世界巡礼烈風伝・30の巻 (9日目その4) 『死闘!安部一族』 熊本駅から徒歩で20分。メインストリートから遠く離れた北岡公園に大名細川家の墓所がある。この墓所はいかにも異様だ。3代目忠利と4代目光尚の霊廟を30個の墓が取り囲んでいるのだ。 この時代、主君が死ぬと側近の家臣は追腹(おいばら)を切って殉死する習慣があった。周囲の墓はまさにそれで、忠利に19人、光尚に11人の家臣が命を捧げた結果の光景だった。 おそらく熊本で最も人気のないスポットなのであろう、広大な敷地には人っ子一人おらず、聞こえるのは蝉しぐれのみ。僕は墓所のド真ン中に立ってみた。見渡す限りの家臣の墓。他の大名の墓もこれまでいくつか見てきたが、こんな殉死者の群れを見たのは初めてだ。背中に冷たい汗が滲んだ。 そして、この敷地の一番片隅に阿部弥一右衛門(やいちえもん)の墓があった。日本歴史文学の最高傑作といわれる『阿部一族』で森鴎外がとりあげた、あの阿部氏の墓だ。 ※さて以下に、その物語を簡単に綴ってみる。 1641年3月17日、細川藩3代目忠利が病死した。四十九日の翌日、5月6日に一斉に殉死が始まり、熊本中がその噂一色になった。追腹を切ったのは18人。誰は何と言って死んだ、誰の死にようが誰よりも見事であったという話の他には何の話題もなかった。(殉死者の遺族は主家から米、家屋敷などの優待を受けることができるので、彼らは安んじて死ぬことが出来た…と、一応そういうことになっている) ところで追腹といっても誰もが自由に切れるわけではない。殉死は藩内で高い地位にあった者が、主君から許しを得た場合に限って行なうことの出来る“特権”だったのだ。 さて、ここに家臣団でありながら忠利に殉死を許されなかった阿部弥一右衛門という男がいた。弥一右衛門はマジメ一辺倒な人物で、そのあまりのキマジメぶりが忠利の鼻についたのか、忠利は冥土のお供に彼を連れて行くことを嫌った。 弥一右衛門は焦った。 “人は自分が殉死するはずのものだと思っているに違いないから、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いない”と。 しかし忠利はとうとう最後まで殉死を認めず死んでしまった。 18人が殉死した後、さっそく弥一右衛門の耳に耐え難い噂が聞こえて来た。 「阿部はお許しのないのを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、鷹や犬でさえ後を追ったというのに」 実際、忠利が狩りの時に連れていた鷹や犬は死地へ旅立っていた。 彼は5人の息子たちを呼び寄せ、許可なく追腹を切ることでどんな結果になるか分からないが、このまま生きていく訳には到底いかぬと、 「俺を親に持ったのが不運だったと諦めよ。恥を受けるときは一緒に受けい。兄弟喧嘩をするなよ。さあ、よう見ておけ」 こう言って、弥一右衛門は子供らの面前で切腹し、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだ。5月6日から、わずか3日後の出来事だった。 無断追腹について光尚が出した処分は、弥一右衛門の財産を5人の兄弟が均等に相続することだった。これは一見何のダメージもないように思えるかもしれないが、これまで1000石以上あった本家がイッキに5分の1の200石足らずになったわけで、そんな本家では弟たちも“阿部家”の名を従来のように胸を張って名乗れず、彼らの威信はガタ落ちになった。 中でも、最も憤慨したのは家督を継いだ長男だった。彼は忠利と殉死者の合同一周忌の会場で、乱心したのではないと皆に宣言した後、 「もうつくづく武士が嫌になった」 と父や忠利の墓前で武士の命である自分のチョンマゲを切ってしまった。 光尚は24歳の血気の殿様で、情を抑え欲を制することがまだ足りない。大勢の前でツラ当てをされたと思った光尚は、 「よくも先代の御位牌に対して不敬なことをしたな!上(かみ)を恐れぬ所行じゃ!」 と激怒すると、なんとこの長男を縛り首にしてしまった。 