世界巡礼烈風伝(第59回) 〜世の異邦人アントニオ・ガウディ〜 『全体的な美的無意識、節度の観念の絶無、溶けて崩れ落ちる肉の海、それがガウディの建築だ』(画家ダリ) 『それは野菜と貝殻で作られた教会だった』(詩人アンドレ・ブルトン) バルセロナ市内の中心部にあり、街の代名詞ともいえる巨大なサグラダ・ファミリア大聖堂(聖家族教会)。設計者はスペインが生んだ天才建築家アントニオ・ガウディだ。 事前のリサーチで、このガウディの代表作の内部に彼自身の墓があることが分かっていたので、今回こそ、そう、本当に今回こそ、墓参は“超楽勝”のハズだった。 場所は街の中心、市内最大の観光名所、地下鉄も通っている、これらのどこに障害が入る余地があるというのか。タラちゃんでも一人で行けるさ。 2000年11月20日午前10時、僕は鼻歌まじりで街に繰り出した。 確かに大聖堂へは簡単にたどり着けた。だって、すぐ真横に地下鉄サグラダ・ファミリア駅があるんだもの!地下鉄の階段を上がり地上に出た観光客は、誰もが一瞬息を呑んで立ち尽くす。理解を超えた特大スケールの石造物が、天へ向かって高くそびえているからだ。しかも、それは単に巨大なだけでなく、異形の教会ともいうべき非現実的なデザインなのだ。僕も眼前の光景に圧倒され、思考がとんでしまった。 聖堂の入口で入場チケット(500円くらい)を買う。読者諸君は、教会に入場券がいるなんて妙だと思うかもしれない。しかし、これには深い事情があるのだ。1882年3月に建設がスタートしたのだが、あまりに複雑怪奇なデザインの為に100年を経た今も建設工事は続いており、現在やっとこさ3分の1が完成、建築終了まではあと200年(!)はかかると言われている。入場料はその莫大な建設資金にあてがわれているのだ。 (このあたりの詳細はまた後ほど…) 完成した暁には高塔18本がそびえる予定で、中でも中心の塔は他の塔の100〜120メートルに対し170メートルになるという、とんでもないもの!世界中の観光客が、林立するトウモロコシ型の高塔群を唖然と見上げる中、僕は反対に下を向いてキョロキョロしながら、墓を目指して敷地内を駆けずり回っていた。 そして30分が経過…。 「フンガーッ!どこにも墓などないではないか!」 いや、敷地内のどこかに墓があるのは確実なのだ。聖堂内で工事をしていたこわもてのオジサンたちに何人も墓を尋ねたが、その都度 「ガウディの墓はあそこを真っ直ぐ行って、手前で曲がって…云々」 と返事が返ってきた(気がした)んだもの!…気がした、というのは誰一人英語を喋れず、スペイン語で手を振り回しながら教えてくれたからだ。 教えられる度に、行っては来たりを繰り返した。 チケット売り場の女性職員や土産物コーナーの店員から、よくよく話を聞いてみると、大聖堂の地下に博物館があってどうのこうのと教えてくれた。 博物館!サグラダ・ファミリアにそんなものがあるとは知らなかった。博物館の入口は聖堂入場ゲートの反対側地下にあり、頭上の塔にポカ〜ンと見とれていたら絶対に気付かない場所にあった。 さっそく鼻息荒く中に乗り込み、館内を夢中で探し回った。 その15分後。 「ウッキーッ!墓など影も形もないではないかっ!」 いくら探せど、どうしても墓の場所が分からない。 「う…う…、なんでないんだよ、皆はあるって教えてくれたのに。ヒーン」 “大体、普通は博物館の中に死者を埋葬せんだろう” そう思うと、本当にもう打つ手なしといった心境になり、悲愴モード全開になった。楽勝予想と正反対の結果に、『墓参に王道なし』という言葉を手帳に刻んだ。 と、その時! 博物館に隣接した形になっている工房の存在に気付いた。館内から工房での作業風景がよく見えるよう、両者はガラス扉で隔てられていた。熟年ドイツ人観光客の団体さんが真剣に作業を見守っている中、静寂の中で僕はいきなりガラスを叩き始めた! 「聞きたいことが、聞きたいことがあるんだ〜っ!」 思いっきり引く周囲の観光客たち。 