政治家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

政治家(海外)コーナー

36名

アイゼンハワーの墓
アウグストゥスの墓
アジェンデの墓
ウッドロウ・ウィルソンの墓
エカテリーナ2世の墓
エビータの墓
エリザベートの墓
カール6世
ジョン・F・ケネディの墓
ジュリアス・シーザーの墓
トーマス・ジェファーソンの墓
アンドリュー・ジャクソンの墓
尚寧の墓
尚巴志の墓

“賢帝”李 世宗の墓
チャーチルの墓
マリア・テレジアの墓

ニコライ2世の墓
ピョートル大帝の墓
フェルディナント1世の墓
フランツ1世の墓
フランツ2世の墓
フリードリヒ大王
フルシチョフの墓
サン=マルティンの墓
ハーヴェイ・ミルクの墓
ロレンツォ・デ・メディチの墓
ヨーゼフ1世の墓
フランツ・ヨーゼフ1世の墓
ヨーゼフ2世の墓
リンカーンの墓
フランクリン・ルーズベルトの墓
レオポルト1世
ヒューイ・ロングの墓

ワイツゼッカーの墓
ジョージ・ワシントンの墓



★リンカーン/Abraham Lincoln 1809.2.12-1865.4.15 (USA、イリノイ州スプリングフィールド 56歳)2000
Oak Ridge Cemetery and Abbey, Springfield, Sangamon County, Illinois, USA

●ゲティスバーグ

 


墓地の中の国旗の場所が「人民の人民による…」の演説を行なったところ! 南北戦争最大の激戦地に立つリンカーン像

●ワシントンD.C.





映画で有名なリンカーン記念堂 リンカーンはフォード劇場の2階で撃たれた(2009) 向かいの当ビルに運ばれ絶命

●スプリングフィールド



笑顔の写真。これは珍しい!

愛称エイブ。南北戦争という危機と苦難の時代を大統領として生き、慈愛にみちた誠実な人柄もあって、もっとも偉大な大統領と評価されている。アメリカ史上で初めて暗殺された大統領。身長は193 cmもあった。
エイブラハム・リンカーンは1809年2月12日にケンタッキー州の貧しい開拓農民の丸太小屋で生まれた。エイブラハムの名は先住民に殺害された父方の祖父(1786年没)にちなんだもの。7歳の時に一家は訴訟で敗北して土地を失い、インディアナ州に移住して再起を図る。学校で教育をうける機会はほとんどなく、9歳で母を亡くし、21歳のときに一家は家畜からの病気(ミルク病)を恐れてイリノイ州に転居。22歳で父のもとを離れ、翌年に借金して小さな雑貨屋を購入したが、共同経営者の病死などで事業を手放し負債を抱え込んだ。一方、地元の討論クラブの集会で雄弁家として人気を集めたことから、周囲の勧めで1832年に23歳で州議会議員に立候補したが落選する。
その後、測量技師・郵便局長などの職につき、1834年(25歳)、2度目の挑戦でホイッグ党員(議会の権利、民権の尊重を主張)としてイリノイ州議会下院議員に選出され、8年間つとめた。当選した後、1836年(27歳)に弁護士の資格を独学で取得し、翌年に州都スプリングフィールドに移って友人と共同で法律事務所をひらく。33歳でケンタッキーの銀行家の娘で快活なメアリー・トッドと結婚する。
リンカーンは南部ケンタッキーという奴隷州出身にもかかわらず奴隷制には反対で、イリノイ州議会では奴隷制を擁護する一連の決議案に反対票を投じている。
1846年、37歳で連邦下院議員に選出された彼は、首都ワシントンで奴隷解放の段階的実現を提案した。
1849年(40歳)、議員任期終了後にスプリングフィールドにもどり、数年間弁護士業に専念する。
1854年、北部のホイッグ党員は、奴隷制に反対する民主党員らと共和党を結成する。
1856年(47歳)、リンカーンは奴隷制拡大に反対して結成されたばかりの共和党にうつった。
1860年(51歳)、リンカーンは共和党大統領候補の指名をうけ、優れた人柄により人望を集めて11月の選挙で当選する。大統領選までアゴ髭がなかった彼は、11歳の少女のアドバイスで髭を伸ばし始めトレードマークとなった。
1861年(52歳)、リンカーンはアメリカ合衆国第16代大統領に就任した(在任1861〜65年)。2月、リンカーンの当選で奴隷制廃止を警戒したサウスカロライナ州など南部7州は、連邦を脱退して南部同盟政府を樹立し、さらにバージニアなど4州が加わり11州が北部と対立した。
リンカーンの大統領就任演説の翌月(1861年4月)、南部軍の発砲で南北戦争が勃発。南北戦争は騎兵や槍兵が戦う従来の戦争とは異なり、地雷、機関銃、鉄条網などが登場した世界初の近代戦争。戦術的にも、単純に敵兵を殺害するのではなく、敵の生活基盤(戦闘継続能力)を破壊するため、ミシシッピー川の東岸からジョージア州の海岸(大西洋)まで非情な焦土作戦が実施された。
当初は南軍優勢だったが、1862年(53歳)9月リンカーンは北軍の士気を高めて巻き返すために奴隷解放の予備宣言を発し、境界奴隷州に配慮した猶予期間をおいたのち、1863年1月1日に『奴隷解放宣言』として公布した。
※『奴隷解放宣言』…南部連合国(南部)の奴隷は本日以降すべて自由となると宣言(北部では既に解放済み)。連邦(北部)を支持した境界奴隷州やすでに連邦軍の占領下にあった地域の奴隷には適用されないという限界をもってはいたが、戦争の大義をより明確にした。

開戦2年目の1863年(54歳)11月19日、激戦地ゲティスバーグの戦死者慰霊式典で、リンカーンは南北戦争を民主主義の存亡を懸けたものとし、「人民の人民による人民のための政治を消滅させてはならない」と演説する(ゲティスバーグ演説)。
1864年(55歳)、連邦の結束力を高めたリンカーンは大統領選で再選を果たす。
終戦直前の1865年1月、リンカーンは奴隷解放を宣言だけに終わらせず、憲法に成文化するために精力的に活動し、「全米で奴隷制を禁止する」と定めた米国憲法修正第13条を可決に持ち込んだ。
その3カ月後、4月9日にアポマトックス・コートハウスの戦いで、南軍の司令官リー将軍が降伏し、4年も続いた凄惨な内戦が事実上終結した。
戦死者は南軍26万、北軍36万の約62万。勝者の北軍の方が犠牲者は多い(ちなみに第二次世界大戦中の米兵の戦死者数は約31万人。その倍の生命がこの内戦で散ったことに)。戦争後に約312万人の奴隷が自由になった。

戦争が終結した5日後の同年4月14日夜、リンカーンは戦勝にわくワシントンD.C.のフォード劇場で、観劇中に南部出身の舞台俳優ジョン・ウィルクス・ブースに至近距離から後頭部を撃たれる。翌日午前7時22分に56歳で死亡した。
プライベートでは子ども4人のうち3人に先立たれる悲しみを味わっている。長男のロバート・トッド・リンカーン(1843-1926/享年82)だけが唯一成人した。
リンカーンはすべての人間が自由であるべきとの信念を持ち、奴隷制を道徳的悪と認識し、異なる立場の人々や対立する集団との調和をはかり、ときには妥協しながら現実的な策を慎重にさぐる政治家だった。

※大統領時代、リンカーンは黒人奴隷の悲劇を描いた小説『アンクル・トムの小屋』(1852年刊)の作者ハリエット・ビーチャー・ストウをホワイトハウスに招待し、「あなたがこの大きな戦争(南北戦争)を起こした本を書いた小さな婦人ですね」と述べている。
※リンカーンの黒歴史としてインディアン大量虐殺がある。リンカーンがいう「人民」にはインディアンは含まれていなかった。リンカーンの祖父は先住民の襲撃を受け、父の目の前で殺害されており、先住民への冷たい態度はその件もあるのだろう。
※リンカーンは生年月日がチャールズ・ダーウィンとまったく同じ。
※シカゴ歴史博物館…リンカーンが亡くなった夜に着ていた衣服や、亡くなった時のベッドを所蔵。
※国立保健医療博物館にリンカーンのライフマスク、暗殺犯ブースが使用したデリンジャー・ピストルの弾丸、リンカーンの髪と頭蓋骨の一部、リンカーンの血で汚れた外科医のシャツカフが展示。
※本文に書いたように、北軍が南北戦争に勝ったから奴隷制度が消えたわけじゃない。それだけじゃダメ。憲法が改正されなければ、奴隷制度の完全撤廃は実現しなかった。「奴隷解放宣言」は戦時&南部に限定されたものだから、リンカーンは改憲して「米国全土で」「恒久的に」奴隷制度の廃絶を定める必要があった。リンカーンは法律で奴隷制禁止を定めた修正第13条を下院で可決させるべく奮闘した。議会で3分の2の票を得るために、どれほどリンカーンが苦労したか。今(2013年)、日本の一部政治家は“3分の2”と定めた憲法96条を「半数以上で可決」と安易に改憲できるシステムにしようとしている。本当に信念を持っていることなら、リンカーンのように反対派をとことん説得して3分の2の賛同を得る努力をしろ!って思う。全議員に本作を観て欲しい。

〔墓巡礼〕
1865年4月15日のリンカーン落命後、米国では3週間にわたって死を悼み、その生涯を記念する一連の行事が行われた。死亡当日、遺体はいったんホワイトハウスに運ばれた。4月19日にワシントンD.C.で国葬が挙行され、亡骸は夫人の希望で人生の大半、青年期から大統領になるまでの25年間を過ごしたイリノイ州スプリングフィールドに運ばれることになった。同地はイリノイ州のほぼ真ん中に位置する。
4月21日に葬儀列車がワシントンD.C.から発車し、駅には1万人以上の観衆が集まった。途中、何百万人もの国民が沿道で列車を見守り、関連するセレモニーに参加した。
5月3日にスプリングフィールドに葬儀列車が到着し、翌日に夫人が埋葬を希望した、街の中心部から北へ約6kmいった丘にある「オークリッジ墓地」に埋葬された。

他界9年後の1874年、国民の寄付で巨大な霊廟が建設され、高さ36mの花崗岩のオベリスクを中心に、リンカーンや兵士、船員のブロンズ像がいくつか追加された。リンカーンの遺骸は霊廟内の一番奥の、白い大理石の石棺に納められた。夫人のメアリー・トッド(1818-1882)と、4人の息子のうちエディ(1846-1850/3歳10ヶ月)、ウィリー(1850-1862/12歳)、タッド(1853-1871/18歳)の3人も埋葬されている。
1900年、霊廟は全面的に改築され、遺骨の盗難を恐れた長男ロバート・トッド・リンカーンの要請により、リンカーンの遺骨は霊廟の地下3mにあるコンクリートの金庫に移された。
1926年、長男ロバート・トッド(1843-1926)が82歳で没し、バージニア州アーリントン国立墓地に眠る。
1931年に2度目の大規模改築が終わり、埋葬室はアールデコ様式にデザインされ、黒と白の大理石の壁と金箔の天井になった。それまで中央には地下のリンカーンの棺の上にオリジナルの白い石棺が置かれていたが、リンカーンの名前と生没年を刻んだ7トンの赤い大理石の記念碑に取り替えられた。その側では衛兵が護っている。霊廟のステンドグラスの窓の上の壁には、リンカーンの死の際に陸軍長官スタントンが語った「Now he belongs to the ages(彼はいま歴史となった/今、彼は時代に属している)」という言葉が刻まれている。埋葬室の南壁に沿って妻子の遺骨を納めた4つの地下聖堂がある。
これまでにリンカーンの棺は17回移動され、棺は5回開かれている。現在も毎年100万人以上の見学者が訪れており、首都の国立アーリントン墓地についで全米で2番目に訪問者の多い墓地となっている。
墓の前のリンカーンの頭部の像は、鼻に触ると幸運が訪れると言い伝えられ、鼻の部分だけ色が変わっている。

…あの英雄リンカーンだから巡礼は簡単だろうと思っていたらこれが大変。2000年当時、近くの大都市セントルイスからこの街に乗り入れているバスは、一日にたった2本しかなかった!バス・ステーションからも遠いし苦労したぁ〜。



★ジョン・F・ケネディ/John Fitzgerald Kennedy 1917.5.29-1963.11.22 (USA、ワシントンDC 46歳)2000&09
Arlington National Cemetery, Arlington, Arlington County, Virginia, USA

  
第35代アメリカ合衆国大統領。米国民は若い43歳8カ月の指導者に未来を託した

●テキサス州ダラス

 
悲劇に襲われる直前のケネディとジャクリーン








ダラスにて、JFKの暗殺現場(2009) ここで致命傷となった2発目が… 右端の6階の窓から撃たれたという

●ワシントンD.C.

アーリントン国立墓地の入口 全米最大の墓地ではないだろうか! あまりに広大ゆえ巡回バスが走っている

  
見渡す限り、墓、墓、墓!大半が軍人のもの。南北戦争時、この土地には南軍総司令官ロバート・E・リー将軍の邸宅があり、1864年に
南軍兵士の墓が築かれたのが始まりだ。2009年現在、35万人以上の人が眠っている。面積は3平方q(甲子園球場0.04平方kmの75個分!)、
丘陵地帯にあり、正門から一番奥まで歩いて30分以上かかる。JFKは大統領=軍の最高司令官として埋葬された




巡回バスはボッタクリ料金なので歩く人も多い 墓への道標 だんだん人が増えてきた。墓所までもうすぐ!



階段の上の人だかりがJFKの墓所! 手前がケネディ、右隣がジャクリーン夫人(2009) 名前と生没年だけのとてもシンプルな墓だ

 

ケネディ家のお墓で燃え続ける「永遠の炎」 こちらは2000年の巡礼時のもの
※ケネディのお墓には常に燃えている火があり、これは葬儀の日にジャクリーンが点火した「永遠の炎」と呼ばれる追悼火。もう半世紀以上も燃え続けている

  
JFKが眠る丘の左斜面に弟ロバートの墓がある。1968年6月6日、民主党の大統領候補指名選のキャンペーン中に暗殺された。享年42歳

アメリカ合衆国第35代大統領。アイルランド系アメリカ人。43歳で就任し、選挙で選ばれた最年少の大統領となった(副大統領からの昇格を含めればセオドア・ルーズベルト“42歳”に次いで二番目)。20世紀生まれの最初の大統領であり、2013年時点で唯一のカトリック教徒の大統領。

1917年、マサチューセッツ州にて元駐英大使・銀行家ジョセフの次男として生まれる。生まれつき背骨に障害があり、その痛みに生涯悩まされた。1940年(23歳)、ハーバード大学を卒業。卒業論文「イギリスはなぜ眠っていたか」で第2次世界大戦の英国の軍事的準備不足を指摘し注目される。翌年、太平洋戦争が勃発すると海軍に志願。日本軍と戦うため魚雷艇の艇長となるも、1943年8月(26歳)、ソロモン沖海戦・ニュージョージア島付近にて撃沈される(駆逐艦天霧と衝突)。この際、負傷した部下をロープで繋いで近くの島まで6キロ泳ぎ、自らも6日後に救助されたことが新聞で報道され英雄となった。1945年(28歳)、終戦。
戦後は民主党に入党し、1946年にマサチューセッツ州から下院議員選挙に出馬して29歳で初当選。1952年(35歳)には上院議員に選出された。36歳でジャクリーン・ブービエと結婚(ローマ教皇からの祝辞が結婚式で読み上げられた)。39歳、副大統領候補の1人となる。1957年(40歳)、8人の英雄的政治家の伝記『勇気ある人々』を発表し、ピュリッツァー賞に輝いた。
1960年(43歳)、リベラル派を代表して大統領選挙に名乗りをあげると、年齢的な若さ(経験不足)やカトリック教徒であることを不利とみた民主党幹部やトルーマン元大統領が出馬断念を求めた。ケネディは自身が多くの歴代大統領よりも長い14年の政治家歴を持っていること、建国の父たちは44歳以下でも国家の要職にあったことを主張して指名を獲得。指名受諾演説で「ニュー・フロンティア」をスローガンに掲げて人々を引き付けた。副大統領候補にはテキサスの上院議員リンドン・B・ジョンソンを指名。
義弟(妹の夫)で俳優のピーター・ローフォードの人脈で、フランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.、ジュディ・ガーランドなどハリウッドの著名人が選挙資金調達パーティーに協力。共和党大統領候補ニクソン副大統領とのテレビ討論では、落ち着いた若々しい話しぶりで好印象を与えた。当時のテレビはモノクロ画面。討論の際、ケネディは濃い色のスーツを着て力強く見えたが、ニクソンは薄い色のスーツで弱そうに見えた。
大統領選の後半に、ジョージア州アトランタで公民権運動家のキング牧師が、座り込みデモで逮捕される事件が起きた。これにニクソンはノー・コメント。一方、ケネディは直ぐさまキング夫人に励ましの電話をかけ、翌日には弟のロバートがキング牧師を有罪にした判事に電話をかけて釈放を求め、次の日にキング牧師は釈放された。この一件で、プロテスタントが大半の黒人層にもケネディ支持者が増えた。キング牧師の父もニクソン支持からケネディ支持に鞍替えした。「私の妻が息子の逮捕に涙を流している時、彼(ケネディ)は、その涙を拭ってくれた。このような時にこうした行動をとる事は勇気のいる事だからだ」。11月、最終的に僅差で大統領に当選した。

