21歳のマルクス | ヒゲ増殖中 | ヒゲ最終形態 |
案内板に「Visit Marx!」。なんと観光地状態! | 何やら、人だかりが見てきた | マルクスの墓だった!墓石の上にマルクスの頭! |
1989 初巡礼。この半年後、 いきなりベルリンの壁が 撤去されておったまげた |
2015 再巡礼。26年ぶり |
マルクスといえばこのメッセージ 『万国の労働者よ団結せよ』 WORKERS OF ALL LANDS UNITE |
こちらも有名な言葉『哲学者たちは、ただ 世界をいろいろな風に解釈してきた。だが 世界を変革することこそが大事なのだ』 |
狂気の超格差社会を打ち砕く日が来るのか | トマ・ピケティに期待 | 改葬前の旧墓。割れている… |
経済学者・哲学者・革命家。ドイツから英に移住。盟友エンゲルスの協力を得て発表した『共産党宣言』(1848)、主著『資本論』(1867)で知られる。 資本主義から社会主義へと至る歴史発展の法則を明らかにするマルクス主義を創唱。資本主義体制を批判し、革命家として国際共産主義運動に尽力した。 マルクスは人類の歴史を階級闘争の歴史と位置づけ、その最後の形態を資本主義と考えた。そして、ブルジョワジー(資本家階級)に対するプロレタリアート(労働者階級)の革命は、人民の方が圧倒的多数であるため次の逆転が起こりえず、階級闘争の歴史に終止符が打たれるとした。 支配階級として組織されたプロレタリアートは、私有財産制の廃止、生産手段の国有化などを実行し、やがて搾取や階級対立のない自由で平等な共同社会、ユートピアを作ると預言。こうした期待をこめ、『共産党宣言』の最後は「万国の労働者よ団結せよ」というメッセージで結ばれている。 ※初めヘーゲル左派に属したが、ヘーゲルの観念的弁証法、フォイエルバッハの人間主義的唯物論を批判して弁証法的唯物論を形成。これを基礎にフランス社会主義思想(空想的社会主義)、古典派経済学を批判的に吸収、エンゲルスと科学的社会主義を創始した。 僕の政治的立場はリベラルだから、労働者が大きな力を持つことに賛成だし、格差社会に大反対。ただし、旧ソ連や中国といった共産国は、共産党員が資本家にとって代わって“貴族”になったこと、党への批判を許さず言論の自由を弾圧したことを考えると、マルクス主義をそのまま導入するのは危険。やはり、北欧型の資本主義と社会主義のハイブリッド社会がベスト。 |
英国南部のドーバー海峡 | この岬で遺灰を撒いたらしい | 「Clif Edge」の警告。けっこう危ない |
生まれ故郷のリュッケンに墓 | ちゃんと案内板が出ている | この黄色い建物の壁沿いに入っていく | 教会を発見! |
教会の壁にニーチェ関連の記事 |
教会の庭にニーチェの墓を囲むニーチェ3人と母。 なんともいえないシュールな空間 |
ただしこれはモニュメントの墓。本物の墓は建物 の反対側。間違ってこっちを墓参しないように! |
本物の墓へ。音楽のツァラトゥストラが聞こえそう | 左からニーチェ、妹エリーザベト、両親 | 夏の早朝に巡礼 |
2002年の初巡礼。通常は荷物を駅のロッカーに預け 軽装で巡礼に向かうけど、レッケンは近くに駅がなく、 バスかタクシーを使うしかない。とにかく現地の情報 が皆無だった為、どんな不測の事態にも対応 出来るよう、全荷物をしょって墓参を敢行した |
ヒゲづらガンコ親父の ニーチェを渾身のハグ。 ※タイマー撮影 |
この時の為に持ってきた黒ビールを 取り出す。ニーチェと男同士、サシで酒を 酌み交わすという、長年の夢が実現! これぞ墓参の醍醐味!! (2002) |
2002年。90年代に“墓はワイマール” というガセネタを信じ、一日中ワイマール の墓地をさ迷った体験があるため、 無事にたどり着けてまっこと感無量! |
2015年、13年ぶりに再訪。花立て や後方の植木などが増えていた |
子どもが大人になって、もし感情がルサンチマン に支配されそうになったら、このニーチェ巡礼 を思い出して、志を高く持って欲しいな… |
ドイツの哲学者ニーチェは、ギリシャ古典学、東洋思想に深い関心を示し、「神は死んだ」と欧州キリスト教文明への批判を深め、キリスト教倫理思想を弱者の奴隷道徳とした。 1844年10月15日にライプチヒ郊外、ザクセン州リュレッケン(レッケン)に生まれる。5歳で牧師の父が没し、母の手で育てられる。ボン大学とライプツィヒ大学で古典文献学を専攻、ワーグナーとショーペンハウアーに傾倒する。 1868年(24歳)、尊敬する音楽家ワーグナー(当時55歳/1813-1883)に会う。ニーチェは楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》序曲を特に気に入り、「全神経組織が反応し、これほどまでに恍惚とした感情を体験したことがない」と絶賛した。 1869年(25歳)、バーゼル大学(スイス)の古典文献学教授として招かれる。 1870年(26歳)、普仏戦争に志願従軍して健康を害す。 1872年(28歳)、処女作『悲劇の誕生』を執筆。ワーグナーを讃える。 1876年(32歳)、第1回のバイロイト音楽祭にて、上演に4夜を要するワーグナーの超大作『ニーベルンゲンの指環』初演を鑑賞し、ニーチェは戸惑う。ニーチェの目には、かつては革命運動に加わり世界の変革を求め続けていたワーグナーが、パトロンの王族や貴族にチヤホヤされて悦に入っている姿に堕落を感じ、音楽も俗化していくように感じられた。そして失望のあまり「指環」上演の途中で劇場を抜け出してしまう。またニーチェはキリスト教を嫌っており、ワーグナーがキリストにまつわる“聖杯伝説”を題材に次回作『パルジファル』の台本を書いたことに反発した。ニーチェは古代の人間はギリシャの人々のように健康で明るい精神を持っていたのに、キリスト教が赤ん坊にまで原罪を押しつけて全人類を罪人とし、人間本来の活力を奪ったと批判。キリスト教が存在しなければ、人間はもっと健康かつ精神的に明るかったはずと考えた。同年ニーチェは評論『バイロイトにおけるワーグナー』を発表してワーグナーへの疑念を示す。 1878年(34歳)、『人間的な、あまりにも人間的な』を発表。ここで明確にワーグナーを俗物と批判し、両者は訣別した。ワーグナー夫人コジマはニーチェの変節に憤慨し、知人宛の手紙に「あれほど惨めな男は見たことがありません。初めて会った時から、ニーチェは病に苦しむ病人でした」と書いた。 1879年(35歳)、ニーチェは身体が弱く、ずっと弱視と偏頭痛に悩まされてきたが、この年に病気が悪化したため教授を辞任。以後著述に専念する。 1885年(41歳)、2年前から書き進めていた主著『ツァラトゥストラはこう語った』を脱稿。 1886年(42歳)、『善悪の彼岸』を執筆。 1888年(44歳)、『アンチキリスト』を執筆。また、自伝『この人を見よ』を執筆。後者ではワーグナー夫人コジマを次のように讃えている。「私が自分と同等の人間であると認めている唯一の場合が存在する。私はそれを深い感謝の念を籠めて告白する。コージマ・ワーグナー夫人は比類ないまでに最高の高貴な天性の持ち主である」。晩年のニーチェは好んでワーグナーの思い出話を語り、話の最後を「私はワーグナーを愛していた」と結んだという。 1889年(45歳)、1月3日イタリア・トリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒、発狂する。以後、11年間母と妹の看病を受ける。 1900年8月25日、精神錯乱のままワイマールにて他界。享年55歳。『力への意志』が遺稿となった。 ニーチェはキリスト教の神の死を宣言し、永劫回帰の世界においてニヒリズムを克服し「超人」として生きることを主張。生の哲学、実存主義の先駆とされる。音楽の分野でも交響詩、ピアノ曲、声楽曲の作品を残した。 生まれ故郷の村の教会にニーチェは妹と並んで眠っている。ニーチェの哲学は非常に前向きで力強い。ニーチェは人生最大の恋に失恋したが、片想いに終わったその女性とは、良き友人として一緒に散歩をしたという強烈に幸福な思い出があった。 彼は哲学者として世間から望んだ評価を得られず、生涯孤独だったが、心の中にはあの散歩の記憶が光を放っていた。ニーチェは、「他人への激しい嫉妬や憎悪という感情(ルサンチマン)が危険な理由は、自分にだって幸福な体験があるはずなのに、それをすべて忘れさせてしまうからだ」と警鐘を鳴らした。 ニーチェは「あなたが体験した出来事で、これまで一番の喜びが何だったか、よく思い出せ。一度でもその喜びがあったなら、他の嫌なことすべて含めて、何度でも今と同じ人生を生きるに値するではないか」と力説。僕は学生時代にニーチェの思想に触れたことで、三十路前に「この映画、この音楽、この文学、この絵画に出会っただけで生まれて来たモトはとった」と断言できるものが複数あると認識、その後、辛い時期があってもしのいでこられた。 |
初巡礼(2002)の際、夢中で写真を撮った後、駅に戻るべくバス停に向かって絶句。最終バスは19時3分だった(この時19時5分)!田舎とはいえ、まさか19時でバスが最後とは想像もしなかった(涙)。不覚!町外れでしばらくヒッチハイクに挑戦したが、どの車も完全無視。タクシーを電話で呼ぶにも公衆電話がどこにもない。やむを得ず、電話を借りるべく付近の民家のベルを一軒ずつ鳴らすが、夕食時だからか、ドイツ語が通じないのか(この可能性が高い)、僕の容姿に警戒したのか(これもあり得る)、どこも扉を開けてくれない。途方に暮れていた所、一台の車が帰宅したので猛然とダッシュ!全身全霊の泣き落としで電話を借りようとしたら、なんと車に乗っていた若夫婦は駅まで送ってくれるという!カールさんというお菓子のような名前の夫婦、この2人に出会ってなければ、自分はこの日どうなっていたことか。ううっ、有難う!! |
ボーヴォワール、サルトル、チェ・ゲバラ!すごい顔ぶれ! | ボーヴォワールは生涯のパートナー。お墓も一緒 |
晩年の2人 |
1989 初巡礼! | 2002 名前の部分は横型(五角形) | 2009 名前の部分が縦型になっていた!初巡礼から20年が経ち、墓も変化している |
墓の上に手紙やメトロの切符が複数あった。 「これを使って会いにきて」という意味らしい |
パートナーのボーヴォワールも一緒に眠っている | 仏語が分かる方、意味を教えて下さい |
実存主義哲学の雄サルトルは、ボーヴォワールと同じ墓に眠っている。2人は最良のパートナーとして長く同棲生活を送り、そのまま彼が先に亡くなるまで籍は入れなかった。結婚など紙切れ一枚の問題とでも笑うかのように。現在2人はモンパルナス墓地の一角に愛の巣を構えている(正門を入ってスグの一等地!)。クーッ、妬ける墓だぜ。 サルトルは1964年に59歳でノーベル文学賞に選ばれたが同賞を辞退した。理由は「どんな人間でも生きながら神格化されるには値しない」。ちなみに文学賞辞退は旧ソ連の詩人パステルナークと彼の2人だけ。パステルナークはノーベル文学賞が西側文化を一方的に擁護し東西対立を深めていると抗議した。 「日記は自分の内部に起こりつつある事を、はっきり当人に知らせてくれる」(サルトル) |
