dankuns B.C.5017?-B.C.3109?? (北朝鮮、平壌市、檀君陵 1908歳!)2001 古代人
P'yongyang City, North Korea


江東郡大朴山にて

朝鮮半島の英雄。近年遺骨が見つかり(そう主張している)金王朝がピラミッドを建設させた。
「実在してた!」っていっても、1908歳は無理だろ、1908歳は!(汗)




★ジョゼフ・ピュリツアー/Joseph Pulitzer 1847.4.10-1911.10.29 (NY、ブロンクス 64歳)2009
Woodlawn Cemetery, Bronx, Bronx County, New York, USA


この一帯はすべてピュリツアー家!大帝国!
(写真では後列左から2番目がジョセフ)
“あのう、実は密かにピュリツアー賞を狙っている
んですが…ゴニョゴニョ”と本人に直談判!(笑)
こっちは2000年に間違えて巡礼した息子の墓。
帰国後に「SON OF」ってあるのをみて絶句した!

米国人ジャーナリスト。世界の優れたジャーナリストに贈られるピュリツアー賞は、彼の名前からきている。



★安珍/Anchin (和歌山、日高郡、道成寺 16歳)2001 行者



道成寺伝説によると、安珍は大蛇に変身した清姫に、身を隠していた釣鐘ごと焼かれてしまった。



★勅使河原 蒼風/Soufu Teshigawara 1900.12.17-1979.9.5 (東京都、港区、青山霊園 78歳)2006 華道家

  

生け花・草月流創始者。本名はナ一(こういち)。東京生まれ。木の根を使ったり、鉄、プラスチック、コンクリート、動物の頭蓋骨、とっくり、ヤカンなど斬新な素材との組み合わせで「前衛生け花」ブームを巻き起こす。1955年(55歳)に渡欧すると、生け花と彫刻を融合した作風が海外でも話題を集め、ミロやダリが讃え、タイム誌は“花のピカソ”と呼び、生け花界のカリスマとなった。華道500年の伝統を破壊した蒼風は、岡本太郎や写真家・土門拳らとも連帯して前衛運動を繰り広げ、78歳で他界した。「生け花は、生きている彫刻である。生け花は、生命を持った花の彫刻である」(蒼風)。



★安徳天皇/Antoku 1178.11.12-1185.3.24 (山口県、下関市、赤間神宮 6歳)2006

  
平家の滅亡と運命を共にした幼き天皇。「安徳天皇阿弥陀寺陵」は壇ノ浦にある 平時子の墓(清盛の妻)

第81代天皇。3歳で天皇にされたと言われているが、即位は1180年2月21日なので、正確にはまだ1歳半。
壇ノ浦の合戦の際に「海の底にも都はあります」と祖母・平時子に抱かれ、神器・草薙の剣と共に入水。




★北大路 魯山人/Rosanjin Kitaoji 1883.3.23-1959.12.21 (京都府、北区、西方寺 76歳)2008 料理研究家







“食”の大巨人 墓地入口の池を右折、坂道を登った一番奥に眠る 詩人の三好達治も愛用した魯山人の陶磁器




料理研究家だけでなく、陶芸家、
画家、書道家など、多様な顔を
持っていたマルチ・アーティスト
魯山人曰く「食器は料理の着物」。彼は自ら器も焼いた。
北大路家は地元の名士。同家の墓が多数あった。
この魯山人の墓所は近年に整備されたばかりとのこと
石碑に刻まれた言葉は「春来草自生」。
意味は“春来たらば草おのずから生ずる”。
※情報を下さったKさん、有難うございました!

京都出身。本名、北大路房次郎。父は訳あって魯山人の誕生と共に自刃しており、里子に出された。転々と家を移り、6歳で木版師の養子に入る。小学校卒業後、薬屋の丁稚奉公となった。当初は画家を目指したが書に才能を発揮し、1903年(20歳)に上京。いきなり翌年の日本美術展覧会にて一等に選出され注目を集める。1908年(25歳)、中国に渡って篆刻(てんこく、印判)を学び、新たな才能を開花させた。2年後、彼の才能に惚れ込んだ人物から、長浜や金沢で創作環境を提供され、書や篆刻を極めていく。この過程で竹内栖鳳や土田麦僊など日本画壇の巨匠とも知遇を得、交流を重ねていった。
 
