銀幕を彩った映画スターの墓石に手を置くと、作品を観て味わった印象とはまた別種の、言い知れぬ深い感動が湧き起こる。スクリーンの上では、(当然ながら)まったく生活臭がしないので、彼らはどこか遠い宇宙の彼方か、四次元空間にでも存在している別の生物という気がしていたが、実際に墓地を訪れ、一般市民に混じって眠っている彼らを見ると、「嗚呼、やはり彼らも同じこの地上に生き、泣き、笑い、そして死んでいったのだ」と、初めて一個の人間として存在をリアルに感じられ鳥肌が立った。 |
青年チャップリン。 素顔はかなりハンサム! |
平和主義者のガンジーと交流。この8年後、チャップ リンは『独裁者』で反戦・反ファシズムを叫ぶ! |
自由の国であるはずの 米国を追放されスイスで永眠、 |
25歳から山高帽&ステッキ がトレードマークになった |
次第に単純なドタバタ喜劇を卒業し、 人間愛を描くように(『街の灯』42歳) |
50歳の彼はヒトラーの力が最も強大だった時に、 笑いを武器に立ち向かった!真の勇気の持ち主! |
ローザンヌから東へ20km、ヴヴェイ駅で下車 | 行先“11/12 via GONELLES”表示のバスで | 美しいレマン湖を見ながらバスは丘を登る |
付近はのどかな田園風景 | 小さな村の中をバス停から5分ほど歩く | 墓地の入口を発見! |
右がチャーリー、左が奥さんのウーナ夫人(2005) |
ベンチに座って夫妻と語り合える(2015) | 本当は白い墓石なんですが…(汗) |
映画のポストカード | キャンドルやコインの他に… | 石に書かれたファンレターも | 後方から。夫婦の散歩姿を見ているようだ |
1994年の初巡礼。「うおおおお!か、か、 感動をありがとうございますーッ!!」 |
11年後に再巡礼。以前になかった植木が 墓石の左右に増えていた(2005) |
3度目の巡礼は家族と。10年に一度は 御礼を伝えに墓参したい(2015) |
さすがはチャーリー、墓参者が絶えない | 「たのしい、えいがを、ありがとう」 | 1978年に柩が盗まれたが発見された。ホッ。 |
“喜劇王”チャップリンは1889年ロンドン生まれ。本名チャールズ・スペンサー・チャップリン。両親は共に歌手で1歳の時に離婚。舞台デビューは5歳の時で、声の出ない母親ハンナの代役だった。10歳で地方劇団の一座に入り、演技を磨いていく。12歳、父親がアルコール中毒で死去。母は心の病になり病院に入る。孤児院で生活し、生きる為にガラス職人や床屋など様々な仕事を体験した。19歳、名門パントマイム劇団に入り寸劇の人気役者となる。21歳、同劇団の初めての米国巡業が大成功し、1913年(24歳)の2度目の米国巡業で映画プロデューサーから高く才能を評価され、週給150ドルでキーストン・スタジオに入社する。これをきっかけに米国が活動の場になっていった。 翌1914年(25歳)、マック・セネット監督『成功争ひ』で銀幕デビューを飾る。そして同年の出演2作目『ベニスの子供用自動車レース』で、以降のトレードマークとなる山高帽、ステッキ、だぶだぶのズボン、ドタ靴、ペンギン歩きというスタイルを確立し、“放浪紳士チャーリー”(The Little Tramp/小さな放浪者)は70本以上の映画で活躍することになる。 チャップリンの動作にはパントマイムで磨き上げられた優雅さがあり、手足の動きで感情をすべて表現することが出来た。その後、2年連続で映画会社を移籍し、3年前のキーストン時代は週給150ドルだったのが、今や週給1万ドルにボーナス15万ドルという巨額の契約金(ミューチュアル・フィルム社)が提示されるまでになった。この頃運転手として雇われたのが日本人の高野虎市氏で、その誠実な働きぶりからチャップリンは親日家になっていった。マネージャーには4歳違いの異父兄シドニーが就任。 ●妥協知らずの完全主義者 翌々年(1918年)、たとえ数秒のシーンでも納得するまで何百テイクも撮り直す完全主義者のチャップリンは、より自由な製作環境を求めてハリウッドに念願の撮影スタジオを29歳で完成させる。この年、ファースト・ナショナル社(後にワーナー・ブラザーズと合併)と結んだ契約は年間100万ドル以上!同社との第1作『犬の生活』は野良犬と優しい放浪者の交流を描き人気を博した。また、同年に女優ミルドレット・ハリス(17歳)と結婚している。翌年長男が生まれたが生後3日で他界した。 チャップリンの映画演出は当初の単純でコミカルなドタバタ劇から、次第に孤独な魂や人間の情愛を描く作家性を全面に出したものに変化していく。それに従い、映画製作に外部からの干渉を100%排除するため、1919年(30歳)にD・W・グリフィス、メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクスらと4人で配給会社ユナイテッド・アーティスツ(現メトロ・ゴールドウィン・メイヤー系列)を創立した。ユナイトとは約30年間繋がりを持つ。 チャップリンはデビュー年の出演11作目『恋の二十分』で、早くも監督のメガホンを取っており(脚本も執筆)、やがて製作、編集、映画音楽まで担当するようになっていく。1921年(32歳)、捨て子のと親子愛を描いた初の長編『キッド』が大ヒットし、この映画と共に欧州各国を訪問した際に、第一次世界大戦の傷跡を目撃することになった。ハリウッドでは分からなかった、戦争の恐怖と愚かさ。これは後の傑作『独裁者』誕生の土台となる。 1924年(35歳)、リタ・グレイ(16歳)と再婚し2児をもうける。1925年(36歳)、『黄金狂時代』で雪山の遭難者を演じ、山小屋で皮靴を優雅に食べ(2分)話題に。翌年、妻リタに離婚訴訟を起こされ示談金62万5000ドルを支払った。1928年(39歳)、サーカス団の人気者がほろ苦い恋を体験する『サーカス』(綱渡り中にサルに襲撃されるシーンは抱腹絶倒)を公開。実際に地上数十メートルの高さで、しかもスタントなしで綱渡りを行った(4分。途中で命綱が外れる!)。同年、母が他界。翌1929年の第1回アカデミー賞で『サーカス』は特別賞を受賞した。 ※「黄金狂時代」の革靴ディナーは、革を海草、釘を飴細工、靴ヒモをイカ墨パスタで作っているらしい。 1920年代後半に映画がサイレントからトーキーになり、チャップリン十八番のパントマイムが時代遅れになってくると、風刺を通して社会問題を喜劇の中に描き、個人の尊厳や人間愛をうたうようになった。放浪紳士チャーリーは強い相手の前では弱腰になる反面、誰かを守ったり助ける為なら不屈の精神力を発揮し、逃げずに立ち向かう。他者への思いやりに溢れた主人公は世界中の人々から愛された。1931年(42歳)、サイレントにこだわった『街の灯』を発表し、盲目の少女との魂の交流に観客は喝采を贈った。この作品は彼の完璧主義者ぶりが如実に表れ、花売り娘との約3分間の出会いのシーンに342回もNGを出し、一年以上にわたって撮り直された(製作日数534日のうち368日を費やした)。レフェリーを利用したコミカルなボクシング対決(約4分、相手は強敵)に世界が爆笑した。この年、非暴力主義で知られるガンジーと会談し、機械文明をテーマに語り合っている。 ※『街の灯』は既に版権フリー。YouTubeに全編アリ。342回NGの“花売り娘との出会いシーン”はコチラ。 『街の灯』のプレミアなどでチャップリンは1年半もの世界一周旅行を敢行し、各地でアインシュタイン、チャーチルなど名士と交流を深めた。1932年(43歳)、5月14日に初来日。その翌日、海軍青年将校らが首相官邸・日本銀行などを襲撃し、犬養首相が殺害された“五・一五事件”が発生する。この時、青年将校は「日本に退廃文化を流した元凶」としてチャップリンもターゲットに入れていたが、犬養首相との面会予定をキャンセルして息子の犬養健と国技館で相撲を観戦し散歩を楽しんでいたため命拾いした。チャップリンは半月ほど日本に滞在し、歌舞伎を鑑賞して初代中村吉右衛門や六代目尾上菊五郎の楽屋を訪ねたり、天ぷらを非常に気に入って“花長”では海老天36尾をたいらげたという。帰国当日に官邸で新首相・斎藤実を表敬訪問し、犬養が暗殺された現場で弾痕を見て「テリブル、テリブル」と呟いた。 1936年(47歳)、冒頭で羊の群れが労働者とオーバーラップする『モダン・タイムス』において資本主義社会で家畜化した労働者を鋭く描いた。ベルトコンベアのコント(5分)は凄まじいブラックジョーク。同年、お忍びで再来日を果たした際、淀川長治が神戸にて船上で面会し、同伴者ポーレット・ゴダードに神戸を案内した。『モダン・タイムス』の映画音楽“スマイル”は、その美しさから多くのミュージシャンに愛され、18年後にナット・キング・コールが大ヒットさせた(マイケル・ジャクソンやエルヴィス・コステロもカヴァー)。 ●反戦コメディの金字塔!勇気と信念の傑作『独裁者』は人類の遺産! 1939年、ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発する。チャップリンは欧州で台頭していたファシズムに危機感を抱き、前年から『独裁者』の脚本を書き始めており、開戦2週間後に撮影が始まった。本作でチャップリンはユダヤ人の床屋とヒンケル(ヒトラー)という、被抑圧者と抑圧者の一人二役をこなした。チャップリンはヒトラーと同年同月生まれ(チャップリンが4日早い)で、双方が黒髪、小柄で、トレードマークがチョビ髭という信じ難い偶然が重なっており、チャップリンはこの作品を最後にチョビ髭をやめている。 特筆したいのは、戦後になってヒトラーを告発する映画を作ったのではなく、米国が真珠湾攻撃を受けて参戦するより2年も前に撮影していることだ。しかも、『独裁者』ではユダヤ人差別の深刻さが克明に描写されており、これは1年後のアウシュビッツ強制収容所の建設を予見するものとなっている。 撮影当時、多くの米国人は欧州の戦争を遠くの出来事として大きな関心を持たず、ナチスが反共・白人優位主義であったことから米国内にはKKKやドイツ系移民を中心にヒトラーを支持する者も少なくなかった。撮影中は製作中止を求める様々な妨害がチャップリンに加えられた。「何度も(暗殺の)脅迫を受けている。このまま撮影を続けると殺されるかもしれない」。ヒロインの名前は11年前に他界した母と同じハンナ。天国の母親に向かって命を賭しても完成させると誓う決意表明にも思える。そのような状況で反ファシズム映画を完成させたチャップリンの勇気、ヒューマニズム、時代を見通す力に圧倒される! また、これまで「パントマイムこそが世界共通語」とサイレントにこだわってきたが、本作でラストの6分間の大演説のため完全トーキーを採用した。いわく「ついに語るときが来た」。チャップリンから世界中の人々への呼びかけだ。 「地球には全人類を包む豊かさがある。自由で美しくあるべき人生は貪欲により汚され、憎悪が世界を覆い、流血と惨めさが残った。スピードが自由を奪った。機械により貧富の差が生まれ、知識を得た人類は優しさをなくし、感情を無視した思想が人間性を失わせた。知識より大事なのは思いやりと優しさ。それがなければ機械も同然だ」「人々よ、絶望してはならない。民衆は権力を取り戻し、自由は再び人々の手に!兵士諸君、良心を失うな!独裁者に惑わされるな!君たちは支配され、まるで家畜のごとく扱われている。彼らの言葉を信じるな!彼らには良心も人間性もない!君たちは機械ではなく、人間なのだ!人を愛することを知ろう。愛があれば憎しみは生まれない。兵士諸君、自由のために戦うのだ!」「民主主義の名のもとに一つに団結しよう!新しい世界のために戦おう!雇用や福祉が保証された世界のために!独裁者たちも同じことを言った。だが口先だけで約束を守らなかった。彼らは思いどおりに人々を操った。約束を果たすために戦おう!世界の解放のため、国境を越え、愛のある世界のために戦おう!良心のために戦おう!科学の進歩が全人類を幸福に導くように。兵士諸君、民主主義のために団結しよう!」(演説動画6分、画面拡大推奨) この作品に驚嘆するのは、コメディという表現手段をとりつつも、平和を求める切実な思いがビリビリ伝わってくることだ。反戦映画によくある、罪なき民衆の亡骸を延々と映す演出は、戦争の愚かさの表現手段としては分かりやすく簡単。でも、それでは娯楽好きな米国人は劇場に足を運んでくれない。コメディなら政治に無関心な層にも受け入れられると確信していたチャップリンは、「これを撮るのは私の天命だ」と、圧力に負けず執念で完成にこぎつけた。笑いの中で反戦を伝えるのは、どれほど難しいことだろう。彼はそれをやってのけた。『独裁者』はそれまでの作品の中で最大のヒット作となり、ルーズヴェルト大統領からホワイトハウスに招待された。アカデミー主演男優賞、作品賞、脚本賞にノミネートされ、ニューヨーク映画批評家協会賞を受賞した。 印象的なシーンは山ほどある。ヒンケルが風船の地球儀と戯れる場面(2分半)や、ハンガリー舞曲にあわせて床屋業を営む愉快なシーン(2分)、フライパンが頭を直撃し千鳥足で踊るダンス、ナパロニ(ムッソリーニ)との滑稽な意地の張り合い、等々。