1961年1月の就任式でケネディは理想主義をかかげ、「国家があなたに何をしてくれるかをたずねるのではなく、あなたが国に対して何ができるかを自問してほしい」「アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達があなた達に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい」と、情熱的な演説を行った。また、暴政、差別、貧困、疾病、戦争など「人類の共通の敵」に共に戦って欲しいと世界の国家に呼びかけた。
同年4月、前政権から引き継いだキューバ難民2千人によるカストロ政権転覆作戦、キューバ侵攻(ピッグス湾事件)を支援するが、正規軍の投入を禁じた為に失敗。作戦容認について各国から非難を浴びた。8月、東ドイツ当局が東西ベルリンを隔てる“ベルリンの壁”を築くと、米軍を増強して西ベルリンへの通行権を確保した。10月、ベルリンの検問所で米ソの戦車が18時間にわたって睨み合いを続ける事態になったが、ケネディは水面下でフルシチョフと連絡を取って戦車撤退の合意を結び戦いを避けた。
1962年10月(45歳)、ソ連がキューバに中距離核ミサイル基地を建設していることが発覚すると、ケネディは「キューバを海上封鎖しミサイル搬入を阻止する」と宣言し、180隻もの艦艇をカリブ海に展開。ソ連にミサイルを解体・撤去するよう要求した(10/22)。この“キューバ危機”は「世界が核戦争に最も接近した瞬間」とされている。10月27日に米軍のU-2偵察機がキューバのSAM(地対空ミサイル)に撃墜されると、政権内からSAM基地への報復攻撃を求める声が出た。ケネディは「そんなことをすれば、ベルリンや米国がジュピター・ミサイルを置くトルコが危険に晒される」と拒否。フルシチョフと交渉した結果、アメリカがキューバに侵攻しないことを条件に、10月28日にソ連がミサイル撤去を発表し核戦争の危機は避けられた(ソ連船18隻はUターン)。ケネディはキューバ爆撃を主張する好戦的な強硬派を抑えながら、ソ連の核ミサイルの脅威を取り除くことに成功した。その後、ケネディはトルコに配備したジュピター・ミサイルを撤去。

1963年6月(46歳)、ケネディは外交方針演説で冷戦終結を呼びかけ、モスクワとワシントンの間にホットラインを設置し、危機回避体制の構築に尽力する。
※Wiki掲載のケネディの演説『平和のための戦略(THE STRATEGY OF PEACE)』から。「私の言う平和とは何か、我々が求める平和とは何か、それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制されるパックス・アメリカーナではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略) ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。(中略)我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。(中略)我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」。
さらにケネディは「他の国が核実験をしない限り、アメリカも再開することはない」と宣言。この言葉がソ連側を動かし、米英ソの部分的核実験停止条約が調印された。地下核実験は禁止されなかったものの、この条約は核軍縮への第一歩として希望を与えた。
一方、ベトナムの共産化を防ぐべく、南ベトナムに駐留するアメリカ軍事顧問団(ほぼ正規軍)を、前アイゼンハワー政権下の685人から1万6000人に増強した。これを内政干渉と感じた南ベトナム側が米政府に反発したため、11月(暗殺された月)、ケネディは「軍事顧問団を段階的に撤収させ、1965年12月31日までには完全撤退させる計画がある」と発表した(ただしこれについてはただのポーズ説もある)。
ケネディはまた、大統領就任直後から「イスラエルが核を取得することは中東に大きな戦禍をもたらすことになる」と、イスラエルに何度も勧告を行い、査察団まで送り込んでいる。イスラエルの核開発を封じ込めようとした数少ない米国大統領だ。

内政面では、1962年にインフレ抑制のため大手鉄鋼会社の値上げを撤回させ(国防総省は値上げしなかった鉄鋼会社の材料を使ったメーカーのものを調達すると宣言、鉄鋼各社が折れた)、アポロ計画など宇宙開発競争を促進。
人種差別に反対していたケネディは、黒人を積極的に連邦政府の幹部に任命し、司法省では黒人の連邦検事は10人から70人に増え、連邦判事もゼロから5人に増えた。企業には積極的に黒人を雇うよう働きかけ、政府補助金を受けている病院や図書館での差別は大統領府令によって禁止し、白人のみを雇う求人を連邦雇用局に拒否するよう命じた。
米国では1954年に学校現場の人種差別を違憲とする連邦最高裁の判決が出ていたが、南部の州は多くの学校が決定を無視していた。1962年9月、連邦裁判所がミシシッピ大学に初の黒人学生ジェームズ・メレディスの受け入れを命じると、差別主義者のミシシッピ州知事が州兵で大学の周囲を固めて入学を妨害した。ケネディは行政命令で州兵を連邦化し、夜中のうちにメレディスを大学寮に入れた。反発したKKKなど人種差別主義者約2500人が暴動を起こすと、ケネディは連邦軍を派遣して鎮圧した。1963年にもアラバマ州バーミングハムで黒人学生の入学拒否があり、キング牧師による人種差別廃止要求デモが起きると、ケネディは連邦軍を派遣して支援した。こうした姿勢により、全米50州の中で黒人学生を締め出す州はなくなった。1963年6月、ケネディは公共施設や学校での人種差別を廃止するため、議会へ新しい公民権法案を提案。「リンカーンが奴隷を解放して以来100年間の猶予が過ぎたが、彼らの相続人や孫はいまだ完全に自由ではない」「この法案の提出は、単に経済的効率のためでも、外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」と訴えた(翌年、ジョンソン政権下で公民権法が成立)。
1963年8月28日、ワシントン大行進で「I Have a Dream」と感動的な演説を行ったキング牧師を、行進後にホワイトハウスに招待し、ケネディは「私も夢見ている」と告げた。

1963年11月22日、ケネディは翌年の大統領選・再選を目指し、テキサス州ダラスに遊説で訪れた。シークレット・サービスは透明の防弾カバーを車(1961年式リンカーン・コンチネンタル)にかぶせてパレードを行うよう主張したが、“ビクビクしない勇気のある大統領”“親しみやすい大統領”というイメージをアピールするため防弾カバーを取り付けなかった。天気予報は終日雨であり、もしも雨天なら防弾カバーが取り付けられ、ケネディは助かっていた。だがダラス到着の1時間前から天候が回復し、オープントップでパレードを行うことになった。正午前、後列にケネディ大統領夫妻、前列にコナリー知事夫妻を乗せ車は空港を出発した。
市内を時速16キロでパレードし、12時32分にディーリー・プラザの教科書倉庫を通過した時、6〜9秒間に3発の弾丸が発射された。1発目は何も当たらずどこかへ消えた。2発目はケネディの背中から喉を貫通し、前列のコナリーの胴と手首を貫き足で止まった。そして3発目はケネディの頭部に直撃し、脳の大半を後部ボンネットに吹き飛ばした。夫人はとっさに後方に身を乗り出し、ケネディの頭部破片を拾い集めた。コナリーは「ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!」と叫び、運転手は猛スピードでディーリー・プラザを離れ病院へ向かった。銃弾の破片は沿道にいた観客ジェームズ・ターグの右頬を傷つけた。訃報は世界を駆け巡り、ソ連政府はいち早く「我々が手を下したのではない」と表明した。
検死は海軍病院で3人の軍医によって行なわれ、数枚の写真とレントゲン写真が検死用に撮影された。検死後に遺体はホワイトハウスに移送され24時間安置された。翌日、国会議事堂に棺が運ばれると、悲報を聞いた市民が集まり、昼夜に渡って約25万人が弔問に訪れた。行列は40ブロック先にまで及び、人々は真冬の寒さの中を10時間も並んだ。ケネディは国葬にされ、92か国から首脳・政府高官等220人が参列した。葬儀後、ワシントンD.C.のアーリントン国立墓地に埋葬された。

“犯人”のリー・ハーヴェイ・オズワルドはテキサス教科書倉庫ビルの従業員。事件発生直後、2階の食堂でランチを食べ、コーラを飲んでいるところを同ビルの従業員に目撃されており、巡回中の警察官にも確認されている。その後、建物を出たオズワルドは職務質問をしてきたティピット巡査をなぜか射殺し、テキサス劇場で警察官殺害容疑で逮捕された(ケネディ暗殺の80分後)。教科書倉庫の6階からはライフルと3発の薬莢が発見された。オズワルドは警察の尋問や記者団に対し、「はめられた」「身代わり」「過去のソ連亡命につけこまれた」と繰り返した。そして2日後の11月24日、ダラス市警察本部から郡拘置所への護送中、市警本部の地下通路でナイトクラブ経営者ジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)に射殺された。ルビーは犯行理由を「悲しんでいるジャクリーヌ夫人とその子供のため」とした。ルビーはマフィアやダラス市警察の複数の幹部とも関係が深かった。ルビーは殺人罪で刑に服し、沈黙したまま4年後に肺塞栓症で病死した。

暗殺の瞬間は衣料販売店の経営者エイブラハム・ザプルーダーが、カラー8ミリ映像で 26.6 秒間記録していた(通称ザプルーダー・フィルム)。ケネディは頭部を撃たれた瞬間にのけぞっていることから、オズワルドが後方から撃ったのではなく、前方の丘(グラシー・ノール)から何者かが射撃した可能性が出てきた。
暗殺から一週間後の11月29日に、事件を検証するためジョンソン新大統領が暗殺真相究明委員会(ウォーレン委員会)を設置。FBI は暗殺の17日後、報告書をウォーレン委員会に提出した。FBIはオズワルドの単独犯行とし、第一射はケネディに命中、第二射がコナリーに命中、第三射が大統領の頭部に命中と判断した。一方、委員会ではダラス市警のジョー・スミスが、シークレットサービスを名乗る私服の男が配置予定のないグラシー・ノールにいたと証言。ジーン・ヒルはグラシー・ノールから銃声がしたと証言(後に銃撃する男を見たとも)。陸橋にいたサム・ホランドとオースティン・ミラーは共にアーケードの背後の木立から煙が上がったと証言した。だが、ウォーレン委員会は10か月の調査後、「射撃はすべてオズワルドが単独で後方から行った」と結論。一発は外れ、一発は大統領と知事を傷つけ、一発は頭部の致命傷となったとした。下院暗殺調査委員会は少なくとも一人の協力者がいたと結論を下した。
ケネディ暗殺4年後の1967年、ニューオリンズのジム・ギャリソン検事は実業家クレイ・ショーをCIA経由で大統領暗殺に関わっていたとして、陰謀罪で逮捕した。ギャリソンはケネディ暗殺をCIAや軍部の関与するクーデターと考えた。この裁判では、実際にクレイ・ショーがCIAのために働いていたこと、CIAがウォーレン委員会の批判者たちへ圧力をかけたことが明かされたが、ギャリソンは証拠不十分で敗北した。米政府がトップ・シークレットに指定している証拠資料がすべて公開されるのは2039年。

《誰の犯行なのか》
●軍産複合体説…ケネディがベトナムから軍を撤退する方針を発表したため、戦争で儲けたい軍産複合体が暗殺。事実、撤退計画は暗殺で中断され、逆に後任のジョンソン大統領はベトナム介入を押し進めて戦争が泥沼化した。
●大統領の座を狙った副大統領ジョンソン主犯説…オリバー・ストーン監督の映画『JFK』は、軍産複合体とジョンソンの野望が一致したと断じている。
●マフィア主犯説…大統領選挙でマフィアはケネディ陣営の資金集めや不正を手伝ったにもかかわらず、当選後にマフィア壊滅作戦を進めたことを「裏切り」と受け取め、報復と壊滅作戦の停止を目論んで行った。実際にFBIの盗聴によってルビーやオズワルドと面識があったテキサスのマフィア、カルロス・マルセロらがケネディ暗殺をほのめかすよう発言を繰り返していたことが判明している。
●ピッグス湾事件の失敗を恨む亡命キューバ人主犯説…犯行がバレるとアメリカを追い出されるのにやるかな?
●解任されたことを逆恨みした元 CIA 長官アレン・ダレス主犯説…リスクを冒してアメリカの大統領を暗殺するほどの動機になるのか?

《残された疑問》
●犯行時間は6〜9秒。使用された旧式ライフル『カルカノ銃』は手動で薬莢(やっきょう)を排出するボルトアクション方式で連射できない。移動中の目標を10秒以内に3回も撃つことができるのか。しかも教科書ビルの窓の外には常緑樹が茂っており、木の葉が邪魔して狙いにくい。検証実験で成功した例は皆無。
●ケネディが撃たれて喉を押さえているとき、前席のコナリー知事がまだ笑っているのはなぜか。政府公式見解は同じ一発の弾丸で負傷したと断定している。ならば、知事も同時に倒れるなり何か反応していないとおかしい。
●なぜ大統領暗殺犯であるオズワルドの拘留中の尋問調書が全く残っていないのか。
●なぜ取り調べの際に弁護士をつけなかったのか。
●オズワルドが「はめられた」「身代わり」と叫んでいたのはどういう意味なのか。
●事件直後、オズワルドは逃げもせず食堂でくつろいでいる。そして、狙撃を行った窓のある部屋から食堂へ向かう階段には女性が2人いたが、オズワルドは通っていないと証言している。本当に犯行現場にいたのか。
●ライフルを撃つと、手、顔、上半身全体に硝煙が付着するが、オズワルドの場合は両手からは硝煙反応が出たが、頬からは出なかった。なぜか。
●証拠のライフルからは初期検査で指紋、掌紋は発見されなかった。事件3日後、オズワルド殺害の翌日に掌紋が発見された。なぜか。
●暗殺の時刻、オズワルドが教科書倉庫ビルの2階の食堂で昼食をとっていたという目撃情報をなぜスルーするのか。
●教科書倉庫ビルにオズワルド以外の狙撃者がいた可能性はないのか。
●ジャック・ルビーは事件と無関係で警察・マスコミ関係者でもないのに、なぜやすやすと警察署内に入りこめたのか。
●なぜ検死用に撮影された写真の数枚が公式記録から消えたのか。
●なぜ事件当日にダラス市長の指示で急にパレードのコースが変更されたのか。予定された直線コースではなく、速度を落とさなければならない迂回ルートを走らされ、そこで暗殺された。ちなみにダラスのアール・カベル市長は、ピッグス湾事件で更迭されたCIA 副長官チャールズ・カベルの弟。
●なぜ本来は大統領の側にいなければならないシークレットサービスが、後続車に乗るよう命令されたのか。
●なぜケネディとコナリー知事を貫いた弾丸は弾頭部分が損傷していないのか。
●なぜ証拠物件の公開が政府によって2039年まで制限されているのか。不自然すぎる。

《おそらく解決された疑問》
●2発目はたった1発の弾丸で大統領と知事に7つの傷を与えていることから“魔法の弾丸”と呼ばれているが、ディスカバリーチャンネルが2人の位置を正確に再現して実験したところ、矛盾なく弾道を説明できた(※僕は番組を見て驚いた)。
●背筋は腹筋よりも強いため、後方から撃たれたにもかかわらず、のけぞったと考えられる。
●コナリー知事の銃弾の傷が、出口より入口の方が大きいのは、弾丸の側面がひしゃげていることから弾が回転していた可能性が大。

※暗殺当日、日米初のテレビ中継衛星通信実験が行われていた。毎日放送北米支局の前田治郎記者の第一声は「輝かしい試みに、悲しいニュースをお伝えしなければならない事を残念に思います」。日本にも衝撃が走った。
※アポロ計画は、ジョンソン政権、ニクソン政権に引き継がれ、ケネディの死の6年後、1969年にアポロ11号のアームストロング船長が月面に降り立った。
※米国での2003年の世論調査では70%の人々が単独犯ではなく複数犯による犯行であったと考えている。
※1952年の上院選と1960年の大統領選の際に、ケネディは駆逐艦天霧の元乗員一同から激励の色紙を贈られている。
※暗殺時、現場のディーリー・プラザには32人ものプロ、アマの写真家がいた。
※黒歴史(1)父親のジョセフは禁酒法時代に密造酒の生産・販売を行いマフィアと深い関係。選挙戦ではマフィアによる不正投票もあった。シナトラはケネディのためにマフィアから寄付金を募った。(2)マリリン・モンローをはじめ、不倫相手は数知れず。マディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティーにモンローが来ることを知った夫人は、怒って誕生会を欠席した。モンローは「ハッピーバースデー」の歌を披露した。
※実弟のロバート・ケネディは兄の暗殺の5年後、1968年の大統領選挙の予備選中にカリフォルニア州で暗殺された。享年42。
※息子のジョン・F・ケネディJr.は、1999年に自家用機を操縦して別荘へ向かう途中、大西洋上で空間識失調に襲われ墜落死。享年38。
※娘のキャロライン・ケネディは著作家、弁護士。2013年にオバマ政権の駐日アメリカ合衆国大使に就任した。
※アーリントン墓地は、もともと南軍の英雄リー将軍の邸宅と敷地がもとになっている。毎年約7千人が葬られ、埋葬希望者があまりに多いため、現在は軍歴20年以上の人物、公務中の殉職者、テロなどの犠牲者に限られるとのこと。

【参考】世界人物事典(旺文社)、Wikipedia、エンカルタ総合大百科(マイクロソフト)、ブリタニカ国際大百科事典(ブリタニカ)



★ジュリアス・シーザー/Julius Caesar B.C.100.7.13-B.C.44.3.15 (イタリア、ローマ 55歳)2002
Forum Romanum, Rome, Lazio, Italy
※ガイウス・ユリウス・カエサル/Gaius Iulius Caesar

ローマ中心部の巨大遺跡フォノ・ロマーノ。日陰がなく
めちゃくちゃ暑い。近くには有名なコロッセオがある

ここにかつては元老院があり、行政の中心地
だった。シーザー(カエサル)の墓はこの中だ

正確には亡骸が焼かれた場所を、後世の人々が
“墓”としている。写真中央の塀の裏がその現場だ


長年の風雨で侵食されているが、この台の上で
火葬されたという。献花が供えられている。合掌



古代ローマの将軍・政治家。ガイウス・ユリウス・カエサル。シーザーは英語名。貴族出身。前100頃〜前44に活躍。名の「カエサル」は後にローマ皇帝の称号となる。紀元前60年、ポンペイウス・クラッススと共に第1次三頭政治を開き、ガリアを討伐。クラッススの没後はポンペイウスと争い、エジプトまで追撃して滅ぼす。続いて各地の内乱を平定、ローマに帰って紀元前44年終身独裁官となる。救貧事業や太陽暦採用などを行うが、ブルートゥスら反カエサル派に元老院議事堂(ポンペイオ劇場)の廊下で暗殺された。刺し傷は23箇所にのぼった。
名文家としても知られ、戦地からローマへ送った手紙の「来た、見た、勝った」は特に有名。「ガリア戦記」「内乱記」はラテン文学の傑作。シーザー、カイザー。


※暗殺場所となったポンペイオ劇場の廊下は、現在カンポ・ディ・フィオーリ(花の野)広場の近くのレストラン『Ristorante Da Pancrazio』(Piazza del Biscione, 92, 00186 Roma/1922年開店)地下にあり、食事の際に廊下を見ることが出来る。
※July(7月)はジュリアス・シーザーが生まれた7月からきている。
※菓子好きなシーザーにはアイスクリームを世に広めたという意外な一面も。

トリビア〔世界の人口〕
ロンドン大学の人口学研究者ポール・モーランド教授『人口で語る世界史(The Human Tide)』の研究
紀元前47年のローマ帝国・シーザーの時代…2億5000万人
1837年、英国でビクトリア女王が即位した頃…10億人
2019年…77億人
約1800年をかけて人口が4倍になった人類は、たった180年で約8倍に!