残された4人の兄弟はこの処分に怒りまくった。 「武士らしく切腹仰せつけられれば異存はない。それに何事ぞ、盗人か何ぞのように、白昼に縛り首にせられたとは!」 縛り首に処せられた者の一族に、どんな顔をして城内で奉公しろというのか。彼らの頭に亡き父の “何事があろうとも、兄弟別れ別れになるな” という遺言がよぎった。 「阿部一族に不穏な動きアリ」 穏やかならぬ一族の様子がお上に聞こえた。横目(今で言うスパイ)が偵察に出て来た。一族で抗議のろう城をして藩兵と対決し、そのまま長男の後を追う覚悟を兄弟全員が決めた。当初から一人も異議を唱える者はいなかった。 阿部一族は妻子を引きまとめて、死んだ長男の屋敷に立てこもった。全員で酒宴をした後、老人や女は自殺し、幼い者はてんでに刺し殺した。それから庭に大きい穴を掘って亡骸を埋めた。あとに残ったのは屈強の若者ばかりである。 1642年4月21日。ついに藩兵との戦いの火蓋がきって落とされた。槍での攻防戦から壮絶な刀の斬り合いになっていき、双方の人間がバタバタと倒れていく。鉄砲も火を吹いた。しかし戦っているのは、もともと同じ細川家の武士なのだ。 阿部屋敷でかつての仲間同士が血みどろの戦いをしていた頃、若殿光尚は臣下の家へ遊びに行く為にカゴに乗り込むところだった。阿部家の方角から聞こえる人声や物音に、 「今、討ち入ったな」 と関心なさげに一言だけ吐く。 凄惨な死闘の果てに阿部一族は全滅したが、討伐軍の指揮官も討死にした。阿部屋敷には最後に火が放たれた。 戦いの詳細は直接鴎外の原作を読んで欲しい。阿部一族だけでなく、討伐軍の心境や、阿部家の隣人の武士のエピソードも書かれている。鴎外はこの作品の執筆にあたり徹底して史実を研究しており、作品の前半部分に紹介されてる5月6日に殉死した18人の細かな調査には、目をみはるだろう。 軍医という体制側の肩書き(それも最高位の陸軍軍医総監)を持っていた鴎外が、この作品を発表したことに僕は驚きを隠せない。彼が阿部一族を世に出したタイミングに注目して欲しい。当時は死んだ明治天皇の後を追って、軍隊トップの乃木大将が殉死したばかりで、マスコミを中心として日本全体に殉死を美化するムードが漂っていた。 鴎外は高い地位にいる軍人だ。当然軍部の頂点に立つ乃木大将の行動を賛美する立場にあった。しかし世間の風潮に不気味な居心地の悪さを感じていた彼は、あえて阿部一族の執筆にこだわった。殉死がどんな意味を持つというのか…彼の立場を考えると『阿部一族』の発表は驚嘆に値する勇気だと思う。 何?本屋に売ってなかったって?御安心下され!我々にはネット図書館という最強の味方がいるではないか! http://www.aozora.gr.jp/ 上記のアドレスで作品別リストから阿部一族にジャンプし、HTMLの文字をクリックしたら、10秒でこの傑作をゲット出来る。まさに本屋いらずだね。サイト名は『青空文庫』。蔵書数は1000冊以上。作者の死後50年が経ち著作権の消失した作品を、洋邦問わず片っ端からボランティアがパソコンに打ち込んでいる、カジポン脱帽のド根性サイトだ。 僕は本当に鴎外が大大大好き。前から思ってたけど、この恋心は燃え上がる一方だ。彼は読者を突き放したりするんだけど、ハートがめちゃめちゃ温かいのがバレバレ。たまらない。 (P.S.)初めて追腹を正式に禁止したのは水戸藩。発令したのは黄門様こと水戸光圀だった。 ------------------------------------------------------------- 世界巡礼烈風伝・31の巻 (9日目その5) 『ファイヤー・ハートで大交流!』 熊本での巡礼を終えた僕は、いよいよ西日本編の最終目的地の鹿児島県に向かおうとした…が、その前にだ。どうしても天下の名城と言われる熊本城を一瞬でも肉眼で見たかった。 熊本駅からバスや路面電車を使って15分の距離だが、例の如く列車の発車時間が迫っており、往復に30分もかける余裕はない。結局、周囲を見渡し一番ノッポの高層マンションに向かってダッシュした。