2000 | 2009 |
無名の頃は殺し屋など悪役をやっていたゲーブルだが、33歳のときに『或る夜の出来事』(1934)でアカデミー賞を獲り、さらに38歳のときにメガヒット作『風と共に去りぬ』(1939)のレット・バトラーを演じたことで“キング・オブ・ハリウッド”と呼ばれるようになった(バトラー役に彼が指名されたのは、何と原作者マーガレット・ミッチェル直々の熱い希望)。心臓発作にて59歳で他界。 |
この巨大要塞=セレブの大霊廟にゲーブルは眠る。 一般非公開につき、いつも泣く泣く外部から遙拝していた |
この大霊廟入口に警備員がいる。過去 3回、何度交渉しても入れてくれなかった |
世界一、墓マイラー泣かせの墓所、それがロスのフォレストローン墓地。ここはセレブ用の特別区画があり、一般人は純粋に墓参が目的でも入ることができない。ハンフリー・ボガード、メアリー・ピックフォード、サム・クック、彼らは特別区画に墓があり巡礼不可能だ。 またこの墓地には、クラーク・ゲーブル、マイケル・ジャクソン、ハロルド・ロイドなど、名だたるスターが眠る大霊廟があるが、そこに至っては建物が丸ごと一般立入禁止という始末。 欧米の墓地は基本的にとても外に開かれた空間であり、墓ツアーを企画したり、ガイドさんがいる墓地も多い。フォレストローンのように霊廟を立入り禁止にするなんて聞いたことがない。おそらく、マイケルがここに永眠したことで多数の巡礼者がやって来る思う。世界中から来たファンを全員門前払いにするつもりなのか…。 墓地側はもっと墓参者の善意を、人間を信じて欲しい。(2009) |
うおおおおお!2013年、奇跡が起きた! 僕は“子連れなら怪しまれないかも”と、日本から3歳の我が子を連れて当墓地へ。4度目のチャレンジだ。肩車しながら入っていき、子どもに「ハロー」と言ってもらい小さな手を振らせた。 すると…警備員さんも笑顔で「ハロー!ウェルカ〜ム!」。何の問題もなくスルッと入れた!信じられない!やったーッ!!感無量…ありがとう、MY SON。 なぜ制止されなかったのかは分からない。幼児を肩車しているから不審者に思われなかった可能性もあるし、警備員さん(っていうかアメリカ人)が子ども好きゆえ、墓参大歓迎というモードだったのかも知れない。とにかく奇跡は起こった。だが、中に入ってからも大きな難関があった。チェーンによる通行止めだ。 |
画像中央のチェーンの向こうに、ゲーブルが 眠っているエリア「Sanctuary of Trust」がある |
お墓が遠いしプレートが小さいため、どれが ゲーブルの墓なのか確認出来ない。ピンチ! |
チェーンの外側からでは、ゲーブルの墓の場所が分からない。固まっていると、子どもが中に入って行った。このピンチに頭をよぎったのは、日本の漁師が伝統的に行っている鵜飼(うがい)。 遠くで見回りしていた警備員さんは他の墓参者に対応中。僕は警備員さんの視界に入るように大きく手を振り、「子どもが迷子になったので追っかけます」みたいなジェスチャーをすると、手でGOとしてくれたのが見えた。即、ダーッと中に入ってクラーク・ゲーブルの墓を無事に発見! あまり長く入ってると怪しまれるので1分ほどしか墓参できなかったけど、それでも『風と共に去りぬ』や『或る夜の出来事』など、往年の名画で感動を与えてもらった御礼の言葉を伝えることができた。義を果たした! |
悲願成就!よく見ると名前の 上下にキスマークの痕跡が |
右隣にはゲーブルの愛妻 キャロル・ロンバードが眠っていた |
ありがとう!おかげで無事に 巡礼が出来たよ!(2013) |
ダニー・ケイの墓は素晴らしすぎる!名墓のトップ3確実! |
ダニーの墓は画面中央の木の下 | 墓はどこかって?既に見えているさぁあああ! |
2000 | 2009 |
有名人の中には自分の名前をデカデカと刻む人もいるけど、ダニーは 自分が好きなものを並べて「これが僕です」と自己紹介している!左から ティーセット、ラジオ(TV?)、コック帽、花、バット&グラブ、ピアノ、楽譜、 飛行機(旅行)、そしてユニセフ(国連児童基金)のマーク!ブラボーッ! ※ダニーは一時期マリナーズの共同オーナーだった |
コック帽にうっすらと、ほんとに小さな 細い字で「DANNY KAYE」と 遠慮がちに彫られている (*^v^*) |
シルビア夫人の名は楽譜の 下の方に「SYLVIA FINE KAYE」 とある。こちらも消え入りそう |
カップがちゃんと奥さんのと 2個あるのが微笑ましい♪ |
ユニセフのシンボルマーク。 地球と親子の絵なんだね |
これは長椅子からの景色。奥の方に噴水が見える | これが噴水のある池。とても良い環境の墓地! |
