作曲家の墓
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★プロコフィエフ/Sergei Sergeevich Prokofiev 1891.4.23-1953.3.5 (ロシア、モスクワ 61歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

プロコフィエフは革命後にいったん欧米に亡命したが、
「ロシアの土を離れては曲が書けない」と帰国、祖国に骨を埋めた
モスクワ・ノヴォデヴィチ墓地にて
旧ソ連の偉大な映画監督エイゼンシュテイン。
プロコフィエフに音楽を依頼しており
両者は芸術上の同志だった(2005)

20世紀の主要音楽家のひとり。ロシア(ソ連)の作曲家・ピアノ奏者。ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフは1891年4月23日にウクライナ東南部のソンツォフカに生まれた。父は裕福な農業技師。姉2人は夭折し、一人息子として育つ。ピアニストの母親に音楽の手ほどきを受け幼年期から神童ぶりを発揮した。
1896年、5歳で作曲を開始する。彼が弾いたピアノの小曲『インドのギャロップ』を母親が譜面に起こした。
※『インドのギャロップ ヘ長調』 https://www.youtube.com/watch?v=lz2_A6JQfaI(16秒)
1900年(9歳)、モスクワで両親とオペラ『ファウスト』(グノー)、『イーゴリ公』(ボロディン)、バレエ『眠りの森の美女』(チャイコフスキー)を観劇、これに刺激を受けて自らも最初のオペラ『巨人』を作曲した。
1902年(11歳)、父の友人の取りなしで“ロシアのブラームス”セルゲイ・タネーエフ(1856-1915)を訪問。そしてタネーエフの紹介でロシア人作曲家グリエール(当時27歳/1875-1956)に師事する。グリエールは夏の間プロコフィエフ家に滞在し、作曲法やピアノを指導した。
※タネーエフは元モスクワ音楽院の院長で、弟子にスクリャービン(1872-1915)、ラフマニノフ(1873-1943)、グラズノフ(1865-1936)など。グラズノフはロシア国民音楽と西欧音楽の様式を総合しロシア音楽のアカデミズムを大成した。
※グリエールほかに師事。グリエールの『交響曲第3番“イリヤー・ムーロメツ”』は、演奏時間が80分前後に達し、ブルックナー『交響曲第8番』、マーラー『交響曲第6番』と並ぶ最も長い交響曲。
・タナーエフ『交響曲第4番』フィナーレ部分(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=FRsMh1OdW5M#t=38m35s
・グリエール『交響曲第3番“イリヤー・ムーロメツ”』https://www.youtube.com/watch?v=WRpEt9FvTbU
(キエフ公に仕えたイリヤーは怪鳥や怪物を倒した中世の英雄。最期は天軍と戦い石化。曲は超壮大、これ名曲と思います)

1903年(12歳)、グリエールの指導のもとプーシキンによる本格的なオペラ「ペスト流行期の酒宴」を作曲。
1904年(13歳)、グラズノフを訪問。サンクトペテルブルク音楽院に入学し10年間学ぶ。保守的な学風にはなじめなかったが、『現代音楽の夕べ』での活動を通して当時のロシア音楽界の最も優れた部分を吸収する。10歳年上の学友ニコライ・ミャスコフスキー(1881-1950)とは生涯の友となる。
※ミャスコフスキー…ベートーヴェン以降では異例の27曲もの交響曲を作曲。
・ミャコフスキー『交響曲第27番』 https://www.youtube.com/watch?v=NyI6YZibtQU
1906年(15歳)、ペテルブルク音楽院で晩年のリムスキー=コルサコフ(1844-1908)の管弦楽法クラスで学ぶ。
1907年(16歳)、ロシア革命が起きる。まず3月にロマノフ王朝の専制政治が倒壊(ロシア暦「2月革命」)、ソビエト(議会)の支持のもとに臨時政府が成立し、次いで11月ボリシェヴィキによりソビエト政権が樹立した(ロシア暦「10月革命」)。
同年“社会主義リアリズムの父”ゴーリキー(1868-1936)が長編小説『母』を発表、ごく普通の主婦が革命運動を理解し、自身も力強い活動家になっていく様子を描いた。ロシア革命の指導者たちに歓迎され、ロシア革命以前の作品でありながら、のちの社会主義リアリズムにとって記念的(古典的)作品と位置づけられるようになった。
1908年(17歳)、音楽サークル「現代音楽の夕べ」に参加し、自作の『ピアノのための四つの小品』を演奏、作曲家としてデビューする(1911年説あり)。第4曲「悪魔的暗示」は「地獄で踊り狂う悪魔たちの宴」と評され、「新しい天才の出現」と歓迎された。同年、スクリャービンが交響曲第4番『法悦の詩』で、そしてオーストリアのシェーンベルクが『弦楽四重奏曲第2番』の第4楽章で無調主義音楽に突入する。この年、リムスキー=コルサコフが他界。
※『ピアノのための四つの小品』から第4曲「悪魔的暗示」 https://www.youtube.com/watch?v=KkXyE9CZ_lk (2分35秒)
1909年(18歳)、音楽院の作曲科の課程を修了。ミャスコフスキーらに音楽院をやめずにピアノと指揮のクラスに入るように説得される。ディアギレフのロシア・バレエ団の指揮者ニコライ・チェレプニン(有名なパリ公演を指揮)に指揮と作曲を学び、2年前に書いたソナタを改作し、作品1を冠した『ピアノ・ソナタ第1番』を作曲。当時プロコフィエフが影響を受けたロシアの作曲家・ピアノ奏者スクリャービンの様式に近いロマンティックなもの。
※『ピアノ・ソナタ第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=APxweGUCqIs (8分)

1910年(19歳)、交響的スケッチ『秋』を作曲。同年、父が急死。この年、ディアギレフ率いるバレエ・リュッス(ロシアバレエ団)がストラヴィンスキー(当時28歳/1882-1971)の音楽を得てパリにて『火の鳥』(音楽は)を初演、反響を呼ぶ。
※『秋』 https://youtu.be/B-NpadKhXHM (8分27秒)こういう作品をもっと書いてくれてもよかったんやで…でも、それだと次の時代の扉を開けないか
1911年(20歳)、バレエ・リュッスがストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』を初演。

1912年(21歳)、前年から書き始めた『ピアノ協奏曲第1番』が完成、自身がピアノ奏者を務め初演される。プロコフィエフいわく「楽想と表現の両方の点において、私の最初の成熟した作品」。
プロコフィエフの特性である打鍵中心のメカニックなピアノ書法、甘美な旋律、ダイナミックなスケール、躍動的なリズムが既に見られ、モダニズムの旗手として活躍し始める。当時の批判派は「狂人の作品」「まるでアクロバット」「ただのモティーフの寄せ集め」と叩き、肯定派は「ピアノ協奏曲史上最もオリジナルな作品のひとつ」と讃えた。打鍵中心のピアノはバルトークらの20世紀のピアノ協奏曲の楽想を先取りしている。
※『ピアノ協奏曲第1番』アルゲリッチ https://youtu.be/gSBbmwWK73A (16分)冒頭から上り詰める感じがいい
同年、ピアノ音楽の機械的な運動性を極限まで追求した『トッカータ』を作曲。友人ミャコフスキーは「プロコフィエフはまったく気が狂うような小品を作曲した。凄まじいエネルギーに溢れており、主題は単純だが独創的だ」と驚きを綴っている。
※『トッカータ』 https://youtu.be/XYFpfFsbshk (4分33秒)

1913年(22歳)、『ピアノ協奏曲第2番』を初演、けたたましいグロテスクな旋律、野性的でエネルギッシュなリズム、強い刺激の重量感のある和音が登場するなど、『第1番』を上回るセンセーションを巻き起こす。新聞評は初演の様子を生々しく伝える。「聴衆は憤慨し、一組の夫婦は席を立って出口へと急ぎ『こんな音楽では気が狂ってしまう。我々をからかう気か』と言った。第2楽章は再びリズムの寄せ集めが続き、大胆な楽章に怒声が飛び、座席は空になっていく。その後も残忍な不協和音は続き、曲が終わると『こんな未来派の音楽なんか悪魔にくれてやれ!我々は楽しみを求めて来たんだ。家の猫だってこんな音楽はできる!』と会場は罵声で満ちた」。一方、感銘を受けたある批評家は「私は確信している。10年後、聴衆はこの若い作曲家の天才にふさわしい万雷の拍手で、初演の嘲笑の償いをしたくなるだろう」と記す。ピアノはときに粗暴であり、ときに管弦楽ととけあって音の色彩を魅せる。モダニズムに満ちた内容は賛否両論を呼び、プロコフィエフは在学中からロシア楽壇の風雲児となった。
この年、パリでは31歳のストラヴィンスキーが『春の祭典』を初演、激しいブーイングを受け暴動騒ぎとなったが、原色の色彩感を爆発させた管弦楽法と強烈な原始のリズムで、印象派のフワフワ・モヤモヤした音楽を地平線まで吹き飛ばした。
※『ピアノ協奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=xcte8hM6kYA (31分)

1914年(23歳)、ピアノ曲『サルカズム(風刺)』(全5曲)が完成。タイトルのように風刺性を込めた冷笑的な楽曲であり、深い悲しみを込めた自嘲の笑いでもある。ある音楽評論家は「もしこれが音楽なら、私はもはや音楽家ではない」と絶句した。
同年、ペテルブルク音楽院でピアノ科と指揮科を修了。卒業試験では自作の『ピアノ協奏曲第1番』を演奏しアントン・ルビンシテイン賞を受賞した。お祝いの卒業旅行で訪れたロンドンに、たまたま天才興行師ディアギレフが滞在しており、自作の『ピアノ協奏曲第2番』を聞かせたところ、楽才に驚いたディアギレフからバレエ・リュッス(ロシアバレエ団)の音楽を依頼される。プロコフィエフはロシアの昔話がテーマのバレエ『アラとロリー』の作曲に着手した。
この年、第一次世界大戦が勃発するが未亡人の一人息子であるため召集を免除された。
※『サルカズム(風刺)』 https://www.youtube.com/watch?v=dbdCF1PDSFY (11分)

1915年(24歳)、バレエ音楽『アラとロリー』が完成するが、内容が異教の太陽信仰と生け贄など『春の祭典』と似ているためディアギレフは上演を見送った。このときプロコフィエフはローマのディアギレフの家でストラヴィンスキーと会っている。そしてストラヴィンスキー所有のロシア民話集から、ディアギレフのアドバイスを受けてバレエ『道化師』の作曲を勧めた。
プロコフィエフはお蔵入りした『アラとロリー』から4曲を抜き出して管弦楽曲『スキタイ組曲(アラとロリー)』とした。スキタイは紀元前7世紀から4世紀にかけて、中央アジア一帯に活動したイラン系の遊牧騎馬民族でロシア民族の源流のひとつ。ペテルブルクで初演された際、不協和音の多い大胆さは聴衆を怒らせもし、また呆れさせもした。
第1曲「ヴェレスとアラへの讃仰」…冒頭の荒々しい部分は太陽神ヴェレスを、穏やか部分は娘アラを表している。
第2曲「邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り」…スキタイ人がアラに生贄を捧げていると、悪鬼を従えた邪神チュジボーグがグロテスクな踊りを始める。※この第2曲はゲーム音楽になってそう!
第3曲「夜」…夜闇の中で邪神チュジボーグはアラを掠奪しようとするが、月の女神たちがアラを助け慰める。
第4曲「ロリーの出発と太陽の行進」…アラの恋人の勇者ロリーがチュジボーグと戦い、夜明けと共に太陽神ヴェレスがロリーを助け、邪神を打ち負かす。
※『スキタイ組曲』 https://youtu.be/dJTnSWCyE8Q (20分)
同年、スクリャービンが43歳の若さで他界。
1916年(25歳)、プロコフィエフ作品のピアノ演奏会や室内楽コンサートが開かれるようになる。

1917年(26歳/ロシア革命)、『ヴァイオリン協奏曲第1番』を作曲。第一楽章の最後や終楽章には、生命の陽炎がユラユラと立ち昇るような長い恍惚としたフレーズがある。第2楽章は管弦楽の奇怪な音色の上をヴァイオリンがひたすら動き続け、行進曲風であったり、駒のすぐ側をギコギコ弾いて奇妙な音を出す場面もある。グロテスクさと至高の美しさが同居した傑作であるが、完成直後にロシア十月革命が起き、初演は6年後になった。この曲に感動したポーランドの作曲家シマノフスキとピアノ奏者アルトゥール・ルービンシュタインは、公演後に感極まって楽屋にプロコフィエフを訪ねたという。作曲者自身も、曲の中に複数の夢見るようなモチーフがあることから会心の作として愛した。
※『ヴァイオリン協奏曲第1番』ヴェンゲーロフの名演 https://www.youtube.com/watch?v=qM70FEgrVfc (23分)
※『バイオリン協奏曲第1番』五嶋(ごとう)みどりの熱演 https://www.youtube.com/watch?v=ew_2pW6JzuI (22分)
※『ヴァイオリン協奏曲第1番』から終楽章の官能的なサビ(楽譜あり)https://www.youtube.com/watch?v=T3kvmIsSHmQ#t=16m47s
この年、プロコフィエフは「ハイドンが現代に生きていたら書いたであろう作品」を目指して、出世作となった小規模オーケストラ編成の『古典交響曲(交響曲第1番)』を作曲。18世紀の伝統形式に近代的な和声とリズムを盛り込んだ野心作で、第3楽章には予想外の和声と旋律という20世紀音楽の特徴が見られる。本作は新古典主義に影響を与えた。
※『古典交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=WLT55kPIFCo (14分)

1918年(27歳)、革命後の国内の混乱を見て「ロシアはしばらく音楽どころではない」「ロシアは無気力と虐殺がはびこり、アメリカには活力と文化的生活がある」と判断、アメリカへの亡命を決意する。当局の人間から「君は音楽の革命家だ。我々は生活の革命家なのだ。手を取り合うのは当然ではないか。それでも行くというのならば邪魔はしないが」と引き留められたが、意思は変わらなかった。5月にシベリア鉄道で大陸を横断し、船で日本へ。米国行きの船は3カ月先の出港であったため、東京、京都、大阪、奈良、軽井沢などを訪れ、東京と横浜でピアノ・リサイタルを開催した。これはヨーロッパの大作曲家の最初の日本訪問となった。9月にニューヨーク到着。たどり着いたアメリカでは、ロシアで絶賛された彼の作品が拒絶されたことから、生活のためピアニストとして活動し始める(帰国は15年後)。同年、第一次世界大戦が終結。

1919年(28歳)、アメリカでオペラ『3つのオレンジへの恋』を完成(初演1921年シカゴ)。プロコフィエフは生涯に13作のオペラを書いたが、本作が最も有名になった。第2幕第1場の行進曲は特に有名。
『3つのオレンジへの恋』…舞台は架空の国。冒頭、観客役が悲劇派、喜劇派、叙情派、快楽派に別れて希望の劇を求める。そこに道化役者が登場し「はじまり!はじまり!」と歌って幕が上がる。トゥレフ王は王子が鬱病で悩んでおり、道化師トルッファルディーノを呼び寄せるが、王子は興味を示さない。困った道化師は王子をパーティーに連れ出す(ここで行進曲が演奏される)。パーティーでは様々な芸に皆が笑ったが、王子はニコリともしない。ところが、王位を狙う悪い大臣レアンドレと密かに組んでいた魔女ファタ・モルガーナが宮廷でスッ転び、それを見て王子は大笑い。怒った魔女は「三つのオレンジが好きになる」という恋の呪いを王子にかけて消えた。王子は三つのオレンジに夢中になってしまう。王子は良き魔術師チェリオのアドバイスを受け、道化師の協力を得て、砂漠の城から魔女の召使いスメラルディーナ(黒人女性)にばれないよう3つのオレンジを盗み出すが、オレンジは砂漠で巨大化。喉が渇いた道化師がオレンジを切ると中から王女が現れ、水を求めるためもう一個切ると別の王女が現れた。彼女たちは喉が渇いて死んでしまう。3個目のオレンジは王子が切り、王女に別の道化師たちが水を持ってきたので助かった。その後、王女が魔法で鼠にされてスメラルディーナと入れ替わるなどトラブルがあっが、最後は王子と王女が結ばれる。めでたしめでたし。(アメリカで作曲したから黒人女性が悪役指定になっているっぽい。そういう時代とはいえちょっと気になる)
※『3つのオレンジへの恋』英語字幕付きhttps://www.youtube.com/watch?v=beaa-8hCzP4 (104分)
※同上からパーティー前の行進曲https://www.youtube.com/watch?v=beaa-8hCzP4#t=34m22s
※同上から王子の初笑い https://www.youtube.com/watch?v=beaa-8hCzP4#t=41m09s
同年、弦にピアノとクラリネットを加えた六重奏曲『ヘブライの主題による序曲』を作曲。流浪の民ユダヤに伝わる旋律を使った作品。ユダヤ人演奏家に委嘱され書いたものだが、自身が亡命を経験し異郷に身を置くことから、心情的に共感したのだろう、全体を悲哀が覆っている。小品だが人気が高い曲。
※『ヘブライの主題による序曲』 https://www.youtube.com/watch?v=q65-v-4lYSk (8分43秒)気に入った!!

1920年(29歳)、5年前に大半の作曲を終えていたバレエ音楽『道化師』が最終的に完成。ロシア民話に基づいたもの。一人の道化師が妻と共謀し、他の7人の道化師から多額の金を巻き上げる悪巧みを実行する。主人公は人間を生き返らせる“魔法のムチ”を売りつけるため、7人の道化師の前でわざと夫婦喧嘩をやり、妻を殺害(したふり)。そして“魔法のムチ”で妻を生き返らせるパフォーマンスを行い、それを信じた7人の道化師が高額で買い、彼らは自分の妻を本当に殺してしまう…という、ちょっとシャレにならない内容。ディアギレフのOKが出るまで書き直し、翌年にバレエ・リュッスが初演した。プロコフィエフにとって上演された最初のバレエ作品となった。
1921年(30歳)、20世紀を代表する楽曲の一つ、活気あふれる情熱的な『ピアノ協奏曲第3番』を完成。4年をかけて形になった。叙情的な旋律を含み、不協和音が山ほどあるのに聴きやすい。シカゴ初演は不発だったが、指揮者クーセヴィツキーがパリ公演で大成功を収め、一気に普及した。現在、ピアノコンクールで引っ張りだこになっている。
※『ピアノ協奏曲第3番』楽譜付き https://www.youtube.com/watch?v=rSrlrcpNu7o (28分)冒頭の疾走フレーズはゲーム『信長の野望』に出てきそう
※『ピアノ協奏曲第3番』アルゲリッチ&アバド指揮ベルリン・フィルの名盤 https://www.youtube.com/watch?v=4XHjsxcmEjM (リンク後半はラヴェル作品)
同年、シェーンベルクが無調主義にかわって十二音技法(ドデカフォニー)を考案、『ピアノ組曲』のプレリュードを書きあげる。
1922年(31歳)、アメリカの聴衆があまりに保守的で、作品が不評続きあることに失望し、活動の本拠地を欧州に移す。まずは南ドイツに居を構える。
1923年(32歳)、パリに移住。米国で知り合ったカロリナ・コディナと結婚。同年、完成から5年を経て、ようやく『ヴァイオリン協奏曲第1番』がパリで初演される。同世代のハンガリーの世界的ヴァイオリン奏者ヨゼフ・シゲティがこの曲を大いに気に入り、各国のコンサートで演奏し普及に一躍を買った。
1925年(34歳)、フランス楽壇で活躍する「フランス6人組」に対抗し、より現代的な「鉄とはがねで作られた」音楽として『交響曲第2番』を作曲するも、パリ初演は不評で初めて自信を喪失する。実際、大音量の不協和音がしんどい、っていうか「第2番」には心臓がバクバクする脅迫感がある。
1926年(35歳)、落ち込むプロコフィエフを励ますため、ディアギレフが「ソ連の工業化を称えた作品を書いて欲しい」と委嘱、バレエ『鋼鉄の歩み』を作曲する。ハンマーや斧を振るう労働者が登場し、ディアギレフがタイトルを考案した。バレエの第1場は「革命による帝政ロシアの崩壊」、第2場は「社会主義国家の建設」とガチ。翌年バレエ・リュスの初演は大好評だったが、ロンドン公演では反社会主義者の妨害を警戒し、ディアギレフは威嚇用のピストルを持参しオーケストラピットで待機した。同年、バレエ音楽の中から4曲「登場人物の紹介」「人民委員、兵士と市民」「船員と働く女」「工場」を抜粋した組曲が作られた。

1927年(36歳)、亡命後の1919年から8年をかけて取り組んでいたオペラ『炎の天使』(全五幕)が完成。自身の三角関係から生み出された恋物語とも。プロコフィエフ「私は『オレンジ』の時よりもずっと多くの音楽をこの作品のために書いたが、何の幸運ももたらさなかった」。この年、招かれて9年ぶりに祖国への一時帰国が実現し2カ月滞在、各地で熱狂的な歓迎を受ける。
『炎の天使』…舞台は16世紀のドイツ・ライン地方。騎士ルプレヒトは宿屋で若い女性レナータと出会う。彼女は幼い頃に親しかった「炎の天使」マディエリを愛し、その生まれ変わりと信じるハインリッヒ伯爵としばし幸福な時間を過ごすが、伯爵はレナータを捨てて姿を消した。ルプレヒトはレナータを愛するようになるが、彼女は彼の想いを拒絶してハインリッヒ伯爵を探し続ける。ようやくケルンで再会すると、伯爵はレナータを魔女呼ばわりするため、彼女は伯爵がマディエリの化身ではないと考え、ルプレヒトに「自分を辱めた伯爵に決闘を申し込み、殺して欲しい」と訴える。ルプレヒトは愛する彼女のため承諾するが、彼女は決闘前に気持ちが変化し、「伯爵を傷つけていけない」と言い出す。ルプレヒトへは重傷を負い、レナータは親身に介護するが愛することはできなかった。それどころか、プロポーズするルプレヒトを悪魔の使いだと責め、自分の体をナイフで傷つける。
居酒屋で言い争う2人を、ファウストと悪魔メフィストフェレスが見物し。メフィストフェレスは落胆するルプレヒトに興味を持ち一緒に飲もうと誘う。レナータは修道院に入るが、尼僧院長はレナータを宗教裁判にかけ、裁判長は悪魔払いを始める。儀式は封印されていた悪霊を召喚してしまい、レナータは炎の天使の幻に取り込まれ、修道女はサタンを讃美し始める。ルブレヒトはレナータを救出しようとするがメフィストフェレスに阻止される。裁判所長はレナータに火炙りの刑を言い渡し終幕。
※オペラ『炎の天使』 https://www.youtube.com/watch?v=463ENWC9WRQ
※『炎の天使』から尼僧達が悪霊に襲われる衝撃のラストhttps://www.youtube.com/watch?v=463ENWC9WRQ#t=116m09s
(シェーンベルクの1932年のオペラ『モーゼとアロン』に次ぐぶっ飛びオペラと個人的に思った)
1928年(37歳)、オペラ『炎の天使』の完全な形の上演見込みがないため、その音楽を使って『交響曲第3番“炎の天使”』を書きあげ、欧州で初めて大きな成功を得た。終楽章の鐘と金管の絶叫が印象的。「交響曲第3番は私の最上の作品の一つと思っている」。親友ミャコフスキーに献呈。
※『交響曲第3番“炎の天使”』 https://www.youtube.com/watch?v=f4XLySHvFL4(36分)
同年、バレエ・リュスによる最後のバレエ作品『放蕩息子』の音楽を作曲。題材は聖書。父と喧嘩して家を飛び出した放蕩息子が、様々な誘惑に負けて身を滅ぼし、愚行を悔みつつ帰郷する。父は疲れ切った息子を許す。『放蕩息子』の舞台衣裳はルオーのデザインに基づきヴェーラ・スディキナ(後のストラヴィンスキー夫人)が手がけた。夏にディアギレフが病死したためバレエ・リュスは解散。プロコフィエフは欧州での有力な保護者を失う。
1929年(38歳)、『放蕩息子』のバレエ音楽を使って『交響曲第4番』を作曲。ソ連を再び短期訪問、祖国の音楽家たちと交流し、帰郷の想いが強まる。
1931年(40歳)、『ピアノ協奏曲第4番(左手のための)』を作曲。第一次世界大戦で右腕を失ったオーストリア生まれのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタイン(1887-1961/哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの兄)に左手だけの協奏曲を委嘱されて書いた。前年にラヴェルも同じ依頼を受けて『左手のためのピアノ協奏曲』を作曲している。残念ながらプロコフィエフの作品は「私にはどの音符もわかりません、私はこの曲を弾きません」と初演を拒否された。
同年『弦楽四重奏曲第1番』を作曲。この年、バレエ『鋼鉄の歩み』がニューヨークのメトロポリタン劇場で上演され、プロコフィエフは資本主義国の中心地でなびく赤旗を見て爽快に感じたという。

1932年(41歳)、最後のピアノ協奏曲となる珍しい五楽章形式の『ピアノ協奏曲第5番』を作曲。プロコフィエフは亡命してからというもの、ロシア時代のような傑作を次々と書くことが出来なくなっていた。芸術的停滞があり、旧作の改作が増えていく。そして、2度の一時帰国を経て、祖国を離れては創造意欲がわかないことを痛感、帰国を決意し、11月、ソ連の市民権を獲得する。
※プロコフィエフがいつ亡命生活を終えてソ連に帰ったとするのか、解釈がわかれる。市民権獲得なら1932年。パスポート発行なら1933年。本人のみの帰国なら1934年。家族を含めた完全帰国なら1935年(英語ウィキは1936年)。

1933年(42歳)、モスクワに家を借りたが、生活の拠点はまだパリにあった。6月パリから知人の音楽評論家に望郷の想いを綴る。「外国の空気は私のインスピレーションには向いていないのだ。私はロシア人だから…そして私のような人間にとっては、亡命生活ということ、つまり私の種族に適していない精神的風土の中にいることは向いてないのだ。ロシア人というものは、自分の国の土を持って歩いているようなものだ。むろん国土全部をではない。(異郷の生活は)最初のうちはわずかしか苦痛を感じないが、段々ひどくなり、しまいにはそのために駄目になってしまう。私はもう一度祖国の雰囲気の中に浸り込まなければならない。私はまた本当の冬を、一瞬ごとに咲き開いてゆく春を見なければならないのだ。ロシア語が耳いっぱいに響くのを聞き、血と肉を分けた同胞たちと話すのだ。彼らはここには無いものを私に返してくれるだろう。彼らの歌を、私の歌を…。そうだ、やっぱり帰ろう」(『名曲解説全集(10)』音楽之友社)。
同年、夏の南仏で映画『キージェ中尉』の音楽を作曲。18世紀後半を舞台に、架空の中尉を巡る皇帝や臣下の珍騒動を通じ、帝政ロシア貴族社会の愚かさを描いた風刺喜劇。ソ連のパスポートが発行される。同年、ドイツではヒトラーが独裁政権を樹立。
※僕の体感では、多くの音楽資料が「プロコフィエフは1933年にソ連復帰」と記述しており、便宜上、この年を亡命生活の終わりとしたい。

1934年(43歳)、映画用の音楽を基に、演奏会用の交響組曲『キージェ中尉』(全5曲)を作曲。「キージェの誕生」「ロマンス」「キージェの結婚」「トロイカ」「キージェの葬送」からなり、第2曲「ロマンス」の旋律を英国のミュージシャン、スティング『ラシアンズ(ロシア人たち)』にアレンジしている。
※『キージェ中尉』から「ロマンス」https://www.youtube.com/watch?v=MvaJy8Cksd4#t=4m10s
※スティング『ラシアンズ』 https://www.youtube.com/watch?v=wHylQRVN2Qs (3分53秒)
8月にソビエト連邦作家同盟が結成される。同盟はスターリンの提唱した「社会主義リアリズム」を創作方法として掲げた。これにより文壇の前衛派、ロシア・アヴァンギャルドは完全に命運を絶たれた。「社会主義リアリズム」では、作家・芸術家は「社会主義の精神によって勤労者を改造し、教育するという思想的任務」があるとされた。同年、レニングラード劇場からの依頼でバレエ『ロメオとジュリエット』の作曲を開始。
〔注意〕この年、プロコフィエフは家族を国外に残し、先にソ連に帰国したという情報もある。前年に帰国した説と矛盾していて混乱。

1935年(44歳)、家族をモスクワに呼び寄せ、完全帰国する(『作曲家別名曲解説ライブラリー プロコフィエフ』の年表その他より。ウィキは1936年説)。以後、後輩ショ
スタコービチ同様にソビエト当局の芸術統制政策のもとで多難な人生を送ることになるが、生来の歌心と才気が貧することなく、円熟味を加えた作品が生み出されていく。
同年、バレエ音楽の大作『ロメオとジュリエット』(全52曲/全4幕・9場)を作曲(ウィキは1936年完成説)。グノー(オペラ)、ベルリオーズ(劇的交響曲)、チャイコフスキー(幻想序曲)ら先人と同様に、このシェイクスピアの名作を音楽化した。原作は“ロミオ”だが、バレエは“ロメオ”表記が一般的。プロコフィエフは本作で、不協和音を多用する現代主義からロマンティシズムに復帰し、シェイクスピアのヒューマニズム、大人たちの不毛な憎しみの犠牲になった若い生命を描いた。
プロコフィエフは『ロメオとジュリエット』で従来の“クラシック・バレエ”と異なる“ドラマチック・バレエ”を創始。それまでのバレエは、物語のパートと、踊りだけをみせるパートに別れていたが、プロコフィエフは踊りのパートを排除して、物語の中にすべての踊りを盛り込んだ。これによってシェイクスピアの芝居を観ているような緊張感が持続した。作品を依頼したレニングラードのキーロフ劇場は、当時は斬新だった本作の上演を拒否。翌年チェコの国立ブルノ劇場で初演が大成功したことをうけて考えを改め、3年後にガリーナ・ウラノワのジュリエットでソ連初演を行い華々しい成功を収めた。
プロコフィエフはこのバレエ曲から抜粋した楽曲で、『ロメオとジュリエット』の第1組曲と第2組曲を作っている。後者の方がポピュラー。
※『ロミオとジュリエット』全曲 https://www.youtube.com/watch?v=rrt7pqB5Ecw (145分)
名曲が多いこの作品の中でも、特に有名なのは以下の楽曲。
第1幕第2場第13曲「騎士たちの踊り(モンタギュー家とキャピュレット家)」キャピュレット家の舞踏会 https://www.youtube.com/watch?v=rrt7pqB5Ecw#t=28m04s
第1幕第2場第19曲「バルコニーの情景」月夜のバルコニーにいるジュリエットをロメオが訪ねる https://www.youtube.com/watch?v=rrt7pqB5Ecw#t=47m51s
第2幕第5場第36曲「第2幕の終曲」ロメオがティボルトを刺しキャピュレット家が激怒
   https://www.youtube.com/watch?v=rrt7pqB5Ecw#t=93m02s
第4幕第9場第52曲「ジュリエットの死」ジュリエットが目覚めるとロメオが死んでいる。そして… https://www.youtube.com/watch?v=rrt7pqB5Ecw#t=141m08s
※英プログレバンド「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」版“騎士たちの踊り”
 https://www.youtube.com/watch?v=Umk_IGSbxiE
※オランダのヘビメタ・バンド「Epica」版“騎士たちの踊り”https://www.youtube.com/watch?v=p0BVoj0l_Eo

この年、『バイオリン協奏曲第2番』を作曲。穏やかで心が満たされたような第2楽章は、ようやく故郷に定住できた安心感、感慨深さが伝わってくる。この曲はハイフェッツの演奏で有名になった。
※『バイオリン協奏曲第2番』から第2楽章(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=uuXKaRFFJIc#t=11m02s

1936年(45歳)、子どもたちがオーケストラに親しみを持てるよう、物語の原文をロシア民話を基にプロコフィエフが書いた音楽童話、語り手つきの子供のための交響的物語『ピーターと狼』を作曲。初演はモスクワの児童劇場で行われた。
演奏の冒頭で登場キャラクターと担当楽器の説明があり、小鳥(フルート)、アヒル(オーボエ)、猫(クラリネット)、お祖父さん(ファゴット)、狼(3本のホルン)、猟師(太鼓)、ピーター(弦楽合奏)と紹介される。物語は「ある日、わんぱくな少年ピーターが庭の戸を閉め忘れ、アヒルが外に逃げ出してしまう。猫がアヒルを狙っていると、森の大きな灰色狼がやってきてアヒルをひとのみ。猫と小鳥は逃げる。ピーターはアヒルの仇をとるため、ロープで罠を作り、小鳥と協力して狼を木に吊り上げた。猟師が現れるとピーターは「動物園に連れて行くから撃たないで」といい、お爺さんは「狼を捕まえるなんて、無事だったからよかったものの…」とヒヤヒヤ。動物園に向かってみんなで行進しながら幕となる。最後にナレーターは、狼のお腹からアヒルの声が聞こえており、まだ生きていることを教えてくれる(吐き出させたら生還できる)。
※『ピーターと狼』日本語版 https://www.youtube.com/watch?v=bS2NX1lJjok (29分)

この年、プロコフィエフが予想もしなかったことが起きる。スターリンが病的な猜疑心にとらわれて「大粛清」を始めたのだ。秘密警察が暗躍し、膨大な数の党員が投獄、処刑されていく。中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺された。さらに党大会に参加した党員1956人のうち1108人が「人民の敵」の烙印を押され、死刑判決を受けた者は24時間以内に処刑された。レニングラード共産党の関係者5000人全員が銃殺され、ロシア革命の同志ですら、見せしめの裁判で架空の国家反逆罪を自白させられ、死刑を宣告された。国民の間に密告が奨励され、労働者、農民、教師、司祭、芸術家、軍人、少しでもスターリンを批判した者は「人民の敵」としてこの世から消えた。追放、逮捕、強制収容所送りは、ほとんどの家庭におよび、秘密警察と強制収容所による恐怖政治が国民の日常を支配していった。プロコフィエフは大粛清の嵐のなか、「社会主義リアリズム」を推進する当局の文化政策の圧力を受けつつも、独自の作風を保ち続けて比類ない完成度を示していった。
※英語版ウィキペディアはこの年をプロコフィエフと家族がモスクワに定住した年としている。1936年って、どこから引っ張ってきた数字なんだろう?

1938年(47歳)、6年前から着手していた『チェロ協奏曲第1番』が完成するが、チェロ奏者にとってあまりに演奏が難しく初演は失敗に終わる。プロコフィエフは自信を喪失したが、後にチェリストのロストロポーヴィチの助言を得て大幅な改作を行い、『チェロと管弦楽のための交響的協奏曲』とした。この年、セルゲイ・エイゼンシテイン監督のソ連映画『アレクサンドル・ネフスキー』の音楽を作曲。
1939年(48歳)、カンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』(全7曲)を作曲。映画音楽を演奏会用のカンタータとして改作したもの。中世の英雄アレクサンドル・ネフスキーとドイツ騎士団との戦いを描く。同年、オペラ『セミョーン・カトコ』を作曲。こちらは第一次世界大戦末期にウクライナへ侵攻してきたドイツ兵をパルチザンが撃退する物語。この年、ヒトラーがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発する。

1940年(49歳)、『ピアノソナタ第6番』が完成。続く第7番、第8番も戦時中に書かれたため、この3曲は『戦争ソナタ』と呼ばれる。
1941年(50歳)、自伝を刊行。プロコフィエフは自らの作風の5つの特徴として「古典的」「革新的」「トッカータ的」「叙情的」「スケルツォ的」とした。プロコフィエフは最後の「スケルツォ的」について、「私の作品に貼られる“グロテスク”という言葉に反対であり、“スケルツォ的”としたい。その中身は“冗談、笑い、嘲笑”である」としている。

6月22日ヒトラーが独ソ不可侵条約を破り、突如ドイツ軍がソ連に侵攻してくる。プロコフィエフは政府から疎開命令を受け、他の芸術家らと共にトルコに近い北コーカサスに移住する。妻リーナと不和となって家を出て、2年前に出会った女性ミーラ・メンデリソンと暮らし始め、事実婚の関係になった。

1942年(51歳)、3年をかけた円熟期の傑作『ピアノ・ソナタ第7番』が完成。“戦争ソナタ”の1曲。本作はその緻密で優れた構成美から、プロコフィエフが書いた9曲のピアノソナタの中で最高傑作の呼び声が高い。登場するモティーフは各々が有機的に絡み合い、互いを導くように展開されていく。第3楽章は8分の7拍子で貫かれ、3分半の間 打楽器のごとく火花を放つ。凄
まじい緊張感とロマンティシズムが同居し、正確なリズム感とスピード感が要求される難曲であるが、この第3楽章だけがアンコールで演奏されることも多い。初演は翌年に当時28歳の天才リヒテル(1915-1997)がモスクワで行い、名ピアニストであるプロコフィエフが初めて初演を他人に託した。
※『ピアノソナタ第7番』第3楽章(リヒテル名演)https://www.youtube.com/watch?v=uDpQhvOQ-DU#t=17m40s
1943年(52歳)、『フルート・ソナタ』を作曲。疎開地でウラル山脈の風景を連日眺め、雄大さに仕事の疲れを癒される。オペラ『戦争と平和』の第1版が完成。

1944年(53歳)、プロコフィエフの交響曲分野の最高傑作『交響曲第5番』を作曲。第1楽章の後半はゴジラが登場しそうな大音圧の総奏。第2楽章、第4楽章は浮き彫りされたようにクッキリとした力強さがあり、外国生活の体験からジャズ的な要素も含む。る。第3楽章はバレエ音楽のように甘美な旋律が登場。翌年の初演は、レニングラード包囲戦でドイツに勝利したことを祝う祭典で、祝砲20発に連続して演奏され国家的イベントとなった。
※『交響曲第5番』カラヤン指揮ベルリン・フィル https://www.youtube.com/watch?v=sPsw3QpBsUE (43分)
同年、フルート・ソナタをヴァイオリン版に改作した『ヴァイオリン・ソナタ第2番』を作曲。先に着手していた『第1番』はまだ未完であり、2年早く『第2番』ができた。抒情的で聴きやすく、沈んだ音色の『第1番』と逆の印象。この年は他に“戦争ソナタ”の最後の作品『ピアノ・ソナタ第8番』(第2楽章のアンダンテが良い)、バレエ音楽『シンデレラ』(スターリン賞受賞)なども作曲していおり、非常に充実している。
※『ヴァイオリン・ソナタ第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=qx6bdl2xeYw(24分)
※『ピアノ・ソナタ第8番』第2楽章https://www.youtube.com/watch?v=VPmry-cj4OU#t=16m31s
1945年(54歳)、1月に階段から転落して後頭部を強打し、意識不明で病院にかつぎ込まれる。以後、循環器系の病気を患い健康状態はふるわず。第二次世界大戦が終結。

1946年(55歳)、8年前に着手していた『ヴァイオリン・ソナタ第1番』(スターリン賞受賞)が完成する。陰うつだが詩情ある旋律とドラマティックな響きにより高く評価されている。プロコフィエフは第一楽章のある旋律について、演奏者に「墓場にそよぐ風のように」と指示している。ピアノにも高度な演奏技術が要求されており、単なる伴奏ではない。
※『ヴァイオリン・ソナタ第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=vypBQOpduPI(31分)
同年、友人エイゼンシュテインが映画『イワン雷帝』第2部を完成させるが、疑心暗鬼に駆られたイワンが親衛隊を使って貴族たちを粛清するさまは、まさに大粛清を行うスターリンそのものだった。映画を観たスターリンは激怒し、作品は上映禁止となり、エイゼンシュテインはスターリンに呼び出され改作を約束させられた(スターリンの死後に公開が実現。未完成の第3部ではイワンが粛清を懺悔して読み上げる犠牲者の名前に、エイゼンシュテインの友人たちの名が入っているという)。
1947年(56歳)、『交響曲第6番』が完成。初演は成功を収めたが、戦争の悲劇を内面的に描いた難解な作風が、翌年に物議をかもす。プロコフィエフ「現在われわれは(大戦の)大勝利に酔っているが、誰しも癒すことのできない傷を負っている。ある人は最も親しい者たちを失い、またある人は健康を害している。こういうことは忘れてはならないのだ」。
1948年(57歳)、この年の初頭から没するまで5年間はほとんど病床にあり、医者が許した「1日に1時間だけ作曲」を忠実に守り、それ以外はピアノに触らず、電話にも出ず安静にしていた。
2月10日、スターリンに次ぐソ連共産党のナンバー2、中央委員会書記アンドレイ・ジダーノフによる前衛芸術に対する批判が公にされる。共産党は2年前から前衛詩人や風刺作家など文壇を攻撃し抑圧政策を主導していたが、ジダーノフ批判は音楽にも波及し、「社会主義リアリズム」路線に反すると見なされた抽象的な作風の作曲家、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ミャスコフスキー、ハチャトゥリアン、カバレフスキーらがまとめて糾弾された(“本命”はショスタコーヴィチで、あとは目くらましに過ぎないとの説あり)。プロコフィエフは4年前の『交響曲第5番』が高い評価を得ていたが、『交響曲第6番』『ピアノ協奏曲第5番』『ピアノ・ソナタ第5番』などが、“耳ざわりな和声”“不道徳である”と痛烈な批判をうけ、「目にあまる反民族的形式主義者」の烙印を押される。このあら捜しによって『交響曲第6番』は「形式主義的過ちを犯した作品」とレッテルを貼られ、長い間演奏される機会を失った。ジダーノフ批判の1週間後、プロコフィエフ作品を批判対象とする作曲家集会が開かれ、席上でプロコフィエフからの反省の手紙「今後、大衆にとって理解しやすく、しかも独創的な音楽を作曲していく」「わかりやすい抒情的な作風へ転換する」が発表される。
※ジダーノフ批判の翌日11日、友人エイゼンシュテインが心臓発作により50歳で急逝。そしてジダーノフ自身も半年後の8月に52歳で急死した。
※問題となった『交響曲第6番』 https://www.youtube.com/watch?v=fqUIiHC3C14(39分)

1949年(58歳)、部分的な言語症を起こし、作曲時間は1日30分にまで減らされる。同年、バレエ音楽『石の花』のピアノ譜を完成させる。脚本はウラル地方の民話集『孔雀石の小箱』に収められていた『石の花』に基づく。ジダーノフ批判を意識し、民族色の強い「国民的バレエ」として書かれている。銅山で採れる緑色の孔雀石で石の花を彫ることを夢見る石工の男が、試練を乗り越えて恋人と結ばれる物語。ミャコフスキー「プロコフィエフは体調が悪いなか『石の花』を書いた。巨大な実に見事な音楽」。
1950年(59歳)、最後の合唱曲となったオラトリオ『平和の守り』(全10曲)を作曲。第1楽章から第4楽章は「第二次大戦とソ連人民の嘆き」、第5楽章から第7楽章は「子どもの幸福な生活」、第8楽章から第10楽章は「平和のための団結と、諸国民の友好が世界平和の保障」と歌う。プロコフィエフ「この作品は第二次大戦の恐ろしい日々を、母や孤児の涙を、火に包まれた町を、国民を襲った恐るべき試練を、スターリングラード攻防戦の勝利を、創造的労働の明るい喜びを、幸福な子ども時代を物語っている。戦争はあってはならぬ。世界の諸国民は平和を守り、人類の未来を救うだろう」。
※『平和の守り』 https://www.youtube.com/watch?v=-a-o2_O3CGg (34分)
同年、親友ミャコフスキーが69歳で他界。
1951年(60歳)、プロコフィエフ60歳誕生日祝賀会がモスクワ作曲家会館で開かれ、ピアノ・ソナタ第9番がリヒテルによって初演される。
1952年(61歳)、未来への青年の希望を描いた『交響曲第7番“青春”』でスターリン賞を受賞して名誉回復。ジダーノフ批判にさらされ「わかりやすい音楽」を目指したもの。ロシアの民族的な要素が強くにじみ、どのプロコフィエフ作品よりの国民主義的な作品となった。プロコフィエフ「音楽の高い思想や内容を誰にでもわかるように書くのは最も難しいことだが、自分はやるつもりだ」。
※『交響曲第7番“青春”』 https://www.youtub.com/watch?v=AB6F7zqEP88 (32分)

1953年(62歳)、トルストイの同名小説によるオペラ『戦争と平和』が完成(第5版1952年だから前年かも?)。エイゼンシュテインの助言を受けながら台本に着手したのは1941年であり、足かけ12年の歳月をかけた大作となった。ロシア語の自然な抑揚を活かしたオペラの創作を目指した。原作のロシアがナポレオン・フランス軍の侵略を受けたことと、ナチス・ドイツの侵略を受けた自身の体験が重なり、作曲に熱が入ったという。対ナポレオン戦争という歴史の壮大な叙事詩を背景に、戦傷で死んでいくアンドレイと、若いナターシャの悲恋を通して平和の大切さを見事にうたいあげ、プロコフィエフの代表作の一つとなった。
※『戦争と平和』ハイライト/日本語字幕つき https://www.youtube.com/watch?v=p9maRdCdeV8
バレエ『石の花』の改訂を行い、モスクワでリハーサルが始まるなか、3月5日午後6時、脳出血による呼吸困難で急死する。享年61歳。同日、東京でステージに立ったシゲティは、友の追悼のために『ヴァイオリン協奏曲第1番』の第2楽章を演奏した。この日はプロコフィエフ他界の3時間前にスターリンが没しており、3時間だけでもスターリンのいない世界に身を置けて良かったと思う。2日後、カバレフスキーを委員長としてプロコフィエフの葬儀が行われ、ノヴォデヴィチ寺院にて親友ミャスコフスキーの墓のそばに葬られた。
1954年、バレエ『石の花』初演。
1955年、オペラ『炎の天使』がヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場で初演された(演奏会形式の初演は前年)。
1957年、オペラ『戦争と平和』全13場の最終版が初演される。
1958年、前衛を攻撃した「ジダーノフ批判」が解除され、ジダーノフ時代が終わる。

プロコフィエフは現代作曲家の中で、ピアノという表現手段で最も豊かな成果をあげた作曲家の1人。抒情的・歌謡的な旋律の排除とグロテスクな曲想への好み
アントン・ルビンシュテインからラフマニノフへ受け継がれた19世紀のピアノ音楽の伝統を継承しつつ、ピアノという楽器に更に野性的なダイナミックな表現を加え、ピアノ音楽の新しい時代を作った。ドビュッシー以降のピアノ分野での最も実り豊かな成果を生んだ。
ミャスコフスキーと親交。ミャスコフスキーとヴァイオリン・ソナタを共作し、プロコフィエフは第1楽章を書いた。
反国民主義的・反ロマン主義的性格が濃厚。
作品が物議をかもし「伝統破壊者」の異名をとった。

男性的な力強さがあってしかも機知と皮肉に富み、簡潔なメロディ、生気あるリズム、大胆な和声法と色彩的な楽器法などが特徴

社会主義リアリズム路線による批判を受けたりしたが終始ソ連の代表的作曲家として国際的名声を保った。
S.ディアギレフの招きでパリとロンドンで自作のバレエ音楽を上演。
明快で近代的な抒情をたたえた作風。
ウィキ ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。
初期には急進的な作風を取る一方、長期の海外生活中の作品は次第に新古典主義的で晦渋なものとなったが、ソヴィエト連邦への帰国後は社会主義リアリズムの路線に沿った作風へ転換し、現代的感覚と豊かな叙情性を併せ持つ独自の境地へ到り、多くの傑作を生んだ。

〔墓巡礼〕
プロコフィエフはモスクワで最も有名な墓地、ノヴォデヴィチ女子修道院付属のノヴォデヴィチ墓地の第3区47列に眠る。墓碑にはキリル文字で「Прокофьев」。英語の「Prokofiev」とまったく違う。名前の冒頭、NっぽいのがPで、PがRというややこしさ。
墓地の入口で購入した地図はマーカーの付け方がアバウトなので、ロシア語の綴りと照らし合わせながら確認していった。お墓は後方に向かって少し斜めになった黒い墓石で、プロコフィエフの名前と生没年だけのシンプルなものだった。独裁者スターリンに苦しめられたプロコフィエフは2人とも同じ日に他界しているが、スターリンの方が3時間早い。「3時間だけでもスターリンのいない世界に身を置けて良かったですね、プロコフィエフさん」と追悼した。
お墓の名前の上に「Сергей Сергеевич」と彫られており、「きっと“偉大な作曲家”って書いてあるんだろう。帰国したら調べよう」、そう思って日本でロシア語がわかる友人に解読してもらったら、彼は大笑い。「意味は“セルゲイ・セルゲーエヴィチ”だよ、セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフという名前だよ」。そんな簡単なことだったのか!(笑)
※友人の映画監督エイゼンシュテインは隣りの4区37列、小道を挟んで近い場所に眠っている。2人の墓を近所にしたのは人々の計らいだろう。スクリャービンの墓も近い。
※ノヴォデヴィッチ修道院の最寄り駅は地下鉄スポルチーヴナヤ駅(徒歩10分)。他にショスタコーヴィチ、スクリャービン、リヒテルらが眠る。



★ヘンデル/Georg Friedrich Handel 1685.2.23-1759.4.14 (イギリス、ロンドン 74歳)2002
Westminster Abbey, London, England







作曲家で最初の国際人 バッハと同い年、故郷も近い 墓所のウェストミンスター寺院




壁際のヘンデル像。最初はこれがお墓と思ってた(汗) こちらが本当のお墓!

バロック後期の代表的作曲家“音楽の母”ヘンデルは1685年2月24日、ドイツ中部のハレに生まれた。奇遇にも100キロ西の隣州アイゼナハではバッハが翌月に生まれている。父は宮廷理髪師(兼外科医)、母は牧師の娘。音楽一家のバッハ家と違ってヘンデルの家系は音楽と無縁であり、父は息子を法律家にしようとした。少年ヘンデルは音楽を好んだが、楽器演奏を禁じられていたため真夜中に屋根裏部屋に忍び込み、月の光のもとで鍵盤楽器(クラヴィコード)を弾いたという。
1692年、7歳のときにザクセン公の前でオルガンを演奏して楽才を認められた。領主はヘンデルが音楽を学ぶための資金提供を申し出、両親は説得されて10歳から地元オルガン奏者に師事させる。同時にハープシコード、バイオリン、オーボエを学んだ。1696年(11歳)、ベルリンで行った御前演奏が大きな評判になるも12歳で父が他界。“堅実な仕事を”という父の遺志に従って17歳で大学の法律学科に入学したが、音楽の情熱を抑えがたく、教会の見習いオルガン奏者となり作曲を始めた。

1703年(18歳)、ドイツのオペラの中心地ハンブルクに出てヴァイオリン奏者兼チェンバロ奏者となる。すぐに4歳年上の作曲家マッテゾン(1681-1764)と親友になったが、翌年マッテゾンのオペラ公演でチェンバロ奏者の座を取り合い(当時の作曲家は指揮や演奏も担当していた)、ハンブルクの市場で決闘となった。マッテゾンの剣先がヘンデルの胸に当たったが、胸ボタンに守られ大事に至らなかった。後日、両者は和解。
19歳でオペラ第1作の『アルミーラ』を作曲。翌年に初演され成功をおさめる。1706年(21歳)、ヘンデルにはハンブルク音楽界が物足りず、当時最先端のイタリア音楽を深く学ぶべく、オペラ発祥の地イタリアへ向かい、ローマ、ベネツィア、フィレンツェ、ナポリに3年間滞在した。イタリアではスカルラッティやコレルリと交流し、教会音楽やイタリア歌唱法を身につけ、100曲以上の世俗カンタータを作曲したほか、オペラやオラトリオも書いた。
1709年(24歳)、オペラ第5作『アグリッピーナ』がベネツィアで初演され、連続27回公演という当時前例のない大ヒットとなった。そもそも外国人の作品がベネツィアでヒットすることが珍しく、ヘンデルの名は欧州に広まった。物語はローマ皇帝クラウディオの後妻アグリッピーナが前夫の子ネロを皇帝に即位させんと画策するもの。ちなみに、同時期にベネツィアでは7歳年上のヴィヴァルディ(1678-1741)が活躍していた。

翌1710年(25歳)、ヘンデルの噂を聞いたハノーファー選帝侯ゲオルク・フリードリヒから宮廷作曲家・指揮者に招かれ、イタリアを離れてドイツに戻った。だが、才能を活かせる環境を求めて同年暮れに休暇をとってイギリスに渡り、スチュアート王朝最後の君主、アン女王(1665-1714)の知遇を得る。ヘンデルは名前を英語読みで「アンデル」と呼ばれた。
1711年(26歳)、ロンドンでオペラ『リナルド』を初演し再び成功を手にする。本作は第1回十字軍のエルサレム奪回の物語でヘンデル存命中に50回以上も上演されたカストラート(去勢男性歌手)のための作品。主人公リナルドは十字軍の勇者。敵エルサレム王にさらわれた恋人アルミレーナが歌うアリア『私を泣かせてください』が特に有名。この頃、イギリス音楽は作曲家パーセル(享年36)を失って停滞していたことから、イタリア・オペラの形式をとった『リナルド』は新鮮さがあり、イタリア帰りのヘンデルの作品は注目を集めていく。

いったんハノーファー宮廷に戻り、選帝侯から短期間の渡英許可を得てイギリスに入ったが、ヘンデルは再三にわたる帰国命令を無視してイギリスに滞在した。アン女王はヘンデルを寵愛し、彼は外国人でありながらイギリス王室から年金を支給される。1714年(29歳)、アン女王との出会いから4年、女王は49歳で急死した。死去によりドイツからハノーファー選帝侯ゲオルク・フリードリヒがイギリス国王として呼ばれ、「ジョージ1世」となる(ハノーファー朝の始祖。母が英国王室出身)。ヘンデルはハノーファーの宮廷楽長の職を放棄しており、顔を合わせづらい巡り合わせとなった。
ジョージ1世はヘンデルの不義理に怒って宮廷から遠ざた。即位から3年が経った1717年(32歳)、国王がテムズ川で舟遊びをした際に、ヘンデルは50人の楽団を引き連れて船上で管弦楽組曲『水上の音楽(Water Music)』(第1番〜第3番/計20曲の小曲集)を演奏した。音楽好きのジョージ1世は、この華やかな野外音楽をいたく気に入り、1時間におよぶ曲を船が往復する間に3度も演奏させたという。有名な「アラ・ホーンパイプ」は第2組曲の第2曲。この作品のおかげでヘンデルは許され、アン女王の時代よりも重用された。音楽の力が不和を解いた。

1718年(33歳)、代表作のひとつ、妖精ガラテアと羊飼いエイシスの悲恋を描いた仮面劇『エイシスとガラテア』を作曲。
1719年(34歳)、イタリア・オペラ上演と貴族の投資を目的としたオペラ団体「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」を王の支援を得て設立、ヘンデルは音楽監督に就任した。この当時、作曲家は最初に歌手を選び、歌手の実力を最大限に引き出せる楽曲を書いた。同年、オペラ歌手の引き抜きを目的にドイツへ帰り、故郷ハレにも短期間帰った。その際、バッハがヘンデルに会うために訪問したが、既にヘンデルはイギリスに向かった後だった。巨匠たちの世紀の対面は残念ながら実現しなかった。
1724年(39歳)、ヘンデル絶頂期のオペラ『エジプトのジューリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)』初演。エジプト遠征中のシーザーとエジプト女王クレオパトラの物語。ドラマチックな史劇であり、ヘンデルのオペラで上演回数が最も多い人気作となる。同年、オペラ『タメルラーノ』初演。タタール人(モンゴル人)に捕らえられたトルコ皇帝の悲愴な決意を描く。
1725年(40歳)、オペラ『ロデリンダ』初演。北イタリアの王国を舞台にした夫婦愛を描く史劇。
1727年(42歳)、イギリスに帰化して名前をゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルから英語綴りの「George Frideric Handel(ジョージ・フリデリック・ヘンデル)」に変更する。
同年、ジョージ1世が脳卒中で他界し、子のジョージ2世(1683?1760)が即位する。この戴冠式のため英語による「戴冠式アンセム(礼拝用合唱曲)」を作曲し、後の英語オラトリオに繋がっていく。
※イギリス国教会の礼拝用合唱曲=「アンセム」は、プロテスタント教会の「カンタータ」、カトリック教会の「モテット」に相当。ヘンデルの『ジョージ2世の戴冠式アンセム』の第1曲目「司祭ザドク」はサッカーチャンピオンズリーグのテーマ曲の原曲になっている。
1728年(43歳)、「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」は9年間にオペラを487回(うちヘンデル作品245回)上演し、観客動員も多かったが、オペラ界のスター歌手を呼んだことでギャラがかさみ、収益は思うように上がらなかった。劇場経営者が資金を持ち逃げしたことも。また、この年に別の劇場でヘンデル作品をパロディ化&風刺した英語のオペラ『乞食オペラ』が記録的ヒットとなり、イタリア語にこだわるヘンデルの人気に陰りが出た。英語オペラの楽しさに気づいた民衆は、ヘンデルのイタリア語のオペラを貴族趣味の輸入品と見なすようになった。
1732年(47歳)、ペルシャ王の后となったユダヤ人女性エステルの知恵と勇気を描いた最初の英語オラトリオ『エステル』を上演。その幕間にヘンデルが弾いた2曲のオルガン協奏曲が好評を得る。
※オラトリオは衣装や舞台装置を使用しない音楽劇であり、公演費が安くついた。題材の大半が旧約聖書。
1733年(48歳)、恋に狂った英雄オルランドの四角関係を描いたイタリア・オペラ『オルランド』初演。同年ヘンデルの独裁支配に対する反発が起きて「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」が分裂解散。翌年、ヘンデルは新オペラ団体「イタリアオペラ協会」を旗挙げし、反ヘンデル派もオペラ団体「貴族オペラ」(有名なカストラート、ファリネッリが所属)を設立した。両者がイタリア・オペラのファンを奪い合うなか、ヘンデルは英語による劇形式のオラトリオに活路を見出す。オラトリオ『アタリア』作曲。
1734年(49歳)、物語がドラマチックで挿入されたバレエが人気のオペラ『アリオダンテ』を作曲。王の後継者アリオダンテを狙う謀略が描かれる。
1735年(50歳)、イタリア・オペラの最後のヒット作『アルチーナ』初演。魔法で男を虜にしてきた冷酷な魔法使いアルチーナが、初めて失恋して歌う美しいアリア『ああ!私の心の人よ!』で知られる。同年、名曲『オルガン協奏曲第4番』を作曲。
※『オルガン協奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=INIq2O2fr401737
1736年(51歳)、アレキサンダー大王のペレスポリス(ペルシャの首都)占領を祝賀する饗宴を舞台にした英語オラトリオ『アレクサンダーの饗宴』初演が大成功。
1737年(52歳)、中風にかかり体調を崩す。さらに卒中で右手が麻痺し指揮が不可能になった。「イタリアオペラ協会」もライバルの「貴族オペラ」も共に経営に行き詰まる。
1738年(53歳)、経済的に苦しくなるなか作曲活動を再開、年2作のペースでオラトリオを書き続ける。同年、ペルシャ時代の恋模様を描いたオペラ『セルセ』(伊語セルセ、別名クセルクセス)を作曲。第1幕で主人公のペルシャ王・クセルクセス1世が樹を愛でるアリア『樹木の陰で(オンブラ・マイ・フ)』は、あまりに旋律が美しいために「ヘンデルのラルゴ」の曲名で単独でも歌われる名歌となった。歌詞の内容は「このような木陰は今までになかった どれよりも愛しく 愛らしく そして優しい」。この曲は1906年のクリスマスイブにラジオ実験放送でレコードが流れ「世界で初めて電波に乗せて放送された音楽」になった。同年、イスラエル王国の初代国王サウルを描いたオラトリオ『サウル』作曲。
1739年(54歳)、モーセたちの紅海横断を描いた英語オラトリオ『エジプトのイスラエル人』初演。エジソンが発明したフォノグラフ(蝋管再生機)を使って、1888年に曲中の「モーセとイスラエルの子供たち」(出演者4千人の大コーラス)を録音。2008年にフランス民謡「月の光」(1860年録音)が再生されるまで“世界最古の録音”とされた。同年、ソロとオーケストラが交代しながら演奏する『合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)』を作曲。

1741年(56歳)、オペラの最終作となる『デイダミア』上演。ウリッセ(オッデュッセウス)がアキレウスとデイダミアを結婚させる物語。イタリア語のオペラであったため、既にロンドンの人々は興味を失っており興行は大失敗。ここ何年もヘンデル嫌いの貴族たちの妨害でオペラの失敗が増えていたことから、彼はイギリスを去ることを決意、アイルランド・ダブリンに渡った。以降、オラトリオを中心に作曲していく。
そんな失意のヘンデルに、ダブリン市から慈善演奏会用のオラトリオのリクエストが届く。それまでのヘンデルのイタリア語オペラは人気歌手のためのアリアとレチタティーボ(叙唱)ばかりで合唱曲はなかった。イギリスで普及していた合唱音楽に刺激を受けたヘンデルは、本格的な大規模合唱曲の作曲に取り掛かり、傑作オラトリオ『メサイア(救世主)』をわずか24日間で書きあげた。
1742年(57歳)4月13日、アイルランド・ダブリンにて代表作となる『メサイア』を自身の指揮により初演。第1部「メシア到来の預言と誕生、メシアの宣教」第2部「メシアの受難と復活、メシアの教えの伝播」、第3部「メシアのもたらした救い〜永遠のいのち」で構成され、第2部最終曲の「ハレルヤ(Hallelujah)」(通称「ハレルヤコーラス」)が高い人気を呼び、『メサイア』は大成功を収めた。同年、盲目になったサムソンがペリシテ人の神殿を崩壊させるスペクタクルなオラトリオ『サムソン』を作曲、これもヒットする。
※『ハレルヤコーラス』 https://www.youtube.com/watch?v=5NokjNCbCY4
1743年(58歳)、『ハレルヤ』のロンドン初演が実現したが、宗教作品を劇場で演奏することを批判する反対派の妨害で失敗に終わった。

1746年(61歳)、従来の演奏会は富裕階級だけを対象とした予約演奏会だったが、この年からオラトリオを市民に公開するようになる。
1747年(62歳)、紀元前にエルサレムを奪還し圧制からイスラエルを解放した英雄ユダ・マカバイを描いたオラトリオ『マカベウスのユダ(ユダス・マカベウス)』を作曲。第58曲『見よ、勇者は帰る』は表彰状の授賞式で流れる得賞歌として有名。ヘンデルは本作で「勇者」をスコットランドで勝利を収めた「イングランド軍」と重ねており、この愛国的なオラトリオは英国民から喝采を受けた。
※『マカベウスのユダ/Judas Macabeus』 https://www.youtube.com/watch?v=939-BHNKWNI
※『マカベウスのユダ』の哀切なメロディー https://www.youtube.com/watch?v=939-BHNKWNI#t=17m50s

1748年(63歳)、旧約聖書のソロモン王の英知を称えたオラトリオ『ソロモン』作曲。第3幕の「シバの女王の到着」が2012年のロンドン・オリンピックで演奏された。
1749年(64歳)、敬虔なキリスト教徒テオドーラと彼女を愛した男が互いを助けようと殉教する姿を描いたオラトリオ『テオドーラ』を作曲。オラトリオでは定番のハッピーエンドでない重い展開から観客は不入りだった。この年、前年のアーヘンの平和条約(オーストリア継承戦争の講和条約)の成立を祝う王宮の花火大会のため、ジョージ2世の意向を汲んだ勇壮な組曲『王宮の花火の音楽』を作曲。24本のオーボエ、9本のホルンとトランペットという大規模な編成。1万2千人の観客を前に花火を打ち上げる最中に演奏された。音楽は好評でヘンデルは再評価されると共に、ロンドンでは反応が悪かった『メサイア』の真価が認められ始める。『メサイア』は孤児院の募金を集めるために毎年上演されるようになった。
1750年(65歳)、バッハ他界。
1751年(66歳)、事実上の最後のオラトリオとなる『イェフタ』を作曲。白内障にかかったヘンデルは、この作品を視力が減退するなか執念で完成させた。古代イスラエルの指導者イェフタは、神との約束によって戦の勝利と引き換えに最愛の娘イフィスを生贄に出すことになり、心の葛藤を描く。
1753年(68歳)、完全に失明し作曲活動が不可能になり、演奏活動のみ続ける。
1758年(73歳)、有名な眼科医テイラーに眼の手術を受けたが失敗。この医者はバッハの眼の手術でも失敗している。
1759年4月14日にロンドンで他界。死の8日前に『メサイア』の演奏会に足を運び、これが人生で最後に聴いた音楽となった。享年74歳。生涯独身で子供はいなかった。『メサイア』はヘンデルが没するまでに68回も上演されたという。ドイツ人でありながら歴代の王族や、ニュートン、ダーウィンら英国の偉人が眠るウエストミンスター寺院に葬られた。
翌1760年に伝記が刊行され、ヘンデルは伝記が書かれた最初の音楽家となった。同年にヘンデルが30年仕えていたジョージ2世も76歳で他界し、ウェストミンスター寺院に埋蔵された最後の王となった。
生誕100年を機に楽譜全集が出版され(1797年完結)、ベートーヴェンは全40巻を宝物にしていた。ベートーヴェン「ヘンデルは追従を許さぬ巨匠中の巨匠だ」。
1883年、第1回万国博覧会のためにロンドン郊外に建てられた水晶宮で、500人の大規模オーケストラと4000人もの合唱団で『メサイア』が上演された。
1884年、『マカベウスのユダ』の「見よ、勇者は帰る」にスイスの牧師バドリーが歌詞をつけ、賛美歌「Thine Is the Glory(栄光は汝に)」として広まる。

若い頃からドイツ、イタリア、イギリスなど各地の文化・芸術を吸収して国境を超えて活躍したヘンデル。高い教養と外国語の上手さから宮廷で重用され、国際的な名声を得たコスモポリタンだった。趣味は絵画の収集。劇場経営では苦難を重ねながらも、イギリスにおけるイタリア・オペラの確立に尽力し、46曲のオペラと29曲のオラトリオ、多数の室内楽曲を残した。生涯ドイツから出ることがなかったバッハとは対照的だ。作品内容もバッハより分かりやすく、イタリア仕込みのくっきりとした明快な旋律とハッピーエンドの調和感のある展開、理解しやすい作風で多くの人に愛された。近年、オペラを中心にヘンデル作品を復活上演する試みが次第に増えている。

〔墓巡礼〕
ヘンデルが眠るロンドンのウェストミンスター寺院はイングランド国教会の教会。国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)が隣接しており、1987年にユネスコの世界遺産に登録された。11世紀にエドワード懺悔王が建設し、1066年から国王の戴冠式が行なわれ、内部の壁と床には歴代の王族やイギリスを代表する芸術家、科学者、政治家らが多数埋葬されている。墓地としては既に満杯状態で、新たに埋葬するスペースはなくなっているが、2018年3月に没した理論物理学者スティーヴン・ホーキング博士の遺骨が埋葬されることになった。日本の学校のチャイム(♪キーンコーンカーンコーン)は当寺院のために1927年に作曲された「ウェストミンスターの鐘」がオリジナル。
初めてヘンデルを墓参したのは1989年。飛行機でイギリス・ヒースロー空港に降り立ち、シャトルバスでロンドン市内へ。地下鉄のウェストミンスター駅から地上へ出て、テムズ河を背にビッグベンで有名な国会議事堂を左に見ながら200m歩くと巨大なウェストミンスター寺院に着く。入場料は1.8ポンドだったが、今は10倍以上の20ポンド(3000円)もする!現在は内部の撮影が禁じられているが、以前は撮影可能だった。
入口から入ると最初に王室の墓がある。聖エドワード(懺悔王)、ヘンリー5世、エリザベス1世、悲劇のメアリー・スチュアートなど多くの著名王族の壮麗な墓に圧倒された。ヘンデルを寵愛したアン女王や“王宮の花火”ジョージ2世もここに眠る。“水上の音楽”ジョージ1世だけは故郷ドイツのハノーファーに永眠している。僕にとってウェストミンスター寺院の最重要エリアは寺院の南翼廊「ポエッツ(詩人)コーナー」。ここにはテニソンやチョーサーといった国民的詩人だけでなく芸術家も数多く眠っている。ディケンズ、ローレンス・オリビエ、ハーディ、キップリング、パーセル等々。『メサイア』の楽譜を持ったヘンデルの石像が壁面にあるため、僕はそこが墓と思って頭(こうべ)を垂れ、彼が残してくれた美しい音楽の御礼を言った。中央の身廊にはニュートン、北翼廊(聖歌隊席通路)にはダーウィンやヴォーン・ウィリアムズの墓がある。
帰国後、2、3年が経ったある日、音楽誌をめくっていると見たこともないヘンデルの墓写真があった。「えっ、これはどこ!?なになに…ウェストミンスター寺院!?嘘だろ!?」。どうやら、僕が感謝を捧げたのは記念碑の方で、本当の墓は同じ詩人コーナーの床にあったようだ…ショック。13年後に同寺院を再訪、まっすぐ詩人コーナーを目指し、床に「HANDEL」の名を確認した。今度はちゃんとお墓に「サンキュー」と伝えることができた。

※英国では神を讃える歌が演奏される際に起立する習慣があり、この伝統が広がって他国の演奏会でも歌手や聴衆が「ハレルヤ」で立ち上がるようになった。
※18世紀当時のドイツの新聞が作曲家の人気投票を実施した結果、1位テレマン、2位ヘンデル、7位バッハだった。
※ヘンデルが1723年から他界まで暮らしたロンドンの住居は、ヘンデルの博物館として公開されている。住所はBrook Street 25。2階から上。
※故郷のザクセン・アンハルト州ハレに生家が「ヘンデルハウス」として保存・公開されている。マルクト広場にヘンデル像あり。
※ヘンデル名曲集 https://www.youtube.com/watch?v=yVfimoazs4s




★シベリウス/Jean Sibelius 1865.12.8-1957.9.20 (フィンランド、アイノラ 91歳)2005&18
Ainola (Jean Sibelius Home), Jarvenpaa, Finland

 
ヘルシンキ空港のシャトルバスは『フィンランディア』の楽譜が内外にラッピングされてます!

フィンランドでも豚は「ブハブハ」鳴く 「トナカイ注意」もフィンランドならでは 態度がでかすぎるドナルド





駅員に道を尋ねようと思っていたので駅に
降りて絶句!無人駅!目の前は野原!
周辺地図ナシ!
シベリウスの墓は彼の家の庭にあると
のこと。しかし、誰かに方角を聞くにも、
通行人が一人もいないッ!
ようやく遭遇した民家。
突撃して住人のお婆さん
から道を教えてもらう
「ホントにあってるのか…?」
この地味で目立たない門が
シベリウス・ハウスの入口だった




家がシベリウス博物館になってる 裏庭の奥の方にあったシンプルな墓(2005) 再巡礼は天候に恵まれた(2018)

墓所の入口。自然の中に眠る 木洩れ陽が心地よさそう 墓所から見たアイノラ(家)

シベリウス愛用のピアノ ベッド付きの書斎 シベリウス像@髪の毛あり

フィンランドの作曲家。フィンランド国民主義音楽の創始者、作曲家ジャン・シベリウスは1865年12月8日にロシア帝国支配下のフィンランド南部ハメーンリンナに生まれた。デンマークのニールセンと同い年。近い世代にマーラー、R・シュトラウス、ドビュッシー、サティ。本名ヨハン・ユリウス・クリスティアン・シベリウス。軍医の父は2歳のときに患者から感染して病死。15歳で始めたヴァイオリンに夢中になり音楽家を志すが、家族は音楽家という不安定な職業に猛反対。大学の法学部に通いながらこっそり音楽の勉強を続け、やがて家族の理解を得た。1885年、20歳からヘルシンキ音楽院でヴァイオリンと作曲を学び始め、当初はヴァイオリニストを目指しウィーン・フィルのオーデイションなども受けたが、あがり症のためステージで失敗し作曲家の道を歩む。
1889年(24歳)、音楽院の優れた成績により政府奨学金を受けベルリンに留学。ドイツ・ロマン派の手法を習得する。
1890年(25歳)、ベルリン留学中にワーグナーのオペラ『タンホイザー』や楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を鑑賞し感銘を受けたが、ワーグナーのスコアを研究しているうちに大げさでわざとらしく感じ、オペラよりもリストが開拓した「交響詩」の方が自分に合っていると感じるようになる。この年、新たに政府奨学金を受け、ウィーン音楽院でも学ぶ。
1892年(27歳)、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』に基づく1時間以上の大曲、合唱つきの交響詩『クレルヴォ』を作曲し、フィンランドの民族主義的ロマン主義の道を開き注目を浴びる。クレルヴォは復讐のために生まれたが、不運にも兄妹相姦の罪を犯し、ついに自刃する悲劇の英雄。悪の象徴である北の国ポホヨラの女主人ロウヒなどをめぐって物語が展開する。『クレルヴォ』の成功で作曲の依頼が入り、交響詩『エン・サガ(ある伝説)』を作曲。シベリウスいわく「『エン・サガ』は、私の青春のすべてが含まれていると言っても構いません。作曲中、私は自分を混乱させたあらゆることを無事に切り抜けなければならなかった。『エン・サガ』ほど私をヘトヘトとにさせた作品は他にありません」。
シベリウスは同年にアイノ・ヤルネフェルトと結婚して六女をもうけ、母校ヘルシンキ音楽院で5年間音楽理論を教える。
※カレワラ(Kalevala)…フィンランドの民族叙事詩。おもにフィンランド南東部カレリア地方で何代にもわたって口承で歌い継がれてきた物語詩、古代歌謡。「カレワラ」は「英雄(カレワ)の地」の意。3人の伝説的英雄、半神半人の老ワイナミョイネン、魔法の臼をつくる鍛冶屋イルマリネン、色好みの若者レンミンカイネンの冒険を描く。中心となる物語は、ワイナミョイネンが北の国ポホヨラの支配者ロウヒの娘に求婚するもの。他に、天地創造にかかわる寓話や、持ち主に無限の塩と食物と金をもたらす魔法の石臼サンポをめぐる英雄たちの冒険、フィンランド人のキリスト教改宗なども描かれている。
フィンランドは1809年にロシア帝国に編入され、これを機に民族意識が高まり、民間伝承が固有の文化として認識されるようになった。1822年、フィンランド人作家ザカリアス・トペリウスが民間説話の一部を採録&編集した「カレワラ」を発表。これはスウェーデン語を使ったものだった。13年後の1835年に民俗学者・医師のエリアス・リョンロート(1802-1884)がフィンランド語で約1万2000行を採録、2巻32章からなる長編叙事詩として出版。さらに1849年には2万3000行近くに増補した全50章からなる改訂版を出し、これが決定版となった。「カレワラ」は芸術家や作家に深い感銘を与え、フィンランド新ロマン主義誕生の母体となり、さらには民族団結の象徴として、ロシア帝国からの独立運動を支えた。
※交響詩『エン・サガ』 https://www.youtube.com/watch?v=1YIEAL7tI2I (18分)
1893年(28歳)、ヘルシンキ大の学生から野外歴史劇の付随音楽を依頼され、そこから3曲「間奏曲」「バラード」「行進曲」を選んだ組曲『カレリア』を発表。この曲も北欧的な郷土色をたたえている。同年、長女誕生。
※組曲『カレリア』 https://www.youtube.com/watch?v=UNK9DmbkFqk (16分)全曲ハズレなし!
1895年(30歳)、民族叙事詩「カレワラ」のオペラ化を考えていたシベリウスは、情景描写のための楽曲をいくつか完成させたが、オペラには不向きと判断し、「レンミンカイネンと島の乙女たち」「トゥオネラの白鳥」「トゥオネラのレンミンカイネン」「レンミンカイネンの帰郷」の4曲を選んで交響詩『4つの伝説曲(レンミンカイネン組曲)』を発表する。
※レンミンカイネンの伝説…冒険好きの英雄レンミンカイネンは美女の島で恋を楽しみ結婚するが、妻が約束を破って祭りで踊ったことから、新しい妻を探しに北国ポホヨラへ向かう。彼はポホヨラの老婆から娘をやる条件に「トゥオネラ川の白鳥を一矢で射る」よう言われる。トゥオネラとは黄泉の国であり、トゥオネラ川は冥界との境を流れる川。レンミンカイネンは白鳥を狙うが水蛇に噛まれて死んでしまう。彼の体はトゥオネラで切り刻まれるが、息子の異変を察知した母親がトゥオネラ川から体を掻き集め、魔法で蘇生させた。レンミンカイネンは帰郷する。
※幻想的な『トゥオネラの白鳥』 https://www.youtube.com/watch?v=wkF501ctVDE(10分)
1897年(32歳)、政府から終身年金が与えられたことから、ヘルシンキ音楽院の教壇を降り、ヘルシンキ近郊ヤルベンパー(エルベンペー)の私邸にひきこもって作曲活動に専念した。
1898年(33歳)、ベルリンでベルリオーズの『幻想交響曲』を聴いて大きな感銘を受け、『交響曲第1番』の作曲に取り掛かる。
※ウィキによると、この頃のシベリウスの私生活は乱れており、酒に酔ったあげく乱闘騒ぎを起こし、浪費癖も問題だったというが、僕の手持ち資料にそれらの記述はなく初耳。シベリウスは“ザ・真面目”の代表のようなイメージなんだけど…(汗)。
1899年(34歳)、情熱的な祖国愛を表現し、後に“第2の国歌”といわれ代表作となる交響詩『フィンランディア』を作曲、国民を熱狂させる。シベリウスは国民音楽家として圧倒的な名声を手に入れた。この曲は元々フィンランド民族の覚醒を描いた歴史劇『愛国記念劇』の最終幕「フィンランドは目覚める」の劇伴音楽であり、翌年に交響詩として改訂され、1901年に管弦楽版のタイトルを『フィンランディア』に改名した。西洋音楽では馴染みの薄い“5拍”のティンパニー付きメロディは民族叙事詩「カレワラ」のものであり、民族色を濃く反映させている。1809年以来、帝政ロシアの圧制下にあったフィンランドでは独立の気運が高まっており、ロシア政府は『フィンランディア』が愛国心をかきたてることを恐れて演奏禁止にした。曲の冒頭はロシアの弾圧を思わせる重苦しい序奏で始まり、やがて闘争が描かれ、その後「フィンランディア賛歌」と名づけられた美しい旋律を中心に展開していく。輝かしい勝利の光に包まれ曲は幕を閉じる。
※『フィンランディア』バルビローリ指揮ハレ管弦楽団 https://www.youtube.com/watch?v=Y2Q6v0FvtlQ (8分35秒)
また、この年は『交響曲第1番』が完成しており、『クレルヴォ』『4つの伝説曲』など交響詩の力作を書いてきたシベリウスにとって、満を持しての交響曲であり初演は大成功を収めた。
1900年(35歳)、パリの万国博覧会にフィンランドのオーケストラと参加して自作を指揮し、存在が国際的に認知される。同年、三女が2歳で早逝。
1901年(36歳)、上半期にシベリウスの支援者であるアクセル・カルペラン男爵(1858-1919)の援助を受けイタリアを旅行。創作欲を刺激され、滞在中、骨太の力強さ、北国の渋い響き、くっきりとした輪郭、炸裂する郷土色、栄光ある凱旋、シベリウス芸術の特色すべてを含んだ大傑作『交響曲第2番』(略称シベ・ツー)の大半を作曲し、帰国後に仕上げた。翌年初演。
※『交響曲第2番』ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィルの名盤 https://www.youtube.com/watch?v=256BIBzhdhA (40分)
1903年(38歳)、古今のヴァイオリン協奏曲の中でも屈指のスケール感をもつ『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。男性的な荒削りの太い線と、エネルギーを溜め込んだ暗い情熱に満ちた、いぶし銀のヴァイオリン協奏曲。初演後、ブラームス(1833-1897)が書いたヴァイオリン協奏曲を聴いたシベリウスは、交響曲のように豊かに響くブラームスの音色に衝撃を受け、後日大きく改訂している。
※『ヴァイオリン協奏曲』ハイフェッツ独奏、ヘンドル指揮シカゴ響の名盤 https://www.youtube.com/watch?v=am0rFQOnyKw (26分40秒)
同年、劇作家の義兄が書いた劇『クオレマ(死)』の付随音楽を作曲。病床の女性が幻聴のワルツに身を起こし、幻の踊り子と一緒に踊っていると、死神が迎えに来るというもの。
※「悲しきワルツ」 https://www.youtube.com/watch?v=qGzcM2fE2xs (6分22秒)
1904年(39歳)、シベリウスは世界的な名声を得たものの、不摂生な生活で身体を壊し、創作活動にも支障が出たことから心機一転をはかる。ヘルシンキ郊外の自然豊かなヤルヴェンパーに自邸「アイノラ」(“妻アイノの地”)を建て、妻と3人の娘と移り住み、以降の活動拠点とした。
1905年(40歳)、メーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』(スウェーデン語版)のヘルシンキ上演に合わせた付随音楽を作曲。上演ではシベリウス自身が指揮した。上演後、シベリウスは次の8曲「城門にて」「メリザンド」「海辺にて&庭園の噴水」「3人の盲目の姉妹」「パストラーレ」「糸を紡ぐメリザンド」「間奏曲」「メリザンドの死」を選び組曲にした。
※管弦楽組曲『ペレアスとメリザンド』 https://www.youtube.com/watch?v=I06-fQMxxeo (31分)
※フィンランドは13世紀からスウェーデンに支配され、16世紀にスウェーデン公国フィンランドとなり、1600年頃は全行政機関がストックホルムに移されていた。ロシアとスウェーデンの戦争では、フィンランド人がスウェーデン兵として戦い、17世紀末に戦乱と凶作でフィンランド人の4人に1人が死亡する悲劇に見舞われる。1809年からロシア帝国の領土となり圧政に苦しんだ。約600年もスウェーデンに支配されたことから、シベリウスは母語としてスウェーデン語を話す家庭に育っており、また歌曲の多くをスウェーデン語の詩に作曲している。フィンランド人の作家トーベ・ヤンソンが『ムーミン』をスウェーデン語で書いているのも同じ理由による。
1906年(41歳)、民族叙事詩「カレワラ」を題材に交響的幻想曲『ポホヨラの娘(ポヒョラの娘)』を作曲。吟遊詩人の英雄ヴァイナモイネンが、虹の橋に腰掛けて糸を紡ぐ美しい「北国ポホヨラの娘」に心を奪われるが、娘が出す試練をクリアーできず、怪我までしてしまい、娘を諦めて旅を続ける。娘の嘲り笑うようなヴァイオリンの連続した高音は、後に映画『サイコ』の襲撃時の音楽のインスピレーションとなった。
1907年(42歳)、軽快な『交響曲第3番』を作曲。本作は第2番ほど受け入れられなかった。後日、シベリウスがマーラーにこの件を話すと、マーラーは「新たな交響曲を発表するとファンは去って行くものです」とリアルな体験を語った。
1908年(43歳)、喉の腫瘍を摘出する手術を受ける。大好きだった酒と葉巻を禁止されてしまう。同年四女が生まれる。
1909年(44歳)、『弦楽四重奏曲“内なる声”』を作曲。躍動感あり緊張感もあり。
※『弦楽四重奏曲“内なる声”』 https://www.youtube.com/watch?v=3ywncteIf7M
1911年(46歳)、闘病生活で感じた死の不安と、病を克服した安堵が反映され、シベリウス自身が「心理的交響曲」と呼んだ『交響曲第4番』が完成。低く垂れ込める雲のような暗い旋律と重い和声で始まり、時折、かすかな光を感じながら終曲へ向かう。息詰まるような緊張感が延々と続き、初演を聴いた聴衆は戸惑ったが、シベリウスは自信作として動じなかったという。同年五女が生まれる。
※『交響曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=q-OVggmfM44 (34分39秒)
同年、組曲『恋人』を作曲。「恋人」「恋人の道」「今晩は、わが愛しい人…告別」の3曲で構成。
※組曲『恋人』 https://www.youtube.com/watch?v=LjrsAI234RI (13分)映画を一本観た気分になる動画
1913年(48歳)、交響詩『吟遊詩人』を作曲。ハープが効果的に使用され、夢見心地の甘美な叙情性をもった作品。
※交響詩『吟遊詩人』 https://www.youtube.com/watch?v=CwRFit-2Bsc (8分14秒)
1914年(49歳)、米国に招かれ、初演用に交響詩『大洋の女神(海神)』を作曲。シベリウスが「カレワラ」から離れてギリシャ神話の海の女神を題材にとっているのが珍しい。音の風景画家の本領発揮。同年7月第一次世界大戦が勃発。
※交響詩『海神』 https://www.youtube.com/watch?v=HSDoYJC4DCk (11分)
1915年(50歳)、自身の生誕50年記念行事の祝賀演奏会で初演される交響曲として『交響曲第5番』を作曲。癌による死の恐怖から解放された喜びを伸び伸びと歌いあげ、終楽章は明るい輝きに満ち、交響曲第2番に次ぐ人気曲となった。
※『交響曲第5番』終楽章(バーンスタイン/ウィーン・フィルのLIVE) https://www.youtube.com/watch?v=dACRUFfmMeo#t=27m42s はうう!素晴らしい!
1917年(52歳)、ロシア革命が起きて帝政ロシアが滅ぶと、フィンランド議会はこの機を利用して共和国として独立を宣言、悲願の国家独立を成し遂げた。
1918年(53歳)、11月、第一次世界大戦が終結。翌年、恩人のアクセル・カルペラン男爵が他界。
1922年(57歳)、弦楽四重奏曲『アンダンテ・フェスティーヴォ』を作曲。シベリウスのお気に入りの曲で、1930年に弦楽合奏版に編曲され、自身が指揮した演奏会のアンコールで好んで取り上げた。
※弦楽合奏版『アンダンテ・フェスティーヴォ』 https://www.youtube.com/watch?v=2tUmZAOVhMs (4分37秒)
1923年(58歳)、爽やかな風のような『交響曲第6番』を作曲。終楽章は清らかな響きを残して消えて行く。
※『交響曲第6番』 https://www.youtube.com/watch?v=uV2Sh56TK_g (28分52秒)
1924年(59歳)、最後のシンフォニーとなる『交響曲第7番』を作曲。4つの楽章がひとつに繋がった単一楽章という変則的な形式を採用。音楽という有機的な生命がシベリウスの手で単一楽章に融合し、様々な楽想が統合されてひとつの結晶となった。
※『交響曲第7番』ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィル https://www.youtube.com/watch?v=YH-AVbumQ2s (21分24秒)
※『交響曲第7番』ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル https://www.youtube.com/watch?v=x8H15wX7lI8 (20分19秒)爆裂トロンボーン
1925年(60歳)、最後の交響詩となる『タピオラ』を作曲。森の神タピオの土地=森。シベリウスは曲の内容を次の詩に綴った。「北国の彼方に暗い森が広がる/太古の、神秘に満ちた夢を秘めて/そこに大神が住み/闇の中に森の精が生きている」。従来の「カレワラ」を題材にしたものと異なり、フィンランドの森を念頭に置いた気分画的な印象スケッチ。北国の森の荘厳さと神性が空間を支配する、シベリウスの交響詩の頂点。
同年、フィンランド政府はシベリウスに支給する終身年金を10万マルッカに増額した。28年前、最初にこの年金を受け取った際は2千マルッカだった。実に50倍であり、シベリウスに対する政府の期待がよくわかる。しかも年金とは別に、60歳記念として国民が寄付金27万マルッカを贈っている。…だが、この周囲の想いがシベリウスにはプレッシャーだったのか、なんとこれ以降、32年後に他界するまで重要な作品を生み出せなくなった。
1929年(64歳)、この年を最後に新作が発表されなくなり、事実上の引退生活をおくる。シベリウスの家族や秘書が証言するところには、『交響曲第8番』は“何度も”完成したが、シベリウスは内容に満足できず、その度ごとに燃やされるなど廃棄の憂き目に遭ったという。人々は約30年に及ぶシベリウスの沈黙を“アイノラの静寂”と呼んだ。
1939年(74歳)、第二次世界大戦が勃発。スターリンの命を受けソ連軍がフィンランドを侵略開始。祖国防衛の「冬戦争」を経て和平を締結。
1941年(76歳)、独ソ戦が勃発しフィンランドが独軍に国土通過を許したことから、ソ連軍が報復で都市爆撃を行う。詩人コスケンニエミによって『フィンランディア』の旋律に歌詞がつけられ、シベリウスはこれを合唱用に編曲し『フィンランディア賛歌』とした。讃美歌としてもこの旋律に詞をつけ「やすかれわがこころよ」として歌われる。
1945年(80歳)、第二次世界大戦が終結。
1957年9月20日、ヤルヴェンパーで脳出血を起こし91歳で他界。約30年もの長い沈黙のまま北欧の巨匠は旅立った。晩年の言葉「こんなにも自然が美しいのに、この世に別れを告げるのはつらい」。ヘルシンキの大聖堂で国葬が執り行われた後、棺は墓地ではなく自邸アイノラに運ばれ、裏庭に葬られた。
1969年、シベリウス他界の12年後、妻アイノが97年の長寿をまっとうした。
1972年、没後15年を機にシベリウスの娘達がアイノラを国家に譲渡。その後アイノラ財団が設立され1974年にアイノラが一般公開された。
 
祖国の神話や歴史、自然に着想をえた作品を次々に発表し、生前から既に国宝的作曲家となったシベリウス。「フィンランディア」は第2の国歌となった。ロマン派と国民主義が同居した楽曲は、線が太くて力強く、男性的な悲愴味を含んでいる。ドイツロマン派の影響を受けると共に、北国に固有の重く暗い和声や民俗音楽のリズムをもちいた。
音楽史においても、19世紀ロマン派音楽の伝統をうけついだ最後の作曲家であり、20世紀屈指の管弦楽曲の大家として、グリーグと共に北欧の音楽的水準を向上させた。国民楽派ではあるが、フィンランドの民謡を丸ごと引用するのではなく、民俗音楽に特有の旋律型やリズム・パターンを取り込み反映させた。
晩年のシベリウスは28年間も沈黙を続けていたが、実際は交響曲第7番を完成させた後に、第8番の作曲に取り掛かり、納得いく作品を書けずに苦悩、書いては破棄を繰り返していた。遺言によって残された楽譜は娘の手で燃やされた。人一倍、自分に対して厳しい作曲家だったことがわかる(ファンとしては燃やしてほしくなかったけど…)。
僕がクラシックを聴き始めたころ、クラシックはどの曲も似たものに聴こえたし、作曲家が暮らしていた国なんて見当もつかなかった。だけどシベリウスは特別だった。音楽が始まると、彼が愛してやまない北欧の自然、森や湖へ連れて行かれてしまう…部屋の空気が一変する。それが不思議だった。
死後に人気が出たビゼーやサティ、ムソルグスキーと比べ、シベリウスは経済面では幸福な生涯であった。だが、後年に30年も新作を書けなくなったのはクリエイターとして本当に苦しかったと思う。会う人、会う人に、「マエストロ、今はどんな曲を書かれているですか」と質問されるわけで…。
 
〔墓巡礼〕
初巡礼は2005年。フィンランドの首都ヘルシンキ中央駅から北に向かう列車に乗って約30分、Ainola駅で下車。そこから西へ1kmの距離にシベリウスの家と彼の墓がある。駅員に道を尋ねようと思っていたので駅に降りて絶句した。「無人駅…だと!?しかも周辺地図ナシ!?」。目の前は野原!とりあえず、西に向かって歩き出す。「1kmなら15分くらいだ。大丈夫、じきに着くさ…」。こう思ってまともに着いたことはない。案の定、ホームの南口から出れば車道沿いに簡単に行けたのに、北口から出てしまい農道の中へ。どこにもシベリウス邸を示す道案内の標識がなく、完全に迷ってしまった。今ならスマホのグーグルマップで簡単に位置確認が可能だけど、当時はそもそも旅に携帯を持参してない。道を聞くにも通行人は1人もおらず、お手上げ状態に。やがて視界に一軒の民家が見えてきた。“アジア人がいきなり呼び鈴を押して出てきてくれるだろうか”。不安はあったが勇気を出して呼び鈴を押し、「ハロー!ハロー!」とアピールした。間もなくお婆さんが扉を開けてくれた。怪訝な顔をしている(そりゃそうだ)。僕は数語しかフィンランド語が話せないので「パイヴァー(こんにちは)」「アイノラ」「シベリウス」と言いながら手のひらを額にかざして“探してる”とキョロキョロするジェスチャーをした。すると「オーゥ、アイノラ」とお婆さんはニッコリ。指先で方向を教えてくれた。アイノラまで既に300mの距離まで近づいており、そこからは早かった。農道からアイノラに続く道は死角になっていたので、お婆さんが教えてくれないと分からなかった。お婆さん、キートス(ありがとう)!
アイノラは最初にカフェテリアやトイレが設置されたビジターセンターがあり、そこでチケットを購入。林道を少し歩くとアイノラが見えてくる。2階建ての1階部分が公開されており、居間、食堂、書斎、仕事部屋兼寝室が見学できた。「ここでシンフォニーが書かれたのか」と感慨深く見入った。家具や食器の一部は木工学校に通ったことのあるアイノ夫人が設計したという。グランドピアノは生誕50年記念に音楽仲間から贈られたもので、食堂の月桂樹の輪は85歳の誕生日に国民から贈られたものだ。40歳頃のシベリウス像もある。シベリウス夫妻の墓は裏庭の奥の木立の中にあった。平たい緑色の墓石。頭上で木の葉が揺れ、その隙間から陽射しが差していた。鳥の声と風の音しかしない。自然を愛したシベリウスにとって理想的な墓所だろう。



★ストラビンスキー/Igor Fyodorovitch Stravinsky 1882.6.17-1971.4.6 (イタリア、ヴェネチア 88歳)2002
Cimitero di San Michele, Venice, Veneto, Italy





水の都ヴェニスには墓地だけの島がある! 船に乗ってここまでやって来た!

20世紀音楽の進路に決定的な方向づけをおこなったロシア出身の作曲家。
1882年6月17日、ペテルブルク郊外の現ロモノソフに生まれる。父はマリインスキー劇場づきの有名バス歌手。父の意思に従ってペテルブルク大学法学部に進むと、級友に作曲家リムスキー=コルサコフ(1844-1908)の息子がいた。
1902年(20歳)、級友を通してリムスキー=コルサコフ(当時58歳)の知遇を得、作曲法と管弦楽法の個人授業が受けられることになった。
1906年(24歳)、幼なじみの従姉カーチャと結婚、二男二女を授かる。
1907年(25歳)、リムスキー=コルサコフの指導を受けながら『交響曲第1番』(作品1)を完成させる。
1908年(26歳)、蜂の生活を描いた管弦楽作品『幻想的スケルツォ』を作曲。同曲はメーテルリンクの『蜜蜂の生活』を読み着想を得た。この年、恩師リムスキー=コルサコフが64歳で他界。翌月、リムスキー=コルサコフの娘の結婚を祝って幻想曲『花火』を作曲。5分間の短い曲ながら、後のストラビンスキー芸術の特徴が炸裂している。
1909年(27歳)、『幻想的スケルツォ』が初演され、会場にいた芸術プロデューサー・興行師で10歳年上のセルゲイ・ディアギレフ(当時37歳/1872-1929)に才能を見出された。この年、ディアギレフはバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を結成、パリで行う旗揚げ公演『レ・シルフィード』のため、ショパンのピアノ曲の編曲をストラビンスキーに依頼した。バレエ・リュスは喝采を浴び、ディアギレフは翌年のパリ公演に向けストラビンスキーに楽曲を追加発注し、これをきっかけにストラビンスキーの三大バレエ音楽『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』が生まれる。

1910年(28歳)、バレエ・リュスのため舞踏組曲『火の鳥』を作曲。6月25日にパリ・オペラ座で初演された。ロシアのおとぎ話「火の鳥」は、悪魔カッチェイにさらわれて魔法の園に幽閉された美しい王女を、王子イワンが救出する物語。王子は火の鳥からもらった魔法の羽の力で悪魔を倒す。随所にロシア民謡が使用され、リムスキー=コルサコフから伝授された色彩効果の高い管弦楽が聴衆を魅了し、初演は大成功を収めた。『火の鳥』はストラビンスキーの出世作となった。
1911年(29歳)、スイスで作曲したバレエ曲『ペトルーシュカ』をバレエ・リュッスが初演し、『火の鳥』に続いて大成功を収めストラビンスキーは再び名をあげた。主人公は魔術師に命を吹き込まれたピエロの人形ペトルーシュカ(ペーター、ピョートルの愛称)。彼はバレリーナに恋するが、彼女はたくましいムーア人と仲が良い。ペトルーシュカは激しく嫉妬するが、最後はムーア人に返り討ちにされ殺される。振付師フォーキンの傑作であり、ニジンスキーの当り役の一つとなった。
※『ペトルーシュカ』(バレエ映画) https://www.youtube.com/watch?v=XvXlFKvpoOg (34分)

1913年5月29日(31歳)、聴衆の間で怒声が飛び交った20世紀最大の問題作にして、20世紀近代音楽の傑作『春の祭典』初演。2幕のバレエ。完成したシャンゼリゼ劇場の?落としの目玉としてバレエ・リュスの『春の祭典』が披露された。振付は天才舞踏家ニジンスキーが行い、120回もの稽古を経て本番に挑んだ。主役の生贄の乙女はニジンスキーの妹ニジンスカが妊娠したため急遽代役となった。

『春の祭典』は春による冬の征服、大地と太陽の神への賛美と崇拝を、古代ロシアの春の原野を舞台に描く。第一部では、春の訪れに人々が沸き立ち、大地の恵みに感謝して踊る。だが、大地への祝福が太陽神イアリロの怒りに触れることを恐れ、太陽神に花嫁として捧げるため、生け贄として1人の乙女を差し出すことに。第二部では、選ばれた娘が息絶えるまで生け贄の踊りを舞い続け、亡骸が高くかかげられ幕を閉じる。ストラビンスキーが考えたストーリーだ。
振付は天才舞踏家ニジンスキー。冒頭、短い序奏の後に幕が開くと、ダンサーはバレエの常識を破って“内股”になっており、首を傾げ、腰を曲げたまま、舞台上を跳ね回る。観客は従来のバレエとは全く違う動きに面食らった後、保守派は嘲笑し、怒り始めた。ストラビンスキーによる不協和音を大胆に採用した耳慣れない音楽、荒々しく肉感的な変拍子のリズムが轟くなか、「なんだこの騒音は!」「ロシアに帰れ!」とブーイングがどんどん大きくなり、やがてオーケストラの音が聞こえないほどの大騒ぎになった。ダンサーたちが頬杖をつくようなポーズをとると、「お前ら歯が痛いのか!」「歯医者を2人頼む!」と野次がとんだ。
一方、若い聴衆を中心に「これこそ新しいバレエだ!」と革新的な舞台に喝采を送る者もいて、支持派とアンチ派が互いに罵り合い、殴り合いの喧嘩に発展し警察が止めに入った。
ステージまで音楽が聞こえないため、ニジンスキーが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図し、劇場オーナーが「とにかく最後まで聴いて下さい」と客席に叫んだ。序曲の冒頭でファゴットが不得手な音域を演奏させられており、作曲家サン・サーンス(当時78歳/1835-1921)は「楽器の使い方がなっていない!そんな者の曲は聞きたくない」と最初のフレーズだけで席を立ったという。ストラヴィンスキーいわく「不愉快極まる示威は次第に高くなり、やがて恐るべき喧騒に発展した」「我々は興奮していた。(客席の反応に)腹が立ちむかついていたが、幸せだった」。新聞は生け贄という野蛮な世界観もあって「春の虐殺」と書き立てた。

『春の祭典』以前のバレエが描いていたのはロマンチックなおとぎ話や神話の世界。『春の祭典』は生々しい人間の生命の躍動を描き、この曲の登場により音楽の歴史は大きく転換していく。『春の祭典』の賛美者は、音の輪郭線が甘い印象派音楽の響きと全く異なる、エキゾチックで野性味のある原始のリズムに興奮し、熱狂的に『春の祭典』を支持した。ストラビンスキーは現代音楽の旗手と目されるようになった。
一方、初演4ヶ月後にニジンスキーが巡業先の南米で電撃結婚を行ったことで、同性愛関係だったディアギレフが嫉妬から激怒しニジンスキーを解雇した。その結果『春の祭典』はわずか8回上演されただけでバレエ・リュスのレパートリーから外された。
この年、紀貫之、山部赤人らの和歌を題材にしたロシア語歌曲集『3つの日本の抒情詩』を作曲。ストラビンスキーは別荘の壁を浮世絵で飾っていた。
1914年(32歳)、第一次世界大戦が勃発。この頃ストラビンスキーは、夏はロシア、冬はスイスで過ごしていたが、戦争のためロシアに帰れなくなり、スイスに居を定めた。
同年、アンデルセンの童話『小夜鳴き鳥と中国の皇帝』にもとづく全3幕のオペラ『夜鳴きうぐいす』初演。
1916年(34歳)、ストラヴィンスキーはバレエ・リュスの踊り手リディア・ロポコワと不倫関係を持つ。リディアは9年後に経済学者ケインズと結婚した。
1917年(35歳)、ロシア革命が起き、ストラビンスキーはロシア国内に所有していた資産を没収され、ストラヴィンスキーは経済的苦境に陥った。音楽面ではジャズに傾倒していく。
同年、ロシアの民話にもとづくバレエ付きカンタータ『結婚』を作曲。物語自体は結婚式の男女をスケッチした他愛のないものだが、初演の振付をブロニスラヴァ・ニジンスカ(ニジンスキーの妹)が行い、後に「20世紀のバレエ作品の最高傑作の一つ」と評価されている。『結婚』は原始主義のを最後の作品となった(バレエ・リュスのために書いた最後の曲でもある)。この年、ストラビンスキーは自動ピアノ用に『ピアノラ(自動ピアノ)のための練習曲』も作曲している。

1918年(36歳)、ロシア民話をもとにした、語り手と7つの楽器による舞台作品『兵士の物語』をスイスで初演。悪魔に丸め込まれる兵士の悲劇を描く。音楽にはジャズの要素が取り入れられ、第1次世界大戦中で物資が欠乏しているため、使用楽器がクラリネット、バスーン、コルネット、トロンボーン、パーカッション、バイオリン、コントラバスの7種類のみという特殊編成となった。登場人物は、語り手、兵士、悪魔、王女。俳優3人、ダンサー1人で上演できる。同年、ドビュッシー他界。
1919年(37歳)、ディアギレフの提案でオペラ『夜鳴きうぐいす』を交響詩に編曲、バレエ化した。色彩的な管弦楽法による音楽の絵巻物とした。マティスがデザインした舞台衣装(シラサギの羽毛帽子)は予算オーバーとなり、マティスとストラビンスキーが自腹を切ってダンサーのために用意した。
同年、ジャズに感化され打楽器としての可能性を追求した『ピアノ・ラグ・ミュージック』を作曲。これは大戦中にストラヴィンスキーの窮状を知ったピアニストのアルトゥール・ルビンシュタインが、5000フランを送ってくれたことの返礼として作曲した。

1920年(38歳)、イタリアの古典的な仮面劇を題材にしたバレエ『プルチネルラ』の音楽を作曲…といっても、ペルゴレージなど18世紀イタリアの楽曲の旋律をほぼそのまま使っており編曲に近い。ピカソは『パラード』、『三角帽子』に引き続き舞台美術と衣裳を担当。ドジな男たちの恋の駆け引きというコミカルな内容から、本作はパリの聴衆に愛されバレエ・リュス解散まで繰り返し再演された。
同年、バレエ・リュスが『春の祭典』を再演。ディアギレフは財政難に苦しんでいたが、ストラビンスキーと一時不倫関係にあったココ・シャネル(当時37歳/1883-1971)が、30万フランも援助してくれたお陰で再演が実現した。新たにレオニード・マシーンが振付を担当。服飾デザイナーとして成功したココ・シャネルはストラヴィンスキーより1歳年下であったが、彼の才能に惚れ込み、パリで家を探すのに困っていたストラビンスキーの一家を自分の別荘を提供した。

1921年(39歳)、オーストリアの作曲家シェーンベルクが『五つのピアノ曲』で十二音技法を体系化。同年、バレエ・リュスの舞台美術に関わっていたロシアの画家セルゲイ・スデイキン(1882-1946)の妻でバレリーナのヴェラと不倫関係になる。スデイキンは8年前に美人女優の妻を捨ててヴェラと駆け落ちし再婚したが、ヴェラはストラビンスキーと出会うと愛人になり、今度はスデイキンが捨てられた(ヴェラは翌年離婚)。
1922年(40歳)、ストラビンスキーにとって新古典主義音楽の幕開けとなる喜劇オペラ『マヴラ』(原作プーシキン)を作曲。恋人の家で密会したい軽騎兵が、女装して料理人(偽名マヴラ)となって雇われるが、相手の母親に正体がバレて逃げ出すというもの。ストラビンスキーいわく本作から国民楽派を離れて西欧派の立場に立つようになったという。
1923年(41歳)、後期ロマン派に対抗できるのは客観主義だと考え、17〜18世紀の楽曲形式に強い関心をむけた。
1924年(42歳)、『ピアノと管楽器のための協奏曲』を作曲。ストラビンスキーはその長い人生の中で通常のピアノ協奏曲を書いておらず、この吹奏楽版だけが存在する。バッハ風の旋律が登場。
1926年(43歳)、ロシア正教会に回帰。
1927年(45歳)、イギリスの音楽誌上で『新古典主義』を宣言、「バッハにかえれ」と呼びかけた。同時に「演奏者は作曲者の意図に忠実に従うべき。自分の解釈を付け加えてはならない」とも主張。この年、ディアギレフの舞台活動20周年を祝うサプライズとしてストラヴィンスキーとコクトーはオペラ・オラトリオ『エディプス王』を完成させる。ソフォクレスのギリシャ悲劇『オイディプス王』をもとにコクトーがフランス語で台本を書き、神学者がラテン語に翻訳している。作曲家にとって新古典主義を代表する作品となった。
1928年(46歳)、バレエ音楽『ミューズを率いるアポロ』を作曲。弦楽合奏のみで演奏され、ストラビンスキー作品と思えぬほど不協和音が少なく聴きやすい。新古典主義時代の代表的作品の一つ。振付を担当したロシア出身の振付家ジョージ・バランシンは本作で名声を確立した。
同年、かつてバレエ・リュスの旗揚げ公演にも参加しパントマイムで観客を魅了したイダ・ルビンシュタイン(43歳/1885-1960)が一座を旗揚げし、バレエ『妖精の接吻』の音楽をストラビンスキーに依頼。チャイコフスキーの没後35年であり、アンデルセンの『氷姫』を題材に、チャイコフスキーにインスピレーションを得た楽曲を書く。ちなみにこの一座に委嘱されラヴェルは『ボレロ』を作曲している。
※『ミューズを率いるアポロ』 https://www.youtube.com/watch?v=wR7EE0iATS4 (32分)

1929年(47歳)、8月19日、恩人ディアギレフが旅行中に糖尿病が悪化、ヴェネツィアで客死しストラビンスキーはショックを受ける。享年57歳。葬儀費用の全額をシャネルが負担した。ディアギレフの死でバレエ・リュスは解散した。
1930年(48歳)、ラテン語聖書に基づいた合唱と管弦楽のための『詩編交響曲』を発表。新古典主義は本作でピークに達する。ストラヴィンスキー「これは詩篇の歌唱を組み込んだ交響曲ではない。反対に、私が交響化した詩篇の歌唱なのだ」。
※『詩編交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=DqWZGUO_eoc (21分)
1931年(49歳)、唯一の『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。
1936年(54歳)、ディアギレフの他界以来、7年ぶりにバレエ音楽『カルタ遊び』を作曲。ダンサーはトランプに扮する。ベートーヴェン、ロッシーニ、ヨハン・シュトラウスなどの音楽がパロディに。
1938年(56歳)、パリで長女を結核で失う。音楽面では8年近く低迷しており、フランスではマンネリと評された。ドイツではナチス政府がストラヴィンスキーの前衛作品を「退廃音楽」と誹謗した。
1939年(57歳)、前年に続いて結核で妻と母を失う。9月、第2次世界大戦が勃発、米ハーバード大学からの依頼で渡米し講義を行い、戦火をさけてそのまま米国ハリウッドにとどまる。米国では指揮者として自作初演を多く手がけた。
1940年(58歳)、ストラビンスキーはアメリカに約20年愛人だったヴェラを呼び寄せ再婚する。同年、シカゴ交響楽団の創立50周年を祝う『交響曲ハ調』が完成。ハイドンの古典交響曲の顔を持ちながら、中身はストラビンスキーの現代交響曲になっている。この年、ウォルト・ディズニー制作のアニメ映画『ファンタジア』に『春の祭典』が使われ、音楽に合わせて地球の誕生から恐竜の絶滅までが描かれた。
1945年(63歳)、ストラビンスキーは新興国アメリカの聴衆を前に創造力を取り戻し、第二次世界大戦のドキュメンタリー映像から着想を得た『3楽章の交響曲』を完成。曲調にはジャズも反映されている。本作は高く評価され、ストラビンスキーは長い沈滞から脱した。
※『3楽章の交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=FB-NzpYwC3Y
同年、クラリネットとジャズバンドのための協奏曲『エボニー協奏曲』を作曲。題名の「エボニー」はクラリネットの原料の黒檀(こくたん、エボニー)に由来。ストラヴィンスキー「ブルース風の緩徐楽章を持つ、"ジャズ・コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)"である」。
1947年(65歳)、バレエ音楽『オルフェウス』を作曲。亡き妻エウリュディケーを冥界から連れ戻そうとするオルフェウス。彼は地上に出るまで決して妻の顔を見てはいけない、この約束を妻に説明しないとの約束を神々と交わしていた。エウリュディケーはオルフェウスが目隠しをして顔を見てくれないので愛が失われたと悲観、地上に帰ることを拒否する。たまらず目隠しを外した瞬間、彼女は死に彼も魔物に八つ裂きにされる。作曲の翌年バランシンの振付でバレエ協会が初演、成功を収めたことから「ニューヨーク・シティ・バレエ団」が誕生した。
1948年(66歳)、『ミサ曲』完成。ストラヴィンスキーが委嘱を受けずに自発的に書いた数少ない作品のひとつ。作曲の動機は「モーツァルトのミサ曲のロココ・オペラ的な罪の甘さに苛立った。本物のミサを書かねばならないと気付いた」。ストラビンスキーは正教徒だったが、正教会は礼拝時の楽器使用を禁じているためカトリック教会のミサをテキストに使った。
※『ミサ曲』 https://www.youtube.com/watch?v=iRi_MDy_ks0

1951年(69歳)、最後にして最長のオペラ『道楽者のなりゆき』(全3幕)初演。『夜鳴きうぐいす』『マヴラ』に次ぐ30年ぶり3作目のオペラ。新古典主義の集大成。遺産で大金を得た怠け者の青年トムが、悪魔につけ込まれてロンドンで身を持ち崩し、純朴な元恋人はトムを救済しようとするが、彼は発狂し精神病院で死ぬ…。けっして明るい物語ではないが、途中でコミカルな演出もあり、初演は大好評で世界的人気を博した。
同年、シェーンベルクが他界。ストラビンスキーはそれまで十二音技法に否定的だったが少しずつ自作に採用し始め次の段階に進化し、没するまで約20曲を生み出していく。
1953年(71歳)、最後のバレエ音楽となる『アゴン』を作曲。『ミューズを率いるアポロ』『オルフェウス』と共にストラビンスキーと振付バランシンが組んだギリシア3部作の一つ。音楽の一部に十二音技法が用いられた。ストーリーはなく題名(アゴン)は古代ギリシア語の「集まり・競争・闘争」の意。初演は4年後のニューヨーク・シティー・バレエ団。
1954年(72歳)、英ウェールズの詩人ディラン・トーマス(1914-1953)と共同でオペラを作ろうとしたところ、ディランが前年に18杯のストレート・ウィスキーを飲み39歳で急死。ストラビンスキーは歌曲『ディラン・トーマスの思い出に』を作曲して追悼した。
1955年(73歳)、ラテン語の歌詞による宗教曲『カンティクム・サクルム』を作曲。初めて十二音からなる音列を採用した(オクターブ中の12の音を重複させずに並べて音列を作成し、それを基に作曲)。詩篇や申命記のほかヴェネツィアの守護聖人マルコによる福音書を歌詞に使っている。旋律らしい旋律がなく初演の聴衆はついていけなかった。晩年の音楽は声楽曲が多い。
1958年(76歳)、旧約聖書を題材とし、ストラヴィンスキーが十二音技法で全曲を書いた最初の曲、カンタータ『トレニ:預言者エレミアの哀歌』を作曲。パリでの初演時に聴衆から馬鹿され、怒ったストラヴィンスキーは「二度とパリでは指揮しない」と宣言した。以降、、宗教音楽にどんどん傾斜していく。
1959年(77歳)、春にストラビンスキーは初来日、東京と大阪で演奏会を行う。滞在中、独創的な武満徹(当時29歳/1930-1996)の作品を知り世界にその才能を紹介する。また、日本の雅楽の楽器の響きに魅了された。 帰国後、ストラビンスキーは最も難解な作品のひとつ『ピアノと管弦楽のためのムーブメンツ』全5楽章を作曲。ストラビンスキー「この曲のリズム言語は自分の書いた曲のうちでもっとも進んだもの」。
※ピアノと管弦楽のための『ムーブメンツ』 https://www.youtube.com/watch?v=y0lQUQzmD-8 (8分22秒)

1961年(79歳)、新約聖書を題材としたカンタータ『説教、説話、祈り』を作曲。旧約聖書を題材にした3年前の『トレニ』にリンクした作品。
1962年(80歳)、ノアの箱舟を題材にした劇音楽『洪水』を作曲。CBSテレビの委嘱で書かれグラミー賞のクラシック現代作品部門を受賞した。舞踏パートの振付はバランシン。同年、フルシチョフの招きで48年ぶりに故国ロシアに帰郷、モスクワとレニングラードを訪れる。
1964年(82歳)、声楽以外では最後の作品となる『管弦楽のための変奏曲』(変奏曲―オルダス・ハクスリー追悼)を作曲。作家オルダス・ハクスリーは1932年にディストピア小説『すばらしい新世界』を発表し、機械文明の発達の中で尊厳を見失う人間たちを描いた。同作はジョージ・オーウェル『1984年』と並ぶアンチ・ユートピア小説の傑作として知られている。先の大戦中、ストラビンスキーが米国で生活を始めた際の隣家の住人がハクスリーで家族ぐるみのつきあいをしていた。この年、前年に暗殺されたケネディ大統領を悼み、歌曲『J.F.ケネディへの哀歌』も作曲している。奇しくもケネディ暗殺とハクスリーの死は同じ11月22日だった。
※『管弦楽のための変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=Sz5TEbH9Hok (5分)非常に難解!

1966年(84歳)、最後の作品、宗教曲の大作『レクイエム・カンティクルズ(頌歌集)』を作曲。曲は最後に弔いの鐘の音を響かせながら終わっていく。
※『レクイエム・カンティクルズ』 https://www.youtube.com/watch?v=O01ExbFaHQ4 (15分)
1967年(85歳)、80代半ばの高齢と病身をおして指揮棒をとり、最後の自作録音をおこなった。胃潰瘍と血栓症で長期間入院。以降ベートーヴェンなどレコードを聞いて過ごす。
1971年4月6日、肺浮腫によりニューヨークの自宅で他界。享年88歳。遺言によりディアギレフが眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島墓地に埋葬された。42年前に他界したディアギレフが。埋葬の日、ストラビンスキーの『レクイエム・カンティクルズ』が演奏された。後年、妻ヴェラも隣に埋葬された。ストラビンスキーの子どもたちは後妻ヴェラと仲が悪く8年間も遺産相続で争った。奇しくも同じ1971年1月10日(ストラビンスキー他界の3カ月前)にシャネルも永眠している。
1977年、米国NASAは惑星探査機ボイジャー2機に人類から異星人への贈り物として、ストラビンスキー自身の指揮、コロンビア交響楽団による『春の祭典“生贄の踊り”』を収録したゴールデンレコードが搭載。

※原始主義、ジャズ、新古典主義、複調性、無調主義、セリー主義など、頻繁に音楽様式を変えたストラビンスキーだが、作曲活動は大きく3期に分けられる。「セリー主義」とは和声とメロディの調性的関連を無視し、一連のセリー(音列)によって無調メロディを生みだす作曲法。
(1)第1期…原始主義時代。ディアギレフ率いるバレエ・リュスの委嘱によるバレエ曲の作曲。三大バレエ『火の鳥』(1910)、『ペトルーシュカ』(1911)、『春の祭典』(1913)。
(2)第2期…新古典主義時代。オペラ・オラトリオ『オイディプス王』(1927)、『詩篇交響曲』(1930)、『3楽章の交響曲』 (1942〜45) など。
(3)第3期…十二音技法時代。『カンティクム・サクルム』(1955)、『アゴン』(1953〜57)、『トレニ』(1957〜58) など。
※1918年の『11楽器のためのラグタイム』は楽譜の表紙絵をピカソが描いている。
※メーテルリンクは訴訟魔で、20代のストラビンスキーに『幻想的スケルツォ』に原案料を要求、ドビュッシーに対しても『ペレアスとメリザンド』で告訴している。
※ネット上には「ストラビンスキーの墓がペテルブルクのチフヴィン墓地にもある」との情報がありますが、あれはお父さんのフョードル・ストラヴィンスキー(1843-1902)の墓です。マリインスキー劇場の著名なバス歌手として活躍。
※イタリアの都会の墓地は土葬のため慢性的に敷地不足になっている。埋葬から2年後に掘り出され、再埋葬の手続きを経て永代供養されるという。
※シャネルのあだ名は“19世紀を抹殺する皆殺しの天使”。新しい価値観で女性の自立を体現した。

【墓巡礼】
ストラビンスキーが眠るヴェネチアはイタリア北東部に位置し、地域の人口は約26万人。120の島からなり、運河の数は177本、400にも及ぶ橋が架かっている。自動車はおろかバイクも自転車さえも乗り入れが禁じられており、建築物や運河の美しさから「アドリア海の女王」と讃えられてきた。2月末に始まる仮面カーニバルのほか、世界三大映画祭のひとつベネツィア国際映画祭(リド島)や、現代美術の祭典ベネツィア・ビエンナーレなど文化的な催しでも知られている。特産品は華麗なガラス工芸とベネツィアン・レース。
本島の面積はわずか5平方キロメートルしかなく、東京で一番狭い台東区の半分ほどしかない。そこに人々が密集して生活しており、過去に何度もコレラやペストが流行してきた。中でも14世紀のヴェネチアは、イタリアの都市で最悪の10万人のペスト死者を出している(パリは5万人)。街が水路で分断され墓地をつくるスペースがないこともあり、1837年、市当局は衛生上の理由から本島の北東500mに浮かぶサン・ミケーレ島を墓地に特化させ、本島に点在する教会墓地の墓を一カ所に集めた。ヴァポレットの停留所はサン・ミケーレ・イニーゾラ教会の前にある。墓地の敷地は、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、正教会など宗派別に分れている。

初めてストラビンスキーの墓参をしたのは2003年の夏。ローマからイタリア国鉄で向かい、イタリア本土とヴェネチアを結ぶ4kmの海上鉄道橋=リベルタ橋を渡ると、窓から車内から涼しい海風が吹き渡った。終着駅である「水の都」ヴェネチアの玄関口、サンタルチア駅で下車して驚いた。駅前広場がいきなり全長約3kmの大運河(カナル・グランデ)に面していて、バスもタクシーもパトカーも救急車もすべてが船になっていた。ゴンドラの映像は知っていたけど、水路の他に車が走る道もあると思っていた。ヴェネチア本島の中央に逆S字型の大運河が走り、大きなリアルト橋(1591年完成)の下を次々と小舟が行き交っていた。ちなみに車で訪れた場合は、ヴェネツィア本島西端のトロンケット地区で巨大駐車場に車を停め、そこからヴァポレット(水上バス)で中心部に移動する。
目的地のサン・ミケーレ島は、ヴァポレットの停留所名が「CIMITERO(墓地)」。島に墓地しかないから名前も実に分かりやすい。路線図を見ると41番と42番のヴァポレットが乗り換えなしで行けそうだった。イタリア語の辞書を見ながら乗り場を探すと、今にも41番の船が出発しそうだった。大慌てで一日券を購入して飛び乗ると、船はすぐに桟橋を離れた。ホッとして額の汗をぬぐい、水上からヴェネチアの街を眺める。「このまま6駅で墓地だ」。テレビで見たゴンドラがあちこちに浮かんでおり、水の都に来たと実感がわいた。だがひとつめの停留所で異変に気づいた。「路線図と名前が違う!?」。そして僕は自分が反対方向のヴァポレットに乗っていることに気づいた。42番が正解だった!ガーン。41番でも乗り続ければ行けるけど逆方向だから17駅、1時間以上もかかってしまう(汗)。二つ目の停留所で降りて42番が来るのを待った。ヴァポレットは場所によっては同じ路線番号でも向きによって桟橋が異なることも分かった。
僕が何度も手元の路線表と看板をチェックしていると、眼鏡をかけた工学部オーラの地元青年が「どこに行きたいの?」と声をかけてくれた。ストラビンスキーの墓参りに来たことを話すと「音楽が好きならモンテベルディの墓がある教会や、ワーグナーが亡くなった建物を見ながら歩いて行った方がいいかも」とアドバイスしてくれた。「そうします!」。地図に印をつけてもらい、徒歩でヴァネチア中心部を突っ切り、モンテベルディやワーグナーの聖地を巡った。そして島の北東部に出ると、海の向こうにサン・ミケーレ島が見えた。「あれが全部墓地なのか」。島の広さは500m×400m、そこに8万5千人が眠っているという。もちろん、島が丸ごと墓地なんて初めてだ。ヴァポレットの停留所を見つけ、あと一駅なので因縁の41番に乗る。10分ほどでサン・ミケーレ島の桟橋に着いた。

島の墓地は敷地が広く、ストラビンスキーの墓の方向を示す案内板はあるものの、地図なしで墓前にたどり着くのは困難。なんせ8万5千人が眠っている。管理人さんからストラビンスキーの墓のほか、彼が慕っていた興行師ディアギレフや“ドップラー効果”で有名な科学者ドップラーの墓も教えてもらった。ストラビンスキーとディアギレフは墓地の中央やや東寄りのエリアにいた。表面に小さな十字架の絵と名前が刻まれただけのシンプルな墓石。右隣にはヴェラ夫人の墓が並ぶ。そして30mほど左にディアギレフの墓があった。そちらは墓石にドームがついている変わった形で、バレエのトゥシューズが6足ほど供えられていた。ディアギレフがバレエ・リュスを旗揚げするまで、欧州ではバレエを芸術と捉えず、単なる娯楽として軽視する風潮があった。ディアギレフが若きストラビンスキーの才能を見出し、数々の優れた楽曲を提供したことで、バレエは新しい地平を切り拓き、芸術として進化した。従来の約束事から解放された20世紀のバレエが花開いた。
2018年3月、ストラビンスキーの墓に近い場所が競売にかけられ、フランスの製薬会社の社長が約35万ユーロ(約4600万円!)で落札。社長いわく「私も妻も、この世界にまれな島が大好きで、この地で将来2人が永遠の眠りにつけることを、この上ない幸せと思う」。落札額が高騰し約5000万に達したことに、ディアギレフもストラビンスキーもあの世で驚いているだろう。



★ヨハン・シュトラウスT世/Johann Strauss 1804.3.14-1849.9.25 (オーストリア、ウィーン 45歳)1989&94&02
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group 32 A, Number 15



とってもモダン
珍しい三角形の墓

45歳の若さで他界した


左には「ワルツ合戦」を繰り広げたライバルにして
同志ヨーゼフ・ランナーが眠る。後方に見える大きな
墓はワルツ王ヨハン・シュトラウス2世

ウィンナ・ワルツを洗練されたものにして全ヨーロッパに広めた「ワルツの父」、ヨハン・シュトラウス1世は1804年3月14日にオーストリア・ウィーンに生まれた。父は居酒屋の店主であり、幼いヨハンは店で演奏する流しの楽士たちのワルツを聴きたくて、テーブルの下に潜り込んでいた。
1809年(5歳)、オーストリアはナポレオン率いるフランス軍に敗北、ウィーン侵攻を許し領土割譲と巨額の賠償金を課せられる屈辱を味わう。1812年(8歳)、ナポレオンはロシアで大敗し、翌年オーストリアは同盟国と反撃を開始、1814年フランスは降伏する。講和条件を決めるウィーン会議が年をまたいで開催され、各国の貴族が集ったこの会議を通して、従来は下品な大衆文化と思われていたワルツがヨーロッパ中の上流階級に広まった。
フランスには勝ったものの、戦争でオーストリアの経済は疲弊し、不景気からシュトラウス家の居酒屋は倒産。母は過労で病死、父は借金苦でドナウ川に身を投げる。孤児となったヨハンは親戚に引き取られ製本屋で働いていたが、何らかの理由で仕事を放棄、近所の音楽家からヴァイオリンの基礎を習い、ほぼ独学で演奏技術を高め、かつて父の居酒屋で見た“流しの楽士”となった。
この頃、ウィーンにはウィンナ・ワルツを創始した作曲家のひとりミヒャエル・パーマー(1782-1827)率いる4人編成の楽団が人気を得ていた。パーマー登場以前のワルツは同じパターンが繰り返される単調なダンス音楽だったが、ダンスホールで指揮をしていたパーマーは、音楽史上初めてワルツに序奏とコーダを採り入れ、これによってワルツが騒々しく踊るだけのものでなく、序奏で一呼吸を置く優美なものに進化した。
※ミヒャエル・パーマー『リンツの踊り』 https://www.youtube.com/watch?v=MP8fbQzfSAA (8分14秒)
1819年、ヨハンは15歳のときにパーマー(当時37歳)の楽団に入団する。そこでは3歳年上のヨーゼフ・ランナー(当時18歳/1801-1843)が6年前からヴァイオリンを弾いていた。活動的なヨハンとシャイなランナーは真逆の性格だったが、すぐに意気投合し、貧乏な若者2人で下宿生活をした。1着しかないタキシードを2人で使い回すなど協力して演奏活動を続けたという。
雇い主のパーマーはとにかく人使いが荒く、大酒飲みで大食漢、楽団員の給料を自分の娯楽で散財するような男だった。同年、パーマーの独裁ぶりに閉口したランナーは退団してギターとヴァイオリンの三重奏団を結成。ヨハンは移籍を呼びかけられ、パーマーのもとを去ってランナーに合流し、四重奏団を結成した。2人はパーマーの曲を使えなくなったため、自分たちで作曲するために音楽理論を学ぶ。
※ヨーゼフ・ランナー…1801年4月12日、ウィーン郊外に生まれる。父は手袋職人。独学でヴァイオリンを習得し、ミヒャエル・パーマーに才能を見出され12歳で彼の楽団に入団、ヴァイオリン奏者となる。オペラの編曲が得意で、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』などの旋律を使ってワルツ『モーツァルト党』を作曲している。
ランナー『モーツァルト党』 https://www.youtube.com/watch?v=SbfRgazdP34 (9分26秒)
ランナー率いる四重奏団は引っ張りだこになり、人気はパーマー楽団を超えた。ウィーンっ子はランナーを愛し、彼の音楽を「足を躍らせ、しかも目には少し涙をにじませる」と称え、ランナーより4歳年長のシューベルト(1797-1828)はランナー楽団の演奏を楽しみに出演店へ通った。辛口の音楽批評家エドゥアルト・ハンスリックですら「スミレの香りのするメロディー」と魅了、ランナーのワルツは次々と出版され、ワルツのロマン時代が幕を開けた。
1824年(20歳)、彼らの四重奏団は弦楽オーケストラに発展し、ヨハンは副指揮者に就任、プラーター公園のカフェでお披露目デビューを行う。同年、ランナー自身もウィーンで最も格式高い舞踏会場レドゥーテンザールの音楽指揮者に任命される栄誉を得た。だが、ランナーは上流階級の作法にうとく、早々に宮廷舞踏会の指揮者から降ろされる。ちなみにこの年の5月、ウィーンのケルントナートーア劇場でベートーヴェンが『第九交響曲』を初演している。
1825年(21歳)、ランナーは殺到する出演依頼をこなすため、楽団を2つに分けて、片方の運営をヨハンに任せた。すると、ヨハンの楽団がランナーの楽団より人気を集め、ランナーのプライドは傷つく。この年、ヨハンは3歳年上の居酒屋の娘アンナと結婚。アンナはギターを弾き、歌も得意だった。3カ月後に長男ヨハン・シュトラウス2世も生まれ、ヨハンは家庭を持ったことを理由に昇給をランナーに求めたが断られる。ヨハンの曲をランナーが盗作したという噂も流れ、ヨハンは独立を決意、ランナーのもとを去って自分の楽団を組織した。なんだかんだ言ってもパーマー楽団からの6年間の同志であり、ランナーはヨハンの門出を祝って、美しい『訣別のワルツ』を贈った。以降、ヨハンはヨーロッパ各地で公演しウィーン風ワルツを広めていく。
※ランナー『訣別のワルツ』 https://www.youtube.com/watch?v=mtmT4deqcqc (6分)

1826年(22歳)、ヨハンがウィンナ・ワルツ『小鳩のワルツ』作品1を作曲。曲名はヨハンが演奏していた酒場『二羽の鳩』による。ただし、ヨハンはランナー楽団時代から作曲しており、厳密な意味での作品1ではない。
※ヨハン『小鳩のワルツ』 https://www.youtube.com/watch?v=rJN-UpS3-z4 (5分)

同年、ウィーンで絶対的な人気を誇っていたヨハンとランナーは、落ち目になった師パーマーのために慈善コンサートを一緒に催す。
1827年(23歳)、次男ヨーゼフ誕生。アンナは子どもたちにピアノを習わせた。3月ウィーンで大ベートーヴェンが56歳で他界。同年9月パーマーが45歳で他界。
1828年(24歳)、シューベルトが31歳の若さで夭折。
1829年(25歳)、ヨハンはウィーンの有名な娯楽場「カフェ・シュペール」の音楽監督に就任。この年、ショパンが成功を夢見てワルシャワ(ポーランド)からウィーンに出てきたが、人々の興味はヨハンとランナーの「ワルツ合戦」にあり、リサイタルは話題にならなかった。ショパンは初の自作ワルツ『華麗なる大円舞曲』をウィーンで出版することを希望していたが、「ウィーンでは太陽は登りたがらない。ランナーとシュトラウス、それに彼らのワルツが、すべてを陰らせてしまうのだ」と断念に追い込まれる。
1830年(26歳)、「ワルツ合戦」がますます過熱。ヨハンとランナーは作曲と演奏会に没入する。ランナーは『バーデン舞曲』を作曲し、後のワルツ全盛時代の形式上の要素(回想形式など)をすべてこの1曲で表現した。同年、まだ5歳のヨハン2世が小さな卓上ピアノで36小節のワルツ『最初の楽想』を作曲し、アンナが譜面に起こした。
※ランナー『バーデン舞曲』 https://www.youtube.com/watch?v=vMjsxS0wj5Q (7分半)

1831年(27歳)、ヨハンはランナーと仲直りする。
1833年(29歳)、結婚8年目、ヨハンは家庭で暴力を振るうようになっていた。さらに帽子屋に勤めていた19歳のエミーリエ・トランプッシュと知り合い不倫関係になる。ヨハンは妻子をほったらかして愛人のもとに入り浸り、挙げ句に別宅を構えて同棲を開始、ヨハンの仕事場・リハーサル場は妻子の建物にあり、愛人のもとから自宅に通う生活が続いた。ヨハンの演奏旅行にエミーリエを同伴させ、事実上の夫人扱いになった。一方、妻子にはまともに生活費を送らず、激怒したアンナ夫人は息子ヨハン2世を夫より高名な音楽家に育てあげて、夫を叩きのめすことを胸に誓う。
ヨハン2世はもとより音楽が大好きで、音楽家になることを夢見ていたが、父ヨハンは収入が不安定な音楽家より、堅実な職業に進ませようとした。子どもが楽器に触れることさえ禁じたが、ピアノの練習だけは基本教養として許した。ヨハン2世は父がヴァイオリンの名手であったことから、自分もヴァイオリニストに憧れ、こっそりヴァイオリンを買うために8歳で同じアパートの少女と近所の少年をピアノの弟子としレッスン代を得た。そのお金でヴァイオリンを購入すると、鏡を見ながら父を真似てヴァイオリンの練習を毎日続けた。ある日、父ヨハンにその練習が見つかってしまい、逆上した父はヨハン2世からヴァイオリンをもぎ取り叩き壊した。母アンナは復讐のためすぐに新しいヴァイオリンを買い与えた。
それ以降も、ヨハンは息子が音楽の道に進むことを猛反対し続け、ヨハン2世を強引に総合技術専門学校(現ウィーン工科大学)に進ませた。だが、夢を諦めきれないヨハン2世は、大学を中退してこっそりシュトラウス楽団の第一奏者からヴァイオリンを学ぶ。気の毒にもこの第一奏者は事態に気づいたヨハンから解雇された。
1835年(31歳)、ヨハンは王室舞踏会の指揮者に任じられた。四男エドゥアルト・シュトラウス誕生。そのわずか2カ月後に愛人エミーリエはヨハンの私生児を産み、計8人も子をもうけた。
1838年(34歳)、ヨハンはワルツが冷遇されていたイギリスに、自身の楽団を引き連れて半年の長期演奏旅行に出発。当時の英国人は、ワルツを「優美、繊細、礼節を欠いたドイツ生まれの悪魔」と見なしており、詩人バイロンもアンチ・ワルツ派だった。この年、ヴィクトリア女王(19歳)の戴冠式があり、それに先立つバッキンガム宮殿の舞踏会でヨハンはウィンナ・ワルツを御前演奏することになり、新作ワルツ『ヴィクトリア女王讃歌』を披露した。同曲は英国の愛国歌『ルール・ブリタニア』と国歌『神よ、女王陛下を護り給え』の旋律が入ったキャッチーなワルツであり、若き女王がこの曲で踊ったことで、イギリス社交界でもウィンナ・ワルツが解禁された。ベートーヴェンの弟子モシェレスいわく「まじめなロンドンの人々でさえも、ヨハン・シュトラウスの虜になっている」。
※ヨハン・シュトラウス父『ヴィクトリア女王讃歌』
https://www.youtube.com/watch?v=15AgvFQc84A (8分)
1840年(36歳)8月23日、ランナーが作曲家としてさらに覚醒し、作風が室内アンサンブルから大きな管弦楽を対象にしたものに発展、傑作ワルツ『ロマンティックな人びと』を初演する。本作は同年のシーズンの話題作となった。この年はもうひとつの人気曲『シュタイル風舞曲』を発表している。
※ランナー『ロマンティックな人びと』 https://www.youtube.com/watch?v=fGBbNPTz2T0 (7分)
※ランナー『シュタイル風舞曲』 https://www.youtube.com/watch?v=RtFwSqlRoho
(5分19秒)
1842年(38歳)、ランナー芸術の最高峰、事実上の白鳥の歌(自ら演奏、指揮に当たった最後の曲)であり、そのロマンティックな個性が最も開花したワルツ『シェーンブルンの人びと』をシェーンブルン宮殿の向かい側のドムマイヤー・カジノで初演。聴衆の喝采を受け、初演時に21回もアンコールを受けたという。この曲と『シュタイル風舞曲』を1911年にストラヴィンスキーがバレエ音楽『ペトルーシュカ』に採り入れている。同年、ヨハンは民衆から人気のあったオーストリア皇帝フェルディナント1世の皇后マリア・アンナを称える『アンネン・ポルカ』を作曲。
※ランナー『シェーンブルンの人びと』 https://www.youtube.com/watch?v=OSuBroAc9xg (7分19秒)
同年、17歳になったヨハン2世は音楽に専念することを決意。教会オルガン奏者に師事し和声を学ぶ。ほぼ独学で音楽を学んだ父ヨハンと異なり、積極的に他者から学ぼうとした。
1843年(39歳)4月14日、ランナーがチフスに感染し42歳で急逝する。2万人のウィーン市民が葬儀に参列してランナーを見送った。
ランナーは曲の冒頭に序奏を採り入れ、『宵の明星』など人々の関心をひく詩的な曲名を考え、シュトラウス・ファミリーより早くウィンナ・ワルツの様式を確立させたことから、「ワルツの始祖」と呼ばれている。ヨハン・シュトラウス1世という優れたライバルに対抗するためワルツを磨き上げ、ポルカ、ギャロップ、レントラーなど、作品番号つきの曲だけで200曲以上を作曲した。没後、ランナーの伝記作家は「ランナーは舞踏会場のモーツァルトだ。シュトラウス1世はワルツ作曲家だったが、ランナーはワルツの詩人だった」と称えている。
ランナーが旅立ち「ワルツ合戦」は幕を閉じたが、ヨハンにとって親子対決の時代が目の前に迫っていた。
1844年(40歳)、ヨハンの楽曲で生前に最もヒットしたワルツ『ローレライ=ラインの調べ』を初演。ライン川の魔の岩山、ローレライ伝説を題材としたもの。同年、2年前にランナーが最後に指揮台に立ったドムマイヤー・カジノで、シュトラウスの長男ヨハン・シュトラウス2世が18歳(※誕生日前)で音楽家デビューを果たす。ヨハン2世は父と同様にヴァイオリンを片手に華麗に指揮を行い、指揮者・ヴァイオリン奏者・作曲家としてデビューした。この日のために用意した新曲はワルツ『記念の詩』、『デビュー・カドリーユ』、ポルカ『心ゆくまで』、ワルツ『どうぞごひいきに』と、デビューに関連した曲名になっている。アンナは会場の片隅で息子が大成功を収める様子を見て、喜びのあまり息子を抱きしめ泣き崩れたという。
このコンサートに先立って、息子のデビュー計画を察知したヨハンは猛反対し、ウィーン中の有名飲食店に圧力をかけて演奏の場を提供しないよう要請、自身の楽団員には息子への協力を禁じ、新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとするなど、あらゆる手段を使って妨害した。一方、これに対抗してヨハン2世は有能な若手音楽家をスカウトして楽団を結成し、宣伝してくれる新聞社と契約した。法律では20歳以上しかプロの音楽家になれなかったが、ヨハン2世は役所で「父が浮気をして家族を養わないため生活が苦しく、私が母や弟の面倒を見なければならないのです」と涙を浮かべて訴え、当局から特例で音楽家と認められた。この美談はすぐに広まり、ウィーン市民はヨハン2世にデビュー前から好感を持った。
息子の音楽活動に困惑するヨハンが語ったとされる言葉「今では息子のヨハンまでもが見よう見まねでワルツを作曲する気だ。まだ取っ掛かりをうまくつかんでいないようだが…。この分野ではお山の大将である私でさえ、なにか新味のあるものを作ろうとすると、やけに難しいというのに…」。
デビュー演奏会の最後の曲は、父と敵対する気がないことを示すため、父の代表作『ローレライ=ラインの調べ』を演奏した。当時の新聞評「親孝行になったばかりか、父親が維持した腕の冴えを、彼が手本にしているところを見せた。(喝采を受け)このワルツも三回も繰り返すはめになった」。この「ローレライ・ワルツ」は、ヨハン1世のワルツの中で、最もニューイヤーコンサートの登場回数が多い。
ヨハン2世のデビューについて、メディアは「おやすみランナー、こんばんはシュトラウス1世、おはようシュトラウス2世!」と新星の楽壇登場を報じた。ヨハン2世はシュトラウスの一族ではあるが、音楽様式ではランナーの血統を受け継いだ。ランナー亡き後、ウィーンの舞踏会に君臨したヨハン1世を人々は「ワルツ王」と呼び始めていたが、その呼称はヨハン2世を称えるのものとなっていく。
同年、ヨハン2世の音楽家デビューが大成功に終わったことを見届けたアンナは、父ヨハンに離縁状を叩きつけた。
※シュトラウス父『ローレライ=ラインの調べ』 https://www.youtube.com/watch?v=BIhALpqk8uw (7分51秒)
1846年(42歳)、ヨハンは彼の要望で設置された名誉職「宮廷舞踏会音楽監督」に任命される。この年から翌年にかけ、ヨハンは父子で同じオペラに基づいた3曲のカドリーユ(ダンス音楽)を書きあげ、「カドリーユ対決」と呼ばれた。
1848年(44歳)、3年前から欧州は飢饉の渦中にあり、フランスでは労働者が放棄し国王ルイ・フィリップが退任する「二月革命」が起きる。余波は各国へ広がり、翌月、オーストリアでは「ウィーン三月革命」が勃発した。当初は出版の自由、言論の自由などを求めた運動が、憲法制定と弾圧者の象徴だった宰相メッテルニヒ退陣を求める暴動となり、メッテルニヒは辞任しロンドンに亡命した。ヨハンは宮廷舞踏会音楽監督であったがリベラルな体制を支持して革命側につき、『学生連隊行進曲』『自由行進曲』などを相次いで発表した。
※『学生連隊行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=b1dz8ZO8qhM (2分50秒)

