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墓所はとても分かりにくい。明治通りの 『史蹟平賀源内先生之墓』で曲がる |
住宅街の中に源内の墓所がポツンとある |
獄死した源内の墓を建てたのは、無二の親友・杉田玄白 |
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奇才・異才と呼ばれる江戸のダ・ビンチ |
以前は毎月第1土・日と命日の18日しか 墓参できなかったが、いまは毎日公開に? ※近所の人が管理しているらしい(2004) |
初巡礼の際、非公開と知らずに訪れて ガックリ。で、友人の肩車で塀の外から パチリ。この暗がりに墓がある(2000) |
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こちらは広島県の鞆(とも)の浦にある『平賀 源内生祠(せいし)』。“生祠”とは優れた 人物を生前のうちに祀った“やしろ”のことだ |
源内は長崎で蘭学を学び江戸に戻る途中で 当地の溝川家に滞在し、村人に陶法(源内焼)を 伝えた。これに感謝した溝川家が1754年(源内の 死の15年前)に、彼を神としてここに祀ったという |
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エレキテル | 西洋婦人図(源内画) | 万歩計 |
江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチ!本名、国倫(くにとも)。高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行。世人の注目を浴びる。
本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ脱藩する(33歳)。この際、高松藩は源内を「仕官御構(おかまい)」に処した。これは他藩へ仕官することを禁止するものだ。源内は自ら“天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼って毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出した。また静電気発生装置“エレキテル”、“燃えない布”火浣布(かかんぷ、石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を残した。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内だ。一方、画才、文才も惜しみなく発揮。彼は油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに西洋画法を教えた。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生した。
作家としてのペンネームは「福内鬼外(浄瑠璃号)」「風来山人(戯作号)」となかなかシャレている。35歳の時に書いた『根南志具佐(ねなしぐさ)』『風流志道軒伝』は江戸のベストセラーとなり、明治期まで重版が繰り返される。後者は主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので、江戸版ガリバー旅行記といった感じだ。(鎖国中でもあり、源内が生れる2年前に英国で刊行されたばかりのガリバー旅行記を読んでいたとは思えない。)『放屁(ほうひ)論』ではまず「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じた後、当時江戸に実在した屁の曲芸師(三味線の伴奏や鶏の鳴き声を奏でた)を引き合いに出し「古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人は誰もいない」と称賛し、さらに半ば自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。…いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。ちなみに「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。
多方面にわたる才能を持ちつつも、キワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、やがて彼自身も世間に対して冷笑的な態度を取り始める。著作では封建社会をこきおろす作品を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露した。
晩年(1778年)、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信、被害妄想が拡大し悲劇が起きる。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時のこと。源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図(田沼意次の別荘)がない。とっさに“盗まれた!”と思った彼は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高し、ついに2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく、帯の間から出てきたのであった…。発狂した源内は、厳寒の小伝馬町の牢内で破傷風にかかって獄死した(享年51歳)。
源内の墓標を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友、杉田玄白。玄白は「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と源内の墓標に刻んだ。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と彫られている。 1928年に墓を管理していた総泉寺が移転したが、墓はそのまま残された。3年後の1931年(昭和6年)、旧高松藩当主・松平頼壽が築地塀(ついじべい、土壁)を整備し、1943年に国指定史跡となった。 墓は“あしたのジョー”の丹下ジムで有名な泪橋の近くにある。彼が中世イタリアに生れていたなら、間違いなくルネサンスの巨人として人類の歴史に名を刻んでいただろう。墓前で冥福を祈った。
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源内の墓の背後には弟子・福助が眠っており、「平賀源内家来」と刻まれていた |
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2000年7月。エジソン研究所跡は改修中で、彼が眠っている 私邸への見学ツアーはなかった。せっかくニュージャージー まで来たのに…トホホ。改修はあと3週間で終了だった |
そして2003年8月にリベンジ。ギャー!なんと再び改修に 入っていた!次の開館は2年後とのこと。んなアホな! ※ボディラインのそり具合が嘆きの深さを表している! |
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この小屋にいる守衛さんに「一目だけでも 墓参させて欲しい」と涙の直訴。3年前の写真を 見せ、再訪であることを伝えると、エジソン邸 の方角を教えてくれた(僕には激レア情報) |
その方角へどんどん行くと、ゲートが行く手を阻 んだ。この先は高級住宅街で下々の者は自由 に入ることは出来なかった。意を決して門番 小屋へ突撃!やはり3年前の写真を持って! |
「すぐに帰ってくるから」と吠えまくると、 「分かった。行って来い!坂を登って右側に 見えてくるオレンジの家だ!」。感激。 皆さん、これがエジソン邸っす! |
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私邸の裏庭にエジソン夫妻は眠っていた!左がトーマス。我、ついにエジソンと謁見せり!電球、蓄音機、 映画(音付き)、アルカリ電池など、発明に対するお礼を伝えた。墓の左右には二本の石灯篭がある。これは 電球のフィラメントに日本の竹を重宝したことから生まれたつながりからきている。感動の悲願成就だった! |
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「写真は撮れたかい?」と門番さん。よく突破させてくれた!あなたは神です!! |
アメリカの世界的発明家にして起業家。特許をとった生涯の発明品は1300を超え「発明王」と呼ばれる。蓄音機、白熱電球、アルカリ蓄電池、発電システム、映画などを発明または改良して人々の生活を一変させた。 1847年2月11日、オハイオ州生まれ。貧しい材木商兼穀物商の7人兄弟の末っ子。7歳の時にミシガン州へ転居し小学校に通ったが、「なぜ1+1は2なのか。2つの粘土を合わせたら1つになるのに」など全ての局面で「なぜ?」を連発し、担任からは「頭が腐っている」、校長からは「退学を勧めます」と言われ、たった3カ月で小学校を中退した。以降は母親が教育し、図書館で独学に励んだ。10歳から化学実験に夢中になり、薬品を買う為に野菜売りのバイトを始める。この収入で地下室に化学実験室を作った。12歳になるとさらに薬品が欲しくなり、列車に乗り込む新聞売子となった。朝6時に家を出て夜10時に帰宅という生活で実験時間を確保できない為、列車の手荷物室に薬品を持ち込み実験を行った。1861年(14歳)、南北戦争が勃発し、新聞が飛ぶように売れ、手製のローカル新聞も刷るなどしたが、列車の実験室が火事になりクビになった。 15歳の時に駅長の子どもを轢死寸前で救出し、御礼として電信(電報)技術を教わり、これが生活に役立っていく。1863年(16歳)、電信技師となり家を出て、ファラデーの全集を購入し電磁気学を研究した。17歳、最初の発明品『電信反復装置』を制作。この機械は、カナダで駅の夜勤電信係をしていたエジソンが仕事をサボるために作った。深夜も勤務に就いている証拠として1時間おきに上司へ信号を送らねばならなかったが、エジソンは機械で自動的に電信を送らせて熟睡していた。上司は1秒も誤差なく1時間おきに電信が届くことを不思議に思い、エジソンを訪ねて眠っているのを発見し「定時連絡の意味がない!」と激怒&彼を解雇した。その後エジソンはニューオリンズまで南部を放浪。 1868年(21歳)、スイッチによる投票システム『電気投票記録機』をボストンで発明し初めて“特許”を取得。ところが議員からは「牛歩戦術ができない」と採用されず、リサーチの重要性を学んだ。翌年、NYに転居し『株式相場表示機』を発明。これは大好評で、特許権がエジソンの予想を8倍も上回る4万ドル(現在の約2億円)で売れ仰天した。1871年(24歳)、16歳の助手メアリーと結婚し3人の子をもうける。特許の売却益を資金として、1876年(29歳)に発明工場=メンロパーク研究室をニュージャージー州に設立。1つの回線で複数の信号を同時に送信する技術を発明するなど、研究室の部下と実験を重ねて矢継ぎ早に発明品を生み出していった。 1877年(30歳)、円筒盤に音が記録される『蓄音機』を実用化。エジソンは童謡『Mary had a little lamb(メリーさんの羊)』を最初に録音した。喋る機械・蓄音機は人々を驚愕させ、大統領までも興味を示し、エジソンは社交界の花形となった。同年、前年にグラハム・ベルが発明した電話機(近距離専用)を改良してカーボン電話送話器を発明、また誘導コイルによって送話距離を伸ばし電話実用化の道をひらいた。 1879年(32歳)、前年に英国の科学者ジョゼフ・スワンが特許をとった白熱電球はたった1分しか光らない=フィラメントの寿命が短いという欠点があった。そこでエジソンはスワンのような紙を炭化させたフィラメントではなく、別の素材をフィラメントに使うことにした。様々な素材を試すうちに、中国産の竹が200時間も光ったことに驚き、さらに各地の竹で実験を進めた結果、京都・石清水八幡宮の境内に生えている真竹(まだけ)が「1200時間」という驚異的な耐久力を持つことを発見し、電球の実用化に成功した(竹は後にタングステンに取って代わられる)。 翌年、発電機を改良。1882年(35歳)、ニューヨークに世界初の大規模発電所を設置し、発電から送電まで直流による“電灯の事業化”に成功した(後年、エジソンの直流発電機は元部下の発明家テスラ&ウェスティングハウスの交流発電機に地位を奪われた)。 1883年、熱したフィラメントの近くに金属線をいれると電流が流れる“エジソン効果”を発見。これは後世に真空管開発の基礎となった。1884年、メアリー夫人が病没(享年29)。2年後にマイナ夫人と再婚し、ニュージャージー州ウェストオレンジにヴィクトリア調の23部屋の大豪邸“Glenmont(グレンモント)”を購入。その際、破産しても家族に家が残るよう夫人名義で家を持った。彼は再び3人の子に恵まれる(1人はニュージャージー州知事になっている)。 1887年(40歳)、ウェストオレンジに巨大研究所を建設。最盛期のスタッフは1万人に達し多数のプロジェクトが同時に進行した。1889年のパリ万国博覧会ではアメリカ館の3分の1がエジソンの発明品で埋まった。 1891年(44歳)、複数の絵を連続させて動画にする『のぞき眼鏡式映写機キネトスコープ』を発明、2年後(1893年)にキネトスコープで映画を初上映した。翌々年、このキネトスコープに刺激されたフランスのリュミエール兄弟が撮影兼映写機シネマトグラフを発明した(エジソンのキネトスコープは覗き穴式であったが、シネマトグラフはスクリーン方式)。1900年(53歳)にアルカリ蓄電池を発明。 1910年(63歳)、トースターを発明、次いで電気アイロンなど電気製品を発明し、電気が家庭に普及していった。1913年(66歳)、蓄音機とキネトスコープを合体させ、世界初の音がでる活動写真を制作。コダック社の創始者イーストマンと協力してセルロイド製の長尺フィルム、35mmフィルムを開発し、世界最初の映画スタジオも開設した。 1914年(67歳)に研究所が火事で全焼し約200万ドルの損失となったが、「これで無駄な物はすっかりなくなった。これからまた新たな気持ちで新たな研究を始められる」とタフさを見せた。晩年は死者との交信の実験を続け、降霊術も信じていた(人間の魂もエネルギーであるならばエネルギー保存の法則で魂は死後も存在すると考えた)。1931年10月18日、ウェストオレンジで生涯を終える。享年84。臨終の言葉は「ああ、向こうはきれいだ…」。3日後に葬儀が催され、エジソンの功績を讃えて死を弔うため全米で午後10時から1分間電灯が消された。 他界の24年後、1955年に自宅と研究所がエジソン国立歴史館となった。現在、エジソンが遺した500万枚以上のメモや記録を整理する作業が続けられている。 エジソンは「寝るのはバカだ。みんな寝すぎだ。私は死んだあとたっぷり眠る」という言葉に象徴されるように、空前絶後のバイタリティーで昼夜関係なく不眠不休の研究生活を送った。睡眠は約30分の仮眠を1日数回、計3時間のみ。80代になっても1日16時間のペースで研究し、「まだ15年以上は働かなければならない」と語っていた。なんという強靭な精神力。何度実験に失敗しても「失敗ではない。この方法では上手くいかないという発見が出来た。だからこの実験は成功なんだ」「これでは上手くいかないという発見を1万回したのだ」と言い放ち、自動車用のアルカリ蓄電池に至っては完成までに5万回以上も実験を繰り返した。エジソンは10代の頃から聴力に障害があったが、「周りの雑音に悩まされず研究に集中できるから、かえって好都合」と苦にしなかった。「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力である」(エジソン)。 ※フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を、大英帝国技術協会からアルバート勲章を贈られている。 ※黒歴史として、ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』を公開前に無断で複製しアメリカ中の映画館に売りつけ巨額の富を得ている。その一方で、自分の権利を守るため多数の訴訟を起こし「訴訟王」と呼ばれた。電気椅子による死刑の方法をニューヨーク市に提案したのもエジソン。子ども時代には「なぜ物は燃えるのか」を知るために藁を燃やし、自宅の納屋を全焼させている。