ハート・ウォーミングな作品に多く出演してきたダニーの墓は長イス型!世界一素晴らしい造形の墓!そして自身の名前は控えめに彫られているだけ。僕はこんなに謙虚な墓を他に見たことがない。 ダニーは1954年(41歳)から国連のユニセフに参加し、他界するまで30年以上も親善大使として活躍した。世界中でチャリティ・ショーのステージに立ち続け、社会活動やエンターテイナーとしての至芸が評価され、アカデミー特別賞を受賞している。 ※ウィキペディアによると、ダニーは何度もお忍びで来日して福祉施設を回り、それを決して公表せず、マスコミに見つかると「日本のお寺をじっくり見たかったんです」とごまかしていたという。マジで良い人! ※「ガチョーン」のギャグで知られる谷啓の名前はダニー・ケイをもじったもの! ※ルパン三世の声優、山田康雄はダニーの演技に惹かれて役者になることを決めたとのこと。 |
気が遠くなるほど巨大な霊廟 | 2000 ジュディの写真が置いてあった | 2009 ステンドグラスが美しい |
子役の頃から歌えて踊れて引っ張りだこだった、ハリウッド黄金時代のミュージカル・スター。ストレスから晩年は睡眠薬を多用し、ボロボロになって散った。『オズの魔法使』のあどけない彼女を見ていると、ついこの後の人生を考えてしまい痛々しくなる。ライザ・ミネリの母。本名フランシス・エセル・ガム(Frances Ethel Gumm)。 |
謎の死を遂げた | 2002 | 2009 |
ベリー・ショートのボーイッシュな髪型と、感情を抑えたクールな演技で、死後20年を経た今も女性ファンは多い。薬物の過剰投与による自殺というのが公式発表だが、当時彼女は過激派の黒人解放団体「プラック・パンサー」を支持したことでFBIからマークされていたうえ、彼女の遺体がパリの路上に停めてあった愛車から全裸で見つかるという異常事態に、何らかの警告(見せしめ)の意味で暗殺されたと主張する人もいる。 |
名花と呼ばれたギッシュ | 聖バーソロミュー教会(2000) | マンハッタンのド真ン中に眠っている(2009) |
ギッシュは最上段の左から3番目 | うっすらと「LILIAN DIANA GISH」 |
映画史上の長編第1作『国民の創生』に彼女が出演したのは1915年。晩年にカンヌで賞を獲った『八月の鯨』に出演したは91歳の1987年というから、まさにハリウッドの生き証人だ。『散り行く花』で見せた可憐さ、そしてコケットな容貌に、世の男性はイチコロになったが、彼女は生涯独身だった。 (名花ギッシュの豊かな表情を撮る為に“クローズ・アップ”という撮影技法が導入された) 【ギッシュの墓所】マンハッタンのSaint Bartholomew's Episcopal Church。正面左の売店の前を通って教会の端の道を歩いていくと地下に続く階段がある。そこを降りて右手に小さな祈り場があり、その十字架正面の壁の一番上に、お母さん→妹(ドロシー)→リリアンの順で彫られている。最寄りの地下鉄は51st駅。 |
そのミステリアスな美貌により「神聖ガルボ帝国」と讃えられた |
スコーグスシュルコゴーデン(森の 墓地)という舌を噛みそうな墓地名 |
なんとこの「森の墓地」は世界遺産に指定されている!設計者はグンナール・アスプルンド。 20世紀以降の建築の中では世界遺産登録第1号となった記念すべき人類の遺産だ! |
2005 赤い花が囲んでいた | 気品漂うエレガントな墓石 | 2009 4年後、白い花ばかりになっていた! |
写真中央奥、古墳のようになっているのが彼女の墓域だ(丘全体)。さすがは大女優グレタ・ガルボ |
戦前のハリウッドで活躍した伝説的女優。36歳の若さで映画界を引退し、13年後に受賞したアカデミー賞特別賞の授賞式も欠席。他界するまで48年の間一度もマスコミの前に姿を現さず、誰も老いたガルボの姿を知らない。生涯独身を通し、ファンの胸には永遠に輝かしいガルボの姿が焼き付いたままだ。 詩人ジャン・コクトー「ガルボはエレガントな美の極みだ」 |
2009 初めての巡礼 | 2013 再巡礼 |
彼がドラキュラ役を演じた『魔人ドラキュラ』が大ヒットしたばっかりに、それまではシェイクスピア劇の舞台を踏んでいたにも関わらず、人々から怪奇役者のレッテルを貼られてしまい、最期までB級怪奇映画にしか起用されなかった不遇の人。晩年“史上最低の映画監督”と呼ばれたエド・ウッドとタッグを組んだ。(僕も正直言って、ティム・バートンが『エド・ウッド』で彼にスポットを当てるまで、その存在を知らなかった) 本名 ブラシュコー・ベーラ・フェレンツ・デジェー |
『ウエスト・サイド物語』 | 2000 | 2009 |
『ショーシャンクの空に』でポスターになってた女優 | 2000 | 2009 |