鳥肌が立ったのは、ユダヤ人街焼き討ちシーンの直後にヒンケルが一人でピアノを弾いているカット。冷酷な命令を下した人間が、何事もなかったかのように美しいピアノ曲を弾いている狂気に心から戦慄を覚えた。ヒトラー本人は首相官邸でこの映画を笑い転げながら2度(3度説アリ)見た後、上映禁止処分にしたという。日本でも同盟国ドイツに配慮して非公開となった。封切り年はドイツが1958年、日本は1960年。 ※最初の脚本ではラストの演説はなく、終戦になってユダヤ人と独兵が手を取りダンスし、日本は中国に爆弾の代わりにオモチャを落とし、世界に平和が訪れるというものだった。しかし、現実にはナチスの快進撃が続き、このままではファシズムに対する警鐘にならぬと判断したことから大演説が入った。 ●アメリカ追放〜“中立国”スイスへ チャップリンの強烈な反戦平和メッセージは、ナチスのみならず米国を含めた世界中の軍事産業にも警戒され、公開当初は好意的だったルーズベルト大統領までが「『独裁者』はアメリカの国益を損なう」と圧力をかけた。大戦後に東西冷戦が始まると、ハリウッドには赤狩りの嵐が吹き荒れる。1947年(58歳)のブラックコメディ『殺人狂時代』では、死刑台に向かう主人公に「1人を殺せば犯罪者になる。100万人を殺せば英雄になる」と戦争の矛盾を語らせ、アカデミー脚本賞にノミネートされた(あのチャップリンが連続殺人犯を演じ死刑にされるとは。しかも執行前の神父の祈りを拒否)。チャップリンは『モダン・タイムス』で描いた資本主義社会への風刺、『独裁者』の平和主義などにより、共産主義者のレッテルを貼られ、非米活動調査委員会から何度も召喚命令を受けた。 チャップリンは「なぜ米国籍をとらないのか」という記者の問いに「私は世界市民ですから」と返答。 1952年(63歳)、バスター・キートンと共演した『ライムライト』が完成し、プレミアのために英国ロンドンに向かう途中で法務長官から事実上の国外追放命令を受け、40年も暮らした米国に戻れなくなった。ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームからも名前が消された。 翌年、チャップリンは信念を行動で示すかのように“永世中立国”スイスへ移住する。1957年(68歳)、赤狩りの狂気を描いた『ニューヨークの王様』を英国で完成。1961年(72歳)、4度目かつ最後の来日。耳の痛い苦言が残っている。「日本の西欧化にはがっかりした。高層化もいいが、芸術的なものの進歩も忘れずに。私にとっては、歌舞伎、文楽、能が嬉しい。しかし天ぷらを食べることも重大なスケジュールなんだ」。 1962年、チャップリンは小学校に行っておらず学校教育を全く受けていないが、オックスフォード大学から名誉文学博士の学位号を贈られ感激する。1967年(78歳)、主演にソフィア・ローレンとマーロン・ブランドを起用した『伯爵夫人』を英国で監督し、これが唯一のカラー作品となった。 ※「人生には、勇気と想像力、それとほんの少しのお金があればいい」は『ライムライト』のセリフ。 また同作品の“テリーのテーマ”は、1973年のリバイバル上映の際にアカ デミー作曲賞に輝いている(赤狩りの影響でハリウッドでは完成時に上映されず、21年を経て初上映された)。 1972年(83歳)、ハリウッドのアカデミー協会は、謝罪の意味を込めてアカデミー賞特別賞をチャップリンに授与し、追放から約20年ぶりに米国の土を踏んだ。授賞式で彼に贈られたスタンディングオベーションはオスカー史上最長の約5分間にわたり、アカデミーの会長は「チャップリンは単なる名前以上のもの。チャップリンは映画用語の一つである」とスピーチ。1975年(86歳)、ナイトの称号を受ける。チャップリンはスイス、コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの邸宅“マノワール・ド・バン”で4人目の妻ウーナ(1943年に結婚。54歳と17歳)と8人の子どもに囲まれ幸福な老後を送った(『モダン・タイムス』『独裁者』で共演し、これまで3人目の妻とされていたポーレット・ゴダードとは法的に夫婦ではなかったらしい)。アカデミー賞授賞式の5年後、1977年のクリスマスの朝、88年間の波乱に富んだ人生を終えた。チャップリンが晩年を過ごした邸宅は2012年にチャップリン記念博物館として開館される。 僕が初めてチャップリンを墓参した際、バスの運転手の勘違いで違う墓地で降ろされ、地元の人に尋ねながら墓地を探し大変だった。ある民家で庭いじりをしている女性に訊いたところ、彼女は「ここだ」と地面を差した。何のことかと思いきや、彼女はチャップリンの孫で僕は知らずにチャップリン邸の敷地に入っていたのだ!ヒエーッ! ※マスコミから一番好きな自作を尋ねられると「Next One」と答えていた。 ※チャップリンの女性遍歴は華やかに見えるが「ハリウッドの標準としてはつつましやかなものだった」(デイヴィッド・ロビンソン/映画史家)。 ※バスター・キートン、ハロルド・ロイドと共に「世界の三大喜劇王」と呼ばれている。 ※「外国映画は見ない方だが、黒澤明の『羅生門』だけには感銘を受けた」(チャップリン) ※劇中の人物のモデルは、アデノイド・ヒンケルがアドルフ・ヒトラー、ガービッチがゲッベルス、ヘリングがゲーリング、ベンツィーニ・ナポロニがベニート・ムッソリーニ。 ※1948年、フランス映画批評家協会はチャップリンをノーベル平和賞に推薦している。 ※1964年(75歳)に『自伝』、1975年に『映画における人生』を刊行。 ※他界の15年後、1992年にリチャード・アッテンボローによる伝記映画『チャーリー』(主演ロバート・ダウニー・Jr.)が公開された。 ※レマン湖畔とロンドンのレスター・スクウェアに同型のチャップリンの銅像が建立されている。 ※異父兄のシドニー・チャップリンは自身がユダヤ人のクォーターであると主張。 ※墓は隣村で暮らしていた英俳優ジェームズ・メイソンのすぐそば。死の翌年、墓地からチャップリンの柩が盗まれ、墓地から17km離れたレマン湖畔のトウモロコシ畑で見つかった。犯人は2人組で金銭目当てだった。 ※「アウシュビッツを撮れなかった『映画』(という芸術)は、チャップリンが『独裁者』を撮ることで辛うじて生き延びた」(ゴダール) |
ブルース・リーと長男ブランドン・リーが並ぶ(2009) 名前の下に「FOUNDER OF JEET KUNE DO(ジークンドー)」 |
墓は写真入り! |
「YOUR INSPIRATION CONTINUES TO GUIDE US TOWARD OUR PERSONAL LIBERATION」 そして「以無限為有限 以無法為有法」 |
こちらは2000年の巡礼時のもの |
この時はカナダ人の若者が必死で拓本をとってた。 翌日が命日ということもあって墓職員が丁寧に手入れ |
2009年。英国リバプールからきた巡礼団と遭遇 |
海外で墓巡礼をしていると、日本人があまり訪れないような土地では、地元の子ども達から「ヘイ!ブルース・リー!」「アチョ〜」と声をかけられ、からかわれることがある。アジア人=ブルース・リーとインプットされているようだ。2013年は没後40年にあたる。
ハイスピードで美しいカンフーの動きにより、一度見れば忘れられない強烈なインパクトを持つリー。父は舞台俳優、母はドイツ人とのハーフであり、父の米国巡業中の1940年11月27日に全米最大のチャイナタウン、サンフランシスコの中華街で生まれた。5人兄弟の次男。生後3カ月で銀幕デビュー。その翌月に父と共に香港に帰国するも、年末に日本軍が香港に侵攻し5歳まで日本占領下で過ごす。子役として香港映画に9歳から出演し、10歳から芸名を“李
小龍”(リー・シャオロン)とした。リーは辰年の辰の刻(午前8時)に生まれておりドラゴンと縁が深い。
13歳から中国武術を習い始め、1958年、18歳のときに高校ボクシング大会で英国人(3年連続チャンピオン)を中国拳法のスタイルでわずか1Rでマットに沈めた。青年リーはダンスが得意で 同じ年にチャチャコンテストで優勝している。 1959年4月(18歳時点)、リーは米国籍の収得&人生経験を積むために単身渡米。当初の所持金は100ドルしかなく、シアトルでアルバイトに精を出す。21歳で大学の哲学科に進学する一方、1962年(22歳)に中国武術の道場を開き、そこから収入を得た。1964年(24歳)、道場の生徒である英国人リンダ・エメリーと結婚。翌年に長男ブランドンが誕生、大学を辞めて道場経営に専念。独自の拳法「截拳道」(ジークンドー)を創始した。
1966年(26歳)、人生の転機が訪れる。リーが国際空手選手権大会で拳法の演武をした映像(総合格闘技の先駆けとなる、掴めるグローブと防具を着用したスパーリング)にTVプロデューサーが注目し、人気ヒーロー・ドラマ『グリーン・ホーネット』の準主役(日系アメリカ人のカトー役)に抜擢したのだ。リーのアクションは人気を呼び、ハリウッドの俳優に武術指導を行うなど映像業界の仕事が増えていく。 1970年(30歳)、香港の映画会社ゴールデン・ハーベストと1本1万香港ドルで2本の映画出演を契約。翌1971年、初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開されると、香港の歴代興行記録を塗り替えるメガヒットとなり、香港のトップスターとなった。
1972年(32歳)、主演第2作『ドラゴン怒りの鉄拳』が公開され、前作をさらに超える大ヒットとなった。同年に完成した第3作『ドラゴンへの道』では、自らプロダクションを設立して、製作・監督・脚本・主演の四役をこなす才能を発揮した。
翌1973年もメガホンを取って『死亡遊戯』の撮影を開始すると、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の話が舞い込み、『死亡遊戯』の撮影を一時中断する。リーはロバート・クローズ監督の下で『燃えよドラゴン』に情熱を注ぎ込み、エキストラに対する武術指導も行った。
そしてこの頃、体調の異変がリーを襲う。4月に『燃えよドラゴン』の撮影が終わり、翌月にスタジオで音声を吹き込んでいる途中に昏倒したのだ。意識不明のまま病院に搬送されたが、精密検査の結果は異常なし。意識が戻ったリーは3日後に退院した。 2カ月後の1973年7月20日、『死亡遊戯』で共演予定の女優ベティ・ティン・ペイの自宅で頭痛を訴えたリーは、鎮痛剤を飲んだ後、再び昏睡状態に陥った。結局、意識が戻ることなく香港の病院で死亡する。享年32。公式な死因は鎮痛剤による過剰反応が引き起こした脳浮腫(のうふしゅ)。普段使っている古傷の痛み止め薬と、死亡前に飲んだ頭痛薬の相性が悪く、副作用で脳が極度に肥大化し脳幹部が圧迫されて落命したという(癲癇による突然死説もあり)。
葬儀はまず7月25日に香港で行われ、30日にシアトルで行われた。香港では数万人のファンが葬儀で死を悼み、シアトルの葬儀では道場の直弟子であるスティーブ・マックイーンやジェームズ・コバーンが参列し棺を担いだ。他界2カ月後に香港政庁が死因究明裁判を開き「死因不明」の結論が出た。
リーの死の翌月、全米で『燃えよドラゴン』が公開され、その後世界的なヒット作となった。人々はリーを愛したが彼は既にこの世にいなかった。映画会社はこれまで無視されてきた過去の主演作を上映し、リーを追悼した。1978年(他界5年後)、生前に撮影を終えた格闘シーンを中心に編集した『死亡遊戯』が完成。映画俳優となった長男ブランドンは1993年(父他界の20年後)に『クロウ/飛翔伝説』の撮影中に銃の発砲事故によって28歳の若さで早逝した。 悲運のリー親子はシアトルのレイクビュー墓地に並んで埋葬されている。墓碑銘は「FOUNDER
OF JEET KUNE DO」。大学で哲学を専攻していたこともあって、墓には截拳道理念(Jeet
Kune Do concept)である「以無限為有限 以無法為有法(無法を以って有法と為し、無限を以って有限と為す=形にとらわれるな)」と「YOUR
INSPIRATION CONTINUES TO GUIDE US TOWARD OUR PERSONAL LIBERATION」が彫られている。2000年に僕が訪れたとき、カナダ人の若者が墓誌の拓本をとっていて驚いた。フランス人女性も墓前にいた。再巡礼した2009年は、タトゥーを入れた5人のイギリス人の兄ちゃんたちが墓参に訪れていた。いまだに外国から巡礼者が集まるリーの墓前。カリスマのオーラは消えることなく、死後も国際派スターであり続けている。つくづく、早く没したのが惜しい。
●ブルース・リー語録
・失敗を恐れるな。失敗することではなく、目標を低く掲げることが罪なのだ。大きな挑戦では、失敗さえも栄光となる(Don’t fear failure.