魯山人は各地に逗留するうちに料理(美食)の造詣を深め、「食器は料理の着物」として自ら陶磁器を自作し始める。1921年(38歳)、東京に美術店を持ち、会員制食堂の「美食倶楽部」をスタート。42歳、赤坂に会員制高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」)を開き、自身が厨房に立って腕をふるった。1927年(44歳)、鎌倉に窯を持って作陶に本腰を入れ、翌年に三越で陶磁器の個展を催した。1936年(53歳)、魯山人の美学へのこだわりが周囲との衝突を生み、星岡茶寮との関係が切れる。

やがて戦火が激しくなり苦しい生活を送るが、1946年(63歳)に再起を賭けて銀座に開いた陶器店が人気を呼び、1954年(71歳)にはロックフェラー財団の招待で欧米の美術館を巡った。海外では自作の展覧会や講演も行ない、ピカソやシャガールとも会う。翌年(72歳)、織部焼の人間国宝に指定されるも辞退。その4年後、1959年に肝硬変により他界した。享年76歳。
生涯に6度も結婚したり、フランスの名門レストラン「トゥール・ダルジャン」にて手持ちのワサビ醤油で鴨料理を食すなど、その奔放な生き方も含めて(相当な毒舌家だった)、人々に強烈なインパクトを残して旅立った。
※グルメ漫画「美味しんぼ」の海原雄山は魯山人がモデル!



★横川 省三/Shozo Yokokawa 元治2年4月4日(1865.4.28)-1904.4.21 (岩手県、盛岡市、聖寿寺 38歳)2009&10

案内板に“よこかわしょうぞうぼしょ” 盛岡に生まれ、東京、アメリカ、中国と渡り、ロシアで銃殺された激動の人生





敵から尊敬された 東京の青山霊園にも墓はあるけど… 植物の侵攻が激しい(2010)

明治期の新聞記者、特殊工作員。南部盛岡藩出身。旧名、三田村勇治。南部藩士の父は北方警備で滞在した函館でニコライ神父に感化されキリスト教に入信し、その影響で省三も熱心なキリスト教徒に。1884年(19歳)、横川家の婿養子となる。2ヶ月後、単身上京し自由民権運動の闘士となり、加波山(かばさん)事件=要人暗殺未遂事件に係わった同志を匿ったことで犯人隠匿罪に問われ1年9ヶ月投獄される。獄中で聖書や荘子を読み耽るなか、自分は1日に三度は反省すべき人間であると考え、名前を勇治から省三に改名した。

釈放後、自由民権論者は保安条例によって東京から追放された為、故郷の岩手に戻る。妻子を養うために朝日新聞の記者となり、1893年(28歳)、海軍大尉・郡司成忠(幸田露伴の兄)の千島列島探検隊に同行取材し探検記を連載、好評を博す。翌1894年、日清戦争が勃発。省三は海軍従軍記者となり、ジャーナリストとして名声を高めた。1896年(31歳)、辞表を出して翌年サンフランシスコに渡り開拓事業を始めるが、日本人移民社会の教養レベルを上げる必要性を痛感し、米国で2番目の邦字新聞社“北米日報”を設立する。

2年後に岩手の妻が重病(肺結核)という知らせが届き帰国、妻の最期を看取った。この帰国途上でハワイに移住した日本人が奴隷状態になっているのを目撃し、妻の葬儀後にハワイに戻って待遇改善のストライキを指導した。1901年(36歳)、北京に派遣された清国公使の内田康哉から手腕を見込まれ、大陸へ呼ばれて機密活動を託される。1904年に日露戦争が始まると、省三は特別任務班第六班班長となった。ロシア軍はシベリア鉄道を大動脈として兵員、弾薬を極東へ送り届けることから、省三はシベリア鉄道の爆破任務に志願。蒙古の僧侶(ラマ僧)に変装し、約50日をかけて満州チチハル付近まで潜入するが、そこで天幕の敷物の下に隠していた爆薬をロシア警備隊に発見された。

省三と沖禎介はハルピンに護送された後に軍法会議にかけられ、スパイ罪で銃殺刑を言い渡される。当初は民間人としての絞首刑だったが、省三は軍人として名誉ある銃殺刑を希望し許可された。高潔な人格に惚れたロシア軍大佐が同情し、総司令官クロパトキンに減刑を進言したが、クロパトキンは「仮に赦しても日本の軍人は捕虜とならずに自決する。野に亡骸を放置するよりも、むしろ敬意を払い銃殺せよ」と答えた。
処刑当日、2人の娘への遺書を書き終えた省三は、所持金全額となる500両をロシアの赤十字社に寄付する旨を裁判官メジャークに伝えた。メジャークはこの申し出に驚き、遺族に送ることが可能なことを説明したが、省三は(1)500両は公金であり個人のものではない(2)遺族は天皇や国民が必ず助けてくれる(3)日本軍の砲弾で負傷した貴国将兵に対する敬意である、と理由を述べて“どうか納めて欲しい”と譲らなかった。
銃殺に際し、指揮官シモノフは「射撃用意!愛を持って撃て」と部下に命令した。享年38歳、波瀾万丈の人生だった。 省三の死の30年後(1934年)、シモノフは盛岡へ省三の長女を訪ね、涙と共に「父上の立派な最期を伝えに来た」と語ったという。