★サルバドール・アジェンデ/Salvador Allende 1908.7.26-1973.9.11 (チリ、サンチアゴ 65歳)2001
Santa Ines Cemetery, Santiago, Chile







「民主主義は軍部に降伏しない!」


1972年、チリのアジェンデ大統領は、世界初の“選挙による”社会主義国家を誕生させる。国軍の最高司令官シュナイダー将軍がアジェンデの支持を表明したことで、この革命は(南米では珍しく)平和裏に行なわれた。しかし、後日シュナイダー将軍は極右に暗殺され、米国が支援したピノチェト将軍のクーデター軍によって、アジェンデのいる大統領府はミサイル20発という猛爆撃を受けた。アジェンデ大統領は攻撃のさなかに国民へ別れの演説をした後、
「民主主義は軍部に降伏しない」
と言い残しピストル自殺を選ぶ。その日サンチアゴは快晴。しかしチリ国営放送は「サンチアゴには今雨が降っています」という声を流し続けていた。
彼は死後も独裁者ピノチェトから目の敵にされていたので、長くその亡骸は地方に葬られていたのだが、軍事政権が倒れ民主化が達成された時に首都サンチアゴへ改葬された。アジェンデが眠っている場所はこの国民墓地のメインストリートのほぼ中央。軍部から国賊呼ばわりされていた彼だが、人々がどれだけ元大統領を慕っていたか美しい墓を見ればすぐに分かった



★アウグストゥス/Augustus Caesar B.C.63.9.23-A.D.14.8.19 (イタリア、ローマ 76歳)2003
Mausoleum of Augustus, Rome, Lazio, Italy



「TIME LIFE BOOKS」より

霊廟はまるで古墳のように巨大だった!

ローマ帝国初代皇帝。本名オクタビアヌス。“アウグストゥス”とは元老院が与えた称号で、意味は“崇高なる者”。
※その後手に入れた最高司令官(インペラトル)の称号は“エンペラー”の語源となった。
シーザーの妹の孫で、シーザーの養子。暗殺された養父の復讐を誓い、シーザーの部下・アントニウスと共にブルータスやキケロら共和派を打倒した。その後、クレオパトラと恋に落ちたアントニウスと対立し、これを破って全権力を掌握する。彼は百年続いた内戦を終結させると、国外への征服戦争も中止させ、ローマに平和をもたらした。芸術と文学を愛し、文化の黄金時代を築く。カレンダーの「8月」。

●皇帝ネロもここに眠っているとのこと!



★チャーチル/Sir Winston Churchill 1874.11.30-1965.1.24 (イギリス、ブラドン 90歳)2005
Saint Martin's Churchyard, Bladon, England



チャーチルといえばこの怖い写真 でも、Vサインを流行らせたのも彼!

墓所のある聖マーティン教会 教会前の居酒屋(創業1661年!)に肖像画 ブレイドンの案内地図にもチャーチル

 
何の飾り気もない武骨な墓石がチャーチルらしい 家族連れが記念写真を撮っていた

イギリスの政治家。第2次世界大戦時のイギリス首相として大きな指導力を発揮し、連合国を勝利に導いた。
1874年11月30日にオックスフォード近郊のブレナム宮で生まれる。父は保守党の政治家。少年期は勉強嫌いで、13歳で入学した私立の名門ハーロー校では一番成績が悪いクラスに入れられた。3度目の入試で陸軍士官学校に合格し、20歳で卒業。翌年、父が45歳で急死する。キューバやインドの反乱鎮圧、スーダン遠征に参加し視察した後、1899年(25歳)に軍をはなれ政界入りを目指すが落選、記者としてボーア戦争(南ア戦争1899-1902)に従軍した。このとき捕虜となったが脱走に成功したことで国民的英雄に祭り上げられた。
翌1900年、26歳で保守党の下院議員になる。チャーチルは英軍が南アで残酷な焦土作戦を行っていることを問題視、「いやしむべき愚挙」「私がボーア人だったら、やはり戦場で戦っているだろう」と非難した。
1901年(27歳)、ヴィクトリア女王が崩御し、エドワード7世が国王に即位。
1904年(30歳)、関税政策(保護貿易)に反対して自由党に移籍し、ハーバート・アスキス内閣(1908-1916)で商務相と内相を務める(35歳での内相就任は歴代2位の若さ)。その間、軍事よりも社会政策を重視するロイド・ジョージ(同じ自由党)と協力して、議会制度の民主化や失業保険制度など社会立法の成立に尽力した。
1908年(34歳)、晩餐会で知り合った10歳年下のクレメンタイン=ホジャーと結婚。
1910年(36歳)、エドワード7世が崩御し、ジョージ5世が即位。
1911年(37歳)、これまでチャーチルは軍拡に反対し社会政策に取り組んでいたが、台頭する左派を警戒し方針を変えていく。初代海相として海軍の近代化を進め、軍艦の燃料を石炭から石油に切り替えた。また航空戦力の重要性を予見し、英空軍の「生みの親」となった。
1914年(40歳)7月28日、オーストリア・ハンガリーがセルビアに宣戦を布告、数日後、ドイツもロシアとフランスに宣戦布告した。イギリスはドイツのヨーロッパ覇権を警戒し、ドイツがベルギーの中立を侵犯したことを理由に8月4日ドイツへ宣戦布告、欧州諸国は第一次世界大戦に突入した。
1915年(41歳)、海軍がオスマントルコに上陸を試みたガリポリ上陸作戦(ダーダネルス海峡奇襲作戦)は死傷者25万人を出して失敗に終わり、チャーチルは作戦立案者の責任をとって海相を辞任。フランスで陸軍の前線勤務につく。
1916年(42歳)、戦争の長期化でアスキス首相は辞任においこまれ、かわって親友ロイド・ジョージが首相の座についた。自由党はアスキス派とロイド・ジョージ派に分裂し党勢は衰退していく。
1917年(43歳)、チャーチルはロイド・ジョージに登用されて戦時連立内閣に軍需相として入閣。戦車の開発を急ぎ、他国に先駆けて戦線へ投入したことから「戦車の父」と呼ばれる。
1918年(44歳)、11月に第一次世界大戦が集結。戦後、1922年まで陸相兼空相、植民相などの要職を歴任した。
1922年(48歳)、革命後のソ連へ国際干渉軍を組織したことが左派の批判を招き、総選挙で自由党は大敗、チャーチルも落選した。労働党の新たな隆盛もあり、彼はこの後さらに2度落選を重ねる。
1924年(50歳)、保守党に戻ってボールドウィン内閣(1924-29)の蔵相となり、金本位制に復帰させる。デフレと失業問題を引き起こす。
1926年(52歳)、労働組合が行ったイギリス史上最大のストライキ(ゼネスト)と徹底対立。チャーチルは軍を派遣してストを弾圧し、かえって混乱を拡大させた(ロイド・ジョージが事態を収拾)。
1929年(55歳)以降10年間閣外にとどまり、インドに自治領の地位を与えるインド統治法に反対、チェンバレン首相の対独宥和政策を非難し再軍備を主張した。チャーチルは優れた歴史家・文筆家でもあり、同29年に第一次世界大戦の回顧録『世界の危機』全4巻を脱稿。
1930年(56歳)、『わが半生』脱稿。文中でインド人を「蛮族」呼ばわりする。
1933年(59歳)、ヒトラーが首相に任じられ独裁体制を確立。、
1935年(61歳)、イタリアのファシスト、ムッソリーニがエチオピアを侵攻したことについて「エチオピア人はインド人と同類であり、支配されるべき原始的人種」と支持を表明(おいおい…)。
1936年(62歳)、ジョージ5世が崩御し、長男エドワード8世が即位。同年暮れ、エドワード8世は2度の離婚歴があるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと結婚するために歴代最短となるわずか325日で退位した。弟のヨーク公がジョージ6世として即位。
1938年(64歳)、先祖の伝記『マールバラ公』全4巻脱稿。
1939年(65歳)9月、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まると、国民の強い支持を背景に、24年ぶりに海相に復帰する。
1940年(66歳)5月10日、チェンバレンの後任として首相に就任。労働党も参加した挙国一致内閣が誕生した。チャーチルは6月のフランスの敗北、イギリス本土空爆など困難な戦局にもめげず、絶対にドイツに降伏しないという強靱な意思と力強い演説で国民の士気を鼓舞した。「私が差し出すことが出来るのは、ただ血と労苦と涙と、そして汗だけである」。指で作る勝利のVサインは、チャーチルが広めたパフォーマンスだ。イギリス人は魔術にかけられたようにタフな心となった。
1941年(67歳)、6月に独ソ戦が勃発。8月、チャーチルはアメリカの支援を求めてフランクリン・ルーズベルト米大統領とカナダ沖で会談する。ルーズベルトはチャーチルに対し、領土不拡大や民族自決という価値観の共有を求めた。ルーズベルトはイギリスがアジア・アフリカで行っている植民地政策を批判し、「ファシスト奴隷制と闘いながら、同時に自分たちの18世紀的植民地支配体制から全世界を解放する気はないというのはいかがなものか」と正論を述べ、さらに「あなたの血の中には400年に及ぶ植民地獲得の本能が流れている」と告げ、インドに独立を許すよう説得した。チャーチルは「私は大英帝国の清算をつかさどるために首相になったのではない」と憤慨した。
12月、日本軍がハワイ真珠湾を奇襲。アメリカが参戦を決め、チャーチルは歓喜した。「これで我々は戦争に勝った。イギリスと大英帝国は滅亡を免れたのだ。ヒトラーの運命は決まった。ムッソリーニの運命も決まった。日本人にいたっては粉微塵に粉砕されるだろう」。その2日後、マレー沖で英海軍が誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが撃沈された。「戦争全体で(その撃沈報告以外)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」。イギリスは香港、マレー半島、シンガポールと領土を次々と日本軍に奪われた。
1942年(68歳)、インドで反英独立闘争が始まると、チャーチルは徹底弾圧で対峙、ガンジー、ネルー、ヒンズー教指導者など1万人以上を投獄した。チャーチルはインド人を劣等視し、イギリスによって支配されることが必要不可欠と確信していた。
1944年(70歳)、6月に連合軍がフランスのノルマンディーに上陸作戦を敢行、独ソ戦に続く「第二戦線」が開かれ本格的に反撃が始まった。チャーチルはルーズベルトやソ連のスターリンと協力体制を築き、連合国を勝利に導いていく。
1945年(71歳)、2月のヤルタ会談で、ルーズベルト、スターリンと、ドイツ降伏を見据えた戦後ヨーロッパ体制の枠組みを作る。同時に「ドイツ降伏後3カ月以内にソ連が対日参戦を行う」との密約も結ばれた。4月、ルーズベルトが他界。5月8日ドイツ無条件降伏。直後の7月の総選挙(1935年以来10年ぶりの総選挙)でチャーチルは当選したものの保守党は労働党に大敗してしまう。国民は「戦時においてチャーチルはイギリスの偉大な守護者であるが、戦後の復興は労働党の政策が相応しい」と判断した。8月、日本降伏。
1946年(72歳)、「鉄のカーテン」という言葉でソ連に対する警戒の必要を訴え、労働党アトリー政権の福祉国家政策や重要産業の国有化を批判。また、支配民族として英国の没落を防ぐため植民地独立の阻止に力を注ぐが、世界の時流を変えることは出来なかった。インド、パキスタン、スリランカ、ヨルダン、イスラエルなど次々と独立していった。
1951年(77歳)、保守党を率いて再び首相を務める。
1952年(78歳)、ジョージ6世が崩御し、王女のエリザベスが女王エリザベス2世として即位。同年、米ソに次ぐ原爆保有を実現。
1953年(79歳)、執筆に5年をかけた回顧録『第2次世界大戦』全6巻を脱稿し、ノーベル文学賞を受賞。同年イングランドの最高勲章・ガーター勲章を受け、“サー”の称号を得る。この年スターリンが他界。
1955年(81歳)、耳が遠くなり、高齢と健康の衰えのため首相を辞任。
1958年(84歳)、『英語国民の歴史』全4巻脱稿。
1965年1月8日、チャーチルは脳卒中を起こし左半身がマヒする。半月後の1月24日、ロンドンにて90歳で他界。クレメンタイン夫人ら家族が最期を看取った。エリザベス2世はチャーチルの棺をウェストミンスター・ホールに3日間安置し、30万人もの国民が弔問に訪れた。セント・ポール大聖堂で執り行われた国葬では、従来の慣例を破って君主である女王が初めて臣民の葬儀に出席した。遺体は生まれ故郷ブレナム宮殿の近くブラドンの両親が眠るセント・マーティン教会墓地に葬られた。

●チャーチル語録
「勇気とは、立ち上がって語るために必要なものであり、また、腰を下ろして耳を傾けるためにも必要なものである」
「成功とは、失敗から失敗へと熱意を失うことなく進んでいける能力である」
「私は楽観論者だ。それ以外の属性は、たいして役に立たないようだ」
「社会主義は資本を攻撃する。自由主義は独占を攻撃する」
「ここにいる3人(ルーズベルト、スターリン、チャーチル)の中でいつでも選挙で国民から放り出される危険があるのは私だけだ。だがその危険があることを私は誇りに思っている」
「日本がイギリスとアメリカ、ソ連と戦争をして自滅しようとは思いもよらなかった。日本が宣戦布告することは、どうしても理屈とかみ合わなかったのである。そのような暴挙で日本は2、30年の間は破壊されたままになるのではないかと感じていたが、それは事実となった。政府や国民というものはいつも物事を合理的に決定するとは限らないのである」

●チャーチル『世界の危機』(第一次世界大戦の総括として1924年に記す)
戦争から、きらめきと魔術的な美がついに奪い盗られてしまった。
アレクサンダーやシーザーやナポレオンが、兵士たちと危険を分かち合いながら、
馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。そんなことはもうなくなった。
これからの英雄は、安全で静かで、物憂い事務室にいて書記官たちに囲まれて座る。
一方、何千という兵士たちが、電話一本で機械の力によって殺され息の根を止められる。

これから先に起こる戦争は、女性や子供や一般市民全体を殺す事になるだろう。
やがて、それぞれの国々は大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不能となるような
破壊の為のシステムを産み出すことになる。
人類は、初めて自分たちを絶滅させることが出来る道具を手に入れた。
これこそが、人類の栄光と苦労の全てが最後に到達した運命である。

※趣味は読書と絵を描くこと。戦時においても行く先々に画材一式を持参していた。好物は葉巻。
※ロイド・ジョージ「チャーチルは共産主義を心から憎悪していた。彼の公爵家の血が、ロシア大公皆殺しに強い怒りを感じさせたのだ。ロシア革命を病的に嫌悪する余り、帝政が凋落した原因を冷静に分析することができなかった」

