まずは当ページに登場する、天皇陵に関する用語の予備知識を! ●陵墓(りょうぼ)…天皇、皇后、太皇太后(天皇の祖母)、皇太后(先帝の皇后)のお墓。 ●王墓、墓…皇太子など他の皇族。
●拝所(はいしょ)…陵墓の前の広場。
●石柵(せきさく)…拝所を仕切る石の柵。公式名は“玉垣”(たまがき)。
・最初の石柵までが一般拝所。 ・2つの目の石柵までが特別拝所。 ・最深部の鳥居の手前が皇族拝所。 昭和天皇の御陵に佳子さまが「二十歳」の報告。一番奥の皇族拝所まで入っている(2015.1.15) ●白砂(はくしょ)…拝所に敷き詰められた白い石。筋(スジ、縦線)は“道”。 ●制札(せいさつ)…被葬者の名前を記した宮内庁の案内板。木製の立札。 ●濠(ごう、宮内庁の人は“ほり”と呼んでいる)…周囲の堀。
●兆域(ちょういき)…天皇が真下に埋葬されている場所。 ●諱(いみな)…死後に贈られる名前。 ●諡号(しごう)…こちらも同じく死後に贈られる名前。 ●陪塚(ばいづか)…大きな古墳の周囲にある臣下の墓。副葬品専用の塚もある。 ●見張所…各陵墓の前に建つ宮内庁職員の詰所。複数の見張所を統括するのが「部事務所」。さらにその上が5箇所ある 陵墓管区事務所。全国の陵墓は5つの監区=多摩、桃山、月輪(つきのわ)、畝傍(うねび)、古市(ふるいち)に分けられている。 かつて見張所では参拝証の「御陵印」を押して貰えたが、人件費削減のあおりで2000年4月からは監区事務所がエリア内の 陵印を一括保管するようになった。 【陵印保管場所】 月輪陵墓監区事務所(18陵墓)…京都府京都市東山区泉涌寺内 桃山陵墓監区事務所(26陵墓+3神代陵)…京都府京都市伏見区伏見桃山陵内 畝傍陵墓監区事務所(30陵墓)…奈良県橿原市神武天皇陵内 古市陵墓監区事務所(17陵墓)…大阪府羽曳野市応神天皇陵内 多摩陵墓監区事務所(2陵墓)…東京都八王子市武蔵陵墓地内 ※宮内庁・陵墓案内ページ ※和暦西暦対応表・外部リンク ※御陵印のいただき方・外部リンク |
★神武以前、神代の墓について 日本神話には、イザナギとイザナミが天上界から矛(ほこ)で海をかき混ぜ、しずくから最初にできた島がオノゴロ島=淡路島とあり、続けて日本列島が生まれたとされる。イザナギの墓は淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮の本殿の下にある。一方、イザナミの墓は古事記が島根県安来(やすぎ)市(旧伯太町)の比婆山(331m)とし、日本書紀が三重県熊野市有馬の花窟(はなのいわや)神社付近を墓所としている。『古事記』の方が古い文献であること、また安来市の隣りの松江市にはイザナミが死後に暮らした黄泉国と現世との境界になった黄泉平坂の伝承地があることから、個人的には比婆山の墓所に由縁を感じる。山の麓から1kmの参道を30分かけて登って行くと、山頂の久米神社奥宮にイザナミの塚が大切に祀られていた。墓マイラーといっても神様の墓参はそうそうなくテンションが上がる。比婆山は不思議な山で、古代の逆転磁気を帯びた磁場帯ゆえ方位磁石が使えず、山頂付近にだけ竹に似た幹に笹のような葉がついている奇妙な「陰陽竹」が自生している。 イザナギの子、アマテラスには墓の伝承がないが、アマテラスの孫であり天上界から三種の神器をたずさえて地上界に降り立った天孫ニニギの墓は、宮内庁が鹿児島・川内(せんだい)市に陵墓=可愛山陵を治定(じじょう、決定)しており、皇族の参拝が行われている。ニニギの墓所は他にも宮崎・延岡(のべおか)市に「陵墓伝承地」、及び西都(さいと)市に「陵墓参考地」が指定されている。 後者の西都市の陵墓=男狭穂(おさほ)塚は全国最大の帆立貝式前方後円墳であり、隣接する妻サクヤビメの陵墓=女狭穂(めさほ)塚は九州最大の前方後円墳。女狭穂塚は大阪藤井寺市の仲津山古墳と完全に同じ形(仲津山の3分の2サイズ)であり、ヤマト王権が設計図と技術者を九州に派遣したと推測される。 ちなみに国内に4000基ある前方後円墳は、日本特有の墓の形状。中国・朝鮮は大部分が円墳であり、伝来した円墳に祭壇部分が加わり、発展していったと思われる。最初期に現れた前方後方墳は奈良の箸墓古墳(全長275m)で、3世紀後半から4世紀前半に造られた。被葬者が巫女(7代孝霊天皇皇女)であるため、3世紀中頃に没した卑弥呼(もしくは後継の台与)の墓と考える研究者もいる。また付近に纏向(まきむく)遺跡があり、大型建造物の痕跡や、出土した土器が東海・山陰・山陽地方など各地の特色を持っていることから、ここに文化交流の拠点=邪馬台国があったと推察する考古学者が増えている。 宮内庁はニニギの子ホオリ(山幸彦※神武天皇の祖父)の陵墓を鹿児島・霧島市の高屋山上陵に、その子ウガヤフキアエズ(神武天皇の父)の陵墓を鹿児島・鹿屋(かのや)市の吾平山上陵に治定している。このように初代天皇以前の神代(かみよ、神々の時代)の墓も存在していることはあまり知られていない。 |
2008年は紀元2668年 | 橿原神宮は日本最初の皇居だ(2008) | 紀元祭の告知 |
参道入口には「神武天皇御陵」の石柱が建つ | 木立の間を抜けていくと御陵がある | 御陵の鳥居が見えてきた! |
2008年2月。真冬の御陵 | 2010年8月。真夏の御陵 | 鳥居は前後に並んでいる |
手前の鳥居から望む。これ以上近くへは行けない | 美しい白砂が広がる。冬でも御陵の葉は落ちない | 夏は緑の色が違う。とってもマブシイ! |
月岡芳年の神武帝(明治初期) | 傍に建つ宮内庁の陵墓管区事務所 | 事務所では寺社の朱印ならぬ「陵印」が押せる |
弥生時代前期の初代天皇。イザナギから7代目にあたる。母は鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)。日本書紀に記された在位は51歳から127歳までの76年間で、酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日)〜神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日)。古事記の名は神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)。日本書紀の名は若御毛沼命(わかみけぬのみこと)をはじめ5種類ある。
日本神話によると、日本列島を作ったイザナキとイザナミの夫婦から、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの3人が生まれた。アマテラスの孫は神の国・高天原から地上(宮崎県の高千穂)に降りてきたニニギノミコト。その子どものホオリが、海の底の「わたつみの宮」(竜宮城?)でトヨタマ姫(彼女の正体は鮫)と結ばれ、両者の孫が神武天皇だ。つまり、神武天皇のお婆ちゃんは鮫!(汗) 神武天皇は45歳の時に、兄・五瀬命(イツセノミコト)と一緒に大和地方を制圧すべく日向から進軍を開始した。難波津(大阪湾)に上陸後、真っ直ぐ生駒山を越えようとして畿内の有力者と戦闘になり兄は戦死した。神武天皇は敵を背後から突くべく作戦を変更し、船で和歌山の東側に出て熊野から再上陸を果たす。そして兄の仇を討って大和を制圧した。この東征に要した期間は、日本書紀が6年、古事記が16年以上としている。 51歳で大和に入った神武天皇は橿原(かしはら)宮にて即位し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を名乗った。享年127歳。
神武天皇の陵墓「畝傍(うねび)山東北陵」は、奈良県橿原(かしはら)市の畝傍山・橿原神宮から北1kmに築かれている。歴代天皇陵は奈良時代にいったん被葬者が確定されたが、その後は戦乱などで荒れ果て、中世の終わりには大半の場所が分からなくなってしまった。初代天皇の神武天皇陵でさえ、田畑の中にポツンと柵のない2つの塚があるだけで、管理人もおらず、さらには2代綏靖(すいぜい)天皇の御陵を神武天皇陵と考えていた時期もあった。幕末の文久から慶応年間にかけて整備で塚の周囲を垣で囲い、手前には鳥居も建てられ、神武陵は約500m×約400mという広大な敷地を持つ祭祀の場となった。 陵墓への行き方は近鉄電車の「畝傍御陵前」駅から北西に徒歩10分。他の天皇陵より長い参道と明るく広々とした拝所(陵墓の前の広場)はここが“初代”の特別な聖域であることを示す。ただし明治維新になるまで皇室が考えていた始祖は神武天皇ではなく38代天智天皇(中大兄皇子)であり、平安、室町から江戸時代まで天智帝が天皇の先祖として尊ばれていた。御所の中の御黒戸(おくろど)=位牌所には天智天皇以来の位牌が置かれ、天智天皇陵が始祖陵として大切に保護されてきた。 慶応三年(1868)12月の王政復古の大号令で神武天皇が始祖と公認される。現在、皇室の先祖祭祀は神道式だが、これは明治以降の伝統であり、江戸時代以前は仏教で祭祀が行われていた。 ※即位日が西暦紀元前660年2月11日と比定されたことから、1873年(明治6年)に祭日(紀元節)と定められた。戦後は建国記念日となっている。 (追記)2022年4月、自民党憲法改正実現本部長の古屋圭司衆院議員が「神武天皇と今上天皇は全く同じY染色体であることが、『ニュートン誌』染色体科学の点でも立証されている」とツイート。だが、科学雑誌「ニュートン」を発行するニュートンプレス社(東京)は「神武天皇と今上天皇のY染色体に言及した記事はない」と否定。宮内庁は「日本書紀などの文献に基づき歴代天皇に数えているが、実在するか否かについては諸説ある」「神武天皇のご遺体が発見されたということは承知していない」と述べており、「神武天皇のY染色体」をどう検査したのかは不明。古屋議員は岐阜5区選出で当選11回。国家公安委員長などを歴任し、自民党総裁直属の憲法改正実現本部の本部長として各地で改憲を訴えている。 |
●皇室豆知識その1〜これだけは抑えておきたい宮中用語 内裏(だいり)…天皇が住む御所。皇居、禁裏、禁中とも。
入内(じゅだい)…中宮・皇后・女御(にょうご)などが正式に内裏に入ること。 内親王(ないしんのう)…天皇の姉妹や娘のこと。 東宮(とうぐう)…皇太子が暮らす場所。御所の東側にある。
後宮(こうきゅう)…天皇の妻や側室(妾)が暮らす場所。
★天皇にはたくさんの妻がいて階級があった 皇后(こうごう)…天皇の正妻(正室)。天皇の母は皇太后。
中宮(ちゅうぐう)…2人目の皇后で同資格。藤原道長が強引にそう決めた。中宮が入ると最初の皇后は“皇后宮”となった。※平安前期まで中宮=皇太夫人(こうたいふじん、天皇の生母)という意味だった。 妃(きさき)…皇后・中宮に次ぐ天皇の妻。内親王から選ばれた。定員2名。 夫人…妃に次ぐ地位。左大臣など3位以上(公卿)の娘。定員3名。平安前期に事実上廃止され、夫人の地位は中宮・女御・更衣へ移行。 女御(にょうご)…中宮に次ぐ地位。主に摂政・関白の娘がなった。平安中期以後は女御から皇后を立てた。定員はなし。 更衣(こうい)…女御に次ぐ地位。元々は天皇の衣を変える役。定員は12名!
御息所(みやすんどころ)…女御や更衣以外で天皇の寵愛を受けた女性すべて。後年は皇太子妃を指すようになった。
御匣殿(みくしげどの)…宮中で天皇の衣服の裁縫をした女性で寝所も共にした。女御の候補者はまず「御匣殿別当」という裁縫所の代表になった。 ★妻以外の天皇周辺の女性
宮人(きゅうじん)…宮中に仕える女官。
女嬬(にょじゅ)…掃除をする下級女官。
掌侍(ないしのじょう)…女嬬を監督する女官。
52代・嵯峨天皇は皇后の他に、2名の妃、1名の夫人、3名の女御、3名の更衣など公式な妻が10名おり、うち8名が22名の子を生んでいる。ちなみに、嵯峨天皇は18名の宮人のほか、女嬬と掌侍を各1名という妻以外の20名も寝所に入れており、うち17名が25名の子を生んでいる(その中に“光源氏”のモデルとなった源融もいる)。また、母親が分からない3名の子もいる。つまり、計30名の妻や女官を愛し、合計50名をもうけたことになる。仰天!
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朝6時半の参道。秋空が気持ちいい。 神武天皇の御陵に隣接している |
早朝の残月! |
こちらはお昼。奥の御陵まで写っている |
あんまり朝早いと日陰になって写らないことが判明 | お昼。神武天皇陵に比べると一気にコンパクトに | この角度は松も入ってカッコイイ |
弥生時代前期の天皇。神武天皇の第3子。「綏」も「靖」も“やすらか”という意味。名は『日本書紀』では神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)、『古事記』では神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)。在位は51歳から83歳までの32年間で、綏靖天皇元年1月8日(紀元前581年2月23日?)-同33年5月10日(紀元前549年6月28日?)。塚山古墳(円墳・径16m)。1878年に陵墓の場所を治定(じじょう=決定)。 |
どうして手前の門と鳥居門を並行に作らなかったんだろ? | 参道がとても短く、車道からすぐ御陵だった |
弥生時代中期の天皇。畝傍山西南御陰井上陵の読み方は“うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ”。まず読めない(汗)。 名は磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)・師木津日子玉手見命(『古事記』)。在位は28歳から67歳までの39年間で、綏靖天皇33年7月3日(紀元前549年8月31日)-安寧天皇38年12月6日(紀元前510年1月17日)。 俗称「アネイ山」(山形墳)。元禄時代の修陵では陵墓の場所を間違えてしまったが、幕末の修陵で現陵に治定された。 |
神武天皇の御陵から西へ進んだところに眠る |
美しく左右対称になった松。黄金律がどこかに 発生しているのか、思わず見とれてしまった! |
この日の奈良は気温37度!8月の太陽で 足下が反射しまくり、体が溶けそうだった |
弥生時代中期の天皇。名は大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)・大倭日子スキ(金偏に且)友命(『古事記』)。在位は43歳から76歳までの33年間で、懿徳天皇元年2月4日(紀元前510年3月15日)-同34年9月8日(紀元前477年10月6日)。畝傍山南纖沙溪上陵の読みは“うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ”。俗称「博多山」(山形墳)。 |
拝所が道路ギリギリの場所にあるため、 参道は道沿いにのびている。狭いッス! |
しかも鉄柵があって正面まで行けない。 どうしてこうなった! |
弥生時代中期の天皇。在位は31歳から113歳までの82年間で、孝昭天皇元年1月9日(紀元前475年2月21日)-同83年8月5日(紀元前393年9月5日)。和風諡号は観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)・御真津日子訶恵志泥命(『古事記』)。俗称「博多山」(山形墳)。 |
ここから山の中を登っていく | 苔むした参道。雰囲気バツグン | 朝陽の中を陵墓へ。鳥がさえずっていた |
やがて視界が開け、拝所が見えてきた | 堂々と威厳のあるたたずまい | 陵墓の構造上、拝所の左端まで行くと正面になる |
石垣と急斜面が古代遺跡のようだ! | 朝陽を浴びて光り輝いているッ! | 日本のアンコールワット |
弥生時代中期の天皇。孝昭天皇の第二子。名は日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)・大倭帯日子国押人命(古事記)。在位は35歳から136歳までの101年間で、孝安天皇元年1月7日(紀元前392年3月3日)-同102年1月9日(紀元前291年2月27日)。玉手丘陵上に所在する円墳。 孝安天皇の御陵は高い石垣が特徴。鳥のさえずりを聞きながら山の中の苔むした参道を登って行くと、突然視界が開け、拝所が見えてくる。密林の古代遺跡のようであり、僕は勝手に「日本のアンコールワット」と呼んでいる。 |
この道路沿いの石段が参道入口 | 勾配はなだらか。テクテクと上る感じ | 特別拝所が垣根で囲まれ、殆ど見えないよ〜 |
生垣は高さもあり“隠れ墓”の様相 | 晴れた日に再訪したら緑が反射してきれいかも | 転落防止のチェーンが拝所にあった。珍しい! |
弥生時代中期の天皇。孝安天皇の子。在位は52歳から127歳までの75年間で、孝霊天皇元年1月12日(紀元前290年2月19日)-同76年2月8日(紀元前215年3月27日)。名は大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)(『古事記』)。 いわゆる欠史八代の1人。第一皇子は孝元天皇。子は他に、桃太郎のモデルとなった彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)と稚武彦命の兄弟がいる。また、娘の倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと)は“卑弥呼ではないか”と言われている。 |
まるで瀬戸内海の島 | 歩いて渡れるようになっている | 御陵の中に分け入っていく |
ふおお!見えてきた! | この画像だけ見ると秘境の遺跡っぽい | お堀のある御陵は涼しげで良い |
弥生時代後期の天皇。名は大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)・大倭根子日子国玖琉命(古事記)。在位は59歳から115歳までの56年間で、孝元天皇元年1月14日(紀元前214年2月21日)-同57年9月2日(紀元前158年10月14日)。稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていた。中山塚1〜3号墳(円墳2基、前方後円墳1基)。 |
びっくりするほど奈良の中心街にある |
9時前に行くと閉まってた。それとも、 これが普通の状態なのだろうか? |
宮内庁職員が見張所にいたので聞いてみた |
ちょうど開けるとこだった!貴重な開門シーンを激写! | 一歩外に出ればビルや商店街とは思えない |
弥生時代後期の天皇。孝元天皇の第二子。名は稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおびびのみこと)・若倭根子日子大毘々命(古事記)。在位は50歳から110歳までの60年間で、孝元天皇57年(紀元前158年)11月12日-
開化天皇60年4月9日(紀元前98年5月23日)。埼玉にある鳥居がない「調(つき)神社」を創建。念仏寺山古墳(前方後円墳・全長約100m)。 ※学会ではこの御陵は人違い説が強い。 ※天皇陵としては最初の前方後円墳。以降、30代敏達天皇まで続く。 |
『大日本帝紀要略』(1894)より |
参道を行く。見張所は御陵の随分手前に建っていた。 陵墓前の空間に余裕があるのは開放感があっていい |
付近は古墳銀座。崇神陵の前にもこのような きれいな前方後円墳があった。埋葬者は不明 |
2008 初巡礼 | 2010 この2年の間に石段には手すりが! | 実はえらい人混み。次から次へと参拝者がきた |
倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼?)が仕えた天皇 | 皇族拝所の向こうは巨大な壕だ | 白砂の筋はギリギリまで続き空中に消えている |
皇族拝所の真横まで行ける | おかげで崇神帝の巨大古墳がよく見えた |
弥生時代後期の天皇。B.C.98年、50歳の時に父・開化天皇が崩御し翌年に即位した。53歳、奈良北部の三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。B.C.91年(57歳)、2年前から疫病が猛威を振るっていたが、巫女の倭迹迹日百襲姫命に大物主神(三輪山の神)が降り、お告げの通りに2人の神主をたてたところ、疫病が治まり豊作となった。B.C.88年(60歳)、近畿の外も支配するべく4人の将軍(四道将軍)に制圧を命じる。そして、丹波道主命が丹波(山陰道)を、大彦命が北陸道を、武渟川別が東海道を、吉備津彦が西道を進軍し、逆らう者を討伐。翌年、地方を平定した。B.C.30年に120歳で崩御(日本書紀)。『古事記』ではなんと168歳で崩御となっている。
初めて畿内の外まで治めた天皇とされ、学術的にも実在の可能性がある最初の天皇。在位は51歳から119歳までの68年間で、崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日)-同68年12月5日(紀元前29年1月9日)。 名はハツクニシラススメラミコト。この名前からも最初に天下を治めた天皇ということが分かる。本来の系図では崇神天皇こそが初代天皇とされていたと考える学者も多い(神武帝もハツクニシラスだが古事記には記述がない)。 崇神天皇陵は“開放感”という意味で特筆すべき御陵。一般的に古墳は近すぎるとただの山に見えて全体の大きさが分からないけど、崇神陵は石段を上った場所の拝所から幅70mほどの大きな濠を挟んで対面するため、雄大な崇神陵の全容を眺めることができる。拝所は水辺ギリギリまで迫り、拝所から御陵に向かって白砂に引かれた幾筋もの砂紋は水辺で途切れ、空中に吸い込まれていくようだ。崇神帝は卑弥呼のモデルとも見られる巫女・倭迹迹日百襲姫命(最初の前方後円墳の被葬者)が仕えた天皇でもある。以後、古墳は巨大化していく。 |
【皇室豆知識その2】
『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』によれば、初代・神武天皇から第44代・元正天皇までの全天皇の諡号(しごう、没後に贈る名前)を、奈良時代末期に1人の男が考え出したという。その人物の名は、優れた漢学者で文人の淡海三船(おうみのみふね/722-785)。曾祖父は壬申の乱で後継者争いに敗れた大友皇子。つまり、淡海三船は天智天皇の血筋を引いている。たった1人で40人以上の天皇の諡号を一括して決めたのに、殆どの日本人は存在を知らず知名度が低い。 ※正確には、奈良時代にはまだ天皇として未認定だった人物は除外されている。明治政府は大友皇子が敗死する前に即位したと見なして「弘文」の名を贈り(第39代弘文天皇)、強制退位・廃帝を理由に当時は歴代天皇から除外されていた「淳仁」「仲恭」の諡号も明治政府が名付けた。
●暗殺説があったり、都で死ねなかった天皇に“徳”の一字が入ることが多い。隠岐で没した後鳥羽院も、当初は「顕徳院」と贈り名されていた。 ●学術的に実在の“可能性”がある最初の天皇は第10代崇神天皇。 ●『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に掲げられており、考古学的に実在が実証される最古の天皇は第21代雄略天皇。 ●そして即位年や在位年数が確実に信頼できるのは、『古事記』と『日本書紀』で年号が一致する第31代・用明天皇以降。 ※万世一系の先祖にサメ(トヨタマ姫)がいるのはご愛嬌。 ●「天皇」という称号が成立したのは7世紀。前方後方墳は6世紀後半に築かれなくなったので、天皇の名で前方後方墳に葬られた人物はいない。 −− ●多くの御陵が戦国時代の混乱で場所が不明になったり荒廃していたことから、5代将軍綱吉が治めた元禄年間(1688-1703)に、歴代天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。また幕末の文久年間(1861-1863)にも大規模な土木工事が行なわれている。これらの記録を明治初期に再検証して陵墓の場所を特定&整備した。 −− ●日本では5世紀後半の21代雄略天皇の頃から暦を用いて記録するようになってきたが、 倭の五王の時代の中国側史料は年月日にいたるまで信頼がおける。 −− ●法令集・延喜式(えんぎしき)について…平安初期、法令集の弘仁式(こうにんしき、830年施行)・貞観式(じょうがんしき、871年施行)の2つを一つにまとめ直した50巻約3300条からなる延喜式が成立。905年(延喜5年)に醍醐天皇から藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け編纂を始め、時平の没後は藤原忠平が仕事を継ぎ、927年に完成。その後改訂を重ね、40年後の967年に施行された。宮廷の年中儀式や制度などを漢文で記した延喜式は、律令国家の基本となる法典(成文法)となった。 延喜式には「延喜諸陵寮式」という陵墓のリストが収められており、ここに“ニニギ”など神代から平安前期までの天皇陵が列記され、被葬者や所在地が記されている。この時点までのすべての天皇陵の位置が確定され、一般人が立ち入れないよう垣で囲われた。雄略天皇など重要な天皇の山陵は御陵番の陵戸(りょうこ)が守り、それ以外は守戸(しゅこ)が置かれた。そして毎年2月10日に役人が全ての陵墓の点検を行い、垣や濠が壊れていると守戸が修理を行った。また729年(天平元年)頃からは「荷前(のさき)儀礼」が始まっている。毎年12月に荷前=諸国から朝廷への貢ぎ物の初物が、各陵墓や伊勢神宮に捧げられ、残りを天皇が受納しており、この行事を行うためにも陵墓の確定が必要だった。ただし、荷前儀礼は室町時代に廃絶している。 |
珍しい!参道が水辺に挟まれている。気持ちいいー! |
参道入口から御陵まで距離がある。右端の小島は帝の命令で 不老不死の果実を探しに行った田道間守(たじまのもり)の墓 |
この環境なら垂仁天皇も安らかに眠られるだろう |
こちらは奈良市山陵町の皇后陵。 全長203m(2014) |
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵 ※正式名は佐紀寺間陵 |
垂仁天皇は皇后の死にあたって殉死の 風習をやめさせるため、初めて埴輪を用いた |
弥生時代後期の天皇。崇神天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊、『古事記』では「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」。在位は40歳から139歳までの99年間で垂仁天皇元年1月2日(紀元前29年)-垂仁天皇99年7月14日(紀元後70年)。宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)。139歳は12代景行天皇(143歳)、16代仁徳天皇(142歳)につぐ歴代3位の長寿。 B.C.23年(46歳)、垂仁天皇が出雲から呼び寄せた野見宿禰(のみのすくね)と大和国の当麻蹴速(たいまのけはや)が相撲。当麻蹴速は野見宿禰に蹴殺された。 B.C.2年(67歳)、殉死の禁令を発布。A.D.3年(71歳)、 皇后の日葉酢媛(ひばすひめのみこと)が没すると、人々を殉死させずに埴輪を埋め、これが埴輪の起源となった。『古事記』では赤土で様々な器を作る人間を定めたとされる。 ※垂仁天皇が69歳の時に西暦では紀元前から紀元1年になった。 |
陵墓も拝所も大きい | 2008 初巡礼 | 2010 再巡礼。紅葉になった |
皇族拝所に至る白砂の筋が美しい | ヤマトタケルの父。めっさ長生き、143歳は歴代最長寿 |
こちらは大阪府羽曳野市にある景行天皇の息子ヤマトタケルの陵墓(2009) |
弥生時代後期の天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。在位は84歳から143歳までの59年間で、景行天皇元年7月11日(71年8月24日)-同60年11月7日(130年12月24日)。 A.D.82年(95歳)、反乱を起こした九州・熊襲を征伐する為に、自ら出陣して翌年に平定。7年後に大和へ戻った。97年(110歳)、再び熊襲が反旗を翻したことから、息子の日本武尊を派遣し、熊襲の首長を謀殺させた。110年(123歳)、今度は日本武尊に蝦夷征討を命じる。113年(126歳)、日本武尊は蝦夷を平定したものの、帰還の途上で伊勢国能褒野(三重県亀山市)にて病死する。123年(136歳)、日本武尊を追悼するため東国巡幸を行なった。130年に崩御。享年143歳。 |
道が分かり難かった分、無事に辿り着けて感動(2010) | けっこう街中に近いので、この広さに驚いた |
斜め前から。立派な壕 | 一般拝所の入口に鎖。ちょっと入りにくい(2014) |
弥生時代後期の天皇。景行天皇の子。在位は47歳から106歳までの59年間。成務天皇元年1月5日(131年2月19日)-同60年6月11日(190年7月30日)。諡は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと=古事記)。 『記・紀』における成務天皇の項目は極端に文量が少なく実在が疑われている。佐紀石塚山古墳(前方後円墳・全長218m)。陵墓は過去に何度も盗掘され、犯人は磔や流罪になった。 |
宮内庁職員の見張所の背後にボート。これだけ堀が広いと渡るだけでも大仕事 | 生年が古事記ですら不明という謎の天皇 |
弥生時代末期の天皇。日本武尊の第2子。妻は神功皇后。子は応神天皇。名は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。住吉大神の怒りに触れて急死したことから在位は8年間のみ。仲哀天皇元年1月11日(192年2月11日)-同9年2月6日(200年3月8日)。岡ミサンザイ古墳(前方後円墳)。
仲哀天皇から次の応神天皇まで、70年間も天皇のいない時代が続いた。陵墓は中世に城塞として使用されていた。 ※この古墳は雄略天皇のものと考える学者もいる。 ※仲哀天皇の真陵を、付近の仲津山古墳もしくは墓山古墳とする説もある。 |
この石段を登っていくと小さな広場に出る | 畑の手前に綺麗な白砂。左側が御陵 | 手前のガッシリとした石垣にも武闘派の面影 |
第13代・仲哀天皇の皇后で、自ら鎧を着込み新羅を攻めるほどの武闘派だったことから、江戸時代まで卑弥呼と考えられていた。現在は卑弥呼の後継者・台与(とよ)という説が有力。『日本書紀』では名が気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。応神天皇の母である事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。五社神(ごさし)古墳。 |
遠くから見ると山に見える(2009) | 参道を行く。御陵の鳥居が見えてきた! | もはや山!御陵の側に宮内庁の大きな事務所があった |
応神帝御影(『集古十種』より) | 応神天皇の御陵から左の空に月が、右に夕陽が見えた | 今日も1日ごくろーさま |
応神天皇陵。さすが全国第2位の大きさ! (2012) |
中央が皇后の仲津姫命(なかつひめのみこと) 仁徳天皇の実母だ |
古墳時代初期の天皇。神功皇后が朝鮮半島の三韓征伐の帰途に九州で産んだ。在位は69歳から109歳までの40年間で、応神天皇元年1月1日(270年2月8日)-同41年2月15日(310年3月31日)。 諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田御廟山古墳(前方後円墳・全長425m・後円部高さ36m)。 古墳が奈良・三輪(みわ)から大阪・河内に移っており、考古学者の中には応神天皇を始祖とする河内王朝に、三輪王朝から交替したと見なす王朝交替学説を提起する人もいる。いずれにせよ、王権の及ぶ範囲が大和から大阪平野に拡大していった。 |
1周約3kmの外堀。ずっと奥まで続いている… |
ドヒーッ!これはもう墓ではなく山!地上では全貌不明 |
全体の巨大さを把握するため八尾空港へ | セスナ機をチャーターするぞ! | これなら全貌をつかめるハズ! |
うおおお!面積世界最大の墓が見えてきたぁああ! ※面積はクフ王のピラミッド(底辺230m)より広い |
墳長525m、後円部径249m×高さ35.8m、前方部幅307m× 高さ34m!堀は3重だ!2万体もの埴輪が発見された。 |
フライトを終えて無事に着陸!ホッ |
2019年5月13日、トップ・ニュースで日本最大の前方後円墳「仁徳天皇陵古墳」(大仙古墳)を含む大阪南部の「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の四十九基を、ユネスコの諮問機関が世界文化遺産への登録を勧告したと報じられ、列島は祝賀ムードに包まれた。天皇が葬られた「陵墓」が世界遺産になるのは初めてであり、同時に令和に入って最初の世界遺産がお墓というのが墓マイラー的にとても嬉しい。 国内に4000基ある前方後円墳は、日本だけの墓の形状。中国・朝鮮は大部分が方墳や円墳であり、伝来した円墳に祭壇部分が加わり、発展していったものと思われる。最初期に現れた前方後円墳は奈良の箸墓古墳(全長275m)で、3世紀後半から4世紀前半に造られた。被葬者が巫女(7代孝霊天皇皇女)であるため、3世紀中頃に没した卑弥呼(もしくは後継の台与)の墓と考える研究者もいる。また付近に纏向(まきむく)遺跡があり、大型建造物の痕跡や、出土した土器が東海・山陰・山陽地方など各地の特色を持っていることから、ここに文化交流の拠点=邪馬台国があったと推察する考古学者が増えている。 次第に巨大化していった前方後円墳は、古墳時代前期の天皇、第16代仁徳天皇の時代にピークを迎える。墳丘の幅は347m、長さは従来486mとされていたが 2018年の測量で525mと判明し、有名なクフ王のピラミッドの一辺230mをはるかにしのぐものに。平面積は約46万平方メートルで甲子園(約4万平方メートル)の約10倍に達する。 仁徳天皇の在位は56歳から142歳までの86年間で、仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日)-同87年1月16日(399年2月7日)。142歳というのは歴代2位の長寿。庶民の家のカマドから煙が上っていないことに気づき、租税を免除し、倹約のため宮殿の屋根を葺き替えないなど仁政を行なった。日本最初の大規模土木事業として、水害を防ぐ為に堤防を築造したという。先代の応神天皇が崩御してから仁徳の即位まで3年間も空位になっているのは、皇子が互いに皇位を譲り合ったためで、最終的に次期天皇の最有力候補だった異母弟の皇子(仁徳以前は末っ子が王位を継いでいた)が、仁徳に皇位を譲るために自死したという。仁徳の次代からは長子が皇位を継承することになった。倭の五王の“讃”と見られ、朝鮮から貰った「七枝刀(ななさやのたち)」が石上神宮に現存する。 日本の古墳には被葬者未確定のものが多い。歴代124代の御陵のうち、生きていた時代と造られた時期がズレている御陵は、14代仲哀、17代履中、26代継体、30代敏達、39代弘文、47代淳仁、48代称徳、49代光仁、50代桓武、51代平城、54代仁明(にんみょう)、55代文徳、58代光孝、62代村上、69代後朱雀、70代後冷泉、71代後三条、85代允恭、88代後嵯峨、90代亀山、94代後二条、21箇所に及ぶ(山田邦和・高木博志著『歴史のなかの天皇陵』思文閣出版)。このうち9箇所(継体、称徳、桓武、仁明、後朱雀、後冷泉、後三条、後嵯峨、亀山)は有力候補があるため宮内庁の英断(調査許可&治定変更)が待たれる。また、37代斉明天皇(35代皇極天皇と同じ人物)のように、古代の文献と完全に一致した墓が、別の場所で新たに発見されたケースもある。 多くの古墳が江戸時代の間に記録が散逸し被葬者不明になったため、幕末から明治にかけて一気に被葬者の特定が行われ、その際に誤って治定されたものも少なくない。たとえば、発掘された円筒(えんとう)埴輪の形状や須恵器(朝鮮伝来の素焼きの土器)から17代履中天皇陵と宮内庁が定めている古墳は、15代応神天皇陵(履中の祖父)や16代仁徳天皇陵(履中の父)よりも“古い”時代に造られたことがわかり、その結果、仁徳天皇陵も被葬者が不確定となり、同陵は土地名の大仙から古来より使用された「大仙陵」と呼ばれるようになった。 江戸時代まで大仙古墳は地元住民がピクニックで訪れてドンチャン騒ぎの大宴会をしばしば行っており、堺奉行所は元禄2年(1689)に注意事項ともいえる『大仙陵遊山之事』(PDF:P43〜44)を発布している。物見遊山やワラビを採って料理する程度は認めるが「大酒を飲んだ上に喧嘩すること」「魚肉入りの弁当の持ち込み(御廟を肉食で穢さぬため)」「渡し船の競争」を禁じている。堺奉行の役人も大仙陵の上で近隣の村人から酒や肴をごちそうになっており、古墳は地域生活の一部となっていた。幕末になると尊皇運動の高まりが反映されて、嘉永6年(1853)に堺奉行が整備を行い一般人の立ち入りが禁止される。そして文久2年(1862)、全天皇陵に大規模な整備事業が実施され、大仙陵でも拝所や参道が整備された。 僕が初めて仁徳陵に行ったのは小学校の遠足。大阪の子はだいたい遠足で古墳デビューする。その後、何度か古墳巡りをするも、仁徳陵はあまりに巨大すぎて地上からは小山にしか見えなかった。「何とか空から全貌を見られないものか…」。そして2012年、大阪南部の八尾空港からセスナ機をチャーターして古墳地帯を遊覧飛行できることを知った!2万5千円で十数分の飛行(3人乗れるので割り勘すれば約8千円)。安くはないけれど墓マイラーのロマンがそこにあった。そして2012年8月11日午前10時20分、僕は大空に飛び立った。離陸から8分で雄大な仁徳陵が視界に。「うおお、仁徳陵の特徴の三重の濠(ほり)がよく分かる!これは空からでないと分からない!そして御陵に比べて家があんなに小さい!」。そしてセスナ機は堺から羽曳野方面へ。離陸から13分、古市古墳群の上空に到達し、今度は全国第2位の大きさを誇る応神天皇陵が見えてきた。周囲には仲哀、允恭、安閑天皇の御陵も見える。古墳の向こうにまた古墳、まさに古墳銀座!絶景かな!10時36分、夢のような空の旅を終えて着陸。一生の思い出になる16分間だった。 ※遊覧飛行会社のサイト |
古墳の大きさは全国第3位! | 仁徳陵の約1km南西に位置(2022) | 参道を少し歩くだけで静かな空間 |
案内の石柱 | めっさ広いお堀!てっぺんに桜が見える | 御陵に沿って美しい桜並木が(2009) |
古墳時代前期の天皇。仁徳天皇の第一皇子。皇位継承の際にライバルの第二皇子を弟(第三皇子・反正天皇)に謀殺させた。在位は64歳から69歳までの5年間で、履中天皇元年2月1日(400年3月12日)-同6年3月15日(405年4月29日)。
権力が弱まっていたのか、この時代では中国に遣使しなかった唯一の天皇。 中国の歴史書『宋書(そうじょ)』・『梁書(りょうじょ)』にみえる“倭の五王”の“珍”もしくは“讃”の可能性あり。ただ、讃は応神天皇もしくは仁徳天皇とする説あり。上石津ミサンザイ古墳(前方後円墳・全長365m)。
名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。 |
南海堺東駅から400mなのに僕は迷いまくった | 反正は“はんぜい”と読む |
反正天皇が406年に創建した難波神社(2014) |
難波神社の祭神は父・仁徳天皇 |
境内の「博労稲荷(ばくろういなり)神社」は 大阪を代表するお稲荷さん |
古墳時代前期の天皇。仁徳天皇の第三皇子。在位は70歳から74歳の4年のみで、反正天皇元年1月2日(406年2月3日)-同5年1月23日(410年2月12日)。 長兄の履中天皇とは母も生年も同じ。即位前に滅ぼした第二皇子も同じ。この3人は三つ子?よく分からない。 名は多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)・水歯別命(古事記)。中国の歴史書『宋書(そうじょ)』・『梁書(りょうじょ)』にみえる。 田出井山古墳(前方後円墳・全長148m)に眠るが、この御陵は17代履中天皇陵の可能性がある。 ※“倭の五王”の倭王珍(彌)かも? |
この参道がなかなか見つからず焦った | 拝所は民家のすぐ近く(2013) | 仁徳天皇の皇子だ |
古墳情報をアルミ看板で丁寧に紹介(2009) | 大きな堀に既に水はなく野原になっていた |
古墳時代前期の天皇。仁徳天皇の第四皇子。在位は36歳から77歳までの41年間で、允恭天皇元年(412年)12月-同42年(453年)1月14日。反正天皇が後継者を決めずに崩御したことから、2年間即位を固辞したが説得負けして天皇になった。 435年(59歳)、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)の近親相姦が発覚。驚愕した允恭天皇は軽大娘皇女を伊予に配流した(『古事記』では伊予で2人は心中している)。 名は雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。 中国の歴史書『宋書(そうじょ)』・『梁書(りょうじょ)』にみえる“倭の五王”の倭王済。国府市野山古墳(前方後円墳・全長228m。 ※倭の五王の“済”と見られる。 |
近鉄大和西大寺駅からレンタサイクルでGO! | 周囲の樹木や生垣がよく手入れされていた | この角度がカッコよくて好き |
古墳時代中期の天皇。允恭天皇の第二皇子で、雄略天皇の同母兄。在位は53歳から55歳までのたった2年間で、允恭天皇42年12月14日(454年1月28日)-安康天皇3年8月9日(456年9月24日)。名は穴穂天皇・穴穂皇子(あなほのみこ)。中国の歴史書『宋書(そうじょ)』・『梁書(りょうじょ)』にみえる「倭の五王」中の倭王興。 454年(53歳)、臣下の陰口を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を殺害し、翌年にその妃・中蒂姫を自分の皇后にした。456年、皇后の連れ子・眉輪王(まよわのおおきみ、6歳)が、安康天皇と母の会話を盗み聞き、無実の父が天皇に殺害されたことを知る。そして就寝中の安康天皇を刺殺した(まるでハムレット!)。 眉輪王は豪族の屋敷にかくまわれたが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は屋敷を包囲し丸ごと焼き払った。 ※考古学の世界では、安康天皇陵は古墳ではなく、“宝来城”と呼ばれる中世城郭の遺跡というのが定説。 ※倭の五王の“興”と見られる。 |
歴史・考古学ファンには知名度バツグン | 学術的に実在の可能性がかなり高い(2009) | けっこう御陵そのものに接近できたりする |
2013年に再巡礼 | 一般拝所から | ワカタケル大王とみられている |
古墳時代中期の天皇。第19代・允恭天皇の第5皇子。『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に掲げられている天皇で、考古学的に実在が実証される最古の天皇。在位は38歳から61歳の23年間で、安康天皇3年11月13日(456年12月25日)-雄略天皇23年8月7日(479年9月8日)。
名は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命・大長谷王(古事記)。中国の歴史書『宋書(そうじょ)』・『梁書(りょうじょ)』にみえる“倭の五王”の倭王武とされ、埼玉や熊本など各地の古墳から出土される金錯銘鉄剣銘の「獲加多支鹵大王」=ワカタケル大王とみられている。古墳名は高鷲丸山古墳(円墳・径76m・島泉丸山古墳とも)と平塚古墳(方墳・辺50m)。 皇位を継承する際に、安康天皇が後継者に選んでいた履中天皇の皇子を暗殺したほか、かなりのライバルや政敵を亡き者にし、即位後も処刑をやめなかった暴君とされる。晩年、心に思うことがあったのか、崩御の前年に伊勢神宮の外宮を建立した。 ※倭の五王の“武”と見られる。 ※近鉄南大阪線の高鷲駅から直線距離なら1kmなんだけど、実際は回り道があったりしてなかなかつかない。車道の交通量も多く、徒歩だとそれなりに覚悟を。 |
駐車場のない御陵が多いので巡礼は自転車が最強 | 夕陽があたって良い感じ |
古墳時代中期の天皇。雄略天皇の第三皇子。在位は36歳から40歳までの4年間で、清寧天皇元年1月15日(480年2月11日)-同5年1月16日(484年2月27日)。 幼少の頃から白髪だったため、父の雄略天皇は霊異を感じて後継者(皇太子)に選んだ。独身で子どもがいなかったが、崩御の3年前に17代履中天皇の2人の孫(仁賢天皇、顕宗天皇の兄弟)が播磨で発見されたことで、2人を宮中に迎え入れた。 名は白髪皇子(しらかのみこ)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。西浦白髪山古墳(前方後円墳・全長112m)。 |
この陵墓は居心地が良かった!大好き! | 規模は中型なのにゆったり感が漂っていた |
皇族拝所自体はオーソドックス | 見張所が一戸建て住宅の如し!このゴージャス感! | 拝所にはベンチまであった!ほっこり参拝! |
古墳時代中期の天皇。17代履中天皇の孫。名は弘計天皇(おけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと)。在位は35歳から37歳までの2年間で、顕宗天皇元年1月1日(485年2月1日)-同3年4月25日(487年6月2日)。456年(6歳)、父が皇位継承を狙う雄略天皇に殺害されると、1歳年上の兄(後の仁賢天皇)と一緒に丹後半島へ脱出し、最終的に名前を変えて播磨・明石に身を隠した。成長してからずっと牛馬の飼育をしていたが、481年(31歳)、宴の席で歌にのせて正体を明かしてしまう。だが、当時の清寧天皇には子どもがおらず、兄弟は宮中へ呼ばれて大切に扱われた。 484年(34歳)、清寧天皇が崩御。皇位継承の際、「弟よ、正体を明かしたのはお前だ。これはお前の功績だ」「いえ、弟の私が即位する訳には参りませぬ」と、兄弟で1年近く皇位を譲り合い、その間は姉の飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が執政を行なった。最終的に兄の説得に負けて、弟が顕宗天皇として即位。弟が天皇になって兄が皇太子となった歴代唯一のケースだ。顕宗天皇は在位3年、37歳の若さで崩御した。若い頃は恋敵の男を亡き者とする過激な一面もあったという。 |
周囲は大型古墳だらけの古墳銀座 | 夕刻になり、いろんな鳥が御陵の巣に帰ってきた |
古墳時代中期の天皇。17代履中天皇の孫。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。在位は39歳から49歳の10年間で、仁賢天皇元年1月5日(488年2月4日)-同11年8月8日(498年9月9日)。
456年(7歳)、父が皇位継承を狙う雄略天皇に殺害されると、1歳年下の弟(後の顕宗天皇)と一緒に丹後半島へ脱出し、最終的に名前を変えて播磨・明石に身を隠した。成長して牛馬の飼育をしていたが、481年(32歳)、弟が宴の席で正体を明かしてしまう。だが、当時の清寧天皇には子どもがおらず、兄弟は宮中へ呼ばれて大切に扱われた。 484年(35歳)、清寧天皇が崩御。兄弟は王位を譲り合い、弟が顕宗天皇として即位。ところが、弟は在位3年で崩御した。488年(39歳)、仁賢天皇が即位。世の中を良く治め、朝鮮半島から手工業者を招くなど、大陸の進んだ文化を取り入れた。「天下は“仁”に帰った」と人々はその名君ぶりを讃えた。仁賢天皇は、父を暗殺した雄略天皇の娘をあえて皇后にすることで皇位継承の正当性を強める。498年、49歳で波乱の生涯を閉じた。 諱は大脚(おおし)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。古墳名は野中ボケ山古墳(前方後円墳)。 |
ラオウもびっくりの武烈帝…巡礼するのに緊張… |
ゴゴゴゴゴ…前方にカラス…不吉… |
意外!ただの見張所ではなく監区事務所が あった!人気ワーストの天皇なのに…(汗) |
うおお!通常、陵墓の石段は鳥居の正面から一般拝所まで一直線に設置されているのに、この御陵では軸をずらして設計されている! 一般拝所の階段を上ると、斜めに移動して正面に至る構図。これはカッコイイ!正直、武烈帝の巡礼は抵抗があったけど来て良かった |
広々としているせいか思ったより居心地が良い。マジで | もしや日本書紀の残虐伝は嘘で古事記が正しいんじゃ? |
古墳時代中期の天皇。仁賢天皇の子。在位は9歳から18歳までの9年間で、仁賢天皇11年(498年)12月-武烈天皇8年12月8日(507年1月7日)。『日本書紀』によると「しきりに諸悪をなし、一善も修めたまはず」とある。歴代天皇の中で最も猟奇的。ちょっとここには書けない、身の毛もよだつような残虐行為を働いており(ウィキ参照)、あまりに常軌を逸脱していることから、これらは事実ではなく、先帝を批判することで次期天皇(継体天皇)の好感度をあげ、薄い血縁者の皇位継承を正当化するためではないかと言われている。
ちなみに『古事記』では武烈天皇の残酷性を伝える記録はいっさいない。 |
阪急茨木市駅で自転車をレンタル。 陵墓の入口までやってきた |
昔の漢字で継体天皇とあった。 ここで間違いないようだ |
えっ!?鳥居 がないの!? |
『継体天皇三島藍野陵』に到着! | 守衛さんのデジカメ画像!鳥居がある! | とても大きな古墳だ |
古墳時代後期の天皇。15代応神天皇から4代を経た5世孫(曾々々孫)。今の皇室との血縁が確実に確認できる最古の天皇。在位は57歳から81歳までの24年間で、継体天皇元年2月4日(507年3月3日) -
同25年2月7日(531年3月10日)。 近江国(滋賀県)出身。幼少時に父を亡くし、母の故郷・越前国(福井県)で育てられ、男大迹王(おおどのおおきみ)の名で越前地方を支配した。506年(56歳)、25代武烈天皇が後継者を定めずに崩御したことから、ヤマト王権の重臣(大伴金村)が越前に足を運んで男大迹王に皇位継承するよう説得した。 これを受け、翌507年(57歳)に、河内国の樟葉宮にて即位する。継体天皇は先帝・武烈天皇の姉を皇后に迎えた。だがヤマト王権内には、遠方から天皇を呼び寄せたことや、「応神天皇の5代の孫」という天皇家の血が薄すぎることに強い抵抗を持つ勢力があった。 継体天皇は大和周辺に足止めされ、なかなか大和国に入ることが出来なかった。 月日は流れ、即位から19年が経った526年(76歳)、ようやく大和の地に都を置くことが出来た。とはいえ、九州では地方豪族による「磐井(いわい)の乱」が勃発するなど、継体天皇の試練は続く。5年後の531年(81歳)、歴代天皇として初めて皇位を譲位し、皇子の勾大兄(安閑天皇)の即位と同じ日に崩御した。暗殺説もある。継体天皇の子どもから3人(欽明、安閑、宣化)が天皇になっている。 諱はオホド。『日本書紀』では男大迹王(おおどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと)と記される。 ※『日本書紀』の記述では第26代継体天皇から安閑天皇への531年の譲位が歴代初となるが、『古事記』は継体天皇の崩御年を527年としており『日本書紀』より4年早い。それゆえ、確実に「譲位」があったと断言できない部分があり、多くの歴史学者は第35代皇極天皇が孝徳天皇に行った645年の譲位を「史上初」と位置づけている。 継体天皇陵は享保年間(1698年)に国学者・松下見林が『前王廟陵記(ぜんおうびょうりょうき)』の中で初めて太田茶臼山古墳(墳丘長226m)を御陵としたが、平安時代の陵墓リスト『延喜諸陵寮式』には所在地が「摂津国島上郡」(大阪府高槻市)とあるのに、この古墳は「島下郡」(同茨木市)に位置している。しかも継体帝の崩御は531年であるにもかかわらず、築造時期は5世紀の中頃で100年間もズレがある。 一方、この古墳の1.3km東側に今城塚古墳(墳丘長約190m)があり、所在地は「島上郡」かつ築造時期が発掘された埴輪群の検証から継体帝の崩御と同じ6世紀前半と分かり、場所も時代もドンピシャ。付近に200mクラスの前方後円墳は今城塚しかなく、どう見てもこちらが真陵だ。畿内北部の淀川水系に突如として継体帝の大型前方後円墳が出現しており、これも北陸から来た新たな王朝を示唆している。 ちなみに、宮内庁が誤って治定し続けていることで、真陵の今城塚古墳が発掘調査が可能な大王陵としてつぶさに研究できた一面もある。1997年に調査が始まり、御陵から約65m×約6mという日本最大の埴輪祭祀区が見つかった。出土した埴輪は、兵士、力士、巫女、馬、水鳥、家形(高さ170cmの神社、日本最大級の家形埴輪!)など113点以上! ※研究者の中には、今城塚古墳を継体天皇の「改葬陵」と考える人もいる。蘇我馬子が堅塩姫(きたしひめ)の改葬パフォーマンスを行うなど、蘇我氏は古墳を政治利用しており、継体帝もいずこかより改葬されたとする意見。 ※今城塚古墳は戦国時代に墳丘が城郭として大規模改築されている。 ※敦賀(つるが)の地名は、朝鮮半島南部にあった国の王子、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の名前が由来とされ、像が敦賀駅前に立っている。韓国では継体天皇が百済・武寧王の弟とも言われている 。 |
「お堀をどうやって渡るんですか?」と守衛さんに聞いたら、「監視小屋の後ろにボートがある」 とのこと。確かに別の角度から見えた!1人で上げ下げできるように改造されたそうだ |
古市駅からレンタサイクルで向かった(09) | 戦国時代には大名の城に改築されていた! |
古墳時代後期の天皇。継体天皇の長男。継体天皇から譲位されて即位した。在位は65歳から69歳までの4年間で、継体天皇25年2月7日(531年3月10日)-安閑天皇4年(535年)12月17日。高屋築山古墳(前方後円墳・全長122m)。 室町時代、この天皇陵は河内国を支配していた畠山氏の守護所・高屋城の本丸が置かれていた。 |
大きい!遠くからでもすぐに御陵と分かったぜよ! | 参道は石と生垣の回廊。凝っている | 正面もクールにキマッている |
古墳時代後期の天皇。安閑天皇が子を残さずに崩御した為、同母弟の宣化天皇が即位した。在位は69歳から72歳までの3年間のみで、宣化天皇元年12月18日(536年1月26日)-宣化天皇4年2月10日(539年3月15日)。 在位は短いが任那に対新羅の援軍を派遣している。鳥屋ミサンザイ古墳。 宣化天皇即位の同年、蘇我稲目が大臣(おおおみ)に就任し、蘇我氏の全盛の基礎を作っている。 |
参道は丘を越えるような感じ |
な、な、なんと!御陵を上空から見下ろすような形で 坂道(参道)を下っていく。これにはおったまげた |
他の御陵は、多くが下から階段で登って御陵を 見あげる構図になる。上から見るのはここだけ! |
下まで降りると幅が5mほどしかない | 任那が滅ぶなど激動の時代を生きた | 側面から見ると陵墓の巨大さが分かる |
古墳時代後期の天皇。継体天皇の子で現天皇家の祖。御陵は全国第6位の大きさ。在位は30歳から62歳までの32年間で、宣化天皇4年12月5日(539年12月30日)-欽明天皇32年(571年)4月15日。
欽明天皇は後世のたくさんの天皇の父親だ。宣化天皇の娘との間に敏達天皇を授かり、大臣・蘇我稲目の2人の娘との間に、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇を授かった。有名な厩戸皇子(聖徳太子)は孫だ。 即位前年の538年(29歳)に百済から仏教が伝来。562年(53歳)、任那が新羅に滅ぼされ、日本からの新羅討伐軍も敗北したことから、死ぬ間際まで任那の復興を夢見ていた。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。梅山古墳(前方後円墳・全長140m)。 ※継体天皇の死後、欽明天皇の朝廷VS安閑天皇・宣化天皇の朝廷という対立があったとする説がある。
※廃仏派を代表する物部守屋は、欽明天皇の皇子の一人・穴穂部皇子と通じていた。 ※欽明天皇陵は考古学上の辻褄合わせのために円墳を無理やり前方後円墳に改築された。 |
参道の前にはとても広い駐車場がある | 参道脇にはポップに刈り込まれた大小の低木 | 赤毛のアンでも出て来そうな木陰と陵墓 |
最後の前方後円墳。以降は円墳が中心になる |
巨大古墳ならではの雄大さがある |
一般拝所を囲むように、足下には細い丸太が敷かれ ていた。他で見たことがなく珍しいのでは!? |
古墳時代後期の天皇。欽明天皇の第二皇子。母は宣化天皇の娘。在位は34歳から47歳までの13年間で、敏達天皇元年4月3日(572年4月30日)-同14年8月15日(585年9月14日)。廃仏派よりの天皇だったことから、廃仏派の物部守屋が力を持ち、崇仏派の蘇我馬子と激しく対立した。
585年、蘇我馬子が寺を建立し仏像を祀ったことと、疫病の発生が重なったことから、敏達天皇は仏教禁止令を発布。物部氏らに仏殿や仏像を燃やさせた。同年のうちに病によって崩御したことから、人々は仏罰ではないかと噂し合った。太子西山古墳。 ※9代開化天皇から続いた前方後円墳は、30代敏達天皇でおしまい。また敏達天皇は母・石姫の墓に合葬されたので、新たに前方後方墳が築かれたわけではない。 ※578年(40歳)、世界最古の企業である宮大工の集団「金剛組」が設立された。 |
仏教を深く尊んだ | 用明天皇は聖徳太子の父。その関係か陵墓前にはランドセルを背負った聖徳太子! | こちらは同町の叡福寺にある聖徳太子の墓 |
用明天皇陵。周辺には民家があり一般拝所は狭い | 没後6年目(593年)に現地点へ改葬されたという | 近くには推古天皇、孝徳天皇も眠っている |
古墳時代後期の天皇。聖徳太子の父。欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘。先帝・敏達天皇の崩御を受けて66歳で即位。仏教を保護した蘇我稲目の孫ゆえ、自身も仏法を重んじた。疱瘡によってわずか1年半で崩御しており、1870年に仲恭天皇と弘文天皇が歴代天皇に認定されるまで、在位期間が最も短い天皇とされていた。正確な在位期間は、敏達天皇14年9月5日(585年10月3日)-用明天皇2年4月9日(587年5月21日)。生年は欽明天皇元年(540年)という説もある。
法隆寺の建立は用明天皇の病気平癒祈願がきっかけという。 日本古来からの前方後円墳は、仏教伝来を受けて聖徳太子が父のために「方墳」(四角形の墳墓)を築いたことで幕を閉じた。当時先進国だった中国・朝鮮で一般的な「方墳」を選ぶことで、最先端の文化を取り入れようとしたのだろう。 蘇我系の用明天皇、崇峻天皇、推古天皇はみんな渡来系の「方墳」だ。 |
11月の朝9時に巡礼。特別拝所の敷地が広すぎ、一般拝所 から鳥居までがめっさ遠い。もっと近づきたいよ〜! |
臣下に殺害された悲しみの天皇。陵墓一帯の植物から 水蒸気が立ち上り、朝陽が差すと幻想的な雰囲気に |
向かって右側に川が流れており川岸から遙拝可能(左写真)。陵墓のすぐ横に川があるのはたぶんここだけ | 非業の死を遂げただけに、美しい御陵で良かった |
古墳時代末期の天皇。29代欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の娘(馬子の妹)。在位は5年間で用明天皇2年8月2日(587年9月9日)-崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日)。第12皇子ゆえ、異母兄の敏達天皇や用明天皇が先に天皇となり、なかなか即位できなかった。そのため、同じように不満を持っていた兄・穴穂部皇子や権力者の物部守屋らに接近したが、用明天皇が没したことで状況が変化。崇峻を即位させようとする蘇我馬子&額田部皇女(後の推古天皇=崇峻天皇の姉)と、穴穂部皇子を即位させようとする物部守屋が対立する。 穴穂部皇子は馬子に殺害され、守屋も戦で滅ぼされる。その翌月に崇峻天皇は即位した。崇峻天皇は強大な権力を持つ馬子の存在を次第に疎ましく感じ始め、592年10月4日、献上された猪の目を刺しながら「いつかこの猪の首を斬るように、憎いと思っている者を斬りたい」と口にした。馬子はこの言葉を警戒し、偽りの儀式を設けて配下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺させた。 歴代天皇で死亡当日に葬られたのも、御陵が造営されず陵戸(墓守)がいないのも崇峻天皇だけ。諱は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。 朝廷史で、公式に天皇が臣下に殺害されたことが確定しているのは崇峻天皇のみ。暗殺の疑いがあるのは、(1)6歳児に仇討ちされた第20代安康天皇(2)配流先からの逃亡に失敗し急逝した第47代淳仁天皇(3)状況から毒殺の疑いのある第121代孝明天皇の3人。 不幸な最後を迎えた天皇ではあるが、奈良県桜井市の埋葬推定地に整備された御陵は恵まれた環境にある。すぐ側を川が流れており、崇峻陵は常にせせらぎの音に包まれている。他の天皇陵で川が隣接しているケースはなく、特筆すべき立地だ。冬の早朝に墓参すると、川面から発生した霧が御陵を漂い、水の音だけが響いているという非常に幻想的な空間だった。 ※かつて崇峻天皇の位牌を祀る金福寺があった土地に崇峻陵がある。しかし、近隣の赤坂天王山古墳が崇峻陵という説が有力。斑鳩町の藤ノ木古墳が崇峻陵という説もある。 |
この山城のような小山が「推古天皇陵」 | 木々の隙間から陵墓が見えている! | ここから参道を登っていく |
6代・孝安天皇陵を彷彿させる立派な石垣! | 史上初の女性天皇である! | 聖徳太子の叔母としても有名 |
ここが一般拝所!?なんてオシャレなんだ!女性らしいというか、他の無骨な拝所とはまったく印象が違う! | 先立った息子・竹田皇子と眠っている |
飛鳥時代初期の天皇。日本初の女帝であり、同時に東アジア初の女性君主でもある。在位は39歳から74歳までの35年間で、崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)-推古天皇36年3月7日(628年4月15日)。父は第29代欽明天皇。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)。蘇我馬子は叔父。第31代用明天皇の妹で、第32代崇峻天皇の異母姉にあたる。『日本書紀』によると姿色端麗で所作も流れるように美しかったという。
571年(17歳)、異母兄の第30代敏達天皇の妃となる。576年(22歳)、妃から皇后に立てられる。585年(31歳)、夫の敏達天皇が崩御し、兄の用明天皇が即位。 586年(32歳)、穴穂部皇子に襲われそうになるが寵臣・三輪逆(みわのさかう)に助けられ事無きを得る。587年(33歳)、用明天皇が崩御。皇位継承争いが起き、崇峻天皇&蘇我馬子VS穴穂部皇子&物部守屋の2大勢力がぶつかった。この戦いで物部守屋は戦死。蘇我氏が完全勝利を治めた。 合戦後、皇太后(額田部皇女)の命で崇峻天皇が即位したが、592年(38歳)に崇峻天皇は馬子の手下に暗殺されてしまう。歴代天皇で、確実に臣下によって暗殺されたことが分かっているのは、この崇峻天皇のみ。翌593年(39歳)、第30代・敏達天皇の皇后(後妻)であった推古天皇が馬子に説得されて、女帝として即位した。推古天皇の本心は、子の竹田皇子の即位にあり、自分はその中継ぎのつもりだった。ところがその矢先に竹田皇子が病死してしまう。推古天皇は甥っ子の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に指名して執政を任せた。 聖徳太子の父は推古天皇の兄・用明天皇であり、母は推古天皇の異母妹・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。聖徳太子は推古天皇の期待に十二分に応え、603年(49歳)に冠位十二階を、翌年に十七条憲法を制定し、国家の統治システムを形作っていった。また、607年(53歳)には遣隋使を派遣。622年(68歳)、聖徳太子が48歳で死去。2年後に蘇我馬子が他界。628年、推古天皇も崩御した。享年74歳。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)。
『古事記』は推古天皇の崩御までを記し、その筆を置いている。推古天皇は遺言で約30年前に没した竹田皇子と合葬されることを望み、その願いは叶えられた。『日本書紀』によると子の竹田皇子との合葬陵墓になっているとのこと。当初は奈良県橿原市五条野の植山古墳に葬られ、後に大阪府南河内郡太子町山田の河内国磯長山田陵(山田高塚古墳)に改葬されたとされる。通常、天皇陵の拝所(参拝する場所)は小石が敷き詰められているが、推古陵は地面に水玉模様のように石が埋め込まれていた。こんな意匠の御陵は他になく、「女性天皇だからオシャレ感を出したのかな」と、僕は割と本気でそう思ってる。 ※宮内庁が認定している推古天皇陵の、すぐ200m南東に二基の方墳がくっついた「二子塚(ふたごづか)古墳」があり、ここを真陵とする伝承がある。築造時期も推古帝の崩御した7世紀と推定されている。こうなると、現在の推古陵に石室が本当に2つあるか調べる必要があるが、宮内庁はそれを許さない。 宮内庁は陵墓を非公開とする理由を、「今も祭祀が行われている皇室の祖先のお墓であり、静安と尊厳を保つ必要がある」としており、もちろんこれは理解できる。誰だって祖先のお墓を観光地扱いされたくない。だが、研究者は「静安と尊厳を踏みにじってやろう」などと考えてはいない。人違いでまったく別人の墓の「静安と尊厳」が守られ、本当の御陵が荒廃していいのかと懸念しているのだ。「陵墓の調査は不遜」という意見があるが、皇室にとって祖先の墓の祭祀は重要な行事であるのに、別人の墓に天皇・皇后を案内していたり、墓ですらないただの丘に祭祀を行っているならば、そちらの方がよほど不遜ではないか。その別人にとっても、他人の名前で呼ばれ続けている状況は、死者への冒涜となる。 |
す、す、素晴らしい!この、カコン、カコン、カコン!と鋭く曲がった石段がめっさカッコイイ!山間の静かな陵墓なのに、参道がスタイリッシュ! |
石段を登っていくとこんな感じで見えてくる | 早朝に訪れると拝所は日陰に。巡礼は午後が良いかも | 拝所から見える景色。御陵は里の奥まった場所にある |
舒明(じょめい)天皇は飛鳥時代前期の天皇。第30代敏達天皇の第一皇子、押坂彦人大兄皇子の子。天智天皇(中大兄皇子)、天武天皇の父親。在位は36歳から48歳までの12年間で、舒明天皇元年1月4日(629年2月2日)-舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)。629年、前年に推古天皇が次帝を決めずに崩御したことから、政治の実権を握っていた蘇我蝦夷(馬子の嫡男)が舒明天皇を立てた。 即位の翌630年、故人となった聖徳太子&推古帝の遺志を継ぎ、早くも遣唐使を送って大陸文化を積極的に取り入れる。639年(45歳)、百済川のほとりに百済宮(くだらのみや)を建て、3年後にその地で没した。諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。墓所は押坂内陵=忍阪段ノ塚古墳。舒明天皇の子、中大兄皇子は世の中を大きく変えていく。 「なんてスタイリッシュな参道なんだ」と思わず見入った舒明(じょめい)天皇陵!里山の中腹にあり、2段階に曲がった石段がビジュアル的に超クール。古墳の造形は、舒明天皇の代から下段(台座)が四角形、上段が八角形という複雑な二層型の「八角墳」に移行する。一般豪族の方墳、円墳と異なる八角墳を採用することで帝を権威づけたのだろう。 八角墳は八代後の第42代文武(もんむ)天皇まで続いたあと途絶え、1200年後に明治天皇陵として復活した。以後、昭和天皇まで舒明陵を参考に造営されている(ただし近年の調査まで八角形を円形と思っていたため、上段が円形になっている)。 ※『日本書紀』によると「蘇我蝦夷(えみし)は自身と息子入鹿の墓を造営させ『大陵(おおみささぎ)』『小陵』と呼ばせた」とある。“陵”とは天皇の墓を意味する言葉であり、蝦夷の専横ぶりがうかがえる。この大陵はどういったものなのか。2016年に奈良県明日香村の小山田遺跡が、ただの住居跡ではなく一辺70メートル以上の巨大方墳であることが判明した。蘇我馬子の墓と伝わる石舞台古墳を上回る飛鳥時代最大級の規模であり、蝦夷の拠点(自邸)があった甘樫丘に近いうえ、出土した瓦が蘇我氏ゆかりの日本最初の寺、豊浦(とゆら)寺遺構のものと同型であったことから、「蝦夷の墓では!?」と歴史ファンは沸き立った。7世紀の中ごろに飛鳥のど真ん中に大きな墓を造る力を持つ人物は、天皇をもしのぐ絶大な権力を誇った蘇我氏しかいない。蘇我氏が超大型の方墳を造ったため、朝廷は同時代の舒明天皇の御陵を日本初の八角墳とすることで対抗したのではないだろうか。 |
斉明天皇の名前しかない | 皇極天皇と並記すればいいのに…WHY? |
(注)詳しい内容は第37代斉明天皇の項目を参照。 飛鳥時代の天皇。33代推古天皇に続く歴代2人目の女帝。そして重祚(ちょうそ、再即位)した最初の天皇。 第35代・皇極天皇のとしての在位は48歳から51歳までの3年間で、皇極天皇元年1月15日(642年2月19日)-4年6月14日(645年7月12日)。第37代・斉明天皇としての在位は61歳から67歳までの6年間で、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)-7年7月24日(661年8月24日)。 30代敏達天皇の孫の茅渟王(ちぬのおおきみ)と、29代欽明天皇の孫の吉備姫王(きびひめのおおきみ)の間に生まれた女性天皇。34代舒明天皇と結婚して、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)を産んだ。初めは31代用明天皇の孫と結婚していたが、630年(36歳)に舒明天皇の皇后になった。641年(47歳)、舒明天皇が崩御し、後継者が決まらなかったので翌年に自身が『皇極天皇』として即位した。
645年(51歳)、中大兄皇子や中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を殺害する「乙巳の変」(大化の改新)が起きる。事件の2日後、弟の軽皇子(孝徳天皇)に皇位を譲った(史実として確認できる最初の譲位)。654年(60歳)、孝徳天皇が病により58歳で崩御。これを受けて、翌655年(61歳)に『斉明天皇』として再び一度皇位に就いた(重祚は初。ただし、主な行政は中大兄皇子が行なっている)。
※『日本書紀』の記述では第26代継体天皇から安閑天皇への531年の譲位が歴代初となるが、『古事記』は継体天皇の崩御年を527年としており『日本書紀』より4年早い。それゆえ、確実に「譲位」があったと断言できない部分があり、多くの歴史学者は第35代皇極天皇が孝徳天皇に行った645年の譲位を「史上初」と位置づけている。 658年(64歳)、謀叛を企てた孝徳天皇の子・有間皇子を絞首刑に処す。660年(66歳)、百済が唐&新羅に攻められて滅亡。百済の王子が日本に滞在していたので、彼を半島に送ったうえで、翌年に自ら援軍として九州(筑紫)から遠征しようとした矢先に現地で崩御した。諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。車木ケンノウ古墳(円墳、直径約45メートル)。 |
たぶん最も可哀相な陵墓…。まず参道入口が 味気ないというか安っぽいコンクリートの階段 |
途中でもう一度コンクリートの石段。他の 御陵なら、石を組み合わせたものなのに… |
参道の最後の方はむき出しの土。一般拝所に、 白砂どころか砂利石も敷かれてないとは(汗) |
トドメは構造上の問題というか設計ミスというか、御陵の鳥居は一般拝所から見ると “真横”を向いてしまっている。つまり正面から参拝することは不可能。しかも制札が邪魔… |
一般拝所の一番左端ギリギリからで、 やっとこさ、こんな具合に見える(T_T) |
飛鳥時代中期の天皇。父は舒明天皇の弟・茅渟(ちぬ)王。皇極(斉明)天皇の弟。敏達天皇の孫。在位は49歳から58歳までの9年間で、孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)-白雉5年10月10日(654年11月24日)。
大化の改新の前に中臣鎌足から新政府樹立の同志と期待されていた。645年(49歳)、甥の中大兄皇子(天智天皇)と鎌足らが宮中で蘇我入鹿を殺害してクーデターに成功。その2日後、時代変化の象徴として皇極天皇は史上初の譲位を行う。即位を求められた中大兄皇子は、自分より年長の皇子がいること、天皇になりたくてクーデターを起こしたと思われることを嫌ってこれを固辞。皇位継承権の1番目にあたる古人大兄皇子は、入鹿殺害を目撃して震え上がっており、政争に巻き込まれることを嫌って聖地吉野で出家した(3カ月後に自死)。その結果、帝の弟が説得を受け、三度断った後に第36代孝徳天皇として即位した。
新政府の布陣は、皇太子が中大兄皇子、左大臣が阿倍内麻呂、右大臣が蘇我倉山田石川麻呂(後に自害)、中臣が中臣鎌足。いざ帝位につくと孝徳帝は新天地での政治改革を決意、飛鳥から難波宮に遷都し、最初の元号を「大化」と定める。治世下の9年間に大規模な遣唐使を派遣、内政では班田収授法の施行、左大臣・右大臣制度の導入、東北・北陸の防衛拠点(城柵)の設置、税制改革などを行った。だが、次第に中大兄皇子との権力争いが深まり、653年(57歳)、中大兄皇子は「都を元の倭飛鳥河辺行宮に戻すべき」と天皇に無断で飛鳥に戻り、多くの臣下がこれに従った。難波宮に置き去りにされた孝徳帝は悲憤の中で床に伏し翌年に崩御する。 諱は軽皇子(かるのみこ)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。 最も威厳のある御陵が仁徳天皇陵とすれば、最も気の毒な御陵は孝徳陵と断言できる。墓参した僕の第一声は「どうしてこんな目に!?」。他の御陵なら参道の階段は石を組み合わせたものなのに、味気なく安っぽいコンクリートの階段。参道の最後の方は石畳が途絶えてむき出しの土になり、雨天だと靴が泥々になる。一般拝所(一般人のための陵墓前の広場)も同様に、白砂どころか砂利石すら敷かれてない。何よりも目を疑ったのは本来は参拝者の正面にあるべき鳥居が、“真横”を向いてしまっている!鳥居の手前は斜面であり、参拝者は自分から正面に行くこともできない。しかも、宮内庁が建てた制札(立て札)が邪魔で鳥居すら見えにくい。乙巳の変の後、実質的に改新を主導したのは孝徳帝なのに!この場を借りて世に訴えたい。誰もが孝徳陵を正面から参拝できるよう、拝所を整備してほしい! |
鳥居の背後にある“猿石”で一気に有名に | おそらく男性 | おそらく女性 |
電車が1時間に1本しかないのと、日没が 迫っていたことから、分不相応にもタクシーを利用 |
238段を登る!事前に宮内庁の人 から「キツイですよ」と言われてた |
タクシーの運転手さんがくれた、冷え冷えの 水。この日は8/4で蒸し暑く、まさに命の水! |
「到着!?」と思ったら別人の墓(天智天皇の親族) | 岐路は右側の石段をさらに登らねばならない | やがて左側に石柵が見えてきた! |
今度こそ陵墓に到着ゥウウウウ! |
退位後に別名で再即位した初の天皇にして女帝 |
あまりに僕がヘロヘロなので、帰りに運転手 さんが自分のパンとオニギリを下さった! 嗚呼、なんて優しい人なんだろう! |
飛鳥時代の天皇。33代推古天皇に続く歴代2人目の女帝。そして重祚(ちょうそ、再即位)した最初の天皇。 中大兄皇子(天智天皇)の母親。第35代・皇極天皇のとしての在位は48歳から51歳までの3年間で、皇極天皇元年1月15日(642年2月19日)-4年6月14日(645年7月12日)。第37代・斉明天皇としての在位は61歳から67歳までの6年間で、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)-7年7月24日(661年8月24日)。 30代敏達天皇の孫の茅渟王(ちぬのおおきみ)と、29代欽明天皇の孫の吉備姫王(きびひめのおおきみ)の間に生まれた女性天皇。初めは第31代用明天皇の孫と結婚していたが、630年(36歳)に舒明(じょめい)天皇の皇后になり、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)を産む。641年(47歳)、舒明天皇が崩御し、後継者が決まらなかったため翌年に自身が『皇極天皇』として即位した。
645年(51歳)、中大兄皇子や中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を殺害する「乙巳の変」(大化の改新)が起きる。事件の2日後、新体制発足と共に弟の軽皇子(孝徳天皇)に皇位を譲った。9年後の654年(60歳)、孝徳天皇が病により58歳で崩御。これを受けて、翌655年(61歳)に『斉明天皇』として再び一度皇位に就いた(重祚は初。ただし、主な行政は中大兄皇子が行なっている)。
658年(64歳)、謀叛を企てた孝徳天皇の子・有間皇子を絞首刑に処す。660年(66歳)、友好国の百済が唐&新羅に攻められて滅亡。百済の王子が日本に滞在していたので、百済を再興させるべく王子を半島に送ったうえで、翌年に自ら援軍として九州・筑紫国(つくしのくに)から遠征しようとした矢先に筑紫で崩御した。享年67歳。諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。車木ケンノウ古墳(円墳、直径約45メートル)。 宮内庁は幕末の文久年間に修陵された奈良県高取町の円墳を斉明天皇陵としてきたが、夫の舒明天皇と子どもの天智、天武天皇がみんな「八角墳」であるため、2度も皇位についた斉明帝がシンプルな円墳であることに学界から疑念がもたれていた。そこへ、3km東にある奈良県明日香村の「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」が1977年の測量図で八角形と推定されて真陵の可能性が高まり、2010年の発掘調査によって墳丘が対辺約22mの八角形と確定した。 (1)八角墳は天武・持統陵など天皇級の古墳の特徴。 (2)築造は7世紀後半で661年に崩御した斉明天皇と同じ。 (3)石室内が二つの空間に仕切られた合葬墳であり、『日本書紀』の「娘の間人(はしひと)皇女が合葬された」という記述と完全に一致。 (4)出土した歯が間人皇女と推定される。間人皇女は先帝孝徳天皇の皇后でもあった。 (5)漆塗りの「夾紵棺(きょうちょかん)」の破片が出土しており、これは最高級の棺とされるもの。 八角墳の御陵は飛鳥時代の一時期(第34代舒明天皇〜第42代文武天皇※孝徳、弘文を除く)にしか採用されておらず、築造時期、墳丘の形状、出土品からみて斉明天皇以外に考えられない。 前方後円墳の築造は6世紀末に終了しているにもかかわらず、宮内庁は8世紀後半に崩御した第48代称徳天皇(718-770)と、9世紀前半に崩御した第51代平城天皇(774-824)の御陵を前方後円墳に治定しており、後者は約250年ものズレが生じている。 さらには、古墳時代(250年頃-592年)の築造と見られている円墳に、後世の第39代弘文天皇(648-672)、第49代光仁天皇(709-782)、第55代文徳天皇(もんとく/827-858)、第66代一条天皇(980-1011)、第68代後一条天皇(1008-1036)、第69代後朱雀天皇(1009-1045)、第70代後冷泉天皇(1025-1068)、第71代後三条天皇(1034-1073)、第86代後堀河天皇(1212-1234)、第94代後二条天皇(1285-1308)が眠っているとされ、最後の後二条天皇にいたっては鎌倉時代の天皇であり、実に700年近くもの築造年のズレが出ている。僕は、なぜこんなことを宮内庁が放置しているのか分からない。 継体天皇陵、斉明天皇陵のように、学界の定説が別の御陵に確定しても、宮内庁はかたくなに治定替えを拒み、「陵墓の治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく」(名前を刻んだ墓誌のような決定的な証拠が出てこない限り変更しない)の一点張りだ。これまで天皇陵から墓誌が見つかった例はなく、宮内庁は存在しないものを出せと言っており、研究者は閉口している。これでは、戦前の軍部が「一度決めたものは絶対に改めない」と目と耳を塞いでいたのと同じではないか…。 宮内庁が認定している斉明天皇陵には忘れられない思い出がある。2010年の夏(まだ「牽牛子塚古墳」の発掘結果が出る前)に初巡礼した際のこと。最寄りのJR掖上(わきがみ)駅は電車が1時間に1本しかないのと、日没が迫っていたことから、分不相応にもタクシーを利用した。陵墓の麓に着くと、事前に電話で宮内庁に問い合わせたときに、「238段あり、登るのはけっこうキツイですよ」と警告されていた石段が見えた。帰りのタクシーを捉まえることは不可能なので、そのまま待ってもらった。ダッシュしかけた僕を運転手のおじさんが呼び止め、「これを持って行きなさい」と冷え冷えのミネラルウォーターのボトルをくれた!この日は8月4日。蒸し暑く、まさに命の水、ありがたすぎる。待っている間もタクシーのメーターが刻一刻と上がっていることを考えると、ゆっくり階段を上ってなどいられない。ありったけの力を出して一気に238段を駆け上がった。ヤブ蚊が肌に止まる隙さえ与えなかった。拝所にだどり着いて汗ダラダラで参拝し、皇極時代に乙巳の変のクーデターに立ち会ったり、再即位による豪族の反発と戦ったり、最後は九州で崩御するなど、斉明帝の激動の生涯をねぎらった。そして238段を駆け下りてタクシーに戻ってメーターをチェックし「よかった、そんなに回ってない」と胸を撫で下ろしていると、運転手さんはヘロヘロの僕を哀れに思って下さったのか、自分のパンとオニギリを下さった!タクシーの運転手さんから食べ物や飲み物をいただいたのはこの時だけであり、本当に優しい方に巡り会った…嗚呼、ありがとう、高取町の運転手さん! |
●皇室豆知識その3〜いわゆる“人違い御陵”について 天皇陵は明治前半に片っ端から場所を決めたので、後世になって考古学者たちから「どう考えても別人のもの、本当の御陵はこっち」と、副葬品や古文書を根拠として、再検討を求められているケースが少なくない。人間違いのまま放置する方が故人に対して失礼だと思うので、僕は宮内庁に“一斉再調査”の英断を迫りたい。もちろん、神聖なお墓であり、そこに最大限の敬意を込めた上で。 ---------------------------------------------------------------- 【参考記事〜墳丘は八角形、「斉明陵」強まる=牽牛子塚古墳、発掘で確認−奈良・明日香村】 (2010/09/09 時事通信) 国の史跡「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」(奈良県明日香村、7世紀後半)を発掘調査していた同村教育委員会は9日、古墳の墳丘を八角形と確認したと発表した。八角形墳は天武・持統陵(同村)など天皇級の古墳の特徴。同古墳を斉明天皇陵とみる研究者は多く、今回の調査で「斉明説」の可能性がさらに高まった。 村教委によると、墳丘は高さ4.5メートル以上の3段構成で、対辺約22メートルと推定される。墳丘のすそは上から見ると正八角形になるように削られており、周囲の幅約1メートルの溝の上には石が並べられ、その外側に二重の砂利敷きがあった。砂利敷きを含めた大きさは32メートル以上に及ぶという。 過去の調査で、石室内が二つの空間に仕切られた合葬墳だったことが判明しており、斉明天皇と娘の間人(はしひと)皇女が合葬されたという日本書紀の記述と一致するほか、最高級のひつぎとされる漆塗りの「夾紵棺(きょうちょかん)」の破片や人骨、玉類なども出土していた。墳丘についても1977年作成の測量図で八角形と推定されており、今回の発掘で裏付けられた。 斉明天皇は天智、天武両天皇の母で、宮内庁は別の古墳を陵墓に指定している。 村教委文化財課の西光慎治技師は「多くの非常に重要なデータが得られた。この成果を飛鳥地域の世界遺産登録に生かしたい」と話している。 猪熊兼勝京都橘女子大名誉教授(考古学)の話 八角形墳で夾紵棺があるなど、墳丘の形状や出土品からみて天皇陵級の古墳であることは間違いない。合葬墳や出土した歯が間人皇女と推定されるなど、これまでの調査を総合すると、斉明陵とほぼ断定していいだろう。(2010/09/09 時事通信)
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報道の2週間後さっそく牽牛子 塚(けんごしづか)古墳を訪問! |
周辺の景色。完全に山里。車から降りて歩くでござる |
中央の山中に見える白い部分が発掘現場の古墳! (2010年9月) |
なにーッ!?「調査中のため見学はできません」…だ…と!? わーん、ここまできたのに!(T_T) ウルウル |
諦めないぜ!近くの斜面をのぼって報道写真に 出ていた古墳の一部を視認!(早く調査終わってネ) |
参道の入口。あの「中大兄皇子」っす! | 長い参道。600mほど歩き続ける |
『古今偉傑全身肖像』(1899)より | 夏の夕暮れにたたずむ。周囲は蝉しぐれ | 「天智天皇御陵」 |
飛鳥時代中期の天皇。34代舒明天皇の第二皇子。母は35代皇極天皇(=37代斉明天皇)。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)として知られる。本名は葛城皇子(かづらきのみこ)。在位は42歳から46歳までの4年間で、668年2月20日-672年1月7日。「中大兄」は皇位継承資格を持つ同母兄弟の中の“二番目の大兄”を意味する言葉。一番目はシンプルに「大兄」。
皇位継承の権利が2番目の中大兄皇子は、1番目の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、蘇我馬子の娘の子)を支持する蘇我入鹿と対立していた。そして645年(19歳)、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で中臣鎌足たちとクーデターを敢行し、皇極天皇の目の前で蘇我入鹿の首をはねた。この「乙巳(いっし)の変」は成功し、事件の2日後に自分が皇太子になり、孝徳天皇(母の弟)を擁立して実権を手にした。そして蘇我氏を滅ぼした3ヶ月後に、吉野に出家していた古人大兄皇子を“謀叛の疑いあり”と攻め殺した。 大陸に誕生し300年も栄えることになる超大国・唐(人口約8千万、日本は約500万)に対抗するため、天智帝は強力に中央集権化を推し進めた。クーデターの翌年、天皇を中心とした中央集権国家を念頭に「大化の改新の詔」を発布し、公地公民制、班田収授制などを遂行する。 654年(28歳)に孝徳天皇が崩御すると、翌年に乙巳の変で譲位した皇極天皇(母)を、再び斉明天皇として即位させた。660年、友好国の百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。661年(35歳)、斉明天皇が崩御し、以後7年間は無帝状態になった。 中大兄皇子は内政に手腕を振るったが、外交では百済再興を支援して朝鮮半島に800隻、兵4万2千の大軍を派遣するも「白村江の戦」で唐・新羅連合軍に大敗し、この外交政策の失敗が豪族たちの不満を呼ぶ。670年(44歳)、日本初となる全国規模の戸籍(庚午年籍)を作成。 中大兄皇子は大和の地に居づらくなり、667年(41歳)に近江大津宮へ遷都、翌668年(42歳)に天智天皇として即位した。その4年後の671年に46歳で崩御し、京都東部の山科(やましな)に葬られた。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)。 大津宮で崩御したと思われるが、平安時代に比叡山の僧侶皇円が編纂した私撰歴史書『扶桑略記』(ふそうりゃくき)によると、天智帝が山科の森に狩猟に入って行方不明となり、沓(くつ)が発見された場所に陵墓が築かれたという。この説を踏まえ天武派による暗殺説がある。ただし、皇円は崩御から約400年後に記しているためどこまで本当か分からない。 古代から飛鳥時代後期まで天皇の御陵はすべて奈良や大阪に造られたが、天智天皇の陵墓は史上初めて京都に築造された。天智天皇が日本で最初の水時計を作ったことから、天智陵の入口左手には日時計のモニュメントがある。 死の翌年、後継者として希望していた実子の大友皇子(39代弘文天皇)と、弟の大海人皇子(40代天武天皇)の間に「壬申の乱」が勃発。我が子は敗北し、以後天武系の天皇が48代称徳天皇まで9代続く。その後、天智の孫・白壁王が光仁天皇として即位し、以降は天智系統が続いた。 墓マイラーの視点から見ると、この天智陵は超重要だ。実はこの天智陵こそが、文献上でも考古学史跡としても100%本人といえる初の天皇陵だからだ。大阪、奈良の古墳はあまりに数が多く、また宮内庁も発掘を許可しないため被葬者を確認できない。天智陵は京都の東端に、離れ小島のようにポツンとある大型古墳、しかも大王の特徴である八角墳であるため、第38代にして完全に特定できる御陵となった。それだけに『扶桑略記』の記述が真実なのか判断するために発掘調査できれば良いのだが…。ちなみに、古代中国では八角形が天下八方の支配者に相応しい形とされており、その影響で日本でも八角墳が採用されたと考えられる。 ※「秋の田の 刈穂の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」(天智天皇) ※中大兄皇子は自身が攻め滅ぼした古人大兄皇子の娘・倭姫王と結婚している。倭姫王は夫が父の一族を滅ぼし、身を引き裂かれる思いだったろう。 |
入口に「夕暮れ時、イノシシが出没します。足音など 物音を立て警戒して下さい」と注意書きがあった |
前日に降った雪がまだ残っていた。巡礼した 124代の御陵で雪景色だったのは弘文天皇のみ! |
大津市役所の真裏。グルッと回り込まねばならず、 入口を探してウロウロ。駅に近いけど分かり難い |
自害峰の三本杉。ここに自害した 大友皇子の頭が葬られたという |
日本三関のひとつ「不破(ふわ)の関」。 673年に天武天皇の命で設置された |
黒血川。壬申の乱の激戦でその名 の通り川が血で黒く染まったという |
続く第39代弘文天皇(648-672)は悲運の帝だ。大友皇子(弘文天皇)は天智帝の第一皇子だが、母親が地方豪族の娘で身分が低かったため、皇位は天智帝の弟・大海人皇子(天武天皇/631?-686)と継ぐものと思われていた(そもそも当時の慣習は兄弟間の皇位継承が優先された)。だが、天智帝は博学で体力にも優れたわが子・大友皇子の才を惜しみ、日本最初の太政大臣に任命(671年)し近江朝廷の後継者と考えるようになる。この事態に大海人皇子は暗殺を恐れて都を去り吉野に隠れ住んだ。天智帝崩御の翌672年6月、大海人皇子は美濃国に脱出し不破関(ふわのせき※関ヶ原)に拠点を置き、東国兵や中央豪族など2〜3万の兵力を集めて挙兵、一方の大友皇子も24歳ながら同数の西国兵士を集めて迎え撃ち、ここに古代日本最大の内乱「壬申の乱」が勃発する。
一カ月の戦闘のうち、前半は大友皇子が勝利し飛鳥など大和盆地を制圧したが、やがて大海人皇子が反撃に転じ、大津・瀬田橋の戦いの大敗で追いつめられた大友皇子は山前(やまさき:京都府大山崎町)もしくは長等山(ながらやま※大津)で7月23日(8月21日)に首を吊って自決した。大海人皇子軍の豪族、村国男依(むらくにのおより)は大友皇子の首をはねて不破関の本営に持ち帰り、大海人皇子が首実検を行った。その後、村国男依もしくは地元民が首塚を作って三本杉を植え、同地は「自害峯」と呼ばれるようになった。在位は歴代天皇で2番目に短い7ヶ月半となった(最短は85代仲恭天皇の2ヶ月半!)。 近江朝廷は滅亡し、9月に都は再び飛鳥に戻され、翌673年に大海人皇子は新たに造営した浄御原宮(きよみはらのみや)で即位し「天武天皇」となる。戦争で皇位を手に入れた天武帝は、従来の帝とは比べ物にならぬほど強大な権力を手に入れ、「大王は神にしませば」とうたわれた。一方、大津宮は廃墟となった。 弘文天皇の首塚「自害峰」は900年後に関ヶ原合戦の西軍の陣地となり、石田三成の親友・大谷吉継の陣と、裏切り者・小早川秀秋の陣の間に位置することになる。付近には黒血川が流れるが、これは関ヶ原合戦ではなく「壬申の乱」の激戦で川が血で黒く染まったためという。 720年に成立した『日本書紀』には弘文天皇が即位したという記述がなく、父帝の崩御から自身の崩御まで約半年しかないことから、長らく天皇として認められなかった。ところが、751年に書かれた日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』や8世紀後半の『万葉集』、後世の水戸藩『大日本史』など複数の文献で天智帝が大友皇子を正式な皇太子=立太子と定めたと記していることから、父帝の崩御で即位したものの即位の儀式の前に戦争が始まったと見られた。1870年(明治3年)明治政府は大友皇子を第39代と認め、明治天皇から「弘文天皇」と諡号(しごう)された。 壬申の乱は、時の天皇への反乱という日本史上でも類を見ない大事件だった。日本書紀で弘文帝の即位が言及されないのは、天武帝の命令で編纂が始まった歴史書であり、武力で皇位を奪ったことへの非難を避けるためであった可能性が高い。以後天武系の天皇が女帝の48代称徳(しょうとく)天皇まで9代続く。ここで天武帝の血統は絶え、天智帝の孫・白壁王が光仁天皇として即位し、最終的に天智帝の血統が勝利したことになる。 こうした背景から、幕末まで皇室は始祖を神武帝ではなく第38代天智天皇(中大兄皇子)と考え、宮中には天智天皇以降の位牌が置かれていた。また、明治天皇の御陵も天智天皇と同じ上円下方墳の形式で築造されている(最初の上円下方墳は34代舒明天皇。正確には舒明帝、天智帝は上八角下方墳。大正時代は上部の八角墳を円墳と見ていた)。 弘文天皇の御陵は大津市役所の西側にあり、滋賀県にある唯一の天皇陵だ。京阪電鉄・大津市役所前駅から100mという近さで、宮内庁が「弘文天皇長等山前陵」として管理している。御陵の場所を定める治定(じじょう)にあたっては、京都の大山崎町、大津の膳所茶臼山古墳、大友皇子が御祭神の鳥居川御霊神など候補地が調査された。その結果、滋賀県県令の籠手田安定(こてだ・やすさだ)が主張していた大津・長等山麓の円墳「亀丘古墳」が、銅鏡や鏃(やじり)の出土もあって1877年(明治10年)6月に御陵と決まった。その4カ月前に西南戦争が開戦しており、戦乱の中での治定だった。官軍の求心力を高めたかったのかもしれない。 歴代天皇陵の大半が降雪の少ない地域にあるため、冬でも雪の中を巡礼することは滅多にない。弘文天皇を巡礼したのは1月の滋賀ということもあり、初めて残雪の御陵を歩いた。弘文帝は『懐風藻』で「博学多通、文武の材幹あり」と讃えられ、敵対した天武側の『日本書紀』でさえ人柄に批判的な言及がないことから、名君の素質は十分にあった。現代では平和的に皇位が継承されていることを報告し手を合わせた。 ※弘文天皇の御陵は宮内庁が治定している滋賀県大津市御陵町の長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)のほかに、密かに落ち延びたとして8個所も伝承されている。 白山神社古墳 - 千葉県君津市俵田(前記) 日向渕ノ上石造五層塔(伝弘文天皇陵)-神奈川県伊勢原市日向 小針1号墳 - 愛知県岡崎市小針町 大友皇子御陵 - 愛知県岡崎市東大友町 自害峯の三本杉 - 岐阜県不破郡関ケ原町藤下284-1 鳴塚古墳 - 三重県伊賀市鳳凰寺 膳所茶臼山古墳 - 滋賀県大津市秋葉台 皇子山古墳 - 滋賀県大津市皇子山 |
『集古十種』「天武帝御影」より | 妻の持統天皇と夫婦で一緒に眠っている(2004) | 正面の丘が2人の御陵(2008) |