★杉原 千畝/Chiune Sugihara 1900.1.1-1986.7.31 (神奈川県、鎌倉市、鎌倉霊園)2012

   

  

杉原千畝(ちうね)は1900年(明治33年)1月1日に岐阜県で生まれた。父は税務署員。次男。「千畝」は豊かな棚田を意味する。八百津町で幼少時代を過ごした後、父の仕事に従い名古屋で生活。小学校を全甲(オール5)で卒業。17歳、中学校卒業後に京城(現ソウル)へ転居。父の願いで京城医学専門学校を受験したが、英語教師を目指していたため白紙答案を出し不合格となる。翌年、早稲田大に入学するも怒った父から仕送りがなく生活に困窮。公費で勉強ができる外務省留学生の存在を知って大学図書館で英字新聞を読むなど猛勉強し、試験に合格。大学を1年で中退し、官費留学生として中華民国ハルビンに渡り、現地でロシア語を学んだ(19歳)。千畝は「露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていく」というやり方でロシア語を身に付けた。20歳から22歳まで陸軍に入る(最終階級は少尉)。
1924年(24歳)、卓越したロシア語能力を買われて外務省書記生として採用され、満州国ハルビンに在勤。同年に白系ロシア人女性クラウディアと結婚。26歳で600ページを超えるロシア情勢分析レポートを書き上げ、外務省から高く評価される。日露協会学校の講師、ハルビン大使館の通訳官なども経て、1932年(32歳)、3月に建国された満州国の外交部事務官となった。

1935年(35歳)、杉原は日本きっての「ロシア通」として、ソ連側と北満州鉄道の譲渡を巡り交渉し、ソ連側の当初要求額6億2500万円を1億4000万円まで値下げさせた。関東軍は杉原の頭脳を欲し、多額の報酬でスパイになるよう迫ったがこれを拒否。杉原は日頃から関東軍の横暴に反発していた。「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかった」。そして、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満州国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になり、満州国外交部を辞任した。「若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」(杉原手記)。
関東軍は杉原に報復する如く、妻クラウディアを“ソ連のスパイ”と風説を流し、杉原は結婚11年目で離婚に追い込まれた。満州国を支配する関東軍に睨まれては同地で生活できないため、杉原は蓄えた貯金をすべてクラウディアに渡し、無一文になって帰国する。
帰国後、池袋の安下宿に身を寄せた杉原は、知人の妹・幸子と結婚した。間もなく外務省に復帰したが、結婚式を挙げるお金はなく記念写真一枚さえ撮る余裕もなかった。夫人いわく「あまり饒舌な方ではなかったのですが、言葉を選ぶように、私に分かりやすく話そうとしてくれているのがわかりました。私にとってそんな“千畝さん”の態度は不思議な感じでした。当時は女性の話を真剣に聞いて、きちんと答えてくれるような男性はほとんどいなかったからです」。
1937年(37歳)、モスクワ勤務を命じられたが、前妻が反革命的な白系ロシア人であったことをソ連側が問題視して入国を拒否したことから、フィンランド・ヘルシンキ公使館勤務となる。
1939年(39歳)9月、ドイツが突如としてポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発。杉原は外務省から占領下のポーランドと国境を接するリトアニアの首都カウナスに領事館開設を命じられた。これはドイツ軍による対ソ攻撃の情報を集めるためだった。日本は満州に配置した対ソ連用の関東軍を南方に回したかったので、独ソ戦の開戦日を知りたがっていた。杉原は領事代理として赴任する。