※『自由行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=I4kLPkPu_UU (2分47秒)
ところが、革命運動はヨハンの想定を超えて過激化し、陸軍大臣が殺害され街灯に吊り下げられる事態となった。ヨハンは君主制の打倒まで望んでおらず、オーストリア帝国の英雄ヨーゼフ・ラデツキー将軍を讃える『ラデツキー行進曲』を作曲し、革命派からは裏切り者と罵倒される。ヨーゼフ・ラデツキー将軍は北イタリア(当時オーストリア帝国領)の独立運動を鎮圧した英雄であり、政府軍の士気は大いに高揚し、革命運動は平定された。12月、皇帝フェルディナント1世はフランツ・ヨーゼフ1世に譲位した。
※『ラデツキー行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=BlbQrm6zIYo (3分17秒)

1849年(45歳)、革命の混乱でウィーンの演奏会に客が入らなくなり、ヨハンは11年ぶりに英国への演奏旅行を行った。ロンドンで演奏を聴いたメッテルニヒはウィンナ・ワルツに涙し、ヨハンの手を取って感謝した。帰国したヨハンは愛人エミーリエのもとに帰宅。彼女の子どもの1人が発疹性伝染病の猩紅熱(しゃこうねつ)にかかっており、長旅で体力を消耗していたために感染。9月25日にウィーンにて他界する。享年45歳。ヨハンは生涯に152曲のワルツのほか、多数のポルカ、ギャロップ、カドリーユ、行進曲を作曲した。現在は死の前年に書かれた『ラデツキー行進曲』が有名だが、生前は『ローレライ=ラインの調べ』の作曲者と認知されていた。
死の2日後、ウィーンのシュテファン大聖堂で葬儀が行われ、葬列には10万人ものウィーン市民が参列した。ヨハンの棺は6年前に没したランナーが眠るデブリング墓地で友の側に埋葬された。
ヨハンの死後、シュトラウス楽団はヨハン2世が継け継ぎ、「ワルツ王」の名称もヨハン2世に移り、代わりに「ワルツの父」と呼ばれるようになった。三男は早逝したが、次男ヨーゼフや四男エドゥアルト・シュトラウス1世も音楽家になり、さらにエドゥアルトの長男ヨハン・シュトラウス3世と次男の末子エドゥアルト・シュトラウス2世も音楽の道に進んだ。
後年、ヨハンとランナーの墓はウィーン中央墓地に改葬され、ヨハンの左隣にランナーが眠っている。2人の良きライバルは肩を並べて永久の時間を過ごしている。
1857年、愛人エミーリエが43歳で他界。
※ヨハン・シュトラウス父『パガニーニ風ワルツ』 https://www.youtube.com/watch?v=9oSRYMHJ-Xg
※ウィーン市ホールの公園に、ヨハン・シュトラウス父とランナーが並ぶ友情の銅像がある。



★ヨハン・シュトラウスII世/Johann Strauss II 1825.10.25-1899.6.3 (オーストリア、ウィーン 73歳)1989&94&02&05&15
★ヨーゼフ・シュトラウス/Josef Strauss 1827.8.20-1870.7.22 (オーストリア、ウィーン 42歳)2015
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria

ウィーン市立公園の黄金のヨハン・シュトラウス2世像。第一次世界大戦で敗戦した後、
1935年から56年間、“金色は悪趣味”と黒く塗られていた。1991年に元の金色に戻された


1894年、ヨハン2世と親友ブラームス(右)
ヨハン69歳、ブラームス61歳(年下!)
左がシュトラウス、右がブラームス(2005)


1994 2002 2015




シュトラウス2世の墓で天使がダンス! 弟ヨーゼフ・シュトラウスと
母親のアンナが共に眠る
末弟エドゥアルトの墓


1825年10月25日、ヨハン2世がウィーンで誕生。父は“ワルツの父”ヨハン・シュトラウス1世、母は居酒屋の娘アンナで3歳年上の姉さん女房。ヨハン2世の妊娠を機に両親は籍を入れた。
1827年(2歳)8月20日、将来仕事の心強いパートナーとなる弟ヨーゼフ(1827-1870)が生まれる。陽気で何でもありの兄と違って、内気で控えめなロマンティストに育った。同年、ベートーヴェンがウィーンで他界。享年56歳。翌年にシューベルトが31歳で早逝。
1830年(5歳)、後にオーストリア皇帝としてシュトラウス家と関係してくるフランツ・ヨーゼフ1世が誕生。
1832年(7歳)、まだ6歳(誕生日前)のヨハン2世が小さな卓上ピアノで36小節のワルツ『最初の楽想』を作曲し、アンナが譜面に起こした。早くも才能の片鱗を見せていたヨハン2世だったが、父ヨハンは音楽で生きていくことの大変さを痛感しており、息子を音楽家にすることに大反対だった。
1833年(8歳)、父はヴァイオリンの名手であったことから、ヨハン2世もヴァイオリニストに憧れ、自分でヴァイオリンを買うために8歳で同じアパートの14歳の少女と近所の裁縫師の息子をピアノの弟子とし、レッスン代を得た。ヴァイオリンを手に入れると、鏡を見ながら父を真似てヴァイオリンの練習を毎日続けた。ある日、父ヨハンにヴァイオリン練習が見つかってしまい、逆上した父はヨハン2世からヴァイオリンをもぎ取り叩き壊す。
この頃、父は帽子屋の店員で19歳のエミーリエ・トランプッシュと知り合い不倫関係になっていた。父は妻子をほったらかして愛人のもとに入り浸るようになり、挙げ句に別宅を構えて同棲を開始した。父の仕事場・リハーサル場は自宅の建物にあるため、愛人のもとから自宅に通う生活が続いた。父は演奏旅行にエミーリエを同伴させ、事実上の夫人扱いにする一方、妻子にはまともに生活費を送らず、激怒したアンナ夫人はヨハン2世を夫より高名な音楽家に育てあげて、夫を叩きのめすことを胸に誓った。そういう事情もあり、アンナはすぐに新しいヴァイオリンをヨハン2世に買い与えた。
1835年(10歳)、末弟エドゥアルト・シュトラウス1世が生まれる。ヨハン2世の没後、この末弟がヨハン2世の自筆譜をほとんど焼却することに…。ちなみに、エドゥアルト誕生のわずか2カ月後に愛人も最初の子を出産しており、彼女は計8人も父ヨハンの子を産んだ。
1844年(19歳)、2年前に“ワルツの始祖”ヨーゼフ・ランナー(1801-1843)が最後に指揮台に立ったドムマイヤー・カジノで、18歳(※誕生日前)になったヨハン2世は勝負に出る。父と同様にヴァイオリンを片手に華麗に指揮を行い、指揮者・ヴァイオリン奏者・作曲家としてデビューした。この日のために用意した新曲はワルツ『記念の詩』、『デビュー・カドリーユ』、ポルカ『心ゆくまで』、ワルツ『どうぞごひいきに』と、デビューに関連した曲名になっている。アンナは会場の片隅で息子が大成功を収める様子を見て、喜びのあまり息子を抱きしめ泣き崩れたという。
このコンサートに先立って、ウィーン楽壇への息子のデビュー計画を察知した父ヨハンは猛反対し、ウィーン中の有名飲食店に圧力をかけて演奏の場を提供しないよう要請、自身の楽団員には息子への協力を禁じ、新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとするなど、あらゆる手段を使って妨害した。一方、これに対抗してヨハン2世は有能な若手音楽家をスカウトして楽団を結成し、宣伝してくれる新聞社と契約した。法律では20歳以上しかプロの音楽家になれなかったが、ヨハン2世は役所で「父が浮気をして家族を養わないため生活が苦しく、私が母や弟の面倒を見なければならないのです」と涙を浮かべて訴え、当局から特例で音楽家と認められた。この美談はすぐに広まり、ウィーン市民はヨハン2世にデビュー前から好感を持った。
息子の音楽活動に困惑する父ヨハンが語ったとされる言葉「今では息子のヨハンまでもが見よう見まねでワルツを作曲する気だ。まだ取っ掛かりをうまくつかんでいないようだが…。この分野ではお山の大将である私でさえ、なにか新味のあるものを作ろうとすると、やけに難しいというのに…」。
デビュー演奏会の最後の曲は、父と敵対する気がないことを示すため、父の代表作『ローレライ=ラインの調べ』を演奏した。当時の新聞評「親孝行になったばかりか、父親が維持した腕の冴えを、彼が手本にしているところを見せた。(喝采を受け)このワルツも三回も繰り返すはめになった」。この「ローレライ・ワルツ」は、ヨハン1世のワルツの中で、最もニューイヤーコンサートの登場回数が多い。
ヨハン2世のデビューについて、メディアは「おやすみランナー、こんばんはシュトラウス1世、おはようシュトラウス2世!」と新星の楽壇登場を報じた。ヨハン2世はシュトラウスの一族ではあるが、音楽様式ではランナーの血統を受け継いだ。ランナー亡き後、ウィーンの舞踏会に君臨したヨハン1世を人々は「ワルツ王」と呼び始めていたが、その呼称はヨハン2世を称えるのものとなっていく。また、ウィーンっ子は1世を「ファーター(父)」、2世を「ゾーン(息子)」と呼んで区別するようになった。
同年、ヨハン2世の音楽家デビューが大成功に終わったことを見届けたアンナは、父ヨハンに離縁状を叩きつけた。
※ヨハン2世『記念の詩』(作品1)聴衆を熱狂させて19回もアンコールされた
https://www.youtube.com/watch?v=ajnDEWuqZSU (9分43秒)
1846年(21歳)、オーストリア国内で演奏旅行。この年から翌年にかけ、父子で同じオペラに基づいた3曲のカドリーユ(ダンス音楽)を書きあげ、「カドリーユ対決」と呼ばれた。父と愛人が暮らす家の前で自身の楽団員数人を連れ演奏し、表向きは関係を修復する。
1848年(23歳)、3年前から欧州は飢饉の渦中にあり、フランスでは労働者が放棄し国王ルイ・フィリップが退任する「二月革命」が起きる。余波は各国へ広がり、翌月、オーストリアでは「ウィーン三月革命」が勃発した。当初は出版の自由、言論の自由などを求めた運動が、憲法制定と弾圧者の象徴だった宰相メッテルニヒ退陣を求める暴動となり、メッテルニヒはロンドンに逃亡した。母と13歳のエドゥアルトは修道院に避難した。
ヨハン2世は革命のなりゆきを見定め、市民側が優勢と見て革命派支持を宣言、『革命行進曲』、『学生行進曲』、『自由の歌』などを作曲し、23歳ということもあり学生たちを支援した。さらには当時オーストリアでは演奏を禁じられていたフランス革命歌『ラ・マルセイエーズ』を演奏、宮廷の怒りを買う。次弟ヨーゼフ(21歳)はも革命側に立ち、武器を手にして戦った。
ちなみに、父ヨハンも宮廷舞踏会音楽監督でありながらリベラルな体制を支持して革命側につき、『学生連隊行進曲』『自由行進曲』などを発表した。
その後、革命運動は過激化し、陸軍大臣が殺害され街灯に吊り下げられる事態となる。父ヨハンは君主制の打倒まで望んでおらず、オーストリア帝国の英雄ヨーゼフ・ラデツキー将軍を讃える『ラデツキー行進曲』を作曲し、革命派からは裏切り者と罵倒された。ラデツキー将軍は北イタリア(当時オーストリア帝国領)の独立運動を平定した英雄であり、政府軍の士気は大いに高揚し、革命運動は鎮圧された。
12月、皇帝フェルディナント1世がフランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)に譲位。18歳の若き新帝はウィーンに戒厳令を敷いた。状勢の変化を見てヨハン2世は『皇帝フランツ=ヨーゼフ行進曲』を作曲するが宮廷から黙殺される。そして『ラ・マルセイエーズ』演奏の件で警察へ出頭を命じられ、その場で心からの反省を示し、二度と演奏しないと警察官に誓った。
父は弟ヨーゼフに軍人になるよう命じたが、「私は人を殺すことを学びたくない。人間として人類に、市民として国家に役立ちたい」と拒絶した。
1847年(22歳)、聖アンナ祭のために書き、母アンナに捧げた曲でもある『アンネン・ポルカ』を作曲。最初に外国まで知られたヒット曲となり、諸外国で演奏会を開く際に「アンネン・ポルカの作曲家」として紹介された(後年『美しく青きドナウ』に入れ替わる)。同年、綿火薬(ニトロセルロース)の発明にちなんだポルカ『爆発ポルカ』を作曲。爆発を思わせる音楽効果を取り入れた人気曲。
※『アンネン・ポルカ』 https://www.youtube.com/watch?v=gDnmKpt_jMA (4分20秒)
※『爆発ポルカ』 https://www.youtube.com/watch?v=yn3NKDejnEo (3分)
1849年(24歳)9月25日、 父ヨハンがウィーンで他界。享年45歳。葬儀後、父の楽団と自身の楽団を統合したシュトラウス楽団を率いる。父の仕事も引き受けたため仕事は激務となり、複数の舞踏場やレストランにシュトラウス楽団を置き、楽団員は一時期200人を超え、ヨハン2世は一晩に舞踏場やレストランを5軒以上も巡り、馬車の中で作曲したこともあった。
一方、父ヨハンが務めていた宮廷舞踏会音楽監督の役職は、フランツ・ヨーゼフ1世の怒りがなかなか解けず、ライバル作曲家のフィリップ・ファールバッハ1世が引き継いだ。
この年、ヨーゼフ(22歳)がピアノ曲『演奏会大ギャロップ』を作曲。この頃すでにヨーゼフは趣味の範囲で歌曲やピアノ曲を作曲していた。
※ヨーゼフ『演奏会大ギャロップ』 https://www.youtube.com/watch?v=LjGfR41i1w0 (11分)
1850年(25歳)、ヨハン2世は連日連夜の演奏会と作曲活動による過労で危篤状態に陥る。医者は長期静養の必要性を説いた。
1851年(26歳)、フランツ・ヨーゼフ1世は「君主は神から国家の統治権を委ねられた」と考えており、検閲を復活させ、政治から国民を排除した。秋にメッテルニヒが亡命先からウィーンに戻り、再び絶対主義国家に戻る。11月、ドイツへ演奏旅行。
一方、弟ヨーゼフは音楽家になる気は全くなく、総合技術専門学校(現在ウィーン工科大学)の技術科で機械工学、製図、数学を学び、最終試験で「一級」の評価を得た後、技師としてのキャリアを順調に積み、この年はドナウ川支流のダムと水門の建設を現場監督として管理している。
1852年(27歳)、初期の傑作ワルツ『愛の歌』を作曲。デビューから8年間、ヨハン2世は先人の模倣が多く独自性を打ち出せていなかったが、この曲でメディアは「今や、息子ヨハン・シュトラウスが、父シュトラウスに完全にとって代わったことは明らかだ」「(否定派の)彼らを恥じ入れさせる様な寛容さで、若きシュトラウスのセレナーデを聴かせるのがよい」と好評で迎えた。同年、父の曲と同名の『アンネン・ポルカ』を作曲。この年の謝肉祭でようやく宮廷のダンスの指揮を許された。また、プラハ、ベルリン、ハンブルクへの演奏旅行を行ったが帰国後に過労で倒れる。この年、ヨーゼフは『数学、工学、幾何学、物理学における実例、公式、表、テスト集』を出版している。
※ヨハン2世『愛の歌』 https://www.youtube.com/watch?v=g5fhZ80XPhY (7分)
1853年(28歳)、2月に散歩中のフランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー愛国主義者に斬りつけられ(4年前のハンガリー弾圧の復讐)、後頭部の骨を損傷する暗殺未遂事件が起きる。それまでウィーン市民は皇帝に良い印象を持っていなかったが、事件の同情から親しみが生まれた。ヨハン2世は皇帝の命が救われたことを祝って『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』を献呈。曲の最後に皇帝への忠誠を示すためハイドン作曲の国歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の旋律を採り入れた。
7月23日、次弟ヨーゼフが療養中のヨハン2世の代理で「カフェ・シュペール」にて指揮者デビューを飾った。当初、ヨーゼフには工学技師の仕事があったし、華やかな場所が苦手であり「到底無理」と断ったが、母と兄から「シュトラウス家のため」と強く説得され、指揮台に上がった。ヨーゼフの夢は音楽家ではなかったため、恋人カロリーネ宛ての手紙で「こんなことになってしまうなんて、心の底から残念でなりません」と嘆く。
その翌月、ヨーゼフは作曲家としてもデビューすることになった。兄ヨハンは祭用の新曲ワルツの注文を受けながら、何も書かず長期静養に入ってしまった。約束の期日が迫り、仕方なくヨーゼフが筆をとり、ワルツ『最初で最後』(作品1)を書きあげた。曲名に自身の想いを込めたが、初演で6回もアンコールされ、メディアから「これがヨーゼフ・シュトラウスの最後の作品にならないように望む」「卓抜で、独創的、メロディアスなリズム」と激賞され、作曲を続行することになった。
※ヨーゼフ『最初で最後』op.1 https://www.youtube.com/watch?v=PNBfmmRGMPw
※ちなみに、この年にヨーゼフがウィーン市議会に提出した路面清掃車の計画書には、自動車に回転するブラシをつける路面清掃車の案があり、当初は「実際的でない」と却下されたものの後日採用されている。

1854年(29歳)4月、フランツ・ヨーゼフ1世(24歳)とバイエルンの公女“シシィ”エリーザベト(17歳/1837-1898)が結婚。ヨハン2世は婚礼を祝う『ミルテの花冠』(花嫁がかぶる花の冠のこと)を作曲、シェーンブルン宮殿の祝賀舞踏会でヨハン2世が指揮棒を振った。この結婚で皇帝の人気は高まった。
6月、ヨハン2世は再び体調を崩し静養に入ったため、再びヨーゼフが代理としてシュトラウス楽団の指揮や作曲を手掛けることに。ヨーゼフは腹をくくって正式に技師を辞め、音楽理論と作曲法とヴァイオリン演奏を徹底的に学び始める。7月にワルツ『最後の後の最初』(作品12)を発表し、世間に今後の覚悟を示した。
※ヨーゼフ『最後の後の最初』 https://www.youtube.com/watch?v=cyLXD3lhzAg (9分18秒)
1855年(30歳)、ヨーゼフはシューベルトらロマン派音楽に傾倒、兄への手紙で「私の人生は3/4拍子(ワルツ)だけには留まらないでしょう」と宣言する。古典音楽を土台にしつつ新境地「交響楽的ワルツ」を目指した。
同年、20歳の末弟エドゥアルトは外交官を目指していたが、兄ヨハン2世のしつこい説得に折れて、当時は奏者が不足していたハープを習得し、シュトラウス楽団のハープ奏者として音楽家デビューした。エドゥアルト「ヨーゼフが人生の進路を変えさせられたように、ヨハンは私にも影響を与えて、彼の歩みについてゆく羽目になった」。
1856年(31歳)、ロシアの鉄道会社と高報酬の契約を結び、夏のシーズンはペテルブルクの南30km、パヴロフスクの駅舎で演奏会を指揮するようになる。パヴロフスクはロシア皇族の夏の離宮パヴロフスク宮殿の周囲に発展した町。ヨハン2世は当地でロシア宮廷の寵児となり、客席には皇帝アレクサンドル2世一家の姿があった。報酬は破格であり、ウィーンにおける宮廷舞踏会での指揮が9グルテン、楽譜の印税がワルツ1曲250グルテンであったところ、「3万6000グルテン」にのぼった。しかもこの報酬は年々増えていき、最後の夏期演奏となった9年後に約2倍になっている。それまで楽譜出版社から前借りをして楽団員のギャラを払うこともあったヨハン2世だが、ロシアで仕事を得たことで金銭の憂いは消えた。ヨハン2世の手紙「生きるならロシアに限ります。ここには金があります。金のあるところにこそ人生が、まさに人生があるのです。ウィーンで、こんな額の金を手にすることは不可能です」。以降、1年の約半分をロシアで作曲・指揮に費やす生活が1865年まで続く。
この年、“かっこう”など森に棲む鳥を表現するため演奏に鳥笛を用いた『クラップフェンの森で』を作曲。オリジナルの曲名は『パヴロフスクの森で』。
※『クラップフェンの森で』 https://www.youtube.com/watch?v=5J5ePbzlxH0 (4分35秒)
1857年(31歳)、ヨーゼフは2年間の正規の音楽教育を最優秀の成績で修了した。また、6月に交際していた幼馴染のカロリーネ(26歳/1831-1900)と結婚する。結婚に際して彼女に捧げたウィンナ・ワルツ『愛の真珠』を、結婚式の3週間後に初演する。この作品をヨーゼフは舞踏会用のワルツと区別する意味で「コンサート・ワルツ」と定義づけた。純粋に鑑賞するためのシンフォニック・ワルツを兄よりも早くイメージしていた。以後、ヨーゼフの楽曲は大作ワルツに移っていく。
当時、ウィーン市民はヨハン2世をヨハン1世の後継者として、ヨーゼフをヨーゼフ・ランナーの後継者と捉えていた。
1858年(33歳)、ヨハン2世は街角の噂やおしゃべりを題材にしたポルカ・シュネル『トリッチ・トラッチ・ポルカ』を作曲。日本では小学校の運動会で有名。同年、曲中でシャンペンの音が鳴るユニークな『シャンペン・ポルカ』を夏にパブロフスクで書きあげた。
※ヨハン2世『トリッチ・トラッチ・ポルカ』 https://www.youtube.com/watch?v=DJLhNg6RcWw
この頃、ヨーゼフは抒情的なワルツ『貸し方借り方』を作曲。
※ヨーゼフ『貸し方借り方』 https://youtu.be/VDtKkKjnv0k (7分38秒)隠れた名曲!
1859年(34歳)、オーストリアはイタリア統一戦争に敗北し、北イタリアの帝国領ロンバルディアを奪還される。
1860年(35歳)、ウィーンでオッフェンバックの『地獄のオルフェ』が上演され、触発されたヨハン2世は「カン・カン」「ギャロップ」など人気曲を引用したスクエア・ダンス音楽『オルフェウス・カドリーユ』を作曲、初演は大成功を収めた。
※ヨハン2世『オルフェウス・カドリーユ』 https://www.youtube.com/watch?v=nGvwVQ0qydg (5分41秒)動画のイラストはオッフェンバック。
1861年(36歳)、永遠に繰り返し演奏できる管弦楽曲『常動曲』を作曲。スコアの最後に「あとはご自由に」とあり、指揮者が「あとはこの繰り返しです」と聴衆に語りかけて終わるユニークな曲。コンサートのアンコール曲として親しまれている。
※ヨハン2世『常動曲』 https://www.youtube.com/watch?v=4CW8cSe-nYQ (2分42秒)

この年末弟エドゥアルトが26歳で指揮者デビュー。愛称は「ハンサム・エディ」。オーケストラの統率力は2人の兄より数段優れていたという。ヨハン2世は演奏会の目玉の音楽で突然登場し、エドゥアルトを指揮台から降ろして自分が指揮することがあり、その無神経な行動に末弟はカンカンになった。同年、二月勅許(憲法)でオーストリアにも自由主義的改革が一部導入される。
1862年(37歳)8月27日、ヨハン2世は7歳年上(日本語ウィキは11歳)のオペラ歌手ヘンリエッテ・ハルベツキー(通称イエッティ/1818-1878)とウィーンのシュテファン大聖堂で結婚。彼女は銀行家の愛人で2人の子持ちだったが、ヨハン2世は一目惚れし結婚に漕ぎつけた。このとき新郎ヨハンは36歳(誕生日前)、新婦ヘンリエッテは43歳(日本語ウィキは47歳だけどドイツ語ウィキは1818年7月生まれ)。ヘンリエッテは資産家であったことから、ヨハン2世は指揮台に立つ時間を減らし、作曲に力を注げるようになった。
この結婚で最も振り回されたのはヨーゼフだった。8月にロシア・パヴロフスクで公演中のヨハン2世が体調を崩したと、ウィーンに知らせが届く。急遽、ヨーゼフが兄の代理を果たすためにロシアに向かうと兄は病気どころかピンピンしており、4日後に突然ウィーンへ帰ってしまった。これは恋人ヘンリエッテと結婚するためだった。8月6日、ヨーゼフは妻カロリーネに「兄は医師や教授らすべての人をかついだのです」と手紙を出す。ヨーゼフは兄の代わりにロシアで仕事をせねばならず、ウィーンに残してきた愛妻に会えぬ切なさをポルカ・マズルカ『燃える恋』に込め、楽譜に「schmerzvoll(痛みを伴う)」と書き込んだ。帰郷後11月に初演。
※『燃える恋』 https://www.youtube.com/watch?v=XS0V7ZzJd3s (5分半)
ヨーゼフの想定外のロシア滞在は日本と思わぬ接点をもたらした。江戸幕府が欧州に派遣した最初の使節団、福澤諭吉らの文久遣欧使節がロシアを訪れたのだ。ヨーゼフは日本からやってきた使節団を歓迎するため東アジアの旋律を盛り込んだ『日本行進曲』を作曲する。第2主題にはなんと『君が代』の旋律が登場。日本で『君が代』が作曲されたのは18年後の1880年。既に1862年以前から元のメロディーが存在していた。長崎でこの旋律に触れたロシア人からヨーゼフが聴き知ったと思われる。長く楽譜が行方不明だったが2012年にオーストリア国立図書館が公開した。
※ヨーゼフ『日本行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=TCvG3C_o1Dw#t=2m53s (君が代の旋律が登場!)
1863年(38歳)、革命騒動から14年が経ち、ヨハン2世はようやく宮廷舞踏会音楽監督に抜擢される。同年、フランスでオッフェンバックのオペレッタ『天国と地獄』に感銘を受ける。この年、末弟エドゥアルトが結婚。
1864年(39歳)、ヨーゼフ(37歳)が当時のベストセラー小説『オーストリアの村つばめ』から着想を得た同名の詩的なワルツを作曲。アルプスの自然と青年の恋心を綴った小説だが、ツバメはオーストリアの国鳥であることから、この曲はオーストリアの豊かな自然を象徴する楽曲でもある。村ツバメが訪れる初夏のウィーンの爽やかな空気が音符から伝わってくる。初演の際に小説のヒロインの心情、もしくは愛妻カロリーネを描いたと思われるポルカ・マズルカ『女心』も演奏されており、2曲ともヨーゼフの代表作となった。兄ヨハンが詩情豊かなワルツ『ウィーンの森の物語』を作曲するのは4年後であり、ヨーゼフの繊細な感性が輝く。秋にヨーゼフはプロイセンの演奏会を依頼されるが、現地のオーケストラはあまりにも貧弱で、ヨーゼフが求めている豊かな響きを出すことができなかった。肩を落として帰国したヨーゼフは熱心にベートーヴェンやシューベルトの作品を研究し、次の段階に進んでいく。
※ヨーゼフ『オーストリアの村つばめ』 https://www.youtube.com/watch?v=PNBfmmRGMPw (7分33秒)
※ヨーゼフ『女心』 https://www.youtube.com/watch?v=zbM1LbPbUHI (5分15秒)
同年、ヨハン2世は『ペルシャ行進曲』を作曲。ペルシャ(イラン)王がロシア皇帝アレクサンドル2世に招かれてパヴロフスクに訪れたため、ヨハン2世はペルシャ風のオリジナル・メロディを使った同曲を献呈した。
※ヨーゼフ『ペルシャ行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=WEL1WoXnPjY (2分)こんな曲だって書ける。
1865年(40歳)、1月、ヨーゼフ(38歳)が宮廷大舞踏会場・工業舞踏会で『ディナミーデン』を初演。この曲ではシューマンやベルリオーズなどロマン派の楽風を学んだ成果が発揮されている。「ディナミーデン」とは「分子や原子が引き合う力」という意味の造語である。後の1911年、リヒャルト・シュトラウスはオペラ『ばらの騎士』第2幕で『ディナミーデン』の旋律を借りたワルツを書いている。
※ヨーゼフ『ディナミーデン』 https://www.youtube.com/watch?v=9DKf2eUGrZA (8分42秒)
8月、ヨーゼフが交響的ワルツ『トランスアクツィオン』を初演し、ウィーンの法律学校学生に献呈する。「トランスアクツィオン」とは商取引などを意味する言葉だが、ヨーゼフは「この曲は愛する2人の相互の関係を描いているのだ」と語り、このワルツで男性の右手と女性の左手が結ばれる愛を表現したという。暗い導入部から美しいワルツに発展していく。同年、ヨーゼフが過労から作曲中に突如として意識を失う。
※ヨーゼフ『トランスアクツィオン』 https://www.youtube.com/watch?v=1qeVUYo9N5Y (10分)
この年、ウィーンで“シャンゼリゼのモーツァルト”オッフェンバック(1819-1880)がオペレッタ『美しきエレーヌ』を上演し大成功を収めた。ヨハン2世より6歳年上のオッフェンバックは、「あなたはオペレッタを作曲すべきだ」と助言したが、ウィーンではスッペのオペレッタが大人気であったため足踏みをした。同年、パヴロフスクでの夏期演奏が終了。フランツ・ヨーゼフ1世の号令でウィーンは都市開発が進み、城壁は撤去され「リング」と呼ばれる環状道路が開通する。

1866年(41歳)、8月オーストリア帝国は鉄血宰相ビスマルクを擁するプロイセン王国との普墺(ふおう)戦争に大敗。この年、ヨーゼフ(39歳)は妻のカロリーネとハイキングに出かけ、自然の中を優雅に飛ぶトンボを見て、羽音をたてて水辺を飛ぶトンボの様子を描いたポルカ・マズルカ『とんぼ』を作曲した。10月の初演は敗戦直後で聴衆の気持ちが沈んでいたにもかかわらず4回アンコールされた。この年、末弟エドゥアルトの長男ヨハン・シュトラウス3世(1866-1939/ヨハン・エドゥアルト)が生まれる。
※ヨーゼフ『とんぼ』(Die Libelle) op.204 https://www.youtube.com/watch?v=nRoHP-r1t7M (5分)

1867年(42歳)、前年に普墺戦争でプロイセンに大敗し、年が明けても謝肉祭は盛り上がりに欠けていた。1月に医学舞踏会が催されることになり、主催者は「うわごと」という題名をヨーゼフに与え、これにベルリオーズ風の憂鬱な序奏から始まり、優美で華やかな世界に至るワルツで応えた。
翌月にワルツ『美しく青きドナウ』を発表したヨハン2世は、『うわごと』を聴いて「ペピ(ヨーゼフ)の方が才能がある。私はただ人気があるだけだ」と感嘆した。指揮者カラヤンは『うわごと』が大のお気に入りで、録音回数は『美しく青きドナウ』を上回る8回にのぼった。
※ヨーゼフ『うわごと』 https://www.youtube.com/watch?v=eDUNGgiXJ-M (9分)
同年2月15日、ヨハン2世は自身にとって初めての合唱用ワルツ『美しく青きドナウ』(作品314)が初演される。ウィーン男声合唱協会から依頼を受けた作品で、ヨハン2世の代表作であるだけでなくウィンナ・ワルツの代名詞となった。『ウィーンの森の物語』『皇帝円舞曲』と共に「三大ワルツ」に数えられる名曲。正確な訳は「美しく青きドナウのほとりに」。オーストリアでは「第二の国歌」と呼ばれている。
当初、この曲にはアマチュア詩人ヴァイル(本職は警察官)が歌詞を付けていた。オーストリアは前年の普墺戦争でプロイセンにわずか7週間で敗北し、国民は意気消沈しており、ヴァイルは、頭を切り替えて元気に行こう!もう敗戦は忘れよう!と明るく呼びかけた。曲名は初演の直前に決まった。

(ドイツ語歌詞)
B: Wiener, seid froh … ウィーンっ子よ、陽気にやろうぜ!
T: Oho, wieso? おう、どうして?
B: No-so bli-ickt nur um - 見回してみろよ!
T: I bitt, warum? だから、どうして?
B: Ein Schimmer des Lichts … ほら、ほのかな光だ
T: Wir seh'n noch nichts! そんなもの、見えないぜ!
B: Ei, Fasching ist da! ほら、謝肉祭さ!
T: Ach so, na ja! ああ、そうだった!
B: Drum trotzet der Zeit … ご時世なんて気にするな…
T: (klaglich): O Gott, die Zeit … こんな、時世なんざ!
B: Der Trubseligkeit. 悲しんだって、どうしようもないさ
T: Ah! Das war' g'scheit! そうだな、その通りよ!
    Was nutzt das Bedauern, 苦しんだって、悩んだって、
    das Trauern, 何の役にも立ちゃしない
    Drum froh und lustig seid! だから、楽しく愉快にいこうぜ!

初演についてメディアは「覚えやすいリズムを持ったかわいいワルツは、多作の舞曲作曲家の作品のなかでも一番人気の高いものにじきになるに違いない」「この曲は大喝采を受け、嵐のようなアンコール要求のため、もう一度演奏しなければならなかった」と伝えた。同年4月、パリ万博の会場で『美しく青きドナウ』を演奏すると大きな話題になり、8月のロンドン公演も絶賛され、世界各地で演奏されるようになった(別資料では6月イギリスへ演奏旅行、夏にパリ万博覧に出演とある)。楽譜は飛ぶように売れ、ラジオ誕生以前の楽譜で最大のベストセラーになった。ヨハン2世の8歳年下の親友ブラームスは、後にヨハン2世の継娘アリーチェから扇子にサインを求められ、『美しく青きドナウ』の冒頭の数小節を書き「残念ながら、ヨハネス・ブラームスの作品にあらず」と書き添えた。
※ヨハン2世『美しく青きドナウ』 https://www.youtube.com/watch?v=VJWYYxPe_PQ#t=1m20s (11分)

『美しく青きドナウ』初演の3日後、ワルツ『芸術家の生活』が初演される。ウィーン芸術家協会「ヘスペルス(「宵の明星」の意)」に献呈された。この年、フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリーの自治を容認し、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立。
※『芸術家の生活』 https://www.youtube.com/watch?v=gqS_fFNiqKg (9分27秒)どうして初演が不評だったのかわからない。良い曲なのに。

ヨーゼフの方もますます作曲に精を出していた。この1867年にヨーゼフが発表した作品数は実に25曲。ヨハン2世が6曲、末弟エドゥアルトが8曲であり、25曲は異常な仕事量だった。背景には、かつて父ヨハンがランナーと「ワルツ合戦」を繰り広げたように、兄と激しく競っていたからだ。ヨーゼフは「ランナーの後継者」ではなく「ワルツのシューベルト」と認知されるようになったが、世間の注目度は兄に劣り、ヨーゼフの作品にもかかわらず、楽譜の表紙に「ヨハン・シュトラウス」と印字されることもあった。この年ヨーゼフがワルツ『うわごと』を発表すると、ヨハン2世は「弟の方が才能がある。私はただ人気があるだけだ」と驚嘆している。ヨーゼフは真に兄と並び立つ存在になるため、病弱な体を押して活動し寿命を縮めていた。

1868年(43歳)、「三大ワルツ」の一つ『ウィーンの森の物語』を作曲。発表と同時に好評を呼びフランツ・ヨーゼフ1世は「これで奴隷や囚人も一つのあこがれの歌を持つようになった」と評した。
※ヨハン2世『ウィーンの森の物語』 https://www.youtube.com/watch?v=_U9_eDDjJDc (12分)
そして芸術家協会『ヘルペルス』のためにポルカ・シュネル(高速ポルカ)『雷鳴と稲妻』を作曲。遠雷を大太鼓のトレモロで、稲妻をシンバルで巧みに表現している。日本では運動会でよく使用されている。
※ヨハン2世『雷鳴と稲妻』 https://www.youtube.com/watch?v=IomRh4Wir2M (3分19秒)カルロス・クライバーの名演!
同年1月、ヨーゼフは代表的ワルツ『天体の音楽』(作品235)を初演し大成功を収める。この曲は「天球の音楽」を舞踏会のテーマとすることを決定した医学舞踏会から依頼されたもので、天体が移動する音で宇宙全体が一つの大きなハーモニーを奏でる様子を表現している。人々は「涙させるほど感動的な詩」と讃えた。後年、1931年のドイツ映画『会議は踊る』でテーマ音楽として使われた。ヨーゼフは優れた楽才を持っていたが、ストレス解消のためにカフェで毎晩徹夜のカード遊びをしており、葉巻を日に20本も吸うなど身体を痛めつけ、過労で再び倒れる。この年、末弟エドゥアルトの次男ヨーゼフ・エドゥアルト(1868-1940)が生まれ、後にエドゥアルト2世の父となる。
※ヨーゼフ『天体の音楽』 https://www.youtube.com/watch?v=0d_r1ejshe8 (9分)
1869年(44歳)、2月ウィーンの芸術家協会『ヘスペルス』主催の舞踏会のためにヨーゼフ(42歳)はワルツ『水彩画』を初演。ヨーゼフは芸術に造詣が深く、画才にも恵まれ、デッサンや水彩画を多く残している。このワルツで「水彩画の柔らかさ」を表現したという。
※ヨーゼフ『水彩画』 https://www.youtube.com/watch?v=J3VdD2_U6k4 (7分46秒)
『水彩画』初演の6日後に、ヨーゼフはウィーン大学の学生たちのために作曲したワルツ『わが人生は愛と喜び』を宮廷大舞踏会場「学生舞踏会」で初演し喝采を浴びる。『わが人生は愛と喜び』は1931年のドイツ映画『会議は踊る』でワルツ『天体の音楽』と一緒に採り上げられ、『オーストリアの村つばめ』と共にヨーゼフの代表的ワルツ作品となっている。
※ヨーゼフ『わが人生は愛と喜び』 https://www.youtube.com/watch?v=s7toGqLEPAA (7分半)
続く3月13日には『鍛冶屋のポルカ』(作品269)を発表。ヨーゼフは金庫メーカー主催の舞踏会のための曲を依頼され、金庫を製造した鍛冶職人を讃えて、打楽器として金床(かなとこ)を用いたポルカを書いた。原題の「Feuerfest」は「耐火性抜群」の意で、日本だけで『鍛冶屋のポルカ』と呼ばれる。小学2年生が音楽の時間に聴いている。
※『鍛冶屋のポルカ』 https://www.youtube.com/watch?v=S-eolCzLPsQ (3分)
そして恒例の夏のロシア滞在では、ヨハン2世とヨーゼフの貴重な合作曲『ピツィカート・ポルカ』を初演している。ペテルブルクで兄弟がピアノの連弾をして、この弦楽器のピツィカートだけで演奏されるユーモラスな曲が生まれたという。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートでは、『美しく青きドナウ』『ラデツキー行進曲』に次いで3番目に登場回数が多い。
※『ピツィカート・ポルカ』 https://www.youtube.com/watch?v=3CAXpuPqfv0#t=0m27s (3分30秒)
ところで、この夏は最初からヨハン2世はヨーゼフをロシアへ連れて来ていた。翌年から弟に夏期コンサートの指揮をバトンタッチするつもりであり、まずは兄弟が交代で指揮を担当した。ヨハン2世は妻を伴っていたがヨーゼフは愛妻をウィーンに残しており、大量の手紙を妻へ書き綴った。9月の手紙「僕はとても元気には見えない。顔色も悪くなってきたし、頬もこけてきた。髪の毛もよく抜ける。全体的に体調が悪いのだ」。
同じ9月にヨーゼフはポルカ『憂いもなく』を初演している。滅入った気分を振り払うかのように、『憂いもなく』と楽天的な曲名をつけ、演奏中に楽団員の「アッハッハ!」という笑い声が入る演出がある非常に陽気な曲だ。
※ポルカ・シュネル『憂いもなく』 https://www.youtube.com/watch?v=OOqH5zXqzuA (2分14秒)
さらにヨーゼフは『遠方から』を作曲。妻へ「いろいろと不愉快なことはあるが、お前を幸せにしたくて、そのすべてに耐えている」と何通も手紙を書き、遠く離れたロシアから妻を想ってこの曲を書いた。
※『遠方から』 https://www.youtube.com/watch?v=me95A2hZlWA (4分33秒)
同年、ヨハン2世はワルツ『酒、女、歌』を作曲。「酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯馬鹿で終わる」という格言を基とした詩にヨハン2世が音楽をつけたもの。ブラームスとワーグナーは対立関係にあったが、その両者が共にこの曲を愛した。初演は大成功を収め、巡礼者の仮装をしていたヨハン夫妻は歓呼に応えるため何度も立ち上がってお辞儀をした。合唱版は「天にまします神様が、いきなりブドウの若枝を生えさせた」という歌詞から始まる。
※ヨハン2世『酒、女、歌』 https://www.youtube.com/watch?v=hHtXVl1dW3Q
さらに、オーストリアで最も早く開業した鉄道会社の開業30周年記念舞踏会があり、このときエドゥアルト(34歳)は依頼を受けて代表曲となるポルカ『テープは切られた』を発表している。軽快なテンポに乗せて、汽車旅行の楽しさを表現した楽曲。
※エドゥアルト『テープは切られた』 https://www.youtube.com/watch?v=h8MH-aLUlYk (2分20秒)
この年、ヨーゼフとエドゥアルトは次の約束を交わす。「二人のうち生き残った方がシュトラウス家の楽譜・資料の所有権を獲得し、音楽活動をやめる際には、それらが第三者の手に渡るのを防ぐためすべて破棄する」。(ヨハン2世の知らぬところでこんな約束が…)
秋、パヴロフスクの鉄道会社は14年もシュトラウス兄弟と契約してきたため、変化を求めて翌年から他の音楽家と契約すると通告してきた。

1870年(45歳)、1月ウィーン楽友協会の落成式が執り行われる。記念舞踏会が黄金ホールで開催され、シュトラウス3兄弟はヨハン2世が『人生を楽しめ』、ヨーゼフが『芸術家の挨拶』、エドゥアルトが『氷の花』を披露した。
同じく1月、ヨーゼフは宮殿で開催された法学生の舞踏会のためにワルツ『女の面目』を初演する。当時はウィーンのような都会でも女性の地位は満足のゆくものではなく、女性は原則として自分だけの財産を持てなかった。ヨーゼフは法学生という未来の法律関係者に、ヨーゼフは女性の権利向上の必要性を示すため『女の面目』を捧げた。
※『女の面目』 https://www.youtube.com/watch?v=_-lIqeFgSoc (6分44秒)
2月、ポルカ・マズルカ『モダンな女』を作曲、「慈善舞踏会」で初演された。原題の直訳は『解放された女性』。ズボン姿で活発に活動する近代の自由な女性を描いている。前月に作曲されたワルツ『宵の明星の軌道』は初演日が3カ月延期されため、後から完成した『モダンな女』が先に初演された。本当の意味ではこの曲が「最後の傑作」となる。
※ヨーゼフ『モダンな女』 https://www.youtube.com/watch?v=Y2whN1Z8I0I (4分17秒)
2月17日にヨーゼフは『ジョッキー・ポルカ』(作品278)を初演。2月23日、母アンナが68歳で他界。シュトラウス3兄弟のゴッドマザーへの敬意を表して、当日のウィーンの舞踏会はすべて中止された。4月4日、シューベルトの交響曲に通じるワルツ『宵の明星の軌道』(作品279)を初演し、聴衆から大喝采を受ける。ヨハン2世にとってヨーゼフは最大のライバルに成長していた
だが、母の死の5カ月後、7月22日に弟のヨーゼフ・シュトラウスも急逝する。享年42歳。母と弟はウィーン中央墓地で同じ墓に眠る。
2人の死にヨハン2世はショックを受け打ちのめされる。
妻ヘンリエッテは作曲意欲を失ったヨハン2世に楽しい喜歌劇、オペレッタ(ミュージカルの原型)の作曲を強く勧めた。ヘンリエッテはウィーンの劇場支配人から“あの”『美しく青きドナウ』の作曲家(夫)にオペレッタ作曲を勧めるよう頼まれていた。ヨハン2世は「才能がない」「歌詞に作曲するのは苦手」と断ったが、妻の根気強い説得でオペレッタに挑戦した。作曲過程ではヘンリエッテが歌手の立場から様々なアドバイスを与えたという。

4月、ヨーゼフは『宵の明星の軌道』を初演する。この曲名は、金星の軌道と、ウィーンの芸術家協会『ヘスペルス』の歩みという2つの意味を持っている。ヨーゼフにとって生前最後に初演された作品であるため「ヨーゼフ・シュトラウス最後の傑作」と呼ばれる。本来は開場直後のウィーン楽友協会黄金ホールで開かれる『ヘスペルス』主催の舞踏会で、1月に初演される予定だったが、火事の影響で約3カ月延期されて初演となった。人々は「知らず知らずのうちに足が踊り出そうとするだけでなく、感情までもが揺り起こされる」と讃えた。
※『宵の明星の軌道』 https://www.youtube.com/watch?v=6IjAuzM4Tx8 (10分)

5月になるとヨーゼフはワルシャワに旅立った。兄がパヴロフスクで得た名声を自分もワルシャワで得たくて、4か月間の演奏契約を取り付けたからだ。ところが、この仕事が凄まじい心労をヨーゼフが与えた。手続きのミスから楽譜や楽器の到着が遅れ、楽団員もエージェントの手落ちでやって来ない。開始予定日を既に2日過ぎた5月17日、ヨーゼフは兄に手紙を書く。「僕は憂鬱です。いつ始まるか見込みも立ちません。この手紙が兄さんの手に届く頃、破局は最高潮に達しているでしょう」。この危機に弟エドゥアルトが奔走してくれ、5月22日にやっと最初の演奏会を開催できた。その10日後の6月1日、ヨーゼフは本番中に指揮台で倒れ、意識を回復しないまま宿に運ばれた。脳卒中の兆候だった。6月5日妻カロリーネがウィーンから到着。ワルシャワでの演奏契約がまだ残っており、ヨハン2世がワルシャワで指揮することになった。カロリーネは夫をウィーンに連れ帰り、7月22日13時30分、ヨーゼフはシュトラウス家の自宅「雄鹿館」にて42歳で没した。
10月18日、ヨーゼフの追悼式で代表作『オーストリアの村つばめ』『女心』がヨハン2世の指揮で演奏された。
訃報を伝える記事は「ヨーゼフは彼の人生の最大の野心、グランド・オペラの作曲を果たさないうちに死んだ」と書いた。ヨーゼフは交響曲やオペラの作曲を目標にしており、長生きしていれば人類は素晴らしい体験が待っていたはずだ。
ヨーゼフは当初モーツァルトが埋葬されたザンクト・マルクス墓地に埋葬されたが、後にウィーン中央墓地に改葬され、同地に眠る父ヨハン1世の墓の正面に母アンナとの共同墓が建てられた。
※ヨーゼフは死の前年に「違う種類の作曲に転向中」と語っており、ヨーゼフがオペレッタを書いていたと妻カロリーネや娘が記している。そのオペレッタはヨーゼフが死ぬと行方不明になった。嗚呼、早く発見されますように!

1871年(46歳)1月オペレッタの上演に集中するため、8年間務めてきた栄えある宮廷舞踏会音楽監督を辞職、末弟エドゥアルトが引き継ぐ(これ、資料によって1870説、1872説あり。何で!?)。2月10日、シュトラウス初の喜歌劇『インディゴと40人の盗賊(千夜一夜物語)』を初演、無事に成功を収める。以後、ヨハン2世は熱心にオペレッタに取り組み、ワルツをほとんど書かなくなった。シュトラウス楽団はエドゥアルトが率いた。同年、隣国ドイツがビスマルクの手腕で統一される。
※『インディゴと40人の盗賊』序曲 https://www.youtube.com/watch?v=cqlfXs3_HQo (7分)

1872年(47歳)、6月17日に米国ボストンでアメリカ独立100周年の祝典をかねた「世界平和記念祭」が開催され、ヨハン2世は指揮者として招かれた。船旅恐怖症だったが、報酬は当時破格の10万ドルであり引き受けた。『美しく青きドナウ』を、歌手2万人、オーケストラ1000人、軍楽隊1000人で演奏し、聴衆は10万人という空前の規模のコンサート。指揮者はヨハン2世のほか、100名もの副指揮者が配置された。ヨハン2世「10万人のアメリカ人の前に立った私の姿を想像してみてください。どうやって始めたらいいのか…どうやって終わらせたらいいのか?私が指示を出すと、配下の副指揮者100人は迅速に従った。全員がほぼ同じ瞬間に始められたので、次は同時に終わることに集中した。これが人間のできる限界である。聴衆10万人の拍手が鳴り響き、私はほっとした」。ちなみに大久保利通ら岩倉使節団はちょうと米国滞在中で、翌日から2日間ボストンでコンサートを鑑賞しており、ヨハン2世本人の指揮による『酒、女、歌』を聴いている(大河ドラマで再現してほしい!)。
1873年、皇帝の長女の婚礼を祝う宮廷オペラ舞踏会で、ワルツ『ウィーン気質』を初演。その際、ヨハン2世は初めてウィーン・フィルを指揮した。このワルツは同年のウィーン万博の開幕式でも演奏された。
※『ウィーン気質』 https://www.youtube.com/watch?v=ZFCd-zR9TAM (11分42秒)
1874年(49歳)4月5日、『天国と地獄』に触発されて完成させたウィンナ・オペレッタの最高傑作、喜歌劇『こうもり』のウィーン初演。軽快かつ優雅で親しみやすいメロディーにあふれ「オペレッタの王様」と呼ばれる。劇場支配人から台本を渡されたヨハン2世はすぐさま魅了され、自宅にこもって6週間で書きあげた。
ソロパート8人の見せ場が比較的に均等であるため、オールスターの華やかな舞台になるのも人気の理由。ちなみに主役級のロザリンデより脇役の小間使いアデーレの方がソロは多い。当初は不評だったが、ベルリンとパリで大ヒットした。他にも数々のオペレッタを書いた。
当時の宮廷歌劇場は格式を重視して娯楽に特化したオペレッタを上演しなかった。初演20年後の1894年にヨハン2世のデビュー50周年を記念して初めて上演され、その3年後の1897年に当時の宮廷歌劇場総監督グスタフ・マーラーが正式にレパートリーとした。さすがマーラー。現在、大晦日のウィーン国立歌劇場(宮廷歌劇場)の『こうもり』と、年始のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートが恒例の行事となっている。日本では二期会が創立当初から日本語上演を積極的に行っている。

『こうもり(Die Fledermaus)』…舞台は1874年のオーストリアのザルツブルクに近い温泉町バート・イッシュル(ウィーンという演出もある)。
【第1幕】 金持ちの銀行家アイゼンシュタインは知事に暴力をふるったため8日間の投獄を命じられる。妻のロザリンデには、夫の不在を狙って元恋人アルフレードが接近。ロザリンデの小間使いのアデーレが、ロシア貴族オルロフスキー公爵邸で催される仮装舞踏会に行きたくてたまらない。彼女は叔母が病気と嘘をついて暇をもらう。アイゼンシュタインが刑務所に出頭する用意をしていると、友人のファルケ博士が来訪し、刑務所へ行く前に奥さんに内緒で仮装舞踏会に行こうと誘う。アイゼンシュタインが出発すると、さっそくアルフレードがやってくるが、そこに刑務所長フランクが「ご主人をお迎えにあがった」とやってきた。アルフレードはアイゼンシュタインと間違われて連行された。
【第2幕】オルロフスキー公邸の舞踏会場には小間使いのアデーレがロザリンデの衣装を着込み、女優と名乗って遊びにきている。さらにフランス人のふりをした偽名のアイゼンシュタインもいる。そこにファルケ博士が「ハンガリーの伯爵夫人」と嘘をついて仮面をつけたロザリンデを連れてきた。彼女は夫とアデーレがいることに驚き、「夫は刑務所に行かずに遊んでいる上に、アデーレが勝手に私のドレスを着ている」とプリプリ。火遊びが好きなアイゼンシュタインは、自分の妻と知らず「ハンガリーの伯爵夫人」を口説き、気を惹くために自分の金時計を渡してしまう。ロザリンデはハンガリーの民族舞踊チャールダーシュを歌ってしらを切った。刑務所長フランクもフランス人のふりをして仮装舞踏会にやってきて、アイゼンシュタインといい加減な仏語で会話しながら意気投合し酒を飲む。
これらはファルケ博士が仕組んだ仕返しだった。3年前の仮面舞踏会でアイゼンシュタインが酔いつぶれたファルケを道端に放置したため、翌日ファルケは仮面舞踏会のこうもりの扮装のまま帰宅するはめになり、近所の子どもから「こうもり博士」というあだ名をつけられたことを恨んでいた。
【第3幕】刑務所では独房でアルフレードが歌っている。フランクが帰って来て舞踏会の楽しい思い出を振り返りながらウトウトしているとアデーレが「女優になりたいからパトロンになって」と頼みに来る。続いてアイゼンシュタインが出頭してきたので、じゃあ牢屋にいるのは誰だと騒ぎになる。さらにロザリンデがやって来てアルフレードを独房から出す手続きを始めた。アイゼンシュタインが逆上すると、ロザリンデは金時計を取り出し「これは何ですか」と逆襲する。そこへファルケ博士とオルロフスキーが登場し、これは「こうもりの復讐劇」と明かす。アイゼンシュタインは「な〜んだ、浮気騒動も全部芝居なのか」と納得し、アデーレもオルロフスキー公爵がパトロンとなって女優になることが出来て大喜び、アルフレードは「ちょっと実際とは違うけどまあいいか」。ロザリンデが高らかに「シャンパンの歌」を歌い終幕となる。
※『こうもり』 https://www.youtube.com/watch?v=1H6wSC4GFtw

1876年(51歳)、渡米して自作の舞曲、とりわけワルツを大編成のオーケストラにより演奏して絶大な人気をえた。
1878年(53歳)、4月にヘンリエッテが他界。享年59歳。近親者の死がトラウマになっているヨハン2世は、葬儀をエドゥアルトに任せてウィーンから離れたという。
1880年(55歳)、メドレー形式のウィンナ・ワルツ『南国のバラ』を作曲。自作オペレッタ『女王のレースのハンカチーフ』をイタリアのウンベルト1世が気に入ったことから、登場モチーフを編曲し、イタリアをイメージした題名『南国のバラ』としてウンベルト1世に献呈した。
※『南国のバラ』 https://www.youtube.com/watch?v=W2P9ise0x60 (8分42秒)映画音楽のようだ
1881年(56歳)、ウィーンのリング劇場で大火災が発生し約400名の犠牲者が出る「ウィーンの劇場史上最悪の惨事」が起き、オペレッタの人気は低迷する。
1882年(57歳)、ワルツ『春の声』を作曲。親しかった14歳年上のフランツ・リスト(当時71歳/1811〜1886)と即興演奏パーティで同席した時、余興でまとめ上げた。あるソプラノ歌手のためにオーケストラ伴奏付きの歌曲として発表された。毎日放送「皇室アルバム」のテーマ音楽。
https://www.youtube.com/watch?v=WFXa-yzmJzY
1883年(58歳)、オペレッタ9作目『ヴェネツィアの一夜』初演。カーニヴァルに女性目当てで遊びに来るウルビーノ公爵と、彼から妻を守ろうとする夫や妻のアバンチュールを描く。台本は未熟ながら音楽面は男性陣のアリアがとても充実しており、改訂版の上演が続いている。
※『ヴェネツィアの一夜』序曲 https://www.youtube.com/watch?v=8rnN1ErutDk (7分)イタリアな感じ!
1885年(60歳)、『こうもり』の楽曲を約40日で書いたのに対し、2年の歳月をかけて完成させたオペレッタ『ジプシー男爵』が初演される。本作は創作力の頂点を極めたと評価され、『こうもり』とならぶ傑作となり、87回の連続公演に及び、存命中に各国で140回の公演記録を打ちたてた。先に作曲された音楽に言葉を付けていくと言う手法をとり、ヨハン2世の音楽を存分に楽しめる。フランツ・ヨーゼフ1世は『ジプシー男爵』を満喫し、わざわざ皇帝席にヨハン2世を呼び寄せ「君のオペラをとても気に入った、素晴らしかった」と讃えた。ヨハン2世はオペレッタではなく「オペラ」と言われたことが非常に嬉しかったと友人に報告している。この成功をきっかけに、他の作曲家もハンガリーを題材にしたオペレッタを多く作曲するようになる。
『ジプシー男爵』…舞台は1741年ハンガリーとウイーン市街。ハンガリー豪族の青年バリンカイがオーストリア皇帝の恩赦で亡命生活から帰国して土地を取り戻し、亡き父の隠し財宝を見つける。その後、スペイン遠征で戦功をあげてウィーンに凱旋して男爵に列せられ、ジプシーの娘ザッフィ(トルコ総督の娘)とめでたく結ばれるというもの。バリンカイは「男が心から決意すれば不可能はない」と歌う。(注・オーストリア軍がスペインに遠征したという史実はない)
※『ジプシー男爵』全三幕 https://www.youtube.com/watch?v=J2cGNc-NoEM
※『ジプシー男爵』から「宝のワルツ」 https://www.youtube.com/watch?v=U8-urZQCO9o (7分15秒)

1887年(62歳)、ヨハン2世は再々婚のため国籍をザクセン(ドイツ)に変更した。若い劇場監督と浮気してヨハン2世を捨てた2番目の妻リリー・ディートリヒ(アンゲリカ・ディットリヒ)と離婚し、3番目の妻アデーレ・ドイッチェと結婚しようとしたが、当時のオーストリアはカトリック教会が離婚を認めず、プロテスタントに改宗し、ザクセン国籍を取得した上で離婚と再婚に踏み切った。アデーレは夫に先立たれていたがまだ26歳であり、ヨハン2世とは36歳差婚。
1888年(63歳)、カスタネットなどを使ったスペイン風のオリジナル旋律による『スペイン行進曲』を作曲。オーストリアとスペインの友好を願いスペインの摂政皇太后マリア・クリスティナに献呈した。
※『スペイン行進曲』 https://www.youtube.com/watch?v=e-eZDErX39o (5分)まるでスペイン人が作曲したみたい!
1889年(64歳)、「三大ワルツ」に数えられる壮大なワルツ幻想曲『皇帝円舞曲』を100人編成の大オーケストラで初演、大成功を収める。名指揮者フルトヴェングラーはウィンナ・ワルツの中で本作のみを繰り返し取り上げ、カラヤンもヨハン2世のワルツの中で最多8回の録音を残した。ブラームス評「これは管弦楽法が素晴らしいので、見事に鳴るんだ。しかし結局、魅力の秘密なんか考えてもしょうがない」。
※『皇帝円舞曲』 https://www.youtube.com/watch?v=aPjycQ09sdo (10分38秒)

★1889年12月2日、エジソンの代理人から録音を依頼されたブラームスは、自身の『ハンガリー舞曲』第1番とヨーゼフの『とんぼ』の2曲を選び、自分でピアノを弾いて蓄音機に録音した。このブラームスによる録音は史上初のレコーディングとされているため、この『とんぼ』は初めてレコーディングされた楽曲のひとつといえる。しかし、もともとうまく録音できなかったことに加え、第二次世界大戦の戦災に遭ったことが致命的打撃となり、現在ではブラームスによる『とんぼ』はほとんど聞き取れなくなってしまっている。ブラームスが直々に演奏したという歴史的な価値の高さから、これまで何度か復元が試みられているが、いずれも成功していない。
※指揮者オトマール・スウィトナーいわく「好きな曲は何万となくある。そのなかで、ひとつだけ選ぶなら…『とんぼ』だ。この曲を演奏すると、指揮者もオーケストラも観客も幸せな気分になれる。交響曲は…居眠りをする聴衆もいる。でもこの曲ではそんなことはない。人を明るい気分にさせる、特別な曲だ」。

1890年(65歳)、『美しく青きドナウ』の歌詞が国土をうたったものに改訂され、ハプスブルク帝国および帝都ウィーンを象徴する曲に生まれ変わった。「いとも青きドナウよ、なんと美しく青いことか/谷や野をつらぬき、おだやかに流れゆき、われらがウィーンに挨拶を送る/汝が銀色の帯は、国と国とを結びつけ、わが胸は歓喜に高鳴りて、汝が美しき岸辺にたたずむ」。以後「ハプスブルク帝国第二の国歌」と呼ばれるようになる。

1892年(67歳)、それまでウィーン宮廷歌劇場は「品位が下がる」としてオペレッタを上演せず、ヨハン2世の作品とは無縁だった。そのオペラ劇場から作曲依頼を受けて、最初で最後のオペラ『騎士パスマン』全3幕を完成させる。正月1日に初めてヨハン2世の作品が宮廷歌劇場に登場した。ヨハン2世の音楽は好評だったが、肝心のストーリーが「王が家臣の妻の額に接吻し、怒った家臣が王妃の額に接吻して一矢報いようとする」、それだけの話であり観客は退屈した。3年がかりで作曲されたこのオペラは、たった9回上演されただけでお蔵入りとなった。ヨハン2世は辛口の批評家に反発し、ポルカ・マズルカ『公平な批評』を作曲した。
続いてブラームスに献呈するためのワルツ『もろびと手をとり』を作曲。ベートーヴェン第九で知られるシラーの詩『歓喜の歌』の一節から題名が決まった。
※『もろびと手をとり』 https://www.youtube.com/watch?v=FsRyhfYGo1Q (10分)動画にブラームスとのツーショットあり。
同年のヨハン2世からエドゥアルトへの手紙に、両者の緊張関係が見て取れる。「いったい幾つになったら、兄は決して敵ではないと分かるんだ。お前がやたらと突っ張るせいで私たちの関係に時々ひびが入るが、お前に対する兄貴としての情愛が変わっていないことは知っておいてもらいたい」。別の人物には「彼(エドゥアルト)の作曲は悪くないのだが、誰も買いたがらないのだ」。
1894年(69歳)、ヨハン2世の音楽家生活50周年を祝って祝賀行事が盛大に催行される。自身に捧げられたバレエ『ウィーン巡り』を見たヨハン2世は「充分すぎるよ。私はこれに見合うことはしていない。充分すぎないかい?」と感極まった。同年、ヨハン2世とブラームスが一緒に写真に写る。
1895年(70歳)、遺言書を作成し、エドゥアルトは「恵まれた境遇にある」として相続権を与えなかった。同年、エドゥアルトがイギリスにてヴィクトリア女王御前演奏。
1897年(72歳)、オペレッタ『理性の女神』初演。劇場の客席にはブラームス、マーラー、ヴェルディ、リヒャルト・シュトラウスというそうそうたる顔ぶれがいた。その3週間後、ブラームスは癌により64歳で没する。同年、エドゥアルトが妻子の浪費のせいで財政破綻。ヨハン2世「今さら(遺言を)変える気はない。弟の状況が良くなることを望むだけだ」。

1898年(73歳)、作品番号のついた最後の楽曲『ライムント時代の調べ』(作品479)を作曲。この曲は、父ヨハンとヨーゼフ・ランナーが「ワルツ合戦」を展開した頃の劇作家ライムントの銅像完成に合わせて書かれた。死期を感じ取っていたヨハン2世は、父やランナーの曲を織り交ぜながら「1848年革命」以前の古き良き時代を、生涯を回想するかのごとく感傷的に綴った。12月エドゥアルトの長男ヨハン・シュトラウス3世が音楽家としてデビュー、「エンクル(孫)」と呼ばれる。
※『ライムント時代の調べ』https://www.youtube.com/watch?v=AI8sYIUVKDE (7分11秒)天国の演奏会のイラストが泣ける!

1899年5月22日、宮廷歌劇場で自作の喜歌劇『こうもり』序曲を指揮し、これが最後の指揮台となった。数日後、体に悪寒をおぼえながらサイン会を開いた後に寝込んでしまう。肺炎だった。マーラーから委嘱されたバレエ曲(シンデレラ)が第一幕のみ完成しており、もうろうとしながらも、何とか残りの幕も書きたいと筆に手を伸ばした。6月3日16時15分、死の床でライムントの歌詞「さらば友よ、だれにもいつかは別れの時がくる」と呟き、73歳で息を引き取る。最後の言葉は妻アデーレの「あなた、お疲れでしょう。少しお休みになったら」に微笑んで答えた「そうだね。どっちみちそうなるだろう…」。同日、ウィーンの野外コンサート会場に訃報が届くと、指揮者は巨匠の死を報告した後『美しく青きドナウ』で追悼した。
3日後に葬儀が執り行われ、10万人の市民が参列した。ウィーン市はウィーン中央墓地に特別墓地を設けることを決定し、シューベルトとブラームスの間にヨハン2世の墓所ができた。妻アデーレは遺稿を整理し、未発表作品をできる限り世に送り出した。
同年10月、ヨハン2世の既存曲を繋いだ喜歌劇『ウィーン気質(かたぎ)』が初演される。未完に終わったが友人の指揮者ミュラーが完成させた。素晴らしいアレンジで名曲・名旋律が次々と現れ、ウィーンの香りが存分に詰まった作品。ナポレオン戦争後、ウィーン会議の頃の華やかなウィーンを舞台にコミカルな3組の恋のさや当てが展開し、「これ(恋愛騒動)は酒のせいではなく、全てがウィーンの血とウィーンの気質の為せる業」と一同笑顔で「ウィーン気質」を歌って幕となる。
※喜歌劇『ウィーン気質』 https://www.youtube.com/watch?v=0wWTar8xki8

19世紀ウィーンの陽気さと哀愁をみごとに表現した「ワルツ王」を讃え、没後22年の1921年、ウィーン市内に黄金に輝くヨハン・シュトラウス記念像が建立された。一時期、金色はやりすぎと黒色に塗り替えられたが、1991年に元の金色に塗り直された。
現在、オーストリアでは大晦日から新年に代わるタイミングで、公共放送がシュテファン大聖堂の鐘の音に続いて『美しく青きドナウ』を放映するのが慣例となっている。また、元日正午からのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤーコンサートでは、アンコール3曲の2番目に『美しく青きドナウ』を演奏し、その際に序奏を少しだけ演奏した後、聴衆の拍手で一旦打ち切り、指揮者や団員の新年の挨拶が続くところまでが“お約束”になっている。

※ウィンナ・ワルツは交響曲より音楽ファンの評価は低いが、同時代の多くの音楽家がヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)の楽才を称えている。以下は年代順のコメント。
ワーグナー(1813-1883)「自分にこのような軽い音楽を書けないのが残念だ」「彼はヨーロッパ音楽の最高峰の一つである。我々の古典はモーツァルトからシュトラウスまで一筋に続いている」。
ブラームス(1833-1897)「シュトラウスの音楽こそウィーンの血であり、ベートーヴェン、シューベルトの流れを直接受けた主流である」。※この言葉を聞き、それまで「ワルツのレクイエム」と酷評していた音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックは立場を変え、「今日では彼が最も効果的なバレエを書くことができる唯一の作曲家である」と称賛するようになった。
チャイコフスキー(1840-1893)はヨハン2世をリスペクトしてバレエ音楽『くるみ割り人形』の「花のワルツ」を同じ様式で書いた。
マーラー(1860-1911)はそれまでオペレッタを上演することがなかったウィーン宮廷歌劇場でオペレッタ『こうもり』を正式にレパートリーとした
リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)「世界に歓びを分けあたえるべく天性の素質に恵まれている者のなかで、ヨハン・シュトラウスこそ、とりわけ私を惹きつけ離さぬ最高の人」。※両者に血縁関係はない。最晩年に公演で英国を訪れた際に「あなたがあの『美しく青きドナウ』の作曲者ですか?」と何度も尋ねられたという。
ラヴェル(1875-1937)「ワルツは、あらゆる作曲家を誘惑する形式だ。だが成功したのはほんの一握りの作曲家だけだ。モーツァルトはレントラーを作曲したが、これはもうウィーン風のワルツ。ベートーヴェンが作曲したのはドイツ舞曲だ。そしてもちろんシューベルト、シューマン、ブラームス、シャブリエ、ドビュッシーも作曲した。だが本当に成功したのは誰だろう。それはヨハン・シュトラウスただ1人だ。彼は奇跡的に、みなが書きたいと思ったワルツを作曲し得たのだ。『美しく青きドナウ』だよ」
※ヨハン2世の“十大ワルツ”は「美しく青きドナウ」「芸術家の生活」「ウィーンの森の物語」「酒、女、歌」「千夜一夜物語」「ウィーン気質」「南国のバラ」「春の声」「皇帝円舞曲」「朝の新聞」
※ヨーゼフ・シュトラウスの“七大ワルツ”は「オーストリアの村つばめ」「ディナミーデン」「トランスアクツィオン」「うわごと」「天体の音楽」「水彩画』」「わが人生は愛と喜び」
※ヨハン・シュトラウス2世の作品1から199まで。 https://www.youtube.com/watch?v=rJRhm3U11VE&list=PL4DCBCE5C31F2CF54
※ランナーのワルツは、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートにおいて、シュトラウス家以外の作曲家の中で最多登場している。
※映画音楽での使用としては、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』での宇宙飛行場面における『美しく青きドナウ』が高名である。
※ヨハン2世の黒歴史。ヨーゼフの妻カロリーネはかつて恋人だったことから、弟と結婚後も「男の子が欲しいなら、いくらでも協力するのでそのときは君を愛している義兄をお忘れなく。どうかこの最後の言葉は他人にもらさないように」と手紙を書いている。はい、もれてます…。

1900年12月、エドゥアルト(65歳)はメトリポリタン歌劇場で慈善演奏会を行い、作品番号が300となったことを機にこの演奏会をもって引退表明。
1901年2月、新聞がエドゥアルトとシュトラウス楽団を「過去の遺物」と書いたことに傷ついたエドゥアルトは、父ヨハン1世が組織し76年続いたシュトラウス楽団を解散、さらに29年間務めた宮廷舞踏会音楽監督を降板する。長男ヨハン3世は自身の楽団を作った。
1903年、ヨーゼフの曲だけで構成されたオペレッタ『春の空気』が発表された。
1906年、エドゥアルトが回顧録『回想』を出版。
1907年10月、エドゥアルトは38年前にヨーゼフと交わした約束通り、馬車7台分の楽譜、1000曲を超える一家のオリジナル作品の自筆譜をウィーンの2つの陶器工場に持ち込み窯炉で焼却した。総量は包みにして2547個、枚数にして最大100万枚にも及び、エドゥアルトは5時間かけて焼却に立ち会ったという。当時の批評家「彼はウィーンの歴史の一片を灰にしてしまった。比類なき音楽の宝物を、彼の生まれたウィーンから盗みとってしまったのだ」と批判した。ヨーゼフの一部の楽譜は妻カロリーネが遺品として保有していたので難を逃れた。
同年、ベルリンで『こうもり』全曲録音が行われ、『道化師』と並ぶ世界初のオペラ全曲録音となった。

1907年10月22日にエドゥアルトが楽団所有の楽譜を焼却処分した際にも、このような理由でヨーゼフのいくらかの手稿は燃やされずに済み、現在まで受け継がれている[17]。エドゥアルトは[48]、これによってシュトラウス家の作品は出版されたものばかりが残っている状況であり、ヨーゼフの手稿は限られた一次資料として貴重なものとなっている。

1914年6月、サラエボでフランツ・ヨーゼフ1世の弟カール・ルートヴィヒ大公の長男フランツ・フェルディナント大公(50歳)が暗殺される。大公は皇位継承者であり、オーストリアはセルビアに宣戦を布告、第一次世界大戦が勃発する。
1916年11月、第一次世界大戦の只中でフランツ・ヨーゼフ1世が肺炎により崩御。享年86歳。翌月の12月28日、エドゥアルトが心臓麻痺で他界する。享年81歳。エドゥアルトはポルカを中心に約300曲もの作品を残し、『テープは切られた』『速達郵便で』といった速いポルカ(ポルカ・シュネル)を得意とした。没する前に「独りぼっちになって長生きをしたって辛いものだ」と呟いた。亡骸は遺言に従い、宮廷舞踏会音楽監督の制服を着たままの状態でウィーン中央墓地に埋葬された。前月にフランツ・ヨーゼフ1世が崩御している。
1966年、エドゥアルト・シュトラウス2世がかつてのシュトラウス楽団を「ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団」として再興。

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ワルツ王として成功し、オペレッタ王として生涯を終えたヨハン2世。作品は400を超え、生涯にワルツ159曲、ポルカ117曲のほか16曲のオペレッタなどを作曲した。父ヨハンの猛反対で幼少期の音楽教育は受けていないヨハン2世は、ほぼ独学で音楽を勉強し、19世紀ウィーンの陽気さと哀愁を巧みに表現した数々のワルツを作曲した。ヨハン2世は父の時代の緩やかで軽妙な舞曲と、ウィーン古典派の高い芸術性を合わせ、ワルツを芸術音楽の域に高めた。
法律家協会、医師会、技術家協会、芸術家協会などが公開舞踏会を催す際はヨハン2世に新曲の依頼があり、その多忙ぶりから「いつも夜会服を着て暮らす男」と呼ばれた。 ヨハン2世は過労で倒れたことで、弟ヨーゼフと末弟エドゥアルトを半ば強引に音楽家としてデビューさせたが、結果的に2人の才能を引き出すことに成功した。



★ガーシュウィン/George Gershwin 1898.9.26-1937.7.11 (USA、NY郊外 38歳)2000&09
Westchester Hills Cemetery, Hastings-on-Hudson, Westchester County, NewYork, USA /400 Saw Mill River Road




 
ジャズとクラシックを融合! 彼の墓は正門をくぐるとすぐ右側に見えてくる





庭師たちが墓前の木陰でちょっとひと休み(2000) 9年後に再訪。緑が美しかった(2009) 扉から中を覗くとジョージの名前が見える

クラシックとジャズの融合に成功したアメリカの作曲家。ミュージカルとポピュラー音楽の両分野で名曲を書き、生涯に約500作にのぼる歌曲を手がけた“20世紀のシューベルト”。
1898年9月26日、ニューヨークのブルックリンにユダヤ系ロシア移民の貧しい商人の次男として生れる。本名、ジェイコブ・ガーショヴィッツ。この年、スコット・ジョプリン(当時30歳)がラグタイムの最初の全米大ヒット曲『メープル・リーフ・ラグ』を作曲。欧州では2年前にブルックナー、前年にブラームスら巨匠が他界している。また、ガーシュウィンが1歳の時にワルツ王ヨハン・シュトラウス2世が没している。

小学生の頃、弟がバイオリンで弾いたドヴォルザークの「ユーモレスク(奇想曲)」を聴き初めてクラシック音楽に触れた。両親は音楽と無縁だったが、12歳のときに父が兄アイラのために買った中古ピアノを弾いて遊ぶようになり、翌年から正式にピアノと和声を習い始めた。
ピアノの腕前はめきめき上達し、16歳の時に商業高校を中退してマンハッタンのティン・パン・アレー(Tin Pan=釜鍋を叩く音=楽譜出版社街)のピアニストして新曲宣伝係をつとめた。この当時、レコードはまだ高価であったため、音楽産業の中心は楽譜販売であり、各会社は売り場に試演ピアニストを置き、客がその場で聴けるようにしていた。ガーシュウィンはこの仕事を通して様々な楽曲に触れ、とりわけ仕事場の近所のカフェで演奏されるラグタイムに魅了された。
1916年(18歳)、独学で作曲を学び、歌曲『欲しいときには手に入らない、手に入ったときはもう欲しくない』を書き、楽譜が発売され5ドルの報酬を得た。
※『欲しいときには手に入らない、手に入ったときはもう欲しくない』
https://www.youtube.com/watch?v=WKXtleLs4-c
1919年(21歳)にラグタイム風の楽曲『スワニー』を作曲(作詞アーヴィング・シーザー)、人気歌手アル・ジョルソンに歌われて楽譜の売り上げは100万枚を突破、弱冠21歳にしてブロードウェー・ミュージカルの作曲者として名声を得た。
同年、弦楽四重奏のための約7分の小曲『子守歌(ララバイ)』を作曲。
1922年(24歳)、初のオペラ『ブルー・マンデー』を発表。ハーレムを舞台にした全1幕の短い恋物語だが、批評家から「黒塗り役者による前代未聞の馬鹿げた芝居」と酷評され大失敗に終わる。ガーシュウィンは力不足を思い知らされ、和声や管弦楽法を学び直した。『ブルー・マンデー』は3年後にグローフェが編曲し『135番街』のタイトルで再演された。
1923年(25歳)、ロンドン旅行の際、パスポートを見たポーターから「『スワニー』の作曲家ですか」と質問され、ガーシュウィンは欧州でも名前が知られていることに感激した。
1924年(26歳)、この当時ニューヨークのコンサート・ホールで演奏されるのは、チャイコフスキーやドボルザークなど欧州の音楽ばかりであったため、国民の間にはアメリカならではの音楽を待ち望む空気があった。そこで、アメリカの最初のジャズ王であり、ジャズ・バンドリーダーのポール・ホワイトマンが『新しい音楽の試み/アメリカ音楽とは何か』という音楽祭を考案、新聞紙上に「このコンサートに向けてガーシュウィン氏がジャズ風のピアノ協奏曲を制作中」と広告を打った。寝耳に水のガーシュウィンがホワイトマンに怒って断りの電話を入れると、「既に新聞に告知してしまい後戻りできない」と説き伏せられ、依頼を受けることにした。

この演奏会は国民の大きな期待を集めていたことから、ガーシュウィンの創作欲を刺激した。ガーシュウィンはラグタイムやブルースを吸収した魂を土台に、ダンス用の低俗な音楽と軽視されていたジャズとクラシックをひとつに融合し、アメリカを音で描いた歴史的名曲『ラプソディ・イン・ブルー』を約2週間で書きあげた。曲のイメージが浮かんだときの気持ちをガーシュウィンはこう語っている「ピアノの鍵盤に触れたとたん、指先からメロディーが流れ落ちてきた」「私にはこの音楽がアメリカの万華鏡のように聞こえる。我らが巨大な人種のるつぼの、我らがブルースの、我らが都会的狂騒の音楽的万華鏡として」。ラグタイムのノリの良さ、デキシーランドジャズの明るい高揚感、ブルースの哀愁、すべてがそこにあった。当時のガーシュウィンはオーケストレーションにまだ自信がなかったため、6歳年上の作曲家ファーディ・グローフェ(1892-1972)がオーケストレーションを担当した。
翌日の新聞は「アメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人のための作品が誕生した」と激賞。この曲はシンフォニックジャズ、ジャズ協奏曲として大衆からも批評家からも支持され(一部の保守的な批評家は「クラシックの冒涜」と叩いた)、ガーシュウィンがクラシックとジャズの橋渡し役となった結果、クラシック界はジャズの要素を取り入れ始め、ジャズもクラシック音楽の手法を使い始めた。初演時の客席にはストラヴィンスキー、ラフマニノフ、スーザなどがいた。『ラプソディー・イン・ブルー』は海を越えてラヴェルなど欧州の作曲家に多大な影響を与えていく。
『ラプソディー・イン・ブルー』は大成功したものの、ガーシュウィンは音楽学校に通ったことがないため自身の作曲法と管弦楽法の不備を痛感し、あらためて複数の音楽家に師事するなど知識を深めた。
同年、ミュージカル『レディ・ビー・グッド』を作曲し、挿入歌の『ザ・マン・アイ・ラブ(邦題:私の彼氏)』が後に単独で人気を得ていく。このミュージカルは読書家の兄アイラ・ガーシュウィンが作詞を担当しており、ガーシュウィン兄弟は数々の名歌を生み出していく。
1925年(27歳)、ニューヨーク交響楽団(現ニューヨーク・フィル)の依頼で『ピアノ協奏曲ヘ長調』を作曲。カーネギー・ホールにて作曲家自身がピアノを弾いた。本作はオーケストレーションを他人に頼まず、ガーシュウィン自身が管弦楽も書きあげた。
1926年(28歳)、ジャズやブルースの語法を持ったピアノ曲集『3つの前奏曲』を作曲。様々な楽器のために編曲され、20世紀アメリカ音楽の古典となった。同年、ミュージカル『オー・ケイ!』を作曲、挿入歌『サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー(邦題:やさしい伴侶を)』がヒット。
1928年(30歳)、ガーシュウィン自身のパリ旅行の紀行文とも言うべき標題音楽『パリのアメリカ人』を作曲。陽気なアメリカ人が好奇心いっぱいにパリの街を歩く様子、ウキウキした気持ちが全編から伝わってくる。車のクラクションの描写などユーモアもあり、『ラプソディ・イン・ブルー』に次ぐガーシュウィンの人気器楽曲に。
※『パリのアメリカ人』 https://www.youtube.com/watch?v=A_6Jdl08UK8 バーンスタイン指揮
この年、『ボレロ』を発表した作曲家ラヴェル(当時53歳)が初めてアメリカを訪問。ガーシュウィンがオーケストレーションのコツについて尋ねると、ラヴェルは「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」と教えられた。

1930年(32歳)、ミュージカル『ガール・クレイジー』(後の『クレイジー・フォー・ユー』)を作曲、挿入歌の『アイ・ガット・リズム』『バット・ノット・フォー・ミ』『エンブレイサブル・ユー』がヒット。ジャズの要素をもりこんだ『アイ・ガット・リズム』(作詞アイラ)を発表し、後にジャズのスタンダード・ナンバーとなる。本作の独特なコードの進行は「リズムチェンジ」として有名。
※『アイ・ガット・リズム』ガーシュウィン自身のピアノ演奏
https://www.youtube.com/watch?v=1bKstQNsQKc
1931年(33歳)、アメリカの政治の風刺劇『オブ・ジー・アイ・シング(邦題:君がために歌わん)』で、ミュージカル初のピュリッツァー賞戯曲部門受賞。作詞はアイラ。441回も上演され興行的に成功した。
同年、ピアノとオーケストラのためのシンフォニック・ジャズ『第2のラプソディ(狂詩曲第2)』を作曲。
※ピュリッツァー賞…アメリカの文化賞。ジャーナリズム、文学、演劇、音楽の4分野21部門における年間のすぐれた業績が対象。新聞経営者ジョーゼフ・ピュリッツァーがコロンビア大学に遺贈した寄付金の利子を基金として1917年に創設された。毎年5月にコロンビア大学学長が授与する。
1932年(34歳)、キューバ旅行でルンバに魅了されたガーシュウィンはボンゴやマラカスを購入、これらを打楽器に加えた『キューバ序曲』を作曲。シンフォニックで華やかな作品。
1935年(37歳)、ガーシュウィンはミュージカルで高い評価を得たが、作曲家としての社会的地位はクラシックよりも低く見られていた。そして彼は13年前、若き日にオペラ『ブルー・マンデー』で失敗していた。ガーシュウィンは音楽界で最高峰とされるオペラで勝負する腹を決める。ヴェルディのようなイタリア語オペラ、ワーグナーのようなドイツ語オペラではなく、アメリカの言葉で書かれた大作オペラ、「アメリカのフォーク・オペラ」(ガーシュウィン)を生み出そうとした。そして、ジャズ、黒人民謡、ポピュラー、クラシックなど多様な音楽を高次元でミックスした全3幕9場の傑作オペラ『ポーギーとベス』を書きあげる。当時は人種差別がはびこっていたが、ガーシュウィン自身もユダヤ人として差別されていたため黒人への共感を感じていた。ガーシュウィンは“オール黒人キャスト”という挑戦的な舞台にした。ガーシュウィンは実際に南部の港町チャールストンを訪れて黒人音楽や日常生活の売り子の節といった風習まで心血を注いで研究し、黒人の村をリアルに描きあげた。麻薬に溺れたチンピラの情婦と足の不自由な障がい者の物乞いの恋という馴染みのない設定に初演のボストン公演では観客が戸惑い不評だったが、10日後のNY公演は観客に心の準備が出来ており作品の真価を認められて成功を収め、その後も評価は高まっていった。ニューヨークでは実に124回もの連続公演を達成した。挿入歌『サマータイム』(デュボース・ヘイワード作詞)は翌年にジャズ・シンガーのビリー・ホリデイが歌って大ヒットし、現在までに2600以上ものカヴァーが発表される人気曲となった(ジャンルを超えロックのジャニス・ジョプリンにも名唱がある)。挿入歌では『くたびれもうけ』『俺にはない物ばかりだぞ』『それがそうとは決まっちゃいない』も人気に。

※ポーギーとベス…原作は作家デュボース・ヘイワード(1885-1940)の小説『ポーギー』。その舞台版を兄アイラと協力してオペラ化した。舞台は1930年代の南部チャールストンの海辺の町、黒人居住区キャットフィッシュ・ロウ(なまず横丁)。冒頭、赤ん坊を抱いた漁師の妻クララが子守歌で『サマータイム』を歌う。彼女は子供の成長を願い「♪夏になったよ…豊かになれる、魚は跳ねて、綿の木は伸びる。父さんは金持ち、母さんはきれい。だから坊や、泣くのはおよし。やがてある朝、お前は歌いながら立ち上がる、そして翼を広げて飛んでいく。その日が来るまではお前は心配ないんだよ、父さん母さんがついてるからね」と歌う。
ある日、情婦ベスの内縁の夫、ならず者のクラウンが賭博で争い相手を殺し逃亡する。ベスに想いを寄せていた足の不自由な乞食のポーギーは、独りぼっちになったベスを家にかくまい一緒に暮らす。その後、村に戻ったクラウンとポーギーは乱闘になり、ポーギーはクラウンを殺してしまう。警察に拘留されたポーギーが証拠不十分で一週間後に帰宅すると、ベスはポーギーがいつ帰ってこれるか分からないという不安から、キザな麻薬の売人スポーティング・ライフに誘惑されニューヨークへ向かった後だった。ポーギーは彼女を見つけるためヤギ車を用意して遠いニューヨークを目指し旅立ち終幕となる。
※名歌『サマータイム』は第1幕冒頭と合わせて3回登場する。第2幕では嵐の海でクララの夫が遭難し、不安を打ち消すべく再びクララが『サマータイム』を歌う。そして第3幕では夫を追ってクララが海で死んだために孤児になった赤ん坊をベスが抱っこして『サマータイム』を歌う。悲惨な境遇でも前を向いて強く生きんとする作品を象徴するアリア。
※『ポーギーとベス』 https://www.youtube.com/watch?v=HdRTfqGy9TE 名演!フィナーレのコーラスが壮大

1937年2月、ガーシュウィンは指揮台で突然バランスを崩し、このときは軽い疲労と思われた。5月、ガーシュウィン兄弟が音楽を担当したミュージカル映画『踊らん哉』が公開される。主演はフレッド・アステアとジンジャー・ロジャース。ガーシュウィンの体調は次第に悪化し、頭痛と吐き気、意識障害の回数が増え、7月9日に脳腫瘍のため昏睡状態となる。翌日に開頭手術が行われたが、7月11日、再び目覚めることなくなりカリフォルニア州ビバリーヒルズで他界した。享年38。遺作は寸劇を集めた映画『華麗なるミュージカル』(The Goldwyn Follies)の音楽だが日本未公開。
1945年、ガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』公開。翌年、戦争後に日本で劇場公開された最初のアメリカ映画となった。
1951年、ガーシュウィンの音楽を全編に使ったミュージカル映画『巴里のアメリカ人』(主演ジーン・ケリー)が公開され、アカデミー作品賞など最多6部門を受賞。
1957年、ルイ・アームストロングとエラ・フィッツジェラルドが『ポーギーとベス』から15曲をジャズアレンジしてアルバムにし、翌年マイルス・デイヴィスとギル・エヴァンス・オーケストラも同オペラから13曲をアレンジ。
1965年、ガーシュウィンが『ラプソディー・イン・ブルー』で切り開いたシンフォニックジャズに答える形で、ジャズ界からはデューク・エリントンが『シンフォニック・エリントン』を発表した。

〔墓巡礼〕
ガーシュウィンは38年という短い生涯の中で、500曲もの歌曲、50曲のミュージカル、10曲のピアノ曲、7曲の管弦楽曲、4曲の映画音楽、2曲のオペラと室内楽曲を残した。ガーシュウィンの音楽が音楽史上で意義を持つ理由は、芸術的な音楽の立場から民族的なジャズ要素を加えたのではなく、ジャズそのものを芸術的な水準にまで高めたところにある。アメリカのジャズの手法と管弦楽の豊かな音響効果を巧みに融合させ、近代音楽史上、唯一無二とも言うべき足跡を残した。

お墓はニューヨークの「ウェストチェスター・ヒルズ墓地」にある。マンハッタン中心部から30kmほど北、市内バスの「0005」番線のバス停「マウントホープ墓地」で降車すると、目的の「ウェストチェスター・ヒルズ墓地」の正門が目の前にある。「マウントホープ墓地」は隣接する巨大墓地のこと(バス停の名前が変わっている可能性があるので運転手さんに要チェック)。正門をくぐるとすぐ右側にガーシュウィン家の霊廟が見えてくる。扉のガラスを覗くと中段あたりの壁面に「ジョージ・ガーシュウィン」の名前が見えた。

※現代音楽の作曲家シェーンベルクと親交があり、テニスを楽しんだり肖像画を描いて送ったという。
※「ガーシュウィンこそ唯一、真のアメリカ音楽だ」(トスカニーニ)



★ロベルト・シューマン/Robert Alexander Schumann 1810.6.8-1856.7.29 (ドイツ、ボン 46歳)1989&1994&2015
★クララ・シューマン/Clara Josephine Wieck-Schumann 1819.9.13-1896.5.20 (ドイツ、ボン 76歳)1989&1994&2015
Alter Friedhof, Bonn, Germany






16歳のクララ ヨーロッパ最大の女性ピアニスト! 作曲家でもあった 女手一つで7人を育てる







青春時代のシューマン クララと炎の大恋愛 有名なポートレート 1847年、37歳と28歳 クララに夢中のブラームス




ボン旧墓地の中央部に眠る 上部のレリーフ クララとよく似たミューズ





1994年 手前に2人の名前 シューマンが身を投げた、父なるライン川

ロマン主義運動の旗手を自任したドイツの作曲家。1810年6月8日生まれ、ザクセン出身。5人兄弟の末子。書籍商の父は少年シューマンをベートーヴェンの交響曲や著名ピアニストの演奏会に連れて行き、シューマンは音楽の素晴らしさを早くに知った。父はシューマンの楽才に気づいてピアノを買い与え、彼はピアノに夢中になった。7歳頃にピアノ曲を作曲し、11歳で合唱と管弦楽からなるオラトリオ(宗教音楽)を書いている。シューマンは早くから文学にも目覚めており、15歳でドイツ文学サークルに入りゲーテやシラーを愛読、中でもジャン・パウルの小説に熱中した。この頃、ピアノ連弾でベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を演奏。16歳の時に姉が川で入水自殺し、同年に父も他界しショックを受ける。1827年、17歳の年にベートーヴェンが死去。
1828年(18歳)、友人と旅行して詩人ハイネに会う。この年、シューマンの自作詩が夕刊に掲載された。母の意向で法律家になるべくライプツィヒ大学の法学部に進んだが、音楽好きの学友たちと室内楽(シューベルトのピアノ三重奏曲第1番など)の演奏に熱中し、学業がおろそかになっていった。
夏にライプツィヒの知人家の音楽会で、シューマンはピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク(1785-1873)と娘クララ(ドイツ語ではクラーラ/1819-1896)の父娘と運命的な出会いをする。クララはまだ9歳だったが、5歳から父の指導を受け、この年にゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でモーツァルト・ピアノ協奏曲を弾き大成功を収めていた。彼女はプロデビューを果たし、神童としてドイツ全土に名が知れ渡っていった。
同年11月にシューベルトが31歳で夭折。シューマンは「私だけのシューベルト」と語るほどシューベルト作品を好んでいたため、訃報に接し一晩中泣いたという。

翌年、ハイデルベルク大学に転校すると、シューマンはピアノの名手として当地で評判になり、バーデン大公妃に招かれて演奏を披露した。自由な学生の街ハイデルベルクでシューマンは青春を謳歌し、酒を飲み葉巻を吸った。
1830年(20歳)、友人と訪れたフランクフルトで天才ヴァイオリン奏者パガニーニ(1782-1840)の演奏を聴き深く感動し、母に法律を捨て音楽で身を立てる決意を伝えた。母が反対したことから、ピアノの師ヴィークがシューマンの母に息子の音楽的才能を保障し、住み込みでレッスンさせることを約束した。10月、ライプツィヒのヴィーク家でシューマンの新たな生活が始まった。ヴィークのレッスンは極めて厳格で容赦なかった。この年、公式に作品番号1となったピアノ曲『アベッグ変奏曲』を作曲。
1831年(21歳)、シューマンは無理な練習がたたって右手の指を負傷し、ピアニストになる夢を断たれてしまう。その後は作曲と音楽評論に力をそそいだ。同年、ジャン・パウルの小説に霊感を得たピアノ曲『蝶々(パピヨン)』を書く。一方、12歳になったクララはヨーロッパ各地で演奏を行い、先々で皇帝から市民まで聴衆を感動させた。シューマンはクララに手紙を書く。「私はよくあなたのことを考えます。妹や女友達としてではなく、巡礼者が遠く離れた祭壇画に想いを馳せるように」。

1832年(22歳)、同い年のポーランド人ショパン(1810-1849)の演奏(『ラ・チ・ダレム変奏曲』)を聴いたシューマンは「諸君、脱帽したまえ、天才だ」とショパンを讃える論文を音楽雑誌『一般音楽新聞』(ドイツ最初の音楽雑誌)に寄稿、これが最初の音楽評論となる。ただ、同誌は保守的で、以降、シューマンの寄稿は掲載されなくなっていった。同年、13歳のクララが作曲したオーケストラ曲が演奏されている。
最初の交響曲『ツヴィッカウ交響曲』に着手するが未完成に終わる(第2楽章まで完成)。この曲は第1楽章のみが初演され、これが作曲家シューマンのデビュー作となった。
1833年(23歳)、兄夫婦が相次いで病死。シューマンは後に生命を奪うことになる精神病の最初の兆しを日記に記した。「10月から12月にかけ、怖ろしい憂鬱病に悩む。気が狂うという固定観念が僕をとりこにした」。シューマンは“思考力を失ったらどうなるのだろう”と怯え、医者に「自分の生命に暴力をふるわないと約束できない」と相談した。

1834年(24歳)、ドイツの保守的な音楽批評に風穴を開け、若い音楽家の作品に耳を傾けさせる目的で友人らと『新音楽時報』を創刊(なんと現在も隔月で刊行中)。同誌で10年間ペンを執り、闘士風のフロレスタン、詩人風のオイゼビウスといったペンネームで新進音楽家ショパン、メンデルスゾーン、ベルリオーズらを世に紹介した。『新音楽時報』はドイツでもっとも影響力のある音楽雑誌に成長していった(後にワーグナーも編集部員となった)。シューマンは作曲家としてよりも批評家として最初に名声を得た。同年、ヴィークの新しい弟子、18歳のエルネスティーネ・フォン・フリッケンがヴィーク家に住み込み、シューマンと彼女は恋愛関係となり半年で婚約まで進む。だが、後に両者の合意で婚約は解消された。理由は彼女の複雑な家庭事情と、シューマンがクララへの愛に気づいたこと。

シューマンのピアノ曲はその多くが短い小品を集めた組曲形式をとり、小規模な枠組みの中でひとつの世界観を描いている。1835年(25歳)に書かれた全20曲の初期の傑作『謝肉祭』はエルネスティーネとの恋愛から生まれた。同年、初めてソナタ形式の大作に挑んだ『ピアノソナタ第3番』はクララに献呈された。技巧的で華やかな5楽章の『ピアノソナタ第3番(グランドソナタ)』には“管弦楽のない協奏曲”のタイトルが付けられた。 エルネスティーネの父が作曲した主題を使った変奏曲『交響的練習曲』(1837年)もオーケストラの響きを持つ名曲として知られる。
※『ピアノソナタ第3番』 https://www.youtube.com/watch?v=yao2dGk4alM (20分)

この年、ひとつ年上のメンデルスゾーンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任し、暮れに15歳のクララがメンデルスゾーンの指揮で、彼女が書いた『ピアノ協奏曲第1番』を演奏した。

エルネスティーネと別れた後、それまで兄妹のようだったシューマン(25歳)とクララ(16歳)は恋愛関係になっていく。クララの父ヴィーク(50歳)は弟子と愛娘の関係に気づいて驚愕した。ヴィークはクララが幼い頃に歌手の妻と離婚しており、ヴィークにとって彼女は男手一つで育てた宝物だった。コンサート・ピアニストとして活躍させるのが夢であり、主婦として家庭に入るなど考えられなかった。前年にクララは15歳にして3楽章の『ピアノ協奏曲』を完成させており、作曲家としても前途有望だった。
1836年(26歳)、ヴィークが2人を引き離すためクララをドレスデンに引っ越しさせると、シューマンは彼女を追ってドレスデンに行き4日間を2人で過ごした。直前にシューマンは母を失っており人恋しさが増していた。この密会を知ってヴィークは激怒し、クララをライプツィヒに連れ戻すと、手紙の検閲を行い、単独外出禁止を命じた。シューマンはヴィーク家に出入り禁止となる。
ヴィークは娘を失う恐怖のあまり、「シューマンは大酒飲み」とデマを流して新聞で中傷し、街角でシューマンを見かけると罵詈雑言を浴びせて唾を吐きかけ、クララの声楽教師にクララの恋人役を演じさせようとするなど、異常な行動を取るようになった。父想いのクララは「このままでは父は死んでしまう」といったん別れを決意し、シューマンの手紙をすべて送り返した。

1837年(27歳)8月、シューマンを心から愛していたクララは、自分の演奏会でシューマンが献呈してくれた『ピアノソナタ第1番』を弾き、その数日後に結婚を承諾する手紙を彼に送った。この婚約を踏まえ、翌月、シューマンはヴィークと話し合うために面会を求める手紙を書く。結果はシューマンいわく「会見は僕への敵意に満ちた恐るべきものでした」「父上は人の胸に言葉の刃物を突き刺してくるのです」。ヴィークはシューマンの収入面も懸念しており、結婚は許可されなかった。クララの手紙「父の無礼な振る舞いの数々を心苦しく思います。私を幸福に出来るのは愛だけです。あなたのためだけに生き、すべてをあなたに与えましょう」。シューマン「どちらか一人を君は諦めねばならない。父か、それとも私か」。

1838年(28歳)、クララと会うこともできず、苦悩の日々を送るシューマンだったが、彼女への想いを作品に昇華することで次々と傑作が生まれていった。「トロイメライ」を含む優しさあふれるピアノ曲集『子供の情景』は、少女時代のクララを思い浮かべて書かれた。ひとつ年下のフランツ・リスト(1811-1886)は『子供の情景』に感動し、シューマンへの手紙に「この曲のおかげで私は生涯最大の喜びを味わうことができた」「週に2、3回は娘のために弾いています」「しばしば第1曲を20回も弾かされ、ちっとも先に進みません」と書き綴った。ショパンに献呈された傑作『クライスレリアーナ』は、ホフマンの著作に登場する人物にクララの姿を重ね合わせて書かれた。『幻想曲 ハ長調』はボンにベートーヴェン記
念像を建てるための寄付金目的で書かれたが、ベートーヴェンの歌曲『遥かなる恋人に寄す』を引用することでクララへの想いを込めた。前年には各曲に文学的な標題が付いた抒情的なピアノ曲集『幻想小曲集』を作曲している。

同年秋から半年間、シューマンはウィーンに滞在した。そして敬愛するベートーヴェンとシューベルトの墓参りを実現させた。このときベートーヴェンの墓前で鉄製のペンを拾い、後にこのペンで交響曲第1番が書かれる。生前のシューベルトの話を聞きたくてシューベルトの兄の家を訪ね、そこで遺稿の中から『交響曲第8番“ザ・グレート”』の草稿を見つけるという大発見をする。シューマンは“ザ・グレート”を「天国的な長さ」と紹介、数ヶ月後にライプツィヒにてメンデルスゾーンの指揮で初演され空前の成功を収めた。
一方、クララは10代後半にしてその名がヨーロッパ中に伝わり、演奏を聞いたショパンは「僕の練習曲集を弾ける唯一のドイツ人女性」と激賞。オーストリア皇帝フェルディナント1世から最も栄誉ある「王室皇室内楽奏者」(外国人女性で初)の称号を授与され、ゲーテからは「才能ある芸術家クララ・ヴィークのために」と銘文が刻まれたメダルを贈られた。クララは当時では珍しい女性作曲家でもあり、リストはその独創性を讃えてクララの3つの歌曲をピアノ独奏曲に編曲した。
この年6月20日の手紙「クララ、君はもっと早く僕と一緒にならなければいけない。性急だと言わないでほしい。1分でも遅れたら死ぬも同然だ。これ以上は耐えられない」。9月、クララはリサイタルで左手の薬指に指輪をしてステージに出た。シューマンは感動を手紙に綴る「昨日、僕はずっとステージの君を見ていた。何という指輪の輝きだったろう。君をしっかり、しっかり抱きしめたい。美しい心と完璧な偉大な芸術を備えた我がクララ」。

1839年(29歳)6月、クララは経済上の不安に触れた手紙を書く「父はあなたが生活の成り立つ未来を約束できると分かり次第、すぐにでも同意してくれるそうです。実際、(生活費の)心配のために素晴らしい芸術家の生活が曇ると、あなたはご自分をとても不幸と感じるでしょう。そのようなことからあなたを守ることが私の義務と心得ています」。シューマンは自尊心が傷つく。「まるで死者のように冷たい手紙だった。友人たちはみんな僕への愛を疑っている。愛するクララ、もっと慎重に言葉を選んで欲しい」。その2週間後、言い過ぎたと思ったのか次の手紙を出す「いつも側にいてもらうためには、僕は自分を高めなければ。君の心には大きく豊かな愛が宿っている。たくさんの美しい特性がそこにある」。
ヴィークは「シューマンが求婚を諦めないなら撃ち殺す」と語っており、もはや和解は不可能と悟ったシューマンは、7月、裁判で結婚許可を得るべく、クララの同意のもと訴訟に踏み切った。訴状にはシューマンとクララのサインがあった。シューマンの手紙「今なら君が僕を誠実に愛してくれていると実感できる。君が署名しているところを見たから。愛しいクララ、この世が君にとってずっと良きものであってほしい!」。憤慨したヴィークはクララを家から追い出し、彼女はベルリンの実母に引き取られた。ヴィークは街でシューマンに平手打ちを食わせ、偽名を使ってシューマンの悪口を並べ立てた手紙を書き、クララに送りつけた。この手紙にはさすがのシューマンも怒ってヴィークを名誉毀損で訴える。

高名なメンデルスゾーンまでがシューマンに有利な証言をしたことから、ヴィークは法廷闘争を諦め、1840年8月12日、裁判所から待望の結婚許可が下された。ヴィークは偽手紙の件で2週間の禁固刑に処された。判決から1カ月後の9月12日にシューマン(30歳)とクララ(20歳)は結婚し、クララは翌日に21歳の誕生日を迎えた。リストも結婚式に駆け付けた。クララの結婚承諾から3年を経てのゴールインだった。シューマン夫妻は共通の日記を付け、日々の出来事や悩みごとを書き記し、日曜日のコーヒータイムに一週間分を朗読し、2人で生活改善に向け何をすべきか話し合った。
1ページ目はシューマンが書いた。「2人の願いや悩みを記そう。お互いに対する希望のノートだ。2人に誤解が生じたときは仲介と和解のノートにしよう。ここに全てを打ち明け心を開こう。そして日曜日には一週間を振り返り、品位があり活動的だったかどうか、内面的にも外面的にも満たされた状態で安定していたか、僕たちの愛すべき芸術がさらに完璧に近づいていったかどうかを吟味しよう」。続く第一週。「あふれんばかりの幸福。妻は真の宝で、しかも日増しに大きくなる。君はどれほど僕を幸福にしているかしっかり感じて欲しい。初めての料理も素晴らしく美味しかった」。クララの最初のページ「私は今までにこれほど幸福な日々を経験したことはありません。私はこの世で一番幸福な妻なのです。私は毎分ごとにあなたをさらに愛するようになっていく気がします」。

シューマンは当初ピアニスト志望だけあってこれまでピアノ曲を中心に作曲していたが、この結婚の年に歌曲の創作に目覚め、1840年は彼にとって“歌の年”となった。シューマンいわく「ほかの音楽には全く手がつかなかった。私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」。わずか一年のうちに、実に120曲以上もの歌曲を生み出した。アイヒェンドルフの詩による『リーダークライス』、ゲーテ他の詩人の詩による『ミルテの花』、シャミッソーの詩による『女の愛と生涯』、ハイネの詩による『詩人の恋』などの連作歌曲を次々に書きあげた。これらは詩の行間まで美しく繊細な音楽で描写され、ピアノの役割は単なる歌の伴奏ではなく、歌とピアノが対等の立場で詩の世界を表現した。
新婚の2人は一緒にバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を研究し、次にベートーヴェンの弦楽四重奏曲を読み込んだ。

1841年(31歳)、『交響曲第1番“春”』が完成、シューマンは日記に「このような大曲をかくもたやすく、かくも短期間に完成させたまう神に感謝する」と綴った。初演は成功を収め、以降シューマンが本格的に交響曲を書き始めた点から、本年は「交響曲の年」と呼ばれる。長女が生まれ、生活費のためにクララは演奏旅行の回数を増やした。
1842年(32歳)、リストの勧めで室内楽曲の研究を開始、渋みが光る『ピアノ五重奏曲』を6日間で、朗々とした『ピアノ四重奏曲』を5日間という驚異的な速筆で書きあげた。本年は「室内楽曲の年」と呼ばれる。同年の北ドイツの演奏旅行で、クララだけが宮廷に招待され、傷ついたシューマンは一人ライプツィヒに戻った。同年、シューマンは過労で倒れボヘミアの温泉で療養した。

1843年(33歳)、ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者メンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院の講師に招かれ『新音楽時報』を去る。ベルリオーズとの交流で創作欲が刺激され、同年、エジプトやインドを舞台にしたオラトリオ『楽園とペリ』を完成させ、初演で大成功を収めた。名声を手に入れたシューマンのもとへ、クララの父から「親愛なるシューマン、対立していても芸術において私たちはつねに一つでした」と和解を求める手紙が届いた。年末に両者は長年の確執を超えついに和解し、クララは「これでようやく私の切なる願いが聞き届けられました」と喜びを日記に記す。子ども達はお爺ちゃん(ヴィーク)からクリスマスプレゼントをたくさん買ってもらった。
1844年(34歳)、5カ月に及ぶロシア訪問。クララはショパン、リスト、アントン・ルビンシテインと並ぶ19世紀の最も有名なピアニストの一人であり、帝都サンクトペテルブルクでロシア皇帝の前で御前演奏を行った。かたやロシアでは知名度の低かったシューマンは「ピアニストの夫」という扱いに終わった。シューマンは現実を受け入れた。「芸術家が結婚すれば、当然そうなるに違いないのだ。結局のところ、大切なのは幸せをずっと永続きさせることである」。
だが、シューマンは帰国後に重度の神経疲労に陥った。高所恐怖症、体の震え、鋭利な金属への恐怖症に苦しみ、幻聴が作曲を不能にした。クララは夫が恐ろしい妄想で一睡も眠れず涙に暮れている姿を見て胸を痛めた。シューマンは環境を変えることを決意し、ライプツィヒ音楽院の職を辞しドレスデンに転居した。

1845年(35歳)、ドレスデンは音楽家の地位が低く、保守的な空気が支配しておりシューマンを失望させたが、それでも4年がかりの労作『ピアノ協奏曲イ短調』を書きあげた。初演でクララがピアノを弾いたこの曲は、豊かな音色が奔流となって聴く者を包み込む名曲で、シューマンの代表曲のひとつとなった。年末の演奏会で病気のクララの代役で登場した14歳の天才ヴァイオリン奏者ヨーゼフ・ヨアヒムは、後にシューマンとブラームスを巡り合わせる。
翌1846年、幻聴と戦いながら『交響曲第2番』を完成させ、1847年(37歳)に『ピアノ三重奏曲』を書いた。この時期、夫婦には4人の子がおり、生活費を稼ぐために演奏旅行を繰り返した。だが、ウィーンの演奏会は不評で、楽屋で荒れるクララをシューマンが「落ち着きなさい、10年経てばすべてが変わるよ」となだめた。 ウィーンから帰ると長男が1歳で早逝、秋には
盟友メンデルスゾーンが38歳の若さで他界し、シューマンには辛い出来事が続く。その中で、生まれ故郷ツヴィッカウで開催されたシューマンを讃えた記念祭が慰めになった。
1848年(38歳)、おそらく長男の追悼の想いを込めたのであろう、「楽しき農夫」を含む『子供のためのアルバム』を作曲。同年6月、シューマン家をリストが訪問した。37歳のリストは強烈な上昇志向を持ち、皮肉屋の一面があった。シューマンがセッティングした晩餐会を2時間も遅刻してきたうえ、シューマンの親友かつ前年に他界したばかりのメンデルスゾーンの批判を始めた。リストはメンデルスゾーンの2つ年下だ。怒りの沸点に達したシューマンは両肩を鷲掴みにし、「そんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫び部屋を出ていった。リストはクララに謝罪した。「ご主人は、私がきつい言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」。この騒動にもかかわらず、リストはシューマンの作品を積極的に演奏し続け、後にシューマンはリストへの手紙に「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と書いて水に流した。
1849年(39歳)、オペラ『ゲノフェーファ』を発表するが台本に一貫性がなく不成功に終わった。劇付随音楽『マンフレッド序曲』完成。

1850年(40歳)、バッハ没後100年。「バッハは芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」「我が手本とする双璧はバッハとベートーヴェン」「バッハには到底かないません。彼は桁違いです」とバッハを崇拝していたシューマンは、バッハ作品がほとんど出版されていない現状に憤り“バッハ協会”設立のために奔走した。
同年、デュッセルドルフの音楽監督を引き受け、秋にドレスデンから移住。憂鬱なドレスデンの日々が終わり、ライン河畔で明るい新生活がスタートしたことに胸を弾ませ、『交響曲第3番“ライン”』を1カ月強で書きあげた。シューマンには『交響曲第4番』もあるが、そちらは出版が10年以上も遅れた作品であり、時系列ではこの『ライン』が最後の交響曲となった。病気については、宿の2階の部屋にいられないほど高所恐怖症が悪化していたが、2週間で『チェロ協奏曲』を作曲するなど創作能力は研ぎ澄まされていた。

1851年(41歳)、シューマンは神経の発作に悩まされながらも、4日間で『ヴァイオリンソナタ第1番』を、一週間で『ピアノ三重奏曲第3番』を完成。7人目の子が生まれ、クララは演奏家と母親、妻の両立に追われた。
1852年(42歳)、神経症が悪化し言語障害も出て創作活動が滞る。当初はシューマンに好意的だったデュッセルドルフの音楽関係者は、指揮棒を落としたり、楽団員との意思疎通が不得手なシューマンを批判し、オーケストラの理事会は音楽監督職の辞任を求めて総辞職した。

1853年(43歳)、9月に当時20歳のブラームスがヨアヒムの紹介状を持って訪れてきた。ブラームスが自作のピアノソナタを弾き出すと、シューマンは才能に驚いてすぐにクララを呼びに行き「もう一度最初から弾いてくれ」と頼んだ。翌月、その興奮を胸に10年ぶりに『新音楽時報』に寄稿、「新しい道」と題してブラームスを熱烈に賞賛、彼の名を広く楽壇に紹介した。ブラームスにとってシューマンは生涯の恩人となった。ヨアヒムに触発され遺作となる『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。
同年秋、シューマンの病気が進行し、演奏を開始できないという事件が起きる。それまでも楽団員に演奏指示を出せないシューマンの代わりに、クララが「ここは弱く演奏して欲しいと主人は思っています」など代弁していたが、“事件”をヨアヒムはこう証言している。「彼は指揮棒を振り上げたまま立っていて、オーケストラ・メンバーは楽器を構えたまま、いつ弾き始めたらよいかわからないのだった。コンサートマスターと私が手で合図して演奏を開始すると、シューマンは嬉しそうに笑いながらついてくるという有様だった」。この日を最後にシューマンが指揮台に上ることはなかった。麻痺の発作も出て、会話の内容が次第に意味不明になっていった。

1854年2月10日、シューマンは耳の激痛に襲われた。その4日後、レストランで読んでいた新聞を置き「とてもこれ以上読んでいられない。ラの音が鳴りっぱなしで聞こえるんだ」と知人に苦しみを訴えた。クララは日記で「かわいそうなロベルト」と同情する。「彼にはどんな音も音楽に聞こえ、これが止まらなければ気が狂ってしまうと何度も訴えています」。
2月17日、シューマンは天使たちの歌を聴き、翌日は悪魔の幻覚に襲われた。その後は発作と小康状態を繰り返し、26日に「妻子を傷つける前に精神病院に入れてほしい」と訴えた。翌日(2月27日)、クララが医師と話し合っている間にシューマンはガウンとスリッパのままで家を抜け出した。寝室には「2人で結婚指輪をライン川へ投げ入れよう、そして二つの指輪をひとつにしよう」と書き置きがあった。シューマンは橋の上から結婚指輪を投げ込むと真冬のライン川に身を投げた。たまたま落ちるところを目撃した漁師に助けられ一命を取り留めた。クララは妊娠中で非常に疲労していたことから、医師は自殺未遂のことを伏せておいた。翌月、シューマンは自身の希望でボン近郊エンデニヒの精神病院に入院、3カ月後に末子フェリックスが生まれた。
医師はシューマンの神経を刺激しないよう家族に面会を許さなかったが、友人のブラームスやヨアヒムは許可された。ワインを飲んでいたシューマンが、突然「毒が入っている」と床に流しまうこともあった。
当初、シューマン自身は回復して退院するつもりだったが、症状は進行し、常に室内を歩き回り、食事を拒否してやせ衰えていった。翌夏は“バネが壊れた機械のように”ピアノを弾いていた。
1856年6月8日、ブラームスが見舞いに行くとシューマンは足が腫れ上がって寝たきりになり、地図の地名をアルファベット順に並べていた。翌月、クララが生活費を得るために敢行したイギリス演奏旅行から帰宅すると、「患者が存命のうちにお会いになりたければ至急おいで下さい」と病院から容体悪化の電報が届いた。クララは7月27日に着き、シューマンと2年ぶりに再会する。シューマンはクララに微笑みかけ、自由がきかない体で懸命に腕を回した。クララの回想「私はそれを決して忘れません。世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」。
2日後の1856年7月29日午後4時、シューマン他界。享年46。最後の言葉は「おまえ…ぼくは知っているよ」。
翌々日、ボンで葬儀があり、ブラームスら友人が棺を担ぎグリルパルツァーが弔辞を述べた。他界2年後にシューマンの友人でバイオリン奏者のヴァジェレフスキが最初の伝記を出版した。この年、クララは夫がライン川で自殺未遂をしたことを知った。

37歳で夫を失ったクララは女手ひとつで7人の子を育て上げた。女性が作曲することへの偏見が強かったことから作曲をやめてピアニストとして生き、ベルリンを拠点にして精力的に演奏活動をおこなった。そして夫のピアノ協奏曲を広め、また心の友ブラームスの音楽を世間に伝えるべく尽力した。
その後、1872年(53歳)から20年間フランクフルトの音楽院で教師を務める。1879年(60歳)から14年をかけて全29巻のシューマン作品全集が刊行された。1893年(74歳)、クララは夫を精神病のイメージで語られることを避けたい気持ちから、最晩年の病状が悪化していた頃の作品(1853年の『ピアノとチェロのためのロマンス』など)や手紙の多くを廃棄したため、シューマンの支持者にとって大きな損失となった。
クララは76歳まで生き、1896年5月20日に脳出血で没した。ボンのシューマンの墓に葬られ2人は40年ぶりに再会。ブラームスがクララの棺に土をかけた。

シューマン夫妻は旧西ドイツの首都、ボンのアルター・フリードホフ(旧墓地/Alter
Friedhof)に眠っている。ボン中央駅から西へ徒歩1キロ、墓地の門をくぐると墓地の案内図があり、シラーの妻など著名人の墓に印が入っている。敷地は3ヘクタール。右側の壁沿いに1787年7月に他界したベートーヴェンの母親の墓があり(ベートーヴェンは当時16歳)、さらに先に進むと墓地の中央部に白亜のシューマン夫妻の墓が見えてくる。上部にはシューマンの横顔のレリーフがあり、その下に白鳥、左側にヴァイオリンを持つ天使、右側に楽譜を読む天使、下からクララに似た音楽の女神がシューマンを見上げている。シューマン記念碑とも言うべきこの美しい墓は、シューマン没後24年目の1880年に除幕されたもの。その16年後にクララは亡くなった。近年改修の手が入り2016年3月に作業が終わった。
ドイツではひとりひとり独立した個人墓が主流だけど、シューマンとクララは同じ墓に眠っている。シューマンが先立った後、40年間再婚せずにいたからこそ、再び2人はひとつになれた。再婚していれば再婚相手と眠っていただろう。シューマンはクララと再会できて喜んでいるはず。いつまでも墓前にいたくなるような、そんな心温まる墓だった。

「今世紀後半の音楽は、芸術の歴史の中に、後の世がシューマン時代と呼ぶような、そういう時期として入ってゆくに違いない」(チャイコフスキー)
「シューマンは詩人であり、ショパンは芸術家である」(作家アンドレ・ジッド)
「シューマンは実は協奏曲作家だ」(池辺晋一郎)
「シューマンの歌曲は詩と音楽の香気あふれる合一である」(横溝亮一)
「シューマンの交響曲の美しさは、その細部とロマン主義的な精神の燃焼にある」(ドナルド・グラウト)
「シューマンは保守的すぎて、私の考えを受け入れることができない」(ワーグナー)

※シューマンは字が下手だった。クララが初めてシューマンに出した手紙には、追伸に「すぐお返事下さいね。ただ、字は綺麗に、ハッキリと分かるように書いて下さいね」と念押しがある。
※生涯で270曲以上の歌曲を作曲したシューマンは、それまで単なる歌の伴奏という扱いだったピアノの地位を向上させた。ピアノ・パートのこのうえない美しさから「歌の伴奏を持つピアノ曲」ともいわれる。
※シューマン夫妻の物語は『愛の調べ』『哀愁のトロイメライ』『クララ・シューマン  愛の協奏曲』と3度映画化されている。
※ブラームスとクララの物語はタカラヅカの舞台になっている。
※生誕地ツヴィッカウのシューマンの生家はシューマン博物館として公開。
※クララはユーロ通貨導入前の最後の100マルク紙幣の肖像だった。
※シューマン最後の直弟子アデリーナ・ダ・ララ(187-1961)が世界初のシューマンのピアノ独奏作品選集を録音した。
※シューマンの『ピアノ協奏曲』は『ウルトラセブン』の最終回で、『ピアノ五重奏曲』はNHK『映像の世紀』で使用された。
※末子フェリックスはシューマン他界時に2歳であり、ブラームスの子ではないかと噂が飛び交った。
※三男は父の年齢に近い42歳でモルヒネ中毒により衰弱死。
※シューマンの兄弟は全員短命でシューマンより早く没している。
※シューマンの神経症の原因は若い頃に感染した梅毒とする説が有力。
※シューマンが音楽談義をしていたライプツィヒのコーヒー・ハウス「カフェ・バウム」はドイツ最古のコーヒー店として現存。
※クララは父から演奏家は作曲家の意図を尊重した演奏をするべきと教えられており、リストのように自由に装飾する演奏スタイルには否定的だった。
※シューマンの交響曲は一般に雄大さに欠け、楽器の色彩感に乏しく、楽器の特性を引き出してないと評されるが、そこにシューマンらしい魅力がある不思議な作曲家。そして美しい。
※ボンのシューマンハウス(精神病院跡)は図書館として無料で公開されている。開館は月・水・木・金の11時〜13時半、15時〜18時。
※シューマンが歌曲で選んだ詩人は、ハイネが最多で44篇、続いてリュッケルトが42篇。ちなみにゲーテは18曲。
※ワーグナーはバイロイトで総合芸術を目指し、リストはワイマールを拠点に標題をベースにした交響詩で勝負をかけた。一方、シューマンやブラームスは交響曲を守ろうとした。
※シューマン夫妻は日常生活や芸術観で時おり対立したものの、互いに助け合い、補い合った理想的な夫婦だった。
※シューマン22歳、クララ13歳の時の作品が演奏されたプログラムには、他に当時の人気作曲家だったカール・ライシガー、ハイドン、ヨハン・ピクシス、ヨゼフ・ウォルフラム、イグナーツ・モシェレス、アンリ・ヘルツ、シャルル・ド・ベリオ、フリートリヒ・ヴィークらの名があるが、今も名が残っているのはハイドンとシューマンだけだ。

〔参考資料〕『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、『尚美学園大学芸術情報学部紀要第6号 クララ・シューマン』ほか。



★ベルリオーズ/Louis Hector Berlioz 1803.12.11-1869.3.8 (パリ、モンマルトル 65歳)2002&09&15
Cimetiere de Montmartre, Paris, France



失恋が音楽史を変えた! 作曲家きっての暴走機関車 求愛されたハリエット




黒光りする重厚な墓(2002) 7年後。若干、花の色が変わった(2009)


市民の寄付で墓が建った(2015) 前妻ハリエットと後妻マリーの名 モンマルトル墓地の陽気な管理人たち

フランス近代音楽の開祖。音楽で物語や自然を描写する「標題音楽」という新しいジャンルをつくり出した作曲家エクトル・ベルリオーズは、1803年12月11日、リヨンに近い南仏ラ・コート・サンタンドレで医者の長男として生まれた。翌年、ナポレオンが皇帝になる。1815年、12歳のときに祖父が暮らす片田舎で18歳の女性エステルに初恋。彼女の存在は晩年に再び心の拠り所になる。
ベルリオーズは医者となるべく教育を受けていたが、14歳のときに父の机の引き出しから縦笛を見つけ、楽器演奏の楽しさに目覚める。その様子を見て、父はフルートとギターを習わせたが、医学の勉強がおろそかになっては困るためピアノは習わせなかった(そもそも家にピアノがなかった)。18歳でパリの医科大学に合格するが、最初の解剖学の実習で倒れ込みそうになる。「屍体室の恐ろしい光景。バラバラになった手足、しかめっ面をした頭部、切り裂かれた頭蓋骨、血の滴る汚物捨場、発散する耐え難い臭気、骨をかじっている鼠。私は恐ろしさに心乱れて教室の窓を飛び越えると、一目散に逃げ出した。私は激しく心打たれたまま24時間を過ごした。二度と解剖とか、切開とか、医学という言葉さえも聞きたくない」(回想録※伝記本によって「失神状態で運び出された」とあるが、回想録には「逃げ出した」とある)。
医者に不向きであると痛感すると共に、これまで押さえつけていた音楽への情熱が燃え上がる。国立音楽院の図書館が一般公開されていることを知った彼は、楽譜の研究で入り浸った。だが、規則を破って音楽院の女生徒用の門から入ったことで音楽院長ケルビーニの逆鱗に触れ、図書館への出入り禁止にされた。
1823年、20歳のときにグルックのギリシャ悲劇オペラ『タウリスのイフィゲニア(アウリスのイフィゲニエ)』を聴いて大感動し、「父母、叔父叔母、祖父母、友人たち、誰が何と言おうと、私は音楽家になると心に誓った」という。この決断に対する父からの手紙は「お前の決心は狂気の沙汰だ。そんな夢のような空想を追わないで医学の道に早く帰れ」。
1824年(21歳)、独学して初の本格的な作品『荘厳ミサ曲』を作曲。翌1825年、借金して『荘厳ミサ曲』の初演を教会で行った。
1826年(23歳)、ベルリオーズは親を説得してパリ音楽院に入ったが、借金して演奏会を開いたことを知った父は、音楽を断念させるため仕送りを絶つ。ベルリオーズは生活費を稼ぐため、笛やギターの生徒をとったり、劇場の合唱団員になるなど苦学した。「私には薪が必要だった。そうして暖かい着物が必要だった」。やがて根負けした父が仕送りを再開した。

1827年(24歳)、ベルリオーズは音楽家の道に反対する両親を納得させるため、新進音楽家の登竜門「ローマ大賞」を獲得することを決意。夏に初めて応募した結果2位に選ばれた。この年は1位が「該当なし」であったため事実上のトップであり、両親は息子の才能が本物であることを知った。
秋、パリで初めてシェイクスピア劇が上演されることになり、文学青年でもあったベルリオーズは人気の英国劇団の公演に足を運んだ。そして『ハムレット』『ロミオとジュリエット』を観劇し、前者でオフィーリア役を、後者でジュリエット役を演じた3歳年上の人気女優ハリエット・スミスソン(アイルランド人)に一目惚れする。彼は何通も彼女に恋文を送り面会を求めた。「私の死をお望みでないなら、同情の名において、どうか、いつ貴女にお会いできるのか教えて下さい!ひざまづき涙に暮れつつ、お慈悲とお許しを懇願いたします!!おお、なんと不幸な私!これほどの苦悩を得ようとは思いもよりませんでした。まるで裁判官の判決のように貴女のご返事を待っております H・ベルリオーズ」。むろん、無名の彼が相手にされるわけもなく返事はない。
ベルリオーズの回想。「一行の返事ももらえなかった。何通も手紙を書いたが彼女を感動させるどころか、かえって恐れさせただけだった」。思案して劇場側に序曲を提供するなど劇場支配人に接近し、彼女のリハーサルを見学できる立場を手に入れた。ハリエットは稽古を見つめる彼を見て叫び声をあげ、舞台から指差しつつ「あの目つきが悪い男に注意して下さい」と役者仲間に訴えた。同年、ウィーンにてベートーヴェンが56歳で他界。

1828年(25歳)、有名になってハリエットの気を惹きたいベルリオーズは「ローマ大賞」に再度挑むが2度目の落選(2票差で2位という惜敗)。この年からパリ音楽院管弦楽団の定期演奏会が始まり、ベートーヴェンを追悼して9つの交響曲がすべて演奏された。客席にいたベルリオーズは交響曲第3番『英雄』や第5番『運命』に感動し、とりわけ交響曲第6番『田園』に心を奪われた。田園交響曲はベートーヴェンが音楽で雷鳴や小鳥のさえずりなど自然を描写した作品。ベルリオーズは音楽で情景を描けることを知り、この分野を発展させようと決意する。
ベルリオーズはハリエットの歓心を買うために自腹を切ってオーケストラを雇い、会場を借りて自作の演奏会を開催して彼女を招待するが、聴きに来てくれる訳もなく負債だけが残った。彼にはすべてが絶望的に感じられたが、この思い込みの激しい性格が後に傑作『幻想交響曲』を生む原動力となる。英国劇団は次の公演先に向かい、ベルリオーズは恋が完全に終わったと悟った。

1829年(26歳)、3度目の「ローマ大賞」応募も落選。応募資格は30歳まで。恋に破れ、両親とも和解できず、うっ屈した気持ちがベルリオーズを支配した。だが夏に小さな転機が訪れる。ある寄宿女学校にギターの教師として招かれたところ、ピアノを教えに来ていた18歳の若く魅力的な女性ピアニスト、マリー・モーク(1811-1875)と出会った。彼女はピアノの名手で幼い頃は神童と呼ばれていた。当初、マリーはベルリオーズのもっさりした風貌を面白がって「あなたに興味を持つ人がこの世にいるのか」などとからかっていた。ところがベルリオーズが無関心でいたことが彼女の心に火をつけ、彼のことを好きになってしまう。ベルリオーズもまた内なる失恋の悲しみが彼女に慰められるように感じ始めた。
この年、愛読書のゲーテ『ファウスト』から名場面を音楽にした『ファウストからの8つの情景』を作曲し、自身満々でゲーテに総譜を贈ったが、送り返されてしまう。ベルリオーズはショックを受けてこの曲を長く封印する。

1830年(27歳)、2月に代表曲となる『幻想交響曲』(作品14/原題「ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲」)の作曲を開始する。『幻想交響曲』はハリエットに対する片想いから着想を得ており、作曲を進めていくうちに彼女が恋文の受け取りを拒否したことなどを思い出し、憎しみに近い感情が沸き起こっていった。『幻想交響曲』は4カ月で完成したが、演奏してくれるオーケストラがなかなか見つからず、パリ音楽院での初演は12月5日までずれ込んだ。この間、声楽曲『サルダナパールの死』(楽譜は紛失)が高く評価され、4度目の挑戦でついにローマ賞を受賞した。

『幻想交響曲』はオペラでないにもかかわらずストーリーがある。作曲家いわく「恋に悩んだある音楽家青年が、苦悩の果てにアヘンで服毒自殺をはかったが、致死量に達しなかったため死にきれず、もうろうとして悪夢を見る」というもの。作中には彼が熱愛するハリエット・スミスソンを表す旋律が、様々な場面に登場する。いわば“ハリエットのテーマ”として繰り返されるこの旋律を、ベルリオーズは「イデー・フィクス(固定楽想)」と呼んだ。固定楽想が各楽章に姿を変えて現れるといった手法は、それまでの音楽になかった。各楽章に標題が付けられ、演奏会ではベルリオーズ自身が解説を書いたプログラムが配られた。

第1楽章の副題は「夢、情熱」。序奏は芸術家の青年が想い人を見初める前の状態で、暗い憂愁の中にいる。そこへ優雅に想い人が現れ、青年の動悸が速くなる。熱狂し、陶酔し、嫉妬し、慈しむ、感情の嵐が展開する。
第2楽章は「舞踏会」。ワルツが流れる賑やかな舞踏会の会場で、青年は想い人と再会し胸がときめく。
第3楽章は「田園の風景」。青年は恋の苦しみから逃れるように郊外の田舎におもむき、のどかな景色を眺めながら時間を過ごす。だが想い人が頭をよぎり、失恋の不安に包まれ、胸が締め付けられる。やがて日は暮れ遠雷だけが聞こえる。
第4楽章は「断頭台への行進」。青年は失恋し、悲嘆のあまり毒をあおぐが死にきれずに恐ろしい夢を見る。夢の中で彼は想い人を殺した罪で死刑を宣告され、断頭台まで街中を引き回され、通りの左右で野次馬たちがはやし立てる。死刑囚が断頭台に上ると一瞬音楽が止んで想い人が天使のように現れるが、ギロチンの一撃で想い人は消え青年は昇天する。
一般的に交響曲は4楽章形式であるが、ベルリオーズはベートーヴェンが田園交響曲で試みたように“第5楽章”を用意した。副題は「ワルプルギスの夜の夢(魔女の夜宴の夢)」。青年は天国へ行けず、目覚めた場所はサバト(魔女の饗宴)。妖魔の群れが青年を弔うために周囲に集まり、下品に歌い踊る。そして青年は愕然とする。魔物の踊りの輪の中にあの想い人がいて、一緒に青年を笑い者にしているのだ。想い人を表す上品で美しいメロディーは醜く変化し、その醜悪さに青年は気が狂いそうになる。妖魔の底抜け騒ぎは百鬼夜行となり、鐘が鳴り響くなか賛歌「怒りの日」が猥雑にふざけて歌われ、混沌と狂乱の中で終曲となる−−。

『幻想交響曲』は内容の衝撃性もさることながら、音楽史を変えた2つの大きな功績、「固定楽想」と「楽器法の革新」によって楽壇を感嘆させた。ベルリオーズが発明した「固定楽想」は当初フランスの楽壇で異端視され、隣国ドイツの作曲家が最初に共鳴した。8歳年下のフランツ・リスト(1811-1886)は標題を全面に出した「交響詩」を創始し、10歳年下のワーグナー(1813-1883)は固定楽想=ライトモティーフをオペラ(楽劇)に使った。『幻想交響曲』で用いられた固定楽想は、一人の女性のみを象徴するものだったが、ワーグナーはオペラの複数の登場人物に別々の固定楽想を与えてそれぞれのテーマ音楽とした。
「楽器法の革新」では、オーケストラに馴染みのなかった様々な楽器(鐘を含む)を導入したほか、ティンパニーを4台も使用したり、バイオリンの弓をひっくり返して「裏側の木の部分」で弦を叩くという常識外の指示を出した。ティンパニーを叩くマレット(ばち)についても、木、皮張り、スポンジと、細かく固さの指定を行い、変化に富んだ音色によって、従来は美しい音を紡いできたオーケストラが、狂気やグロテスクさまで表現できるようになった。ベルリオーズが「近代管弦楽法の父」「楽器法の革命児」といわれる由縁である。音色の豊かさは、この時代に金管楽器のバルブが開発され、半音階が簡単に出せるようになったことも大きい。
ベルリオーズはアヘンを吸ったときの体験を終楽章に込めているといい、後世の指揮者レナード・バーンスタインは「(幻想交響曲は)史上初のサイケデリックな交響曲だ」と評した。
『幻想交響曲』の初演は大成功し、アンコールに応えて第4楽章がもう一度演奏された。ベルリオーズは一躍時の人となり、成功を手に入れたことでマリー・モークと婚約に至る。

1831年(28歳)、ローマ賞に輝いた者はイタリアへの2年間の留学が義務づけられており、婚約者マリーのいるパリから離れたくなかったベルリオーズの気持ちを沈ませる。彼は留学後の結婚を約束してイタリアに向かった。イタリアではローマ滞在中のメンデルスゾーンらと交流したが、到着から3週間が経ってもマリーから手紙が一通も届かないことが彼を不安にさせた。彼は音楽院の館長にパリに戻る意向を伝えたが、留学中にイタリアから出ると寄宿生の資格を失うため館長は思いとどまるよう説得する。だが、その制止を振り切ってローマを出発した。するとフィレンツェまで北上したところで、マリーの母親から衝撃的な手紙が届く。それは“婚約破棄”を通告すると共に、マリーは有名なピアノ製作者プレイエルの御曹司と「既に結婚した」という内容だった(プレイエル社のピアノはショパンが愛したピアノとして知られる)。
一方的に婚約破棄を告げられたベルリオーズは烈火のごとく激怒し、「すぐさまパリに戻って、罪ある2人の女(マリー母娘)と罪なき1人の男(プレイエル)を問答無用で殺した後に自殺する」と決心する。これは本気だった。パリでは顔が知られているため、警戒されず相手に接近するため小間使いに変装することにした。まず婦人洋服店を訪れ、不審がられながらも自分のサイズの小間使い用の着物と帽子、そして化粧道具と青いヴェールを入手。そして2連発のピストル2挺に弾丸を装填し、火薬が不発だった場合に備えて自害用の毒薬を揃えた。夜の駅馬車に飛び乗り、パリを目指す。ところが、翌日に駅馬車を乗り換える際に女装セットを置き忘れてしまう。彼は「殺害計画の実行を善き天使が妨げようとしているのか」と思ったが、「いいや、殺す」と北イタリア・ジェノヴァで店を何軒も回って再び女装セットを買い揃えた。経由地のニースに向かいながらベルリオーズは“段取り”を練った。
「まず夜の9時頃、皆がお茶を飲んでいる時刻に乗り込む。小間使い姿の私が“某伯爵夫人の急ぎの手紙を持ってきた”と告げ、部屋に通してもらう。相手が偽手紙を読んでいる間に懐から2連発のピストル2挺を取り出し、1人目と2人目の頭にズドン。次いで3人目の髪の毛を引っ掴んで私が誰だか知らせる。相手の叫び声を聞き流して3発目をお見舞いする。人声と銃声で人々が駆け付けないうちに、自分のこめかみに4発目をズドン。不発だったら小瓶(毒)の助けを借りる。おお、なんと美しい情景だ!」(回想録)。

