ジョンほど容姿が激変したミュージシャンはいないのでは。しかも左端から4枚目まで10年ちょいしか経ってない! |
ジョンが5歳から20代前半まで青春時代を 過ごしたミミ伯母さんの家(1989) |
ストロベリー・フィールズは救世軍の旧孤児院。 幼少期に敷地の庭園で遊んだ(2015) |
子ども時代の思い出の小道、ペニー・レイン (2015) |
ポールの生家 かわいい庭付きの長屋。 現在、ナショナルトラスト が管理している |
リンゴの生家 メンバー4人の中では 最も下町にある |
ジョージの生家…ではない!? お向かいの家と間違えた! 1989年から2022年まで ずっと勘違いしてました(汗) |
下積み時代のビートルズが才能を開花させた「キャバーンクラブ」 リバプールの観光名所となっており、道を挟んで青年ジョン像が立つ |
付近には後年のジョン像もある |
キャバーンのあるマシューストリートは「The Home of the Beatles」とアピール |
こちらはニューヨーク、 自宅ダコタ・ハウス(2000) |
このダコタ・ハウスの前でジョンは射殺された (2009) |
マンハッタンの北方にあるこのFerncliff Cemetery and Mausoleumでジョンは火葬に…(2009) |
ジョンの追悼碑であり、事実上のお墓。 訪問したのがリンゴ・スターの誕生日の翌日 だったのでリンゴの写真があった(2000) |
それぞれの思いを胸に、各地からストロベリー・ フィールズにやって来たビートルズ・ファンたち |
この時は猛烈な夕立ちの直後で誰も いなかった。普段は人がいっぱい (2009) |
楽器を持ったファンがたくさんいて、皆のリクエストに応えてビートルズ・ナンバーを次々と演奏していた 傑作『イマジン』はわずか3分間の短い曲だけど、平和・反戦の強いメッセージが聴く者に勇気と希望を与える |
ジョン・レノンはイギリス出身のシンガー・ソングライター。「ビートルズ」の中心として多くのヒット曲を作詞・作曲するとともに、ボーカルとギターを担当した。
1940年10日9日にリバプールで生まれた。当時は第二次世界大戦の真っ只中でリバプールは独軍の空襲を受けていた。出生時に父アルフレッドは船乗りで不在、母ジュリアは他の男と同棲したため、幼いジョンは伯母ミミ(母の姉)の家で育てられる。6年後に父が帰国しジョンを引き取るが、数週間後に母が連れ戻して再び姉に預け、父は蒸発した。 1952年、12歳のときに6年制の進学校クォリーバンク校に入学。 港町のリバプールには新しいものを好む気風があり、貨物船の乗組員がアメリカから持ち込んだリズム・アンド・ブルースにジョンは興味を持つ。英国ではジャズ的なスキッフル音楽のブームが起きる。 1955年(15歳)、ジョンの父親代わりだった伯父が死去。 1956年(16歳)、ジョンはプレスリーの『ハートブレイク・ホテル』を聴いてロックに感電し、通信販売でギターを購入した。 『ハートブレイク・ホテル』 https://www.youtube.com/watch?v=oIwTnPPdEOY (2分10秒) 同年11月、近所に母ジュリアが住んでいることを知ったジョンは、ギター(ミミ伯母さんから贈られたもの?)を手に母のもとへ遊びに行くようになる。再会した母はジョンにバンジョーのコードを教えた。この頃、イギリスでロニー・ロネガンの『ロック・アイランド・ライン』が大ヒットし、ジャズ・フォーク的なスキッフル・ブームが起きたことから、ジョンは高校の友人たちと4人でスキッフル・バンド「ザ・ブラック・ジャックス」を結成。 『ロック・アイランド・ライン』 https://www.youtube.com/watch?v=6jNiGOb-b8A (3分) ※この年、14歳のポール・マッカートニーは母を乳癌で亡くしている。また、のちにジョンと結婚するオノ・ヨーコが23歳で同い年の作曲家・一柳 慧(いちやなぎ とし/1933-2022)と結婚している。ヨーコはニューヨーク州のサラ・ローレンス大学に通っていたが、ジュリアード音楽院(NY)で学んでいた一柳と恋に落ち、退学して結婚。前衛芸術活動を開始する。 1957年(17歳)、3月にバンド名を学校名にちなみ「ザ・クオリーメン」と改名。7月6日、セントピーターズ教会の野外バザー会場で演奏し、ジョンは友人の紹介で聴衆にいた2歳年下のポール・マッカートニー(1942-/当時15歳)と出会う。ポールはその場でギターを手に取りロックのメドレーを歌い、ギター、ドラムス、ピアノ、トランペットが演奏できたうえ、「作曲が好き」と語ったことから、ジョンはすっかり感心して彼をバンドに誘った。10月18日にポールがザ・クオリーメンに加入(ウィキにはジョンとの初対面の翌日に加入となっている)。同月クオリーメンとしての初の公式なステージを踏む。同年、レノンは美術学校(リバプール・カレッジ・オブ・アート)に入学。年末にジョンは初めて作曲に挑戦、『ハロー・リトル・ガール』を書きあげた。バンジョーのコードしか知らなかったため、弦4本で演奏できる曲だった。 『ハロー・リトル・ガール』 https://www.youtube.com/watch?v=wucEZvFL2pM (1分53秒) 1958年(18歳)2月6日、ポールの紹介でジョージ・ハリスン(1943-2001)がクオリーメンのオーディションを受けた。ジョージはまだ15歳だったが、ジョンとポールよりもギターのコードを覚えており、またジョージの親が騒音に耐えて練習場所を提供してくれたこともあり、ジョンは加入を認めた。この時点のメンバー5人で7月に初めてレコードを自主制作した。A面にバディ・ホリーのカバー曲、B面にポールが書いた「In Spite Of All The Danger」を収録した。彼らはチャック・ベリー、エルビス・プレスリー、ビル・ヘイリーらアメリカのミュージシャンに憧れた。 同年7月15日、酒に酔った非番の警官が運転する車に、母ジュリアがはねられ44歳で亡くなる。長く空白だったジョンと母子の関係がようやく深まり始めたその矢先の悲劇だった。ジョンは大きな喪失感に包まれる。ポールも2年前に母を乳癌で亡くしており、2人の友情は強くなった。 1959年(19歳)1月、バンドのメンバーは就職などで脱退が続き、クオリーメンはジョン、ポール、ジョージの3名になってしまう。8月29日、ジョージの友人の母親がクラブ「カスバ」をオープンし、開店イベントでクオリーメンは演奏した。ベースにケン・ブラウンを加え、ギター4本でドラムがいないバンドだったが、好評を得て毎土曜に演奏することになった。10月にバンド名を「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」に改名。 1960年(20歳)、ジョンは美術学校の親友で共同生活をしていたスチュアート・サトクリフをバンドに誘う。サトクリフはちょうど絵が売れて臨時収入があったためベースを購入して参加、4月にバンド名が「シルヴァー・ビートルズ」になった。 8月に知り合いの興行主からドイツ・ハンブルク公演を持ちかけられる。リバプールと同じく港町ハンブルクでもアメリカのロックが人気だったが、アメリカからバンドを呼ぶと高くつくため、イギリスでアメリカのロックをやっているバンドが求められた。巡業のためドラマーが必要となった彼らは、当時出演していた「カスバ」クラブの息子のイケメンドラマー、ピート・ベストを仲間に入れ、新バンド名《ザ・ビートルズ》がここに誕生した。メンバー5人の年齢は、ジョン20歳、ポール18歳、ジョージ17歳、サトクリフ20歳、ピート19歳。4年前にジョンが最初に結成した「ザ・ブラック・ジャックス」からここに至るまで、所属したメンバーは20名強。 ハンブルクの歓楽街は欧州最大。同月、彼らがハンブルクに渡ると、出演先は元ストリップ劇場を改装したクラブであり、寝泊まりするのは映画館の2階と言われ面食らったが、毎日6〜8時間もステージにあがったことで演奏が上達した。1か月後に格上のクラブ「カイザーケラー」に出演先がランクアップ。観客はノリが良く、ジョンもステージに海水パンツであがってお尻を丸出しにして一曲歌ったり、首から便座をぶら下げたり、大いにはっちゃけた。交代で出ていた他のバンドはリンゴ・スターがリーダーを務めており、ピートに用事があるときはリンゴにドラムを叩いてもらった。 ハンブルクの「カイザーケラー」(2015) ハンブルク滞在が3カ月に達したころ、ジョージがまだ17歳なのに22時以降も働いていることが発覚して強制送還され、ポールとピートもボヤ騒ぎを起こして強制送還となり、第1回の巡業は終わった。現地でサトクリフは写真家の卵アストリッドと恋に落ち婚約。彼女はサトクリフの髪型をマッシュルームカットにし、ジョージがそれを真似、のちに初期ビートルズのトレードマークとなる。また、彼女が黒の革ジャンを着ていたので、メンバーも真似するようになった。 1961年(21歳)1月、ビートルズはオーディションを受けて、リヴァプールの「キャヴァーン・クラブ」にレギュラー出演し始める。当初、観客はドイツから来たバンドと勘違いし、「ドイツ人の割に英語が上手い」と思われた。他のバンドはスーツを着ていたが、ビートルズだけは革ジャンでロックをやり、人気に火がついた。ロック嫌いの客からはブーイングと小銭が投げつけられたが、それを拾い集めるとギャラよりも多かったため客席に御礼を言うと、もう小銭は飛んでこなかった。 4月、ビートルズは2度目のハンブルク巡業を行う。公演後、サトクリフは本格的に画家の道を歩むことを決意、ビートルズを脱退してハンブルク美術大学に入った。かわりにポールがベーシストに転向した。 1962年(22歳)、1月24日にのちに伝説的マネージャーとなるブライアン・エプスタイン(リバプールのレコード店のオーナー)がビートルズと5年契約を結ぶ。4月11日にビートルズが3回目の巡業でハンブルクを訪れると、空港でアストリッドから「サトクリフが脳出血で急死した」と知らされる。享年21。ジョンが人前で泣くのをピートは初めて見たという。ジョンは生涯サトクリフの遺品のマフラーを手放すことは無かった。ジョン「彼はもう一人の自分のような存在だった」。 同年、エプスタインのマネージメントで EMI傘下のレーベルと契約を結び、6月6日にデビュー・シングルのレコーディングを開始。ポールが作曲し、ジョンのハーモニカから始まるラブソング『ラブ・ミー・ドゥ』がA面に選ばれた。ところが、ピートはドラムの腕がイマイチでバンドの演奏が締まらず、プロデューサーのジョージ・マーティンはこのセッションから2か月後にピートを解雇した。この決定は大騒ぎになった。ビートルズの女性ファンには、甘いマスクのピートが一番人気で、リバプールの女の子はピートを見に来ていた。リンゴの加入が決まると、ピートのファンは「ピートをクビにしないで!」「リンゴではなくピートを!」と、抗議デモまで行ったが決定は変わらなかった。 9月4日、新メンバーのリンゴ・スターがレコーディングでドラムスを演奏し、10月5日に『ラブ・ミー・ドゥ』が発売されレコード・デビューを果たす。この曲は全英チャート17位まで上昇し初ヒットとなった。エプスタインはビートルズを「革ジャン、ジーンズ、くわえタバコの演奏」という不良イメージから、「スーツ、ネクタイ、演奏後に一礼」の好青年にイメージチェンジさせた。 以降、ビートルズは1960年代の若者文化のアイコンとなっていく。ジョンはポールと共に作詞・作曲を担当し、リーダー的な存在となった。 同年、ジョンはシンシア・パウエルと結婚し翌年息子ジュリアンが誕生する。シンシアの回想「ジョンとの日々は毎日が刺激的で最高に幸せな思い出。他の男は退屈だった」。 この年、オノ・ヨーコ(29歳)が一柳 慧と離婚している。 1963年(23歳)、1月にリリースされたセカンドシングル『プリーズ・プリーズ・ミー』がチャート1位の大ヒットとなり英国で一躍人気バンドとなる。 『プリーズ・プリーズ・ミー』 https://www.youtube.com/watch?v=czw8eqepir8 (2分) 3月22日にファースト・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を発売すると連続30週間も第1位が続き、このアルバムを2位に引きずり下ろしたのは、11月22日に出したセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』だった。 『プリーズ・プリーズ・ミー』(アルバム/14曲) https://youtu.be/oxwAB3SECtc 『ウィズ・ザ・ビートルズ』(14曲) https://youtu.be/UVKU6SevefY ビートルズは両アルバムで51週間もイギリスのアルバムチャートの第1位に君臨した。シングルの方も、4月に3枚目『フロム・ミ・トゥ・ユー』を出すと7週連続1位になり、8月に『シー・ラヴズ・ユー』、11月に『抱きしめたい』とミリオン・セラーを連発していく。年末には、ビートルズはイギリスで最も人気のあるロックグループに成長していた。 『抱きしめたい』 https://www.youtube.com/watch?v=v1HDt1tknTc (2分25秒)※「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上を売り上げた。 この間、10月に人気テレビ番組に出演して視聴率50%を叩き出し、1500万人が演奏を視聴したことでイギリスでの人気を決定的にした。メディアは熱狂するファンを「ビートルマニア」と呼んだ。11月4日にロンドンで王室御前コンサートに出演し、エリザベス皇太后、マーガレット王女(女王の妹)とその夫が臨席した(エリザベス女王はエドワード王子を妊娠中で欠席)。ジョンはこの公演で最後の曲『ツイスト・アンド・シャウト』の直前に「次の曲は皆さんもご一緒に。安い席の人々は手拍子をして下さい、高い席の人々は宝石をジャラジャラ鳴らして下さい」と労働者階級出身のバンドらしい伝説のジョークをぶっ放した。そして演奏後、メンバーはまず観客席にお辞儀し、次に貴賓席(きひんせき)にお辞儀した。 王室御前コンサート『ツイスト・アンド・シャウト』(ジョンのジョーク入り) https://www.nicovideo.jp/watch/sm2150774 (3分18秒) ※この年、6月11日にヨーコ(当時30歳)はアメリカの映像作家アンソニー・コックス(1936-/当時27歳)と再婚。8月に娘の京子が生まれる。11月ケネディ大統領が暗殺される。 1964年(24歳)、1月にアメリカでもシングル『シー・ラヴズ・ユー』『抱きしめたい』が大ヒットし、2月に渡米して『エド・サリヴァン・ショー』にテレビ出演。アメリカのテレビ史上最高視聴率を記録し、視聴者数は7300万人に達した。同月ワシントン・コロシアムやカーネギー・ホールでアメリカ公演を行い、4月4日にアメリカでチャート上位5位までをビートルズが独占した。6月からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る世界ツアーが開催される。7月6日、映画『ハード・デイズ・ナイト(ビートルズがやって来る ヤァ! ヤァ! ヤァ!)』(リチャード・レスター監督)が公開され、世界的なビートルズ旋風を巻き起こしていく。7月10日に映画のサントラ盤(サードアルバム)がリリースされると、12週間トップだったローリング・ストーンズのファーストアルバムを引きずり下ろし、21週間連続1位を守った。 『ハード・デイズ・ナイト』(アルバム/13曲) https://youtu.be/USdM7Mxy1U4 (31分) この間、日本でも2月にシングル『抱きしめたい』でデビュー。3月にリリースされたシングル『キャント・バイ・ミー・ラヴ』が、アメリカでは予約だけで210万枚、イギリスでも予約枚数が100万枚に達し、ギネスブックに「最も予約枚数があったレコード」として記載される。 『キャント・バイ・ミー・ラヴ』 https://www.youtube.com/watch?v=h3WJiqc_bEs (2分11秒) 8月から第2回アメリカツアーを行い、34日間に24都市で32公演を開催する驚異的な過密スケジュールをこなした。その際、7月に施行された公民権法を受け、演奏会場“ゲイター・ボウル”の人種隔離政策が問題になった。ビートルズは「(人種で座席やトイレを別々にしたり)人種隔離政策を取っているような場所での公演を拒否する。人種差別だなんてどうかしている。馬鹿らしい。動物扱いは許されない。英国の公演では隔離なんかしない」と宣言、多くのアメリカ人を刺激するのを承知で、敏感な問題に立ち入り、堂々と主張した。契約書にも「隔離された観客の前で演奏を要求されない」という一文を入れた。ポール「(差別は)受け入れがたいね。バカげている」。リンゴ「人々のために演奏する。“あの人たち”や“この人たち”じゃない。人々のための演奏だ」。ゲイター・ボウルが人種隔離を撤回した後、南部の大きなスタジアムはすべて人種隔離を撤回した。 ※1964年9月11日に、フロリダ州ジャクソンビルのゲイター・ボウル・スタジアムでのライブに行った黒人女性、歴史家キティ・オリヴァー博士の回想「その夏、南部の公民権運動家3人が行方不明になり、死体で発見された。当時、私は15歳。隔離政策の中で生きていた。今では想像もできないようなアパルトヘイト政策。あの頃、ただ1人話ができた白人は居住区にやってくるセールスマン。そんなときビートルズが来ると聞き、“今こそ何かが変わる”と感じていた。初めてのコンサートに1人で出かけた。そしてもの凄く驚いたのは、私の席の周りにいろんな人々がいたこと。白人たちが大勢いて、みんなで立ち上がり、追い切り大声で叫んで一緒に歌いまくった。“違う人々といる”という初めての経験だった。でも“違い”なんか、たちまち消えると知った」。 12月4日、4枚目のアルバム『ビートルズ・フォー・セール』を発売。 『ビートルズ・フォー・セール』(14曲) https://www.youtube.com/watch?v=SUQD8MwEOfs (35分) 同年、グラミー賞の「最優秀新人賞」「最優秀ボーカル・グループ賞」を受賞。 1965年(25歳)、7月に映画『HELP! 4人はアイドル』が公開され、8月6日にサントラ『ヘルプ!』(5枚目のアルバム)がリリースされた。収録曲のバラード『イエスタデイ』はビートルズを代表するナンバーのひとつとなった。 『イエスタデイ』 https://www.youtube.com/watch?v=NrgmdOz227I (2分) 『HELP!』(アルバム/12曲) https://youtu.be/MKUex3fci5c ※ジョン「僕らは(ツアーで)オリに入れられて、触られたりちょっかい出されたり、まるでサーカスの動物みたいな気分だったよ。僕は本気で“助けてくれ!”って歌ってた」 3回目のアメリカツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなった。その代わりにコンサート会場として、一度に何万人もの観客を集めることができる野球場を使うことになった。8月15日、ニューヨークのシェイ(シェア)・スタジアムで、55,600人という当時としては世界最大の観客動員数を記録する野外コンサートを開催した。ビートルズは野外スタジムでコンサートをした最初のミュージシャンであり、これはスポーツ競技場などを使った後世の大規模野外コンサートの先駆けとなった。 8月27日、ビートルズはロスのプレスリー宅に招かれた。ジョンは「エルヴィスがいるからこそ今の自分がある」と思っていた。部屋でくつろぐ彼を見てメンバーが感激して固まると、プレスリーは「ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけ、即興演奏が始まった。プレスリーのベース、ポールのピアノ、ジョンとジョージのギターという豪華さ、リンゴはドラムがないのでビリヤードなどを楽しんだ。プレスリーが「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言うと、ジョンはいつもの癖で過激なジョークを言ってしまう。「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」。さらにジョンはプレスリーの映画をワンパターンとけなし、その場が凍りついた。プレスリーはジョンを嫌い、以後、ポールやジョージの曲だけをカバーした。 10月26日、メンバーに対して外貨獲得の功績でエリザベス女王からMBE勲章(大英帝国五等勲功章)が贈られた。この勲章の過去の受章者から「風紀を乱すロックの若造たちにこの勲章を授与するとはけしからん」と抗議の声があがり、863個のもの勲章が返却された。ジョンは「彼らは戦争で人を殺して勲章をもらったが、僕らは人を楽しませて勲章をもらった」と反発した。 12月3日に6枚目のアルバム『ラバー・ソウル』を発売。ジョン「このアルバムはビートルズが音楽的に同時代に影響を与えた最初のアルバムだ」。『ノルウェーの森』でのインドの楽器シタールの導入はラヴィ・シャンカルの影響を受けたハリスンの提案。同月、最後のイギリスツアーを行う。 『ラバー・ソウル』(14曲) https://youtu.be/kfSQkZuIx84 1966年(26歳)3月、ジョンがイギリスのインタビューで「ビートルズはキリストよりも有名だ」と発言。真意は「若者にはそれくらいの影響力がある」というものだったが、米国で発言が切り取られて大騒ぎになり、多くのキリスト教国のラジオ局がビートルズの曲を一時的に放送禁止とし、KKKの扇動もあって大規模な不買運動が起き、レコードがロードローラーで踏み潰されたり、焼き捨てられたりした。 6月24日から7月5日まで西ドイツと日本、フィリピンを回る最後の世界ツアーを行うが、キリスト教発言でビートルズは殺害予告を受けていたため、ものものしい警備体制となった。来日したビートルズは史上初めて日本武道館をコンサートに使用している。 7月6日、ビートルズはインドを初訪問。 8月5日 、7枚目のアルバム『リボルバー』を発売。ジョン「ラバーソウルは大麻アルバムで、リボルバーはLSDアルバムだ」。このアルバムには、複雑なリズムをもった『ペイパーバック・ライター』、社会的メッセージを込めた『エリナー・リグビー』、子ども向けの『イエロー・サブマリン』などバラエティーに富んだ楽曲があり、サイケデリック・ロック・ナンバー『トゥモロー・ネバー・ノウズ』において、ジョンは逆回転やテープ・ループなど実験的な音づくりを試みた。公の場でのコンサートはこの年が最後となった。 『リボルバー』(14曲) https://youtu.be/l0zaebtU-CA 8月11日、ジョンがシカゴで謝罪会見を行い、「(宗教の話は)イギリスでの現状を指摘しただけだ。子どもたちにとっては、宗教よりも大きな存在だってね。優劣の問題じゃないし、キリストとの比較もしていない」と弁明、騒動は鎮静化していった。アメリカでの公演は8月29日のキャンドルスティック・パークが最後となった。 11月9日、ジョンはロンドンの画廊で7歳年上の前衛芸術家オノ・ヨーコ(小野洋子、1933-/当時33歳)と出会う。ヨーコの個展の開催前日に訪れたジョンは、そこに展示されていた作品《天井の絵》に惹かれた。ヨーコが半年前に制作したもので、部屋の中央に白い脚立が置かれており、観客はそれを昇り天井にぶら下がった虫眼鏡を使って、天井に貼られたキャンバスの小さな文字を見るという作品だった。ジョンの回想「素晴らしい日本人の女の子がニューヨークから来て展覧会をすると聞いた」「ハシゴがあって、天井には真っ白なキャンバスがあった。ぶら下がっていたのは虫眼鏡だ。ハシゴを登って虫眼鏡で覗いてみると、“YES”と書かれていた。僕はとてもポジティブなメッセージを感じたよ。もし"No"とか『インチキ』みたいな意地の悪い言葉が書かれていたら、すぐに画廊を出て行ったよ。でも"YES"だったから僕は『これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせてくれる初めての美術展だ』と思ったんだ」。 他にも、個展に来た客が釘を1本打っていくという前衛作品『釘を打つための絵』(1961)があり、ジョンが釘を打っていいか尋ねると、まだ個展のオープン前であったため、ヨーコは「5シリング払えば打ってもよい」と答えた。ジョンは「心の5シリングを払うから想像の釘を打たせてもらうよ」と返答すると、ヨーコは「想像の釘は一本もない」と返した。2人は互いに感銘を受け、交際が始まる。ジョンが7歳も上のヨーコに惹かれたのは、実母から愛情を十分に得られなかった彼が、甘えることができる母性を求めていたのかも。 ※ヨーコの初期の代表作のひとつ《白いチェス》は、駒が全て白色。ゲームを進めるうちに敵も味方もわからなくなるという、争いごとや勝ち負けの無意味さを表現した作品。 ※ジョン「(当時)ヨーコが唯一知っていたメンバーはリンゴだよ。アップルのことを日本語でリンゴっていうからね」 1967年(27歳)6月1日、ビートルズは収録曲からジャケット・デザインまで全体をひとつの作品として構成したトータル・アルバムであり、8枚目の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発表。電子楽器を多用するなど、その実験的精神や色彩感にあふれたサウンドは、以後のロックの流れをかえるほど大きな衝撃を与えた。こうした実験的試みは、これまでビートルズに批判的だった評論家たちも絶賛した。このアルバムはグラミー賞の「最優秀アルバム」「最優秀コンテンポラリー・アルバム」「最優秀録音」「最優秀アルバム・カバー(グラフィック)」の4部門に輝いた。 『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(13曲) https://youtu.be/VtXl8xAPAtA 8月27日、ビートルズとエプスタインとの5年契約が切れる1ヶ月前、エプスタインはアスピリンの過剰摂取により32歳で他界した。ブライアンを失ったビートルズはメンバーの対立が表面化し解散に向かっていく。ブライアンはジョンに友情以上の好意を持っていたとも。 11月27日、テレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』のサントラ盤となる2枚組アルバム(9作目)『マジカル・ミステリー・ツアー』をリリース。