キルケゴール家の墓所は鉄柵で囲われている | はじめまして!(1994) | 15年ぶりの巡礼!後方がスッキリ(2009) | 3枚の石板のうち左下が彼の墓標 |
《注意》この墓地には別人の“キルケゴール”さんもいる!僕は最初、間違えてこの人をずっと探していた!(涙) |
27歳のショーペンハウアー | 衝撃の髪型 |
フランクフルトの巨大墓地に眠る | 2005年 初巡礼 | 2015年 10年ぶりに巡礼 |
墓地内に「Grab(墓)」の案内板 | 2005年はけっこう草が伸びていた | この時はスッキリ。壁の外は路面電車の駅 |
哲学者。カントの認識論を徹底。生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の滅却・諦観以外にないと説いた。「生とは苦痛であり、生の苦痛から解脱するには、意志を否定し、禁欲と静寂、涅槃(ねはん)の境地に達することだ」「あきらめを十分に用意することこそ、人生の旅支度をする際には何よりも重要だ」。 また、ゴリゴリの無神論者で生涯独身を通した。女性に深いコンプレックスを持ち「男同士は本来お互いに無関心なものであるが、女というものは生まれつき敵同士である」などギリギリ発言も多い。 「人間の行動を決定するのは理性ではなく、不合理な欲望や愛、憎しみ、性衝動などで、生の苦悩から逃れる唯一の道は“死”だ」(ショーペンハウアー) |
画面の一番右端の柱に注目 | 天才パスカルはココ! |
すごくきれいにしてもらってるユングの墓。墓前に小さな池がある |
“もはや墓参は不可能、万策尽きた"、そんな絶望的な状況から、奇跡の連続で墓前に立てたことが少なからずある。その最たるものが、2015年のポーランドからロシアへの巡礼だ。大哲学者カントの墓がカリーニングラードにあるとネットで知ったのは15年前。そして頭を抱えた。モスクワやペテルブルクなら交通の便も良いけど、カリーニングラードはロシアの最西端。しかも、周囲のバルト諸国が独立した為、リトアニアとポーランドに挟まれた“飛び地"のロシア領になっている。ソ連崩壊後、マフィアが暗躍してドラッグが蔓延し、ネットにはかつて“ロシアで最悪の治安"“旅行者は滞在時間に比例して死亡率も上がる"とまで書かれていた。カントへの愛と、高い交通費&恐怖の治安との間で、悶々とした日々を送っていた僕。そんな折、2018年のサッカーW杯の開催地にロシアが選ばれ、開催地にカリーニングラードも含まれることになった。つまり、それだけ治安が改善されているということ。改めてネットで調べてみると、「再開発も進み、昨今はとても安全な街になった」と書かれていた。さらに、カリーニングラードに近いポーランドの町で天文学者コペルニクスの遺骨が発見されたことも背中を押した。これは“両者の墓に行け"という天の声。ついに、行くべき時が来た。
2015年8月21日夕刻、ポーランド北端ブラニョボ。レンタカーを使い近隣の漁村でコペルニクスの墓参を終えた僕は、翌朝7時の列車でカリーニングラードに向かうため駅に切符を買いに行った。すると駅員さんが「今はもうこの駅からロシアに行く列車は出ていない」とのこと。ええーッ!僕はネットで時刻表まで調べてきたのに、どうやら数年前の時刻表を見ていたらしい。ショックすぎる。
日本で高い手数料を払ってロシアのビザを発給してもらったのに、ここで諦める訳にはいかない。レンタカー会社は治安の問題で、レンタカーでのロシア入国を禁じている。何か方法がないか尋ねると、駅員さんは「駅前からバスが出ているよ」とロシア行きのバス停を教えてくれた。それに賭けるしかない!時刻表には明朝「6:30」とあった。駅近くの宿に泊まり、レンタカーを預かってくれるというので、翌朝、日帰りでロシアを訪れるべくバス停へ。
ところが、6:30どころか7:00になってもバスが来ない。心配になって近所のキオスクに行くと、オバサンが「8:30」とメモに書いてくれた。英語が通じずポーランド語オンリーゆえ、詳しいことが分からない…。8時半過ぎにバスが到着。“キターーッ!”と駆け寄り、運転手さんにでノートに書いた行き先「Kaliningrad(カリーニングラード)」を見せた。すると満員の車内から乗客の「グダニスク!グダニスク!」という声があがった。ガーン。状況を理解した。このバスはカリーニングラードからやって来て、ポーランドのグダニスクに向かっていたんだ。逆方向のバスだった…。放心状態で下車。
訳が分からない。観光地じゃないので旅行案内所もない。出口なし。困り果てていると、看板に「POLSKA」とある建物に気づいた。“きっとPOLICEの意味だろう”、お巡りさんに助けてもらおう、そう思って扉を開けた。結論から言うと、「POLSKA」の意味はポーランド語読みの「ポーランド」だった。僕は間違えて軍の施設に入ってしまった(汗)。
中には迷彩服の軍人が20人ほどいた。こうなりゃ、もう軍人でもいい、バスの時間を教えてもらわないと!アイパッドで撮影したバス停の時刻表を見せ、カリーニングラード行きのバスがどの便が尋ねた。軍人の中に英語ができる人が1人だけいて、「アイフォンで時間を調べるから表に出よう」と外へ。好奇心ゆえか、他の軍人もぞろぞろ。しばらくアイフォンをいじっていた軍人が「分かったぞ!次のバスは16:55だ。あのバス停の時刻表は昔のものだ」。なぁにィイイイ!?日本では昔の時刻表をそのまま停留所に放置しない。想定外すぎる…。
その後、“別のバスがあるかも知れないから調べてやる。それまで中に入っとけ”と言われ、再び軍施設へ。「やっぱりなかった」との言葉に、ションボリしてたら待っている間に、なんとアツアツの紅茶と山盛りのドーナツを出してくれた!優し過ぎるぜポーランド兵!
何だかんだで10時に。どうする?夕方まで待つか?ブラニョボはガイドブックに載っていない小さな町。駅前の案内地図は…うーむ、ボロボロに剥がれ落ちていた。町の玄関口なんだから地図を直して欲しい…。座って休憩しようとしたらベンチが鉄骨の骨組みに。駅前広場なんですけど…。
ロシアに行くのはやはり無理なのか。夕方のバスが来たとして、現地に着くのは夜。哲学者カントの墓地のある教会は閉まっているし、ポーランドに戻って来る最終バスはもうない。夜のカリーニングラードはデンジャラス、それなりの宿に泊まる必要がある。そもそも日帰りの計画だったのに一泊するとなれば、スケジュールが大幅に狂い、今後の南部ポーランドやチェコをカットする必要が出てくる…。
僕はロシア巡礼を断念し、旅を先に進めることにした。ホテルにレンタカーを取りに戻り、首都のワルシャワに向かって出発した…ただし、その前にダメ元で国境まで行って、恨めしそうに国境を眺めた。パスポートにはロシアの入国ビザあるというのに…。
本当に諦めるのか?長年の夢、カリーニングラードが目の前にあるんだぞ。ポーランド再訪に10年かかった。飛び地のロシア領に入る機会なんて次は何年先かわからんぞ…。 「えええええ〜いッ!!」、僕はアクセルを踏んだ。とにもかくにも国境警備隊に交渉だ!事情を話そう!追い返されるのを承知で検問所へ行き、警備隊に「レンタカーはここまでしか行けない。ここに車を置いてロシア行きのバスが検問に来たら乗りたい」と直訴した。さすがは国境警備隊、その場にいた8人全員が英語を話せた。
最初は「前例がない」「第一、ここはバス停じゃない」と言われたけど、ロシアに行く目的を聞かれてアイパッドの中の墓写真を見せてるうちに、前日にリトアニアで撮影した“ポーランド建国の父”初代国家元首ユゼフ・ピウスツキの墓画像が出てきた。最初、変なヤツ扱いされていた(実際怪しい)けど、その瞬間、明らかに空気が変わった。
「お前はピウスツキの墓参りをしたのか!」。ピウスツキは123年ぶりにポーランドを独立させた男。「…よし、分かった。我々が車を探してやろう!」。耳を疑った。問答無用で立ち去るよう命じられる思っていたのに、まさかヒッチハイク作戦になるとは!
僕は国境地帯の外れにあるカフェテリアの駐車場にレンタカーを止めておくよう指示された。戻って来るのは夕方か、ヘタをすりゃ明朝。レンタカー会社との契約で、東欧圏で車を盗難されると保険がきかず、全額自己負担になるため、もし戻って来てアウディがなければ300万円の賠償になる。想像するのも恐ろしすぎる。ただ、国境手前のセキュリティー区域であり、最も治安の良い場所のはず。カフェは閉まっていたけどそれを信じた。
徒歩で検問所に戻ると「君はポーランド語やロシア語で交渉できないだろうから、我々が車を見つけるまで端っこに立っておけ」と言われた。そして警備隊員や出入国係官が、国境を通る車一台一台に「行き先は?カリーニングラード?それなら、あの日本人を乗せてやってくれないか」と訊いてくれた!感動!信じられない。僕がお願いしてもスルーされるだろうけど、警備隊が交渉してくれると、とりあえず話は聞いてくれる。僕1人なら不審者なのに、“わざわざ警備隊が協力するほど安全な旅行者”に様変わり、いわば彼らが身元保証人になってくれたようなものだ。
僕は警備隊が「あの日本人」と指差すたびに、怪しまれぬよう満面の笑みで手を振り、プリーズのポーランド語「プロッシェン」とロシア語「パジャールスタ」を交互に叫んだ。そして12台目、奇跡は起きた。お婆ちゃんと娘さんの車が「OK、乗せて行ってあげる」。うおおおおお!お婆ちゃんの名前はメラニカさん、娘さんはルーダさん。ルーダさんは一般道を「160km」で、しかもお喋りに夢中で片手運転。カリーニングラード市内まで1時間。乗せてもらって大感謝しつつも、胸中では“お願い、ハンドルは握って
いてくれ〜!”とドキハラだった。
車内にはロシアの明るいポップスが流れ、ルーダさんは「ほら、窓の外を見て。海が見えるわよ」。
メラニカ婆ちゃんがガムをくれたので、貧乏旅行者の“御礼”の鉄板、漢字の名前「目羅仁華」「流打」を書いた。原価ゼロ、相手は大喜び&場が和むという、ノーリスク・ハイリターンな贈り物だ。過去の例から、画数が多いほど喜ばれるので、今思えばルーダさんは“流打”より“瑠陀”、婆ちゃんは“目羅仁華”より“芽羅新華”の方が良かったけど、ラリー・カー状態で揺れていたこともあり、シンプルなものにした。
11時半、無事に目的地に到着。車内でカントの墓参りに行くと話していたので、ルーダさんは墓所があるケーニヒスベルク大聖堂の手前で降ろしてくれた。大聖堂は川の中州にあるため、メラニカ婆ちゃんはロシア語の分からない僕のために、身振り手振りで“川”“橋”“階段を降りる”と伝えてくれた。街が誇る偉人であり、市民なら誰でもお墓の場所を知っているとのことだった。
僕は何度も「ボリショイ・スパシーバ!(本当に有難う!)」と繰り返し、最後は互いに「ダスビダーニャ!(さようなら)」で別れた。信じられぬ思いで去りゆく車を見送った。ちなみにポーランドに戻るバス停の場所も時間も分かってない。とりあえず時差があるので時計を1時間戻して10時半に。
ケーニヒスベルク大聖堂はとても大きく、数人に「グジェ(どこ)
カント?」と墓所を尋ね、建物後方の外壁に沿って墓があると分かった。高鳴る胸、次第に早足に。そして正面左手の奥に人だかりがあり、ついにカントの墓にたどり着いた!
