世界巡礼烈風伝・3の巻
(3日目)

『師匠と呼ばせて』


朝7時、上野署の前でS氏と待ち合わせる。警察署の前をランデブー・ポイントにしたのは、伊能忠敬の眠る源空寺が、手持ちの地図に載っていなかった為だ。我が愛用の地図本は、誰もが認める地図の最高傑作、アトラス首都圏マップ(2700円)なのだが、日本初の本格地図師・忠敬の墓寺を掲載しとらんのは不届き千万、猛省を求む!

伊能忠敬。誰に頼まれたわけでもないのに地図作りに命を懸けた炎の男。風雪寒暑をものともせず、56才から17年間をかけて全国4万キロを踏破した。当時の平均寿命を考えると、この心意気だけで既にすごすぎ。
巨費を投じて自宅を天文観測所に改造したり、天明の大飢饉では私財を売り払って千葉の窮民を救ったりと、型破りな生き様の集大成的大行脚だった。

墓場で僕は靴下を脱ぐやいなや、忠敬の墓前に駆け寄り、6月からの巡礼行脚で無数に出来た両足の血マメを、ババーンと見せつけた。
「私も、このように14年間行脚しておりますーっ!」
そう叫び、“ぜひ師匠と呼ばせて下さい!”と懇願した。

忠敬は測量17年目に志し半ばで死去、その3年後に弟子たちが完成させるも、地図を仕上げた高橋景保はシーボルト事件(地図の海外流出事件)で獄死した。


『スーパーモデル広重』

上野から北千住へ北上し、風景画“東海道五十三次”で有名な浮世絵師、安藤広重に会いに行った。広重は没30年後に、かのゴッホをして、その作品を模写せしめた天才画家だ。

僕とS氏は広重の墓前で彼の墓の絵を描いた。画家の広重はよもや自分が描かれる日が来ようとは、夢にも思わんかったろう。彼はモデルになってる間は微動だにせず(当然)、実に素晴らしいモデルぶりだった。


『小塚原刑場跡』

続いて北千住から南千住に移動した。

烈火の魂を持つ男、吉田松陰。好奇心旺盛な彼は25才の時、渡米する為に江戸湾に停泊中のあのペリーの黒船艦隊に密航しかけたところを発見され、鎖国の国禁を犯した罪で投獄されたツワモノだ。しかも、獄中では囚人たちに学問の楽しさを日々説いていたという。

1859年、幕政の混迷を批判する意味で、あえて老中暗殺計画を公言、死刑判決を受けわずか29才で刑場の露と消えた。俗に言う安政の大獄である。刑場跡の墓地には、松陰と同じ思想で死罪となった学者や武士が、彼の墓を中心に30名以上埋められていた。
27才で死んだ高杉晋作にしろ、この当時の歴史の表舞台に出る人物はメチャメチャ若い!

ここにあった刑場は小塚原刑場といって、江戸最大級の刑場だった。同墓地には大名・武家屋敷など権力者の家屋専門に忍び入り、人を傷付けることなく現金だけ盗み去っては貧民にそれを分け与えていた義賊・ねずみ小僧次郎吉の墓もあった。彼の墓は、その墓石に金網がかかっていた。あの世で脱獄せぬように、ということか。


『百の顔を持つ男』

南千住にはもう一人忘れてはならぬ江戸の異才が鎮している。高松藩を脱藩し自ら“天竺浪人”と名乗り、作家であり画家であり陶芸家であり科学者であり発明家であったその男の名は、平賀源内!丹下ジムで有名な泪橋の近くに彼の墓はある。

多方面にわたる才能を持ちつつも、それゆえにキワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、彼は年とともに世間に冷笑的な態度を取り始める。執筆作品のタイトルも放屁論など凄まじい。そのうち大胆不敵にも封建社会をこきおろす作品を発表し始め、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露したおした。

晩年、自分を認めてくれぬ世に激昂した彼は、ついに発狂して人を斬り、53才で獄死した。

彼の墓標を建てたのは、好奇心の強さでは互いに譲らなかった無二の親友、杉田玄白である。


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世界巡礼烈風伝・4の巻
(3日目その2)