テレビでは12月26日に初放映された。ビートルズがイギリスの片田舎を、友人、俳優、サーカス芸人とバスで旅行し、途中で起こる様々な出来事を撮影しようとしたが、残念ながら何も起こらず、完全に企画倒れに終わる。世界はビートルズも失敗することを知った。公開時、「永遠に10年早い映画」「愚かなホーム・ムービー 伝説の終焉」と酷評された。ポールは「万年筆がどんな役割を持っていると思う? 字を書く物であると同時に、胸の飾りにもなるんだよ。僕たちはそういうことをやりたいんだ」と、映像が持つ可能性を説いた。 『マジカル・ミステリー・ツアー』(アルバム/11曲) https://youtu.be/l8WMGBuNaus ※ストーリーはともかく、収録曲は「フール・オン・ザ・ヒル」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ハロー・グッドバイ」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ペニー・レイン」「愛こそはすべて」と名曲ぞろい。 1968年(28歳)、シンシアと離婚。7月にアニメ映画『イエロー・サブマリン』が全世界で公開されるが、ビートルズはホワイトアルバムのセッションで多忙を極めており、サントラ盤の発売は後回しにされた。 11月22日、ビートルズの10作目(旧9作目※2009年に『マジカル・ミステリー・ツアー』が9作目と認定されたため)のアルバムとなる2枚組みの『ザ・ビートルズ』、通称「ホワイト・アルバム」を発表。4人の個性が存分に発揮された多彩な30曲。90分超というボリュームに現代音楽の全ての要素が詰まっている。同年キング牧師とロバート・ケネディが暗殺される。 『ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム)』 (17曲+13曲/全30曲) https://youtu.be/0ArlUSVDQIw この年、7分を超える大作シングル『ヘイ・ジュード』を発表。 『ヘイ・ジュード』 https://www.youtube.com/watch?v=bkApuQWCPdM (7分11秒) 1969年(29歳)、1月17日に12作目(旧10作目)のアルバム『イエロー・サブマリン』をリリース。映画『イエロー・サブマリン』のサントラ盤だ。「LP1枚の価格で完全な新曲が4曲(「オンリー・ア・ノーザン・ソング」「オール・トゥゲザー・ナウ」「ヘイ・ブルドッグ」「イッツ・オール・トゥ・マッチ」)のみ」と批判され、ビートルズの活動期間中のスタジオ・アルバムでは唯一第1位にならなかった。 『イエロー・サブマリン』(歌は6曲) https://youtu.be/ztHxu-13UqI 1月30日、ビートルズはロンドン中心部のアップル本社の屋上で、予告無しでゲリラ・ライブ(ゲット・バック・セッション)を行った。のちに「ルーフトップ・コンサート」呼ばれるこのコンサートの様子は、翌年に公開されるドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』に収録され、屋上から大音量で鳴り響く演奏に驚くロンドンの住民たちの姿も記録されている。このライブは駆けつけた警察官によって演奏が止められて終了した。ビートルズの最後の公式なライブ・パフォーマンスとなった。 1969年ビートルズが屋上でゲリラ・ライブを敢行(1989) 2月2日、ヨーコは再婚相手のコックスと離婚。法廷闘争の末、コックスが京子の親権を獲得した。 3月20日、ジブラルタルでジョンとヨーコは結婚した。ベトナム戦争の最中であり、夫妻はプラスティック・オノ・バンドを結成し平和キャンペーンを開始。ハネムーンがマスコミに大々的に取り上げられることを利用して反戦の想いを伝えるべく、平和活動パフォーマンス“ベッド・イン”を行った。ジョン「ハネムーンの代わりに7日間ベッドで過ごして抗議します」ヨーコ「世界中で起こっている暴力に対して」。3月26日から31日にかけて新婚旅行先のオランダ・アムステルダムでヒルトン・ホテル702号室のベッドに入り、午前9時〜午後9時まで世界中からの報道陣を招き入れ(15分ごとに入れ替え)、平和について語り合った。 ※ジョン「戦争や平和について話すと“頭がおかしい”と言われるんだ。“ステージで踊ってろ”“エンターテイナーなんだから出しゃばるな”とね」。 ベッドインの2回目として、5月26日から6月1日までカナダ・モントリオールのクイーン・エリザベス・ホテル1738&1742号室で記者のインタビューに答え、世界平和を呼びかけた。最終日に様々な有名人が部屋に招かれ、ジョン初のソロ・シングル『平和を我等に』(プラスティック・オノ・バンド名義)のレコーディングが行われた。7月4日に同曲をリリース。 『平和を我等に』 https://www.youtube.com/watch?v=ftE8vr0WNus (5分39秒) 9月20日、ジョンはビートルズからの脱退をメンバーに公表した。ポールは初心に戻る意味でビートルズのライブをやりたがっていたが、ジョンの関心はヨーコとの活動にあった。 9月26日、12作目(旧11作目)のアルバム『アビイ・ロード』を発表し、これが時系列ではラストアルバムとなった。ローリング・ストーン誌は「本作のB面のみで、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に匹敵する」と絶賛。 『アビイ・ロード』(17曲) https://youtu.be/oolpPmuK2I8 『アビイ・ロード』ジャケットの横断歩道(1989) 10月、プラスティック・オノ・バンドの第2弾シングル『コールドターキー』を発表。B面はヨーコが娘に歌った『京子ちゃん心配しないで』。 『京子ちゃん心配しないで』 https://www.youtube.com/watch?v=oIww-T3I7_o (2分間の短い曲だけど「Don't Worry Kyoko」の連呼が逆に不安を掻き立てるような…) 11月、ジョンはイギリスがベトナム戦争でアメリカを支援していることや、アフリカの内戦に関わっていることなどに抗議して、MBE勲章を英国王室に返上した。 12月12日、ジョンはプラスティック・オノ・バンドのファースト・アルバム『平和の祈りをこめて』を発表。同月15日、ジョンとヨーコはロンドンで行われたユニセフ主催の『ピース・フォー・クリスマス』コンサートに出演。同時に、アメリカの関与で激化するベトナム戦争に抗議を込め「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT Happy Christmas From John & Yoko」(戦争は終わる!もしあなた(たち)がそれを望めば)のクリスマス・メッセージを、NYのタイムズスクエアなど世界11都市で一斉に街頭の看板に掲げ、新聞広告を出す平和キャンペーンを行った。 ジョン「政治というものは、そこら中にある。無視することはできない。アーティストである以上、無関係ではいられない。花を手にしながら最前線に最後までいるつもりだ」。 1970年(30歳)、4月10日、ポールの脱退声明を機にビートルズは事実上の解散をした(法的な解散決定は翌1971年)。ヨーコは「ビートルズを解散させた女」として非難された。 解散の翌月、5月8日に13作目(旧12作目)のアルバム『レット・イット・ビー』をリリース。これは『アビイ・ロード』制作より前の1969年1月に行われたレコーディング・セッションを基にしたアルバムで、続いて5月20日に、解散に向かうビートルズの姿をとらえたドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』が公開された。 『レット・イット・ビー』(アルバム) https://youtu.be/cLQox8e9688 『レット・イット・ビー』 https://www.youtube.com/watch?v=CTcb_33-DiI (3分52秒) ビートルズは活動期間中、母国イギリスで12作(『マジカル・ミステリー・ツアー』をのぞく)のオリジナル・アルバムを発売し、そのうち11作が全英アルバムチャートで週間第1位を獲得。11作の週間第1位の合計獲得数は162週。シングル22作のうち17作が第1位を獲得。全世界での総レコード・カセット・CD・ダウンロード・ストリーミングなどの売上総数は10億枚を超えている。 解散後、ジョンはアメリカに移住し、同年12月11日に名歌『ラブ』を含むソロ・アルバム『ジョンの魂』(原題:John Lennon)を発表した。『God』では「神なんて痛みの深さを測る概念さ(だから自分を信じよう)」と歌った。 『ジョンの魂』(11曲) https://youtu.be/3D0nMzHjMR8 『ラブ』 https://www.youtube.com/watch?v=MUTz3LQEq1Q&list=PL6ogdCG3tAWis8381V3_hT6zlRmOVKJ_u&index=7 1971年(31歳)、ジョンはロンドン郊外とニューヨークでアルバム『イマジン』のレコーディングを行う。9月、ジョンとヨーコはニューヨークに移住。9月9日に「ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンド」でアルバム『イマジン』を発表した。続いてシングルカットした『イマジン』を10月11日にリリース。ジョンはこの曲が完成したとき、「やっと(ポールの)イエスタデイみたいな良い曲ができた」と喜んだという。政治的なメッセージを含みながらも商業的に成功したことが、ジョンに自信を付けた。 『イマジン』 Imagine there's no heaven 想像してごらん 天国なんかないって It's easy if you try 試してみれば難しいことじゃないよ No hell below us 足下に地獄がないように Above us only sky 天にはただ空しかないってことサ Imagine all the people 想像してごらん すべての人たちが Living for today... 今日という日のためだけに生きてるってことを Imagine there's no countries 想像してごらん 国境なんかないって It isn't hard to do 簡単なことさ Nothing to kill or die for 殺し合いのもとがなくなるってことだよ And no religion too 宗教さえもないんだ Imagine all the people 想像してごらん すべての人たちが Living life in peace... 平和に暮らしている姿を You may say I'm a dreamer 僕を夢想家と思うかも知れない But I'm not the only one でも僕ひとりじゃないはずさ I hope someday you'll join us いつの日か 君も僕らに加われば And the world will be as one この世界はひとつに結ばれるんだ Imagine no possessions 想像してごらん 財産なんかないって I wonder if you can これはちょっと難しいかもしれない No need for greed or hunger 欲張りや飢えの必要もなく A brotherhood of man 人はみな兄弟なのさ Imagine all the people 想像してごらん 僕らみんなで Sharing all the world... 世界のすべてを分かち合っているって You may say I'm a dreamer 僕を夢想家と思うかも知れない But I'm not the only one だけど僕ひとりじゃないはずさ I hope someday you'll join us いつの日か 君も僕らに加われば And the world will be as one この世界はひとつに結ばれるんだ 『イマジン』 https://www.youtube.com/watch?v=dS5A9gzQfWQ (3分12秒) 反戦歌であるためイギリスではフォークランド紛争や湾岸戦争の時期にBBCは放送を規制し、アメリカでは9.11同時多発テロ事件のあとにラジオ局が放送を避けたりした。 「Imagine (想像しなさい)」という呼びかけは、「ヨーコの詩集『グレープフルーツ』から拝借したもの」とジョンは語っている。ヨーコの詩にある「想像して、千の太陽が一度にのぼるところを…」というくだりをジョンは非常に気に入り、曲のタイトルなどに使ったという。ジョンは発表時にヨーコの名を作詞者に加えなかったことを「自分勝手で男性的だった」と後年恥じていた。 ジョン「本来は共作とすべき曲で歌詞とコンセプトはヨーコなんだ。でも当時の僕は自分勝手で貢献を口にしなかった。“想像して(イマジン)”という一節は、彼女が書いた本(詩集『グレープフルーツ』)から拝借してる。遅まきながら共作だと認めないとね」。 12月1日には「ジョン&ヨーコ&プラスティック・オノ・バンド・ウィズ・ザ・ハーレム・コミュニティ合唱団」と「ヨーコ&プラスティック・オノ・バンド」名義で感動的なシングル『ハッピー・クリスマス(戦争は終った)』リリースした。 ジョンは平和運動に積極的に関わり、愛と平和を訴える歌曲を次々と書き絶賛されたが、その結果として、ジョンは米政府ニクソン政権のブラックリストに載ってFBIの監視対象になった。彼はベトナム帰還兵からもらったアーミージャケットをよく着ていた。 1972年には英国での大麻所持判決を理由に当局から国外退去を命じられて3月にビザを取り消された。リンゼイNY市長はジョンの味方で「この東海岸にアーティストは歓迎されるべきだ。(自由の)女神が迎えているのに追い出すのか」と擁護してくれた。永住権をめぐって75年10月まで法廷闘争を続け、米国政府に勝利したジョンは76年7月に永住権を手に入れた。 『ハッピー・クリスマス(戦争は終った)』 https://www.youtube.com/watch?v=flA5ndOyZbI (3分35秒) 1973年(33歳)4月1日、ジョンとヨーコは“イマジン”の思想を受け継ぐ架空の国家ヌートピア(NUTOPIA)の建国宣言を行う。10月、ジョンはロサンゼルスに移り住み、2人は別居する。ジョンはこの期間を「18か月間の失われた週末」と表現。「フェミニズムを失った僕が“出ていけ!”と追い出されたんだ」「別居が耐えられなくて、バーで飲んだくれるしかなかった」。 1974年(34歳)、エルトン・ジョンとのデュエット曲『真夜中を突っ走れ』で、ソロとなってはじめての全米第1位を獲得。11月、ジョンはニューヨークで開催されたエルトン・ジョンのコンサートに出演したことがきっかけでヨーコと再会し、再び生活を共にすることに。ジョン「立ち直れてよかったし、今では酒が怖いよ。ワイン1杯でも無理だし、酒を忘れられて感謝だ」。同年、ニクソンが2年前のウォーターゲート事件の影響で辞任し、ジョンとの戦いは終結する。ニクソンは任期の途中で辞職した唯一の大統領となった。 1975年(35歳)、ジョンの誕生日(10/9)に息子ショーンが生まれる。ジョンは自身の音楽的原点に立ち戻ったアルバム『ロックン・ロール』の発表を最後に活動を休止、以降5年間は家庭生活に専念する。育児と家事をレノンが担当し、家計とビジネスをヨーコが担当した。同年、『ロックン・ロール』のマスター・テープをノイローゼのプロデューサーに破壊される憂き目を見る。 1976年(36歳)アメリカの永住権を獲得。 1980年、ショーンが5歳になったことを契機としてジョンは音楽活動を再開し、11月17日に共作アルバム『ダブル・ファンタジー』を発表、『スターティング・オーバー』がヒットする。ジャケット写真を篠山紀信が撮影した。 『ダブル・ファンタジー』(17曲※リマスター版) https://youtu.be/jWG9KAgD6UA 12月8日の夕方、レコード・スタジオに向かう車に乗るためにニューヨークの自宅アパート(ダコタ・ハウス)を出たジョンに、ハワイから来た当時25歳の警備員マーク・チャップマン(1955-)が近づいた。彼はその日の午前中からダコタ・ハウスの外で待ち構えていた。ジョンは誰にでもサインや写真撮影に応じており、チャップマンが無言で『ダブル・ファンタジー』を差し出すと、ジョンはサインした後に「君がほしいのはこれだけかい?」と尋ね、チャップマンは笑顔で頷いた。ジョンはスタジオへ。 22時にレコーディングを終えてスタジオを出発。遅い夕食をとりに出かける前に、ショーンにおやすみのあいさつをするため、一旦ダコタ・ハウスに立ち寄ることにした。 22時50分、ダコタ・ハウスに到着。チャップマンは玄関アーチの陰に潜んで立っていた。ジョンがチャップマンの前を通り過ぎた数秒後、3メートル後方からチャップマンに背中を回転式拳銃で撃たれた。5発の弾丸が発射され、そのうち2発が左肩に、2発が背中に、計4発も命中した。ジョンは傷と口から大量に出血し、「撃たれた、撃たれた!」と言いながらダコタ・ハウスの前の階段を5段登って倒れ込んだ。眼鏡が血まみれだった。 ドアマンがチャップマンから銃を奪って歩道の端へ蹴り飛ばし「お前は自分が何をしでかしたのか分かってるのか?」と叫ぶと、「ええ、僕がジョン・レノンを撃ったんです」と静かに答えた。警官たちが現場に急行すると、チャップマンは歩道に座りサリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』のペーパーバックを持っていた。警官たちはジョンが深手を負っているため救急車を待たずにパトカーの後部座席へ乗せ、23時前にはルーズヴェルト病院へ搬送した。心臓周辺がダメージを受けており、到着時には脈拍がなく呼吸も止まっていた。23時過ぎに死亡が宣告され、検視によって血液の80%以上を失った「出血性ショック」と報告された。享年40。死亡宣告時、院内放送ではビートルズの『オール・マイ・ラヴィング』が流れていたという。 チャップマンは、かつてジョンが「僕たちはキリストより人気がある」と発言した件を冒涜と受け止め、『ゴッド』(歌詞に“神を信じない”とある)と『イマジン』(歌詞に“天国はない”とある)にさらに憤慨したと述べたが、最終的には「有名になりたくてジョンを殺した」と供述。チャップマンは事件の2カ月前、10月にも殺害を実行するためニューヨークを訪れていたが、そのときは心変わりして帰郷したという。ショーンは5歳で父を失った。 殺害当日に写真家アニー・リーボヴィッツが撮影した、全裸のジョンが横になって妻を抱擁している写真は、『ローリング・ストーン』の1981年1月22日号の表紙となる。2005年、アメリカ雑誌編集者協会は、この表紙をこの40年間における最優秀の表紙に選んだ。 事件の翌日、ヨーコは声明を発表した。「ジョンの葬儀は行われません。ジョンは人類を愛し、人類のために祈りました。彼のために同じことをしてください。愛をこめてヨーコ、ショーン」。 ジョンは死の2日後、12月10日にマンハッタンから北にあるファーンクリフ墓地で火葬された。ヨーコは遺灰をダコタ・ハウスの真向かいにあたるセントラルパークの一画、ジョンがよく散策していた場所に撒いた。 12月14日、ヨーコの呼びかけに応えた数百万の人々が世界中でジョンを追悼し、10分間の黙祷を捧げる。ニューヨークのすべてのラジオ局は放送を10分間中断した。少なくとも3人のビートルズ・ファンが後を追って自殺したため、ヨーコはジョンの死を悼む人々に対して、絶望に負けないよう広告を出して呼びかけた。 1981年4月、ジョンに敬意を込め、遺灰の撒かれた区域がジョンの楽曲『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』にちなんで《ストロベリー・フィールズ》と命名される。この曲名は、ジョンが幼少期に住んでいたリバプールにある児童養護施設「ストロベリー・フィールド」跡地がもとになっている。 1985年10月9日(ジョンの45回目の誕生日)、ニューヨーク市はセントラル・パーク内の「ストロベリー・フィールズ」(1ヘクタール)を整備して開所した。人々の団結の象徴として、各国がここに樹木を献呈したほか、ナポリ市はこの広場のシンボルとなる「イマジン」の一語がはめ込まれた円形モザイクの記念碑を寄贈した。ヨーコは造園及び維持費として100万ドル以上を寄付している。イマジン碑には世界中からファンが訪れるが、特にジョンの誕生日(10月9日)と命日(12月8日)は大勢が集まり、夜遅くまで歌っている。また、ビートルズの他のメンバーの誕生日も当地にファンが集う。 1988年、ヨーコ夫人提供のプライベート・フィルムをもとに映画『イマジン/ジョン・レノン』が制作された。 1994年、ヨーコは娘の京子(当時31歳)から連絡があり、密接に交流するようになった。 1995年、ジョンの残した録音テープをもとに、ポール、ジョージ、リンゴが 25年ぶりのビートルズの新曲となる、ジョンの遺作『リアル・ラブ』と『フリー・アズ・ア・バード』を発表し話題を呼ぶ。 『リアル・ラブ』 https://www.youtube.com/watch?v=ax7krBKzmVI (3分55秒) 『フリー・アズ・ア・バード』 https://www.youtube.com/watch?v=ODIvONHPqpk (5分) 1997年、ヨーコは京子と再会を果たす。 1998年、ショーン(23歳)が初のソロアルバム「イン・トゥ・ザ・サン」を発売。 2000年、ジョンの誕生日の10月9日に世界初の「ジョン・レノン・ミュージアム」が埼玉に開館し、愛用のギターやサングラスなど遺品が展示された。2010年に閉館するまで、のべ61万5000人が来場した。 2001年、9月11日の同時多発テロの後、犠牲となった人々を追悼するためにセントラルパークのイマジンの碑でキャンドルナイトが行われた。9月23日、ヨーコは「ニューヨーク・タイムズ」日曜版に"Imagine all the people living life in peace"という一面広告を掲載した。これを受けて米国政府は、放送局に『イマジン』のオンエアの自粛を求めた。 同年、教育に恵まれない世界の子どもたちを支援する目的で、日本でチャリティー音楽イベント「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ」が開催され、2013年まで毎年続く。 2007年12月9日、 アイスランドの首都レイキャヴィーク沖のヴィーズエイ島に、ヨーコはイマジン・ピース・タワーという記念物を設立した。毎年10月9日から12月8日の間、ジョンを記念して空に光による垂直の塔が投影される。 2008年6月、ポールがコンサートで『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』?『平和を我等に』のメドレーを披露。 2009年2月、ショーンは異母兄のジュリアンと国連ミレニアム・アウォーズで共演した。 2012年10月、ポールがメディアに「ビートルズ解散は、ヨーコのせいではなかった」と説明。ヨーコは「ポールの気持ちがとても嬉しかった」と感謝。 ジョンは画才にも恵まれ、著書に《絵本ジョン・レノンセンス》(1964)、《らりるれレノン》(1965)、《空に書く》(1986)などがある。 リアルな歌詞と美しいメロディを好んだジョンの音楽は多くの人々に愛され続けている。ヨーコは今でも、12月8日になるとダコタのジョンの部屋の窓に明かりを灯したキャンドルを供えている。 「人生は40から始まると言うが僕もそう信じている。僕はこの通り元気だしこんなに胸をときめかせているんだ『ワオ!次は何が始まるんだ!』っていう気分だよ」(暗殺の2ヶ月前、プレイボーイ誌のインタビューにて) ※「人々が本気で平和を求めれば、それを手にすることが出来ると心から信じている。問題はそれが可能だってことを彼らが知らないことだ」(レノン) ※「ジョンはファンに生身の自分を捧げ、逃げ隠れせず彼らと向き合ってた。その手段が曲を書くことだったから、世界はその恩恵を受けた」(アーサー・ヤノフ/医学博士※ジョンの主治医・カウンセラー) ※「ヨーコに出会ってジョンの人生は上向いたよ。彼が自分を見失って非常に落ち込んでいた時期を私は見てきている。生きる喜びを失い生きたいとも思ってなかった。有名人だというだけで人生の意味や目的がなく、とても不幸だったよ。ヨーコとの出会いが彼を前に向かせてくれたんだ」クラウス・フォアマン(ベーシスト) 〔墓巡礼〕 ジョンの遺灰はNYセントラルパークに撒かれ、その場所にイマジンと書かれた円形のモニュメントがある…そのことを長く知らなかった僕は、イギリスか米国のどこかにジョンの墓があると思い、必死で探した。故郷リバプールで聞き込みもやった。様々な文献に目を通しているうち、「ヨーコ夫人が家の中に骨壷を置いているのを見た」という目撃情報に接し、僕はまだジョンの遺灰がダコタ・ハウスにあると確信。ゆえに2000年、ヨーコ夫人を訪ねてダコタへ行った!今思えば無謀というか、若気の至りというか、僕はヨーコ夫人に直接墓の場所を尋ね、もし部屋に遺灰があるならば、「手を合わせていいですか」とお願いするつもりだった。 まずはインターホンを鳴らす為に正門をくぐってと…。ぐおっ!敷地に入っていくと、いきなり背後から羽交い絞めにされた!振り返ると血相を変えたガードマンさんが。 「ホワット・アー・ユー・ドゥーイングッ!」 「アイ・ウォント・ミート・ヨーコ・オノ!」 「アー・ユー・クレイジー!?」 ハードボイルドなガードマン 必死でジョンの骨の話をしたものの、ズルズルと表に引き出されてしまった。ヨーコ夫人に会える可能性はゼロに近いと思ってはいたけど、まさかインターホンにすらたどり着けないとは…。「うむむ、このまま諦めはしない、まずはヨーコ夫人とペンフレンドになって、それから…それから…」。その時は、とりあえず、ダコタ・ハウスそのものをジョンのお墓とみなし、心眼でジョンの骨壷をイメージしながら合掌した。 その後、インターネットが普及し、英語版ウィキペディアや海外のビートルズ・ファンのサイトによって、散骨されたセントラルパークのイマジン碑が事実上のお墓であることを理解した。 改めて20年前(2000年)に撮影したイマジン碑の写真を見ると、その周囲では、国籍も年齢も人種も関係なく、本当にみんな和気あいあいと楽しそうにビートルズ・ナンバーを歌っている。そしてこう思った。一般の墓地にジョンのお墓を建てると、あまりに墓参者が多すぎて墓前に人があふれかえり、他のお墓の家族に迷惑がかかってしまうし、治安上の問題もある。でもセントラルパークなら、 (1)皆が一緒に歌ったり楽器を演奏できる! (2)どれだけたくさん人が集まっても迷惑にならない! (3)門限がなく24時間ジョンを追悼できる! 特に(1)は重要で、一般墓地では大勢でビートルズ・ナンバーの合唱などできない。ヨーコ夫人は考慮のうえ、あえて墓地ではなく公園を“墓所”としたのかも。 僕はずっと「早く公式にジョンの墓石を建ててほしい」と思ってきたし、今もその気持ちは変わらないけど、ことジョンに限ってはこれがベストの選択かもしれない。大切なのはジョンを想う気持ち、いろんなお墓があって良いと思う。 〔参考〕映画『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK』『ザ・ビートルズ:メイド・オン・マージーサイド』『ジョン・レノン最後の週末』『ドキュメンタリー ジョンの魂』ほか。 |