当時、ナチスドイツはユダヤ人への迫害を激化させており、1940年(40歳)5月にはアウシュヴィッツ強制収容所が完成。西からドイツが迫っていたため、ポーランドやリトアニアのユダヤ人はシベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか残されていなかった。一方、リトアニアは6月にソ連軍の侵攻を受けソ連支配下に入った。ソ連は在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を各国に求めたが、杉原たちは独ソ戦の情報収集のため業務を続けていた。このような理由からユダヤ難民たちが日本領事館へ通過ビザを求めて殺到した。
杉原手記「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をえかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。
ユダヤ人に対する迫害の凄惨さを知っている杉原は、難民たちの切迫した状況をすぐに理解した。ただちに外務省へ「ソ連横断の日数を20日、日本滞在30日、計50日の通過ビザを出してもよいか」と電報を打ったが、本省からの返電は「行先国の入国許可手続を完了し、旅費及び日本滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ」という、難民には非現実的なものだった。日本は2カ月後(9月)に日独伊三国同盟の締結を控えており、ユダヤ人保護によって同盟国ドイツが気を悪くすることを恐れたのである。
杉原は夫人に「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」と問いかけ、夫人は「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意したという。杉原は「人道上、どうしても拒否できない」と腹をくくると、訓命違反による罷免を覚悟した上で、受給要件を満たさない難民にも独断で日本通過ビザを大量発給し始めた。8月16日、本省から“受給要件を確認し安易にビザを発給するな”と独断行為を非難する電信が入るが、杉原はなおも発給を続けた。中南米のオランダ領(キュラソー、スリナムなど)は入国ビザを必要としないことから、杉原は難民の行先国をそれら中南米の国にして受給要件をクリアーさせた。
杉原は外務省の追及をトボけるため、批判された電信を無視し、第3国への入国許可が確実で、所持金も十分にあり、本省が許可しやすい人物を選び、「当国へ避難中のポーランド出身ユダヤ系工業家『レオン・ポラク』54歳へのビザ発給の可否」と問い合わせている。また、本省との意見の衝突を避けるためにわざと返信を遅らせ、公使館を閉鎖した後になって“指示を守って当方はビザを発給している”と言い張った。

杉原は約1カ月半の間、万年筆が折れるほど多量のビザを手書きし、筋肉痛で腫れ上がった腕を夫人が毎日ほぐした(途中から亡命ポーランド将校の提案で、ゴム印とサインを組み合わせた)。その間、ソ連は何度も領事館の閉鎖命令を出し、日本外務省からも領事館退去及びベルリンへの移動命令がきた。杉原の命令違反は、東京の陸軍中央まで「カウナス事件」という名前で伝えられていた。これらの圧力が無視できなくなると、8月29日にカウナス領事館を閉鎖して老舗ホテル「メトロポリス」に移り、なおもホテル内で仮通行書を発行した。9月5日、カウナス駅からベルリンに旅立つ際も、車窓から手渡しされたビザを書き続けた。汽車が動き出すと杉原は頭を下げ、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と謝った。ホームからは「スギハラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ!」と叫び声があがり、人々は泣きながら列車と並び走った。
杉原が発行したビザの枚数は、記録が残る番号入りのものだけでも「2139枚」にのぼる。ビザは一家族につき、一枚で良かったことから、家族の人数を考慮すると約6千名の国外脱出を助けたと考えられている。杉原は領事館の閉鎖日が近づくと、作業効率化のため記録をやめ、発行手数料の徴収も忘れていたので、記録外の実数は把握できない。翌1941年6月の独ソ開戦後、リトアニアは3年間ドイツの占領下となった。占領前、リトアニアにはユダヤ人20万8000人が暮らしていたが、9割以上の19万5000人が殺害された。
※杉原の『命のビザ』でリトアニアから脱出したユダヤ人は、シベリア鉄道で極東ウラジオストックに到着した。日本外務省はウラジオストックの日本総領事館に「(杉原ビザのような)通過ビザは行先国の入国許可手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、日本行きの乗船許可を与えること」と厳命した。これに対し、かつて杉原が通ったハルビン学院の後輩、ウラジオストック総領事代理・根井三郎は難民に同情し、本省にこう返電した。「日本の領事が出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどり着いたのに、行先国が中南米というだけの理由で乗船許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになります」。根井は杉原ビザを無効にする理由がないと、形式主義を逆手にとって、本省と5回にわたって交渉し、漁業者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民を救済した。難民たちは舞鶴港、敦賀港から次々と上陸し、米国、パレスチナ、上海へ旅立った。杉原千畝の名と共に根井三郎も記憶に留めるべき人物だ。