斜め前はルドルフ・ヴァレンチノ | 2000 | 2009 |
2000 | 2009 | フェアバンクス・ジュニアと父子で眠る |
20世紀前半のアクション俳優。特に剣劇では右に出るものはいないと言われた。プレート式の墓が多いハリウッドだが、彼の墓は古墳並みのスケール。淀川長治いわく「365日笑顔男、ハリウッド夢の男優ナンバー1」。 |
2000 | 2009 |
2000 | 2009 |
墓地中央の池のほとりに眠る(2000) | 墓石の隣に大きな“本”! | 「TYRONE POWER」(2009) |
墓石の上部にはハムレットの一文が刻まれている | 本にはキスマークがついていた(笑) |
サン=ジェルマン=アン=レーはパリの郊外。観光客がたくさんいた | 山の稜線の向こうにエッフェル塔が見える |
フランスを代表する喜劇俳優&監督 ムッシュ・ユロ! |
墓地の奥に眠る |
駅の反対側に別の墓地があるので間違わないように! 僕は気付かずに2時間も無駄足を踏みました(涙) |
墓石の上のモニュメント | なぜか自転車のタイヤチューブが!(笑) |
クエーカー教徒専用の墓地。“こんな ところに!?”というような場所にある |
残念ながら門から奥は一般人立入禁止。 ※ネットには墓画像がアップされてる。いいな〜 |
門柱の隙間から望遠で撮影。あの墓石 のどれかがクリフトなのだろう |
傍らのベンチでゆっくり語らうことが出来る | 自然豊かな山中にあり本当に落ち着く | うお!『千の風になって』! |
元炭鉱夫の俳優チャールズ・ブロンソンは1921年11月3日に、ペンシルベニア州の石炭地帯エーレンフェルドでリトアニア移民家庭に生まれる。当初の名前はチャールズ・デニス・ブキンスキー。15人兄弟の11番目。タタール人の血筋を引き、アジアやメキシコ系の容貌を持つ。
10歳の時に炭坑夫の父が他界し、彼は兄たちと炭坑に入り、週に1ドルを稼ぐために2交代制で働かなければならなかったという。一家は大恐慌時に極度の貧困に見舞われ、ブロンソンは空腹に苦しみ、母親は妹にミルクを飲ませる余裕がなく、温かいお茶を飲ませていた。少年ブロンソンは衣服がないため、妹のドレスを着て学校に行ったこともあった。 第二次世界大戦中の1943年、22歳で鉱山を出てアメリカ陸軍航空隊に入隊。砲術訓練飛行隊に所属し、1945年(24歳)にはボーイングB-29の航空砲手として、グアムを拠点とし、日本本土に対する戦闘任務を遂行する第39爆撃群内の第61爆撃飛行隊で飛行している。 25回のミッションを飛行して戦場で受けた傷でパープルハートを受章した。 終戦の翌年に除隊し、美術学校に入学。舞台の裏方となり、エキストラも経験し芝居に目覚めていった。 1947年(26歳)、フィラデルフィアの俳優養成所で8歳年下のハリエット・テンドラー(18歳)と出会う。最初のデートでブロンソンはポケットに4セントしか持っていなかったという。 1948年(27歳)、ニューヨークに出て本格的に演技を学ぶ。生活は苦しく、レンガ職人やウェイターをしながら舞台に端役として出演いた。 1949年(28歳)、女優ハリエット・テンドラーと結婚。 1950年、妻とハリウッドに移り、そこで演技のクラスに入学。小さな役をもらうようになり、1951年、30歳で最初の映画出演(『The People Against O'Hara』)が実現、ヘンリー・ハサウェイ監督の『You're in the Navy Now』で水兵を演じた。 1954年(33歳)、米下院非米活動委員会による“赤狩り”が吹き荒れ、当時共産主義圏であった東欧風の姓がキャリアにダメージを与えることを恐れたエージェントの提案で、ブキンスキーからブロンソンに姓を変えた。同年、チャールズ・ブロンソンとしての初作品は悪役を演じた『太鼓の響き』で、続く『ヴェラ・クルス』で再びアルドリッチのもとで仕事をした。 1958年(37歳)、『機関銃ケリー』で初めて主役に抜擢される。 1960 年(39歳)、ジョン・スタージェス監督の『荒野の七人』に出演し、無防備な市民のために戦う 7 人のガンマンの一人として注目されるようになった。男臭い風貌と巧みな演技が人気を呼び、この映画で5万ドルのギャラを受け取る。 1962 年、『キッド・ガラハド』でエルヴィス・プレスリーと共演。 1963年(42歳)、スタージェス監督はブロンソンをハリウッド大作『大脱走』に起用し、ブロンソンは「トンネル王」の異名を持つ閉所恐怖症のポーランド人捕虜ダニー・ヴェリンスキー中尉を演じた。偶然にも、ブロンソンは幼少期に鉱山で働いていたため本当に閉所恐怖症だったという。『大脱走』を撮影していた前年、ブロンソンは共演者のデヴィッド・マッカラムの妻と出会い恋に落ちる。