カントはドイツ啓蒙期の哲学者。最も大きな影響力を持った近代思想家。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルへ続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖。1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれ、この地に骨を埋めた。父は馬具職人。「イマヌエル」はヘブライ語「神は我らと共にあり」の意。20代は貧困のなか家庭教師で生計を立て、1755年(31歳)にケーニヒスベルク大学の講師となり、同年、太陽系が星雲から生成されたと論じた『天界の一般自然史と理論』を出版、1770年(46歳)からケーニヒスベルク大学の論理学&形而上学の哲学教授となった。
1781年(57歳)、批判哲学の根幹となる『純粋理性批判』を著し、それまで人間の認識能力は対象よって左右されると考えられていたものを、カントは考え方を逆転させ、むしろ我々の主観によって対象の認識が変わる=我々が対象を自ら作り上げると論じた。我々は対象を心で“模写"するのではなく、積極的に加工して“見たいように見る"。カントはこの大転回を、コペルニクスによる天動説から地動説への転換にたとえて「コペルニクス的転回」と名付け、合理主義とイギリス経験主義を合わせた超越論主義を主張した。ちなみに批判哲学の“批判"は否定的意味ではなく“吟味"に近い。
続いて1788年(64歳)に『実践理性批判』において実践理性を分析し、理性による命令には「幸福になりたければこのように行為すべし」と、無条件に「このように行為すべし」の2種類があるとし、後者は人間全体に当てはまり、これがカントの考える道徳の基礎だった。
2年後の1790年(66歳)、美学と有機体(生命)自然を取り上げた『判断力批判』を発表。前々作の『純粋理性批判』では「我々は何を知りうるか」を、前作の『実践理性批判』では「我々は何をなしうるか」を、今作の『判断力批判』では「我々は何を欲しうるか」を考察し、この三批判書でカントは自身の批判哲学を完成させた。
1795年(71歳)、遺稿『永久平和のために』において、各国は常設の軍隊をなくし、国際平和機関を作るべき(※国際連盟誕生(1920)の125年前、国際連合誕生(1945)の150年前)と提案。国家を人格として扱い、他国を資源調達など利害の見地から考えてはいけないと訴えた。また平和に繋がる民主主義を重視した。「戦争好きの国王はいるが、命を晒される国民は戦争を嫌がるもの。だからこそ平和のためにも民主主義の国家であれ。戦争を嫌がる国民が主人公なら戦いを選ばず、別の道を探す」。
その後、1797年(73歳)に“理性こそが道徳の最終的な権威"との信念をもとに『人倫の形而上学』で自身の倫理学体系を確立した。晩年はケーニヒスベルク大学総長を務める。75歳になると老人性認知症の進行を自覚し、「どうか私を子供と思ってください」と記したメモを持ち歩き、名前と用件を書いてもらった。1804年2月12日、79歳で他界。最期の言葉は、砂糖水で薄めたワインを飲んで呟いた「これでよい」(Es
ist gut.)。
弟子フィヒテや後年のヘーゲルは、カントの現象と物の対立を否定し、独自のドイツ観念論(観念論哲学)を展開してゆく。カントがもちいたアンチノミーによる論証法を、ヘーゲルとマルクスが弁証法に発展させた。
カントは言う。人間は良心の声に従っている時が最も自由な状態であり、逆に背徳・反モラルな行為をしている時は、当人は「自由」と思い込んでいるだけで、実際は悪しき価値観の支配下で拘束されているのだと。
墓はカリーニングラードのケーニヒスベルク大聖堂の外壁沿いにある。文献には墓碑銘に『実践理性批判』の結びの一文、「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」がラテン語で刻まれているとあるが、残念ながらその文字を確認することは出来なかった。いったいどこに書かれていたのだろう?大聖堂の内部には大規模なカント博物館があり、遺品や原稿が展示され、最上階にはデスマスクがあった。
さぁ、ポーランドに戻ろう。カリーニングラード駅の近所にある長距離バスセンターに14時に到着。そして危なかった!ポーランド(グダニスク)行きのバスは15時が最終で、残席は残り3!ひょえ〜!きわどいところでチケットをGET。約5400円。お昼ご飯にアイスしか食べてないことを思い出し、残ったルーブルの小銭をパン屋で使い切る。ロシア滞在はわずか4時間半、ピロシキ(60円)で気分を盛り上げた。
そして15時、今度のバスは定刻通り!これで戻ることができる!1時間後にはポーランド!…と思いきや、そう甘くはなかった。往路は3人の国境越えだからすぐに手続きが終わったけど、復路は50人の大移動。出国も入国もえらい時間がかかった。まさか3時間半も要するとは!「ドヴィゼニア!(さようなら)」、そういってバスの若者たちと別れた。時差を戻すと19時半。急いで駐車場へ。“頼むぞ、あってくれ、マジ頼む…あ、あ、あった!アウディは無事だった!”。長い緊張から解放された僕は膝の力が抜け、しばらく運転席でへばっていた。目を閉じると、ルーダさんとメラニカ婆ちゃんの笑顔が浮かんだ。
以前、ロシアに飛行機で入った際に、税関やセキュリティーの厳重さに閉口した。その出入国に厳しいロシアに「ヒッチハイクで入る」なんて聞いた事がない。いろんな偶然が重なってたまたま僕は行けた。カントは人間の善意、良心を強く信じた哲学者。彼の墓にはまさにその多くの善意でたどり着けた。カントが引き合わせてくれたようなものだ。今日出会ったすべての人と、カントに感謝。 ※カントは規則正しい生活を好み、毎日同じ時間に同じルートを散歩した。近所の人はカントを見て時計の狂いを直したと伝わる。
※カントいわく、内なる道徳法則が存在している証拠は、人間が自由という概念を認識していること。もし好きに生きて良いなら、そもそも自由を認識することがないからだ。
【カント語録】
・人間は良心を持ち、誰にも命令されていないのに自ら良心に従っている。人間としての真の自由とは、この理性の声に自ら従うこと。
・人間は人格を持つがゆえに均しく尊重されるべきであり、財産は無関係。他人を利用するな、そして自分のことも軽く扱うな。
・人生の苦労を持ちこたえるには三つのものが役に立つ。希望・睡眠・笑い。
・崇高なものは我々を感動させ、美しいものは我々を魅了する。森は夜崇高であり昼美しい。
・私自身は生まれつき研究者である。無学の愚民を軽蔑した時代もあった。しかしルソーが私の謬りを正しくしてくれた。私は人間を尊敬することを学ぶようになった。
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1999 | 2009 時間がゆっくりと流れている | 『寸心居士』と彫られていた |
1999 | 2009 墓前は花であふれていた! |
調査ではここに墓があるはずだった | 入口は狭いのに、中にはけっこう墓があった | 刻々と日が暮れる。一向に墓が見つからない |
倒れている墓も多く名前の確認に手間取る | うっそうと樹木が生い茂り光を遮る | 「うわ!草がボーボーじゃないか!」 この後、いっきに日没になり捜索は断念。悔しい! |
「また挑戦するんだニャ〜」 |
無念!ケンブリッジ郊外の墓地までたどり着いたにもかかわらず、時間切れでヴィトゲンシュタインの墓を発見できなかった! (っていうか墓地内も荒れ果てすぎ!)ケンブリッジ在住or訪問の予定がある方、彼の墓を見つけたら、ぜひぜひお知らせ下さいましーッ! 【2014追記】サイト読者のTさんから「お墓を発見しました」と連絡を頂きました!現在は墓地内に主要な人物の墓の場所が記されて いる看板があり、簡単にお墓を見つけることができるそうです。Tさんは次のやり方で見つけたとのこと。情報を有難うございました! (1)墓地の入口を入って道なりにしばらく行く
(2)すると、右側に看板と小さい小屋(僕が行った時は「アルファベット美術館」という名前だったと記憶しています)が見えてくる。
(3)小屋と看板を右に、少し手前で左に曲がる
(4)すると、すぐにウィトゲンシュタインさんのお墓が見つかります。(比較的近いところだったと思います。)
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やっと会えました! |
供えられた鉛筆に「哲学の試験で良い点数がとれますように」とあった(笑) |
竹一重切花入 銘『園城寺』 | 千利休像(長谷川等伯筆) | 黒樂茶碗 銘『俊寛』 |
利休作の竹の花入れ。わざと ヒビ割れを正面にした大胆さ! |
天下人秀吉を前に、一歩も 己の美学を譲らなかった! |
利休が愛した黒樂茶碗 利休いわく「黒は古き心なり」 |
待庵の外観 | 待庵の床(とこ) | 待庵の“にじり口” | 竹茶杓(ちゃしゃく) 銘『泪』(筒は古田織部作) |
現存する最古の茶室! 400年以上前のもの |
もちろん国宝ッ!! わずか2畳の究極の茶室 (超ストイック) |
まるでブラックホールか 宇宙の入口のようだ… |
切腹前に削り最後の茶会に使った茶杓。弟子 の織部に与えた。織部は窓付きの筒を作り、 窓を通して位牌代りにこの茶杓を拝んだという |
大徳寺山門。秀吉はこの2階に安置された 利休の木像を理由に切腹を申しつけたという |
なんと利休が自害した場所は、現在陰陽師・ 安倍晴明を祀った「晴明神社」になっている(2008) |
利休が最期の茶をたてた水の 井戸には五芒星が刻まれていた |
神社の鳥居脇にある 「千利休居士聚楽屋敷址」 |
千家一門の墓!中央が利休。左側が裏千家、右側が表千家。 | 利休の墓だけ大きい。木洩れ陽が良い感じに当たっている。 |
隣は利休の師・武野紹鴎(1502-1555.10.29)。侘茶の開祖 村田珠光の茶風を継いで、茶の湯のさらなる簡素化に努めた |
そして向かいが利休のライバル、 津田宗達一門の墓 |
京都大徳寺。利休が庵を結んだこの寺にも墓。 墓地の前で独り風流に粗茶をたしなむ図。 利休とお茶会!1999 |
千家では利休切腹の1ヶ月後を命日としており、 表千家は3月27日、裏千家では3月28日に大徳寺で 追善茶会を開いている(2004/裏千家・今日庵) |
