1999 通常は非公開の真珠庵。特別公開中に足を運ぶ! |
2003 すぐそこまで来てるのに、無念!指先の壁の裏側が墓地 |
2013 ちなみにこちらは高野山の「観世家墓所」 この墓(供養塔?)であればいつでも誰でも墓参できる |
能役者、能作者。幼名鬼夜叉、藤若丸、実名元清。世阿弥は芸名・世阿弥陀仏の略。父観阿弥の英才教育で猿楽能(物真似が中心の芝居)を学び、1372年、父が京都で名声を得るきっかけとなった醍醐寺7日間公演に9歳で参加している。1375年、「観世座はスゴイ」という噂を聞いた当時17歳の3代将軍足利義満は、京都・今熊野で初めて猿楽能を鑑賞し、これにハマった。観阿弥の演技が素晴らしいだけでなく、共演した12歳の美少年世阿弥の愛らしさにメロメロになった。以降、義満は観世座の熱心な後援者となる。 義満の世阿弥に対する寵愛ぶりは相当なのもので、3年後の祇園祭の折には、山鉾を見物する義満のすぐ背後に世阿弥が控えていたという。側近たちはこれを嫉妬し、内大臣は当日の日記に「乞食のやる猿楽師の子どもを可愛がる将軍の気が知れない」と書きつけている。 1384年(21歳)、父が巡業先の静岡で急逝。世阿弥は悲しみの中で観世流の2代目を継ぐ。その後もひたすら稽古を重ねて芸を磨いていく中で、彼を刺激したのは父と同世代で近江猿楽のリーダー格・犬王(道阿弥)の存在だった。観世座の能が大衆向けで演劇色の濃い、物真似中心の「面白き能」であったのに対し、犬王の能は優雅で美しい歌舞中心の「幽玄能」だった。義満は情緒があり格調のある犬王を世阿弥以上に寵遇する。犬王は天女の舞を創始するなど舞の名人でもあり、世阿弥も素直に犬王を絶賛、もろに影響を受けて自身の能も内面を表現する幽玄能に変化していった。 1400年(37歳)、「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」など父の遺訓をまとめた能楽論書『風姿花伝(花伝書)』を著す。風姿花伝は芸術の技術論ではなく精神を論じた書であり、このような書物は世界にも殆ど例がない--- 能役者が観客に与える感動の根源は「花」である。「花」は能の命であり、これをどう咲かすべきか、「花」を知ることは能の奥義を極めることである。 桜や梅が一年中咲いていれば、誰が心を動かされるだろうか。花は一年中咲いておらず、咲くべき時を知って咲いている。能役者も時と場を心得て、観客が最も「花」を求めている時に咲かせねばならない。花は散り、花は咲き、常に変化している。十八番の役ばかり演じることなく、変化していく姿を「花」として感じさせねばならない。「花」が咲くには種が必要だ。花は心、種は態(わざ、技)。観客がどんな「花」を好むのか、人の好みは様々だ。だからこそ、能役者は稽古を積み技を磨いて、何種類もの種を持っていなければならない。牡丹、朝顔、桔梗、椿、全ての四季の「花」の種を心に持ち、時分にあった種を取り出し咲かせるのだ。 ※「家、家にあらず。次ぐをもて家とす」と言うのも。血縁者が「家」となるのではなく、真に芸を継ぐ者を「家」とする厳しいものだ。 1408年、45歳の時に義満が死去し、4代将軍義持の治世に。義持は猿楽能よりも田楽能(豊穣を祈り笛鼓を鳴らす賑やかな歌舞)を好み、その名手・増阿弥を寵遇した。増阿弥の持ち味は賑やかであるはずの田楽の中で、尺八を使う「冷えたる能」。尺八の渋い音色は舞を“冷えに冷えた”美にした。都は増阿弥が主催した公演ばかりになり、世阿弥の出番が減ってしまった。しかし、世阿弥の長所は柔軟さにある。彼はこのライバルを妬むことなく、「花」を生み出す幽玄美が、高められたところにあるものが「冷えたる美」と悟り、増阿弥から「冷え」を学んだ。このように世阿弥の芸は生涯にわたって高め続けられた。また、立ち止まって能という芸の深さをじっくり考える時間ができたこともあり、能楽論を次々と執筆していった。 世阿弥は自分が父から観世座を受け継いだ年頃に長男・元雅がなったことから、60歳で出家し、元雅を第3世観世大夫に指名した。そして能作書『三道』を次男に、1424年(61歳)には元雅に能楽論秘伝書『花鏡(かきょう)』を送り、そこに「初心忘るべからず」「命には終わりあり、能には果てあるべからず」「ただ美しく柔和なる体、これ幽玄の本体なり」等の言葉を刻んだ。この年の醍醐寺清滝宮の猿楽能では2人の息子と甥の音阿弥(世阿弥の弟の子)の3人が共演するなど、後継者に恵まれて穏やかに隠居生活を送っていた。 1428年(65歳)、義持が他界すると6代将軍義教が就任した。ここから世阿弥の人生はどん底まで沈んでいく。義教は兄弟の義嗣と仲が悪かったので、義嗣に気に入られていた世阿弥を嫌い、また能役者も世阿弥よりも音阿見を好んでいたので、世阿弥に露骨な迫害を加え始めた。 66歳、世阿弥親子は突然御所への出入りを禁じられ、翌年には元雅が猿楽主催権を奪われ、義教はそれを音阿弥に与えた。こうした事態から未来に希望を失った次男は猿楽師を辞めて出家してしまう。 1432年(69歳)、元雅は都での仕事がなくなり地方巡業に出て、旅先にて32歳の若さで病没する。元雅の遺児はまだ幼児で観世家を継げず、観世座は崩壊した。世阿弥は元雅のことを父観阿弥を超える逸材だと思っていただけに、この死は耐え難いほど辛いものだった。しかも義教は世阿弥に後継者がいなくなったことを理由に、音阿弥に観世4世家元を継がせることを強要してきた。世阿弥は大和で大活躍していた娘婿の金春禅竹(28歳)に4世を譲るつもりでこれに抵抗したところ、将軍に謀反した重罪人として逮捕され、実に71歳という高齢で佐渡に流されてしまう。 1441年、暴政を行なった義教が守護大名の反乱で暗殺されると、一休和尚の尽力で78歳になっていた世阿弥の配流も解かれ、娘夫婦の元に身を寄せ80歳で亡くなった。 650年の長き伝統からユネスコの世界遺産(無形文化遺産)に指定された能楽。観阿弥が基礎を築いた物真似重視、ドラマ性優先の猿楽能を、子の世阿弥は美しい歌舞を中心に置き、深い精神性をたたえた幽玄美を表現する「夢幻能」に発展させ、今日に至るまで人々に愛される芸術に昇華させた。世阿弥は稽古そのものが人生というほど優れた能役者であり、50作以上の演目を作った文才ある劇作家であり、多くの理論書で美に熱弁を振るう思想家だ。彼にとって物真似は役に成り切る為に対象を忠実に写す絵画のデッサンであり、幽玄は心に感じた情緒を描く絵画の色彩となり、芸の基本はこれら物真似と幽玄にあった。 現在、能の演目は全部で240番。このうち確実に世阿弥の作品だと判明しているのは『高砂』『忠度』『実盛』『井筒』『江口』『檜垣』『砧(きぬた)』『老松』『頼政』『恋重荷』『野守(のもり)』『西行桜』など50番以上ある。そしてこれらがすべて傑作揃いというからスゴイ!「能を舞うだけでは能を究められない、作ってこそ奥義に到達できる」と考えた世阿弥は、歌舞と幽玄の魅力を最大限に引き出せる理想的な作品を自分の手で作った。そして大半の曲が650年前に完成した当時と同じ詞章(ししょう、脚本)で演じられている。和歌を詠むように響く言葉、心に染み入るメロディーの楽曲は、時代を超えて人々の胸を打つ詩劇になっている。 ※世阿弥が能の美について記した能楽論は『風姿花伝』『花鏡』『至花道』を含め21種に及ぶ。 ※世阿弥の作曲法の基本は、種(題材)、作(作曲)、書(作詞)。これに序(発端)、破(主体)、急(結末)の三則を当てはめる。 ※和歌においても「幽玄」は最高の理想美とされている。謡(うたい)の幽玄、舞の幽玄、鬼にさえ幽玄がある。 ※金春禅竹も作能し、『定家』『玉葛』『小塩』『賀茂』『芭蕉』『楊貴妃』など名作を残している。 ※歴史上、廃曲になったものを含めて2000曲の能が書かれてきた。現在、演じられるのは約250曲。 .--------------------- ★観阿弥 能楽、観世流の創始者。幼名観世丸、通称観世三郎。本名清次(きよつぐ)。観阿弥の名は法名・観阿弥陀仏の略称。伊賀出身。平家の流れを汲む服部元成の三男と言われている(子の世阿弥も先祖が服部氏と語っている)。母親は楠木正成の姉妹とされ、足利の治世なので、ずっと本名を隠していたという。 中世以前の人々にとって最大の娯楽は猿楽と田楽だった。猿楽とは、奈良時代に大陸から伝わった軽業(曲芸)や物真似、奇術などを見せる芸で、身のこなしが猿のように軽快なことからそう呼ばれた。田楽は田植えの際に豊穣を祈った農村の歌や踊りが演目となったもの。 父は猿楽師の養子であり、兄と共に猿楽を受け継ぐ(兄は宝生流の始祖)。妻の出生地、現・名張市小波田で20歳のころ新しく結崎座を旗揚げした。近畿一円の猿楽座や田楽座はそれぞれが有力な寺社の後援を受け(結崎座は春日興福寺、法会の後の余興を担当)、互いにライバルとして技を磨きあった。 芸に対する観阿弥の向上心は非常に強く、従来の猿楽だけでは満足できず、田楽の一忠(いっちゅう、公演は死傷者が出るほど観客が興奮した)、曲舞(くせまい)の乙鶴という他分野の名人からも真髄を学んだ。そして、元来メロディーの美しい大和猿楽に、田楽や曲舞の跳ねるように躍動するリズムをミックスさせた、全く新しい猿楽を誕生させ室町の芸能に新風を吹き込んだ。観客が熱狂をもってこれを受け入れたことから、以後観阿弥は、結崎座の中の演能チームを「観世座」の名で独立させ、さらに精力的に活動し続けた。 観阿弥は大男だったが、猿楽で育んだ物真似の才能で女性から子どもまで器用に演じ分けて観客を沸かせ、舞も披露して人々のハートを鷲掴みにした。また、地方公演では各郷土の好みを織り交ぜるなど工夫を凝らし、自らもペンを取り、台本を書き作曲もした。とにかく先人の長所をどんどん取り入れて、猿楽を進化させていった。1363年、30歳の時に元清(世阿弥)が生まれる。 一座は京都にも進出し、1372年(39歳)、醍醐寺での7日間の公演が大きな評判となる。41歳の時に、観世座フィーバーの噂を聞いた3代将軍足利義満が京都・今熊野で初めて猿楽能を鑑賞し、たちまち観阿弥親子(世阿弥は当時まだ12歳)の虜になり、以降、将軍家の大きな支援を受けることになった。観阿弥はこの時に『翁』(おきな)を舞っており、当1374年が「能楽元年」とされている。その10年後(1384年)、駿河の守護職今川氏の要請で浅間神社で舞った後、巡業先で体調を崩し51歳で客死した。 ※『卒都婆小町』『四位少将(通い小町)』など小野小町を題材にした謡曲や『自然居士(じねんこじ)』を作曲した。 ----------------------------- 世阿弥の墓は一休が住職をした京都大徳寺真珠庵にある。しかし同庵は建物自体が重要文化財に指定されており、内部は非公開!それゆえ、1999年の特別公開に合わせて訪問した。でも、「公開は寺内のみで、一般の方は墓地に入れません」とガードが固く玉砕。僕は“特別公開中に行った為に、かえって普通の観光客と思われ逆効果だったのかも”と考え、4年後に再訪した。お寺の玄関先で随分食い下がったけど、やっぱりけんもほろろ。観世家の人は世阿弥の命日に墓参しているらしいので、かくなるうえは観世家に接近し、同行させてもらうしかないのか…と、僕は頭を抱え込んだ。 |
1.8月8日は世阿弥の命日!墓参に最もふさわしい日だ。はっきり言ってこの日がダメなら、他の日に行っても絶対に無理だろう。※同年は561回忌。区切りのいい600回忌は約40年後。その頃自分はもう80才近くで生きているかどうかさえ分からない。会わせてもらえるまで、とにかく毎年この日に訪問し続けるしかないと腹をくくった! 2.お供え用にお花と線香を携える。墓参がかなわぬときにはせめてお供えだけでもしてもらおう!(今までは線香だけ。しかもカバンの中にしまってたため、観光客と思われたのだろう) 3.酷暑であったがTシャツはやめ、半袖ボタン付シャツ、長ズボンで巡礼。 4.世阿弥への思いの深さを証明するため、以前に訪問していた奈良県川西町の世阿弥生誕の地(&観世流発祥の地)の石碑の写真を持参する。 5.昼間は観世家も来て住職も忙しく、取り次いでもらえないと思い、夕方の一息ついた時間帯に訪問。 |
大徳寺名物『拝観謝絶』のバー(竹棒)の前にて 「頼むぞ…お花と線香、威力を発揮してくれ!」 |
門脇の小さな木戸から入ると、見事な造形美の松が あった。ここまで末広がりのめでたい松は初めて見た。 |
一休さんも住職を務めた真珠庵。建物自体が重要 文化財であり年に一回でも公開されればいいほう。 |
この写真を見せた。世阿弥生誕の地、 奈良県川西町にある面塚 |
父・観阿弥はこの地で観世流を 生み出した。“観世発祥之地”とある |
住職に案内された墓地へ続く道。 ドキドキ、バクバク… |
ついに聖地に到着!この敷地に世阿弥さんがッ! なんかもう、興奮し過ぎて真っ直ぐ歩けない |
住職さん「そこに井戸水があるのでお使い下さい」 おお〜ッ!さすがは室町時代からある墓地じゃ! |
「こちらです。先に戻っていますので、 どうぞごゆっくり」 5年越しの思いが ついに実現した。夢にまで見た瞬間だ! い…い…生きてて良かった!! |
「ハハーッ!」たまらず身を投げ出す! 能という、この世のものとは思えぬ幽玄 で美しい芸術を残してくれたことへの 感謝の言葉を心の中で吠えまくった。 |
小さな墓石が2つ。親子で仲良く並んでいた。 文字はひどく風化していて、どちらが世阿弥 か分からなかった。(このサイトをご覧になった 専門家の方、情報をお待ちしています!!) |
今年(04年)の夏は暑い!冷たい 井戸水でほてった墓石をヒンヤリと 冷やす。2人ともめっさ気持ちよさ そう。ホント、会えて良かった!! |
【お能の基本情報】 ★ステージ上で主役がバックミュージックに合わせて歌い踊るわけで、ジャパニーズ・ミュージカルと思って気軽に楽しもう。初演から650年という超ロングラン作品もいっぱい。全部で200前後のレパートリーがある。能の役者はシテ方、ワキ方、狂言方、囃子方(はやしかた)に大きく分かれている。 ●シテ方…主役。仕手。観世(かんぜ)流、宝生(ほうしょう)流、金春(こんばる)流、金剛流、喜多流の5派。喜多流は江戸時代に金剛流から分かれた。金春流が最も古い。 ●ワキ方…脇役。高安(たかやす)流、福王流、下掛(しもがかり)宝生流の3流。 ●子方…子役。 ●ツレ…シテを補佐する助演者。シテツレ。ワキにつく場合はワキツレと呼ばれる。 ●狂言方…狂言を担当。室町からの大蔵(おおくら)流、江戸からの和泉(いずみ)流の2流。能の演目で前場面と後場面を繋ぐ解説者(進行役)として登場する時は「アイ」と呼ばれる。 ●囃子方…笛・小鼓・大鼓・太鼓という4種の楽器奏者の総称。 ※笛方…能管と呼ばれる竹製の横笛を吹く。一噌(いっそう)流、森田流、藤田流の3流。 ※小鼓(つづみ)方…右肩に小鼓を乗せて打つ。幸(こう)流、幸清(こうせい))流、大倉流、観世流の4流。 ※大鼓方…左ひざに大鼓を乗せて打つ。葛野(かどの)流、高安流、石井流、大倉流、観世流の5流。 ※太鼓方…大きな鼓を2本のバチで打つ。観世流、金春流の2流。 ●地謡(じうたい)…コーラス部隊。 ★基本プログラム お能には「神・男・女・狂・鬼」と呼ばれる5つの基本プログラムがある。この5種類の舞台の合間に4回の狂言が入る。能で幽玄を味わい、狂言に爆笑する、この組合せが最強。