ブロンソンはマッカラムに「君の奥さんと結婚するつもりだ」と言ったという。 1964 年、『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)の主役のオファーを「脚本が悪い」と断ったところ、かわりに主役を演じたクリント・イーストウッドが映画界のスターダムにのし上がった。 1967年、ブロンソンとジルは結婚のために互いのパートナーと離婚。 1968年(47歳)、ブロンソンは観客や批評家からの人気は高かったが、ハリウッドの大作で主役を演じることはできなかった。この年、フランス映画『さらば友よ』のプロデューサーから、アラン・ドロンのためにアメリカ人の共演者を探していると持ちかけられた。この出演をきっかけに、彼はヨーロッパを活動の拠点としていく。アメリカではお金も宣伝もすべて美少年ヒーロータイプに集まるが、ヨーロッパでは人々は顔ではなく性格に惹かれる。『さらば友よ』は欧州で大ヒットした。 同年、続いてセルジオ・レオーネ監督の大作西部劇『ウエスタン』に出演。復讐に燃えるハーモニカ弾きのガンマンを演じ強烈な印象を残した。レオーネ監督いわく「(ブロンソンは)私がこれまで一緒に仕事をした中で最も偉大な俳優」。『ウエスタン』が翌年にフランスで公開されると1969年の最大のヒット作となった。 この年、イギリス人女優のジル・アイルランドと再婚。夫妻はロスの豪邸に、先妻の子2人、ジルの子3人(1人は養子)、そして2人の実子(1人は養子)と7人で暮らした。結婚後、ジルと15本の映画で共演した。 夫妻は仲の良い家族を維持するために、皆を車に乗せて撮影場所に連れて行き、いつも皆が一緒にいられるようにした。彼らはバーモント州ウェストウィンザーの260エーカー(1.1km2)にある植民地時代の農家で過ごした。 1970年(49歳)、フランスで大ヒットしたスリラー映画『雨の訪問者』で主演を務める。本作はハリウッドのゴールデン・グローブ賞の外国語映画賞を受賞した。同年『狼の挽歌』出演しでは愛する女性を狙撃する男の悲しみを演じきった。続いて三船敏郎、アラン・ドロンと共演した『レッド・サン』(1971)、マフィアの裏切り者『バラキ』(1972)でも高い評価を受ける。1973年初頭には名声が最高潮に達し、世界一の興行収入をあげ、1作品あたり100万ドルを売り上げる大スターになった。 同年、日本の男性用化粧品メーカー「丹頂」の化粧品「マンダム」のテレビCM(大林宣彦演出)に出演。撮影費は2000万円、ギャラは3万ドル(約1000万円)。ブロンソンが顎をなでながら呟く「う〜ん、マンダム」は大流行し、経営不振に陥っていた「丹頂」の年商は2年で倍増、翌1971年には社名を「マンダム」と変更した。 1974年(53歳)、マイケル・ウィナー監督と組んだ最も人気のある映画『狼よさらば(Death Wish)』に出演、この映画では、妻と娘の仇を討つため犯罪者と戦う自警団となった男ポール・カージーを演じた。最大の当たり役となり、このあと20年間にパート5まで制作されていく。 1975年(54歳)、ウォルター・ヒルの監督デビュー作『ストリートファイター』に出演、違法な素手バトルで生活する大恐慌時代のストリートファイターを演じた。同年に興行収入のピークを迎え、ロバート・レッドフォード、バーブラ・ストライサンド、アル・パチーノに次いで4位にランクされた。 1978年(57歳)、スーパーマン役のオーディションを57歳で受けたが、土臭いという理由で断わられ、クリストファー・リーヴが起用された。 1980年(59歳)、映画界への貢献によりハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムに星を刻む。 1982年(61歳)、大ヒット作『ロサンゼルス(Death Wish2)』で150ドルのギャラを受け取る。 1985年(64歳)、『スーパー・マグナム(Death Wish 3)』。1987年(66歳)、『バトルガンM‐16(Death Wish 4)』に出演。 1990年(69歳)、愛妻ジル・アイアランド(54歳)を乳がんで亡くしたため俳優を引退。 1994年(73歳)、映画界に復帰し『狼よさらば 地獄のリベンジャー(Death Wish 5)』で「狼よさらばシリーズ」の最終作を飾り、これが最後の劇場映画となった。このあと他界まで3本のテレビ映画に出演する。 同年、日本ではブロンソンの持つ男気に憧れた漫画家のみうらじゅんと俳優の田口トモロヲがユニット「ブロンソンズ」を結成。 1998年(77歳)、股関節置換手術を受けた後、俳優業を引退。同年、女優キム・ウィークス(当時38歳)と3度目の結婚。 