●チャーチル『世界の危機』(第一次世界大戦の総括として1924年に記す)
戦争から、きらめきと魔術的な美がついに奪い盗られてしまった。
アレクサンダーやシーザーやナポレオンが、兵士たちと危険を分かち合いながら、
馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。そんなことはもうなくなった。
これからの英雄は、安全で静かで、物憂い事務室にいて書記官たちに囲まれて座る。
一方、何千という兵士たちが、電話一本で機械の力によって殺され息の根を止められる。
これから先に起こる戦争は、女性や子供や一般市民全体を殺す事になるだろう。
やがて、それぞれの国々は大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不能となるような
破壊の為のシステムを産み出すことになる。
人類は、初めて自分たちを絶滅させることが出来る道具を手に入れた。
これこそが、人類の栄光と苦労の全てが最後に到達した運命である。



★エビータ/Evita(Eva Peron) 1919.5.7-1952.7.26 (アルゼンチン、ブエノスアイレス 33歳)2001
Cementerio de la Recoleta, Buenos Aires, Buenos Aires, Argentina










レコレータ墓地の顔(2001) 本名はエバ・ペロン(2001) 享年33歳


こちらは友人S氏が2020年訪問

“EVITA”の追悼碑には「何百万人
ものエビータとなって帰ってくる」(上)

アルゼンチンの政治家、女優。ペロン大統領の夫人で自らも政治指導者として活躍した。本名マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン。エバ・ペロンとして知られ、通称はエビータ。
1919年5月7日、アルゼンチンの小さな町ロス・トルドスに私生児として生まれた。5人兄妹。父ドゥアルテは裕福な農場主で他に正式な妻がいた。母は未婚のコック。エバが5歳の時に父は交通事故で他界。家族と一緒に葬儀に訪れると、「出て行け恥知らず」と正妻たちに罵られた。幼いエバは傷つき、富裕層を敵視するようになったという。父の死で経済的な後ろ盾をなくした母は、5人の子を育てるため「休んでいる暇はない」と日夜裁縫の仕事に追われた。
当時のアルゼンチンは想像を絶する格差社会。エバは家計を助けるために地主の家で料理人として働き始め、そこで大金持ちが信じられないほど贅沢な暮らしをしている様子を目にする。エバ「この世には貧乏な人と裕福な人がいると知ってショックを受け、このことが私を“反乱”へと駆り立てた」。

1934年、エバは貧しい暮らしから何とか抜け出したいとの一心から、女優を目指して15歳で家出。ブエノスアイレスのカフェで女給をしながら、演劇のプロダクションを訪ね歩き、舞台の端役を手に入れた。だが、下っ端の役者は薄給で休みもなく生活は行き詰まり、その状況を知って兄が実家に戻るよう説得しに来た。エバは「尻尾を巻いて逃げ帰るのは嫌。私が家に戻るときはブエノスアイレスを手に入れたときよ」と追い返す。そして、より良い仕事を得るため、娼婦と陰口を言われても、エバは様々な演出家と付き合った。これらの努力が実り、恋人の力で映画に出演できたが、残念ながら演技が下手で成功しなかった。
エバが初めて脚光を浴びたのはラジオドラマだった。この頃、民衆にとってラジオが最も身近なメディアだった。エバはラジオで人気のシンデレラ・ストーリーを熱演し、貧しい境遇の女性たちはエバの演技に涙を流して感動した。
1943年、家出から9年、エバはスターの仲間入りを果たし、24歳にしてアルゼンチンで最も収入の多い女優の1人となった。同年、クーデターによってアルゼンチンに軍事政権が発足する。

1944年(25歳)、アルゼンチン西部で死者一万人の大地震が発生。そのチャリティー・イベントで、エバは軍事政権の国防大臣ファン・ドミンゴ・ペロン大佐(当時49歳/1895-1974)と会った。ペロンはファシストはあったが、発足直後の政権を安定させるため、国民の支持を得ようと労働者の待遇改善に力を入れようとしていた。エバはイベント会場でペロンの隣席が空いた瞬間を狙って着席し、「あなたが国民のことを思って下さるなら、どんな困難が立ちはだかろうとあなたについて行きます」と告げた。彼女は親子ほど年の差があるペロンの愛人になる。
ペロンは一緒に暮らし始めたエバの影響を受け、労働者の大幅な賃金上昇、休暇取得の義務づけ、不当解雇の禁止など庶民目線の政策を実現していく。エバはラジオで「ここに労働の価値を認める1人の人物がいます。彼こそ国民のための革命を押し進めたその人なのです」と夫の政治活動を連日支援した。同年、ペロンは副大統領となる。

1945年(26歳)、軍の内部ではペロンに人気が集中することに危機感を抱く声が出始める。反ペロン派は、自分たちがないがしろにされることを恐れた。世界大戦が終結し、ペロンのファシズム支持が問題になり、経済面では大胆な労働者保護策が中小企業の経営を悪化させ破産する会社が出ていた。
10月9日、軍の反ペロン派が蜂起し、ペロンは副大統領から更迭され、逮捕、幽閉されてしまう。エバもまた、街中で反ペロン派の学生から激しく殴打され、顔が腫れ上がった。エバ「殴られる度に私は死ぬだろうと思った。だが、殴られる度に私は生まれ変わった」。ペロンは監禁先から「君がいない人生は考えられない。ここを出たら遠いところで静かに暮らそう」と書き送る。
状況打開のため、エバは労働組合の幹部たちに会い、「ペロンの釈放を求めるデモを起こして欲しい」と直談判で働きかけた。自身もラジオでペロンの釈放を呼びかけた。
同月17日、大統領官邸前で労働者の抗議デモが起き、民衆は「ペロン万歳!ペロンを大統領に!」とシュプレヒコールを繰り返した。その気迫に圧倒された軍部は、同月21日にペロンを解放した。自由になったペロンはこの監禁事件ですっかり弱気になり、政界への復帰をためらう。エバはデモの写真が大きく掲載された新聞を突き付け、「あなたの大義とスローガンがここにあるのよ!」と叱咤激励した。解放の5日後、10月26日にエバとペロンは結婚する。

1946年(27歳)、夫が大統領選挙に出馬すると、エバは労働者階級を親しみをこめて「デスカミサドス(シャツを着ない人々)」と呼んで人気を集め、当選に協力した。ペロンは圧倒的な支持で大統領に選ばれ、エバは27歳でファーストレディーとなった。ペロンは引き続き労働者の保護政策をすすめ、初等教育の拡充を行った。
1947年(28歳)、ファーストレディーとしてヨーロッパを3カ月歴訪。スペイン、イタリア、フランス、スイス、ポルトガルを訪ねた。大戦後の欧州は食糧不足に陥っており、各国は世界有数の食糧輸出国であるアルゼンチンと関係を深めようとしていた。最初の訪問国スペインで様々な歓迎を受けた後、彼女は「貧民地区を訪問したい」と切り出した。エバは視察の車から降りて、人々の家を訪ねてまわった。また、色々な国の慈善団体も視察した。そして彼女はひとつの結論に達する。「ヨーロッパの慈善活動は参考にならない。すべてが富裕層の視点で行われているからだ。それは“恵んであげる”というものに過ぎなかった」。
帰国したエバは最初にスラム街へ足を運び、実情を視察。皮膚病で苦しむ子を見かけると官邸に連れ帰って風呂に入れさせた。そしてエバ・ペロン社会福祉財団を設立し、招かれた貧困者から何が必要なのか直接話を聞いて援助した。活動の噂は瞬く間に広がり、一日に12000通もの陳情書が寄せられるようになった。財団が一年間に配給した物品の一例は、鍋20万個、靴40万足、ミシン50万台。配給品を集めた倉庫は「喜びの倉庫」と呼ばれた。
エバは政界で活動するようになり、大統領と労働者、女性、貧困層といった弱者との仲介役を務めた。彼女は非公式ながら政府の重要メンバーとなり、福祉・労働分野で閣僚なみの権力をふるっていく。

1949年(30歳)、アルゼンチンは女性に参政権がなかったことから、エバは女性の地位向上に力を入れ、女性の参政権を認めさせた。彼女は女性の権利を守るため、女性だけのペロン女性党を結成し、自ら党首となった。こうした一連の活動に対し、上流階級の慈善協会から反発が起きた。エバの生い立ちが上流階級には我慢ならないものだった。見下されたエバは怒り、上流階級の慈善協会への補助金を打ち切り、活動停止に追い込んだ。
一方、自分の財団の資金は企業に献金を強制することでまかなった。献金を渋る企業には圧力をかけ、ある製菓工場は「鼠の毛がキャラメルに混入していた」という理由で工場閉鎖へ追い込まれた。財団の運営資金には国営宝くじの収益金、国庫資金なども組み込まれ、数々の病院、学校、孤児院、養老院などを建設した。
エバは朝8時から陳情者の行列と面談し、昼食は飲み物だけで済ませることも多かった。午後は視察に出たり政府役人との会合に出席し、夜に再び陳情者と面談した。仕事が終わるのは午前3時過ぎ。「休んでいる暇なんかないわ」と毎日20時間働き、睡眠はわずか2時間だった。
財団の支出はどの省庁よりも多くなり、帳簿管理のずさんさから、エバは財団の資金で私腹を肥やしているという疑惑をもたれたが、弱者への福祉事業に取り組む熱心な姿勢は誰の目にも明らかで、彼女は国じゅうで愛され、アルゼンチン国民のアイドルとなった。
ペロンが「少しは休め。君は私の妻ということを忘れていないか」と諭すと、エバは「仕事をしている時こそ、あなたの妻だと実感できるのよ」と切り返した。

1951年(32歳)、ペロンは大統領の再選を目指して出馬。国民からは「エビータに副大統領になって欲しい」という声があがった。8月のペロン党の決起集会には、エバの立候補を期待する100万人もの群衆が集まった。午後5時にペロンが演壇に上がり、数十分後にエバが登場すると、会場は「エビータ!ペロン!エビータ!ペロン!」の歓声に包まれた。エバ「私は政治的な地位を目当てに活動してきたのではありません。副大統領というのはとても名誉ある職です。でも私が熱望するのは、祖国の民衆の愛情がもたらしてくれる名誉だけです」。エバが立候補を明言しないため、集まった支持者は「返事をくれるまで帰らない!」と開会から5時間が経った午後10時になっても帰ろうとしなかった。彼女は「エビータが皆さんを裏切ったことはありません」と告げてその場を収めた。
翌日の新聞はエバが出馬を受諾したと報道。ペロンはこの新聞記事に不快感を示した。ペロンはエバに、副大統領になるより妻として支えて欲しいと考えていた。決起集会の9日後、エバはラジオで出馬辞退を表明する。「ペロンが国民の希望になる大統領となるよう尽くした女性がいて、その女性のことを人々は愛情を込めてエビータと呼んでくれました。私にはこの愛情以外の名誉は必要ありません」。
※この経緯について、別説で「ペロンはエバの人気を目当てに彼女を副大統領候補に指名しようとしたが、軍の反発が予想以上に大きく断念した」とするものもある。

立候補を辞退した一ヶ月後、エバは下腹部の激痛で倒れた。子宮癌に侵されていた。闘病生活に入り、11月の大統領選挙当日は、病院のベッドから投票を行った。ペロン女性党の女性票が集まり、ペロンは圧勝した。
1952年6月、大統領就任式パレードが挙行される。車上に立って移動するため、エバは立ったままでいられるよう装着した器具(コルセット)と、33キロに痩せ細った身体を、大きなミンクの毛皮で覆い隠した。
パレードで笑顔で手を振り続けたその翌月、1952年7月26日、エバは子宮癌により33歳の若さで他界した。彼女は病床で心の内をこう書き留めていた。「とても苦しい。でも、この苦しさは、良い人間になりたいと望んだ1人の貧しい女のことを、誰も理解してくれないという無力感からくるものなのです」。
葬儀の日、大統領官邸前は民衆で埋め尽くされた。通りは献花が積み上げられ、ブエノスアイレスの花屋から花が一本残らず消えた。何十万もの市民が参列し、人々が最後の別れをできるよう、エンバーミング(ミイラ化)処理を施された遺体は3日間公開されることになった。そして、人の波が途絶えないため公開は2週間延長された。

3年後の1955年、軍部によるクーデタでペロンは失脚し、18年間のスペイン亡命生活を送る。その間もペロンは労働者の支持を集め続け、1973年に帰国を許可されると同年の大統領選挙で勝利した。だが、ペロンは既に78歳であり、高齢と病気のため翌年に急逝した。
エバが没したとき、ペロンはエバのために超巨大な墓を造るつもりで埋葬せずにいた。ところがスペインに亡命することになり、軍がエバの棺を管理することになった。ペロンの政敵は、エバの埋葬地が聖地になることを恐れ、まずはドイツ・ボンに埋葬し、続いてイタリア・ミラノにマリア・マギーの名で埋葬したという。1971年、アルゼンチンの新たな政権が、ペロンによる政権承認と交換条件で、エバの亡骸を亡命先のスペインに空輸した。最終的にエバの亡骸はブエノスアイレスのレコレータ墓地にあるドゥアルテ家の霊廟地下に改葬された。墓に刻まれた言葉は「もしアルゼンチン国民の道を照らすことができるのならば、私の命を燃やし尽くしたいと切望します。そして、帰ってきます。何百万人ものエビータとなって」。
没後26年が経った1978年、私生児として生まれ大統領夫人になった生涯はミュージカル『エビータ』となり世界的にヒットした。

【レコレータ墓地】…ブエノスアイレス市北部レコレータ地区にある市内最古(1822年)の墓地。もとはレコレータ修道院が所有していた教会の庭の果樹園だったが、1822年に修道会は解散し、市内で最初の公共墓地となった。約54,600km2(5.5ヘクタール)の広大な土地は、いま市内で最も高価な不動産だ。ギリシャの神殿風、ピラミッド型など、6400を超える様々な形の墓が集まり、そのうち94の墓が歴史的建造物に指定され、国に保護されている。
アルゼンチンの歴史上の重要人物が眠っているほか、この墓地で有名になった一般人もいる。
ルフィーナ・カンバセレス(Rufina Cambaceres/1883-1902)は1902年5月末に、19歳で誤って昏睡状態のまま埋葬された。数日後、悲鳴を聞いた労働者が掘り起こすと、棺の内側に引っ掻き傷があった。母親は娘の死を悼み、カレラ大理石で美しいアールヌーボーの墓を建てた。上部にバラが彫られ、若い女性が悲しそうに自分の墓に触っているものだ。
リリアナ・クロチャーティ(Liliana Crociati/1944-1970)は1970年2月26日、新婚旅行でオーストリア・インスブルックに滞在中、ホテルが雪崩に襲われ26歳で早逝した。母親は墓所に彼女の寝室を再現し、父親が書いたイタリア語の詩「私はただ、神が存在するならば、なぜ神は自分のものでないものを取り去るのか、と自問する」などが書かれたプレートが入ったひな壇の上に、ウェディングドレスを着た実物大の緑のブロンズ像が立っている。愛犬の死後、犬のブロンズ像が追加され、リリアナの手が犬の頭にかかっている。
エビータは1952年に亡くなったが、彼女の遺体は20年間ドゥアルテ家の霊廟に埋葬されることはなかった。彼女の遺骨を守るため、地下5mの厳重な地下墓地が造られた。現在も人気を誇る彼女の墓には、支持者からの花や手紙が毎日のように手向けられている。他に、自由間接選挙で選出され、軍政から民政へ移管をうながしたラウル・アルフォンシン元アルゼンチン大統領の墓もある。
開館は午前8時から午後6時まで。入口で地図を受け取ろう。英語による無料のガイドツアーが火曜と木曜の午前11時から開催されている。2011年、BBCは世界最高の墓地の一つと賞賛し、2013年、CNNは世界で最も美しい墓地10選に挙げた。

〔墓巡礼〕
レコレータ墓地は上流階級専用で、世界一美しい墓地と言われている。通常のように個人別に墓が並んでいるのではなく、ファミリー別に石造りの“宮殿”が建てられ(高さ5m以上とか、内壁がステンドグラスになってるのも多い)、その内部に個人の棺がズラリと収められていた。金持ちの対抗意識で(笑)、どの墓宮殿も外観の彫刻はとても美しく、ホント、墓地というより美術館に近かった。
エビータの墓には様々な労働組合から贈られた彼女を称えるプレートがはめ込まれていた。権力者の墓でこんなプレートがくっついてるのはエビータだけかも。墓前は世界中の観光客でゴッタ返していた。

※1996年、マドンナの主演で『エビータ』(アラン・パーカー監督)が映画化され、主題歌『アルゼンチンよ泣かないで』が話題になる。
※2012年、100アルゼンチン・ペソ紙幣の肖像画となった。
※ブエノスアイレスのパレルモ地区に遺品を展示したエビータ博物館がある。
※エバはハリウッド女優のノーマ・シアラーに憧れ、ルックスを真似た。
〔参考〕『ザ・プロファイラー エビータ』(NHK)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』、『エンカルタ総合大百科』、ウィキペディア。



★“賢帝”李 世宗(セジョン)/Ri Sejyon 1397-1450.4.8 (韓国、ソウル、宗廟 53歳)2001



世界遺産に指定されている朝鮮半島の歴代皇帝の墓・宗廟。この最深部に賢帝と呼ばれた李氏朝鮮4代皇帝世宗の“魂”の墓がある。
世宗は文盲の民衆のためにハングルを創製、法体系の整備に努めたほか、全国に測雨器・貯水池を設け農業生産力発展、
印刷技術の改良、天文台の建設、海賊の征伐など、内政、外交、文化の分野で最大の業績を残した国民的英雄。世宗大王とも呼ばれる。
世宗大王とも呼ばれる。1973年、当時の韓国紙幣の中で一番高い10000ウォン札の肖像となった(2009年に50000ウォン札が出たので二番目に)。
※身体が納められた陵墓・英陵はソウルから約70km東にある。