●魚問屋の息子から天下一の茶人へ 信長、秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。本名は田中与四郎、号は宗易(そうえき)。大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれる。当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地。堺は戦国期にあって大名に支配されず、商人が自治を行ない、周囲を壕で囲って浪人に警備させるという、いわば小さな独立国だった。多くの商人は同時に優れた文化人でもあった。 父は堺で高名な商人であり、利休は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道に入る。18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩き23歳で最初の茶会を開いた。 紹鴎の心の師は、紹鴎が生まれた年に亡くなった「侘(わ)び茶」の祖・村田珠光(じゅこう、1423-1502)。珠光は“あの”一休の弟子で、人間としての成長を茶の湯の目的とし、茶会の儀式的な形よりも、茶と向き合う者の精神を重視した。大部屋では心が落ちつかないという理由で、座敷を屏風で四畳半に囲ったことが、後の茶室へと発展していく。 紹鴎は珠光が説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めた。そして、精神的充足を追究し、“侘び”(枯淡)を求めた。 利休は師の教えをさらに進め、“侘び”の対象を茶道具だけでなく、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大した。また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだ。利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させた。 1568年(46歳)、活力に湧く自由都市・堺に信長が目をつける。信長は圧倒的な武力を背景に堺を直轄地にし、軍資金を差し出させ鉄砲の供給地とした。 新しいモノに目がない信長は、堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ(信長の名物狩り)、武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を目指す。信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、あらゆる面で茶の湯を利用した。 ※現代でも高価な茶碗は重宝されるけど、戦国武将たちにとって名物茶器は一国一城に値するもので、その価値は今とは比較にならないものだった。名物茶釜「平蜘蛛釜」を所有していた大和の武将・松永久秀は数度にわたって信長を裏切っているにもかかわらず、信長は問答無用で攻め滅ぼすことはしなかった。1577年、信貴山城にこもった久秀を2万の織田軍で包囲した際、「もし平蜘蛛釜を差し出せば命までは奪わぬ」と降伏勧告を行った。信長が喉から手が出るほど平蜘蛛釜を欲していた事を知っていた久秀は、「信長にはワシの首も平蜘蛛釜もやらん!」と、なんと平蜘蛛釜に火薬を詰めて自分の首に縛り付け、釜もろとも爆死して天守閣を吹っ飛ばした。現代では信じられなけど、茶器が人の命を左右する時代が日本にあったんだ。(利休は43歳の時に久秀主催の茶会に茶匠として招かれている) 信長は堺とのパイプをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)、利休を茶頭(さどう、茶の湯の師匠)として重用した。利休は1573年(51歳)、1575年(53歳)と2度、信長主催の京都の茶会で活躍している。 信長の家臣は茶の湯に励み、ステータスとなる茶道具を欲しがった。彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ること。必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになった。 利休60歳の1582年6月1日、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催された。そしてこの夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。 後継者となった秀吉は、信長以上に茶の湯に熱心だった。秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、後に「利休七哲」と呼ばれる、細川三斎(ガラシアの夫、忠興)、蒲生氏郷、高山右近(キリシタン)、“ひょうげもの”古田織部など優れた高弟が生まれた。 1585年(63歳)、秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った(それまで宗易と名乗っていた)。このことで、その名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。 翌年に大阪城で秀吉に謁見した大名・大友宗麟は、壁も茶器も金ピカの「黄金の茶室」で茶を服し、「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と記した。 ※秀吉は茶会を好んだが、いかんせん本能寺で大量の名物茶道具が焼失したこともあり、自慢できる茶器が不足していた。そこで利休は積極的に鑑定を行ない新たな「名品」を生み出していく。天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがるようになった。利休は自分好みの渋くストイックな茶碗を、ろくろを使用しない陶法で知られる樂長次郎ら楽焼職人に造らせた。武骨さや素朴さの中に“手びねり”ならではの温かみを持つ樂茶碗を、人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、利休の名声はさらに高まった。 1587年(65歳)、秀吉は九州を平定。実質的に天下統一を果たした祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」を北野天満宮で開催する。公家や武士だけでなく、百姓や町民も身分に関係なく参加が許されたというから、まさに国民的行事。秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、利休が総合演出を担当した。当日の亭主には、利休、津田宗及、今井宗久、そして秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並んだ。拝殿では秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、会場全域に設けられた茶席は実に800ヶ所以上となった!秀吉は満足気に各茶席を見て周り、自ら茶をたて人々にふるまったという。 ★ミニコラム/利休の美学が垣間見えるエピソード集 ・ある初夏の朝、利休は秀吉に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と使いを出した。秀吉が“満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいだろう”と楽しみにやって来ると、庭の朝顔はことごとく切り取られて全くない。ガッカリして秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ!秀吉は利休の美学に脱帽したという。 ・秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。「せっかく掃いたのになぜ」と人が尋ねると「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えた。 ・弟子に「茶の湯の神髄とは何ですか」と問われた時の問答(以下の答えを『利休七則』という)。「茶は服の良き様に点(た)て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」「師匠様、それくらいは存じています」「もしそれが十分にできましたら、私はあなたのお弟子になりましょう」。当たり前のことこそが最も難しいという利休。 ・秀吉は茶の湯の権威が欲しくて「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある」と告げた。「是非教えて下さい」と有楽斎。利休曰く「それは自由と個性なり」。利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いた。 ・利休が設計した二畳敷の小さな茶室『待庵(たいあん)』(国宝)は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室。利休が考案した入口(にじり口)は、間口が狭いうえに低位置にあり、いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れない。それは天下人となった秀吉も同じだ。しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。 ・「世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは 茶にぞ飲まるる(茶の道を知らねば茶に飲まれる)」(利休) ●秀吉との対立〜切腹へ 利休と秀吉は茶の湯の最盛期「北野大茶湯」が蜜月のピークだった。やがて徐々に両者の関係が悪化していく。秀吉は貿易の利益を独占する為に、堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、独立の象徴だった壕(ごう)を埋めてしまう。これは信長でさえやらなかったことだ。堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく感じる。 1590年(68歳)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ、その日のうちに処刑される(しかも耳と鼻を削がれて!)。衝撃を受ける利休。茶の湯に関しても、秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする木と土の素朴な草庵と正反対のもの。秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、利休との思想的対立が日を追って激しくなっていく。 そして翌1591年!1月13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。 9日後の22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。 それから1ヵ月後の2月23日、利休は突然秀吉から「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受ける。利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないというのだ。秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリ分からせようと思っていた。 秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(おね)、或いは母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。だが、利休はこれを断った。「秘伝の作法」に見られるような、権力の道具としての茶の湯は、「侘び茶」の開祖・村田珠光も、師の武野紹鴎も、絶対に否定したはず。秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでなく、茶の湯そのものも侮辱することになる…。 利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。 利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。 2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。 26日、秀吉は気が治まらず、利休を堺から京都に呼び戻す。 27日、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。 そして28日。この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は「切腹せよ」。