2003年8月30日、病との闘いの末ロサンゼルスの病院にて81歳で他界。アルツハイマー病を発症していた。マンダム社は葬儀の際に献花した。 苦労人として独特の個性と演技力を活かし、国際的スターとなったブロンソン。彼を尊敬するクエンティン・タランティーノ監督は、翌年公開された『キル・ビル2』のエンドクレジットで「R.I.P. Charles Bronson(チャールズ・ブロンソン。安らかに眠ってください)」と追悼の言葉を捧げた。 ブロンソンは非常に内向的な性格で、自分の映画を見ることができなかったという。彼はアメリカで認められるまでに時間がかかったことを恨んでおり、名声を得た後は、数年前に自分をさげすんだ有名監督のもとで働くことを拒否している。 映画評論家スティーブン・ハンター「ブロンソンは男の生命力、ストイックな強さ、能力、強さがにじみ出ている」「シーンを静かに支配する方法をよく心得ていた」。 ブロンソン「私は存在感を供給する。キャラクターを確立するための長いセリフのシーンはない。映画の冒頭で完全に確立され、働く準備ができていなければならない」。 ※『北斗の拳』の原作者である武論尊の名はブロンソンに由来。 〔墓巡礼〕 ブロンソンは家族と暮らしたバーモント州の山間部の農村ウエストウインザーのブラウンズビル墓地に埋葬された。自然豊かな環境にあり本当に落ち着く。墓石の傍らにはベンチが置かれ、美しい山並みを眺めながらブロンソンとゆっくり映画の話をすることができる。 墓石には『千の風になって』の原詩が刻まれていた。「I am not here」という文字が目に飛び込び、墓マイラーとして気を失いそうになった。こんなカナダの近くまで来たのに「ここにいません」って…というのは嘘で、僕が感じたのはブロンソンの優しさ。最後の1行は「I am not here. I did not die」で「わたしはここにはいません、わたしは死ななかったのです」、これは泣く。一般的には「I am not there(そこ)」が有名なので、「here(ここ)」はブロンソンのオリジナルかも? 原詩である『Do not stand at my grave and weep(直訳:私のお墓で佇み泣かないで)』は、アメリカでは近親者の死や、喪の機会に読み継がれて来た詩。オリジナルの詩に題名はない。 作者不詳となっているが有力な説は次の2つ。 1932年にメリーランド州ボルティモアの主婦であり花屋メアリー・フライ(Mary Frye/1905-2004/当時27歳)が書いたものをオリジナルとする説。彼女は3歳で孤児となり、1927年に22歳で結婚した。1932年、彼女の家に滞在していた若いユダヤ人女性マーガレットの母親がドイツで亡くなった際、当時のドイツはナチスが第一党になり、ヒトラーが独裁政治を始める直前で、反ユダヤ主義が吹き荒れていたため、マーガレットは帰国できなかった。「母の墓のそばに立って涙を流すことができない」と落ち込んでいた彼女のために、メアリーは茶色の紙袋にこの12行の詩を書いて慰めたという。その後、マーガレットがこの詩を職場へ持っていくと、同僚の友人が印刷所に勤めており、この詩が広がっていた。別説では、マーガレットの両親の友達が、詩を葉書に印刷して人々に送り、人伝いで広まっていったとも。メアリーは著作権にこだわらなかったため、人々は自分の言葉で改変し、様々名バージョンが生まれていった。メアリーは2004年9月15日に98歳で他界。イギリスのタイムズ紙は訃報のなかで詩の一部を掲載し、「この詩は、喪失感を和らげる驚くべき力を発揮した」「この詩は、人種、宗教、社会的地位に関係なく、国境を越えて、訃報や葬儀で使われるようになり、人気を博した」と書いた。 もう一説は英語版ウィキペディアが推している説で、1934年にカンザス州出身のクレア・ハーナー(Clare Harner /1909-1977)の詩。1932年11月、クレアの兄オリン(1901-1932)が31歳で病死。彼女は兄の死の直後に死別の詩「Immortality(不死)」を書いた。最初の行は「Do not stand by my grave and weep」であり、彼女はこの詩を詩誌『ジプシー』の1934年12月号で発表した。クレアの詩はすぐに弔辞として支持され、カンザス州とミズーリ州の葬儀で読まれるようになり、1935年2月8日付け『カンザスシティ・タイムズ』にも転載され、広がっていったという。1977年1月27日、クレアはサンフランシスコにて67歳で他界した。 メアリー説、クレア説、真実はどうであれ、どちらも大切な人を失って、悲しい、会いたくてたまらないと思う気持ちは同じ。