第40代天武天皇は、初めて大王(おおきみ)ではなく“天皇”号を使用し、国号を最初に「日本」とした天皇とされ、古代の天皇で最大のカリスマとなった。 天皇を頂点とする中央集権国家を完成に導いた飛鳥時代後期の帝。約250年続いた律令国家体制の父であり、その権威は万葉集で「おおきみは神にしませば」(大君は神でいらっしゃるので)とうたわれた。 即位前の名は大海人(おおあま)皇子。舒明天皇の第三皇子で母は皇極天皇。妻は持統天皇で、子は草壁皇子。生年は631年頃と見られているが、614年、622年、623年、640年説もあり確定せず。中大兄皇子(天智天皇)の弟とされてきたが、兄の可能性もあるという。在位は42歳頃から55歳頃までの13年間で、天武天皇2年2月27日(673年3月20日)-朱鳥元年9月9日(686年10月1日)。 641年(10歳頃)、父・第34代舒明(じょめい)天皇が崩御、後継者が定まらないため翌年に皇后の宝皇女(たからのひめみこ)が第35代皇極天皇として即位する。 645年(14歳頃)、兄の中大兄皇子が「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)で蘇我氏を滅亡させる。その後、皇極天皇から譲位を受けて第36代孝徳天皇が即位。同年、中大兄皇子が遠智娘(おちのいらつめ※祖父は中大兄皇子の陰謀により山田寺で自害した蘇我石川麻呂)との間に娘の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)を授かる。 653年(22歳頃)、大海人皇子と嬪(ひん、女官)の額田王(ぬかたのおおきみ)の間に第一皇女・十市皇女(とおちのひめみこ/653-678)が生まれ、後に大友皇子(弘文天皇)妃となる。※壬申の乱では十市皇女の父と夫が戦う事態になってしまう。 654年(23歳頃)、大海人皇子と嬪(ひん、女官)の尼子娘(あまこのいつらめ)の間に第一皇子の高市皇子(たけちのみこ/654-696※長屋王の父)が生まれる。同年、孝徳天皇が崩御。 655年(24歳頃)、第37代斉明天皇が即位する(皇極天皇の重祚)。 656年(25歳頃)、離宮の吉野宮(よしののみや)が造営される。 657年(26歳頃)、大海人皇子は中大兄皇子の娘(つまり姪)である12歳の鵜野讃良皇女(後の持統天皇)、その姉の大田皇女(おおたのひめみこ)と結婚する(※姉妹で嫁いだ)。このことから、中大兄皇子が大海人皇子を高く評価していることがわかる。 ★661年(30歳頃)、大海人皇子と妃・大田皇女の間に第二皇女・大来皇女(おくのひめみこ/661-701)が生まれ、大来皇女をのちに伊勢斎宮とする(最終的に弟・大津皇子の謀反疑惑で解任)。また、同じく夫人・蘇我姪娘(めいのいらつめ)の間に第四皇女・阿部皇女(あべのひめみこ※のちの元明天皇=文武天皇の母)が生まれる。この年、斉明天皇が67歳で崩御。 662年(31歳頃)、大海人皇子と妃・鵜野讃良皇女(持統天皇)の間に第二皇子・草壁皇子(662-689※元正天皇・文武天皇の父)が生まれる。 663年(32歳頃)、大海人皇子と妃・大田皇女の間に第三皇子・大津皇子(663-686)が誕生。この年、朝鮮半島の白村江で日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が激突し、日本・百済が大敗する。その後、唐・新羅による日本侵攻に備えて急ぎ防備を固めたが、唐と新羅は半島支配をめぐって争うようになり、それぞれが礼儀を持って日本に接近してきた。 667年(33歳頃)、妃・大田皇女が他界。同年、日本最古の貨幣といわれている「無文銀銭」(むもんぎんせん)が発行される(672年まで)。ただし、私鋳銀貨であり国家発行の貨幣ではない。 668年(37歳頃)、第38代天智天皇(中大兄皇子)が即位し、その妻の倭姫王(やまとひめのおおきみ)は大后となる。倭姫王は夫に親と一族すべてを殺された悲運の女性。彼女の父は古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子)であり、約20年前の大化の改新のクーデター(乙巳の変)後に謀反の疑いで夫(舒明天皇の第二皇子)に攻め滅ぼされた。倭姫王には子どもがおらず、天智帝の弟・大海人皇子(天武天皇)が次期皇位継承者・皇太弟(こうたいてい)に立てられたとされる。 同年、かつての妻で今は天智帝の妻・額田王が、大海人皇子に「野守は見ずや 君が袖振る」(そんなに袖を振って私に好意を伝えたら、見張りの人に秘めた恋がばれてしまうわよ)と歌い、これに大海人皇子が返した歌が万葉集に収められている。「むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも(あなたを憎んでいれば、 人妻のあなたを恋しく思うこともなかった)」(『万葉集』巻一、21) 670年(39歳頃)、日本最初の全国的な戸籍「庚午(こうご)年籍」が作成される。 671年(40歳頃)、当時の慣習は兄弟間の皇位継承が優先されたことから(兄弟継承>父子継承)、皇位は天智帝の弟の大海人皇子が継ぐものと思われていたが、天智帝はわが子可愛さから自身の第一皇子・大友皇子(弘文天皇)を日本最初の太政大臣に任命し、近江朝廷の後継者と考えるようになる。大友皇子は母親が地方豪族の娘で身分が低かったが才人であり重用された。ある日、大海人皇子は酒宴の席で床を槍で貫き不満を述べた。この非礼に憤慨した天智帝が大海人皇子を殺すよう命じたが、藤原鎌足が仲裁して事なきを得た。天智帝が病に倒れた際、大海人皇子は権力欲がないことを示すため、「倭姫王が即位し、大友皇子が太政大臣として摂政を執るべき」と進言する。大海人皇子は暗殺を恐れ、「天智帝の病気平癒祈願を行う」として出家、妻子の鵜野讃良皇女(26歳)、草壁皇子(9歳)を連れて都を去り、吉野宮に隠棲する。 翌672年(41歳頃/持統27歳)、大海人皇子はいつ追っ手をかけられてもおかしくない状況だったが、天智帝が46歳で崩御する。皇位を継いだ大友皇子はまだ24歳であり、納得できない大海人皇子は吉野から美濃国に脱出し不破関(ふわのせき※関ヶ原)に拠点を置き、東国兵や中央豪族など2〜3万の兵力を集めて挙兵する(吉野宮で挙兵?)。18歳になっていた大海人皇子の長男・高市皇子は父を鼓舞(こぶ)した。一方の大友皇子も若いながら同数の西国兵士を集めて迎え撃ち、ここに古代日本最大の内乱「壬申の乱」が勃発する。一カ月の戦闘のうち、前半は大友皇子が勝利し飛鳥など大和盆地を制圧したが、やがて大海人皇子が反撃に転じ、大津・瀬田橋の戦いの大敗で追いつめられた大友皇子は山前(やまさき:京都府大山崎町)もしくは長等山(ながらやま※大津)で首を吊って自決した。大海人皇子軍の豪族、村国男依(むらくにのおより)は大友皇子の首をはねて不破関の本営に持ち帰り、大海人皇子が首実検を行った。近江朝廷は滅亡し、9月に都は再び飛鳥に戻される。大海人皇子は斉明天皇の飛鳥岡本営を増築した飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)に入った。 翌673年(42歳頃/持統28歳)に大海人皇子は浄御原宮で即位し第40代「天武天皇」(天武の名は751年に淡海三船が考案)となった。すべての政敵を滅ぼした天武帝は絶大な権力を手に入れ、現人神(あらひとがみ)となった。浄御原宮の遺跡からは現存する日本最古の「天皇」銘や、天武朝と考えられる丁丑年の銘がある木簡が発見されている(推古帝の代にも天皇号を使ったという資料は、中国で天皇号を君主に用いた時期より古いため、年号に疑念あり)。天武帝は鵜野讃良皇女(持統天皇)を皇后に立て共同統治者とし、一人の大臣も置かず、直接に政務を執った。在位の13年間、毎年のように改革を行った。 天武帝は壬申の乱に際して伊勢神宮・天照大神に戦勝祈願の遥拝を行い、無事に勝利を得たことから、同神宮を特別に重視していた。同じく673年、天皇の名代として伊勢神宮に奉仕する斎王(斎宮)として、第二皇女の大来皇女を斎王制度確立後の初代斎王とし、翌年伊勢国に送って仕えさせ、伊勢神宮が日本の最高の神社とされる道筋をつけた。斎王は天皇の即位ごとに未婚の内親王または女王から選ばれ、日本書紀では第10代崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から始まるとされ、後醍醐天皇の時代に廃絶している。ただ、大来皇女と先代斎王との間に約50年の空白があるうえ、それ以前の複数の斎宮に伊勢入りの記録がないことから、斎王そのものが大来皇女から始まったと見る説もある。天武帝は伊勢神宮を宮川上流から五十鈴川沿いの現在地に移した。 同年5月に、宮廷に初めて仕える者を雑事役の大舎人(おおとねり)とし、ついで才能によって役職につける制度を用意した。 674年(43歳頃)、天武帝は双六が大好きであったため、大安殿で博戯(ばくち)の大会を開く。 675年(44歳頃)、天武帝には天文や占いに造詣が深く、占いのための日本初の天文台“占星台”を設置。また、公地公民を背景に部曲(かきべ、豪族の私有民)を廃止、税収安定に繋がる稲作を促進する観点から稲作期間だけの「肉食禁止令」を発布する。 ●676年(45歳頃)、飛鳥京の西北部で新都・藤原京の建設を開始。起伏をならして整地し、道路に側溝を掘り始めた(『日本書紀』)。同年、占星を学問としてとらえ、暦の編纂などを担当する陰陽寮を設置。この年、妃の新田部皇女(持統天皇の異母妹)との間に第六皇子・舎人親王(676-735※淳仁天皇の父)が生まれる。 678年(47歳頃)、毎年官人の勤務評定を行って位階を進めることとし、昇進について規定を定めた「考選法」を施行。同年、天武帝が奈良・倉橋河の斎宮に出向く当日朝に、長女であり、弘文天皇(大友皇子)の皇后だった十市皇女(とおちのひめみこ)が約25歳で急死(自害と思われる)。父天武は「壬申の乱」で夫を攻め滅ぼしたこともあって、娘の不憫さに声を出して泣いたという。十市皇女の死を悼み、天武帝の長男・高市皇子(たけちのみこ)が挽歌の中で「今はあなたと共に寝ない夜が多い」と過去の深い関係をうたっている。 679年(48歳頃)、天武天皇は皇后の要求を受けて、天武の子4人(草壁皇子17歳、大津皇子16歳、高市皇子25歳、忍壁皇子?歳)と天智の子2人(川島皇子22歳、志貴皇子?歳)を連れて吉野に行幸し、吉野宮にて次期天皇を皇后との唯一の実子、草壁皇子(第二皇子)と事実上宣言。壬申の乱のような戦渦を起こさないよう、「異母兄弟同士、互いに助けて皇位を争わず協力する」という“吉野の盟約”を誓わせる。同年、草壁皇子は天智天皇の娘であり1歳年上の阿部皇女(阿閉皇女/のちの元明天皇)と結婚した。 ★680年(49歳頃)、皇后(持統天皇)の病気の治癒を願って薬師寺の建立を命じる。同年、草壁皇子と阿部皇女(元明天皇)の間に氷高皇女(日高皇女/のちの元正天皇)が生まれる。 681年(50歳頃)、19歳の草壁皇子を皇太子に立てる。3月、天武帝は古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こすことに力を入れ、親王、臣下に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅(しょうちょく)を出し、約40年にわたる大編纂事業が始まる。これは没後に『日本書紀』(720年)としてまとまった。また、国家事業とは別に皇室の立場からの国史として、稗田阿礼(ひえだのあれ)に帝皇日継と先代旧辞(帝紀と旧辞)を詠み習わせ、これも没後に筆録されて現存する最古の史書『古事記』(712年)となった。 この年、天武帝は大化の改新で兄が目指していた法による中央集権国家の確立を急ぎ、日本初の体系的な法典、律令法=飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう/22巻)の制定を命じる。 同年、冠をかぶりやすくするため、日本独自の髪型である角髪(みずら※両耳の上で髪の輪を垂らす)を改めるように命じた。 ※天武天皇が大嘗祭を設け、新嘗祭を国家的祭祀に高めたほか、後世に伝わる宮廷儀式の多くが天武帝に創始されたと考えられている。 682年(51歳頃)、古来からの匍匐礼(ほふくれい/両手を地面につけ、ひざまずいておこなう礼法)を廃し、立礼(りつれい/立ったままお辞儀する礼法)にすることを命じる。同年、位階を示す色を冠の色から朝服(勤務服)の色に変更。 ★683年(52歳頃)、有能な大津皇子にも朝政をとらせたため、皇太子・草壁皇子の存在感が薄れる。この年は草壁皇子に軽皇子(かるのおうじ/のちの文武天皇)が生まれている。同年、国家による最初の貨幣とされる「富本銭」が飛鳥浄御原宮の国家工房で鋳造、発行された(まじない用の銭?)。また都を複数必要と考え(複都制)、難波京を置いた。さらに藤原京の予定地を見てまわり、翌年に宮廷の場所を定めている。 684年(53歳頃)、従来の臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)という姓(かばね)を残しつつ、その上の地位になる姓を作り、新しい身分秩序制度、八色の姓(やくさのかばね)を定める。臣・連の中から天皇一族と関係の深い者に、真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)の姓を与えて皇族の地位を高めた。順位1番の真人は継体天皇より数えて5世以内の公姓の者に与えられ、朝臣は皇別の諸氏に、宿禰は臣・連姓の有力氏族に、忌寸(いみき)は帰化系氏族に、臣・連は宿禰からもれた旧来の臣・連姓の氏族に与えられた。道師(みちのし)、稲置(いなぎ)の両姓は使用の実例がない。これにより、中央貴族と地方豪族、上級官人と下級官人の家柄がはっきり区別された。 ※ちなみに全国民が苗字(名字・姓)を義務付けられたのは約1200年も後の1875年に公布された「平民苗字必称義務令」による。 685年(54歳頃)、冠位制度はそれまで天智帝が定めた冠位26階制を使っていたが、この年に新たに冠位48階制を制定。同年、伊勢神宮の式年遷宮の制を立てる(実施は5年後)。 686年、天武帝は5月24日に病気になり、神仏に祈らせたが効果がなく、7月に鵜野讃良皇后(持統天皇)と草壁皇子に大権を委任、「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅した。9月11日に崩御、享年約55歳。 ※天皇の年齢の尊敬語は宝算(ほうさん)だが、ここでは馴染みのある享年を使う。 夫を失った鵜野讃良皇后は「衣の袖は 乾る時もなし」(万葉集)と悲しみを詠む。そして夫婦の愛児、皇太子・草壁皇子の即位まで、称制(しょうせい※即位せずに政治を行う)の形で手腕をふるうことにする。草壁皇子は病弱であったが、第三皇子・大津皇子は剛健な肉体を持ち学問にも長け、皇子でありながら謙虚な態度をとり多くの人に慕われていた。我が子を皇位につかせたい鵜野讃良皇后にとって大津皇子は脅威であった。 天武帝崩御の翌月、現存する最古の日本漢詩集『懐風藻』(かいふうそう/752年頃成立)によると大津皇子の親友・川島皇子が謀反計画を鵜野讃良皇后(持統)に密告したといい、皇后は「謀反の意あり」として大津皇子を10月2日に捕縛、翌日、磐余(いわれ、奈良盆地南部)の自邸で死を命じ、大津皇子は自害した。大津皇子正妃の山辺皇女(やまのべのひめみこ※天智天皇の娘)は錯乱の果て23歳で殉死。 大津皇子の母・大田皇女は鵜野讃良皇后の実姉であったが、19年前に没しているため息子を守ることができなかった。とはいえ、大津皇子は人望があったため、殺害への反発が宮中にあり、皇后はすぐに草壁皇子を即位させる事はできなかった。 687年、百姓・奴婢に指定の色の衣服を着るよう命じる。 688年、2年3カ月という長い殯(もがり/仮葬)の期間を経て11月に天武帝の服喪が終わり埋葬された。 689年(持統44歳、文武6歳)、天武帝の服喪があけた後に皇太子の草壁皇子が即位する予定だったが、4月、悲劇的なことに草壁皇子は病気により27歳で薨御(こうぎょ※皇太子の死は薨御、親王や三位以上は薨去)してしまう。皇太子が即位前に没した場合、従来は他の皇子から新帝を選んでいた。鵜野讃良皇后はこの慣習をあえて無視し、天武帝が始めた事業を受け継ぎ、次々と完成させていく。 6月、初の体系だった令「飛鳥浄御原令」が鵜野讃良皇后に施行される。刑法に当たる“律”は完成せず、行政法や民法の“令”のみが施行された。戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、これをもとにした班田収授に関する規定を定めるなど、律令制の骨格が本令により制度化され、当法典が大宝律令の基礎となった。同年、人々の賭博熱を懸念し、初めて「双六」禁止令を出す。 690年(持統45歳、文武7歳)、鵜野讚良皇后は自身の血を引く孫の軽皇子(草壁皇子の子)の皇位継承を望むが、まだ7歳であったため、1月1日に自ら即位して第41代「持統天皇」(持統の名は751年に淡海三船が考案)となった。この即位が持統帝にとって“やむなく”なのか、野心によるのか説が分かれる。 同年、飛鳥浄御原令に基づき戸籍「庚寅年籍」(こういんねんじやく)が作成され、これをもとに初めて人民に田を分け与える“班田”が施行される。この班田は律令国家体制の完成を象徴する成果となった。 また、この年は伊勢神宮で第1回の式年遷宮が行われている(計画は天武帝)。以降、原則として20年ごとに社殿が造り替えられ、2013年の第62回式年遷宮まで約1300年にわたって遷宮は続いている。天武・持統朝は全国で氏寺が盛んに造営された。持統帝は足繁く吉野に通い、壬申の乱前に1回、在位中に31回、孫の文武天皇に譲位後の大宝元年(701年)にも行幸しており、通算して33回の吉野宮行幸を行っている。回数が極端に多いため、行幸は政治利用されていたと見られる(行幸メンバーに選抜されることが名誉となる)。 天武帝は大臣を1人も置かなかったが、持統帝は7月に高市皇子を太政大臣に任命、右大臣には皇族の多治比 嶋(たじひのしま※かぐや姫に求婚する貴族の一人、石作皇子のモデル)を抜擢した。高市皇子は天武帝の長男ではあったが、生母の身分が女官であり低いため、持統帝に粛正対象としてロックオンされなかった。生母が妃(天智帝娘)であった大津皇子と命運を分けた。持統帝は幼い軽皇子が皇位を継ぐことへの人々の反発を抑えるためにも、皇子の中で最年長の高市(たけち)皇子を太政大臣に据えることがベストの選択だった。高市皇子は皇太子に近い処遇を受け、6年後に42歳で没するまで持統政権を支えた。 691年、公的史書の参考資料にするため藤原氏や大伴氏など有力一族に先祖の記録を提出させる。同年、川島皇子他界(妻は天武天皇の娘泊瀬部(はつせべ)皇女)。 694年(持統49歳、文武11歳)、大陸の長安や洛陽をモデルにした約5km四方の広大な都、藤原京が完成。のちの平城京・平安京をも大きくしのぐ日本最大の城郭都市、都城(とじょう)であり、710年まで持統・文武・元明天皇の3代16年間の首都となった。藤原京は全域に格子状の街路を敷き、都城制が導入された初めての日本の都でもある。宮廷の藤原宮は日本の宮殿建築で初の瓦を葺いた建物となった。 この藤原京で、持統帝は季節の推移を詠んだ有名な歌をのこす。「春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山(春が過ぎて夏が来たようだ。真っ白な衣が干してある、天の香具山に)」(『小倉百人一首』) 696年(持統51歳、文武13歳)、皇族筆頭の太政大臣・高市皇子が42歳で薨去(こうきょ)。これを待っていたかのように持統帝は軽皇子への譲位に動き出す。持統帝が皇太子擁立について臣下に議論させたところ、皇子が多いために意見が衝突した。そこで葛野王(かどののおう※弘文帝の第一皇子)が「どの皇子が最も皇太子に相応しいか議論しても、天意が分かる者などいない。父子継承が最もわかりやすい」と主張、反論しようとした弓削皇子(弓削皇子の同母兄・長皇子を推そうとした?)を一喝して黙らせた。この発言を持統帝は大いに喜んだ。結果、並み居る天武天皇の皇子達は退けられ、前皇太子・草壁皇子の子で持統天皇の孫でもある軽皇子(のち文武天皇)が皇太子に定められた。 ※持統帝は父子継承を喜んだが、夫・天武帝は兄弟継承を求めて壬申の乱を起こしたことを考えると歴史の因縁を感じる。 高市皇子の薨去によって、忍壁皇子(おさかべのみこ/刑部親王)が天武帝の諸皇子の中で最年長(生年不明だが)となり皇族の代表的存在となった。ただし、忍壁皇子の母・宍人カヂ媛娘(ししひとのかじひめのいらつめ)は宮中の炊事係であり、皇位継承の対象外。 697年(持統52歳、文武14歳、元正17歳)、持統天皇は軽皇子に譲位し、14歳という異例の若さの第42代「文武天皇」が誕生する。祖母の持統が史上初の太上天皇(上皇)となり、文武帝を後見した。存命中の天皇の譲位は皇極天皇に次ぎ史上2番目。文武帝は亡き父・草壁皇子と同じく病弱ゆえ夭折の可能性があり、持統は文武の姉、17歳の氷高皇女(元正天皇)に、「文武が崩御した際は、遺児が成長して即位するまであなたが皇位につけ」と命じた。それゆえ日高皇女は独身のまま待機することになった。 同年、文武帝は藤原宮子と結婚。宮子は藤原不比等(ふひと/659-720/藤原鎌足の次男)の長女。不比等は先の近江朝の重臣の子として不遇をかこっていたが、持統は天武天皇の他の皇子を敵にまわしてきたことから不比等を側近に登用していく。宮子の妹・安宿媛(あすかべひめ)はのちに聖武天皇と結び光明皇后となっている。 ※歴代天皇の即位は40歳代や50歳代が多く、文武帝の14歳の即位は、約200年前(498年)の第25代武烈天皇の即位9歳に次ぐものとなった。 698年、藤原不比等が39歳で大納言に昇進。 699年、第9皇子・弓削皇子が約27歳で薨去(母は天智帝の娘、大江皇女)。『万葉集』には天武天皇の皇子のなかで最多となる8首の歌が収録されている。また柿本人麻呂と交流があり、人麻呂の歌集に弓削皇子に献上された歌が5首残されている。 700年、忍壁皇子は藤原不比等(41歳)らと大宝律令の選定を命じられる。 ★701年(持統56歳、文武18歳)、日本史上初めて律(刑法)と令(民法、行政法)が揃って成立した大宝律令が制定される。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。天武帝が律令制定を命じた681年から20年目を経て、唐の統治制度を参照しながら目指した古代国家建設事業が一つの到達点に至った。この年、文武天皇と藤原宮子の間に首皇子(おびとのおうじ※のちの聖武天皇)が生まれる。宮子は入内から4年間ずっと世継ぎ待望のプレッシャーに晒されて心の病を発症、30年以上も首皇子に会うことを拒む。 702年(持統57歳、文武19歳)、大宝律令を施行。日本と唐は663年の白村江の戦で衝突した後もしばらく国交はあったが、669年から途絶。文武天皇は国交回復に乗り出し、702年6月に33年ぶりに遣唐使を派遣、粟田真人(あわたのまひと)に節刀(せっとう、使者の証)を授けた。粟田真人は自身が編纂に関わった大宝律令を携えて大陸に渡り、律令制度が整備されたこと、国号の漢字表記が「倭(やまと)」から「日本(やまと)」になったことを伝えた。 703年、1月に持統上皇が病を発し9日後の1月13日(大宝2年12月22日)に58歳で崩御。律令国家建設と直系相続を強権で押し切った鉄の女傑だった。1年間の殯(もがり)の後、天皇として初めて火葬され天武天皇陵に合葬された。以降、忍壁皇子が文武天皇(20歳)を補佐する。 704年(文武21歳)、遷都から10年、藤原京の建設がようやく終わる。 705年、忍壁皇子が薨去。 707年(文武24歳、元明46歳、元正27歳)、文武天皇が24歳で崩御。病弱で短命な男性皇族が多いのは皇統にこだわり近親婚が繰り返されたため。文武帝の46歳の母親・阿陪皇女(あべのひめみこ)が第43代「元明(げんめい)天皇」として即位する。阿陪皇女は天智帝の皇女かつ草壁皇子の正妃(せいひ)。 708年(元明47歳)、武蔵国で和銅(精錬無用の銅)が産出され、天地に日本が祝福された証拠と受け止め、元号を和銅に改元。確実に流通貨幣として使用されたことが判明している「和同開珎」が発行される。元明天皇より遷都(平城京)の勅が下る。 同年、藤原不比等が49歳で右大臣に昇進。 710年(元明49歳、元正30歳、聖武9歳)、藤原京の北に朱雀大路を備えた9条8坊の平城京が造営され遷都が行われる。左大臣・石上麻呂(いそのかみのまろ)が藤原京に残されるなど、この遷都で天武朝から活躍していた老臣達の多くが表舞台から消え、右大臣・藤原不比等が藤原氏最初の黄金時代を築き、奈良初期の政界をほぼ1人で動かしていく。 712年(元明51歳)、現存する日本最古の歴史書『古事記』(3巻)を太安万侶が編纂し、元明天皇に献上する。 713年(元明52歳)、藤原不比等は故・文武帝の配偶者のうち、宮子以外の者から嬪(ひん)の称号を奪い、宮子を事実上の正妻とさせる。 714年(元明53歳)、藤原不比等は宮子が産んだ首(おびと)皇子を立太子(公式に皇太子と宣言)させる。 715年(元明54歳、元正35歳、聖武14歳)、元明天皇が自身の老いを理由に譲位。孫の首皇子(おびとのおうじ※のちの聖武天皇)はまだ14歳と若かったため、元明帝の娘、35歳の氷高皇女が独身のまま第44代「元正天皇」として即位し、元明帝は太上天皇(上皇)となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例。 716年、和歌の名手であった志貴皇子(しきのみこ、天智天皇の第七皇子)他界。志貴皇子は天智系であったために皇位継承争いとは無縁ゆえ風雅に生きた。現在の皇室は志貴皇子の子孫。 717年、藤原不比等らが中心となって大宝律令を改訂した「養老律令」の編纂を開始、翌年終了。 ・718年、17歳の首皇子(聖武天皇)と光明皇后の間に娘、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が生まれる。 720年(元正40歳、聖武19歳)、日本初の正史『日本書紀』全30巻が完成。同年、藤原不比等が病に倒れ61歳で他界。 721年(元正41歳、聖武20歳)、元明上皇が発病し、上皇の娘婿・長屋王(天武帝の長男・高市皇子の長男/元正天皇のいとこ)と藤原房前(ふささき※藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖)に後事を託し、葬送の簡素化を命じて12月29日(養老5年12月7日)に崩御した。享年60歳。長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。 723年(元正43歳、聖武22歳)、墾田を奨励し田畑の不足を解消するため、開墾者から三世代までの墾田私有を認めた三世一身法が制定され、律令制が崩れ始めていく。 724年(元正44歳、聖武23歳)、元正天皇の譲位により、皇太子の首皇子が第45代「聖武天皇」として即位。元正は太上天皇(上皇)となり新帝を補佐。 729年(元正49歳、聖武28歳)、長屋王が藤原四兄弟の陰謀により自害させられる(長屋王の変)。 ・733年、天武天皇の皇子・舎人親王の七男として大炊王(おおいおう/のちの淳仁天皇)が生まれる。 737年(聖武36歳)、聖武帝の母・藤原宮子の心の病が僧正玄ム(げんぼう)の看病でついに落ち着き、母子は36年ぶりに対面する。 743年(元正63歳、聖武42歳)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなる。耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定、律令制の根幹の一部が完全に崩れる。 744年(元正64歳、聖武43歳)、元正上皇が難波京遷都の勅を発する。 748年(聖武47歳)、元正天皇が5月22日に68歳で崩御。 749年(聖武48歳、孝謙31歳)、聖武天皇が娘の阿倍内親王に譲位、阿倍内親王は第46代「孝謙天皇」として即位する。聖武は譲位により太上天皇(上皇)となった初の男性天皇となる。 752年、東大寺大仏の開眼法要。 754年、唐僧・鑑真が来日。 756年6月4日、聖武天皇が55歳で崩御。 758年、孝謙天皇が譲位し、大炊王が第47代「淳仁天皇」として即位する。孝謙は上皇となった。 764年、淳仁天皇と孝謙上皇が対立し、淳仁帝は上皇より「(謀反人)藤原仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され淡路国に流される。孝謙上皇は重祚(ちょうそ/再即位)して第48代「称徳(しょうとく)天皇」となった。 765年、淡路島から逃亡を図った淳仁廃帝が捕まり翌日に病死。殺害されたとみられ、葬礼も執り行われなかった。 770年、天武天皇の玄孫(やしゃご※子のひ孫)・称徳天皇の崩御により、志貴皇子(天智天皇の子)の第6皇子が第49代光仁天皇として即位。これにより皇統は天武系から天智天皇の孫に戻った。672年の壬申の乱から98年。天武直系の血筋は百年たたずに皇統から絶えた。 〔天武政権のもとで、わが国の統治機構、文化、宗教など今に至る原型が作られ、日本律令体制の基礎が定まった〕 ●中央や地方の豪族を国家の役人として組織化。 ●官職の勤務評定、昇進制度などを規定。諸王を12階、諸臣を48階の位階に区分し、功績で上下させた。 ●国政を担当する太政官、神社を管理する神祇(じんぎ)官を設置し、唐とは異なる日本独自の律令制を導入。 ●新たな姓(かばね)を作って身分秩序を構築。 ●伊勢神宮の祭祀を重視し、皇族の娘を仕えさせる斎宮の仕組みを創設。 ●『古事記』『日本書紀』など史書の編纂に着手。 ●日本初の計画都市・藤原京を構想。 ●「天皇」の称号を明確に使用し、「日本」という国号を定めたとされる。 ●すべての土地・人民を国家すなわち君主の所有とし、私有を認めない「公地公民制」を徹底。 ●治世下で五穀の収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)と大嘗祭(即位後の最初の新嘗祭)が区別され今に継承されている。 〔墓巡礼〕 近鉄吉野線・飛鳥駅から東に約1km、徒歩圏内の場所に天武・持統合葬陵がある。646年に発布された「大化の薄葬令」(大化2年3月22日条の詔)は人馬の殉死殉葬を禁じ、古墳築造にともなう民衆の犠牲を軽減するため、身分に応じて墳墓の規模を制限し、天皇の陵にかける時間を7日以内とした。だがこれは、地方豪族の権力の象徴である古墳の造営を大和朝廷が制限したもので、中央においては前方後円墳はなくなったものの、一部の支配者層が引き続き長い工期の古墳造営を続けた。 天武帝と持統帝は奈良県高市郡明日香村の八角墳・五段築造の野口王墓(のぐちのおうのはか)に合葬された。宮内庁は「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」とし、『日本書紀』では「大内陵」と記される。 686年9月に天武帝が崩御した後、一年後(687年10月)に檜隈大内陵の築造が始まる。さらに一年後の688年11月に天武帝は埋葬された。それまで2年間、棺は浄御原宮の殯宮(もがりのみや)に安置されていた。御陵の墳形は八角形で五重。現在の墳丘は東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートル。 700年3月、禅僧の道昭(どうしょう)和尚が72歳で没し、日本で初めて火葬される。道昭は渡来人の子で、653年に唐へ留学し、あの玄奘三蔵法師の愛弟子となった。帰国後に飛鳥の元興寺に禅院を建て、他界後に弟子達が遺言に従って飛鳥南部の粟原で亡骸を荼毘に付した。京都の宇治橋は道昭が架けたもの。※「火葬於粟原。天下火葬従此而始也。」(続日本紀/しょくにほんぎ) 天武帝崩御の14年後、道昭火葬の2年後の702年に持統帝が崩御し、一年後の703年12月に飛鳥・岡にて火葬され、9日後に天武陵に合葬された。持統帝の遺骨は夫の棺に寄り添うように金銅製(『阿不幾乃山陵記』)もしくは銀製(『明月記』)の骨蔵器に納められ、棺台の上に置かれた。その後、文武帝、元明帝、元正帝も火葬を選んだが、聖武天皇から火葬されなくなった。 合葬から532年後の1235年3月に天武持統陵は盗掘に遭う。「小倉百人一首」をまとめた鎌倉前期の歌人・藤原定家(1162-1241)の日記『明月記』によると、3月20日と21日の2夜連続で泥棒が入り、天武帝の棺から大半の副葬品が盗まれたという。帝の頭部にはまだ白髪が残っていたらしい。持統帝は気の毒にも骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに打ち捨てられた。定家は「女帝の御骨においては、銀の筥(はこ)を盗むため、路頭に棄て奉りしと言う。塵灰と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。ひどい話だ。」と憤慨している。3年後に犯人が捕まり、都に連行された。 盗掘後の調査報告『阿不幾乃(あおきの)山陵記』は石室の様子を詳細に記述している。盗賊は玄室に続く石門に人間一人分の小さな穴を開けて侵入。内部は内陣と外陣の2部屋があり、メノウ(瑪瑙)で作られ、金銅の美しい扉で仕切られていた。内陣は朱に塗られており、帝の亡骸は当時の最高級の棺=木棺を布張りした朱色の夾紵棺(きょうちょかん※重ねた麻布を漆で固めてつくったもの)に納められていた。棺は金銅の台の上に安置され、副葬品がたくさん入るよう長さが約2mもあった。天武帝の首は常人より少し大きく、赤黒い色。脛(すね)の骨の長さは1尺6寸(48cm)、肘の長さは1尺4寸(42cm)であり、ここから身長は約175cmとみられ、古代ではかなりの長身だった。亡骸は紅い服をまとっていたようだ。 天武帝の棺の隣りには持統帝の遺骨が入った金銅製の骨蔵器が並ぶ。盗賊が二晩訪れたのは、一夜では運び出せないほど財宝があったからと思われる。盗まれなかった副葬品は飛鳥の橘寺に移された。 事件から58年後の1293年4月、合葬陵は再び盗掘に遭う。犯人の僧侶は既に荒らされて金目のものがないことに怒り、天武帝の頭骨さえ持ち出したという(『実躬卿記』)。 その後、戦国期に古墳は荒廃。江戸時代中期は現在の野口王墓(天武持統陵)と1.5km北西の見瀬丸山古墳のどちらが真陵か迷っており、石舞台古墳を天武持統陵と考える者もいた。1699年の“元禄の修陵”では野口王墓が天武持統陵として扱われているにもかかわらず、その後の『大和志』(1734)、『打墨縄』(1848)、平塚瓢斎『聖蹟図志』(1854)では見瀬丸山が天武持統陵とされている。『大和名所図絵』(1791)に描かれた絵によると、野口王墓の石室は開きっぱなしで旅行者が内部を自由に見学できた。この絵図では被葬者が紀元前の皇族・倭彦命(やまとひこのみこと)とあり、「地元伝承では武烈天皇陵」と記す混乱ぶりだ。 幕末1862年の“文久の修陵”では野口王墓が天武・持統夫婦の孫「文武天皇陵」として仮修補された。国学者・谷森善臣(1818-1911)は『山陵考』(1867)の中で、「持統帝は骨壺なのに石棺が二つある見瀬丸山は合葬陵として不自然」と指摘。明治に入ってもしばらく混乱が続いていたが、1880年になって事態が一変する。盗掘後の調査記録『阿不幾乃山陵記』が京都栂尾(とがのお)の高山寺で発見されたのだ。照合の結果、翌年に野口王墓は天武持統陵として正式に治定された。もしも『阿不幾乃山陵記』が発見されていなければ、いまだに合葬陵は未確定だった。同記録は非公式のものであり著者不明だが内容は第一級。約800年前の名も知らぬ記録者に感謝。 ※古代陵墓の中では天智陵と共に被葬者が確定している貴重な陵墓であり、盗掘という形ではあるものの、石室で本人確認された唯一の天皇陵。 ※古墳時代、大和政権のトップは大王(おおきみ)と呼ばれており、“天皇”という言葉はなかった。『日本書紀』の持統紀に、単に「天皇」と書いて持統天皇でなく天武天皇を指している箇所があるため、日本ではじめて天皇を称したのは天武天皇と思われる。また、1998年に天武帝ゆかりの飛鳥池遺跡で「天皇」の文字を記した木簡が発見されたことから、天武天皇が最初の天皇号使用者と見られている。つまり、狭義の意味において天武天皇が事実上の初代天皇。その後、天武帝のカリスマにあやかり、天皇を君主の号とするようになったという説がある。 ※天武朝に成立し、『日本書紀』編纂に利用された『日本世記』の存在などから、「日本」という国号を採用したのも天武天皇とする説が有力。 ※飛鳥時代や奈良時代は大規模な墳墓の整備のため貴人の棺は殯宮(もがりのみや)に移され、3年間安置された(確定ではなく天武帝は2年、持統帝は1年)。以降、期間は短くなり、現在は没後45日頃に殯宮を出て国葬である「大喪の礼」が行われ、皇室の儀式「斂葬(れんそう)の儀」で埋万葉集に6首残す。葬される。一般人もお通夜という形で殯(もがり)を一日だけ行っている。 ※天武・持統の時代は美術史では白鳳時代と呼ばれ、数々の仏教美術の傑作が生まれた。 ※天智帝の子・志貴皇子は薨去から54年後に息子の白壁王(光仁天皇)が即位し、春日宮御宇天皇の贈号を受け追尊されることとなった。生前の志貴皇子は、冠位四十八階で吉野の盟約に参加した諸皇子が叙位を受ける中、叙位を受けた記録がなく、持統朝でも叙位や要職への任官記録がないなど不遇な扱いで、皇位継承とは全く無縁な人生だったが、子孫は現在の皇室にまで繋がっている。 ※『日本書紀』は天武天皇(大海人皇子)が皇位継承の正当性を強調するために作成を命じ、中心になって編纂していたのは息子の舎人親王(676-735)。 〔参考資料〕天武・持統合葬陵 http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-r.htm ※リンク先に持統帝の骨蔵器が中を開けられないよう鎖で固定されていたと書いてあるけど、どの資料なんだろう(汗) |
●皇室豆知識その4〜「大王(おおきみ)」から「天皇」へ 古墳時代、ヤマト政権のトップは大王(おおきみ)と呼ばれており、“天皇”という言葉はなかった。1998年に天武天皇ゆかりの飛鳥池遺跡で「天皇」の文字を記した木簡が発見されたことから、天武天皇が最初の天皇号使用者と見られている。その意味では、天武天皇が事実上の初代天皇となる。 |
「春すぎて夏来にけらし白妙 の」百人一首の持統天皇 |
夫婦で天皇というのも、合葬というのも珍しい(04) | 4年後に再訪。冬で緑が色褪せ、少しもの悲しい(2008) |
(注)より詳細な内容は夫である天武天皇の項目にて。 飛鳥時代後期の天皇。推古天皇、皇極(斉明)天皇に続く、3人目の女帝。天智天皇(中大兄皇子)の子。在位は45歳から52歳までの7年間で、持統天皇4年1月1日(690年2月14日)-持統天皇11年8月1日(697年8月22日)。本名は鵜野讃良(うののさらら)皇女。※名前の“鵜”はもっと難しい旧漢字が正しい。ホームページ未対応(汗) 657年、12歳の時に叔父(父の弟)の大海人皇子(当時26歳)と結婚。15年後の672年(27歳)、夫が皇位継承戦争「壬申の乱」で大友皇子(弘文天皇)に勝利し、翌673年(28歳)に皇后となって夫・天武天皇の国政を支えた。 686年(41歳)に天武天皇が崩御すると、皇位を子の草壁皇子へ継承させるため、有力候補の大津皇子を謀叛の嫌疑で自害させた。大津皇子は聡明な人格者だったことから、その死は人々の同情を集め、また草壁皇子が24歳と若いために即位のタイミングを待つことに。3年後(689年)、そうこうしてる間に草壁皇子が27歳の若さで病死してしまう。 翌690年(45歳)、今度は草壁皇子の遺児である6歳の軽皇子へ皇位を継承させるため、緊急措置として自ら即位して皇位を手中に収めておいた。697年(52歳)、14歳になった軽皇子(文武天皇)に譲位し、歴代初の太上天皇(上皇)となって見守った。持統天皇は柿本人麻呂の歌才に惚れ重用した。 持統天皇は有能な統治者で、藤原京遷都、飛鳥浄御原令公布、班田収授法を断行し、日本を本格的な律令国家にさらに近づけた。702年、病により崩御。享年57歳。天皇では歴代で初めて火葬され、遺骨は16年前に世を去った夫・天武天皇の棺に寄り添うように銀の骨壺に収められた。この合葬墓は1235年に残念ながら盗掘され、持統天皇は遺骨を撒かれ銀の骨壺を奪われた。この事件を聞いた藤原定家は、日記(明月記)に「遺灰を拾い集めてもとに戻すべき。ひどい話だ」と怒りを込めて記した。 万葉集に名歌「春すぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」を残している。 ※持統天皇の母は中大兄皇子の妻・造媛(みやつこひめ)。母の父は「乙巳の変」のクーデター現場で、ガクプルしながら上表文を読み上げていた蘇我石川麻呂。蘇我石川麻呂は中大兄皇子や中臣鎌足に協力したのに、クーデターの4年後に滅ぼされた。この時、持統天皇は4歳。母の造媛は父親を夫たちに殺され、悲嘆にくれて病死した。 ※僕は万葉集第三巻の持統天皇と側近の老女のやり取りが微笑ましくて好き。 持統天皇「否といへど強(し)ふる志斐(しい)のが強ひがたり この頃聞かずてわれ恋ひにけり」 (もうたくさんと言ってるのに無理に聞かせるお前の話も、最近聞かないので恋しく思う) 老女「否といへど語れ語れと詔(の)らせこそ 志斐いは奏(まを)せ強語(しひがたり)と詔る」 (私はよしましょう言うのに、語れ、語れと言うのでお話しするのに、無理じいとはあんまりです) |
飛鳥の都に夕陽が沈む(2008) |
●皇室豆知識その5〜古墳時代を終わらせた法律「薄葬令(はくそうれい)」 巨大古墳の造営は民衆に多大な負担をかけたことから、大化の改新の翌646年、新政権は民衆の犠牲を減らすため薄葬令を発布した。(1)身分別に墳墓の規模を制限(2)天皇陵の造営にかける時間は最大7日以内(3)人馬の殉死や殉葬を禁止、こうした制限事項を加えることで陵墓は小型&簡素化され、前方後円墳は消えていった。 |
文武天皇像(道成寺蔵) |
明日香村は平和そのもの。楽園でござる! | 飛鳥駅から文武天皇陵に行く途中、高松塚古墳が! | ここから伝説の壁画が発見された!(高松塚古墳) |
山村の田畑の中に御陵がある。めっさ良い天気! | 文武天皇陵に光がさんさんと降り注ぐ | 農村のせいか陵墓前は時間がゆっくりに感じられた |
飛鳥時代末期の天皇。読み方は“もんむ”。草壁皇子の長男。母は阿陪皇女(元明天皇)。在位は14歳から24歳までの10年間で、文武天皇元年8月1日(697年8月22日)-慶雲4年6月15日(707年7月18日)。祖母の持統天皇から譲位されて、わずか14歳で即位。701年(18歳)に大宝律令が完成し翌年に公布した。 諱は珂瑠(かる)。和風諡号は『続日本紀』の倭根子豊祖父天皇、『続日本紀』の天之眞宗豊祖父天皇(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと)。妻は藤原不比等の娘・宮子。 父の草壁皇子は皇太子位のまま亡くなったため、祖母の持統天皇が初の太上天皇(上皇)となり後見役として見守った。 文武天皇は火葬を経て八角墓に葬られた。御陵は長く所在が不明で、1881年に現在の栗原塚穴古墳に治定された。江戸時代の“元禄の修復”では、約300m南にある国宝人物壁画で有名な「高松塚古墳」が文武天皇陵とされていた。 ※宮内庁が決めた栗原塚穴古墳よりも、同村の中尾山古墳が本物という意見が有力。 |
〔追記〕2020年11月26日の『朝日新聞』に重要記事! 《奈良の八角墳、構造判明 専門家「文武天皇稜」では?》 全国でも例が少ない八角墳の中尾山(なかおやま)古墳(8世紀初め、奈良県明日香村)について詳しい構造が判明した。墳丘の外周に八角形状の石敷きが3重分あったことが確認され、石室は赤く塗られていた。村教育委員会と関西大が26日発表した。八角墳は天皇墓の特徴といい、専門家は飛鳥時代の文武(もんむ)天皇陵だった可能性が高まったと指摘する。 村教委と関西大は今年9月から、約46年ぶりに発掘調査を実施。墳丘は3段の八角形で、下段(一辺約8メートル)と中段(同約6メートル)は石を敷き詰めて築かれていて、基壇状だった。上段(同約5メートル)は、土を突き固めた版築土(はんちくど)のみでつくられていた。 外周の石敷きは3重にめぐらされていた。過去の調査では2重と考えられていた。1重目の一辺は約8・3メートル、2重目は約10・5メートル。3重目の正確な形は分かっていないが、石敷き全体も墳丘と同じく八角形だった可能性がある。 石室は、計10の石材を組み合わせて横に口が開いている「横口式石槨(せっかく)」と呼ばれる構造。内部は約90センチ四方の空間で、壁面は丁寧に磨き上げられ、全体的に水銀朱で赤く塗られていた。中央部には60センチ角のくぼみがあり、火葬した骨をおさめた器を安置する場所だったとみられる。古墳全体では計約560トンの石材が使われていたという。会見した関西大の米田文孝教授(考古学)は、構造などについて「唯一無二の事例」と述べた。 天智天皇陵とされる御廟野(ごびょうの)古墳(京都市)など、八角墳は飛鳥時代の天皇墓の特徴という。中尾山古墳の近くにある天武天皇と、その妻の持統天皇の合葬墓とされる野口王墓(のぐちのおうのはか)古墳(同村)も八角墳で、石室とみられる墓室の内部は朱塗りだったという。 文武天皇は持統天皇の孫。707年に飛鳥の岡で火葬され、「安古(あこ)」という場所に葬られたと伝わる。専門家らは立地や構造などから、それが中尾山古墳にあたると考えてきた。一方、宮内庁は近くにある別の古墳「檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)」を文武天皇陵としている。 白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は「今回の調査で中尾山古墳が真の文武天皇陵である蓋然性(がいぜんせい)が高くなった」と評価。猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(同)は、「文武天皇は持統天皇の影響が強く、(身分に応じて墳墓の規模を定める)薄葬も意識していた。天皇としての権威も保てる八角形の火葬墓をオーダーメイドしたのかもしれない。石槨内を赤く塗ったのは、天武・持統陵にならったのでは。(中尾山古墳は)文武天皇陵以外に考えることはできない」と指摘する。 ※『週刊新潮』WEB:中尾山古墳が文武天皇陵と確実に!文化庁はいつまで“ねじれ構造”を放置するのか 「(中尾山古墳は)八角墳の最終段階を象徴するような古墳。『文武をもって古墳は終わる』といわれているが、火葬骨をおさめた石槨(せっかく)の石はピカピカに磨かれ、本当に精緻な造り。最高峰の人物にふさわしい墓だ。中尾山古墳の被葬者は文武天皇の可能性が極めて高い」(岡林孝作・奈良県立橿原考古学研究所副所長) 粟野仁雄氏のコラムより(以下要点まとめ) →文武天皇の墓は江戸時代、中尾山古墳の少し北にある「野口王墓」とされていたが、明治時代に見つかった「阿不幾(あおき)乃山稜記」により、「野口王墓」は天武、持統天皇夫妻の合葬墓と判明。明治14年(1881年)に明治政府は治定を変更し、文武天皇陵を新たに栗原塚穴古墳に決めた。江戸時代は文武天皇陵が高松塚古墳だったことも。この明治14年を最後に宮内庁は一切、天皇陵を変更していない。最近では2010年に、7世紀に活躍した斉明天皇の墓が明日香村の牽牛子(けんごし)塚古墳と判明、大ニュースになったが、宮内庁は隣町の高取町の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)を斉明天皇陵としたままだ。頑として変更しない理由を宮内庁は「神聖な祭祀が行われてきた」(陵墓課)などとする。6世紀に君臨した継体天皇陵も宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を陵墓としているが、学術研究から大阪府高槻市の今城塚古墳であることが確実。これも変更しない。宮内庁は祭祀の伝統とともに「墓誌などが見つかっていない」も変更拒否の理由としているが、そもそも日本の墓には墓誌を入れる風習はない。治定されている栗原塚穴古墳には、文武天皇の名前が書かれた石があるのだろうか。 明日香村と橿原市は「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として、石舞台や天皇陵などの遺跡の世界遺産登録を目指している。自国の歴史を正しく伝えない国は世界の信用も得られまい。 世界遺産登録の要件に「真実性」がある。「嘘の埋葬場所」を世界に向けて具体名を挙げた天皇の墓だなどと喧伝していいのだろうか。昨年、大阪府堺市や藤井寺市などの「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されたが、目玉の「大山陵」に埋葬されているとされる仁徳天皇は実在さえ疑わしい。今尾文昭氏(関西大学非常講勤師 元橿原考古学研究所調査課長)「宮内庁は祭祀を強調するが、一般の人は陵墓祭祀など知らない。違う場所を税金で祭っていることもおかしいのでは」。 |
平城遷都1300年祭!せんとくん! | 朱雀門に続く大通り。ここから1300年祭の会場へ | 『世界遺産』に認定されたことを示す石碑 |
こちらは正殿となる大極殿。超巨大! | 中国の紫禁城を思わせる広大な広場 | 平城京保存の父・棚田嘉十郎。保存を巡って自刃 |
元明、元正母子の御陵へ | 女帝だけに、どことなく女性的に見えるのは気のせい? | 奈良市内だけど中心からだいぶ北。ほとんど木津川市 |
時代は奈良時代へ。奈良時代の最初の天皇は、平城京への遷都を行った第43代元明(げんめい)天皇(661-721)は4人目の女帝。在位は46歳から54歳までの8年間で、慶雲4年7月17日(707年8月18日)-和銅8年9月2日(715年10月3日)。和風諡号は「日本根子天津御代豊國成姫天皇」(やまとねこあまつみよ(みしろ)とよくになりひめのすめらみこと)。
天智天皇(中大兄皇子)の第四皇女で、名は阿部皇女(あべのひめみこ)=阿閇皇女(あへのこうじょ)。母は蘇我倉山田 石川麻呂。大友皇子(弘文天皇)の異母妹。 679年頃(18歳)、阿部皇女は天武天皇(伯父)と持統天皇(異母姉)の子、つまり甥にあたる草壁皇子(17歳)と結婚し、その正妃(せいひ)。となる。 680年(19歳)、長女の氷高皇女(ひたかこうじょ/のちの元正天皇)を授かる。 683年(22歳)、結婚4年目に長男の珂瑠(かる/のちの文武天皇)=軽皇子(かるのおうじ)を授かる。 686年頃、次女の吉備皇女=吉備内親王(きびないしんのう)を生む。 689年(28歳)、夫の草壁皇子が27歳で夭折する。 697年(36歳)に息子の珂瑠が持統天皇から譲位され文武天皇(当時14歳)として即位した。同年、文武帝は藤原鎌足の次男・不比等の娘の宮子を夫人に迎える。 701年(40歳)、大宝律令が制定される。文武帝と宮子との間に、阿部皇女にとって孫となる首皇子(おびとのみこ=聖武天皇)が生まれる。だが宮子は出産をめぐって心の病となり息子と会うことを拒絶する(36年後の737年に平癒、母子は対面する)。 706年(45歳)、病に伏せるわが子、文武天皇が阿部皇女を後継に指名した。阿部皇女は固辞したが“首(おびと)のために”と繰り返し要請された。 707年(46歳)、文武天皇が病によりわずか24歳で崩御。病弱で短命な男性皇族が多いのは皇統にこだわり近親婚が繰り返されたため。首皇子はまだ6歳だったことから、成長するまでの中継ぎで、阿部皇女が第43代元明(げんめい)天皇として即位した。元明天皇の夫・草壁皇子は皇太子のまま他界したので、皇后を経ずにいきなり女帝に就任したことになる。 ※当時、皇后が女帝になった即位例はあれど、皇太子妃格の即位は前例がなかった。そこで父の天智天皇が定めた皇位継承の原則「不改常典(あらたむまじきつねののり)」をもちだし、嫡子が天皇になるまでの中継ぎとして即位する正当性の根拠とした。 708年(47歳)、武蔵国で和銅(精錬無用の銅)が産出され、天地に日本が祝福された証拠と受け止め、元号を和銅に改元。確実に流通貨幣として使用されたことが判明している「和同開珎」を鋳造させる。同年、元明天皇は遷都(平城京)の勅を下す。この年、藤原不比等が49歳で右大臣に昇進。 710年(49歳、元正30歳、聖武9歳)、藤原京の北に朱雀大路を備えた9条8坊の平城京が造営され「遷都」が行われる。左大臣・石上麻呂(いそのかみのまろ)が藤原京に残されるなど、この遷都で天武朝から活躍していた老臣達の多くが表舞台から消え、右大臣・藤原不比等が藤原氏最初の黄金時代を築き、奈良初期の政界をほぼ1人で動かしていく。 712年(51歳)、現存する日本最古の歴史書『古事記』(3巻)を太安万侶が編纂し、元明天皇に献上する。翌年に『風土記』が編纂された。 713年(52歳)、藤原不比等は故・文武帝の配偶者のうち、不比等の娘・宮子以外から嬪(ひん)の称号を奪い、宮子を事実上の正妻とさせる。 714年(53歳)、藤原不比等は宮子が産んだ首(おびと)皇子を立太子(公式に皇太子と宣言)させる。 715年(元明54歳、元正35歳、聖武14歳)、元明天皇が自身の老いを理由に譲位。孫の首皇子(おびとのおうじ※のちの聖武天皇)はまだ14歳と若かったため、元明帝の娘、35歳の氷高皇女が独身のまま第44代「元正天皇」として即位し、元明帝は太上天皇(上皇)となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例。 716年、和歌の名手であった志貴皇子(しきのみこ、天智天皇の第七皇子)他界。志貴皇子は天智系であったために皇位継承争いとは無縁ゆえ風雅に生きた。現在の皇室は志貴皇子の子孫。 717年、藤原不比等らが中心となって大宝律令を改訂した「養老律令」の編纂を開始、翌年終了。 718年、17歳の首皇子(聖武天皇)と光明皇后の間に娘、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が生まれる。 720年(元正40歳、聖武19歳)、日本初の正史『日本書紀』全30巻が完成。同年、藤原不比等が病に倒れ61歳で他界。 721年(元正41歳、聖武20歳)、元明上皇が発病し、上皇の娘(次女)婿・長屋王(ながやのおおきみ、天武帝の長男・高市皇子の長男/元正天皇のいとこ)と、参議の藤原房前(ふささき※藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖)に後事を託し、葬送の簡素化(薄葬)を命じて12月29日(養老5年12月7日)に崩御した。享年60歳。墓所は奈保山東陵。長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。房前には元正天皇の補佐を命じた。 729年、長屋王が藤原四兄弟の陰謀により自刃させられ、吉備皇女も3人の息子達と縊死した。 ※元明天皇陵は長く所在不明になっていたが、文久の修陵で治定された。 |
女帝。母は元明天皇で道を挟んで眠っている | 母子が女帝で御陵が並んでいるって他にないんじゃ? |
奈良時代前期の天皇。独身で即位した初めての女性天皇。父は天武天皇の子の草壁皇子、母は元明天皇であり、歴代で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇。5人目の女帝で文武天皇の姉。『続日本紀』に「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と伝えられる。在位は35歳から44歳までの9年間で、霊亀元年9月2日(715年10月3日)-養老8年2月4日(724年3月3日)。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)。「養老律令」を制定し「日本書紀」を完成させた。 680年に大和の飛鳥で生まれる。名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。『続日本紀』によると「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」。 707年、弟である第42代文武天皇が24歳で早逝。文武と藤原宮子の子、首皇子(おびとのみこ=聖武天皇)がまだ6歳で若いため、成長するまでの中継ぎで、母の阿部皇女が第43代元明(げんめい)天皇として即位した。元明天皇の夫・草壁皇子は皇太子のまま他界したので、皇后を経ずにいきなり女帝に就任したことになる。 710年(30歳)、母の元明天皇が平城京に「遷都」。右大臣・藤原不比等が奈良初期の政界をほぼ1人で動かしていく。 712年(51歳)、現存する日本最古の歴史書『古事記』(3巻)を太安万侶が編纂し、元明天皇に献上する。翌年に『風土記』が編纂された。 715年(元明54歳、元正35歳、聖武14歳)、母の元明天皇が自身の老いを理由に譲位。首皇子はなおも14歳と若かったため、落ち着いた考えと深い人柄の氷高皇女が独身のまま第44代元正(げんしょう)天皇として35歳で即位し、母は太上天皇(元明上皇)となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例(父が草壁皇子ゆえ男系の血筋をひく女性皇族間での皇位の男系継承)。 716年、和歌の名手であった志貴皇子(しきのみこ、天智天皇の第七皇子)他界。志貴皇子は天智系であったために皇位継承争いとは無縁ゆえ風雅に生きた。現在の皇室は志貴皇子の子孫。 717年、遣唐使派遣。藤原不比等らが中心となって大宝律令を改訂した「養老律令」の編纂を開始。 718年、「養老律令」の編纂完了。同年、17歳の首皇子(聖武天皇)と光明皇后の間に娘、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が生まれる。 720年(元正40歳、聖武19歳)、日本初の正史『日本書紀』全30巻が完成。同年、藤原不比等が病に倒れ61歳で他界。 721年(元正41歳、聖武20歳)、元明上皇が発病し、上皇の娘(次女)婿・長屋王(ながやのおおきみ、天武帝の長男・高市皇子の長男/元正天皇のいとこ)と、参議の藤原房前(ふささき※藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖)に後事を託し、葬送の簡素化(薄葬)を命じて12月29日(養老5年12月7日)に崩御した。享年60歳。長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。房前には元正天皇の補佐を命じた。 720年(元正40歳、聖武19歳)、天武天皇の頃から編纂が始まっていた日本初の正史『日本書紀』全30巻が完成。同年、藤原不比等が病に倒れ61歳で他界。この年、鹿児島の大隅隼人(おおすみはやと)の反乱。 721年(元正41歳、聖武20歳)、元明上皇が発病し、上皇の娘婿・長屋王(天武帝の長男・高市皇子の長男/元正天皇のいとこ)と藤原房前(ふささき※藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖)に後事を託し、葬送の簡素化を命じて12月29日(養老5年12月7日)に崩御した。享年60歳。長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。 723年(元正43歳、聖武22歳)、墾田を奨励し田畑の不足を解消するため、開墾者から三世代までの墾田私有を認めた「三世(さんぜい)一身法」が制定され、律令制が崩れ始めていく。 724年(44歳)、元正天皇は首皇子が23歳に成長したことを受けて譲位し、首皇子は第45代「聖武天皇」として即位。元正は太上天皇(元正上皇)となる。退位後も四半世紀ほど長寿しており、後見人として病弱な聖武天皇を補佐した。 729年(元正49歳、聖武28歳)、妹・吉備内親王の夫、長屋王が藤原四兄弟の陰謀により自害させられる(長屋王の変)。吉備内親王も3人の息子達と縊死した。 740年(60歳)、聖武帝は九州で勃発した「藤原広嗣の乱」を恐れて平城をすて、5年にわたり転々と遷都し、孝謙上皇も当初はつきあった。 743年(元正63歳、聖武42歳)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなる。耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定、律令制の根幹の一部が完全に崩れる。同年、皇太子阿倍が元正の前で五節舞を舞うことでその地位を確かにする。 744年(元正64歳、聖武43歳)、近江を都とする聖武天皇に同行することを元正上皇は拒否し、上皇自ら難波京への遷都を宣言する。その結果、紫香楽(近江)の聖武、難波(大阪)の元正・橘諸兄と皇権の所在が分裂した。 748年(聖武47歳)、元正上皇が5月22日に68歳で崩御。佐保(さほ)山陵に火葬され、一年半後に改葬された。文久の修陵で奈良市奈良坂町の奈保山西陵に治定。母子2人は道を挟んで眠っている。 治世の前半は母元明上皇と藤原不比等、両者の死後は長屋王が政権を担当。養老律令選定、『日本書紀』の完成のほか、按察使(あぜち)をおいて国内の治安をはかり、衣服の襟をはじめて右前にさせ、四等官以上の官吏に笏(しゃく)を持たせたり、三世一身法を施行、文書行政の充実など、律令体制の強化・浸透をはかった。辺境に隼人、蝦夷の反乱もあり、 内外多事であった。 |
『聖武天皇像』(鎌倉時代) | 高名な天皇だけあって、とても立派な参道 | 御陵に続く石段も堂々たるもの |
上りきった所に眠っておられます | 風格を感じる御陵だった | こちらは夫人の光明皇后の御陵。隣接している |
奈良時代前期の天皇。出家した初の天皇。父は文武天皇、母は藤原不比等(ふひと、鎌足の次男)の娘・藤原宮子。妻もまた不比等の娘・光明皇后(光明皇后は皇族以外で初めて皇后になった人物)。時の帝の生母と妻がともに自分の娘という、藤原不比等が大きな力を持った時代。在位は23歳から48歳までの25年間で、神亀元年2月4日(724年3月3日)-天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)。
出生した701年は文武天皇の時代。ちょうど大宝律令が制定され、日本の社会体制が新しくなった年。母の宮子は4年前に嫁いだのち、第1子が女児であったため、父・不比等や藤原一族から世継ぎの男子を期待され猛烈なプレッシャーの中を生きてきた。この年、無事に首皇子(おびとのみこ=聖武天皇)が生まれ、本来であれば大いに喜ばしいはずであったが、宮子は燃え尽きたように心が壊れてノイローゼになり、わが子との対面を拒んだ。首皇子は甘えたい盛りに母親が会ってくれないという寂しさを味わう(母子の対面は実に36年後)。 707年、6歳のときに父・文武天皇が24歳の若さで崩御したことから、首皇子が成長するまでの中継ぎとして、父方の祖母・阿陪皇女(あべのひめみこ)が第43代「元明(げんめい)天皇」として即位する。ちなみに元明天皇は父はあの天智天皇(中大兄皇子)だ。病弱で短命な男性皇族が多いのは皇統にこだわり近親婚が繰り返されたため。 710年(9歳)、祖母・元明天皇が平城京に遷都を行う。右大臣・藤原不比等が奈良初期の政界をほぼ1人で動かしていく。 712年(11歳)、現存する日本最古の歴史書『古事記』(3巻)を太安万侶が編纂し、元明天皇に献上する。 713年(12歳)、藤原不比等は故・文武帝の配偶者のうち、宮子以外の者から嬪(ひん)の称号を奪い、宮子を事実上の正妻とさせる。 714年(13歳)、藤原不比等は宮子が産んだ首皇子を立太子(公式に皇太子と宣言)させる。首皇子は自身の後宮に、不比等と橘(たちばな)三千代の娘・安宿媛(あすかべひめ/藤原光明子、のちの光明皇后。聖武帝と同い年)、県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ※県犬養氏の娘)、藤原武智麻呂(ふじわら の むちまろ/不比等の子どもたち藤原四兄弟の長 男)の娘、藤原房前(四兄弟の次男)の娘などを迎えた。 715年(14歳)、54歳になった元明天皇が自身の老いを理由に譲位を決める。だが、首皇子はいまだ14歳と若かったため、元明天皇の娘(首皇子とっての叔母)である35歳の氷高皇女が未婚のまま第44代「元正天皇」として即位し、元明帝は太上天皇(元明上皇)となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例。 716年(15歳)、和歌の名手であった志貴皇子(しきのみこ、天智天皇の第七皇子)他界。志貴皇子は天智系であったために皇位継承争いとは無縁ゆえ風雅に生きた。現在の皇室は志貴皇子の子孫。 717年(16歳)、首皇子は嬪・県犬養広刀自との間に皇女の井上内親王(いのえないしんのう/後の光仁天皇皇后)を授かる。同年、藤原不比等らが中心となって大宝律令を改訂した「養老律令」の編纂を開始、翌年終了。 718年(17歳)、首皇子は安宿媛(この時点は嬪?資料によって、妃、夫人としているものも。でも大宝律令で妃以上は皇族と決まってるし、724年に夫人号を得ているのでは?)との間に皇女の阿倍内親王(のちの孝謙天皇)を授かる。 720年(19歳)、日本初の正史『日本書紀』全30巻が完成。同年、藤原不比等が病に倒れ61歳で他界。 721年(20歳)、祖母の元明上皇が発病し、上皇の娘婿・長屋王(天武帝の長男・高市皇子の長男/元正天皇のいとこ)と藤原房前(ふささき※藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖)に後事を託し、葬送の簡素化を命じて年末に崩御した。享年60歳。長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。 ★724年(23歳)、首皇子は23歳となり、元正天皇(44歳)から譲位をうけ、第45代「聖武天皇」として即位する。この即位とともに、安宿媛は後宮の位階である夫人号を得る。元正は太上天皇(元正上皇)となりさらに四半世紀ほど長寿しており、病弱な聖武天皇を後見人として補佐した。 同年、長屋王が左大臣に昇進。この年、聖武天皇が母の宮子に大夫人(だいぶにん)の称号を贈ろうとしたが、長屋王は大宝律令下では皇太夫人とすべきと主張、たとえ天皇であっても律令を遵守するよう求めた。 727年(26歳)、夫人の藤原安宿媛(あすかべひめ/藤原光明子)が男児・基王(もといおう)を出産。聖武天皇は待望の男子を得て大喜びし、異例となる生後わずか32日で基王は皇太子に立てられた。ところが…。 728年(27歳)、基王は1歳を迎えることなく11カ月で早逝する。この死は左大臣・長屋王の呪詛と噂された。悲しみに暮れる聖武天皇に長屋王への不信感を生じさせ、讒言に騙されるような心の隙が生まれてしまう。また、同年はもうひとりの夫人・県犬養広刀自(あがたのいぬかい の ひろとじ)が第2皇子の安積親王(あさかしんのう)を生んでお り、藤原一族は焦る。 729年(28歳)、この当時、天皇には複数の妻=皇后、妃、夫人(ぶにん)、嬪(ひん、のちの更衣)がいるのが普通だったが、最高位の皇后になれるのは1人だけ。基王の早逝後に唯一の男子として安積親王の存在が注目されるようになると、名門氏族の藤原氏は逆転を狙う対抗措置として、一族の安宿媛を夫人から皇后にするべく画策する。藤原四兄弟は妹の安宿媛を皇后にたてることで、将来生まれるだろう皇子を聖武天皇の嫡子とさせたかった。だが、大宝律令では天皇として即位する可能性がある皇后は皇族の出身と決まっており、藤原氏の特別扱いを嫌う政権トップの左大臣・長屋王(母は天智天皇の娘=元明天皇の姉)は猛反対した。先代、先々代と女帝が続いていたうえ、聖武天皇が病弱だったことから、皇后が天皇になる可能性がリアルに想定され、長屋王は皇室以外の人間が天皇になることを防ぎたかった。藤原氏は長屋王の排除へと舵を切る。 この年2月、官人の中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまひと)らから「長屋王が邪悪な呪術を使って国家転覆を企んでいる」という密告が宮中に寄せられた。聖武天皇は長屋王の邸宅を包囲するための出兵に同意し、長屋王は「基王を呪い殺した大罪人」として舎人親王(とねりしんのう※天武天皇の皇子、淳仁天皇の父)らの尋問をうけ、自害を強要され首をくくる。また長屋王の妻・吉備内親王(文武天皇や元正天皇の妹)も3人の息子と共に縊死した。この「長屋王の変」は敵を葬るための藤原氏の謀略であり、最高権力者が一夜にして命を絶たれる大事件となった。事件後、政権を支える9人の公卿のうち4人を四兄弟で占めた藤原四子政権が誕生する。そして藤原氏の願い通り「安宿媛を皇后(光明皇后)にする」との詔が発せられた。藤原氏は史上初となる臣下(非皇族)から皇后を立てることに成功し、以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。翌年、密告した中臣宮処東人は長屋王の家臣に斬殺されている。 ※長屋王(684-729)…奈良時代の皇族政治家。天武天皇の孫。父は太政大臣・高市皇子、妃の吉備内親王は草壁皇子と元明天皇の子。優れた文人でもあり、別荘で開いた詩宴でよんだ漢詩のやりとりは、「懐風藻」に多数収録されている。不比等の没後、政界の首班にたった。藤原氏による宮廷内の陰謀事件“長屋王の変”で自死。 737年(36歳)、天然痘が大流行し、藤原四兄弟など参議のほとんどが死亡、政府は壊滅状態に陥った。これは8年前に無実の罪で死んだ長屋王の祟りと噂された。5月に次男の房前が没し、8月に四男・麻呂と長男・武智麻呂が、9月に三男・宇合が他界した。朝廷は生存している参議の中から、光明皇后の異父兄・橘諸兄(たちばなのもろえ)を右大臣に、長屋王の弟・鈴鹿王を知太政官事(実権はない)にすることで危機を乗り切った。 長男・藤原武智麻呂(むちまろ)(藤原南家開祖)680年-737年8月29日死没/大納言 次男・藤原房前(ふささき)(藤原北家開祖)681年-737年5月21日死没/参議 三男・藤原宇合(うまかい)(藤原式家開祖)694年-737年9月3日死没/参議 四男・藤原麻呂(藤原京家開祖)695年-737年8月17日死没/参議 藤原4兄弟が政界から消えたことで、聖武天皇はリーダーシップを発揮し始める。橘諸兄、2年前に唐から帰国し卓抜した学才を持つ吉備真備(留学18年)、同じ帰国組である東大寺の僧正・玄ム(げんぼう)らが重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。そしてこの年、聖武帝の母・藤原宮子の心の病が玄ムの看病でついに平癒し、母子は36年ぶりに対面する。 739年(38歳)、橘諸兄は参議に自派の官人を多く取り込み、事実上の橘諸兄政権を成立させる。 740年(39歳)、聖武天皇の専制化に反対する藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ※藤原四兄弟の三男・宇合の子)が、吉備真備と玄ムの更迭を求めて九州の大宰府で9月に挙兵し「藤原広嗣の乱」を起こすが、広嗣軍1万騎は板櫃(いたびつ)川(北九州市)の戦いで官軍に敗北する。広嗣は新羅に逃亡を図るが逆風で船が進まず、捕らえられて斬られ、乱は1か月で鎮圧された。死罪16人、(伊豆、隠岐などへの)流罪47人など処分が下される。 一方、乱が始まると聖武天皇は九州の広嗣軍を恐れるあまり、10月末に平城京を捨て東へ逃げ、5年間の彷徨が始まる。伊賀国、伊勢国(当地で広嗣捕獲の報を受ける)、美濃国、近江国と移り、12月に橘諸兄の本拠地である山背国相楽郡(現京都府木津川市)の「恭仁京」(くにきょう)へ遷都した。 741年(40歳)、数年来、疫病と災害が多発したこともあって聖武天皇は仏教に深く帰依し、仏の力による鎮護国家を祈念、全国に国分寺・国分尼寺建立の詔を出す。これらの寺に護国経を納めさせると共に、国分寺の総本山として玄ムの発意による東大寺が建てられる。11月大極殿が平城京から恭仁京へ移築される。 742年(41歳)、恭仁京が造営中なのに、新たに近江国で宮の建設を始める。 743年(42歳)、聖武天皇は東大寺大仏=盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)の建立の詔を発布した(造営を進言したのは光明皇后)。しかし病気がちとなり、政務は橘諸兄が中心に行なっていく。同年、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定、律令制の根幹の一部が完全に崩れる。年末、聖武天皇は恭仁京の造営を中止して、新たに近江の紫香楽宮(しがらきのみや)に移った。 744年(43歳)、さまよう聖武天皇に危機感を抱いた元正上皇(64歳)が、難波京への遷都を発する。聖武帝の拠点は依然として近江にあり、難波の元正上皇・橘諸兄と皇権の所在が一時的に分裂した。同年、第2皇子の安積(あさか)親王が16歳で脚気により病死するが、藤原仲麻呂による毒殺説が囁かれる。 745年(44歳)、遷都を繰り返しても先々で火災や地震など不幸なことが相次ぎ、結局5月に都が平城京に戻された。藤原仲麻呂(光明皇后の甥)の権勢が強くなり、玄ムは九州に左遷され翌年に他界。 748年(47歳)、元正上皇が68歳で崩御。 749年(48歳)、正月に聖武天皇は名僧・行基に授戒を受け、出家した初の天皇となった。4月には光明皇后や皇太子を伴って東大寺を訪れ、大仏の前で自らの名を「三宝(仏法僧)の奴(やっこ)」と称す。同じく4月、橘諸兄は官職最高位の正一位に叙された。従一位(じゅいちい)のさらに上であり、生前に正一位に叙された人物は日本史上でも藤原宮子(聖武天皇の母)、源方子(まさこ、鳥羽天皇皇后・藤原得子の母)、三条実美(幕末の公卿)など6人しかおらず、そのうち現役で政務にあたったのは橘諸兄(684-757)、藤原仲麻呂(706-764)、藤原永手(714-771)の3人のみ。 8月病気がちの聖武天皇は、娘の阿倍内親王(31歳)に譲位、阿倍内親王は第46代「孝謙天皇」として即位する。『扶桑略記』によると退位半年前に行った出家は聖武帝の独断であり、朝廷は大慌てで後継を探したようだ。聖武は譲位により太上天皇(上皇)となった初の男性天皇となる。 同年、藤原氏の不振をなげく光明皇太后の後押しで、藤原仲麻呂(藤原四兄弟の長男・武智麻呂(むちまろ)の子)が新設の紫微中台(しびちゅうだい)の長官に抜擢された。政治の実権を握る光明皇太后は、紫微中台を通して命令したため、事実上仲麻呂が首班となり、太政官政治は形骸化した。以後、橘諸兄は権勢を失っていく。 この年、元号が「天平感宝(かんぽう)」に改元される。初めての唐風の4文字元号であり、以後「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」「神護景雲」と続く。4文字の元号はこの5回だけ。 750年(49歳)、吉備真備が九州に左遷され、翌年に再び唐へ渡らされた。 752年(51歳)、仏教伝来200年目を祝った東大寺大仏の開眼法要が執り行われる。その日、金色に光り輝く高さ16mの大仏が、世界最大の木造建築となる大仏殿と共に完成し、開眼供養会が催された。開眼の儀をインド人の高僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が務めたように、この大法要は非常に国際色が強く、クライマックスでは内外1万人の僧侶による地鳴りのような読経が行なわれたという。当時は高さ100mという超高層の七重塔(京都東寺の五重塔の倍!)も東と西にあった。 754年(53歳)、唐僧・鑑真が来日したことから、4月光明皇后や孝謙天皇と東大寺に赴き、鑑真から二度目(749年の行基以来)の授戒となる菩薩戒を受ける。同年7月、母の宮子と死別。再会の17年後だった。 755年(54歳)、仲麻呂との政争に敗れた橘諸兄が、酒宴の席で朝廷を誹謗してしまう。聖武上皇はこれを問題としなかったが、翌年、諸兄は所業を恥じて左大臣を辞職した。 756年6月4日、聖武上皇は「道祖王(ふなどおう※天武天皇の孫)を皇太子にする」と希望し55歳で崩御した。戒名は勝満。墓所は佐保山南陵(奈良市法蓮町)。光明皇后は東大寺(正倉院)に聖武天皇の遺品を納めた。尊号(諡号)は天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)。 757年、1月橘諸兄が74歳で薨去(こうきょ)。4月、孝謙天皇は「聖武上皇の服喪中にもかかわらず道祖王が姦淫をなし、たびたび戒めても悔い改めない」と、臣下たちに道祖王の皇太子を廃するか是非を問い、道祖王を擁護する意見がなく廃太子が決定する。聖武帝の遺言は1年も経たず否定された。そして新しい皇太子に仲麻呂が推す大炊王(のちの淳仁天皇)が立てられた。 7月、仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、同志を集めて仲麻呂を襲撃して孝謙天皇を廃し、道祖王や長屋王の子・黄文王(きぶみおう)から新帝を立てる作戦を練る。この企ては密告され、関係者がことごとく捕縛された。道祖王は麻度比(まどひ=惑い者の意)の名に、黄文王は久奈多夫礼(くなたぶれ=愚か者)に改名され、全身を杖で殴打される凄まじい拷問を受け獄死した(橘奈良麻呂の乱)。事件に連座して流罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。仲麻呂は自分に不満を持つ政敵を一掃した。だが、この仲麻呂も7年後に反乱を起こして殺害される。 758年、孝謙天皇は9年の帝位の後に退位。大炊王が第47代「淳仁(じゅんにん)天皇」(当時25歳/733-765)として即位する。 760年、聖武帝の崩御4年後に光明皇太后も他界し、聖武天皇陵の東隣に葬られた。光明皇太后は仏教をあつく信じ、病人や孤児を救済するための施薬院・悲田院をつくるなどした。 ※聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝えられる宝積寺(京都府乙訓郡大山崎町)に聖武天皇勅願所の碑がある。 ※752年に開眼した東大寺の大仏は、1180年に平重衡の南都焼討で燃え、1567年に松永久秀軍VS三好軍の兵火で焼かれた。 |
2010 | 2度天皇になった女帝 | 2014 |
奈良時代中期の天皇。史上唯一女性皇太子を経ており、歴代6人目の女帝。父は聖武天皇。母は一般人で藤原氏出身の光明皇后(光明子)。天武系の最後の天皇。 孝謙天皇としての在位は31歳から40歳までの9年間で、天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)-天平宝字2年8月1日(758年9月7日)。6年後、後継者の淳仁天皇を淡路島に追放し、称徳(しょうとく)の名前で再び天皇の座につく。称徳天皇としての在位は46歳から52歳までの12年間で、天平宝字8年10月9日(764年11月6日)-神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 名は阿倍内親王。弟・基王(もといおう)は聖武天皇の第1皇子であったが1歳になるまえに病死したことから、20歳(738年)の時に藤原氏のライバルとなる第2皇子、安積(あさか)親王(当時10歳/728-744)の皇位継承をさまたげるため、歴代初の女性皇太子となる。 749年(31歳)、父・聖武天皇が病弱を理由に譲位を希望し、阿倍内親王は31歳で第46代「孝謙天皇」として即位する。ただし実権は、母の光明皇太后とその甥っ子で太政大臣の藤原仲麻呂(藤原四兄弟の長男・武智麻呂の子)にあった。 752年(34歳)、仏教伝来200年目を祝った東大寺大仏の開眼法要が執り行われる。開眼の儀をインド人の高僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が務めたように、この大法要は非常に国際色が強く、クライマックスでは内外1万人の僧侶による地鳴りのような読経が行なわれたという。 754年(36歳)、唐僧・鑑真が来日したことから、4月聖武・光明の両親と共に鑑真から授戒を受ける。 756年(38歳)、聖武上皇が55歳で崩御。遺言で「道祖王(ふなどおう※天武天皇の孫)を皇太子にする」と希望した。 757年(39歳)、4月、孝謙天皇は「聖武上皇の服喪中にもかかわらず道祖王が姦淫をなし、たびたび戒めても悔い改めない」と、臣下たちに道祖王の皇太子を廃するか是非を問い、道祖王を擁護する意見がなく廃太子が決定する。聖武帝の遺言は1年も経たず否定された。そして新しい皇太子には仲麻呂が強く推す、天武天皇の皇子・舎人(とねり)親王の七男・大炊王(おおいおう/淳仁天皇)が立てられた。大炊王は仲麻呂の長男の未亡人と結婚し、仲麻呂の私邸で共に暮らしていた。 7月、仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、同志を集めて仲麻呂を襲撃して孝謙天皇を廃し、道祖王や長屋王の子・黄文王(きぶみおう)から新帝を立てる作戦を練る。この企ては密告され、関係者がことごとく捕縛された。道祖王は麻度比(まどひ=惑い者の意)の名に、黄文王は久奈多夫礼(くなたぶれ=愚か者)に改名され、全身を杖で殴打される凄まじい拷問を受け獄死した(橘奈良麻呂の乱)。事件に連座して流罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。仲麻呂は自分に不満を持つ政敵を一掃した。 同年、祖先の顕彰に熱心な仲麻呂は、祖父不比等の「養老律令」を施行させる。仲麻呂の政治は唐風趣味で儒教色が強く、中国史上唯一の女帝・則天武后(武則天)をまねて四文字年号を採用したりした。 758年(40歳)、孝謙天皇は9年の帝位の後に退位。大炊王が第47代「淳仁(じゅんにん)天皇」(当時25歳/733-765)として即位する。仲麻呂は天皇の後見人として事実上の最高権力を握った。仲麻呂は大保(右大臣)に任ぜられ、「汎(あまね)く恵むの美もこれより美なるはなし」「暴を禁じ強に押し勝つ」として“恵美押勝”の美名を授けられる。 760年(42歳)、淳仁天皇(27歳)は仲麻呂を人臣(皇室外)では史上初となる太師(太政大臣)正一位に任じる。仲麻呂は栄達の極みにあったが、同年6月に強力な後ろ盾だった叔母、光明皇太后(孝謙上皇の母)が他界し、権勢に陰りが生じていく。 761年(43歳)、孝謙上皇は気鬱(きうつ)の病で伏せ、その際に介護を担当した怪僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が祈祷で癒したことから、上皇は道鏡を過度に寵愛し始める。上皇と道鏡の関係は醜聞として広まり、事態を憂慮した仲麻呂の進言により淳仁天皇がこれを諫めたところ、孝謙上皇は烈火のごとく激怒。天皇は上皇と対立するようになっていく 762年(44歳)、孝謙上皇は出家して尼になり、再び天皇大権を掌握すべく、淳仁天皇(29歳)から国家の大事と賞罰をおこなう権限を剥奪する。孝謙上皇の宣告「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」。 764年(46歳)、孝謙上皇&道鏡VS淳仁天皇&仲麻呂という構図のなか、追いつめられた仲麻呂は道鏡を政権から除こうとして、9月に淳仁天皇の兄弟(船親王、池田親王)らと挙兵する。孝謙上皇は複数の筋から密告を受け、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を確保するなど先手を打ったことから、仲麻呂は平城京での駅鈴・内印の奪取に失敗し、地盤である近江国を目指す。孝謙上皇は仲麻呂に冷遇されていた約70歳の吉備真備(695-775)を召して追討軍を派兵、真備は兵学の知識を駆使して仲麻呂の動きを封じこめた。西近江に追いつめられた仲麻呂軍は琵琶湖を船で逃れようとするも敗戦、仲麻呂は妻子とも湖畔にて皆殺しにされた(藤原仲麻呂の乱)。仲麻呂は挙兵時に軍事力で圧倒していたにもかかわらず、吉備真備の軍才を前に行動が後手にまわりわずか1週間で死に追い込まれた。この乱に淳仁天皇は加わらなかったが最大の後見人を失い、乱の翌月、上皇の軍によって中宮院を包囲された。そして上皇から「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇で淡路国に流される。 11月、こうして孝謙天皇は重祚(ちょうそ:ふたたび天皇の位につくこと)し第48代「称徳(しょうとく)天皇」として即位した。その後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成されていく。 翌765年(47歳)、淡路島に流された淳仁廃帝には人望があり、はるばる淡路の先帝のもとに通う官人さえいた。都では廃帝を慕う勢力が重祚(再即位)を望んでおり、称徳天皇は自分が重祚を行っただけに大きな懸念を抱き、廃帝が絶対に島から脱出できないよう現地の国守に警戒の強化を命じた。はたして同年10月、淳仁廃帝は逃亡をはかって捕らえられ、翌日に没した。公式には病死とされているが、葬礼が行われたことを示す記録がないため、今後の憂いを立つため殺害されたと思われる。称徳天皇は「天皇の出家している治世には出家している大臣が必要である」として、道鏡をさらに重用して太政大臣禅師とした。 766年(48歳)10月に道鏡は法王に就任し、社会・政治の両面で天皇と同等の権力を掌握する。左大臣は正一位の公卿・藤原永手(ながて/藤原四兄弟の次男・房前の子)、右大臣は称徳天皇の側近・吉備真備、中納言には道鏡の弟・弓削浄人が抜擢された。 769年(51歳)、九州・宇佐八幡宮から皇位継承をめぐって「道鏡を天皇にすべしとお告げがあった」と報告が入る。真偽の確認の為、称徳天皇の側近の弟・和気清麻呂が宇佐八幡に派遣された。藤原一族の意をうけた和気清麻呂は、この神託が道鏡と宇佐八幡がグルになった虚偽のものと報告する。逆ギレした称徳天皇と道鏡は清麻呂の名前を穢麻呂(きたなまろ)に改名して大隅国(鹿児島)に流した(宇佐八幡神託事件)。 翌770年、称徳天皇は病により52歳で崩御したが、これは道鏡の権力拡大に反感を抱いた貴族達に暗殺されたという説も根強くある。同年、藤原永手は道鏡を追放した。 称徳天皇は生涯独身で子どもがおらず、長年の皇位継承争いで自身にも父の聖武天皇にも兄弟がなく、天武天皇(中大兄皇子の弟)から続いた流れはここで絶えた。吉備真備は後継に天武天皇の孫たち(文室浄三と文室大市)を推挙したが、藤原永手らが推した天智天皇(中大兄皇子)系の光仁天皇(妃は天武系の井上内親王)が即位した。 771年、藤原永手が58歳で薨去。 772年、道鏡は下野国薬師寺別当に左遷となり、同所で没した。 称徳天皇の崩御以後、859年後の江戸時代の明正天皇まで女帝はいない。 |
徳島鳴門から明石海峡大橋で淡路島へ! | 淳仁天皇の陵墓が見えてきた! | 御陵の正面から周辺をパチリ。のどか〜 |
悲願の初巡礼。淡路島まで簡単には来られず感無量 | 天皇でありながら流され、脱出にも失敗→翌日に崩御 | 暗殺の疑いが濃厚。どうかご冥福を… |
場所が場所だけに見張所にひとけはなし |
なんとドアノブに蜘蛛の巣が…(涙) |
実はこの淳仁天皇が124人目の墓参。 ついに全御陵参拝の悲願が成就し、 車を出してくれた盟友 I 氏と涙にむせぶ |
奈良時代中期の天皇。天武天皇の皇子・舎人親王の七男。名は大炊王(おおいおう)。在位は25歳から31歳までの6年間で、天平宝字2年8月1日(758年9月7日)-天平宝字8年10月9日(764年11月6日)。3歳で父が他界し、天武天皇の孫でありながら官位を持たなかった。 757年(24歳)、女帝・孝謙天皇が姦淫を理由に皇太子・道祖王を廃太子としたため、新しい皇太子に政権の実力者・藤原仲麻呂(恵美押勝/えみのおしかつ、皇族以外の初の太政大臣)が強く推す、大炊王が立てられた。大炊王は仲麻呂の長男(早逝)の未亡人と結婚し、仲麻呂の私邸で共に暮らしていた。こうした仲麻呂の専横に不満を持った橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、同志を集めて仲麻呂を襲撃して孝謙天皇を廃し、新帝を立てる作戦を練る。この企ては密告され、関係者がことごとく捕縛された。道祖王は麻度比(まどひ=惑い者の意)の名に、黄文王は久奈多夫礼(くなたぶれ=愚か者)に改名され、全身を杖で殴打される凄まじい拷問を受け獄死した(橘奈良麻呂の乱)。事件に連座して流罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。仲麻呂は自分に不満を持つ政敵を一掃した。 758年(25歳)、孝謙天皇が藤原仲麻呂の助言を受けて譲位し、大炊王が第47代淳仁天皇として即位する。これによって天皇の義父となった仲麻呂は完全に権力を掌握する。 761年(28歳)、孝謙上皇は病の快癒をきっかけに、治療(祈祷)に当たった怪僧・弓削道鏡に絶大な信頼を置き重用していく。それがあまりに度を過ぎた寵愛ぶりであったことから、仲麻呂が淳仁天皇を通して孝謙上皇を諫めた結果、孝謙上皇は逆上。仲麻呂&淳仁天皇と孝謙上皇&道鏡は急速に不和となる。 762年(29歳)、孝謙上皇は再び天皇に即位しようと画策。「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告し、淳仁天皇から国家の大事と賞罰をおこなう権限を剥奪する。 764年(31歳)、上皇との対立に危機感を持った仲麻呂は挙兵してクーデターを試みるが、密告により孝謙側に先手を取られ、逃亡中に琵琶湖の湖畔で捕らえられ斬首される。淳仁天皇は直接クーデター計画に参加しなかったが、10月に突然住居(中宮院)を上皇の兵に囲まれ、衣服をまともに着る間もなく、履き物すら履けないまま連れ出された。そして、仲麻呂と親密であったことを理由に廃位を宣告され、淡路島に流されたあげく幽閉の身となった。孝謙上皇は第48代称徳(しょうとく)天皇として再即位した。淳仁廃帝は人望があったことから、配流後も宮中には淳仁廃帝の復帰を望むグループがあり、淡路島まで通う役人(官人)さえいた。 翌765年、淳仁廃帝は淡路島から脱出を試みるも捕らえられ、翌日に急死する。死因は“病死”と発表されたが、葬礼の記録がない。追放後も都には淳仁天皇を慕う勢力があったことから、今後の憂いを立つため殺害された可能性が高い。 5年後(770年)に称徳天皇(孝謙上皇)が崩御し、その2年後(772年)に光仁天皇が淳仁廃帝の魂を鎮めるために淡路島へ僧侶60人を派遣して弔った。 淳仁廃帝を憎む称徳天皇(孝謙上皇)の意向で、1108年間も天皇として認められず、「淡路廃帝(はいたい)」と呼ばれていた。1873年、明治天皇が淡路廃帝に淳仁天皇の追号をした。諱は大炊(おおい)。 陵(みささぎ)は兵庫県南あわじ市賀集にある淡路陵(あわじのみささぎ)に治定されている。 明治3年7月24日(1870年8月20日)に明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られた。このとき、壬申の乱で天武天皇に敗北した39代弘文天皇(大友皇子)、承久の乱による混乱で即位の礼も大嘗祭もないまま3ヶ月で退位することになった85代仲恭天皇(九条廃帝)も同時に追号されている。 ※京都・堀川にある白峰神宮は、恨みを持って死んだ淳仁天皇や後世の崇徳天皇の怨霊を合祀している。 ※滋賀県長浜市の須賀神社にも淳仁天皇舟型御陵(伝承地)が存在する。 |
宮内庁の制札には稱コ天皇の名前だけがあり、孝謙天皇の名は見当たらなかった。並記すればいいのに |
奈良時代後期の天皇。史上6人目の女帝で父は聖武天皇。母は一般人で藤原氏出身の光明皇后(光明子)。天武系の最後の天皇。 孝謙天皇としての在位は31歳から40歳までの9年間で、天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)-天平宝字2年8月1日(758年9月7日)。6年後、後継者の淳仁天皇を淡路島に追放し、称徳(しょうとく)の名前で再び天皇の座につく。称徳天皇としての在位は46歳から52歳までの12年間で、天平宝字8年10月9日(764年11月6日)-神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 が1歳になるまえに病死したことから、20歳(738年)の時に歴代初の女性皇太子となる。749年(31歳)、聖武天皇が病弱を理由に譲位し即位。政務を皇太后(母)の甥っ子で太政大臣の藤原仲麻呂が補佐した。758年(40歳)、退位。仲麻呂は天武天皇の皇子・舎人親王の七男(淳仁天皇)を後継者に強く推し即位させた。淳仁天皇の妻は仲麻呂の長男の未亡人であり、仲麻呂は後見人として事実上の最高権力を握った。760年(42歳)、光明皇太后が死去。翌年、孝謙上皇は病に伏せ、看病にあたった僧・道鏡を寵愛するようになる。このことを淳仁天皇が批判したことから両者は深く対立していく。 764年(46歳)、孝謙上皇&道鏡VS淳仁天皇&仲麻呂という構図に危機感を持った仲麻呂が挙兵(藤原仲麻呂の乱)。孝謙上皇は密告を受けて先手を打ち仲麻呂を破った。上皇は「天皇の出家している治世には出家している大臣が必要である」として、道鏡をさらに重用して太政大臣禅師とした。そして淳仁天皇に廃帝を宣告して淡路島に追放し、自身は再即位して第48代称徳(しょうとく)天皇となる。右大臣には吉備真備を抜擢した。 翌765年、淳仁廃帝は淡路島から脱出を試みるも捕らえられ、翌日に急死する。死因は“病死”と発表されたが、葬礼の記録がない。追放後も都には淳仁天皇を慕う勢力があったことから、今後の憂いを立つため殺害された可能性が高い。称徳天皇は「天皇の出家している治世には出家している大臣が必要である」として、道鏡をさらに重用して太政大臣禅師とする。 769年(51歳)、九州・宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば天下太平になるとお告げがあった」と報告が入る。真偽の確認の為、称徳天皇の側近の弟・和気清麻呂が宇佐八幡に派遣された。和気清麻呂はこの神託が、道鏡と宇佐八幡がグルになった虚偽のものと報告し、怒った称徳天皇と道鏡は清麻呂の名前を穢麻呂(きたなまろ)に改名して大隅国(鹿児島)に流した。 翌770年、称徳天皇は病により崩御。道鏡の権力拡大に反感を抱いた貴族達に暗殺されたという説も根強くある。享年52歳。 称徳天皇は生涯独身で子どもがおらず、長年の皇位継承争いで自身にも父の聖武天皇にも兄弟がなく、天武天皇(中大兄皇子の弟)から続いた流れはここで絶えた。約2ヶ月後、天智天皇(中大兄皇子)系の光仁天皇が即位した。 859年後の江戸時代の明正天皇まで女帝はいない。 ※前方後円墳の築造は6世紀末に終了しているにもかかわらず、宮内庁は8世紀後半に崩御した称徳天皇の御陵を前方後円墳に治定している。 |
田んぼの海に浮かぶ小島に見えた | 参道はゆるやかな下り坂になっている |
奈良市内とはいえ市街地から遠く離れており、周辺はむしろこの先にある“柳生の里”に近い印象があった |
奈良時代末期の天皇。名は白壁王。在位は61歳から72歳までの11年間で、宝亀元年10月1日(770年10月23日)-天応元年4月3日(781年4月30日)。天智天皇(中大兄皇子)の第7皇子・施基親王の第6子。つまり天智天皇の孫。皇后は女帝・称徳(しょうとく)天皇(=孝謙天皇)の異母姉・井上(いのえ)内親王(父:聖武天皇、母:県犬養広刀自)。 737年(28歳)、光仁天皇の側室・高野新笠(たかの の にいがさ/当時17歳?/720?-790)が山部(やまべ)親王(後の桓武天皇)を生む。高野新笠の父は百済系渡来人の和乙継(やまとのおとつぐ)で、百済武寧王(523年没)の子孫とされている(『続日本紀』)。当時、渡来人の身分は低く「蕃人(ばんじん)」と呼ばれていた。 744年(35歳)、白壁王は聖武天皇の娘で称徳天皇の異母妹、井上内親王(27歳/717-775)を正妃に迎える。 750年(41歳)頃に側室・高野新笠が早良(さわら)親王を生む。 761年(52歳)、正妃の井上内親王が44歳という高齢で他戸(おさべ)親王(761-775)を産む。 764年(55歳)、白壁王は恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)の鎮圧に功績を挙げる。これによって称徳天皇(=孝謙天皇)に重用され翌々年に大納言となった。この時期は皇位継承をめぐって謀殺、暗殺が絶えず、白壁王は無能者を装うために酒に溺れるフリをして、権力争いと距離を置いた苦労人。 770年(61歳)、称徳天皇が52歳で崩御。後継に関する遺言はなかった。未婚で実子がいない上、何年も続いた粛清・謀殺の嵐で天武天皇系の皇族がいなかった。白壁王の妻・井上内親王は聖武天皇の皇女であることから、息子・他戸親王(当時9歳)は女系とはいえ天武天皇系の男性皇族の最後の一人となった。これを受け、白壁王は藤原永手らの後援のもと、古代を除くと歴代最高齢となる61歳で即位する。同時に井上内親王も立后された。光仁天皇は温厚な性格であり、「奈良麻呂の乱」(757)や「仲麻呂の乱」(764)に関与した者に大赦を与え、流罪を解いた。称徳天皇の寵愛を受けていた怪僧・道鏡を、左大臣・藤原永手(藤原四兄弟の次男・房前の子)と藤原百川(藤原四兄弟の三男・宇合の子)が図って追放する。 771年(62歳)、藤原永手の尽力で他戸親王が立太子される。同年、藤原永手が他界。以後、藤原北家(藤原永手)から藤原式家(藤原良継・百川)へ権力が移る。 772年(63歳)、3月に「皇后(井上内親王)が光仁天皇を呪詛した」とする密告があり、井上皇后は地位を廃され、同年5月に他戸親王も皇太子をわずか1年で廃された。 ※とはいえ、人柄の良さで知られる光仁天皇を、皇后が呪う理由、動機がない。山部親王(桓武/737-806)を天皇にしたい勢力、藤原式家の一派(藤原四兄弟の三男・藤原宇合の息子たち、藤原良継と藤原百川)の陰謀だろう。 773年(64歳)、光仁天皇は側室の子・山部親王(当時36歳の桓武天皇)を新たに皇太子にする。山部親王は妃を藤原式家から迎えた。同年、井上内親王は難波内親王(光仁天皇の姉)を呪い殺したという嫌疑を掛けられ、他戸親王と共に身分を庶人に落とされ大和国宇智郡(奈良県五條市)の没官の邸に幽閉される。これらも山部親王を推す藤原式家の暗躍と思われる。 774年(65歳)、山部親王に子ども(のちの平城天皇)が生まれる。 775年(66歳)、井上内親王(58歳)と他戸親王(14歳)は幽閉先で同日に変死しており殺害された可能性が高い。こうして天武天皇の皇統は女系も完全に途絶えた。 776年(67歳)、頻繁に天災地変が起き、人々は井上内親王の怨霊が原因と考える。祟りを恐れた光仁天皇は秋篠寺を建立するが、風水害、地震、干ばつ、落雷、流星、日食など天変地異や凶兆が続き、光仁天皇と山部親王も病を患った。 777年(68歳)、かつて光仁天皇擁立の際に尽力し、天皇の腹心となっていた藤原良継が61歳で急死。同年、光仁天皇は井上内親王の遺骨を丁重に改葬させ、墓を御墓と追称。 778年(69歳)、山部親王が井上内親王鎮魂のため伊勢神宮に参拝。同年、新笠が「高野朝臣」を賜り夫人の位となる。 779年(70歳)、藤原式家の藤原百川が47歳で急死。 781年(井上内親王変死の6年後)、第一皇女(桓武帝の姉)が他界し、消沈した光仁天皇もまた崩御する。享年72歳。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あめむねたかつぎのすめらみこと)。陵墓は円丘。 同年、山部親王が第50代桓武天皇として即位する。同時に新笠は皇太夫人と称された。3年後、桓武天皇は長岡京への遷都を決定した(その後、平安京へ)。 785年、桓武帝の弟、早良親王は藤原種継事件に連座し淡路へ流される事となり、自ら命を絶つ。 786年、前年に後宮に入った桓武天皇の夫人・藤原旅子(たびこ)が大伴親王(のちの淳和天皇)を産む。旅子の父は藤原百川、母の父は藤原良継、共に桓武天皇擁立の功労者だ。 788年、夫人・藤原旅子が29歳という若さで他界。 790年、桓武天皇の母、皇太夫人・高野新笠が薨去。3カ月後に桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)が30歳で他界。旅子、乙牟漏と立て続けに亡くなり、笠早良親王の怨霊によるものと噂された。 796年、新笠の甥、和家麻呂(やまと の いえまろ)が議政官(政府)の参議に叙任され、渡来系氏族出身者として初めて公卿に昇る。当時の記録に「蕃人の相府に入るはこれより始まる」と記される。 800年、桓武天皇は崇道天皇(早良親王)の名誉回復にあわせ、井上内親王を皇后と追号し、御墓を山陵と追称。 823年、大伴親王が淳和天皇として即位。 ※非業の死を遂げた者が怨霊化する例は井上内親王から続発する。京都の上御霊神社、奈良市や五條市の御霊神社など、井上内親王は御霊信仰系の神社の祭神となっている例がある。 ※新笠の陵は、山背国乙訓郡大枝(現在の京都市西京区大枝沓掛町)に造られた。 ※光仁天皇陵の向かい側に大和の皇陵の調査・修復に尽力した江戸期の歴史地理学者、北浦定政の墓がある。 ※山部親王(桓武天皇)の陰謀さえなければ、井上内親王、他戸親王を通して天武天皇の血は残ったということか(汗)。 ※井上内親王(いのえないしんのう/717-775)…聖武天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自。伊勢斎王、のち光仁天皇の皇后。10歳で伊勢に向かい斎王になる。744年(27歳)、弟の安積親王の薨去を受け、斎王の任を解かれ帰京し、白壁王(光仁天皇)の妃になる。 |
延暦寺所有の桓武天皇像 | 桓武天皇陵へ延々と続く道 |
第50代桓武天皇ここに眠る。中国の皇帝のような 絶大な権力を各方面へふるっていた |
「史跡・長岡京跡」。桓武天皇が平城京から最初に遷都した 長岡京。10年間だけ日本の首都だった。当時は元旦に、 (画像奥の)朱色の旗立てに高さ9mもの祝旗を立てたという |
大極殿(だいごくでん)及び後殿(こうでん)の跡地。 大極殿は政治・儀式を行う最重要施設であり、 現在の国会議事堂のようなもの(2010) |
宮内庁が建てた「長岡京大極殿跡地」の石碑。 5mはあろうかという超巨大なものだった |
長岡京の乙訓寺(おとくにでら)にある、桓武天皇の 弟・早良親王の供養塔。長岡京への遷都責任者・ 藤原種継(たねつぐ)暗殺に関わった容疑で淡路島に 流される途中、自分の無実を訴える為に絶食死した |
「早良親王の怨霊が出る」として、 長岡京から平安京への遷都を 提案した和気清麻呂(わけの きよまろ)※京都・護王神社にて |
平安京を建都した平安時代初期の天皇。天智天皇(中大兄皇子)の曽孫(そうそん/ひ孫)。中国風の強大な皇帝的権力を発揮。光仁天皇の第一皇子。在位は44歳から69歳までの25年間で、天応元年4月3日(781年4月30日)-延暦25年3月17日(806年4月9日)。
737年に山部(やまべ/後の桓武天皇)親王は生まれた。父は天智天皇の孫である白壁王(後の光仁天皇)、母はその側室、夫人高野新笠(たかの の にいがさ)。高野新笠の父は百済系渡来人の和乙継(やまとのおとつぐ)で、百済の武寧王(523年没)の子孫とされている(『続日本紀』)。つまり母は百済の王の末裔。当時、渡来人の身分は低く「蕃人(ばんじん)」と呼ばれていた。この時代、皇太子となるには母が皇族か藤原氏というのが条件であり、山部親王は皇位にほど遠かった。 750年(13歳)頃に弟の早良(さわら)親王が生まれる。 761年(24歳)、父・白壁王の正妃・井上(いかみ)内親王が44歳という高齢で他戸(おさべ)親王(761-775)を産む。山部親王は第1皇子であったが、母が渡来人の出の高野新笠であったため皇太子となれず、他戸親王が皇位継承順の筆頭となる。山部親王は官僚として出世していく。 764年(27歳)、白壁王は恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)の鎮圧に功績を挙げる。これによって女帝の称徳(しょうとく)天皇(=孝謙天皇)に重用され翌々年に大納言となった。この時期は皇位継承をめぐって謀殺、暗殺が絶えず、白壁王は無能者を装うために酒に溺れるフリをして、権力争いと距離を置いた苦労人。 770年(33歳)、称徳天皇が52歳で崩御。未婚で実子がいない上、何年も続いた粛清・謀殺で天武天皇系の皇族がいなかった。白壁王の妻・井上内親王は聖武天皇の皇女であることから、息子・他戸親王(当時9歳)は女系とはいえ天武天皇系の男性皇族の最後の一人となった。これを受け、白壁王は藤原永手、藤原百川、藤原良継らの後援のもと、光仁天皇として、古代を除くと歴代最高齢となる61歳で即位する。同時に井上内親王も立后された。光仁天皇は温厚な性格であり、「奈良麻呂の乱」(757)や「仲麻呂の乱」(764)に関与した者に大赦を与え、流罪を解いた。この年、前年に宇佐八幡神託事件で失脚した和気清麻呂が中央政界に復帰。 ※藤原百川(ももかわ)は白壁王を光仁天皇として即位させるために、称徳天皇の宣命(せんみょう)の語句を偽造して、反対派(天武天皇系の皇子の文室(ふんや)浄三を推す右大臣・吉備真備ら)の動きを封じた。百川は光仁天皇から絶大な信頼をうけ、腹心として宮廷政治にかかわった。 771年(34歳)、藤原永手の尽力で他戸親王が立太子される。同年、藤原永手が他界。以後、藤原北家(藤原永手)から藤原式家(藤原良継・百川)へ権力が移る。 772年(35歳)、3月に「皇后(井上内親王)が光仁天皇を呪詛した」とする密告があり、井上皇后は地位を廃され、同年5月に他戸親王も皇太子をわずか1年で廃された。 ※とはいえ、人柄の良さで知られる光仁天皇を、皇后が呪う理由、動機がない。山部親王(桓武)を天皇にしたい勢力、藤原式家の一派(藤原四兄弟の三男・藤原宇合の息子たち、藤原良継と藤原百川)の陰謀だろう。 773年(36歳)、山部親王は側室の子であり、母は百済系渡来氏族出身であったが、光仁天皇から皇太子とされる。山部親王は藤原式家から妃となる藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ/760-790※藤原良継の娘) を迎えた。乙牟漏は美しく温和な人柄であったという。 同年、井上内親王は難波内親王(光仁天皇の姉)を呪い殺したという嫌疑を掛けられ、他戸親王と共に身分を庶人に落とされ大和国宇智郡(奈良県五條市)の没官の邸に幽閉される。これらも山部親王を推す藤原式家、藤原百川(ももかわ)の策謀と思われる。 774年(37歳)、山部親王と藤原乙牟漏との間に第1皇子・安殿(あて)親王(のちの平城天皇)が生まれる。この年、東北にて「三十八年戦争」と呼ばれる蝦夷征討の戦いが開戦する。現・宮城県石巻市の桃生城(ものうじょう/759年完成)に侵攻した蝦夷を陸奥国の鎮守府将軍・大伴駿河麻呂(おおとも の するがまろ)率いる1790余人が征討した。 775年(38歳)、井上内親王(58歳)と他戸親王(14歳)が幽閉先で同日に変死、殺害された可能性が高い。こうして天武天皇の皇統は女系も完全に途絶えた。 776年(39歳)、頻繁に天災地変や蝦夷の反乱が起き、人々は井上内親王の怨霊が原因と考える。祟りを恐れた光仁天皇は秋篠寺を建立するが、風水害、地震、干ばつ、落雷、流星、日食など天変地異や凶兆が続き、光仁天皇と山部親王も病を患った。 777年(40歳)、かつて光仁天皇擁立の際に尽力し、天皇の腹心となっていた藤原良継が61歳で急死。同年、光仁天皇は井上内親王の遺骨を丁重に改葬させ、墓を御墓と追称。 778年(41歳)、山部親王が井上内親王鎮魂のため伊勢神宮に参拝。同年、新笠が「高野朝臣」を賜り夫人の位となる。 779年(42歳)、藤原式家の藤原百川が47歳で急死。 780年(43歳)、朝廷から官位を授けられていた蝦夷の族長・伊治呰麻呂(いじのあざまろ/これはりのあざまろ)は、蝦夷の勢力圏が陸奥国胆沢(いさわ、現・岩手県奥州市)以北まで後退したことを憂慮、朝廷から寝返って「宝亀の乱」(伊治呰麻呂の乱)と呼ばれる反乱を引き起こした。同調して多数の蝦夷が蜂起し、呰麻呂は地方官を殺害、東北支配の中心だった多賀城を焼き払った(のち再建)。 781年(44歳)(井上内親王変死の6年後)、第一皇女(桓武帝の姉)が他界し、消沈した光仁天皇も72歳で崩御する。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あめむねたかつぎのすめらみこと)。陵墓は円丘。 同年、山部親王が第50代桓武天皇として即位する。同時に母の新笠は皇太夫人と称された。桓武天皇は藤原百川の画策によって即位できたことを感謝し、百川の子の藤原緒嗣(おつぐ)をとりわけて重用した。この年、富士山が噴火(文献上の最古の記録)。 782年(45歳)、天武天皇の曾孫・氷上川継(ひがみ の かわつぐ)が軍勢を集めて平城宮に侵入して朝廷を転覆させる謀反を計画、事前に発覚し捕縛される。死罪相当の罪だが光仁天皇の喪中であるため、罪一等を減じられて伊豆国へ遠流される。 783年(46歳)、藤原乙牟漏(おとむろ)を皇后とする。 784年(47歳)、即位から3年。天武皇統の都である平城京では、70年間に東大寺や興福寺など南都の大寺院があまりに大きな力を持つようになり、その政治への介入を排除するため寺院勢力から絶縁をはかった桓武天皇は遷都を決意、山背(やましろ:山城)国の長岡京へ遷都を命じる。桓武帝は新都への奈良寺院の移転を認めず、遷都によって人心を一新して律令体制を建て直し、新しい政治を目指そうとした。同年、新都の造営を開始。 785年(48歳)、長岡京の造営は夏に諸国の農民31万4000人を動員して本格化するが、2カ月後に遷都の責任者である造宮使・藤原種継(たねつぐ)が、南キの遷都反対勢力によって工事中に矢で暗殺される事件が起きる。藤原氏の政敵である大伴継人(つぐひと)ら数人が暗殺にかかわったとして死刑、さらに関係者が処罰されるなか、南キの雄、東大寺の開山・良弁と親しかった桓武帝の異母弟、皇太子の早良(さわら)親王にも疑惑が持ち上がった。桓武帝は廃太子した上で淡路島への流罪としたが、早良親王は無実を訴えて10日あまり絶食し、護送の途中で河内国にて憤死(享年35歳)した。桓武帝はわが子の安殿親王を立太子するが、安殿親王は病気がちになる。 ※藤原種継暗殺時、桓武帝は伊勢斎王となった娘の朝原内親王を送るため、長岡京を離れて平城旧宮に滞在していた。 786年(49歳)、10月皇后・藤原乙牟漏との間に第2皇子の神野(賀美能・かみの/のちの52代嵯峨天皇/786-842)親王が生まれる。この年、前年に後宮に入った桓武天皇の夫人・藤原旅子(たびこ)が第七皇子・大伴親王(のちの53代淳和天皇)を産んでいる。旅子の父は藤原百川、母方の祖父は藤原良継、共に桓武天皇擁立の功労者だ。長岡京の造都事業は造営長官の藤原種継を失ったうえ、蝦夷(えみし)征討で出費がかさみ難航していたが、同年太政官院が完成する。 788年(51歳)、夫人・藤原旅子が29歳という若さで他界。同年、新都造営に役夫をだす諸国での出挙(すいこ/物品の貸し出し)の利息が5割から3割にひきさげられる。 789年(52歳)、蝦夷を服属させるため桓武帝の命令で大規模な蝦夷征討が始まり、5万2千人の朝廷軍が東北地方に侵攻する(第一次蝦夷征伐)。紀古佐美(き の こさみ)を征東大使とする最初の軍は、 蝦夷の首長である“北天の雄”大墓公阿弖流為(タモノキミ・アテルイ)のゲリラ戦に翻弄された。衣川で奇襲を受け、「巣伏(すぶし)の戦い」では北上川の渡河(とか)を狙われ千人もの溺死者を出し惨敗する。 790年(53歳)、桓武天皇の母、皇太夫人・高野新笠が薨去。3カ月後に桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)が30歳で崩御。2年間で夫人の旅子、皇太夫人、皇后が立て続けに亡くなり、早良親王の祟(たた)りと噂された。 791年(54歳)、平城宮の諸門が長岡宮へ移転される。 792年(55歳)、早良親王の自害以降、列島を天災が襲い、長岡京の左京地域は大洪水で冠水した。桓武帝は天災の原因を「天皇の徳がなく天子の資格がないため」と民衆から判断されるのを恐れた。宮廷では不幸が続き、子の安殿親王(当時18歳)は長く病に伏せるなど奇怪な事件が相次ぐ。安殿親王の病弱が早良親王の祟りと占いに出たことなどから、天皇側近の和気清麻呂が「これは早良親王の怨霊の仕業」と助言したため、清麻呂の建策に従い長岡棄都を決意する。 793年(56歳)、1月桓武帝は長岡京の廃止を決定、新京の地として土地相で方角の良い、同じ山背国の葛野(かどの)郡宇太村を選び造都に着手。 794年(57歳)、長岡京の遷都からちょうど10年、完成間近の長岡京は放棄され、桓武帝は遷都先を「平安京」と命名する。平安京は東西4.5km、南北5.3の広さ。同年、第二次蝦夷征伐として前回の倍となる10万の大兵力で遠征を断行。大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)が最初の“征夷大将軍”に任命され、その補佐役であった征夷副将軍・坂上田村麻呂が活躍する。 796年(59歳)、高野新笠の甥、和家麻呂(やまと の いえまろ)が議政官(政府)の参議に叙任され、渡来系氏族出身者として初めて公卿に昇る。当時の記録に「蕃人の相府に入るはこれより始まる」と記さる。 797年(60歳)、蝦夷征討の新たな司令官として、坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)が征夷大将軍に任命される。 この年、『日本書紀』に続く勅撰史書『続日本紀』(しょくにほんぎ)が菅野真道らによって完成する。奈良時代の基本史料であり、文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。 800年(63歳)、富士山が大噴火し1か月も噴煙が降り注ぐ。桓武天皇は早良親王や井上内親王の怨霊を恐れ、早良親王に「崇道天皇」と追号して名誉を回復し、井上内親王を皇后と追号し、墓を山陵と追称する。桓武帝は淡路の早良親王の墓に何度も勅使を送って供物を捧げ、陳謝させたうえ墓守をおいた。 801年(64歳)、征夷大将軍・坂上田村麻呂率いる朝廷軍4万が、4年間の準備期間を経て3度目の遠征を開始(第三次蝦夷征伐)。目標は780年に失った胆沢地方(東北岩手)の奪回。田村麻呂は力押しの軍事攻撃はせず、軍事面と政治面の両方から蝦夷に揺さぶりをかけた。 802年(65歳)、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)は征討軍との長きに及ぶ激戦に疲弊した領民を気遣い、戦友の母礼(モレ)と共に約500人の配下を従えて投降し、坂上田村麻呂は平定に成功する。捕虜を連れて京都に凱旋した田村麻呂は、敵将ながら阿弖流為の武勇と人物を惜しみ「阿弖流為を殺さず帰して彼に東北運営を任せるべき」と助命を嘆願したが、平安京の貴族は「それは虎を養うようなもので災いを残す」と却下、阿弖流為と母礼は河内国で斬首に処された。朝廷軍は東北岩手に胆沢(いさわ)城を築き拠点とした。同年、富士山東麓噴火。 804年(67歳)、遣唐大使・藤原葛野麻呂(かどのまろ)のもと、留学僧の最澄(当時37歳/767-822)や空海(当時30歳/774-835)を乗せた遣唐使を派遣。この最澄・空海の登用が結果的に平安仏教の確立に繋がり、のちに嵯峨朝でピークとなる唐風文化の隆盛をもたらす。 805年(68歳)、桓武帝は病気がちになり、淡路国に早良親王を弔う常隆寺を建立。早良親王の命日を国忌(天皇崩御の日)として、亡骸を大和国・八嶋陵(奈良市八島町)に改葬するなど鎮魂を繰り返す。同年12月、側近の参議・藤原緒嗣(おつぐ※藤原百川の子)と菅野真道を呼んで天下の徳政について議論させる。真道は造都の続行を主張したが、緒嗣は「これ以上、都の造営や戦争で百姓を苦しめるべきではない」と建議し、桓武帝は平安京造都・第四次征夷の両方を中止した。また、没後は古墳を造らず自然の山に葬ることになった。この年、最澄が230部460巻におよぶ経巻をたずさえて帰国。翌年、天台宗が南都六宗に並んで国家の宗教として公認される。 806年4月9日、桓武天皇が69歳で崩御。在位24年11ヵ月。諱は山部(やまべ)。和風諡号は日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらすのみこと)。柏原帝とも呼ばれた。『日本後紀』は桓武帝を「造都、軍事による出費は多かったが、万世の基礎を築いた」と評している。山陵は当初宇多野(京都市右京区)とされたが賀茂神社に近いことから、伏見区桃山町の柏原陵(かしわばらのみささぎ)に改められた。安殿親王が51代平城(へいぜい)天皇として即位。 同年、空海が多くの密教の経論、仏具、曼荼羅などをもって帰国。 809年、平城天皇が譲位。平城帝の弟・神野(かみの)親王が52代嵯峨天皇として即位。同年、空海が京都の高雄山寺(神護寺)に住し、真言密教をひろめる拠点とする。嵯峨天皇は蔵人所(くろうどどころ)・検非違使(けびいし)を設置。在位中は唐風文化が栄え「弘仁格式」「日本後紀」「新撰姓氏録(しょうじろく)」を編まれた。「文華秀麗集」「凌雲集」を撰進させ、自身も漢詩文に長じ、「凌雲集」などに漢詩を残す。書道に堪能で三筆の一人。 811年、文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)が蝦夷征伐終了を奏上。 823年、嵯峨天皇が譲位し、大伴親王が53代淳和天皇として即位。 824年、平城上皇が49歳で崩御。 842年、嵯峨上皇が55歳で崩御。 1274年、桓武陵が盗掘される。その後、桓武陵の所在地が不明となるが、秀吉の伏見城の築城で陵域が破壊されたようだ。 1880年、国学者・谷森善臣の考証に基づき現在の桓武陵が治定された。 1895年、桓武天皇の平安京遷都1100年記念祭に当たり、官幣大社として平安神宮が創建された。桓武天皇と孝明天皇(1940年合祀)をまつる。 1954年、長岡京の発掘調査が始まり、大極殿をはじめとする朝堂院一帯、内裏の一部や条坊跡が確認される。 2001年、明仁天皇(当時)は「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております」と発言。このように厳密には皇室が半島の血筋を引いていることになる。ただし生母の高野新笠は武寧王から10代目と離れており、6代前に帰化して日本名を名乗っているので、限りなく日本人といっていい。 律令国家としての強化・拡大をはかった桓武天皇の政策は長岡京・平安京の造営事業、蝦夷征討の2つに大別される。農民に対しては、出挙(すいこ)の利率や雑徭(ぞうよう)の日数を軽減して負担を省く一方で、造都と征夷の二大事業には人々の労力と国家の財力を際限なく投入した。また、いわゆる傭兵で軍を構成する「健児(こんでい)制」を採用し徴兵制度を廃止したり、地方行政の監視を強化する勘解由使(かげゆし)を新設するなど、強い指導力で政治を導いた。母が渡来王族の後裔であったことから百済王氏の男女を重用して「朕の外戚」と呼び、またその一族の女性を多数後宮に入れた。 桓武帝は奈良時代の仏教政治の弊害を除くために新仏教の設立を助け、最澄や空海を起用して新たな宗派を興させた。最澄を還学生(短期留学生)として唐で天台宗を学ばせ、「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。ほかに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を完成させている。 2度の遷都や東北への執拗な軍事遠征など、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施した背景には、44歳という壮年期に達してからの即位や、青年期は次期天皇の候補でなかったため官僚としての教育を受けていたことが、大掛かりな政策の実行を可能にしたと見られる。 |