夜間、国境付近の海岸線を走っているときに馬車はブレーキの調整でいったん止まった。波の砕ける音を聞いているうちにベルリオーズは我に返る。「自殺してこの世の芸術に別れを告げる、これは馬鹿げていないか。最初の交響曲だって仕上げていない(注:彼は『幻想交響曲』の改訂中だった)。もっと壮大な曲のアイデアがあるのに、それを頭の中にしまい込んだまま死ぬのか?」。彼は、自分のような天才が自殺することは人類の損失と考え直し、計画中止を検討する。そして、ニース(当時はイタリア領)からローマの音楽院長に手紙を出し、まだ除籍されていなければローマに戻り、除籍後であればパリに向かって決行することにした。結果、まだ除籍されていないことが判明し、ローマに戻って『幻想交響曲』の続編となる独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』を作曲した。この続編には『幻想交響曲』の想い人のメロディーがそのまま登場する。語り手のレリオはベルリオーズの分身。レリオは冒頭で「死は私を受け入れず、そっと押し返した。ならば、生きよう」と宣言する。
※殺されずに済んだマリー・モーク(プレイエル婦人)はその後どうなったか。彼女は当時珍しいプロの女性ピアニストとなり、作曲も少し手がけた。夫はピアノ製作者ということもあり、大ピアニストのリストやショパンと友人だった。ショパンはマリーのために名曲『ノクターン 作品9』を献呈している。リストは友人の妻、つまりマリーに手を
出し不倫関係になった。逢い引きの場所としてこっそりショパンの部屋を使っていたことから(リストは鍵を預かっていた)、怒ったショパンはリストと疎遠になる。ベルリオーズはマリーと別れてから約20年後に、指揮者としてピアニストのカミーユ・プレイエル夫人(マリー)とロンドンで共演している。

1832年(29歳)12月9日、2年間のローマ留学を終えてパリに戻ったベルリオーズは、帰国後最初の演奏会で『幻想交響曲』を再演し、自らティンパニー奏者のひとりとしてステージに立った。このとき、ハリエット・スミスソンの英国劇団が再びパリで公演を行っていたが、既にシェークスピア・ブームは落ち着いており、5年前のような人気はなく、32歳のハリエットは劇団マネージャーとして負債を抱え失意の中にいた。ベルリオーズの友人は『幻想交響曲』を彼女に聴かせることを思い立ち、「気晴らしに音楽会に行きましょう」と誘い出した。ハリエットはベルリオーズのことをすっかり忘れていたが、会場に入ると観客が自分をやけに注視することに気づいた。プログラムの標題や人々が彼女を見てヒソヒソ話す様子もあって、音楽の中のヒロインが自分ではないかと疑い始め、同日初演された『レリオ』の第4曲『幸福の歌』にあった「あのジュリエット、オフィーリアになぜ会えないのか」を聴いて、すべてを理解した。ハリエットは極めて深い感動を覚え、この演奏会をきっかけに交際が始まった。
※再演を客席から聴いていた詩人ハイネの回想。「隣りの若者が言った。“最前列をごらんなさい。あの太った女がミス・スミスソンです。ベルリオーズは3年越しに恋い焦がれていましてね。今日の『幻想交響曲』だって、恋い焦がれての情熱が生み出したものなんですよ”。ベルリオーズは壇上からひたと目をすえて彼女を見つめている。視線が交わる度に猛烈な勢いでティンパニーを打ち鳴らした」。

しばらく後、ハリエットは馬車から落ちて足に重傷を負ったことから、彼は負債に苦しむ劇団を助けるための支援コンサートを企画、リストやショパンも演奏してくれた。そして再会から約一年後の1833年10月、ついにベルリオーズの夢が叶い、2人は結婚した。ときにベルリオーズ29歳、ハリエット32歳。イギリス大使館で開いた挙式にリストが立ち会い、翌年には長男ルイも生まれた。ところがベルリオーズは結婚して間もなく、自分が夢中になっていたのは舞台上のジュリエットやオフィーリアであったことに気づく。加えてハリエットの嫉妬深さを重荷に感じるようになり、2年ほどで夫婦仲は冷え込んでいった。
1834年(31歳)、ビオラ独奏つきの交響曲『イタリアのハロルド』完成。バイロンの詩に登場するチャイルド・ハロルドのように、ベルリオーズがハロルドとなってイタリアを旅する。各楽章の標題は、第1楽章「山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面」、第2楽章「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」、第3楽章「アブルッチの山人が、その愛人によせるセレナード」、第4楽章「山賊の饗宴、前後の追想」。巡礼の一行が通り過ぎるのをハロルドが眺める第2楽章が素晴らしい。終楽章でハロルドは山賊の手にかかって命を落とす。ベルリオーズはこの曲を「ストラディバリウスのビオラを入手したパガニーニの依頼で作曲した」と記している。
※『イタリアのハロルド』第2楽章「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」 https://www.youtube.com/watch?v=G1uJuOB-4ng (8分37秒)

1835年(32歳)、音楽評論を日刊紙『ジュルナル・デ・デバ』に書き、ベルリオーズは文才を高く評価され、以降晩年(63年)まで30年近く執筆も貴重な収入源となる。彼は“音楽評論家”の先駆けとなった。
1837年(34歳)、レクイエム『死者のための大ミサ曲』を作曲。1830年の7月革命の犠牲者を追悼するため仏政府から依頼を受け作曲。ベルリオーズは演奏者にホルン12人、ティンパニー10人など空前の規模を求めており、メインのオーケストラの他に離れた場所でラッパを吹く4組の“別動隊”を指定している。
※『レクイエム』の「怒りの日」からバンダ(別部隊)のファンファーレ https://www.youtube.com/watch?v=Gu_pw1Sgkkc#t=18m00s
1838年(35歳)、オペラ第1作となる『ベンベヌート・チェリーニ』が2年がかりで完成。チェリーニはルネサンス期の偉大な彫刻家。音楽的には充実した作品になったが、ベルリオーズは音楽誌に厳しい音楽評論を書き続けてきたことから、周囲が敵ばかりになって初演を叩かれ失意のどん底を味わう。
1839年(36歳)、合唱付きの劇的交響曲『ロメオとジュリエット』作曲。第3部の愛の場面の音楽を、ワーグナーは「今世紀における最も美しいフレーズ」と激賞。同時に「全く素晴らしい旋律の間に屑(くず)の山が積みあげられている」と厳しい言葉も。同年、パリ音楽院の司書となる。ベルリオーズはかつて出入り禁止にされた図書館の司書となったことを感慨深く思った。
1840年(37歳)、政府から再び7月革命の犠牲者を追悼する音楽の依頼があり、最後の交響曲となる『葬送と勝利の大交響曲』を作曲。当初は大編成の軍楽隊(吹奏楽)の野外演奏を念頭に書かれ、後に弦楽器や合唱のパートが追加された。この年、結婚7年目にして別居する。
※『葬送と勝利の大交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=BEcSQ8BTlPQ
1841年(38歳)、スペイン人の歌手マリー・レシオと同棲を開始。彼女は恋の達人でありベルリオーズは翻弄された。
1842年(39歳)から約20年間、経済的な理由から指揮者としてヨーロッパ大陸の各地へ演奏旅行を行う。この旅にマリー・レシオを同行した。
1843年(40歳)、不評だったオペラ『ベンベヌート・チェリーニ』の第2幕への前奏曲が気に入っていたベルリオーズは、これを抜粋して序曲『ローマの謝肉祭』とした。目論み通り人気を博す。
1844年(41歳)、著書『近代の楽器法および管弦楽法』を刊行。管弦楽法について書かれた最初の理論書で、手引き書であると同時に音楽美学の解説書でもあり、のちの作曲家に多大な影響をあたえた。
1845年(42歳)、『幻想交響曲』の楽譜が出版される。初演から15年が経っていた。
1846年(43歳)、『ファウスト』へのが想いが再燃し、17年ぶりに『ファウストからの8つの情景』の楽譜を引っ張り出し、これを元にオラトリオ『ファウストの劫罰』を作曲。初演の評判はイマイチだったが劇中の「ラコッツィ行進曲」は人気を集めていく。

1850年(47歳)、偽作曲家の嘘つき作戦が成功する。ある夜、ベルリオーズは友人の家でふざけて作った中世風のメロディーに自作の歌詞をくっつけた。そこで悪戯を思いつく。この合唱曲に『羊飼いたちの別れ』という題名をつけ、コンサートでは自分の名を伏せて173年前の作品に仕立てたのだ。そしてベルリオーズの音楽を毛嫌いする批評家連中をひと泡吹かせるべく、演奏プログラムに「パリの宮廷礼拝堂の楽長ピエール・デュクレが1679年に作曲した古風なオラトリオの断章」と発表した。もちろんピエール・デュクレなど存在せず、友人の名前をもじったものだ。批評家達は考古学的珍しさもあって作品に注目、「これこそ本当の音楽、本物のメロディー!」「現代の作曲家には書けまい」「ベルリオーズとは大違いだ」と手放しで絶賛し、ベルリオーズは“発見状況”を、「修復中の礼拝堂の古いタンスの中から見つけた」とそれらしく説明した。後日、ベルリオーズは自作であることを明かしたが、今さら批評家達は意見を変えるわけにもいかず、傑作として認定された。
https://www.youtube.com/watch?v=G-Aa-5dwrY4#t=46m27s これかな?
1852年(49歳)に図書館長に就任。著書『オーケストラ夜話』刊行。
1854年(51歳)、偽作曲家騒動の『羊飼いたちの別れ』に楽曲を追加・発展させ、マタイ伝のヘロデ王による幼児虐殺と聖家族のエジプトへの逃避を描いたオラトリオ『キリストの幼時』を初演。同年、ハリエット・スミスソンが他界。かつて脚光を浴びた元女優は世間から忘れ去られ、アルコール中毒になり、身体が麻痺した状態で世を去った。享年54歳。自責の念にかられたベルリオーズをリストが慰めた。「彼女は君に霊感を与えた。君はその彼女を愛し、歌いあげた。双方の役目は十分に果たされたのだ」。後日、ベルリオーズはマリー・レシオと再婚。
※『キリストの幼時』 https://www.youtube.com/watch?v=G-Aa-5dwrY4
1855年(52歳)、パリ万国博覧会の開幕記念行事の一つとして、自身の指揮により大規模宗教音楽『テ・デウム』が初演される。パイプオルガンと児童合唱が加わったこの壮大な作品は代表曲のひとつになった。
※『テ・デウム』 https://www.youtube.com/watch?v=1OQxmhJDQHA
この年、ベルリオーズはロンドンで当時42歳のワーグナーと交流し友人になっている。ワーグナーはリスト宛の手紙に記す。「芸術上の諸問題、哲学から生活についてまで、非常に魅力ある会話を5時間にわたって交わすことが出来た。我々は突然、自分たちが同じ様な受難者仲間であることが分かった。しかも思うに、おおむね私の方がベルリオーズよりまだ幸運なようなのだった」。これに対するリストの返事。「君のベルリオーズとの友情関係を知って喜んでいる。現代の作曲家の中では、彼は最も自分を飾らずに、最も開けっぴろげに、そして最高に興味の持てる会話の出来る人物だと思う。彼なら全面的に受け入れたまえ」。

1856年(53歳)、フランス国立アカデミーの名誉ある学士院会員に選ばれる。
1858年(55歳)、トロイ戦争と後日談を壮大なスケールで描いたグランド・オペラ『トロイアの人々』を作曲。全5幕、所要6時間という規模の大きさから生前は全曲が上演されることはなかった。本作は後にベルリオーズの最高傑作と讃えられる。
1862年(59歳)、「シェイクスピア風のオペラ」と銘打った最後のオペラ『ベアトリスとベネディクト』が完成、ドイツで初演。原作はシェイクスピアの陽気な戯曲『空騒ぎ』。最後のオペラがコメディというのは、後のヴェルディも同じ。同年、後妻マリー・レシオに先立たれる。
1864年(61歳)、最後の恋愛。片想いの相手は12歳のときに好きになった初恋の人、6歳年上のエステルだった。彼は67歳のエステルに手紙を書く。「どうかお考え下さい、子どもの時分から私が49年間あなたを愛し続けていることを。この感情がもしたった一日でも途切れていたら、今になって再びかきたてられることなどなかったでしょう。どうか私の3つの願いをお聞き届け下さい。時々あなたに手紙を書いてもいいという許可、年に一度はお会いできるようご招待下さるという約束、そしてご好意を得るために私が何か試みることの許可を」。エステルの返事は「新しい友情関係を結ぶつもりはなく、生活を乱すようなことはすべて避けたい」。それでも、翌年に彼は恋文を書き続ける。「あなたと共にあれば、私の空はもう曇ることはありません。あなたは私の輝ける星なのです、わがステラ(星)!ああ、また私は禁じられた文体に陥ってしまいました。お許し下さい、どうしようもなく無分別なのです…ですが、あなたの友情あふれる援助があればきっと直してごらんにいれます」。
1866年(63歳)、船乗りをしていた一人息子ルイが33歳の若さでキューバに死す。既に2人の妻も既に先立ち、ベルリオーズは孤独に包まれる。彼は2人の妻が眠るモンマルトル墓地を好んで散歩した。同年、エステルからこれまでやり取りした手紙をすべて廃棄するよう要求される。彼は手紙を焼き、「すべて燃やしてしまい、残っているのは封筒だけです」と報告した。本当は最後の手紙だけはとっておいた。
1869年3月8日、パリで死去。享年65歳。回想録の最後の言葉は「ステラ、ステラ!今や私は苦しみなしに死ぬことが出来る…」。
他界翌年、内容が同時代人に言及していることから、“生きている間は発表しない”と決めていた『回想録』が出版される。

1882年、『ベルリオーズ書簡集』が出版され、作曲家グノーが次の序文を書いた。「群衆は先を目指す者を鞭打って十字架にかける。最初は、である。しかし、時を経過して必ず後悔し、やがて自らの決定をくつがえすものだが、それもきまって同時代のことではなくて、はるか後々の子孫の後悔によるのであって、天才の墓の上に、自分の額(ひたい)には到底被せてもらえぬ“不滅”の王冠を雨と降らすのだ」「現代における成功とは、おおむね単なる流行の問題でしかない場合がきわめて多い。それは、作品が時代の水準に達していることを証明しはするが、時代を超えてなお生き延びる保証には全然ならない。だからそれ(成功)を手にしたからといって誇るべきことは何もないのだ」「彼の『幻想交響曲』は、まさに音楽における一大事件であった。その重要さは、ある者の熱狂的な賞賛と同様、他の者の激烈な反対によっても鮮やかに証明されたのである。ベルリオーズが考案した固定楽想は、以降の多くの作曲家が取り入れている。また、器楽用法の領域でも革命を起こした。しかし、複数の輝かしい功績にもかかわらず、彼は生涯を通じて、フランスにおいても外国においても、強い憎しみの対象だった。聴衆は彼を見捨て、思わしいだけの人気を得ることが出来ぬうちに死んだ」「ベルリオーズの作品にあっては、すべての印象や情感は、極端なまでに拡張展開させられている。彼は、喜びや悲しみを狂気の態でしか知らなかった者のようだ。自分自身で言っていたように、彼はまさに“火山”であった。彼のとどまるところを知らぬ感受性は、我々を悲しみの果てへと同様、喜びの極みにも深く連れ込んでいく」
1890年、他界21年後に『トロイアの人々』が、初めて全曲上演される。ただし、会場はドイツであり歌詞もドイツ語版だった。同年、『ベアトリスとベネディクト』のパリ初演。
1969年、没後100年を記念して、ついに本家フランスでフランス語版の『トロイアの人々』が全曲上演される。指揮はコリン・デイヴィス。
1989年、フランス革命200周年を祝ってオペラ・バスティーユ(新オペラ座)が建設され、?落としにベルリオーズの『テ・デウム(神への讃歌)』が選ばれた。
1990年、オペラ・バスティーユで最初に上演されるオペラに大作『トロイアの人々』が選ばれた。生前は前衛すぎるとして国民にそっぽを向かれていたベルリオーズの音楽だが、今やフランス人の大規模なセレモニーで欠かせない作曲家となった。…というか、その後のフランスを代表する作曲家、ドビュッシー、フォーレ、サティ、ラヴェルらの音楽には、国家的な式典に相応しいスケールの曲がないという現実もある。文字通り、ベルリオーズはフランス音楽史の巨星となっている。


〔墓巡礼〕
標題音楽を確立し、色彩豊かな管弦楽曲を生んだベルリオーズ。彼が登場する前にも音楽による標題的表現を試みた作品はあり、ベートーヴェンが1808年に交響曲第6番『田園』を完成させている。だがベートーヴェンが描いたものは風景や気分であり、物語を描いたのはベルリオーズが最初だった。
18世紀後半まで、パリのド真ン中に1300年もの歴史を持つサン・イノサン教会の巨大共同墓地があった。土葬であったため屍体の腐敗臭が酷く、井戸水が汚染され疫病の発生源になり、衛生状態が限界に達したことから、フランス革命の4年前、1785年に当局はサン・イノサン墓地の閉鎖を決定した。パリ中心部での埋葬が禁じられたことを受けて、19世紀初頭に北のモンマルトル墓地、東のペール・ラシェーズ墓地、西のパッシー墓地、南部のモンパルナス墓地が建設された。
ベルリオーズの墓はパリ北部(18区)のモンマルトル墓地にある。メトロ2号線のブランシュ駅から地上にあがり、クリシー通りを300m北西に進むと墓地の入口に着く。道の途中には有名なキャバレー「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」がある。たくさんの画家が暮らすこの地区は、かつてモンマルトル採石場があった。1798年、採石場の跡地に現在のモンマルトル墓地の原型となった墓地が開かれ、1825年に本格的に利用が開始された。
芸術家の街ゆえモンマルトルには作家や画家が多く眠る。文豪スタンダール、アレクサンドル・デュマ、ゾラ(旧墓)、詩人ハイネ、画家のドガ、ギュスターヴ・モロー、映画監督のフランソワ・トリュフォー、ダンサーのニジンスキー、音楽関係ではベルリオーズ、オッフェンバックの他にクラリネットを改良してサクスフォンを発明したアドルフ・サックスがいる。

ベルリオーズの墓は墓地の20区にある。管理人事務所でマップをもらい歩き始めると、メインストリートに面しているため彼の墓はすぐに見つかった。立派な黒大理石の墓は、没後100年を機にフランス国民の寄付で1970年に建てられた。墓石の右側面に先妻ハリエットと後妻マリーの名があり、左側には国民の寄付で建立されたことが刻まれていた。

※早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。
※文人テオフィル・ゴーティエいわく「ベルリオーズはユーゴー(作家)やドラクロワ(画家)とともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」
※ベルリオーズはオーケストラを育成し、技量を高めた点で指揮者としても第一級の巨匠となった。一方、ピアノは苦手だった。演奏しない音楽家であり、音楽史に名を刻む作曲家でピアノが不得手なのは彼くらいではないだろうか。
※ホラーSF小説『ユーフォニア』を執筆している。
※ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていた。
※日本初演は1929年5月9日、近衛秀麿と新交響楽団(現NHK交響楽団)が行った。
※ベートーヴェンは『荘厳ミサ曲』の草稿を10歳年上の作曲家ケルビーニに捧げ、「この曲で何か気づいた点があったら言って頂きたい」と指導を求めている。一方、ベルリオーズはケルビーニを「かの高名な老いぼれ」とこき下ろした。
※ベルリオーズ「神が神であるごとく、バッハはバッハなのだ」
※グランド・オペラ…19世紀フランスで成立したオペラの様式のひとつ。4幕か5幕からなり、大規模編成の管弦楽を伴う群衆による合唱を重視。題材は神話や歴史的人物などの叙事詩からとられ、舞台装置を活用して天変地異を表現し、派手な照明効果を使う。途中で華麗なバレエが挿入され、語りの部分は音楽にのせて行われる様式(レチタティーボ)。語りの部分に音楽がなく、セリフだけのものがコミック・オペラ。グランド・オペラの代表的作曲家は「ユグノー教徒」(1836)のジャコモ・マイヤーベーア。グランド・オペラは派手さを好む新興ブルジョワの圧倒的支持を得、オーベールの「ポルティチの唖娘(おしむすめ)」(1828)、ロッシーニの「ウィリアム・テル」(1829)、ベルリオーズの「ベンベヌート・チェリーニ」(1838)などがある。

〔参考資料〕『ベルリオーズ回想録』(ベルリオーズ/清水修訳/音楽之友社)、『音楽のグロテスク』(ベルリオーズ/森佳子訳/青弓社)、『大作曲家は語る』(小林利之編/東京創元社)、『クラシックの偉人伝』(クラシックジャーナル/自由国民社)、『中欧・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社)、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『裏側から見るクラシック作曲家』(上原章江/yamaha)、『世界人物事典』(旺文社)、『名曲事典』(音楽之友社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)ほか。



★ショスタコーヴィチ/Dmitrii Shostakovich 1906.9.25-1975.8.9 (ロシア、モスクワ 68歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

ノヴォデヴィチ墓地の外観と内部。かつてはクレムリンの出城のひとつで、モスクワの南西方面を守っていた
モスクワで最も有名な墓地であり、休日はロシア人の墓マイラーがたくさん訪れる

墓に刻まれた楽譜はショスタコーヴィチが自分を表すモティーフとして使用していた4つの音符。
ドイツ音名「D・Es・C・H」で日本語の発音では「デー・エス・ツェー・ハー」(イタリア音名だとレ・ミ♭・ド・シ)。
つまり、名前のドミトリー・ショスタコーヴィチ "D"mitri  "S""C""H""ostakovitchにかけている。
ヴァイオリン協奏曲や、弦楽四重奏曲など多くの作品に使用。※情報を下さったS.Jさん、有難うございます!

「たとえ両腕を切り取られたとしても、私は音楽を書き続けるでしょう…口にペンをくわえて」(ショスタコーヴィチ)。プロコフィエフ亡き後の20世紀の旧ソビエト連邦を代表する作曲家ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ。シベリウス、プロコフィエフと並び、マーラー以降の最大の交響曲の作曲家。独裁者スターリンに睨まれると命が危ないという恐怖政治の下で生き、公表した作品が論争を巻き起こすと次の作品で名誉を回復させて活動を続けた。ショスタコーヴィチならではの暗い情感を漂わせた旋律はコアなファンが多い。1906年9月25日、帝都サンクトペテルブルク生まれ。この都市の名は、1914年以降ペトログラード、1924年以降レニングラード、1991年からサンクトペテルブルクに戻っている。父は音楽好きの鉱山技師、母はペテルブルク音楽院出身のピアニスト。
1914年(8歳)、第一次世界大戦が勃発。
1915年(9歳)、母親にピアノの手ほどきを受け始める。初めて劇場でオペラ『サルタン王の物語』(リムスキー=コルサコフ作)を鑑賞。
1916年(10歳)、イグナーツ・グリャッセール音楽学校に入学。
1917年(11歳)、ロシア革命。同世代の少年が路上で警官に殺害される様子を見てショックを受ける。
1918年(12歳)、第一次世界大戦が終結。
1919年(13歳)、サンクトペテルブルクの名門ペトログラード音楽院でピアノと作曲を学ぶ。グラズノフらに師事。
1922年(16歳)、在学中に父が46歳で急死。『2台のピアノのための組曲』を作曲し、父の思い出に捧げた。一家は経済的困窮に陥り、ショスタコーヴィチは映画館で無声映画の伴奏ピアニストのアルバイトをして家計を助けた。音楽院院長グラズノフの励ましと援助を得て勉強を続ける。
※『2台のピアノのための組曲』 https://www.youtube.com/watch?v=DS4BSvn6swk (26分)最後は父のための弔いの鐘のように2台のピアノが響きあう
同年『3つの幻想的舞曲』を作曲。4年後ではあるが、これが最初に出版された作品になった。ピアノ以外にヴァイオリンとピアノなど色々な演奏形態に編曲されている。有名な舞踏家がこの曲に振付け、ショスタコーヴィチの伴奏で踊って大成功し、この体験が後年のバレエ音楽の作曲に役立ったという。
※『3つの幻想的舞曲』 https://www.youtube.com/watch?v=nFOlDnVQVPs (3分50秒)

1923年(17歳)、音楽院のピアノ科を修了。結核療養で訪れたクリミアで最初の室内楽曲『ピアノ三重奏曲第1番』を作曲、同地で初のピアノ・リサイタルを開く。『ピアノ三重奏曲第1番』を当時彼が恋していたタチヤーナ・グリヴェンコに献呈。
※『ピアノ三重奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=miI0WMDh11c (13分)短い時間に様々な表情を見せ、クライマックスには高調感もある。
1924年(18歳)、夏の終わりにクリミア半島の療養からレニングラードへ戻り、音楽院の卒業を前に交響曲の作曲に着手する一方、ピアノ伴奏のアルバイトも続ける。
1925年(19歳)、ペトログラード音楽院の作曲科を修了し卒業する。7月卒業作品のための『交響曲第1番』が完成。これが出世作となり、生涯に15曲の交響曲を書いていく。
※『交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=EEJF26IbFiY (35分)ピアノ協奏曲じゃないけどピアノが活躍したり面白い
1926年(20歳)、レニングラードで『交響曲第1番』が初演され、「現代のモーツァルト現る」と大騒ぎになった。演奏当日、熱狂した聴衆に応えて第2楽章がアンコール演奏された。運良くレニングラードに名指揮者ブルーノ・ワルターが滞在中で、この交響曲に感銘を受けたワルターは翌年にベルリン・フィルで国外初演を行った。19歳の若者が作った作品にもかかわらず、トスカニーニやストコフスキーら巨匠の指揮で各国に紹介され、国際的注目をあびる。
1927年(21歳)、ロシア革命10周年を記念し、『交響曲第2番“十月革命に捧げる”』(単一楽章)を作曲。冒頭で労働者の苦しみと怒りがロシアの大地を覆っていく描写があり、広場に民衆が集まり始め、やがて革命に繋がっていく。最後はレーニンを称えるシュプレヒコールで終わる。
※『交響曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=PJ7WU2Jh0Qc (21分)
同年、ワルシャワで開かれた第1回ショパン国際コンクールにソビエト代表で参加し名誉賞に輝く。優勝を逃したため、ピアニストとして成功する夢を諦め、全エネルギーを作曲に費やす決心をする。
※「ピティナ・ピアノ曲辞典」「世界人物事典(旺文社)」には「第2位に入賞」とあるけど、ウィキだと2位はポーランドのStanis?aw Szpinalskiになっており、名誉賞が正しいと思われます。
1928年(22歳)、スタンダード曲の『二人でお茶を』をオーケストラ用に編曲した『タヒチ・トロット』を作曲。同年、オペラ第1作『鼻』が完成。初演は2年後。
※『タヒチ・トロット』 https://www.youtube.com/watch?v=i29knZDAaa8 (3分34秒)ショスタコーヴィチが眉間にシワを寄せていない貴重な曲
1929年(23歳)、『交響曲第3番“メーデー”』(単一楽章)を作曲。親しみやすい労働歌の旋律を引用してメーデーのお祭り感を盛り上げている。ショスタコーヴィチ「私は全世界のプロレタリアート(労働者階級)が連帯する祝日の雰囲気を伝え、ソ連の平和建設を表現した。闘争や熱意、継続の精神などが1つの赤い糸となっている」。
※『交響曲第3番』 https://www.youtube.com/watch?v=F31YwZZGlW4 (33分)
同年、映画『新バビロン』で初めて映画音楽を作曲する。以来、生涯で37本もの映画音楽を書いていく。
1930年(24歳)、ゴーゴリの短編小説を題材にしたオペラ第1作『鼻』が初演され、半年間のロングランとなる。だが、ヒンデミットやベルクなど西側の作曲家の表現主義や無調主義、西欧的モダニズムの技法を使ったため、あまりにも前衛的な作風が共産党当局から「ブルジョワ的で頽廃している」と非難を浴び、ロシア・プロレタリア音楽家協会の圧力により上演できなくなった。
『鼻』…サンクトペテルブルクの床屋ヤコヴレヴィチは7等官コワリョフのひげを剃ったところ、翌朝にパンから鼻が出てきて驚愕。一方、コワリョフは自分の鼻がないことに仰天する。彼は新聞に“迷い鼻”の広告を出そうとして断られ、警察に助けを求める。捜索に出た警察は駅前で鼻を発見、みんなで追いかけ確保すると、鼻は元の大きさに戻った。すぐにはコワリョフの顔にくっつかず騒動は続くが、ある朝、鼻は元通りに。コワリョフは歓喜のダンスに興じる。
※『鼻』 https://www.youtube.com/watch?v=zOrjvU9bnms (133分)
同年、バレエ音楽『黄金時代』が完成し、レニングラードで初演するも振付けと音楽が合っておらず失敗に終わる。
1931年(25歳)、バレエ音楽『ボルト』が完成するが、再び初演は失敗する。だが楽曲の評価は高く、後に組曲に編曲される。物語は工場の機械が故障したことをめぐる陰謀を描くもの。
※『ボルト(ねじ)』 https://www.youtube.com/watch?v=LucHD0CO-sc (23分)終曲の「フィナーレの踊りと大団円」が爽快
1932年(26歳)、科学者ニーナ・ヴァルザルと結婚。2年前から婚約記念として書き始めた歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が完成し彼女に献呈する(なぜこんな殺伐としたオペラを新妻に献呈するのかわからない、汗)。
同年、政府共産党は芸術における「社会主義リアリズム」の理念を確認、文化面の思想的統一が行われるようになる。
1933年(27歳)、『ピアノ協奏曲第1番』初演。ジャズに影響を受けてトランペットが大活躍しており、ピアノとの二重協奏曲にも聴こえる。この曲以降、9年間もピアノ曲を書いていない。
※『ピアノ協奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=n_aAuein03c (23分)

1934年(28歳)、1月22日、アルバン・ベルクの『ヴォツェック』(1922)と並ぶ20世紀オペラの最高傑作『ムツェンスクのマクベス夫人』(全4幕9場)をレニングラードで初演。浮気と恐ろしい殺人が展開し、観客は従来のオペラとまったく異なる世界に肝を潰した。前衛的手法を使い、各場面を生々しく表現した音楽性の高さもあって大きな話題を呼び、国内だけでなく欧米各地でも数多く上演された。この作品は、当初ワーグナー『ニーベルングの指環』のように女性が主役の4部作のオペラの予定だったという。ショスタコーヴィチいわく「『マクベス夫人』は『ラインの黄金』にあたるものである」。10年かけて4部作を書くはずだったが、後述する「プラウダ批判」で立ち消えになる。それどころか、本作が(オペレッタをのぞき)完成された最後のオペラとなった。間奏曲は性交の絶頂を描いた音楽という。
『ムツェンスクのマクベス夫人』…原作はニコライ・レスコフの同名小説。“マクベス夫人”はシェイクスピア作品に登場する、いわゆる悪女の代名詞。舞台は1865年のロシア・ムツェンスク(モスクワの南300km)。
金持ちの地方商人の妻カテリーナは結婚5年目。舅(しゅうと)ボリスにねちねち小言を言われながら退屈な日々を送っていた。ある夜、夫ジノーヴィーの不在中に、新しい使用人セルゲイが「本を貸してほしい」と部屋に来る。世間話をしていると、突然セルゲイが彼女を襲い無理やりに暴行。カテリーナは「人妻には許されないこと」と言いながら、夫が男性として不能であること、孤独な生活で人肌が恋しかったため、不義を続けてしまう。だが、寝室を出たセルゲイが舅ボリスに見つかり、不貞に怒った舅はセルゲイを激しく鞭打ち倉庫に閉じ込めてしまう。舅がカテリーナに好物のキノコ料理を持って来いと命じると、怒った彼女は料理に鼠捕り用の毒を盛り、舅は死ぬ。彼女は遺骸から倉庫の鍵を奪いセルゲイを出してあげた。
情事は続き、帰宅した夫ジノーヴィーにとうとう見つかってしまう。逆上してカテリーナに殴り掛かる夫を、彼女とセルゲイは殺害した。そして死体を酒倉に運んで鍵を掛け、「結婚しよう」と誓う。
婚礼の日。2人が教会に行っている間に、酔っ払った農民が酒樽を狙って酒倉の鍵を壊して中へ入る。農民は死体を見つけて仰天し警察に通報。帰宅したカテリーナは鍵が壊されているのを見て驚き、セルゲイと一緒に有り金を持って逃げる支度をするが、警官隊に踏み込まれ捕まってしまう。
2人はシベリア送りになった。囚人たちと流刑地に向かい歩き続ける。カテリーナにとって愛するセルゲイだけが心の支えであったが、彼は若くて綺麗な女囚ソニェートカを熱心に口説いている。あろうことか、カテリーナの靴下をソニュートカにプレゼントし、2人は森の茂みへ消えた。物笑いの種になり絶望したカテリーナは、囚人たちが湖畔を行進しているときにソニェートカを湖へ突き落とし、自身も飛び込んだ。2人は沈み、囚人たちはシベリアへの道を歩き続ける。
※『ムツェンスクのマクベス夫人』 https://www.youtube.com/watch?v=BeMFoiPxIRQ
※『ムツェンスクのマクベス夫人』からスターリンが激怒した第一幕第3場
https://www.youtube.com/watch?v=ldRJQfES8hA#t=44m30s
※『ムツェンスクのマクベス夫人』英語字幕付きですが年齢制限あり、自己責任で…
https://www.youtube.com/watch?v=kqxTOrKnIUY (100分)

同年、親しみやすい『ジャズ組曲第1番』を作曲。ショスタコーヴィチはソビエト・ジャズ委員会に所属しており、ジャズの普及を目的に作曲。意外な横顔と出会える楽しい楽曲。
※『ジャズ組曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=86cX-3t-SVg (8分36秒)これはいい!

1936年(30歳)1月、スターリンが“巷で話題”の『ムツェンスクのマクベス夫人』をボリショイ劇場で観劇した。称賛に応えるためショスタコーヴィチは舞台裏に待機していたが、スターリンは生々しい性描写(暴行シーン)に激怒し、第3幕の途中で席を立った。2日後、共産党中央委員会機関紙『プラウダ』の第一面に「荒唐無稽のオペラ」と題する批判的な内容の記事が掲載された。『マクベス夫人』は「倫理に欠け、反革命的」「金切り声と混乱が累積した形式主義的作品」と断罪され、徹底的な批判が加えられた(プラウダ批判)。一夜にして「モーツァルトの再来」から「体制への反逆者」にレッテルが貼り替えられ、作曲家カバレフスキーは彼との関係を断ち切り遠ざかった。このプラウダ批判によって、ショスタコーヴィチは自身の境遇を迫害されるユダヤ人と重ねるようになり、ユダヤ旋律の引用が増えていく。同年、長女ガリーナが生まれる。
−−この年、スターリンが病的な猜疑心にとらわれて「大粛清」を開始。秘密警察が暗躍し、膨大な数の党員が投獄、処刑されていく。中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺された。さらに党大会に参加した党員1956人のうち1108人が「人民の敵」の烙印を押され、死刑判決を受けた者は24時間以内に処刑された。レニングラード共産党の関係者5000人全員が銃殺され、ロシア革命の同志ですら、見せしめの裁判で架空の国家反逆罪を自白させられ、死刑を宣告された。国民の間に密告が奨励され、労働者、農民、教師、司祭、芸術家、軍人、少しでもスターリンを批判した者はこの世から消えた。追放、逮捕、強制収容所送りは、ほとんどの家庭におよび、秘密警察と強制収容所による恐怖政治が国民の日常を支配していった。
スターリンの逆鱗に触れたことで、『マクベス夫人』は以後20年以上も事実上のお蔵入りとなる。

同年5月、ショスタコーヴィチ自身が「我が仕事のクレド(綱領)」と呼び、マーラーの影響を前面に出した最初の楽曲、最大編成60分の力作『交響曲第4番』(全3楽章)が完成する。第1楽章にはマーラーの『交響曲第1番』『大地の歌』から、終楽章にはモーツァルト『魔笛』、ビゼー『カルメン』の引用があり、聴き込むほどに発見がある。最後は7分ほど透明感のある不思議な静寂が続く。だが、最終リハーサルまで行いながら、直前になって初演を中止した。おそらく抽象的な曲想が当局の好みではないと判断したのだろう。初演は四半世紀後に実現した。後年のショスタコーヴィチ「プラウダ批判の後、政府関係者が懺悔して罪を償えとしつこく説得したが拒絶した。代わりに交響曲第4番を書いた。若さと体力がプレッシャーに勝ったのだ」。
※『交響曲第4番』初演を担当したキリル・コンドラシン指揮 https://www.youtube.com/watch?v=SUv68X_yRSo
(60分)長く謎に包まれた“隠れ名作”だった
※『交響曲第4番』クライマックスに血が沸騰!その後7分の不思議な静寂(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=SUv68X_yRSo#t=52m41s

1937年(31歳)、革命20周年を記念し、「社会主義リアリズム」の作風に転向した『交響曲第5番“革命”』を作曲。社会主義リアリズムが目指す芸術は「簡潔・明確・真実」。そして党政府が芸術に求めたのは、革命の成功によって夢と希望を持って生きる民衆の姿を描くこと。この曲は前年の「プラウダ批判」に対する“創造的な回答”であり、精神力のたくましい闘争を表現していると党政府に解釈された。第1楽章は皇帝に虐げられた民衆の苦悩を思わせる重い響きで始まり、第3楽章は革命の混乱で命を落とした人々への祈りのような旋律があり(ユダヤ音楽を反映)、11月の初演では涙する観客が多かった。終楽章は冒頭で徐々にテンポが速くなり、倍以上の速さとなって聴く者に高揚感を与え、最後は高らかな凱旋歌と共にティンパニーを祝砲のごとく打ち鳴らして締めくくられる。聴衆と当局の両方が大感動、圧倒的成功をもって名誉を回復した。ソ連作家同盟議長は「社会主義リアリズムのもっとも高尚な理想を示す好例」と喝采した。フィナーレについて、ショスタコーヴィチはベートーヴェンの運命交響曲が示した“苦悩を通じて歓喜へ至れ”と同じく、「それまでの各楽章の緊迫した悲劇、あらゆる疑問を解決し、明るい人生観、生きる喜びへと導くもの」と語る。一方で、初演後に「フィナーレを長調のフォルテシモにして良かった。もし、短調のピアニッシモだったらどうなっていたか」と喝采の感想を吐露している。
近年、終楽章の隠されたメッセージ、権力者を批判する暗号の存在が指摘されている。『第5番』にはビゼー『カルメン』の「ハバネラ」があちこちに引用されているが、カルメンにおける当該箇所の歌詞は「信じていない」。クライマックスでは、ヴァイオリンが200回以上も「ラ」の音を繰り返すが、古いロシア語の「ラ」には「私」という意味がある。つまり、ラ音の上にハバネラがあることで、「私は革命(スターリン)を信じていない」という意味になる。さらに、ショスタコーヴィチ作『A・プーシキンの詩による四つの歌曲』の第1曲「復活」の引用もあり、詩の内容は「虐げられた芸術の真価が時と共に蘇る」というもので、圧政下の自身と二重写しになっている。
同年、レニングラード音楽院で教壇に立つ。
この年、35万3074人“以上”が処刑される。“以上”としたのは公文書に記録されていない犠牲者が多数いるため。「赤いナポレオン」と呼ばれた赤軍最大の名将ミハイル・トゥハチェフスキーが、でっちあげのドイツ軍スパイ容疑で銃殺された際は、ショスタコーヴィチは友人であったことから事情聴取を受けた。
※『交響曲第5番』ハイティンク指揮コンセルトヘボウの名盤!https://www.youtube.com/watch?v=YS4dcZ90fN0(50分)
※当局目線のカバレフスキー「(第5番では)ショスタコーヴィチ氏は以前の“誤った”作曲方法の誘惑に屈服しなかった」。

1938年(32歳)、『弦楽四重奏曲第1番』を作曲。革命交響曲の成功でソ連の作曲家として不動の地位を獲得し肩の荷が下りたのか、交響曲の筆をいったん置き、くつろぐように初めて弦楽四重奏曲を書いた。和声の美と情緒の深さをたたえた良曲であり、以後、この分野に全15曲を残す(交響曲と同数)。多作のショスタコーヴィチが32歳まで弦楽四重奏に手を出さなかったのが不思議。
※『弦楽四重奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=NELnVCGk1xw (15分)

同年のショスタコーヴィチの寄稿「私はソビエトでも悲劇というジャンルがあっていいと思う。ただこの悲劇の内容は、シェイクスピアの悲劇における、人生を肯定するあのパトス(激情)と同様、積極的な理念によるものであること」。
この年も大粛清は続き32万8612人以上が処刑される。スターリンの元ライバル、ニコライ・ブハーリンも殺された。長男マクシムが生まれる。

1939年(33歳)、ベートーヴェンが運命交響曲の後に田園交響曲を書いたように、ショスタコーヴィチも革命交響曲の後に自然賛歌の『交響曲第6番』を作曲した。曲の構成は、ラルゴ、アレグロ、プレストと速度を増していく大胆な手法(序・破・急)。彼は「春、歓喜、生命の躍動を描くことに努めた」という。清らかな大気と優しい光が空間を満たす。ロシア人の祖国愛は土に対する愛。レーニンに霊感を受けて書いたとし、聴衆と当局の両方から歓迎された。同年、音楽院の教授に昇進。9月ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発。
※『交響曲第6番』 https://www.youtube.com/watch?v=5ryR1OHx34w (32分)
1940年(34歳)、自身の最も有名な室内楽曲のひとつ『ピアノ五重奏曲』を作曲。作曲者の内面が迫ってくるような哲学的な叙情性に満ち、美しく、そして深い。聴く者に強烈な感銘を与え、翌年に第1回スターリン賞第一席を受賞した。
※『ピアノ五重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=UEPiqK-jqTc (36分)

1941年(35歳)、6月22日ナチス・ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻を開始。スターリンは赤軍の有能な指導者層を大量に粛清してしまったため、軍は人材不足でまともに機能せず、開戦直後に大打撃をこうむった。7月ドイツ軍がソ連第2の都市レニングラード(現サンクトペテルブルク)に迫り、ショスタコーヴィチは人民義勇軍・防空監視隊の一員として第一線で防衛戦を目撃する。9月8日ドイツ軍はレニングラードを取り囲み、以降1944年1月まで約900日に及ぶ包囲戦が始まる。市民319万人が飢餓地獄に追い込まれ、包囲戦の犠牲者数は67万人〜110万人と推定されている。
その戦火のなか、ショスタコーヴィチは約75分の大曲『交響曲第7番“レニングラード市にささぐ”』を作曲する。9月17日彼はラジオで市民に語りかけた。「1時間前、私は、新しい交響的作品の最初の2つの楽章を書きあげました。私は一度も故郷を離れたことのない根っからのレニングラードっ子です。レニングラードこそは我が祖国、我が故郷、我が家でもあります」。そして作品を市民の前で発表することを誓う。10月ソ連政府は臨時首都を内陸部のクイビシェフに定め、行政や文化人は同地へ疎開し、ショスタコーヴィチもクイビシェフに移り『第7番』を12月末に完成する。「この曲は闘いの詩であり、根強い民族精神への讃歌である」。
完成直後、ショスタコーヴィチはこう語ったという。「第7番ではファシズムだけでなくソビエトの全体主義も描いた」「ファシズムとは単に国家社会主義(ナチズム)を指しているのではない。この音楽が語っているのは恐怖、屈従、精神的束縛である」。ショスタコーヴィチはこの作品で、ナチス・ドイツだけでなく共産党の弾圧も告発している。
各楽章の副題は「戦争」「回想」「祖国の大地」「勝利」。曲の冒頭で第1主題「人間の主題」が力強く描かれ、市民の平和な生活が奏でられるが、小太鼓と共に「戦争の主題」が登場し、約11分半の行進曲が始まる(ラヴェル『ボレロ』のように「戦争の主題」が小太鼓のリズムにのって楽器を変えながら12回繰り返される)。その後、金管群が激戦を描き、終楽章の最後に再び「人間の主題」が総奏で登場し勝利の凱歌が轟きわたる。レニングラード戦を音楽で描いた巨大壁画。
※「戦争の主題」はバルトークが『管弦楽のための協奏曲』の第4楽章で引用し、ショスタコーヴィチへの揶揄ともナチス批判とも取れる。バルトークは「国家の奴隷にまでなって作曲するものは、馬鹿」と辛辣な言葉を残している。ショスタコーヴィチは奴隷じゃないと思うけど…バルトークは亡命したから厳しい…。
※『交響曲第7番』バーンスタイン&シカゴhttps://www.youtube.com/watch?v=1nzZoRmQdQM
※『交響曲第7番』第一楽章のマーチ https://www.youtube.com/watch?v=1nzZoRmQdQM&#t=7m48s
(ここから11分半も続く特大マーチ!涼宮ハルヒの宇宙艦隊戦に流れていたやつ?)

1942年(36歳)、3月5日クイビシェフで『交響曲第7番』初演、翌日のプラウダ紙が「ソビエト芸術の偉大なる日」と絶賛するなど大成功を収める。ショスタコーヴィチは3月29日プラウダ紙上で「私は自分の第七交響曲を我々のファシズムに対する戦いと我々の宿命的勝利、そして我が故郷レニングラードに捧げる」と表明。初演後、楽譜はマイクロフィルムに収められ、国家機密扱いで陸路イランに運ばれ、エジプト経由で連合国側に運ばれた。そして8月9日、ショスタコーヴィチが約束した通り、包囲下のレニングラードで演奏会が決行された。オーケストラの団員は14人しか残っておらず、演奏者を募集して当日に挑み、ドイツ軍の砲声が演奏会を邪魔せぬよう演奏前にソ連軍が烈火の砲撃を行い、敵を沈黙させての『交響曲第7番』披露となった。この曲はスターリン賞第1席を受賞し、ロシア共和国功労芸術家の称号を授与される。同年のアメリカ初演はトスカニーニ指揮で行われ、ドイツと戦っていた米国でも好評を博した。
この年、ソ連軍は半年に及んだ史上最大の市街戦、スターリングラード攻防戦に勝利。これが独ソ戦の転換点となり反撃が始まる。

1943年(37歳)、戦争の悲惨さを描いた『交響曲第8番』を作曲。史上最大の市街戦となったスターリングラード攻防戦の犠牲者(ソ連側だけで50万人以上)への墓碑として書かれた。第7番『レニングラード』は戦争の表面的な部分を主に描いたため、続く第8番では内面的な悲しみを表現しようと努める。作曲時はソ連軍の反転攻勢が始まり、快進撃を続けていたため、ショスタコーヴィチ自身は未来への希望も込めたつもりだったが、長大な第一楽章があまりに暗く重いうえ、終楽章の最後も地味なため、「なんだこれは!反転攻勢は連戦連勝なのに、もっと明るくできないのか!」と党政府から不興を買ってしまう。作曲家同盟総会でも「前作の勝利の主題を踏襲してほしかった」と不満が出た。『第8番』は5年後に「ジダーノフ批判」で槍玉にあげられ、1956年のフルシチョフ「スターリン批判」まで事実上演奏が禁止される。現在、ショスタコーヴィチの交響曲の第1位に『第8番』(もしくは『第4番』)をあげるファンは多い。
同年夏、モスクワに対するドイツ軍の脅威が去り、首都がクイビシェフからモスクワへ戻される。これにともない、モスクワ音楽院教授に就任する。
※『交響曲第8番』ショルティ指揮シカゴ響 https://www.youtube.com/watch?v=IP5c3DHdkIM (63分)
1944年(38歳)、『弦楽四重奏曲第2番』を作曲。交響曲のように劇的であり4人で演奏していると思えない。同年、レニングラードがドイツ軍の包囲に耐え抜き、ついに解放される。
※『弦楽四重奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=cfx9gjOWR_w (36分)

同年、友人の突然の死を悼んだ追悼音楽『ピアノ三重奏曲第2番』を作曲。哀惜の念を表現するためユダヤの旋律を多用している。
※『ピアノ三重奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=IesxWe1pT28 (28分)各楽章で曲想が目まぐるしくかわる
1945年(39歳)、5月9日、ドイツが無条件降伏。スターリンはソビエト軍が解放した東欧諸国を共産化した。同年、ショスタコーヴィチは『交響曲第9番』を作曲。終楽章にユダヤの民謡旋律が引用され、ナチスからのユダヤ人の解放を念頭に置いたものとする見方がある。完成前、ショスタコーヴィチは「祖国の勝利と国民の偉大さをたたえる合唱交響曲を制作中」と公言していたため、当局はベートーヴェン第九のような荘厳な作品を期待していた。ところが、蓋を開けてみると、肩の力を抜いた軽妙洒脱な作品であり、演奏時間も20分強しかなく、当局にとっては完全に肩透かしとなった。約束していた合唱もなく、枢軸国との戦争に勝利した記念作どころか、皮肉や懐疑主義も見られることから、「イデオロギー的信念がない」「スターリンを揶揄するものでは」と党政府の感情を大きく害した。続々と悪評が噴出し、ショスタコーヴィチは袋叩きにされた。これは後のジダーノフ批判へと繋がっていく。
※『交響曲第9番』 https://www.youtube.com/watch?v=qynu8yNiTrY (24分)スターリンの逆鱗に触れた曲。みんなが期待していた第九とは違うが、誇張を捨てた純粋音楽として高く評価する声も。

1947年(41歳)、レニングラード音楽院教授に復職。ロシア共和国最高議会代議員に選出される。
1948年(42歳)、2月10日、スターリンに次ぐソ連共産党のナンバー2、中央委員会書記で文化相のアンドレイ・ジダーノフによる前衛芸術に対する批判が公にされる。ジダーノフ「ソ連の音楽は形式において民族的、内容において社会主義的でなければならない。民謡的旋律を重視し、古典的遺産を尊重し、民衆の魂に訴えて社会主義建設に向かわせるような、根底において健全なものでなければならない」。共産党は既に詩人や作家など文壇を攻撃し抑圧政策を主導していたが、「ジダーノフ批判」は音楽にも波及し、「社会主義リアリズム」路線に反すると見なされた抽象的な作風の作曲家、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、カバレフスキー、ミャスコフスキーらがまとめて「古典的伝統の破壊者」「西欧追随の形式主義者」「堕落した西欧ブルジョア文化の物真似師」と糾弾された(“本命”はショスタコーヴィチで、あとは目くらましに過ぎないとの説あり)。
ショスタコーヴィチは共産党中央委員会主催ソビエト音楽家会議で「一部の音楽通にしか分からず、大衆に無縁な音楽だけを書いていたのでは、社会主義に根ざした音楽発展の道を歩むことが出来ない」と批判の矢面に立たされ、再び音楽様式の変更を約束させられる。同年秋、レニングラード音楽院、モスクワ音楽院ともに教授の職を解任された。
この年、傑作『ヴァイオリン協奏曲第1番』を作曲。各楽章には表題「夜想曲」「スケルツォ」「パッサカリア」「ブルレスケ(おどける)」がついており、聴き手を引き込む情熱的な楽曲。十二音技法など前衛的な書法を使っているため、党政府の批判を懸念したショスタコーヴィチは7年間もこの曲の発表を控え、スターリンの死後、1955年にダヴィッド・オイストラフのヴァイオリン独奏で初演された。ユダヤ音楽の旋法も見られる。
※『ヴァイオリン協奏曲第1番』ニコラ・ベネデッティの名演 https://www.youtube.com/watch?v=bdlRnM9XOQE (40分)
※『ヴァイオリン協奏曲第1番』ヒラリー・ハーン大喝采 https://www.youtube.com/watch?v=8HZVQyD9rsY (39分)

1949年(43歳)、ジダーノフ批判で「人民の敵」となり、窮地に立たされていたショスタコーヴィチは、批判内容に「ロシア民族が伝統的に受け継いだ合唱曲の様式を通して、音楽を分かりやすく大衆化せねばならない」とあったことから、批判への解答として、雄大で分かりやすい『森の歌』(全7曲)を作曲する。かつて「プラウダ批判」に『交響曲第5番』で応えたのと同じ構図だ。当時、スターリングラード攻防戦で荒廃したヴォルガ川近辺に、スターリンが大規模な植林を行っていたことに彼は着眼し、この植林事業を平易な言葉で称えるオラトリオ(管弦楽付きの合唱、詩人ドルマトフスキーに作詩を依頼)を書いた。
第1曲「戦いの終わった時」…雄大な楽想。「戦いは勝利に終わり、喜びの国は一息入れている。明るい春は近づいた」「河から河まで、ヴォルガからブグまで、北から南まで森林のベルトが作られる」
第2曲「祖国を森で覆おう」…力が満ちる楽想。「全土に呼びかけの声が響く。さあ祖国を森で覆うんだ」
第3曲「過去の思い出」…悲痛な楽想。「愛する私たちの土地の痛ましい運命を忘れない。我が祖国の子らよ嘆くな、国土を改造し、大きく育て」
第4曲「ピオニール(少年団)は木を植える」…子どもたちの可愛らしい歌。「ポプラ、ポプラ、早く大きくなあれ!トネリコは祖国の草原を飾り、白樺はコルホーズ(集団農場)にたくさん植えられた」
第5曲「スターリングラード市民は前進する」(曲名はのちに「コムソモールは前進する」に改訂)…勇ましい楽想。死傷者100万人を出し全市壊滅したスターリングラードの人々が復興に立ち上がる歌。「幸福は我々の手で作り出すのだ。スターリングラード市民よ旗を掲げ、コムソモール(青年同盟)よ戦いにいでよ」「緑の帯で地球を包むのだ」
第6曲「未来の散歩道」…叙情的な楽想。植林事業が終わった未来を夢見る。民謡の『ウグイスは静かに幸せの歌をうたう』を引用。「昔はこの地にウグイスも鳴かなかったが、美しいソビエトの国ができあがった」
第7曲「栄光」…壮大な終曲。「白樺は祖国の兵士のように毅然とそそり立つ」「共産主義の夜明けの光が輝き始めた」、そして「レーニンの党に栄えあれ!人民に永久の栄えあれ、賢明なスターリンに栄えあれ!」の大合唱で終わる
まさにスターリン讃歌であり、独裁者は大いに喜んだ。初演は大絶賛を受け、『森の歌』は翌年スターリン賞第1席に輝き、ショスタコーヴィチは晴れて名誉を回復した…が、初演の夜、ショスタコーヴィチは屈辱感からホテルで泣きながらウオッカを浴びたという。
4年後にスターリンが死ぬと、歌詞は大幅に書き換えられて「スターリン」という言葉は完全に削除され、純粋に緑化運動を称えるものになった。たとえ、作曲家本人には権力に屈服したつらい音楽であっても、『森の歌』の「緑の帯で地球を包むのだ」という強いメッセージ、楽曲のスケール感とカタルシスは、合唱団にも聴衆にも高揚感を与えるため、作品は高く評価されている。ショスタコーヴィチの最も有名な合唱曲であり、日本では和訳されるなど特に人気が高い。
※指揮者・岩城宏之「ショスタコービッチがどんなに憎もうと、この曲は再三演奏されてしかるべき曲なのではないか。こんなに分かりやすくて、良くて、しかも転調とかすべてが高級で、実にうまく書いている。厳然として傑作だと改めて感心してしまう」。
※『森の歌』日本語字幕付き https://www.youtube.com/watch?v=lcbv0Yriu2Q (47分)

同年、『弦楽四重奏曲第4番』を作曲。この作品から、ショスタコーヴィチは自分自身の苦悩や葛藤を様々な角度から表現し始める。曲の冒頭から凄まじい緊張感が支配。終楽章は交響曲のように悲劇性に満ち、ナチスに家族を殺害された友人のユダヤ人作曲家ヴァインベルクの影響で、ユダヤ旋法も取り入れられている。党政府の批判を恐れて4年間封印し、スターリンの死後、1953年に初演した。
※『弦楽四重奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=BJduExH8UWk (26分)冒頭からきてる

1951年(45歳)、『24の前奏曲とフーガ』を作曲。20世紀ソ連のピアノ音楽を代表する作品。前年にショスタコーヴィチはバッハ没後200年を記念して独ライプツィヒで開催された第1回国際バッハ・コンクールの審査員に選ばれ、優勝者のソ連のピアニスト、タチアナ・ニコラーエワの演奏に深く感銘を受け、この作品を書いた。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』にならい、全ての調性を網羅する大規模な連作となり、24組の前奏曲とフーガの総演奏時間は約3時間を要する。党からは不評だったがエミール・ギレリスらロシアのピアニストからは絶賛された。全体の曲調は穏やかで平明な雰囲気。
※『24の前奏曲とフーガ』本作を献呈されたタチアナ・ニコラーエワの演奏
https://www.youtube.com/watch?v=rLzC9WY9KNk (168分!!)
※「第7番 イ長調」輝く湖面のよう(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=rLzC9WY9KNk#t=34m12s
※「第16番 変ロ短調」もの思いに耽るよう(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=rLzC9WY9KNk#t=94m50s
※「第22番 ト短調」こちらも幻想的(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=rLzC9WY9KNk#t=139m54s
※「第24番 ニ短調」冬の霧の中を歩むよう(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=rLzC9WY9KNk#t=155m06s

1953年(47歳)、3月5日、独裁者スターリンとプロコフィエフが同じ日に他界。晩年のスターリンはますます偏執狂的になり、新たな血まみれの粛清を開始しようとしていたが、幸いにも実行前に死んだことで危機は回避された。スターリンの死を受けて、3歳年上の作曲家ハチャトリアン(1903-1978)が勇気を出して論文『創造の自由とインスピレーション』を発表する。彼は「芸術家の創造の自由こそが真に偉大な社会主義リアリズムを生む前提条件である」と、芸術に対する当局の官僚統制を激しく非難した。
ショスタコーヴィチはスターリンの死後、8年ぶりとなる交響曲を書き始め、年末に『交響曲第10番』を初演する。第3楽章と終楽章に、ショスタコーヴィチのイニシャルをドイツ音名にした「DSCH」(レ、ミb、ド、シ)の音列が使われており、自伝的な響きがある(深読みすれば、陰うつな第1楽章はスターリンの圧政、第2楽章は解放闘争、以降は自由を手に入れたショスタコーヴィチに思える)。『第10番』以降、「DSCH」の音列は繰り返し使用されるようになる。
ソ連では評価が二分され、翌年に作曲家同盟で3日間に渡る討論会(第10論争)が開催された。内容は「終楽章が弱く、第一楽章の重い空気を払拭し切れていない。もっと明るくしてよかったのではないか」というもの。ハチャトリアンは「楽観的な悲劇がここにある」と前向きに評価した。カラヤンいわく「私は作曲をしないが、したとしたらこのような曲を書いただろう」。
※論争を呼んだ『交響曲第10番』 https://www.youtube.com/watch?v=GXQ_xVSKX0A(51分)
同年、『忘れがたき1919年』を作曲。元々は2年前に公開された同名映画の音楽。ロシア革命後の赤軍と白軍との内戦を描いた映画。ピアノとオーケストラが盛り上げる。
※『忘れがたき1919年』 https://www.youtube.com/watch?v=mYvxw-IpslU (7分31秒)めっちゃええやん!!
1954年(48歳)、十月革命を記念した晴れ晴れとした『祝典序曲』を作曲。スターリン時代の終わりを歓喜するようなファンファーレで始まり、爽快に駆け抜けていく楽曲。編曲された吹奏楽版も人気が高い。同年、世界平和協議会から国際平和賞を受賞。
※『祝典序曲』 https://www.youtube.com/watch?v=Ak9CjmAUYJg (5分48秒)
※『祝典序曲』吹奏楽版 https://www.youtube.com/watch?v=fBUg5yGIJl4 (7分)
この年、妻ニーナが45歳で他界。旅先で重体の報を受け取り、急いでモスクワに戻ったが間に合わなかったらしい。6年後の『弦楽四重奏曲第7番』をニーナ夫人に捧げた。
1955年(49歳)、母ソーフィヤ他界。
1956年(50歳)、スターリンが行った恐怖政治を、フルシチョフは「スターリン主義」として公に批判する。ついにスターリンが公式に否定された。同年、『弦楽四重奏曲第6番』を作曲。胸の奥に悲しみを秘めたような第3楽章が渋い!この年、コムソモール(青年団)の女性活動家マルガリータ・イバノヴァと再婚する(性格が合わず3年後に離婚)。また、ソ連で最高の栄誉とされたレーニン賞を受賞し、表面的には路線変更の苦労がむくわれた。
※『弦楽四重奏曲第6番』第3楽章が心に染みる(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=0oUB_k7WTgs&#t=12m24s

1957年(51歳)、息子マクシム(当時19歳、モスクワ音楽院の学生)に捧げられた『ピアノ協奏曲第2番』を作曲。第3楽章にピアノ教則本で有名なハノン練習曲「第2番」(シャルル=ルイ・アノン作曲)をパロディで引用している。ショスタコーヴィチはピアノの名手だった息子を溺愛していた。作曲家が息子に献呈した曲というのは大変珍しい。同年、第2回作曲家同盟大会で委員長となる。
※『ピアノ協奏曲第2番』なんとショスタコーヴィチ自身が演奏!https://youtu.be/BCTEx3w2_jU (17分26秒)
同年、ロシアの第一次革命を描いた『交響曲第11番“1905年”』を作曲、翌年のレーニン賞に輝く。各楽章には表題「宮殿前広場」「1月9日」「永遠の記憶」「警鐘」が付けられている。研究者の間では、本作は単なるロシア革命の音楽ではなく、前年に勃発した「ハンガリー動乱」に共感するショスタコーヴィチが、ハンガリー国民を弾圧するソ連政府への抗議として書いたと見る意見がある(僕も賛意)。
冒頭、1905年の凍てつく夜明けのペテルブルク冬宮前広場から始まり、皇帝の圧政が重苦しい2つの囚人歌で表現される。革命歌「聞いてくれ!」(Слушай)も引用。
※『交響曲第11番“1905年”』冒頭の夜明け前の宮殿前広場の情景が素晴らしい。この場所でこれから何が起きるかを暗示している https://www.youtube.com/watch?v=yEBaJNPmCRg (56分40秒)
※後半の囚人歌「夜は暗い」(Ночь темна лови минуты)
https://www.youtube.com/watch?v=8KUYy9rrwEM
第2楽章では皇帝に請願するため宮殿に向かって行進する無防備の民衆に向かって、不吉なトランペットの合図と共に軍が発砲し、千人以上を射殺する「血の日曜日事件」が描写される。チェレスタと弦楽器が民衆の死を象徴。
※『交響曲第11番“1905年”』第2楽章「1月9日」のクライマックス(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=yEBaJNPmCRg#t=27m28s
※この第一次革命では有名なポチョムキン号の反乱があり、エイゼンシュテイン監督は映画『戦艦ポチョムキン』の伴奏音楽で、交響曲第11番の第2楽章を使用している。
第3楽章は追悼を込めた葬送行進曲。葬列の歌はやがて革命歌に変わる。
革命歌「君は犠牲になった」(Вы жертвою пали.../同志は倒れぬ)をヴィオラが歌い…
https://www.youtube.com/watch?v=otpri4FZCHI
続いて革命歌「こんにちは、自由よ」(Здравствуй, свободы вольное слово)が引用される。
https://www.youtube.com/watch?v=M7d7H2RoDGw
終楽章は事件をきっかけに蜂起した民衆による力強い前進が描かれフィナーレとなる。
革命歌「怒りの暴君」(Беснуйтесь, тираны)で開始。
https://www.youtube.com/watch?v=3urHfACCdMI
そして弦楽器による「ワルシャワ労働歌」(Варшавянка)に引き継がれる。
https://www.youtube.com/watch?v=sIBtxQEJ1ik
1958年(52歳)、前衛を攻撃した「ジダーノフ批判」が解除され、ジダーノフ時代が終わる。オックスフォード大学より名誉博士の学位を授与、イギリス王立音楽アカデミー会員に選出。9月、右手の麻痺(後にポリオ、脊椎性小児麻痺と判明)で入院。最終的にはピアノを演奏できなくなった。

1960年(54歳)、自伝的な重要作品『弦楽四重奏曲第8番』(全五楽章)を作曲。この曲を書く一カ月前に、ショスタコーヴィチは泣く泣く共産党の入党を決断している。スターリン時代でさえ「入党だけはしない」と距離をとり、54歳まで党員にならずにきたが、フルシチョフは作曲家同盟の書記長に彼を任命するかわりに入党するよう何度も圧力をかけていた。ショスタコーヴィチはソ連音楽界の発展のために作曲家同盟の重職を引き受けることにし、不本意ながらも入党した。
『弦楽四重奏曲第8番』は「ファシズムと戦争の犠牲者を追悼して」、わずか3日間で書かれたという。第2主題はドイツ音名の自分のイニシャル「Dmitri Schostakovich」からとった4つの音列「D-S
(Es)-C-H」(D、Eフラット、C、B)=「レ、ミb、ド、シ」であり、これを全楽章に多用して自身の苦悩を赤裸々に吐露した。さらに、この曲の大部分には過去の作品「交響曲第1番」「交響曲第8番」「交響曲第10番」「ピアノ三重奏曲第2番」「チェロ協奏曲第1番」などを引用し、楽曲全体がショスタコーヴィチの自画像になっている。彼の手紙によると、この作品は自身へのレクイエムということだ。第2楽章にはスターリンの大粛清を思わせる、聴き手を追い込む高速の息苦しい旋律がある。大ホールでたくさんの聴衆に演奏する交響曲は常に党政府の監視・批判にさらされ自由に表現できなかったが、弦楽四重奏は聴衆が少なく比較的に思い通りに作曲できるため、このように公に言えない自分の内面を表現した。彼はこの曲でワーグナー『ジークフリートの葬送行進曲』、チャイコフスキー『悲愴交響曲』も引用したといい、選曲が死をイメージさせる。
第4楽章は冒頭に自身の映画音楽『若き親衛隊』から銃撃音のような旋律を引用したあと、しばらくしてソ連の民衆に愛された革命歌『重き鎖につながれて』(Замучен тяжелой неволей)が
演奏される。元々はロシア革命を讃える歌だが、ショスタコーヴィチはスターリンの粛清で友人や親族が犠牲になっており、悲痛な歌に聴こえる。革命後も権力に苦しめられている現状を嘆いているようだ。続けてスターリンが観劇中に席を立ったオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』からアリア「セリョージャ、愛しい人よ」を登場させている。このオペラは四半世紀ずっと上演禁止になったままであり、ショスタコーヴィチにとって粛清の象徴。第5楽章曲のラストにもう一度「レ、ミb、ド、シ」が奏でられ、静かに曲は終わる。
※『弦楽四重奏曲第8番』第4楽章の『重き鎖につながれて』(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=uGoxfQ2H3ns#t=14m22s
※原曲『重き鎖につながれて/過酷な徒刑に苦しめられて』 https://www.youtube.com/watch?v=NJoLAaIWQyY
『弦楽四重奏曲第8番』完成後の友人グリークマン宛ての手紙「この弦楽四重奏曲の馬鹿げた悲劇性があまりにも重く大きかったので、私は作曲しながら、半ダースのビールを飲んだ後の小便と同じほどの涙を流しました。帰宅後もこの曲を二度弾こうとしましたが、やはり泣いてしまいました」「私が死んだときには誰かが弦楽四重奏曲を私に捧げてくれるとは思えないので、私は自分自身のために書くことにしました」「これは私自身の人生に捧げた作品です」。
同年、ショスタコーヴィチは演奏旅行でロストロポーヴィチとイギリスを訪れ、7歳年下の作曲家ベンジャミン・ブリテン(当時47歳/1913-1376)と友人になった。10月、息子マクシムの結婚式で転倒し右足を骨折する。

1961年(55歳)、ウラジーミル・レーニンを偲ぶ『交響曲第12番“1917年”』を作曲。十月革命(ロシア革命)を扱った楽曲。各楽章の表題は「革命のペトログラード」「ラズリーフ(レーニンが滞在した湖)」「アヴローラ(冬宮を砲撃しロシア革命の火蓋を切った巡洋艦)」 「人類の夜明け」。
レニングラード音楽院大学院での教育活動に復帰。この年、作曲から25年ぶりに『交響曲第4番』が初演される。総譜は紛失されていたが、8歳年下のモスクワ・フィル指揮者キリル・コンドラシン(1914-1981)らがパート譜をもとに復元した。
12月にブリテンが『戦争レクイエム』を完成させた。第一次世界大戦に出征し25歳で戦死したウィルフレッド・オーウェンの反戦詩に基づいた楽曲。本作は単に死者の魂を慰める音楽ではなく、戦争という悲劇を二度と繰り返すまいという誓いが歌われている。翌年5月に初演され、ショスタコーヴィチは「20世紀の最高傑作」と最大級の賛辞を送った。
同年、フルシチョフは再びスターリン批判を行い、レーニン廟にあったスターリンの遺体を撤去し火葬にした。

1962年(56歳)、ブリテンの『戦争レクイエム』に(おそらく)触発され、ショスタコーヴィチは前年に発表された若き詩人エフゲニー・エフトゥシェンコ(当時29歳/1933-2017)の詩『バビ・ヤール』に音楽をつけることを試み、社会派音楽の最高峰『交響曲第13番“バビ・ヤール”』を書き始める。「バビ・ヤール」はナチスによるユダヤ虐殺事件が起きた旧ソ連の土地の名前。エフトゥシェンコが同地を訪れた際、虐殺現場に墓碑すらないことに衝撃を受けて怒りの詩を綴った(その後墓碑が建立される。おそらく交響曲第13番がきっかけ)。ショスタコーヴィチの当初の構想は短い交響詩であったが、エフトゥシェンコの他の詩集から選んだ詩や、新たな書き下ろし作品を加えて、バス独唱・合唱付きの大規模な五楽章の交響曲とした。ショスタコーヴィチはエフトゥシェンコの詩を借りてナチスによる虐殺を非難する一方、ロシア社会でタブー視されてきたユダヤ差別をえぐり出した。極右民族主義者がユダヤ人弾圧を行い、さらに革命後のソ連でも反ユダヤ主義が存在すると告発した。

−−「ポグロム」というロシア語がある。「破壊」を指す言葉だが、主にユダヤ人虐殺の表現として使われる。帝政ロシア政府は社会的な不満のはけ口にユダヤ人差別を利用したため、1881年以降ロシアで繰り返しポグロム、ユダヤ人排斥・虐殺が起きていた。第二次大戦中の1941年、ドイツ軍はロシアの古都キエフを45日間に渡る包囲戦の末に陥落させる(9月19日)。この戦いでドイツ軍は10万人の死傷者を出しており、市内に入ったナチス・ドイツ親衛隊は報復感情から「キエフの全ユダヤ人の殺害」を決定した。
9月28日、市内に「ユダヤ人は明日出頭せよ。出頭せぬ者は銃殺する」と告知したビラが貼り出される。ウクライナ警察はユダヤ人への差別感情からナチスのユダヤ人連行に協力した。出頭した3万3771人のユダヤ人は別の土地に移送されると思っていた。だが、彼らはキエフのバビ・ヤール峡谷に連行され、29日から30日にかけて、崖のへりに10人ずつ立たされ機関銃で殺害された。この「バビ・ヤール大虐殺」はホロコースト史上、1件で最大の犠牲者を出した虐殺事件となった。その後もキエフ解放まで2年にわたって、ロシア人、ウクライナ人、ロマ(ジプシー)、あらゆる国籍の人々がバビ・ヤールで殺害され、戦後のニュルンベルク裁判において「約10万の遺体」がバビ・ヤールの谷にあったと報告された。

『交響曲第13番 バビ・ヤール』
●第1楽章「バビ・ヤール」抜粋(ユダヤ人迫害に対するソ連社会の無関心、世界の反ユダヤ主義への怒り)

バビ・ヤールに記念碑はない。
切り立つ崖が粗末な墓標だ。

ドレフュスは私だ、と思ってしまう。※アルフレド・ドレフュス(1859-1935)スパイ容疑で逮捕された無実の仏軍ユダヤ人大尉
私は鉄格子の中、孤立無援で痛めつけられ、罵られ、辱しめられている。
ブリュッセル・レース(白いフリル)のご婦人方も、金切り声とともに傘で顔を突く。
ベロストークの少年は私だ、と思ってしまう。※1905年、ベロストーク(現ポーランド領)でロシア人によるユダヤ人集団虐殺がおき幼児まで殺された。
血が流れ、床に広がる。
酒場のゴロツキどもが暴れまわり
ウオッカとネギの匂いが混じる。
長靴で蹴飛ばされた、力ない私は、
ユダヤ人集団虐殺者どもに虚しく頼む。
「ユダ公を殺せ、ロシアを救え!」
騒ぎの中で粉屋が私の母をぶちのめす。

おお、我がロシア民族よ! 私は知っている
ロシア人は本来、国際派なのだと。
だが、しばしば汚い手をした奴らが、
お前の清らかな名を騙っているのだ。
私は知っている、この土地の優しさを。
だが、卑劣な反ユダヤ主義者どもは、
厚かましくも、自らをこう名乗っているのだ。
「ロシア民族同盟!」

私は思う、自分がアンネ・フランクであると、
(隠れ家の)4月の小枝のようなアンネであると。
何とわずかしか見たり嗅いだりできないのだろう!
私たちは小枝に触れることも空を見ることも許されない。
だけど、たくさん出来ることがある。
それは優しく暗い部屋で抱き合うこと。

バビ・ヤールに雑草が茂る。
木々は裁判官のようにいかめしく見下ろす。
ここでは全てが無言の叫びをあげ、
帽子をとった私は感じる、ゆっくりと白髪になって行くのを。

そしてこの私は、無言の叫びの塊として、
数万の虐殺された人々の上にいる。
私はここで銃殺された老人だ。
私はここで銃殺された子どもだ。
私の中の何ものも、決してこれを忘れはしない!

「(革命歌)インターナショナル」を轟かせろ、
地上最後の反ユダヤ主義者が永遠に葬られる時に。
私の身体の中にユダヤの血はないが、
激しい敵意を込めて私は憎まれる、
すべての反ユダヤ主義者どもに、ユダヤ人として。
だからこそ…私は真のロシア人なのだ!

●第2楽章「ユーモア」(どんな独裁者も反骨のユーモアに敗北する)

皇帝、王様、この世の権力者達は
閲兵(えっぺい)式を思い通りに出来たが、
ユーモアは支配出来なかった。
彼らはユーモアを殺そうとした、
しかし、ユーモアに馬鹿にされた!

政治犯として捕まったユーモアは
しおらしく刑場へ歩いて行ったが
土壇場でするりと消えてかくれんぼ。
彼らはユーモアを牢獄に閉じ込めたが、
そうは問屋が卸さなかった。
鉄格子も石壁もユーモアは抜けていった。
ライフルを肩に、ざれ歌と共に宮殿へ攻めていった。

ユーモアは嫌われるのに慣れてしまった、
その事は痛くも痒くもない。
ユーモアはユーモア自身もユーモアで扱う。

ユーモアは不滅だ…不滅だ!
ユーモアは抜け目がない…抜け目がない!
そしてすばしっこい…すばしっこい!
どんな物、どんな人でもすり抜けていく。
このユーモアに栄光あれ!
ユーモアは勇敢な人間だ!

●第3楽章「商店にて」(家族のため長い行列に並ぶ女性たちへの敬意)

大小のネッカチーフを被り、
戦場や仕事へおもむくように、女たちは商店へ入って行く
黙ったまま、一人ずつ。

会計の長い行列で立ち尽くして体は冷える。
だが私がそこへ近づいて行くと、
大勢の女たちの息で店の中は暖かくなって行く。
女たちは静かに待っている、
家庭の優しい女神たち、
全員手に握りしめている
自分の汗で稼いだ金を。
これがロシアの女たちだ。
これが私たちの誇りにして法廷だ。

女たちは全てに耐えて来た、
女たちは全てに耐えて行く!
この世のどんなことも女たちはこなすことが出来る。
何という力を授かっていることか!

ペリメニ(水餃子)をポケットに入れ、
私は戸惑いつつも、静かに見つめる、
袋を持ち、くたびれている女たちの正義の手を。

●第4楽章「恐怖」(スターリン時代の密告社会の恐怖と、新しい恐怖)

恐怖は何処へも影の如く入り込み、
どの階段にも忍び込んだ。
こっそりと人々を手なげつけ、
全てに刻印を押して行った。
誰かの密告に対するひそかな恐怖、
ドアを叩く音へのひそかな恐怖。
そして、外国人と話す恐怖は?
外国人ならまだしも、妻と話す恐怖は?
そして、葬送行進曲の後
静けさだけが残るあの言いがたい恐怖は?

我々は吹雪の中の建設も、
砲弾の下での突進も恐れなかったが、
自分自身と話し合うことを
時々死ぬように恐れたのだ。

今、あの恐怖に打ち勝ったロシアは
更に大きな恐怖を生み出している。
私は新たなる恐怖を見ている、
国に対して誠実でない恐怖、
真実の思想を虚偽で侮辱する恐怖、
馬鹿になるまで騒ぎ立てる恐怖、
他人の言葉を繰り返す恐怖、
他人を不信で侮辱し、自分を過信する恐怖を。

●第5楽章「出世」(本当の出世とは何か)

司教達はガリレオを有害で愚か者と決めつけた。
だが、時が示すように、愚か者こそ賢い。

ガリレオと同時代の学者は、
ガリレオより馬鹿ではなかった。
地球は回っていると知っていた。
だが、彼には家族がいた。
そして、自分の信念を曲げ、
妻と立派な馬車に乗って、
これが出世と思っていたが、
彼は(真の意味での)出世を駄目にしていた。

この惑星の正しい知識の為に
ただひとりガリレオがリスクを冒し、
そして彼は偉大になった
これこそが出世した人物だ

だから出世万歳!その出世が、
シェークスピアやパスツール、
ニュートンやトルストイがしたようなものであれば!
合唱(レフか?)独唱(レフだ!)※御用作家アレクセイ・トルストイ(1883-1945)ではなく『戦争と平和』の文豪レフ・トルストイ(1828-1910)と示唆。
なぜ彼らは汚名を着せられたのか?
どれだけ罵倒されようが、才能は才能なのだ。
中傷した奴らのことは忘れられる。
しかし、中傷された者は歴史に残る。
成層圏を目指した人々、
コレラで死んだ医者たち、
彼らこそが出世したのだ!
私は彼らの出世を手本にする。
私は彼らの神聖な信念を信じる。
彼らの信念は私の勇気。
私は出世しないことを、自分の出世とする!

※『交響曲第13番 バビ・ヤール』
https://www.youtube.com/watch?v=EWg--31JIfk#t=11m20s
※家族を持ち信念を曲げたガリレオ時代の学者のくだりで、伴奏リズムにショスタコーヴィチの名前からとった音型「D-S-C-H」が使われており、彼が自戒の念を込めてこの楽章を書いていることがうかがえる。
※『バビ・ヤール』について、こちらのサイトを参考にさせて頂きました!
http://www.hi-ho.ne.jp/tadasu/shostakovich13.htm

初演は同年12月にモスクワで行われた。反体制的な歌詞であるため、リハーサルに党役人が立ち会い、初演を中止させるべく当局のいやがらせが続いた。指揮を依頼したムラヴィンスキーは政治と距離をとるため断り、前年に『交響曲第4番』を復活上演させたキリル・コンドラシンが担当した。圧力を受けたバス独唱者が次々と交代し、本番では4人目の独唱者が舞台に立った。警官隊が劇場を包囲するという緊迫した雰囲気で初演が行われたが、第1楽章が終わった時点で大きな喝采がおき、終演後はショスタコーヴィチとエフトシェンコの両名に「ブラボー!」の掛け声が飛んだ。ピアニストのマリア・ユージナは「(近年のショスタコーヴィチは体制寄りだったが)交響曲第13番で彼は再び我らの仲間になった」と絶賛した。
初演後、フルシチョフは「ソ連に人種問題は存在しない」という建前から作曲者に介入、楽譜出版や再演を認める条件として、内容の変更を要求した。たとえば、「ユダヤの苦しみ」は「国民みんなの苦しみ」に、「虐殺の犠牲者」は「ファシズムの侵攻を拒んだ偉業」というように。まだ20代だったエフトゥシェンコは詩の一部(8行分)を鉛筆で変更したが、ショスタコーヴィチは新たな詩に合わせた音楽の改変を求められても応じなかった。
同年、約30歳も年下のイリーナ・スピーンスカヤ(27歳)が3人目の伴侶となる。この結婚はとても幸福なもので、13年後に死別するまで一緒だった。友人たちは「彼女が彼の人生を数年延長した」と称えた。この年、ソ連最高会議代議員に選出される。

1963年(57歳)、オペラ『カテリーナ・イズマイロワ』が初演される。これは27年前(1936)に上演禁止となった問題作『ムツェンスクのマクベス夫人』の改訂版で、露骨な性表現などを控えたもの。前年に完成し、年明けに上演許可が降りた。
1965年(59歳)、心臓病の悪化で入院。晩年の10年間は現実を直視し人生の深い悲劇性を哲学的に描く円熟した作品が次々に生まれている。
1966年(60歳)、作曲家としてはじめて「社会主義者労働英雄」の称号をあたえられた。生誕60周年記念演奏会出演後、深刻な心臓発作を起こし入院。ぜん息にも苦しむ。レーニン勲章受章。
1967年(61歳)、今度は左足の骨折で入院し、自嘲的に手紙を綴る。「これまでに達成された目標75%(右足の骨折、左足の骨折、右手の不具)。今やらなければならないことは、左手を破壊することです」。
1968年(62歳)、『弦楽四重奏曲第12番』を作曲。第2楽章の第3部で、ショスタコーヴィチはソ連音楽界の最後のタブーに挑戦した。即ち、十二音の音列(シェーンベルクが考案した無調の音楽語法)をモティーフに採用したのだ。スターリン時代なら収容所に送られていたかもしれない。
※『弦楽四重奏曲第12番』ピッツィカートに十二の半音が入り乱れる(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=tmhA-QQZgBI#t=18m47s
1969年(63歳)、体調の悪化で死を意識するようになったショスタコーヴィチは、ソプラノとバスの独唱付き『交響曲第14番“死者の歌”』(全11楽章)を作曲した。内容は死をテーマにしており、ガルシア・ロルカ(スペイン)、ギヨーム・アポリネール
(仏)、ライナー・マリア・リルケ(独)、キュヘルベケル(露)の詩に基づく。初演リハーサル時のショスタコーヴィチのスピーチ「人生は一度しかない。だから私たちは、人生において誠実に、胸を張り恥じることなく生きるべきなのです」。本作はブリテンに献呈された。
各楽章の標題と詩の作者(1)ロルカ「深いところから」、(2)ロルカ「マラゲーニャ」、(3)アポリネール「ローレライ」、(4)アポリネール「自殺者」、(5)アポリネール「心して」、(6)アポリネール「マダム、御覧なさい」、(7)アポリネール「ラ・サンテ監獄にて」、(8)アポリネール「コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージェ・コサックの返事」、(9)キュッヘルベケル「おお、デルウィーク、デルウィーク」、(10)リルケ「詩人の死」、(11)リルケ「結び」。最後の歌は「死は全能であり、歓喜のときにも、それは見守っている」と、死の賛美をテーマとしている。
※『交響曲第14番』から第7楽章「ラ・サンテ監獄にて」の奇妙で不思議、でもハマってしまう約2分間の低音ピッツィカート(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=hRRFHpwEcSk#t=30m21s
1970年(64歳)、ヴィオラが主役の『弦楽四重奏曲第13番』を作曲。単一楽章。ジャズの影響が見られる。
※『弦楽四重奏曲第13番』ジャズっぽい部分(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=4X6rGEf6Y50#t=7m01s
1971年(65歳)、『交響曲第15番』作曲。ロッシーニ『ウィリアム・テル』序曲や、ワーグナー『ニーベルングの指環』『トリスタンとイゾルデ』、自作の交響曲第7番『レニングラード』などが引用されている。終楽章でハイドンの最後の交響曲『ロンドン』の冒頭が引用されている。2度目の心臓発作。
1973年(67歳)、チェロが主役の『弦楽四重奏曲第14番』を作曲。カバレフスキーは「感情と思考、霊感と巨匠性の最高のハーモニー」と讃え、翌年にグリンカ賞受賞。
※『弦楽四重奏曲第14番』 https://www.youtube.com/watch?v=iOIr-Si0uCM (26分)

1974年(68歳)、最後の弦楽四重奏となった『弦楽四重奏曲第15番』を作曲。標題付きの6つもある楽章が途切れずに演奏され、全楽章がアダージョという前例のないもの。死の予感と現世との別れが哀感と共に切々と奏でられ、最後は遠くへ去るように音が静かに消え、余韻だけが残る。各楽章の標題は「エレジー」「セレナード」「間奏曲」「ノクターン」「葬送行進曲」「エピローグ」。第2楽章の冒頭で十二音全てを一音ずつ、最弱音から最強音へ爆発させる。初演は大成功を収めた。同年、ソ連最高会議〈国民教育・科学・文化委員会〉委員長を務める。
※『弦楽四重奏曲第15番』第1楽章がいぶし銀https://www.youtube.com/watch?v=AxQkpH1JDk0 (35分26秒)
1975年、死の4日前に最後の作品『ヴィオラ・ソナタ』が完成。ショスタコーヴィチの思索と人生の結晶となった。7月、体の不調を訴え入院。8月9日、モスクワの病院にて肺がんで他界。享年68歳。5日後にノヴォジェヴィチ墓地に埋葬された。
没後2ヶ月の1975年10月1日、遺作の『ヴィオラ・ソナタ』を献呈されたヴィオラ奏者フョードル・ドルジーニンがレニングラードで同曲を初演する。
ドルジーニンの回想「(この曲は)催眠術のような強い作用を聴衆に及ぼした。ホールで唯一の空席であるドミトリー・ドミトリエノヴィッチ(ショスタコーヴィチ)の席には花束が置かれ、そこから遠くない場所に、(大指揮者の)ムラヴィンスキーが私の妻と並んで座っていた。ムラヴィンスキーはまるで子供のように、止めどなく涙を流していたが、ソナタが終わりに近づくにつれて、文字どおり慟哭に身を震わせていた。舞台の上と聴衆の心の中で生じたことは、音楽の範疇(はんちゅう)を超えていた。我々が演奏を終えたとき、私は、ソナタの楽譜を頭上に高く掲げた。聴衆の喝采を残らずその作曲者に捧げるために」(『ショスタコーヴィチ』音楽之友社)。
※『ヴィオラ・ソナタ』終楽章の月光ソナタのオマージュ https://www.youtube.com/watch?v=lycYG6oJcvU#t=20m01s
1978年、指揮者キリル・コンドラシンがオランダ客演中に西側へ亡命(3年後にホテルで急死)。
1979年、没後4年にソ連から米国に移住した音楽学者ヴォルコフが『ショスタコーヴィチの証言』を世に出して大騒ぎになった。「死後出版することを条件に回想録を口述した」という。2年後に息子マキシムが「父親の言葉ではない」と発表。大半の研究者が同書を偽書と認定している。

ショスタコーヴィチは68年間の激動の人生の中で、15曲の交響曲、15曲の弦楽四重奏曲、6つの協奏曲、37作の映画音楽、劇の付随音楽10作品、バレエ音楽、オペラ、歌曲、ピアノの大曲「前奏曲とフーガ」など様々なジャンルに膨大な曲を残した。
当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていたが、研究が進むにつれ、苦難や屈辱を味わいながら、不倒不屈の戦いを続けていたことが分かってきた。苦悩の過程は弦楽四重奏曲に特に現れている。
活動初期はストラヴィンスキーの原始主義やベルクの表現主義など西欧モダニズムに影響を受け、党政府の圧力を受けて「社会主義リアリズム」に転じ、スターリンの死後は両者の長所を活かしながら十二音技法を独自に消化した音列技法を使うなど、自分の道を進んでいった。ショスタコーヴィチの作品は“尻すぼみ”に終わる曲が多く、派手に終わる人気取りの音楽より、自己の内面表現を優先したように見える。
一歩間違えれば粛清されるスターリンの恐怖時代を生き抜き、党政府が求める音楽と、自らが書きたい音楽の間を縫うように、ギリギリの境界線を歩み続けた。当局から批判を受けるたびに作風を柔軟に変えて“復活”し、当局への迎合とも反発とも言い切ることのできない作品を書き、常にソ連音楽界の第一線で活躍し続けた。
個人的には『交響曲第13番バビ・ヤール』にやはり圧倒される。ヒューマニズムが炸裂した19世紀の代表曲がベートーヴェン『第九』とすれば、20世紀の代表曲はショスタコーヴィチ『第13番』だろう。差別主義者が「○○人を殺せ、わが国を救え!」と、弱い立場の者の命を(直接的に、間接的に)奪いながら、「国を守るためにやった」と正当化する構図は、現代社会でも様々な国で見られるもの。真に祖国を愛するからこそ、国の名を使って差別を楽しむ人間が許し難い、差別主義者に郷土が汚されてたまるか、そんな思いが音楽から伝わってくる。ナチスによるホロコーストを題材にした楽曲、戦争の惨禍への嘆きは他の作曲家も書いているけれど、自国の人種差別に対する怒りをこんなにもストレートに表現したクラシックは他に聴いたことがない。脱帽です、ショスタコーヴィチ。

※ロシアの音楽は、ロシア民謡の影響などを取り入れ独自の発展を遂げ、19世紀にはロシア5人組と呼ばれる集団が活躍、ほぼ同時期にチャイコフスキーが幅広いジャンルに名曲を残した。19世紀末から20世紀初頭にはラフマニノフやスクリャービンらが活躍。第一次世界大戦の頃に自由奔放・革新的な音楽語法が盛んになるが、スターリンの恐怖政治が行われた1930年代からは一転して政治による規制を受けるようになり、「社会主義リアリズム」のもとで保守化した。プロコフィエフやショスタコーヴィチはこの制限下で個性を刻み込んだ交響曲を数多く残している。
※バルトークは「国家の奴隷にまでなって作曲するものは、馬鹿」と辛辣な言葉を残す。交響曲第13番の第2楽章はその一例である。
※サッカーの審判の資格も持つほどの熱狂的なサッカー好きだった。
※交響曲の歴史は1732年(ハイドン誕生)に始まり1975年(ショスタコービチ死去)に終わったという意見は多い。
※日本共産党・志位和夫、ショスタコーヴィチを語る。
「移動中にショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第八番ハ短調を聞く。世紀の名曲。何度聴いても熱いものが込み上げる。「ファシズムの犠牲者に捧げる」が副題とされているが、彼は「僕は僕自身に捧げる曲を書き上げたよ」と長女ガリーナに語っている。副題は作曲者の望んだものに変えるべきだと、僕は思う。」
「たとえ両腕を切り落とされても、私はペンをくわえて音楽を書き続けるだろう」(ショスタコーヴィチ)。スターリンの暴圧は、多くの人々を死、屈服、裏切りに追いやりましたが、そのもとでも人間の尊厳を守り抜いた、不屈の営みがあったことも記録されるべきことです。」
「ショスタコーヴィチはマーラー直系のものを感じます。15の交響曲はどれも好きですが、一つ選べと言われれば4番が一番好きです。マーラー的なものと、若きショスタコーヴィチの天才が火花を散らしあって、次からつぎへと想像を越える音楽の塊がふきだす。何度聴いても新鮮なのです。」
「前に、ショスタコーヴィチの15の交響曲のなかで一番好きなのは4番と書きました。最高峰だと考えているのは8番です。リヒテルは「この曲はショスタコーヴィチにあっても別の惑星だ」と言いましたが、異次元の光彩を放っている曲。深い悲しみと、強靭な抵抗と、希望と絶望が交錯する。おすすめです。」

〔墓巡礼〕
ショスタコーヴィチはモスクワで最も有名な墓地、ノヴォデヴィチ女子修道院付属のノヴォデヴィチ墓地の第2区39列に眠る。この墓地にはプロコフィエフ、スクリャービン、リヒテル、ロストロポーヴィチ、オイストラフなど著名な音楽家が多く眠っているが、ショスタコーヴィチだけ中央から離れた隅っこの近くに墓がある。墓碑にはキリル文字で「шостакович」とある。Wが英語のSというのは分かりにくいが、名前の途中に「TAKO」とあるのが目に入り、生没年を見てショスタコーヴィチとわかった。今なら墓石に彫られた楽譜の「レ、ミb、ド、シ」を見て、彼のイニシャルのドイツ音名(D-S-C-H)の音列と分かるけど、当時は恥ずかしながら「何かの代表曲の冒頭部分」と思っていた。2つ右隣りは最初の夫人ニーナさんの墓。3人目のイリーナ夫人はまだ存命?ちなみに「プラウダ批判」の際に、当局側に立ってショスタコーヴィチに圧力をかけた2歳年上の作曲家カバレフスキー(ソビエト作曲家同盟をモスクワに創設)は、墓地の東西で真反対に位置する10区に墓があるのは何か象徴的だった。



★シェーンベルグ/Arnold Schoenberg 1874.9.13-1951.7.13 (オーストリア、ウィーン 76歳)1994&2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria 本名:Arnold Schonberg

 
現代音楽の作曲家シェーンベルグの墓は、デザインの方も超モダン。

無調音楽の追究から十二音技法を創始し、現代音楽に多大な影響を及ぼした作曲家アルノルト・シェーンベルクは、1874年9月13日にオーストリア・ウィーンのユダヤ人家庭に生まれた。父は靴屋の店主、母はピアノ教師。早くから音楽に興味をもち、8歳からりヴァイオリンを習い始め、チェロを独学で学ぶ。9歳のときに最初の作曲を試みた。
15歳で父を亡くし、17歳から銀行に勤め始め、夜間に音楽の勉強を続けた。
1895年(21歳)、勤務先の銀行が倒産。3歳年上の作曲家・指揮者アレクサンダー・ツェムリンスキー(1871-1942)が結成したオーケストラ「ポリュヒュムニア」にチェリストとして入団する。シェーンベルクはブラームスに傾倒していたが、ツェムリンスキーの影響でワーグナーの音楽にも目覚めた。シェーンベルクは数カ月間、ツェムリンスキーから作曲理論や対位法を学び、これが唯一の公式な音楽教育となる。ツェムリンスキー門下には後にマーラーと結婚するアルマ・シントラーがいた。
1898年(24歳)、反ユダヤ主義から身を守るためプロテスタントに改宗。
1899年(25歳)、ほぼ独学で作曲法を習得し、本格的な創作活動を開始。ブラームス、ワーグナー、マーラーなど後期ロマン派音楽の影響のもとに初期の代表作、弦楽六重奏曲『浄められた夜』を作曲した。ドイツの詩人リヒャルト・デーメル(1863-1920)の詩「浄夜」に基づき、月下の男女の語らいが題材となっている。初演(1902年)では、ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』のように半音階を多用した新しい響きや、性を主題とした内容などが波紋を呼んだが、十二音技法に進む前の美しく叙情的な旋律は好評で、初期の代表作の一角となり大切な収入源となった。
約30分の単一楽章だが、デーメルの詩に対応して5つの部分で構成されている。1917年に弦楽合奏版が作られ、1943年版も作成された。
詩の大意『冷えびえとした月夜の林を歩く男と女がいる。2人は空を一緒に歩む月を見上げる。女は告白した。「私のお腹には他の男の子どもがいます。私は日々の虚しさから、母親になりたくて好きでもない他の男にあえて身を委ねました。そして人生が私に復讐したのです。それはいま私があなたを愛したからです」。男は苦悩するが、やがて「人の心の暖かさが赤ん坊を浄めるのだ。その子は私たちの子として育てようではないか。あなたは私に輝きをもたらしたのだ」とすべてを許し、強い抱擁と口づけを交わす。2人は明るい夜道を歩き続ける』。
スコアには若きシェーンベルクが「表情豊かに」「柔らかく」「心を込めて」「優しく」「感じを出して」と多数の発想記号を入れており、まだキュビズムに行く前の10代のピカソが、写実主義を極めていたことを彷彿させる。
※『浄められた夜』弦楽六重奏版 https://www.youtube.com/watch?v=-1W5uEGAKpI(27分40秒)
※『浄められた夜』弦楽合奏版(1943年編曲)https://www.youtube.com/watch?v=bJoBGTPdtrY(30分)
1900年(26歳)、独唱と合唱、語り手、管弦楽のための『グレの歌』の作曲を開始(完成は11年後)。マーラーやリヒャルト・シュトラウスの特徴である巨大な編成の管弦楽を、シェーンベルクは極限まで推し進めるため48段の五線紙を注文した(53段譜を特注したという資料もある)。
1901年(27歳)、ツェムリンスキーの妹マティルデ(1875-1923※1歳年下)と結婚し2人の子を授かる。ツェムリンスキーとは義理の兄弟となった。ベルリンに転居しオペレッタの編曲やキャバレー楽団の指揮で生計を立てていたが、『グレの歌』のスコアを見て興味を持ったベルリンの宮廷指揮者、10歳年上のリヒャルト・シュトラウス(当時37歳/1864-1949)が、『グレの歌』に専念できるよう副業に追われる彼のためにシュテルン音楽院の講師に推薦し、同院の教壇に立つことが出来た。同年、シュトラウスの後押しもあってリスト賞を獲得し賞金を得る。
※このリヒャルト・シュトラウスの援助エピソード、ウィキペディアでは1910年の出来事になっている。でも、1910年にシェーンベルクはウィーンで音楽を教えており、僕は1901年のことと思う(汗)。
1903年(29歳)、『グレの歌』の大半が完成するが、多忙となり最後の仕上げは7年間保留される。同年、最も対位法的に複雑な管弦楽曲、シェーンベルク唯一の交響詩『ペレアスとメリザンド』を作曲。4度和音の使用、単一楽章の選択など野心的。交響詩。当初はオペラとして着想したが、前年にドビュッシーがオペラ版を初演し成功を収めたため交響詩とした。シェーンベルクの半音階主義は調性の枠を超えた新しい方法論を模索するようになる。
※『ペレアスとメリザンド』 https://www.youtube.com/watch?v=gjlbpgu7N-s (43分)
この年、ウィーンへ戻って音楽学校の教師となる。マーラー(1860-1911)と知り合う。

1904年(30歳)、2人の天才、ウェーベルンとベルクが門下となり彼らを育てた。師と弟子の3人は、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンら18世紀ウィーン楽派にちなんで、のちに第2次ウィーン楽派(新ウィーン楽派)と呼ばれる。
同年、ツェムリンスキーと共に「創造的音楽家協会」を設立、マーラーが名誉会長に就任した。シェーンベルクは絵の才能もあり、この年抽象絵画のカンディンスキーのグループ「青騎士」に参加している。
1905年(31歳)、1月シェーンベルクとツェムリンスキーの演奏会についてアルマ・マーラーは日記に綴る。「私の予想は当たった。演奏中なのに聴衆はぞろぞろと出て行き、戸をバタンバタンさせる。口笛や制止の声もひどかった。でも私たち2人にはシェーンベルクの才能は素晴らしく思えた」。
同年、対位法を駆使した単一楽章の『弦楽四重奏曲第1番』を作曲。短調で始まり長調で終わる。初演は2年後の1907年。全体の調性は曖昧であり、論争を巻き起こした。ウィーンで初演に立ち会ったマーラーは、最前列で野次を飛ばす男に「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と制しケンカになりかけた。
※『弦楽四重奏曲第1番』42分の長大な楽曲 https://www.youtube.com/watch?v=SmDlGYj0y1Y
1906年(32歳)、『室内交響曲第1番』を作曲。4度の和音や全音の音階が多用され調性崩壊寸前。以降、次第に無調による作品を志向するようになっていく。15人の奏者による編成だが、内訳は管楽器10人に対して、弦楽器は半分の5人しかいない。音色は鋭くなり、耳慣れない音に初演時は非難の嵐となったが、居合わせたマーラーは途中で席を立つ聴衆に「静かにしろ!」と一喝。演奏後はシェーンベルクに対するブーイングに対抗して聴衆がいなくなるまで拍手を続けた。コンサートから帰宅したマーラーは妻にこう言った。「曲の良さはわからない。しかし彼は若い。彼の方が正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」。
※『室内交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=m_hMVzPT9f4 (22分)
1907年(33歳)、シェーンベルクが後年「私の作品の先駆となるもの」と語った合唱曲『地上の平和』を作曲。この年までが創作の第1期であり、後期ロマン派の傾向を持つ。
※『地上の平和』 https://www.youtube.com/watch?v=fCrToyZfgs8 (8分20秒)天使が「地上に平和を」とお告げをしても争いが終わらず、天使が小声で「地上に平和を」と再び哀願する…そんな内容。

1908年(34歳)、『弦楽四重奏曲第2番』を作曲。第4楽章では全て無調で書かれており、後期ロマン派から無調主義への橋渡し的な楽曲となった。また、弦楽四重奏曲にもかかわらず第3楽章と第4楽章にソプラノ独唱が含まれ、室内楽と歌曲を結合した革新的な作品でもある。詩はドイツ象徴主義を代表する詩人シュテファン・ゲオルゲ(1868-1933)によるもの。ちなみにゲオルゲの弟子の一人がヒトラー暗殺計画(ワルキューレ作戦)の首謀者クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐(映画でトム・クルーズが演じた)だ。シェーンベルクは表現主義的な無調音楽という独特の音楽様式を確立しつつあった。
※『弦楽四重奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=eB5I5iU0OoE (30分)  いいね!の数がすごい
この年、妻マティルデは同じアパートに住んでいる25歳の画家リヒャルト・ゲルストル(1883-1908)と不倫関係になり、彼女は夫と子供を残して夏にゲルストルとウィーンに旅行した。シェーンベルクはゲルストルに絵画の手ほどきを受けたり肖像画を描いてもらって彼を信頼していたし、マティルデに捧げる『弦楽四重奏曲第2番』を作曲中だったため衝撃を受ける。10月ウェーベルンらの説得でマティルデは夫の元に戻った。ゲルストルの友人たちは彼から去った。11月4日、孤立したゲルストルはアトリエに火を放って絵や手紙を焼き、鏡の前で首を吊った。
以後、音楽活動は第2期(13年間)となる無調の時代に入る。調性という枠組みを用いることなく単なる旋律と和音の組合せによって内面の想いを表現しようとした。完全4度の間隔で6個の音を重ねる4度和音など、従来の調性音楽の常識を破った和声を導入し、次第に7個の音に拘束される調性の枠を脱して無調主義へと進んだ。作風は表現主義の影響を強く受けていく。
表現主義…20世紀初めドイツを中心に展開された芸術運動。美術上の印象主義や文学上の自然主義に対する反動から、作家個人の内面、強烈な主観を通した感情表現に重点を置いた。対象は極度に変形・歪曲され、絵画ではムンクを先駆としてカンディンスキーら、彫刻ではレーンブルックら、建築ではタウトら、音楽ではシェーンベルクやウェーベルンらがその代表となった。演劇・映画の分野にも広まった。

1909年(35歳)、前年9月に作曲を始めたゲオルゲ歌曲集『架空庭園の書』(全15曲)が2月に完成し無調時代に到達する。内容は、庭園の木陰や小道で実らぬ愛を歌うというもの。夏に調整を放棄した本格的な管弦楽曲『5つの管弦楽曲』を作曲。この曲は「予感」「過ぎ去りしもの」「色合い」「大団円(転機)」「オブリガートのレチタティーヴォ」で構成され、様々な音色(和音)の実験が行われた第3曲「色合い」は、ホルスト『惑星』(1916)、ベルク『管弦楽のための3つの小品』(1915)、ウェーベルン『管弦楽のための6つの小品』(1909)などに影響を与えた。9月にやはり調整が破壊された『3つのピアノ曲』を完成。10月、オペラ処女作であり、ソプラノ歌手が1人で演じるモノドラマ『期待』を完成させる(初演は15年後の1924年)。本作ではフロイトが指摘した女性の意識下の世界を描き、悪夢のような幻想、心理サスペンスが表現されている。
『期待』…恋人に逢うために森へやって来た女が、夜の森に恐怖を覚えて立ち止まる。なんとか月明かりを頼りに森へ入るが、木の幹や枝まですべてが怖くなり、つまずき転びながら必死で逃げる。ようやく集落の見える野原に出ると、彼氏の浮気相手の家が見える。何かにつまずくと胸から血を流した恋人の死体だった。最初は嘆き悲しむが「なぜあんな女と」と嫉妬の気持ちをぶつける。やがて「それでも私は幸せだった…」と力なく呟き、夜が明け歩き出す。
※『架空庭園の書』 https://www.youtube.com/watch?v=9rGUov3Adlk (30分)
※『3つのピアノ曲』 https://www.youtube.com/watch?v=VeTFxbsVGrI (14分)
※『5つの管弦楽曲』 https://www.youtube.com/watch?v=I9-_tVSrCqs (17分)
※『5つの管弦楽曲』第3曲「色合い」頭出し
https://www.youtube.com/watch?v=I9-_tVSrCqs#t=7m30s (17分)
※モノドラマ『期待』 https://www.youtube.com/watch?v=BIQssywUirE (29分)つらいです

1910年(36歳)、ウィーンの音楽アカデミーで作曲を教える。10月、“画家”シェーンベルクがウィーンで個展を開く。画家としての才能もあり、表現主義的な『自画像』を残している。
1911年(37歳)、5月にマーラーが他界(享年50歳)。無調に走ったシェーンベルクをリヒャルト・シュトラウスは遠ざけたため、マーラーは「私がいなくなった後、誰がシェーンベルクのために力を貸してくれるだろう」と心配していた。
同年、カンタータ、オペラ、連作歌曲集の要素が融合した空前の大曲『グレの歌』が完成する。6人の独唱者に3組の合唱団、ホルン10本、ピッコロ4本、ハープ4台(!)など空前の規模の編成を要する。前述したように無調時代になる前の1903年時点で大部分が出来ていたため、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、マーラーに大きく影響された官能的な後期ロマン派様式で書かれている。聴きやすい曲調から2年後の初演で大成功を収めた(リハーサルでホルン奏者が席を蹴って演奏を拒否したらしいけどなんでかな。そんな前衛的な曲じゃないよ)。後年のシェーンベルクいわく「この作品が聴衆に受けることは分かっていた」。

『グレの歌』…歌詞はデンマークの作家ヤコブセンの小説『サボテンの花開く』中の詩から独語訳されたもの。グレは湖水の名。第1部(全13曲)は前奏曲に続き、ヴァルデマール王と美しい少女トーヴェの恋の歌が交互に歌われる。王妃はトーヴェに嫉妬し彼女を毒殺、山鳩が悲しげな歌で悲劇を伝える。第2部(全1曲、5分だけ)はトーヴェを失ったヴァルデマール王が「神は主にあらずして暴君だ」と神を呪う悲痛な歌。第3部(全9曲)はヴァルデマールと家来たちの亡霊の百鬼夜行(神を非難した罪で王は死後も臣下とグレ周辺で狩りせねばならない)、亡霊を恐れる農夫の歌、トーヴェを恋い慕う王が「森はトーヴェの声を囁き、湖水はトーヴェの瞳を映し、星はトーヴェの微笑みと輝き、雲は真っ白き乳房…」と切々と歌いあげ、最後の曲「夏の風の荒々しき狩り〜仰げ、太陽を」で王の救済が暗示され、壮大な混声八部合唱が朝の太陽を賛美しfffで輝かしく終わる。
※『グレの歌』アバド指揮&ウィーン・フィルhttps://www.youtube.com/watch?v=BFdlebm3-tM (チャプターが充実)
※『グレの歌』終曲「仰げ、太陽を」頭出しhttps://www.youtube.com/watch?v=BFdlebm3-tM#t=102m14s
また、『6つの小さなピアノ曲』を作曲。各曲が1分前後の極小形式という弟子ウェーベルンのスタイルで書かれている。調性の香りはカケラもなし。
※『6つの小さなピアノ曲』 https://www.youtube.com/watch?v=TZleqbjwEuA (6分)

この年、楽理書『和声学教本』を刊行。シェーンベルク「未来の音楽は音の色彩を旋律の形成に役立てるだろう」。再びベルリンに戻ってシュテルン音楽院で指導。また、ロシアの画家カンディンスキーがシェーンベルクのピアノ曲演奏風景を『印象・コンサート』という作品にしている。
1912年(38歳)、無調主義音楽の集大成となった、声と室内楽のための歌曲集『月に憑かれたピエロ(ピエロ・リュネール)』を作曲。全21曲。ベルギーの象徴派詩人アリベール・ジロー(1860-1929)の詩による。ソプラノ独唱は歌と語りを融合したシュプレッヒゲザング(語り歌)や、シュプレッヒシュティンメ(話し声)と呼ばれる新しい特異な唱法を使用。初演時は一部から口笛や嘲笑が起きたが、「無条件の成功であった」(ウェーベルン)。長調、短調など調性の中心音を感じさせない無調の技法で「夜」と「血」のイメージを描き出し、シェーンベルクは作曲家としての名声を決定づけた。伴奏の室内アンサンブルは5人の演奏者が8つの楽器を担当(フルート兼ピッコロ、ヴァイオリン兼ヴィオラ、クラリネット兼バス・クラ)、1曲ごとに楽器の組み合わせを変え、意表をつく音程の跳躍や心理効果のある不協和音を奏でた。21曲は以下のように3部に分かれる。
第1部:「月に酔い」(冒頭で月の光が降り注ぐ)「コロンビーナ」「伊達男」(ここでピエロが登場)「蒼ざめた洗濯女」「ショパンのワルツ」「聖母」「病める月」
第2部:「夜」「ピエロへの祈り」「盗み」「赤いミサ」「絞首台の歌」「打ち首」「十字架」(詩人が大衆により磔になる)
第3部:「郷愁」「悪趣味」「パロディ」「月のしみ」「セレナーデ」「帰郷」「おお、なつかしい香りよ」
※『月に憑かれたピエロ』 https://www.youtube.com/watch?v=vQVkbKULKpI (36分)

モノドラマ『期待』(1909)や『月に憑かれたピエロ』は、弟子ベルクのオペラと共に音楽における表現主義の代表的作品となった。『月に憑かれたピエロ』の演奏スタイル=“室内アンサンブルによる独唱曲”という編成は他の作曲家を刺激し、ストラヴィンスキーは歌曲『3つの日本の抒情詩』(1913)を、ラヴェルは『マラルメの3つの歌』(1913)を書き上げた。
1913年(39歳)、ストラヴィンスキー(当時31歳/1882-1971)がバレエ音楽『春の祭典』を完成。複雑に変化するリズムと不協和音を駆使した革新的な作品。
1914年(40歳)、第一次世界大戦が勃発。シェーンベルクは、無調主義では堅固な形式と統一性を得られないと感じて壁に突き当たり、世界大戦中に2度オーストリア軍に従軍したこともあって創作量はめっきり落ち込む。弟子のウェーベルン(当時31歳)が極小形式の到達点『チェロとピアノのための3つの小品』を作曲。
1916年(42歳)、無調音楽から十二音技法に至る過渡期に完成した唯一の作品、『四つのオーケストラ歌曲』を作曲。1912年に発表した『月に憑かれたピエロ』から1923年の『5つのピアノ曲』までの11年間で完成したのは本作だけ。
※『四つのオーケストラ歌曲』 https://www.youtube.com/watch?v=6NZFtWe9mwc
1917年(43歳)、ベルリンからウィーンに戻り、作曲のゼミを指導。※ウィーンに戻ったのは1915年という資料もある。
1918年(44歳)、第一次世界大戦が終結。弟子のベルク、ウェーベルンらと「私的音楽演奏協会」を組織し新しい音楽を紹介。
1920年(46歳)、「調性という手段に頼らずに、堅牢な形式と統一性を獲得することができるか」という問題を追求。アムステルダムで音楽理論、作曲法を講義する。
1921年(47歳)、無調音楽の導入から13年、7月に無調主義にかわって十二音技法(ドデカフォニー)を考案、『ピアノ組曲』に組み込むことになるプレリュードを書きあげる。シェーンベルクは“ドレミファソラシ”の7音階に対して、半音階を含んだ12の音階を基にした作曲・演奏法を創始した。相互の間にのみ関連づけられる十二の音による作曲技法であり、十二音を一定の音列(セリー/この順序は曲ごとに変化)に並べ、変形しながら繰り返した。シェーンベルクは十二音技法を伝統的な調性音楽から断絶したものではなく、継続的な発展形と考えており、この技法に組曲・ソナタなどをとりいれて明確な形式を獲得しようとした。
※『ピアノ組曲』プレリュード https://www.youtube.com/watch?v=fy6t8yXPcSQ(1分)
1922年(48歳)、没するまで約30年にわたる第3期が始まり、十二音技法を中心とした作品を発表していく。同年、弟子のアルバン・ベルク(当時37歳)が無調主義による傑作オペラ『ヴォツェック』を完成させる。この年、ツェムリンスキーがインドの詩人タゴールの散文詩を題材に声楽つき交響曲『抒情交響曲』を作曲。
1923年(49歳)、『5つのピアノ曲』の第5曲を書き、これが作品番号上では最初に十二音技法を採用したものになっている。また、バリトン独唱をともなう室内楽作品『セレナーデ』の第4楽章にも十二音技法を導入した。そして同年、『ピアノ組曲』で初めて全曲を十二音技法で書き、その手法を確立した。彼はバッハ以来の西洋音楽の音楽語法を組み替えた。
※『5つのピアノ曲』の第5曲https://www.youtube.com/watch?v=7A9HSlgDlQE#t=12m00s 十二音技法が作品番号順では初登場
※『セレナーデ』の第4楽章https://www.youtube.com/watch?v=fzAFalLbXxg#t=17m59s 中世の詩人ペトラルカ(ソネット確立者)の詩の1音節に1音を当てる十二音技法で作曲
※『ピアノ組曲』(全6曲) https://www.youtube.com/watch?v=bQHR_Z8XVvI (15分)第1曲プレリュードは1921年に書かれており真の意味でこちらが十二音技法の第一号
※『ピアノ組曲』からグレン・グールドの映像https://www.youtube.com/watch?v=N7O_3q-ZttQ#t=5m06s
この年、妻マティルデが48歳で他界する。

1924年(50歳)、全曲が十二音技法で書かれた2番目の作品『木管五重奏曲』を作曲。全4楽章40分の大規模作品。同年、オーストリアの著名なバイオリニスト、ルドルフ・コーリッシュの妹ゲルトルートと再婚。この年、ウェーベルンも『子どものための小品』に12音音列を取り入れた。
※『木管五重奏曲』動画に楽譜がある。十二音技法、すべての音にシャープやフラットを付けるのは大変と思った https://www.youtube.com/watch?v=fzAFalLbXxg
1925年(51歳)、シェーンベルクは1907年の『地上の平和』以来、18年ぶりに合唱曲『三つの風刺』を作曲。新古典主義に進んだ8歳年下のストラヴィンスキー(1882-1971)に対する皮肉に満ちており、「この人には様式巡りの周遊券でも差し上げたい」と断罪した。同年、十二音技法で書かれた最初の合唱作品『4つの混声合唱曲』が完成。第3曲「月と人間」の詩の内容は「月は毎晩確固とした軌道の上を滑っていくのに、地上の混乱した人間は考えること行うことすべて変わりやすく、安らぐこともない」。
※『4つの混声合唱曲』 https://www.youtube.com/watch?v=uCvZsCz3OU4 (15分)
シェーンベルクの音楽はあまりに前衛的であったため、激怒した聴衆によって保守的なウィーンを追い出される。プゾーニの後継としてベルリン音楽院の首席教授(作曲)にまねかれ、ベルリンに拠点を移す。名誉ある地位と経済的安定、落ち着いた家庭生活をようやく手に入れた。
1926年(52歳)、全曲が十二音技法による5作目の作品『七楽器の組曲』を作曲。
1927年(53歳)、“第2番”から19年ぶりに『弦楽四重奏曲第3番』を作曲。十二音技法を使用。無調音楽はどれも似てしまうため声で変化をつけてきたが、十二音技法を得て楽器の純粋音楽を書きあげた。
※『弦楽四重奏曲第3番』 https://www.youtube.com/watch?v=K_0W5MIQrT0 (30分)

1928年(54歳)、これまで十二音技法で書かれた7曲は小規模な室内楽や合唱曲だったが、最初の大規模な作品『管弦楽のための変奏曲』を作曲する。前奏後に重複しない十二音で基本となる音列(セリー)を示した後、9つの変奏を行い、最後に十二音すべてを鳴らして終わる。フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルが初演を行ったが、あのベルリン・フィルの団員ですら演奏に手こずり、リハにシェーンベルクが立ち会えないと分かって団員が万歳を叫んだ。本番では徹底してスコアを読み込んだフルヴェンですら途中でどこを指揮しているか分からなくなり、団員はバラバラに演奏が終わっていき、首席チェリストは「最後の音が鳴り終わったときの静寂がつらく、沸き起こった野次が救済に思えた」という(こちらに詳しく載ってます https://ameblo.jp/gnuton/entry-12388331498.html )。
※『管弦楽のための変奏曲』(作品31)https://www.youtube.com/watch?v=iL1XzH6gpAY(20分)
1931年(57歳)、最後のピアノ作品『ピアノ曲』(作品33b)を作曲。十二音技法で書かれている。
※『ピアノ曲』(作品33b) https://www.youtube.com/watch?v=I3IKNPRIuOs (5分)

1932年(58歳)、十二音技法、そして単一のセリー(音列)によって書かれた宗教的オペラ『モーゼとアロン』全3幕のうち第2幕まで完成させる。迫害を受けて流浪するユダヤ人の物語を題材に選んだ背景には、台頭するナチスなどユダヤ人排斥への危機感があった。全曲初演は25年後の1957年。モーゼスは歌わずに語り手となって思いを伝え、テノールのアーロンが歌う。
『モーゼとアロン』…舞台は旧約聖書「出エジプト記」の時代、エジプト・シナイ山麓。ある日モーゼス(モーゼ)は「エジプトでファラオの奴隷になっているイスラエルの民を救うため、神の預言者となれ」と神の声を聞く。モーゼスは「私は老人でそんな大役は無理だし、人々を説得する自信がない」と答えると、神は「兄アーロン(アロン)に代弁者となってもらえ」と告げる。アーロンは使命を受け入れるが「目に見えないものを人々が信じられるだろうか」と疑問を抱く。事実、人々は神の存在を信じようとせず、アーロンはモーゼスの杖を蛇に変えたり、皮膚病を治すことで、新しい神を信じさせた。彼らはファラオから逃れ約束の地へ向かうが、途中でモーゼスは神の掟(十戒)を授かりにシナイ山へ行ったまま40日が経過する。イスラエルの民はだんだん不安になり、「我々が信仰していた多神教の神を返せ!」と騒ぎ出し、長老までが「モーゼスは逃げたのだ」と言い出す。アーロンは仕方なく偶像の神「黄金の仔牛」を作り人々に崇めることを認めた。偶像を否定し壊そうとした若い男は族長たちに殺される。4人の裸の処女が純潔の血を神に捧げるために生け贄にされ、人々は欲望をむき出しにした騒乱状態になる。帰って来たモーゼスは目の前の光景に驚愕し、黄金の仔牛を消し去った。人々は恐怖から逃亡、モーゼスはアーロンに偶像を認めた愚行を責めるが、アーロンはモーゼスが持つ「十戒の石板」を見て「その石板も偶像ではないか!」と反論。モーゼスは石板を叩き壊し、人々を説得できない自分の無力さを嘆き「ああ言葉よ!私に不足なのはそれなのです!」と歌い幕となる。
…ここまでがシェーンベルクが完成させた第2幕。続く第3幕は台本のみ残る。「モーゼスは捕らえられたアーロンを解放するが、アーロンはその場で息絶える。モーゼスは民衆に「神の言葉を守れば、いつか皆が神と一つに結ばれるだろう」と預言し幕となる。
※『モーゼとアロン』 https://www.youtube.com/watch?v=t0HPN8830Ls この舞台映像はR18指定をしてもいいほど第2幕がセンセーショナル
※『モーゼとアロン』 https://www.youtube.com/watch?v=t0HPN8830Ls#t=83m37s 乙女の生け贄以降。度肝を抜かれっぱなし
同年、『6つの無伴奏男声合唱曲』を作曲。第6曲「結合」はシェーンベルク自身が書いた詩がすごくいい。「生まれてくる時は誰かに助けてもらい、埋める墓場は誰かに掘ってもらう。あなたも人を助け、その一員に加わるのだ。ひとり孤立していてはいけない」。
※『6つの無伴奏男声合唱曲』から第6曲「結合」https://www.youtube.com/watch?v=C6x3wWNTltw (2分35秒)
1933年(59歳)、ナチスが政権を樹立。シェーンベルクはユダヤ人迫害の中傷と罵倒を受けパリに移住する。そしてナチズムに反対する立場からあえてユダヤ教に戻った。
1934年(60歳)、ボストンのモールキン音楽院にまねかれてアメリカへ渡航、亡命する。調性音楽に復帰した『弦楽組曲ト短調』を作曲。
1935年(61歳)、体調を崩し健康のためロサンゼルスへ転居、南カリフォルニア大学(USC)で1年間講師を務める。同年、愛弟子のベルクが50歳で急逝。
1936年(62歳)、渡米後の第2作、十二音技法による作曲者唯一の『バイオリン協奏曲』が完成しウェーベルンに献呈する。初演を依頼されたヤッシャ・ハイフェッツは「6本の指が必要」と断った。同年からカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で1944年まで8年間教鞭をとりながら作曲活動を続ける。門下からジョン・ケージらアメリカ現代音楽を代表する作曲家を輩出した。晩年のジョージ・ガーシュウィンと親交を結ぶ。
1939年(65歳)、第二次世界大戦が勃発。
1940年(66歳)、アメリカの市民権を取得。※英語版ウィキは1941年だけど『名曲解説全集6』(音楽之友社)は「1940年市民権取得」になっている。

1942年(68歳)、十二音技法による作曲者唯一の『ピアノ協奏曲』を作曲。シェーンベルクによる曲想「穏やかな人生に、突然憎しみがわき起こり、暗い状況が作り出されるが、しかし人生は何もなく過ぎてゆく」。
※『ピアノ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=JEY9lmCZbIc (20分)それなりに旋律はある。
この年、シェーンベルクが生涯で唯一音楽を学んだ師ツェムリンスキーがニューヨークで70年の人生を閉じた。ユダヤ人である彼もまた1938年に米国へ亡命したが、シェーンベルクが西海岸で大学の教壇に立ち、名士として脚光を浴びたのに対し、ツェムリンスキーは米国人に無視され、病気がちに4年間を送り、作曲活動ができないまま肺炎で他界した。
1943年(69歳)、シェーンベルク唯一の吹奏楽曲『管楽のための主題と変奏』を作曲。高校の吹奏楽部用に書かれたト短調の調性音楽。
※『管楽のための主題と変奏』 https://www.youtube.com/watch?v=JEVZwr8GP1s(12分)
1945年(71歳)、第二次世界大戦が終結。同年、ウェーベルンが米兵の誤射で死亡する悲劇が起きる(享年61歳)。10年前にベルクは他界しており、シェーンベルクは愛弟子かつ同志の2人に先立たれた。
1946年(72歳)、十二音技法の用法にさらなる磨きをかけた傑作『弦楽三重奏曲』を作曲。ハーバード大の委嘱によるもの。
※『弦楽三重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=x2vX8JXfKEc (20分)緊張感が心地よい
1947年(73歳)、ナチズムの犠牲者に棒げられた『ワルシャワの生き残り』を十二音技法で作曲。ナチズムに対する激しい抗議の音楽で代表作のひとつ。第二次世界大戦中にワルシャワのゲットーを生き延びてきた男がナレーターになり、収容所で処刑されようとしたユダヤ人の恐怖体験を語る。病人や老人はすぐに殺され、健康な者も最後は毒ガスの部屋に送り込まれる。台詞は英語だがドイツ兵はドイツ語、男声合唱によるユダヤ教の祈祷文「シェマ・イスロエル(聞け、イスラエル)」はヘブライ語が使用される。無調の音楽がホロコーストの残忍さをより強調する。
※『ワルシャワの生き残り』 https://www.youtube.com/watch?v=LBNz76YFmEQ (7分27秒)
1949年(75歳)、バイオリンとピアノのための『ファンタジー』を作曲。最後の器楽作品。十二音技法の集大成のひとつ。
※『ファンタジー』 https://www.youtube.com/watch?v=63wGrqg0v7M (8分)
1951年7月13日、喘息の発作のためカリフォルニア州ロサンゼルスで他界。享年76歳。合唱曲『現代詩篇』を作曲していたが未完に終った。故郷のウィーン中央墓地に葬られた。
1955年、シェーンベルクの娘ヌリアとイタリアの前衛作曲家ルイジ・ノーノが結婚。
1957年、オペラ『モーゼとアロン』がチューリッヒの世界音楽祭で舞台初演される。

シェーンベルク語録
「(指揮者マーラーについて)作曲という創造行為に比べれば、指揮という再現的行為は、あくまでも二次的な価値しかない。だが、偉大な人にはいかなることも二次的ではないのだ。マーラーの行動のすべては、何らかの意味で創造的だ。この意味から、私はネクタイを結んでいるときのマーラーのやり方でさえ観察したのだ。“マーラーほど楽団員に練習させれば、どの指揮者でも良い演奏ができる”と言う人がいるが、ここに誤解がある。無能な指揮者は、おそらく3回の練習の後では、いったい何をやれば良いのか分からないだろう。もうその時点で何も言うことがなくなっているかもしれない。内心の要求もなく、容易に満足してしまう。だが、創造性に富んだ人間は、自分の内に何を表現すべきかという完全なイメージを持っている。そのイメージより不完全であってはならないのだ。この点を踏まえると、マーラーのあの控え目な言葉「私はオーケストラの楽員達に楽譜どおり正確に演奏させることが最大の任務だと認識している」が、いかに重い意味を持つか理解されよう」。
「自分の音楽は決して革命的でも、無秩序でもなく、一定の法則を持っている」
「自分は一つの理念のマイクロフォーンにすぎない」
「マーラーの交響曲『第9番』はひとつの限界であるように思われます。そこを越えようとする者は、死ぬ他はないのです」

※シェーンベルクは対位法の大家でありバッハの研究に造詣が深く崇拝もしていた。
※シェーンベルクは無調ながらもソナタや舞曲など従来の形式を踏襲。ここが形式から離れた急進的なウェーベルンと違うところ。ベルクは調性音楽と十二音技法との折衷を目指した。

〔墓巡礼〕
シェーンベルクは音楽ファンにとって世界最大の聖地、ウィーン中央墓地に眠っている。ただし、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスらが眠る第32区Aの楽聖特別区ではなく、100mほど南西の第32区Cだ。生きていた世代が異なるためだろうか。1900年前後に没したヨハン・シュトラウス2世、スッペ、フーゴー・ウォルフは楽聖特別区に墓所があるので、シェーンベルクは半世紀の差でベートーヴェンの側で眠れなかったっぽい。とはいえ、シェーンベルクは墓地中央のカール・ルエーガー記念教会と道を挟んで向き合うように建っているので、非常にお墓が見つけやすい。しかも墓石の形が音楽同様に前衛的で、巨大なキューブの大理石が斜めに設置されたもの。お墓というより現代アートのオブジェに見える。曲は難解でもお墓は超簡単に発見できる。死してなお時代の先に進んでいく姿を見ているようでカッコ良かった!ツェムリンスキーは第33区に眠っている。
※なんとストリートビューでシェーンベルクの墓が見える



★サン=サーンス/Charles Camille Saint-Saens 1835.10.9-1921.12.16 (パリ、モンパルナス 86歳)1989&2002

Cimetiere de Montparnasse, Paris, France

1989 2002

オペラ作曲家だけが重んじられ、器楽曲の作曲家が軽視されていた19世紀フランス楽壇にあって、数多くの優れた器楽曲を書いた作曲家。
1835年10月9日にパリで生まれた。父はサン=サーンスが赤ん坊のときに30代で若死にしており、母クレマンスの手ひとつで育てられた。ピアノの名手だった大叔母から2歳でピアノを習い始め、3歳で絶対音感を会得して4歳でピアノ小品を作曲。1846年、10歳(誕生日前)のときにパリの有名音楽堂で演奏会を開き、ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第3番』とモーツァルトを弾きこなし、ピアニストとして本格的にデビューする。この時、アンコールに際してサン=サーンス少年は「ベートーヴェンの32曲のピアノソナタを全部覚えているので、どれでもリクエストして下さい」と告げ、この“神童”ぶりに新聞は「モーツァルトの再来」と称えた。
1848年、13歳でパリ音楽院に入学し作曲とオルガンを学ぶ。
1852年(17歳)、若手音楽家の登竜門「ローマ賞」に挑戦するが落選。
1853年、18歳で『交響曲第1番』を作曲。初演は作曲者名を隠して行われた。会場にいたベルリオーズ(当時50歳/1803-1869)やグノー(当時35歳/1818-1893)から高く評価されるなど成功を収めたことで、作曲家となる決心をする。フランスではベルリオーズが1830年に『幻想交響曲』を発表してから23年が経っていたが、いまだ器楽曲は未成熟であり、同時代のフランス音楽に理解があった聖セシリア教会の演奏会で披露された。同年、音楽院を卒業しパリのサン=メリ教会のオルガニストとなる。
1857年(22歳)、オルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せたサン=サーンスはパリの教会オルガニストの中で最高の地位となるマドレーヌ教会のオルガニストに抜擢され、20年近く務めた。
1858年(23歳)、『ピアノ協奏曲第1番』を作曲。ホルンのファンファーレで始まり、フィナーレを絢爛豪華に締めくくる意欲的なこの作品はサン=サーンスの独奏で初演された。この作品によって「本格的なピアノ協奏曲を書いた最初のフランス人」と見なされるようになった。
※『ピアノ協奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=GFPBIZenrqk
1859年(24歳)、『ヴァイオリン協奏曲第1番』を作曲。若々しく伸びやかな作風。
1861年(26歳)、パリの宗教音楽学校の校長ニデルメイエールが他界し、サン=サーンスが教師として呼ばれる。彼は生徒のフォーレたちに宗教音楽学校の正規授業には含まれていない、ショパン、リスト、シューマン、ワーグナーなどの音楽も紹介し、最新の音楽に触れる機会を与えた。約4年間教職に就く。
1863年(28歳)、名ヴァイオリニストのサラサーテのために『序奏とロンド・カプリチオーソ』を作曲。ヴァイオリンと管弦楽のための協奏的作品。スペイン風のメランコリックな響きもあって初演当時から人気曲となる。
1864年(29歳)、応募資格が30歳までの「ローマ賞」に12年ぶりにラストチャレンジしたが、審査員好みの曲を書かなかったため落選した。
1868年(33歳)、『ピアノ協奏曲第2番』を作曲。サン=サーンスの代表作の一つとなる。アンチ派には「(曲調が)バッハに始まり、オッフェンバックに終わる」と揶揄されたが、当時最高のピアニスト、フランツ・リスト(1811-1886)が高く評価し人気曲となった。
1870年(34歳)、プロイセンとの間に普仏戦争が勃発。サン=サーンスも従軍する。翌年、敗戦。
1871年(36歳)、ドイツ音楽の模倣でないフランス音楽の普及を目指したサン=サーンスは、若手作曲家たちに器楽作品の発表の場を与えて作曲活動を鼓舞する目的で、フランク、フォーレたちと『国民音楽協会』を組織した。そして自ら率先して多数の優れた器楽作品を書きあげた。同年、リストに刺激をうけ初めて交響詩『オンファールの糸車』を作曲。小アジアの女王オンファールが回す糸車を音で表現するなど、ヘラクレスを虜にした彼女の魅力を描いた。
※『オンファールの糸車』 https://www.youtube.com/watch?v=96aapx3DFdM
1872年(37歳)、『チェロソナタ第1番』が初演され成功したが、聴いていた母にフィナーレが気に入らないと言われ、後日書き直す。サン=サーンスは母の感想を重視した。同年『チェロ協奏曲第1番』を作曲。
1873年(38歳)、2作目の交響詩『ファエトン』を作曲。ファエトンはギリシャ神話の太陽の神ヘリオスの子。ある日、ファエトンは太陽の馬車を操って天空を駆け巡った。そのために地上が炎上しそうになり、激怒したゼウスの雷に打たれてファエトンは絶命する。サン=サーンスはこの物語を10分間の音詩にし、太陽の馬車の疾走を表現した。
※『ファエトン』 https://www.youtube.com/watch?v=PDS1yWhmONA
1874年(39歳)、交響詩『死の舞踏(Danse macabre)』を作曲。サン=サーンスが描いた内容は「冬の真夜中に死神が舞踏曲を奏で、墓石の上で骸骨が踊り狂う。骨はガチャガチャとぶつかり、やがて鶏が鳴き、骸骨は我先にと墓へ戻る」というもの。24時の鐘はハープで、鶏の鳴き声はオーボエで描かれている。現在は人気曲だが、初演時は「シロフォン(木琴)による骨のかち合う表現などは作曲者の悪趣味の極み」と非難された。
※『死の舞踏』 https://www.youtube.com/watch?v=71fZhMXlGT4
1875年(40歳)、『ピアノ協奏曲第4番』を作曲。サン=サーンス自身のピアノで初演。主題を循環させて全曲の音楽的統一を高めた。協奏曲では珍しく2楽章で構成されているが、各楽章が複数の部で成り立っている。終盤部のピアノのうねるようなグルーヴ感が素晴らしい。コンサートで演奏される機会も多い。
※『ピアノ協奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=xUvLt9QonGk (26分)
※上のサビ https://www.youtube.com/watch?v=xUvLt9QonGk#t=20m47s
この年、サン=サーンスは教え子の妹で19歳のマリ・ロール・エミリ(21歳差)と結婚する。年末に長男アンドレが生まれる。

1876年(41歳)、弟子のフォーレが傑作『ヴァイオリンソナタ第1番』を作曲し、初演を聴いたサン=サーンスは「子供が成長して自分の手元を離れてゆく時に覚える母親の悲しみを今晩味わった」とフォーレに語った。室内楽ソナタの不毛の地であったフランス楽壇は、サン=サーンスやフォーレがこの分野を開拓したことで、多くの作曲家が後に続くようになる。
1877年(42歳)、オペラ『サムソンとデリラ(ダリラ)』(全3幕)初演。サン=サーンスが生涯に作曲した13曲のオペラのうち、最大のヒット作。旧約聖書「士師記」第13章から第16章のサムソンの物語に基づく。初演はリストの強い要望で現ドイツ・ワイマールの宮廷歌劇場で行われ、現地で大成功を収めた。フランス初演は13年後の1890年。物語の舞台はパレスチナ。神から与えられた怪力で怖いものなしのサムソン。対立するペリシテ人は美しいデリラを利用してサムソンを誘惑させる。デリラは言葉巧みにサムソンの弱点が「髪を切ること」と聞き出す。髪を切られ目を潰されたサムソンは、デリラの誘惑に負けたことを深く後悔した。サムソンが神に祈ると再び力が戻り、鎖で繋がれていた柱を引き倒す。神殿は崩壊し、サムソンもデリラもすべてを押し潰すのであった。宗教的でありながら、誘惑を描くなど官能的でもある物語。
同年、最後の交響詩『ヘラクレスの青年時代』を作曲。『サムソンとデリラ』とテーマが似ており、ヘラクレスはニンフの誘惑をふりきって英雄としての自覚を取り戻す。自作の交響詩についてサン=サーンスいわく「『死の舞踏』は“死の恐怖と風刺”、『オンファールの糸車』は“誘惑”、『ファエトン』は“誇り”、『ヘラクレスの青年時代』は“英雄主義と性的な快楽との煩悩”が表現されている」。この年、すべての役職を放棄して作曲に専念する。次男ジャン・フランソワ誕生。
1878年(43歳)、3歳の長男アンドレがアパートの窓から転落死、続けて生後7カ月の次男ジャンが肺炎で旅立つ悲劇が襲う。
1880年(45歳)、アルジェリア旅行の印象をもとに管弦楽のための組曲『アルジェリア組曲』を作曲。「アルジェを目指して」「ムーア風狂詩曲」「夕べの幻想 ブリダにて」「フランス軍隊行進曲」の4曲
で構成。冒頭の船旅を思わせる地中海から見たアルジェの景色が素晴らしい。
同年、傑作『ヴァイオリン協奏曲 第3番』を作曲。華やかで優美な旋律があふれ、アリアのような叙情性もあり、サン=サーンスが書いた器楽曲の代表曲のひとつ。第2楽章の舟歌が心地良い。初演者のサラサーテに献呈された。。
1881年(46歳)、妻マリと別れる。6年間の結婚生活だった。以降、サン=サーンスは母クレマンスと暮らし、10年後に母が他界すると30年を1人で過ごす。同年アカデミー会員に推薦される。
1885年(50歳)、『ヴァイオリンソナタ 第1番』を作曲。全2楽章。暗い情念が渦巻く冒頭から緊張感が漂う。緊密な構成で展開される人気曲。

1886年(51歳)、サン=サーンスが「この曲には私が注ぎ込める全てを注ぎ込んだ」と語った『交響曲第3番 オルガン付き』を作曲。オーケストラの編成にパイプオルガンが加わる交響曲は非常に珍しいうえ、ピアノが協奏曲の主役ではなく一つの楽器として4手(よつで、連弾)で参加しているのもユニーク。管弦楽の華麗な響きを存分に楽しめ、輝かしいオルガンの音色とフィナーレの息詰まる興奮でサン=サーンスの代表曲となった。本作は『ピアノ協奏曲第4番』『ヴァイオリンソナタ第1番』と共に全2楽章(ここでは「第1部・第2部」としている)という特徴を持っている。サン=サーンスはドビュッシーら若手印象派から保守的な作曲家と思われているが、伝統的なスタイルも踏まえつつも、固定の旋律を変化させて再登場させる循環形式を用いるなど、新たなスタイルに挑戦していた。この『オルガン付き』は初演直後に他界した友人リストに献呈された。リストは交響詩の創始者であり主題変容の先駆者だった。後に作家マルセル・プルースト(1871-1922)は『失われた時を求めて』に登場する音楽家ヴァントゥイユのソナタをこの曲から着想した。
この1886年にはサン=サーンスの名を不朽にした人気曲「白鳥」を含む、2台のピアノと小オーケストラのための組曲『動物の謝肉祭』も作曲されている。様々な動物を描いた全14曲で構成。
第1曲「序奏と獅子王の行進曲」…序奏に続いてライオンの歩みと吠える声。
第2曲「めんどりとおんどり」…ピアノと弦楽器が鶏の鳴き声を模倣しあう。
第3曲「らば」…走り回る野生のらば(ロバと馬の雑種)。
第4曲「亀」…オッフェンバックの『天国と地獄』のカンカンをわざとゆっくり演奏するパロディー曲。
第5曲「象」…コントラバスによる象のワルツ。ベルリオーズの『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」、メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』の「スケルツォ」を低音に引用。
第6曲「カンガルー」…ピアノで飛び回るカンガルーを描写。
第7曲「水族館」…透明感のあるグラスハーモニカの幻想的なメロディーにピアノのアルペジオ(分散和音)が寄り添う。映画やテレビでよく使用される。
第8曲「耳の長い登場人物」…ロバの鳴き声。サン=サーンスを敵視する音楽評論家をロバと見なしての皮肉。
第9曲「森の奥のカッコウ」…ピアノが奥深い森を表現し、クラリネットがカッコウの鳴き声を模倣。
第10曲「大きな鳥籠」…フルートが小鳥になって軽やかに飛び回る。
第11曲「ピアニスト」…サン=サーンスのユーモアが炸裂。わざと下手にピアノの練習曲を弾き、何度も調を変えて弾き直す。
第12曲「化石」…『死の舞踏』の「骸骨の踊り」の旋律で始まり、“音楽の化石”としてロッシーニの『セビリアの理髪師』の「ロジーナのアリア」の他、「きらきら星」など古い民謡が組み合わされる。ロッシーニはかつて欧州で人気があったが今はフランス・オペラがあり化石のようなものとする皮肉。
第13曲「白鳥」…きらめく湖面のようなピアノのアルペジオの上を、チェロの白鳥が優雅に泳ぐ。ミハイル・フォーキンの振付や、アンナ・パヴロヴァの舞踊によるバレエ「瀕死の白鳥」によって、この曲の知名度が一気に上がった。
第14曲「終曲」…カーテンコールとして今までの各曲の旋律が登場し華やかに終わる。

この『動物の謝肉祭』は非公開のプライベートな夜会のために作曲されたものであり、他人の楽曲を風刺的に用いていることもあって、サン=サーンスは自身が死去するまで出版・演奏を禁じた。例外的に完全オリジナルの「白鳥」だけは生前の公開演奏と楽譜出版が許された。プロコフィエフの『ピーターと狼』、ブリテンの『青少年のための管弦楽入門』と共に子ども向け管弦楽曲として重宝されている。
※『動物の謝肉祭』 https://www.youtube.com/watch?v=_2mgi0eL9Sw(動物の写真つき。カッコウは間違ってるけど)
1887年(52歳)、『ホルンと管弦楽のための演奏会用小品』を作曲。約9分の短い曲だが、ホルンが主役という、世のホルン奏者にとってかけがえのない宝物となる。
1892年(57歳)、ケンブリッジ大学から音楽博士の称号を贈られる。
1896年(61歳)、避寒先のエジプト・カイロで『ピアノ協奏曲第5番』を作曲。第2楽章のエキゾティックな雰囲気から「エジプト風」の愛称で呼ばれる。第3楽章では航海の楽しみが描かれ、船のプロペラの動きが模されている。デビュー50周年の記念コンサートで初演され、61歳のサン=サーンスがピアノ独奏を担当した。
1905年(70歳)、円熟の『チェロソナタ第2番』を作曲。サン=サーンスは第3楽章について「繊細な人々に涙を流させるでしょう」、第4楽章について「前の楽章で眠ってしまった皆の目を覚まさせるでしょう」と手紙に記した。
1908年(73歳)、世界初の映画音楽を『ギーズ公の暗殺』のため作曲する。サイレント映画ゆえスクリーンの前で楽士たちによって約18分間生演奏された。フランスで起きた1588年のギーズ公アンリ1世暗殺事件を描く。
※『ギーズ公の暗殺』(L'assassinat du Duc de Guise)https://www.youtube.com/watch?v=bh0tonXPEKQ
1913年(78歳)、最高勲章のグラン・クロワを贈呈される。晩年は北アフリカや南北アメリカなど世界各地をひろく演奏旅行。
1919年(84歳)、オルガンと管弦楽のための作品『糸杉と月桂樹』を作曲。西洋では糸杉は死や葬送を、月桂樹は栄光を象徴する植物であり、前年に終結した第一次世界大戦の犠牲者の鎮魂と、勝利の凱歌。名オルガニストのサン=サーンスが、人生の最晩年に13年前の『交響曲第3番』に続くパイプオルガンを活躍させる作品を書いた。
※『糸杉と月桂樹』 https://www.youtube.com/watch?v=GTqdwd0QaNg (オルガンとトランペットが爽快!)
1921年(86歳)、サン=サーンスはレパートリーに恵まれていない楽器に貢献したいと考え、「ほとんど顧みられてこなかった楽器」を取り上げ、『オーボエ・ソナタ』『クラリネット・ソナタ』『バスーン・ソナタ』を完成させた。そのシンプルで澄み切った響きによって楽器奏者の重要なレパートリーとなっている。クラリネット・ソナタの第3楽章は厳粛な空気に包まれており別れの言葉にも聞こえる。しかも続く終楽章の最後で第1楽章の冒頭の旋律に戻るため、生命の環のようにも思える。この他にフルート、アルト・オーボエなど3つの楽器のソナタを書く計画があったという。
1921年12月16日、アルジェリアの旅行中に首都アルジェで客死した。ピアノを練習中に他界したとも伝わる。享年86歳。人生のほとんどを作曲に捧げた人物の死に際し、フランス政府はその功績に敬意を払って国葬とした。門下からはフォーレがでた。

サン=サーンスやフォーレの努力によってオペラ以外の器楽曲=純音楽がフランスでも認められるようになった。サン=サーンスはドビュッシーら印象派作曲家から古い保守主義者と見なされていたが、2楽章形式の交響曲・ソナタを書いたり、映画音楽を最初に作曲したり、『動物の謝肉祭』でパロディーをやるなど、様々な音楽分野で意欲的な試みを行っている。人生の一番最後に、ヴァイオリンやピアノといったスター楽器ではない、陽の当たらない木管楽器のためにソナタを書いていたことに、すべての楽器を愛する彼の優しさ、室内楽を開拓した先駆者のエネルギーと音楽全体への愛を感じる。

〔墓巡礼〕
墓所はセーヌ川左岸パリ14区のモンパルナス墓地(1824年開設)。入口の事務所で墓マイラー用の地図がもらえるので、それを見ながら第13区画へ行こう。サン=サーンスの墓はタテ長の聖堂型。周囲に似た墓がたくさんあるうえ、通りから離れた場所に建っているため、発見までかなりの時間がかかった。足を運ばれる方は時間に余裕をもって訪れてほしい。墓前にて、繊細かつ優美な旋律と、厳格に守り抜いた古典主義的表現のバツグンの安定感で穏やかに聴き手を魅了する彼に感謝を伝えた。
同墓地には作家モーパッサン、詩人ボードレール、哲学者サルトル、写真家マン・レイ、20世紀を代表するフルート奏者のジャン・ピエール・ランパル(フルートをピアノのようにソロ演奏会が可能な楽器と初めて世界に知らしめた)、シャンソン歌手のセルジュ・ゲンズブールらも眠る。

※音楽だけでなく、ラテン語、文学、天文学(天体望遠鏡を購入)、考古学、幾何学にも論文を残すなど造詣が深かった。
※チャイコフスキーのように同性愛者とも伝わる。
※サン=サーンスは黒い愛犬をデリラと名付けた。
※グノーの個人教授を受けた。
※ドビュッシーは印象主義に否定的なサン=サーンスの保守性を批判しながらも、「サン=サーンスほどの音楽通は世界広しといえどもいない」と優れた知性を認めていた。
※パリの有名墓地は古い順に、東のペール・ラシェーズ墓地(1804年開設、約43ヘクタール)、西のパッシー墓地(1820年開設、約2ヘクタール)、南のモンパルナス(1824年開設、3万5千の墓石、18.8ヘクタール)、北のモンマルトル(1825年開設、10.5ヘクタール※原型となった墓地は1798年からある)



★ロッシーニ/Gioacchino Antonio Rossini 1792.2.29-1868.11.13 (イタリア、フィレンツェ 76歳)2004
Santa Croce Church, Florence, Toscana, Italy

フィレンツェの墓(2004) パリの墓(2009)※最初の墓

イタリアの作曲家。わずか19年という作曲期間に39編ものオペラを作曲し、後半生の40年を美食家として悠々自適に過ごした。1792年2月29日、ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニはアドリア海沿岸のイタリア・ペーザロで音楽一家に生まれた。父はトランペット奏者、母は歌手という恵まれた音楽環境にあり、一人っ子ゆえ一身に愛を集めた。1796年、ロッシーニが4歳のときに、フランス革命に共感していた父は投獄されてしまう。1800年(8歳)、母親はボローニャに移住、劇場で歌手として働いた。ロッシーニも早くから教会で歌うなど声楽家を目指すようになるが1807年(15歳)にボローニャ市立音楽学校に入学すると作曲家を志すようになった。
在学中の1808年(16歳)に劇場作品の処女作『デメトリオとポリービオ』を作曲(初演は4年後)。1810年(18歳)、一幕オペラ『結婚手形』をヴェネチアで初演しオペラ作曲家としてデビューした。1812年(20歳)に初演した『試金石』が初のヒット作となり兵役を免除される。楽想があふれ出て、この一年だけでオペラを5作も書きあげた。ちなみに7年後の1819年にも5作完成。1819年までの8年間(20歳〜27歳)に生涯の39曲中、実に27曲を集中的に作曲している。

翌1813年(21歳)、ヴォルテールの悲劇作品を脚色した初の本格的オペラ・セリア(シリアス劇)『タンクレーディ』が大ヒットし、ロッシーニの名はイタリア全土で高まった。続くオペラ・ブッファの『アルジェのイタリア女』もヒットしたことで、名声は国境を超えてヨーロッパ中に広まる。1814年ベートーヴェンが交響曲第8番第2楽章のフィナーレでロッシーニのパロディをした。1815年(23歳)、ナポリで『エリザベッタ』初演。同地のサン・カルロ劇場の音楽監督としてオペラ・セリアの傑作を生み出す。

1816年、24歳のときにローマで初演した『セビリアの理髪師』は生涯最大の成功作となり、オペラ・ブッファ(喜劇)作曲家として音楽界に君臨した(ただし初演そのものはライバル劇場が動員した野次軍団の妨害や舞台にネコが乱入して大失敗だった)。『セビリアの理髪師』はモーツァルトが30年前(1786年)に作曲した『フィガロの結婚』の前日談でフランスの劇作家ボーマルシェ(1732-1799)の喜劇三部作の第一部にあたるもの。ロッシーニは『セビリアの理髪師』をわずか13日間で完成させた。同年にオペラ・セリアの『オテロ』完成。
翌1817年にブッファの『チェネレントラ(シンデレラ)』『泥棒かささぎ』を発表。1822年(30歳)、スペイン出身のソプラノ歌手イザベラ・コルブランと結婚する。
数年前からウィーンでもロッシーニは大人気であり、この年に『ゼルミーラ』上演でウィーンを訪れると市民から大歓迎を受けた。ウィーンの人々はベートーヴェンやシューベルトよりロッシーニに夢中になった。ロッシーニが22歳年上のベートーヴェン(当時52歳、他界5年前)に会いに行くと、ベートーヴェンから『セビリアの理髪師』を賞賛され、「あなたはオペラ・ブッファ以外のものを書いてはいけません」とアドバイスを受けた。
1823年(31歳)イタリア時代の最後のオペラ、表情豊かな序曲で知られる愛の悲劇『セミラーミデ』(ヴォルテール原作)初演。同年、パリを訪問。フランスの文豪スタンダールいわく「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」。

1824(32歳)にパリのイタリア座の音楽監督に就任。翌1825年(33歳)、フランス国王シャルル10世即位を記念し、オペラ・カンタータ『ランスへの旅』を国王に献呈、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得た。
1829年(37歳)、中期の代表作であり最後のオペラ『ウィリアム・テル』をパリで初演。26歳のベルリオーズ(1803-1869)は『ウィリアム・テル』を見て「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と感嘆した。ところがロッシーニは、それからまだ約40年も生きていたにもかかわらず、オペラ作曲の筆を断ってしまう。そして1832年以降は、宗教曲、歌曲、ピアノ曲、室内楽曲などの小品を作曲した。1836年(44歳)、1歳年上のマイアベーア(1791-1864)の大規模なグランド・オペラ『ユグノー教徒』の大成功で新時代の到来を認識、不眠症に悩まされたことから休養のためイタリア座を辞めて、ボローニャの父のもとに帰国した。1837年イザベラと離婚、尿路結石の手術。1839年、若い頃に音楽を学んだボローニャ音楽学校の校長となり、穏やかな日々を過ごす。食通だったロッシーニは、芸術家としての情熱が創作料理に向かっていった。
※マイアベーアの『ユグノー教徒』は1572年にカトリックがプロテスタントを大量虐殺した「聖バーソロミューの虐殺」を描き、この“他者への不寛容”は現在に通じるテーマになっている。1906年、パリ・オペラ座で1000回以上公演された初のオペラとなった。

1842年(50歳)、後期の唯一の代表作となる宗教曲『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』を発表。歌詞は中世の詩「悲しみの母は立っていた/十字架の傍らに、涙にくれ/御子が架けられているその間」など極めて哀切なもの。ロッシーニはこの曲を教会儀式から解放し、コンサート用の宗教音楽として書いた。
1845年(53歳)、イザベラが他界。1846年(54歳)、美術モデルでバルザックの元愛人オランプ・ペリシエと再婚。1848年(56歳)、フィレンツェに移住。1855年(63歳)、グルメの追求と病気治療をかねて再びフランスに渡り、パリで高級レストランを経営する。
晩年は淋病、躁鬱病、慢性気管支炎で苦しみ直腸癌を発症。手術はうまくいかず、オランプ夫人の看病のもと1868年11月13日パリ近郊のパッシーで没した。享年76歳。ロッシーニは死後に天国でモーツアルトに会えるのを楽しみにしていた。

ロッシーニは生前に絶大な人気を誇っていたのに、死後はみるみる存在を忘れ去られ、『セビリアの理髪師』の一発屋として人々に記憶された。『チェネレントラ(シンデレラ)』『ウィリアム・テル』の作曲家としてだけ名をとどめるた。ロッシーニ全集の出版を経て1970年代にオペラの再評価が始まり、アバドが『ランスへの旅』を約150年ぶりに再上演するなど、ロッシーニの愛好家がロッシーニ・ルネサンスを開始。故郷ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルは大盛況になっている。

ロッシーニは陽気なモーツァルトの作品を愛し、オペラ・セリア(シリアス劇)よりもオペラ・ブッファ(喜歌劇)を得意とした。オペラ・ブッファはユーモラスな演技とメロディアスな歌、軽妙な物語で構成された。ロッシーニは親しみやすく分かりやすいフレージングと歯切れの良いリズムで観客の心を捉え、18世紀前半から続いたオペラ・ブッファの最後のきらめきを飾った。ロッシーニの明快で聴きやすい旋律と華やかな作風は今も世界中の音楽ファンから愛されている。

【墓巡礼】
ロッシーニの墓は2箇所ある。最初の埋葬地は、ロッシーニが没する19年前に他界したショパン(1810-1849)や、7年後にビゼー(1838-1875)が眠るパリのペール・ラシェーズ墓地。1804年に開設された同墓地はパリ市内で最大の墓地で、世界一訪問者が多い墓地(年間数十万人以上)として知られている。モジリアニ、オスカー・ワイルド、ドラクロワ、エディット・ピアフ、ジム・モリソンらも同じ墓地に眠る。地下鉄メトロ3号線に乗ってペール・ラシェーズ駅で降りるとすぐだ。面積は43ヘクタール、甲子園球場の約11倍もあるが、ロッシーニの墓は正門から続くメイン・ストリートに面しているため簡単に見つけられる。門から100mほど進むと左手に「ROSSINI」と上部に彫られた縦長の霊廟が建っている。
ロッシーニの亡骸は、他界19年後にオランプ夫人の遺言(ロッシーニの希望でもあったという)によって1887年5月2日にイタリア・フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に改葬された。フィレンツェ最古の広場、サンタ・クローチェ広場に面したこの聖堂は、アッシジのフランチェスコが創建。1294年に再建を開始し14世紀後半に完成した。内部には276もの墓があり、ミケランジェロ、ガリレオ、マキャベリなどイタリアの英雄が多数眠ることから、別名「イタリアの栄光のパンテオン」と呼ばれている。世界最大のフランシスコ会の教会でもある。フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅から徒歩20分。イタリアの人々が、ミケランジェロの側に眠る資格があるとみた男ロッシーニ。前半生で作曲をやめてしまったのはもったいないけど、本人が納得しているなら、それはそれでアリ。むしろイタリア人らしいおおらかさを感じる。墓前で手を合わせ、明るく陽気な歌で僕らの人生に潤いを与えてくれた彼に感謝した。

※ロッシーニが好んで使った浮き立つようなクレッシェンドは「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれている。
※ロッシーニはよく同じ旋律を使い回した。1813年(21歳)のときに書いた『パルミーラのアウレリアーノ』の序曲を、2年後に『イングランドの女王エリザベッタ』の序曲にそのまま再利用しており、3年後にはあの『セビリアの理髪師』の序曲としてまた使っている!
※オペラ『ランスへの旅』の細部を手直してコミックオペラ『オリー伯爵』に作り替えた。
※生前はベートーヴェンよりも人気があり、またショパンなど同時代の音楽家にも人気があった。ベートーヴェンはウィーンの聴衆が自分の音楽を理解せず、ロッシーニの作品に浮かれていることを嘆いた。
※ロッシーニはベル・カント様式の3大作曲家のひとり(他にドニゼッティ、ベルリーニ)にあげられる。“ベル・カント”はイタリア語で「美しい歌唱法」の意味。ベル・カントは17世紀後半〜19世紀初期に盛んだった。従来の「歌詞優先主義」の反動として誕生し、劇の内容や感情表現よりも旋律の美しさを最優先させた。美声が重視され、うまく歌をコントロールしながら柔らかな響きと滑らかな節回しで優雅に歌いあげる名人芸が賞賛された。今でも、古典派からロマン派にかけてのイタリア・オペラのアリアはベル・カントで歌われる。その後、19世紀後半にベルディやワーグナーなどのドラマチックなオペラが台頭し、より重厚な歌唱法に変わっていった。
※オペラ・ブッファ(喜劇)はパイジェッロ、チマローザ、モーツァルトによって頂点を迎えた。オペラ・ブッファでは誇張されたメークやおどけた衣装で観客を楽しませた。
※『フィガロの結婚』は貴族をおちょくった政治的風刺(貴族がバカで下僕の方が賢い)により、舞台版はフランス革命までフランスでは上演禁止になっていた。これにオーストリアでモーツァルトが音楽をつけた。
※ロッシーニに憧れていた21歳年下のワーグナー(1813-1883)は、引退後のロッシーを自宅まで訪ねた。ワーグナーはオペラについて熱く語ったが、ロッシーニはそんなことより料理中の鹿肉の焼き具合を気にしていた。
※海外では2月29日生まれの著名芸術家はロッシーニだけ。日本では映画監督のマキノ雅弘、俳優の原田芳雄、峰竜太、作家の赤川次郎。



★ハイドン/Franz Joseph Haydn 1732.3.31-1809.5.31 (オーストリア、アイゼンシュタット 77歳)1994
Bergkirche, Eisenstadt, Eisenstadt Stadt, Burgenland, Austria//Plot: Private Mausoleum

パパ・ハイドンと慕われた アイゼンシュタットのハイドンハウス この家にハイドンは住んでいた







墓所のベルク教会。霊廟の入口は裏手ゆえ要注意 ここから入っていく。車道から見えず迷った 教会内のハイドン顕彰碑

受付で拝観料を払うと自動で扉が開く この鉄柵の向こうに→ ハイドンが眠っていた!