現在は1日に全部やるなんて滅多にないけど、演目の順番を選ぶ目安になっている。 1.翁(おきな)…能の基本演目。邪悪を打ち払い、天下泰平、五穀豊穣を祈る。能世界の精神的支柱。 2.初番目物…神の能。「翁」の次に演じられる。代表作は「高砂」「弓八幡」「竹生島(ちくぶしま)」など。神が人々に寿福を与える祝言気分がいっぱいの演目。 3.二番目物…男体の能。修羅物ともいう。源氏や平家など武将の霊が無念の過去をふりかえる。「八島(やしま)」「忠度(ただのり)」「清経」など。 4.三番目物…女体の能。鬘物(かずらもの)ともいう。「平家物語」「伊勢物語」「源氏物語」などのヒロインが、舞に託して過去と変わらぬ恋するキモチを語る。「井筒」「熊野(ゆや)」「羽衣」「野宮(ののみや)」「松風」など。舞を楽しもう。 5.四番目物…他の4種に納まらない物語がここに入るので雑能物と呼ばれる。狂女を描くものが多い。「道成寺」「葵上」「隅田川」「三井寺」「班女(はんじょ)」「安宅」「善知鳥(うとう)」「俊寛」など、ドラマチックな作品が並んでいる。 6.五番目物…鬼や精霊が超人的な能力で活躍する。鬼畜物、切能(最後に演じるので)とも呼ばれる。「土蜘蛛」「石橋」「船弁慶」「殺生石(せっしょうせき)」「紅葉狩」「鞍馬天狗」「猩々(しょうじょう)」など。賑やかな能が多く、観客は楽しい気分で家路につく。 《狂言》お能と一緒に上演される喜劇。近年は単独公演も多い。「末広がり」「福の神」「靱猿(うつぼざる)」など約300番の演目がある。主人公は太郎冠者(たろうかじゃ)という名の召使が多い。他に大名、僧、商人、次郎冠者などが登場。主役はシテ(能と同じ)、脇役はアドと呼ばれる。 能・狂言は650年の歴史が評価され2001年に世界遺産(無形文化遺産)に指定された。能舞台は全国に約70ヶ所あり、南仏など海外にもある。野外の薪(たきぎ)能は大人気で、全国300ヶ所で演じられている。 |
中将 | 孫次郎 | 般若 |
●中将…貴族や天皇、平家の武者の亡霊にもちいる、福来が制作した能面。モデルは平安時代随一のイケメン、在原業平だ。目が印象的だけど、僕は何かを訴えようとする口元にグッとくる。なんて感情的豊かな口元なのか。おはぐろや眉墨は当時の貴族の風習。「清経(きよつね)」「忠度(ただのり)」「雲林院」「融(とおる)」「玄象(げんじょう)」などで使用。 ●孫次郎…孫次郎制作の能面。若くして病で亡くなった孫次郎の妻がモデル。ジッと見てると、どれだけ孫次郎が彼女を愛していたかヒシヒシ伝わってくる。面の裏に「オモカゲ」と彫られているのが、また泣ける。室町時代から600年以上も残ってきたのもスゴイ。重文。 ●般若…女性の髪が描かれているように、これは女性の怒りと悲しみを同時に表現した傑作だ。下を向くと悲哀の極みに、正面から対峙すると憤怒の極みに表情が激変する。「葵上」「道成寺」「黒塚(安達原)」などに使用。 |
墓の台石の文字は一休和尚が書いた |
室町期の能役者。世阿弥の甥(弟四郎の子)で名は元重。観世流3世(実は四代目)。足利義教・義政時代の名手。通称、三郎。音阿弥は法名。世阿弥の養嗣子となるも廃嫡され、義教のバックアップを受けて世阿弥の実子・観世元雅を圧倒した。 |
宝生(ほうしょう)流の芸祖は観阿弥の長兄・宝生太夫で、能楽の流派では観世流に次ぐ第二の規模を誇る。謡を重視 することから「謡宝生」とも呼ばれ、北陸では特に人気が高い。現宗家は2008年に宗家を継承した宝生和英で二十世。 |
観世流シテ方能楽師、梅若家の分家当主。東京出身。父は櫻間伴馬、宝生九郎と並ぶ“明治の三名人”の一人、梅若実(五十二世梅若六郎)。三名人亡き後の第一人者。1921年(52歳)、梅若流として独立するが、10年後(1933年)に観世流に復帰。1946年文化勲章受章。得意曲は「安宅」。弟に梅若六郎。 |
京都四条河原にある阿国像。この場所で男装して“かぶき踊り”を披露、ブレイクした |
JR出雲市駅から、このかわいい一畑電鉄 に乗り換えて出雲大社を目指す。 |
画面奥に見える大きな屋根が出雲大社の本殿だ。24mも あるが、大昔は倍の48mだったという。阿国はこの出雲大社 の巫女さんだった。古くなった大社の改修費用の寄付金集め の為に、彼女は巫女舞踊団を率いて全国を周った。 ※11歳の頃に奈良春日大社で踊った記録もあるという。 |
“出雲の国”とはよく言ったもの。実際、日本海の湿った空気が山に当たって、どんどん雲が生まれていた! |
ついに会えた!この平らな自然石が阿国さんの墓だ! (大社町杵築北) |
嗚呼、至福の極み。夢にまで見た天下一の女性との ツーショット。こんな幸せな事があってい〜のだろうか!? |
草木が墓石を叩き割るように生えていた。エネルギッシュな阿国さんを 象徴するよう。「墓の下で眠ってられるかい!ドリャーッ!」って感じだ (2003) |
京都の大徳寺高桐院にも墓はあるが、 残念ながら非公開。やむなく寺の門前で 自作の舞い“天女のため息”を奉納!(1999) |
阿国の愛人・名古屋山三郎(さんさぶろう) | 一番手前が阿国、奥に見えるのが山三郎 | 山三郎と隣接させてあげようよ〜! |
彼女の踊りがブレイクしたのは1603年。この年が歌舞伎元年と言われており、2003年は歌舞伎誕生400年にあたる。だから自分はなんとしてもこの記念すべき年に巡礼したかった。彼女の踊りは、信長、秀吉、家康が絶賛。戦国の世の頂点を極めた男3人からアッパレといわれたのだからスゴイ。彼女は「天下には女は多いが天下一の女と言われるのは阿国だけ」とまで称された。 いったい阿国の何が当時の人々を熱狂させたのか?何が新しかったのか?彼女の革命は次の3点に要約される。 ・単なる踊りではなく、そこに物語を盛り込んで演劇の要素を加えた!舞台芸術としてドラマチックに進化させた! ・それまで舞いや踊りは、貴族の館で催されることが普通だったのが、阿国は神社の境内や京都鴨川沿いの四条河原などで庶民に向けて踊りまくった。また、能のように“すり足”が基本だった当時の踊りを、足を激しく踏み鳴らすアグレッシブなものへ変えた。阿国はそれまで一部の特権階級が独占していた娯楽(アート)を、一般大衆の誰もが楽しめるものに解放したんだ!※この歌舞伎が生まれた聖地(四条河原)に建てられたのが、現在の京都南座だ。 ・舞台上のいでたちが人々の度肝を抜いた。女性なのに男装して登場したのだ。それも金色の着物に刀の大小を差し、頭はまげを結って、首から十字架をぶら下げるというド派手なもの!女性が侍の格好するなど前代未聞のことであり、人々が仰天して大フィーバーが起こったのも想像に難くない。この常識はずれの「傾(かぶ)いた」風貌からカブキという言葉が生まれた。 それまで誰もやらなかった新しいことに挑戦した阿国さん。クーッ、なんてカッコイイんだ! |
右上の升目は市川の紋 | 初代を含めた歴代団十郎の墓(2006) | 代々の戒名が夫婦で順番に刻まれている |
墓前の花立ては家紋の 三枡(みます)型!(2010) |
初代の両親(右端)から早世した8代目まで名が 刻まれており、まさに歌舞伎ファンの聖地!(2006) |
隣接する9代目の墓。 かなり巨大 |
さらにその隣りには10代目(右)と 11代目(左)の団十郎も眠っている |
こちらは高野山の初代市川団十郎の墓(2005) | 4年後。音声ガイドが導入されていた(2009) |
★『初代』市川団十郎 名門成田屋誕生