鉱山事業では失敗し、大損害を受けた。 ※エジソンが蓄音機を発明した20年後にベルリナーが円盤状のレコードを発明。 ※ガソリン自動車を発明した“自動車王”ヘンリー・フォードは、かつてエジソン電灯会社の社員だった。 ※エジソンが白熱電球の改良に使用した竹の産地=京都の石清水八幡宮境内、そして電気の守護神・電電宮がある京都嵐山の法輪寺に記念碑が建つ。栃木県壬生町のバンダイミュージアムにはエジソンの発明品が収蔵されている。 【墓巡礼】 エジソンの墓参には大変苦労した。最初の巡礼は2000年の夏。エジソンの墓所は私邸“グレンモント”の敷地にあるため自由に墓参することが出来ず、600mほど東にある史跡『エジソン研究所跡』のビジター・センターで見学ツアー“グレンモント・ツアー”に参加する必要がある。『エジソン研究所跡』を訪れて衝撃を受けた。建物が改修中で墓参ツアーもなかった!せっかくニュージャージーまで来たのに…。守衛さんに「改修はあと3週間で終わるからその頃に来い」と言われたけど、僕の帰国便は2週間後だった。 それから3年間、エジソンに再巡礼するための準備を進め、2003年8月に再びニュージャージー州へ足を運んだ。“今度こそ墓参ツアーに参加するぞ”と意気込み『エジソン研究所跡』に着くと、人の気配がない。嫌な予感がした。ギャース!『エジソン研究所跡』は一度開館した後、再び改修に入っていた!守衛さんいわく「次の開館は2年後だよ」。んなアホなッ!“ハイ、そうですか”と引き下がれるわけがない。実は、こういうこともあろうかと3年前にタイマー撮影した「改修中の建物の前で泣き暮れている姿」の写真を持参していた。それを守衛さんに見せて“日本からここまで来るのがどれだけ大変か”“いかにエジソンを尊敬しているか”を熱弁し、「一目だけでも墓参させて欲しい」と食い下がった。 守衛さんは3年前と同じ中年の黒人男性。最初はずっと「ソーリー」「インポッシブル」を連発していたけど、最後に根負けしたのか、エジソン邸の“方角”だけを教えてくれた(自分が教えられるのはここまでだ、とも)。教えてもらった方向(西へ1km)にどんどん歩くと、鉄のゲートが行く手を阻んだ。この街(ウエスト・オレンジ)は治安が悪く、金持ちは一ヶ所に集まって“城壁”の中で暮らしていたのだ!先ほどの守衛さんは、このゲートがあるから「インポッシブル」と、エジソン邸には行けぬと言っていたのだ。 ゲートの門番小屋に白人男性がいた。「えーい、行くしかない!」。意を決して門番小屋に突撃!“もう後がないぞ!”僕はシェイクスピア俳優ばりに、涙を溜め声を震わせ、極限までオーバーな演技で門番さんに「すぐに帰ってくるから」と吠えまくった!そしてここでも3年前の写真が威力を発した。「2度目か…分かった。行って来い!坂を登って右側に見えてくるオレンジの家だ!ただし30分だけだ。それまで私は電話で気づかない。ここに荷物は置いていけ」。かくして僕は墓前にたどり着いた。エジソン夫妻の墓は両側に日本の石灯籠が建っていた。電球のフィラメントに日本の竹を重宝したこともあって、電球にちなんで灯篭が日本のエジソン・ファンから贈られたという。良い話じゃないか。 |
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ウギャー!スッポリと覆われている | 問題のプレート | グーテンベルク像 |
世界初の映画『汽車の到着』は1895年にリュミエール兄弟がパリで発表した作品。彼らはパリのカフェに自ら製作した映写機を持ち込み、35人の観客に1フラン(今の千円)で上映した。リュミエール家は街の名士(実業家)。一族の墓の一番右端に兄弟の名があった。姓のリュミエールは仏語で「光」の意。偶然とはいえ映画を生んだ2人にふさわしい名前だね。 ※その後映画産業は発展し、現在の全世界の映画興行収入は約258億ドル、実に3兆円にものぼる。日本では年間400本が製作されている。 |
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モールス信号を発明! | 人間との比較で高さは6mくらい? |
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兄のウィルバー | 弟のオーヴィル |
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兄弟の墓マップが門の側にある | スミソニアン(D.C.)のライト・フライヤー号 | 周囲が石畳のとっても立派なライト家の墓! |
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兄貴のウィルバー。45歳で病死 | 墓地の中央付近に眠っている | ライト家 | 弟のオーヴィル |
アメリカの飛行機開発者。ウィルバーと弟のオーヴィルはグライダー等の実験を重ねがら協力して複葉機を研究し、1903年、人類最初のガソリン機関を使った動力飛行に成功した。 人類の飛行への挑戦は鳥を真似ることから始まったが、フランスのモンゴルフィエ兄弟が「熱気球」を発明するという革命を起こした。1783年10月15日に弟エティエンヌ・モンゴルフィエがロープに係留された状態で史上初めて気球に乗ったと見られている。同年11月21日、係留していない熱気球による史上初の有人飛行が行われ、科学者ピラートル・ド・ロジェと、軍人のフランソワ・ダルランド侯爵が搭乗し、パリ上空の高度約900mを25分間にわたって9km飛行した。飛行が終わった後、搭乗者はシャンパンで成功を祝い、これは気球乗りの伝統となった。2年後の1785年6月15日、ピラートル・ド・ロジェは自身が考案したロジェ気球でイギリス海峡を横断しようとして気球に引火し、大爆発と共に高度400mから落下、史上初の航空事故犠牲者となった。 1849年に最初の航空工学者、“航空学の父”ジョージ・ケイリー(Sir George Cayley,1773年12月27日-1857年12月15日)が三葉の有人グライダーを製作し、10歳の少年を乗せての滑空に成功した。ケイリーは1853年に単葉の有人グライダーを製作し、ケイリーの御者(成人男性)の操縦で100m以上の飛行に成功した。 1891年、ドイツのオットー・リリエンタール(Otto Lilienthal 、1848年5月23日-1896年8月10日)がジョージ・ケイリーのグライダーを改良したハンググライダー「ダーウィッツァー・グライダー」を作って25mの飛行を行う。1893年に最高記録となる250mの飛行距離を達成し、翌年に棒を握って操縦するハンググライダーの特許を取得している。2,000回以上の飛行を行い、総飛行時間5時間に達したリリエンタールであったが、1896年8月、グライダーで約15mの高さから墜落し翌日に他界した。享年48歳。最期の言葉は「犠牲は払われなければならない」。ルリンの公共墓地に埋葬される。 1899年、イギリスのパーシー・ピルチャー(Percy Sinclair Pilcher 、1866年1月-1899年10月2日)が4馬力の三葉機を作るが試験飛行の数日前にエンジンが故障。飛行当日に修理が間に合わず、集まった観客を失望させないよう代わりにグライダーで飛行し墜落する。享年33歳。世界初の有人動力飛行の成功者になったかもしれない人物。 −− ウィルバー・ライトは1867年4月16日にインディアナ州ミルビルにて出生。父は牧師。成長後、4歳年下の弟オーヴィルと印刷屋を営み成功する。その後、1892年(25歳)に自転車修理工場を持つが、ドイツの航空技術者オットー・リリエンタールに影響され興味は飛行機へ移った。1896年、リリエンタールがベルリンで墜落死する。 1900年(33歳)、兄弟はノースカロライナ州キティホークのキルデビルの砂丘で自作グライダーをテスト飛行。このデータを基に何度も翼面の気圧の影響を調べ、グライダーの滑空実験を1000回も行った。 そして1903年、兄弟は従来より約35%も効率のよいプロペラを制作し、12馬力のエンジンをのせた337kg、6.6mの機体“ライトフライヤー号”を完成させた。2つのプロペラを搭載、主翼をねじることで制御された飛行を可能にし、飛行機の実用化に道を開く。 同年12月17日午前10時35分、、キルデビルの砂丘にて史上初めて動力付き飛行機で120フィート(約36.5m)、12秒間飛ぶことに成功した。ときにウィルバー36歳、オーヴィル32歳。この日の4回目のフライトでは59秒間、852フィート(約259.6m)飛ぶことに成功している。操縦した弟オーヴィル・ライトは世界初の飛行機パイロットとなった。ただし、観客が5人ということもあり、世間はこの快挙を疑い、新聞に「科学的に不可能」と書かれるなど、なかなか信じてもらえなかった。 翌1904年には1kmを越える飛行を実現し、1905年には30kmの飛行を成し遂げた。 1908年9月12日、オーヴィル(当時37歳)は1時間15分20秒という1時間台の飛行時間を初めて記録し、約75kmを飛んだ。だが5日後の9月17日、オーヴィルはライトフライヤーのデモフライト中に高度25mから墜落し、世界で初めて飛行機事故を起こした人物となる。オーヴィルは負傷で済んだが、同乗者のトーマス・セルフリッジ陸軍中尉(26歳)が死亡し、初の飛行機事故犠牲者となった。 さらに4日後の9月21日、兄ウィルバーはフランスのル・マン近郊のオヴールの演習地で1時間31分25秒というフライトの世界新記録を叩き出した。最終的にウィルバーは年末12月31日に滞空時間2時間20分、飛行距離125kmまで自身の記録を更新した。 1909年、ウィルバーは新会社アメリカン・ライト・カンパニー(後のロッキード・マーティン※最新鋭ステルス戦闘機F-22やF-35を開発・製造)の社長となる。9月、フランスに作られたライト兄弟の会社のチーフ・パイロット、ウジェーヌ・ルフェーブル(Eugene Lefebvre 、1878年-1909年9月7日)がテスト飛行中に6mの高さから墜落、飛行機事故で死亡した最初のパイロットとなった。 1911年、オーヴィル(40歳)はグライダーで滞空時間9分45秒という世界記録を作っている。 1912年5月30日、初飛行から9年後、ウィルバーは腸チフス熱で病没した。享年45歳。オーヴィルはその後もしばらく飛行機製造に関わっていたが、2年後に第一次世界大戦が勃発し、戦いが泥沼化していた1916年、オーヴィルは飛行機製造から身を引いた。 1928年になってもアメリカではライト兄弟に嫉妬した中傷があり、マサチューセッツ工科大学の倉庫に埋もれていたライトフライヤー号をロンドンの科学博物館が買い取った。 1942年、第二次世界大戦の只中、オーヴィルは空襲で街が破壊され、多くの人命が奪われていることに胸を痛め、自動車王ヘンリー・フォードに動力飛行機を発明したことを悔いる内容の手紙を送った。 同年、スミソニアン協会はようやくライト兄弟の偉業を認め、無礼を兄弟に陳謝した。オーヴィルはこの謝罪を受け入れ、ライトフライヤー号をアメリカに戻すことに合意した。 兄の死から36年後の1948年1月30日、オーヴィルはオハイオ州デイトンにて心臓発作で他界した。享年76歳。葬儀ではアメリカ空軍が4機の戦闘機で上空を追悼飛行した。 同年暮れ、初飛行からちょうど45年目と なる12月17日、ワシントン国立博物館にライトフライヤー号が展示され 盛大な展示除幕式が行われた。 1978年、オリジナル通りの復元機をアメリカ人の青年が3年がかりで製作し、キティホークで24mの飛行に成功した。 ※兄弟は「女房と飛行機を両方とも養うのは無謀な試みだ」と言って生涯独身だった。 ※兄弟と並んで女性の名前の墓碑がある。兄弟は独身ゆえ、夫人ではなく妹キャサリン。 ※初飛行に成功した場所は「ライト兄弟国立記念物」として国立公園局が管理。 ※ドイツ出身のアメリカの航空技師グスターヴ・ホワイトヘッド(Gustave Whitehead、1874年1月1日-1927年10月10日)がライト兄弟が初飛行した1903年12月17日よりも2年4カ月も前の1901年8月14日にコネティカット州フェアフィールドで世界初の有人動力飛行に成功したという説もある。当時のニューヨーク・ヘラルド誌など3誌が「ホワイトヘッドはエンジン付きの機体“ナンバー21”号によって800mの距離を高度15mで飛行した」と記事を書いている。写真はないが、現場にいた記者が宙に浮いた機体のイラストを描いている。だが、ホワイトヘッドはライト兄弟の初飛行が報道されたあと24年も生きていたのに一度も動力飛行を再現しようとしなかった点、記事と目撃者の証言が矛盾している点、検証可能な詳しい記録が一度も取られていない点などから、スミソニアン協会は制御動力飛行がライト兄弟以前に実現したことを強く否定している。ただし、1986年にレプリカ機を造り、現代の軽いエンジンを搭載したところ約100m飛行したという。 |
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台座に帽子を置いてみた。10m以上あるのは確実 | てっぺんの女神像 | 巨大な碑文 |
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大きなケロッグ家の墓石の前に個人墓が並ぶ | ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ | ケロッグ家は地元の名士だ | ケロッグのオールドテイスト |
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弟でケロッグ社初代社長のウィル・キース・ケロッグは少し離れた場所に眠る。 |
墓参の帰り、ケロッグ社のロゴ入り気球を 運ぶ車が偶然前を走っていた! |
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ジョージアに沈む夕陽と共に | 最後の行に「ORIGINATOR OF COCA-COLA」とある | コカコーラ帝国の生みの親は質素な墓だった |
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マクドナルド創業者はこの霊廟に。まさか「王朝」と まで呼ばれる企業になるとは思わなかったろう |
お墓に黄色いMの文字!おかげですぐに分かった |
「いつもお世話になってます!」 近所でゲットして奉納! |
ここがお墓に一番近い店。チビッコ用の チューブ型ジャングルジムが充実 |
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こんなに顔が知られている創業者も少ない(笑) | 本名はハーランド・デーヴィッド・サンダース! | 穏やかそうな表情♪ | チキンコンボの箱が! |
アメリカの実業家、ケンタッキーフライドチキン(KFC)創業者。本名はハーランド・デーヴィッド・サンダース。1890年、インディアナ州生まれ。6歳で父を亡くし、10歳から農場で働き始め、16歳で入隊。翌年、下級兵のまま除隊すると、機関車修理工、ボイラー係、タイヤ販売員等々転職を繰り返す。1930年(40歳)、ケンタッキー州でガソリンスタンドを経営し、敷地の一角に6席の「サンダース・カフェ」をオープン、自らが調理した。店は繁盛し、5年後に「州の料理への貢献」が評価されて「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号が贈られた。つまり、愛称カーネル・サンダースの“カーネル”(Colonel)はケンタッキー州が授与した名誉称号(名誉大佐)であり、実際の軍歴とは無関係。 1939年(49歳)、圧力釜を用いたフライドチキンの販売を開始するも、同年火事で閉店。1941年(51歳)、147席のレストランを再建した。1952年(62歳)、サンダースはフライドチキンの調理法を他人に教えて歩合を得る新しいビジネスモデル(フランチャイズ)を開始。ユタ州ソルトレイクに一号店がオープンし、同フランチャイズ店の店長が「ケンタッキー・フライドチキン」(KFC)のブランド名を考案した。その後、サンダースはフライドチキンをワゴン車に積んで各地を回り、フランチャイズ拡大に尽力。経営第一線から引退した1964年(74歳)には600店舗以上のフランチャイズ網になっていた。サンダースは1980年に肺炎で他界するまで、世界に展開した店舗(当時約6000カ所)を回ってレシピ通りに製法が守られているかチェックし続け、日本にも3度訪れている。享年90歳。 ※「カーネルおじさん人形」は3.25の度が入った本物の老眼鏡をかけている。 ※1985年、阪神リーグ優勝時に興奮したファンが道頓堀店のカーネル像を道頓堀川に投げ込んだが、24年後の2009年に川底から発見され、現在は日本KFC本社に展示されている。 |