ウィーン「ハイドンパーク」の端っこに… 移転前の最初の墓が記念碑として残っている

「ハイドンはふざけながら感動を与え、笑いと深い感銘を備え持っている。自分のような者を2人合わせても、まだハイドンの域には到達し得ない」(モーツァルト)

18世紀後半のウィーン古典派を代表する一人。ウィーン古典主義音楽の創始者で温厚な性格から“パパ・ハイドン”と慕われた。第一楽章に使用されるソナタ形式に“主題の展開”という概念を導入してモーツァルトを刺激し、ベートーヴェンがさらに開拓した。モーツァルトと並ぶ後期古典派音楽の代表者で、交響曲・弦楽四重奏曲・ソナタなどの形式を確立、“交響曲の父”“弦楽四重奏の創始者”と讃えられるフランツ・ヨーゼフ・ハイドンは1732年3月31日に、オーストリア・ウィーン南東のローラウ村(当時ハンガリー領)に生まれた。車大工の父は貧しかったが音楽を愛し、仕事が終わるとハープを片手によく歌っていた。
1737年(5歳)9月14日、弟で同じく作曲家となったミヒャエル・ハイドンが生まれる。

6歳の時にハンブルクで暮らす音楽学校校長の叔父に楽才を認められ、「この子にはきちんと音楽を教えた方が良い」と叔父が両親を説得し引き取られた。8歳になると、声が良かったハイドンはウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊に採用される。ここで音楽教育を受け、ウィーンの寄宿舎に入った。
1745年(13歳)、弟ミヒャエル(8歳)が兄と同じくウィーンの聖シュテファン大聖堂の合唱児童となり活躍する。
1749年(17歳)、変声期を迎えて聖歌隊を解雇され(女帝マリア・テレジア直々のクレームとの説あり)、以後の8年間はフリーの音楽家として教会歌手の家や、アパート6階の屋根裏を転々としながら自活する。教会の歌手をつとめたり、舞踏会のヴァイオリンやオルガンの演奏、音楽の家庭教師で食いつなぎつつ、教本で対位法を独学して作曲法を身につけるなど、苦労しながら次第に音楽家としての道を開いていく。
同年、現存する最初期の曲『ミサ・ブレヴィス』を作曲する。ちなみに人生の最後に完成した作品もミサ曲だ
※『ミサ・ブレヴィス』 https://www.youtube.com/watch?v=s1wc_Uiv9Vc (12分)

1751年(19歳)、モーツァルトがオーストリアのザルツブルクで生まれる。ハイドンはモーツァルトとは年齢差をこえた友情を結び、その偉大な業績はベートーベンによって継承された。
1755年(23歳)、リンツに近い北部ヴァインツァールのフュールンベルク男爵家に短期間かかえられ、最初の弦楽四重奏曲を男爵のために作曲する。以降、急速に作曲数が増えていく。ハイドンは40年間にわたって数多くの弦楽四重奏曲を書き、洗練された作風により弦楽四重奏様式の成熟に貢献した。
『弦楽四重奏曲第2番』 第三楽章のゆたっり漂う感じナイス https://www.youtube.com/watch?v=EqIx4qPpt14#t=7m03s
※『弦楽四重奏曲第3番』ニ長調。第一楽章のひなびたのどかさが良い。第一楽章がアダージョというのはとても珍しい(1755年から1760年頃にかけて作曲された) https://www.youtube.com/watch?v=BC4eu-5h1ME
1756年(24歳)、『オルガン協奏曲』、聖母のための聖歌『サルヴェ・レジナ』を作曲、両曲の自筆譜が残る。
※『オルガン協奏曲』(Hob.XVIII:1)第一楽章後半の緊張感が良い! https://www.youtube.com/watch?v=Qpm6-7nxA7c#t=3m36s
1757年(25歳)、弟ミヒャエルがグロースワルダイン(現ルーマニアのオラデヤ)の司教宮廷楽団楽長となる。
1758年(26歳)、ボヘミアのモルツィン伯爵家の宮廷楽長(音楽監督、楽長兼作曲家)として採用され、いくらか安定した職をえた(1759年説あり)。ほどなくモルツィン伯爵が破産し解雇されるも、ここで最初の交響曲となる交響曲第1番が書かれたほか、短期間に約15曲の交響曲、協奏曲、鍵盤楽器のためのソナタや三重奏曲、弦楽三重奏曲、管楽器のためのパルティータなどを作曲した。
後年の調査で『交響曲第37番』が確認できる最も最初のハイドンの交響曲とわかった(筆写譜の日付が1758年だから、実際はさらに古い可能性あり)。ハイドンの交響曲は106曲あるが、自筆譜などで作曲年代を確定できる曲は約半数しかなく、大部分の曲は初演の状況も分かっていない。
※『交響曲第37番』(事実上の第1番?) https://www.youtube.com/watch?v=RYe3LwipZPA (16分37秒)
1759年(27歳)、『交響曲第1番』を作曲したと推定される。初期の特徴である3楽章形式のシンフォニー。冒頭からクレッシェンドで盛り上がっていき、全体はときに柔らかく、ときに快活に響く。ちなみに、『第1番』の楽器編成はオーボエ2、ホルン2、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、低音(チェロ、ファゴット、コントラバス)であり、弦とオーボエ、ホルンのみ。ベートーヴェンの時代にはオーケストラに欠かせないトランペット、フルート、クラリネット、トロンボーン、ピッコロが、この段階ではまだ交響曲に登場していない。
※『交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=3Ug2Og6j4ag (13分23秒)
※『交響曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=J_baDF-zJkg (8分22秒)全3楽章かつ繰り返し記号が一切ないためハイドン全交響曲の中で最短
★1760年(28歳)、下宿先の床屋の娘で4歳(3歳?)年上のマリア・アンナ・ケラーと結婚するが、妻は音楽に興味がなく浪費家で、子どもにも恵まれず幸せな家庭ではなかった。
この頃、『交響曲第27番』を作曲したと思われる(事実上の第6番?個人的には第二楽章を聴く限り、もっと後の作品に思えるが…)。
※『交響曲第27番』第二楽章はとても優雅(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=Cth9UZC-ct8#t=6m17s

1761年(29歳)、ハイドンに人生の好機が到来!オーストリア東端(当時ハンガリー西部)のアイゼンシュタットに居城をもつハンガリーの大貴族パウル・アントン・エステルハージ侯爵の副楽長に採用され、新設の私設オーケストラを任される。エステルハージ侯は以前にモルツィン伯の演奏会でハイドンの音楽を聴いて強く心惹かれていた。以降、エステルハージ家の当主4代(パウル、ニコラウス、アントン、ニコラウス2世)に仕え、膨大な数の交響曲(第7番〜92番)や古典ソナタ形式を確立させた弦楽四重奏曲を残していく。
当初の楽団員は14名のみであり、ハイドンは楽団の拡充に努めた。楽団は侯爵の移動先についていき、食事や儀式の際にBGMを演奏した。この副楽長時代に約26曲の交響曲を作曲し、三部作「朝・昼・夕」(交響曲第6〜8番)や交響曲第31番「ホルン信号」はこの時期に書かれた。
『交響曲第6番“朝”』は結成されたばかりの楽団のお披露目的な意味合いもあり、ほぼすべての楽器に独奏箇所がある。そしてハイドンの交響曲にフルートが初登場し、以降のスタメンに。『交響曲第7番“昼”』はハイドンが自筆楽譜に題名を付けている唯一の交響曲(他の題名は後世に付けられたもの)。“楽団お披露目色”がさらに増し、第3楽章ではコントラバスまで独奏個所がある。『昼』は初の五楽章で大規模(といっても25分くらい)。第二楽章は神(ヴァイオリン)と罪人(チェロ)の会話という。『第8番“夕”』の終楽章にはハイドンが「あらし」という具体的な標題をつけている。フルートのアルペジオが稲妻(フルートの音だからかわいいけど)と思われる。
※『交響曲第6番“朝”』冒頭は静かな夜明け、鳥の声。フルートが加わり響きが豊かに。 https://www.youtube.com/watch?v=A6fEXKWp50I
1762年(30歳)、パウル・アントン・エステルハージ侯爵が他界し、弟のニコラウス公(当時48歳/1714-1790)が侯爵家の跡を継ぎ、ハイドンは長く仕えることになる。この新当主は洗練された趣味を持つ音楽愛好家で、ノイジードル湖をはさんでアイゼンシュタットの対岸に広大な夏の離宮エステルハーザを建設したため、ハイドンら楽員もエステルハーザに住む必要があった。
1763年(31歳)、『交響曲第13番』を作曲。4本のホルンが旋律を担当するのは当時では珍しかった。
※『交響曲第13番』第四楽章 https://www.youtube.com/watch?v=SW9RrOLoYE0#t=18m19s
※第4楽章の旋律や展開が、モーツァルトのジュピター交響曲のフィナーレとうり二つで、僕は仰天。モーツァルトはそもそも、この"E♭ - F - A♭ - G"(ジュピター音型)を翌年の『交響曲第1番』第二楽章で使っている。おそらくどこかで『交響曲第13番』を聴いた少年モーツァルトが、心に残ったジュピター音型を自分の曲でも使ったのだろう。…と思いきや、ウィキにはジュピター音型は「定旋律」とある。え、もともと欧州では知られた音型だったということ?さらに調べると、モーツァルトは演奏旅行中のロンドンで第1番を作曲したとある。ウィーンならともかくハンガリー国境付近に住んでいたハイドンの曲を、ラジオもない時代にモーツァルトが聴く可能性は高くないように思える。しっかし、13番の翌年というのは偶然にしてはあまりに近すぎる。誰か研究してないかな。
この頃、初めてトランペットとティンパニを使った『交響曲第20番』が書かれたようだが、作曲の年代は議論がわかれる。
同年、弟ミヒャエル(26歳)がザルツブルクの大司教ジギスムントの大司教宮廷楽団に首席奏者(コンサート・マスター)として入団、同地で生涯を送る。大司教宮廷楽団の同僚モーツァルト父子と親しく交流し、宗教的ジングシュピール《第一戒律の責務》をミヒャエルとウォルフガングで合作した。

1764年(32歳)、『交響曲第22番“哲学者”』を作曲、唯一楽器のコーラングレ(アルトオーボエ、イングリッシュ・ホルン)を使った交響曲となる。同年、8歳の神童モーツァルトが交響曲第1番を作曲。『交響曲第24番』の第一楽章は初めて陰影が生まれ、心地よさだけを追うたようなこれまでの交響曲から少し変化した。
※『交響曲第24番』第一楽章がドラマチック、ただし他楽章は標準的 https://www.youtube.com/watch?v=X0_MxTswN8k
1765年(33歳)、『交響曲第28番』を作曲(この曲も番号が順不同、自筆原稿で1765年確定)。第一楽章は疾走するような短いリズムが支配しておりユニーク。同年、初期の弦楽四重奏曲の楽譜が出版される。
※『交響曲第28番』第一楽章はベートーヴェンのスケルツォ楽章のようだ https://www.youtube.com/watch?v=I0BU4Rrmt_M
同年、『交響曲第31番“ホルン信号”』を作曲(自筆原稿で1765年確定)。ハイドンが4本のホルンを使った交響曲(13番、31番、39番、72番)のうちの一曲で、ホルンが最も活躍するのが本作。トスカニーニが3度指揮するほど評価している。
※『交響曲第31番“ホルン信号”』 https://www.youtube.com/watch?v=H30PPIqVsSU
この頃に『交響曲第34番ニ短調』が書かれたとされるが議論中。ハイドンの内面に深く沈み込んでいくような第一楽章が印象的。
※『交響曲第34番ニ短調』暗い短調の第一楽章だけで全体の半分を占める特異な構成、逆に他の楽章はやたら明るい https://www.youtube.com/watch?v=jQjHn1k-ib0 (24分)
そして『チェロ協奏曲第1番』もこの頃に作曲されたと考えられる。当時のチェロはオーケストラの低音楽器に過ぎないと見なされていたが、ハイドンはチェロに光を当てた協奏曲を書きあげ、その先見の明を示した。本作は1961年にプラハの図書館で発見されるまで200年近く埋もれていた。チェロがおおらかに伸び伸びと歌いあげる名曲。
※『チェロ協奏曲第1番』薄命のチェロ奏者ジャクリーヌ・デュ・プレの名演 https://www.youtube.com/watch?v=pAm3j7F50nQ (26分14秒)
この1765年以降、宮廷の職とは直接関係のないピアノ作品にも力を入れ始める。

1766年(34歳)、ハイドンは前楽長の死によりエステルハージ侯爵の楽団の楽長に昇格し、1790年まで24年間もこの楽長職を務める。副楽長時代は食事の音楽など世俗音楽を担当していたが、楽長職は厳粛な宗教音楽も作曲せねばならなかった。後年、エステルハージ時代をこう回想している。「私は指揮者としてどうすれば効果が得られたり損なわれるか、十分に観察できた。その体験を作曲に活かし、納得がいくまで作品を書き直した。そのうえ、時折ウィーンに出かける以外は侯爵の居城で働いていたため、誰にも惑わされず、誰にも遠慮せず、音楽上の実験ができた。その結果、独創的に成らざるを得なかったのである」。このように、ハイドンはハンガリー国境付近のアイゼンシュタットにこもって他の音楽家や流行音楽とあまり接触しなかったため、必然的に自身の音楽スタイルを発展させる個性的な音楽家になっていった。
そしてこの時期から1773年まで7年ほどハイドンの作風は大きく変わり、陰うつな影を持つシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)の時代とされる。交響曲107曲のうち短調は11曲しかないが、そのうち6曲がこの期間に集中している。
※アイゼンシュタットには楽長になったこの年から1778年まで12年間住んでいた家が記念館になって公開されている。ハイドンは宮殿敷地内に住むことが義務付けられている他の使用人と異なり、近くの家に住んで自由な空間を確保していたようだ。
1767年(35歳)、『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』を作曲し、この曲はヨーロッパ中で有名になる。のちにオラトリオ『天地創造』を作曲するまで、ハイドンの最も知名度のある声楽曲だった。
※『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』リンク先の山の上の十字架の絵も素晴らしい https://www.youtube.com/watch?v=UE5meRB9Neg (69分)
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1768年(36歳)、エステルハーザ宮殿の庭に歌劇場が完成し、最新設備でオペラが楽しめるようになった(マリオネット劇場も備えていた)。ハイドンは?落としのためオペラ『薬剤師』(全3幕)を作曲し、これがオペラ分野での代表作となる。ハイドンは「交響曲の父」として知られるが、20曲以上のオペラ作品を残しており、楽長として他の作曲家の作品も多く紹介した。エステルハーザの歌劇場では同年から1784年にかけて14年で10曲のハイドンのイタリア・オペラが初演された。

『薬剤師』…薬局を舞台に若い娘と彼女に恋する3人の男が登場する4人の軽妙な喜劇。薬剤師の助手メンゴーネは、師センプロニーオが後見している娘グリレッタに恋している。だが、師センプロニーオもグリレッタと年の差婚を期待しており、金持ちの若い男ヴォルピーノもグリレッタに夢中。メンゴーネは薬局の店主センプロニーオが後見する娘グリレッタに近づくため、薬の知識もないのに弟子入りしている。センプロニーオの趣味は新聞の国際欄を読むことで、周囲の者に知識を披露するのが楽しみ。客の若い男ヴォルピーノはグリレッタに愛の告白をするが彼女はメンゴーネに惚れており一蹴される。メンゴーネとグリレッタは相手をわざと嫉妬させて気を惹くために、嘘で別人との婚約をほのめかすが、意地の張り合いから喧嘩になってしまう。その隙をついてセンプロニーオが“円熟した男の魅力”で猛アタックをかけ、グリレッタはメンゴーネへの当てつけのつもりで求婚をうっかり承諾してしまう。センプローニオはさっそく公証人を呼んで結婚契約書を作ろうとする。やって来た公証人は変装したメンゴーネと、まだグリレッタを諦めきれないヴォルピーノ。2人のニセ公証人は契約書の新郎の名に自分の名を書き込みセンプロニーオは立腹、大混乱のコミカルな四重唱が歌われる。その後、ヴォルピーノはセンプロニーオにトルコで儲け話があると吹き込み、センプロニーオは恋より商売に夢中に。メンゴーネとグリレッタはリボンをきっかけに仲直り(ここ、字幕がないからよく分からない!)。
トルコ人使者に扮したヴォルピーノは商売の条件としてグリレッタをもらい受ける約束をとりつけた。だが、ヴォルピーノが彼女を探しに行っている間にメンゴーネもトルコ人に変装し、先にグリレッタとの結婚を認めてもらう。ヴォルピーノは先手を越されて怒り、センプロニーオも真相を知って肩を落とすが、最後は両者の気持ちも落ち着いて全員で愛を讃える四重唱を歌いあげる。
※『薬剤師』第3幕は完全な形では残っていない。全曲じゃないけど映像で見られるのは貴重。嗚呼、良い音質で全曲を見たい。 https://www.youtube.com/watch?v=hWuKq599ihI

同年、復活祭のために初めて短調の交響曲となる『交響曲第26番 ニ短調“ラメンタチオーネ”』を作曲。本作はハイドンの交響曲で最後の三楽章形式。この頃のホルンには音程を変えるピストンがなく、出せる音が限られていたことから、4本のホルンを用意しG管とB♭管(アルト)の両方を使って音域を増やした。
※『交響曲第26番“ラメンタチオーネ”』短調シンフォニー https://www.youtube.com/watch?v=0rNCggzEeFw (18分)
この頃、古典派では数少ない短調の交響曲の一つ『交響曲第39番 ト短調』を作曲したと思われる。「アレグロ短調」の第一楽章及び終楽章は“疾走する悲しみ”でありモーツァルトに影響を与えた可能性が高い。ベートーヴェンの『コリオラン序曲』は39番の第一楽章と似ている。
※傑作『交響曲第39番 ト短調』 https://www.youtube.com/watch?v=-ql_cy7-3FQ (21分)
さらに、シュトゥルム・ウント・ドラング期で最も悲劇的な色彩を帯びた『交響曲第49番ヘ短調“受難”』を作曲。題名はのちに付けられたものだが、実際に聖金曜日の上演を目的に書かれた可能性が高いという。
※『交響曲第49番ヘ短調“受難”』 https://www.youtube.com/watch?v=_ES5hPPc-14 (25分51秒)
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1769年(37歳)、この頃『ヴァイオリン協奏曲第4番』が書かれたようだが自筆譜が紛失され確定せず。ハイドンが書いた伝わるヴァイオリン協奏曲は11曲あるが、真作は3、4曲しかなく、他は弟ミヒャエルや同時代の別人の作品。
※『ヴァイオリン協奏曲第4番』第一楽章の後半がいい https://www.youtube.com/watch?v=qtwoDzg-scA#t=3m30s
1770年(38歳)、ベートーヴェンがドイツのボンで生まれる。
ハイドンは1770年前後にオペラ、教会音楽、そしてシンフォニー、弦楽四重奏曲等において最初の創作の高みに達する。
1771年(39歳)、この頃『交響曲第43番“マーキュリー”』を作曲。第一楽章はハイドン・シンフォニー屈指の爽やかさ。題名は誰が付けたか不明なものの、弦が心地よく走る部分が天を翔るマーキュリー(水星)っぽい。終楽章も勢いがある。
※『交響曲第43番“マーキュリー”』 https://www.youtube.com/watch?v=dv8nS51BxoE
同じくこの頃、『交響曲第44番ホ短調“悲しみ”』を作曲。ハイドンはこの曲を深く愛し、自分の葬儀では本作の第3楽章(アダージョ)を演奏してほしいと願った。第一楽章、第四楽章は劇的に展開する。
※『交響曲第44番ホ短調“悲しみ”』 https://www.youtube.com/watch?v=UegqnUU9I18 (27分51秒)
※『交響曲第44番ホ短調“悲しみ”』ハイドン渾身のアダージョ https://www.youtube.com/watch?v=UegqnUU9I18#t=14m48s
さらに『ピアノソナタ第20番 ハ短調』も作曲。短調作品が急激に増えた時期であり、ピアノソナタも例外ではなかった。ただしハイドンが自分のピアノを入手したのは17年後の1788年であり、第20番で想定された鍵盤楽器はチェンバロ。ちなみに、ハイドンがピアノで作曲した最初のピアノソナタは第49番。
※『ピアノソナタ第20番 ハ短調』 https://www.youtube.com/watch?v=hwOlGL5GJFU (26分43秒)
さらにこの年は『交響曲第52番ハ短調』(順不同)も書かれていたようだ。本当に短調の曲が多い。
※『交響曲第52番ハ短調』第一楽章なかなかドラマチック https://www.youtube.com/watch?v=94P8p71L-60
そして『弦楽四重奏曲第30番』の第三楽章ラルゴがしみじみといい。
※『弦楽四重奏曲第30番』の第三楽章(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=ISCNxCp2G_4#t=10m03s
同年、弟ミヒャエル(34歳)が大司教ジギスムントの死を悼んで最初の重要な教会作品であるハ短調の『レクイエム』(ジギスムンド大司教の死のためのミサ曲)を作曲。ミヒャエルは同年に一人娘を亡くしておりそれも作曲の背景にあると見られる。
※ミヒャエル・ハイドン『レクイエム ハ短調』 https://www.youtube.com/watch?v=EUKFK2ezoCQ(32分)素晴らしい

1772年(40歳)、人気曲となった『交響曲第45番嬰ヘ短調“告別”』を作曲。この年、ニコラウス・エステルハージ侯は夏の離宮エステルハーザに例年より長く滞在(半年の予定が8カ月)したため、楽団員は早く妻子のいるアイゼンシュタットに帰りたがった。気持ちを察したハイドンは『告別交響曲』にある仕掛けを仕込ませた。終楽章後半になると急速なテンポからアダージョに切り替わり、演奏者が1人ずつ演奏をやめ、ロウソクの火を吹き消して立ち去って行き、最後に2人のヴァイオリン奏者(ハイドンとコンサートマスター)だけが残るというもの。エステルハージ侯はこのメッセージを汲み取り、初演翌日に一同に休暇が与えられたという。
第1楽章は切迫感のある激しい弦で始まり、第2楽章は半音階的にさ迷うアダージョなど他楽章も個性的。退出する各楽団員12人のために楽譜が12段に分かれており、最後は第1オーボエと第2ホルン、ファゴット、第2オーボエと第1ホルン、コントラバス、チェロ、第二ヴァイオリン、ヴィオラの順で舞台から去っていく。
※『交響曲第45番嬰ヘ短調“告別”』 https://www.youtube.com/watch?v=KXctarOxRz8 (34分20秒)
※『交響曲第45番嬰ヘ短調“告別”』から退出シーン、指揮のバレンボイムが名演
https://www.youtube.com/watch?v=vfdZFduvh4w#t=4m17s
同年、6曲からなる弦楽四重奏曲集『太陽四重奏曲』(楽譜の表紙に太陽が描かれていたため)を作曲。第5曲である“第35番”はロマンティックな叙情感により人気が高い。6曲のうち半数でフィナーレにフーガを導入するなど対位法による堅牢な構造を持たせ、それまでの軽妙なディベルティメント(喜遊曲)と違いを見せた。
※『弦楽四重奏曲第31番ヘ短調(太陽四重奏曲第1番)』第一楽章に時々切ない和音が出てくる https://www.youtube.com/watch?v=o6azee3Qmvs
※『弦楽四重奏曲第32番ヘ短調(太陽四重奏曲第2番)』第一楽章のここ、大好きなギコギコです(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=chm8DSPLMpM#t=4m29s
※『弦楽四重奏曲第35番ヘ短調(太陽四重奏曲第5番)』第一楽章がシュトゥルム・ウント・ドラング https://www.youtube.com/watch?v=cd27AHVkr00 (25分)

1773年(41歳)、オーストリア皇妃マリア・テレジアがエステルハージ家を訪問し、大掛かりな歓迎行事が3日にわたって催された。ハイドンのブルレッタ(短編喜劇オペラ)『勘違いの不貞(報われぬ不実)』なども上演された。農家の姉妹が男たちを手玉にとって意中の相手と結婚する喜劇。マリア・テレジアいわく「美しいオペラが聴きたいときはハイドンのところへ行くといい」。従来はこの式典で『交響曲第48番“マリア・テレジア”』が演奏されたと考えられこの愛称がついたが、近年の研究でより古い1969年頃の作品と判明した。同年の『交響曲第50番』は軽めの娯楽路線の曲であり、シュトゥルム・ウント・ドラング期が終わったことを示し、簡明な作風に変化していく。
※『交響曲第48番“マリア・テレジア”』第一楽章、弦がみずみずしい https://www.youtube.com/watch?v=ES01U3rNGzk
※『交響曲第48番“マリア・テレジア”』第二楽章後半の優雅さ https://www.youtube.com/watch?v=ES01U3rNGzk#t=14m35s
同年、モーツァルト(当時17歳)が自身の交響曲のうち2曲しかない短調作品の1作目『交響曲第25番ト短調』を書く(もう一作は第40番)。ハイドンの『交響曲第39番 ト短調』に調性、曲調、楽器法(4本ホルン)の影響を受けたようだ。

1774年(42歳)、『交響曲第55番“校長先生”』を作曲。第二楽章の規則正しい生真面目な印象の旋律からこの愛称を誰かがつけた。
※『交響曲第55番“校長先生”』第一楽章の弦がいい https://www.youtube.com/watch?v=ffZNNxpZSbE
同年、エステルハージ侯に献呈された6曲の鍵盤楽器ソナタ(Hob.XVI:21-26)をウィーンで出版。
1776年(44歳)、エステルハーザ宮殿歌劇場を本格運用可能な人員が揃い、この年からニコラウス侯が没するまで15年の間、豪華なオペラ・シーズンが毎年開催された。ハイドンの仕事も器楽の演奏会に代わってオペラ・演劇上演がメインになり、劇場音楽監督として激務に追われる。多忙ゆえ交響曲の作曲ペースは落ちたが、ハイドン作品を求める世間の声は大きく、楽譜の出版は絶好調だった。
この頃、創意工夫に富んだ『交響曲第67番』を作曲。様々な奏法が弦楽器に使用されている。特に第一楽章!
※『交響曲第67番』聴き飽きない第一楽章 https://www.youtube.com/watch?v=VV3MQxZNJ_M
1777年(45歳)、エステルハージ家の婚礼を祝うためオペラ『月の世界』を作曲し、宮殿歌劇場で初演。結婚を希望する姉妹と恋人たちが、姉妹の厳格な父親(天文ファン)から入籍許可を得るために、「月に行ける薬」(実は睡眠薬)を飲ませ、目覚めたときに月の世界にいると勘違いさせ、あの手この手で結婚の同意を得る物語。

★1779年(47歳)、この年の契約書では、自作品を楽譜出版業者に売り、代金を受け取る自由をエステルハージ侯に認められている。主人のために作曲した曲を売る自由を与えられることは、当時では驚くべく好待遇。ハイドンの作品は出版されることでエステルハーザ宮の外壁を飛び越え、その音楽と名声はヨーロッパ中に広まっていった。同年11月、柿落としから11年目のエステルハーザ宮殿歌劇場が火災で全焼し、劇場に保管していた楽譜をすべて失う惨事があった(貴重な自筆楽譜が…マジで音楽史の悲劇)。手元に残ったのは自室に持ち帰っていた作曲中のオペラ『無人島』だけ。火事の後、ハイドンはウィーンから自作の筆写楽譜を逆に購入し、編曲や加筆、転用をおこなって曲目不足を補った。
火災から2週間後、『無人島』を完成させたハイドンは歌劇場の代わりにマリオネット劇場で初演を行った。ハイドンは「『報いられたまこと』と『無人島』はパリやウィーンで上演ができる作品だ」と出来映えに自信を持っていた。
『無人島』…舞台は大西洋に浮かぶ無人島。コスタンツァとシルヴィアの姉妹だけが住んでいる。13年前、姉コンスタンツァは新婚旅行中に嵐から避難したこの島に妹と置き去りにされたという。姉は夫への恨み節を自分の墓石に刻み「男って最悪」と妹に忠告する。妹は幼い時から無人島でのびのびと成長し元気いっぱい。ある日、海岸に船がやって来て姉の夫ジェルナンドと友人のエンリーコが降り立つ。実は、夫は海賊に連れ去られていた。そして同じ奴隷の境遇にあったエンリーコと脱出し、妻を探しに来たのだ。コンスタンツェはジェルナンドと再会し、事情を知って抱き合い、シルヴィアとエンリーコも一目惚れ、めでたしめでたし!
※『無人島』画質は最悪だけど雰囲気は伝わるし、音もそこそこ良い。ただし途中までしかない…。 https://www.youtube.com/watch?v=CY_KMf0T1eY (52分)
この年、ハイドンは楽団に加わった20歳の若きイタリア人歌手ルイジア・ポルツェルリと出会う。彼女には夫である47歳のヴァイオリン奏者がいたが、2人は恋に落ちた。ハイドンはルイジアに経済的な援助を晩年まで続けた。
12月、劇場再建工事の定礎を記念し『交響曲第70番』を作曲。ハイドン研究家ランドン「先人たちや同時代人たちの中にあって、ヘラクレスのように突出した作品」。
※『交響曲第70番』終楽章のフーガ https://www.youtube.com/watch?v=y6IGVbqVzgQ#t=16m19s
1780年(48歳)、6曲のソナタ(Hob.XVI:35-39,20)を出版。エステルハージ家の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家以外のために書いた曲の比率が増していく。この頃、パリでは既に約50曲の交響曲が出版されている。

★1781年(49歳)、エステルハーザ宮殿歌劇場は焼失から1年4カ月で再建され、2月にその?落としでオペラ『報いられたまこと』(全3幕)を初演。このオペラは大人気となり、この年だけで16回も公演された。
『報いられたまこと』…舞台は神話時代のナポリ近郊クーマエ。怪物の生け贄になろうとした羊飼いの若者フィレーノが、自己犠牲の精神を女神ディアナに称賛されて命を救われ、逆に儀式を利用とした悪い神官は雷で滅ぼされる。妖精も交えた恋のさや当てがあり、3組のカップルが誕生してめでたしめでたし。
※『報いられたまこと』音声のみ https://www.youtube.com/watch?v=h9WBJsiaytg
同年、ハイドンは音楽史の金字塔となった全6曲の弦楽四重奏曲『ロシア四重奏曲』を作曲する。多作のハイドンだが弦楽四重奏曲の作曲は9年ぶりで、従来のメヌエット(舞曲)楽章に代わりスケルツォ(急速な三拍子)を入れるなど、「全く新しい特別な方法で作曲された」と記している。この6曲で古典ソナタ形式を確立させ、以降の弦楽四重奏曲の源流となった。
※ソナタ形式…序奏・提示部・展開部・再現部・結尾部からなり、二つの主題が提示部・再現部に現れる。
この曲はウィーンを訪れたロシア大公パーヴェル・ペトロヴィッチ(のちのロシア皇帝)に献呈されたため『ロシア四重奏曲』の愛称がついた。『弦楽四重奏曲第38番(ロシア四重奏曲第2番)』は、楽器同士のお喋りを思わせるユーモラスな終わり方から『冗談』の呼び名がついている。
※『弦楽四重奏曲第38番“冗談”(ロシア四重奏曲第2番)』から第四楽章(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=R-AxcGEZ16Y#t=15m11s
※『弦楽四重奏曲第41番“ご機嫌いかが”(ロシア四重奏曲第5番)』から第二楽章・短調の緩徐楽章(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=3SAbw_WkSWo#t=5m46s
ハイドンは四つの楽器の個性を知り抜き、熟練した和声手法と独特のウィットで聴衆を楽しませた。この頃、24歳年下のモーツァルト(当時25歳/1756-1791)と親しくなり、年の差を超えて友情を結ぶ。モーツァルトは『ロシア四重奏曲』の完成度の高さに感銘を受け、翌年に同じく6曲の弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を書きあげハイドンに献呈した。
同年、モーツァルトはザルツブルグ大司教と喧嘩してウィーンに去り、その後任としてハイドンの弟ミヒャエルがザルツブルグ大聖堂のオルガニストに就任した。

1782年(50歳)、イギリス旅行のために『交響曲第76番〜78番』を作曲したが、この年は渡英が実現しなかった。ハ短調の『第78番』は1772年の『第45番“告別”』以来10年ぶりの短調作品。同年『マリアツェル・ミサ』を作曲。
※『交響曲第76番』第二楽章の後半のこの部分がめっちゃいい! https://www.youtube.com/watch?v=PC55ByuyvV4#t=13m28s
※『交響曲第78番』第一楽章、やはり短調は良い https://www.youtube.com/watch?v=fYuiEKtQ_8o (5分18秒)
同年、『チェンバロ協奏曲 ニ長調』を作曲。楽器をピアノに代えたピアノ協奏曲としても知られる。
※『ピアノ協奏曲』第二楽章のこの部分、月光ソナタっぽい https://www.youtube.com/watch?v=5MCFxQDWXDg#t=10m18s

1783年(51歳)、『チェロ協奏曲第2番』を作曲、のちにシューマン、ドヴォルザークの傑作と共に3大チェロ協奏曲の一角に数えられる。第1番に比べ優美さが増している。同年、ヨーゼフ2世が教会内での大規模なオーケストラの使用を禁じる(ヴァチカンに習ったものと思われる)。
※『チェロ協奏曲第2番』デュ・プレのチェロ演奏 https://www.youtube.com/watch?v=oMPOhJ109h0 (29分47秒)
1784年(52歳)、ハイドンの生前に上演された最後のオペラ『アルミーダ』(全三幕)をエステルハーザ宮廷歌劇場で初演、十字軍のエルサレム解放に恋愛を絡め、イスラムが舞台という異国情緒もあって4年間で54回も上演され、最も成功したハイドンのオペラとなった。サラセン(イスラム)の魔女アルミーダは、 もとキリスト教徒の騎士で彼女が魔法で味方に
つけたリナルドを愛している。リナルドは最終的に十字軍に戻ることを決意し、怒ったアルミーラが十字軍の陣地に現れてリナルドを呪い、過酷な運命に向き合う全員の合唱で終幕。

1785年(53歳)、フランスから注文を受け、エステルハージ家以外の楽団のために書かれた最初の交響曲、パリ交響曲(交響曲82番〜87番)を翌年にかけて作曲する。また、スペインからの注文で『弦楽四重奏曲第43番(スペイン四重奏曲)ニ短調』が作曲された。『交響曲第85番“王妃”』はマリー・アントワネットお気に入りの曲ゆえに誰かが名付けたという。
1786年(54歳)、スペインの教会から委嘱され管弦楽曲『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』を作曲。この曲は礼拝時にキリストが十字架上で語った7つの言葉を胸に刻むためのもの。
「序章」に始まり、「父よ!彼らの罪を赦したまえ。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」「あなたは今日、私と共に楽園にいるだろう」「女性よ、これがあなたの息子です」「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか?」「私は渇く」「すべてが終わった(果たされた)」「父よ!あなたの手に私の霊を委ねます」の7つの言葉のあと、絶命時に起きたとされる「地震」で終幕となる。中でも「おまえは今日、私と共に楽園にいる」(Grave e cantabile)が素晴らしい。ハイドンは本作をかなり気に
入ったらしく、「初めて音楽を聴く人にも深い感動を与えずにはおかない」と自賛し、翌年に弦楽四重奏版に編曲(弦楽四重奏曲第50番〜56番)、さらにクラヴィーア版、オラトリオ版も発表した。ちなみにこの年だけでオペラ17作品を指揮している。
※『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』 https://www.youtube.com/watch?v=OY2vixVCr1M (50分)
1787年(55歳)、『交響曲第88番“V字”』を作曲。V字は出版時の整理番号であり特に意味はない。後年ブラームスは本作の第2楽章を聴いて「私の第9交響曲はこのように聴かせたい」と語ったという。
※『交響曲第88番“V字”』ブリュッヘン指揮・古楽器オケの名演 https://www.youtube.com/watch?v=oIo1d41YNos (21分)
同年、『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』を弦楽四重奏曲第50番〜56番として編曲。キリスト教徒ではない僕でも耳を深く傾けてしまうのだから、キリスト教徒の人はもっと感動するだろう。
※『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』これはいい!劇的! https://www.youtube.com/watch?v=pcmF2z_Z3_c (70分)
※同曲から「おまえは今日、私と共に楽園にいる」(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=pcmF2z_Z3_c#t=13m12s
この年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈された6曲からなる『プロシア四重奏曲』(弦楽四重奏曲第44番〜49番)を作曲。ハイドンの人気を物語るように、この楽譜は完成の3年も前から先行予約が入っている。
1788年(56歳)、『弦楽四重奏曲第58番(第1トスト四重奏曲第2番)』を作曲。こちらもヴァイオリニストのヨハン・トストの依頼で作曲された。
『弦楽四重奏曲第58番』第四楽章がまったりと癒され熱い紅茶がほしくなる(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=_WZ0sWhkaH4#t=15m59s
1789年(57歳)、ハイドンの自信作『交響曲第92番“オックスフォード”』を作曲。フランスのドーニ伯爵の以来で書かれたものだが、後年オックスフォード大学から名誉音楽博士号を授与されるにあたり同地で演奏したことからこの愛称がついた。後年、同曲は交響曲としての内容の充実、音の厚さからハイドンの“エロイカ”とも評される。同年、フランス革命が勃発し欧州に激震が走る。
※『交響曲第92番“オックスフォード”』 https://www.youtube.com/watch?v=cTP9akopWpU (24分)
1790年(58歳)、『弦楽四重奏曲第67番 “ひばり”(第2トスト四重奏曲第5番)』を作曲。エステルハージ家宮廷楽団ヴァイオリニストのヨハン・トストの依頼で作曲された「第2トスト四重奏曲」の第5番。
※『弦楽四重奏曲第67番 “ひばり”』第一楽章冒頭の旋律がひばりの声に似ている
https://www.youtube.com/watch?v=1Xtq0EHAR-c
この年、エステルハージ家のニコラウス侯が没する。後を継いだ息子のアントン侯は音楽に全く関心を示さず、音楽家をほとんど解雇し、楽団は解散した。これはハイドンにとって幸運だった。功労者として楽長の肩書きは残されたことから1400グルデンの年金をもらえたうえ、侯爵家から解放され事実上フリーの音楽家として世界を旅行する自由が手に入った。
ハイドンがウィーンに戻ると、この話を聞いたドイツ系イギリス人興行師ヨハン・ペーター・ザロモン(当時45歳/1745-1815)がやって来た。ザロモンは1786年からイギリスで定期演奏会「ザロモン・コンサート」を主催しており、彼は高額の報酬を提示して、ハイドンの新作コンサートを企画したいと持ち込んできた。ザロモンの注文は新しい交響曲12曲とオペラ一作、そしてハイドンをロンドンに招いた。ハイドンは隣国ドイツにすら行ったことがなく、初めての海外旅行。もうすぐ60歳であり、モーツァルトや友人たちはこの旅行に反対したが、ハイドンの冒険心が勝った。12月にウィーンを出発し、旅路にはザロモンが同行した。旅立ちの日、モーツァルトはハイドンと抱き合って涙を流し、「もうお会いできない気がして私は心配なのです」と訴えた。この不吉な予言通り、モーツァルトは翌年に病没している。

1791年(59歳)、1月イギリスに到着したハイドンは第1回ザロモン・コンサートのために作曲を開始。渡英後まもなく英国王妃の誕生祝賀舞踏会に招かれ、その際に皇太子が最初にハイドンに挨拶したことから、列席者がみなハイドンに振り向き、このオーストリアからきた音楽家がどれほど重要人物か理解した。ロンドンにおけるハイドンの社会的地位が決定づけられた瞬間だった。様々な晩餐会に引っ張りだこになり、多忙の中で作曲が続けられた。
ロンドンは真夜中まで物売りの声が大喧噪となって響くためハイドンを悩ませる。知人への手紙「仕事のために静かな場所が欲しい。通りの物売りたちの騒がしい声に耐えられない」。だがそれ以外は何もかも快適で、一時は移住を考えるほどだった。
この年、ハイドンは異国で『交響曲第93番』『第94番“驚愕”』『第95番』『第96番“奇蹟”』を書きあげた。3月上旬から6月上旬まで毎週金曜日にハイドンのコンサートが開催され、記念すべき初回は『第96番“奇蹟”』が初演された。ザロモン自身がコンサートマスターとなってストラディバリウスを奏で、ハイドンが指揮台に立った。楽団員の数はエステルハージ時代の倍以上となる約40名、ハイドンはこの規模のオーケストラで演奏するのは初めてだった。ザロモン・コンサートはイギリスで大きな話題となり、翌週の演奏会には皇太子が来席した。以後、このシーズンは『第95番』初演と旧作のイギリス初演を行った。毎回のように圧倒的大成功を収め、聴衆は狂乱といってよいほどの熱狂を示した。同年、オックスフォード大学から名誉音楽博士号を授与される。この年、12月5日にモーツァルトが35歳で他界。後にハイドンはモーツァルトの遺児(カール・トーマス・モーツァルト)の音楽留学の世話をしている。
『交響曲第95番ハ短調』ハイドンの最後の“短調”交響曲。その終楽章はフーガ・フィナーレ(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=OTLJ-xi5uls#t=16m42s
『第96番“奇蹟”』…かつてはシャンデリアの落下事故で観客が無傷だったことが愛称の由来とされていたが、これは「交響曲第102番」の出来事のようだ。

1792年(60歳)、ロンドンで作曲を続行、『交響曲第97番』『第98番』を完成させる。2月中旬からザロモン・コンサートが始まり、6月まで初演ラッシュが続く。
まず『交響曲第93番』が初演され好評となり、翌週さっそく再演が行われた。
※『交響曲第93番』第一楽章の華やかなこと!でも他楽章は月並み https://www.youtube.com/watch?v=Q8ky4psljV4 (23分)
次に『交響曲第98番』が初演された。自筆譜はかつてベートーヴェン(!)が所有していた。
※『交響曲第98番』終楽章の展開部、独奏ヴァイオリンがエレガントでウィーンの香りも感じる(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=OcLSavoCSe4#t=22m05s
続いて『第94番“驚愕”』を初演、ロンドンの聴衆をビックリさせる。
『第94番“驚愕”』…渡英したハイドンは演奏中に居眠りするロンドンっ子のマナーの悪さに閉口していた。そこで『第94番』は第2楽章冒頭で最弱音にて主題を2度繰り返した後、全楽器がティンパニー付きで「ジャーン!」と強奏する不意打ちを食らわせた叩き起こした。果たして聴衆は“驚愕”して飛び上がり、これが新聞に掲載され、同曲に『驚愕』の愛称がついた。
※『第94番“驚愕”』ブリュッヘン指揮 https://www.youtube.com/watch?v=PhxZhDV9KHM (23分)
※『第94番“驚愕”』ミンコフスキ指揮の第二楽章、楽団員の叫び声付きでマジで驚愕
https://www.youtube.com/watch?v=PuN-D5MWC_4 (6分23秒)
最後に『第97番』を初演し6月末にウィーンへの帰途に就く。ハイドンはこの1年半の滞在で現在の日本円で1億円以上を得たという。その途中、ボンに立ち寄って青年ベートーヴェン(22歳)と出会い、「ウィーンに来れば弟子にしてあげよう」と激励した。

1793年(61歳)、ピアノ曲『アンダンテと変奏曲ヘ短調』を作曲。短調の悲痛な響きから、ウィーンに戻ったハイドンがモーツァルトの不在を悲しんだものという説がある。同年、初めてクラリネットを導入した『交響曲第99番』、そして『アポーニー四重奏曲(第1、第2)』(計6曲)を作曲。この年、ウィーン郊外のグンペンドルフに家を建て、晩年の住居とする(現ハイドン記念館)。また、ウィーンに出てきたベートーヴェン(23歳)がハイドンの教え子となっている。
※『アンダンテと変奏曲ヘ短調』 https://www.youtube.com/watch?v=jKPU3YCXqXk (9分28秒)
1794年(62歳)、1月から2度目のロンドン旅行に出発し、翌年にかけて再びイギリスを訪れ聴衆を熱狂させる。第二期ザロモン・コンサートは『第99番』初演で始まった。そしてウィーンで着手していた2つの交響曲のうち、最初に『第101番“時計”』を書きあげ、次に『第100番“軍隊”』を完成させた。
※『第101番“時計”』…第二楽章の規則正しい伴奏リズムが時計の振り子を思わせるため「時計」の愛称で呼ばれる。第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=Jrnvm-_W-9I (8分)
※『第100番“軍隊”』…トルコ軍楽の打楽器(トライアングル、シンバル、バスドラム)が第2楽章と終楽章で使用されることから“軍隊”の愛称がついた。終楽章 https://www.youtube.com/watch?v=ZMEBZwoBAFo#t=19m23s

1795年(63歳)、フランス革命政府を脅威に感じた周辺国が対仏戦争を開始したことでザロモンは大陸から一流の音楽家を招くことが困難になり、ザロモン・コンサートは中止され、かわりにロンドン在住の音楽家が皆で協力して「オペラ・コンサート」という音楽イベントを起ち上げる。ハイドンはここに3曲の新しい交響曲、『交響曲第102番』『交響曲第103番“太鼓連打”』『交響曲第104番“ロンドン”』を提供し、楽団員60名という当時では大規模なオーケストラが演奏した。
2月の第1回オペラコンサートで『交響曲第102番』が初演され、観客がステージのハイドンを見ようと舞台前まで押し寄せた。ちょうどその時にホール中央のシャンデリアが落下し怪我人がでなかったことから、人々は「奇跡が起きた」と言い合った。このエピソードはなぜか交響曲第96番の初演時の出来事と伝承され、現在は96番に「奇蹟」の愛称がついてしまっている。
『交響曲第103番“太鼓連打”』…第1楽章の冒頭と結尾で、ティンパニの長い連打がありこの愛称がついた。
『交響曲第104番“ロンドン”』…ハイドンが作曲した事実上の最後の交響曲。円熟の極み。リンクはブリュッヘン指揮の名演。 https://www.youtube.com/watch?v=N1FUw5whO-4 (29分)
8月、どこに行ってもチヤホヤされ、“人生最高の日々”と感じたイギリスの生活に別れを告げ祖国に帰国した。この2回のイギリス訪問の総収入は20000グルデン(年金の14倍)にのぼった。ちなみにモーツァルトがウィーンで宮廷付作曲家になったときの報酬は年間800グルデン。当時のポンド換算ではハイドンがエステルハージ家に30年勤めて築いた財産は200ポンドだが、満三年のイギリス滞在で2400ポンドもの収入を得たという。ハイドンがロンドンで披露した第93番〜104番の交響曲12曲は「ザロモン・セット」「ザロモン交響曲」と呼ばれるようになる。ハイドンは1809年に没するまでこの先14年ほど生きているが、これほど大量に交響曲を書いてきたのにピタリとやめてしまったのは、表現者としてこの分野でやりたいことはやり尽くしたということだろうか。後世の研究者によって交響曲はあと4曲追加され第108番まで整理されているが、それらはすべてロンドン交響曲(104番)よりも昔に書かれたものだ。
イギリス滞在中、交響曲以外では歌曲集『6つの独創的カンツォネッタ 第2集』、弦楽四重奏曲第74番『騎士』やピアノ三重奏曲『ジプシー・ロンド』などが作曲されている。後者は第3楽章にジプシー風のアクセントが登場しこの愛称がついた。
※『6つの独創的カンツォネッタ 第2集第4曲“彼女は決して自分の愛を語らなかった”』シェイクスピア戯曲「十二夜」の詞に作曲 https://www.youtube.com/watch?v=M8VoUyqHc6I (4分)
※『ジプシー・ロンド』第二楽章のアダージョにうっとり!(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=kjYE6tR4brc#t=5m56s
ハイドンが帰国すると、前年にエステルハージ家の当主がニコラウス2世となって楽団再建が始まっており、エステルハージ家の楽長としての仕事を再開する。楽長は毎年ミサ曲を作曲して侯爵夫人の聖名祝日にアイゼンシュタットのベルク教会で演奏する義務があった。
1796年(64歳)、4年前にロンドンで2000人が演奏するヘンデルのオラトリオ『メサイア』を聴いたハイドンは、自分でも後世に残るオラトリオ(宗教的音楽劇)を書きたいと思い、ザロモンからの作曲依頼もあって、オラトリオ『天地創造』の作曲を開始する(2年後に完成)。また、14年ぶりとなるミサ曲にも取り組み『ハインリッヒ・ミサ』を作曲、さらに『戦時のミサ』(オーストリアは当時所領の北イタリアがナポレオンの侵略を受けていた)も完成させる。創作欲は高く、他にもハイドン最後の協奏曲となる『トランペット協奏曲』を作曲している。同年、プライベートでは恋人ルイジアの息子が19歳で早逝し、彼を可愛がっていたハイドンはショックを受ける。
※『トランペット協奏曲』第3楽章が軽快でグッド(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=rO2L9Q06CTE#t=11m06s
1797年(65歳)、この頃、オーストリアはナポレオン率いるフランス軍の侵攻を警戒していた。ハイドンは先のイギリス滞在中、英国民が国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・キング(クイーン)」を共に歌い愛国心を高めている姿に感銘を受け、オーストリアにも国歌が必要と痛感。帰国後、彼は人々にオーストリア人としての誇りを取り戻させ、励ますための皇帝賛歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』を作曲し、この曲は2月12日(皇帝誕生日)に国歌として制定された。
※『神よ、皇帝フランツを守り給え』 https://www.youtube.com/watch?v=1mn-2Lsf4EY (2分11秒)
同年、ハイドンの弦楽四重奏曲で最も人気が高い全6曲の『エルデーディ四重奏曲』を作曲。エルデーディ伯爵に献呈されたもので、うち4曲に呼び名(『五度』、『皇帝』、『日の出』、『ラルゴ』)がある。“皇帝賛歌”の旋律が弦楽四重奏曲77番の第二楽章に組み込まれ、このによって弦楽四重奏曲は「皇帝」と呼ばれるようになった。この曲は第2次世界大戦までオーストリア国歌となり、現在のドイツ国歌となった。
※『弦楽四重奏曲第75番(エルデーディ四重奏曲第1番)』第一楽章、ヴィヴァルディばりのギコギコがいい。個人的にはハイドンの弦四でベスト https://www.youtube.com/watch?v=KicwK0H9zXo
※『弦楽四重奏曲第77番“皇帝”(エルデーディ四重奏曲第3番)』 https://www.youtube.com/watch?v=frleuszHa9M#t=10m40s

1798年(66歳)、オラトリオの傑作かつハイドン全創作の頂点となる『天地創造』が完成する。英国から持ち帰った旧約聖書「創世記」とミルトン「失楽園」のドイツ語訳をテキストとした。
『天地創造』…ソプラノが天使ガブリエル及びイヴ、テナーが天使ウリエル、バスが天使ラファエル及びアダムを演じる。序奏は混沌から始まり第1部で天地創造の第1日から第4日までが描かれ、ラファエルが天地の分割を告げると合唱が光の創造を歌う。以降、海陸、山河、草木、天体などの創造と続く。第2部では第5日、第6日が語られ、獅子、馬、牛、虫などの動物たちや人間が創造される。第3部はアダムとイヴが互いへの愛や神への賛美を歌い、最後に力強いアーメンで全曲が終わる。初演は大成功となり拍手喝采を浴びた。
※『天地創造』アーノンクール指揮 https://www.youtube.com/watch?v=8BQ2szN8Tkw (110分)
※『天地創造』モノラルだけど貴重な日本語字幕 https://www.youtube.com/watch?v=G2QWlkmKuz8
同年、『不安な時代のミサ(ネルソン・ミサ)』を作曲。同時期にイギリスのネルソン提督がナポレオンのフランス艦隊を壊滅させたことに由来。
※『不安な時代のミサ(ネルソン・ミサ)』ドラマチックなミサ曲 https://www.youtube.com/watch?v=qD1XDbuNhvc (38分45秒)
1799年(67歳)、『ロプコヴィッツ四重奏曲』(全二曲、第81番、82番)を作曲。
1800年(68歳)、妻のマリア・アンナが他界。結婚40年目であったが、最後の10年間はほとんど別居状態にあった。
1801年(69歳)、オラトリオの大曲『四季』をウィーンで完成。台詞はスコットランドの詩人トムソンの原作独語版。小作人シモン、娘ハンネ、若い農夫ルーカスを主人公に、合唱と管弦楽を駆使して季節によって推移する田園の牧歌的情景と大地に根ざした生活の営み、農民の生活の中に神への純粋な感謝を歌い上げた。ハイドンは『天地創造』と本作により、ヘンデル以後の最大のオラトリオ作曲家となった。
※『四季』春、夏、秋、冬の順になっている。厳しい冬の終わりから始まる https://www.youtube.com/watch?v=C3UdH79XZuE (138分)
1802年(70歳)、管楽器を多用した『ハルモニー・ミサ』を作曲。膨大な数の楽曲を生み出してきたハイドン、その最後の完成作となる。9月にアイゼンシュタットのベルク教会で初演され、のちにハイドンの墓はここに作られる。
※『ハルモニー・ミサ』最初と最後に完成した作品がミサ曲というのは象徴的。終曲「アニュス・デイ(神の子羊)」の前半が実に穏やか(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=Orx7oGHJxIc#t=37m00s
1803年(71歳)、弦楽四重奏第83番を作曲したが、全4楽章のうち第2、第3楽章のみ書いて持病の悪化により放棄する。未完のまま3年後に楽譜が出版され、ハイドンの指示でメヌエット楽章の最後に自作の合唱曲『老人』の歌詞「わが力すでに萎えたり。齢をかさぬ、力、衰えぬ」が印刷された。
※『弦楽四重奏曲第83番』(未完) https://www.youtube.com/watch?v=NwltP2kP7iU (10分30秒)
ハイドンは創作欲の減退を自覚し、作曲の筆を置いて引退する(ただし編曲や曲の改訂は続けた)。この年を最後に指揮をすることもなくなった。
1804年(72歳)、侯爵家の職から正式に引退。同年、ウィーン市の名誉市民に選ばれる。
1806年(74歳)8月10日、弟のミヒャエル・ハイドンがザルツブルクにて68歳で他界。ミヒャエルは終世ザルツブルクにとどまり約360曲にのぼる教会音楽を書いた(全曲は700曲とも)。門下にウェーバーがいる。

1809年5月13日、ナポレオン軍がウィーンを占領。それから18日後の5月31日、ハイドンはウィーンの自邸にて富裕な著名音楽家として他界。享年77歳。その前日まで『皇帝』をピアノで弾いて周囲の者を励ました。ナポレオンは敵将であったが、偉大な音楽家に敬意を示してハイドン邸の前に番兵を立たせた。翌6月1日に自宅で葬儀を行い、同日亡骸はウィーンのフントシュトルム墓地に葬られた。6月2日にウィーンのグンペンドルファー教会で追悼ミサがあり、弟ミヒャエルの傑作『レクイエム ハ短調』が演奏された(この後で埋葬?)。6月15日にウィーン市民による追悼式が催され、こちらではモーツァルトの絶筆『レクイエム』が演奏された。
1815年、ザロモンが落馬事故で他界しロンドンのウェストミンスター寺院に葬られる。ドイツのボンで生まれたザロモンは、かつてベートーヴェン家と同じ家に住んでおり、少年ベートーヴェンと親交があった。ベートーヴェンいわく「私が子どものころから知っている人のうちで最も偉大な心の持ち主だった」。ちなみに作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの母レア・ザロモンは親戚。いろいろ繋がって面白い。
1957年、オランダの音楽学者アントニー・ヴァン・ホーボーケンが著作「ヨーゼフ・ハイドン主題書誌学的作品目録」の“器楽編”を発表、ハイドンの音楽作品に番号が付されホーボーケン番号として普及していく。全曲の通し番号ではなくジャンルごとに番号が1から振られているので注意。存命中から声望高かっため、ハイドンの名をかたった偽作が非常に多く、。作品整理と作品全集の出版は困難をきわめている。1958年以来、ケルンのハイドン研究所は作品の真贋を確認したうえで全集版楽譜の出版をすすめている。
1971年、ケルンのハイドン研究所が「ヨーゼフ・ハイドン全集」を出版し、新たに発見された『交響曲第106番』冒頭のアレグロ楽章を載せた。

※妻アンナ・マリアは、夫が書き上げた楽譜をケーキの台紙や鍋敷にしていた。それゆえか妻の死後「悪妻」という曲を書いている。
※チェンバロで聴くハイドンのクラヴィーアソナタ全曲 https://www.youtube.com/watch?v=Vai6eq-VFzU (168分)
※なんと!長く親しまれた『弦楽四重奏曲第17番“セレナーデ”』は別人(修道士)の作品と判明。 https://www.youtube.com/watch?v=AlrTaHeJlvU
※ちなみに、シンフォニーを「交響曲」と訳したのはドイツ留学経験のある森鴎外。

〔墓巡礼〕
他界5年後の1814年、ウィーン・フントシュトルム墓地のハイドンの墓所には生没年及び「私は完全に死んだわけではない」とラテン語で刻まれた墓碑が建てられた。そして他界から11年後の1820年に、生前のハイドンがウィーンから50km南に位置する第2の故郷アイゼンシュタットに永眠することを希望していたことから、エステルハージ家の尽力でアイゼンシュタットのベルク教会の霊廟に改葬された。その際、驚愕の事実が判明する。墓を掘り起こしたところ、ハイドンの遺体には頭部がなかったのだ。犯人はハイドンを崇拝していたエステルハージ家の書記ローゼンバウムと、骨相学の信奉者でオーストリアの刑務所管理人ヨハン・ペーター。ローゼンバウムは「悪人に遺体が汚されないよう保護するため」、ペーターは「ハイドンの天才性と脳容量の相関関係を調べるため」、彼らは埋葬から3日目に頭部を持ち去っていた。ペーターはハイドンの頭蓋骨に「音楽丘の隆起が見られた」と記録し、研究後に頭蓋骨をローゼンバウムに渡していた。警察が捜索に動き、ローゼンバウムを家宅捜索したが見つからない。エステルハージ家はローゼンバウムに強く返還を求め、彼は偽物の老人の頭蓋骨を差し出した。ローゼンバウムの死後、頭蓋骨は解剖学者など所有者を転々とし、1895年からウィーン楽友協会が保管した。ハイドンの100回忌である1909年に頭蓋骨の真偽が医学的に調査され、本物と断定されている。一方、胴体の方も第二次世界大戦後にソビエト連邦が保管していた。これら紆余曲折を経て、1954年、他界から145年ぶりにアイゼンシュタットにて頭蓋骨と胴体が一緒に葬られた。
ちなみに、ハイドンの旧墓があったフンツトゥルム墓地は都市計画の対象地域であったため、1874年に埋葬が禁じられ、1926年にハイドン以外の墓石が撤去されて「ハイドン公園」に整備された。ハイドンの旧墓は今も公園の片隅にポツンと保存されている。墓前の石板には「この地に1809年5月31日にウィーンで没した作曲家ハイドンの墓があった。1820年11月6日に亡骸はアイゼンシュタットに改葬され、翌日同地のベルク教会に埋葬された」と刻まれている(参考:平田達治著『中央・墓標をめぐる旅』集英社新書)。

ハイドンの巡礼は一筋縄ではいかなかった。1994年の年明け、図書館で読んでいた旅行本に「ハイドンの墓がザルツブルグのザンクト・ペーター教会にある」という一文を見つけ、僕は色めきだった。ネットを検索すればすぐに墓所が分かる今と違って、墓情報は激レアの情報であり、すぐにメモした。その夏、欧州巡礼に出発した僕はオーストリアに入り、ザルツブルグ駅から2km南にあるザンクト・ペーター教会まで、“もうすぐハイドンに会える”と胸を高鳴らせ小走りで向かった。敷地にはたくさん墓石があるため、通りがかりの修道士さんに墓前まで案内して頂いた。別れ際「モーツァルト(ゴニョゴニョ、聞き取れず)」とおっしゃったので、墓石をよく見るとハイドンの名前の他にモーツァルトの名前が見えた。かってにモーツァルトのコンスタンツェ夫人と思い込み、「なんでハイドンとコンスタンツェが?」と疑問を感じながらも、“交響曲の父”に御礼を言って手を合わせた。
時が流れ、ホームページ開設から2年が経った2001年頃、サイトを見たという方からメールが届いた。「ハイドンのお墓をアップされていますが、あれは弟のミヒャエルなんです。ヨーゼフはウィーンの南にあるアイゼンシュタットに眠っています」「ええっ!?」。まだグーグルはなかったものの、ネットが普及し始めた頃であり、自分でも検索してみた。確かに墓所はアイゼンシュタットと書いている人が多い。ショック…。さらに、同じ墓の女性はコンスタンツェ夫人ではなく、姉ナンネル・モーツァルト(1751-1829)とわかった。墓石には「マリア・アンナ・モーツァルト」とあったので、ナンネルが愛称と知らなかったために、ハイドンと眠るほど有名な人=コンスタンツェと思い込んでいたんだ。ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)とモーツァルト家が親しく交流していたことは分かっており、ハイドンの弟とモーツァルトの姉が同じ墓に入っているのは、そういう約束があったのかなと興味深く思った。

ザルツブルグで弟の墓に行ってから21年が経った2015年。ハイドン墓参の悲願を果たすべく、レンタカーを借りてウィーンからアイゼンシュタットに向かった。エステルハージ家が建てたベルク教会にあるといい、近くに車を止め、正面から入っていった。「いよいよその時がきた」。ところが、教会の扉をくぐったもの、内部にハイドンらしき墓が見当たらない。僕に続いて入ってきた60歳くらいのアジア人男性も、ビデオカメラを回しながら入ってきたのに墓がなくてナレーションが混乱気味だった(中国語だったけど焦っているのが分かった)。すると男性から英語で「ハイドンの墓を見つけたか」と質問があり「僕も見つけられなくて困惑してるんです」と答えた。しばらく2人で「なんでないんだろ」「他に人影がないのも様子が変だ」と悩み、とにかく建物を一周することにした。男性の名前は陳さんで台湾から来られたとのこと。もちろん大のハイドン・ファン。そして5分後の私たち。「あれ?陳さん、裏口に大きなスロープがありますよ」「何だか人がたくさん出入りしていますね」「ここですよ!裏口からお墓に行けるみたいです!」「そんなのガイドブックに書いてなかった」「やりましたね!」「ええ!」。固い握手をして裏から霊廟に入っていった。受付で2ユーロ(約280円)を払うと巨大な鉄の扉が自動で開き、通路の奥には鉄柵で守られたハイドンの石棺があった。美しい装飾の白い棺だった。“あの中に発見された頭部が今は一緒にあるのだろう。見つかって良かった”としばし見入った。僕と陳さんの他にも、音楽学校の生徒だろうか、楽器ケースを抱えた若者たちが10人ほど墓前にきた。2ユーロとはいえ、お金を払って墓参している若者たち、彼らのハイドン愛は本物だ。小声で陳さんと「ハイドンは音楽と共に生きてますね」と語り合い、ハイドン・ファンでいっぱいになった墓前で、同じ空間に身を置く至福を味わった。陳さんは録画を終えた後も、棺をじっと見つめていた。

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(おまけ:短くまとめた旧解説文)
オーストリアの作曲家。106曲もの交響曲を書いた“交響曲の父"。弦楽四重奏曲や交響曲の形式を大成して古典派様式を確立し、モーツァルトやベートーヴェンに多大な影響を与えた(その両者と共にウィーン古典派三巨匠の一人と称えられる)。1797年にナポレオン軍のオーストリア侵攻に対抗して書いた「皇帝賛歌/神よ、皇帝フランツを守り給え」(弦楽四重奏曲第77番「皇帝」第2楽章)は現在のドイツ国歌。68曲の弦楽四重奏曲、62曲のピアノ・ソナタ、オペラ、宗教曲、ダンス音楽、あらゆるジャンルで作曲し、総数は約1000曲(現存約700曲)にのぼる。オーストリア東端のアイゼンシュタットに居城を持つハンガリーのエステルハージ侯爵の宮廷楽長。エステルハージ宮はウィーンから40km離れていたが、楽譜出版により名声はヨーロッパ中に広がった。
1781年(49歳)、25歳のモーツァルトと親しくなり、モーツァルトから6つの弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を献呈されるなど交流を深め、モーツァルト死後は遺児の音楽留学に尽力する。1809年、ナポレオン軍のウィーン侵攻の砲弾が降り注ぐ中で死去。1759年に27歳で交響曲第1番を書き、77歳で没するまで創作意欲が衰えることがなかった。
遺体は熱烈な崇拝者の手で密かに頭部を切り離され、脳容量の研究対象にされたが、約150年を経た1954年に、無事に胴体の元へ戻った。代表作にオラトリオ「天地創造」、交響曲ではロンドンで披露した第94番「驚愕」、第100番「軍隊」、第101番「時計」、第103番「太鼓連打」、第104番「ロンドン」など、ハイドンを英国に招いた興行師の名にちなんだ“ザロモン・セット"の人気が高い。気取りのない人柄と作風から、人々に“パパ・ハイドン"と慕われた。

  
ハイドンの弟ミヒャエル・ハイドンとモーツァルトの姉ナンネルの墓(ザルツブルク、ザンクト・ペーター教会)



★エルガー/Edward William Elgar 1857.6.2-1934.2.23 (イギリス、リトル・モルビン 76歳)2005
Saint Wulstan's Roman Catholic Churchyard, Little Malvern, Worcestershire,England



コルウォール駅前の郵便局
(英国の郵便局は雑貨も売って
いてコンビニ化している)
お墓への道を尋ねたところ、なんと
ご主人が店番を奥さんに任せて、ガレージ
からマイカーを出してきてくれた!




ダンナさんの名前はロウさん。僕が
「あわわ、仕事中なのに!」とテンパると
「いいんだよ気にするな」。神ですか!?
ダッシュボード上に『ウォレス
とグルミット』のプルプル!

山道を抜け約20分後、リトル・モルビン
の教会に到着。ところが、この墓地に
エルガーの墓はなかった!真っ青の僕
「慌てるな、村人に訊いてみよう」
「ハ、ハイ!」僕はロウさんの後を
ついて行った。(T_T) ウルウル







馬具店で聞き込み中のロウさん

「あの教会だ!今度こそ墓がある
ハズ!」ロウさんもエキサイト
ドキドキ…

「エルガー・グレイブ」
キターッ!



 



エルガー


「やったー!エルガーさんだ!」墓前で思わず僕らは抱き合った。
エルガーさん、あなたがこの土地に眠って下さったおかげで、ここを訪れ
ロウさんと出会えました!ロウさんに会わせてくれて本当に有難う!
ロウさんスマイル

現代イギリス音楽の先駆者、国民的作曲家のエドワード・エルガーは1857年6月2日に英国中部ウスターシャー州のウスター近郊ブロードヒースで生まれた。父は楽器商・オルガン奏者で、エルガーは子ども時代からピアノやヴァイオリン演奏の手ほどきを父から受けた。10歳頃から作曲も始め、12歳のときに兄弟が演じる劇のために劇付随音楽を作曲している(この曲は40年後に日の目を見る)。
16歳のときに父の希望でロンドンの弁護士事務所で働くが、音楽を愛する気持ちから独学で作曲や演奏の技術を学んだ。1877年(20歳)、ハンガリーの有名ヴァイオリニスト、アドルフ・ポリツァーにバイオリンを習う。22歳から病院の付属楽団の指揮者や盲学校の音楽教師、バーミンガムの管弦楽団のヴァイオリン奏者など職歴を重ね、一方でドボルザーク本人の指揮で作品を聴いたり、パリでサン=サーンスのオルガン演奏を聴くなど、音楽体験を積んでいく。常に金欠で27歳のときに友人宛の手紙に「1セントもない」と記す。1885年(28歳)に父の後を継いでウスターの聖ジョージ教会のオルガン奏者となった。
1886年(29歳)、陸軍少佐の娘キャロライン・アリス・ロバーツ(当時37歳)をピアノの弟子にとる。彼女は8歳年上だったが、エルガーは利発なアリスを愛するようになり、彼女もまたエルガーに惹かれた。
1888年(31歳)、婚約記念にヴァイオリンとピアノの小品『愛の挨拶』(当初のタイトルは“アリスのために”)を贈る。だが、無名の作曲家と少佐の娘という身分格差や、カトリックのエルガーとプロテスタントのアリスは宗教が異なるなど、アリスの親族は結婚に猛反対し、彼女は勘当されてしまう。
1889年(32歳)、2人は反対を押し切って結婚。エルガーの才能を見抜いたアリスは作曲活動に専念するよう提案、エルガーはオルガン奏者をやめて作曲に集中すると共に、チャンスを求めてロンドンに出た。翌年、一人娘のキャリスが誕生。ときにエルガー33歳、アリス41歳。アリスは生涯にわたって良き妻、優しい母であり、同時に最良の音楽批評家であり、マネージャーであり、霊感を与えるミューズであり、荒波を乗り越えていく同志だった。
※後年、アリスは日記に記す。「天才の面倒を見るというのは、いかなる女性にとっても生涯の仕事として十分なものです」。

1890年(33歳)、ロンドンで鳴かず飛ばずの日々を送るなか、故郷ウスターから音楽祭の楽曲を依頼される。騎士風の序曲『フロワサール』の初演は好評で、エルガーは作曲家として認知された。生活費を稼ぐため、地元で指揮や音楽教師をしばらく続ける。
1892年(35歳)、妻アリスに3回目の結婚記念日のプレゼントとして湯ガウガナ『弦楽のためのセレナード』を作曲。この頃、エルガーは混血の作曲家で「黒いマーラー」と呼ばれたサミュエル・コールリッジ=テイラー(1875-1912※享年37)の作曲活動を応援している。
1898年(41歳)、比較的小規模の作品を書いてきたエルガーは、大曲で世に出たいと思いつつも筆が進まず思い悩む。3歳年下の親友、音楽出版者アウグスト・イェーガー(1860-1909)はそんなエルガーを「神が君に与えた創造力が訓練される時期にあるだけだ、君が世界に認められる時はやってくる」と励まし続けた。ある日、エルガーがピアノに向かって即興のメロディーを物憂げに弾いていると、妻アリスが「今の旋律をもう一度弾いて欲しい」と頼み、エルガーは彼女を喜ばせる為にその旋律を様々に変奏してみせた。エルガーは各変奏の標題に親しい友人のニックネームを暗号のように置き、14の変奏で音楽による肖像画を描き、これを大きな管弦楽作品とした。
1899年(42歳)、ついにエルガーの人生が開かれる。管弦楽曲『謎の変奏曲(正式名称:創作主題による変奏曲)』がロンドンで大喝采を受けた。第9変奏「ニムロッド」は親友イェーガーを描いており、雄大な旋律で特に人気が高い。エルガーはイェーガーと2人でベートーヴェンの音楽の魅力を夜通し語り合い、そのときの雰囲気を美しい音楽にした。ちなみにイェーガーの名前が「ニムロッド」になっているのは、イェーガーにはドイツ語で“狩人”の意味があり、『創世記』に登場する狩人ニムロッドとかけてある。初演の指揮者が高名なハンス・リヒター(1843-1916)であったことも幸運だった。リヒターは第1回バイロイト音楽祭でワーグナーの『ニーベルングの指環』全曲を初演した巨匠。『謎の変奏曲』は第9変奏の甘美なメロディー、アイデアの独自性、構成の精巧さから楽壇で高く評価され、リヒターの絶賛もあってエルガーの名は国際的に知られるようになった。
※この曲の通称「謎(エニグマ)」は主要主題がぼんやりとしていること、そしてエルガーが全曲の底に共通する隠れた主題があることを示唆していることによる。
※『謎〜ニムロッド』 https://www.youtube.com/watch?v=aqvOVGCt5lw

1900年(43歳)、かつて結婚式でニューマン枢機卿から長編詩『ゲロンティアスの夢』を贈られたエルガーは、詩の内容に感動してオラトリオにすることを決意、構想から8年の年月を経て『ゲロンティアスの夢』が完成した。内容は第1部でこの世から旅立った主人公ゲロンティアスが、第2部で天使から祝福を受け、最後の瞬間に神の姿を垣間見てすべてが浄化されるというもの。歴史上の偉人を登場させず、レクイエムという形をとらずに“死”を描いた画期的な作品であり、詩情や精神性がバーナード・ショーやリヒャルト・シュトラウスから絶賛された。リヒャルト・シュトラウス「イギリスの最初の進歩的な作曲家マイスター・エルガーの成功と健康のために乾杯」。イギリスにおいて、「オラトリオ=ヘンデル」という固定観念に250年ぶりの変革をもたらした。以降、ヘンデル『メサイア』、ハイドン『天地創造』、メンデルスゾーン『エリヤ』などと並ぶ傑作オラトリオとして愛聴されている。前年の『謎の変奏曲』に続いて『ゲロンティアスの夢』を発表したことで、エルガーの名は不動のものとなった。
※『ゲロンティアスの夢』 https://www.youtube.com/watch?v=9Bg52cVVmTc

1901年(44歳)、“イギリス第2の国歌”とまで称えられ、エルガーの代表作となる管弦楽行進曲『威風堂々 第1番』を作曲。原題はシェイクスピア『オセロ』の台詞「Pomp and Circumstance」で、これを“威風堂々”と意訳している。サビの旋律がひらめいたとき、エルガーは「とてつもないメロディーを思いついてしまった!」と大いに興奮したという。初演は8週間に及ぶ世界最大のクラシック音楽祭「BBCプロムス(プロムナード・コンサート/ロンドン)」の最終夜。演奏が終わると聴衆は立ち上がって歓声をあげ、プロムスの歴史で初めて管弦楽曲が2度のアンコールを受けた。国王エドワード7世(1841-1910)はサビの旋律に歌詞を付けることを希望し、エルガーは翌1902年に王のための『戴冠式頌歌(しょうか)』を作曲、その終曲『希望と栄光の国』(Land of Hope and Glory)に第1番の旋律を使った。『威風堂々』は全6曲あり順次作曲され、第1番は最も人気がある。プロムスでは最終日に『希望と栄光の国』が演奏されるのが恒例となった。同年、第2番を作曲。1953年のエリザベス2世の戴冠式(即位は前年)では歌詞のKingがQueenに変更された。
※イギリスと何度も戦争してきたフランス人が演奏!フランス国立管弦楽団によるエッフェル塔前での『威風堂々第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=Ghxwky3Qt4U

1903年(46歳)、オラトリオ『使徒たち』作曲。壮大な世界観で12使徒を描いた。イタリア旅行を満喫、翌年その印象をもとに管弦楽曲『南国にて』を作曲。
https://www.youtube.com/watch?v=5r4SXkRu0bE
1904年(47歳)、バッキンガム宮殿にてナイトに叙される。イングランドの作曲家で初めてロイヤル・オペラ・ハウスにおいて3日間のエルガー音楽祭が催され、好評のうちに終わった。タイムズ紙「4、5年前に、もしイングランド人のオラトリオを聴くためにオペラ・ハウスが床から天井までの超満員になると予言した人がいたとしたら、おそらくその人は正気ではないと思われたことだろう」。
1905年(48歳)、自作を指揮するためアメリカを訪れ、イェール大学から博士号を授与された。このときに『威風堂々第1番』が演奏されたことから、米国ではほぼすべての高校・大学の卒業式で威風堂々が流れるようになった。
1906年(49歳)、『使徒たち』の続編となるオラトリオ『神の国』を作曲。3部作の完結となる『最後の審判』は計画のみで終わった。
1907年(50歳)、管弦楽曲『子どもの魔法の杖』を作曲。この作品は12歳の頃にスケッチブックに書いた劇音楽をオーケストレーションしたもの。それゆえ、エルガーは本作を「作品1」とした。同年、『威風堂々第4番』を作曲し、エルガー自身の指揮により初演。『威風堂々第1番』に続く人気曲となる。※第3番は2年前に発表。
1908年(51歳)、10年前から構想を練っていた『交響曲第1番』が完成。既に50代であり満を持しての交響曲への挑戦だった。喝采で迎えられ、指揮者リヒターは「当代最高の交響曲」と称え、指揮者アルトゥル・ニキシュも「ベートーヴェンやブラームスの偉大な交響曲の模範と並び位置づけられるべき第1級の傑作」と論じた。欧米ではこの年だけで100回以上も演奏された。楽譜には「ノビルメンテ(気品を持って)」とエルガーの指示が入っている。この頃、エルガーの人気は頂点に。

1910年(53歳)、名ヴァイオリニストのクライスラー(1875-1962)から『バイオリン協奏曲』を委託され、クライスラーの独奏で初演。コンサートは輝かしく忘れ得ぬものとなったが、この曲がエルガーの最後の成功作となる。
1911年(54歳)、『交響曲第2番』を作曲。終楽章が静かに終わるため初演は聴衆の反応が鈍く、熱狂と万雷の拍手を期待していたエルガーを失望させた。「(聴衆は)皆、腹一杯になったブタのように座っている」。英国王エドワード7世に献呈される予定だったが、王が前年に崩御したことから、エドワード7世の追悼として捧げられた。ジョージ5世の戴冠に際し、名誉あるメリット勲章が授けられる。
1913年(56歳)、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世』の登場人物フォルスタッフの様々な登場シーンを描いた交響的習作『ファルスタッフ』を作曲。リスト(1811-1886)や7歳年下のリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)が開拓した交響詩にエルガーも挑んだ。
1914年(57歳)、第一次世界大戦が勃発。翌年、ドイツの侵略を受けた中立国ベルギーを応援する『カリヨン』、ポーランドを励ます『ポローニア』を作曲。戦時中は他に児童演劇の付随音楽やバレエ音楽を書いた。

1918年(61歳)、円熟期に入ったエルガーはイギリス南部で静養しながら室内楽曲の3曲の傑作『ヴァイオリン・ソナタ』『弦楽四重奏曲』『ピアノ五重奏曲』を完成させる。アリスは3つの室内楽曲を聴いて「エドワードは素敵な新作を書いた」と書き残す。マンチェスター・ガーディアン紙の論評「この四重奏曲は途方もないクライマックス、舞踏のリズムの興味深い洗練、完璧な対称性を備えており、五重奏曲はより抒情的かつ情熱的で、両曲ともそうした形式による偉大なオラトリオにも引けを取ることのない理想的な室内楽曲の見本である」。
1919年(62歳)、『チェロ協奏曲』作曲。第1楽章は劇的な宿命感があり、オブザーバー紙は「簡素さの下には深遠な知恵と美が隠されている」と評したが、楽団の練習不足もあってエルガーが期待した聴衆の反応を得られなかった。この後、チェロ協奏曲は1年以上もロンドンで再演されることはなかった。
1920年(63歳)、肺がんに侵された妻アリスに先立たれる。享年72歳。葬儀ではアリスが気に入っていた『弦楽四重奏曲』の第2楽章が演奏された。以降、アリスを失ったエルガーは創作意欲が急速に減退していく。
※墓碑には「
The dearly-beloved and revered Wife(最愛の人、崇敬された妻)」とる。

1924年(67歳)、国王の音楽師範を務める。
1926年(69歳)、マイクが開発されたことから『エニグマ変奏曲』や2つの交響曲など自作の録音を開始。これらは蓄音機用の78回転ディスクとしてリリースされた。エルガーは録音技術を最大限に活用した最初の作曲家となった。
1930年(73歳)、『威風堂々第5番』を作曲。
1931年(74歳)、『威風堂々第1番』の録音セッションに挑むエルガーの姿が撮影されニュース映画となる。同年、幼少期のスケッチブックをもとにした組曲『子供部屋』を作曲。准男爵に叙される。
1932年(75歳)、友人のバーナード・ショーに新しい交響曲を書くよう勧められ、ショーのサポートでBBCがエルガーに作品を委託、21年ぶりに交響曲の作曲を開始する。
1933年(76歳)、愛犬をモチーフにした小品『ミーナ』を作曲。これが最後の完成作品となった。9月、病に倒れて作曲活動は中断。
※『ミーナ』 https://www.youtube.com/watch?v=ZTFVfKV6vYM (5分13秒)
1934年2月23日、大腸がんのためウースターで他界。享年76歳。リトル・マルヴァーンの聖ワルスタン・カトリック教会(St. Wulstan's Church)に眠る妻アリスの隣に埋葬された。『交響曲第3番』の約130ページのスケッチが残され、歌劇『スペインの貴婦人』、ピアノ協奏曲も未完に終わった。
1997年、BBCから『交響曲第3番』の補筆完成を依頼されたは作曲家アンソニー・ペイン(1936-)が、エルガーが1923年に作曲した劇付属音楽『アーサー王』から多くの旋律を引用したことを念頭に、同曲から素材をとって「ペイン推敲版」として第3番が63年を経て完成した。
2005年、未完成だったエルガーの唯一の『ピアノ協奏曲』をイギリスの作曲家ロバート・ウォーカーが補筆完成させた。
2006年、エルガー没後に見つかったスケッチをアンソニー・ペインが補筆した『威風堂々第6番』が初演された。

〔墓巡礼〕
200年におよぶイギリス音楽史で、初めて世界的名声をえた国民的作曲家エルガー。古典形式にイギリスの民俗性を加えて独自のロマンティシズムを確立し、「イギリス音楽のルネサンス」と呼ばれる時期の代表的作曲家の一人となった。
最初の墓参は1989年。ロンドンのウェストミンスター寺院を訪れた際、そこにある墓標はすべて本物で地下に故人が埋葬されていると思っていた。寺院の北翼にあるエルガーの石板を墓と信じて巡礼し、その数年後に、エルガー、ファラデー、T.S.エリオットをはじめ同寺院の墓石の一部は“記念碑”であり、本当の墓は故郷などゆかりの地に建っているというケースが存在することを知り、「もう一度渡英して墓参りし直さないと…」と気持ちが焦った。貯金して再び英国を訪れたのは16年後の2005年。ネットで墓所を調べると、イギリス西部(ロンドンの西200km)ウスターのコルウォール駅(Colwall)から2km南東、リトル・マルヴァーンの聖ワルスタン・カトリック教会(St. Wulstan's Church)にエルガー夫妻が眠って
いることがわかった。「2キロなら歩いて行けるな。重たいバックパックはコインロッカーに入れておこう」。電車を降りたのは正午、ホームには僕1人。そして驚いた。ロッカーがないどころか無人駅!墓地の方角を駅員さんに確認したかったけどそれも不可能。すぐに作戦を変更する。困ったときは、郵便局か警察だ。どちらも地理に詳しく、交渉次第で荷物を預かってもらえる。
村人が駅から2分の距離に郵便局があると教えてくれたのでさっそく向かう。空は晴天、昼下がりのまったりした雑貨屋兼郵便局で、おじさんとおばさんが郵便物の整理をしていた。どうやら経営者の中年夫婦らしい。お客さんはマダムが1人。僕がエルガーの教会の方向を聞くと、2人は「リトル・マルヴァーンは山の向こうよ!?」「直線距離は2キロでもぐるっと迂回するから往復20km近くある。無茶だ、迷うと帰りは山で夜になるぞ」。ガーン、2kmじゃないのか。だが、ここまで来るのだって大変だったんだ。なんとか地図だけでも書いてもらおうとした。しかし「遠すぎるし山道のグニャグニャは説明できない」とのこと。「この村にはバスなんかないし、タクシーを呼ぶしかないわ。でも、タクシーを呼ぶと言ってもどこから…」。奥さんは夫の目を見つめた。夫「よし!分かった!車を出してやる!」。なんと、奥さんに店を任せて、ガレージからマイカーを出してきてくれた!
ダンナさんの名前はロウさん。僕が「あわわ、仕事中なのに!」とテンパると「いいんだよ気にするな」。神ですか!?山道を抜け約20分後、リトル・マルヴァーンの教会に到着。ところが、その墓地にエルガーの墓はなかった!真っ青の僕。「慌てるな、村人に訊いてみよう」「ハ、ハイ!」。ロウさんは馬具店に入って情報収集。「よし、わかったぞ。500m北の教会だ!今度こそ墓があるハズ!」。エキサイトするロウさん。聖ワルスタン・カトリック教会に着くと、「エルガー・グレイブ」と表示された小さな案内板があった。キターッ!2人とも自然と急ぎ足になる。墓地に入ると地元の人がいたのでロウさんが「どのお墓がエルガー夫妻ですか」と質問。壁際にその墓があった。「やったー!エルガーさんだぁあああ!」。墓前で思わず僕らは抱き合った。「ロウさん、5分だけエルガーさんと話してもいいですか」「もちろん。好きなだけ話しな」。
エルガーの墓前でまず作品に感謝し、次に「あなたがこの土地で眠られたおかげで、ここを訪れ優しいロウさんと出会えました。ロウさんに会わせてくれて本当に有難うございます!」。帰路は15分で郵便局へ。別れ際、ロウさんはカウンターで売っているポストカードを「この日の思い出にとっとけ」と僕にくれた。いつになってもいい、絶対にまたコルウォールを訪れロウさんに会いたい。

※エルガーの故郷ウスターにエルガー像がある。同地はソース発祥の地であり、ウスターソースの語源となった。
※ブロードヒースのエルガーの生家は「エルガー生誕地博物館」として公開されている。


ロンドンのウエストミンスター寺院には彼のメモリアルがある(以前はこれを墓と思ってた)



スコット・ジョプリン/Scott Joplin 1868.11.24-1917.4.1 (NY、クイーンズ 48歳)2000
Saint Michaels Cemetery, East Elmhurst, Queens County, New York, USA



フォスターが世を去って4年後の1868年11月24日、テキサス州東部に「ラグタイム音楽」の発展に尽力した黒人作曲家、“ラグタイム王”スコット・ジョプリンが生まれた。この年、欧州ではオペラ王ロッシーニが他界。また、ピアノ音楽に革命をもたらしたエリック・サティの2歳年下にあたる。南北戦争は3年前に終わっており、父は黒人元奴隷農夫。6人兄弟の次男。

1875年(7歳)、テキサス州テクサーカナに移住。早くから楽才を発揮しバンジョーを巧みに奏でた。黒人は教育を受ける機会もなく仕事も限られていたため、両親はジョプリンが将来自活できるよう、生活費を削ってピアノを買い与えた。
1876年(8歳)、近所のオペラ好きのドイツ移民ジュリアス・ワイスからクラシック音楽の魅力を教わり、独学でピアノを習得。

1880年代に入ると、ミズーリ州やルイジアナ州ニューオーリンズの黒人ピアノ演奏家の間で新しいピアノ演奏様式“ラグタイム”が生まれる。小粋でリズミカルなラグタイムは、4分の2拍子の規則正しい左手のベース・リズム(マーチ)と、強弱の位置をずらして緊張感を生む右手のシンコペーション・リズムによるメロディの組み合わせを特徴とする。おもにピアノ・ソロで演奏され、作曲家・演奏家に黒人が多い。クラシック音楽のリズムに比べてずれて聞こえるため、「rag time(時間をくずす)」と呼ばれるようになったという。別説では「ラグ(ぼろ)を着た演奏家」の音楽とも。
裏拍を強調し、シンコペーションが多用されたたラグタイムはジャズやブルースの前身となったが、即興演奏を重視するジャズと異なり、ラグタイムはきっちり譜面通りに演奏し、即興は行わない。ラグタイムの特色であるスピード感の強調は後世のユーロビートへ発展した。

1882年頃(14歳)、ジョプリンは10代でプロのピアニストとなるが、黒人にはピアノ演奏の仕事が少なく、アメリカ中西部を転々としながらサロンや娼家で演奏した。
1885年(17歳)、ミズーリ州セントルイスの酒場に落ち着く。
1891年(23歳)、この頃テキサスのミンストレル・ショー楽団に在籍。
1893年(25歳)、自身のバンドを率いてシカゴ万国博覧会で演奏。
1894年(26歳)、ミズーリ州セデリアに転居。仲間8人と「テキサス・メドレー・カルテット」を結成し、ニューヨークに演奏旅行。
1895年(27歳)、ニューヨークで2曲の歌曲を収めた最初の楽譜を出版。クラシック音楽の道に進むべく黒人向けの大学の音楽科で学び、欧州のクラシックと黒人のリズム&ハーモニーを融合した音楽を探求する。
1896年(28歳)、テキサスでマーチやワルツなど3曲のピアノ曲を出版。
1897年(29歳)、3歳年下のトム・ターピン(1871-1922)が黒人作曲家として“ラグ”(『ハーレム・ラグ』)を初めて出版し触発される。
※トム・ターピン作曲『ハーレム・ラグ』https://www.youtube.com/watch?v=sP7oFkyfvG8
1898年(30歳)、この頃、黒人社交クラブ「メープル・リーフ・クラブ」におけるジョプリンのピアノ演奏が、新聞評で「当地きっての最高のピアニスト」と賞賛される。
1899年(31歳)、初期の代表曲『オリジナル・ラグス』と『メープル・リーフ・ラグ』を出版。『オリジナル・ラグス』の表紙にはボロ切れを拾い集める黒人の姿が描かれ、背後の看板に「この男がスコット・ジョプリンだ」(=ジョプリンが集めたぼろ切れのような音楽)と書かれた屈辱的なものだった。『メープル・リーフ・ラグ』はジョプリンが友人に「この曲は僕をラグタイムの王様にするよ」と予言した通りに大ヒットし、ラグタイムの全米流行に火をつけた。同年、音楽教室を開設。この頃からの15年間が活動の最盛期。多くのラグが誕生する。
※『メープル・リーフ・ラグ』 https://www.youtube.com/watch?v=sE86FR2SzBo 当時のピアノで演奏
1900年(32歳)、大きな都会に活路を求めてセントルイスに移住。トム・ターピンと交流した。
1901年(33歳)、『イージー・ウィナーズ』作曲。ジョプリンの音楽活動はセントルイス交響楽団の音楽監督・指揮者といったクラシック界からも讃えられた。同年、弟子の黒人作曲家スコット・ハイデン(1882-1915)の妹ベルと結婚。ベルは音楽に対する関心が低く2年で離婚。
※陽気な『イージー・ウィナーズ』 https://www.youtube.com/watch?v=55kMps8QMmE 映画『スティング』でも使用
1902年(34歳)、現在ジョプリンの曲として最も有名な『ジ・エンターテイナー』を作曲。また、ラグタイムの芸術的価値を高めるべくバレエ音楽『ザ・ラグタイム・ダンス』も作曲した。
※映画『スティング』のテーマ曲となったジョプリンの代名詞『ジ・エンターテイナー』
https://www.youtube.com/watch?v=fPmruHc4S9Q 本人演奏
1903年(35歳)、黒人指導者がホワイトハウスに招待された実話を題材にしたオペラ『ゲスト・オブ・オナー(名誉ある客)』を作曲、上演もされたが、売上げを持ち逃げされて多額の借金を負い、楽譜が差し押さえられ現存せず。
1904年(36歳)、19歳の女性フレディと結婚したが、新妻は結婚のわずか10週後に肺炎で世を去る。
1905年(37歳)、フレディの死の衝撃で約半年間も作曲が遠のいていたが傑作コンサートワルツ『ベセーナ』(Bethena)を発表。ラグタイムとしては6分近い大曲。
※ゆったりとした良い曲『ベセーナ(Bethena)』
https://www.youtube.com/watch?v=BP69-iS4GzU “ベセーナ”は女性の名前。映画『ベンジャミン・バトン』で使用。

1907年(39歳)、シカゴで会った26歳の若手作曲家ルイス・ショーヴィン(1881?1908)と非常に美しいラグタイム『ヘリオトロープ(香水草)・ブーケ』を共作。ルイス・ショーヴィンは翌年に27歳で病死した。同年、作曲中のオペラの後援者を探すためニューヨークに移住。6歳年下の女性ロッティと出会い没するまで共に暮らす。
※珠玉の名曲『ヘリオトロープ・ブーケ』https://www.youtube.com/watch?v=UxjNEWpAEao
1908年(40歳)、ごきげんな『パイン・アップル・ラグ』を作曲。
※『パイン・アップル・ラグ』 https://www.youtube.com/watch?v=nhQvqK67Iwc
1909年(41歳)、『ソラース』『ピアノのための6つの練習曲、スクール・オブ・ラグタイム』作曲。後者の練習曲集にはラグタイム・スタイルの説明を書いた。
※ラグタイムの傑作バラード『ソラース』(Solace)。ソラースの意味は“慰め”。
https://www.youtube.com/watch?v=GOwachalNNw

1911年(43歳)、脚本から作曲まで手がけたオペラ『トゥリーモニシャ』を自費出版する。ジョプリンは自分がただの酒場のピアニストではなく、クラシック最高峰のオペラも作曲できることを証明しようとした。登場人物がすべて黒人というオペラは画期的で、同じくオール黒人キャストのガーシュウィン『ポーギーとべス』(1935)より15年も早く書かれた。ジョプリンは黒人音楽をベースにした民族オペラの創造に挑戦した。劇中では迷信に対する教育の重要性を説いたほか、クライマックスで黒人の村のリーダーに若い黒人女性が選ばれるという先進的な内容で、主人公トゥリーモニシャのモデルは19歳で病死したジョプリンの2人目の妻フレディと見られている。
『トゥリーモニシャ』…舞台は奴隷解放後の南部アーカンソー州。黒人の村にやってきた怪しい魔術師ゾデトリックが、迷信深い人々に“幸運のお守り”を売りつけようとする。村で唯一教育を受けている少女トゥリーモニシャが魔術師を説教すると、逆恨みした魔術師は彼女を誘拐する。村の若者達は案山子(かかし)の怪物に変装するなどして魔術師のアジトに乗り込み、トゥリーモニシャを奪還する。村人たちは捕らえた魔術師に罰を与えようとするが、彼女は許すように諭す。これからの村を率いるリーダーにトゥリーモニシャが選ばれ、村人は明るい未来を感じてダンスを踊る。

1914年(46歳)、生前に発表された最後の作品『マグネティック・ラグ』を作曲。同年7月、第一次世界大戦勃発。
※『マグネティック・ラグ』 https://www.youtube.com/watch?v=CNMQ0-iBkQ4
1915年(47歳)、ピアノ伴奏(ジョプリン演奏)による演奏会形式ながら『トゥリーモニシャ(Treemonisha)』上演にこぎつけたが、聴衆の支持をえることに失敗。精神的に衝撃を受ける。
2年後の1917年1月、梅毒が身体をむしばみ認知症を発症、ブルックリンの病院に入院。4月1日、肺炎により失意のうちに世を去った。享年48。ジョプリン「死後、私が真に評価されるまで四半世紀が必要だろう」。実際、ジャズの大流行と共にラグライムは忘れ去られていった。
1973年、他界から56年が経ったこの年、アカデミー作品賞に輝いた映画『スティング』に「ジ・エンターテイナー」など数曲が使用され、ジョプリン再評価のムーヴメントが起きる。
そして1975年、楽譜の出版から64年を経てヒューストン・グランド・オペラが『トゥリーモニシャ』を上演、大成功をおさめた。ジョプリン自身のオーケストラ譜は紛失されたが、ジョプリン再評価の流れの中でオーケストレーションされオペラ上演が実現した。
1976年、オペラ『トゥリーモニシャ』がピューリッツァー賞を獲得した。
※オペラ『トゥリーモニシャ』 https://www.youtube.com/watch?v=OLyh2jCvzG0 劇中歌『ア・リアル・スロー・ドラッグ』が最後にもう一度演奏されたときの高揚感が素晴らしい。曲名のドラッグはDrag(引きずる)でありDrug(薬)ではない。
※『ア・リアル・スロー・ドラッグ』(『トゥリーモニシャ』から)のジョプリン自身の演奏(ピアノロール) https://www.youtube.com/watch?v=-ZdbmeBB3yA
※『ア・リアル・スロー・ドラッグ』https://www.youtube.com/watch?v=y2k74DyUxW0 テンポがいい
※『ア・リアル・スロー・ドラッグ』舞台の頭出しhttps://www.youtube.com/watch?v=OLyh2jCvzG0#t=76m49s

凄まじい人種差別のなか、48年の人生で50曲以上のピアノ曲とオペラ2曲(ひとつは現存せず)を生み出したスコット・ジョプリン。第一次世界大戦前、ラグタイムは世界中で流行していた。ラグタイムは世界的に受け入れられた最初のポピュラー音楽であり、ジョプリンは世界の音楽シーンに影響を与えた最初の黒人作曲家となった。

〔墓巡礼〕
映画『スティング』が大好きでサントラ盤を購入、僕は何度も繰り返して聴き(特に『ソラース』)、かねてからスコット・ジョプリンに墓参したいと思っていた。墓所はニューヨーク・クイーンズ地区のEast Elmhurst、セント・マイケルズ墓地。地下鉄のAstoria Blvd駅で下車、北側のプレイグラウンドに面するバス停でバス路線Q19に乗り「Astoria Bl/49 St」で降車、東に向かうとセント・マイケルズ墓地の正門に着く。
2000年に訪問した際、クイーンズ地区はあまり治安が良くないと聞いていたので、地下鉄を出てバスを待っている間は緊張した。バスを降車後、セント・マイケルズ墓地は400mほど離れていたので急ぎ足で向かった。管理人事務所でジョプリンの墓を聞いて墓前に立つと、名前と生没年、そして「AMERICAN COMPOSER」と刻まれた小さな墓石があった。生前は自信作のオペラを仕上げても上演できなかったジョプリンだが、映画『スティング』で爆発的にラグタイム・ブームが起き、スコット・ジョプリンの名はアメリカ音楽史で最初に人気を得た黒人作曲家として不滅のものとなった。
私事だけど、ジョプリンの墓石を見て1868年11月24日生まれと知り、自分が1967年11月24日生まれであるため親近感が湧いた。あと1年遅く生まれていたらピッタリ100年後、惜しい。

※スコット・ジョプリン集
https://www.youtube.com/watch?v=z86Hs7gm0tU
https://www.youtube.com/watch?v=Ks2OnCIhBts
https://www.youtube.com/watch?v=bpZlkDpmUVs
https://www.youtube.com/watch?v=ZmioM8FDD6M
https://www.youtube.com/watch?v=dqZ4_TD8-3c

※セントルイスで2年間住んでた家が博物館「Scott Joplin State」として公開されている。
※セントルイス・スタイルとよばれるジョプリンのラグタイムは比較的ゆっくりしたテンポで演奏されたが、のちのジェリー・ロール・モートンらニューオーリンズの演奏家はテンポを速めて熱狂的な要素をくわえた。
※ラグタイムの他の代表的な作曲家は、トマス(トム)・ターピン、ジェームズ・スコット、ユービー・ブレークなど。
※ルイス・ショーヴィン(Louis Chauvin)はインディアンと黒人のハーフ。ミズーリ州セントルイスのカルヴァリー墓地に埋葬されている。
〔参考〕『ららら♪クラシック』(NHK)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『世界人物事典』(旺文社)。
『スコット・ジョプリン Scott Joplin〜伝記風の手短なスケッチ』(エドワード・A・バーリン) http://home.att.ne.jp/star/ragtime/ar003.htm
『オペラ対訳プロジェクト』 https://www31.atwiki.jp/oper/pages/1255.html



★バルトーク/Bela Bartok 1881.3.25-1945.9.26 (ハンガリー、ブダペスト 64歳)2005
Kerepesi Cemetery, Budapest, Hungary

 
雨上がり、光り輝くバルトークの墓!