? Not failure, but low aim, is the crime. In great attempts it is glorious even
to fail.)
・心を空にしろ、形をなくせ。水のごとく型を捨てろ。水をコップに入れれば、コップの形になる。ボトルに入れるとボトルの形に、ティーポットに入れるとティーポットの形となる。水は流れることも、砕くこともできる。水になれ、我が友よ。
(Empty your mind, be formless. Shapeless, like water. If you put water into
a cup, it becomes the cup. You put water into a bottle and it becomes the
bottle. You put it in a teapot, it becomes the teapot. Now, water can flow or it
can crash. Be water, my friend.)
・私は一万回のキック練習を一回した人を恐れない。だが、一回のキック練習を一万回した人を恐れる。
・増やすな、捨てろ。
・正しいか間違えているかなどと分けるな。
・馬鹿な人間が賢明な答えから学ぶよりも多くのことを、賢明な人間は馬鹿な質問から学ぶ。
※香港映画では声優の吹き替えが一般的で、『燃えよドラゴン』を除く全ての出演作が吹き替え。ただし怪鳥音(叫び声)だけはリーのもの。
※リーの映画のセリフで最も有名なものは「Don't Think Feel(考えるな、感じろ)」(『燃えよドラゴン』)。
※ジャッキー・チェンは18歳のときに『燃えよドラゴン』にエキストラで出演し、ザコ敵として木の棒でブッ倒された。その際、本当に棒が頭に当たってしまい、リーは「オー・マイ・ゴッド!」と叫んで駆け寄り、何度も「大丈夫か」と心配して声をかけた。ジャッキーは抱き起こされたのが嬉しくて、わざと痛いふりを続けたという。
「私に最大の影響を与えた人物はブルース・リーだ。アクションも好きだけど、自分に厳しいところが好きだ。ブルース・リーの肉体よりも彼の厳しさが好きなんだ。私自身もそれを身につけたいんだ」(ビリー“隊長”フランクス) |
永遠の青春スター! | ディーンの故郷、フェアマウントの入口で | このショボ顔はヒドイ! |
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キスマークだらけ!しかもファンに 墓石を削られてボコボコ!(2000) |
朝陽を浴びるディーン。この時はキスマークが少なめ(2009) |
裏側、っていうかこっちが表側?彼の墓は 両面に名前が彫ってある珍しいタイプだ |
つ、つ、ついに、ここまで来たぞーっ! | 約10年ぶりの再会!お久しぶりですッ! |
主演俳優になって半年足らず。24歳の若さで他界し、永遠の青春スターとしてハリウッドの伝説となったジェームズ・バイロン・ディーン。1931年2月8日、インディアナ州マリオンにて誕生。身長175cm。愛称は“ジミー”。文学好きの母は英国詩人バイロンの名をミドルネームとした。歯科技工士の父は育児に関心を示さず、母親が最大限の愛情を注いだ。ところが9歳の時に母がガンで病没(享年29)。父は仕事の多忙を理由に、農場を経営するフェアマウントの姉夫婦にディーンを預けた。 中学時代に担任が俳優の素質を見出し舞台にあげ、ディーンは高校で演劇クラブに入った。18歳のときに州政府主催のスピーチ・コンテストでディケンズを朗読し優勝。卒業後、ロサンゼルスのカリフォルニア大学(UCLA)演劇科に進んだ。『マクベス』の舞台が評価されてエージェントがつき、1950年(19歳)にペプシコーラのCMに出演。ディーンは映画出演を強く希望し、20歳で『折れた銃剣』(1951)のエキストラとして銀幕デビューを飾る。そして『底抜け艦隊』(1952)、『勝負に賭ける男』(1953)などに出演したが、すべて端役でクレジットに名前さえ出ず、俳優業の修行のため大学を中退してニューヨークに移った。 1952年、レストランのアルバイトで生計を立てる一方、ディーンは名門演劇学校アクターズ・スタジオ(エリア・カザン主宰)に応募者1000人、150倍という凄まじい競争率を突破して、歴代最年少の21歳で入学した(同校ではロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジャック・ニコルソン、マリリン・モンロー、ポール・ニューマンらが学んでいる)。同年冬、ブロードウェイの小劇場で舞台に立つも、内容が難解と酷評され5日間で打ち切られた。ショックを受けたディーンだがスゴ腕の女性エージェントに実力を高く評価され、彼女がテレビ界に売り込んでくれた。何本かテレビ番組に出た後、1954年(23歳)にブロードウェーの『背徳者』で若きアラビア人・同性愛者を演じて喝采を受けた。ディーンは各種新人賞に輝き、その天賦の才に驚いた脚本家ポール・オズボーンは、自身が脚色を手掛ける新作『エデンの東』の主役にディーンを推薦した。 一方、別の映画の配役担当者がテレビで見かけたディーンに惚れ込み、ワーナー・ブラザースのNYオフィスにディーンを呼んだ。ディーンがオフィスに入るとたまたま『エデンの東』を監督する名匠エリア・カザンがそこにいた(『エデンの東』もワーナーの映画)。カザン監督はその場でディーンに惚れ込み、ポール・オズボーンの推薦もあったことから、ディーンは主役のキャル・トラスク役に決定した。 ディーンが撮影のためにニューヨークからハリウッドに戻ると、カザン監督は彼に幼いころ別れた実父と暮らすよう命じた。父は再婚しており、過去にトラウマを持っていたディーンは実父との確執で演技が深まった。1955年、『エデンの東』が完成。劇中では父親の愛に飢え苦しむ繊細な息子を鮮烈に演じきった。キャル役は観客に大きなインパクトを与え、アカデミー最優秀主演男優賞にノミネートされる。初出演の長編でアカデミー賞にノミネートされたのはディーンを含めて5人しかいない。「ジミーは私の演出でキャルを演じたのではなく、ジミー自身がキャルそのものだった」(エリア・カザン)。 『エデンの東』の撮影中に、ディーンはハリウッドで知り合った美貌のイタリア系女優ピア・アンジェリに夢中になり、2人は愛を育んだ。しかし、ピアの母はディーンと宗派が異なることを嫌い、娘を同じカトリックの歌手と結婚させた。ディーンの恋は4カ月で終わった。 同年、ニコラス・レイ監督は『エデンの東』を撮影中のディーンの演技に感動し、彼を主役にした映画を撮るために『理由なき反抗』の原案を自ら執筆。この作品でもディーンは等身大の苦悩するティーンエイジャーを演じ、1950年代の若者たちの象徴となった。さらに大作『ジャイアンツ』(1956/原題はジャイアント)では、準主役で成り上がり・ひねくれ者のジェット役を演じ、演技派俳優としてさらに成長を見せた。 『ジャイアンツ』の撮影終了から1週間後の1955年9月30日。ディーンは銀色のポルシェ550スパイダー(ポルシェ初の市販レーシングカー)でカリフォルニア州サリナスで行われるレースに向かった。ディーンは半年前に西海岸パーム・スプリングのレースで2位に入賞している。この新車は当初トレーラーで運搬される予定だったが、ディーンが慣らし運転をするため自らハンドルを握った。夕刻、速度違反で切符を切られたが、その後も疾走は続いた。 そして2時間後の午後5時59分、カリフォルニア州コレーム近郊の州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横から出てきた大学生のフォードと時速135キロで衝突し、ディーンは即死した(複雑骨折、内臓損傷)。同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックは車外に投げ出され、骨折したものの生命に別状はなく、大学生も軽傷だった。 ディーンは故郷フェアマウントの公園墓地に埋葬された。死後、『理由なき反抗』『ジャイアンツ』が公開され、人々は若き名優の夭折を惜しんだ。ディーンは『ジャイアンツ』でもアカデミー賞にノミネートされた。『エデンの東』『ジャイアンツ』と、没後2年連続してノミネートされたのは、ハリウッドの歴史上ディーンただ1人である。 のちに州道46号線と州道41号線の交差点は「ジェームス・ディーン記念ジャンクション」と改名された。ただし、実際の事故現場は、道路再編のため南へ約100フィート(30m)離れている。 後年、死亡事故現場から半マイル離れたチョラメ郵便局前に「James Dean 1931 Feb 8 - 1955 September 30 PM5:59 ∞」の字が刻まれたモニュメントが日本の実業家の出資で建てられた。 ※「俳優は自分の人生を演出しなければならない。それゆえ俳優は人生において与えられる事を積極的に受け入れ体験し、さらにそれ以上のものを追求し続けなければいけない」(ジェームス・ディーン) ※「まだまだ自分の何分の一も知っちゃいない。…だから生きることにせっかちなのさ」(ジェームス・ディーン/死の1週間前に) ※ディーンの次回作『傷だらけの栄光』の主役はポール・ニューマンが演じることに。 ※親友のエリザベス・テーラーいわく「自分の知る限り、ディーンは生涯ゲイだった」。 【墓巡礼】 ディーンが眠る農村フェアマウントは、公共交通が通っておらず大変だった。まず米国中部インディアナ州の州都インディアナポリスから長距離バスに乗り、ディーンの生誕地マリオンで途中下車。停留所のキオスクから乗合タクシーを電話で呼んでもらい、そこからディーンが青春時代を送ったフェアマウントまで移動。村の中心部で降ろされるため、徒歩でテクテクと大豆畑とトウモロコシ畑を横目に村外れの墓地へ向かい、ようやく墓前へ。たどり着いた彼のピンク色の墓はキスマークがいっぱい!珍しいことに墓の両面に名前が彫ってあった。レコードのダブルA面という印象。これなら命日にファンが大勢訪れても、両サイドから追悼できて墓前がギュウギュウにならずに済む。タクシーの運転手さんいわく「ファンが墓を削るので周囲がガタガタ」。 ※僕が確認した両A面墓は、ディーンの他にアウトローのデリンジャー、幕末の土佐藩家老・後藤象二郎の計3名のみ。 ●以下は海外のニュースサイトで見つけた写真。なんとディーンの墓石はこれまで3度も盗難に遭っているらしい。墓石を削るのはまだ可愛かったんや…。 墓マイラーは激おこです |
小さな丘の上に墓地が見えてきた | こぢんまりとした可愛い墓地 | 入って右手の奥にオードリーが眠る |
1994 前年に他界したばかり。 写真や可愛い花で溢れていた |
2015 再巡礼!21年が経っても 墓所の美しさはそのまま |
墓前にはオードリーの写真が飾られていた |
「あかとか、しろとか、ぴんくとか、おはなきれい!」 | スペイン語の手紙や日本の折り鶴が | スイスの農村を見つめる |
本名はオードリー・キャスリーン・ファン・ヘームストラ・ヘプバーン=ラストン。1929年5月4日、ベルギーのブリュッセル生まれだが、父は英国人で国籍はイギリス、母はオランダ人。身長170cm。5歳で英国の寄宿学校に入学し、バレエを習い始める。間もなく父が浮気で家庭を捨て離婚、10歳の時に祖父を頼ってオランダ・アーネムに移住した。
1940年(11歳)、オランダはナチス・ドイツに占領され、オードリーは英国人と分かる名前を隠し、偽名エッダ・ファン・ヘームストラを名乗った。多くの市民が抵抗運動に身を投じる中、オードリーも反ナチ運動を支援するためバレリーナとして資金獲得の秘密公演に協力した。ナチの弾圧は凄まじく、レジスタンスの叔父(母の姉の夫)と従兄弟を目の前で射殺され、異父兄はドイツの強制収容所に送られるという痛ましい体験をする。そして自身もドイツ軍の輸送路封鎖で飢餓と栄養失調に苦しみ、黄疸が出る程の重体となってアムステルダムの病院に入院した。この時、母がペニシリン(抗生物質)を手に入れなければ死んでいたという。
1945年、16歳の時に世界大戦が終わり、スーツケース1個を抱えて母子でロンドンに移住。バレエダンサーよりも舞台の仕事の方が高給だったことから演劇の道を進む。やがて舞台を通してイギリスの映画会社から認められ、20代になると端役で出演し始めた。
1951年、22歳のこの年に大きく運命が変わる。映画のロケでフランスを訪れた際、女流作家コレットの目にとまった。コレットは自作のブロードウェイ戯曲『ジジ』(邦題「恋の手ほどき」)の主演女優を探しており、オードリーを見るなり「私のジジを見つけたわ!」と喜んだ。オードリーは怖じ気づいたがコレットに説得され、1951年11月24日にNYブロードウェイで初演を迎える。イギリスの無名女優の演技はコレットの狙い通りメディアから絶賛され、『ジジ』の公演回数は219回に達し、翌年5月に千秋楽を迎えた。オードリーは優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワードを受賞、一年をかけてアメリカ各地を巡業した。