お構いなく、鍵が扉にかかってないことに気付き工房に入って行った。背後から熱さと冷たさの入り混じった視線を、全身に浴びながら…。 世界巡礼烈風伝(第60回) 悲愴感丸出しでガラス扉を開けて入って来た僕を見て、ただごとでないと思ったのか、工房の職人さんのうち2人が目を丸くしながら近づいて来た。 職人、といっても学生上がりのような若いその2人は、共に英語OK。僕が身振り手振りでこれまでの経緯を伝えると、 「あそこはちょっと分かりにくいんだ」 と、そのうち一人が直接案内してくれることになった。 彼と連れ立って工房を出ると、そこは野次馬がいっぱいで、急に恥ずかしくなった。一人の観光客が“どうしたというのか”と聞いてきたので、 「いや〜、お墓がね、ハハハハ…」 と意味不明の返事をしてしまった。 果たして案内された場所は、やはり博物館の中だった。彼は展示物も何もない通路の奥にある、小さなガラス窓の前に連れて行ってくれた。 「ほら、ここから覗いてごらん」 「!?」 さすがにこれは気が付かなかった!窓の向こうは真っ暗だったので何もないと思ってたら、5メートル以上も下方に墓の一部が見えた。やっとこさ墓に来れて確かに嬉しかった。しかし、あまりに遠い。 何とか下まで降りることは出来ないのか? 彼の話では、窓の向こうは礼拝堂になっていて、そこに行くにはサグラダ・ファミリアから一度外に出て、周囲をグルっと歩き地下へ続く階段を降りねばならない、ということだった。 フムフム、いったん外に出て…って、わざわざ入場券買って入って来た意味ないじゃん!? ともかく、彼に丁寧に礼を言い聖堂の出口から外の車道へ出た。礼拝堂の入口らしきものを探して周囲を歩いてみたら、確かにそれっぽいのが見えて来た。 「ようし、今度こそ!」 と、礼拝堂に続く門を開けようとすると、ガビーン!錠が下りていた。思わず僕が固まっていると、通りがかったお婆さんが側の看板を指差してスペイン語で何か言っている。 そこには礼拝堂の開門時間が細かく記されていた。短時間だが1日に何回か中に入れるらしい。 「え〜と、次の開門時間は…」 絶句。なんと10分前に閉まったばかりで、次回は3時間以上も先だった。 …もはや何も言うまい。 この時点で13時ごろ。礼拝堂は夕方に開いた後、さらにもう一度20時に開くようなので、僕は国鉄に乗り、既に記した烈風伝55回のカザルスの墓参に向かったのであった。 18時にカザルスの巡礼からバルセロナ市内に戻ってきた僕は、そのままサンツ駅から地下鉄5番線に乗り、再度サグラダ・ファミリア駅に降り立った。 もう完全に日が暮れていて、空は真っ暗だった。 僕は大聖堂を見て思わず息を呑んだ。夜闇の中、ライトアップされたサグラダ・ファミリアは昼に見たものと同じ建築とは思えないほど神秘的な妖しさを帯びていた。聖堂全体はオレンジ色にライトアップされているのに、高塔の内部だけがグリーンの光で照らされている。闇に浮かび上がった石の魔宮は、隔世の感があった。 そこには、誤解を恐れず言うならば、悪魔的な雰囲気さえ漂っていた。 もう一度礼拝堂に向かう。今度は門も開いていた。 さっそく階段を降りて行き、入口で器を持って立っていた小太りの修道士に、拝観料としてコインを数枚渡した。中はとても薄暗く、無数のロウソクの灯が揺れていた。 ガウディの墓は礼拝堂の最深部。その頭上には聖母子像がいた。 やっと墓前に立つことができ、感無量だった。 棺の中の彼は、自分が愛してやまぬサグラダ・ファミリアの胎内で眠ることが出来て、きっと幸せだと思う。 墓の脇に腰かけ、しばし礼拝堂の天井を見つめぼんやりした。波乱万丈の一日にいささか疲れてしまった。 入った時は僕の他に5人ほどいたが、10分ほどしてひとりぼっちになった。 静かだった。 不夜城ともいえる国際都市バルセロナのド真ン中で、一人きりの空間を体験するとは思わなかった。しかもそこはサグラダ・ファミリアの地下なのだ。非現実感が僕を支配した。 この礼拝堂にはとても珍しいものがあった。