●皇室豆知識その6〜親政(しんせい) 親政とは、摂政や関白、幕府に執政を任せるのではなく、君主(天皇、国王)自身が政治を行うこと。桓武天皇、後三条天皇、後醍醐天皇の3人が特に有名。 |
平城天皇御陵は民家の間に参道があり気付きにくい | 左右の松の隙間から御陵が見え良い構図 | 平城京・大極殿(正殿)の近くに眠ってます! |
平安時代初期の天皇。名は安殿(あで)。桓武天皇の長男で、嵯峨天皇は弟。在位は32歳から35歳までの3年間で、延暦25年3月17日(806年4月9日)-大同4年4月1日(809年5月18日)。
774年9月25日に生まれる。母は太政大臣・藤原良継の娘、藤原乙牟漏(おとむろ※良継の娘)。 785年(11歳)、長岡京遷都の責任者である造宮使・藤原種継(たねつぐ)が、遷都反対勢力によって暗殺される。安殿親王は、叔父(桓武帝の弟)である皇太子・早良(さわら)親王が事件に連座して廃太子されたことから、代わりに皇太子に選ばれた。 安殿親王は自身に仕える宮女の母親である藤原薬子(ふじわらのくすこ※暗殺された種継の娘)と深い関係となった。薬子は中納言・藤原縄主の妻で三男二女の母。この不倫スキャンダルに桓武天皇は怒り、薬子を東宮から追放する。 794年(20歳)、桓武帝が平安京に遷都。 806年(32歳)、父・桓武帝が69歳で崩御し、安殿親王は平城天皇として即位。平城帝は、父が平安京の造営や軍の東北遠征で人々を疲弊させたので、当初は行政改革に積極的に取り組み、年中行事を停止するなど、人民の休養に努めた。また、疲弊した国家財政緊縮のため官司(かんし、官庁)の統廃合し、無用の官吏を整理して中央官制の縮小と政務の簡素化をはかる。また、参議制を廃止し、地方の民情視察のため観察使を創設し畿内(きない)七道に置いている(ただし観察使制度は嵯峨天皇が4年後に廃止、参議が復活している)。 平城天皇はさっそく藤原薬子を呼び戻して後宮の女官を束ねる尚侍(ないしのかみ)とし、薬子の夫である藤原縄主(ただぬし)を大宰帥(太宰府の長官)として九州に遠ざけた。薬子は天皇の寵愛を一身に受け、兄の藤原仲成(なかなり/764-810)と共に兄妹で政治に介入し、その専横ぶりから兄妹は人々に憎まれた。 807年(33歳)、平城天皇は弟の伊予親王(いよしんのう※桓武帝の第三皇子?)が謀反を企んでいると聞いて激怒し、伊予親王母子を捕縛し飛鳥の川原寺に幽閉した。これは藤原南家(藤原不比等の長男の家系)の政治的陰謀であり、二人は身の潔白を主張したが聞き入れられず、毒を飲んで心中した。後に二人の無罪が認められた(伊予親王の変)。 809年(35歳)、平城天皇は病気を理由に、わずか3年の在位で弟・神野(かみの)親王(嵯峨天皇/当時23歳)に譲位する。自らは太上天皇(上皇)となり、多数の官人を率いて旧都の平城京に移った。嵯峨天皇は平城天皇の子・高岳親王を皇太子とする。 810年(36歳)、権勢の失墜を恐れた仲成・薬子兄妹は平城上皇の重祚(ちょうそ、復位)を企て、そそのかされた平城上皇は9月6日に平城京への再遷都を宣言する。これにより、平城上皇の平城京と嵯峨天皇の平安京という2箇所の朝廷(二所朝廷)が並ぶ異常事態となった。上皇は平安京にいる貴族官人たちに平城京へ来るよう呼びかけたが、9月10日、嵯峨天皇は先手をうって平安京にいた藤原仲成を捕らえて翌日に射殺した。そして他の貴族が追随しないよう、すぐさま薬子の官位を剥奪した。この仲成の事実上の処刑を最後に、約350年後の平安時代末期の「保元の乱」(1156)まで中央では死罪は行われなかったとされている。 これに怒った平城上皇は挙兵し、薬子とともに東国へ向かったが、嵯峨天皇の命を受けた坂上田村麻呂が進路をふさいだ。勝機のないことを知った平城上皇は、翌日に平城京に戻って剃髮、出家した(別資料には「田村麻呂に大和国(奈良市)で捕らえられ、平城宮に連れ戻された」とある)。上皇は空海から灌頂を受ける。薬子は毒を仰いで自殺した(薬子の変)。薬子亡きあと女性には心を開かず、14年間ひとり平城旧宮で余生を送った。 嵯峨天皇は高岳親王の皇太子を廃し、新たに大伴親王(淳和天皇)を皇太子とする。 824年8月5日、平城上皇は京都にて50歳で崩御。奈良帝(ならのみかど)。亡骸は平城京のすぐ北、奈良市佐紀町の楊梅(やまもも)陵に葬られ、その心をくんで平城と諡(おくりな)された。また、「日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)」の諡号(しごう)を受ける。漢詩、和歌が「凌雲集」「古今集」に収められている。在位は3年と短かったが参議廃止、観察使設置などを行った。 ※平城天皇陵は、外形上は円墳だが、実は前方後円墳の後円部であり、前方部は平城京造営の折に削られている。前方後円墳の築造は6世紀末に終了しているにもかかわらず、宮内庁は9世紀前半に崩御した平城天皇の御陵を前方後円墳に治定しており、約250年ものズレが生じている。 ※歌人の在原業平は平城天皇の孫。 ※平城天皇の読み方は“へいぜい”なので要注意! |
嵯峨天皇像(宮内庁) | 最澄への追悼詩(帝自筆) |
あの山が嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ) | これが参拝道の入口 | ちょっとした登山だ |
登り初めて20分、何か見えてきた! | 山頂にて嵯峨天皇に謁見!(標高約200m) | 周囲の見晴らしは最高でした |
平安時代初期の天皇。名は神野(かみの/賀美能)。桓武天皇の第二皇子。並外れて達筆であり能筆で知られ、同じ平安時代に活躍した空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)と並んで三筆の一人に数えられる。交流のあった空海の書風の影響が強く、最澄の弟子光定に与えた《光定戒牒(こうじょうかいちょう)》が直筆とされる。
母は皇后の藤原乙牟漏(おとむろ※藤原良継の娘)。兄に平城天皇、異母弟に淳和天皇。皇后は名門橘氏の中から唯一皇后になった橘嘉智子(檀林皇后)。在位は23歳から37歳までの15年間で、大同4年4月1日(809年5月8日)-弘仁14年4月16日(823年5月29日)。 786年10月3日、京都・長岡京に生まれる。幼少から天子の器量があるとして桓武帝に寵愛された。 794年(8歳)、桓武帝が平安京に遷都。 804年(18歳)、遣唐使と共に最澄と空海が大陸へ渡る。最澄は天台の教えを学び、翌年230部460巻におよぶ経巻をたずさえて帰国した。 806年(20歳)、桓武帝が69歳で崩御し、長男・安殿親王が平城天皇として即位。最澄は天台宗から毎年正式な僧2人をだすことを朝廷に認められ、天台宗が南都六宗に並んで国家の宗教として公認された。同年、空海が多数の密教の経論、仏具、曼荼羅などをもって帰国。 809年(23歳)、平城天皇は病気を理由に、わずか3年の在位で弟の神野(かみの)親王に譲位し、親王は嵯峨天皇として即位した。平城上皇は多数の官人を率いて旧都の平城京に移る。嵯峨天皇は平城天皇の子・高岳親王を皇太子とした。 同年、空海が京都の高雄山寺(神護寺)に住し、真言密教をひろめる拠点とする。その後、京都の東寺や高野山金剛峰寺を中心に活動した。 810年(24歳)、3月に蔵人(くろうど/天皇の秘書)の事務を取り扱う蔵人所(くろうどどころ)を設置し、公卿の会議や機密文書が外部に漏れないようにする。蔵人所の頭には藤原北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ/775-826)が任じられた。 平城上皇の寵愛を受けていた藤原薬子(くすこ)と、彼女の兄の藤原仲成(なかなり)は、権勢の失墜を恐れて平城上皇の重祚(ちょうそ、復位)を企て、そそのかされた平城上皇は9月6日に平城京への再遷都を宣言する。これにより、嵯峨天皇の平安京と平城上皇の平城京という2箇所の朝廷(二所朝廷)が並ぶ異常事態となった。平城上皇は平安京にいる貴族官人たちに平城京へ来るよう呼びかけたが、9月10日、嵯峨天皇は先手をうって平安京にいた藤原仲成を捕らえて翌日に射殺した。そして他の貴族が追随しないよう、すぐさま薬子の官位を剥奪した。この仲成の事実上の処刑を最後に、平安時代末期の「保元の乱」(1156)まで中央では346年間も死刑は行なわれなかったとされている(法的には後述する818年の弘仁格から338年間)。 これに怒った平城上皇は挙兵し、薬子とともに東国へ向かったが、嵯峨天皇の命を受けた坂上田村麻呂が進路をふさいだ。勝機がないことを悟った平城上皇は、翌日に平城京へ戻って剃髮、出家した(別資料には「田村麻呂に大和国(奈良市)で捕らえられ、平城宮に連れ戻された」とある)。薬子は毒を仰いで自殺した(薬子の変)。平城上皇は薬子亡きあと女性には心を開かず、14年間ひとり平城旧宮で余生を送った。 嵯峨天皇は兄の子を皇太子としていたのをやめて、異母弟の大伴親王(淳和天皇)を立太子する。 同年、嵯峨天皇が薬子の変において賀茂大神に「我が方に利あらば皇女を捧げる」と祈願をかけて勝利したことから、誓いどおりに娘の有智子内親王を斎王とし、伊勢神宮の斎王(斎宮)に倣った「賀茂斎院」が始まった。賀茂祭の斎院の華麗な行列は人気を集め、清少納言が『枕草子』で祭見物の様子を書き留め、紫式部は『源氏物語』の「葵」の巻で車争いの舞台として描いている。400年後、1212年の35代斎院・礼子内親王退下の後、「承久の乱」の混乱と皇室の資金不足で斎院制度は廃絶した。 また、同810年に夫人・橘嘉智子(たちばな の かちこ/786-850)との間に第二皇子の正良(まさら)親王(のちの仁明天皇/810-850)が生まれている。正良親王は双子であり、娘の正子内親王はのちに淳和天皇皇后となった。他2男5女をもうけている。橘嘉智子は世に類なき麗人であったという。 814年(28歳)、嵯峨天皇の勅命を受け日本最初の勅撰漢詩集『凌雲集』全1巻が成立する。小野岑守(みねもり)、菅原清公(きよきみ)らが782年から814年に至る32年間の作者24人の詩91首を選んだ。嵯峨天皇の22首が最も多い。七言詩が46首、五言詩が39首で、最古の日本漢詩集『懐風藻』(751年)に比べて七言詩が増えており、唐詩の影響が大きい。 815年(29歳)、7月夫人の橘嘉智子が皇后に立てられる。橘氏出身としては最初で最後の皇后。 この時代は、第46代・孝謙天皇で天武天皇系の血統が途絶えたことを教訓に、たくさんの後継ぎ候補(皇子)を作ることが理想とされた。結果、嵯峨天皇は30人以上の女性に50名もの皇子皇女を産ませた。これだけの人数を養うには莫大な費用が必要であり、宮中の財政をどんどん圧迫していった。 嵯峨天皇は台所事情を改善する為に「臣籍降下」を断行し、自身の皇子・皇女たち32名を一気に皇室の外に出した。この時、彼らに「源氏」の姓を賜った“賜姓源氏(しせいげんじ)”が、武士の名門・源氏の起原となった(嵯峨源氏)。妃についても家柄によって女御、更衣の区別がつけられるなど後宮制度は大きく変化した。 ※ただし一般に「源氏」といった場合は、第56代・清和天皇の子孫で臣籍降下した“清和源氏”を指す。 ※ちなみに「平氏」は、淳和天皇治世下の825年に、桓武天皇の第5皇子・葛原親王(かずらわらしんのう/786-853)の子女に、桓武帝ゆかりの平安京にちなんで平氏姓が与えられたのが始まり。 同815年、畿内の古代の氏、1182氏の出自を記した『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』30巻および目録1巻が朝廷に提出される。奈良時代の各氏族は天皇の祖先との関係の深さに応じて社会的地位を与えられたので系図を詐称する者が多く、これを正そうとした桓武帝の遺志を継いで編まれた。天皇家より分かれた皇別(335)、神々の子孫である神別(404)、漢、百済、高麗、新羅、任那からの渡来人の子孫である諸蕃(しょばん/326)の3部に分け、系譜不確実なもの(117)も分類した。これらを出身地域別に配列しており、後世の古代研究の基礎史料となった。嵯峨天皇の勅命により万多親王らが編んだ。 816年(30歳)、桓武帝が792年に軍団を廃止して少数精鋭の志願兵=健児(こんでい)を導入し、治安が悪化したことから、嵯峨帝はこれを改善するため軍事・警察の組織として検非違使(けびいし)を創設する。裁判官と警察官を兼ねた存在。 818年(32歳)、敬虔な仏教徒だった嵯峨天皇は“不殺生”という思想から、盗犯に対する死刑を停止する宣旨(弘仁格/こうにんきゃく)を公布 した(盗犯に対するものだったが事実上の全面停止となった)。同818年、嵯峨天皇の勅命により藤原冬嗣が仲雄王(なかおおう)らと編集した2番目の勅撰漢詩集『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』全3巻が完成。4年前の『凌雲集』に漏れた作品を補うとともに以後の詩を加え、平安時代前期の28人の詩148首を収める。 820年(34歳)、格式(律令の補助法令)の『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』が藤原冬嗣らの手でいったん完成する。格は701年から819年までの詔、勅、官奏、官符(かんぷ)などを各官司ごとに10巻にまとめ、式も各官司ごとに格に規定しなかった律令の施行細則的なものを条文化して40巻とした。弘仁年間(810-824)に編纂されたので弘仁格式というが、その後も修正が繰り返され、最終的に施行されたのは840年。平安時代に編纂された貞観格式、延喜格式と共に三代格式と呼ばれる。 822年(36歳)、最澄は比叡山延暦寺に独自の戒壇を設置しようと考えて南都六宗と衝突、その願いは最澄他界の1週間後に達成された。 823年(37歳)、淳和天皇に譲位し嵯峨上皇となる(翌年に平城上皇が他界するまで2人の上皇がいたことに)。淳和天皇は嵯峨上皇の子、正良親王を皇太子に立てて恩に報いた。 嵯峨上皇は譲位後の上皇御所として冷然院や朱雀院、嵯峨院といった別宮を造営し、退位後も権力を握った。皇太后となった嘉智子と共に冷然院に11年間住む。朝廷の財政難の元凶は2度の遷都や蝦夷討伐を行った桓武帝だが、嵯峨上皇も譲位後に冷然院、嵯峨院を造営し、財政難をいっそう拡大した(節約を求める藤原冬嗣の意見を聞かなかった)。 同823年、真言宗の宗祖・空海に京都の東寺を与え、この寺は真言密教の根本道場となった。 825年、藤原冬嗣が左大臣に登りつめる。翌年、冬嗣他界。 833年(47歳)、淳和天皇が病により譲位(同年崩御)し、嵯峨上皇の第二皇子・正良親王が仁明(にんみょう)天皇として即位。仁明天皇の妃は藤原良房の娘・順子。仁明天皇がまだ23歳と若かったこともあり、嵯峨上皇は後見として益々大きな影響力を持つようになった。嘉智子は太皇太后となる。 834年(48歳)、冷然院から離宮の嵯峨院(現・大覚寺)に移る。 840年前後に、日本最初の禅院、檀林寺を嘉智子・太皇太后(檀林皇后)が唐の禅僧を招いて嵯峨野に創建。 842年8月24日、嵯峨院にて嵯峨上皇は55歳で崩御。諱は神野(かみの)。薄葬を強く望んだことから、亡骸はいずこかの山中に葬られ、『延喜式』諸陵寮にも場所が記されていないが、大覚寺では離宮の嵯峨院(現・大覚寺)の裏山頂上に御陵があると伝承されてきた。江戸後期の儒学者・蒲生君平が『山陵志』(1808)で大覚寺の西北、嵯峨野の北にある御廟山(190m)の山頂と主張し、同地が陵墓に治定された。すなわち、京都市右京区、北嵯峨朝原山町の嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)である。 嵯峨院は没後、外孫の恒寂入道親王(仁明天皇廃太子の恒貞親王)が大覚寺として改めた。他界の2日後、政治的空白をねらって藤原良房による他氏排斥事件「承和の変」が起きる。謀叛の企てがあったとして伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)を流罪にして伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、また皇太子・恒貞(つねさだ)親王(※淳和天皇の第二皇子)を廃立した。藤原良房の妹の子、道康親王(文徳天皇)が皇太子となった。兄弟間の皇位継承ではなく、嵯峨−仁明−文徳の直系王統が成立された。良房は「承和の変」で権力を確立し、最終的に人臣最初の摂政・太政大臣までのぼり、藤原氏繁栄の基礎を築いた。 嵯峨上皇の崩後も嘉智子・太皇太后は朝廷に影響力を持ち、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立、仁明天皇の地位を安定させるために承和の変にも深く関わったという。そのため、廃太子・恒貞親王の実母である娘の正子内親王は嘉智子を深く恨んだと伝わる。 850年5月4日、嘉智子・太皇太后(檀林皇后)は冷然院において64歳で崩御した。その死に際し、仏教に深く帰依する太皇太后は「飢えた鳥や獣を救う為に私の死骸を埋葬せず野原に放置すべし」と告げた。これには、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示し、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こさんとする思いもあった。そして自らの亡骸が腐乱、白骨化し、土に帰る過程を描くよう絵師に命じたという。帷子辻の道端で朽ち行く様子を9段階に分けた絵巻は京都・西福寺に『檀林皇后九相図』として残されており、毎年お盆の頃に数日だけ公開される。 (リンク先で閲覧可能。最初は十二単を着ていた美しい女性が、死後変色して崩れていくのはキツいですが、最後に骨が点在するだけになってしまうのを見て、逆に命の尊さを知るというか、僕はこの絵巻に言いようのない深い感動と神聖さを感じました) 嵯峨天皇は即位直後の「薬子の変」を征した後、弘仁の14年間(810-824)、異母弟・淳和天皇の天長の10年間(824‐834)、わが子・仁明天皇の治世に没するまでの30余年間は、ドロドロの古代史ではまれな政治的安定が出現し、宮廷を中心に唐風の文化が栄え、弘仁文化と呼ばれる王朝文化の基礎をきずいた。 「凌雲集」「文華秀麗集」などの勅撰漢詩集や「新撰姓氏録(しょうじろく)」の編纂、法令集「弘仁格式」の制定、さらには大内裏の整備、をした。臣籍降下による賜姓源氏の先例をひらき、蔵人所・検非違使などを設けて律令制の補強を行った。戦勝を祈願して賀茂斎王を置き、はじめて譲位後の上皇御所として冷然院と朱雀院の別宮を建設するなど様々なことを行った。 嵯峨天皇は天皇の中で最長の遺言を残したことで知られる。その中の葬儀に関する部分は胸を打つものがある--「人は死ねば気は天に、体は地に帰る。徳をもたない私の死に、どうして国費を使うことができようか。盛大な葬儀や祭祀は断じて行ってはならない。墓穴は浅く、棺を収められるだけの大きさにせよ。(古墳のような)盛り土はせず、草木の生えるままに放置しておけ。この命令に従わねば私の死体は辱められ、魂は深く傷つき怨鬼になるであろう」。他にも“一年くらいは墓参りに来てもいいが、その後は供養するな、供養なんかされたら浮かばれない”とも。 ※光源氏のモデルとされる左大臣・源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇第12皇子。 ※日本のお茶の歴史で最も古い記録は『日本後紀』に記されている。815年に嵯峨天皇が近江(滋賀)の崇福寺に詣でた際に、梵釈寺にて大僧都(だいぞうず)永忠が煎茶して献じたとある。 ※嵯峨の地は風光明媚であるため、唐文化に憧れていた嵯峨天皇が中国西安(長安)郊外の景勝地、嵯峨山を念頭に“嵯峨”と名付けたと伝わる。 ※嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子は仏教への信仰が篤く、日本初の禅寺・檀林寺(だんりんじ)を嵯峨野に建てたことから「檀林皇后」とも呼ばれる。“日本初の禅寺”をうたう寺は複数あり、現在の檀林寺は寺ではなく1964年に骨董屋さんが建てた観光地。“日本初の禅寺”として圧倒的に知名度があるのは、1253年創建で鎌倉に今も残る建長寺。 ※大覚寺の側の大沢池はもともと離宮・嵯峨院の庭園にあったもの。嵯峨上皇の没後、嵯峨院は寺院(大覚寺)に改められた。 ※鴨長明は『方丈記』のなかで平安京が都として定まったのは「嵯峨天皇の御時」と述べている。 ※離宮の冷然院は何度も火災の被害を受けたことから「然」の字が「燃」に通じ不吉であるとされ、954年の再建時に「冷泉院」に改称された。 |
中央の小塩山山頂で散骨。標高650mだけどけっこう急斜面! | 林立する電波塔が目印 | 手前の白い建物を覚えていてネ(後で登場) |
最初に車を大原野神社の駐車場に預けた | 9時15分、登山開始。地図を見て腹をくくる | 一番上が大原野神社、一番下が陵墓 |
9:30 「小塩山6km」の案内板を発見。サルやイノシシに注意せよとあった |
以前は山頂付近まで車で行けたが、落石や 道路の崩落があり、2000年から通行止めに |
9:45 「小塩山5km」。“落石注意”の看板が至る所にあるけど防ぎようが… | 出発から45分、初めて人間に遭遇 |
10:05 「小塩山4km」。まだまだ遠い。昔はここを車が通ってったのか〜 | 10:08 だいぶ高くなってきた!右画像の真ん中の建物が、冒頭の“白い建物”だ |
10:25 「小塩山3km」。入山から1時間経過。半分は越えたぞ〜! | この辺は特に落石が多いのだろうか? | 10:40 「小塩山2km」。ここまで休憩ナシ |
右手に大規模な土砂崩れ跡、左手は地面の下がえぐり取られた道路。くわばらくわばら | 11:00 「小塩山1km」。なぜあんな高い場所の案内板が泥だらけに!? |
車道の縁石は禅寺の石庭のように苔まみれ | 11:23 麓から見えていた電波塔に到着!ここまで来れば山頂はすぐ! | 3分後、やっとソレっぽい看板が! |
11:26 「淳和天皇陵参道」キターッ!うおおおお! | 参道の中央部分は風情のある苔石の道 |
年季の入った見張所。宮内庁の職員はミニバイクで山頂まで上がってくるらしい | 左の石段を上っていった先に御陵がある |
11:30 インディ・ジョーンズの世界! | 入山から2時間15分、ついに陵墓前に到着!はじめまして! | 「淳和天皇大原野西嶺上陵」 |
ここを散骨の地に選んだ当時の人も根性あるぜよ | ねじれた鉄のバリアー | 11:40 下山開始。さあ、下界へ! |
「ここから降りるのか!?」帰りは急斜面の“天皇陵道”を利用。膝がガクガクに! | 正午頃、登ってくる人と50人くらいすれ違った。みんな本格的なトレックキングスタイル |
写真では分り難いけど、普段まったく登山を しない僕には、心が折れそうになる険しさ |
大きな倒木が道を阻む。登りの休憩は1度だけ だったが、帰りは5回も休んだ。足が動かない… |
一緒に巡礼した3人の若者。とて も元気。僕はついて行くのに必死 |
12:55 下山開始から1時間15分で 民家の近くに出た。やっと麓だ〜! |
夕暮れ時、JR長岡京の駅前から。あれを上まで登ったのかぁ。既に足腰は筋肉痛で火花が散り、煙があがっていた(笑) |
淳和(じゅんな)天皇陵は、歴代124名の御陵で最も参拝が困難な御陵であり、墓参後、“ついに最難関の御陵の巡礼を果たした”という感動に包まれながら帰途についたことをよく覚えている。 第53代淳和(じゅんな)天皇は平安時代前期の天皇で、歴代天皇の中で唯一散骨された帝だ。桓武天皇の第3皇子(ウィキは第7皇子。体感では文献の8割が第3皇子)。51代平城天皇と52代嵯峨天皇の異母弟。在位は37歳から47歳までの10年間で、弘仁14年4月27日(823年6月9日)-天長10年2月28日(833年3月22日)。別名、西院帝。諱(いみな)は大伴(おおとも)。和風諡号は日本根子天高譲彌遠(やまとねこあめたかゆずるいやとお)天皇。淳和天皇は謙譲・温厚な性格であったと伝わる。 786年に京都で出生。母は藤原百川(ももかわ)の娘、藤原旅子。2歳のときに母が病没し、12歳で元服する。 804年(18歳)、大伴親王(のちの淳和天皇)は妃として高志内親王(こしないしんのう/789-809※当時15歳)を迎える。共に父は桓武帝であり、大伴親王にとって高志内親王は異母妹にあたる。 805年(19歳)、高志内親王が第一皇子・恒世親王(つねよしんのう)を産む。 806年(20歳)、父・桓武帝が69歳で崩御。大伴親王は皇位継承争いに巻き込まれることを懸念して臣籍降下を願い出たが、長兄であり皇太子の安殿親王から慰留される。安殿親王は平城天皇として即位した。同年、最澄は天台宗から毎年正式な僧2人をだすことを朝廷に認められ、天台宗が南都六宗に並んで国家の宗教として公認された。この年、空海が多数の密教の経論、仏具、曼荼羅などをもって帰国。 809年(23歳)、高志内親王が20歳の若さで薨去。同年、平城天皇は病気を理由に、わずか3年の在位で弟(大伴親王の次兄)の神野(かみの)親王に譲位し、親王は嵯峨天皇として即位した。 810年(24歳)、再即位を狙う平城上皇派と嵯峨天皇派が激突した“薬子(くすこ)の変”に嵯峨天皇が勝利。嵯峨帝は皇太子であった兄(平城)の子・高岳(たかおか)親王を廃したが、自分の子を皇太子にするのはさすがにはばかられ、異母弟の大伴親王に後継を頼み、皇太弟とした。この年、嵯峨天皇と皇后橘嘉智子(檀林皇后)の間に皇子・正良(まさよし)親王(後の仁明天皇)と皇女・正子内親王(後の淳和天皇皇后)が生まれる。おそらく双子の姉弟とみられる。 823年(37歳)に嵯峨天皇の譲位をうけて、大伴親王が淳和天皇として即位。淳和帝は14年前に先立った高志内親王に皇后を追贈した。有力貴族の大伴氏は即位の翌日に、天皇の御名と同姓なのは畏れ多いと名を大伴から伴氏と改めた。 第一皇子の恒世親王は両親が桓武天皇の子という皇太子に相応しい血筋だったが、淳和帝は自身が嵯峨上皇から譲位されたこともあり、皇太子には嵯峨上皇の皇子・正良親王(当時13歳)を立てた。この頃、姪の正子内親王が入内し、のちに皇后となっている。つまり、皇后と皇太子が姉弟という関係になった。淳和天皇と嵯峨上皇の関係は円満で、在位中は政治的に安定した。 824年(38歳)、地方の政治の荒廃を正すべく、地方行政を監査するために勘解由使(かげゆし)を再設置。また、京都の警察・裁判を担当する左右の検非違使(けんびいし)庁を設置。 825年(39歳)、正子内親王との間に第二皇子の恒貞親王(つねさだしんのう)が生まれる。 826年(40歳)、皇室財政を強化するため上総国、常陸国、上野国の3ヵ国を親王の任国に定める。。同年、第一皇子の恒世親王が21歳で病死。淳和天皇はショックのあまりしばらく政務を執れなかった。 827年(41歳)、正子内親王が皇后に立てられる(母・橘嘉智子と同じく藤原系ではない。当時では珍しい)。同年、淳和帝の命により勅撰漢詩集『経国集』が編纂される。天皇自身も詩文にすぐれ、空海や淡海三船ら176人と共に詩文が収められた。淳和帝は平安時代初期の文学的全盛期をもたらす。 830年(44歳)、法令『新撰格式』が施行される。 831年(45歳)、淳和天皇の勅により、滋野貞主(しげの の さだぬし)による日本最古の百科事典『秘府略』が成立。中国の書籍1500種の記事を分類し、項目ごとに編纂したもの。全1000巻にも及ぶ空前の大著であるが、現在は864・868巻の写本2巻のみ現存。 833年(47歳)、律令制度再建のため、清原夏野ら良吏を登用して養老令の令(りょう/民事法、行政法)の解釈を統一した公的注釈書『令義解(りょうのぎげ)』を編纂させる(※刑法は“律”)。 同年、皇太弟時代の離宮・南池院(西院)を整備した淳和院に移り、嵯峨天皇の皇子・正良親王(仁明天皇)への譲位を宣言。退位後の淳和上皇は、皇太后となった正子内親王と淳和院で7年間暮らす。嵯峨上皇が存命であるため、嵯峨を「前太上天皇」と呼ぶのに対して「後太上天皇」と称された。同年、第二皇子の恒貞親王(8歳)が嵯峨上皇の意向で立太子される。 835年(49歳)、空海(774-835)が他界。その死に際し、高野山に送った弔書(『続日本後紀』所収)は哀切に満ちた文章として知られる。 840年6月11日、淳和上皇は54歳で崩御。息子の恒貞親王は仁明天皇の皇太子であるが有力貴族の後ろ盾がなく、淳和上皇は最側近の藤原吉野(ふじわら の よしの/786-846)に親王の後事を託した。5 日後、乙訓郡(おとくにぐん)の物集村(もずめむら)で火葬される。現在、物集女(向日市)に火葬塚が伝存。皇太后正子は落髪し仏門に入った。 陵墓は京都市西京区大原野南春日町の大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)。淳和天皇は兄の嵯峨天皇と同様に仏教を尊び、薄葬の考えを徹底。淳和天皇は“死後に魂は天に昇り地上に留まらない、大きな墓を造っても肉体はただの抜け殻であり、抜け殻に悪鬼がつくとかえって禍になる”と考え、「どんなに小さいものであろうと私の墓を造るな。火葬にして遺骨を砕き京都の西山に散骨せよ」「この世に野心を残していない事を散骨で示して欲しい」と恒貞親王に遺言を残した。天皇の散骨という、このような遺言は過去に例がなく、側近たちは散骨を思いとどまるよう説得したが気持ちは変わらなかった。遺言に従って山陵は築かれず、亡骸は火葬され、遺骨は砕かれて大原野の西山=京都市西京区の小塩山(おじおやま)山頂付近で側近・藤原吉野の手によって散骨された。藤原吉野は涙ながら帝の指示を実行したという。この山からは長岡京と平安京を眼下に見下ろせる。 ※藤原吉野…淳和天皇と同い年で仲が良かった公卿。中納言。淳和帝の皇太子時代から仕え、その生涯を天皇の為に捧げた。33歳で駿河守になったが、淳和天皇の即位後は都に呼び戻されて政務を助けた。どんどん昇進し、42歳で参議として公卿に列する。淳和天皇の譲位後も希望してつき従った。崩御後は淳和帝の子である皇太子・恒貞親王の為に尽くすが藤原氏の陰謀の犠牲に。 2年後の842年に嵯峨上皇が55歳で崩御。嵯峨上皇も薄葬を望んだが、淳和帝の崩御時における朝廷の困惑を知っていたので、散骨の指示は出さず、いずこかの山中に埋め草木の生えるままに放置せよと遺した。他界の2日後、すぐに藤原氏による最初の他氏排斥事件“承和の変”が起きる。政治的空白を狙った藤原北家(ほっけ)の藤原良房が、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)に「謀叛の企てがあった」として流罪に追い込み伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、また皇太子・恒貞親王を廃立した(淳和帝の不安が的中)。新たに皇太子となったのは藤原良房の妹の子、道康親王(文徳天皇)。これにより、兄弟間の皇位継承ではなく、嵯峨−仁明−文徳の直系王統が成立された。この陰謀には皇太后正子の母・太皇太后橘嘉智子(檀林皇后)が関わったとみられ、正子は母を激しく怒り泣いて恨んだという。藤原吉野は大宰員外帥(ざいいんがいのそち※大宰府の長官)に左遷させられた。藤原良房は最終的に人臣最初の摂政・太政大臣までのぼり(857年)、藤原氏繁栄の基礎を築いていく。 845年、藤原吉野は大宰員外帥も解任。山城国に移されて幽閉され翌年に失意のまま病死した。享年61。 849年、恒貞親王が出家、恒寂と号する。 850年、仁明天皇が40歳で崩御し、藤原良房の孫・道康親王が第55代文徳(もんとく)天皇として即位する。同年、太皇太后(檀林皇后)が64歳で崩御。 854年、正子が太皇太后となる。 874年、淳和院が火災で焼失。再建後、太皇太后正子は当時朝廷の仏教政策で正式な僧侶になることが出来なかった尼のために、尼寺とした。他にも、太皇太后正子は都の孤児を集め、私財を投じて養育したという。 876年、太皇太后正子が父・嵯峨上皇の住まいだった嵯峨院を大覚寺に改め、僧尼のための医療施設・済治院(さいじいん)を置く。子の恒貞親王(恒寂)を開山(初代住職)とした。 879年、太皇太后正子が69歳で崩御。陵墓は京都市右京区嵯峨大覚寺門前登り町の円山陵墓(参考地)。 882年、新たに淳和院別当の職が置かれ、淳和院と嵯峨上皇・檀林皇后・淳和太后(正子内親王)の陵墓、嵯峨上皇ゆかりの大覚寺と檀林皇后ゆかりの檀林寺の管理を担うようになる。 884年、恒貞親王が59歳で没する。 淳和天皇に山陵を築く事を禁じられていたため「延喜諸陵式」に陵墓が記されておらず、1699年の諸陵探索では地元で御廟塚(ごびょうづか)と呼ばれていた火葬塚が陵墓とされた。その後、幕末に尊皇思想の高まりとともに行われた1862年から翌年にかけての“文久の修陵”で、小塩山の山頂にあった「清塚」「経塚」と呼ばれる小石の円塚5つが散骨地と治定され、陵墓が築かれた。そして明治時代に入って“天皇にきちんとした墓がなくては皇室の威厳にかかわる”と宮内省(現・宮内庁)が、立派な「淳和天皇陵」を造営し、ぶっちゃけ、遺言は無視される形になってしまった(汗)。長い皇室史の中で薄葬を選んだ天皇は少なくないが、それらは「御陵は小規模にせよ」「山中に埋葬せよ」というものだった。淳和帝は散骨という究極の薄葬を命じ、しかも巡礼するためには本気で登山しなければならぬという、二重の意味で「墓マイラー泣かせ」の帝だ。 〔墓巡礼〕 歴代124名の天皇陵で最も参拝が困難とされる淳和天皇陵を2010年に初めて墓参。山頂に陵墓がある小塩山は標高642m。大阪の人であれば東の生駒山がまったく同じ642mであり、東京の人なら高尾山(599m)よりやや高いといえばイメージが湧くだろうか。ヒョイと30分で登れるような小山じゃない。約10年をかけた全天皇の陵墓巡礼はアクセスが簡単な場所から始めたので、小塩山の淳和天皇陵と、電車で行けない淡路島の淳仁天皇陵が最後まで残った。しかも当時の僕は車を持っておらず、ブログで呼びかけて優しい青年に車を出して頂き、総勢4名での巡礼だった。「さあ、淳和天皇に会いに行くぞ!」。京都西部の山あいを訪れたのは秋真っ只中の11月。小塩山の麓の大原野神社を朝9時15分に出発して登山道(林道)に向かう。“登山道”といっても一応は舗装されており、かつては車で山頂付近まで行けたそうだ。落石や道路の崩落があり、2000年から車は通行止めになったとのこと。 まもなく「小塩山6km」の案内板を発見。続いて登山道の入口となる車両通行止めの標識と、「サルやイノシシに注意」の看板があった。以前、淳和陵への行き方を宮内庁に問い合わせた際、この道の存在を教えてくれた方は、ミニバイクを使って山頂まで通っていたとのことだった。先へ進むと、“落石注意”の看板が至る所に出てきた。 「落石が危険で車が入れないなら、人が歩いても危ないのでは?」と頭上を見あげて立ち止まる。「でも、立入禁止になっていないから安全なんだよね?この道で合ってるよね?」と、ハラハラしながら木の枝や落ち葉が散らばる道を進んでいった。出発から45分、人影が見えて驚く。下山してきたのは60代半ばくらいの男性で、お互いに「こんにちは」と挨拶。「天皇陵はこの道ですよね?」「ええ、私は参拝の帰りです」。先輩の墓マイラー発見!道が正しいこともわかった。人と出会ったことで元気が出て、「仲間だ…同志がいた…」と快調に登り続ける。 入山から1時間が経過した頃、「小塩山3km」の看板が出た。道のりの半分を越え、ここまで来ると景色を見ても「だいぶ高くなってきたな」という印象。残り2kmの地点で右手に大規模な土砂崩れ跡、左手にも土がえぐり取られた場所があり、「くわばらくわばら」と先へ進む。残り1kmになると、ほとんど人が通らないためか、道の縁石は禅寺の石庭のように苔まみれに。下界から見えていた電波塔(無線中継所)を経由し、11時26分、「淳和天皇陵参道」の看板が視界に。キタキタキタッ!ここからは石畳の参道で、こちらも風情のある苔石の道。最後に石段を登っていくと、インディ・ジョーンズの秘境の神殿のように、木々の間から御陵の鳥居や石垣が見えてきた。11時30分、出発から2時間15分、待望の陵墓前に到着、額から流れ落ちる汗を拭いた。 皇位継承を巡って争いが絶えなかった時代に、先帝の嵯峨上皇と協力して安定した治世を築いた淳和天皇。帝位にあったのは10年間だが、様々なことに取り組んだ。行政面では律令制度の再建、皇室財政の健全化、地方政治の改革、都の治安維持に取り組み、世情を安定させるべく矢継ぎ早に手を打った。文化面では詩文をこよなく愛し、漢詩集『経国集』を編纂させ、千巻に及ぶ日本最古の百科事典をまとめさせた。温厚な性格と伝えられるが、最初の妃や皇子が早逝したり、廃太子されるなど、後継の面では不遇だった。 歴代で唯一遺言により散骨された天皇である。同い年の側近であり、即位の前から交流があった最大の理解者、藤原吉野が泣きながら骨を撒いたという場所。この日は爽やかな秋晴れ、木洩れ陽のなか、淳和帝の治世を讃えて陵墓に手を合わせた。 帰り道、陵墓から割と近い場所に、転落防止のガードレールが一部分だけ途切れた箇所があった。のぞき込むと、かなり急斜面だがそこにも登山道があり、ガードレールに黒いマジックで小さく「天皇陵道」の文字と矢印があった。「ここを上り下りする人がいるのか!?」とたまげたが、登山ストックを握った本格的なトレックキングスタイルの人がグループで登って来るのが遠くに見えた。「この道なら最短距離で下山できる…」。時計の針は正午。早く降りれば長岡京跡や、明智光秀が秀吉と戦った「山崎の合戦」で本陣をおいた勝竜寺城に足を伸ばせると思い、急斜面に突入した。倒木を乗り越え、小石で滑って尻餅をつき、根っこにつんのめり、普段はまったく登山をしないため膝がガクガクに。休憩を5回もとったが、それでも1時間15分で麓に着いたので随分と近道だったのは間違いない。淳和天皇陵に行かれる方、行きは車道、帰りは斜面、お薦めです。太ももがパンパンになることうけあいです。 |
見落としそうな細い参道。名神高速のすぐ近く | 御陵自体もとても小さい(方形) |
和風諡号(しごう)を贈られた最後の天皇。平安時代前期の天皇。嵯峨天皇の第二皇子。在位は23歳から40歳までの17年間で、天長10年3月6日(833年3月30日)-嘉祥3年3月19日(850年5月4日)。
833年(23歳)、叔父の淳和天皇から譲位され即位。842年(32歳)、自身の第一皇子・道康親王(文徳天皇)を皇太子にするために、既に皇太子になっていた淳和天皇の皇子・恒貞親王を廃した(承和の変)。道康親王(文徳天皇)は名門貴族・藤原良房の甥っ子であり、承和の変は藤原氏による最初の他氏排斥事件となった。850年、病によって文徳天皇に譲位し、2日後に40歳で崩御。諱は正良(まさら)。和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。
幼少時から病弱だったこともあり、医師並みの知識を持ち、自ら薬の調薬をした。また、政治は道を重んじた人の行動によるべきであり、神や占いに頼るものではないとした。 後継の文徳天皇は父・仁明天皇が没した清涼殿を仁明天皇陵の側に移築し、菩提を弔うための嘉祥寺(かしょうじ)とした。現在の深草瓦町の善福寺は、嘉祥寺の跡に建ったと思われる。嘉祥寺は天皇陵を守るために造られたことから「陵寺(りょうじ)」と呼ばれる。陵寺は薄葬思想に否定的な公家にウケが良かった。天皇陵を小さくするかわりに立派な寺院をくっつけることで威厳を持たせたのだ。平安時代に入って少しずつ御陵が荒廃から護られるようになったのは、仁明天皇から御陵の側に帝の菩提を弔うための寺院、「陵寺」が造られたことが大きい。陵墓の地名により“深草帝”とも。 ※承和の変で廃太子となった恒貞親王は、政争に巻き込まれるのが嫌で(当時はよく殺害された)、皇太子にされる時にさんざん固辞していた。「だからあんなに辞退したのに…」って感じだろう。
※本物の深草陵は伏見区深草瓦町・善福寺周辺という。現在の陵墓は文久の修復(1861-1863)で造られたもの。
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文徳天皇像(法金剛院蔵) | 住宅街の死角に入口があり超分かりにくい! | どんなに迷ったか〜!(涙) | この制札で直角に90度ターン! |
うおお、見えてきた。ジ〜ン | 辿り着けて本当に良かった | 見張所が山荘のようでござった |
平安時代前期の天皇。仁明天皇の子。在位は23歳から31歳までの8年間で、嘉祥3年4月17日(850年5月31日)-天安2年8月27日(858年10月7日)。 850年(23歳)、仁明天皇の崩御を受けて即位。皇太子だった淳和上皇の子(恒貞親王)を有力者・藤原良房(よしふさ)が廃して、文徳が即位できたこともあり、治世は藤原良房の強い影響下にあった。良房は一人娘の藤原明子(あきらけいこ)を文徳帝と結ばせ、2人の間に第四皇子・惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)が産まれる。しかし、文徳帝は最も寵愛している更衣(こうい、女官)が産んだ第一皇子を皇太子としたかった。そのため権力拡大を狙う藤原良房と対立し、高野山を二分する争いにまで発展。最終的に良房の圧力に屈して第四皇子を皇太子とした。 その後も文徳天皇は、第四皇子に皇位を譲位するかわりに、第一皇子を次の皇太子にするよう提案しようとしたが、「そんなことをすれば第一皇子が暗殺されます」と左大臣・源信(まこと、嵯峨天皇の皇子)から忠告され断念する。文徳天皇は藤原良房との衝突もあって、天皇であるにもかかわらず一度も宮中の正殿(せいでん)で暮らさず、東宮や離宮で暮らしたという。 857年、良房の権勢はさらに拡大し、非皇族出身で初の太政大臣に昇りつめる。 そして即位から8年後(858年)、文徳帝は脳卒中で急逝した(発病から4日で崩御とも)。まだ30歳という若さから、藤原良房による暗殺とする説もある。諱は道康(みちやす)。太秦三尾古墳(円墳)。悲運の天皇。 ※現在の陵墓は横穴式石室。これは古墳時代後期の特徴であり、平安朝の天皇と時代が一致しない。 |
標識類がなかなか見つからず、「もしや通り 過ぎたのでは?」と不安になった頃に発見! |
「清和天皇陵 徒歩20分」の道標。これが なければ絶対に陵墓の場所は分からなかった |
車を置いてレッツ・ゴー。まずは農道を下っていく |
どんどん降りる。この下にあるのだろうか? |
と、思いきや今度は登り坂!どひー |
画面中央に見える白っぽいのが車道。つまり 谷を越えて別の山を登っているということ? |
登り続けること20分。何かが見えてきた! |
制札発見。「竹木等を切らぬこと」が強調されてた。 アンダーライン入りは初めて見た気がする。珍しい! |
かなり古い木造の見張所。当然、人の気配はなし |
うおお、確かにこの山中に眠られていました! | 淳和天皇から始まる薄葬主義がここにも脈づく | 陵墓の左側から接近可能。中を覗くと塚があった |
こちらは京都市左京区の金戒光明寺にある清和天皇の“火葬塚” |
平安時代前期の天皇。後世に武門の棟梁となる清和源氏の始祖。在位は8歳から26歳までの18年間で、天安2年11月7日(858年12月15日)-貞観18年11月29日(876年12月18日)。
文徳天皇の第四皇子だが、母方の祖父、太政大臣・藤原良房の後押しにより生後8カ月で兄3人を飛び越えて立太子される。858年、父の崩御(急死)を受けて、わずか8歳で即位(当時歴代最年少)。そのため後見についた藤原良房が摂政として政治を執り行った(初の人臣摂政=皇族ではない摂政)。藤原氏による摂関政治はここに始まる。
866年(16歳)、応天門炎上事件が発生。放火犯として捕まった伴大納言(伴善男)は無実を訴えたが伊豆へ流され、名族・伴氏(大伴氏)は全国へ流刑となり一気に没落。これでさらに藤原氏の権勢が拡大した。
876年(26歳)、清和天皇は胸中に何かがよぎったのか、病弱を理由として7歳の第一皇子(陽成天皇)に突然譲位。2年半後の879年5月に出家して頭を丸め仏道の修行に入る。5カ月後の10月より諸国の仏寺を巡礼し始めた。
翌880年3月、嵯峨野の北西(保津峡の北)、愛宕山に近い水尾(みずお)の山を気に入り、同地に滞在。絶食など苦行を行なった。水尾を隠棲の地と定め、水尾山寺(みのおさんじ)を建立中に病魔に倒れ、881年1月、藤原基経の粟田山荘(のち円覚寺)で崩御。臨終の際、西方に向かって結跏趺坐(けっかふざ)し、手は定印を結んだまま往生したという。享年30。 遺言に従って山陵は造らず、金戒光明寺で火葬した後に遺骨は完成した水尾山寺の脇に葬られた。生前から自分の為の寺を建て、菩提を弔うよう手配した天皇となった。 清和帝の御陵は所在が確かな平安時代の天皇陵のひとつ。『延喜式』に陵墓所在地の記載がないのに場所が不明にならなかったのは陵寺のお陰だろう。 崩御から約300年後、清和帝の火葬地に法然上人が草庵を結び、金戒光明寺を創建。寺墓地には、法然、春日局、お江、熊谷直実、山中鹿之助、鳥居元忠、竹内栖鳳など著名人が眠り、その中に清和帝の火葬塚も並ぶという珍しい光景が広がっている。中世まで火葬塚も陵墓と同じくらい神聖視され、現在も宮内庁が陵墓に準ずるものとして管理している。 諱は惟仁(これひと)。歴代天皇の諱に“仁”がつくのはここから。清和天皇の子孫の多くが臣籍(しんせき)降下して清和源氏となり、源頼朝、足利尊氏、新田義貞、武田信玄、今川義元、明智光秀など、多数の名将を輩出していく。
※陵墓は山陰本線・保津峡駅から山道の舗装路を北へ4km、そこから徒歩でしか入れない狭い道を20分歩いて谷を越え、隣りの山に入ってしばらく登り御陵に達した。現代でも容易には来られない場所。策謀渦巻く宮廷から遠く離れ、この静かな山あいで安らぎを得たのだろう。 ※僕は水尾山寺に気づかなかったので、もうこの寺はないのかも。 ※皇后の藤原高子はイケメン歌人の在原業平など多くの男性と浮名を流した恋多き女性。入内前、18歳の時に35歳の業平と恋に落ちた。清和帝の崩御後、東光寺の僧侶との情事により廃后とされ、僧侶は伊豆に流された。
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江戸時代の百人一首より | 真如堂から金戒光明寺に行く途中で偶然発見! | こういう予期せぬ出会いは嬉しい! |
平安時代前期の天皇。清和天皇の子。在位は7歳から15歳までの8年間で、貞観18年11月29日(876年12月18日)-元慶8年2月4日(884年3月4日)。 生後3カ月で立太子。7歳にして譲位され、伯父で摂政の藤原基経(もとつね、後に初の関白)が後見となって政務を行なった。881年(12歳)、父・清和上皇が崩御。883年(14歳)、宮中にて陽成天皇の乳母の子が撲殺されるという前代未聞の事件が起きる。宮中には“陽成天皇が殴り殺した”と噂が流れた。他にも、陽成天皇が囚人を裸にして塔に登らせて射殺、女官を縄で縛って池に投じて溺死させる、人を木に登らせて墜落死させる、犬と猿を闘わせて喜ぶ、小動物を次々と殺すなど“奇行”を重ね問題視された。馬好きが高じて宮中に馬小屋を作り34頭を飼ったとも。元々、藤原基経と天皇は気が合わなかったことから、基経はこれらの奇行を理由に退位を迫った。結局、撲殺事件の翌884年に15歳で退位し、仁明天皇の第三皇子・光孝天皇(54歳)が新たに即位した。 陽成上皇はそれから65年後の80歳まで長生きしたことから、自身(第57代)から5代も後の、第62代村上天皇の即位まで見届けている。上皇歴65年はぶっちぎりで歴代1位の長さだ(2位の冷泉上皇は42年)。諱は貞明(さだあきら)。 歌才があり『小倉百人一首』に以下の一首が収められている。 「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」(陽成院) ※伝承される陽成天皇の奇行は度が過ぎているため、後継の光孝天皇を擁立した藤原基経によるデマも含まれている可能性がある。 |
江戸時代の百人一首より | 古都の名刹、仁和寺のすぐ近く | 雲間から陽が射すまで30分ねばった |
平安時代前期の天皇。在位は54歳から57歳までの3年間で、元慶8年2月23日(884年3月23日)-仁和3年8月26日(887年9月17日)。 幼少からお婆ちゃんの太皇太后・橘嘉智子の寵愛を受け、843年に13歳で元服(成人の儀式)して以来、主要な官職を歴任。第3皇子であったが、他の親王とは異なる質素な暮らしぶりで容姿も雅であったことから、摂政・藤原基経(もとつね)から高く評価された。 884年(54歳)、陽成天皇が奇行を理由に弱冠15歳にして摂政・藤原基経(もとつね)によって廃位され、光孝天皇として即位。光孝天皇と藤原基経の母は姉妹にあたり、両者は従兄弟になる。 885年、藤原基経は光孝天皇から政務全般を委任されたことから、実質上の初代関白となった(まだ“関白”の字句はなく、文献で残る関白は次の宇多天皇から)。 光孝天皇は、聡明かつ謙虚、和歌、和琴など諸芸に優れた文化人であり、清貧な生活を好み、天皇になっても炊事を自ら行なったという。のちの鎌倉末期、吉田兼好は『徒然草』に、「光孝天皇の御所が“黒戸”と呼ばれるのは、帝が自身で炊事をされるので、戸が薪の煤(すす)ですすけていたからだ」と記している。 887年、死期が迫った光孝天皇は後継を基経に一任。基経は、臣籍降下し「源定省(みなものとのさだみ)」となっていた第七皇子の定省親王を寵愛していたことを考慮、定省親王は基経の妹の猶子(養子)でもあったことから後継に推し、帝は大いに喜んだ。57歳で崩御。定省親王は宇多天皇として即位した。諱は時康(ときやす)。別名、仁和帝(にんなのみかど)、小松帝(こまつのみかど)。後田邑陵。円丘。 晩年の光孝天皇は、即位前に住んでいた館の近くに朝廷の勅願寺を創建しようと計画していたが果たせずに終わった。御室付近に葬られ、息子の宇多天皇は父の志を引き継ぎ、光孝天皇陵を護るための陵寺「仁和寺」を完成させる。 小倉百人一首に次の有名な歌が残る。 『君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ』(光孝天皇) ※ときの左大臣・源融(とおる 822-895)は歌に長じ、光源氏のモデルと言われている。融の別荘はのちに平等院となった。父は嵯峨天皇。 |
●皇室豆知識その7〜『 関白>摂政 』 『 太政大臣>左大臣>右大臣 』 ・太政大臣…律令制の最高官。名誉職。左大臣(ナンバー2)や、右大臣(ナンバー3)と異なり、適任の人がなければ欠員となる。飛鳥時代の大友皇子から、明治時代の三条実美(さねとみ)まで94人。 ・摂政…君主が元服(成人の儀)前で若すぎたり、病弱だったりして、政務を行うことが出来ない場合の君主代行。聖徳太子以来、皇族が就いていたが、平安時代前期、56代清和天皇の摂政に藤原良房が就いてからは、藤原氏が代々就いてきた。鎌倉以降、藤原氏は五摂家(近衛家、一条家、鷹司家、九条家、二条家)に分かれ、交代で就任した。歴代46名。 ・関白…天皇(元服後)を補佐して政務を執り行なう役目。太政大臣や摂政よりさらに上。基本的には太政大臣や摂政経験者が関白に就く。平安時代前期、58代光孝天皇の関白を務めた藤原基経に始まる。歴代116人。 |
宇多法皇像(仁和寺蔵)※出家して仁和寺に入った |
かなり山の上。そして車で来られるのはここまで | 足下が岩場でボッコボコ!こんな参道は初めて! | 宮内庁(明治政府?)はなぜ宇多天皇に冷たいのか |
10分後、木々の間に明るい場所が見えてきた | まるで“隠し墓”のような陵墓だった! | 壁のない見張所を初めて見た(汗) |
宇多天皇、寂しくありませんか | 鳥の声やセミの声を聴いているのかも | 参道から見える京都の街並み |
平安時代前期の天皇。光孝天皇の第七皇子。母は桓武天皇の孫娘。在位は20歳から30歳までの10年間で、仁和3年11月17日(887年12月5日)-寛平9年7月3日(897年8月4日)。
884年に17歳でいったん「臣籍降下」で皇室から出て、“源定省(みなもとのさだみ)”の名で暮らしていたが、887年(20歳)、光孝天皇の崩御前日に太政大臣・藤原基経の支援で皇族に復帰し、崩御を受けて即位した。一度臣籍に降りた人物が皇位に就くのは初めて。 宇多天皇は基経の異母妹の猶子(ゆうし、養子)になっていたことから、宮中に影響力を確保したい基経の意向が背後にあった。一度皇室から出ていたので、先々代の陽成上皇は宇多天皇を見て「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と驚いたという。 この即位に際して、宇多天皇は藤原基経への詔で「関白」という言葉を初めて使用し、文献上では、藤原基経が初代関白とされる。 888年(21歳)、光孝天皇の遺志を継いで朝廷の勅願寺・仁和寺を創建。光孝天皇陵を護るための陵寺として完成させた。 891年(24歳)、関白・基経が55歳で死去。基経の子・藤原時平がまだ20歳だったことから摂政や関白を置かず、天子自らが政治を行なう親政「寛平の治」(かんぴょうのち)を始める。宇多天皇は、農民保護政策を打ち出すなど政務に通じた右大臣・源能有(みなもとのよしあり、文徳天皇の皇子)を補佐役の筆頭に置き、能有と同じ46歳で学者出身の菅原道真を重用して藤原氏の増長を抑え、行政改革を断行した。 897年(30歳)、醍醐天皇が12歳になって元服したことから譲位、自身は宇多上皇となる。その2年後、東寺で出家し史上初の法皇(出家した上皇)となった。宇多法皇はお気に入りの仁和寺に入って御所とし、仁和寺の住職になる。仁和寺は皇族や公家が出家して寺主となる寺院“門跡寺院”の最初となり、以降、仁和寺には代々の法親王が入寺した。
4年後の901年、菅原道真の出世に危機感を抱いた藤原時平が醍醐天皇に「道真は皇位を奪うつもり」と吹き込み、これを信じた醍醐天皇が道真を太宰府に左遷するという事件が起きる。道真を信頼している宇多法皇は、左遷を思い止まらせるために宮中に向かったが、宇多法皇は天皇時代に陽成上皇の政治介入を阻止する為に「上皇であっても天皇の許可なしに内裏(御所)に入りことは出来ない」と定めた為、今度はこれがネックになって醍醐天皇に会うことが出来なかった。903年(36歳)、道真が都を思いながら57歳で他界。その6年後(909年)に藤原時平が38歳で病死したことから、道真の怨霊の祟りといわれた。931年、仁和寺にて64歳で崩御。 宇多天皇と妻の藤原胤子(いんし)の間に生まれた第一皇子が敦仁親王(醍醐天皇)。第八皇子・敦実親王(あつみしんのう)の娘、源倫子(みなもとのりんし)は“あの”藤原道長の正室となって、『源氏物語』に登場する中宮彰子や関白・頼通を生んだ。綾小路家も宇多源氏の子孫。諱は定省(さだみ)。 宇多天皇陵(方丘)は仁和寺北方の山にあり、道路から400mほど分け入っていく。参道は岩場でボコボコ。タクシーを待たせているので、大急ぎで登ったが、足をくじきそうで危なかった。10分ほど歩くと木々の間に明るい場所が見え、まるで“隠し墓”のような陵墓が現れた。巡礼したのは9月の頭。ツクツクボウシの凄まじい蝉しぐれ、あたりは蝉の声で埋まっていた。人里離れた山中の墓所なれど、これなら帝も寂しくないだろう。 ※「延喜天暦の治」と称えられる醍醐天皇・村上天皇の善政(奴婢制度廃止令など)の大半が宇多天皇の政策に基づいたもの。
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●皇室豆知識その8〜上皇と法皇 後白河天皇は「後白河上皇(じょうこう)」「後白河法皇(ほうおう)」と呼ばれることも多い。上皇とは皇位を後継者に譲った天皇のことで、正式名は太上天皇(だいじょうてんのう)。そして上皇が出家すると法皇(太上法皇)となる。 上皇は「院」とも称され、院の御所は仙洞(せんとう)御所と呼ばれた。 −−−−− 最初に法皇を称したのは、寛平法皇と呼ばれた宇多上皇(第59代)が初例。ただし、上皇の出家=法皇であるならば、宇多上皇以前にも事実上の法皇は4名いる。 (1)749年に出家した第45代聖武帝。在位中(上皇になる前)に行基のもとで出家しているから、譲位後に聖武上皇として生きた7年間は法皇。 (2)762年、女帝の孝謙上皇は出家して尼になっているので法皇。 (3)810年に第51代平城上皇が出家。 (4)879年に第56代清和上皇が出家。 そして899年に宇多上皇が出家した。 −−−−− 親王が出家した場合は“入道親王”と呼ばれ、出家後に親王となった皇族は“法親王”とされた。現在と異なり、明治以前は天皇の子女であっても親王宣下(せんげ)を受けない限り、親王および内親王を名乗ることはできなかった(良岑安世・源高明・以仁王など)。 |
世界遺産に認定されてもおかしくないレベルの美しさ | 素晴らしい松の廊下をゆく。渡り終えるのがもったいない! | 松の向こうにだんだん御陵が見えてきた |
醍醐天皇像(醍醐寺蔵) | 間違いなく陵墓巡礼のハイライトのひとつ | この辺りは交通量も少なくとても静か |
醍醐天皇は「延喜の聖帝」ともいわれる平安時代前期の天皇。宇多天皇(867-931)の第一皇子。名は敦仁(あつひと)。在位は12歳から45歳まで、平安時代では最長となる33年間で、寛平9年7月13日(897年8月14日)-延長8年9月22日(930年10月16日)。母は内大臣藤原高藤の娘胤子(いんし)。
885年に誕生。893年(8歳)皇太子となる。894年、菅原道真の建議で遣唐使が廃止され、外来文化が入りにくくなったことで国風文化が隆盛していく。 897年に12歳で宇多天皇から譲位を受け、元服と同時に第60代醍醐天皇として即位する。まだ若年であるため、宇多上皇より左大臣に藤原時平、右大臣に菅原道真を置いて政務を任せるよう指示された。 この時代、在位が10年前後の天皇が多いなか、醍醐天皇は平安時代の天皇では最長となる在位33年間に及んだ。在位中に摂政・関白を置かずに天皇が直接政治をおこなう親政体制を敷き、後世にその治世は元号をとって「延喜の治」(えんぎのち)と称えられ、律令政治の理想とされた。また、その治績は第62代の村上天皇の時代とともに「延喜・天暦の治(えんぎてんりゃくのち)」とも。 醍醐天皇は政治・文化両面に積極的で、902年に時平と班田の励行や荘園整理令の発布など政治改革を推進。治世中、後述する『古今和歌集』を勅撰、そして清和、陽成、光孝天皇の3代30年の歴史書『日本三代実録』、律令の補助法令『延喜格式』の編集といった文化事業を行った。日記の『醍醐天皇御記』は『宇多天皇日記』に次ぐ天皇日記であり、次の『村上天皇日記』と合わせて「二代御記」と呼ばれ、清涼殿の厨子に保管されのちの天皇の教訓の書とされた。 901年(16歳)、突如として菅原道真は謀反策謀の濡れ衣を着せられる。直接のきっかけは中納言・藤原定国(867-906※醍醐帝の外戚)と、蔵人頭(くろうどのとう※帝の秘書)・藤原菅根(すがね)が醍醐天皇に「天下之世務以非為理」(道真は帝の世にあって理にかなう務めをしていない)と訴えたことに始まる。そして時平が醍醐帝に「道真は醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀り、宇多法皇の同意を得た」「宇多法皇を欺き惑わした」と訴えた。 事態に驚愕した宇多法皇は道真を助けるため裸足で朝廷に駆けつけ、醍醐天皇を説得しようとしたが、宇多帝自身が在位中に定めた規則「上皇であってもの天皇の許可なく内裏に入れない」によって、藤原菅根と衛士に門前で阻まれ、取り次ぎもされなかった。このため法皇の参内を天皇は知らず、法皇は外で立ち尽くした。 醍醐天皇は宇多法皇に事実確認をせず中傷を信じ、1月25日、天皇の宣命(せんみょう)によって道真は降格、都から遙かに遠い九州太宰府に太宰員外帥(だざいいんがいのそち/大宰府のトップ=名ばかりの閑職)として左遷される。時平の陰謀というのが定説だが、学者として異例の出世をした道真に反感を持つ多くの“貴族層”の同意もあった。この「昌泰(しょうたい)の変」では、道真の子ども達も妻と幼子以外は地方へ飛ばされた(5年後に嫡子高視は赦免され都に戻る)。 道真は自邸を去る前に、庭の梅の木に別れの歌を詠んだ「こち(東風)ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」(愛する梅よ、春風が吹いたら良い香りを送っておくれ。家に主がいなくても春を忘れるな)は、美しくも切ない歌として今も伝わる。左遷後、道真は政務にあたることを禁じられ謹慎、俸給や従者も与えられなかった。そして都への望郷の念をつのらせつつ、2年後に57歳で他界した。 醍醐天皇&藤原時平が協力して宇多法皇の政治力を削ごうとしたとも考えられるが、醍醐帝の政治方針は宇多帝&菅原道真が目指した「農民の保護、貴族・寺社の権力の抑制」を踏襲、発展させていった。道真の左遷後は藤原時平に実権を握られ、時平の没後は弟の忠平が中心となって天皇を補佐した。 905年(20歳)、最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が(全二十巻、約1100首)が奏上される。醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から当代までの和歌を、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人が撰んで編纂した。巻頭に紀貫之による本格的な歌論“仮名序”、巻尾に紀淑望(よしもち)による真名序がある。ほとんどが5・7・5・7・7の31音からなる短歌であり、漢詩に対する「やまとうた」としての和歌を強く意識した最初の歌集でもある。仮名序は後の文芸評論史の出発点となった。収録された歌の年代は約200年にわたり、「万葉集」に近いよみ人知らずの時代、和歌の基調が確立される六歌仙の時代に、古今調が完成された撰者の時代の3つに区分される。名前がわかっている作者は120人以上、よみ人知らずの歌も多い。筆頭は貫之の102首。万葉集の素朴な歌と異なり、技巧的・理知的かつ優美な歌風に特徴がある。 一方、903年(18歳)の道真憤死後、都では疫病や異常気象など不吉なことが続き、天皇側近や皇族に不幸が続いた。まず没後3年(906年)、左遷のきっかけを作った2人のうち藤原定国が40歳で他界し、翌々年に宇多法皇を門前払いした藤原菅根が雷に打たれて命を落とす。 続いて没後6年の909年(24歳)に道真の最大の政敵、左大臣・藤原時平が38歳で急死する。913年、左遷時に時平側の中心にいた右大臣・源光(みなもとのひかる)が鷹狩の最中に泥沼に落ちて溺死し、遺体があがらず。918年、落雷で東寺の金堂が焼失。 919年(34歳)、疫病や干ばつも続いたことから、これらを「道真の祟り」と恐れて御霊を鎮めるため、醍醐天皇の勅命によって中納言・藤原仲平(時平の弟)が大宰府・安楽寺に赴き、道真の墓所の上に立派な社殿、安楽寺天満宮(現太宰府天満宮)を造営した。 これで怨念が静まることを願ったが、4年後に醍醐天皇の第二皇子で時平の甥、皇太子・保明(やすあき)親王が19歳で病死する。朝廷は狼狽して道真の罪を公式に取り消し、怯えた醍醐天皇は名誉回復のため左遷の詔を破棄して右大臣に復し、正二位を追贈した。 その後、保明親王の第一王子・慶頼王(やすよりおう:醍醐帝の孫、時平の外孫)を新たに皇太子に立てたところ、2年後にわずか3歳半で他界してしまう。人々はますます怨霊の仕業と信じ込んだ。 926年(41歳)、新たな皇太子に保明親王の弟で醍醐帝第十一皇子、寛明親王(朱雀天皇/923-952)が選ばれる。 なおも自然災害や疫病など異変は収まらず、人々が不安に包まれているなか、道真没後27年、930年7月24日(延長8年6月26日)に決定的な事件が起きる。天皇の居所・清涼殿に朝廷要人が集まって会議をしている最中に、13時頃から愛宕山より沸き立った黒雲が平安京を覆い、1時間半後に落雷が清涼殿を直撃した。藤原時平に命じられ追放後の道真の動向監視を務めた大納言・藤原清貫は、衣服が焼け胸が裂けて即死。内蔵頭の平希世(たいら の まれよ)も顔を焼かれて倒れ同日死亡。隣接する紫宸殿にいた右兵衛佐・美努忠包も髪を焼かれて死亡。他にも腹を焼かれた者、膝を焼かれた者などで多数の死傷者が出た。警備の近衛も2名死亡している。宮中は“菅公の呪いここに極まれり”といった様相。人々は「菅公の怨霊が雷神となった」と噂し合った。 この怪異な光景を目にした醍醐天皇はショックで病気になり、皇位を7歳の寛明親王(朱雀天皇)にゆずり、7日後(930年10月23日)に出家(法名は宝金剛)、同日崩御した。清涼殿落雷事件から3ヶ月だった。道真が亡くなって30年弱の間に、左遷に関わったとされる天皇1人・皇太子2人・高級貴族5人が病死、事故死を遂げた。 翌年、宇多法皇崩御。936年に時平の長男・保忠(やすただ)が46歳で他界。翌年、富士山が噴火。943年、三十六歌仙の一人で時平の三男・敦忠が37歳で他界。 947年、道真の怨霊を鎮める目的で、道真を祭神とした京都北野天満宮(北野天神)が創建される。本来「天満宮」は天皇・皇族をまつる神社の社号だ。以後、朝廷は各地の天満宮で菅公の慰霊に務めた。 952年に朱雀天皇も28歳という若さで崩御する。 醍醐天皇は母の縁の土地にある醍醐寺の北に土葬され、地名の醍醐に繋がる。陵墓は円形。地名の醍醐に因んで「醍醐天皇」と追号された。醍醐天皇の棺は校倉ごと埋葬され、棺の側には愛用の琴や笛といった楽器、硯、書が安置されたという。宮内庁が発掘を許可すれば楽器が出てくるはずだ。 934年に醍醐寺は醍醐陵の管理を命じられ、以来、命日には御陵の前で法会を行って守り続けた。多くの天皇陵の正確な所在が戦国期に不明になっていくなか、醍醐寺がずっと管理していたおかげで、確実に被葬者と陵墓が一致している貴重な平安時代の御陵になっている。 ※醍醐天皇は皇后穏子の他にも多くの後宮を持った。約20人という女御・更衣(女官)との間に、寛明親王(朱雀天皇)、成明親王(村上天皇)など、36人もの子女をもうけた。臣籍降下が行われ、のちに安和の変(969)で大宰府へ流された源高明は醍醐源氏のひとり。 ※醍醐寺の五重塔は京都最古の建造物で平安時代中期のもの。 |
ここも入口を見落としやすい陵墓のひとつ | 中に入るとけっこう広い。山が近い | 名前のカッコ良さは歴代No.1ではないだろうか! |
とても開放感のある御陵だった。父帝・醍醐天皇陵の近所 | 「朱雀天皇醍醐陵」の石柱 |
平安時代中期の天皇。醍醐天皇の第十一皇子。母は太政大臣・藤原基経の娘、皇后藤原穏子(やすこ)。在位は7歳から23歳までの16年間で、延長8年11月22日(930年12月14日)-天慶9年4月13日(946年5月16日)。諱は寛明(ゆたあきら)。
923年9月7日に生まれる。当時、20年前に左遷されて他界した菅原道真の怨霊が折しも平安京を震え上がらせていた。母・穏子は寛明親王(朱雀)を怨霊から守るため、3歳になるまで幾重にも張られた几帳(間仕切り)の中で育て、御殿の格子も上げずに昼夜ずっと灯をともし続けたという。 926年、寛明親王は3歳で皇太子になる。先の皇太子2人(兄と甥)が夭折したことで白羽の矢が立った。 930年(7歳)、先帝・醍醐天皇が菅原道真の祟りとされる「清涼殿落雷事件」(多数の死傷者が出た宮中への落雷)のショックで病床に伏し、崩御1週間前に譲位される。新たな第61代朱雀天皇はまだ7歳3か月(最年少記録更新)であり、政務は摂政(のち関白)の伯父(母の兄)・藤原忠平(基経四男、時平の弟)が取り仕切った。40年来途絶えていた摂政・関白の地位が復活し、藤原氏の摂関家の道を開いた。 936年(13歳)、瀬戸内海は9世紀後半から物資運送の重要な海上路となったが海賊が多く出没し問題になっていた。初代摂関・藤原基経の大甥・藤原純友は、931年以降に父の従兄弟の伊予守・藤原元名(もとな)に従って、伊予掾(いよのじょう/国司の第三等官)として海賊を鎮圧した。ところが、純友は934年に伊予掾の任期が終わったのちも帰京せず伊予に土着し、この936年頃までに貴族にもかかわらず海賊の首領となっていた。純友は伊予国日振島(ひぶりじま/宇和島市)を拠点に瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らした。朝廷から派遣された伊予守兼南海道追捕使(ついぶし)・紀淑人(き の よしひと)は、「南海の賊徒の首」と呼ばれた藤原純 友を配下に迎え、海賊に田畑を与え農業に従事させるなどの柔軟な投降策をとり、これが功を奏し約2500名が投降している。純友にも海賊追捕の宣旨が出され、淑人への協力を求めることで海賊勢力の分断を図ろうとした。 937年(14歳)、朱雀天皇が元服。富士山が大噴火。これは“熱湯岩石雨嵐之如く”と記録されるほど凄まじいものだった。 939年(16歳)、関東の最強豪族・平将門が反乱を起こして独立国家を樹立する。桓武天皇五世の将門は“新皇”を名乗り、東国で独自に即位して朝廷を開いた。将門は私領をめぐる地方の争いに中央政府が介入することに反発し、国府(国の役所)を攻め落として坂東8か国(下野、上野、常陸、上総、安房、相模、伊豆、下総)を制圧、関東から国司を追放した。そして下総(しもうさ)の猿島(さしま/茨城県坂東市)に王城の建設を始め、朝廷を模して多くの役人を任命した。朝廷にとって初の大規模な“地方の反乱”であり、日本史上類を見ない独立国が誕生したことに朝廷は大きな衝撃を受ける。 東国で将門の乱が起こると、これに好機を見た藤原純友が紀淑人の制止を振り切って海賊に立ち戻り、西国でも反乱を開始。備前国・播磨国の介(次官)を襲撃し、瀬戸内海の海賊を率いて一大勢力となり、瀬戸内全域と九州の一部を支配する。 940年(17歳)、東西の兵乱に直面した政府は、西の藤原純友に対しては従五位下の位階をさずけて懐柔し、反乱は一時沈静化する。関東に対しては将門と敵対関係にある平貞盛らの同族の武力をかり、さらに下野(しもつけ)国の藤原秀郷ら関東の豪族を将門討伐軍に編成した。そして2月初旬に藤原忠文を征東大将軍、源経基らを副将軍に任命して京都から出征させた。 だが朝廷の追討軍が関東に到着する前に決着がつく。3月25日(天慶3年2月14日)、将門軍は猿島の北山で藤原秀郷・平貞盛の連合軍3000以上に攻撃される。当初、将門軍は風向きを上手く利用して矢戦を優位に展開したが、風向きが逆になったことで将門は馬を駆って陣頭で奮戦、流れ矢が額に命中し討ち取られた。将門の乱は3カ月で平定され、将門の首は平安京にて、日本史上初めて獄門=晒し首となった。 都大路で晒された将門の首は、3か月が経っても目を閉じず、鋭い眼光でこの世を睨み続けたという。別説では、晒し首となった3日目の夜、首が空に舞い上がり「私の胴体を返せ!もう一戦してやる!」と閃光を放ちながら故郷の東国へ飛び去ったと伝わる。首級は胴体を求めて飛び続けたが、やがて力尽き落下し、その場所が現在の東京のど真ん中、千代田区大手前の将門公首塚といい、その際に兜が落ちた場所が「兜町」と呼ばれている。 ※将門塚はかつて盛り土と石室のある古墳だった。伝承では付近の住民が長く将門の怨霊に苦しめられてきたため、1307年に時宗の名僧・他阿(たあ)真教上人が「蓮阿弥陀仏」の法名を将門に贈って首塚に板碑を建てたという。明治になると大蔵省の敷地に入った。関東大震災(1923)で大蔵省の庁舎が全焼したことから、2か月後に首塚を崩し付近の蓮池を埋め立て仮庁舎を建てた。直後は何も異変がなかったが、3年後に大蔵大臣・早速整爾が57歳で急逝、翌年に管財局技師で工事部長の矢橋賢吉も57歳で急逝した。大蔵省では死亡者が14人も相次ぎ、首塚を踏みつけるせいか足をケガするものが続出したことから、省内で祟りの噂がたつ。大蔵省は仮庁舎を取り壊して、1927年に祟りを鎮めるため首塚の将門鎮魂碑を建て直した。その際、鎮魂碑には他阿真教上人の直筆の石版(日輪寺所持)から「南無阿弥陀仏」が拓本された。その後、1940年に落雷による大手町官庁街の火災で大蔵省庁舎は再び焼失。戦後の1950年頃、GHQ(連合軍総司令部)が駐車場建設のために首塚を撤去・整地しようとした際、ブルドーザーを運転していた日本人が突然の事故で死亡し、地元の人の陳情で計画は取り止めになった。以来、首塚を動かそうと言い出す者はいなくなり、今日も東京駅と皇居に挟まれた高層ビル街の超一等地に将門公は眠っている。 同940年、藤原純友は2月に淡路国を襲って兵器を奪い、8月に讃岐国の国府(国の役所)を、10月に大宰府を焼打ちにし略奪を行った。また、周防、土佐も襲っている。朝廷は将門の乱を鎮圧した軍が5月に帰京すると純友追討を本格化させる。追捕使長官・小野好古(よしふる)、次官・源経基、主典・藤原慶幸、大蔵春実らを純友の制圧に差し向けた。 941年(18歳)5月、純友は再び大宰府を攻略しようとしたが博多湾の戦いで追討軍に撃退され、反乱軍の船団は壊滅させられた。純友は子・重太丸と本拠地の伊予へ逃れたが、翌日7月17日、伊予国警固使・橘遠保(とおやす)に捕縛され討たれた。将門の乱が3か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。ようやく東西が平定され、2つの乱は「承平・天慶(しょうへい・てんぎょう)の乱」と呼ばれた。これまでの皇位をめぐる戦いや貴族同士の権力闘争とは異なる、地方からの武力による中央への反乱は都の貴族を震撼させた。 戦争と天変地異で朱雀天皇は疲れ切ってしまい、子宝にも恵まれなかったことから(入内した女御はわずか2人)、母の言に従って946年に23歳で弟の成明親王(村上天皇)に譲位し上皇となったが、のちに譲位を後悔している。退位は将門の乱を恐れたことも一因だった。4年後に一人娘・昌子内親王(のちの冷泉天皇中宮)が生まれる。昌子内親王の御所には和泉式部が仕え、晩年には紫式部の伯父・藤原為頼が宮大進の職をつとめている。 952年に出家(法名は仏陀寿)、仁和寺に入り5カ月後に崩御した。28歳の若さだった。優しく穏やかな気質の帝であったという。諱は寛明(ゆたあきら)。 御陵は京都市伏見区醍醐御陵東裏町にある醍醐陵(だいごのみささぎ)。葬送後に火葬され、遺骨が父・醍醐天皇陵から南東約500mに納められた。円丘。古くは醍醐天皇陵が「上ノ御陵」、朱雀天皇陵が「下ノ御陵」と呼ばれていた。諡号は譲位後に母と住んだ後院の朱雀院にちなむ。 在位中は世俗混乱し、天災も多かった。武士台頭の下地がつくられた。歌集に「朱雀院御集」。 将門・純友の乱で、関東では平貞盛と藤原秀郷、西国では源経基らが活躍し、源氏と平氏が躍進するきっかけとなった。将門を討伐した平貞盛の6代後があの清盛(1118-1181)だ。海賊と戦った源経基は清和源氏(源義経、足利尊氏、明智光秀)の祖。新たな武士の時代の足音が少しずつ聞こえ始めてきた。 |
参道(画像左側)は妙光寺に隣接 |
ここからズンズン上がっていく |
石が綺麗に組み合わさった階段が続く。 丁寧な扱いを受けているのが分かる |
村上天皇像(永平寺蔵) | トトロとメイが初めて出会った時のような光景 | 陵墓前の見張所。ここはかなりズタボロだった |
「歴史的風土特別保存地区」 | コバルト・ブルーとグリーンの対比が鮮やか! | 山の上の御陵にハズレなし。常に素晴らしい |
平安時代中期の天皇。60代醍醐天皇の第十六皇子。母は藤原基経の娘。61代朱雀天皇の弟。在位は20歳から41歳までの21年間で、天慶9年4月28日(946年5月31日)-康保4年5月25日(967年7月5日)。 946年(20歳)、戦や天変地異が続き、兄の朱雀天皇が“もう疲れた”と譲位。即位から3年目の949年(23歳)に、関白・藤原忠平が他界すると、摂政も関白も置かずに天皇自らが政治を行なう親政「天暦(てんりゃく)の治」を開始する。当時、先帝の治世で起きた平将門・藤原純友による東西の「承平・天慶の乱」(935-940)は、朝廷が5年がかりで平定したものの、国庫は危機的状況に陥っていた。村上天皇は穀物価格の抑制や倹約をすすめて財政再建に成功する。 また、文芸を奨励し、歌壇の庇護者として951年(25歳)に2番目の勅撰集『後撰(ごせん)和歌集』全20巻の編纂を命じる。960年(34歳)には内裏歌合を催行。琴や琵琶も弾きこなすなど、平安文化を大いに開花させていった。 治世下で鋳造された貨幣“乾元大宝”は、律令国家として流通させた皇朝十二銭(奈良時代から平安時代にかけて日本で鋳造した12種の銭貨)の最後のものとなった。村上帝の崩御後、国家は貨幣を鋳造する力を失い、約600年後に豊臣秀吉が鋳造を再開するまで大陸から輸入した貨幣(宋銭)が主流となる。 967年、在位中に41歳で崩御。諱は成明(なりあきら)。円丘。村上帝の第七皇子、具平(ともひら)親王の子孫は「村上源氏」となり、のちに南朝を率いた北畠親房(ちかふさ)、幕末の岩倉具視などを輩出し、公家社会では村上源氏がステイタスとなっていく。村上陵は京都右京区の「歴史的風土特別保存地区」に位置し、山中の御陵ゆえ晴れた日に墓参すると気持ちいい。 ※「天暦の治」の親政中も、実権は摂関・藤原忠平の子である、左大臣藤原実頼・右大臣藤原師輔(もろすけ)兄弟にあったという。特に異母弟の師輔は学問に優れて人望があり親政を指導していた。 |
京の都の一番東端に眠る | もう山はすぐそこ | 喧騒から離れてホッと落ち着ける御陵だ |
なんと、こんな町外れに英国人の青年が!御陵で 外国人に会ったのはこれが初めてッス! |
御陵正面からの眺望。今まさに夕陽が沈むところ |
平安時代中期の天皇。冷泉は“れいぜい”と読む。村上天皇の第二皇子。母は名宰相・藤原師輔の娘、中宮安子。在位は17歳から19歳までの2年間で、康保4年10月11日(967年11月15日)-安和2年8月13日(969年9月27日)。 960年(10歳)、母方の祖父で摂関家の右大臣・藤原師輔が他界。967年(17歳)、父帝・村上天皇の崩御を受けて即位。第59代宇多天皇のもとで初代関白となった藤原基経の死後、第61代朱雀天皇の治世下に忠平(基経の子)が一時的に摂政となった時期を挟んで、60年間も摂関は置かれていなかったが、冷泉天皇は精神に病があるため、後見が必要となり関白職が復活した。関白には祖父の兄である左大臣・藤原実頼が就任した。 969年(19歳)、右大臣・藤原師尹(もろただ)など藤原一族が、源満仲(みつなか/清和源氏の祖)の密告(内容は不明)を利用し、高い人望のあった左大臣・源高明(たかあきら/醍醐天皇の皇子)や橘繁延(しげのぶ)らに「皇太子廃立の陰謀あり」として、左遷・流罪に処した“安和(あんな)の変”が起きる。藤原氏は政争に勝利し、以降、天皇の幼少期は摂政、成人後は関白を置くことが慣例となり、藤原氏は全盛期を迎える。 冷泉天皇の奇行は色々と記録されている。「父帝・村上天皇への手紙の返事に男性器を大きく描いた」「火事で避難する時に牛車の中で大声で歌っていた」「鞠(まり)を天井の梁(はり)に乗せたくて、足が傷ついても一日中蹴鞠を続けていた」「番小屋の屋根に座り込んでいた」「儀式の最中に突然冠を脱いで女官を…」云々。こういう事情もあり、即位式は人目の多い大極殿を避け紫宸殿で執り行われ、早く皇位を継承する必要があった。969年(19歳)、在位わずか3年で弟の円融天皇に譲位。 退位後は冷泉院上皇を名乗り、1011年に赤痢のため61歳で崩御した。諱は憲平(のりひら)。上皇の期間が42年というのは歴代2位(1位は65年の陽成上皇)。円融系を父方、冷泉系を母方にもつ冷泉天皇の曾孫・後三条天皇で血統が融合した。 |
御陵の右隣にある広大な敷地が造成中だった | なんとなく南国っぽい雰囲気 |
一般拝所の視点から | ズームで特別拝所の視点から | この角度は立体感があって好み |
京都市右京区龍安寺の裏山を登っていくと | 頂上に「円融天皇火葬塚」がある! | こんな山の上で葬儀をしたのか〜! |
平安時代中期の天皇。村上天皇の第五皇子。母は右大臣・藤原師輔(もろすけ)の娘、中宮安子(あんし)。在位は10歳から25歳までの15年間で、安和2年9月23日(969年11月5日)-永観2年8月27日(984年9月24日)。
964年、5歳で母・安子を亡くす。969年、兄の冷泉天皇が心の病を患っていたことから、10歳にして譲位を受け即位した。まだ若いため、藤原北家(ほっけ)の大伯父、太政大臣・藤原実頼が摂政となるが、翌970年に実頼は他界。摂政を引き継いだ師輔(実頼の弟)の長男・藤原伊尹(これまさ)も翌972年に他界する。 その後、師輔の次男・藤原兼通と三男・藤原兼家とが摂関職を巡って骨肉の争いを繰り広げた。最終的に母・安子の遺言により兄の兼通が関白に任じられる。兼通が病におかされると、対立していた弟の兼家に関白を譲らず、従兄弟の藤原頼忠(藤原実頼の次男)を後継とした。こうした人事に帝の意向は反映されず、朝廷は藤原氏の私物と化した。977年(18歳)、兼通他界。 984年(25歳)、藤原氏の内紛に翻弄され心労を重ねていた円融天皇は譲位し、花山天皇(先帝・冷泉天皇の第一皇子、16歳)が即位する。円融上皇は退位から7年後の991年に31歳で崩御。諱は守平(もりひら)。 |
深夜に出家した花山天皇(『花山寺の月』月岡芳年・画) | 住宅地の真ん中。周辺をグルグル回って見つけた |
民家の間の参道を抜けてゆく | 嵯峨野から山沿いに御陵が点在している | まばらにある松に風情があった |
平安時代中期の天皇。華山天皇とも。冷泉天皇の第一皇子。母は藤原伊尹(これまさ)の娘・懐子。在位は16歳から18歳までの2年間で、永観2年10月10日(984年11月5日)-寛和2年6月23日(986年7月31日)。 984年(16歳)、円融天皇の譲位を受けて即位。関白には先代に続いて藤原頼忠が就いたが、実権は藤原義懐(よしちか※花山帝の母の弟・藤原伊尹(これまさ)の子)と、乳母の子・藤原惟成(これなり)が握っていた。義懐は27歳、惟成は31歳。若手の2人は政治改革に燃え、物価統制令を出して貨幣流通の活性化を試み、荘園整理令を発布するなど、積極的に政務に取り組んだ。ところが、政敵として右大臣・藤原兼家(55歳)が立ちはだかる。また、関白・藤原頼忠も保守的な性格から革新的な政治を嫌った。義懐・惟成VS兼家VS頼忠の権力闘争は意外な形で決着する。 花山天皇は大納言・藤原為光の次女“しし”に惚れ込んだ。花山天皇は“しし”を宮中に入れるよう義懐に為光を説得させ成功する。即位から2年が経った986年、天皇は女御の“しし”を寵愛したが彼女は身籠もったまま病死してしまう。悲しみに打ちひしがれた若い天皇は、18歳にして「出家して残りの人生は“しし”の供養をしながら生きたい」と訴え始め、驚いた義懐&惟成は思い止まるよう説得した。一方、兼家は孫(一条天皇/円融天皇の皇子)に皇位を継がせるべく、出家させようと策略を練る。 6月の深夜、兼家の密命を帯びた三男・道兼(みちかね)は、「私も一緒に出家します」と嘘をついて巧みに花山天皇を宮中からへ連れ出し、その間に次男・道綱(母は『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母)が三種の神器を素早く一条天皇に届けた。これらがすべて終わってから義懐&惟成は花山天皇の失踪を知り、探し回った挙げ句に元慶寺(花山寺)で剃髪した天皇を発見し絶句する。そして自分たちが兼家との権力闘争に敗北したことを悟り、両人はその場で出家し政界から引退した。兼家はすぐに一条天皇を即位させ、天皇がまだ6歳であることを理由に念願の摂政となった(兼家は4年後に病没)。 996年(28歳)、花山法皇は仏門に入っているにもかかわらず、新たに藤原為光の四女(“しし”の妹)儼子(たけこ)を愛し、為光の屋敷に通い始めた。屋敷には内大臣・藤原伊周(これちか、兼家の長男道隆の子)が愛する三女もおり、伊周は「法皇は三女に会いに来た」と勘違いして嫉妬から矢を射掛け、その矢が衣の袖を貫通する事件が起きる。法皇は恥ずかしさから黙っていたが、噂が広がって伊周は太宰府へ流された。 花山法皇は退位から22年後の1008年まで生き、和歌や絵画に才能を発揮した。1006年前後に成立した三番目の勅撰和歌集『拾遺(しゅうい)和歌集』全20巻の撰者は花山法皇自身で、歌人・藤原公任(きんとう)の「拾遺抄」を増補してできたとみられる。古今和歌集、後撰和歌集に漏れた和歌を拾ったことから「拾遺」とされた。 また、法皇が観音巡礼を行なった寺は「西国三十三箇所巡礼」として現在まで受け継がれている。兵庫県三田市の東光山で隠遁生活を送った。享年39歳。諱は師貞(もろさだ)。方丘。紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)。 ※陰陽師・安倍晴明は自邸にいながら花山天皇の退位に気付き、晴明の式神(精霊)が元慶寺へ向かう花山天皇の姿を目撃したという。 ※1024年(他界16年後)、花山天皇の娘が深夜の路上で殺害され、野犬に食われる悲惨な事件が起きる。犯人はなんと「命令したのは(太宰府に)流刑された藤原伊周の子」と自白した。 ※皇太子時代の花山天皇に学問を教えていたのが紫式部の父・藤原為時。花山天皇の早期退位は、出世を期待していた為時を失望させ、紫式部の運命も変えた。 |
一条天皇像(真正極楽寺蔵) | 龍安寺の裏山に参道がある。さあ、頑張るぞい! | 山頂まで長い石段が続く |
木漏れ日の中を登っていくのは気持ちがいい | 10分弱で頭上が開けてきた。御陵までもうすぐ | チラッと鳥居が見えてきたーッ! |
到着!山の上だけど、白砂には綺麗な筋が入っていたに | ここから京の都を見渡している。絶景かな! |
陵墓の側道から前方をパチリ。1日中ここに居たい | 登ってきた甲斐があった。夜景も最高なんだろうなぁ | 同じ御陵に第73代堀河天皇も眠っている |
一条天皇いわく「我、人を得たること、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)にも越えたり」(私は素晴らしい家臣に恵まれ、延喜=醍醐天皇の代、天暦=村上天皇の代に勝る治世を行った)。平安時代中期の天皇。容姿端麗、学問を好み芸術家肌であり、治世下では王朝文化、平安女流文学が花開いた。円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、詮子(せんし)。諱は懐仁(やすひと)。在位は6歳から31歳までの25年間で、寛和2年6月23日(986年7月31日)-寛弘8年6月13日(1011年7月16日)。 980年に生まれる。ちなみにこの年、清少納言は14歳、紫式部は7歳、和泉式部は2歳。 986年、右大臣藤原兼家は三男・道兼(みちかね)を使って策略により花山天皇を宮中から抜け出させ、そのまま出家・退位させた。そして兼家は娘が生んだわずか6歳の懐仁親王を一条天皇として即位させ、自身は摂政に収まった。以後、摂関は兼家の子孫が独占していく。ちなみに、兼家の妻の一人が『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母だ。 4年後の990年(10歳)に兼家は長男・藤原道隆(953-995)に関白を譲って死去。道隆は次いで一条天皇の摂政となった。同年、道隆は長女の定子(ていし、13歳/977-1001)を一条天皇の女御(にょうご)として入内させ、10月に中宮とした。この定子は『枕草子』の中で、清少納言から聡明かつ優しい女性として称えられている。 993年(13歳)、道隆は再び関白に就任。道隆は愛娘の中宮定子(16歳)の家庭教師を探し、歌人を父に持ち和歌や漢詩に詳しい清少納言(当時27歳/966-1025)に「宮中で教養係をして欲しい」と依頼する。3年前に父と死別し、武骨な夫と離婚して間もない清少納言にとって、夢のような宮廷生活が突然始まった。後宮には30名ほど高い教養の女房(侍女)がいたが、清少納言の機知に富む歌の贈答に誰もが感心し、詩歌を愛する定子から人一倍寵遇された。当時、漢文は男が学ぶものであり、漢詩に詳しい女性は男達から「生意気だ」と言われたが、清少納言は子どもの頃から父にみっちり教え込まれており、定子はそんな彼女を貴重な存在に思った。清少納言は漢文の知識で天狗になっている男達をやり込め、名声はどんどん高まった。 995年(15歳)、正月に道隆が次女・原子を皇太子の居貞(おきさだ)親王(のちの三条天皇)の妃とする。5月に道隆が大酒(糖尿病)により42歳で死去。ライバルだった弟の道兼(兼家三男)が関白を継ぐが、在任たった11日で伝染病により34歳で他界(世に言う“七日関白”)。その後、一条帝は摂政・関白を置かなかった。政権での権力争いは、“あの”藤原道長(兼家五男/966-1028)と、道隆の長男・伊周(これちか)が競い合う。一条天皇は定子を寵愛しており、彼女の兄伊周の重用を望んでいた。だが、天皇の母詮子(道長の姉)が道長の起用を迫り、道長が天皇の秘書的存在となる“内覧”に決まった(内覧は天皇より先に宮中の文書を閲覧できる権力を持つ)。故・道隆に取り立てられ後宮の花形だった清少納言の運命は2年で暗転し始める。 996年(16歳)、伊周と弟・隆家らが女性問題の誤解から先帝の花山法皇に矢を射掛ける事件(長徳の変)を起こす。伊周・隆家は定子の兄と弟であり、2人は定子の目の前で検非違使に捕らえられた。兄弟が流刑になり、ショックを受けた定子は出家してしまう。同年、定子は娘を出産。宮廷では、こともあろうに「清少納言は道長方のスパイ」という酷い噂が流れ、清少納言は自ら宮廷を出て家に閉じこもってしまう。同年、道長は左大臣に転任。 997年(17歳)、どうしても定子が忘れられない一条天皇は彼女を説得し、仏門からもう一度宮中へ再入内させた。出家した身の定子には中宮職(神事)が行えず、世間はひややかな目を向ける。定子は母の他界や屋敷の焼失など不幸な出来事が続いていた。以前であれば陽気で勝気な清少納言が、明るく振舞って励ましてくれた。定子は清少納言に早く宮廷に戻って欲しくて、以前に清少納言が「気が滅入った時は上等な紙や敷物を見ると気が晴れる」と言っていたことから、当時は貴重品だった20枚の紙と敷物を贈った。清少納言はこの時の喜びを「神(紙)のおかげで千年生きる鶴になってしまいそう」と記している。彼女は何度か定子から紙を贈られており、これらに宮廷生活の様子を生き生きと描き込み、詩情豊かに自然や四季を綴った。それが随筆『枕草子』となった。清少納言は定子の気持ちに応える形で宮廷に戻った。 ※『枕草子』…約320段の章で構成。『源氏物語』を貫く精神が“もののあはれ”(情感)の「静」とすれば、『枕草子』には“をかし”(興味深い)という「動」の好奇心が満ちている。作中には実に400回以上も“をかし”が登場する。この気持ちこそが、鋭い感受性で鮮烈に平安朝を描き出した清少納言の原動力だ。 999年(19歳)、道長は長女の彰子(しょうし、11歳/988-1074)を入内させたが、同年に定子が第一皇子・敦康親王を産んだ。 1000年(20歳)、宮中に波乱が起きる。道長は故・道隆の娘定子が先に皇子を産んだことに焦り、彰子を強引に中宮とし、既に中宮となっていた定子を“皇后宮”とし、両者を共に皇后扱いにする史上初の「一帝二后」体制を敷いた。道長は定子が一度出家して中宮職を行えないことを引き合いに出した。天皇が2人の妻を持つ事態になった。この年12月、2人目の娘を出産した定子は難産で衰弱し、24歳の若さで他界する。 遺詠は「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」(一晩中契りを交わしたことを私の死後も忘れずにいて下さるならば、私を恋しがって流す涙が何色か知りたいです)で、のちに『後拾遺和歌集』(1086年成立)に収められた。大切な定子を失い一条天皇は嘆き悲しんだ。 清少納言は聡明で歌の知識も豊富な定子のことを心底から敬慕していたので、この悲劇に打ちのめされた。そして、哀しみを胸に宮廷を去り、摂津守・藤原棟世と再婚し娘をもうけた。 1001年(21歳)、清少納言は非公開のつもりで『枕草子』を綴ったが、家を訪れた左中将・源経房が初稿を読んで「これは面白い!」と絶賛、そのまま持ち出し世間に広めてしまう。驚くほど好評だったので、彼女はその博識を総動員し、宮仕えをした7年の間に興味を持った全てのものを刻んだ。10年近く加筆を続けて筆を置き、晩年は尼となった。 −−−−−−−−−−−−−−−−− 【枕草子10選】 『枕草子』を読む度に“これが千年前に書かれたとは思えない”と感嘆する。心の動きが現代の僕らと何も変わらないからだ。描かれたのは、冗談を言い合い、四季の景色を愛で、恋話に花を咲かせる女たち。そこには教え子の定子を襲った悲劇(父母の死、兄弟の流刑、家の焼失、そして24歳の死)は一言も書かれていない。定子と過ごした宮中は常に明るい光に包まれており、『枕草子』そのものが彼女への鎮魂歌となっている。 ・第2段 小五月-高貴な方も無礼講…1月15日は身分の上下を問わず、女性同士が薪(たきぎ)でお尻を叩く風習がある(安産の祈り)。宮中では侍女たちが薪を隠し持ち、相手の隙を狙う者、常に背後を警戒している者、なぜか男を叩いている者、叩かれて“してやられた”と言う者もいれば、呪いの言葉で悪態をつく者もいて楽しい。 ・第25段 憎きもの…局(つぼね、私室)にこっそり忍んで来る恋人を見つけて吠える犬。皆が寝静まるまで隠した男がイビキをかいていること。また、大袈裟な長い烏帽子(えぼし)で忍び込み、慌てているので何かに突き当たりゴトッと音を立てること。簾(すだれ)をくぐるときに不注意で頭が当たって音を立てるのも、無神経さが憎らしい。戸を開ける時も少し持ち上げれば音などしないのに。ヘタをすれば軽い障子でさえガタガタ鳴らす男もいて、話にならない ・第26段 胸がときめくもの…髪を洗い、お化粧をして、お香をよくたき込んで染み込ませた着物を着たときは、別に見てくれる人がいなくても、心の中は晴れやかな気持がして素敵だ。男を待っている夜は、雨音や風で戸が音を立てる度に、ハッと心がときめく。 ・第27段 過ぎ去りし昔が恋しいもの…もらった時に心に沁みた手紙を、雨の日などで何もすることがない日に探し出した時。 ・第60段 暁に帰らむ人は…明け方に女の所から帰ろうとする男は、別れ方こそ風流であるべきだ。甘い恋の話をしながら、名残惜しさを振り切るようにそっと出て行くのを女が見送る。これが美学。ところが、何かを思い出したように飛び起きてバタバタと袴をはき、腰紐をごそごそ締め、昨晩枕元に置いたはずの扇を「どこだどこだ」と手探りで叩き回り、「じゃあ帰るよ」とだけ言うような男もいる。最低。 ・第93段 呆然とするもの…お気に入りのかんざしをこすって磨くうちに、物にぶつかって折ってしまった時の気持ち。横転した牛車を見た時。あんなに大きなものがひっくり返るなんて夢を見てるのかと思った。 ・第95段 ホトトギスの声を求めて…お供の者たちと卯の花を牛車のあちこちに挿して大笑い。「ここが足りない」「まだ挿せる」と挿す場所がないほどなので、牛にひかせた姿は、まるで垣根がそのまま動いているようだ。誰かに見せたくなり、ホトトギスの声を聞くフリをして町をひかせると、こういう面白い時に限って誰ともすれ違わない。御所の側まで来てついに知人に見てもらった。すると相手が大笑いしながら「正気の人が乗っているとは思えませんよ!ちょっと降りて見て御覧なさい」。知人のお供も「歌でも詠みましょう」と楽しそう。満足した。 ・第135段 退屈を紛らわすもの…碁、すごろく、物語。3、4歳の子どもが可愛らしく喋ったり、大人に必死で物語を話そうとして、途中で「間違えちゃった」と言うもの。 ・第147段 人前で図に乗るもの…親が甘え癖をつけてしまった子。隣の局の子は4、5歳の悪戯盛りで、物を散らかしては壊す。親子で遊びに来て、「あれ見ていい?ね、ね、お母さん」。大人が話しに夢中だと、部屋の物を勝手に出してくる。親も親でそれを取り上げようともせず、「そんなことしちゃだめよ、こわさないでね」とニッコリ笑っているので実に憎たらしい。 ・第218段 水晶のかけら散る…『月のいとあかきに、川をわたれば、牛のあゆむままに、水晶などのわれたるやうに水のちりたるこそをかしけれ』“月がこうこうと明るい夜、牛車で川を渡ると、牛の歩みと共に水晶が砕けたように水しぶきが散るのは、本当に心が奪われてしまう”。 −−−−−−−−−−−−−−−−− 同1001年、紫式部(当時28歳/973-1014※清少納言の7歳年下)の夫・藤原宣孝(のぶたか)が天然痘にかかり、式部と2歳の子を残し他界する。宣孝は清少納言が『枕草子』の中で時の人として話題にあげるほど歌舞や和歌に秀でた教養人で、式部の文才、学識を高く評価してくれていた。夫を失った寂しさの中で、悲しい気持を紛らすために式部が始めたこと、それは小説『源氏物語』を書くことだった。家の中には夫が集めてきた多数の書物と父の蔵書があり、資料文献は充実していた(式部の父・藤原為時は優れた漢学者。彼女は子どもの頃から漢詩や和歌を父から学んだ)。世界最古の長編小説『源氏物語』は最終的に全54帖(じょう・巻)になるが、1帖ごと、もしくは数帖ごとに、執筆と並行して発表された。その為、読者は先が読みたくてたまらなくなり、宮中では先の展開を予測するなど大評判になる。 1002年、第63代(3代前)冷泉天皇の第三皇子・為尊(ためたか)親王(次帝三条天皇の弟)が25歳という若さで病死する。為尊親王は才色兼備の人妻・和泉式部(24歳頃/978-)にベタ惚れし、式部は夫との間に娘をもうけていたにも拘らず、離婚してまでこの愛を受け入れた。不義理と身分違いの恋を理由に親から勘当され、世間からも後ろ指を差される様になった。それほどまでに全身全霊を注ぎ込んだ恋であったが、わずか1年余りで死別することになった。 1003年、為尊親王の一周忌の頃、悲嘆に暮れる彼女に熱い想いを打ち明けたのは、なんと為尊親王の弟・敦道親王だった。式部の心は燃え上がり2人の仲は急速に進む。あまりの寵愛ぶりに弟君の正妃は腹を立て親王のもとを去った。この熱愛の経過を10ヶ月にわたって綴ったものが『和泉式部日記』だ。だが、この恋も5年で終わってしまう。弟君も26歳という若さで病に倒れたのだ。すべてをかけて愛した相手と2度も死別した和泉式部。その極度の絶望と悲しみの叫びは『和泉式部集』に追悼の歌として百首以上も刻み込まれている。 【和泉式部の歌】 「くろかみのみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき」(黒髪が乱れるままに私がうち伏していると、そばに来て優しく髪をかき撫でて下さった貴方が恋しい) 「おもひきやありて忘れぬおのが身をきみがかたみになさむ物とは」(思ってもみなかった、私自身の身体があなたの形見になるなんて) 「なく虫のひとつ声にも聞こえぬは心々に物やかなしき」(鳴く虫の声がひとつも同じに聞こえないのは、それぞれの心に違う悲しみを持っているからなのでしょう) 1005年(25歳)、『源氏物語』の好評がついに左大臣・道長の耳にまで達し、道長もこれまた文才に感服。そして彰子の家庭教師を式部(32歳)に依頼した。式部いわく「(彰子は)肌が透き通るように美しく、髪もふさふさとして見事」。宮廷の深部に足を踏み入れた式部は、新しく積んだ実体験をリアルに作品に練り込み、新帖ごとに彼女の名声は高くなった。一方で、人気が出ればそれをねたむ者も現れてくる。当時の多くの女性には読みこなせなかった漢文を苦もなく読みこなす式部は、揶揄の意味を込めて「日本紀の局」(漢文の日本紀ばかり読んでいる女)とあだ名され、式部は傷ついた。 ※文学を愛好する道長は宮中で漢詩の優劣を競う作文会(さくもんえ)に出席し、自邸でも作文会や歌合を催していた。式部が超大作を書きあげることができた背景には、道長が式部の局にやってきて「続きはまだですか」と原稿の催促をしていたこともある。 1008年(28歳)、彰子(20歳)は入内から9年目に、父・道長が待望していた男子、第二皇子・敦成(あつひら)親王(後一条天皇)を授かる。道長は「これで将来は安泰」と歓喜する。彰子は一条天皇が定子のことを想い続けていることを知っており、その気持ちを尊重して、定子の子・敦康親王も深い愛情を込めて大切に育てた。 同年、7年がかりでついに『源氏物語』全54帖が完結。式部は敦成親王の誕生御祝いとして作品を献上した。そして出産50日目の祝いの席で、それまで“藤式部(とうのしきぶ)”を名乗っていた彼女は、『源氏物語』のヒロイン「紫の上」にちなんだ“紫”の名で呼ばれるようになる。 ※『源氏物語』が刊行当初から熱烈な人気を持っていたことは、同じ平安期に『更級日記』を書いた菅原孝標女(たかすえのむすめ)が、源氏物語全巻を手に入れて、「后の位も何にかはせむ」(お后さまの位につくよりも幸せ)と歓喜したことからも分かる。天皇の妻より源氏物語全巻の方が良いと言うのだからよっぽどだ。式部は500名にも及ぶ膨大な数の登場人物を動かして、帝位4代、70余年の人間の営みを見事に描きあげた。宮廷貴族の優雅な生活を描写するだけではなく、自分が犯した過ちを子が再び犯してしまうなど、人間が背負った業や宿命、因果応報にもがき苦しむ魂を描き込み、それらは巻数が進むに連れてどんどん深化していった(1964年、式部はユネスコが選ぶ『世界の偉人』に日本人で唯一選ばれた)。 式部はこの年から2年間、内面を赤裸々に語った『紫式部日記』を書き始めた。そこには華やかな宮廷生活を異邦人のように冷めて見つめ、虚栄に満ちた世界の中で孤独感を募らせていく心情が綴られている。かと思えば、同時代のライバルへの対抗意識も正直に記されており、「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかり賢しだち漢字書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと耐えぬこと多かり」(清少納言は利口そうな顔をして、ちょっと賢いからといって漢学を書き散らしているけれど、文章をよく見ると上手とは言えない)、「和泉はけしからぬかたこそあれ」(和泉式部の人間性はいただけないものだ)などと、かなり辛らつだ。また、式部と道長の間には特別な関係があったことが日記でほのめかされており、鎌倉期に刊行された『尊卑分脉』には紫式部の注記に「道長妾」と書かれている。ただ、この5年後(1013年)、経緯は不明だが式部が反・道長勢力の藤原実資と親交を持ち、これが道長に咎められ宮仕えをやめている。翌年、式部は41歳で他界した。 1009年(29歳)、前年に続いて彰子が敦良(あつなが)親王(後朱雀天皇)を出産する。この頃、和泉式部が彰子に女房(女官)として出仕。 1011年(31歳)、病に伏した一条天皇は皇位を居貞親王(三条天皇、道長の姉の子)に譲位。皇太子には定子の形見である第一皇子・敦康親王を立てたかったが、道長の圧力を受けて彰子の子、第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を立てた。この9日後に崩御。享年31歳。諱は懐仁(やすひと)。一条天皇を愛する彰子は、その本意を汲み取り、皇太子は我が子ではなく定子の子にすべきと思い、強引な父を恨んだという。 1013年、道長四天王の1人で勇将かつ歌人でもあった藤原保昌(やすまさ)は、道長の薦めもあって和泉式部と再婚し、後に夫婦で任国・丹後に下った。 1016年、彰子の子である後一条天皇が即位し、道長はかねてから狙っていた摂政の地位を手に入れた。その後、彰子は当時としては86歳という非常な長寿を生き、1074年、曾孫・白河天皇の代に没した。 一条天皇は温厚な性格で、詩文や笛を愛して文芸に造詣が深く、人々から慕われた。後宮の女性たちは、遊びに来た帝に少しでも長く滞在してもらえるよう教養を高め、文学サロンが花開いた。皇后宮・定子には清少納言が、中宮・彰子には紫式部が家庭教師として仕えたが、清少納言が宮廷を去って5年後に式部が起用されていることから、2人に面識はなかったと思われる。同時期であればライバルとして切磋琢磨し、新たな化学変化が起きていたかもしれない。 一条天皇の陵墓は京都市右京区の龍安寺裏山にある円融寺北陵(えんゆうじのきたのみささぎ)に治定されている。円丘。没後、藤原道長が葬儀を執り仕切り一条天皇を火葬にしたが、葬儀がすべて終わってから「しまった!一条天皇は父・円融院の隣に土葬されることを望んでいたのを今思い出した!うっかり火葬にしてしまった」と言ったとか。おい道長ぁあああ。御骨は9年後に円融寺の北の円融帝の火葬所の傍らに納められた。第73代堀河天皇と同域。龍安寺の裏山。 ※一条天皇の代に道長が関白に就かなかったのは、摂政・関白は閣議に出られない決まりがあったため。内覧として政務の実権を握ろうとした。 ※鎌倉初期の歴史書『愚管抄』に、一条天皇崩御後、道長・彰子は遺品整理中に一通の手紙を発見し、「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」とあり、これを「王が正しい政(まつりごと)を欲するのに、道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長は、立腹して文を焼き捨てたと記す。 ※一条帝は大の猫好きで、愛猫に身分の高い婦人の敬称「命婦(みょうぶ)のおとど」と名付けて五位の位階を与えていた。この猫に吠えた犬を打ち据えて島流しにせよと命じている。 |
鳥辺野陵(とりべののみささぎ)に続く石段。 京都東山・泉涌寺の北側にある |
こじんまりとした可愛い御陵。御陵のデザインはどれも似ているけれど、 なぜか彼女の御陵が一番落ち着いた。不思議な温かみがある |
平安中期の第66代・一条天皇の皇后。清少納言が仕えた女性で、『枕草子』の中では、美人で明るく、高い教養と思いやりの心を持つ人物として何度も登場する。父は藤原道隆(道長の兄)、母は高階成忠の娘。990年(13歳)、一条天皇の女御(にょうご)となり、ついで中宮となった。995年(18歳)に父が他界し、兄と弟が“長徳の変”で花山法皇に矢を向ける事件が起き、彼女は出家する。
一条天皇の強い希望で再度宮中に入ったが、1000年(23歳)、叔父・藤原道長の長女彰子(しょうし)が中宮となり、定子は皇后となる(一帝二后)。同年12月、出産が原因で早逝した。遺詠は「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」。
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藤原道長の長女で、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。関白太政大臣の頼通と教通は弟。後一条天皇(第68代)と後朱雀天皇(第69代)の生母。紫式部や和泉式部が女房として仕え、彰子の周辺は才人の集まる文芸サロンとなった。 999年(11歳)、従兄の一条天皇に入内。同年、(清少納言が仕える)中宮定子が第一皇子・敦康親王を出産する。1000年(12歳)、定子が皇后宮に、彰子が中宮となった。同年暮れに、定子は難産の果てに崩御。1008年(20歳)、入内から9年目に、父・道長が待望していた男子、第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産。翌年には敦良親王(後朱雀天皇)を産んだ。彰子は夫の一条天皇が定子のことを想い続けていることを知っており、その気持ちを尊重して、定子の子・敦康親王も大切に育てた。1011年(23歳)、一条天皇が崩御。彰子は敦康親王を後継者にさせない父・道長を恨んだ。 1016年(28歳)、彰子の子である後一条天皇が即位し、道長はかねてから狙っていた摂政の地位を手に入れた。1026年(38歳)、仏門に入り清浄覚を称する。1036年(48歳)、後一条天皇に先立たれ、1045年(57歳)には後朱雀天皇にも先立たれた。当時としては86歳という非常な長寿で、1074年、曾孫・白河天皇の代に没した。大谷本院で火葬後、大谷宇治陵34号墓 に葬られた。 |