20世紀音楽の中で特に独創的な作品を書いたハンガリーの大作曲家。自作を速度記号だけでなく「4分15秒」「60分」など演奏時間まで厳密に指定したことでも知られる。1881年3月25日にハンガリー南部のナジュセントミクローシュ(現ルーマニア、シンニコラウ)で生まれた。両親共に音楽好きで、ピアノ教師の母からピアノを習い、4歳で既にレパートリーが40曲もあったという。7歳で父は病没。
1898年、17歳でウィーン音楽院に入学を許可されるが、ハンガリーの作曲家としてのアイデンティティーを重視して、翌年にブダペスト王立音楽院(リスト音楽院)に入った。21歳の時に17歳年上のリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の『ツァラトゥストラはこう語った』に大きな衝撃を受ける。
1903年(22歳)、19世紀に“フランス2月革命”に呼応して起きた対オーストリア帝国のハンガリー独立運動の英雄、コシュート・ラヨシュを讃えた交響詩『コシュート』を作曲。当局に警戒される。楽曲はリヒャルト・シュトラウスの管弦楽法の影響を受けている。
※交響詩『コシュート』 https://www.youtube.com/watch?v=Ik8nZrMQ0Hw (26分)
1904年(23歳)、初めて地方のマジャール人(ハンガリーの主要民族)の民謡に触れ、感銘を覚える。
1905年(24歳)、ピアニストとして卓越した技能を身に付けていたバルトークは、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。ピアノ部門で後の大ピアニスト、3歳年下のヴィルヘルム・バックハウス(1884-1969)に負けるも第2位となる。作曲部門では入賞できず。このパリ滞在中に『牧神の午後への前奏曲』『ペレアスとメリザンド』でフランスを席巻していたドビュッシーの音楽を知る大収穫を得た。
この年、バルトークの音楽人生を変える大きな出会いがあった。下宿先で女性が口ずさんでいた素朴な民謡に心を奪われた。楽譜にもなっていない短い歌であったが「これこそが私の求めるものだ」と感嘆した。ルーマニアは民謡の宝庫だったが、長年クラシックの楽壇から軽視されてきた民謡は、彼にとって手付かずの宝だった。そして埋もれている民謡を記録するため、重たい蓄音機(録音可能)を持って遠くの村まで出かけた。ところが、村人たちは“怪しい機械を持った都会からのよそ者”を警戒し、また「蓄音機に魂を吸い取られるという恐怖心」もあって民謡を録音させてくれなかった。宿が見つからず野宿をすることも。村人がなかなか心を開いてくれないため、彼は信用を勝ち取るために農作業を手伝い、村の集会に参加し一緒に酒を呑み、少しずつ信頼を得ていった。やがて蓄音機の前で歌ってくれる村人が現れ始め、ヴァイオリンで演奏しれくる者も出てきた。バルトークはこれら採集した音楽をひとつひとつ楽譜に書き起こしていった。バルトーク「彼らの仲間に入って間近で観察する特権を与えられたことは、非常に光栄なことです。農民たちと過ごした日々は、私の人生で最も幸せな時間でした」。こうしたフィールドワークで約2万もの民謡を集めた。

1906年(25歳)、知人の女性作曲家シャーンドル・エンマの紹介で、同じハンガリー人で1歳年下の作曲家コダーイ・ゾルターン(1882-1967)と出会う。コダーイは前年からハンガリーの村々をまわって民謡の収集を始めていた。コダーイは民謡の魅力を熱く語り、共感を覚えたバルトークは2人で一緒にハンガリー各地の民謡収集(採集)を行うようになる。
1907年(26歳)、母校ブダペスト王立音楽院のピアノ科教授となる。この職を1934年(53歳)まで27年間続けた。生活拠点は常にハンガリー国内にあったため、国内の隅々まで民謡の採集に出かけることができた。
1908年(27歳)、『ヴァイオリン協奏曲 第1番』を作曲。全2楽章しかなく、既に伝統から外れた構成になっており、民謡風の響きもあった。献呈先の女性ヴァイオリニストが初演しなかったため、バルトークの生前未発表曲となった。
同年、『弦楽四重奏曲第1番』完成(初演は1910年)。ベートーヴェンが16曲の不滅の弦楽四重奏曲を書いて以来、あまり注目されなかったこのジャンルをバルトークは生涯に6曲の弦楽四重奏曲を書いて開拓した。第1楽章は葬送の音楽。シェーンベルクが十二音技法を確立する以前の曲にして、冒頭3小節の間に12の音がすべて使用されている。第3楽章の変奏技法は民謡採取のフィールドワークが反映されており、村から村へ移動しながら民謡を採集しているうちに同じ曲が変形してゆき、また同じ村であっても老人と若者で少し異なるなど、音楽が変化てゆく過程に着想を得て、弦楽四重奏曲の変奏が書かれているという。
※『弦楽四重奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=rmXmDCJXM00
1909年(28歳)、音楽院の女学生マルタ・ツィーグラーと結婚。翌年には長男ベーラが生まれる。英国の作曲家フレデリック・ディーリアスと交流。
1910年(29歳)、ドビュッシー風の輪郭が溶けた気分画のような管弦楽曲『2つの映像』を作曲。第1曲「花ざかり」、第2曲「村の踊り」。
1911年(30歳)、出世作となるピアノ独奏曲『アレグロ・バルバロ(野蛮)』を作曲。フランスの新聞がバルトークとコダーイの演奏会について「ハンガリーの2人の若き野蛮人」と書いたことを皮肉ってこの題名にした。
※『アレグロ・バルバロ』 https://www.youtube.com/watch?v=Q3NQvDTpbqw (2分)

この年、バルトーク唯一のオペラとなるハンガリー語オペラ『青ひげ公の城』全1幕が完成(初演は7年後)。原作は18世紀にフランスの詩人シャルル・ペロー(1628-1703)が民間伝承をまとめた童話集に収めた「青ひげ」(後にグリム兄弟も収録)。殺人鬼の青ひげ公と、秘密を知った妻ユディット(ユーディト)の葛藤を、両者の対話を通して描く。コダーイのルームメイトが台本を書き、コダーイの紹介でバルトークがオペラ化した。ハンガリー語のアクセントにシンクロしたメロディーゆえ、他国語に翻訳するとブチ壊しになるという、民族色が前面に出た作品。

『青ひげ公の城』
舞台は青ひげ公の城の広間。吟遊詩人の前口上の後、青ひげと新妻ユディットが城に到着する。城内には7つの開かずの扉があり、ユディットは夫のすべてが知りたいから扉を開けるよう頼む。第1の扉は拷問部屋。第2の扉は血がついた武器庫。第3の扉は血がついた宝物庫。第4の扉は血のついた花の庭園。第5の扉は広大な青ひげの領土。雲から赤い血の影が落ちる。青ひげは「ここまでにしよう」と言うが、ユディットは残りの2つも開けてと急かす。第6の扉は涙の湖。第7の扉の中には生きている3人の美しい先妻がいた。3人はそれぞれ「夜明け」「真昼」「夕暮れ」を支配しており、ユディットは「真夜中」を支配する4人目の妻となって第7の扉に消えていった。
https://www.youtube.com/watch?v=p9Aq2WWds8k

『青ひげ公の城』を作曲するにあたり、バルトークは城の凄惨さを見せつける第2の扉までを短調で、青ひげの富を見せつける第5の扉までを長調で、秘密が明かされる第7の扉までを再び短調で描いた。照明についても調による色彩の変化を重視、扉が開くたびに音楽に合わせた照明の色指定、たとえば第1の扉は「血のような赤」、第2の扉は「黄色がかった赤」と演出を指示した。バルトークはこのオペラをコンクール(ハンガリー芸術委員会賞)に応募したが、芸術委員会から「演奏不能」と判断され上演してもらえなかった。バルトークは失望し、2年間ほとんど作曲せず、民謡の収集と研究に尽力した。
ちなみに『青ひげ公の城』はバルトーク以外に4人の作曲家が同じ題材をオペラにしている。オッフェンバックのパロディ版「青ひげ」、デュカスの唯一のオペラ「アリアーヌと青ひげ」、グレトリーの「青ひげラウール」、レズニチェクの「青ひげ騎士」。

1914年(33歳)、第一次世界大戦が勃発。戦火のため民謡の収集が困難になり作曲活動に復帰。
1915年(34歳)、6曲のピアノの小品組曲『ルーマニア民俗舞曲』を作曲(注・現ルーマニアのトランシルバニア地方は当時ハンガリーの領土だった)。旋律が魅力に富んでおり、後に管弦楽版、管楽アンサンブル版ほか、様々なバージョンが生まれた傑作。
※『ルーマニア民俗舞曲』 https://www.youtube.com/watch?v=lJL2iNK0r8c (5分)

1917年(36歳)、唯一のバレエ音楽となった『かかし王子』初演され成功を収める。バルトークはこの曲を「踊れる交響詩」とした。魔法で王子になった案山子(かかし)を恋してしまう王女と、案山子に負けてしまう人間の王子の絶望、そして真実の愛に気づき外見に振り回されなくなった人間の王子と王女が結ばれるまでを描いた。
同年、『弦楽四重奏曲第2番』完成。終楽章は短いため息のようなフレーズが延々と重なっていく。
https://www.youtube.com/watch?v=-J0StLkcTn0

1918年(37歳)、『かかし王子』のヒットのおかげで、お蔵入りになっていたオペラ『青ひげ公の城』が5月にブダベスト国立歌劇場で初演された。1906年に始めた民謡の採集活動はこの年で終了。第1次世界大戦が集結し、ハンガリーは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」から分離独立したものの、敗戦国であるため2年後のトリアノン条約で、自国領土のうちスロバキア、クロアチア、トランシルヴァニアを戦勝国のチェコスロバキア、後のユーゴスラビア、ルーマニアに割譲した。
1919年(38歳)、パントマイムのための舞台音楽『中国のふしぎな役人』を作曲。初演は7年後。当初は上演のたびに内容が不謹慎すぎるとして、指揮者が厳重注意を受けたり上演禁止になるなどスキャンダルになった。後にバレエとしても上演された。

『中国のふしぎな役人』
舞台は3人の悪党の隠れ家。彼らはアパートの窓から仲間の少女に通行人を誘惑させ、部屋を訪れた者から金品を奪う計画を建てる。年老いた伊達男や少年が罠にかかるがお金を持っていなかった。3人目は見るからにリッチな中国人の役人だった。役人が部屋の入口に立つと、少女は官能的な踊りで部屋の奥へ誘う。悪党たちは役人の身ぐるみを剥ぎ殺害しようとするが、マットレスで圧殺しようとしても、ナイフで腹を3回刺しても、首を吊っても死ぬことはなく、蘇生しては少女を追い求めた。役人のまっすぐな想いに心を打たれ、少女が役人を抱擁すると、役人は至福の境地に至り息絶えた。
https://www.youtube.com/watch?v=deIuFgBNjSU

上記のように退廃的、エロティック、グロテスクのトリプル・コンボになっているが、バルトークは「気持ちがどんどん高まっていく素晴らしい筋書き」と絶賛。ひた向きに愛を求め、愛を手に入れるまでは殺されても死なない、そんな強烈な生命力が、おぞましいストーリーの中に一種の感動を呼ぶ。

1921年(40歳)、『ヴァイオリンソナタ第1番』を作曲。この曲から作品番号をつけなくなる。翌年にかけてイギリスやフランスに演奏旅行を行い、ラヴェルやストラヴィンスキーと交流した。
1923年(42歳)、14年連れ添ったマルタ夫人と離婚し、ピアノの生徒パーストリ・ディッタと再婚。翌年に次男ペーテル誕生。以降、しばらく民俗音楽の研究に時間を当てる。
1926年(45歳)、『ピアノ協奏曲 第1番』完成。3年間の沈黙を打ち破る超パワフルな楽曲となった。翌年の初演では自身がピアノを演奏し、巨匠フルトヴェングラーが指揮を振った。この会場でバルトークはヤナーチェクと出会う。ヤナーチェクはスロヴァキア民謡の研究を通してバルトークの名前を知っており、ヤナーチェクはバルトークの演奏会をモラヴィア(チェコ)で開催しようとしたこともあった。
1927年(46歳)、『弦楽四重奏曲第3番』を作曲。単一楽章からなり、激しいアレグロの第2部に弓の背中で弦を打楽器のように叩く奏法コル・レーニョを導入している。ちなみにコル・レーニョで有名な曲は、ベルリオーズ『幻想交響曲』の終楽章、モーツァルト『ヴァイオリン協奏曲第5番“トルコ風”』の終楽章、ショパンの『ピアノ協奏曲第2番』の終楽章、ホルスト『惑星』の「火星」など。
※『弦楽四重奏曲第3番』 https://www.youtube.com/watch?v=ZmpFASWRr_k
1928年(47歳)、『弦楽四重奏曲第4番』を作曲。5つの楽章で構成。打楽器的奏法や連続グリッサンド、“バルトーク・ピツィカート”(超強烈なピツィカート/第4楽章)の要求など特殊奏法が山盛りで、弦楽四重奏曲の屈指の難曲。
※『弦楽四重奏曲第4番』 https://www.youtube.com/watch?v=NlBBpSbdxm8
1929年(48歳)から翌年にかけてアメリカやソヴィエトへ演奏旅行を行い、名チェリストのパブロ・カザルスや同郷のヴァイオリニスト・シゲティらと共演している。
1931年(50歳)、『ピアノ協奏曲第2番』を作曲。数あるピアノ協奏曲の中でも最高難度の一角とされている。第1楽章のオーケストラは弦楽器に出番がなく管楽器との協奏曲になっている。逆に第2楽章は弦楽器だけが登場し、終楽章でフルオーケストラとなる。同年、管弦楽組曲『ハンガリーの風景』を作曲。第1曲の「トランシルヴァニアの夕べ」が穏やかな夕暮れを描写しており美しい。第3曲「メロディ」も色彩感にあふれている。
※『ピアノ協奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=bAi6Xwz5X8Q (30分)
※『ハンガリーの風景』 https://www.youtube.com/watch?v=rJSOGdNRQWA (12分)

1934年(53歳)、『弦楽四重奏曲第5番』を作曲。同年、音楽院教授を退任し、科学アカデミーの民俗音楽研究員となる。
1936年(55歳)、『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』を作曲。略称『弦チェレ』で親しまれ、熱狂的なフィナーレで終わる人気曲。映画『シャイニング』で使用された。この年、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスがストラビンスキーやシェーンベルクの音楽を退廃芸術と非難したことから、バルトークはドイツ外務省に抗議の手紙を送った。
※『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』
https://www.youtube.com/watch?v=CAeM1L8T-rQ
1937年(56歳)、『2台のピアノと打楽器のソナタ』を作曲。ピアニスト2人と打楽器奏者2人の編成という非常に珍しい作品。
※『2台のピアノと打楽器のソナタ』
https://www.youtube.com/watch?v=PNRYp6ArLdU
1938年(57歳)、クラリネットとヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲『コントラスツ』を作曲。翌年のカーネギー・ホールの初演では、クラリネットを「スウィングの王様」ジャズ・クラリネット奏者のベニー・グッドマンが担当した。バルトーク自身がピアノで参加した公演もある。同年、『バイオリン協奏曲第2番』を作曲。
※『コントラスツ』 https://www.youtube.com/watch?v=-zMALN04umw (17分)
1939年(58歳)、153曲の小品からなるピアノのための練習曲集『ミクロコスモス(小宇宙)』(全6巻)が完成。演奏時間1分弱から2分程度までのごく短い曲だけで構成されている。巻数が進むにつれ難易度が上がっていく。同年、『弦楽のためのディヴェルティメント』を作曲。原始的なリズムとセレナードが融合。また、最後の弦楽四重奏曲となった『弦楽四重奏曲第6番』を作曲。世界大戦直前の空気が反映され、バルトークは各楽章の冒頭に“メスト(悲しげに)”と記された共通の主題を置いた。9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発。
※『ミクロコスモス(小宇宙)』第一巻
https://www.youtube.com/watch?v=PbEkw7WUhEg&list=PL992FD73576ED529B
※『弦楽のためのディヴェルティメント』 https://www.youtube.com/watch?v=fICnE6sWTnI (27分)
※『弦楽四重奏曲第6番』 https://www.youtube.com/watch?v=9PBadVH-PGw (29分)

1940年(59歳)、ナチス嫌いのバルトークはファシスト政権の弾圧を避けてアメリカへの移住を決意。10月、長男とコダーイに後を託し、民謡の膨大な研究資料と一緒に夫婦で渡米した。アメリカではコロンビア大学の客員研究員として南スラブの民俗音楽の研究に取り組む。翌年、次男ペーテルも渡米し、後にアメリカ海軍に招集されている。
1941年(60歳)、戦争の混乱で印税が滞るなど生活は苦しく、アメリカの人々はバルトークの作品に無理解であったため、すっかり創作意欲を落としてしまう。渡米後の3年間は作曲できず、収入は5分の1に激減し、生活のため大切なピアノを手放した。さらには白血病を発症し(バルトーク本人は知らず、結核と思っていた)、体重が40kgまで落ちてしまう。一足先に渡米していたハンガリーの音楽仲間たち、ヴァイオリン奏者ヨーゼフ・シゲティや指揮者フリッツ・ライナーらはバルトークの衰弱ぶりに驚き、生活費だけでも援助したいと申し出たが、バルトークは「たとえ飢え死にしようとも、いわれのないお金は受け取れない」と断った。

1942年(61歳)、友人たちは「このままでは3年前に書いた『弦楽四重奏曲第6番』が遺作となってしまう」と鬱状態のバルトークを心配し、当時のアメリカ音楽界のドン、ボストン交響楽団のロシア出身指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーを頼った。
クーセヴィツキーは現代音楽の普及に熱心で、ブリテンやメシアンなど世界中の作曲家に新曲を依頼していた。その流れでクーセヴィツキーからバルトークに「ボストン響の音楽監督就任20周年を記念するオーケストラの新作って欲しい」と手紙を出して欲しいと願った。ギャラは当時のサラリーマンの給料半年分に相当する1000ドル。
1943年(62歳)、バルトークがすぐに返事を出さずにためらっているとクーセヴィツキーが乗り込んできた。「病気で作曲できる自信がありません」と決心がつかないバルトークに、クーセヴィツキーは「心配は無用です。この依頼には(締めきりなど)何の強制力もなく、将来、機の熟したときに取り掛かって頂ければいいのです」と説得し、強引に手付金の500ドルを渡して帰って行った。バルトークは、単なる金銭の援助ではなく、作曲家としての実力を認めてもらえたことに感激して魂に火がつき、40分の大曲『管弦楽のための協奏曲』全5楽章を55日間で書きあげた。
バルトークはこの曲に故郷への愛とファシズムや戦争への皮肉を込めた。旋律にハンガリー人なら誰も知っているメロディ、1930年頃の流行歌『美しきハンガリー』が使われている。歌詞は「ハンガリーは美しく麗しい、世界のどこよりも美しい(略)祖国の草木や花々に誘われてヴァイオリンが呼んでいる、美しく麗しい故郷が待っている」というもの。亡命先で暮らすバルトークの「祖国に帰りたい」という強い望郷の念が伝わってくる。そして第4楽章にはヒトラーを揶揄するメロディが登場する。ヒトラーが大好きだったレハール作曲のオペレッタ「メリー・ウィドー」の一節が流れるが、このメロディはショスタコーヴィチが交響曲第7番「レニングラード」の中で行軍するドイツ軍の象徴として引用しており、バルトークはこれを“孫引き”する形で、ヒトラー、ファシズム、戦争を笑い飛ばすようなメロディに変えて使っている。全体主義を嫌って祖国を離れざるを得なかったバルトークによる抗議の音楽であり、2年後に他界することになるバルトークの、戦争への怒りと祖国への愛を託した人生最後の叫びとなった。明るく前向きな曲調がアメリカの聴衆に受け、翌年の初演は大成功。本作は晩年の代表作であるだけでなく、バルトーク作品の最高傑作のひとつとなり、発表後、国際指揮コンクールの課題曲に何度もなっている。
※『管弦楽のための協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=C68SkzGb6Ww (40分)

1944年(63歳)、白血病の闘病生活のなか、ユーディ・メニューインの委嘱を受け『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ』を作曲。楽章の構成がバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番のオマージュになっており、バッハの無伴奏を「旧約聖書」、バルトークの無伴奏を「新約聖書」と呼ぶことがる。
※『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ』 https://www.youtube.com/watch?v=J83gR8evOeI (28分)
1945年9月26日、白血病のためニューヨークの病院で他界。享年64歳。バルトークは遺言で「ナチスドイツや共産主義ソ連の影響が残る間は祖国ハンガリーに埋葬しない」と求めたことから、亡骸はニューヨーク州のファーンクリフ墓地に埋葬された。バルトークの遺族は葬儀費用もないほど貧しかったため、アメリカ作曲家協会が費用を丸ごと負担した。
その後、ハンガリーで共産政権が一党独裁を放棄するなど民主化が進んだことから、バルトークの弟子だったハンガリー人指揮者ゲオルク・ショルティ(1912- 1997)と、バルトークの2人の息子の尽力で、1988年7月に棺がハンガリーに移され、国葬を経てブダペストのファルカシュレーティ墓地に改葬された。11年後にショルティが他界し、今、バルトークの隣りに眠っている。
ピアニストでもあったディッタ夫人の誕生日プレゼントとして書いていた、軽快な『ピアノ協奏曲第3番』は遺作となり、ほとんど完成していたことから友人のハンガリー系作曲家が完成させた。また、ヴィオラの独奏パートがほぼ完成していた『ヴィオラ協奏曲』も補筆完成され、ヴィオラの音色の向こうには異国の地で孤高に立つ老バルトークの姿がそこにあった。

バルトークは民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカのアルジェリアまで足を伸ばすなど精力的に活動した。盟友コダーイらと集めた民謡の収集成果はマジャール民謡2700、マジャール・ルーマニア民謡3500、トルコと北アフリカのアラビア民謡200、合計6400以上にのぼり、これらは民謡集12巻にまとめられた。
バルトークは他の国民楽派と異なり、民謡を直接自作に取り入れることは殆どなかった。彼はハンガリー民謡の音階、旋律、躍動的なリズムを自身の内部で消化して、独自の力強い音楽様式を打ち立てた。調性を最後まで捨てず、代わりに独自の手法で調性を確立した。複数のメロディ・ラインが絡み合った先に不協和音を置く技法を得意とした。

※バルトークの最初の墓が建てられたファーンクリフ墓地に記念碑が残されている。同墓地にはマルコムXやジュディ・ガーランドが眠っている。
※交響詩で採り上げたハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュの墓はブダペストのケレペシ墓地にある。
※フランツ・リストの弟子トマーン・イシュトバーン(1862-1940)からピアノの教えを受けている。
※曲がったことが大嫌いだったバルトーク。ハンガリー人の知人が昼間に陶器のボールでパンの生地をこねていると、「パンというものは早朝に木製のボールでこねるべきだ!」と憤慨したという。

〔墓巡礼〕
バルトークと盟友コダーイが眠る墓は、ハンガリーの首都ブダペストのファルカシュレーティ・テメトゥー(墓地)にある。かつての社会主義国時代は、隣国オーストリア・ウィーンのハンガリー大使館で入国ビザを手に入れてから向かっていたけど、今はノー・ビザで行けるのでラクになった。ファルカシュレーティ墓地は国際列車が発着するブダペスト東駅から西へ約7キロ。少し距離があるので、駅の近くから4番のトラムに乗り、「Blaha Lujza」駅で8Eのバスに乗り継ぐと、ドナウ川を超えて墓地のゲート前まで運んでくれる。ファルカシュレーティ墓地は端から端まで1キロはある大きな墓地。正門の近くに墓地の全体図があり、バルトークとコダーイの墓に印が入っている。デジカメで写してから正門の左手の道を進むと最初に指揮者ゲオルグ・ショルティの墓があり、その右隣にバルトークの墓があった。彼の墓所には鳥の彫刻が墓石として置かれていた。音楽の翼にのって自由に世界を駆け巡っている、そんな解放感を感じる墓だった。ニューヨークで没し、遺言でナチスや共産政権が去った民主化されたハンガリーに帰ることを願ったバルトーク。他界43年後にハンガリーは民主化され、息子やショルティら周囲の尽力で彼は祖国に帰ってこられた。本当によかったね、バルトーク。※盟友コダーイの墓は墓地の中央付近。



★モンテベルディ/Claudio Monteverdi 1567.5.15-1643.11.29 (イタリア、ヴェネチア 76歳)2002
Iglesia de Santa Maria Gloriosa dei Frari, Venice, Veneto, Italy


クラシック音楽創成期の作曲家だ

“オペラの父”クラウディオ・モンテヴェルディは1567年5月15日にイタリア北部の工芸技術都市クレモナで生まれた。父は医師、家は約300年続く名家。クレモナは紀元前218年ローマ人に建設された歴史ある街。教会が多くクレモナ大聖堂(1490完成)を擁する。モンテヴェルディが生まれた81年後に天才ヴァイオリン製作者アントニオ・ストラディバリ(1648-1737)が生まれている。
時代はルネサンスからバロックへの過渡期。モンテヴェルディはクレモナ大聖堂の楽長インジェニェリに音楽を師事した。
1582年、15歳で処女作となるモテット(多声教会音楽)作品集、『3声のモテット集』(26曲)の楽譜を出版。音楽による詩の表現を追求していく。
※『3声のモテット集』から“Lapidabant Stephanum”https://www.youtube.com/watch?v=UaX9TKQl3Uc
1587年(20歳)、宗教音楽ではないイタリア語による多声世俗歌曲=マドリガーレ(マドリガル)の最初の曲集を出版。モンテヴェルディは生涯に約250曲もの世俗曲を残している。
1590年(23歳)、マントヴァ公の宮廷歌手およびヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として就職する。「波はささやき」を含むマドリガーレ集第二巻を出版、対位法に磨きがかかる。
※『波はささやき』波が朝陽で輝き、山々が黄金色に染まっていく光景を、歌による風景画として描く名歌 https://www.youtube.com/watch?v=c7aRyPg0jPQ
1592年(25歳)、マドリガーレ集第三巻を出版。
1594年頃に結婚。1600年に長男が誕生し、後に次男を授かる。
1595年(28歳)、トルコ軍と戦うマントヴァ公に従いハンガリーに遠征。
1597年(30歳)、フィレンツェ(トスカーナ大公国)で古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが起き、メディチ家の宮廷楽長ヤコポ・ペーリ(Jacopo Peri/1561-1633)がギリシャ神話を題材にした
『ダフネ』を作曲。セリフを歌うように話したことから、最古のオペラとなる。音楽は断片のみが伝わる。
※ヤコポ・ペーリ『ダフネ』の一部 https://www.youtube.com/watch?v=JbaL-RVwdbw(6分48秒)
1599年(32歳)、フランドル地方に旅行し、同地の音楽に触れる。
1600年(33歳)、ヤコポ・ペーリがオペラ『エウリディーチェ』を作曲。同作は楽譜がすべて揃っているという意味で、現存する最古のオペラである。
1602年(35歳)、マントヴァの宮廷楽長に任命され、10年間(1612年)務める。
1603年(36歳)、11年ぶりとなるマドリガーレ集第四巻を出版、劇的要素が増す。
1605年(38歳)、マドリガーレ集第五巻を出版。
モンテヴェルディはヤコポ・ペーリなどの実験的な音楽劇に強く興味を持ち、マントヴァ公から謝肉祭の祝祭劇の命を受けたこともあり、自ら音楽劇の創作を行うことを決意、『オルフェオ』の作曲に取り掛かる。
1607年(40歳)2月24日、イタリア・オペラ史上画期的な作品となるモンテヴェルディのオペラ処女作『オルフェオ』がマントヴァで初演される。モンテヴェルディは本作において、単にセリフを歌わせるのではなく、歌に巧みな抑揚をあたえ、情熱的で真に迫った感情表現を実現した。オーケストラはただの歌の伴奏ではなく、ときには主体となって各場面を盛り上げ、14曲の管弦楽曲が用意された。音楽と演劇が融合した『オルフェオ』は観客から熱狂的な歓迎を受け、ルネサンスからバロックへの道を開いた。当時としては大規模なオーケストラ編成や、高度な劇的表現力により、近代オペラの出発点となった。
※『オルフェオ』…舞台はギリシャ神話の時代。オリンポス山に近いトラケイアの野で、竪琴と歌の名人オルフェオとエウリディーチェの婚礼が行われる。エウリディーチェは婚礼後に毒蛇に噛まれて死に、オルフェオは黄泉の国から妻を連れ戻すことを決心。現世と冥界を隔てる川にいる渡し守カロンテが、「生者は通せぬ」と立ちはだかるため、オルフェオは美声でカロンテを眠らせてすり抜ける。黄泉の国では王妃プロセルピナがオルフェオの歌に胸を打たれ、夫プルトーネに望みを叶えるよう頼み、プルトーネは「現世に着くまで、エウリディーチェを振り返らない」という条件で、これを認めた。だが、オルフェオは帰途で振り返ってしまい、妻の姿は消える。オルフェオは地獄には打ち勝ったが、自分の心には負けた。彼が嘆き苦しんでいると、オルフェオの父かつ太陽神のアポロが天から現れ、オルフェオを天へと導く。同年、最愛の妻が他界。
※『オルフェオ』 https://www.youtube.com/watch?v=EcRFFmgVGlc (101分)
1608年(41歳)、オペラ第2作『アリアンナ』も大成功を収め、オペラ作曲家としての名声を不動のものにする。怪物ミノタウロスを退治したアテナイの英雄テセウスと恋に落ちたクレタ王ミノスの娘アリアドネ(アリアンナ)が、テセウスの心変わりでナクソス島に置き去りにされ、オペラのクライマックスで「アリアンナの嘆き」を歌う。“われを見捨てよ、死なしめたまえ、この苦しみ、悲しみに望みも絶え果て、ただ死あるのみ”と絶望から死を願うこの歌は、聴衆の女性の涙をしぼり取り、爆発的に流行した。
※「アリアンナの嘆き」は後にマドリガーレになっている。冒頭の“Lasciatemi morire(われを見捨てよ)”は胸に迫るものがある
https://www.youtube.com/watch?v=3iY1jBk50ok
1610年(43歳)、モンテヴェルディにとって10代のモテット以来の宗教音楽となる『聖母マリアの夕べの祈り』(聖母マリアの晩課)を作曲しローマ教皇に献呈。バッハ以前の教会音楽では最大の曲で、大規模な合唱団とオーケストラを要し演奏時間は90分。オペラ的な手法が導入され、革新的な作品となった。
※『聖母マリアの夕べの祈り』 https://www.youtube.com/watch?v=3GYjNj75MFI
※『聖母マリアの夕べの祈り』からマニフィカトの超美しい後半https://www.youtube.com/watch?v=3GYjNj75MFI#t=83m26s
1613年(46歳)、前年に没したジョヴァンニ・ガブリエーリの後任として、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長に任命され、当時のイタリア音楽界における主要な地位を獲得する。
以後、多数のオペラを作曲したが残念ながらほとんどの楽譜が消失してしまった。他にモテット、マドリガル、ミサ曲を作曲。
1614年(47歳)、「アリアンナの嘆き」「愛する女の墓に流す恋人の涙」を含むマドリガーレ集第六巻を出版。以降のマドリガル集3巻は全声部を同格に扱うルネサンスのポリフォニー音楽から徐々に遠ざかり、低音に重きを置くなど新たな様式に進んでいく。
※『マドリガーレ集第六巻』約2時間半の力作、良作多し!https://www.youtube.com/watch?v=17Q2c9DMMUs
※「愛する女の墓に流す恋人の涙」冒頭の“Incenerite spoglie(灰となった亡骸よ)”が悲しい https://www.youtube.com/watch?v=ccffSBfNibo
1619年(52歳)、「愛の手紙」を含むマドリガーレ集第七巻を出版。「コンチェルト」と題されているように器楽伴奏がついている。
※『愛の手紙』“愛しい人よ、どうかこの手紙を読んで下さい、私の心がインクで記された文字の間からにじみ出ているのを分かって頂けるでしょう” https://www.youtube.com/watch?v=OCol16JRGd8(7分15秒)
1632年(65歳)、カトリック教会の司祭に任命される。
1637年(70歳)、王や貴族のための宮廷劇場ではなく、世界初の市民向け歌劇場サン・カッシアーノ劇場がベネツィアに開設され、それにともなうオペラ人気にうながされて4編のオペラを作曲開始。
1638年(71歳)、「タンクレディとクロリンダの戦い」(1624)を含むマドリガーレ集第8巻“戦いと愛のマドリガーレ”を出版。最後のマドリガーレ集となった。
1640年(73歳)、名曲揃いの宗教歌40曲の作品集『倫理的・宗教的な森』を出版。
※『倫理的・宗教的な森』 https://www.youtube.com/watch?v=3GYjNj75MFI (60分)
1641年(74歳)、全3幕のオペラ『ウリッセ(オデュッセウス/ユリシーズ)の帰郷』を作曲、ヴェネツィアで初演。同年、宗教曲集『倫理的・宗教的な森』を作曲。
※ウリッセの帰郷…原作ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」。古代ギリシャのイタカの国が舞台。国王ウリッセはトロイ戦争に出たまま20年も帰国できないでいた。帰還を待ち続ける妻ペネローペの周囲には、再婚を勧める侍女や、たくさんの求婚者がいる。帰国したウリッセは王宮で妻に求婚していた男たちを弓で次々と射抜き成敗、ペネローペと喜びの再会を果たす。
※『ウリッセ(オデュッセイア/ユリシーズ)の帰郷』https://www.youtube.com/watch?v=DcUjr0nI-pA

1642年(75歳)、モンテヴェルディの最高傑作とされる遺作『ポッペアの戴冠』を作曲、ヴェネツィアで初演される。約3時間40分の大作。モンテヴェルディは人生でオペラを18本書いているが15本が散失し『オルフェオ』『ウリッセの帰還』『ポッペアの戴冠』だけが残った(『アリアンナ』はアリアが1曲のみ残る)。いずれも歌とオーケストラによって登場人物の感情と心理がリアルに描き出されており、現在も上演されている。
※『ポッペアの戴冠』…イタリアのバロックオペラの中の人気作。舞台は西暦60年頃のローマ帝国。ローマの将軍オットーネが戦場から帰還すると、屋敷の中で妻ポッペアがローマ皇帝ネローネ(ネロ)と浮気しておりショックを受ける。一方、皇后オッターヴィアも夫ネローネの浮気に悩み、哲学者セネカに皇帝を諭すよう頼む。皇帝は王妃との間に跡継ぎが産まれないことを理由にポッペアと結婚しようとするが、セネカは反対した。ポッペアは邪魔なセネカを排除するため、皇帝にセネカの悪口を吹き込み、怒った皇帝はセネカに自決させる。皇后は将軍オットーネにポッペア殺害を命じ、オットーネは女装してポッペアを殺そうとしたが、気づかれて逃亡する。無関係な侍女が代わりに捕まり死罪を言い渡されたことから、オットーネは自首。皇帝ネローネはオットーネと侍女を国外追放とし、皇后をポッペア殺害未遂の黒幕として流刑にした。皇后はローマに別れを告げ、ポッペアは邪魔者をすべて排除し新たな皇后となる(おいおい…帝政ローマの史実とはいえ、僕はストーリーに困惑した)。クライマックスで皇后オッターヴィアが歌う「さらばローマ」が聴きどころ。従来より耳に馴染む旋律やコミカルな演出も人気の理由。
※『ポッペアの戴冠』 https://www.youtube.com/watch?v=rZZyySg6JZU
1643年11月29日、ヴェネツィアで他界。享年76歳。
1651年、未収録の歌曲を集めたマドリガーレ曲集第9巻が出版される。

〔墓巡礼〕
モンテヴェルディは巨大なサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂に埋葬された。“フラーリ”はフランチェスコ会の修道士の意。聖堂は1338年に完成し、鐘楼の高さはヴェネツィアで2番目の70mを誇る。聖歌壇はヴェネツィアの教会で最古。モンテヴェルディの墓は鉄柵の奥の床にあり、側には譜面台に載ったミサの楽譜「SANCTISSIMA」や胸像があった。
この聖堂には画家ティツィアーノが描いたヴェネツィアで最も大きい祭壇画「聖母被昇天」がある。作曲家ワーグナーはマリアの昇天を描いた本作に感動し、長く中断していた『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲を再開、見事書きあげた。
堂内にはモンテヴェルディやティツィアーノの墓のほか、ピラミッド型の大理石の墓に彫刻家アントニオ・カノーヴァの心臓が納められている。観光客が殺到するサン・マルコ広場や鉄道駅のある東側の島と異なり、フラーリ聖堂が建つ西側の島は観光ルートから外れているため人影もまばら。ひっそりと静まりかえった昼下がりの小道を歩いていると、中世にタイムスリップいたような感覚になる。
※ちなみに交響曲(シンフォニー)はオペラから生まれたもの。シンフォニーの語源はギリシア語の「syn-(一緒に)」+「phone(音)」。ルネサンスの後、バロック期にオペラがイタリアで誕生した際、序曲や場面転換の間奏など、歌がない管弦楽だけの楽章を「シンフォニア」と呼んだ。当初は短かったシンフォニアは次第に大規模になり、独立して鑑賞できる音楽芸術に進化。古典派のハイドン、モーツァルトらの手で交響曲へと発展した。



★リムスキー・コルサコフ/Nikolai Andreevich Rimskii-Korsakov 1844.3.6-1908.6.8 (ロシア、ペテルブルク 64歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation



レーピンが描いた肖像 全体に苔むした感じ(2005) 4年後、墓石上部がきれいになってた(2009)

上部のキリストのイコン、土台の装飾的な文字など、この墓は非常に凝っている!

手前から、コルサコフ、ムソルグスキー、ボロディン、
チャイコフスキー。ウィーンの楽聖墓地と並ぶ絶景なり!

ロシアの作曲家・音楽理論家。ロシア国民楽派「五人組」の一人で管弦楽法の大家、ニコライ・リムスキー=コルサコフは1844年3月18日に、ロシア最古の都市ノブゴロド県に生まれる)。父は貴族の官吏で後に県知事となっている。幼少からピアノを学ぶ。
1856年、海軍士官の兄にならい12歳でサンクトペテルブルクの海軍士官学校に入学。並行して音楽の勉強を続け、在学中にモーツァルトやグリンカのオペラを知った。同年、後に師となる7歳年上の作曲家バラキレフ(19歳)がキュイ(21歳)と出会い、「五人組」誕生の第一歩となる(「五人組」は後年の呼称であり、当初は「力強い一団」と呼ばれていた)。
1857年(13歳)、“ロシア近代音楽の父”グリンカが52歳で他界。バラキレフはグリンカのあとを継ぎ、ロシアの民族的な音楽を目指していく。バラキレフの家には毎火曜日の夜に音楽家が集まるようになり、この年、ムソルグスキー(18歳)がこのロシア国民楽派サークルに加わった。
1861年(17歳)、ロシアの作曲家バラキレフと知りあって音楽家を志し、バラキレフが率いる民族主義の音楽家サークル(後の「五人組」)に加わった。サークルではバラキレフだけが音楽家を本業としており、優れたピアニストとして知られていた。同年、それまで趣味で作曲をしていたリムスキー=コルサコフは、彼の楽才を見抜いたバラキレフから本格的な作曲を勧められ、指導を受けながら『交響曲第1番』の作曲を開始する(とはいえバラキレフは作曲法や管弦楽法の専門教育を受けた訳ではない。いわゆる直感やハッタリで指導していたが、「あながち的外れではなかった」とリムスキー=コルサコフは回想している)。
1862年(18歳)、民族主義的な音楽の確立を目指すバラキレフのサークルにボロディンが入り、これで5人が揃った。バラキレフ、ボロディン、ムソルグスキー、キュイ、リムスキー=コルサコフは、のちに「五人組」と呼ばれるようになる。18歳のリムスキー=コルサコフは最年少であり、この時点で他のメンバーはボロディン(29歳)、キュイ(27歳)、バラキレフ(25歳)、ムソルグスキー(23歳)。合い言葉は「民衆の中へ!」。五人組の作曲活動はロシア民謡やロシア文学から強く影響を受け、オペラや標題作品に傑作が多く残された。ちなみに路線が異なる西欧志向のチャイコフスキー(1840-1893)はこの時22歳。
同年、海軍士官学校を卒業し、士官候補生として軍艦アルマーズ号に乗船、3年がかりの世界一周の遠洋航海に出される。作曲は続けておりイリギスから交響曲第1番の第2楽章をバラキレフに郵送した。この航海では北米のナイアガラの滝、南米のリオデジャネイロなどを訪れている。
この年、ペテルブルク音楽院が創立され院長にアントン・ルビンシテインが就任。バラキレフは対抗して無料音楽学校を創設し、学生演奏会で国民楽派の作品を世に紹介していった。
1865年(21歳)、何度もバラキレフにダメ出しをくらいながら『交響曲第1番』を仕上げ、初演は師バラキレフが指揮し大評判になる。この曲はロシア人によって書かれた記念すべき最初の交響曲となった。正確にはアントン・ルビンシテインが1841年に交響曲を書いているが西欧音楽の語法であったため、ロシア民謡やオリエンタルな旋律(バラキレフがコーカサス地方で記録したもの)が用いられたこの曲こそが真の意味でロシア人の最初の交響曲と讃えられた。キュイは「ロシア人にしか書けない曲」と喝采し、リムスキー=コルサコフは大いに自信を得た。
※『交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=CjmdtcwuV10 (27分)

1867年(23歳)、ロシアでスラヴ音楽演奏会が開催され、リムスキー=コルサコフは『セルビア幻想曲』を作曲。国民楽派サークルの理論的指導者・評論家のスターソフは、この演奏会を文章で絶賛し、「小さいが既に力強いロシアの音楽家の一団」という一節が「力強い仲間」の語源となった。後にバラキレフがチャイコフスキーのことを「6人目が誕生した」と手紙に書いたことで、「力強い仲間」は「5人組」に変わっていった。
同年、故郷ノブゴロドに伝わる海洋伝説に基づく交響詩『サトコ』(サドコ)を作曲。音楽で波や海神の宮殿を表現した。
1868年(24歳)、ムソルグスキーと同じアパートで共同生活を送り、互いに影響しあう。ムソルグスキーはオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の作曲に取り組み、リムスキー=コルサコフは最初のオペラ『プスコフの娘』を書き始めた。
同年、6世紀アラビアの詩人アンタールの夢や願望を描いた東洋趣味の『交響曲第2番アンタール』を作曲。曲中に中東の民謡が使われている。パルミラ(シリアの古代都市)で妖精の女王と出会い、夢を見た後に、女王との愛の喜びの中で死んでいく(音楽もこと切れるように終わる)。20年後の作品『シェエラザード』で成熟するオリエンタリズムの先駆けとなった。
※『交響曲第2番アンタール』 https://www.youtube.com/watch?v=qkDw_hpotp8(30分)
この年、チャイコフスキーは新聞の評論に「リムスキー=コルサコフ氏の『セルビア幻想曲』は素晴らしく、若い彼には洋々たる前途がある」と誉め、これをきっかけにロシア5人組とチャイコフスキーの交流が生まれた。
1871年(27歳)、海軍大尉の軍籍を保ったままサンクトペテルブルク音楽院(現リムスキー=コルサコフ国立音楽院)の作曲と管弦楽法の教授に就任。いざ教壇に立ってみると、それまで学問として音楽を勉強したことがなかったため、対位法という基礎的な音楽理論すらまともに教えることができなかった。知識のなさを痛感し、バッハから最先端のワーグナーやベルリオーズまで膨大な作品を徹底研究するなど猛勉強を開始した。こうして管弦楽の技術と理論を身に付け、立ち遅れていたロシア音楽のアカデミズム確立に貢献した。管弦楽法を指導した門下からは、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、グラズノフ、レスピーギなど、優れた作曲家が多数輩出されている。
1872年(28歳)、軍務のかたわら4年間取り組んでいた民族主義的なオペラ『プスコフの娘』が完成。雷帝イワンの隠し子の悲劇を描いた歴史劇。完成当時、オペラに皇帝(ツァーリ)を登場させることが禁じられていたが、軍関係者の尽力で検閲を受けたうえで特別にマリインスキー劇場で上演され、大成功をおさめた。これによりロシアで名声を不動のものとした。
この年、ペテルブルクきっての美人といわれたナデーシダ・プルクゴルトと結婚。結婚式の立会人をムソルグスキーがつとめた。4年前に、あるコンサートで知り合い芸術論を語り合った女性で、前年に求婚していた。ナデーシダは音楽の才能があり、夫の楽譜を校訂し、作品に助言をおこなった。ナデーシダが朗読した詩から歌曲を書いた。
1873年(29歳)、7年越しの『交響曲第3番』を作曲(悪くはないが普通の曲と僕は思った)。海軍を退役して海軍軍楽隊の監督官を兼任、同職を11年間務め、この経験がのちの創作と管弦楽法に生かされることになる。
1874年(30歳)、『交響曲第3番』初演で指揮者デビュー。
1878年(34歳)、この年チャイコフスキー(当時38歳)が知人宛ての手紙で五人組を総括しており興味深い。「彼ら(五人組)は非常に恵まれた素質を持っている。同時に彼らは最高に生意気でいやらしい奴らで、自分たちが世界中の他の作曲家全部を合わせたよりも優れた作曲家だという、まったく未熟な思い上がりに染まりきっている。ただその中でリムスキー=コルサコフだけは例外だ。彼の不幸は最初に出会った連中が、音楽院の正規教育は霊感に害があるだけで、創造の泉を干上がらせてしまうと彼に信じ込ませたこと。彼は古典の巨匠へのあざけりや権威の否定が、実は無知以外の何者でもなかったことに気がついた。その後彼は音楽理論を猛烈に勉強している。キュイは確かな審美眼を持っており響きはエレガントだが、音楽がお化粧されすぎている。ボロディンは非常に大きな才能があるのに、音楽の基礎教育が欠けているために何の役にも立たずにいる。ムソルグスキーはサークル全員の中で最も音楽的素質があるが、人間として性格が粗野で洗練されておらず醜いものを好み、キュイとは逆のタイプだ。バラキレフは…彼こそが勉強する必要なしと言ってリムスキー=コルサコフの若い頃を駄目にした張本人だ」「ムソルグスキーはその粗野な醜さにもかかわらず、新しい音楽言語で語っている。美しくはないとしても、とにかくそれは新しい言語であって、ロシアにいつの日か芸術のために新しい道を切りひらく勇者達が生まれ出る可能性がある」。

1880年(36歳)、オペラ『五月の夜』初演。コサックの若者がルサールカ(水の精)たちに混じった悪い魔女を倒したり、恋を成就させる物語。ウクライナ民話の世界を、民謡や民族楽器(バンドゥーラ※ギターみたいなやつ)を登場させて描き出した。
※『五月の夜』 https://www.youtube.com/watch?v=QXZ8nlVUBEo (130分)音楽がみずみずしい
1881年(37歳)、ロシアの民話にもとづくオペラ『雪娘〜春のおとぎ話』を作曲。雪で作られ生命を吹き込まれた雪娘は、恋をしたことで溶けて死んでしまう。同年3月、ムソルグスキーが42歳で他界。その3カ月後の妻ナデーシダ宛の手紙。「今日も君から手紙がこない。これでもう1週間も音信不通だ。私の小鳩さん、もし明日も手紙が来なかったら、もう我慢できないから電報を打つよ。子どもたちは私のことを時々思い出している?」。
1883年(39歳)、自身唯一の『ピアノ協奏曲』を作曲する。リストのピアノ協奏曲と同様に単一楽章を採り入れ、この作品をリストに献呈した。同年、ムソルグスキーの遺稿整理に当たったリムスキー=コルサコフはムソルグスキーの才能を何とかして世に知らしめたいと考え、未発表の作品を補筆した交響詩『禿山の一夜』を出版する(初演は1886年)。他にも未完のオペラ『ホヴーァンシチナ』のオーケストレーションを行い、ムソルグスキーが合作オペラ『ムラーダ』のために書いた行進曲をが補筆し『トルコ行進曲(カルスの奪還)』として出版した。また、リムスキー=コルサコフは『展覧会の絵』のピアノ譜も初めて出版している。ただし原典からの改変が多く、もはや「リムスキー=コルサコフ版」となっている。
リムスキー=コルサコフとキュイはマリインスキー劇場のオペラ選定委員会の委員だったが、同委員会がムソルグスキーの『ホヴァーンシチナ』の受理を拒否したことから、抗議を込めて2人で辞職した。
※『ピアノ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=i0Zf7DCM7BM (15分)
1884年(40歳)、海軍軍楽隊の監督から退く。
1886年(42歳)、音楽出版業で知られるベリャーエフがペテルブルクに創始したロシア交響曲演奏会の指揮者をつとめる。また、リムスキー=コルサコフはかつてのバラキレフ・サークルのようなベリャーエフ・サークルを作り、門下のグラズノフらと独自の学派を形成した。同年、ムソルグスキーのオペラ『ホヴーァンシチナ』初演が実現。
1887年(43歳)、スペインの情熱的な旋律やリズムを使い、管弦楽の色彩を生かした『スペイン奇想曲』を作曲。この曲を褒めてくれたマリインスキー劇場管弦楽団の団員67名に献呈した。
20世紀初頭にラヴェル『スペイン狂詩曲』(1908)、ドビュッシー『イベリア』(1908)、ファリャ『スペインの庭の夜』(1915)がスペインを題材にした作品で楽壇にスペインブームを作るが、それよりも20年以上も前に成功を収めた最初の管弦楽曲。同年、ボロディンが53歳で急死。2人が欠けた「五人組」は自然消滅していった。
※『スペイン奇想曲』胸躍る華やかなサウンド!https://www.youtube.com/watch?v=3rqwvMMxeA8 (15分)なんかもう太陽がまぶしい
1888年(44歳)、作曲意欲の頂点に達する。この年はまず代表作となる東洋趣味に彩られた交響組曲『シェエラザード』を作曲。千夜一夜物語の語り手シェヘラザード(シェエラザード)をめぐる音楽絵巻。ササン朝ペルシャ(現イラン・イラク)のシャリアール王(架空の人物)は最初の妻の不貞を発見した怒りから処女と結婚しては翌朝には処刑していた。大臣の娘シェヘラザードは王の愚行をやめさせるため王妃に志願し、夜ごとに魅力的な物語を話しては「続きはまた明日」と処刑を延期させた。千と一夜の物語を語り終える頃には子が産まれ、王は大喜びして残酷な誓いを捨て、彼女を正妻にした。
第1楽章「海とシンドバッドの船」…冒頭に力強くシャリアール王の主題が登場し、続いてシェヘラザードの美しい主題を独奏ヴァイオリンが奏でる。その後、うねるような海の様子と共にシンドバットの航海が始まる。海軍の軍人なればこそ海の描写のうまさが際立っている。
第2楽章「カランダール王子の物語」…語りかけるようなシェヘラザードのテーマで始まり、少しとぼけたカランダール王子をユーモラスに描く。
第3楽章「若い王子と王女」…メロディーメーカーのリムスキー=コルサコフの真骨頂。美しい旋律が紡がれていく。
第4楽章「バグダッドの祭り、海、青銅の騎士のある岩で難破、終曲」…クライマックスで荒れ狂う波に呑まれる船の難破が描写され、シェヘラザードの主題を奏して今夜の話が終わる。外は明るくなり始めている。
※『シェエラザード』ゲルギエフ指揮の雄大かつロマンティックな名盤!https://www.youtube.com/watch?v=Fj00S32BYMw (46分)
同年、続けて最後の管弦楽曲となる祝祭序曲『ロシアの復活祭』(原題「輝かしい日曜日」)』を作曲し、天国のムソルグスキーとボロディンに捧げた。自身の指揮で初演。以降は声楽曲や劇音楽に専念する。
※『ロシアの復活祭』 https://www.youtube.com/watch?v=z4e8CvxV4Ho (14分)古い聖歌や復活祭の賑やかな雰囲気、効果的なピツィカート、サビのキャッチーなメロディが親しみやすい。生演奏で聴きたいよおおおお!
1889年(45歳)、ボロディンの未完のオペラ『イーゴリ公』を完成させる。サンクトペテルブルクでワーグナー『ニーベルングの指環』を聴き、その管弦楽法に強烈な感銘を受け、後の創作はオペラが中心になる。
1890年(46歳)、17歳のときから何度か衝突があっても約30年間続いてきたバラキレフとの関係が完全に終わる。バラキレフはムソルグスキーに対する評価が低く、リムスキー=コルサコフは従来からこのことに不満を持っていた。また、バラキレフはペテルブルク楽壇でリムスキー=コルサコフがロシア音楽界最高の理論家と位置づけられていることに嫉妬し、モスクワ音楽院出身の若い作曲家を集めて新しいグループを作ったりしていた。この1890年はリムスキー=コルサコフの作曲活動25周年であり、盛大な祝賀会が開催されバラキレフも招待されたが、バラキレフは参加を断った。リムスキー=コルサコフはカンカンになり、20年後にバラキレフが他界するまで絶縁状態になった。

1893年(49歳)、チャイコフスキーが没する。その結果、帝室劇場で上演するチャンスが訪れ、ほぼ一年おきにオペラの新作を発表していく。
1895年(51歳)、オペラ『クリスマス・イヴ』初演。演奏会用にした組曲が素晴らしい。月夜に雪が照らされて光っているようだ。チェレスタの音色が効果的。
※組曲『クリスマス・イヴ』 https://www.youtube.com/watch?v=bz6J2HozccU (29分)
1896年(52歳)、ムソルグスキーの死後『ボリス・ゴドゥノフ』は存在が忘れられていたが、リムスキー=コルサコフが編曲版の楽譜を出版する。その序文がなかなか手厳しい。「『ボリス・ゴドゥノフ』は、現実を無視した演奏の困難さ、支離滅裂なフレーズ、ぎこちないメロディ、耳障りな和声と転調、間違った対位法、稚拙なオーケストレーションなどのため、上演されなくなった」。リムスキー=コルサコフは和声を変更するなど大幅にオーケストレーションを改訂し、華麗なものとした。これにキュイは「改変しすぎ」と反発、原点回帰を提唱した。
同年、約30年前の交響詩『サトコ』を発展させ、民俗色の濃い中期の傑作オペラ『サトコ』(サドコとも)を作曲(初演は翌年)。約半世紀前、グリンカ(1804-1857)が物語の場面にあわせて音楽表現を変える二分法(人間世界が全音階的、幻想世界が半音階的語法で表現される)をオペラ『ルスランとリュドミラ』(1842)で確立しており、リムスキー=コルサコフはこの二分法を『サトコ』第2場・海底世界で巧みに活用した。サトコは実在した商人。
『サトコ』…スラヴの弦楽器グースリの名人サトコは、貿易で一旗揚げるために商船を使い海に乗り出す。ところがサトコの信仰心の薄さに海の王が怒り、風がやんで船は立ち往生する。海に生贄を捧げるために乗組員でくじを引いた結果サトコが当たり、腹を決めて海に沈んだ。すると海底には海王の宮殿があり、捧げ物としてサトコは歌を披露する。海王は満足し、サトコはら地上へ戻ることが許された。海王の娘ボルフォアの助力を得て故郷に戻ると、折しもサトコの商船が財宝を積んで帰港、ハッピーエンドとなる。第4場の「インドの歌」が有名。
※『サトコ』英語字幕付き https://www.youtube.com/watch?v=iOChVZlKiK0 (3時間)

1897年(53歳)、短編オペラ『モーツァルトとサリエリ』を作曲。原作はプーシキン『小悲劇』の同名戯曲。 努力家のサリエリがモーツァルトの天才に嫉妬し、食事に誘って杯に
毒を入れる。何も知らないモーツァルトはピアノで自作のレクイエムを弾き、サリエリは涙を流す−−。同年、『ホヴーァンシチナ』のモスクワ上演で名バス歌手シャリアピンが歌い、このオペラが脚光を浴びる。
※『モーツァルトとサリエリ』 https://www.youtube.com/watch?v=TZ2ACui-ElA(39分)字幕が欲しい…
1898年(54歳)、リムスキー=コルサコフの最高傑作といわれる9作目のオペラ『皇帝の花嫁』を作曲。雷帝イワン4世の第三夫人マルファ・ソバーキナが結婚直後に急死した史実に基づいた作品。初演は翌年。
『皇帝の花嫁』…舞台は1572年のモスクワ一帯。皇帝の親衛隊員グリャズノイは商人の娘マルファに求婚するが、彼女は幼なじみと結婚が決まっていた。グリャズノイは医師から惚れ薬を手に入れマルファに飲ませる作戦を思いつくが、グリャズノイの愛人リュバーシャはグリャズノイの心変わりに嫉妬し、惚れ薬を毒薬(ゆっくりと効くやつ)と入れ替える。幼なじみとの結婚当日、毒を飲んでしまうマルファ。さあ挙式というときに皇帝イワンの使者が訪れ、マルファが妃に選ばれたと報をもたらす。婚礼は中止となりマルファは妃となったが、まもなく毒により床に伏す。幼なじみが毒の犯人として処刑され、罪の意識からリュバーシャが自白すると、怒りに燃えたグリャズノイはリュバーシャを刺し、リュバーシャは「ありがとう、本望よ」と死ぬ。マルファは正気を失い、幼なじみとの幸せな想い出に入り込み、グリャズノイを幼なじみと思い込んで「明日も来てね」と微笑むのだった。人々は「神よ!」と嘆いて幕が降りる。地獄!!
※『皇帝の花嫁』英語字幕付き https://www.youtube.com/watch?v=adr4JEa8AzY
1900年(56歳)、有名な「熊蜂の飛行」(第3幕間奏曲)が登場するオペラ『皇帝サルタンの物語』が完成。村娘ミリトリサがサルタン皇帝の王妃に選ばれ、ミリトリサの2人の姉は嫉妬する。そして皇帝の出征中に王子が生まれると、姉たちは「怪物が生まれた」と悪い噂を流す。皇帝の命令で妃と王子は樽に入れられ海に流され、島に漂着。王子は立派な若者に成長し、トビ(悪の魔術師)に襲われている白鳥を助けると、島は都市に変身した。父(サルタン皇帝)に会いたい王子は、白鳥の魔法で蜂に変身し、海を渡って皇帝と会う。島に戻った王子は、白鳥が人間の姫であると知り、2人は結婚して幸せに暮らしましたとさ。
※『皇帝サルタンの物語』 https://www.youtube.com/watch?v=URAvOfNJvC0 (157分)
※上記オペラの『熊蜂の飛行』シーンhttps://www.youtube.com/watch?v=URAvOfNJvC0#t=92m40s
※超高速演奏で聴くピアノ版『熊蜂の飛行』ユジャ・ワンhttps://www.youtube.com/watch?v=8alxBofd_eQ (1分42秒)
同年、20歳年下のリヒャルト・シュトラウス(1864-1949/当時36歳)の悪口を妻に書いている。「リヒャルト・シュトラウスの『ドン・ファン』に目を通した。品のないやかましい音楽だ。この種の音楽に対して感じる私の激しい嫌悪と完全な軽蔑を友人の批評家に話した。パリの新聞によると、あの恥知らずのリヒャルト・シュトラウスがパリで『ドン・ファン』を指揮したそうだ。もし誰かが彼を私に紹介しても、私は手を差し出さないだろう」。

1905年(61歳)、1月22日(ロシア暦9日)日曜日、首都ペテルブルクで労働者の窮状と要求を皇帝(ツァーリ)のニコライ2世に直接つたえる請願書を提出するため、僧侶ガポンを先頭に10万人以上の労働者とその家族が皇帝のいる冬宮にむかった。民衆は皇帝をロシアの父と考えており、行進の先頭に皇帝の肖像、十字架、イコンを掲げ、正義の実現を求めて平和的に歩き始めた。ところが軍隊は停止・解散命令に従わないデモ隊に発砲、政府発表で100人前後、実際には数百人の死者が出た。この日まで皇帝はロシア民衆にとって信仰の対象だったが、この「血の日曜日」事件をきっかけに皇帝に対する幻想が消え、翌日からストライキが全土に広まりロシア第1次革命が始まった。
ロシア革命の発端となる同事件をめぐって音楽院でも学生が立憲君主制を求めるデモを行い、学校当局と衝突し、100人の音楽院生が追放された。リムスキー=コルサコフは学生の味方になり支持を表明、その結果3月に教授を免職になる。この措置にグラズノフなどペテルブルク音楽院の数人の教員が抗議して辞任し、学生たちはリムスキー=コルサコフを「殉教者」と讃え、300人以上の学生が連帯して音楽院を去った。
同年、楽壇の潮流の変化を妻に綴っている。他界3年前の手紙。「作曲ではなく、音楽のことを書くなど文学方面に転じる時期が来たのかも知れない。リヒャルト・シュトラウス、ドビュッシー…もう音楽は新しい訳の分からない時代に入ってしまった。私は過去の別の時代に属しているらしい。後ろを振り返って総決算する時期が到来したのか。(略)心より君を抱きしめます、最愛の人よ。(33回目の)結婚記念日の今日、君はどうしていた?キスを君に」。
1906年(62歳)、「改変しすぎ」と非難されていた『ボリス・ゴドゥノフ』を再改訂し、原典に近づける。
1907年(63歳)、ロシア皇帝を風刺した最後のオペラ(第15作目)『金鶏(きんけい)』が完成。専制政治の愚かさを風刺したプーシキンのおとぎ話に基づく作品であり、帝政ロシアを体制批判したため死後まで上演は認められなかった。音楽面ではワーグナーの楽劇の影響を受け、個々の登場人物に固有の旋律を与えるライト・モチーフ(示導動機)の手法を導入している。同年、パリでディアギレフ主催のロシア音楽祭に参加。

『金鶏(きんけい)』…冒頭、星占い師が観客に向かって「おとぎ話には教訓も秘められている」と警鐘を鳴らす。外敵の侵攻を警戒するドドン王は防御を固めるか先制攻撃するか迷っている。すると星占い師が、ピンチを知らせる金鶏を献上する。金鶏は「寝ころんで治めろ!」と叫ぶため、王は喜んで昼寝を始める。続いて金鶏が「気をつけろ!」と叫ぶと敵の来襲が伝えられ、王は2人の王子に出陣を命じた。金鶏は再び「寝ころんで治めろ」といい、しばらくしてまた「気をつけろ!」と鳴く。王が自ら出陣すると自軍は全滅しており、2人の王子は敵の女王を取り合い、刺し違えて死んでいた。敵の天幕からシェマハの女王が登場し、王は彼女の歌声にうっとりとする。女王は「都を武力でなく美の力で奪いに来た」と告げる。王は彼女の虜になり、都で一緒に暮らそうと誘う。都に戻ると星占い師が報奨として女王を求めたため、王は杖で星占い師の頭を打ちすえ殺害した。すると、金鶏が王の頭を突っつき王は絶命する。嘆く民衆に死んだ星占い師が「私と女王以外は幻覚だから悲惨な結末を恐れなくてもいい」と告げる。周囲の声に振り回される皇帝を通して、王政の横暴を鋭く風刺した作品だ。
※『金鶏』 https://www.youtube.com/watch?v=qclBoPHMSeg (107分)
1908年、『ボリス・ゴドゥノフ』(1908年版)をパリで初演し、ボリス役のシャリアピンの名演もあって大成功を収め、27年前に没したムソルグスキーの名を欧州に広めることに貢献した。『金鶏』の台本をめぐり検閲局との軋轢が生じ、リムスキー=コルサコフは心労から狭心症となり、6月21日、ロシア東部ルーガ近郊のリューベンスクで他界した。享年64歳。
1909年、有志が『金鶏』の初演を目指し、検閲を通過させるため当局から求められた台詞の変更を行い、モスクワで上演が実現した。同年、自伝『私の音楽生活年代記』が出版される。
1910年、バラキレフが73歳で他界
1913年、著書『管弦楽法原理』が刊行されて管弦楽法が広く知られ、近代の代表的教科書となった。
1918年、五人組で最後まで生きていたキュイが83歳で生を終える。

リムスキー=コルサコフは五人組の一角ではあるが、極度に民族主義的な作曲家からは距離を置いた。ムソルグスキーのように民族的色彩は濃くなく、海軍士官として各地を航海した経験があるからか、彼の個性は色彩豊かな管弦楽で奏でられる異国情緒に発揮された。また、30年以上も優れた教育者として、ストラビンスキーら多くの音楽家を育てた。民衆のデモに軍隊が発砲しロシア革命の発端となった事件をきっかけに、政治的にも民衆側に立つことを明確にし、音楽院の教授職を解雇される反骨心も見せた。

〔墓巡礼〕
リムスキー=コルサコフの墓は丸みを帯びた石の十字架に、正教会のイコン(聖者の板絵)がそのまま彫り込まれたようなとても珍しいもの。中央にキリスト、上下に天使、左がマリア、右はヨセフだろうか?さらに土台にも4人の聖人がいる。この墓をデザインしたのはストラヴィンスキー『春の祭典』の衣装・舞台デザインにかかわった画家のニコライ・リョーリフ(1874-1947)。ドイツ語名はニコライ・レーリヒ。 バラキレフの隣りにリムスキー=コルサコフが眠っていることに人生を感じる。当初2人は師弟だった。だが音楽観の違いで衝突し、最後の20年間は絶交状態。木洩れ陽の中で墓石が並んでいる姿を見ると「いろいろあったけど…」「音楽を愛するゆえだよね」と両者が穏やかに会話しているようだった。



スメタナ/Smetana Bedrich 1824.3.2-1884.5.12 (チェコ、プラハ 60歳)1994&2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

1994 スメタナが愛したプラハの河、モルダウ 2005

チェコの作曲家でチェコ国民楽派の始祖。祖国の民謡や民俗舞曲をベースに創作し、メロディは民族性が強い。自身の音楽を発展させ、17歳年下のドボルザーク(1841-1904)に手渡した。
7世紀、チェヒ族がボヘミアとモラヴィアを建国、スロヴァーク族がスロヴァキアを建国。
11世紀、ハンガリー系のマジャール族がスロヴァーク族を支配。この頃、ボヘミア王国も神聖ローマ帝国の支配下となり、ドイツ系農民の移住が始まる。
14世紀、ボヘミア王国の国王カレル4世が神聖ローマ帝国の皇帝となり、国家は大いに発展する。
1348年、プラハ大学(カレル大学)が創立される。
15世紀初頭、プラハ大学の総長で聖職者のヤン・フス(1369-1415)が宗教改革を訴え始める。これはルター(1483-1546)よりも1世紀早い。
1415年、フスは異端者としてプラハの広場で火刑にされた。翌年、怒ったチェヒ族が反カトリックを掲げて蜂起しフス戦争が勃発、17年間にわたる反乱となり1436年に鎮圧される。
1618年、フス系プロテスタントのチェコ貴族達がハプスブルク家のオーストリア帝国に反抗し、三十年戦争が勃発。チェコは敗れ、第一次世界大戦の終結まで300年の長きにわたってオーストリアの属国となる。
1780年、オーストリア皇帝に保守的な女帝マリア・テレジアに代わって啓蒙専制君主のヨーゼフ2世が即位。崩御する10年の間、民衆に自由な空気が流れる。

1824年3月2日、ベドルジハ・スメタナがボヘミア東部の小都市リトミシュルに生まれる。ドイツ語名フリードリヒ・スメタナ。3歳の時にウィーンでベートーヴェンが他界。父はビール工場の支配人で、自ら弦楽四重奏に興じる音楽好き。3度結婚した父にとって11番目の子で初の男子となり溺愛された。スメタナは4歳にして父の代役でバイオリンを弾き、6歳でピアノリサイタルを行うなど“神童”とうたわれる。15歳のときにプラハでフランツ・リストの演奏を聴いて感動し、自らもポルカを作曲するなど音楽の道に進むことを希望する。たが、父の願いは生活の安定した役人であり、音楽家を目指すことに反対する。
1842年、18歳のスメタナは日記に「モーツァルトのように作曲し、リストのようにピアノを演奏したい」と記す。この年、15歳の少女カテルジナ(カタリーナ)に初恋。日記に想いを綴る。「彼女の傍にいないと、僕は赤く熱された石炭の上に座っているかのように、平穏でいることがきない」。
1843年、19歳の時に父に自活を約束してプラハに出てピアノと作曲を学ぶ。たちまち生活は苦しくなったが、翌年ピアノの腕前が評価され貴族のトゥーン卿に雇われた。

1846年(22歳)、ベルリオーズがプラハで行ったコンサートに足を運ぶ。そして音楽教師先のトゥーン卿の家でシューマン夫妻に面会し、その際に自作のピアノソナタを見てもらった。夫妻の感想は「あまりにもベルリオーズからの影響が強すぎる」。翌年トゥーン家の音楽教師の職を辞し、コンサート・ピアニストとしての名声を求めて西ボヘミアへ演奏旅行を行う。

1848年(24歳)、手紙を書いたことをきっかけに個人的に親しくなったリストの援助を受け、プラハに音楽塾を開設。以後9年間、この学校を経営し後進の指導にあたる。同年、“フランス2月革命”に触発され、支配者オーストリアに対する民主化革命運動が起きると、これを熱烈に称えて参加し、『国民義勇軍の行進曲』『自由の歌』を作曲した。ハンガリーでも反乱が起きてオーストリアの皇帝フェルディナント1世は退位し、まだ18歳のフランツ・ヨーゼフが皇帝となった。革命運動はオーストリアに厳しく弾圧されたため、スメタナは民族色の強い音楽を書くことを通してチェコの人々を団結させようとしていく。オーストリア当局はスメタナを反逆者と見なして警戒した。
1849年(25歳)、音楽塾はリストが定期的に訪れたこともあって評判が高まり、スメタナの収入はようやく安定し、7年間想い続けたカテルジナと結婚。新妻は日記に記す「結婚式では愛しい両親の祝福、その愛の印に、誰にもまして私は感動しました」。
1855年(31歳)、スメタナが音楽の才能を見出していた自慢の愛娘ベドルジーシカ(4歳)が伝染病で早逝し、スメタナを打ちのめす。その衝撃のなか『ピアノ三重奏曲ト短調』を書いた。カテルジナが生んだ4人の女の子のうち成人したのは次女ジョフィエ(1853-1902)だけだった。
※『ピアノ三重奏曲ト短調』 https://www.youtube.com/watch?v=qVxCQlt-vKo (29分)

1856年(32歳)、オーストリアの支配下にあった祖国の状況や、コンサート・ピアニストになれない不満から、スウェーデンからの招きを受け入れて出国、両親に「プラハは私を認めようとはしない。だから私はそこを離れる」と手紙を書いた。スウェーデンのイェーテボリで音楽学校をひらき、5年間同地の音楽協会の指揮者となる。スメタナの指導の下、イェーテボリのオーケストラや合唱団はみるみる技術が上達し、評判を聞いてピアノの弟子も増え、高い収入が得られた。

1858年(34歳)、13歳年上のリスト(1811-1886)の強い影響のもとに交響詩『リチャード3世』を作曲。愛妻カテルジナが感染していた肺結核が北欧の寒さで悪化。スメタナは妻を経済的に助けようとしてスウェーデンで仕事を続けたが、慣れない気候と異国の生活環境で妻の健康状態を悪化させたことを後悔した。
1859年(35歳)、カテルジナの容体が厳しいものとなり、故郷の風土を求めていったん帰国することに。だが帰路の途上、ドイツのドレスデンで妻は旅立った(享年32歳)。スメタナの日記「何もかも終わってしまった!深く愛した我が宝、妻は今朝5時に息を引き取った。あまりにも穏やかに眠りについたため、私たち(看病していた妻の母も)は彼女が旅立ったことがしばらく分からなかった。さようなら、私の天使!」。スメタナは妻の亡骸を早逝した3人の娘達の側に埋葬し、生活の基盤があるスウェーデンに戻る。
1860年(36歳)、兄弟の義父の家で知り合ったバルバラ(ベッティーナ)・フェルナンディ(20歳)と再婚。バルバラはスメタナが作曲したポルカにダメ出しするなど気が強く、彼は手紙に記す「できることなら私は最下級の召使いとしてあなたのもとに仕えたい」。
1861年(37歳)、祖国チェコで民族運動が盛り上がってボヘミア憲法が制定されたことから帰国を決断。帰国後、スメタナは国民主義音楽を確立するため全精力を注いでいく。長くオーストリアに支配され都市部に育ったスメタナは公用語のドイツ語を話していたため、チェコ語を学んだ(逆に田舎生まれのドボルザークはドイツ語を勉強した)。同年、交響詩『ハーコン・ヤール』を作曲。
1862年(38歳)、幻聴が聴こえ始め、これは聴覚喪失の前兆だった。プラハでは仕事が少なく、ピアニストとして演奏旅行を行う。
1863年(39歳)、チェコ語による最初のオペラ『ボヘミアにおけるブランデンブルク家の人々』を書きあげ初演で好評を得る。プラハで再度音楽塾を開き、その後、フラホル合唱協会の指揮者に就任。

1865年(41歳)、スメタナは「民謡の旋律やリズムを引用したからといって国民音楽が形成されるのではない」と表明する。スメタナは後の“モルダウ”のような標題音楽を創作することで国民性を獲得しようとした。民族独自の伝説や詩歌を題材としても、あくまでも西欧音楽=バッハやベートーヴェンが切り開いたドイツ音楽の語法(伝統)に立ち、チェコの国民音楽を諸外国に伝えようとした。その考えのもと、民謡・舞曲の引用を極力避け、場面描写に限定した。この姿勢は、「国民音楽とはローカル色を出すこと」と考える人々から、「スメタナの音楽は国民音楽ではなくドイツ音楽である」と批判された。

1866年(42歳)、ボヘミアの農村を舞台にしたチェコ語オペラ第2作『売られた花嫁』を完成させる。プラハではチェコ語オペラ上演のための国民劇場の建設計画がすすみ、その仮劇場にて5月30日に『売られた花嫁』は初演された。普墺(ふおう)戦争の開戦2週間前という緊迫した状況で劇場は不入りになり赤字を出したが、4年後の再演で圧倒的成功をおさめる。当時のオペラはイタリア語が主流であり、独・仏語に属さない、ローカルな母国語オペラの先駆けとなった。『売られた花嫁』は誤解が巻き起こすコミカルな恋愛騒動を描き、ポルカやフリアントといったボヘミアの農民の踊りを巧みに織り込み、ヴェルディのイタリア語オペラやワーグナーのドイツ語オペラにはない地方的な味わいで人々を魅了した。初演半年後、スメタナは念願だった仮劇場の首席指揮者に任命される。その所属オーケストラのヴィオラ奏者に25歳の若きドボルザークがいた。

1868年(44歳)、国民劇場の建設工事が始まり、その初日にスメタナはチェコ民族を代表して、6万人が見守るなかで槌打ち役を務めた。同年、オペラ『ダリボル』を作曲。主人公は、囚われの身となり処刑を待つ誇り高き騎士ダリボル。彼を救出をすべく奔走する人々との物語。スメタナ本人が初演の指揮を振ったが、美しくドラマチックな旋律が多いにもかかわらず、悲劇的な全滅ラストのせいか当初はさほど人気がなかった。またライバル音楽家たちから、「チェコ民族の音楽よりもワーグナーに近く、国民劇場仮劇場の音楽監督に相応しくない」とバッシングされた。スメタナの死の数年後、再演をきっかけに『ダリボル』は再評価され、現在では『売られた花嫁』に肩を並べる作品と称えられている。

1872年(48歳)、チェコの伝説に登場する女王リブシェを描いたオペラ『リブシェ』を作曲。公正で頭脳明晰、未来も予知でき、“プラハ(鴨居)”の名付け親となったリプシェの物語。スメタナは『ダリボル』がワーグナー的と批判されたことに反発するかのように、方針を変えるどころかよりワーグナー的な響きを発展させた。翌年、仮劇場の芸術監督に昇進するが、聴覚は悪化していく。
※オペラ『リブシェ』 https://www.youtube.com/watch?v=PpuX7MszD18

1874年(50歳)、幻聴はさらに進んで頭がグルグルと廻り、指揮をしているとコーラスや弦楽器の音がぐちゃぐちゃに混ざって轟音となり、「大きな滝の側に立っているよう」になった。秋になると右耳、左耳の順で聴こえなくなり、聴覚を完全に失った。スメタナは仮劇場の指揮者を辞任、舞台から引退する。失聴後も耳鳴りだけは続き、それがさらにスメタナを苦しめた。だが、その不幸にめげず作曲を続け、女心を描いたオペラ『2人のやもめ』を作曲。そして同年より6曲からなる連作交響詩『わが祖国』の作曲を開始する。同年、第1曲「ヴィシェフラド」、第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」完成。
1875年(51歳)、地方にある次女ジョフィエの嫁ぎ先で静養。『わが祖国』の第3曲「シャールカ」、第4曲「ボヘミアの森と草原から」完成。
1876年(52歳)、傑作『弦楽四重奏曲第1番(わが生涯より)』を作曲。同曲では、青春時代の音楽への傾倒と将来の不安、初恋の人で最初の妻となったカテルジナへの想い、音楽上の戦い、そして終楽章で国民主義音楽の勝利が描かれ、同時に聴覚の異常を示す口笛のようなヴァイオリンの高音(ホ音)を響かせた。友人への手紙「聴覚を失う数週間前からピッコロのような高音が聴こえていた。だから弦楽四重奏曲の最後にホ音を入れて、私の恐ろしい運命を描こうとした」。後年、この曲を聴いた晩年のリストは感嘆し絶賛した。同年、恋愛ドラマのオペラ『接吻』を作曲。
※『弦楽四重奏曲第1番(わが生涯より)』
https://www.youtube.com/watch?v=_L1lPraMNUk (28分)
1878年(54歳)、2組の結婚を描くオペラ『秘密』を作曲。『わが祖国』の第5曲「ターボル」完成。
1879年(55歳)、『わが祖国』の第6曲「ブラニーク」を書きあげ、これで5年をかけて全6曲を揃えた連作交響詩『わが祖国』が完成した。『わが祖国』のうち、チェコ人が愛してやまない“母なる川モルダウ”を描いた第2曲『モルダウ(ブルタバ)』と、祖国の自然風土を描いた第4曲『ボヘミアの森と草原から』は特に人気が高く、しばしば単独で演奏される。同年、初演の機会がなかった弦楽四重奏曲(わが生涯より)が友人宅で演奏され、ドヴォルザーク(当時38歳)がヴィオラ奏者を務めた。

※連作交響詩『わが祖国』…「ヴィシェフラド」「ヴルタヴァ」「シャールカ」「ボヘミアの森と草原から」「ターボル」「ブラニーク」の6曲で構成。
第1曲「ヴィシェフラド」はかつてボヘミア王の居城だったプラハのヴィシェフラド城をモチーフにした叙事的なもの。「ヴィシェフラド」の意味は「高い城」。冒頭で吟遊詩人がハープを奏でながら、今や廃墟となった城の栄枯盛衰を歌うというもの。ヴィシェフラド城をあらわすメロディーは、第2曲と第6曲の最後に再登場する。
第2曲「ヴルタヴァ(独語モルダウ)」はプラハを流れる大河で、スメタナ自身が楽曲を詳しく解説している。「2つの源流から流れ出した水が合流し、森林や牧草地を経て、農夫たちの結婚式の傍を流れる。夜となり、月光の下、水の妖精たちが舞う。岩に潰され廃墟となった気高き城と宮殿の傍を流れ、ヴルタヴァ川は聖ヤン(ヨハネ)の急流で渦を巻く。そこを抜けると、川幅を広げながらヴィシェフラドの傍を流れてプラハへと流れる。そして長い流れを経て、最後はラベ川(エルベ川)へと消えていく」。
第3曲「シャールカ」はプラハ北東の谷の名前。伝説によると、ボヘミアの女戦士シャールカは手酷い失恋を体験し、全男性への復讐を誓い、宴で酔い潰れた騎士達を奇襲して皆殺しにしたという。伝説の内容に従い劇的な曲調となっている。
第4曲「ボヘミアの森と草原から」は風景画のようにボヘミアの田舎の美しさを描写したもの。大平原にさんさんと降り注ぐ夏の陽光から始まり、収穫を喜ぶ農民の踊り、祈りの情景、喜びの歌が繰り広げられ、後半は国民的舞踊のポルカとなる。
第5曲「ターボル」は南ボヘミア州の古い町の名前。同地は15世紀のフス戦争でフス派の重要拠点だった。宗教改革の先駆者ヤン・フスを信奉する信徒たちの英雄的な戦いを讃えた。フス派讃美歌『汝ら神の戦士』(歌詞「最後には彼とお前が常に勝利と共にある」)が曲の全体を貫く。
第6曲「ブラニーク」はボヘミアの山の名前。この山にはチェコの守護聖人・聖ヴァーツラフが率いる戦士たちが眠るとの伝説がある。聖ヴァーツラフと戦士たちは祖国が危機に直面した時、国家を助けるために復活するという。曲の最後にフス教徒の讃美歌『汝ら神の戦士』が再び高らかに響き、チェコの最終的勝利をうたいあげて華々しく終わる。
『わが祖国』全曲 https://www.youtube.com/watch?v=Mrr7zLuaRBk (75分)

1881年(57歳)、チェコ国民音楽のシンボル、念願の国民劇場が完成。?落としで9年前に完成していたオペラ『リプシェ』が初演され、聴衆は熱狂的な喝采をおくった。ところが悲惨なことに、13年かけて完成した国民劇場がわずか2カ月後に工事関係者の火の不始末で全焼してしまう。耳の聴こえないスメタナが劇場再建のため資金集めに奔走する姿は人々の心を打ち、急ピッチで再建が進む。
1882年(58歳)、『売られた花嫁』の第100回記念公演。失語症の障害が現れる。完成作としては最後のオペラ『悪魔の壁』を初演。教会と悪魔を描くシリアス作品。この年、初めて連作交響詩『わが祖国』6曲が全曲初演され、聴衆は6つの楽曲ごとに立ち上がって割れんばかりの喝采を送った。チェコの未来を明るくうたった第6曲「ブラニーク」が終わると劇場は興奮のるつぼとなった。
1883年(59歳)、焼失から2年でチェコ国民劇場は再建され、その?落としで再び『リプシェ』が上演された。同年、『弦楽四重奏曲第2番』を作曲。スメタナは幻聴に加えて幻覚に襲われるようになり精神病を発症、急激に体調が悪化していく。
1884年、モーツァルトやベートーヴェンに手紙を書いて切手を求めるなど精神錯乱が高じ、4月に発作を起こしプラハの精神病院に強制入院させられる。スメタナは食事もせずに大声で叫んだり同じ場所をぐるぐる歩き、突発的に高笑いをした。その翌月、5月12日に痩せ衰えて他界した。享年60。穏やかな最期であったという。失聴と狂気は脳梅毒が原因と推察されているが、認知症とする意見もある。3日後に葬儀がプラハ旧市街のティーン教会で行われ、亡骸はヴィシェフラット民族墓地へ埋葬された。
1902年、晩年のスメタナの世話をしていた次女ジョフィエ(ゾフィー)が49歳で他界。
1918年、ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアの3つの地方が一つのチェコスロヴァキア共和国となり、悲願の独立を果たす。
1926年、スメタナ・ミュージアムが完成。
現在、チェコでは毎年命日の5月12日から“プラハの春・国際音楽祭”が開催され、その開幕コンサートで必ず交響詩『わが祖国』6曲が通しで演奏される。

昔からボヘミア人は枕の下にヴァイオリンを置いて寝ていると言われるほど、豊かな音楽的才能の持ち主と認められてきた。スメタナはオペラ『売られた花嫁』や連作交響詩『わが祖国』などでチェコ国民の素朴な暮らしを見事に描きあげた。
音楽の力はすごい。スメタナと同じくチェコに生まれた画家ミュシャは、晩年このモルダウを聴いて作風がガラリと変わったと告白している。
スメタナの墓は剣のような石柱で土台の黒い石板に名前と生没年が金色の文字で刻まれていた。ベートーヴェンを襲った失聴と、シューマンを苦しめた狂気の2つと戦ったスメタナ。国民楽派の先駆者の労をねぎらった。



★ロドリーゴ/Joaquin Rodrigo 1901.11.22-1999.7.6 (スペイン、アランフェス 97歳)2005
Cementerio Municipal Santa Isabel, Aranjuez, Madrid, Spain

  
ギターの形をした墓石には代表曲「アランフェス協奏曲」の第2楽章が彫られていた!

ファリャ以後のスペインを代表する作曲家となったホアキン・ロドリーゴは、1901年11月22日にスペイン東部バレンシア州サグントで生まれた。3歳のときに悪性ジフテリアにかかり失明。8歳でピアノとヴァイオリンの学習を始め、バレンシア音楽院で作曲やピアノを学ぶ。

1924年(23歳)、管弦楽曲『子どものための5つの小品』でスペイン国家賞を授与される。
※『子どものための5つの小品』 https://www.youtube.com/watch?v=4E9Pl51UGWM(13分)
1927年(26歳)、パリへ留学。エコール・ノルマル音楽院でポール・デュカス(1865-1935)に作曲を師事。25歳年上のファリャ(51歳)とも知り合い音楽活動を励まされた。
1933年(32歳)、トルコ人ピアニストのビクトリア・カムヒと結婚。
1936年(35歳)、7月17日スペイン内戦が勃発。ロドリーゴは戦乱を逃れてフランスやドイツに身を置いた。
1939年(38歳)、4月1日、3年に及んだ祖国の内戦が終結する。ロドリーゴは、マドリード南部の古都アランフエスが内戦で被害を受けたことに胸を痛め、スペインの国民楽器であるギターに光を当て、祖国とアランフエスの平和への想いを込めて、ギターと管弦楽のための『アランフェス協奏曲』を作曲する。イングリッシュ・ホルンからギターに引き継がれる哀愁を帯びた冒頭の旋律が有名な第2楽章「アダージョ」は、20世紀のクラシック音楽の中で最も有名な楽曲となる。音量の小さなギターとオーケストラの組合せは非常に珍しく、当時の聴衆を驚かせた。同年帰国し、マドリードに定住する。
※『アランフェス協奏曲〜アダージョ』
●イエペス驚異の10弦ギター!ただし動画の録音に難あり https://www.youtube.com/watch?v=CY29JlyAH7c
●切れ味良し!アンヘル・ロメーロ https://www.youtube.com/watch?v=G0tY8REYdYE
●変わり種!ギター練習用のカラオケ版!https://www.youtube.com/watch?v=m4DwinYKrQk

1940年(39歳)、『アランフェス協奏曲』がバルセロナで初演され、非常に高い評価を得た。フランス6人組の作曲家フランシス・プーランクいわく「一音の無駄もない」。以後、スペインを代表する作曲家として幅広く活躍する。
1941年(40歳)、一人娘のセシリアが生まれる。
1943年(42歳)、ピアノ協奏曲の『英雄的協奏曲』を作曲。
※『英雄的協奏曲』第2楽章いいです!頭出し済み https://www.youtube.com/watch?v=cEQBjl8MNls#t=13m49s
1944年(43歳)、バイオリン協奏曲の『夏の協奏曲』を作曲。
1947年(46歳)、歌曲においても才能を発揮し『四つの愛のマドリガル』を作曲。「君ゆえに死ぬ思い」が有名。同年、マドリード大学の哲学科・文学科の教授として音楽史を担当。
1949年(48歳)、チェロ協奏曲の『ギャラント協奏曲』を作曲。
1952年(51歳)、ハープ協奏曲の『セレナード(セレナータ)協奏曲』を作曲。
1954年(53歳)、ギターの名手アンドレス・セゴビアの依嘱により、ギター協奏曲の『ある貴紳のための幻想曲』を作曲。全楽章の主題を17世紀スペインの音楽家ガスパル・サンスの作品(舞曲)から借りている。
※『ある貴紳のための幻想曲』 https://www.youtube.com/watch?v=ic3XTt7FNfQ
1960年(59歳)、ジャズの帝王マイルス・デイヴィスがアルバム『スケッチ・オブ・スペイン』で、ギル・エヴァンス編曲の『アランフェス協奏曲』を大きく取り上げる。

1963年(62歳)、ギター独奏曲『3つのスペイン風小品』を出版。「ファンダンゴ」「パッサカリア」「サパテアード」で構成。
※『3つのスペイン風小品』演奏の映像がカッコいい
https://www.youtube.com/watch?v=7xB_eCoga_M (11分半)
1967年(66歳)、4つのギターと管弦楽のための『アンダルシア協奏曲』を作曲。本作は著名なギター・ファミリーであるセレドニオ・ロメロ(1913-1996)から息子3人と共演できる作品を求められ作曲。
1968年(67歳)、2つのギターと管弦楽のための『マドリガル協奏曲』全10曲を作曲。スペインの古い旋律や民謡を題材にしつつロドリーゴの個性を盛り込んだ作品。
1973年(72歳)、最初で最後の来日。
1982年(81歳)、ギターと管弦楽のための『宴の協奏曲』を作曲。編成は『アランフェス協奏曲』と同じ。この曲もまた良い。81歳と思えないみずみずしさ。
※『宴の協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=F3ojFgSFZmY (28分)
1991年(90歳)、スペイン国王ファン・カルロスより貴族に列せられ、アランフエス庭園侯の爵位を授かる。
1996年(95歳)、スペイン国民にとって最高の名誉となるアストゥリアス王太子賞を授与された。
1998年(97歳)、フランス文化勲章を受章。
1999年7月6日、マドリードの自宅にて老衰のため他界。97歳まで長寿し、家族に看取られながら旅立った。亡骸はアランフエスの墓地に埋葬され、ビクトリア夫人も共に眠る。ロドリーゴの没後、娘セシリアは「ホアキン・ロドリーゴ財団」を創設した。
ロドリーゴは近代フランスの作曲家の影響を受けつつも、スペイン情緒と古典派的な楽想が一体となった独自の作風をつらぬいた。独奏楽器と管弦楽の協奏曲形式の作品が多く、旋律が美しい。97歳まで生き、家族に看取られながら“老衰”で永眠という、こんな幸福な最期を迎えた有名作曲家を僕は他に知らない。シューベルトの3倍も生きている。シベリウスは91歳まで生きたけど30年も新曲が書けずに苦しみ死因は脳出血、ストラヴィンスキーも88歳まで長寿したけど最後の3年は長期入院。ロドリーゴは、独裁者フランコが世を去って民主主義国家として歩き出した新生スペインを生きることもできた。3歳で失明したが、美しい音楽に彩られた人生がその後に90年以上も待っていた。

〔墓巡礼〕
マドリードの50km南にロドリーゴが眠る古都アランフェスがある。鉄道を使えば45分。夏のアランフェスは酷暑、駅は閑散としており、アランフェス宮殿は待ち時間なしで入れた。ロドリーゴの墓所がある「Cementerio Municipal Santa Isabel」は、宮殿とは駅を挟んで反対側。炎天下を1kmほど歩くと墓地の入口に着いた。管理人のお兄さんは少しワイルドなイケメン。その場でロドリーゴの墓への行き方を書いてもらったけど、敷地に入ると墓地のド真ん中に巨大なロドリーゴの墓があるため地図は無用だった。黒い巨石に現代アート風にデザインされたギターが彫られており、下部に『アランフェス協奏曲』の第2楽章の楽譜が刻まれていた。この曲はスペイン内戦に心を痛めたロドリーゴが平和への願いを込めて書きあげたという。優しきロドリーゴに合掌。

※“ギターの父”タレガとは違ってロドリーゴ本人はピアニストであり、ギターは演奏しなかった。
※『アランフェス協奏曲』第2楽章は、重病の妻や最初の子どもの死の追悼が込められているとも。名ギタリストのアンドレス・セゴビアはこの名曲を生涯に一度も演奏しなかった。献呈を受けられなかったこと、ナルシソ・イエペスが同曲でデビューして大注目されたこともある。



★パガニーニ/Nicolo Paganini 1782.10.27-1840.5.27 (イタリア、パルマ 57歳)2005&18
Cemetery Della Villetta, Parma, Emilia-Romagna, Italy


2005 2018
悪魔扱いされて教会から埋葬を拒絶された音楽家は彼だけ。静かで美しい墓地が最後に見つかってよかった

 
ナポレオンの2人の妹と浮名を流したり、賭博狂で公演前日にヴァイオリンを巻き上げられたりと破天荒


 
愛器は1743年製のグァルネリ「カノン(大砲)」。遺言で故郷のジェノバに寄贈され、市庁舎で遺品と共に展示されている

 
二度目の墓参時、レンタカーで別の墓地に行ってしまい、正しい墓地まで車で先導して下さった親切なパルマの御夫妻

イタリアの作曲家であり、音楽史上最高のヴァイオリンの名手。スーパースター。1782年10月27日にイタリア北西部の港町ジェノバで生まれる。5歳でマンドリンを始め、7歳から湾岸労働者でアマチュア音楽家だった父の指導でヴァイオリンの特訓を始めた。朝から晩まで毎日10時間も練習し、集中が切れると罰として食事抜きの練習になるというスパルタ教育を受けた。間もなく父は息子に優れた楽才を見出し、プロのヴァイオリニストや作曲家にも師事させる。そんな生活が10年以上続いたが、パガニーニ自身は後に「一度も辛いと感じたことはなかった。演奏技術が向上すると嬉しかった」と回想している。
初の公開演奏は9歳。13歳でヴァイオリンのあらゆる演奏技法を習得し、もはや学ぶべきものがなくなったため、自分で作曲した練習曲で腕を磨いた。
1797年(15歳)頃から積極的に活動を始め、ミラノ一帯のロンバルディア地方を演奏旅行し、たちまち人気者になった。
1800年(18歳)、パガニーニは表舞台から突然姿を消し、約3年間雲隠れする。フィレンツェの貴婦人、女性ギター奏者ディダと恋に落ち、世間の目を欺くために“庭番”となって彼女の邸宅で暮らし愛を育んだ。彼女に勧められてギターを弾き始め、ギターでも演奏技術を極めていった。以降しばらく作曲に集中し、数多くのギター曲を作曲する。//1805年まで4年間ほど作曲に集中する。
※『37のギター・ソナタ』 https://www.youtube.com/watch?v=JVbA70FCpgA (95分)
※『ヴァイオリンとギターのためのソナタ集』(12曲) https://www.youtube.com/watch?v=XEL4qNdWxrQ (21分)
1801年(19歳)、ヴァイオリン独奏のための特殊技法を駆使した『24のカプリッチオ(奇想曲)』の作曲を開始。従来のヴァイオリン演奏は弦を弾くピチカート奏法の際に右手で行っていたが、パガニーニはギター演奏で行う左手によるピチカートをヴァイオリンに取り入るアイデアを思いつき、作品に反映させた。
1802年(20歳)、賭博で大負けして演奏会前日に大切なヴァイオリンを巻き上げられたパガニーニに、ある商人が秘蔵のグァルネリのヴァイオリン(1743年制作)を貸し出し、演奏会で聴いた美しい音色に感動した商人は「生涯使い続ける」ことを条件に譲渡した。パガニーニはこのヴァイオリンが大きな音を出すことから「カノン(大砲)」と名付けた。
1805年(23歳)からナポレオンの妹でルッカ公妃のエリーザ・ボナパルト(当時28歳/1777-1820)に招かれて宮廷オペラの指揮者、音楽監督の地位に8年間就く。エリーザは既婚者にもかかわらずパガニーニに熱をあげ、彼を愛人にするために「侯爵夫人付き独奏者」に任命し、パガニーニは寵愛を一身に受けた。パガニーニの気持ちが離れそうになると、エリーザは音楽家の彼を近衛騎兵隊の隊長に任命し、パガニーニが宮廷の女官を好きになると嫉妬のあまり失神したという。
1807年(25歳)、6年がかりで作曲に取り組んでいた『24のカプリッチオ』が完成。本作の最終曲は実に華々しい変奏曲で、たった16小節の主題が後世の多くの作曲家を魅了し、リスト「パガニーニ練習曲第6番」、ブラームス「パガニーニの主題による変奏曲」、ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲」などに編曲されている。現代ではアンドリュー・ロイド・ウェバーが弟のチェロ奏者のために変奏曲「Variations」を書いている。第4番はシューマン「練習曲作品10第4」の原曲となった。
1808年(26歳)、イタリア・トリノで演奏会を開いたところ、聴衆の中にナポレオンの別の妹ポーリーヌ・ボナパルト(当時28歳/1780-1825)がおり、彼女もまたパガニーニにぞっこんになった。彼はここでも浮名を流したが、ポーリーヌが異常に熱をあげ愛人になれと強要するので辟易し、半年でトリノから逃げ出した。
1810年(28歳)、ミラノスカラ座のコンサートマスターに任命される。
1813年(31歳)、ビルトゥオーソとして認知されるべく、イタリア各都市で自作の演奏会を開催。その演奏技術の高さは各地でパガニーニ・ブームを巻き起こした。
1814年(32歳)、ジェノバで出会った若い女性と恋に落ち、パルマへ駆け落ちしたところ、相手の親から誘拐罪で訴えられ数日間を獄中で暮らす。
1815年(33歳)、ジェノバがサルデーニャ王国領となり、国王の御前で自作の弦楽四重奏曲を演奏。
1818年(36歳)、『ヴァイオリン協奏曲第1番』完成(1811年説、1816年説あり)。翌年の初演ではヴァイオリンだけを半音上げて明るく響くように演奏した。オーケストラはソリストの演奏を最大限に目立たせるように書かれている。
1819年(37歳)、ロッシーニのオペラ『エジプトのモーゼ』に触発され、ヴァイオリンと管弦楽のための『モーゼ幻想曲』を作曲。ヴァイオリンの一番低い音域=4番線(G線)のみで演奏される変わった曲。「エジプトのモーゼ」の『汝の星をちりばめた王座に』の旋律の変奏曲。同様にロッシーニのオペラ『タンクレディ』『チェネレントラ(シンデレラ)』のアリアから管弦楽作品を書いた。ロッシーニはパガニーニを気に入り、2年後に作品の初演を依頼している。
1820年(38歳)、それまで自作品の楽譜を門外不出とし、楽譜を出版しようとしなかったパガニーニだったが、初めて『24のカプリッチオ』をミラノで出版した。曲芸師のように評価されることに反発したパガニーニは、秘蔵の超絶技巧が盛り込まれている同曲をもって、自らの超人的なテクニックがテクニックのためのものでなく、自分の音楽を表現するための手段であることを伝えようとした。『24のカプリッチオ』はヴァイオリニストの聖典となった。
1822年(40歳)、歌手アントニア・ビアンキと同棲を開始。
1823年(41歳)、梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与を開始。
1825年(43歳)、2度目のイタリア演奏旅行。同年、一人息子アキーレが生まれる。
1826年(44歳)、この頃『ヴァイオリン協奏曲第2番』完成(完成年は諸説あり)。同じ旋律を何度も繰り返すロンド(輪舞曲)形式の第3楽章「鐘のロンド(ラ・カンパネッラ)」が有名で、リストは12年後(1838年)にこの旋律を変奏曲形式によるピアノ曲に編曲した「パガニーニによる大練習曲」を書きあげ、第3番「ラ・カンパネッラ」が絶賛された。また“ワルツの父”ヨハン・シュトラウス1世が同旋律で『パガニーニ風のワルツ』を書いている。
※ヨハン・シュトラウス1世『パガニーニ風のワルツ』 https://www.youtube.com/watch?v=kmqhml3bjSk
1827年(45歳)、もはやイタリア国内にパガニーニと比較されるヴァイオリニストはいなくなった。同年、ウィーンでベートーヴェンが他界。享年56歳。
1828年(46歳)、6年に及ぶ演奏旅行を行うため、アントニアと3歳の息子を連れて初めて国外に出る。3月29日にウィーンでデビュー、同地にて7月まで14回の公演を行った。ヴァイオリンの超絶技巧奏者としてセンセーションを巻き起こす。最晩年のシューベルト(1797ー1828)は、ウィーンに来たパガニーニの演奏を聴くために本や家財道具を売ってまで高いチケットを手に入れ、「鐘のロンド」で知られる『ヴァイオリン協奏曲第2番』を聴き、「アダージョ(第二楽章)では天使の声が聞こえたよ」と感激した。その半年後の11月19日、シューベルトは31歳で他界した。パガニーニの名声は全ヨーロッパに広まっていく。一方、アントニアと金銭面で衝突し、パガニーニは彼女と別れてアキーレを引き取った。
1829年(47歳)、ドイツ・ベルリンで公演、ここでも大成功し、以後2年間ドイツとポーランド各地で公演。シューマン夫妻やゲーテと交流する。演奏を聴いたゲーテいわく「彗星か何かのように聞こえた」。様々なヴァイオリニストがパガニーニの演奏技法を研究するため、公演先についてまわり、楽譜が未出版の曲を五線紙に書き起こした。この頃、『ヴァイオリン協奏曲第4番』『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』を作曲。5月、ワルシャワでパガニーニは自作の新曲『ヴェネツィアの謝肉祭』を演奏、会場にいた若きショパン(当時19歳/1810ー1849)はピアノ変奏曲『パガニーニの思い出』を作曲した。
※ショパン『パガニーニの思い出』 https://www.youtube.com/watch?v=qu3ancVGojc
1831年(49歳)、パリ、ロンドン、アイルランドで公演し空前の成功を収める。フランスでもウィーンと同様に14回公演し、パリの新聞は「悪魔的な神技であり、人々はみな狂気に走った」と会場の沸騰ぶりを伝えている。当時19歳で失恋の痛手に沈んでいた作曲家兼ピアニストのフランツ・リストは、パリの公演を聴いて感激し「ピアノのパガニーニになる!さもなければ気狂いになる」と決意、猛練習で超絶技巧を身に付け、パガニーニがバイオリンの演奏の上で開発した技法を、ピアノの演奏技法として発展させた。一方、フランスの公演で12万フランを稼ぎながら、一度もチャリティーの慈善演奏会(パリはコレラが流行していた)に参加しなかったことから「守銭奴」との悪評が立ってしまう。パガニーニは「慈善演奏会の日は体調がすぐれなかった」と弁明した。この頃、『常動曲(モト・ペルペトゥオ)』を作曲。
※メニューイン演奏の『常動曲』。原題の「moto perpetuo(モト・ペルペトゥオ)」は“永久機関”の意。
https://www.youtube.com/watch?v=dPRWshWq9E4 (3分)

1833年(51歳)、パリに移住。作曲家ベルリオーズ(当時30歳/1803-1869)の演奏会に足を運び、ベルリオーズと親交を結ぶ。会場にはショパンも来ていた。(この年ベルリオーズは『幻想交響曲』を完成させており、その演奏会かも?)
1834年(52歳)、梅毒治療のための10年に及ぶ水銀中毒が進行し、次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、この年ついに引退する。この頃、パガニーニはヴィオラの音色に心惹かれており、ベルリオーズにヴィオラと管弦楽のための交響曲を委嘱し、ベルリオーズは『イタリアのハロルド』を書きあげた。同年、ロンドンで出会った女性と駆け落ち未遂事件を起こし、パリの新聞がこのスキャンダルを大々的に報じたためフランスにいられなくなり、6年ぶりにジェノバに帰郷する。
1838年(56歳)、ベルリオーズの『イタリアのハロルド』を演奏会で聴き、終演後、指揮をしていたベルリオーズの楽屋を訪れてその才能を讃えた。この頃のベルリオーズは、新作オペラの失敗や妻の多額の借金などで生活が困窮していた。2日後、パガニーニはベルリオーズに手紙と小切手を送った。「親愛なる友よ、ベートーヴェン亡き後、後継者となり得る者はベルリオーズしかいません。あなたの素晴らしい作品を心から賛美しており、2万フランを贈り物としてお受け取り下さい」。この翌年にベルリオーズが就いたパリ音楽院の仕事は年俸1500フランであり、その13倍の大金だった。
1839年(57歳)、ベルリオーズが劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成させ、パガニーニに献呈する。
1840年5月27日、水銀中毒による上気管支炎、慢性腎不全によりニース(当時はフランスではなくサルデーニャ王国領)で他界。享年57歳。遺言により愛用のヴァイオリン「カノン」は「他人に譲渡、貸与、演奏をしない」ことを条件に故郷ジェノヴァ市に寄贈された。パガニーニは自分が編み出した演奏技術を他人に知られないよう、生前は自分の曲をほとんど出版しなかった。演奏旅行中はホテルの部屋から外に音が漏れると盗作されると警戒し、ほとんど練習しなかった。ヴァイオリン協奏曲など自作の演奏会では、共演するオーケストラに演奏会の数日、もしくは数時間前でパート譜を配らず、本番が終わると楽譜を回収した。しかもリハーサルでパガニーニはソロを弾かず、楽団員は本番でしかソロ・パートを聴けなかった。さらに死の直前に自作の楽譜をほとんど焼却したうえ、残った楽譜も遺族が売却して散逸したため、多くの作品が失われてしまった。12曲あったというヴァイオリン協奏曲は6曲しか見つかっておらず、うち第3番と第6番が見つかったのは20世紀に入ってからだ。たった一人しか弟子をとらず、その弟子も演奏技法を秘密にしたことから、演奏家としては一代で流派が途絶えた。ベルリオーズは「百年に一度の超人が一人の後継者も残さず去ってしまうのは実に残念」と惜しんだ。
1925年、オーストリアの作曲家レハールがオペレッタ『パガニーニ』を作曲。
2013年、ドイツ映画『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』が公開。主演は“21世紀のパガニーニ”、デイヴィッド・ギャレット。5億円のストラディバリウスで演奏した。

奔放な性格で知られ、生涯、恋愛とギャンブルを好んだパガニーニ。その人間離れしたヴァイオリンの演奏技術ゆえに「パガニーニは悪魔に魂を売り渡して高い演奏技術を手に入れた」と噂され、聴衆の中には本気で十字を切る者がいた。しかもパガニーニは病気がちで細身かつ肌が浅黒いうえ、鷲鼻で目つきが非常に鋭かったことから、この容姿も悪魔伝説に信憑性を与えた。
それに加え、パガニーニは教会にビタ一文寄付せず、息子に洗礼を受けさせず、日曜ミサにも行かず、死の床の終油の秘蹟すら受けなかったため、没後はニースの司教が埋葬許可申請を拒否。遺体は防腐処理を施され、4年間野戦病院の地下納骨堂に安置されていたが、近隣の住民から「毎晩ヴァイオリンのすすり泣くような声が聞こえる」と苦情が出たことから、さらに各地を転々とし、息子アキーレは埋葬地を探して奔走、没後56年も経った1896年(1876年説あり)にローマ大司教から埋葬許可が下り、ようやくパルマの共同墓地が永眠の地となった。
パガニーニはヴァイオリンの4本の弦のうちの1本だけで難曲を弾くことができた。それをアピールするため、演奏中に弦を高い方から爪でわざと切り、最後に残ったG弦で弾きこなし、聴衆を驚かせた。さらに2音や3音の和音を同時に出すことで、あたかも複数のヴァイオリンが演奏されているように錯覚させる響きを生み出して人々を圧倒した。
作曲家としては8曲のヴァイオリン協奏曲と複数のヴァイオリン・ソナタを残したが、2音を同時に出すダブルストップ奏法を高速で連続させたり、ピチカートの際に左手て弦に軽く触れて倍音を響かせるフラジョレット奏法を要求するなど、どれも高度な技術を必要とする難曲ばかり。名人芸的演奏効果はリストのほかラフマニノフにも影響を与えた。

〔墓巡礼〕
初巡礼は2005年。パガニーニが眠るパルマのヴィレッタ墓地(Cimitero della Villetta)はパルマ駅の近くから市バス1番で行けた。バスは墓地の前で停まってくれる。パガニーニの墓は正門から50mほど進んで最初の四つ辻を左折すると正面に見える。胸像付きだから分かりやすかった。悪魔と思われて、半世紀以上もお墓を建てられる場所が見つからなかったパガニーニ。遠回りになったけど、パルマの美しい墓地に眠ることができて良かったじゃないか。
再巡礼は13年後の2018年。レンタカーで墓参したけれど、カーナビに登録する際に間違えて異なる墓地を入れてしまい、気づかないまま現地へ。「あれ?おかしい、前回来たときと景色が違うような…」。違和感を覚えながらも、まさか別の墓地にいると思わず、石屋さんや墓参に来た人に片っ端から「パガニーニのお墓はどの辺ですか?」と聞いた。英語を話せる人が全然いなくて、こちらが何とか簡単なイタリア語で質問できても、肝心の相手の言葉が理解できなかった。「質問したものの、返事が理解できない」、これは墓マイラーあるあるだ。とはいえ、「パガニーニ、ノー、ノー」と言っていたので、ここではないことには気づいた。この日は2時間前にiPadを作曲家マスカーニの墓地に置き忘れるという痛恨のミスを犯しており、これで心が折れ、パガニーニの本当の墓地を探す気力が湧かなかった。断念して次の目的地ミラノに出発しようとすると、先刻質問した地元の中年夫婦に呼び止められ、旦那さんが言葉とジェスチャーでこう言ってくれた。「パガニーニの墓地まで車で先導するから、後ろからレンタカーでついてきて」。なんて親切なんだろう!正しい墓地は500m北にあり、たった2分で到着。こんなに近いのに、パガニーニに墓参せずに帰るところだった。老夫婦が声をかけてくれたお陰で再びパガニーニに会えた。本当にありがとうございます!

※入場料が3倍に跳ね上がっても完売し、どの会場も開演の1時間前には超満員になった。
※極端に痩せていたのは、少食が健康をもたらすと信じ、朝食抜き、昼は一杯のココア、夜は生薬と少ない食事をとるだけで済ませていたため。
その代わり朝は遅くまで眠っていました。
※金銭面に非常にシビアだったと伝えられ、偽造チケットが多く出回ったことから、自ら会場の入口でチケットをチェックしたという。
※木靴に弦を張って楽器として演奏したこともあった。
※ロッシーニ「イタリア人音楽家にとってパガニーニがオペラに興味を示さなかったのは幸運だった。あの才能を前に我々は消し飛んでいただろう」。
※パガニーニはアンコール演奏をしない主義であり、サルデーニャ国王からのアンコールも断った。その結果、サルデーニャを2年間追放になった。

※歌心たっぷりの『カンタービレ』https://www.youtube.com/watch?v=2llF6u_H7Cs (4分)

※中国のヴァイオリニスト、ニン・フェンの超絶技巧
無伴奏ヴァイオリン独奏曲『独奏ヴァイオリンのためのデュオ(Duo for One Violin)』
https://www.youtube.com/watch?v=iBuBfLsf4xI (2分23秒)
無伴奏ヴァイオリン独奏曲『ゴッド・セイヴ・ザ・キング(クイーン)』英国国歌による変奏曲
https://www.youtube.com/watch?v=JSyRzUv6VDM (3分41秒)

※冒頭から引き込まれる『弦楽四重奏曲第1番』
https://www.youtube.com/watch?v=efCGGIufArg (18分27秒)なぜ音楽史で殆ど無視されているのか…

〔参考資料〕『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『ららら♪クラシック』(NHK)、『名曲事典』(音楽之友社)、『世界人物事典』(旺文社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト)、『ブリタニカ国際大百科事典』(ブリタニカ)、ウィキペディアほか。
『神か悪魔か?』 http://www.geocities.jp/kim39570741/column/Column016.html



★スクリャービン/Alexander Nikolayevich Scriabin 1872.1.6-1915.4.27 (ロシア、モスクワ 43歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

サンクトペテルブルクとモスクワを結ぶ寝台特急
真夜中に出発し、朝8時にモスクワに到着する
ロシアの寝台車両は飛行機のように食事つき!
お弁当ひとつでお腹がいっぱいに


独自の和声「神秘和音」を生み出す。左側に、アントン・ルビンシュテイン、タネーエフと墓が並んでいる

音楽におけるロシア象徴主義の担い手。調性に代わる新しい和声語法をいち早く実現したひとり。独自の和声様式、神秘和音を確立したロシアの作曲家、ピアニストのアレクサンドル・スクリャービンは、1872年1月6日にモスクワで生まれた。父は軍属の外交官、母はピアニスト。1歳の時に母は23歳で結核のため他界する。幼児期からピアノを始め、ショパンやリストを敬愛。11歳から作曲を始める(『カノン』を書いたようだ)。スクリャービンは非常に小柄で病弱だった。
1886年(14歳)、陸軍兵学校に在籍していたが、楽才を認められて特別にモスクワ音楽院の院長タネーエフに作曲と音楽理論を学ぶ。同年、ショパンに影響を受け、作品1を冠した『ワルツ ヘ短調』を作曲。
※『ワルツ ヘ短調』 https://www.youtube.com/watch?v=wuDcziYoQZI (3分28秒)
1888年(16歳)、軍を辞めて正式にモスクワ音楽院ピアノ科に入学。同級生に1歳年下のラフマニノフ(1873-1943)がいる。作曲を“ロシアのブラームス”セルゲイ・タネーエフ(1856-1915)他に学ぶ。
1891年(19歳)頃、リムスキー=コルサコフ(当時47歳/1844-1908)の知遇を得て、生涯にわたる親交を結ぶ。
1892年(20歳)、モスクワ音楽院を卒業。ピアノ科の卒業試験では、ラフマニノフが1位、スクリャービンが2位だった。巨大な手で知られるラフマニノフに対し、スクリャービンの手はやっとオクターヴに届くほどだった。スクリャービンは音楽仲間と超絶技巧曲の制覇数を競って無理に特訓を続け、バラキレフの難曲『イスラメイ』の練習中に右手首を壊してしまう。代わりに左手を特訓すると共に、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぎ始める。スクリャービンは左手に右手以上の運動量を要求し、広い音域を駆け巡らせたことから「左手のコサック」と呼ばれた。スクリャービンは、医者から「右手は治らない」と言われて絶望し、意地悪な運命を神に呪い、これらの想いを込めた『ピアノソナタ第1番』を作曲した。結局、手は治った。
※『ピアノ・ソナタ第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=fWhncBwxp2M (21分)全体の曲想は、高き目標→挫折→反抗の叫び→葬送。
1894年(22歳)、サンクトペテルブルクでピアニストとしてデビューする。同年、3歳年下の初恋の女性ナターリアのために『12の練習曲』を作曲。第8番、第12番が特に有名。この年、裕福な音楽出版業者ベリャーエフがパトロンになってくれ、西欧主要都市へのピアノ演奏旅行を行う。スクリャービンの演奏は、ピアノにハンマーがあることを忘れさせるような軽く柔らかいタッチと、絶妙なペダル技法によって、音が大気中に舞い上がり漂ったという。
※『12の練習曲』から「第8番」ホロヴィッツhttps://www.youtube.com/watch?v=CWJddnQBrS8 (3分41秒)
※『12の練習曲』から「第12番」ホロヴィッツhttps://www.youtube.com/watch?v=uz3TqZtAkeQ (2分半)
1897年(25歳)、8月に反対するベリャーエフを押し切って、衝動的にピアニストのヴェラと結婚する。同年、ロマンティックかつメランコリー、詩情あふれる『ピアノ協奏曲』を完成させる。左手は超絶技巧を要する。
※『ピアノ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=F734PyD3NAw (27分)
同年10月、着想から5年をかけた『ピアノソナタ第2番“幻想ソナタ”』が完成。第1楽章は月光に照らされた夜の海、第2楽章は嵐の海を表現。ベートーヴェンの緊密感とショパンの叙情性が融合している。
※『ピアノ・ソナタ第2番“幻想ソナタ”』https://www.youtube.com/watch?v=esBlh7do26s (11分半)
1898年(26歳)、『ピアノソナタ第3番“心理状態”』を作曲。結婚の件でベリャーエフを怒らせて年金をカットされたため、同年から母校モスクワ音楽院のピアノ科教授に就任、5年間教える。パリで演奏会を成功させる。
※『ピアノ・ソナタ第3番』第3楽章“星の歌”頭出し
https://www.youtube.com/watch?v=_-dYmAZQobE#t=9m29s (ここから5分間)
1900年(28歳)、モスクワで『交響曲第1番』を作曲。6楽章かつ『第九』のように終楽章に合唱が入り、「万人よ来たれ、芸術の許に。われら芸術賛歌を歌わん」とうたう野心的な作品。ワーグナーの影響も垣間見える。
※『交響曲第1番』ムーティ指揮フィラデルフィア管https://www.youtube.com/watch?v=tKWl4hRD9zQ (50分)
※『交響曲第1番』第3楽章(頭出し済)トリスタン好きなら堪能できるはず
https://www.youtube.com/watch?v=tKWl4hRD9zQ#t=16m34s
1901年(29歳)、最初の重要な管弦楽作品となる『交響曲第2番』を作曲。全5楽章の大規模な構成。当時の人々には不協和音過多に感じられ、初演の指揮者は「頭がいかれちまいそうだ。なのにこの音楽から逃げ場がないとは。助けてくれ」と悲鳴をあげている。現在では世紀末の傑作と見る指揮者も多い。
※『交響曲第2番』終楽章。普通に良い曲だし、キャッチーな旋律もあるし、なんで逃げる必要があるのか?(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=01fIvsIEI6I#t=39m18s
同年、ラフマニノフが代表作となる『ピアノ協奏曲第2番』を完成させる。
1902年(30歳)、作曲に専念するため、性格に合わなかった教職を辞す。

1903年(31歳)、スクリャービンには妻と4人の子供がいたが、知人の9歳年下の妹タチアナ(当時22歳)と激しい恋に落ちる。彼女と海外で暮らす計画を立て、彼女への愛がインスピレーションとなり大量に曲が生まれた(おいおい…)。
当初はショパンの影響を受けたピアノ曲を書いていたが、各音符は次第に独自の神秘的な響きをまとっていく。この年、中期スクリャービンの幕開けとなる『ピアノソナタ第4番』を作曲。序奏と切れ目のない2楽章で構成。官能的な気だるさをたたえた第1楽章の主題が、最後で爆発的に再現され循環していく。スクリャービンはこの8分間の第4番を例に「私の目標は最小の形式の中に納められた最大の音楽思想である」と語った。
※『ピアノ・ソナタ第4番』プレトニョフ演奏 https://www.youtube.com/watch?v=lQabCdxJ6DM (8分36秒)
同年、『8つの練習曲』を作曲。第5番は壮麗な演奏効果と徹底した緻密な構成を持つ傑作。
※『8つの練習曲』から「第5番」ホロヴィッツ
https://www.youtube.com/watch?v=xudZ3J4EeoQ (3分)楽譜を見ながら息を止めて聴き入ってしまう
この年はさらに『2つの詩曲』も作曲。第1番は薄い音のカーテンがゆらめいているような繊細な楽曲。
※『2つの詩曲』から「第1番」ホロヴィッツ https://www.youtube.com/watch?v=GeIkc573yJg (3分31秒)
なんと!スクリャービン本人演奏の『二つの詩曲』の録音がある!
※『2つの詩曲』スクリャービン演奏 https://www.youtube.com/watch?v=VLkQKGe1Rnc (5分)
1904年(32歳)、ニーチェ哲学に夢中になり、中期の傑作『交響曲第3番“神聖な詩”』を作曲。短い序奏に続き、第1楽章「闘争」で神の支配を受ける人間と、自由な自我を持つ人間との闘争が描かれる。第2楽章「悦楽」では官能を描き、終曲の第3楽章「神聖なる戯れ」では、歓楽から目覚め人性の神化をたたえる勝利の凱歌を描く。本作は翌年に巨匠ニキシュの指揮で初演された。一方、私生活では妻子を捨て、愛人のタチアナと欧州に旅立ちイタリアで暮らす。
※『交響曲第3番“神聖な詩”』 https://www.youtube.com/watch?v=PuDt9_Nt8tA (46分)
※『交響曲第3番“神聖な詩”』ガリシア交響楽団 第一楽章のココから40秒間が好き!好き好き好き!! https://www.youtube.com/watch?v=jbiU9lBPv7w#t=6m52s
ディーマ・スロボデニューク(Dima Slobodeniouk)指揮ガリシア交響楽団(Sinfonica de Galicia/スペイン)のライブ演奏なんだけど、なんすかこの素晴らしいオケは!?まったく初耳の地方楽団なのに、ものすごい音の厚み。日本文学研究者ロバート・キャンベルさんに似ているコンマスのヴァイオリンは音色に艶がある。指揮者も日本語ウィキに項目がない人。ネットを検索したら他にもガリシア響にハマっている人が複数いて同志感ハンパない。
※脱線するけどガリシア響の『スター・ウォーズのテーマ』。勇壮!https://www.youtube.com/watch?v=4aVMetrLGZ0#t=2m00s

1905年(33歳)、タチアナとパリに移住。この頃から、ニーチェ哲学に代わって人間の神秘的霊智で神を体験・認識できると説く思想、神智学(しんちがく)に傾倒し、神秘主義的傾向を深める。神智学では、芸術的体験と宗教的体験は一致したものであるべきとしており、楽想に独自の「神秘和音」が目立つようになる。スクリャービン「私と神の間には区別がない。つまり私は神である」。彼は音楽による人類の救済という悲願まで抱くようになり、楽想の根底には、太陽に向かって上昇していく人間が、法悦の中で太陽、そして宇宙と合体するという理念があった。以後、自作のピアノ曲をたずさえて演奏旅行をおこなう。
1906年(34歳)、タチアナとスイスに移住。その後、翌年にかけてアメリカ演奏旅行。
1907年(35歳)、スイスに戻り4年ぶりのピアノ・ソナタ、『ピアノ・ソナタ第5番』をわずか6日間で書きあげる。タチアナは「彼(スクリャービン)の内から泉のように溢れ出した」と記した。スクリャービンの手紙「“第5ソナタ”はピアノのための長い詩ですそして。私が今までに書いたピアノ曲の中で最も優れたものです」。序奏と個性的な3つの主題で構成され、超絶技巧を要する難曲。調性記号は無きに等しい。単一楽章で書かれ、以降のスクリャービンのピアノ・ソナタはすべて単一楽章となる。
スクリャービンはこの曲に自作エッセイ『法悦の詩』の一節「私はお前を生へと招く、おお神秘の力よ!創造の精神のうつろな深みに沈む、おどおどした胎児のお前に、私はいま大胆さをもたらす」を寄せている。当曲はロマン派的な音楽から神秘和音などを用いた独特な作風へ移行する過渡期のソナタとなった。
同年、パリでディアギレフ主催のロシア・コンサートに参加し、その後ベルギーに移った。
※『ピアノ・ソナタ第5番』リヒテル爆速鬼演奏 https://www.youtube.com/watch?v=xDTgj_69JKA
(10分53秒)音量に注意!冒頭でピアノ爆発。
※ホロヴィッツ https://www.youtube.com/watch?v=U2SMRQ3nzgM (12分半)主題ごとに楽譜が色づけされていて、曲の構成がめっさ分かりやすい動画!
※グールド https://www.youtube.com/watch?v=HT2FXqUJLls (13分)
同年、作品番号順では調号を持つ最後の作品『四つの小品』が完成。各曲が1分であったり18小節であったりと、3年後にウェーベルンが確立する極小主義の先駆けとなっている。
※『四つの小品』 https://www.youtube.com/watch?v=ma-r9V9kOJg (5分)

1908年(36歳)、さらば調性!作曲に3年をかけた代表作、神秘主義的傾向の強い交響曲第4番『法悦の詩』(原題“エクスタシーの詩”)が完成。冒頭、フルートがため息のような短い主題を奏でた後、オルガン、ハープを含めた四管編成の大オーケストラが20分にわたってその主題を法悦の境地まで練り上げていく。人生に疲れ切ったような旋律が、自我に目覚めてテンポや性格を変えて発展し、法悦のクライマックスを目がけて高調していく。最後はすべての楽器が輝かしい音色を放ち陶酔感の中で終曲となる(現代はエクスタシーであり、性交の絶頂を描いた曲とも)。決まった調性を持たず、安定感のある一般的な和音の代わりに、「神秘和音」と呼ばれる四音の積み重ねによる独特の和音を駆使した。
※『法悦の詩』楽譜付き https://www.youtube.com/watch?v=tOjQ4j9bLvg
※『法悦の詩』ブーレーズ指揮シカゴ響https://www.youtube.com/watch?v=BWINpXNd5KE(22分)
※『法悦の詩』ラスト3分 https://www.youtube.com/watch?v=BWINpXNd5KE#t=19m20s
同年、オーストリアでもシェーンベルクが『弦楽四重奏曲第2番』の第4楽章で無調主義音楽に突入する。この年、リムスキー=コルサコフが他界。
1909年(37歳)、5年ぶりにロシアに戻り、2度と国外には出なかった。(帰国は1910年とする説もある/『名曲事典』音楽之友社)

1910年(38歳)、最後の交響曲となった交響曲第5番『プロメテウス〜火の詩』を作曲。合唱(ヴォカリーズ)つき。プロメテウスはギリシャ神話の巨人(ティタン神族)の名。粘土から人間を創り、天界の火を人間のために盗み与えた。これによって個性と想像力に欠けた人間は神性を手に入れ、自我に目覚める。スクリャービンはこの物語を音楽で描き、管弦楽で宇宙を、ピアノで人間を表して対立させた。冒頭、魂のない人間の無知を象徴するような混沌とした暗い和音で始まり、次第に光明と感情を増して、個性と創造力を持つ存在へ向上し、終結部の絢爛豪華な音楽で神化が描かれる。
スクリャービンはプロメテウスを人類に叡智を授けた英雄として捉え、音楽を通じて崇め奉った。彼はこの作品で従来の伝統的な和声法を捨て、4度音程を基盤とする和音「神秘和音」(ハ、嬰ヘ、変ロ、ホ、イ、ニ)を使用し、調性を無視した大胆な不協和音は当時の批評家を困惑させた。

かねてからスクリャービンは、音楽が単なる感情の表現に終わることに満足せず、聴く者を日常から解き放って、忘我のうちに神性に近づくことを理想としていた。そのため表現手段にも工夫を凝らす。彼は一定の音を聴くと一定の色が感じられるという“色聴”を探究し、色と音の総合芸術を目指した。彼は音色と合った色をスクリーンに投影する装置「色光オルガン」を発明。「投光器」と12色のカラー・スライド&白色光を演奏会場に用意し、ステージ中央のスクリーンに加えて、合唱団員に白い衣装を着用させて拡張スクリーンとした。五線譜に記載された色光ピアノの指示には、Cは赤、Gはオレンジ、Dは黄、Aは緑、Eは空色、Bは青、F♭は明るい青、C♯は紫、A♭はライラック、E♭はフラッシュ、B♭はローズ、Fは深い赤色と指定されている。初演は残念ながら「色光ピアノ」が故障して音と光のスペクタクルは実現しなかったが、現在、まれに照明効果つきで演奏される。
※『プロメテウス〜火の詩』ブーレーズ指揮シカゴ響 https://www.youtube.com/watch?v=6osJBtQRjoY (23分)僕は『法悦の詩』の方が好き

1911年(39歳)、新たな和声語法を確立した無調音楽の『ピアノ・ソナタ第6番』及び『ピアノ・ソナタ第7番“白ミサ”』を作曲。第6番はスクリャービンいわく「悪魔のように陰うつなソナタ」。第7番はスクリャービンは自身が「白ミサ」と名付け、同曲をとりわけ好んで、演奏会でもプライベートでもよく弾いた。「大気にも似た芳香がここ(白ミサ)には満ちています。この音楽は神秘の中にあり、この静謐な喜びに耳を澄ませて下さい」。楽譜には演奏者への指示として「天使のような官能的喜びをもって」「こよなく純粋に、深い優しさを込めて」と書かれている。あえて旋律を展開させず、何度も反復を重ねることで忘我の法悦に導いていく。
※『ピアノ・ソナタ第7番』 https://www.youtube.com/watch?v=JE-riazUvJE (12分20秒)
1913年(41歳)、夏に無調作品の『ピアノ・ソナタ第8番』『第9番“黒ミサ”』『第10番“トリル・ソナタ”』を一気に書きあげる。『第8番』は写譜が遅れたため、発表は一番最後になった。友人が命名した『第9番“黒ミサ”』は、不安的な響きが基調となったピアノの難曲の1つで、呪術的熱狂をイメージさせる。
※『ピアノ・ソナタ第9番“黒ミサ”』ホロヴィッツ https://www.youtube.com/watch?v=c8T-aM6jmGw (9分)
傑作『第10番“トリル・ソナタ”』はトリルの多用からこの通称で呼ばれるようになった。スクリャービンは本作を「昆虫のソナタ」と語っている。いわく「あらゆる草木や小動物は私たちの霊魂の現れである。彼らは象徴なのだ。私の“第10ソナタ”は昆虫のソナタである。虫たちは太陽から生まれる。彼らは太陽の接吻なのである」。細かな動きのトリルは昆虫そのもの。同年、ストラビンスキーが『春の祭典』を作曲。
※『ピアノ・ソナタ第10番“トリル・ソナタ”』
https://www.youtube.com/watch?v=HWoVqZ_TdXE (12分42秒)途中で楽譜が3段になっており目を疑った。

1914年(42歳)、最後のピアノ曲の一つ、詩曲『焔に向かって』を作曲。曲の大半が神秘和音で統一されており、暗い情念のような、たった2種類の単純な音形が、楽想を変えることなくひたすら繰り返される。低音から次第に上昇していき、ついには忘我と恍惚に至り、神と合体する神秘体験をもたらし曲は終わる。作曲のきっかけは、自身が夢で見た地球文明の最期の姿であったという。14年後のラヴェル『ボレロ』(1928)に先駆けて、曲全体をクレッシェンドが支配している。
※『焔に向かって』 ホロヴィッツ https://www.youtube.com/watch?v=WlqGkVc29Gw (5分44秒)やばい
同年、『二つの舞曲(ダンス)』を作曲。第1番はすぐに低音が消えて高音だけが空中に残る音形を繰り返し、浮世離れした美しさを放っている。
※『二つのダンス』から「第1番」グールド演奏 https://www.youtube.com/watch?v=F3ii-nIjmDU (1分58秒)

1915年4月27日にモスクワで43年の短い人生を終えた。死因は虫刺されからくる敗血症(臓器不全)。20年後にオーストリアの作曲家アルバン・ベルク(1885-1935)も虫刺されが原因の敗血症で没している。スクリャービンが2年前から作曲に取り組んでいた、ピアノ、オルガン、管弦楽、声楽による『神秘劇』(全3部)は未完となった。スクリャービンはこの作品において、色光オルガンを使った音楽と光(色彩)の融合だけでなく、香気や舞踊まで加えた究極の舞台芸術を考えていた。
没後、ラフマニノフは友人スクリャービンの作品をリサイタルで採り上げながらロシアを旅行した。ラフマニノフが公の場で他人の音楽を演奏するのは初めてであり、スクリャービンの評価を高めることに貢献した。

デビュー当初は“ロシアのショパン”と言われたスクリャービンだが、のちに無調音楽の門を開けた1人となった。彼は伝統的な西洋音楽の3和音に対し、神秘主義思想に基づく4度の積み重ねでできた和音「神秘和音」を創始(四度音程を六個重ねた和音)。今までにない独特の新しい色彩をもつ和声法と、非常に複雑なリズム、唯一無二の音楽性から、音楽史上でひとつの特異な存在となっている。

※モスクワ、赤の広場から2キロほど西にスクリャービンが晩年に数年間過ごした家が『スクリャービン博物館』として公開されている。1階はサロン、2階に愛用のピアノや、彼が発明した色光ピアノ(12個のスイッチと電球)、自筆の楽譜などが展示されている。
※スクリャービンのことをアルバン・ベルクやプゾーニ、山田耕筰、シマノフスキは敬慕したが、ストラヴィンスキーは「単なる妄想狂」と評した。
※「リストは自分の持てるテクニックをすべて、ショパンは自分の持てる気持ちを曲に、スクリャービンは個人ではなくピアノという楽器を最大限に生かす方法を楽譜にできた」(篠崎史紀)

〔墓巡礼〕
2005年に初めてモスクワに眠るスクリャービンを墓参した。アエロフロート・ロシア航空で関空からモスクワに入り、まずはチャイコフスキーやロシア五人組の墓巡礼のためサンクトペテルブルクに向かった。モスクワは国際線と国内線の空港が異なるためシャトル・バスで移動。ここで想定外のハプニングが。チェックインをしようと思ったら、係員が「この搭乗券は使えない。なぜなら日付が明日になっているから」。ギョエーッ!日本の旅行代理店がミスって日にちがずれていた!頭が真っ白になったが、とにかく旅行代理店に国際電話をかけて事情を話した。回答は「ペテルブルク行きの便はたくさん出ているから自分で買ってほしい、料金はこの電話代も含めて帰国後に返します」とのことだった。ひょえ〜。幸い、3時間後のフライトに空席があり、その夜遅くにペテルブルクに着くことができた。いやはや肝を冷やした。まる1日、同地を巡ったあと、真夜中の夜行列車でモスクワに向かった。深紅のかっこいい車両で、移動時間は8時間。4人部屋でベッドの下段が座席になるタイプ。テーブルにはお弁当セットが置かれていた。うおお、ロシアの夜行って飛行機みたいに食事付きなのか!サラミソーセージ、チーズ、パン、ヨーグルト、果物、飲み物、おやつがあり、起床後に美味しくいただいた。

朝8時にモスクワに到着。宿に荷物を預けて身軽になった後、いよいよスクリャービンなどロシアの偉人がたくさん眠る墓地へ。市内中心部クレムリンから5km南西に世界遺産ノヴォデヴィチ女子修道院(1524年創建、元々はクレムリンの出城)が建つ。この修道院付属のノヴォデヴィチ墓地(1898年造営)に彼らは眠っている。敷地には音楽家だけでもプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、カバレフスキー、シュニトケ、リヒテル、ロストロポーヴィチ、オイストラフ、ギレリスが眠り、作家ではチェーホフやゴーゴリ、他にバレエ舞踏家アンナ・パヴロワの再来ガリーナ・ウラノワ、映画監督エイゼンシュテイン、思想家クロポトキン、そして失脚などで「赤の広場」に埋葬されなかったフルシチョフ、エリツィンなどロシアの偉人が大集合している。地下鉄1号線のスポルチーブナヤ駅(モスクワ大学の2駅手前)から住宅街を500m北西に歩くと正門が見えてくる。ちなみに地下鉄は距離に関係なく一律55ルーブル(約90円)と安い。

ノヴォデヴィチイ墓地は奥行きが400mもあるため、入口で英語の案内図を購入。1部100ルーブル(約200円)。地図を見ながら目的地点に着いたけれど、墓碑の文字はキリル文字でスクリャービンがなかなか見つからない。キリル文字はアルファベットと一部同じだけど、英語のRはP、SはC、NはH、HはXに置き換わっているのでややこしい。「Scriabine」の場合は「Скрябин」となる。“C”で始まる墓石を一つずつ確認してついに彼のお墓を発見した。四角柱の正面に横顔のレリーフが付いたものだった。左隣はモスクワ音楽院を創設した音楽教育者ニコライ・ルビンシテイン(1835-1881)。チャイコフスキーはニコライが没した際に追悼でピアノ三重奏曲『偉大な芸術家の思い出』を作曲した。ちなみに兄のアントン・ルビンシテインはペテルブルクに音楽院を創設している。ニコライのさらに左隣にはモスクワ音楽院でスクリャービン、プロコフィエフ、ラフマニノフを教えた“ロシアのブラームス”セルゲイ・タネーエフの墓だ。
43年の人生を駆け抜けたスクリャービン。彼は質・量ともにロシアにおいて前代未聞のピアノ・ソナタを連作し、プロコフィエフら次世代に先鞭をつけた。独自の新しい色彩の和声を生み出した彼が長生きしていたら、次はどんな音楽世界に進んでいただろう。短い生涯を惜しみ追悼した。



★アルビノーニ/Tomaso Giovanni Albinoni 1671.1.17−1751.6.14 (イタリア、ヴェネチア 80歳)2005
Church of San Marco, Venice, Veneto, Italy
※誕生日は6.8説、6.14説もあり。命日は1.17説があり。


墓はサン・マルコ寺院の地下のいずこかに…

バロック音楽の作曲家トマゾ・アルビノーニは、1671年6月8日に当時のオペラの中心地ヴェネツィアで生まれた。同郷のヴィヴァルディより7最年長。父はベルガモから移住してきた製紙業者。家庭は裕福であり、最初に出版された楽譜には肩書きを“ディレッタント(好事家)のヴァイオリニスト”としており、職業作曲家ではないことをアピールしている。
1694年(23歳)、作品1『12のトリオソナタ(三声のソナタ集)』をコレッリのパトロンのオットボーニ枢機卿に献呈する。
※『12のトリオソナタ』普通に良いです!https://www.youtube.com/watch?v=8IDOSnZiz7I(87分)
1700年(29歳)、マントヴァ公の宮廷ヴァイオリニストとなり、作品2『五声のシンフォニアと協奏曲集』を出版、マントヴァ公に献呈。海賊版が出るほど人気を得た。
※『五声のシンフォニアと協奏曲集』から「シンフォニア ト短調」https://www.youtube.com/watch?v=fS600cRhEg4 (8分半)
1701年(30歳)、『組曲』作品3を作曲、こちらも人気を集める。
1703年(32歳)、自作オペラ上演のためフィレンツェを訪問。
1705年(34歳)、ヴェネツィアで結婚。
1707年(36歳)、作品5『ヴァイオリンと通奏低音のための12の協奏曲』を作曲。この曲集にヴァイオリン協奏曲があり、アルビノーニは独奏バイオリン協奏曲の創始者のひとりに。
※作品5の5『ヴァイオリン協奏曲イ短調』https://www.youtube.com/watch?v=ZvDD2BMWdo8 (7分22秒)
1708年(37歳)、父が他界。
1711年(40歳)、作品6『12のヴァイオリン・ソナタ』を出版。この楽譜の肩書きは“ヴァイオリン音楽家”となっており、公に職業音楽家と名乗っている。とはいえ、資産持ちであり、貴族の援助を必要とせず気ままに作曲ができた。
1713年(42歳)、コレッリがローマで他界。享年59歳。
1716年(45歳)、作品7『12の協奏曲集(五声の協奏曲集)』を作曲。この中の『オーボエ協奏曲』は美しい旋律と哀調が同居しており特に人気が高い。
※作品7の6『オーボエ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=SoiONk9NVoI(7分40秒)
1722年(51歳)、自作オペラ上演のためミュンヘンを訪れ指揮台に立つ。作品9『12曲の五声の協奏曲集』を発表、バイエルン選帝侯に献呈する。
※作品9の2『オーボエ協奏曲』第2楽章アダージョが特に素晴らしい。頭出し済み。https://www.youtube.com/watch?v=Pw0ItJw1qAg#t=3m48s (12分半)
※作品9の3『2つのオーボエのための協奏曲』https://www.youtube.com/watch?v=wuYvIUY1iWU (11分)
※作品9の12『2つのオーボエのための協奏曲』https://www.youtube.com/watch?v=rpG9wzgD9s4 (7分42秒)
オペラ作曲家として名を上げたアルビノーニだが、以降の30年間はオペラ2作と『5声の協奏曲』、『12の協奏曲集』くらいしか記録が残っていない。
1742年(71歳)、存命にもかかわらず、自身のヴァイオリン・ソナタ集が「遺作」としてフランスで出版される。
1751年1月17日、糖尿病によりヴェネツィアで他界した。享年79歳。
約50曲のオペラを作曲しており、生前はオペラ作曲家として著名であったがオペラの楽譜は散失した。現在は器楽曲の作曲家として認知されている。バッハはアルビノーニを評価し、弟子達に研究を勧め、自身もアルビノーニの主題を使ったフーガを2曲書いている。
作曲家本人の名が冠された最も有名な曲『アルビノーニのアダージョ』は、残念ながらアルビノーニとは無関係。20世紀イタリアの音楽学者レモ・ジャゾットが1958年に発表した偽作。ある意味、誰もが騙されるほどの名旋律を書いたレモ・ジャゾットが凄い。

〔墓巡礼〕
海外の墓マイラーサイトによるとアルビノーニの墓所はヴェネツィアの世界遺産サン・マルコ寺院(830年創建、火災後1090年再建)となっている。828年、前身の聖堂にエジプトで殉教した聖マルコの遺骸が安置されたといい、マルコはヴェネツィアの守護聖人となった。2005年、アルビノーニに墓参するためサン・マルコ寺院を訪れたが、神父さんも、守衛さんも、売店の人も、全員が「見たことない」という返事!ガーン、ショックすぎる。でも晩年のアルビノーニは生きてる間に「遺作」が出版されてしまうような状況であり、“墓石不明”を心のどこかで覚悟はしていた。ヴェネツィアの顔ともいえる巨大寺院であり、広い敷地のいずこか地下に眠っているのだろう。僕は寺院全体をアルビノーニの墓碑と見立て、サン・マルコ広場から遥拝した。



★ボロディン/Aleksandr Porfiryevich Borodin 1833.11.12-1887.2.27 (ロシア、ペテルブルク 53歳)2005&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

2005 美しい金のモザイクで楽譜が刻まれていた。
ボロディン像はとても穏やかな顔をしている
2009 手前に小さな台座があり清楚な花が供えられていた


●09年5月、読者のVindobonaさんがボロディンの墓の曲名を全て解読して下さいました!有難うございます!
1段目 交響曲第2番第1楽章
2段目 歌劇『イーゴリ公』の「だったん人の踊り」
3段目 歌曲『暗い森の歌』
4段目 交響曲第3番第2楽章 スケルツォ
5段目 交響詩『中央アジアの草原にて』


ロシア国民楽派の「五人組」のひとりで、オリエンタリズムの濃い作風で知られるアレクサンドル・ボロディンは1833年11月12日にサンクトペテルブルクで生まれた。
実父はトルコに近いカフカス(コーカサス)南部イメレチア地方の最後の領主でタタール人(ダッタン人=モンゴル系イスラム)の血をひく。不倫で生まれた私生児ゆえに実子として戸籍に入れず、自分の農奴であるポルフィリ・ボロディンの息子として登録した。実父はボロディンのことを気にかけ、学問とピアノ教育を受けられるよう支援、ボロディンは少年時代からチェロの演奏に親しみ、13歳でフルート協奏曲を書いた。
青年になりサンクトペテルブルクの医科大学で医学と化学を学び「首席」で卒業。後に化学の研究たため、しばしばヨーロッパを訪れ、最先端の音楽に触れていく。
1856年(23歳)、軍医となり陸軍病院の外科医として1年間過ごし、軍務で知り合ったムソルグスキーからシューマンの曲を紹介され刺激を受ける。同年、未来にボロディンが同志となる作曲家バラキレフ(19歳)とキュイ(21歳)が出会い、「五人組」誕生の第一歩となる(「五人組」は後年の呼称であり、当初は「力強い一団」と呼ばれていた)。
1857年(24歳)、バラキレフのサークルに若い青年士官ムソルグスキー(18歳)が参加する。
1858年(25歳)、「生体におよぼすヒ酸およびリン酸の作用」という論文で医学博士となる。
1859年(26歳)、化学を研究するためドイツのハイデルベルク大学に入り、1歳年下の化学者メンデレーエフ(1834-1907※10年後に元素の周期律を発見)と出会い親交を深める。さらにイタリアに留学し、ピサ大学で臭化ナトリウムを用いた有機窒素の定量法を発見。
1861年(28歳)、カルボン酸の銀塩に臭素を作用させ有機臭素化物を得るハンスディーカー反応を発見し、後世「ボロディン反応」とも呼ばれる。※現在、人名がついた化学反応を集めた事典に「ボロディン反応」掲載。同年、リムスキー=コルサコフ(17歳)がバラキレフたちに合流する。
1862年(29歳)、民族主義的な音楽の確立を目指すバラキレフのサークルにボロディンが入り、これで「五人組」が揃った。「五人組」の作曲活動はロシア民謡やロシア文学から強く影響を受け、オペラや標題作品に傑作が多く残された。29歳のボロディンは最年長であり、この時点で他のメンバーはバラキレフ(25歳)、キュイ(27歳)、ムソルグスキー(23歳)、リムスキー=コルサコフ(18歳)。ちなみに路線が異なる西欧志向のチャイコフスキー(1840-1893)はこの時22歳。バラキレフはボロディンの楽才を見抜き、いきなり交響曲の作曲を勧めた。ボロディンはバラキレフの指導を受けて『交響曲第1番』の作曲を開始し、5年後の1867年に完成する。
1864年(31歳)、母校ペテルブルク医科大学の化学教授となる。
1867年(34歳)、歌曲『眠れる王女』で成功し、本格的に作曲活動に入る。ボロディン自身が作詞、大意は「ひっそりとした森の中で王女は眠り続ける。いつになったら眠りから醒めるのか誰にも分からない」。
※『眠れる王女』 https://www.youtube.com/watch?v=JEH4NZ1kbqc (4分半)
1869年(36歳)、バラキレフの指揮で『交響曲第1番』が初演される。賛否あったが賛の声に励まされ、すぐさま『交響曲第2番』の作曲に取り掛かった。また、「五人組」の理論的指導者だった評論家スターソフの勧めで、並行してロシアの英雄を描いた12世紀の民族叙事詩「イーゴリ軍記」を下敷きにしたオペラ『イーゴリ公』の作曲も開始する。ボロディンはオペラのために歴史書を読み耽り、イーゴリ公の砦跡など現地を訪れた。そして劇中の有名な「ダッタン人の踊り」を一気に書きあげた。

※『イーゴリ公』…舞台は1185年のプティーヴリ(現ロシア西部、ウクライナとの国境)の町。キエフ大公国の君主イーゴリ公が南方から侵略してくるコンチャック・ハン率いる遊牧民族ポロヴェッツ人(広義の意味でダッタン人)との戦いを決意する。妻ヤロスラヴナは「嫌な予感がする」とイーゴリ公の出陣を止めようとするが、イーゴリ公は遠征に向かう。そしてロシア軍は敗北しイーゴリ公と息子は捕虜になった。敵軍の1人のキリスト教兵士が、こっそりイーゴリ公に逃亡を勧めるが、イーゴリ公は「卑怯なことはできない」と断る。敵将コンチャック・ハンは礼儀を知る男で、イーゴリ公の勇気に感心し同盟を呼びかけた。イーゴリ公が同盟を拒否したことでさらに惚れ込み、大きな宴でもてなす。ちなみにこの宴は原作になく、ボロディンが独自に付け加えたもの。このシーンは異民族をあしざまに悪く描いておらず、ボロディンの平和思想と優しさが表れている。宴を描いた第2幕「ダッタン人の踊り」は有名な旋律でCM等でよく使われている。−−やがてイーゴリ公の息子ウラディーミルはコンチャック・ハンの娘コンチャコヴナと恋に落ちる。若者たちは結婚したいとコンチャック・ハンに願い、ハンは2人の仲睦まじい姿を見て結婚を認める。だが、それはそれ、イーゴリ公が同盟案に謝意を示しつつ断ったため、コンチャック・ハンはプティーヴリの町を襲撃した。町が攻撃されたことを知ったイーゴリ公は単身脱出しプティーヴリに戻ると、既にイーゴリ公を死んだと思っていた妻や民衆が歓喜し、再起を歌いあげる。コンチャック・ハンは脱走したイーゴリ公をあえて追わなかった。
『イーゴリ公』 https://www.youtube.com/watch?v=CzmIu-VjRCM (2時間44分)
「ダッタン人の踊り」頭出しhttps://www.youtube.com/watch?v=CzmIu-VjRCM#t=43m53s
※強烈なエネルギーの11分間!!
1872年(39歳)、女性のための医学校の設立に尽力し、若い科学者を育てるために学生用の実験所を開設したほか、貧困学生の助成もおこなった。

1876年(43歳)、7年越しの作品となった『交響曲第2番』が完成。ボロディンいわく「第三楽章でスラブの吟遊詩人の歌を復活し、第一楽章では古いロシアの王侯が集会しており、フィナーレでは騎士達の饗宴の中からグースリ(弦楽器)と竹笛の音が聴こえてくる」。全体にスラブの空気が満ち、スターソフはその曲調から「勇士」と命名した。 オペラ『イーゴリ公』の作曲を再
開する。
1877年(44歳)、ロシア的色彩の濃い『交響曲第2番』が初演され、後にこの曲を聴いた指揮者ワインガルトナーは「ロシアを見なくとも、この曲によって完全に真実のロシアを想像することが出来る」「チャイコフスキーの悲観的なロシア音楽とは反対に、あふれ出る気迫、生活への愛情と、自然の力をあらわしている。それはロシアの自然への讃歌であり、ロシアの大地を照らす太陽への讃歌だ」と語った。(『名曲解説全集(2)』音楽之友社)
※『交響曲第2番』コンドラシン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウの名演!
https://www.youtube.com/watch?v=C-NbPCEVE4k (27分)
1879年(46歳)、公務の間に少しずつ作曲し、5年を費やして『弦楽四重奏曲第1番』が完成。ボロディンが絶対音楽(純粋音楽)である弦楽四重奏曲を書き始めたとき、スターソフやムソルグスキーから「国民主義の理念に相容れない」と強く非難されたという。
※『弦楽四重奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=epHbK3Q34eM (39分)
同年、歌曲『海』を作曲。ボロディンが作詞した歌詞は「若い船乗りが故郷に帰ろうとするが、嵐に遭って沖においやられる」。真意は「政治的亡命者が祖国への潜入を企てるが挫折する」というもので当局の検閲を逃れるために船乗りの歌にしている。
※歌曲『海』 https://www.youtube.com/watch?v=KIKLeDrm7IQ (3分半)
1880年(47歳)、皇帝アレクサンドル2世の即位25周年記念の祝賀行事のため交響詩『中央アジアの草原にて』を作曲。音による風景画であり、総譜の巻頭にはこう書かれている。「果てしない中央アジアの平原にのどかなロシアの歌が響いてくる。続いて遠方からラクダの隊商が近づき、東洋の歌が聴こえてくる。この東洋の隊商はロシア兵に守られながら荒野を歩み続け、やがて草原のはるか彼方に遠ざかり、ロシアの歌と東洋の歌は混じり合って一つのハーモニーを作り、草原の空に消えていく」。コサック(ロシア人)の主題とダッタン人(東洋人)の主題が対話するように登場し、クライマックスで混じり合い、最後は広い空に溶けていく…余韻が素晴らしい名曲となった。
※『中央アジアの草原にて』 https://www.youtube.com/watch?v=Dq4bOmxKVQQ (8分)

同年、『交響曲第1番』がフランツ・リスト(1811-1886)の目にとまり、リストの手でドイツ初演が行われ、ボロディンは「五人組」の中で最も早く国際的に名が知られた。
1881年(48歳)、ロシア情緒に満ちた名曲『弦楽四重奏曲第2番』が完成。第1番は完成まで5年を要したが、この第2番は数週間で書きあげた。ボロディンは妻に愛を告白した20周年の記念として夫人エカテリーナに本作を献呈した。
※『弦楽四重奏曲第2番』ボロディン弦楽四重奏団 https://www.youtube.com/watch?v=WOKG5jF7qpk (29分)
※『弦楽四重奏曲第2番』第3楽章「夜想曲」のみ https://www.youtube.com/watch?v=IqjLHbSy6Pg (8分)
同年、ボロディンの歌曲の頂点となった『遠い祖国の岸を求めて』を作曲。詩はプーシキンによる。自由主義の詩を発表して帝都を追放されたプーシキンはオデッサでイタリア豪商の若妻と出会い深く愛す。だが彼女は結核に感染、母国に帰国し夭折する。訃報を聞いたプーシキンは絶望の中で「君の美しさ、君の悩みも、再会の口づけも、墓の下に消えた。だが私は待つ、君とその口づけを」と刻む。張り裂けるような想いが込められた歌。
※『遠い祖国の岸を求めて』 https://www.youtube.com/watch?time_continue=266&v=X-00NTRClE0 (4分半)
この年、ボロディンはドイツ・ワイマールに“交響詩の父”リストを訪ね、『中央アジアの平原にて』を献呈している。ムソルグスキーが42歳で他界。
1884年(50歳)、ピアノ曲『小組曲(Petite Suite)』を作曲。「修道院で」「間奏曲」「マズルカ・ハ長調」「マズルカ・変ニ長調」「夢」「セレナード」「夜想曲」の全7曲。フランス印象派のような繊細さをたたえた作品だが、ドビュッシーが本格的に活動するのは1890年頃からであり、ボロディンの方が6年早い。没後、グラズノフが管弦楽版に編曲している。
※『小組曲』  https://www.youtube.com/watch?v=qtCyY8_btok (19分)
※『小組曲』から「夜想曲」 https://www.youtube.com/watch?v=uAhOgYBLbsE (3分)
1885年(51歳)、教壇から降りる。

1887年2月27日、サンクトペテルブルクで友人たちと謝肉祭のパーティーを開き、歌やダンスを楽しむなか、動脈瘤の破裂で卒倒し急死する。享年53歳。19年も書き続けていた『イーゴリ公』は未完となった。亡骸はペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地に埋葬された。墓にはボロディンの胸像が建ち、背後には石板に金箔が貼られ「ダッタン人の踊り」の異国風メロディーの楽譜が刻まれた。
ボロディンが生前に友人の前で弾いた新しい交響曲のピアノ版をグラズノフ(1865-1936/当時22歳)が記憶しており、同年10月、これを楽譜に起こし補筆した二楽章だけの『交響曲第3番』が初演された。
死後、ボロディンを愛する仲間たちが未完となった『イーゴリ公』(全4幕)を形にするため、残されていた楽譜の断片や聞き覚えていたメロディーをまとめて作品として完成させた。リムスキー=コルサコフとその弟子グラズノフがオーケストレーションをおこない、1890年にペテルブルクのマリンスキー劇場で初演される。
ムソルグスキーとボロディンの死を機に、ロシア五人組は自然消滅していった。

ボロディンは本業の化学分野で教壇に立ち、後進の育成に尽力するなど多忙を極めていたため、完成された楽曲は非常に少ない。ボロディンは自身を「日曜作曲家」と呼んだが、残された作品は傑作揃いだ。ロシア国民楽派の作曲家はオペラや歌曲、標題音楽に精力を注ぎ、そこにロシア民族の個性を盛り込んだが、交響曲・室内楽は民族性を出せないとしてあまり作品を残さなかった。開拓精神を持つボロディンは、『五人組』の他のメンバーが手を出さない交響曲・室内楽に果敢に切り込み素晴らしい仕事をした。彼は交響曲の形式を借りてロシアの民族的な叙事詩の世界を展開することに成功し、室内楽にも傑作を残した唯一の五人組メンバーとなった。
ボロディンは温厚な人物で、様々な相談に親身になって答えていたため、多くの人々から愛され慕われた。だからこそ、没後に作曲家仲間が死を惜しんで未完になったオペラや交響曲を形にして“ボロディン作曲”として世に送り出した。その友情にもグッとくる。
2006年、ディズニーがボロディンの『弦楽四重奏曲第2番』第3楽章「夜想曲」を使った短編『マッチ売りの少女』を制作している。

※ ロシア五人組とは、19世紀後半のロシアで、民族主義的な芸術音楽の創造を志向した5人の作曲家集団のこと。(バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ)
※ボロディンの曲で構成されたアメリカのミュージカル『キスメット』のサントラ
https://www.youtube.com/watch?v=c2SsdeYMEOg (15分)
※ボロディンの『レクイエム』 https://www.youtube.com/watch?v=DK_a73LC7_k(5分)
※弦楽四重奏曲第1番の第2楽章は最後がドラマチック(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=epHbK3Q34eM#t=19m36s

〔墓巡礼〕
ボロディンの墓には彼の胸像が建ち(五人組で胸像があるのは彼だけ)、背後には石板に金箔が貼られ「ダッタン人の踊り」の異国風メロディーの楽譜が刻まれている。南向きに建っているので、好天だと太陽の陽射しでキラキラと輝いている。



★ミリイ・バラキレフ/Mily Alekseyevich Balakirev,1837.1.2-1910.5.29 (ロシア、ペテルブルク 73歳)2009
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

“ロシア五人組”全員集合!!(撮影はすべて2009年。みんな同じ墓地)

アレクサンドル・ボロディン
(1833-1887)
享年53歳
ツェーザリ・キュイ
(1835-1918)
享年83歳
ミリイ・バラキレフ
(1836-1910)
享年74歳
モデスト・ムソルグスキー
(1839-1881)
享年42歳
リムスキー=コルサコフ
(1844-1908)
享年64歳

「民衆の中へ!」とロシアならではの民族的な音楽を生み出そうとした作曲家集団「五人組」のリーダー、ミリイ・バラキレフは1837年1月2日にモスクワの東400km、ロシア第4の都市ニジニ・ノヴゴロドに生まれた。故郷で幼少よりピアノを学び、モーツァルト好きの地主から音楽の手ほどきを受け楽才を示す。15歳で作曲を始めるが、進学したカザン大学では数学と自然科学を専攻した。
1855年(18歳)、卒業後(資料によっては退学とある)サンクトペテルブルクに出て、“ロシア近代音楽の父”作曲家グリンカ(1804-1857/当時51歳)と出会い、音楽家を志すことを決意、『ピアノ協奏曲第1番』(作品1)を作曲。またピアニストとしてデビューを果たす。
※『ピアノ協奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=QUVMt5Et2Gw (14分)
※こんなマイナー曲まで聴けるとは、YouTubeに感謝
1856年(19歳)、ピアノ曲『ノクターン第1番』を作曲。同年、ペテルブルクで音楽好きの軍人キュイ(21歳※後に築城学の権威)と出会い、これが「五人組」誕生の第一歩となる(「五人組」は後年の呼称であり、当初は「力強い一団」と呼ばれていた)。後にキュイが作曲を始めると、バラキレフはキュイのオーケストレーションを積極的に指導した。
1857年(20歳)、グリンカが52歳で他界。当時のロシアで演奏される音楽は、イタリアのオペラやドイツの交響曲など外国のものばかりだった。バラキレフはグリンカのあとを継ぎ、ロシア人にしか作れない音楽、ロシアの民族的な音楽を作曲する国民楽派を全力で育成する。バラキレフの家に毎火曜日の夜に音楽家が集まるようになり、彼のサークルに青年士官ムソルグスキー(18歳)が加わった。ムソルグスキーもまたロシア音楽の演奏機会が少ないこと、ロシア人が作曲した音楽にロシアの香りがしなことに不満を持っていた。小説家ゴーゴリ(1809-1852)や画家レーピン(1844-1930)はロシアの民衆を描く傑作を次々に発表していたが、作曲家はまだそこに到達しておらず「音楽家も民衆を描いた傑作を早く世に出さなければ」という焦りもあった。
1858年(21歳)、ロシア民謡3曲を題材にした『3つのロシアの主題による序曲第1番』を作曲。ここにはチャイコフスキーが交響曲第4番で使った旋律や、ストラビンスキーがペトルーシュカで引用した旋律が登場する。
※『3つのロシアの主題による序曲第1番』
https://www.youtube.com/watch?v=TO674dbpaXA (8分20秒)
1860年(23歳)、ヴォルガ川沿岸を旅行し、地域の民謡を採譜する。
1861年(24歳)、リムスキー=コルサコフ(17歳)がバラキレフたちに合流する。
1862年(25歳)、この年、バラキレフのサークルに化学者で“日曜作曲家”のボロディンが入り、これで作曲家集団「五人組」(正確にはこの呼称は後年のもの)が揃った。五人組は芸術評論家のウラディーミル・スターソフを顧問として、作曲家ダルゴムイシスキーを精神的長老として仰いだ。バラキレフはピアノの名手として知られた音楽家だったが、残りの4人はアマチュアだった。バラキレフが指導者となり、メンバーは自作品にロシア民謡をもちいたり、民話をオペラの題材にするなど国民楽派としてロシア楽壇を切り開いていった。この時点で五人組の年齢は、ボロディン(29歳)、キュイ(27歳)、バラキレフ(25歳)、ムソルグスキー(23歳)、リムスキー=コルサコフ(18歳)。ちなみに路線が異なる西欧志向のチャイコフスキー(1840-1893)はこの時22歳。
同年、古典音楽を崇拝するペテルブルク音楽院が創立され院長にアントン・ルビンシテインが就任。反アカデミズムのバラキレフは対抗して同じペテルブルクに無料音楽学校を創設し、副校長に就任する。同校の学生演奏会で国民楽派の新作や、シューマン(1810-1856)、ベルリオーズ(1803-1869)らの新しい西欧作品を人々に紹介するなど、ロシア音楽界に多大な影響を与えた。また、この年に南部のコーカサス(カフカス)地方を旅行し、トルコ・イスラム系民族が奏でる民謡に触れて旋律の豊かさに驚き、それらを書き留め始めた。
1863年(26歳)、前年に続いてコーカサス地方を訪ね民謡を採譜する。
1964年(27歳)、『3つのロシアの主題による序曲第2番』が完成。同年、『交響曲第1番』の作曲を開始。
1866年(29歳)、コーカサスで集めた民謡を著書『40のロシア民謡集』としてまとめ刊行した。同書は五人組の仲間から重宝され、楽曲に引用された。同年『交響曲第1番』の作曲を中断。
1867年(30歳)、対立関係にあったロシア音楽協会から実力を認められ、指揮者として就任するよう要請があり受け入れる。また、この年にスターソフがバラキレフのサークルを「マグーチャヤ・クーチカ」(力強い集団)と呼んだ。
※「クーチカ」の名付け親スターソフは、当時のロシアの芸術全般が西洋に比べてあまりにも貧しい状況を変えようと試み、ロシア人の生活を忠実に描写する写実主義を提唱し、アカデミーの権威を否定した。
1868年(31歳)、三度目のコーカサス地方旅行。無料音楽学校の校長に就任。
1869年(32歳)、バラキレフはこれまでコーカサス旅行で記録したタタール人(ダッタン人)の恋歌など民謡を素材とし、自身の代表作となるピアノ史上最高の難曲ともいわれる東洋風幻想曲『イスラメイ』を書きあげた。コーカサスで耳にした調べを使い絢爛豪華な作品とし、国民楽派のオリエンタリズムの先駆けとなった。作曲者のバラキレフ自身が「自分でも手に負えない演奏箇所がある」と認めて、「別案」を添えるほどの難しさ。そして、最高難度ゆえにフランツ・リストやニコライ・ルビンシテインら大ピアニストたちの闘志を掻き立て、リストは弟子たちによく弾かせたという。(この曲は熱狂的な盛り上がりで終わるため、聴衆はやんやの喝采になる)
『イスラメイ』は他の作曲家にも影響を与え、五人組の同志ボロディンは歌劇『イーゴリ公』に、そしてリムスキー=コルサコフは交響組曲『シェヘラザード』に『イスラメイ』の一節を引用した。初演の40年後、仏のラヴェル(1875-1937)は『イスラメイ』以上の難曲を書き上げることを目標として『夜のガスパール』(1908)を作曲した。同年、宮廷礼拝堂および宮廷音楽協会の監督(指揮者)に就任。また、チャイコフスキー(1840-1893/当時29歳)の最初の傑作となる幻想序曲『ロミオとジュリエット』に助言を与え、この曲はバラキレフに献呈された。
※『イスラメイ』楽譜付き https://www.youtube.com/watch?v=78AslTXMp30 (7分44秒)
※『イスラメイ』ライブ演奏 https://www.youtube.com/watch?v=O5raMK4Z9co (7分34秒)
この年、ロシア音楽協会の上層部と対立し指揮者を辞任。
1870年(33歳)、バラキレフはチャイコフスキーに『ロメオとジュリエット』を讃える手紙を書き、文中に「スターソフが5人から6人になったと言った」と書いており、先述した「モグーチャヤ・クーチカ」(強力な集団)が「五人組」の名称に変わっていく。
この1870年前後は、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』、リムスキー=コルサコフの『プスコフの娘』、キュイの『ウィリアム・ラトクリフ』、ボロディンの交響曲第1番が上演されており、五人組の活動がピークに達した時期になる。
1871年(34歳)、神経衰弱でうつになり、約5年間作曲の筆を置く。五人組の集まりにも顔を出さなくなったが、メンバーは国民楽派の運動を続けた。リムスキー=コルサコフが無料音楽学校のライバル、ペテルブルク音楽院の作曲家教授の就任要請を受けたことで相談に来ると、バラキレフは快(こころよ)く賛同を示した。
1872年(35歳)、収入が乏しく、バラキレフはワルシャワ鉄道の貨物部で働いたが長続きしなかった。
1873年(36歳)、バラキレフの引退で活動を停止していた無料音楽学校の校長にリムスキー=コルサコフが就き、学校を再開させた。(丸善『リストからの招待状』に記載)
1874年(37歳)、精神状態が改善せず、音楽学校の理事を辞任しリムスキー=コルサコフに代わった。(先述した内容と矛盾している。引用元のメモをなくしたけど百科事典にあった)
1876年(39歳)、リムスキー=コルサコフや友人たちが、バラキレフを楽壇に復帰させるためグリンカのオペラの校訂の仕事を依頼する。バラキレフは元気を取り戻した…が、無料音楽学校の運営方針をめぐってリムスキー=コルサコフと対立し、バラキレフが強引に校長に復帰した)。
1881年(44歳)、ムソルグスキーが42歳で他界。
1882年(45歳)、1867年から15年書き続けていた交響詩『タマーラ』が完成する。古いロシアの伝説をもとにしたレールモントフの叙事詩に着想を得た作品。「コーカサスの河のほとりに妖艶な女王タマーラが住む古い塔があり、河を通る旅人を歌声で誘惑する。旅人はタマーラに抱擁され官能的な一夜を過ごすが、夜明けに屍となって河に浮かび流されていく」というもの。この楽曲にもコーカサス地方の旋律が反映されている。
※『タマーラ』 https://www.youtube.com/watch?v=_k2f8S2W_Tc (21分)
1884年(47歳)、ピアノ小品『庭園にて』を作曲。
※『庭園にて』 https://www.youtube.com/watch?v=NbF5G60JoU0 (5分21秒)
1885年(48歳)、チャイコフスキーがバラキレフの助言を得て『マンフレッド交響曲』を完成 。
1887年(50歳)、ボロディンが53歳で急死。2人が欠けた「五人組」は自然消滅していった。
1890年(53歳)、リムスキー=コルサコフの作曲活動25周年の祝賀会に招待されたが、ペテルブルク音楽界の重鎮となった相手への嫉妬心からこれを断る。その結果、20年後にバラキレフが他界するまで絶縁状態になる。
1893年(56歳)、27年ぶりに『交響曲第1番』の作曲を再開。
1897年(60歳)、『交響曲第1番』が作曲開始から33年を経てようやく完成する。
※『交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=8cck1HD2C38 (40分)
1900年(63歳)、交響詩『ロシア』を出版。36年前の『3つのロシアの主題による序曲第2番』を交響詩として改作したもの。いったん1869年に別題で発表され、さらに手が入った。
1901年(64歳)、ピアノ曲『ノクターン第2番』を作曲。
1902年(65歳)、ピアノ曲『ノクターン第3番』を作曲。
※『ノクターン1〜3番』リンク先の1番は1898年に改訂されたもの。
https://www.youtube.com/watch?v=J183N1UQmhA (24分) ※コメント欄に「This is heaven」とある。
1903年(66歳)、ピアノ曲『夢』を作曲。
※『夢』 https://www.youtube.com/watch?v=5azIHUOq8BI (5分43秒) これいい。最後だけいまいち。
1908年(71歳)、若手作曲家の多くはリムスキー=コルサコフを崇拝し、バラキレフは楽壇で過去の人となっていたが、8年をかけ『交響曲第2番』を完成させる。複数の主題をリムスキー=コルサコフの「100のロシア民謡集」から採っている。バラキレフ自身の指揮で初演された。同年、リムスキー=コルサコフが64歳で他界。
※『交響曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=i1MIYBLz2vE (37分)
1910年5月29日、サンクトペテルブルクにて73歳で他界。同地アレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地に埋葬された。生涯独身だった。
1912年、ディアギレフ率いるロシアバレエ団がバラキレフの交響詩『タマーラ』をバレエ化してパリで上演し(振付フォーキン)、オリエンタリズムに満ちたこの曲が広く知られるようになった。
1918年、五人組で最後まで生きていたキュイが83歳で生を終える。
バラキレフは指揮者、民謡の収集家としても知られ、ロシア国民主義音楽を押し広めた。

※残念なことに、うつを経た後のバラキレフは極端にユダヤ人を憎むようになり(ユダヤ人がキリストを磔にしたため)、リムスキー=コルサコフは「当時彼の言動に触れた人々全員に打撃を与えた」と記している。
※なんと!バラキレフの全ピアノ曲約60曲を収めたものが!録音時間はトータル6時間半! https://www.youtube.com/watch?v=Lx5vaD2d-Tk
※コクトーを精神的指導者とする「フランス六人組」は、ロシア五人組をもじって命名された。

〔墓巡礼〕
五人組のメンバーが並ぶ墓地の北壁で最初に会えるのがバラキレフ。五人組のリーダーが最初に墓参者を迎えてくれる。黒い墓石の台座部分にバラキレフの横顔のレリーフが取り付けられ、上部にはロシア正教会の特徴的な八端十字架(横線が3本入った形)がそびえている。後方に神殿風の大きな墓碑があり、上方にロシア正教で葬儀時に歌われる祈りの歌『聖人たちの安息と共に』の楽譜と歌詞の冒頭部分が刻まれていた。
※この曲です! https://www.youtube.com/watch?v=2JynIt2mXH0 (1分7秒)



★キュイ/Cesar Cui 1835.1.18-1918.3.26 (ロシア、ペテルブルク 83歳)2009
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation



フランス系リトアニア人のロシアの作曲家、音楽評論家。ロシア国内では本業である軍事教育家として尊敬を得ており、主に言論でロシア「五人組」の活動を支えた。
父は1812年のナポレオン戦争で負傷し、敗走中にリトアニアに残留したフランス兵で、母は地元リトアニア人。
1835年1月18日、リトアニア・ビルニュス(当時ロシア領ビルノ)に生まれ、幼時から音楽の基礎教育を受ける。
1851年、16歳でペテルブルク陸軍工兵学校に入学し、20歳から軍事技術アカデミーで学んだ。
1856年(21歳)、キュイが音楽に興味を持っていたところ、ペテルブルクで2歳年下の作曲家バラキレフ(19歳)と出会い、これが「五人組」誕生の第一歩となる(「五人組」は後年の呼称であり、当初は「力強い一団」と呼ばれていた)。キュイは音楽活動を行いながら教壇に立った。
1857年(22歳)、作曲家ダルゴムイシスキーの家で出会った声楽家の女性マリヴィーナと恋に落ち、彼女にピアノ曲『スケルツォ』作品1を献呈する。同年、バラキレフのサークルに若い青年士官ムソルグスキー(18歳)が参加する。
※『スケルツォ』 https://www.youtube.com/watch?v=y8hOtYyXarU (6分)
1858年(23歳)、マリヴィーナと結婚、二児を授かる。同年、管弦楽曲『タランテラ』を作曲。この曲はリスト(1811-1886)が最後にピアノ用に編曲した作品となった。
1859年(24歳)、アントン・ルビンシテイン指揮で管弦楽曲版の『スケルツォ』が演奏され、作曲家デビューを果たす。
1861年(26歳)、リムスキー=コルサコフ(17歳)がバラキレフたちに合流する。
1862年(27歳)、民族主義的な音楽の確立を目指すバラキレフのサークルにボロディンが入り、これで「五人組」が揃った。五人組の年齢は、上からボロディン(29歳)、キュイ(27歳)、バラキレフ(25歳)、ムソルグスキー(23歳)、リムスキー=コルサコフ(18歳)。ちなみに路線が異なる西欧志向のチャイコフスキー(1840-1893)はこの時22歳。
1864年(29歳)、キュイは音楽評論活動を開始。五人組の宣伝者・批評家として筆を振るい、仲間以外の音楽を否定し、西欧派のチャイコフスキーやアントン・ルビンシテインを攻撃した。この年から没年の1918年まで54年間に約800の記事を寄稿した。とはいえ、キュイ自身はシューマン、ショパンに傾倒しており、作風はスラブ色が薄く、大いなる矛盾となっている。
1869年(34歳)、詩人ハイネが書いた悲劇をベースに約7年をかけて書きあげたオペラ『ウィリアム・ラトクリフ』(YouTubeになし!)が初演される。五人組の作った作品の中で初めて上演に至ったオペラだが、キュイは評論活動で敵が多すぎたこともあり、国内では期待した反応が得られなかった。ドイツのフランツ・リストからは高く評価された。
1878年(43歳)、喜歌劇『マンダリーナの息子』(全一幕)が初演され初めて成功する。同年、工兵学校の築城学の教授に就く。※ウィキには1880年教授就任とあり。
1881年(46歳)、ムソルグスキーが42歳で他界。
1883年(48歳)、キュイとリムスキー=コルサコフはマリインスキー劇場のオペラ選定委員会の委員だったが、同委員会がムソルグスキーのオペラ『ホヴァーンシチナ』の受理を拒否したことから、抗議を込めて2人で辞職した。同年、プーシキン原作のオペラ『カフカスの囚人(コーカサスの捕虜)』(全3幕)が初演され成功を収める。また、『ピアノ組曲』(Suite pour piano)をリストに献
呈。
1886年(51歳)、リストが他界。
1887年(52歳)、ボロディンが53歳で急死。2人が欠けた「五人組」は自然消滅していった。
1893年(58歳)、24の小品からなる『万華鏡』を作曲、この第9曲が有名なバイオリン独奏曲「オリエンタル」。第16曲「舟歌」Barcarola (Barcarolle) も良い。
※『万華鏡』 https://www.youtube.com/watch?v=43ETzJUOXLo (48分)
※「オリエンタル」 https://www.youtube.com/watch?v=jXcD3KMQaGM (2分)
※「舟歌」 https://www.youtube.com/watch?v=HAzAn0ilYJ4 (3分)
1896年(61歳)、ロシア音楽協会ペテルブルク支部の支部長に就任(8年間)。
1897年(62歳)、ペテルブルクでラフマニノフ(1873-1943/当時24歳)の『交響曲第1番』が初演された際、キュイは新聞紙上で「ありふれた技法の無意味な繰り返し」「作品を覆う病的にひねくれたハーモニー」「地獄に音楽学校があったらラフマニノフ君が地獄の住人を大いに喜ばせるだろう」「エジプトの7つの疫病を描いた音楽」と徹底的にこき下ろした。ショックを受けた若きラフマニノフは自筆譜を引き裂き心を病み、3年間も作曲できなくなった。ラフマニノフは同曲の楽譜を出版禁止にし、存命中は二度と演奏させなかった。
1899年(64歳)、マリヴィーナ夫人が他界。
1903年(68歳)、ピアノ曲『25の前奏曲』を作曲。同年モーパッサン原作のオペラ『マドモワゼフ・フィフィ』(全一幕)が成功する。
※『25の前奏曲』第6曲 https://www.youtube.com/watch?v=g42rHOI6zOM (5分21秒)
※めっさ西欧ロマン派、五人組の理念はどこへやら。でも良い曲。
1906年(71歳)、陸軍工兵大将となる。(1914年説あり)
1908年(73歳)、リムスキー=コルサコフが64歳で他界。
1910年(75歳)、バラキレフが73歳で他界。
1916年(81歳)、失明するも口述で作曲を続けた。
1918年3月13日(24日説、26日説はユリウス暦)、ペテルブルクにて脳卒中で他界。享年83歳。西部スモレンスクの墓地で夫人の横に埋葬された。没年まで作曲を続け、生涯に10曲のオペラやピアノ曲を残した。音楽評論家として過度に情け容赦のない罵倒を続けたため友人は少なく、多数の歌曲とピアノ曲を残したが演奏機会はゼロに近い。
※キュイは自身の名をフランス語表記でセザール・キュイ(Cesar Cui)と書いた。フランス語、ロシア語、ポーランド語、リトアニア語を話したという。
※ベートーヴェン以前の音楽を「独創性がない」と見下したことから「音楽界の虚無主義者」と呼ばれた。

〔墓巡礼〕
他界21年後の1939年に、「五人組を一つの墓地に揃えよう!」という動きがあり、キュイの亡骸は掘り起こされてペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー修道院に改葬された。右側にボロディン、左側にはチャイコフスキーという好位置だが、木の背後にあるうえ、五人組で彼だけが胸像も肖像レリーフもないため、最も印象の薄いものになっている。一番最後に亡くなったのにきわめて地味。

ラヴェルはバラキレフを、ドビュッシーはムソルグスキーの音楽を愛し、レスピーギはロシアでリムスキー=コルサコフに管弦楽法を習っている。上流階級のための音楽ではなく、ロシアの民衆と共に歩んだ五人組。そして先に逝った仲間の未完作を、友情パワーで完成させて人々に紹介した彼ら。音楽にも生きる姿勢にも敬意を捧げたい!