ジョン・レノンの母親。1940年、26歳でジョンを出産。夫アルフレッドは船乗りで不在、自分自身も他の男ダイキンズと同棲していたため、姉メアリー(ミミ)夫婦がジョンを育てた。6年後にアルフレッドが帰国しジョンを引き取るが、数週間後に連れ戻して再び姉に預けた(ジュリアはダイキンズとの間に娘2人をもうけていた)。アルフレッドは蒸発した。 1955年(41歳)、ジョンの父親代わりだった姉の夫が死去。翌1956年、初めてギターを買った16歳のジョンが、近所にジュリアが住んでいることを知って遊びに来るようになる。彼女はジョンにバンジョーのコードを教え、次の年にジョンは初めて「ハロー・リトル・ガール」(1957)を作曲した。ジョンはバンジョーのコードしか知らなかったため、弦4本で演奏できる曲だった。 同年、ジョンはビートルズの前身となる「クオリーメン」を結成。長く空白だった母子の関係がようやく深まり始めたその矢先、1958年年7月15日、ジュリアは酒に酔った非番の警官が運転する車にはねられ死亡した。享年44。 18歳のジョンは大きな喪失感に包まれる。2年前にポール・マッカートニーも 母を乳癌で亡くしており、2人の友情は強くなった。ジュリア他界の3年後、1962年にビートルズはデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」を発売し、世界制覇の伝説が始まる。 ※ジョンが7歳年上のオノ・ヨーコに惹かれたのは、甘えることができる母性を求めていたとも言われている。 |
エバートン墓地はリバプール北部 |
ユダヤ人エリアは画面右奥の崩れた石壁から 入っていけると、いかつい男性が教えてくれた |
エプスタインの墓にはダビデの星があり ヘブライ語と英語で墓碑銘が刻まれる |
ビートルズの伝説的マネージャー。1962年1月24日にビートルズと5年契約を結び、ビートルズを「革ジャン、ジーンズ、くわえタバコの演奏」という不良イメージから、「スーツ、ネクタイ、演奏後に一礼」の好青年にイメージチェンジさせた。5年契約が切れる1ヶ月前、アスピリンの過剰摂取で他界。32歳の若さだった。ブライアンを失ったビートルスはメンバーの対立が表面化し解散に向かっていく。 ※ブライアンはジョンに友情以上の好意を持っていた。 |
ハイトン・パリッシュ教会はリバプール東部。 墓地は教会の100m西(注意!教会と墓地が別) |
最初、墓地の場所がわからず、道を尋ねた カフェで朝食中のおじさん達に教えて もらった。スチュの墓は画像の木の手前 |
黒い墓石に金色の文字で名前が 刻まれていた。「AGED 21 YEARS」が 切ない。彼に墓参できて良かった |
ビートルズの元ベーシスト。“5人目のビートルズ"。スコットランド出身。リヴァプールの美術学校に進み、そこでジョン・レノンと出会った。同い年で意気投合した2人は共同生活を開始。1960年(20歳)、絵が高値で売れたため、ジョンとポールに勧められてベースを購入、バンドに加入した。同年8月、ビートルズの一員としてドイツ・ハンブルグへ行き、写真家の卵アストリッドと恋に落ち3カ月後に婚約。後にビートルズがマッシュルームカットにしたのは、アストリッドがサトクリフに施したのがきっかけという。 1961年、ビートルズ2度目のハンブルク巡業後、本腰を入れて画業に専念するためビートルズを脱退、ベースはポールが引き継いだ。その後、ハンブルク州芸術大学に編入し、創作活動を続けていたが、夏頃から酷い頭痛に襲われ始めた(学生時代に酒場で暴行を受けた際の後遺症と言われている)。 そして1962年4月10日、ビートルズが3度目のハンブルグ巡業に出る前日に、サトクリフは容態が急変し、病院へ搬送される途中で脳出血により早逝した。享年21歳。 半年後の10月5日、ビートルズはデビュー曲 「ラヴ・ミー・ドゥ」を発表し、ベートーヴェンやモーツァルトのように、音楽史に名を刻むことになる。後年のジョンは「彼(サトクリフ)はもう一人の自分のような存在だった」と語っていたという。 |
ビートルズゆかりの「キャバーンクラブ」の近くにエリナ・リグビー像がある |
1957年にジョン(17歳)とポール(15歳)が初めて出会ったリバプールのセント・ピーターズ教会。 ジョンが「クオリーメン」(のちのビートルズ)のコンサートをこの教会でやり、客席にいたポールが後日加入した。 |
セント・ピーターズ教会のウールトン共同墓地に「エリナ・リグビー」の墓があり大騒ぎに。このエリナさんは ビートルズの名曲「エリナー・リグビー」(2分)とは直接関係がないものの、今やビートルズ・ファンの『聖地』となっている。 |
「自由とは何も持たないことよ」(ジャニス) |
全存在をかけて人生をシャウトした史上最高のシンガー、ジャニス・ジョプリン。ロック界初の女性スーパースターだ。死後30年が経過した現在でも、まだ彼女を越えるシンガーは現れていない。 保守的な風土の南部テキサス州ポート・アーサーに生まれる。3人姉弟の長女。内向的なジャニスはハイスクールで変人扱いされ友達がいなかったうえ、男子が悪ノリでやった不美人コンテストで1位にされ、心がズタズタに傷つく。17歳で家出をした後各地を放浪し、ブルース魂が注入されていく。体の中に蓄積した悲しみを歌で吐き出すと楽になることを知り、バーで歌い始める。やがてスカウトされ、1967年6月のモンタレー・ホップ・フェスティバルに24歳で出演。大地が裂けるような「ボール・アンド・チェーン」を熱唱し、5万人の聴衆がブッ飛ぶ。圧倒的な歌唱力(なんと9オクターブ)と共に、髪を振り乱し、魂をさらけ出して、正面からぶつかって来る彼女は、上品なガール・ポップスに慣れ親しんでいた人々の度肝を抜いた。翌68年、アルバム『チープ・スリル』でレコード・デビュー、いきなりミリオンセラーとなる。 1969年(26歳)、2枚目の『コズミック・ブルースを歌う』を完成。デビューからこの間、バンドを変えたり、メンバーが入替わったりで、ジャニスは落ち着く場所がなくヘトヘトに。失恋もあって精神的に不安定な状態が続く。1970年9月(死の前月)、かつて地獄の日々を送った母校(ハイスクール)の卒業10周年記念の会場に、凱旋気分で参加するが、手の平を返したように親しげにする周囲の反応、薄っぺらな言葉とさ、作り笑いに逆に深くダメージを受ける。 孤独感を忘れさせてくれるのはヘロインだけだった。全エネルギーを聴衆に叩きつけ、一気にスターダムを駆け上がった彼女だが、あまりに繊細過ぎる心を持っていた為に、ドラッグに溺れてしまう。1970年10月4日、ヘロインを打ちすぎた彼女は手に4ドル50セントを握り締め、ロスのモーテル(ランドマーク・モーター・ホテル)でベッドから落ちたまま死んでいた。享年27歳、レコード・デビューからまだ2年しか経っていなかった。 死から3ヶ月没後に発表されたラストアルバム『パール』の5曲目「生きながらブルースに葬られて」は、レコーディング中に彼女が他界したので伴奏だけしか入っていない。 亡骸はハリウッドで火葬にされ、遺灰がカリフォルニア州マリン郡の沖合いに飛行機から撒かれた。 |
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彼女が亡くなったロサンゼルスの宿。ランドマーク・ モーター・ホテルからハイランド・ガーデンホテルに 名前が変わっていたので探すのに随分骨が折れた |
105号室。ジャニスは この部屋の中で亡くなった! |
僕はジャニス(霊)に会いたくて泊まった!ところが 怖くて一晩中電気をつけたまま過ごしてしまった… |
これが彼女の遺灰がまかれたマリン郡の海。 曇っていたせいか、とても寂しげな海だった |
2009年、約10年ぶりにマリン郡の海(左上)やハイランド・ガーデンホテルを再訪! |
『コズミック・ブルース』
♪時は流れ続ける 友は去ってゆく
私は生き続ける なぜかも分からず
孤独な一日を何とかやり過ごす
やっとその時が来た 時は流れ続ける
25になったけどどうにもならない
子どもの頃と変わりゃしない
でも構やしない これからでも遅くない
みんな心に火が燃えている
それをつかもう 死ぬまで燃やしぬこう
答えを期待してはダメ
年をとっても分かりはしない
愛が増すわけじゃない
真実の愛になるわけでもない
だから今やるのよ
私が手を差し出す時は
あなたに 分かって欲しいの
ベイビー 私の歌を歌うわ
※この曲は映画「JANIS」の中で1970年7月(夭折する3ヶ月前) に歌われたカナダ・トロントLIVE版が最強。 |
この恍惚の表情! | 人類史上最高のギタリスト | ギターに火をマジで放ったジミヘン |
墓石にはギターの絵が彫り込まれていた!(2000) | スプライトのペット・ボトルを手に、夢にまで見たジミ・ヘンとの狂気のセッション! |
10年後。墓が新しくなったというが… | まさか、まさか!? | 宮殿になっていたーッ!! |
以前の墓石は台座に組込まれてた! |
3本ある柱には、それぞれ内側にジミ・ヘンのカッコいい肖像パネルがあった |
あのう…キスマークだら けなんですけど…(汗) |
巡礼にきた若者たち | ギターを弾く渋いおじさん | すっかりシアトルの英雄。こんなに豪華になっているとは! | 巡礼者は続々とやって来る! |
「愛の力が、力に対する愛を超えたとき、世界に平和が訪れる」(ジミ・ヘンドリックス) エレクトリックギターという楽器の可能性を極限まで引き出した人類史上最高のギタリスト。歌手、作詞・作曲家。1942年11月27日、ワシントン州シアトルで出生。本名はジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス。 父方の祖父は黒人、祖母はインディアンのチェロキー族。父は庭師。母は17歳で出産し、家を出て数年後に他界、ジミは母の姉夫婦に育てられた。15歳のときに父に買ってもらった5ドルの中古ギターが人生を変える。独学で演奏技術を磨き、楽譜が読めないため様々な楽曲を耳でコピーした。1961年(19歳)、自動車窃盗罪で逮捕。投獄を回避するため陸軍に志願し、短期間で除隊した後、R&Bバンドのバック・ミュージシャンとして本格的にプロの道を歩み始めた。 1966年(24歳)、幸運にもアニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーに才能を見いだされて渡英。チャンドラーいわく「(初めて演奏を聴いた時)ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思ったが、実際にはジミ1人だけと知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」。同年、英国にて白人のミッチ・ミッチェル(ドラムス)、ノエル・レディング(ベース)と「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」を結成し、デビューシングル「ヘイ・ジョー / ストーン・フリー」をリリース、全英4位のヒットとなり一気に知名度を上げた。続けてシングルカットされた「紫のけむり」「風の中のマリー」もヒット。サイケデリック・サウンドの代表格と見られ、ジミの演奏は音楽界で大きな話題となり、“ミュージシャンズ・ミュージシャン”としてライヴにはビートルズやストーンズのメンバーまでが観客としてやって来た。 1967年(25歳)5月、ファースト・アルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト?』を発表、全英2位の大ヒットとなる(1位はビートルズのサージェント・ペパーズ)。米国に戻ったジミはカリフォルニアで世界初の本格的野外ロックフェスティバル「モンタレー・ポップ・フェスティバル」に出演(ポール・マッカートニーが「ジミを出さなければフェスティバルにならない」と推薦)。ジミを観客に紹介したのはストーンズの初期リーダーで友人のブライアン・ジョーンズだった。同ステージでは「ワイルド・シング」でギターに火を放ち、さらに叩き壊すというパフォーマンスを演じて聴衆を圧倒した。このステージをきっかけに母国でもスターダムを駆け上った。 大音量の爆音演奏、性的隠喩を含んだ刺激的なステージ・パフォーマンス、前歯でギターの弦をはじく奏法、背中にギターを回す背面弾きなどが波紋を呼ぶ一方、ベトナム戦争を念頭にステージ上から「愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな」と訴えるなど、若者の反体制思想のシンボルとしても人気を誇った。奇抜なファッションがヒッピー・カルチャーに影響を与えた。 全米ツアーと並行してアルバムを制作し、年末にセカンド・アルバム『アクシス:ボールド・アズ・ラブ』、翌1968年(26歳)に3枚目『エレクトリック・レディランド』を発表。翌1969年(27歳)6月、音楽上の意見の相違によりベースのノエルが脱退。その後、軍隊時代の友人ビリー・コックス(ベース)らと6人組「ジプシー・サンズ&レインボウズ」として再始動する。2カ月後の1969年8月、3日間に及んだ伝説のロック・フェス「ウッドストック・フェスティバル」の最終日大トリとして出演。米軍によるベトナム空爆への抗議として、爆発の擬音を交えてアメリカ国歌を演奏。ギターでベトナム民衆の泣き叫ぶ声を表現し、地獄の戦場を描き出した。 1969年10月、ビリー・コックス(ベース)、バディ・マイルス(ドラムス)と黒人ファンク・ロックバンド「バンド・オブ・ジプシーズ」を結成。大晦日にニューヨークでデビューコンサートを行い、ジャズの帝王マイルス・デイビス(当時43歳)は「俺はこういう音楽がやりたかったんだ」と感嘆した。だが、ドラッグの影響が演奏に出て世間からコンサートは失敗と見なされ、「バンド・オブ・ジプシーズ」はすぐに解散した。 その後、ビリー・コックス、元エクスペリエンスのミッチ・ミッチェルと3人で活動を再開し、米国や欧州で演奏。ニューヨークには音楽のさらなる進化を目指しエレクトリック・レディ・スタジオを建設した。 1970年8月、イギリスのワイト島ロックフェスティバルに出演。 人生の幕は突如として下りた。翌月9月18日未明、ロンドンのホテルに滞在中に27歳で急逝した。死因は睡眠中の嘔吐による窒息死。酒と睡眠薬を併用したことが原因とされたが、死亡時に一緒にいた女性モニカ・ダンネマンは、ジミの様子がおかしいのにすぐに救急車を呼ばず、救急隊員がホテルに到着した時は既にジミの呼吸は停止していた。ジミはLSDやヘロインを常用していたといい、トラブルとなったマフィアから睡眠中に大量のワインを飲ませられ窒息死したという説もあるが(肺の中にまでワインが入っていた)、ダンネマンが1996年に車の中に排気ガスを引き込み自殺し真相は闇の中だ。 ジミの遺骸は9月29日にロンドンから故郷シアトルに空輸された。家族と友人は10月1日にシアトルのダンラップ・バプテスト教会で礼拝を行い、彼は母親の墓のあるレントン近くのグリーンウッド墓地に埋葬された。家族や友人は24台のリムジンで移動し、ミッチ・ミッチェル、ノエル・レディング、マイルス・デイヴィス、ジョン・ハモンド、ジョニー・ウィンターを含む200人以上の人々が葬儀に参列した。 葬儀にはかつてのバンドメンバーや多数のミュージシャンが参列した。クールなマイルス・デイヴィスが他者の葬儀に参列するのは極めて異例だ。 「まだ若くて、あまりに大きな可能性を前にしてのジミの死には、本当に動揺してしまった。だから、葬式に行くのは大嫌いだったが、シアトルでの葬式には出ようと決心した」「白人の牧師はジミの名前すら知らず、あれこれと違った名前を呼び続けていた。なんとも恥ずかしい葬式だった。しかもその野郎は、ジミが誰だかも、彼の業績もわかちゃいなかった。ジミ・ヘンドリックスのような人間が、音楽にあれだけ貢献した後にこんな粗末な扱いを受けるなんて、とても我慢できなかった」(マイルス・デイヴィス) 伝統的な米国のブルースとロックを融合させたジミ。活動期間はデビューからわずか4年だが、大音量から生じた電気ノイズまで音楽表現に取り込み、圧巻のアドリブ演奏を駆使しながら自身と聴衆を音楽的エクスタシーに導いた。マイクをスピーカーに近づけ音をひずませたり、ボディを叩き弦を共鳴させてフィードバック音を出し、またエフェクター設計者ですら予想しえぬ未知の音を引き出すなど、他者には再現不能な斬新なギターサウンドで聴衆を魅了した。その巨大な影響力によって生前から存在が神話化され、日本では3大ギタリスト(エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベック)と比較されることすらない。 作曲家(「Purple Haze」「Little Wing」「Voodoo Child(Slight Return)」「Red House」「Fire」「Foxy Lady」など)、作詞家としても優れた才能を見せ、ギル・エヴァンスは「ジミのアルバムを聴くと毎回新しい発見がある。彼が優れた作曲家だった証拠だよ」と誉め称え、歌手としての独自の表現力に惹かれていたエリック・クラプトンは「ジミは『俺は歌が下手だ』と謙遜しているが、とんでもない。ギターだけではなく歌もとてもうまいよ」と称賛した。 ※2003年に「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」で1位に輝き、2011年改訂版でも1位の座についた。 ※アニマルズのチャス・チャンドラーの話では、イギリスの記者がジミの大音響を「ヘビーメタル(重金属)」と表現したことがヘビメタの初出とのこと。 ※「Purple Haze」で使用されるコードE7(#9)は「ジミヘンコード」と呼ばれ“サイケな響きのするコード”として知られる。 ※1969年1月、生放送の英テレビ「ルル・ショー」で、ジミは司会ルルと「Hey Joe」をデュエットする予定だったが、解散したクリームに捧げるため「Sunshine of Your Love」を演奏した。 ※ジミは右利き用のギターを逆さまにして左利きのフォームで演奏していた。ちなみに、譜面をほとんど読めずコード(和音)の名前も知らなかった。 ※ウッドストックの出演予定時間は最終日の夜だったが、進行が遅れて翌朝になり観客40万人の多くが帰途についていた。 ※ジミの音源の権利は遺族による管理財団「エクスペリエンス・ヘンドリックス」が持つ。代表ジェイニー・ヘンドリックスは父親の後妻アヤコ(日系二世)の連れ子でジミとは血の繋がらない義理の妹。 【ミュージシャンたちのジミヘン評】 ジョン・レノン「ジミはロックの指導者、革新者で、この時代における最も影響力を持った人間の一人だった。完全に独創的だった」 ポール・マッカートニー「エドワード・ヴァン・ヘイレンはグレートだ。でも僕にとっては、ジミが永遠のナンバーワンだよ」 ポール・マッカートニー「ビートルズの『サージェント・ペパーズ』が金曜日に発売されて、そのたった2日後の日曜日に、ジミはそれをステージで(1曲目に)演奏したんだ。あの曲を初めてライブ演奏したのは、ビートルズではなくジミなんだよ。演奏は例の調子で、ギューン!バーン!と素晴らしかった」 ミック・ジャガー(ウッドストックのジミの演奏について)「'60年代で最高のロック・パフォーマンスだ」 マイルス・デイヴィス「あれほど音感のいい人間は滅多にいるものじゃない」 エリック・クラプトン「みんなジミのことを語るときに、服装や髪型やステージアクションなど見た目のことばかり言うが、一度目をつぶって演奏に耳を傾けてみればいい。ジミがどれほど優れたミュージシャンであるか分かるはずだ」「僕とジェフ・ベックが2人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」 エリック・クラプトンは「誰もジミーのようにギターを弾くことはできない」 ジェフ・ベック「(初めてジミの演奏を聴いた時は)廃業を考えた」 ジェフ・ベック「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」 ジェフ・ベック「ジミの演奏は視覚にストレートに飛び込んでくる」 フランク・ザッパ「今のメジャーシーンでまともな音楽をやっているのはヘンドリックスとキャプテン・ビーフハートくらいだね」 ボブ・ディラン「(ジミがカバーした『All Along the Watchtower』について)あの曲は俺が書いたが、権利の半分くらいはヘンドリックスのもの」 モンタレー・ポップ・フェスティバルでジミと演奏順番をめぐってザ・フーのピート・タウンゼントはこう懇願した「君は天才ミュージシャンだが、俺達には楽器破壊の芸しかない。先に演奏させてほしい」。結局コイン・トスでフーが先になった。 〔参考資料〕『ロック・クラシックス』(音楽之友社)、『エンカルタ百科事典』(マイクロソフト)、ウィキペディアほか。 ●YouTubeから、モントレーの伝説の公演「ワイルド・シング」(6分8秒)※大暴れは3分45秒付近から |
ちなみにこちらは2005年に読者のH.Aさんが撮影したもの。まだ柱に肖像画が 入ってない。ギターにジミヘンが好きなマールボロがささっているのが心憎いッス! |
詩人としても優れていた | ロック界のセックスシンボルとなる | 皮パンツがトレードマーク |
“ジム詣で”の大行列!なかなか墓に近づけない | 鉄柵に沿って並び、少しずつ前進 | やっとジムの墓が!鉄柵の為これが最接近(2009) |
1994年 警官が墓に手をつい ておりまだ鉄柵はなかった |
2002年 この時も鉄柵はなく墓にタッチできた。 墓前の大きなジムのポスターが印象的 |
2005年 非情な鉄柵が出現!もう墓に 触れながら語り合うことは出来なくなった |
2009年 墓前には花だけじゃくビールやタバコも あった。ファンはどうやって置いたんだろう? |
この距離、動物園状態っすよ…(2005) | 別サイドからもパチリ(2009) | わずかな隙間でツーショットしてた(09) | 焦りつつもアングルにこだわる(09) |
鉄柵があっても警官が張り付いている。お勤め、ご苦労様です!(2005) |
アメリカのアートロックバンド、ドアーズのボーカル。楽曲の大半を作詞した。ジムは自身をミュージシャンよりも詩人と位置付けており、複数の詩集を発表している。IQ149。フロリダ生まれ。父は海軍の軍人であり、厳格な家庭に育ったことが、逆にジムの内面にボヘミアン指向を生んだ。詩や哲学を好み21歳でフロリダ大からUCLA(カリフォルニア大学ロス校)の映画学科に移る。1965年(22歳)、ジムはUCLAでレイ・マンザレク(キーボード)と出会い、ジムの詩に惚れたマンザレクは、ジャズ・ドラマーのジョン・デンスモア、フラメンコ・ギタリストのロビー・クリーガーという異色の組み合わせのザ・ドアーズを結成した(ベースの代わりにベース音を出すオルガンを使用)。
1966年(23歳)、ドアーズはエレクトラ・レコードと契約。1967年(24歳)、約12分の大作「ジ・エンド」を収めたデビューアルバム『ハートに火をつけて』が大きな話題となり、セカンドシングル「ハートに火をつけて」はビルボード週間ランキングのトップとなる(年間ランキングでも第2位)。この年にはさらにセカンド・アルバム『まぼろしの世界』もリリース。翌68年(25歳)、サード・アルバム『太陽を待ちながら』がついに全米No.1アルバムとなり、シングルカットされた「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」もNo.1シングルに輝いた。ドアーズは文字通りトップ・バンドとなり、革パンツでフェロモンを炸裂させるジミはセックスシンボルとなった。
一方、ジムは過度の飲酒癖とドラッグ漬けで様々な問題を起こす。中でも1969年(30歳)に、マイアミのステージ上でズボンを下げ自慰行為を見せたのはシャレにならず、ジムは史上初めてライブ本番中に逮捕されたミュージシャンとなった。こうしたことからドアーズは反社会的とレッテルを貼られ、クラブハウスが会場の貸出しを渋るなど、次第に活動が困難になっていく。ジムは不摂生な生活がたたって、ぶくぶくに太り、カリスマ性は消えていった。1970年12月12日のニューオーリンズ公演がジムにとってラスト・ライブとなった。
1971年3月、彼は詩作の環境を求めてにパリに移住。それから4ヶ月後の7月3日、アパートのバスタブで変死する。検死が行われずに埋葬されたことから死因は諸説あるが、ヘロインの過剰摂取とみられている。残ったドアーズのメンバーは2作のアルバムを出したがいずれも成功せずバンドは解散した。
パリのペール・ラシェーズ墓地に行くと警官たち(94年は6人いた)が墓の周囲にいる。彼らはファンの落書き(“モリソンLOVE”とか“キス・ミー・モリソン”)を取り締まっているのだ。死後も警官に警備させるなんて、ジム、アンタはVIP中のVIPだぜ!
※1991年にオリバー・ストーン監督の映画『ドアーズ』が公開。映画のラストにジムの墓が映り、その時点では墓の上にジムの銅像が確認できる。ところが僕が3年後の94年に訪れた時は、既にもう銅像がなかった。盗んだヤツ、とっとと返せ〜!