リトアニアを出た杉原は、その後、チェコのプラハ総領事館に勤務し、1941(41歳)にドイツ領ケーニヒスベルグ総領事館、同年11月にルーマニアのブカレスト公使館勤務(一等通訳官)を命じられた。1945年(45歳)、大戦終結後にブカレストでソ連軍に身柄を拘束されて郊外の捕虜収容所に収監され、2年後の1947年4月に帰国した。妻と2人の子を連れてようやく日本に戻ったものの、2カ月後に外務省から退職通告書が送付され外務省退官。形式上は“依頼退職”だが、独断によるビザ発給を責めた事実上の解雇だった。外務省関係者の間には「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という冷淡な中傷が流れていた。これを聞いた杉原は旧外務省関係者と絶縁した。
※夫人の話では岡崎勝男・外務事務次官(後の外務大臣)から免官の理由として「ビザ発給の責任」を告げられたという。現在、外務省のHPには「(杉原は)カウナス領事館引き揚げの後も7年間にわたり外務省で勤務を継続」「依願退職しています」と、外務省が杉原を冷遇した事実はなく通常の人員整理と強弁しているが、冷戦が始まりソ連情勢に詳しい人材をかき集めていた時期に、外務省きってのロシア通である杉原が重用されないのは道理に合わず、カナウスでの命令不服従が問題になっているのは明らか。杉原はロシア語だけでなく、英語、フランス語、ドイツ語など数カ国語に精通していたし、独ソ戦の開戦時期を的確に予想していた。そのように有能な杉原の解雇を進言したのは終戦連絡中央事務局連絡官兼管理局二部一課。外務省ソ連課長の曽野明いわく「杉原は本省の命令を聞かなかったから、クビで当たり前なんだ。クビにしたのは私です」「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなど、もっての外であり、絶対、組織として許せない」。

帰国後の杉原はNHK国際局など職を転々とし、1960年(60歳)、貿易商社の事務所長としてモスクワに赴任した。
1968年(68歳)、かつて杉原ビザで救われたイスラエル政府の参事官ニシュリ氏が杉原を探し出し、28年ぶりに再会する。ニシュリ氏はカナウス駅で「私たちはあなたを忘れません」と叫んだその人だった。再会するまで戦後四半世紀も要したのは、杉原が自分の名前を外国人が発音しやすいように「センポ・スギハラ」と教えていたから。多くのユダヤ人が杉原を探し続けたが、ユダヤ人協会からの問い合わせに対して、外務省は旧外務省の名簿に杉原姓は3名しかいなかったのに「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在
においても存在しない」と回答していた。難民たちのその後の運命を気にした杉原がイスラエル大使館を訪れ、住所を伝えていたのでニシュリ氏は杉原にたどり着けた。ニシュリ氏はボロボロになった当時のビザを手にして泣きながら「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません」と感謝を伝えた。
翌1969年(69歳)、杉原ビザで助けられイスラエル宗教大臣になっていたバルハフティク氏からエルサレムで勲章を受ける。バルハフティク氏は杉原にビザ発給を交渉したユダヤ難民のリーダーだった。
「再会時に杉原氏が訓命に背いてまでビザを出し続けてくれたことを知ってとても驚いた。杉原氏の免官は疑問である。(略)私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである」(バルハフティク、1998)
1975年(75歳)に退職し帰国。西鎌倉に住んだ。1981年、旧西独テレビ協会・東アジア支局長として1974年から1981年まで東京に在住していたドイツ人ジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンは著作『孤立する大国ニッポン』で杉原に献辞を捧げ、「戦後日本の外務省が、なぜ杉原のような外交官を表彰せずに追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか理解しがたい」と抗議した。
1985年(85歳)、イスラエルの「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を受賞。同年、顕彰碑の除幕式や記念植樹祭がエルサレム郊外のベート・シェメッシュの丘で行われたが、杉原は高齢で出席できず四男・伸生(のぶき)が出席した。翌1986年7月31日、鎌倉で死去。享年86歳。駐日イスラエル大使が弔問し、葬儀には生前の杉原を知る約300人が参列した。4年後の1990年、幸子夫人による回想録『六千人の命のビザ』が出版される。翌1991年、日テレ『知ってるつもり』が杉原を取り上げて反響を呼び、さらに次の年には夫人の著書をドラマ化した『命のビザ』(主演は加藤剛と秋吉久美子)が放映され、多くの日本人が杉原の存在を知るようになった。1997年、杉原を描いた映画『ビザと美徳』が制作され第70回アカデミー賞短編実写部門賞に輝く。

杉原の生誕百周年となる2000年10月10日、没後14年目にして、ようやく日本政府による公式の名誉回復が河野洋平外務大臣によって行われたが、この時ですら当時の外務省幹部は反対しており、名誉回復は押し切ってなされた。
「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。(略)故杉原氏は今から60年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です」(河野洋平外相)
同年、杉原の故郷・岐阜県加茂郡八百津町の“人道の丘公園”に杉原千畝記念館が開館。館内では杉原の肉声(1977年のインタビュー)が聞ける。2005年、終戦60周年記念ドラマとして『日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ』
(主演は反町隆史と飯島直子)が製作される。2008年10月8日幸子夫人逝去(享年94)。
2011年、杉原の顕彰碑が早稲田大に建立。碑文には「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」と刻まれた。現在、杉原の“命のビザ”で生き残った難民たちの子孫は25万人に達するという。