★オッフェンバック/Jacques Offenbach 1819.6.20-1880.10.4 (パリ、モンマルトル 61歳)2002
Cimetiere de Montmartre, Paris, France



音楽と喜劇との融合を果たし、オペレッタの原型を作った作曲家。「シャンゼリゼのモーツァルト」とロッシーニに称えられるほど美しいメロディーを次々と生み出した。
ジャック・オッフェンバックは、1819年6月20日にドイツ・ケルンで生まれ、後にフランスに帰化した。本名はヤーコプ・レヴィ・エーベルストで父親の出身地オッフェンバッハをペンネームとした。合唱指揮者の父からバイオリンを学ぶ。
14歳の時にチェロを学ぶためフランスに出てパリ音楽院に通い、1837年(18歳)にパリのオペラ・コミック座のチェロ奏者となる。やがて演奏のかたわら作曲を始めた。
1849年(30歳)、テアトル・フランセ(共和国劇場/テアトロ・フランセーズ)の指揮者となる。テアトル・フランセは1680年に太陽王ルイ14世の号令で誕生した王立コメディ・フランセーズ劇団の本丸となった劇場。
1853年(34歳)、オッフェンバックが作曲した最初の1幕物オペレッタ『ペピト』がオペラ・コミック座で初演される。
※オペレッタ(喜歌劇)…セリフが入った歌と踊りからなる舞台劇。18世紀には短いオペラをさしたが、19世紀以降は大衆に向けた軽い音楽劇を指すようになった。
※日本では「コメディ」は喜劇だけど、フランスでは“演劇”のこと。同様に「コメディアン」は喜劇役者ではなく“俳優”を指す。

1855年(36歳)、1幕物のコメディーを上演する劇場として「ブフ・パリジャン」と名付けた小劇場をシャンゼリゼ通りに自ら開き、いくつものオペレッタを上演。国民的人気を呼び、名声により皇帝ナポレオン3世との謁見に至る。この年、フランス内務省の劇場経営規則が出され、俳優やダンサーの人数制限やコーラスの禁止などが厳しく指定された。オッフェンバックは規則の撤廃運動を開始、3年をかけ登場人物数、コーラスともに制限無しという条件を獲得することに成功した。
1858年(39歳)、初めて長編作品に挑み、全2幕の『地獄のオルフェ(邦題:天国と地獄)』を作曲。ブフ・パリジャン座で初演され、連続228回公演を記録、人生最大のヒット作となった。この作品はギリシア神話の悲劇を題材にしたグルック作『オルフェオとエウリディーチェ』をパロディ化したもの。神話ではオルフェオが亡き妻を愛するあまり地獄に赴く物語なのに、本作は互いが愛人を持ち、体面だけを気にしてしぶしぶと妻を取り戻しにいくという内容で、偽善の夫婦愛を風刺した。初演翌日の日刊紙『フィガロ』は、「前代未聞、とにかく楽しい。気が利いていて、聴衆を魅了してやまず、見事としか言いようがない」と称えた。地獄で繰り広げられるダンスシーンとフィナーレのソプラノ独唱と合唱で歌われる「カンカン(ギャロップ)」は特に人気を集めた。フレンチカンカンに使われる有名な序曲は、2年後に上演されたウィーン版のためのオリジナル曲で、当初のフランス版にはなかった。カンカンは日本でも運動会のBGMとして小学生でも知っているクラシックの名曲に。
1864年(45歳)、全3幕のオペレッタ『美しきエレーヌ』を作曲。古代ギリシャのスパルタを舞台に、トロイア戦争の原因となったパリスによるスパルタ王妃ヘレネの誘惑を通して、社会的地位のある人々の放蕩ぶりを風刺。『地獄のオルフェ』と並ぶ人気オペレッタとなる。

1880年10月5日、61歳で他界。晩年は人気に陰りが出てきたことから、オッフェンバックは新境地を開くため初の本格的オペラ『ホフマン物語』を作曲していたが未完に終わった。生涯に102曲のオペレッタを作曲。
1881年、死の4カ月後に作曲家エルネスト・ギロー(1837-1892/ビゼーの死後『アルルの女』第2組曲を編曲、発表した人物)が『ホフマン物語』を補筆完成させ、パリのオペラ=コミック座で初演される。グランド・オペラの『ホフマン物語』は、ドイツの詩人E.T.A.ホフマンの小説を元にした戯曲をオペラ化したもの。詩人ホフマンが学生たちに自分の破れた三つの恋物語を語っていく物語。ホフマンは人形のオランピア(人形と知らずに恋する)、瀕死の歌姫アントーニア、ヴェネツィアの娼婦ジュリエッタと次々に恋に落ちるが、どれも悲恋に終わる。初演は大成功し、中でもヴェネツィア編で歌われるソプラノとメゾソプラノの二重唱「ホフマンの舟歌(バルカローレ)」(正式名「美しい夜よ、おお恋の夜よ」)は特に有名。ただし「ホフマンの舟歌」のメロディーは、オッフェンバックのオペレッタ『ラインの妖精』からの流用。
1976年、オッフェンバックの自筆楽譜が大量に発見され、以降、『ホフマン物語』の新しい版が複数発表されている。
オッフェンバックの軽妙でウィットに富む風刺オペレッタは、国民に爆発的な人気を呼んだ。彼の墓はベルリオーズやハイネが眠るモンマルトル墓地にある。

※語りの部分が音楽をともなうもの(レチタティーボ)がグランド・オペラ、セリフだけのものがコミック・オペラ。
※ヒット作を量産しても、舞台セットや豪華な衣装で常に劇場の経営状態は厳しかった。
※オペレッタは徹底した娯楽路線から芸術的に低く評価され、作家エミール・ゾラは「オペレッタとは、邪悪な獣のように駆逐されるべき存在」と批判した。
※ベルリオーズの16歳年下。



★グルック/Christoph Willibald Gluck 1714.7.2-1787.11.15 (オーストリア、ウィーン 73歳)2002
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



オペラの改革者であり近世歌劇中興の祖。ドイツに生まれ、ボヘミアで育ち、祖父、父とも森林監視員で音楽とは
全く縁のない家に生まれながらオペラ作曲家としてデビュー。当時のオペラは歌手の技巧、テクニックを
誇示するものが中心だったが、グルックはスター歌手や作品の見た目よりも、内容(ストーリー)を最重視する
運動を展開した。ウィーン・パリで活躍。歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」「タウリスのイフィゲニア」など。



★フーゴー・ウォルフ/Hugo Wolf 1860.3.13-1903.2.22 (オーストリア、ウィーン 42歳)2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



オーストリアの作曲家。詩と音楽を巧みに融合させ300曲以上の歌曲を残した。後期ロマン派ドイツ‐リートの代表的存在。
37歳から心の病気で入院生活を送り43歳で死去。「アイヒェンドルフ歌曲集」「メーリケ歌曲集」「ゲーテ歌曲集」など。



★グリンカ/Mikhail Ivanovich Glinka 1804.6.1-1857.2.15 (ロシア、ペテルブルク 52歳)2005&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation



2005 2009 大きな花が供えてあった

中世ロシアに根付いた正教会(キリスト教の教派)では聖歌の楽器伴奏を禁じたため、バッハのように教会音楽を通して作曲法を革新した人物が現れず、音楽はなかなか発展しなかった。18世紀に入って西ヨーロッパの音楽がもたらされると、「外国の音楽ではなく自分たちの音楽を」と、最初に「近代ロシア音楽の父」ミハイル・グリンカ(1804-1857)が現れる。
ロシア国民音楽の創造に全力を注いだ「近代ロシア音楽の父」ミハイル・グリンカは、1804年6月1日、ロシア西端スモレンスク近くの裕福な貴族の家庭に生まれた。グリンカはシューベルト(1797-1828)の7歳年下、ショパン(1810-1849)の6歳年上。世代的にはベルリオーズ、父ヨハン・シュトラウスと同じ。詩人プーシキン(1799-1837)の5歳年下でこちらもほぼ同世代。ロシアの農村でロシア民謡や教会の鐘の音に囲まれて幼年時代を過ごし、叔父所有の農奴オーケストラで管弦楽にも親しんだ。
1818年、14歳からサンクトペテルブルクに出て貴族寄宿学校に入り、ロシアに滞在していたアイルランドの作曲家ジョン・フィールド(1782-1837)からピアノを学ぶ。
1824年(20歳)、運輸省に4年間勤務し、職務の傍ら作曲を行う。
1830年(26歳)、オペラ発祥の地イタリアで音楽を3年間学ぶ。ドニゼッティやベッリーニの最新のオペラに触れて大いに刺激を受けた。グリンカは外国暮らしの中で、ロシア人としての自身の血流を強く意識するようになり、ロシア的な作品を書きたい願望が芽生えていく。同年、フランスでベルリオーズが『幻想交響曲』を作曲。
1832年(28歳)、イタリアでクラリネット三重奏曲『悲愴トリオ』を作曲。イタリア風の歌心あるカンタービレとスラヴの憂鬱が結びついた楽想。グリンカは、あるロシア詩人の言葉を楽譜に記した「私は愛を、その苦しみゆえに初めて知った」。
※クラリネット三重奏曲『悲愴トリオ』第3楽章ラルゴが素晴らしい(頭出し済み)
https://www.youtube.com/watch?v=KTVK7vuzSSo#t=7m52s
1833年(29歳)、南欧の明るい音楽は北国ロシアの感覚と合わないと悟り、7月にイタリアを去る。「ミラノの人々を楽しませるために書いた小品を通して、私は自分に適した道を歩んでいないことを確信した」「我々の直面する課題は、我々自身のスタイルを発展させ、ロシアのオペラに新しい道標を作ることだ」。
1834年(30歳)、ベルリンで音楽理論を学び、ロシアに帰国。さっそくロシア民謡を使った序曲を書き始めるが、上手く扱えず挫折。
1836年(32歳)、イタリア歌劇の形式によりながらも、ロシア民話と民謡を取り入れた、ロシア語による初の本格的なオペラ『皇帝に捧げた命(イヴァン・スサーニン)』を作曲、大成功を収める。ただし序曲はまだイタリア歌劇の影響から脱しきれていない。
※『皇帝に捧げた命』…ロマノフ王朝の祖、16歳のミハイル・ロマノフの皇帝即位を阻止するために侵攻してきたポーランド軍から、ミハイルを守るためにわざと道案内を誤って殺害された農夫イヴァン・スサーニンの自己犠牲を描く。作家ゴーゴリは「わがロシアの国民的モチーフを題材にすればどんなオペラでも書けるのだ!」と絶賛した。
※『皇帝に捧げた命(イヴァン・スサーニン)』素晴らしい舞台映像、音も良いhttps://youtu.be/xCc0uc3QoU4 (約3時間)
※『皇帝に捧げた命』終幕の皇帝賛歌「ロシア皇帝に栄えあれ」https://www.youtube.com/watch?v=xCc0uc3QoU4#t=168m28s
1837年(33歳)、『皇帝に捧げた命』に感激したニコライ1世から宮廷合唱団の楽長に任じられる。一方、皇帝はプーシキンの政治的発言を嫌って刺客を放つ。刺客はわざとプーシキンの妻に言い寄って彼を怒らせ、決闘に持ち込み重傷を負わせた。2日後にプーシキンは36歳で他界し、この訃報にグリンカはショックを受ける。
1839年(35歳)、ロマンあふれる2つのピアノ曲『ノクターン“別れ”』『幻想的ワルツ』を作曲。
※ノクターン『別れ』 https://youtu.be/8g7_HR_2A0s (3分56秒)
※『幻想的ワルツ』 https://www.youtube.com/watch?v=6g3xwhh99-c (8分45秒)
1840年(36歳)、歌曲『ひばり』を作曲。後にバラキレフがピアノに編曲した。
※『ひばり』バラキレフ編曲版 https://www.youtube.com/watch?v=cxlf-ZmE8JI(5分34秒)美しい…
1842年(38歳)、故プーシキンの叙事詩に基づき、民謡を多用したオペラ第2作、メルヘンオペラの『ルスランとリュドミラ』を完成させる。スラヴの弦楽器グースリの音色を模してピアノやハープを用いるなどロシア色を前面に出し、国民楽派の創始者となった。プレストのテンポで押し通す序曲は、グリンカが「全速力で疾走せよ」と指示しており、いかに速く演奏できるかオーケストラの技巧の見せどころとなっている。
『ルスランとリュドミラ』…キエフ大公の娘リュドミラ姫と騎士ルスランの婚礼の場で、吟遊詩人が「真の愛による幸せは苦難の後に得られる」と予言。すると姫は黒魔術師にさらわれ、大公は「娘を取り戻した者に娘と国土の半分を与える」と宣言する。姫を慕う騎士ルスラン、騎士ファルラーフ、ハザール王子ラトミールが救出に向かい、ルスランが荒れ地で魔物「大頭」に勝利。彼は白魔術師の協力で様々な妨害を切りぬけて姫と無事に結ばれる。
※『ルスランとリュドミーラ』ゲルギエフ指揮キーロフの舞台https://www.youtube.com/watch?v=lQjHkoyNvAE
(良い舞台なのになんでブーイングしてる客がいるのか。プンスカ)
※『ルスランとリュドミーラ』序曲 https://www.youtube.com/watch?v=rVYao9R1JXM(5分28秒)
1844年(40歳)、『ルスランとリュドミーラ』初演の不発、離婚訴訟の泥沼化で国内の生活に嫌気がさしてパリに出る。1歳年上のベルリオーズ(1803-1869)の知遇を得ると共に、ベルリオーズ作品が金管楽器を駆使した色彩的な管弦楽でパリの聴衆を虜にしている姿を見て、新たな創作意欲が湧き上がった。
1845年(41歳)、グリンカの手紙「ベルリオーズの音楽を学び、パリの聴衆の熱狂を知り、私は極めて重要な結論を得た。絵画的な管弦楽作品で自身の表現領域を拡大しようと決意し、スペインで仕事に取り掛かる。スペイン音楽の旋律の独自性は、私を助けてくれるだろう」。2年間のスペイン旅行に出発し、現地でさっそく民俗音楽ホタ・アラゴネーサ(ダンスの伴奏曲)による『スペイン序曲第1番/ホタ・アラゴネーサ』を作曲、カスタネットを使用するなどスペインの空気を音楽で伝えた。これはドビュッシー『グラナダの夕べ』(1903)、ラヴェル『スペイン狂詩曲』(1908)といったスペイン・ブームが起きるより半世紀以上も前に書かれている。
※『ホタ・アラゴネーサ』 https://www.youtube.com/watch?v=5OeDN9AM50g (9分15秒)
1848年(44歳)、『スペイン序曲』で民俗音楽を交響作品の素材とすることに自信を得たグリンカは、ロシアの民族的な旋律を使った最初の管弦楽曲、幻想曲『カマリンスカヤ』を作曲する。カマリンスカヤは農村の踊り歌。イタリア風音楽一辺倒であった当時のロシア音楽界にあって、グリンカは初めてロシア民謡の個性を活かした管弦楽作品を書くという快挙を成し遂げた。民謡カマリンスカヤのわずか3小節しかない旋律を、伴奏を変化させながら約70回にわたって繰り返しており、この手法は後の作曲家に大きくインスピレーションを与えた(バラキレフ『イスラメイ』等)。グリンカは国民音楽の祖という立場を決定づけた。
グリンカ「私は田舎で耳にした婚礼の歌『高い山から』と流行の踊り歌『カマリンスカヤ』との間に類似点があることを発見した。すると、急に私の想像が働き出し、管弦楽用の『婚礼の歌と踊り歌』を書きあげた」。
チャイコフスキー「柏(かしわ)の大木が一つの実から生まれるように『カマリンスカヤ』にはあらゆるロシア音楽の流派が含まれている」。
リムスキー=コルサコフ「グリンカは『カマリンスカヤ』でロシア民謡の旋律の交響楽的な扱い方を子孫に示してくれた」。
※『カマリンスカヤ』 https://www.youtube.com/watch?v=dMOhbjD0vVk (6分37秒)
1851年(47歳)、スペインの4つの民族音楽を使った『スペイン序曲第2番/マドリードの夏の夜の思い出』を作曲。巧みな管弦楽法で第1番よりさらにスペインの香りを漂わせている。
※『マドリードの夏の夜の思い出』 https://www.youtube.com/watch?v=ujaNJBcn6ng (9分)
1855年(51歳)、ペテルブルクで18歳のバラキレフ(1837-1910)と出会う。バラキレフは大学で数学と自然科学を専攻し卒業後の進路を模索していたが、音楽への情熱もあった。バラキレフはグリンカのオペラ『皇帝に捧げし命』の主題を使った自作の幻想曲を弾き、これを聴いたグリンカは大いに喜ぶ。この出来事をきっかけに、バラキレフは音楽家を志すことを決意する(バラキレフは翌年にキュイと、その翌年にムソルグスキーと出会っていく)。
1857年2月15日、対位法の研究のために滞在していたベルリンで客死。享年52歳。当初はベルリンのロシア人墓地(Russisch-Orthodoxen Friedhof)に埋葬され、その後ペテルブルクに亡骸が運ばれてアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬された。イタリア風の音楽が主流だった当時のロシア楽壇において、ロシア民謡による管弦楽曲・オペラを書き上げたグリンカ。その国民主義の遺伝子は、バラキレフのもとに集ったムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、キュイら「ロシア五人組」に受け継がれた。



★アントン・ルビンシテイン/Anton Grigoryevich Rubinstein 1829.11.28-1894.11.20 (ロシア、ペテルブルク 64歳)2005
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

 
ベートーヴェンと風貌が似ており「ヴァン2世」と呼ばれた

国際コンクール制度、国際マスタークラス制度などを発明。作曲家、ピアニスト、指揮者。ルービンシュタインとも。ロシア・ピアノ流派の祖。母国や欧米で積極的に演奏会を開き、ロシアのピアニストとして初めて世界的名声を得た。
1829年に誕生。父はポーランド系ユダヤ人、母はドイツ系ユダヤ人。幼少からピアノを学び、10歳でデビューを果たす。11歳から3年をかけてヨーロッパ各地を演奏旅行し、約20歳年上の大ピアニスト、リスト(1811-1886)と並ぶ19世紀最高のピアニストとして活躍した。
1859年(30歳)のときにロシア音楽協会を創設。翌年に弟ニコライがモスクワに支部を作った。
1862年(33歳)にロシア音楽の水準を高めるべく、ロシア初の音楽教育機関「サンクトペテルブルク音楽院」を創設。同院の院長を5年間務め、ロシア音楽発展の基礎を築いた。
ロシアの音楽界はオペラ中心であったため、ルビンシテインは交響曲や管弦楽、室内楽曲などを根付かせるため尽力。ヨーロッパの音楽的伝統をロシアに根付かせるために、様々なジャンルで作曲した。また、正教徒のための「宗教オペラ」というジャンルを創出。作風は保守的なドイツ・ロマン主義的であり、民族主義的作曲家グループロシア5人組と対立した。とはいえ、『交響曲第5番』、『ピアノ協奏曲第4番』などの民族色の強い作品も書いている。
1866年(37歳)、弟ニコライがモスクワ音楽院を創立。ニコライは15年も院長を務めた。
1894年に64歳で他界。ピアノ曲「ヘ調のメロディ」。

※チャイコフスキーと共に肉声が蓄音機に残る。
※弟のニコライ・ルビンシテインもチャイコフスキーからピアノ協奏曲を献呈された高名なピアニスト。



★マックス・ブルッフ/Max Bruch 1838.10.6-1920.10.2 (ドイツ、ベルリン 82歳)2002
Friedhof III, Berlin-Friedenau, Germany
※誕生日は1月6日説あり



ドイツの作曲家。ロマンチックな美しい響きのオラトリオを多く残す。三曲のバイオリン協奏曲、
チェロと管弦楽のための「コル‐ニドライ」が有名。ヴァイオリン協奏曲第一番の第一楽章はバリ渋ッ!!




★ブゾーニ/Ferruccio Benvenuto Busoni 1866.4.1-1924.7.27 (ドイツ、ベルリン 58歳)2002
Friedhof III, Berlin-Friedenau, Germany



イタリアの作曲家・ピアノ奏者。古典派の様式を重んじ新古典主義の先駆となる作品を書く。
「シャコンヌ」といえばバッハが有名だが、プゾーニのシャコンヌもなかなか良い。バッハなどのピアノ曲を校訂。



★ヴォーン・ウィリアムズ/Ralph Vaughan Williams 1872.10.12-1958.8.26 (イギリス、ロンドン 85歳)2005
Westminster Abbey, London, England



エルガーに続く現代イギリスの代表的な作曲家。イギリス民謡を熱愛し、20世紀のイギリス音楽の復興に貢献した。
1872年10月12日にイングランド南西部グロスターシャーのダウン・アンプニーで生まれた。牧師の父は3歳の時に他界。6歳から叔母ゾフィー・ウェッジウッドに音楽を学ぶ。母方の高祖父(ひいひい爺)は高名な陶器職人ジョサイア・ウェッジウッド。ダーウィン家も母方の親戚であり、チャールズ・ダーウィンは大おじにあたる。
1890年(18歳)、ロンドンの王立音楽大学に入学。途中の一時期、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで歴史学と音楽を専攻。
1895年(23歳)、学生仲間で2歳年下の作曲家ホルスト(1874-1934)と知り合い親友になる。後にケンブリッジ大学でも学ぶ。
1897年(25歳)、ベルリンでドイツの作曲家ブルッフに2年間師事。同年結婚。
1904年(32歳)、ウィリアムズはイングランドの各地方で口頭伝承された民謡が、識字率向上で急速に失われつつあることに気づき、田舎を訪ね歩いて民謡を収集、保存した。後年、自身の音楽様式にそれらのリズム、音階、旋律の一部を取り入れていく。
1905年(33歳)、ドーキング(ロンドンの30km南西)の第1回レイス・ヒル音楽祭を指揮し、以降、1953年まで50年近く同音楽祭の指揮者を務める。
1909年(38歳)、パリに8カ月滞在し、3歳年下の作曲家ラヴェル(1875-1937)に作曲と管弦楽法(オーケストレーション)を習った。
イギリスの合唱の伝統に深い関心を持っていたウィリアムズは、この頃から約40年の間、音楽祭で地方の様々な合唱団を指揮(1909〜53)した。
1906年(34歳)、17世紀のイギリス音楽や讃歌を愛し『イギリス讃歌集』を監修。著名な讃歌『シネ・ノミネ(名もなく)』を作曲。
1910年(38歳)、出世作となる『トマス・タリスの主題によるファンタジア』(タリスの主題による幻想曲)を作曲。トマス・タリスは16世紀イングランドの作曲家。2003年の映画『マスター・アンド・コマンダー』でも使用された。
アメリカの詩人ホイットマンの詩集『草の葉』をテクストとし、7年がかりで作曲した合唱付きのシンフォニー『海の交響曲』(交響曲第1番)初演。各楽章に標題があり、第1楽章「全ての海、全ての船の歌」、第2楽章「夜、渚に一人いて」、第3楽章「波」、第4楽章「探求する人々」となっている。初演は大きな成功を収めた。

1913年(41歳)、『ロンドン交響曲』(交響曲第2番)を作曲。音楽でロンドンの風物を描き、第1楽章でウェストミンスター寺院の朝の鐘がハープで表現されている。第一次世界大戦で戦死した友人の作曲家ジョージ・バターワース(享年31)に献呈。初演で喝采を浴びた。
同年、第一次世界大戦が勃発すると、志願して陸軍医療軍団に義勇兵として入隊、前線の担架卒となる。
1917年(45歳)、砲兵守備隊の少尉に任命される。砲火の爆音に長期にわたって晒された結果、老後に酷い難聴で苦しむ。
1918年(46歳)、陸軍の音楽監督に任ぜられ終戦を迎える。
1919年(47歳)、王立音楽大学で作曲の教授に就任。
1920年(48歳)、ヴァイオリンとオーケストラのための管弦楽曲『揚げひばり』を作曲。美しい牧歌的雰囲気から現代でもイギリス人に大人気の曲。
1921年(49歳)、イギリスの田園風景を描いた『田園交響曲』(交響曲第3番)を作曲。オーケストラのミュートされた音色と民謡からとりいれた和声に特色がある。第一次世界大戦の犠牲者への挽歌。
1923年(51歳)、吹奏楽曲『イギリス民謡組曲』を作曲、この作品は民謡の親しみやすい曲調や演奏の容易さから、吹奏楽のレパートリーの古典的名曲となる。
1931年(59歳)、『ピアノ協奏曲』を作曲。バルトークのようにピアノを打楽器的に使用。
※『ピアノ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=tB72RETYua4 (画像が素晴らしい)
1934年(62歳)、不協和音と緊張感に満ちた『交響曲第4番』を作曲。曲調の荒々しさに聴衆は度肝を抜かれ困惑した。ウィリアムズ「自分自身でも気に入っているかどうかはわからないが、曲は私の意図した通りのものである」。
同年、ウィリアムズの代名詞となる『グリーンスリーヴスによる幻想曲』を自身の指揮で初演。古いイングランド民謡『グリーンスリーヴス』に基づく小品。ウィリアムズは6年前にオペラの間奏曲でこの旋律を用い、それをラルフ・グリーヴズが編曲した。この年、親友グスタフ・ホルストが59歳で他界。
※『グリーンスリーヴスによる幻想曲』 https://www.youtube.com/watch?v=oWz-Hfw4fnk (5分)

1943年(71歳)、『交響曲第5番』を作曲。第二次世界大戦の真っ只中にあって安らかなる楽曲になっている。ウィリアムズは7歳年上のシベリウス(1865-1957)を非常に尊敬しており、本作をシベリウスに献呈した。
1947年(75歳)、『交響曲第6番』を作曲。不協和音と闘争性から“戦争交響曲”とも評される。終楽章の静けさは核戦争後の世界を思わせる。高い評価を得て初年度だけで100回も演奏された。
※『交響曲第6番』 https://www.youtube.com/watch?v=BDbsDPEcehw (33分)
同年、探検家ロバート・スコットの南極探検を描いた映画『南極のスコット』のサウンドトラックを担当し、2年後のプラハ映画祭で音楽賞を受賞する。
1951年(79歳)、妻アデリーンが他界。
1952年(80歳)、映画『南極のスコット』の音楽を再構成した『南極交響曲』(交響曲第7番)を作曲。チェレスタ、ウィンドマシーン、女声合唱で南極の厳しい自然とスコットの英雄性を描く。楽章ごとの以下の標題(引用句)を朗読することがある。前奏曲:シェリーの詩『鎖を解かれたプロメテウス』、スケルツォ:詩篇第104篇、風景:コールリジ『シャモニー渓谷の日の出前の讃歌』、間奏曲:ジョン・ダン『夜明けに』、終幕:スコット大佐の最後の日記「私はこの探検を悔いない。危険を冒したことは知っているが、物事に遮られたまでだ」。ヴォーン・ウィリアムズの“英雄交響曲”ともいえる。
1953年(81歳)、39歳年下の女流詩人アーシュラ・ウッド(1911-2007※42歳)と再婚。ウッドとは15年前から妻公認の不倫関係にあった。
1954年(82歳)、ロンドン交響楽団の委嘱で『チューバ協奏曲』を作曲。世界のチューバ奏者の最重要レパートリーとなる。
1955年(83歳)、『交響曲第8番』を作曲。第1楽章は主題の変奏曲、第2楽章は吹奏楽器だけの演奏、第3楽章は弦楽器のみ、終楽章は打楽器が主役という、83歳とは思えない老いてなお挑戦的な作品となっている。
1957年(85歳)、『交響曲第9番』を作曲。第2楽章の物憂げで印象主義的な展開にドビュッシーの影響が見てとれる。
1958年、4月に交響曲第9番を初演。8月26日 、ロンドンにて心臓発作のため他界。享年85歳。遺灰はウェストミンスター寺院の北翼聖歌隊席通路に埋葬。近くに大おじのダーウィンの墓がある。

民謡や賛美歌など様々なイギリス音楽から発想をえたウィリアムズは、9曲の交響曲、6曲のオペラのほか管弦楽曲、合唱曲、歌曲などを残し、20世紀のイギリスにおいて国民主義的な音楽様式を確立した。その功績により、イングランドの伝統的な民謡や旋律はより高い評価を受けることになった。ウィリアムズは田園風景を彷彿とさせる牧歌的な作風の印象が強いが、交響曲には激しい不協和音の作品もある。日本ではホルストの方が知名度は高いが、欧米ではホルストより高い評価を受けている。

※名前のRalph は通常「ラルフ」と読むが、本人が古風な発音の「レイフ」にこだわった。
※ラヴェル「ウィリアムズは弟子の中で唯一ラヴェル風の音楽を書かなかった人物」。
※音楽評論家ジョン・メイトランド「(ウィリアムズの作風は)聴いていて非常に古い音楽なのか非常に新しい音楽なのか分からなくなる」。
※ドーキングにヴォーン・ウィリアムズの像。
※英国民族舞踊民謡協会の会長を務めた。



★スッペ/Franz von Suppe 1819.4.18-1895.5.21 (オーストリア、ウィーン 76歳)20025
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



オーストリアの作曲家。ベルギー系の家に生まれ,ウィーンで活躍。200曲あまりのオペレッタ(歌付き喜劇)を作曲。
オペレッタ「軽騎兵」「詩人と農夫」「ボッカッチョ」「スペードの女王」などで知られる。




★ヤナーチェク/Leos Janacek 1854.7.3-1928.8.12 (チェコ、ブルノ 74歳)2005
Central Cemetery, Brno, Czech Republic

 
墓石の拡大画像。男性合唱曲『さまよえる狂人』の一節が刻まれていた

20世紀初めのチェコの作曲家。スメタナ、ドヴォルザークの後継者として、スラブ人の独自性を主張する民族主義音楽の作曲を行なった。モラヴィアの民俗音楽から影響をうけた様式で知られる。
1854年7月3日にオーストリア帝国モラヴィア北部の山村フクバルディ(現チェコ東部)で生まれた。父は教師で音楽家。1865年、11歳からモラヴィアの首都ブルノのアウグスティノ修道院で生活し、少年聖歌隊員として音楽教育を受けた。この修道院には修道士に“遺伝学の祖”植物学者メンデル(1822-1884当時43歳)がいて、「メンデルの法則」なる遺伝の法則を発見した論文を翌年に発表している。12歳で父が他界し伯父の後見を受ける。19歳でスヴァトプルク合唱協会(労働者の歌唱クラブ)の指揮者に就任し、合唱協会のために四声部の世俗歌を作曲。

1874年(20歳)、教職試験に合格。かつてドヴォルザークも在籍したプラハのオルガン学校で学び、この1年間のプラハ滞在中に13歳年上のアントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)と親交を深め、その音楽に傾倒した。そして、「全スラブ民族の理想の源泉」とロシアを位置付け、独学でロシア語を学んだ。
1879年(25歳)、ドイツの音楽の中心地ライプツィヒの音楽院に入学するも、授業内容に満足できず翌年ウィーンへ。そこでも収穫はなく「正規の教育を受ける必要はもはやない」と痛感した。
1881年(27歳)、ブルノの王立師範学校長の娘ズデンカと結婚。だが、親族の問題や幼子の病死などで夫婦の間に距離が生まれ、離婚はしなかったが10年ほどで結婚生活は破綻した。
1882年(28歳)、長女オルガ誕生。ヤナーチェクはブルノにオルガン学校(現ヤナーチェク音楽院)を設立。19年間教鞭を執る。
1884年(30歳)、音楽雑誌『ブデブニー・リスティ』を創刊。同年、チェコ国民音楽の祖スメタナ(1824-1884)が60歳で他界。
1886年(32歳)、民俗学者と協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を行う。モラヴィアでは約3000曲もの民謡が歌われていた。ヤナーチェクはこれらの民謡に強い関心を抱き、作曲家としてよりも民俗音楽学者として有名になった。
1888年(34歳)、長男ウラジミール誕生。
1890年(36歳)、結婚以来、音楽院設立、音楽雑誌創刊、民俗音楽調査などで10年近く作曲活動はほぼストップしていたが、モラヴィアの民俗音楽に霊感を受けた『ラシュスコ舞曲』(全6曲)を作曲。作曲家としての成熟期の幕開けとなる。一方、私生活では長男ウラジミールが2歳で病死し悲しみに暮れる。
1891年(37歳)、モラヴィア人が自国の民俗的資料に基づいて作曲した初のオペラ『物語の始まり』を作曲。
1894年(40歳)、オペラ『イェヌーファ』の作曲を開始。だが、同時並行でオルガン学校の校長、師範学校の音楽教師、合唱指揮者、オルガニストなども務めていたため、なかなか作曲の時間が確保できなかった。
1895年(41歳)、『イェヌーファ』の序曲として民謡を自分の作品に引用した『嫉妬』を作曲。だがこの曲は実際には使用しなかった。作曲の過程で、ヤナーチェクは民謡ではなく、モラヴィア語のアクセントをそのままメロディーにする音楽語法「発話旋律」(旋律曲線)と呼ばれる旋律を着想の材料とし、言葉と音楽を融合させた。
1898年(44歳)、ロシア愛好者協会を設立して1914年(60歳)まで会長を務める。
1900年(46歳)、オルガは生まれつき心臓が弱かったが、美しい18歳の娘に育った。ある舞踏会で彼女を見初めた青年がオルガに熱を上げる。その青年の評判は悪く、ヤナーチェク夫妻は心配した。
1901年(47歳)、民俗学者と行なった民謡の共同研究の集大成、二巻の『モラヴィア民謡新収集』を完成。同年、オルガが手紙でハッキリと相手の青年を拒絶すると、青年は逆上しオルガを殺すと返事を書いてきた。
1902年(48歳)、ヤナーチェクはオルガの身を案じ、ロシア・ペテルブルクに住む兄にしばらくオルガを預けることにした。一方、オルガは体調を崩しており、妻ズデンカはロシア行きの中止を訴えた。3月、ヤナーチェクを妻の声に耳を貸さずペテルブルクに娘を連れて行った。ヤナーチェクが帰国して一ヶ月、ペテルブルクからオルガが伝染病(チフス)に感染して入院したと急報が入った。歩けなくなった娘を夫婦で支えながらブルノに連れ帰り看病したが、医者は覚悟を求めた。
1903年(49歳)、オルガは「死にたくない」と嘆き、ヤナーチェクはその言葉を手帳に音階をつけ書き留める。2月22日、オルガは父に「もう生きられないのでお父さんがずっと(9年間)書いていた『イェヌーファ』を聴きたい」と願い、父はピアノで聴かせてあげた。2月25日、オルガは「天使たちが見える、弟も待っている」とうわごとを言い危篤に陥った。妻は夫に「あなたが無理にペテルブルクに連れて行くからこんなことになった」と責め立てた。その翌日、2月26日の朝、愛娘オルガは20歳という短い生涯を終えた。娘が旅立った5日後に『イェヌーファ』(全3幕)が完成した。第3幕で歌われる、子どもを死なせてしまった人物のアリア「私を許しておくれ、どうか許しておくれ」がヤナーチェクの心の叫びに聞こえる。
1904年、オペラ『イェヌーファ』初演、ブルノの劇場は割れんばかりの拍手に包まれた。モラヴィアの村を舞台に、田舎社会の息苦しさ、宗教を背景とした保守的な道徳観に縛られる人間の悲劇と、悲しみの中で見つけた希望を描いた。モラヴィア語の言葉の抑揚を旋律に応用し、神話や歴史的事件でなく等身大の人々を描いたリアリズムのオペラは斬新だった。同年、敬愛するドヴォルザークが62歳で他界。

『イェヌーファ』
モラヴィアの美しい村娘イェヌーファは、従兄のシュテヴァと恋仲で子どもを身ごもっている。だがシュテヴァは酒飲みのプレイボーイ。イェヌーファの母コステルニチカはシュテヴァが1年間禁酒しないと結婚を認めないという。シュテヴァの異父兄のラツァもまた心からイェヌーファを愛しているが、もっさりした容姿で、連れ子ゆえに家業の相続権もない。ラツァはシュテヴァが家業もイェヌーファも手に入れたことに嫉妬する。シュテヴァは本気で結婚する気がないのにそれを見抜けないイェヌーファ。逆上したラツァはイェヌーファと口喧嘩になり、思わず手に持っていたナイフで彼女の頬を切りつけてしまう。やがてイェヌーファは出産するが、シュテヴァはイェヌーファを裏切って村長の娘カロルカと婚約する。
シュテヴァとの結婚が消えたため、イェヌーファの母コステルニチカは娘とラツァを夫婦にしようと考えるが、ラツァはイェヌーファがシュテヴァの子を産んだと聞かされて思い悩む。コステルニチカは、赤子が娘の結婚の妨げになると思い、娘が産後の熱でうなされている間に赤ん坊を凍った川へ沈め、娘とラツァには「病気で死んだ」と嘘をついた。コステルニチカは赤ん坊を殺した良心の呵責に苦しみ、死神の幻覚を見る。
春、ラツァとイェヌーファの結婚式の日。コステルニチカはますます赤ん坊のことで苦悩し「どうか許しておくれ」と1人懺悔する。折しも雪解けの川から赤ん坊の死体が見つかって村は大騒ぎに。村人はイェヌーファが犯人と思い込み、彼女に石を投げようとし、ラツァが身を呈して彼女を守る。自らの罪に押し潰されそうだったコステルニチカはすべてを告白し連行される。イェヌーファはラツァに「これ以上私の惨めな運命に付き合うことはない」と、結婚の中止をうながすが、ラツァは「どんな苦労も2人で耐えよう」と真心を込めて誓う。イェヌーファとラツァはついに本当の愛を見つけた。「神が、大きな愛に導いてくれた」と抱擁のために2人が接近して幕となる。
※『イェヌーファ』 https://www.youtube.com/watch?v=DFbRCiChA1g

ヤナーチェクは『イェヌーファ』で世界的な名声を確立することになるが、それは13年後のプラハ初演での大成功による。1903年の時点では、プラハの音楽界はヤナーチェクのことを田舎の民俗学者が道楽で作曲している程度にしか思っておらず、プラハでの上演は1916年まで待つことになった。ウィーンで活躍していたマーラーに手紙を出し、ウィーン公演の可能性を探るなどもした。

1905年(51歳)10月1日、「オーストリア=ハンガリー帝国」統治下のブルノで、チェコ人のためのチェコ語大学創立を求める住民の集会があり、これに反対する支配層のドイツ系住民が集会の解散を求めて軍の出動を要請、大学設立を請願していた20歳の労働者フランティシェーク・パヴリークが軍の銃剣で殺害される事件が起きる。激怒したヤナーチェクは2楽章のピアノソナタ『1905年10月1日 街頭にて』を作曲し、労働者の魂を追悼した。第1楽章「予感」、第2楽章「死(悲歌)」。ヤナーチェクは楽譜の冒頭に次の言葉を添えた。「ブルノの芸術会館の白い大理石の階段。庶民の労働者フランティシェク・パヴリークは倒れ、血に染まった。彼は大学の設立を求めただけなのに、残酷な殺人者によって殺された」。元々は第3楽章「葬送行進曲」もあったが完成度に納得できず初演前に暖炉の炎の中に投げ込み、初演後に残りの楽譜もヴルタヴァ川(モルダウ)に沈めたが、約20年後に初演者が手書きコピーを持っていることが分かり、70歳になっていたヤナーチェクは喜んで出版を許可した。こうして『街頭にて』はヤナーチェクが遺した唯一のピアノソナタとなった。社会問題をとりあげたピアノ・ソナタはあまり例がない。
以降の数年間は男声合唱曲を主に作曲。
※『1905年10月1日 街頭にて』 https://www.youtube.com/watch?v=zUTeiCby33k (13分)

1906年から1909にかけ、男性合唱曲の大傑作と評価される3つの男声合唱曲『ハルファール先生』、『マルイチカ・マグドーノワ』、『7万年』を作曲。
1908年(54歳)、ヤナーチェクが大切な思い出をピアノで綴った10曲のピアノ曲集『草かげの小径にて』(第1集)を発表。各曲にヤナーチェクが添えた題名は「われらの夕べ」「散りゆく木の葉」「一緒においで」「フリーデクの聖母マリア」「彼女らは燕のように喋り立てた」「言葉もなく」「おやすみ」「こんなにひどく怯えて」「涙ながらに」「ふくろうは飛び去らなかった」。最後の題名はチェコの伝承の「ふくろうが飛び去らない家の病人は召される」を反映したもの。なんとも悲しいタイトルだ。
このうち、オルガの他界前に書かれたものは、「われらの夕べ」「散りゆく木の葉」「フリーデクの聖母マリア」「おやすみ」「ふくろうは飛び去らなかった」の5曲、つまり、“ふくろう”の曲は先に2歳で夭折した長男ウラジミールを追悼したもの。オルガに関するものは、元気な頃のオルガを描いた第5曲「彼女らは燕のように喋り立てた」、死の影に怯えるオルガを描いた第8曲「こんなにひどく怯えて」。「フリーデクの聖母マリア」は故郷の思い出。
※『草陰の小径にて/第1集』 https://www.youtube.com/watch?v=rqIS06fR4Io (32分)

※『草陰の小径にて〜われらの夕べ』 https://www.youtube.com/watch?v=dVFixhauFgU (7分)

1916年(62歳)、『イェヌーファ』の念願のプラハ初演が実現する。プラハの楽壇はヤナーチェクの才能に驚嘆し、『イェヌーファ』はウィーンやベルリン、ニューヨークで上演されるようになる。ウィーンでのカーテンコールは20回に及び、作曲家は何度も舞台に上がらされた。ヤナーチェクは60歳になるまでブルノ以外では無名に近かったが、ついに世界はヤナーチェクを“発見”した。
1917年(63歳)、夏にボヘミアの温泉保養地ルハチョヴィツェで38歳年下で二人の子どもを持つカミラ・シュテスロヴァー(25歳)と知り合い、老年の恋の炎が燃え上がる。以後、片思いではあったが、ヤナーチェクは11年後に没するまで700通にものぼる文通をカミラと続けており、晩年のヤナーチェクに多くの音楽的霊感を与えた。
1918年(64歳)、ゴーゴリの小説に着想を得て、ロシア人をスラヴ民族の救済者と捉え、コサックの指導者タラス・ブーリバとポーランド軍の戦いを描いた管弦楽曲『タラス・ブーリバ』を作曲。「(次男)アンドレイの死」「(長男)オスタップの死」「タラス・ブーリバの予言と死」の3曲で構成。スラヴの民族愛を炸裂させた。同年、第一次世界大戦が終わり、チェコスロバキア建国。チェコスロバキアはオーストリア=ハンガリー帝国から独立した。この日が訪れるのを待望していたスメタナの死から34年、ドヴォルザークの死から14年が経っていた。
1919年(65歳)、22曲の連作歌曲集『消えた男の日記』を作曲。ジプシーの娘ゼフカと村から駆け落ちする若い農夫を描き、愛するカミラとの出逢いを重ねた。ヤナーチェクはカミラに次の手紙を書いている。「『日記』を作曲している間、あなたのことしか考えませんでした。あなたはゼフカであったのです!」。

1920年(66歳)、オペラ『プロウチェク氏の旅行』初演。主人公の男性が夢の中で月の世界へ行ったり15世紀にタイムスリップするなど、19世紀のオペラにはないSFの要素が登場する。この年から5年間プラハ国立音楽院ブルノ分校で教鞭をとり、作曲を教えた。
1921年(67歳)、ロシアのアレクサンドル・オストロフスキーの戯曲『嵐』を、ヤナーチェク自身がチェコ語に翻訳し台本を手掛けた『カーチャ・カバノヴァー』を作曲。音楽による心理描写に長けていて、場面場面で登場人物の気持ちが鋭く伝わる名作である。ヤナーチェクは他界の半年前にこの作品をカミラに捧げた。

『カーチャ・カバノヴァー』
舞台は1860年代のロシアのヴォルガ河畔の町。豪商カバノヴァー家に嫁いだカーチャは、毎日のように姑のカバニハから小言を言われて気が滅入っている。ある日、夫チホンが商用で長旅に出発し、日々の閉塞感から自分を恋している青年ボリスと浮気をしてしまう。直後から夫への後ろめたさに苦しんでいたところ、夫の帰りが早まり突然帰宅する。狼狽したカーチャは衝動的に不義を告白し、嵐の中に飛び出していく。「いっそボリスと駆け落ちしよう」と夢想しているとボリスが現れ、家の事情でシベリアに行くことを告げる。独りぼっちで行き場を失ったカーチャは「何もかも終わった」と川に身を投げる。必死で妻を探していたチホンは「母さんがいじめるからだ!」と責め立てていると、カーチャの亡骸が発見される。チホンは泣き崩れるが姑は顔色ひとつ変えることなく、この騒動で集まった村人に「皆さんお騒がせしました」と告げて幕となる。
https://www.youtube.com/watch?v=qtLd9ZNX350

1923年(69歳)、トルストイの小説『クロイツェル・ソナタ』に触発され『弦楽四重奏曲 第1番“クロイツェル・ソナタ”』を作曲。妻の不倫を知った主人公が妻の殺害に
至る過程を全4楽章で表現している。
1924年(70歳)、『イェヌーファ』と並ぶ代表作、オペラ第7作『利口な女狐の物語』初演。ここでもヤナーチェクの音楽語法発話旋律」が効果的に使用され、話し言葉の抑揚とメロディが見事に一致している。舞台の深い森に登場するのは、森番夫婦、校長、牧師、行商人ら人間の他、キツネ、穴熊、番犬、キツツキ、フクロウ、カケス、鶏、ハリネズミ、リス、蛙、トンボ、コオロギ、キリギリス、蚊、ハエ、蟻んこなど多数の森の生き物たち。彼らが生き生きと生命讃歌をうたいあげる。特殊な衣装が多数必要という点で上演のハードルは高い。

『利口な女狐の物語』
深い森の中でバッタが奏でる音に合わせて蛙が歌い、その声に女狐ビストロウシュカが引き寄せられる。狐に驚いた蛙が近くで居眠りしていた森番の顔に飛び乗り、森番は驚いて目を覚ます。彼は子どもたちを喜ばせる為、お土産にトンボの舞いに見とれていた狐を連れ帰った。狐は自由を失いブルーな気持ちに。森番の家では番犬や鶏が人間に従属する現状に甘んじており、「自由を求めるべきだ」と訴えるが、「人間とうまく付き合え」と逆に嘲笑されてしまう。女狐には雌鶏(めんどり)たちが雄鶏の支配下にあるのも気にくわなかった。女狐は雄鶏をかみ殺し、縄をかみ切って森に逃げた。女狐は雄狐と出会い初恋に落ち、結婚してたくさんの子狐を産む。森では行商人が恋人のために両手の防寒マフを作ろうと歌い、女狐は命を狙われる理不尽さに憤慨、行商人をいっぱいくわせて逆に行商人の籠の鳥を食い荒らした。激怒した行商人は女狐を撃ち殺し、子狐たちは森に消えていった。夜の森は女狐の屍をのみ込み、次の生命を育む。ある日、森番は日没の強い陽射しの中で、森がまばゆいほどに輝いていることに胸を震わせ「この時間帯が好きだ」と歌う。少し横になっていると、女狐ビストロウシュカの子どもが、かつてと同じようにトンボの舞いに見とれていることに気づく。同じように蛙が現れ、森番が「顔に飛び乗った蛙かい」と話しかけると、蛙は「あれはお爺さんだよ、あなたのことは何度も聞かされたよ」と答える。森番は生き物たちの濃密な生命の渦の中、満面の笑みで森の土を手ですくっては全身に塗りたくり、夕陽の森との一体感に酔いしれるのであった。
https://www.youtube.com/watch?v=hWHveSST26Y

原作は女狐と雄狐が結婚する第2幕のラストで終わっている。あえてヤナーチェクは女狐の死を描く第3幕を加筆し、生命循環のテーマや支配からの解放、自然への畏敬の思いを強調した。ヤナーチェクは遺言として、終幕の夕陽の森の歓喜の歌を葬儀で演奏するよう願った。この年、70歳を祝う記念演奏会が催され、チェコスロバキアの大統領が出席した。『イェヌーファ』がプラハで初演されてから8年で大統領が演奏会に足を運ぶまでになった。

1926年(72歳)、若い人妻カミラが創作の原動力になった『カーチャ・カバノーヴァ』『利口な女狐の物語』に続く“カミラ・オペラ”三部作の一本、8作目のオペラ『マクロプロス事件』を作曲。原作は“ロボット”という言葉を考案したチェコの作家カレル・チャペックで、主人公が337歳というSF的な作品。ここでも生命の価値がメインテーマになっている。

『マクロプロス事件』
舞台は1922年のプラハ。法律事務所を人気女性オペラ歌手エミリア・マルティが訪れる。彼女はある相続問題の裁判をめぐって、100年前の書類の署名と自分の筆跡が同じである理由を説明する。彼女の年齢は337歳で、生まれは中世のギリシャ・クレタ島という。本名はエリナ・マクロプロス。皇帝ルドルフ二世の侍医を務めていた父は不老長寿の薬作りを命令され、実験台として最初に彼女が飲まされた。それから300年間世界を放浪し、様々な恋を体験、今はオペラ歌手となっている。そんなマルティもいよいよ薬が切れ始め、死を迎えようとしていた。やがて意識の混濁が始まり、言葉にギリシャ語が混じり出す。そこへ父が遺した処方箋が発見されたとの知らせが届く。だが、マルティは秘薬を作ることをあえて断った。限りある生命だからこそ価値があることに気づいたからだ。マルティ「300年の命は人生から全ての意味を奪った」。そしてマルティは「もはや処方箋は必要ない」と新人オペラ歌手クリスティーナに処方箋を渡すが、クリスティーナはマルティの最期を見て処方箋を火にくべて幕となる。
https://www.youtube.com/watch?v=ISAWeF1cV4s

同じく1926年(72歳)、カミラに霊感を得たヤナーチェクが「勝利を目指して戦う現代の自由人の精神的な美や歓喜、勇気や決意」を讃えた管弦楽曲『シンフォニエッタ』を作曲。堂々たる金管ファンファーレで知られ、組曲は「ファンファーレ」「城塞(シュピルベルク城)」「修道院(ブルノの王妃の修道院)」「街路(古城に至る道)」「市庁(ブルノ旧市庁舎)」の5曲で構成。チェコスロバキア共和国軍に捧げた。
※管弦楽曲『シンフォニエッタ』 https://www.youtube.com/watch?v=NCXRqgXiARA

1927年(73歳)、20世紀の傑作の一つ、合唱曲『グラゴル・ミサ』初演。グラゴルの意味は古スラヴ語の「言葉」であり、グラゴル文字は現在スラブ人が使っているキリル文字の元になった最古の文字で500年間使用された。その言葉によるミサ曲であるが、性格的には宗教曲というより、スラブ民族・スラブ文化を讃え団結させんとする情熱的なもの。この曲もカミラが霊感となって書かれた。同年、死期が近づいているのを感じとったのか11月にカミラへ向けて心情を書く。「私はまるで人生の決済を間もなく済ませなくてはならぬかのように、作品をひとつ、またひとつと完成させている」。
※『グラゴル・ミサ』 https://www.youtube.com/watch?v=nS3KPowJENM (39分)

1928年、人生最後の年に『弦楽四重奏曲第2番“ないしょの手紙”』を書きあげる。ヤナーチェクにとってのミューズ、38歳年下の人妻カミラに触発されて作曲されたもの。活躍するヴィオラはカミラの象徴。当初のタイトルは『恋文』であったが、他人の目を気にしたのか“ないしょの手紙”に変更された。作曲家自身が副題を付けている弦楽四重奏曲は珍しい。彼はカミラに作品をこう解説している。「1音1音の陰には、活き活きと力強い、愛すべき君がいるよ。君の体の香り、君の口付け…いや、君のじゃなかった、僕のだね。僕のすべての音符が君のすべてに口づけしているよ。君を激しく必要としているんだ」。カミラに恋い焦がれる自分の全存在を、すべての想いをこの一曲に凝縮した。
※『弦楽四重奏曲第2番“ないしょの手紙”』
https://www.youtube.com/watch?v=94I2GtzIrDs
8月、チェコ東部オストラバで、カミラ母子と森や丘を散歩中に雨に打たれて肺炎になり、4日後の8月12日に急死した。享年74歳。ヤナーチェクの訃報がブルノに届くと、スメタナ『売られた花嫁』を公演していたブルノ歌劇場は、上演後に追悼演奏でベートーヴェン・英雄交響曲の葬送行進曲(第2楽章)を捧げた。ブルノに帰還したヤナーチェクの棺は、かつて11歳のときに聖歌隊員として音楽生活を始めた聖アウグスティノ修道院の祭壇に安置された。他界3日後、棺はヤナーチェクと縁の深いブルノ歌劇場に運ばれ、葬儀では故人の遺言に従い、生命の循環を描いたオペラ『利口な女狐の物語』のラストシーンで森番が歌うエピローグが演奏された。この歌は東洋の輪廻思想を思わせる生命のサイクル、生命のリレーをテーマにしており、ヤナーチェクの魂は音楽に導かれて大きな自然界の環の中に溶け込んでいった。最後にドヴォルザークの『レクイエム』が演奏され、棺はブルノの中央墓地に埋葬された。

他界時、ヤナーチェクの机の上には3ヶ月前に書き上げた9曲目のオペラ『死者の家から』終幕(第3幕)の楽譜があった。原作はロシアの文豪ドストエフスキーの小説『死の家の記録』。清書前の自筆譜をヤナーチェクの弟子2人が加筆して没後2年の1930年にブルノ国民劇場で初演された。本作の主人公はドストエフスキー自身が投影された政治犯ゴリャンチコフ。極寒のシベリアに流されたゴリャンチコフが、収監初日に理不尽なムチ打ちにあい、一命を取り留めた後、刑務所を出るまでに出会った囚人達との交流エピソードが綴られる。最後に自由の尊さを歌い、囚人たちは鳥籠の鳥を大空へ逃がしてやる。
ドストエフスキー文学との格闘は生易しいものではなく、本作を作曲中のヤナーチェクは書き始めて3年経っても終わりが見えないことを、「音符をただ積み重ねておりバビロンの塔が高くなってゆく」と表現している。
1935年、ヤナーチェクが没した7年後にカミラ・ストスロヴァーが癌で他界。43歳の若さだった。
1938年、夫の没後10年に妻ズデンカも他界。彼女の遺志で、ヤナーチェクの全スコアや資料がモラヴィア博物館や国立マサリク大学に遺贈された。9月のミュンヘン会談でナイツドイツにチェコ西部が奪われ、その後、チェコ全土がドイツ軍の支配下となった。ユダヤ人のカミラが眠るユダヤ人墓地はナチスの暴力に晒され、カミラの墓は破壊された。ヤナーチェクの愛弟子はアウシュビッツに送られ戻ることはなかった。
1942年、未発表だったピアノ作品5曲をまとめた『草かげの小径にて』(第2集)が出版される。静かで透明感のある美しいピアノ曲集だ。
※『草かげの小径にて』(第2集) https://www.youtube.com/watch?v=EcCx9Ub0qRE

熱烈な民族主義者で、チェコの民族音楽、特に故郷モラビア地方の民謡の収集家として知られるヤナーチェク。音楽学校の教壇に立ち、民俗音楽雑誌を出版するなど、50歳まではほぼ教育者として名を成していた。後世に残るオペラ傑作群の多くが、晩年に出会った最愛のカミラ夫人に触発されて書かれており、その尽きぬエネルギーは彼女と交わした700通にものぼる手紙からも伝わってくる。夫人を知る前の『イェヌーファ』だけでも音楽史に名を刻むに値するが、カミラとの出会いがなければ、『カーチャ・カバノーヴァ』『利口な女狐の物語』『マクロプロス事件』が生まれなかった可能性が高く、音楽ファンとしてヤナーチェクに訪れた幸運を祝いたい。彼は同じ様なオペラを作ることはなく、常に新たな地平を切り開いていた。カミラは作曲家の人生の最後の10年を輝かしいものにした。

※墓石に関するエピソード。ヤナーチェクは1921年にプラハでインドの詩人ラビンドラナート・タゴール(アジア人初のノーベル文学賞受賞者)の講演を聞き、チェコ語版詩集から『さまよえる狂人』を選び、タゴールの詩に基づく男性合唱曲を作曲(動画)した。別説では、ある合唱指導者が『さまよえる狂人』を持ってヤナーチェクの家を来訪し、詩に興味を持ったヤナーチェクがその場で3つのモチーフを書き、この詩をもとに合唱曲を書いたとのこと。
★歌詞の部分の訳はこんな感じで良いでしょうか?
'With spent forces, with his body bent, his heart in the dust, like a tree that has been uprooted.'"
「彼の力は消え去り、塵の中に心だけが残った。引き抜かれた樹のように」
タゴールは塵にすら美を見出したので、この塵は悪い意味ではなさそうです。でも「引き抜かれた樹」だから、たっぱり哀しい意味なのかな…。

※チェコの中にも差別があり、プラハなどチェコ西部に暮らすボヘミア人は、東部農村地帯のモラヴィア人を見下す傾向があった。その意味で、ヤナーチェクはオーストリア帝国とボヘミアという二重の壁と戦っていた。
※ヤナーチェクは路面電車の案内表示がドイツ語で書かれている事に反発し、独立後(1918)にチェコ語の表示になるまで乗らなかったという。
※ドストエフスキーのオペラ化の後、トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』やゴーゴリ『生ける屍』のオペラ化も考えていたという。
※オルガの墓はブルノ中央墓地の32区144番とのこと。同墓地のヤナーチェクの墓とは別の場所。
※「作曲家が書いた音符には血が通っており、ひどい演奏をすると血がにじむ」(ヤナーチェク)
※「弦楽のための牧歌」 https://www.youtube.com/watch?v=3dItG8VMaM0 (5分41秒)



★コダーイ/Kodaly Zoltan 1882.12.16-1967.3.6 (ハンガリー、ブダペスト 84歳)2005
Farkasreti Cemetery, Budapest, Hungary

  
女性が寄りかかっている墓。ちょっと羨ましいかも…

ハンガリーの民謡をつかった教育法「コダーイ・システム」で知られ、バルトークと並ぶ20世紀前半を代表する作曲家・民俗音楽学者・教育家。声楽曲に優れた。1882年12月16日、コダーイ・ゾルターンはハンガリー中部のケチケメートに生まれた。幼児期にヴァイオリンを習い、18歳のときにブダペスト大学とリスト音楽院に入り、ハンガリー民謡を研究、22歳で卒業する。
1905年(23歳)から、これまで知識人・文化人から価値を認められてこなかったマジャールの民謡の収集を始め、人里離れた村を訪れては曲を集めていった(同じ東欧チェコでは19年前、1886年からヤナーチェクが同じことをしている)。同年、19歳年上の女性作曲家シャーンドル・エンマ(1863-1958)と出会い、エンマは既婚者だったが2人は恋に落ちる。
1906年(24歳)、同じハンガリー人で1歳年上の作曲家バルトーク・ベーラ(1881-1945)を、エンマがコダーイに初めて引き合わせた。コダーイはバルトークに民謡の魅力を語り、2人で一緒に民謡の収集を行うようになる。一方、パリではドビュッシー(1862-1918)の印象派音楽に触れ感動する。
1907年(25歳)、ブダペスト音楽院の教授に任命され、1941年まで在職。仕事の合間を縫って民謡収集の旅へ出かけ、論文や民謡集を出版していく。
1910年(28歳)、エンマ(当時47歳)は離婚してコダーイと再婚する。
1915年(33歳)、ハンガリー民謡をベースにした情感豊かな『無伴奏チェロソナタ』を作曲。全3楽章。使用音域が5オクターヴにも及ぶ技巧的な作品。ハンガリーの名チェロ奏者シュタルケルの歴史的録音で知られる。
※『無伴奏チェロソナタ』(終楽章) https://www.youtube.com/watch?v=ZvOEwGlwgJo 超絶技巧!
1923年(41歳)、ブダペスト市50周年祭記念の委嘱作品であるテノールと合唱とオーケストラのための『ハンガリー詩篇』を作曲。16世紀の詩人がハンガリー語訳した詩篇55番に作曲した雄大で美しい作品。初演は大成功を収め、作曲家として国際的に認知される。
※『ハンガリー詩編』 https://www.youtube.com/watch?v=uysbQwJ8pz0 (28分)
1925年(43歳)、合唱曲『ジプシーがチーズを食べている』を作曲。『ハンガリー詩篇』の児童合唱パートを練習していたブダペストの子どもたちを見て、これに触発されて書きあげた。本作をきっかけにコダーイは教育用の児童用合唱曲を次々と書くようになる。
※『ジプシーがチーズを食べている』 https://www.youtube.com/watch?v=3ZCpWmuYSzo (2分)
1926年(44歳)、オペラ『ハーリ・ヤーノシュの5つの冒険』をブダペストの王立歌劇場で初演。ハンガリーの伝説に登場する初老の農民ハーリ・ヤーノシュの荒唐無稽な冒険談。ホラ話は「七つの頭のドラゴンを退治」「ナポレオンに勝って捕虜とした」「オーストリア皇帝フランツの娘から求婚されたが断った」等々。コダーイがオペラから6曲を抜粋した組曲『ハーリ・ヤーノシュ』は、第3曲と第5曲にハンガリーの民族楽器ツィンバロンが使用される異国情緒もあって人気を呼び、コダーイの代表的な管弦楽作品となった。冒頭の奇抜な音はクシャミの描写。ハンガリーの「話の前に聞き手の誰かがクシャミをすればその話は真実」という言い伝えを音で描いている。
※組曲『ハーリ・ヤーノシュ』 https://www.youtube.com/watch?v=ym2QvHQNyPU (27分)
1939年(57歳)、第2次世界大戦が勃発。コダーイは国内外のファシストに対して自由と人間性の擁護を掲げる抵抗曲として管弦楽曲『ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲』を作曲。ハンガリーの古い民謡『孔雀は飛んだ』をそのまま主題に使っており、この民謡はかつてオスマン帝国支配下にあったマジャール人(ハンガリーの主要民族)を囚人になぞらえ、「孔雀は飛んだ 牢獄の上に 哀れな囚人たちを 解放するために」と自由への情熱を歌っている。
※『ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=Vb4N_ydyVYI (28分)
1944年(63歳)、オルガン伴奏の『ミサ・ブレビス』を作曲。後に管弦楽伴奏版も書いている。
※『ミサ・ブレビス』 https://www.youtube.com/watch?v=35Uenj8fIPw
1945年(63歳)、第二次世界大戦が終わり、ハンガリー国民芸術会議の議長となる。コダーイは民謡にもとづく歌を子どもたちにたくさん歌わせる「コダーイ・システム」を考案。このハンガリーの学校教育システムは世界的に普及した。同年9月、盟友バルトークがアメリカ滞在中に客死する。
1946年(64歳)、ハンガリー科学アカデミー総裁となる。
1951年以降、故バルトークとの民謡の研究成果を形にした『ハンガリー民謡大観』を刊行。
1958年、妻エンマが他界。翌年に再婚。
1961年(79歳)、故トスカニーニ(1867-1957)の助言で作曲した唯一の交響曲『交響曲ハ長調』全3楽章を30年がかりで完成させる。
※『交響曲ハ長調』 https://www.youtube.com/watch?v=egCoHksU6Zc (26分)
1967年3月6日、ブダペストで他界。享年84。亡骸はブダペストのファルカシュレート墓地に埋葬された。
1988年、バルトークの墓がコダーイと同じファルカシュレート墓地に改葬され、一緒に民謡集の出版を手がけた同志は再会した。
コダーイは20年以上もハンガリーの村々を回り、民謡を3500曲以上も収集し続け、自ら民謡に基づく合唱曲を作曲し、民俗音楽に関する多数の研究論文も執筆した。自作にはハンガリーの民俗音楽の和声、リズム、形式を取り込み独自の作風を形成し、ハンガリー人の魂として世に出した。ほぼ全生涯をハンガリーで送った、全身、全細胞ハンガリー愛。



★プーランク/Francis Poulenc 1899.1.7-1963.1.30 (パリ、ペール・ラシェーズ 64歳)2005
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France


プーランクの墓はステンドグラス入りで美しい

フランスの作曲家。「六人組」の一人。簡素な様式でエスプリに富んだ曲を残した。
歌劇「カルメル派修道女の対話」「ティレジアスの乳房」、バレエ音楽「牝鹿」など。

※ちなみにラヴェルのピアノ組曲は『クープランの墓』。バロック時代の作曲家フランソワ・クープラン(1668-1733)のこと。



★チェルニー/Carl Czerny 1791.2.21-1857.7.15 (オーストリア、ウィーン 66歳)2005
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



ピアノの教本でお馴染みのチェルニー。名前を聞いただけで逃亡する人も多いとか。
ベートーヴェンの弟子であり、リストの師匠だった。




★サリエリ/Salieri Antonio 1750.8.18-1825.5.7 (オーストリア、ウィーン、中央墓地 74歳)2002&05&15
Zentralfriedhof Vienna, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria //Plot  Group 0, Row 1, Number 54

 

2002 後方にトラムのパンタグラフ 2005 2015
作曲家サリエリは映画『アマデウス』で一躍有名になった!

イタリア・レニャーゴ生まれの作曲家。華麗なオペラで成功し、神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕えるカペルマイスター(宮廷楽長)として36年間もヨーロッパ楽壇の頂点に立つ。
ベートーヴェン(1770-1827)、シューベルト(1797-1828)からリスト(1811-1886)まで育てた名教育家で、しかも弟子からは一切謝礼を取らなかったという。また、失職した音楽家や遺族のために慈善コンサートを毎年開催した。1793年1月2日、サリエリはモーツァルトの遺作『レクイエム』を初演している。1820年代に入り、「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流れた。当時の音楽界はロッシーニを旗印とするイタリア派と、ドイツ音楽を掲げるドイツ派が対立し、その中で宮廷楽長を長年独占するイタリア人サリエリが標的にされたと考えられる。1825年に74歳で他界。
没後、名前も作品も忘れられたが、1979年にサリエリとモーツァルトを描いた戯曲『アマデウス』、1984年にその映画版『アマデウス』で取り上げられ、他界から150年を経て再び“時の人”となった。21世紀に入ってからは音楽家として再評価され始め、2009年からは生地レニャーゴでサリエリ・オペラ音楽祭が毎年開催されるようになった。

ウィーン中央墓地で彼の墓前に立って最初に出た言葉は「哀れサリエリ!」だった。なぜか。かつては宮廷楽長であったのに、同じ墓地に眠っているベートーヴェンやシューベルト、ブラームス、ヨハン・シュトラウスといった巨匠から遠く引き離され、墓地の一番壁際の、それも真後ろに市電が走っていて、騒音でまったく魂が安らげない場所に埋葬されていたからだ(写真の背後に市電のパンタグラフが写っている)。
ベートーヴェンは筆談メモに「ウィーンはモーツァルトがサリエリに毒殺されたという噂でもちきりです」と書き記しており、サリエリはロッシーニから「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられたこともあるという。こうしたことから、サリエリは生前にモーツァルト毒殺犯として相当な嫌疑がかけられていたことがわかる。
ウィーン中央墓地が開設されたのは1874年であり、サリエリの他界から半世紀が経っている。つまり、サリエリの墓はどこからか改葬されてきた。その段階でも楽聖エリアに彼の墓が築かれなかったのは、例の噂が影響していると思われ不憫でならない。なんとか彼を作曲家が集まる楽聖エリアに改葬できないだろうか。

※動画があります!サリエリの墓(4秒)



★シャルル・グノー/Charles Francois Gounod 1818.6.17-1893.10.18 (フランス、パリ 75歳)2009
Cimetiere d'Auteuil, Paris, France




1800年からある非常に古い墓地 墓地内のメインストリートにあるグノー家の霊廟

廟内の祭壇 08年に供えられた生誕190年カード シャルル・グノーの名がある

1818年6月17日にパリで生まれる。ピアニストの母にピアノを学び、パリ音楽院に進む。1839年に21歳で新人音楽家の登竜門「ローマ大賞」第1位を獲得。国費による2年間のイタリア留学で宗教音楽を集中的に研究する。帰国後、パリのサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊楽長・オルガン奏者を務め、また神学校の聴講生となって神学を勉強した。
1850年(32歳)、後に大画家となる当時23歳のルノワール(1841-1919)がグノーの聖歌隊に数年間所属しており、歌の才能を見込んだグノーが声楽を教えた。グノーはルノワールの両親に「息子さんをオペラ座の合唱団に入れましょう」と提案したが断られたという。
1851年(33歳)、最初のオペラ『サフォ』が初演され、以降は作曲に専念するが、鳴かず飛ばずの状態が7年間続く。
1854年(36歳)、交響曲第1番を作曲。2年後に第2番を書いた。若きビゼーはこの2つの交響曲を手本にして交響曲を作曲した。
1858年(40歳)、劇作家モリエールの喜劇を題材にした小コミック・オペラ『心ならずも医者にされ』で初めて成功する。
1859年(41歳)、文豪ゲーテの劇詩に基づくオペラ『ファウスト』(全5幕)が初演され、これにより不動の名声を得た。物語は、老学者ファウストが悪魔メフィストフェレスから若返りの薬をもらい、代わりに死後の魂を渡す契約を結ぶ。若返ったファウストは純真な村娘マルグリート(グレートヒェン)と愛し合うが、冒険を求めて彼女のもとを去る。久々に村に戻ると、ファウストを待ち続けていたマルグリートはやつれ果てていた。ファウストは後悔するが、彼女の兄に決闘を挑まれ殺してしまう。心を病んだマルグリートは子を殺めて牢獄に入る。ファウストが助けに来ると、彼女はファウストの帰還を確認し天に召されていった。
同年、グノーはバッハの『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』のプレリュードに、歌詞としてラテン語の聖句「アヴェ・マリア」をのせた歌曲を書き、人々に愛される名歌となった。
1867年(49歳)、オペラ『ロミオとジュリエット』が初演される。ちょうどパリ万国博覧会が開催中で連日満員となる大成功を収め、この年のうちにイギリス、ドイツ、ベルギーでも上演された。
1869年(51歳)、オペラ座で『ファウスト』が上演されることになり、慣例に従って第5幕にバレエ音楽が追加された。このバレエ音楽だけが単独で演奏されることも多い。
1872年(54歳)、ピアノ曲『操り人形の葬送行進曲(Funeral March of a Marionette)』を作曲。約80年後、ヒッチコック監督が同曲の管弦楽版をテレビシリーズのテーマ音楽に用いて有名になった。
1893年10月18日、パリ近郊のサン=クルーで他界。享年75歳。墓所はメトロ9号線のExelmans駅から南100mのオートゥイユ墓地。1800年からある非常に古い墓地で、墓地内のメインストリートにあるグノー家の霊廟の中に眠っている。
1894年11月24日、他界の翌年に『ファウスト』が日本で初演される。日本で最初に上演されたオペラであり、11月24日がオペラの日となった。
1949年、バチカンが実質的な国歌としてグノーの『賛歌と教皇の行進曲』を採用した。
抒情的で魅力あふれる旋律と、色彩感のある優れたオーケストレーションにより“フランス近代歌曲の父”とも呼ばれる。



★フランソワ・クープラン/Francois Couperin 1668.11.10-1733.9.11(フランス、パリ 64歳)2009
Church of St. Joseph, Paris, France

ビックリ!このモダンなビルが聖ヨセフ教会だった! 礼拝堂は地下にあった 教会の中庭。このどこかに埋葬されている?

バッハに影響を与えたバロック音楽の大作曲家クープラン。ラヴェルは最後のピアノ独奏曲の題名を『クープランの墓』としており(正確な訳は“クープランを偲んで”)、どんな墓か楽しみにしていた。ところが!聖ヨセフ教会がなかなか見つからない。それもそのはず、外観が写真のように近代的なビルだったんだ。こっちは昔ながらの古い教会をイメージしていたので前を素通りしていた。中に入っても墓地がなくポカ〜ン。神父さんに質問すると「教会の敷地のどこに埋葬されたかわからない」とのこと。うーむ。とりあえず、中庭全体を墓所とみなして合掌した。※場所はメトロのTernes駅から南へ300m。凱旋門の近く。



★アレクサンドル・グラズノフ/Aleksandr Konstantinovich Glazunov 1865.8.10-1936.3.21 (ロシア、ペテルブルク 70歳)2009
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

   

ロシア民謡を作品に取り入れるなど、ロシアの大地に根ざした音楽を目指したロシア国民楽派の最後の大物作曲家。
師匠はリムスキー・コルサコフ。1898年(33歳)、バレエ音楽「ライモンダ」を作曲。サンクトペテルブルク音楽院の
院長も務めた。1928年(63歳)にスターリン暴政下のソ連へ別れを告げ、パリ近郊で死去。享年70歳。




★ジョン・ケージ/John Milton Cage 1912.9.5-1992.8.12 (USA、ニューヨーク州 79歳)2009
Ashes scattered, scattered , NY at the Gate Hill Cooperative, USA

    

前代未聞の異色曲「4分33秒」などで知られる現代音楽の巨匠ジョン・ケージ。彼の遺灰はNYの「Gate Hill」に撒かれたとのこと。調べたところ、
NYで「Gate Hill」という地名はここしか見つからず、おそらくこの付近で土に帰ったんだと思う。(別情報をご存知でしたらご一報を!)




★エンリケ・グラナドス/Enrique Granados y Campina 1867.7.27-1916.3.24 (英仏海峡 48歳)2009
Body lost or destroyed
 
パブロ・カザルスは「私たちのシューベルト」とグラナドスを讃えた

 

  
第1次世界大戦のさなかの1916年3月24日、英国汽船「サセックス」号で米国からスペインに帰国する途中、
グラナドスは船がドイツのUボートに撃沈され、妻と共にこの英仏海峡に散った

スペイン国民楽派の旗手として、7歳年長のアルベニス(1860-1909)と並び立つ存在の作曲家エンリケ・グラナドス。アルベニスがスペイン南部のアンダルシア民俗音楽を泥臭く取り扱う一方、グラナドスはスペイン北部の民謡を洗練した形で取り込んだ。
グラナドスは1867年7月27日にバルセロナの100km西方、カタルニャのレリダ生まれた。父はキューバ出身の軍人で音楽好きの一家だった。家族でバルセロナに転居したことを機に本格的にピアノを学ぶ。
1883年、16歳でリセウ高等音楽院(バルセロナ音楽院)のコンクールで首席に輝き、スペイン国民楽派の代表的な作曲家フェリペ・ペドレル(1841-1922)に師事。同じ頃、アルベニスもペドレルに師事していた。ペドレルから作曲を学び、何よりも精神面で民族主義の影響を受けた。
1887年(20歳)、パリ音楽院で学ぶためにパリに出るが、チフスに感染し入学不可になった。それでも、同院の教授から2年間個人レッスンを受けることはできた。
1889年(22歳)、バルセロナに戻り、ピアニストとしてデビュー。曲目はグリーグのピアノ協奏曲。
1892年(25歳)、出世作となる『スペイン舞曲集』の作曲を開始。翌年に第1巻完成。同年、アンパロ・ガルと結婚、6人の子どもを授かる。
1898年(31歳)、オペラ『マリア・デル・カルメン』を初演、成功する。
1900年(33歳)、作曲に8年をかけた『スペイン舞曲集』4巻全12曲が完成。民謡や舞曲を取り入れずにスペインを実感させるフレーズを書き、スペイン国民学派の基礎をつくった。このうち第5番「アンダルーサ」は特に人気が高く、ギター独奏に編曲されたり、歌詞が付けられたりしている。第2番「オリエンタル」は神秘的、第4番「ヴィラネスカ」は田園に鐘が響き渡る。第8番「アストゥアリーナ」は印象派のような透明感が特徴。
※『スペイン舞曲集』 https://www.youtube.com/watch?v=qGksNA9ea68 (60分)
1901年(34歳)、後進の育成のためバルセロナに音楽学校「アカデミア・グラナドス」を設立。愛弟子フランク・マーシャルが後継となり、この学校から20世紀を代表するピアニストの一人、アリシア・デ・ラローチャ(1923-2009)を輩出した。
1904年(37歳)、マドリード音楽院主催の音楽コンクールで優勝。このとき28歳のファリャも審査員賞を受賞している。
1909年(42歳)、盟友アルベニスが48歳で他界。
1912年(45歳)、19世紀初めのスペインの画家ゴヤの版画からインスピレーションを得た代表作、ピアノ組曲『ゴエスカス』第1巻が完成。ゴエスカスの意味は“ゴヤ風”。第1巻は「愛の言葉」「窓辺の語らい」「ともし火のファンダンゴ」「嘆き、またはマハと夜鳴きうぐいす」の4曲で構成されている。スペイン語の「マハ」は若い女性のこと。ちなみに「マホ」が若い男性。“夜鳴きウグイス”は夜に鳴くナイチンゲール。
同年、歌曲集『トナディーリャス』(全12曲)を作曲。
1914年(47歳)、ピアノ組曲『ゴエスカス』第2巻が完成。「愛と死」「終曲」の2曲が収められた。パリのコンサートホール「サル・プレイエル」で自作演奏会を催して喝采を浴び、フランス政府からレジオンドヌール勲章を受章する。同年、スペイン歌曲の最高峰とされる『愛の歌曲集』(全7曲)を作曲した。
※『ゴエスカス』(全曲)アリシア・デ・ラローチャのピアノ。4曲目「嘆き、またはマハと夜鳴きうぐいす」と5曲目「愛と死」の美しさよ…。
https://www.youtube.com/watch?v=dyO1aHZoxTQ (57分)
※『ゴエスカス』から「愛と死」の聴きどころ https://www.youtube.com/watch?v=dyO1aHZoxTQ#t=38m00s
デリケートを極めた装飾音のロマンティックな響きと、スペインの民族色が完全に融合した傑作。旋律は陰影と陶酔感に満ちている。
1916年、ピアノ組曲『ゴエスカス』を2幕に改作したオペラ『ゴエスカス〜恋する若者たち 』が完成。同作は1800年頃のスペイン・マドリードを舞台にした4人の男女のドラマ。恋人の愛を疑った男が、彼女に言い寄った若い男に決闘を挑み、撃たれて死んでいくというもの。
※オペラ『ゴエスカス』(演奏会形式)https://www.youtube.com/watch?v=Fv_9iUjKIFY
※『ゴエスカス』の「間奏曲」。NYで初演前に必要となり急遽7日間で作曲された。このマンドリン編曲版がいい。 https://www.youtube.com/watch?v=I5GH6quRe8w
グラナドスはオペラ『ゴエスカス』の初演をパリで行うことを希望していたが、第一次世界大戦の真っ只中で不可能だった。そこへ、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から初演の申し出があり、当日は夫妻で列席するよう求められた。立ち会った初演は大成功に終わり、ウィルソン大統領の招待でホワイトハウスで演奏会を開く。このため、当初予定したスペインへの直行便をキャンセルしてアメリカ滞在を延長し、帰途はニューヨークからイギリスの汽船「サセックス」号に乗船した。そしてロンドン経由で英仏海峡を渡航中、1916年3月24日にドイツ潜水艦Uボートによる魚雷攻撃を受け、サセックス号は沈没。グラナドスはいったん救命ボートに救出されかけたが、溺れている妻アンパロを助けるために海中へ戻り、二人とも抱き合うように沈んでいった。奇しくも7年前に他界したアルベニスと同じ48年の生涯だった。

民族音楽とロマン派音楽を融合し、アルベニスと共に近代スペイン国民楽派を確立したグラナドス。スペインやパリで演奏活動を行い、ピアニストとして名声を博する一方で、スペインの民俗舞曲を素材としたピアノ曲を書き名曲を残した。
グラナドスはシューマンなどロマン主義音楽に影響を受けつつ、スペイン的な旋律を書いた。アルベニスいわく「グラナドスは(北部の)カタルーニャ人にもかかわらず、他の誰もがまねすることができないほどに、(南部の)アンダルシアの陰の魅力を表現した」。作曲家マスネはグラナドスを「スペインのグリーグ」と讃えた。さらに音楽学校を設立するなど、後進の指導にあたったことも特筆したい。

〔墓巡礼〕
ドイツ軍潜水艦の攻撃で海に沈んだグラナドス。事実上、英仏海峡そのものが彼の墓になるため、僕はイギリス南部ドーバーの岬から手を合わせた。『ゴエスカス』という傑作を生み出した直後の死。グラナドスが長生きしていれば、どれほど多くの名曲が人類に残されていたか。ドイツ軍は取り返しのつかないことをした。夫妻の無念を思い、岬に吹き付ける風と波音の中で追悼した。

※グラナドス自身の演奏で『詩的なワルツ集』が自動ピアノに録音されている。
※ギターの名手アンドレス・セゴビア(1893-1987)はグラナドスの弟子。そしてセゴビアの一番弟子がジョン・ウイリアムス(映画音楽のウイリアムスとは別人)。
※グラナドスは孤児を一家に迎え入れ家族同様に暮らし、物乞いに自分の生活費を与えたという。
※9歳年下のチェリストの友人パブロ・カザルス(1876-1973)いわく「グラナドスこそ、もっとも本質的な創造者である。一言でいえば、もっとも天才的で、もっとも細やかな詩情を備えた作曲家である。しかも彼は独学だった。彼は…私たちのシューベルトだ」



★カール・ニールセン/Carl August Nielsen 1865.6.9-1931.10.3 (デンマーク、コペンハーゲン 66歳)2009
Vestre Kirkegard (Western Churchyard), Copenhagen, Denmark

  
墓地中央の池の南側、A区5-3に墓が建つ。レリーフのニールセン像は彫刻家の夫人が制作

デンマーク最大の作曲家。国民楽派。北欧の作曲家に共通である線の太さと息の長さを持つ。半音階的和声と力強い躍動的なリズムが特徴。
1865年6月9日、コペンハーゲンを擁するシェラン島の西隣り、フュン島のオーゼンセ近郊ネレ・リュネルセに生まれる。父はヴァイオリンをたしなむ貧しいペンキ屋。同年、半年後にフィンランドではシベリウスが生まれている。6歳から地元の楽団でヴァイオリンを弾いた。10歳のときに同郷のアンデルセンが他界している。
1879年(14歳)、オーデンセの軍楽隊に入り歩兵連隊のラッパ手を務める。
1884年(19歳)、真剣に音楽を学ぶべくコペンハーゲンの王立音楽院の作曲科に進み、デンマークの著名作曲家ニルス・ゲーゼに師事。
1888年(23歳)、王立音楽院を卒業した直後に、“作品1”となる弦楽合奏曲『小組曲』を作曲。チボリ公園のコンサートで初演され成功を収め、翌年に楽譜が出版された。
※『小組曲』 https://www.youtube.com/watch?v=iIhufkXFtEE (15分)
1889年(24歳)、王立劇場オーケストラのヴァイオリン奏者となる。後に指揮者としてノルウェー出身の作曲家兼指揮者ヨハン・スヴェンセン(1840-1911)を補佐し、国民楽派スヴェンセンに作曲家としても影響を受ける。
1891年(26歳)、パリで2歳年上の彫刻家アンネ・マリーと出会い、結婚。
1892年(27歳)、若々しさに満ち溢れた『交響曲第1番』を作曲。牧歌的な第2楽章が美しい。ニールセン節ともいえる、炎や蜃気楼がユラユラとするようなトレモロの旋律が第3楽章に早くも登場している。
※『交響曲第1番』ブロムシュテット指揮サンフランシスコ響 https://www.youtube.com/watch?v=NvmJ55kE7KI (33分)
1896年(31歳)、自作の歌詞をラテン語に翻訳してもちいた初期のカンタータ『愛の賛歌』を作曲。
1901年(36歳)、全4幕のオペラ『サウルとダヴィデ』を完成。
1902年(37歳)、『交響曲第2番 四つの気質』を作曲。人間の4つの性格をコミカルに描写。
1903年(38歳)、妻とギリシャを旅行し、アテネのホテルから見たエーゲ海の日の出に感激する。そして、夜明けから日没までの太陽を音で描きだした序曲『ヘリオス』を作曲する。
※序曲『ヘリオス』 https://www.youtube.com/watch?v=0jikeQdzv3s (9分41秒)

1906年(41歳)、オペラ『仮面舞踏会(マスカラデ)』を作曲。
1907年(42歳)、ノルウェーの偉大な作曲家グリーグが64歳で他界。
1908年(43歳)、 スヴェンセンが王立劇場楽長を引退し後継となる。
1911年(46歳)、『交響曲第3番 広がり(広がりの交響曲)』を作曲。第2楽章で舞台裏からソプラノとテノール歌手がおおらかにヴォカリーズを歌い、のどかなたたずまいから「ニールセンの田園交響曲」とも言われる。
※『交響曲第3番』第2楽章の後半 https://www.youtube.com/watch?v=40-1Ww-uXJk#t=16m20s
同年、『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。ニールセンは尊敬するグリーグが使用していた作曲小屋や邸宅でこの曲を書きあげた。 
1914年(49歳)、第一次世界大戦が7月に勃発。ニールセンはこの夏、生命讃歌をうたった『交響曲第4番 不滅』の作曲を開始する。
1915年(50歳)、王立音楽院の教授になる。
1916年(51歳)、代表作となる『交響曲第4番 不滅(滅ぼし得ざるもの)』が2年をかけ完成する。ニールセン「地球上における生きとし生けるものの生命力の不滅。仮に洪水や噴火などの天変地異によって生物が一度生命を絶たれたとしても、再び繁殖を始め栄えるであろう」。第一次世界大戦という未曾有の人類史の悲劇にあって、ニールセンは音楽と生命の不滅を高らかに歌い上げた。「単一楽章」という珍しい形式の交響曲。シベリウスは1924年に単一楽章の『交響曲第7番』を書いているが、ニールセンの方が「8年」早い!同年、ピアノ曲『シャコンヌ』を作曲。
曲想の力強さが不滅の生命力を表している。第4部では、2群のティンパニが活躍し)2群のティンパニによる競演を特徴とし、ニールセンが手がけた交響曲の中でも特に劇的な作品と目されている。
※『交響曲第4番 不滅』 https://www.youtube.com/watch?v=niF6Y7ZNqys (36分10秒)
※ピアノ曲『シャコンヌ』 https://www.youtube.com/watch?v=mrjR1SL2lyY (10分33秒)終わり方がめちゃくちゃ綺麗
1918年(53歳)、第一次世界大戦が終結。
1919年(54歳)、コペンハーゲンの王立劇場の委嘱により劇付随音楽『アラジン』を作曲。異国風のメロディーを導入。没後、「アラディン」組曲としてポピュラーに。
1922年(57歳)、戦争を内面的に掘り下げた2楽章の『交響曲第5番』が完成。“20世紀最高の交響曲”とも呼ばれる第5番。この頃から作風が変化し、難解で内向的なものになっていく。ニールセン「皆、戦争を経験して、心が戦争と同じになっていた」。第一楽章は“小太鼓協奏曲”に近い。スウェーデンでの初演時は、不吉な不協和音、「悪」のモチーフを奏でる木管楽器、旋律とズレた小太鼓のマーチが聴衆を混乱させパニックが起きた。ニールセンが指示した小太鼓奏者のアドリヴ・ソロは「まるでどんな犠牲をはらってもオーケストラの進行を止めることを望んでいるかのように」。第一楽章は最終的に小太鼓も全体と融合し、クラリネットが追悼の調べを奏でる。
ニールセン「“悪”のモチーフが木管と弦で割って入るとドラムはますます怒り、攻撃的になる。しかし、自然のテーマが金管で平和に純粋に育っていく。ついに悪が敗北しなければならなくなり、最後の逆襲をしたあとに逃げ出す。そしてその後の部分で慰めに満ちた長調でソロのクラリネットが静かな自然を表現して、この長大な牧歌の楽章を終える」。
※『交響曲第5番』 https://www.youtube.com/watch?v=y6o3JnyVRCw (33分)
1924年(59歳)、混声合唱曲『美しい国』を作曲。
※『美しい国』 https://www.youtube.com/watch?v=Q4VAe5Anw_g
1925年(60歳)、無邪気で陽気な最後のシンフォニー、『交響曲第6番 シンプル(素朴な交響曲)』を作曲。第2楽章は当時の音楽界の風刺で、トロンボーンは批評家たちの嘲笑をイメージさせる。重厚な交響曲を書いてきたニールセンは、最後にこのようにユーモア、ウィットに富む楽想に至った。
※『交響曲第6番 シンプル』ライブ動画 https://www.youtube.com/watch?v=SRLT5vq1weM (34分)
1927年(62歳)、回想録「わがフューネンの幼年時代」を執筆。
1931年、 オルガン曲『コンモツィオ』を作曲。王立コペンハーゲン音楽院の院長に就任。10月3日、コペンハーゲンで他界。享年66歳。彫刻家の妻アンネがデスマスクを制作した。
1945年、ニールセン他界の14年後にアンネ夫人が逝去し、同じお墓に入る。
※『コンモツィオ』 https://www.youtube.com/watch?v=8KM_WfaN9c0 (25分34秒)壮大なパイプオルガン・サウンド

〔墓巡礼〕
デンマーク語の墓地はKirkegard(キルケゴール)。哲学者セーレン・キルケゴールと同じ綴りであり、キルケゴールは日本語だと「お墓さん」ということに。コペンハーゲンの墓地といえば、アンデルセンやキルケゴール、ニールス・ボーアが眠るAssistens Kirkegard(アシステンス教会墓地/Assistens=補助※他の墓地の混雑解消を目的に作られた)が有名だが、ニールセンが眠るVestre Kirkegard(ヴェストラ墓地/Vestre=西)はアシステンスから4km南に位置する。コペンハーゲン中央駅から2駅南西に向かいCarlsberg駅で下車すると、徒歩5分で墓地の入口に着く。墓地中央の池の南側、A区5-3に墓が建つ。アンネ夫人の名も刻まれていた。墓石上部にある人物レリーフは、おそらく彫刻家の夫人が制作したニールセンの肖像レリーフだと思う。このレリーフに言及した文献がなく要検証。最初、見た瞬間に「え?メドゥーサ?」と思ってしまった(汗)。よく見るとニールセンと眉のあたりが似ている。荒ぶるニールセン。

※故郷オーゼンセのアンデルセンの生家の近くにカール・ニールセン博物館がある。
※デンマークの同時代の作曲家ルドルフ・ニールセン(1876-1939)は縁戚関係がない完全に別人なので注意。



★スティーヴン・フォスター/Stephen Collins Foster 1826.7.4-1864.1.13 (USA、ペンシルバニア州 37歳)2009
Allegheny Cemetery, Pittsburgh, Allegheny County, Pennsylvania, USA  Plot: Section 21, Lot 30


非常に歴史が古い墓。門は古城のよう 独立記念日に生まれた 墓地の中央付近の丘に眠る

アメリカ合衆国が建国したのは1776年7月4日。このとき、欧州では既に大バッハが世を去って四半世紀が経ち、20歳のモーツァルトが活躍、6歳のベートーヴェンは酒浸りの父にピアノのスパルタ教育を受けていた。それから50余年が経ち、ベートーヴェンが9つの交響曲を書きあげ、波乱に満ちた生涯をまさに終えようとしたその前年に、アメリカ北東部で生まれたのが、“アメリカの音楽の父”スティーブン・フォスターだった。誕生日の1826年7月4日は、アメリカ独立50周年当日(独立記念日)という、後に彼が国民的音楽家になる運命を象徴するかのような日だった。
生誕地はペンシルベニア州ピッツバーグの郊外で祖先はアイルランド系移民。大家族の白人家庭に生まれ(第9子)、「白壁の家」で音楽好きの家族に囲まれて育ち、2歳のときにギターでメロディーを奏でた。やがて父が事業で失敗し、一家は苦境に立たされるが、7歳の少年フォスターは母から贈られたフルートを吹いて家族を楽しませた。

1841年、15歳の時に初めて作曲した『ティオガ・ワルツ』を教会にてフルート演奏。近所の少女のために16歳で書いた『窓を開け、恋人よ』が最初の歌曲となった。
1844年(18歳)、『窓を開け、恋人よ』の楽譜が出版され、フォスターは作曲家になる道を進むべく、ドイツ人音楽家にクラシック音楽を学んだり、街角に出ては移民たちの様々な民俗音楽を楽しんだ。
19歳、弟が所属する合唱団のために『ルイジアナの美人』『ネッド叔父さん』を作曲。

1846年(20歳)、前年にピッツバーグが大火に見舞われたこともありオハイオ州シンシナティに転居し、兄が経営する海運会社で簿記係を務める。港には黒人労働者たちの音楽があふれ、フォスターの楽才を刺激した。この西部開拓時代の娯楽の王様「ミンストレル・ショー」は、白人が煤(すす)で顔を黒く塗り、歌とダンスで黒人を面白おかしく表現するというもの。現代の感覚では考えられない差別的な大衆娯楽であり、白人社会の中でも貧しい階層が優越感に浸るために足を運んでいた。若きフォスターはこのショーの歌の作詞、作曲を行うようになる。
1847年9月11日(21歳)、ピッツバーグのミンストレル・ショーで黒人霊歌風の『おお!スザンナ』初演。しょんぼりしているスザンナを、あべこべ言葉のジョークを聞かせて元気を出させようとする歌。「♪おいらはバンジョーを膝にアラバマからやって来た ルイジアナに真実の愛を探しにいくんだ 出発した日は雨だけど乾燥していて
晴れて暑かったけど凍え死にそうだったぜ おおスザンナ、泣かないでおくれ」。
ユーモラスな歌詞と陽気なメロディーが好評を得て、翌年(22歳)に楽譜が出版された。他のミンストレル・ショーの一座もこの歌を演奏し人気が広まったが、当時は著作権の意識が低く、フォスターは安い印税率で契約し出版者は大儲けした。以降3年間で16の出版社が30種以上の『おお!スザンナ』を無断で出版し、トータルの販売部数が10万部に達する大ヒットとなったが、彼がこの歌で得た収入はわずか100ドル(今の2653ドル/約30万円)に過ぎなかった。とにもかくにも、この『おお、スザンナ』のヒットで、フォスターには印税が入るようになり、アメリカで最初のプロのソングライター(歌謡作家)になった(当時、音楽教師などが作曲を兼業するのが一般的だった)。
※現在、日本の文科省唱歌に指定されている『おお!スザンナ』だが、初版の歌詞は一線を超えた黒人差別表現がある。2番の歌詞は「De lectric fluid magnified, And killed five hundred nigger(電流をあげて500人のニガーを殺した)」という耳を疑うもの。この歌詞は後に大きく変更された。
※ちなみに『おお!スザンナ』を日本に広めたのは土佐国の漁師ジョン万次郎=中浜万次郎(1827−1898)。彼は1841年に漂流し、143日後、米国の捕鯨船に救助されアメリカへ。1849年、帰国費用を得るためにゴールドラッシュに沸くのカリフォルニアで金鉱掘りとなり、このとき坑道で流行していたアメリカ民謡『おお!スザンナ』を耳にした。1851年、無事に帰国したフォスターは、翌1852年『おお!スザンナ』を初めて日本に紹介した。

1849年(23歳)、『やさしいネリー(ネリーはレディ)』を含む歌曲集『フォスターのミンストレル・ソング集』を出版。『やさしいネリー』は黒人奴隷の夫が亡き妻を想う追悼歌。フォスターが書いた歌詞では、奴隷が妻のことを「レディ」と呼んでおり、これは当時の白人社会の感覚と大きく異なっていた。同年、ペンシルベニアに戻る。
「♪ネリーはレディだった 彼女は昨晩死んでしまった 愛するネルのために鐘よ鳴れ 私の黒いヴァージニアの花嫁のために」
https://www.youtube.com/watch?v=Rbh2n95HbX4
歌詞 http://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S1624.htm

1850年(24歳)、躍動感のある『草競馬』を作曲し、手紙に「オペラ・ファンに見下されているミンストレル歌曲の地位をあげたい」と記す。人気者となったフォスターはピッツバーグの名医の娘“ジェニー”ことジェーン・マクドエル(19歳)と結婚、翌年に娘マリアンを授かる。家庭の安定を得たフォスターは名歌を次々と生んでいく。

1851年(25歳)、フォスターはミンストレル・ショーのように黒人を嘲笑する演芸に協力することに後ろめたさを感じ、次第に黒人を1人の人間として真っ当に扱う曲を書きたいと思うようになった。そしてまだ見ぬ南部フロリダ州のスワニー川を題材に、生涯最大のヒット作となる『故郷の人々(スワニー河)』を書きあげた。サビのコーラスは黒人奴隷への共感を示した「♪この世はどこもかしこも悲しく憂うつだ
おお、黒人の同朋たちなら分かるだろう 故郷の人々から遠く離れて暮らす、この心の憂いが」というもの。ただし、奴隷制支持者からの批判を懸念し、この時はまだ黒人歌の作家として認知されることに抵抗があったフォスターは、作者の名を15 ドルで売ってしまい、楽譜の表紙ではミンストレル・ショーの興業主E・P・クリスティが作詞作曲したことになっている。また、フォスターは歌手に「あくまでも同情的に、決してコミカルには歌わないように」と念を押している。

1852年(26歳)、フォスターが暮らした当時のシンシナティは奴隷制度廃止運動の中心地。この街の女性作家ハリエット・ビーチャー・ストウ(1811-1896)はこの年小説『アンクル・トムの小屋』を3月に発表。本作は白人に虐待され死に至る優しい黒人奴隷トムと、彼を救出しようとする白人ジョージを描いた物語で、奴隷解放を呼びかけるきっかけとなった。これを読んだフォスターは大きな影響を受け、黒人の境遇をテーマに芸術性の高い歌曲を作ることを目指す。彼はアメリカ南部を音楽で描いた。
そして『故郷の人々』の楽譜を見る度に、表紙に他の作家名が載っていることを恥じ、自分の名を載せる覚悟を決めた。手紙に「これからは何も恐れず、恥じることなく仕事に取り組み、最高の黒人歌作家として世間に認められたく思う」と決意を刻む。そして『故郷の人々』の作家名の返還を求めたがE・P・クリスティに拒絶され、結局、没後15年が経ってフォスターの名が楽譜を飾るようになった。

同1852年、新婚旅行で南部ニューオーリンズを訪問。また、南部ケンタッキー州バーズタウンで家を追われる黒人を目にしたフォスターは、アメリカ人すべてが共感できる望郷の想いを歌に込め、代表曲の一つとなる美しい『ケンタッキーのわが家』を作詞・作曲する。この曲の当初の題名は「哀れなアンクル・トム、おやすみ」。フォスターは人種を超えて人間そのものの姿に目を向けるようになった。
「♪ケンタッキーのわが家に陽は輝く この夏、黒人たちは陽気だ 穀物は実り、野原は花ざかり 鳥たちは美しい旋律を一日中さえずる 子ども達は小屋を転げ回り みんな明るく幸せで楽しかった でも辛い時代がすぐそこまでやってくる だからケンタッキーのわが家よ、さようなら 愛しい人よ 泣くのはおやめ さあもう泣かないで 懐かしいケンタッキーのわが家の歌を歌おう 遙かなケンタッキーのわが家のために」
また、この年に黒人奴隷たちが皆に慕われていた優しい農園の主人の死を悼んだ歌『主人は冷たい土の下に』を発表。「♪ ツタが生い茂る草葉の陰の墳丘に あの優しかった主人は眠る」。
※南北戦争のさなか、『アンクル・トムの小屋』の作者ストウ夫人と会見したリンカーンは、夫人を讃えて「あなたのような小さな方が、この(奴隷解放の)大きな戦争を引き起こしたのですね」と語った。現代では「アンクル・トム」の名は“白人に媚びる従順な黒人”として、黒人社会では蔑称として使われているが、一方で受難者としてアンクル・トムの中にキリストを見ることも出来る。

1853年(27歳)、「ミンストレル・ショーではなく、より多くの人々の心に届く音楽が書きたい」と、故郷に妻子を残して音楽出版社のある大都会ニューヨークに出る。そして前年に書いた『ケンタッキーのわが家』を出版。この曲は、移民国家アメリカの見知らぬ土地で、不安を抱えていた多くの人々の心を掴んだ。人々はフォスターの歌曲に触れ、甘美な旋律と歌詞により郷愁の念を起こさせ、フォスターの名はアメリカ全土に広まった。同年、人生を老犬としみじみ振り返る『老犬トレイ』を発表。次第に歌の主題が黒人から普遍的な人間像に移っていく。

1854年(28歳)、離れて暮らす妻ジェーンへの想いを切ない旋律にのせた『金髪のジェニー』を作曲(原題は“Jeanie with the Light Brown Hair”、薄茶色の髪)。同年、妻子もニューヨークに移り住む。
「♪夢に見る明るい茶色の毛のジーニー 霞のようにその髪は 夏の空気にたなびいている きらめく川の流れが戯れる場所を 彼女は歩いて行く 道々のヒナギクのように楽しそうだ」

1855年(29歳)、両親の具合が悪くフォスターはピッツバーグに戻り、妻子も追う。手早く金を稼ぐにはミンストレル・ショーの歌を書けば良かったが、抵抗を感じて書けないなったことから、次第に収入が減り借金暮らしに転落した。そのうえ母イライザと父ウィリアムが相次いで他界し、翌年には兄も死去。家計は火の車となり、貧困に耐えかねて妻子の心が離れていく。フォスターは自暴自棄となり酒に溺れつつ、いつか音楽家として成功することを信じて作曲を続けた。
同年、『すべては終わりぬ(つらい時代はもう真っ平だ)』を発表。フォスターの心の叫びが聞こえてくるようだ。
「♪つらい時代よ つらい時代よ もう二度と来ないでくれ 長いことお前は小屋の戸口でうかがっていた おお、つらい時代よ もう二度と来ないでくれ」

1857年(31歳)、出版者との先払い契約で得た金でギリギリの生活を続ける。
1860年(34歳)、ニューヨークに再び出て『オールド・ブラック・ジョー』を発表。老いた黒人奴隷が人生の終わりを迎えて胸の内を語る名歌で、妻の実家の奴隷のことを歌った。
「♪若く楽しい日々は過ぎ去り綿花畑の友人たちは既に旅立った みんな地上から離れ天にのぼった 彼らが優しい声で“オールド・ブラック・ジョー”と呼んでいるのが聞こえる 私もまもなく行くよ もう行くよ 頭を低く垂れて みんなが優しく“オールド・ブラック・ジョー”と呼んでいる」

1861年(35歳)、4月に南北戦争(1861-1865)が勃発し、世間は音楽どころではなくなる。奴隷制に反対し北軍を支持したフォスターの曲は南部で演奏されなくなり、戦争による出版事情の悪化も相まってヒット作が出なくなった。極度の生活の困窮から全曲の版権を売却するが、著作権の交渉に不慣れなフォスターは、出版社に安く買い叩かれてしまう。あまりの貧しさから妻子は親戚の家で暮らし、3年後に没するまで別居状態となった。フォスターは酒に溺れ、孤独感に包まれていく。

1862年(36歳)、フォスターは安宿と転々とし、すさんだ生活の中で『夢見る人』を書きあげる。また、リンカーンと北軍の応援歌『父なるアブラハム、我々も続きます』(We Are Coming,Father Abraam)を書いた。
1863年(37歳)、2種類の讃美歌集を発表。
1864年1月10日、肺病で長い間発熱に苦しんだフォスターは、マンハッタンのホテルの浴室で転倒し、洗面台が粉々になるほど頭部を痛打、破片で首と頭を切り大量出血する。倒れているところを若い作詞家G・クーパーに発見されベレビュー病院に搬送されたが、3日後の1月13日に発熱と出血多量で他界した。まだ37歳の若さだった。遺品となった財布にはわずか小銭38セントの所持金と、「dear friends and gentle hearts(親愛なる友だちとやさしき心よ)」と走り書きされた紙片だけが入っていた。電報交換手として働いていたジェニーはニューヨークに駆け付け、身体が冷たくなったフォスターと2年ぶりに対面し泣き崩れた。亡骸は鉄道でピッツバーグに運ばれ、1月21日にアレゲーニー墓地に埋葬された。葬儀ではヘンデルのオラトリオが演奏された。
死の2ケ月後、発表作としては遺作となる『夢見る人』の楽譜が出版され、人々がフォスターの才能に気づき、同時にアメリカが天才音楽家を失ったことを知った。
「♪夢見る美しい人 目を覚ましておくれ 星の光と露のしずくがあなたを待っている
日々聞こえる俗世のざわめきは 月の光に静まり消え去った 夢見る美しい人、歌の女王よ 優しい歌で愛を捧げるのを聴いておくれ この世の煩わしい人々を気にかけることは もうないんだよ」
南北戦争が泥沼化するなか、フォスターは「歌の女王」に「優しい歌で愛を捧げるのを聴いておくれ」と音楽家としての詩心をすべて差し出している。つま先から髪まで芸術家となっていた。
翌年、南北戦争は北軍勝利で終戦となる。
1903年、ジェーン夫人が他界。享年76歳。娘マリアンの消息は分かっていない。
1928年、『ケンタッキーのわが家』がケンタッキー州議会により州歌として採用され、後に黒人奴隷を指す「darkies(黒んぼ)」を「people」に変更される。
1935年に『故郷の人々』がフロリダの州歌となる。歌詞に農園(プランテーション)を懐かしむくだり「longing for de old plantation」があることから、奴隷制度を美化しているとして変更された。
1937 年、ピッツバーグ大学に「フォスター記念館」(現・アメリカ音楽センター)が完成し、歌曲の初版や伝記的な資料、フォスター作品がアメリカ音楽や世界の文化へおよぼした影響を証明する資料などが収蔵されている。記念館の向かいのシェーンリー・パーク入口にバンジョーを弾く黒人奴隷を伴ったフォスター像(1900年完成、1944年に移設)が建つ。
1951年(没後87年)、アメリカ連邦議会が命日の1月13日を「フォスターの日」と定めた。

フォスターの歌曲は歌詞の大半が自作であり、黒人差別が当たり前だった時代に、勇気を出して黒人を励ますメッセージを入れた。彼が書く歌曲は、親しみやすい旋律と簡素な和声で構成され、心に染み入る讃美歌のような響きを持つ。南北戦争以前の南部の農園で働く黒人奴隷の苦しみに共感を示し、黒人霊歌などを取り入れ、20年間に135曲のパーラーソング(家庭歌)と28曲のミンストレル・ソング、合計約200曲の歌を書いた。器楽曲など入れると285曲にのぼる。『やさしいネリー』『オールド・ブラック・ジョー』『ケンタッキーの我が家』で黒人奴隷に尊厳を与え、反奴隷運動に力を与え、最後に「人間そのもの」を歌い上げた。移民の国アメリの人々にとって、誰もが胸に抱く故郷への郷愁を揺り動かした。
誰もが知る数多くの名曲を残しながらも、経済的には恵まれず、貧困と孤独のうちに37歳で世を去ったが、音楽で19世紀アメリカを生き生きと表現した彼の歌曲は、アメリカ民謡として150年以上も歌い継がれ、「アメリカ音楽の父」として国民の心に生き続けている。
日本では1888年(明治21年)に『故郷の人々』が『明治唱歌第二集』に『あはれの少女』(大和田建樹作詞)として採用され、『草競馬』も文部省唱歌(1910-1944)に指定された。フォスター作品は、敵性音楽となった太平洋戦争の間を除き、多くの国民に親しまれてきた。敗戦後の日本で戦後初めて演じられたミュージカルはフォスターの生涯を描いた1947年の『マイ・オールド・ケンタッキーホーム』だ。150年前に遠いアメリカの地で書かれたノスタルジーあふれる民謡が、日本人の胸をも打つ不思議。全人類の民俗音楽なのかもしれない。

※アメリカにはフォスター以外の伝統音楽がない。
※フォスターの生家「白壁の家」は今でも解体されずに残っている。
※フォスターは白人作曲家として最初に仲の良い黒人夫婦を描き出し、黒人活動家フレデリック・ダグラス(1818-1895)から称賛される。
※フォスターの6歳年下でコネチカット生まれの作曲家ヘンリー・クレイ・ワーク(Henry Clay Work, 1832-1884)も有名。フォスターと並ぶ19世紀アメリカを代表する歌曲作曲家で約80曲を書いた。1876年に『大きな古時計』を発表し、楽譜が100万部売れる歴史的ヒットとなる。この曲は宿の主人から聞いたエピソードに着想を得た。奴隷制廃止運動の地下鉄道に協力したとのこと。
※フォスターが眠るペンシルベニア州ピッツバーグはニューヨーク州の西隣にある。隣りと言ってもNYとピッツバーグは東京と函館ほど離れているが。

〔参考資料〕『ららら♪クラシック』(NHK)、『日本人の知らないスティーブン・フォスター』(宮下和子/鹿屋体育大学外国語教育センター)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト)、『ブリタニカ国際大百科』(ブリタニカ)
『世界の民謡・童謡 フォスター』http://www.worldfolksong.com/foster/index.html
『スティーブン・フォスター歌曲集』http://a-babe.plala.jp/~jun-t/Foster_Songs.htm



★サミュエル・バーバー/Samuel Barber 1910.3.9-1981.1.23 (USA、ペンシルバニア州 70歳)2009
Oaklands Cemetery, West Chester, Chester County, Pennsylvania, USA

米国クラシック界が誇るバーバーの墓
アメリカ国旗が供えられていた
右隣には「To The Memory Of Two Friends
(2人の友人の記憶へ)」。ファンが建てたもの
手前はバーバーの両親の墓


新ロマン主義のアメリカ人作曲家。現代音楽の特徴である無調、12音主義、ジャズなどの要素はほとんどなく、「最後のロマンティスト」「保守派の旗頭」とも。
1910年3月9日、アメリカ北東部ペンシルベニア州のウェスト・チェスター生まれ。父は外科医、母はピアニスト。6歳でピアノを、7歳で作曲を始め、10歳でオペレッタを書き、12歳で地元の教会オルガニストになる。
1924年(14歳)、フィラデルフィアに同年開校したカーティス音楽院(のちにバーンスタインやニーノ・ロータ、ラン・ラン、ユジャ・ワンが在学)の最優等クラスに入学し、指揮(フリッツ・ライナー)、歌唱、ピアノ、作曲を学ぶ。
1928年(18歳)、作品1を冠した『弦楽のためのセレナーデ』を作曲(1929?元は弦楽四重奏曲みたい)。
※『弦楽合奏のためのセレナーデ』 https://www.youtube.com/watch?v=QC0ey796KfQ (9分)
1931年(21歳)、18世紀の英国の喜劇から着想した最初の管弦楽曲『序曲 悪口学校』を作曲。同年、バリトン歌曲『ドーヴァー・ビーチ』を作曲。バーバー自身も優れたバリトン歌手だった。
※『ドーヴァー・ビーチ』ディースカウ https://www.youtube.com/watch?v=BmO7qX0-qu4 (8分22分)弦楽四重奏とバリトンの相性が最高、「今宵の海は静かだ。潮は満ち海峡の空に月は輝く」と始まり、もの悲しさがいい
※翻訳をされた方のブログ https://blogs.yahoo.co.jp/other_wind/56855490.html
1932年(22歳)、欧州旅行を行い、旅先で『チェロ・ソナタ』を作曲。
1934年(24歳)、音楽院を最優等で卒業し作曲に専念。
1935年(25歳)、アメリカ・ローマ賞(ローマ賞のアメリカ版)を受賞、さらにピュリッツァー奨励金も獲得したことで当年から翌年にかけて2年間のイタリア留学が可能に。
1936年(26歳)、イタリアに留学し、ローマ滞在中に出世作となる『交響曲第1番』を作曲。本作はアメリカ人作曲家が書いた交響曲として、初めて国際的な名声を得た作品となった(ザルツブルク音楽祭で演奏された初の米国の交響曲)。また、ローマでは『弦楽四重奏曲ロ短調』も作曲している。同年、2年連続でピュリッツァー奨励金を獲得。
※『交響曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=sQQ1VyS7YqY (19分)
※『弦楽四重奏曲ロ短調』第二楽章/ドーヴァー四重奏団 https://www.youtube.com/watch?v=whtEn25C8yY (7分50秒)
※『弦楽四重奏曲ロ短調』第二楽章/クイロガ四重奏団 https://www.youtube.com/watch?v=GHWYvptn6DI (8分47秒)
1937年(27歳)、前年の『弦楽四重奏曲ロ短調』から第2楽章を弦楽合奏用に編曲した『弦楽のためのアダージョ』を作曲。7段の総譜に書かれたわずか67小節の本作がバーバーの名を不動にした。管楽器や打楽器のパートはなく、抒情的で哀感に満ちた心を揺さぶる旋律が弦楽器のみで展開されていく。
※『弦楽のためのアダージョ』バーンスタイン指揮(神LIVE) https://www.youtube.com/watch?v=tVNhFMZP4NM (10分)
※『弦楽のためのアダージョ』チェロ4本バージョン https://www.youtube.com/watch?v=SXm0dr5_Q2g (8分)
※『弦楽のためのアダージョ』まさかのテクノ版!https://www.youtube.com/watch?v=fOUQrwJ2XOM#t=1m15s
1938年(28歳)、イタリアで大指揮者トスカニーニと会って作品を見せたところ、11月に『弦楽のためのアダージョ』をニューヨークで初演(NBC交響楽団)してくれた。アメリカ人作曲家の現代音楽をめったに演奏しないトスカニーニが採り上げたことで一気に有名になる。最初のリハーサルでトスカニーニは「Semplice e bella 」(シンプルで美しい)と述べた。この曲は後年著名人(ケネディ大統領など)の葬送曲として演奏される機会が増えたため、バーバーは「私は葬式のために書いたのではない」と嘆いたという。
同年、バーバーは歌曲『この輝ける夜に』を作曲。これも美しい。
※『この輝ける夜に』 https://www.youtube.com/watch?v=pO35-lLMVWw (2分35秒)
※トスカニーニがバーバー以外で演奏した米国人作曲家の作品は、“アメリカのシベリウス”ハワード・ハンソンの『交響曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=ob4_9z9FXZQ (30分)確かにいい!
1939年(29歳)、代表曲のひとつ『ヴァイオリン協奏曲』を作曲(公開初演は1941年)。同年、第二次世界大戦が勃発。
※『ヴァイオリン協奏曲』バーンスタイン&アイザック・スターン
https://www.youtube.com/watch?v=MdRD6gEa9CY (22分46分)現代音楽なのにロマン派…嬉しい!
※『ヴァイオリン協奏曲』第二楽章/ヒラリー・ハーン
https://www.youtube.com/watch?v=DHLOvTmsqIA (9分)オーボエも良い仕事をしている
1941年(31歳)、『弦楽のためのアダージョ』の旋律にラテン語の典礼文を載せた合唱版『アニュス・デイ』を作曲。
※『アニュス・デイ』モーゲンス・ダール室内合唱団(20名)https://www.youtube.com/watch?v=2FJUyqrojvI (7分)
※『アニュス・デイ』ザ・シンガーズ(40名)https://www.youtube.com/watch?v=UpUO4hbRruo#t=0m12s (8分)
※『アニュス・デイ』フランドル放送合唱団
https://www.youtube.com/watch?v=fRL447oDId4 (7分36秒)めっちゃ声は美しい、録音も最高、でも座っているのが気になる
※『アニュス・デイ』ボーイ・ソプラノ版(オックスフォード)https://www.youtube.com/watch?v=TFJ4hN7vxWo (8分)大ヒットCD
1942年(32歳)、軍に徴兵され、陸軍航空隊に配属される。
1943年(33歳)、唯一の吹奏楽曲『コマンド・マーチ』を作曲。同年、アメリカ陸軍航空軍から「飛行機乗りを扱った交響作品」の委嘱を受け、テキサスで飛行訓練に参加する。この年、バーバーはカーティス音楽院在学中に知り合い、同性愛の関係だった1歳年下のオペラ台本作家ジャン・カルロ・メノッティ(1911-2007)とマンハッタンの北に家を購入、創作の拠点とした。メノッティとは40年余り私生活のパートナーとなった。
※『コマンド・マーチ』 https://www.youtube.com/watch?v=SimNUVQRjGU (3分37秒)
1944年(34歳)、『交響曲第2番』を作曲、ボストン交響楽団により初演。第1楽章はフライトの興奮とダイナミズム、第2楽章は夜間飛行、第3楽章冒頭は小節線がなく飛行の感覚を表わしたという。コーダは着陸時のプロペラ音。
1945年(35歳)、第二次世界大戦が終結。同年、『チェロ協奏曲』を作曲。
※『チェロ協奏曲』第二楽章 https://www.youtube.com/watch?v=Qbbl0Fs3kEE#t=12m50s (物憂い月夜のような旋律でGOOD)
1946年(36歳)、アメリカの女性舞踊家マーサ・グラハムのためにバレエ音楽『メディア』を作曲。
1947年(37歳)、『チェロ協奏曲』がニューヨーク批評家協会賞を受賞。同年、少年時代を回想した歌曲『ノックスヴィル、1915年の夏』を作曲。
1949年(39歳)、『ピアノ・ソナタ変ホ短調』をホロビッツに献呈。第3楽章は伴奏で12音が繰り返されており、現代音楽の世界のバーバーと会える。
1957年(47歳)、盟友メノッティの台本による最初のオペラ『バネッサ』を作曲。メトロポリタン・オペラで初演され、翌年にピュリッツァー賞を獲得。
1960年(50歳)、母校カーティス音楽院に新設されたパイプオルガンの性能を引き出した『祝典トッカータ』を作曲。
1962年(52歳)、『ピアノ協奏曲』を作曲、批評家から大絶賛され、同曲で翌年2度目のピュリッツァー賞受賞をはたす。
※『ピアノ協奏曲』ピアノはジョン・ブラウニング(当曲はブラウニングの演奏技術を念頭に作曲) https://www.youtube.com/watch?v=HobIr7logJc (26分)第一楽章はプロコフィエフばりの凄まじい打鍵主義!
※『ピアノ協奏曲』第二楽章(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=HobIr7logJc#t=12m52s ラフマニノフやラヴェルを彷彿
※第二楽章はバーバー自身の編曲で『カンツォーネ』という曲になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=VMRQqS6QgyM (4分50秒)
1964年(54歳)、なぜか『交響曲第2番』の楽譜を破棄し、出版社にも楽譜の処分を要請。同年、その第二楽章を改訂した交響詩『夜間飛行』を発表。
1966年(56歳)、オペラ第2作『アントニーとクレオパトラ』を作曲。台本はフランコ・ゼフィレッリ。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場開幕のために委託された作品だが、演出に凝りすぎて失敗に終わり、ショックを受けて5年間イタリアのアルプスで隠遁生活を送る。
1973年(63歳)、メノッティは養子をとり、その息子とスコットランドで暮らし始める。

1975年(65歳)、メノッティが改訂した『アントニーとクレオパトラ』が再演され、今度は成功を収めた。
※『アントニーとクレオパトラ』 https://www.youtube.com/watch?v=jwie7uLZ184
1978年(68歳)、ニューヨーク・フィルからオーボエ協奏曲を依頼され、緩徐楽章のみを作曲。没後に第三者が『カンツォネッタ』として編曲している。
※『カンツォネッタ』 https://www.youtube.com/watch?v=yao2hx-K7xI (7分半)
1981年1月23日、リンパ腺癌によりニューヨーク5番街の自宅アパートにて他界。享年70歳。晩年はアルコール依存症に苦しんだという。
1984年、『交響曲第2番』の楽譜が発見される。
2007年2月1日、メノッティがモナコで他界。享年95歳。

〔墓巡礼〕
バーバーは故郷ペンシルベニア州ウエストチェスターのザ・オークランズ墓地に埋葬された。独立宣言が発せられたフィラデルフィアの約40km西。ニューヨークでレンタカーを借りると、約2時間で行ける距離。ネット上にアップされていたバーバーの墓石は小ぶりで特徴がないため、墓の後方の木の形をヒントに探査。約30分後、墓石を発見した。著名人の墓には小さな星条旗が立ててあり、これも大事な目印になった。
バーバーの左隣は両親の墓。右隣には「To The Memory Of Two Friends(2人の友人の記憶へ)」と刻まれた石碑があった。もともと、右隣はバーバーが40年余りも私生活のパートナーだった愛するジャン・カルロ・メノッティのために確保していた場所だった。メノッティはバーバー没後、さらに26年も生きて95歳で他界し、養子と暮らしていたスコットランドに遺言で埋葬された。そこでバーバーのファンが募金活動を始め、メノッティのために確保されていた場所に墓石を置くことにした。そして友情を讃える言葉が刻まれたのだった。メノッティ、隣りに来てあげて…。

※ラフマニノフの使っていたピアノを所有し、1日の仕事を始める前に、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』などを弾いていたという。
※音楽評論家ドナール・ヘナハン「おそらく、他のアメリカの作曲家が、これほど早く、永続的で長期にわたる称賛を楽しんだことはないだろう」。
※伴奏付きの英語の歌曲集は少ないため、バーバーの歌曲は英語圏出身の歌手にとって貴重な古典的レパートリーとなっている。

【おまけ〜この墓の形に惚れたッ!】

 

なんとこれは木に見えて、石の墓だった! 背後は奥さん♪

バーバーの右斜め後方にあったウィリアム・ビーティーさん(1834-1882)という方の墓は、木の形に彫られた石!
幹に名前が刻まれていてカッコイイ!しかも夫婦で相合い傘のように背中合せになっている。今までに見たお墓で一番素敵な造形かも!