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真実の種を蒔きたいと、ミレーの種まく人をトレードマークに |
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1999 すべての貧乏学生の恩人! | 2009 10年ぶりに再巡礼。右後方に墓誌が増えていた | 東慶寺は古寺で墓石は五輪塔が多い |
「真実の種を蒔きたい」とミレーの名画“種まく人”を岩波書店のシンボルマークに選び、出版人として初めて文化勲章を受章した岩波茂雄。言論弾圧が熾烈を極めた戦時中の日本にあって、思想の自由のために毅然と戦った気骨の人だ。 1881年8月27日、長野県諏訪郡中洲村(諏訪市中洲)の農家に生まれる。15歳で父を失うが、母が学資を支えて、20歳で第一高等学校(現東大)に入学。22歳、同期で友人の藤村操が日光・華厳の滝でペシミズム(厭世観)から投身自殺したことに衝撃を受け、茂雄は哲学書を手に山小屋に篭もると40日にわたって生と死について考えた(華厳の滝は触発された青年の投身が相次ぎ、4年間に40名が自死)。茂雄は母の説得で自死に至ることはなかったが動揺は続き、落第のあげく試験放棄によって除名中退処分となった。24歳、再起して東京帝国大学哲学科に入学し倫理学を学ぶ。翌年結婚。卒業後、神田女学校の教師を務めたが、教職は不向きと自覚し辞職。1913年8月5日(32歳)、神田区南神保町に古書店の岩波書店を創業し、開業の挨拶状に「低く暮し、高く想う」(詩人ワーズワース)と記した。当時の古本業界は古書の値段を客との駆け引きによって決めていたが、茂雄は正価販売(固定価格)を実行したことで注目を集めた。 翌1914年、夏目漱石の知遇をえて岩波書店の処女出版となる『こゝろ』を刊行し、古本屋の店主から出版業に転じていく。2年後に漱石が他界すると、翌年に一高同期の哲学者・安倍能成らと『漱石全集』を刊行した。続けて、芥川龍之介、森鴎外、トルストイなどの全集も刊行し、カント、ヘーゲル、内村鑑三らの哲学書も出版。これらの全集や哲学書によって、世間から哲学、思想の硬派な出版社として認知されていった。 1927年(46歳)、東西の古典の普及を目指して「岩波文庫」を創刊し、従来は高価だった文学書を「文庫本」という形で“安く”世に出した。これによって目当ての作品を読むために全集をまとめ買いしなくてもよくなり、学生や知識人から熱烈な支持を得る。茂雄は文庫本発刊の際に「持ち運びの便利さと価格の低さを最優先にしたので外観は粗末だが内容に関しては厳選した」「真理は万人によって求められることを欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。(略)生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たせ、民衆と肩を並ばせるであろう」と刊行の言葉を記した。続けて1933年には「岩波全書」を、1938年には「岩波新書」を創刊し、これらが現在の文庫、全書、新書の原点となる。 ※大文豪となっていた晩年の漱石が、出版社としては無名の岩波書店に『こゝろ』の発行を許し、芥川龍之介は遺書で茂雄に全集の出版を託した。この事からも茂雄の人間性がいかに他者から信頼されていたのかが分かる。 1937年(56歳)に勃発した日中戦争は、戦局の悪化と共に反戦世論を封じる軍部・政府の言論統制が苛烈なものとなり、古典や学術書まで発禁対象となっていった。茂雄は「日本はしなくてもいい戦争をしている」と公に軍部に対して批判的立場をとっていたことから圧力を受ける。1940年(59歳)、岩波書店から出版された歴史学者・津田左右吉(そうきち)の著作『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4点が発禁処分となる。津田は歴史学者が『平家物語』や『太平記』を同時代の史料とつき合わせて事実確認を行うように、『古事記』『日本書紀』に史料批判を加え、神武天皇以前の神代史を後世の脚色・創作が著しいと断じ、神代以降についても聖徳太子の実在に疑念を表明した。これは皇室の歴史(神国史観)を疑うことでありタブーだったが、津田は不敬罪を恐れずに初めてそこへ踏み込んだ。その結果、津田は右翼や国粋主義学者に激しく攻撃され、文部省の圧力もあって23年間務めていた早大教授を辞職に追いやられた。茂雄も出版元として糾弾され、両者は「皇室の尊厳を冒涜した」と出版法第26条違反で起訴され、津田は禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月の有罪判決を受ける(共に執行猶予2年)。2人は控訴し、上告中の1944年に時効により免訴となった。 そういう状況でも茂雄はあくまでも学問、芸術を尊重する姿勢を貫き、憲法学者・美濃部達吉の天皇機関説(天皇は国家に従う“最高機関”に過ぎず統治権を持たぬという説)を支持する投稿を朝日新聞に行った。しかし、政府・軍部が「天皇の統治権は絶対無限である」としていたことから同紙が不掲載としたため、「朝日は意気地なしだ」と怒りの声明を出した。 1945年(64歳)、終戦。同年、貴族院議員となるが脳出血で倒れる。翌1946年1月、戦争への反省から国民の間に批判精神を培う雑誌の必要性を痛感し、平和と民主主義を基調とする総合雑誌「世界」を創刊。2月に出版人初となる文化勲章を受章したが、2カ月後の4月25日に熱海で病没した。享年64。戒名は文猷院剛堂宗茂居士。墓所は鎌倉・東慶寺。 ※戦後、津田左右吉は1949年に文化勲章を受章している。 ※岩波書店の“種まく人”は高村光太郎のエッチングによるもの。 |
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古い歴史で有名な「スリーピーホロウ墓地」 | 巨大な墓石がドーン | 墓前の広い敷地は全部カーネギー専用 |
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たった一代で巨万の富を築く |
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岩崎家墓所の通用口…閉まっている(2009) | 正門も完全に閉じており、微動だにしない |
2009年11月、大河ドラマ『龍馬伝』の陰の主人公であり、三菱の創業者・岩崎弥太郎の墓参のために大阪から上京。巣鴨の岩崎家墓所に足を運ぶと、なんと悲しいことに正門も通用門も閉じており、一般公開されていなかった…!ガックリと肩を落として大阪に戻った。 後日ネットを検索すると、複数のサイトに「通常非公開だが命日は一般人も墓参可能」と書かれていた。“なんだってー!”僕は歓喜し、3ヶ月先の命日=2月7日を待った。かくしてその日が到来し、弥太郎の墓参りに再挑戦!新幹線でGO! |
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2010年2月7日 “そんな…う…うそだ…” |
「嘘だと言ってくれェーッ!!」 近所の人の情報では、墓守の許可が必要との事 |
だがインターホンの電源が 切れており墓守に繋がらず! |
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隣接する小学校に事情を話し、敷地から墓所を 覗かせてもらった。すると、正門の中にさらに もうひとつ門があった!うお、枝の間に墓が見える! |
ま、ま、まさか弥太郎ではッ!?カメラの 望遠を最大にして名前を確認してみると… |
「岩崎弥次郎」、弥太郎の オヤジさんだったぁ〜! 嗚呼、天は我を見放したか |
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近所には三菱社宅があったので、住民の方に 許可を頂いて墓所を覗くと、2基の墓石が! でもそれは岩崎美和子(弥太郎の母)と 岩崎秀弥(弥太郎の子)だった。弥太郎や〜い! |
“命日だよ?大三菱の創始者だよ? 龍馬伝で活躍中だよ?墓参者が 列を作っていると思ってたのに!” 状況が腑に落ちず夕方にもう一度訪れた |
やはり門は閉まり墓守の詰所も無人! 僕以外にも墓参者が2人いて、 試しに正門を押してみたけど、まったく 動かず…。わーん!ここまで来て! |
弥太郎は『龍馬伝』で知名度があがっており、僕は早朝から墓所にはひっきりなしに巡礼者が訪れ、三菱財閥の黒塗りの車が行列を作っていると信じ切っていた。と・こ・ろ・が!門が閉まっていたァアアア!墓所にまったく人の気配なし!ギャース!何のためにここまで足を運んだのか…トホホ! 僕が立ちすくんでいると、背後から「弥太郎さんのお墓参りですか」と声。彼(Kさん)も途方に暮れていて、仲間が見つかりめっさ嬉しかった。僕らは手がかりが欲しくて、近所にある三菱のスポーツセンターや墓所に隣接する三菱の社宅の人に墓参の方法を尋ねてみた。分かったことは、門の内側に墓守(はかもり)の家があり、墓参には墓守の許可が必要ということ。だがしかし!肝心の墓守の家は雨戸が閉まっており、インターホンも故障しているのかピンポンと鳴らない(電源が通ってない様子)。 そうこうしているうちに、墓所の門を押している男性をもう一人発見。声を掛けてみると、ビンゴ!彼(Mさん)も弥太郎参りの巡礼者だった!3人寄れば文殊の智慧、墓のことは墓地に聞けということで、岩崎家の4代目以降が眠る近所の染井霊園へGO。職員の方に質問して重大な事実が判明した。いわく「以前は墓守がいて命日に公開していたけれど、今は無人になって門を開ける人がいない。完全に非公開になっている」。ガーン。“そういえば”。僕はかつて染井霊園の庭師の人が「岩崎家墓所の墓守は高齢(お婆ちゃん?)で近年亡くなった」的なことを語っていたのを思い出した。なんてこった。 「墓守が他界し後継者がいないので非公開」という同様のケースは、徳川光圀@水戸黄門の墓所でも起きている。三菱財閥も徳川財団も、墓守を雇うお金は余裕であると思うんだけどなぁ…(もし関係者の方がこのページを読まれていたら、僕、弥太郎さんと黄門様の命日にはボランティアで墓守係をやりますので!)。 |
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中央の林に囲まれた場所が岩崎家墓所! | 中心に見える墓石が弥太郎!宇宙から合掌! |
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『岩崎弥太郎之墓』 1980年3月12日にNさんが撮影されました!当時は24時間 公開されていたのかも。Nさん超貴重な墓画像を有難うございましたーッ! m(_ _)m |
実業家。明治期に活躍した三菱財閥の創始者。土佐藩の武士の中でも最下級の地下(じげ)浪人=半農の家に生まれる。立身出世を目指して学問に精を出し、土佐藩重臣の吉田東洋の目に止まる。1859年(24歳)、藩命で長崎に赴任したことを機に、長崎貿易で頭角を現す。1861年(26歳)、地下浪人から郷士(ごうし)に身分があがり、次いで1867年(32歳)には上士の身分である新留守居組へと出世した。 明治維新後は藩船の払い下げを使って海運業に進出。1874年(39歳)に勃発した佐賀の乱を始めとして、台湾出兵、西南戦争などで政府の輸送業務を独占し、これによって国内最大の汽船会社を築き上げる。さらに弥太郎は各方面で多角的に事業を展開し、政商として三菱財閥を作り上げていった。50歳で病死。坂本龍馬とは同じ年に生まれており、弥太郎は海援隊の経理を担当していた時期もあった。
※弥太郎は20歳の時に、酒の席の喧嘩が原因で投獄された父の冤罪を訴え出て、自らも投獄されたことがある。
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函館山を背にした「日露友好の碑」と高田屋嘉兵衛像 |
ロシア側と交渉に挑む嘉兵衛。右手に松前奉行からの書、左手に艦内で正装に 着替えた時の衣服を持っている。函館開港100年を記念して1958年に建てられた |
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津軽海峡と函館湾に挟まれた宝石箱のような夜景 |
函館市内の称名寺。かつては英・仏の領事館が置かれ ていた。境内に土方歳三と新選組隊士の供養塔もある |
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柵の中の墓石(中央)が嘉兵衛の墓(2009) | 真ん中の戒名「高誉院至徳唐貫居士」が嘉兵衛 |
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『高田屋嘉兵衛翁生誕地』 | 生誕地に建つ嘉兵衛像は妙にカワイイ。函館と真逆 |
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嘉兵衛の館跡に建つ『高田屋嘉兵衛翁記念館』 | 記念館の敷地にある顕彰碑は高さ6.4m! | 生誕地から見える山の中腹に高田屋の紋が。墓所もその近く |
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「日本の誇る高田屋嘉兵衛翁此の地に眠る」 (ウェルネスパーク五色/高田屋嘉兵衛公園) |
手前が嘉兵衛、奥が弟の金兵衛の墓。 地下には長い石材を使った石室が造られている |
墓所から故郷を見守る嘉兵衛 (2010) |
江戸後期の海運業者。蝦夷地開発、函館発展の基礎を築いた豪商。1769年(明和6年)に淡路島西岸・都志(つし)の農家に生まれた。嘉兵衛は家が貧しいため少年時代から漁業に従事していた。1790年(21歳)に兵庫・神戸に出て樽廻船(たるかいせん/貨物船)の水夫となる。懸命に働き2年後に船頭となり、27歳で自分の船を手に入れ“船持ち”へと出世した。嘉兵衛はいち早く蝦夷地に着目し、兵庫で酒、木綿、塩、山形・酒田で庄内米を積んで箱館に運び、帰路は蝦夷地の海産物を積み大阪で売却するという北前船の営業で、5隻の船を所有する豪商として成長した。28歳で箱館に支店(後の本店)を開店。翌年、蝦夷・松前藩で幕府役人に航海の見識を述べる機会があり、感心した役人から物資輸送を任されることになる。 また、探検家で幕臣の近藤重蔵から択捉島への航路調査を依頼され、国後島の山上から風向や潮流を調査し、択捉島への航路開発に成功した。嘉兵衛は幕府へ択捉開拓の重要性を説き、賛同を得て幕命により米、茶、酒、衣服、漁具等を択捉島の島民に提供した。島民は嘉兵衛から開墾や網を使った漁法を学び喜んだという。1800年(31歳)、幕府の信頼を得た嘉兵衛は御用船頭として北海の官船事務をすべて任され、蝦夷地の商権を独占。嘉兵衛が開発した択捉島の漁場は17カ所にのぼった。嘉兵衛は、江戸、大坂、箱館、兵庫等に商店を開き巨万の富を築いていく。 1804年(35歳)、ロシアからの第2次遣日使節として貴族レザノフが長崎に来航。レザノフは皇帝アレクサンドル1世の親書を手に日本との交易を求めたが、日本側は回答に半年間かけたうえ、通商交渉も親書の受理も拒否した。1806年、激怒したレザノフは配下に樺太(サハリン)を侵略させ、翌年には択捉、国後で略奪させた。この事件に衝撃を受けた幕府は、『ロシア船打払令』を制定し、「ロシア船を見つけ次第撃退せよ」と命じた。 1811年、千島列島やオホーツク沿海を測量していたロシア軍艦ディアナ号が、給水のため国後島に立ち寄り、ゴローニン艦長(1776-1831)など7人が上陸。国後島詰めの江戸幕府警備役は彼らを捕縛し、松前や箱館に幽閉した。翌1812年(43歳)、ディアナ号副艦長リコルドは軍艦2隻で来日して7人の返還を要求。幕府が返答を保留した為、リコルドは幽囚の報復として国後島沖を航行中だった嘉兵衛の観世丸を拿捕し、嘉兵衛&水夫4名をカムチャッカへ連行した。嘉兵衛はこのピンチをロシア人との友情を育む好機と捉え、懸命にロシア語を学び数ヶ月でマスター。リコルドに「7人が捕らえられたのは貴国の侵略が続いたからであり、救出したいのであれば私もできるだけ努力する」と伝えた。この言葉に喜んだリコルドは、嘉兵衛を国後に送り届け、嘉兵衛が仲介となってイルクーツク総督の弁明書が箱館奉行に差し出された。 1813年(44歳)、ロシア側に侵略の意図がないと判断した幕府は、ゴローニン艦長はじめ7人を解放し、2年ぶりに事件は解決した。幕府は打つ手がなく右往左往するのみであったことから、平和的決着に至ったのはすべて嘉兵衛の力によるものと言える。1853年のペリー来航より40年も前の出来事だ。幕府も嘉兵衛に感謝を表し賞金を与えた。 ゴローニン事件解決から5年後の1818年(49歳)、嘉兵衛は御用船頭を辞めて家業を弟に譲り、故郷の淡路島・都志に帰郷した。近隣の堤や港湾の修築などに貢献し、藩主阿波守から名字帯刀を許され、穏やかな9年間の隠居生活を経て、1827年に病没した。享年58。戒名は「高誉院至徳唐貫居士」。 嘉兵衛は一水夫から身を起こして北洋漁場を開いた商人であるだけでなく、民間人でありながら日露を武力衝突の危機から日本を救った男。捕虜になっても幕府に頼らず、自らの機転で帰国を果たした。後にゴローニンは海軍中将まで昇進し、その著書『日本幽囚記』(1816)の中で嘉兵衛について「この世で最も素晴らしい尊敬すべき人物」と絶賛した。1911年、日本政府は嘉兵衛の生前の功績に対し正五位を追贈した。 墓は淡路島・洲本市五色町の生誕地に隣接した高田屋嘉兵衛公園(ウェルネスパーク五色)と、函館市の称名寺にある。生誕地には愛用の望遠鏡や手紙など約140点の資料を展示した『高田屋嘉兵衛翁記念館』が建ち、建物の前に香川県庵治産の花崗岩を使用した高さ6.4メートル、巾3メートルの巨大な顕彰碑がそびえている。 〔追記〕生誕230年となる1999年に、嘉兵衛の菩提寺の多聞寺に“参り墓"が建立された。埋め墓は五色。 ※1807年に出された『ロシア船打払令』は、1825年にすべての外国船を対象にした『異国船打払令』となる。 ※残念ながら「高田屋」は嘉兵衛他界の6年後に、家業を継いだ弟が密貿易の疑いをかけられ、幕府に全財産を没収され没落した。 ※『高田屋嘉兵衛遭厄自記』やリコルドの手記をもとに司馬遼太郎が小説『菜の花の沖』を執筆。 ※ベートーヴェンと1歳違いで(嘉兵衛が年上)、没年も同じ1827年。ほぼ同時期を生きた2人。 |