※映画『地獄の黙示録』のコッポラ監督はジムの映画学科時代の同級生。それもあって同映画でドアーズの楽曲を印象的に使用した。 盗難されたモリソンの胸像。1985年撮影(海外サイトより) ●YouTubeから『ジ・エンド』(10分41秒) |
4オクターヴもの声域! | フレディが火葬されたロンドン郊外の ケンサル・グリーン墓地(2002) |
遺灰がまかれたと噂されるレマン湖畔(2005) | フレディ像はローザンヌの新たな観光名所に(2015) |
この角度がド迫力 | 背後に見える山は名水で知られるエビアン | 横からも良い |
2015 子ども@5歳と再巡礼!We Are the Champions! |
ハード・ロックとオペラを融合させたような壮大な楽曲で人々を魅了した、英国ロック界の雄“クイーン”。ヴォーカル兼ピアノを担当したフレディーは、オペラ・ヴォイスと呼ばれる4オクターヴもの驚異的な声域を誇り、完璧な音程と魅力的なライヴ・パフォーマンスにより世界最高のヴォーカリストと讃えられる。
本名フレデリック・バルサラ。旧英国領のタンザニア・ザンジバル島に生まれる。両親はインドに移ったペルシア系民族の末裔。1973年、アルバム『戦慄の王女』でデビュー。作曲家としての技量も高く、「ボヘミアン・ラプソディ」や「伝説のチャンピオン」など複雑でドラマティックな展開の曲を生み出した。 フレディのバイセクシャルは当時から有名だった。自らがエイズ患者であることを公表した翌日に、HIV感染合併症によるニューモシスチス肺炎(旧名・カリニ肺炎)で亡くなった。遺言で「ボヘミアン・ラプソディ」の印税がエイズ基金に寄付され、再発された同曲のシングルCDは英国史上初の同一曲2度目の1位に輝いた。
フレディは死後、遺言によってロンドン郊外のケンサル・グリーン墓地で火葬され、いずこかに散骨された。フレディは晩年をスイス・モントルーのレマン湖畔の別荘で暮らしており、遺灰が撒かれた場所はレマン湖畔(銅像の近く?)とも、英国の自宅の庭とも言われている。また、前述したケンサル・グリーン墓地に一時期フレディを追悼する銘板がはまった墓碑があったが、現在はその銘板が取り外されているとのこと。 なぜゆえ、銘板は取り外されてしまったのか。散骨場所を秘密にするためか、あるいは別の場所に散骨したのに同墓地に墓碑があると誤解を招くからか。僕としては、以前から噂されていたレマン湖畔、英国の自宅の庭、ケンサル・グリーン墓地の3カ所すべてに分けられた遺灰が撒かれていると思いたい。海外の著名人の場合は、複数のゆかりの場所に散骨するケースが少なくないからだ。 ※非常に親日家で、ロンドン郊外ケンジントンの自宅には日本庭園が造られている。 ※個人的なことだけど、フレディの命日は僕の誕生日と同じ11/24。それもあって親近感を持っています。 |
【参考記事】「クイーンの故フレディ・マーキュリーさんの墓、ロンドンで発見?」 2013年2月25日[シネマトゥデイ芸能ニュース] 火葬されたフレディさんの遺灰がどこに埋葬されたかなどについては、公にはされておらず、ケンジントンにある1,000万ポンド(約14億円 1ポンド140円計算)の家を相続した元恋人のメアリー・オースティンに渡されたと推測されてきた。 今回、ウエストロンドンにあるケンサル・グリーン墓地の一角にフレディさんの本名ファルーク・バルサラに贈ると書かれ、彼と誕生日と亡くなった日が書かれた金属版が発見されたという。版は柱礎の上に設置されており、フランス語で「いつもあなたのそばに すべての愛を込めて」と刻まれているとのこと。最後にM.の文字もあり、元恋人メアリーさんが遺灰を埋めた場所ではないかと思われているようだ。 「フレディが1991年にケンサル・グリーン墓地で火葬されたのは誰でも知っていますが、遺灰がどこに埋葬されたかはまったくの謎でした。これは大発見です」とクイーンのファンはDaily Mirror紙にコメントをしている。 墓地の作業員によると、この金属版がフレディ・マーキュリーさんに敬意を表したものだとは知らなかったとのこと。また、いつ墓地に設置されたかもわからないらしい。 【重要記事】「フレディ・マーキュリーの墓、発見後、忽然と消失したことが明らかに」 2013年3月6日〔rockinon.com〕 先頃、墓誌が見つかったと伝えられていたクイーンのフレディ・マーキュリーだが、その後、墓碑から墓誌が取り除かれてしまったという。 墓碑はロンドンのケンザル・グリーン霊園にあり、小ぶりな塔のような墓碑に同じ場所に散骨されたほかの人々の金属板の墓誌がいくつも貼りつけられてある作りになっていて、そこにフレディの本名であるファルーク・バルサラと記され、フレディの生年月日と歿日が記された墓誌の銘板が発見されていた。しかし、ここにきてその墓誌となっている銘板が取り外されてしまったという。 あるファンは『デイリー・ミラー』紙に次のように語っている。 「まるで蒸発してしまったかのように消えてしまったんです。ようやくフレディの墓が見つかったと思ったら、こんな展開で、まったく新しいステージに入ってしまいました。とても普通じゃないことだし、どういうことなのだろうと、大変気になりますね」 フレディはケンザル・グリーン霊園で火葬され、その後の埋葬に関しては生前に交際したこともあり、生涯の友人だったメアリー・オースティンのみが知っているとされていて、墓誌もメアリーが施したものだとされていた。なお、墓誌には次のようにフレディを偲ぶ一文が添えられていた。 「ファルーク・バルサラの愛しい思い出に。Pour Etre Toujours Pres De Toi Avec Tout Mon Amour (わたしのすべての愛情をもっていつまでもあなたの近くにいるために) M.」 しかし、メアリーはかつてフレディがどこに埋葬されたのかを明かすつもりはないと次のように公表していた。 「フレディとは臨終の際に遺灰がどこに埋めてあるのか公にしないように約束をしました。どこにあるのかは知っていますが、それ以上のことは言えません」 フレディはエイズによる気管支肺炎で1991年11月24日に息を引き取り、11月27日にケンザル・グリーン霊園で葬儀が執り行われ、クイーンのブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンとエルトン・ジョンのほか、近親者や友人ら総勢35名のみが列席した。 なお、問題の墓誌について霊園のスタッフはフレディ・マーキュリーのものとは知らなかったと語っていて、さらにどれほど前に取りつけられていたのかも知らないと説明している。
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ミュージカル『ウィ・ウィル・ロック・ユー』は全曲がQUEENの音楽。 物語の舞台はロックや楽器が消滅した近未来。あらゆる情報がコントロールされ、 人々はコンピューター音楽で洗脳を受け支配されている。この閉鎖社会に ガリレオ・フィガロという名の救世主が現れ、ロックで戦いを挑むという破天荒なストーリー。 プロモーション動画(1分3秒)で熱気が伝わると思う! 劇場では美味しそうなフレディの人形焼を売っていた!“日本限定グッズ”とあり、 迷わず即買い(笑)。右手の拳を突き上げ、ギターを持ったフレディ様っす! |
『生きること。それは日々を告白してゆくことだろう 〜放熱への証〜』 墓碑にはそう彫られていた。 |
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線香の代わりにタバコが墓前に供えられてる のは、拙者が知る限り尾崎と松田優作だけ。 |
尾崎の墓に続く道にはファンの雄叫びが。 |
16歳の終わりに尾崎豊はCBS・ソニーオーディションの最優秀アーティストに選ばれる。喫煙、飲酒等で3度に渡る停学処分の後に高校を自主退学した彼は、本格的に音楽活動を始め、18歳でレコード・デビューを果たす。そして高校生であれば卒業式の日であった3月15日にデビュー・ライブを敢行する。その夏に白井貴子のライブに前座として出演、7mの高さから飛び降り骨折するも、体を支えられながら歌いきるという伝説を作る。青春の苦しみを告白した彼の歌は、同世代の若者に圧倒的に支持され、尾崎は瞬く間に社会に対する10代の代弁者となった。 85年に出したセカンド・アルバム「回帰線」はオリコン初登場1位という快挙を達成する。ライブ会場で尾崎はファンを「お前ら」と呼び、ファンは“尾崎を信じてどこまでもついて行く”と泣きながら誓いを立てた。 「今日ここに集まってきてくれたお前らの中に、俺と一緒に本物の愛や真実を見つけようと歩いていく連中がいるならば、俺はそいつのために命をはる!」(19歳のライブで。当時、“教祖”“カリスマ”という言葉は彼の為にあった) だが、自分の曲がビジネスの材料になっていることへの矛盾や、人気の上昇と共に高まっていく周囲の期待に重圧を感じ、20歳になった彼は無期限の活動停止に入ってしまう。 「みんなが(学校の)窓ガラスを割ったとか、それで自己表現していると聞いて、すごく罪の意識を感じる。ノーベルが爆弾を作ったが為に何千何百もの人を殺す武器になったように」(尾崎) そして自己を見つめ直すためにNYへ。翌年帰国した尾崎はドラッグに染まっていた。 「行き場がなかった。出したくもないレコードを作らされた。俺はアーチストという名の奴隷だった」(尾崎) 22歳、覚醒剤不法所持によって逮捕。父親が息子を思って警察に通報したのだった。東京拘置所から2ヵ月後に釈放された彼は付き合っていた彼女と結婚。そしてブラウン管を通して新曲「太陽の破片」を歌った(TV出演は最初で最後)。23歳で父親になった彼は翌90年にアルバム「誕生」をリリース。91年、5ヶ月間の全国ツアーに挑む(これがラストツアーになった)。ツアー終了の半年後、路上で泥酔して倒れているところを発見され、92年4月25日12時6分、肺水腫のため急死した。享年26歳。雨中の追悼式には3万人のファンが集まった。 墓前に何本ものタバコを見た瞬間は、灰皿にされてるのかと思って「なんちゅう酷いことをしよるのか!」と憤慨したが、一呼吸おいて考えると、それらが線香の代わりなんだと分かった。側には墓参者が心を綴ったメモもあり、その中にこんな走り書きがあった。『生きること、死ぬこと、57歳になってもまだ見えぬ。これからか』。57歳!! |
史上初めて反体制の放送禁止曲でヒット・チャートの頂点に立った伝説のパンク・バンド“セックス・ピストルズ”!そのベーシストでパンク・ロッカーの代名詞がシド・ヴィシャス(本名ジョン・サイモン・リッチー)だ。彼の名前はピストルズのヴォーカル、ジョニー・ロットン(現ジョン・ライドン)の飼っていたハムスターの名“シド”と、「危険・凶暴」という意味の“ヴィシャス”を合わせたもの。シドはピストルズの元メンバーだったグレン・マトロックが『ビートルズが好き』という理由でクビになり、その後釜としてバンドに迎えられた。過激な歌詞で現代社会を攻撃しまくり、英国王室をコケにしまくった彼らは、保守層や右翼から敵視され、ライブ会場は常に大荒れ。米国南部のツアーでは「♪俺はキリストを信じない!」と叫ぶ彼らに激怒した客がステージへハンバーガーを投げ込み、ケチャップまみれで演奏が続けられた(この時興奮した客の一人がステージへ上がろうとして、シドから脳天にベース・ギターを叩きつけられた映像が残っている!)。1978年1月18日、たった1枚のアルバムを発売しただけでピストルズは解散した。拝金主義のレコード業界や反ピストルズ運動にメンバーがウンザリしてしまったのだ。 シドの恋人ナンシーはドラッグ漬けで、その影響でシドもまたジャンキーとなってゆく。同年10月12日、ナンシーはNYのチェルシー・ホテルで何者かに殺害された(まだ20歳だった)。同室には麻薬を過剰に摂取したシドがおり、彼はナンシー殺害容疑で逮捕される。ナンシーの死の真相は現在も不明だが、刑務所でシドが「昼も夜も彼女のことで頭がいっぱいだ。俺が彼女を殺すなんてことありえない。あんたが俺がナンシーを愛してたくらいに誰かを愛してたら、絶対殺すことなんて出来ないって分かるはずだ。彼女ナシじゃ生きていけない。二人で楽しく過ごした時のことばかり考えてしまうんだ」と語っていることから、『麻薬ディーラーとのトラブルで殺害された』『シドが麻薬の多量摂取で死んだと思い、ナンシーが後を追って自殺した』『シドがナンシーを道連れに心中しようとし、殺した後自分も麻薬で死のうとしたが失敗した』という三つの説が伝えられている。 ナンシーの死から3ヵ月半、79年2月2日、シドは彼女の後を追うようにドラッグを過剰摂取して命を絶った(21歳)。彼は死の直前に母親にこう言った「ナンシーは向こう側で俺のことを待ってるんだ。もし急げば愛しいナンシーに追いつけるよね」。遺書には『俺達は一緒に死ぬ約束なんだ。こちらも約束を守らなきゃならない。ナンシーの隣りに埋めてくれ。レザージャケットとライダース・ブーツを着せたまま…さようなら』とあった。彼の遺言はナンシーの両親から反対され実現されなかったが、シドの母親が彼の墓を掘り起こし、遺灰をナンシーの墓に撒いたという(すごい母親だ!)。 |
こんなにクールで カッコ良いシドが… |
ドラッグを吸うと… | アホになる! (絶対にドラッグはダメ!) |
NYからの鉄道(アムトラック)。 まずは州都のフィラデルフィアへ。 |
親切な係員マーティン!墓の正確な住所が 分からないので、とにかくバックス郡に向かう ローカル鉄道の路線を教えてもらった。 |
これがペンシルバニア州の中だけを走っている地元の鉄道SEPTA。バックス郡には駅が4ヶ所以上あり、どの駅が墓地に一番近いのか不明だった。自分はマーティンがヤマをはったTrevose駅で降りることにした。 |
電車に揺られること45分。Trevose駅は無人駅で降りた のは自分一人だった!駅に周辺地図もなく、途方に暮れて いると白い小型バスが停車していた。乗り込んでドライバー に墓地の名前に心当たりがあるか訊いたがノーという返事。 泣きそうな顔をしていると、ちょっと待て、とケータイで会社 に電話して、その名前の墓地付近を通る路線バスがあるか 調べてくれた!その結果、14番線が側に行くことが判明し、 写真のように14番線のバス停までタダで送ってくれた。 なんて優しいんだ!(去っていく小型バスが写ってる) |
ところが、バス停には時刻表がなく、いつ来るのか 分からない。不安に包まれてバスを待っていたが、 約20分後、本当にこの大型バスがやって来た。 感激! |
「この道を真っ直ぐ行けば左側にあるぞ」と、 墓地なんか見えない所で降ろされた! 高鳴る胸を抑え切れず、とにかく走った! |
確かに墓地はあった!しかし、いくら 探してもナンシーの墓は見つからなかった。 なぜだ!? |
ギョエーッ!キング・ダビデ・セメタリーではなく ローズデイル・メモリアル・パーク!墓地が 違うッ!彼女が眠っているハズはないのだ。 |
「ここかッ!」キング・ダビデ・セメタリーは幸い 近所にあった。今度こそ間違いない! |
墓の事務所が見当たらないので自力で彼女の墓 を探し始めたが、どうしても墓石が見つからない。 やがて墓堀人が入って来たので事務所の場所を 尋ねると、敷地から少し離れた所にある樹の木陰 にヒッソリとあった。分かるかっつーの! |
「ぐおお!感無量じゃあ〜ッ!」ついにたどり 着いた彼女の墓。ここにシドの遺灰は撒かれた。 (つまり、ここがシドの墓でもある) |
小さな黄色い2本の野花を2人に捧げた。 「シド、ナンシーに追いつけたかい?」 色々あったが無事にこの地に来れて本当に 良かった!ロック界最強カップルよ安らかに。 |
帰りは近くの巨大ショッピング・モールまで歩き、そこからニュージャージーの鉄道駅に連絡しているバスに 乗った。バスとローカル線を乗り継いでNYに戻ったので、アムトラックの半額以下の交通費で済んだぞ! |
約10年ぶりの墓参! | お変わりありませんでした! | 彼女の墓は「SHELLY」と正面に刻まれた長椅子のそば |
キング・オブ・ロックンロール! |
プレスリーの家が博物館になっており、敷地に墓が ある。壁はファンの熱いメッセージでいっぱい |
墓前は花であふれかえっている | 左から2番目がプレスリーの墓。観光客だらけ! |
アメリカ大衆文化史上、最初の国民的アイドル。ギネスブックに「史上最も成功したソロ・アーティスト」と認定され、“キング”と称されたエルヴィス・プレスリー。ダック・ウォークでギターを弾いたチャック・ベリー(1926-2017)、22歳で夭折した眼鏡をかけた優しいロッカーのバディ・ホリー(1936-1959)、ピアノを弾くロッカーのリトル・リチャード(1932-2020)、同じくピアニストでR&Bをロックに発展させたファッツ・ドミノ(1928-2017)らと並ぶロック音楽の創始者のひとりで、ビートルズをはじめ後世のロック少年たちに絶大な影響を与えた。 ※リズム・アンド・ブルース(R&B)はジャズ音楽の形式。1930年代後半の米南部の黒人の間で始まり、強烈なアフター・ビートのリズムにのってシャウトした。20年後にこれを母体にしてロックが誕生した。 プレスリーは1935年1月8日にミシシッピ州チューペロで生まれた。双子で生まれた兄は出産時に死亡、父ヴァーノン、母グラディスと3人家族で育つ。身長183cm。髪は黒く染めており、本来の髪の色は茶褐色。趣味はバッジ収集。 幼少期から南部の黒人音楽・ブルースに親しむ。10歳のときにタレント・コンテストでカントリーのバラードを歌い優勝。11歳の誕生日にギターを贈ってもらい、夢中になって家の洗濯室で練習した。1949年(14歳)、ブルース歌手アーサー・クルーダップ(1905-1974)のライブを観て「アーサーのような存在になりたい。あんなふうに演奏したい」と願う。同年テネシー州メンフィスに転居すると、街には貧しい黒人労働者が多く暮らしており、エルヴィスは黒人霊歌とジャズの要素が入った伝道用賛美歌=ゴスペルを好んで聴くようになる。有料のゴスペル・ショーにも足を運んだが、あるときエルヴィスが貧しくて入場料を払えないでいると、ゴスペル・シンガーのJ.D.サムナー(1924-1998)の粋な計らいで以降は楽屋口から無料で入れてもらえるようになった。 高校卒業後、エルヴィスは最初に精密金型会社に就職し、次にトラック運転手になった。1953年、18歳のエルヴィスは「母への誕生日プレゼント」「自分の声がどんな風に聞こえるか知りたかい」との理由でメンフィスのサン・スタジオを訪れ、4ドルを払って初めてディスク(アセテート盤)に自費録音した。 1954年(19歳)、1月に再びサン・レコード訪れ2枚目を自費録音、このときにサン・レコード創業者サム・フィリップスと面識を得た。当時のアメリカは人種差別感情が根強く、黒人がヒットさせたR&Bを白人がカバーし、それが白人向けに売られていた。リズム・アンド・ブルースを黒人のように歌うことができる白人歌手を探していたサム・フィリップスは、青春時代を黒人音楽と共に過ごし、広い声域を持つエルヴィスに白羽の矢を立てスカウトする。同年7月5日、スタジオにプレスリーと伴奏者2人が集められ、彼らが休憩時間に遊びながらアーサー・クルーダップの「ザッツ・オールライト」をセッションをしたところ、それを気に入ったフィリップスが「今のをもう一度やってくれ」と要望、レコード用に録音された。音源がラジオ局に持ち込まれ、7月10日にラジオでエルヴィス版「ザッツ・オールライト」がオンエアされるとリクエストの電話や電報が殺到、その夜は番組終了までに7回流された。エルヴィスは自分の声がラジオから流れるのが恥ずかしくて、放送中は映画館に逃げ込んでいたという。人々はエルヴィスの歌声を聴いて黒人の歌手と思っていたが、ラジオのインタビューで出身ハイスクールを知り白人ということを知った(当時は肌の色で学校が異なった)。ラジオのオンエアから9日後、7月19日にエルヴィスにとって記念すべき初のシングル「ザッツ・オールライト」が正式にリリースされると、無名の新人でありながら地元メンフィスのチャートで3位を獲得した。テネシーの各地で公演し、エルヴィスはテネシー中で話題になった。 「That’s All Right 」https://www.youtube.com/watch?v=NmopYuF4BzY 1955年(20歳)、2月にオランダ出身の46歳の敏腕マネージャー、トム・パーカー(通称・パーカー大佐 1909-1997)と契約を結ぶ。パーカー大佐はエルヴィスに大きな将来性 を見出し、積極的に売り込みを開始。以降、エルヴィスの生涯にわたって生活のあらゆる側面をマネジメントし、“パーカー大佐”の名はショウビズ界において「やり手マネージャー」の代名詞となっていく。 ※パーカーの本名はファン・カウク。何かの理由でオランダを追われ米国に密入国し、軍で出会ったトム・パーカー陸軍士官の名をそのまま芸名とした。プレスリーが世界ツアーを一度も行わなかったのは、米国永住権がない大佐が再入国できない恐れがあったため。プレスリー「彼(パーカー)がいなかったらこんなにビッグになっちゃいないよ。彼はとても賢い男さ」。 エルヴィスはサン・レコードから5枚のシングルをリリースした後、11月に音楽業界最大手の1つRCAレコードと契約する。 この年、映画『暴力教室』のテーマ・ソングにビル・ヘイリーが歌った「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が使用され大ヒット、この曲をきっかけに世界的なロック・ブームが起きた。 1956年(21歳)1月に第6弾シングル「ハートブレイク・ホテル」がリリースされ、エルヴィスはこの曲でロック音楽のスタイルを確立した。テレビにも初出演し、「トミー・ドーシー・ステージ・ショウ」で歌いながら腰を使ったセクシーなステージ・パフォーマンスを披露、PTAや宗教団体から抗議の声が起きた。だが若者たちはエルヴィスに熱狂し、「ハートブレイク・ホテル」はリリースから4カ月でチャートの1位に登り詰めた。この曲の強調されたビートは後のミュージシャンに多大な影響を与えた。12月、サン・レコードに立ち寄った際にカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュらとジャム・セッションを行ない、このセッションはスターが集まったことから『ミリオン・ダラー・カルテット』と呼ばれるようになる。 この年、アルバム『エルヴィス・プレスリー登場!』が初の全米ナンバーワンを獲得。ほんの2年前までエルヴィスの生活は電話機もレコードプレーヤーもないほど貧乏だったが、この一年間だけでプレスリー関連商品78種類が合計2200万ドルを売り上げ、レコードの売り上げは全米トップとなった。プレスリーただ1人で当年のRCAレコードのレコード部門の売上げの半分を稼いだという。 貧しかった少年時代を経てデビューわずか2年でスーパースターになったことでアメリカンドリームの象徴となり、若者たちはエルヴィスのファッションや髪型に影響された。 人気歌手になったことで映画会社から出演依頼が届くようになり、映画ファンの彼は大いに喜び、演技派俳優を目指して独学で演技の勉強を始める。初主演作は『ラヴ・ミー・テンダー』。劇中では主題歌だけを歌うつもりだったが、パーカー大佐の強い押しで4曲も歌うことになった。 1956年9月、映画の公開前に『エド・サリヴァン・ショー』に初出演して珠玉のラブソング「ラヴ・ミー・テンダー」を歌いあげ、翌月に発売されたシングル「ラヴ・ミー・テンダー」は100万枚も注文が殺到した。11月、ミュージカルの要素が入った西部劇『ラヴ・ミー・テンダー(邦題「やさしく愛して」)』が公開され、エルヴィスは実在したリノ四兄弟の末弟クリント・リノを演じた。運命のいたずらで兄と撃ち合うことになる悲劇で、エルヴィスはストーリーを気に入っていた。続けて翌年に映画『さまよう青春』『監獄ロック』が公開され、シングルの「監獄ロック」は全米チャートでは7週間1位になっただけでなく、イギリスでは英史上初のシングル・チャート初登場1位を獲得した。 一方、下半身を揺らしながら歌うエルヴィスの歌唱スタイルは保守的な保護者から「子どもに見せられない」とバッシングが続き、『エド・サリヴァン・ショー』で3度目にゲストになった際は、エルヴィスの上半身だけが放送された。フロリダのライブではPTAの要望を受けた警察から「下半身を動かすと逮捕する」と警告を受け、腰のかわりに小指を動かしたという。そもそもロック音楽自体が「非行の原因」と中傷される時代だった。 1958年(23歳)、徴兵制で兵役に就く前に主演第4作『闇に響く声』の撮影を終える。この作品は元々ジェームズ・ディーン(エルヴィスより4歳年上)が主演する予定だったが3年前に事故死しており、ディーンの大ファンだったエルヴィスが演じた。エルヴィスにとってディーンは役者としての目標であり、『理由なき反抗』の全セリフを覚えるほどだった。クランクアップ後、エルヴィスはアメリカ陸軍に入隊。一般兵として西ドイツのアメリカ陸軍基地で2年間勤務し、この間に松濤舘流空手を学んだ。1960年(25歳)、軍曹の階級で満期除隊。映画挿入歌を収めたアルバムの売れ行きが好評だったことから、パーカー大佐は映画会社と長期の出演契約を結ぶ。 除隊後のエルヴィスはコンサートより映画をメインの仕事とし、ハリウッドに拠点を移す。