人類共通の感覚であり、だからこそ、人種や宗教に関係なく、国境も越えてお葬式や追悼式の弔辞として広く読み継がれるようになった。 1977年、映画監督ハワード・ホークスの追悼式でジョン・ウェインがこの詩を読み上げた。そして、ウェインの朗読を聞いた脚本家のジョン・カーペンターが、1979年のテレビ映画『ベター・レイト・ザン・ネバー』でこの詩を取り上げた。イギリスでは1995年に北アイルランドで爆弾テロで死亡した兵士の父親が、息子を偲んでBBCラジオでこの詩を朗読し、多くの人が初めてこの詩を知った。息子は「To all my loved ones」という宛名の封筒に入れた詩を遺品の中に残していたという。1997年、ロックバンドINXSの創設メンバーでリードシンガーのマイケル・ハッチェンスの葬儀で、彼の妹ティナ・ハッチェンスが生放送でこの詩を朗読している。 日本では1985年坂本九の葬儀委員長を務めていた永六輔のもとに、デーブ・スペクターが「良い詩がある」とこの詩を紹介、永六輔は葬式で朗読した。1990年に翻訳家の南風 椎(はえ しい)が作者不明の英詩「A THOUSAND WINDS」を日本語訳し、「1000の風」の邦題で展覧会にて発表。2001年に芥川賞作家の新井満(まん/1946 - 2021)が友人の妻の死をきっかけにこの詩を翻訳し作曲、詩の3行目「I am a thousand(サウザンド) winds that blow」から「千の風になって」と題された。2006年、新井満による訳詞を紅白歌合戦でテノール歌手秋川雅史(まさふみ)が歌って大きな話題となり、翌月のオリコン総合チャートで1位を獲得した。 ※ https://clareharner.blogspot.com/2021/02/facts-about-clare-harner-lyon.html クレア・ハーナーについて(海外サイト) |
淑女をイチコロにした ケーリー・グラント |
ケーリー・グラントの遺灰はカリフォルニア州の大地に撒かれた。具体的な場所が不明なので、僕は カリフォルニア州で最も美しいと思う土地=ヨセミテ国立公園をグラントの墓と見なして巡礼した |
雄大なヨセミテを訪れたルーズベルトは「今日は我が生涯で最高の日だ」と感極まったという |
ベンチ型の墓石(2009) | 見えにくいけれど「COBURN」と書いてある | 4年後の2013年に再巡礼 |
“アメリカの恋人”とまでいわれたサイレント時代の大スター! |
この塀の向こうがピックフォードの眠る「Garden of Memory」。残念ながら一般非公開 |
画像は海外サイトから。そこには墓石がアップされていた。入ることができて羨ましいッ! |
G区画にはホールデン家のエリアがある。右も左もホールデン(HOLDEN)ばかり! |
ウィリアムはなぜか墓石がない。画像の中に数カ所ある 墓石の隙間のどれかが、彼の墓と思うんだけど… |
あそこにも1人分、空いてますなぁ | 近くにあった母子像。夕暮れだし、なんかジーンときた |
【重要】これは別人の可能性が大!ハリウッドには「ウィリアム・ホールデン」という同姓同名の役者がもう1人いて、僕はそちらを墓参した模様! この人は1862年生まれで56歳年上。僕が墓参したかった方のホールデンの遺灰は太平洋に散骨されたとのこと!ということは… |
ハリウッドを擁するロサンゼルス沖の、この太平洋が「お墓」ということにッ! |
チャップリン、キートンと並ぶ3大喜劇役者だったロイド。“ロイド眼鏡”はブームになった |
ハロルド・ロイドはクラーク・ゲーブルやマイケル・ジャクソンと同様、一般非公開のこの大霊廟の中に眠る。 人々を楽しませることに喜びを見出していたロイドが、死後にファンの墓参を禁じるハズがない。今の一般人 立入禁止という状態は絶対に本人は不本意だと思う。子孫の方、別の墓地に改葬されることを強く進言します! |
画像は海外サイトから。そこには墓石がアップされていた。もし墓参を果たした方がいましたら方法を御教示下さいッ! |
白いベンチの手前にあるのが彼女の墓 | ベンチの正面にはきれいな池がある |
墓碑文は次の通り「Tomorrow is themost important thing in life. Comes into
us at midnight very clean. It's perfect when it arrives and it puts itself in our hands.It hopes we've learned something from yesterday.」 |