★ウェーベルン/Webern Anton 1883.12.3-1945.9.15 (オーストリア、ミッタージル 61歳)2015
Mittsersill Kirchhof, Mittersill, Zell am See Bezirk, Salzburg, Austria 

  

“ピアニッシモの作曲家”、オーストリアの作曲家アントン・ウェーベルンは、20世紀前半に最も前衛的な作風を展開し、師シェーンベルク(1874-1951)の十二音技法を発展させ、第2次世界大戦後の世代の作曲家に影響を与えた。師と同じ十二音技法でも音程の飛躍が大きく、異なる楽器の一音がモザイクのように繋がった「音色旋律」を構成し、音の点描画を描いた。
1883年12月3日、ウェーベルンはウィーンに生まれた。父親は公務員。
1902年(19歳)、ウィーン大学で音楽学を専攻。また哲学博士の学位を得る。
1904年(21歳)、9歳年上のシェーンベルクに4年間個人的に師事。2歳年下のアルバン・ベルクも同時期に門下となり、両者はシェーンベルクの愛弟子かつ同志になっていく。
この年、大管弦楽のための牧歌『夏風の中で』を作曲。ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスなど後期ロマン派の作曲家の影響を受けたロマンティックな作品。
※『夏風の中で』 https://www.youtube.com/watch?v=x5amkpsvsiA (13分)普通に素晴らしいんですが!
1906年(23歳)、母が他界しショックを受ける。
1908年(25歳)、『管弦楽のためのパッサカリア』(作品1)を作曲、主題が約30回変奏される。本作でシェーンベルクに実力を認められ音楽家として独立した。
※『パッサカリア』 https://www.youtube.com/watch?v=OLW1w675NHY (11分)
同年、指揮活動も開始。1934年(51歳)まで26年間、プラハ、ウィーン、ドイツ各都市で指揮棒を握り、現代音楽の開拓者たちの作品を取り上げた。
1908年(25歳)、師シェーンベルクが『弦楽四重奏曲第2番』の終楽章で調性の破壊に成功し、無調時代に到達する。
1909年(26歳)、シェーンベルクに続き、自身も無調主義に突入。無調音楽の弦楽四重奏曲『5つの断章』を作曲し、短い演奏時間の中で、弦楽器で表現可能なほぼすべての音色を登場させた。本作は1930年に弦楽オーケストラ用に編曲されている。
※『5つの断章』 https://www.youtube.com/watch?v=XKnUVFmnA-A (12分)
※『弦楽のための5楽章』 https://www.youtube.com/watch?v=Gi9iUwE-oPI (10分)

同年、管弦楽のための『6つの小品』を作曲。かつて母の死で受けた衝撃や悲しみを音楽で表現した。葬送行進曲を経て追憶と諦観に至る。
※『6つの小品』 https://www.youtube.com/watch?v=nPyas8hhKHM (12分)
また、師にならって象徴派詩人シュテファン・ゲオルゲの詩をもとに2つの歌曲集(無調)を作曲している。
1910年(27歳)、“ウェーベルン・スタイル”とも呼ばれる極小形式の『ヴァイオリンとピアノのための4つの小品』を作曲。全4楽章にもかかわらず演奏時間は4分半しかない。楽想が極度に圧縮、集約され、音の結晶体となっている。主題の展開を聴かせるという従来の音楽と異なり、音の変化を楽しむ楽曲。一音の重みハンパなし。
※『ヴァイオリンとピアノのための4つの小品』https://www.youtube.com/watch?v=gQ6hMuF-sAY (4分半)
以降、十二音技法と出会うまでの約15年間に書かれた音楽は、まばらなテクスチュア(構成)と小アンサンブル、楽曲の短さを特徴としている。
1911年(28歳)、師シェーンベルクがウェーベルンの影響を受け、極小形式で『6つの小さなピアノ曲』を作曲。
1913年(30歳)、『オーケストラのための5つの小品』を作曲。和声はすでに調性をもたない。明瞭さと簡潔さを追求したウェーベルンの音楽の特徴がよく現れている。
※『オーケストラのための5つの小品』https://www.youtube.com/watch?v=reqqQ-kBJQ0 (4分20秒)
同年、『弦楽四重奏のための6つのバガテル(小品)』を作曲。全6曲で5分強!ウェーベルンは楽譜出版の際に次の序文を寄せた。「一篇の長編小説をたった一つの身振り、一つの幸福を一息の呼吸で表現すること。これほどの集中性は、一言も愚痴を漏らさないような精神にのみ、見出される」「これらの小曲は、音は、ただ音を通じてのみ言えることだけしか表現できない、ということを信じる者にしか理解できまい」。この年、ベルクも極小形式で『クラリネットとピアノのための4つの小品』を書いた。
※『6つのバガテル』 https://www.youtube.com/watch?v=CQZP5hI4lNQ (5分)
1914年(31歳)、ウェーベルンが探究した極小形式のひとつの結論、『チェロとピアノのための3つの小品』を作曲。全3曲が、50秒、20秒、70秒程度しかなく「極小形式」は極限に達し、密度の高い音空間が現れている。この曲で極小形式による抽象的表現を究めたことから、これを最後に創作の方向を声楽曲に転じていく。
※『チェロとピアノのための3つの小品』https://www.youtube.com/watch?v=FV7KQugIl4E (2分24秒)
ウェーベルンの創作活動において『パッサカリア』からここまでの6年間が初期となる。

1916年(33歳)、一つ年上のストラヴィンスキー(当時34歳/1882-1971)の歌曲集『猫の子守歌』に大感動し、ベルクに手紙を記す。「ストラヴィンスキーという人は天才です。この歌曲集は傑作であり、僕はこの音楽にすっかり魅惑されました。この曲集にぞっこんなのです。この子守唄は、筆舌に尽くしがたいほど感動的なのですから。それにクラリネットの何という響きでしょう!」。
※ストラヴィンスキー 『猫の子守歌』https://www.youtube.com/watch?v=rizNduvJXfo (4分)
1918年(35歳)、第一次世界大戦が終結。シェーンベルクを補佐して「私的音楽演奏協会」を設立し、新しい音楽を紹介。
1921年(38歳)、シェーンベルクが無調主義にかわる十二音技法(ドデカフォニー)を考案、ピアノ曲を書きあげる。
1922年(39歳)、ウィーン労働者交響楽団の指揮者を1934年まで12年間務める。この年、盟友アルバン・ベルク(当時37歳)が無調主義による傑作オペラ『ヴォツェック』を完成させる。
1924年(41歳)、シェーンベルクが考案した十二音技法をピアノ曲『子供のための小品』、『3つの宗教的民謡』に取り入れる(翌年完成)。ウェーベルンは十二音技法の概念を拡張し、リズム、音量、音色をもセリー(音列)化した。
※『子供のための小品』 https://www.youtube.com/watch?v=9umvR9_3peQ (55秒)
※『3つの宗教的民謡』 https://www.youtube.com/watch?v=I2T9b6edOPo (3分12秒)う〜む!!
この年、師との精神的結合の深さを書き留めている。「私がシェーンベルクの弟子になってから既に20年になるが、当時とまったく同じ関係が続いている。私は彼の友人であり弟子なのだ」。
1926年(43歳)、ここまでの11年間が、声楽曲の時代となった創作中期。
1927年(44歳)、作品番号付きでは『チェロとピアノのための3つの小品』以来13年ぶりとなる純器楽曲、『弦楽三重奏曲』を作曲。極端に複雑な十二音の対位法的構造を持つ。
※『弦楽三重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=8MVMxDrnSjo (9分29秒)
1928年(45歳)、十二音技法で室内オーケストラのための『交響曲』(全2楽章)を作曲。音色旋律により音列が各楽器に次々と受け渡され、楽器の音色まで入念に計算した楽曲だが、初演は聴衆に散々嘲笑されて音が良く聴こえず、ウェーベルンは酷く失望した。新聞評「ホール中から爆笑がおこり、すすり泣くようなオーケストラの音を溺死させんばかりだった」。
※『交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=Xq2gwuKDPnY (9分17秒)点描される音の動きが音のプリズムとなっていく
1933年(50歳)、ヒトラーが政権を掌握。
1935年(52歳)、コーラスがオーケストラの響きと融合して幽玄さをたたえる混声合唱曲『眼の光』を作曲。同年、バッハの『音楽の捧げもの』をオーケストレーションし、次第に変容する音色を描き出した。十二音主義の作曲家たちは音楽における無政府主義的な異端とみられる傾向があるが、実は異端どころか、バッハを深く研究しリスペクトしている。この年、盟友ベルクが50歳で急逝。遺された『ヴァイオリン協奏曲』の初演(バルセロナ)の指揮を引き受けたものの、悲しみのあまり直前にキャンセルし代役を立てた。続くイギリス初演では指揮を振った。
※『眼の光』ブーレーズ指揮ベルリン・フィルhttps://www.youtube.com/watch?v=IAY443HcIH4 (5分38秒)
※『6声のリチェルカータ』編曲 https://www.youtube.com/watch?v=63Hdvf7K4ks(8分32秒)
1936年(53歳)、『ピアノのための変奏曲』を作曲。6分の曲だが1年の歳月をかけて書いている。全体は唯一のセリー(音列)主題に基づく十二音技法で構成されている。十二音技法史上、シェーンベルクも成し得なかった、独自の洗練された楽想に到達したと高く評価された。
※『ピアノのための変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=5hZXpDGQ-0M (6分)

1938年(55歳)、生存中に出版された最後の作品『弦楽四重奏曲』を作曲。第2楽章は四分音符のみで構成され、まさに音の点描画を眺めているようだ。知人(シェーンベルク夫人の兄)宛の手紙「私はいまだかつて、自作にこれほど充足感を覚えたことはありません。これが最初の作品であるかのようにすら思えます」。
※『弦楽四重奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=fQmXU-XMCIs (8分)
同年、ナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併される。合併後、ウェーベルンの音楽は無調主義かつユダヤ人シェーンベルクの弟子であったため「退廃音楽」の烙印を押され、公演、指揮活動、出版がすべて禁止され、生活の為に出版社の編集や校閲係を引き受けた。
1940年(57歳)、『管弦楽のための変奏曲』を作曲。大きな音程の跳躍で音の火花を散らす。本作も十二音技法におけるひとつの到達を示した作品。
※『管弦楽のための変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=AAQdEMYTdEI (7分)

1943年(60歳)、十二音技法で『カンタータ第2番』(作品31)を作曲。ウェーベルンが取り組んできた声楽と器楽の結合の総合的完成。
※『カンタータ第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=bjHp0NsY5pI (動画の18分付近まで。以降は別の曲)
ここまでの16年間が創作活動の後期となる。
1945年、作曲活動を再開するためウィーンからザルツブルク近郊の娘の家に避難する。世界大戦終結後の9月13日、葉巻を吸うためにベランダで火を付けたところ、オーストリア占領軍のアメリカ憲兵によってあやまって射殺された。ウェーベルンの娘婿は元ナチ親衛隊で闇取引に関与していたため、煙草の火が闇取引の合図と誤解された。享年61歳。『第2協奏曲』はスケッチの一部を残したまま未完となった。誤射をした憲兵は後悔のなかアルコール依存症で10年後に亡くなった。
1961年、遺品の中から『夏風の中で』の楽譜が発見される。
ウェーベルンは生前に出版された作品はわずか31曲しかなく、数少ない作品に磨きをかけて完璧を追求した。1分未満の楽曲など演奏時間が短いことで知られるが、どの音符も考えぬかれて配置されている。シェーンベルクと異なり、生涯で一度も声楽曲にシュプレッヒシュティンメ(話し声)を用いなかった。

第2次世界大戦直後に青年期をむかえた「前衛三羽ガラス」、すなわち世界で初めて電子音楽を作曲したドイツのカールハインツ・シュトックハウゼン(1928-2007/代表曲『少年の歌』『グルッペン』『コンタクテ』『モメンテ』)、音楽に“管理された偶然性”を導入したフランスのピエール・ブーレーズ(1925-2016/代表曲『ピアノソナタ第2番』『ル・マルトー・サン・メートル(主なき槌)』)、積極的に反ファシズムの政治メッセージを込めたりライヴ・エレクトロニクス作品を書いたイタリアのルイジ・ノーノ(1924-1990/代表曲『断ち切られた歌』)などの若手作曲家にも大きな影響を与えた。彼らは十二音技法における発展&繰り返しを否定し、秩序付けたセリー音楽(音列主義)を主導した。
ジョン・ケージ「(ウェーベルンは)音楽の神髄とは間合いと呼吸にあることを教えた作曲家である」。

〔墓巡礼〕
海外の墓巡礼は交通費がかかるため、基本的にはどうしても感謝を伝えたい人物にしか行けない。でもごく希に、墓石から人物や作品に興味を抱き始めることがある。その1人がウェーベルンだった。10年ほど前に海外の墓マイラーサイトを見ていて「なんてクールなデザインのお墓だ!」とパソコンの画面に見入った。現代音楽は「ドン!ピン、カン…カラカラカラ…ドン!シャーン」と旋律がほとんどないため心理的ハードルが高く、それまで彼の音楽を積極的に聴くことはなかったけれど、墓石に魅了されて聴き始めた。そして1分程度で曲が終わる極小形式に驚き、間合いと呼吸を味わうという、新たな音楽の楽しみ方を教えてもらった。それまで良い音楽=良い旋律と考えていたので、一音で長編小説を表現するような、その空間密度、緊張感を知ったことは目からウロコだった。
ウェーベルンの墓は終焉の地となったミッタージルという小さな町にある。ザルツブルグの南西100km、山あいの町の教会墓地だ。ミッタージル駅からは徒歩7分ほど。敷地は意外と広く墓石の数も多いため、作業中の石屋さんにウェーベルンの墓を教えてもらった。教会の裏手、特別に目印や柵があるわけでもなく、一般人に混じってウェーベルンは眠っていた。一度見たら忘れられないような、カッコいい字体で彼の名は刻まれている。墓石の背面には混声合唱曲『眼の光』の冒頭の詩が刻まれていた。
DURCH UNSRE
OFFNEN AUGEN
FLIESST DAS LICHT
INS HERZ
UND STROMT
ALS FREUDE
SANFT ZURUCK
AUS IHNEN
「見開かれたこの瞳から/光が心へと流れ込み/喜びとなって/再び静かに逆流してくる」



★アルバン・ベルク/Alban Maria Johannes Berg 1885.2.9-1935.12.24 (オーストリア、ウィーン 50歳)2015
Friedhof Hietzing, Hietzing, Wien Stadt, Vienna (Wien), Austria

 

オーストリアの作曲家。十二音技法をもちいながら、ロマンティックで叙情性にとみ、強く情感に訴える音楽を書いた。十二音技法を自在にあやつり、17〜19世紀の音楽技法や形式と融合させた。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。
1885年2月9日、ウィーンに生まれる。父が本屋を営んでいることもあって早熟な文学青年になり、ゲーテやリルケを読み耽った。
1900年(15歳)、父親を亡くす。独学でピアノを弾き作曲を始める。
1902年(17歳)、ベルク家の別荘で働いていた女中との間に娘アルビンが生まれる。
1903年(18歳)、ギムナジウムの卒業試験に失敗し自殺を図る。
1904年(19歳)、公務員に就職。ベルクの兄が弟に楽才を見出し、作品をシェーンベルク(当時30歳/1874-1951)のもとに持ち込む。これをきっかけにベルクは6年間シェーンベルクに作曲を師事。ベルク家は経済的に苦しかったためシェーンベルクは無料で弟子にとった。同時期に2歳年上のウェーベルン(1883-1945)もシェーンベルク門下となった。
1906年(21歳)、作曲に専念するため、公務員を辞めてウィーン国立音楽院に進む。
1907年(22歳)、ウィーンで催された《シェーンベルクの弟子たちの作品発表会の夕べ》で、歌曲「ナイチンゲール」「夢の冠」「愛の賛歌」が演奏され作曲家デビューを飾る。この年、声楽家で後に妻となるヘレーネと出会い、恋文の中にドイツの作家シュトルムの詩『私の両眼を閉ざしておくれ』を引用、またこの詩を歌曲にした。「私の両眼をあなたの愛らしい手で閉ざしておくれ/そうすれば私の悩みはすべてあなたの手の中で眠るだろう/そして悲しみが静かに波をうち眠りにつくとき/その最後のひと寄せが私の心のすべてを満たしてくれるだろう」。
※『私の両眼を閉ざしておくれ』1907年版https://www.youtube.com/watch?v=zRKySfCPZS0 (1分14秒)シューマンやブラームスの流れをくむロマン派的な調性音楽

1908年(23歳)、師シェーンベルクが『弦楽四重奏曲第2番』の終楽章で調性の破壊に成功し、無調時代に到達する。同年、ベルクは唯一のピアノ独奏曲であり、作品1を冠した『ピアノ・ソナタ』を作曲。既にベルクが持つ叙情性の萌芽が確認できる。4度和音や半音階の多用で調性感は安定せず、3年後の初演は騒動になった。
※『ピアノ・ソナタ』 https://www.youtube.com/watch?v=ipfP8QlzyXM (8分37秒)演奏者のNefeli Mousouraさん、まるで女優っす…
20歳の頃から書きためた7つの歌をまとめた歌曲集『初期の七つの歌』を発表。「夜」「葦の歌」「ナイチンゲール」「夢の冠」「部屋で」「愛の賛歌」「夏の日」で構成され、ゆったりと歌いあげる美しい歌曲集。リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)やマーラー(1860-1911)の影響を受けた作品。
※『初期の七つの歌』1928年に編曲された管弦楽伴奏版https://www.youtube.com/watch?v=9--m1W9u_yw (15分半)こりゃ心地よい。チャプターあり。
同年7月23日にベルクは喘息を発病。年齢も23歳であったことから「23」を運命の数と感じ、以後の作品の構成に反映されていく。
この年のヘレーネ宛の手紙「君の神々しい顔、筆舌に尽くせぬ天上的な眼の表情。嗚呼、恋い焦がれて目に涙があふれる」。
1910年(25歳)、無調音楽の『弦楽四重奏曲』を作曲。
1911年(26歳)、恋人ヘレーネの親の反対を押し切って結婚。出会いから4年。ヘレーネの母はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人でり、ヘレーネは庶子とも。
1912年(27歳)、オーケストラ伴奏つきの歌曲『アルテンベルク歌曲集』を作曲。絵葉書につけられた奇行作家アルテンベルクの5篇の詩を歌曲にした。後期ロマン派の影響を受けた楽曲。翌年にシェーンベルク指揮で初演された際、同じ音楽会でシェーンベルク『第一室内交響曲』、ウェーベルン『6つの管弦楽曲』が演奏されて、客席では賛否両論の大騒動が起きており、『アルテンベルク歌曲集』はもはや演奏が聴き取れない状況だったという。最後は暴動を引き起こし演奏を停止せねばならなかった。『アルテンベルク歌曲集』は封印され、全曲が演奏されたのは没後17年を経た1952年。
※『アルテンベルク歌曲集』 https://www.youtube.com/watch?v=FQsHjCaLgog (11分)冒頭の豊穣な響きよ
1913年(28歳)、ウェーベルン風に極小形式を使った唯一の作品『クラリネットとピアノのための4つの小品』を作曲。
※『クラリネットとピアノのための4つの小品』https://www.youtube.com/watch?v=0dDz6qoujho (9分)
1914年(29歳)、ゲオルク・ビューヒナーの戯曲『ヴォイツェック』の舞台に心を動かされたベルクは、同作を無調音楽のオペラとして作曲を始めた。7月に第一次世界大戦が勃発する。
1915年(30歳)、ベルクが作曲した唯一の管弦楽曲『3つの管弦楽曲』が完成。マーラー(リズム動機の使用、大型ハンマーでドッカン!)とシェーンベルク(変奏の展開と体位的書法)の影響を受けた作品。その後、兵役のため作曲が中断する。
※『3つの管弦楽曲』 https://www.youtube.com/watch?v=jokeNIo7xks (19分32秒)

1917年(32歳)、軍から休暇が与えられオペラ『ヴォツェック』の作曲を再開。
1918年(33歳)、第一次世界大戦が終結。シェーンベルクを補佐して「私的音楽演奏協会」を設立し、新しい音楽を紹介。
1920年(35歳)、ウィーンの聴衆は極めて保守的であり、この時点でもベルクの作品は「私的音楽演奏協会」以外でまったく演奏される機会も場所もなかった。
1921年(36歳)、シェーンベルクが無調主義にかわる十二音技法(ドデカフォニー)を考案、ピアノ曲を書きあげる。
1922年(37歳)、無調主義による傑作オペラ『ヴォツェック』が完成する。3年後に初演され20世紀の最も重要な作品の一つとなる。1824年にドイツ・ライプツィヒにおける最後の公開処刑者となった元兵士ヨハン・ヴォイツェック(罪状は1821年の情婦殺害)について、約10年後(1835年頃)にドイツの若き革命家・劇作家のゲオルク・ビュヒナー(当時22歳/1813-1837)が戯曲『ヴォイツェック』(未完)を書き、これを基にアルバン・ベルクが台本を書いた。ビュヒナーは23歳でチフスに感染、夭折した。戯曲では「ヴォイツェック」だが、ベルクのオペラは「ヴォツェック」になっており、ベルクが参照した資料にスペルミスがあったと思われる。
この時代、無調的な作品はピアノ伴奏や小編成の室内楽など小さな規模の楽曲が多かったが、ベルクは『ヴォツェック』によって大規模形式でも無調は適用可能と立証した。また第一幕全五場の音楽は5種の性格的な曲、第2幕全五場の音楽は5楽章の交響曲、第3幕全五場及び間奏曲は6個のインヴェンション(2声の対位法的展開)というように、劇の展開と音楽の表現スタイルの一致を実現させ、これは革新的な試みとなった。殺害場面ではティンパニが一拍ずつ叩いて心臓の鼓動を表現し、次第に弱くなって絶命とともに終わる。兵士たちのいびきはハミングで奏でた。『ヴォツェック』はその斬新さから、ドビュッシーが話し言葉を旋律に反映させた『ペレアスとメリザンド』以後の最も重要なオペラに名を連ねた。

『ヴォツェック』…舞台は19世紀初頭ドイツの駐屯場。下級兵士ヴォツェックが大尉の髭を剃っていると、品行について説教をされたため、「貧乏人には教会も道徳も役に立たないのです」と反論する。ヴォツェックには内縁の妻マリーがいて、2人には幼い息子もいる。ある日、マリーが家の前を軍楽隊の鼓手長が通りかかり、彼女が冗談で色目を使うと鼓手長はのってきた。マリーはたしなめたが強引に迫られ家に入れてしまう。一方、ヴォツェックは生活費の足しにするため医者の人体実験の被験者もしており、精神を病みつつあった。
翌朝、マリーが鼓手長から贈られた金のイヤリングを眺めているとヴォツェックが帰宅した。「なんだそのイヤリングは」「拾ったの」「両方一度に拾うわけないだろう」。だがこれ以上問い詰めず軍の給料と医者の謝礼を置いて軍の仕事に戻る。マリーは自責の念にかられるが「世の中のせいよ」と身を呪う。ヴォツェックは村で医者と大尉から「妻の秘密を知らないのか?」とからかわれ、家に戻って彼女の裏切りを責めると、マリーは謝るどころか「殴る気ならナイフで刺して!」と悪態をつき、ヴォツェックはすごすごと引き下がる。彼の胸に「ナイフの方がまし」という言葉がこだまする。
その夜、ヴォツェックは酒場でマリーと不倫相手の鼓手長のダンスを見て嫉妬に狂うが、兵士たちの陽気な歌で酒場は盛り上がっており、気後れして隅で座り込む。兵舎の寝床でナイフの幻覚やダンスの幻聴に襲われて寝付けないでいると、泥酔した鼓手長が「俺の女は最高にいい女だ!ヴォツェックなら知っているはず!」と絡んできた。2人は取っ組み合いとなり、ヴォツェックがねじ伏せられる。一方、マリーは部屋で聖書を読み、「罪深い女を赦す」という言葉に胸を打たれ、神に「私を憐れんでください」と祈る。
次の日の夕方、ヴォツェックはマリーを池の辺へ散歩で連れ出し、「お前は貞淑なのだろう?」とキスをする。マリーはうろたえ、不気味な赤い月が昇る。「血の色だ…」ヴォツェックはナイフで彼女を刺し、命を奪った。酒場に現れたヴォツェックの手に血がついているのを見た人々は騒ぎ出す。我に返ったヴォツェックは凶器を置き忘れたことを思い出し、現場に戻ってナイフを池へ投げ入れた。そこは浅瀬であり、もっと深い場所に捨てようとして溺れ死ぬ。
翌朝、マリーの家の前で、息子が近所の子どもたちと遊んでいると、友達が駆けてきて「君のお母さんが死んじゃったよ!」と叫び、子どもたちは池の方へ駆けていった。マリーの子は1人残って「Hop hop!(跳ねろ跳ねろ)」と
木馬遊びをしていたが、やがて皆を追って池の方へ走り出す。終幕。(わーん!この子どもが可哀想すぎる!!)
1924年(39歳)、この年はヨハン・ヴォイツェックの処刑からちょうど100年目にあたり、『ヴォツェック』から3曲を抜粋した組曲版を演奏したところ喝采を浴び、ベルクは初めて成功を体験した。
1925年(40歳)、オペラ処女作にして表現主義オペラの最高傑作となった『ヴォツェック』が、ベルリン国立歌劇場でエーリヒ・クライバーの指揮で初演される。この初演にあたり、クライバーはストラヴィンスキー『春の祭典』の120回を上回る、137回もの稽古を行った。初演は内容の陰惨さや耳慣れない音楽により一部から批判を浴びたが、再演を重ねるうちに人気演目となり、ベルクは作曲家として名声を手に入れた。
※『ウォツェック』英語字幕付き https://www.youtube.com/watch?v=rHFFPyU41_0(104分)
※『ウォツェック』死のティンパニ(頭出し)https://www.youtube.com/watch?v=rHFFPyU41_0#t=86m15s

同年、ヴァイオリンとピアノのための協奏曲、『室内協奏曲』(全3楽章)を作曲。無調だが十二音技法ではなく前段階の音列技法が駆使されている。冒頭で、ピアノがシェーンベルクを、ヴァイオリンがウェーベルンを、ホルンがベルクの名を象徴する動機が提示される。第1楽章は「友情」を表す変奏、第2楽章は「愛」、第3楽章は「人生は万華鏡」を描く。最後に冒頭の3人の動機が登場し静かに終わる。無調にもかかわらず第2楽章のアダージョは歌謡的であり、他の楽章も音がよく溶け合って、新ウィーン楽派特有のぎこちなさはない。
※『室内協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=9f0fGxarvGM (42分)
この年、ベルクにとって初めての十二音技法作品となる歌曲『私の両眼を閉ざしておくれ』を作曲。これは18年前、1907年に曲をつけたシュトルムの詩と同じものだが旋律はまったく異なる。また、ここに登場する旋律は、ベルクが不倫相手に捧げた『叙情組曲』にも引用されている。2人の女性の存在が、同じ詩から異なる曲が生まれるインスピレーションとなった。
※『私の両眼を閉ざしておくれ』1925年版https://www.youtube.com/watch?v=5z98t_-DnYc (1分45秒)十二音技法が炸裂

1926年(41歳)、音色の研究をつきつめた傑作『叙情組曲』を作曲。歌曲以外で初めて十二音技法が試みられ、第1楽章、第6楽章が十二音技法で、第2楽章、第4楽章が無調音楽で、第3楽章、第5楽章は一部が十二音技法で書かれた。題名はツェムリンスキーの『抒情交響曲』から取られておりツェムリンスキーに献呈された。…が、それはカモフラージュだった。この曲はマーラーの未亡人アルマの3度目の結婚相手である詩人フランツ・ヴェルフェルの妹ハンナ(当時30歳/1896?1964※フランツの“姉”とする資料もあるがフランツは1890年生まれ)とベルクの不倫を描いたものであることが1980年代になって判明した。ベルクとハンナは前年にプラハで出会っていた。元々、この曲が愛をテーマにしていることは、第6楽章にワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の旋律があること、そして第4楽章にツェムリンスキー『叙情交響曲』の第3楽章の旋律(この部分の原曲にはタゴール「お前は私のもの、私のもの」の歌詞)があることから分かっていた。ベルク夫人ヘレーネが1976年に他界した後、ハンナの娘が長年行方不明だった『叙情組曲』の手稿譜および解説付き初版譜を公開した結果、作品の隠された主題が明らかになった。スコアには「私のハンナのために」と手書きで書かれ、次のメモが添えられていた。「この作品の一つ一つの音すべてが君だけのために書かれたものだ。正式の献辞では別の人物(ツェムリンスキー)に捧げられているけれども。この組曲が限りなき愛のささやかな記念碑とならんことを」。そして全曲がハンナ・フックス(Hanna Fuchs)の頭文字のH(ロ音)とF(へ音)、アルバン・ベルク(Alban
Berg)の頭文字のA(イ音)とB(変ロ音)や、所縁の数字を用いて構築されていることが判明した。また、手稿譜には終楽章に歌詞があり、ボードレールの『悪の華』の中の詩「深淵より我は叫びぬ」が書き込まれていた。内容は「我が愛する唯一の恋人よ、我が心が落ち込んだ暗闇の深淵の底から、お前の憐れみを懇願する」というもの。
第1楽章はハンナ、第2楽章はハンナと2人の子どもを描き、第3楽章はベルクとハンナ、第4楽章は「お前は私のもの、私のもの」、第5楽章はハンナとベルクのスケルツォ、第6楽章はトリスタンとボードレールに関するもの。
※『叙情組曲』 https://www.youtube.com/watch?v=SBE30O7Yx80 (27分23秒)6つの楽章は急-緩が交互に配置され、次第に速い楽章はより速く、遅い楽章はより遅くなり、コントラストが緊張感を高めている。
※ツェムリンスキー『抒情交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=3XyKTCKSVKg(44分)
1928年(43歳)、『叙情組曲』から第2・第3・第4楽章を抜粋し、弦楽合奏のための「『抒情組曲』からの3楽章」に編曲する。また、オペラ『ルル』全3幕の作曲を開始。

1933年(48歳)、ナチス・ドイツ政権発足。『ヴォツェック』成功で順調に見えた人生が暗転する。師シェーンベルクがユダヤ人であったために、親交を持つベルクの音楽も「退廃音楽」とされ、ドイツで演奏が不可能となった。
1934年(49歳)、ソプラノと管弦楽のための『ルル組曲』がオペラに先駆けて完成する。オペラ自体は未完となったが、この組曲で終幕部分のルルの死が音楽化されていることから、没後に補筆完成に至った。11月にエーリヒ・クライバーの指揮によりベルリンで初演され好評を得たが、その4日後にクライバーは反ナチスの立場からベルリン国立歌劇場の音楽監督を辞してドイツを去った。
※『ルル組曲』 https://www.youtube.com/watch?v=ooM3YF2aQBg (34分)
1935年、4月マーラー未亡人アルマの娘マノンが小児麻痺からくる病により18歳で夭折する。マノンはアルマの再婚相手、建築家ワルター・グロピウスとの子で、ベルクは彼女を非常に可愛がっていた。そして作曲中の『ルル』の筆を置いて、ヴァイオリン協奏曲をマノンのレクイエムとして書いた。『ヴァイオリン協奏曲〜ある天使の思い出に』の完成は同年8月。この曲は、マノンの病苦、楽しかった子ども時代、死との戦い、バッハのコラール(クラリネット)と描かれていく。コラールはマノンの魂の浄化を願うもの。十二音技法だがバッハのカンタータの旋律が引用され調性音楽の印象を与える。ベルクの最も有名な作品となった。
※『ヴァイオリン協奏曲〜ある天使の思い出に』クレーメルhttps://www.youtube.com/watch?v=evW1Cmta9RA(28分)
※『ヴァイオリン協奏曲』コラールから(頭出し)https://www.youtube.com/watch?v=evW1Cmta9RA#t=20m04s

ヴァイオリン協奏曲の完成直前にベルクは虫に背中を刺された。これが原因で腫瘍ができ、手術を受けたが敗血症(臓器障害)を併発し、マノンの後を追うように同年12月24日にウィーンで急死した。享年50歳。2作目のオペラ『ルル』の第3幕のオーケストレーションは未完となった。ベルクの没後、17歳のときの娘アルビンがヘレーネを訪ねた。
1936年、最後の完成作となった『ヴァイオリン協奏曲』がバルセロナで初演される。当初、盟友ウェーベルンが指揮する予定だったが、悲しみのあまりタクトを握れず本番直前にキャンセルし、代役が指揮台に立った。
1937年、『ルル』がスイス・チューリヒで初演される。ヘレーネ夫人は『ルル』の補筆を禁じたため、完成していた2幕までと『ルル組曲』の抜粋で上演された。表現主義の作品であるが、厳格な12音技法がつらぬかれている。
1952年、『アルテンベルク歌曲集』の全曲が初演される。
1962年、楽譜出版社が密かに『ルル』第3幕の補筆をオーストラリアの作曲家チェルハに依頼する。
1976年、ヘレーネが逝去。ヘレーネはベルクとハンナの不倫を薄々気づいており、恋をとりもったアルマ・マーラーをずっと恨んでいたという。
1979年、ヘレーネ他界を受けて、チェルハが補筆した『ルル』全3幕完全版がパリ・オペラ座で上演される。指揮はピエール・ブーレーズ。ベルクが残した第3幕のスコアの一部や楽器編成、組曲という形で抜粋されていた第3幕終結部を手掛かりに完成された。

『ルル』…性に対する人間の本能を生々しく描いたオペラ。原作は「ルル二部作」と呼ばれるフランク・ヴェーデキントの1904年の戯曲『地霊』と『パンドラの箱』で、魔性の女ルルが出会った男を次々と破滅させていく。ベルクは映画の幕間劇を挿入することで2つの原作を繋ぎ合わせた台本を書いた。クラシック史上、初めてヴィブラフォン(音の余韻をコントロールできる鉄琴)を使っている。ベルクはワーグナーとシェーンベルクという異なる傾向の音楽を合わせ、各々の登場人物に固有の十二音音列をあてがい、楽劇のライトモティーフのように使った。『ルル』はアメリカに亡命したシェーンベルクに「最愛の友!」の言葉と共に未完のまま献呈された。
舞台は20世紀初頭のドイツの都市、パリ、及びロンドン。冒頭、サーカスの猛獣使いが登場人物を動物に例えて紹介し、最後に蛇=恋多き人妻ルルが登場する。彼女は新聞編集長シェーン博士に貧民街で拾われた。シェーン博士は情婦にしたルルを初老の医事顧問官(ゴル博士)と結婚させたが、ルルの魔性は画家ヴァルターを魅了する。医事顧問官は妻と画家の色恋の現場を見て激怒、心臓発作で死ぬ。ルルは画家と再婚するが、画家は溺愛していたルルの過去にショックを受け自殺する。その後、踊り子になったルルを見たシェーン博士は完全にルルの虜になり、婚約者への別れの手紙を書き、2人は結婚する。
だが、ルルの魔性はシェーン博士の息子(連れ子)アルヴァ、同性愛者ゲシュヴィッツ伯爵令嬢、貧民街時代の売春斡旋人シゴルヒを惹き寄せる。シェーン博士は激しく嫉妬し「私の晩年は破滅だ!」と頭を抱えると、ルルは「私の青春を捧げたでしょ!」と言い返す。博士はピストルを取り出して自殺を強要するが、逆にルルに撃たれた。博士は駆けつけた息子アルヴァに「次はお前の番だぞ。気を付けろ」と言い残す。間奏曲&サイレント映画でルルの逮捕、裁判、獄中が描かれる。
1年後、伯爵令嬢とアルヴァはルルの脱獄計画を立て、わざとコレラになったルルと病院で入れ替わり脱獄させた。
(ここから没後補筆された第3幕)ルルはパリに逃げ、さらにアルヴァとロンドンへ逃亡する。ロンドンで娼婦となったルルは黒人の客と支払いをめぐってトラブルになり、止めに入ったアルヴァが男に殴り殺されてしまう。伯爵令嬢が「もうルルについていけない」と自殺を思案していると、ルルが新たに客を連れてきた。男は切り裂きジャックだった。ルルは殺害され、伯爵令嬢も刺され、「ルル、私の天使!」と叫んで終幕となる。
※『ルル』英語字幕付き(2幕後のサイレント映画まで)https://www.youtube.com/watch?v=bLuLsFjnCjI(94分)
※『ルル』切り裂きジャックhttps://www.youtube.com/watch?v=bSnNL7BfdCY#t=55m27s

ベルクは無機質な印象のある十二音技法音楽に感情を与え人間味をもたらした。作品のすべてが叙情的であり、ドラマチックであり、しかも調性的な感傷的な暗さがあるため、師シェーンベルク超えを果たした作曲家とみる声もある。ベルクが作曲した歌曲は83曲に及ぶ。

〔墓巡礼〕
ウィーン中心部の西側、世界文化遺産に登録されているハプスブルク家の夏の離宮シェーンブルン宮殿に隣接してヒーツィンク墓地がある。Wien Speising駅から東に1.5kmほど。この墓地にはウィーン世紀末美術を代表する画家グスタフ・クリムトの墓があり、1994年に初めて同墓地に足を運んだ。2015年にクリムトを再巡礼したところ、正門の側の墓地マップに「Alban Berg」の文字!「えっ!?作曲家の!?ここのお墓だったのか!」。まったく知らなかったため仰天。墓前に立つとヘレーネ夫人の名前もあり、間違いなく本人のお墓だった。思いがけずベルクの墓参が出来たうえ、この日は続けて彼がヴァイオリン協奏曲で追悼したマノン・グロピウス嬢の郊外の墓へ行く予定であったため、その偶然にもビックリ。
90年代の墓所の写真を見ると木の十字架が朽ちかけているので、今の真新しい木の十字架は建て直したものだろう。



★ウェーバー/Carl Maria von Weber 1786.11.17-1826.6.5 (ドイツ、ドレスデン 39歳)2015
Alter katholischer Friedhof(Old Catholic Cemetery), Dresden, Dresdener Stadtkreis, Saxony (Sachsen), Germany



墓地中央のチャペルの後方に墓域 壁際にウェーバー家の墓が並ぶ “マリア”と書いてるけど男性

生前から評価が高かった “壺が割れてる?”いえいえ花瓶です 手前には名前の刻まれたプレートがあった

ドイツ音楽にロマン主義思潮を持ち込み、ドイツロマン派の扉を開いた作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー。作曲家としてはドイツロマン派国民歌劇を確立し、指揮者としては指揮棒を使った最初の一人となり、また当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で公演した。オーケストラの配置を現在に近い形に改めた人物でもある。名前の正確なドイツ語読みは“ヴェーバー”。
1786年11月18日、ドイツ北部ホルシュタイン地方リューベック近郊のオイティンに生まれる。父はモーツァルトの妻コンスタンツェの叔父(父の兄の娘がコンスタンツェ。彼女はソプラノ歌手コンスタンツェ・ウェーバーとして活躍していた)。コンスタンツェは23歳上の従姉であり、ウェーバーはモーツァルトと義理の従兄弟になる。父は巡回劇団を主宰しており、幼児から劇場の空気に親しむ。そして幼少よりドイツ、オーストリア全土を旅し、これら旅先で音楽教育を受けた。
1791年(5歳)、ウィーンでモーツァルトが他界。享年35歳。
1792年、6歳で舞台に立つ。
1796年(10歳)、父は姪がモーツァルト夫人となったことに刺激を受け、息子への音楽教育に力を注ぎ、10歳のとき、巡業先ザルツブルクでヨーゼフ・ハイドンの弟ミヒャエル・ハイドンに弟子入りさせた。習作の『六つのフゲッタ』が作品1として出版された。
1797年(11歳)、最初のオペラ『愛と酒の力』を書くが後に楽譜は消失。同年、シューベルトが生まれる。
1798年(12歳)、正式に作曲を学ぶ。
1800年(14歳)、13歳(誕生日前)でオペラ第2作『森のおし娘』を作曲、上演。
1801年(15歳)、オペラ『ペーター・シュモルとその隣人たち』を作曲、上演。
1804年(18歳)、わずか17歳(誕生日前)でブレスラウ(現ブロツワフ)の歌劇場の指揮者兼オペラ作曲家に抜擢される。若いウェーバーは楽団員の演奏技術を向上させるため熱意をもって仕事に取り組み、練習時間を大幅に増やし、パート別の練習にもこだわった。また、劇場に新鮮な風を吹き込むために古株の歌手を引退させ、若い歌手を採用にした。そしてオーケストラの楽器配置を現代に繋がる形態に変えた。ところが、この情熱的な仕事ぶりは周囲の反感を買う。ある日、団員との衝突に疲れ果てて帰宅し、テーブル上のワインボトルの液体を飲むと、それはワインではなく父が銅版画に使う硝酸だった。2ヶ月の入院の後、彼の声はすっかりかすれ、弱々しい声しか出なくなった。劇場に戻ると改革したはずのものがすべて元に戻っていたので辞任した。
1805年(19歳)、オペラ『リューベツァール』を作曲するが、人間関係がうまくいかず上演に至らず。
1806年(20歳)、ブレスラウ歌劇場の楽長職を辞す。その後ドイツ各地を遍歴。約半年間、カールスルーエのオイゲン公の楽長を務め、公の求めで『交響曲第1番』を作曲、好評を得る。第二楽章の伸びやかなオーボエが良い。
※『交響曲第1番』第二楽章のオーボエ(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=fJDk64tkYK0#t=9m10s
1807年(21歳)、『交響曲第2番』を作曲。同年、シュトゥットガルトのルードウィヒ公の秘書兼音楽教師となるが、公の贅沢な遊蕩生活に巻き込まれて音楽活動は停滞する。
※『交響曲第2番』第二楽章が牧歌的でやはり良い(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=CKrGCqLzCyU#t=10m56s
1809年(23歳)、ウェーバーがこよなく愛し、よく口ずさんでいた歌曲『何が君の魔法の国に』を作曲。内容は「何が君の魔法の国に惹き付けるのだろう。僕は胸が苦しいし、“この魔法の国から逃れよ”という警告が聞こえるが、逃げたくないし、不可能なんだ」。
※『何が君の魔法の国に』 https://www.youtube.com/watch?v=xbGCAb9tNAo (3分38秒)
1810年(24歳)、奔放な暮らしで膨大な借金を作り、主人の公金を横領したと疑いをかけられシュトゥットガルトから父子とも追放処分を受ける。ウェーバーは反省のうえで芸術家として立つことを誓う。借金返済のために良い仕事を探してマンハイム、ダルムシュタットと移り、フランクフルトでオペラ『ジルバーナ』を初演する。
同年、ギター伴奏の歌曲『子守歌』を作曲。ギターが伴奏という歌曲はクラシックでは珍しい。
※『子守歌』 https://www.youtube.com/watch?v=d5a_ckwcMFo (1分50秒)
1811年(25歳)、『千夜一夜物語』を題材をとり、債務に追われる主人公を描いた東方趣味のオペラ『アブ・ハッサン』をミュンヘンで上演して大きな成功を収めた。同年、『クラリネット協奏曲第1番』を作曲。当時のクラリネットの名手ハインリヒ・ベールマンを知り、その技量に驚嘆し本作を書いた。メンデルスゾーンやマイアベーアもベールマンに曲を捧げている。
※『クラリネット協奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=95gL5U4ILFc (19分40秒)
1813年(27歳)、プラハ市立歌劇場の芸術監督・指揮者として招かれ、上演水準の向上に尽力。モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』上演で低迷していた歌劇場を輝かしく再興させた。
1815年(29歳)、『クラリネット五重奏曲』を作曲。
1816年(30歳)、プラハ市立歌劇場の改革に失敗し辞任(創作時間が少ないため辞職したとも)。
1817年(31歳)、肺結核の徴候が現れ出す。ザクセンの宮廷楽長に任命されドレスデン宮廷歌劇場(現ゼンパー・オーパー)の楽長に就任。指揮者として名声を高める。同年、オペラ『魔弾の射手』の作曲を開始。この年、歌手のカロリーネ・プラントと結婚。
1819年(33歳)、ロマン的標題音楽の先駆となったピアノ独奏曲『舞踏への勧誘』を作曲、愛妻カロリーネに捧げる。内容は「ある舞踏会場で1人の紳士が若い女性に舞踏の相手を申込み最初は断られる。再び申し込むと婦人は同意し、2人の間に静かな会話が始まる。やがて2人は手を取って踊り出し、最後に紳士が礼を言う」というもの。ワルツ部分に序奏を付けており、これはヨハン・シュトラウス2世に影響を与えた。22年後(1841)にベルリオーズが管弦楽に編曲。
1820年(34歳)、ジプシー行進曲が特徴的な歌劇『プレチオーザ』序曲を作曲(実際は歌劇ではなく劇付随音楽)。スペイン風の楽想が人気を得た。
※『プレチオーザ』序曲 https://www.youtube.com/watch?v=uB2mebRWaAA (8分21秒)

1821年(35歳)、3年越しで完成したオペラ『魔弾の射手』(全3幕)を6月18日にベルリンで初演し、空前の大成功を収める。ドイツ民話にもとづく題材を、ドイツ民謡に馴染みの音階を使い、ドイツ語で歌った真の国民オペラとして不朽の名声を得た。ロマン派オペラの先駆的作品で「序曲」、第三幕の男声合唱「狩人の合唱」が特に有名。イタリア・オペラの全盛期にあって、この『魔弾の射手』によりウェーバーはドイツ・オペラを根づかせることに成功すると共に、ドイツ国民オペラ、ロマン派オペラの創始者となった。当時のドイツは大小の多くの国に分かれていたが、ドイツ民族の心の故郷というべきオペラの誕生は、ドイツの民族感情を刺激して、ドイツ人相互の連帯感、ひいいては統一国家を目指す精神的バックボーンとして役立った。
ワーグナーやベルリオーズはこのオペラに感激して作曲家を志したという。ワーグナー「《魔弾の射手》の総譜はそれ自体で完結しているものであり、思想においても形式においても、どの部分も完璧に仕上げられている。それゆえ、どんな小さな部分のカットも、巨匠の作品を損ない、歪めることになるだろう」。
※『魔弾の射手』…中世ドイツの伝説や超自然的な要素を取り入れたオペラで台本はフリードリヒ・キント(1768‐1843)、元ネタはJ.アペルと F.ラウンの『おばけ物語』。主人公の狩人
マックスは射撃の調子が悪い。彼は射撃大会に優勝すれば恋人アガーテと結婚できるために、悪魔に魂を売ったカスパールにそそのかされて7発の魔弾を手に入れる。カスパールの陰謀によって最後の1発はアガーテに当たるはずであったが、森の隠者の助けでアガーテは救われ、彼女のバラの花冠がお守りとなり、それた魔弾がカスパールに命中する。マックスはすべてを白状し許される。悪魔との精神的戦いに勝利したのだ。
※『魔弾の射手』英語字幕付き https://www.youtube.com/watch?v=JtWFAo3eX8E (124分)
※『魔弾の射手』から“狩人の合唱”(頭出し) https://www.youtube.com/watch?v=JtWFAo3eX8E#t=98m12s
※『魔弾の射手』序曲カラヤン https://www.youtube.com/watch?v=6yWsBGLrovs (10分)

同年、3曲目のピアノ協奏曲となる『ピアノと管弦楽のための小協奏曲(コンツェルトシュテュック)』を作曲。豊かな色彩的効果をピアノの音色で中世の物語を表現している。内容は「十字軍に出征した愛する騎士を待ち続ける婦人。かの地では激戦が繰り広げられている。やがて騎士が凱旋し愛する2人は再会し愛の勝利を歌う」。
当曲は単一楽章であり、リストはこのアイデアを『ピアノ協奏曲第2番』で採用した。
※『ピアノと管弦楽のための小協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=g1ksN5i-9QY (16分45秒)
この年はさらに、優雅できらびやかなピアノ小品『華麗なるロンド』も作曲。鍵盤上で喜びが疾走している。
※『華麗なるロンド』 https://www.youtube.com/watch?v=S5zMeZdxcPc (5分35秒)

1822年(36歳)、ウェーバーはドレスデンでベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』を情熱的に指揮し評判になった。同年、息子が生まれ、『魔弾の射手』主人公と同じマックスと名付けられた。
1823年(37歳)、前年から書き始めたオペラ『オイリアンテ』(全3幕)が完成。中世フランスの貞淑な伯爵夫人を描いた物語だが、ウィーンでの初演は台本の弱さのため失敗に終わる。このオペラでは、物語を台詞で展開させる従来のドイツ・オペラの慣習をやめて、新たにレチタティーボ(叙唱)を使って音楽が途切れずに続くようにした。この手法は輝かしい色彩的な管弦楽法と一緒に、ワーグナー(1813-1883)に強い影響を与えた。同年、持病の肺結核が重くなり、生活が苦しくなる。
※『オイリアンテ』音源のみ https://www.youtube.com/watch?v=okmlX3mHeAQ
この頃、『オイリアンテ』初演のためウィーンを訪れていたウェーバーは、最晩年のベートーヴェン(当時53歳)と会い、部屋を訪問し、一緒に昼食に出かけている。ベートーヴェンは自分の境遇を嘆き、ウィーンの聴衆や劇場、音楽界を牛耳るイタリア人、恩知らずの甥っ子に関しての不満を語った。ウェーバーは「ウィーンを去って、あなたの作品を高く評価しているドイツやイギリスに移られては」と勧めたが、ベートーヴェンは自分の耳を指差し、「(行動するには)遅すぎる!」と叫んで悲しげに頭を振った。別れ際、ベートーヴェンは繰り返しウェーバーを抱きしめ、「新作オペラの成功を祈るよ、できれば初日に聴きにゆく」と最後に語った。ウェーバーは日記に「偉大な巨匠の情のこもった眼差しと尊敬の態度を受けて、私はどんなに誇らしく感じたか。この日は永遠に私の心に残るだろう」。
1825年(39歳)、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コベント・ガーデン劇場)の依頼によって書かれた英語台本のオペラ『オベロン』の作曲を開始。この作曲のためにウェーバーは英語を学んだ。近づく死を予感したのか、『魔弾の射手』に3年を要したのに対し、15カ月でこのオペラを書きあげている。
1826年、最後のオペラ『オベロン』(全3幕)が完成。正式名称は「オベロン、または妖精の王の誓い」で中世フランスのロマンスを題材とするウィーラントによる叙事詩「オーベロン」に基づく。騎士や姫、妖精が登場し、冒険やアラビア的異国趣味で綴られた作品となった。3月、家族を養うため病苦を押して渡英。観劇のためロイヤル・オペラハウスを訪れると「ウェーバーが来ているぞ!」と大騒ぎになった。妻への手紙「喝采や万歳が叫ばれ、僕は何度も姿を現してお辞儀をしてみせねばならなかった。彼らは《魔弾の射手》の序曲を聴きたがった。嵐のような熱狂、これがあの冷静沈着なイギリス人だろうか?」。4月16日に自らの指揮で『オベロン』を初演し、妻への手紙に「嵐のような力で何度も呼び戻されて客席に挨拶するという名誉を味わった」と報告するほど大成功を収めたが、過労のため結核が悪化する。初演翌日の日記「私に施される治療は、もはやどれも役に立たない。私はよってたかって揺すられる機械のようだ。神よ、妻子をもう一度抱きしめさせたまえ」。他界一カ月前の日記「きわめて不快、恐ろしい呼吸困難、ああ神よ!」。他界2週間前の家族宛の手紙「再会できたらどんなに幸福だろう。世界中で何よりも君たちを誠実に愛する父//カール」。そして他界2日前の最後の手紙「神が君たち全員を祝福し、健康を与えて下さるように。君たちの側にいたい。心からキスするよ、愛しい君。明るい気持ちで僕のことを考えておくれ。//何よりも君を愛するカール」。初演の2カ月後、1826年6月5日に母国に帰りたいとの願い儚くロンドンにて客死。享年39歳。最後の言葉は前夜に友人に告げた「私を眠らせておくれ」。
翌1827年、ウィーンでベートーヴェンが他界。享年56歳。
ウェーバーの遺骨は死後18年間ロンドンにあったが、1844年にワーグナーの尽力でロンドンからドレスデンに移葬され帰郷した。

ウェーバーの独創的な管弦楽法はメンデルスゾーンに「ロマン派管弦楽法の武器庫」、シューマンに「心の奥底から我々に語りかけてくる」と称えられた。楽曲は古典派の明快な構成美と、ロマン派の繊細な旋律の動きが融合している。ウェーバーは39年の生涯に、2曲の交響曲、歌曲、ピアノ協奏曲、クラリネット協奏曲、カンタータ、ミサ曲、『舞踏への勧誘』などピアノ曲などを遺したが、10本のオペラに見られるように本質的には劇音楽家。ドイツ語の台本と神話的題材によるオペラというジャンルを確立し、ワーグナーに大きな影響を与えた。また、ウェーバーがオペラに導入した革新的な手法=ライトモティーフ(示導動機、特定人物の固定楽想)は、ワーグナーによって最大限の効果を発揮し、完成された。

〔墓巡礼〕
ウェーバーの墓はドイツ東部の大都市ドレスデン中心部の古いカトリック墓地(Alter katholischer Friedhof)にある。有名なゼンパー・オーパー(旧ドレスデン歌劇場)から1kmと近い。墓地の門をくぐって中央通りを直進し、礼拝堂の裏手のF地区の壁沿いに一族が眠っている。ウェーバーは39歳で自分が病死するというときの最後の手紙でも、家族の健康を祈っていた。大黒柱を失った妻子がどうなったのか気になっていたので、真っ先に墓石の没年をチェックした。「1800年代始めだし50歳までは生きててほしい…」。カロリーネ夫人は55歳、ホッ。次に別れ際に駅馬車のお馬さんを撫でていた4歳のマックス坊やは58歳。彼はあと1週間生きていたら59歳だった。そしてまだ1歳だった次男アレクサンダーは…19歳、この子は早逝していた。アレクサンダーが他界したのは1844年。待てよ、ワーグナー(当時31歳)がロンドンからウェーバーの遺骨をドイツに帰してあげたのもの1844年だ。繋がった…繋がってしまった!おそらく若死にした父子を不憫に思って、同じ墓所に埋めてあげたんだ。本当にそうならワーグナーの株は僕の中で爆上げだ。『魔弾の射手』はドイツ民話を独語の歌詞と民謡の音型を活かして書かれており、ワーグナーを激感動させ作曲家になる決意をさせた作品だ。ワーグナーは前年に“楽劇”の出発点であり、初期を代表する歌劇『さまよえるオランダ人』をドレスデン歌劇場で初演しており、続けて『タンホイザー』を作曲している最中。彼は恩返しのつもりでウェーバー家のために尽力したのでは。1歳で父と別れたアレクサンダーは顔を覚えていないし寂しかっただろう。晩年の手紙で再会を切望していたウェーバーの想いを考えると、ひとつの墓石にウェーバー家みんなの名があるのを見ていると目頭が熱くなった。

※後日談。なんとワーグナーは、カトリック墓地とフリードリッヒ通りを挟んで真向かいに建つ家に、1847年から1849年まで暮らしていた!その家は現地で“ワーグナーハウス”と呼ばれ、現在、壁面にワーグナーの肖像レリーフがかかっている。初期のオペラ『さまよえるオランダ人』も『タンホイザー』も発表当初は人気が出ず、上演がすぐに打ち切られたりしていた。そしてこの家で『ローエングリン』を書きあげたものの、初演のメドさえ立たなかった。これは僕の想像だけど、ワーグナーは心が折れそうなときにいつでも尊敬するウェーバーの墓前でパワーをもらえるように、墓地の目の前に住んでいたのではと。っていうかそうに違いない。その後、ワーグナーはドレスデンの革命運動・五月蜂起に参加したことで指名手配され、スイスに亡命するる。



★フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト/Franz Xaver Mozart 1791.7.26-1844.7.29 (チェコ、カルロビ・バリ 53歳)2015
Saint Andrews Chapel Churchyard, Karlovy Vary, Karlovarsky (Karlovy Vary), Czech Republic


大作曲家の息子

フランツ7歳(左)1798年
※右は7歳年上のカール

チェコのカルロビ・バリはかつての独領カール
スバート。温泉保養地として知られている

ネットには墓のおおよその場所しか出て
おらず現地で情報収集する必要があった。
画面右の看板(地図)には載ってなかった
誰に尋ねても「聞いたことがない」と言われる
なか、左のマダムが墓地を知っており、右の
学生さんが英語で通訳してくれた

マダムに教えられた方向へ行っても墓地が
なく、このペンションで聞き込みをした。
オーナー「モーツァルトの息子か。あと500m
先に昔の墓地があるぞ。きっとそこだ」


確かに史跡っぽい古い墓地があった。
庭師さんが耳栓(ヘッドフォン)をして掃除
していたので、視界に入るように手を振った。
「モーツァルトの息子!奴の墓はここじゃ
ないぞ。地図を持っているか」「はい」
「ペンを貸せ。墓の場所はここだ」「おおきに」
この白髭のオジサンが地図に印を入れて
くれたことで、少なくともこの町にフランツ
の墓があることが確実になった。直前まで
“ネット情報はガセネタでは”と疑い始めて
いたので、一気に元気が出た。さあ行こう!


…教えてもらった場所は小さな山だった。
これのどこに墓地が…。とにかく通行人を
見つけては「この辺らしいのですが」と
聞きまくったのだけど→
「モーツァルトの息子?お墓?」
「30年住んでるけど初耳だわ」
ダメだ…地元では有名人かと
思ったけどこうも知らない人ばかりとは
この2人には「お父さんのお墓が
ウィーンにあるのだから、ウィーンの墓地
を調べてみたら?」とアドバイス
されてしまった。既に1時間が経過…

50年住んでるお爺さんが知らなかったので心が折れ、「これ以上時間をかけると次の目的地に着いたら夜になる」と墓参を断念。うなだれてレンタカーに戻ると、道の反対側にiPhoneを聞きながら散歩している若者がいた。「ご老人に聞いても分からなかったんだ。こんな若者が知ってるはずない」と思いつつ、最後にダメ元で聞いてみた。
彼は“ちょっと待って”と考える仕草をした後、“モーツァルトの子、モーツァルトの子…”と呟き、指をパチン。「うん、なんかそれらしいのを見たことがあるぞ。着いてきて!」。
マジか!やった!と喜んだものの、彼は「近道をする」とひとけのない雑木林にズンズン入っていった。ぶっちゃけ、街中は落書きが多く、あまり治安の良いエリアじゃなさそうだ。僕は“初対面の人を疑うなんていけない”と思いつつ、“もし雑木林で事件に巻き込まれたら、それが僕の人生だったと、そういう宿命だったと受け入れよう”、そんなことを考えながら彼について行った。

ここを入っていく。海外では昼間でも
ひとけのない場所を避けていたので緊張。
名前はレナド君とのこと
15分で雑木林を抜け、山の斜面を降りると
レナド君が「YES!LOOK!」と前方を
指差した。うおっ、墓石が何個か見える
「MOZALT」の文字が見えた!ウオオ!
レナド君、本当にありがとう!一瞬でも疑
ってゴメン!君のおかげでたどり着けた!

レナド君「じゃ僕はこれで。ベトナムから来たの?チャイナ?」(旧共産圏
の交流国)。日本と答えると「ジャパン!ハイク!クロサワ!アイ・ラブ!」。
まさかの俳句、黒澤明。なんて渋い若者なんだ。今時、日本の若者
でも黒澤映画はすぐ出てこない。もはや同志、思わず固い握手。
墓碑銘が本名のフランツ・クサーヴァー・モーツァルトではなく、父の
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになっているのは、彼が“2世”
をアピールしていたからだろう。生没年はちゃんとフランツになっていた


聞けばレナド君は散歩が大好きで、音楽を聴きながら町中を歩きまくってるという。しかもこの時クラシックを聴いていた。通りで墓を知ってたはず!
僕がレナド君に巡り会うまで、18人に道を尋ねた。その結果は「この街にモーツァルトの子の墓があるなんて聞いたことがない」と肩をすくめた人が10人、「知っている」と言いつつ違う墓地を教えてくれた人が8人。うう…教えてくれる優しさに感謝だけど、知らない場合はそう言って欲しい。2時間ほど行ったり来たりでヘトヘトに。
それにしても、諦めて帰る前に、“最後の一人”とレナド君に訊いて良かった。彼に会えなければ、フランツの墓巡礼ができぬまま帰国していた。間一髪だった。
レナド君と別れた後、故井上ひさし氏の言葉を思い出した。「オーストラリアで黒澤監督特集が催され、そのおかげで日本人観まで好転した。パスポートだけでなく芸術の力で私達がいかに守られていることか」

【フランツ・クサーヴァー・モーツァルト】…作曲家、ピアニスト。天才モーツァルト他界の4カ月前に生まれた末子で四男。6人兄妹(4男2女)のうち成人できたのは次男カール・トーマス(1784-1858)と四男フランツ・クサーヴァーだけ。宮廷音楽長サリエリなどに学び「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世」の名で活動した。洗練されたピアノ協奏曲やヴァイオリン・ソナタを作曲したが、30代になると筆を置き、ピアニスト活動に特化していった。1844年、カールスバート(現カルロビ・バリ)にて53歳で病没。死因は胃癌。兄カールは役人となり、フランツの死の14年後に他界した。兄弟どちらも生涯独身だったことから、大作曲家の血筋はここで途絶えた。
※父の弟子にフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤー(1766-1803)がいる。“フランツ・クサーヴァー”という名が全く同じなのは、敬意を表してつけられたという説、母コンスタンツェとの不倫の子という説がある。



★ホルスト/Gustav Holst 1874.9.21-1934.5.25(イギリス、チチェスター 59歳)2015
Chichester Cathedral, Chichester, Chichester District, West Sussex, England

 

 
墓石には「THE HEAVENLY SPHERES MAKE MUSIC FOR US」(天の球体は私たちのために音楽を作る)

グスターヴ・ホルストはイギリスの作曲家。イギリス中南部グロスターシャー州チェルトナムにて1874年9月21日に生まれた。少年時代から父に音楽教育を受け、1893年に19歳でロンドンの王立音楽大学に進む。1895年(21歳)、故郷が同じグロスターシャーで2歳年上のヴォーン・ウィリアムズと出会い親交を深めた。卒業後、トロンボーン奏者や指揮者で生活費をかせぎながら、作曲家スタンフォードに師事する。
1905年(31歳)、セント・ポール女学校の音楽教員になる。
1907年(33歳)、妻イゾベルとの間に娘イモージェン・ホルストが生まれる。
1908年(34歳)、室内オペラ『サービトリー』を作曲。バラモン教の経典に音楽をつけたものである。
1909年(35歳)、『吹奏楽のための組曲第1番』『第2番』を作曲。両曲とも吹奏楽の古典的な演奏会用作品として後に重用される。
その後は、親友の作曲家ボーン・ウィリアムズのようにイギリス民謡に関心をむけ、数多くの民謡をブラスバンド、オーケストラ、合唱などのために編曲した。
1913年(39歳)、学生たちの演奏用に相応しい曲がないことに気づき『セント・ポール組曲』を作曲。
1915年(41歳)、日本人舞踊家・伊藤道郎の依頼で6楽章のバレエ音楽『日本組曲』を作曲。「ねんねんころりよおころりよ」のメロディーなど日本民謡の旋律で構成され、「前奏曲 漁師の歌」「儀式の踊り」「操り人形の踊り」「間奏曲 漁師の歌」「桜の木の下での踊り」「終曲 狼たちの踊り」と標題がついている。
※『日本組曲』こんな曲があったとは https://www.youtube.com/watch?v=M1KlVLYNajM (10分)
1916年(42歳)、代表作となる管弦楽組曲『惑星』を作曲。占星術から着想を得て書かれた作品で、「惑星」より「運星」に近い。太陽系の惑星の特徴が音楽で表現され、占星術の他にイギリス民謡やヒンドゥー教神秘主義の影響も受けている。全7楽章の構成は、第1曲「火星、戦争をもたらす者」、第2曲「金星、平和をもたらす者」、第3曲「水星、翼のある使者」、第4曲「木星、快楽をもたらす者」、第5曲「土星、老いをもたらす者」、第6曲「天王星、魔術師」、第7曲「海王星、神秘主義者」。最後の「海王星」では舞台裏に配置された女声合唱が使われる。楽譜の最後の1小節に反復記号が記され、「この小節は音が静寂の中に消え入るまでリピートせよ」と指示されている。初演の際に聴衆は斬新な響きに驚くと共に、絶賛をもってホルストに応えた。「火星」と「木星」が特に有名だが、ホルスト自身は「土星」を気に入っていた。
1918年(44歳)、管弦楽付きコラール『我は汝に誓う、我が祖国よ』(I vow to thee, my country)を作曲。組曲『惑星』の1曲「木星」中間部の旋律を編曲し、イギリスの外交官スプリング=ライスが第一次世界大戦中に作った詩をのせた愛国歌であり、イングランド国教会の聖歌。歌詞の1番は祖国への忠誠心、2番は平穏の理想の国家について歌う。ダイアナ妃がこの聖歌を好んだことから結婚式で演奏され、葬儀の際も長男ウィリアム王子の要望で演奏された。
※讃美歌『我は汝に誓う、我が祖国よ』 https://www.youtube.com/watch?v=bvouc8Qs_MI
1919年(45歳)、王立音楽大学の教授になる。
1925年(51歳)、ホルストの最高傑作とされる1幕オペラ『ボアズ・ヘッド亭にて』を作曲。
1926年(52歳)、第一次世界大戦休戦協定記念式典で『我は汝に誓う、我が祖国よ』が演奏され、以降イギリスでは11月11日のリメンブランス・デーで戦没者の追悼歌として歌われるようになった。同年、賛美歌集『ソングス・オブ・プライズ』に収録され、監修したホルストの友人ヴォーン・ウィリアムズが自身の暮らした街の名にちなんで『サクステッド』と名付けた。これによって、『我は汝に誓う、我が祖国よ』の旋律は「サクステッド」と呼ばれるようになり、様々な音楽家が歌詞を付けるようになった。
1927年(53歳)、全英ブラスバンド選手権大会決勝の課題曲の委嘱を受け『ムーアサイド組曲』を作曲。ブラック・ダイク・バンドが優勝した。
1934年5月25日、出血性胃潰瘍のためロンドンにて他界。享年59。この4年前に冥王星が発見されたことから、ホルストは新たに『惑星』の第8曲「冥王星」の作曲を開始したが、脳卒中で倒れて実現しなかった。2006年の惑星の新定義で冥王星が惑星から除外されたことで、『惑星』は再び太陽系と一致した。
1961年頃、ヘルベルト・フォン・カラヤンがウィーン・フィルの演奏会で『惑星』を取り上げレコードを発売。これが大ヒットとなり、ホルストの名が日本でも知られるようになった。
1976年、冨田勲がシンセサイザー版『惑星』を発表。
1986年、エマーソン・レイク・アンド・パウエルのアルバムにプログレ版の「火星」が収録。
2003年、「サクステッド」に吉元由美が日本語歌詞をつけ、平原綾香がデビューシングル『Jupiter』としてリリースされた。

〔墓巡礼〕
ホルストはイギリス南部ポーツマスに近い古都チチェスターのチチェスター大聖堂に眠っている。ロンドンから100kmあり、ブライトンを経由して鉄道で3時間。堂内の北袖廊の床の墓石には楽しげに公転する2つの惑星が彫られ、「THE HEAVENLY SPHERES MAKE MUSIC FOR US」(天の球体は私たちのために音楽を作る)と言葉が刻まれている。チチェスター大聖堂は12世紀からの歴史ある大聖堂で、シャガールのモダンなステンドグラスでも有名だ。

※ホルストは東洋哲学を学びサンスクリットの研究も行った。
※ホルストの名が命名された小惑星(3590)がある。
※チェルトナムにホルストの鋳像が建つ。
※娘のイモージェン・ホルスト(1907-1984)は王立音楽大学でヴォーン・ウィリアムズに師事し、彼女もまた作曲家になった。オールドバラ音楽祭を芸術監督として6歳年下の作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913-1976)と共に発展させ、1984年に76歳で他界。オールドバラの聖ピーター&聖ポール教会の墓地にてブリテンと彼のパートナーだったテノール歌手ピーター・ピアーズの墓の真後ろに眠っている。



★パウル・ヒンデミット/Paul Hindemith 1895.11.16-1963.12.28 (スイス、ラ・シエザ 68歳)2015
Cimetiere de Saint-Legier-La Chiesaz, La Chiesaz, District de la Riviera-Pays-d’Enhaut, Vaud, Switzerland

  

パウル・ヒンデミットはドイツの作曲家・ヴィオラ奏者・指揮者。20世紀音楽の主要な作曲家であり、無調性対位法などの手法により、後期ロマン派から脱却した作風を開いた。リヒャルト・シュトラウス亡き後のドイツ最大の作曲家。非ロマン主義的であり、古典的手法を尊重した作風で楽壇に新風を送る。生涯に600曲以上を作曲し、交響曲やオペラのほか、ハープ・ソナタ、ファゴット・ソナタ、チューバ・ソナタ、コントラバス・ソナタ、ヴィオラ・ソナタ、サクソフォーン・ソナタ、古楽器のヴィオラダモーレ・ソナタなど、オーケストラの裏方の楽器のためのソナタも作曲しており、当該楽器の演奏者から作品が重宝されている。
※緩徐楽章は基本的に挿話のように扱われており、楽器に朗々と歌わせることが少ないため、たまに長めの美しい旋律が登場すると「おおっ」となる。
「実用音楽」、「新即物主義」とかかわりをもつ。クラリネットほか様々な楽器を弾きこなし、音楽教育者としても優れていた。
1895年11月16日、フランクフルト・アム・マイン(マイン河畔のフランクフルト)の東部ハーナウで生まれる。
1909年(14歳)、音楽教育に熱心だった父のもと、少年時代からヴァイオリン演奏に優れ、11歳で音楽家になることを決意。13歳(誕生日前)でフランクフルトのホーホ音楽院に入学、以後8年間ヴァイオリンと作曲を学ぶ。作曲の師にはメンデルスゾーンの子孫がいる。学生時代から、ダンス・バンド、劇場、映画館、コーヒーハウスでバイオリンをひいて自活。最初はバイオリニストとして名を成す。

1913年(18歳)、フランクフルト歌劇場の管弦楽団のヴァイオリン奏者として音楽家としてのキャリアを開始。
1914年(19歳)、第一次世界大戦が勃発。翌年、父は戦死。
1915年(20歳)、所属する弦楽四重奏団(恩師である歌劇場管弦楽団のコンサートマスターが結成)のために『弦楽四重奏曲第1番』を作曲、音楽院教授と学生のアンサンブルで初演される。同年、20歳の若さでフランクフルト歌劇場管弦楽団のコンサートマスターとなり、ついで指揮者を8年間つとめる。
※『弦楽四重奏曲第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=Rm4hBiurwJ4 (35分)みずみずしくていい。ベートーヴェン『英雄』の葬送旋律は父に捧げたもの?
1917年(22歳)、音楽学校を卒業。作曲家として初期のフランクフルト時代が始まるが、大戦の長期化にともない、これまで病弱ゆえ兵役検査に引っかかっていたヒンデミットも召集される。
1918年(23歳)、当初は軍楽隊に配属され、隊内の四重奏団用に『弦楽四重奏曲第2番』を書くなどしたが、5月に前線に送り込まれ凄惨な光景を目の当たりにする。彼は手榴弾の攻撃を受けたが奇跡的に生き延びたという。11月に戦争が終結。戦後はヴィオラのソロ奏者として活動ながら、多くの作曲を手がけていく。
1920年(25歳)、南独ドナウエッシンゲンにて現代音楽を擁護する目的で『第1回ドナウエッシンゲン室内楽祭』が翌年に開催されることが決定し、ヒンデミットはこの音楽祭のために『弦楽四重奏曲第3番』を作曲する。また、自作を演奏するためベルリン・フィルのコンサートマスター、リッコ・アマールらと「アマール弦楽四重奏団」を結成し、ヴィオラを8年間担当する。
1921年(26歳)、『第1回ドナウエッシンゲン室内楽祭』で『弦楽四重奏曲第3番』が初演され好評を得ると共に、作曲家として認知される。ちなみに同音楽祭の演目作品は原則として世界初演となる現代音楽であり、現在、世界の若い前衛作曲家の登竜門となっている。
同年、『室内音楽第1番』を作曲。ジャズの影響を受けたリズム感にあふれた全4楽章の作品。
※『室内音楽第1番』 https://www.youtube.com/watch?v=LXsl4uiJx9k (15分)
1923年(28歳)、リルケによる歌曲集『マリアの生涯』を作曲。マリアの誕生から死までを15曲の歌曲で綴った。フランクフルト歌劇場管弦楽団を引退。
1924年(29歳)、フランフルト歌劇場主席指揮者の娘ヨハンナ(ユダヤ系)と結婚。
1925年(30歳)、ヴェネツィアの音楽祭でピアノと12の独奏楽器のための室内楽曲を発表し異才を認められる。この頃までヒンデミットはアヴァンギャルドの旗手と見なされる。
同年、『室内楽第4番(ヴァイオリン協奏曲)』を作曲。
※『室内楽第4番(ヴァイオリン協奏曲)』https://www.youtube.com/watch?v=s0-R2JbvswA (20分)冒頭から度肝を抜かれた。ヴァイオリン協奏曲なのにヴァイオリンがなかなか登場せず金管が大暴れ。
また、ワーグナー・オペラを題材にしたジョーク音楽、弦楽四重奏『朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された「さまよえるオランダ人」序曲』を作曲。
※『朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された「さまよえるオランダ人」序曲』 https://www.youtube.com/watch?v=3vGF2wCMbt8 (7分半)
1926年(31歳)、最初の大規模なオペラ『カルディヤック』を作曲。金細工師カルディヤックは自分の作品に魅了され、売った後に購入者を殺害しては取り戻すことを繰り返す。最後は犯行がばれて人々に襲われ、自作の金の鎖をうっとりと眺めながら息絶える。
同年、ドナウエッシンゲン音楽祭のために『吹奏楽のための協奏音楽(吹奏楽のための演奏会用音楽)』を作曲。
1927年(32歳)、ベルリン音楽院の作曲科教授に就任、10年間務める。これにともないアマール弦楽四重奏団での活動を終えてベルリンに転居し、作曲活動中期のベルリン時代が始まる。
同年、『器楽合奏のための学校音楽』を作曲。この作品でヒンデミットは「実用音楽」の概念を提唱し、アマチュアや音楽学生にも演奏可能な作品を書いて作曲家と大衆との距離を近づけようとつとめた。この創作活動を通して、作風が次第に聴きやすい簡素なものになっていった。
この年は他にも『室内楽第5番(ヴィオラ協奏曲)』『室内楽第7番(オルガン協奏曲)』等を作曲。前者は冒頭から緊張感たっぷり、後者は現代音楽では珍しいパイプオルガンの協奏曲であり重低音が心地よい。
※『室内楽第5番(ヴィオラ協奏曲)』https://www.youtube.com/watch?v=bCM08gVszRM (19分)
※『室内楽第7番(オルガン協奏曲)』https://www.youtube.com/watch?v=P7uZHBx7b6A (17分)

1929年(34歳)、オペラ『今日のニュース』を作曲。劇中に女声歌手が入浴するヌードシーンがあり、報告を受けたヒトラーは不快に感じる。またナチス高官アルフレート・ローゼンベルクも自著でヒンデミットを批判。
同年、ヴァイオリン奏者ヨーゼフ・ヴォルフスタール(ベルリン国立歌劇場コンサートマスター)、名チェロ奏者エマヌエル・フォイアーマンと三重奏団を結成。
1931年(36歳)、三重奏団のヴォルフスタールがインフルエンザで他界し、ベルリン・フィルのコンサートマスター、シモン・ゴールドベルクが参加する。同年、児童のためのオペラ『私たちは町をつくる』、オラトリオ『無限なるもの』を作曲。
1933年(38歳)、1月30日にヒトラー内閣が成立し、?3月24日に全権委任法が成立しナチス独裁体制が確立。ヒンデミットの妻や三重奏団の仲間がユダヤ系であったため弾圧が始まり、さっそく4月にヒンデミット作品の約半数が「文化ボルシェビキ」と見なされ演奏を禁じられる。
6月頃からヒンデミットは北方ルネサンスを代表する中世ドイツの画家マティアス・グリューネワルト(1470-1528)の生涯にもとづくオペラ『画家マティス』の創作にとりかかる。グリューネワルトは「イーゼンハイム祭壇画」で知られ、主題に芸術家と社会の関係を扱った。画家デューラー(1471-1528)と同時代の人物。
※20世紀前半の代表的画家、フランスの“色彩の魔術師”アンリ・マチス(1869-1954)とはまったく別人なので注意。
7月ベルリン・フィルの大指揮者フルトヴェングラー(1886-1954)から新作の依頼があったため、ヒンデミットは『画家マティス』から音楽を引用した組曲(交響曲)を書くことを発案、この方向で作業が進む。
1934年(39歳)、1月オペラ『画家マティス』の台本を脱稿。2月に交響曲『画家マティス』が完成する。この曲はグリューネワルトの傑作イーゼンハイムの3枚の祭壇画をもとにした3楽章形式をとり、第一楽章「天使の合奏」、第二楽章「埋葬」、第三楽章「聖アントニウスの誘惑」で構成される。不協和音の多用も、半音階的な声部進行もない現代音楽。本作は、ドビュッシーの色彩的な世界、シェーンベルクの絶対旋律、ストラヴィンスキーの激しい原始的リズムを吸収したうえで、無調整ではなくバロックの音楽精神に立ち戻った聴きやすい新古典主義で書かれた。ヒンデミットの音楽は、ロマン派からは前衛的、前衛派からは穏健すぎると見られるようになる。
同月、ナチスを避けてロンドン亡命中の三重奏団仲間、ユダヤ系のゴールドベルク、フォイアーマンと演奏および録音を行い、ナチスの心証が悪化する。
同年3月12日、交響曲『画家マティス』がフルトウェングラー&名門ベルリン・フィルにより初演され、アンチ派からも喝采を受けるほどの大成功を収める。ヒンデミットはすぐにオペラ版の作曲を開始、夏に大まかな初稿が完成する。
フルトヴェングラーは秋のシーズン開始に向け、オペラ版『画家マティス』をベルリン国立歌劇場で初演する準備していたところ、ナチスから上演禁止を通達された。交響曲『画家マティス』はナチスが退廃芸術と決めつけるような前衛音楽ではなかったし、ヒンデミットはユダヤ人ではなく、共産主義者でもなく、帝国音楽院の顧問かつシャルロッテンブルク音楽大学の教授も務めていた。問題となったのは1920年代の先鋭的な作風、社会主義の作家ブレヒトとのタッグといっや過去の音楽活動によるもの。

11月25日、激怒したフルトヴェングラーはヒンデミット擁護のため「ドイツ一般新聞」に「ヒンデミット事件」と題する論評を載せ、「ヒンデミットは現代ドイツの音楽において必要不可欠な人物であり、これを容易に切り捨てることは、いかなる理由があろうとも許されるべきではない。ヒンデミット排斥は根拠のない言いがかりである」と主張、辞任も辞さない構えをとった。この論評は国内外で大きな注目を集めた。新聞が出た日、ベルリン・フィルの拠点であるフィルハーモニーホールや、ベルリン国立歌劇場をフルトヴェングラー支持の民衆が取り囲んだ。フルトヴェングラーは市民からの支援・共感の拍手が続くため公開練習を20分間も始めることができなかった。同日夜の『トリスタンとイゾルデ』は異様な熱気に包まれたという。同月末にベルク(師シェーンベルクがユダヤ人)の『ルル交響曲』も初演禁止令が出され、12月初頭、名指揮者エーリヒ・クライバー(1890-1956)はベルリン国立歌劇場の音楽総監督を辞任。12月5日、ナチス宣伝相ゲッベルスがフルトヴェングラーの批判演説を行い、ベルリン・フィル音楽監督、ベルリン国立歌劇場音楽監督、プロイセン枢密顧問官、帝国音楽院副総裁を辞任させられる(これはフルヴェンが希望していたこと)。ベルリンではナチス支持者による「無調の騒音製造者」を攻撃する講演会が行われた。
同年、これまでいくつか小編成の作品で腕をならして自信を得て、本格的に協奏曲を書き始める第1弾として『ヴァイオリン協奏曲』を完成させる。

1935年(40歳)、フルトヴェングラーの辞任によってベルリン・フィルの演奏技量は低下し、ドイツ楽壇に対するイメージダウンもあり、焦ったナチスはフルトヴェングラーに歩み寄り、3月にフルトヴェングラーは客演指揮者としてベルリン・フィルに復帰、ユダヤ系音楽家の救済に奔走する。一方、同年7月27日にヒンデミットはオペラ『画家マティス』を完成させるが、やはり前衛性と社会批判的な傾向はナチス政権の圧力対象となり、初演は禁じられたまま目処が立たず。同年、ヒンデミットはトルコ政府から音楽教育の依頼を受け、帝国音楽院顧問を辞し、音楽大学の教授職を休職。そのうえで、トルコに渡ってアンカラ音楽院の開校に尽力し、同校の名誉教授を2年間務める。この事態を受けてエーリヒ・クライバーもベルリン国立歌劇場の第一楽長の地位を捨ててアルゼンチンに亡命した。
※オペラ『画家マティス』…舞台はドイツ農民戦争(1524-1525)の頃の西部マインツ。マインツ大司教アルブレヒトのお抱え画家マティスはイーゼンハイムの聖アントニウス会修道院の中庭で壁画を描いている。そこへ農民一揆の指導者ハンス・シュヴァルプとその娘レギーナが逃げ込んで来たため、怪我を治療し彼らを逃がすための馬を提供する。一方、大司教に宗教改革者ルターから「聖職者も結婚すべき」と手紙があり、アルブレヒトは富豪の娘ウルズラとの結婚話が持ち上がる。ウルズラはマティスを愛しており、マティスもまた彼女を想っていたが、彼は農民戦争に参加するため「戦場へ連れて行けぬ」と恋を捨てる。マティスは宮廷画家であったが、画業は社会的役割を果たせるのか疑問を抱き、絵筆を捨て農民戦争に参加する。
戦場では農民軍が暴走し、城から引きずり出した伯爵や夫人も殺そうとしていた。マティスは「戦いの目的は生活の向上のはずだ!」と伯爵夫人をかばい、農民たちに殴られる。そこへハンス父娘が現れマティスを救い出すが、農民軍は連邦軍との戦闘で壊滅、ハンスは戦死。マティスは伯爵夫人に助けられ、孤児となったハンスの娘レギーナを連れて逃亡する。森の中でマティスは幻覚に包まれ、イーゼンハイムの祭壇画の世界を旅し、自身が聖アントニウスとなって様々な誘惑と戦った。夢の中で、聖パウロとなったアルブレヒトが「神に与えられた才能を、再び人々のために発揮すべく絵筆を握るのだ!」と告げ、幻から覚めたマティスは朝日を浴びる。瀕死のレギーナは息絶え、マティスはアルブレヒト大司教に祭壇画の完成を告げ、「森の獣同様、私も自分の死に場所は自分で探します」と天命である創作の世界に戻り、最期の日々を独りで過ごすため旅立つ。
※オペラ『画家マティス』英語字幕付き
https://www.youtube.com/watch?v=7JSPDikVBFc
同年、ヴィオラ協奏曲の『シュヴァーネンドレーヤー(白鳥を焼く男)』を作曲。各楽章に古いドイツ民謡を用い、旅人の吟遊詩人の歌をヴィオラで奏でる。ヒンデミット自身が優れたヴィオラ奏者であることから、ヴィオラの魅力が存分に引き出されており、のちのヴィオラ奏者の重要なレパートリーになっている。ヴィオラ独奏を聴き取りやすくするため、オーケストラはヴァイオリンとヴィオラがいない特別編成となっている。第二楽章冒頭の哀愁を帯びた旋律が素晴らしい。
※『シュヴァーネンドレーヤー』の第二楽章(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=wPgmUji_bBM#t=8m16s
1936年(41歳)、ヒンデミットの音楽が「ドイツ文化を破るもの」としてドイツ国内で公式に演奏禁止となる。同年、年明けに崩御したイギリス国王ジョージ5世追悼のために『葬送音楽』を作曲。
※『葬送音楽』 https://www.youtube.com/watch?v=9yI9h_Hweqc (7分51秒)ヴィオラと弦楽合奏による隠れ名曲
1937年(42歳)、夏にヴィオラ独奏者としてイタリアを旅行し、かつてバレエ・リュスで活躍し、ニジンスキーに代わる花形男性ダンサーとなり、ディアギレフ死後の後継者となってモンテカルロ・ロシアバレエ団を主宰していた振付家レオニード・マシーン(1896-1979)と知り合い、意気投合する。2人はアッシジの聖フランシスコの生涯を題材とした台本『いとも気高き幻想』を共作、マシーンに作曲を委嘱される。9月、ヒンデミットはナチスの音楽政策に反発し、ベルリン音楽大学(ベルリン・ホッホシューレ)の作曲部長という栄誉ある職を退く。同年、『作曲の手引』の執筆を開始。
1938年(43歳)、2月ヒンデミットはドイツを見限りスイスに移住。5月26日デュッセルドルフでナチ政府よる「退廃音楽展」が開催され、ヒンデミットも一区画を使って批判される。2日後の28日、スイスのチューリヒでオペラ『画家マティス』がようやく初演された。同年7月、ロンドンにて管弦楽組曲『気高き幻想』初演(バレエ音楽の抜粋)。
※『気高き幻想』第一楽章 https://www.youtube.com/watch?v=6dRLvhjl8bk (7分46秒)冒頭の聖フランシスコの瞑想がいい
1939年(44歳)、作曲活動後期に入る。9月に第二次世界大戦が勃発。著作『作曲の手引』の第一巻を刊行。
1940年(45歳) 、欧州の戦火を避けてアメリカに渡り、イェール大学で1953年まで13年間客員教授となる。コネチカット州に住む。同年、純粋に交響曲として(オペラとは無関係に)書かれた唯一の作品であり、交響曲第2番に相当する『交響曲変ホ長調』を作曲。勇壮かつロマン的。
※『交響曲 変ホ長調』バーンスタイン&NYフィル https://www.youtube.com/watch?v=HXmNd4YtWrQ (33分)
同年、ピアノ協奏曲的な『4つの気質 ピアノと弦楽オーケストラのための主題と変奏』を作曲。「憂鬱質」「多血質」「粘着質」「胆汁質」で構成。第1曲の「憂鬱質(メランコリック)」とワルツ風の「多血質」が魅力的。
※『4つの気質 ピアノと弦楽オーケストラのための主題と変奏』 https://www.youtube.com/watch?v=IGgW0wF96Ec (27分37秒)
1942年(47歳)、すべての調が異なる12のフーガを集めたピアノ曲集『ルードゥス・トナーリス』を作曲、大バッハと比較され“20世紀の平均律曲集”“20世紀のフーガの技法”と称えられる。音列は基音Cから徐々に不協和となる構造を持ち(C-G-F-A-E-Es-As-D-B-Des-H-Fis)、斬新な和音や半音階を駆使する作法から「拡大された調性」と呼ばれる。

1943年(48歳)、アメリカ時代に最も成功した人気の管弦楽曲『ウェーバーの主題による交響的変容』を作曲。カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)のピアノ連弾曲『8つの小品』、『6つのやさしい小品』、劇付随音楽『トゥーランドット』序曲から主題を採った4楽章の作品。行進曲風の魅力的な旋律とリズムにあふれた名曲となった。同年、『和声学』第一巻を刊行。
※『ウェーバーの主題による交響的変容』セル指揮クリーヴランド管弦
https://www.youtube.com/watch?v=KEsvnHrlp4c (19分41秒)
※『ウェーバーの主題による交響的変容』第二楽章のスケルツォがクセになる!(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=KEsvnHrlp4c#t=3m56s
※『ウェーバーの主題による交響的変容』ヒンデミット本人の指揮!https://www.youtube.com/watch?v=a_OlaN2-Vyc (20分)
1945年(50歳)、第二次世界大戦が終結。戦後は指揮者としても活躍。
1946年(51歳)、米市民権を取得。
1948年(53歳)、『和声学』第二巻を刊行(完結)。
1951年(56歳)、天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)を礼賛した作曲中のオペラ『世界の調和』から、旋律を引用した交響曲『世界の調和』を作曲。第一楽章「楽器の音楽」第二楽章「人間の音楽」第三楽章「宇宙の音楽」。
同年、ワシントンD.C.の高名なアメリカ陸軍軍楽隊の委嘱により、大規模吹奏楽作品の傑作『吹奏楽のための交響曲変ロ調』を作曲。ヒンデミット十八番の対位法、精巧な二重フーガが全編に展開。
※『吹奏楽のための交響曲変ロ調』ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団
https://www.youtube.com/watch?v=qLbDBWe7EiM (15分34秒)
この年、スイスのチューリヒ大学の音楽学教授として招かれ、イェール大学と隔年交互に講義。
1952年(57歳)、回想録『作曲家の世界』を刊行(執筆は前年)。
1953年(58歳)、イェール大学を辞してスイスに戻り、以降は同国に暮らす。チューリヒ大学の教授に就任。
1955年(60歳)、チューリヒ大学で教鞭を置く?
1956年(61歳)、晩年は指揮者として世界各地を訪れ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者として来日。
1957年(62歳)、交響曲『世界の調和』 がミュンヘンで初演される。
1958年(63歳)、ピッツバーグ市創立200年を記念した『ピッツバーグ交響曲』を作曲。
1963年11月、自宅にて高熱を出し、12月28日、出血性膵炎により治療先のフランクフルトアムマインで他界。享年68歳。
1970年、著作『作曲の手引』の第三巻が刊行される。

ヒンデミットいわく「作曲家とは社会の要求に応じて音楽をつくりだす職人である」。その言葉通り、交響曲、室内楽曲、協奏曲、オラトリオ、バレエ音楽、映画音楽、歌曲など、多ジャンルにわたる膨大な数の作品をのこした。明快な楽想、躍動的なリズムによって、後期ロマン派の感情過多を一掃し、ドイツ出身の作曲家にあって反ワーグナーの先陣を切った。急進的な作風だが無調整には進まず、新古典主義に立って対位法を駆使。また、調性を保ちつつも不協和音を巧みに用いて表現を豊かにした。活動初期は誰でも演奏が容易な「実用音楽」を提唱し、後に現代の対位法を駆使した作風へと変化した。その楽曲は四重奏団の出身者ゆえか室内楽が多い。フランスのオネゲル、ミヨーらと共に現代音楽を代表する存在となった。
「ヒンデミットは現代の数少ない真のフーガの名手である」(グレン・グールド)。

〔墓巡礼〕
ヒンデミットはスイス西部レマン湖畔、ヴォー州のラ・シエザ教会に眠る。墓地の西側の壁沿い、比較的に教会入口に近い場所だ。スイスの墓地の特徴で墓前には花がたくさん咲いている。スイスは持参した花をお供えするのではなく、墓前の花壇に花を咲かせるイメージがある。自然岩のシンプルで武骨な印象のお墓が、音楽に実用性を求めたヒンデミットらしかった。3キロしか離れていない墓地にチャップリンのお墓がある。



★ベンジャミン・ブリテン/Edward Benjamin Britten 1913.11.22-1976.12.4 (イギリス、オールドバラ 63歳)2015
St. Peter and St. Paul Churchyard, Aldeburgh, Suffolk Coastal District, Suffolk, England

イギリス東海岸の漁村に眠る

静かな教会墓地。ブリテンは右側

ブリテン、ピーター・ピアーズ、
ホルストの娘イモージェン・ホルスト

ブリテン(左)とピーター・ピアーズ(右)
写真では分かりにくいが同じ形&大きさ
当時は同性愛者が差別される時代だった
いま寄り添いながら永遠の時間を生きる
2人のすぐ後方に
イモージェン・ホルスト

20世紀を代表するイギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンは、1913年11月22日にイギリス・サフォーク州東海岸のローストフトに生まれた。実際の発音はブリトゥン。父は歯科医、母はアマチュアのソプラノ歌手。5歳で歌曲、7歳でピアノ曲、9歳で弦楽四重奏曲を作曲するなど早くから神童ぶりを発揮する。
1924年(11歳)、音楽祭で演奏されていたフランク・ブリッジ(1879-1941)の交響組曲『海』を聴いて感動し、演奏後にブリッジ本人と対面し、弟子入りを認められた。以後、12歳からロンドンのブリッジ宅に通って作曲や音楽理論など4年間個人指導を受ける(作曲の師事は「1927年(14歳)から」とする資料もあり)。
※フランク・ブリッジの交響組曲『海』 https://www.youtube.com/watch?v=bgK8L2QAYuA (22分)
1930年(17歳)、奨学金を得て16歳(誕生日前)でロンドン王立音楽学校に入学、1932年に作品1となる『シンフォニエッタ』を作曲する。
1934年(21歳)、『シンプル・シンフォニー』を作曲。冒頭の和音で聴き手の心を掴み、全曲約17分の間、様々な弦の音色で楽しませてくれる。同年、ロンドン王立音楽学校を卒業。この年、3歳年上のテノール歌手ピーター・ピアーズ(1910-1986)と出会う。同性愛者の2人は後に生涯のパートナーとなった。また、父が56歳で他界している。
※『シンプル・シンフォニー』第3楽章 https://www.youtube.com/watch?v=jFeRels8AyY#t=6m32s 21歳でこの情感!控え目に言って天才だろ、ブリテン…
1935年(22歳)、父を失ったことで、生計を立てるためにイギリス中央郵便局の記録映画製作部門に就職し、記録映画の伴奏音楽を作曲する仕事に従事する。同年、ブリテンが弟子入りを願っていたオーストリアの作曲家ベルクが50歳で急死。
1936年(23歳)、6歳年上の詩人ウィスタン・ヒュ・オーデン(1907-73)に協力して記録映画をつくり、その思想に強い影響を受けた。オーデンはT.S.エリオット以来、イギリスでもっとも強い影響力をもった詩人であり、後年ブリテンはオーデンの詩に基づく詩劇や歌曲を発表する。
1937年(24歳)、作曲活動が評判を呼び、ザルツブルク音楽祭からも依頼が届く。ブリテンは恩師ブリッジへの感謝を込め、『フランク・ブリッジの主題による変奏曲』を作曲。9つの変奏と終曲のフーガで構成。8月にザルツブルク初演されると非常に高い評価を受け、国際的に名声を得る出世作となった。ブリテンは当曲のスコアに「感動と賛美をもって、フランク・ブリッジに捧ぐ」と記している。同年、母が63歳で他界。
※『フランク・ブリッジの主題による変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=5a6GYKtyFes (23分40秒)様々な変奏に引き込まれる

1938年(25歳)、『ピアノ協奏曲』を作曲。各楽章に「トッカータ」「ワルツ」「アンプロンプテュ(即興曲)」「行進曲」と題名がついている。
※『ピアノ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=dkIvkNDlc_0 (35分)冒頭から高難度、そして聴かせる
1939年(26歳)、ブリテンはイギリスの楽壇が彼に冷淡なことに不満を持ち、大戦直前の欧州の政情に不安を感じていた。そして初夏、アメリカに移住した詩人オーデンを追ってピーター・ピアーズと2人で渡米し、オーデンを囲む芸術家サークルと親しく交わり、3年間アメリカで過ごす。同年夏に『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。充実した旋律のもと、ときに内省的、ときに強烈なリズムと変化のある展開を見せる。スペイン内戦の直後、そして第二次世界大戦の直前であり、終曲部分の静けさは平和を願う祈りのようだ。
※『ヴァイオリン協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=wbcw6INQzfE (30分)

続いてランヴォーのフランス語の詩に曲を付けた歌曲集『イリュミナシオン』を作曲。「ファンファーレ」「町」「歌節」「古代」「王者」「海の情景」「間奏」「美麗なる存在」「パレード」「出発」の全10曲で構成され、ビアーズの歌唱を念頭に書かれた。
※『イリュミナシオン』ピーター・ピアーズの歌 https://www.youtube.com/watch?v=MfjJSG52jhk (22分)
9月1日ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発。この結果、良心的兵役拒否者のブリテンは、戦争当事者となったイギリスに帰国できなくなった。そこで米国滞在費を捻出するため、日本政府が募集している皇紀2600年の奉祝曲を書くことにした。
1940年(27歳)、日本政府に提出するため管弦楽曲『シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)』を作曲、代表曲のひとつとなる。「涙の日」「怒りの日」「永遠の安息」の全3楽章。ただし、日本政府は激怒した。「祝典用(皇紀2600年奉祝)にレクイエムとは無礼」「内容がキリスト教的」「天皇に対する意図的な侮辱である」と日本大使館を通して厳重に抗議、演奏拒否をブリテンに通告したうえスコアを返却した(委嘱料は払った)。ブリテンは「日中戦争を考慮に入れても、作品テーマには普遍性があり不穏当ではない」とした。
※『シンフォニア・ダ・レクイエム』から第3楽章“久遠なる平安を”
https://www.youtube.com/watch?v=dg3nfZvm59Y#t=13m44s (リンク動画の夕陽のせいもあって非常に感動的)
同年、左手のピアノと管弦楽のための協奏曲『ディヴァージョンズ』を作曲。戦争で右手を失ったオーストリアのピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタイン(哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの兄)の委嘱によるもの。他にもラヴェル、リヒャルト・シュトラウス、ヒンデミット、プロコフィエフら名だたる著名な作曲家がパウルの委嘱で左手用の作品を書いている。
この年、ミケランジェロのイタリア語の詩に曲を付けた歌曲集『ミケランジェロの七つのソネット』を作曲。英語以外の詩も歌にしようとするブリテンの野心的な試み伝わる。
※『ミケランジェロの七つのソネット』ピーター・ピアーズの歌 https://www.youtube.com/watch?v=hNa378n3QwI (16分)

1941年(28歳)、『シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)』がバルビローリ指揮ニューヨーク・フィルで初演され大成功を収める。
最初のオペレッタ『ポール・バニヤン』を作曲。
1942年(29歳)、春にイギリスに帰国。この際、政府はブリテンが良心的理由から兵役を拒否することを認めた。同年、代表曲のひとつ連作合唱曲『キャロルの祭典』を作曲。グレゴリオ聖歌を歌いながら入場してきたボーイ・ソプラノと少年合唱団が、ハープの伴奏でキリストの誕生を祝いあげ、そして去って行くという趣向。歌詞はすべて15〜16世紀頃の古いキャロル(クリスマスの祝歌)のものを使っている。第7曲は「間奏曲」で夢見るようなハープの独奏。
※『キャロルの祭典』 https://www.youtube.com/watch?v=KSt1Zljnql0 (23分)めっちゃええやん!
※『キャロルの祭典』から「子守歌」 https://www.youtube.com/watch?v=KSt1Zljnql0#t=7m13s
(歌い始めは“おおわが愛する心、美しく幼きイエス。ゆりかごを備え、汝を胸に抱こう”)
1944年(31歳)、ブリテンはアメリカ滞在時に指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーからオペラ制作を勧められていたことから、前年に『ピーター・グライムズ』の台本を完成、この年から作曲を開始する。
1945年(32歳)、イギリス詩人ジョージ・クラッブの「町」にもとづく、最初の本格的オペラ『ピーター・グライムズ』(全3幕)を完成させる。6月7日、ロンドンで初演されて大反響を呼び、圧倒的な成功を収めた。本作は各国語に翻訳・上演され、イギリスのオペラとして初めて国際的な名声を得た。ブリテンはパーセル以来の本格的なイギリス・オペラの再興とまで讃えられ、以後、オペラ作品を次々と制作していく。
『ピーター・グライムズ』…他人と上手く交流できない漁夫ピーター・グライムズは、海上での徒弟(少年)の死について村人たちから疑いをかけられ、最後は海に出て死ぬことを強いられる。海の静けさと嵐を音楽で鮮やかに描き、登場人物の心理的葛藤を巧みに表現した。
※『ピーター・グライムズ』 https://www.youtube.com/watch?v=3MyBUetbE38 (142分)

同年、イギリス文部省から教育用映画の音楽を依頼され、子どものためのオーケストラの入門曲『青少年のための管弦楽入門』を作曲。ヘンリー・パーセルの曲『アブデラザール』の主題を使ったナレーション付きの変奏曲とフーガ。オーケストラのすべての楽器のソロが交代で紹介された後、パーセルの主題とブリテンのフーガの旋律が融合し、最後はオーケストラによる壮大なフーガでしめくくられる。ブリテンは指揮者が楽器を解説しながら演奏するよう求めており、ソ連のプロコフィエフが10年前(1936年)に作曲した『ピーターと狼』と並ぶ有名な教育作品。
※『青少年のための管弦楽入門』日本語ナレーションつき(ただしフーガなし)
https://www.youtube.com/watch?v=MXVqisH05G0 ※『青少年のための管弦楽入門』マリナー&N響の素晴らしいフーガ(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=yNYiAblBOjw#t=14m08s
※『青少年のための管弦楽入門』小澤征爾&シカゴ響 https://www.youtube.com/watch?v=hhapCrYw9MQ&pbjreload=10 (17分)

1946年(33歳)、小編成の室内オペラ『ルクレティアの凌辱』(ルクリーシアの凌辱)をグラインドボーン音楽祭で初演。
1947年(34歳)、室内オペラを開拓するため「イギリス・オペラ・グループ」を結成。同年オペラ『アルバート・ヘリング』を作曲。この年、イギリス東部の港町オールドパラに居を構え、没するまで30年を過ごす。
1948年(35歳)、友人のイギリス人テノール歌手サー・ピーター・ピアーズと協力してオールドバラ音楽祭を創始。オールドバラでは現在、年間を通じて公演・教育活動がおこなわれており、イギリス屈指の音楽センターになっている。同年、大学の創立百年祭のためにカンタータの大曲『聖ニコラス』を作曲。聖ニコラスは子どもの守護聖人であり、サンタクロースのモデル。この曲は聖ニコラスの誕生、パレスチナへの旅立ち、禁教下での投獄、飢饉で死んだ子ども達の復活、讃美歌に包まれた逝去までを歌う。
※『聖ニコラス』 https://www.youtube.com/watch?v=xUBWFvQaNuQ (50分)
1949年(36歳)、スペンサー、ミルトン、ブレイクなど13世紀から20世紀までの英国の詩から、春に関連した14篇に曲を付けた合唱付きの大規模作品『春の交響曲』を作曲。マーラー『大地の歌』に通じる大曲。交響曲と題しているが、声楽が主役であり、オーケストラはあくまでも伴奏に留まる。
※『春の交響曲』の壮大なフィナーレ https://www.youtube.com/watch?v=tZZmvWmSp-M (7分32秒)
同年、第2回オールパラ音楽祭のために子ども向けオペラ『オペラを作ろう:小さな煙突掃除』(全3幕)を作曲。この作品は2つの意味で斬新だった。まず、子どもがオペラに親しめるようキャストの大半が少年少女であること。そして、聴衆の参加意識を盛り上げるため、聴衆が参加する合唱曲が4曲登場することだ。客席参加型のオペラは当時では画期的だった。内容は全体的に喜劇ではあるが、1810年の過酷な児童労働を扱っているためシリアスな一面もある。
8歳の少年サムは貧しい親に売り飛ばされ、冷酷な煙突掃除の親方のもと違法にこき使われている。サムがある屋敷に遠島掃除で訪れると、サムの境遇に胸を痛めた屋敷の子ども達が、なんとか親方のもとから救出しようと画策する。全3幕だが、第1幕は演劇パートでクリスマスの出しもの(『小さな煙突掃除』)を選ぶ話、第2幕は選んだオペラの歌を観客に練習させる劇中劇、そして第3幕でいよいよオペラ『小さな煙突掃除』が始まり、観客は第2幕で練習した歌を披露するという革新的な作品。伴奏はオーケストラではなく、弦楽四重奏とピアノと打楽器。
※『オペラを作ろう:小さな煙突掃除』から第3幕の「夜の歌」。4箇所に分かれた聴衆が、ふくろう、アオサギ、キジバト、ひわの鳴き声を交えて歌う。リンク先はドイツ語(オリジナルは英語)だけど良い舞台。夜の雰囲気がよく伝わる。
https://www.youtube.com/watch?v=adguQFKkJvo#t=32m33s

1951年(38歳)、アメリカの作家メルビルの同名小説にもとづくオペラ『ビリー・バッド』を作曲。
同年、独奏オーボエがギリシャ神話の6人の登場人物、パン、フェートン、ニオベ、バッカス、ナルシス、アレトゥサを音楽にした『オヴィディウスによる6つの変容』を作曲。
※『オヴィディウスによる6つの変容』 https://www.youtube.com/watch?v=WuHCwbve-s8 (14分42秒)神話の詩情たっぷり
1953年(40歳)、イギリス女王エリザベス2世の戴冠式を祝賀したオペラ『グロリアーナ』を作曲。
1954年(41歳)、アメリカの作家ヘンリー・ジェームズの同名小説にもとづく室内オペラ『ねじの回転』を作曲。登場人物6人、演奏者7人、計13人による舞台。イギリスの田舎で、“ねじの回転”のように一方向にしか進まない運命を描く。女性家庭教師が赴任先の屋敷で、子ども達を幽霊から守ろうと奮戦するホラー・テイストのオペラ。
1956年(43歳)、日本を訪問し2週間滞在。NHK交響楽団を自ら指揮して、かつて演奏拒否された『シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)』の日本初演を行った。また、能楽「隅田川」を鑑賞し、深い感銘を受ける。同年、作曲家ホルストの娘イモージェン・ホルスト(1907-1984)がオールドバラ音楽祭の芸術監督に就任。
1957年(44歳)、カンタータ風の教会オペラ『ノアの洪水』を作曲。
1960年(47歳)、シェークスピアの喜劇をオペラ化した『夏の夜の夢』を作曲。同年、ソ連(ロシア)の作曲家ショスタコーヴィチが自作の『チェロ協奏曲』の国外初演のため、名チェリストのロストロポーヴィチと共に英国を訪問。9月ブリテンは2人と親交を結ぶ。同年後半から、ブリテンは作曲中の他作品を中止して『戦争レクイエム』の作曲に集中する。

1961年(48歳)、前年から取り組んでいた管弦楽つきの合唱曲『戦争レクイエム』が年末に完成。この曲は第二次世界大戦中(1940年)に独軍の空襲で破壊された、500年の歴史を持つコヴェントリー大聖堂の再建の献堂式のために書かれたもの。3人の独唱と合唱が加わった大規模な鎮魂歌。戦争犠牲者の哀悼を通して戦争の不合理を歌いあげ、究極的には永遠の世界平和を念願している。平和主義者であり、良心的兵役拒否者ブリテンの渾身の作品。歌詞はイギリスの詩人ウィルフレッド・オーウェン(1893-1918)の反戦詩9編を選んだ。
オーウェンは第一次世界大戦に出征、その塹壕と毒ガスの凄惨な体験をもとに、戦争のむごたらしさに対する怒りと、犠牲になった若い兵士たちへの憐れみを情熱的に描いた。彼は終戦まであと1週間というときに25歳で戦死する。休戦当日に戦死の知らせが母の許に届けられたという。
ブリテンはスコア冒頭にオーウェンの次の一節を書き記している。「私の主題は戦争であり、戦争の悲しみである。そして詩はその悲しみの中にある。詩人のなしうる全てのことは、警告することなのだ」。男性ソロ歌手(テノール、バス)はオーウェンの英語の反戦詩を歌い、ソプラノと合唱団はラテン語のレクイエムの式文を歌うという特殊な演奏形式をとる。音楽史上、他に類例のない異色作。
●第1曲:入祭唱(レクイエム・エテルナム、キリエ/永遠の安息を、絶えざる光を彼らの上に照らしたまえ)
オーエンの詩「What passing-bells for these who die as cattle?」(家畜のように死んでゆく兵士たちにどんな弔鐘があるというのか?)(兵士たちを弔う鐘の音は、怪物の怒りのごとき鉄砲の轟きでしかないのか!)
●第2曲:続唱(ディエス・イレ/怒りの日)
オーエンの詩「Out there, we've walked quite friendly up to Death」(戦場で、ぼくたちはごく親しげに死にむかって歩み寄っていき、死と一緒に座り食事をした。落ち着いて、そして穏やかに/死がその大鎌でぼくたちを刈り取っている間も、ぼくたちは笛を吹いた。おお、死は決してぼくたちの敵ではなかった…/彼は死と戦っている…生のためにだ。誰も旗のためではない)
●第3曲:奉納唱(オッフェトリウム/奉献誦)
オーエンの詩「So Abram rose, and clave the wood, and went」(かくて、アブラハムは立ちあがり、たきぎを割り、出かけていった)
●第4曲:サンクトゥス(聖なるかな)
オーエンの詩(神はすべての死を取り消して、すべての涙を鎮めることができるであろうか/ぼくは白髪の年齢になりたいのに、神はそう言ってはくれなかった)
●第5曲: アニュス・デイ(神の子羊)
オーエンの詩(この戦いで主もやはり手足を失われた。しかし彼の使徒たちは離れた所に身を隠す。そして今や兵士たちは主と共に耐えるのだ)
●第6曲:リベラ・メ(我を救いたまえ)
オーエンの詩(ぼくは、君が殺した敵なのだ、友よ!)
オーエンの詩「It seemed that out of battle I escaped」(ぼくは戦闘から脱出して)
オーエンの詩「Let us sleep now」(さあ、もう眠ろうよ)
イン・パラディウム「天使よ、天国へ導きたまえ」
アーメン※鐘が鳴るなか合唱がアーメンと歌い、限りない平和と静けさの中にこの大曲は終わる。上記の部分訳は『音楽之友社/最新名曲解説全集(24)』とウィキペディア参考。
※ラスト3分半 https://www.youtube.com/watch?v=oOnwIyaV_UY&#t=77m17s
※『戦争レクイエム』ブリテン自身が指揮した映像!https://www.youtube.com/watch?v=HwBEtfXXsvU#t=6m40s
同年、ロストロポーヴィチのチェロ演奏に刺激を受け、ブリテンはオーボエ独奏曲の『オヴィディウスによる6つの変容』以来、10年ぶりの器楽曲となる『チェロ・ソナタ』を作曲。チェロが主役にもかかわらず、チェロが朗々と歌うことはなく、沈痛で抑圧された心の叫びとなっているのは、『戦争レクイエム』と同時期の心理状態によるものと思われる。
※『チェロ・ソナタ』ロストロポーヴィチ演奏 https://www.youtube.com/watch?v=40jR8hGXpN4 (26分33秒)こういうチェロ・ソナタがあってもいい

1962年(49歳)、5月30日『戦争レクイエム』がブリテン自身の指揮、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バス)、ピーター・ピアーズ(テノール)他のソロ、バーミンガム市立交響楽団によって落成した教会の献堂式で初演された。ラテン語の式文とオーウェンの英語詩の融合を見事に成し遂げたブリテンに対し、人々は万雷の拍手を送った。同年10月に「キューバ危機」が起き世界は第三次世界大戦の手前に立っており、そのような時代に重要な意味を持つ楽曲となった。ショスタコーヴィチは「20世紀の最高傑作」と讃え、この年にユダヤ人虐殺やスターリン粛清をテーマにした『交響曲第13番バビ・ヤール』を書きあげている。
1964年(51歳)、日本で鑑賞した能楽『隅田川』の物語を中世イングランドに置き換えたオペラ『カーリュー・リヴァー』を作曲。ブリテンは『隅田川』で感銘を受けた情熱を保った遅い動き、華麗な衣裳、溶け合う歌と語りを、この作品でオペラ化した。『隅田川』の狂女はテノールとされ、初演でピアーズが歌った。
1966年(53歳)、オペラ『火の燃える炉』を作曲。
1967年(54歳)、英国で同性愛が法的に認められる。それまでは逮捕、懲役刑だった。
1968年(55歳)、オペラ『放蕩息子』を作曲。
1970年(57歳)、再度ジェームズの小説をとりあげたオペラ『オーエン・ウィングレーブ』を作曲。
1973年(60歳)、ドイツの作家トーマス・マンの同名小説にもとづく最後のオペラ『ベニスに死す』を作曲。同年、心臓の手術を行い、以降は車椅子の生活になる。
1975年(62歳)、『弦楽四重奏曲第3番』を作曲。
1976年、エリザベス女王によって終身上院議員(貴族)の称号「ロード・ブリテン・オブ・オールドバラ」を授与され、音楽家としては初めて貴族に列せられた。同年12月4日、オールドバラの我が家レッド・ハウスにて心不全により63歳で他界。3日後に葬儀が行われ、同地の聖ペテロ聖パウロ教会の墓地に埋葬された。
1978年、ピアーズがナイトに叙される。
1986年、ブリテンの没後10年、ピアーズが75歳で他界。ブリテンの隣りに葬られた。
1990年、大指揮者バーンスタインが最後の舞台でブリテン『4つの海の間奏曲』とベートーヴェン『交響曲第7番』を演奏。
2003年、ブリテンが好んで散歩したオールドバラの海岸に、彼を記念したホタテ貝の彫刻"The Scallop"が作られた。

第二次世界大戦後に発表した15作のオペラにより「20世紀最大のオペラ作曲家」と讃えられるベンジャミン・ブリテン。前衛的方向へは進まず、簡潔で抒情的な楽曲を得意とし、洗練された響きで現代感覚あふれる作品を書いた。一方で、ときには複雑でドラマチックな無調音楽も効果的に使う柔軟性も見せる。生涯に作曲した110曲あまりの作品のうち約70曲が人間の声を含み、本質的には声楽曲の人。晩年のオペラには、わずか12人の伴奏で編成される小オーケストラをもちいた作品があり、ブリテンはこれを室内オペラと呼んだ。戦争に反対する立場を明確にした作曲家であった。
オールドバラでは今でも毎年6月になると約2週間にわたって音楽祭が開催され、演奏内容の質の高さで音楽ファンを惹き付けている。

〔墓巡礼〕
ブリテンが終焉の地に選んだイギリス東海岸のオールドバラは、人口が3千人にも満たない漁村。鉄道で行けないため、僕はロンドンからレンタカーで約3時間かけて北東に向かった。ロンドン近辺の渋滞を避けるため、朝3時に出発。ガイドブックにも載っていない田舎町で、本当に彼の墓前にたどり着けるか分からなかったけれど、オールドバラに入ると町は沿岸から1kmほどしかないうえ、中央付近に目的地の聖ペテロ聖パウロ教会があったことから、すぐにこの教会を見つけられた。ロンドンなど大都会の教会墓地は開門時間があるけれど、地方に行くといつでも出入りが可能だったので、朝6時から墓地に入って行った。「こんな早朝じゃ誰もいないだろうし、ブリテンのお墓をこの中から見つけられるだろうか」、そう不安に思っていたら、ブリテンのお墓の方向を教えてくれる矢印つきの案内板が立っていた。お陰でほぼ迷わず墓前に到着。右隣には仕事と私生活のパートナーだったテノール歌手ピーター・ピアーズの墓が並んでおり、両者のすぐ背後にはブリテンを尊敬してオールドパラ音楽祭の芸術監督となったイモージェン・ホルスト(組曲『惑星』で有名な作曲家ホルストの娘さん※ブリテンの方が6歳年下)の墓石が建つ。墓地の100m先は北海だ。
墓前の僕は『戦争レクイエム』に込めたブリテンの平和を切実に希求する思い、そして彼のオペラで見られる社会から爪弾きにされた登場人物に寄り添う彼の眼差しに、深く感動したことを伝えた。それと同時に、ブリテンとピーター・ピアーズの墓が並んでいる様子にも、猛烈に胸を打たれた。ブリテンが21歳のときに出会って以来、今より同性愛者に厳しい偏見が向けられていた時代を2人して40年近く生き抜き、こうして漁村の静かな墓地で同じ大きさのお墓に肩を並べて入っている…胸が熱くなる光景だった。



★アルベルト・ヒナステラ/Alberto Ginastera 1916.4.11-1983.6.25 (スイス、ジュネーブ 67歳)2015
Cimetiere des Rois, Geneva, Geneve, Switzerland/Plot: Section D, Grave 398

南米を代表する作曲家 左がヒナステラ、右がアンセルメ

ブラジルのビラ・ロボス、メキシコのチャベスと並ぶ20世紀を代表する南米の作曲家の1人。アルゼンチン、ブエノスアイレス生まれ。ブエノス・アイレスの音楽院や米国にてアーロン・コープランドに学ぶ。オペラやバレエ音楽、ハープ協奏曲など各種協奏曲を作曲。
1941年(25歳)、民族色の濃いバレエ音楽『エスタンシア(農場)』を作曲し、原野のガウチョ(カウボーイ)の生活や、農村に住む人々を描いた。のちに編曲した管弦楽組曲版『エスタンシア』はヒナステラの代表作となった。
1952年(36歳)、『ピアノ協奏曲第1番』を作曲。本作はプログレッシブ・ロックのEL&Pが後に編曲し『トッカータ』として発表。
後年、ヨーロッパに移住しジュネーヴで没。享年67。弟子にタンゴ音楽のアストル・ピアソラ。ヒナステラは特定の音楽的パターンを何度も繰り返す“オスティナート”や変拍子を好み、簡潔で明るくエネルギッシュな作風を特徴とする。



★マヌエル・デ・ファリャ/Manuel de Falla Manuel de Falla 1876.11.23-1946.11.14(スペイン、カディス 69歳)2018
Cathedral de Cadiz, Cadiz, Provincia de Cadiz, Andalucia, Spain

  

クラシック音楽の歴史において、スペインを題材にした作品は19世紀中頃から外国人の手で書かれてきた。
1845年、ロシアのグリンカが『スペイン序曲』を作曲。https://www.youtube.com/watch?v=lFKYnQ8rVZc
1858年、ハンガリーのリストが『スペイン狂詩曲』を作曲。※若きキーシンの超絶技巧が炸裂 https://www.youtube.com/watch?v=Pf12I4w3IxE
1874年、フランスのラロが『スペイン交響曲』を作曲。https://www.youtube.com/watch?v=wSmsDVxMl0g
1875年、フランスのビゼーが歌劇『カルメン』を初演。https://www.youtube.com/watch?v=u_fh84Iqetc
1887年、ロシアのリムスキー=コルサコフが『スペイン奇想曲』を作曲。https://www.youtube.com/watch?v=AuLM4x9ZoxU

そのような音楽的状況のなか、後にスペイン民族主義音楽の頂点を極めた作曲家マヌエル・デ・ファリャは、1876年11月23日、スペイン南部の港町カディスで生まれた。世代的にはラフマニノフ、シェーンベルク、ラヴェルと近い。カディスは古くから交易で栄えてきたスペイン最古の街で、ヨーロッパとイスラムの文化が混ざっていた。ファリャは幼少期からピアニストの母から音楽の手ほどきをうけ、マドリード音楽院に進むとピアノ部門で一等賞に輝いた。
ファリャが作曲を学んだ音楽教師フェリペ・ペドレルは「作曲は自国の民俗音楽を基礎とすべき」との信念を持っている国民楽派で、これまでにファリャの16歳年上のアルベニス(1860-1909)、9歳年上のグラナドス(1867-1916)を教えてきた。ファリャも先輩と同様ペドレルに感化され、民族色豊かな旋律を生み出していく。ファリャはスペイン民謡をそのまま導入せず、その精神面を作品に反映させた。

1896年(20歳)、ピアノ曲『夜想曲』を作曲。https://www.youtube.com/watch?v=_dnLfUe-ykc(5分)
1900年(24歳)、ピアノ曲『アンダルシアのセレナータ』を作曲。https://www.youtube.com/watch?v=UdKYU-x0j_g(5分49秒)
1902年(26歳)、ピアノ曲『演奏会用アレグロ』を作曲。https://www.youtube.com/watch?v=botluh0yhxA(9分17秒)
1903年(27歳)、フランスでドビュッシー(当時41歳)がピアノ曲集『版画』を作曲、印象主義音楽のピアノ曲の書法を確立する。その中の第2曲「グラナダの夕べ(Soiree dans Grenade)」について、ファリャは
「1小節たりともスペイン民謡からは借用されていないにもかかわらず、作品全体が、ほとんどの細部において、スペインを見事に描き切っている」と感嘆した。
※ドビュッシー『グラナダの夕べ』 https://www.youtube.com/watch?v=st32Fb27yNc(5分34秒)

1905年(29歳)、前年から作曲していたオペラ『はかなき人生』が完成。同作がサン・フェルナンド王立アカデミーの歌劇賞最高賞に輝き、作曲家として認知される。2年間、マドリードで音楽を教えて生計をたてた。
1907年(31歳)、7年に及ぶパリ留学がスタート。このパリ滞在はその後の作曲家人生に決定的な影響を与えた。いち早くファリャの楽才に気づいたポール・デュカス(当時42歳/1865-1935)はファリャをスペイン出身のアルベニスに紹介。1歳年上のラヴェル(1875-1937)とも知り合い、憧れていた14歳年上のドビュッシー(1862-1918)とも親交を結ぶ。才能あるフランス人作曲家との交流を通して、最新の印象主義の作曲法を身に付けた。
同年、先輩アルベニスが最高傑作となるピアノ組曲『イベリア』全4集を完成させる(出版は翌年)。

1908年(32歳)、ドビュッシーが管弦楽曲『管弦楽のための“映像”』の第2曲「イベリア(Iberia)」を作曲。ドビュッシーは先のピアノ曲「グラナダの夕べ」とこの作品でスペインを完璧に表現した。同年、スペイン系の母親を持つラヴェル(当時31歳)が最初の管弦楽曲となる『スペイン狂詩曲』を作曲、初演。ファリャは同作の第2曲「マラゲーニャ」を絶賛した。
※ドビュッシー『イベリア』 https://www.youtube.com/watch?v=8v0LGIuhOsU (19分)
※ラヴェル『スペイン狂詩曲』 https://www.youtube.com/watch?v=V05SOFNCwl0
(15分)第3曲「ハバネラ」がドビュッシー「グラナダの夕べ」と似ているが、「ハバネラ」の方が独立して先に作曲されている。

1909年(33歳)、ファリャは作曲家となったものの収入は少なく、生活の為に大衆音楽を書いていた。外国の作曲家がスペインの民族音楽を題材に曲を作り成功しているのを見て、ファリャは「スペイン人の手で傑作を生み出さねば」と気持ちが焦る。
そしてピアノと管弦楽のための『スペインの庭の夜』の作曲に着手した。同年、近代スペイン音楽を開拓したアルベニスが他界。享年48歳。
1913年(37歳)、8年前に完成していたオペラ『はかなき人生』がニース・オペラ座にて仏語で初演される。『はかなき人生』は色男に二股を掛けられたヒロインが、相手の結婚式に乗り込み、悲しみのショックで死ぬというもの。フラメンコの歌や群舞、カスタネットの響きなどスペインの香りに満ちている。
1914年(38歳)、7月28日に第一次世界大戦が勃発したため、7年に及ぶパリ留学を切り上げ9月に帰国した。帰国後、ジプシー民謡にもとづく歌曲集『7つのスペイン民謡』を作曲。マドリードで『はかなき人生』のスペイン語版が初演される。
この年、当時のフラメンコの第一人者パストーラ・インペリオから作曲の依頼があり、ファリャはアンダルシアのロマ(ジプシー)が奏でる、魂を燃え尽くすような音楽をベースに『恋は魔術師』の作曲を始める。
同年、グラナドスが自身の代表曲となるピアノ組曲『ゴエスカス(ゴヤ風の音楽)』を完成させる。

1915年(39歳)、バレエ音楽『恋は魔術師』が完成し、マドリッドで初演され喝采を受ける。スペイン南部アンダルシア地方の民族音楽フラメンコと管弦楽が融合した新しい音楽。伝統的な民謡のリズムや旋律を発展させたスペイン色の強い作品だ。
ストーリーは、死んだ女好きの夫の亡霊にとりつかれたロマ(ジプシー)の娘カンデラと、新たな恋人カルメロの恋愛を描く。カンデラとカルメロが愛を育もうとすると、嫉妬した亡霊が現れて2人の邪魔をする。2人はカンデラの親友で美女のルシーアに頼んで亡霊を誘惑してもらい、亡霊がルシーアを追っかけている間に誓いの接吻を交わし、愛のパワーで亡霊は消滅する。亡霊になっても妻以外の美女を追っかけるところが何ともスペイン的(笑)。除霊の儀式である第8曲「火祭りの踊り」は曲調に熱さと暗さが同居し、特に知られている。フラメンコにギターは欠かせない楽器だが、オーケストラの中ではギターの音は小さいため、ファリャは音量の大きなピアノに“隠し味”としてギターの役割を与えた。ギターの開放弦6本の音「ミ、ラ、レ、ソ、シ、ミ」と、ほぼ同じ「ミ、ラ、レ、ソ、ド、ミ」をピアノがリズムとして刻むことで、管弦楽にフラメンコ的躍動感を与えた。『恋は魔術師』は、ロマの伝統フラメンコを取り入れることに成功した民族色豊かなバレエとなった。同年、6年越しで『スペインの庭の夜』を完成させる。
※『恋は魔術師〜火祭りの踊り』フリューベック・デ・ブルゴス指揮の決定版!
https://www.youtube.com/watch?v=HpMfVvt5UbI#t=9m01s
※バレエ映像付『恋は魔術師』
https://www.youtube.com/watch?v=EZ2BKy53F3w&list=PLz0nag-mOtXc7Ltq_MBY7Yog7_gknLiDG
※『恋は魔術師〜火祭りの踊り』カルロス・サウラ監督の映画から
https://www.youtube.com/watch?v=Ftd8tIdiYq4 (4分)

1916年(40歳)、ピアノとオーケストラのための交響的印象『スペインの庭の夜』をマドリードで初演。「ヘネラリーフェにて」「はるかな踊り」「コルドバの山の庭にて」で構成され、ピアノ協奏曲の趣もある。少し気だるい幻想的な曲想は、ドビュッシーやラヴェルを思わせる。この年、同胞のグラナドスが第一次世界大戦の犠牲になる。享年48歳。
※『スペインの庭の夜』アリシア・デ・ラローチャの動画、映像も素晴らしいhttps://www.youtube.com/watch?v=bGjFFFbd0gY (26分)
1917年(41歳)、バレエ『三角帽子』の原型となるパントマイム劇『代官と粉屋の女房』を作曲、マドリードで上演される。
1918年(42歳)、親交を結んでいたドビュッシーが55歳で他界。11月11日、第一次世界大戦が終結。
1919年(43歳)、ロシア・バレエ団を主宰するディアギレフの要請で『代官と粉屋の女房』を改作、バレエ音楽『三角帽子(El sombrero de tres picos)』を作曲した。同年ロンドンで初演
され成功を収める。原作はペドロ・A・デ・アラルコンがアンダルシアの民話を元にした小説『三角帽子』。題名は登場人物の悪代官が被る帽子が由来。歌心のある旋律や高揚感のあるカスタネットのリズム、魅力的なフラメンコの踊りもあって公演は大成功し、振付・主役のレオニード・マシーンと、舞台装置や衣装を手掛けたパブロ・ピカソ(38歳/1881-1973)も高く評価された。ちなみに、アメリカ初演時の舞台・衣装はダリが担当している。

『三角帽子』→物語の舞台は19世紀の南部アンダルシア、町外れの水車小屋。働き者の粉屋ルーカスは、美しい妻フラスキータと暮らしている。ある日、見回りに来た好色な代官が妻を見初め、手を出そうとする。妻はダンスで代官をからかい、目が回って倒れ込んだ代官を、粉屋はホコリを払う振りをして殴った。諦めきれない代官は、村祭りの日に無実の罪で粉屋を逮捕する(ベートーヴェンの「運命」が流れる)。日が暮れて妻が1人で泣いていると代官が口説きに訪れ、足を滑らし水車小屋の前の川に落ちる。妻は夫を助けるため牢屋に向かい、代官は濡れた服を脱いで干し、寒いので粉屋のベッドに潜り込む。そこへ妻と入れ違いで牢屋から逃げ出してきた粉屋が帰宅、代官の服を見て妻が寝取られたと勘違いし、「代官に復讐しに行く」と置き手紙を書き家を飛び出す。手紙を見つけた代官が慌てて帰宅しようとするが、そこへ逃亡した粉屋を追ってきた警官がやってくる。代官は粉屋の服を着ていたために、人間違いでボコボコにされ逮捕・連行される。粉屋が帰宅すると、村人は粉屋の夫婦を祝福し、夜通しで踊り明かした。フィナーレの音楽「ホタ」は名高い。
※バレエ組曲『三角帽子』こちらもフリューベック・デ・ブルゴス指揮で!https://www.youtube.com/watch?v=78cfToEWqvs (39分)
※『三角帽子』バレエ映像付、フィナーレのカスタネット最高!https://www.youtube.com/watch?v=e_kGIPwdneY#t=35m32s

同年、スペインへ演奏旅行に来ていたアルトゥール・ルービンシュタインの委嘱を受け、ピアノ独奏曲『ベティカ(アンダルシア)幻想曲』を作曲。本作はアルベニス、グラナドス以降の最も優れたスペイン・ピアノ音楽とされる。ギターをかき鳴らすようなピアノの奏法、フラメンコのリズムが多用され、非常に演奏効果の高い作品。
※『ベティカ(アンダルシア)幻想曲』https://www.youtube.com/watch?v=P-jzN-eK17s (12分39秒)
1920年(44歳)、ファリャ唯一のギター曲『クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための讃歌』を作曲。ファリャはドビュッシーから「スペインの作曲家として成功したいならギター曲はつくるな」とアドバイスを受けていた。民族楽器で気を惹かず、バッハ、ベートーヴェンと同じ土俵で戦えということだろう。ファリャは最大限の敬意を込めて、スペイン人の言葉であるギターの音色で追悼した。曲の最後でドビュッシーのピアノ曲『版画』第2曲「グラナダの夕べ」の旋律を引用し、弔意を表している。
※『クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための讃歌』https://www.youtube.com/watch?v=DuY6ML3OzlA (4分)
1921年(45歳)、グラナダに移住し18年間を過ごす。
1922年(46歳)、パリのポリニャック公爵夫人の委嘱で、『ドン・キホーテ』のエピソード(第2部26章)を人形劇化した室内オペラ『ペドロ親方の人形芝居』を作曲、翌年ポリニャック侯爵邸にて初演される。このオペラでは18世紀以降忘れ去られていた楽器クラヴサン(チェンバロ)を、初めて現代のオーケストラで使用した。物語の舞台は中世のラ・マンチャ(アラゴン)。宿屋の馬小屋では人形劇が上演される。内容は、騎士ドン・ガイフェロスがモーロ人(ムーア人※北アフリカのイスラム教徒)に捕えられた愛妻メリセンドラを助け出すというもの。客席のドン・キホーテは、芝居に感情移入するあまり登場人物の一人になってしまい、追手が主人公に迫るクライマックスで剣を抜いてステージに乱入し、敵の人形を次々と討ち取っていく。 そし
て「ご安心を。追手は全て片付
けましたぞ。我こそはドン・キホーテなり!」「これが騎士道」と、崩壊したステージで得意気に振る舞うのであった。
※『ペドロ親方の人形芝居』 https://www.youtube.com/watch?v=7cuUvzKzqsY (28分)
1926年(50歳)、天才チェンバロ奏者ワンダ・ランドフスカとの交流を通して『ハープシコード(クラヴサン)協奏曲』を作曲。第一次世界大戦後、古い曲は古楽器で演奏する運動が盛んになり、ポーランドのランドフスカは古い曲の演奏だけでは満足せず、現代作曲家たちに依頼して多くのチェンバロ曲を書かせた。彼女はスペイン旅行でファリャと会い、それをきっかけに本作が生まれる。作曲家ストラヴィンスキーが1921年から始めた新古典主義路線もこの運動を後押しした。
※『ハープシコード(クラヴサン)協奏曲』全3楽章https://www.youtube.com/watch?v=6UBTlXfUsSk (12分)
1936年(60歳)、スペイン内戦が勃発。グラナダの親友、リベラルな詩人ガルシア・ロルカ(1898-1936)が反乱軍ファシストに銃殺され(享年38歳)、ファリャは大きな衝撃を受ける。
1938年(62歳)、管弦楽曲『4つの賛歌』を作曲。「ファンファーレ(作曲家アルボース賛歌)」「ドビュッシーの墓に捧げる賛歌」「ポール・デュカスの墓に捧げる賛歌」「ペドレリアーナ(恩師ペドレル賛歌)」で構成。
※『4つの賛歌』 https://www.youtube.com/watch?v=dgW7Vh09kn4
1939年(63歳)、スペイン内乱後に独裁者フランコが政権を握ったことから、反ファシズムのファリャは愛する祖国を離れアルゼンチンに亡命する。3年前の親友ロルカの死もこの決意を後押しした。フランコ政権からはたびたび帰国要請があったが、彼は終生拒否し続けた。
1946年11月14日、アルゼンチン中部の古都コルドバ郊外で他界し同地に埋葬された。享年69歳。生涯独身、70歳の誕生日まであと9日だった。20年前から作曲に取り組んでいた民族叙事詩をもとにした大規模カンタータ『アトランティーダ』は未完成に終わったが、没後に弟子エルネスト・ハルフテルが補筆し発表された。
※『アトランティーダ』 https://www.youtube.com/watch?v=KKzJ9ZH0-ag (80分)
翌1947年、独裁者フランコによってファリャの遺体はアルゼンチンからスペインへ戻され、国葬が執り行われた。その後、カディス大聖堂の地下礼拝堂へ埋葬された。

スペイン国民楽派のベトレルの門下からアルベニスとグラナドスが出て、約10年遅れてファリャが現れ、西洋音楽史にスペイン音楽というページが生まれた。アルベニス、グラナドスは主にピアノ曲でスペイン音楽を確立したが、ファリャはスペインでは不毛だった管弦楽曲、室内楽曲の基礎を築いた。情熱ほとばしる南国的なリズムと、繊細な印象主義の両方がバランスよく混在した作品を書いた。

〔墓巡礼〕
スペイン最古の街、そして欧州で最も古い町と伝わるカディスは、南部の港湾都市として紀元前10世紀から発展してきた。美しいビーチでも知られる。初期はカルタゴ、ローマ、西ゴートと支配者が変わり、8世紀からは700年以上もイスラム勢力の支配下にあった。その後キリスト教圏となり、コロンブスはカディス港から出航している。長い歴史の中で自由な風土が育まれ、ファリャやフランコ・ギタリストのパコ・デ・ルシアがここで生まれた。ファリャは世界遺産に指定されているカディス大聖堂のクリプト(地下礼拝堂)に眠っている。階段を降りていくと少しひんやりしており外の暑さを忘れる。ファリャの墓はクリプトの奥の方にあった。母国スペインを誰よりも愛し、音楽で郷土を余すところなく表現したファリャが、反ファシズムの思いから国を去るのはどんなに辛かっただろう。独裁者への怒り、民主主義の重視、その行動からファリャの信念が伝わってくる。自由のために戦った音楽家に心から敬意を表した。

※ファリャがシェイクスピア『オセロ』の劇付随音楽を書いているが、残念ながら楽譜は紛失。もったいない…!
※かつてスペインの100ペセタ紙幣にファリャの肖像が使用されていた。



★イサーク・アルベニス/Albeniz 1860-1909(1860.5.29-1909.5.18 48歳)2014
Cementiri de Montjuic, Barcelona, Provincia de Barcelona, Cataluna, Spain

  

7歳年下のグラナドス、16歳年下のファリャと共にスペイン国民主義の音楽を完成させたスペインの代表的作曲家イサーク・アルベニスは、1860年5月29日にカタルニャ地方カンプロドンに生まれた。マーラー(1860-1911)と同い年で、ドビュッシー(1862-1918)の2歳年上。幼少からピアノの天才児として知られ、わずか4歳で公開のピアノ演奏を行い、6歳でパリで学び、7歳でマドリード音楽院に進んだ。
1874年(14歳)、ライプチヒ音楽院に学ぶ。
1875年(15歳)から3年間をベルギーのブリュッセル音楽院に学ぶ(エンカルタ総合大百科)。※ウィキには「1876年から」になっている。
1878年(18歳)、ブダペストでハンガリーの大ピアニスト・作曲家のリスト(当時67歳/1811-1886)に師事する念願がかなう(「ブリタニカ国際大百科事典」「エンカルタ総合大百科」)。※リストへの師事は1880年説あり。
1880年(20歳)、ブダペストを訪れリストに師事(2度目?)しようとしたが、当時リストはドイツのヴァイマルに滞在し会えなかった…とウィキペディアには書いてあるが、何かおかしい。NHK『ららら♪クラシック』は20歳(1880年)でリストと会って才能を認められたとしている。っていうか、百科事典にはこの2年前の「1878年リストに師事」となっている。なんのこっちゃ!とにもかくにも、20歳でピアノの名手として欧米にその名を知られたのは事実。

1883年(23歳)、スペインの国民音楽(スペイン国民楽派)の指導者、作曲家・音楽教師のフェリペ・ペドレルに師事し、熱心に学ぶ。同年、弟子のロジーナ・ホルダーナと結婚、一男二女を授かる。
1885年(25歳)、マドリードで本格的な作曲活動に入る。当時、スペインを題材にした音楽は、ロシア人グリンカの『スペイン序曲』、ハンガリー人リストの『スペイン狂詩曲』、フランス人ラロの『スペイン交響曲』、同じくフランス人ビゼーの歌劇『カルメン』など、外国人の手によるものばかりだった。アルベニスは師ペドレルの影響もあり「スペイン人の手で世界に通用するスペイン音楽を! 」と一念発起、フラメンコなど民族音楽の形式と精神をベースに、スペインの風景や民謡を題材にした曲を書くようになる。
1886年(26歳)、ピアノ曲集『スペイン組曲』(作品47)を作曲。「グラナダ」「カタルーニャ」「セビーリャ」「カディス」「アストゥリアス」「アラゴン」「カスティーリャ」「キューバ(※1898年までスペイン領)」の全8曲で構成。第1曲「グラナダ」はギターのようなアルペッジョ(分散和音)と、フラメンコ風のメロディが特徴で人気が近い。アルベニスは「狂おしいほどにロマンティックで、絶望的なほどに哀しいセレナード」と語っている。活気のある第3番「セビーリャ」は広く愛され、第5曲「アストゥリアス(伝説)」も天才ギター奏者セゴビアがギター用に編曲して有名に。ただし、この時点で実際に作曲したのは第1〜3曲と第8曲の4曲のみで、他の4曲はタイトルだけが残っていた。没後、楽譜出版にあたり出版社が『スペインの歌』などから曲名を変えて取り入れている。
※『スペイン組曲』 https://www.youtube.com/watch?v=pssZnVi_h2I (35分)

1887年(27歳)、スペイン・マラガの民謡などに着想を得たピアノ曲『旅の思い出』全7曲を作曲。第6曲「入り江のざわめき」が有名。
1890年ごろ(30歳)、6つのピアノ小品からなる組曲『エスパーニャ(スペイン)』(作品164)を作曲。「前奏曲」「タンゴ」「マラゲーニャ」「セレナータ」「カタロニア奇想曲」「ソルツィーコ」で構成。
※1886年に『スペイン組曲(Suite Espanola)』があり、当年に『組曲スペイン(Espana エスパーニャ)』があるため僕は大混乱!名前が似過ぎている。
※『タンゴ』 https://www.youtube.com/watch?v=oQEqSw0mo50
1891年(31歳)、ピアノ曲『舟歌』を作曲。
※『舟歌』 https://www.youtube.com/watch?v=G7T6x5-7ze0
1892年(32歳)、パリに暮らし、フランスの作曲家フォーレ、デュカスらと親交を重ね、新たな和声や楽曲構成を研究する。
1896年(36歳)、神学生でありながら女性への恋に揺れる主人公の葛藤を描いたオペラ『ペピータ・ヒメネス』を作曲。同年、アンダルシアの古都コルドバとセビリャに旅行し、その印象を組曲『スペインの歌』として描く。
※『ペピータ・ヒメネス』 https://www.youtube.com/watch?v=NDZ2RnaCmu8
1897年(37歳)、組曲『スペインの歌』を出版。「前奏曲(スペイン組曲の「アストゥリアス」と同じ)」「オリエンタル」「椰子の木陰で」「コルドバ」「セギディーリャ」の5曲で構成。スペイン情緒に満ちた「コルドバ」、リズミカルな「セギディーリャ」は人気が高い。後に「プレリュード」「コルドバ」はギター用に編曲された。
1900年(40歳)、腎臓病を発症。
1903年(43歳)、3テイクの即興演奏を録音する。

1905年(45歳)、病による寿命を予感したアルベニスは、愛する祖国の各土地を音楽で表現しようと、代表曲となる4集12曲のピアノ組曲『イベリア』の作曲を開始。超絶技巧を必要とし、イベリア各地を彷彿させる曲想となった。同年『イベリア』第1集が完成する。1曲目は「エボカシオン」で始まる。エボカシオンはスペイン語で「魂を呼び戻す」という意味であり、懐かしき旧いスペインの魂を招く“霊の呼び寄せ”が行われている。2曲目はスペイン最古の町カディスを表現。3曲目はスペイン最大の聖堂で知られるセビリャ。
1906年(46歳)、『イベリア』の第2集と第3集が完成。第2集の第2曲「アルメリア」は『イベリア』で最長の約9分。第3集第1曲「エル・アルバイシン」はグラナダのジプシー居住地の名前。リズムと歌心が劇的に調和していおり、ドビュッシーは「『アルバイシン』に匹敵しうる楽曲は、世の中にわずかしかない」と絶賛した。第3曲『ラバピエス』はマドリッドの地区名であり、『イベリア』屈指の難曲。
1907年(47歳)、病身をおして書き続けた『イベリア』の第4集が完成。第3曲「エリターニャ」はセビリャ郊外の料亭の名前。セビリャの祭りの舞曲が洗練された転調とリズム変化により、幸福感に満ちたきらびやかな音の絵巻になっている。アルベニス「『イベリア』はとても難しい曲ではあるが、素晴らしい作品になったと思う。これ以上のものはかけない」。
※組曲『イベリア』 https://www.youtube.com/watch?v=ShXNe4kc6M8 (84分)
同年、ピアノ曲『ナバーラ』を作曲。華麗さと雄大さから後のピアニストがコンサートのアンコール用に好んだ。
※『ナバーラ』 https://www.youtube.com/watch?v=uw7D68i4vXE (5分24秒)
1908年(48歳)、『イベリア』が3曲1組で4巻に分けて出版される。この全12曲はスペイン音楽の範ちゅうを超え、古今のピアノ作品の金字塔となった。アルベニスの最高傑作であり、ドビュッシーや15歳年下のラヴェル(1875-1937)も絶賛した。ドビュッシー「音楽がかつてこれほどまでに多彩な印象を生み出し得たことはなかった。あまりに多くの映像を見過ぎて、くらんだ眼を閉じねばならぬほどだ」。後に親友でもあった8歳年上のタレガ(1852-1909)がギター用に編曲した。一方、後年に名ピアニストのリヒテルをして「難曲すぎる」と習得を断念せしめるほどの作品となった。
1909年5月18日、『イベリア』発表の翌年、フランスのピレネー山中の温泉保養地カンボに転地で訪れ、心臓病のため現地で他界。誕生日を11日後に控えた48歳の短い生涯だった。亡骸はバルセロナのモンジュイック墓地に埋葬された。
1967年、行方不明になっていた『ピアノ協奏曲イ短調“幻想的協奏曲”』の楽譜が発見される。
※『ピアノ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=RsnsthbZOR8 (30分)美麗メロディーの連続であり、100年後に高い評価を受けているだろう。
※『ピアノ協奏曲』第一楽章の聴きどころhttps://www.youtube.com/watch?v=RsnsthbZOR8#t=5m13s

〔墓巡礼〕
スペイン民俗音楽の精神を込めたピアノ曲で国民的作曲家となったアルベニス。スペインの著名人は、バルセロナ市街の南側にあり。海が見えるモンジュイックの丘に作られた「Cementiri de Montjuic(モンジュイック墓地)」を墓所に選ぶ人が多い。街からは丘の裏側にあり、街の中心部から海岸に沿って3km南下した場所になる。初めてこの墓地を訪れたのは2005年。夏のバルセロナはとても暑く、旅の疲れもあってモウロウとしていた僕は、墓地の最寄りのバス停で下車した際に、財布とカメラが入ったウエストポーチを座席に忘れるという大失敗をしてしまった。スペインの交通機関ではスリに注意せよとガイドブックに書かれているのに、僕は自らポーチを丸ごと置いてくるという痛恨のミス。茫然自失となったが、とにかく同じバス停で後続のバスを待った。そして運転手さんに「一本前のバスにポーチを忘れた」と泣きついた。すると、その運転手さんは無線で連絡してくれ、終点にいるバスに僕のポーチがあったと教えてくれた!いわく「逆方向で向かってくるバスが君のポーチを持って来るから、このバス停で待っていろ」。「はい!わかりましたぁあああ!」。待つこと30分、バスが到着し、サングラスをかけた運転手さんが「よかったな!日本人!」とポーチを渡してくれた。財布もカメラもすべて無事だった。わーん!本当にありがとう!一気にスペインが大好きになった。ビバ・エスパーニャ!
この出来事を経て、念願の墓地の門をくぐった。丘の斜面を使った超巨大墓地であり、自力で目的の墓を探し出すのは不可能。画家ミロや作曲家モンポウ、五輪のサマランチ会長もここに墓があり、事務所で地図を書いてもらった。その時、「中央のエスカレーターを使え」と言われ、“エスカレーターがあるなら丘もラクチンだ!最高!”と事務所を飛び出した。だがしかし!どうしてもエスカレーターが見つからず、仕方なく事務所に戻った。「エスカレーターがないんですが…」「おいおい、大きなエスカレーターがあるだろ」「見つけられないんです(涙)」「そこまで一緒に行ってやる」。事務所を出て少し歩き、管理人が正面の“階段”を指差し「目の前にあるじゃないか、“エスカレーラス”」。僕はひとつ、賢くなった。スペイン語の階段はエスカレーラスで、エスカレーターと似ている(汗)。丘の斜面をどんどん登り、8区の西端付近にアルベニスの墓を見つけた。長い、実に長い道のりだった。日本にいながらにして、音楽を聴けばスペインに行けたアルベニスの楽曲。素敵な音楽体験をありがとう!

