なぜサイト更新を続けるのか!それは今回のビクトル・ハラのように、人間的に素晴らしい芸術家であるにもかかわらず、日本ではほとんど名前が知られていない人物を、心を込めて皆さんに紹介するためです! 世界巡礼烈風伝・68 《チリ編》 虐殺された歌手、ビクトル・ハラ/その生き様(1) 「…死体収容所は建物全部が死体であふれていて、事務所までも一杯だ。長い廊下、扉の前、床の上の死体の列。学生たちも死んでいた。そして無数の列の中ほどに、私は夫を見つけた。彼らは1週間でこんなにも変わり果てるような、どんなことを貴方にしたのか?眼は見開かれていた。頭部や顔面の皮膚の恐ろしい裂け目にもかかわらず、いまだに激しく果敢に抵抗しながら前を見つめているように思えた。彼の服はナイフか銃剣で切られたように引き裂かれ、下着はお尻のまわりにボロボロになってぶら下がっている。胸は最もひどく、穴だらけでパックリと傷口が開いていた。そして彼の手は…手首が異様な角度で、腕からぶら下がっていた。…それがビクトル、私の夫、私が愛した人であった」 これはチリのフォーク・シンガー、ビクトル・ハラの亡骸を妻が発見した時の証言だ。彼は軍事独裁政権によって、34才の若さで命を奪われた。 大昔の話じゃない、1973年の出来事だ。 政治家でもゲリラでもない、ただの一歌手だった彼が、なぜ軍部にこのような殺され方をしたのか。今回の烈風伝はそんなビクトル・ハラの物語だ。 2001年4月5日。僕は南米チリの首都サンチアゴにいた。この土地にビクトル・ハラVictor Jaraは眠っている。アルゼンチンでアストル・ピアソラ他3人の墓を巡礼した後、今回の南米巡礼行脚でピアソラと並ぶもう一人のメインである、ハラのもとへやって来たのだ!…といっても彼のことを知る日本人は少ない。実際僕も、ハラといえば女優原節子、北斗の拳の原哲夫くらいしか知らなかった…偶然カー・ラジオから流れてきた彼の歌声を聴くまでは! ※名字のハラ(Jara)はスペイン語で“やすらぎ”“弓矢”という意味 人間の体の70%は水分だという。そう言われてもあまりピンと来ないが、初めてハラの声を聴いた時、頭からつま先まで一気に水紋が耳元から広がっていくのを感じた。スペイン語だから歌詞の意味は何も分からない。あきらかに、感動とは違う次元で体内にさざ波がたっていた。僕は5年前のその日、トラックで野菜を運んでいたのだが、噴水状態の瞳で道が見えなくなり、必死の思いで路肩に車を停め、曲が終わるまでハンドルに突っ伏し身体を震わせていた。トラックの狭い運転席を満たした声は、これまでの人生で出会った中で、もっとも美しく、優しく、同時に意志の強さを秘めた声だった。 それは人間の声が世界一美しい楽器だと初めて知った瞬間だった。 僕はビクトル・ハラの虜になり、彼のことを色々と調べてみた。そして、その生涯を知って愕然となった!! ●1938年ビクトル・ハラはチリ南部に生まれる。 ●学生時代18才〜24才 首都サンチアゴのチリ大学演劇学部に奨学生として合格。演劇と共に音楽にも熱中し、チリ大学合唱団に入り初めてギターを手にする。 19才の時、フォーク界の中心人物、ビオレータ・パラと出会う。彼女は、ハラの才能を高く評価し音楽家の道を勧めた。※彼女の烈風伝も書く予定! 1961年(21才)、キューバ革命。ゲバラ&カストロがハバナ入城。南米が揺れる。 23才、処女作『小鳩よ、君に語りたい』を作詞作曲。 南米の地方に伝わるフォークソング(民謡)を好んだ彼は、歌い継がれてきた無名の曲を集める為に農村へ旅行に出かけ、そこで大地主に搾取される農民の悲惨な現実を知り、社会変革の必要性を確信する。 ●演出家時代25才〜28才 大学卒業後、同大学の劇団に舞台監督として迎えられ、28才の時に年間最優秀演出家として各賞を受賞した。一方、それまでに集めてきた民謡に自分で詩をつけ始める。 米軍ベトナムへ本格介入。 ●フォーク・シンガー時代29才〜34才 29才、初レコード『ビクトル・ハラ』を発売。この年ビオレータ・パラ自殺。ゲバラもボリビアで銃殺。彼はゲバラに曲を捧げた。 30才、チリ支配層の後ろ盾のひとつ、モービル石油と機動隊をかけて皮肉った『モービル・オイル・スペシャル』を作る。 31才、空き地で暮らす貧農約100人に対し、政府命令で機動隊の機銃乱射が行われた。10名が死亡、殆どが重傷を負う。ハラは事件が起こった土地から名をとった『プエルト・モントについての疑問』を作曲。また、麻薬などアメリカの文化的侵略に対する抗議を込めて『カルメンシータを殺したのは誰?』