本姓堀越、幼名海老蔵。父は甲州武士で武田家滅亡を受けて江戸に出てきた。幼い団十郎は役者に憧れ、11歳で歌舞伎界に入る。初舞台は13歳の時の金太郎役で、市川段十郎の名で中村座にあがった。その後、顔に隈取を描いて表情を誇張し、さらに衣装や動きの豪快さを強調した演技“荒事(あらごと)”を創始、江戸っ子のハートを鷲掴みにしてゆく。33歳、団十郎に改名。成田不動を信仰し、成田山新勝寺に足しげく通っていたことから屋号を成田屋とした。団十郎の活躍は舞台上に止まらず、三升屋兵庫の筆名で脚本も書いていた。順風満帆の人生を送っていたかに見えた団十郎であったが、43歳の時に、女性問題のトラブルから本番中に仲間の役者に脇腹を刺されて殺されるという、歌舞伎の物語さながらの衝撃的な最期を迎えた。以降、現代まで12代にわたって団十郎の名は受け継がれている。市川家の墓地は、初代から8代目までが眠る巨大な墓がひとつあり、そこに9代目、11代目の墓が隣接している。芸を究めんと日々努力した、10人の団十郎300年の想いを感じる墓所だった。
『2代目』(1688-1758)
初代の長男。16歳の時に父が亡くなり、同年団十郎を襲名。25歳、後に市川家の十八番となる名作「助六由縁江戸桜」を初演する。2代目は初代が創始した勇壮な“荒事”に、ひ弱な色男を演じる“和事(わごと)”風味を巧みにブレンドさせ、団十郎の芸域を飛躍的に広げた。47歳、名を養子に譲り、自身は海老蔵に改名する。2代目はその後も日夜に熱心に歌舞伎を研究し、70歳まで長寿した。
※当時の役者の給金は年間100〜200両。『曾我狂言』の280日間のロングランを終えた2代目は、「千両プラス6月は休み」という特権を与えられた。名優を千両役者と呼ぶ始まりだ。
『3代目』(1721-1742)
初代の弟子の子。4歳で2代目の養子になり、14歳で3代目を襲名するが、21歳の若さで病没し舞台の記録はあまり残っていない。
『4代目』(1711-1778) 2代目と芝居小屋の茶屋の娘の間に生まれた子。初代松本幸四郎に師事した後、24歳の時に2代目松本幸四郎を襲名。43歳で2代目団十郎の養子となり、4代目団十郎を名乗る。彼は体格の良かった初代、2代目と違い、身体の線が細く面長だったので、荒事よりも「菅原伝授手習鑑」の松王丸のように、放蕩する若主人を諌める生真面目な役、「実事」(じつごと)を得意とした。また悪人役の「実悪」(じつあく)も演じたので、襲名当時は「市川家の芸風に合わない、団十郎の名を汚す」と非難された。しかし、迫真の演技で観客を唸らせ、最終的に“団十郎は悪人も出来る”と芸域の幅を評価された。59歳、実子に団十郎を譲り、再び幸四郎に復帰。61歳、最後に海老蔵に改名して引退した。役者塾を開いて若手の育成に力を注いだ4代目は、深川の木場に住んでいたことから「木場の親玉」と慕われた。
※侠客とも付き合いのあった4代目は「親方」とも呼ばれ、ここから俳優を親方と呼ぶ風習ができた。
『5代目』(1741-1806) 4代目の子。3代目松本幸四郎の名を経て、29歳で5代目団十郎を襲名する。父親の芸風に習って実悪で名をあげたが、後に女方も兼ねるようになり、ここでまた“団十郎の芸風”が広まった。歌舞伎の全盛期となった寛政の世に君臨した代表的名優。また、多くの文人と交流を持つ教養人でもあった。50歳で名を実子に譲り、“自分は雑魚に過ぎない”と謙虚な彼は蝦蔵に改名した。 『6代目』(1778-1799)
5代目の子。4歳で4代目海老蔵、13歳で5代目団十郎を襲名した。中村座の座頭となって『暫』(しばらく)を演じ好評を博したが、翌年風邪をこじらせ21歳の若さで他界した。
『7代目』(1791-1859) 5代目の次女と芝居小屋の笛吹きの間に生れた子。3歳で叔父6代目(叔父と言ってもまだ16歳)の養子になり、市川新之助を名乗る。続いて海老蔵に改名したが、6代目が急逝した為、わずか9歳で7代目団十郎を襲名した。眼と声が大きかったので市川家伝統の荒事を得意としたが、体格は小柄であったため女方も良くこなした。あらゆる役柄を完璧に演じた7代目は、歴代団十郎の中で最も芸風が広いといわれている。様々な作品の舞台を踏んだ経験から、1832年(41歳)、現代にも伝わる「歌舞伎十八番」を制定した。千両役者・7代目の屋敷は豪華絢爛で、金箔の貼られた不動明王像、銅製の釘隠し、金泥入りの仏壇があり、その暮らしぶりは諸大名以上のものだったという。これが1842年(51歳)、天保の改革の質素倹約令に引っかかり7代目は江戸を追放され、活躍の場を大阪に移す。6人の女性の間に七男五女をもうけた。7代目が筆をとって書き下ろし初演をした『勧進帳』は、今に至るまで歌舞伎の大人気作品だ。 7代目を天保の改革で追放した水野忠邦(世田谷区) 『8代目』(1823-54) 7代目の長男。市川新之助、海老蔵を経て、9歳で8代目団十郎を襲名。歌舞伎史上、最も美貌、品格、名調子が揃った花のある役者とされ、切られ与三など、それまでの団十郎のイメージとは違う役柄に持ち味を出した。そんな8代目を悲劇が襲った。(詳しくは以下、の8代目特集を参照)
『9代目』(1838-1903) 7代目の5男。本名堀越秀。36歳で9代目団十郎を襲名。7代目と同様に様々な役をこなし、5代目尾上菊五郎、初代市川左団次と共に「団菊左」と呼ばれた明治を代表する名優。時代考証を重視した史実に忠実な筋、写実的な演技による“活きた歴史の絵巻”という意味の「活歴物」を創始し、歌舞伎の近代化を図った。9代目は30歳の頃に明治維新を迎え、新政府が身分制の廃止を決めたことを大いに喜んだ。江戸時代、俳優は卑しい職業とされ、役者は外出の際に編笠を被るよう義務付けれていたのだ。49歳の時には皇室の前で天覧歌舞伎を行ない、歌舞伎と役者の社会的地位の向上に努めた。
『10代目』(1882-1956)※青山霊園に墓はないけど豆知識として。
9代目の長女の婿養子。28歳の時に俳優を志し、35歳で5代目市川三升を襲名する。しかし、長年にわたり芸を磨いたものの、役者としてついに大成せず74歳で亡くなった。死後、10代目団十郎の名を追贈された。
『11代目』(1909-1965) 7代目松本幸四郎の長男。本名堀越治雄。1940年、31歳の時に10代目の養子になり9代目市川海老蔵を襲名、戦後に2枚目を生かした助六や「源氏物語」の光君が絶賛され、「海老さまブーム」を呼んだ。53歳で11代目団十郎を襲名し、重厚さの加わった演技に大きな期待が寄せられる中、襲名の3年後に胃ガンのため56年という人生の幕を閉じた。 ※豆知識/屋号…歌舞伎役者に観客が掛け声をかける際、江戸時代の歌舞伎役者は、身分が低く名字を名乗ることが許されなかった為、出身地や家の商号、紋にちなんだ屋号をつかった。初めて屋号を使った役者は成田屋こと市川団十郎で、成田不動を信仰していたことによる。中村歌右衛門の成駒屋、尾上菊五郎の音羽屋、松本幸四郎の高麗屋などがある。 ※歌舞伎十八番には「景清」「関羽」「解脱」「鎌髭」の4作の景清物がある。近松が文楽で「出世景清」をヒットさせたのがきっかけ。 ※「十八番」と書いて“おはこ”と呼ぶのは、歌舞伎十八番の台本を納める箱からきているという。 ※成田市の東光寺に二代目が建立した初代の供養碑がある。 |
とても巨大な供養塔 |
当代きってのイイ男! |
旅姿になってあの世へ旅立とうとする八代目を、女性たちが必死でこの世へ |
ネコもニャ〜ン(涙) |
||
八代目は歌舞伎史上最高のイケメンといわれ、女性の圧倒的人気を得ていた。 |
「行かないでーッ!」無数の女性が しがみつき凄いことになっている… |