★エカテリーナ2世/Ekaterina II Alekseevna(Catherine II the Great) 1729.5.2-1796.11.17 (ロシア、ペテルブルグ 67歳)2005
Petropavlovskaya Krepost, St. Petersburg, Russian Federation
※発音はエカチェリナとも。

   

ドイツ生まれ。16歳でロシア皇太子ピョートル(ピョートル3世)と結婚。1762年、33歳のときに宮廷革命で無能な夫を退位させ、自らが女帝となった。
エルミタージュ美術館の基礎を築き、ボリショイ劇場を作り、ロシア初の女学校を建てるなど啓蒙君主として知られたが、
フランス革命に驚愕して反動化、自由主義思想を徹底して弾圧するようになった。天然痘予防法をいちはやくとりいれ、ロシア人として最初に種痘を受けてみせた。
エカテリーナ2世は34年間の統治でロシアをヨーロッパの大国におしあげた。
※生涯に約10人の公認の愛人を持ち、数百人の非公認の愛人を抱え、夜ごとに相手を変えたことから、孫のニコライ1世に「玉座の上の娼婦」とまで酷評された(汗)。




★ニコライ2世/Nikolai II 1868.5.18-1918.7.17 (ロシア、ペテルブルグ 50歳)2005
Petropavlovskaya Krepost, St. Petersburg, Russian Federation

 
ロマノフ朝三百年の終焉、壁面に名前がある(ペトロパヴロフスキー聖堂)

帝政ロシア最後の皇帝。皇太子時代の1891年(23歳)、訪日中に大津で沿道警戒中の巡査津田三蔵に斬りつけられ負傷(大津事件)。
1894年、ニコライが26歳で即位。
1905年(37歳)1月、サンクトペテルブルクで憲法の制定、日露戦争の中止などを求めて請願行進が行われる。6万人のデモ隊は皇帝ニコライ2世へ直訴することで状況の改善を試みたが、軍がデモ隊に発砲したために千人以上の死傷者が出た。この「血の日曜日事件」をきっかけにロシア第一革命が始まり、反政府運動が全国に拡大していった。一部の軍人も呼応し、海軍では戦艦ポチョムキン号に赤旗が掲げられた。政府は各地で鎮圧軍を出動させ、12月にモスクワで労働者約千人を殺害して武装蜂起をねじ伏せた。
革命は失敗に終わったが、ブルジョワ的自由に目覚めた国民の要求により、ロシア最初の代議制国会「ドゥーマ」が作られた。ただし、皇帝には議会が可決した法律を拒否し、取り消す権限が与えられていた。

1911年(43歳)、ストルイピン首相がオペラ観劇中に暗殺される。犯人はあまりに保守的なドゥーマに反発した者。
1912年(44歳)、ロシア社会民主労働党プラハ協議会で、ボリシェビキとメンシェビキは完全に決別。
1914年(46歳)7月、第一次世界大戦が勃発。
1916年(48歳)、“怪僧”ラスプーチンが貴族の一団に暗殺される。ラスプーチンは皇太子(皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ王妃の息子)を病から救ったことで、皇帝一家の絶大な信任を得た。決断力に難があったニコライ2世は皇后の意向に左右されることが多く、その皇后はラスプーチンの思うままに行動するようになっていた。ロシアの民衆はラスプーチンの介入を許す皇帝の統治能力に懐疑的になり、これもロシア革命の遠因になった。

1917年(49歳)2月23日、首都ペトログラードで婦人労働者がパンを要求するデモをおこない、これに男子労働者も合流した。翌日、運動はペトログラードの労働者の約半数を巻き込む規模に拡大し、スローガンも「戦争反対」「専制打倒」と革命的なものとなった。25日には事実上のゼネストに突入、26日、警察・軍隊がデモ隊に発砲し、多数の死傷者が出る一方、労働者の呼びかけに応じて革命に合流する部隊も出始めた。27日、約15万人もの兵士が民衆の側につき、革命の勝利を決定づける。同日、国会は皇帝の休会命令を無視して国会臨時委員会を選出し、ブルジョワジーによる臨時政府を成立させた。一方、労働者・兵士代表ソビエト(評議会)も組織され、指導部の多数を社会民主労働党の穏健派メンシェビキと、農民主体の社会主義実現を構想するエス・エルが占め、彼らペトログラード・ソビエトは臨時政府を承認した。臨時政府には司法相にペトログラード・ソビエト副議長でエス・エルのケレンスキーが入閣した。ソビエトは臨時政府と並ぶ機関に位置づけられ、「二重権力」の状態になった。
第一次世界大戦の最中であり、ニコライ2世はエストニアに近い古都プスコフで前線の指揮をとっていた。二月革命を知ったニコライ2世は弟ミハイルへの譲位によって事態を乗り切ろうとしたが失敗し、3月3日、1613年以来304年も続いたロマノフ朝は終わりをつげた。皇帝は同地で退位し、シベリアに流された。

9月25日、ペトログラード・ソビエトはトロツキーを議長に選出、10月16日には反革命派から首都を防衛するための軍事革命委員会を創設した。レーニンは密かに亡命先からペトログラードに戻り武装蜂起を指導、労働者と兵士を中心に赤衛隊を組織した。10月24日夜半、トロツキー指揮下の軍事革命委員会によって『十月革命』の蜂起が始まる。銃を手にした赤衛隊の労働者、兵士、水兵は、各省庁をはじめ電話局など重要拠点を占拠し、臨時政府の拠点である冬宮を襲撃、何万人もの民衆が後に続き、無血で冬宮を陥落させた。
1917年10月25日(新暦11月7日)、トロツキーは臨時政府の終結を宣言、首相ケレンスキーはフランスに亡命した。この蜂起の最中に第2回全ロシア・ソビエト大会が始まり、レーニンは「我々は今や社会主義的秩序の建設に向けて進んでいく」と宣言。第一次世界大戦の即時休戦を呼びかけた宣言を満場一致で採択した。そして、すべての銀行を国有化し、土地の私的所有を禁じると発表。教会の保有地を国有財産とする一方、貧農やコサックの一般兵士の保有地は特別に所有を認めた。さらに世界初の八時間労働制の法制化を発表した。大会では新しい政府機構として人民委員会議を創設され、レーニンが人民委員会議議長に選ばれた。これらの政策は民衆から幅広い支持を集めた。

1918年(48歳)、ソビエト政権は首都をモスクワに遷都し、ボリシェヴィキは名をロシア共産党と改め、7月の第5回全ロシア・ソヴィエト会議でソヴィエト憲法を制定した。また、思想対立の先鋭化を防ぐため、共産党内での分派結成を禁じ、一党独裁とした。
世界はロシアで社会主義革命が成功したことに驚き、また革命の波及を恐れて列強は軍事干渉を始めた。ソビエト政権は赤衛隊を母体に、トロツキーを最高司令官とする正規軍「赤軍」を創設し、イギリス、フランス、アメリカ、日本による国際干渉軍、そしてロシア全土で展開された白衛軍との国内戦を3年間戦った。
これらの厳しい戦争を戦い抜くため、レーニンは国家資産と民衆を厳格な統制下に置く必要に迫られ、工業設備の国有化、苛烈な穀物徴発、配給制、現物経済の導入などの政策=戦時共産主義を断行した。

1918年7月16日、エカチェリンブルクに身柄を移されていたロシア最後の皇帝ニコライ2世は、家族と共にボリシェビキに処刑された。反革命の白軍に奪還されれば、子どもであっても反革命の象徴にされるため、5人の子、タチヤーナ、オリガ、マリー、アナスターシャ、血友病の息子アレクセイも殺害された。
最期のとき、皇妃が皇女たちの前に立ちはだかり「子供たちは撃つな!」と叫んだという…。



★フルシチョフ/Nikita Khrushchev 1894.4.17-1971.9.11 (ロシア、モスクワ 77歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 

東西冷戦の終結を目指すが失脚。他界時、「プラウダ」は死亡広告欄に、ごくシンプルに
「前党中央委員会第一書記、個人恩給生活者N・S・フルシチョフ」の名を載せたのみ。一行の追悼文もつけ加えなかった。



★ピョートル大帝/Pyotr TAlekseevich 1672.6.9-1725.2.8 (ロシア、ペテルブルグ 52歳)2005
Petropavlovskaya Krepost, St. Petersburg, Russian Federation

   
ロシアを近代化し西洋諸国と並ぶ強国にした大帝

ロマノフ朝5代のロシア皇帝(在位1682-1725)。西洋諸国に遅れをとっていたロシアを近代化し大きく発展させ、その偉大さから大帝と呼ばれる。身長が2メートルもあった。2代皇帝アレクセイ・ミハイロビチの子として、 1672年6
月9日にモスクワで生まれる。3歳で父を失い、1682年に弱冠10歳で即位し、異母兄のイワン5世と共に共同ツァーリ(王)となった。イワンの姉である異母姉ソフィアによって宮廷から遠ざけられていたが、家庭教師による教育と、外国人居留地の外国人から、数学・技術・機械、とりわけ軍事・海事の技術を学んだ。
1689年(17歳)、ピョートル派がソフィアを追放し、1696年(24歳)にイワン5世が没したことにより単独ツァーリとなった。
1696年(24歳)、ロシア最初の海軍を編成し、オスマン帝国から黒海北部の要塞アゾフを奪取、黒海への出口をえた。翌年、西ヨーロッパの技術と政治に触れるため、大使節団を引き連れて西欧の主な首都を視察してまわった。オランダでは変名を使い、自ら工場労働者として造船所で働いた。ピョートルはこの旅を通して900人にのぼる職人・技術者・専門家たちをロシアに招き、積極的に西欧の技術・制度を導入した。また、多くの若いロシア人を国外におくって西欧の技術を学ばせた。
1700年(28歳)、バルト海東部の支配権を手に入れるため、スウェーデンとの21年間に及ぶ北方戦争を開始する。一方、戦争遂行のための増税が国民生活を圧迫し、暴動が相次いだ。
1703年(31歳)、「ヨーロッパへの窓」としてサンクトペテルブルクを建設。
1705年(33歳)、戦争遂行のための増税が国民生活を圧迫し、この頃から民衆蜂起が相次ぐ。
1712年(40歳)、サンクトペテルブルクを首都と定める。
1721年(49歳)、ついにスウェーデンに勝利。ピョートルは元老院から大帝と呼ばれ、「インペラートル(皇帝)」の称号を受け、ロシア帝国の創始者となった。
大貴族の特権の廃止、貴族と教会の皇帝への従属、産業・教育の奨励、国家行政機構の近代化などの内政改革をおこない、徴兵制をとりいれ、バルチック艦隊を新設した。また、ロシア文字の簡素化、アラビア数字の導入、最初のロシア語新聞の発行、各種学校の設立、科学アカデミーの創設など文化面での近代化もすすめた。
1725年、座礁で溺れかかった船員を助けるため冬の海に飛び込んで風邪をひき、2月8日、肺炎によりペテルブルクにて53歳で他界。
死後、2番目の妃エカチェリナ1世が帝位を継ぎ、ロシア最初の女帝となった

「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そこから流れ出す」といわれる。北方戦争などによりバルト海沿岸・カスピ海沿岸に領土を拡張。中央に元老院を置いて行政を監督させ、宗教権をロシア正教総主教から得て政教両面の首長となる。科学アカデミーを設け、西欧技術の普及、産業の振興に努め、ロシアはピョートル大帝施政下で各方面に大きな発展を遂げた。
墓所はペテルブルグのペトロパヴロフスク要塞。 要塞中央部のペトロパヴロフスキー聖堂には、ピョートル大帝以降のロマノフ王朝の歴代皇帝、皇后、家族が葬られている。
※ペトロパヴロフスク要塞は首都ペテルブルクを建設するにあたり、ピョートル大帝が隣国スウェーデンからネヴァ河周辺を守るために築いた要塞。
※新しいロシアを作るためには皇后を幽閉し、皇太子を獄死させることも辞さなかった。



★ホセ・デ・サン=マルティン/Jose de San Martin 1778.2.25-1850.8.17 (アルゼンチン、ブエノスアイレス 72歳)2001
Metropolitan Cathedral of Buenos Aires, Buenos Aires, Argentina



石棺を完成したものの
長さが足りず、亡骸は土台の
石に斜めに入っている(汗)
※友人S氏が撮影(2020)
壁面にも墓碑がある
僕が2001年に墓参した
時は、これを墓と思い
込み、石棺を撮影せず!
霊廟中心の祭壇




南アメリカ各国をスペインから独立させるために奔走!



★尚巴志/Syohashi 1372-1439.6.1(沖縄県、中頭郡読谷村、尚巴志陵墓 67歳)2008

※沖縄は日本ですが、かつての琉球王国は外国なので、この海外コーナーで琉球王を紹介しますネ!












地元の人に「この道を真っ直ぐ」と言われた 植物に埋もれた小道をひたすら歩く だんだん本当にお墓があるのか不安になった… 案内の石柱を発見!

うおお、あの上か〜! なんと堅牢な墓!岩山と一体化している! 尚巴志王、尚忠王、尚思達王の三代を合葬

忠臣・屋嘉比之子の墓 忠臣・平田之子の墓(右の壁)
この2人の家臣が命がけで尚巴志の骨をここまで運んできたという

尚巴志の父思紹(ししょう)の墓は、なんと
航空自衛隊・知念分屯基地の敷地にある!

もちろん基地に入るのは初めて。ゲートで名前
を記帳すると隊員の青年が案内してくれた
(軽自動車は僕のレンタカーです♪)
沖縄の人が“佐敷ようどれ”と呼ぶこの陵墓が
第一尚氏王統の第一代尚思紹王のお墓!


尚巴志(しょう・はし)は沖縄の3つの小国家を制圧して、初めての統一王国となる『琉球王国』を築いた英雄。元々は佐敷地方の按司(あじ、首長)だったが、1406年(34歳)に武寧を倒して中部を制圧し、1416年(44歳)に今帰仁城を攻略して北部を支配下に入れ、さらに1429年(57歳)に南部を手に入れて全島を制圧。ここに『琉球王国』が誕生した。それからは首里城を王都とし、那覇港を整備し、周辺のアジア諸国と積極的に貿易を進めて、王国繁栄の土台を築いた。尚巴志は統一前に自分の父親・尚思紹(しょう・しょうし)を初代王に即位させたので、父から始まる第1尚氏王統の中では第2代王。しかし、全島統一の5年前に父は他界しているので、事実上は尚巴志が統一政権としての琉球王国・初代国王といえる。
 
尚巴志が死んでからは王位継承戦争がたびたび勃発。そして1469年に重臣の内間金丸(うちま・かなまる)を中心とする勢力がクーデターを敢行し、金丸が尚円(しょう・えん)を名乗って即位する。これによって、尚巴志の父・尚思紹から始まった第1尚氏王統は7代63年間で滅亡した。尚円から始まった第2尚氏王統は、第7代尚寧(しょう・ねい)の治世となる1609年に薩摩藩の侵略を受けて降伏。王朝は続いたが薩摩藩の半植民地状態になる。そして第19代尚泰(しょう・たい)の時代、1879年に琉球処分が行なわれて沖縄県が設置され、肥前鹿島藩の旧藩主・鍋島直彬が県令に就任したことで、正式に第2尚氏王統も消滅した。尚巴志を初代とする統一琉球王国は450年で歴史を閉じた。
 
尚巴志の墓の近くに眠る2人の家臣、屋嘉比之子と平田之子は、金丸派のクーデターで先王たちの墓が荒らされることを恐れ、首里から読谷村まで遺骨を運び出し、山中に隠し墓を造ったと伝えられている。


【第6代・尚泰久(しょう・たいきゅう)王時代の英傑たち】

●護佐丸(ごさまる)

墓所に続く階段の下に、『護佐丸公之墓』と
彫られた目印の石碑がある(中城村)

美しく石が積まれた護佐丸の墓。沖縄で最も有名な武将だ。墓前の石碑には
中国名の『毛国鼎(もうこくてい)護佐丸之墓』とあった。こういう事からも、
中世の琉球王国は、日本よりもむしろ中国の文化圏にあったことが分かる

若い頃は尚巴志の忠臣として戦場をかけめぐり、40年後の6代尚泰久の時代に謀略で散った悲劇の猛将。沖縄東部で勢力を増しつつあった阿麻和利(あまわり)を威圧する為に
尚泰久王の命を受けて軍備を増築したところ、阿麻和利が「護佐丸は謀反を企んでいる」と王に嘘の密告をし、動揺した王は阿麻和利に“護佐丸を討伐せよ”と命じた。
1458年、護佐丸はいつの間にか自分が賊軍になり、城を王府軍に包囲されている状況に絶句。「王府軍とは戦えない」と、一切抵抗せずに妻子と自害し果てたのだった…。
※護佐丸が拠点とした城“中城城”(なかぐすくじょう)は現在世界遺産に認定されている。

●阿麻和利(あまわり)



この固まりが丸ごと墓!えらいことになってる(汗)

なんと墓が樹木の一部に取り込まれてしまった!
何がどうなってんの!?
うっすらと『阿麻和利之墓』。
この背後が墓という目印

護佐丸のエピソードではすっかり悪役になってしまった阿麻和利。しかし、同じ年に阿麻和利もまた王府軍に滅ぼされていることから、勢力を拡大しつつあった阿麻和利と護佐丸を、尚泰久王がまとめてやっつけてしまったという可能性も指摘されている。しかも、護佐丸ヒーロー伝説は護佐丸の子孫が書いたものであり、その意味でも真相は謎だ。

●鬼大城(おにうふぐすく)





あのう、階段が倒木で登れないんですけど…

案内板が少なく「絶対にどこかで道を間違えてるよ…」
と心配になったころ、突然目の前に現れた。遠すぎ!
壁のプレート
『鬼大城之墓』

本名、大城賢勇(おおしろけんゆう)。“鬼”は豪将への褒め言葉。阿麻和利の企みを尚泰久王に知らせて、自身が王府軍を率いて阿麻和利と戦った。阿麻和利の城は防御に優れた名城であり、攻めあぐねた鬼大城は女装をして城に潜入、阿麻和利を討ち取った(“鬼”なのに女装がバレなかったのは不思議ッスね)。それから約10年後、金丸派のクーデターの際に鬼大城はこの地に追われ、ここで焼き殺されたという。護佐丸、阿麻和利、鬼大城、結局みんな命半ばで死んでしまった。



★尚寧/Syonei 1564-1620.10.14 (沖縄県、浦添市、浦添ようどれ 56歳)2008



浦添ようどれ。“ようどれ”とは琉球語の「夕凪」「お墓」 沖縄戦で日本軍が要塞化する 米軍の“鉄の雨”で崩壊し2005年に復元された



岩をくり抜き、墓とする この扉の内側に尚寧王は眠る 側の博物館では扉の内側をレプリカで再現していた!