※A.ルビンシテインと欧米を演奏旅行し、国際的に名声を博す。
※第6代フランス大統領ニコラ・サルコジのセシリア夫人はアルベニスの曾孫。



★サラサーテ/Pablo Sarasate 1844.3.10-1908.9.20 (スペイン、パンプローナ 64歳)2018
Cementerio de San Jose, Pamplona(パンプローナ), Provincia de Navarra, Navarra, Spain//Plot: Mausoleum

 

スペインの天才バイオリニストで作曲家のパブロ・デ・サラサーテは、1844年3月10日にスペイン北部パンプローナで生まれた。バスク人。本名パブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス。世代的にはサラサーテより4歳年上のチャイコフスキー、3歳年上のドヴォルジャーク、1歳年上のグリーグ、同い年のリムスキー・コルサコフ、1歳年下のフォーレと近い。父は軍楽隊の楽長。
父の指導により5歳でバイオリンをはじめ、8歳で演奏会を開くほどの神童で、10歳のときにスペイン女王イサベル2世の前で腕前を披露し、褒美にストラディバリウスを授与された。完璧なテクニックと美しく澄み渡る音色で知られた。
1856年、12歳でパリ国立音楽院に入学。13歳で早くもヴァイオリン科の一等賞に輝く。卒業後、生涯のほとんどを演奏旅行にささげ、ヨーロッパ、南北アメリカ大陸、東洋諸国などで公演し大成功を収める。演奏は魔術師的な色彩を帯び、パガニーニを彷彿させたという。
1863年、19歳の若きサラサーテのために、作曲家サン=サーンス(当時28歳/1835-1921)が名曲『序奏とロンド・カプリッチオーソ』を完成させる。
1864年(20歳)、サン=サーンスから献呈された『序奏とロンド・カプリッチオーソ』を、サラサーテの独奏、サン=サーンスの指揮で初演し大成功を収める。
※『序奏とロンド・カプリッチオーソ』https://www.youtube.com/watch?v=Q0ajM7aL-Vc
1865年(21歳)、サン=サーンスと演奏旅行。2人はウマが合った。
1867年(23歳)、この頃から作曲を開始。生涯に約60曲を書き、多くが独奏ヴァイオリンとピアノのための作品だが、オーケストラ伴奏の曲も20曲ある。
1874年(30歳)、この年、6歳年上の作曲家ビゼー(1838-1875)がオペラ『カルメン』を完成させる。
1875年(31歳)、フランスの作曲家E.ラロ(52歳/1823〜1892)から、前年に完成した『スペイン交響曲』を献呈され、サラサーテが初演する。同年、ビゼーが36歳の若さで病没する。
1878年(34歳)、ロマ(ジプシー)のメロディを表現した管弦楽伴奏付きのヴァイオリン独奏曲『ツィゴイネルワイゼン』を作曲し、自らの代表的レパートリーとした。題名は「ロマの旋律」という意味。同年、『スペイン舞曲集』(後年の追加分も含めて全8曲)を作曲。うち、第3番「アンダルシアのロマンス」と第6番「サパテアード」が人気を博す。
※『ツィゴイネルワイゼン』ハイフェッツ演奏の名盤https://www.youtube.com/watch?v=s3fOywg5eH8 (9分)
※『ツィゴイネルワイゼン』僕の好みは35歳で他界した米マイケル・レビン(1936-1972)の演奏 https://www.youtube.com/watch?v=bhyzk6Ty-Ms
1879年(35歳)、サラサーテは「ナヴァール交響楽団」を創設。同楽団は現存し、スペインで最も長い歴史を持つオーケストラとなっている。
ラロの他にも複数の作曲家がサラサーテに献呈しており、サン・サーンスから『バイオリン協奏曲第3番』、ブルッフ(1838-1920)から『バイオリン協奏曲第2番』及び『スコットランドの幻想曲』などを贈られている。
1883年(39歳)…ビゼー他界から8年。サラサーテは『カルメン』に登場する旋律を使った技巧的な『カルメン幻想曲』を作曲。「アラゴネーズ」「ハバネラ」「ジプシーの歌」などが素材。次第にテンポが速くなる「ジプシーの歌」は最後が情熱的に終わるため、聴衆が大いに沸いた。ビゼーとサラサーテは6歳差と年が近い。歌劇『カルメン』の大成功を知らず35歳で早逝した先輩作曲家へ心を寄せ、この曲を書き、演奏したのだろう。
※『カルメン幻想曲』演奏はパールマンhttps://www.youtube.com/watch?v=DJd5895Bl5Y
1904年(60歳)、『ツィゴイネルワイゼン』を録音。自作自演の歴史的音源として現存する。
※蓄音機で聴くサラサーテ本人の『ツィゴイネルワイゼン』https://www.youtube.com/watch?v=gv1aBPP7NnY
1908年9月20日、慢性気管支炎によりフランス領バスクのビアリッツにて他界。享年64歳。莫大な財産を残し、その大半が慈善救済事業に投じられた。
他界83年後の1991年、故郷パンプローナにて若手ヴァイオリン奏者のための「パブロ・サラサーテ国際ヴァイオリン・コンクール」が創設される。ファイナルでの伴奏はサラサーテが作ったナヴァール交響楽団との共演となり、優勝者はマドリード音楽院のコンサートでサラサーテが愛用した名器、1713年製のストラディヴァリウス「ボワシエ」を使用できる。
サラサーテは手が小さかったにもかかわらず、超人的なテクニックで世界各地の聴衆を熱狂させた。作曲家としてのサラサーテは、スペイン民謡や舞曲の要素を盛り込んでおり初期の国民楽派に属する。

〔墓巡礼〕
サラサーテの故郷であり墓があるパンプローナは、フランス国境まであと30kmというスペイン北部に位置する。毎年7月のサン・フェルミン祭(牛追い祭り)が有名で、12頭の牛に追われた数百人の男たちが勇気を証明するために800mを駆け抜ける。過去約100年で15人が命を落としている本気で危険な伝統行事だ。この街はヘミングウェイの小説『日はまた昇る』の舞台にもなった。
街の中心部から2km西にサラサーテが眠る墓地「Cementerio de San Jose」がある。奥行き500mの墓地で墓石の数が多いため、サラサーテの墓石を簡単に見つけられるか不安はあったが、周囲を鎖で護られた大きな白い石棺の画像がネットにあったので、それを参考に妻子と敷地を見て回った。ところが、いくら探せど見つからない。誰かに聞くにも、昼間の暑い時間帯で誰もいない。すると、メインストリートの真ん中に、工事のフェンスに囲まれた場所があることに気づいた。フェンスは目隠しされていて内側が見えず、地面に這いつくばって隙間から覗いてみた。ビンゴ!このフェンスは補修中のサラサーテの墓を覆うためのものだった!僕は妻子と「こりゃ、わからんはずだ」と目を見合わせ、「だけど見つかって良かった!」と子ども(8歳)を肩車してフェンスの上からシャッターを切ってもらった。石棺の一方には彼の名前や生没年が、裏側には天才ヴァイオリニストに相応しくヴァイオリンをかたどったレリーフが彫られていた。子どもはアニメ『ドラえもん』でひみつ道具“ムード盛り上げ楽団”が「ツィゴイネルワイゼン」を奏でるのを聴いており、僕がメロディーを口ずさむと、「あっ!あの曲を作った人がサラサーテさんか!」と理解し、一緒に「ムーチャス・グラシアス」と手を合わせた。100年経っても美しい墓に地元民の愛を感じた。



★フランシスコ・タレガ/Francisco Tarrega 1852.11.21-1909.12.15(スペイン、カステリョーン・デ・ラ・プラーナ 57歳)2018
Cementeri de Castello, Castellon de la Plana, Provincia de Castello,Valenciana, Spain



「ギターのサラサーテ」「ギターの父」の異名を持つスペインの作曲家、ギター演奏家のフランシスコ・タレガ(Francisco Tarrega/タルレガとも)は1852年11月21日にスペイン東部カステリョン県ヴィラ=レアルで生まれた(サラサーテの8歳年下)。父は修道院の貧しい警備員。赤ん坊の頃、子守りをしていた少女がむずかるタレガを用水路に投げ込み、汚水で失明しかける。少年期に都会のカステリョーン・デ・ラ・プラーナに移ると、父は目の病気になったタレガの身を案じ音楽学校に進ませた。盲人の音楽教師に学び、1862年、ツアー中のギター奏者フリアン・アルカス(当時30歳/1832-1882)に10歳にして神童と認められ、アリカスに誘われスペイン楽壇の中心地バルセロナを訪れた。
タレガはギターにのめり込んでいたが、父はピアノの腕前をあげておくことが将来役に立つと考えており、バルセロナのカフェやレストランでギター演奏をしていたタレガを見つけると家に連れ戻した。タレガはすぐにピアニストとしても才能を発揮していく。
1865年、タレガは13歳で家出し、バレンシアでロマ(ジプシー)の一団に加わる。再び父親に見つかり連れ戻されるが、さらに家出してバレンシアに向かった。やがて家計を支えるため自分から家に戻り、カフェやカジノのピアノ弾きになる。
1871年、19歳で兵役につく。
1874年、22歳でマドリッド音楽院に進学し、翌年まで学ぶ。音楽院の教授達はタレガの高度な演奏技術に感嘆した。その後、ギター教師としてバルセロナ市立音楽学校の教壇に立ちつつ演奏会も行なった。
1881年(29歳)、ギタリストとしてフランスやイギリスで演奏旅行を行う。
1882年(30歳)、クリスマスにマリア・リゾと結婚。 子どもたち、Maria Josefa、Paquito、“Marieta”Maria Rosatia(MariaRosalia)、Concepcionを授かる。
1885年(33歳)、バルセロナで娘マリエッタが生まれ、タレガは後にマズルカ『マリエッタ』を作曲している。タレガは家族や友人の名を作品につけるなど愛情深い人物だった。
※セゴビア演奏の『マリエッタ』 https://www.youtube.com/watch?v=M83WptDG2G0(2分25秒)
1887年(35歳)、目の病気が少しずつ進行し、この年に視力をほぼ失う。同年、娘コンチータ(Concepcion)が生まれる。バルセロナに移住。
1891年(39歳)、マジョルカ島での演奏旅行中に娘コンチータが4歳で他界(12/22)。タレガは帰宅後に娘の死を知らされた。前奏曲『ラグリマ/Lagrima(涙)』は、外国で活動してる時に故郷を懐かしく思い出しながら書いた曲とも、娘の追悼で書いたとも言われている。いずれにせよ、タレガの心情にじかに触れているような、一音、一音が胸に迫る曲だ。
※『ラグリマ(涙)』 https://www.youtube.com/watch?v=4i-J6w_vmO8 (2分)
1894年(42歳)、ミゲル・リョベート(16歳/1878-1938)がタレガに師事。このミゲルの弟子が、“現代クラシック・ギター奏法の父”アンドレス・セゴビア(1893-1987)だ。
1896年(44歳)、トレモロ奏法を駆使したギター独奏小品『アルハンブラの思い出』を作曲。右手の薬指、中指、人差し指で一つの弦を繰り返し弾き、郷愁をかきたてられる切ないメロディーを奏でた。
※『アルハンブラの思い出』 https://www.youtube.com/watch?v=4AbiP1o4QQY (4分半)
1897年(45歳)、一時パリに居住。後にバルセロナに居を定める。
1900年(48歳)、北アフリカのアルジェを訪れ、アラビア音楽の繰り返されるリズムを聴き刺激を受ける。
1906年(54歳)、病気で右半身が麻痺するが、リハビリに励み演奏活動を再開した。
1909年12月15日にバルセロナで他界。享年57歳。死の13日前まで作曲し『オレムス(われら祈らん)』を仕上げており、作品数は400曲にのぼる。葬儀ではタレガの『アラビア風奇想曲』が吹奏楽で演奏された。遺言により少年期を過ごしたカステリョーン・デ・ラ・プラーナに埋葬された。

それまでは主に伴奏楽器として使われていたギターを、単独で演奏会が可能な独奏楽器の地位に引き上げたタレガ。現代ギター演奏技術の基礎をうちたて、衰退期にあったギター音楽を復活させた。熱烈なファンに囲まれ私的なコンサートを度々開いていたとう。
作曲家としてはショパンに心酔し、当時人気のロマン派音楽にスペイン民族音楽の要素を取り入れた。それらは詩情豊かかつ抒情的でありながら、超絶技巧を駆使した聴き応えのある作品となっている。編曲では、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、メンデルスゾーン、ショパン、ワーグナーらのギター作品を残す。タレガより8歳年上の同時代のスペイン人作曲家アルベニスは友人であり、アルベニスのピアノ曲『アストゥリアス(伝説)』をギター用に編曲している。

〔墓巡礼〕
前述したように、タレガは遺言によって少年期を過ごしたカステリョーン・デ・ラ・プラーナに墓が建てられた。墓地の「Cementerio de San Jose de Castellon」は街の中心部から1kmという徒歩圏内にある。5km東に行けばそこは大西洋だ。墓地には同地に眠る有名人の墓をまとめたパンフレットがあったが、信じられないことにタレガは入っていなかった。タレガほどの人物がうっかり抜けたとは考えられず、おそらく、彼の墓はあまりに有名で、今さらパンフに載せる意味もない、そういう判断があったのだろう。とはいえ、僕のような旅人には無数の墓石から自力で探し出すことは不可能。庭師のおじさんにタレガの墓を尋ねると「おう、タレガか!案内してやるからついてきな」と先導して下さった。途中「君もギターをやるのか?」と聞かれたので、その昔、指が短く太いせいで他の弦に接触しまくり挫折したものの、濁りまくった音色で「禁じられた遊び」だけは弾けるようになったので、「スィー、セニョール」と答えておいた。タレガの墓は墓地の中央付近にあった。墓石の左右に花壇(猛暑で枯れていた…)、背後の壁に肖像画のレリーフがあり、レンガの柱に十字架のある、素敵なデザインの墓所だった。名曲『アルハンブラの思い出』は日本人の僕でも、望郷の念にかられるノスタルジーがある。頭の中で自動再生された同曲を墓前で聴きながら合掌した。

※ギターを愛するあまり署名にはTarregaではなく「Guitarrega(ギタレガ)」と書くこともあった。
※ギターの名器トレースを所持。トーレス本人から贈られた。
※『16の前奏曲集』美しい楽想を堪能!https://www.youtube.com/watch?v=99fasRhU4cU
※ノキア社のケータイ着信音に採用された『大ワルツ(グラン・ワルツ)』
https://www.youtube.com/watch?v=uSQzUx3QW2Y
※『ゆりかご』とても穏やかで温もりに満ちた曲
https://www.youtube.com/watch?v=9JFPaxzIMA0 (2分45秒)
※『グラン・ホタ』曲の中盤でギターを叩き、打楽器的な使い方もしている
https://www.youtube.com/watch?v=M0cxM1ZjAqM (8分49秒)
※『アデリータ』スペイン王の娘の名前が由来とのこと。ポーランド民族舞踊マズルカ(3拍子の後半にアクセントがつく曲)にインスピレーションを得たショパンへのオマージュ
https://www.youtube.com/watch?v=Nz7k0DWSGL0 (3分48秒)
※前奏曲『エンデチャ(挽歌)』と『オレムス(われら祈らん)』この人の演奏はなんて優しい音色なんだ… https://www.youtube.com/watch?v=QLEjvILhAp0 (3分)

〔参考資料〕
『名曲解説全集16』(音楽之友社)
http://www.zd.ztv.ne.jp/musicbox/recaltarrega.html
http://www.kazu-classicalguitar.co.uk/blog/ja/essays/tarrega/francisco_tarrega_lagrima



★アミルカレ・ポンキエッリ/Amilcare Ponchielli (1834.8.31-1886.1.16 51歳)2018
Cimitero Monumentale di Milano, Milan, Provincia di Milano, Lombardia, Italy

  
桁数の多いローマ数字は暗号のようだ。「MDCCCLXXXVI」が1886年になる
I (1)、V (5)、X (10)、L (50)、C (100)、D (500)、M (1,000)なので
M(1,000)DCCC(800)LXXX(80)VI(6)とわかる


器楽の役割を重視したオペラを書いたアミルカレ・ポンキエッリは、1834年8月31日にイタリア・クレモナ近郊パデルノファソラロ(現パデルノ・ポンキエッリ)で生まれた。イタリア・オペラの巨人ヴェルディ(1813〜1901)の21歳年下。父は教会音楽家。9歳からミラノ音楽院で学び、同院で『交響曲第1番』を作曲した。
1853年(19歳)、歌劇王ヴェルディが『椿姫』『イル・トロヴァトーレ』を発表。
1854年(20歳)、ミラノ音楽院を卒業。クレモナのサン・イラリオ大聖堂のオルガン奏者を務めるなど、北イタリア各地の教会、軍楽隊などで働きつつオペラ作曲を続けた。
1856年(22歳)、アレッサンドロ・マンゾーニの小説に曲を付けた最初のオペラ『婚約者(I promessi sposi)』を発表。
1871年(37歳)、ヴェルディが歌劇『アイーダ』を発表し、以後、ヴェルディは10年以上も新作オペラの発表が途絶える。
1872年(38歳)、オペラ『婚約者』改訂版の上演が成功し、ポンキエッリはオペラ作曲家として世に認められる。ミラノ音楽院、スカラ座、リコルディ(楽譜出版社)と契約を結んでいく。
1873年(39歳)、スカラ座の委嘱を受けてバレエ音楽『2つの双眼鏡(Le due
gemelle)』を発表し評価される。同年、詩人アレッサンドロ・マンゾーニが他界。ポンキエッリは『マンゾーニのための葬送音楽』を作曲し、ヴェルディもマンゾーニ追悼の傑作『レクイエム』を書き翌年に初演している。
※『マンゾーニのための葬送音楽』 https://www.youtube.com/watch?v=noHycylUbt8
(11分43秒)1874年(40歳)、オペラ『リトアニア人』で成功を収める。翌年「ラ・ジョコンダ」の作曲を開始。
1876年(42歳)、代表作となるオペラ『ラ・ジョコンダ』全4幕をミラノ・スカラ座で初演し、作曲家人生で最大の成功作となる。ソプラノの名アリア「私は死のう "Suicidio!"」などが好評を得た。特に劇中のバレエ音楽「時の踊り」(第3幕第2場)は現在までポンキエッリの名を伝える楽曲となった。ポンキエッリはヴェルディが新作を発表しなかった1870年代のオペラ界を支えた。
本作でポンキエッリは名声を確立したが、以降、オペラを2作しか完成させられず、『ラ・ジョコンダ』を上回る作品を書くことができなかった。
※『ラ・ジョコンダ』…原作はヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)の戯曲。台本は後にヴェルディ作品で知られるアッリーゴ・ボーイトが担当。舞台は17世紀のヴェネチア。祭りの日にゴンドラ競争があり、サン・マルコ広場は見物の観客で大賑わい。歌姫ジョコンダが恋人エンツォに会うため盲目の母チェーカと歩いていると、ジョコンダに惚れている宗教裁判官の密偵バルナバが彼女を口説く。バルナバはジョコンダに相手にされず、悔し紛れにチェーカを魔女扱いし、扇動された群衆がチェーカを取り囲んだ。危機一髪、宗教裁判官アルヴィーゼの夫人ラウラが、夫を通してチェーカを助けてくれた。チェーカは御礼にロザリオ(数珠)をラウラに贈る。実はこのラウラは、ジョコンダの恋人エンツォがかつて心から愛した女性だった。エンツォは宗教裁判官に陥れられて追放されていた。バルナバはジョコンダを手に入れるため、目障りなエンツォを破滅させようと、わざとエンツォとラウラと再会させて2人の愛を再燃させた。そしてラウラの夫である宗教裁判官に密告し、激怒した夫に(追放中の身の)エンツォを逮捕させようとした。エンツォは逃げることに成功したが、ラウラは夫に不貞を責められ毒薬での自殺を強要される。ジョコンダにとってラウラは恋敵だが、魔女扱いされた母を救ってくれた恩人でもあり、エンツォが本当に愛している女性でもあるため、ラウラに仮死状態になる薬を渡した。
宗教裁判官の邸宅ではバレエ「時の踊り」が披露されていたが、そこにラウラの死(偽装)が知らされる。ジョコンダはバルナバに、自分の身と引き換えにエンツォを逃がすよう頼む。ラウラが死んだと思ったエンツォは逆上して宗教裁判官を襲撃したが逆に取り押さえられた。
ジョコンダはヴェネツィアのジュディカ島に仮死状態のラウラを運ばせると、バルナバに連れられたエンツォがやって来た。ラウラは息を吹き返しエンツォと小舟に乗って旅立つ。バルナバは約束を果たせとジョコンダに関係を迫るが、彼女は短刀で胸を突き自殺。バルナバが驚愕し幕となる。第2幕でエンツォがラウラを待っているアリア「空と海」が有名。
※『ラ・ジョコンダ』 https://www.youtube.com/watch?v=Q3JDhjFZPtw
※上のオペラから「時の踊り」サビ部分https://www.youtube.com/watch?v=AZ_MftTCo7I#t=1m40s

1881年(47歳)、ベルガモ大聖堂の音楽指揮者に任命され、他界の年まで務めつつ教会音楽を作曲した。
1883年(49歳)、母校ミラノ音楽院で作曲科教授を務め、門下のプッチーニ(1858-1924)やマスカーニ(1863-1945)を指導した。同年、『ラ・ジョコンダ』がロンドンのコベント・ガーデン王立歌劇場やニューヨークのメトロポリタン歌劇場でも上演される。
1884年(50歳)、ヴェルディが13年ぶりの新作オペラ『ドン・カルロ』を発表する。
1886年1月16日、急性肺炎によりミラノにて他界。享年51歳。訃報を聞いたヴェルディ(当時73歳)は「可哀想なポンキエッリ、あんなにいい奴だったのに、あんなに立派な音楽家だったのに」と死を惜しんだ。
1887年、ヴェルディが『オテロ』を発表。
1940年、ディズニー映画『ファンタジア』で「時の踊り」が使用され広く知られるようになった。現代でも食パンのCM曲に採用されている。
ヴェルディが87歳で他界したのは15年後(1901)。ポンキエッリはヴェルディの後から生まれ、先に死んでしまったため、作品は巨星(ヴェルディ)の陰に隠れてしまったが、生前はヴェルディに次ぐ名声にを得ていた。8曲のオペラを作曲し、中でも『婚約者』『リトアニア人』『ジョコンダ』は高く評価されていた。
※クレモナにポンキエッリの石像が建つ。
※『管弦楽のための悲歌』 https://www.youtube.com/watch?v=mQNg_n1ze6U (10分29秒)
※『ドニゼッティのために』 https://www.youtube.com/watch?v=MXseQFpO7Dc (3分)
 
〔墓巡礼〕
ミラノで没したポンキエルリは、「世界一美しい墓地」「彫刻の森」と讃えられている「ミラノ記念墓地(Cimitero Monumentale di Milano)」に眠っている。この墓地は名家の墓所として1866年に開設された。甲子園球場の約6倍、25万平方メートルもの広大な敷地に、美術館と見まがうような墓碑が点在している。指揮者トスカニーニ、ピアニスト・ホロヴィッツの墓所があるほか、作曲家ヴェルディやアルゼンチンのファーストレディ・エビータの墓もかつてここにあった。ポンキエッリの墓は墓地正面の白亜の霊廟にある。この建物は国葬クラスの人物が多く眠っており、ポンキエッリもこの霊廟に眠る名誉を得ていることが音楽ファンとして嬉しい。1階右寄りの側壁、3段のうち中段に彼の墓があり、前面にはこう刻まれていた。
VISSUTO POVERO IGNORATO GRAN PARTE DELLA VITA
MORTO DI ANNI CINQUANTUNO
QUANDO FINALMENTE ARRIDEVAGLI LA GLORIA
FRA IL COMPIANTO O`ITALIA
STUPITA ALLE DOLCISSIME ARMONIE
DEI PROMESSI SPOSI DE`LITUANI DELLA GIOCONDA
「人生の大部分を貧しく人知れず生き、51歳で没す。最終的に栄光を手に入れたのはイタリアの哀悼の中(=死後)だった。『婚約者』『リトアニア人』『ラ・ジョコンダ』の驚くほど非常に甘美なハーモニー」。
Cimitero Monumentale di Milano, Milan, Provincia di Milano, Lombardia, Italy



★グレゴリオ・アレグリ Gregorio Allegri 1582-1652.2.7 (イタリア、ローマ 70歳)2018
Chiesa di Santa Maria in Vallicella/Chiesa Nuova, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy//Plot: Chapel of St. Philip Neri

 
聖フィリッポ・ネリの亡骸が安置された礼拝堂の床下、もしくは壁面にアレグリは葬られているという

モンテヴェルディが15歳で最初の作品集を出版した1582年、ローマでグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri/グレゴーリオ・アッレグリ)は生まれた。
作曲家としてはパレストリーナ(1525-1594)に代表される、伴奏のないア・カペラの教会音楽を特徴とした保守的なローマ楽派に属し、司祭、カストラート歌手でもあった。アレグリはパレストリーナの孫弟子にあたり、生涯の大半をローマで過ごした。非常に慈悲深い人物との評伝が残る。
1591年、9歳で教会の聖歌隊に入団、そこでパレストリーナ門下の聖歌隊長に音楽の手ほどきを受ける。
1594年(12歳)、パレストリーナ他界。享年68歳。
1595年(13歳)、“喜びの聖人”フィリッポ・ネリ司祭(1515-1595)が他界。享年79歳。フィリッポ・ネリは1564年に司祭と信徒が平等の立場というキリスト教共同体「オラトリオ(祈祷所)修道会」を創立。孤児に音楽を教えるなど民衆に慕われた。フィリッポ・ネリはオラトリオ修道会で歌う聖歌を作曲家パレストリーナに依頼し、ここから宗教的音楽劇「オラトリオ」(演技のない宗教オペラ)が生まれた。
1607年(25歳)、アドリア海に面するイタリア東部フェルモの大聖堂で合唱指揮者に就く。また、同地で数多くのモテット(多声教会音楽)など宗教曲を作曲した。
1618年(36歳)、『5声のための教会コンチェルト1巻』を出版。
1619年(37歳)、『5声のための教会コンチェルト2巻』を出版。
1621年(39歳)、『6声のためのモテット集2巻』を出版。14年続けてきた
1629年(47歳)、芸術通のローマ教皇ウルバヌス8世(在位1623-1644)に楽才を認められ、ローマ教皇庁ヴァチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂聖歌隊のアルト歌手となり、没するまでこの地位にあった。
1630年代、アレグリは旧約聖書詩篇第51篇をもとに9声部の『ミゼレーレ』(ミゼレーレ・メイ、デウス/神よ、我を憐れみたまえ)を作曲した。ルネサンス音楽末期を代表する楽曲だ。
『ミゼレーレ』…カトリック教会音楽の傑作。かつてはヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の中だけで演奏される門外不出の秘曲だった。5声の第1合唱と、4声の第2合唱に分かれて交互に歌い継ぎ、最後の1節だけ全9声の合唱でしめくくられる二重合唱曲。作曲当時、教皇庁はこの曲の“神性”を保つため、楽譜持ち出し禁止、写譜禁止、楽譜を書くことも禁止、システィーナ礼拝堂以外での演奏は許されず、禁を破れば“破門”とした。
作曲から約140年が経った1770年、当時14歳のモーツァルトは父親に連れられてローマを訪れ、システィーナ礼拝堂で秘曲中の秘曲『ミゼレーレ』を聴いた。この曲はシスティーナの聖務週間の水曜から金曜にかけ午前3時頃から始まる特別礼拝「暗闇の朝課」で歌われ、歌声が響くなか蝋燭の灯りを一本ずつ消していくという。合唱は9声部(9つのパート)が10分以上も重なりあい、絡みあう極めて複雑なものだが、水曜礼拝の際にモーツァルトは一発で記憶し、宿に帰って楽譜に書き起こした。確認のため2日後の金曜礼拝に足を運んで細かな校正を行い、これを完璧に仕上げた。この譜面は旅の途中で出会った英国人音楽学者の手に渡り、翌1771年にロンドンで出版された。『ミゼレーレ』の楽譜は世界に広まり人々を驚嘆させ、少年モーツァルトはローマ教皇クレメンス14世に呼び出された。教皇はモーツァルトを破門するかと思いきや、逆にその驚異的な才能を褒め称え、ヴァチカンは『ミゼレーレ』の禁令を撤廃した。
※ラテン語版『ミゼレーレ(Miserere)』https://www.youtube.com/watch?v=FA8_oE-nS5c (12分22秒)
※英語版『ミゼレーレ』1963年録音のウィルコックス指揮ケンブリッジ大キングス・カレッジ合唱団の名盤 https://www.youtube.com/watch?v=piPiVndX7kw (11分16秒)
1643年、モンテヴェルディ他界。享年76歳。
1652年2月7日、アレグリがローマで他界。享年70歳。上記の作品以外に、4声のシンフォニア、5曲のミサ曲、2曲の預言者エレミアの哀歌、テ・デウム、マニフィカト、通奏低音を伴う膨大な未発表のモテットを残した。
1831年、メンデルスゾーンが『ミゼレーレ』を写譜。後にフランツ・リストも写譜を行った。
※アレグリは弦楽四重奏曲の最初期における協奏曲など器楽曲も書いたというが、YouTubeにはまったくアップされていない。そもそも録音盤があるのか。ぜひアレグリが表現した弦楽合奏の音色を聴きたいものだ…。
 
〔墓巡礼〕
アレグリの墓はコロッセオとヴァチカンの中間にあるナヴォーナ広場(ベルニーニ「四大河の噴水」が有名)から西へ300mほど入った「ヌオーヴァ教会(Chiesa Nuova/Parrocchia Santa Maria in Vallicella)」にある。中央祭壇の左手に「オラトリオ」誕生にかかわった聖フィリッポ・ネリの亡骸が安置された礼拝堂がある。海外墓マイラーサイトによると、アレグリはこの礼拝堂に眠っているとのことだが、目印となる墓標を発見できなかった。というか、祭壇の下部がガラスになってフィリッポ・ネリのミイラ(?)が見えるんだけど、僕はそれをアレグリと勘違いしていた!聖ネリに「アレグリさん、ミゼレーレ最高です」と感謝して手を合わせるという大間違いをやってしまった…!アレグリの墓は床下か、或いは側面の壁か、もう一度教会を訪れて確認しないと(汗)。アレグリは音楽を心から愛していた聖ネリの墓の側で永眠することを希望したのだろう。聖ネリは陽気な性格から「神の道化師」とも呼ばれていたので、人まちがいも笑って許してくれるだろう。



★ペルゴレージ/Giovanni Battista Pergolesi 1710.1.4-1736.3.16(イタリア、ポッツォーリ 26歳)2018
San Procolo Cathedral, Pozzuoli, Provincia di Napoli, Campania, Italy//Plot: Unmarked, gravesite lost

この大聖堂に埋葬されたが墓は行方不明 彼は地下のどこかに眠っている

ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンといった27歳で夭折したロック・スターは、才能と短命からカリスマ化され、伝説的人物となっている。クラシックの世界では、有り余る楽才を持ちながら26歳の若さで病死した“オペラ・ブッファ(喜劇オペラ)”の生みの親ペルゴレージが、後世の作曲家、音楽ファンから熱烈に敬慕の対象になっている。約300年にわたるペルゴレージLOVEの結果、彼の名を冠した大量の偽作が生まれたこともある意味納得だ。
 
バロック時代から古典派時代への過渡期を代表する1人となったイタリア歌劇の草分け、ナポリ楽派のオペラ作曲家ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージは、1710年1月4日にイタリア東部アンコーナ近郊のイェージに生まれた。幼少期から音楽の才能を見せ、始めにヴァイオリンを学んでいる。
1726年(16歳)、ナポリの音楽院で作曲を学ぶ。
1731年(21歳)、音楽院の卒業作品として最初の主要作品となるオラトリオ(音楽劇)『ギヨーム・ダキテーヌの回心(グリエルモ・ダキタニアの改心)』を作曲。 同年初演された最初のオペラ『サルスティア』は不評だった。この年、ナポリ大地震が起き、犠牲者の喪に服するためしばらく歌舞音曲が禁じられる。一方、ペルゴレージは地震犠牲者の追悼ミサ曲を市当局から依頼され好評を得た。
1732年(22歳)、初期のオペラがあまり成功しなかったため、一時的に器楽曲に専念。ナポリのスティリアーノ公の楽長となりトリオ・ソナタを数多く作曲する。
1733年(23歳)、8月28日、ハプスブルク家皇后エリザベス・クリスチナ(ナポリ王カルロ6世王妃)の誕生祝賀会のため、大地震で禁止されていた歌舞音曲がナポリで解禁される。そして最初に上演されたオペラが、ペルゴレージのオペラ・セリア(悲劇オペラ)『誇り高い囚人』だった。この北欧王族の確執を描いた史劇オペラの初演は失敗に終わったが、同作のインテルメッツォ(幕間劇、まくあいげき)として上演した音楽喜劇『奥様女中 La Serva Padrona』(全2幕)が大評判となり、翌日に再演されるほど歴史的成功を収めた。歴史上の事件や英雄を描くのではなく、「同時代に題材をとる」「日常生活を描く」といった内容でオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)と呼ばれるようになり、このスタイルがモーツァルトやロッシーニに受け継がれていく。
登場人物が親しみやすく、音楽面では従来より和声的な響きを重視、繊細な情緒が旋律で表現されていた。『奥様女中』は独立して上演され、後にオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)と呼ばれるようになり、ペルゴレージの名前は国際的に有名になった。
※『奥様女中』…舞台は18世紀初めのナポリ。大金持ちで頑固な老人貴族ウベルトの気を惹くため、頭の回る女中セルピーナは下男ヴェスポーネを兵士に変装させて偽物の婚約者とし、ウベルトを嫉妬させる作戦を敢行する。兵士はセルピーナに持参金を要求し、出さねば身の安全を保障しないと脅かす(ふり)。ウベルトはセルピーナのことを心配し、彼女を守るため結婚を神の前に誓ってしまう。兵士が正体をばらすと、ウベルトは騙されたと嘆きつつも、セルピーナを愛している自分の心に気づき、喜びと共に愛の二重唱を歌う。
※『奥様女中』 https://www.youtube.com/watch?v=-FaHrId3Mk8 (42分)
※1637年にヴェネツィアで市民向けの公開オペラ劇場が作られ、オペラはローマ、次いでナポリでも大ブームを引き起こした。ナポリのペルゴレージから始まった、従来の神話劇、歴史劇オペラではない現代喜劇としての“オペラ・ブッファ”(喜劇オペラ)は、その後ローマやイタリア北部でも広く知られるようになる。オペラ・ブッファの登場により、それまでのオペラは“オペラ・セリア”(正歌劇/重厚なオペラの意)と呼ばれるようになった。オペラ・ブッファは18世紀後半のパイジェッロ、チマローザ、モーツァルト、19世紀初頭のロッシーニによって頂点を迎え、本家のオペラ・セリアをしのぐほどの人気を得た。19世紀前半のドニゼッティの時代に叙情的な要素が強くなり、やがてブッファ的要素はオペラ・セリアに吸収されほぼ姿を消す。
 
1734年(24歳)、ペルゴレージが書いた3曲のミサ曲のうちの最後の作品となる『ミサ・ロマーナ ヘ長調』がローマで初演される。ローマ中の歌手が投入された大規模な演奏だった。ヘンデルが7年後(1741年)に書いた『メサイア』のハレルヤは第2曲「グロリア」と構成が似ており、モーツァルトが半世紀後に書いた『レクイエム』は第6曲「ラルゴ」と響きがそっくりだ。
※『ミサ・ロマーナ』から「グロリア」。ハレルヤに影響を与えたか。https://www.youtube.com/watch?v=kQnXs05bQ0c#t=4m22s
※『ミサ・ロマーナ』から「ラルゴ」。天才モーツァルトからオマージュ?https://www.youtube.com/watch?v=kQnXs05bQ0c#t=24m00s (ここから1分45秒間)
 
1735年(25歳)、オペラ『オリンピアーデ』のローマ初演に失敗しナポリへ戻る。この頃、カンタータ『オルフェオ』を作曲し、出版後にただちに再版されるほど高く評価される。教会の聖歌隊指揮者に指名されるが、カリエス(骨の結核)に侵されナポリ湾をのぞむポッツォーリのカプチン会修道院(聖フランチェスコ修道院)で療養を余儀なくされる。悪化する体調の中、宗教音楽の作曲に取り組み、聖母マリアのための賛歌『サルヴェ・レジーナ』を作曲。4曲のうち第1番イ短調と第4番ハ短調だけが真作とされている。
※『サルヴェ・レジーナ ハ短調』カウンターテナーで聴く。https://www.youtube.com/watch?v=fac_egTqLAo (13分44秒)
 
1736年、死の床で珠玉の名作となる、ソプラノ、アルトと弦楽合奏のための『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』を書きあげ、完成後の3月16日(海外墓サイト)もしくは17日(ウィキ)、26歳という若さでポッツォーリにて他界。
ペルゴレージの形見となった『スターバト・マーテル』は、13世紀中世の修道士トーディが書いた同名の詩に曲を付けたもの。十字架の下にたたずみ悲しみに沈むマリアの姿を切々と歌う。目の前で子を失った母親の悲しみを思うと、キリスト教徒じゃなくても胸にくる。冒頭から心に染みいるような哀感に満ちている。
Stabat mater dolorosa(悲しみの母は立っていた)
iuxta Crucem lacrimosa,(十字架のかたわらで、涙にくれ)
dum pendebat Filius.(わが子が架けられている間ずっと…)
終曲の第12曲はソプラノとアルトが二重唱で「肉体は死して朽ちるとも、魂には天国の栄光をお与え下さい」と歌い重ねていく荘厳な曲。ペルゴレージは曲の最後で20回以上も「アーメン(まことにその通り)」を繰り返して作品を締めくくり、直後に天国へ旅立った。
Quando corpus morietur,(肉体は死して朽ちるとも)
fac, ut animae donetur(どうか魂にお与えください、)
paradisi gloria. Amen. (天国の栄光を。アーメン)
※『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』アバド指揮の名盤!
※単独『スターバト・マーテル第12曲(終曲)Quando Corpus Morietur(クァンドーコルプス モーリエートゥル/わが肉体が死すとき)』
 
26歳という短い人生ではあったが、古典派音楽の様式を最も早く示した人物として音楽史に名を遺す。オペラ作曲家としては、モーツァルトやロッシーニに続くオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)の基礎を築き、その名を不滅にした。短命にもかかわらず、ソナタ、組曲、協奏曲を約50曲も書きあげたが、現存するトリオ・ソナタは30曲のうち14曲のみなのが残念。テンポの速い曲でも歌心を失わず、豊かで明確なフレーズ、流ちょうに紡がれるメロディー、その魅力は尽きることがない。没後は早くから人気が上昇し、ペルゴレージ人気にあやかった偽作が多く出回り、現代まで複数の作品で真偽論争が続いている。
没後180年ほど経った1920年にストラヴィンスキーがペルゴレージの曲から主題をとったバレエ音楽『プルチネラ』を作曲し、新古典主義の扉を開いた。『プルチネラ』はディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために書かれた。
 
※『フルート協奏曲 ト長調』第2楽章(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=XDmfaR27V_8#t=4m20s
※他界16年後の1752年、『女中奥様』がパリで上演され、作品支持派(ジャン・ジャック・ルソー等)と反対派(ラモー等)が王妃派と国王派に分かれ、イタリア・オペラかフランス・オペラかの論争「ブフォン論争」が勃発、ラモーが没する1764年まで続いた。
※ユニコ・ヴィルヘルム・ファン・ヴァッセナール・オブダム伯爵の『コンチェルト・アルモニコ』( https://www.youtube.com/watch?v=mplBssiNgEI )は、最近まで誤ってペルゴレージ作曲と伝えられてきた。良い曲なのでペルゴレージ作と思われても仕方がない。
 
〔墓巡礼〕
僕が生まれて初めて買ったCDは映画『アマデウス』のサウンドトラック、1985年のことだった。当時高校生でまだCDプレイヤー本体を持っていなかったので、友人の家に行ってCDをかけさせてもらった。モーツァルトの楽曲に混じって、とてつもなく美しい教会音楽があり、それがペルゴレージの『スターバト・マーテル』だった。すっかり心を奪われ、また26歳で早逝したことの同情もあり、いつか墓参したいと思っていた。
ところがネットが普及して情報を調べていると、海外の墓マイラーサイトに「ペルゴレージの墓は失われて現存しない」と書かれていてショックを受けた。「墓参できないのか…」。事態が動いたのは2015年。ペルゴレージの墓っぽい石板の画像をアップしている人が海外にいた!オリジナルの墓石がなくても、墓標となる石板が彫られたのなら行きたい!そう思い、2018年にレンタカーでペルゴレージ終焉の地、ナポリの西10kmの港町ポッツォーリに向かった。この街の大聖堂に埋葬されたらしいが、教会がたくさんあるので、どれが大聖堂と呼ばれているのかわからない。土地の人に道を尋ね、街中の高台にドゥオモ(大聖堂)があると教えてもらった。
斜面を登って大聖堂に着き、さっそく墓標(石板)を探したけど見つからない。「この大聖堂であってるはずなんだけど…」と、首を傾げながら祭壇前でペルゴレージに感謝の言葉を伝えた。そこへ神父さんが通りかかったので、iPadにある石板の画像を見せると、「ここではない」と言われた。ガーン!そんな馬鹿な…。そこで観光案内所を訪れ、写真の墓標がどこにあるのか聞いた。係員はパソコンのキーを叩き、しばらくして聖フランチェスコ修道院と教えてくれた。その修道院はペルゴレージが没した場所であり、街中から続く“ペルゴレージ通り”を北上すると街外れにあるという。通りの名前からして、墓所はその修道院で間違いないと思った。
ペルゴレージ通りは意外に交通量が多く、しかも歩道がないためかなり怖かった。地元の人に再び道を聞きつつ歩き続け、やがてピンク色の壁の修道院に到着。さあ中へ!と思ったら扉が閉まっている。どうやら日曜にしか開かないようだ。なんてこった!カレンダーは火曜日。帰国便の日程的にここで5日も待つことはできない…。墓が不明な時は没した場所を墓と見立てるという墓マイラーの伝統に従い、外から手を合わせ遥拝した。
帰国後、2019年。引き続き海外サイトを調べていると、「聖フランチェスコ修道院で没した翌日、大聖堂(ドゥオモ)に葬られた」との一文を発見。「翌日」という具体的な記述に、やはり大聖堂が墓所で間違いないようだ。じゃあどうして、ここじゃないって言われたんだろ。ああもう、何がなんだか!…そう思っていたら、重大な事実が判明した。あの石板は墓標ではなく「ここでペルゴレージが没した」と彫られているらしい!ぎょえ〜、それなら全ての辻褄があう。僕は神父さんや観光案内所で、死没地のプレートを見せていたんだ。そりゃ、あの修道院を教えられるよ…。
不幸中の幸いと言おうか、一応、大聖堂で御礼は伝えている。どうか、あの言葉が地下のどこかに眠っている彼のもとへ届いていますように!



★アルカンジェロ・コレッリ/Arcangelo Corelli 1653.2.17-1713.1.8 (イタリア、ローマ 59歳)2018
Pantheon Church, Rome, Provincia di Roma, Lazio, Italy

ローマのパンテオン 柱の後方の壁面がコレッリの墓所 絵画の下


壁面にコレッリの名前が

一番上にARCANGELO CORELLIOとある
墓石はコッレリがコレッリョに

合奏協奏曲の創始者で器楽曲だけで国際的名声を獲得した最初の作曲家アルカンジェロ・コレッリ(Arcangelo Corelli)は1653年2月17日にイタリアのラヴェンナ県フジニャー ノに生まれる。クレモナを拠点にしていたヴァイオリン製作の名匠ストラディバリ(1644-1737)と同時代を生きている。
1666年(13歳)からイタリアの器楽音楽の拠点ボローニャでバイオリンを学ぶ。
1670年(17歳)、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員になる。
1671年(18歳)、フランスに渡り4年を過ごす。
1675年(22歳)、ローマに出てサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会(現在ローマ在住仏人の国民教会)のバイオリン奏者になる。またローマに滞在中の教養人“バロックの女王”スウェーデン女王クリスティーナ(1626-1689)の保護を受ける。
1679年(26歳)、ローマの劇場オーケストラに雇われる。コレッリは20代半ばで「ローマ最高のヴァイオリニスト」と人々から絶賛された。とはいえ、当時ヴァイオリンは新しい楽器であり、まだ演奏方法すら確立されていなかった。楽器の真価を引き出すだけの曲もなく、コレッリは「この楽器の魅力をみんなに伝えたい」と自ら作曲するようになる。ヴァイオリンを知り抜いているからこそ、最高のヴァイオリン曲が書ける。この名ヴァイオリニスト自身が曲を書くというスタイルは、後世のパガニーニやサラサーテに通じるものがある。
1681年(28歳)、作品1となる教会ソナタ『トリオ・ソナタ』(全12曲)をローマで出版。以降、4、5年おきに12曲セットの作品集を発表していく。作品1は“教会ソナタ”とあるが教会用の作品という訳ではなく、当時ミサの間で演奏されるトリオ・ソナタが「緩・急・緩・急」の4楽章形式であり、同じスタイルをとったことによる。トリオ・ソナタは基本的には二つの高声部楽器(ヴァイオリン)と通奏低音からなるが、コレッリがリュート(マンドリンに似た楽器)にオルガンを加えたように、4人の奏者で演奏することが多い。ドイツ各地を旅行した後、バイエルン選帝侯のもとに就職。※同年ローマに戻る?
※『トリオ・ソナタ』作品1 https://www.youtube.com/watch?v=k18L5ms73MM (69分)
1685年(32歳)、室内ソナタ『トリオ・ソナタ作品2』(全12曲)を出版。ローマで催されたスウェーデン女王クリスティーナのための祭典で音楽公演を指揮。この年、ドイツでバッハとヘンデルが生まれている。
1689年(36歳)、教会ソナタ『トリオ・ソナタ作品3』(全12曲)を出版。バッハは20代の頃に本作を研究し、主題に基づきオルガンのためのフーガBWV.579を作曲した。
1690年(37歳)、芸術の庇護者であるピエトロ・オットボーニ枢機卿(ローマ教皇アレクサンデル8世:在位1689-1691)の援助をうける。コレッリはオットボーニ枢機卿の邸宅で行われる月曜演奏会を長期にわたって主催した。同枢機卿が生活を保証してくれたので、コレッリは当時の他の作曲家のように毎週新作を書くという無理な創作活動をせずに済み、じっくりと時間をかけ納得できるまで内容を練ることができた。その結果として、作品数は非常に少ない。
1694年(41歳)、室内ソナタ『トリオ・ソナタ作品4』(全12曲)を出版。
1700年(47歳)、生前最後の出版作品となる『ヴァイオリン・ソナタ(ヴァイオリンとヴィオローネ、チェンバロのためのトリオソナタ)』(全12曲)を1月1日にローマで出版。ラストを飾る「ラ・フォリア」が人気を得る。231年後の1931年、ロシアの作曲家ラフマニノフが「ラ・フォリア」から主題ををとり、ピアノ独奏『コレルリの主題による変奏曲』を作曲している。
※『ヴァイオリン・ソナタ』全曲 https://www.youtube.com/watch?v=M5ce15s4NYc(131分)
※『ラ・フォリア』 https://www.youtube.com/watch?v=VHRdFILo_Yw (11分)
1708年(55歳)、ローマに戻りオットボーニ枢機卿の邸宅で暮らす。コレッリは自身がヴァイオリンの奏法を確立したヴァイオリンの名手であったが、最高音域の乱用に否定的であり、同年、23歳の若きヘンデル(1685-1759)のオラトリオ『時と悟りの勝利』ローマ初演に際し、ヘンデルが序曲で高音を演奏したことから「技術を誇示するためだけに、こんな音を弾かせるとは」と厳しく批判した。この年、ナポリ訪問。同年、「コレッリ死去」の誤報が流れる。
1710年(57歳)、病によりこの年を最後に公の場から姿を消す。
1712年(59歳)、『合奏協奏曲集(12のコンチェルト・グロッソ) 作品6』(全12曲)を完成させる。第8番は『クリスマス協奏曲』として知られる。編成は2つのヴァイオリンとチェロ及びチェンバロを核として、ヴィオラやコントラバスが加わる。
※『合奏協奏曲集第3番』短調であり随所に渋い旋律が登場
https://www.youtube.com/watch?v=G00vsKgoCr8 (12分)動画の演奏は凄く良いのにスライドの絵画セレクトに問題あり。
※『合奏協奏曲集第4番』この動画は楽器ごとの役割が分かりやすい。9人で豊かに響く。 https://www.youtube.com/watch?v=3smZkpqXYHs (9分35秒)
※『合奏協奏曲集第8番クリスマス協奏曲』クリスマスの真夜中のミサのために書かれた曲。短調。 https://www.youtube.com/watch?v=RydMnTCwJvQ (14分)
※『クリスマス協奏曲』コレッリを得意とするトレバー・ピノック指揮(動画)https://www.youtube.com/watch?v=CRnRBkiEXLs(14分)
1713年1月8日、ローマにて他界。享年59歳。葬儀の際にコレッリの弟子達が厳粛な趣のある『合奏協奏曲第3番』を演奏した。
生涯に4つのトリオ・ソナタ集(各12曲、全48曲)、12曲のヴァイオリン・ソナタ、12曲の合奏協奏曲を残した。バッハやヴィヴァルディは死後その名が急速に忘れられ後に再発見されたが、コレッリはパトロンの熱心な庇護もあって、音楽教育の現場で作品が使われ続けた。
1714年、『合奏協奏曲集』がオランダで出版される。1732年にイギリス、1736年にフランスでも刊行されており、コッレリの『合奏協奏曲集』がヨーロッパ中で愛好されていたことが分かる。死後出版の作品集の中に、唯一の管楽器のための作品『トランペット・ソナタ』が存在する。
「私が作曲する唯一の目的は、ヴァイオリンを“魅せる”ことなのです」(友人への手紙)。コレッリは完璧主義者であり、もっと多くの曲を書いているにもかかわらず、作品集から漏れた楽曲を自ら破棄しており現存しない。そして彼の視線は未来を向いていた。出版された楽譜の表紙には「posteritati(後世に)」と書かれている。
コレッリは多くの弟子を育て、ヴィヴァルディやヘンデルに大きな影響を与えた。美しい音色を尊重して技巧的な表現を避け、緻密な構成、優雅な気品を重んじる作風を示した。伴奏パートを丁寧に扱い、長調や短調という調性を使用した初期の人物であり、ハイドン以前にコレッリほど多くの器楽作品が出版された作曲家はいない。ちなみにヴィヴァルディより25年、バッハやヘンデルより32年年長になる。
 
〔墓巡礼〕
コレッリの亡骸は画家ラファエロ(1483-1520)、イタリア王国の初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820-1878)ら、イタリアの偉人が眠るローマ・マルス広場の神殿パンテオン(紀元前25年建造、焼失後128年再建)に葬られた。コレッリは合奏協奏曲の形式を完成し、ヴィヴァルディら次代の音楽家に大きな影響を与えたことから、その功績を鑑みてパンテオンが墓所に選ばれたのだろう。パンテオンは古代ローマの様々な神を奉る万神殿。創建時は多神教信仰の拠点であり、教会ではないためキリスト像はない。コレッリの墓碑(石板)はパンテオンの壁面に埋め込まれているが、立入禁止のロープが手前にあるため5mほど離れた場所から遥拝した。 同時代の作曲家と違ってほとんど教会音楽を作らず(クリスマス協奏曲くらい)、器楽のみの合奏協奏曲を書き続けたコレッリがパンテオンに眠っていることに違和感はない。
※ちなみにエマヌエーレ2世はイタリア統一戦争に終止符を打った国父であるが、統一の際に各地のローマ教皇領を没収したことからカトリックを破門され、他界時に修道院の歴代墓所に埋葬できなかったことから、息子のウンベルト1世がパンテオンに墓所を設置した。
 
〔参考資料〕『最新名曲解説全集』(音楽之友社)、『名曲事典』(音楽之友社)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ国際大百科事典』(ブリタニカ)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト)、『ウィキペディア』ほか。



★ドニゼッティ/Gaetano Donizetti 1797.11.29-1848.4.8 (イタリア、ベルガモ 50歳)2018

Basilica of Santa Maria Maggiore, Bergamo, Provincia di Bergamo, Lombardia, Italy



サンタ・マリア・マッジョーレ教会 ドニゼッティは古都の誇り 肖像レリーフつき

なんとベルガモの広場で生カルメン! 柵の外側は無料で楽しめる! イタリアは日常生活の側にオペラがある

声部の旋律美を追究したベルカント・オペラの代表的なイタリアの作曲家ガエターノ・ドニゼッティ。ドニゼッティより5歳年長のロッシーニ(1792-1868)、4歳年下のベッリーニ(1801年11月3日 - 1835年9月23日)と並ぶ19世紀前半のイタリアオペラ界を代表する3大作曲家の1人。速筆家で50年の生涯に70曲を超えるオペラを残しており、「オペラを書くのはやさしい。難しいのは舞台稽古だ」と豪語。
1797年11月29日にアルプスの麓にあたる北部ベルガモで生まれる(当時チザルピーナ共和国。同年ベルガモはベネツィア共和国の支配を脱している)。
1806年(9歳)、家は貧しく慈善音楽院でチェンバロやヴィオラ、歌を学ぶ。
1815年(18歳)、ボローニャ音楽院に入学。父が法律家にさせようとしたため、それを拒否して軍隊に志願し、兵籍のまま余暇にオペラを作曲し好評を得た。
1816年(19歳)、オペラ第一作『ピグマリオン』を作曲(未上演)。この年、ロッシーニの『セビリアの理髪師』がローマで初演される。同作をロッシーニが13日で書きあげたことが話題になると、後にドニゼッティは「13日もかけるなんて怠け者だ」と評した。
1818年(21歳)、4作目のオペラ『ボルゴーニャのエンリコ』が初めて舞台で上演される。その後オペラの作曲に専念する。
1822年(25歳)、9作目のオペラ『グラナダのゾライデ』がローマで成功し注目される。
1823年(26歳)、除隊。オペラ制作に集中する。
1827年(30歳)、オペラ26作目となるオペラ・ブッフア『劇場の都合』初演(後に『劇場的都合不都合』に改作)、オペラの舞台裏を描いた楽しい喜劇で人気作となる。同年、ベートーヴェンがウィーンで他界。享年56歳。
1829年(32歳)、ナポリ王立劇場の音楽監督に就任。
1830年(33歳)、12月26日にオペラ約37作目(ドニゼッティの楽曲は作品番号がなく未発表のオペラもあるため、このあたりから“約”とつけておく)の『アンナ・ボレーナ』がミラノで初演され、圧倒的な成功を収める。ドニゼッティは一ヶ月で書きあげた本作によって世界的名声を手に入れた。以降、若手作曲家のヴィンチェンツォ・ベッリーニ(当時29歳)と素晴らしきライバル関係となり、互いに大規模オペラを発表していく。
本作は英国王ヘンリー8世(劇中ではエンリーコ8世)の王妃アン・ブーリンの悲劇を描いた史実に基づいた作品。英国王室史上最多の計6回結婚したヘンリー8世。王は妻キャサリンの侍女アン・ブーリンと結婚するため離婚したがったが、ローマ教皇が離婚を認めないため教皇と訣別し英国教会を設立した。ところが、浮気な王は2番目の妻となったアンにも飽きて侍女ジェーン・シーモアを好きになったことから、美男の宮廷楽師スミートンとアンが不義を犯したうえ王の暗殺を企んだとでっちあげ、アンをロンドン塔で処刑した。5回目の結婚相手キャサリンはアンの従姉妹だったが、彼女も処刑されている(アンの処刑からまだ6年しか経っていない)。ヘンリー8世はメチャクチャだ。後にアンの娘エリザベス一世はスペイン無敵艦隊を破っている。
※アンナ・ボレーナ…舞台はウィンザー城。英国王エンリーコ8世は王妃アンナの女官ジョヴァンナを新しい愛人にしたことから、アンナと別れる策を練る。アンナの初恋の男で元恋人パーシー(ペルシー)卿は王に嫉妬されて国外追放されていたが、王はパーシーを呼び戻してアンナと引き合わせ、パーシーにアンナへの想いを打ち明けさせる。「二度と会いません」と拒むアンナに絶望したパーシーは自殺するため剣を取り出す。そこにアンナを密かに想って近くに潜んでいた宮廷楽師スミートンが飛び出しパーシーを止める。してやったりと王が踏み込み、アンナたち3人を反逆罪で死刑にする。アンナは牢獄で正気を失い死ぬ。
※『アンナ・ボレーナ』アンナ役はネトレプコ!https://www.youtube.com/watch?v=clWT44XQA8g
※ドニゼッティ女王三部作…『アンナ・ボレーナ』、スコットランド女王メアリー・ステュアートを描いた『マリア・ストゥアルダ』、エリザベス1世の晩年を描いた『ロベルト・デヴリュー』。
1831年(34歳)、ベッリーニ(30歳)が傑作オペラ『ノルマ』をミラノで初演。
1832年(35歳)、約43作目のオペラ作品、喜劇的オペラ『愛の妙薬』全2幕を2週間で作曲、ミラノで初演。本作は大当たりし、初演から30回以上再演され、ドニゼッティの名は一段と高まった。
※『愛の妙薬 日本語字幕』パヴァロッティ主演
※『愛の妙薬』から“人知れぬ涙”(OVA『ジャイアント・ロボ』でアニメファンには超有名!) https://www.youtube.com/watch?v=TCPGkhNXAT8
※『愛の妙薬』…舞台は19世紀のスペイン北部バスク地方の農村。美しい農場主の娘アディーナは読書を好み、村人に「トリスタンとイゾルデ」に出てくる愛の妙薬の話をする。農夫ネモリーノは無学である恥ずかしさから愛を告白できないでいた。村外れに宿営するベルコーレ軍曹はアディーナにプロポーズするが彼女ははぐらかす。インチキ薬売りのドゥルカマーラ博士が行商に訪れたので、ネモリーノは「イゾルデが飲んだ愛の妙薬が欲しい」と願い、ドゥルカマーラは安ワインを秘薬として売りつける。ネモリーノはワインで陽気になり、アディーナに「君は僕を好きになる」といい、彼女は反発してベルコーレ軍曹のプロポーズを受け入れてしまう。大慌てしたネモリーノは「愛の妙薬」をもう一本買おうとするがお金がない。入隊するとお金がもらえると知り軍に志願し、それを知ったアディーナは彼女のために出征するネモリーノの気持ちに感動し、入隊契約書をベルコーレから買い戻し彼を自由にした。二人は永遠の愛を誓い、村人は「愛の妙薬」の効き目に驚き我先にとインチキ薬を買い求め幕が下りる。ネモリーノがアディーナの愛を知ったときの歌『人知れぬ涙』は、この作品を代表する名歌として知られる。
 
1833年(36歳)、『ルクレツィア・ボルジア』をミラノ・スカラ座で初演。ボルジア家の為に政略結婚を繰り返したルクレツィアが、5人を毒殺する際に過って実の息子まで殺してしまう悲劇を描く。
※『ルクレツィア・ボルジア』舞台のセットがサイバーパンク
1834年(37歳)、ナポリの王立音楽院の対位法・作曲の教師となる。
1835年(38歳)、ナポリで劇場の音楽監督学校の教授に復職。続いて代表作となるオペラ約55作目『ランメルモールのルチア』を作曲。原作はスコットランドの作家ウォルター・スコットの小説「ラマームーアの花嫁」。速筆のドニゼッティには珍しく6週間をかけて作曲している。政略結婚で恋人と引き裂かれ、正気を失ったヒロイン・ルチアが延々と歌い続ける「狂乱の場」が有名。新郎を刺した血まみれのナイフを手にして歌われるアリアは、ソプラノの高度なテクニックと演技力が必要とされる当オペラ屈指の見せ場。当時、フランス革命の余波を恐れた周辺国は、体制による言論統制や思想弾圧が行われ、生活に重い空気が満ちていた。それゆえ、人々は幻想や現実逃避に走り、本作のようにコルラトゥーラソプラノが超絶技巧で歌う「狂乱オペラ」が流行していた。
※『ランメルモールのルチア』…ベルカント・オペラの傑作。舞台は17世紀スコットランド。ランメルモール領主エンリコ・ラヴェンスウォードは、落ち目の家運を上げるため、妹ルチアを実力者アルトゥーロ公と政略結婚させようとするが、ルチアは兄の宿敵エドガルドを愛していた(彼女はエドガルドに暴れ牛から助けられたことがある)。エドガルドは父をエンリコに殺され城も奪われたが、今はルチアを愛しており、エンリコと和解し結婚の許しをもらおうと考えている。2人は密かに指環の交換もした。エンリコはエドガルトとの恋を終わらせるため、心変わりを知らせる偽の手紙をルチアに見せ、悲嘆にくれる妹に一族を破滅から救うためアルトゥーロ公との結婚を強要、承諾させる。事情を知らないエドガルドはルチアの裏切りを激しく責め、指環をもぎ取り目の前で叩きつける。その後の第3幕「狂乱の場」では、悲しみで気の触れたルチアは新婚の夫を刺殺し、返り血を浴びて結婚披露宴の人々の前に現れ、エドガルドとの結婚の幻想を延々と歌い上げて息絶える。エンリコは妹を発狂させたことを激しく後悔する。エドガルドはルチアが本当は彼を愛していたこと、そして狂って死んだことを知り、ルチアと天国で結ばれるためにエドガルドも胸を刺して後を追うのであった。
 
1835年(38歳)、ベッリーニがパリでグランドオペラ『清教徒』を上演し大成功を収めレジオン・ドヌール勲章に輝くが、数か月後に腸疾患のためわずか33歳で客死する。グランドオペラはフランス向けにバレエや大規模な合唱シーンが入ったもの。
1837年(40歳)、ベッリーニ追悼のための『レクイエム』を作曲。また、この年は妻を失っている。
※『レクイエム』 https://www.youtube.com/watch?v=bz1u31I0auY (76分)
1838年(43歳)、キリスト教に改宗して殉教した古代ローマ軍の士官、聖ポリュクトゥスを描いたオペラ『ポリウト』の上演が、「殉教者をオペラで描くことはキリスト教に対する冒涜」と当局に禁じられ、ドニゼッティは『ポリウト』発表の機会を求めてパリに移住した。
1839年(42歳)、『ポリウト』で再起をはかろうとしていた元人気テノール、アドルフ・ヌーリは上演中止に絶望しナポリのホテルの窓から投身自殺する。一方、ドニゼッティはフランスで『殉教者』(『ポリウト』から改題)の初演を実現させた(1840年説あり)。『ポリウト』のイタリア初演は1848年。
1840年(43歳)、オペラ約68作目のオペラ・コミック『連隊の娘』全2幕を作曲。信じ難いが第2幕を4時間で書いたという伝説がある。パリのオペラ=コミック座で初演を見たベルリオーズは、ドニゼッティ色に染め上げられた空間を見て「全てがドニゼッティ氏の歌劇場となってしまった」と皮肉を込めて語ったという。
※『連隊の娘』…舞台は19世紀初め、ナポレオン戦争時のスイスのチロル地方。フランス軍第21連隊が軍曹シュルピスに率いられて村に現れる。そこには連隊に育てられた孤児の娘マリーもいた。青年がスパイ容疑で連行されるが、彼はかつて崖から落ちたマリーを救ってくれた命の恩人トニオだった。トニオはマリーに惹かれて連隊に近づきスパイと間違われたのだ。トニオも入隊し結婚を希望すると、連隊の男たちは「マリーは連隊と婚約したのだ、あの娘がお前を好きだとしても腹が立つ、こんな青二才に」としぶしぶ認める。ところが2人が愛を育み始めたとき、マリーがベルケンフィールド侯爵家の跡継ぎであることが判明。彼女は連隊と別れ、侯爵夫人に引き取られパリに出る。マリーは上流階級の礼儀作法を教え込まれるが、楽しかった連隊の生活を思い出す。そこへ大尉に昇進したトニオがやって来てマリーに求婚。侯爵夫人はマリーを貴族と結婚させたかったが、マリーの誠実さに心を打たれ2人の結婚を許す。人々は「フランス万歳」と叫び終幕。
※『連隊の娘』ナポレオン時代演出 https://www.youtube.com/watch?v=PEztWfjg12I
※『連隊の娘』現代風演出 第1幕 https://www.youtube.com/watch?v=0Txkkp9WBPE
トニオ役は「100年に一人のテノール」といわれるペルー出身のファン・ディエゴ・フローレス(1973生)。ハイCを9回連続で歌うこの難役が当たり役となった。超高音を得意とするベルカントオペラでは現代最高のテノール。イタリアの音楽誌は「想像しうるかぎり最も美しい楽器のように響く」と絶賛。この動画では、第一幕の後半で聴衆の喝采に応えて、同じ歌を2回連続で歌っている!
同じ1840年、グランド・オペラ『ファヴォリータ』をパリ・オペラ座で初演。ファヴォリータは“寵姫”、王の愛人の意。修道士フェルナンドと王の愛人レオノーラの悲恋を描き、最後に腕の中で息を引き取るレオノーラを見てフェルナンドが絶叫するという、音楽の劇的さからも、後のヴェルディを彷彿させる悲劇。
1842年(45歳)、グランド・オペラ『シャモニーのリンダ』を作曲、ウィーンにて自身の指揮で初演。この作品のヒットでオーストリア皇帝から宮廷楽長および宮廷作曲家に任命される。同年ロッシーニの『スターバト・マーテル』のイタリア初演をボローニャで指揮し大成功を収める。
 
1843年(46歳)、オペラ約74作目、オペラ・ブッファ(喜劇オペラ)の傑作『ドン・パスクアーレ』全二幕を作曲し、パリのイタリア劇場で初演。『ドン・パスクアーレ』は半世紀後にヴェルディが『ファルスタッフ』を書くまで、ロッシーニ『セビリアの理髪師』、ドニゼッティ『愛の妙薬』と並ぶイタリア三大喜歌劇に数えられていた。
※『ドン・パスクアーレ』…舞台は19世紀初頭のローマ。70歳になる金持ちの独身老人ドン・パスクワーレは、財産を同居している甥エルネストに譲ろうと思っていたが、エルネストは若い未亡人ノリーナに惚れ込んでおり、金持ち令嬢との縁談を拒否。パスクワーレはこの際自分が結婚して子供に財産を譲ろうと考え、友人の医師マラテスタに相手を探してもらう。マラテスタは妹を勧めパスクワーレは大喜びする。これはエルネストをサポートするマラテスタの作戦だった。彼の妹は修道院に入っており、未亡人ノリーナを妹に化けさせてパスクワーレに引き合わせた。おしとやかで美人の花嫁を見てパスクワーレは歓喜、公証人を連れてきておりその場で挙式を上げる。ところが結婚の署名をした瞬間、偽物の妹の態度が一変、贅沢好きの超わがまま女房に激変する。新妻はパスクワーレをほったらかして芝居見物に出かけ、わざと密会の約束が書かれた偽手紙を落としていく。パスクワーレは離婚の口実が出来たと思って喜び、エルネストにはノリーナとの結婚を認める。そこでマラテスタは一連の騒動がすべて自分の企みであったと白状し、若者達もあざむいた非礼を詫びた。パスクワーレは謝罪を受け入れて彼らを祝福し「万歳、パスクワーレ」と大団円を迎える。
1844年(47歳)、この頃から梅毒や双極性障害(躁うつ病)が原因と思われる頭痛や神経性麻痺に見舞われる。
1845年(48歳)、最後のオペラ、約78作目の『ポルトガル王ドン・セバスティアン』が完成。
1847年(48歳)、バルセロナのリセウ大劇場の?落としに『アンナ・ボレーナ』が選ばれる。
1848年、体調悪化で故郷ベルガモ(当時オーストリア帝国領ロンバルディア)に戻り、4月8日に他界。享年50歳。
1947年、バルセロナのリセウ大劇場の開場100周年で『アンナ・ボレーナ』が再演される。
1957年、『アンナ・ボレーナ』のスカラ座初演が実現、ルキノ・ヴィスコンティ演出、マリア・カラスがアンナを演じ、伝説的名演とされる。カラスは歌手人生でひとつの頂点を築いた。
1960年代以降、「ドニゼッティ・ルネサンス」と称されるドニゼッティ再評価運動が起き、様々な作品の上演が増加。
 
ドニゼッティはイタリアのオペラ・セリア(悲劇)とフランスのグランド・オペラ(大規模オペラ)を融合させ、甘美で滑らかな旋律を多数生み出した。その数70作以上。歌手はドニゼッティの作品を表情豊かなベル・カント唱法(うつくしい歌い方)で流れるように表現。音楽史ではロッシーニの後継者に位置づけられ、オペラを発展させてイタリア音楽をヴェルディに受け継いだ。
※『弦楽四重奏曲第7番〜第18番』(作業BGM用)https://www.youtube.com/watch?v=xr0EErtRVMI 4時間
 
〔墓巡礼〕
ドニゼッティはアルプスの麓にある故郷ベルガモ(ミラノの北東45km)のサンタ・マリア・マッジョーレ教会(Basilica of Santa Maria Maggiore)に眠っている。同教会は中世の面影を残す城壁に囲まれた旧市街に位置する。道が入り組みレンタカーでなかなか近づけず、迷った挙げ句教会の閉門時間に間に合わぬというトホホな事態に。周辺に安宿はなく、公営駐車場で夜間料金を払って眠ることにした。夕食を警官に教えてもらった安いピザ屋で済ませ、その帰り道の出来事。広場から何か音楽が聴こえる。うわっ、カルメンだ!なんと、ドニゼッティの墓所の教会前広場が野外劇場となり、オーケストラの生演奏でカルメンを上演していた!フェンスの内側は「有料&椅子あり」、外側は「無料&立ち見」。有料席は既に満席、フェンスの外で舞台と音楽を楽しんだ。っていうか、フェンスの内側と外側は2メートルしか離れてないので、無料で聴けるのはめっさラッキーだった。休憩時間を入れて3時間を超える講演、終了したのは24時半!野外オペラを初鑑賞し、イタリアは人々の暮らしとオペラの距離がとても近いと実感。日常生活の延長線上にオペラがある。閉門時間に間に合わなかったからこそ観劇できたわけで、この偶然に感謝した。翌朝9時にサンタ・マリア・マッジョーレ教会が開くと、真っ先にドニゼッティの墓へ向かい、昨夜のオペラ生体験を報告、人生を豊かにしてくれるオペラを70作以上も書いたドニゼッティの偉業を心底から讃えた。

墓碑には
TROVATORE FECONDO DI SACRE E PROFANE MELODIE
I FRATELLI GIUSEPPE E FRANCESCO
CON MEMORE AFFETTO PONEVANTO MDCCCLV
ときに神聖、ときに世俗的なメロディーを数多く生み出した吟遊詩人(トロヴァトーレ)
ジュゼッペとフランチェスコの兄弟が
情愛の思い出とともに記念碑を建てる−−1855年



★ジョヴァンニ・パレストリーナGiovanni Palestrina 1525.2.3-1594.2.2 (ヴァチカン市国 68歳)2018
Saint Peter's Basilica, Vatican City//Plot: Tomb destroyed in the 1700's by new construction.

パレストリーナの墓は1700年代に失われたが亡骸は地下にあり、サン・ピエトロ大聖堂そのものが彼の墓石ともいえる

〔パレストリーナ以前の音楽史〕
約1400年前、バラバラだった聖歌の歌詞を教皇グレゴリウス1世(在位590-604)が統一的に整備し、シンプルな“単旋律”の聖歌をグレゴリオ聖歌と呼ぶようになった。ただし後の研究でグレゴリオ聖歌の原型は9世紀頃のカロリング朝の聖歌と見られている。ローマ教会の勢力拡大のため、グレゴリオ聖歌は欧州全域に伝わった。
1337年、フランスの王位継承問題などをめぐり英仏間の“百年戦争”が勃発。
1350年頃、“アルス・ノヴァ(新芸術)”を代表するフランスの作曲家ギヨーム・ド・マショー(1300-1377)が、史上初めてひとりの作曲家が全曲を書いた4声の多声ミサ曲『ノートル・ダム・ミサ曲』を完成。日々のミサで使用されるミサ通常文の5つの部分を使い、ランスのノートルダム寺院のために書いた。それまで歌い手の人数に関係なく同じひとつの旋律を歌っていた“単旋律”=グレゴリオ聖歌の時代が終わり、4声のパートが絡み合い、響き合うものになった!マショーのミサ曲は670年前のもので、ベートーヴェンが生まれるより420年も昔の曲。でも楽曲として充分鑑賞に堪えうるし、寝る前に聴いてると落ち着く。
※『ノートルダム・ミサ』 https://www.youtube.com/watch?v=mvIEA2dBKGA (28分37秒)
 
1430年頃、“中世最後の作曲家”イギリスのジョン・ダンスタブル(1390年-1453)が代表曲のモテット(多声教会音楽)『来たれ精霊よ 来たれ創造主なる精霊』を作曲。ダンスタブルはミサ曲やモテットなど50曲以上の教会音楽を書いた。百年戦争休戦時にフランス・ブルゴーニュに滞在し、イングランド独自の3度と6度の音程を中心とした美しい響きの和声法を大陸に伝えたことで本格的なポリフォニー(多声音楽)に発展、ルネサンス音楽開始のきっかけとなる。ダンスタブルは中世からルネサンスの移行期に音楽面で重要な役割を果たした。
※ダンスタブル『来たれ精霊よ 来たれ創造主なる精霊』https://www.youtube.com/watch?v=9dYAEpf-A-A (5分44秒)
※ダンスタブル『おお、美しいバラよ』https://www.youtube.com/watch?v=YJyeg3_P7O8 (3分42秒)
※ダンスタブル『主の保護のもとに』https://www.youtube.com/watch?v=j18rR4OLf9o (4分)
中世とバロックの間の時代に位置するルネサンス音楽は、ダンスタブルの影響をうけたフランスの作曲家ギヨーム・デュファイ(1397-1474)によりブルゴーニュ楽派へと発展していく。デュファイは音楽の形式および精神の点で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行なった音楽史上の巨匠。
デュファイ以前のミサ曲は3声だったが、デュファイは活動中期から主に4声を用い始めた。また、各楽章を同じ冒頭モチーフで始まるようにした循環ミサ曲の形態を確立し、これは400年後にワーグナー(1813〜1883)の楽劇で使用される「ライトモティーフ(示導動機)」に繋がる。対位法に優れ、新しい和声語法の確立に尽力するなど、デュファイはルネサンス時代の音楽の先駆者となった。無機質な宗教音楽の時代から、人文主義が隆盛したルネサンス的な「人間」を感じさせる表現に移っていく。
1453年、ジャンヌ=ダルクの活躍などで百年戦争が終結。英軍はカレーを除く全フランスから撤退。
1464年頃、晩年のデュファイはミサ曲『アヴェ・レジナ・チェロルム(幸いなるかな天の女王)』を作曲。
※デュファイ『アヴェ・レジナ・チェロルム』から「アニュス・デイ」https://www.youtube.com/watch?v=R8eKtS51DBs デュファイが自分の葬儀用に心を込めて書いた旋律
※デュファイ『パドヴァの聖アントニウスのミサ曲』美しいミサ曲https://www.youtube.com/watch?v=rKob4InO82w(6分30秒)
※デュファイのモテット『バラの花は新しく』https://www.youtube.com/watch?v=_dV5b8AuLHg (6分43秒)
デュファイとジョスカン・デ・プレの間の世代で最重要の作曲家ヨハネス・オケゲム(Ockeghem/1410-1497)は、作曲年代が不明ながら、ポリフォニー(多声音楽)で書かれた現存する最古の『レクイエム』を完成させている。オケゲムの墓があった中部フランス・トゥールの聖マーティン修道院は現存せず、場所も未確定。
※オケゲム『レクイエム』 https://www.youtube.com/watch?v=jhalwf7av3k
少し時を遡った1440年に、ルネサンス期最大の作曲家で、ルネサンス音楽を主導したフランドル楽派を代表するジョスカン・デ・プレ(Josquin des Prez/1440-1521本名ジョスカン・ルブロアット)が生まれている。生地は不明だがベルギーに近いコンデシュルレスコーで没している。ジョスカンは和声を充実させ、各声部が均等に動くポリフォニー技法を完成。当時の全ての作曲技法を意のままに操り、構築美にあふれた簡潔で明快な作品を多数書いた。ミサ曲20曲、モテット(多声教会音楽)95曲、世俗曲シャンソンなど約70曲が残され、デュファイ、オケゲムと受け継がれてきた循環ミサ曲をさらに発展させた(ライトモティーフを全声部に拡大)。
1497年にオケゲムが他界すると、弟子のジョスカンは『オケゲムの死を悼む挽歌(森のニンフ)』を作曲し捧げた。
※『オケゲムの死を悼む挽歌(森のニンフ)』https://www.youtube.com/watch?v=bTvYwoGdD8Y (5分12秒)
オケゲムは最晩年にルネサンス・ポリフォニーの典型と評される傑作ミサ『パンジェ・リングア』を作曲している。
※『パンジェ・リングア』 https://www.youtube.com/watch?v=vlB1HR4BgUg (29分)
※『はかりしれぬ悲しさ』 https://www.youtube.com/watch?v=3GBwbt6hK6c (2分17秒)
※『祝されたり、天の女王(聖母マリア)』https://www.youtube.com/watch?v=K4N6NrPBalE (6分24秒)後世にパレストリーナが題材とした名曲。最後の余韻が良い。
※『アヴェ・マリア』 https://www.youtube.com/watch?v=bAHYobn5iq8 (7分)
 
●カトリックの宗教曲を多く残し「教会音楽の父」と呼ばれるイタリア・ルネサンス最後の大音楽家ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)は1525年2月3日にローマの約30km南東の町パレストリーナに生まれる。本名はジョヴァンニ・ピエルルイージで、パレストリーナは出身地にちなむ通称。
1532年(7歳)、後にローマ楽派のパレストリーナと並ぶポリフォニー様式の大家となった、フランドル楽派最後の大家オルランド・ディ・ラッソ(ラッスス)が現ベルギーに生まれる。
1537年(12歳)ごろからローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会で聖歌歌唱を学ぶ。
1544年(19歳)、故郷の大聖堂のオルガン奏者・聖歌隊指揮者に就任。この頃、パレストリーナは初めて『ミサ曲集』の楽譜を出版。当時の宗教音楽は外国人の手によるものばかりで、イタリア半島出身者の最初の出版作品となった。この『ミサ曲集』は教区司教=のちのローマ教皇ユリウス3世に好印象を与えた。
1551年(26歳)、ローマのサン・ピエトロ大聖堂内ジュリア礼拝堂聖歌隊の楽長に就任。前年に教皇となったユリウス3世による大抜擢であった。
1555年(30歳)、ユリウス3世が他界。パレストリーナは後継のパウルス4世から、既婚者であることを理由に解雇される。同年から1560年まで、ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会(旧教皇庁)の楽長に就く。
同年、作曲家ジョバンニ・ガブリエリ(1555-1612)がヴェネツィアに生まれる。彼は同地のサン・マルコ大聖堂のオルガン奏者でもあり、現在では当たり前になっているフォルテやピアノといった音量の指示を初めて明確に指示し、演奏楽器の指定も行った。強弱や音色の対比の効果をとりいれた宗教曲を発展させ、ダイナミックな表現はバロック音楽の先駆となった。
この頃、名歌『インプロペリア』を作曲。パレストリーナの唯一の自筆楽譜が残されている。
※『インプロペリア』冒頭の歌詞は“世の救い主のかかりたまいし十字架を見よ”
1561年(36歳)から1566年まで、パレストリーナはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の楽長に就く。
1562年(37歳)、翌年にかけてプロテスタント宗教改革への対策を検討する第三期トリエント公会議(第19回トレント宗教会議)が開かれ、免罪符販売を禁じるなどカトリック教会の内部刷新がはかられた。その中で、教会音楽を原点の簡素な単旋律に戻し、ポリフォニー(多声音楽)を禁ずる動きがあった。だが、パレストリーナが単旋律と複雑なポリフォニーを見事に融合した美しい作品を書き、アンチ・ポリフォニーの流れを阻止したとも伝えられ、それゆえ“教会音楽の救世主”とも讃えられている…と、古い百科事典には書かれているが、近年の研究でこの伝承は否定されている。ドラマチックなだけにちょっと残念。ただ、実際に聖歌への世俗曲の旋律の転用が禁止されるなど、宗教会議から教会音楽への介入はあった。
1565年(40歳)から1571年まで、新設されたローマのイエズス会神学校の最初の音楽教師としても活躍した。
1567年(42歳)、代表曲となる『教皇マルチェルスのミサ』を出版。同年から1571年まで、エステ家出身の枢機卿イッポリト・デステ2世の別荘の音楽監督として世俗音楽の仕事にもかかわった。この年、“オペラの父”モンテヴェルディが生まれている。
※『教皇マルチェルスのミサ』 https://www.youtube.com/watch?v=4JXT1x1zo5U(58分)作曲当時から傑作の呼び声が高い。
1571年(46歳)、厳格なパウルス4世が12年前に没したこともあり、パレストリーナはサン・ピエトロ大聖堂に呼び戻されジュリア礼拝堂の楽長に復帰した。23年後に逝去するまで当職に就く。
1572年、ペストで弟を亡くす。
1575年、ペストで二人の息子を亡くす。
1580年、ペストで妻を亡くす。
1581年、ヴェネツィアで「バビロン川のほとりに」「谷川慕いて」を含む『四声モテット集第二巻』を出版。
※『バビロン川のほとりに』バビロン捕囚となった者が敵に歌を歌うよう命じられて拒否し、イスラエルを思って涙する歌 https://www.youtube.com/watch?v=pbHz3-CNh6U
※『谷川慕いて』鹿が谷川を求めるように魂が神を慕い焦がれるという歌。とても柔らかい響き https://www.youtube.com/watch?v=9mdmco61Htk (2分20秒)
1594年2月2日、誕生日前日にローマにて胸膜炎で他界。享年68歳。同日、「Liberame Domine(主よ、われを解き放ちたまえ)」と刻まれた銘板がある棺に入れられサン・ピエトロ大聖堂に埋葬され、その際にパレストリーナの聖歌が歌われた。その4カ月後、奇しくも同年に作曲家オルランド・ディ・ラッソもドイツで他界(享年62)している。
※ラッソの絶筆、精緻を極めた21の宗教マドリガーレからなる曲集『聖ペテロの涙』https://www.youtube.com/watch?v=8URQ0ZElT0Q
パレストリーナの作品はすべて声楽曲。その多くが楽器伴奏をともなわない無伴奏の合唱曲で、簡素、静穏、緻密な合唱様式はパレストリーナ様式と呼ばれた。ミサ曲102曲、モテット(多声教会音楽)250曲、マニフィカト(マリアの賛歌)35曲、オッフェルトリウム(奉納唱)68曲、賛歌45曲、さらにはラテン語ではなくイタリア語で書かれた世俗音楽の多声歌曲マドリガル、大衆歌曲カンツォーネなど、広範囲で膨大な作品を書きあげた。
パレストリーナは神秘的で流れるように優美な旋律のカーブを描く裏技として、各声部のリズムの強拍が一致しないよう別々の強弱パターンを書き、拍節(はくせつ)感を消して連続性を出す工夫をしている。対位法を使った均質な響きが生みだす透明感のある作品は、後世の作曲家たちの素晴らしい手本となった。
※ミサ『アスンプタ・エスト・マリア』https://www.youtube.com/watch?v=CZn5CBuknIE (35分)パレストリーナのミサで最も美しい曲のひとつ。晩年の傑作。
 
〔墓巡礼〕
カトリック教会音楽の作曲に一生を捧げたパレストリーナの墓石は、カトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂にあったが、1700年代の建築工事で残念ながら破壊されたという。今も敷地のどこかで眠っており、僕は大聖堂そのものを墓石と見立ててサン・ピエトロ広場から追悼した。



★ヴォルフ=フェラーリ/Ermanno Wolf-Ferrari 1876.1.12-1948.1.21 (イタリア、ヴェネツィア 72歳)2018
Cimitero di San Michele, Venice, Provincia di Venezia, Veneto, Italy

  

ドイツの作曲法とイタリア風の旋律を巧みに融合したオペラ作曲家エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ(Ermanno Wolf-Ferrari)は1876年1月12日にヴェネツィアで生まれた。
父はドイツ人の画家、母はイタリア人。幼い頃からピアノを学び音楽好きになる。また、父の才能を受け継ぎ画才も発揮した。
1891年に15歳でローマの美術学校(『ららら♪クラシック』は「16歳でミュンヘンの美術学校」と言ってた)に入学したが、翌年音楽の道を諦めきれずミュンヘンの音楽学校に入学、1895年(19歳)まで同校で作曲を学ぶ。
20歳でいったん帰国し、合唱指導者として働き、結婚して子をもうける。
1900年(24歳)、オペラ『シンデレラ』を作曲。イタリアでの初演は不評だったがドイツでは成功した。
1901年(25歳)、カンタータ『新生』を作曲し好評を得る。この年、ヴェルディが87歳で他界。
※カンタータ『新生』みずみずしく心地よい。サン・サーンスっぽくなる箇所も。
1903年(27歳)、オペラ・ブッファ『詮索好きな女たち(聞きたがりの女たち)』が、作曲家として認知される。同年『弦楽セレナーデ』を作曲。この年、ヴェネツィアのマルチェッロ音楽学校の校長に就任。
※『弦楽セレナーデ』 https://www.youtube.com/watch?v=Ct4B5gWHtmQ (23分)
1906年(30歳)、オペラ・ブッファ『4人のがんこ者(四人の田舎者)』を作曲。
1909年(33歳)、オペラ・ブッファ『スザンナの秘密』を作曲。こっそり煙草を吸っていた新妻が、服についた匂いを浮気相手のものと疑われて騒動になる喜劇。同年、6年間務めた校長職を退任し、作曲家として活動するためミュンヘンに移る。
※『スザンナの秘密』序曲。心踊る旋律。https://www.youtube.com/watch?v=_S00EkuSANg (5分44秒)
1911年(35歳)、自作オペラは“イタリアで失敗、ドイツで成功”のパターンが続き、なんとかイタリアで成功したいと願い、イタリア人が好む新しいオペラを生み出すべく作風を変えて新作に挑む。マスカーニの大ヒット作『カヴァレリア・ルスティカーナ』が示した3つの特徴「悲劇、庶民が主人公、美しい間奏曲」を取り入れ、喜劇をやめて初めて悲劇に挑戦し、リアルな庶民の物語を創作、優れた間奏曲を書き、代表作となるオペラ『聖母の宝石(マドンナの宝石)』全3幕を書きあげ、まずはベルリンで初演した。大成功を収め、アメリカ公演もうまく行き、世界に名が知られる。ところが、祖国イタリアではまたもや失敗。理由は会話が自然に聞こえる音楽を優先するあまり、イタリアの聴衆が求めていた印象的な旋律の歌が少なかったため。男女の愛憎劇を描いた本作は、オペラ・ブッファ(喜劇オペラ)を得意としたヴォルフ=フェラーリにとって、ヴェリズモ(現実主義)の流れを受け継ぐ唯一のグランド・オペラとなった。悲劇オペラであるが、抒情的で美しい間奏曲は人々に愛され、音楽だけの間奏曲にはヴォルフ=フェラーリの歌心が存分に発揮されている。
※『聖母の宝石』…現代のナポリが舞台。鍛冶屋の若者ジェンナロはカルメンのように奔放な義妹マリエラを愛している。聖母祭りの日、悪党の親分ラファエレが彼女に「お前のためなら聖母像の宝石の首飾りだって盗んでやるぜ」と口説くのを聞き、ジェンナロが自分で宝石を盗みプレゼントする。ところがマリエラはラファエレを選び、人々にジェンナロが泥棒したと告げ口。ジェンナロは裏切りに絶望して自刃する。このオペラには二つの美しい間奏曲があり、単独でもしばしば演奏される。
※『聖母の宝石』間奏曲第1番 https://www.youtube.com/watch?v=x_B7Iavkuhs (4分30秒)
1913年(37歳)、オペラ・ブッファ『恋をする医者』を作曲。
1914年(38歳)、ヴォルフ=フェラーリとって悪夢となる第一次世界大戦が勃発。母国イタリアと自作オペラの理解者ドイツが戦争状態になってしまった。開戦後、スイスのチューリッヒに移住し仕事量が激減する。
1918年(42歳)、第一次世界大戦が終結。
1922年(46歳)、ムッソリーニが権力を掌握。
1924年(48歳)、プッチーニが65歳で他界。
1939年(63歳)、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院の作曲科教授に就任。
1944年(68歳)、代表作のひとつとなる『ヴァイオリン協奏曲』をミュンヘンで初演、聴衆の支持を得る。
※『ヴァイオリン協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=xy1Tsy5ueIU (35分)
1947年(71歳)、ヴェネツィアに戻る。
1948年1月21日にヴェネツィアで他界。享年72歳。
2007年、『ヴァイオリン協奏曲』の日本初演。ソリストは川畠成道。
数多くの美しい旋律を生み出し、プッチーニの次世代の作曲家として注目されたヴォルフ=フェラーリ。20世紀初頭のコミック・オペラの第一人者であるが、オペラ以外にも、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲などを作曲している。
 
〔墓巡礼〕
故郷ヴェネツィアのサン・ミケーレ島の墓地(Cimitero di San Michele)に埋葬された。このサン・ミケーレ島は、ヴェネツィア各地から墓が集められた墓地に特化した島だ。一番奥の方の壁沿いにヴォルフ=フェラーリの墓所があった。第一次世界大戦中、母の国イタリアと父の国ドイツが戦い、自身は中立国スイスに身を置いたことに苦悩を感じる。晩年は第二次世界大戦も体験したが、ムッソリーニとは距離を置き、オーストリアのモーツァルト生誕地ザルツブルク で過ごしている。お墓には胸像があり、厳しい表情で遠くを見据えていた。同じ墓地に作曲家ストラヴィンスキー、興行師ディアギレフ、物理学者ドップラーなどが眠る。



★レスピーギ/Ottorino Respighi 1879.7.9-1936.4.18 (イタリア、ボローニャ 56歳)2018
Cimitero Monumentale della Certosa di Bologna, Bologna, Provincia di Bologna, Emilia-Romagna, Italy//Plot: Campo Carducci. Lato destro C1

 

20世紀イタリア音楽を代表する最大の器楽作曲家オットリーノ・レスピーギは、1879年7月9日にボローニャで生まれた。家族はみな音楽好きで、音楽教師の父からヴァイオリンとピアノの手ほどきを受ける。
1891年(12歳)、地元ボローニャの音楽学校に入りバイオリンとビオラを学び、さらに作曲を学ぶ。
1899年(20歳)、音楽学校を卒業。
1900年(21歳)、ロシアのサンクト・ペテルブルクにて帝室歌劇場首席ビオラ奏者を務める。当地でリムスキー=コルサコフ(1844-1908)の作品に感動し、約半年ほど作曲と管弦楽法を師事。後にレスピーギの代名詞となる華やかなオーケストレーションは、恩師リムスキー=コルサコフから学んだもの。ちなみにレスピーギより3歳年下のストラヴィンスキー(1882-1971)も晩年のリムスキー=コルサコフから作曲法を学んでいる。
1902年(23歳)、ベルリンに演奏活動をしながら滞在し、マックス・ブルッフに師事(レスピーギ夫人は否定、ウィキは「ボローニャに戻った」とし、ベルリン滞在は1908年からとしている)。
1906年(27歳)、ムジェッリーニ五重奏団に第1ヴァイオリン奏者として迎えられる。
1908年(29歳)、翌年にかけてベルリンの声楽学校のピアニストとなる。
1909年(30年)、帰国後、演奏家から作曲家に転向し、作曲活動に打ち込む。
1913年(34歳)、ローマの名門、聖チェーチリア音楽院から声がかかり作曲科教授に就任、教育者としても活動し、門下から多くの作曲家を輩出した。ローマに移住したレスピーギは、噴水や街並の美しさに驚く。
1914年(35歳)、第一次世界大戦が勃発。同年、『劇的交響曲』を完成。
※『劇的交響曲』中盤の壮大さに圧倒https://www.youtube.com/watch?v=NsE0NDzWw74 (60分)
1916年(37歳)、交響詩ローマ三部作の第1弾となる『ローマの噴水』を作曲。レスピーギはスコアの序文に次の言葉を寄せた。「ローマの四つの噴水で、その特徴が周囲の風物と最もよく調和している時刻、あるいは眺める人にとってその美しさが、最も印象深く出る時刻に注目して受けた感情と幻想に、表現を与えようとした」。当時、リヒャルト・シュトラウスの交響詩が音楽界を席巻し、単一楽章で文学的な標題を取り扱っていた。レスピーギは交響曲と同じ4楽章形式で交響詩を書くことを考案、詩的な内容で関連付けることで新しい交響詩を誕生させた。
※『ローマの噴水』…ローマにある4つの噴水が時刻の移ろいとともに変化していく様子を音楽で描写。
「夜明けのジュリアの谷の噴水」夜明けの噴水を牛の群れが過ぎ去る。
「朝のトリトーネの噴水」朝の日差しの中で踊るナイアデス(水の精)とトリトン(半人半漁の海神)。
「真昼のトレヴィの噴水」ファンファーレと共に海神の馬車が疾走する。トレビの噴水の壮麗さを金管の旋律の盛り上がりで表現、高速で音階を奏でる弦と木管がほとばしる水をあらわす。
「黄昏のメディチ荘の噴水」輝かしい夕焼けと感傷に沈む噴水。
1917年(38歳)、『ローマの噴水』を初演するが評論家に嘲笑され、自信を喪失する。
1918年(39歳)、大指揮者トスカニーニがミラノで『ローマの噴水』を再演し大成功を収め、本作はレスピーギの名を内外に知らしめる出世作となった。同年、イタリアの古い音楽を管弦楽用に編曲した曲集『リュートのための古代舞曲とアリア 組
曲第1番』を作曲。レスピーギは聖チェチーリア音楽院教授を務めながら、図書館で古い時代の楽譜を色々と研究しており、その成果が3つの『リュートのための古代舞曲とアリア』に結実。この年、第一次世界大戦が終結。
1919年(40歳)、ロシア・バレエ団の主宰者ディアギレフの依頼で、主題をロッシーニの作品からとったバレエ音楽『風変わりな店』を作曲。玩具店の人形が深夜に動き出す物語。同年、弟子の声楽家エルザと結婚する。
1921年(42歳)、イタリアの古い音楽への関心をさらに深め、バイオリンと弦楽オーケストラのための『グレゴリオ聖歌風協奏曲』を作曲。独奏ヴァイオリンが合奏長、管弦楽が合唱団の役割を果たしている。
※『グレゴリオ聖歌風協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=bB5KRHTPTjA(32分)
1922年(43歳)、ムッソリーニが権力を掌握。
1923年(44歳)、オペラ『ベルファゴール』を作曲。同年、『リュートのための古代舞曲とアリア 組曲第2番』を作曲。
1924年(45歳)、交響詩ローマ三部作第2弾『ローマの松』を作曲。レスピーギは講演プログラムに記す。「『ローマの松』では、私は、記憶と幻想を呼び起こすために出発点として自然を用いた。極めて特徴をおびてローマの風景を支配している何世紀にもわたる樹木は、ローマの生活での主要な事件の証人となっている」。単純に松を情景描写した曲ではなく、松という自然を通して古代ローマに邂逅しようとした。同年、聖チェチーリア音楽院の院長となる(ウィキは1923年としている)。
※『ローマの松』…レスピーギはこの曲のために本物のナイチンゲールの声が入ったレコードを制作し、「ジャニコロの松」の最後にかけるよう指示している。生演奏にレコードの音を重ねるという非常に斬新な手法だ。現在は楽譜出版社が貸し譜にテープを付けるという。
「ボルゲーゼ荘の松」松並木で子供たちが元気よく遊んでいる。
「カタコンバ付近の松」カタコンバ(地下墓地)の入口の松の木陰に、地の底から悲嘆の聖歌が響く。
「ジャニコロの松」そよ風が大気をゆすり、満月の明るい光に松が照らされている。夜鶯(ナイチンゲール)が啼いている。
「アッピア街道の松」ローマと南部を結ぶアッピア街道の夜明け。朝霧の中からローマ軍の足音が地響きのように聞こえてくる。やがて朝陽が昇り霧が晴れ、太陽に照らされたローマ兵が勝ち誇った顔で歩いているのが見える。客席後方や2階席のバンダのファンファーレが加わって凱旋に華を添え、勇壮に全曲を閉じる。
【名盤聴き比べ】
※『アッピア街道の松』アントニオ・バッパーノ指揮ローマ聖チェリーリア音楽院
https://www.youtube.com/watch?v=e8xXEWDn7KM (5分36秒)雄大なスケールの行軍
※『アッピア街道の松』シャルル・デュトワ指揮モントリオール
https://www.youtube.com/watch?v=PnejiQ-TZJQ (4分27秒)色彩感を聴け
※『アッピア街道の松』トスカニーニ指揮NBC(1953)
https://www.youtube.com/watch?v=5jXhuV4VjgU (4分56秒)モノラルなのに迫力で涙が出てくる
※『アッピア街道の松』トスカニーニ指揮NBC(1945)
https://www.youtube.com/watch?v=IN0KIvpM4Kw (4分25秒)★最速!拍手込みだから実際は4分20秒ほどか
1925年(46歳)、ロッシーニの遺作のピアノ作品からレスピーギが発掘した4曲を編曲した管弦楽組曲『ロッシニアーナ』を作曲。同年、共著で初歩的な教則本を刊行。
※『ロッシニアーナ』 https://www.youtube.com/watch?v=PTBq6Z9O7cI (21分)
1926年(47歳)、『ローマの松』の成功を受け、作曲に専念するため音楽院の院長職を辞す。退任後も生涯同音楽院と関わった。同年、『ボッティチェッリの3枚の絵』を作曲。ルネサンスの画家ボッティチェリの絵を音楽で表現した意欲的な作品。第1曲「春」、第2曲「3人の博士の礼拝」、第3曲「ヴィーナスの誕生」。
※『ボッティチェッリの3枚の絵』いやはや、これは名曲っすよ!音の色彩感がハンパない https://www.youtube.com/watch?v=yqpMLh_UaaY (18分)
1927年(48歳)、古いクラブサン(ハープシコード)の曲を管弦楽作品に発展させ、鳩やカッコウを描いた組曲『鳥』を作曲。
1928年(49歳)、交響詩ローマ三部作第3弾『ローマの祭り』を作曲。同年、『ピアノと管弦楽のためのトッカータ』を作曲し、カーネギーホールにてレスピーギ自身のピアノ独奏で初演された。
※『ローマの祭り』…この交響詩にもレスピーギのコメント(標題)が各部に付いている。
「チルチェンセス」古代ローマ帝国時代、円形劇場で暴君ネロが捕らえたキリスト教徒たちに猛獣を放つ。
「五十年祭」ロマネスク時代の祭、世界の巡礼者がモンテ・マリオの丘に集まりローマを讃える讃歌を歌う。
「十月祭 」ルネサンス時代の祭。夕暮れ時のローマの城にセレナーデが流れる。
「主顕祭」 ナヴォーナ広場で行われる主顕祭の前夜祭。踊り狂う人々で広場は大賑わい。
※『ピアノと管弦楽のためのトッカータ』https://www.youtube.com/watch?v=E5UXd3OEV5g
1929年(50歳)、反ムッソリーニを明言していたトスカニーニ指揮で『ローマの祭り』が初演される(演奏ニューヨーク・フィル)。
1930年(51歳)、バッハのオルガン曲『パッサカリアとフーガ ハ短調』をオーケストラ用に編曲。
※『パッサカリアとフーガ ハ短調』深い精神性をたたえた、神編曲!ストコフスキーの編曲よりさらに神々しい。 https://www.youtube.com/watch?v=2EtLn6-6NYc (15分)
1931年(52歳)、傑作『リュートのための古代舞曲とアリア 組曲第3番』を作曲。同年、最後に手掛けたバレエ音楽『シバの女王ベルキス』が完成。全曲80分の壮大な曲となった。ここから抜粋した曲で1934年に組曲版が作られた。
※『リュートのための古代舞曲とアリア 第3組曲』素晴らしい!よくぞこれらの旋律を発掘してくれた!レスピーギの時代より約250年も昔(17世紀後半)の曲が題材に。
※組曲版『シバの女王ベルキス』 https://www.youtube.com/watch?v=3FBlL-_kXNk(23分)
1932年(53歳)、神秘劇オペラ『エジプトのマリア』を自身の指揮で初演。イタリア学士院会員に選出される。
1936年4月18日、心臓病によりローマで他界。享年56歳。ローマに埋葬された後、翌年に故郷ボローニャに改葬された。
晩年、ファシスト党に近づいたため大戦後の一時期演奏回数が減った。現在は頻繁に「ローマ三部作」が演奏されている。
1939年、第二次世界大戦が勃発。
レスピーギは色彩的管弦楽法を駆使し、オペラに偏っていたイタリア音楽を純器楽の方向に発展させた。また、レスピーギはイタリアにおける古楽復興の旗手でもあり、古い書庫や図書館で文献を調べては16〜17世紀の名も無い多くの作曲家の作品を現代に紹介した。イタリア楽壇の主流はオペラだったが、レスピーギはヴェリズモから離れて器楽作品の分野を開拓した。ファシスト党に近づいたと見なされているが、反ファシストの象徴であるトスカニーニに『ローマの祭り』初演を任せるなど、反ムッソリーニ勢力とも付き合っていたことも押さえておきたい。
 
〔墓巡礼〕
色彩豊かな管弦楽法で人々を魅了したレスピーギは、ボローニャ駅の4km西にある巨大な「チェルトーザ記念墓地」(Cimitero monumentale della Certosa)に眠っている。墓地内の区画は「Campo Carducci. Lato destro C1」。古い彫刻の多い墓地で、カストラートのファリネッリやランボルギーニ家の墓所もここだ。管理人のおじさんはまったく英語を話せず、説明してくれた墓への行き方が分からず途方に暮れていると、居合わせた地元の中年ご夫婦が英語に翻訳して下さった。感謝!
たどり着いたレスピーギの墓は小さな家のような形をした石棺だった。「“アッピア街道の松”、何度聴いても圧倒されます。わずか5分なのに、聴き終わるとめちゃくちゃ元気になります。なんかもう、音が光ってます!眩しいです!」と、音楽を通して何度もパワーをもらった御礼を伝えた。右隣りには2012年に急逝したイタリアポップス界を代表するシンガーソングライター、ルーチョ・ダッラが眠っている。墓前にいると、どちらかというと、ダッラの墓参で訪れている人の方が多い気がした(汗)。おうい、隣りはレスピーギだよ!



★マスカーニ/Pietro Mascagni 1863.12.7-1945.8.2(イタリア、リヴォルノ 81歳)2018
Cimitero Della Misercordia, Livorno, Provincia di Livorno, Toscana, Italy

 

イタリアのオペラ作曲家で庶民生活を現実的に描くベリズモ・オペラの確立者。
1863年12月7日にティレニア海をのぞむイタリア西岸リヴォルノのパン屋の家に生まれ、14歳で地元のケルビーニ音楽学校に進み作曲を学ぶ。
1879年(16歳)、交響曲ハ短調を作曲。
1880年(17歳)、オペラ『ピノッタ』を作曲。初演されたのは52年後。
1881年(18歳)、卒業時にカンタータ「イン・フィランダ」で賞金を得る。
1882年(19歳)、この頃ベートーヴェンが第九で引用したシラーの「歓喜の歌」に自身も曲を付け、ミラノのコンクールに入選、ミラノ留学が実現する。ミラノ音楽院でポンキエッリに師事し、同じ苦学生だった5歳年上のプッチーニ(1858-1924)と部屋を借りて一緒に暮らす。
1884年(21歳)、音楽院を中退し、巡業オペラ一座の指揮者としてイタリア各地を旅する。
1885年(22歳)、喜歌劇『ナポリの王様』を発表するが鳴かず飛ばず。その後、南部チェリニョーラで結婚し同地の劇場指揮者となる。
1886年(23歳)、ポンキエッリが52歳で他界。
1889年(26歳)、人生の転機。音楽出版社の懸賞オペラに『カヴァレリア・ルスティカーナ』が一等に輝く。※応募は前年っぽい。
1890年(27歳)、恋愛悲劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』全一幕がローマで初演される。大成功を収め、マスカーニは20代にして名声を手に入れた。このオペラでマスカーニはヴェリズモ・オペラの大ブームを引き起こす。「ヴェリズモ」は“現実主義”という意味。従来のオペラは神話や伝説、古代の王様の話が多かったが、マスカーニは労働者の日常生活で起きた事件などに題材をえた。マスカーニの成功を見て、他の作曲家もリアリズムを重視した作品を書くようになり、ヴェリズモ・オペラが流行する。
 
※『カヴァレリア・ルスティカーナ』(意味は「田舎の騎士」「村の騎士道」)…原作はヴェリズモ文学の巨匠ジョバンニ・ヴェルガの短編小説。舞台はシチリア島の寒村。主人公の若い村娘サントゥッツァは恋人トゥリッドゥの浮気を嘆く。トゥリッドゥはかつて美人のローラと恋仲だったが、兵役の間にローラが馬車屋アルフィオと結婚してしまったため、サントゥッツァと付き合うようになった。ところが、トゥリッドゥとローラが密会するようになり、サントゥッツァは嫉妬心からローラの夫アルフィオに「あなたが雨の日も風の日もパン代を稼いでいる間に、奥さんはあなたの額に寝取られ亭主の印を付けたわ」「あなたの奥さんが私から彼を奪った」と告げ口してしまう。サントゥッツァは、トゥリッドゥとローラの関係が終わることだけを望んでいたのに、アルフィオが「トゥリッドゥを殺す」と激怒したため、“大変なことをしてしまった”と恐れおののく。居酒屋で鉢合わせたトゥリッドゥとアルフィオは喧嘩になり、その場の勢いでトゥリッドゥは決闘を申し込んでしまう。彼は母親に「僕が戻らなかったときは、可哀想なサントゥッツァをよろしく頼む」と願う。トゥリッドゥはナイフで刺されて死に、知らせを聞いたサントゥッツァは悲鳴をあげて倒れる。劇中の間奏曲が非常に美しく、単独で演奏されることも多い。
※『カヴァレリア・ルスティカーナ』映像詩人フランコ・ゼフィレッリが1981年に制作。 https://www.youtube.com/watch?v=arqnoxvtzZ4
※『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲https://www.youtube.com/watch?v=1V9kMKS9E2o (3分18秒)
 
1891年(28歳)、牧歌的オペラ『わが友フリッツ』を作曲、ローマで初演。19世紀末のアルザス地方を舞台にした軽快な恋愛コメディ的オペラ。庶民が主人公のヴェリズモだけど「死者ゼロ」。第2幕の「さくらんぼの二重唱」が有名。独身主義者の農場主フリッツと村娘スゼルが結婚できるよう周囲が協力する物語。
1892年(29歳)、ウンベルト・ジョルダーノのヴェリズモ・オペラ『堕落した生活』がナポリで上演された際、聴衆が「(売春、貧困など)街の暗部をオペラ化した」と激怒、暴動が起き上演中断に追い込まれる。翌月、ミラノではルッジェーロ・レオンカヴァッロ(1857-1919)が作曲したヴェリズモ『道化師』がトスカニーニ指揮で初演され、こちらは絶賛された。『カヴァレリア・ルスティカーナ』と『道化師』はヴェリズモ・オペラの代表作として、セットで公演されるようになっていく。
1895年(32歳)、オペラ『グリエルモ・ラトクリフ』初演。同年から7年間、マスカーニはサンマリノに近い東岸ペーザロのロッシーニ音楽院院長の校長を務める。
1898年(35歳)、1867年と1889年のパリ万博で欧州は日本ブームが起きており、マスカーニは日本を題材にしたジャポニスム・オペラ『イリス』を書きローマで初演した。“日本物”ではプッチーニの『蝶々夫人』初演(1904)より6年早い。キャリアにおいて『カヴァレリア・ルスティカーナ』に次ぐヒット作となった。1907年のメトロポリタン歌劇場公演では川上貞奴が所作の演技指導を行ったという。
※『イリス』…江戸時代を舞台に、盲目の父と暮らすヒロインのイリスが騙されて吉原の遊郭に売られる悲劇。「イリス」とは花のアヤメ(ギリシャ神話では虹の女神)のこと。好色な若旦那「オオサカ」と吉原の芸者屋主人「キョウト」が人形芝居でイリスをおびき寄せ、キョウトの手下の芸者たちが彼女を連れ去る。イリスの父親は偽手紙で自分が捨てられたと思い、娘に激怒する。おいらん衣装になったイリスは吉原いちの美貌を讃えられるが、誤解した父親から泥をなげられ、悲しみのあまり身を投げる。男たちは自らの所業を悔い、瀕死のイリスは朝陽の暖かさに感謝しながら息を引き取る。
※『イリス』画質が悪いうえ衣装は日本と中国が混ざってるけど、頑張ってるのはわかる https://www.youtube.com/watch?v=_afaW2ZithM
1900年(37歳)、プッチーニがヴェリズモの『トスカ』をローマで初演。
1901年(38歳)、オペラ『仮面』をイタリア6都市で同時初演、ローマ以外は失敗する。同年、巨星ヴェルディ堕つ。享年87歳。
1902年(39歳)、オペラ一座を率いて渡米し、自作を各地で上演した。
1911年(48歳)、南米に演奏旅行、アルゼンチン・ブエノスアイレスのコロン劇場でオペラ『イザボー』初演。
1922年(59歳)、ムッソリーニが権力を掌握。
1924年(61歳)、プッチーニが65歳で他界。プッチーニはファシスト政権下で愛国オペラを作ることを拒んだ。
1929年(66歳)、ムッソリーニがミラノ・スカラ座の政治利用を目論み、音楽監督(首席指揮者)のトスカニーニは抗議の辞任をする。マスカーニは同職を狙ってムッソリーニに接近、後任の音楽監督となり、指揮者としても名声が頂点を迎える。
1932年(69歳)、17歳のときに書いたオペラ『ピノッタ』が初演される。
この年、マスカーニがピアノに向かう動画が撮影されている
1934年(71歳)、最後のオペラ『ネローネ』をスカラ座で初演(1935?)。ムッソリーニの栄光を讃えた作品であり、多数の音楽関係者のひんしゅくを買う黒歴史となる。
1940年(77歳)、『カヴァレリア・ルスティカーナ』初演50周年を記念し、自身の指揮でスカラ座にて上演、録音を行う。
1943年(80歳)、9月イタリアが連合軍に降伏する。降伏後、マスカーニはファシスト政権の協力者として「全財産」を没収され第一線から退けられる。仏軍占領下のローマのプラザホテルに、リナ夫人と住むことを許され、最晩年をひっそりと暮らした。
1945年8月2日、ローマのホテルで寂しく生涯を終える。享年81歳。息子はファシスト活動で投獄され立ち会えなかったが、マエストロの訃報を知った市民数千人がホテルに押し寄せたという。ホテルから葬儀が行われる教会までショパンの葬送行進曲と共に棺が運ばれ、教会の前では『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲が演奏された。葬儀後、亡骸はローマで最も有名なヴェラノ墓地に埋葬された。
1951年、棺がローマから故郷トスカーナ州リヴォルノのミゼリコルディア墓地(Cimitero Della Misercordia)に改葬され、名誉回復された。
1995年、没後50年コンサートがトリエステで催され11曲が演奏される。
ヴェリズモ・オペラの幕を切って落としたマスカーニ。彼は15曲のオペラと1曲のオペレッタ、他に管弦楽曲なども残したが、『カヴァレリア・ルスティカーナ』があまりに大当たりしたため、他の作品は取り上げられなくなってしまった。
オペラはもともと人間の感情を強調して表現する音楽だが、ヴェリズモはさらに感情の起伏を増幅し、極限まで振り切れさせたもの。2015年のメトロポリタン歌劇場『カヴァレリア・ルスティカーナ』の公演をWOWOWで視聴した際、サントゥッツァ役を演じたオランダが誇るソプラノ歌手エヴァ=マリア・ヴェストブルックが「ヴェリズモ作品の魅力は?」と問われてこう答えていた。「何しろ感情が豊かです。音楽も情熱的だし、ほとばしる感情が魅力です。私は“エモーション・ジャンキー(感情中毒)”なんです」。エモーション・ジャンキー!日常では出せないフルアクセルの感情をヴェリズモで吐き出す快感を味わうと、普通のオペラの感情表現では物足りなくなってしまうのだろう。
※マスカーニ本人の演奏(『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『友人フリッツ』など)がCDになっている。
※ビゼーのオペラ『カルメン』は、美しい間奏曲、登場するのが庶民、殺しなど、あらゆる意味でヴェリズモの先駆け。
 
〔墓巡礼〕
イタリア西岸、リヴォルノ駅から3kmほど南下したミゼリコルディア墓地(Cimitero Della Misercordia)にマスカーニは眠っている。正門から入って左手奥に中庭があり、ど真ん中に高さ8mはあろうかという十字架がそびえ、その足下にマスカーニの長さ3m弱の超巨大な石棺がる。おそらく全作曲家の中で最大の墓ではないだろうか。しかも褐色の石材という豪華さ。マスカーニは全財産を没収された状況で没しており、当人はまさかこれほど立派な墓所が築かれるとは夢にも思わなかただろう。ちなみに、僕は彼の墓の大きさに圧倒されて、いろんな角度から撮影している間に、iPadを芝生の上に置き忘れてしまった。気づいた時はもう引き返せないほど移動を終えていた。もし皆さんがマスカーニの墓地でiPadを見かけたら、それ僕のです!



★パッヘルベル/Johann Pachelbel 1653.9.1-1706.3.3(ドイツ、ニュルンベルク 52歳)2015
Saint Rochus Cemetery, Nuremberg, Stadtkreis Nurnberg, Bavaria (Bayern), Germany

 

ドイツの名オルガン奏者、作曲家。バロック時代、バッハの登場する一世代前に南ドイツで活躍。当時、最も優れたオルガン奏者の一人として知られ、南ドイツ・オルガン楽派の代表的作曲家。プロテスタント系。
1653年9月1日(洗礼日なので実際は数日前と思われる)にドイツ南部ニュルンベルクでワイン商人の子として生まれる。1669年に16歳でアルトドルフ大学に入学し聖ローレンツ教会のオルガン奏者となる。経済上の問題で翌年からレーゲンスブルクで奨学生として学び、1673年(20歳)からハプスブルク帝国ウィーンで師事し、聖シュテファン大聖堂の次席オルガン奏者となる。パッヘルベルが生まれたドイツはプロテスタント文化だが、5年間のウィーン滞在でカトリック文化にも触れた。
1677年(24歳)、アイゼナハの宮廷オルガン奏者となり、町楽師のアンブロジウス・バッハ(J・S・バッハ父)と親交を結ぶ。アンブロジウスはエアフルト出身だが6年前からアイゼナハに来ていた。パッヘルベルはバッハ家の家庭教師を依頼される。ちなみにヨハン・セバスチャン・バッハ(8人兄弟の末っ子)が生まれるのは8年後の1685年。
1678年(25歳)、アイゼナハ宮廷で大幅なリストラがあり、パッヘルベルは解雇される。同年、新たにエアフルトのプレディガー教会のオルガン奏者となり、エアフルトではヨハン・クリスティアン・バッハ(1640-1682※誰!?)の家に住んだ。
※正直、僕は混乱している。バッハ一族は似た名前が多すぎる!バッハ一族は200年にわたる音楽家の家系で4代前のファイト・バッハから孫世代まで7代にわたって53人以上の音楽家を輩出。アンブロジウス・バッハの双子の兄弟はヨハン・クリストフ・バッハ(1645-1693)なので、パッヘルベルの家主クリスティアン・バッハではない。

この年、パッヘルベルはアンブロジウス・バッハの娘ヨハンナ・ユーディタ(バッハ姉)の名付け親となり、7歳のヨハン・クリストフ・バッハ(1671?1721/バッハの長兄)の音楽の家庭教師となる(昨年に続いて、ということだろう)。エアフルトに12年間滞在し、この間にオルガン作曲家として名をあげる。当時の作曲の仕事は礼拝用の前奏曲がメインであり、コラール前奏曲を多数生み出す。彼は作曲家・オルガン奏者としての進歩を示すため毎年大曲の作曲を行わねばならず、しかも前年の作品よりも優れたものが求められた(ウィキより)。

1681年(28歳)10月25日、エアフルト市長の娘バルバラと結婚。
1682年(29歳)、長男が生まれる。この年、エアフルトにペストが蔓延し始め、家主のヨハン・クリスティアン・バッハが没した。
1683年(30歳)10月、妻と一人息子がペストで病没する。同年、独りぼっちになったパッヘルベルは、深い悲しみの中でコラール変奏曲集『音楽による"死への思い"』(Musicalische Sterbens-Gedancken)を作曲し、これ
が初の出版物となった。この曲集は失われたが4曲だけが写本で見つかり、その第2番がコラール組曲「人はみな死すべきさだめ」(Alle Menschen mussen sterben)だ。彼の気持ちを考えると、このタイトルがつらい…。
※『人はみな死すべきさだめ』 https://www.youtube.com/watch?v=sXMlYp7eXV0 (8分53秒)
1684年(31歳)8月24日、銅器職人の娘ユーディトと再婚し、5男2女を儲ける。うち2人の息子がオルガン奏者になる。
1685年(32歳)、アイゼナハにてJ・S・バッハ誕生(3月21日)。同年にヘンデルも生まれている。
1690年(37歳)、ヴュルテンベルク公国(シュトゥットガルト)の宮廷音楽家・宮廷オルガン奏者に就任。
1692年(39年)、フランス軍がヴュルテンベルク公国に攻めてきたため宮廷を離れ、ゴータ市のマルガレーテ教会のオルガン奏者となる。ゴータ滞在の3年間に英国オックスフォード大学やシュトゥットガルトから就職の打診があったが断った。
1693年(40歳)、パッヘルベルの最初にして唯一のコラール前奏曲集 "Acht Chorale zum Praeambulieren "を出版。
1694年(41歳)10月23日、パッヘルベルはバッハ(9歳)の長兄ヨハン・クリストフの結婚式に招かれた。少年バッハはこのときに会っている可能性がある。また、結婚式では招待客が楽曲をプレゼントしていることから、パッヘルベルの『カノン』はこのときに作曲されたと推測する研究者がいる。ただパッヘルベルの室内楽曲はエアフルト時代(1678-1690)に集中して書かれているのでもう少し早いかも。
1695年(42歳)、故郷ニュルンベルクの聖ゼーバルドゥス教会のオルガン奏者が4月に他界。ニュルンベルク市の行政者たちは後継者として同市出身のパッヘルベルを強く望み、彼はそれに応えるためにゴータの職を辞し、夏に帰郷した。彼はこれまでウィーンやドイツの諸都市で要職を歴任してきたが、最終的には生地におちついた。
同1695年、友人アンブロジウス・バッハが49歳で他界。前年に少年バッハの母マリアも他界しており、少年バッハは長兄で既にオルガン奏者になっていた兄クリストフ(24歳)に引き取られた。兄は独・仏・伊の様々な作曲家の写譜を所持しており、少年バッハはパッヘルベルなどの楽譜を見せて欲しいと頼んだが、兄に大事なものだからと断られた。そこで少年バッハは兄が大切にしている楽譜をこっそり持ち出し、半年の間、月明かりのもとで写譜したという。こうして筆写することで作曲法を独学で習得していった。
1699年(46歳)、鍵盤楽器のための6つの変奏曲『アポロンの六弦琴』(Hexachordum Apollinis)を出版、ブクステフーデに献呈した。
1706年3月3日にニュルンベルクにて52歳で他界(ブリタニカ百科事典は3/3説だけどウィキは死亡日不明になっている)。同地の聖ロッフス墓地(St. Rochus/Rochuskirchhof)に埋葬された。
晩年、グレゴリオ聖歌「マニフィカト」の旋法を用いた90曲以上の小フーガからなるオルガン曲集『マニフィカト・フーガ』を作曲。“マニフィカト”は聖母マリア讃歌。他に室内楽曲集(パルティータ集※パルティータは変奏曲の意)『音楽の喜び』"Musikalische Ergotzung" を出版(没後の1791年)。
1919年、学者グスタフ・ベックマンがパッヘルベルの室内楽に関する論文の中で『カノン』のスコアをはじめて紹介する。この“パッヘルベルのカノン”として知られる『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』は先述したように作曲時期が確定していない。

※『カノンとジーグ ニ長調』カラヤン&ベルリン・フィル。速ッ!って思ったけど、これが本来のスピードなのか。だいたい編曲を聴いてるもんねぇ。https://www.youtube.com/watch?v=gTPSsAPO6zA (6分14秒)
※『シャコンヌ』オルガン曲の名曲 https://www.youtube.com/watch?v=WbLoV_gH8Og (10分)

パッヘルベルは北ドイツ的なプロテスタントのコラールと、ウィーンで触れたカトリックの名人芸的な鍵盤楽器様式を融合させ、バロック期特有のドラマチックなスタイルを確立した。対位法的な書法に優れ、和声的な美しさを備えた作品は、北ドイツのブクステフーデの楽曲とともにバッハに多大な影響を与えた。オルガン曲を中心とする多数の器楽作品と、大作を含む多数の声楽曲が残されている。



★バーナード・ハーマン/Bernard Herrmann 1911.6.29-1975.12.24 (USA、ニューヨーク州 64歳)2009
Beth David Cemetery, Elmont, Nassau County, New York, USA Plot: Section BB2



更新中。『サイコ』などヒッチコック映画のサントラで有名。



★ハロルド・アーレン/Harold Arlen 1905.2.15-1986.4.23 (USA、ニューヨーク州 81歳)2009
Ferncliff Cemetery and Mausoleum, Hartsdale, Westchester County, New York, USA Plot: Hickory, Grave 1666

 

更新中。『オズの魔法使』の名曲『オーバー・ザ・レインボー』などを作曲した。



★ジョルジュ・ドルリュー/Georges Delerue 1925.3.12-1992.3.10 (USA、カリフォルニア州ロス 66歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Triumphant Faith Terrace, lot #4063A

 

フランソワ・トリュフォー監督の大半の映画で音楽を担当。その他『プラトーン』『ジュリア』『リトル・ロマンス』などでもスコアを書いた。



★ジェリー・ゴールドスミス/Jerry Goldsmith 1929.2.10-2004.7.21 (USA、カリフォルニア州ロス 75歳)2009
Hillside Memorial Park, Culver City, Los Angeles County, California, USA  Plot: G/M Truth 265



左端の下から2段目に眠る

墓碑には「彼の音楽の贈り物を
世界中が大切にしている」とあった

更新中。有名な『スタートレック』『パピヨン』『オーメン』『グレムリン』『氷の微笑』『エイリアン』『ランボー』など、名だたる有名作品の映画音楽を作曲した。



★ビクター・ヤング/Victor Young 1899.8.8-1956.11.10 (USA、カリフォルニア州ロス 57歳)2009
Hollywood Forever, Hollywood, Los Angeles County, California, USA

 

『八十日間世界一周』『シェーン』『誰が為に鐘は鳴る』などの映画音楽を作曲。脳出血のために急死し、
死後に『八十日間世界一周』がアカデミー作曲賞に輝いた。




★アルフレッド・ニューマン/Alfred Newman 1900.3.17-1970.2.17 (USA、カリフォルニア州ロス 69歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Great Mausoleum, Sanctuary of Eternal Prayer

この堅牢な古城の如き大霊廟にニューマンは眠る。一般非公開につき、泣く泣く外部から遙拝!

『王様と私』『南太平洋』『慕情』『七年目の浮気』といった映画音楽のほか、有名な20世紀フォックス・ファンファーレもニューマンが作曲!

世界一、墓マイラー泣かせの墓所、それがロスのフォレストローン墓地。ここはセレブ用の特別区画があり、一般人は純粋に墓参が目的でも入ることができない。
ハンフリー・ボガード、メアリー・ピックフォード、サム・クック、彼らはその区画に墓があり巡礼不可能だ。またこの墓地には、クラーク・ゲーブル、マイケル・ジャクソン、
ハロルド・ロイドなど、名だたるスターが眠る大霊廟があるが、そこに至っては建物が丸ごと一般立入禁止という始末。欧米の墓地は基本的にとても外に開かれた
空間であり、墓ツアーを企画したり、ガイドさんがいる墓地も多い。フォレストローンのように霊廟を立入り禁止にするなんて聞いたことがない。おそらく、マイケルが
ここに永眠したことで多数の巡礼者がやって来る思う。世界中から来たファンを全員門前払いにするつもりなのか…。もっと墓参者の善意を、人間を信じて欲しい。



★マックス・スタイナー/Max Steiner 1888.5.10-1971.12.28 (USA、カリフォルニア州ロス 83歳)2009
Forest Lawn Memorial Park (Glendale), Glendale, Los Angeles County, California, USA  Plot: Great Mausoleum, Sanctuary of Enduring Honor

 
スタイナーはアルフレッド・ニューマンと同様、一般非公開のこの大霊廟の中に眠る。無念!

『風と共に去りぬ』『カサブランカ』『トップ・ハット』などの映画音楽を作曲。



★アーヴィング・バーリン/Irving Berlin 1888.5.11-1989.9.22 (USA、ニューヨーク州ブロンクス 101歳)2009
Woodlawn Cemetery, Bronx, Bronx County, New York, USA




バーリン家の墓所。右から2番目がアーヴィング

『ゴッド・ブレス・アメリカ』は第2の
国歌とまで言われている

 『ゴッド・ブレス・アメリカ』、『ホワイトクリスマス』など、アメリカ国民にとってのソウル・ソングを多数作曲!


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