この使者は利休の首を持って帰るのが任務だった。利休は静かに口を開く「茶室にて茶の支度が出来ております」。使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹した。享年69歳。利休の首は磔にされた木像の下に晒された。 利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。さらに17年後の1615年。大坂夏の陣の戦火は堺の街をも焦土と化し、豊臣家はここに滅亡した。 ●後日談 利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となった。秀吉が没すると、織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南した。だが、織部の自由奔放な茶が人気を集め始めると、家康は織部が利休のように政治的影響力を持つことを恐れるようになる。そして、大阪の陣の後に「織部は豊臣方と通じていた」として切腹を命じた。(この時代、茶をたてるのも命がけだ) 利休、織部に切腹命令が出たことは世の茶人たちを萎縮させた。徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように既成の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。 後年、利休の孫・千宗旦が家を再興する。そして宗旦の次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、三男・宗佐が『表千家不審庵』を、四男・宗室が『裏千家今日庵』をそれぞれ起こした。利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、今や世界各国の千家の茶室で、多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。 ※利休が公式に開いた最後の茶会の客は家康だった(切腹の1ヶ月前)。 ※利休は『竹一重切花入・銘園城寺』『竹茶杓・銘ゆがみ』など、自作した茶道具を茶会に組み込んだ。 ※秀長の死からわずか1ヶ月で利休が葬られたことから、強大な政治権力を持つ利休を目障りに感じた家臣らに排斥されたとも言われている。また秀吉が利休の養女お吟(ぎん)を側室に所望したのを断った為とする説もある。 ※利休十哲の中には高山右近、蒲生氏郷、古田織部といった熱心なキリスト教信者がいた。茶の湯は誕生時から宗教を超越していた。 ※1989年、奇しくも利休を描いた2本の映画が同じ年に公開され話題になった。『千利休/本覺坊遺文』(利休・三船敏郎)と『利休』(利休・三國連太郎)だ。 ●墓 墓は利休が参禅していた堺の南宗寺と京都大徳寺にある。南宗寺は大阪の陣で全焼したが沢庵和尚が再興し、千家一門の墓の他にも師匠・武野紹鴎の墓もある。 |
愛用していた有楽井戸 | 波乱万丈の人生だった | 有楽斎 | 国宝の茶室・如庵 |
茶道・有楽流の創始者。織田信長の実弟として生まれ、本能寺の変、関ヶ原の決戦、大坂の陣、その全ての現場にいた。信長、秀吉、家康の3人を最も近い場所で見てきた男と言われている。
本名長益(ながます)、通称源五。1582年6月2日、35歳の有楽斎は信長の長男・信忠と共に織田軍の一員として武田家征伐を終え、京都妙覚寺に入っていた。明智光秀が本能寺を襲ったことを知り、信忠と共に二条城に立て籠もる。やがて多勢に無勢と信忠は自害。多くの武将も討ち死にしていく中で、有楽斎は奇跡的に脱出に成功し、安土城を経て岐阜へ落ち延び一命を取り留める。
その後、信長の次男・信雄に仕え、秀吉と家康が対決した「小牧・長久手の戦い」では、信雄の使者として両者の調停役を務めた。巧みに家康を説得したこともあり、信雄が失脚した後は秀吉が参謀に招き入れた。
兄の家来だった秀吉に仕えることになった有楽斎は、戦国の世の全てが虚しく思えたのか、剃髪して出家し有楽斎如庵と号した。当初は無楽(楽しいことは何も無し)と名乗っていたが、秀吉からあまりに陰気すぎると指摘され有楽に改めたという。千利休の弟子になって茶の湯を習い始めると、その勤勉さから『利休七哲』に数えられ、師から最高位修得の印に台子(だいす、棚)を授かった。利休自害後は秀吉の茶の湯をつかさどる(44歳)。
隠居生活に入っていた有楽斎だが、時代がそれを許さなかった。秀吉が没したことで世は混迷を深め、53歳の有楽斎は家康の要請を受けて関ケ原の戦いに出陣する。東軍として石田三成軍の猛将・蒲生真令を討ち取ったことで3万石を与えられた。
関ヶ原後、徳川方と豊臣方の対立が深まっていくと、有楽斎は微妙な立場に立たされる。豊臣秀頼の母淀殿(幼名茶々)を生んだのは彼の実姉・お市の方であり、姉亡き後に姪を育てたのは有楽斎なのだ。1614年(67歳)、大坂の冬の陣が勃発すると、豊臣方の盟主におされ大坂城に入り、城外北方の天満を守備しつつ秀頼を補佐した。一方、攻め手の2代将軍徳川秀忠の妻もまた有楽斎の姪(淀の妹)。両陣営の間で板挟みになった彼は、家康と秀頼・淀殿の橋渡しとして奔走し、和議を成立させた。翌年、夏の陣が始まるまで互いの融和に努めていたが、戦が不可避と判断すると、武家であることがホトホト嫌になり、開戦直前に大坂城を退去。京都東山の建仁寺正伝院に身を置き、今度こそ完全に隠棲した。
建仁寺に入ってからは6年後に他界するまで茶に明け暮れ、のんびり気楽に余生をおくる。4歳年上の大茶人・古田織部が豊臣方に通じていた嫌疑で自害させられると、有楽斎は茶人の頂点に立った。70歳の時に設けた茶室如庵(じょあん、国宝)は、師の利休がわびやさびを求めたのに対して、木漏れ日を演出する“有楽窓”を考案するなどやすらぎを求めた。1621年74歳で永眠。家康は既に5年前に他界していた。
有楽斎の茶説は甥が「貞置集」にまとめ、有楽流が誕生した。有楽斎愛用の高麗井戸茶碗(有楽井戸)は現存し、有楽斎を茶祖とする織田流煎茶道は、今の家元で十五代になる。
有楽斎が眠る正伝永源院は、建仁寺境内の北側。もとの名は永源庵。1873年に廃寺となったので、祇園の正伝院を同地へ移し、名を永源と併せて正伝永源院とした。有楽斎の墓は祇園の旧地に残ったままだったので、1962年に改葬された。法名正伝院如庵有楽。隣に眠っている妻・清は、信長のうつけぶりを諌(いさ)めて自害した重臣・平手政秀の娘。
本能寺からも大坂城(夏の陣)からも逃亡し、「卑怯者」「臆病者」と呼ばれた有楽斎。秀吉の参謀だったのに関ヶ原では東軍についた要領の良さ。歴史ファンには有楽斎を嫌っている人も多い。しかし、僕は卑怯ではなく鋭い分析力と高い政治感覚を持っていたのだと思っている。信長の弟という立場で殺されずに天寿をまっとうしたのはアッパレ。最後は茶人として天下をとった。兄の信長は天下をとる直前に散ったが、有楽斎は武力の世界ではなく芸術の世界で天下一になったんだ。
※現在国宝に指定されている茶室は、京都山崎妙喜庵内の待庵、大徳寺龍光院内の密庵、そして愛知県犬山の名鉄ホテル庭園内の如庵の三名席のみ。如庵は東京や大磯など転々と移設された為、「流転の名跡」と言われている。
※関ヶ原後、有楽斎は家康から江戸に屋敷を与えられた。この屋敷のあった場所は現在「有楽町」と呼ばれている。
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マンガ『へうげもの』で古田織部は全国区に!NHKさん、ぜひ大河ドラマ化を! |
中央の墓が“へうげもの”古田織部の墓(2008) | 「無形文化財指定」(2003) | 戒名の「雲了院殿金甫宗屋大居士」が刻まれている |
同じ墓地に茶道織部流歴代家元の二代から十七代までの墓がある | 左手前の歴代墓の斜め向かいに古田織部の墓がある |
JR土岐市駅前にある「織部の里」案内板 | そして切符売り場には“ジャンボ抹茶碗” | こちらはジャンボ水指。織部もビックリ! |
通称左介、諱は重然(しげなり)。利休の高弟(高位の弟子)。利休は秀吉と対立して秀吉から切腹を命じられたが、織部もまた大坂夏の陣で豊臣方に通じていたとして、家康から切腹の命を受けた。利休と織部は、時の権力者と対立しても自分の信念を貫く炎の師弟だ! ※古田織部の指導の下で作られたのが織部茶碗だ。ゆがみを強調した形状や、豊かな装飾性と多種多様な色合いで、ひときわ異彩を放っている。 ※興聖寺の墓地は入口が分かり辛い。境内の奥に広がっている。 |
お寺の人の案内がなければ絶対に分からなかった! この茂みの奥に遠州の墓が隠れている。完全に死角だ |
木洩れ陽の中の遠州 ※写真はきれいけど、大量のヤブ蚊とクモの巣だらけッス! |
滋賀県長浜市の遠州生誕地 | 東京新宿区の小堀家分家の墓 | 茶道・小堀遠州流 |
利休七哲の一人。こんなに墓参道が美しい墓はそうそうない。彼は会津の人から本当に愛されてるね! ※この興徳院の墓は遺髪墓 |
五輪塔「空・風・火・水・地」 の五文字がカッコイイ! |
京都大徳寺・黄梅院の墓。氏郷は刀を抱いた形で埋葬されたとの事!(2008)※一般非公開 |
三斎(忠興)と妻ガラシャ(奥)の廟が並ぶ。写真には写って ないけど右側には父・幽斎(藤孝)の廟がある |
墓石はド迫力の五輪塔 |
京都の大徳寺高桐院は細川家の菩提寺で、当寺 にも墓がある。美しい苔寺として有名だ(2008) |
高桐院の墓。石灯籠そのものが墓石で忠興の歯が埋まっている。妻のガラシアもこの下に。この石灯籠は利休 が天下一と美しさを讃えたもの。名声を聞いた秀吉が権力に任せて奪おうとした際、利休はわざと背後を割ってキズ モノにし譲渡を断った。そして切腹時に遺品として弟子の忠興(当時28歳)に贈った。それから約50年後、80歳に なった忠興は熊本からこの石灯籠を高桐院に運んできて、忠興とガラシアの共同の墓と遺言し3年後に他界した |
忠興が作った茶室「松向軒」 | 忠興の石灯籠の横には細川家初代〜12代の墓が並ぶ | 中央の幽斎は微妙に傾く |
井原鉄道で吉備真備駅へ | 車内は超・和風テイスト! | こんなに気持が落ち着く列車に乗ったのはマジで生まれて初めて! |
吉備真備駅に到着 | 朝6時からさっそく墓参! | 駅前は中国風 | まきび公園の高台に眠る |
墓所はお堂の裏側に隠れており気付きにくい | 真備さんは遣唐使で大陸に渡った | カタカナを創作したという説もある |
奈良時代の学者・政治家。父は吉備地方の豪族・下道圀勝(しもつみちのくにかつ)。717年、22歳で唐に留学生として渡り、18年後の735年(40歳)に帰国した。真備は帰国時に、書籍、楽器、武器、日時計など、大陸の膨大な文物を日本に持ち帰った。その優れた学識から、帰国後は聖武天皇や光明皇后から寵愛を受け、最終的には右大臣まで進んだ。地方豪族としては異例の出世であり、近世以前に学者から大臣まで駆け上がったのは、真備と菅原道真のたった2人だけだ。 |
本居宣長、61歳の自画像 |
駅からもバスの路線から離れた場所にあり、 しかもタクシーはここまで。登るしかない! |
どんどん山に分け入っていく。 竹のトンネルが凄かった |
本居参道。右に行けば 宣長の眠る奥墓だ |
いったん道が開け、また 前方の山に入っていく |
お墓に到着!嬉しい!宣長が生前に こよなく愛した山桜のもとに墓がある |
宣長が遺言にデザインした墓所の形に 2001年に復元整備したそうだ |
『本居宣長之奥墓』! 墓石の字は宣長の直筆 |
樹敬寺にも墓がある。この本居夫妻 の戒名も宣長の自筆とのこと |
『史蹟本居宣長墓』の石柱と 背中合わせの宣長夫妻と長男夫妻 |