江戸時代きっての美形役者八代目は31歳で自害した。父の7代目は歌舞伎十八番を定めたり、名作『勧進帳』を世に出した才人だったが、経済観念ゼロ。諸大名以上のド派手な生活を続け、幕府の怒りを買い江戸を追放される。借金取りに追われる身となった7代目は、8代目が江戸で公演中にもかかわらず、勝手に大阪で父子競演のイベントを企画、前金を興行者からもらっていた。 1854年8月、江戸から呼び寄せられた8代目は東と西のWブッキングという異常事態に直面、どちらの舞台に立つべきか苦悩する。『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』(別名「お富与三郎」)の大坂公演初日、なかなか楽屋入りしない8代目を付き人が島の内御前町の旅館植久の一室に呼びに行くと、紋付を着て正装した8代目が短刀を喉に突き刺し、血の海に果てていた。遺書には「死して義を重んじ孝を捨てる。これが役者の責任の取り方でござる」とあった。当時、有名俳優が亡くなると版画の絵姿がすぐに売り出されたが、8代目の場合は名優であっただけでなく、美形、若い、悲劇という3拍子も揃っていた為、熱狂的ファンの若い女性が版画店に殺到。絵の種類は、一人としては前代未聞の300種以上にのぼった。 |
●歌舞伎十八番(7代目が制定した)
※題名、初演者、初演年の順です 1.不破(ふわ)…初代団十郎/1680・延宝8年
2.鳴神(なるかみ)…初代団十郎/1684・貞享元年 3.暫(しばらく)…初代団十郎/1697・元禄10
4.不動(ふどう)…2代目団十郎/1697・元禄10年
5.嫐(うわなり)…初代団十郎/1699・元禄12年 6.象引(ぞうひき)…初代団十郎/1701・元禄14年 7.勧進帳(かんじんちょう)…初代団十郎/1702・元禄15年 8.助六(すけろく)…2代目団十郎/1713・正徳3年 9.外郎売(ういろううり)…2代目団十郎/1718・享保3年 10.押戻(おしもどし)…2代目団十郎/1727・享保12年 11.矢の根(やのね)…2代目団十郎/1729・享保14年 12.景清(かげきよ)…2代目団十郎/1732・享保17年 13.関羽(かんう)…2代目団十郎/1737・元文2年 14.七つ面(ななつめん)…2代目団十郎/1740元文5年 15.毛抜(けぬき)…2代目団十郎/1742・寛保2年 16.解脱(げだつ)… 4代目団十郎/1760宝暦10年 17.蛇柳(じゃやなぎ)…4代目団十郎/1763・宝暦13年
18.鎌髭(かまひげ)… 4代目団十郎/1769・明和6年 初代団十郎が6本、2代目が7本、4代目が3本。 |
歌右衛門は加賀出身 | 墓石に紋(祇園守)が入る | 六代目歌右衛門が墓所を整備 |
金沢出身。江戸時代中期に謀叛人・盗賊など、ワルの中のワル、“実悪”(じつあく)という役柄を確立した。本名、大関栄蔵。定紋は祇園守。父親は医者。子供の頃から芸事が好きで、16歳頃から旅役者の一座に加わっていた。1741年頃(27歳)、中村歌右衛門を名乗る。地方巡業で実力をつけ、1742年11月に28歳で京の舞台にデビュー。その6年後に大坂へ出て「冬篭妻乞軍」の久能谷金吾役が当たり役となり人気役者の仲間入り。1757年(43歳)には江戸にも進出し、3年後に「聖花弓勢鑑」の七変化所作事で大ブレイク。京都、大坂、江戸の三都を制覇した。初代歌右衛門は脚本家としても中村嘉七の名で活躍し、1791年に死去。
「中村歌右衛門」の名跡は現在まで6代をかぞえる。四代目までが立役を得意とし、五代目以降は女形として名を馳せる。中村富十郎、中村勘三郎の系統以外のあらゆる中村姓は、歌右衛門の子孫や門弟から派生したものだ。屋号は上方で活躍した三代目までが「加賀屋」、江戸(東京)で活躍した四代目以降が成駒(なりこま)屋。初代歌右衛門が江戸で四代目市川團十郎と友情を深めたことが縁となって、四代目歌右衛門が團十郎の“成田屋”から一字をとった成駒屋に改名した。 |
右が四代目歌右衛門、左が初代鴈治郎 | 裏側に四代目とある |
墓碑には本名の河村藤雄の名が彫られており、 墓前の花入れにはコアラが抱きついている。 |
墓のすぐ側には飼い犬(?)の お墓があり心が温まった |
5代目の次男で、初代(1714〜91)は金沢出身。5歳の時に3代目中村児太郎として「真田三代記」の舞台に立つ。「本朝廿四孝」の八重垣姫、「鎌倉三代記」の時姫、「金閣寺」の雪姫という“三姫”(女形の難役)を10代にして演じきった。16歳で6代目中村福助、24歳で中村芝翫となり、1951年(34歳)に6代目中村歌右衛門を襲名し、戦後歌舞伎のリーダー的存在となる。当たり芸は「籠釣瓶」の八ッ橋、「関の扉」の墨染、「隅田川」の狂女。他にも「助六」の揚巻、「先代萩」の政岡、「妹背山」のお三輪、「忠臣蔵」の戸無瀬を得意とし、時代物の姫や女房から傾城(けいせい、高級遊女)まで、優雅に気品をもって演じた。1960年(43歳)には歌舞伎初の海外公演をアメリカで成功させ、その後も英、仏、旧ソで舞台に立ち、歌舞伎の紹介に努める。史上最年少(46歳)で日本芸術院会員に選ばれ、50歳で人間国宝に。62歳、文化勲章受賞。1994年(77歳)からは歌舞伎界では初の舞台監督となった。映画やテレビドラマには一切出演せず、舞台だけを活躍の場とし、次世代の指導に尽力した。持って生まれた美貌と気品、情念を込めた演技、歌舞伎伝承にかけた情熱で「女形の至宝」と賞賛された。屋号は成駒屋。「芸というものは、行きつくところはありません」が口癖だった。 歌右衛門は動物好きで、ぬいぐるみを大量に集めていた。特に大好きなのはコアラで、「コアラが見たい」とオーストラリアを旅したことも。楽屋に入る時はいつもコアラのぬいぐるみ「ココアちゃん」を抱いていた。ココアちゃんは寝る時も、海外公演時も常に一緒で、葬式の際は棺に納められた。ココアちゃんは今、墓前の花入れに抱きついている。また、歌右衛門の墓の近くには飼い犬のお墓もあり心が温まる。優しい墓だ。定紋は祇園守。替紋は裏梅。 |
世界に歌舞伎の魅力を伝えた。左からゲーリー・クーパー、歌右衛門、グレース・ケリー 「外国に出てこそ歌舞伎がいかに大事かということがわかります」(6代目歌右衛門) |
大雲寺(役者寺)は歌舞伎ファンの聖地。 この写真の区画はすべて歌舞伎俳優の墓だ |
向かって左が3代目中村勘三郎、 右が初代から13代目までの合葬墓 |
左から3代勘三郎、初代〜13代勘三郎、4代〜6代 松本幸四郎、初代〜6代瀬川菊之丞の墓が並ぶ |
初代勘三郎は江戸で最初の歌舞伎劇場とされる中村座の開祖であり、座元の先駆け。歌舞伎の俳優の名では最も歴史がある。6代目尾上菊五郎と兄吉右衛門の芸風を受け継ぎ、老若男女の役柄を幅広くこなした。その愛嬌あふれる名優ぶりは、長男の18代目(5代目勘九郎)にも引きつがれている。孤独感の漂う“俊寛”の名演は忘れられない!※18代というのは、今も使われている名跡の中で一番代数が多い。 |
本名、波野辰次郎。浅草生まれ。屋号は播磨屋。定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。三代目中村歌六の次男。十七代目中村勘三郎、、三代目中村時蔵は弟。八代目松本幸四郎は娘婿。11歳で初舞台を踏み、大正から昭和にかけて六代目尾上菊五郎と並ぶ名優として高い評価を得た。父を亡くして後ろ盾のいなかった六代目中村福助の才能を見抜き、六代目中村歌右衛門を襲名させ昭和を代表する名女形に育て上げる。1951年(65歳)、文化勲章を受章した。 |
左が初代鴈治郎、右が4代目歌右衛門 | 墓石の裏側に「初代中村鴈治郎」 |
「中村富十郎一門之墓」は人間国宝の五代目中村富十郎が建立した
|
境内にある片岡家の記念碑。実は初 墓参の際、これを墓と思ってた(2008) |
「十一代目」が建立 |
墓石の上の定紋が超巨大!(2010) |
読者の方から「墓は境内の奥」と教えて頂く | こちらが最近整備された片岡家の歴代合祀墓!(2010) |