更新中。ハリウッドを代表する西部劇スター。本名のマリオン・ロバート・モリソンは墓石のどこにも書かれていない。 僕は彼のタカ派的な政治思想、白人優越主義が好きじゃないけど、役者としての偉大さは認めている。 ※墓碑文は1971年にプレイボーイ誌のインタビューで答えたもの。ウェイン本人はスペイン語で「Feo, Fuerte y Formal」(醜く、頑固で、だが誇り高く)と刻みたかったという。 |
『大草原の小さな家』のチャールズ・インガルス役で知られる | ランドンが眠る大霊廟 |
ランドン家の個室 |
右の壁にプレートがあった |
室内にはランドンの写真や子どもからの贈り物が たくさんあり、家族から愛されているのが伝わってきた |
大霊廟の入口正面、超一等地 の女神像が彼女のお墓だ |
女神像の台座に「Elizabeth Rosemond Taylor 1932-2011」と金色の文字で彫られている |
この大霊廟は原則的に非公開エリア。 僕が許可を取れたのは奇跡のようなもの |
華やかな結婚歴を持つ戦後のハリウッドを象徴する大スター。英国ロンドン出身(両親は米国人)。1932年2月27日生まれ。愛称は「リズ」。美しいバイオレット(すみれ色)の瞳を持ち“世界の恋人”と呼ばれた。3歳からバレエを習い、7歳で米
国に移住。1942年、10歳のときにスカウトされ、『一分ごとに一人が生まれる』の端役で映画デビュー。翌年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と長期契約をかわすと、子役として『ジェーン・エア』(1944/12歳)、『若草物語』(1949
/17歳)など数多くのヒット作に出演した。名犬ラッシー・シリーズで人気を博し、18歳『花嫁の父』(1950)、19歳『陽のあたる場所』(1951)、20歳『黒騎士』(1952)、22歳『雨の朝巴里に死す』(1954)と作品にも恵まれ、美人スター女優と
して国際的な名声を築く。
次第に演技派に転じ、24歳『ジャイアンツ』(1956)、26歳『熱いトタン屋根の猫』(1958)、27歳『去年の夏 突然に』(1959)で熱演、1960年(28歳)には『バタフィールド8』で念願のアカデミー主演女優賞を受賞した。 ギャラは高騰し、31歳『クレオパトラ』(1963)では史上初となる100万ドルの出演料を得た。1966年(34歳)、『バージニア・ウルフなんかこわくない』で再びアカデミー主演女優賞に輝く。後年は女優の仕事から遠ざかり、エイズ撲滅の慈善 活動に尽力した。1993年(61歳)、彼女の活動に対して映画芸術科学アカデミーからはジーン・ハーショルト博愛賞が、アメリカ映画協会からは生涯業績賞がおくられた。2011年3月23日、心不全が悪化し79歳で他界。私生活では8度の結婚と7 回の離婚を経験するなど話題を振りまき、『クレオパトラ』で共演したリチャード・バートンとは2度結婚している。 |
迫力オヤジ | なぜか墓石に名前を彫らず。オスカーも拒否するし(笑) | 右隣には名優ウォルター・マッソーが眠る |
バージニア州出身。1961年(34歳)、『ハスラー』でオスカーの助演男優賞候補となるがノミネートを辞退。1964年、キューブリック監督の『博士の異常な愛情』でタージドソン将軍を怪演。1970年(43歳)、『パットン大戦車軍団』でアカデミー主演男優賞を受賞したが、なんと“興味がない”と受賞を辞退。前代未聞の出来事だったが、アカデミー協会は翌年の『ホスピタル』でもジョージを主演男優賞にノミネートした。だが、やはりジョージはノミネートの段階で辞退した。リベラル派としても知られる。 |
山間の教会に眠る |
木の十字架がマクシミリアン。 中央は上段に妹(姉?)、下段に母親らしき人物 |
前年に他界したばかりでまだ墓石なし。 写真が貼ってあった |
田舎の墓地だけどお花がいっぱい | 十字架にはキリスト像 | 中央の墓にMaria SchellとMargarethe Schell(1905-1995)の写真 |
2008年に28歳という若さで急死 | 演技力の高さで注目されていた | ジョーカーでオスカーに! |
地元の人に場所を尋ねまくってついにヒース の墓へ!でもすぐ日没になり翌朝リベンジ→ |
奇跡!夜明け前に雨が降っていたので雨中の墓参になると 思ってたら、急に晴れてきてヒースの上に美しい虹が架かった! |
朝日に照らされ黄金に輝くヒース | 知人の情報通り(後述)だった! | 上部に「太陰(たいいん)太極図」 |
パースでちょうどヒース・レジャー展の 告知をしていた(2017) |
カメラを持ったヒース、かっこいい! |