マリアの夫でキリストの父、聖ヨセフの立像だ。これまで欧米の教会に何百ヶ所も足を運んで来たが、至る所でマリア像が見受けられたのに対し、なぜかヨセフ像はどこにもなかった。 自分が抱いてないのになぜか妻が妊娠し、生まれた息子は、立派な大工として後を継がせる気だったのに、三十路になったとたん“我は神の子”といきなり語り出し、やがてその息子を為政者に捕らえられ公開処刑されちゃうんだから、ヨセフの人生はパニックの連続だ。キリスト教文化はマリアとイエスにばかりにスポットを当てているので、無視されてる感のあるヨセフに、僕は昔から心を痛めていた。 サグラダ・ファミリアとは“聖家族”の意味だ。ヨセフ、マリア、イエスの親子が、一人身のガウディを家族の一員に迎えてるように思えた。 礼拝堂をゆっくり見て周っていると、しばらくして荒い鼻息が近づくのが聞こえてきた。先ほどの修道士だ。なにやら“よく来たね”みたいなことをスペイン語でニコニコ話しかけてきた後、僕の両肩を抱き寄せて左右の頬にキスをしてきた。 まあ、これは西欧では親愛さを表現した挨拶の方法なので構わないのだが、その後が異常!僕のほっぺを手の平でペタペタさすったかと思うと、今度は強引にもう一度抱擁し、再び頬にキス。しかも、そのキスの時間が尋常ではない長さ。このオッサン、引き離そうとしてもなかなか離れんのだ! 「オイオイオイ、コラコラコラ!」 この四十前後で銀縁メガネの太った息のくさい修道士は、ジョリ髭をこすり付けて来るので痛いの何の。女顔かつ童顔の僕を女性と勘違いしているのか、はたまた男と分かってるうえで、“だからこそ”興奮していたのか!?右が終われば左へ、左にキスしたらまた右へとエンドレス・キッス! 「ちょ、ちょ、ちょっとタンマ!」 と、力任せに引き離すと僕のほっぺから唾が糸を引いてツーッ…。 「ぬおっ」 僕は慌ててTシャツの裾で頬を拭いた。 おりしも観光客が3人入って来たので、オッサンは拝観料をもらいに出入り口に慌てて戻っていった。 “な、な、なんだったんだ!?” 礼拝堂を出るときに、オッサンは頼みもしないのに見送りに出てきた。10メートルほど背後から彼が何か言ってるので振り返ると、なんと投げキッスをしていた…それも再びエンドレスで。ゾゾゾーッ! どっと疲れて僕は石の魔宮をあとにした。 墓マイラーには、本当に様々な体験が待ち構えている。 『墓参に王道なし』、僕が手帳に血文字で記したこの言葉を、後世の歴史家はハンカチを片手に検証するであろう…。 世界巡礼烈風伝(第61回) ●“石の聖書”を作った男! アントニオ・ガウディは1852年に生まれた。父は彫金師、母は子供時代に亡くなり、兄や姉も学生時代に早逝している。10代は経営学校で学んでいたが、ローマの遺跡に感動し、21歳の時にバルセロナ県立建築専門学校に入学。在学中に発表した県議会堂中庭の設計図がコンペで特賞を受賞。学校の課題で、市内の噴水や桟橋の設計を手がけた。 この頃から既に彼のデザインはかなり奇抜だったようで、卒業式にあたって学長はこう語ったと言う。 「自分は建築士の称号を一人の天才に与えようとしているのか一人の狂人に与えようとしているのか分からない」 卒業後の彼は着々と実績を積み重ね、26歳の若さでバルセロナ市役所から市内の街灯の設計を依頼される。 1883年サグラダ・ファミリア大聖堂の建設主任に抜擢(31歳)。以後、亡くなるまで43年間この任を務める。 1905年カサ・バトロ(アパート)を設計。“アンデルセン童話のような建物”と形容されたことで有名。青いタイルと色ガラスで出来た外壁は、波状に削られており、海を表している。遠目だと材料は貝殻とサンゴで出来ているようだ。鉄製の全バルコニーが龍の頭蓋骨をしていて、とてもユニーク! 1906年カサ・ミラ(嵐の海をイメージしたアパート)を設計。ガウディ最後の住宅設計。これは最も野心的な仕事だった。外壁は波打つような曲線で、屋根も波のようにうねり、バルコニーはまるで海草がへばり付いたようなデザインだ。