元禄時代から続く上方の名跡の祖。7世以後の屋号は松嶋屋で当代は15代目。初代は三味線弾きから役者となり、京都で修業を積み大坂で活躍。大柄で鋭い目つきだったことから、荒事の名人といわれ、敵役(かたきやく)では右に出る者がいなかった。1709年(53歳)から京都で立役となり晩年は実事(じつごと)を十八番にした。定紋は“丸に二引き”。 |
倒壊しないように鉄骨で補強 |
大きく「南無阿弥陀仏」と彫られている |
左から尾上菊五郎、3代坂東彦三郎、坂東彦三郎(3代 〜7代の合葬)、市村羽左衛門(初代〜16代)と並ぶ |
大阪にも墓。浄運寺の山門(2014) |
初代尾上菊五郎(解脱院染誉梅幸無心信士)と2代目 (梅幸院夏月涼風信士)の合同墓。左隣の墓は5代目坂東彦三郎 |
音羽屋の紋。2012年に 再建されたため新しい |
大雲寺は歌舞伎俳優の墓がたくさん あることから、“役者寺”と呼ばれている |
初代から16代目までが一緒に眠っている |
右から羽左衛門、坂東彦三郎(3代〜7代の合葬)、 3代坂東彦三郎、初代尾上菊五郎と並ぶ |
あ・うんの呼吸が見事だったという伝説の2人。羽左衛門(うざえもん)は華やかなスター性を持った典型的な二枚目の立役。梅幸はホッソリとした美貌で女方の華となり、養父5代目菊五郎や羽左衛門の相手役として大活躍した。5代目菊五郎は大変芸に厳しく、ある興行で養子の梅幸の芝居がまずいと、自宅に呼び寄せ稽古のし直しを命じた。いつになっても気に入らず毎日稽古は続き、やっと菊五郎が「これでよし」と言った時は、すでに興行の千秋楽から2日も過ぎた後だったという。※近年「尾上」は主に女形の名跡となっている。 |
切手になった義太夫 | 1999 大阪・天王寺 | 2004 東京・両国 |
義太夫節の創始者。浄瑠璃(太棹の三味線にのせた語り物)を力強い重厚なスタイルに変えた男。大阪天王寺の農家出身。本名五郎兵衛。幼い頃から浄瑠璃に夢中で、10代には芸に優れた者として近郊で名が知られていた。長じて豪快な語り口が特徴の播磨節創始者・井上播磨掾(じょう)の高弟・清水理兵衛の下で修業を始める。1676年、25歳の時に理兵衛の大阪公演でワキ(脇太夫、太夫の補佐)を務めたが興行は失敗に終わり、理兵衛は表舞台から消えた。翌年に繊細優美な語り口で知られる京の宇治加賀掾(嘉太夫)に招かれ、「清水五郎兵衛」(師の名と本名を合体)の芸名でワキを務めた。この公演で義太夫は次のように高く評価された。「もともと大声で、高音と低音が共に揃い、まな板に釘を打つような大声で、どれほど大きな小屋でも、後方まで声が届かぬことはない。見物人の喜びは大変なもので、加賀掾も五郎兵衛の浄瑠璃が気に入った」。 公演は好評だったが、加賀掾が興行主の竹屋庄兵衛と喧嘩別れしたので、義太夫はこれを機に庄兵衛と組んで26歳で独立。さっそく単独で興行を打ったが、演目に新鮮味が無く大失敗。数年の間地方巡業に出て修業を重ね、1684年(33歳)、彼ならではの独自の節回し(後の義太夫節)を確立、名を竹本義太夫と改め、大坂道頓堀に人形浄瑠璃の常打ち小屋・竹本座を旗揚げした。 ※京で義太夫の初公演が大ゴケした後も、竹屋庄兵衛は7年間ずっと彼を応援してくれた。その感謝を込めて姓を「竹本」とした。 竹本座のこけら落としに義太夫が選んだ作品は、前年に加賀掾が京でヒットさせた近松門左衛門の『世継曽我』。そして竹本座もまた大成功をおさめた。翌1685年(34歳)、義太夫はさらに2本の近松物を公演するが、これらの演目が加賀掾の十八番と被っていたので、弟子同然だった者からの挑発行為と受け取った加賀掾は、井原西鶴と組んで京から大阪に乗り込んできた。迎え撃つ形になった義太夫は近松の『賢女手習并新暦』を上演、文楽史上に残る両者の対決は、“情”が炸裂する「義太夫節」の新鮮さや、加賀掾の小屋が火事で全焼した不幸もあり、義太夫側の勝利となった。 1686年(35歳)、義太夫は新作を近松に依頼し『出世景清』を書き下ろしてもらう。平家の侍大将・平景清が壇ノ浦後に頼朝暗殺を狙う物語で、従来は悪漢とされてきた景清の内面の弱さを描いた。これは革新的なことで、それまで善人・悪人という単純な構図しかなかった浄瑠璃界に新風を巻き起こした。この結果、『出世景清』以前にあった、単に出来事だけを描いた浄瑠璃は古浄瑠璃、以降の性格描写を重視した浄瑠璃を新(当流)浄瑠璃と区別するようになった。 その後、1698年(47歳)に義太夫は朝廷に召されて筑後掾・藤原博教の名を賜るなどしたが、近松は歌舞伎の世界に興味を移し、客の多くも歌舞伎に流れていった。 1703年(52歳)。歌舞伎に客を取られて借金を重ねていた義太夫は、2歳年下の近松に「頼む、近松、助けてくれ…人形浄瑠璃の灯が消えてしまう」と、起死回生となる新作の執筆を依頼。これを受けて近松は、大阪曽根崎で起きたばかりの若者の心中事件を題材にした『曽根崎心中』を書き下ろす。これは革命的作品となった。それまでの浄瑠璃は歴史上の英雄・豪傑を主人公にした武勇伝ばかり。そこへ同時代を生きる名も無き町人の男女を主人公に持ってきたのだ。竹本座は義太夫を筆頭に、三味線名人・竹沢権右衛門(ごんえもん)、名人形遣い・辰松八郎兵衛(後にゼンマイ人形を開発)、後援者・竹田一族という最強の布陣で上演に挑み、『曽根崎心中』は空前の大ヒット作となった。義太夫はこれ1本だけで長年の借金をすべて完納することができたという。 1705年(54歳)、借金は返済したものの、義太夫は浄瑠璃語りと劇場の経営を両立することは不可能と判断、竹本座をたたむことを決めるが、二代目竹田出雲が座本(興行主)を引き受けてくれることになり、義太夫は浄瑠璃語りとして芸を磨くことに専念できるようになった。竹田出雲は近松を座付作者に迎え、竹本座は隆盛を極めていく。竹本座の創設から30年、一座は130をこえる作品に取り組み、義太夫は大阪芸能界の象徴として芸を高め続けたが、1714年、63歳で冥途の旅路についた。 義太夫の語り口は、客席の隅々まで響き渡る天性の大声によって剛健無比と言われたが、決して粗野なものではなく、当時の古浄瑠璃各派の様々な語り口を研究し、播磨掾一派から学んだ豪放な語りに、加賀掾から得た繊細さ・艶やかさをブレンドし、他にも様々なジャンルから長所を採り入れて、自らの「義太夫節」を大成させた。強弱・硬軟を巧みに語り分けて人間の内面をリアルに描写し、観る者の魂を人形と一体化させ、ついには浄瑠璃という言葉が義太夫節を指すまでになった。 墓所は614年に太子が建てたという古い歴史を持つ大阪市天王寺区の超願寺。風雨による侵食を避ける為、墓石には屋根と囲いがあった。生誕地は超願寺から南へ約100mほど行った辺り。四天王寺西門墓地にも義太夫の墓はあり、こちらはライバルの豊竹若太夫と並んでいる。東京両国の回向院には、浄瑠璃ファンの東京議会議長が大正7年に建てた追悼墓があり、竹本座の旗揚げから300年目の1983年、「義太夫節三百年」をうたって『曽根崎心中』の道行が墓前で献奏された。 「芸には天分(天性の才能)が関わってくる。これはどうしようもない。だから誰でも芸に到達できるものではない。おのずと芸の出来る芸人は、選ばれてくる。しかし、生き甲斐や人生の喜びは天分と関係ない。天から与えられたものを大切にし、自分に不足しているものを満たしていく努力こそ、一番大切なのである。だが、既に天分を持っている者でさえ、懸命に努力しているのだ。では、天分を持っていない我々はどうすればいいのか。それこそ、文字通り死ぬ気で血と汗を流さなければ、とても芸に到達できる筈もない」(竹本義太夫) ※竹本座のライバル、豊竹座を起こした豊竹若太夫は義太夫の元弟子。渋く重厚な芸風の竹本座と、華やかで技巧的な豊竹座は“竹豊時代”と言われる一時代を築き、互いに芸を磨きあった。1724年の大火で両座とも燃えてしまった。 |