「政府の命令に背き、良心に従った杉原さんがいなかったら、私たちの誰も存在しなかった。私たちが歩み続けた暗い道の中で、杉原さんの星だけが輝いていた」(ビザ受領者アンナ・ミロー)
「一言で言えば『古武士』のような方で、すべて黙っていて、分かる人だけが分かってくれればいいという、言い訳をしない方でした」「自分についてはまったく話さなかった。誰にでも温かく接する人柄だし、決して、上から見下ろしたり、差別したりしなかった」(モスクワ駐在員時代の部下・川村秀)
「非人間的な行為に対抗する勇気には、国籍や人種や宗教の壁などないということを示した」(国際司法裁判所判事トーマス・バーゲンソール)

〔杉原語録〕
「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」
「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません」
「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」
「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」
「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ」

【墓巡礼】
杉原千畝は外務省内で能力を高く評価され、大人しく命令に従っていれば輝かしい出世街道が待っていた。だが、免職覚悟で目の前のユダヤ人難民6000人の生命を救う決断をした。ナチスの殺戮部隊から守るために。その5年前には中国人に暴力を振るう関東軍(日本陸軍)への協力も断っている。根底に揺るぎないヒューマニズムがある。僕は1991年の『知ってるつもり』で杉原さんの勇敢な行動を知り、それ以来、ずっと墓巡礼がしたいと思っていた。墓所の情報が皆無で八方塞がりになっていたところ、2000年に故郷の岐阜に杉原千畝記念館が開館。同館の職員さんなら情報をご存知と思ってさっそく問い合わせた(高確率で墓所が故郷にあると推測)。でも、返ってきた言葉は「この町に杉原さんのお墓はありません」。ガーン。「それではどこに?」「事情があって教える事ができません。鎌倉ということだけ、お伝えします」。鎌倉という情報だけでは厳しいものがあったけど、少なくとも国内に眠っている事が分かったのは嬉しかった。それにしても“事情”ってなんだろ…さらに調査を進めたところ、判明した“事情”は思いがけないものだった。僕は日本人の誰もが杉原さんを英雄と称えていると思っていたけど、一部の人は国家の命令を破った売国奴、国賊と糾弾していたのだ。当時存命だった杉原夫人は、糾弾者に墓所を荒らされる事を心配されていたんだ。戦時中の外務省ならともかく、現代になっても氏を国賊と呼んでいる人がいるなんて理解できなかった。
僕はもし墓を見つけても誰にも言わないつもりで鎌倉の墓地を探し回った。最有力は、墓マイラーが「鎌倉」という言葉で真っ先に連想する鎌倉霊園。川端康成、山本周五郎、萬屋錦之介、秋山真之、多くの著名人が眠っているウルトラ巨大霊園だ。

  超広大な鎌倉霊園

管理事務所で問い合わせると個人情報保護の壁にぶつかり、墓の有無さえ分からなかった。結局、10年近く鎌倉霊園に行くたびに周囲を観察するも墓所を見つけられなかった。08年に夫人が他界し、それから4年が経った2012年。情報が解禁されたようで、各種メディアに杉原さんのお墓が続々と出始めた。場所はやはり鎌倉霊園だった!サイトの読者の方から墓所の写真や地図を頂いたこともあり、急いで鎌倉へ。管理事務所でも情報は公開され、ウィキペディアには「29区5側」と詳細情報が掲載された。僕はついに墓前に立った。信念を貫いた杉原さんに、生き方に感動したこと、勇気をもらったこと、自分が受けた様々な影響を伝え、心底から感謝と御礼の言葉を捧げた。

※ヘルシンキ時代に杉原は作曲家シベリウスからレコードとサイン入りポートレートを贈られている。
※杉原は長男に弘樹と命名するほど元外務大臣、第32代内閣総理大臣の広田弘毅を尊敬していた。
※カウナスのソリー・ガノールは少年時代に子供好きの杉原から日本の切手をもらった。その後、ダッハウ強制収容所に収監され、奇遇にも日系二世部隊に救出された。
※杉原は複数国で切手になった。 1998年イスラエル、2000年日本、2002年ガンビア、グレナダ領グレナディーン諸島、2004年リトアニア。
※杉原ビザで助かったレオ・メラメドは「先物取引」の父となり、シカゴ取引所の名誉会長となった。
※リトアニアの首都ヴィリニュスには、杉原が好んだベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」をモチーフにしたの記念モニュメントがある。「スギハラ通り」もある。