1979年4月4日生まれ。オーストラリア西海岸のパース出身。名前の由来はE・ブロンテ『嵐が丘』の主人公ヒースクリフ。父は鉱山技術者。11歳の時に両親が離婚。10歳で地元の劇団に入り、舞台やテレビでキャリアを重ねる。1996年(17歳)、豪州のテレビドラマでゲイ役を演じ、演技力が業界で高い評価を受ける。翌年の豪映画からスクリーンで本格的に活動を開始。さらに全米放送のTVドラマ『Roar』に出演し知名度が上がった。1999年(20歳)、ハリウッド映画『恋のからさわぎ』の成功を受けて出演依頼が激増するが、求められる役柄がアイドル向けの軽いものばかりであり、シリアス路線を目指したヒースは出演を断った。その結果、仕事がなくなり“ヌードルと水”だけで飢えをしのぐ日々を一年間続ける事になったが、2000年(21歳)に『パトリオット』でメル・ギブソンの息子役に抜擢された。
2001年(22歳)、ヒューマン映画『チョコレート』で好演し、同年公開の『ROCK
YOU!』でついにハリウッド初主演を果たす。同作は全米興行収入初登場1位、約5600万ドルのヒット作品となった。ヒースはピープル誌の「最も美しい人物50人」にも選出され、文字通りトップスターの1人となる。しかし、その後に出演した『サハラに舞う羽根』、『ケリー・ザ・ギャング』、『ブラザーズ・グリム』の興行はふるわず、4年間ほど低迷する(ちなみに2002〜2004年までナオミ・ワッツと交際)。
そして2005年(26歳)、映画『ブロークバック・マウンテン』(アン・リー監督)が公開!抑えた演技でゲイのカウボーイの苦悩を表現したヒースは、「壮麗な演技は、まさに演技における奇跡である」(映画評論家ピーター・トラヴァース)、「レジャー氏の演技はマーロン・ブランドやショーン・ペンの最良の演技に匹敵するほどの偉大なものである」(作家ステファン・ホールデン)、「彼の演技は比類なく完璧でした。(略)最後のあのトレーラーの場面は私が今まで見た全てのシーンのどれにも引けを取らないほど感動的でした」(俳優ダニエル・デイ=ルイス)など、各方面から大絶賛された。この映画でヒースはニューヨーク映画批評家協会賞などを受賞し、アカデミー主演男優賞にノミネートされた(作品自体も最多8部門ノミネート。監督賞、脚色賞、主題歌賞を受賞)。同年、本作品で共演した女優ミシェル・ウィリアムズと婚約し長女をもうける。
翌年公開された『アイム・ノット・ゼア』ではミュージシャンのボブ・ディラン役を演じた。
2008年、悲劇は突然訪れた。バットマンの宿敵ジョーカーを演じた『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン監督)クランクアップ後の1月22日、ヒースはマンハッタンの自宅アパートで急逝する。死因は不眠症の為に服用していた睡眠薬とインフルエンザ治療の薬などの併用摂取による急性薬物中毒(あくまでも事故死)。プライベートでは婚約解消で悩んでいた。このとき『Dr.パルナサスの鏡』(テリー・ギリアム監督)の撮影途中であり、親友のジュード・ロウ、ジョニー・デップ、コリン・ファレルらがヒースの代役として出演し作品は完成。3人は出演料をヒースの3歳の娘にすべて贈った。
死の半年後、08年夏に『ダークナイト』が公開される。ヒースはジョーカー役を練り上げるため、ロンドンのホテルに一ヶ月閉じこもり、狂気をたたえた笑い方や目の動きを身につけて撮影に挑んだという。その強烈な存在感が観客に衝撃を与え、アカデミー助演男優賞、ゴールデングローブ助演男優賞など、様々な映画賞に輝いた。28歳でのオスカー助演男優賞は史上4番目の若さであり、故人の受賞はピーター・フィンチ以来32年ぶり2例目となった。
●墓巡礼
海外の墓碑サイトには「故郷オーストラリアのパースにあるカラカッタ墓地(Karrakatta Cemetery)の祖父母の墓に遺灰が撒かれた」とあるが、実際に現地を訪れた知人(偶然にもヒースの墓の制作者と知り合いだった!奇跡!)の情報を整理すると次の通り。
・ヒースの墓はパース近郊のお父さんの家の近く。カラカッタとはスワン川を挟んで反対側。 ・墓地に眠っていない。住宅地の中にある公園=遊歩道の様なスペースに墓があり、ヒース以外に墓石はない。
・墓所は三つの石で構成されている。真ん中の墓石にヒースの骨が入っており、墓石の上にはヒースが入れていたタトゥー(陰陽のマーク)が彫られている。向かって左側にチェスを好んだヒースの為にチェスボードのモニュメントが設置され、右側にはヒースと語り合う為の石の椅子(?)がある。
・モニュメントの作者は地元のアーティスト、ロン=ゴンバック氏。
〔そして2017年、墓参が実現!!〕 ヒースはパース中心部の対岸(南側)、Point Heathcote Reserveというエリアに眠っていました! |
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