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案内板で大助かり。 これなら迷わない |
心月院にて。左が正子、右が次郎。正子の墓には梵字で 「十一面観音」、次郎の墓には「不動明王」と刻まれている |
五輪塔を薄くスライス。石を次郎が 選び、正子がデザインした |
“昭和の鞍馬天狗”と呼ばれた伝説的実業家。兵庫の名家に生まれ、10代後半で英国ケンブリッジ大に留学。身長185センチ、スポーツ万能。超行動派かつカー・マニアとあって高級自動車を乗り回し、20代半ばにはスペイン南端のジブラルタルまでヨーロッパ大旅行を終えていた。1928年(26歳)に帰国し新聞記者となる。翌年、友人の妹と結婚(随筆家の白州正子)。その後、商社や食品会社の取締役を歴任し、商用で渡航する際に駐英外交官の吉田茂と親交を深め、イギリス大使館をホテル代わりに使っていた。1940年(38歳)、太平洋戦争を予期して事業から離れ、農村に隠居し畑仕事の日々を送る。戦時中は吉田茂と共に反戦の立場から終戦工作に取り組んだ。戦後は吉田の要請で終戦連絡中央事務局の参与に就任。「我々は戦争に負けたのであって奴隷になったのではない」と占領軍を相手に啖呵を切り、マッカーサーを叱りつけたり、語学力を褒めるGHQの准将を「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」とやり込めるなど、その破天荒さは当時の日本人の枠から突き抜けた存在だった。白州はGHQから「従順ならざる唯一の日本人」「Mr.Why」と呼ばれた。1948年、“戦後の日本は貿易立国として発展するしかない”という信念から貿易庁(通産省)の初代長官に就任。1951年(49歳)、サンフランシスコ講和会議に顧問として随行し、受諾演説を英語でしようとする吉田首相の原稿を書き直し、「独立国なのだ」とあえて日本語で演説させた。後半生は政治と縁を切り、電力会社や大洋漁業(現マルハ)、日テレ、証券会社の顧問などを歴任。日本人で初めてジーンズをはいた男と言われ、三宅一生のモデルを務めたことも。老いてなお80歳まで68年型ポルシェ911Sをかっ飛ばしていたが、1985年に胃潰瘍と内臓疾患で死去。享年83歳。遺言書には「葬式無用 戒名不用」とあった。まさにスーパー日本人。 |
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台東区のHPには瑞泉寺に墓があると あったが、墓地を探してもいなかった |
住職に尋ねてみると「関東大震災の大火災で墓も焼けてしまい、 境内のどこに蔦屋が眠っているのか分からなくなった」とのこと。 僕はこの敷地全体を彼の墓と受け止め、寺に向って合掌した |
多くの絵師や作家を援助した蔦屋。 寺の前の言葉は、芸術を世に送った 彼を表しているかのようだった |
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台東区の正法寺にも墓があるという情報をキャッチ!瑞泉寺と500mしか離れていない。正法寺は目の前まで 来てるのになかなか場所が分からなかった。だって、まさかこんな大きなビルがお寺なんて思いもよらなかったよ〜! |
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うおお!あれは! |
上段左から3番目の命日がドンピシャ! 戒名は「幽玄院義山日盛信士」とのこと |
ついに蔦屋に墓参できた!東京 大空襲で寺が燃え、墓は近年再建 |
シェイクスピアやベートーヴェン、ゴッホの作品がどんなに素晴らしくても、小説、楽譜、画集を出版する実業家がいなければ、数百年後の世の中まで偉業が伝えられることは不可能だった。日本で独自文化を大きく発展させたのは江戸中期の出版人、蔦屋(つたや)重三郎だ。重三郎は人の才能を見抜く事に長けており、浮世絵師の写楽や歌麿の名作を世に送り、十返舎一九、曲亭馬琴、山東京伝ら若い作家たちを援助した。 1750年、江戸の吉原生まれ。名は短く“蔦重”(つたじゅう)とも呼ばれる。同時代のクリエイターとの年齢差は、喜多川歌麿が3歳年下、葛飾北斎が10歳年下、山東京伝が11歳年下、写楽が13歳年下、十返舎一九が15歳年下、曲亭馬琴が17歳年下、そして47歳年下の歌川広重が重三郎の没年に生まれている。父は遊郭の勤め人。1765年、重三郎が15歳のときに、絵師・鈴木春信が絵暦(えごよみ)の制作を通して、彫り師や摺り師と協力して多色刷木版画(カラー浮世絵)の技術を開発し、色鮮やかな錦絵 (にしきえ)を創始した。 1773年、重三郎は23歳で吉原大門の前に書店を開業し、遊女を店別に紹介したガイドブック(吉原細見)や遊女評判記を販売し始める。1780年(30歳)、当時の人気作家・朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)の黄表紙(=風刺に富んだ大人向け絵本)を出版したことをきっかけに出版業を拡大。1783年、33歳で一等地の日本橋通油町(現大伝馬町)に店を構えるようになる。その後も積極的に事業を展開し、山東京伝や恋川春町ら多数の人気作家の作品を取り扱い、ベストセラーを次々に刊行していく。 1787年(37歳)、徳川吉宗の孫で白河藩主の松平定信が、「天明の飢饉」で被害を最小限におさえた藩政改革の実績をかわれて老中首座となる。定信は政治の一新をはかり、6年間に及ぶ“寛政の改革”をスタート。この頃、重三郎は喜多川歌麿を援助し始め、歌麿は独自の「美人大首絵」にたどり着いた。 1790年(40歳)、幕府への批判や風俗を乱す出版物を取り締まる「出版統制令」が出され、翌1791年(41歳)、遊郭を舞台にした洒落本で人気を博していた山東京伝が風紀違反の罪で手鎖五〇日の刑となった。これに連座し、版元の重三郎は財産の半分を取り上げる“身上半減”となる。 “身上半減”でも重三郎はへこたれなかった。処罰の翌年、曲亭馬琴の文才を見込んだ重三郎は手代(てだい。番頭と丁稚の間。今の係長)として雇った。1793年に松平定信が失脚して寛政の改革が終わると、さっそく翌年に大プロジェクトに打って出る。ときに1794年5月(44歳)、当時まったく無名の絵師・写楽の画才を見出した重三郎は、役者絵28枚を同時発売して人々を驚かせた。このシリーズは人物が浮き出て見えるよう背景の黒に雲母摺(きらずり)を施した豪華仕様であり、一度に28枚も発表するため充分な準備期間をかけた。巧みにデフォルメされたダイナミックな役者絵は、江戸っ子の間で大きな話題を呼んだ。同年、重三郎は無名の作家・十返舎一九(当時29歳)を自宅に寄食させる。翌年、重三郎は一九に筆を取ることを勧め、一九の黄表紙『心学時計草』が出版された。これ以後、一九は20年以上もペンを握るロングセラー作家となった。一九は日本史上、文筆業だけで生活した最初のプロ作家だ。 写楽を世に出して3年後、1797年に重三郎は脚気により人生を終えた。享年47。開業から約25年の間に800点以上も出版した。写楽が役者絵で世に出たとき、浮世絵界は歌麿を頂点とした美人画全盛期だった。写楽の絵がこの世にあるのは蔦屋のおかげだ。 墓は台東区東浅草1-1-15の正法寺。徳川家康から寺領を賜り、松平越前守の菩提所となった由緒ある寺。東京大空襲で消失し戦後に再建された。既に蔦屋家の子孫は絶えているが、先代の住職が同寺境内に重三郎の墓があったことを知り、黒御影の墓を建立した。無縁仏の遺骨を納めた塔が側にあり、重三郎の骨も入っているかも知れない。 ※重三郎の他界5年後に十返舎一九が代表作『東海道中膝栗毛』(1802)を刊行し、17年後に曲亭馬琴が『南総里見八犬伝』(1814)を刊行した。1804年、喜多川歌麿は将軍を皮肉った絵を描き手鎖50日の処分を受けている。 ※1995年、篠田正浩監督とフランキー堺が映画『写楽』のヒットを祈願して墓参している。蔦屋を演じたフランキー堺いわく「どうしても死ぬまでにこの役をやりたかった」。翌年、フランキー堺は他界した。 ※レンタル大手のTSUTAYAは、創業者が「現代の蔦屋になりたい」という思いで付けた名前という。一気にTUTAYAの好感度アップ! |
★江戸時代の出版トリビア 【草双紙/くさぞうし】 草双紙は江戸中〜後期に流行した絵本の総称。平均的に1冊5丁(10ページ)で全ページに挿絵がある。イラストの余白にはひらがなで文章が書かれた。表紙の色にちなんで赤本、黒本、青本と呼ばれ、以下の順に発展していった。 ・赤本…子ども向け。「さるかに合戦」「桃太郎」など主に昔話を収録。絵解きクイズもあった。1編が10〜20ページ。 ・黒本…青少年向け。浄瑠璃のストーリーを絵本にしたもの。軍記物、仇討ち物、英雄伝が多い。 ・青本…黒本と殆ど同じだけど、滑稽や風刺が強く、より大人向け。女性に人気。歌舞伎や浄瑠璃、歴史物を題材に、遊郭の色恋なども描かれる。1編20〜30ページ。 ・黄表紙…大人向け。娯楽性が強く、古典を題材にした風刺に溢れている。松平定信の「寛政の改革」を風刺したことによって多くが発禁になり、教訓物や仇討ち物に変わっていく。作家として山東京伝、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)らが有名。1編20〜30ページ。 ・合巻(ごうかん)…複雑なストーリーで数十編にもなる長編。草双紙(絵本)の最後を飾り、計1500ページを超えるものもあった。冊数が増加したことから、黄表紙を合冊して1冊にしている。寛政の改革によって洒落やおかしみが消え、内容は真面目。草双紙の最終形態。式亭三馬の『雷(いかずち)太郎強悪物語』(1806)が前後編全10冊(100ページ)の合巻で初出。他に曲亭馬琴『傾城(けいせい)水滸伝』など。馬琴は山東京伝の弟子だ。源氏物語の舞台を室町時代に移した柳亭種彦『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』は江戸時代を代表するベストセラーだったが、「天保の改革」で弾圧され途絶した。明治になって新聞小説が登場し合巻は衰退。 【読本/よみほん】…絵がメインの草双紙と異なり文章がメイン。物語性を重視。『水滸伝』の翻訳や、上田秋成の『雨月物語』、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』など。漢語がいっぱい。 【洒落本/しゃれぼん】…遊郭での遊びや駆け引きを書いたもの。山東京伝『傾城買四十八手』など。寛政の改革で徹底的に弾圧されたジャンル。 【滑稽本】…“弥次さん喜多さん”の珍道中で知られる十返舎一九『東海道中膝栗毛』など、おかしみのある話。 |
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関西実業界の重鎮 | 墓所前の立派な鳥居は死の翌年に弘成館役員が建立 | 墓域全景。友厚の横に長女武子の遺髪塔があった |
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天王寺駅の徒歩圏内にある広大な阿倍野墓地、 その中央付近に友厚は眠っている |
『従五位勲四等 五代友厚墓』 |
高さ300m、日本一高い“あべのハルカス”と向き合う 友厚の墓(画面右端)。大阪の発展を喜んでいるだろう |
関西実業界の基礎を築いた明治初期の実業家。モットーは信用第一。政治家と結託した政商。薩摩藩出身。通称才助。1865年(29歳)、藩命によって、寺島宗則(後の“電気通信の父”)、森有礼(後の“教育の父”)らと欧州を視察。翌年に帰国し、1867年に長崎製鉄所(現・三菱重工業長崎造船所)を設立、同年大政奉還。 維新後、外国事務局判事、大阪府判事を務め、1869年、33歳で退官し実業界に入り金銀分析所を設立。同年、日本で初めて英和辞書を印刷する。1871年(35歳)、五代の進言を受けて大蔵省が大阪造幣局を設立。1873年37歳、全国の鉱山の管理事務所である“弘成館”を設立し鉱山王となる。1878年(42歳)には、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を立て続けに設立。その後、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、東京電気鉄道(現・東京都電車)、大阪商船(現・商船三井)、大阪堺鉄道(南海鉄道)などを創設し、1885年、糖尿病により病没。享年49。 ※大阪証券取引所前に銅像あり。 |
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JR駿河小山駅〜冨士霊園はシャトルバスが便利 | この大きな生垣の中が本田家の墓所!外に表札が出ている |
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広い墓域が美しく整備された本田家墓所。近隣には富士スピードウェイがあり、レーシングカーの エンジン音が墓前まで聞こえていた。車のサウンドを子守歌のように聞けて、宗一郎さんも幸せだろう |
墓域の一角には本田家 代々の墓も建立されていた |
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ちなみに本田家の2区画左隣は元総理の安倍家 | さらにその左は岸家。冨士霊園は著名人が多い |