『暴れん坊将軍を探せ!』


南千住から上野方面に再び戻る。鴬谷(うぐいすだに)にある徳川家霊廟を訪れる。

といっても家康は日光だし、慶喜は既に会ってるし、犬将軍はどうでもいいので、今回のターゲットは江戸のヒーロー吉宗公!人気ナンバーワンの将軍なので、墓周辺はさぞかし花で賑やかだろうと思っていたら、なんと一般者は拝謁禁止で霊廟入口の鋼鉄の門は、無情にも固く閉ざされていた。

霊廟の周囲は高い石垣で囲まれており中の様子は見えない。普通ならここで諦めるだろう(目安箱に苦情を書いて完だ)。しか〜し!たとえ将軍家であっても、三十路&無職&独身という黄金の共通項で結ばれた僕とS氏の友情パワーの前では、御威光など全く通用せん。そんなものは消えかけの線香花火と変わらぬのじゃ。
「フッフッフッ…うぬら、それで壁を作ってるつもりか〜!」

僕らには“肩車”という古来から日本に伝わる秘技があったのだ。あとは御想像にまかせよう。


『世界をかけ巡った“どんぐり”〜植村直己』


次は少し遠くまで移動した。成増に眠る植村直己に会いに行ったのだ。正午ごろ僕らは駅から歩き始めたが、目的地の乗蓮寺はかなり遠かった。昨日の早朝から歩きっぱなしで随分疲労が蓄積していたので、目の前を“空車”と掲げて悩ましげに横切るタクシーのフェロモンは、ハンパじゃなかった。

墓参りに行くとはいえ、僕のリュックには地図や時刻表の他、衣類やカメラ、ミネラルウォーター、それに墓関係の文献がギッシリと詰まっており、かなりの重量だった。両肩からプスプスと煙が上がってた。

しかし…どうしても植村直己のもとへタクシーで乗り付ける気にはなれんかった。金がないのはもちろんだが、自分の足だけを頼りに地球を闊歩した氏の墓へ、タクシーでシュッとラクして行くのは“何かが違う”と思ったのだ。

「自然は征服するものではなく、学ぶものである」
「自分の力で切り抜けられる時は、祈るよりも立ち向かうべきだと山は教えてくれた」(By植村直己)

1970年5月11日、日本人初のエベレスト登頂。その後、つづいて5大陸の最高峰を制覇。
1978年北極点到達。
1984年2月、北米最高峰マッキンリー“冬期”単独登頂成功後、
下山中に消息を絶つ。植村直己、享年43才。
ずんぐりした体型と、温厚な性格からついたあだ名は“どんぐり”。非業の死ととるか、冒険家として最高の終幕ととるか…。

墓には詩人の草野心平による追悼文が彫られていた。遭難した彼の身体が発見されたという話は、今のところ聞いていない。が、肉体を離れた彼の魂は、植村家の墓の中に戻って来てると僕は信じている。

その帰り、やけに蒸し暑いと思ったら、急に雲行きが怪しくなり、あっという間に激しい豪雨になった。雷鳴が響き、自然の手荒い歓迎を受けた。
「これくらい、なんじゃ〜いっ!」
墓参直後で士気が上がりまくってた僕らは、雨宿りもせず突っ込んでいった。
(この後、都心の文京区へ戻る。余談だが、成増駅前でモス・バーガー第1号店を見た)


『不世出の落語家、5代目古今亭志ん生』

本名は美濃部孝蔵。渥美清の時と同じで墓が実名だったため自力で発見できず、お寺の方に教えて頂いた。地下鉄江戸川橋駅を出てすぐの、簡単に行ける還国寺に眠っているから、志ん生ファンはいつでも会えるよ!
(志ん生の魅力はまだまだ勉強中。悔しいけど、僕の貧困な文章表現力では志ん生落語の素晴らしさを正しく伝えられない!もう少し歳をとれば書けると思う)


      


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