屋上には奇怪な形の煙突や換気塔がある。この100部屋前後ある巨大アパートは全室の設計が異なっており、同じ間取りの部屋はひとつもない。窓も全て形が異なり、これはもう、驚異的としか言いようがない。 ガウディは生涯に3度恋に落ちた。すべて悲恋だった。 1度目は相手に婚約者が既におり、2度目は神に仕える尼僧、3度目がこれまた婚約者持ちという具合だ。結局、もともと不器用で恋愛が苦手な彼は生涯独身を通すことに。 彼は3度目に恋した女性と地中海である約束をした。 「僕ら2人の思い出の、この地中海を表現した建築をたてる」 と。それが“カサ・ミラ”だった。彼はマリア像に見立てた彼女の像を屋上に置こうとしたが施主から許可が下りなかった為、彼が建築の道を志すきっかけとなったローマ遺跡の彫刻を外壁に小さく刻んだ。 後にガウディは弟子達にこう語る。 「私が結婚することは天命ではなかった」 多様な民族・文化が混在するスペインの中で、カタロニア地方は千年以上に渡り独自の伝統を育んでおり、そんな民族意識の強いカタロニアを時の権力は常に抑圧し、固有言語のカタロニア語の使用を長い間禁じてきた。ガウディのカタロニア魂は激しく反発する。 1924年のある日、散歩を楽しむガウディを一人の警官が呼び止めた。ガウディの薄汚い身なりと曲がった腰、リューマチで引きずる足を見て浮浪者と勘違いしたのだった。警官のカスティリア語(首都マドリードで使われる言葉)に対しガウディはカタロニア語で返した。 “カスティリア語を話さなければ貴様を投獄する”と言う警官にガウディはがんとしてカタロニア語で答え続けた。そのうちこの浮浪者がガウディであることを知ると、警官は今回は見逃すことを告げる。 ところがガウディは 「いいや、投獄してもらおう!」 と最後までカタロニア語を話し続けた。71歳の彼は、弟子達が連れ戻しに来るまで4時間ほど投獄された。 サグラダ・ファミリアにスペイン国王が訪問したときもガウディは臆することなくカタロニア語で聖堂の説明をしたという。 やがてサグラダ・ファミリアの建築にすべてを賭けるようになったガウディは、それこそ着のみ着のままの姿で聖堂の敷地の小屋で寝泊りし始める。訪れた客は巨匠のあまりに質素な部屋に、若く貧しい画学生か彫刻家のねぐらだと思ったという。 1926年、突然の不幸が彼を襲う。 大聖堂の近くで、接近する路面電車に気づかずはねられてしまったのだ。 事故にあった日は工事が忙しく、彼の頭の中は聖堂建築の段取りで一杯だったのでは、と言われている。 倒れた老人に駆け寄った通行人は、ガウディの服装が小汚く古びていたため、誰一人それが巨匠ガウディだと気付かなかった。貧乏なゆき倒れだと思われたのだ。居合わせたタクシーは彼を運ぶのを拒み、結局、通りすがりの人々が彼を近所の医者に運び込んだ。 そこから更に、身許不明者として救急車で慈善病院に移され、意識不明のまま3日後に73歳で死亡したのであった。 遺言書は死の数年前に作られていた。自宅を売却して全額をサグラダ・ファミリアの建設費に当てること、建築学などの蔵書すべてを後世の若い建築家の為に図書館に寄贈することの2点が書かれていた。 世界巡礼烈風伝(第62回) 1926年にガウディが他界すると建設資金の不足から工事は中断し、さらに例のスペイン内戦の混乱で、人々はサグラダ・ファミリアどころではなくなってしまった。工事が再開されたのは独裁者フランコの死後、1979年になってからで、それは中断から53年も経った後のことだった(79年といえば、偶然にもカザルス帰還の年だ)。 ガウディの当初のプランにそって建築は再開された。 某地球の歩き方には完成まであと200年とあったが、サグラダ・ファミリアのガイドさんは 「今のペースで行くと、あと40年位で完成します!」 と豪語していた。これは、従来のやり方(自然石の積み重ね)から、鉄筋とセメントを使った現代の建築方法に変えたことと、実際僕も目撃したのだが、すごい数の作業員が日没後も工事を続けていたことからくる自信の上の言葉だろう。 