墓地のの階段脇に眠る |
お寺の人の案内では左が初代の墓らしい |
台座の角に 「豊竹筑前」 |
右の墓にも中央に「豊竹 筑前少掾」とあった。2代目? |
浄瑠璃義太夫節の太夫。1733年(33歳)、豊竹座に初出座。4年後には竹本座にも上がり、1738年から竹本此太夫を名乗る。頭角を現した彼は竹本座の中心となり、「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」などを語って人気を博す。1748年(48歳)、人形遣いの吉田文三郎と演出をめぐって衝突し竹本座を退座する。その後、豊竹座へ移籍し豊竹此太夫と改名。受領すると豊竹筑前少掾藤原為政を名乗った。低い声でも華やかな語り口は、今も「筑前風」と呼ばれている。 |
銀山寺の山門 | 人形の所作に気品! |
「玉芸院釋究徳」。徳兵衛の“徳” | 墓参する方は後方の屋根の位置を参考に | 側面に“文楽人形遣い”とある |
人形浄瑠璃の人形遣い。立役(男役)。本名、上田末一(すえいち)。大阪府出身。1933年に14歳で吉田玉次郎に入門。2度の出征を経験。戦後、『曽根崎心中』の徳兵衛役が当たり役となり、生涯で1136回務めた。1977年(58歳)、重要無形文化財保持者(人間国宝)認定、2000年(81歳)文化功労者受賞。2006年9月24日、肺炎により他界。享年87。 |
浪花節の名手。浪花節は、大坂で成立した三味線を伴奏とする義理人情を主題とした語り物。浪曲師。本名は山本幸蔵。群馬県出身。はじめ九州・関西で人気を得、1907年(34歳)に東京本郷座で「義士銘々伝」と題し赤穂義士の事跡を口演。迫力ある節調で大ヒットとなる(レコードの普及も人気に火をつけた)。 雲右衛門は寄席から劇場へ進出し、浪曲界の黄金期を築くが、肺結核により43歳で病没。戒名は「桃中軒義道日正居士」。浪曲の内容を高め、地位向上に尽くした浪曲中興の祖。村田英雄は孫弟子。 |
「芳村伊三郎」は長唄の名跡で現在は9代目 | “斬られ与三郎”のモデル | 側面に「四代目」とあり |
江戸長唄の師匠。上総生まれ。本名は中村大吉。1846年に芳村伊千五郎が4代目伊三郎を襲名。若い頃に地元親分の妾“きち”との情事がバレてめった斬りにされ、海に放り込まれるが一命をとりとめる。8代目市川團十郎が伊三郎の全身の刀傷を見た縁で、伊三郎は歌舞伎の世話物の名作『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』(別名「お富与三郎」)の主人公、34箇所の刀傷を売りものにする“斬られ与三郎”のモデルとなった。また、きちは“お富”として描かれた。 ※1954年に春日八郎が歌う『お富さん』が125万枚の大ヒット曲となり、歌詞の「死んだ筈だよお富さん」は社会現象になるほどの流行語になった。 ※“与三郎”は八代目市川團十郎の当たり役となった。八代目團十郎は江戸で成功した翌年、大坂で当作品の初日にダブルブッキングの“けじめ”として自刃。 |
ニジンスキーの再来とまで言われた20世紀バレエ界の帝王。ソ連出身。シベリア鉄道の車内で生まれたという。17歳までバレエを公式に勉強する機会は無かったが、ロシアを代表するキーロフ・バレエ(現マリインスキー・バレエ)に入団してからメキメキと頭角を現し、英国ロイヤル・バレエ、パリ・オペラ座バレエといった世界3大バレエ団の舞台に立ち、その全てのバレエ団でトップに君臨した。ヌレエフの名はアラビア語で“光の”という意味の姓「ヌリー」をロシア風に改姓したもの。優雅さと野性味の両方を持ちあわせ、人々はヌレエフが歩いただけで拍手したという。 1961年(23歳)、海外公演の途中で亡命しオーストリア国籍を取得。英国ロイヤル・バレエのゲストとしてマーゴ・フォンテインと組む。後年、パリ・オペラ座芸術監督として、シルヴィ・ギエム、シャルル・ジュド、マニュエル・ルグリなどを世に送った。決して保守的にならず、フォーサイスなど現代作品を積極的に採用。1993年、エイズの合併症で他界。享年54。ヌレエフ版『白鳥の湖』のプレミアで行われた89回のカーテンコールはギネス記録。 ヌレエフの墓は豪華な織物にくるまれており、墓前には彼の超華麗驚異的ジャンプの写真が飾られていた! |
ウッヒョ〜ッ! | 帝王ヌレエフと夢の競演! | 腰の角度が正反対なのはご愛嬌 |
2002 | 2009 |
20世紀初頭の伝説的バレエダンサー、振付家。ポーランド系ロシア人。サンクトペテルブルクの帝室バレエ学校で学び、18歳で帝室マリインスキー劇場の主役に抜擢された。1909年、19歳でマリインスキー劇場を出てパリでディアギレフ率いるバレエ・リュッスに参加。すぐに頭角を現し花形の第1ダンサーとなる。 この当時、バレエは一般に女性が踊るものだったが、「空中に止まっているように見えた」と言われるほど滞空時間が長く、かつ、美しいジャンプをする彼の登場で、男性バレエダンサーの時代が到来した。パリの観客はニジンスキーを崇拝した。 フォーキンの振付による「ばらの精」「ペトルーシュカ」「シェーラザード」「レ・シルフィード」などバレエ史にのこる名作を初演。ディアギレフに勧められて、1912年、23歳のときに『牧神の午後』」で自らも新境地をひらく振付を行った。裸体に近い衣装のうえ、「まったく跳躍シーンがない」ことで観客の度肝を抜き、自慰の描写がセンセーションを呼んだ。公演後に楽屋を訪れたロダンは、感動のあまりニジンスキーを抱きしめたという。 翌1913年(24歳)、『春の祭典』を振り付ける。ニジンスキーはバレエ史で初めてダンサーを“内股”で立たせる振付革命を起こし、これが20世紀バレエの幕開けとなった。この作品はストラビンスキーの聴き慣れない前衛音楽、見たこともない振付、「少女が死ぬまで踊って自らを生け贄として捧げる」と過激な内容から、初演は怒号と喝采が入り乱れ騒乱状態となった。 1913年(25歳)、バレエ・リュスは南米公演を行うが、ディアギレフは占いで水難の相が出たため船旅を避け参加しなかった。ニジンスキーは巡業中にハンガリー人バレリーナのロモラと恋に落ち、ブエノスアイレスで結婚式を挙げた。ディアギレフはニジンスキーと同性愛関係だったことから、結婚の知らせを聞き嫉妬で怒り狂い2人とも解雇する。ニジンスキーは自らバレエ団を結成するが興行師の才能がなく、この試みは失敗に終わった。解雇事件から3年が経った1916年(28歳)、ディアギレフはバレエ・リュスの米国ツアーにニジンスキーが必要と考え呼び戻し、ニジンスキーは『ティル・オイレンシュピーゲル』を振付けた。 1918年、30歳の若さで統合失調症になり、翌1919年(31歳)に静養先のスイスで行った公演が最後のものとなった。それから後半生の32年間は精神病院をたらい回しにされ、1950年4月8日にロンドンで他界する。享年60歳。1953年、ロンドンの墓地からパリのモンマルトル墓地に改葬され、後年ニジンスキーが演じた道化師ペトルーシュカ像が設置された。ニジンスキーの舞踏の映像は一つも残っておらず、神格化を加速させた。 チャップリン「ニジンスキーが舞台に出た途端に私は大変な興奮を覚えた。生涯に出会った数少ない天才の1人だ。素晴らしく魅惑的な踊り手だった。その動きは詩のようで、ジャンプは空想の国への旅立ちだった」 |
2005 | 2009 | プティパ |