そして1953年!オードリーは24歳で初めて映画の主役を掴んだ。タイトルは『ローマの休日』。役柄は自由を求めて一般市民になりすました某国のアン王女。アンはグレゴリー・ペック演ずるアメリカ人新聞記者と恋に落ちる。当初イメージされていた女優はエリザベス・テイラーだったが、ウィリアム・ワイラー監督がオーディションに来たオードリーを見て「この娘だ!」と叫んだ。ワイラー「彼女は私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えて、さらにはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された」。グレゴリー・ペックもオードリーのスター性を見抜き、「彼女は僕とは比べ物にならないような大スターになる」と元々は自分の名前が作品タイトルと共に大きく表示されていたのを、オードリーの名が先に出るよう変更を求めた。映画は大ヒットし、アン王女の髪型は世界でヘプバーン・カットとして大流行する。華奢(きゃしゃ)な彼女は、グラマラスであることを女性美の条件としていた当時の価値観を変え、同年の『タイム』誌の表紙にもなった。『ニューヨークタイムズ』は「豊かな感情表現には大人びた雰囲気と子供っぽさが同居し、新たに見つけた喜びと愛情に満ちている」と称え、オードリーはアカデミー主演女優賞、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞に輝いた。
同年、グレゴリー・ペック主催のカクテルパーティーで米国の俳優メル・ファーラー(1917-2008)と出会う。ファーラーの回想「(彼女は)僕が出ていた映画『リリ』を3回観たと言い、別れ際に僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」。
翌1954年(25歳)、ビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』でハンフリー・ボガートやウィリアム・ホールデンと共演。『ニューヨークタイムズ』は「驚くほど多彩で繊細な感覚と揺れ動く感情が詰め込まれたサブリナは、アンよりもさらに輝き、これ以上はもう何も付け加えることはない」と手放しで絶賛した。
同年、メル・ファーラーがオードリーのために探し出したブロードウェイ作品『オンディーヌ』の舞台稽古が1月から始まり、彼女は水の精を、ファーラーは騎士を演じた。『ニューヨークタイムズ』は「彼女は生来の才能に裏打ちされた迫真かつ情感あふれるその演技は、ただただ美しく魔法のようだ」と賞賛、オードリーは演劇界の最高名誉トニー賞の主演舞台女優賞を受賞した。これによって彼女はトニー賞とアカデミー賞を同年に受賞した3名のひとりとなった。
※ちなみにあとの2名は『愛しのシバよ帰れ』(1952)のシャーリー・ブースと『アリスの恋』(1974)のエレン・バースティン。エレンはアクターズ・スタジオ学長に就任している。
ファーラーは当時37歳で3度離婚しており、オードリーより12歳年上だったが、舞台を通して2人は愛し合い、9月にスイスで電撃結婚した。
1956年(27歳)、文豪トルストイの『戦争と平和』でファーラーと共演。翌年の『パリの恋人』でフレッド・アステアと共演し、彼女にとって初のミュージカル映画となった。『昼下りの情事』ではゲイリー・クーパーと共演。
1959年(30歳)、『尼僧物語』で修道女を演じたオードリーは、「これまでのどの映画作品よりも、時間と努力と思考を費やした作品でした」と語っている。同年、一度流産した後に再び妊娠したが、撮影中の落馬事故で背中を痛め再度流産。三度目の妊娠が分かると、出産のために一年間の休養をとった。
1960年(31歳)、長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーを無事に出産、復帰作の『ティファニーで朝食を』は大ヒットを記録した。彼女自身は「内気な性格の私は外向的な女性を演じることが苦痛でした」と語るが、本作は代表作のひとつとなり、身にまとったジバンシィのリトル・ブラックドレス(黒のワンピース)は20世紀ファッション史を代表するドレスとなった。
1961年(32歳)に出演したウィリアム・ワイラー監督『噂の二人』はレズビアンを取り上げた作品で、オードリーはシャーリー・マクレーンと共に難しい役どころを演じきった。
1963年(34歳)、娯楽サスペンス『シャレード』でケーリー・グラントと共演。グラントいわく「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」。
1964年(35歳)、空前のヒット作となったミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』に出演。オードリーは下町訛りの花売り娘イライザ・ドゥーリトルを演じたが、長期間の発声練習に取り組んでいたにもかかわらず劇中歌は9割が他人に吹き替えられた。“本人の歌声を出来るだけ残す”という約束は守られずオードリーは深く傷ついた。『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞の12部門でノミネート(うち8部門で受賞)されたが、吹き替えのため主演女優賞はノミネートすらされなかった。
※ちなみにオスカーの歴代最多ノミネートは14部門の『イヴの総て』『タイタニック』『ラ・ラ・ランド』。最多受賞作は11部門の『ベン・ハー』『タイタニック』『ロード・オブ・ザ・リング
王の帰還』、続いて10部門
の『ウエスト・サイド物語』。
1965年(36歳)、スイス・レマン湖畔ローザンヌ近郊の片田舎トロシュナ村に家を購入。彼女は自宅を「La
Paisible(平安)」と名付け、他界まで当地で暮らす。
1966年(37歳)、コメディ映画『おしゃれ泥棒』で名優ピーター・オトゥールと共演。
1967年(38歳)、盲目の女性を演じたサスペンススリラー『暗くなるまで待って』で優れた演技力を見せ、5回目のアカデミー主演女優賞ノミネートを受ける。この作品から9年間、オードリーは映画界から離れプライベートを大切にする。
1968年(39歳)、夫の浮気に愛想を尽かし14年の結婚生活に終止符、離婚する。
1969年(40歳)、ギリシアの船旅で出会った10歳年下のイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと再婚、翌年、帝王切開で男児ルカを出産する。
1976年(47歳)、ロビン・フッド伝説の後日談を描いた歴史映画『ロビンとマリアン』で銀幕に復帰、ショーン・コネリーと共演する。
1979年(50歳)、主演したサスペンス映画『華麗なる相続人』は残念ながら酷評され大赤字となる。一方、彼女は共演したベン・ギャザラと不倫関係に…。
1981年(52歳)、最後の主演作となるコメディ映画『ニューヨークの恋人たち』に出演。
1982年(53歳)、妻と死別したオランダ人俳優ロバート・ウォルダース(7歳年下の46歳、1936〜)と恋愛関係になり、ドッティも若い女性と不倫していたことから合意離婚する。2度目の結婚生活は13年続いた。2人は息子ルカの養育のことで生涯連絡を取り合った。ドッティと離婚後、ウォルダースはスイスで一緒に暮らし始め、オードリーいわく「人生で最良の日々」が始まった。
1988年(59歳)、オードリーはユニセフ(国連児童基金)で本格的に活動を開始。最初に内戦下のエチオピアを訪れ、餓死寸前の子供たち500人にユニセフが食糧支援を行っていた孤児院を慰問した。オードリー「200万以上の人々が餓死寸前の危機にあり、その多くは子供たちなのです。エチオピアに食料がないわけではなく、分配できないだけです。エチオピアでは内戦が続いており、支援活動を行っていた赤十字とユニセフの職員は北部都市から避難するように勧告を受けました。私は反政府の地域へ赴き、そこで食料を求めて10日もあるいは3週間も歩き続ける母子を目にしました。床が砂でむき出しとなっているその場しのぎの難民キャンプで、人々は死を待つしかないのです。恐ろしいことです。耐えられません。“第三世界”という言葉が私は嫌いです。我々はともに一つの世界に暮らしているのです」。
続いて、予防接種キャンペーンでトルコを訪れ、さらにベネズエラやエクアドルなどラテンアメリカを訪れた。「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。また、少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」。
1989年(60歳)、オードリーはユニセフ親善大使に任命される。同年2月、中米を訪問するなか、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラで大統領と面会を果たす。4月にパートナーのウォルターズと内戦下のアフリカ・スーダンを訪れ、南スーダンへ支援物資搬入を試みる。10月、バングラデシュ訪問。この年、スティーヴン・スピルバーグ監督『オールウェイズ』に天使役でカメオで登場し、これをもって約35年にわたる女優業を引退した。
1990年(61歳)、世界の美しい庭園を紹介する紀行ドキュメタリーで案内役を担当。秋にベトナムを訪れ、予防接種の普及と水道設備設置に尽力。
1992年(63歳)9月、内戦で無政府状態のソマリアを訪問。同年、子供向け昔話を朗読したアルバムを収録。ブッシュ(父)大統領から米国では文民の最高位となる“大統領自由勲章”を授与される。
1993年1月20日、スイスのトロシュナ村で大腸癌のため他界。享年63歳。4日後に村の教会で葬儀が執り行われ、元夫のメル・ファーラーとドッティ、俳優のアラン・ドロンやロジャー・ムーア、デザイナーのジバンシィ、ユニセフの高官たちが参列した。グレゴリー・ペックとエリザベス・テイラーからは献花が届き、亡骸はオードリーの希望でトロシュナ村の丘にある小さな共同墓地に埋葬された。
没後、庭園紀行でエミー賞、昔話の朗読でグラミー賞を受賞した。アカデミー賞(1954)、トニー賞(1954)、エミー賞(1993)、グラミー賞(1994)を全て獲得した人物は、09年までにオードリーを含めて9人しかいない。映画芸術科学アカデミーは人道活動への貢献をたたえてジーン・ハーショルト友愛賞を贈った。
「私はユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから」。オードリーには戦時中の辛い体験に裏付けられた、人道支援を大切に考える強い信念があった。彼女は幼少期から欧州各地で暮らしたため、英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を自在に操ることができ、この高い言語能力が各地の支援で役に立ち、言葉の問題で困ることはほとんどなかったという。そして内戦が続くアフリカやラテンアメリカで、貧困に苦しむ子ども達のため熱心に取り組んだ。
「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」
「奇跡を信じない人は現実主義者とはいえません。私はユニセフがもたらした、水という奇跡を目にしてきたのです。何百年にもわたって、水を汲むために少女や女性たちが何マイルも歩く必要がありました。でもいまでは家のすぐそばに綺麗な水があるのです。水は生命です。綺麗な水はこの村の子供たちの健康と同義なのです」
「貧しい場所に住む人々はオードリー・ヘプバーンはご存知ないでしょうが、ユニセフという名前を覚えてくださいました。ユニセフという文字を目にしたときにそのような人々の顔が明るくなります。何かが起こるということが分かっているからです。例えばスーダンでは、水を汲み上げるポンプは“ユニセフ”と呼ばれているのです」
2007年、2人目の夫ドッティが消化器官の合併症で他界。享年68歳。
2008年、最初の夫メル・ファーラーが心不全で他界。90歳の長寿だった。
最後のパートナー、ロバート・ウォルターズは57歳でオードリーと死別した後、ヘンリー・フォンダの未亡人シャーリー・フォンダのパートナーになっている。
2012年、トロシュナ村のオードリー・ヘップバーン広場にオードリーの息子たちが寄贈した胸像が建った。
〔墓巡礼〕
チャーミングな笑顔や優れたファッション・センスで世界の人々を魅了し、ハリウッド黄金期のアイコンと認知されたオードリー。後年は女優よりも国際連合児童基金(ユニセフ)の活動に取り組む社会運動家として存在感を発揮した。1993年に訃報が報じられると、なんとしても墓参がしたく、翌1994年に僕は彼女が眠るスイスの片田舎トロシュナに向かった。当時はまだネットがなく墓地の名前も不明だったけど、とにもかくにもローカル鉄道で村に一番近い駅に降り立った。そして駅員さんに墓地の方角を尋ねようと思って驚いた!なんと無人駅だった…!
