世界巡礼烈風伝・15の巻
(巡礼5日目その3)

★孤高の巨人、棟方志功(しこう)


青森県には国内屈指の縄文遺跡群、三内丸山遺跡がある。だが、三内にはもうひとつ、忘れてはならない聖地がある。三内霊園だ。この霊園には今回の東日本遠征の本命中の本命、板画家の棟方志功が眠っていた。

棟方という巨人を紹介するにあたって、まず民芸研究家柳宗悦の次の言葉から入ってみたい。
「棟方の絵は美しいとか醜いとかの範疇(はんちゅう)から一歩出たものだ。ここに棟方の強みがある。美しくなければいけないという様な窮屈なものではない、もっと自由なものだ。棟方本人の初対面の印象は、人間よりもさらに以前のものだという感じだった。文化人の気取った芸術家の感じではなく、ちょっと原始人とでも言おうか、今の時代に生れた人間ではないかの様だった。」

1903年、青森に鍛冶屋の三男坊として生まれる(15人兄弟)。小学校卒業後、すぐに家業の手伝いに入ったため中学には行けなかった。17歳の時に母が病没し、家運も傾き父親は鍛冶屋を廃業。志功は裁判所弁護士控所の給仕となった。絵が好きだった棟方は、仕事が終わると毎日公園で写生をし、描き終わると風景に対して合掌したという。

18歳の時、友人宅で文芸誌『白樺』の挿し絵に使われていたゴッホの『ひまわり』と出会う。炎のように燃え上がる黄色に、そのヒマワリの生命力と存在感に圧倒された。カンバスに刻まれたヒマワリから、ゴッホその人が立ちのぼった。

※この『白樺』に関するエピソードは小高根二郎が『棟方志功』に次のように記している。
棟方は友人宅を帰る時に呼び止められた。
「ゴッホさ、ガ(君)にける(あげる)」
友人は棟方に白樺をプレゼントした。棟方の指がスッポンの口ばしの様に談笑中ずっと白樺を手放さなかったことに気付いたからだ。
「ワ(我)のゴッホさ、ガ(君)にける」
と繰り返して言うと、棟方は狂喜して踊り上がった。
「ゴッホさ、ワに?ゴッホさ、ワに?」
棟方がこの恩寵が信じきれないという顔をしていると、
「ンだ。ガにける」
贈呈の意志が変わらないことを、友は3度重ねて表明した。棟方は白樺を胸に抱きしめ、歓喜の笑みで「ワだば、ゴッホになる!ワだば、ゴッホになる!」
と友人の好意に応える覚悟で叫んだ。その後、友の気持ちが変わらぬうちにと、そそくさと帰ったという。

この誓い通り彼は油絵の道にのめり込み、21歳のとき上京した。ところが、簡単には世間に認められない。コンクールに落選する日々が続く。3年、4年と時間だけが経っていった。画家仲間や故郷の家族は、しきりに棟方へ有名画家に弟子入りすることを勧めた。
だが、彼は激しく抵抗した。
“師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない!”

彼は新しい道を模索し始めた。当時の画壇で名声の頂点にあった安井曽太郎、梅原龍三郎でさえ、油絵では西洋人の弟子に過ぎなかったことから、この頃の気持を自伝にこう書いている「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました」。

そして、とうとう棟方は気付く。
“そうだ、日本にはゴッホが高く評価し、賛美を惜しまなかった木版画があるではないか!北斎、広重など、江戸の世から日本は板画の国。板画でなくてはどうにもならない、板画でなくてはわいてこない、あふれてこない命が確実に存在するはずだ!”
『この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)』…この言葉が棟方の座右の銘となった。

33歳、上京から12年目にして、ついに自分の作品が売れる。
35歳、帝展で版画界初の特選になる。
36歳(1939年)、大作『釈迦十大弟子』を下絵なしで一気に仕上げる。制作中の彼はこんな談話を残した…「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」
39歳、論集『板散華(はんさんげ)』にて、今後は「版画」という文字を使わず「板画」とすると宣言。版を重ねて作品とするのではなく、板の命を彫り出すことを目的とした芸術を板画とした。
40歳、ベートーヴェンと出会う。その宇宙的な包容力に深く胸を打たれる。
49歳、ルガノ国際版画展で優秀賞を受賞。
52歳、サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞を受賞。
53歳(1956年)、ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタに。「会場へ来た人のほとんどすべてが、棟方の木版画の前に愕然としていました。」(当時会場で働いていた人の証言)
56歳、フランスへゴッホ兄弟の墓巡礼に行く(!)
57歳、『歓喜自板像の柵』(自画像)を彫る。酔っ払って幸せそうにひっくり返る自分の背後に、写生に出かけるゴッホと、ベートーヴェンをたたえる言葉を刻み込んだ。この頃、朝日賞を受賞するなど、ようやく国内の美術界で正当に評価される。眼病が悪化し、左目を失明。
61歳、自伝『板極道』を出版。
66歳、ヨコ27m、タテ1.7mという世界最大の版画「大世界の柵」を完成。巨大さゆえ板壁画と呼ばれた。
67歳(1970年)、文化勲章を受章。コメントは「僕になんかくるはずのない勲章を頂いたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします」。
70歳、板画と肉筆画を融合させていく。

1975年72歳で永眠。、自ら“板極道”を名乗った男は、「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。他には何もなくていい」という遺言を残した。