ぐああ!レンタサイクルで巡礼していたんだけど、道に 迷っている間に日が暮れてしまった!この見張所の 建物が偶然目に飛び込み、奇跡的に陵墓を発見できた! |
荘厳な御陵があるはず…心の眼で見るんだ…! 山の麓にあり、周囲がめっさ暗い。闇の中を 巡礼するのはもちろん初めて。うーん、マイッタ! |
写真には写らなかったけど、もっと奥にも樹木が整然と 並んでいる。美しい御陵だったので、また今度、昼間に 来なくちゃ!※場所的には金閣寺のすぐ近くデス |
平安時代後期の天皇。先々帝・冷泉天皇の第2皇子。母は藤原道長の姉超子(ちょうし/とおこ)。花山天皇は異母兄にあたる。在位は35歳から40歳までの5年間で、寛弘8年6月13日(1011年7月16日)-長和5年1月29日(1016年3月10日)。 1010年(34歳)、左大臣・道長の次女妍子(けんし)が入内。その翌年、四半世紀もの長い皇太子時代を経て、1011年(35歳)に病に伏した一条天皇の譲位を受けて即位した。道長は帝の即位と共に“内覧”(政府が出す全ての文書を事前に見ることができる)の職に就任。 三条天皇は新政を行おうとするが、権力強化を目指す道長と対立。道長は三条天皇の眼病を口実に譲位を迫り、これに抵抗しきれず5年で退位。翌1017年に病没した。 三条帝は譲位の条件として第一皇子の敦明(あつあきら)親王を皇太子にすることを道長に認めさせていたが、敦明親王は妍子の子ではなかったため、道長は敦明親王に圧力(嫌がらせ)を掛けて皇太子になることを辞退させ、道長の娘・彰子が生んだ後一条天皇を、三条天皇崩御の翌年に即位させている。諱は居貞(おきさだ)。円丘。第三皇女の禎子内親王(陽明門院)は後に後朱雀天皇の皇后となり、後三条天皇を生んでいる。 譲位の際に詠んだ次の歌が百人一首に採用されている。 「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな/三条院」(心ならずこの辛い世の中を生きながらえていたら、きっと恋しく思い出されるだろう、この夜更けの美しい月が)。 |
短い階段だけど視界が広がる高揚感がある | 後冷泉天皇皇后章子内親王と共に眠っている |
平安時代後期の天皇。先々帝・一条天皇の第二皇子。母は左大臣・藤原道長の長女彰子(しょうし/あきこ)。在位は8歳から28歳までの20年間で、長和5年2月7日(1016年3月24日)-長元9年4月17日(1036年5月15日)。 敦成(あつひろ)親王(後一条天皇)は道長にとって待望の外孫男児であり、生まれたときに道長が大喜びしたことを紫式部が日記に残している。1016年、道長は三条天皇の眼病を口実に譲位を迫り、まだ8歳の敦成親王を即位させ、道長が摂政となり実権を握った。翌年、道長は摂政を子の頼道に譲り、自身は太政大臣となって君臨した。 ※1008年、土御門殿で催された敦成親王(後一条天皇)の誕生祝いの宴で、歌人・藤原公任(きんとう/966-1041)が酒に酔って紫式部に「この辺りに若紫(※光源氏の幼妻)は居られませんか」と声をかけたという。式部は“光源氏似の人も居ないのに、どうして紫の上が居るものかしら”と思って聞き流したと『紫式部日記』に綴っている。 1018年(10歳)、道長は自分の四女・威子(いし/18歳)を後一条天皇の中宮にさせた。これによって、道長は皇后(威子)・皇太后(三条天皇皇后・妍子)・太皇太后(一条天皇皇后・彰子)の三后をすべて自分の娘にするという空前絶後の快挙を成し遂げた。娘3人を天皇3人の后にすることに成功した道長は、威子の立后の日に臣下を自邸に集めて祝宴を開き、そこで栄華の絶頂をこう詠んだ。「この世をば わ が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思へば」(この世は自分のためにある。だから満月が欠けることもない)。 その10年後の1028年(20歳)、道長死去。この時代、天皇は30人以上も妃や後宮を持つことがあったが、他の貴族は道長に遠慮して娘を入内させなかったため、道長の死後も後一条天皇は一夫一婦の生活を送った。女児をもうけたものの男子に恵まれず、当時の貴族に蔓延していた糖尿病によって若干27歳で崩御。 突然の崩御で譲位の儀式が間に合わず、喪を秘して弟の敦良親王(後朱雀天皇)へ譲位の儀を行った。これは、在位中に天皇が崩御した場合に喪を秘して譲位の儀を行い、その後に上皇としての葬儀が行われるようになった先駆となった。 諱は敦成(あつひら)。円丘。菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)。 この時代は火葬された場所も聖地として祀られたことから、火葬所に盛り土をして塚を造り「火葬塚」とした。後一条天皇の遺骨は寺で供養された後、火葬塚に建てられた「菩提樹院」の床下に骨壺が納められた。これまで御陵の側に寺院=陵寺が建つことはあったが、後一条天皇は天皇陵が完全に寺院と一体化した「堂塔式陵墓」の第一号となった。ただし、菩提樹院の建物は残っていない。 |
龍安寺にて。さすがは世界遺産の寺、美しい! | 日本人よりも圧倒的に外国人が多いでござる! | 御陵は龍安寺の裏山 |
「後朱雀天皇円乗寺陵」 |
手前から後朱雀天皇、後冷泉天皇、後三条天皇。 三帝が並んでいる様はなんとも豪華だ |
後朱雀天皇は右端。そして道を挟んで さらに右に、後朱雀天皇皇后の陵墓がある |
こちらが皇后・禎子(ていし)内親王の陵墓 | 後朱雀天皇からこんな感じに見えている |
平安時代後期の天皇。先々々帝・一条天皇の第三皇子。母は左大臣・藤原道長の長女彰子、つまり道長は祖父。在位は27歳から35歳までの8年間で、長元9年4月17日(1036年5月15日)-寛徳2年1月16日(1045年2月5日)。諱は敦良(あつなが)。 1017年(8歳)、後一条天皇の第一皇子・敦明(あつあきら)親王(※彰子の子ではない)が道長の圧力で皇太子を辞退したため、敦良親王が祖父の道長に推されて皇太子に抜擢される。 1021年(12歳)、道長の六女・嬉子(14歳)が皇太子妃として入内。1025年(16歳)、第一皇子(後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は出産の2日後に急逝する。 1027年(18歳)、敦良親王は、祖父・道長と父・三条天皇の血を継ぐ禎子(ていし)内親王(三条天皇の第三皇女)を迎え、第二皇子(後三条天皇)などをもうける。1028年(19歳)、道長が死去し、子の関白・頼通が朝廷を牛耳った。 1036年(27歳)、兄の後一条が崩御したことを受け、後朱雀天皇として即位する。9年弱ほど皇位に就き、1045年、肩の悪性腫瘍(疱瘡とも)が悪化し、子の後冷泉天皇に譲位。同時に、後朱雀天皇は頼道の意向に反して藤原氏を外戚としない第2皇子・尊仁(たかひと)親王(禎子内親王の子)を皇太弟とし、その2日後に崩御した。享年35歳。円丘。 ※御陵の参拝だけなら、龍安寺の拝観券を買う必要はありません。 |
龍安寺の裏山。この斜面の上に、後朱雀天皇、後冷泉天皇、後三条天皇の陵墓が並んでいる | 後冷泉天皇の正面。段差があってよく見えない… |
…と思っていたら、一般拝所の端に竹垣があり、特に鍵などもなく自由に出入りできた! | おかげで特別拝所の手前まで行けた! |
平安時代後期の天皇。“ごれいぜい”と読む。先帝・後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長の六女・嬉子(きし)。在位は20歳から43歳までの23年間で、1045年-1068年。 誕生の2日後に母が急逝し、紫式部の娘・大弐三位が乳母となった。1045年、父の後朱雀天皇(35歳)が崩御し、後冷泉天皇が20歳で即位。その際、父帝の意向で後冷泉の異母弟・尊仁親王(後三条天皇)が立太子された。1046年(21歳)、既に入内していた章子(しょうし)内親王が中宮となる(伯父・後一条天皇の第一皇女)。 後冷泉天皇に皇子が生まれないと、次期天皇が摂関家と無関係の人物になってしまうため、関白・藤原頼通(道長の長男/992-1074)は娘寛子を、教通(頼通の弟)は娘歓子を後冷泉天皇に入れた。 1051年(26歳)、寛子が皇后となる。普通は既に中宮だった章子が皇后、寛子が中宮となるが、章子は中宮のまま変わらず、寛子がいきなり皇后となった。これは“皇后になると気軽に宮中に入れない”と懸念した(そういう先例があった)章子の希望によるもの。 同年、東北地方で現地の有力者・阿部頼良(のち頼時に改名)が反乱を起こし、陸奥国守軍が大敗する“前九年の役”が勃発する。新たに陸奥国守となった武人の源頼義は子の義家と共に、(11年後の)1062年に阿部氏を平定し、東国における源氏繁栄の土台を築いた。この130年後の1192年に源氏の頼朝が鎌倉幕府を開いて朝廷から権力を奪ったことを考えると、“前九年の役”は後冷泉天皇が関わってなくても皇室史の最重要事件のひとつといえる。 1052年(27歳)、末法思想が広まり、関白頼道は亡き父・藤原道長の宇治の別荘「宇治殿」を寺院に改め「平等院阿弥陀堂」を建立する。 1068年、病床にて新関白・藤原教通(頼通の弟)の三女・藤原歓子を皇后に迎える。その際、入内順に皇太后・章子、皇后・歓子、中宮・寛子とされた。歴代天皇の中で、同時期に三后(3人の正妻)が並立したのは後冷泉天皇だけ。先帝の後朱雀天皇皇后・禎子(ていし)内親王は皇太后から太皇太后となった。この2日後、後冷泉天皇は後継が生まれぬまま崩御。享年42歳。 後冷泉天皇は皇位に23年あったが政務を顧みず、蹴鞠や歌合など遊興に耽っていたという。次帝は藤原氏を外戚としない異母弟の後三条天皇が即位することとなり、藤原氏の最盛期は終わりを告げていく。諱は親仁(ちかひと)。円丘。 ※後世の鳥羽天皇、二条天皇、後堀河天皇にも中宮・皇后となった后妃が3名いたが時期はバラバラ。“同時期”の三后並立は後冷泉天皇のみ。 |
山の上に見えるけど手前まで行ける(後冷泉天皇を参照) | 左から後三条天皇、後冷泉天皇、後朱雀天皇。壮観! | 「後三条天皇円宗寺陵」 |
平安時代後期の天皇。先々帝・後朱雀天皇の第2皇子。名は尊仁(たかひと)。母は4代前の帝、第67代三条天皇の第3皇女・禎子(ていし)内親王で藤原摂関家と直接関係がない。1045年、11歳で異母兄・後冷泉天皇が即位し、あわせて皇太弟(皇位を継ぐ弟)となる。尊仁親王(後三条天皇)は母が藤原氏の出でなかったため、関白・藤原頼道は尊仁親王の皇位継承を嫌がり、皇太子が代々継承する秘宝の剣を渡さないなど嫌がらせを続け、尊仁親王は23年間も皇太弟に留まった。 1068年、後冷泉天皇が子宝に恵まれないまま崩御したため、尊仁親王が後三条天皇として即位し、897年に崩御した第59代宇多天皇以来、「171年ぶり」の藤原氏を外戚としない天皇が誕生した。在位は34歳から38歳までの4年間で、治暦4年4月19日(1068年5月22日)-延久4年12月8日(1073年1月18日)。この新体制では、頼道の弟・教通(のりみち)が新関白となった。 後三条天皇は学問に打ち込み、高潔な人柄で、人々の尊敬を集めていたという。後三条天皇は摂関家にはばかる必要がないため、関白教通を抑えて天皇親政を推進。政治改革に乗り出し、成功(じょうごう、売官)、ワイロを禁じた。また、天才として知られる学者・文人の大江匡房(おおえのまさふさ)、優れた歌人で村上源氏の始祖となった源師房(もろふさ)らを登用して政治の刷新に務めた。 ※源師房は祖父が村上天皇。源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)がある。ただし武家として最も有名なのは清和源氏で源頼朝のほか武田・足利・新田を輩出。 さらに、摂関家の経済的基盤を崩すため、即位翌年(1069年)に荘園整理令を出して新たな荘園を禁じ、それまで国司に委任していた荘園整理を朝廷が独自に調査する為の記録所(記録荘園券契所)を設置。この荘園整理による摂関家の打撃は大きく、没収された荘園の多くは皇室領となった。また、公定枡(ます)も制定し秤量における不均衡を是正した。中世における土地の基本台帳となった大田文(おおたぶみ)も作成され、これらの新政策は院政に継承され、中世的な国家体制への出発点ともなった。天皇と摂関家の関係は、後三条天皇の登場を境に逆転していった。 このように藤原摂関家を相手に奮戦した後三条天皇だったが、病により在位4年8カ月で第1皇子の白河天皇に譲位し、皇太子に第2皇子皇子の実仁(さねひと)親王をたて、半年後に崩御した。諱は尊仁(たかひと)。享年38。円丘。藤原摂関家は衰退し、院政の時代へと移っていく。遺骸は京外東の神楽岡で荼毘に付された。陵墓は京都市右京区の円宗寺陵(えんしゅうじのみささぎ)、龍安寺の裏山。 |
この画像だけ見ると良い雰囲気なんだけど… | 目の前がものすごい交通量であまり安らげない | 第二京阪(高架)も下の国道も猛スピードのトラック |
同年暮れに再訪すると道路工事まで始まっていた | 近隣にある「白河法皇・鳥羽法皇 院政之地」碑 |
平安時代後期の天皇。名は貞仁。在位は20歳から34歳までの14年間で、延久4年12月8日(1073年1月18日)-応徳3年11月26日(1087年1月5日)。院政の創始者で、50年にわたり独裁政治を続けた。歴代約30名の上皇が院政を行ったがその先駆けとなった。 1053年に京都で生まれる。尊仁親王(のちの後三条天皇/1034-1073)の第1皇子。父・尊仁親王は関白・藤原頼通に冷遇されていた。母・藤原茂子とは幼少時に死別。 1062年、「前九年の役」で源頼義・義家父子が奥羽地方の豪族・安倍頼時父子らを討伐(実際は12年にわたって戦いが断続)。源氏が東国に勢力を築く契機となった。 1067年(14歳)、関白の藤原頼通(藤原道長の長男)が辞任し実子の右大臣・師実(もろざね、頼通六男)に関白職を譲ろうとしたが、姉の上東門院(藤原彰子)が道長の遺言「関白は頼通→教通(のりみち、道長五男)→頼通の子」を理由に許さず関白職がしばらく空席になる。 1068年(15歳)、第70代・後冷泉天皇が崩御し、貞仁の父・尊仁親王が第71代・後三条天皇として即位。その直前に新体制を見据えて藤原教通が関白に任ぜられる。翌年に貞仁は16歳で皇太子となる。 1071年(18歳)、藤原師実の養女・藤原賢子が参入し、貞仁親王は大いに寵愛する。 1073年(20歳)、貞仁親王は父帝・後三条天皇から譲位をうけ、1月に第72代・白河天皇として即位する(1072年とする資料が多いが正確に西暦換算すると1073年1月)。このとき、父・後三条は第2皇子で白河天皇の異母弟・実仁(さねひと)親王(2歳)を立太子しており、白河天皇の子孫は皇位継承から除外される方向が明らかになった。6月父帝・後三条天皇が崩御。 1074年(21歳)、摂関家の重鎮であった前関白・藤原頼通が82歳の長寿を生き薨去。半年後に頼通の姉、上東門院(じょうとうもんいん)彰子(一条帝中宮。紫式部が教育係)も86歳で他界。 1075年(22歳)、白河天皇の第一皇子・敦文(あつふみ)親王が生まれる。母は立后したばかりの中宮・藤原賢子。 同年、関白藤原教通が没し、道長の遺言通り、頼通の子師実が関白を継ぐ。師実は中宮賢子の養父であり、白河帝と良好な関係を結ぶ。 この年、白河帝は荘園整理令を発し、父の政治路線を引き継ぐ。荘園整理令は1099年、1107年、1127年にも出された。 1076年(23歳)、中宮賢子との間に第1皇女・テイ(女偏に是)子内親王(ていしないしんのう)が生まれる。母に似て美しく白河帝は溺愛する。 1077年(24歳)、敦文親王が天然痘により2歳で夭折。 1079年(26歳)、第2皇子・善仁(たるひと)親王(のちの堀河天皇)が生まれる。母は中宮賢子。 1083年(30歳)、「後三年の役」が勃発。奥羽の清原家衡(いえひら)・武衡と一族の真衡らが衝突した。 1084年(31歳)、白河天皇が寵愛した中宮・賢子(堀河天皇の生母)が27歳で病没。白河帝はそれまでほぼ賢子だけを寵愛してきたが、賢子の死後は后や女御を入れず、多数の女官・女房らと関係を持った。 1085年(32歳)、皇太子の実仁親王が天然痘により14歳で病没。父・後三条は生前、実仁親王が早逝した場合は、その弟である第3皇子・輔仁(すけひと)親王(12歳)を継承者に希望していた 1086年(33歳)、白河天皇は父・後三条の遺志を無視して、自身の第2皇子(覚行法親王を皇子に入れる場合は第3皇子)でまだ7歳の善仁(たるひと)親王を皇太子にたて譲位する。白河帝ははじめから政務をとるつもりで譲位したわけではなく、皇統を善仁親王に確実に伝えることが目的の譲位だった。 即日、善仁親王は第73代堀河天皇として皇位に就き、天皇が幼少のため、実際の政治は父・白河上皇が後見としておこなうことになり、院政が始まった(後世の史家が院政と名付けた)。院御所には院庁と呼ばれる政務機関が置かれ、院政は堀河・鳥羽・崇徳の3天皇「43年間」に及び、実権を握り続けた。摂関の藤原師実とは協調を図っていたが、摂関の実態は名目上の存在に近いものとなってゆく。 院政開始後の白河上皇は、身辺警固の要員や御幸(ごこう)に供奉(ぐぶ)する者をおき、これらの人々は北面と呼ばれた。そして、その中の武士が“北面の武士”とされた。白河上皇は院政をおこなうにあたり叙位(じょい)・任官などの人事権をにぎって国政に強い発言力をもった。 ※院政…上皇・法皇(院)が国政の実権を握って天皇のかわりに院庁で政務をとる政治の形態。院近臣(いんのきんしん)と呼ばれる中・下流の貴族たちが院政を支え、彼らは摂関家に対抗するかたちで受領層に支持され、院宣(いんぜん、上皇・法皇の公文書)を通じて国政に関与した。経済基盤となったのは摂関家をしのぐ院領荘園と、院分国をふくめた受領。院政は江戸末期まで形式上は続いた。「院」とは上皇御所の呼び名だったが、転じて上皇の呼び方になった。 1087年(34歳)、陸奥守・源義家が奥羽の清原家衡らを平定し「後三年の役」が終息。「前九年の役」とあわせて源氏勢力がさらに拡大する。 1094年(41歳)、藤原師実が関白を辞し、子の師通(もろみち)が後を継ぐ。師通は白河上皇から自立して親政を行おうとしていた堀河天皇と共に積極的な政務を展開する。 1096年(43歳)、白河上皇が特別に可愛がっていた皇女、テイ子内親王が20歳で病没し、悲嘆のあまり2日後に出家。白河上皇は法皇となり、法名を融覚と称したが、依然として院政を執り続けた。仏教に深く帰依し、「国王の氏寺(うじでら)」とうたわれた壮麗な法勝寺(ほっしょうじ)など多くの寺院や仏像をつくり、熊野詣や高野詣をおこなった。さらに法勝寺西側に白河北殿を造営し、院御所とした。 朝廷は財政が窮迫し、成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)などの売位・売官が盛んに行われる。財源を富裕な受領層(主に中・下級貴族)に求め、白河法皇の仏教傾倒は大寺院の勢力を増大させる結果となった。南都の興福寺、北嶺の延暦寺は、朝廷に要求を認めさせるための軍事力として僧兵を抱え、繰り返し強訴(ごうそ、集団で主張)をおこなった。これに対し白河上皇は院直属の武力として“北面の武士”をおき、それに源氏や平氏を起用して対抗していく。 ※天皇が退位すると「上皇」になり、上皇が出家すると「法皇」になる。 ※北面の武士…白河上皇が、院の御所の北面においた警備の武士。私兵。雑事もおこない、僧兵の強訴の阻止に動員された。定数はなく、白河上皇の晩年に80余人をかぞえ、新興の源氏・平氏をこれにあてた。平清盛の祖父・平正盛、父・忠盛は平氏隆盛の基礎を築いた。歌人の西行も出家前は北面の武士だった。のちに後鳥羽上皇が“西面の武士”を新設、承久の乱(1221)では討幕側の主要な軍事力となった。乱後、西面の武士は廃止され、北面の武士も役割を終えたが、この制度は軍事色をなくして江戸時代まで続いた。 1099年(46歳)、関白・藤原師通が36歳で急逝、摂関家は混乱する。師通の長男忠実(ただざね/1078-1162)はまだ21歳で関白になれず。忠実は84歳まで生きたため、この後歴史に絡んでいく。 1101年(48歳)、2年前に没した師通を追うように、その父・藤原師実が59歳で他界。白河法皇は摂関家の勢力減退に乗じて実権を伸ばしていく。 1102年(49歳)、白河法皇は取締りの不徹底を理由に興福寺別当・覚信(師実の子)を解任しようとしたところ、覚信の甥・藤原忠実がこれをかばって逆鱗に触れ、法皇は忠実を政務から外し一時失脚させる。摂関家は完全に院政の下部勢力となった。 1103年(50歳)、堀河天皇に長男・宗仁(むねひと)親王(のちの鳥羽天皇)が誕生。生後約10日で母苡子が没し、宗仁は白河院が引き取った。宗仁は同年のうちに皇太子となる。 1105年(52歳)、堀河天皇は関白に藤原忠実(27歳)を任じる。 1107年(54歳)、堀河天皇が28歳の若さで崩御。白河法皇は孫である4歳の宗仁親王を第74代・鳥羽天皇として即位させた。藤原忠実は堀河帝の関白から鳥羽帝の摂政となる。鳥羽天皇の治世において白河院政が本格化する。 1109年(56歳)、白河法皇は墓所として鳥羽離宮の外れ(泉殿)に「成(じょう)菩提院」と名付けた三重塔を建て、自分の骨を塔の床下に納めるよう願った。2年後に三重塔完成。 1113年(60歳)、白河法皇は人望を集めていた後三条天皇の第3皇子・輔仁親王を「鳥羽帝呪詛」の嫌疑で没落に追い込む(永久の変)。同年、鳥羽帝が10歳となり元服、これにともない忠実は関白就任。 1115年(62歳)頃、白河院の養女であり、院の寵姫・祇園女御に養われた藤原璋子(しょうし/1101-1145)と摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がるが、白河院と璋子が男女の仲(62歳と14歳で48歳差)にあるとの噂が流れ、忠実が固辞して破談となる。 1118年(65歳)、璋子が17歳で鳥羽天皇(15歳)に入内、翌月に中宮となり、のちに5男2女を儲ける。 同年、平清盛が生まれる。『平家物語』は清盛の実父が白河法皇としている。当時、京都の祇園に法皇が足繁く通う女性がいて、人々は「まるで女御(帝の寝所の女性)のようだ」と噂し、皮肉を込めて「祇園女御(ぎおんのにょうご)」と呼んだ。法皇は祇園女御の妹も寵愛し、妹は清盛を生む。3年後に妹は亡くなり、祇園女御は清盛を猶子(養子)にしたという。一方、祇園女御には清盛の祖父・平正盛が仕えており、妹は子を宿した状態で平忠盛(通説での清盛父)に褒美として与えられ妻となったとも。伝承が事実なら、清盛は平忠盛が養父であり、また祇園女御の養子という、ややこしいことに。ただ、清盛の出世スピードは異例であり、通常の尉(じょう※軍事・警察を司る者の官名)ではなく左兵衛佐(さひょうえのすけ※帝の行幸を司る役所=兵衛府・武衛の次官、正六位下相当)に任官されたのは祇園女御の後押しがあったためといわれる。 1119年(16歳)、鳥羽天皇の中宮・璋子(待賢門院)が第一皇子・顕仁(あきひと)親王(崇徳天皇)を生むが、これはスキャンダルとなった。本当の父親は白河法皇であり、法皇が孫の嫁(璋子)に生ませたという噂が朝廷に流れた。璋子は鳥羽帝に入内する前から養父の白河法皇から寵愛されており、鳥羽天皇は顕仁親王を不義密通の子、「叔父子(おじご)」と呼び冷遇した。 1120年(67歳)、鳥羽天皇が関白藤原忠実(当時42歳)と連携して自立の動きをみせたため、白河法皇は忠実の職権を停止する(1102年に続き二度目)。藤原氏は摂関の権威の低下を内外に見せることになった。 1121年(68歳)、関白を辞任した忠実に代わって藤原氏長者となった次男藤原忠通が、新たに鳥羽天皇の関白に就任する。 1123年(70歳)、白河法皇の意向で鳥羽天皇は譲位、4歳の顕仁親王が第75代・崇徳天皇として即位する。 1127年(74歳)、鳥羽天皇の第四皇子・雅仁(まさひと)親王(のちの後白河天皇)が生まれる。 1129年に白河法皇は76歳で崩御。絶対君主の大往生だった。諱(いみな)は貞仁(さだひと)。崩御に際し自ら白河院の追号を決めた。別名に六条院。日記に「白河院御記」。白河法皇の崩御にあたって、藤原宗忠は「法皇の威光は四海に満ち、天下これに帰服した」「意のままに法を無視して人事を行い、賞罰に差別があり、気の向くままに男女を寵愛し位階が乱れた」と日記『中右記(ちゅうゆうき)』に評した。 白河法皇は当初土葬を希望していたが、死後に比叡山の僧兵たちに遺体を掘り返され辱められることを懸念し、火葬を選んだ。陵墓は京都市伏見区竹田浄菩提院町の成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)。崩御時、三重塔は完成していたものの、遺骨を納める成菩提院がまだ出来ておらず、衣笠山の山麓で遺体は荼毘に付され(京都市北区に火葬塚)、法皇の遺骨は香隆寺にいったん安置された。2年後の1131年、鳥羽上皇は成菩提院を完成させ、白河法皇の遺骨を改葬、遺骨は願い通り三重塔の心礎(しんそ、心柱の礎石)近くの石棺に納められた。この三重塔は20年後(1149)に焼失し、現在は四角形の方丘になっている。これは三重塔の基壇跡とみられる。諱は貞仁(さだひと)。没後、天皇の権威は著しく弱体化してゆく。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−− 1139年、鳥羽天皇の第九皇子・体仁(なりひと)親王が生まれる。母は藤原得子(美福門院)。 1141年、鳥羽上皇が出家して法皇となる。 1142年、体仁親王が第76代・近衛天皇として即位する。 1143年、後白河天皇の第一皇子・守仁(もりひと)親王(のちの二条天皇)が生まれる。母は大炊御門経実の娘。 1155年8月22日、近衛天皇がわずか16歳で崩御。後継天皇は美福門院の養子・守仁王(後の二条天皇)への中継ぎとして、その父の雅仁親王が第77代・後白河天皇として即位する。崇徳上皇は自身の皇子で美福門院のもう一人の養子である重仁親王を推していたため激しく失望した。 1156年、7月20日に鳥羽法皇が53歳で崩御。皇位を巡って朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂する。摂関家では藤原頼長と忠通が対立した。そして鳥羽帝崩御の半月後(8月5日)、“保元の乱”が勃発する。崇徳・頼長側は源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力として戦った。崇徳側が敗れ、崇徳上皇は讃岐に流された。この乱は武士の政界進出の大きな契機となった。 1158年、守仁(もりひと)親王が第78代・二条天皇として即位。 1159年、「平治の乱」で平清盛と源義朝が激突。宮中を巻き込む戦となった。勝利を収めた平氏は軍事貴族として急速に台頭し、清盛は最終的に太政大臣まで昇りつめ栄華を極めていく。 1161年、後白河天皇の第7皇子・憲仁(のりひと)親王(のちの高倉天皇)が生まれる。母は皇太后平滋子(建春門院)。 1162年、元関白の藤原忠実が84歳で薨去。 1164年9月14日、崇徳上皇が配流先の讃岐にて45歳で崩御。同年、二条天皇の第二皇子・順仁(のぶひと)親王(のちの六条天皇)が生まれる。 1165年9月5日、二条天皇が崩御。順仁(のぶひと)親王が第79代六条天皇として即位。まだ生後8カ月ほどだった。母は松尾大社家の大蔵大輔伊岐致遠女。母の身分が卑しかったため、父帝・二条の中宮藤原育子を母后と公称した。 1168年、憲仁親王が第80代・高倉天皇として即位。 1176年8月23日、六条天皇が11歳で崩御。 1178年、高倉天皇の第一皇子・言仁(ときひと)親王(のちの安徳天皇)が生まれる。母は平清盛の娘徳子(建礼門院)。 1180年、清盛の孫の言仁(ときひと)親王が第81代・安徳天皇として2歳で即位、清盛の傀儡である高倉院政が始まった。これは上皇と天皇が武家に決められる大事件であり、天皇・朝廷が凋落する次の時代の予兆となった。同年、高倉天皇の第四皇子・尊成(たかひら)親王(のちの後鳥羽天皇)が生まれる。 1181年1月30日、高倉上皇が19歳で崩御。同年、平清盛が他界。 1183年、木曾義仲の軍が平安京に迫ったことから、平家は安徳天皇と神器を奉じて西国に逃れた。帝不在の都では、尊成親王が第82代・後鳥羽天皇として即位。安徳天皇と在位が重なっている。後鳥羽天皇は文武両道で新古今和歌集の編纂でも知られる。 1185年4月25日(寿永4年3月24日)、壇ノ浦の源平合戦で平氏が滅亡。二位尼(清盛妻)は孫の安徳天皇(6歳)を抱いて入水した。 1192年4月26日、後白河法皇が34年の院政を経て64歳で崩御。同年、鎌倉に幕府が開かれる。 1195年、後鳥羽天皇の第一皇子・為仁(ためひと)親王(のちの土御門天皇)が生まれる。 1197年、後鳥羽天皇の第三皇子・守成(もりなり)親王(のちの順徳天皇)が生まれる。 1198年、後鳥羽天皇が譲位。為仁親王が第83代・土御門天皇として即位。 1210年、土御門天皇が譲位。 1212年、守貞親王(高倉天皇の第二皇子)の第三皇子・茂仁(とよひと)親王(のちの後堀河天皇)が生まれる。 1218年、順徳天皇の第四皇子・懐成(かねなり)親王(のちの仲恭(ちゅうきょう)天皇)が生まれる。 1221年、後鳥羽上皇は鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げ、“承久の乱”が勃発する。朝廷側が敗北し、北条義時は後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳上皇を佐渡へ、土御門上皇を土佐へ配流する。第85代・仲恭天皇として即位するが、わずか78日で北条義時によって皇位を廃された。仲恭帝は在位期間が最も短い天皇であり、即位礼、大嘗祭を行わないまま廃位された。茂仁親王が第86代・後堀河天皇として即位する。 1231年、後堀河天皇の第一皇子・秀仁(みつひと)親王(のちの四条天皇)が生まれる。同年11月6日、土御門上皇が四国にて35歳で崩御。 1232年、後堀河天皇が譲位。秀仁親王が第87代・四条天皇として即位する。 1234年6月18日、仲恭廃帝が15歳で崩御。8月31日に後堀河上皇が22歳で崩御。 1239年3月28日、後鳥羽上皇が18年の配流生活を経て隠岐にて58歳で崩御。 1242年2月10日、四条天皇が10歳で崩御。同年10月7日、順徳上皇が佐渡にて45歳で崩御。 1249年、白河帝の墓所、三重塔が焼失する。再建はされなかった。 堀河、鳥羽、崇徳と3代にわたって幼帝を立て、43年間の院政で天皇や摂関家をしのぐ政治権力をふるったことから、後世「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれる。白河帝が平安京の南部、竹田に造営させた巨大離宮・鳥羽殿は、別荘というより都が移ったような規模であったという。 次男・堀河天皇が22歳で早逝すると、5歳の鳥羽天皇を即位させ白河が後見人となる院政をスタート。鳥羽天皇が19歳になって自己主張を始めると強制退位させて上皇(肩書き オンリー)にして、まだ5歳の崇徳を 即位させ法皇自身が実権を握り 続けた。親政時代を含めると半世紀を超えて権力を握った。法皇は老いてから若い養女(待賢門院)に手を出し、お腹に子(崇徳)を身篭らせたまま孫(鳥羽)と結婚させたともいわれる。 『平家物語』によると、白河法皇は「天下三不如意(ふにょい)」として、天下には自分の思いのままにならぬものが三つあるとした。すなわち、「比叡山の山法師(僧兵)」「賀茂川の水(水害)」「サイコロの目(賭博)」。これには打つ手がなかった。 ※この時代の朝廷権力の流れは、白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)。 ※京都市左京区の白川に沿った地域を白河といい、かつて藤原良房の別荘白河殿があった。師実の代に白河天皇に献上され、天皇が再開発を行い1077年に法勝寺が創建供養された。 ※洛南鳥羽は景勝の地。この地に藤原季綱が山荘を経営していたが、1086年白河天皇へ寄進し、天皇の後院(ごいん)として鳥羽殿が造営された。 ※白河帝は男色も好み、近臣の藤原宗通、北面武士の藤原盛重及び平為俊は帝の愛人出身とされる。 ※76年の生涯を通して権力を支配しようとしたが、基本的に貴族とは協調的だった。 ※法勝寺での仏事が雨のため再三延期になった際、怒った白河法皇は雨を器に受けさせて牢に投獄したという。 |
ここまでの道のりは第66代一条天皇を参照 | 龍安寺の裏山の山頂付近。一条天皇と同じ陵墓で、左側が堀河天皇 | 京の都を一望できる超一等地に眠っている! |
平安時代後期の天皇。在位は8歳から28歳までの20年間で、応徳3年11月26日(1087年1月5日)-嘉承2年7月19日(1107年8月9日)。白河天皇の第2皇子。母は関白藤原師実の養女・中宮賢子。諱は善仁(たるひと)。 1084年、6歳のときに生母・賢子が27歳で病没。1085年、父・白河天皇の異母弟で皇太子だった実仁(さねひと)親王が病没すると、先帝である祖父・後三条院の後継遺志は輔仁(すけひと)親王(実仁の弟)であったのに、1087年に白河天皇はまだ7歳のおさない善仁(たるひと)親王を皇太子にたて即日譲位した(多くの資料が1086年即位になっているが、正確な西暦換算では1087年1月になる)。 善仁親王は第73代・堀河天皇として即位したが、幼少であるため藤原師実(もろざね)が摂政となった。とはいえ、実権は父・白河上皇にあり、上皇が後見として政務にあたった。当初、白河上皇が院で政務を執ったことから、これが「院政」の始まりとされる。摂関は白河上皇の指示に従って動くいち政務機関となっていた。 1087年(8歳)、陸奥守・源義家が奥羽の清原家衡らを平定し「後三年の役」が終息。「前九年の役」とあわせて源氏勢力がさらに拡大する。 1089年、堀河天皇は10歳で元服。帝は成人するにつれて政治に関心を示し、院政には批判的になった。 1094年(15歳)、藤原師実が関白を辞し、子の師通(もろみち)が後を継ぐ。堀河天皇は白河上皇から自立して親政を行おうとし、関白・藤原師通(もろみち)や当代随一の博学者・大江匡房(おおえのまさふさ/1041-1111)らの補佐を受け、積極的な政務を展開する。臣下の提出した文書を丁寧に目を通し、付箋をつけて問答したという。 ※大江匡房(まさふさ)…院政期を代表する文人政治家で、歌人、学者。歴代の天皇の師となった。数え年8歳で「史記」や「漢書」に幅広い知識をもち、16歳で文章得業生(もんじょうとくぎょうせい)となり、18歳で対策(官吏登用試験)に及第した。匡房は1088年に参議、1094年権中納言、さらに大蔵卿、大宰権帥(だざいのごんのそち)を歴任。後三条院の側近、白河院の院庁別当としても院政の中心的な存在でもあった。 1096年(17歳)、白河上皇が出家して法皇となる。白河法皇は仏教に深く帰依し、「国王の氏寺(うじでら)」とうたわれた壮麗な法勝寺(ほっしょうじ)など多くの寺院や仏像をつくった。 1099年(20歳)、堀河天皇は荘園整理令を発令し、新たな荘園を停止する。同年、関白・藤原師通が36歳で急逝し摂関家は混乱する。 1101年(22歳)、2年前に没した師通を追うように、その父・藤原師実が59歳で他界。 1103年(24歳)、堀河天皇に長男・宗仁(むねひと)親王(のちの鳥羽天皇)が誕生。白河法皇は孫を得て喜んだ。法皇の院政体制が強化されていくと、堀河帝は法皇との対立を避けるため、次第に政務から風流の趣味に心を移すようになる。『発心集』には政務から離れる虚しさを述べたことが伝わる。「(堀河天皇)かくおはしましける日より、生きている心地もせず」。 1105年(26歳)、堀河天皇は関白に師通の長男・藤原忠実(ただざね)を任じる。 1107年8月9日、堀河天皇は在位のまま病により崩ずる。28歳の若さだった。白河法皇は孫である4歳の宗仁親王を第74代・鳥羽天皇として即位させた。 堀河天皇は若いながらも荘園整理令を出し、僧徒の蜂起を制止するなど政治力を示し、多くの臣下に敬慕され、誠実な人柄から「末代の賢王」とも称された。和歌や音楽にも造詣が深く、とくに笙(しょう)・笛をよくし、宮中で小規模な管弦の会を繰り返し催した。楽器の演奏では当時及ぶ者がなかったという。その死は深く惜しまれ、側近の藤原長子(ちょうし)が帝の発病から崩御までの1カ月を回想し『讃岐典侍(さぬきのすけ)日記』に綴った。 墓所は京都市右京区龍安寺朱山(しゅやま)=龍安寺の裏山の円丘。後円教寺御陵(のちのえんきょうじのみささぎ)。ひいひい爺ちゃんの第66代・一条天皇と同じ墓所に眠っている。 |
鳥居がない陵墓! | 白壁が美しく禅寺のようだ | 石碑「鳥羽法皇・白河法皇 院政の地」 |
同年暮れに再訪。夕陽の中の鳥羽天皇陵 | 夕暮れは逆光になる。朝だと白壁がMAXに映えそう | 鳥羽天皇陵の制札 |
平安時代後期の天皇。在位は4歳から20歳までの16年間で、1107年-1123年。諱は宗仁(むねひと)。堀河天皇の第1皇子で母は大納言・藤原実季(さねすえ)の娘苡子(いし)。 1103年、祖父・白河法皇(1053-1129)の院政下に宗仁親王(鳥羽天皇)は生まれる。生後約10日で母苡子が没し、宗仁は白河法皇に引き取られた。同年のうちに皇太子となる。 1107年、父・堀河天皇が病死し、宗仁親王は4歳で第74代・鳥羽天皇として即位する。摂政は藤原忠実(1078-1162)。鳥羽天皇の治世において白河院政が本格化する。 1113年、10歳で元服。これにともない、藤原忠実が関白となる。 1115年頃、白河院の養女であり、院の寵姫・祇園女御に養われた藤原璋子(しょうし/1101-1145)と摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がるが、白河法皇と璋子が男女の仲(62歳と14歳で48歳差)にあるとの噂が流れ、忠実が固辞して破談となる。 1118年(15歳)、藤原璋子が17歳で鳥羽天皇に入内、翌月に中宮となり、のちに5男2女を儲ける。 1119年(16歳)、鳥羽天皇の中宮・璋子が第一皇子・顕仁(あきひと)親王(崇徳天皇)を生むが、これはスキャンダルとなった。本当の父親は白河法皇であり、法皇が孫の嫁(璋子)に生ませたという噂が朝廷に流れた。璋子は鳥羽帝に入内する前から養父の白河法皇から寵愛されており、この時期の白河院は相変わらず璋子のもとへ通っていたという。鳥羽天皇は顕仁親王を不義密通の子、「叔父子(おじご)」と呼び冷遇した。 1120年(17歳)、鳥羽天皇が関白藤原忠実(当時42歳)と連携して自立の動きをみせたため、白河法皇は忠実の職権を停止する。 1121年(18歳)、関白を辞任した忠実に代わって藤原氏長者となった次男藤原忠通が、新関白に就任する。 1123年(20歳)、祖父・白河法皇の意向で鳥羽天皇はまだ4歳の顕仁親王(白河の子)に譲位させられた。顕仁親王は第75代・崇徳天皇として即位する。譲位後、鳥羽院は鳥羽離宮を居所とした。 1124年(21歳)、璋子も院号を宣下され待賢門院(たいけんもんいん)と称する。 1127年(24歳)、鳥羽院の第四皇子・雅仁(まさひと)親王(のちの後白河天皇)が生まれる。 1129年(26歳)、祖父・白河法皇が76歳で没し、鳥羽上皇の巻き返しが始まる。鳥羽院は白河院に関白を罷免された藤原忠実など反白河派を院庁の要職に起用して身辺を固め、院政を開始。また伊勢平氏の平忠盛(清盛父)の内昇殿をゆるし、政権に近づける。さらに忠実の娘泰子(高陽院)を皇后に立てたうえ、1133年頃から璋子に代わって側妃の藤原得子(とくし、なりこ/美福門院)を寵愛した。白河院という後ろ盾を失った璋子(28歳)と崇徳帝(10歳)の人生は暗転する。 1139年(36歳)、鳥羽上皇と藤原得子の間に、第九皇子・体仁(なりひと)親王(のちの近衛天皇)が生まれ、鳥羽院は生後3か月で皇太子とする。 同年、鳥羽上皇の命を受けた藤原家成によって、後に本御塔(ほんみとう)と呼ばれる三重塔が建てられた。鳥羽院の墓所としてのものだ。 1141年(38歳)、鳥羽上皇は東大寺で受戒して法皇となり法名・空覚を名乗る。白河法皇同様に仏教を深く信仰し、盛んに造寺(最勝寺、六勝寺など)・造仏をおこない、熊野詣などを熱心にし、参詣は前後23回に及んだ。 1142年(39歳)1月5日、鳥羽上皇は崇徳天皇(当時22歳)に譲位を強要し、鳥羽院の子でまだ2歳の体仁(なりひと)親王を第76代近衛(このえ)天皇として即位させる。鳥羽法皇を本院、崇徳上皇を新院と称し、政令は本院から出した。 1145年(42歳)、中宮の待賢門院(璋子)が44歳で他界。距離を置いていた鳥羽院だが、璋子を看取り大声で泣いたという。 1148年(45歳)、皇后美福門院のために新御塔と称する別の三重塔が建てられた。美福門院は遺言により高野山に葬られており、新御塔には近衛天皇が葬られることになった。 1155年(52歳)8月22日、近衛天皇が16歳で崩御。鳥羽院は「崇徳院(36歳)と左大臣藤原頼長(35歳)が近衛天皇に呪詛をかけた」という噂を信じていた。崇徳上皇は院政を期待して自らの第1皇子・重仁(しげひと)親王の皇位継承を望んだが、鳥羽法皇は美福門院や藤原忠通らとはかって、璋子の生んだ第四皇子・雅仁親王を後白河天皇(28歳)として即位させる。これにより、崇徳上皇と鳥羽法皇の対立が決定的となった。 ※藤原頼長(1120-1156)…忠実の次男。左大臣。通称「悪左府」。父の庇護を得て兄忠通と対立し、氏長者(うじのちょうじゃ)となる。和漢の才に富み学問を好む。日記「台記」がある。 1156年7月20日、鳥羽法皇は53歳で崩御。崇徳院は病床を見舞いに訪れたが対面できず、「自分の遺体を崇徳に見せてはならない」と側近に命じたため、遺体と面会できなかった。崇徳院は憤り、屋敷に引き揚げて武士を集めた。こうして共に璋子の子である、後白河天皇と崇徳上皇の間に「保元の乱」が勃発した。 鳥羽帝は「わたしの出生は人力によるものではなく、神のしわざである」と自賛。院政を継ぎ、白河帝と全く同じことをした。法皇となって白河帝の子である崇徳を強制退位させて上皇にし、まだ3歳の実子・近衛を即位させ、近衛が早逝すると近衛の兄・後白河を擁立した。崇徳・近衛・後白河の3天皇28年の間実権を握り続けた。 鳥羽天皇は後三条天皇以来の荘園整理政策(新たな荘園の禁止)を転換し、逆に荘園の興隆を積極的におしすすめた。また、前関白の藤原忠実を院の近臣に復帰させ、院直属の武力として平氏をとりたてるなど、独自に政権基盤の強化をはかった。古書を好み、催馬楽(さいばら)、音律、典故(てんこ/故事)に長じた。父・堀河天皇と並ぶ笛の名人であったという。 鳥羽帝は院政主導の政治や荘園公領制を確立させ、中世国家の基本秩序を完成させた天皇であった。 墓所は京都市伏見区竹田内畑町の安楽寿院陵(あんらくじゅいんのみささぎ)。方形堂。鳥羽法皇は鳥羽離宮(鳥羽殿)の安楽寿院(あんらくじゅいん)の中に生前から2つの塔を並べ建てていた。ひとつは自分の墓となる「本御塔」、もうひとつは最愛の皇后・美福門院藤原得子(とくし/1117-1160)ための「新御塔」。鳥羽院は本御塔の下に埋葬された。ところが鳥羽天皇の崩御の4年後、美福門院が没したときに遺言で高野山に眠ることを願ったことから、新御塔は空っぽのままに。結局、他の寺に遺骨が仮安置されていた息子の近衛天皇(1155年に16歳で夭折)の遺骨が入った。三重塔そのものが陵墓であった白河天皇、鳥羽天皇、近衛天皇。全員の塔が一度は失われているが、近衛天皇だけ塔が再建され、鳥羽天皇は法華堂が建ち、白河天皇は何もない代わりに鳥居が建つ。平安時代末までの帝で陵墓に鳥居がないのは、鳥羽院と近衛天皇、遺言で水尾山に葬られた清和天皇だけと思われる。鎌倉時代の四条天皇以降は泉涌寺に多くが眠り、同寺の天皇の墓域を衛星写真で見る限りは鳥居がないように見える。 140年後の1296年、鳥羽院の三重塔が焼失し、建武年間に再建されたが1548年に再び焼失し、文久の修陵で現在の法華堂が建立された。 |
遠く流された悲劇の天皇 | 本州から瀬戸大橋を渡って讃岐国へ | 視界の彼方まで橋が続いている。巨大! | 坂出市。正面の白峯(しろみね)山で荼毘に… |
白峯山に登ると遠くに瀬戸大橋が見えた。崇徳 天皇はずっと都に戻りたいと思い続けていた |
御陵の参道入口。明治まで参道はなかった。ここ から御陵まで参道脇に88基の歌碑が建ち並ぶ |
どの歌も哀切に満ちており、西行法師の 「山家集」から選ばれた歌が多い |
ここまで来れば御陵までもうちょっと! 落ち葉のじゅうたんが続く |
真ん中の画像の道の奥に御陵がある。そして左右に建つ歌碑が、参道の最後の歌碑。 右側(画面奥)の歌碑が崇徳天皇の「思ひやれ 都はるかに 沖つ波 立ちへだてたる 心ぼそさを」 左側の歌碑が西行の「よしや君 昔の玉の 床(とこ)とても かからむ後は 何かはせむ」。1167年秋、 西行は天皇崩御から3年後に墓参に来て、墓前に座り何度も読経し、この歌を詠んだという |
この石段の上が御陵!チラッと見えてる |
陵墓前の見張所を覗くと、机の上に羽、窓際に14個のドングリが立ててあった。 なんか癒やされた。この宮内庁職員の人と是非お友達になりたいッス! |
崇徳天皇陵に到着!左から撮ると 特別拝所の木が邪魔で鳥居が見えない |
拝所の中にこのようにランダムに樹木が生えているのは 珍しい。山と一体化しているかのような陵墓だ |
巡礼したのは12月の朝9時半。空気が澄んでいた。 ※右から撮影しても木が鳥居と被る… |
っていうか、最深部の皇族拝所までドーンと木が生えて いるんですけど!鳥居のすぐ前に木あるってココだけ |
特別拝所の中に切り株があった。かつては もう1本、大きな木があったということか |
陵墓の前から下界を見下ろすと高さを感じる。 小さく映っているのは共に巡礼した我が盟友I氏 |
御陵に隣接する白峯寺。崩御の直後に 地元の人々によって建てられた |
寺の境内奥にある「崇徳天皇御陵遙拝所」 |
白峯寺の100m前の「白峯寺十三重石塔」。源頼朝が 崇徳天皇の菩提を弔う為に建立。東塔(手前の石塔) に納骨された形跡があり、本物の供養塔と思われる |
江戸後期に歌川国芳が描いた崇徳帝。怨霊、夜叉そのもの。天皇の肖像では最強インパクト |
明治天皇が即位に際して京都に創建した白峯神宮。
なんと御祭神は崇徳帝!御霊を讃岐から都に戻した (2010) |
京都東山区、祇園のド真ン中の「崇徳天皇御廟」。崇徳帝から寵愛された阿波内侍は 帝の遺髪をもらい受け、自邸に塚を築き弔った。祇園の歌舞練場の敷地には、かつて 阿波内侍の墓(五輪塔)があった事から、当御廟は阿波内侍が築いた遺髪塚と思われる |
平安時代後期の天皇。鳥羽天皇の第一皇子。在位は4歳から23歳までの19年間で、1123年-1142年。名は顕仁(あきひと)。歌人としても知られる。兄弟の第四皇子は雅仁親王(後白河天皇)、第九皇子は体仁(なりひと)親王(近衛天皇)。 1119年7月7日に中宮・藤原璋子(しょうし/待賢門院)が顕仁親王(崇徳)を生んだ際、父・鳥羽上皇は顕仁が我が子でなく祖父・白河法皇との子であると疑い、これが保元の乱の遠因となっていく。顕仁親王の母璋子は7歳で父・藤原公実(白河院の従兄)を亡くし、白河院の養女として育った。白河院と璋子は48歳差であるが男女の仲となり、顕仁親王が生まれる前年に璋子が17歳で鳥羽天皇に入内した後も、白河院は璋子のもとへ通っていたようだ。噂が真実であれば、院は孫の嫁に子を産ませた形であり、鳥羽天皇は深く苦悩したと思われる。 ※この「実父が白河院説」は、崇徳院の没後半世紀が経った1215年頃に完成した『古事談』のみの記述であり、他文献にないため真偽不明。 1123年、顕仁親王の曽祖父・白河法皇が強引に父・鳥羽天皇に譲位を迫り、3歳7か月の顕仁親王が第75代崇徳天皇として即位した。1129年(10歳)、関白・藤原忠通(ただみち/前関白・藤原忠実の次男)の長女・聖子が崇徳に入内(翌年中宮)。同年、白河法皇が没し鳥羽上皇の院政が始まると、出生問題に絡んで鳥羽上皇と崇徳天皇の関係が次第に悪化していった。 1127年(8歳)、鳥羽院の第四皇子・雅仁(まさひと)親王(後白河天皇)が生まれる。 1129年(10歳)、関白・藤原忠通の長女・藤原聖子(皇嘉門院)が入内。同年7月、白河法皇が76歳で没し、巨大な後ろ盾を失った璋子と崇徳帝の人生は暗転する。鳥羽院は白河院に関白を罷免された藤原忠実など反白河派を院庁の要職に起用して身辺を固めて院政を開始。また伊勢平氏の平忠盛(清盛父)の内昇殿をゆるし、政権に近づけた。さらに藤原忠実の娘泰子(高陽院)を皇后に立てたうえ、1133年頃から璋子に代わって側妃の藤原得子(とくし、なりこ/美福門院)を寵愛するようになる。得子は璋子より16歳若く、並外れた美貌を持っていた。 1139年(20歳)に鳥羽院と美福門院得子の間に体仁(なりひと)親王(近衛天皇)が生まれると、第九皇子で皇位継承順位が下位にもかかわらず、鳥羽上皇は「早くこの子を帝にしたい」と願うようになる。 1140年(21歳)、崇徳天皇と女房・兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)の間に第一皇子・重仁親王が生まれる。親王は生後すぐに美福門院得子の養子に迎えられ、我が子の様に可愛いがられたという。一方、崇徳院と中宮・聖子の間には子どもが生まれなかった。関白忠通は崇徳天皇の寵愛が娘聖子から兵衛佐局に移ったことを恨んだという(保元の乱では敵対している)。 1141年(22歳)、鳥羽上皇は東大寺で受戒して法皇となる。 1142年(23歳)1月5日(1141年の資料が多いけど正確に西暦換算すると1142年)、崇徳天皇は鳥羽法皇から弟の体仁親王に譲位するよう強く迫られる。これは“確実に”鳥羽院の子である体仁親王を即位させるためと思われる。崇徳天皇は抵抗しきれず譲位を行い、体仁親王は第76代近衛天皇として即位、これに伴って崇徳帝は上皇となった。この後、崇徳上皇は新院と称し、和歌三昧の日々を送り、『久安百首』を作成し『詞花和歌集』を撰集した。 皇位を継いだ近衛天皇は大変病弱であり、失明寸前までいった重い眼病は「崇徳院の呪詛」が原因と噂された。 1143年(24歳)、雅仁親王(後白河天皇)の第一皇子・守仁(もりひと)親王(二条天皇)が生まれる。生母が出産6日後に急死したため、祖父の鳥羽法皇が守仁親王を引き取り、后の美福門院に養育された。 1155年(36歳)8月22日、近衛天皇が病により16歳の若さで崩御する。近衛天皇は子を残さなかった。この早すぎる死について、「わが子を皇位につけたいと望む崇徳院や、その支持者である左大臣藤原頼長の呪詛(じゅそ)によるもの」との噂が流れ、これを信じた皇后美福門院得子が鳥羽院に報告した。結果、怒った鳥羽院は次の天皇に崇徳帝の子・重仁親王を選ばず、美福門院の養子・守仁親王(二条天皇)への中継ぎとして、10年前に没した璋子の子であり、美福門院が手元に置いて養育していた崇徳の弟・雅仁(まさひと)親王を第77代・後白河天皇(1127-1192/29歳)として即位させた。同時に、鳥羽院は守仁親王を皇太子とする。12歳の守仁親王が即位してれば崇徳院にも院政の可能性があったが、29歳の後白河法皇天皇では無理だ。崇徳院は自分の子かつ美福門院の養子でもあった重仁親王が皇位を継承できなかったことで院政の夢を完全に断たれ、鳥羽法皇との対立が決定的となる。 ※重仁親王が選ばれなかったのは生母・兵衛佐殿の身分の低さ(中宮ではなく女房)もあった。 一方、摂関家でも対立が生まれていた。関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟は、近衛天皇に養女を入内させ、皇子を早く生ませようと争ったが近衛帝は早逝。関白である兄・忠通よりも異母弟・頼長の方が「日本第一大学生(がくしょう)」と評されるほど学識豊かでカリスマ性があり、父・藤原忠実(前関白)は頼長を可愛がった。忠通から氏長者と“内覧(天皇の秘書)”の地位の両方を奪って頼長に与えるなど露骨に肩入れした。頼長は関白職を狙っており、忠通は形勢を挽回するため美福門院得子に接近し、鳥羽院からの支援をとりつけた。そこに近衛帝崩御にまつわる呪詛の噂が流れて頼長は鳥羽院の信頼を失い、後白河天皇の即位もあって、頼長の関白就任は絶望的になった。焦った頼長は兄への対抗上、失意の崇徳院に接近し手を結ぶことになる。一連の忠通の行動に不満を持った忠実は忠通を義絶(絶縁)した。内覧となった頼長は綱紀粛正に取り組み、その厳格さに反発した者から「悪左府」(悪の左大臣)と呼ばれる。 こうして「崇徳上皇&左大臣藤原頼長」 VS 「後白河天皇&美福門院得子&関白藤原忠通」という構図が生まれ、翌年の『保元の乱』に繋がっていく。 1156年(37歳)7月20日(保元元年7月2日)、鳥羽法皇が53歳で崩御。法皇は自らの遺体を崇徳に見せることをよしとせず、崇徳は臨終前の見舞いを断られ、憤慨しつつ帰邸した。その3日後、「崇徳上皇と藤原頼長が、後白河天皇と関白・忠通に対してクーデターを計画している」と噂が流れる。崩御6日後(鳥羽院初七日)、後白河天皇、美福門院、忠通、そして後白河天皇の乳母の夫で野心家の信西(しんぜい/藤原通憲)らは先手を打ち、忠実・頼長父子に兵を集めることを禁じ、さらに源義朝らの兵が摂関家拠点の邸宅“東三条殿”を頼長不在時に没収した。財産没収は謀反人に対する処罰であり、藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞だった。 鳥羽法皇崩御から8日後(保元元年7月10日)、後白河側に挑発された崇徳側は、頼長や崇徳側近の藤原教長ら貴族、そして源為義・為朝(鎮西八郎)父子、平家弘、清盛の叔父・平忠正ら摂関家私兵の武士を白河北殿に集めて挙兵。後白河側は、平清盛、源為義の長男・義朝、鳥羽院の忠臣源義康(足利氏の祖)らを招集し、ここに、京都で起きた初の本格的戦乱が勃発する。崇徳院は子の重仁親王の後見が3年前に没した平忠盛(清盛父)であったため、最大兵力を持つ清盛が味方になることを期待したが、清盛は敵にまわった。 崇徳側は兵力で劣ったため、“夜襲をかけよう”という提案があったが頼長は「夜襲は卑怯」と却下した。するとなんと、未明に後白河側が夜襲をかけてきた。襲ってきたのは清盛軍300余騎、義朝軍200余騎、義康軍100余騎の600騎以上。鎌倉時代前期の軍記物語『保元物語』によると、崇徳院側の源為朝(鎮西八郎)は身の丈7尺(約210cm)、生来の弓の名手で鞍もろとも鎧武者を射通して串刺しにしたり、一矢で敵2人を射倒すなど獅子奮迅の働きをした。清盛軍は2名の有力武士が討たれ、義朝軍は50名以上の死傷者を出したため一時撤退する。後白河側は増援を送り、崇徳側の本拠地・白河北殿に隣接する藤原家成邸に火を放ち延焼させた。白河北殿は焼け落ち、崇徳院と頼長は逃亡、勝敗は喫する。敗北の報を受け忠実も奈良へ逃げた。後白河側は戦勝を祝い、清盛は播磨守に出世する。藤原頼長は父・忠実の拠点である宇治へ逃避行中に流れ矢が首に刺さった。虫の息で父の逃亡先の奈良に着くが、父は蜂起と無関係であることを示すため面会せず、頼長は乱の3日後に絶命した。崇徳院は乱の翌日に出家し、仁和寺に出頭することで赦しを期待したが、讃岐国への配流が決定する。乱の12日後に流刑が執行され讃岐へ向かった。天皇・上皇の配流は764年に第47代淳仁天皇が淡路島に流されて以来、392年ぶりのこと。讃岐へは寵妃・兵衛佐局が同行した。配流後、崇徳院は讃岐院とも呼ばれた。 藤原教長ら貴族は配流になったが、武士たちには厳罰が下された。810年に“薬子(くすこ)の変”で平城上皇に挙兵を煽り、処刑された藤原仲成(なかなり)以来となる死罪を信西は346年ぶりに復活させた。嵯峨天皇が818年に死刑を停止する宣旨(盗犯に対するものだったが事実上の全面停止に)を出していたが、それを覆してまで武士たちへの死刑を断行した。源為義、平忠正は一族もろとも斬首され、この約350年ぶりの死刑執行に人々は衝撃を受けた。猛将・為朝だけは武勇を惜しまれ減刑され伊豆大島へ配流となる。急進派の信西は多くの恨みを買い、3年後の平治の乱で殺害された。 保元の乱は武士の力が決定的な影響を与えた。貴族間の対立を武士集団が解決したことで、平氏、源氏が活躍する武士の時代が始まるきっかけとなった。実力で敵を倒す中世の到来を示すものとなった。 関白・藤原忠通の十一男で天台座主となった僧侶慈円(1155-1225)は鎌倉時代初期の史論書『愚管抄』のなかで、保元の乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じた。 1156年10月23日(保元元年閏9月8日)、後白河法皇は石清水八幡宮に乱の勝利を報告し、宣命の中で崇徳院勢を「狼の群れ」「凶徒」と呼び、頼長の死を神罰とし、貴族13人遠流(おんる)、武士20人斬罪という謀反人への厳罰は私事ではなく国家のために行ったと公布した。 1158年(39歳)、守仁(もりひと)親王が第78代・二条天皇として即位。 1159年(40歳)、保元の乱の勝者が仲間割れした「平治の乱」が勃発し、保元の乱で火攻めを考えた源義朝や死刑を強行した信西が殺害される。 1161年(42歳)、後白河上皇の第7皇子・憲仁(のりひと)親王(高倉天皇)が生まれる。母は皇太后平滋子(建春門院/清盛妻・二位尼時子の妹)。 1162年(43歳)、保元の乱の後、重仁親王は仁和寺に入り出家していたが、足の病により22歳で他界する。 崇徳帝は、鳥羽法皇によって弟・近衛天皇に譲位することを強要され、近衛天皇の死後も弟・後白河天皇が即位し、我が子の皇位継承の望みを絶たれた。保元の乱では卑怯な夜襲を受けて戦にも敗れた。 『保元物語』によると、崇徳上皇は讃岐で軟禁生活を送るなか仏教に開眼し、このまま恨みを抱いて死ぬと自分が怨霊となって朝廷に敵すると思い、膨大な写経を通して心を鎮める。そして、3年がかりで完成した五つの写本(経文)を、都近辺の寺院へ奉納すべく朝廷へ送った(和歌「浜千鳥跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」を添えて)。 ところが、後白河院は「経文に呪詛が込められているのではないか」と疑い、写本の受け取りを拒否して送り返した。崇徳の怒髪が天を衝く。「日本国ノ大悪魔ト成ラム」と自らの血で写本に血書、爪や髪は伸びるに任せ「生ナガラ天狗ノ御姿」となり、1164年9月14日、配流から8年後に、府中鼓岡(つづみおか)にて憤怒の中で崩御したという。享年45歳。 激高した崇徳院は舌を噛み切って憤死したという説や、6年前(1158年)に即位した二条天皇が刺客の三木近安に命じて暗殺させたという説もある(JR予讃線沿いの暗殺現場と伝えられる場所=柳田に、小さな石碑が建っている。大柳のウロに隠れているところを殺されたという)。 崩御が8月であったため、都から葬儀法の連絡が下るまで、野澤井の霊水に遺体は浸された。後白河上皇は崇徳帝を死後も罪人扱いし、その死を黙殺。讃岐国では国司が質素な葬礼を行った。その後、朝廷の指示により亡骸は白峯山の山頂で火葬され、同地を御陵とし、御影堂を建立して崇徳帝の木像を祀った。火葬の煙は都の方角にたなびき、崇徳院の執念を思わせたという。 1169年、後白河上皇は出家し、法皇となる。 崇徳院崩御から13年が経った1177年。この年は平家に対する俊寛らの反乱計画(鹿ケ谷の陰謀)や都を包む安元の大火、延暦寺の強訴など社会的混乱が続いた。それだけなら偶然とも思えるが、その前年にかつて崇徳帝と敵対した後白河法皇や関白藤原忠通の近親者が次々と亡くなっていた。 ・第78代二条天皇(後白河天皇の第一皇子)の中宮・しゅし内親王(高松院)が34歳で他界。(1176年7月20日) ・第77代後白河天皇の皇太后・平滋子(建春門院)が34歳で他界。高倉天皇の母。清盛妻の妹。(1176年8月14日) ・第79代六条天皇(後白河天皇の孫)がわずか11歳で他界。(1176年8月23日) ・第76代近衛天皇(父は崇徳帝を譲位させた鳥羽天皇)の中宮・藤原呈子(九条院)が45歳で他界。美福門院と藤原忠通の養女。(1176年10月23日)。 この異常な事態に貴族らは「崇徳帝や悪左府(頼長)の怨霊のタタリではないか」と噂しあった。思い起こせば、崇徳院崩御の翌年、既に後白河法皇の皇子・二条天皇が22歳の若さで病死していた。法皇は「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、故頼長に太政大臣を追贈した。だが、その後も“怨霊説”は強化されていく。 1181年、高倉上皇(後白河天皇の第7皇子)が19歳で崩御し、同年に平清盛が謎の熱病で死去。 1184年、後白河法皇は崇徳院の怨霊に追い詰められ、崇徳院派を「凶徒」と呼んだかつての勝利宣言を破却し、鎮魂のため保元の乱の戦場跡に「崇徳院廟」(粟田宮)を建て弔った。また、崇徳院陵に隣接する白峯寺は朝廷から保護されるようになった。 1185年、保元の乱で崇徳院を攻撃した清盛の一門が壇ノ浦の合戦で滅亡。二位尼(清盛妻)は孫の安徳天皇(6歳)を抱いて入水。 1192年、後白河法皇が崩御し、ひとつの時代が終わる。その4カ月後、源頼朝に征夷大将軍の宣下(せんげ)がなされ鎌倉に武家政権が成立し、約700年にも及ぶ武士の世の幕が開く。 約400年続いた平安時代だが、崇徳院の崩御からたった28年で権力そのものが朝廷から武家政権(幕府)に移った。 時は流れて明治元年、1868年(崩御から704年)。明治天皇は即位の礼に際して、崇徳天皇の御霊を京の都へ迎えるために勅使を讃岐に遣わし、京都市上京区に崇徳帝を御祭神とした白峯神宮を創建した。その10年後には、保元の乱で崇徳側についた源為義・為朝父子を祀る「伴緒社」が境内に建てらている。白峯神宮は平安時代より蹴鞠(けまり)の宗家である飛鳥井家の邸宅跡に建設された。それゆえ、蹴鞠の名手の藤原成通(関白=後白河天皇側近)が蹴鞠千日修行の果てに見た「鞠の精」も祀られ、サッカー選手の参拝者も多い。後白河帝の側近と崇徳帝という敵同士に所縁のある不思議な空間だ。白峯神宮には、淡路島に流され崩御した淳仁天皇も1873年に合祀されている。 白峯神宮を創建から約100年後、1964年の東京オリンピック開催前に、昭和天皇は日本復活の思いを込め、崇徳天皇陵に勅使を遣わして崇徳天皇式年祭を執り行わせた。崇徳院は菅原道真や平将門と並ぶ日本三大怨霊となったが、平安時代の天皇なのに、現代の皇室にまで影響を与えているという意味でキング・オブ・怨霊ともいえる。 だが、都の人には恐怖の対象であっても、四国では守り神として感じる人もいる(平将門が関東で敬われているように)。後白河法皇の曾孫・土御門上皇が、承久の乱後に土佐配流となったとき、崇徳陵の側を通過する際に、琵琶を弾いて霊を慰めた。すると、崇徳帝が夢に現れ、家族の庇護を約束したという。その後、土御門上皇の遺児、後嵯峨天皇は無事に皇位に就くことができた。室町時代には四国の守護・細川頼之が崇徳帝の菩提を弔った後に四国平定を成し遂げる。これにより、細川氏は崇徳帝を守護神として代々崇めたとのこと(これら善神エピソードはウィキで読むまで知らなかった)。 療護は香川県坂出市青海町にある白峯陵(しらみねのみささぎ)。白峰の中腹、標高260mに位置。火葬所が山陵とされ、陵形は方丘。四国八十八箇所第八十一番札所白峯寺に隣接している。四国で唯一の天皇陵。 ※「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」(滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう)(崇徳院)小倉百人一首 ※「なけば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす」(崇徳院) ※天皇陵は一般人は鳥居の手前で参拝しているけど、白峯陵は毎年9月21日に御正宸祭(ごしょうしんさい)の儀が執り行われ、鳥居をくぐって奥の柵まで行けるとのこと。 ※京都市東山区祇園町南側の崇徳天皇御廟では、毎月白峯神宮の神官による月次祭が執り行われている。 ※崇徳院の最期は後世に脚色され、上田秋成『雨月物語』に「白峯」として収められた。『椿説弓張月』でも怨霊として描かれている。 ※この時代、弓馬で武装し戦いを生業とする専門集団で、朝廷や貴族の警護を行う“武士”が台頭。保元の乱で両陣営は源氏・平氏の武士集団を召集して交戦した。 |
(整理)崇徳帝の本気 1.清盛の娘を中宮に迎えた高倉天皇を19歳で鬼籍に 2.平家を一門丸ごと滅ぼす 3.ついでに源氏直系も壊滅 4.さらに鳥羽と白河の遺産を全て受け継いだ後鳥羽の家系を断絶 |
白峯寺に隣接する頓證寺殿(崇徳帝の御廟所)には、珍しい「天狗の石像」がある。名を白峰相模坊(さがみぼう)と いい日本八天狗の一狗。崇徳帝が保元の乱に敗れて崩御した際、相模坊は御霊を鎮めるべく陵墓のある白峰山に移り 住んだという。崇徳院に仕える天狗として能「松山天狗」にも登場する。今も崇徳院の霊前に参り続けているとのこと。 【天狗トリビア・日本八天狗】 (1)大天狗・鞍馬山僧正坊(くらまやま そうじょうぼう)…京都府 (2)愛宕山太郎坊(あたごさん たろうぼう)…京都府 (3)相模大山伯耆坊(さがみたいせん ほうきぼう)…神奈川県 (4)飯綱三郎(いずなの さぶろう)…長野県飯縄山 (5)比良山次郎坊(ひらさん じろうぼう)…滋賀県 (6)大峰前鬼(おおみね ぜんき)…奈良県 (7)白峰相模坊…香川県 (8)彦山豊前坊(ひこさん ぶぜんぼう)…福岡県英彦山 |
ずっとここへ来たかった!なぜならッ! |
歴代陵墓で唯一多宝塔がある! |
どの角度から見ても美しい!嗚呼、至福なり。 まぁ、神道なのに仏式の廟というのは妙なんだけど(汗) |
夏の夕暮れ | 秋の夕暮れ |
いずれユネスコの世界遺産に指定されるだろう | この美しさ…骨抜きでござるよ | こうなれば、何とか雪景色も見たいもの!綺麗だろうなぁ |
平安時代末期の天皇。鳥羽天皇(上皇)の第九皇子。在位は3歳から16歳までの13年間で、永治元年12月7日(1142年1月5日)-久寿2年7月23日(1155年8月22日)。諱は体仁(なりひと)。 1139年6月16日に体仁(なりひと)親王(近衛天皇)は京都で生まれる。その16年前(1123)に父鳥羽天皇は曽祖父・白河法皇の圧力で崇徳天皇に譲位しており、体仁が生まれた時点で父は上皇になっていた。母は藤原長実(ながざね)の娘、美福門院(びふくもんいん)得子(とくし、なりこ)。 父・鳥羽上皇には待賢門院・藤原璋子(しょうし)という中宮がいたが、璋子は曽祖父・白河法皇の愛人という噂があり、鳥羽院は複雑な心持ちであったらしい。1129年に白河法皇が76歳で没すると、鳥羽院は前関白の藤原忠実など反白河派を院庁の要職に起用して身辺を固め、院政を開始。さらに忠実の娘泰子(高陽院)を皇后に立てたうえ、1133年頃から璋子に代わって側妃の藤原得子(とくし、なりこ/美福門院)を寵愛した。得子は璋子より16歳若く、並外れた美貌を持っていた。 1139年に美福門院得子が体仁親王を出産すると、母に似て非常に美しく、第九皇子で皇位継承順位が下位にもかかわらず、鳥羽上皇は「早くこの子を帝にしたい」と願うようになる。近衛帝の幼少期について、『今鏡』は「器量も性格も本当に可愛らしく、この世のものとは思われないほど、賢く大人びていて」と記す。 1142年、鳥羽上皇は強引に崇徳天皇(近衛の異母兄)を譲位させて、3歳の近衛天皇を即位させた。鳥羽上皇は出家して法皇となり、近衛天皇が幼帝であるため院政を敷いた。近衛帝の摂関は藤原忠通(藤原忠実の長男)が務めた。 1145年(6歳)、鳥羽院の中宮・待賢門院(璋子)が44歳で他界。 近衛天皇が12歳で元服した際、関白・藤原忠通と左大臣・頼長兄弟の間に立后の競争が行われ、先に頼長の養子多子(たし)が皇后に立った。これに対抗すべく、忠通は養女呈子(ていし)を中宮に立てる。世継ぎが生まれない状況で摂関家内部の対立は深まり、「保元の乱」の遠因となった。 鳥羽法皇から愛された近衛天皇であったが大変病弱であり、一時期失明しかけた重い眼病は崇徳院の呪詛が原因と噂された。1155年に16歳の若さで崩御する。 深い悲しみのなか、鳥羽法皇と美福門院得子は近衛帝の早逝について「わが子を皇位につけようとする崇徳院や、その支持者である左大臣(悪左府)藤原頼長の呪詛(じゅそ)によるもの」との噂を信じてしまう。それゆえ、次の天皇に崇徳帝の子は選ばれず、10年前に没した璋子の子であるが、得子が手元に置いて養育していた近衛天皇の兄・後白河天皇を即位させた。「後白河天皇&美福門院&関白・藤原忠通」 VS 「崇徳上皇&藤原頼長」という確執が、翌年の『保元の乱』に繋がっていく。 陵墓は京都市伏見区の安楽寿院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)。鳥羽院が伏見に造営した安楽寿院の境内に隣接して築かれた。 父・鳥羽法皇は安楽寿院の中に生前から2つの塔を並べ建てていた。ひとつは自分の墓となる「本御塔」、もうひとつは最愛の皇后・美福門院藤原得子ための「新御塔」。ところが鳥羽天皇の崩御の4年後、美福門院が没したときに遺言で高野山に眠ることを願ったことから、「新御塔」は空っぽに。そして他の寺に遺骨が仮安置されていた息子の近衛天皇の遺骨が入った。 近衛天皇の御陵は歴代唯一の多宝塔(新御塔)付きであるが、桃山時代に伏見が震源地となった「慶長の大地震」(1596)が起きて多宝塔は一度倒壊している。1606年に豊臣秀頼が資金を出して多宝塔を再建した。内部には鳥羽法皇が造らせた阿弥陀如来像が安置されているという(宮内庁が見せてくれない…)。 ※「虫の音の弱るのみかは過ぐる秋を惜む我が身ぞまづ消えぬべき」(近衛天皇) ※類いまれなる美貌で帝の心を掴んだことが戦乱の遠因となったゆえか、美福門院は「殺生石」伝説の妖怪、白面金毛九尾の狐“玉藻前(たまものまえ)”のモデルになった。 |
2010年5月吉日。今回は開門していた! | 三十三間堂に隣接している街中の御陵だ | 天気にも恵まれ良い墓参になった |
平安時代末期の天皇。鳥羽天皇の第4皇子。崇徳天皇は兄、近衛天皇は弟。名は雅仁(まさひと)、法名は行真。在位は28歳から31歳までの3年間で、久寿2年7月24日(1155年8月23日)-保元3年8月11日(1158年9月5日)。政治的手腕に優れ、文学と音楽を愛した文化人だった。貴族の世から武士の世へと時代が激変するなか、皇室の権威を守るために奔走し続けた。
1127年に京都で誕生。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。2歳のときに絶対君主の曽祖父・白河法皇が76歳で崩御、鳥羽上皇の院政が開始される。1139年(12歳)に元服したが皇位継承の可能性はなく、気楽な日々を送り、平安朝の流行歌=今様(いまよう)など遊興に明け暮れ始める。この年に鳥羽院と美福門院得子の間に体仁(なりひと)親王(近衛天皇)が生まれると、第九皇子で皇位継承順位が下位にもかかわらず、鳥羽院は「早くこの子を帝にしたい」と願うようになる。 1142年(15歳)、崇徳天皇は抵抗しきれず譲位を行い、体仁親王は第76代近衛天皇として即位、これに伴って崇徳帝は上皇となった。 1143年、雅仁親王(後白河)の第一皇子・守仁(もりひと)親王(二条天皇)が生まれ、16歳で父となる。生母(いし)が出産6日後に急死したため、祖父の鳥羽院が守仁親王を引き取り、后の美福門院に養育させた。 1153年(26歳)、刑部卿(ぎょうぶきょう)の平忠盛(1096-1153)が57歳で没する。忠盛は鳥羽院の近臣として武将としての地位を築きあげ、西国の国守を歴任して日宋貿易で財力を蓄えた。嫡男の清盛(当時35歳/1118-1181)が平家武士団の首長を継ぐ。清盛は後白河帝の9歳年上にあたる。 1155年(28歳)、近衛天皇が16歳で急逝したことから、父・鳥羽法皇やその寵姫(ちょうき)・美福門院、関白・藤原忠通の意向により、美福門院が養子にしていた後白河の子・守仁親王を即位させるための暫定措置として、守仁の実父である28歳の雅仁親王が立太子を経ないまま第77代後白河天皇として即位した。遊興への没頭ぶりから、父鳥羽院は「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評され、「即位の器量ではない」とみられ、あくまでも“つなぎ”という扱いの帝位就任だった。一方、兄の崇徳上皇は自身の皇子を皇位に就かせて院政を執る夢が破れた。 1156年(29歳)、鳥羽法皇の崩御。これをきっかけに、皇位継承に端を発して崇徳上皇&藤原頼長らが挙兵し「保元の乱」が勃発。後白河天皇は平清盛(38歳)らと組んでこれを迎え撃ち、夜襲をかけて崇徳側を破った。崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は流矢がもとで死亡した。貴族間の対立を武士集団が解決したことで、保元の乱は平氏、源氏が活躍する武士の時代が始まるきっかけとなった。実力で敵を倒す中世の到来だ。 その後、後白河天皇は乳母の夫・藤原信西(しんぜい)=藤原通憲(みちのり)を重用して政治を取り仕切らせる。平安時代初期の818年に嵯峨天皇が死刑を停止する宣旨(盗犯に対するものだったが事実上の全面停止に)を出していたが、信西は死罪を346年ぶりに復活させ、保元の乱で崇徳側についた武士たちへの死刑を断行した。源為義、平忠正は一族もろとも斬首され、信西は多くの恨みを買った。信西は宣旨を利用して思うがままの政治を行い、新制七か条を制定。記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとした。後白河天皇は保元の乱で没収した所領を院領とし、来たるべき院政に備えた。 1158年(31歳)、後白河天皇は15歳になった第一皇子・守仁親王(二条天皇)に譲位し、上皇として院政を開始する。以降、後白河院の院政は二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽という「5代34年」にわたり、王朝権力の復興・強化に専念した。 同年、男色関係で寵愛していた有力貴族の権中納言(ごんちゅうなごん)・藤原信頼(25歳/1133- 1160)が賀茂祭のおりに関白・藤原忠通と対立、後白河帝は忠通を叱責して 閉門に処し、忠通は関白職を嫡男・基実に譲った。宮中は院政重視の後白河派と、天皇親政を目指す二条天皇派に分かれ、さらに後白河派内部でも信西と信頼の間に反目が生じ不穏な空気が流れる。 翌1159年(32歳)、藤原信頼はさらなる出世を望んだが政敵の信西に阻まれてこれを恨み、清盛の急速な台頭に不満を持っていた源氏の源義朝(1123-1160)を誘い挙兵、クーデター「平治の乱」を起こす。信頼・義朝勢は清盛が熊野詣で都を出ている隙に後白河院の御所を襲撃し、後白河院と二条天皇は内裏に幽閉された。信西は土中の箱に隠れていたところを追っ手に発見され、自ら首を突いて自害する。その首はさらし首にされた。これにより信頼は朝廷最大の実力者に成り上がり勝利を確信したが、急ぎ帰京した清盛が二条天皇の救出に成功し、二条帝は清盛の六波羅邸に入った。二条帝は女性のような容貌を持つ美男子であったことから、女装して逃げ延びたという。後白河院も自力で仁和寺に脱出する。天皇&上皇という切り札を失い、官軍から賊軍となった信頼・義朝勢は一気に士気が落ち、清盛の大軍に駆逐された。 乱後、信頼は仁和寺にいた後白河院に助命を訴えたが拒絶され、公卿にもかかわらず六条河原で斬首された。源義朝は東国へ逃れる途中で家臣の裏切りにあい殺害される。源氏の多くの有力武士が「平治の乱」で命を落とし、世は平氏の天下になった。 1161年(34歳)、平安京外の東山に院御所・法住寺殿が完成し、後白河院は移り住む。半年後、後白河院が格別に寵愛していた清盛の義妹、平滋子(建春門院/清盛妻・二位尼時子の妹/当時19歳、1142-1176)が第7皇子・憲仁(のりひと)親王(高倉天皇)を生む。後白河院が滋子を寵愛したことで平氏と良好な関係が生まれ政界は安定した。 1162年(35歳)、二条派が力を持つようになり、後白河派の源資賢・平時忠(滋子の兄)が二条帝呪詛の容疑で流罪となった。 1164年(35歳)、配流先の四国にて崇徳院が45歳で崩御。「怨霊となって日本を呪う」と誓いながらの最期であったと伝わる。 1165年(38歳)、二条天皇がまだ1歳の第2皇子・順仁(のぶひと)に譲位し、22歳の若さで崩御。順仁は六条天皇として即位した。二条帝の死で流罪となっていた平時忠が呼び戻される。同年、後白河院の長年の宿願だった観音仏1001体の蓮華王院(三十三間堂)の造営が清盛の尽力で完成する。 1167年(40歳)、清盛が太政大臣まで上り詰め、政権を手中に収める。 1168年(41歳)、清盛は一時病に倒れ、出家する。後白河院は体制を安定させるため、六条天皇を在位3年で譲位させ、院の第7皇子・憲仁親王(7歳)を高倉天皇として即位させた。病から回復した清盛は福原(神戸)に別荘を造営し、厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。 1169年(42歳)、後白河上皇は出家し法皇となる。東大寺で院と清盛は並んで受戒した。 1170年(43歳)、帝と外国人との接見は宇多天皇(867-931)の遺戒で約150年もタブーとされた行為であったが、日宋貿易が盛んになるなか、好奇心旺盛な後白河院は福原(神戸)に御幸して宋人と会った。右大臣(のちに太政大臣)九条兼実は「我が朝延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」と驚愕した。 1171年(44歳)、清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇に入内させ、翌年徳子は中宮となる。平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、10数名の公卿、殿上人30数名を占めるに至る。平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた。 1174年(47歳)、後白河院は滋子を伴って厳島神社に参詣する。天皇や院が后妃を連れて海路を渡り、遠方まで旅行することは前代未聞であり、公卿たちは仰天した。院には正式な中宮・藤原忻子(きんし)がいたが、聡明な滋子を溺愛し、遠方に連れて行ったり、桟敷に並んで行列を見物する相手に選んだ。院は厳島神社の風景を楽しみ、巫女の舞を見て「伎楽(ぎがく、仮面舞踊劇)の菩薩が舞の袖をひるがえすのも、このようであったろうか」と感嘆、今様を歌って感極まり涙を流したという。 1176年(49歳)、後白河院は数えで50歳になり、それを祝った大規模な祝宴が開かれ、平氏一門が出席し蜜月ぶりを世に示した。宴のあと、院は滋子と有馬温泉に御幸(みゆき※天皇は行幸、上皇は御幸)。これが2人の最後の幸福な思い出となった。6月に滋子は突然の病に伏し、翌月に34歳で他界する。この年は朝廷で不幸が相次いだ。後白河天皇の孫、六条上皇がわずか11歳で崩御。故・二条天皇の中宮・しゅし内親王(高松院)が34歳で他界。故・近衛天皇の中宮・藤原呈子(九条院)が45歳で他界。 平滋子の死で政治的な安定は終わり、院の近臣と平氏の争いが激化する。後白河院はもともと清盛を貴族社会に引き立ててその勢力を利用しようとしていたが、あまりに平氏の勢力が強大になると、今度は平氏一門を排除するべく水面下で動き始める。 1177年(50歳)、後白河法皇の近臣、権大納言・藤原成親や僧・西光(藤原師光)が中心となり平氏打倒計画を策謀。藤原成親は左近衛大将の地位を望むも、清盛の長男・重盛(1137-1179)・三男宗盛(1147-1185)が左右大将に任命されて平氏を憎んでいた。仲間の僧・俊寛の京都東山鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘で謀議をおこない、平康頼、藤原成経(成親の子)、北面武士の多田行綱らも加わったが、多田行綱が清盛に密告し陰謀が発覚した。成親は重盛の妻の兄でありいったんは助命されたが配流先で暗殺された。また俊寛は平頼盛(清盛の異母弟)の兄弟だった。清盛は身内に近い者が反逆者であったことに衝撃を受ける。黒幕が後白河法皇であったことに激怒したが、院は「これは何事であるか」とすっとぼけた。 4月に都を包む安元の大火があり、大内裏・京中の多くを焼き尽くした。6月に「鹿ケ谷の陰謀」が露見、他にも延暦寺の強訴など社会的混乱が続き、前年に次々と亡くなった人物が崇徳帝と敵対した後白河法皇や関白藤原忠通の近親者であったことから、貴族らは「(保元の乱の)崇徳帝や悪左府・頼長の怨霊のタタリではないか」と噂しあった。7月、保元の乱の怨霊の鎮魂のために讃岐院の院号を崇徳院に改め、藤原頼長には太政大臣正一位が贈られた。 1178年(51歳)、高倉天皇と清盛の娘・徳子(建礼門院)の間に第1皇子の言仁(ときひと※安徳天皇)が生まれる。 1179年(52歳)、後白河院は平氏の弱体化に向けて手を緩めず、摂関家に嫁していた清盛の娘・白河殿盛子が死ぬと彼女の摂関家領を没収し、また宮廷人事においても清盛の意向を無視したやり方を続けた。9月には清盛との対立を抑える最後の歯止め、嫡男・重盛(1138-1179)が41歳で他界。清盛は11月に軍を率いて福原から上洛してクーデターを敢行、法皇を自由に行動させないため住み慣れた法住寺殿から洛南の鳥羽殿へ連行し、約一年間幽閉した。院政は停止され、関白・基房は配流され、院近臣39名が解官された。自由を失った後白河院は体調を崩し、医師に「もう一度、熊野詣に行きたい」と涙ながらに訴えたという。 翌1180年(53歳)、3月清盛は天皇の外戚(母方の親戚)の地位の実現を急ぎ、高倉天皇に退位を迫り、第81代安徳天皇(2歳/1178-1185)の即位を強行する。これに皇統に繋がる人々は反発、2カ月後(即位の翌月?)に後白河院の第3皇子・以仁王(もちひとおう/29歳)が全国の「源氏」に反平氏の武装蜂起を呼びかけ、源頼政と挙兵を試みる。だが準備が整わないうちに計画が漏れ、以仁王は平氏の軍に討たれ、頼政も平等院で自害したが、この動きに呼応して木曽義仲、源頼朝など平氏打倒の挙兵が各地で相次いだ。6月清盛は反平氏勢力との戦いに備えて平氏の本拠地・福原へ遷都し、後白河院も強制的に同行させられ、福原の平教盛邸に入った。だが新都の建設は財政的に厳しかったうえ、10月に富士川の戦いで源氏軍に大敗したことから、11月に清盛も後白河院も京都に戻った。 1181年(54歳)、高倉上皇(後白河天皇の第7皇子)が19歳で崩御し、2年ぶりに後白河院の院政が再開される。高倉上皇崩御の2カ月後には平清盛が謎の熱病により63歳で死去。訃報を聞き、後白河院は近臣らと今様を歌って喜んだ。その日、法住寺殿からどっと笑う声が聞こえたという。清盛没後に平氏を率いた平宗盛も、法皇を正面に押し立てて諸国の反乱に対処した。源頼朝(1147-1199)も後白河院の存在に着目し、以仁王に代わる皇威の象徴として接近を図った。 1183年(56歳)、5月に平維盛を総大将とする10万騎の大軍が北陸征討に向かうも倶利伽羅(くりから)峠の戦いで惨敗。源義仲(木曾義仲)の軍勢が京に迫り、平氏一門は西国に都落ちした。後白河院は平氏に連行されないよう、いち早く延暦寺に逃れ、上洛した源義仲・源行家に平氏追討令を出す。だが前年から大飢饉が日本を襲っており、義仲軍には略奪に走る者もいた。院は義仲軍の粗暴な振る舞いを源頼朝に伝え、頼朝に東国の支配権を認めるなど、頼朝と義仲が対立するよう仕向けていった。夏には平氏一門200余人を解官、平氏の占めていた官職・受領のポストに次々と院の近臣を送り込んだ。ただ、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に平家没官領140余箇所を与える。9月に院は高倉天皇の第4皇子を後鳥羽天皇として即位させた。安徳天皇はまだ退位しておらず、天皇が2人いる異常な事態となる。義仲は以仁王の子息・北陸宮の即位を主張し反発した。11月、院御所の法住寺殿が義仲軍の襲撃を受けて炎上、後白河院は摂政邸に幽閉された。この法住寺合戦で天台座主・明雲は院を守るために討死している。後白河院は頼朝に救援を要請し、弟の源範頼(のりより)・義経軍が派遣された。12月、後白河院は義仲に恫喝され頼朝追討の院庁下文を発給する。 1184年(57歳)、1月義仲は京へ進軍してきた源範頼・義経軍に敗れ戦死した。2月に平宗盛追討の宣旨を下し、源範頼・義経軍は一ノ谷の戦いで平氏軍を壊滅させる。院は平宗盛に神器の返還を求めたが、「合戦してはならないという院宣を守り、和平交渉の用意をしていたのに源氏の不意打ちがあった」と抗議された。8月に義経を京都の治安維持を任務とする検非違使に任じ、10月には義経を五位に叙し、院昇殿・内昇殿を許すなど厚遇を示した。後白河院は力を増す頼朝を警戒し、義経を頼朝の対抗勢力にするため高い官位を与えた。頼朝は「事前に相談がなかった」と怒り、頼朝・義経兄弟は不仲になっていく。 飢饉や戦乱が続くなか、後白河法皇は崇徳院の怨霊を恐れ、崇徳院派を「凶徒」と呼んだかつての勝利宣言を破却し、鎮魂のため保元の乱の戦場跡に「崇徳院廟」(粟田宮)を建てて弔った。また、崇徳院陵に隣接する讃岐の白峯寺は朝廷から保護されるようになった。 1185年(58歳)、1月に義経は都から出陣し、四国の平氏の本拠地・屋島を攻略、3月24日には壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。二位尼(清盛妻)は孫の安徳天皇(6歳)を抱いて入水。こうして5年に及んだ治承・寿永の乱は終結した。6月捕虜になっていた平宗盛、平重衡(清盛五男)が斬首され、後白河院は晒された宗盛の首を見物した。平時忠は流罪となった。7月に京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊する。 10月源義経・行家と頼朝の対立が決定的となり、義経は謀叛を決心、後白河院は義経の要請に応じる形で「頼朝追討」の宣旨を与えた。だが兵が集まらず、翌月に義経は京都を退去した。後白河院は頼朝に「行家義経の謀叛は天魔の所為」と弁明したが、頼朝は「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候ふか」と厳しく糾弾した。そして、義経や平氏残党の捜索を理由に、全国に守護・地頭を配置させ、兵糧米の徴収などを公認させた。頼朝は守護・地頭の設置により全国の軍事・警察権をにぎり、貴族や寺社の荘園に対してもその力が及ぶようになった。東国に限られていた頼朝の権力は全国的規模へと発展し、守護・地頭に頼朝の御家人を任命することで、頼朝は武家政権確立に大きく歩み出した。 1189年(62歳)、頼朝の圧迫を受けた奥州の藤原泰衡は保護していた義経を襲撃して自害に追い込む。その後、頼朝は自ら軍を率いて奥州に向かい、9月に奥州藤原氏を滅ぼした。 1190年(63歳)、11月頼朝は千余騎の軍勢を率いて上洛、後白河院と初対面する。頼朝は20歳年下の43歳、両者水入らずで話し合う。頼朝は都に40日間滞在し、この間に8回対面し、双方はわだかまりを払拭した。頼朝は院に砂金800両を献上。 1191年(64歳)、戦乱と地震で荒廃していた法住寺殿が幕府の支援で再建された。後白河院は年末に病の床に伏し、平癒を祈って崇徳上皇の廟・藤原頼長の墓へ供物を捧げ、安徳天皇の御堂建立などを行った。 1192年、雨の中を見舞いに来た後鳥羽天皇の笛に合わせて今様を歌う元気な姿を見せたが、翌月の建久3年3月13日(1192年4月26日)に後白河院は64歳で崩御した。院はこれ以上頼朝に権力を与えないため、存命中は頼朝が征夷大将軍となることを許さなかった。ひとつの時代が終わり、崩御の4カ月後、頼朝に征夷大将軍の宣下(せんげ)がなされ鎌倉に武家政権が成立し、約700年にも及ぶ武士の世の幕が開く。朝廷と鎌倉幕府の協調関係は承久の乱まで約30年間保たれた。 後白河院には敵対した相手や一度見限った人物でも、時が過ぎれば登用する心の広さもあった。藤原頼長の子で琵琶の名手であった師長は太政大臣となり、信西の子供達を公卿に取り立て、二条親政派として罰した大炊御門経宗はその後左大臣を20年以上務め、いったん見放した近衛基通は寵臣となった。 後白河法皇は歴代天皇の中でもとりわけ熱心な仏教徒で、出家前から袈裟を着て護摩をたくなど、仏法に帰依していた。出家後も、高野、比叡、東大寺などの参詣を盛んに行ない、熊野参詣は34回に及んだ。蓮華王院(三十三間堂)、長講堂(法華長講弥陀三昧堂※院御所の六条殿につくった道場、持仏堂)など多数の寺を建立し、仏像を造らせた。また、後白河院は絶えて久しかった大内裏(だいだいり)造営を行った。流行歌の今様(いまよう)が大好きで、歌の名人と聞けば身分を問わず、遊女、人形遣いなども召し出して夜を徹して歌い、声をつぶしたこともあったという。今様を分類整理した歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』(10巻)および『梁塵秘抄口伝集』(10巻)を自ら撰し、後者には「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。(略)鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」と記した。 後白河院は遺言によって自身が建立した法華三昧堂の地下に葬られた。陵墓の法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)は、京都市東山区の三十三間堂のすぐ東側にある。三十三間堂はもともと後白河法皇の御所・法住寺殿の御堂のひとつだった。三十三間堂の向かい側には自分の墓として法華堂を建てていたがそこに眠っていない。なぜか。後白河法皇より先に最愛の建春門院平滋子(清盛の義理の妹/清盛正室時子の異母妹)が35歳で先立ったため、法華堂は建春門院に譲り、自身は南側に新たに御堂を建て地下に眠った、そう考える歴史研究者がいる。いま、法華堂があった場所には養源院が建っている。1864年、法住寺法華堂が後白河院天皇陵であることを確認するため発掘調査がなされた。 保元の乱、平治の乱、平氏全盛、源平合戦(治承の内乱)、平氏滅亡、鎌倉幕府成立、守護地頭の設置、これら大きな世の変化を最前列で見届けた後白河帝。平氏を追い落とすために木曽義仲や頼朝を利用し、次に頼朝に義仲を攻めさせ、頼朝が力を持つと義経や奥州藤原氏を動かして裏から頼朝排斥に動いた。 義経に求められて頼朝追討の宣旨を下し、義経没落後は頼朝に義経追捕の院宣を下した。頼朝から奥州藤原氏追討の院宣を要求されて拒否したが、頼朝が滅ぼしてしまうと事後承諾の形で奥州藤原氏追討の院宣を下しており、武士の対立を巧みに利用して王朝権力を維持した。政争・戦乱の陰の演出者ともいえ、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるも、そのたびに復権を果たした。 即位の際は周囲からまったく期待されていなかったが、いざ皇位につくと策謀を駆使して、武家台頭という一大転換期の政治の舵取りを行った。戦乱続きの時代にあって手駒の武士が用済みになれば他勢力に討伐させるという策士ぶりは、あの源頼朝をして「日本国第一の大天狗」と言わしめた。 |
住宅地にあります | 参道の木々は大きく成長している | 夕暮れの陵墓は昼間以上に空気が穏やか |
巨大な一本松が特徴 | 夕陽で白砂の筋がクッキリ。道があるようだ |
平安時代末期の天皇。在位は15歳から22歳までの7年間で、保元3年8月11日(1158年9月5日)-永万元年6月25日(1165年8月3日)。諱は守仁(もりひと)。 1143年に後白河天皇の第一皇子・守仁(もりひと)親王として、左大臣源有仁の養女・源懿子(いし)との間に生まれる。※生年はブリタニカ百科事典など多くの資料で「1143年7月30日〈康治2年6月17日〉」となっているが、ウィキペディアでは「1143年7月31日〈康治2年6月18日〉」に。どちらが本当だろう? 生母が出産直後に急死したことで、守仁は祖父の鳥羽法皇に引き取られ、その后の美福門院に養育された。先に養子として重仁親王(崇徳上皇の長男)がいたうえ、近衛天皇(1139-1155)もまだ若く、皇位継承の望みは極めて薄いため9歳のときに仁和寺で僧籍に入った。 1155年、12歳のときに近衛天皇が16歳で急逝。崇徳院を嫌う鳥羽上皇の意向で父・後白河(28歳)が守仁への中継ぎとして皇位を継いだため、守仁は還俗(げんぞく)し皇太子に就く。この皇太子就任は、叔父崇徳上皇の怒りを呼ぶ。崇徳上皇にはわが子を皇太子にして院政を敷く夢があった。 1156年(13歳)、後白河天皇の勢力と崇徳院の勢力が武力衝突した「保元の乱」が勃発。後白河側が勝利し崇徳院は讃岐に配流された。 1158年、後白河天皇は15歳になった守仁親王に譲位し、守仁は第78代二条天皇として即位する。幼帝ではなかったことから、関白になったばかりの藤氏長者(とうしのちょうじゃ)、同じ15歳の藤原基実(もとざね)らと天皇親政を行おうとして、父の院政に対抗し軋轢を深めた。朝廷は院政重視の後白河派と、天皇親政を目指す二条天皇派に分かれた。 ※関白・藤原基実は二条帝と同じ1143年に生まれ、二条帝崩御の翌年に他界している。 即位の翌1159年(16歳)、後白河院の近臣である信西(しんぜい、藤原通憲)と藤原信頼が対立、そこに武士団を率いる平清盛と源義朝の勢力争いが重なり、「平治の乱」が勃発する。清盛が熊野詣で都を出ている隙に、信頼・義朝勢は後白河院の御所を襲撃し、後白河院と二条天皇は内裏(黒戸御所)に幽閉された。信西は討たれて晒し首にされたが、急ぎ帰京した清盛が二条天皇の救出に成功し、二条帝は清盛の六波羅邸に入った。二条帝は女性のような容貌を持つ美男子であったことから、女装して逃げ延びたという。後白河院も自力で仁和寺に脱出。天皇&上皇という切り札を失い、賊軍となった信頼・義朝勢は一気に士気が落ち、清盛軍に駆逐された。信頼は六条河原で斬首。源義朝は東国へ逃れる途中で家臣の裏切りにあい殺害される。源氏の多くの有力武士が「平治の乱」で命を落とし、世は平氏の天下になった。 乱後、二条帝は清盛らに官爵を与えてこれを賞した。 1160年(17歳)、二条親政派の大炊御門経宗(二条生母・懿子の弟)と葉室惟方(二条の乳母・俊子の子)が後白河上皇の命により配流されて失脚、さらに後見の美福門院が死去するなど周囲から支持者が消えていく。その中にあって、二条帝は太政大臣・藤原伊通(これみち、美福門院の従兄弟)と、乳母・平時子の夫・平清盛を頼みとした。二条帝は清盛を検非違使別当・中納言にすることで軍事的な後ろ盾とした。 同年、二条帝は先帝・近衛天皇の皇后で「天下一の美女」といわれた20歳の藤原多子(たし/まさるこ/1140-1202)を強引に再入内させた。皇后であった女性がのちに別の天皇と再縁したのは、歴史上、多子しかいない。後白河院は「二代の后の例がない」と反対したが近衛帝は押し切った。 1161年(18歳)、後白河院と平滋子(清盛の義妹)の間に第七皇子・憲仁(のりひと)親王(高倉天皇)が誕生。同年、この憲仁親王を皇太子にしようとする陰謀が発覚し、二条天皇は後白河院近臣の平時忠・平教盛・藤原成親らを解官、ついに院政を停止させた。実権を掌握した二条天皇は内裏を清盛に警護させた。さらに、藤原忠通の養女・藤原育子を中宮として、関白・近衛基実とも連携して摂関家も自らの下に取り込むことに成功した。政治から排除された後白河上皇は仏教の世界にのめり込んでいく。 1162年(19歳)、自らを呪詛した平時忠・源資賢を配流し、さらに政治基盤を固める。 1164年(21歳)、二条天皇と藤原育子の間に第二皇子・順仁(のぶひと)親王が生まれる。同年、配流先の四国にて崇徳院が45歳で崩御。「怨霊となって日本を呪う」と誓いながらの最期であったと伝わる。 1165年、二条帝は清盛らの協力を得て本格的な新政を開始しようとした矢先に病に倒れる。直前には太政大臣の藤原伊通が他界。二条天皇はまだ1歳の順仁親王に譲位し、22歳の若さで崩御した。順仁親王は六条天皇として即位。2人の帝を見送った多子は年末に出家した。 二条帝は優れた人物で「末の世の賢王におはします」(『今鏡』)と賞賛され、争乱によって衰微していた歌壇を復興し『続詞花和歌集』を編纂させた。「雲はみな峯のあらしにはらはせてさやけく月の澄みのぼるかな」(二条天皇) 陵墓は京都市北区の香隆寺陵。二条天皇の葬儀は寂しく「人数いくばくたらず」と記された。住宅地にあり、参道の木々は大きく成長している。円丘。 |
「六条天皇御陵・高倉 天皇御陵 参道」の石柱 |
左側の暗がりが参道。ここから入っていく。 清閑寺の駐車場からでも行けるけどここは古式で |
この奥にあった清閑寺の茶室で、西郷と 清水寺の月照上人が勤皇の謀議を交わした |
手前に高倉天皇陵、その奥に六条天皇陵がある。 でも、木々に遮られて六条天皇陵は視認不可能 |
帰りに駐車場から撮影。上の方の山中に御陵が あるという。まったく見えないけど… |
画面右の鉄門が六条天皇の御陵前に出る道を封鎖。 他に道がない以上、宮内庁は鍵を開けるべきだッ! |
平安時代末期の天皇。在位は1歳から4歳までの3年間で、永万元年6月25日(1165年8月3日)-仁安3年2月29日(1168年3月30日)。諱を順仁(のぶひと)。 1164年、二条天皇の第2皇子・順仁(のぶひと/よりひと)親王として、伊岐(いき氏の娘との間に生まれた。 1165年、父・二条帝は病に伏せ、まだ1歳の順仁親王に譲位したのち22歳の若さで崩御した。順仁親王は六条天皇として即位し、祖父・後白河上皇が院政を行なった。数え年2歳での即位は先例がない。 1167年(3歳)、平清盛が太政大臣まで上り詰め、政権を手中に収める。 1168年、清盛が一時病に倒れた際、後白河院は清盛が没した場合に反院政派が策動することを恐れ、体制を安定させるため六条天皇を在位3年で譲位させ、後白河院の第7皇子・憲仁親王(7歳)を高倉天皇として即位させた。 六条上皇はまだ4歳であり、元服以前に太上天皇を称したのは史上初。 1176年、11歳で崩御。配偶者はなし。1歳で即位したのも4歳で上皇になったのも共に前代未聞だった。 陵墓は京都市東山区の清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)。清閑寺旧境内の山腹に眠り、叔父の高倉天皇陵と合わせてひとつの墓所となっている。手前に高倉天皇陵、奥に六条天皇陵。円丘。 |
京の都から醍醐方面に続く道にある清閑寺 (せいかんじ)。この寺の裏山に陵墓がある |
ここは平家物語の悲劇の女性、 小督局(こごうのつぼね)ゆかりの寺 |
境内の小督局供養塔。本物の墓 は高倉天皇陵の傍で見えない |
これ以上近くに行けない。一般拝所から遠すぎる〜! | あの塀の向こうで高倉天皇と小督局が並んで眠っている |
小督局は京の都が一望できるこの「要石(かなめいし)」のあたりに立ち、宮中の日々を懐かしんでいたという… |
平安時代末期の天皇。在位は7歳から19歳までの12年間で、仁安3年2月19日(1168年3月30日)-治承4年2月21日(1180年3月18日)。
1161年、後白河天皇の第7皇子・憲仁(のりひと)親王として生まれた。母は平清盛の妻の妹、平滋子(建春門院)。清盛の娘で関白基実の妻盛子の猶子となる。幼少の頃から柔和な性格の持ち主だった。 誕生時、朝廷は二条天皇派と後白河院派に分かれており、後白河院派は憲仁親王を皇太子にしようと策謀、これが発覚し二条天皇は後白河院近臣の平時忠・平教盛・藤原成親らを解官、院政を停止させた。 1165年(4歳)、二条天皇が病に伏せ、1歳の順仁親王に譲位したのち22歳の若さで崩御する。順仁親王は第80代・六条天皇として即位し、祖父・後白河上皇が院政を行なった。数え年2歳での即位は先例がない。 1166年(5歳)、六条天皇の皇太子となる。 1167年(6歳)、平清盛が太政大臣まで上り詰め、政権を手中に収める。 1168年(7歳)、清盛が一時病に倒れた際、後白河院は清盛が没した場合に反院政派が策動することを恐れ、体制を安定させるため六条天皇(4歳)を譲位させ、院の第7皇子・憲仁親王(7歳)を高倉天皇として即位させた。 1171年(10歳)、清盛は娘の徳子(建礼門院/当時16歳/1155-1214)を高倉天皇に入内させ、翌年徳子は中宮となる。平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、10数名の公卿、殿上人30数名を占めるに至る。平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた。 皇室との密接な関係を求める清盛の政策で,承安2(1172)年清盛の娘徳子(のちの建礼門院)を中宮に迎える。 1176年(15歳)、朝廷を次々と不幸が襲う。先帝六条上皇が11歳で崩御。後白河院最愛の平滋子が34歳で他界。故・二条天皇の中宮・しゅし内親王(高松院)が34歳で他界。故・近衛天皇の中宮・藤原呈子(九条院)が45歳で他界した。平滋子の死で政治的な安定は終わり、院の近臣と平氏の争いが激化する。後白河院はもともと清盛を貴族社会に引き立ててその勢力を利用しようとしていたが、あまりに平氏の勢力が強大になったため、平氏一門を排除するべく水面下で動き始める。 1177年(16歳)、後白河法皇の近臣による平氏打倒計画「鹿ケ谷の陰謀」が発覚。清盛は身内に近い者が反逆者であったことに衝撃を受ける。同年は「安元の大火」があり、大内裏・京中の多くを焼き尽くした。前年から続く凶事に、貴族らは「(保元の乱の)崇徳帝や悪左府・頼長の怨霊のタタリではないか」と噂しあった。 年末に、高倉天皇が寵愛した小督局(こごうのつぼね)が第2皇女・範子内親王を出産したのち、清盛の命により清閑寺で出家させられた。 ※高倉天皇には清盛の娘・徳子という中宮がいたが、藤原通憲(信西)の孫で中納言・藤原成範(しげのり)の娘・小督(こごう/1157-没年不詳)を寵愛した。4歳年上の小督は美人で箏(こと)の名手。清盛は高倉天皇が中宮である娘徳子よりも小督に夢中になっていることに憤慨、小督を御所から追い出した。小督は清盛を恐れて嵯峨野に身を隠すが、高倉帝の勅命を受けた源仲国に探索に向かう。仲国が月夜の嵯峨野で笛を吹くと「想夫恋」の調べが遠くで聴こえ、粗末な小屋に隠れ住んでいた小督を見つけた。御所に連れ戻された小督は、その後範子内親王を出産。清盛の知るところとなり、小督は強引に出家させられ尼となった。ときに23歳。 雅楽「想夫恋」 https://www.youtube.com/watch?v=XYpfBDcHJJg (3分41秒) 1178年(17歳)、高倉天皇と清盛の娘・徳子(建礼門院)の間に第1皇子の言仁(ときひと※安徳天皇)が生まれ、皇太子とする。 1179年(18歳)、父・後白河院は平氏の弱体化に向けて手を緩めず、摂関家に嫁していた清盛の娘・白河殿盛子が死ぬと彼女の摂関家領を没収し、また宮廷人事においても清盛の意向を無視したやり方を続けた。清盛は軍を率いて福原(神戸)から上洛してクーデターを敢行、洛南の鳥羽殿へ連行し約一年間幽閉した。院政は停止され、高倉天皇が自ら政務をとる。自由を失った後白河院は体調を崩し、医師に「もう一度、熊野詣に行きたい」と涙ながらに訴えたという。 1180年(19歳)、高倉天皇は中宮徳子(建礼門院)の父清盛と実父・後白河院の対立に思い悩む。そして父たちの関係を修復するため、後白河院と清盛の両方の孫であり、その血を受け継ぐ2歳の第1皇子・言仁(ときひと)親王に譲位し、言仁は第81代安徳天皇として即位した。別の説では、外戚(母方の親戚)の地位の実現を急ぐ清盛が高倉天皇に退位を迫ったとする。おそらくどちらも正しいのだろう。これにより、清盛は外孫の天皇の擁立に成功し、悲願の平家政権を樹立する。清盛はかつての藤原氏のように天皇の外戚として実権を握り、高倉院は形式上の院政を敷いた。 譲位後、高倉院は清盛の強い求めで、平家の氏神だった厳島神社へ2度も御幸(みゆき)する。その後、清盛の一時的な福原遷都にも同行。 安徳天皇の皇位継承から3カ月後、平氏による政権支配に反発した後白河院の第3皇子・以仁王(もちひとおう/29歳)が、全国の「源氏」に反平氏の武装蜂起を呼びかけ、自身も源頼政と挙兵を試みる。以仁王は平氏の軍に討たれ、頼政も平等院で自害したものの、以仁王の呼びかけを機に平氏打倒の挙兵が各地で相次いだ。6月摂津国福原(神戸)に遷都したが11月京都に帰る。12月の平氏による南キ焼き討ちは反平氏の気運に拍車をかけた。 1181年、高倉上皇は生来の病弱に加えて心労が重なり19歳で崩御。その2カ月後には平清盛が謎の熱病により63歳で死去した。4年後に平氏は壇ノ浦で滅亡する。 1205年、歌人藤原定家が嵯峨で病床の小督を見舞ったという。 高倉天皇は詩歌管絃に優れ、なかでも笛の名手とうたわれた。諱は憲仁(のりひと)。新古今和歌集に高倉天皇の「薄霧の立ちまふ山のもみぢ葉はさやかならねどそれとみえけり」が入る。 陵墓は京都市東山区の清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)。崩御の夜、遺詔によって清閑寺の法華堂に埋葬されたが、のちに法華堂は失われた。現在、清閑寺旧境内の山腹に位置し、甥の六条天皇陵と合わせてひとつの墓所となっている。手前に高倉天皇陵、奥に六条天皇陵。陵域内には法華堂の基壇と見られる墳丘と、小督局(こごうのつぼね)の墓と伝える宝篋印塔がある。方丘。 ※小督局は生涯にわたって高倉天皇の菩提を弔い続け、彼女の墓は御陵に寄り添うように建てられた。 |
寂光院に隣接している。宮内庁が管轄 | 平家物語のラストエピソードを思い出し胸熱に | 鳥居の奥に見えた石塔。これが墓石なのかも |
院号、建礼門院。平清盛と平時子の娘。高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母。重盛は兄。弟たちに宗盛、知盛、重衡がいる。1171年、16歳で高倉天皇に入内し、翌年中宮となる。1178年(23歳)、第一皇子・言仁親王(安徳天皇)を出産。1180年(25歳)、安徳天皇が1歳5ヶ月で即位する。翌年、高倉上皇が19歳の若さで崩御し、徳子は院号を授かり建礼門院を称した。同年、清盛が他界。 やがて時代は源平争乱に。1183年(28歳)、源氏の木曽義仲に京都を占領され、平氏一門は京を脱出する。徳子は、大宰府、屋島(香川)、壇ノ浦へと運命を共にしていく。 1185年(30歳)、平家は「壇ノ浦の戦」で敗北し、母・時子が安徳天皇(6歳)を抱いて入水した後、徳子も海中に身を投げた。ところが、徳子は源氏側の熊手に髪をかけられ、引き上げられて京都に送還されてしまう。同年出家し、真如覚と称し大原寂光院に入る。以降、他界するまで約30年の間、ただひたすらに平氏一門と幼い安徳の冥福を祈り菩提を弔った。享年59歳。墓所は大原寂光院に隣接する大原西陵。『平家物語』は後白河法皇が大原の徳子を訪ねる話で締めくくられている。 |
6歳の入水は悲しすぎる… |
壇ノ浦を望む赤間(あかま)神宮。 安徳天皇が竜宮城に いる夢を母の建礼門院が見たため竜宮城の形をしている |
境内の奥には壇ノ浦に散った知盛や教経など、 平氏を代表する14名の墓が並んでいる |
平家の滅亡と運命を共にした幼き天皇。「安徳天皇阿弥陀寺陵」は壇ノ浦にある | 平時子の墓(清盛の妻) |
平安時代末期の天皇。歴代天皇で最も短命だった悲劇の幼帝。高倉天皇の第1皇子。在位は1歳5ヶ月から6歳4ヶ月の5年間で、治承4年4月22日(1180年5月18日)-寿永4年3月24日(1185年4月25日)。諱は言仁(ときひと)。