とはいえ、最初に作った部分が崩れ始めており(あらら…)、その修復作業を開始していることも事実。こんな調子では、まだまだ時間がかかるだろう。 作業に参加している唯一の日本人建築士が、テレビ番組で“完成した姿を見られないのは残念だと思わないですか?”というインタビューに、 「神はお急ぎにならない」 と答えたのは有名なエピソードだ。 聖堂の正面を支えている2本の柱の下には亀がおり、ガウディがこの教会を“ゆっくり作れ”と遺言で言っているようだと語る人もいるし、親子三代に渡って工事に関わっている職人もいるとのこと。 サグラダ・ファミリアの高塔は18本建てられる予定だと書いたが、その内訳は以下の通り。 ●12使徒を表す12本。102〜107m。 生誕の門(東、日が昇る側、キリスト誕生の祝福を表す)に4本…完成 栄光の門(南側、キリストの昇天を表す)に4本…未完成 受難の門(西、日が沈む側、処刑の悲しみを表す)に4本…完成 ●四人の福音書家を表す4本。130m。…未完成 ●中央のマリアとキリストを表す2本。175m。…未完成 かつてゲーテが『建築とは氷結した音楽なり』と語っているが、ガウディの作品はその言葉を地で行くようなもの。サグラダ・ファミリアの前に立つと、聴こえないはずの様々な音色に包まれる。ガウディの原案ではトウモロコシ型の高塔のうち12本を鐘楼にすることになっており、いつの日か12個の鐘がいっせいに鳴り響くはずである。 問題は建築費。 キリスト教はスペインの国教なのだから、一種の公共事業ということで聖堂の建立が進んでいるのかと思ったら大間違い。なんと、この建物にはこれまで公共の資金は全く使われていないのだ! このことはガウディ編の第1回でも少し触れたが、最初から個人のお布施と心ある人の寄付、それに入館料のみで建設されることを前提としていた。だから、ガウディは資金難になると自らバルセロナの市内を歩いて寄付金を集め、他の用事でたまに町へ出た時に、その容姿のあまりのみすぼらしさに道行く人がガウディと知らずに小銭を施してくれた時も、その僅かなお金を拾い集めて寄金とし、大切に扱ったという。 なぜサグラダ・ファミリアは公金を辞退する方針を長くとっているのか? それは、この教会自体が贖罪教会という懺悔を信仰の中心に置く特別な宗派に属しており、贖罪の意を込めた寄付によって建てられなければ意味がない、ということなのだ。 バブルのころ、ある日本企業が多額の寄付を申し出たが断られたのも同様の理由による。大勢の人が小額ずつ出し合って建てられたことこそが、重要なんだ。 サグラダ・ファミリアは非生物でありながら生きている。とにかく、石が尋常でないほど、なまめかしいのだ。真下から見つめていると、聖者の人体、植物、動物、貝殻が混沌として自分に押し寄せてくる。 将来、もし貴方がサグラダ・ファミリアを訪れることがあったなら、ぜひ、あらゆる角度から見て欲しい。1メートル移動するだけで違う建物に見えてくるはずだ。 (P.S.) 「色彩とは、強烈で、豊饒で、なおかつ論理的でなければならない」 (ガウディ) (P.S.2) 「良い空間は、目を閉じて歩き回っていても、その良さを身体で感じることが出来る」(ゲーテ) (P.S.3) 今回様々なガウディに関する文献を調べたが、ある写真集の編集後記に次のような分析があった。 「かつて建築は絵画と彫刻をひっくるめた総合芸術の頂点であったが、近代に入って絵画、彫刻は建築から分離して独立した芸術のジャンルとなった。そして現代は鉄の大量生産、コンクリートの大量供給と共に、経済性のみを重視する装飾性を取り払った建造物が花盛りだ。 ガウディは現在進行形で作られていながら、絵画と彫刻など全ての表現方法が再融合しており、そこに衝撃を覚えるのだ」 (完) |
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