琉球の歴史を見続けてきた首里城 第2尚氏王統が眠る巨大な『玉陵』

琉球王国・第2尚氏王朝の第7代国王。1609年、尚寧王が45歳の時、突如として薩摩藩(島津軍)が約3000の兵と100隻の軍船で侵略してきた。目的は琉球王国が外国と行なっていた貿易利益。1609年と言えば、関ヶ原と大坂の陣の間であり、日本の武士が最も戦闘的だった時代。百戦錬磨の薩摩兵に勝てるわけもなく、ほとんど組織的な抵抗が出来ないまま王都を攻略され、尚寧王は降伏し首里城を開城した。そして尚寧王は日本に連行され、薩摩、駿府、江戸と2年間にわたって抑留される。

徳川秀忠との謁見を終えて帰国した時、琉球は薩摩の半植民地となっていた。薩摩が押しつけた“掟15条”には、「薩摩の許可なしに唐へ進貢物を送ることを禁ず」とあり、琉球は外交権を奪われてしまった。もはや独立国家とは言えない。本来なら第2尚氏王統の墓は首里の玉陵なのに、尚寧王だけが浦添市に眠るのは、生まれ故郷の浦添に戻ったとも、薩摩の侵攻を許したことを恥じて王族の墓に入らなかったとも言われている。



★ロレンツォ・デ・メディチ/Lorenzo de' Medici 1449.1.1-1492.4.8 (イタリア、フィレンツェ 43歳)2005
Basilica di San Lorenzo, Toscana, Italy

 
このメディチ家礼拝堂に眠る。内部は撮影禁止だったけど、ロレンツォの墓はミケランジェロが彫り上げていた!

フィレンツェ共和国を支配したメディチ家最盛期の当主。“ロレンツォ豪華王”(Lorenzo il Magnifico/イル・マニーフィコ)とも。
フィレンツェ繁栄させ、ボッティチェリやミケランジェロを援助・保護して文化の発展に貢献した。




★ヒューイ・ロング/Huey Pierce Long, Jr. 1893.8.30-1935.9.10 (USA、ルイジアナ州バトンルージュ 42歳)2009
State House, Baton Rouge, East Baton Rouge Parish, Louisiana, USA

  
州議事堂の正面に立つヒューイ・ロングの巨大な銅像、これが彼の墓だ。暗殺された正義の政治家!

  
暗殺現場となった議事堂の通路には彼を偲ぶコーナーがあり、背後の壁には事件時の“弾痕”が生々しく残る


ガイドのお爺さんいわく
「He was a people's man」
(彼は庶民の代表だった)



★トーマス・ジェファーソン/Thomas Jefferson 1743.4.2(ユ暦)/4.13(グ暦)-1826.7.4 (USA、ヴァージニア州 83歳)2009
Monticello, Jefferson Historic Site, Charlottesville, Charlottesville city, Virginia, USA

非常に知的な大統領。「I cannot live without books」(本なしでは生きられない)


 
ジェファーソンの家 なぜか墓石に彫られた肩書きは“大統領”ではなく“独立宣言起草者”

更新中。第3代アメリカ合衆国大統領。
「私は運というものを強く信じている。そして、運とは努力するほど増すものだと思う」(トーマス・ジェファーソン)
「腹が立ったら、何か言ったり、したりする前に十まで数えよ。それでも怒りがおさまらなかったら百まで数えよ。それでもダメなら千まで数えよ」(トーマス・ジェファーソン)



★トマス・ウッドロウ・ウィルソン/Dr. Thomas Woodrow Wilson 1856.12.28-1924.2.3 (USA、ワシントンD.C. 67歳)2009
Washington National Cathedral, Washington, District of Columbia, District Of Columbia, USA

 

「世界は民主主義が存在できる環境でなければならない。世界平和は、信頼に値する政治的自由という礎の上に植えつけなければならないのだ」(W.ウィルソン)

ヘレン・ケラーと同じワシントン
大聖堂に眠る唯一の大統領
ウィルソン大統領の石棺の近くの壁に、大統領が国際連盟への加入を求めて
ベルサイユ条約の承認を得るために行った上院での演説と、没する前年に
雑誌アトランティックに寄稿した、人類の在り方についての文章が刻まれている

ステンドグラスの前にひっそりと石棺が 近年の米国の国連軽視姿勢をいかに思う

第28代大統領ウッドロー・ウイルソンは、第一次世界大戦中の1918年1月8日に、戦後処理を念頭に置いた「十四か条の平和原則」を発表し、その第14条「国際平和機構の設立」において国際的平和維持機構の設立を呼びかけた。これにもとづいて26カ条の連盟憲章が作成され、ドイツの敗戦処理を定めたベルサイユ条約の一部として19年に公布された。
ウィルソンは憲章起草委員会の一員だったが、アメリカ上院は米国以外の全加盟国の領土保全をもとめる憲章第10条に難色を示して憲章の批准を拒否。国際連盟の設立を訴えた米国=ウィルソンが、国際連盟に加盟できないという情けない事態になった。ウィルソンは消沈したが、提言した国際連盟は実現し、ウィルソンにノーベル平和賞が贈られた。

★米国オハイオ州在住のサイト読者T.Jさんが、墓所の碑文を和訳して下さいました!(有難うございます)

国際連盟加入(ヴェルサイユ条約承認)を求める上院演説(1919年7月10日)
「舞台は整い、運命は示された。これは人の思惑によるものではなく、この道へ導こうとする神の手に寄るものだ。我々は後戻りすることはできない。我々は理想を追うために、眼を上げ、新たな精神の元に、前に進むことしかできない。これは、我々が生まれてからずっと夢見てきたことなのだ。アメリカこそが道を示さねばならない。光はこの道の先にのみあるのだ。」

晩年の雑誌への投稿(1923年)
「問題全体の要旨は、精神的に成熟しない限り、われわれの文明は実質的に生き残ることができないということである。キリストの精神に満たされ、その精神から湧き出る行いをもって、自由かつ幸せであることによってのみ、救われるのである。」



★ジョージ・ワシントン/George Washington 1732.2.22-1799.12.14 (USA、ヴァージニア州 67歳)2009
Mount Vernon Estate, Mount Vernon, Fairfax County, Virginia, USA



サウスダコタ州のラシュモア山。
多くのアメリカ人が訪れる大切な場所だ
左からワシントン(初代)、ジェファーソン(3代)、セオドア・ルーズ
ベルト(26代)、リンカーン(16代)。ワシントンの眼差しが良い!


 
ヴァージニア州のワシントンの家は内部を見学可能 ワシントン博物館ではワシントン・ファミリーが入口で待っている 生涯をリアルな人形で再現

ワシントン夫婦の棺が並ぶ 初代大統領ここに眠る 巡礼者だらけ!

アメリカ建国の父、初代大統領ジョージ・ワシントンは1732年2月22日に米南部バージニア州北部のウェストモーランド郡で富裕なプランター (大農場主) の家に生れた。イギリス系移民の4代目。地理、戦史、農学などを独学し、16歳から測量技師として活躍した。
1752年(20歳)、兄の死でマウント・バーノンの農園を相続、広大な土地も購入して大農園主となる。
1754年(22歳)に9年にわたるフレンチ・インディアン戦争が勃発すると、その翌年の1755年7月、イギリス正規軍ブラドック将軍のもとで民兵軍(植民地軍)副官として従軍、武功をあげて8月には大佐としてバージニア民兵軍の司令官に任命された。
※フレンチ・インディアン戦争…1754〜63年に北米の支配をめぐり、イギリスとフランスが先住民や植民地人を巻き込んで戦った植民地戦争。アメリカ史では独立革命や南北戦争にも匹敵する重要なもの。1689年から74年間におきた4つの英仏植民地戦争(ほかにウィリアム王戦争、アン女王戦争、ジョージ王戦争)の最後にあたる。

1755年(23歳)、ブラドック将軍ひきいるイギリス正規軍と植民地軍は、7月にデュケーン砦近くで、フランス・インディアン連合軍相手に惨敗を喫する。
1756年(24歳)、欧州で「七年戦争」が勃発。プロイセンのフリードリヒ大王とオーストリアのマリア=テレジアとの戦いは、イギリスがプロイセン側、フランス・ロシア・スペイン・スウェーデンがオーストリア側につき、植民地を巻き込み世界的規模で戦われた。のちにロシアがオーストリア・フランス側から離反。
1757年、北米の英軍は仏軍相手に敗戦が続くなか、イギリス本国でウィリアム・ピットが首相に就任。ピットは有能な指揮官ジェームズ・ウルフ将軍を任命し、ワシントンらアメリカ植民地人を従属者としてではなく、むしろ同盟者として扱った。その結果、戦局は好転していく。
1758年(26歳)、ワシントンは参謀としてイギリス軍を助けデュケーン砦攻略に成功。この年以来17年間、彼は植民地議会代議員をつづけ、また郡治安判事もつとめている。
1759年(27歳)9月、イギリス軍はフランス軍本隊が守るケベック(現カナダ)を激戦のすえ攻略した。代償は大きく、イギリス軍を指揮するウルフ将軍は戦死、フランス側の将軍も戦傷をうけ翌日死んだ。
この年、ワシントンは1歳年上の裕福な未亡人マーサ・カスティス (1731‐1802)と結婚し、莫大な財産を加え、アメリカ有数の資産家となる。マーサ夫人は2人の子供を連れての再婚だった。
1760年(28歳)、イギリス軍のアマースト将軍がモントリオールを死守していた最後のフランス軍を降伏させて、イギリスによる北アメリカ征服が完成した。
1763年(31歳)、七年戦争が終結。パリ条約によって、フランスは北アメリカの全領土を失い、インドも失った。しかし、イギリスは勝ったものの戦争により負債を倍増させたため、植民地への課税によって歳入を増やそうとした。この重税に植民地人の反感が高まる。
1765年(33歳)、印紙税法施行以後、ワシントンは反イギリスの立場を強め、イギリス製品の不買運動を推進した。
1773年の枢密院令と翌年のケベック法により、ワシントンは西方への土地投機の機会を奪われて憤慨し、独立を決意する。
1774年(42歳)9月、アメリカ植民地はイギリス本国の圧政に対し大陸会議を組織。フィラデルフィアで開催された第1回大陸会議代表に選出された。
1775年(43歳)4月19日早朝、マサチューセッツのボストン近郊レキシントンでイギリス正規軍と植民地民兵が衝突、アメリカ独立革命が始まる。コンコードに向かって進軍する約700人のイギリス兵の接近を、ポール・リビアが夜を徹して馬を走らせて近隣のレキシントンに通報し、結集したパーカー大尉が指揮する70人の民兵が迎え撃った。民兵は8人の死者を出したのち撤退し、コンコードの戦いに突入した。この8人は独立戦争におけるはじめての戦死者となった。最初の大規模戦闘となるコンコードの戦いでは約200〜300人の民兵が徹底抗戦し、士気をくじかれたイギリス軍は退却、民兵たちはマサチューセッツのチャールズタウンまで追撃し、潰滅状態にさせた。この戦闘で、植民地軍はひるまない強固な意志と戦闘能力を証明した。
開戦を受け、6月15日に第2回大陸会議はワシントンを大陸軍総司令官(革命軍司令官)に任命した。大陸軍は民兵組織とは別で、植民地側の正規の軍隊。3年間の各地での戦闘の後、独立戦争は膠着(こうちゃく)状態になる。※フランスはイギリスに対して復讐の機会を待ち望んでいたため、独立戦争が起きると植民地側の支援政策をとった。しかし、フランス王室には負担しきれないほどの費用がかかり、財政危機が加速、最終的には14年後のフランス革命を招いた。

1776年(44歳)、春にボストンからイギリス軍を追出すことに成功。しかし、ニューヨークへ転戦すると連敗し、ニュージャージーへ退却する。
7月4日、大陸会議によって13の植民地の代表がフィラデルフィアでイギリスからの独立宣言を採択。「独立宣言書」はトマス=ジェファーソンが起草した。人の平等・天賦人権・革命権などを掲げ、その後のヨーロッパの市民革命に大きな影響を与えた。同年12月にトレントンとプリンストンの奇襲に成功。
1777年(45歳)9月、ワシントンはイギリス軍の名将ハウ将軍にフィラデルフィアを占領されてしまう。その冬のフォージ渓谷の越冬宿営は冬服もなく、飢えと病気が蔓延し、2000人以上の兵士が発疹チフスや腸チフスなどの病気で死亡した。ワシントンは何度も増援と物資を要請したが、大陸会議は総司令官解任の動きをみせ、その要請にこたえなかった。
1778年(46歳)、アメリカの独立を承認したフランス軍の参戦で、イギリス軍はニューヨークへの撤退を決定。
7月3日、ペンシルベニアのワイオミング・バレーで愛国者軍(ワシントンらアメリカ側独立派)と、ロイヤリスト(アメリカ人の英国側)とイロコイ族連携部隊との戦闘で、300人を超える愛国者が殺され、独立派は大きな衝撃を受けた。
1779年(47歳)、ワシントン最高司令官はイロコイ勢力掃討を計画し、6月サリバン少将に「村落すべてを破壊し、根絶やしにするように。同国を単に制圧するだけでなく、絶滅させるのだ。ただし、彼らが根絶やしになる前に、和平案があれば聞いておくように」とインディアン絶滅の指令を出した。イロコイの居住地は徹底した破壊を受けて焦土化された。
★1781年(49歳)10月19日、ワシントン将軍ひきいるアメリカ・フランス連合軍1万6000が、コーンウォリス将軍ひきいるイギリス軍がまもるヨークタウンを陥落させ、長い独立革命戦争に終止符がうたれた(講和と独立承認は2年後)。独立戦争を指導して勝利に導いたワシントンは国民的英雄となった。
1782年(50歳)、ワシントンを国王に擁立しようとする動きを断固拒否する。
1783年(51歳)、イギリスが9月3日にアメリカ合衆国の独立を承認するパリ条約(7つのパリ条約があるので注意)を受諾、独立戦争は正式に終結した。ワシントンはアメリカ軍を率いてニューヨーク市に凱旋したのち12月に軍務を退いた。以後4年間、マウントバーノンの大農園に戻って所有地を管理・運営する。
1785年(53歳)、自邸で開かれたポトマック川航行権に関する会議をきっかけに、強力な中央政府設立の動きがにわかに高まる。
1787年(55歳)、フィラデルフィアで合衆国憲法を制定する会議が開かれ議長に選出された。

★1789年(57歳)4月30日、憲法の発効とともにワシントンは全国民的な支持により大統領に選ばれ、4月に初代大統領に就任した(在任1789ー97)。ワシントンが臨時首都ニューヨーク市のフェデラル・ホールで就任宣誓すると、何千人もの市民が歓呼の声をあげ、13植民地にちなんで13発の礼砲がなった。彼は内閣制を創始し、議会から距離をおいて政府派と反対派との対立が発展するのを回避した。
彼は財務長官にアレグザンダー・ハミルトン、国務長官にトマス・ジェファソンを置き、連邦政府の基礎の確立に尽力した。連邦主義者と共和論者の均衡をはかり、財政の安定、イギリス軍基地の撤去、ミシシッピ川航行権の確保、インディアンの制圧などの国内問題に加え、同年に勃発したフランス革命をめぐる外交問題に取組んだ。彼は仏革命が導火線となった英仏戦争に対して中立を保った。
1790年に現在のワシントンD.C.が首都の予定地として選定され、政治・行政中枢機能管理に特化した首都を計画的に建設した。都市設計をしたのはフランス人ランファン。
1792年(60歳)、再選される。
1796年(64歳)の大統領選挙では、3選は民主制を妨げるとして辞退し、マウントバーノンに隠退し、所有地の管理に専念した。
1799年12月14日にバージニア州マウントバーノンで悪性喉頭炎により67年の生涯を閉じた。その2日前に雪や雨の中を馬で数時間見回りし、濡れた衣服のまま食卓に座り、翌日喉が炎症を起こし発熱した。最後の言葉は埋葬に関する会話で「それは良い」。遺言で「妻が死んだ時に私の奴隷を解放するように」と残した。奴隷はピーク時に300人いた。死去時の遺産は1799年に推定78万ドル、2021年の価値で1782万ドル(約20億円)に相当。

