【 2008 南極・スコット巡礼 】
大阪空港→成田空港→ヒューストン(米)→ブエノスアイレス(アルゼンチン)→ウシュアイア(アルゼンチン)と48時間かけて移動。
そこから船で3日がかりでドレイク海峡を渡って、ようやく南極が見えてくる。南極の面積はオーストラリアの2倍もあり、まさに南極“大陸”だ。
★南米大陸・アルゼンチンの最南端
ウシュアイア周辺のフィヨルドで見た朝焼け。天も地(海)も真っ赤に!
太陽が昇ってくると美しいオレンジ色になった!
探検の初期、笑顔のスコット |
絶望の中、4人の隊員 と共に南極に散る |
ロンドンのWaterloo Place(左)と ニュージーランド(右)にスコット像がある |
英国人ロバート・スコットは人類初の南極点制覇を試みたものの、後からやって来たアムンゼンに先を越され、その帰路に遭難死した悲劇の探検家だ。教科書では簡単にしか書かれていないけど、スコット隊の死には胸を打つものがある。 スコットは2度南極を訪れている。1度目は1901年、33歳の時だ。国立地理学協会が発案した南極の氷河や動植物の科学調査に隊長として参加。ディスカバリー号で海を渡り3年もの長い期間を南極で過ごした。この滞在中に一度だけ極点への突入を試みたものの壊血病(ビタミンC不足)で挫折している。1904年に英国へ帰国すると、彼は“南極点一番乗り”を夢見て新たに活動を開始。遠征資金を調達する為に奔走し、様々な人から援助を募った。そして6年後の1910年6月、捕鯨船を改造したテラ・ノヴァ号が南極に向けて英国から出航する。ときにスコット42歳。遠征に参加したのは海軍隊員7名、科学隊員8名、技術班4名、コックなど普通隊員14名の計33名。資金確保の苦労は出航後も続き、彼は別の船で南アに先回りして調達に尽力し、遅れてテラ・ノヴァ号に合流している。船が豪のメルボルンに寄港すると、ここでも彼曰く「物乞いの大奮闘」(新婚の妻への手紙より)を展開。テラ・ノヴァ号を先に出させて、最終出発地のニュージーランドで再合流、そこでも資金を集める為に駆け回った。11月29日、物資を補給し全ての準備を整えたテラ・ノヴァ号は、ニュージーランド国民の大歓声に包まれながら南極海へ出航する。
約1ヶ月後の大晦日、暴風雨のドレイク海峡を越えた一行の視界に南極大陸が入る。明けて1月5日、南極ロス海のマクマード湾から上陸を開始。基地を建設し春まで4ヶ月の冬ごもりに入った。スコットたちを降ろした船は周辺を調査航海していたが、やがて彼らは驚愕することになる。ノルウェーのフラム号、アムンゼン隊と遭遇したのだ。基地のスコットに急報が届くと、彼はこの2歳年下のライバルの出現を既に覚悟していた。実は、スコットはメルボルンでアムンゼンから『南極に向かわんとす』と電報を受け取っていた。アムンゼンが南極沖に着いたのはスコットよりも1ヶ月遅れていたが、基地を設営した場所は英国隊よりも南極点に近かった。スコットは前回の南極上陸で地形を把握している場所に再上陸したが、アムンゼンは距離は短いが危険な未踏ルートを選んだのだ。 1911年11月1日午前11時。スコットに選抜された8名の隊員が極地へとついに出発!意気揚々と前進を始めた彼らだが、いきなり出鼻をくじかれてしまう。大量の物資を積んだ2台のモーター・ソリが出発直後に故障してしまったのだ。一人ずつあてがわれた寒冷地用の馬も、予想以上の超低温の為に次々と倒れていき、基地出発から1ヶ月後にはスコット隊の全員が“人力”でソリをひいていた。 1912年1月4日、8名のうち物資運搬のサポート隊員3名が最後の貯蔵所を建設して帰還。残った5名の極地突進隊が極点を目指す。その顔ぶれは、隊長スコット(43歳)、動物学者でディスカバリー時代からの盟友ウィルソン(39歳)、屈強な水兵エヴァンズ(37歳)、馬調教師オーツ(32歳)、本隊に急遽抜擢された最年少のパワーズ(28歳)。
「ここまでくれば極点制覇は確実」と、一行は探検の大成功を信じ切っていた。だがしかし!片道1300キロの道のりを耐えた彼らが極点で見た物は、アムンゼンが立てた“ノルウェー国旗”だった!1912年1月17日午後6時半、極点到達。「恐ろしい失望。忠実なる隊員諸君には、心から済まぬと思う。すべての夢は終った。帰路の辛さが思われる」。スコットは到達前から雪上に犬ゾリの跡を見ていたらしく、2日前の日記に「最悪の予感がする」と書いていた。アムンゼンはスコットより1ヶ月も早く極点に着いていた。スコットは綴る「おお神よ、ここはただ恐怖の地なり。言語を絶する苦難の後、一番乗りの栄誉さえ報いられず、恐ろしさの極みなり。さらば白日夢のすべてよ!」。 資金提供者は“一番乗り”という言葉を信じて投資してくれた。この探検は単なる個人旅行ではなく、英国の威信をかけた国家事業という使命感がスコットにはあった。失われた栄光の夢。言語を絶する挫折感と共に、翌18日から帰路の行進が始まった。