ホームには風が吹きすさんでいた。周辺地図なんてシャレた看板はない。しかもこの日は列車のつなぎが悪くて、着いた時点で日没直前。途方に暮れて辺りを見回すと、遠くの方に人影がひとつ。同じ列車で降りたとみられる地元のおばさんが、買物袋を下げてテクテク帰って行くのが見えた。僕は「絶対に逃さんッ!」とダッシュで追いかけた。そして東洋人に突然背後から話しかけられてドギマギしてるおばさんに、切れ切れの仏語で「スミマセン、ワタシ、ミチ、マヨッタ、オードリー、ハカ、ドコ?」と方角だけでも教えてもらおうとした。おばさんは次第に笑顔になり“付いて来なさい”とジェスチャー。どうやら家が同じ方向らしい。名前はマヌエラさん。
一緒に歩いてる間、「アナタ、シンセツ」とか「コノムラ、トテモキレイ」「ワタシ、シアワセ」などと、伝家の宝刀“誉め言葉手帳”(自作)を片手に畳み掛けていたら、マヌエラさんが家の前で“ちょっと待ってなさい”的なことを言った。数分後、ガレージの扉が開き、中から車が。墓地まで少し距離があるため送ってくれるらしく、その優しさに感動した。人なつこいイスラム諸国(当時はテロもなかった)やラテンの国ならともかく、個人主義が主流のヨーロッパでこれほど親切にされるとは。しかもマヌエラさんは、お礼に渡そうとした日本のお土産(鈴の付いた置物)を渡そうとしても、顔を赤くして優しく「ノン」と笑うだけ。何かをもらうためではなく、マヌエラさんも大好きなオードリーに会わせてあげたい、そんな雰囲気だった。墓地の門前に着いた時、マヌエラさんが“しばらく待ちましょうか?”的なジェスチャーをするので、とてもじゃないけどそこまで甘えるわけにいかず、これで充分ですと、何度もメルシィを連発しながら、固い握手をして車を降りた。
墓地はこじんまりとしていて、入って右手の奥にオードリーは眠っていた。真新しい墓はよく目立っていた。夢にまで見たオードリーとのツーショットを撮るべく、タイマー撮影を何度も繰り返し、「わが人生に一片の悔いなし!」と涙にむせんでミーハー魂を爆発させていたら、無人と思っていたのに、バケツ片手に立ちすくんでいるお婆さんと目が合った。恥ずかしくなってペコッとお辞儀したら、お婆さんは身の危険を感じたのか、背中を向けてあたふた逃げていった。“まずい!変人と思われたかも!”と慌てて「違うんです!誤解なんです〜!」と(日本語で)叫びながら追いかけると、その行為がお婆さんをさらにビビらせたのか、カモシカの様な俊敏さで遠ざかっていった。「ゼエ、ゼエ、…追いつけん」。
帰り道、とっぷりと日が暮れた村道を無人駅までテクテク歩きながら、“マヌエラさんと出会わなかったら日没に間に合わなかった”と、改めて旅先の親切に胸が熱くなった。素敵な出会いを有難う、オードリー!
「魅力的な唇のためには、優しい言葉を紡ぐこと。愛らしい瞳のためには、人々の素晴らしさを見つけること。スリムな体のためには、飢えた人々と食べ物を分かち合うこと。美しい身のこなしのためには、決して一人で歩むことがないと知ること」(オードリー・ヘプバーン)。
※オードリーが主演女優賞にノミネートされた作品は『ローマの休日』『麗しのサブリナ』『尼僧物語』『ティファニーで朝食を』『暗くなるまで待って』の5作。
※息子は2人、流産は5回。
※墓地から300m南西に黄色い壁の晩年の家が現存。「La Paisible(平安)」と名付けられた家の正門横に石板「1963 A 1993
AUDREY HEPBURN」が残る。
※現在、墓地までモルジュ駅からバス702番で行ける。バス停「Pl Audrey
Hepburn」の近くにオードリーの胸像が建っている。かつてオードリー記念館が墓地の側にあった。
※トロシュナ村一帯は世界遺産「ラヴォー地区の葡萄畑」で知られる。
※オードリーは20代後半の頃にアンネ・フランク役の出演依頼を受けたが、アンネとは同年生まれであり、少女オードリーが身を寄せたオランダより連行されていることから、「感情的に不可能」と断っている。
※オランダの病院でボランティア看護婦をしていた16歳のオードリーが介護したイギリス陸軍兵テレンス・ヤングは、後に映画監督となって『暗くなるまで待って』で彼女を主演に迎えた。
※ユニセフ報告によると、劣悪な衛生環境や栄養失調からくるマラリア、肺炎、下痢により、2016年の一年間だけで5歳未満の子ども560万人が死亡。南アジアとサハラ以南のアフリカ諸国で死者の約8割を占める。
オードリー語録
「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、撮影が終わるとそのような感情はなくなってしまうものです」
「(ハンフリー・ボガートとは)“気の強いもの同士”と言われたこともありますが、私と一緒のときのボギーはとても優しい人でした」。
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1994年、妖精オードリーと日本人初の接吻を交わす! (タイマー撮影。これはセクハラかも…汗) |
2015年、21年ぶりとなる感動の再会! (撮影してくれた妻の寛大な心に感謝) |
墓地の前は広大なヒマワリ畑! |
ハチミツ入りの練乳より甘いマスク | 「どうしてもお会いしたかったのです!」 |
「大脱走」 |
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マックイーンは若いころ悪ガキで、少年院に送られた時期もあった。その後、船乗りやタクシー運転手などいろいろ経て、20代後半に俳優としてデビューした。様々な体験が演技に説得力を与えている。アスベストで胸を病み50歳の若さで他界。 男が男惚れするほどカッコいいマックイーン。何度も捕虜収容所からの脱出を試みた映画『大脱走』の独房王ヒルツのように、本人も自由を愛していたようだ。狭い地下の棺はイヤなのか、遺言により亡骸は火葬となり、遺灰は広大な太平洋に撒かれた。つまり、ロス沖はマックイーンのお墓だ。散骨の正確な位置が不明である為、ハリウッドに最も近い太平洋の海岸、サンタモニカ・ビーチにて墓参。サーファーたちに「コラーッ、墓場でサーフィンするんじゃねーっ!」と内心でツッコミ。 ・マックイーンはバイクや車の操縦が得意!『大脱走』ではで牧草地での疾走シーンをノースタントでやっている。そればかりか、自分を追跡するドイツ兵のバイクアクションまで担当した。カーアクションの古典『ブリット』でも自分自身でフォード・マスタングファストバックのハンドルを握った。 ・マックイーン邸の隣家はなんとロック史上最大の変人キース・ムーン(ザ・フーのドラマー)。 |
太陽のような笑顔!この明るさがマリリンの魅力。モンローの映画を未見の人は、 彼女をただのセックス・シンボルと思っている人が多い。でも、『お熱いのがお好き』 や『七年目の浮気』を観れば、演技力で魅了する女優と分かるはずだ |
アンディ・ウォーホル(1928-1987)が 描いたマリリンの有名なポートレート |
墓にはなぜかキスマークがいっぱい。 女優なのになぜ?(2000) |
9年後。マリリンの墓前にあったベンチには、 “マリリン・モンローの思い出に/彼女のたくさんのファンより”の文字。感動!(2009) |
さらに4年後。3度目の巡礼! あれ?なんか色が違う? |
うおッ!マリリンだけレンガ色 (ピンク?)の墓になってた |
真新しいキスマークを発見! (2013) |
本名ノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jeane Baker)。ロス生まれ。身長166.4cm、体重53.5kg。本来の髪の色は褐色(ブルネット)で、スリーサイズはB94
W61 H86。 母子家庭に生まれたが、母が心の病になった為に、孤児院や里親のもとで少女時代を送った。モンローは複数の養子先をたらい回しにされ虐待も受け、トラウマから吃音症を患った時期もあったという。1942年、16歳で飛行機整備工と結婚したが、第二次世界大戦で夫は徴兵され、モンローも軍需工場で働き始める。1945年(19歳)、勤務先で陸軍カメラマンに声をかけられポスターのモデルに起用された。この写真が話題を呼んで仕事が殺到し、雑誌の表紙を幾度も飾るようになる。夫はモデル業に反対し結婚4年目に離婚した。 1946年(20歳)、20世紀フォックス映画と“マリリン・モンロー”の名で契約を結び(モンローは母親の姓)、続けてコロムビア映画に所属するが、どちらも出演依頼が少なく20代前半は鳴かず飛ばずだった。生活費を稼ぐため、カレンダーのヌードモデルなどもやった。1950年(24歳)に再び20世紀フォックス映画と契約を結ぶと、名作『イヴの総て』に出演する機会を得た。この演技が注目を浴び、1952年『ノックは無用』で準主役を演じる。さらに1953年(27歳)、『ナイアガラ』でセクシーなモンロー・ウォークを披露して話題になり、『百万長者と結婚する方法』『紳士は金髪がお好き』などで、セックス・シンボルとして一躍人気スターの仲間入りを果たした。 モンローは官能的な肉体だけでなく、天真爛漫な性格が人々を魅了し、20世紀フォックスの看板女優となっていく。 1954年(28歳)、『帰らざる河』『ショウほど素敵な商売はない』に出演。同年、野球選手(NYヤンキース)のジョー・ディマジオと結婚し、新婚旅行で日本にも来日したが、彼女の行動を支配しようとするディマジオに反発し、わずか9カ月で離婚となった。 1955年(29歳)、ビリー・ワイルダー監督の『七年目の浮気』に出演。この頃からモンローはワンパターンな役柄(セックスシンボル)ではなく、個性的な人物を演じたいと望むようになる。そしてNYのアクターズ・スタジオで演技を学び、舞台に立った。 1956年(30歳)、劇作家のアーサー・ミラーと結婚。翌年、ローレンス・オリビエと『王子と踊子』を製作するが失敗作の烙印を押された。 モンローはストレスからドラッグとアルコールにはまり込み、不安定な精神状態に陥っていく。それでも1959年(33歳)にワイルダー監督の傑作『お熱いのがお好き』で歌手のシュガーを好演して高く評価され、ゴールデングローブ賞の主演女優賞に輝いた。翌年『恋をしましょう』でイブ・モンタンと共演。 1961年(35歳)、夫のミラーが脚本、ジョン・ヒューストン監督による『荒馬と女』に出演。封切1週間後にミラーと離婚する。『荒馬と女』は酷評され、共演者のクラーク・ゲーブルが撮影後に急死。モンローは心のバランスを崩し精神病院に入院し、元夫のディマジオが彼女を支えた。この頃からモンローとケネディ大統領との不倫関係が始まったが、FBI長官のフーバーから警告を受けて翌年に別れている。1962年5月19日、NYのマディソン・スクエア・ガーデンでケネディ45歳の誕生日パーティの席で、モンローは「ハッピーバースデー・ミスタープレジデント」と歌い上げた。それから3カ月後の8月5日、自宅寝室にて全裸で死亡しているモンローが発見された。享年36。死因は睡眠薬の飲み過ぎとされたが、事故なのか自殺なのか分からず、また現場からモンロー愛用の日記が消えていたことから他殺説も根強くある。 葬儀はディマジオが取り仕切り、モンローの育ての親が眠るハリウッドのウエストウッド・メモリアルパークに葬った。ディマジオは他界するまでモンローの墓に週3回赤いバラ(アメリカン・ビューティー)を供え続けた。モンローの埋葬をきっかけとして、多くの著名人がウエストウッド・メモリアルパークに墓を建てるようになった。 ハリウッドにあるマリリン・モンローの墓は4段になったロッカー型の霊廟。2009年8月、彼女の真上の区画が競売にかけられ、“モンローと永遠に添い寝ができる”と、映画ファン&墓マイラーの間で話題になった。競売の結果、460万ドル(約4億5千万円!)で競り落とされたんだけど、落札者(どうやら日本人らしい)が「諸般の事情で支払い不能になった」と権利を辞退。そして11月になって2度目の競売が行なわれた。辞退騒動で話題を集めた分、さらに多くの人が競売に参加すると思いきや、不況のあおりか50万ドル(約5千万円)からのスタートでも落札者は現れず。貯金が5千万ある方、チャンスです!(爆) 元々、モンローの真上は元夫・大リーグ選手のジョー・ディマジオが押さえていた。1954年に実業家リチャード・ポンチャーがディマジオから“添い寝”の権利を買ったんだけど、最近になってポンチャー未人が住宅ローン返済のために競売に出し、夫を一段上に移すことにしたという。リチャードさんはよもや死後にモンローの傍から引き離されるとは思ってなかったろうなぁ。それも住宅ローンが理由で…。でも、奥さん的には最初から面白くなかったかもね。 ちなみに左隣の区画は米プレイボーイ誌の創刊者ヒュー・ヘフナー氏が1992年に7万5千ドルで購入している。その上の区画は25万ドルで販売中(09年時点)。 〔モンロー語録〕
「笑顔は女の子にとって最高のメイクよ」
