世界巡礼烈風伝(日本編)・序文にかえて

グヘーッ!…バタッ。僕は「東日本大巡礼に行ってきます!」と宣言したが、
(1)JRの各停専用バカ安切符は、使用タイムリミットが迫っている
(2)お盆に入ってしまうと鉄道ダイヤが激変し、計画的な巡礼が困難
(3)今後、連続で台風が上陸するおそれがある
以上の3点から、ぶっ続けで西日本大遠征も同時に決行してきた!!

それは北海道から鹿児島までの50人近くの墓を、11日間かけ全て各停列車で周りきる無謀な巡礼だった。JRのぶ厚い時刻表を徹底的に読み込み、10万光年離れた天体の軌道計算をするが如く根気強さで、効率的なルートを割り出し、野宿、安宿の素泊まり、夜行の移動を巧みに組合わせ、失業8ヶ月目でマルハチの羽毛布団の千分の一の軽さしかない財布(軍資金)を片手に、それを極限まで節約しての悶絶遠征に挑んだのだ。

時間短縮のためにはフェリーも駆使した(そしてフェリーは安かった!)。往路に乗った北海道・小樽から京都・舞鶴までの船は、驚異の6700円!しかも船内のシアターでタダ映画を観れるし、コンビニは地上と全く同じ値段で良心的だし、諸君にも強く『新日本海フェリー』をオススメしたいっ!

…すまぬ、少し興奮しすぎたようだ。
それにしても今回の北海道滞在時間は短かった。かつて啄木の墓を訪ねた時は、仕事を持ってて短期休暇しかとれなかった為、3時間しか函館におれず涙を飲んだ。今回は時間があってもナニがない。
青森から鉄道を乗り継いで札幌以北の南小樽駅まで行ったにも関わらず、滞在費節約の為、午前8時に駅に降り立つと速攻で墓に行き、8時55分には、すでに例のフェリーに乗船していた。なんと、北海道での陸上行動時間は僅か55分間である!ウニ、イクラ、ラーメン…前回果たせなかった夢を今回こそ実現したかったが、フェリーの出港時間を変える力は僕にあるはずもなかった(むしろ枯渇した軍資金でここまで来れただけで既に奇跡の領域じゃった)。

ところで。
順番からいうと、本来は『地獄の全米巡礼ルポ』を先に執筆すべきだが、目下我が国は“OBON”で墓参りが空前の大ブーム。タイムリーな日本編を高速で献上する所存だ。

しかし、新たに拝謁した約50人全員のルポとなると、書く側の僕より、読み手の方が先に閉口し、読み出す前にいきなり退室という恐ろしい可能性がある。ゆえにポイントを抑えつつも、なるべく手短にガンガンいきたい。


世界巡礼烈風伝(1の巻)
8月1日(1日目)

『時速1600キロとの戦い』


これまでに伝記や小説のあとがきから墓の場所が判明した恩人は、既に大半を墓参し終わっていたので、今回の列島大巡礼はネットの情報がメインだった。パソコンの前に座ってるだけで墓情報を収集できたので、“いい時代になったもんだ。楽勝じゃの〜”とあぐらをかいていた。
だがしかし…ネット情報は裏切りの連続だった!情報提供者が墓と句碑・文学碑を混同してるのはザラで、実際に存在しない住所だったり、果ては墓そのものがヨソに移転していたりと、行く先々で僕はのた打ち回るハメに…!

とにかく、本数の少ないローカル線で土・日にかち合った場合、行動不能に陥るのは間違いないので、当初から「月曜出発」ということだけは決めていた。それで8月1日の月曜を出発日とした!週末までにいくつの墓地を周れるか、これが勝負だ。
地球の自転スピード(時速1600キロ)対三十路足(時速4キロ)との苛烈なデッドヒートなのだ!