葬儀は死から4日後の12月18日にマウントバーノンで行われ、遺体は同地の家族墓地に埋葬された。都市では教会の鐘が鳴り響き、多くの店が閉店した。マーサ夫人は1年間黒い喪章をつけ、プライバシーを守るために二人の手紙を焼却した。夫婦間の手紙は、マーサから夫への2通と、夫から彼女への3通の計5通しか現存していない。
1800年、臨時首都フィラデルフィアから政府諸機関がワシントンD.C.に移転され、ワシントンD.C.が正式に首都となった。
1802年5月22日にマーサ夫人がマウントバーノンにて70歳で他界。
アメリカ合衆国建国200周年となる1976年、米議会はワシントンに軍の最高階級として、陸軍大元帥の称号を贈ることを議決した。

〈建国の父〉ゆえに、首都ワシントン、ワシントン州をはじめ多くの地がその名にちなんで名付けられている。
ワシントンD.C.…アメリカ合衆国の首都。コロンビア特別地区District of Columbiaでもあり、二つの名称をあわせてワシントンD.C.と呼ばれる。名称はG.ワシントンとC.コロンブスをたたえたもの。どの州にも属さず、連邦議会の直轄地で、面積158km2。人口60万1723人(2010)、住民の約70%は黒人。大西洋岸のメリーランド、バージニア両州の間にあり、ポトマック川東岸に位置し、ホワイト・ハウス、連邦議会議事堂、連邦裁判所をはじめ各省官庁や世界各国の大公使館が集中する。ニューヨーク、ボストンを含む東海岸のメガロポリスの南端を占める。ワシントン記念碑、リンカーン記念堂、ジェファーソン記念堂、ワシントン・ナショナル・ギャラリー、アメリカ議会図書館、ジョージ・ワシントン大学、ジョージタウン大学など文化施設も数多い。1911年に東京市(市長は尾崎行雄)が寄贈したポトマック河畔の桜並木が有名で、対岸のバージニア州側にはアーリントン国立墓地がある。
1878年以来、連邦政府直轄地として市政は大統領任命の3人の高等行政官の合議制で行われていたが、1967年の行政改革で大統領任命の市長制となった。

※肖像が1ドル紙幣および25セントコインに使用されている。
※1792年(1779年の先住民虐殺の13年後)、ワシントンについてイロコイ族の一人が次の言葉を残す。「今では、ワシントンの名を聞いただけで、我々の女たちは後ずさりし、顔色が悪くなる。そして、我々の子供たちは母親の首にしがみつく」。
※「少年時代に桜の木を切ったことを父親に正直に話したら、かえって褒められた」という“逸話”は、1806年から伝記に突然現れた。
※ワシントンは37箇所に約26000ヘクタール以上(甲子園の約6500倍)の土地の所有権を保有していた。

〔墓巡礼〕
初代大統領ワシントンは、私生活では自らも農作業を行う大農園主であり、ポトマック川を一望できる領地マウントバーノンをこよなく愛した。22歳から亡くなる67歳まで人生の大半をここに暮らした。敷地のレンガ造りの家族墓地(旧ワシントン家墓地)に夫婦の白い石棺が並び、向かって右がジョージだ。この墓地は、ヤナギ、クリなどの木が生い茂る草地の斜面にある。現在、ワシントンの邸宅は寝室などが見学可能。また、敷地内の博物館では映像や人形で生涯を追体験できる。マウントバーノンはワシントンD.C.から南へ約25kmにあり、地下鉄とバスを乗り継いで行ける。




★フランクリン・デラノ・ルーズベルト/Franklin Delano Roosevelt 1882.1.30 - 1945.4.12 (USA、ニューヨーク州 63歳)2009
Franklin D. Roosevelt National Historic Site, Hyde Park, Dutchess County, New York, USA

ルーズベルトの家 庭園の真ん中に埋葬された 夫婦で眠っている

更新中。日本人としては複雑な気持ち。

「もっと軽い荷物にして欲しい、と祈ってはならない。もっと強い背中にして欲しい、と祈りなさい」(セオドア・ルーズベルト/フランクリンの従兄)



★アンドリュー・ジャクソン/Andrew Jackson 1767.3.15-1845.6.8 (USA、テネシー州 78歳)2009
The Hermitage, Nashville, Davidson County, Tennessee, USA





ジャクソンの家 庭の中の四阿(あずまや)のような場所にお墓がある

 
「Andrew Jackson」と彫られている

更新中。銀行資本と徹底的に戦った。



★ドワイト・デーヴィッド・アイゼンハワー/Dwight David Eisenhower 1890.10.14-1969.3.28 (USA、カンザス州 78歳)2009
Eisenhower Center, Abilene, Dickinson County, Kansas, USA /200 S.E. 4th Street

 
青年期までアイゼンハワー(アイク)が過ごした家 中庭の銅像の前には「CHAMPION OF PEACE」の文字!



アイクのお墓の為に建てられた教会 墓の周囲の壁(3方向)にアイクの名言が書かれている 手前がアイク 退役軍人っぽいご年配が墓に見入っていた

1961年、アイゼンハワー大統領は軍産複合体(企業と軍部の複合体)の危険性を演説でこう警告した。
「米国市民が安全と自由を手に入れる為には、巨大な軍産複合体への警戒を怠らず、それらに平和的手段と目的を持たせることが重要なのだ」




★ハーヴェイ・ミルク/Harvey Bernard Milk 1930.5.22-1978.11.27 (USA、カリフォルニア州 48歳)2009
San Francisco Columbarium, San Francisco, San Francisco County, California, USA

 
人間味があふれるミルク。ゲイなど少数派の権利保護のために運動したが暗殺された



サンフランシスコの巨大な霊廟 ミルクの遺灰入れは空っぽだった 霊廟の職員いわく、このサンフランシスコ沖に撒かれたとの事

ショーン・ペンが映画『ミルク』でハーヴェイを演じ、アカデミー主演男優賞に輝いた。



★フリードリヒ2世:フリードリヒ大王/Frederick the Great 1712.1.24-1786.9.22 (ドイツ、ポツダム・サンスーシ宮殿 74歳)2015
Sanssouci Palace, Potsdam, Stadtkreis Potsdam, Brandenburg, Germany



手前に愛犬9匹の墓、奥に大王の墓 大王はドイツにジャガイモを普及させた なんと大量のジャガイモが載っていた!

芸術と学問の守護者であり18世紀を代表する啓蒙専制君主。第3代プロイセン王。在位1740〜86年。ベルリン生まれ。母は英国王ジョージ1世の娘。早くから音楽や文学に傾倒するがそれを嫌った父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と対立、皇太子だった18歳の時にイギリス逃亡を計画するが発覚し、父の命令により協力者の親友は眼前で斬首された。
1740年、父の崩御を受け28歳で即位。大王は哲人王と呼ばれ、初等教育の充実、拷問の廃止、検閲の廃止、宗教寛容令、オペラ劇場建設などを実施。祖父フリードリヒ1世が開設したベルリン科学アカデミーを再興し、数学者オイラーら学者を集め、自由な空気が満ちた帝都は「北方のアテネ」と称えられた。大王自身も学問と芸術に明るく、フルート演奏の名手であり、作曲家として121曲に及ぶフルート・ソナタを残す。27歳年上のバッハは大王の音楽的才能に感心し、両者の交流からバッハの『音楽の捧げもの』が生まれた。

軍事面にも才覚を発揮し、少ない兵力を巧みに運用、オーストリア継承戦争(1740-48)ではハプスブルク家のマリア・テレジアと戦ってシュレージエン(現ポーランドとチェコの国境周辺)を獲得、七年戦争(1756-73)でもオーストリアに勝利し南ドイツへのオーストリアの進出を阻止。戦場において大王は上着を撃ち抜かれ、乗馬も撃たれるほど果敢に戦い、プロイセンをヨーロッパ列強の地位に押し上げた。
内政では国家経営を合理化し商工業を育成する一方、沼地を干拓して国民に新しい農耕用地を提供。飢餓に備えるため寒冷でやせた土地でも育つジャガイモ栽培を広げるなどプロイセンの国力を大いに高めた。当時のドイツ民衆はジャガイモの外見に偏見を持ち食す習慣がなかった為、大王は率先して毎日ジャガイモを食べ、自ら領内を巡回しジャガイモ普及キャンペーンを行い、ジャガイモ畑を軍隊に警備させて民衆にジャガイモの価値をアピールした。1786年、サンスーシ宮殿にて74歳で崩御。遺言により愛犬たちのそばに埋葬された。著書「反マキアベリ論」など多数。哲学者ヴォルテールとも親しかった。
※大王はアメリカ独立革命に共感しジョージ・ワシントンを礼賛、合衆国と通商条約を結んだ欧州最初の国王のひとりとなった。



★リヒャルト・ワイツゼッカー/Richard von Weizsacker 1920.4.15-2015.1.31 (ドイツ、ベルリン 94歳)2015
Waldfriedhof Dahlem am Huttenweg, Dahlem, Steglitz-Zehlendorf, Berlin, Germany






2015年1月に他界、同年8月に墓参

名前と生没年だけのシンプルな墓

 「EHRENGRAB(墓を称える)」
ベルリン市の紋章

東西ドイツを統一した政治家。西ベルリン市長から第6代連邦大統領(在任:1984-1994)に就任。
在任中の1990年10月3日にドイツ再統一。死去に際し、国葬がベルリン大聖堂で執り行われた。
ユダヤ虐殺について「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」と語った言葉が有名。
「自由民主主義擁護には法と裁判所だけでは不足で市民的勇気も必要」




★レオポルト1世/Leopold I 1640.6.9-1705.5.5 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 64歳)2015
Kapuzinergruft, Vienna, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria

カプツィナー霊廟には棺工芸の最高傑作と呼ばれる錫(すず)製の4つの棺がある



【 “豪華棺”の製作に参加した工芸家】
ヨーハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント(1668-1745)※ウィーンのベルヴェデーレ宮殿を設計したバロック建築の巨匠
トービアス・クラッカー・ジュニア(1658−1736)
ニコラウス・モル(1709−1743)&フェルディナント・モル(1717−1785)※兄弟
〔参考書籍〕『中央・墓標をめぐる旅』平田達治(集英社新書)









優れた作曲家でもあり、縁取りはパイプオルガンのパイプを模している。
設計はヒルデブラント、鋳型(いがた)鋳造(ちゅうぞう)はクラッカーJr
上部には鷲とキリスト像


優れた作曲家でもあった皇帝 レオポルト1世がこの霊廟を拡張した




21歳で没した妃マルガリータ・テレサの墓 マルガリータの“M” ベラスケス『ラス・メニーナス』

神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1658年-1705年)。ハプスブルク家。優れた作曲家で135曲のアリアと合唱曲、80曲の教会音楽、17のバレエ音楽、9の音楽劇を作曲し「バロック大帝」とも呼ばれる。オスマン帝国からハンガリー・トランシルヴァニアを奪取して東に領土を拡大、ハプスブルク家の大国復興の足がかりを築いた。晩年、スペイン継承戦争を始める。
最初の皇后マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャは、スペインの宮廷画家ベラスケスによる少女時代の肖像画で有名。

●神聖ローマ帝国…中世から19世紀初頭までのドイツ国家の呼称。962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネ12世の手で帝冠を戴いて成立。皇帝は血統権に基づく選挙制により選出、ローマ教皇の加冠を受け、ローマ帝国の伝統とキリスト教会の権威を結びつけた。中世の領域は現在のドイツ・オーストリア・イタリア・南東部フランスに及ぶ。14世紀末から終焉に至るまで国名に「ドイツ国民の」という語が付加された。ナポレオン勢力下の1806年、フランツ2世が帝冠を辞退し、帝国は崩壊した。



★ヨーゼフ1世/Joseph I 1678.7.26-1711.4.17 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 32歳)2015
Kapuzinergruft, Vienna, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria











ブロンドの美男子だった皇帝の横顔 棺の蓋の上には月桂冠やラッパを持った2体の天使



スペイン継承戦争の戦闘場面(騎兵の突撃)と
小太鼓、ライフル。実物大のリアルさ
妃アマーリエ・ヴィルヘルミーネの
心臓を納めた黒大理石の豪華壺
ヨーゼフ1世の帝位は6年のみ、32歳で病死


神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1705年-1711年)。ハプスブルク家。レオポルト1世の長男、カール6世の兄。子どもの頃から帝王教育を受け、9歳でハンガリー王に即位、12歳でローマ王に選出、1705年の父の死をうけ27歳で即位する。ヨーゼフ1世は弟カールをスペイン王にするべくスペイン継承戦争を続行するが、即位からわずか6年後、1711年に32歳で没した。官僚制度を改革し、中央政府を現代化させた。
嫡男が早世したことから、弟はスペインの王位を断念し、皇帝カール6世として即位した。
※妃アマーリエ・ヴィルヘルミーネ(1673-1742)の亡骸はウィーンのサレジオ会女子修道院に安置。



★カール6世/Karl VI 1685.10.1-1740.10.20 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 56歳)2015
Kapuzinergruft, Vienna, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria

マリア・テレジアがフェルディナント・モルに製作させた棺工芸の最高傑作!!












錫(すず)=赤銅(しゃくどう)で作られた棺を、足下で4頭のライオンが支えている。
四隅に配置された骸骨と王冠は、神聖ローマ帝国、カスティリア王国(スペイン)、
ボヘミア王国(チェコ)、ハンガリー王国の王冠。オーストリア帝国の強大さを象徴
カイザー(皇帝)カール6世









これはおそらく神聖ローマ帝国の王冠 地球儀の上のカール6世のメダイヨンを支えている カスティリア?ボヘミア?ハンガリー?



僕が感動したのはこの前面レリーフ。
1717年のサラゴンの戦いのものだけど→

従来の王の墓は勇猛果敢な兵士ばかり登場した
が、ここでは負傷した戦友を5人で救出している

王の命令で戦い犠牲者となる。戦争を美化せず
棺の正面に彫り込んでおり胸を打たれた。
神話ではなく現実に起きている悲劇だ

マリア・テレジアの父。神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1711年 - 1740年)。1685年生まれ。作曲家バッハとヘンデルも同年に生まれている。レオポルト1世の次男で兄はヨーゼフ1世。
大公時代の1700年(15歳)、従兄のスペイン王カルロス2世が病死すると、王位を継ぐ男児がいないため、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。父レオポルト1世は王位後継者としてカールを擁立するが。カルロス2世が後継者にフランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップ(フェリペ5世)を推薦していたことから、1701年(16歳)にスペイン継承戦争が勃発した。

1703年(18歳)、カールはまず同盟国ポルトガルへ渡り、1705年(20歳)にバルセロナに入って「カルロス3世」を名乗り、既にマドリードで即位していたフェリペ5世と対峙した。
1708年、23歳のときに6歳年下のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家のエリーザベト・クリスティーネをバルセロナに呼んで婚礼を挙げ、カールは妻を「白き肌のリースル(エリーザベトの愛称)」と呼び愛した。
1711年(26歳)、カールの兄ヨーゼフ1世が32歳で急死したことで、カールはスペイン王ではなく、神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝の帝位を継承することになった。1714年(29歳)、カールはスペイン継承戦争を解決して領土を拡大、オーストリア帝国をフランスに並ぶ大国にした。

1716年(31歳)、待望の世継ぎである男子レオポルト・ヨハンが生まれたが、ヨハンは1歳になる前に早逝した。その後、マリア・テレジア、マリア・アンナ、マリア・アマーリアと3人の女子を授かる。
1724年(39歳)、カールは相続順位法を制定し、継承権のある男子がいない場合は直系の女子に継承権があることを定め、長女マリア・テレジアが帝位相続できるようにした。
1740年にカールが胃癌により56歳で他界すると、兄ヨーゼフ1世の娘婿たちが、ハプスブルク家領の相続権を要求し、オーストリア継承戦争が勃発する。戦乱は8年続いた。

カールの没後10年の1750年に妃エリーザベト・クリスティーネが他界すると、娘マリア・テレジアは職人フェルディナント・モルに芸術的な棺を墓所のカプツィーナー霊廟に作らせ、これに合わせて父カール6世の墓もさらなる豪華棺に作り直させた。



★エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブランシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル/Elisabeth Christine von Braunschweig-Wolfenbuttel
1691.8.28-1750.12.21 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 59歳)2015