「全ての女の子が真に求めているものは、男はみんな同じではないと証明してくれるたった一人の男だけ」
「ハリウッドはキスのために数千ドルを払い、魂のためには50セントしか払わないところ」
「若く健康なときは、月曜に自殺計画を立て水曜日にはまた笑っているもの」
「友達とはあなたに都合の良いことを言う人で、親友とは真実を言ってくれる人」
「私にとって眠ることが最高のこと、少なくとも夢を見られるから」
「頭を高く上げ続け、顎を上げ続け、そして最も大切なのは笑顔を絶やさないこと。なぜなら人生は美しいもので、笑顔になる理由で満ちているから」
記者「夜は何を着て寝るのか?」モンロー「シャネルの5番よ」。
※他界から12年後、1974年に自伝「マイ・ストーリー」が出版された。 ※モンローが10代の頃に生んだ隠し子(女性)が豪州タスマニア島で暮らしているという。 ※ジョー・ディマジオはヤンキースのスター選手。メジャー記録の56試合連続安打は現在も破られていない。 |
身長1メートルの子どもとの対比 | 3歳男子のハートまで鷲づかみ! |
2002 | 2004 | 映画『白夜』から。カッコ良い! |
マストロヤンニの墓は植物園状態! |
ローマの広大な墓地を炎天下の中さまよい、何人もの人に尋ねながらたどり着いた。相手は場所を知っててもイタリア語で教えてくれるので、こっちはチンプンカンプン。写真では分かりにくいが、彼の墓は、南国の植物に囲まれてかなりトロピカルだ。カンヌの主演男優賞を2度受賞。『甘い生活』での苦悩に満ちた瞳が忘れられない。 ※なんと、ヴェラーノ墓地のサイトに墓地マップが!皆さん、この地図があれば墓参はかなりラクかと! |
彼の死は人類全体の不幸 |
現地の聞き込みでたどり着いたフェニックス家の農場!リバーの遺灰は葬儀の3日後に この敷地に撒かれた。近所の人の話では、弟ホアキンもここで遊び育ったという |
ロスのヴァイパールーム。この店の前で彼は死んだ。 当時のオーナーはジョニー・デップだった(2009) ※未成年は入れませぬ |
これは2000年の訪問時。暗くて見え にくいけど花が置かれていた。 世界中のファンがここで献花した |
右側がベルーシ | フェリーに乗ってお墓へ | マーサズ・ビニヤード島とカモメ |
道路から見た墓地の遠景 | 墓は2種類。岩タイプは中央に「BELUSHI」 | 石板にはドクロ! |
アクが強く個性的な役柄を得意とし、高い人気を誇った俳優ジョン・ベルーシ。彼は1949年1月24日にシカゴで生まれた。親はアルバニア系移民、弟は俳優ジェームズ・ベルーシ。学生時代はアメフト選手として活躍し、1965年、16歳のときに4人の高校時代の仲間とロックバンドを結成。ベルーシはドラムを叩き、ボーカルをとったが卒業後に解散。南イリノイ大学を中退。この頃、シカゴで自分のコメディ劇団「ウエスト・コンパス・トリオ」を立ち上げる。
1971年、22歳でシカゴの即興コメディー劇団「ザ・セカンド・シティ」に出演し人気を博す。 1972年(23歳)、ニューヨークのオフ・ブロードウェイで上演されたウッドストック・フェスのパロディ「ナショナル・ランプーン・レミングス」から出演オファーを受け、ベルーシはニューヨークへ移住。ベルーシはこの舞台でジョー・コッカーの歌真似を披露した。 1973年(24歳)から翌年にかけて出演したコメディ・ラジオ番組「ナショナル・ランプーン・ラジオ・アワー」で脚本を担当、番組の構成や新人のスカウトも任される。 1974年(25歳)、喜劇団「セカンドシティ」トロント支部のキャストをチェックするためトロントを訪れた際、ダン・エイクロイドと出会い、親しくなる。 1975年(26歳)に始まったNBCのコメディー番組『サタデー・ナイト・ライブ』(SNL)に、チェビー・チェイスやビル・マーレイらと、7人のオリジナル・メンバーの1人として出演(チェイスが彼をプロデューサーに推薦してくれた)、4年間登場する。ベルーシは、ベートーベン、マーロン・ブランド、エリザベス・テイラー、キッシンジャー国務長官などの物真似、『用心棒』をパロディにした好戦的なサムライ、ジェームズ・T・カーク船長、ギリシャ料理店のオーナーなど一連のヒットキャラクターを作り出し、アナーキーでハイテンションな芸風により人気を博した。 最大の当たり役は、『SNL』の放送前にスタジオの観客を暖めるためにダン・エイクロイドと作りだしたバンド、“ブルースブラザース”のメインヴォーカル、ジェイク・ブルース。グレイトフル・デッド、フリートウッド・マック、KISS、オールマン・ブラザーズなど当時の人気アーティストたちのコンサートにも出席した。 1976年(27歳)にベルーシは高校時代知り合ったジュディス夫人と結婚。 1978年(29歳)、ジョン・ランディス監督の映画『アニマル・ハウス』に出演。同作は280万ドルの低予算作品ながら興行収入1億1500万ドル以上の大ヒットを記録、『Time』誌はその年のベストムービーのひとつであると評し、主演のベルーシは「ニューズウィーク」の表紙に登場するなど映画スターとしても名を上げる。同年、モンティ・パイソンがビートルズをパロディ化したテレビ映画『ザ・ラットルズ』にも出演。 11月28日、ブルースブラザーズはブルースとソウルの曲のカバーで構成されたデビューアルバム『Briefcase Full of Blues(邦題:ブルースは絆)』をリリース。このアルバムはビルボードで1位を獲得し、ダブルプラチナ(50万枚)を達成。最終的には350万枚を売り上げ、史上最も売れたブルースアルバム(エリック・クラプトンやローリング・ストーンズなどロック畑の作品を除く)となった。 1979年(30歳)、スピルバーグ監督の戦争コメディ映画『1941』でワイルド・ビル・ケルソー大尉を演じる。そして映画『ブルース・ブラザーズ』の撮影のためエイクロイドと共にSNLを去り、ベルーシとエイクロイドは、脱退後、2本の映画を一緒に作った。 1980年(31歳)6月20日、代表作となる映画『ブルース・ブラザーズ』(ジョン・ランディス監督)が公開され、世界的に有名となる。 ダン・エイクロイドと結成したバンド、ブルース・ブラザーズでは、兄の"ジョリエット"・ジェイク役でメインボーカルを担当。バンドは「サタデー・ナイト・ライブ」への出演、ファーストアルバム『ブルースは絆』の全米ナンバー1ヒット、映画『ブルース・ブラザース』(1980年)の公開などにより、世界的な知名度を獲得した。 『ブルース・ブラザーズ』…ジェイクとエルウッドという兄弟が主人公で、彼らを育ててくれた貧しい孤児院が、税金を払えなくて潰れそうになり、2人がバンドを組んでお金を稼いで助けようと大奮闘する物語。彼らは行く先々でおかしな騒動を引き起こし、抱腹絶倒のストーリーが展開する。ゲスト出演の超大物ミュージシャン、ジェームズ・ブラウン、アレサ・フランクリン、レイ・チャールズの熱唱あり、映画史上に残る空前絶後のカーチェイスあり、しかもただ愉快なだけでなく、ナチスを崇拝する差別主義者を徹底的に笑い飛ばすなど社会風刺も入っている。 僕は中学2年生のときにリバイバルで観て、「映画ってなんて面白いんだろう!」と、この作品が映画ファンになるきっかけとなった。多感な14歳、毎日が息苦しくてつらかったけれど、「世の中にこんなに楽しいものがあるなら、この世界は生きるに値する」と、大袈裟なようだけど、本当にそう実感した。 1981年(32歳)、彼は映画『Oh!ベルーシ絶体絶命』で主演。続いて、エイクロイドとの2本目の映画『ネイバーズ』に出演。この年、『ブルース・ブラザース』のプロモーションのためエイクロイドと来日し、吉祥寺のライブハウスで日本人バンドとのセッションしている。 ベルーシはSNL時代にドラッグ中毒になり、その後、摂取を控えるようになったが、『ネイバーズ』の撮影中に再発した。 1982年3月5日午後12時頃、カリフォルニア州ウエスト・ハリウッドの高級ホテル「シャトー・マーモント・ホテル(Chateau Marmont Hotel)」で、ベルーシの客室(バンガロー3)に彼のフィットネストレーナーが、ベルーシから前日に依頼されたタイプライターとカセットレコーダーを届けに来て彼の死体を発見した。バンガローには他に誰もいなかった。死因はスピードボール(コカインとヘロインの混合物)の過剰摂取。ドラッグの売人キャシー・スミスが致命的なスピードボールを注射したことを認めた。享年33、人気絶頂期の急逝であり、大きな衝撃を与えた。ジュディス夫人はアルバニア正教会の司祭が執り行う伝統的な正教会の葬儀を手配した。 ベルーシは映画数本への出演予定を控えており、その中にはエイクロイドが脚本を書いた大ヒット作『ゴーストバスターズ』(1984公開)も含まれていた。作中に登場するスライマー(緑色のモンスター)のベルーシのゴースト。 1984年、ベルーシのドラッグに溺れた役者人生を描いた伝記『ワイアード(邦題:ベルーシ殺人事件)』をジャーナリストのボブ・ウッドワードが発表。内容の正確性に疑問の声が上がったが、1989年、この本をベースにした映画『Wired』(邦題『ベルーシ/ブルースの消えた夜』)が公開され、エイクロイドとジュディス夫人に糾弾された。 1990年、未亡人ジュディスによる回想録『Samurai Widow』が出版される。 1999年、マネージャーのバーニー・ブリルスタインの回顧録でベルーシの人生と死が大きく取り上げられた。 2004年、ベルーシの功績をたたえてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにプレートが埋め込まれた。 2005年、ベルーシの人生を描いた本「Belushi: A Biography」が未亡人らの共著で刊行され、同書のために収録されたインタビューをもとに、2020年にドキュメント映画『BELUSHI ベルーシ』が公開された。 2008年、ベルーシはアルバニアの切手に描かれた。 ※早逝したため、出演映画は8本しかない。 ※キャシー・スミスは第一級殺人で起訴され、司法取引で過失致死罪に減刑され、15カ月間服役した。 ※ベルーシの未亡人は後に再婚し、現在はジュディス・ジャックリン・ベルーシ・ピサーノの名だ。 ※ベルーシは「シャトー・マーモント・ホテル」で亡くなる前に、友人ロビン・ウィリアムズとロバート・デ・ニーロに会っている。 ※ベルーシが演じるスター・トレックのカーク船長 https://www.youtube.com/watch?v=Sx0xOgFDXFg ※1974年、スピルバーグ監督は映画「ジョーズ」をマーサズ・ヴィニヤード島で撮影した。ベルーシはスピルバーグのコメディ『1941』にも出ており、2人の縁を感じる。 ※あまりに多くのファンがお墓に訪れ、墓が荒らされる恐れがあったため、のちに遺骸は近くの無名の墓に再埋葬されたという。 〔墓巡礼〕 ベルーシは他界の4日後にマサチューセッツ州の州都ボストンの南約130km、同州マーサズ・ヴィニヤード島チルマークのアベルズ・ヒル墓地に埋葬された。僕はNYからバスでボストンに移動し、17時半にボストン着。大都会で驚く。バスを乗り換えて18時に出発、大西洋に面した港町ウッズホールまで約1時間40分かけて南下した。島は6km沖合にありフェリーで45分かけて渡った。20時10分、ビニヤード島に上陸。波止場でタクシーの運転手にベルーシの墓地まで往復で何ドルくらいか相場を聞いた。「そうだな、40ドルくらいかな。だけど、そこのバス停からバスを使えば1ドルで行けるぞ」と教えてもらい、大感謝。既に日が暮れていたので朝一番で行くことに。 “さて、宿探しをするか”、そう思って30ドルくらいの安宿(モーテル)に入ると、「150ドルから。ビコーズ・サマーシーズン、ビコーズ・マーサズ・ヴィニヤード」といわれ絶句。僕は“田舎の島だからそう高くないだろう”と思っていたら大間違いだった!マーサズ・ヴィニヤード島は夏場でも涼しいため、ポール・マッカートニーやオバマ元大統領、映画スターなどセレブが別荘を持ち、避暑のため滞在する東海岸で最も有名なリゾートだったぁあああ! “今夜は宿を諦めるしかない”、そう思って公園の物置の裏で、寝袋を出して横になった。すると5分も経たないうちに、雨がポツポツと顔に落ち始めた。次第に雨足が強くなり、“嘘だろ!?”と急いで寝袋とたたむ。気温も下がってきて7月なのに肌寒い。そう、ここは避暑地。僕は島の宿情報がほしかったけど、既に旅行案内所は閉まっているため、レセプションにいろんな資料を置いてそうな大きいホテルに駆け込んだ。フロントには、“この島のことならなんでも知っているぜ”という顔をした、立派な口髭のある中年の男性がいた。マリオブラザーズのルイージに似ている。僕が「どこか安い宿を知りませんか?」と尋ねると、「心当たりが2箇所ある」といって、わざわざ電話をかけて空き部屋があるか問い合わせてくれた。どちらも満室で僕がションボリしていると、ルイージが「この時期は絶対に無理と思うが、ユースホステルにもかけてみるか」。そう言って電話で話していたルイージが、僕の方を見て「よし!」と右手の親指を立て、「予約をとるから君の名前を教えてくれ」と!僕はパスポートを渡した。どうやら当日キャンセルがあり、奇跡的に大部屋のベッドが一つだけ空いたらしい。小躍りしてルイージに感謝すると、「将来お前がお金を稼げるようになったら、次は必ずここに泊まれ。400ドルで泊まれる」と言われた(笑)。 10km内陸部にあるユースホステル(HI Martha's Vineyard Hostel)だけど、そこにしたのは大正解だった。墓地に行くバスは港から出ておらず、ユースホステルの近くのバスターミナルにいったん出る必要があったからだ。それに運良く21時15分の最終バスに乗ることができた。バスの運転手が20代半ばの女性で驚き、またバスの中に大ボリュームでポップスが流れていたこともビックリした。日本のバスと全然違う。