…しかし、本当の悲劇はここからだった。まず最も屈強な身体を持っていたエヴァンズが、ソリの修理中に誤って手を負傷し、その傷が酷い凍傷になった。オーツも足が凍傷にやられていく。スコットの日記は暗い記述が続く「エヴァンズの指爪すべて剥がれて痛み壮絶」「オーツの足は黒くなり鼻と頬は黄色くなっている」「エヴァンズの指はうみが潰れ、鼻は醜くコチコチになる」「隊員の健康状態好転せず。特にエヴァンズは倦怠、気力全くなし」。2月17日、エヴァンズは錯乱の果てに息を引き取った。享年37歳。 例年なら天候が安定している時期なのに、異常な荒天が長期間続き、昼間は零下35度、夜になると零下40度まで気温が下がった。悲運は続く。途中の貯蔵所に保管していた燃料油が極端な気温差で気化し、計画の3分の1しか燃料を確保できなかった。燃料がなければ暖をとることも調理も出来ない。オーツの足の凍傷は急速に悪化した。 「オーツの危機近きことを皆が感じている」(3月7日)、「左足はもはや用をなさず、靴を履く様子実に悲惨なり」(8日)、「オーツの臨終近きことを感ず」(11日)、「もはや手もまた足同様、用をなさざるに至れり」(12日)。15日になると、オーツは自分から「もうダメだから寝袋に入れたまま捨てて行って欲しい」と懇願した。皆でなんとか元気づけていたが、オーツは翌朝に「ちょっと外へ出てみる」と言ってよろめくようにテントから出て行くと、二度と戻って来ることはなかった。 スコットはオーツの容体を記す一方で、連日の猛吹雪を前に暗い未来の予感と“覚悟”を刻み始める。「事態は悪化の一路のみ。もはや帰還できるか疑わしい」(3月10日)、「前進不可能、もはや終末が近いことは確実。せめてはその時の安らかならんことを」(14日)、「寒気酷烈。正午、零下40度。一同表には快活に振る舞えど、一歩誤れば凍傷死の恐れあり。絶えず前進を口にはすれど、もはや誰一人それを信じておらず」(17日)、「(大量に物資を保管している)1トン貯蔵所まで45キロ。だが人間が立ち向かえる風にあらず。疲労、その極み」(18日)。 最後にテントを張った3月21日の時点では、1トン貯蔵所までわずか18キロの地点まで来ていた。食糧も燃料も目と鼻の先にある。半日だけでも風が止めば辿り着けるはずだった。ウィルソンとパワーズはすぐに出発できるよう待機していたが、非情にも天候は回復しなかった。 「吹雪いよいよ激しく、両人出発できず。明日こそは最後の機会。燃料皆無、食糧わずかに残すのみ。死期近し、たとえ辿り着けなくても貯蔵所に向かって進み、途中にて倒れたく思う」(24日)。この後、5日間ほど日記は途絶え、29日に最期の言葉が綴られた。「21日から烈風やまず。各自2杯分の茶をわかす燃料と、かろうじて2日分の食糧を残せり。毎日貯蔵所への出発の用意はするが、外はただ荒れ狂う吹雪。最後まで頑張るつもりだが、衰弱は日毎に激しく、終焉の時は遠くないだろう。残念ながらこれ以上筆をとることも不可能になった。このスコット、残された我らの家族に厚き保護を願う」。(スコットには新婚の妻子がいた) --捜索隊が雪に埋もれたスコットのテントを発見したのは8ヶ月後。テントを掘り出すと変わり果てた3人がいた。川の字に並び、真ん中がスコットだった。スコットはディスカバリー号からの10年来の親友・ウィルソンの胸に左手を置き、掻き抱こうとするかのように死んでいた。発見された手紙は12通。スコットの母や妻、ウィルソン夫人、パワーズの母などに宛てたものだった。テントの周囲を掘り起こすと、14s以上もの重い岩石標本を載せたソリが出てきた。なんとこの状況でも、スコットは貴重な鉱物資料を運び続けていたのだ。捜索隊は3人をテントの布で覆って埋葬し、スキー板で十字架を作って弔った。1913年2月10日、テラ・ノヴァ号は2年2ヶ月ぶりにニュージーランドに寄港。そしてスコット隊の悲劇が世界に伝えられた。 スコットは日記や手紙と共に、『社会に訴える』という一文を最後に書き記していた-- 「私はこの冒険を悔いない。危険を侵したことは知っているが、物事にさえぎられたまでだ。私は満足している。良い人生だった」