本田技研工業の創業者。単なる経営者ではなく、自らも技術開発に取り組み、戦後日本を代表する技術者兼起業家として世界的に有名。静岡県出身。 本田家は代々の鍛冶屋。1928年(22歳)、東京の奉公先、自動車修理工場から暖簾を分けてもらい、浜松に支店を開業する。1936年(30歳)、第1回全国自動車競走大会に飛行機のエンジンを改良した車で弟と参戦し、最高時速120kmを叩き出す。事故によって車外に投げ出されたことから、以後はハンドルを握ってレースに臨むことはなかったが、“120km”は約20年間も破られなかった。 1937年(31歳)、エンジン製作を目指して浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科の聴講生となり勉学に励む。終戦後、1946年(40歳)に本田技術研究所を設立し、小型エンジンを自転車に取り付けた「バタバタ」を大ヒットさせる。1948年(42歳)、本田技研工業を起ち上げ念願のオートバイ生産をスタート。翌年、経営を不得手と自覚していた宗一郎は副社長に藤沢武夫を迎えて経営の一切を任せ、自身は技術屋として汗を流した。 ※宗一郎と藤沢は身内を入社させなかった。2人とも「会社は個人の持ち物ではない」という信念を持っており、「幹部役員の子弟は入社させない」という内規を定めた。井深大が社名を「ソニー」としたことから、宗一郎は自分の名前を社名にしたことを恥じた。 1958年(52歳)、名作「スーパーカブ号」を完成。翌年から世界最高峰のオートバイ・レース、英国マン島TTレースに参戦し、1961年(55歳)に優勝した。翌1962年(56歳)から自動車生産に乗り出し、小型スポーツカーや軽トラックを発売。1964年(58歳)になると、今度はF1グランプリにチャレンジするなど飽くなき向上心を持っていた。1972年(66歳)、初めて低公害CVCCエンジンを開発し、米国からも高く評価され「世界のホンダ」として認知された。1973年(67歳)、社長を引退し最高顧問となる。翌年、ミシガン工科大学が名誉工学博士号を授与。宗一郎は「全ての従業員や関係者に挨拶をしたい」との思いから、国内はもとより3年がかりで世界各国のホンダ工場やディーラーへ挨拶まわりを行なった。宗一郎が一般工員と同じ白い作業着(ツナギ)を着て偉ぶることがなかったこともあり、他の日系企業で多発した労働争議がホンダでは一度も起きなかった。 F1では1986年(80歳)から没するまでホンダのエンジンを搭載したチームが製造者部門タイトルを獲得し続けた。 1989年(83歳)、日本人として初めて米国の自動車殿堂入りを果たす。1991年、肝不全のため84歳で他界。正三位・勲一等旭日大綬章を贈位された。生前に「自動車メーカーの経営者が葬儀で渋滞を起こしてはいけない」と語っており、遺族は通夜、社葬を行わなかった。 「人には失敗する権利がある。だがしかし、それには反省と言う義務が付く」 「チャレンジしての失敗を恐れるな。何もしないことを恐れろ」 「私が手がけた事業のうち99%は失敗だった。1%の成功のおかげで今の私がある」 「私は年寄りだから新しい開発からはもう手を引いているが、一応今の若い連中が何をやっているか見せて貰っている。でも(何をやっているのか)わからないんだな。だからこそ嬉しいんだ。この年寄りに分るような事をやっているのならうちの若い連中はボンクラですよ。僕に分らない事をやってくれていることが僕は一番嬉しいんだ」 ※宗一郎の部下たちは「オヤジ」と呼んで慕っていた。 ※南青山の本社ビルは全フロアにバルコニーがある。これは宗一郎が「地震で割れたガラスが歩行者に降りかからないように」と指示したから。 ※本田技研の正装のズボンにはポケットがない。工場巡回中に若い工員から「オッサン、転んだら危ないからポケットに手突っ込んで歩くな!」と注意されたのがきっかけ。 ※かつて緊急車両しか車体に赤色を使う事が許されなかった。宗一郎は「国家がデザインの基本である赤色に難癖を付けるのはおかしい」とメディアで抗議し、赤のカラーリングが認可された。 |
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多磨霊園の右手奥の方。近くに岸田今日子さんの墓 | 左が「井深家一門之墓」、右が井深大の墓 |
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仲良く腕相撲をとる井深(右)と盛田昭夫。共にソニーを創業 | 墓石に刻まれた言葉は“自由闊達” | 背後に墓碑銘(略歴) |
盛田昭夫と共にソニーを創業。盟友・本田宗一郎と並んで戦後日本を代表する技術者&起業家として世界的に知られる。栃木県出身。3歳で父を亡くし、愛知県の祖父に引き取られる。その後、母が再婚し神戸で育つ。 1933年(25歳)、早稲田の理工学部電気工学科を卒業。在学中に発明した「走るネオン」が1937年の パリ万博で優秀発明賞に輝いた。この時の雑誌記事を中学生の盛田昭夫が読んでいる。卒業後、写真化学研究所(現ソニーPCL)に入社。その後、日本光音工業、日本測定器に籍を置く。1943年(35歳)、戦時科学技術研究会の熱線追尾爆弾の開発グループにて、海軍技術中尉で13歳年下の盛田昭夫と出会う。 1945年(37歳)、終戦後に東京日本橋に短波受信機を製造する東京通信研究所を設立。翌1946年(38歳)、社名を「東京通信工業」として、社長に義父で文相の前田多門を迎え、井深が技術担当の専務取締役、盛田が営業担当の常務取締役となり、20数人で創業した。1950年(42歳)、社長に就任。翌年、日本初のテープレコーダーを、そして1955年(47歳)に日本初のトランジスタラジオを発売。同年、盛田が渡米し「SONY」ブランドで売り込みを開始。「SONY」の名前は“SOUND(サウンド)”の語源であるラテン語“SONUS(ソヌス)”と、元気で若い企業のイメージから英語の“SONNY”(“坊や”の意)を重ねたもの。1958年(50歳)、商標名の「SONY」を社名とした。 その後も、1960年(52歳)に世界初のトランジスタテレビ、1965年(57歳)に世界初の家庭用ビデオ・テープレコーダーを世に出すなど、日本初や世界初の革新的な商品を次々と生み出し、同社を世界企業に押し上げていった。1971年(63歳)、会長に就任。1976年(68歳)、名誉会長となった。1979年、外出先でも個人で音楽を楽しめる携帯型テープレコーダー『ウォークマン』を発売し、空前の人気商品となった。 井深は子どもがハンディキャップを持っていたことから、障がい児の学校設立に尽力し、社員の6割が障がい者の工場「ソニー・太陽」を設立。また幼児教育の重要性を唱えた書籍も出版している。 1986年(78歳)に勲一等旭日大綬章、1989年(81歳)に文化功労者、1992年(84歳)に産業人として初めて文化勲章を受章。1997年、89歳で他界。 創業時20数名だった従業員は2010年時点で約17万人。井深の墓は多磨霊園にあり、墓石には「自由闊達(かったつ)」という言葉が刻まれている。これはソニー創業の設立趣意書に記された「真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむるべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」からきている。 ※晩年、井深は非科学の分野にも強く興味を示し、1991年(83歳)、ソニー社内にエスパー研究所を設立した。そこでは超能力者たちがテレパシーや透視能力などの実験をしていたが、井深の死の翌年に研究所は閉鎖されたという。 ※飯盛山で自刃した白虎隊士・井深茂太郎は先祖の1人。 ※井深は東京芝浦電気(現・東芝)の採用試験で不合格になった。もし東芝社員になっていたらソニーはなかった。 ※「この人の能力はこれだけだと決め付けていたらその人の能力は引き出せません」(井深大) |
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東芝創業者!白石が敷き詰められた墓域 |
久重翁の略歴と墓域図。 1875年、東京に店舗兼工場を開いた |
「万般の機械 考案の依頼に応ず」 店頭の看板にこの言葉が掲げられた |
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緑色の自然石の墓 | 田中久重夫妻 | こちらは2代目久重(養子)。初代の真向かい |
江戸後期に生まれた田中久重は、東芝創業者であると同時に、「東洋のエジソン」として知られる発明家。筑後国久留米出身。通称田中儀右衛門。父はべっこう細工師で、傍らで仕事を見ていた久重は、手先が器用な少年に育った。幕末の庶民は祭りの興行で演じられる“からくり人形”を大きな楽しみにしており、少年久重はオリジナルの“からくり”を設計することに夢中になった。そして13歳にして、家職を捨てて“からくり”に生きる決心をする。久重は父に「私は発明工夫をもって天下に名を揚げたく、家職は弟に継がせて下さい」と訴えた。重力、水力、空気圧など、様々な動力を使った久重の“からくり”は人気を呼び、10代半ばにして「からくり儀右衛門」と称され町中の人々に知られた。20代になると、からくり興行師として江戸、大坂、京都などを巡業し、日々の上演を通して“からくり”にいっそう創意と工夫が施されていった。例えば、弓矢を射る人形は、4本の矢のうち1本の矢をわざとミスするように設計して観客を笑わせた。また、文字を書く人形に観客は喝采を送った。 やがて諸藩の財政改革が始まると、からくり興行の開催が難しくなり、久重は状況を打開する為に実用品の製造・販売を始めることを決意。モットーは「人々の役に立ち、かつ新しいモノを作る」。1834年(35歳)、活動の本拠地として商人が集う大坂に住居を定めた。最初のヒット作は、腐食しにくい真鍮で作った携帯用の小型燭台。夜間医療の現場や、夜半まで帳簿つけに追われる商人が買い求めた。 久重が大坂に移り住んで3年後、1837年(38歳)に「大塩平八郎の乱」が勃発する。大阪中心部の5分の1(約2万軒)が焦土となったこの戦乱で、久重は家財が燃えてしまった。せっかく軌道に乗った商売は、再スタートを余儀なくされる。だが、こんなことで久重はめげなかった。圧縮空気を使い自動で油を補給する灯明台「無尽灯」を発明し、“いつまでも消えない灯り”として商人たちから絶賛された。 やがて久重の興味の対象は西洋時計の複雑な歯車構造に移る。究極の時計を生み出すために、西洋の天文学や数学を学ぶことを決断し、48歳で当時の天文暦学の総本山、土御門家(京都)に入門した。そして1851年(52歳)、これまでに学んだすべての知識と技術を注ぎ込み、からくり時計の最高傑作「万年自鳴鐘」を完成させた!この時計は、新暦・旧暦、洋式・和式の両時刻、曜日、月の満ち欠け、干支、二十四節気をすべて表示する高精度の万年時計だ。この時計によって「日本第一細工師」と呼ばれるようになり、諸大名から時計を求められるようになった。翌年、京都四条烏丸に機巧堂(からくりどう)を開店し、雲竜水(手押し消防ポンプ)、須弥山儀(天体儀)、各種照明器具などを製作・販売。久重はさらに今の目覚まし時計にあたる「枕時計」や、時間ごとに太鼓が鳴る「太鼓時計」などを考案していく。同年、蒸気船のひな型を製造し、琵琶湖にて試運転に成功。 1853年(54歳)に黒船が来航すると、久重の才能に注目した佐賀藩蘭学者・佐野常民(後の日本赤十字社創立者)に請われて藩の精錬方(せいれんかた=科学研究所)に身を置く。1855年に日本で初めて蒸気機関車の模型を製作し、佐賀藩主・鍋島直正の前で走らせた。名声はさらに高まり、1864年(65歳)、故郷・久留米藩の要望を受けて帰郷。初の国産アームストロング砲を完成させたほか、精米や河川掘削の器械を作成した。67歳、上海を視察。1868年、明治維新を69歳で迎えた。久重は70代になっても精力的に活動し、日本初の製氷機械や自転車、人力車の開発・改良に燃えた。 1873年(74歳)、明治新政府から久重翁に「東京で通信技術の近代化に協力して欲しい」と要請があり、上京した久重翁は高性能のモールス電信機を完成させた。1875年(76歳)、久重翁は政府相手の仕事ではなく、もっと庶民の日常生活に密着した仕事がしたいと考え、銀座8丁目に工場兼店舗を構えた(東芝創業)。店の看板に 「万般の機械 考案の依頼に応ず」と記し、受注 に応じて独自の電話機や報時器、羅針盤などを製作した。 1881年、銀座での創業から6年目に、久重翁は81歳で他界した。その翌年、久重の養子で弟子の田中大吉が、養父の遺志を受け継ぎ2世久重として民間の電器機械工業の先駆けとなる「田中製造所」を東京・芝浦に設立。田中製造所は1904年に社名が芝浦製作所となり、1930年に電気洗濯機と電気冷蔵庫の国産第1号を発売した。1939年に東京電気と合併し東京芝浦電気(現東芝)となる。 「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」(田中久重) 墓域には白石が敷き詰められ、初代田中久重夫妻と、2代目夫妻の墓が向き合っている。墓前には肖像写真と「万般の機械 考案の依頼に応ず」の文字が入った墓誌のほかに、「田中久重翁略歴」と書かれたものもあった。 |
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故郷は田んぼがいっぱい。ここから世界へ! | 生地最寄りの「千旦(せんだ)」駅は無人駅 | 墓所の対面にある松下公園 |
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「松下幸之助君生誕の地」 たった一代で帝国を築き上げた |
碑文の揮毫は先祖が紀州藩士の湯川秀樹博士 |
左側の木陰が生誕地、右の塀が墓所。 生誕地とお墓が並ぶ光景を初めて見た |
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庭園のような墓所。全体がスッキリとしている | 墓石もいたってシンプル | 斜め後ろから |
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墓所の隅にはロウソクや線香を標準装備。 誰でも使えるっぽいのはさすが天下の松下 |
墓所内にある水場。井戸ポンプは当然ナショナル製! |
パナソニック(旧・松下電器産業)の創業者。世界有数の同社を一代で築き上げたことから“経営の神様”と呼ばれる。経営理念は「水道の哲学」。これは“供給量が増えればあらゆる物資は無料同然になる”というもので、大量生産でコストを削減し国内家電メーカーのトップに立った。和歌山県出身。 1899年(5歳)、小地主の父が米相場で破産。父は和歌山市で下駄屋を始めるがこれも失敗する。幸之助は9歳で小学校を中退し、大阪の火鉢店や自転車屋へ丁稚奉公に出された。15歳の時に大阪電燈(現・関西電力)に入社し、電球ソケットを考案。23歳で退職し、自宅でソケットの製造&販売を始め、二股電球ソケットがヒットする。翌1918年(24歳)、大阪市内に松下電気器具製作所を創業。1925年(31歳)、「ナショナル」商標を登録し、乾電池販売でも成功した。1931年(37歳)、ラジオの生産開始。1933年(39歳)、事業拡大にともない大阪門真市に工場を移転する。また、独立採算制の事業部制を導入した。1935年(41歳)、社名を「松下電器産業」へ改名。戦時中は政府の命令で無線機器や船、飛行機を生産し、戦後にGHQから戦争協力者として公職追放処分を受ける。 1947年(53歳)、社長に復職。テレビ、洗濯機、冷蔵庫など家庭用電器製品を次々と開発し、1950年から死没するまで40年間に、10回も長者番付で全国1位となった。1961年(67歳)、会長に就任。ダイエーが家電を安売りすることに反発し、60年代中頃から30年に及ぶダイエー・松下戦争が勃発。安売り店への出荷停止という強硬手段が批判を浴びた。1973年(79歳)、相談役となり第一線から引退。81歳、国土庁顧問に就任。1980年(86歳)、私財70億円を投じて松下政経塾を設立し、政財界の指導者養成に努めた。1987年(93歳)、勲一等旭日桐花大綬章を受章。1989年、肺癌により他界。享年94歳。戒名は光雲院釋眞幸。 「産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の水は価有る物であるが、乞食が之を飲んでも咎められない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵たらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を齎し、この世に楽土を建設する事が出来るのである。松下電器の真使命も亦その点に在る」(『水道哲学』) 「松下は人をつくる会社です。あわせて、家電もつくっています」 「ご苦労さん。ええもんが出来たな。さあ、今日からこの商品が売れなくなるような新商品をすぐに作ってや」 ※遺産総額は2449億円で国内の最高記録を更新した。浅草寺の雷門と大提灯は幸之助のポケットマネーで再建された。 ※日本郵船の各務鎌吉に続いて、米タイム誌国際版の表紙を飾った2人目の日本人実業家となった。 |
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豊田家の墓所は丘の一番高い所 | 左から長男喜一郎、佐吉、父伊吉、先祖代々墓 | 佐吉の墓。喜一郎が3世代の墓をいっきに建てた |
発明家・実業家。豊田式自動織機(しょっき)を発明。別名「織機王」。現・静岡県湖西市の農家に生まれる。小学校卒業後、父親の大工仕事を手伝いつつ、手織機(ておりばた)の改良に挑む。
1890年(23歳)、内国勧業博覧会で見た外国製織機をヒントに木製人力織機を発明。6年後に木製動力織機を完成させた。1910年(43歳)、欧米に紡織業視察のため渡航。そして1924年(57歳)、悲願の自動織機を発明する。これを受けて1926年(59歳)に株式会社豊田自動織機製作所を創立した。
この頃、日本では外国製自動車が急速に普及していた。佐吉は国産自動車の生産を決意し、1929年(62歳)、英国企業に自動織機の欧州特許権を100万円で譲渡した。翌1930年、その特許料を資金に自動車国産化の夢を長男・喜一郎に託して他界する。享年63歳。同年、喜一郎は4馬力のガソリン・エンジンを完成させ、7年後にトヨタ自動車工業を創立した。