『憤怒の定休日』

早朝に大阪を発ち、滋賀県大津市膳所(ぜぜ)の義仲寺に眠る芭蕉に会いに行った(以前に大阪・天王寺の分骨墓には訪れていた。この義仲寺が本墓)。試練はしょっぱなから訪れた。意気揚々と駅から歩いていた僕は、墓のある寺の前で石化した。門が閉まっており、非情にも“月曜休み”の札がぶらさがっていたのだ!
「ぬお〜っ、なんで寺に定休日があるんじゃあ〜!?」
100ヶ所以上の寺を周ったが、定休日がある所は初めてだ。
「させるかーっ!」
僕はそう叫ぶと即座に寺周辺の調査を開始した。すると隣接していた民家の塀に巡礼レーダーが激しく反応した。僕はルパンのように華麗に塀をよじ登り(おいおい)、高所から芭蕉や木曽義仲の墓を目視確認…根性で合掌した(良い子はマネしちゃダメ)。


『透谷に慟哭』

滋賀を発った僕は一路関東へ。各停の旅で最も辛いのが浜松〜熱海間だ。比較的人口が多い地域にも関わらず、列車はたったの3両!昼間でも超満員だ。車内にトイレはなく、決死の覚悟で180分をクリアーせねばならない。どんなに暑くても乗車2時間前からは、水分を絶つのがこの区間の鉄則だ。渇いた喉で、ジョーと戦う前の力石の気分を堪能できる。

関東では、まず小田原(神奈川)で北村透谷の墓を参った。
透谷。
恋愛至上主義&平和主義を唱えた彼は、明治のジョン・レノン。日本最初の浪漫派の詩人だ。理想と現実とのギャップに苦悩し、1894年、僅か25歳で自ら命を絶つ。首をかききるという凄まじい死だった。
大親友だった島崎藤村は、3日3晩号泣したという(彼はその後、生前の透谷をモデルに多くの小説を書いた)。


『住職の贈り物』

続いて、その藤村の眠る港町、大磯に向かった。駅に降りたって町を吹き抜ける海からの涼風に恍惚とした。やっと、旅に出た気持ちになった…などと悠長なことを言ってる場合ではない。時に16時20分。お寺は何処でも大体16時半から17時で閉門するのに、寺への地図もなく非常事態といっていい状況だった。
僕は血相を変えて大磯町の住人に片っ端から哀願モードで聞き込みを開始した。

“何とか17時閉門であってくれ〜い!”
16時40分、その祈りは通じた。寺門はまだ開いていた。門をくぐると敷地中に生い茂った梅林の根元に眠る、藤村夫妻の墓が目に飛び込んできた。立っている墓石の細さに対し、あまりに土台がごっついので住職に「斬新なデザインですね」と誘い水をかけると、住職は嬉々としてコトのいきさつを語ってくれた。なんと、墓石の土台になってる台座は地上に直接置かれた藤村の棺桶だったのだ(大きいはず)!火葬しなかったので、藤村はそのままとのことだった(ヒョエ〜)。
彼の墓は日本一、ワイルドな墓といっていい。藤村と1対1で墓に右手を置いて喋ってたら、緊張して背中が汗でビッショリになった。

帰りがけ僕は住職に
「ちょっと待ちなされ!」
と呼び止められた。
住職はいそいそと宿坊に入ると、数分後に出て来た。
「このコピーをオヌシにやろう」
と、藤村埋葬についての過程を記した資料の束を僕にくれたのだ。もちろん僕は大感激。な、なんて優しいお坊様なんだろ〜う!
「いつかこの梅が満開になる頃にぜひ再訪します」
と深く御辞儀をして寺をあとにした。

東京に向かう列車の中で資料を読んでアセッた。用紙の裏面には住職が藤村について勉強した時の書込みがあったのだ。アチャ〜、どうやら僕にコピーを渡すつもりが、オリジナルをくれたみたいだった(こりゃ郵便で届けねば)。
オチャメな慌てん坊の和尚さま!

首都には20時に入った。初日で体力がまだ温存されてたので、都心のマクド(マック)やファミレスなど24時間営業店をハシゴして、翌朝の日の出をサワヤカに拝んだ。



      


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