●イスラエルで杉原千畝に感謝する式典(NHK 2013.04.8)
ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺、「ホロコースト」の犠牲者を追悼する式典がイスラエルの各地で開かれ、中部の町では第2次世界大戦中に日本の外交官、杉原千畝が発行したビザで命を救われた人々が参加して、初めてセレモニーが行われました。
7日、イスラエル中部の町ネタニヤでは、第2次世界大戦中、ナチス・ドイツによる迫害からリトアニアに逃れて来たユダヤ人にビザの発行を続け、およそ6000人の命を救ったとされる日本の外交官、杉原千畝に感謝するセレモニーが行われました。
セレモニーには杉原のビザで命を救われた3人が出席し、家族に付き添われながらろうそくに火をつけて犠牲者を悼むとともに、改めて杉原への感謝の意を表しました。イスラエルでは杉原の切手が発売されたり、通りに杉原の名前がつけられたりしていますが、杉原のビザによる生存者が出席し、ホロコーストの追悼式典に合わせてこうしたセレモニーが行われるのは初めてだということです。杉原のビザで命を救われた女性は、「厳しい状況にあったユダヤ人を見捨てずに救ってくれたスギハラには、心から感謝しています」と話していました。



★大川 常吉/Tsunekichi Okawa 1877(明治10)-1940(昭和15).4.10 (神奈川県、横浜市鶴見区、東漸寺 63歳)2012



 
関東大震災直後の朝鮮人虐殺の嵐の中、命がけで
在日300人の命を救った“鶴見のシンドラー”大川署長
東漸寺(とうぜんじ)。事件の舞台となった鶴見
警察署のすぐ近く。大川署長の墓と顕彰碑が建つ

戦後、在日の人々が感謝を込めて
建立した『大川常吉氏乃碑』(本堂前)
本堂裏の2列目一番奥
(C区画)に大川家之墓がある
墓石側面の右端に
「應徳院等正常光居士 俗名常吉」

1923年(大正12)9月1日午前11時58分、相模湾を震源地とするマグニチュード7.9の巨大地震=関東大震災が関東全域を襲った。被害は、死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。この混乱下で社会主義者や朝鮮人などへの不法逮捕・虐殺事件が起きた。

震災直後に、混乱を利用して朝鮮人独立運動家を摘発しようと考えた内務大臣・水野錬太郎、警視総監・赤池濃(あつし)、警視庁官房主事・正力松太郎(後の読売新聞社長)らは、軍と警察を通して「暴徒化した朝鮮人が井戸に毒を入れ、放火して回っている」「爆弾を持っている」というデマを日本中に流した。市民は流言を信じ、震災から4日間で3689もの自警団が組織された。軍の一部から銃剣、日本刀を貸し与えられた自警団は血眼になって朝鮮人を探した。朝鮮人は日本語の「ジュ」の発音が苦手で「チュ」と言ってしまうことから、自警団は朝鮮人らしい人間を見つけては「15円55銭」と発音させ、うまく言えなかった者をその場で処刑、又はリンチにした。
※震災時に実際に朝鮮人の犯罪が十数件あったことから、“朝鮮人暴徒はデマではない”という人がいる。その犯罪者たちは確かに悪党だ。しかし誰も「井戸に毒」なんか入れてない。朝鮮人全体と犯罪者は分けるべきであり、内務省トップや警視総監が意図的にデマを流し、朝鮮人をひとくくりにして虐殺の対象としたことが相殺される訳ではない。

虐殺の死者数は当時の東大教授・法学博士の吉野作造の調査が2613人余、半島系新聞が6661人、内務省調査が231人と、議論が分かれている。また、方言を話す地方出身の日本人や聾唖者(聴覚障害者)も、朝鮮人と誤解されて59名が殺害されており、女子・子供を含む在日中国人200余名も殺害されている。
震災5日後、千葉県福田村(現野田市)にて香川県の薬売り行商人15名のうち妊婦・子供を含む9名が、讃岐弁を聞き慣れない自警団によって朝鮮人と判断され虐殺された。

官憲や陸軍の一部は震災を好機として社会主義や自由主義の指導者を殺害しようと画策。憲兵大尉・甘粕正彦はアナキストの大杉栄、伊藤野枝を殺害。亀戸警察署では軍が社会主義者・川合義虎、労働運動指導者・平澤計七など13人を殺害。平澤は首を切り落とされた。