1178年に言仁(ときひと)親王として平重盛(清盛嫡男)の六波羅邸で誕生、翌月に立太子。父帝・高倉天皇は後白河天皇の第7皇子、母は平清盛の娘・徳子(建礼門院)であり、言仁親王は両者の孫にあたった。 1179年、父方の祖父・後白河院は、強くなり過ぎた平氏を弱体化させるべく、摂関家に嫁していた清盛の娘・白河殿盛子が死ぬと彼女の摂関家領を没収し、また宮廷人事においても清盛の意向を無視したやり方を続けた。清盛は軍を率いて福原(神戸)から上洛してクーデターを敢行、後白河院を洛南の鳥羽殿へ連行し約一年間幽閉した。 1180年、父・高倉天皇は中宮徳子(建礼門院)の父清盛と実父・後白河院の対立に思い悩む。そして父たちの関係を修復するため、後白河院と清盛の孫であり、双方の血を受け継ぐ約1歳半の言仁親王に譲位し、言仁は第81代安徳天皇として即位した。別の説では、外戚(母方の親戚)の地位の実現を急ぐ清盛が高倉天皇に退位を迫ったとする。おそらくどちらも正しいのだろう。これにより、清盛は外孫の天皇の擁立に成功し、悲願の平家政権を樹立する。清盛はかつての藤原氏のように天皇の外戚として実権を握り、高倉院は形式上の院政を敷いた。摂政は藤原基通。 安徳天皇の皇位継承から3カ月後、平氏による政権支配に反発した後白河院の第3皇子・以仁王(もちひとおう/29歳)が、全国の「源氏」に反平氏の武装蜂起を呼びかけ、自身も源頼政と挙兵を試みる。以仁王は平氏の軍に討たれ、頼政も平等院で自害したものの、以仁王の呼びかけを機に木曽義仲など平氏打倒の挙兵が各地で相次ぎ、夏には源頼朝が東国で挙兵した。6月摂津国福原(神戸)に遷都したが11月京都に帰る。12月の平氏による南キ焼き討ちは反平氏の気運に拍車をかけた。 1181年(3歳)、父・高倉上皇は生来の病弱に加えて心労が重なり、19歳の若さで崩御。その2カ月後には祖父・清盛が熱病により63歳で死去した。2年ぶりに後白河院の院政が再開される。 1183年(5歳)、5月に平維盛を総大将とする10万騎の大軍が北陸征討に向かうも倶利伽羅(くりから)峠の戦いで惨敗。源義仲(木曾義仲)の軍勢が京に迫り、平氏一門は西国に都落ちした。平氏は大宰府を経て四国の屋島に行き、見晴らしの良い高台に行宮(かりみや)を置いた。後白河院は平氏に連行されないよう、いち早く延暦寺に逃れ、上洛した源義仲・源行家に平氏追討令を出す。前年から大飢饉が日本を襲っており、都に入った義仲軍には略奪に走る者が相次いだ。 後白河院は義仲軍の粗暴な振る舞いを源頼朝に伝え、頼朝に東国の支配権を認めるなど、頼朝と義仲が対立するよう仕向けていった。夏には平氏一門200余人を解官、平氏の占めていた官職・受領のポストに次々と院の近臣を送り込んだ。 同年9月、後白河院は高倉天皇の第4皇子を後鳥羽天皇として即位させた。安徳天皇はまだ退位しておらず、三種の神器も平氏の手にあり、天皇が2人いる異常な事態となる。 義仲は後鳥羽ではなく以仁王の子息・北陸宮の即位を主張し後白河院に反発、院御所を襲撃し後白河院を摂政邸に幽閉した。後白河院は頼朝に救援を要請し、弟の源範頼(のりより)・義経軍が派遣された。 1184年(6歳)、1月義仲は京へ進軍してきた源範頼・義経軍に敗れ戦死した。2月源範頼・義経軍は一ノ谷の戦いで平氏軍を壊滅させる。後白河院は平宗盛に神器の返還を求めたが、宗盛は「合戦してはならないという院宣を守り、和平交渉の用意をしていたのに源氏の不意打ちがあった」と抗議した。 1185年、1月に義経は都から出陣し、2月に讃岐国の平氏の本拠地・屋島を攻略、安徳天皇と平氏一門は海上へ逃れる。そして運命の3月24日、平氏は壇ノ浦にて源氏との決戦に挑んだ。午前中は平氏が有利に戦いを進めていたが、午後になって潮目が変わり、また船の漕ぎ手(非戦闘員)に対して義経軍が弓矢を射るという卑劣な戦法を使い(当時、馬や漕ぎ手を攻撃せぬ事が武士の掟だった)、機動力を失った平氏軍は敗北した。平氏一門は「見るべきものは全て見た」(平知盛)と次々に入水し滅亡する。 “もはやこれまで”と清盛の妻、安徳天皇の祖母・二位尼(にいのあま=平時子)は“三種の神器”のうち、草gの剣、神爾(しんじ、田代の勾玉)を身に付け、孫を抱きかかえた。 「尼、私をどこへ連れて行くのですか」 「この世は辛く厭わしい場所ですから、極楽浄土という素晴らしい場所にお連れ致します」 安徳天皇は6歳の小さな手を合わせ、東の伊勢神宮を拝んで暇(いとま)を告げ、西に向かって念仏を唱える。 二位尼は「波の下にも都がございます」と、安徳天皇を抱いて海中に身を投げた。満6歳4か月(数え年8歳)という歴代最年少の崩御となった。未婚の男性天皇は第22代清寧天皇・第79代六条天皇に次いで3人目で、以降は例が無い。三種神器のうち宝剣がともに海中に没した。 こうして5年に及んだ治承・寿永の乱は終結した。6月捕虜になっていた平宗盛、平重衡(清盛五男)が斬首され、後白河院は晒された宗盛の首を見物した。安徳帝の母・建礼門院は、二位尼と我が子の入水を見届けた後に身を投じたが、源氏軍の熊手に髪をかけられ引き上げられた。建礼門院は出家し、安徳天皇と平家一門の菩提を生涯弔い続けた。 陵墓は山口県下関市阿弥陀寺町の阿弥陀寺陵。壇ノ浦合戦の6年後(1191年※ウィキは1年後になってるけど6年後と思う)、源頼朝は安徳天皇の怨霊を鎮めるため阿弥陀寺御影堂を下関に建立する。この御影堂は京の都を望むように東向きに造られ、安徳帝の木彫の等身大尊像、平家一門10名の絵などが置かれた。明治期の廃仏毀釈で阿弥陀寺は廃され、安徳天皇を祀る現在の赤間神宮となった。そして本殿床下から五輪塔(墓石)が見つかったため、複数ある陵墓候補地の中から阿弥陀寺に隣接した陵墓が真陵とされた。円丘。 【安徳天皇の陵墓は各地に伝わる】 四国を中心に、北は青森県から南は薩摩硫黄島まで安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。終焉の地伝説など安徳関連の伝承地は全国に約150ヵ所もあるという。6歳の崩御はあまりに哀れであり、伝承が本当なら嬉しい。 安徳天皇は墓所だけでも17箇所以上ある。中でも四国地方、九州地方には特に多く、四国の伝承墓は6箇所以上、九州は8箇所以上ある。 それら数ある伝承墓の中でも、信憑性の高さから「宮内庁指定」として管理している陵墓参考地は次の5箇所。真陵と同様に石柵で護られ、宮内庁の木札が立っている。 (1)鳥取県鳥取市国府町岡益の「宇倍野陵墓参考地(岡益の石堂)」…鳥取市南部。円柱が墓石という珍しいもの。安徳天皇は二位尼や越中盛次らに守られて脱出、一行は船で因幡国賀露の浜に着き、岡益の長通寺住職に助けられた。2年後に急病で崩御。住職が供養・建立した墓所が岡益の石堂と伝えられる。崩御した国府町荒船の地には天皇を祀る崩御神社と殉死した平家一門の五輪塔群。崩御ヶ平という地名もある。同郡新井(にい)の古墳「新井の石舟」は二位尼の墓と伝承。 (2)山口県下関市豊田町の「西市御陵墓参考地」…山口県北西部の豊田湖北岸の前方後円墳、王居止(おおいし)御陵。壇ノ浦合戦後、安徳帝の身体は海流にのり、三隅町沢江浦(長門市)の漁師の網に掛かったという。義経が足を運ぶと亡骸に草薙剣がなく放心状態になったとされる。安徳帝は網のまま棺に移され、義経が葬送のために運んでいると豊田湖付近で動かなくなり当地に埋葬。地名の「大石」が「王居止」になったという。毎年4月24日に地元の人々が先帝祭を行う。 (3)長崎県対馬・厳原町久根田舎の「佐須陵墓参考地」…対馬南西部。壇ノ浦を脱出した安徳帝は北九州に上陸、山岳信仰で知られる英彦山に身を隠す。1245年(安徳67歳)、対馬の海賊討伐に長男・重尚(母は島津氏)を派遣、対馬を平定した重尚は対馬の国主、宗家初代となって安徳帝を筑前から迎い入れ、久根の地に御所を営んだ。安徳帝は建長3(1251)年4月5日に73歳(数え74歳)で崩御したという。これは生存伝説の中で最長と思われる。以後、宗氏は33代約600年間にわたり安徳帝の末裔と名乗った。ただし現在の定説では宗氏の祖は平安時代の大宰府の官人・惟宗氏(これむねうじ)の支族とのこと。※この伝説では安徳帝=平知盛の四男・知宗とも。 (4)熊本県宇土市立岡町の「花園陵墓参考地(晩免古墳)」…熊本県中部の立岡古墳群の晩免古墳。平家の残党が安徳天皇の墓を熊本県清和村(現山都町)から改葬と伝承。五世紀後半の円墳とみられるが、1883年に付近の潤野古墳で石棺の石蓋裏に「吾人平資盛」(平重盛次男、清盛の孫)と刻まれていることが判明、晩免古墳の石棺内に菊花文が確認され、地元の伝説もあって宮内庁が陵墓参考地に指定。※「吾人平資盛」は書体から後世の偽刻の可能性ありとのこと、 (5)高知県高岡郡越知町横倉山の「越知陵墓参考地(鞠ヶ奈呂陵墓)」…高知市の西方30km。安徳帝は平知盛(清盛四男)の一族に守られて四国の松尾山、椿山を経て横倉山に辿り着き、同地に行在所(あんざいしょ)を築いて詩歌や蹴鞠に興じ、妻帯した。壇ノ浦の15年後、1200年に22歳で崩御し、従臣らと蹴鞠を楽しんだ場所、鞠ヶ奈路(まりがなろ)に土葬された。知盛は亡骸を山上に奉葬したとも。現地には行在所跡や天皇の飲用水として用いた安徳水、平氏一門80余名の墓が残り、御殿場、弓場、御馬場などゆかりの地名もみられる。陵墓参考地は高知県下唯一の宮内庁所管地。 次に、陵墓参考地に準ずるものとして位置づけられている「伝・安徳天皇陵」は次の4箇所。 (1)大阪府豊能郡能勢町の「安徳天皇来見山(くるみやま)御陵墓」…摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが翌年崩御。侍従左少弁・藤原経房の遺書に、「安徳帝と4人の侍従で戦場を脱し、石見・伯耆・但馬の国府を経て能勢の野間郷に隠れたが翌年5月17日に崩御され、当地の岩崎八幡社に祀られた」とあり。この遺書は経房子孫の旧家の竹筒に入っているのを1817年に発見され、文書には建保5年(1217年)とあった。能勢野間郷の来見山・山頂に陵墓。 (2)熊本県山都町緑川の陵墓…熊本県東部。壇ノ浦から当地にたどり着き17歳で崩御。陵墓は石垣に囲まれた円墳。付近の山宮神社の祭神は安徳天皇坐像と二位の尼坐像。安徳天皇、二位の局、健礼門院ほか4基の位牌が併祀され、毎年9月21日に例祭が行われている。 埋葬後、源氏の目を逃れるため、熊本県宇土の花園の晩免古墳に改葬されたとい う。 (3)鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島の陵墓(東京都の硫黄島ではない)…安徳帝は壇ノ浦合戦の前、あるいは後に平資盛(平重盛次男、清盛の孫)に警護されて薩摩国硫黄島に逃れ、黒木御所を築き、資盛娘を后とした。寛元元(1243)年5月5日に65歳で崩御したとされる。同島の長浜家は安徳天皇の子孫を称し、熊野神社(硫黄大権現宮)に三種の神器を祭っていたが天正2(1574)年8月4日に剣と勾玉を焼失。その後、長浜家は「開けずの箱」を所持していたが、江戸後期に島津の使者が中身を確認、薩摩藩主・島津斉興は「文政10年(1827)硫黄島で八咫鏡(やたのかがみ)が発見され、父・斉興(なりおき)によって上山城内(鹿児島市内の城山)に建てられた宮に安置された」と記す。斉興はすり替えられた鏡を返却し、本物は行方不明になったという。 (4)徳島県三好市東祖谷栗枝渡・栗枝渡八幡神社の「安徳天皇御火葬場」…平清盛の甥で平家随一の猛将・平国盛(くにもり、弟教盛の子・教経と同じ)が今の徳島県祖谷地方を平定し、安徳帝を迎えたという。帝は16歳で崩御し、栗枝渡八幡神社の境内で火葬され、神社では遺骨を御神体として祀ると伝承。神社から約20km東の剣山には安徳帝が天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ、草薙剣)を納め、「太郎山」が「剣山」になったという伝説。 【その他の安徳天皇生存説の一部】 ・青森県つがる市木造町天皇山…安徳天皇は安藤水軍にかくまわれて津軽に逃れ天皇山に行宮(あんぐう、御座所)を造った。壇の浦で投身したのは安藤水軍の将・塩飽次郎左衛門の子辰丸。 ・鳥取県八頭郡八頭町姫路…安徳天皇は二位尼らに守られて落ち延び、賀露港(鳥取港)から上陸。岡益の光良院住職・宗源和尚の案内で姫路に入り私都(きさいち)を仮皇居とした。2年後の1187年8月13日、山遊び中に急病になり8歳(数え10歳)で崩御。現在その地は“崩御ヵ平(ほうぎょがなる)”と呼ばれる。二位の尼は亡骸を姫路の村に移し葬った。八頭町姫路の「上岡田五輪群(安徳天皇御陵地)」に、安徳天皇、二位の尼、女官たちの墓とされる大量の五輪塔・宝篋印塔が残る。 ・鳥取県東伯郡三朝町大字中津…普賢堂の前に「安徳陵」。清盛の子と称する者が書いた1204年の古文書によると、安徳帝は一ノ谷合戦の敗戦の時点で平氏一行から離脱し、平家の守護仏『普賢菩薩』を奉じて播磨から中津に入り身を潜めていた。壇ノ浦で平氏が滅亡した後は、再興の機会をうかがっていたが、建久四年(1193)3月7日に14歳(誕生日前。数え17歳)で崩御した。付近に「二位の尼墓所」と「平家一門之墓」もある。二位尼は安徳帝の後を追うため、青竹の空気管を差し込んだ柩に入って穴に横たわり、21日後に念仏や鉦の音が途絶えたことから村人が土を盛って墓としたという。 ・鹿児島県垂水市…鹿児島県中部。安徳帝は薩摩硫黄島にいったん逃げたが、そこから当地(大隅国牛根麓)に漂着し13歳で崩御したという。この安徳天皇墓所には文化年間に薩摩藩主・島津重豪が参拝、献燈・玉垣を奉献したと伝わる。付近の「居世(こせ)神社」では祭神として祀られている。 ・佐賀県山田郷(大和町)…佐賀市。二位尼らと肥前国山田郷に落ち延びた安徳帝は当地にて20歳で出家し、宋に渡航して仏法を学び、帰国後に神子和尚として万寿寺を開山、承久元年(1219)に41歳で崩御。 ・小倉市南区隠蓑(かくれみの)…源氏に追われて九州に上陸した安徳帝を、農民たちが蓑や藁の束で隠したことから隠蓑の地名が付いたという。無事に逃れることができたはずだが同地の祠に「安徳天皇陵」の文字があり情報が混乱している。 ・愛媛県伊方町河内…愛媛県西部。安徳帝と一行は伊予国「伊方越」に落ち延び21歳まで生きたという。だが別説では上陸時に既に崩御しており、亡骸の埋葬地が今の八坂神社(伊方町河内)の安徳天皇陵とも。近辺に“平家崖”や“源氏ヶ崖”の地名が残る。 ※僕のリスペクトブログ。この人の行動力はすごい!一部参考にさせて頂きました→『安徳天皇陵を訪ねる』 http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1023.html ※下関市伊崎町には壇ノ浦の戦いの翌日、漁師達が網にかかった安徳天皇の遺体を引き上げ一時的に安置した「御旅所」が伝わる。 ※『平家物語』や鎌倉初期の歴史書『愚管抄』などの描写をもとに、安徳天皇は女帝ではないかとする説がある。文楽『義経千本桜』は女子説で描かれている。 ※平安以後、漢風諡号そして「徳」の字の使用は、ほぼ鎮魂慰霊の場合に限られた。 ※赤間神宮の水天門は「安徳帝や二位尼が竜宮城にいた」という建礼門院の見た夢にちなみ、竜宮城を模している。 |
自身は隠岐島、息子は佐渡島に流された |
大原・三千院のすぐ側に陵墓がある | 後鳥羽天皇、順徳天皇親子が葬られている | 人気の観光地だけあって見張所も立派 |
11月初旬の午後3時。早くも陽が大きく傾いている | 三千院はえらい人混みだけど御陵はゆったり時間が流れてる | 「後鳥羽天皇大原陵」 |
後鳥羽天皇皇子・道助親王墓(高野山)2013 | “道を助ける”という良い名前 |
平安末期から鎌倉初期の天皇であり、中世屈指の歌人。高倉天皇の第4皇子。壇ノ浦に沈んだ幼帝・安徳天皇の異母弟にあたる。在位は3歳から18歳までの15年間で、寿永2年8月20日(1183年9月8日)-建久9年1月11日(1198年2月18日)。諱は尊成(たかひら)。土御門(つちみかど)・順徳・仲恭(ちゅうきょう)の3代23年間にわたって院政を執った。明治維新は武士(徳川)から武士(非徳川)へ、同じ階級間の権力移行であったが、後鳥羽上皇が敗北した「承久の乱」は、皇族から武士へ権力が移り、階級交代が起きたという意味で、日本史上唯一の真の意味での「革命」であり、本邦空前の出来事となった。
また、後鳥羽上皇は菊の花が大好きで、形を刀剣に彫ったり、印として愛用した。その後、第89代後深草天皇、第90代亀山天皇、第91代後宇多天皇も自身の印として菊を使用したことから、菊花紋(十六八重表菊)が皇室の紋となっていった。 1180年8月6日に尊成(たかひら)親王(後鳥羽天皇)が生まれる。母は藤原殖子(しょくし)。 同年、平清盛率いる平氏一門に対して、後白河天皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)が平氏討伐の令旨を発し、伊豆国に流されていた源頼朝(33歳/1147-1199)がこれを奉じて挙兵。北条時政(42歳/1138-1215)は頼朝の監視役だったが、長男・宗時、次男・義時(17歳/1163-1224)らと頼朝に従った。だが、頼朝軍300騎は大庭景親率いる平氏方3000騎との「石橋山の戦い」で敗北し、北条宗時は討死する。2か月後の富士川の戦いでは、頼朝軍が平氏軍を敗走させた。 1183年(3歳)、尊成親王の兄・安徳天皇が平氏に連れられて都落ちしたことから、祖父・後白河法皇の意向により3歳で第82代後鳥羽天皇として践祚(せんそ※天皇の位を受け継ぐこと)。安徳天皇は退位しておらず、同時代に2帝が存在する異常事態となった(2帝状態は南北朝時代とこの時だけ)。同年、北条義時の長男・泰時(のちの第3代執権、御成敗式目を制定/1183-1242)が生まれる。 1184年(4歳)、皇位の象徴“三種の神器”が揃わないまま即位式が実施された。幼いため祖父の後白河法皇が院政を行う。 1185年(5歳)、壇ノ浦で平家が敗れ安徳天皇も崩御し、2帝時代は2年で終わる。この合戦で神器の宝剣が海中に沈んでしまう。平家滅亡後、頼朝は弟義経と対立、義経捕縛の名目で、勅許を得て守護(現代の警察本部長、地頭から選ばれる)・地頭(年貢の徴収と治安維持)を各地の荘園・公領に置いた。頼朝の御家人がこれらに任命され、地頭は年貢を多めに懐に入れて豊かになり、次第に在地領主として成長していく。「鎌倉時代」の開始は、かつては頼朝が征夷大将軍に就任した1192年とされたが、近年は1185年の地頭設置に求める説が有力。 1187年、壇ノ浦で続けられていた宝剣探索が打ち切られる。 1189年、北条時政が奥州征伐の戦勝祈願のため、北条の地に願成就院を建立して、運慶に制作を依頼していた仏像を置く。 1192年(12歳)、後白河法皇が没し、法皇と対立していた関白九条兼実(くじょう・かねざね)が実権を握る。九条兼実は五摂家の一つ、九条家の祖。同年、九条兼実は源頼朝に「征夷大将軍」を宣下して関東との協調に努めた。この年、頼朝に次男・実朝が生まれる。 1196年(16歳)、後鳥羽天皇は後白河法皇の旧側近・源通親(みちちか/土御門通親)の娘との間に第一皇子・為仁親王(土御門天皇)をもうけた。皇子の外祖父となった源通親は、これを機に権力奪取へと動き、親幕派の九条兼実一派を朝廷から排除。九条兼実は関白を罷免され失脚、兼実の娘で院の中宮・任子(にんし)も内裏から出される(任子は5年後に法然の下で受戒)。実権は源通親に移った(建久七年の政変)。 1198年(18歳)、後鳥羽天皇は2歳の為仁親王に譲位し、親王は土御門(つちみかど)天皇として即位。後鳥羽帝は上皇として3代23年にわたる院政を開始する。退位によって自由な時間を得た上皇は、譲位の半年後に紀伊の熊野に最初の参詣を行ったことを皮切りに、承久の乱までの23年間に28回も熊野詣でを行った。 鎌倉では源頼家が寵愛した若狭局(比企能員の娘)が長男・一幡を生む。頼家の他の子女、公暁、栄実、禅暁は一幡の異母弟、竹御所は妹。 1199年(19歳)、源頼朝が51歳で急死。原因は確定しないが落馬と言われている。嫡男の頼家(1182-1204)が17歳で二代将軍となる。3か月後、頼家が従来の慣例を無視して恣意的判断を行う(真偽不明)ことから、独裁を押さえるため十三人の合議制が導入される。 幕府重臣の大江広元(おおえのひろもと/1148-1225)が北条氏とともに政務をとり、執権政治の確立に寄与した。大江広元は初め朝廷に仕えたが、頼朝に招かれ公文所、のち政所別当となった。守護・地頭の制も広元の献策と伝える。 幕府内部の権力闘争が勃発、最初に頼朝の腹心・梶原景時が幕府から追放され、翌年京都に向かう途中で一族は滅ぼされる。景時は人望がなく、御家人66名による景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成されたという。 1201年(21歳)、和歌に秀でた才能を持っていた上皇は、和歌所を設置して優れた歌人を集め、撰者として藤原定家、源通具、藤原有家、藤原家隆、藤原雅経ら6人に『新古今和歌集』の編纂を命じた。後鳥羽院は序・詞書(ことばがき)を院の立場で記す。流布本で1979首を収めた。『新古今』は八代集の最後に位置し、《万葉集》《古今和歌集》と並ぶ古典和歌様式の一典型を表現した歌集となった。 1202年(22歳)、有力者の源通親が急死。これより後鳥羽上皇は専制君主、独裁状態となっていく。近衛家・土御門家(通親の系統)と九条家との間には激しい対立があったが、後鳥羽上皇はそれを消し去り、すべての貴族に支持される体制を目指し、摂関家は近衛家・九条家ともに上皇に従属する。 当初の上皇は鎌倉幕府との融和路線をとっており、母の弟の娘(後鳥羽の母の姪)を鎌倉に送り、3代将軍・源実朝の妻とさせた。北条氏らは上皇が実朝を介して御家人の権益を侵すことを警戒した。 ※後鳥羽院の専制君主化は、自身が皇位の象徴である三種の神器が即位したことのコンプレックスによるものとする意見がある。神器が揃っていないがゆえに、強力な王権の存在を内外に示す必要があった。 1203年(23歳)、夏に将軍頼家が病床に伏せ危篤に陥ると、9月に頼家の外戚(嫡男一幡の外祖父)として権勢を握っていた御家人・比企能員(ひきよしかず/頼家の乳母の夫)とその一族が、初代執権・北条時政(政子の父)の謀略によって滅ぼされる(比企能員の変)。比企能員は頼家と謀って北条氏の討伐を企てたが事前に発覚し殺された…とされるが、本当にそのような謀略があったか不明。時政は能員を自邸におびき出して殺害、その後一族に対して軍勢を送った。一幡も5歳で命を奪われた。病状が回復した頼家は事件を知って激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、逆に征夷大将軍の地位を追われて伊豆国修禅寺に幽閉され、弟の千幡(11歳)がこれに替わり、元服を経て“実朝”を称す。幕府の実権は北条時政の手に落ちる。 1204年(24歳)、7月、伊豆国修禅寺にて北条義時の送った手勢によって頼家が21歳で殺害される。頼家は入浴中を襲撃され、刺殺されたという。頼家には四男一女がいたが、男子は皆子孫を残す前に非業の死を遂げ、女子も33歳で死去し、頼朝と政子の血筋は断絶した。 実朝は早くから京の文化に憧れており、この年、後鳥羽上皇の母七条院の姪に当たる坊門家の権大納言藤原信清の女子を迎えて妻とした。上皇は実朝の気持ちを利用して幕府を制御しようとし、実朝もこれに応ずる意志を抱いており、両者の蜜月は実朝が非業の死を遂げるまで15年続く。頼家が21歳で暗殺される。 1205年(25歳)、『新古今和歌集』を勅撰。この年までに後鳥羽院は白河院のとき設けられた「北面の武士」に加え、新たに武士の子息などを召し出して院御所の西面に武士を置き、「西面の武士」を新設、警固にあたらせ武力の充実に努める。※承久の乱以後廃止された。 鎌倉では、精錬潔癖な人柄で人望を集めていた武蔵国の有力御家人・畠山重忠が、北条時政の策謀で滅ぼされる。時政は「重忠に謀反の心あり」と言い掛かりを付け、義時に命じて大軍で攻めさせ、これを滅ぼした。鎌倉に戻った義時は、父に「重忠の一族は小勢であり、謀反の企ては虚報で、重忠は無実であった。その首を見ると涙を禁じ得ず、大変気の毒な事をした」と述べた。発端は、時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅(ともまさ)と、時政の前妻の娘婿・畠山重忠の嫡子重保との言い争い。続いて北条時政は、幕政の実権を掌握するべく源実朝を殺害して平賀朝雅を新将軍に擁立しようとしたが、この計画を知った北条政子・義時姉弟によって鎌倉を追放され失脚した。時政は出家し、義時によって伊豆国に幽閉された。平賀朝雅は義時の命をうけた刺客に殺害された。 義時は牧の方の娘婿を担ぐ父時政を切り捨てる事によって、「無実 の畠山重忠を討った」という御家人達の憎しみの矛先をかわした。 1207年(27歳)、上皇は最勝四天王院(さいしょうしてんのういん)を建立。これは幕府を調伏(ちょうぶく)、呪詛するためであったと伝えられる。失脚し失意の九条兼実が薨去。 1210年(30歳)、温厚で優しすぎる土御門天皇(当時15歳)の人柄に、“これでは朝廷勢力を引っ張っていけない”と考え、土御門天皇を譲位させて、その弟である気丈な順徳天皇(13歳)を即位させる。心根が強いといってもまだ少年であり、後鳥羽上皇が院政を継続。 平家の手で三種の神器が京都から持ち出される前月に、伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣があり、後鳥羽院は順徳天皇の践祚に際し、これを宝剣とみなすこととした。 1212年(32歳)、のちに小倉百人一首に収められる和歌を詠む。「人もをし人も恨めし味気なく世を思ふゆえに物おもふ身は」(人間を愛しくも思い、恨めしくも思う。この世をつまらなく思って物思いにふけっているこの身にとっては)。同年、院は検非違使・藤原秀能を西国に派遣し、いま一度宝剣探索にあたらせる。 1213年(33歳)、鎌倉で幕府創業の功臣、侍所別当の有力御家人・和田義盛が二代執権北条義時から挑発を受け、北条氏打倒を掲げ挙兵。和田一族は滅ぼされたが、実朝の御所が炎上し、実朝は頼朝の墓所である法華堂に避難した(和田合戦)。同年、実朝が家集(歌集)の『金槐和歌集』をまとめる。約700首が収められた。 1215年(35歳)、出家していた初代執権・北条時政が77歳で他界。時政は畠山重忠謀殺や実朝暗殺未遂で晩節を汚し、子孫からは初代を義時として祭祀から外されてしまう。 1218年(37歳)、後鳥羽上皇は源実朝を深く信頼し、わずか一年の間に実朝を左大将(3月)→内大臣(10月)→右大臣(12月)へと異例の出世をさせる。武士が右大臣になったのは初めて。 1219年(39歳)、鎌倉の3代将軍実朝(1192-1219)が、鶴岡八幡宮にて甥の公暁(2代頼家の子)に「親の敵はかく討つぞ!」と襲われ暗殺される。実朝が子を遺さず26歳で他界した為、幕府側は後継将軍として上皇の皇子の「後鳥羽上皇の子を4代将軍に迎えたい」と提案してきたが、上皇は幕府滅亡を願っており、この申し出を拒否。そのかわりに摂関家からまだ1歳の九条(藤原)頼経(兼実の曾孫)が鎌倉に下ることになった(4代将軍となるのは7年後、1226年)。このため、政子が尼将軍として頼経の後見となり、義時がこれを補佐して実務面を補うことで実権を握る執権政治が確立した。 ※源実朝の首は公暁の追っ手の武常晴が神奈川県秦野市大聖山金剛寺(実朝が再興した寺)の五輪塔に葬ったといわれ、御首塚(みしるしづか)と呼ばれる。胴体の墓は鎌倉の寿福寺境内に掘られたやぐら内で、隣は政子の墓。寿福寺は源義朝邸宅跡に建てられた。 後鳥羽上皇は幕府の混乱を、朝廷が権力を取り戻す「倒幕」の絶好のチャンスと捉え、続けて寵姫・伊賀局(いがのつぼね)の所領である摂津国長江(尼崎市)、倉橋(豊中市付近)という両2つの荘(しょう)の地頭の廃止を要求する。鎌倉の執権はこれを拒否した。なぜなら、地頭は頼朝の御家人であり、落ち度のない地頭を廃止すると主従関係にヒビが入り、他の地頭から不信感を持たれてしまうからだ。 かくして上皇は、順徳天皇や近臣たちと謀って、武力による討幕計画を推進することになった。挙兵の準備を始める。後鳥羽院は天皇の権威のもと、この国を再びまとめあげようとした。 1221年(41歳)4月、後鳥羽上皇の挙兵が間近に迫り、順徳天皇は父に協力するため、帝位を3歳の第一皇子・懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、順徳もまた上皇に退いた。 翌5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬(やぶさめ)ぞろい」と称して兵を召集し、北面・西面の武士をはじめ、畿内・近国の武士が召しに応じ、また在京中の幕府御家人たち、さらには幕府の京都守護の一人源親広(ちかひろ)も院方に加わった。 翌日、召しに応じなかったいま一人の京都守護・伊賀光季(みつすえ)を討つと同時に、上皇は諸国に鎌倉幕府の2代執権・北条義時(よしとき※北条政子の弟/1163-1224)の追討令を発し、挙兵する。『承久の乱』の勃発である。 「朝敵」になってしまい、幕府の御家人たちに動揺が走る。この事態に尼将軍・政子は「頼朝様の御恩は山よりも高く海よりも深いはず、それを思い出せ!」と号令し団結させた。とはいえ、敵は天皇の軍隊である。当初、義時たち鎌倉の指導者は箱根で抵抗するなど、消極的な防衛戦を考えていた。だが、下級貴族出身の大江広元が「運を天道に任せ、早く軍兵を京へ派遣せよ」(『吾妻鏡』)、戦いが長期化すれば東国の御家人が上皇側に付きかねず、考える暇を与えず一気に決着をつけるしかないと力説、義時は大胆な京攻めを決める。義時は嫡男・泰時を総大将として、泰時と義時の弟・時房らの主力部隊10万を東海道から、次男・朝時4万を北陸道から、甲斐源氏・武田信光5万を東山道から、三道に分かれて京へ上らせた。 総大将の泰時は、途中でいったん鎌倉へ引き返し、「もし天皇が自ら兵を率いた場合はどうすればよいか」と対処を義時に尋ねた。義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う。 この鎌倉の積極作戦が功を奏し、東国武士たちが続々と動員令に応じて、総勢19万の大軍となって都へ攻め上った。 天皇を守る武士が歯向かうわけないと楽観的に考えていた後鳥羽上皇。側近の武将・三浦胤義も「朝敵になった以上、義時に参じる者は千人もいないだろう」と踏んでいた。だが、院宣(いんぜん)さえ出せば勝利できるとした京方の予想は完全に裏切られた。東国武士で追討令に応じる者はおらず、また、あまりに幕府軍の進軍スピードが速くて西国の兵の召集が間に合わず、上皇側の兵力は1万7千騎に留まった。幕府軍19万騎は11倍であり、この兵力差は埋めようがなく、上皇側は宇治川の戦いで大敗して最終防衛戦を突破され、5月21日に鎌倉を発した幕府軍は6月15日に都を制圧。大将軍・藤原秀康、重臣・三浦胤義、猛将・山田重忠らは最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、なんと御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを門前払いした。重忠は「大臆病の主上に騙られて、無駄死ぞ!」と門を叩いて怒り嘆いた。後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、「このたびの乱は謀臣が企てたもの」と訴えて義時追討の院宣を取り消し、重臣の藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下す。上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は東寺に立て篭もって抵抗。最終的に三浦胤義は東寺で奮戦して自害(故郷の幼い子どもたちは処刑)、藤原秀康は河内国で捕虜となり京で斬られ、山田重忠は落ち延びた先の嵯峨般若寺山で自害した。後鳥羽上皇は鳥羽殿に幽閉され、義時追討の宣旨発布からわずか1ヶ月で完敗した。承久の乱は、日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 北条義時が下した敗者への処罰は苛烈を極めた。後鳥羽上皇は隠岐(おき、島根県)へ、順徳上皇は佐渡(新潟県)へ配流され、後鳥羽上皇の皇子の雅成親王は但馬(兵庫県)へ、頼仁親王は備前(岡山県)へ配流となった。土御門上皇は承久の乱に無関係で、むしろ倒幕計画に反対していたが、自身のみ京に残ることを不義と感じ、自ら望んで土佐に流された(後に阿波国へ移される)。 それだけではない。幕府は後鳥羽上皇の子孫に皇位継承させないことを決め、仲恭天皇は歴代最短となる在位70日余りで廃され、後鳥羽上皇の兄・守貞親王の子、後堀河天皇を即位させた。後堀河天皇は幼いため、守貞親王は後高倉法皇として院政をとり、後高倉法皇は前代未聞の天皇経験のない上皇となった。上皇側の武士は大半が斬罪され、公卿も死刑・流罪・解官となった。そして、後鳥羽上皇の莫大な荘園を没収し、朝廷監視の為に六波羅探題を設置した。3000ヵ所(3万?)もの京方の貴族・武士たちの所領がすべて幕府に没収され、新たに東国武士たちが恩賞として地頭に任命された。 このように、承久の乱は従来の支配階級(天皇・公家)を新たな武士階級が破ったという点で、戦国時代の武士間の戦とは根本的に異なる“革命”だった。鎌倉の武士政権が公家政権を支配するという、権力の大逆転が起きた。 後鳥羽上皇は配流の直前に出家し法皇となり、法名を良然とした。出家の際、藤原信実に肖像を画かせ、大阪府水無瀬神宮所蔵の画像(国宝)がそれと伝わる。 1224年(44歳)、北条義時が他界。3代執権は子の泰時が継いだ。 1226年(46歳)、頼朝の妹の曾孫・九条頼経(よりつね、8歳)が新将軍となる。 1235年(55歳)、「後鳥羽院と順徳院の帰京を赦してはどうか」と摂政・九条道家が北条泰時に訴えたが却下された。 1237年(57歳)、後鳥羽上皇は「万一にもこの世の妄念にひかれて魔物となれば、世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである」と置文(遺言)に記す。 1239年、結局、上皇は隠岐から一度も出ることはなく、配流から18年後に58歳で崩御した。島ではわびしい生活を何年も続けるなか、自ら『新古今和歌集』の追加・削除を行い、『隠岐本新古今集』を完成した。世は四条天皇代となっていた。その3年後に北条泰時が59歳で他界した。上皇は崩御の13日前に遺言状を書き、その上に上皇の両手の手印(手形)を押した。この「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」(国宝)は水無瀬神宮に現存。 亡骸は隠岐の苅田(かった)山中で火葬され、遺骨を尊快入道親王(後高倉天皇の第7皇子)が都に持ち帰り、勝林院の傍らに法華堂を建て、遺骨が納められた。この御堂には佐渡で崩御した順徳帝の遺骨も納められた。1471年には後花園天皇の分骨塔が御堂の前に建てられた。陵墓は京都市左京区大原勝林院町の大原陵。都の中に墓所を築くことは許されず、御所から約20kmも北の大原に安置された。死してなお都の地を踏むことは許されなかった。陵形は十三重塔。隠岐島(島根県隠岐郡海士町)には火葬塚の隠岐海士町陵(おきあまちょうのみささぎ)がある。初め「顕徳院」の諡号(しごう)が贈られたが、怨霊出現の世評により、「後鳥羽院」と改称された。 後鳥羽上皇は文武両道で詩歌・書画にすぐれ、蹴鞠(けまり)・琵琶・箏(そう)・笛などの芸能を得意とした。中でも和歌にすぐれ、都でも隠岐でも、歌会、歌合(うたあわせ)も盛んに催した。最大のものとして名高い千五百番歌合のほか、老幼五十首歌合、遠島(えんとう)御歌合、後鳥羽院御自歌合、元久詩歌合などがあり、都での華やかな新古今歌風に対し、隠岐では「軒は荒れて誰(たれ)かみなせの宿の月過ぎにしままの色やさびしき」のように、懐旧の想いからの切実な望郷の心情のみられる歌が多い。華麗で技巧に富んだ歌風は「帝王ぶり」と呼ばれた。 家集に『後鳥羽院御集(ぎょしゅう)』『遠島御百首』、秀歌撰に『時代不同歌合』。歌学書に『後鳥羽院御口伝(おんくでん)』。日記には『後鳥羽院宸記(しんき)』がある。 「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせん」(新古今和歌集)1208 「見わたせば山もとかすむ水瀬川夕べは秋となにおもひけむ」(新古今和歌集)※見渡すと山の麓が霞んでいる、春の水無瀬川。夕暮れは秋より春の方が良い。 「思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に」(新古今和歌集) 「われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ」(後鳥羽院御百首)※我こそは新たな 島守である。隠岐の海の荒き波風よ、心して吹け。 「軒は荒れて 誰かみなせの宿の月 過ぎにしままの色や寂しき」 ※院政を行った期間は、1198年〜1221年まで23年に及び、土御門→順徳→仲恭天皇と3代にわたっている。 ※後鳥羽院は社寺への御幸も多く、紀伊の熊野への参詣は28回におよんだ。 ※後鳥羽上皇の崩御から3年後、非後鳥羽系として即位した後堀河天皇の子(四条天皇)が10歳で急死した。これを受けて、幕府としては不本意であるが、後鳥羽上皇の孫(土御門帝の子)が後嵯峨天皇として即位する。四条天皇の短命を後鳥羽 上皇の怨霊のたたりと考える者もいた。 ※配流先の佐渡で父・後鳥羽院の崩御を知った順徳帝は断食死した。 ※承久の乱で幕府軍を指揮した北条泰時は、出陣前に「もしも後鳥羽院自らが出陣してきたらどうすればいいか」と父・義時に尋ねている。義時は「天皇に弓を引けるわけがない。鎧を脱いで降伏せよ。だが、兵だけ送ってきたら限界まで戦え」と答えた。後鳥羽院自らが最前線に出れば上皇側は勝てたかも。 ※上皇は豊かな財力によって水無瀬(大阪府)・鳥羽(京都市)・宇治などに壮麗な院御所を営んだ。 ※京都では盗賊追捕(ついぶ)の第一線に加わり、自ら強盗を召し捕ったという。 ※大阪府三島郡島本町広瀬に鎮座。後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇をまつる。社地は後鳥羽上皇の離宮水無瀬殿の跡。 |
車を出してくれたK氏と魂ハンドシェイクで喜びを分かち合う |
古都・長岡京の山里に眠る | 参道と左右の田畑は垣根で分けられていた |
自ら配流を希望し阿波(四国)で崩御 |
後方の巨木の丸みを帯びたシルエット が、土御門天皇の温厚さを象徴してた |
土御門天皇は阿波での火葬後に、母親が建立した金原 法華堂に改葬され、それが御陵となって現存している |
鎌倉時代初期の天皇。在位は2歳から14歳までの12年間。建久9年1月11日(1198年2月18日)-承元4年11月25日(1210年12月12日)。諱は為仁。1196年生まれ。
1196年1月3日に後鳥羽天皇の第1皇子として生まれる。母は内大臣源通親の娘・承明門院在子で、在子は僧侶能円と藤原範子の間に生まれ、能円の異父姉は平時子(清盛正室)。実父・能円は平家の都落ちに同行したため、都に残った範子は源通親と再婚し、在子は養女となった。平家の血筋であることから源頼朝は土御門天皇の即位に反対だった。 1198年、父の後鳥羽天皇が譲位したため2歳で即位。時代は翌年に鎌倉で源頼朝が急逝するという激動の世。成長した土御門天皇はあまりに温厚な性格であったため、“これでは鎌倉幕府に対抗できない”と考えた父・後鳥羽上皇から退位を迫られ、1210年、14歳で異母弟の守成(もりなり)親王=順徳天皇(13歳)に譲位した。 1221年、25歳のときに父が鎌倉幕府に対して挙兵し「承久の乱」が勃発。鎌倉方は北条政子や執権北条義時のもとで団結しており、後鳥羽上皇の軍勢はわずか1ヶ月で敗北した。終戦後、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇(挙兵前に仲恭天皇に譲位済)は佐渡へ流された。挙兵に反対していた土御門上皇は罪に問われなかったが、「父が遠流になったのに自分が都に留まる訳にはいかない」と、自ら望んで土佐国に流され、後に阿波国に移った。 鎌倉幕府は土御門上皇に敬意を払い、より都に近い阿波に宮殿を造営した。阿波で約9年過ごし、1231年に同所で崩御。享年35歳。1233年、遺骨は母承明門(しょうめいもん)院により、山城金原(現京都府長岡京市)に建立された法華堂に移葬された。土佐院、阿波院とも呼ばれる。 陵墓は京都府長岡京市金ヶ原金原寺の金原(かねがはら)陵。また、徳島県板野郡堀江(現鳴門市)に火葬塚がある。歌人としてすぐれ「新三十六人撰」のひとり。歌集に『土御門院御百首』『土御門院御集』。法名は行源。 ※性格について14世紀の歴史物語『増鏡』には「少しぬるくおはしまし」、「あてにおほどか(優雅でおっとり)」と記されている。 ※日蓮は土御門天皇の子孫とも言われているが定かではない。 14世紀の歴史書『保暦間記(ほうりゃくかんき)』には「こうした賢王であったから子孫(後嵯峨天皇※土御門天皇の皇子)が皇位についた」とある。 |
御陵に続く道に三千院があるため食事処が並ぶ | 国宝・阿弥陀三尊像が坐する往生極楽院(三千院) |
高い木々に囲まれた陵墓 |
佐渡島で崩御した順徳天皇は、隠岐の島で崩御した 父・後鳥羽上皇と並んで眠っている。墓標は正面左側 |
「順徳天皇大原陵」 |
鎌倉時代前期の天皇。土御門天皇の弟。在位は13歳から24歳までの11年間で、承元4年11月25日(1210年12月12日)-承久3年4月20日(1221年5月13日)。諱は守成(もりなり)。
1197年10月22日に後鳥羽天皇の第三皇子・守成親王として生まれる。母は後鳥羽を養育した藤原範季の娘・修明門院重子。後鳥羽天皇はことのほか重子を寵愛し、利発で俊敏な守成親王に期待をかけた。 1210年、鎌倉幕府の倒幕を考えていた後鳥羽上皇は、守成親王の兄・土御門天皇(14歳)の温厚で優しすぎる人柄に、“これでは朝廷勢力を引っ張っていけない”と考え、土御門天皇を譲位させ、激しい気性の守成親王(13歳)を順徳天皇として即位させた。心根が強いといってもまだ少年であり、在位中は後鳥羽上皇が院政を継続する。 政務と距離を置くことになった順徳天皇は、有職故実の研究や、和歌、詩、管弦など芸能の修練に傾倒。執筆の筆をとり、従来の歌論を集大成した不朽の歌学書『八雲御抄(やくもみしょう)』、内裏の故実や天皇・側近のあり方などを記した有職(ゆうそく)故実書『禁秘抄(きんぴしょう)』、家集『順徳院御集』、日記『順徳院御記』がある。 1221年(24歳)4月、父・後鳥羽上皇以上に幕府打倒に積極的だった順徳天皇は、父とともに討幕計画を進め、幕府との戦いに自由な身分で協力しようと考え、帝位を3歳の我が子・懐成(かねなり)親王(仲恭天皇)に譲位し、上皇に退いた。翌月、後鳥羽上皇は挙兵し、幕府2代執権・北条義時追討令を出す。ところが、予想に反して兵が集まらず、上皇側は1万7千騎、かたや幕府側は19万騎!2ヶ月の戦闘で上皇側は完敗し、順徳上皇は佐渡島へ、後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流となった。 1242年、流されてから21年目の秋。四条天皇が10歳で急逝し、その皇嗣(こうし※皇位継承順第1位)として土御門上皇の皇子邦仁王と、順徳上皇の皇子忠成王が候補に挙がったが、幕府は承久の乱における両上皇の行動に鑑み、邦仁王(後嵯峨天皇)を選んだ。気丈な順徳上皇であったが、わが子が次帝になれず、それゆえ都に戻る夢も破れたうえ、3年前に父が既に崩御したことを知り、心が折れる。深い失望のなか、上皇は「これ以上の命は必要ない」と絶食し、命を絶った。享年45歳。学問を好み、また優れた歌人でもあり、都で長寿していればどんな芸術を花開かせたかと残念でならない。 辞世の歌は無念さに満ちた「思いきや 雲の上をば 余所に見て 真野の入り江にて 朽ち果てむとは」(思っても見なかった、雲の行き先を想像しながら佐渡・真野湾の入江で朽ち果ててしまうとは)。 他界の翌日、亡骸は佐渡真野山で火葬され、翌年に遺骨が都に戻され、大原にて父の遺骨の側に安置された。陵形は円丘。佐渡院とも呼ばれる。 1249年、配流後は佐渡院と称されていたが「順徳院」と追号された。 陵墓は京都市左京区大原勝林院町の大原陵。円丘。また新潟県佐渡市の真野地区に火葬塚の真野御陵(まののみささぎ)がある。佐渡には現地で生まれた順徳天皇の第1皇女・慶子内親王を祀る神社があるという。 父の後鳥羽院と同様に和歌をこよなく愛し、藤原定家に師事して歌を学んでいる。また藤原俊成女や藤原為家とも交流し歌才を磨いた。藤原定家は『小倉百人一首』を締めくくる100番目の歌として、順徳院が承久の乱の約5年前に貴族の没落を嘆いた1首「百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」(宮中 の古い軒端に生える忍ぶ草を見ていると、昔の栄華が思い出され、たまらなく胸が締め付けられる)を収めた。 ※自ら命を絶った天皇は、壬申の乱で敗れた弘文天皇(大友皇子)と順徳天皇だけ。安徳天皇は道連れにされたもの。 ※大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮では祭神となった。 ※密かに佐渡から脱出し、出羽国酒田に上陸して最上川をさかのぼり、村山郡の御所山(現山形県尾花沢市)に隠棲したという伝説がある。落馬にて崩御し、随行した阿部時頼が御所神社を創建したという。 |
光あふるる参道 |
在位78日間は歴代最短記録 |
ちなみに墓前には『維新戦役 防長藩士之墓』がある。 戊辰戦争で散った長州藩士たち。かなりの数だ |
鎌倉時代前期の天皇。順徳天皇の第四皇子。母は藤原立子。3歳で即位し、在位は歴代最短の78日間だけで、承久3年4月20日(1221年5月13日)-承久3年7月9日(1221年7月29日)。諱は懐成(かねなり)。
1221年(3歳)、父・順徳天皇は祖父・後鳥羽上皇の倒幕作戦に自由な立場で加わるため、皇位を懐成親王(仲恭天皇)に譲位した。摂政は九条道家。翌月、父たちは挙兵し『承久の乱』が勃発。しかし、集まった兵力は1万7千騎に留まり、幕府軍19万騎の攻撃を受け完敗した。戦後、祖父は隠岐島に、父は佐渡島に流された。 鎌倉幕府は、たとえ幼児であっても後鳥羽上皇の子孫が天皇であることは問題とし、正式な即位式もできないまま仲恭天皇は廃位となった。78日間という、歴代最短の、あまりに短すぎる在位期間であった。皇位は後鳥羽上皇の兄の子(後堀河天皇)に継承された。退位からまもなく、3歳の仲恭天皇は、祖母の修明門院(順徳天皇母)、生母の中宮・立子とともに、佐渡へ向かう直前の順徳上皇と一夜を過ごしたという。幼帝にこの大切な記憶が残っていますように。 その後、仲恭天皇は母親の実家であり叔父にあたる摂政・九條道家(鎌倉4代将軍九条頼経の父)に引き取られ、1234年、17歳という若さで病により崩御した。 長年、公式には天皇として認められず、九条廃帝と呼ばれていた。1870年(明治3年)になってようやく“仲恭天皇”と追号された。 陵墓は京都市伏見区深草本山町にある九條陵(くじょうのみささぎ)。東山本町陵墓参考地(京都市東山区本町十六丁目)という伝承もある。 陵墓について何も伝わっていないため、仲恭天皇が譲位後に住んでいた九条殿に御陵が決定された。 |
鎌倉時代前期の天皇。在位は9歳から20歳までの11年間で、承久3年7月9日(1221年7月29日)-貞永元年10月4日(1232年11月17日)。諱は茂仁(とよひと/ゆきひと)。 1212年生まれ。第80代高倉天皇の孫・守貞親王(後高倉院)の第3皇子。母は藤原陳子(のぶこ/北白河院※父は頼朝の妹婿の叔父)。 早くから僧侶の弟子となっていたが、1221年、9歳のときに「承久の乱」が勃発し、人生が激変する。鎌倉幕府は乱の首謀者である後鳥羽上皇を隠岐に、子の土御門上皇を土佐に、順徳上皇を佐渡に配流し、さらに宮中から後鳥羽院の血統を排除するため孫である仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃した。 次の天皇として、幕府は後鳥羽院の子孫を忌避、後鳥羽院の42歳の兄・守貞親王(1179-1223)に院政を要請し、これにより守貞親王の三男、9歳の茂仁(とよひと/ゆたひと)王が第86代・後堀河天皇として即位した。 守貞親王は僧籍にあり天皇経験者でなかったが、「後高倉院」として異例の院政をしいた。前代未聞の天皇経験のない上皇である。 1219年(7歳)、鎌倉幕府三代将軍・源実朝が暗殺される。 1223年(11歳)、父・後高倉院が他界。その後約10年間は、後堀河帝が親政をおこなった。…といっても主導したのは幕府。 幕府によって朝廷の監視・治安維持を目的とした六波羅探題が置かれ、朝廷から没収した西日本の所領3千箇所が御家人に恩賞として与えられた。 その中にあって後堀河帝は王朝の権威の維持に努め、藤原定家に『新勅撰和歌集』を作らせた。「和歌の浦葦辺のたづのなく声に夜わたる月のかげぞさびしき」(新勅撰和歌集より) 1232年11月、院政を行うべく、第一皇子で1歳半の秀仁(みつひと)親王に譲位(四条天皇)。これは摂関を歴任した九条道家の画策によるもので、朝廷の実権は摂政となった九条教実(のりざね)とその父道家が握った。 同年、鎌倉幕府・第3代執権北条泰時が中心になり、武家の基本的法典である「御成敗式目」51カ条が制定される。 後堀河院は元来病弱であり、院政開始後2年足らずの1234年8月31日に22歳で崩御。この短命は、隠岐に流された後鳥羽上皇(1180-1239)の生霊の祟りと都では噂された(前年に藤原そんし=四条天皇の母も亡くなっている)。 陵墓は京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある観音寺陵(かんおんじのみささぎ)。崩御時に観音寺の傍らの法華堂に土葬されたが、のちに所在不明となり、蒲生君平が1808年の『山陵志』で当地を指定、現在に踏襲される。円丘。 ※日本史上、皇位につかずに(つまり譲位をせずに)上皇の称を与えられたのは、後堀河天皇の父の守貞親王(後高倉院)と、室町時代の後花園天皇の父の貞成親王(後崇光院)のみ。 |
鎌倉時代前期の天皇。在位は1歳8ヶ月から10歳11ヶ月までの9年間で、貞永元年10月4日(1232年11月17日)-仁治3年1月9日(1242年2月10日)。諱は秀仁(みつひと)。 1231年生まれ。後堀河天皇の第1皇子。母は(東福寺建立で知られる)九条道家の娘、中宮の藻壁門院・藤原ソン(立編に尊)子(そんし) 。 1232年11月、父・後堀河帝が院政を行うため、1歳半の秀仁(みつひと)親王に譲位、第87代四条天皇として即位する。直後に2歳で母を亡くし、3歳で父を亡くした。 四条帝は幼少のため、九条教実、道家、兼経(かねつね)らが相次いで摂政となり補佐していく。この間約十年、六波羅探題が整備され、御成敗式目が制定されるなど幕府体制が強化され、朝廷監視が強まった。 1242年、四条天皇は近習や女房たちを転ばせるいたずらをしようと、御所の廊下に滑石(すべりいし)粉を撒いたところ、過って自分が転倒し、わずか10歳(数え12歳)で崩御する。この前年、後宮に前摂政・九条教実(のりざね/1211-1235)の娘を女御として迎えていたが、四条帝に子づくりはまだ無理。突然の死であり、四条天皇には皇太子はもちろんのこと男兄弟もいなかったため、守貞親王(後高倉院)の血統の皇子が絶えてしまった。 鎌倉幕府はやむなく宿敵であった後鳥羽天皇の血統から新帝を選ぶしかなく、後継を巡って紛糾した。前摂政・左大臣の九条道家や前太政大臣・西園寺公経らは佐渡に配流された順徳天皇の皇子・忠成王の即位を企てたが、鎌倉幕府3代執権・北条泰時は順徳帝の子孫を拒絶。最終的に皇位11日間の空白を経て土御門天皇(承久の乱に不参加)の皇子・邦仁王(後嵯峨天皇)が擁立された。これを契機に幕府が皇位の決定権を握るようになる。 父帝の後堀河天皇は享年22歳、四条天皇も10歳という短命であり、「承久の乱」を企て配流先で崩御した後鳥羽院や順徳院の怨霊の祟りと噂された。 陵墓は京都市東山区今熊野泉山町の月輪陵(つきのわのみささぎ)。石造九重塔。 南北朝時代成立の歴史物語『増鏡』によると、四条天皇は幼い頃に、自身の前世を鎌倉時代前期の名僧、月輪大師・俊じょう(がちりんだいし・しゅんじょう/1166-1227)と告げたという。両者は共に大根が大好物だった。俊じょうは真言宗泉涌寺派の宗祖であり、泉涌寺を再興した人物(事実上の開山)。その生れ変りということで、四条天皇の葬礼は泉涌寺で執り行われた。遺骸は境内後方の月輪山の山裾、表面に不可棄法師と刻された俊じょうの石造卵塔墓のかたわらに葬られた。同所は父・後堀河天皇の陵墓にも近い。俊じょうと四条天皇の廟所が造営されると、この由縁を契機に、室町時代前期の後光厳天皇から幕末の孝明天皇に至るまで、歴代天皇の葬儀は泉涌寺で行われることとなる。 また、約440年後の江戸時代初期に第108代・後水尾天皇(1596-1680)が月輪陵に葬られたことをきっかけに、幕末の孝明天皇(1831-1867)まで約200年間に及ぶ江戸時代の天皇14名が同地に眠った(厳密には孝明天皇陵は近隣の後月輪東山陵になる)。泉涌寺の天皇陵は一般人には見えない場所にあるが、石造の九重塔の様式とのこと。1654年、第110代・後光明天皇から火葬が土葬に改められた。 幼帝が思いついたささいな“いたずら”が、のちの時代を変えた。四条天皇はわずか10歳で早逝したため、あまりその名は知られていない。だが、後世の歴史に意図せず影響を与えた人物であり、従来と異なる形態の御陵についても特筆せねばならない帝だ。歴史に“もしも”という言葉はナンセンスと言われているが、もし四条天皇があのいたずらを思いつかなければ、後嵯峨帝が即位することはなく、南北朝分裂の大乱もなく、そして長寿していれば泉涌寺以外が墓所になっていた可能性もあり、そうなれば非公開エリアに13人も帝が眠ることはなかったかも等々、泉涌寺を墓参するたびそんなことをつらつらと思い巡らせている。 ※当時は次の天皇が決まるまで埋葬できなかったため(葬儀まで16日)、気の毒にも四条帝はお棺の中で激しく傷み、骨だけになってしまったという。 ※俊じょうは戒律の重要性を認め、1199年に宋へ渡った。禅、律、天台教学を学んで12年後の1211年に帰国し北京律(ほっきょうりつ)をおこす。俊じょうに帰依した鎌倉武士・宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った。後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家・武家など多くの信者を得て、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えていった。 ※四条帝の崩御後に11日間の天皇空位が生じたが、これは770年に称徳天皇と光仁天皇の間にできた55日間以来472年振りのもの。以降、186年後の1428年に称光天皇と後花園天皇の間に7日間の空位が生じている。 |
この外国人男性はさらに先へ行けることを知らない | 後嵯峨天皇(右)は子どもの亀山天皇と並んでいる | 後嵯峨天皇の御陵の正面 |
鎌倉時代中期の天皇。在位は22歳から26歳までの4年間で、仁治3年1月20日(1242年2月21日)-寛元4年1月29日(1246年2月16日)。諱は邦仁(くにひと)。
1220年生まれ。土御門(つちみかど)天皇の第3皇子で、母は源通子(つうし)。誕生の翌年、朝廷と幕府が武力衝突した「承久の乱」が勃発する。戦いは幕府軍が圧勝し、乱の首謀者である父・後鳥羽院と土御門院の弟・順徳院が配流された。土御門院は挙兵に反対したため罪に問われなかったが、「父が配流されたのに自分だけが都に残るわけにはいかない」と自ら配流を希望し、四国へ流された。後鳥羽院の孫・仲恭天皇は廃位となった。幕府は新帝を後鳥羽院の子孫から選ぶことを拒絶し、後鳥羽院の兄の子・後堀河天皇を即位させた。同年、母が他界。ついで父も四国に配流され、1歳でひとりぼっちになった邦仁は母方の大叔父や、祖母の承明門院・源在子(土御門院の母)のもとで育てられた。 1225年(5歳)、幕府の陰の実力者、北条政子が他界。 1226年(6歳)、鎌倉幕府第4代将軍として、摂関を歴任した九条道家(頼朝妹の孫)の三男、8歳の藤原頼経(九条頼経/1218-1256)が都から送られ、摂家将軍(公卿将軍)となる。 1230年(10歳)、将軍藤原頼経(12歳)に2代将軍源頼家の娘・竹御所(たけのごしょ/1202-1234/28歳※18歳差!)が嫁ぐ。竹御所は幕府関係者の中で唯一、源頼朝の血筋を引く生き残りであり、幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集めた。 1231年(11歳)、父・土御門院が35歳(数え37歳)で四国にて崩御。 1232年(12歳)、後堀河天皇が譲位し、四条天皇が即位。2年後に後堀河院は22歳で崩御。 1234年(14歳)、鎌倉にて4代将軍頼経の妻・竹御所が難産の末、母子共に亡くなる(享年32)。これにより頼朝と政子の直系子孫は完全に断絶する。藤原定家は日記『明月記』に、源氏将軍の血筋断絶という事態に鎌倉武士たちが激しく動揺したことを記し、「平家の遺児らをことごとく葬ったことに対する報いであろう」と述べる。 1242年(22歳)、土御門院の子である邦仁(くにひと)王は、祖父・後鳥羽院の子孫ゆえに皇位継承とは無縁であったが、突如として人生が激変する。この年、10歳でいたずらざかりの四条天皇は、人々を転ばせようと御所の廊下を滑りやすくしたところ、自分自身が滑って転倒し急死してしまった。四条天皇には皇太子も男兄弟もいなかったため、鎌倉幕府はやむなく宿敵・後鳥羽院の血統から新帝を選ぶしかなかった。 摂関を歴任した九条道家や前太政大臣・西園寺公経ら朝廷は佐渡に配流された順徳天皇の皇子・忠成王の即位を企てたが、鎌倉幕府3代執権・北条泰時(1183-1242)は承久の乱で倒幕に荷担した順徳帝の子孫を拒絶。そして、承久の乱に中立的立場をとった土御門院の皇子・邦仁王に白羽の矢を立てた。 邦仁王は1歳で母と死別し、父とも生き別れになり(のちに11歳で死別)、預けられた土御門家一門は没落、苦しい生活の中で22歳になってもまだ元服(成人を祝う儀式)をしていなかった。幕府の使者が住居の土御門殿を訪れたとき、建物は草が生い茂り、苔むしていたという。邦仁王は使者到着の翌日に元服し内裏に移り、皇位11日間の空白を経て第88代・後嵯峨天皇として即位した。これを契機に幕府が皇位の決定権を握るようになった。 両親の後ろ盾もなく、戦乱で配流された者の孫、日陰者として暮らしていた邦仁王は、北条泰時の意向を受けた鎌倉幕府の後押しで思いがけず即位することができ、幕府に恩を感じる。後嵯峨以降、皇室は幕府への隷属の度合いを一気に深めた。 後嵯峨天皇即位の5か月後、鎌倉で北条泰時が59歳で病没。嫡男の時氏(ときうじ/1203-1230)が既に27歳で早逝、次男の時実は15歳で殺害されているため、時氏の長男(泰時の孫)・経時(つねとき/1224-1246)が18歳で第4代執権となった。 1244年(24歳)、4代将軍頼経は反執権勢力に利用されるようになり、4代執権・北条経時との関係が悪化。頼経は経時により将軍職を嫡男で5歳の頼嗣(よりつぐ/1239-1256)に譲らされる。 1246年(26歳)、後嵯峨天皇は在位4年ののち、皇位を第3子の久仁親王(後深草天皇)に譲り、以後、後深草・亀山天皇の2代・26年間にわたって院政をおこなう。後嵯峨院はずっと親幕的な立場を維持した。 同年、幕府から「公平な人事とあらゆる人の訴訟を積極的に取り上げることで徳のある政治“徳政”の興行」を提議される。後嵯峨院は院政の改革を行い、幕府の評定(ひょうじょう)衆に倣って西園寺実氏(前太政大臣・関東申次)・土御門定通(前内大臣・後嵯峨院の外戚)・徳大寺実基(大納言兼右近衛大将)・吉田為経(中納言)・葉室定嗣(参議)の5名の評定衆を任命し、開催場所を「院文殿(いんのふどの)」と定めた。院文殿には記録所の機能が兼ね揃えられ、律令法や儒教に詳しい公家がサポート職員として置かれ、この新体制下で訴訟や政治問題などの処理が行われた。以後、院文殿における院評定が院政の中枢機関として活動するようになり、南北朝末期に室町幕府によってその政治的権限を奪われるまで続く。 この年、4代執権・経時が22歳で病没し、弟の北条時頼(1227-1263)が19歳で第5代執権となる。時頼は反執権側である前将軍・頼経を京都へ追放した(宮騒動)。 1247年(27歳)、北条時頼が有力御家人の三浦泰村一族を滅ぼし、北条氏の独裁体制=得宗専制を確立する。時頼は引付衆を設置して訴訟制度を整備。また、民政に意を尽くしたことから、出家後、ひそかに諸国を遍歴して治政民情を視察したとする伝説が生じた。 ※得宗(とくそう)…北条氏惣領(そうりょう、跡取り)の家系。初代執権・北条時政を初代に数え、義時(2代執権)、泰時(3代執権)、時氏、経時(4代執権)、時頼(5代執権)、時宗(8代執権)、貞時(9代執権)、高時(14代執権)の9代を数える。時氏は執権に就かず。 1252年(32歳)、5代将軍・藤原頼嗣は父頼経が反執権勢力に近いことを理由に13歳で将軍職を解任され、かつての父と同様に京へ追放された。後嵯峨院は幕府(北条時頼)の要請をうけて10歳の第1皇子・宗尊(むねたか)親王(1242-1274)を鎌倉幕府6代将軍、皇族将軍(宮将軍)として鎌倉におくる。宗尊親王は皇族で初めての征夷大将軍となった。この年、頼嗣の祖父・九条道家も他界。 1259年(39歳)、後嵯峨上皇は病弱な第3子・後深草天皇よりも、才気に優れた第7子・恒仁親王(亀山天皇)を愛していた。後深草天皇がこの年も病に伏せたことから、後嵯峨院は弟への譲位を強要。恒仁親王は第90代亀山天皇として即位した。さらに皇太子についても、後深草の皇子・熙仁親王をさしおいて亀山の皇子・世仁親王(後宇多天皇)をたてたことから、後深草系の持明院統と、亀山系の大覚寺統の対立が始まった。亀山天皇が皇位についたのちも院政を続ける。 後深草天皇は幼少から病弱であり、父・後嵯峨上皇は才知に優れる弟の恒仁親王を寵愛。後深草天皇はこの年も病に伏せたことで後嵯峨院から弟の恒仁親王に譲位するよう強いられ、やむなく従った。恒仁親王は第90代・亀山天皇として即位。上皇となった後深草院は、持明院(じみょういん)を御所とした。 1268年(48歳)、厚く仏教を信奉していた後嵯峨院は出家して法皇(法名・素覚)となり、大覚寺に移る。高野、熊野を巡り、経論を書写供養した。 1272年、誕生日直前に51歳で崩御。後嵯峨院は崩御の前に御書を幕府に遣わし、「将来の皇位は後深草・亀山両流のいずれとも定めず、幕府の推挙に任せる」と、将来の皇位継承を幕府の決定に委ねたことから、これが原因となって、のちに北朝・持明院統(後深草の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立が激化し、皇統の分裂を招くこととなった。後嵯峨院が遺した火種が、南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。 後嵯峨院は和歌に長じ、藤原為家・光俊らに勅撰集『続古今和歌集』を撰集させた。また『続後撰集』をはじめ多くの勅撰集に天皇の歌が収められている。 遺言によって亀山殿の別院で火葬となり、翌日に遺骨は銀の壺に納められ浄金剛院に安置され、2年後に浄金剛院に完成した法華堂に納められた。法華堂はのちに所在不明となったが国学者・谷森善臣(よしおみ/1818-1911)が『山陵考』で天龍寺の庫裏の北を後嵯峨・亀山天皇陵とし、現在は両天皇の檜皮葺の法華堂が再建(1865)され並ぶ。向かって右が後嵯峨帝、左が亀山帝の御陵。陵墓は京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町の天龍寺内にある嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)。方形堂。子の亀山天皇と同じ兆域。1912年に「嵯峨殿法華堂」から「嵯峨南陵」と改称された。 ※天龍寺境内の一般者立ち入り禁止ゾーンに眠っているので、お寺の人に挨拶してから参拝させてもらおう。 ※後嵯峨天皇は即位後、後鳥羽院の祟りを恐れ冥福を祈った。 |
京阪・藤森駅の側にある 「深草十二帝御陵」石柱 |
なんとここ1箇所に12名の天皇が眠っている!第89、92、93、100、101、103、104、105、106、107代と北朝4〜5代だ。 地元では「十二帝陵」と呼ばれている。12名というのは、皇室の菩提寺である京都市東山区・泉涌寺の14名に続く規模だ。 |
各帝の遺灰が納められているとのこと | ひとつの御廟が全員のお墓ということになる |
1243年生まれ。鎌倉時代中期の天皇。持明院統の祖であり、北朝皇統の祖にもあたる。在位は3歳から16歳までの13年間で、寛元4年1月29日(1246年2月16日)-正元元年11月26日(1259年1月9日)。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の第2皇子(円助法親王、宗尊親王がいるから第3皇子?)で、母は太政大臣・西園寺実氏(さねうじ)の女(むすめ)、中宮・大宮院藤原キツ(女偏に吉)子(きつし)。 1246年正月、2歳(数え4歳)の久仁親王は父帝・後嵯峨天皇から皇位を譲られ、第89代・後深草天皇として即位し、父は上皇となった。以後、後嵯峨院は、後深草・亀山天皇の2代・26年間にわたって院政をおこなった。 1249年(6歳)、将来のライバルとなる弟の恒仁親王(亀山天皇)が生まれる。 1252年(9歳)、異母兄の宗尊(むねたか)親王(1242-1274)が鎌倉幕府6代将軍(宮将軍)として鎌倉に下った。 1259年(16歳)、後深草天皇は幼少から病弱であり、父・後嵯峨上皇は才知に優れる弟の恒仁親王を寵愛。後深草天皇はこの年も病に伏せたことで後嵯峨院から弟の恒仁親王に譲位するよう強いられ、やむなく従った。恒仁親王は第90代・亀山天皇として即位。上皇となった後深草院は、持明院(じみょういん)を御所とした。 1264年(21歳)、第1皇子が夭折(年齢不明) 1268年(25歳)、後深草院には3歳になる第二皇子・熙仁(ひろひと)親王(1265-1317/のちの伏見天皇)がいたが、亀山天皇を寵愛する父・後嵯峨院が皇太子の人事に介入、後深草院の子をさしおいて、まだ1歳の亀山の皇子・世仁(よひと)親王(1267-1324/のちの後宇多天皇)を強引に立太子させた。後深草院は度重なる父の圧力に鬱憤をため、後深草系の持明院統と、亀山系の大覚寺統の対立が始まった。同年、モンゴル帝国5代皇帝フビライから服属を迫る使者が訪日する。 1272年(29歳)、父・後嵯峨院が51歳で崩御。後嵯峨院は崩御の前に御書を幕府に遣わし、「将来の皇位は後深草・亀山両流のいずれとも定めず、幕府の推挙に任せる」と、将来の皇位継承を幕府の決定に委ねた。これが原因となって、のちに北朝・持明院統(後深草の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立が激化し、皇統の分裂を招くこととなる。 1274年(31歳)、亀山天皇が譲位し、7歳の後宇多(ごうだ)天皇が即位。これは幕府と両上皇の母・大宮院との協議で認められたもの。同年、モンゴル(元)軍の最初の日本襲来(文永の役)。 1275年(32歳)、亀山上皇の院政に不満を抱いた後深草上皇は反撃を開始。太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、鎌倉では後深草院側の有力公卿・西園寺実兼が幕府8代執権・北条時宗に働きかけた。幕府は後深草上皇に同情、皇子・熈仁親王(伏見天皇)を立太子させることに成功した。 1280年(37歳)、この頃から、後深草院は後宇多天皇に譲位を迫り始め、皇太子擁立の動きが強まる。 1281年(38歳)、再びモンゴル軍が日本に襲来する(弘安の役)。 1287年(44歳)、後深草院の悲願成就。後宇多天皇(20歳)は後深草院と幕府に譲位を迫られ、後深草院の皇子・熙仁親王(22歳)が第92代・伏見天皇として即位。後深草院は待望の院政をスタートさせ、皇位は大覚寺統から持明院統にうつった。こうして後深草院は両統迭立(てつりつ)の基を開き、持明院統の祖となる。譲位後の後宇多上皇は大覚寺を御所とした。 1288年(45歳)、伏見天皇に第一皇子・胤仁親王(後伏見天皇)が生まれる。 1289年(46歳)、後深草院は第六皇子・久明親王を鎌倉幕府8代将軍として下向させ、幕府との関係を強化(幕政の実権は第9代執権・北条貞時が一貫して握る)。さらに、次の皇太子の座をめぐり、伏見天皇の皇子胤仁(たねひと/のちの後伏見天皇)と、後宇多上皇の皇子邦治(くにはる/のちの後二条天皇)が争い、後深草院の孫・胤仁が皇太子にたてられた。兄に形勢を逆転された亀山院は失意のうちに出家する。 1290年(47歳)、後深草院は出家し法名を素実(そじつ)とする。院政を停めて伏見天皇の新政に変えたが政治に関与し続け、持明院統の繁栄に努めた。 同年、所領を没収された甲斐源氏の浅原為頼と2人の息子たち武士3名が、伏見天皇殺害を企て騎馬で御所に乱入。伏見帝は女装をして三種の神器と皇室伝来の管弦「琵琶の玄象」「和琴の鈴鹿」を持って脱出、浅原父子は失敗を悟って自害した。 1298年(55歳)、後深草院の孫の後伏見(ごふしみ)天皇が即位し、ここに至り、後深草と亀山両上皇の地位は逆転した。後深草院は引き続き院政をとる。 1304年7月16日に61歳で崩御。 日記に33年分100巻に余る『後深草院宸記(しんき)』を記したが、わずか10巻だけが現存する。 翌1305年、兄帝のあとを追うように、ライバルだった亀山上皇も崩御した。 陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。遺命で火葬となり、翌年に完成した法華堂に遺骨が安置された。このお堂は後に「深草十二帝陵」と呼ばれ、北朝の帝を含む持明院統歴代の十二帝が納骨されている。第89代後深草天皇、第92代伏見天皇、第93代後伏見天皇、北朝4代後光厳天皇、北朝5代後円融天皇、第100代後小松天皇、第101代称光(しょうこう)天皇、第103代後土御門天皇、第104代後柏原天皇、第105代後奈良天皇、第106代正親町(おおぎまち)天皇、第107代後陽成天皇の12名だ。現在の深草法華堂は幕末の「文久の修陵」で新造されたもの。方形堂。 |
この垣根の向こうに天皇父子が並んでいる |
左が亀山天皇、右が後嵯峨天皇 |
亀山天皇の御陵。左端に見えているのは火災用 の放水銃。御陵の前に放水銃があるのは珍しい |
鎌倉時代中期の天皇。在位は10歳から25歳までの15年間で、正元元年11月26日(1259年1月9日)-文永11年1月26日(1274年3月6日)。諱は恒仁(つねひと)。
1249年生まれ。恒仁親王は後嵯峨天皇の第3皇子(第4皇子説あり)で、母は太政大臣・西園寺実氏(さねうじ)の娘の大宮院・キツ(女偏に吉)子(きつし)。幼少より父母から愛され、6歳年上の兄・後深草天皇と不仲であった。政治は後嵯峨院が院政を敷いていた。 1258年(9歳)、両親の意向で恒仁親王は皇太子となる。 1259年(10歳)、父・後嵯峨院は、幼少から病弱だった後深草天皇よりも、才知に優れる弟・恒仁親王を寵愛していた。後深草天皇はこの年も病に伏せたことで父から恒仁親王に譲位するよう強いられ、やむなく従う。これを受け、恒仁親王は元服のあと、第90代・亀山天皇として即位した。譲位後の後深草院は、持明院(じみょういん)を御所とする。院政は後嵯峨院が引き続きおこなった。 幕府のはからいで皇位を後深草天皇の子孫(持明院統) と亀山天皇の子孫(大覚寺統)が交互に継承することとなった。 1265年(16歳)、元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられる。幕府は元による侵攻に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。 1266年(17歳)、第6代鎌倉幕府将軍となっていた兄の宗尊親王が鎌倉から送り返され、代わって宗尊親王の子で、2歳の惟康王が第7代将軍に就任した。 1267年(18歳)、皇后洞院佶子が皇子・世仁(よひと)親王(1267-1324/のちの後宇多天皇)を生む。 1268年(19歳)、兄・後深草院には3歳になる第二皇子・熙仁(ひろひと)親王(1265-1317/のちの伏見天皇)がいたが、亀山天皇を寵愛する父・後嵯峨院が皇太子の人事に介入、後深草院の子をさしおいて、まだ1歳の亀山帝の皇子・世仁(よひと)親王を強引に立太子させた。後深草院は鬱憤をため、亀山系の大覚寺統と、後深草系の持明院統との対立が始まる。 同年、モンゴル帝国5代皇帝フビライから服属を迫る使者が来日する。 1271年(22歳)、大陸で国号を大元(元)とさだめ、フビライは初代皇帝となる。 1272年(23歳)に父・後嵯峨法皇が51歳で崩御。後嵯峨院は崩御の前に御書を幕府に遣わし、「将来の皇位は後深草・亀山両流のいずれとも定めず、幕府の推挙に任せる」と、将来の皇位継承を幕府の決定に委ねた。これが原因となって、のちに南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)と北朝・持明院統(後深草の血統)との対立が激化し、皇統の分裂を招くこととなる。 1273年(24歳)、フビライは武力による日本征服を正式に決定。 1274年(25歳)、亀山天皇は在位15年で皇位を7歳の皇子・世仁(よひと)親王に譲位、後宇多(ごうだ)天皇として即位させる。これにより大覚寺統の皇統をひらき、持明院統との対立のもとをつくった。後宇多天皇の即位は幕府と両上皇の母・大宮院との協議で認められたものだが、兄・後深草院は納得せず憤った。亀山院は兄をさしおいて院政を13年間おこなったため、両者の関係は悪化し続けた。亀山院は院評定制(上皇・法皇が主宰した議定)の改革に取り組み、一定の成果を上げて「厳密之沙汰」、「徳政興行」と評された。 同1274年、モンゴル(元)軍の最初の日本襲来。フビライは元兵約2万と高麗兵約6000からなる軍を10月3日に朝鮮南端から出発させた。元&高麗軍は、対馬ついで壱岐を襲い、10月19日に博多湾に侵入した。迎撃する九州の御家人ら日本軍は、元軍の集団戦法や火薬をつかった火器攻撃のため苦戦し、大宰府の水城までしりぞいた。日没にともない元軍もいったん船にひきかえしたが、その夜に大暴風雨がおこり、元の兵船200以上が転覆、元軍はのこる船をまとめて退却した(文永の役) 亀山上皇は身をもって国難に殉ぜんとの祈願を伊勢神宮にささげた(後宇多天皇説あり)。また石清水八幡宮に行幸して同じ祈願を行っている。「世のために身をばをしまぬ心ともあらぶる神はてらしみるらむ」(亀山院)。 1275年(26歳)、亀山上皇の院政に不満を抱いた後深草上皇は、皇位継承権の復活をはかって反撃を開始。太上天皇の尊号辞退と出家の意思を示すと、幕府は冷遇される持明院統に同情。後深草院側の公卿・西園寺実兼による幕府8代執権・北条時宗への働きかけもあり、幕府は後深草上皇の皇子・熙仁(ひろひと)親王を皇太子にさせた。こうして、自分の子孫だけに皇統を継承しようとする亀山上皇の計画は水に流れた。 同年、フビライは日本征服をあきらめず、服属を勧告する使者を日本におくった。北条時宗は使者を鎌倉で殺すとともに、九州の御家人を動員して異国警固番役を課す。時宗は九州方面に所領をもつ御家人を帰国させた。そして防衛強化のため博多湾沿岸一帯に石築地(いしついじ)をつくらせ、山陰・山陽・南海三道の海辺の地頭・御家人にいつでも船員を徴発できるよう準備を命じた。 1279年(30歳)、フビライは南宋を滅亡させると、またも使者を日本におくったが、これも博多で首をきられた。 1280年(31歳)、この頃から後深草上皇方による後宇多天皇退位と皇太子擁立の動きが強まる。 1281年(32歳)、再びモンゴル軍が日本に襲来する。5月にモンゴル人・高麗人・漢人からなる東路軍約4万が朝鮮を出発し、対馬・壱岐をおそい博多湾に攻め込んだ。日本軍の奮戦で東路軍はいったん壱岐に退き、江南軍10万の到着を待った。7月に東路軍と江南軍が合流し肥前国鷹島(たかしま※佐賀・長崎沖の島)に移動したが、夜半に再び大暴風雨に襲われ、元軍は壊滅的な打撃をうけ退却した(弘安の役)。 日本軍は勝利したものの第3次襲来に備えて警戒を続けねばならず、御家人が負担する戦費に対して恩賞は十分ではなかった。御家人は窮乏から所領を売却して没落する者もいて、のちの鎌倉幕府滅亡の一因となる。 1286年(37歳)、亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子の邦治(くにはる/のちの後二条天皇)が親王宣下される。同年、院評定(ひょうじょう)は政務を担当する「徳政沙汰」と訴訟を担当する「雑訴沙汰」に分割され、前者は大臣・大納言級によって月3回、後者は中納言・参議級によって月6回行われた。この院評定制の改革は、鎌倉幕府の引付制度にならったもので、のちの公家評定制の基盤となった。 1287年(38歳)、後宇多天皇は後深草院(1243-1304/当時44歳)と幕府に譲位させられ、後深草院の皇子・熙仁親王(22歳)が第92代・伏見天皇として即位。後深草院は待望の院政をスタートさせ、皇位は大覚寺統から持明院統にうつった。 1288年(39歳)、伏見天皇に第一皇子・胤仁親王(後伏見天皇)が生まれる。 1289年(40歳)、幕府の申し入れによって後深草上皇の第六皇子・久明親王が鎌倉幕府8代将軍に迎えられ、後深草院は幕府との関係を強化。さらに、次の皇太子の座をめぐり、後宇多上皇の皇子邦治(くにはる/のちの後二条天皇)と、伏見天皇の皇子胤仁(たねひと/のちの後伏見天皇)が争い、胤仁が皇太子にたてられた。 兄に形勢を逆転され、亀山院は失意のうちに出家する。法名は金剛源(こんごうげん)。出家後、禅宗に深く帰依し、その影響で公家の間にも禅宗が徐々に浸透していく。また、真言律宗の開祖である西大寺の叡尊(興正菩薩)にも深く帰依した。一方、譲位後の後宇多上皇は大覚寺を御所とした。 1291年(42歳)、亀山法皇は東山・禅林寺(永観堂)の南部の離宮禅林寺殿を喜捨して禅寺とし、これが南禅寺のはじまりとなった。 1293年(44歳)、院評定は伏見天皇の親政によって一時的に朝廷に移行、雑訴沙汰の改革が行われ、院評定を補完する記録所庭中が設けられた。 1294年(45歳)、フビライが79歳で他界。 ※フビライ(1215-1294)…チンギス=ハンの孫。モンゴル帝国の第五代皇帝(在位1260〜1294)であり、元の初代皇帝(在位1271〜1294)。大都(北京)に都を遷し、1271年国号を元と称した。南宋を滅ぼし中国を統一、越南・ビルマ・ジャワを従え、高麗を服属させたが,日本遠征には失敗。名は世祖、クビライとも。 1298年(49歳)、伏見天皇の譲位により、後伏見天皇が10歳で即位。後宇多上皇は「伏見帝から後伏見への(持明院統の)皇位継承は、祖父・後嵯峨天皇の意に反する」として幕府を責めた。そこで幕府によって「両統迭立(てつりつ※かわるがわる地位につくこと)」が提案され、後宇多天皇の第一皇子・邦治親王(後二条天皇)の即位への道が開ける。 1301年(52歳)、後伏見天皇の譲位により、亀山院の孫・後二条天皇が16歳で即位。 1305年10月4日に56歳で崩御。父・後嵯峨院が嵯峨野に建造した離宮亀山殿を仙洞とし、当地で没した。 山城亀山法華堂に葬られる。遺詔(ゆいしょう)で、当時3歳の末子・恒明親王の立太子の意思を示したことから、後宇多上皇の反発を招き、同じ大覚寺統の内部に混乱を招いた。 亀山帝は儒学や文学、禅宗や浄土宗にも造詣が深かった。『弘安礼節』を制定するなど意欲的に政治を行った。和歌・漢詩文を好み『続拾遺集』の選進を命じる。笛・琵琶・催楽馬・神楽・朗詠など様々な芸能にも通じた。 陵墓は京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町のの天龍寺内にある亀山陵。方形堂。亀山帝の遺体は離宮亀山殿の裏山で荼毘に付され、嵯峨野にあった浄金剛院・亀山殿法華堂、南禅寺、金剛峯寺(高野山)に分骨された。現在は天龍寺境内に父・後嵯峨天皇と御陵の法華堂が並ぶ。向かって左が亀山帝、右が後嵯峨帝の御陵。また天龍寺に隣接した亀山公園に火葬塚が遺る。 ※亀山天皇の子孫を大覚寺統といい、兄・後深草天皇の子孫(持明院統)と交互に皇位を継承するよう取り決められた。 ※元寇にちなんでということだろう、1904年、福岡市博多区の東公園に銅像が建立された。 |
後宇多天皇陵墓に向かう途中にあった広沢池 | 日本三沢の一つだけあって、素晴らしい景観だった! | 夢か真か、ここは桃源郷ではござらんか |
池のほとりから中州へ。贅沢の極み! | 珍しい石仏の千手観音が中州におられた!表情GOOD! | 御陵に向かってさらに前進。農村の中を行く |
森の中に参道を発見! | 見張所だ!ここまでくればもうすぐだ |
アルムおんじの家とモミの木の如し | 本当に晴れて良かった!緑が美しい | 周囲はセミの声で埋まっていた |
鎌倉時代中期の天皇。大覚寺統。後宇多は“ごうだ”と読む。後醍醐天皇の父。在位は7歳から20歳までの13年間で、文永11年1月26日(1274年3月6日)-弘安10年10月21日(1287年11月27日)。諱は世仁(よひと)。
1267年生まれ。亀山天皇の第2皇子で母は左大臣藤原実雄の娘・皇后藤原佶子(きつし/京極院)。名は世仁(よひと)。 1272年(5歳)、祖父・後嵯峨院が崩御し、父・亀山天皇が朝廷の実権を掌握して親政を開始。 1274年、7歳のときに父・亀山天皇から譲位を受け、後宇多(ごうだ)天皇として即位する。若年ゆえ父・亀山院が院政を13年間おこなった。この即位は後深草(ごふかくさ)天皇系の持明院(じみょういん)統、亀山天皇系の大覚寺(だいかくじ)統の対立の火種となる。後宇多天皇の即位は、幕府と後深草・亀山兄弟の母・大宮院の協議で認められたものだが、兄・後深草帝は(1)皇位が弟の亀山・後宇多の父子で継承されたこと(2)後深草の皇子の方が後宇多より年長であることから、「順番からいえば次はわが子・煕仁(ひとひと)ではないか」と強く反発した。 この年、モンゴル(元)軍の最初の日本襲来(文永の役)。 1275年(8歳)、後深草上皇は皇位継承権の復活をはかって反撃を開始。太上天皇の尊号辞退と出家の意思を鎌倉幕府に示すと、8代執権・北条時宗は大覚寺統(亀山系)による持明院統(後深草系)の冷遇を憂慮。後深草上皇(持明院統)の皇子・熙仁(ひろひと)親王を、後宇多天皇(大覚寺統)の皇太子にするよう圧力をかけ、亀山院はこれに従った。 1281年(14歳)、再びモンゴル軍が日本に襲来する。 1287年(20歳)、後宇多天皇は後深草院(1243-1304/当時44歳)に譲位を迫られ、後深草院の皇子・熙仁親王(22歳)に皇位を譲った。熙仁親王は第92代・伏見天皇として即位し、後深草院は待望の院政をスタートさせ、皇位は大覚寺統から持明院統にうつった。 1288年(21歳)、伏見天皇に第一皇子・胤仁親王(後伏見天皇)が生まれる。 1289年(22歳)、次の皇太子の座をめぐり、後宇多上皇の皇子邦治(くにはる/のちの後二条天皇)と、伏見天皇の皇子胤仁(たねひと/のちの後伏見天皇)が争い、胤仁が皇太子にたてられた。 1298年(31歳)、伏見天皇は胤仁(後伏見天皇)に譲位。後宇多上皇は「伏見帝から後伏見への(持明院統の)皇位継承は、祖父・後嵯峨天皇の意に反する」として幕府を責めた。そこで幕府によって「両統迭立(てつりつ※かわるがわる地位につくこと)」が提案され、後宇多天皇の第一皇子・邦治親王(後二条天皇)の即位への道が開ける。 1301年(34歳)、邦治親王が第94代・後二条天皇(1285-1308/当時16歳)として即位し、後宇多院は20歳で譲位して以来、14年ぶりに政治の世界へ戻る。院政を7年間行い、熱心に政務をみた。このおり、またしても皇太子の選定をめぐって持明院統と大覚寺統が激突、結局持明院統の富仁親王(花園天皇)に定まった。対立は身内である大覚寺統の内部にも生じ、後宇多が第二皇子・尊治親王(後醍醐天皇)を推したのに対し、父・亀山は自らの末子・恒明(つねあきら)親王を嫡流に擬した。 同年、後宇多院は13番目の勅撰和歌集『新後撰和歌集』(20巻)の編纂を二条為世に命じ1303年に奏覧。 1305年(38歳)、亀山上皇が56歳で崩御。 1307年(40歳)、寵妃・レイ(女偏に令)子(れいし)内親王(遊義門院)が急病により37歳で没する。レイ子内親王は後深草上皇(持明院統)の愛娘であるが、対立関係にあるにもかかわらず後宇多上皇(大覚寺統)は彼女を愛してしまう。そして後宇多帝は気持ちを抑えきれず、彼女を館から盗み出してしまった。後宇多院にとって最愛の女性であり、彼女の死を悼んで葬送の日に出家し、大覚寺を住まいとした。法名は金剛性(こんごうしょう)。 1308年(41歳)、後二条天皇(大覚寺統)が23歳で崩御。富仁親王が花園天皇(持明院統)として即位し、後宇多は大覚寺統であるため政務から離れるが、皇位については父亀山の意向を無視して尊治親王(後醍醐天皇)を皇太子にした。その際、後宇多は尊治親王に「後二条の子・邦良が成長したらすべてを邦良に譲るように」と求めた。 1313年(46歳)、真言密教に没頭、かねてからの希望であった高野山参詣を行った。高野山に到着するまで輿に乗らなかったという。 1318年(51歳)、花園天皇が譲位。後宇多は持明院統の伏見上皇と談合し、第2皇子・尊治親王(第96代・後醍醐天皇/1288-1339)の即位、邦良の皇太子立坊を実現させた。後宇多上皇が再び院政を行ったが、後醍醐は既に30歳であり、自ら政治を行おうとし、父子は対立する。 同年、後宇多法皇の院宣で15番目の勅撰和歌集『続千載和歌集』(20巻)の編纂が開始、1320年に奏覧。二条為世撰。 1321年(54歳)、後宇多上皇は政務を後醍醐に渡す決心をする。幕府の同意を得て白河上皇以来の慣例であった院政を停止し、後醍醐天皇の親政とした。 1324年、院政時の御所とするなど縁の深かった大覚寺で崩御。享年56歳。 陵墓は京都市右京区北嵯峨朝原山町の蓮華峰寺陵(れんげぶじのみささぎ)。方形堂・石造五輪塔。亡骸は広沢池の北の蓮華峰寺近くの山地で火葬され、遺骨が蓮華峰寺の五輪塔に納められた。現在も大覚寺が御霊の祭祀にあたる。 幕府に「両統迭立」を行わせた手腕を持つ。好学の天皇として知られ、内外の典籍を学び、仏道に帰依した。 学問を好み、仏道の修行に熱心であったため、中世日本最高の賢帝の一人と評価される。政敵であり“学問皇帝”として名高い花園天皇からも「末代(平安時代後期)の英主」と激賞され、聡明な帝王であり、学問・和歌・書道にも長けていたと評された。 日記に『後宇多天皇宸記(しんき)』、宸筆の『庄園敷地施入状』 (2巻)など。1321年に後宇多天皇が大覚寺再興の縁起などを記した『後宇多天皇宸翰御手印遺告(しんかんおていんゆいごう)』は国宝に指定されている。 天皇の和歌は『続後拾遺集』『新後撰集』などに収められている。勅撰和歌集は『新後撰和歌集』(1303)、『続千載和歌集』(1320)。 ※持明院統は、後深草、伏見、後伏見、花園。大覚寺統は、亀山、後宇多、後二条。 ※嵯峨天皇の離宮であった大覚寺を再興しそこで院政を執った。 ※訴訟制度改革に取り組み、大きな業績を残した。 ※『弘法大師伝』を記している。 |
「深草十二帝」の1人 | この日の京都は気温は38度! |
鎌倉時代中期の天皇。書道・伏見院流開祖であり鎌倉時代後期を代表する書家の一人。京極派の高名な歌人。在位は22歳から33歳までの11年間で、弘安10年10月21日(1287年11月27日)-永仁6年7月22日(1298年8月30日)。
1265年生まれ。“持明院統の祖”後深草天皇の第二皇子。母は玄輝門院・藤原イン(立心偏に音)子(いんし)。名は熙仁(ひろひと)。 1287年(22歳)、後宇多天皇(大覚寺統)は後深草上皇(持明院統)に譲位を迫られ、後深草院の皇子・熙仁親王に皇位を譲った。熙仁親王は第92代・伏見天皇として即位し、いわゆる両統迭立(ていりつ)の事象はこの時代から生じた。後深草院が院政をおこなう。 1288年(23歳)、伏見天皇に第一皇子・胤仁(たねひと)親王(のちの後伏見天皇)が生まれる。 1289年(24歳)、次の皇太子の座をめぐり、胤仁親王と後宇多上皇の皇子・邦治(くにはる/のちの後二条天皇)親王の勢力が争い、胤仁が皇太子にたてられた。 1290年(25歳)、この年まで父の院政であったが、その後は伏見帝が親政をしき、院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)の代わりに宮中に議定衆(ぎじょうしゅう)をおくなど公家政治振興に努めた。 同年、所領を没収された甲斐源氏の浅原為頼と2人の息子たち武士3名が、伏見天皇殺害を企て騎馬で御所に乱入。伏見帝は女装をして三種の神器と皇室伝来の管弦「琵琶の玄象」「和琴の鈴鹿」を持って脱出、浅原父子は失敗を悟って自害した。 1298年(33歳)、伏見天皇は皇子の胤仁親王(10歳)に譲位し、親王は第93代・後伏見天皇として即位する。譲位後は後伏見・花園両朝の院政を1313年までとった。 この事態に後宇多上皇は「伏見帝から後伏見への(持明院統の)皇位継承は、祖父・後嵯峨天皇の意に反する」として幕府を責めた。そこで幕府によって「両統迭立(てつりつ※かわるがわる地位につくこと)」が提案され、後宇多天皇の第一皇子・邦治親王(後二条天皇)の即位への道が開ける。 1301年(36歳)、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇(大覚寺統)に譲位。そして両統迭立の方針に従い、皇太子には伏見上皇の第四皇子・富仁親王(花園天皇)が立てられた。 1308年(43歳)、後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇が即位し伏見上皇は再び院政を敷いた。 1313年(48歳)に出家し、後伏見上皇が院政を引き継ぐ。法名は素融。 1317年10月8日、持明院殿にて52歳で崩御。退位後長く住んだ洛南の離宮伏見殿にちなみ、伏見院と追号。 藤原定家の曽孫である歌人・京極為兼(藤原為兼)を師として学び、和歌や書にすぐれ『玉葉和歌集』を為兼に撰進させた。歌集に『伏見院御集』、日記に『伏見院御記』がある。師の京極為兼は二度も流刑となっており、伏見帝の反幕府的な言動への見せしめではないかという説がある。 「更(ふ)けぬるか過ぎ行く宿もしづまりて月の夜道にあふ人もなし」(伏見天皇/『玉葉和歌集』) 日本史上最高の能書帝である“書聖”伏見天皇の傑作は『紙本墨書伏見天皇宸翰御願文(正和二年二月九日)』(重要文化財)。「三蹟」の藤原行成以上の書の腕前を持っていたと評され、他にも多くの宸翰(しんかん、天皇の直筆文)が重要文化財に指定されている。 伏見帝は鎌倉末期の公家政治振興に努め、門閥政治を打破すべく十三ヵ条の新制を制定するなど宮中制度の改革が進められた。これらは政敵・亀山上皇の政策と共通し、朝廷における訴訟機構の刷新や記録所の充実などにより政治的権威の回復に取り組んだ。 墓所は京都市伏見区の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。方形堂。「深草十二帝陵」とも称される。深草で火葬され、遺骨は深草法華堂に納められた。 |
「深草十二帝」の1人 | 真夏の巡礼は白砂の照り返しが強烈 |
鎌倉時代後期の天皇。持明院統。在位は10歳から13歳までの3年間で、永仁6年7月22日(1298年8月30日)-正安3年1月21日(1301年3月2日)。諱は胤仁(たねひと)。 1288年生まれ。伏見天皇の第1皇子で、生母は准三宮藤原経子(けいし)、養母は永福門院藤原しょう子(西園寺実兼の娘) 。翌年皇太子になる。 1298年、10歳のときに父・伏見天皇は胤仁親王に譲位し、親王は第93代・後伏見天皇として即位する。まだ若いため伏見上皇が院政をとった。 後宇多上皇(大覚寺統)は「伏見から後伏見へ2代続けての(持明院統の)皇位継承は、祖父・後嵯峨天皇の意に反する」として幕府を責めた。そこで幕府によって「両統迭立(てつりつ※かわるがわる地位につくこと)」が提案され、持明院(じみょういん)、大覚寺(だいかくじ)両統の間に皇位継承の協定が成立。皇太子には後宇多天皇の第一皇子・邦治(くにはる)親王(大覚寺統/後二条天皇)が選ばれる。 1301年(13歳)、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は在位2年半で後二条天皇(大覚寺統)に譲位する。後伏見上皇はまだ13歳で皇子がなく、次の皇太子には伏見上皇(持明院統)の第四皇子、弟の富仁親王(花園天皇)が立てられた。執権北条貞時は両統迭立策を重視した。 1308年(20歳)、後二条天皇の急死(享年23歳)に伴い、後伏見の弟で11歳の花園天皇(持明院統)が即位し、伏見上皇が再び院政を敷いた。 1313年(25歳)、伏見上皇が出家し、後伏見上皇が院政を引き継ぐ。 1317年(29歳)、持明院殿にて父・伏見上皇が52歳で崩御。 1318年(30歳)、花園天皇が退位に追い込まれ、大覚寺統の後醍醐天皇が30歳で即位。これにより後伏見院の院政も終わる。※後伏見と後醍醐は共に1288年生まれ。 皇太子には大覚寺統の後二条天皇皇子・邦良親王がなり、後伏見上皇の皇子・量仁(かずひと)親王(光厳天皇)はその次の皇太子となることが決められた。 1326年(38歳)、邦良親王が病死し、幕府の裁定で量仁親王が皇太子に立った。だが、後醍醐天皇は譲位に応じなかった。 1331年(43歳)、後醍醐天皇による討幕計画が露見して捕らえられ隠岐に流された(元弘の変)。都では後伏見の皇子・光厳天皇が幕府に支えられて即位、後伏見上皇は再び院政を始めた。その後、後醍醐天皇の隠岐脱出に呼応して諸将が蜂起する。 1333年(45歳)、足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃したことから、後伏見上皇は北条仲時らに擁され、光厳天皇・花園上皇とともに東国に逃れようとした。だが道中で仲時らは討ち死にし、帝たちは捕らえられ京都に連れ戻された。光厳天皇は廃位され、後伏見上皇は出家する。法名を理覚と号し、のち行覚と改める。同年、鎌倉幕府は滅亡した。 その後、後深草院は後醍醐天皇が主宰する建武政府下で日陰に追いやられたが、後伏見をあおぐ西園寺公宗ら持明院統ゆかりの公家たちがクーデタを企てたこともあった。 建武政府は足利尊氏の離脱によってまもなく崩壊する。 1336年5月17日、後伏見上皇は持明院にて48歳で崩御。別名に持明院殿。その4カ月後、尊氏は後醍醐に対抗するために光明天皇を擁立し北朝を立てる。 父天皇とともに能書家として知られ、歌集『後伏見院御集』」、日記『後伏見天皇宸記』を遺す。 陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。「深草十二帝」の1人で、深草北陵には持明院統歴代が葬られている。嵯峨野で火葬され遺骨が深草法華堂に納められた。 |
市街地の中にある | 左に見える建物は京都大学だ! |
鎌倉時代後期の天皇。大覚寺統。後醍醐天皇の兄。在位は16歳から23歳までの7年間で、正安3年1月21日(1301年3月2日)-徳治3年8月25日(1308年9月10日)。諱は邦治(くにはる)。
1285年生まれ。後宇多天皇の第1皇子。母は西華門院源基子(きし)。名は邦治(くにはる)。翌年、親王宣下を受ける。 1298年(13歳)、持明院統の伏見天皇が子の胤仁(たねひと)親王に譲位し、親王は第93代・後伏見天皇として即位。大覚寺統である父・後宇多上皇はこれに反対、「伏見から後伏見へ2代続けての(持明院統の)皇位継承は、祖父・後嵯峨天皇の意に反する」として幕府を責めた。そこで幕府によって「両統迭立(てつりつ※かわるがわる地位につくこと)」が提案され、持明院(じみょういん)、大覚寺(だいかくじ)両統の間に皇位継承の協定が成立。次の皇太子として、大覚寺統・後宇多天皇の第一皇子・邦治(くにはる)親王(のちの後二条天皇)が選ばれた。 1301年(16歳)、祖父・亀山法皇が働きかけた執権北条貞時の調停により、後伏見天皇は後宇多院の皇子・邦治親王(16歳)に皇位を譲る。親王は第94代・後二条天皇として即位した。そして両統迭立の方針に従い、皇太子には持明院統・伏見上皇の第四皇子・富仁親王(花園天皇)が立てられた。 ※後二条天皇の即位後3年半は、史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在した。 半世紀以上にわたって両統迭立を重ねてきた結果だ。 1303年(18歳)、後二条院歌合を催す。歌会・歌合の催行が多い。 1308年、疫病が流行し、これを天皇の不徳が原因として譲位を求める声があがる。これを受けて、譲位を迫る特使が後二条天皇のもとに派遣されたが、天皇自身が急病(赤痢)になり、9月10日に二条高倉皇居にて23歳で崩御した。大覚寺統の嫡流を継ぐべき皇子の邦良親王はまだ9歳であったため、大覚寺統と持明院統とが交互に皇位継承していくという幕府裁定の両統迭立の原則が崩壊する。結局、後二条天皇の異母弟・後醍醐天皇が「一代限りの中継ぎ」として即位した。 歌集『後二条院御集』『後二条院御百首』などがある。 陵墓は京都市左京区白川追分町の北白河陵(きたしらかわのみささぎ)。円丘。北白川殿で火葬され、墳丘が造られ御陵とされた。西南には後二条天皇の26歳で没した皇子・邦良親王の墓がある。 ※後二条天皇の分骨所が父・後宇多天皇の蓮華峯寺陵内にある。 |
【皇室豆知識その9】 前方後円墳の築造は6世紀末に終了しているにもかかわらず、宮内庁は8世紀後半に崩御した第48代称徳天皇(718-770)と、9世紀前半に崩御した第51代平城天皇(774-824)の御陵を前方後円墳に治定しており、後者は約250年ものズレが生じている。 さらには、古墳時代(250年頃-592年)の築造と見られている円墳に、後世の第39代弘文天皇(648-672)、第49代光仁天皇(709-781)、第55代文徳天皇(もんとく/827-858)、第66代一条天皇(980-1011)、第68代後一条天皇(1008-1036)、第69代後朱雀天皇(1009-1045)、第70代後冷泉天皇(1025-1068)、第71代後三条天皇(1034-1073)、第86代後堀河天皇(1212-1234)、第94代後二条天皇(1285-1308)が眠っているとされ、最後の後二条天皇にいたっては鎌倉時代の天皇であり、実に700年近くもの築造年のズレが出ている。僕は、なぜこんなことを宮内庁が放置しているのか分からない。 継体天皇陵、斉明天皇陵のように、学界の定説が別の御陵に確定しても、宮内庁はかたくなに治定替えを拒み、「陵墓の治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく」(名前を刻んだ墓誌のような決定的な証拠が出てこない限り変更しない)の一点張りだ。これまで天皇陵から墓誌が見つかった例はなく、宮内庁は存在しないものを出せと言っており、研究者は閉口している。これでは、戦前の軍部が「一度決めたものは絶対に改めない」と目と耳を塞いでいたのと同じではないか…。 一方、考古学的にも、文献上でも正確な治定と判明している天皇は、天智、天武天皇の父親である第34代舒明(じょめい)天皇が一番最初で(初の八角墳)、その後は第38代天智天皇、第40代天武・第41代持統天皇(合葬)、第43代元明天皇、第45代聖武天皇、第60代醍醐天皇(醍醐寺)、第72代白河天皇(成菩提院跡)、第74代鳥羽天皇(安楽寿院)、第75代崇徳天皇(白峯寺/しらみねじ)、第76代近衛天皇(安楽寿院)、第77代後白河天皇(法住寺殿跡)、第80代高倉天皇(清閑寺/せいかんじ)、第87代四条天皇(泉涌寺)、第91代後宇多(ごうだ)天皇(蓮華峯寺跡)、第96代後醍醐天皇(如意輪寺)、第97代後村上天皇(観心寺)、第102代後花園天皇(常照皇寺)、以降第103代後土御門天皇から第124代昭和天皇までの22名、合計40名。 平安時代に入って少しずつ御陵が護られるようになったのは“深草帝”こと第54代仁明天皇(にんみょう/810-850)から、御陵の側に帝の菩提を弔うための寺院、「陵寺(りょうじ)」が造られたことが大きい。醍醐寺のように平安時代から現在まで続いている名刹が戦国時代も管理していたことで、陵墓の所在地が不明にならなかった。 ただ、宮内庁が誤って治定し続けていることで、継体天皇陵の真陵、今城塚古墳が発掘調査が可能な大王陵としてつぶさに研究できた一面もある。1997年に調査が始まり、御陵から約65m×約6mという日本最大の埴輪祭祀区が見つかった。出土した埴輪は、兵士、力士、巫女、馬、水鳥、家形(高さ170cmの神社、日本最大級の家形埴輪!)など113点以上。斉明天皇の真陵、牽牛子塚古墳も調査可能な貴重な八角墳であり今後の報告が待たれる。僕としては被葬者を特定できるものが見つかり、宮内庁が重い腰を上げて治定替えを行い、人々から斉明天皇として参拝されるようになることを願ってやまない。陵墓が「聖域」なのか、それとも「文化財」なのかと問われれば、「聖域であり文化財」としか言いようがない。 |
参道が素晴らしい!森林浴ができる | 観光客の多い知恩院のすぐ側だけど、御陵は静寂が保たれている |
1297年生まれ。3代前の帝である第92代伏見天皇の第四皇子(第三皇子?)で、母は左大臣実雄の娘・藤原季子(顕親門院)。諱は富仁(とみひと)。 1歳の時に父帝・伏見天皇(持明院統)が第1皇子の第93代・後伏見天皇に譲位。これに反発した大覚寺統の第91代・後宇多上皇は「伏見から後伏見へ2代続けての(持明院統の)皇位継承は、祖父・後嵯峨天皇の意に反する」として幕府を責めた。幕府は「両統迭立(てつりつ※交互に皇位継承すること)」「皇位10年で移譲」を提案、両統間に皇位継承の協定が成立する。 1301年(4歳)、後伏見天皇は両統迭立の方針に従って大覚寺統の第94代・後二条天皇に譲位。同時に、皇太子には持明院統・伏見上皇の第四皇子・富仁親王(花園天皇)が立てられた。 ※後二条天皇の即位後3年半は、史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在した。半世紀以上にわたって両統迭立を重ねてきた結果だ。 1308年(11歳)、後二条天皇が赤痢となり23歳で崩御。富仁親王は第94代・花園天皇として即位し、最初の5年は父帝・伏見上皇が、後の5年は兄の後伏見上皇が院政を敷く。次の皇太子は順番的に大覚寺統であったが、後二条天皇の第一皇子・邦良(くによし)親王(1300-1326)が、まだ8歳であることから、祖父の後宇多上皇は一代後の皇太子就任を鎌倉幕府に希望。そこで幕府は、後二条天皇の在位は7年半であり、皇位移譲約束である10年より短いことを理由に、いったん大覚寺統から中継ぎの天皇を立てることを容認。そこで後二条天皇の皇弟である9歳年上の尊治親王(1288-1339/のちの後醍醐天皇)を皇太子に立てる事になった。 1312年(15歳)、花園天皇は日記をつけ始める。 1317年(20歳)、伏見上皇が崩御し、花園天皇の兄である後伏見上皇が院政を継ぐ。 1318年(21歳)、花園天皇が皇位について10年が経ち、約束通り「一代限りの中継ぎ」として大覚寺統の第96代・後醍醐天皇に皇位が譲られ、邦良親王が立太子された。 1326年(29歳)、花園帝は退位後、兄・後伏見上皇の第三皇子・量仁(ときひと)=北朝初代天皇・光厳天皇の養育を行った。花園帝の第一皇女の寿子内親王は光厳天皇の妃になっている。 1330年(33歳)、親王を訓戒するために王道を説いた『誡太子書』を記す。同書は動乱の時代に備えて勉学の必要性があることを説いた書。「徳なくて上に立つことを恥じよ」(花園天皇/誡太子書) 1332年(35歳)、世相の混乱で日記の筆を置く。 1333年(36歳)、後醍醐天皇の反乱により、後伏見・光厳と共に鎌倉へ逃れようとしたが、幕府の滅亡により近江で捕らえられて京に戻された。 1335年(38歳)、出家し法名を遍行と称す。 1342年(45歳)、幼年から読経念仏を欠かさなかった信心家であり、禅宗に傾倒し、仁和寺の花園御所を寺に改めて妙心寺を開基する。 1348年12月2日、花園萩原殿にて51歳で崩御。 幼少より学問を好んだ花園天皇は、歴代随一の学識と称えられている。天皇家の記録や和漢の史書、老荘をはじめ諸子百家にわたって読破したことを日記に記している。 文人肌で学問・和歌に秀で、47巻に及ぶ自筆日記の『花園院宸記(しんき)』は歴史上重要な記事を多く含む貴重な史料。 著作に『学道之記』『論語抄』『誡皇太子書』がある。詩歌をよくし17番目の勅撰和歌集『風雅和歌集』の監修(光厳上皇の撰)も行った。 陵墓は京都市東山区粟田口三条坊町の十楽院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)。火葬となり崩御2日後に葬られた。 有名な知恩院のすぐ側だけど、御陵は静寂が保たれている。 ※花園天皇は皇位争いには政治的に公正な態度をとり、持明院流であったが大覚寺統の後醍醐天皇を称えている。 ※公家は二条家が大覚寺統、京極家が持明院統についた。 |
如意輪寺の境内に御陵の入口がある | 如意輪寺自体がけっこう山奥なので、都を遠く感じる | 制札に夕陽が差す |
朝、東から光が差す醍醐天皇陵(2010) |
夕刻、西日の中の醍醐天皇陵(2007) |
御陵の供花は初めて! 天皇だけに「菊」だった |
参道の入口脇の「正行公埋髪塔」。楠木正行は最後の出陣前に 後醍醐天皇陵を参拝し、遺髪となる髪を切ってここへ埋めたという |
如意輪寺境内の「後醍醐天皇御霊殿」。内部には 後醍醐天皇の木像が安置されている(2010) |
鎌倉時代末期の天皇。在位は30歳から50歳までの20年間で、文保2年2月26日(1318年3月29日)
