世界巡礼烈風伝・50の巻〜『最終回!淡路島にGO!』

★義経&静御前の愛の巣を訪問!


あれは1年前のちょうど今頃…そう、10月だった。何気にネットで墓チェックをしていると、淡路島の津名町に義経の愛人、静御前の墓があることを発見した。
しかも驚くべき事に、遠く岩手県平泉で死んだハズの義経の墓までそこにあるという。

ネームバリューからいえば圧倒的に義経が上なのに、2人の墓がまつられている庭園の名は『静の里』。これはいかにも怪しかったが津名町の公式ホームページであり、津名町といえば例の“1億円金塊”村おこし騒動でそれなりに知名度もあるので、わざわざ眉ツバものの情報で日本国民を混乱させはしまいと、この両者の墓が100%本物だと信じ、機会さえあればいつでも淡路島に乗込む意気込みで日々を送っていた。

機会…この機会がなかなか無い。
淡路島在住の方には申し訳ないが、鉄道(18きっぷ)で行けぬというのは致命的だ。とうの昔にマイカーなるものを重税に喘いで手放した僕にとって、淡路島は小樽や鹿児島より遠い遥かな土地であったのだ。より正確に言えば、僕の辞典では淡路島という言葉はムーやアトランティスと同義語で、もはや実在する島かどうかも定かではなかった。

そして今夏。
リーン、リーン、ガチャ。
「カジポン、俺たち鳴門の大塚美術館に行くけど一緒に行く?」
飛んで火に入る、いや、渡りに船とはこのことだ。徳島の鳴門に行くには明石海峡大橋を使って、淡路島を経由するのがベストコースだ。僕は即答した。
「イエーッス!」

当日朝7時。
男3人、女1人の計4名が神戸・三宮で待ち合わせ、Y氏の車で鳴門に向かった。
僕のリュックの中には前夜のうちに長さ10センチのプラスチック製フォーク(コンビニのパスタについてたヤツ)が隠されていた。むろん、武装したのは途中でカージャックし、強制的に津名インターチェンジでコースアウトさせる為だった。

鳴門には簡単に到着出来ぬことも知らず、無邪気にドリ・カムを合唱する3人の仔羊たち…だが、結論からいうとフォークの出番は全くなかった。
僕がオズオズ、ドキドキと墓参したい旨を切り出すと、
「オッモシロそーう!」
類は友を呼ぶのであった。

かくして我らは淡路島の大地に足をおろした。先程はこの島をアトランティスなどと書いたが、実は淡路島の歴史は凄い。日本が誇る科学専門誌『古事記』によれば、この地はイザナギとイザナミという男女の神が、日本列島の中で最初に創った土地というではないか。本州なんか8つめにようやく誕生した、ピヨピヨのヒヨコちゃんだ。
4人は感無量の思いで、『静の里』のゲートへ歩いていった。

…ゲートをくぐった我らは言葉を失った。
そこは庭園なのだが、別名が黄金の里といわれるように、とにかく金づくし。庭園奥の墓に続く道の周囲には、金塊を展示した博物館や金の観音様をはじめ、よく分からん金のオブジェがたくさんあり、とにかく金、金、金、黄金!池を泳いでる鯉も、もちろんゴールド!
そしてなぜか本物の猿と犬が入ってるオリがひとつあり、手前の看板には“犬猿の仲よし”と書かれていた。四次元空間に迷い込んだのかと思った。

なぜ『静の里』に猿と犬が必要なのか、なぜゴールドなのか、なぜここに墓があるのか、その理由は何ひとつ分からなかったが、とにかく2人の墓はあった(双方共に墓石が古かったし、史跡にも指定されていたので説得力はあった)。

★義経、頼朝、アリ地獄

義経の最後については、以前、烈風伝・弁慶の章でも取り上げているので、今回は静や頼朝との関係を中心に記す。

義経には妻子がいたので静は妾だった…というと彼がひどい男に聞こえるが、当時の社会では武将が妾を持つのはごく普通のことである。

彼はなぜ兄・頼朝に殺されるに至ったか。
武勲は大きかったが、源氏軍のチームワークを乱したからである。義経の平家軍への攻撃は、どれも事前に打ち合わせた作戦とは違っていたのだ。
彼は勝機と見れば一ノ谷の戦いのように2万の自軍を放り出し30騎で奇襲をかける(平家側は7千人!)など、戦況に応じてスピーディ、かつ、臨機応変に対応していたが、打ち合わせ通りに行動していた他の武将たちにしてみると、自分が戦場に着くと既に戦いは終わり、義経が大戦果をあげた後…そういうことが何度も続いた。

義経は武功を焦って他の武将を出し抜いていたのか?
答えは否だ。平家の抵抗は凄まじく、関東から遠征してきた源氏軍は、戦いの長期化と共に船は無くなり、食糧も絶え、兵士たちは自分の甲冑(かっちゅう)を売って小舟を買うほどの窮状に陥っていた。
義経が少数の手勢で奇襲を行なったのは、正攻法ではなかなか落ちないという背景があったのだ。

しかし、頼朝にとっては新興勢力の自軍の土台を固めることが最優先課題であり、軍全体が一丸となって行動することに意義があった。それゆえ義経に限らずとも、和を乱して味方と先陣を争った武将は、彼にとって処罰の対象となった。

義経は源氏全体の名誉が上がると思い、独断で朝廷から高位を授かったが、これがまた頼朝の逆鱗に触れた。日頃から弟の単独行動に眉をひそめていた兄の目には、これが売名行為と映った。
こうした両者の気持の行き違いが重なり、やがて“義経追討”の悲劇を生む。現存する義経の兄への手紙の中には、「兄上の誤解に、涙に血がにじむほど泣いています」
と痛切な一行が残っている。

一方、静御前は義経追討令が出たあと頼朝の手で鎌倉に監禁されていた。それは静が子を宿していた為だった。そして頼朝は彼女が産んだ男の子を…海に投げ捨ててしまった。頼朝、非情なり。だが裏を返せば、そこまでして鬼に徹せねばならぬほど、源氏の団結力が揺らいでいたとも言える。

静は釈放された後、愛する義経を追って奥州平泉へ向かった。彼女は現在の茨城付近まで来た所で、つい4ヶ月前に義経が自害したことを旅人から聞く。
精根尽き果てた静は剃髪し尼となったが、わずかに3ヶ月後、義経のあとを追うようにしてこの世を去ったのだった。


義経と静の墓は寄り添うように隣接しており、背丈も同じでいかにも仲むつまじい感じだった。
我々は4人で手を合わせ成仏を願いこの地をあとにした。もちろん、みやげもの屋で“黄金まんじゅう”をしっかり買ってから。

★おわりに

冒頭でも書きましたが、これで今夏に決行した日本巡礼ルポはおしまいです。本当に、この国には様々な時代にたくさんの熱い人物がいる。
志し半ばで病死した者、暗殺された者、自殺した者ばかりで、晩年まで幸せに生涯を送った者は殆どいない。
…いや、“幸せな生涯”であったかどうかは本人が決めることで、僕が言うことではないのだろう。


(P.S.)
『ゲゲゲの鬼太郎』の作者・水木しげるが、墓場めぐりをしていた昔を回想して語った言葉を最後に。

〜墓場めぐり〜
「昔は近郊にまだたくさんあった名のない荒れた無縁墓地を廻ったりした。僕が立ち去ろうとすると、墓がいかにも名残り惜しそうな表情をする。特に古い墓ほど死者の気持ちがなごやかで、これが墓めぐりの醍醐味だった」


      


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