そして1年に3本というハイペースで映画に出演し、『G.I.ブルース』(1960)、『ブルー・ハワイ』(1961/挿入歌「好きにならずにいられない」)、『ラスベガス万才』(1964)、『いかすぜ!この恋』(1965)など、1969年までの9年間に実に27本もの映画が制作された。残念ながら、エルヴィスが役作りのために顎ひげを生やしたり努力しても、ロクな脚本が上がってこないうえ、興行成績も振るわなかった。映画の脚本は青春歌謡ドラマばかりでどれも似ており、「ふざけるな! ボートにバイクに車の選手、全部同じストーリーだ」と激怒したという。こうして次第にコンサート活動への復帰を望むようになった。この年、母が46歳で他界。 1961年(26歳)、チャリティ・ショーの収益でパール・ハーバーに「アリゾナ記念館」を建てる。 1965年(30歳)、ロサンゼルスのプレスリー邸をビートルズの4人が訪問。当時ジョンは25歳、ポールは23歳。憧れのエルヴィスを前に4人は感激と緊張で固まってしまった。テレビを見ながらベースを練習していたエルヴィスは「ずっとそのまま僕を見てるならもう寝るよ?一緒に演奏しようと待っていたのに」と声をかけ、ビートルズとの即興演奏が始まった。ジョンとジョージがギター、ポールはピアノを担当し、リンゴはドラムがないため遊んでいた。交流は和やかに進んだが、英国流の皮肉屋のジョンがベトナム戦争に反対しないプレスリーの姿勢と、マンネリ映画を批判したことから、エルヴィスはジョンを嫌いになった。ライブではポールとジョージの曲は何度もカバーしたがジョンの曲は歌わなかった。反省したジョンは「エルヴィスがいなければ今の自分は居ない」と、エルヴィスの知人に伝言を伝えるよう頼んだという。 1967年(32歳)、軍隊時代の所属部隊長の継子プリシラ・アン・ボーリュー(22歳)とラスベガスで結婚。最初にプリシラとパーティーで知り合ったときは彼女がまだ14歳だったため、出会いから8年後に結婚した。 1968年(33歳)、エルヴィスのテレビ特番が瞬間最高視聴率約72%を記録。同年、娘のリサ・マリー・プレスリー誕生。この年は4月にメンフィスでキング牧師が暗殺されている。 1969年(34歳)、映画『チェンジ・オブ・ハビット』を最後に銀幕を去り、コンサート活動を再開。ラスベガスを中心にライブ・ショーを行うようになる。かつてはギター、ベース、ドラムスをバックにロックを歌っていたが、復帰後はビッグバンドをバックにゴスペルや『マイウェイ』などスタンダードの名曲も取り上げるようになった。8年後に没するまで公演回数は1000回を超えており、平均1年に約125回、3日に一度はステージに立つハードな日々だった。どのステージもチケットは売り切れ状態が続いた。この年リリースしたシングル「サスピシャス・マインド」は1961年の「グッド・ラック・チャーム」以来8年ぶりの全米1位ヒットとなり、エルヴィスの完全復帰を印象づけた(ただし以降他界するまでの8年間は1位に届かなかった)。 1970年(35歳)、夏のラスベガス公演やリハーサルの様子を記録したドキュメンタリー映画『エルヴィス・オン・ステージ』が好評を得る。エルヴィスはリハーサル中にジョークをよくいい、セッションはいつも和やかな雰囲気だった。12月にニクソン大統領と面会し、麻薬撲滅の重要性を語り合う。エルヴィスは麻薬取締官の資格を与えられ、実際に麻薬の不法所持者を逮捕するために飛行機を止めたり、自分のバッグを盗んだ男を逮捕した。 1971年(36歳)、結婚から4年。ツアー活動による年に数か月に及ぶ別居生活や、夫の昼夜が逆転した生活習慣など、様々な理由でプリシラは浮気相手の空手師範のもとに走り、メンフィスでの結婚生活は破綻した。プリシラは3歳のリサを引き取り、グレイスランド(プレスリー邸)を出てロスに転居した。 1972年(37歳)、コンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画『エルヴィス・オン・ツアー』が製作される。 1973年(38歳)1月、初のコンサート衛星生中継となった癌基金チャリティコンサート「アロハ・フロム・ハワイ」は、世界40カ国、15億人以上に視聴された。米本土での視聴世帯数は人類初の月面着陸中継より多かった。「アロハ・フロム・ハワイ」は日本のゴールデン・タイムに合わせるため、現地時間の午前0時スタートとなった。 この年、プリシラと正式離婚。その際、離婚にまつわる財産分与の過程で、パーカー大佐がプレスリーの楽曲の著作権をRCAへ売り渡してしまう。これはパーカー大佐がギャンブルで大損を出し、早急に大金を得るために独断で売ったもので、おかげでエルヴィスは印税を受け取れなくなった。 1975年(40歳)、エルヴィスは酒も煙草もやらなかったが、ストレスが要因の過食症で体重が増加していく。この頃から主治医に処方された精神安定剤や睡眠薬を使い、「処方ドラッグ」をやり始めた。違法ドラッグではないものの、薬の作用で短気になり体調が悪化。薬物依存と肥満によりエルヴィスはグレイスランドにこもりがちになり、公の場からしばらく遠ざかる。 1977年6月26日、インディアナポリスにて公演。これが最後のコンサートとなる。2ヶ月後の8月16日、エルヴィスはメンフィスの自宅グレイスランドで急逝した。朝から健康の為にラケットボールを自邸のコートで友人と楽しみ、その後、処方ドラッグによる心不全でバスルームに倒れているところをガール・フレンドのジンジャー・アルデンに発見され、搬送先の医師が15時半に死亡を確認した。享年42。エルヴィスとプリシラは離婚後も友人関係にあり、この日は9歳の娘リサ・マリーが遊びに来ていた。翌日から予定されていたツアーは最終日となる8月27日のメンフィス公演まで売り切れていた。死の翌日はエルヴィスのレコードが2000万枚以上も売れ、これはギネス記録「1日で最もレコードを売ったアーティスト」として登録された。 エルヴィスの亡骸は、当初はメンフィスのフォレスト・ヒル墓地に眠る母親の隣りに埋葬(1958年没)されていたが、墓の盗掘未遂事件が起き、約2カ月後に母親と共に自邸グレイスランドの敷地に改葬された。今、エルヴィスの墓は両親や祖母の墓と並んでいる。ちなみに彼が一時期入っていた墓所は2012年にオークションに掛けられている。 グレイスランドは記念館として公開され、エルヴィスが暮らした部屋や愛車のピンク色の59年型キャデラック、衣装、娘の名前をつけた自家用機「リサ・マリー号」などが展示されており、世界中からファンが訪れている。 訃報に接しジミー・カーター大統領は次のように追悼した。「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽と、黒人特有のリズム・アンド・ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった」。 没後4年の1981年、生前の映像を中心にした伝記映画『This Is ELVIS』公開。これで晩年のドキュメンタリーを入れるとエルヴィスの主演映画は計34本になった。 1986年、オハイオ州クリーブランドにある博物館『ロックの殿堂』が開館、ロック史上の優れたアーティストが登録され、第1回目にエルヴィスやチャック・ベリー、リトル・リチャード、バディ・ホリー、ファッツ・ドミノらロック創世記の開拓者が選ばれた。殿堂の見解は「ロックンロールを創造した者を一人に限定することはできないが、最も近い存在はチャック・ベリー」。これはおそらく、エルヴィスの音楽にカントリーとゴスペルの要素が含まれるのに対し、ベリーはロック色が全面に出ているからと思われる。 1998年、「カントリーの殿堂」に登録。 2001年、「ゴスペル・ミュージックの殿堂」に登録され、ロック、カントリー、ゴスペルの3部門に殿堂入りした初のアーティストとなる。現時点で3部門を制覇したのは他にジョニー・キャッシュのみ。 2006年、エルヴィスが約20年間を過ごしたグレイスランドが国定歴史建造物(National Historic Landmark)に認定され、認定式典に娘のリサ・マリーが出席した。 元妻のプリシラは28歳で離婚した後、女優となり43歳で1988年にコメディ『裸の銃(ガン)を持つ男』に出演、同シリーズの常連となる。 一人娘のリサ・マリーは歌手となり、20歳のときにミュージシャンと結婚。二児をもうけるが6年で離婚し、1994年に26歳でマイケル・ジャクソンと再婚したが2年で離婚する。34歳で俳優ニコラス・ケイジと再々婚するが3カ月で離婚。2006年に38歳でギタリストのマイケル・ロックウッドと4度目の結婚をして双子を産むが結婚10年目の2016年に離婚した。現在はイギリスで静かに暮らしている。 ミュージシャンとしてのエルヴィスの活動期間は23年間。公式リリース音源は800曲以上に及び、この間に様々な記録を成し遂げた。米ビルボードHot100に入ったエルヴィスの歌は149曲。うち40曲がトップ10入り。18曲が1位を獲得した。18曲の内訳は11週連続1位となった「ハウンド・ドッグ」「冷たくしないで」のほか、「ハートブレイク・ホテル」「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー」「ラヴ・ミー・テンダー」「トゥー・マッチ」「恋にしびれて」「テディ・ベア」「監獄ロック」「ドント」「冷たい女」「恋の大穴」「本命はお前だ」「イッツ・ナウ・オア・ネバー」「今夜はひとりかい?」「サレンダー」「グッド・ラック・チャーム」「サスピシャス・マインド」。 これはビートルズの20曲に次ぐ 歴代2位で、マライア・キャリーとタイ記録になるが、連続1位の合計80週間は歴代トップ(ビートルズは計59週間)。ビートルズのようなグループ・バンドではないため「世界で最も成功したソロ・アーティスト」とギネスに認定された。 エルヴィスが活躍していた頃のメンフィスは、この地でキング牧師が暗殺されたように、非常に黒人への差別感情が強かった。しかし、白人の貧困家庭(いわゆるプア・ホワイト)に育ち、トラック運転手をしていたエルヴィスは違った。彼は黒人たちの音楽に魅了され、自らブラック・カルチャーに接近していった。アメリカ全体でも人種差別が社会問題化していた時代にあって、エルヴィスが黒人音楽のリズム&ブルースと白人音楽のカントリー&ウェスタンをミックスさせた音楽スタイルで登場したことは画期的だった。当時、白人ミュージシャンにも黒人音楽を取り入れる者はいたけど、彼らはR&Bを白人向けの甘いスカスカのポップスにアレンジしていた。ところが19歳でデビューしたエルヴィスは、歌唱法もリズム感も黒人そのもの。TVに出演するまで、ラジオのリスナーはエルヴィスのことを黒人歌手と勘違いしており、彼はデビュー時点で黒人の音感が血肉となっていた。 当初は白人の大人社会から“黒人かぶれの下品な若造”というレッテルを貼られたが、若者たちは従来の白人音楽に無かった強烈なビートに興奮し夢中になった。1970年代、ツアー先の白人プロモーターから「(コーラスの)黒人娘を連れてくるな」と何度か言われ、エルヴィスは「彼女たちを来させないなら僕も行かない」と出演を断り、相手がお金を積んで謝罪しても決断を変えなかった。ソウル界の帝王ジェームズ・ブラウンはエルヴィスをこう評した。「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」。 ドキュメンタリー映画『エルヴィス・オン・ステージ』にはリハーサル中にエルヴィス自身がムードメーカーとなって、周囲のみんなを笑わせているシーンが何度も出てくる。そして彼を知る人やファンは「ライブ会場に温かい空気が満ち、あふれる愛を感じる」「レコードだけでは彼を知らないに等しい、本物の魅力は絶大です」と語る。バックバンドのメンバーは、エルヴィスが雑用スタッフにも敬意を持って接している姿、その人柄に惹かれてバンドに加わった。アメリカを代表するテレビ司会者エド・サリヴァンは、自身が非難を浴びることを覚悟のうえで、エルヴィスを叩く保守層に「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と言ってかばった。 エルヴィスの周囲にいる人間がことごとく彼に魅了されるのは、単に歌がうまいとかセクシーとかではなく、「心が温かい」という人間的魅力に惹き付けられたのだ。 【墓巡礼】 “キング・オブ・ロックンロール”エルヴィスの墓は「グレイスランド」と呼ばれる自邸の裏庭にある。年間約70万人が墓参し“世界で最も訪問される墓”としてギネス記録になっている。没後18年目の1995年は歴代最多の75万3965人が墓参した。グレイスランドはそのままエルヴィスの記念館として公開されており、周囲の塀はファンの熱いメッセージでいっぱい。グレイスランドは市内中心部やサンスタジオから約12kmもあるため、市内のエルヴィス関連施設を巡回している無料のバス「サンスタジオ・シャトル」を使おう。ハートブレイクホテル、グレイスランド、サンスタジオ、ロックンソウル博物館の4箇所を結んでいる。グレイスランドの見学チケットは約30ドル(約3300円)。う〜ん、中庭の墓参のみの場合、無料にして欲しい…。墓所の左から2番目がプレスリーの墓。墓前で“キング”の歌に魅了されたこと、曲を聴いている間の幸福感について語りかけた…と言いたいところだけど、なんといっても70万人の訪問者、墓前まで長い行列ができ、ようやく墓前に立てたと思ったら。あれよあれよと横に押し出された(汗)。それゆえ、いったん列から離れて後方より「こんにちは、エルヴィス。私は日本から…」と語りかけた。 グレイスランドの館の中は、袖にヒラヒラがついた衣装や、大ヒットしたシングルレコードなど、様々なものが展示されていた。リビングには壁に埋め込まれた3台のテレビが並んでおり、くつろいで観賞しているエルヴィスの姿を想像できた。生活空間と墓を訪れたことで、遠い雲の上にいたエルヴィスが少し身近になった気がした。グレイスランドの見学者がみんな笑顔になっているのを見て、“キング”がその歌声でどれだけ多くの人を幸せにしてきたかと胸がいっぱいになった。 ※マスコミが報じた死因は「処方薬の過剰摂取による心臓麻痺」のみで、非公開の密葬となったことから、ファンは“最後のお別れ”をしっておらず、その後長く「エルヴィス生存説」が流れる原因となった。 ※エルヴィスはレコードを作る際に、曲を編集して繋げるのではなく、“一発録り”を重視した。このため、数多くの未発表テイクが生まれ、現在進行形で発掘が続いている。 ※新たに編集された曲が2002年のFIFAワールドカップの公式テーマソングになった。 ※プレスリーに魅了されてミュージシャンを志したアーティストは多数。ボブ・ディラン、フレディ・マーキュリー、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ロバート・プラント、ブルース・スプリングスティーン、ルー・リード、オペラ歌手ペーター・ホフマンなど。 ※好物は揚げ焼きにした「ピーナッツバターとバナナとベーコン」のサンドイッチ。 ※メンフィスには世界中のプレスリーファンからの募金だけで運営されているセイント・パウロ・エルヴィス・プレスリー記念病院がある。 ※ミドルネームは公文書もサインもAronだけど、墓石はなぜかAaronになっている。 ※ディズニー『リロ・アンド・スティッチ』の中でスティッチがレコードを爪で再生したのはエルヴィスの「サスピシャス・マインド」。 ※エルビス・ファンクラブの数は45か国625組織。 ※英雑誌『Q』で音楽ジャーナリストが選ぶ「音楽と世界を永遠に変えた革新的な100曲」の第1位にエルヴィスのファースト・シングル「ザッツ・オール・ライト」(1954)が輝く。翌1955年にビル・ヘイリーが「ロック・アラウンド・ザ・クロック」でロック音楽初のビルボード・チャート全米1位を獲得、またロック創始者の1人チャック・ベリーが初シングル「メイベリーン」をリリースした。チャックの代名詞となる「ジョニー・B・グッド」はそれより3年後(1958)の作品。リトル・リチャードの「のっぽのサリー」など代表曲は1956年の作品。 ※経済誌「Forbes」が選定した「死後、最も売り上げが多いアーティスト」において、エルヴィスは2001年から5年連続でトップとなり、以降も何度もトップになっている。平均して毎年約50億円を売り上げている。 ※最多ヒットシングル記録(149回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。 ※2010年発表の「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」で第3位。(1)ビートルズ(2)ボブ・ディラン(3)エルヴィス・プレスリー(4)ローリング・ストーンズ(5)チャック・ベリー(6)ジミ・ヘンドリックス(7)ジェームス・ブラウン(8)リトル・リチャード(9)アレサ・フランクリン(10)レイ・チャールズ(11)ボブ・マーリー(12)ビーチ・ボーイズ(13)バディ・ホリー(14)レッド・ツェッペリン(15)スティーヴィー・ワンダー(16)サム・クック(17)マディ・ウォーターズ(18)マーヴィン・ゲイ(19)ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(20)ボ・ディドリー。 −−−−−−−−−− ※ドゥーワップの巨人J.D.サムナーの声は非常に低く、一時期はギネスブックに「世界最低音」の保持者として登録されていた。エルヴィスは1970年代のコンサートでJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊に迎えている。 JD Sumner - Wayfaring Stranger https://www.youtube.com/watch?v=mu_wW4OJwjY |
それから約10年。2009年に再訪した時は別の墓地に改葬されており、とても立派な家族廟に眠っていた! | 墓の周囲には小川や小さな滝まであった |
1970年代前半に活躍したアメリカのポップ・グループ「カーペンターズ」のヴォーカリスト、ドラマー。声種はアルト。カレン・カーペンターは1950年3月2日にコネチカット州のニューヘイヴンで生まれた。1963年(13歳)にロサンゼルス郊外に移住。高校のマーチングバンド部に所属し、ビートルズのリンゴ・スターのファンであったことからドラムに没頭した。一方、3オクターブの声域を持っており、歌手としての天性の素質もあった。
1967年、17歳のカレンは4歳年上でキーボード奏者・作曲家の兄リチャードや友人と6人で「スペクトラム」を結成、自身はドラムスとボーカルを担当し、ステーキ・ハウスなどで演奏した。翌年に解散。 1969年(19歳)、カレンとリチャードは「カーペンターズ」名義でA&Mレコードとの契約を結び、初アルバム『涙の乗車券』でデビューを飾った。きれいな歌声とさわやかな演奏で人気を集め、続いてシングル『close to you(遙かなる影)』(バート・バカラック/ハル・デヴィッド作)でチャート1位(1970年7月)に昇りつめた。さらに『愛のプレリュード』(ポール・ウィリアムス/ロジャー・ニコルス作)も連続ヒットを果たし、1970年のグラミー賞では「最優秀新人賞」「最優秀ボーカル・グループ賞」に輝いた。『close to you』と『愛のプレリュード』はゴールドディスクに認定され、リチャードは後者をグループの代表曲としている。 『close to you(遙かなる影)』 https://www.youtube.com/watch?v=V4aJMa-Livo 『愛のプレリュード』 https://www.youtube.com/watch?v=3rOgkwugp6U 1971年(21歳)、『スーパースター』でグラミー賞の最優秀ボーカル・グループ賞を受賞。 『スーパースター』 https://www.youtube.com/watch?v=MHs_8MB3bu0 1972年(22歳)6月2日、日本武道館で公演。 1973年(23歳)、第1回アメリカン・ミュージック・アワードの最優秀ポップ・ロック・デュオに投票で選ばれた。 シングル『イエスタデイ・ワンス・モア』をリリース https://www.youtube.com/watch?v=wawbhXQX2TQ 1974年(24歳)、2度目の来日公演。このとき和服姿で撮影している。 1975年(25歳)、カレンは体型への強迫観念から摂食障害に悩まされ、予定されていた日本公演が神経性食欲不振症(拒食症)により中止となった。 1976年(26歳)、最後の来日公演。日本の各都市を幅広く巡った。 1980年、30歳で若手実業家トム・バリスと結婚をするも翌年暮れに破綻。 1983年2月4日早朝、両親の家で意識不明になっているところを発見され、32歳で他界した。死因は急性心不全。晩年は過食症と拒食症を繰り返しており、心臓に負担がかかっていた。身長163センチで、多いときは66キロあったカレンは、死亡時に35キロまで痩せ細っていた。亡くなったのは離婚同意書にサインする直前(約束の6時間前)であったという。 ロックが急成長した時代に、バート・バカラックの作品など、旧来のポピュラー音楽の伝統を受け継ぐ曲を積極的にとりあげた。14年間の活動で11枚のアルバムを発表し、ビルボード1位となったシングルは3曲、トップ10入りは12曲。アルバム・シングルの総売上枚数は1億枚を上回る。カレンがドラムを担当した有名曲は「Yesterday Once More」「CLOSE TO YOU(遙かなる影)」「The End Of The World」「TICKET TO RIDE」「PLEASE MR. POSTMAN」など。 日本国内では、1970年から1989年の海外アーティスト別アルバム売上枚数においてビートルズに次いで第2位、シングル売上枚数は第1位だった。1995年発売のベスト盤『青春の輝き?ベスト・オブ・カーペンターズ』は200万枚越えるセールスを記録している。 〔墓巡礼〕 肩の力を抜いた透明感のある美声を聴かせてくれたカレン。彼女の声には、何か聴いてるだけでホッとする独特の響きがあった。当初、カレンの亡骸はカリフォルニア州オレンジ郡のForest Lawn-Cypressの大霊廟に埋葬されていた。僕が墓参した2000年は、廟内にカーペンターズの音楽が流れていた(ちょうど大好きな《イエスタデイ・ワンス・モア》だった)。その後、2003年に兄リチャードの自宅に近いロサンゼルス郡のPierce Brothers Valley Oaks Memorial Parkの家族廟に改葬された。2009年にそちらを巡礼すると、墓所の周囲に小川や小さな滝があり、カレンも耳を傾けているのではと感じた。 |
右からボーナム、プラント、ペイジ、ジョーンズ | 英国紳士バージョン | 山男バージョン |
巡礼するドラマーがスティックをお供え | うおお!地球を叩き割ってやるぜ! | 教会の裏側にある墓地 |
10年経ってスティックが40本から93本に! | シンバルやスネアドラムまで供えられていた! | さらに10年後はどうなっているのだろう |
1970年代を代表する英国のロックバンド、レッド・ツェッペリンで活躍した史上最高のドラマー!愛称は「ボンゾ」。ドラム・スティックの中で一番重くて長いものを“木(trees)”と呼んで愛用し、機関車のように重い音を出した。ドラムヘッドを破るパワフルな叩きっぷり。ロック界で最も大きな音を出すドラマーだった。
5歳の頃から空き缶や空箱で作ったドラムセットを叩き始め、15歳で本物のドラムセットをゲット。見習い大工として働きつつ地元のバンドで叩いていた。やがてドラム1本で生活していくことを決意。1966年(18歳)、“バンド・オブ・ジョイ”のロバート・プラントと出会い、翌年にボーナムも同バンドに加入する。1968年(20歳)、ロバート・プラントがジミー・ペイジ(ヤードバーズのギタリスト)の構想する新バンド“ニュー・ヤードバーズ”のボーカルに引き抜かれ、プラントは友人ボーナムのステージをペイジに見せた。ペイジはボーナムのドラミングに圧倒されベタ惚れに。ペイジとプラントはなんとかボーナムをニュー・ヤードバーズに引き入れようとするが、ボーナムは他に加入したいバンドがあり簡単に承諾しなかった。そこでプラントはマネージャーと共に約40回もの電報で説得し、最後はプラントが「四の五の言わず、このバンドで演奏するんだ!」と半ば強引にスタジオに連れて行った。同年9月、ニュー・ヤードバーズは北欧ツアーを敢行。その後、名前を“レッド・ツェッペリン”(略称は“Zep”)とし年末から全米ツアーを行った。バンド名はボーナムの親友キース・ムーン(ザ・フーのドラマー)の口癖「鉛の飛行船(lead
zeppelin)みたい」(急降下するという意味)から来ている。ツェッペリンはアトランティック・レコードと契約した。
1969年(21歳)、ファースト・アルバム『レッド・ツェッペリン I