を作る。 この年、《新しい歌の祭典》という音楽祭で『耕す者の祈り』がグランプリに輝いた。以下のような歌詞だ。 『♪僕らを貧困へ支配するものから解放しよう 正義と平等の王国を我らに。 起き上がり、そして両手をごらん 育ち行く君の兄弟たちの手を握るために。 血の絆に結ばれ共に行こう、今も、そして死の時も』 貧しい者に起ち上がれと呼びかけるこの歌は、歌詞はともかく、その計算されたメロディー展開からハラの最高傑作との声が高い。最初、曲は静かに始まり、次第にテンションが上がっていき、最後はついにギターをかきむしるという、めちゃくちゃエキサイティングな曲だ。“流行りのポップスのどんなドラムより何十倍も重くギターが響く”と評されてるが、実際、全くその通りだと思う。 「僕が歌うのは、上手いからでもギターが弾けるからでもない。僕のギターは、農夫のクワやスキと同じで働く人の道具なんだ。僕は僕の主張の為に歌う」 以後、こうした抵抗歌を歌うことを当音楽祭の名前から「新しい歌運動(ヌエバ・カンシオン)」と呼ぶようになり、貧富の格差が激しいラテンアメリカ全体に、一気に広がった。それまでの抵抗歌と違うのは、メロディーがズバ抜けて美しいことと、このての曲によくみられた、延々と続く同じ旋律の単純な繰り返しが消え、曲構成の完成度が高くなったことだ。 ハラは語る。 「僕たちは、その時まで歌われなかった真実を語りました。新しい歌声は歌います。他人の畑を血と涙で潤している農民を。日毎、社会に押し潰されて死んでいく工場労働者を…」 ※この運動に共鳴する音楽家は、アルゼンチンのアタウアルパ・ユパンキ、メルセデス・ソーサ、チリのビオレータ・パラ、キューバのシルビオ・ロドリゲス、ウルグアイのダニエル・ビリエッティ、ボリビアのルイス・リコ等々。 32才(1970)、反政府デモをしていた18歳の青年が行進中に警官に撃たれて死亡する。ハラは彼の為にバラード『魂は旗に満ちて』を作る。 『♪君の死は君が進もうとしていた方向へ 多くの生を運んでゆくことだろう。 兄弟よ、この大地の上で魂は旗に満たされる 恐怖にさからって前進する旗に。 僕らが勝つんだ 僕らが勝つんだ!』 9月、大統領選で人民連合のサルバドール・アジェンデが勝利し、世界初の“選挙による”社会主義国家を誕生させる。国軍のシュナイダー将軍が最高司令官でありながら人民連合及びアジェンデの支持を表明したが、極右に暗殺された。 33才。 人民連合政権は、チリの主要産業を米企業から取り戻して国有化したり、その一方で教科書や教材を無料にして皆に教育の平等の機会を与え、ミルクの無料配給で乳児の死亡率を低くするなど、貧しい一般民衆の為の政策を次々と実施。そのため、それまで甘い汁を吸ってきた大企業、そして彼らと協力関係にあったアメリカは政権転覆を企みCIAの工作員を派遣、チリ陸軍のピノチェト将軍を援助してクーデター計画を進める一方、ハラたちの「新しい歌」運動に対する執拗なテロ行為を繰り返した。 この年、ハラは年間最優秀の作詞作曲家としてレコード大賞を受ける。またチリの良心的詩人パブロ・ネルーダがノーベル文学賞受賞(ネルーダは映画『イル・ポスティーノ』でも有名)。 そして悲劇の年、1973年の幕が明ける。 虐殺された歌手、ビクトル・ハラ/その生き様(2) ●ハラ、最後の戦い 1973年、ビクトル・ハラ34才。 2月、総選挙が行なわれ、度重なる右翼テロに屈服することなく、人民連合はさらに議席を増やした。これは右派や米政府に、民主的な手続きによるアジェンデ政権打倒の困難さを認識させ、反乱計画が強化される。 5月、右翼テロ反対のデモを行っていたハラの友人、ロベルトという青年が狙撃され死亡する。ハラは彼を追悼し『仕事場への道すがら』を書く。 6月、この1ヶ月だけで右派による放火、爆弾の投入れ、労働者と学生への銃撃など91件のテロがあり、サンチアゴでそれに対する百万人の抗議集会が開かれる。教会の大司教も集会を支持すると声明。 8月、右翼が全国30ヵ所で鉄道を爆破。石油会社のパイプラインも破壊され、多くの工場が操業停止に。翌週、送電線が切断され首都全域が電力ストップ。チリ経済は壊滅状態へ。 9月4日、再び百万人がアジェンデ政権支持デモ。 9月7日、アジェンデは自分の政策の是非をあおぐ国民投票を9月11日に公示すると宣言。軍上層部は国民投票阻止の為、11日に蜂起することを極秘裏に決定。 9月9日、米海軍艦隊が“訓練”という名目でサンチアゴの外港バルパライソに集結。 そして運命の9月11日。 