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この墓地に隣接して、本物の釈迦 の骨が納められた奉安塔が建つ |
左から長男喜一郎、佐吉、父伊吉の墓。トヨタ 自動車工業が創立された1937年に喜一郎が建立 |
付近には豊田一族の 墓が林立している |
トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の創立者。父は発明家の豊田佐吉。静岡県出身。1920年(26歳)、東京帝大工学部を卒業し、豊田紡織(豊田自動織機製作所)に入社。父と一緒に自動織機の開発に挑み、1924年(30歳)に完成させた。1930年(36歳)、父が自動車国産化の夢を喜一郎に託して他界。喜一郎は欧米の自動車工場を視察し、1933年(39歳)、社内に自動車部を設立し国産自動車の生産に着手した。技術問題、資金問題を克服して1935年(41歳)に試作車・A1型乗用車&G1型トラックを完成させた。
トラック量産化の目途が立ち、1937年(43歳)、豊田自動織機製作所から自動車部を独立させてトヨタ自動車工業を設立。翌年、現・豊田市(愛知県)に工場を建設し操業を開始。1939年(45歳)、大衆向けの中型乗用車「トヨタ新日本号」を生産した(400台)。 1941年(47歳)、2代トヨタ自動車工業社長に就任。乗用車量産化をスタートしようとした矢先、同年末に真珠湾攻撃があり太平洋戦争が勃発、計画は中断される。戦後、日本の自動車産業発展の基盤を築き、1952年に57歳で他界した。妻は元・高島屋社長、飯田新七の娘。長男は6代トヨタ自動車社長の豊田章一郎。次男は7代社長の豊田達郎。長女はみずほ銀行総裁の妻。豊田市役所の広場に喜一郎の銅像がある。 ※トヨタ自動車工業の初代社長は義兄の利三郎だが、実質的な創業者は喜一郎。
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江戸前期の豪商。故郷紀州のみかんを江戸に運び、帰りの船には塩鮭を江戸から上方に運んで大成功を収めた。通称、紀文。紀伊国出身。江戸八丁堀に住み材木問屋を開業。28歳頃、幕府の老中や勘定奉行に接近し、駿府の豪商・松木新左衛門と一緒に御用達商人として上野寛永寺根本中堂の用材を調達し巨利を得た。40代に火災で木場を焼失し材木屋は廃業する。吉原で豪遊し「紀文大尽(だいじん)」と呼ばれた。 ※他の有名な豪商は日光東照宮の修復工事を請け負った奈良屋茂左衛門。 ※左側の小さいのが墓石 |
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なんと幕末にパリで撮影!当時27歳 | 91歳まで生きた | 日銀前、常盤橋公園の銅像 |
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墓所は通常非公開だが、霊園入口の 花屋「ふじむらや」で鍵を借りられる |
中央が栄一。右に死別した先妻千代夫人、 左に再婚した兼子夫人の墓が並ぶ(2010) |
「青淵渋沢栄一墓」。3m近くもあり、 背面に偉業を讃えた銘文がぎっしり |
養子・平九郎(先妻の弟)の墓。戊辰戦争で 官軍と戦い自刃。さらし首にされた(2011) |
「たとえその事業が微々たるものであろうと、自分の利益は少額であろうと、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで仕事にあたることができる」(渋沢栄一)。“日本資本主義の父”と讃えられ、500以上もの企業の設立に関わった近代日本を代表する大実業家。初の民間銀行・第一銀行(現・みずほ銀行)、東京海上火災保険、日本郵船、サッポロビール、キリンビール、東洋紡績、王子製紙、東京ガス、帝国ホテル、秩父セメント(現太平洋セメント)、秩父鉄道、京阪電鉄、時事通信社、共同通信社など、縁のある多くの会社が現存している。商法講習所(現・一橋大学)や東京証券取引所設立にも携わった。91歳まで長寿し、幕末維新から昭和初期まで財界の指導者となった 1840年(天保11年)に現・埼玉県深谷市の農家に生まれる。渋沢家は藍玉(染料)や養蚕も家業とした半農半商。栄一は少年期から家業に従事し、14歳で既に仕入れを任されるなど信頼されていた。1858年(18歳)、論語など中国古典の学問の師、尾高惇忠の妹・千代と結婚。1861年(21歳)、江戸にのぼって北辰一刀流に入門し剣術を磨く。道場では勤王の志士たちと交流を深め、栄一自身も外国人排斥=尊王攘夷運動に傾倒していく。1863年(23歳)には過激な武力蜂起計画を立て、高崎藩(高崎城)の武器庫を襲撃し横浜外国人居住地を焼き討ちし、混乱に乗じて長州藩と結び倒幕を果たそうとした(妻の身内から説得され思いとどまる)。同年、幕府の監視の目が厳しくなり、また攘夷の思いがつのり京にのぼるが、肝心の長州藩ら尊王攘夷派が“八月十八日の政変”で都を追い出されており、翌年(24歳)、かつて江戸滞在で親交を持った一橋家家臣・平岡円四郎(後に攘夷派に暗殺される)に推挙を受けて当主・一橋慶喜に仕えることになる。そこでも財政運用に長けたことから、1866年(26歳)、一橋慶喜が15代将軍に就任した際に幕臣に取り立てられた。京都では新選組・土方歳三と共に不逞浪士を捕縛したこともある。 明治維新の前年となる1867年(27歳)、パリ万国博覧会に将軍代理として出席する徳川昭武(慶喜の弟)の従者としてヨーロッパ諸国を歴訪。栄一は進んだ科学技術や経済制度に驚嘆する。1868年、戊辰戦争に勝利した維新軍は新政府を樹立し、栄一に帰国命令を発令。同年暮れに横浜港に帰着した。翌年、大隈重信に説得されて民部省・大蔵省に入省し、株式制度設立、貨幣制度の導入、近代的財政に汗を流した。国立銀行条例などを起草立案して財政制度の確立に務めるも、1873年に財政運用の考え方の違いから大蔵省を退官。 その後、民間の立場から株式会社方式による企業設立を指導。これらは純粋に日本の近代産業の発達を望んだものであり、岩崎弥太郎(三菱)、住友友純、安田善次郎、三井高福といった明治の四大財閥創始者と大きく異なり、「渋沢財閥」を作らなかった。私腹を肥やすことが目的ではなく、「私利を追わず公益を図る」との強い信念を持っていた。 1909年(69歳)、諸事業の役職から身をひき、以降は社会公共事業に尽力。日本赤十字社、癩予防協会の設立をサポートし、聖路加国際病院初代理事長、滝乃川学園初代理事長などに就任した。ワシントン軍縮会議の成功を願って渡米し、日米親善のため講演したほか、日本国際児童親善会設立、環太平洋連絡会議の日本側議長をはじめ国際親善にも貢献。当時、“女子に教育は必要ない”という風潮があったが、栄一は女子教育を重視し、勝海舟や伊藤博文らと女子教育奨励会を組織。日本女子大学校の設立に協力した。 1916年(76歳)、“論語”を背景とした経済哲学論『論語と算盤』を著し、同書で富を社会に還元する必要性を説く「道徳経済合一説」を唱えた。「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」(『論語と算盤』)。 最晩年の1931年、中国で大水害が起き、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募り、同年11月11日に他界した。正二位勲一等子爵。他の著名実業家は男爵位どまりのなか、子爵号を栄一が与えられたのは、“公益”の姿勢が多くの人に感銘を与えた結果だ。雅号は青淵(せいえん)。戒名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。福沢諭吉と並ぶわが国の経済近代化の最大功労者。 墓所は東京・谷中霊園の乙11号1側。石柵に囲まれた渋沢家の墓所は施錠され通常非公開だが、霊園入口にある花屋「ふじむらや」に申し込めば鍵を借りることが出来る。 ※1926年と1927年にノーベル平和賞候補に選出されている。 ※千代夫人は1882年(栄一42歳)に死去。翌年、伊藤兼子と再婚。 ※財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設しているが、あくまで没後の財産争いを防ぐ目的で持株会社化したもので、保有株の多くは会社の株の数パーセントにも満たないもの。“財閥”ではない。 ※孫の渋沢敬三は日銀総裁・蔵相を務めている。渋沢家の合祀墓(納骨堂)に眠る。 ※「明治維新当時の財界における三傑は三井の野村利左衛門(三井財閥の創設者)と鉱山王の古河市兵衛(古河財閥創設者)と天下の糸平こと田中平八を挙げなければならない」(栄一) ※1889年から1904年まで15年間にわたって深川区会議員を務めた。 ※フランス文学者・澁澤龍彦は渋沢家の本家出身。栄一は分家。 |
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墓石には“真浄”の2文字と家紋だけが彫られている | 階段の右脇に「盛田」 |
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正面左に盛田家が愛知出身 であることなど先代の話が |
そして正面右には歴代当主の 戒名が初代〜13代まであった |
どっしりと安定感のある墓域! 井深大と2人でソニーを創業 |
井深大(まさる)と共にソニーを創業。“世界のセールスマン”と称された。父は酒造業者。愛知県出身。1944年(23歳)、大阪帝大の理学部物理学科を卒業。海軍技術中尉になり、戦時科学技術研究会で知り合った13歳年上の井深大と熱線探知機の開発に携わる。終戦後、1946年(25歳)に、井深と「東京通信工業」を共同設立。常務取締役の盛田が営業を担当し、専務取締役の井深が技術開発を行なった。両者のモットーは「新商品で新しい市場開拓」。1950年(29歳)、日本初のテープレコーダー「G型」を完成させ、盛田が大ヒットさせた。翌年、三省堂社長の娘と結婚。 続いて1955年(34歳)に日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売。盛田は渡米して「SONY」ブランドで売り込みを開始した。「SONY」の名前は“SOUND(サウンド)”の語源であるラテン語“SONUS(ソヌス)”と、元気で若い企業のイメージから英語の“SONNY”(“坊や”の意)を重ねたもの。1957年(36歳)、世界最小・高性能のトランジスタラジオ「TR-63」がアメリカでヒットし、「SONY」の名が認知された。 1960年(39歳)にトランジスタテレビ、1965年(44歳)に世界初の家庭用ビデオ・テープレコーダーを開発。 盛田は徹底した海外マーケティングを行ない、各国に現地法人の販売会社を作ったことから、SONYの名は世界に広まった。1971年(50歳)、井深が会長になり盛田は社長に就任。そして1976年(55歳)には井深が名誉会長、盛田が会長に就任した。1979年(58歳)、ウォークマンを発売し爆発的にヒットさせる。1989年(68歳)、石原慎太郎と共著した「NOといえる日本」が話題になった。 盛田は非常に語学に優れ、英国では名誉英語達人賞を受けた。ニューヨーク証券取引所諮問委員会委員やIBMの役員も歴任し、国内では1991年(70歳)に勲一等瑞宝章を受章。翌年、英国王室からナイト爵の称号と名誉大英勲章を贈られた。1993年(72歳)、脳内出血で倒れ財界から身を引き、ハワイで静養に入る。1998年(77歳)、米誌「タイム」が企画した“20世紀の20人”に、日本人でただ1人選出された。1999年、肺炎により他界。享年78歳。戒名は盛昭院天涯敬道上座。 |
世界初の総合商社・三井物産を設立。日本経済新聞を創刊。佐渡出身。江戸に出てヘボン塾に学び、アメリカ公使館に勤めてハリスに英語を教えて貰った。1863年(15歳)、幕府役人の父と渡欧し、帰国後に幕府陸軍に入隊する。維新後、横浜で貿易商館に勤務。1872年(24歳)、井上馨の誘いで大蔵省に入省。1874年(26歳)、井上と先収会社を設立し副社長となる。 1876年(28歳)、中外物価新報(現・日本経済新聞)を創刊。同年、三井物産を設立し初代社長に就任する。1880年、ロンドン支店を開設して欧州へ米を輸出した。石炭、綿糸など多様な物品をアジア各地へ輸出し、日本の貿易総額の約2割を占めるまで成長させた。 1889年(41歳)、「三池炭鉱社」(三井鉱山)を設立し団琢磨を事務長に迎える。1900年(52歳)に台湾製糖を設立。1913年(65歳)に引退。茶人・鈍翁としては「利休以来の大茶人」と称された。1938年、90歳で他界。男爵。 ※三井家…17世紀に伊勢の商人・三井高利が江戸日本橋に呉服店越後屋(三越)を開店し、両替商にも手を広げ、京都、大坂に店舗を構える三都御用商人となった。明治新政府の政商となり、三井物産(益田孝が経営)、三井銀行(中上川彦次郎が経営)、三井鉱山(米国で鉱山学を学んだ団琢磨が経営)の3企業を軸に発展し、鐘淵紡績(カネボウ)、王子製紙、芝浦製作所(東芝)、富岡製糸場などを傘下にした。 |
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団家の墓所。右端の大きい墓が琢磨 | 中央の小さい墓は、孫で作曲家の伊玖磨 |
三井財閥の総帥。工学博士。男爵。作曲家・団伊玖磨は孫。福岡県生まれ。1871年(13歳!)、岩倉使節団と渡米し、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び7年後に帰国。東大理学部助教授を経て1884年(26歳)工部省に入省、三池鉱山局技師となる。採炭技術の習得のために渡欧。1894年(36歳)、三井鉱山合名会社専務理事に就任し、三池炭鉱の近代化に尽力。その結果、三井鉱山の利益は三井銀行を追い抜き、三井物産と肩を並べるまでになった。三井グループ中で発言力を増した琢磨は、1914年(46歳)、益田孝にかわって三井合名会社理事長に就任し、三井財閥の総帥となる。 1922年(54歳)、第2の“渋沢”と言われた井上準之助と日本経済連盟会(経団連の前身)を設立し、6年後に会長となり財界の顔となった。昭和恐慌の際に三井財閥がドル買いによって利潤を上げていたことから、右翼団体“血盟団”に「私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と見なされ、1932年3月5日、東京・日本橋の三井本館正面玄関前で団員・菱沼五郎に拳銃で暗殺された。犯人の菱沼は無期懲役判決を受けたが、わずか6年で仮出所し、小幡五朗と改名、1958年に茨城県議会議員に当選し、8期連続当選、県議会議長まで務めて県政界の実力者となった。 労働組合法の制定に反対していたことから、僕は長年墓巡礼に行かなかったけれど、福岡藩士の馬廻役の子に生まれ、養子に出され、そこから日本財界のトップ(現・経団連会長)まで登り詰めたバイタリティは、それはそれとして評価できると思うようになり巡礼。 ※九州新幹線新大牟田駅前に銅像が建つ。 |
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中央が伝三郎。右は先祖墓、左は長男平太郎 | 元奇兵隊隊士 | 大阪の藤田美術館入口 |
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護国寺の墓所は非公開だけど格子から見える | 中央の墓が本家。側の墓には“分家”と入ってた | 「安田氏累代墓」 |
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夕暮れ時に巡礼(2012) | もっと手前で手を合わせたい… |
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東京府中市の多磨霊園に一族の巨大墓 | 善次郎の婿養子で安田銀行総裁の安田善三郎(2010) |
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故郷の富山の分骨墓。正面に「納骨」の字 | 左側面に「安田善次郎」とある(2019) |