宣長旧宅。12歳から死ぬまで住んだ家。1階を 診察室とし、2階の四畳半に書斎をおいた |
江戸中期の国学者で、その頃既に誰も読めなくなっていた『古事記』を根性で解読し、注釈集の『古事記伝』を35年かけて執筆&発表した。『源氏物語』『日本書紀』も深く研究。号は春庵・鈴屋(すずのや)。三重県出身。23歳の時に医師となるべく京都にのぼり、熱心に漢学、医学を学んだ。また、都の暮らしから王朝文学に憧れるようになる。古典学者・契沖や儒学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)の著作と出合い多大な影響を受けた。1757年(27歳)、故郷の松坂に戻り医師を開業し、同時に国学の研究も本格的にスタート。先輩国学者の賀茂真淵(かものまぶち)を訪ねて弟子になり、師の影響で『万葉集』に激ハマり。50代になると藩主から呼び出されて古典の御前講義を行なうようになった。
宣長は文学について、儒教や道徳を説くことが本来の役目ではなく、万葉集や古典文学のように、素直にものに感じる心--「物のあはれ」を知る心を養うことが重要と主張した。
※仕事で江戸に向かう道中で、地図に掲載された宿や名所の場所が全然違っていてひどく苦労し、激怒した宣長は“それならば自分で”と、道中の情報をことごとく網羅した『大日本天下四海画図』を完成させた。
※宣長は安易な死刑に反対し、紀州徳川家に「法を守るためにと、(藩が)かえって軽々しく人を殺す事があるので、よくよく慎むべき。たとえ少々法から外れることがあっても、ともかく事情をよく調べて軽く取り扱ってはならない」と提言している。
※宣長は鈴マニアで、自宅の床の間に36個も鈴をぶら下げていたという。
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西鉄電車太宰府駅から天満宮へ続く参道 | 太宰府天満宮の本殿。この建物自体がお墓だ | 天神様と崇められ本殿には鏡がある |
道真の棺を牽いた牛がこの地で動かなくなった ので、ここに霊廟として太宰府天満宮を建てた |
本殿前の梅は京都の道真邸の庭にあった という。左遷時に別れを告げた道真を慕って、 ここまで飛んできた飛梅伝説が伝わる |
なんて渋い電話ボックス |
境内の『筆塚』。道真は「書道の神」として 信仰されており、この塚は使い終えた 自分の筆に感謝して納める場所だ |
『包丁塚』というのも側にあった。 古い包丁を納め、調理した鳥、 獣、魚菜の霊を慰める場所 |
こちらは947年創建の京都・北野天満宮。道真を祀る。 1587年に秀吉が付近一帯で“北野大茶会”を催した。 本殿(国宝)は秀頼が造営。いつも受験生がいっぱい |
京都府長岡京市の長岡天満宮。道真は当地で在原業平と詩歌管弦を楽しんだ。太宰府へ 左遷される途中でこの地に立ち寄り「わが魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ(2010) |
平安中期の漢学者・公卿。右大臣、大宰権帥。学問・書・詩文(和歌、漢詩)にすぐれ、学問の神様として崇められる。本名は三、幼名を阿呼(あこ)、後世に菅公(かんこう)、菅丞相と称された。
845年8月1日(承和12年6月25日)に京都で誕生。父は参議・菅原是善(これよし)で代々学者の家柄。母は伴氏。 11歳で初めて漢詩を詠み父を驚かせる。862年に17歳で文章生(もんじょうしょう/中国史・漢文学専攻の学生)となり、877年に32歳で学者として当時最高峰の名誉となる文章(もんじょう)博士となる。880年(35歳)の父の他界後、菅原氏の私塾を主宰し、宮廷文人社会の中心的な存在となった。 886年、41歳で讃岐守(さぬきのかみ)として四国へ赴任。 887年9月17日に第58代光孝天皇が崩御し、同日第59代宇多天皇が即位。その際に藤原基経を関白に任じた天皇の勅書に「阿衡(あこう)の任をもって卿の任となすべし」とあったため、基経は阿衡とは位のみで職務を伴わない肩書きとして政務を放棄、半年後(888年)に宇多天皇が譲歩し勅書を改めた。これにより関白藤原基経は自分が天皇より力があることを内外に知らしめた。藤原基経は阿衡事件の勅書を書いた橘広相(たちばな の ひろみ)を遠流(おんる)の刑にするよう求めたが、道真が「これ以上紛争を続けるのは藤原氏のためにならない」と基経に書状を送り、基経は怒りを収めた。 890年(45歳)、道真は国司の任期を終え四国より帰京。 891年2月24日、関白・藤原基経が55歳で他界すると、宇多天皇は藤原氏の権勢を抑えて天皇中心の理想政治を目指す。道真は阿衡事件の収束で信任を得たことで良識派の側近として重用されていく。帰京の翌年には蔵人頭(くろうどのとう/天皇の秘書)に抜擢された。 893年(48歳)、参議、公卿に列する。この年、宇多天皇は道真ただ一人と相談して敦仁親王(のちの醍醐天皇/885-930)を皇太子とした。 894年(49歳)、56年ぶりに遣唐使(第14次)の再開が計画されたが、遣唐大使の道真は唐の情勢混乱や日本文化の発達を理由に遣唐使の中止を進言する(13年後の907年に唐は滅亡)。 895年(50歳)、権中納言を叙任。翌年、長女が宇多天皇の女御に、3年後に三女を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とする。 897年(52歳)、宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求めた。道真は宇多帝に「政治家を辞め学業に専念したい」と数度にわたって訴えたが却下される。 899年(54歳)、14歳の醍醐天皇を支えるため道真は右大臣まで昇進。藤原時平(基経の子)は左大臣に任ぜられて太政官の首班となったが、宇多上皇の信任は道真の方が厚かった。道真は上皇側近の地位を引き続き占める一方、時平は妹の穏子を醍醐天皇の女御として入内させている。大臣の要職を藤原氏が独占しつつあるなかで、学者出身の道真が抜擢されることが時平には面白くなかった。同年、宇多上皇は出家して法皇となる。 900年(55歳)、時平と対立し朝廷内で孤立を深めつつあった道真に対し、文章博士の三善清行(みよし の きよゆき)が道真に勇退を求める引退勧告の書簡《奉菅右相府書》を記す。「学者から大臣にまで登り、帝に寵愛され、学問の栄誉も得て、これほどの成功者は吉備真備公だけです。どうか、事足りると引退され、あとは自然の中で風流を楽しまれては」とした。道真はかつて官吏の試験官となって三善清行を登用試験で落としたことがあり、書簡を黙殺した。 そして右大臣となって2年、901年の年明けに従二位に至るが、突如として菅原道真は謀反策謀の濡れ衣を着せられる。直接のきっかけは中納言・藤原定国(867-906※醍醐帝の外戚)と、蔵人頭(くろうどのとう※帝の秘書)・藤原菅根(すがね)が醍醐天皇に「天下之世務以非為理」(道真は帝の世にあって理にかなう務めをしていない)と訴えたことに始まる。そして時平が醍醐帝に「道真は醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀り、宇多法皇の同意を得た」「宇多法皇を欺き惑わした」と訴えた。 事態に驚愕した宇多法皇は道真を助けるため裸足で朝廷に駆けつけ、醍醐天皇を説得しようとしたが、宇多帝自身が在位中に定めた規則「上皇であってもの天皇の許可なく内裏に入れない」によって、藤原菅根と衛士に門前で阻まれ、取り次ぎもされなかった。このため法皇の参内を天皇は知らず、法皇は外で立ち尽くした。 醍醐天皇は宇多法皇に事実確認をせず中傷を信じ、1月25日、天皇の宣命(せんみょう)によって道真は降格、1月25日、醍醐天皇の宣命(せんみょう)によって道真は都から遙かに遠い九州太宰府に太宰員外帥(だざいいんがいのそち/大宰府のトップ=名ばかりの閑職)として左遷される。この「昌泰(しょうたい)の変」では、子ども達も妻と幼子以外は地方へ飛ばされた(5年後に嫡子高視は赦免され都に戻る)。 道真は自邸を去る前に、庭の梅の木に別れの歌を詠んだ「こち(東風)ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」(愛する梅よ、春風が吹いたら良い香りを送っておくれ。家に主がいなくても春を忘れるな)は、美しくも切ない歌として今も伝わる。この梅はのちに道真を慕って太宰府に飛んでいったとする飛梅(とびうめ)伝説がある。 左遷後、道真は政務にあたることを禁じられ浄妙院で謹慎、俸給や従者も与えられなかった。そして都への望郷の念をつのらせつつ、2年後の903年3月26日(延喜3年2月25日)に57歳で他界した。 和歌は「古今和歌集」など勅撰集に34首もとられ、『小倉百人一首』には「このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山(たむけやま)もみぢのにしき神のまにまに」が入っている。晩年にまとめられた漢詩文も格調の高い詩風で大きな影響を与えた。編書『日本三代実録』『類聚国史(るいじゅうこくし)』『新撰万葉集』、漢詩文集『菅家文草』『菅家後集(かんけこうしゅう)』。『菅家後集』に収められた「叙意一百韻」に左遷に至るまでの自らの嘆きを綴る。 道真は遺言で「私の亡骸を牛車に乗せ、その牛に自由に牽(ひ)かせて立ち止まったところに葬れ」と遺した。人々が道真の亡骸を太宰府の安楽寺に葬ろうとすると、葬送の牛車がお寺の門前で動かなくなったため、遺志を尊重して同地に埋葬した。2年後の905年、門弟の味酒安行(うまさけ やすゆき)が神託によって安楽寺の境内に道真の墓の上に祀廟(しびょう)を建てる。 一方、道真の憤死後、都では疫病や異常気象など不吉なことが続き、天皇側近や皇位継承の候補者に不幸が続いた。まず没後3年、906年に道真左遷のきっかけを作った2人のうち公卿・藤原定国が40歳で他界。翌々年(908年)、もう1人、藤原菅根(蔵人頭として宇多法皇を足止め)が雷に打たれて52歳で命を落とす。 続いて没後6年の909年に最大の政敵だった左大臣・藤原時平が38歳で急死する。以後、弟の藤原忠平が醍醐天皇の側近となる。忠平は左遷騒動と無縁で大宰府の道真に手紙を出していた(忠平は祟られず70歳近くまで生きた)。913年、左遷時に時平側の中心にいた右大臣・源光(みなもとのひかる)が鷹狩の最中に泥沼に落ちて溺死し、遺体があがらず。918年、落雷で東寺の金堂が焼失。 道真を失脚させた要人の死、疫病の流行、干ばつが続いたことから、919年、これらを「道真の祟り」と恐れて御霊を鎮めるため、醍醐天皇の勅命によって中納言・藤原仲平(時平の弟)が大宰府・安楽寺に赴き、道真の墓所の上に立派な社殿、安楽寺天満宮(現太宰府天満宮)を造営した。 ところが4年後(923年)に醍醐天皇の第二皇子で時平の甥(妹の子)、皇太子・保明(やすあき)親王が19歳で病死する。『日本書記』は都の人々が道真の怨霊に大いに恐怖したと記す。 朝廷は狼狽して道真の罪を公式に取り消し、醍醐天皇は名誉回復のため左遷の詔を破棄して右大臣に復し、正二位を追贈した。その後、保明親王の第一王子・慶頼王(やすよりおう:醍醐帝の孫、時平の外孫/921-925)を新たに皇太子に立てたところ、2年後にわずか3歳半で他界してしまう。人々はますます怨霊の仕業と信じ込んだ。926年、新たな皇太子に保明親王の弟で醍醐帝第十一皇子、寛明親王(朱雀天皇/923-952)が選ばれる。 なおも自然災害や疫病など異変は収まらず、人々が不安に包まれているなか、道真没後27年、930年7月24日(延長8年6月26日)に決定的な事件が起きる。天皇の居所・清涼殿に朝廷要人が集まって会議をしている最中に、13時頃から愛宕山より沸き立った黒雲が平安京を覆い、1時間半後に落雷が清涼殿を直撃した。