- 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)。室町幕府と対抗して吉野に南朝を開いた後醍醐天皇。通常の天皇の陵墓は南向きに造成されるが、 ここは遺言で北向きに、つまり京の都に向いている。いつかは都へ戻りたいという悲願が込められた御陵なんだ。諱は尊治(たかはる)。 鎌倉時代末期の天皇。大覚寺統。在位は30歳から50歳までの20年間で、文保2年2月26日(1318年3月29日)- 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)。中国、宋の朱子学(儒学)に傾倒し、はやくから天皇による親政を目標としていた。延喜・天暦の治すなわち平安中期の醍醐・村上両天皇の代の政治を理想とし、死後におくられる天皇号を、みずから決めて、生前に「後醍醐」と名のった(宇多天皇の子が醍醐天皇であったため、後宇多天皇の子は後醍醐に)。 後醍醐帝が生まれる16年前(1272)、後嵯峨法皇が後継者の人選を幕府に委ねたため、皇子の兄弟、後深草上皇(持明院統/北朝)と亀山天皇(大覚寺統/南朝)の間で対立が生じる。両統は互いに幕府に働きかけて自派の有利を図った。 1284年、鎌倉で第8代執権・北条時宗が32歳で病没。嫡男の北条貞時(1272-1311)が12歳で第9代執権となった。 1288年11月26日、尊治(たかはる)親王(のちの第96代・後醍醐天皇)が生まれる。後宇多天皇(第91代※亀山の子)の第2皇子で、母は藤原忠子(談天門院)。諱は尊治。同年、伏見天皇(第92代※後深草の子)に第一皇子・胤仁(たねひと)親王(のちの第93代・後伏見天皇/1288-1336)が誕生している。 尊治親王が生まれた時、前年に大覚寺統の父帝・後宇多は、持明院統の伏見天皇に20歳で譲位し上皇となっていた。 1289年(1歳)、次期皇太子の座をめぐり、3歳年上の兄であり後宇多帝第1皇子の邦治(くにはる/のちの後二条天皇/1285-1308/4歳※亀山上皇の孫)親王と、伏見天皇の皇子胤仁(後伏見天皇/1歳)が争い、胤仁が皇太子にたてられた。 亀山院はわが子の後宇多へ譲位することは成功したが、後宇多から孫の後二条への譲位には失敗し、兄・後深草院に形勢を逆転され失意のうちに出家する。 1298年(10歳)、伏見天皇は10歳の後伏見天皇に譲位。父・後宇多上皇は「伏見帝から後伏見への(持明院統の)皇位継承は、祖父・後嵯峨天皇の意に反する」として幕府を責めた。幕府は「両統迭立(てつりつ※交互に皇位継承すること)」「皇位10年で移譲」を提案、両統間に皇位継承の協定が成立する。 1301年(13歳)、後伏見天皇の譲位により、大覚寺統の第94代・後二条天皇(1285-1308/当時16歳)が即位し、後宇多院が院政を行った。皇太子は持明院統の富仁親王(花園天皇)に定まった。その際、大覚寺統の内部に対立が生じ、父・後宇多上皇が第二皇子・尊治親王(後醍醐天皇)を推したのに対し、祖父・亀山上皇は自らの末子・恒明(つねあきら)親王を推した。 同年、鎌倉にハレー彗星が飛来し、これを凶兆と憂慮した執権北条貞時(29歳)は出家、従兄弟で3歳年下の北条師時(もろとき/1275-1311)が第10代執権となったが、幕政の実権は貞時が握っていた。 1304年(16歳)、持明院統の祖・後深草上皇(89代天皇)が61歳で崩御。同年、尊治親王は大宰帥となり帥宮(そちのみや)と呼ばれた。 1305年(17歳)、大覚寺統の祖である祖父・亀山上皇(90代天皇)が56歳で崩御。 1308年(20歳)、後二条天皇(大覚寺統)が赤痢のため23歳で崩御。持明院統で11歳の花園天皇(1297-1348)が即位し、最初の5年は花園帝の父・伏見上皇が、後の5年は花園帝の兄・後伏見上皇が院政を敷く。 次の皇太子は順番的に大覚寺統であり、後宇多上皇は後二条帝の第一皇子・邦良(くによし)親王(1300-1326)の即位を望んだが、まだ8歳かつ病弱だった。後宇多から相談を受けた幕府は、「後二条天皇の在位は7年半であり、皇位移譲約束である10年より短い」ことを理由に、同じ大覚寺統から中継ぎの天皇を立てることを容認。そこで後二条天皇の弟である20歳の尊治親王(後醍醐天皇)を准直系として花園天皇の皇太子に立てた。天皇より皇太子の方が9歳も年上という珍しい現象となった。やがて、持明院統が後伏見系と花園系に、大覚寺統が後二条系と後醍醐系に再分裂し、両統分立が四統分立になる兆候が見られた。 1311年(23歳)、尊治親王の最初の正妃、歌人・二条為子が他界する。22年後、彼女の代表歌「月ならで うつろふ色も 見えぬかな 霜よりもさきの 庭の白菊」(『続後拾遺和歌集』)を思い出して、後醍醐帝は次の句を詠む。「うつろはぬ 色こそみゆれ 白菊の 花と月との 同じ籬(まがき、垣)に」(決して色褪せずに、移ろわないものも、この世にはある。粗い垣根の上の、白く輝く月に照らされた白菊の花のように)(『新葉和歌集』) 同年、鎌倉で第10代執権・北条師時が36歳で他界し、第11代執権に北条宗宣(むねのぶ/1259-1312)が就任。1か月後に北条貞時も39歳で没する。幕府の実権は内管領(執事)の長崎円喜(えんき)が握り、幕府滅亡までその手にあった。 1312年(24歳)、わずか1年で第11代執権・北条宗宣が他界(53歳)。第12代執権に北条煕時(ひろとき/1279-1315)が就任。 1313年(25歳)、尊治親王は関東申次(朝廷と幕府の交渉役)である前太政大臣・西園寺実兼(さねかね)の娘・西園寺禧子(きし)と大恋愛をして密かに西園寺家から連れ出し、既成事実婚で皇太子妃とする。禧子は知的かつ美貌の持ち主として知られ、夫婦の熱愛ぶりが伝えられる。 1315年(27歳)、鎌倉で第12代執権・北条煕時が36歳で他界。第13代執権に北条基時(もととき/1286-1333)に就任。やはり実権は長崎円喜が握り続ける。 1316年(28歳)、鎌倉で第13代執権・北条基時が出家。第14代執権に北条高時(1304-1333)が就任。長崎円喜の嫡男・長崎高資が権勢を強める。 1317年(29歳)、伏見法皇が52歳で崩御。 1318年(30歳)、在位10年が経ち約束通りに花園天皇が譲位し、尊治親王は第96代・後醍醐天皇として即位した。幼帝が多いなか、30代での即位は1068年の後三条天皇(33歳※数え36歳)の即位以来、250年ぶり。皇太子には18歳の邦良親王(後二条天皇の子)が立てられた。後宇多上皇が再び院政を行ったが、後醍醐は既に30歳であり、自ら政治を行おうとし、父子は対立する。後醍醐天皇は宋学に傾倒、君主独裁を目指し、自らの諡号を後醍醐と定めた。 「世をさまり 民やすかれと 祈こそ 我身につきぬ 思ひなりけれ」(世が治まり、民が安らかであるように、と祈ることこそが、我が身に尽きぬ思いなのだ)『続後拾遺和歌集』 後醍醐帝は政道刷新に旺盛な意欲をみせ、公卿の中から乳父(めのと)の吉田定房(さだふさ/1274-1338、当時44歳)、北畠親房(ちかふさ/1293-1354、当時25歳)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ/1258−1348、当時60歳)ら「後(のち)の三房」と呼ばれた人材を集め、さらに公家社会の家格にとらわれず、宋学(儒学)を好み宮廷随一の賢才と謳われた中級公卿の日野資朝(すけとも)を側近に加え、学問、武芸の振興に努めた。 ※後の三房…平安時代の白河天皇に仕えた名前に「房」の字が付く3人の賢臣(藤原伊房・大江匡房・藤原為房)が「(前の)三房」と称されたことにちなみ、後醍醐天皇の信頼が厚い賢臣3名(吉田定房、北畠親房、万里小路宣房)は「後の三房」と呼ばれる。3名とも彼らの家柄では通常考えられない権大納言にまで昇進し、「後の三房」筆頭の北畠親房は源氏長者に、吉田定房は内大臣に昇る。北畠親房は村上源氏の流れを汲む名門。 「後の三房」と称された賢臣3人は、それぞれが独自に高度な学問的知識と政治思想の持ち主であり、常に後醍醐のやり方に同意していた訳ではなかった。たとえば、親房が『神皇正統記』で建武の新政の人材政策(足利尊氏ら武士の寵遇)に対し痛烈な批判をしていることや、定房が武力討幕に反対して元弘の乱における天皇の挙兵計画を鎌倉幕府に密告した張本人であることはよく知られている。宣房は建武の乱中に出家した後の行動が不明である。しかし、諫言を快く許し耳を傾ける後醍醐に三房は忠誠を誓い、親房と定房は最終的に南朝の一員としてその生涯を終えている。また、親房は恩賞としての官位や地方分権構想など、後醍醐天皇が発明した政策を最大限に有効利用して南朝を支えている。 1319年(31歳)、後醍醐天皇は才人を取り立てるという儒学思想に基づき、中級貴族のさらに傍流となる日野俊基(としもと※日野資朝の親戚)を、宋学研究の頭として抜擢した。この人事は、ライバル持明院統のリーダーである花園天皇からも、賢才が立身出世できるなら良いことだと称賛された。同年、禧子を中宮とする。 1321年(33歳)、後醍醐帝は父・後宇多上皇の院政を廃して朝廷内での天皇親政を確立。約400年前の醍醐・村上帝の親政に着目し、天皇に口出しをする幕府・院政・摂政・関白は不要とし、帝に最大権力が集まる政治体制こそ、日本のあるべき姿と考えた。 1324年(36歳)、父・後宇多上皇が56歳で崩御。後宇多上皇の遺志は「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」であったため、大覚寺統の准直系である後醍醐帝と、正嫡(せいちゃく/後二条天皇の子)となる甥の皇太子・邦良親王との間で、後継者争いが表面化する。 そして、“正中(しょうちゅう)の変”が起きた。『太平記』によると美濃の武将・多治見国長や土岐頼有が倒幕計画を練り、仲間の土岐頼員(とき・よりかず)が外部に漏らしたため、六波羅探題(幕府機関)の知るところになった。六波羅探題は実行犯とされる多治見らに出頭を要請したが、両者の拒絶で戦闘となり、多治見らは一族郎党と共に自刃した。 六波羅探題はさらに倒幕派を洗い出すため、後醍醐派の公家・儒学者である日野資朝(すけとも)と親戚の日野俊基(としもと)を拘禁。日野資朝は記録上、日本で最初に「無礼講」という名の身分を取り払った学芸サロン(学芸に優れた才人が集まった茶会)を主宰しており、そこで倒幕の密議をしていたと疑われた。後醍醐帝は側近の多数が逮捕され、日野資朝は佐渡へ遠流となる。後醍醐帝は腹心の万里小路宣房を幕府に派遣し、綸旨で「朕は謀反の疑いをかけられ激怒している。真犯人を探し出せ」と命令を伝えており、幕府は後醍醐帝を無罪と見なした(かつての通説は後醍醐帝が陰謀の黒幕)。 ※ちなみに資朝・俊基の無礼講は、茶道の前身である闘茶の最も早い例と言われ、連歌会も無礼講に端を発するという説がある。 1325年(37歳)、後醍醐天皇と側室の阿野廉子との間に恒良(つねよし)親王が誕生。 1326年(38歳)に後二条帝の第一皇子・邦良親王が26歳で病死し、新たな皇太子として後醍醐帝は(おそらく20歳頃の)第一皇子・尊良(たかよし)親王(不明-1337)を推薦していたが、幕府の裁定で持明院統・後伏見上皇の第三皇子、13歳の量仁(かずひと)親王(光厳天皇/1313−1364)が皇太子に立った。わが子の立太子を強く望む後醍醐は、裁定の無効を主張して譲位を拒み続け事態は膠着する。後醍醐帝は利発な第二皇子・世良(ときよし)親王に期待をかけていく。 同年、鎌倉では第14代執権・北条高時が病のため22歳で執権職を辞して出家、第15代執権に48歳の北条貞顕(さだあき/1278-1333)が就任するが、政争の激しさに身の危険を感じ、わずか11日で辞職し出家した。第16代執権に31歳の北条守時(もりとき/1295-1333※赤橋守時とも)が就任、最後の執権となる。ちなみに、足利尊氏は守時の妹婿だ。守時は30代になっていたが、政治の実権は出家した北条高時や内管領・長崎高資らに握られていた。 1327年(39歳)、後醍醐天皇は比叡山勢力を引き入れようと画策、第三皇子の護良(もりよし)親王(1308-1335)を19歳で天台座主(ざす)にする。護良親王は東山の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたことから「大塔宮」と呼ばれた。 1330年(42歳)秋、後醍醐天皇が後継として期待していた、聡明な第二皇子・世良(ときよし)親王が約20歳(生年不明)で早世する。母は公卿西園寺実俊(橋本実俊/さねとし※橋本家の祖)の娘であり、実母の家格の高さから後醍醐の世継ぎと目されていたが、親王の夭折により帝は自身の皇統を存続させるのが難しくなった。世良親王の乳父であった後醍醐側近筆頭の北畠親房は、親王の急死を嘆いて出家し、いったん政界を引退する。 この年、ライバル持明院統の皇太子、量仁(かずひと)親王は17歳に成長しており、即位12年目の後醍醐帝に対して持明院統から退任要求が強まる。だが、譲位をすると新たな皇太子には大覚寺統傍系である後醍醐の子ではなく、兄・後二条の直系となる故・邦良親王の嫡子、10歳の康仁親王(やすひと/1320-1355※後二条の孫)が立てられる可能性が高かった。鎌倉幕府も康仁親王を将来の皇位継承者とする方針を固め、後醍醐帝に対して量仁親王への譲位の圧力を強めた。 後醍醐天皇は皇位継承に対する鎌倉幕府の干渉に不満を抱き、天皇政治をはばむ根源が幕府にあることを痛感、帝は倒幕に傾き、蔵人(くろうど、帝の秘書)の日野俊基(としもと)らと倒幕計画を進めた。 後醍醐帝は奈良の寺院や比叡山に自ら足を運んで味方に引き入れ、米価・酒価の公定、関所停止令により商工民を引きつけ、北条氏の流通路支配に反発する悪党・海賊の支えを期待した。帝は真言宗の文観を通じて楠木正成を引き入れた。 1331年(43歳)、後醍醐天皇が二度目となる倒幕計画を練っていたところ、6月に後醍醐帝の身を案じた老臣、乳父の吉田定房が倒幕計画を幕府に密告。このため日野俊基は捕らえられ、身辺に危険が迫った後醍醐帝は9月に京都脱出を決断、三種の神器を持って東大寺に逃れ、ついで笠置山(かさぎやま※京都府南部)に立てこもり、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起を呼びかけた。 同月、楠木正成は山城の赤坂城を拠点に挙兵。楠木軍500は智謀を尽くして幕府軍数万を翻弄、持久戦に持ち込み行方をくらませた。 10月、後醍醐天皇が笠置山に昇ったことが鎌倉幕府に知れ、幕府軍は笠置山を包囲。幕府は後醍醐天皇をただちに廃位し、10月22日に持明院統の後伏見天皇の18歳の皇子・量仁(かずひと)親王を、北朝初代の光厳(こうごん)天皇(1313-1364)として神器がないまま践祚(せんそ、皇位継承)させ、後伏見上皇が院政を行った。 10月30日、笠置山の行宮は火を放たれて陥落、帝は捕らえられ、板葺きのみすぼらしい館に幽閉される。 「まだなれぬ 板屋の軒の 村時雨 音を聞にも 濡るゝ袖かな」(まだ住み慣れない板葺きの粗末な館で、時折激しく軒を打つ時雨の音を聞くと、物悲しさから涙で袖が濡れてくることよ)『新葉和歌集』 1332年(44歳)、後醍醐帝は承久の乱の先例に従って謀反人とされ、鎌倉幕府によって隠岐島に流された。その途中、美作国(岡山県)付近で次の歌を詠む。 「よそにのみ 思ひぞやりし 思ひきや 民のかまどを かくて見んとは」(宮中では想像するしかなかった、仁徳帝が見たという民のかまどの煙を、これほど身近に見ることができ、配流というのも悪いことばかりではない) 『増鏡』 「あと見ゆる 道のしをりの 桜花 この山人の 情けをぞ知る」(大切な桜花の枝を折ってまで、私が行く道の栞(しおり、目印)としてくれた跡が見える。この辺りの山人の方々は、なんと情け深いのだろうか)『増鏡』※道を先導してくれた山人(木こり等)に対し感謝して 帝の第一皇子・尊良親王は土佐に配流となった(その後土佐を脱出して翌年九州で挙兵)。8年前に“正中(しょうちゅう)の変”で捕らえられ、佐渡に流されていた公卿の日野資朝は、将来の禍根を断つためと称して6月末に斬首された。資朝は事態を予測していたのか、落ち着いて死にのぞみ、次の辞世の詩を遺した。 「この世界に本(もと)より実体はなく/人の肉体と精神もまたその本質は空である/今、まさに、我が首は白刃を揺らそうとしている/しかしそれもまた、夏の風を斬るようなものだ」(日野資朝) その翌日、鎌倉では同族の日野俊基が処刑されている。さらに倒幕計画に関わった公卿の北畠具行(ともゆき)も鎌倉への護送中に処刑され、倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。 だが、後醍醐帝が配流となった後も、第三皇子の護良(もりよし)親王(大塔宮)は帝の代わりになり令旨を発して反幕勢力を募って吉野にて3000の兵で挙兵し、これに呼応して河内の豪族武将・楠木正成(当時38歳)も河内国金剛山の千早城で再挙兵した。9月、執権北条高時は反幕府勢力を征伐するため30万余騎の追討軍を派遣。 同年、皇太子には大覚寺統の嫡流として故・邦良親王の第一皇子、康仁親王が立てられた(康仁親王は後醍醐の子孫ではないため幕府としてはセーフ)。 1333年(45歳)2月、護良親王は拠点の吉野城を幕府軍6万に落とされたが、配下の武将村上義光(よしてる)が身代わりとして護良親王の鎧を着込み、敵前で壮絶な十文字切腹をしたお陰で、親王は高野山に落ち延びることができた。幕府は楠木正成の息の根を止めるべく、数万騎(太平記は100万、実際は2万5千?)の征伐軍で追討。正成は千人で千早城に篭城し、迫る幕府兵に巨石、巨木、熱湯、矢を浴びせて次々と葬り、護良親王も7000の兵で千早城に駆けつけ、幕府軍の兵糧を遮断した。攻めあぐねた幕府軍は仲間割れして殺し合う始末であり、楠木軍は90日間にわたって大軍を相手に戦い抜く。征伐苦戦の報は「幕府軍、恐れるに足らず」として全国に伝わった。 楠木軍に幕府軍が翻弄されているこの隙を突いて、4月に後醍醐天皇はまんまと隠岐島を脱出、伯耆(ほうき※鳥取県)の名和長年(なわながとし)らの支持を得て船上山(せんじょうさん)で挙兵した。帝が倒幕の綸旨を全国に発すると、楠木軍の善戦もあって各地で倒幕の機運が高まり、播磨では赤松則村(のりむら、円心/当時56歳)が挙兵した。幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の若武者・名越高家(北条高家)と御家人の筆頭・下野国の足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。 6月10日(旧暦4月27日)、名越高家は華美な武具をまとったため赤松則村軍に討たれ、後醍醐天皇の誘いを受けていた足利高氏は天皇方に寝返った。そして6月19日(旧暦5月7日)、足利高氏、赤松則村、千種忠顕が三方から都の幕府機関・六波羅探題を攻撃し陥落させる。 翌日、関東でも護良親王の令旨を受けた上野国の御家人・新田義貞が「いざ、鎌倉へ!」と挙兵し、防御が手薄になった鎌倉に攻め上った。当初150騎だった新田軍は、数日で数万の大軍となる。 6月30日(旧暦5月18日)、新田軍が鎌倉に迫ると、足利高氏(尊氏)を妹婿に持つ第16代執権・北条守時(赤橋守時)は、一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため先鋒隊として出撃し、激戦の末、一歩も退かず自刃する(38歳)。 幕府軍は地形を利用してしばらく持ちこたえるも、3日後の7月3日(旧暦5月21日)に新田軍が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内になだれ込んだ。両軍は市中で激突し、幕府軍の有力武将が相次いで敗死する。 翌7月4日(旧暦5月22日)、最終防衛線を突破されたため、第14代執権・北条高時(29歳)、第15代執権・北条貞顕(金沢貞顕、55歳)、長崎円喜ら北条一族・家臣283人は、北条得宗家の菩提寺である鎌倉・東勝寺に集まり、寺に火を放って自害し果てた。東勝寺一帯では約870人もの北条勢が命を断ったという。第13代執権・北条基時も同日に47歳で自害。こうして新田義貞は140年続いた鎌倉幕府を滅亡させた。これは楠木正成が千早城の戦いを終了した12日後のことだった。正成は後醍醐天皇を迎えにあがり、都への凱旋の先陣を務めた。 後醍醐天皇の反乱により、持明院統の後伏見上皇・花園上皇・光厳(こうごん)天皇は鎌倉へ逃れようとしたが、幕府滅亡により近江で捕らえられて京に戻された。幕府が擁立していた光厳天皇と皇太子・康仁親王(やすひと/1320-1355※後二条の孫)は廃位される。 7月17日(旧暦6月5日)、後醍醐天皇は帰京すると朝廷政治を復活させ、自ら公家・武家両者を統率しようと考えて「建武の新政(天皇が自ら行う政治)」を開始した。「朕の新儀が未来の先例なり(私がこれからすることが、将来の前例になるのだ)」。同日、足利高氏を鎮守府将軍に任命。帝は護良親王に仏門へ戻るよう促したが、親王は足利高氏の野心と軍事力を警戒、高氏が武家として台頭することで戦乱の世が来ると主張した。同月、護良親王を征夷大将軍に任命する。 7月27日(旧暦6月15日)に旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布された。土地所有権の認可を申請する者が都に殺到して、物理的に裁ききれなくなる。 9月14日、後醍醐天皇は「元弘の乱」で倒幕を果たした者への論功行賞を行い、諱の「尊治(たかはる)」から一字を足利高氏に授与し「尊氏」と改めさせ、北畠顕家・新田義貞・楠木正成・千種忠顕らにも官職を与えた。 新政が始まると、論功行賞を処理する「恩賞方」、荘園文書を調査する「記録所」という天皇みずから裁決する機関をいち早く再興させ、ついで裁判機関として雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)や、天皇の親衛隊である武者所(むしゃどころ)を新設。各機関で権限の衝突が起きる。諸国には国司と守護をおき、地方政治を担当させた。 護良親王は東北地方にも支配を行き渡らせるため陸奥将軍府の設置を進言、11月27日(旧暦10月20日)、北畠親房の長男・北畠顕家(あきいえ)が鎮守府大将軍に任じられ、5歳で陸奥太守となった義良(のりよし)親王(護良親王の弟、のちの後村上天皇/1328-1368)を奉じて出発。父の親房と共に陸奥国(奥州)多賀城に駐屯する。 同年、後醍醐帝の中宮・禧子が崩御。後醍醐は深く嘆き悲しみ、臨済宗高僧の夢窓疎石(1275-1351)をしばらく宮中に留めて供養を行わせた。 天皇親政の理想に燃え、天皇主導の下で戦のない世の中を築こうとしたが、理想の政治を行なう為には強権が必要と考え独裁を推し進める。まずは鎌倉時代に強くなりすぎた武家勢力を削ぐ必要があると考え、恩賞の比重を公家に高く置き、武士は低くした。側近を破格に昇進させるなど、倒幕の功に対する恩賞が不公平であった。公家の北畠親房は『神皇正統記』に「後醍醐天皇は足利兄弟を始めとする武士を依怙贔屓し、彼らに恩賞を配りすぎたため、本来貴族・皇族に与えるべきであった土地さえなくなってしまった」と記しているが、北畠親房は「(武士が)恩賞が欲しいなど不届きである」と極端に武士を見下した人物であり、記述を鵜呑みにできない。のちに武士たちが雪崩を打って反朝廷軍に加わったのは、恩賞が不十分であったと言わざるを得ない。倒幕の功労者である武将・赤松則村に対する冷遇、楠木正成の意見の軽視などもある。 公家にとっても、伝統的な摂関政治型の体制が否定され、天皇独裁のもとに恣意的な人事が行われたため失望は大きかった。天皇側の北畠顕家でさえ「公卿・殿上人・仏僧への恩恵は天皇個人への忠誠心ではなく職務への忠誠心によって公平に配分すること」と諫めている。 後醍醐天皇は他にも、従来の所領の領有権は改めて天皇の安堵(あんど、承認)を受けなければならないという強引な政策を打ち出したり、1つの土地に何人もの領主が現れて混乱したこともしばしばあった。地方では形骸化していた律令制の国司を復権させて地方行政権の多くを与え、鎌倉幕府以来の武家による統治機構である守護の権限を弱めたことも武士の不満を高めた。 庶民対しても、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課した。大内裏(皇居)造営のための新税を導入、農民・小領主に負担を強要し、農作業の時期に労役を行わせたことが農民の反発を生んだ。 官位や家柄も無視して人材を登用するという先見性があった後醍醐帝。だが、朝廷の力を回復する為とはいえ、あまりに独裁的・急進的だったため、新政は発足1年未満にして、武士、公家、農民という各界総反発の状況となった。 〔建武の新政メモ〕 天皇中心の儀式典礼を整え、国分寺や一宮を天皇直轄とするなど天皇の専制を強化 大内裏(皇居)造営のための新税「二十分の一税」を導入、農民・小領主に負担を強要 腹心の貴族・武士で構成した記録所・恩賞方を通じ綸旨(りんじ、天皇の命令書)絶対の政治を推進 家格無視の人事により貴族・官人・武士をその意志の下に置こうとした。 徳政により貸借関係を整理 関所停止令を発して商業・流通の発展に尽力 大陸にならって黄色の僧衣の強制 1334年(46歳)、1月30日(旧暦前年12月24日)、尊氏の弟・直義(ただよし)が8歳で鎌倉府将軍となった成良(なりよし)親王(1326-1344?)を奉じ鎌倉へ出発、鎌倉将軍府が成立する。成良親王は後醍醐天皇と側室阿野廉子の皇子で恒良親王の弟。義良親王(後村上天皇)の兄。 3月5日(旧暦1月29日)、建武に改元。その数日前、新たな皇太子に側室・阿野廉子にとっての長男・恒良(つねよし)親王が立てられる。 この年、後醍醐天皇は大内裏の造営のために新税「二十分の一税」を導入。また、新銭および紙幣の発行を計画(未実行)、検非違使庁に徳政令を発布させ、経済は混乱する。寺社を支配下に置くための官社解放令を出す。 後醍醐帝の寵妃、側室の阿野廉子(あの・れんし/新待賢門院)はわが子である第7皇子・義良親王(後の後村上天皇)を帝にしたかったが、子の異母兄である第3皇子・護良親王の存在が最大の障害だった。尊氏にとっても自身を敵視する護良親王が邪魔だった。2人は護良親王が後醍醐天皇の皇位を奪う企てをしていると吹き込み、これを信じた帝は11月下旬、清涼殿の宴に出席した護良親王の身柄を拘束し、征夷大将軍を解任したうえで尊氏に預けた。これ以前に、後醍醐帝にはかつて護良親王が天皇を差し置いて討幕の令旨を発したことに対する不信があった。12月11日(旧暦11月15日) 護良親王は鎌倉に流され、鎌倉将軍府の足利直義の監視下に置かれた。親王は父帝に誤解を訴えたがその声は帝の耳まで届かなかった。六波羅攻略に功を立てた楠木正成と赤松則村は、護良親王派であったために阿野廉子派との政争に敗れた形になり、戦功に比べ不遇であった。赤松則村は播磨国守護さえ与えられず恩賞の内容に激怒し都を去る。 ※『太平記』では護良親王が尊氏暗殺のために配下の僧兵を集めていたとする。 1335年(47歳)、7月初旬大内裏の造営に取り掛かる。 8月3日(旧暦7月14日)、北条高時の遺児・北条時行(中先代:なかせんだい)ら北条氏残党による「中先代の乱」が勃発。北条軍は尊氏の弟・足利直義を破って鎌倉を奪還し、鎌倉幕府を一時的に再興する。8月12日(旧暦7月23日)、直義は鎌倉を脱出する際、鎌倉東光寺に幽閉されていた護良親王(大塔宮)を家臣に命じて独断で殺害させた。不遇のまま27歳で人生を終えた護良親王は、牢獄で刺客と格闘し鬼の形相で亡くなったという。 尊氏は直義を救うべく動き始める。後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、成良親王が征夷大将軍に任命された。結果、尊氏は天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。帝はやむなく征東将軍(征夷大将軍ではなく)の号を与え、尊氏は20日で北条軍残党を滅ぼし、鎌倉を制圧した。尊氏は征夷大将軍に任ぜられぬ不満から後醍醐の召喚命令を無視して関東に居座り、武勲のあった武士に独自に恩賞を与え始める。尊氏は独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。 同年夏、建武政権の政庁に近い二条河原に、「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨」で始まる88節の有名な落書きが掲げられる。 1336年(48歳)、1月2日(旧暦前年11月19日)、後醍醐天皇は尊氏の行動を反逆とみなして討伐を決断、上将軍の第一皇子・尊良(たかよし)親王と新田義貞が討伐軍を率いた。奥州からは北畠顕家が南下しており、尊氏は赦免を求めて隠居する。だが、尊氏の弟の直義や執事の高師直が劣勢となると、彼らを救うため後醍醐天皇に叛旗を翻すことを決意、武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵した。尊氏は新田軍を箱根で破り、京都へ進軍する。 尊氏軍が都に迫った2月22日(旧暦1月10日)、後醍醐天皇は比叡山へ退く。翌日、尊氏は入京を果たす。楠木正成、新田義貞、そして奥州から上洛した北畠顕家ら天皇方の武将が、都に入った尊氏軍を猛攻撃し、尊氏軍は大敗を喫し、3月13日(旧暦1月30日)九州へ敗走した。その際、逃げていく尊氏軍に、天皇方から多くの武士が加わっていく光景を楠木正成は目撃し衝撃を受ける。帝の新政権から人心が離反した現実を痛感した正成は、後醍醐天皇に尊氏との和睦を涙ながらに進言する。ところが、公家達は「なぜ勝利した我らが尊氏めに和睦を求めねばならぬのか」と正成を嘲笑した。 5月14日(旧暦4月3日)、尊氏は九州で多くの武士、民衆の支持を得て、大軍を率いて北上を開始。尊氏は逆賊とされないよう持明院統の光厳上皇の院宣を得た。一方、後醍醐天皇は「湊川(みなとがわ、神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と楠木正成に命じる。朝廷軍は兵数で劣るため、正成は「都に尊氏軍を誘い込み、北から新田軍、南から我が軍で挟撃すべき」と提案するが、公家たちに「帝が都から離れると朝廷の権威が落ちる」と却下された。 正成は湊川に向かったが尊氏軍3万5千に対し、正成軍はわずか700。戦力差は50倍。正成は決戦前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書く。「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」。正成は書状を受け取った帝が現実を直視するよう祈った。 正成と尊氏は、3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同志。7月4日(旧暦5月25日)の「湊川の戦い」の合戦が始まると、尊氏は兵を小出しにして正成の降伏を促したが、最終的に正成は配下72名と民家へ入り、弟・正季(まさすえ)と互いに腹を刺し果てた。享年42歳。 ※楠木正成(1294-1336)…南北朝時代の武将。左衛門尉。河内国の土豪。後醍醐天皇に呼応して河内赤坂城に挙兵、千早城にこもって幕府の大軍と戦い、建武政権下で河内の国司と守護を兼ね、和泉の守護ともなった。のち九州から東上した足利尊氏の軍と戦い兵庫湊川に敗れ弟正季と刺しちがえて散った。大楠公(だいなんこう)。 ※赤松則村(1277-1350)…南北朝時代の武将。播磨の守護。元弘の乱で六波羅を攻め落とし建武政権の成立に貢献。のち足利尊氏に従い、白旗城に拠って新田義貞の追撃を阻止、室町幕府開創を助けた。法名、円心。 尊氏は光厳上皇を奉じ、名和長年ら建武政権軍を破って再度入京し、新政は2年半で瓦解した。帝にとって名和長年は、隠岐脱出後に本州に辿り着いて最初に味方してくれた豪族であり、恩人だった。 「忘れめや よるべも波の 荒磯を 御船の上に とめし心は」(決して、忘れることはあるまい。荒い波の打ち寄せる磯辺で、船の上にたたずむ私を(名和長年が)助けてくれた、あの日のことを)『新葉和歌集』 9月20日(旧暦8月15日)、尊氏の求めで持明院統の光厳帝は北朝第二代に弟の光明(こうみょう)天皇(1322-1380※14歳)を即位させ院政を開始、建武の新政はおわった。また、両統迭立のルールに従い、後醍醐の皇子・成良親王を光明天皇の皇太子とされた。後醍醐天皇は九州での勢力拡大を狙って第八皇子の懐良(かねよし)親王(1329?-1383)を征西大将軍に任じて九州へ派遣する。 11月13日(旧暦10月10日)、「建武の乱」に敗れた後醍醐天皇は尊氏に投降。足利勢は天皇の顔を立てる形での和議を申し入れ、和議に応じた後醍醐天皇は12月5日(旧暦11月2日)に光厳上皇の弟・光明天皇に三種の神器を譲った。この和睦の後に後醍醐帝は幽閉先の京都・花山院を脱出、大和南部の吉野に向かった。和睦に反対した新田義貞には皇子の尊良親王や南朝皇太子の恒良親王を奉じさせて北陸へ下らせ、新田軍は越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入城した。 12月10日(旧暦11月7日)、尊氏は『建武式目』十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言、室町幕府が実質的に発足する。 1337年(49歳)、1月23日(旧暦前年12月21日)、後醍醐天皇が吉野に入り、光明天皇に譲った三種の神器は偽物と称して南朝を樹立、南北両朝の併立時代に入った。1392年の「明徳の和約」による南北朝合一まで55年間にわたって南北朝の抗争が続く。 ※後醍醐天皇は北朝に譲り渡した三種の神器を「偽物」と訴えていたが、のちに和睦条件として「北朝方にある三種の神器を渡す」としており、やはり北朝の神器は本物であったのだろう。 同年3月、北朝方が金ヶ崎城に攻め込み落城(新田義貞は援軍を求めて不在)、第一皇子・尊良親王と新田義顕(よしあき※義貞の子)は自害。皇太子恒良親王は北朝方に捕縛され、翌年に急死する(「太平記」は恒良親王と成良親王は毒殺されたとも)。後醍醐帝の皇子たちは次々に敗れ、吉野に従う公家も少なく、後醍醐帝は孤立が深まっていく。 1338年(50歳)、2月に後醍醐帝の乳父である最側近・吉田定房(さだふさ)が吉野にて64歳で他界。後醍醐帝は深く悼む。 「事問はん 人さへ稀に なりにけり 我世の末の 程そ知らるる」 (政治の問答を行った廷臣さえ少なくなった。我が人生の余命も知れたものだ) 『新葉和歌集』 同年6月10日(旧暦5月22日)に北畠顕家(1318-1338)が堺浦にて20歳で戦死。さらに8月17日(旧暦7月2日)には新田義貞が福井の決戦で首を自分で斬り落とすという凄絶な最期を遂げた。享年37歳。奥州とパイプを持つ顕家と、知名度のある新田義貞の敗死は南朝にとって大打撃であり、北畠親房は軍事的劣勢を挽回するため、関東地方で5年にわたって勢力拡大に励む。同年9月24日(旧暦8月11日)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した。 1339年9月19日、その前日に11歳の第7皇子・義良(のりよし)親王(後村上天皇/1328-1368)に譲位した後醍醐天皇は、孤立する中で京都回復を夢みつつ吉野で没した。享年50歳。尊氏は後醍醐帝の慰霊のために嵯峨に天龍寺の造営を開始し(落慶法要は1345年)、さらに諸国に安国寺と利生塔の建立を命じた。同年、北畠親房が歴史書「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」を著述。 ------------------------------------------------------- ●その後、南北朝合一までの55年 1344年春、北畠親房が吉野行宮に帰還、以後10年間、後村上天皇をたすけて、後醍醐天皇亡きあとの南朝の中心となって奮闘するが、情勢は好転しなかった。 1347年、楠木正成の死から11年。正成の南朝方の息子・楠木正行(まさつら、21歳)が京都奪還を目指して蜂起し、父の弔い合戦で勝利を重ねる。 1348年、正行は高師直との「四條畷の戦い」に挑んで破れ、父の最期と同様に、弟の正時と互いに刺し違えて自害した。高師直は吉野を攻め落とし行宮(あんぐう※仮の御所)など全山を焼き払ったため、後村上天皇ら南朝方は吉野からさらに山奥深い賀名生(あのう)行宮に落ち延びる。 1350年、足利政権の1年半に及ぶ内紛、足利尊氏VS直義の兄弟対決=「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」が起きる。室町幕府では、恩賞の給与や守護職・地頭職などの任免は尊氏、所領関係の裁判は弟・直義(ただよし)の権限だった。11月、尊氏&幕府執事高師直(こうの・もろなお)の派閥と、幕府の実権を握る直義の派閥との対立はピークに達し、武力衝突に至る。北朝の光厳上皇から直義追討令が出されると、直義は南朝方に接近、降伏した。 1351年、高師直一族が直義勢に殺害される。直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬(直義の養子)が勢力を伸ばしていた。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、南朝に和議を提案。南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上する(分裂前に戻す)ことなどを条件とした。北朝に不利な内容だったが、11月13日(旧暦10月24日)、尊氏は条件を容れて南朝に降伏した。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月26日(旧暦11月7日)北朝3代・崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一され、「正平一統(しょうへいいっとう)」が成された。北朝方の事実上の無条件降伏であり、後醍醐帝の崩御から12年で南朝が皇統となった。ただし、「政権返上」を尊氏は幕府存続のうえで朝廷を南朝に譲るものと考えたが、南朝は帝による幕府無用の親政と捉えていた。 ※後醍醐天皇は北朝に譲り渡した三種の神器を「偽物」とうたっていたが、和睦条件に「北朝方にある三種の神器を渡す」とあり、やはり北朝の神器が本物であったのだろう。 1352年、尊氏は直義を鎌倉に追い込んで降伏させ、3月に直義を毒殺し「観応の擾乱」が収まる。南朝の総帥・北畠親房は尊氏不在の隙を突いて、京を奪還する作戦に出る。南朝勢は和平の約束を破り捨て、京都と関東で同時に軍事行動を起こし、一気に幕府を滅亡させようとした。まず尊氏の征夷大将軍職を解任し、後醍醐帝の第4皇子・宗良親王を新たな将軍に任命。この動きを受けて新田義興(義貞の子)・北条時行(高時の子)らが宗良親王を奉じて挙兵し鎌倉に進軍、尊氏を追い出して一時的に鎌倉を奪回した。だが、約一ヶ月で尊氏は鎌倉を取り返し、新田義宗は越後、宗良親王は信濃に落ち延び、捕縛された北条時行は処刑された。 一方、京都では後村上天皇が山城国男山八幡(石清水八幡宮)に行宮を移し、北畠親房の指揮下、楠木正成の息子・楠木正儀(まさのり、正行の弟/1330-1390/22歳)らが都を急襲。「七条大宮の戦い」で正儀が足利義詮(21歳)を破って近江に駆逐し、京の回復に成功した。北畠親房は17年ぶりに入京を果たす。義詮は北朝方の光厳上皇、光明上皇(光厳の弟)、崇光上皇(光厳の子)と廃太子の直仁(なおひと)親王(光厳の子※表向きは花園天皇の子)を置いて逃げたことから、翌月に幕府軍が都を奪い返した際、南朝勢は撤退時に北朝の上皇らを連行、行宮の石清水八幡宮に連れ去った。この拉致は後村上天皇と北畠親房の策であり、北朝が再建されても天皇を擁立できないようにしたもの。 翌月に行宮を落とされると、南朝勢は拠点の大和(奈良県)賀名生(あのう/現・五條市)に撤退した。こうした事態を受けて尊氏と義詮は観応の元号復活を宣言、「正平一統」はわずか4か月あまりで瓦解した。 北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態にあり、困った幕府は、後伏見上皇の女御で光厳上皇及び光明上皇の実母・広義門院西園寺寧子(ねいし/1292-1357)を担ぎ出し、たまたま拉致をまぬがれた崇光上皇の弟・弥仁(みつひと)を広義門院の令旨(りょうじ、命令書)によって北朝第4代・後光厳天皇として践祚(せんそ、皇位継承)、翌年即位させる。親王宣下も神器もなく、上皇妃の命令という異常な方法での即位だった。女性で治天の君となったのも、皇族出身以外で治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一。後村上天皇は河内や摂津に行宮を移し抗戦を続けていく。南朝は後光厳天皇を「偽主」「偽朝」と呼び、軍事面でも攻撃を繰り返し、後光厳帝は1361年までの9年間に3度も近江や美濃に避難しなければならなかった。 1354年、後醍醐帝の崩御から15年、南朝の支柱だった北畠親房が賀名生(あのう)にて失意のうちに61歳で没す。親房の死後は南朝に指導的人物がいなくなり衰退の道をたどる。 1355年、後村上天皇は尊氏と対立する足利直冬を立てて京に進撃するが、尊氏・義詮の軍には勝てなかった。南朝方は光明上皇を京都に返した。 1357年、南朝方は光厳上皇・崇光上皇・直仁親王を京都に返す。 1358年、尊氏はかつて直冬との合戦で受けた矢傷が悪化し53歳で他界、義詮が2代将軍に就任する。以降、後村上天皇は何度か都を攻めて一時的な勝利を得ることもあったが、足利家を屈服させることは出来なかった。 1359年、観心寺(大阪府河内長野市)に行宮を移す。 1367年12月に足利義詮が37歳で他界。 1368年、後村上天皇が39歳で崩御。第一皇子の第98代・長慶天皇(1343-1394)が25歳で即位する。 1369年2月7日、足利義満が3代将軍に就任。 1370年ごろ、軍記物語『太平記』が書かれる。 1383年、後村上天皇の第2皇子(後醍醐帝の孫)、和平派の第99代・後亀山天皇(1350-1424)が33歳で即位。 1392年、3代将軍足利義満が提示した講和条件を後亀山天皇が受諾、三種の神器を北朝6代・後小松天皇(第100代)に渡して譲位し、55年ぶりに南北朝合一を実現した(明徳の和約)。講和条件のひとつだった両統迭立は室町幕府に無視され、その後、大覚寺統から天皇がでることはなかった。内戦終結の功労者は楠木正成の三男・名将楠木正儀(まさのり)。 1911年(明治44年)に南朝が正統とされ後村上天皇(後醍醐の子)は歴代天皇として認定された。 1926年(大正15年)に長慶天皇(後醍醐の孫)も歴代天皇に加えられた。 強烈な個性の持ち主であった後醍醐天皇。承久の乱(1221)以降、皇位の決定は幕府に握られており、自分の子を皇位に就けるには幕府を倒すしかなかった。崩御の約30年後に北朝で完成した軍記物語『太平記』では、好戦的で執念深い暗君として描かれたが、実際は無闇に対立を好まず、融和路線を志向した。情愛深く温和な人柄のために広く慕われ、敵同士になってしまった尊氏からも生涯敬愛された。儒学を学び、和歌や学問にも造詣が深く、儀式・典礼に通じ「建武年中行事」「建武日中行事」などをあらわした。 ※学問・芸術の天才と評され、儒・礼・密・禅・律・神・書・歌・文・楽・茶の全分野で記念碑的業績を残した。連歌を完成した中世最大の文人。 ※自ら密教の行者としてしばしば熱心に祈祷を行った。 ※後醍醐帝が15歳の時に没した、ハンセン病患者などの救済に生涯を尽くした真言律宗の名僧・忍性(にんしょう/1217〜1303)を生ける菩薩として深く崇敬し、「忍性菩薩」の諡号を贈って称揚した。 ※後醍醐天皇は、中国史上有数の名君の一人、唐朝の第2代皇帝・唐太宗の信奉者だった。唐太宗は的確な諫言を行う部下を好んで登用し、政治議論を行った。 ※宋学に心を寄せ、禅宗に帰依した後醍醐天皇の“書”=宸翰(筆跡)は、和風の中に黄庭堅風の宗峰妙超の書風が見られ、覇気横溢した書として名高い。当時流行の宋風と禅林の書法をうけ,和様書道に新風をもたらしたが,同時代の他の天皇もおおむね他の時代とは異なる奔放で気迫のある書風を展開した。 ※鎌倉政権と奥州藤原氏が戦った奥州合戦(1189)以降、恩賞として官位を配る慣例は絶えていたが、後醍醐天皇はこれを復活させ、尊氏を鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守・参議に叙したのを皮切りに、次々と武士たちへ官位を配った。 ※氏族支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本で初めて創り上げた ※吉野山の役小角(えんのおづぬ)創立の修験金峯山寺の僧坊・吉水(きつすい)院(現・吉水神社)は後醍醐帝が一時期行宮(あんぐう)とした。現在、後醍醐天皇を主神とする。※『源氏物語』の優れた研究者。 ※琵琶の名手で神器「玄象」の奏者であり、笙の演奏にも秀でていた。 ※二条派の代表的歌人で、親政中の勅撰和歌集は『続後拾遺和歌集』(撰者は二条為定)。 ※茶道の前身を始めた大茶人の一人でもある。 ※3点の書作品が国宝に指定されている。 ※後醍醐天皇は武士を直臣として取り立てるため御家人制を廃止した。 ※後醍醐帝は中宮の西園寺禧子と仲睦まじい夫婦であったが33人以上の女性に40人近い子を生ませた。 ・第一皇子:尊良親王(1306?-1337) - 中務卿・一品親王・上将軍 ・第二皇子:世良親王(1307?-1330) ・第三皇子:護良親王(尊雲法親王・大塔宮、1308-1335) -梶井門跡・天台座主・征夷大将軍 ・第四皇子:宗良親王(尊澄法親王、1311-1385?) - 天台座主・中務卿・征夷大将軍 ・第五皇子:恒良親王(1325-?) - 後醍醐天皇皇太子 ・第六皇子:成良親王(1326-1344) - 征夷大将軍・光明天皇皇太子 ・第七皇子:義良親王(後村上天皇、1328-1368) ・第八皇子:懐良親王(鎮西宮・筑紫宮、1329?-1383) - 征西大将軍・明日本国王 ――― 〔墓巡礼〕 陵墓は奈良県吉野郡吉野町の塔尾陵(とうのおのみささぎ)。天皇の陵墓は基本的に南向きに造成されるが、後醍醐稜は遺言で北向きに、つまり京の都に向いている。いつの日か必ず都に帰るぞという決意表明。太平記に書かれた後醍醐天皇の臨終の状態は、左手に法華経を、右手に剣を持ち、「玉骨(ぎょくこつ)はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望(のぞま)んと思ふ。若し命を背き義を軽んぜば、君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらじ」(骨はたとえ吉野の苔に埋まっても、魂は常に都の奪還を狙っている。この遺言に背く者は、わが子孫とも臣とも認めぬ)。御陵自体が激烈なラストメッセージになっていることに見入った。 |
墓所入口。護良親王は鎌倉で殺害された | 石段を登っていくと墓所が見えてくる | 側道を使ってここまで近づくことができる。柵の向こうに石塔があった |
後醍醐天皇の皇子。護良は“もりなが”とも読む。天台座主で法名は尊雲。大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれた。鎌倉幕府の倒幕のために還俗して名を護良と改め、奈良・吉野・高野に潜行。諸国に令旨を発して新たな世に導く。征夷大将軍になったが足利尊氏と対立して鎌倉に幽閉され、尊氏の弟・足利直義(ただよし 1306-1352)の家臣、淵辺義博に殺害された。 |
観心寺の境内から参道に入っていく | 5分ほど登ると見張所が途中にあった。拝所はこの上 | 上から見下ろすとこんな感じ。結構高さがある |
京都を狙い続けた天皇 | 南朝を代表する名将楠木正成の首塚が近くにある | 山中だけどしっかり丁寧に築かれた陵墓 |
鳥居の背後の塚が石柵で四方を囲まれている。石柵に 角度があり、ガンタンクの頭部コクピットみたいでシブイ |
ふおお、これは珍しい!一般拝所の白砂がコンクリートで固められていた! 山中の陵墓ゆえ、雨で白砂が流れ出さないようにする為だろう |
室町時代初期、南朝の第2代天皇。在位は11歳から40歳までの29年間で、延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)-正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日)。明治政府が1911年に南朝を正統と決めたことから歴代天皇に認定。名は義良(のりよし)。
1328年に後醍醐天皇の第七皇子として生まれる。母は阿野廉子(新待賢門院)。 1333年、5歳の時に鎌倉幕府が滅亡し、父が「建武の新政」を開始。義良は東国武士の帰属を目的に北畠親房・顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かう。 1335年(7歳)、後醍醐天皇の建武新政が失敗。 1336年(8歳)、足利尊氏が離反。これを討伐するため京へ戻る。いったんは尊氏を九州まで蹴散らすが、体勢を立て直した尊氏に京都を奪還され、1337年に父と共に吉野へ移り南朝を起こす。 1339年(11歳)、後醍醐天皇が死の直前に譲位し、義良親王が後村上天皇として即位した。 1348年(20歳)、楠木正行(正成の子)は尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)との「四條畷の戦い」に挑んで破れ、父の最期と同様に、弟の正時と互いに刺し違えて自害した。高師直は勢いにのって吉野を攻め落とし、行宮(あんぐう※仮の御所)など全山を焼き払ったため、後村上天皇ら南朝方は吉野からさらに山奥深い賀名生(あのう)行宮(奈良県五條市)に落ち延びる。 1350年(21歳)、足利尊氏VS直義の兄弟対決=観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が勃発し、“敵の敵は味方”と先に足利直義が南朝に降伏。 1351年(23歳)、続けて足利尊氏・義詮父子が直義に対抗するために南朝に降伏・和睦を求めてきた。南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。北朝に不利な内容だったが、尊氏は条件を容れて南朝に降伏。かわりに後村上天皇は尊氏に対して直義・直冬追討の綸旨を与えた。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月26日(旧暦11月7日)北朝3代・崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一され、「正平一統(しょうへいいっとう)」が成された。北朝方の事実上の無条件降伏であり、後醍醐帝の崩御から12年で南朝が皇統となった(ただし一時的)。 1352年(24歳)、尊氏は直義を鎌倉に追い込んで降伏させた。3月尊氏は直義を毒殺し「観応の擾乱」は収まる。南朝方は尊氏不在の隙を突いて、京を回復する作戦に出る。まず尊氏の征夷大将軍職を解任し、後醍醐帝の第4皇子・宗良親王を新たな将軍に任命。この動きを受けて新田義興(義貞の子)・北条時行(高時の子)らが宗良親王を奉じて挙兵し鎌倉に進軍、尊氏を追い出して一時的に鎌倉を奪回した。だが約一ヶ月で尊氏は鎌倉を取り返し、新田義宗は越後、宗良親王は信濃に落ち延び、捕縛された北条時行は処刑された。 一方、京都では後村上天皇が山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)に行宮を移し、北畠親房の指揮下、楠木正成の息子・楠木正儀(まさのり、正行の弟/1330-1390/22歳)らが都に進軍。「七条大宮の戦い」で正儀が足利義詮(21歳)を破って近江に駆逐し、京の回復に成功した。北畠親房は17年ぶりに入京を果たす。義詮は北朝方の光厳上皇、光明上皇(光厳の弟)、崇光上皇(光厳の子)と廃太子の直仁(なおひと)親王(光厳の子※表向きは花園天皇の子)を置いて逃げたことから、翌月に足利軍に都を奪還された際、南朝勢は撤退時に北朝の上皇らを連行、行宮の石清水八幡宮に連れ去った。この拉致は後村上天皇と北畠親房の策であり、北朝が再建されても天皇を擁立できないようにしたもの。 翌月に行宮を落とされると、南朝勢は拠点の大和(奈良県)賀名生(あのう/現・五條市)に撤退した。こうした事態を受けて尊氏と義詮は観応の元号復活を宣言、「正平一統」はわずか4か月あまりで瓦解した。 北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態にあり、幕府は後伏見上皇の女御で、光厳上皇及び光明上皇の実母・広義門院西園寺寧子(ねいし/1292-1357)を担ぎ出し、たまたま拉致をまぬがれた崇光上皇の弟・弥仁(みつひと)を広義門院の令旨(りょうじ、命令書)によって北朝第4代・後光厳天皇として践祚(せんそ、皇位継承)、翌年即位させる。親王宣下も神器もなく、上皇妃の命令という異常な方法での即位だった。女性で治天の君となったのも、皇族出身以外で治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一。後村上天皇は河内や摂津に行宮を移し抗戦を続けていく。南朝は後光厳天皇を「偽主」「偽朝」と呼び、軍事面でも攻撃を繰り返し、後光厳帝は1361年までの9年間に3度も近江や美濃に避難しなければならなかった。 1354年(26歳)、河内天野の金剛寺塔頭・摩尼院を行宮と定める。 1355年(27歳)、尊氏と対立する足利直冬を立てて京に進撃するが、やはり尊氏・義詮の軍には勝てなかった。南朝方は光明上皇を京都に返した。 1357年(29歳)、光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返す。3人の上皇を拉致して1人を3年間、2人を5年間も拘束したわけで、後村上天皇はその若さゆえか苛烈な帝であった。 1358年(30歳)、長年の宿敵・尊氏が死去し、足利義詮が2代将軍に就任。以降、後村上天皇は何度か都を攻めて一時的な勝利を得ることもあったが、足利家を屈服させることは出来なかった。 1359年(31歳)、観心寺(大阪府河内長野市)に行宮を移す。 1361年(33歳)、楠木正儀・四条隆俊らが京へ攻め込み、一時的に京を回復するが、義詮軍の反撃を受けて18日間で撤退。 1367年(34歳)、12月に足利義詮が37歳で他界。 1368年3月29日、住吉大社宮司の住之江殿にて39歳で崩御。醍醐天皇を尊敬していた父が、生前に「後醍醐」の号を定めていたので、村上天皇への敬意から「後村上」と追号された。皇位は第一皇子・長慶天皇が継承した。 1369年2月7日、足利義満が3代将軍に就任。 〔墓巡礼〕 陵墓は大阪府河内長野市の観心寺内にある檜尾陵(桧尾陵:ひのおのみささぎ)。円丘。当所で火葬され、かつては天皇のための法華三昧堂があった。1378年に観心寺を参詣した人物の巡礼記によれば、墓所の東に法華三昧堂、その前に勾当内侍の五輪塔があったという。同寺は天皇の御在所でもあったが故、古来御陵を崇敬してきた。同境内に母・阿野廉子の墓の参考地がある。 ※宮城県多賀城市の多賀城政庁跡北側の多賀城神社に祀られている。 |
広々とスカーンとしていた。気持ちいい | 長慶天皇は“南朝”の天皇 | 隣には長慶天皇皇子の王墓があった |
室町時代前期の南朝第3代の天皇。祖父は後醍醐天皇。500年以上も天皇として認められていなかった。在位は25歳から40歳までの15年間で、正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日)-弘和3年/永徳3年10月?(1383年)。南朝第3代天皇。実名、諱は寛成(ゆたなり)。法名は覚理、別名に吉野帝。 1343年に後村上天皇の第一皇子として南朝・吉野で生まれた。母は中宮・嘉喜門(かきもん)院藤原勝子。名は寛成(ゆたなり)。誕生の4年前(1339)に祖父・後醍醐天皇が崩御し、父・後村上天皇が11歳で即位している。 1348年(5歳)、足利尊氏の重臣・高師直(こうの・もろなお)に吉野を襲撃され、吉野行宮(あんぐう※仮の御所)など全山が焼き払われる。5歳の寛成親王は父帝・後村上と共に脱出し、南朝勢は山深い大和の賀名生(あのう/奈良県五條市)まで退き行宮とした。 1350年(7歳)、足利尊氏VS直義の兄弟対決=観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が勃発。直義が南朝方に接近する。 1351年(8歳)、高師直一族が直義勢に殺害されると、直義に対抗するために足利尊氏・義詮父子が南朝に和睦を求めてきた。南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件に出す。北朝に不利な内容だったが、11月13日(旧暦10月24日)、尊氏はこれを受け入れた。後村上天皇によって北朝3代・崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一され、「正平一統(しょうへいいっとう)」が成される。北朝方の事実上の無条件降伏であり、後醍醐帝の崩御から12年で南朝が皇統となった(ただし一時的)。 1352年(9歳)、尊氏が直義討伐で鎌倉に向かい、直義を毒殺して「観応の擾乱」は収まった。一方、都では尊氏不在を狙って南朝勢が京都奪還に動き出す。後村上天皇は山城国男山八幡(石清水八幡宮)に行宮を移し、北畠親房の指揮下、楠木正成の息子・楠木正儀(まさのり、正行の弟/1330-1390/22歳)らが都を急襲。「七条大宮の戦い」で正儀が足利義詮(21歳)を破って近江に駆逐し、京の回復に成功した。北畠親房は17年ぶりに入京を果たす。義詮が北朝方の天皇経験者=光厳、光明、崇光上皇と廃太子の直仁親王を置いて逃げたことから、南朝勢は彼らを拉致し、都から男山の行宮に連れ去った。これは後村上天皇と北畠親房の策であり、北朝が再建されても天皇を擁立できないようにしたもの。 翌月に足利軍に都を奪還され、さらに男山の行宮を落とされると、南朝勢は拠点の大和(奈良県)賀名生(あのう/現・五條市)に撤退した。こうした事態を受けて尊氏と義詮は観応の元号復活を宣言、「正平一統」はわずか4か月あまりで瓦解した。 北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態にあり、たまたま拉致をまぬがれた崇光上皇の弟・弥仁(みつひと)を北朝第4代・後光厳天皇として即位させ、尊氏は征夷大将軍職に戻った。後村上天皇は河内や摂津に行宮を移し抗戦を続けていく。 1354年(10歳)、南朝の支柱だった北畠親房が賀名生(あのう)にて失意のうちに61歳で没す。親房の死後は南朝に指導的人物がいなくなり衰退の道をたどっていく。 1355年(12歳)、後村上天皇は尊氏と対立する足利直冬を立てて京に進撃するが、やはり尊氏・義詮の軍には勝てなかった。 1358年(15歳)、宿敵・尊氏が死去し、義詮が2代将軍に就任。以降、後村上天皇は何度か都を攻めて一時的な勝利を得ることもあったが、足利家を屈服させることは出来なかった。 1368年(25歳)3月29日、父帝・後村上天皇が40歳で崩御し、寛成親王が摂津の住吉行宮(あんぐう)にて、25歳で第98代長慶天皇として践祚(せんそ、皇位継承)。長慶天皇は北朝に対して強硬路線をとり、和平派の楠木正儀は失望して北朝へ投降、南朝は名将を失い衝撃が走る。同年12月、南朝勢は住吉行宮から大和吉野(奈良県吉野町)に後退した。この年、足利義詮が他界し、足利義満が3代将軍に就任している。 1369年(26歳)4月、河内国天野山金剛寺(現大阪府河内長野市)に移る。 1373年(30歳)、楠木正儀(!)が率いる北朝軍の総攻撃を受けて70人余りが討ち取られ、金剛寺から再び吉野へ退く。 1374年(31歳)、伯父の宗良親王(後醍醐天皇の第四皇子/1311-1385)が吉野入りし、歌合が盛んになる。 1375年(32歳)、北朝に文化面で優位に立つべく長慶天皇は和歌御会などを多く催し、歌壇を発展させる。同年、五十番歌合・五百番歌合御会を開く。 1376年(33歳)、千首和歌会を行い、長慶天皇自身も千首を詠み、うち322首が現存。 1379年(36歳)、この頃に大和国栄山寺(現奈良県五條市)に御所を移す。 1381年(38歳)、長慶天皇は宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集『新葉和歌集』とし、自身の和歌53首が収められる。成立の背景には北朝方で編纂された勅撰和歌集『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』に、南朝の君臣による歌が一切撰入されなかった事情がある。同年、長慶天皇は『源氏物語』の語句約1000語を注釈した『仙源抄』を自ら著す。項目をいろは順に並べており、『源氏物語』の辞書形態の注釈書としては最古のもの。 1382年(39歳)、楠木正儀が南朝に戻って来る。これを受けて和平派が台頭し、長慶天皇の弟で、穏健な後亀山(ごかめやま)を擁立する動きが起きる。 1383年(40歳)に長慶天皇は弟(皇太弟)の後亀山天皇に譲位、自身は上皇となる。譲位後2年ほど院政を行ったが、強硬路線の上皇と、和平路線の後亀山天皇は意見があわなかった。のち上皇は出家して仏門に入り禅院に暮らす。 1386年(43歳)、このころ金剛理(覚理とも)と号し、禅宗に帰依したと思われる。 1392年、3代将軍足利義満が提示した講和条件を後亀山天皇が受諾、三種の神器を北朝6代・後小松天皇(第100代)に渡して譲位し、56年ぶりに南北朝合一を実現した(明徳の和約)。講和条件のひとつだった両統迭立は室町幕府に無視され、その後、大覚寺統から天皇がでることはなかった。ちなみに、後亀山天皇は都に入ったものの、長慶上皇は同行していない。 1394年8月27日、長慶天皇は51歳で崩御した。最期の地は吉野説、紀伊玉川里(和歌山県九度山町)説、和泉大雄寺塔頭の長慶院(大阪府高石市)説、天龍寺慶寿院(京都市右京区)説など諸説ある。また没年は1403年説あり。 文学・和歌に優れ、著書に『源氏物語』の注釈書『仙源抄(せんげんしょう)』がある。『新葉和歌集』は天皇の準勅撰。 その後、長慶天皇は南朝側のため即位が長く疑問視されていた 1911年に南朝が正統とされ、父帝の後村上天皇が歴代天皇として認定された。 1926年(大正15年)、532年の時を経て、大正時代に長慶天皇の即位が判明し、公式に歴代天皇に加えられた。 南朝が最も劣勢な頃の天皇で一度も京都に入ることはなかった。長慶天皇が即位したかどうかは江戸時代より議論され、徳川光圀『大日本史』や林春斎(林羅山の子)『日本王代一覧』は在位説、新井白石『読史余論』や塙保己一(はなわほきいち) 『花咲松』は非在位説をとった。明治に入ると国学者の重鎮・谷森善臣(よしおみ)が非在位説を論じたが、大正に入って、1916年に歴史研究者の八代国治(やしろ・くにじ/1873-1924)が「長慶天皇御即位に就ての研究」を発表して長慶天皇の在位論を論じた。少し遅れて国文学者・武田祐吉(1886-1958)が、南北朝時代後期の公卿・花山院長親(かざんいん・ながちか)の歌集『耕雲千首』古写本を発見、この奥書に「仙洞並当今」(仙洞は上皇、当今は天皇)、つまり上皇と天皇が1389年に並存していたとあり、皇位にあったことが明らかとなった。武田は「この時期の南朝の仙洞は長慶上皇しか存在しない」として八代の見解を補強した。1920年には八代が研究成果をまとめた『長慶天皇御即位の研究』を刊行する。 これらの研究により長慶天皇の歴代天皇追加が決定、1926年(大正15年)10月21日の皇統加列の詔書で、長慶天皇は正式に第98代天皇として公認された。直後の12月25日に大正天皇は47歳で崩御している。 〔墓巡礼〕 歴代天皇の中には1870年(明治3年)になって初めて公式に天皇と認められた帝が3人いる。「壬申の乱」で天武天皇に敗れた第39代弘文天皇(大友皇子)、「藤原仲麻呂の乱」に巻き込まれ淡路島に流され不審死を遂げた第47代淳仁天皇(淡路廃帝/はいたい)、「承久の乱」による混乱で即位の礼もないまま3ヶ月で退位することになった第85代仲恭天皇(九条廃帝)だ。でも、まだ明治初期に公認されただけ良いかもしれない。第98代長慶天皇は昭和まであと2カ月という、1926年10月(大正15年)に歴代天皇に列せられたのだから。(最後に認定された天皇) 墓所は京都市右京区の嵯峨東陵(さがひがしのみささぎ)で京福電鉄の荒電嵯峨駅からすぐ。宮内庁職員の見張所が大きい。円丘。 長慶天皇が天皇に認定された後、陵墓の捜索が始まったがなかなか発見できなかった。1941年、陵墓調査委員会は長慶天皇の終焉の地とみられ、そして皇子の海門承朝(かいもんじょうちょう)が居住していた天龍寺の塔頭・慶寿院(禅院)の跡地を陵墓参考地に推薦、1944年に陵墓とされ、陵域内に海門承朝(承朝王)の墓も治定した。一方、慶寿院は生前の居所ではないとする見解もあり、長慶天皇の御陵と称する墳墓は青森県青森市・弘前市、岩手県二戸市、群馬県太田市、山梨県富士吉田市、富山県砺波市、富山県南砺市、奈良県川上村、和歌山県九度山町、鳥取県鳥取市、愛媛県東温市など全国20箇所以上に及ぶとも言われている。 ※「長慶天皇宸筆願文」(国宝「宝簡集」所収、金剛峯寺所蔵)は1385年に天皇自身が高野山丹生社に納めたもので、唯一現存する確実な自筆文書。 ※国宝「赤糸威鎧 兜、大袖付」(八戸市櫛引八幡宮所蔵)は、長慶天皇御料と伝えられている。 |
嵯峨野の山辺に眠る | 南朝最後の天皇 | 写真では見えないけど鳥居の奥に五輪塔があった |
室町時代前期の天皇。南朝最後の第4代天皇。1911年に南朝が正統とされ天皇に認定。在位は36歳から45歳までの9年間で、弘和3年/永徳3年(1383年)末-元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日)。諱は熙成(ひろなり)。法名は金剛心。別名に大覚寺殿。祖父は後醍醐天皇。 1347年、後村上天皇の第2皇子として生まれる。母は嘉喜門院藤原勝子もしくは阿野実為女。 1348年(1歳)、足利尊氏の重臣・高師直(こうの・もろなお)に吉野を襲撃され、吉野行宮(あんぐう※仮の御所)など全山が焼き払われる。南朝勢は紀伊に逃れ、山深い賀名生(あのう) を行宮とした。 1350年(3歳)、足利尊氏VS直義の兄弟対決=観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が勃発。直義が南朝方に接近する。 1351年(4歳)、高師直一族が直義勢に殺害されると、直義に対抗するために足利尊氏・義詮父子が南朝に和睦を求めてきた。南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件に出す。北朝に不利な内容だったが、11月13日(旧暦10月24日)、尊氏はこれを受け入れた。 ※後醍醐天皇は北朝に譲り渡した三種の神器を「偽物」と主張していたが、和睦条件に「北朝方にある三種の神器を渡す」とあり、やはり北朝の神器が本物であったのだろう。 後村上天皇によって北朝3代・崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭された。元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一され、「正平一統(しょうへいいっとう)」が成される。北朝方の事実上の無条件降伏であり、後醍醐帝の崩御から12年で南朝が皇統となった。ところが、和議はわずか5ヵ月たらずで破れてしまう。 1352年(9歳)、尊氏が直義討伐で鎌倉に向かい、直義を毒殺して「観応の擾乱」は収まった。一方、都では尊氏不在を狙って南朝勢が京都奪還に動き出す。後村上天皇は山城国男山八幡(石清水八幡宮)に行宮を移し、北畠親房の指揮下、楠木正成の息子・楠木正儀(まさのり、正行の弟/1330-1390/22歳)らが都を急襲。「七条大宮の戦い」で正儀が足利義詮(21歳)を破って近江に駆逐し、京の回復に成功した。北畠親房は17年ぶりに入京を果たす。義詮が北朝方の光厳上皇、光明上皇(光厳の弟)、崇光上皇(光厳の子)と廃太子の直仁(なおひと)親王(光厳の子※表向きは花園天皇の子)を置いて逃げたことから、南朝勢は撤退時に彼らを拉致し、行宮に連れ去った。これは後村上天皇と北畠親房の策であり、北朝が再建されても天皇を擁立できないようにしたもの。石清水八幡宮の行宮を落とされると、南朝勢は拠点の大和(奈良県)賀名生(あのう/現・五條市)に撤退した。こうした事態を受けて尊氏と義詮は観応の元号復活を宣言、「正平一統」はわずか4か月あまりで瓦解した。 北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態にあり、たまたま拉致をまぬがれた崇光上皇の弟・弥仁(みつひと)を北朝第4代・後光厳天皇として即位させ、尊氏は征夷大将軍職に戻った。後村上天皇は河内や摂津に行宮を移し抗戦を続けていく。 1354年(10歳)、南朝の支柱だった北畠親房が賀名生(あのう)にて失意のうちに61歳で没す。親房の死後は南朝に指導的人物がいなくなり衰退の道をたどっていく。 同年、光厳ら上皇3名と直仁親王は身柄を河内金剛寺に移され、後村上天皇は当地を新たな行宮とする。 1355年(12歳)、後村上天皇は尊氏と対立する足利直冬を立てて京に進撃するが、やはり尊氏・義詮の軍には勝てなかった。 1358年(15歳)、宿敵・尊氏が死去し、義詮が2代将軍に就任。以降、後村上天皇は何度か都を攻めて一時的な勝利を得ることもあったが、足利家を屈服させることは出来なかった。 1368年(21歳)、父帝・後村上天皇が40歳で崩御し、4歳年上の兄・寛成(ゆたなり)親王が長慶天皇として即位。熙成(ひろなり)親王は立太子され東宮(皇太弟)として天皇の政務を補佐していく。 1382年(35歳)、北朝では後小松天皇が即位。 1383年、36歳のときに兄の長慶天皇から譲位され、栄山寺(奈良県五條市)行宮にて第99代・後亀山天皇として即位。その後、長慶上皇は2年ほど院政を行ったが、強硬路線の上皇と、和平路線の後亀山天皇は意見があわなかった。 この当時、南朝方の勢威は地に落ち、もはや回復の期待も失われていた。朝廷では和平派が力を得、北朝方も多年の兵乱に苦しみ和平を望んでいた。 1392 年(45歳)、和泉・紀伊守護の大内義弘の仲介で3代将軍足利義満の側から和平の提案があり、南朝の正統性の承認、以後の両統迭立(てつりつ/大覚寺統の南朝系、持明院統の北朝系が交互に皇位につくこと)などを講和条件として両朝の合一がはかられ、後亀山天皇はこれを受け入れた(明徳の和約)。 後亀山天皇は吉野より帰京して嵯峨の大覚寺に入り、三種の神器を北朝6代・後小松天皇(第100代)に渡して譲位し、56年ぶりに南北朝合一が実現した。南朝の年号は廃され、南北朝時代は終わった。のち嵯峨大覚寺で隠遁生活をおくる。通常、譲位後の帝は太上(だいじょう)天皇=上皇となるが、北朝の廷臣らは後亀山を未即位帝とみなし尊号を贈らなかった。 1394年(47歳)、天龍寺の後亀山帝のもとへ足利義満が訪れ、両者は初めて面会。義満は北朝廷臣らの反対を押し切って太上天皇の尊号を贈った。同年、長慶上皇が51歳で崩御。 1397年(50歳)、尊号を辞退し、出家して金剛心と号し、後亀山法皇は隠遁生活に入る。 1408年(61歳)、足利義満が49歳で急病死。4代将軍に足利義持が就任。義持は法皇所領の回復等を約するが、武家側の態度が尊大になる。 1410年(63歳)、幕府が講和条件のひとつだった両統迭立を無視して、後小松天皇の皇子・躬仁親王(のちの称光天皇)を即位させようとしたため、法皇は抗議の意志で嵯峨から吉野山に出奔、6年間をすごす。 1412年(65歳)、約束は破られ、後小松天皇が譲位し、11歳の第101代・称光(しょうこう)天皇(1401-1428)が即位する。結局、大覚寺統からは二度と天皇がでることはなかった。 1415年(68歳)、称光天皇の即位に反発した伊勢国司・北畠満雅が挙兵するなど南朝再興の動きが盛んとなる。後亀山法皇の弟の仲介で幕府と北畠満雅は講和を結ぶ。 1416年(69歳)、幕府は所領回復を提示して後亀山法皇に帰京を要請、晩年をふたたび嵯峨の大覚寺でおくる。 1424年5月10日、大覚寺にて雷鳴のなか77歳で崩御。後亀山が果たせなかった皇位回復の遺志は子孫の小倉宮が受け継ぎ、後南朝による幕府への抵抗運動に繋がった。 1911年(明治44年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。 ※後亀山帝の政令が及ぶ範囲は大和・河内・和泉・紀伊などの行宮を中心とした地方の他、九州の征西府や四国の河野氏の勢力域に限られた。 〔墓巡礼〕 後亀山天皇は北嵯峨の福田寺に葬られた。陵墓は大覚寺に近い京都市右京区の嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ)。 嵐山駅から北西2km。風光明媚な土地ゆえ、テクテク歩いた2kmは苦にならなかった。 |
室町時代前期の天皇。歴代第100代の天皇にして室町北朝最後の第6代天皇。在位は5歳から35歳までの30年間で、永徳2年/弘和2年4月11日(1382年5月24日)-応永19年8月29日(1412年10月5日)。諱は幹仁(もとひと)。 1377年8月1日、後円融天皇の第1皇子として生まれる。母は三条厳子(いつし/通陽門院)。 1382年、5歳で父帝・後円融天皇から譲位され、北朝第6代・後小松天皇として即位する。摂政・二条良基(よしもと)と左大臣・源(足利)義満が幼帝を補佐した。この譲位の際、父の兄・崇光上皇は皇子の栄仁親王への皇位継承を求めたが、3代将軍足利義満(1358-1408)は後小松を強力に推挙し、親王宣下のないまま践祚(せんそ、皇位継承)した。後円融上皇は院政をしいたが、実権は院庁の最高責任者、院別当(いんのべっとう)の義満にあり、院政は形式的なものとなった。義満は王朝が掌握していた裁判権や京都の施政権などを次々と奪った。 1383年(6歳)、父・後円融上皇が後小松の母・三条厳子と足利義満との密通を疑い、刀の峰で打ちすえ大怪我を負わせる。その後も父は義満による配流の噂に怯えて自殺未遂騒動を起こし、自ら権威を失墜させた。義満の政治力に対抗しようとしてねじ伏せられていった。 1392年(15歳)、南北朝の合一のために3代将軍足利義満(34歳)が提示した講和条件(明徳の和約)を後亀山天皇が受諾。和平が成立し、1337年以来、55年の長きにわたった南北朝時代が終結した。 両者が結んだ内容は次の4つ。 ・南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇へ三種の神器の引渡し。 ・皇位は北朝系(持明院統)と南朝系(大覚寺統)が交代で継承する両統迭立(てつりつ)とする。 ・国衙領(公領)を大覚寺統の領地とする。 ・長講堂領(皇室領の一つ)を持明院統の領地とする。 この締約に従い、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還し、後小松天皇に三種の神器を渡して譲位し、ここに南北合体が実現した(ただし、義満には南朝方に皇位を渡す気はなかった)。後小松天皇は第100代天皇となり、南朝の年号は廃された。 1393年(16歳)、父・後円融上皇が34歳で崩御。院政が終わり、後小松帝は親政を開始したが、義満は父帝が生前に持っていた皇室の形式的権限のすべてを引き継ぎ、事実上の上皇として君臨した。後小松天皇には何の権限も残らず、完全に傀儡となり、天皇家の王権は風前の灯火となる。 1394年(17歳)、嵯峨天龍寺の後亀山帝のもとへ義満が訪れ、両者は初めて面会。義満は北朝廷臣らの反対を押し切って太上天皇の尊号を後亀山帝に贈った(北朝の廷臣らは後亀山を未即位帝とみなし尊号を贈らなかった)。 この年、義満(36歳)は将軍職を長子の足利義持(8歳/1386-1428)に譲り、武家として平清盛以来となる太政大臣に就任する。 1395年(18歳)、義満は出家し道義と号した。その前後から法皇なみの格式で儀式を主宰し、正妻の日野康子には天皇の母なみの格式を、次男の義嗣(よしつぐ/1394-1418)には皇位継承候補者の親王なみの待遇を与え、天皇家と一体化する野望を抱いていた。義満は義嗣を偏愛した。 1396年以来、義満は大陸の明に数度にわたって使節を送り、「日本国王源道義」の名を与えられ、自らも「日本国王臣源」と名乗り返書を送った。義満は天皇をさしおき、国家元首となった。 1397年(20歳)、義満が京都の北山に北山山荘(その一部が鹿苑寺金閣)を建てて政庁とした 1408年(31歳)、皇位簒奪計画を進めていた足利義満が49歳で急病死。4代将軍足利義持(22歳)は方針を転換、朝廷に対する不干渉の立場をとり、皇家は危機を切り抜け、天皇は権威を回復した。義持は亡父義満に対する朝廷からの太上天皇号も辞退した。 ※2010年、同志社大学・今出川キャンパス(京都市上京区)内にある相国寺旧境内の遺跡から、義満が建立し墓所になっていた塔頭「鹿苑院(ろくおんいん)」の遺構(仏堂跡)が見つかった。義満は1382年に相国寺を創建し、翌年境内に鹿苑院を建立、禅の修行場とした。その後、鹿苑院は応仁の乱で焼け落ち、さらに明治の廃仏毀釈で廃寺となり義満の墓は失われた。義満の戒名は「鹿苑院天山道義」であり、この文字が刻まれた墓石が発見されることを願う。 1410年(33歳)、幕府が講和条件のひとつだった両統迭立を無視して、後小松天皇の皇子・実仁(みひと)親王を即位させようとしたため、後亀山法皇は抗議の意志表示で吉野山に出奔、6年間をすごす。 1412年(35歳)、後小松天皇が嫡子の実仁親王(11歳)に譲位して両統迭立の約束は破られた。親王は第101代・称光(しょうこう)天皇として即位し、後小松は太上天皇として院政を復活する。以後も北朝系の持明院統が皇位につき、大覚寺統からは二度と天皇がでることはなかった。 1418年(41歳)、足利義持は弟の義嗣(24歳)が2年前に反乱した上杉禅秀に通じていたとして殺害。 1423年(46歳)、足利義持が子の義量(よしかず/16歳)に将軍職を譲って出家。 1425年(48歳)、第5代将軍・足利義量が17歳で夭折。父義持が政務をみた。 1428年(51歳)、2月足利義持が41歳で他界。死にのぞんで「諸将の支持がなければ意味がない」という理由で、次の将軍を指名せず、6代将軍足利義教(1394-1441)はくじできめられた。 8月称光天皇が27歳で崩御。病弱だった称光天皇には嗣子(しし、跡取り)がなく、後小松の第二皇子小川宮も早世したため持明院統の嫡流は断絶した。本来なら南朝系の大覚寺統から天皇を立てるべきだが、6代将軍足利義教の仲介もあって、後小松上皇は伏見宮家から貞成(さだふさ)親王の第1王子・彦仁王(9歳)を猶子(養子)に迎え、親王宣下(せんげ)もないまま第102代・後花園天皇として即位させた。 かつて南朝勢に都から拉致され5年間も幽閉されていた崇光天皇(北朝第3代)は、皇子の栄仁(よしひと)親王の皇位継承を熱望したが、崇光天皇の弟・後光厳天皇と将軍義満に阻まれ失意のうちに崩御した。だが、崇光帝の直系である曾孫の彦仁王(崇光帝→栄仁親王→貞成(さだふさ)親王→彦仁王)が後花園天皇になって晴れて皇位を継いだのであった。後花園は9歳の幼帝であり後小松院が院政を執った。 一方、再び「明徳の和約」の両統迭立を反故にしたことで、反発した南朝の後胤(こういん、子孫)や遺臣らは「後南朝」となり、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後半まで続けた。 1431年、後小松上皇は54歳で出家し、法名を素行智(そぎょうち)と称した。 1433年12月1日、56歳で崩御。和歌・連歌に長じ、琵琶なども愛好した。著作に『むくさのたね』、日記に『後小松院宸記(しんき)』。 後小松の崩御で院政と治天の君という制度は事実上の終焉を迎えた。以降も江戸時代の光格上皇まで院政は度々執られたが形式上の存在であった。 ちなみに、とんちで有名な風狂の禅僧・一休宗純は、後小松天皇が北朝の後宮に入った南朝の遺臣の娘との間にもうけたご落胤(らくいん)と言われている。長男であったとも。 〔墓巡礼〕 墓所は京都市伏見区の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。泉涌寺において火葬され、遺骨は「深草十二帝陵」とされる法華堂に納められた。深草北陵には持明院統歴代が葬られている。方形堂。 |
室町初期の天皇。在位は11歳から27歳までの16年間で、応永19年8月29日(1412年10月5日)-正長元年7月20日(1428年8月30日)。諱は實仁(みひと)、のち実仁(みひと)。
1401年5月12日、北朝系の持明院統・後小松天皇の第1皇子として生まれる。母は日野資国の娘・藤原資子(光範門院)。 1408年(7歳)、皇位簒奪計画を進めていた足利義満が49歳で急病死。義満は偏愛していた次男・義嗣を次期天皇とするつもりだったが野望は頓挫した。 1411年、10歳で親王宣下を受け、元服の加冠役を第4代将軍で内大臣の足利義持が務めた。 1412年(11歳)、後小松天皇の譲位をうけて受禅、2年後に13歳で称光(しょうこう)天皇として即位し、在位中は父院が院政を復活させる。 本来であれば、父・後小松院の代に実現した南北朝合一の条件である両統迭立(てつりつ)に従い、順番では大覚寺(南朝)の帝になるはずであった。約束を反故にしたため後小松院は非難され抗争がおきた。 1418年(16歳)、足利義持が対立していた弟の足利義嗣を粛清する。※将軍職を狙う義嗣が、上杉氏憲 (禅秀) や足利満隆と結んで反逆したため。 1422年(21歳)、称光天皇は重病になり、義持が後小松上皇の代理として伊勢神宮に参拝し、回復を願ったのちに病は癒えた。万が一に備えて後小松院は後継者として第2皇子で称光天皇の3歳年下の弟・小川宮(1404-1425)を皇太弟とした。称光天皇は跡継ぎが産まれないためと感じ不満を抱く。 ※小川宮は事実上の皇太子。正統性に問題があった北朝・後光厳天皇の子孫の天皇がいずれも皇太子を経ずに即位した結果、当時は皇太子を立てないことが常態となっていた。 1423年(22歳)、称光天皇と小川宮は女性関係で衝突するなど兄弟仲が悪く、小川宮は称光天皇が飼育していたお気に入りのヒツジを強引に譲り受けて即座に撲殺する事件を起こす。同年、足利義持は将軍職を16歳の子の義量(よしかず/1407-1425)に譲った。 1425年(24歳)、小川宮が20歳で急死し、後継者は再び不在となる(毒殺説あり)。称光天皇は自分がまだ若いのに、父・上皇が後継のことを考えていることに反発、さらに琵琶法師を内裏に招いて平家物語を聞こうとした際に、上皇が「前例がない」と反対したため、憤慨して内裏からの出奔を宣言、義持の説得を受けて思いとどまった。 後小松上皇・足利義持は共に後継者を持明院統・光厳天皇流で唯一の男児(他にも男児はいたが僧籍に入っていた)である伏見宮家の伏見宮貞成(さだふさ)親王(1372-1456)に求めていたが、貞成は当時では高齢の53歳であったこと、この件で上皇・天皇間の確執が再燃したため、貞成は出家せざるを得なくなった。 同年、5代将軍足利義量が17歳で早逝。義量には嗣子が無く、また義持に他に男子がいなかったため将軍職は4年1か月にわたって空位となる。義持は将軍代行として死去するまで政務を執った。 1428年、年始に前将軍の足利義持が後継者を指名しないまま没する。重臣たちは石清水八幡宮でくじ引きを行い、義持の4人の弟の中から延暦寺の最高職・天台座主(ざす)の義円(当時34歳)が次期将軍に選ばれた。義円は還俗(げんぞく)して足利義宣(よしのぶ/のち義教)と名乗る。 同年8月30日、称光天皇は皇位継承などをめぐって父と対立したまま27歳で崩御。2人の女児を授かったが生来病弱で皇嗣(しし、跡取り)がなく、北朝4代・後光厳天皇の系統は断絶し、皇統は北朝3代・崇光天皇の系統へと移った。後小松院は伏見宮家から貞成(さだふさ)親王(後崇光院)の第1王子・彦仁(ひこひと)王(9歳)を猶子(ゆうし/養子)に迎え、第102代・後花園天皇として即位させ、自身が院政を執った。順番的には大覚寺統が新帝になる番であったのに、後小松院は両統迭立を反故にしており、反発した南朝の後胤(こういん、子孫)や遺臣らは「後南朝」となり、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後半まで続けた。 ※かつて南朝勢に都から拉致され5年間も幽閉されていた崇光天皇(北朝第3代)は、皇子の栄仁(よしひと)親王の皇位継承を熱望したが、崇光天皇の弟・後光厳天皇と将軍義満に阻まれ失意のうちに崩御した。だが、崇光帝の直系である曾孫の彦仁王(崇光帝→栄仁親王→貞成(さだふさ)親王→彦仁王)が後花園天皇になって晴れて皇位を継いだのであった。 称光天皇は17年間在位していたが、度々危篤に陥るなど病弱のため政務に実績なく、また激しい気質で奇矯の言動が目立ったと、後花園天皇の実父・貞成親王が《看聞(かんもん)日記》に記す。 墓所は京都市伏見区の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。法名は大宝寿。泉涌寺で火葬され、遺骨は深草十二帝陵とされる法華堂に納められた。 ※母方の祖父日野資国(すけくに)の妹業子、資国の兄資康の娘康子も足利義満のもとに嫁ぎ、康子の妹栄子は義持の室となるなど日野一族と室町将軍家との結びつきは強かった。 |
常照皇寺(じょうしょうこうじ)の裏山に陵墓がある |
左に行くと常照皇寺の本堂。右が御陵の参道 |
参道入口に「(北朝初代)光厳天皇山國陵」、 「後花園天皇山國陵」「後土御門天皇分骨所」 |
こちらは常照皇寺の本堂 |
後花園天皇陵の参道は苔むしており緑が美しかった | 先に見えている石段を登ると陵墓デス |
ひょえ〜、高所にあるので一般拝所から見えないYO! 樹木も邪魔!六条天皇陵よりは全然マシだけど… |
それにしても、どうしてこうなった!見張所の側に立入禁止の 石段があったので、皇室の人はそこから上がっていくのだろう |
ズームで撮影。御廟の扉には菊の紋章が 入ってる。ウーム、あの向こうが気になる… |
室町時代中期の天皇。北朝崇光天皇の曾孫。在位は9歳から45歳までの36年間で、正長元年7月28日(1428年9月7日)-寛正5年7月19日(1464年8月21日)。諱は彦仁(ひこひと)。学問に優れ、詩歌管弦もよくしたと伝わる。 1419年7月10日、北朝第3代崇光天皇の孫である後崇光(ごすこう)院・伏見宮貞成(さだふさ)親王の第1王子として生まれ、のちに後小松上皇の猶子(ゆうし/養子)となる。母は敷政門(ふせいもん)院・源幸子。名は彦仁(ひこひと)、法名は円満智。 先帝・称光(しょうこう)天皇は病弱で、代わりに称光天皇の父・後小松上皇が院政を行っていた。 1423年(4歳)、4代将軍・足利義持は将軍職を16歳の子の義量(よしかず/1407-1425)に譲る。 1425年(6歳)、5代将軍・足利義量が17歳で早逝。義量には嗣子(しし、跡継ぎ)が無く、また義持に他に男子がいなかったため将軍職は4年1か月にわたって空位となる。義持は将軍代行として死去するまで政務を執った。 1428年(9歳)、年始に足利義持が後継者を指名しないまま没する。重臣たちは石清水八幡宮でくじ引きを行い、義持の4人の弟の中から延暦寺の最高職・天台座主(ざす)の義円(当時34歳)が次期将軍に選ばれた。義円は還俗(げんぞく)して足利義宣(よしのぶ)と名乗る。 同年8月、称光天皇は27歳の若さで崩御。称光帝は体が弱く後嗣(しし、跡取り)がいなかったため、帝が危篤に陥ると「後南朝」勢力が活動の気配を見せたため、室町幕府将軍の就任が決まっていた足利義宣(義教)は朝廷に介入し、1週間後の同年9月、伏見御所にいた伏見宮家の後崇光(ごすこう)院・貞成(さだふさ)親王の第1王子・彦仁(ひこひと)王を保護し、称光天皇の父・後小松上皇に新帝指名を求めた。彦仁王は後小松上皇の猶子(ゆうし、養子)となって親王宣下のないまま9歳で践祚(せんそ、皇位継承)し、第102代・後花園天皇となり、後小松が院政を執った。 称光天皇の死によって北朝4代・後光厳(ごこうごん)天皇の系統は断絶し、皇統は北朝3代・崇光天皇の系統へと復帰した。崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家の悲願が成就し、父の貞成親王は「神慮」として喜んだ。 ※後花園天皇は、本来は皇統を継ぐ立場にはなかった。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代(称徳天皇→光仁天皇以来)658年ぶりで、現在でも最後であり、以後この皇統が現在の皇室に連なっている。 この頃、近畿を中心に年貢減免や徳政を求めて百姓らによる大規模な「土一揆(つちいっき)」が頻発している。 1429年(10歳)、足利義宣は名前が「世忍ぶ」に通じることを嫌い、義教(よしのり)と改名、室町幕府第6代将軍(在職1429〜1441)に就任する。くじによって将軍になったことから「くじ引き将軍」と呼ばれ、権力基盤が弱かったことから、専制政治を目指して管領の権限を弱めたり、有力守護の家督に自分の近習者をたてるなど、権力の集中をはかって独裁化した。意に沿わない者は公家、寺社、廷臣、大名を問わず厳罰に処した。また、義持の代に中止した勘合貿易を再開し、その利益を幕府財政のもととした。 1430年1月21日、後花園天皇が即位。 称光天皇には兄に有名な一休宗純がいたが、母が南朝の廷臣・花山院の出であり、禅僧としての経歴が長かったことなどから擁立が見送られた。後花園天皇は兄の一休を終生尊敬し、皇統の「正嫡」と呼んだ。 持明院統の称光天皇の後は、順番で大覚寺統から新帝が出る約束であったのに、後小松院は両統迭立を反故にしており、反発した南朝の後胤(こういん、子孫)や遺臣らは「後南朝」となり、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後半まで続けた。 ※かつて南朝勢に都から拉致され5年間も幽閉されていた崇光天皇(北朝第3代)は、皇子の栄仁(よしひと)親王の皇位継承を熱望したが、崇光天皇の弟・後光厳天皇と将軍義満に阻まれ失意のうちに崩御した。だが、崇光帝の直系である曾孫の彦仁王(崇光帝→栄仁親王→貞成(さだふさ)親王→彦仁王)が後花園天皇になって晴れて皇位を継いだのであった。 ※伏見宮家は崇光天皇を祖とし本来皇統を出す家ではなかったが、称光天皇に嗣子がなく、急遽将軍足利義教によって彦仁王が嗣立された。 1431年(12歳)、学問に目覚め、父貞成親王に願って史書や物語の写本を入手。 1433年(14歳)、後小松上皇が崩御、没後は後花園帝が30年余りにわたって親政を行った。 1434年(15歳)、延暦寺が鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れた。義教は比叡山に兵を向けて延暦寺を降伏させた。翌年、義教は延暦寺代表の山門使節4人を京に招き、彼らを捕らえられて首をはねた。延暦寺の山徒は激昂し、抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺する。炎は京都からも見え、世情は騒然となり、義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出し、違反した商人が実際に斬首された。 同年、公卿の中山定親は日記『薩戒記』において足利義教に処罰された者として、公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名と記録している。先帝・称光天皇の生母・日野西資子や関白も含まれている。 世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される 1435年(16歳)、後花園天皇の実父・伏見宮貞成親王(1372-1456)は、『看聞日記』で先の商人斬首について触れ「万人恐怖、言フ莫(なか)レ、言フ莫レ(永享七年二月八日条)」と記す。物言えば唇寒し。この「万人恐怖」は義教の政治を象徴する一語となった。貞成親王は義教時代を「薄氷を踏むの時節」とし、「悪将軍」と評している。 他にも義教の苛烈な性格が多数記録に残されている。 ・「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」といった些細な理由で庭師や料理人を罰した ・永享4年(1432)、一条兼良邸で闘鶏が行われ、多数の人々が見物に訪れた。そのため義教の行列が通ることが出来ず、激怒した義教は闘鶏を禁止し、京都中のニワトリを洛外へ追放した。 ・猿楽においては音阿弥をひいきし世阿弥を冷遇したあげく、1434年に70歳という老齢の世阿弥を佐渡へ配流した。 ・日蓮宗への改宗を目論み説教しようとした僧日親は、灼熱の鍋を頭からかぶせられ、二度と喋ることができないように舌を切られた。 ・永享6年(1434)、側室日野重子の兄・日野義資(よしすけ/37歳)が、就寝中に殺害され首を持ち去られた。義教は僧(義円)時代に何かで義資に恨みを持ったらしく、所領を没収したり、重子が子(7代将軍足利義勝)を産んだ際に、義資のもとを訪れて祝賀を述べた者を全員調べ上げて処罰した。「義資の暗殺犯は義教の刺客」と噂した参議・高倉永藤は硫黄島へ流刑となった。 1438年(19歳)、鎌倉の足利持氏が将軍候補になれなかったため幕府に反抗するようになり、それをいさめる関東管領の上杉憲実とも不和になる。持氏が憲実追討の軍をおこし「永享(えいきょう)の乱」が勃発したため、幕府は持氏討伐を決定し、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏らに出陣を命じた。幕府と上杉の連合軍が接近すると、持氏軍から兵が離反し、持氏は降伏した。 後花園天皇は「永享の乱」に際して治罰綸旨(じばつりんじ/退治し罰せよとする天皇の命令)を発給し、足利義満(1358-1408)以後廃絶していた朝敵制度が60年ぶりに復活し、以後天皇の政治的権威は幕府衰退と反比例して上昇していく。 1439年(20歳)、上杉憲実は持氏の助命を嘆願したが義教はゆるさず、持氏は鎌倉の永安寺で自殺させられた。これにより鎌倉公方による関東支配は実質的におわった。 同年、勅撰和歌集(21代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。 翌年、義教は大和へ出陣していた丹後守護・一色義貫(いっしきよしつら)や伊勢守護・土岐持頼(ときもちより)をさしたる罪もないのに殺害。次は播磨の有力守護大名・赤松満祐(みつすけ)が攻められると噂が流れた 1441年(22歳)6月、身の危険を感じた赤松満祐は、京都にて「結城(ゆうき)合戦」(関東で起きた結城氏の反乱)平定の祝いをかねた猿楽鑑賞の酒宴を催して義教を自邸に招き、その宴席で義教の首をはねて暗殺した。満祐は自邸に火をつけて本国播磨に帰還。この大事件に幕府は衝撃を受けたが、間もなく義教の遺児の千也茶丸(せんちゃまる、義勝)を次の将軍とすることにきめ、7月には細川・山名氏を中心に編成した追討軍が播磨へむかった。追討軍では山名持豊(宗全)が活躍し、9月、満祐の拠点は落城、赤松一族は自害しいったん滅亡する。これらを「嘉吉(かきつ)の乱」と呼ぶ。満祐の旧領3カ国の守護職は持豊はじめ山名氏一族に与えられ、幕府政治は細川・大内・山名氏ら有力大名が動かすようになった。 後花園天皇は赤松満祐の討伐にも治罰綸旨を出して「朝敵」とし、以後幕府は大小の反乱鎮圧に綸旨を奏請したことから、天皇の存在は巨大化していった。 ※伏見宮貞成親王は義教の暗殺を「自業自得ノ果テ、無力ノ事カ。将軍此ノ如キ犬死ニハ古来ソノ例ヲ聞カザル事ナリ」と記した。のちに織田信長は15代将軍の足利義昭に送った意見書の中で「義昭が『悪御所』と噂されているが、義教も同様に噂された」と脅かしている。 1442年、室町幕府第7代将軍に1年半の空位を経て義教の子、足利義勝(1434-1443)が8歳で就任するが、翌年に病死。 1443年(24歳)、御所が南朝勢力によって夜襲を受け、三種の神器のうち、剣と神璽(曲玉)が奪われる「禁闕(きんけつ)の変」が起きる。剣はすぐに清水寺で発見されたが曲玉は持ち去られ、「嘉吉の乱」で没落した赤松氏の家来たちが14年後(1457年)に南朝から奪還した。 同年、7代将軍の義勝がなくなったため弟の義政(1436-1490)が7歳で家督を継ぐ。義政はもともと僧侶として一生を終えるはずであった。 1447年(28歳)、父の貞成親王に太上天皇の尊号を奉る。 1449年(30歳)、室町幕府第8代将軍に4年 9か月の空位を経て、義政が13歳で就任する。 1458年、朝廷へ神璽(曲玉)が返還され、全ての神器が天皇の手中に帰する。これは前年に後南朝の行宮を赤松氏の遺臣らが襲って奪還したもの。赤松氏は義教暗殺で滅ぼされたが、遺臣たちの大手柄で復活した。 1459年(40歳)〜1461年は日本全国が飢饉に襲われた(長禄・寛正の飢饉)。 1461年(42歳)、京都では飢饉により最初の2ヶ月だけで8万2千人もの死者が出て、賀茂川の流れが死骸のために止まるほどであった。ところが、将軍義政(25歳)は“花の御所”を改築するなど贅沢な暮らしを続けており、怒った後花園天皇は漢詩を以って戒めた。 「残民争採首陽薇(わらび) 処々閉廬(ろ)鎖竹扉(ちくひ) 詩興吟酸春二月 満城紅緑為誰肥」(生存者は首陽山でワラビを求めた伯夷・叔斉のように飢えて、食べられるものを争い採っている。至る所で飯櫃(めしびつ)を閉ざし、扉も閉ざしている。春の二月だというのに、詩を吟じるにも痛ましい。都のや草木は誰のために育っているのだろうか)(「新撰長禄寛正記」) 1462年(43歳)、皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与える。 1464年(45歳)、後花園天皇は22歳の第一皇子・成仁親王=後土御門(ごつちみかど)天皇に譲位して上皇となり、左大臣・足利義政を院執事として院政を敷く。 同年、義政も隠居して自由の身になることをのぞみ、僧になっていた25歳の弟・義尋を還俗(げんぞく)させ、足利義視(よしみ/1439-1491)と名のらせて養子とし、次期将軍に決定した。義視の妻は富子の妹。 1465年(46歳)、後土御門天皇が即位。義政は義視を養子としていたが、この年、正室の日野富子が義尚(よしひさ/1465-1489)を産むと義視を疎んじ、将軍継嗣争いが応仁の乱の一因となった。 同年、義政は29歳。政治への意欲はなく、側室の日野重子や守護大名の細川勝元・山名宗全らに幕政を任せて、自らは遊興・数寄の道にのめり込んだ。 1466年(47歳)、義尚の乳父であった伊勢貞親ら近臣は義政の将軍継続を望み、「弟義視が謀反を企んでいる」と義政に讒言し、その殺害を訴えた「文正(ぶんしょう)の政変」が起きる。伊勢貞親らは義視を支援する山名宗全・細川勝元ら諸大名の反発で追放された。この政変で義政は側近を中心とした政治を行えなくなる。 1467年(48歳)正月、京都で室町幕府第一の重職、管領(かんれい※将軍補佐)を務める畠山(はたけやま)氏の家督争いをきっかけに「応仁の乱」が勃発する。ときに後花園帝48歳、義政31歳、富子27歳。 さかのぼること19年前の1448年。山城(京都府南部)の守護大名で管領の畠山持国は、嫡子がいないことから弟の持富を後継としていたが、気が変わって側室(遊女)との子、義就(よしなり・よしひろ/生年不明〜1490)を後継とした。だが一部の家臣の反対にあい、持富の子の弥三郎(政久)を養子として新たな後継者に擁立したところ、家臣団は弥三郎派と義就派に分裂した。1454年、弥三郎は、畠山氏の内紛を煽って弱体化を狙う管領・細川勝元の支援を受けて義就に戦いを挑み勝利し、義政は弥三郎を家督継承者と認めた。弥三郎は持国を隠居に追い込み、義就を伊賀国に追い出した。ところが、弥三郎の背後に細川氏がいることを知った8代将軍義政(18歳)は、わずか4カ月後で家督を義就に戻した。弥三郎は没落し、1459年、17歳の弟「政長」(1442-1493)に未来を託して世を去った。その後、義就は勢力拡大の為に将軍の名を使って家臣を派遣したり、家臣が所領を横領して義政の信頼を失い、1460年に義政の命令で義就は失脚、義政は政長を家督に取り立てた。1464年には政長が細川勝元の後任として管領に就任した。しかし1466年、山名宗全・斯波義廉らの支援を受けて義就が挙兵して上洛。 1467年(応仁元年)、義政は義就の軍事力を前に義就支持に転じ、家督を政長から義就に替え、さらに管領を罷免した。政長はこれを不服として細川勝元を頼り、ついに3月3日(旧暦1月18日/ユリウス暦2月22日)に都の上御霊社(かみごりょうしゃ)において挙兵、義就軍に戦いを挑んだ。合戦前に義就は後土御門天皇や後花園上皇を室町御所(花の御所)に避難させている。戦いは一夜で終わり義就が勝利を収め、帝は内裏に戻った。義政は「畠山氏の私闘である」と諸大名に介入を禁じていたが、山名宗全(持豊)は公然と義就に加勢し、お陰で勝元は政長を見捨てた形になり面目は丸つぶれとなった。以降、政長には管領の細川勝元、義就には有力大名の山名宗全というように、幕府の主導権を争う二大守護大名が結びついたため、天下を二分する大乱「応仁の乱」に発展していく。 7月6日(旧暦5月26日)には両派が諸国の軍勢を京都にあつめ諸大名が寺社に布陣して全面戦争に突入。細川方は室町にある幕府政庁・室町第 (花の御所/将軍邸)をおさえ、山名方はその西方の山名宗全の屋敷を本陣としたことから、前者が東軍、後者が西軍とよばれた。勝元は将軍家を抱き込み、戦場で「将軍旗」を掲げ官軍となった。 東軍は戦いを優位に進めていたが、9月30日(旧暦8月23日)に西軍・大内政弘が3万の大軍をひきいて周防国(山口)から上洛すると戦力は拮抗した。大内氏が入京したその日、後花園上皇と後土御門天皇は兵火を避けて義政の室町第(花の御所)に逃れた。義政は御所を改装して仮内裏とし、天皇と将軍が同居する。同夜、東軍総大将の足利義視(義政の弟)は北畠教具(南朝系)を頼って伊勢に逃亡した。 乱の勃発時、後花園天皇は東軍・細川勝元から「西軍治罰の綸旨」の発給を要請されたが、中立の立場から拒否した。だが、細川勝元は上皇の中立的な院宣を西軍討伐の院宣と読みかえて軍勢動員の手段とした。後花園天皇は治罰綸旨が大乱の発端となったことで自責の念に駆られ、まもなく出家を強行して法皇となり、法名を円満智と号した。上皇の出家は義政の無責任さに対して不徳の責を背負った行動として、世間から称賛を浴びた。 11月8日(旧暦10月3日)、大内軍の合流で勢いづいた西軍は、東軍が陣を置いた相国寺を攻撃、応仁の乱最大の激戦となり西軍が勝利する。この合戦で義満が建立した相国寺の大伽藍は3日間燃え続けた。相国寺合戦を頂点として京都での大規模な合戦は1〜2年で終わったが、小競り合いが11年間も続き、全国各地でも両派の合戦が繰り広げられた。 1468年(49歳)、10月17日(旧暦9月22日)に義視は義政の説得で伊勢から帰洛するが、その頃から義政がかつて義視を除こうとした幕府政所執事・伊勢貞親(1417-1473※義政の養育係)を起用していたことに憤慨、1469年1月4日(応仁2年11月13日)に義視は室町第を脱走して比叡山に出奔、ついでなんと西軍に身を投じた。この東軍総大将の寝返りに人々は驚愕する。義視は西軍の擬似幕府で「公方様」「相公(将軍)」と呼ばれた。義政は激怒し義視を朝敵とした。 〔室町幕府の要職〕 将軍(トップ) 管領(ナンバー2)…将軍補佐役。足利氏一門の細川・斯波(しば)・畠山の三氏が交代で就任。 侍所所司(ナンバー3)…侍所(さむらいどころ)は京都の警備や訴訟を扱い。その長官を所司(しょし)と呼ぶ。山名、赤松、京極、一色の四家に限定。 ※「三管四職(しき)」といわれる。 〔両軍の主な構成〕 東軍…20カ国の兵16万 細川勝元(管領) 足利義政(将軍) 斯波義敏 畠山政長(管領) 京極持清(きょうごくもちきよ)(侍所所司) 赤松政則(侍所所司) 富樫政親(とがしまさちか) 朝倉孝景※当初は西軍の主力、細川に調略され越前の守護大名に。 西軍…20カ国の兵11万 山名宗全(侍所所司) 足利義視(義政の弟)元僧侶。当初は東軍総大将、寝返って西軍将軍に。妻は日野富子の妹。 斯波義廉(よしかど) (管領)宗全の娘婿 畠山義就@暴れん坊 六角高頼 一色義直(いっしきよしただ) (侍所所司) 土岐成頼(ときしげより) 大内政弘※貿易をめぐり細川勝元と対立。最後は日野富子に「官位上昇させる」と説得され停戦。 足利義政(1436-1490)…室町幕府第8代将軍(在職1449〜1473)。義教の子。初め義成(よししげ)。弟義視を養子としたが、義尚が生まれるに及んで義視を疎んじ、応仁の乱の一因をつくる。芸術を愛好・保護し、東山文化を生んだ。 日野富子(1440-1496)…8代将軍足利義政夫人。実子・義尚を将軍に立てるため山名宗全を頼んで養子義視と争ったとされる。関所を設けて課税し、高利貸し・米相場・賄賂などで蓄財をはかるなど資産運用に積極的だった。 1471年1月18日、後花園天皇は仮御所室町第泉殿で中風のため崩御した。享年51。その最期を足利義政・日野富子夫妻が看取った。後花園帝と義政は大乱前から蹴鞠の趣味を通じて親交が厚かったが、同居によりさらに親睦が深まった。義政は戦乱中の外出に反対する細川勝元の反対を押し切って葬儀から四十九日の法要まで全てに参列した。諡号(しごう)は後文徳(ごもんとく)院、翌月に後花園院と改められた。 後花園天皇は在位36年の間に、永享の乱、嘉吉(かきつ)の乱、各地の土一揆、寛正(かんしょう)の大飢饉などがあり、上皇時代には応仁の乱がおきた。その混乱の中で、帝は自身の生誕11年前に起きた足利義満(1358-1408)の皇位簒奪未遂以降の朝廷権威の高揚を図り、治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担い、皇権を回復した「中興の英主」として極めて重要な天皇である。 後花園天皇は学問を好み和歌・管弦にすぐれ、『新続古今集』に12首、『新撰菟玖波集』に11句が入集したほか、歌集『後花園院御製』がある。日記に『後花園院御記』。仁徳も深く、皇子・後土御門天皇に教訓状を与えたり、飢饉などで困窮する庶民を無視して贅沢にふける足利義政に戒めの和歌をおくった。 〔その後〕 1473年、4月に西軍の山名宗全が68歳で没し、6月に東軍の細川勝元が43歳で他界したことを契機に和睦の動きが出始めるが、優勢だった東軍は安易な譲歩に否定的で、西軍は大内政弘が山名宗全に匹敵する実力を持っていたことから、両軍はなおも山城一帯で対峙し続けた。この年、義政は実子、義尚(よしひさ/1465-1489) に将軍職を譲って37歳で隠居する。義尚は8歳で第9代将軍となり、のち義熙(よしひろ)と称す。義尚は幼少であったため、隠居はしたものの実権は義政にあった。 ※乱後まもなく書かれた軍記物『応仁記』から「重税にたえられない農民は、田畑をすてて乞食となり、村里の多くが荒れ野となってしまった。京都の金融業者にかかる「倉役」という税は、3代将軍足利義満のときには、年に4度だったのが、6代の足利義教(よしのり)のときは年に12度かかり、義政にいたっては、大嘗会のあった11月に9度、翌12月に8度という、とんでもないものだった。さらに、借金をふみたおそうとして義政は、徳政を13度もおこなっている。そんな調子だから、幕府御用の金融業者も民間の金融業者も、みなつぶれてしまった。」 1476年、花の御所が京都市街の戦火で焼失。北小路殿(富子所有の邸宅)に御所を移す。義政が大内政弘に和睦を求める書状を送る。 1477年、大内政弘が将軍家(日野富子)に懐柔されて領国にひきあげ、美濃守護の土岐成頼が足利義視父子をともなって帰国し、12月25日(旧暦11月11日)に西軍は解体され中央の戦乱はようやく終結した。義視は子の義材(よしき、のちの10代将軍義稙・よしたね)を伴って美濃の土岐成頼のもとに亡命した。 乱後の京都は一面の焼け野原となり、相国寺、大徳寺、南禅寺、建仁寺、祇園社(八坂神社)、六波羅蜜寺、清水寺など由緒ある寺社や公家の邸宅も焼かれ、多くの文化財を失った。幕府の権威は完全に失墜し、地方政権レベルとなり、日本は群雄割拠の戦国時代に入っていく。 1483年、義政は京都東山に造営中の山荘へうつりすみ、以降は義政は「東山殿」、義尚を「室町殿」と呼ぶこととなった。1485年、剃髪(ていはつ)して出家。 1488年、9代将軍足利義尚は義熙(よしひろ)に改名。 1489年4月26日、足利義熙(義尚)は近江の六角高頼討伐の陣中で、23歳の若さで早逝したため、義政が政務に復帰する。11月23日(旧暦10月22日)、義政は乱以来となる義視・義材父子との対面を20年ぶりに果たした。同年、山荘内に観音殿(銀閣)を建て始める。 1490年1月27日、足利義政は銀閣の完成を待たずして、義尚の後を追うように中風のため54歳で他界した。没後の法事の席で義視は「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった」と語る。同年7月22日、義視の子、義材(1466-1523※義稙)が24歳で10代将軍に就任。 ※足利義政は戦乱に苦しむ人々をよそに、猿楽などの豪勢な催し事や、将軍御所の改築、東山の山荘造営など芸術の世界にふけり、多くの芸術家を指導・援助したことで「東山文化」が生まれた。東山文化は「わび・さび」に重きをおき、金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化と異なる美を見出した。初花、九十九髪茄子など優れた茶器が作られた。 この乱の間に、多くの公家や僧侶が京都を逃れて地方へ移ったため、京文化が地方へも普及することになった。また、地方では地侍・土豪とよばれる小領主が力をつけ、彼らを家臣にしようとする守護代や国人の勢力争いが強まり、守護大名にかわって戦国大名が生まれる素地ができた。世は戦国期をむかえ、応仁の乱は大きな時代の転換点となった。 1491年、義視は兄に続いて51歳で他界した。義視の死後、義材は管領を軽んじ独裁的志向を強めたため、富子や諸大名の反感を買い、義視の死から2年後(1493)、河内遠征中に管領・細川政元(勝元の子/1466-1507)に廃され、出家していた従兄弟の清晃(せいこう、還俗して義澄)が擁立された。義材は都落ちに追い込まれた(明応の政変)。 1494年、堀越(ほりごえ)公方・足利政知(まさとも)の子で義政の養子、足利義澄(1480-1511)が細川政元に擁立され14歳で第11代将軍に就任。 1495年1月23日、将軍職を追われた義材は約13年半の逃亡生活を送る。 1498年、義材は義尹(よしただ)に改名。 1507年、幕府の実権を握っていた細川政元は養子3人の家督争いに巻き込まれ、澄之派の香西元長らに41歳で暗殺された。 1508年、義尹は大内義興(よしおき)の支援で13年ぶりに将軍職に復帰し、義澄の将軍職を剥奪した。 1511年、義澄が近江にて没する。 1513年、義尹は義稙(よしたね)に改名。 1521年、義稙は管領・細川高国の乱によって淡路に逃れる。 1522年1月22日、失職。 1523年、阿波にて義稙は没する。義稙は鎌倉・室町・江戸の3幕府の将軍の中で唯一、将軍職を再任された人物となった。 ※後花園天皇は人民の苦を救いたいとの思いから「心経」を書写し、醍醐寺の前大僧正に供養させた。この「心経」は大覚寺に現存する。 ※伏見宮の地位は安泰となり、第24代博明王が1947年に皇籍を離脱するまで約550年の長きにわたって相承された。 ※かつて山名氏は山陰地方を拠点に全国の6分の1となる11カ国の守護職を一族でもつ巨大勢力だった。3代将軍足利義満は、山名氏の権勢を削ぐべく山名一族の分断をはかり、様々な挑発を仕掛けた。1391年、山名氏清らが挙兵すると(明徳の乱)、細川・畠山・大内氏らに討伐させた。山名氏の9カ国は乱鎮圧に功績のあった諸大名に分け与えられ、山名氏の勢力は一挙に削減された。それから50年を経て、「嘉吉の乱」で復権したのであった。 ※足利義教はささいな理由で遠島や処刑を行う暗君といわれた。夫人の日野富子も蓄財に熱中するなど、夫婦で世の非難をあびた。 〔墓巡礼〕 陵所は京都市右京区の後山国陵(のちのやまくにのみささぎ) 。後花園天皇の亡骸は悲田院で火葬され、遺詔(ゆいしょう、遺言)に従い、常照皇寺(じょうしょうこうじ)の裏手にある高祖父(ひいひい爺ちゃん)、北朝初代・光厳天皇陵の側に遺骨が安置された。陵形は宝篋印塔。京都市上京区に分骨所の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)、上京区大應寺の境内に火葬塚がある。法名は円満智。歌集に「後花園院御集」、日記に「後花園院御記」。 |