安田財閥の創始者。“銀行王”。富山県出身。幼名、岩次郎。父は富山藩の足軽で半農半士。1858年(20歳)、江戸にあがり玩具問屋などで奉公し、1864年(26歳)、日本橋に海産物商兼両替商の「安田屋」を開いた。2年後、海産物商をやめて両替専門に特化。「安田商店」に改名し、明治新政府の官公金を扱って莫大な利益を得た。1876年(38歳)、第三国立銀行(第三銀行)を設立。吸収合併を繰り返して支店を増やし、1880年(42歳)に「安田銀行」(現・みずほ銀行)を設立した。1882年(44歳)、新たに開業した日本銀行の理事に就任。「銀行王」と呼ばれた。 1893年(55歳)、帝国海上保険(現・損保ジャパン)を設立し、翌年には共済生命保険会社(現・明治安田生命保険)を設立するなど、金融財閥へと爆進する。 大正末期の不況の中、善次郎は東大安田講堂、日比谷公会堂、麹町中学校の校地などを寄贈したが、1921年、国粋主義者・朝日平吾に“富を社会に還元せず富豪の責任を果たしておらず天誅に値する”と大磯の別荘で刺殺された。朝日平吾はその場で剃刀で首を切り死亡。戒名は正徳院釈善貞楪山大居士。 オノ・ヨーコの曽祖父でショーン・レノンの高祖父にあたる。 ※故郷の富山・西円寺に、「安田屋善次郎」の名で先祖の墓を建立し自身も分骨されている。 「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」(安田善次郎) |
日産自動車、日産コンツェルン創始者。貴族院議員、参議院議員、帝国石油社長などを歴任。山口県出身。大学卒業後、芝浦製作所(東芝)に入り、2年後にアメリカで鋳物の製造技術をマスターする。1910年(30歳)、福岡にて戸畑鋳物を創業。1928年(48歳)、公衆持株会社(公開持株会社)の日本産業に改組する。1933年(53歳)、自動車製造株式会社(現・日産自動車)を創業し、乗用車を日本で初めて輸出した。 旧財閥と異なる路線の自由主義を掲げ、日産自動車、日立製作所、日本水産、日本鉱業(JXホールディングス)といった有力企業を傘下に収めた新興財閥、日産コンツェルンを築き上げる。 1937年(57歳)、日本産業本社を満州に移し、戦時中は航空機エンジンの生産など国策に協力。戦後は戦犯として巣鴨拘置所に収監された。公職追放が解除されると政界に進出し、1953年(73歳)に参議院議員に当選した。1967年、86歳で他界。 |
三井中興の祖。中上川は“なかみがわ”と読む。大分県出身。父は中津藩士。福澤諭吉の甥(母が諭吉の姉)。慶應義塾を卒業後、イギリス留学を経て工部省に入省。井上馨の知遇を得、共に外務省に入った。1887年(33歳)、山陽鉄道(JR山陽本線)の社長に就任。 1891年(37歳)、経営危機に陥った三井銀行を建て直す為に、井上馨の要請を受けて三井財閥に入った。中上川は益田孝と共に不良債権処理を断行するなど財政の健全化を図り、芝浦製作所(東芝)、鐘淵紡績(カネボウ)、王子製紙を傘下に置き三井財閥の工業化を進めた。1901年、腎臓炎により47歳の若さで他界。 |
日立製作所創業者。栃木県出身。1910年(36歳)、久原鉱業所・日立鉱山の工作課長をしていた小平が、同鉱山の電気機械の修理を行なう日立製作所を創業(茨城県日立市)。やがて製作したモーターや発動機を外部へも売り始め、1920年(46歳)、久原鉱業所から独立する。後に大阪鉄工所(日立造船)や東京瓦斯電気工業などを買収合併し、グループは成長していった。1951年、77歳で他界。 |
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左が喜八郎、右が夫人 | 徳川家のような墓 |
大倉財閥の創設者。越後国(新潟県)出身。1854年(17歳)、江戸へ上京し鰹節店に勤める。20歳で乾物店を開業し、1867年(30歳)に鉄砲店を開く。折しも戊辰戦争が勃発し武器販売で利益を得た。1872年(35歳)、1年半をかけて欧米を視察した喜八郎は、帰国後に大倉組商会を設立し、外国との貿易だけでなく、台湾出兵、西南戦争、日清・日露戦争における(三菱、三井を超える)軍需品調達で莫大な富を得た。 3歳年下の渋沢栄一と深く親交を結び、協力して1878年(41歳)に東京商法会議所(現・東京商工会議所)を設立。1883年(46歳)に東京電灯会社(東京電力)と鹿鳴館、1885年(48歳)に東京瓦斯会社(東京ガス)、1887年(50歳)に帝国ホテル、1893年(55歳)に大倉土木組(大成建設)、1906年(69歳)に大日本麦酒会社(後にアサヒビールとサッポロビールに分割)、1911年(74歳)に帝国劇場の設立に関わった。1915年(78歳)、男爵を授与された。 |
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なんという大規模な墓域! 護国寺は講談社本社のすぐそば |
こちらは戒名が刻まれた墓(右端)。 この墓の背後に見えている墓石が→ |
「野間清治墓」とある巨大墓。どうして 戒名の墓と2種類造ったのかは不明 |
講談社創業者で「雑誌王」と呼ばれた。また、報知新聞社やキングレコードの社長も務めた。群馬県出身。小学校、中学校の教師を経て、1909年(31歳)に大日本雄弁会を創設。翌年に弁論雑誌「雄弁」を創刊する。 1911年(33歳)、講談社を設立して「講談倶楽部」を創刊し、その後の10年間に「少年倶楽部」「面白倶楽部」「婦人倶楽部」「現代」と次々と人気雑誌を刊行していった。1925年(47歳)に創刊した大衆娯楽雑誌「キング」は、発行部数100万部を超える大ヒット作となった。この年、講談社と大日本雄弁会を合併させ、社名を「大日本雄弁会講談社」とした。 1938年に59歳で死去。他界の3年後、野間賞が設けられた。没後20年にあたる1958年に、社名が「講談社」になった。剣道を深く愛していたことでも知られる。 |
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正面右側が佐藤喜亮 | 新潮文庫いっぱい持ってます! |
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秋に再訪 | 夕暮れ時 |
新潮社創業者。名前の義亮は“ぎりょう”とも読む。秋田県出身。父は荒物屋。文学青年であり、1895年(17歳)に上京、秀英舎(現・大日本印刷)の工場で働く。やがて、雑誌への投稿文が評価されて校正係に抜擢され、自ら出版事業を始める大志を抱く。支援者を得て1896年に18歳の若さで新声社(現・新潮社)を創業。主に田山花袋らの自然主義文学を出版する。1904年(26歳)に文芸誌『新潮』、1914年(36歳に新潮文庫を発行した。1951年に死去。享年73歳。戒名は真澄院釈義照居士。他界の5年後(1956年)に保守系週刊誌『週刊新潮』が創刊された。 |
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墓域は庭園のような広さ | 墓前に夫妻の句 | こちらにも句碑がある |
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角川書店を創業 |
「角川家之墓」と彫られている |
明治42年没の 角川源三郎が祖 |
角川書店の創立者であり国文学者、俳人。角川書店(KADOKAWA)の創立者。源義は“げんよし”と読む。俳号は源義(げんぎ)、水羊(すいよう)。
1917年10月9日に富山県で生まれた。父源三郎は商人。中学時代から俳句に興味を持つ。古書店で国文学者・折口信夫(おりくちしのぶ)の著書に出会ったことがきっかけで、1937年、20歳のときに父の反対を押し切って当時国学院大学教授であっ た折口の学風にひかれ入学、折口信夫、柳田国男らの指導を受ける。1941年(24歳)、太平洋戦争が勃発し、臨時徴兵制度によって大学を繰り上げ卒業する。戦時中は中学の教師となった。終戦までに春樹ら3人の子を授かる。 1945年(28歳)11月に東京都板橋区で「角川書店」を設立。当時“青春のバイブル”と称された阿部次郎『三太郎の日記』を刊行して成功を収めた。 角川書店創業のきっかけは、たまたま手にした反軍国主義の東大教授で、前年に没した河合栄治郎(1891-1944)の著書欄外に「目がつぶれるほど本が読みたい」と書き込みがあり感動したため。 ※河合栄治郎(1891-1944)…東大経済学部教授。著作で五・一五事件、二・二六事件などの軍国主義や資本主義体制を批判。右翼・軍部などファシズム勢力は、河合を社会的に抹殺するため、「自由主義的である」として弾圧した。河合は日中戦 争勃発の翌年(1938)に全著作発禁となり、起訴されて東大休職の処分を受ける(河合栄治郎事件)。戦争後期の1944年2月15日、失意のうちに53歳で病没した。 1949年(32歳)、憲法記念日(2年前に施行)である5月3日に『角川文庫』を創刊。文庫本というジャンルは、戦前から岩波書店、新潮社が成功しており、それに続いての挑戦であったが好評を持って迎えられ、戦後の文庫ブームの端緒になる。 このとき、源義は次の刊行の辞を巻頭に刻んだ。実に、名文である。 《角川文庫発刊に際して》角川源義 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。 西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層 への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。 一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎(もた)らすためには絶好の機会で もある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。(以下略) 一九四九年五月三日 1952年(35歳)に発刊した『昭和文学全集』(全60巻)は、1巻あたり15万部強の爆発的売れ行きを示し、全集ブームのきっかけをつくる。こうして文芸出版社としての角川書店の評価が確立した。 この年、俳句総合誌『俳句』を創刊、2年後には短歌総合誌『短歌』を創刊し、両誌で新人賞を設けている。 1961年(44歳)、『語り物文芸の発生』で文学博士の学位を受ける。 1964年(47歳)以降、国学院大学文学部講師を務める。晩年は「俳句文学館」の建設など俳壇・歌壇の興隆に尽力。 1975年10月27日、58歳で急死。戒名は浄華院釈義諦。同年、第5句集『西行の日』で読売文学賞を受賞。4年後に角川源義賞が発足した。 社内では「角川天皇」と畏れられる存在であったという。私生活では複数の愛人に私生児を産ませ、奔放な生き方を貫いた。著作に「語り物文芸の発生」、句集に「ロダンの首」「西行の日」など。 小平霊園の墓前には、歌碑「花あれば西行の日と思ふべし」(『西行の日』所収)が建てられている。自身の句にちなみ忌日は「秋燕忌」(しゅうえんき)とも呼ばれる。 長女に作家の辺見じゅん(1939-2011)、長男に角川春樹(角川春樹事務所会長兼社長)、次男に角川歴彦(つぐひこ/KADOKAWA会長)がいる。 |
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墓域全景。長谷寺墓地の奥の方 | 宮崎駿監督に資金援助! | ジブリの社長に就任 | 墓前には仏像が7体もあった |
初代の徳間書店社長。スタジオジブリ社長や大映社長も歴任した。実業家としてだけでなく、映画やレコード・プロデューサーとしても腕を振るった。1984年(63歳)、一般的には無名に近かった宮崎駿(当時43歳)の才能を見出して製作面で支援し、『風の谷のナウシカ』を世に送る。その後も、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』(1988)、『魔女の宅急便』(1989)、『紅の豚』(1992)で製作を担当し、『もののけ姫』(1997年)や遺作となった『千と千尋の神隠し』(2001)では製作総指揮にまわった。 実写映画でも、『敦煌』(1988)、『おろしや国酔夢譚』(1992)、『Shall we ダンス?』(1996)、平成ガメラ・シリーズで製作総指揮になっている。『ガメラ2 レギオン襲来』(1996)では内閣官房長官役でカメオ出演した。 ※宮崎監督にいくら才能があっても製作資金がなければ映画を作れないわけで、その点で徳間康快はアニメ・ファンの恩人ともいえる。 |
中央公論社の名社長。軍の弾圧と戦った反骨の出版人。奈良県生まれ。1912年(25歳)、早稲田を卒業し中央公論社に入社。名編集者滝田樗陰(ちょいん)の助手をしながら企画した婦人問題特集が話題となり、1916年(29歳)に新雑誌「婦人公論」の編集長となる。1925年(38歳)、滝田が他界し「中央公論」主幹を兼任。1928年(41歳)、中央公論社の社長となる。嶋中は近代的な経営を目指し、就任翌年に出版部を新設。「西部戦線異状なし」が大ベストセラーとなり手腕が注目された。また、谷崎潤一郎や永井荷風など作家を積極的に援助した。 1936年(49歳)、二・二六事件が勃発。以降、反軍国主義、自由主義的な姿勢を貫く中央公論社への弾圧が激しくなる。1938年(51歳)、「中央公論」掲載の石川達三『生きてゐる兵隊』が反軍的であるとして発禁処分を受け、嶋中や石川は新聞紙法違反で起訴された。谷崎の連載『細雪』も「時局に相応しくない」と二回で中断される。 1942年(55歳)、太平洋戦争下の大規模な言論弾圧事件“横浜事件”が起きる。これは神奈川県の特高警察が架空の共産党再建謀議をでっちあげ、中央公論社の編集者ら数十人が検挙されたもの。取り調べは過酷を極め4人が獄死した。そして1944年(57歳)、情報局通達の解散命令で「中央公論」は廃刊となる。 終戦と同時に、嶋中は中央公論社を執念で再建し、1945年の年末に「中央公論」復刊第1号を刊行。翌春には「婦人公論」も復刊した。終戦から4年後(1949年)、嶋中は波乱の人生を閉じる。享年61歳。 |
我が国初となる日本語の日刊新聞「横浜毎日新聞」創業者。長崎出身。通称、子之助。陽其二(よう・そのじ)は30歳の時に明治維新を迎えた。1870年12月8日(31歳)、横浜毎日新聞を印刷。日本最初の日刊邦字紙であるだけでなく、国産の活字を使用し、従来の木版刷り&和紙ではなく、活版刷り&洋紙一枚両面という画期的新聞となった。3年後に印刷業の景諦社を設立した。号は天老居士。 同紙は「東京横浜毎日新聞」→「毎日新聞」→「東京毎日新聞」と名前が変わり、他界の34年後、日米開戦直前の1940年に廃刊となった。 ※現在の「毎日新聞」は日本最古の日刊紙ではあるけど、まったく別会社のもの。陽其二が横浜毎日新聞を創刊してから2年後、1872年に誕生した「東京日日新聞」が、1911年に「大阪毎日新聞」と合体 し、1943年に社名が「毎日新聞」となった。 |
博報堂創業。富山県出身。1895年(43歳)、東京都日本橋に広告取次店「博報堂」を開業。当初は教育雑誌を対象にしていたが、新聞や一般誌の広告も取り扱うようになった。1910年(58歳)、日刊『内外通信』を発刊し、通信社事業にも乗り出す。1939年に他界。社名は「内外通信社博報堂」を経て1955年に博報堂に戻った。 |
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「日比翁助之墓」。ライオン好き | 隣りには養母の民子さん |
三越百貨店創業者。日本初の百貨店を作った人物!父は久留米藩士。商社勤めを経て、1896年(36歳)に三井銀行に入社。2年後に三井中興の祖・中上川彦次郎の依頼で三井呉服店に入る。1904年(44歳)、三越呉服店が開業し専務取締役に就任。1906年(46歳)、欧米視察の際にロンドンのハロッズ百貨店に大きな刺激を受ける。 1913年(53歳)、三越呉服店会長となり、翌年荘厳な洋風建築の日本橋三越本店を建設した。子どもに「雷音」と付けるほどライオン好きで、三越本店の正面玄関にライオン像を設置した。 |
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広大な鎌倉霊園の一番上に墓所がある |
一般人はここまでしか行けない。セコムが発動する |
頂上に墓があるというけど写真で見たことない… ヘリポートも備え付けてあるそうだ |
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巨大な「三島海雲翁顕彰碑」。カルピスの発明者! 三島がモンゴルで飲んだ酸乳が原点という |
内部のプレートにサンスクリット語やモンゴル語で 「我と一切の有情(うじょう、生物)とを清めよ」 |
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非常に珍しい形の五輪塔 | 側面に「三嶋家之墓」 | 吉田茂謹書とあった! |
カルピス創業者。1917年(39歳)、乳酸菌入りのキャラメルを販売するラクトーを設立。1919年(41歳)、モンゴル人の飲み物をヒントに、脱脂乳を乳酸発酵させて加糖し、カルシウムを添加した乳酸菌飲料を発売する。三島はこの商品を、カルシウムと梵語(サンスクリット語)で“最高の味”を意味するサルピスを合成して“カルピス”と名付けた。「初恋の味」というキャッチコピーが大当たりし、国民的な飲み物になっていった。 |