Kapuzinergruft, Vienna, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria








カール6世の墓と通路を挟んで向き合っている

棺のデザインは夫カールと共通しており、上部で女性と子どもが故人の肖像を持つ。
こちらの足下はライオンではなく鳥、四隅は王冠骸骨ではなくヴェールの女性たち






正面にはバルセロナでの結婚式に向かう船旅 女帝マリア・テレジア(アントワネットの母)を生む 1歳を前に夭折した息子ヨハン



四隅には死者を弔うヴェールの女性。この薄い布の質感!錫(すず)で出来ていると思えない! 女性天使の羽根は片側が大きく広がってる

神聖ローマ皇帝カール6世の妃で“女帝”マリア・テレジアの母。1691年にドイツ北西部のザクセンに生まれ、1708年、17歳の時に6歳年上のカール大公(23歳)とスペイン・バルセロナで結婚。彼女はカールから「白き肌のリースル(エリーザベトの愛称)」と呼ばれ愛された。
当時、カールはスペイン王位継承候補者として、ブルボン家のアンジュー公フィリップと王位を争っていたが(スペイン継承戦争)、1711年、カールの兄ヨーゼフ1世が32歳で急死したことで、カールはスペイン王ではなく、神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝の帝位を継承することになった。
1716年(25歳)、待望の世継ぎである男子レオポルト・ヨハンが生まれたが、ヨハンは1歳になる前に早逝した。その後、マリア・テレジア、マリア・アンナ、マリア・アマーリアと3人の女子を授かる。
1724年(33歳)、カール6世は継承権のある男子がいない場合は直系の女子に継承権があることを定め、長女マリア・テレジアが正式な相続者と定められた。
1740年(49歳)にカールが56歳で他界すると、夫の兄ヨーゼフ1世の娘婿たちが、ハプスブルク家領の相続権を要求し、オーストリア継承戦争が勃発する。戦乱は8年続いた。

1741年(50歳)、リウマチにより車椅子で生活していたが、マリア・テレジアが待望の男児ヨーゼフ(後のヨーゼフ2世)を出産し、喜びのあまり一時的に歩けるようになった。

カールの没後10年の1750年にエリーザベトが59歳で他界すると、娘マリア・テレジアは職人フェルディナント・モルに芸術的な棺を墓所のカプツィーナー霊廟に作らせ、これに合わせて父カール6世の墓もさらなる豪華棺に作り直させた。

※完全に名前が同じ人物が3人いるので注意!!
●エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1691-1750)
上記の神聖ローマ皇帝カール6世の皇后。
●エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1715-1797)
プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の王妃。
●エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル  (1746-1840)
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の最初の妻。同名のカール6世皇后の姪っ子。



★マリア・テレジア/Maria Theresia 1717.5.13-1780.11.29 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 63歳)2015
★フランツ1世/Franz I 1708.12.8-1765.8.18 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 56歳)2015

Kapuzinergruft, Vienna, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria






ハプスブルク家のカプツィナー霊廟 フランツ1世とテレジアの超巨大な棺 慣習により内臓を取り出した身体が納められている









フランツ1世 棺のてっぺんで向き合う皇帝夫婦 マリア・テレジア









天井画も素晴らしい 夫婦を祝福する天使 壁面に天使の影が映る

マリア・テレジアは典型的な啓蒙専制君主の一人で、オーストリア=ハプスブルク家の女性当主。女性ゆえに神聖ローマ皇帝にはなれなかったが、最高権力を持つ実質的な「女帝」だった。正式にはオーストリア大公妃兼ボヘミア王、ハンガリー女王で、在位1740-80年(前半は神聖ローマ皇帝の夫フランツ1世と、後半は皇帝を継いだ長男ヨーゼフ2世との共同統治)。多民族国家であるオーストリア帝国の中央集権化を進め、ハプスブルク家の支配をより強固なものにした。マリア・テレサともいう。
1717年5月13日、神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740)の長女としてウィーンに出生。1736年、19歳のときに当時の王室としては異例の恋愛結婚で9歳年上(28歳)のロートリンゲン公フランツ・シュテファン(1708-1765/のちの神聖ローマ皇帝フランツ1世)と結婚、実に16人もの子(男子5人、女子11人)をもうける。彼女は6歳からフランツを好きだった。2人の子どもにはのちの皇帝ヨーゼフ2世やレオポルド2世、フランス王妃マリー・アントワネットらがいる。
さかのぼること1713年(テレジア誕生の4年前)、父帝カール6世は王位継承順を取り決めた家督継承法である国事詔書(こくじしょうしょ/プラグマティッシェ・ザンクツィオン)を定め、(1)長男(2)長男の系統(3)それ以外の男系系統(4)最後の王位継承者の長女(5)その子孫による女系系統の順とした。

1740年にカール6世が没すると、男子夭折により長女のマリア・テレジア(当時23歳)がハプスブルク家の全領土を相続したが、プロイセン王フリードリヒ2世(大王)は相続容認の条件としてシュレジエン(現ポーランド南西部)割譲を求め、バイエルン選帝侯カール・アルバートはフランスのルイ15世の協力を得て神聖ローマ皇帝位を要求したため、オーストリア継承戦争(1740−1748)が勃発する。この戦争でマリア・テレジアはシュレジエンを失ったが、イギリスと同盟を結び、ハンガリー議会に乗り込んでハンガリー貴族たちに頭を下げて強力な騎馬軍団の援軍を得、他の領地を守り抜いた。この間、1745年(28歳)に夫を神聖ローマ皇帝フランツ1世として即位させるが、夫は政治に関心がなく、彼女が国家を動かした。
継承戦争後、マリア・テレジアは内政改革に励んで近代的な中央集権体制を強化し、軍事力を回復させた。宰相カウニッツと外交方針の劇的な転換をはかり、プロイセンに対抗するため数世紀にわたる宿敵フランスと同盟し、またロシアとも協力関係をむすんで、イギリスとの伝統的な協力関係を破棄した。
1756年(39歳)、シュレジエン奪回のためフランス、ロシアを味方につけ七年戦争(1756-1763)に挑むも失敗、より穏健な政策をとるようになった。
1765年(48歳)に夫のフランツ1世が56歳で没すると、24歳の長男ヨーゼフ2世(1741-1790)をオーストリアの共同統治者、神聖ローマ皇帝(在位1765-90)としたが、最終的な決定権は手放さなかった。
1772年(55歳)、カウニッツや息子ヨーゼフ2世の進言にしたがって第1次ポーランド分割に参加し、ガリツィア(現ウクライナ南西部)を獲得。
1773年(56歳)イエズス会を解散させる。
1780年11月29日、ウィーンにて63歳で他界。

古風で伝統を重んじたマリア・テレジアは、一方で、きわめて現実的だった。統治者としての責任感が強く、それまで大臣は名門貴族に限られていたが、彼女は身分に関係なく有能な人物を周囲に集め、大臣たちの意見を正しく判断する洞察力をそなえていた。
ヨーゼフ2世との共同統治のなかで、彼の性急な改革を抑えながら、神の恩寵によりどころを求めて啓蒙的な諸政策を実施し、王領における農奴制を廃止(農奴解放)し、賦役(ぶえき)軽減による農民保護を行なった。また、産業育成など近代化に努め、教会特権をおさえてイエズス会を解散させ、修道院の新設を禁止し、学制・法制改革によって農村各地に小学校を設置した。シェーンブルン宮廷においても市民的な家庭生活を重んじ、16人の子の母として、そして敬虔なカトリックの啓蒙君主として、多民族からなる国民からも国母として敬愛された。

夫の死後、マリア・テレジアは没するまで15年間喪服を着用していた。ハプスブルク家代々の墓所であるカプツィナー霊廟は、1632年に建てられた教会で、地下の納骨堂には12名の皇帝、18名の皇后をはじめ一族約150名(146名?ウィキは138名)の遺体が安置されている。彼女は夫フランツ1世に先立たれた後、何度もこの霊廟を訪れて、亡き夫と時間を過ごしたという。そして最後の審判の日に、目覚めた時に再び共にいられるよう、夫婦で同じ棺に入ることを望んだ。それゆえ、非常に大きな棺となり、棺の上には見つめあう2人の胸像がある。装飾も凝っており、芸術品のような豪華さだ。
※1600年〜1872年までの約300年間、ハプスブルク王家の身体はシュテファン大聖堂の近くのカプツィナー霊廟に、心臓はアウグスティーン教会地下室(ロレット礼拝堂)の銀製の壷に、内臓はシュテファン大聖堂地下室の銅製の壷に分割埋葬された。アウグスティーン教会には心臓の壺54個、シュテファン大聖堂には内臓の壺56個がある。当時、皇帝の遺体はしばらく公開される慣習があったため、腐敗の早い内蔵を取り出す必要があったという。
※ウィーン美術史美術館前のマリア・テレジア広場には巨大なマリア・テレジアの銅像が建ち、台座には重臣たちの騎馬像がある。

●フランツ1世…神聖ローマ皇帝在位1745年-1765年。母はルイ14世の弟の子。1736年、当時の王室としては異例の恋愛結婚でマリア・テレジアと結ばれ、自領ロートリンゲン(ロレーヌ)公国からウィーンに来た。2人の間にはヨーゼフ2世、レオポルト2世、マリー・アントワネットなど16人(男子5人、女子11人)の子が生まれた。1745年に即位。外国から来たという理由で宮廷の内外で軽んじられていたが、温かな人柄、陽気で親しみやすい性格で良き父親だった。神聖ローマ皇帝位は長男ヨーゼフ2世が継いだ。

※娘の1人、マリア・クリスティーナの感動的な墓がアウグスティーン教会の入って右側にあるという。僕は気づかなかった!なんという不覚!

〔アウグスティーン教会〕

ヨーゼフ広場に面した宮殿に教会が付属。
地下に心臓安置所がある
この教会でマリア・テレジアや、フランツ・
ヨーゼフの妃エリザベートが挙式を行った
あの扉が地下礼拝堂に続くらしい。
残念ながらこの日は閉まっていた

心臓安置所の様子はこの写真で分かった ここにマリア・テレジアら54人の心臓が



★ヨーゼフ2世/Joseph II 1741.3.13-1790.2.20 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 48歳)2015
Kapuzinergruft, Vienna, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria

 



今でも尊敬を集めている啓蒙専制君主 映画『アマデウス』の俳優はソックリ




ウィーンのヨーゼフ広場。騎馬像の銘文は「公共の福祉に
尽くしたヨーゼフ2世は長くはない人生を有意義に送った」
自身による墓碑銘「よき意志を持ち
ながら、何事も果たさざる人ここに眠る」







農奴制を廃止した
「皇帝革命家」
倹約家の賢帝らしい極限までシンプルな墓。
ド派手な墓が多い中、逆によく目立つ
ヨーゼフ2世の後方に母マリア・テレジアと
父フランツ1世の墓がドドーンとある

7歳で他界したヨーゼフ2世の子、祖母と同名の
マリア・テレジア(1762.3.20-1770.1.24)の墓
父や祖父母と同じ部屋に眠っている。
幼い子どもの彫刻は胸が痛む…

聖ローマ皇帝(在位:1765-1790)。啓蒙専制君主の代表的人物。急進的改革から「民衆王」「皇帝革命家」とも。オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの長男。マリー・アントワネットの兄。姉3人に続いて生まれた男子であり母から溺愛。母の元婚約者候補プロイセン王フリードリヒ2世(啓蒙王)を崇拝し母を悲しませる。1765年(24歳)、父フランツ1世が没し皇帝に選出、母と共同統治を行う。1770年、亡き先妻イザベラとの長女マリア・テレーゼが7歳で夭折。

1780年(39歳)、母が他界し単独統治を開始。翌年に農奴制を廃止(農奴解放令)。宗教寛容令を発布し、ルター派、正教会の信者にも公民権上の平等を認める一方、多くの修道院を解散させて資産を国庫に入れ財政を富ませた。ウィーン総合病院を開設し、王領プラーター公園を市民に開放した。1790年、フランスで革命が激化する中で病死。多くの改革が抵抗勢力=貴族に阻まれたことから、自ら選んだ墓碑銘は「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」。弟レオポルト2世が帝位継承。

※映画『アマデウス』に登場。モーツァルトを宮廷音楽家として雇う。ヨーゼフ2世が出した葬儀簡素令によりモーツァルトの遺体は所在不明に…。



★フランツ2世/Franz II 1768.2.12-1835.3.2 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 67歳)2015
Kapuzinergruft, Vienna, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria

最後の神聖ローマ帝国皇帝 シルエットが美しい木製の棺。色も良い

神聖ローマ帝国の最後の皇帝(在位:1792年-1806年)。1792年に24歳で即位。ナポレオン1世に敗れ、1806年神聖ローマ帝国を解体。1804年以来、最初のオーストリア皇帝としてフランツ1世と称し、娘マリア=ルイーゼをナポレオン1世に嫁がせた。1814年、ナポレオン戦争後の事態収拾のために開かれたウィーン会議で領土を回復、革命の波及を恐れて反動政治を行なった。

※ベートーヴェンの2歳年上で同時代を生きており、ベートーヴェンは自由と平等を求めてこの皇帝の支配体制と戦い続けた。



★フェルディナント1世/Ferdinand I 1793.4.19-1875.6.29 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 82歳)2015
Kapuzinergruft, Vienna, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria

通称「善良帝」 宰相メッテルニヒに補佐された

オーストリア皇帝(在位:1835年3月2日-1848年12月2日)。最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世の長男で「善良帝」と呼ばれる。姉はフランス皇帝ナポレオン1世の皇后マリア・ルイーザ。
1835年、フェルディナントは父帝の崩御によって42歳でオーストリア帝位に即位。病弱のフェルディナントを野心家の敏腕宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが支えた。1848年(55歳)、フランス2月革命に刺激され、オーストリア支配下でも民主化を求める3月革命が起き、民衆に不人気なメッテルニヒを罷免。しかし革命は収まらず退位を決断、世継ぎがいないため弟フランツ・カール大公の長男フランツ・ヨーゼフ1世に帝位を譲った。退位後はプラハ城で暮らし、27年間生き続け、1875年に82年の人生を閉じた。



★フランツ・ヨーゼフ1世/Franz Joseph I 1830.8.18-1916.11.21 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 86歳)2015
★エリザベート/Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach 1837.12.24-1898.9.10 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 60歳)2015
★ルドルフ大公/Rudolf 'Crown Prince Rudolf'Habsburg 1858.8.21-1889.1.30 (オーストリア、ウィーン:カプツィナー霊廟 30歳)2015

Kapuzinergruft, Vienna, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria

美しきエリザベート皇后 墓前には多くの花


宝塚やミュージカルで人気のエリザベート 中央はフランツ・ヨーゼフ1世 30歳で早逝したルドルフ大公

●フランツ・ヨーゼフ1世…オーストリア皇帝、在位1848〜1916年。オーストリア皇帝フェルディナント1世の弟フランツ・カール大公の長男。1854年、バイエルン公マクシミリアンの娘エリーザベトと結婚。イタリア独立戦争や普墺戦争に敗北後、ハンガリーの自治要求をうけいれ、対等な立場で二重帝国をつくることに合意。晩年には一人息子で帝位継承者のルドルフ大公が自殺、98年には皇后エリーザベトがイタリアの無政府主義者に暗殺された。さらに1914年、ルドルフにかわって帝位継承者となった甥フランツ・フェルディナントがセルビアの民族主義者に暗殺された。作曲家ブルックナーと面識あり。

●エリザベート皇后(エリーザベト)…オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。当時ヨーロッパ宮廷一といわれた美貌の持ち主。身長172cm。名前のドイツ語読みは「エリーザベト」、愛称「シシィ」。バイエルン王女の次女に生まれ、天真爛漫な少女時代を過ごしたが、15歳のときに7歳年上の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に求婚され、窮屈なお妃教育が始まる。1854年4月、シシィは16歳でオーストリア皇后となった。シシィは貴族でありながら共和制に共感し、またオーストリアに併合されていたハンガリーに同情してハンガリー語を習得、独立運動(自治権獲得)を密かに支援した。姑のゾフィー大公妃はフランツ・ヨーゼフ1世がシシィの影響を受けることを恐れ、シシィに何かと嫌がらせをした。1889年(52歳)、息子ルドルフ皇太子が30歳の若さで自殺(暗殺説あり)。1898年9月10日、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人無政府主義者ルイジ・ルケーニに刃物で心臓を刺されて暗殺された。
※ワグネリアンのバイエルンの“狂王”ルートヴィヒ2世と親しかった。

●ルドルフ大公…オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇太子。ハプスブルク=ロートリンゲン家の世継ぎとして周囲に期待されたが、自由主義に走って貴族批判を行い、父帝との反目などから孤立し、男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラと情死したが、暗殺とも言われている。享年30歳。



★カイディン帝(啓定帝)/Lang Khai Dinh 1885.10.8-1925.11.6 (ベトナム、フエ、カイディン帝廟 40歳)1994







帝陵へは127段の石段をのぼる 内装にゴージャスなモザイクが施されている

ベトナム最後の王朝、グエン朝の第12代皇帝。フランス統治下の1916年、先帝が宗主国フランスを排除しようとして廃位されレユニオン島へ流刑となり、フランスによって31歳で皇帝に擁立される。1920年(35歳)、自身の廟所の建設を命じる。その2年後、博覧会出席のためフランスのマルセイユを訪れて西洋の建築に魅了され、親仏的傾向を強めた。帰国後、建設中の自身の廟所をベトナムと西洋の様式をミックスしたものにするよう指示。同時に陵墓建設(豪華化)のために増税を命じ、国民の不評を買った。1925年、結核により廟所の完成を待たずして40歳で他界し、長男が皇位を継承する。1931年、工期11年を経て没後6年目に帝廟が竣工した。
カイディン帝廟は古都フエ市街から10km南下した離れたフォーントゥイ(香水)県のトゥイバン村にある。1993年、ベトナムで最初の世界遺産となり観光地として人気を集め、奇しくもカイディン帝は墓となって同国の財源に貢献している。



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