室町時代後期の天皇。在位は22歳から58歳までの36年間で、寛正5年7月19日(1464年8月21日)-明応9年9月28日(1500年10月21日)。諱は成仁(ふさひと)。
1442年7月3日に後花園天皇の第1皇子として生まれる。母は藤原信子(嘉楽門院)。名は成仁(ふさひと)。 生母である伊与局の身分が低く、当初は出家を前提に父・後花園天皇の実家である伏見宮家で育てられていた。だが父帝に男子が生まれず、生母を公卿である大炊御門家の養女ということにして、皇位継承者として定められた。15歳で親王宣下。 1464年に父の譲位をうけて22歳で践祚、翌年、第103代・後土御門天皇として即位。 1466年(24歳)、大嘗会(だいじょうえ※皇位継承の大嘗祭の饗宴)を挙行、これが中世最後の大嘗会となった。大嘗祭は江戸時代の東山天皇(1687年挙行)まで221年中断することとなる。 ※大嘗祭…即位後最初の新嘗(にいなめ)祭であり、一代一度の大祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇(てんじんちぎ)を祀る。 1467年(25歳)、即位の2年後に「応仁の乱」が勃発。3月3日(旧暦1月18日/ユリウス暦2月22日)に京都の上御霊(かみごりょう)神社で管領・畠山家の内紛により、畠山義就軍と畠山政長軍が衝突した。合戦前に義就は後土御門天皇や後花園上皇を車に乗せて室町御所(花の御所)に避難させている。戦いは一夜で終わり義就が勝利を収め、帝は内裏に戻った。この御霊合戦では8代将軍義政による諸大名への介入禁止令を無視して有力守護大名の山名宗全が畠山義就に加勢したため、幕府の主導権を山名氏と争う管領・細川勝元は畠山政長につき、この二大守護大名の参戦で天下を二分する大乱「応仁の乱」に発展した。細川方は幕府政庁・室町第 (花の御所/将軍邸)をおさえ、山名方はその西方の山名宗全の屋敷を本陣としたことから、前者が東軍、後者が西軍とよばれた。 義政から将軍旗を与えられ官軍となった東軍は戦いを優位に進めていたが、9月30日(旧暦8月23日)に西軍・大内政弘が3万の大軍をひきいて周防国(山口)から上洛すると戦力は拮抗した。大内氏入京の日、後土御門天皇と後花園上皇は兵火を避けて義政の将軍邸、室町第(花の御所)に逃れた。義政は御所を改装して仮内裏とし、天皇と将軍が居を同じくした。以後、9年後(1476年)に花の御所が焼失して天皇が北小路殿(富子所有の邸宅)に御所を移すまで、天皇と将軍の同居が続く。 帝は三種の神器を守るため皇居を移転しながら10年間の避難生活を余儀なくされた。多くの公家は戦乱を避け地方へ逃れた。こうした事情から、ほとんどの朝廷の儀式が中止に追い込まれたが、後土御門天皇は朝儀の維持存続を心がけ、有職故実の研究や儀式の習礼を廷臣に奨励した。 1471年(29歳)、後花園上皇の崩御で院政が終わり、後土御門天皇は親政を開始。 1476年(34歳)、花の御所が京都市街の戦火で焼失。北小路殿(富子所有の邸宅)に御所を移す 1477年(35歳)、応仁の乱が終結。京都は一面の焼け野原となり、由緒ある寺社や公家の邸宅も焼かれ、多くの文化財を失った。 乱後、幕府の権威が失墜して地方政権レベルとなったことで、皇室は深刻な財政難に陥り、極度に逼迫していく。これまで朝廷は儀式や内裏の修理に際し、幕府を通じて諸国に税を課していた。ところが、徴収役の守護が応じなくなり、皇室経済の土台となる通常収入の御料所(ごりょうしょ/直轄地)の年貢まで滞るようになった。御料地をはじめ公家の所領の多くが地方武士に奪われてしまった。後土御門天皇は応仁の乱によって中断を余儀なくされていた朝廷儀式の再興を目指したが、金欠となった幕府からの資金援助は乏しく、財源の枯渇に阻まれた。 年中行事など大切な儀式を行えなくなってしまい、後土御門天皇はなかなか動かない幕府にしびれを切らし、5回も譲位しようとした。その度に政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に拒否された。皇室だけでなく公卿たちも窮乏に苦しみ、儀式に参加できない有様だった。 1479年(37歳)、ようやく土御門内裏へ移る。 1489年(47歳)、9代将軍足利義尚が23歳の若さで早逝。 1490年(48歳)、後土御門天皇は途絶えていた三節会(さんせちえ)=宮中で正月に行われた元日の節会、7日の白馬(あおうま)の節会、16日の踏歌(とうか)の節会などを再興し、また浄土教に深く帰依した。同年、義政は義尚の後を追うように54歳で他界。7月、義視の子、義材(1466-1523※義稙)が24歳で10代将軍に就任した。 1500年10月21日に58歳で崩御。法名は正等観。 後土御門天皇は財政難により、飛鳥・奈良時代から繰り返されてきた譲位を行えなかった。以後、しばらく天皇の終身在位が定着する。 ※『日本書紀』では531年に第24代継体天皇が安閑天皇に最初の譲位を行っている。確実な記録では、飛鳥時代半ばの645年、35代皇極天皇が孝徳天皇に譲位したのが最初の生前退位とされる。 在位37年、後土御門天皇は戦火から神器を守るべく京を転々とし、苦労の中で何度も譲位を考えながらも、朝儀の再興に努めた。また和歌・連歌をよくし、歌集に『紅塵灰集』『いその玉藻』などがある。 敬虔な仏教徒の後土御門天皇は、自身の悪行が貧窮をもたらしたと考え、阿弥陀仏の慈悲に希望を託し次の和歌を詠じた。 「誓ありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ」(阿弥陀様による救済の誓願を知りながら犯した私の罪は重いものだ。それでも阿弥陀様は必ず救って下さるだろう) 〔墓巡礼〕 後土御門天皇の崩御時、葬儀費用が工面できず、亡骸は御所(内裏黒戸、黒戸御所)に43日間も放置されたという。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。遺骨の一部は、父・後花園天皇と同様に、京都市上京区の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)に分骨された。 ※黒歴史として、応仁の乱の最中に義政が開いていた酒宴に、常に後土御門天皇が同席して一緒に飲酒していたという。 ※後土御門天皇は吉田神社の神主で吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者、吉田兼倶(かねとも/1435-1511)に「日本書紀」神代巻などの進講を受けた。 |
室町時代後期の天皇。在位は36歳から61歳までの25年間で、明応9年10月25日(1500年11月16日)-大永6年4月7日(1526年5月19日)。諱は勝仁(かつひと)。
1464年11月19日、後土御門天皇の第1皇子として生まれる。母は贈皇太后源朝子(ちょうし)。名は勝仁。 1465年12月11日、8代将軍・足利義政と夫人日野富子の間に義尚(よしひさ)が生まれる。 1466年9月9日、足利義政の弟、足利義視(よしみ)の子として義材(よしき※のち義稙)が生まれる。 1467年(後柏原3歳)、応仁の乱が勃発。義視は東軍総大将であったが義政と対立して東軍より出奔、ついで西軍に身を投じた。 1473年(9歳)、義尚が8歳で9代将軍となる。 1477年(13歳)、応仁の乱が終結。京都は焼け野原になり、朝廷の経済は窮迫する。義視・義材父子は西軍であった美濃国の土岐成頼のもとに亡命した。 1480年(16歳)、勝仁(後柏原天皇)の親王宣下。室町幕府の財源難で譲位が困難となり、勝仁は皇位になかなかつけなかった。 1481年1月15日、堀越(ほりごえ)公方・足利政知に清晃(せいこう、後の足利義澄)が生まれる。堀越公方は兄が継ぐため、6歳で上洛し天龍寺香厳院で出家した。 ※清晃の父・足利政知(まさとも)は、6代将軍足利義教の四男(庶子)。政知は7代将軍足利義勝の異母弟で、8代将軍足利義政と義視の異母兄。清晃が11代将軍義澄となった以降の将軍は政知の家系から続いた。 1487年、義材(21歳)は義尚(22歳)の猶子(ゆうし、養子)として元服。 1489年4月26日、9代将軍義尚は近江国の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)の陣中で、23歳の若さで早逝。義視・義材父子は美濃から上洛し、11月23日(旧暦10月22日)、義政と乱以来20年ぶりに対面する。 守護大名・細川政元(勝元の子)は次期将軍として、義尚・義材の従兄弟、清晃を推したが、義政・富子夫妻が義材を支持し、義材の将軍就任がほぼ決定した。 1490年(26歳)、勝仁の父帝・後土御門天皇は戦乱で途絶えていた三節会(さんせちえ)=宮中で正月に行われた元日の節会、7日の白馬(あおうま)の節会、16日の踏歌(とうか)の節会などを再興。 同年1月27日、足利義政はわが子・義尚の後を追うように54歳で他界。没後の法事の席で義視は「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった」と語る。7月、第10代将軍に義材が24歳で就任した。 1491年(27歳)、前年の義政他界に続いて義視が51歳で逝去。義視の死後、将軍義材は管領・細川政元の意見に耳を傾けず、独裁的志向を強めたため、富子や諸大名の反感を買う。 1493年(29歳)、義材は畠山義就の後継者・義豊を討伐するため、細川政元の反対を押し切って畠山政長らを率いて河内国に遠征した。 同年5月7日(旧暦4月22日)夜、義材が京都を留守にしている間に、細川政元・日野富子・伊勢貞宗らは清晃(せいこう、12歳)を11代将軍に擁立して、義材を廃するクーデター(明応の政変)を起こした。細川政元は軍を河内国に派遣して義材と畠山政長を攻め、政長は自害した。義材は投降し、京都の龍安寺に幽閉されたが、半年後に側近らの手引きで脱出、畠山政長の領国である越中国で政権を樹立した。後土御門天皇は自身が将軍に任命した義材を政元が廃立したことに怒り、政変をなかなか承認しなかった。 1495年1月23日、ようやく清晃の征夷大将軍宣下が行われ、14歳で正式に第11代将軍になる。清晃はのちに名を義澄と改めた。将軍職を追われた義材は約13年半の逃亡生活を送る。 1496年、日野富子が56歳で他界。義澄は15歳になり、自ら政務を行おうとして政元と対立した。 1498年(34歳)、義材は義尹(よしただ)に改名。義尹は越前国の朝倉貞景のもとへ身を寄せた。翌年、畠山政長の子・尚順と上洛を目指し、一時は近江国まで迫ったが、坂本で六角高頼に敗れ、周防国の大内義興のもとに落ち延びた。 1500年(36歳)、父帝・後土御門天皇が10月21日に58歳で崩御。戦国乱世で主要献金元の室町幕府や守護大名も逼迫し、皇室財政は窮乏の極みにあり、父の葬儀(大葬)がすぐにできず、亡骸は43日間も放置され、泉涌寺の奔走でなんとか葬儀に漕ぎつけた。 11月16日に勝仁親王は践祚(せんそ、皇位継承)し、第104代・後柏原天皇となったが、費用が調達できず即位の大礼(即位式)がすぐに開けなかった。後柏原天皇の治世は26年におよんだが、資金難は長く続き、即位の礼をあげるまで21年を要した。大嘗会に至っては全く見込みなく問題にすらならなかった。 1502年(38歳)、11代将軍・足利義澄は即位礼の費用を幕府から献金しようとしたが、執政・細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対、群臣も同意したため献金は立ち消えとなった。若狭守護の武田元信は即位礼の段銭(たんせん、臨時税)を厳しく取り立てたため、怒った土豪や百姓が小浜城へ押し寄せ、武田元信父子は殺害されてしまう。朝廷は衝撃を受け、即位礼の延期をのむしかなかった。 1507年(43歳)、幕府の実権を握っていた細川政元が家督争いに巻き込まれ41歳で暗殺される。 1508年(44歳)、足利義尹(よしただ※義材から改名)を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、義澄は近江国へ逃れて5月15日に将軍職を廃され、7月28日(旧暦7月1日)、義尹は42歳で13年ぶりに将軍に返り咲いた。管領・細川澄元は追放された。以後、義尹は大内氏の権勢を抑え込もうとする。義稙は鎌倉・室町・江戸の3幕府の将軍の中で唯一、将軍職に2度就いた人物となった。 1511年(47歳)、4月2日に近江で義澄の長男・亀王丸(のちの12代将軍義晴)が生まれる。その5カ月後、9月6日に義澄は将軍職への復帰を望みながら30歳で病死する。※山梨県笛吹市芦川町鶯宿に義澄の墓と伝えられる五輪塔がある。 1512年(48歳)、後柏原天皇が義尹の意向に反して大内義興を従三位に叙し、翌年に義尹は細川・大内・畠山の諸氏と対立して一時京都を出奔し近江国に逃れ大病に伏す。回復後に和解。 1513年(49歳)、義尹は義稙(よしたね)に改名。 1518年(54歳)、大内義興と畠山尚順が領内の事情などから帰国し、都では義稙と管領・細川高国(政元の養子)が対立していく。 1521年(57歳)、後柏原天皇の践祚から21年目。帝は即位式の費用調達の為に朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、幕府(将軍足利義稙)や本願寺9世実如(じつにょ、さねゆき、光兼)の献金をあわせることで、ようやく即位式が実現可能になった。ところが予定日の4月28日(旧暦3月22日)の15日前、4月13日(旧暦3月7日)に義稙と管領・細川高国の仲が険悪になり、義稙は和泉国・堺へ逃れた。将軍の京都出奔という異常事態に大礼(即位式)の挙行が危ぶまれたが、後柏原天皇は義稙に激怒して予定通りに実施した。ただし大嘗祭は途絶えたままであり、世間からは「やせ公卿の麦飯だにも食いかねて即位だてこそ無用なりけり」と揶揄された。 高国は即位式で義稙の代わりに警固の責任を果たして天皇の信任を得、1522年1月22日(旧暦永正18年12月25年)に義稙に代わる新将軍として義澄の遺児・義晴(10歳※亀王丸から改名)を第12代将軍に擁立。高国や義澄派の幕臣らが政務の運営にあたった。一方。義稙は堺から淡路へとさらに逃れた。 1523年5月23日、義稙は再起を図っていた阿波国にて56歳で他界する。※墓所は徳島県阿南市の西光寺。 1525年(61歳)、疱瘡が大流行したため後柏原天皇は自ら筆をとって般若心経を書写、延暦寺と仁和寺に奉納し万民の安穏を祈った。 1526年5月19日、後柏原天皇は61歳で崩御。 後柏原天皇の和歌「心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ」(心だけでも西方浄土を目指したならば、鏡に我が罪がすべて映し出されようともかまわない) 在位27年。3歳のときに始まった応仁の乱により、公卿は地方に離散し、朝廷の財政は窮乏し、天皇の権威も地に落ちた。戦乱の影響が直撃した衰退期の皇室を代表する天皇となったが、36歳で皇位に就くと、父の遺志を継いで、財政難で廃絶した朝廷の儀式の復興に力を入れ、春の除目(じもく、任官式)、春日祭などへの勅使派遣、国家鎮護を願う正月の大元帥法(たいげんのほう、真言宗の修法)などを再興した。同時に戦乱や疾病に苦しむ民の幸せを願い続けた。詩歌管絃や書道にも長じ、和歌集『柏玉集』、日記『後柏原天皇宸記』が伝わる。 陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。京都市東山区の泉涌寺で火葬され、遺骨は深草十二帝陵とされる法華堂に納められた。方形堂。灰塚が泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)にある。 |
戦国時代(室町時代後期)の天皇。在位は29歳から60歳までの31年間で、大永6年4月29日(1526年6月9日)-弘治3年9月5日(1557年9月27日)。諱は知仁(ともひと)。
1497年1月26日、後柏原天皇の第2皇子として生まれる。母は豊楽門院藤原藤子。名は知仁(ともひと)。 1500年(3歳)、後土御門天皇が58歳で崩御。戦国乱世で献金元の室町幕府や守護大名も逼迫し、皇室財政は窮乏の極みにあった。葬儀(大葬)はすぐにできず、亡骸は43日間も放置され、泉涌寺の奔走でなんとか葬儀に漕ぎつけた。皇位を継承した第104代・後柏原天皇は、即位式の費用が調達できず、即位礼を挙行するまで21年を要した。大嘗祭(だいじょうさい)に至っては検討すらされなかった。 1505年(8歳)、明で正徳帝が即位。周防(山口)近辺を支配していた大内氏は遣明船(勘合船)を主催、日明貿易(勘合貿易)で豊かな財力を持つ。 1507年(10歳)、義澄を将軍に立てて幕政を牛耳っていた細川政元が家督争いに巻き込まれ41歳で暗殺される。 ※1490年に足利義材(よしき、のち義尹、義稙)が第10代将軍に24歳で就任したが、1493年に細川政元がクーデターで義澄を第11代将軍に擁立していた。 1508年(11歳)、周防の大内義興(1477-1528/当時31歳)は細川氏内紛を畿内進出の好機と見て、前将軍の足利義尹(よしただ※義材から改名)を奉じて上洛の軍を起こす。この報を聞いた第11代将軍・義澄は近江国へ逃れて将軍職を廃され、義尹が13年ぶりに将軍に返り咲いた。管領・細川澄元は追放され、大内義興が管領代として細川高国と共に幕政を握った。 1511年(14歳)、4月2日に近江で義澄の長男・亀王丸(のちの12代将軍義晴)が生まれる。その5カ月後、義澄は将軍職への復帰を望みながら30歳で病死。 1512年(15歳)、知仁(後奈良天皇)の親王宣下、次いで元服。同年、父・後柏原天皇は足利義澄・細川澄元の反撃を迎撃した大内義興の軍功を称えて、独断により従三位とし、義興は公卿に列せられた。義興は娘を足利義維(故義澄の次男)に嫁がせ将軍家の親族ともなった。 1513年(16歳)、義尹(よしただ)は義稙(よしたね)に改名。 1516年(19歳)、大内氏に功労として日明貿易(遣明船派遣)の管掌(かんしょう、監督)権限を恒久的な特権として与えるとする御内書と奉行人奉書が与えられた。この結果、日明貿易の主港が堺から博多に移り、管領細川高国は収入源となっていた明との交易利権を実質奪われた。 1518年(21歳)、大内義興は領国が出雲の尼子氏の軍事的圧力を受けているため管領代を辞し、山口に帰国する。 ★1521年(24歳)、後柏原天皇の践祚から21年目。帝は即位式の費用調達の為に朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、幕府(将軍足利義稙)や本願寺9世実如(じつにょ、さねゆき、光兼)の献金をあわせることで、ようやく即位式が実現可能になった。ところが予定日の4月28日(旧暦3月22日)の15日前、4月13日(旧暦3月7日)に義稙と管領・細川高国の仲が険悪になり、義稙は和泉国・堺へ逃れた。将軍の京都出奔という異常事態に大礼(即位式)の挙行が危ぶまれたが、後柏原天皇は義稙に激怒して予定通りに実施した。ただし大嘗祭は途絶えたままだった。 高国は即位式で義稙の代わりに警固の責任を果たして天皇の信任を得、1522年1月22日(旧暦永正18年12月25年)に義稙に代わる新将軍として義澄の遺児・義晴(10歳※亀王丸から改名)を第12代将軍に擁立。高国や義澄派の幕臣らが政務の運営にあたった。一方。義稙は堺から淡路へとさらに逃れた。 1523年(26歳)、義稙は再起を図るも阿波国にて56歳で他界。 同年、大内義興が遣明船を派遣すると、細川高国も対抗して遣明船を派遣。寧波(ニンポー)港には先に大内方の遣明船が入港していたが、細川方が賄賂を贈って先に入港検査を受けた。激怒した大内方が細川方遣明船を焼き払うと、明の官憲が細川方を支援したため大内方が明の役人をも殺害する事件が起こる。この「寧波の乱」ののち、日本船の入港が禁止される。(現在、寧波港は年間貨物取扱量世界一を誇る) 1525年(28歳)、疱瘡が大流行したため後柏原天皇は自ら筆をとって般若心経を書写、延暦寺と仁和寺に奉納し万民の安穏を祈った。 1526年(29歳)5月18日、(旧暦4月7日)に父帝・後柏原天皇が61歳で崩御する。皇室財政が窮乏するなか、知仁親王は父の大喪(たいそう、葬儀)と自身の践祚(せんそ、皇位継承)を挙行せねばならなかったが、費用の工面に悩んだ。幕府は数回の議論を経て践祚と大喪の両儀式をできるだけの献金をすることになり、崩御後20日あまり経って践祚、大喪が可能になった。だが、幕府が協力できたのはここまでで、即位の礼の費用は献金されず、大嘗祭は話題にさえでない有様だった。 同年6月9日(旧暦4月29日)に第105代・後奈良天皇として践祚、崩御約3週間後の6月12日(旧暦5月3日)に大喪を執り行い、先々帝・後土御門天皇の崩御時に亡骸が43日間も御所に放置されたような事態だけは避けた。次の問題は自身の即位を内外に知らせる即位式(即位礼)だった。 応仁の乱が1477年に中央で終結してから半世紀が経っても、戦乱が続いていた。室町幕府は有名無実化し、各地の大名が領国を支配するようになっていた。畿内は践祚の直後に管領細川家の内紛から内戦に突入し、国は乱れ、皇室財政は逼迫したまま。先帝・後柏原天皇と後奈良天皇の治世は、皇室史における困窮のピークともいえる。即位式の費用が調達できずに、先帝は践祚から即位式まで22年かかったが、後奈良帝も10年を要することになる。 1528年(31歳)、対尼子戦のさなかに大内義興が51歳で病没。跡を嫡男の義隆(1507-1551)が21歳で継いだ。 1530年(33歳)、義興の子・大内義隆はこの年から九州に出兵し、北九州の覇権を豊後(ぶんご)国(大分)の大友氏や筑前国(北九州)の少弐(しょうに)氏らと争う。 1532年(35歳)、大友氏が少弐氏と結んで逆襲し大内氏の領国に侵攻する。 1534年(37歳)、践祚から8年、後奈良天皇は即位礼の費用を自前で用意するべく、戦国大名に献金を求める勅使を派遣し、小田原の北条氏綱(後北条)や駿河の今川氏親、越前の朝倉氏らから助力を得たが、依然として経費は不足していた。そこに最大の支援者として周防山口を拠点とした大内義隆が現れる。大内氏は北九州攻略の大義名分を得るため、大宰大弐(太宰府次官)の官職を得ようと考え、即位の費用として銭2000貫=20万疋(ひき)を献金した。これは現在の金額で約2億円(一貫約12万円)であり、8年前に幕府が践祚と大喪の両儀式に用意した600貫(約7千万円)の3倍以上だった。これをうけ、天皇家から勅使が大内義隆のもとを訪れ、即位費献上への感謝状と剣が下賜(かし)された。こうして、ようやく即位式挙行の目処が付いた。 この年、尾張国で織田信長が生まれる。 1535年(38歳)、後奈良天皇の生母が薨去し即位式は延期される。幕府の財政は相変わらず厳しく、香典料すら用意できなかった。同年、大内氏が御所の門の修理費用に1万疋(約1千万円)を献金。大宰大弐への叙任を申請し、帝はいったん許可したが、後ろめたく感じたのか翌日に取り消した。 1536年(39歳)3月18日(旧暦2月26日)、践祚から10年。後奈良天皇はついに紫宸殿にて即位式を行うことができた。3カ月後、帝は廷臣たちに説得され、即位式に功のあった大内氏の大宰大弐任官を認めた。大内氏はさっそく少弐氏を攻略。北九州を平定し、少弐資元(すけもと)は自害した。 この頃から大内氏のように、各大名は家格を高めるため、朝廷に献金して官位や栄典を得ようとし始める。官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用された。先述した大内氏が少弐氏に対抗するために大宰大弐を求めた例、三河国の支配を正当化するために織田信秀、今川義元、徳川家康が三河守を求めた例など。 衰退の極みに達した朝廷は、官位・栄典を売って金銭に換えることを盛んに行い、家格以上の官位を発給することもあったし、複数の大名が同時期に同じ役職に任じられたこともあった。 この年、大内義隆が遣明船による日明貿易を再開。博多商人たちは莫大な富を得ており、義隆は高額の献金を背景に、最終的には従二位まで昇りつめた(1548年)。 同年、第12代将軍・足利義晴の嫡男として菊幢丸(きくどうまる※のちの13代義輝)が生まれる。当時、父・義晴と管領・細川晴元が権威争いで対立し、父は敗戦のたびに近江国に亡命した。 ※信じ難いことだが、この時期、皇室は天皇の直筆を売って収入の足しにするほどだったという。貨幣をつけた紙に書いて欲しいことを記入し、御所の簾(すだれ)に結べば、容易に入手できたと伝わる。 1539年(42歳)、「この100年間はなかった」といわれるほどの大雨洪水が都を襲い、内裏の建物は大きく損壊する。後奈良天皇は「御所が大破してしまった」と嘆いた。 1540年(43歳)、朝廷は早く御所を修理したかったが、幕府もまた室町第(将軍義晴御所)の造営で余裕がなかった。幕府は諸大名に献金を要請し、越前朝倉孝景が100貫を納入したが、他大名からはほとんど協力が得られなかった。 長引く戦乱のなか、後奈良天皇は飢饉と疫病、洪水に苦しむ庶民を見て心を痛め、災除と疫病退散を祈願して『般若心経』を書写し、24カ国の一宮(いちのみや)に宸筆の心経が奉納された。その一は大覚寺心経殿に存するもの、その二は醍醐寺に存するもの、その三は国々の一宮(いちのみや)に納められたもの。『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多エン(こざと偏に占)於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉。窃写般若心経一巻於金字、(中略)庶幾コ(虎冠に呼の右側)為疾病之妙薬 (大意:このたび起きた大病で大変な数の人々が亡くなってしまった。人々の父母であろうとしても自分の徳ではそれができない。大いに心が痛む。密かに金字で般若心経を写した。(略)これが人々に幾ばくかでも疫病の妙薬になってくれればと切に願っている。)」と、自省を込めて自らの徳の不足を嘆いた切なる言葉を添えている。この写経は大覚寺と醍醐寺のほか、24か国の一宮に納められたと伝わっている。三河国、伊豆国、甲斐国、安房国、越後国、周防国、肥後国のものが現存。 1541年(44歳)、2年前の洪水の修理が終わっていないのに、さらに大風雨が襲撃し御所の複数の建物が倒壊した。 “尾張の虎”織田信秀(信長父/1510-1551)は尊皇家であり、前年から伊勢神宮遷宮のための材木や銭700貫文を献上しており、朝廷からその礼として三河守(みかわのかみ)に任じられた。信秀は三河侵攻の大義名分として三河守の官位を欲したという(実際に三河守を掲げて行動した例はないとのこと)。 1543年(46歳)、織田信秀が朝廷に内裏修理料として4000貫文(約5億円)を献金し、朝廷重視の姿勢を示す。“海道一の弓取り”今川義元の献納は500貫、本願寺100貫であり、信秀の4000貫文は、一件金額としては諸大名から天皇家への献金で歴代最高額となった(トータルでは大内義隆)。後奈良天皇は信秀に感謝し、綸旨(りんじ)と『古今集』写本を下賜した。このように、即位式は大内、毛利など西国大名が支援したが、内裏修理は織田、朝倉など東国大名が請け負った。 この年、種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝来。 1545年(48歳)、後奈良天皇は伊勢神宮への宣命(せんみょう、天皇の文書)で、大嘗祭が催行できないことを「大嘗祭をしないのは怠慢なのではなく、国力の衰退によるものです。いまこの国では王道が行われれず、聖賢有徳の人もなく、利欲にとらわれた下剋上の心ばかりが盛んです。このうえは神の加護を頼むしかなく、上下和睦して民の豊穣を願うばかりです」という趣旨で詫びた。 1546年(49歳)、12代将軍足利義晴(当時35歳)に実権はなく、三好長慶・細川晴元らの政争に翻弄される日々であり、10歳になった嫡男菊幢丸に将軍職を譲った。菊幢丸は第13代将軍足利義輝(1536-1565)を名乗る。のちに義輝は三好・松永氏に圧迫され、将軍職が形骸化したことに反発したが、1565年松永久秀らに暗殺された。 1549年(52歳)、宣教師ザビエルによってキリスト教が伝わる。 1550年(53歳)、前将軍・足利義晴が39歳で病没。 1551年(54歳)、即位の大礼で恩のあった大内義隆が、武断派の重臣・陶隆房(すえはるかた)の下剋上にあう。義隆と一族は自害し、大内家は第16代で事実上滅亡する。享年43。 1552年(55歳)、織田信秀が41歳で他界。家督を嫡男の信長が継ぐ。 1557年9月27日に後奈良天皇は60歳で崩御した。 1560年、桶狭間の戦で織田信長が上洛途上の今川義元を討ち取り、全国制覇の端緒となる。 応仁の乱で京都は荒廃し、皇室財政は窮地に陥り、先々帝の後土御門天皇は崩御時に43日間も葬儀ができず、先帝の後柏原天皇は即位の礼の費用が足りず21年も挙行できなかった。 それからの在位32年。朝廷も幕府も共に衰え、後奈良天皇は皇室の経済力が最も衰退した時期に窮乏生活を送りながらも、庶民の苦しみに心を寄せ続けた。 学を好み、積極的に和漢の書の講義を聞き、古典の書写、保存に努めた。御製も多く、『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、日記『天聴集』を残しており、変わったところでは、なぞなぞ集『後奈良院御撰何曾(ぎょせんなぞ)』が遺る。 皇室財政の貧困が引き合いに出される後奈良帝であるが、官位授与を通して天皇の権威が上昇し始めた治世でもあったことを強調しておきたい。天皇・幕府ともに権威は墜ちるところまで墜ちたが、戦国の下剋上の世になると、大内義隆や織田信秀のように叙位任官を求めて多額の献金を行う戦国大名が続出、次第に王権が回復していった。 陵墓は京都市伏見区の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。京都市東山区の泉涌寺で火葬され、遺骨は深草十二帝陵とされる法華堂に納められた。方形堂。灰塚が京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)にある。 ※武士が将軍を介さず直接天皇に官位を求めることは、頼朝が義経に激怒したように御法度であったが、将軍義晴は何度も近江に亡命して都に不在がちだったこともあり、戦国時代は朝廷と自分でやり取りする武士が出てきた。 ※ウィキや多くのブログに「織田信秀は献金によって従五位下(じゅごいげ※この官位から貴族)に叙位された」と記述しているが、官位就任を確認できる古文書がなく、デマと思われる。 ※大内氏のように守護クラスの大名が将軍を介さずに直接任官するのは異例であった。「大宰大弐」は将軍義晴の公認のない任官であり、領外では通用しなかったとも。 ※2017年、当時皇太子の徳仁親王は会見で後奈良天皇の般若心経奥書を過去に見たことに触れ、般若心経を写経し奉納した嵯峨天皇など7人の天皇とともに、国民に寄り添う模範として挙げた。 〔細川氏を生年順に整理〕 細川勝元(1430-1473)…室町中期の武将。3回にわたって管領となり、将軍足利義政や畠山・斯波氏の継嗣争いをめぐって応仁の乱を起こし、東軍の主将として西軍の山名宗全と争い、陣中で病没した。竜安寺を創建。享年43。 細川政元(1466-1507)…管領細川勝元の子。応仁の乱後、将軍足利義澄を擁して実権を握る。3人の養子、澄之・澄元・高国の家督争いにまき込まれ、湯殿で行水中に澄之派の香西元長らに暗殺された。享年41。 細川高国(1484-1531)…管領細川政元の養子。同じ養子の澄之・澄元と家督をめぐって争い、前将軍・足利義稙(よしたね)を復位させ管領となり実権を握った。のち足利義澄の子義晴を将軍とし管領となったが、三好氏の下剋上にあい自刃。享年47。 細川澄元(1489-1520)…管領細川政元の養子。同じ養子で前将軍・足利義稙(よしたね)を擁する高国と家督をめぐって争い、将軍義澄を奉じて戦ったが、敗れて阿波に下り病死。享年31。 細川晴元(1514-1563)…澄元の子。阿波から迎えられて細川惣領家を継ぎ管領となったが、家臣(執事)の三好長慶に京都を追われ、摂津富田に退いて病没した。これにより細川家の管領は事実上終わる。享年49。 〔大内氏父子メモ〕 大内義興(1477-1528)…室町後期の武将。周防(山口)を中心とする六か国の守護。上洛して将軍足利義澄を追い出し、義稙(よしたね)を将軍職に復させ、自らは管領代となるなど一時幕権を握る。対明貿易権を独占し財力を豊富にした。享年51。 大内義隆(1507-1551)…室町末期の武将。周防を中心とする七か国の守護。義興の嫡男。学芸を好み、山口に京文化を移し、また明・朝鮮の文物を輸入し、独自に大内版を出版。キリスト教布教を許す。山口は西の京として繁栄の極みを迎えたが、家臣の陶晴賢に襲われ長門深川大寧寺で自刃。大内氏は滅亡する。享年43。 |
正親町(おおぎまち)天皇は信長と同時代を生きた戦国時代真っ只中の帝であり、イエズス会の宣教師は、「日本には正親町天皇と織田信長の2人の統治者がいる」と報告書に記述した。当時ではかなり長寿で、応仁の乱終結の40年後に生まれ、秀吉の朝鮮出兵までの75年を生きた。
室町時代末期〜安土桃山時代前期の天皇。在位は40歳から69歳までの29年間で、弘治3年10月27日(1557年11月17日)-天正14年11月7日(1586年12月17日)。諱は方仁(みちひと)。性格は情け深く、慈悲に富んだと伝わると同時に、信長相手に自らの意志を通す政治力もあった。(1493年、応仁の乱後の後継者騒動「明応の政変」から戦国時代に入った。この政変で管領・細川政元は10代将軍の足利義稙(よしたね)を廃して足利義澄(よしずみ)を11代将軍に据えた。) 1517年6月18日、方仁親王(正親町天皇)は後奈良天皇の第2皇子として生まれた。第1皇子説もあるが覚恕という2歳差の兄がいる。母は藤原栄子(吉徳門院)。当時、室町幕府は有名無実化し、各地の大名が領国を支配するようになっていた。畿内は管領細川家の内紛から内戦に突入し、国は乱れ、皇室財政は逼迫。祖父・後柏原天皇と父・後奈良天皇の治世は、皇室史における困窮のピークにあたり、即位式の費用が調達できずに、後柏原帝は践祚(せんそ、皇位継承)から即位式まで22年かかり、後奈良帝も10年を要した。 1520年(3歳)、都に阿波の三好軍が入京したが、2カ月後に管領・細川高国が奪回。 1521年(4歳)、祖父・後柏原天皇は費用不足で長く即位式ができないでいたが、幕府(第10代将軍足利義稙)や本願寺9世実如の献金を得て、践祚から22年目にしてよやく即位式を挙行。その半月前に将軍義稙と管領・細川高国の仲が険悪になり、義稙が京都を出奔し和泉国・堺へ逃れている。即位式では高国が義稙の代わりに警固の責任を果たして天皇の信任を得、翌年に義稙に代わる新将軍として義澄の遺児・義晴(10歳)を第12代将軍に擁立した。 ※践祚した天皇で即位礼を挙行しなかったのは、過去に「承久の乱」に巻き込まれた幼い九条廃帝=仲恭(ちゅうきょう)天皇しかおらず後柏原天皇はやきもきしていただろう。 1526年(9歳)、祖父・後柏原天皇が61歳で崩御。皇室財政が窮乏するなか、崩御後20日あまり経って大喪(葬儀)が実現したが、父・後奈良天皇の即位礼の費用はなく、大嘗祭は話題にさえでない有様だった。 1533年(16歳)、親王および元服の儀を挙げる。 1534年(17歳)、後奈良天皇は即位礼の費用を自前で用意するべく、戦国大名に献金を求める勅使を派遣し、小田原の北条氏綱(後北条)や駿河の今川氏親、越前の朝倉氏らから助力を得たが、依然として経費は不足していた。そこに最大の支援者として周防山口を拠点とした大内義隆が現れる。大内氏は北九州攻略の大義名分を得るため、大宰大弐(太宰府次官)の官職を得ようと考え、即位の費用として銭2000貫=20万疋(ひき)を献金した。これは現在の金額で約2億円(一貫約12万円)であり、8年前に幕府が践祚と大喪の両儀式に用意した600貫(約7千万円)の3倍以上だった。これをうけ、天皇家から勅使が大内義隆のもとを訪れ、即位費献上への感謝状と剣が下賜(かし)された。こうして、ようやく即位式挙行の目処が付いた。 この年、尾張国で織田信長(1534-1582)が生まれている。父は尾張の那古野城(名古屋市)城主、“尾張の虎”織田信秀(1510-1551)。信秀の家系は尾張守護代の清洲織田氏の三奉行のひとつ。若いころの信長は服装や行動がめちゃめちゃで、「大ウツケ」と悪口をいわれた。 1535年(18歳)、後奈良天皇の生母が薨去し即位式は延期される。幕府の財政は相変わらず厳しく、香典料すら用意できなかった。同年、大内氏が御所の門の修理費用に100貫(約1200万円)を献金。大宰大弐への叙任を申請し、帝はいったん許可したが、武家で大宰大弐を拝した者が平安時代の平清盛以来いなかったため、さすがに後ろめたく感じたのか翌日に取り消した。 1536年(19歳)、後奈良天皇は践祚10年でついに即位式を行うことができた。3カ月後、帝は廷臣たちに説得され、即位式に功のあった大内氏の大宰大弐任官を認めた。大内氏はさっそく少弐氏を攻略。北九州を平定し、少弐資元(すけもと)は自害した。 この頃から大内氏のように、各大名は家格を高めるため、朝廷に献金して官位や栄典を得ようとし始める。官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用された。先述した大内氏が少弐氏に対抗するために大宰大弐を求めた例、三河国の支配を正当化するために織田信秀、今川義元、徳川家康が三河守を求めた例など。 衰退の極みに達した朝廷は、官位・栄典を売って金銭に換えることを盛んに行い、家格以上の官位を発給することもあったし、複数の大名が同時期に同じ役職に任じられたこともあった。 同年3月31日、第12代将軍・足利義晴の嫡男として菊幢丸(きくどうまる※のちの13代義輝)が生まれる。当時、父・義晴と管領・細川晴元が権威争いで対立し、父は敗戦のたびに近江国に亡命した。 ※信じ難いことだが、この時期、皇室は天皇の直筆を売って収入の足しにするほどだったという。貨幣をつけた紙に書いて欲しいことを記入し、御所の簾(すだれ)に結べば、容易に入手できたと伝わる。 ※この年、延暦寺僧徒らが京都の法華宗徒を襲撃した「天文法華(てんぶんほっけ)の乱」が起き、日蓮宗21寺が焼き払われ洛中はほとんど焦土と化した。この乱により日蓮宗は6年間京都で禁教とされた。 1537年(20歳)、尾張国で木下藤吉郎(豊臣秀吉)が生まれる。また、のちの15代将軍・足利義昭(1537-1597)が12代義晴の次男として生まれる。当初、義昭は出家して奈良興福寺にはいり覚慶と名乗った。 1539年(22歳)、「この100年間はなかった」といわれるほどの大雨洪水が都を襲い、内裏(だいり、御所)の建物は大きく損壊する。後奈良天皇は「御所が大破してしまった」と嘆いた。 1540年(23歳)、朝廷は早く御所を修理したかったが、幕府もまた室町第(将軍義晴御所)の造営で余裕がなかった。幕府は諸大名に献金を要請し、越前朝倉孝景が100貫を納入したが、他大名からはほとんど協力が得られなかった。 1541年(24歳)、2年前の洪水の修理が終わっていないのに、さらに大風雨が襲撃し御所の複数の建物が倒壊する。朝廷は近江坂本にいた12代将軍足利義晴に「目も当てられず破損し、しかも日ごとに崩壊している」と破損状況を訴えた。 1542年(25歳)、三河で松平元康(徳川家康)が生まれる。 1543年(26歳)、内裏を復興するため最も熱心に援助したのは織田信秀で、尊皇家の信秀は内裏修理料として4000貫文(約5億円)も献金、朝廷重視の姿勢を示した。“海道一の弓取り”今川義元の献納は500貫、本願寺100貫であり、信秀の4000貫文は一件金額としては諸大名から天皇家への献金で歴代最高額となった(トータルでは大内義隆)。後奈良天皇は信秀に感謝し『古今集』写本を下賜した。このように、即位式は大内、毛利など西国大名が支援したが、内裏修理は織田、朝倉など東国大名が請け負った。この年、種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が伝来し、戦場の光景を一変させていく。 ※信秀は1540年にも伊勢神宮遷宮のための材木や銭700貫文(約8500万円)を献上しており、朝廷からその礼として三河守(みかわのかみ)に任じられている。信秀は三河侵攻の大義名分として三河守の官位を欲したというが、実際に三河守を掲げて行動した例はないとのこと。 1545年(28歳)、父帝・後奈良天皇は伊勢神宮への宣命(せんみょう、天皇の文書)で、大嘗祭が催行できないことを「大嘗祭をしないのは怠慢なのではなく、国力の衰退によるものです。いまこの国では王道が行われれず、聖賢有徳の人もなく、利欲にとらわれた下剋上の心ばかりが盛んです。このうえは神の加護を頼むしかなく、上下和睦して民の豊穣を願うばかりです」という趣旨で詫びた。 1547年(30歳)、12代将軍足利義晴(当時35歳)に実権はなく、管領らの政争に翻弄される日々であり、1月11日(天文5年12月20日)、義晴は10歳になった嫡男菊幢丸に将軍職を譲った。菊幢丸は第13代将軍足利義輝(1536-1565)を名乗る。 同年、「両方の鎗数900本」と呼ばれた鉄砲未使用時代の最後の大合戦、摂津舎利寺の会戦が行われ、三好長慶が前将軍派の畠山政国と守護代遊佐長教らの大軍を撃破した。 1548年(31歳)、信長(14歳)は美濃の斎藤道三と父信秀の同盟のあかしとして道三の娘・濃姫と結婚する。 1549年(32歳)、都で管領・細川晴元政権を支えていた27歳の三好長慶(ながよし/1522-1564)は、晴元が同族の三好政長と結んだために摂津国(大阪市)で反旗をひるがえして「江口合戦」で政長を倒す。晴元は長慶の追撃を恐れ、前将軍義晴・13代義輝父子らを伴って近江の坂本まで避難し、長慶は帝だけが残った京都に入った。 同年、宣教師ザビエルによってキリスト教が伝わる。 1550年(33歳)、前将軍・足利義晴が39歳で病没。 1551年(34歳)、父・後奈良帝にとって即位礼で恩のあった大内義隆が、武断派の重臣・陶隆房(すえはるかた)の下剋上にあう。義隆と一族は自害し、大内家は第16代で事実上滅亡する。享年43。同年、三好長慶は将軍義輝が放った刺客に斬りつけられるが無事だった。 1552年(35歳)、第一皇子の誠仁(さねひと)親王が生まれる。同年、織田信秀が41歳で没し、家督を嫡男の信長(18歳)が継ぐ。 1553年(36歳)、三好長慶が事実上、畿内を制圧する。長慶は短期間のうちに、近畿・四国の8カ国にまたがる支配圏を築き、幕府・細川氏を排除した独裁的な大名政権を打ち立てた。この点で最初の“天下人”といえる。長慶は一級の教養人でもあり、連歌にすぐれ、キリスト教の布教を黙認するなど新興文化に対する理解もあった。同年、守護代の長尾景虎(謙信)が後奈良帝に謁見。 1555年(38歳)、信長(21歳)が清洲城(愛知県清須市)を奪って尾張半国を統一。翌年、斉藤道三が子の斉藤義龍(よしたつ)と戦い敗死したため、織田と美濃との同盟はやぶれた。 1557年(40歳)、父・後奈良天皇が60歳で崩御し、これにともなって方仁(みちひと)親王が第106代 正親町(おおぎまち)天皇として践祚(せんそ)した。朝廷は後奈良帝の葬礼費を自前で調達できず、頼りにしたい13代将軍義輝は近江に閑居、前管領の細川晴元は若狭に逃亡中だった。畿内は三好長慶の領国であるため、朝廷から長慶に葬礼費用を依頼、長慶は洛中に臨時で課税したが必要な600貫(約7200万円)がすぐに集まらず、火葬となるまで玉体(遺骸)放置は過去最長の2カ月半に及んだ。そして正親町天皇自身も、戦乱と財政窮状で3年後まで即位式ができなかった。 ※この時点の三大武将の年齢は、信長23歳(1534-1582)、秀吉20歳(1537-1598)、家康15歳(1542-1616)。石田三成が生まれるのは3年後。 1558年(41歳)、これまで改元は朝廷と幕府の協議の上で行われてきたが、将軍義輝が都落ちで不在のため、朝廷は正親町天皇の即位にあたり三好長慶に相談して改元を実施した。義輝は4カ月も改元を知らされず、古い年号を使用し続けることとなったため朝廷に抗議した。その後、義輝と長慶との間に和議が成立し、長慶は京都を明け渡し、義輝の5年ぶりの入洛が実現し幕府政治が復活した。ときに義輝22歳。 1559年(42歳)、正親町天皇はかつて父・後奈良帝の即位礼を支えた大内義隆の後身を頼り、安芸国の戦国大名・毛利元就に即位式の献金を依頼、元就は期待に応えて即位料・御服費用として銭2000貫(約2億5千万円)を献じた。朝倉義景100貫(約1200万円)、三好長慶100貫と比べて破格だった。正親町天皇は元就に褒美として従四位下・陸奥守(毛利氏の祖先・大江広元が陸奥守だった為)の官位を授け、皇室の紋章である菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した(約350年後の1908年、この功績により元就に正一位が贈位)。 同年、正親町帝は上洛中の長尾景虎(上杉謙信)と謁見。 この年、信長(25歳)がもうひとつの尾張守護代家の岩倉織田氏を滅ぼして、ほぼ尾張一国を統一し、京都で13代将軍足利義輝に謁見した。 1560年(43歳)、前年の毛利元就父子の献上金で即位が挙行される。毛利氏はこの献金を自負し、後世の長州藩も誇りとした。本願寺法主・顕如も多額の献金を行い、天皇から門跡の称号を与えられ、以後本願寺の権勢が増した。 正親町帝が即位式をあげたこの年、桶狭間の戦で織田信長(26歳)が上洛途上の駿河の今川義元(1519-1560/41歳)を討ち取り、全国制覇の端緒となる。 また、同年はポルトガル人イエズス会員でカトリック教会の司祭ガスパル・ヴィレラ(1525-1572)が苦労の末に将軍義輝に謁見、京におけるキリスト教宣教許可の制札を受け、都で初めて布教を行っている。 1561年(44歳)、甲斐の武田信玄(1521-1573)と越後の上杉謙信(1530-1578)の間で、有名な第四次・川中島の合戦が行われる。 同年、ガスパル・ヴィレラは8月17日付け書簡に「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」(『耶蘇会士日本通信』)と書き、堺は「東洋のベニス」として当時の世界地図に掲載されるほど有名になった(1978年の大河ドラマ『黄金の日日』第一話冒頭はこの言葉から始まる)。 1562年(45歳)、信長は今川氏の支配から独立した三河の徳川家康と同盟、清洲から小牧(愛知県小牧市)へと本拠をうつし、以後、美濃に侵攻する。 1564年(47歳)、正親町天皇は信長に密使を送り、皇室領回復の要請を行う。同年、三好長慶が42歳で病没。晩年、その実権は家臣の松永久秀に奪われていた。 1565年(48歳)、13代将軍義輝は三好・松永氏による幕府支配で将軍職が形骸化したことに反発。その結果、京都の仮御所で松永久秀、三好三人衆らに襲撃される(永禄の変)。義輝は剣豪塚原卜伝の直弟子であり、自ら薙刀を振るって戦い、さらには刀を抜いて抵抗したが、畳を盾にした敵兵が四方から同時に突きかかり殺害されたと伝わる(享年29)。正親町天皇は政務を3日間停止して弔意を示した。覚慶(義昭)は身の危険を感じて越前の朝倉義景のもとに身をよせ、還俗(げんぞく)して義昭と名のる。 同年、正親町天皇がキリスト教宣教師の京都追放を命じる綸旨を発給、信長はこれを無視したが、フロイスやガスパル・ヴィレラは堺に逃れた。ヴィレラはのちに高山右近らに洗礼を授け、1570年インドに渡り2年後に病没している。 1566年(49歳)、家康(24歳)が朝廷から従五位下・三河守に叙任され、この頃に松平から「徳川」に改姓。信長は上野介を自称していただけであり、家康の任官に刺激を受ける。 1567年(50歳)、信長は美濃の稲葉山城を奪って斎藤氏を滅ぼし、ただちに尾張小牧から稲葉山城に本拠を移すと、城下の井ノ口を岐阜と改称、天下統一への道を歩み始める。この頃から「天下布武(ふぶ)」という印章を使い始め、この印文と岐阜という地名の採用は、信長の天下統一の意志をあらわしたものとされている(この「天下」の意味は全国ではなく五畿内とも)。 12月9日、正親町天皇は信長に綸旨を発して「この度の諸国平定、誠に武勇のほまれ高く、古今無双の名将である。今後ますます勝利を重ねて活躍されたい」と褒めつつ、御料所(皇室の土地)の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めた。文末は「織田尾張守殿」となっており、これまで信長が勝手に自称していた尾張守が公認されている。正親町帝は、あの尊皇家・信秀の子であり、若く武勇を持つ信長に都や御所の警護を期待した。 ★1568年(51歳)、信長は一乗谷の朝倉氏のもとにいた足利義昭を美濃に招くと、正親町天皇を保護するという大義名分により義昭を奉じて5万の大軍で京都にのぼる。正親町帝は織田軍が都で狼藉しないよう、入京前の信長に「事前に兵の乱暴をいさめたうえ、内裏の警護を行うべし」と綸旨を発給した。信長は六角軍と三好軍を蹴散らして上洛する。 これより前、3月10日に故義輝の従兄弟(義澄の孫/義冬の子)で30歳の足利義栄(よしひで/1538-1568)が、松永久秀と対立する三好勢に擁立されて阿波より摂津(大阪)に入り、第14代将軍に就任。3年ぶりの将軍職となったが、病により入京せず摂津に留まっていた。7カ月後に信長が義昭を奉じて入洛すると摂津で対決しようとしたが、腫物が悪化して病没した。これを受けて、11月7日(旧暦10月18日)に信長は足利義昭を15代将軍に就かせて室町幕府を再興した。 信長は逼迫していた朝廷の財政を支え、御料地(ごりょうち、皇室所有の土地)や途絶えていた朝儀(皇室儀式)を回復させ、懸案の御所の修理などを行った。信長が費用を負担することで、延び延びになっていた正親町帝の第一皇子・誠仁(さねひと/1552−1586)が親王宣下を受け16歳で元服できた。一方で信長は天皇の権威を利用して天下統一を推進し、敵対勢力に対する度重なる講和を実現させていく。のちの朝倉義景・浅井長政との講和、足利義昭との講和、石山本願寺との講和は天皇の勅命によった。 天皇側は信長の武力・政治力・財力を利用して朝廷の建て直しを図り、信長出陣の際に戦勝祈願を行い、信長側は統一戦争が正当な戦いであることを朝廷に担保してもらった。信長は伊勢を制圧すると、2男の信雄(のぶかつ)を伊勢の北畠氏に、3男の信孝を神戸氏(かんべし)にそれぞれ養子として入れた。 一方、義昭との関係は悪化した。信長は義昭からの「副将軍に就任してほしい」という要請を断り、朝廷と幕府の権威を微妙に操って実権を握ったため、不満を抱いた義昭は、武田信玄、朝倉義景、浅井長政、毛利氏、三好一党などの諸大名や、比叡山延暦寺、石山本願寺などの宗教勢力と手をむすび、反信長派による信長包囲網づくりを進める。これに対抗して信長は徳川家康を協力させた。 1569年(52歳)、信長の神仏軽視が明確になる。信長は寺社から石仏などを徴発して義昭の居所「二条新第」の石垣の材料とし、困惑した寺社が天皇に愁訴(しゅうそ、哀願)した。同年は宣教師らを都から追放する綸旨が帝から出されたが、信長は相談に訪れた宣教師フロイスに「内裏や将軍は気にするな。好きなところに住めばいい」と帝の意向を無視した。ヴァリヤーノ神父らが信長に帝との面会を希望すると、「会う必要がない。私が天皇であり内裏(御所)だ」と言いのけたとも伝わる。とはいえ、完全にないがしろにしたわけではなく、帝から信長に「没収した延暦寺領を返却せよ」と綸旨が出されると、その実行を誓約している。 ★1570年(53歳)、5月末に朝倉氏を攻めた「金ケ崎の戦」で、信長は妹婿・浅井長政に裏切られて背後をつかれ、命からがら戦場を離脱した(金ケ崎の退き口)。7月30日(旧暦6月28日)、信長は近江で浅井長政、朝倉義景両軍に再度決戦を挑み、「姉川の戦」でこれを破った。正親町天皇は朝倉攻めに出征する信長のために、天皇自ら異例となる戦勝祈願を行ったという。同年秋、信長が三好三人衆攻撃のため摂津に進駐したところ、突如として浄土真宗の拠点、石山本願寺が挙兵、これに浅井・朝倉・六角氏が呼応し信長の背後を脅かした。帝は中立的立場を捨て、信長の苦境を救うべく、本願寺に対して「早々に武器を収め、軍事行動をやめるよう」と叱責する勅書を自発的に書きあげる(ただし戦局の悪化で届けられず)。信長と石山本願寺の11年にわたる戦いが始まった。 信長は正親町天皇に浅井・朝倉へ講和を命ずるよう依頼し、帝の勅命による和睦「江濃越(近江・美濃・越前)一和(こうじょうえついちわ)」が成立、正親町帝は信長の窮地を救った。調停者としての天皇、「天皇の平和」がここに現れた。 この年、フランシスコ・ザビエルの後任、布教責任者コスメ・デ・トーレスは日本の権力構造を以下のように報告した。「日本の世俗国家は、ふたつの権威、すなわちふたりの貴人首長によって分かたれている。ひとりは栄誉の授与にあたり、他は権威・行政・司法に関与する。どちらの貴人も〈みやこ〉に住んでいる。栄誉に関わる貴人は〈おう〉と呼ばれ、その職は世襲である。民びとは彼を偶像のひとつとしてあがめ、崇拝の対象としている。」 1571年(54歳)、信長は浅井、朝倉両氏に味方した延暦寺を焼き討ちした。退去勧告を無視して叡山にいた男女3000〜4000人を皆殺しにしたという。同年、毛利元就(1497-1571)が74歳で他界。 1572年(55歳)、将軍義昭は政治の実権を信長が握っていることに不満を抱き、上杉謙信・武田信玄・朝倉義景・浅井長政らの戦国大名や延暦寺・石山本願寺らの宗教勢力と結んで信長打倒を目指す。本願寺の法王は武田信玄に信長の背後を衝くよう何度も上洛を促した。そして11月8日(旧暦10月3日)、信玄が上洛の軍をおこして家康の領国へ侵攻、遠江(とおとうみ)三方原(みかたがはら)の戦で織田・徳川連合軍は完敗した。畿内では将軍義昭、松永久秀らが信長に歯向かい、信長は再び重大な危機を迎える。信長は2度にわたって義昭に講和を求めたが聞き入られなかった。正親町天皇は信長のために再び和平工作を開始、勅命によって義昭に講和を命じ、信長はまたも帝によってピンチを脱した。信長が岐阜へ撤退した4日後、信玄は病没。武田軍は引き返し、信長と家康は大きな危機をしのいだ。 1573年(56歳)、信長は宇治の槙島(まきしま)城に兵をあげた義昭を京都から追放して、事実上室町幕府を滅亡させた後、越前一乗谷まで進んで朝倉氏を滅ぼし、その足で近江の小谷(おだに)城を落として浅井氏も滅ぼす。信長は新時代の到来をアピールすべく朝廷に改元を要請し、朝廷があげた元号候補の中から「天正」を選んだ。義昭は毛利氏のもとに身をよせた。 ★この年の暮れに正親町天皇は信長から皇子・誠仁(さねひと)親王(当時21歳)への譲位を要求された。これは「正親町帝を疎(うと)んじだ信長が、利用しやすい皇子を即位させようとした」という説、「譲位を望んでいた帝の意を汲んで信長が提案した」という両方の説がある。正親町帝は譲位を了承したが、信長が多忙になり実現しなかった。2年後(1575)、信長は正親町天皇が譲位後に居住する仙洞御所の予定地を探している。 1574年(57歳)、それまで守護で参議になった者はいなかったが、信長は一挙に従三位・参議に昇進し、諸大名から抜きん出る身分となった。同年、信長は東大寺正倉院に収蔵されている天下第一の香木、蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りを朝廷に求めた。かつて8代将軍足利義政が切り取っており、これは信長が自身を将軍に見立てる対外パフォーマンスであった。信長は切り取った蘭奢待を一つは自分のもとに、もう一つは朝廷(正親町天皇)に渡した。正親町帝は切り取りを不快に感じ、信長に当てつけるように、蘭奢待を信長のライバルの毛利輝元に下賜した。輝元は厳島神社に宝物として収めた。 1575年(58歳)5月21日、「長篠の戦」が行われる。織田・徳川連合軍は三河長篠の河岸に馬防柵をもうけ、3000挺(ちょう)の鉄砲隊を並べた。武田勝頼(信玄の子)が率いる武田軍は、川と馬防柵のために得意な騎馬戦を封じられ、鉄砲隊の一斉射撃を浴びて敗北した。信長は東からの最大の脅威だった武田氏を封じこめることに成功する。 同年、奈良春日大社の神鹿を京都に拉致するデモンストレーションを行い、民衆の前で奈良の宗教勢力の権威を否定してみせた。 1576年(59歳)、正親町帝は興福寺別当の人事を巡り信長と対立。朝廷側の2人の伝奏(でんそう/連絡係)が蟄居となった。 同年から信長は天下統一の拠点とするため、京都と北陸、美濃とを結ぶ水陸の要衝の地、安土に築城を開始。織田家の家督と岐阜城を長男の信忠にゆずると、当地へ移った。安土城は琵琶湖畔にある半島状に突き出た安土山に築かれ、高さ約100mほどの山頂の壮麗な天主閣がはるか遠くからも見えたという。 1577年(60歳)、信長は生前の極官となる正二位・右大臣に昇進した。右大臣の任官は武家では1218年の源実朝以来約360年ぶりであり、これより上位の官職に任官した武家では太政大臣の平清盛と足利義満、左大臣の足利義教と足利義政のみだった。 この年から信長は秀吉を中国攻めにむかわせ、毛利氏領国への侵入を開始している。 ※正親町帝にとって毛利は即位式(1560)の費用を出してもらった恩ある大名であり、複雑な気持ちであっただろう ※信長は北国方面に柴田勝家、丹波・丹後方面に明智光秀、関東方面に滝川一益(かずます)、中国方面に羽柴秀吉、対本願寺戦に佐久間信盛を総司令官として派遣。 同年、信長は安土の城下町に13カ条の楽市令を出し、商業活動の自由や保護をおこなう。他に関所の廃止、集権的な封建体制を築くための検地、刀狩、家臣団の城下集住、政教分離など、新しい政策を次々と実行した。ただし、検地は指出検地(さしだしけんち)どまりであり、刀狩も一部地域でおこなわれたにすぎず、その政策の多くは豊臣政権にうけつがれ、秀吉によって完成された。 1578年(61歳)、信長にとって信玄亡き後の最大の脅威だった上杉謙信が、大軍を率いて上洛する直前に48歳で急死する。同年、信長は朝廷のすべての官職を辞退。朝廷に取り込まれることを嫌い、一定の距離を保とうとした(ただし従二位は最後まで保持)。 1579年(62歳)、信長は誠仁親王を猶子(ゆうし、養子)とし、親王は信長が献上した「二条新御所」に入った。新御所は正親町帝が居住する「上御所」に対して「下御所」と呼ばれ、さながら「副朝廷」の様相を呈す。興福寺僧侶の日誌では誠仁親王を「今上皇帝」と呼び、事実上の天皇(共同統治者)と見なしている。 1580年(63歳)、11年続いていた石山戦争は、正親町天皇の勅命による講和というかたちで本願寺が実質的に降伏し、顕如(けんにょ)は石山から紀伊国に退去して終わった。本願寺側が提出した和議の起請文には、あくまでも天皇の勅命で和睦するのであって、信長に降伏するとは一言も記していない。帝が本願寺の面目を保ったお陰で講和が成った。石山本願寺の屈伏により、信長の畿内平定は完成した。 ※石山本願寺…現在の大阪城本丸跡付近にあった浄土真宗の寺。信長に最も頑強に抵抗した。1496年に本願寺第8代蓮如が建立した石山道場(石山御坊)に始まる。1532年、六角氏と法華宗徒の攻撃で山科本願寺が焼滅したため、10代証如がここに移住して本寺とした。以後、寺域と寺内町を拡大、堀や塀などの防備施設も強化して摂津一の堅城といわれるほどになった。1570年、11代顕如は信長に明け渡しを求められて拒否し諸国の門徒を結集、反信長の戦国大名らと手を結び抵抗した(石山戦争)。信長は本願寺を孤立させるため、伊勢長島、越前などの一向一揆を数万単位で子どもまで皆殺しにし、信長から離反した別所長治や荒木村重ら武将を次々に討伐した。本願寺に味方する毛利水軍との木津川河口の戦では、前代未聞の巨大鉄甲船を建造して大阪湾の制海権を握った。 1581年(64歳)、4月1日(旧暦2月28日)信長は京都御所の目の前で織田政権の偉容をしめす一大イベント、大規模軍事パレードである馬揃(うまぞろ)えを行う。従来は「帝に譲位を迫るための圧力」と見られていたが、派手な衣装の馬揃えを見物した貴族・民衆は大喜びで、信長に「またやってほしい」と要望し、翌年に規模を縮小し、衣装を黒に統一して再現しており、お祭りに近いものだったようだ。 馬揃えの翌月、3年前から無官のままでいる信長に、正親町帝は左大臣の任官を提示したが、信長は逆に誠仁親王(29歳)への譲位を打診し、「譲位の後に左大臣に就きます」と返答した。 ※1573年暮れに続く再びの譲位問題である。戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったため。戦乱のあおりで皇室財政が悪化するまで譲位は何度も行われてきた。譲位にともなう一連の儀式には莫大な費用がかかり、朝廷が自力で挙行することは不可能。また、退位後の住居の問題もあった。朝廷に仕える女官の日誌『お湯殿の上の日記』によると、馬揃え直後の旧暦3月24日に譲位がいったん朝議で決定されて、この事を「めでたいめでたい」と記す。ところが1週間後に一転中止になっている(『兼見卿記』)。退位後に上皇が生活するための住居=仙洞御所がなかった(後年、秀吉は帝の譲位に先立って仙洞御所を造営している)。譲位に関する諸儀式や仙洞御所の造営にかかる経費を捻出できる唯一の権力者は信長。信長は目前に迫った天下統一が果たせてから仙洞御所を造営するつもりだったのかもしれない。もし信長が意図的に譲位を先延ばしたのなら、前年の石山戦争の和平調停のように正親町帝が持つ高い政治力がいつ必要となるか分からない、そう予測したからだろう。 ※「(1573年)旧暦3月9日に天皇から退位の意向が信長に伝えられた」「(1573年)旧暦3月19日、正親町天皇は御所で会議を召集、譲位の要請を断ることで一致した」とする資料もあり、僕は大混乱。譲位したいの?したくないの?訳が分からない…。 1582年(65歳)、3月武田勝頼配下の穴山梅雪らが信長側に寝返ったのをチャンスとして、信長と家康は一気に武田領国へ侵攻、甲斐天目山(てんもくざん)の田野(山梨県甲州)で勝頼を滅ぼした。これによって、信長は領土を信濃、甲斐、駿河から関東の上野(こうずけ)西部にまで広げ、ほぼ本州の中央部を征服した。武田征討後、正親町天皇は、信長に太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任命することを申し出て、最終的に将軍宣下を打診。信長は返答を保留した(この朝廷の申し出は、信長が強要したものとする説もある)。 5月、3男の神戸信孝に四国遠征を命令。また、信長は武田撃破の祝賀で家康と穴山梅雪を招き、安土城や堺などの見物、安土城での能の上演などで2人を接待した。信長は秀吉にまかせていた備中での毛利氏との戦いに決着をつけるため、明智光秀に中国出陣を命じる。 6月、四国遠征軍は大阪湾岸の諸港に集結。一方、信長は毛利征伐に向かうため、京都の本能寺に宿泊した。6月21日(旧暦6月2日)未明、信長は家臣の明智光秀に宿所本能寺を奇襲され、覇業半ばで自刃する(享年47、誕生日の直前)。同時に長男の信忠も二条御所で敗死し、織田政権は滅び去った。正親町天皇は光秀に勅使を送って京の安全を求めた。変を知った秀吉(1537−1598/当時45歳)は、すぐさま毛利氏と講和すると、急ぎ帰途につき山崎の戦で光秀を討った。続いて7月16日の清洲会議で信長の長男信忠の遺児である三法師(秀信)を織田家の跡目とし、秀吉が三法師の後見人となった。 1583年(66歳)、秀吉は信長死後の主導権をめぐって柴田勝家や信長3男の信孝と対立、「賤ヶ岳の戦」に勝利し、越前北庄(きたのしょう)に勝家を滅ぼした。同時に、信孝を自害させ、滝川一益を退けて、信長の後継者の立場を確立。同年、石山本願寺の跡地に大坂城を築いて本拠とした。 1584年(67歳)、秀吉は信長次男の織田信雄(のぶかつ)・徳川家康の連合軍と尾張の小牧・長久手に戦ったが、長期戦となっても決定的な勝利を得ず、まず信雄と和睦し、ついで自分の異父妹の朝日(旭)姫を家康の夫人として和睦した。 秀吉は「小牧・長久手の戦」まで朝廷にあまり関心がなかったが、武力で家康を負かすことができなかったため、天下人としての名目を必要とし、にわかに官位の上昇に必死となった。秀吉は朝廷に御料地や黄金を献上し、正親町帝を政権の後ろ楯とした。同年、秀吉は従三位権大納言(じゅさんみごんのだいなごん)に叙任されて公卿に列する。 1585年(68歳)、秀吉は正二位内大臣にあがり、前関白の近衛前久(さきひさ)の猶子となり、同年7月に正親町上皇の勅許を得て、48歳でついに朝廷最高の官職・関白になった。以後、天皇の名において天下統一を進める方法をとる。同年、秀吉は四国の長宗我部元親を下す。 1586年(69歳)、秀吉は正親町帝が譲位後に暮らす仙洞御所の建設に着手したが、新帝となるはずの誠仁親王が9月7日に34歳で急逝してしまう。正親町天皇は悲しみのあまり、しばらく食事も喉を通らなかったという。そのため、誠仁の遺児・和仁(かずひと)親王(1571-1617)が第107代・後陽成天皇として皇位を譲られた。かつて後花園天皇が1464年に後土御門天皇に譲位して以来、実に120年ぶりの譲位となった。 秀吉は信長以来の懸案だった正親町天皇の譲位と、後陽成天皇の即位を実現し、太政大臣に任じられ、天皇から豊臣姓を与えられた。秀吉は近衛前久の娘・前子を養女にして後陽成天皇の女御(にょうご:皇后にあたる)とし、天皇の外戚という身分をつくった。 同年、家康が上洛して秀吉に臣下の礼をとったが、秀吉はこれを実現させるために生母の大政所(おおまんどころ)まで人質として家康のもとに送っている。 1587年(70歳)、秀吉は千利休らの演出による北野大茶湯を開催して、太平の世をもたらす関白政権を宣伝。また、京都内野に聚楽第を新築し、後陽成天皇を迎えて家康ら諸大名に忠誠を誓わせ政権の基盤をかためた。聚楽第は周囲に濠塁をめぐらした城郭風の大邸宅で、聚楽城ともいわれた(8年後に破却)。 同年、秀吉は関白政権という名目を前面に出して九州平定を行う。九州諸大名に対し、「領土争いは関白秀吉の裁定にまかせ、大名間の戦争を私戦として禁止する」と命令、これを無視して北九州の制圧を進める島津氏を、公の軍隊で征伐するというかたちをとった。秀吉は博多と長崎を直轄にし、伴天連追放令をだして海外貿易の統制と独占をはかる。 1588年(71歳)、刀狩令と海賊禁止令を出す。足利義昭が秀吉の保護をうけて京都にかえり出家、のち1万石を与えられる。 1589年(72歳)、秀吉の側室淀君が鶴松を生む。 1590年(73歳)、惣無事令(そうぶじれい)に違反して私戦を続けた関東の後北条氏を滅ぼす。この小田原攻めに東北の伊達政宗なども服属したため、ここに天下統一は完成した。秀吉は石高制による全国同一の基準による検地(太閤検地)や、刀狩をおこなって兵農分離をすすめ、武士や百姓、商人、職人の身分の固定化をはかるなど、信長の事業をさらに徹底させた。秀吉は先の九州征討も、この小田原征伐も、「勅定」「勅令」による誅伐であると強調した。 1591年(74歳)、鶴松がわずか3歳で夭折し、秀吉は関白を甥で養子の秀次にゆずり、自ら太閤(たいこう:関白をゆずった者)と称する。同年、秀吉は身分統制令を出して、侍身分の者が農民や商人になること、農民が商人や職人になることを禁じた。 1592年(75歳)、秀吉の暴走が始まる。5月秀吉はかねて構想していた明への侵略をはかって朝鮮半島に出兵した(文禄の役)。日本軍が漢城(現ソウル)を陥落させた直後、秀吉は明・朝鮮・日本の「三国処置構想」を発する。その計画では、2年後に明を征服した暁には北京へ遷都し、後陽成天皇も当地に移し、自身は大陸の港湾都市・寧波(ニンポー)に移って広大な“豊臣帝国”を統べる計画であった。その後の「日本帝位の儀」をはじめとした朝廷人事についても構想していたとされる。 この出兵のために秀吉は、北九州に前線基地となる名護屋城(5層の天守閣)を築いたほか、全国の石高と家数、人数などの調査をおこなっている。 同年夏に秀吉自身も朝鮮へ渡海しようとしたが、秀吉の生母が他界しいったん京都に帰還。葬儀後に九州へ戻ろうとしたところ、後陽成天皇が「渡海は波高く危険」と秀吉を諭して思いとどまらせる。これは正親町上皇の意志とみられる。 1593年2月6日、正親町上皇が75歳で崩御。乱世を生きた帝は歌集『正親町院御百首』の中で次の句を詠んでいる。 「憂世(うきよ)とて 誰れをかこたむ 我れさへや 心の儘に あらぬ身なれば(戦乱の世を誰のせいにできようか。帝である私さえ心のままに動けないのだから)」 一方、秀吉は朝鮮の戦局が思うように開けず、8月に明との間に休戦条約が成立する。直後に淀君が第2子(のちの秀頼)を出産、秀吉には関白秀次の存在が邪魔になった。 1595年、秀吉は天皇に無断で関白の秀次を辞めさせ、さらに謀反の疑いをかけて自刃に追い込み、その妻妾や子供を皆殺しにした。この直後、大名、寺社、公家を統制する法令が発布され、大名が勝手に盟約を結ぶことなどが禁止された。この法令は、徳川家康・毛利輝元ら有力大名の連署で出され、政権の組織化は秀吉の死の直前に五大老・五奉行制として完成した。尊皇家であったはずの秀吉が、大臣を全て武家で独占するなど、天皇より上に立つかのような振る舞いをみせていく。 1597年、朝鮮との講和交渉が決裂し、秀吉は再び朝鮮に出兵する(慶長の役)。同年、足利義昭が59歳で他界。 1598年春、朝鮮ではまだ10万以上の将兵が苦戦中だったが、秀吉は京都の醍醐寺三宝院で豪華絢爛な花見の宴を開催。その後、心身ともに衰えがはげしく、同年8月、幼少の秀頼の将来を心配しながら伏見城で没した(享年61)。辞世は「露と落ち露と消へにしわが身かな、難波(なには)の事も夢のまた夢」。臨終に際し、秀吉は「新八幡(はちまん)」という神として祀られることを望んだが、「八幡大菩薩」は武神である第15代応神天皇の神号である。秀吉逝去後、後陽成天皇は皇室の祖先である八幡神の名を認めず、「豊国(ほうこく)大明神」の神号をおくり、京都の豊国(とよくに)社に祀った。秀吉の死で朝鮮への派遣軍は帰還する。長びく朝鮮半島での戦争は、諸大名の間に深刻な対立を引き起こした。 1600年、関ヶ原にて天下分け目の合戦。 1603年、徳川幕府が成立。 1615年、大阪の陣で豊臣滅亡。 1616年、徳川家康が他界(享年73)。 〔墓巡礼〕 戦国の乱世を生き抜き、皇家の権威を維持した正親町天皇。その在位は約30年。天下人を前に政治面ではほぼ無力でも、文化の頂点として意識された。かつて足利義満は外国に向かって自身を「国王」と称したが、正親町天皇が天皇家の権威を高めることに成功したため、家康は外国に王と名乗れなかった。陵墓は京都市伏見区の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。京都市東山区の泉涌寺で火葬され、遺骨は深草十二帝陵とされる法華堂に納められた。方形堂。十二帝陵には正親町天皇の子の後陽成天皇も葬られている。 |
安土桃山時代中期〜江戸時代初期の天皇であり、秀吉の天下統一、関ヶ原の戦い、家康の江戸幕府開設、大阪城炎上による豊臣家の滅亡という時代を見届けた。秀吉との関係は比較的よかったが、家康には朝儀にまで干渉をうけた。火葬となった最後の天皇でもある。
在位は15歳から40歳までの25年間で、天正14年11月7日(1586年12月17日)-慶長16年3月27日(1611年5月9日)。 1571年12月31日、正親町 (おおぎまち) 天皇の第1皇子・誠仁 (さねひと) 親王の第1皇子として生まれ、正親町帝の孫にあたる。母は藤原晴子(新上東門院)。名は和仁(たかひと)、のち周仁 (かたひと) 。 1582年、11歳のときに「本能寺の変」が勃発、信長が光秀に討たれる。その後、後継となった秀吉は成り上がり政権の後ろ盾とするべく朝廷を援助、応仁の乱以降に乱れた皇室式典の整備や御料(皇室の領地)の献上などが行なわれた。 1586年(15歳)、秀吉は正親町天皇が譲位して上皇となるため「院御所」の建設に着手したが、聡明な人物として知られた誠仁親王は譲位を待たず9月7日に34歳で急逝してしまう。そのため、誠仁の15歳の遺児・和仁(かずひと)親王(1571-1617)が第107代・後陽成天皇として皇位を譲られた。正親町天皇は在位 29年2ヵ月を経て上皇となる。 秀吉は政権の権威を高めるために天皇を尊重し、信長以来の懸案だった正親町天皇の譲位と、後陽成天皇の即位を実現。太政大臣に任じられ、天皇から豊臣姓を与えられた。秀吉は近衛前久の娘・前子を養女にして後陽成天皇の女御(にょうご:皇后にあたる)とし、天皇の外戚という身分をつくった。後陽成帝は天皇の政治的地位の回復に努める。 同年、家康が上洛して秀吉に臣下の礼をとったが、秀吉はこれを実現させるために生母の大政所(おおまんどころ)まで人質として家康のもとに送っている。 1587年(16歳)、秀吉は千利休らの演出による北野大茶湯を開催して、太平の世をもたらす関白政権を宣伝。また、京都内野に濠塁をめぐらした城郭風の大邸宅、聚楽第(じゅらくだい)を新築し、聚楽城ともいわれた(8年後に破却)。 同年、秀吉は関白政権という名目を前面に出して九州を平定する。秀吉は九州諸大名に対し、領土争いは関白秀吉の裁定にまかせ、大名間の戦争を私戦として禁止すると命令、これを無視して北九州の制圧をすすめる島津氏を、公の軍隊で征伐するというかたちをとった。秀吉は博多と長崎を直轄にし、伴天連追放令をだして海外貿易の統制と独占をはかる。 1588年(17歳)、15代将軍・足利義昭が秀吉とともに参内、征夷大将軍職を朝廷に返上し、朝廷は義昭に准三宮の待遇を与えた。これにより、足利尊氏から続いた室町幕府は名実ともに滅亡した。 同年4月、関白豊臣秀吉から奏請をうけて聚楽第に行幸、御所から聚楽第までの警護の武士は6000人に達したという。後陽成天皇は諸大名から忠誠の誓いを受けたが、実際は天皇と並んだ関白に諸大名が忠誠を要求されたものであった。この行幸に際し、秀吉から支度料として地子銀(地税)5500両余(約10億円?)が献納され、ようやく皇室経済が安定する。同年、秀吉が刀狩令と海賊禁止令を出す。 1589年(18歳)、秀吉の側室淀君が鶴松を生む。 1590年(19歳)、秀吉は惣無事令(そうぶじれい)に違反して私戦を続けた関東の後北条氏を滅ぼす。この小田原攻めに東北の伊達政宗なども服属したため、ここに天下統一は完成した。秀吉は石高制による全国同一の基準による検地(太閤検地)や、刀狩をおこなって兵農分離をすすめ、武士や百姓、商人、職人の身分の固定化をはかるなど、信長の事業をさらに徹底させた。秀吉は先の九州征討も、この小田原征伐も、「勅定」「勅令」による誅伐であると強調した。 1591年(20歳)、鶴松がわずか3歳で夭折し、秀吉は関白を甥で養子の秀次にゆずり、自ら太閤(たいこう:関白をゆずった者)と称する。同年、秀吉は身分統制令を出して、侍身分の者が農民や商人になること、農民が商人や職人になることを禁じた。 1592年(21歳)、秀吉の暴走が始まる。5月秀吉はかねて構想していた明への侵略をはかって朝鮮半島に出兵した(文禄の役)。日本軍が開戦一ヶ月で漢城(現ソウル)を陥落させた直後、秀吉は明・朝鮮・日本の「三国処置構想」を発する。計画では、2年後に明を征服して北京へ遷都、後陽成天皇を明の皇帝として北京に移し、第一皇子・良仁親王か後陽成帝の弟・八条宮智仁親王を日本の天皇にし、秀吉自身は大陸の港湾都市・寧波(ニンポー)に移って広大な“豊臣帝国”を統べるとされた。この出兵のために秀吉は、北九州に前線基地となる名護屋城(5層の天守閣)を築いたほか、全国の石高と家数、人数などの調査をおこなっている。 同年夏に秀吉自身も朝鮮へ渡海しようとしたが、秀吉の生母が他界しいったん京都に帰還。葬儀後に九州へ戻ろうとしたところ、後陽成天皇は秀吉宛の自筆の手紙で「朝鮮への渡海は波高く危険でありもってのほか、行くべきでない。日本から派遣軍に指示を出せば十分」と諭し、思いとどまらせる。天皇は秀吉の渡航を中止させることで、「三国処置構想」の実現を阻みたかったのかもしれない。 1593年(22歳)、乱世を生きた祖父・正親町上皇が75歳で崩御。同年、朝鮮の戦局が悪化し、8月に明との間に休戦条約が成立する。直後に淀君が第2子(のちの秀頼)を出産、秀吉には関白秀次の存在が邪魔になった。 1595年(24歳)、秀吉は天皇に無断で関白の秀次を辞めさせ、さらに謀反の疑いをかけて自刃に追い込み、その妻妾や子供を皆殺しにした。この直後、大名、寺社、公家を統制する法令が発布され、大名が勝手に盟約を結ぶことなどが禁止された。この法令は、徳川家康・毛利輝元ら有力大名の連署で出され、政権の組織化は秀吉の死の直前に五大老・五奉行制として完成した。尊皇家であったはずの秀吉が、大臣を全て武家で独占するなど、天皇より上に立つかのような振る舞いをみせていく。 1597年(26歳)、帝は諱(いみな)を和仁から周仁に改名。同年、朝鮮との講和交渉が決裂し、秀吉は再び朝鮮に出兵する(慶長の役)。この年、足利義昭が59歳で他界。 1598年(27歳)春、朝鮮ではまだ10万以上の将兵が苦戦中だったが、秀吉は京都の醍醐寺三宝院で豪華絢爛な花見の宴を開催。その後、秀吉は心身ともに衰え、8月に幼少の秀頼の将来を心配しながら伏見城で没した(享年61)。臨終に際し、秀吉は「新八幡(はちまん)」という神として祀られることを望んだが、「八幡大菩薩」は武神である第15代応神天皇の神号であった。逝去後、後陽成天皇は皇室の祖先である八幡神の名を認めず、「豊国(ほうこく)大明神」の神号をおくり、京都の豊国(とよくに)社に祀った。秀吉の死で朝鮮派遣軍は帰還する。長期にわたった朝鮮半島での戦争は、諸大名の間に深刻な対立を引き起こした。同年秋、後陽成帝は体調の不調が続いたことから最初の譲位を表明し、次の帝は体の弱い第一皇子・良仁親王ではなく、自身の弟(8歳下)である八条宮・智仁親王(1579-1629)へを希望したが、家康は「急ぐことはない」と認めなかった。家康は智仁親王が少年時代に秀吉の猶子(養子)であったことを嫌った。すると後陽成帝は、まだ2歳の第3皇子・政仁(ことひと)親王(のちの後水尾天皇)の名を挙げ、家康は政仁親王に徳川から入内させる野心を抱く。 1600年(29歳)、関ヶ原の合戦の前哨戦「田辺城の戦い」で、“近世歌学の祖”として敬意を集める細川幽斎の命に危険が迫る。古今和歌集は注釈無しで内容を正確に理解することは困難であり、鎌倉時代から解釈が秘伝として師から弟子へ受け継がれてきた。新古今集の撰者であった藤原定家の嫡流である二条家は歌学を家職としており、解釈が秘事として相伝されていたが、室町時代の初期に二条為衡(ためひら)の死で断絶。以降は二条家の教えを受けた者達(二条派)によって、歌道の奥義として解釈が受け継がれ、これは「古今伝授(こきんでんじゅ)」と呼ばれるようになった。二条為世の弟子・頓阿(とんあ)に受け継がれた秘伝は、経賢、尭尋、尭孝、東常縁(とう・つねより)、そして連歌界の第一人者・宗祇(そうぎ/1421-1502)へと伝授された。宗祇は和歌の西行、俳諧の松尾芭蕉とともに連歌を代表する漂泊の歌人。宗祇は三条西実隆(さいじょうにし・さねたか)と肖柏に古今伝授を行い、三条西家に伝えられたものは「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、肖柏の弟子・林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれる。解釈の伝授を受けるということ自体に大きな権威が伴った。 時代は戦国の乱世となり、三条西実隆の孫・三条西実枝(さいじょうにし・さねき/1511-1579)は子どもがまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で弟子の細川幽斎(藤孝/1534-1610)に、一子相伝で伝わる三条西家の古今伝授を伝えた。ところが1600年、関ヶ原合戦の2カ月前に、家康側についた幽斎の居城田辺城(城兵500人)が、西軍1万5千人に包囲された。まもなく落城寸前となったが、当代一流の文化人の幽斎を歌道の師として敬う諸将も多く、攻撃は積極性を欠き包囲が続いた。 後陽成天皇は幽斎が古今伝授を行う前に討死して伝授が絶えることをおそれ、幽斎の弟子でもあった弟の八条宮・智仁親王が2度にわたって講和を働きかけたが、幽斎は討死の覚悟を伝えて籠城戦を続けた。この状況を受け、後陽成天皇は幽斎の弟子である大納言三条西実条、中納言中院通勝、中将烏丸光広の3人を勅使として両軍に派遣し講和を命じた。勅命ということで尊皇家の細川方は開城し、幽斎は敵方の城に送られた(開城は関ヶ原の戦いの2日前であり、1万5千の軍は本戦に間に合わなかった。彼らが戦場にいれば西軍最大の宇喜多隊1万7千に匹敵し、戦局に影響を与えただろう)。その後、幽斎は八条宮・智仁親王、実枝の孫・三条西実条(実枝の子は32歳で没)、公卿で歌人の烏丸光広(のちの家光の歌道指南役)らに伝授を行い、10年後に76歳で没している。のちの1625年、八条宮・智仁親王は甥の後水尾上皇に相伝し、ここにいわゆる御所伝授の道が開かれた(八条宮・智仁親王は造庭の才もあり、別荘として現在の桂離宮を造営、八条宮は後に桂宮と呼ばれた)。 関ヶ原後、家康は天皇と豊臣家の接近を防ぐため、奥平信昌を京都所司代に任じて天皇の動きを監視する。同年暮れ、帝は二度目の譲位の意向を漏らす。 1601年(30歳)、家康は朝廷に1万石の御料所(皇室領)を献じた。 1603年(32歳)、家康を征夷大将軍に任じる。かつて秀吉は朝廷の威光を高めて利用しようとしたが、家康は朝廷から遠い江戸に幕府を開き、朝廷権威の抑制をはかった。家康は天皇を他の大名から隔離して御所の中に封じ込める政策をとった。幕府が朝廷財産を管理し、官位の叙位(じょい)権を持つようになり、朝廷は幕府の指図に従って叙位・任官の文書を書くだけ、改元の大権も事実上幕府に移った。 1607年(36歳)、光源氏や在原業平に例えられるほどの「天下無双」の美男子で知られた、公家の左少弁・猪熊教利(いのくま・のりとし/1583-1609/当時24歳)が、宮中の女官と密通する「猪熊事件」が起きる。猪熊は後陽成天皇の近臣で和琴や歌の芸道に長けており、髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」として流行するほどの人物。かぶいた遊び人で“公家衆・乱行随一”と称された猪熊を、帝は勅勘(天皇からの勘当)とし、京都から追放処分としたが、いつの間にか京へ戻ったという。 1609年(38歳)、再び宮女密通事件が発覚する。これは猪熊が手引きした参議・烏丸光広ら公家7人と女官5人が密通・乱交に及ぶという大スキャンダルだった。事の起こりは、後陽成天皇が寵愛していた典侍(てんじ、高級女官)の広橋局(大納言の娘)に左近衛権少将・花山院忠長が惚れ込み、宮中を出入りする歯科医の兼康頼継(かねやす・よりつぐ)が両者を取り持ったことに始まる。この話を聞いた猪熊は逢い引きの場所を用意、言葉巧みに飛鳥井雅賢をはじめ他の公卿・女官をも誘い出し、様々な場所で乱交を重ねた。 密告を受けた後陽成天皇は激昂、猪熊は九州へ逃亡したが天皇の意を受けた幕府がこれを追跡、召し捕った。近臣や女官の裏切りに深く傷ついた後陽成天皇は、「後のためでもあるので厳罰に処したい」と京都所司代に関係者12人全員の極刑を求めた。 家康は、帝の母・新上東門院が寛大な処置を望んだことや、従来の公家の法には死罪が無いこと、そして全員死罪とした場合の大混乱を懸念した。結果、斬首は首謀者と目された猪熊教利と歯科医の兼康頼継の2名とし、他の公家衆5人と女官は蝦夷・伊豆新島などへ配流するにとどめた。後陽成帝は甘い処分に納得せず、駿府の家康に詰問のための使者を派遣すると同時に、「譲位と政仁親王の元服を同日に行いたい」と意向を示す。そこには、治世が延喜の治(えんぎのち)と讃えられ、天皇親政の手本とされる醍醐天皇にならい、親王の元服と譲位を同じ日に挙行して武家に威光を示さんとする思いがあった。家康はのらりくらりと返答を曖昧にした。 ※ちなみに配流された女官たちは全員が14年後(1623)に勅免されているが、公卿5人のうち3人は流刑地で死没している。花山院忠長は最も遅く27年後に赦された。 1610年(39歳)、春に譲位する予定だったが、直前に家康の五女が他界したため譲位は延期される。帝は怒ったが、儀式の費用を幕府に用意してもらう以上、帝が折れるしかなかった。天皇の権威再興を願う後陽成帝は、改めて譲位と元服の儀式の同時開催を求めて家康に使者を送るが、家康は「どうしても譲位したいなら、朝廷で勝手にやればよろしい。今は政仁(ことひと)親王の元服の儀を先に進めるべきだ」と回答。家康は最後まで「元服が先」と動かず、帝は提案をのむよう周囲に説得されてこれを承服、「ただ泣きに泣き候」と涙に暮れたという。こうして政仁親王の元服の儀が執り行われた。 1611年(40歳)、後陽成天皇と家康は、猪熊事件の処理、そして譲位を通してぶつかり関係が悪化。5月、ついに後陽成天皇は退位し、15歳の政仁親王が第108代・後水尾(ごみずのお)天皇(1596-1680)として即位した。後陽成院は6年後に崩御するまで院政を敷く。後水尾天皇が即位すると家康は孫娘・和子(秀忠と江の五女、4歳/1607-1678)の入内を申し入れた。同年、武家の官位授与が幕府管轄となる。ちなみに後水尾天皇即位の翌日、家康は成長した秀頼と二条城で会見している。 1613年(42歳)、猪熊事件で公家の乱脈ぶりを憂慮した幕府は、公家統制の重要性を悟り、取締るための「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」を制定する。 「公家衆法度」によって、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれたうえ、その運営も摂政・関白が朝議を主宰し、決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得る事によって初めて施行できる体制へと変化。摂家以外の公卿や上皇は朝廷の政策決定過程から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる仕組みを作った。 「勅許紫衣法度」は、高位の僧に与えられる特別の袈裟(けさ)である紫衣(しえ)や上人号について、天皇がみだりに許すことを禁じた法令であり、天皇が勅許する前に幕府の承認を要することにした。以後、幕府の宮中に対する干渉を更に強めることとなり、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となっていく。 1614年(43歳)、春に家康が求めていた孫娘・和子の入内宣旨が出される(ただし、実際の入内は直後の大坂の陣や家康の死去、後陽成院の崩御などが続き6年後まで延期)。 同年12月19日(旧暦11月19日)大坂冬の陣が始まると、後陽成上皇は武家伝奏(朝廷と幕府の連絡係)広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。だが、家康はこれを拒否し、朝廷の介入を許さず、あくまで徳川主導で交渉を進めた。 1615年(44歳)、6月4日(旧暦5月8日)大坂夏の陣で秀頼が没し豊臣氏が滅亡した後、8月7日に江戸幕府が「一国一城令」を諸大名に発令、居城だけをのこし、他の城郭すべての破却を命じた。 同年8月30日(旧暦7月7日)、幕府が大名を統制するために「武家諸法度」を公布。将軍秀忠の名で出されたが、実際は家康が僧・以心崇伝(いしん・すうでん)らに命じて起草させた。13カ条からなり、第1条に文武弓馬の道をたしなむことと規定された。他に法度にそむいた者をかくまうことの禁止、謀反人や殺人者を追放すること、他国者を追放すること、幕府の許可をえない婚姻の禁止などがさだめられた。「一国一城令」と関連して、居城の補修は幕府に報告し、新規の築城は禁止することも明記された。 ※「武家諸法度」は1635年に林羅山の起草で大改訂され、第2条に参勤交代が明記されるなど19カ条にまとめられた。他に道路交通を停滞させてはならないこと、私的な関所設置の禁止、500石積み以上の大船建造の禁止もさだめられた。1663年にはキリシタン禁止と不孝者の処罰が加筆されたが、1683年に全15カ条に整理された。このとき養子の制度がさだめられ、殉死の禁止も明文化された。1710年には新井白石が起草した和文体の17カ条が公布されたが、1717年、8代吉宗は代替わりの公布にあたってこれを廃止し、5代綱吉による1683年版を採用した。1854年、黒船来航という状況から大船建造は届ければ許可されることになった。 ※以心崇伝(いしんすうでん/1569-1633)…江戸前期の臨済宗の僧侶。京都南禅寺で修行を積み、衰退していた南禅寺の復興に尽くす。秀忠に将軍職をゆずり駿府に移った家康に招かれ、当初は外交文書の起草を担当。大坂の陣の一因ともなった方広寺鐘銘問題にかかわり、公家諸法度、武家諸法度も起草。家康死後の神祠で吉田神道を支持し、山王神道を主張した天海にやぶれたが、晩年に朝廷から国師号を与えられた。紫衣事件では幕府に抗議した沢庵らの厳罰を主張して世の悪評を一身にあび、後世に黒衣の宰相(こくえのさいしょう)と呼ばれ、策謀家としてのイメージが定着した。 武家諸法度の公布から10日後、9月9日(旧暦7月17日)に幕府は以心崇伝の起草で(聖徳太子の十七条憲法にならい)17条からなる『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』を公布し、史上初めて天皇が法律に記された。これまで天皇は法を超越した存在であったが、幕府は天皇を法の中に位置づけ国政を統制した。1条で天皇の務めは諸芸能にあり、なかでも学問が第一であるとした。天皇は御所という閉ざされた空間に押し込められ、「学問をしたり和歌を詠んだりすることだけが天皇の仕事」と規定された。天皇として励むことの第一は「御学問」とし、政治上の権限を取り去り「籠の鳥」とした。家康は幕府の権力を安定させるために天皇の権限を制限してきたが、その仕上げとなった。 『禁中並公家諸法度』(要約) 第一条「天皇が修めるべきものの第一は学問である」 第二条「三公(太政大臣・左大臣・右大臣)は親王(皇子)より格上」 第三条「親王は辞任した三公より格上」 第四条「摂関家出身でも無能な者は三公・摂関になれない。摂関家以外の者の任官は絶対に禁止」 第五条「有能な三公・摂関は高齢を理由に辞任してはならない」 第六条「母方の養子縁組は禁止」 第七条「武家の官位と公家の官位は別」 第八条「改元は中国の年号から良いものを選べ。選者熟練なれば日本の先例を優先」 第九条「天皇の礼服は大袖、小袖、裳、御紋十二章」 第十条「公家の昇進は家の掟を守れ」 第十一条「関白や奉行の命令に従わない公家は流罪」 第十二条「刑罰の重さは先例に従え」 第十三条「摂関家の門跡(住職、寺格)は親王門跡よりも格下」 第十四条「僧正(僧官)、住職の任命は先例に従え」 第十五条「僧都(住職の補佐)の任命も先例に従え」 第十六条「紫衣(しえ、最高位の僧服)を許される住職は以前は少なかったのに最近は乱発しすぎる。もっと能力を慎重に判断せよ」 第十七条「上人(しょうにん)号の授与も熟慮せよ」 第一条の天皇の学問とは、中国唐代の帝王学などの漢籍と和歌の道、天皇家の先例に関する有職(ゆうそく)学など。別の条では太政大臣や左右大臣、親王ほかの席次、摂政や関白の任免、公家の昇進、改元の仕方もさだめている。既に公家で任じられた官位でも、武家でも同じ官位を任命できること、僧の位や勅許紫衣の条件、関白や武家伝奏からの申し渡しに違反した者を流罪とすることについても明記するなど、朝廷の行動を厳しく規制するものだった。 ※(ミニまとめ)当時の天皇の権限は、主に官位や位階、称号の授与、元号の制定であったが、1611年に武家の官位授与が幕府管轄となった。1613年に「公家衆法度」と「勅許紫衣(しえ)法度」をさだめ、公家の行動を幕府がとりしまり、高位の僧に与えられる特別の袈裟である紫衣は、天皇が勅許する前に幕府の承認を要することにした。「禁中並公家諸法度」は、対象が公家だけでなく天皇まで含むようになり、天皇の行動を規制して政治上の権限をすべて取り去った。即位と譲位、古代から天皇の役割であった改元や官位叙任権までが、幕府主導で再編成されていった。 1616年(45歳)、徳川家康が他界(享年73)。 1617年9月25日、後陽成上皇は45歳で崩御。歴代で最後に火葬された天皇となった。 後陽成天皇が生きた時代は、秀吉から家康、秀忠父子の世にあたり、皇室が長い窮乏状態から脱して、尊厳を回復した時期だった。 帝は儒学・国学を好み、『論語』など四書の進講を聞き、細川幽斎に和学を学び、みずから『伊勢物語』『源氏物語』などを宮人に講じた。 また、木製活字をつくらせ、『日本書紀・神代巻(じんだいのまき)』、中世日本の有職故実書『職原抄(しょくげんしょう)』、孔子の言動を記した『古文孝経』などを印刷させ、いわゆる慶長勅版(ちょくはん、天皇の命令で出版された書籍)を刊行させて文芸復興に貢献した。これら禁裏文庫に収められた大量の古典籍は、後水尾天皇に引き継がれた。 詠歌に『後陽成院御製詠五十首』、自著に『源氏物語聞書』『伊勢物語愚案抄』、日記に『慶長六年正月叙位記』などがある。 後陽成天皇は能筆で知られ、書風は祖父・正親町天皇の指導を受けた雄大なもの。特に大字を得意としたため、社寺の勅額(ちょくがく)をよく手がけた。 〔墓巡礼〕 陵墓は京都市伏見区の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。後陽成天皇は泉涌寺(京都市東山区)で火葬され、遺骨は京都深草の法華堂「深草十二帝陵」に納められた。同所に眠る十二人の天皇の中では最後に納骨された人物となる。灰塚が泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)にある。 |
泉涌寺の総門。 泉涌寺は皇室の菩提所 ゆえ「御寺(みてら)」と呼ばれている |
地図から境内の広大さが分かる |
泉涌寺本堂。舎利殿には釈迦の仏牙(ぶつげ、歯) を祀っている。御陵へは本堂の右後方を抜ける |
御陵入口の説明版 | なんと天皇、皇后、皇太后、親王、皇子など皇室関係者が39名!うち、天皇は14名。 |
泉涌寺の境内から御陵へ続く門 | 扉の向こうは皇室の人間しか入ることが出来ない |
こちらは京都市上京区・相国寺の「後水尾天皇髪歯塚」 | こんもりと土が盛られている部分が髪歯塚だろう。天皇の髪や歯の塚って珍しい |
江戸時代前期の天皇。在位は15歳から33歳までの18年間で、慶長16年3月27日(1611年5月9日)-寛永6年11月8日(1629年12月22日)。
1596年6月29日に後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇子として生まれた。母は関白・太政大臣を務めた近衛前久(さきひさ)の娘、中和門院藤原前子(さきこ)。諱は政仁(ことひと)、法名は円浄。 1600年(4歳)、親王宣下。同年、関ヶ原の合戦。 1603年(7歳)、江戸幕府の成立。 1605年(9歳)、家康の三男・徳川秀忠(1579-1632)が26歳で2代将軍に就任。 1609年(13歳)、公家7名と官女5名の密通事件(猪熊事件)が起き、父・後陽成帝の逆鱗に触れる。父帝は関係者12名の極刑を求めたが、家康は2名極刑、10名配流とし、父帝と家康に距離が生まれる。 父・後陽成天皇はもともと弟の八条宮・智仁親王へ譲位を希望していたが、智仁親王はかつて秀吉の猶子(養子)であり豊臣色を持つことを家康が嫌い、また家康は孫娘を政仁親王に入内させたいと願っていたので認められなかった。 1610年(14歳)、政仁親王の元服の儀が執り行われる。後陽成天皇は天皇親政の手本とされる醍醐天皇にならい、親王の元服と譲位を同じ日に挙行して武家に威光を示さんとする思いがあったが、家康は元服の儀を優先するよう求めた。 1611年(15歳)、後陽成帝は猪熊事件に対する幕府の穏健処置への不満、退位と親王元服の日程を巡る家康との確執などから譲位を行い、15歳になっていた政仁親王が第108代後水尾(ごみずのお)天皇として即位した。後水尾帝の在位中は朝廷抑圧政策をすすめる幕府との確執が続いた。後水尾天皇が即位すると家康は孫娘・和子(秀忠と江の五女、4歳/1607-1678)の入内(じゅだい)を申し入れた。 1613年(17歳)、猪熊事件で公家の乱脈ぶりを憂慮した幕府は、公家統制の重要性を悟り、取締るための「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」を制定する。 「公家衆法度」によって、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれたうえ、朝議での決定は幕府の承諾を得る事によって初めて施行できる体制へと変化。摂家以外の公卿や上皇は朝廷の政策決定過程から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる仕組みを作った。 「勅許紫衣法度」は、高位の僧に与えられる特別の袈裟(けさ)である紫衣(しえ)や上人号について、天皇がみだりに許すことを禁じた法令であり、天皇が勅許する前に幕府の承認を要することにした。紫衣の着用や上人号の勅許は、これまで天皇の専権事項であり、収入源でもあった。 1614年(18歳)、4月に和子の入内宣旨が出される。実際の入内は、直後の大坂の陣や2年後の家康死去、後陽成院の崩御などが続いたため6年を要することになる。 1615年(19歳)、大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡する。同年、「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」が制定され、事実上、学問をしたり和歌を詠んだりすることだけが天皇の仕事と規定され、天皇としての政治上の自由を完全に奪われる。朝廷を監視するための京都所司代が設置され、天皇は幕末まで御所の中に軟禁されることとなった。 1616年(20歳)、家康が73歳で他界。秀忠は遺命を守り、家康が定めた諸法度に基づき、一門・譜代を含む39大名を改易するなど、大名・朝廷・寺社の統制を強化、キリシタン禁圧など幕府草創期の基礎を固めた。 1618年(22歳)、翌年の和子入内が内定し、外戚となる徳川氏は女御の御殿造営を開始する。ところが11月21日に後水尾天皇の寵愛する典侍(女官)・四辻与津子が天皇の第一皇子・賀茂宮(1618-1622)を出産。和子の親である2代将軍・秀忠と江は怒り心頭、和子の入内はまたしても延期となる。 1619年(23歳)、7月30日に与津子は新たに後水尾天皇の第1皇女となる文智女王(1619-1697)を出産。この事態に秀忠自らが上洛して参内し、四辻与津子の兄弟を含む天皇の側近の公家6名を「寵妃や子の存在を秘して交渉していた」「監督不行き届き」と配流し、与津子とその子どもを宮中より追放・出家させることなどで合意した(およつ御寮人事件)。後水尾天皇は寵愛する女官と子、近臣を失うことに抵抗、憤慨して退位しようとするが、幕府の使者である伊勢津藩主・藤堂高虎が朝廷に乗り込んで「幕府の言い分を聞けないというのならば、天皇を配流にし、自分は責任をとり御所で切腹する」と天皇を恫喝し、与津子の追放と和子の入内を強要した。 1620年(24歳)、7月17日(旧暦6月18日)後水尾天皇は13歳となった和子(のちの東福門院)を女御にむかえる。この入内にあたり、幕府から天皇に袷(あわせ、冬用の着物)百と銀千枚、中和門院(帝の生母)に袷五十と銀五百枚、近衛信尋と一条昭良(どちらも後水尾天皇の弟)に、それぞれ帷子(かたびら)及び単物二十と銀百枚ずつの献上があった。入内の際も藤堂高虎は志願して露払い役を務め、入内に向かう和子の行列の豪華さに文句をいう者がいると、高虎がすぐさま駆け寄って刀に手をかけたため、相手は黙り込んだという。 秀忠は娘の入内に満足し、前年に処罰した6名の赦免・復職を天皇に命じた。後水尾天皇は秀忠に振り回される。 1622年(26歳)、第一皇子の賀茂宮が4歳で薨去。 1623年(27歳)、秀忠の次男・家光(1604-1651)が将軍宣下のため上洛し、19歳で3代将軍に就任。帝は新たに禁裏御領1万石を寄進され、幕府はアメとムチの政策を行った。家光はのちに参勤交代など諸制度を整備、キリシタンを弾圧して鎖国を断行し、以後二百年余にわたる幕府の支配体制を確立した。数少ない天皇の権利だった元号の決定権も家光の代に将軍へ移った。 1624年(28歳)、1月9日に和子が興子(おきこ)内親王(のちの明正天皇)を出産。 1625年(29歳)1月7日(旧暦前年11月28日)、皇后宣下があり、和子は中宮となる。武家出身の中宮は、1172年の平清盛の娘徳子(建礼門院)以来、実に453年ぶりという異例の冊立(さくりつ)であった。秋に女二宮が誕生。 同年、後陽成天皇の第7皇子・好仁親王が四親王家の一つとなる「有栖川宮」創設。当初の宮号は高松宮で、1667年に後西(ごさい)天皇の皇子幸仁親王が継承し、5年後に有栖川宮と改称。1913年10代威仁(たけひと)親王の死去に より300年余り続いた有栖川家は廃絶し、祭祀を高松宮宣仁親王が継承した。 1626年(30歳)、秋に秀忠・家光が上洛し後水尾天皇の二条城行幸が行われる。そして家光の妹である和子は12月31日(旧暦11月13日)に第二皇子・高仁親王を出産した。親王は徳川将軍家の血を引く天皇としての即位が期待された。 1627年(31歳)、徳川待望の皇子であった高仁親王が1歳半で夭折する。高仁親王は、数え7つに満たない皇族は葬儀を行わないという慣例に従って薨御の翌日には般舟院(上京区、御所の西1.5km)に葬られた。この年生まれた男二宮も誕生直後に没した。 同年、後水尾天皇による禅僧への紫衣(しえ、最高位の僧服)の勅許を江戸幕府が無効とする「紫衣事件」が起きる。紫衣は朝廷より徳をつんだ高僧にあたえられる法衣、袈裟(けさ)のこと。幕府は禁中並公家諸法度などによって、勅許をおこなう前に幕府に届け出るようにさだめ、紫衣勅許を乱発しないことを朝廷および寺院に命じていた。ところが、幕府に無届けで紫衣を与えられる僧が相次ぎ、大徳寺の僧(正隠)への紫衣勅許を機に、幕府は1615年以降の紫衣勅許の無効を宣言する。 1613年に公布された「勅許紫衣法度」は、先述したように高僧に与えられる紫衣や上人号について、天皇が勅許する前に幕府の承認を要することにしたものだが、もともと紫衣の着用や上人号の勅許は、天皇の専権事項であり、収入源でもあった。後水尾天皇は慣例に従って十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えたところ、幕府は法度違反であると無効を宣告した。 紫衣事件は大徳寺の権勢が不満だった南禅寺出身の崇伝の意向を反映してとられた宗教政策とも。大徳寺派から抗議文が提出され、妙心寺派からは詫び状が出され、幕府との間に妥協策が探られた。 1628年(32歳)、和子は2人目の皇子、若宮を出産するが数日で夭折する。 1629年(33歳)、幕府は「紫衣事件」で抵抗を続ける沢庵宗彭(たくあん・そうほう)ら両派(大徳寺、妙心寺)4名の高僧を配流(はいる)にするという重い処分を下す。この「紫衣事件」によって、幕府の法が天皇の勅許の上位にあることを明確にした。同年、さらに家光の乳母・お福(春日局)の拝謁強行事件が起きる。帝に拝謁が許されるのは、官位が従五位下(じゅごいげ)から上の者のみ。春日局のように無位無官で拝謁した者は過去に例がなく、幕府はゴリ押しによってこの非礼の拝謁を実現させた。 …こうして、後水尾天皇は我慢の限界に達した。「禁中並公家諸法度」の強要、京都所司代を通じての幕府からの干渉、天皇の勅許を幕府の法の下に見る「紫衣事件」、春日局の拝謁強行など、天皇の権威を失墜させる幕府の非礼に不満が爆発、帝は幕府への通告を全くしないまま12月22日(旧暦11月8日)に突然皇位を投げ出し、譲位を断行した。2人の皇子は早逝していたため、まだ5歳の皇女、興子内親王が8世紀以来なかった女帝として践祚(せんそ、皇位継承)し、第109代・明正(めいしょう)天皇となった。急な譲位は秀忠や幕臣を驚かせただけでなく、関白でさえ当惑したと記録が残る。 1630年10月17日(旧暦9月12日)、明正天皇の即位礼が挙行される。 女帝への譲位は一代でその血統が絶えるため、徳川の血を引き継ぐ皇子への譲位をもくろむ幕府には手痛い打撃となった。 明正天皇が少女であるため、譲位後の後水尾帝は院政を敷き、以後、自身の子どもたち、明正(後水尾天皇第2皇女)、後光明(ごこうみょう/第4皇子)・後西(ごさい/第8皇子)・霊元(れいげん/第19皇子)という天皇4代、実に52年間の長きにわたって院政を行なった。 1632年(36歳)、秀忠が52歳で他界。 1634年(38歳)、3代新将軍となった和子の兄・家光が上洛し、姪にあたる明正天皇に拝謁し東福門院(和子)の御所も訪れた。当初は院政を認めなかった幕府は、この家光の上洛をきっかけに認めることになる。 1651 年、後水尾上皇は禅宗に傾倒し55歳で剃髪。法名を円浄とする。同年、徳川家光が46歳で他界、家光の長子、徳川家綱(1641-1680)が10歳で第4代将軍に就任する。家綱は保科正之・酒井忠勝・松平信綱らに補佐され、幕府の諸制度を整備した。 1678年(82歳)、和子は72歳で崩御。京都泉涌寺月輪陵域に葬られた。当初は政略結婚で結ばれた2人であったが、長い年月で愛情が育まれ、帝は和子の他界を深く嘆き悲しんだという。 1680年9月11日に後水尾法皇は84歳で崩御。追号は帝の生前の希望により清和天皇の異称・水尾を反映した「後水尾」とされた。墓所は京都市東山区、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)。その3カ月前に4代将軍家綱が38歳で他界している。 京都市上京区の相国寺境内には後水尾法皇の毛髪や歯を納めた「後水尾天皇髪歯塚」が現存する。昭和天皇が87歳で崩御するまで、神話時代を除いた歴代天皇のうちで最長寿であった。記録を抜いた昭和天皇は、「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」と述べた。 後水尾天皇は学問を好み、和歌、漢詩、書道、茶道などに長じ、後に寛永文化といわれる様々な文芸芸術の振興に尽くした。後水尾帝が建物を設計し、洛北にて造営にあたらせた修学院離宮は日本屈指の名園として知られる。 智仁親王(父帝の弟)から古今伝授を受けたほか、『伊勢物語』『源氏物語』などの進講を受け、『伊勢物語御抄』などを著す。宮廷文化、儀復興に強い意欲を示し『当時年中行事』を記す。 帝自身が親王や公卿に『源氏物語』などの古典を講じ、宮廷歌壇の最高指導者として古今伝授を行い、御所伝授による宮廷歌壇を確立。叙景歌にすぐれ、歌集に『鴎巣(おうそう)集』がある。俳名は玉露。 一方、禁中法度を無視して宮中に遊女を招きいれたり、お忍びで遊廓に出かけたことも。譲位後も中宮以外の女性に30余人の子を産ませ、50代半ばで出家した後も、58歳でのちの霊元天皇を産ませている。84歳という長寿も納得のバイタリティーあふれる帝だ。都が京都になって以降の最長寿の天皇で、この記録は昭和天皇まで300年以上破られなかった。 ※のちに「紫衣事件」の4名は赦され、紫衣勅許の制限もゆるめられ、特に沢庵は家光により品川東海寺の開山に招かれるほど重用されたが、事件以降、朝廷に対する幕府の絶対的な優位が確立した。 ※日光東照宮には陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる額が掲げられている。のちに薩摩藩が東照宮焼き討ちを主張した際、板垣退助は彼らを説得する理由の1つとして勅額を挙げたとされる。 ※後水尾天皇の突然の譲位は、灸治も理由であったとする説がある。後水尾帝は鍼灸を希望したが、周囲は玉体(帝の体)に火傷を与えることはタブーとして猛反対するため、退位したという。また本意は幕府の抗議としての退位であり、鍼灸は口実とする説もある。 ※和子は茶道を好み、千利休の孫・千宗旦を御所に招き茶事を行い、野々村仁清に焼かせた長耳付水指が現存。 ※和子は宮中に小袖を着用する習慣を持ち込み、尾形光琳・乾山兄弟の実家である呉服商・雁金屋を取り立てた。 ※日本現存最古の押絵(おしえ)は和子の作成の物と言われる。 ※後光明天皇の崩御直後にその弟の後西天皇の即位を渋る(後西天皇が仙台藩主伊達綱宗の従兄弟であったため)幕府を説得して即位を実現させたのも和子の尽力によるとされる。 ※その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(和子)に対する配慮から後光明・後西・霊元の3天皇の生母(園光子・櫛笥隆子・園国子)に対する女院号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親(園基任・櫛笥隆致・園基音)への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。その一方で、本来は禁中外の存在である「院政」の否定を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には徳川家光の朝廷との協調姿勢[注釈 1]とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の議奏)に対して延宝7年(1679年)に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である。 |