ユースホステルに着いたのは22時前でレセプションが閉まる直前だった。ボーイスカウトの団体さんが泊まっていて、ホステルの中はキッズだらけでめっちゃ賑やか。シャワーは子どもたちが「トゥー・アイス、トゥー・ホット」と嘆いていたとおり、温度調整がとても難しかった。22時半に消灯。 ありがとうユースホステル! 翌朝は6時15分にチェックアウトして5番路線のバス停を目指す…がいきなり反対方向に歩いてしまい体力を削られる。気を取り直して引き返すも、小雨が降りだしトボトボ歩く。早朝でバスの本数が少なく、40分ほど待ってアベルズ・ヒル墓地へ。道路から横長の自然岩を使ったベルーシの墓が見えた。小走りで駆け寄り「ついに会えた」と感無量。 彼の墓碑の上部には海賊旗のようなドクロがレリーフになっていて、下部には“I may be gone but Rock and Roll lives on(私が死んでもロックンロールは生き続ける)"と言葉が刻まれていた。 墓前にビールが供えられていたのでミネラルウォーターで乾杯。墓前で映画や彼の音楽を楽しんでいることを報告し、しばらくそこで過ごした。バス停に時刻表がなく、帰りはいつ来るかわからないバスを待ち続けた。ヒッチハイクにチャレンジして、通りかかった車にハンドサインを出したけれど、怪しいアジア人の前で止まる車はなかった。
ちなみに、イリノイ州リバーグローブのエルムウッド墓地にはベルーシの母親の墓があり、そこにも彼の名前が彫られており、そちらは慰霊碑となっている。 |
タフ・ガイの代名詞 “ボギー” | 『カサブランカ』でイングリッド・バーグマンと共演。「君の瞳に乾杯」がカッコ良すぎる |
この塀の向こうがボガートの眠る「Garden of Memory」。残念ながら一般非公開 |
壁の手前のベンチに上ると、墓地の内部が 一部見える(ボギーの墓は全く見えない) |
2000年、無情な鉄扉 |
2009年、やはりピクリとも動かず |
左写真の翌日。うおお!奇跡じゃ!門が開いている! ちょうど庭師が水をやっているとこだった。入っていいか 尋ねると「墓地事務所の許可があれば」。で、事務所で 交渉。涙目で懇願したけど、「ダメなものはダメ」の一点 張りで玉砕。何とか死ぬまでに墓参したい!マジで! |
ダメ元で訪問すると、偶然庭師の人が出てきた! 今回の僕は子連れ。肩車で「日本から来ました!」 「4度目の巡礼なんです!」と涙目でアピール |
どれだけボギーが好きか力説していると、庭師の男性は ニヤリとして「オッケー、カモン」。一度締めた門を解錠 して入れてくれた!内部はプール2個分くらいの広さ |
「ボギーはこっちだ」と庭師さん。壁際の小部屋へ | うおお、この中にボギーの墓が!心臓バクバク! |
一瞬だけの墓参許可と思いきや、「じゃ、オレは帰るから 出るときに門を閉めてくれ」と庭師さん。マジっすか! |
やっとボギーに会えた!嬉しすぎる! 映画の感想、感謝の言葉をいろいろ伝えた |
とても小さな墓。カーネーションが一輪だけ挿してあった | 巨大な墓を作らないのも男の美学 |
墓はけっこう高い場所にあり、子どもを肩車してちょうど同じ位置になる(2013) | 「男気を分けて下さい」と土下座! |
ハンフリー・ボガートは1940年代〜1950年代を代表する名優。ハードボイルド・スター。 ニューヨーク生まれ。父は外科医、母は画家。高校を中退し、1918年(19歳)に海軍入隊。除隊後に俳優を志す。舞台で経験を積み、1930年(31歳)に『河上の別荘』でデビュー。初期はギャング映画の敵役を多く演じ、1936年(37歳)の『化石の森』で初めて注目を集めた。 1941年(40歳)に『マルタの鷹』でハードボイルドの“私立探偵第1号”サム・スペードを演じ、タフ・ガイのイメージで大成功を収めていく。以降、バーグマンと共演した『カサブランカ』(1942)、ローレン・バコールと共演した『脱出』(1944)、サスペンス『三つ数えろ』(1946)、『黄金』『キー・ラーゴ』(1948)と演技を深め、1951年(52歳)に『アフリカの女王』で粗野な船長を演じて初めてアカデミー賞主演男優賞に輝いた。 その後も『麗しのサブリナ』『ケイン号の叛乱』(1954)、『必死の逃亡者』(1955)などに出演。1957年1月14日、食道癌で他界する。享年57。生涯の出演作は50本以上。私生活では結婚を4度しており、最後の妻ローレン・バコールとはとても仲が良かった。葉巻を指でつまむ吸い方、トレンチコートの襟を立てたシルエットなど、ボガートのスタイルは多くの男性に影響を与えた。 ※『カサブランカ』『ケイン号の叛乱』ではオスカーの主演男優賞にノミネートされた。 ※1999年にアメリカ映画協会(AFI)が発表した「映画スターベスト100」で男優第1位に輝いた。 ※墓に『脱出』の台詞「何か用があったらただ口笛をふいてくれ」が彫られていると聞いたけど僕は確認できず。本当? |
ユダヤ人なのでダビデの星が刻まれている | マルクス兄弟。一番左がグルーチョ! |
ミュシャの絵のモデル | 今も墓参者が絶えない |
1994 | 2005 | 2009 石棺が下にある |
サラの写真を撮ろうとしたらハチがとまって、マジ、ビビッたぜ! |
誰もが認めるミュージカル史上最高のダンサー。パーフェクトな技術に裏打ちされた華麗、かつ、ユーモアあふれるダンスは、世界中のミュージカル・ファンを魅了した。ところで、墓には落ち葉が積もっていて探し出すのにけっこう手間取った。米国の墓はこうしたプレート式が多く、草刈り機の通った後などは、もう大変。あちこちで巡礼者がミレーの“落穂拾い”のように腰をかがめて、プレートの表面を手ではらっている光景を見ることが出来る。本名フレドリック・オースタリッツ。 ※同じ墓地にジンジャー・ロジャースが眠っている! 「アステアがいなかったら、私が一番だ。だがアステアがいなかったら、私は踊っていなかっただろう」(ジーン・ケリー) |
ハリウッド史上最強のイケメンと言われている |
2000 左右に花入れがあるタイプ | 2009 ステンドグラスが墓に反射 | コーナーの下から3段目がヴァレンチノ |
サイレント時代の伝説の2枚目スター、ヴァレンチノ。人気絶頂の31歳で病死した。1926年8月、ニューヨークで行なわれた葬儀には10万人以上のファンが押し寄せ、その行列は11ブロックにおよび、暴動は起きるわ、女性二人が後追い自殺をするわの大騒ぎになった。本名ロドルフォ・ラファエロ・ピエレ・フィリベルト・ギエルミ・デ・ヴァレンチナ。 |
モン・サン・ミッシェルから望むノルマンディーの海。沖合いでギャバンの遺灰は撒かれた |
画家モネが愛したエトルタ。こちらもノルマンディー地方だ | 港町ル・アーブルとノルマンディーの海 |
人類は彼女の美しさを表現する言葉を持っていない |
彼女が眠る大聖堂は、地図上では駅から近かったので、全荷物を背負って向かった。これが誤算だった。右写真の山の上に王室の館があるが、大聖堂はそのさらに奥にあったのだ。写真では低い山に見えるけど、これが登り始めるとけっこうキツイ。しかも夜行列車明けで全荷物を持ってるとなるとなおさら。マイッタ。右写真は大聖堂の内部。グレース王妃の墓をひとめ見ようと、観光客が長蛇の列を作っていた。 |
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写真左が行列の先頭。皆、彼女の墓を必死でビデオ撮影している。墓にはグレース・ケリーの名が一文字も刻まれておらず、モナコ王妃としての皇族名で葬られていた。 |
グレース・パトリシア・ケリーはモナコ公妃となったアメリカの映画女優。知的で格調の高い演技と〈クール・ビューティー〉といわれた清楚な美貌で人気を博し、1950年代のアメリカ映画を飾った。演技力もアカデミー賞主演女優賞に輝いた実
力派。
1929年11月12日にペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれる。3人姉妹の次女。父ジョンはボート競技の五輪金メダリストで、煉瓦製造会社を立ち上げ億万長者になった。母マーガレットは元モデルの大学講師。 高校卒業後、家族の反対を押し切り舞台女優を志す。ニューヨークでモデルのアルバイトをしながらアメリカ演劇芸術アカデミーで演技を学び、1949年、20歳のときに「父」(ストリンドベリ作)でブロードウェーにデビューした。やがて舞台の 出演中にハリウッドから誘いがかかった。 1951年、22歳で映画出演第1作となる『十四時間』に出演、翌年、西部劇『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督)でゲーリー・クーパーの相手役に抜擢され注目を浴びる。 1953年(23歳)、クラーク・ゲーブル主演の『モガンボ』に出演し翌年のアカデミー助演女優賞にノミネートされた。 1954年(25歳)に『喝采』でビング・クロスビーの妻役を演じ、翌年にアカデミー賞主演女優賞を受賞。この年はヒッチコック監督の傑作サスペンス『裏窓』でジェームズ・スチュアートと共演したほか、『ダイヤルMを廻せ!』にも出演してい る。ヒッチコック監督は「セクシャル・エレガンス」「雪に覆われた活火山」と呼び、好んで自分の作品に登用した。 1955年(26歳)、ヒッチコックの『泥棒成金』に出演。 1956年(27歳)、1956年1月5日、カンヌ国際映画祭で知り合った6歳年上のモナコ公レーニエ3世(1923-2005/当時33歳)との婚約を発表。4月18日、モナコ大公宮殿にて法的な結婚式が行われ、翌日にモナコ大聖堂(旧サン・ニコラ礼拝堂)でカ トリック式の挙式が行われた。人気絶頂のなか惜しまれつつ女優を引退し、映画界を離れた(レーニエ3世、許すまじ!)。この年に公開されたミュージカル映画『上流社会』(『フィラデルフィア物語』のミュージカル版)が最後の作品となっ た。銀幕での活躍は5年間11本の映画のみとなった。引退後もヒッチコックは出演を熱望したが実現しなかった。 結婚後のグレースは一男二女の3人の子どもに恵まれ、公妃としても病院を設立したり、バレエ学校を支援するなど精力的に活動した。 1957年(28歳)、長女のカロリーヌ公女が生まれる。妊娠をマスコミに悟られないよう、カメラの前でエルメスの鞄「サック・ア・クロワ」で腹を隠した。このバッグは「ケリーバッグ」と改名された。 1958年(29歳)、跡継ぎとなるアルベール公世子が生まれる。 1959年(30歳)、レーニエ3世は国政改革に着手、1962年に5年を任期とする18名の議員よりなる議会を新たに発足させ、民主的な憲法を制定した。モナコ公国の経済基盤をモータースポーツなどギャンブル事業以外にも発展させる。 1965年(36歳)、次女のステファニー公女が生まれる。 1981年(52歳)、神戸ポートアイランド博覧会に寄せてグレースが来日。彼女は日本の生け花を愛し、押し花に夢中になった。「美しい日本を訪れてから、私の眼は以前と同じではありません」。 1982年9月13日、南仏の別荘からの帰途、運転中に脳梗塞を発症し急カーブの坂道でガードレールに激突、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。意識が回復しないまま翌14日に52歳で他界。モンテ・カルロでは1日全てのカジノ の営業を中止して喪に服した。レーニエ3世は亡くなるまで23年間再婚しなかった。 1994年、モナコに本格的な日本庭園が開園した。これはグレースがモナコに日本庭園を造営することを希望していたためで、レーニエ3世が作らせた。庭園内の茶室「雅園」は、フランス語訳すると"Jardin de Grace"すなわち"グレースの庭"。 2005年4月6日、レーニエ3世が81歳で病没。公の祖先にはマリー・アントワネットの寵臣ポリニャック伯爵夫人がいる。 レーニエ3世との結婚式が行われたモナコ大聖堂の奥に公妃は眠っている。 同時代のマリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的な、気品に満ちた容姿が「クール・ビューティー」 と賛美された。 「落胆することも人生の糧。大切なのは、悔やまず前に進むこと。痛みのない人生は価値がないのです」(グレース・ケリー) −−−−−−−−−−−− 映画100年の歴史の中で最も美しくエレガントな女優は誰か。こうしたアンケートで必ず1位に輝くのがグレース・ケリーだ。僕もそう思う。学生時代に名画座でヒッチコックの『裏窓』を観た時、彼女が登場した瞬間から字幕を読むのも忘れて見とれていたことを思い出す。なんかもう、動いているのが奇跡のように思えた。 |