棟方は死を予感したのか、亡くなる前年に自分の墓の原図を描いていた。忠実に作られたその墓は、なんと敬愛するゴッホの墓と全く同じ大きさ、デザインのものだった!前面には『棟方志功 チヤ』と夫婦の名を刻み、没年には永遠に生き続けるという意味を込めて「∞」(無限大)と彫り込まれていた。※墓の背後には「驚異モ/歓喜モ/マシテ悲愛ヲ/盡(ツク)シ得ス」《不盡(ふじん)の柵》と彫ったブロンズ板がはめ込まれている。

最後に彼が板画について残した言葉を記そう。
「愛シテモ、アイシキレナイ。
驚イテモ、オドロキキレナイ。
歓ンデモ、ヨロコビキレナイ。
悲シンデモ、カナシミキレナイ。
ソレガ板画デス。」

僕が棟方のとりこになってる理由を、少しでも伝えることができただろうか?あと、詩と画との合体の妙も楽しんで欲しい。画の背後に彫られた詩が、これまた良い味を出しているのだ!どうかぜひ、明日にでも本屋で彼の作品集を手にとって、あのパワフルな情熱を体験して欲しい!

※毎年9月13日の命日には、第九が流れる中で「志功忌」が開かれる。棟方が好んだ第九はコンヴィッツニー指揮、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団のもの。


P.S.棟方編に追加エピソード。民芸研究家の柳らが初めて彼の家を訪ねて来た時、棟方はまだ一人前でもないのに妻子がいることを恥じ、思わず妻のチヤと子供を「姉と姉の子です」と言ってしまった。照れ屋の棟方らしいよね



(16の巻)棟方志功を擁する青森三内霊園に、あと2人の恩人が眠っていた。

★戦場カメラマン・沢田教一


この墓地に到着して、真っ先に棟方が何処なのかを霊園事務所の案内図で調べたが、目当ての棟方以外にどえらい名前を発見して、ピョーンと飛び上がった。
“アワワ…沢田教一、この沢田教一って、あの沢田教一!?”
あまりに突然だったので、しばらく思考停止状態でその名前をじっと見つめた。

35秒ほどして、我に返った。
“いや、待て、落ち着け、同姓同名かも知れぬ、きっとそうだ、そうに違いない!これはきっと何かの罠だ!”
不運が日常化していると、たまに幸運な出来事に遭遇した場合、逆にその現実を否定したくなるのが人間のサガだ。

「ンだ。カメラさ撮ってる人じゃ。」
緊迫した表情で確認した僕に、管理人はサクッと答えてくれた。足がガクガク震えた。なんという偶然、なんという展開!突然のことで心の準備が出来ずに若干狼狽したが、
“いや〜、長生きはするものだ”
と、同時にそう思った。

沢田教一は1936年生まれで青森の出身。
地雷で死んだ報道写真家ロバート・キャパのヒューマンな写真に心を揺さぶられた沢田は、25歳でUPI通信社のカメラマンになる。東京支局で働いていたが30歳を機に自費でベトナムへ渡り、同年、最前線で戦火から逃げる母子を撮った写真が、いきなりピュリッツァー賞に輝く(この賞はジャーナリスト界の最高峰)。
この受賞は無論嬉しかったが、両手をあげて喜ぶ訳にはいかなかった。題材が戦争であり、“平和で撮るネタがない”状態の方が良いに決まってるからだ。

彼の写真はその多くが戦争の悲惨さや愚かしさを伝えており、シャッターの対象は犠牲になる弱者に向いていた。正式にサイゴン特派員に任命された彼は「寝る時間が惜しい」を口癖に、凄まじい勢いで最前線から戦争の実態を伝え続けた
沢田は安全圏から危険地帯を望遠レンズで撮るのではなく、敬愛するキャパと同じく広角レンズを片手に2、3メートルの至近距離で戦争と向き合った。 戦地から遠く離れた人々に現場を体感させたかったのだ。
『安全への逃避』では戦火の中逃げ惑う民衆を、『泥まみれの死』では米軍戦車に両足をロープで縛られ、死体となって引きずられていた解放軍の兵士を、『タバコを吸う負傷兵』では放心状態でカメラを見つめる若い米軍兵というように、民衆、解放軍、米軍兵と、その立場を問わず、彼のファインダーは傷ついた者すべてをとらえ、その痛ましさを世界に告発する窓となった。

「遺体をしょっちゅう見ていると、当たり前のことになる。それが怖い。」
死に対して無感覚になっていく周囲の者を見て、自分がそうなってしまうことを何よりも恐れた。しかし、ピュリッツアーを受賞したことで、周囲はより突っ込んだ“刺激的な”写真を彼に期待する…。
次第に沢田は無口になった。一度はUPI通信社から香港支局部長のポストを提供されるが、戦場への思い入れが強く、志願して再びベトナムに渡った。

1970年10月28日、カンボジア戦線を取材中の彼をスナイパーが狙撃した。即死だった。それから5年後にベトナム戦争が終結する。
生前に沢田は同僚にこう語っていた。「おい、平和が来たら俺は人間と人間の殺し合いではなく、南ベトナムから北ベトナムまで、美しい田園風景をとことん撮りまくるぞ」。享年34歳。早すぎる死だった。

墓は霊園事務所の近くにあり、多くの人が訪れているのか、美しい花が咲き乱れていた。
沢田教一、享年34歳。若すぎる死だった。

P.S.沢田教一と寺山修司は高校時代の同級生。


      


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