江戸前期の天皇。女帝。3代将軍家光の姪にあたり、徳川将軍家を外戚とした唯一の天皇。在位は5歳から19歳までの14年間で、寛永6年11月8日(1629年12月22日)-寛永20年10月3日(1643年11月14日)。諱は興子(おきこ)。
1624年1月9日、後水尾(ごみずのお)天皇の第2皇女として生まれる。母は将軍徳川秀忠の娘、中宮和子(まさこ、東福門院)。後水尾天皇と徳川和子との間では最初の子であり、幼称は女一宮(おんないちのみや)。女一宮には中宮和子が生んだ3歳下と5歳下の実弟がいたが、2人の皇子はいずれも早世した。 1629年(5歳)、12月13日(旧暦10月29日)内親王宣下を受けて興子内親王の名を与えられる。その9日後、父・後水尾天皇が「紫衣(しえ)事件」や無位無冠の春日局の拝謁ゴリ押しなど、多年にわたる幕府の干渉や圧迫に抗議し、病身を理由に突然譲位した。皇子たちが早世しているため、同年12月22日(旧暦11月8日)、皇女の興子内親王が5歳で践祚(せんそ、皇位継承)、第109代・明正(めいしょう)天皇となった。奈良時代後期770年に崩御した第48代称徳(しょうとく)天皇以来、859年ぶりの女帝誕生である。この急な譲位は秀忠や幕臣を驚かせただけでなく、関白でさえ当惑したと記録が残る。徳川氏の血統が男子の皇統に継承されることを望んだ幕府には意外なことであったが、初めて天皇家の外戚の地位についた。 1630年10月17日(旧暦9月12日)、6歳の明正天皇の即位礼が挙行される。実質的には後水尾院政の始まりである。父院の事績の陰に隠れ、また、法令によって動きががんじがらめに封じられているため、明正天皇の業績や実像は見えない。 1632年(8歳)、2代将軍秀忠が52歳で他界。 1634年(10歳)、母・和子の兄で3代新将軍となった家光が上洛し、姪にあたる明正天皇に拝謁し東福門院(和子)の御所も訪れた。当初は後水尾上皇の院政を認めなかった幕府は、この家光の上洛をきっかけに認めることになる。 1643年(19歳)11月14日、15年の在位を経て、異母弟となる10歳の皇弟、後水尾天皇第4皇子の紹仁(つぐひと)親王=後光明(ごこうみょう)天皇に譲位。明正は太上天皇となって以後54年間を仙洞御所で暮らす。 1651 年(27歳)、父・後水尾上皇が剃髪し法皇となる。同年、徳川家光が46歳で他界、家光の長子、徳川家綱(1641-1680)が10歳で第4代将軍に就任する。家綱は保科正之・酒井忠勝・松平信綱らに補佐され、幕府の諸制度を整備した。 1654年(30歳)、後光明天皇が21歳の若さで崩御。 1655年(31歳)、後水尾天皇第8皇子の良仁(ながひと)親王が第111代 後西(ごさい)天皇として即位。 1663年(39歳)、後水尾天皇第19皇子の識仁(さとひと)親王が第112代 霊元(れいげん)天皇として即位。 1680年(56歳)、父・後水尾法皇が84歳で崩御。その3カ月前に4代将軍家綱が38歳で他界しており、5代将軍綱吉が就任。 1685年(61歳)、後西上皇が47歳で崩御。 1687年(63歳)、朝仁(あさひと)親王が第113代 東山天皇として即位。 1696年12月4日に72歳で他界。古来の不文律を守り、終生独身を通した。京都泉涌寺内の月輪陵に葬られた。 奈良時代の女帝である元明(げんめい)、元正(げんしょう)天皇の諡号の各一字をとり明正院と追号された。 「世を渡る人の上にもかけて見よ いかに心のままの継橋」と詠んだという。幕府の庇護のもと,わがままな一面が目立ったのであろうか。 墓所は京都市東山区今熊野泉山町の月輪陵(つきのわのみささぎ)。 |
江戸時代前期の天皇。先々帝・後水尾天皇の第四皇子。先帝の明正天皇(女帝)は異母姉にあたる。後西天皇、霊元天皇は異母弟。在位は10歳から21歳までの11年間で、寛永20年10月3日(1643年11月14日)-承応3年9月20日(1654年10
月30日)。諱は紹仁(つぐひと)。
1633年4月20日に後水尾(ごみずのお)天皇の第4皇子として生まれた。生母は京極局光子(壬生院)。 1643年、異母姉の明正(めいしょう)天皇から譲位を受け、紹仁親王は10歳で第110代・後光明(ごこうみょう)天皇として即位する。後光明天皇の養母は2代将軍秀忠の五女、先帝・明正天皇の生母でもある東福門院であり、こ れによって、形式的には徳川氏は外戚の地位を保った。まだ少年であり、父の上皇がひきつづき院政をおこなう。 後光明天皇は幼少から聡明で、儒学(朱子学)、詩文を好み、林羅山の師であり故人となっていた“近世儒学の祖”藤原惺窩(せいか/1561-1619)に私淑。民間の朱子学者を招いて聴講するほどであった。 一方、剛毅な性格で剣術など武芸も大いに好み、いささか直情的な性質、言動があった。朝廷が衰退した原因を「和歌と淫乱の書“源氏物語”」と見なしていたという。極端な仏教嫌いで、三種の神器が収められた唐櫃(からびつ)に仏 舎利(釈迦の遺骨)を見つけると、「怪しい仏舎利め」として庭に打ち棄てさせた。 「禁中並公家諸法度」で天皇の務めの第一は学問と定められているにもかかわらず武芸に傾倒する姿勢が「反幕府的」と捉えられ、京都所司代の板倉重宗が「剣術の稽古をやめていただかないと、これが関東に聞こえると拙者が腹を切 ることになります」と諫めると、「朕はいまだ武士の切腹を見たことがないので、南殿(なでん)に壇を築いて切腹してみよ」と返した。 若くして酒を多く飲み、あるとき、自身の大酒を臣下の徳大寺公信(信長の孫)から注意された。帝は逆上し、刀に手をかけ斬り捨てようとすると、公信は「身命は惜しみません」と引かなかった。帝を周囲が制止して場は収まった が、これを大いに反省した帝は、翌朝公信を召して今後は大酒を止める決意を述べ、「昨夜の有様を返す返す恥ずかしく思う」と、剣を手ずから下賜し、公信は涙を抑えていたという。 父・後水尾上皇は、後光明天皇の将来を期待し、短慮を慎むこと、仏神を敬い学問に励むこと、幕府に弱みを握られないよう行動を律することなど3回にわたる訓戒書を与えた。 1646年、廃絶していた伝統行事の復興に熱意を傾け、13歳で伊勢神宮への神宮例幣(れいへい、捧げ物)の儀を再興する政治力を発揮した。 1651年、18歳のときに儒者・藤原惺窩の功績を讃えた民間文集の序文を書く。天皇が庶民の書に序文を賜(たま)うことは、これが最初という。同年、3代将軍家光が46歳で他界し、4代家綱の時代になった。 1654年10月30日、天然痘(痘瘡)により21歳の若さで崩御。翌年、約60日の空位を経て、弟である第8皇子・良仁(ながひと)親王が第111代・後西(ごさい)天皇として即位した。 早逝したため、子女は皇女の孝子内親王のみであり、男子なくて血統は断絶した。だが、崩御の前年から体調を崩し、末弟の高貴宮(後の霊元天皇)を猶子(ゆうし、養子)に迎えており、皇統は高貴宮に受け継がれた。 漢詩にすぐれ、短い生涯に歴代天皇のうち第二位となる98首を遺す。御集『鳳啼(ほうてい)集』に漢詩92首、歌5首が収められている。 反幕府的な姿勢をとっていたため、後年には幕府が派遣した医師に毒を盛られたとする毒殺説が生まれた。 ※父の後水尾院が病に伏した際、見舞いを思い立ったが「行幸には幕府への伺いが必要である」と所司代から横槍が入った。後光明天皇は建物を院御所まで結ぶ高廊下を急造させ、廊下を歩くことに許可は不要と見舞いを決行した。 飛鳥時代に持統天皇が仏教の影響で火葬になって以来、天皇家では1000年近く火葬が主流になっていたが、儒学では火葬を身体毀損と捉えており土葬を理想としていたことから、儒学を重んじ仏教を退けた後光明天皇は、生前に「火葬 は人の道ではない」と語っていた。宮中に出入りしていた魚屋奥八兵衛が「火葬は帝への冒涜であり葬儀は土葬で」と必死に訴え、この思いが届いて土葬が採用された。これ以降、約350年後の昭和天皇崩御まですべて土葬になってい る。ちなみに、後光明天皇は早逝していることから、父であり先々帝の後水尾天皇や先帝・明正天皇が後から崩御している。その際に土葬になっていることから、歴代天皇としては後水尾天皇から土葬が続いていることになる。 墓所は京都市東山区今熊野の泉涌寺、月輪陵(つきのわのみささぎ)で石造九重塔になっている。 |
江戸時代前期の天皇。明正・後光明天皇の異母弟、霊元天皇の異母兄にあたる。在位は17歳から25歳までの8年間で、承応3年11月28日(1655年1月5日)-寛文3年1月26日(1663年3月5日)。諱は良仁(ながひと)。幼称は秀宮。
1638年1月1日に後水尾天皇の第8皇子として生まれる。生母は典侍の逢春門院隆子。養母は中宮・徳川和子。 1647年(9歳)、高松宮初代・好仁親王(叔父)の王女、明子女王を室としていったん高松宮家を継ぐ。高松宮第二代・花町宮を号す。 1648年(10歳)、親王宣下をうける。 1651 年(13歳)、父・後水尾上皇が剃髪し法皇となる。同年、徳川家光が46歳で他界、家光の長子、徳川家綱(1641-1680)が10歳で第4代将軍に就任する。家綱は保科正之・酒井忠勝・松平信綱らに補佐され、幕府の諸制度を整備した。 1653年(15歳)、兄である後光明天皇の名代として江戸に下向し、4代将軍家綱と面会。 1654年(16歳)、7月9日に識仁(さとひと)親王(のちの霊元天皇※後水尾天皇第19皇子)が生まれる。後光明天皇は識仁親王を養子とした。同年11月28日、異母兄の後光明天皇が皇嗣のないまま天然痘により21歳で急逝。 1655年(17歳)1月5日、識仁親王が生後まだ4カ月であり、他の兄弟は全て出家の身であったため、約60日の空位を経て第8皇子の良仁親王が践祚(せんそ、皇位継承)、第111代後西(ごさい)天皇として皇位につく。 1656年(18歳)、即位礼を挙行。後西天皇は18歳になっていたが父・後水尾上皇が院政をおこなった。父の後水尾上皇としては、幼い頃から英邁さが際立っていた識仁親王に皇位を嗣がせたい気持ちが強く、後西天皇の即位は識仁が14〜15歳になるまでの“中継ぎ”という位置づけだった。実際は15歳どころか9歳の識仁へ譲位することになるが…。 1657年(19歳)3月2日、江戸の本郷本妙寺から出火し、翌日にかけて江戸城本丸を含む府内のほぼ六割を焼失、焼死者10万人余を出した江戸最大級の火事「明暦の大火」(振袖火事)が起きる。 1658年(20歳)、伊勢神宮が炎上。これはのちの1830年の火事と並んで、神宮史上、最も凄惨な大火災となる。※万治元年12月なので日付によっては1659年1月かも。 1660年(22歳)、5月(旧暦)に諸国で大洪水、7月25日に大阪城内の火薬庫、焔硝蔵(えんしょうぞう)に落雷があり大爆発。火薬82トン、弾丸43万発があったため、城内29人死亡、約130人負傷、家屋約1500棟が倒壊した。蔵の扉が東方14kmの生駒山まで飛ばされた。同年、名古屋でも「万治(まんじ)の大火」が発生、城下町の大半が焼け落ちる。 1661年(23歳)、2月14日に御所炎上、仙洞御所が焼失する。公卿・近衛基熙(もとひろ)邸を仮御所とする。皇居の火事で大半の御府蔵書が焼失したが、幸い副本は難を免れ東山御文庫蔵書の基となった。 1662年(24歳)、6月に「寛文近江・若狭地震」が畿内、北陸、山陰を襲い、都だけで200人の犠牲者が出た。近世まで天災や疫病は、帝の徳の低さが呼び込むものと考えられており、1655年の後西天皇即位以来、7年の間に明暦の大火、大阪城の火薬庫爆発、御所炎上、伊勢神宮炎上、諸国の地震、風水害が相次ぐなど、あまりにも凶事が相続くため、人々は「これらの天変地異は天皇の不徳にある」と批判するようになる。同年、徳川家綱の使者として吉良若狭守(高家の吉良義冬)が訪れ、帝の養母(東福門院)を通して譲位を迫った。 1663年(25歳)3月5日、後西天皇は9歳に成長した識仁親王に譲位、親王は霊元(れいげん)天皇となる。 1680年(42歳)、父・後水尾法皇が84歳で崩御。その3カ月前に4代将軍家綱が38歳で他界しており、5代将軍綱吉の時代に。 1685年3月26日、47歳で崩御。追号の「後西」は、境遇が似ていた西院帝(淳和天皇の別称)に対するもので、後西院天皇ともいったが1926年に後西に統一された。 後西天皇は性格が豪胆だった先帝・後光明天皇と異なり、性質は穏和。和歌、連歌など文芸に秀で、書、茶、華、香道にも通じた。御集『水日(すいじつ)集』、御選『集外歌仙』、日記『後西院御記』があり、在位中から侍臣に命じて記録類の副本を作成した。 墓所は京都市東山区の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)。形式は石造九重塔。 ※皇后・明子女王の母は将軍秀忠の養女亀姫。 ※従弟に仙台藩主(3代)伊達綱宗がいる。 |
江戸時代前期の天皇。在位は9歳から33歳までの24年間で、寛文3年1月26日(1663年3月5日)-貞享4年3月21日(1687年5月6日)。諱は識仁(さとひと)。幼称は高貴宮(あてのみや)。譲位後に長らく院政を行ない「仙洞様」とも呼ばれる。上皇として出家した「最後の法皇」でもある。 1651 年、徳川家光が他界、家綱が第4代将軍に就任。 1654年7月9日に後水尾天皇の第19皇子として生まれる。母は藤原国子(新広義門院)。生後すぐに兄・後光明天皇の猶子(ゆうし、養子)となり、早くから皇嗣に予定されていた。同年11月、後光明天皇が天然痘により21歳で急逝する。 1658年に4歳で親王宣下をおこなった。 1663年に異母兄・後西天皇の譲位をうけて9歳で即位。父・後水尾上皇が院政をおこなった。 1671年、17歳のときに側近と宮中で花見の宴を開き泥酔する事件を起こす。霊元天皇は性格的に奔放な部分があり、問題行動を諌めた公卿が勅勘などの処分を受ける事例もあった。 1680年(26歳)、父・後水尾法皇が84歳で崩御。法皇が没したことで院政が終わり、初めて直接政務を執った。帝は親政を開始すると、皇室再興を目指したために幕府と距離をとることが多く、親幕派と認められた公卿は徹底的に冷遇された。 同年、4代将軍家綱が38歳で他界しており、家光の四男・綱吉(1646-1709)が家綱の養子となり34歳で将軍職(5代)を継いだ。以後、湯島に聖堂を移築するなど文治主義の政治を展開。堀田正俊を大老に任じ、譜代大名・旗本・代官の綱紀を粛正、天和の治と称される善政を実現した。その後、側用人柳沢吉保を登用、悪貨乱発・生類憐みの令の制定など悪政を重ねた反面、治政下に元禄文化の出現を見た。犬公方(いぬくぼう)とあだ名される。綱吉は朝廷尊重を掲げていたため、朝幕関係は比較的安定していた。 1681年(27歳)、霊元天皇は父法皇の遺命により皇太子に内定していた第一皇子の一宮(後の済深法親王)を強引に出家させ、反対する一宮の外祖父小倉実起を佐渡に流刑にする「小倉事件」を引き起こす。 ※一宮(済深法親王)を宮廷から追い出した表向きの理由は「一宮が灸治(きゅうじ)を受けたことがある」というもの。天皇になる人間の肉体は神聖であり「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」とお灸を禁じられていた。 1682年(28歳)、鷹司房輔が関白を辞職し、本来の順序ならば左大臣の近衛基熙(このえ・もとひろ/1648-1722)を関白に任じるべきところを、基熙が幕府協調路線をとり、また小倉事件に批判的であったため、天皇は慣例を無視し右大臣の一条冬経(1652-1705)を任命するという露骨な人事を強行する。霊元天皇は近習衆による自己を中心とした朝廷再編を目指したため、京都所司代・稲葉正往を驚愕させ、のちに幕府の干渉を招く。近衛基熙は神仏習合を唱える吉田神道を支持、一条冬経は神仏分離を唱える垂加神道を支持し、両者は対立した。 1683年(29歳)、意中の皇位継承者であった朝仁(あさひと)親王(後の東山天皇/1675-1710)の立太子礼が行われ、長く中断していた「皇太子」の称号を復活させた。 1687年(33歳)、霊元天皇は在位24年で12歳の皇太子・朝仁(あさひと)親王=第113代東山天皇に譲位したが、その後も東山・中御門(なかみかど)天皇の2代46年間、仙洞御所から積極的に院政をおこなう。約半世紀もの院政であり、「仙洞様」と呼ばれるようになった。 この年、長く中断していた新天皇(東山天皇)の大嘗祭(だいじょうさい※即位後最初の新穀のお供え)を行う。院政は「禁中並公家諸法度」の対象外であり、幕府の本心は先代の後水尾法皇の院政にも反対だった。だが幼帝が続き、また秀忠の娘である法皇の中宮・東福門院が院政を擁護したため黙認していた。霊元上皇が院政を始めると、幕府は直ちに「認められない」と朝廷に通告したが、上皇は黙殺した。「親幕派」の左大臣・近衛基熙は朝廷と幕府の決裂を防ごうとし、上皇は基熙を激しく嫌った。 1690年(36歳)、関白の一条冬経は、幕府と結んだ左大臣・近衛基熙にその座を追われ、基煕が関白に就任。霊元上皇の権限は制限され再び朝幕協調の時代となる。 1694年(40歳)、東山天皇は19歳となり政治の実権を天皇に移すことを宣言。親政を開始して幕府との関係改善をはかった。幕府は天皇親政を支援して、霊元上皇に強く院政の中止を求め、上皇はこれを受け入れて東山天皇による親政を認めた。 1709年(55歳)、東山天皇は7月27日に慶仁(やすひと)親王へ譲位。親王は第114代中御門(なかみかど)天皇として即位する。同年、将軍綱吉が他界。養子の家宣(1662-1712)が47歳で第6代将軍となり、新井白石・間部詮房(まなべあきふさ)を登用して政治の刷新を志し、正徳の治を行なった。 1710年1月16日、院政を開始していた東山上皇が34歳で急逝。近衛基熈も太政大臣を辞任、霊元上皇の院政が再開される。 1712年(58歳)、6代将軍家宣が在職3年で没する。享年50。霊元上皇は幕府の要請を受け、後継者である家宣の四男・鍋松のために「家継」の名を与えた。家継は3歳で第7代将軍となり、新井白石・間部詮房の補佐によって父の政治を継承した。 1713年(59歳)、霊元上皇は剃髪(ていはつ)して法名を素浄と称した。これ以降、天皇が法皇になった例は無く「最後の法皇」となった。 1716年(62歳)、7代将軍家継がわずか7歳で夭折。霊元法皇は皇女と家継の婚約を実現させたが、家継死去のために挫折した。後継の第8代将軍には、紀州藩主・徳川光貞の4男で、兄の相次ぐ死により紀州藩主となった32歳の吉宗(1684-1751)が、藩財政改革の手腕を認められ抜擢される。吉宗は家康への復古を唱え、武芸・学問・殖産興業を奨励(享保の改革)、幕府中興の祖とされる。米将軍と呼ばれた。 1721年(67歳)、初めて霊元法皇の修学院離宮御幸が行われ、以後春秋遊幸の地とされた。 1732年9月24日に霊元法皇は78歳で崩御。孝霊、孝元2帝の諡字により霊元院と追号された。9歳で即位してから70年の長きにわたって朝廷にあり続けた。 霊元天皇は有職故実(ゆうそくこじつ※古来の礼式)に詳しく、朝廷復旧を目指し、大嘗祭、立太子式の朝儀、賀茂祭、石清水八幡宮の放生会(ほじょうえ、仏教の不殺生の思想に基づいて捕らえられた生類を放つ儀式)など、朝廷にまつわる儀式を次々と再興させ、宮中記録の整備にも意を払った。 後陽成天皇と並ぶ能書家で、諸学に通じ、和歌や漢詩、管弦、絵画などにも非凡な才能を発揮した。ことに歌道にすぐれて詠歌は6千首を超え、側近公家を中心に霊元院歌壇を形成した。兄・後西天皇より古今伝授を受けており、歌道関係の著述は30余種に上り、歌集『桃蘂集』、歌論書『一歩抄』などがある。ほかに『霊元院修学院御幸宸記(しんき)』など。 英明剛毅で学問を好み詩歌に長けた一方、幕府とは距離を置き、親幕派の公卿を排除する大胆な政策を断行した帝であった。 墓所は京都市東山区の泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)。形式は石造九重塔。 ※伏見宮家は男系では室町時代の伏見宮貞成親王の代で現皇族から分離しているが、女系を含めると福子内親王との血縁関係により霊元天皇と敬法門院が最も近い共通祖先となる。 ※その後の流れにも少し触れる。 1735年、中御門天皇が譲位し、第115代桜町天皇(1720-1750)が即位。 1737年、中御門上皇が35歳で崩御。 1745年、吉宗は将軍職を長男・家重(1711-1761)に譲る。34歳で第9代将軍となった家重は、身体虚弱で酒色に溺れたという。また、言語不明瞭で、側用人大岡忠光だけがそれを理解できた。 1747年、桜町天皇が譲位し、第116代桃園天皇(1741-1762)が即位。 1750年、桜町上皇が30歳で崩御。 1751年、徳川吉宗が脳卒中により66歳で他界。 1760年、家重の長男・家治(1737-1786)が23歳で第10代将軍に就任。田沼意次(おきつぐ)を老中に登用し、田沼時代を現出した。田沼は積極的な経済政策を行なったが他方で賄賂が横行してしまう。 1761年、9代徳川家重が49歳で他界。 1762年、桃園天皇が21歳で崩御し、歴代最後の女帝である第117代・後桜町天皇(1740-1813)が即位する。 |
江戸時代中期の天皇。在位は12歳から34歳までの22年間で、貞享4年3月25日(1687年5月6日)-宝永6年6月21日(1709年7月27日)。諱は朝仁(あさひと)。 泉涌寺の山号に因んで「東山」と追号された。大正期の元老西園寺公望は6代目の孫。 |
江戸時代中期の天皇。在位は7歳から33歳までの26年間で、宝永6年6月21日(1709年7月27日)-享保20年3月21日(1735年4月13日)。諱は慶仁(やすひと)。 平安京大内裏の門の一つ、待賢門の別称に因んで「中御門」と追号された。 |
江戸時代中期の天皇。在位は15歳から27歳までの12年間で、享保20年3月21日(1735年4月13日)-延享4年5月2日(1747年6月9日)。諱は昭仁(てるひと)。 |
江戸時代中期の天皇。在位は6歳から21歳までの15年間で、延享4年5月2日(1747年6月9日)-宝暦12年7月12日(1762年8月31日)。諱は遐仁(とおひと)。 |
江戸時代後期の天皇。最後の女帝(10帝8人目)。在位は22歳から31歳までの9年間で、宝暦12年7月27日(1762年9月15日)-明和7年11月24日(1771年1月9日)。諱は智子(としこ)。 |
江戸時代後期の天皇。在位は12歳から21歳までの9年間で、明和7年4月28日(1770年5月23日)-安永8年11月9日(1779年12月16日)。諱は英仁(ひでひと)。 崩御後も在位日が続いているが、これは急逝によるため。崩御が遅れて発表されている。 |
生母「お林の方」の墓。鳥取県倉吉市・大岳院 |
江戸時代後期の天皇。在位は9歳から46歳までの37年間で、安永8年11月25日(1780年1月1日)-文化14年3月22日(1817年5月7日)。諱は兼仁(ともひと)。傍系出身。 中世から絶えていた朝廷の儀式の復興に努め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作った。優れた歌人でもあった。 |
江戸時代後期の天皇。在位は17歳から45歳までの28年間で、文化14年9月21日(1817年10月31日)-弘化3年1月26日(1846年2月21日)。諱は恵仁(あやひと)。 |
個々の石塔は四方を石柵で囲まれているように見える。内部はこんな風になっていたのか! |
幕末の天皇。攘夷に燃えていた。在位は15歳から35歳までの20年間で、弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐慶応2年12月25日(1867年1月30日)。 諱は統仁(おさひと)。岩倉具視らによる暗殺説あり。後月輪東山陵は“のちのつきのわのひがしのみささぎ”と読む。 |
この大階段を昇っていくと |
巨大な鳥居がドーン! 背後の山には… |
腰を抜かすほど巨大な陵墓! 戦前は明治大帝とも呼ばれた |
ペット散歩禁止の看板に描かれた犬がめっちゃ可愛かった!(笑) |
崩御の際に殉死した乃木将軍(右)。隣は夫人 ※東京・青山霊園(2006) |
孝明天皇の第二皇子。在位は15歳から59歳までの45年間で、1867年1月30日-1912年7月30日。京都で生まれ祐宮(さちのみや)と命名され、8歳で睦仁親王となる。1867年(15歳)、孝明天皇が崩御。幕末の大混乱のなかで即位する。同年、大政奉還により徳川慶喜が政権を朝廷に戻し、王政復古の大号令を発令した。戊辰戦争を経て、1869年(17歳)に東京へのぼり旧・江戸城を皇居とした。1882年(30歳)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発令、自ら大元帥として軍備の増強に努めた。1889年(37歳)、大日本帝国憲法を公布し、翌年に教育勅語を発した。 1894年(42歳)の日清戦争、1904年(52歳)の日露戦争では大本営で戦争を指揮し、1911年(59歳)に各国との不平等条約の改正を終え日本は列強の一員となった。翌1912年、糖尿病による尿毒症で崩御。享年59歳。京都の伏見桃山陵に埋葬された。諱は睦仁(むつひと)。大喪の日に陸軍大将・乃木希典夫妻など多くの殉死者が出た。 ※聖武天皇が肉食を禁じてから皇室はベジタリアンだったが明治天皇は牛肉を食べた。 ※秀吉の伏見城の跡地に明治天皇陵を造ってしまったので、伏見城の発掘ができなくなった。 |
昭和天皇陵の前を通りさらに奥へ | 初巡礼時。明治帝より小規模とはいえ巨大陵墓(2009) | 再巡礼時。見事な秋晴れ!(2010) |
一般拝所は大広場。歴代天皇陵で屈指の広さ! | 特別拝所に続く石段の手前に「大正天皇多摩陵」の石碑 |
階段が長く、木も生い茂っているため、立入禁止エリア(特別拝所)の手前からは殆ど見えない |
隣接する貞明(ていめい)皇后(1884-1951)の「貞明皇后多摩東陵」 |
明治天皇の第三皇子。在位は33歳から47歳までの14年間で、1912年7月30日-1926年12月25日。母は典侍(ないしのすけ/宮中・高級女官最上位)の柳原愛子。明治天皇と皇后に子おらず、側室が産んだ親王・内親王ら5人が相次いで死去し皇太子になった。1900年(21歳)、15歳の九条節子(さだこ、後の貞明皇后)と結婚。事実上、初の一夫一妻制の天皇となった。翌1901年(22歳)、迪宮裕仁親王(みちのみや・ひろひと/昭和天皇)が誕生。続けて、1902年(23歳)に淳宮雍仁親王(あつのみや・やすひと/秩父宮)、1905年(26歳)に光宮宣仁親王(てるのみや・のぶひと/
高松宮)が誕生した。1907年(28歳)、併合前の大韓帝国を訪れ史上初の皇太子の外遊を行なった。
1912年(33歳)、明治天皇崩御。1915年(36歳)、京都御所で即位。同年、4男の澄宮崇仁親王(すみのみや・たかひと/三笠宮)が出生。幼少から病弱だった大正天皇は1917年(38歳)頃から病状が深刻化し、公務が不可能になっていった。1921年(42歳)、皇太子裕仁親王が20歳になって摂政に就任し、事実上、大正天皇は引退した。宮内省は病状を国民に発表した。その後、転地療養を続けるも1926年に心臓麻痺で崩御。臨終の床には皇后・節子の配慮で生母・柳原愛子が呼ばれた。享年47歳。史上初めて関東(多摩陵)に葬られる天皇となった。諱は嘉仁(よしひと)。創作した漢詩の数は実に1367首もあった。
※山縣有朋のことを“冷淡”と嫌っていた。 ※侍医(主治医)は漢方医の浅田宗伯(“浅田飴”を考案)。
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高尾駅から御陵に続く並木道 | 参道の車止め。ここから先は一般車両が入れない | 域内には大正天皇と昭和天皇が皇后と永眠 |
武蔵野の森の中へ分け入っていく | 分岐路。左へ行くと大正、右へ行くと昭和天皇陵 | さらに分岐路。左に行くと昭和天皇陵、右が皇后の陵墓 |
一般拝所に到着!前回は雨天だったけど、 今回は秋の青空が気持ち良い |
在位は1926-1989年。激動の時代を生きた天皇 |
先祖の御陵よりも大きくしてはいけないので、明治天皇、 大正天皇に比べて、昭和天皇の陵墓が一番小さい |
バスで次々と団体さんがやってきた | 手前に建つ「昭和天皇武蔵野陵」碑 |
2009 この時は小雨がパラパラ降っていた。周囲の樹木が霊気で満たされるというか、晴天とはまた異なる荘厳な雰囲気がある |
隣接する香淳(こうじゅん)皇后の御陵 | 昭和帝よりも小ぶりの陵墓。碑文は「香淳皇后武蔵野東陵」 |
大正天皇の第1皇子。迪宮裕仁(みちのみやひろひと)。在位は25歳から87歳までの62年間。享年(87歳)も在位期間も飛鳥時代以降の歴代最長で、1926年12月25日-1989年1月7日。
1908年(7歳)、学習院に入学し院長乃木希典(陸軍大将)の教育を受ける。1912年(11歳)、皇太子となり陸海軍少尉に。1921年(20歳)、大正天皇が病弱だったことから、半年間の欧州外遊より帰国して摂政となる。1923年(22歳)、車で移動中に左翼青年・難波大助(24歳)に近接狙撃される「虎ノ門事件」が起きる。弾丸は車内に撃ち込まれたが助かった。事件の責任を取り内閣は総辞職し、難波大助は11ヶ月後に大逆罪で処刑された。翌1924年(23歳)に久邇宮良子(くにのみやながこ)と結婚。 1926年(25歳)、大正天皇崩御。全軍の最高司令官たる大元帥となる。1928年(27歳)、京都御所にて即位。以降、現人神(あらひとがみ)として神格化され、太平洋戦争終結まで日本国の最高統治者として政治に関わっていく。 1931年(30歳)、満州事変が勃発。1933年(32歳)、明仁親王が生まれる。1941年(40歳)、日米開戦。1945年(44歳)、玉音放送で終戦を告げる。米国の方針によって東京裁判では戦争責任を問われなかった。
1946年(45歳)、人間宣言。1947年(46歳)、日本国憲法が発布され日本の象徴とされた。1959年(58歳)、皇太子・明仁親王が正田美智子と結婚。1975年(74歳)、皇后と米国を訪問。1989年1月7日、腺癌により崩御。享年87歳。武蔵野陵に埋葬される。御陵の総工費は武蔵野陵が約26億円、香淳皇后が約18億円。 ●昭和天皇かく語りき…昭和天皇が本当に戦争拡大に反対していたことを、左派にも右派にも知って欲しい! ※いわゆるA級戦犯が靖国神社に合祀されてからは、靖国を参拝することがなくなった。侍従によると、合祀への不快感が昭和天皇にあったとのこと。 ※全国各地を巡幸したが沖縄だけは最後まで訪れることが出来なかった。 ※粘菌の研究に熱心で南方熊楠から講義を受けたこともある。
※戦争当初、中国での戦線拡大に陛下は強く反対していた。陸軍上層部がもっと陛下の御意思をしっかり受け止めていれば…。 |
平成21年11月14日〜23日の9日間限定の特別展 | 有名な二重橋 | 玉音放送の映像に登場する皇居前広場 |
“「平成の大礼」即位礼正殿の儀”を上映中 |
モニターは画面中央の奥 |
百人番所では「即位礼正殿の儀」「大嘗祭の儀」 「大饗の儀」などで使用された12装束を展示 |
一番人気の屋外展示がコチラの 旧御料車と儀装馬車! |
旧御料車。左のロールス・ロイスには「即位礼」後の 「祝賀御列の儀」で両陛下が乗車。右のニッサン プリンス・ロイヤルは「即位礼」で両陛下が使用! |
重厚かつ優雅なロールスロイス。 ナンバープレートが菊の紋章! |
儀装馬車。左の“2号”は「即位礼」で天皇陛下が 乗車、右の“3号”は皇后陛下が乗車された |
儀装馬車2号は1959年(昭和34年)の 両陛下御成婚の際にも使用された |
「即位礼正殿の儀」で使用された巨大な 萬歳旛(ばんざいばん)など10本の旛を展示 |
本丸休憩所では「御即位20年記念雅楽器特別展」 | 雅楽器だけが一般公開されるのは初めて | 二の丸跡の雑木林が紅葉で良い感じに |
常照皇寺の裏山。第102代後花園天皇と共に眠る | こちらは嵯峨野の分骨陵。民家1軒分のスペース | 当初、僕は分骨陵の方を公式陵墓と勘違いしていた |
6代まで続いた北朝の第1代天皇。在位は18歳から20歳までの2年間、元弘元年9月20日(1331年10月22日)-元弘3年/正慶2年5月25日(1333年7月7日)。諱は量仁(かずひと)。 1313年8月1日、後伏見天皇(持明院統)の第一皇子として生まれる。母は広義門院寧子(ねいし)。名は量仁(かずひと)、法名は勝光智。叔父の花園天皇から帝王学を教育される。 1326年(13歳)、後醍醐天皇(大覚寺統)の皇太子・邦良親王が他界。祖父・伏見上皇の意向で持明院統の正嫡として新たに皇太子となる。両統迭立案により鎌倉幕府に支持された。 1331年(18歳)、後醍醐天皇の倒幕計画が幕府に漏れ、9月に帝は京都脱出を決断、三種の神器を持って笠置山(かさぎやま※京都府南部)に立てこもる。鎌倉幕府の元執権・北条高時は後醍醐帝をただちに廃位し、10月、後伏見上皇の18歳の皇子・量仁(かずひと)親王を、北朝初代の光厳(こうごん)天皇として神器がないまま践祚(せんそ、皇位継承)させた。後伏見上皇が院政を行い、光厳帝の里内裏が現在の京都御所になっていく。 幕府軍は笠置山を包囲し、後醍醐帝は行宮に火を放たれて捕らえられ、板葺きのみすぼらしい館に幽閉される。 1332年(19歳)、後醍醐天皇が隠岐島に配流される。同年6月、光厳帝は茶寄合を開催、茶葉の産地をあてる闘茶を行った。これは史料上の最古の闘茶とされる。 1333年(20歳)、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し挙兵。各地で倒幕の動きが相次ぎ、足利尊氏は京都の幕府機関・六波羅探題を攻撃し陥落させる。北条仲時・北条時益の両探題は、持明院統の後伏見上皇・花園上皇・光厳(こうごん)天皇を奉じて鎌倉へ逃れようとしたが、一行は近江で野伏(農民武装集団)に襲撃され時益は討死に、仲時と一族432人は自決し、光厳帝は両上皇とともに捕らえられ京都に戻された。『太平記』はこの際に光厳帝が矢傷を負ったと記す。 同じ頃、関東では鎌倉幕府が新田義貞の攻撃をうけて滅亡した。都では後醍醐帝による建武の新政が始まる。復位した後醍醐天皇は、幕府に近い光厳天皇に対し、「皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」として即位そのものを否定し、そのうえで太上(だいじょう)天皇の号を贈った。皇太子・康仁親王(やすひと/1320-1355※後二条の孫)は廃位された。 1335年(22歳)、後醍醐天皇の建武新政が失敗。 1336年(23歳)、足利尊氏が後醍醐天皇に離反。尊氏は京都奪回に際して、光厳上皇から後醍醐方追討の院宣を得て朝敵となることを免れた。8月、尊氏の要請で弟の光明(こうみょう)天皇が14歳で即位すると、光厳院は治天の君として院政を開始した。一方、後醍醐帝は尊氏と和睦すると神器と称するものを光明側に引き渡し、吉野に入って南朝をひらき、以後50余年にわたり南北朝は対立する。 ※光厳帝は北朝初代とされているが、厳密には南北朝に分かれる前の1333年に後醍醐天皇によって廃されており、1336年に尊氏が擁立した光明天皇(光厳の弟)が北朝最初の天皇といえる。光厳帝を初代とするのは『皇統譜』上のもの。後醍醐天皇が光厳天皇の即位を否定したことから、歴代天皇に含まれない北朝初代天皇として扱われている。光厳帝は次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、北朝の治天(皇室の長)の座から院政を行った。 1339年(26歳)、南朝・後醍醐天皇が50歳で崩御。 1348年(35歳)、光厳上皇の第一皇子・崇光(すこう)天皇が14歳で即位。引き続き光厳上皇が院政を行う。同年、大恩ある花園上皇が崩御。 1349年(36歳)、故花園上皇の監修、光厳上皇の撰により17番目の勅撰和歌集《風雅集》(20巻、約2200首)が成立。 1350年(37歳)、足利政権の1年半に及ぶ内紛、足利尊氏VS直義の兄弟対決=「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」が起きる。室町幕府では、恩賞の給与や守護職・地頭職などの任免は尊氏、所領関係の裁判は弟・直義(ただよし)の権限だった。11月、尊氏&幕府執事高師直(こうの・もろなお)の派閥と、幕府の実権を握る直義の派閥との対立はピークに達し、武力衝突に至る。光厳上皇から直義追討令が出されると、直義は南朝方に接近、降伏した。 1351年、高師直一族が直義勢に殺害される。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、南朝に和議を提案。後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)ら南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。北朝に不利な内容だったが、11月13日(旧暦10月24日)、尊氏は条件を容れて南朝に降伏した。半月後、後村上天皇によって北朝第3代・崇光天皇や皇太子直仁親王は廃された。元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年に統一され、「正平一統(しょうへいいっとう)」が成された。北朝方の事実上の無条件降伏であり、後醍醐帝の崩御から12年で南朝が皇統となった(ただし一時的)。 1352年(39歳)、尊氏が直義討伐で鎌倉に向かい、直義を毒殺して「観応の擾乱」は収まった。一方、都では尊氏不在を狙って南朝勢が京都奪還に動き出す。後村上天皇は山城国男山八幡(石清水八幡宮)に行宮を移し、北畠親房の指揮下、楠木正成の息子・楠木正儀(まさのり、正行の弟/1330-1390/22歳)らが都を急襲。「七条大宮の戦い」で正儀が足利義詮(21歳)を破って近江に駆逐し、京の回復に成功した。北畠親房は17年ぶりに入京を果たす。 義詮は北朝方の光厳上皇、光明上皇(光厳の弟)、崇光上皇(光厳の子)と廃太子の直仁(なおひと)親王(光厳の子※表向きは花園天皇の子)を置いて逃げたことから、翌月に足利軍に都を奪還された際、南朝勢は撤退時に北朝の上皇らを連行、行宮の石清水八幡宮に連れ去った。この拉致は後村上天皇と北畠親房の策であり、北朝が再建されても天皇を擁立できないようにしたもの。 翌月に行宮を落とされると、南朝勢は拠点の大和(奈良県)賀名生(あのう/現・五條市)に撤退した。こうした事態を受けて尊氏と義詮は観応の元号復活を宣言、「正平一統」はわずか4か月あまりで瓦解した。 北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態にあり、幕府は後伏見上皇の女御で、光厳上皇及び光明上皇の実母・広義門院西園寺寧子(ねいし/1292-1357)を担ぎ出し、たまたま拉致をまぬがれた崇光上皇の弟・弥仁(みつひと)を広義門院の令旨(りょうじ、命令書)によって北朝第4代・後光厳天皇として践祚(せんそ、皇位継承)、翌年即位させる。親王宣下も神器もなく、上皇妃の命令という異常な方法での即位だった。女性で治天の君となったのも、皇族出身以外で治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一。後村上天皇は河内や摂津に行宮を移し抗戦を続けていく。南朝は後光厳天皇を「偽主」「偽朝」と呼び、軍事面でも攻撃を繰り返し、後光厳帝は1361年までの9年間に3度も近江や美濃に避難しなければならなかった。 光厳はじめ光明、崇光の北朝3代の上皇は幽閉の身となり、南朝の拠点を点々と移された。この年、禅僧・夢窓疎石に帰依していた光厳上皇は賀名生で出家し、法名を勝光智と称した。 1354年(41歳)、光厳ら上皇3名と直仁親王は身柄を河内金剛寺に移され、後村上天皇は当地を新たな行宮とする。光厳法皇は金剛寺で孤峰覚明(こほうかくみょう)に帰依、法名を光智と改める。また清渓通徹(せいけい・つうてつ)にも師事した。 1355年(42歳)、光明上皇のみ京都に返される。 1357 年(44歳)、5年間の軟禁生活が解かれ、崇光上皇、直仁親王らと京都に戻る。世俗を絶って伏見深草や嵯峨に隠棲した。 1362年(49歳)、光厳法皇は巡礼の旅を行い、『太平記』によると法隆寺、高野山に参詣したのち、吉野まで足をのばし、かつて光厳帝を幽閉した後村上天皇と再会したという。晩年は丹波山国(たんばやまぐに/京都市右京区)の常照皇寺で禅僧としての余生を送り、無範和尚と号した。 1364年8月5日、常照皇寺にて51歳で崩御。和漢儒仏の学を修め日記『光厳院宸記』を残した。 光厳帝は茶の香りや味から産地を当てる闘茶(茶道の前身)の創始者の一人であり、歌道にも優れ、後期京極派の一員。花園院の指導のもと『風雅和歌集』を親撰し、『光厳院御集』も伝存する。 京都御所の原型である土御門東洞院殿は、北朝成立とともに光厳上皇が皇居と定め、北朝から幕末に至る歴代天皇の御所であり続けた。 〔墓巡礼〕 墓所は京都市中心部から約20km北の山中にある常照皇寺の後山の山国陵(やまくにのみささぎ)。円丘。光厳天皇は崩御翌日に常照皇寺の後山で火葬され、遺命により陵上に石塔を置かず(塚を築くことのみ許した)、楓、椿、松柏(しょうはく)などが植えられたという。禅の道を究めんとした帝の達観が伝わる遺言だ。分骨所が大阪府河内長野市の金剛寺、髪塔が京都市右京区嵯峨の金剛院にある。 光厳天皇は皇統史上最も混乱した時代に在位したことにより南朝正統論者から忌避され、明治以降歴代の天皇から除かれることになった。 |
明治天皇陵に続いて例のワンコを発見!桃山陵墓管区事務所の人気キャラ!? | 陵墓後方の林がド迫力! |
北朝第3代の崇光天皇も一緒に眠っている |
手前には1本の楠!楠木正成は北朝の敵なので感慨深い。 ※この楠は低いけど幹が太い。落雷で燃え、再びここまで 復活したのだろう。楠は成長力が強く、生命の象徴だ |
北朝方の天皇で在位は14歳から26歳までの12年間、延元元年/建武3年8月15日(1336年9月20日)-正平3年/貞和4年10月27日(1348年11月18日)。諱は豊仁(ゆたひと)。
1322年1月11日、後伏見天皇の第二皇子として生まれる。母は広義門院寧子(ねいし)。兄は光厳(こうごん)天皇。名は豊仁(ゆたひと)。 1335年(13歳)、後醍醐天皇の建武新政が失敗。 1336年(14歳)、足利尊氏が後醍醐天皇に離反し、楠木正成らを破り京に入る。後醍醐天皇が延暦寺に逃れたため、尊氏はこの機に光厳上皇の弟・豊仁親王を神器なしで践祚(せんそ、皇位継承)させた。光明天皇は尊氏を征夷大将軍に任じ、ここに室町幕府が開始する。朝廷での実際の政務は9歳年上の兄・光厳上皇がおこなった。後醍醐帝は尊氏と和睦すると神器と称するものを光明側に引き渡し、大和吉野に逃れた。後醍醐帝は南朝をひらき、以後50余年にわたり南北朝は対立する。 ※光明天皇は「北朝第2代天皇」とされているが、厳密には初代天皇。先帝(光厳帝)は南北朝に分かれる前の1333年に後醍醐天皇によって廃されている。一方、光明天皇は南北分裂と同じ1336年に即位している。光厳を初代とするのは『皇統譜』上のもの。後醍醐天皇が光厳天皇の即位を否定し、歴代天皇に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。 ※三種の神器がない状況での即位は、後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣で即位した前例がある。都落ちする平家が神器を持ち去ったためだ。 1339年(17歳)、南朝では後醍醐天皇が崩御し、後村上天皇が11歳で即位している。 1348年(26歳)、光厳上皇の第一皇子・益仁親王(14歳)に譲位して北朝第3代・崇光(すこう)天皇を誕生させ、自身は院政をおこなった。 1351年(29歳)、足利尊氏・義詮(よしあきら)父子が足利直義(尊氏の弟)に対抗するため南朝に降伏。後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)ら南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。北朝に不利な内容だったが、尊氏は条件を容れて南朝に降伏した。後村上天皇によって北朝の崇光天皇や皇太子・直仁親王は廃された。光明上皇は世の無常さを感じて出家し、法名・真常恵を号する。 1352年(30歳)、尊氏が直義討伐で鎌倉に向かい、直義を毒殺して「観応の擾乱」は収まった。一方、都では尊氏不在を狙って南朝勢が京都奪還に動き出す。後村上天皇は山城国男山八幡(石清水八幡宮)に行宮を移し、北畠親房の指揮下、楠木正成の息子・楠木正儀(まさのり、正行の弟/1330-1390/22歳)らが都を急襲。「七条大宮の戦い」で正儀が足利義詮(21歳)を破って近江に駆逐し、京の回復に成功した。北畠親房は17年ぶりに入京を果たす。義詮が北朝方の天皇経験者=光厳上皇、光明上皇(光厳の弟)、崇光上皇(光厳の子)と廃太子の直仁(なおひと)親王(光厳の子※表向きは花園天皇の子)を置いて逃げたことから、南朝勢は彼らを拉致し、都から男山の行宮に連れ去った。これは後村上天皇と北畠親房の策であり、北朝が再建されても天皇を擁立できないようにしたもの。 翌月に足利軍が都を奪還し、さらに男山の行宮を落とすと、南朝勢は拠点の大和(奈良県)賀名生(あのう/現・五條市)に撤退した。こうした事態を受けて尊氏と義詮は観応の元号復活を宣言、「正平一統」はわずか4か月あまりで瓦解した。 北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態にあり、幕府は後伏見上皇の女御で、光厳上皇及び光明上皇の実母・広義門院西園寺寧子(ねいし/1292-1357)を担ぎ出し、たまたま拉致をまぬがれた崇光上皇の弟・弥仁(みつひと)を広義門院の令旨(りょうじ、命令書)によって北朝第4代・後光厳天皇として践祚(せんそ、皇位継承)、翌年即位させる。親王宣下も神器もなく、上皇妃の命令という異常な方法での即位だった。女性で治天の君となったのも、皇族出身以外で治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一。後村上天皇は河内や摂津に行宮を移し抗戦を続けていく。光厳はじめ3代の上皇は幽閉の身となり、南朝の拠点を点々と移された。 1354年(32歳)、光明ら上皇3名と直仁親王は身柄を河内金剛寺に移され、後村上天皇は当地を新たな行宮とする。 1355年(33歳)、光明上皇のみが先に解放され3年ぶりに帰京。京都郊外の金剛寿院などに居住し、仏道に入った。 1358年(36歳)、尊氏が死去し、義詮が2代将軍に就任。 1380年7月26日、諸国を遍歴したのち、大和国(奈良県)の長谷寺にて58歳で崩御した。自筆の日記『光明天皇宸記』が残る。 〔墓巡礼〕 光明天皇は長谷寺で崩御したのち、遺骨は母の勅願寺である伏見大光明寺に納められた。秀吉の伏見城建設で大光明寺は移転され陵墓は所在地不明となったが、江戸後期に当地が治定された。 墓所は京都市伏見区桃山町の大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)。甥っ子の北朝第3代・崇光天皇も一緒に眠っている。東側が光明天皇陵、西側が崇光天皇陵だ。御陵は基本的に南向きに造成されるが、珍しく北面している。他例では後醍醐天皇陵くらいだ。伏見の北には京の都があるため、正統とされなくなった2人の北朝の帝が都を見つめているようだ。円丘。 |
奥まで一直線に参道が続く | 北朝第2代の光明天皇も一緒に眠っている |
石柱は左が光明天皇、右が崇光天皇 |
北朝第3代 崇光天皇/Suko 建武元年4月22日(1334年5月25日)-応永5年1月13日(1398年1月31日) (京都府、伏見区、大光明寺陵 63歳)2010 今日の皇室と旧皇族11宮家の共通の先祖たる天皇。北朝方の天皇で在位は14歳から17歳までの3年間、正平3年/貞和4年10月27日(1348年11月18日)-正平6年/観応2年11月7日(1351年11月26日)。初名は益仁(ますひと)、のちに興仁(おきひと)と改める。伏見宮家の祖。 1334年5月25日、光厳天皇の第1皇子として生まれる。母は陽禄門院三条秀子。名は興仁(おきひと)。1338年、立太子(りったいし)。 1339年(5歳)、南朝では後醍醐天皇が崩御し、後村上天皇が11歳で即位している。 1348年(14歳)、叔父の光明天皇(26歳)から譲位を受け、北朝第3代の崇光(すこう)天皇として翌年即位式をあげた。父・光厳上皇が院政を執る。皇太子には直仁親王(光厳上皇と花園法皇妃との子)が立てられた。 1351年(17歳)、足利尊氏・義詮(よしあきら)父子が足利直義(尊氏の弟)に対抗するため南朝に降伏。後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)ら南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。北朝に不利な内容だったが、尊氏は条件を容れて南朝に降伏した。その結果、皇統が一時的に南朝へ統一され、後村上天皇によって北朝の崇光天皇や皇太子・直仁親王は廃された。崇光帝は在位3年で廃位となったが太上天皇の尊号をうけた。 1352年(18歳)、尊氏が直義討伐で鎌倉に向かった隙を狙い、南朝勢は京都帰還に動き出す。後村上天皇は山城国男山八幡(石清水八幡宮)に行宮を移し、楠木正成の息子・楠木正儀(まさのり/22歳)らが都を急襲。「七条大宮の戦い」で正儀が義詮軍を近江に駆逐し、入京を果たす。その際、義詮は北朝方の光厳上皇、光明上皇(光厳の弟)、崇光上皇(光厳の子)と廃太子の直仁(なおひと)親王(光厳の子※表向きは花園天皇の子)を置いて逃げたことから、翌月に足利軍に都を奪還された際、南朝勢は撤退時に北朝の上皇らを連行、行宮の石清水八幡宮に連れ去った。この拉致は後村上天皇と北畠親房の策であり、北朝が再建されても天皇を擁立できないようにしたもの。 翌月に行宮を落とされると、南朝勢は拠点の大和(奈良県)賀名生(あのう/現・五條市)に撤退した。光厳はじめ3代の上皇は幽閉の身となり、南朝の拠点を点々と移される。 北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態にあり、幕府は後伏見上皇の女御で、光厳上皇及び光明上皇の実母・広義門院西園寺寧子(ねいし/1292-1357)を担ぎ出し、たまたま拉致をまぬがれた崇光上皇の弟・弥仁(みつひと)を広義門院の令旨(りょうじ、命令書)によって北朝第4代・後光厳天皇として践祚(せんそ、皇位継承)、翌年即位させる。親王宣下も神器もなく、上皇妃の命令という異常な方法での即位だった。女性で治天の君となったのも、皇族出身以外で治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一。後村上天皇は河内や摂津に行宮を移し抗戦を続けていく。南朝は後光厳天皇を「偽主」「偽朝」と呼び、軍事面でも攻撃を繰り返し、後光厳帝は1361年までの9年間に3度も近江や美濃に避難しなければならなかった。 1354年(20歳)、崇光ら上皇3名と直仁親王は身柄を河内金剛寺に移され、後村上天皇は当地を新たな行宮とする。 1355年(21歳)、光明上皇のみが先に解放され3年ぶりに帰京。京都郊外の金剛寿院などに居住し、仏道に帰依。 1357年(23歳)、崇光上皇は解放され、光厳院、直仁親王と共に帰京し伏見殿に居住する。崇光天皇と皇太子・直仁親王の復位要求は幕府・後光厳天皇に拒絶され、直仁親王は失意のうちに出家する。 1358年(24歳)、尊氏が死去し、義詮が2代将軍に就任。 1371年(37歳)、崇光上皇は持明院統の嫡流として第一皇子・栄仁(よしひと)親王の即位を熱望していたが、崇光の弟である後光厳天皇は自身の皇子・緒仁(おひと)親王への譲位を求め、両者の対立は前年から表面化していた。崇光上皇にしてみれば、自分が南朝方に拉致されている間に、皇太子でなかった弟が偶然に皇位についたわけで、天皇としての正統性から見ても栄仁親王であるべきと考えた。だが、室町幕府にとって後光厳天皇は、幕府の勢力維持に多大な貢献のあった天皇であった。この年、後光厳が押し切る形で12歳の緒仁親王へ譲位され、親王は北朝5代・後円融天皇(1359-1393)として即位した。 1382年(48歳)、後円融天皇が皇子・幹仁(後小松天皇)に譲位。この時も、崇光上皇は栄仁親王の即位を要求したが、将軍足利義満が紛争に介入して後円融を支持、またしても栄仁の即位は夢に終わった。 1380年(46歳)、叔父の光明上皇が58歳で崩御。 1392年(58歳)、出家。法名は勝円心。 1398年1月31日、崇光上皇は皇位が弟(後光厳)の系統に移るという失意のなか、63歳で崩御(ただし曾孫の代で大逆転が起きる)。同年、栄仁親王は出家。また、直仁親王も63歳で他界。日記に「崇光院御記」。遺詔により「崇光院」の院号が定められた。 1399年、栄仁親王は伏見殿に移る。 1401年、伏見殿が火災、栄仁親王は嵯峨洪恩院に移る。 1403年、栄仁親王は有栖川山荘に移り、有栖川殿と称される。 1409年、栄仁親王は伏見に戻って伏見殿を賞され、これが伏見宮という称号の起源となった。 1416年、栄仁親王が65歳で他界。 1428年、没後30年目、栄仁親王の王子、貞成(さだふさ)親王の子で崇光の曾孫に当たる彦仁王(後花園天皇)が、わが子に先立たれた後小松院の猶子(養子)として即位し、崇光の皇統が復活。貞成が死後に上皇として贈られた諱は後崇光院。 崇高天皇は持明院統の嫡流が重きをおいた琵琶の伝習に励み、秘曲を究め、弟子や栄仁親王が初代となった伏見宮家にこれを伝えた。和歌の分野では京極派の歌風を維持、伏見殿での歌会などにより独自の歌壇を形成した。 ※伏見宮栄仁(よしひと)親王(1351-1416)…崇光天皇の第一皇子。伏見宮初代当主。1368年(17歳)親王宣下を受け栄仁と命名される。1398年(47歳)、崇光上皇が崩御し、最大の後ろ盾を失った栄仁親王は出家。1399年伏見殿に移るが、火災などで、嵯峨洪恩院、有栖川山荘(有栖川殿)、伏見と遍歴。親王の伏見御料は子孫に伝領され伏見宮の始まりとなる。栄仁親王は、琵琶、笙、和歌など諸芸能に堪能で、伏見宮家が楽道を家業とする起源を作った。享年65。 ※伏見宮貞成(さだふさ)親王(1372-1456)…現皇室と旧皇族11宮家の父系の最後の共通の先祖となった栄仁親王の王子。崇光天皇の孫。貞成親王が庭田幸子(敷政門院)との間にもうけた2人の王子のうち、第1王子・彦仁王は後花園天皇となり、この皇統が今日の皇室へと続いている。第2王子・貞常親王は伏見宮を継承し明治まで続き、多くの宮家が派生。貞成親王の父・栄仁親王(北朝3代)を初祖とする。 旧皇族が現皇室から枝分かれしたのは実に500年以上前のことで、この貞成(さだふさ)親王が両系統が共有する最後の男系祖先。女系を含めた場合は霊元天皇(1654-1732)の皇女・福子内親王(東山天皇の妹)が11宮家の源流である邦家親王の高祖母に当たり、霊元天皇と敬法門院が最後の共通の先祖となる。 ※四親王家・伏見宮…南北朝時代以来の旧宮家で四親王中最も歴史が古い。栄仁(よしひと)親王(北朝3代・崇光天皇皇子)を始祖とし、1428年、伏見宮第3代貞成(さだふさ)親王(栄仁親王皇子)の王子・彦仁王が後花園天皇となって皇位を継承。明治以後、伏見宮から11の宮家を分家。維新後に創設された梨本宮、山階宮、久邇宮(くにのみや)、華頂宮、小松宮、北白川宮、東伏見宮はすべて伏見宮家の系統であり、伏見宮家の男系子孫は旧皇族(旧宮家)として現在も残っている。1947年、GHQの指令により皇籍離脱した旧宮家11家の旧皇族はすべて伏見宮の系統に連なる。 ※四親王家・桂宮…正親町天皇の第1皇子誠仁親王の第6王子智仁(としひと)親王によって創設。智仁親王は秀吉の猶子であったが秀吉に鶴松が生まれて縁組が解消された。1881年の第12代当主・淑子内親王薨去まで存続。 ※四親王家・有栖川宮…1625年、後陽成天皇の第7皇子好仁(よしひと)親王によって創設。後嗣が無く、後水尾天皇の第6皇子で甥に当たる良仁(ながひと)親王が第2代を継承。のち1654年、良仁親王は兄の後光明天皇が没したため、後西天皇として皇位を継承したことから、宮家は後西天皇の第2皇子・幸仁親王が継承し有栖川宮と改称された。 ※四親王家・閑院宮(かんいんのみや)…皇統断絶を危惧した新井白石の建言で創設。東山天皇の第6皇子直仁(なおひと)親王が、幕府から1000石の所領を献上され、1718年に祖父・霊元法皇から「閑院宮」の宮号を賜った。新井白石の危惧通り、閑院宮第2代・典仁親王の王子・祐宮は、皇嗣を儲けないまま崩御した後桃園天皇の跡を継ぎ、1779年に光格天皇となった。光格天皇の子孫は第126代天皇徳仁(なるひと)や秋篠宮を含めた現在の天皇家の系統。 〔墓巡礼〕 陵墓は京都市伏見区桃山町の大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)。崇光天皇は大光明寺で火葬されたが、秀吉の伏見城建設で大光明寺が移転したため所在地不明となった。幕末の文久の修陵で現在地が治定された。叔父の光明天皇も同域に眠り、東側が光明天皇陵、西側が崇光天皇陵となっている。円丘。崇光天皇の孫・伏見宮治仁王(ふしみのみやはるひとおう)も当地に眠る。 |
崇光天皇の弟。北朝方の天皇で在位は14歳から33歳までの19年間、正平8年/文和元年8月17日(1352年9月25日)-建徳2年/応安4年3月23日(1371年4月9日)。南北朝の和議が破れた後、足利尊氏に擁立された。諱は弥仁(いやひと)。
1338年3月23日、光厳天皇の第2皇子として生まれる。母は陽禄門院藤原秀子。名は弥仁 (いやひと)、法名は光融。幼少時は祖父・後伏見天皇の女御で祖母・広義門院(西園寺寧子)に後見される。次男ゆえに皇位の望みはなく出家が決まっていた。 1351年(13歳)、足利尊氏・義詮(よしあきら)父子が足利直義(尊氏の弟)に対抗するため南朝に降伏。後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)ら南朝方は、北朝方にある三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件とした。北朝に不利な内容だったが、尊氏は条件を容れて南朝に降伏した。その結果、皇統が一時的に南朝へ統一され、兄の北朝第3代崇光(すこう)天皇と皇太子・直仁(なおひと)親王は、後村上天皇によって廃された。 1352年(14歳)、尊氏が直義討伐で鎌倉に向かった隙を狙い、南朝勢は京都奪回を策して急襲、義詮軍を追い出し占領した。その際、義詮は北朝方の光厳上皇、光明上皇(光厳の弟)、崇光上皇(光厳の子)と廃太子の直仁親王(光厳の子※表向きは花園天皇の子)を置いて逃げたことから、翌月に足利軍に都を奪還された際、南朝勢は撤退時に北朝の上皇らを連行、行宮の石清水八幡宮に連れ去った。この拉致は後村上天皇と北畠親房の策であり、北朝が再建されても天皇を擁立できないようにしたもの。翌月に行宮を落とされると、南朝勢は拠点の大和(奈良県)賀名生(あのう/現・五條市)に撤退した。光厳はじめ3代の上皇は幽閉の身となり、南朝の拠点を点々と移される。 北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態にあり、義詮は北朝再建のために後伏見上皇の女御で、光厳上皇及び光明上皇の実母・広義門院西園寺寧子(ねいし/1292-1357)を担ぎ出し、たまたま拉致をまぬがれた崇光上皇の弟・弥仁(みつひと)を広義門院の令旨(りょうじ、命令書)によって北朝第4代・後光厳天皇として践祚(せんそ、皇位継承)、翌年即位させる。親王宣下も神器もなく、上皇妃の命令という異常な方法での即位だった。女性で治天の君となったのも、皇族出身以外で治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一。 後村上天皇は河内や摂津に行宮を移し抗戦を続けていく。南朝は後光厳天皇を「偽主」「偽朝」と呼び、軍事面でも攻撃を繰り返し、後光厳帝は1361年までの9年間に3度も近江や美濃に避難しなければならなかった。 ※三種の神器がない状況での即位は、後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣で即位した前例がある。都落ちする平家が神器を持ち去ったためだ。 ※皇位経験のない寧子を治天とした事実は、後年足利義満の皇位簒奪計画に先例と口実を与えることとなった。 1358年(20歳)、尊氏が死去し、義詮が2代将軍に就任。 1367年(29歳)、足利義詮が37歳で他界。 1368年(30歳)、足利義満(1358-1408)が10歳で3代将軍となる。嫡妻の広橋仲子(ちゅうし)と足利義詮の妻は姉妹であり、義詮の子、足利義満は後光厳天皇にとって甥にあたる。 1370年(32歳)、後光厳天皇は第二皇子の緒仁(おひと)親王への譲位を幕府に打診。一方、兄の崇光上皇はかねてから持明院統の嫡流として第一皇子・栄仁(よしひと)親王の即位を熱望していた。崇光上皇にしてみれば、自分が南朝方に拉致されている間に、皇太子でなかった弟が偶然に皇位についたわけで、天皇としての正統性から見ても栄仁親王であるべきと考えた。 1371年(33歳)、譲位問題に幕府の判断が出る。室町幕府にとって後光厳天皇は幕府の勢力維持に多大な貢献のあった天皇であり、管領の細川頼之が後光厳の意思を尊重するべきであると判断した。これを受けて、後光厳は12歳の緒仁親王に譲位し、親王は北朝5代・後円融天皇(1359-1393)として即位した。後光厳上皇は院政をしいた。 晩年は興福寺内紛を巡って衆徒(僧兵)たちが春日神木を掲げて入京、上皇はこの強訴を鎮圧しようとするが激しい抵抗にあい大混乱になる。 1374年3月12日、上皇は疱瘡を病み35歳で崩御した。 後光厳天皇は知識欲が強く学問を愛し、東坊城長綱から『史記』『後漢書』などを学び、二条為明に『古今和歌集』の家説を講じさせた。和歌は勅撰集に45首が収められている。歌集に「後光厳院百首和歌」、日記に「後光厳院御記」。 〔墓巡礼〕 墓所は京都市伏見区の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。後光厳天皇は泉涌寺で火葬され、遺骨は「深草十二帝陵」とされる法華堂に納められた。深草北陵には持明院統歴代が葬られている。 |
北朝方の天皇で在位は12歳から23歳までの11年間、建徳2年/応安4年3月23日(1371年4月9日)-弘和2年/永徳2年4月11日(1382年5月24日)。諱は緒仁(おひと)。
1359年1月11日、後光厳天皇の第2皇子として生まれる。母は崇賢門(すうけんもん)院藤原仲子(ちゅうし)。名は緒仁(おひと)。法名は光浄。母の仲子は将軍足利義詮(よしあきら)の妻良子の妹であり、義詮の子・足利義満は同年齢の従兄弟。 1367年(8歳)、2代将軍・足利義詮が37歳で他界。 1368年(9歳)、従兄弟の足利義満(1358-1408)が10歳で3代将軍となる。まだ若いために管領細川頼之(よりゆき/1329-1392)が後見についた。 1370年(11歳)、父帝・後光厳天皇は第二皇子の緒仁(おひと)親王への譲位を幕府に打診。父の兄・崇光上皇はかねてから持明院統の嫡流として第一皇子・栄仁(よしひと)親王の即位を熱望しており、互いに皇子を皇位に就けようと争った。 1371年(12歳)、譲位問題に幕府の判断が出る。室町幕府にとって後光厳天皇は幕府の勢力維持に多大な貢献のあった天皇であり、管領の細川頼之が後光厳の意思を尊重するべきであると判断。これを受けて、後光厳は緒仁親王に譲位し、親王は北朝5代・後円融天皇(1359-1393)として践祚(せんそ)された。後光厳上皇は院政をしいた。 1374年(15歳)、後円融天皇が即位。同年、父・後光厳上皇が35歳で崩御。 1377年(18歳)、女御の三条厳子(いつし/通陽門院)との間に第一皇子・幹仁(もとひと)親王が生まれる。 1382年(23歳)、5歳の幹仁親王に譲位し、北朝第6代・後小松天皇(1377-1433)として即位させた。この譲位でも崇光上皇は栄仁親王への践祚を目指したが、将軍義満に退けられた。ただし、後円融上皇は院政をしいたものの、実権は院庁の最高責任者、院別当(いんのべっとう)の義満にあり、院政は形式的なものとなった。幕府(義満)は王朝が掌握していた裁判権や京都の施政権などを次々と奪った。即位礼の実施を巡っても義満は上皇の要求を拒否した。 1383年(24歳)、元旦に仙洞御所(上皇の御所)を訪問した足利義満との面会を拒否。怒った義満は以後の参内をやめ、他の公卿も遠慮したため仙洞の機能が停止する。 1月29日(旧暦)、父・後光厳上皇の命日(9年目)に後円融が仏事を行ったところ、義満に睨まれることを恐れる殿上人らが一人も参列しない事態となる。 2月1日(旧暦)、女御の三条厳子(通陽門院)と義満の密通を疑い、錯乱して厳子を刀の峰で打ちすえ流血させる。駆け付けた母親の仲子は酒を勧めて後円融をなだめ、出血が続く厳子が治療のために退出できるようはからった。厳子は実家の三条家に運び込まれて治療を受け、義満も医師を派遣したが、出血は翌日まで止まらなかった。 ※実際、義満は宮中に出入りして多くの官女と通じ、他人の妻・妾を自分の妾とする例が多数あった。 2月11日(旧暦)、愛妾の女官・按察局が義満との密通を疑われて宮中から追放、出家させられる。 2月15日(旧暦)、困惑した義満は関白・二条良基と協議し、相談役の使者を派遣しようとしたが、上皇は義満に配流されると思い込み、宮中の持仏堂に籠って「切腹する」と宣言、このときも母親の仲子がなだめて自邸に連れ帰った。 2月18日(旧暦)、義満が院に出向いてなだめたことで上皇は落ち着いたが、後円融天皇の権威はすっかり失墜した。公卿の一条経嗣は日記に「聖運之至極」(皇室の命運が極まった)と記す。 1392年(33歳)、義満の斡旋によって南朝との和平が成立し、南北朝の合一がなった。長きにわたった南北朝時代が終結した。 1393年6月6日、34歳で崩御。直前に落飾して法名を光浄と称した。後円融上皇が生前に持っていた権限のすべてを義満が引き継ぎ、16歳になっていた後小松天皇には何の権限も残らなかった。 後円融天皇は皇室および公家文化の伝統を守るべく和歌に長じ、『新後拾遺和歌集』を勅撰。歌集に『後円融院御百首』、日記に『後円融院御記』。能書家としても知られる。 最終的に義満の政治力の前に屈服したものの、後円融天皇はある程度の権力を有した皇家最後の王権保持者であった。以降の帝は治世への発言力をことごとく失っていった。 〔墓巡礼〕 墓所は京都市伏見区の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。崩御の翌日に泉涌寺において火葬され、遺骨は「深草十二帝陵」とされる法華堂に納められた。深草北陵には持明院統歴代が葬られている。方形堂。 |
普段は絶対に入れない聖地 | 参道の両脇に歴代皇族が眠る | 幕の後方が三笠宮の墓所 |
秩父宮薙仁親王夫妻 |
高松宮宣仁親王夫妻 (喜久子妃は徳川慶喜の孫) |
小松宮彰仁親王 (仁和寺宮嘉彰親王夫妻) |
高円宮。右手前の小さな墓は閑院宮家の子女 | 閑院宮春仁親王 | 山階宮家 |
豊島岡墓地は一般非公開だが→ | 隣接する護国寺の墓地から→ | 東久邇稔彦王のお墓だけは見える! |
敗戦2日後の1945年8月17日、辞職した鈴木貫太郎の後を継いで首相に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣。政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示した。
昭和天皇への問責を阻止するため“一億総懺悔”を唱え、GHQによる内政干渉に抵抗の意志を示すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。
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ここでは行方不明の天皇陵を探し出した儒学者や国学者など保存運動に尽力した先人を、最大限のリスペクトを込めて紹介!ある意味、墓マイラーの大先輩だ。 最初に行われた陵墓の治定(じじょう)は飛鳥時代末の691年から始まり、30〜40年かけて終了した。中央の役人が各地の古墳に足を運び、『古事記』『日本書紀』の記載と、地域の伝承とをすり合わせながら被葬者を確定し、兆域に柵を造っていった。 奈良時代初期の729年(天平元年)頃、皇室行事として「荷前(のさき)儀礼」が始まる。これは毎年12月に荷前=諸国から朝廷への貢ぎ物(少量の絹、綿)の初物が、各陵墓や伊勢神宮に捧げられ、残りを天皇が受納するというもの。当行事を行うためにも陵墓の確定が必要となった。陵墓の場所は『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)に概略が記されており、さらに平安時代中期の927年に完成した法令集『延喜式(えんぎしき)』(967年施行)内に、「延喜諸陵寮式」という陵墓のリストが収められた(陵墓情報は完成時の927年から加筆なし)。このリストには“ニニギノミコト”など神代から第58代光孝天皇までの天皇陵が列記され、被葬者や所在地が記されている(ただし薄葬を命じ荷前を禁じた嵯峨、淳和、清和天皇、皇后2名をのぞく)。延喜式で確定された御陵は、一般人が立ち入れないよう垣で囲われ、雄略天皇など重要な天皇の山陵は御陵番の陵戸(りょうこ)が守り、それ以外は守戸(しゅこ)が置かれた。そして毎年2月10日に役人が全ての陵墓の点検を行い、垣や濠が壊れていると守戸が修理を行った。 この間、清和天皇が858年に荷前奉献の内容について血縁関係による遠近の差を設け、天智、光仁、光仁皇太后、桓武、桓武皇后、仁明、平城、文徳、基施皇子(天智の子)、早良親王(光仁の子)の「十陵」と、藤原鎌足、藤原冬嗣夫妻、源潔姫(清和の外祖母)の「四墓」を合わせた「十陵四墓」を「近陵(きんりょう)・近墓」と定めた。近陵には別幣(多量の高級絹織物)が献じられ、天皇の立ち会いの下、別幣が荷前使に授けられた。 光孝天皇時代に「十陵五墓」に、宇多天皇時代は「十陵八墓」に増え、最終的に村上天皇時代(在位946-967)には「十陵九墓」まで増えた。 やがて平氏ら武士階級が台頭した平安時代末期に荷前儀礼は衰退し、鎌倉時代は使派遣の儀式だけが行われ、室町時代(1350年)には完全に廃絶する。戦国時代に各地の天皇陵は荒れるに任され、その所在の大半が不明になった。 天皇陵に再び光が当たったのは江戸時代中期。1696年(元禄九年)に儒医者の松下見林(けんりん)(1637-1704)が陵墓研究書『前王廟陵記(ぜんおうびょうりょうき)』(全二巻)を完成させ1698年に刊行した。歴代天皇の陵地を文献や実地調査により網羅的に考証したもの。見林は大阪生まれ。多くの御陵が荒廃していることに胸を痛め、世に陵墓の整備を訴えた。松下見林の遺言「謹んで墓碣(墓石)を建つる勿(なか)れ、吾が後人に期するところ、著述の在るあり、もって百世に朽ちざるにたらん」。墓は京都の大雄寺。 偶然にも同じ頃、遠江(とおとうみ)(静岡県)出身の江戸時代中期の尊王学者で、大和(奈良県)郡山(こおりやま)藩士の細井芝山(しざん)(1656-1697)=細井知名が、大和の歴代天皇陵が草に埋もれ荒れ果てていることを嘆き、場所を確定して補修を促すため、公務の間をぬって1685年まで7年間の実地調査を行う。以後は主君が加増・国替となって自身も大和を離れたため、資料整理に没頭。そして6年後に転機が訪れる。1691年、高名な儒者・書家であった弟、細井広沢(こうたく)(1658-1736)=細井知慎(ともちか)が、5代将軍徳川綱吉の側用人(そばようにん、側近)の柳沢吉保(よしやす)(1658-1714)に学識を買われて召抱えられたのだ。3年後、柳沢吉保は武蔵国川越藩主となり老中格(翌年老中首席)に抜擢され、神社仏閣の造営・修理を管理する役職に就いた。細井芝山にとって千載一遇の好機となった。 1697年(元禄10年)春、芝山は病の床から、弟・細井広沢に「陵墓修築の議を主君の柳沢殿に建言してほしい」と手紙で頼み、広沢は柳沢吉保に兄の切望を伝え、その心を打つ。こうして、地方の一儒者に過ぎなかった芝山の熱い想いは、ついに将軍の耳に届く。綱吉は先人を大切にする儒教思想を重んじており陵墓の荒廃を憂慮、すぐに保全のための周垣設置工事の勅許を下した。柳沢吉保と広沢は大喜びし、吉報を伝えられた芝山は床から這い出て服を着替え、江戸城に感謝の合掌をしたという。その翌月、芝山は41歳で旅立った。 同年秋、南北朝の大乱から行方不明になっていた天皇陵を数百年ぶりに探し出し、1年8カ月に及ぶ陵墓の大規模修復が行われ(元禄の修陵1697-1699)、これが江戸時代に3度行われる大補修の1回目となった。古墳の頂上部分が垣で囲われ、どの天皇の陵かを書いた高札(こうさつ)が建てられた。 翌年、京都で御陵の真新しい竹の周垣を目にした広沢は「先頃まで人や牛馬に踏まれていたことを思うと、有難さに涙が止まらない」と記す。そして引退して江戸浅草に暮らし、次の年に兄の嘆願に始まり幕府が行った諸陵の探索・垣設置事業の報告書『諸陵周垣成就記』(1699)を書きあげた。この際、前年に刊行された松下見林の『前王廟陵記』が大いに役立ったという。 また、同じ1697年、儒者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)も修復結果を綴っている。「(102代・後花園天皇までのうち)二十二陵は埋没して痕跡がなく、現存する七十八陵のうち十二陵は旧垣あり。六十六陵はこの度あらたに垣を作った」(常憲院実紀)。 ※『山梨県歴史文学館』(細井広沢『諸陵周垣成就記』の経緯、参考にさせて頂きました!) http://kamanasi4321.livedoor.blog/archives/cat_29073.html?p=6 ※明治21年、「元禄修陵の功績」により、細井兄弟の子孫・細井昌太郎(広沢の後裔)に、宮内省から祭祀料の金弐拾五円が下賜された。明治30年細井兄弟に従四位が追贈された。 ※細井広沢は赤穂浪士の堀部安兵衛と無二の親友で、1702年の吉良邸討入の際は一晩中屋根から状況を窺っていたという。 続いて「享保の修陵」が1718年から翌年にかけておこなわれた。「元禄の修復」の際にすべての天皇の御陵を特定しきれなかったため、京都所司代から再調査を求める声があがり、各地で探査が実施された。「元禄の修陵」からまだ20年しか経っておらず、修築作業はほとんど行われていない。その後、陵墓の管理は最寄りの村に任されたが、きちんとした継続管理がされずにまた荒廃してしまった。 1772年、「享保の修陵」の半世紀後、古事記研究で知られる伊勢松阪の国学者・本居宣長(1730-1801)が、大和の飛鳥、吉野を巡って陵墓や名所を訪ねた10日間の道中日記『菅笠日記』を著す(1795年刊行)。現在の天武持統天皇合葬陵の石室を覗いている。宣長は地元民に間違った情報を教えられて振り回されるなど、苦労しながら御陵を巡っているが、茶店や桜の情報もあり、この日記は旅のガイドブック的な役割を果たしている。「日本書紀に書かれた御陵の方角には間違いもある」「綏靖天皇陵というのが実は神武天皇陵ではないでしょうか」と注意喚起している。 ※『菅笠日記』(すがかさのにっき)http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/shiryo/sugakasa_hon.html ※第8日の日記より。「そもそも御陵の御事を、こんなに狂ったように詳しく尋ね歩き記録するのは何故かと不思議に感じる方もいらっしゃるでしょうが、昔の物が後の代まで残るのはこれ以外にありません。この畝傍山関係のものは中でも特に古く、飛鳥関係は信頼できるので、年来気にして何とかして詳しくお参りして調べたいと心惹かれていたわけです。といっても、どこにあるのも同じ状態で特に珍しくもなく見るべきものもない所では、自分のような昔をしのぶ変人以外は、わざわざ尋ねて調べようとも思わないでしょう。どうしようもないお節介だと世間に思われても仕方がありません。」(現代語訳・諏訪邦夫) そして、時代は高山彦九郎、林子平と並ぶ“寛政の三奇人”(奇は優れたという意味)の1人、江戸時代後期の尊王論者・儒学者、蒲生君平(1768-1813)の登場を迎える。君平は近世古墳研究の大作『山陵志』を著した。 −−− 蒲生君平(秀実/ひでざね)は1768年に下野国(しもつけのくに/栃木県)・宇都宮の灯油商の家に生まれた。本姓は福田、通称伊三郎、号は修静庵。13歳で儒者鈴木石橋(せっきょう)の門人となり、毎日12kmの道を往復して国史古典を学び親しむ。師の塾では楠木正成が活躍する『太平記』を愛読し、帝への忠勤の志に感化され、勤皇思想に傾斜した。17歳のときに、水戸を訪れて勤王の志士・藤田幽谷(幕末の儒学者・藤田東湖の父)と交流。国家意識を特色とした水戸学の影響を受けて尊王の志をさらに厚くする。翌年、先祖が会津藩主・蒲生氏郷との家伝を知り、福田から蒲生と改姓。 1790年(22歳)、尊王論を唱えながら諸国を遊歴中だった尊王家・高山彦九郎(1747-1793)を慕って東北(宮城県石巻市)まで行くも会えず、帰路に仙台で蟄居中だった在野の知識人、経世家・林子平(しへい)を訪ねて、北辺の防備などの国事を語り合った。その対面の3年後、林子平が54歳で他界し、高山彦九郎が幕府の嫌疑を受け久留米にて46歳で自刃する。 1796年(28歳)、歴代の天皇陵が荒廃しているのを知り、これを嘆いて『山陵志』(さんりょうし)の編纂を意図して調査のため京都に上る。『古事記』『日本書紀』『延喜式』や古図など古代の史料に基づき、各陵墓の場所を国郡別に考証。被葬者を特定する際は、各時代による墳形の変遷も研究し、陵墓の形式、築造方法、地元の伝承など様々な視点を総合して判断を下した。帰途、伊勢にて国学者・本居宣長(1730-1801)を初めて訪問する。 1799年(寛政11年/31歳)再び山陵の実地調査におもむき、京都近郊のほか摂津、河内、和泉、大和にある近畿一帯の歴代天皇陵を全て実際に踏査(とうさ)した。帰途、再び本居宣長を訪問して大いに激励され、北陸から佐渡に渡って順徳陵火葬塚も実地踏査した。翌年、天皇陵の調査を終えて宇都宮に帰郷。身なりは粗末で疲労困ぱいしていたという。 1801年(33歳)、全国の荒廃した天皇陵や旧跡の調査結果をまとめた陵墓研究書『山陵志』(2巻)を脱稿、7年後(1808)に刊行される。同書で「前方後円墳」という用語を初めて使い、その名づけ親となった。「92ヵ所」もの陵墓を江戸時代中期に自らの足を使って調査した空前絶後の労作である。 第1巻に収録された54ヵ所の山陵は以下の通り。 ・神武陵、後醍醐陵など大和国31箇所 ・雄略陵、推古陵など河内国13箇所 ・仁徳陵、履中陵など和泉国3箇所 ・継体陵(摂津国)、光厳陵(丹波国/北朝初代天皇)、土御門陵(阿波国)、淳仁陵(淡路国)、崇徳陵(讃岐国)、後鳥羽陵(隠岐国)、順徳陵(佐渡国)の計7箇所 第2巻に収録された38ヵ所の山陵は以下の通り。 ・天智陵、桓武陵、白河陵、嵯峨陵、清和陵、高倉陵、後白河陵、正親町陵、そして後陽成以降の陵など山城国(京都近郊)38箇所 蒲生君平が最後に現地調査を行った1799年当時の天皇は第119代光格天皇(在位1780-1817)。その時点で最も新しい御陵は1779年に崩御した先帝、第118代後桃園天皇であるが、江戸時代前期から14代(第108代後水尾天皇以降)にわたって天皇は泉涌寺の石塔が墓となっており、山陵志には含まれていない。また深草北陵には1箇所で12名の天皇(北朝帝含む)が眠っている。 蒲生君平は漢文体で山陵の崇敬と復興を説いた同書を京都や江戸の学者たちに献納し、幕末の思想界に多大な影響を与えた。 1813年、『山陵志』刊行の4年後、江戸にて赤痢を患い45歳で病没。東京谷中(台東区)の臨江寺に墓、法名は修静院殿文山義章大居士。後に故郷へ分骨される。赤貧の中で『山陵志』を書きあげた蒲生君平は維新後に功績を賞され、明治天皇の勅命を受けた郷里の宇都宮藩知事が顕彰碑を建立、さらに1925年には宇都宮市に蒲生神社が創建され祭神として祀られた。 −−− 蒲生君平他界の4年後に生まれた江戸後期の国学者・山陵研究家の北浦定政(1817-1871)は、多数の古墳を抱く大和国(奈良県)古市の出身。優れた測量技術を持ち、日本各地の陵墓、そして平城京の旧跡を測量し、初めて平城京全体の位置を推定した。1848年、大和の天皇陵を調査した『打墨縄(うつすみなわ)』を刊行する。 1853年にペリーの黒船艦隊が来航。世の中は大騒ぎに! 1854年、江戸後期の京都町奉行所与力、山陵研究家、儒者の平塚飄斎(ひょうさい/1794-1875)=津久井清影が三条実万(さねつむ)らと「山陵会」を創設。各地の陵墓を訪れて山陵研究書『陵墓一隅抄』を著し、水戸の徳川斉昭に献呈する。1859年、安政の大獄で永蟄居(えいちっきょ)の処分を受けるが、3年後に赦された。その専門知識を買われ、文久年間の天皇陵治定・修補事業に従事。享年81歳。与力時代の天保の大飢饉では、私財を投げ打ち民衆を救済した義の人でもあった。 1860年、井伊大老が水戸・薩摩の浪士ら18人の襲撃を受け暗殺される(桜田門外の変)。 1862年(文久2年)、蒲生君平の死から半世紀、江戸時代で最大の陵墓修築となる『文久の修陵』(82箇所)が始まる。工事を担当したのは蒲生君平の郷土である下野国・宇キ宮藩。1865年まで3年がかりの大事業となった。この修陵が実施された背景はこうだ。 当時、井伊大老の暗殺やペリーとの弱腰外交で権威に傷がついた幕府は、朝廷と密接な関係を築く「公武合体」方針で威厳を取り戻そうとしていた。そして、井伊大老の後をうけた老中・安藤信正によって、公武合体の象徴となる将軍家と皇族の婚姻計画が進められていた。 1月、公武合体政策に反対した水戸浪士ら6人が、坂下門外で安藤信正を襲撃。負傷した信正は老中を辞職する。この事件で宇キ宮藩の尊皇論者・大橋訥庵(とつあん/1816-1862)が関係者として逮捕されており、宇キ宮藩は害が及ぶのを避ける必要があった。2月に第14代将軍・徳川家茂(1846-1866)と孝明天皇の妹・和宮(1846-1877/共に16歳)が結婚。 5月、当時15歳の若き宇都宮藩主・戸田忠恕(ただゆき/1847-1868)と彼を補佐する家老の間瀬和三郎(ませ・わさぶろう/後の戸田忠至※藩主と同じ“ただゆき”でややこしい)は、幕府を積極的に支えていくことで自藩への嫌疑を晴らそうと考え、「幕府が陵墓を修復することで朝廷とより良好な関係が築けるのではないか」と建白書を提出、これが認められて宇キ宮藩に修陵事業が一任された。 間瀬和三郎は藩主名代として上洛し、家老の県信緝(あがた・のぶつぐ)と共に修陵を開始。工事規模の大きさから初の山陵奉行が置かれ、10月に間瀬和三郎が山陵奉行に任じられた。 幕府は宇都宮藩に天皇陵の治定と修陵を命じており、間瀬和三郎(戸田忠至)は当代最高の山陵研究者として名高い京都の国学者・谷森善臣(1818-1911)を筆頭とする顧問団を結成し、ブレーンとして先述した陵墓測量の名手・北浦定政、永蟄居がとけたばかりの平塚飄斎、画家の岡本桃里らを集めた。 −−− 谷森善臣(よしおみ)は1818年生まれ。若い頃から勤王の志が篤く、山陵の荒廃を嘆いて畿内各地の陵墓を踏査し、1851年(33歳)に『諸陵徴』を、1855年(37歳)に『諸陵説』を著す。1862年(44歳)、山陵奉行・戸田忠至の下で平塚瓢斎・北浦定政らと山陵修補御用掛嘱託となり、陵墓の修築に加えてその考証・比定作業にも従事。翌年、山陵研究を評価した孝明天皇から恩賞を賜る。1867年(49歳)、『山陵考』を幕府に献上。1893年(75歳)、陵墓研究に対する多大な功績が認められ贈位され、最終的に正四位となった。1904年(86歳)、帝国年表調査委員となり、皇室系譜の調査や歴代天皇の確定に寄与。1911年11月16日、95歳で他界。雑司ヶ谷霊園に眠る。 ※以前、宮内庁書陵部陵墓課の方に「日本の陵墓研究で最大の功績があった人は誰ですか?蒲生君平ですか?」と聞いた際、「私の個人的意見では谷森義臣ですね」とのお答えでした。 −−− 同じ1862年、元僧侶の国学者・伴林光平(ばんばやし・みつひら/1813-1864)が大和・河内などの御陵を巡り、その荒廃を悲しんだ『野山のなげき』を書く。翌年、中山忠光らの天誅組の大和挙兵に参加し、参謀兼記録方として奮戦したが敗れ、獄中で義挙の経緯を回想した「南山踏雲録」を執筆。年が明けて同志20余名と京都の獄中で処刑された。享年50歳。仲津山古墳の墳頂で、酒宴をしながら勾玉等を盗掘していた僧侶の一団を追い払ったという。 1863年(文久3年)、家茂が公武合体のさらなる推進を図るため、実に230年ぶりとなる将軍上洛を行う。 慶応元年(1865)12月27日、足かけ3年で82箇所もの山陵を修復完了。要した経費は88代後嵯峨天皇陵の161両から神武陵の15062両まで、トータルで22万7569両にのぼったが、幕府が出してくれた資金は約6万両にとどまり、残りは戸田家の親戚である秋元但馬守(秋元志朝か礼朝)や、江戸・大坂の豪商に頼んで工面した。翌1866年、戸田忠至(間瀬和三郎)は一万石の大名として独立、下野高徳藩主・戸田家初代となった。 この陵墓修築事業は藩を救った。工事後半の1864年、水戸藩の天狗党メンバーが尊王攘夷を唱えて筑波山で挙兵した際、宇都宮藩兵は筑波山に出撃したものの天狗党に同情し、幕命が下る前に帰陣してしまう。怒った幕府は減封や転封処分を下しかけたが、山稜補修の功績よって処分が撤回された。 江戸時代の3度にわたる陵墓補修工事では、被葬者がはっきりと分からないケースは勇み足で無理に結論を出さず、12陵の治定が後世に託された。維新後、伊藤博文(1841-1909)伯爵は「万世一系の皇統を奉り戴く帝国なのに、歴代山陵に所在不明のものがあっては外交上の信頼を列国から得られない」とし、優秀な国学者を集めて明治以降も治定作業が続いた。 そして1889年(明治22年)夏、大日本帝国憲法というアジアで最初の憲法発布にあわせて、121代の天皇系譜に繋がるとされる明治天皇を対外的に宣言するために、未確定だった12名の御陵を含む、すべての天皇陵が治定された。まず6月3日に光孝天皇陵、村上天皇陵、冷泉天皇陵、円融天皇陵、三條天皇陵、二条天皇陵、順徳天皇陵、仲恭(ちゅうきょう)天皇陵、光明天皇陵、顕宗(けんぞう)天皇陵、武烈天皇陵が治定。続いて7月20日に後一条天皇天皇陵(改定)が治定、最後に7月25日に難航していた崇峻天皇陵(改定)と安徳天皇陵の治定が完了した。安徳帝には複数の陵墓候補地があったが明治天皇自身が下関壇ノ浦赤間の候補地(旧阿弥陀堂)を地元の伝承に基づき選んだ。 いやはや、陵墓の確定をめぐってこのようにいろんな人間ドラマがあり、歴史はまっこと面白い。本居宣長は「自分のような昔をしのぶ変人以外は、わざわざ尋ねて調べようとも思わない」と自嘲気味に綴っているけど、その“変人”の粉骨砕身の努力、執念の調査が過去と未来を結んでいる。素晴らしき先輩たちに心から感謝! |
●弥生時代(B.C.6世紀-A.D.3世紀) 1 神武(じんむ)天皇…畝傍山東北陵 円丘 山本ミサンザイ古墳(神武田古墳) 奈良県橿原市大久保町
2 綏靖(すいぜい)天皇…桃花島田丘上陵 円丘 塚山古墳 奈良県橿原市四条町 3 安寧(あんねい)天皇…畝傍西南御陰井上陵 山形 奈良県橿原市吉田町 4 懿徳(いとく)天皇…畝傍山南繊沙渓上陵 山形 奈良県橿原市西池尻町 5 孝昭(こうしょう)天皇…掖上博多山上陵 山形 奈良県御所市三室 6 孝安(こうあん)天皇…玉手丘上陵 円丘 奈良県御所市玉手 7 孝霊(こうれい)天皇…片丘馬坂陵 山形 奈良県北葛城郡王寺町 8 孝元(こうげん)天皇…剣池嶋上陵 山形 中山塚1〜3号墳 奈良県橿原市石川町 9 開化(かいか)天皇…春日率川坂本陵 前方後円 念仏寺山古墳 奈良市油阪町 10 崇神(すじん)天皇…山辺道勾岡上陵 前方後円 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 11 垂仁(すいにん)天皇…菅原伏見東陵 前方後円 宝来山古墳 奈良市尼辻町 (西暦で分けるのも変だけど、あくまでも時間感覚の目安として、ここまでが紀元前に即位) 12 景行(けいこう)天皇…山辺道上陵 前方後円 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 13 成務(せいむ)天皇…狭城盾列池後陵 前方後円 佐紀石塚山古墳 奈良市山陵町 14 仲哀(ちゅうあい)天皇…恵我長野西陵 前方後円 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺4 ※崩御後、70年間空白。この頃、卑弥呼率いる邪馬台国最盛期。 15 応神(おうじん)天皇…恵我藻伏崗陵 前方後円 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 16 仁徳(にんとく)天皇…百舌鳥耳原中陵 前方後円 大仙陵古墳 堺市堺区大仙町 (この頃、大和朝廷が成立) 17 履中(りちゅう)天皇…百舌鳥耳原南陵 前方後円 上石津ミサンザイ古墳 堺市西区石津ヶ丘 18 反正(はんぜい)天皇…百舌鳥耳原北陵 前方後円 田出井山古墳 堺市堺区北三国ヶ丘町 19 允恭(いんぎょう)天皇…恵我長野北陵 前方後円 国府市ノ山古墳 大阪府藤井寺市国府 20 安康(あんこう)天皇…菅原伏見西陵 方丘 奈良市宝来町 21 雄略(ゆうりゃく)天皇… 丹比高鷲原陵 円丘 島泉丸山古墳+平塚古墳 大阪府羽曳野市島泉 22 清寧(せいねい)天皇…河内坂門原陵 前方後円 西浦白髪山古墳 大阪府羽曳野市西浦 23 顕宗(けんぞう)天皇…傍丘磐杯丘南陵 前方後円 奈良県香芝市北今市 24 仁賢(にんけん)天皇…埴生坂本陵 前方後円 野中ボケ山古墳 大阪府藤井寺市青山 25 武烈(ぶれつ)天皇…傍丘磐杯丘北陵 山形 奈良県香芝市今泉 26 継体(けいたい)天皇…三島藍野陵 前方後円 太田茶臼山古墳 大阪府茨木市大字太田
27 安閑(あんかん)天皇…古市高屋丘陵 前方後円 高屋築山古墳 大阪府羽曳野市古市5 28 宣化(せんか)天皇…身狭桃花鳥坂上陵 前方後円 鳥屋ミサンザイ古墳 奈良県橿原市鳥屋町 29 欽明(きんめい)天皇…檜隈坂合陵 前方後円 梅山古墳 奈良県高市郡明日香村大字平田 30 敏達(びだつ)天皇…河内磯長中尾陵 前方後円 太子西山古墳 大阪府南河内郡太子町 31 用明(ようめい)天皇…河内磯長原陵 方丘 春日向山古墳 大阪府南河内郡太子町 32 崇峻(すしゅん)天皇…倉梯岡陵 円丘 奈良県桜井市大字倉梯 ●飛鳥時代(592-710)
33 推古(すいこ)天皇…磯長山田陵 方丘 山田高塚古墳 大阪府南河内郡太子町 34 舒明(じょめい)天皇…押坂内陵 八角 忍坂段ノ塚古墳 奈良県桜井市大字忍坂 35 皇極(こうぎょく)天皇…37代斉明と同一人物 36 孝徳(こうとく)天皇…大阪磯長陵 円丘 山田上ノ山古墳 大阪府南河内郡太子町 37 斉明(さいめい)天皇…越智崗上陵 円丘 車木ケンノウ古墳 奈良県高市郡高取町 38 天智(てんじ)天皇…山科陵 八角 山科御廟野古墳 京都市山科御陵上御廟野町 39 弘文(こうぶん)天皇…長等山前陵 円丘 園城寺亀丘古墳 滋賀県大津市御陵町 40 天武(てんむ)天皇…檜隈大内陵 八角 野口王墓古墳 奈良県高市郡明日香村 41 持統(じとう)天皇…檜隈大内陵 八角 野口王墓古墳(天武と合葬) 奈良県高市郡明日香村 42 文武(もんむ)天皇…檜隈安古岡上陵 山形 栗原塚穴古墳 奈良県高市郡明日香村大字栗原 ●奈良時代(710-794) 43 元明(げんめい)天皇…奈保山東陵 山形 奈良市奈良阪町 44 元正(げんしょう)天皇…奈保山西陵 山形 奈良市奈良阪町 45 聖武(しょうむ)天皇…佐保山南陵 山形 奈良市法蓮町 46 孝謙(こうけん)天皇…48代称徳と同一人物 47 淳仁(じゅんにん)天皇…淡路陵 山形 兵庫県三原郡南淡町 48 称徳(しょうとく)天皇…高野陵 前方後円 佐紀高塚山古墳 奈良市山陵町 49 光仁(こうにん)天皇…田原東陵 円丘 奈良市日笠町 ●平安時代(794-1192)
50 桓武(かんむ)天皇…柏原陵 円丘 京都市伏見区桃山町 51 平城(へいぜい)天皇…楊梅陵 円丘 市庭古墳 奈良市佐紀町 52 嵯峨(さが)天皇…嵯峨山上陵 円丘 京都市右京区北嵯峨朝原山町 53 淳和(じゅんな)天皇…大原野西嶺上陵 円丘 京都市西京区大原野南春日町 54 仁明(にんみょう)天皇…深草陵 方形 京都市伏見区深草東伊達町 55 文徳(もんとく)天皇…田邑陵 円墳 太秦三尾古墳 京都市右京区太秦三尾町 56 清和(せいわ)天皇…水尾山陵 円丘 京都市右京区嵯峨水尾清和 57 陽成(ようぜい)天皇…神楽岡東陵 八角丘 京都市左京区浄土寺真如町 58 光孝(こうこう)天皇…後田邑陵 円丘 京都市右京区宇多野馬場町 59 宇多(うだ)天皇…大内山陵 方丘 京都市右京区鳴滝宇多野谷 60 醍醐(だいご)天皇…後山科陵 円形 京都市伏見区醍醐古道町 61 朱雀(すざく)天皇…醍醐陵 円丘 伏見区醍醐御陵東裏町 62 村上(むらかみ)天皇…村上陵 円丘 京都市右京区鳴滝宇多野谷 63 冷泉(れいぜい)天皇…桜本陵 円丘 京都市左京区鹿ヶ谷法然院町 64 円融(えんゆう)天皇…後村上陵 円丘 京都市右京区宇多野福王子町 65 花山(かざん)天皇…紙屋川上陵 方丘 京都市北区衣笠北高橋町 66 一條(いちじょう)天皇…円融寺北陵 円丘 京都市右京区竜安寺 67 三條(さんじょう)天皇…北山陵 円丘 京都市北区衣笠西尊上院町 68 後一條(ごいちじょう)天皇…菩提樹院陵 円丘 京都市左京区吉田神楽岡町 69 後朱雀(ごすざく)天皇…円乗寺陵 円丘 京都市右京区竜安寺朱山 70 後冷泉(ごれいぜい)天皇…円教寺陵 円丘 京都市右京区竜安寺朱山 71 後三條(ごさんじょう)天皇…円宗寺陵 円丘 京都市右京区竜安寺朱山 72 白河(しらかわ)天皇…成菩堤院陵 方丘 京都市伏見区竹田浄菩堤院町
73 堀河(ほりかわ)天皇…後円教寺陵 円丘 京都市右京区竜安寺朱山 74 鳥羽(とば)天皇…安楽寿院陵 方形堂 京都市伏見区竹田内畑町 75 崇徳(すとく)天皇…白峯陵 方丘 香川県坂出市青海町 76 近衛(このえ)天皇…安楽寿院南陵 多宝塔 京都市伏見区竹田内畑町 77 後白河(ごしらかわ)天皇…法住寺陵 方形堂 京都市東山区三十三間堂廻り町 78 二條(にじょう)天皇…香隆寺陵 円丘 京都市北区平野八丁柳町 79 六條(ろくじょう)天皇…清閑寺陵 円丘 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町 80 高倉(たかくら)天皇…後清閑寺陵 方丘 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町 81 安徳(あんとく)天皇…阿弥陀寺陵 円丘 山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮内 ●鎌倉時代(1192-1333) 82 後鳥羽(ごとば)天皇…大原陵 石造十三重塔 京都市左京区大原勝林院町 83 土御門(つちみかど)天皇…金原陵 八角丘 京都府長岡京市金ヶ原 84 順徳(じゅんとく)天皇…大原陵 円丘 京都府左京区大原勝林院町 85 仲恭(ちゅうきょう)天皇…九条陵 円丘 京都市伏見区深草本寺山町 86 後堀河(ごほりかわ)天皇…観音寺陵 円丘 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 87 四條(しじょう)天皇…四条 月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 88 後嵯峨(ごさが)天皇…嵯峨南陵 方形堂 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天龍寺内 89 後深草(ごふかくさ)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町 90 亀山(かめやま)天皇…亀山陵 方形堂 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天龍寺内 91 後宇多(ごうだ)天皇…蓮華峯寺陵 方形堂・石造五輪塔 京都市右京区北嵯峨朝原山町 92 伏見(ふしみ)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町 93 後伏見(ごふしみ)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町 94 後二條(ごにじょう)天皇…北白河陵 円丘 京都市左京区白河追分町 95 花園(はなぞの)天皇…十楽院上陵 円丘 京都市東山区粟田口三条坊町 ●室町・南北朝時代(1333-1573) 96 後醍醐(ごだいご)天皇…塔尾陵 円丘 奈良県吉野郡吉野町吉野山 如意輪寺内 97 後村上(ごむらかみ)天皇…檜尾陵 円丘 大阪府河内長野市寺元 観心寺内 98 長慶(ちょうけい)天皇…嵯峨東陵 円丘 京都市右京区嵯峨天龍寺角倉 99 後亀山(ごかめやま)天皇…嵯峨小倉陵 石造五輪塔 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂 ※北朝
1 光厳(こうごん)天皇…山国陵 円丘 京都市右京区京北井戸町丸山
2 光明(こうみょう)天皇…大光明寺陵 円丘 京都市伏見区桃山町
3 崇光(すこう)天皇…大光明寺陵 円丘 京都市伏見区桃山町
4 後光厳(ごこうごん)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町 5 後円融(ごえんゆう)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
100 後小松(ごこまつ)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町 ※1392年に南北朝が合体し、後小松天皇は歴代100代目にして統一時の天皇となった。 101 称光(しょうこう)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町
102 後花園(ごはなぞの)天皇…後山国陵 石造宝篋印塔 京都市右京区京北井戸町丸山 103 後土御門(ごつちみかど)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町 104 後柏原(ごかしわばら)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町 105 後奈良(ごなら)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町 ●安土桃山時代(1573-1603) 106 正親町(おおぎまち)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町 ●江戸時代(1603-1867)
107 後陽成(ごようぜい)天皇…深草北陵 方形堂 京都市伏見区深草坊町 108 後水尾(ごみずのお)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 109 明正(めいしょう)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 110 後光明(ごこうみょう)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 111 後西(ごさい)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 112 霊元(れいげん)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 113 東山(ひがしやま)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 114 中御門(なかみかど)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 115 桜町(さくらまち)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 116 桃園(ももぞの)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 117 後桜町(ごさくらまち)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 118 後桃園(ごももぞの)天皇…月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 119 光格(こうかく)天皇…後月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 120 仁孝(にんこう)天皇…後月輪陵 石造九重塔 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 121 孝明(こうめい)天皇…後月輪東山陵 円丘 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 ●近現代
122 明治(めいじ)天皇…伏見桃山陵 上円下方 京都市伏見区桃山町 123 大正(たいしょう)天皇…多摩陵 上円下方 東京都八王子市長房町 124 昭和(しょうわ)天皇…武蔵野陵 上円下方 東京都八王子市長房町 過去の天皇継承は 1世(子供):110例 2世( 孫 ):8例 3世(ひ孫):5例 4世(玄孫):0 5世(来孫):1例 と、基本的に3世までで継承されており、最低でも曽祖父が天皇であることが条件。 また、皇籍離脱者の即位例は宇多天皇の離脱期間3年であり、60年も皇籍離脱後に天皇即位した例はない。 |
建国記念日に神武天皇陵を墓参。橿原神宮の前は右派のお兄さんで大賑わい!(汗) |
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