』で公式にデビュー。高音域を凄まじい声量で歌い上げるロバート・プラント、荒々しいブルースで魅了するペイジ、黒人音楽に精通し様々な楽器を操るジョン・ポール・ジョーンズ、餅のように粘り気のある重低音を出すボーナム、この4人の魅力が核融合反応を起こし、ツェッペリンの人気が爆発した。同年秋に発表されたセカンドアルバムは、あのビートルズの『アビーロード』をチャートの1位から引きずり下ろして英米で7週連続1位となった。翌1970年(22歳)に出したサードアルバムもこれまた英米で1位を獲得し、音楽誌の人気投票でもビートルズを破ってベスト・グループに選ばれた。1971年(23歳)、世紀の名曲「天国への階段」を収録した4枚目(無題)のアルバムを発表。「天国への階段」は、クラシック界の帝王・大指揮者カラヤンをして“パーフェクト”と言わしめた。
同年、初来日してライブを行い、広島ではチャリティーコンサートを開催。約700万円(当時)の売上金を被爆者に寄付した。翌72年にも来日公演を果たした。日本でのボーナムはハッチャケており、ハーレーで宿のロビーを走ったとか、日本刀を購入し、ペイジを驚かすためにホテルの「壁を壊して」隣室に侵入たものの反対方向の部屋で、客に「すいません。逆でした」と謝罪したなど、武勇伝を残している。 以降、1973年(25歳)に『聖なる館』、1975年(27歳)に『フィジカル・グラフティ』(2枚組)、1976年(28歳)に後期の傑作となった『プレゼンス』と彼らの音楽映画のサントラ『永遠の詩(狂熱のライブ)』、1979年(31歳)に3年ぶりの新作となる『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』をリリースし、そのいずれもが世界的に大ヒットを記録。ツアーの観客動員数も常にトップだった。彼らはブルース、フォーク(ケルト音楽)、中近東音楽、神秘主義、あらゆるものを呑み込み、バンドのサウンドに昇華した。 ※79年頃はパンクやディスコ音楽が台頭し、ツェッペリンを化石ロックと揶揄する人間もいたが、『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』で見事にねじ伏せた。 精力的に音楽活動を展開していたツェッペリンだが、非常に家庭を愛していたボーナムは、ツアー先でホームシックを誤魔化すため酒を大量に浴びた。結果、日常的に深酒するようになる。1980年9月24日、全米ツアーのリハ前にパブでウォッカを爆飲し、スタジオでも飲み、リハ後にペイジの家のパーティでまたまた飲みまくり、泥酔のまま睡眠。翌日、ゲロが喉に詰まり窒息死したボーナムが発見された。彼は肺水腫も引き起こしていた。享年32歳。亡骸は自分の農場に近いラショック教区墓地に葬られた。ボーナムは彼にしかない独特のグルーヴ&時間感覚があり、その超スーパー・ヘビードラムがツェッペリン・サウンドの核となっていた。ボーナムに変わるドラマーは見つからず、3ヶ月後にレッド・ツェッペリンは解散し12年の活動にピリオドを打った。1982年、未発表作品を集めた追悼アルバム『CODA』が発表された。 「ボーナムはとてつもなく巨大なドラムをとてつもない力で叩いたんだ。ああいう男は二度と現れないよ」(チャーリー・ワッツ/ストーンズ) 「ボーナムはロックドラマーの巨大な山。最近になってようやくその偉大さがわかった」(スチュワート・コープランド/ポリス) 「ボーナムは物凄く音楽性豊かだった。沢山の音色を持ったドラマーだったよ。(中略)ツェッペリンは誰でも曲を好きな方向へ持っていくことが出来たし、みんながそれに付いて来てくれる事も常に解っていた。まるで鳥の群れがいて、一羽の鳥が別の方向へ飛んでいくと、突然群れ全体が向きを変えるような…そんな感覚だったよ」(ジョン・ポール・ジョーンズ) ※特筆したいのは、ツェッペリンが英国でシングルを2枚(「胸いっぱいの愛を」「トランプルド・アンダー・フット」)しか出さなかったこと。アルバム全体を1作とみなして勝負した。その自信を裏付けるかのように、米国だけで毎年100万枚(通算1億枚以上)を売上げており、プレスリーやビートルズに並ぶ数字になっている。全世界では既に3億枚を突破した。海賊盤など非公式の音源の種類は世界最多という。
※1985年、ライヴエイドにて、フィル・コリンズ(ドラム)、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズで、「ロックン・ロール」「天国への階段」「胸いっぱいの愛を」を演奏。2007年、アトランティック・レコードの創始者を追悼するチャリティーで、ボーナムの息子ジェイソン・ボーナムをドラマーに迎えて一夜限りの再結成ライブを敢行。抽選となったチケット争奪戦では2万人の枠に約2500万人が応募した。チャリティーオークションでは1枚のペアチケットを8万3000ポンド(約1900万円)を購入した猛者が出た。 ※2009年、英音楽誌『リズム・マガジン』は“時代を超えた偉大なドラマーTOP50”でボーナムを1位に選出した。 【レッド・ツェッペリン名曲選】 ●移民の歌(4分7秒) ●貴方を愛しつづけて(7分24秒) ●カシミール(8分32秒) ●天国への階段(10分15秒) |
日本で胸を肌けたこんなタクシー運転手はまずいないだろう(汗) | プラントが常連という酒場 |
「心から心へ」(英五の直筆) 墓が目に入った瞬間、胸が熱くなった! |
ラスト・シングル『旧友再会』のジャケットと同様に ラクダの隊列が彫り込まれていた。あの世へ旅立つ ことを“旧友との再会”と表現した素晴らしい墓碑! |
なんちゅう気持ち の良い笑顔!! |
大阪生まれで本名同じ。182cmの長身。いつも人懐っこい笑顔で快活に笑っていた。東大阪の花園高時代にバスケ仲間4人でフォークグループ“ホモ・サピエンス”を結成。1975年(23歳)、『何かいいことないかな』でデビュー。同年ファーストアルバム『人類』を発表。全国ツアーの後、セカンドアルバム『運命』をリリースし、グループは解散。英五は京都を拠点にソロ活動を開始する。全国のライヴハウスで行なったド迫力の情熱的なライブが話題となり、1976年(24歳)、『人類』に入っていた『酒と泪と男と女』がヒットする。※この曲は20歳の頃に英五が作詞作曲したものだ。
「都会では見せ掛けの歌しか作れない。ウディ・ガスリーら米国のフォークシンガーが放浪したように、旅の中で歌を作りたい」(英五)。1977年、25歳になった英五は、音楽活動と並行して5年連続で放浪の旅に出る。行き先は、インド、アフガニスタン、ペルー、トルコ、ネパール。待ち受けていたのは美しい自然と優しい人々。英五は旅先での出会いと別れを通して人間への愛が深まり、人の数だけ幸福や悲しみがあることを心で知った。 1980年(28歳)、アルバム『文明』三部作を発表。英五は晩年までライブを活動の中心にしていたが、この数年間(1980年〜1985年)は特に公演回数が多く、年間平均数が200回(!)を超えた。四国をお遍路のように徒歩で周りながら町々で歌い、東北・北海道ではバイクにギターを積んで2ヶ月のツアーを敢行した。1985年(33歳)、父の親心を歌った『野風増〜お前が20歳になったら』がヒットする。
1986年(34歳)、ソニーレコードへの移籍第1弾シングルとして傑作『時代おくれ』を発表。この曲は同年の日本有線大賞特別賞を受賞した。1991年(39歳)には第42回紅白歌合戦に初出場し『時代おくれ』を熱唱する。1995年、阪神・淡路大震災。英五は震災で親を失った子ども達の為に、チャリティー・コンサート「復興の詩」を企画した。1998年(46歳)、『元気だしてゆこう』がシドニー五輪サッカー日本代表のサポーターソングに選ばれる。 2000年、暮れの年越し公演などハードワークが続いて風邪をこじらせ、翌2001年1月27日に吐血、食道が傷ついており即入院となった。3月にいったん退院して、長女のタレント・河島あみるの結婚式に出席。活動を再開し、4月14日にトークショーを行ない、入院中に作った新曲を披露した。翌15日に自宅で再度吐血。24時間後に急逝した。死因は肝臓疾患。「まさか自分が死ぬとは思っていなかったでしょう」と関係者が語るほど安らかな死に際だったという。享年48歳。 河島英五は最期まで、男くさく、硬派で、武骨なシンガー・ソングライターだった。流行りの音楽スタイルに見向きもせず、1曲を書くのに2年を費やすこともあるほど、自分の音楽表現にこだわった。1975年のデビュー以来、26年間で行なったライブは実に4000回を超えるものとなった。『時代おくれ』は中高年への応援歌として、カラオケで愛唱されるスタンダードになった。人の心を優しく見つめ続けていた英五が、50代、60代に作る歌を是非聴きたかった。 ※墓石のシルクロードの隊列は、法善寺横丁火災で全焼した英五さんのお店、ほうぜんじの壁に描かれていた直筆の絵。 ※著作にエッセイ集「ほろ酔いで夢みれば…」。94年にNHK朝ドラ「ぴあの」、96年に「ふたりっ子」に役者として出演した。 ※次女アナムはフォークデュオ「アナム&マキ」を結成。 ※英五は30代以降も旅を続け、ケニア、ボリビア、インドネシアなどを周った。晩年にはモンゴルを訪れている。 ※「尾崎豊って聞いたことありますか。いいですよ」(ブレイク前の尾崎を語って) ※「人生は、詩人が小説家に変わる過程だと思う。子供の時には、感性を素直に表現するだけで、素晴らしい詩になるが、大人になると他人を納得させるために、1語ずつ積み重ねる必要が出てくる」(英五) ※以下、訃報コメント。 「彼は歌手というより自分の道を探しながら歌う旅人だった」(加藤登紀子) 「今度はこんな悲しいことを乗り越えなきゃいけないのか…」(村田兆治)※パ・リーグ「ロッテ」で200勝を記録した元エース。40代で2桁勝利をあげるなど不屈ぶりに英五は感動し、1988年に『地団駄』を捧げた。 「音感やリズム感というテクニック的なものを飛び越えたものを持っている人だった。素朴で飾らない人間性が多くの人の心を掴んだのだと思う」(森田公一、「時代おくれ」を作曲) 「最も説得力を持つ歌手が1人失われたことが残念でならない。“はしゃがぬように 目立たぬように そして 人の心を見続ける男になりたい”と時代おくれの歌詞のような人であったと思う」(阿久悠、「時代おくれ」を作詞) |
●『酒と泪と男と女』 作詞作曲・河島英五 忘れてしまいたいことや どうしようもない寂しさに 包まれたときに男は 酒を飲むのでしょう 飲んで飲んで 飲まれて飲んで 飲んで飲みつぶれて 眠るまで飲んで やがて男は静かに 眠るのでしょう 忘れてしまいたいことや どうしようもない悲しさに 包まれたときに女は 泪みせるのでしょう 泣いて泣いて ひとり泣いて 泣いて泣きつかれて 眠るまで泣いて やがて女は静かに 眠るのでしょう またひとつ女の方が 偉く思えてきた またひとつ男のずるさが 見えてきた 俺は男 泣きとおすなんて出来ないよ 今夜も酒をあおって 眠ってしまうのさ 俺は男 泪はみせられないもの 飲んで飲んで 飲まれて飲んで 飲んで飲みつぶれて 眠るまで飲んで やがて男は静かに 眠るのでしょう |
●『時代おくれ』 作詞・阿久 悠 作曲・森田公一 1日2杯の酒を飲み さかなは特にこだわらず マイクが来たなら微笑んで 18番(おはこ)を1つ歌うだけ 妻には涙を見せないで 子供に愚痴をきかせずに 男の嘆きはほろ酔いで 酒場の隅に置いて行く 目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず 人の心をみつめつづける 時代おくれの男になりたい 不器用だけれどしらけずに 純粋だけど野暮じゃなく 上手なお酒を飲みながら 1年1度酔っぱらう 昔の友にはやさしくて 変わらぬ友と信じ込み あれこれ仕事もあるくせに 自分のことは後にする ねたまぬように あせらぬように 飾った世界に流されず 好きな誰かを思いつづける 時代おくれの男になりたい |
※墓石の裏には、英五の手帳に書かれて
いた奥さんへのメッセージが彫られている ふりかえるといくつもの幸せ ふりかえるといくつかの哀しみ
いそがしさをいいわけにして
あなたとゆっくり話すこともなかったが
あなたがいてくれたから
がんばってこれたんだ
あなたを支えにして
あなたにほめられたくて 英五
|
彼もまた純粋すぎた | 聖なる大ガンジス(インド・バナラシ) |
ワシントン湖に面して建つカートの家 | その隣の公園のベンチに遺灰は撒かれ大地に還った | ベンチの前には美しいワシントン湖が広がっている |
長椅子のあるViretta Parkは、ファンが「Kurts Park」に変えていた | 正面も背後もカートへのメッセージだらけ! | 北海道から来た人も! |
アメリカン・ドリームがまやかしだと気付いてしまった世代(ジェネレーションXという)の怒れる代弁者。グランジ・ロックの帝王『ニルヴァーナ』のヴォーカルだ。陰鬱で重苦しく、非常に攻撃的な歌の背後には、虚飾だらけの社会への絶望と、出口のない閉塞感があった。カートが抱えていた最大の矛盾は「売れたいが、売れるような曲は大嫌い」というもの。アルバムがメガ・ヒットすると、スターとしての自分の存在に耐え難くなり、94年3月にオーバー・ドラッグでライブ中に倒れる。 「ロックの核心は反体制、反権力だ。成功した俺にもうロックは歌えない。こんなハズじゃなかった。成功したから俺は死ぬ」精神的に追い詰められた彼は同年4月5日、自宅でショットガンを両脚に挟み口に咥えると、足で引き金を引いた。遺書には「It's better to burn out than to fade away」(錆びつくより今燃え尽きる方がいい)というニール・ヤングの「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」の歌詞が書かれ、部屋にはR.E.Mの「オートマチック・フォー・ザ・ピープル」が流れていた。 ※2006年、プレスリーやジョン・レノンを抜いて“最も稼いだ故人”となった。 |
2002 | 2005 |
バラの花壇(ここも墓地)の後ろに広がる芝生の上にキースの遺灰は撒かれた。ゆえに墓石はない ※追記:灰は撒かれたけど、墓地の一角の壁に小さなプレートがあるそうです! |
墓石はないが壁面に追悼プレートあり (2015) |
There is no substitute “唯一無二”という意味かな? |
ザ・フーの天才野生児ドラマー。リズムを刻むだけではなく、ドラムでメロディーを歌う唯一無二のリード・ドラマーだ。自由奔放なドラミングは一見適当に叩きまくってるように見えるが、驚異的なドラムテクニックに裏づけされたヤケクソ叩きだ。彼のドラミングには楽譜にはない装飾音が異常に多く、演奏には計算というものが微塵もない。とにかく、音の隙間という隙間に、極限までビッシリとスネアやタムのオカズが入っている。アドリブだらけで毎回違う演奏になるので、完全コピーは不可能。
四六時中酔っ払っているかラリっていたことから、その奇人ぶりは有名で、動物用麻酔銃の麻酔と酒を混ぜて飲んでぶっ倒れたり、リムジンでホテルの正面玄関のガラスを突き破ったり、窓からテレビを投げたり、ステージに泥酔状態で上がり、へべれけでドラムを叩きドラムセットにゲロを吐いたりした。女装が趣味でヌード写真も多い。自宅の門を入るとすぐプールがあり、知らずに車で入ってきた友人はそのまま水没したという。自分のロールスロイスもプールに沈めた。
奇抜な格好でレストランに入ろうとして追い出されると、その店を買い取って、自分を追い出した店員をクビにした。
最後はポール・マッカートニーのパーティーでオーバー・ドラッグ&大酒とハメを外し、翌朝、自宅ベッドで冷たくなっているのを訪ねて来た婚約者が発見した。享年32歳。 ※ハードロックの雄『レッド・ツェッペリン』の名付け親はこのキース。彼がツェッペリン結成時に「お前らは鉛(Lead)のツェッペリン号(巨大飛行船)のように、あっという間にポシャるだろうよ!」とジョークで言ったことがそのままバンド名となった。鉛という意味の“レッド”は、その後「ヘヴィ・メタル」(重金属)の元祖となった。つまり彼なくして、ヘビメタという言葉もなかったわけだ。 ※ちなみに自邸の隣人は、映画俳優のスティーブ・マックイーン! |
“ザ・フー”が「Hope I die before I get old(年をとる前に死にたい)」と歌った、約30年前のライブ『マイ・ジェネレーション』(4分、演奏は17秒から)は、フーの演奏を見たことがない人は必見デス!日本では洋楽ファン以外に馴染みの薄い彼らだけど、本国イギリスではビートルズやレッド・ツェッペリンと並ぶ不滅のバンドと呼ばれている。メンバーの4人は皆個性的で、腕をブンブン大回転させるウインドミル奏法(風車弾き)でギターを弾くピート、マイクをカウボーイのように空中へ放つロジャー、修行僧のように黙々と超絶テクでリードベース(リードギターならぬ)を担当するエントウィッスル、そして野生児の如く自由奔放にドラムを叩きまくるキース、4人の奇才が集まって化学反応を起こした神バンドっす!(キースと同様、ベースのエントウィッスルも02年にドラッグが原因の心臓麻痺で他界)。ロックバンドの映像といえばヴォーカルとギターばかり映っているのが普通だけど、映像は冒頭からキース、キース、キース!彼にカリスマ性があったかよく分かる。あと、彼らは演奏の最後に大暴れするので、初見の人はそっちの方もたまげると思いマスッ! 『マイ・ジェネレーション』日本語訳→みんな俺に圧力をかけてきた(それが俺達の世代)/ただ愛し合っているだけなのに/奴らは冷たいよなあ/年をとる前に死にたい/すべて消し去ってもいい/俺達の言うこといちいち揚げ足取るな/センセーションを巻き起こそうなんて考えてない/そういう時代なんだよ 俺達の世代は/それが俺達の世代 ぶっ壊してしまえ ※この曲の動画はコチラも有名(2分54秒)。無表情にベースを弾きまくるエントウィッスル、ラストに廃墟の中でぶっ倒れているキースに「ヘイ!」ってロジャーが声をかけているのが可笑しい! |
木の棒が突き立ててある場所にザッパは眠る(2000) |
約10年後、棒きれはカマボコ板に進化ッ!っていうか、棒きれがなかったので 他の墓マイラーのために作って置いてきた!(2009) |
奇妙なリズムとメロディの進行でリスナーに目まいを起こさせる“何でもアリ”の前衛ロックのカリスマ、フランク・ザッパ。その底なしの才能はロック以外にも、ジャズ、フュージュン、現代音楽、オペラなど様々なジャンルで発揮され、発売CDは正規のものだけで70枚以上もある(ズービン・メータ指揮のロス響とも共演!)。業界では20世紀最大の作曲家の一人としてストラビンスキーと同列に扱う人も多い。人生はスッチャカメッチャカ。 ●23歳…風俗取締官のおとり捜査により逮捕。 ●31歳…ファンにステージから突き落とされて骨折。さらに演奏中に火事が起こり全機材を失う。 ●36歳…マネージャーに金を横領される。 ●42歳…シチリアのライブで観客と警官隊の間に銃撃戦が起き3人死亡。ドイツでは観客がステージに次々と物を投げつけてくるのでライブ中止に。 ●50歳…大統領選挙に立候補する考えがあることを表明。しかし2年後にガンで亡くなってしまい、残念ながら合衆国大統領にはなれなかった。 ハリウッドにある彼の墓には写真のように墓石がない。1993年に没してから随分と経っているのにどういうこと? うーむ、ナゾだ。 |
2000 金門橋を望む | 2009 遺灰はこの橋から撒かれたという |
す、す、すごい花の数!さすがは国民的歌姫! |
本名は加藤和枝。横浜市の魚屋「魚増」に生まれる。9歳から舞台に立ち、11歳でレコード・デビュー(1948年)。天才少女歌手として注目を集め、戦後の焼け跡に彼女の歌声が鳴り響いた。翌年発表したレコード「悲しき口笛」は50万枚のメガ・ヒット(オーディオ機器がまだ普及しておらず、人口も今より5千万少ないことを考えると50万枚は空前絶後の数字)となり、同名の映画にも主演した。あまりの人気ぶりに、彼女の1社独占を禁じる紳士協定が大手映画会社6社の間で結ばれる(165本の映画に出た)。20歳の頃は、年に12本というハイ・ペースで映画に出演している。歌のジャンルはポップス、ジャズ、演歌と幅広く、圧倒的な歌唱力で生涯に1500曲を発表。没後、女性として初めて国民栄誉賞をおくられた。※ヒット曲「越後獅子の唄」「東京キッド」「リンゴ追分」「港町十三番地」「悲しい酒」「真赤な太陽」「川の流れのように」などなど。 墓は横浜市内とはいえ駅から遠く、小山の一番上にあり、さらに無数の墓に混じっている。墓そのものは多くの花で目立っているが、近くに案内板がある訳でもなく、自力発見にはそれなりの時間を覚悟しておくように。 |
墓前はファンレターやミニチュアのギターなどで、とても賑やかだった(2005) |
この時は供花がいっぱい 命日の翌週だからだろう(2015) |
ローリング・ストーンズの元リーダー。15歳の頃には人前で音楽活動をしていた。1962年、20歳の時にストーンズを結成。天才肌の演奏者で、ギターだけでなく、ピアノ、ハープ、クラリネット、チェロ、フルート、インドの民俗楽器シタールなど、30種類以上の楽器を使いこなした。心から黒人音楽としてのリズム&ブルースを愛しており、白人社会にそういった楽曲を紹介することを生き甲斐にしていた。しかし当初は発言力の強かったブライアンだが、彼自身は作曲をしなかった為に、メキメキと作曲で頭角を現すミック・ジャガー&キース・リチャーズのソング・ライター・チームにバンドの主導権が移っていき、寂しさからドラッグに手を出してボロボロに。さらに恋人をキースに取られてしまい、ますますクスリ漬けになった。使い物にならなくなったブライアンに代わるギタリストをミックが探している事を知った彼はストーンズを脱退する(事実上の解雇)。その約1ヵ月後、ドラッグで心臓が弱っていた彼は水泳中に発作を起こし、自宅プールの底に沈んでいるところを発見された。救急車が到着した時には既に帰らぬ人に。27年の生涯だった(他殺説もアリ)。 ※ブライアンが住んでいたコッチフォード農場の自宅は、かつてA・A・ミルン(“くまのプーさん”の著者)が住んでた家だ。 ※彼は16歳の時、14歳の彼女との間に男の子ができ(養子に出す)、10代のうちに3人も子どもを作ったツワモノ。 ※墓石に「僕に冷たくしないでくれ」と刻まれているらしいが、それは確認できなかった。背後に彫ってあったのかな? |
嗚呼、ボラン様! | 白バラの下に本名を記した小さなプレートがある |
2015 | 2002 | 本名はMark Feld(マーク・フェルド) |
派手な白塗り化粧と中性的な衣装で、70年代グラム・ロックの貴公子だったマーク・ボラン(T−レックスのヴォーカル)。ボラン様は「僕は30までに死ぬだろう」と公言していたが、30歳の誕生日を2週間後に控えた1977年9月16日、自動車事故で本当に29歳で逝ってしまわれた。ロンドン郊外の墓地でボラン様の墓を探したが、本名のMark Feld(マーク・フェルド)で眠っていた為、なかなか発見出来なかった。「Markって書いてあるし、77年没だし、これがそうなのかな?」墓地管理人の事務所へ行き、デジカメの画像を見せると、確かにボラン様とのこと。デジカメのなかった頃は墓の形をノートに描いていたので、それを考えると随分便利になったと思う。 |
ポートレート、花束、ファンレターの山。1991年没なのに凄い人気!(2002) |
7年後。供え物は増え続け、もうこれ以上載せるスペースが全くないほどギューギュー! ゲンズブールのポートレートは、写真、ファンの絵、木に彫ったものなど色んなバージョンがあった(2009) ※墓石の上にメトロの切符があったが、これは彼のデビュー曲「リラの門の切符切り」に由来するとのこと |
本名ルシアン・ギンズブルグ。歌手でありソングライターであり俳優。仏国歌「ラ・マルセイエーズ」のレゲエ版を作ってライブ会場を右翼に包囲され、ライブが中止に追い込まれたパンクなオヤジ(後に何とラ・マルセイエーズの著作権を破産覚悟で買い取っている。“これでどう歌おうと誰にも文句は言わさん”というわけ)。フェロモン女優ブリジッド・バルドーと不倫し、ジェーン・バーキンとの間には愛娘シャルロットが生まれている。死後10年以上経っているが、墓に行くとご覧の様に根強い人気が伺える。 「僕は泣きながらベッドに入り、涙が頬に伝わって耳に入って来るのを感じた時、何とも言えない幸福感に包まれる」(ゲンズブール) ※「人は私の歌を暗いと言うが、私は雲が好きなのにどうして青空を歌わなくてはならないのか」(ゲンズブール) |
ロック黎明期のミュージシャン。攻撃的なロックンローラーで、1950年代の反抗的な若者の代表だった。当時としては珍しく作曲もこなしている。1960年、イギリス公演最終日に空港へ向かうハイウェイで、彼を乗せたタクシーが雨の中パンク。スリップした車は街灯に激突し、彼は即死した。彼の大ヒット曲「サマータイム・ブルース」は後にザ・フーにもカヴァーされている。 |
1974年のバンド結成から1996年の解散まで、22年間まったくスタイルを変えず、パンク・ロックの王道を突き進んだラモーンズ!超シンプルなメロディー、たった数種類のコード、一直線の8ビート、演奏時間は約2分、これら鉄の掟を貫き通した。 近年亡くなったヴォーカルのジョーイを巡礼すべく墓の場所を調査した。その結果、ニュージャージー州のリンドハーストという土地にある『ヒルサイド・セメタリー』に眠っていることが分かったが、リンドハースト一帯の詳細な地図が手に入らず、墓地が駅から歩いて行ける距離なのか、どの街にも複数ある墓地から『ヒルサイド・セメタリー』を特定できるのか、不安な気持ちを抱いたままニュージャージーに入った。 |