2000 | 2009 |
誠実な人柄で多くの国民から愛されたジミー! |
2000 |
2009 夕陽を浴びるジミー(一番手前) |
墓碑「FOR HE SHALL GIVE HIS ANGELS CHARGE OVER THEE TO KEEP IN ALL THY WAYS」 |
※公共交通での行き方(2020年に墓参したKさんの情報) LAダウンタウンからバスで行くと20分ちょっとで行けます。 メトロレッドラインのシビック・センター駅を降りると目の前に高等裁判所が見えます。 その前にバス停があり10番81番90番91番とあります。 30分に一本くらいかと思いますが、90番または91番に乗ります。 フォレストローンが右手に見えたらすかさずストップボタンを押すと、入口通過後にバス停が見えて停車。 戻る時は道路反対側に90番91番バス停でLAダウンタウンへ戻れます。 終点がダウンタウンではないので注意して下さい。 |
本数が少ししかないロングアイランド鉄道。 | サザンプトン駅。ここもまた無人駅! |
ネットで付近の地図を30分近くも調べてくれ、最後は タクシー会社と値段の交渉までしてくれた心優しい ロバート。家具屋さんの店員だ。感謝しまくりッス!! |
タクシーの女運転手ソフィアさん。なんと妊娠中のお腹 でこの仕事を続けていた。ゲーリー・クーパーの墓は 初めてということで、彼女も大興奮。 |
墓地は広く、ソフィアさんと協力してこのクーパーの墓を探し出した! 本名フランク・ジェームズ・クーパー |
カ、カ、カッコ良い〜。 |
その帰り。11時半の列車を待っていたら、この日は土曜日で、 次の列車は16時ということが判明。駅にいた客は(自分を入れて この3人)もう卒倒寸前。この何もない駅で4時間半待つしかない! |
列車を待ってる間に入った町の カフェにて。かわいかったなぁ。 |
スウェーデンの女優。1915年8月29日にストックホルムで生まれる。父は写真館を経営、母はドイツ人。2歳で母が病死、12歳の時に父も癌で病死した。バーグマンは親戚の家に預けられ、その孤独な環境の反動から演劇に惹かれる。 後年の回想「私は悲しい子どもで孤独だったわ。だから空想上の人物を作って、演技することが自分を守る手段だったの。私は学校でも極度の恥ずかしがり屋だったけど、空想の人物が相手なら自分の思い通りに会話ができたわ」。 高校卒業後は18歳でストックホルムの王立演劇学校に入学、通学しながら映画のオーディションを受けた。翌年、19歳で映画デビュー(1934/『ムンクブローの伯爵』)を果たすと評判は上々、出演を重ねてスウェーデン映画界のスターになった。 1936年、21歳で出演した11本目の作品『間奏曲』の演技が、アメリカ映画の大物プロデューサー、デビッド・O・セルズニック(『風と共に去りぬ』で有名)の目にとまり、1938年に招かれて渡米。セルズニックは彼女を“第2のガルボ”にしようと した。そして1939年(24歳)に『間奏曲』の英語版『別離』でアメリカ映画にデビューした。同年、第二次世界大戦が勃発。以後の30年間で20本をこえるアメリカとヨーロッパの映画に出演した。 この間、私生活では1937年に21歳で8歳年上の歯科医リンドストロームと結婚し、翌年に娘ピアが生まれている。 1942年(27歳)にハンフリー・ボガートと共演した『カサブランカ』でバーグマンはハリウッドでも名声を轟かせ、スターの仲間入りを果たした。翌年の自身初のカラー映画作品「誰(た)が為に鐘は鳴る』ではゲーリー・クーパーと共演。原作者 のヘミングウェイは「この役(マリア)を演じるのはバーグマン以外にありえない」と断言した。 そして1944年(29歳)、サスペンス映画『ガス燈』でアカデミー賞主演女優賞に輝く。 1945年(30歳)、ヒッチコック監督の『白い恐怖』に出演。第二次世界大戦が終結。 1946年(31歳)、ヒッチコック監督の『汚名』に出演。 1948年(33歳)に『ジャンヌ・ダーク』に出演。 このように作品にも恵まれ、情熱的な演技と美貌でトップスターの座についたバーグマンであったが、イタリアのロベルト・ロッセリーニ監督(1906-1977)の手で戦時中に撮られた反ファシズム映画『無防備都市』(1945)を見て感動し、バー グマンはロッセリーニに「一緒に映画を作りたい」と手紙を出した。こうして1950年(35歳)にネオリアリズモの『ストロンボリ』が完成したが、撮影中にバーグマンとロッセリーニは不倫関係に陥り、1950年2月2日に息子ロベルティーノが生ま れる。彼女は一週間後に夫リンドストロームと離婚し、5月24日にメキシコでロッセリーニと再婚した。それまで聖女のイメージを持たれていたバーグマンは人気を落とし、米国議会では二人を弾劾する演説が行われ、ハリウッドから6年間干され てしまう。 1952年6月18日、ロッセリーニとの間に双子の娘イゾッタとイザベラが生まれた。『ストロンボリ』のアメリカ公開直前であったため、このスキャンダルで上映中止運動が起きる。ロッセリーニはバーグマンを主役とした映画を5本撮影したがいず れも商業的に失敗した。 1956年(41歳)にユル・ブリンナーと共演した『追想』でハリウッドにカムバックし、再びアカデミー賞主演女優賞を獲得した。授賞式ではバーグマンの代理として友人ケーリー・グラントがオスカーを受け取った。 1957年(42歳)、ロッセリーニが浮気をして子どもまで生まれ、バーグマンはロッセリーニと離婚する。 1958年(43歳)、演劇プロデューサーのラース・シュミットと結婚したが、この結婚も1975年に破局している。 1959年(44歳)に出演したテレビドラマ『ねじの回転』でエミー賞を受賞。 1973年(58歳)、乳癌が見つかる。 1974年(59歳)に『オリエント急行殺人事件』でアカデミー賞助演女優賞に選ばれる。 1978年(63歳)、最後の映画出演となったベルイマン監督『秋のソナタ』で老ピアニストを演じ、アカデミー賞に通算7回目のノミネートを受けた。 1980年(65歳)に自伝「マイ・ストーリー」を出版。写真家ロバート・キャパと不倫関係にあったことが明かされた。 1982年8月29日、乳癌が全身に転移し、67歳の誕生日にロンドンで旅立った。長年闘病生活を続けながらも女優を止めることはなく、死去する直前に演じたテレビドラマのゴルダ・メイア役(イスラエルの女性首相)でも国際的な賞を 得た。晩年に至るまで、映画・演劇で第一線にあった。演劇ではブロードウェイやヨーロッパの舞台にもあがった。娘たちは長じてイザベラは女優・モデルに、イゾッタはイタリア文学者となった。 バーグマンの遺体はロンドンのケンサル・グリーン霊園で火葬に付され、遺灰がスウェーデンへと送られた。バーグマンはハリウッドにカムバックした後、1958年から死去する1982年まで夏季の多くをスウェーデン西海岸のブーヒュースレーン地 方の小島で過ごしており、遺灰の大半は島の漁村フヤルバッカ周辺の海に散骨された。残った遺灰はストックホルムの北霊園のバーグマンの両親が眠る墓の隣に埋葬された。 5カ国語を駆使して映画、テレビ、舞台で活躍し、3つのアカデミー賞など数多くの賞に輝いた名女優であり、メイクアップを必要としない完全に自然体の他に類を見ない女優であった。 |
彼女は木立の中で親族と共に眠っている | 真ん中の手前がキャサリン | ヘップバーン家 |
「We Miss You」のカードがあった | 花が新しく、墓参者が多いようだ |
デスバレーに続く死の道。45分走って やっと他の車とすれ違ったほど人がいない |
この断崖の中腹付近に… |
“SEA LEVEL”(海抜)の表示がある! |
海抜は何とマイナス85.5m、白く見えるのは“塩”だ |
最高気温は2005年に記録した54度!超灼熱の世界。 なぜブランドはこんな場所を散骨に選んだのだろう |
速攻で脱水症状になる、あの世と隣り合わせの世界 |
優れた演技力で他の俳優からもリスペクトされていたブランド。1972年に『ゴッドファーザー』でアカデミー主演男優賞に輝いたブランドは、「ハリウッド映画の先住民(インディアン)に対する差別的表現」に抗議し、同賞の受賞を拒否した。遺灰が撒かれたデスバレーは文字通り“死の谷”。 地獄の窯の底はかくあらんといった暑さで、訪れる場合は早朝のうちに入り、午前9時には脱出を開始せねば危険だ。 ちなみにブランドは3度結婚し10人の子に恵まれたが、基本はゲイでありバイセクシュアル。ジェームズ・ディーン、ポール・ニューマン、モンゴメリー・クリフト、ロック・ハドソンらと付き合ったとのこと。 ※海外サイトによると、ブランドの本命の恋人、コメディアンのウォリー・コックスが1973年に他界した際に、ブランドはその遺灰をキープ。それから31年後にブランドが没したとき、ブランドの息子は遺言に従って父とコックスの遺灰を混ぜ、デスバレーとタヒチの別荘で散骨したという。 |
管理人事務所のすぐ近く | 2009 | 2013 |
ロサンゼルス大聖堂!この地下に墓がある | バプテスマ絵 | 新しい建物なのに時間がゆっくりと流れ心地良い |
地下霊廟の広さにクラッ。根性でペックを探す |
あそこにポツンと眠っているのはもしや…!? |
うおお!グレゴリー・ペック!しかも、上下左右がまだ 空いてる!今ならペックの隣で永眠可能ってこと!? |
「あの映画も、この映画も、どれもこれも 感動しましたーッ」速攻で感謝の土下座! |
近くに大聖堂のタイムカプセル 発見。2102年に開けるそうだ |
ちなみに、大聖堂の前の広場の地面には、一面に 星座が描かれている。宮沢賢治の世界チックで良い♪ |
“美の化身”マレー | 「美女と野獣」に出演 | ジャン・コクトー(左)の愛人だった |
ヴァロリス墓地の入口 | 画像の中央付近にマレーの墓所 |
芸術的な墓! | 鹿と魚と鳥が合体した幻獣 | おそらく顔はマレー |
『美女と野獣』の野獣が守護神 | 中央にも獅子のエンブレム | 左右で微妙に表情が異なる |
マレーはコクトー監督の 実写『美女と野獣』に出演 |
タクシーの運転手さんとパチリ カンヌからガイドしていただいた |
子どもは背後が怖いと気に なり写真どころじゃなかった |
“美の化身”俳優ジャン・マレーは1913年12月11日にフランス・シェルブールで生まれた。本名はJean-Alfred
Villain Marais。1933年に20歳で映画デビューし生涯に100本以上に出演する。1937年、24歳のときに24歳年上の芸術家ジャン・コクトー(当時48歳/1889-1963)と知り合い、舞台『恐るべき親達』で主役を演じた。同年から10年間、マレーとコクトーは同性愛の愛人関係となった。 第二次世界大戦に出征後、1946年(33歳)に『美女と野獣』、スターダムを駆け上がる。翌年からマレーはアメリカ人ダンサーのジョージ・ライヒとパートナーになるが、コクトーとの友人関係はずっと続き、1950年(37歳)に『オルフェ』に出るなど様々なコクトー作品に出演し続けた。 1963年(50歳)、コクトーが74歳で他界。その後はアクション映画にも進出し、コクトー没後20周年(1983)にコクトーの生涯を一人芝居で演じ、1985年に来日上演している。1998年11月8日、血液系疾患のためカンヌで他界。享年84歳。 マレーは南仏カンヌの北西6kmの町ヴァロリス(Vallauris)の墓地に眠っている。カンヌからはバスで約30分。お墓の台座には『美女と野獣』の野獣を模した2体の黄金の胸像が左右に守護神の如く設置され、中央にも獅子の紋章があり、墓上部には頭部に立派な角、上半身は獣、下半身は魚、背中に翼、大きな耳、顔はマレー(?)という人魚風の幻獣がスフィンクスのように鎮座している。一度見たら忘れられない芸術的な墓だ。 【重要】ショック!!2016年にマレーの墓が不届き者によって破壊されたそうです!信じられない!ゆ、ゆ、許さねぇ、犯人よ、貴様の血は何色だぁあああ! |
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