★朝鮮人を虐殺から懸命に救おうとした日本人もいた。横浜の鶴見警察署長・大川常吉は、朝鮮人300人を署内に保護した。興奮した千人の群衆が「朝鮮人を殺せ!」と警察署に殺到すると、大川署長は大声で一喝した「朝鮮人が毒を入れたという井戸の水を持ってこい。私が目の前で飲む。異状があれば朝鮮人は諸君に引き渡す。異状が無ければ私に預けよ!」「朝鮮人を殺す前に、まずこの大川を殺せ!」。一升ビンの井戸水を飲み干した大川の対応に、群衆は理性を取り戻して引きあげた。また、横須賀鎮守府長官の副官・草鹿龍之介大尉は、在郷軍人の武器放出要求や実弾使用申請に対し断固として許可を出さなかった。

大川署長の墓は横浜市鶴見区の東漸寺(とうぜんじ)の本堂裏にあり、境内には1952年に在日コリアンらが感謝の意を込めて建立した石碑『大川常吉氏乃碑』がある。文面は次の通り→
『関東大震災当時、流言蜚語により激昂した一部暴民が鶴見に住む朝鮮人を虐殺しようとする危機に際し、当時鶴見警察署署長故大川常吉氏は、死を賭してその非を強く戒め、300余命の生命を救護したことは誠に美徳である故、私達は茲に個人の冥福を祈り、その徳を永久に讃揚する。 一九五二年三月二一日 在日朝鮮統一民主戦線 鶴見委員会』

リンク先に資料多数。



★児島 惟謙/Iken Kojima 天保8年2月1日(1837年3月7日)-1908年(明治41年)7月1日 (東京都、品川区、海晏寺 71歳)2010

 

“大津事件”で司法権の独立を守り抜き、「護法の神様」と高く評価される明治期の裁判官。名の惟謙は“これたか”とも読む。伊予宇和島藩士。討幕運動に身を投じ、3度の脱藩。1865年(28歳)、坂本竜馬や五代友厚らと長崎で接触。維新後、法曹界に入り、名古屋裁判所長、大阪控訴裁判所長などを歴任。
1891年5月に54歳で大審院長に就任した際、6日後に来日中のロシア皇太子ニコライ(23歳)が滋賀で警護の津田三蔵巡査にサーベルで斬りつけられる大津事件が発生した。ニコライは頭部に9cmの傷を負う。松方正義内閣は強国ロシアからの報復を恐れ、死刑に相当する大逆罪=「皇室に対する罪」(旧刑法116条)を適用するよう児島に迫ったが、その圧力をはねのけ一般人の「謀殺未遂罪」(同112条)を適用し、無期徒刑(無期懲役)を言い渡した。後に貴族院議員や衆議院議員をつとめた。



★楫取 寿/Hisa Katori 1839-1881(東京都、港区、青山霊園 42歳)2014



吉田松陰の妹。父は杉百合之助千代とも。夫は群馬県令・元老院議官の楫取素彦(かとりもとひこ)で、寿の死後に妹の文が嫁いだ。



★ジャコモ・カサノヴァ/Giacomo Casanova 1725.4.2-1798.6.4(チェコ、ドゥフツォフ 歳)2015
Santa Barbara Kapelle,Schlos Dux,Duchcov-Dux (Nordbohmen), Ustecky, Czech Republic

歴史のあるチェコのドゥフツォフ

晩年はこのドゥフツォフ城に客人として招かれた。
中にカサノヴァの博物館がある
史上最強プレイボーイ
千人とベッドイン

聖バーバラ教会の入口の壁に→

カサノヴァの墓標
らしきものがあった
教会周辺はかつて墓地だった。地元の人の
話では、この地下のどこかに棺があるという

一部の墓石は教会の壁際に現存

ドゥフツォフの町は可愛い建物が多い

城の前の「CAFE CASANOVA」

教会前のカサノヴァ・ホテル。ここの
従業員にもいろいろ聞いた

ヴェネツィア出身の作家&スパイ。長身、浅黒い肌、入念にカールさせた良い香りの長髪。千人の女性とベッドを共にした伝説的プレイボーイ。欧州各地をスキャンダルで追放され、ヴェネツィアで脱獄経験あり。スパイとなってヴェネツィア帰国が許された。正確な墓石は残っていないが、地元では終焉の地ドゥフツォフの教会の敷地に埋葬されたと伝わる。一説にはドゥフツォフ城の背後にあった墓地を公園にした時に消失したとも。



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