降りしきる豪雨の中、ニュージャージー鉄道 に乗車。1時間に1本しか走っていない。 |
日曜の夕方とはいえあまりにガラガラ。 |
『リンドハースト駅』は恐れていた通り無人駅 で、周辺地図も何もなかった。“駅で情報集め が出来るかも”という甘い期待は砕け散った |
そして刑事の聞き込みのような地道な作業が始まった。 とにかく通行人、庭いじりをしてる人、カフェの親父など、 片っ端から『ヒルサイド・セメタリー』がこの土地のどこに あるのか尋ねまくった。すると、小さな墓地はいくつもあるが、 大きな墓地は2ヶ所しかないことが分かった。自分は“ヒル サイド”という名前を考えて、丘の上にある方に行くことにした。 |
街中を走り回ること1時間。ついに丘の上の墓地を発見。 祈るような気持ちで門に近づくと『ヒルサイド・セメタリー』 とあった!「ビンゴーッ!やったーっ!ばんざーい!!」 そりゃあもう、何度もピョンピョンとジャンプして喜んださ! |
こんな光景が至る所で見られた…グハーッ! |
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「ギエーッ!」喜ぶのは早かった!『ヒルサイド・セメタリー』は超ウルトラ巨大墓地だった!しかも日曜日で管理人室はクローズド。時刻はすでに 夕方4時をまわっていたが、墓地の閉門時間は5時となっていた。果たして1時間弱で無数の墓石の中からジョーイを探し出せるのか!? |
結論を言おう。真っ青になって汗だくで1時間ずっと墓地内をさまよったが、最後まで発見できなかった。墓地に閉じ込められると大変なので5時にベソをかきながら門に向かうと、上の写真のワインレッドの車が門を閉めにやって来た。「ただのセキュリティだと思うけど、こうなりゃ試しに訊いてみよう!」車内にいた中年白人男性に事情を話した。男性は「おおー、ラモーンの墓か。ここにあるがあれを発見するのは確かに難しいな。本名のジェフリー・ハイマンで眠っているからな」ドッカーン!ジェフリー・ハイマン!(Jeffrey Hyman) |
オジサンは親切に車で墓の場所まで連れてって くれた。確かにハイマンとあった! |
よく見れば墓石の上にはジョーイ人形があるじゃないか!しかも人形の右には合言葉「レッツ・ロック」が刻まれた石ころまで!うーむ、気付かなかった。足元には似顔絵なんかもあり、とてもファンに愛されているのが良く分かった。大好きなジョーイに巡礼者がたくさんいて、めちゃくちゃ嬉しかったよ〜! |
5オクターブの声を持つミニー・リパートン。彼女の名を知らぬ人でも、代表曲「ラヴィン・ユー」は多くのアーティストにカバーされており、誰でも一度は耳にしているハズだ。彼女の人生は戦いの連続だった。黒人の彼女は、白人男性と異人種間結婚をしたことで、双方の人種から非難を浴びた。また、乳ガンで胸を切除し、その後全身にガンが転移、わずか31年の短い生涯を終えた。彼女は他の黒人シンガーのようにブルースを歌わなかったが、それには確固とした理由があった--「私が黒人だから、みんな は私がブルースを歌うべきだと言うの。でも、私にはブルーに落ち込むような ことは何一つないの。ブルースは、悲しい感情で歌わなければならない。でも、 私はハッピーな人間」。辛いことが多くても、自分は幸せでブルースは歌えないと語る強さが胸を打つ。 埋葬の日、スティービー・ワンダーが墓前で追悼曲を歌った。 |
優しい人柄で多くの人に愛された(2003) | 「上を向いて歩こう」の記念碑 | 後方を含めた墓域全景(2010) |
名優でもあった | 前列の真ん中がクロスビー | 墓地にはミケランジェロ作ピエタのレプリカがある |
2000 | 2009 |
本名ハリー・リリス・クロスビー。ワシントン州出身。甘くソフトな声が人々に愛され、十数曲の全米No.1ヒットを持つ20世紀最大のポピュラー・シンガー。中でも映画『スイング・ホテル』(1942)の主題歌『ホワイト・クリスマス』は、ビルボードで14週連続1位となり、全世界で1億枚を超えるメガ・ヒットとなった。俳優としても57本の映画に出演し、『我が道を往く』(1944)ではアカデミー主演男優賞を受賞する。『喝采』(1954)では挫折したアル中の俳優という従来のイメージと異なる役柄を演じきって、こちらも大絶賛された。生涯のレコード売上は4億枚以上もある。マドリードのゴルフ場で他界。 |
ロサンゼルスの墓(2009) | シドニーの墓(2005) |
1964年の「オー・プリティ・ウーマン」は当時全米一位になり、映画『プリティ・ウーマン』でも使われた。 心臓発作の為、52歳で逝く。フランク・ザッパと同じ墓地で、ザッパと同様にオービソンもなぜか墓石がなかった |
左からカール・ウィルソン、マイク・ラヴ、ブライアン・ウィルソン、デニス・ウィルソン、アル・ジャーディン |
2000 | 2009 |
ザ・ビーチ・ボーイズのオリジナル・メンバーでリードギターを担当。ウィルソン兄弟の中でブライアン・ウィルソン(長男)、デニス・ウィルソン(次男)に次ぐ3男。70年代にリーダーのブライアンが心の病で活動から遠ざかった後、音楽面でもマネージメントでもバンドの中心となって奮闘した。その美声は「天使の歌声」と呼ばれ、「グッド・ヴァイブレーション」「ダーリン」「サーフズ・アップ」「神のみぞ知る」ほか多くの曲でリード・ヴォーカルを担当した。ソングライターとしても「ザ・トレイダー」「ロング・プロミスト・ロード」「フィール・フロウズ」など名曲を生んだ。肺癌で他界。 ※ドラマーの次男デニスはアル中で船から海に飛び込み溺死(39歳)。墓はなくロス沖に水葬された。 |
ビートルズ時代。最年少のメンバーだった | やがてイブシ銀のオヤジに。カッコイイ! | インドの楽器シタールの名手 |
リラックス・ジョージ。良い写真 | 最大のヒット曲 | ジョージ?YES!えらいことに |
ジョージの遺灰はインドに運ばれガンジス河に撒かれた | 死の3ヶ月前にインドを訪れ、このようにガンジスで沐浴したという |
元ビートルズ。出生届上の誕生日は2月25日。解散後はソロとしてもブレイクし『マイ・スウィート・ロード』(ヒンズー教・クリシュナ神への賛歌)は空前のヒットとなった。1970年のアルバム『オール・シングス・マスト・パス』は、ロック史の金字塔として高い評価を得ている。死因は肺癌と脳腫瘍。インドの伝統楽器シタール演奏の巨匠ラビ・シャンカールがロスでジョージの最期を看取った。ロスで火葬されたジョージの遺灰は、故人の遺志によって01年12月4日(死の5日後)、ヒンドゥーの聖地インド・バナラシにて妻オリビアと息子ダニーの手で聖なるガンジス河に流された(事前にヒンドゥー教のクリシュナの寺院に骨壺が運ばれ最後の別れが行われた)。一部の遺灰はガンジスとヤムナ川が交わる聖地アラハバードでも撒かれた。この儀式でジョージは輪廻転生から解脱し、肉体から魂が解き放たれて天国に旅立った。 ※ジョン・レノンの暗殺は有名だけど、ジョージもまた1999年(死の2年前)に自宅で暴漢に襲われ胸を4カ所も刺されている。 「ジョージは愛情に満ち100人の力に匹敵するほど強い人でした。素晴らしい人間性、ユーモア、知恵と霊性、人としての常識、そして思いやりの心を兼ね備えた偉大な魂の持ち主でした。彼がいなくなり、この世界は大きな空虚に包まれています」(ボブ・ディラン) 「ビートルズの中でジョージが一番好きだった。彼は感受性が強くいつも高潔だった。彼の曲は甘く深かった。ギターだけであのような感情を伝える彼の才能は、ビートルズの音楽の中ですごく大きな役割を果たしていたと思う」(フー・ファイターズのデイヴ・グロール) 「ビートルズの中で最年少のジョージは、ジョンやポールと違い苦労して作曲の才能をのばし、一人で彼の音楽を作り上げました。そう、『サムシング』のように繊細な名曲を」(ジョージ・マーティン) |
墓参の直前まで大雨が降っていた | ミニカーやギターのバッジなどファンの贈り物が色々あった | 墓地入口のバディ解説板 |
お墓の前の天使の像にジーンときた ※この日はウルトラ猛暑で、デュアンの墓の鉄柵を触るとペンキが溶けていた! |
曲名が分かった方は是非ご一報を! ※読者のYさんから「Little Marthaでは」との情報が。 この曲はデュアン名で作曲された数少ない曲で あり最後のアルバムの最後の曲(遺作)とのこと! |
当初の墓地からここに改葬されたとのこと | 案内してくれた庭師さん |
「ようこそセント・メアリーズ郡へ」 | ワシントンD.C.から車で約90分。セント・メアリーズ郡に接したChesapeake湾に遺灰が撒かれた |
ガンの為に33歳の若さで他界した米国の女性シンガー。YouTubeに色々と動画があり、優しく、また澄み切った声に聴き入ってしまう。中でもルイ・アームストロングの名唱で有名な『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』(素晴らしきこの世界)のカバーがめちゃくちゃ美しく、何度も聴きまくり。彼女が生前に出したCDは2枚しかなく、死後になって存在が知られたとの事…。この歌声でもっと多くの曲を歌って欲しかった!※エヴァの歌う『ホワット・ア・ワンダフル・ワールド』(5分半) |
クリフの遺灰はこのサンフランシスコ湾に撒かれた |
ロスのロングビーチから太平洋を望む。デニスはこの沖で水葬となった |
墓の上のジョニー像はどの角度から見てもカッコイイ!素晴らしい! |
台座の正面はお墓プレート |
周囲は親友からの言葉。 これはヴィンセント・ギャロ! |
なんかもう、怖いくらいにキスマークがついている | 墓前はCDや栄養ドリンク(意味不明)がいっぱい |
高尾の山々に抱かれた墓 | 清志郎さんが生前にデザイン。名前も自筆 | 墓前に小さな椅子があり清志郎さんと語り合える |
台座部分に本名の“栗原清志” | 墓前にはイラストや関連記事などがあった | 墓域の周囲は赤レンガ。自転車好きらしく自転車で装飾 |
●日刊スポーツの芸能インタビュー『日曜ヒーロー』より
−−社会的な問題も積極的に取り上げてきました。新アルバム「GOD」にも反戦、児童虐待などをテーマにした歌があります 清志郎:「日本で“大御所”と言われる連中は、そういう曲を歌わないよね。誰とは言わないけど(笑い)。触れようともしない。作ったはいいが、よく分からないラブソングみたいなものばっかりじゃちょっと大人として情けないというか、恥ずかしくねえかっていうのがありましてね」。
−外国ではトップミュージシャンたちが政治問題も歌う 清志郎:「ボブ・ディランとかそうじゃないですか。大統領の名前を使ったりして。スティングもそう。しかもそういう歌が自然にヒットする。日本にそういう音楽がないことを変に感じません? この人、一体何が言いたいんだろうって歌ばっかり。あきれるね」。 −−音楽を始めた時から問題意識があったのですか 清志郎:「とりあえずフォークブームの時は、ほとんどが反体制の世界。反体制というものをどこかで持っていないとミュージシャンじゃないぐらいの空気があった。そのうちベトナム戦争反対!です。何が何でも反体制。(60年代後半に活躍した名ロックギタリストで反体制の象徴ともいわれた)ジミ・ヘンドリックスなんて、今になって聴いてみると、反体制でも何でもない(笑)。 伝記を読むと最初はベトナム戦争に賛成してたんだもん(笑)。そのうち、日本ではニューミュージックやキャロルのロックンロールとか始まってそういう空気がなくなった。日本で誰もやらなくなった。じゃあ、やってやろうじゃねえかっていう感じですかね」。 −−原発反対、首相こき下ろし、税政批判、パンクロック調の「君が代」など、物議をかもす曲を次々と発表して権力や富を挑発してきました 清志郎:「納得がいかないからですかね、そういうことに。歌わないと一生後悔するような気がしてくるんです。別に戦っているつもりじゃない。どちらかと言うと、おちょくってるぐらいの感じかな」。 −−歌詞がきちんと聴こえないロックが多い中、歌詞がしっかり聞き取れる歌い方が特徴的ですが 清志郎;「ビートルズ、ローリングストーンズ。影響を受けた音楽がそういうものばかりだったからでしょう。何を言っているか分からないって、インチキくさくないですか?ニセモノっぽいというか。本当は歌がうまくねえんじゃねえのって。自分で作った歌ですから、何を言っているのか分かってほしい。それはこだわってます」 −−音楽で世界は変わりますか 清志郎:「残念だけど、そこまで力があるかどうか。イラクの自衛隊派遣、北朝鮮の拉致問題、誰でも何かがおかしいと思うはず。それをどんどんポップな感じで歌っていけば時代に合っていくんじゃないかと。種をまいている感じですかね」。 |
黄金のサンシャイン墓! | 金色の墓は非常に珍しい |
写真やファンからの手紙 | 右端のみギターのフレットになっていた! |
イングランド中部の教会 | 「誰でもウェルカム」とあった | この大樹の根元へ |
嗚呼、ニック・ドレイク! | 「NOW WE RISE AND WE ARE EVERYWHERE」 | ドレイク家からのお願いが書かれている |
ビルマ(現ミャンマー)出身の英国人シンガーソングライター。生前は商業的に成功せず3枚のアルバムを残して自殺。死後に評価が高まった。 ドレイクはケンブリッジ大在学中にレコード会社と契約。1969年(21歳)アルバム『ファイヴ・リーヴス・レフト』でデビュー。大学を中退してロンドンに住み、翌1970年(22歳)にセカンド『ブライター・レイター』を発表。評論家から高評価を得たが売り上げは伸びず、患っていたうつ病が悪化。1972年(24歳)、3作目にしてラストアルバムの『ピンク・ムーン』を発表。 1974年11月25日、自宅にて抗うつ薬の過剰服用で死去。部屋のレコードプレーヤーにバッハの「ブランデンブルク協奏曲」が乗っていた。享年26歳。墓所はタンワース=イン=アーデンのセント・メアリー・マグダレン教会。 遺作アルバム『ピンク・ムーン』の最後の曲「From The Morning」に出てくる言葉「NOW WE RISE AND WE ARE EVERYWHERE(いま私たちは立ち上がり、あらゆるところにいる」が墓石の背後に刻まれている。 ※訪れるファンが多いのだろう、墓参者へのお願いが墓前の木に掲げられている。「ここはドレイク家のプライベート空間です」に続き「お墓の上や近くに、小さな花やメッセージ以外の装飾品を置かないでください(Please do not place any adornments apart from small floral tributes and messages on or near the grave-space) とあった。 |
現在もカリスマ的人気を持つイアン |
地元の方が墓前まで案内して下さった 「私もイアン・カーティスは好きよ」とのこと |
墓地の道路脇の縁石が彼の墓 | ファンレターや写真がたくさん供えられてた | 墓碑の言葉「愛が私たちを引き裂いていく」 |
ロックバンド『ジョイ・ディヴィジョン』(意味はナチス将校専用の慰安所)のヴォーカルで、文学好きから作詞を担当。障害者のための職安に勤め、障害者たちから強い影響を受け、内省的な詩を書いた。 1979年(23歳)ファースト・アルバム『アンノウン・プレジャーズ』をリリースすると初回限定5000枚が即完売し、音楽雑誌から絶賛された。翌1980年、ツアーを経てセカンド・アルバム『クローサー』をレコーディング。「ラブ・ウィル・テア・アス・アパート(愛が私たちを引き裂いていく)」が大ヒットした。アメリカ・ツアーも決定したが、癲癇と鬱病に苦しみ、ロックスターを続けることのプレッシャー、妻と愛人に挟まれる苦悩などから、アメリカツアー出発日の前日(5月18日)、自宅台所で首を吊った。レコード・プレイヤーにはイギー・ポップの『イディオット』が載っていた。享年23歳。 墓石には妻の希望により「ラブ・ウィル・テア・アス・アパート」の文字が刻まれた。残った3人のメンバーはバンド名を「ニュー・オーダー」に変更、イアンの自殺を知った日を歌った「ブルー・マンデー」が大ヒットした。 ※2008年に碑文石が盗難にあい、2019年には上部の真ん中の墓石が盗まれている。熱狂的ファンの仕業だろうが、許さ〜ん!! |
黄金のテレサ像の後方に墓所 | 満面の笑み | 実際に音が出る巨大ピアノが墓前に |
花束がたくさん供えられていた アジア中から墓参者がここに集まる |
穏やかに目を伏せたテレサ像 …といいたいところだけど似ていない |
素晴らしい歌を、謝謝(シエシエ)! |
柔らかく優しい感情のこもった歌声で、アジアの歌姫となったテレサ・テン。アジア初のポップ・スーパースターで、「中国人がいるところには、テレサ・テンの音楽がある」とまで言われた。
テレサは1953年1月29日に台湾中部の雲林県龍岩村で生まれた。本名はケ麗?(デン・リーユン)、中華圏ではケ麗君(とうれいくん/デン・リージュン)の名で知られる。身長165cm。5人兄弟の一人娘。男子が3人続いた後の女の子で両親からとても可愛がられた。父は大陸出身の元国民党軍の軍人で、テレサが生まれる4年前(1949)に本土の内戦(第二次国共内戦/1946-49)に敗れ、?介石らと中華民国(台湾)に逃れてきた。このとき移住した大陸系は100万人に及ぶ。4歳の時に父は退役、ケーキ屋で生計を立てる。テレサは幼い頃から歌うことが大好きで、小学校に入る頃には周囲の大人が驚くほど歌が上手かった。父は、歌は基礎が大事と考え、毎朝6時に娘を河原に連れて行き発声練習をさせた。そして1964年、彼女は11歳(10歳の資料も多い)でラジオ局主催の歌唱コンテストに優勝する。よく澄んだ柔らかい声に人々は感心し、天才少女として注目を集めた。13歳で台湾テレビの専属歌手となり、1967年に14歳でレコードを出し歌手デビュー。彼女は最初のレコードに興奮し、家族全員をちゃんと座らせて聴かせたという。一方、中学校から学業か芸能活動か選択を迫られ、中2で退学した。16歳で主演映画が製作されて台湾中の注目を集め、翌年香港に拠点を移す。 1971年、18歳の時に香港でレコードをリリースすると、高い歌唱力と素朴な可愛さから瞬く間にスターの階段を駆け上がり、シンガポール、タイ、マレーシアでも人気に火が付き、アジアのトップスターとなった。同年、香港にて史上最年少で「チャリティ・クイーン」の称号を得る。この年、テレサはマレーシアの製紙会社の大物リンと出会い、のちに恋に落ちるが5年後に死別している。 同じ71年、国連において中華人民共和国が台湾にかわって中国の代表権を手に入れた。台湾はこれに抗議して世界の国々と関係を断つ。 1972年(19歳)9月、日中国交正常化を受け日中共同声明が発表され、日本は中華人民共和国(中国)を国家と承認し、中華民国(台湾)と国交を断絶した。 1973年(20歳)、“台湾の美空ひばり”という噂を聞いて「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)の舟木稔が香港を訪れ、テレサと両親は説得され日本デビューの契約を結ぶ。彼女は同年に来日し、デビューまでの準備期間に日本のテレビの音楽番組を見学した。台湾のテレビでは伴奏が3,4人だったが、日本ではビッグバンドが演奏しており驚いた。同年、シンガポールのチャリティー公演で、貧しい学生への奨学金として40万ドルの寄付を行った。 1974年(21歳)、3月にアイドル・ポップス風の《今夜かしら明日かしら》で日本デビューし、その際に“テレサ・テン”と名乗った。英語名のテレサは洗礼時のクリスチャンネームであり、マザー・テレサを尊敬していたことから芸名として選んだ。アジアでは既に大スターの彼女も日本では新人であり、オリコンチャート75位、売上は約3万枚と不発に終わった。そのためセカンドシングルはアイドル路線から方向転換し、自らの歌唱力を最大限に発揮できる演歌調の歌に挑戦、7月に《空港》をリリースした。滑らかで伸びのある美しい声、テレサの良さを前面に押し出した楽曲は70万枚に達する大ヒットとなり、レコード大賞新人賞を受け、日本ではアグネス・チャンや欧陽菲菲(オーヤンフィーフィー)とならぶ中国系人気歌手となった。 この頃、中国は1966年から始まった文化大革命の真っ只中にあった。諸外国の音楽の流入が制限され、資本主義や男女の恋愛を想像させる音楽はすべて禁止され、感情を見せることが恥とされた。音楽や芸術は「革命的」とされたものしか認められず、軍歌や革命歌、愛国ソングばかりになった。外国の音楽を聴くことは重罰だったが、安価なトランジスタラジオが普及したことで、彼女の歌が本土に伝わり始める。また、密かに出回っていたテレサのカセットテープを聴く若者も多かった。 中国の作家アー・チェンは、中国南部・雲南省の山中で1975年に彼女の音楽を聴いた思い出を記している。「敵国のラジオを聴くのは、政治的なニュースよりも娯楽が中心であった。オーストラリアの国営放送で台湾映画のラジオ劇が放送されるたびに、草庵の周りに座っている少年少女たちは、涙を流していましたよ。特に、テレサ・テンの声が響き渡ると、感動もひとしおだ」。 1976年(23歳)、テレサは初の香港コンサートを開催し、大成功を収めた。日本の歌謡曲と出会ってテレサは表現力が広がり、香港で森進一の『襟裳岬』を日本語で歌っている。その後、5年間コンサートを続け、多くの観客を魅了した。 プライベートではリン氏が心臓発作で他界。その死を受けて彼に捧げる歌《さよなら、私の愛》を録音した。 《さよなら、私の愛》 https://www.youtube.com/watch?v=i-j0xpucpgs (3分半) 大陸では9月に毛沢東(1893-1976)が82歳で他界。翌月に急進的扇動者の四人組が逮捕され、10年続いた文化大革命が事実上終わる(公式には翌年8月)。 1977年(24歳)、テレサがアルバム『島國之情歌第四集 香港之戀』で名歌《月亮代表我的心》(月が私の心を映している)をカバーして大ヒットし、自身の代表曲になった。歌の内容は「♪あなたへの愛が深いのか、それとも浅いのかとあなたは聞くけれど、思い出してみて、見上げてみて、月が私の心を映しているから/私の思いは移ろわないし、私の愛も変わらないわ。月が私の心を映しているから」。昔から中国では月が遠方にいる人間を結びつけるモチーフとして詩や絵画に描かれてきた。様々な事情から異国に暮らす中国人は5千万〜7千万人いた。中国に住んだことがなく、言葉が分からなくても、テレサの歌を聴くとまだ見ぬ祖国への郷愁が湧き上がった。オリジナルは1973年に陳芬蘭(チェン・フェンラン)が歌ったもの。 あるフィリピン華人の言葉が2022年のNHK『映像の世紀 バタフライエフェクト』で紹介された。「フィリピン生まれの私の母は、私を妊娠中、テレサのカセットをもらったのですが中国語が読めないので誰の曲か分からないまま毎日この曲を聴いていたのです。20年後、テレサの映像とともにこの曲が流れたとき、母は泣き出してしまいました」。 テレサの歌は中国大陸の人々の心までも揺り動かした。中国の大衆文化を大きく変化させ、それまでの30年間に共産党が中国の社会と文化に対して行ってきた極めて厳しい統制が終わりを告げた。 《月亮代表我的心》はのちに1999年度香港ゴールデン・ソングス・アワードで選定された「20世紀の中国語の歌ベスト10」で1位を獲得。2010年度台湾ゴールデン・メロディー・アワードで選定された「30人30歌30?」の30年30歌部門でも一位を獲得した。 《月亮代表我的心》 https://www.youtube.com/watch?v=-FdzX8EGHZo (2分) 《月亮代表我的心》ボン・ジョヴィ版 https://www.youtube.com/watch?v=JVBEXS7LHJ8 台湾に政治亡命した民主活動家の呉爾凱西は、彼女の歌を聴いた若者は彼女の歌声を通して自由の追求の欲求を発見したと断言。「中国人にとって、ケ麗君というのは偉大な人物だった。ケ小平が中国に経済的自由をもたらしたとすれば、彼女は中国に身体の解放と自由な思考をもたらした」。 映画監督の賈樟柯「テレサの歌は中国の文化的風景に大きな変化をもたらした。1980年代以前の中国には大衆文化というものがなく、あるものはすべて集団的な方法で構成されていた。一方、彼女の歌は当時まったく新しいものだった。個人主義を呼び起こし、すべてを変えてしまった」。 テレサは政治体制の違いなど地政学的緊張が高まる中で、言語の壁を突破して様々な文化の中で受け入れられ称賛を受けた最初のアーティストの一人だった。彼女は日本のポップスを録音・演奏し、日本と東アジアの多く、特に台湾、中国、東南アジアの一部とを結びつけ、それらの間のギャップを埋めることに貢献し、そのいくつかは後に北京語でカバーされた。日本人にとって「テレサ・テン」は単なる人気歌手ではない。彼女は歌を通して日本とアジア諸国を結びつけた。英国ガーディアン紙は「東洋における彼女の影響は20世紀のポップ音楽において西洋におけるエルヴィスの影響と同じくらい象徴的である」と記した。 