藤原時平に命じられ追放後の道真の動向監視を務めた大納言・藤原清貫は、衣服が焼け胸が裂けて即死。内蔵頭の平希世(たいら の まれよ)も顔を焼かれて倒れ同日死亡。隣接する紫宸殿にいた右兵衛佐 ・美努忠包も髪を焼かれて死亡。他にも腹を焼かれた者、膝を焼かれた者などて多数の死傷者が出た。警備の近衛も2名死亡している。宮中は“菅公の呪いここに極まれり”といった様相。人々は「菅公の怨霊が雷神となった」と噂し合った。 この怪異な光景を目にした醍醐天皇はショックで病気になり、皇位を7歳の寛明親王(朱雀天皇)にゆずり、7日後(930年10月23日)に崩御した。清涼殿落雷事件から3ヶ月だった。30年弱の間に、道真左遷に関わったとされる天皇1人・皇太子2人・高級貴族5人が病死、変死を遂げた。落雷事件の衝撃から道真公の怨霊は雷神と結びつけられた。 翌年、宇多法皇崩御。936年に時平の長男・保忠(やすただ)が46歳で他界。943年、三十六歌仙の一人で時平の三男・敦忠が37歳で他界。 947年、道真の怨霊を鎮める目的で、道真を祭神とした京都北野天満宮(北野天神)が創建される。本来「天満宮」は天皇・皇族をまつる神社の社号だ。以後、朝廷は各地の天満宮で菅公の慰霊に務めた。1607年に豊臣秀頼が造営した北野天満宮社殿は国宝。 952年に朱雀天皇も28歳という若さで崩御する(しかも在位中に富士山が噴火している)。 959年、藤原忠平の子、右大臣・藤原師輔が北野天満宮に宝殿増築。 987年、北野天満宮が官幣社に昇格。 没後90年となる993年、一条天皇の在位中に道真の神格化がさらに進んで左大臣が追贈され、翌月には最高位となる正一位太政大臣の位が贈られた。 鎌倉時代になると恐怖の対象ではなく冤罪を救う神となり、中世ごろから“天神さま”と親しみをもたれ「学問の神様」と信仰されるようになった。子孫には、柳生宗厳、前田利家、大隈重信などが名を連ねる。 先述したように太宰府天満宮は、かつて安楽寺天満宮と呼ばれていた。神仏混合によって安楽寺境内に天満宮もあったが、明治維新の廃仏毀釈で安楽寺は破壊された。その際、現存していれば国宝間違いなしの道真直筆の法華経八巻が焼かれてしまった。 太宰府天満宮の地下に道真は眠っており、本殿自体が“お墓”ということになる。 ※道真の霊は天満自在天となり青竜と化し、時平を殺したという。 ※道真の怨霊は天台密教で強化され全国に広められた。平将門は「道真の霊魂」を振りかざして戦い反乱を正当化した。 ※時平の3人の息子は、謙虚で控え目な人柄だった次男・顕忠(あきただ)だけが長寿(67歳)した。 ※『菅原伝授手習鑑』の〈天拝山の場〉では菅公が無実の罪をうらんで天に祈り、公の霊が雷となって京都に落ちる。 ※太宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。 |
民芸学者、美学者。“民芸品”は柳の造語。1889年、東京生まれ。海軍少将の三男。母は“柔道の父”嘉納治五郎の姉。妻は声楽家の柳兼子。1910年(21歳)、東京帝大哲学科在学中に、志賀直哉や武者小路らと雑誌『白樺』を創刊。そこで美術の啓蒙に努めた。柳は『白樺』を通して、日本人に初めてゴッホを本格的に知らしめる。板画家・棟方志功が白樺誌上で衝撃を受けたゴッホの“ひまわり”は柳が掲載したものだ。25歳、詩人兼画家のウィリアム・ブレイクに心酔し、研究書を出版。 日韓併合から5年後、1915年(26歳)から翌年にかけての朝鮮旅行をきっかけに、柳は朝鮮工芸に魅了される。中でも陶芸作品に強く心を動かされた。超高温で焼かれ、ガラスのように引締められた白磁や青磁といった李朝の磁器は、手のこんだ装飾もあって評価が高い。柳は磁器が放つ深遠なる輝きの虜になった。 1919年(30歳)、朝鮮で「三・一独立運動」が勃発。官憲の激しい弾圧で多数の朝鮮民衆が殺害された。柳はすぐさま「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と武力に頼った植民地政策を強く批判し、日本の新聞に論文『朝鮮人を思う』を寄せる。 「余は朝鮮について知識のある日本の識者の思想が、深みもなく温か味もないのを知り、隣人の為にしばし涙ぐんだ。日本の古美術は朝鮮に恩を受けたのである。法隆寺や奈良の博物館を訪れた人はその事実を熟知している。我々が今国宝として海外に誇るものは、殆ど大陸の恩恵を受けないものはないだろう。しかし今日の日本は報いるのに朝鮮芸術の破壊をもってしたのである。余は世界芸術に立派な位置を占める朝鮮の名誉を保留するのが日本の行なうべき正当な人道であると思う」 これは日本国内のみならず、独立運動を経て創刊が許可された韓国の東亜日報に転載され、半島でも大きな反響を呼んだ。 またこの頃、日本側が朝鮮を支配するための統治機関、朝鮮総督府の建物を王宮(景福宮)内に建設する計画が持ち上がり、道路拡張や建設の邪魔になる光化門が破壊、撤去される方針が発表された。計画を知った柳は、雑誌へ『失われんとする一朝鮮建築のために』(1922)と題する以下の声明を発表した(33歳)。 「光化門よ、光化門よ、お前の命が消えんとしている。お前がかつてこの世にいたという記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。どうしたらいいのであろうか。私は想い惑っている。むごいノミや無常の槌がお前の体を少しずつ破壊し始める日はもう遠くないのだ」 併合した国の王宮を壊し、そのド真ン中に植民地支配の為の管理機関を建設するという、現地の民衆の神経を逆なでするようなことは、中世ならともかく、近代ではほとんど聞かない。柳らの強い反対運動が成果をあげ、4年後の1926年、光化門は破壊されずに移転されることになった。この代償として、柳は当局から“危険人物”に認定され、渡航の際に警察の尾行がつくようになった。 当時、日本の文化人は植民地である朝鮮の文化に興味を示さなかったが、柳は陶磁器を中心に朝鮮の古美術を情熱的に収集した。そして1929年(40歳)、京城(現ソウル)に朝鮮民族美術館を開設するに至る。 柳は生活に即した民芸品が持つ「用の美」を見出し、“無名の民衆が生んだ工芸品こそ最も美しい”とする「民芸運動」を陶芸家・河井寛次郎らと展開した。“民芸品”の定義や魅力について柳はこう解説する。「第一は実用品である事、第二は普通品である事。沢山出来る器、買いやすい値段のもの。民衆の生活に即したものが民芸品なのです」「素朴な器にこそ驚くべき美が宿る作は無欲である。仕えるためであって名を成すためではない。欲なきこの心が如何に器の美を浄(きよ)めているであろう」。身近な生活道具に美を見出す考え方は、当時では画期的だった。 1931年(42歳)、雑誌『工芸』創刊。1936年(47歳)、東京駒場に日本民藝館を設立。1957年(68歳)、文化功労者に選ばれた。晩年は病と闘いながら執筆活動を続け、1961年、日本民藝館にて脳溢血で倒れ5月3日に他界。享年72歳。 柳は民芸学者の立場から文化の多様性を重んじ、戦時中は日本が行った強引な同化政策を批判し、勇気を込めて軍国主義の放棄を説いた。民芸品に対する愛は、朝鮮や沖縄の独自文化への敬意に昇華され、各地域の生活様式を尊重せよと生涯に渡って訴えた。 |
2021年3月、Eテレの人気番組『100分 de 名著』で柳田国男の『先祖の話』(1946)が紹介された。解説者は東京工業大学の若松英輔(えいすけ)教授、司会は伊集院光さんと安部みちこアナ。以下、番組メモです。
−−−−−−−−−−−−−−−− 天災などで突然愛する人を失った悲しみを抱えて暮らす人は、その苦しみの中でどう死者と向き合えばいいのか。この『先祖の話』は、東京大空襲を体験した柳田国男が、一夜にして人生を終えることになった10万人の死に衝撃を受け、生者と死者の関係を考察したもの。大切な人の突然の死に、どう折り合いをつけて生きて行けばいいのか考えた。 柳田は長年の民俗学研究を通して、日本人は「死者は目に見えなくともそばにいると感じているのではないか」と思うようになった。仏教では生者と死者を分け、盆や彼岸に故人がこの世に帰ってくるとするが、より一般的な日本人の感覚では、死者はふとした瞬間に語りかけてしまうような「常に側にいる」「日頃からひんぱんに交流している」存在なのだという。これは常人(民衆)の常識、つまりどこにも書いていないけれども、みんなで大事に守っているものといえる。 柳田は、「先祖」とは生者の記憶の中だけに存在するのではなく、見えないけれども常に生者の心に寄り添い続ける「生ける死者」と考えた。一番大事な死者の“仕事”は生者を守ること。 幽霊やオカルトとは別に、そして死後の世界や霊魂があるかないかとは別に、自分の事業が孫の代で完成すると予想したり、死後に実を結ぶことに種を蒔いておくなど、「生きている間に出来ないようなことを、亡くなってからこそ自分はやってみたいと思っている」、そんな命の在り方もある。 ※カジポン完全同意で、芸術家は未来を見据えて創作する人が少なくない。文豪スタンダールは「50年後の読者に向けて筆をとる」と書き、ベートーヴェンも鍵盤が増えた未来のピアノを念頭に作曲した楽曲がある。 若松教授は『先祖の話』を通して、「お墓は生者と死者の待ち合わせ場所。確実に会える場所、それがお墓」と感じるようになったという。伊集院光さん「僕は死後の世界はないと思っているけど、お墓参りは必要と思っている。それはセルフカウンセリングの場になり、自分では答えが出ないことを、故人ならどう言ったかと(墓前で)考えるときに、ご先祖様は手助けしてくれる」。 東京大空襲では一家全員が亡くなってしまうケースもあった。家がなくなってしまったら、亡き者たちはどこへ帰って行けばいいのか。この問いこそ、柳田が同書を書かねばならないと考えた動機。柳田は「私たちは新しい家を作っていかなくてはならない」と訴える。それは血縁でなくてもいい。“亡き者たちとの繋がりを豊かに持ちうる共同体”を作ることが大切。 若松教授「私たちは目に見えるものを確かだと思いがち。柳田はそうではないと、“生者と死者の繋がりが確かなように、目に見えないからこそ確かだという世界があるんじゃないのか”と、それが彼から私たちへの問いかけ」。 若松教授「宗教とは、どの宗教も“私たちの言うことを聞かなければ”と言いがち。しかし私たちと亡き者との関係はそれ以前なので、もっと自然にあって良い。死者のコトバは言語ではなく、声ではない。私たちの耳に聞こえることもなく、目に見えることもない。だけど、私たちの胸に訴えてくる何ものかだ。心の耳に沈黙として聞こえてくるものだと思うんです」。 大切な人の死は耐えがたく悲しい出来事。しかし死者のコトバを聞くことで私たちは悲しみの経験の奥に、死者との終わることのない繋がりを見出すことが出来るのではないか。 悲しみから立ち直れない場合はどうすればいいか。若松教授「世の中は、悲しみは乗り越えるものとして語られることが多い。悲しみとは深めていくもの。本当に悲しいと思うのであれば、あなたがそれを愛したから。とても悲しいことを経験した人は、他人の悲しみも分かるようになる。東日本大震災はとても大きな悲しみを生んだ。でもそれで終わりではなく、大きな悲しみを背負ったがゆえに、愛を生む人が増えたと思っています」。 伊集院光「もしかしたら、被災地の人たちが感じた、速報値で亡くなった方のカウンター(数字)だけが増えていくあの感じ、私の好きな人が死んだのは何千人死にましたという数字ではないんだという気持ちを心から分かった人は、コロナで今日何人亡くなりました、死者の数が増えてます、減ってますみたいなことに対して、もっと深いところでその意味を感じていると思うんですね。ならば、僕らはその時どうして欲しかったかを聞くことで、補償のあり方とか情報の伝え方を学べるのではないかと思いました」。(以上) −−−−−−−−−−−− 「死者は生者を支え、そばで生き続けている」 「感じているけど言葉になっていないものが人々の中にある」 僕は墓マイラーとして、この柳田国男の死生観を全肯定します。いつもそう感じているし、だからこそ墓巡礼を続けてきました。 |