最上階からの眺望にすべてを託したのだ。 「ムギューッ!オートロック!」 マンションに駆け込むないなや、それが目に飛込んできた。既にサタンの手に落ちた大阪や東京と違って、九州にはまだ100年はオートロックの出番がないと思ってたが、そのマンションは見事に機械化文明の毒に冒されていた。暗証番号など分かるわけがない。僕は間髪を入れず管理人室に向かった。 汗だくになりながら、せっぱ詰まった顔でガラス窓をゴンゴン叩くと、ジャイアンの母ちゃんにそっくりで、明らかに不信感丸出しのおばさんが怪訝そうに窓を開けてくれた。何度も書くが僕には時間がなかった。挨拶は抜きだ! 「一生のお願いがあるんですがああああああ!」 「はぁ〜っ!?」 「けっして怪しい者ではありません!中に入れて下さい!お城が見たいんです〜っ!」 唯一の身分証明証である運転免許証をおばさんの鼻先に突き付け、簡単に事情を説明した後、この世の終わりのような情けない声でドアを開けてくれろと哀願した。 「規則で部外者は入れないんだよ。あきらめな。」 そう言って窓を閉めようとするので、僕はリュックを窓枠にかませて閉まらないようにし、 「5分!いや3分、3分でいいです!どうか自分をスズメかセミだと思って下さい!」 「あんたね〜」 もう、捨て身だった。 ピッ、ポッ、パッ、プッ。ウィーン。 「14階のおどり場へ行きな」 ついにヘブンズ・ドアーが開いた。 『11分間の桃源郷』 感無量で熊本城の勇姿をマンションから眺めた後は、17時半の各停で鹿児島本線を南下した。実はこの17時半の列車が、熊本から鹿児島へ各停で乗り継いで行ける最終列車なのだ。 今回の西日本巡礼の移動で一番楽しみにしていた走行区間がここだ。日本一美しい車窓をこの区間で満喫できるからだ。熊本市と水俣市の中間に肥後二見駅がある。そこから上田浦駅、肥後田浦駅までの3駅、この11分間は列車が海沿いをひた走る。 単純に海が見える路線なら海岸線の多い日本のことだ、それこそ無数にあるだろう。しかしこの区間は一味違う。線路と海が50センチしか離れてないため、車窓を眺めるとまるで海上を走ってるみたいなのだ。 窓のすぐ下は海。砂浜や岩があるのではなく、本当に海が眼下で波打っているのだ。ちょうど18時半の日没とぶつかり、車内が海面の照り返しで金色になった。 「ぬおお、なんてロマンチックなのだ〜!」 墓マニア失業独身三十路男(文字にするとすごいね)のロンリーライフが、ささやかな喜びに満たされた一瞬であった。 『サウナよ今夜はありがとう』 22時に鹿児島入りを果たした僕は宿を探して街を徘徊した。それにしても、ユースホステル会員証の出番がない。入会したものの、鉄道旅行で便利な県庁所在地にユースがないことが多いし、あっても東京の様に「満員です。3ヶ月前に予約して下さい」と言われるし、車を持ってなきゃ行けない所にあったり、とうとう北海道から鹿児島まで一度も利用できなかった。 街中には期待していたカプセルホテルもなく、再び駅に舞い戻った。コンコースで寝るつもりだったのだ。だけど明晩も夜行列車になるので、体力を考えるとベッドで眠るべきだとも思った。 シャッターの下りたキオスクの前に座り込んでいたら、目の前で駅員同士が談笑してたので、試しに安宿情報を聞いてみた。彼らが揃って教えてくれたのが、サウナだった。 サウナ。大都市に行くと必ずネオンが見えるあれだ(実はこの歳になるまでサウナはH系のお店だと誤解していた…!)。店に入って分かったが、サウナは平たく言えば「ベッド付き銭湯」だった。風呂代は1500円と高いのだが、その値段に朝までの滞在費が入っており、各自がソファーに横になって眠っていた。ベッドルームもあって、こちらは800円の追加料金で利用できた。 これならベッドを借りても一泊2300円でユースの平均価格3千円より安い(カプセルホテルは3500円強)!今後の旅ではガンガン使いまくろうと思った。朝起きたらイビキで耳がキンキンするけどね。 |
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