---------------------------------------------------------------------- 南極点でノルウェー国旗を目撃した時の、スコットの絶望感は想像を絶するものだったろう。極点到達、ただそれだけを目標にしていたアムンゼン。一方、スコットは地理学会や資金提供者の意向もあって、岩石標本の採集など大規模な科学的学術調査も同時に行なっていた。観測しながらでは、当然、移動速度も遅くなる。雪上車の故障、早すぎる馬の死など、想定外のアクシデントが起きた時点で引き返せば命は助かっていた。だが、祖国の民衆、資金提供者たちの期待を考えると、探検を断念して帰るわけには行かなかった。極点到達の帰途は死力を尽くして8分の7まで戻ってきた。すぐ近くには最大の物資(1トン)貯蔵所があった。だが、零下40度のブリザードが何日も吹き荒れる異常気象の中、テントから出ることさえ出来なくなった。やがて訪れる死。しかしそれは無駄死にではなかった。スコットたちが記録した、詳細な南極の気象、地質、水陸の生物などの科学的業績は“英国南極探検隊・科学報告書”にまとめられ、学術分野における第一級資料として後世の多くの研究者に重宝された。 ※「私は満足している。良い人生だった」…どんなに辛くてもやるだけのことをやった人間であればこそ、死を前にしてこの言葉が書けるのかと、僕はスコットの遺言にどれほど影響を受けたことか。墓参したかったのも、生き方の灯台としてのスコットへ御礼を伝えたかったがため。 南極の氷棚はゆっくりと海岸線に移動しており、あと200年すれば、スコット達の雪塚(墓)も、あれほど戻りたかった基地へ帰ることが出来る。
※参考文献…中野好夫『南極のスコット』、エンカルタ総合大百科、ブリタニカ国際大百科事典ほか。 ※ロアール・アムンゼン(1872-1928)豆知識…ノルウェー・オスロ近郊に生まれる。16歳の時にナンセンがグリーンランド横断に成功したことに感動。22歳、ノルウェー海軍に入隊。その後、探検家を目指してアザラシ漁船で航海術を身につけ、当初は北極点到達を試みていたが、1909年(37歳)、米国のロバート・ピアリーが先に北極点へ到達した為に目標を南極点に変更。アムンゼンはスコットに宛てて南極に向かう旨の電報を送った。これは、「事前の連絡をスコットにせずに南極で遭遇するのは無礼」と考えたからだ。アムンゼンはナンセンが使ったフラム号に乗って南極に渡り、犬ゾリ(116頭)を移動手段&食糧に使って、1911年12月14日、39歳にして人類初の南極点到達に成功した(スコットより35日早い)。その後も飛行艇で北極点に達し、人類で初めて両極点を制覇する。1928年、友人でありライバルのイタリア人探検家ノビレが北極で遭難したと知らせを受け、アムンゼンは捜索の為に飛行機で飛び立つ。ノビレは無事に救出されたが、アムンゼンはバレンツ海(北極海、フィンランドの北)で消息不明となった。機体の残骸は発見されたが、彼の体は見つかっていない。享年55歳。 |
本来ならスコット隊の終焉の地--南緯79度50分、東経178度の場所まで足を運んで墓参したかったけど、 さすがに今の僕にはそこまでの予算も装備もない。持参した方位磁石でスコットの墓の方向を調べ、 心を込めて遙拝することに。ところが!あまりに南すぎて、コンパスの針が回らなかった!これにはビックリ。 とにかく、太陽の位置や船の進行方向、周囲の地形をもとに方向を割り出し、スコットに感謝の言葉を捧げた! |
赤い×印がスコットの遭難地。地図を見れば海岸の基地まであともう一息だったことが分かる…。 そして左上の青い×印は僕が巡礼したポイント。いつか本当に墓前まで行って手を合わせたい |
一帯は自然保護区 | 小首をかしげる仕草がカワイイ | たいていはボ〜ッとしている |
休憩している連中は浜辺にマッタリと寝転んでいる(笑) | ポワ〜ン |
漫才のツッコミ! | 若いペンギンが浅瀬で泳ぎ方の練習をしている | ドリャー!ばしゃばしゃ |
スコットが逆立ちして遊んでる珍しい写真! |
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