1979年(26歳)2月、このころ台湾人が海外に渡航するにはパスポートの他にビザが必要であったが、ビザ取得には複雑な手続きと数カ月の時間を要した。アジア各国を行き来する彼女は、その移動をスムーズにするため、インドネシア人のファンを通して偽名のパスポートを入手し、「エリー・テン」という名前で入国した。テレサは既に有名人であり、すぐに不正が発覚、翌日にホテルで拘束され旅券法違反で一年間の国外退去処分を受ける。当時の台湾の著名人は皆インドネシアのパスポートを所有していた。日本語版ウィキペディアには「パスポート自体はインドネシア政府の正式なもので“偽造”ではない」とあるが、英語版ウィキペディアには「闇市で買ったインドネシアの偽造パスポートで捕まった」と書かれている。この事件は日台両国で批判を浴びた。台湾当局はテレサの身柄を要求したが、舟木稔はこのまま引き渡せば歌手生命にかかわると判断、アメリカに1年半ほど留学させた。これが大正解だった。彼女は中学を中退したため勉強がしたかったし、過密スケジュールから解放され、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で聴講生として学び、誰も自分を知らないので化粧もせず楽しく過ごした。アメリカでの生活は刺激に満ち、人生に広い視野を与え、ロック、ポップスを歌うなど歌の世界観を広げた。ラスベガス、NY、ロスでコンサートを開くと、米国在住の中国人が熱烈に迎えてくれた。この当時、『酔拳』(1978)を大ヒットさせた1歳年下のジャッキー・チェン(1954-)がハリウッドで新作を撮影中で、彼と短いロマンスがあった。2人は性格の違いから別れ、親友となった。 同年2月から約2週間、中国とベトナムは中越戦争で戦った。前年のベトナムによるカンボジア侵攻を懲罰するとして、中国がベトナム領内に侵攻した。 元人民解放軍の兵士で中国人画家の郭健(かく・けん/1962-)は入隊したばかりの17歳のときに、戦場でこっそりラジオを聴き、初めてテレサの歌を聴いた。「それは《月が私の心を映している》という曲でした。山の中は静かで空には満月が出ていました。戦友たちは皆、涙を流していました。彼女の歌い方、あの時代の中国にはあんな歌はありませんでした」「彼女の歌を聴くまで自分たちが抑圧されているとは気付いていなかったのです。その抑圧された人間性の中の、最ももろく優しいものが、彼女の歌声によって引き出されたのです」「私たちが育った時代に“愛”という言葉はなかったのです。愛とは“毛沢東を愛する”“社会主義を愛する”“共産党を愛する”“偉大な祖国を愛する”、それしかなかったんです。だからテレサの歌声が持っている感情的な衝動は、私たちの理解を超える“革命”とは完全に逆のものでした」。 ラジオ・オーストラリアは長年太平洋地域に向けて中国語の放送を流してきた。狙いは建国から国を閉ざしてきた中国に自由主義を宣伝することだった。そして《月が私の心を映している》を流した結果、状況が激変した。手紙の内容は「素晴らしい音楽、楽しい話題を放送してくれて有難うございます。私たちはラジオ・オーストラリアを聴くのを楽しみにしています。北京の人民放送は台風情報を知りたいときにしか聴きません」。ラジオ局職員「これまでまったく反応がないまま何年も放送してきました。それが突然、何万通もの手紙が届き始めたのです」「ここ数カ月、中国大陸から10万通を超える手紙が届きました。中国人リスナーから届く手紙は洪水のようです」。 1980年(27歳)、新たな指導者となったケ小平は改革開放政策を打ち出し、西側の文化が中国に流れ込む。禁じられていた外国との通信が緩和され、ラジカセが爆発的に売れた。人々はこぞって国外のラジオを聴いた。テレサのカセットテープが国じゅうにあふれた。当時、副首相の秘書だった習近平もテレサの《小城故事》(小さな町の物語)が大好きで、テレサのカセットを聴き過ぎてテープがすり切れてしまったという。 この年、彼女がカバーした《何日君再来》(ホーリーチュンツァイライ/いつの日君また帰る)が日中戦争中の抗日歌と解釈され爆発的ヒットとなった。この歌は1937年の古い中国映画《三星伴月》の挿入歌であり、李香蘭が歌ったもの。それをテレサが復活させ、台湾、中国、香港、シンガポール、全世界の中国人に愛唱されるチャイナ・メロディの代表曲にした。 台湾政府は国家への協力を条件にテレサの帰国を認め、彼女は台湾軍の広告塔として活動することになった。当時の台湾政府は“大陸反攻”を掲げ、中国大陸を共産党支配から奪還することを目指していた。心理戦を仕掛け、大陸沖の金門島から台湾海峡の対岸、中国の廈門(アモイ)に向けてテレサの歌声を大音量で流したり、音楽テープを付けた風船を大陸に向けて飛ばし、中国における反政府感情を駆り立てる宣伝の道具として彼女の歌を利用した。 テレサは金門島からこう呼びかけた。「親愛なる大陸同胞の皆さん、こちらはテレサ・テンです。自由で民主的な社会の中でこそ、理想を実現することができます。大陸の皆さんと自由に交流できることを願っています。皆さんの健康をお祈りしています」。テレサは夏の1ヵ月間に台湾全土の軍事施設を回り、軍隊のために歌声を披露した。兵士への精力的な貢献が認められ、政府情報局から「愛国芸人」勲章を授与され、兵士のために慰問活動を頻繁に行ったことから「兵士の恋人」と呼ばれるようになった。 1981年、東南アジア・ツアーを行い、マレーシアでは35000人を動員した。 1982年、台湾政府がテレサを反共宣伝に利用したせいもあり、中国政府は彼女の影響力を警戒、3月に中国共産党青年部の会報で、テレサの歌は精神を汚染する“堕落音楽”として非難を受け、「精神汚染追放運動」の対象にされた。テレサは最大の標的となり、《何日君再来》は「“猥褻な歌曲で、半封建、半植民地の奇形的産物"である黄色歌曲(不健全なピンク歌曲)」とされ、輸入・販売・所持・放送などが一切禁止された。ケ小平「精神汚染の害は甚大である。国や人民を害し、社会主義、共産主義指導者への不信感をまき散らしている」。実際、彼女は《何日君再來》を中国の民主的統一実現を願って歌ったとも。 同年秋、人民解放軍(中国軍)のパイロット・呉少佐が戦闘機ごと台湾に亡命するという、中国政府を震撼させる事件が起きた。呉少佐が真っ先に面会を希望した相手がテレサだった。会見で2人が並ぶ。呉少佐「大陸では誰もがあなたの歌を聴いています。しかし、大陸の人民には歌を聴く自由もないんです。大陸の若者はいろいろな工夫をしてあなたの歌を聴いています」。この言葉を泣きながら聞いたテレサは呉少佐にレコードを贈り「将来、大陸の人も自由に音楽が聴けるようになりますように」と願った。 大陸の人々は当局の禁止令にもかかわらず、ダビングしたテレサの海賊版カセットテープを回したり、台湾の放送をキャッチしたりして、その後も彼女の歌を密かに聴いていた。大陸の人々の間では「中国大陸は二人の“ケ”が支配している。昼はケ小平が支配し、夜はケ麗君(テレサ・テン)が支配する」といったジョークが流行った。 当局はテレサの歌を禁じることは不可能と判断し、禁止令はすぐに解かれた。 テレサには大陸への深い愛着があり、唐宋時代の古典に没頭した。1983年(30歳)のアルバム《淡淡幽情》は、北宋の文人・蘇軾(そしょく/1036-1101)の「但願人長久」はじめ唐・宋時代の12編の古典詩にメロディをつけて音楽化したもので、現代と伝統のスタイルを融合させた世紀の名盤となった。初めてカバー曲のない完全な新曲を収録したアルバムであり、古詩の優れた解釈もあって、彼女の最高傑作となった。メディアは「中国音楽界の最高傑作」「詩と音楽の完璧な結合」と讃えた。 《淡淡幽情》 https://www.youtube.com/watch?v=VlT5b7TmLk0 (39分) この頃、テレサにはプライベートで大きな出来事があった。彼女は米国にいたときに中国系の大富豪の御曹司と恋に落ちていた。男性の実家は高級ホテルなどを経営し、フォーブスの富豪ランキングの常連だった。2人は1年以上デートを重ねて真剣に結婚を考えるようになった。そして香港で婚約会見を開き、挙式の日取りも発表し、式場も抑えた。ところが、男性の祖母から「結婚を選ぶか、歌手を続けるか、どちらか選べ」と迫られ、テレサは「歌い続けなければ、私は私でなくなってしまう」と泣く泣く婚約を解消した。 年の暮れに香港でデビュー15周年記念のコンサートを行い、香港コロシアムでの6回連続のコンサートがソールドアウトとなり人気はピークに達した。このコンサートはあらゆる香港の記録を塗り替え、合わせて約10万人の観客を動員した。テレサは日本人が持つ演歌歌手のイメージと異なり、香港ではマイケル・ジャクソン《ビート・イット》、ポリス《見つめていたい》などもライブで歌い、バックダンサーもいた。 1984年(31歳)、婚約者との結婚を諦めたテレサは、再び日本で歌手活動をする決意をする。年明けに14枚目のシングル《つぐない》で日本再デビューを果たし、オリコンチャートでは初のベストテン入り、150万枚の大ヒットとなった(オリコンでは44.2万枚)。日本有線大賞及び全日本有線放送大賞グランプリに輝いた。7月にTBSテレビ「ザ・ベストテン」に初出演。 《つぐない》 https://www.youtube.com/watch?v=ohJw5XPZ4HI (3分50秒) 1985年(32歳)、15枚目のシングル《愛人》を発表。有線では14週連続で1位を獲得し、再び150万枚の大ヒットとなり、前年に続いて全日本有線放送大賞と日本有線大賞を受賞し、2連覇を達成。年末の『第36回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし、楊貴妃をイメージした衣装で登場した。 《愛人》 https://www.youtube.com/watch?v=jOdiFj5nQcg (3分48秒) 12月にNHKホールにて開催された生前最後のソロコンサートを行い、アンコールにウェディングドレス姿で登場し《ジェルソミーナの歩いた道》を歌った。婚約破棄を念頭にテレサはマイクを持った。「最後にこの花嫁姿、着たかったんですよね。ずっとチャンスが無くて」。彼女はこのコンサートの収益金を寄付した。 1986年(33歳)、《つぐない》《愛人》に続き、作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかしのコンビ作品の3曲目、16枚目のシングル《時の流れに身をまかせ》を発売。「♪もしもあなたと逢えずにいたら、わたしは何をしてたでしょうか」「一度の人生それさえ捨てることもかまわない」「今はあなたしか愛せない」、ここに出てくる“あなた”という存在は、結婚を諦めたテレサが人生をかける覚悟を決めた“歌”そのものだった。出会い、挫折、栄光、自らに降りかかるすべてのことを歌の力に変え、アジアの歌謡界を代表する存在となった。この曲はオリコン、有線放送の両チャートで首位を獲得し、200万枚という驚異的なセールスを記録、彼女の最大のヒット曲となり日本レコード大賞金賞を受賞する。また、日本有線大賞および、全日本有線放送大賞という東西の有線で、前人未踏の史上初3年連続グランプリを受賞した。この記録は今も破られていない。『第37回NHK紅白歌合戦』に出場し、この曲を歌った。英語版は「I only care about you」、中国語版は「我只在乎?」。 《時の流れに身をまかせ》 https://www.youtube.com/watch?v=VNJE70CFlOo (4分) この年、改革開放路線を進める中国は大衆文化に対する規制をやめ、テレサの歌が事実上解禁されて人気が再燃。米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれた(他の6人が誰か知りたくて検索したけど不明)。この雪どけムードの中で、中国政府はテレサに大陸でのコンサートを打診してきた。テレサは「北京の天安門広場で100万人の無料コンサートを開きたい」「お父さんやお母さんの故郷に行って歌いたい」「チャンスがあれば中国にいる親戚に会いたい」と大きな夢を描く。 1987年(34歳)、中国でも台湾の商品を販売できるようになり、テレサのオリジナルの音楽テープが出回るようになった。彼女自身は香港に住み、健康上の問題から日本以外での歌手活動をほとんど休止する。 1988年(35歳)、18目 《別れの予感》をリリース。この年、蒋経国総統の死去により台湾の戒厳令は終わった。 《別れの予感》 https://www.youtube.com/watch?v=lpD8jda0__A (4分半) 1989年(36歳)、3月に20枚目のシングル《香港?Hong Kong》をリリース。 《香港?Hong Kong》 https://www.youtube.com/watch?v=QH90pUZnc3A (5分) 4月、大陸では改革開放路線の指導者・胡耀邦(こようほう)が他界し、追悼のため天安門広場に1万人の若者が集まった。追悼の声は次第に自由と民主化を求める声に変わっていった。中国政府はこの動きを危険視して“動乱”と認定。ケ小平指導部は戒厳令を出し25万の兵力を北京に投入した。 当時、天安門広場にいた郭健「夜になるとともて寒かったし、治安部隊も怖かった。そんな中、誰かがふとテレサの曲《月が私の心を映している》を歌い出したのです。たくさんの人が一緒に歌いました。天安門広場は危険な場所ではなく、友達とキャンプをしているような錯覚さえ覚えました」。 5月27日、中国で起きていた民主化運動にエールを送るため、香港で『中国民主化支援コンサート』が開催される。テレサはこの様子をテレビで見て、いてもたってもいられず会場に飛び入りした。泣きはらした目を隠すためにサングラスをかけ、ノーメイクで「民主万歳」と自分で書いた鉢巻きを締め、首から「反対軍管(軍部の支配に反対)」と書かれたプラカードを下げていた。「皆さんが努力と熱意で民主化を勝ち取ろうとしている姿を見て、この曲を歌います」と約30万人の前で平和を願う《我的家在山的那一邊》(私の家は山の向こう)を歌い、中国の民主化実現を訴えた。この歌は日中戦争時には日本軍への抵抗歌、その後は共産党の一党独裁を批判する意味も込められたプロテストソングだ。 「♪私の家は山の向こう。そこには豊かな森があり、果てしなく続く草原がある。洞窟からネズミやタヌキが出てきてからは全てが変わってしまった。そいつは埋もれていた白骨を食らい人間的な善良な心を毒に浸した。出来るだけ早く帰って“民主”の火を燃やそうよ、生まれ故郷を忘れないで、それは山の向こうにある」。“民主”の部分は彼女が歌詞の一部を変えたもの。テレサが歌ったあと、2億円の寄付が集まった。 6月4日、民主化運動を大弾圧する「天安門事件」が勃発。装甲車が広場に突入に市民に発砲した。犠牲者の数は当局発表では319人、しかし実際は1万人以上という報告もある。現場にいた郭健「人生で最も恐ろしい経験でした。撃たれた人を担いで病院へ走りました。あんなにも多くの人が、撃つはずがないと思っていた人に銃殺されるのを目撃してしまった。最も開放的な時代が打ち砕かれ、希望が消える瞬間を見たのです」。 5カ月後、来日したテレサ「私はチャイニーズです。世界のどこに行っても、どこで生活しても、私はチャイニーズです。だから、今年の中国の出来事すべてに、私は心を痛めています。中国の未来がどこにあるのかとても心配しています。私は自由でいたい。そして全ての人たちも自由であるべきだと思っています。それが脅かされているのがとても悲しいです。でもこの悲しくて辛い気持ちはいつか晴れる。誰でもきっと分かりあえる。その日が来ることを信じて私は歌ってゆきます」。 テレサはイギリスから中国に返還されることが決まっていた香港を離れ(返還は8年後の1997年)、フランスへ移住した。そして、パリで天安門事件に対する反対集会に参加するなど、パリを拠点に抗議活動を展開し、亡命活動家とも交流を持った。 1990年(37歳)、この年に予定されていた初の北京コンサートは天安門事件の影響で中止に。テレサ「夢は殺され、見ることさえできなくなってしまった」。以降、90年代の活動はチャリティ公演が中心で、表舞台から距離を置き、日本を訪れることも稀になった。 1991年(38歳)の『第42回NHK紅白歌合戦』で《時の流れに身をまかせ》を歌う。 1992年(39歳)、日本で活動再開。24枚目のシングル《愛の陽差し〜アモーレ・ミオ》を発売。ジャケット写真は仏人で14歳年下の最後の恋人ステファン・ピエールが撮影。 同年、中国で広く愛されている古い流行歌《夜来香(イェライシャン)》を新たにレコーディング。この頃、喘息を悪化させ体調を崩していく。 1993年(40歳)、4月に《何日君再来》(いつの日君帰る)の中国語バージョン、日本語バージョンを発売。この歌は1937年の古い中国映画《三星伴月》の挿入歌だった。テレサがこの歌を復活させ、台湾、中国、香港、シンガポール、全世界の中国人に愛唱されるチャイナ・メロディの代表曲となった。 《何日君再来》日本語バージョン https://www.youtube.com/watch?v=jfH72HtCCgw (3分40秒) 《何日君再来》中国語バージョン https://www.youtube.com/watch?v=rDKwnv_TXqw (2分53秒) 5月に26作目のシングル《あなたと共に生きてゆく》を発売。テレサの最後のレコーディング曲となった。作詞はZARDの坂井泉水、作曲は織田哲郎。 1994年(41歳)、NHK『歌謡チャリティーコンサート』に登場、これが日本での最後のテレビ出演となった。11月、2年前に録音した《夜来香》をリリース、最後のシングルとなった。 1995年5月8日、静養のためタイ・チェンマイに滞在中、持病の気管支炎(ぜんそく)の発作に襲われホテルの廊下で倒れた。駆けつけたスタッフが最後に聞いた言葉は「お母さん…」。救急搬送されたが渋滞で3倍の時間がかかり、30分後に病院へ到着したときには絶命していた。享年42。遺体は4日後にタイから台北の空港に搬送された。その翌日、中華テレビ局内に設置された霊堂に安置され、彼女の好んだ色、紫の布が棺にかけられた。側にはテレサの肖像が掲げられ、堂内に彼女の歌声が流された。 台湾での彼女の葬儀は、中華民国の指導者蒋介石に次ぐ、台湾史上最大の国家主催の葬儀となった。他界の20日後、5月28日に台北で“国葬”が執り行われ、アジア中から3万人のファンが弔問に訪れ、早すぎる死を惜しんだ。中国でも訃報が伝えられ、中国国営テレビに初めてテレサの名が登場し、「ケ麗君の先祖は中国河北省出身。少女時代から“天才歌姫”といわれ、優しい歌声で新たな世界を作り上げた」と報じられた。テレサの棺は台湾の国旗と国民党党旗で覆われ、葬儀には三軍の司令官を含む何百人もの高官や高位者が参列し、彼女の棺を墓地まで運んだ。葬儀の模様はアジア諸国のテレビ局で放送され、台湾、中国、香港のラジオ局は2日間、番組の全時間帯を彼女の音楽に費やした。 代表曲に《甜蜜蜜》《月亮代表我的心》《千言萬語》、日本でのヒット曲は《つぐない》《「時の流れに身をまかせ》《別れの予感》《愛人》など。作品の累計売上は1億枚以上。日本でリリースされた曲は約260曲だが、中国語でリリースした曲は1000曲以上ある。 2002年、香港のマダム・タッソー館でテレサの蝋人形が公開された。 2003年、上海市青浦区の撫松園にテレサの墳墓と記念像が建立された。 2009年、中国政府系のネットサイト「中国網」が新中国建国60周年を前に行ったアンケート「新中国に最も影響力を及ぼした文化人」において、テレサは2位に100万票以上の差をつけ、854万票を獲得し第一位に輝いた。 2010年、CNNは過去50年間で最も影響力のある音楽アーティスト20人の中にテレサをリストアップした。 2014年、自由と民主主義を守ろうとした香港民主化デモ(雨傘運動)で、香港を代表するポップスター、デニス・ホーが人々の前でテレサの《月が私の心を映している》を歌い勇気づけた。デニスはレコード会社との契約を打ち切られたが、初めて自主企画で行ったコンサートでも《月が私の心を映している》を歌った。 2020年、香港国家安全維持法が成立し、民主派メディアの関係者が次々と逮捕され、2021年12月にデニス・ホーも逮捕された。 テレサ「中国とか台湾とか、私には関係ありません。私はチャイニーズに向かって歌っているのです。初めて人前で歌ったとき、とても楽しかったです。賞金とかご褒美とかそういうのではないんです。歌うのが好きだったから、自分の為に歌っただけです。歌えるだけで幸せだったんです」。 郭健「テレサの歌を隠れて聴いたことが全ての始まりでした。作り物の強さを装った人間ではなくなったのです。彼女は私たちを人間性が抑圧された状態から解放してくれた人です。彼女は私たちが最も暗い闇にいたときに自由をもたらした一筋の希望でした。テレサ・テンの人間性は、今もなお専制国家で生きている人たちにとって重要な意味を持つと思います」。 テレサの柔らかく優しい感情がこもった歌声は、世界各地のチャイニーズの心を震わせた。14歳のときから1500曲以上を録音し、中国語、日本語、インドネシア語、英語、イタリア語でも録音した。さらにフランス語とタイ語も話すことができた。また、中国語圏の文化的ギャップを埋めることにも貢献し、日本のポップスを歌うことで日本と東アジア・東南アジアを繋いだ最初のアーティストとなった。 アジアの歌姫として親しまれ、聞き手の胸に迫る切ない失恋歌を歌う一方で、民主化支援コンサートに参加して平和の願いを歌うなど政治的アクションも起こした。アジアの複雑な政治状勢に翻弄され、プライベートでは恋に敗れて深く傷つきながらも多くの名歌を熱唱。日本、台湾、中国、マレーシア、タイ、シンガポールなど国境を越えて人々の心を掴んだ。 ※かつて台湾の高雄市に「テレサ・テン記念文物館」があり、長兄が館長をしていた。中国、日本、シンガポール、マレーシアなどから一日に二千人が訪れ、館内には、テレサのステージ衣装、愛車のベンツ、愛用のベッドなど、ゆかりの品が展示されていた。 《墓巡礼》 2019年に巡礼。墓所は台湾の北海岸を望む新北市金山区の金宝山墓園の愛区。首都の台北からバスで約1時間40分かけて金山区まで移動し、そこからタクシーに乗り換え20分ほどで到着した。金宝山墓園では彼女の墓所として「ケ麗君紀念公園」が整備されている。墓域は東北向きで、遠くに太平洋を望む。墓前の広場には金色の等身大の像や、実際に音が出る巨大ピアノがある。墓碑部分は上部に横たわるテレサの石彫刻(大地の母の象徴とも)、下部に「ケ麗君1953-1995」と刻まれている。彼女のカラー写真がはめ込まれている時期もあったようだ。南アフリカの大理石が墓石に使われ、棺の表面に白バラの彫刻がある。側の石碑に刻まれた「?園」は本名のケ麗?(デン・リーユン)からきている。僕は気付かなかったけど、墓所の碑文に「ここに歌に生涯を捧げたスーパースターが眠る」とあるという。僕が2019年に墓参した際は何も音楽が流れなかったが、本来は墓前に向かうと感知装置が反応してテレサの曲が流れるそうだ。没後10年目の2005年5月8日、アジア各国からファン300人ほどが墓前を訪れ、追悼集会を開いて生前のテレサを偲んだという。彼女の遺体は火葬されず、エンバーミング(防腐処置)などを施されて土葬されており、半世紀は生前の姿であり続けるとのこと。台湾でこうした形で眠っているのは、?介石、?経国(?介石の長男)、テレサ・テンの3人のみ。 ちなみに上海市の上海福寿園にも慰霊碑があり、こちらもテレサの歌が墓前に流れているらしい。僕はそちらにまだ行っていないので自分で確かめねば…。 〔参考資料〕NHK『映像の世紀バタフライエフェクト 我が心のテレサ・テン』、NHK『テレサ・テン 歌声は永遠に〜没後20年・アジアをつないだ魂をたずねて』、NHK『ザ・プロファイラー テレサ・テン』ほか。 |
マイケルの碑を見つめる子ども達 | 花、手紙、イラスト、人形、贈り物は様々 | 誰もが足を止めるため黒山の人だかりができていた |
マイケル・ジャクソンの葬儀が執り行われた、ロサンゼルスのフォレストローン墓地 |
マイケル・ジャクソンの墓は、クラーク・ゲーブルやハロルド・ロイドなど著名人が眠るこの大霊廟の中にある。 だがしかし!この大霊廟は一般人立入禁止という非情に閉鎖的な所。僕は「ここだけは勘弁してくれ」と願ってたけど、 残念ながら当地になってしまった。ファンを大切にしていたマイケルは、誰もが自由に墓参できる墓地に眠りたいと 思っていたハズ。米国の他の墓地はどこも開放的なとこばかり。親族の方、別の墓地に改葬されることを強く進言します! |
2010年5月4日、海外サイトにマイケルの墓がアップされた!すごい花!(画像元リンク) |
大霊廟内の「HOLLY TERACE」と呼ばれる区域に埋葬 | 入口前では各国の巡礼者がマイケルを偲んでいる |
モニター付きインタホンがあり遺族しか入れない | ところが!ガラス越しにマイケルの墓は見える! |
うおお!ちょうど正面! | ネットで見たステンドグラスと彼の墓が! | 見えた!大感動ォオオオッ!! |
墓所の手前にはファンによる追悼コーナーが | 天国のマイケルへ御礼を書いた手紙がいっぱい! |
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