バレエの歴史上、最も有名な振付師。1869年(51歳)、マリインスキー劇場のバレエ監督に就任。以降35年間、チャコフスキーの3大バレエ「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」やレオン・ミンクスの「ドン・キホーテ」などを振付けし、生涯に約60作品もの振付けを担当した。 |
「天才を見つける天才」、ロシア出身のバレエ・プロデューサー。興行師。総合芸術としての新しいバレエを創造した。 当初は作曲家を目指していたが師リムスキー・コルサコフに才能がないと指摘され断念。義母の莫大な遺産を手に西洋絵画を買い漁り、1897年(25歳)以降6回にわたって展覧会を開催し、皇帝一家が鑑賞に来るほど人気を集めた。 27歳で進歩的な芸術雑誌「芸術世界」を創刊、印象派や浮世絵をロシアに紹介する。1905年(33歳)、ペテルブルクのタヴリーダ宮殿にて絵画約3000点を展示した大規模な「ロシア歴史肖像画展」を開催。これらの成功を受け、ディアギレフは西欧にロシア文化を紹介しようと考え、1906年(34歳)、パリのプチ・パレでロシア人画家の大型展覧会を開催し成功させた。ディアギレフは絵画に続き、今度はロシア音楽を紹介すべく奮闘。1907年(35歳)と翌年に「ロシア音楽演奏会」を開催、ラフマニノフ自身のピアノによる『ピアノ協奏曲第2番』、リムスキー=コルサコフ、スクリャービンらの自作演奏、ニキシュ指揮のチャイコフスキー『交響曲第2番』、ムソルグスキーの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』全幕上演など、超豪華ラインナップで挑み、大成功を収めた。 1909年(37歳)、ロシア絵画、ロシア音楽に続く第3弾としてディアギレフはロシア・バレエをパリで上演する野心を抱く。フランスでは17世紀にバレエが芸術として発展したが、20世紀のパリでは単なる娯楽として軽視されていた。ディアギレフはバレエをダンス、ドラマ、音楽、美術を統合した総合芸術と考えており、バレエ復権という理想を実現するためロシア・バレエ団の結成を計画。ロシアの振付家ミハイル・フォーキン(当時29歳)、マリインスキー劇場を出た天才舞踏家ニジンスキー(当時21歳/1888-1950)、アンナ・パブロワ(当時28歳/1881-1931)らと共にパリで「バレエ・リュッス(ロシア・バレエ団)」を旗揚げした。演目の『レ・シルフィード』『イーゴリ公〜だったん人の踊り』『アルミードの館』『クレオパトラ』は大喝采を呼んだ。特に「だったん人」の男性ダンサーの群舞は鮮烈な印象をパリっ子に与えた。 ●バレエ『レ・シルフィード』(注:1832年の古典バレエ『ラ・シルフィード 』と別作品)の音楽は、ショパンのピアノ曲をグラズノフが管弦楽用に編曲したもの。 ●“シルフィード”の名は、地・水・風・火の四大精霊(エレメンタル)のうち、風の精シルフの女性形。ちなみに水の精はニンフ(ウンディーネ)、火の精はサラマンダー、地の精はノーム(ピグミー/グノーム)。 これらの上演に私財を注ぎ込みすぎてディアギレフは破産状態になったが、翌年以降の公演に向けて若きストラビンスキーに『火の鳥』を、ラヴェルに『ダフニスとクロエ』の作曲を依頼した。 1910年(38歳)、パリ・オペラ座で『火の鳥』、『シェヘラザード』などを上演し再び成功を収める。 ディアギレフはロマン派的な『ジゼル』(1910)、シュルレアリスム的な『パラード(見世物小屋)』(1917)、豪華なロシア帝室スタイルの『眠れる森の美女』(1921)など、あらゆる分野のバレエを上演し、バレエ・リュッスは20世紀のバレエに絶大な影響を与えた。バレエ・リュッスの公演は各地で大成功を収め、ディアギレフの名は欧州全土に響き渡った。 1929年8月19日、旅行中に糖尿病が悪化し、ヴェネツィアで客死。生前パリで「水辺で死ぬ」と占いで予言されたことをきっかけに船旅を避けていたが、占い通りに「水の都」ヴェネツィアで没した。享年57歳。葬儀費用の全額をシャネルが負担した。ヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬され、後にストラビンスキーが同じ墓地に眠った。ディアギレフの死でバレエ・リュスは解散した。 ディアギレフは他人から才能を引き出す能力に極めて優れ、バレエ・リュッスと組んだ芸術家が時代をリードしていった。ロシアの画家で近代舞台美術の開拓者レオン・バクスト(1866-1924)は『牧神の午後』エキゾチックな衣装をデザインし話題をさらった。画家のマティス、ブラック、ユトリロ、ピカソ、詩人のコクトーもバレエ・リュッスに関わり、作曲家ではストラビンスキーが「火の鳥」(1910)、「ペトルーシュカ」(1911)、「春の祭典」(1913)、「結婚」(1923)、「ミューズを導くアポロ」(1928)などの名作を提供し、ラベルは「ダフニスとクロエ」(1912)、エリック・サティは「パラード」(1917)、ファリャは「三角帽子」(1919)、ミヨーは「青い汽車」(1924)をバレエ・リュッスのために作曲した。バレエ・リュッスの出身の有名振付家は、プティパ直系で新古典主義を確立したニューヨーク・シティ・バレエの生みの親ジョージ・バランシン(1904-1983)、22歳で『パラード』を振付し『三角帽子』も振付したレオニード・マシーン(1895-1979)、ニジンスキーの妹ブロニスラバ・ニジンスカ、衰退していたパリ・オペラ座を復興させたセルジュ・リファール(1905-1986)など。 プロデューサーで名前を残している人物はそういない。プロデューサー第1号のディアギレフであればこそ。 ※ミハイル・フォーキン(1880-1942)…ロシア出身のダンサー・振付家。伝統に縛られ硬直化していたクラシック・バレエに新しい生命を与え、バレエに新時代をもたらした。サンクトペテルブルクに生まれ、帝室バレエ学校で学び、1898年帝室マリインスキー劇場にソリストとして採用される。だが、当時のバレエでは、ダンスは名人芸の見せ場にしかなっておらず、音楽はただ鳴っているだけ、衣装やセットも質が低いとの強い不満を抱く。1905年、25歳から振付師・教師として活躍し、この年アンナ・パヴロワのために振り付けた「瀕死の白鳥」で注目を浴びる。フォーキンがダンス、音楽、舞台美術が1つに統合されて劇的効果をあげる総合芸術としてのバレエを目指していたところ、1909年(29歳)、同じ理想を持っていた興行師ディアギレフに勧誘されバレエ・リュッス(ロシア・バレエ団)の設立に参加する。「ソロよりも群舞でドラマの雰囲気をつくりだすべき」と考え、『レ・シルフィード』(1907)、『ダッタン人の踊り』(1909)、『シェヘラザード』、 『火の鳥』(1910)、『バラの精』、『ペトルーシュカ』(1911)などバレエ・リュス初期の傑作を振り付けを担当して黄金時代を築いた。 1912年(32歳)、『ダフニスとクロエ』初演時に上演時間等でディアギレフと意見が衝突、さらにニジンスキーが『牧神の午後』の振付で台頭し、同年のうちにフォーキンはバレエ・リュスを脱退した。だが翌年にニジンスキーがプライベートな問題でディアギレフから解雇され、バレエ・リュスに一時復帰するが、1914年(34歳)に再び別れてロシアに帰国する。その後、ロシア革命を経て40歳で渡米し、1922年(42歳)にニューヨークで「フォーキン・バレエ」を結成。1929年(49歳)、ディアギレフが57歳で他界。1932年(52歳)に米国帰化、生涯で70を超える作品の振り付けを行い1942年8月22日に62歳で他界した。 |
浄瑠璃神社(おそらく日本で唯一) | 『祈願 芸能上達』! | 2014年の競争率は26倍! | 応援しています! |
|