このタクシーの運転手さんは大恩人!仏語の できない僕の代わりに、墓地の管理人や 色んな人に墓の場所を聞いて下さいました! |
ベルクソンの墓地で出会った親子。子どもが超カワイイ♪ |
墓地の入口 | 墓石と花壇が合体している素晴らしい墓!常に本物の花に囲まれているのがいい |
歴史が古く静かな東慶寺は哲学者に大人気 | とても小ぶりな墓石 | 墓の側には石仏があった |
兵庫県出身。文部省在外研究員としてドイツに留学しハイデッガーの哲学を学ぶ。個人主義を土台とした西洋倫理学を批判すると共に、倫理学の視点から風土・文化を研究した。和辻倫理学を確立し、1955年(56歳)に文化勲章を受章。1919年に30歳で記した『古寺巡礼』は、瑞々しい文章でベストセラーとなった。和辻は法隆寺の印象をこう刻んだ「あの中門の内側に歩み入って、金堂と塔と歩廊とを一目にながめた瞬間に、サアァッというような、非常に透明な一種の音響のようなものを感じます。…痺れに似た感じです。次の瞬間にわたくしの心は『魂の森の中にいる』といったような、妙な静けさを感じます」。 |
日本の茶道の祖! | 「茶礼祖・村田珠光旧跡称名寺」「茶道発祥の地」の石碑 |
奈良駅から徒歩数分の称名寺。珠光はこの寺の僧だった。 山門脇に珠光ゆかりの地を示す石碑があった |
境内の無数の墓石。自力で探すのは無理と涙目に なっていたら、優しいお寺の方が案内して下さった |
探しても分からないはず。珠光の墓だけ庭にあった | 竹垣の向こうが墓所。珠光が使った井戸もある | ここで汲んだ水で茶を点てたという |
珠光の墓と13層の石塔。他界 2ヶ月後に大徳寺真珠庵から分骨 |
仏さまがおられた | 「珠光」の名は記されておらず(或いは風化した)、 これが墓というのは古くから伝わる寺伝とのこと |
人間としての成長を茶の湯の目的とした日本の茶道、侘茶(わびちゃ)の開祖。一休宗純から禅を学び、能阿弥から連歌、書画、能の深さを知り、“茶禅一味”の探究を通して心の豊かさに重きを置く侘茶に至った。
奈良出身。通称村田茂吉。“珠光”は「しゅこう」とも読む。幼少の頃に奈良・称名寺(しょうみょうじ)に入り僧となったが、20歳頃に利き茶で銘柄を当てる闘茶にハマって勘当され、京都三条に移り住む。珠光は本腰を入れて茶の湯を学び始め、30歳の頃から一休宗純に参禅し親しく交わり、画家で連歌師の能阿弥とも交流。これらの縁から室町8代将軍足利義政@銀閣寺から寵遇されるようになった。 珠光は道具ではなく心を重んじた。そして高価な大陸の唐物だけが素晴らしいのではなく、粗末な茶器(珠光茶碗)でも“ひえかるる(冷え枯れる)”美しさを秘めると、新しい価値観を説いた。それまで重宝されていた銀や象牙の茶杓を、シンプルな竹の茶杓とし、四畳半茶室を創案した(当時、能阿弥は18畳を使っていた)。晩年は故郷の奈良に戻ったが、京都滞在中に他界したと伝わる。 珠光生誕の約100年後に千利休が生まれたことからも、その先進性が高く評価される。珠光は日本と中国の陶器が調和する茶の湯に理想を求め、自らの美意識を『心の文』にまとめた。「月も雲間のなきは嫌にて候(雲間があってこそ月は美しい)」という“不完全にこそ完全の美あり”という珠光の遺伝子は各方面へ受け継がれ、逝去から85年後、1587年に利休が演出した「北野大茶湯」で“佗茶”人気はピークを迎えた。 |
愛染院の境内奥に墓地 | 肖像画の表情はとても穏やか。あのヘレン・ケラーが尊敬していた |
墓所入口に「塙保己一先生墓所」の石柱あり | 「前総検校塙先生之墓」 | 後列左端に子・忠宝の墓 |
江戸後期の盲目の国学者。武蔵(埼玉県本庄市)出身。旧姓は荻野。号は温古堂。胃腸病の影響により7歳で失明し、15歳で江戸に出て検校の雨富須賀一(あめとみ・すがいち)の門下となり、雨富の本姓“塙”をもらった。雨富検校は保己一のずば抜けた記憶力など学才に驚き、学問の道を歩ませる。1769年(23歳)、本居宣長、平田篤胤、荷田春満と並ぶ四大国学者の一人・賀茂真淵(まぶち)に入門し国学を学び、以降、国学を究めていく。1783年(37歳)に検校となり、水戸藩の『大日本史』の校正を行う。1793年(47歳)、幕府保護の下に和学講談所を建て、和学の発展に努める。 1779年(33歳)、古書の散逸を危惧した保己一は、国文学・国史を主とする書物の編纂を決意。それから40年の歳月を費やし、幕府、諸大名、寺社、公家などの協力を得て、古代から江戸時代初期までの歴史書や文学を収集&編纂した。そして、1819年(73歳)、正編1273種530巻666冊からなる超大作『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』の刊行を終える。さらに『続群書類従』の編纂に着手したが、2年後に75歳で没した(他界の半年前に総検校に任官)。1898年、安楽寺から愛染院に改葬。編著に「武家名目抄」「蛍蠅抄」など。 故郷・埼玉県本庄市の雉岡城(八幡山城)址に「塙保己一記念館」があり、近くには保己一の生家が保存されている。ヘレン・ケラーは幼い頃から「塙保己一を手本にせよ」と両親に教育されており、1937年の来日時に当記念館を訪問した。 四男の国学者・塙忠宝(ただとみ 1808-1863)は非業の死を遂げている。忠宝が歴史の調査中に「老中の命令で廃帝の前例を調べている」というデマが流れ、それを信じ込んだ尊皇派の長州藩士、伊藤博文(当時22歳)と山尾庸三(同26歳)に暗殺された(享年55)。維新後、忠宝の子が明治政府に召し出されて出世しており、伊藤博文が自責の念から厚遇したと推測されている。 ※『群書類従』は以下の25部に分類されている。神祇部、帝王部、補任部、系譜部、伝部、 官職部、律令部、公事部、装束部、文筆部、 消息部、和歌部、連歌部、物語部、日記部、 紀行部、管弦部、蹴鞠部、鷹部、遊戯部、 飲食部、合戦部、武家部、釈字部、雑部。 ※保己一が『群書類従』の版木を20字×20行の400字詰に統一させた結果、現在の原稿用紙の基本様式になった。 |
蒲生君平(秀実/ひでざね)は1768年に下野国(しもつけのくに/栃木県)・宇都宮の灯油商の家に生れた。本姓は福田、通称伊三郎、号は修静庵。 1781年、13歳で儒者鈴木石橋(せっきょう)の門人となり、毎日12kmの道を往復して国史古典を学び親しむ。師の塾では楠木正成が活躍する『太平記』を愛読し、帝への忠勤の志に感化され、勤皇思想に傾斜した。 1785年(17歳)、水戸を訪れて勤王の志士・藤田幽谷(幕末の儒学者・藤田東湖の父)と交流。国家意識を特色とした水戸学の影響を受けて尊王の志をさらに厚くする。 1786年(18歳)ごろ、先祖が会津藩主・蒲生氏郷との家伝を知り、福田から蒲生と改姓。 1790年(22歳)、尊王論を唱えながら諸国を遊歴中だった尊王家・高山彦九郎(1747-1793)を慕って東北(宮城県石巻市)まで行くも会えず、帰路に仙台で蟄居中だった在野の知識人、経世家・林子平(しへい)を訪ねて、北辺の防備などの国事を語り合った。 1793年(25歳)、初対面の3年後、7月に林子平が54歳で他界し、8月に高山彦九郎が幕府の嫌疑を受け久留米にて46歳で自刃。 1795年(27歳)、ロシアの南下に対する海防の薄さを憂えて再び東北地方を巡歴。 1796年(28歳)、歴代の天皇陵が荒廃しているのを知り、これを嘆いて『山陵志』(さんりょうし)の編纂を意図して調査のため京都に上る。『古事記』『日本書紀』『延喜式』や古図など古代の史料に基づき、各陵墓の場所を国郡別に考証。被葬者を特定する際は、各時代による墳形の変遷も研究し、陵墓の形式、築造方法、地元の伝承など様々な視点を総合して判断を下した。帰途、伊勢にて国学者・本居宣長(1730-1801)を初めて訪問する。 1799年(寛政11年/31歳)再び山陵の実地調査におもむき、京都近郊のほか摂津、河内、和泉、大和にある近畿一帯の歴代天皇陵を全て実際に踏査(とうさ)した。帰途、再び本居宣長を訪問して大いに激励され、北陸から佐渡に渡って順徳帝火葬塚も実地踏査した。 1800年(32歳)、天皇陵の調査を終えて宇都宮に帰郷。身なりは粗末で疲労困ぱいしていたという。 1801年(33歳)、全国の荒廃した天皇陵や旧跡の調査結果をまとめた陵墓研究書『山陵志』(2巻)を脱稿(刊行は7年後)。同書で「前方後円墳」という用語を初めて使い、その名づけ親となる。「92ヵ所」もの陵墓を江戸時代中期に自らの足を使って調査した空前絶後の労作である。 第1巻に収録された54ヵ所の山陵は以下の通り。 ・神武陵、後醍醐陵など大和国31箇所 ・雄略陵、推古陵など河内国13箇所 ・仁徳陵、履中陵など和泉国3箇所 ・継体陵(摂津国)、光厳陵(丹波国/北朝初代天皇)、土御門陵(阿波国)、淳仁陵(淡路国)、崇徳陵(讃岐国)、後鳥羽陵(隠岐国)、順徳陵(佐渡国)の計7箇所 第2巻に収録された38ヵ所の山陵は以下の通り。 ・天智陵、桓武陵、白河陵、嵯峨陵、清和陵、高倉陵、後白河陵、正親町陵、そして後陽成以降の陵など山城国(京都近郊)38箇所 蒲生君平が最後に現地調査を行った1799年当時の天皇は第119代光格天皇(在位1780-1817)。その時点で最も新しい御陵は1779年に崩御した先帝、第118代後桃園天皇であるが、江戸時代前期から14代(第108代後水尾天皇以降)にわたって天皇は泉涌寺の石塔が墓となっており、山陵志には含まれていない。また深草北陵には1箇所で12名の天皇(北朝帝含む)が眠っている。 同年、本居宣長他界(享年71歳)。 1803年(35歳)、江戸に出て幕府の儒官・林家の林述斎に学ぶ。貧困と戦いながら著述に専念。 1807年(39歳)、ロシア軍艦による樺太、択捉島への北辺侵犯事件が起き、幕府に危機意識と海防の必要性を訴えた『不恤緯(ふじゅつい)』を上呈、国防と尊王の一致を唱えて幕府に睨まれる。 1808年(40歳)、『山陵志』が刊行され、京都や江戸の学者たちに献納する。漢文体で山陵の崇敬と復興を説いた同書は、幕末の尊王論に多大な影響を与えた。※刊行年は没後の1822年説あり。 1813年、江戸にて赤痢を患い45歳で病没。東京谷中(台東区)の臨江寺に墓、法名は修静院殿文山義章大居士。後に故郷へ分骨される。赤貧と波乱の人生を送りながら、忠誠義烈の精神を貫いた。 1869年、維新後に功績を賞され、明治天皇の勅命を受けた郷里の宇都宮藩知事・戸田忠友が勅旌碑(ちょくせいひ)を建立。 1881年、正四位を追贈。 1911年、『蒲生君平全集』が出版される。 1925年、宇都宮市に蒲生神社が創建され祭神として祀られる。 ※平田篤胤は蒲生君平の友人。 |
「荷田羽倉大人出墓」と彫られている。神道の戒名は70歳までは“大人(うし)” | 伏見区の史蹟「荷田春満旧宅」 |
江戸中期の国学者・歌人。京都伏見稲荷神社の神官で、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人とされる。姓は羽倉とも。通称は、斎宮(いつき)。初名は信盛と称し、のちに東丸。 記紀・万葉、有職故実を研究、復古神道を唱えた。弟子の賀茂真淵は万葉研究を、甥の荷田在満(ありまろ)は有職故実研究を継承した。 著「春葉集」「万葉集僻案抄」「万葉集訓釈」「創学校啓」「日本書紀訓釈」「出雲風土記考」など。 |
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