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森永家の墓所 | 中央が太一郎。皆クリスチャンで側面に聖書の言葉 | 「罪人の中 我は音なり」と刻む |
森永製菓創業者。佐賀県出身。10代後半から行商を始め、焼き物を販売すべく渡米するも不振に終わる。再起を賭けた2度目の渡米で洋菓子の製造技術を学び帰国。1899年(34歳)、赤坂に森永西洋菓子製造所を創業する。当初の主力商品はマシュマロ。6年後にエンゼルマークを商標登録。1912年(47歳)、社名を森永製菓に改称。1914年(49歳)、ミルクキャラメルを発売。1918年(51歳)にチョコレート、1923年(58歳)にビスケットの量産体制を整える。晩年はキリスト教の伝道に尽力した。元首相・安倍晋三夫人は曾孫。 |
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午後の木洩れ陽が良い感じ。ラガービールを飲みたくなる | 「米井家之墓」 |
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広大な墓域! | 右が総一郎、左が夫人 | 一代で70社という浅野財閥を築いた | 背後に「初代浅野総一郎」 |
浅野財閥の創設者。京浜工業地帯を立案。富山県出身。23歳で上京。砂糖水売り、竹の皮(包装用)売りを経て1874年(26歳)に薪炭(しんたん)商になる。コークス(石炭を蒸し焼きした燃料)の販売で成功し、1883年(35歳)、渋沢栄一の支援で官営深川セメント製造所を創業する。これを日本最大のセメント・メーカーに成長させ、同郷の銀行家・安田善次郎の協力で、日本初の太平洋定期航路を持つ東洋汽船を1896年(48歳)に設立。 1898年(50歳)に浅野セメント(日本セメント)、1916年(68 歳)に浅野造船所(日本鋼管、現JFE)、1918年(70歳)に浅野製鉄所を設立するなど、第1次世界大戦の特需で事業を拡大させた。一代でセメント、造船、貿易、炭鉱、製鉄など、関係会社70社に及ぶ浅野帝国を築き上げた。 |
花王創業者。24歳で東京の日本橋に洋小間物商の長瀬富郎商店を創業。1890年(27歳)、月のマークの“花王石鹸”の販売を開始する。1911年に他界。長瀬の死から14年後、1925年に社名が花王石鹸となる。他界21年後に“花王シャンプー”、その2年後(1934年)に洗濯石鹸“ビーズ”、さらに4年後に日本最初の家庭用合成洗剤“エキセリン”を発売し、日本の石鹸、洗剤業界を牽引した。戒名は大法院教徳日富居士。 |
御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。真珠養殖の先駆者であり、“真珠王”と呼ばれた。三重県出身。家はうどん屋。乱獲によって絶滅の可能性があったアコヤガイ(真珠貝)の養殖に取り組み、1905年(47歳)、天然に匹敵する美しさの真円真珠の養殖に成功した。海外にも販売網を構築し、96歳まで長寿した。 |
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多磨霊園は広い墓域の墓所が多い | 「市川家先祖代々之墓」 |
東京出身。1948年(21歳)、東京文化学院卒。1951年(24歳)、第一企画宣伝を設立。ラジオをメインに取扱う広告会社としてスタート。1961年(34歳)、第一企画に社名を変えて社長に就任。4年後にアニメ部門の第一動画を設立し、1968年(41歳)、全国のチビッコを震え上がらせた『妖怪人間ベム』を世に送った。境の死の6年後、1999年に旭通信社と合併し、社名を「アサツー ディ・ケイ」とする。国内広告代理店としての年間売上高は、電通、博報堂に次いで第3位。アサツー ディ・ケイは『∀ガンダム』『機動戦士ガンダムSEED』『機動戦士ガンダム00』『ドラえもん(大山)』『蟲師』の制作に関わっている。 |
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中島飛行機の一式戦闘機“隼” | 広大な墓域、墓石も大きい | 「中島知久平墓」(2010) |
群馬県出身。農家に生まれる。日本初の民間飛行機製作所、中島飛行機(のちの富士重工業)の創始者。政友会総裁を務めた政治家。海軍機関学校卒業後、1908年(24歳)、機関少尉に任官、3年後に大尉まで昇進。フランスやアメリカの航空界を視察した後、1917年(33歳)に海軍を退官し、群馬県太田に「飛行機研究所」を設立、1919年「中島飛行機製作所」に改称。1930年(46歳)、衆院議員に当選(以降5回連続当選)。立憲政友会に入党。翌年、中島飛行機所長を弟に譲り、商工政務次官に就任。鉄道大臣、大政翼賛会の参議を歴任する一方、立憲政治を守るために強力な政党を作ろうとしていた。 1941年(57歳)、中島飛行機の一式戦闘機“隼”が陸軍に正式採用される。米国の国力を知っており、日米開戦には反対していた。1945年、敗戦後に軍需相、商工相となり、年末にA級戦犯指定(2年後に指定解除)。1949年、脳出血のため急逝。享年65。中島飛行機は陸軍戦闘機はじめ航空機の3割近くを独占生産した。 ※太平洋戦争の主力機“隼”は、海軍・三菱の零式艦上戦闘機に比べると火力は劣ったが命中率では上回った。また運動性能も零戦に譲ったものの、防弾装備によって防御力は隼の方が優秀だった。総生産機数は5,700機以上。零戦に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位。 |
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全国の子ども達が合掌すべきお墓! | 「富山家」とある。允就の長男・幹太郎が建立 | 「ぷられーるも、とみかも、だいすきです!」 |
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墓誌では栄一郎の名が「栄次郎」に、 允就の名は本名の「長次郎」になっている |
プラレールを開発した2代目社長・富山允就。そして 第1号プラレール「プラスチック汽車・レールセット」(1959) |
トミー(現タカラトミー)創業者。埼玉県出身。1924年、21歳のときに現・豊島区に富山玩具製作所を創業。3年後に墨田区へ移転、社名を富山工場とし法人化。1928年(25歳)、長男の允就(まさなり)誕生。1945年(42歳)、現タカラトミー本社の所在地、葛飾区へ移転。戦後は"Tomiyama"(トミヤーマ)のブランドで海外輸出を行い会社を発展させる。1959年(56歳)、允就(当時31歳)は栄市郎の命を受けて鉄道模型『プラレール』の原型となる「プラスチック汽車・レールセット」を開発、発売する。当時の玩具はブリキや木製が主流であり、プラレールの素材をプラスチックしたのは画期的だった。1963年(60歳)、社名をトミー工業に変更。 1965年、東京玩具組合長として栃木県におもちゃのまち=工業団地を作った。1970年(67歳)、允就(当時42歳)が海外のミニカーを参考に『トミカ』を開発、6車種を発売する。トミカ・シリーズは大ヒットし、2年後には60種を突破した。1973年(70歳)、勲四等旭日小綬章を受章。1974年(71歳)、創業50周年を機に允就が第2代社長になり、自身は会長に就任した。1978年に他界。享年75。允就は「黒ひげ危機一発」や「ゾイド」などヒット商品を次々と開発し、2005年に77歳で没した。 ※『プラレール』は国内だけで累計900種類、1億3200万個以上を販売。レールの総延長は実に地球2周分以上になる。 ※『トミカ』は700種を突破、2010年までの総生産台数は5億3800万台。 |
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入口が護国寺・山門から200m西にあるので注意 | “15通”に入って一番奥左手に墓所 | 『増田家之墓』 |
出版人、政治家。新潟県出身。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業後、読売新聞社に入社。1895年(26歳)、友人創刊の『実業之日本』の編集に関わり、その後病に伏せた友人から編集・発行権を譲られ、1900年(31歳)、読売を退社し“実業之日本社”を創立する。『婦人世界』『日本少年』『少女の友』など多くの雑誌を刊行する。1912年(43歳)、衆議院議員(日本進歩党)となり、後に衆議院副議長を務めた。 ※私事だけど、僕の墓巡礼レポートを1999年に初めて書籍『旅王』に載せて下さったのが実業之日本社だった。本屋さんで同書を手に取った時の興奮は忘れられない。当時僕は32歳。脱サラして文芸研究家になる大きなきっかけになった。増田義一氏が創業して下さったからこそ、僕にこのような縁が訪れたわけで、その意味では恩人といえる方。心を込めて墓前で感謝した。 |
近江商人、実業家。伊藤忠商事・丸紅という2つの大手総合商社を創業し、多角的経営によって伊藤忠財閥を形成した。
親鸞の墓所として知られる京都・大谷本廟に眠る。2020年、時価総額が三菱商事を抜いて業界首位に立った。 |
ロスチャイルド財閥より古い、400年以上の歴史を持つ世界最古の財閥家系、住友家の原点。 越前国出身の江戸時代の商人で住友家の初代。元は僧侶、出家前は武士。涅槃宗の僧となるも弾圧を受け、還俗(げんぞく)して在野の僧となり、京都で出版業・薬種業「富士屋」を開業した。一方、義兄(姉婿)の蘇我理右衛門が南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発して銅商となり、一族は繁栄していく。 住友では商家・住友家を興した政友を家系上の祖として家祖、銅精練の技術を開発した義兄・蘇我理右衛門を業祖としている。京都市下京区の浄土宗・永養寺に葬られる。 ※住友銀行が開業したときの15代当主・住友友純(ともいと)は、東山天皇の男系7世孫! ※大阪上本町の実相寺にも墓石あり。約40基の一族墓地の手前左側に夫妻の墓。法号・文殊院空蝉。 |
江戸前期の豪商。江戸、京都、大坂に店舗を構える三都御用商人。財閥三井家の家祖。伊勢松坂の商人の子(三井家第二代)。通称、八郎兵衛。
大名貸し、米の売買で財を築き、1673年江戸・京都に呉服店越後屋(三越)を開業、次いで江戸・大坂に両替商を営み、幕府為替御用達として巨額の富を蓄積、三井家の基礎を築いた。 墓所は正面右手が高利、左手が夫人。 |
野村財閥の創始者。両替商の野村徳七 (初代)の長男で二代目(幼名は信之助)。
1918年に大阪野村銀行(後の大和銀行、現在のりそな銀行)を設立、銀行証券部は1925年に野村證券として独立した。 お所は大谷墓地・北谷地区にあるが、廟所には鍵がかかっている。 ※墓地手前の花屋さんでお線香代を払うと鍵を借りられるとのこと。 |
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鳥井ファミリーの墓域 | 水場にサントリーのロゴが入っている |
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墓石には大乗妙典法華八巻が納経されている | 俗名鳥井信治郎とある |
茶屋四郎次郎家初代。本名は中島。清延が生まれる前、父明延は武士をやめて京で呉服商を開始。将軍足利義輝がしばしば父の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことから「茶屋」が屋号となる。
清延は若い頃に家康に仕え、武田軍との三方ヶ原の戦い等で活躍して橘の家紋を賜ったという。 本能寺の変の際は、堺に滞在中の家康一行に早馬で変を知らせ、家康の脱出劇「神君伊賀越」を物心両面で助け、この恩により徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。 清延の没後、後継の長男・清忠が急逝し、次男の清次が幕命で跡を継ぐ。1612年、清次は朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナムとの交易で莫大な富を得た。 清次は茶道具を集め、本阿弥光悦らの芸術支援にも熱心であったが、1622年に38歳で死去。家康の死因とも言われる「鯛の天ぷら」を駿河国田中城で家康に勧めたのは清次という。 角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに「京の三長者」と言われたが、鎖国後は衰退していき、10代目の不始末で特権を失い、維新後に廃業。 |
江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商。総資産は現在の約200兆円に相当する約20億両。岡本三郎右衛門は山城国の武家出身。信長に討たれて商人となり、常安の号を名乗った。常安は伏見城の造営や淀川の堤防改修工事で高い土木工事技術を発揮し秀吉に評価される。その後、大坂で「淀屋」と称し材木商を営んだ。大坂の陣で徳川方を支持し、土地や食料を提供、功績を家康に認められ土地300石と名字帯刀が許される。
2代目は自身が拓いた中之島に全国の米相場の基準となる米市を設立し、中之島に渡るため淀屋橋を自費で架けた。米市に集まる米を貯蔵するため、諸藩や米商人の米を貯蔵する蔵屋敷が中之島には135棟も立ち並び、市場で取引きされる米の4割(200万石)が大坂で取引きされるなど、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都になる土台を作った。淀屋の米市で行われた手形での米取引は、世界の先物取引の起源という。
ところが、あまりに淀屋の財力が武家社会に影響するため(諸大名へ貸し付けていた金額は現在の100兆円)、1705年、五代目淀屋廣當(こうとう)が幕府から財産没収処分にされてしまう。理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだが、本音は大名の借金の帳消しとも。だが、淀屋も負けていない。この処分に先立ち、番頭の牧田仁右衛門(淀屋清兵衛)に暖簾分けを行って倉吉(鳥取)に店を開き、後に再び元の大坂の地で再興した。淀屋が開拓した中之島に掛かる淀屋橋や常安橋に今も名が残る。
※淀屋を創業した岡本家によるものが前期淀屋、牧田家により再興されたものが後期淀屋。
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安土桃山・江戸初期の豪商・土木家。京都出身。名は光好。嵯峨に住む。 算数・地理を学び、秀吉に朱印状を得て安南(ベトナム)・東京(トンキン)との朱印船(角倉船)貿易に従事。 山城(京都)嵯峨の大堰川(おおいがわ)、高瀬川を私財を投じて開削した。 また幕命により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行って水路を開いた。 都では商人としてよりも「水運の父」として有名。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。諱は光好。 |
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天才自動車技師 | 国民車フォルクスワーゲン・ビートルを設計 | エレファント重駆逐戦車も設計 |
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墓参に訪れると、お墓が一般の墓地ではなく、ポルシェ家の敷地内の礼拝堂にあり、 “プライベート”と看板が出ていたので中に入れず、門の前で立ちすくんでいた。 すると、ちょうど年配の方が出てきて「私は孫だ。墓参り?入ってくれたまえ」とのこと! ※お孫さんは、おそらく長女の子、フェルディナント・ピエヒ氏。“マスコミ嫌いの超偏屈” という話だけど、初対面なのにめちゃくちゃ優しかった。っていうか、ハグしてくれたし… |
この私設チャペルが一族の墓所。 アポなしでよくぞ入れてくれたこと! |
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柵越しに中が見える | 祭壇の基壇に「Ferdinand Porsche」とあった | おそらく手前の床下に棺 |
★このサイトを重宝! 江戸時代の様々な物価相場 |
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