米国から約300億円の軍資金と数千名のCIA工作員という圧倒的支援を受けたピノチェト将軍が陸海空軍を率いてクーデターを起こす。最初にバルパライソを制圧し、一気にサンチアゴへ進軍する。 ※9月11日は南米の人々にとって、米国人とは違う重みを持つ日なのだ。 大統領府は戦闘機のミサイル20発という猛爆撃を受けた。アジェンデ大統領は攻撃のさなかに国民へ別れの演説をした後、 「民主主義は軍部に降伏しない」 と言い残しピストル自殺を選ぶ。その日サンチアゴは快晴。しかしチリ国営放送は「サンチアゴには今雨が降っています」という声を流し続けていた。 ハラは軍部に抵抗した7000人もの人々(国際赤十字推計)と共にスタジアムに閉じ込められた。やがて拷問や処刑が始まると、ハラは皆を励ますためギターをとり人民連合のテーマ曲『ベンセレーモス(勝利するぞ)』を歌って抵抗した。軍人たちは怒ってギターを取り上げた。 「歌えるものなら歌ってみろ!」 脅迫されたハラは今度は手拍子で歌い続けた。兵士は彼の両腕を折り、さらに指を銃の台尻でメチャメチャに打ち砕いた。ビクトル・ハラはそれでも立ち上がって歌おうとした。彼は銃剣で口元を切られ、雨のように機関銃の弾丸を撃ち込まれた。 クーデターの1週間後、死体収容所に彼を探しに行った妻が夫の変わり果てた姿を発見する。それが冒頭に記した“胸は穴だらけ…手首が異様な角度で、腕からぶら下がっていた”という生々しい記録だ。 アジェンデを支持したネルーダの詩集は発禁処分となる。悲嘆に暮れたネルーダはクーデターの約2週間後に心臓発作を起こすが、軍は救急車の出動要請を無視し、死に至るまで放置した。 また、米国人青年ジャーナリストが行方不明となるが、CIAが軍情報部に『好まらしからざる人物』として情報を流していた事実が明らかになる(映画“ミッシング”のモデル)。 ピノチェトの軍事独裁政府は全ての政党を非合法化し、その後も徹底した反乱者狩りと裁判抜きの処刑を行ない、国際人権団体アムネスティの調査で4万人が虐殺、10万人が逮捕及び拷問された事実が判明している。そして最終的にチリ全人口の5分の1が亡命するという異常事態になった。 これらすべてが、米政府の右派援助のたまものだ。 ビクトル・ハラの曲は放送禁止になり、その声が再びチリの街角に流れたのは、実に17年間後の1990年にチリが民主化を達成した時であった。 死の1ヶ月前、クーデターの直前にハラは『宣言』という遺言のような歌を書いていた。最後にその歌詞を紹介したい。 ●宣言 『ただ歌いたいからといって歌いやしない 声がいいからってわけでもない 歌うわけは ぼくのギターに感情と理由があるからさ このギターが 大地の心と鳩の翼をもってるからさ ビオレータ・パラが言ったように春の匂いをもった 働き者のギターなんだ 金持ち連中のギターとは それは似ても似つかぬもの ぼくの歌は星々に届くための足場 真実を歌いながら死んでゆく者の血管の中で脈打つとき ぼくの歌は意味を持つ 虚しいおべっかや外国で得る名声でもなく それは土の底までも 届いてゆく革ムチの歌 全てのものがそこへたどり着き 全てのものがそこから始まる 勇気と共にあった歌は 永久に新しい歌なんだ』 (つづく)次回、嗚呼、ハラの墓前へ! 虐殺された歌手、ビクトル・ハラ/その生き様(3) ビクトル・ハラが眠るチリの首都サンチアゴは内陸部にあるため、アルゼンチンから海路でやって来た者はバルパライソ(以後バルパ)が最寄の港になる。 バルパからサンチアゴを目指すのは、ピノチェトのクーデター軍と同じコースをたどることになるので避けたかったが、バルパはハラが支持したアジェンデ大統領の故郷でもあるので、その点をもって良しとした。 バルパはチリ最大の港町。そして心なしかゴーストタウン・チック。港周辺は真昼間から酒をくらって号沈してる者や、特別な“お薬”で千鳥足になっている御様子のジェントルメンがウロウロ。野良犬の柔らかい落し物がオブジェのように並び、風に乗って運ばれて来るのは『バルパの香水』と僕が名付けた化学式:NH3、つまりアンモニアだ。港周辺を歩いていると、誰もが妙に涙もろくなっている自分を発見するだろう。 朝7時。街外れの長距離バスターミナルからサンチアゴ行きに乗車する。チリの交通費はかなり安く、トイレ付の立派なバスに2時間近く乗っても400円ほど。面白かったのは、途中からバスに乗ってくる客が、ヒッチハイカーみたく道端で親指を地面に指して立っていて、バスが手前に停まっては彼らをどんどん拾っていくことだった。そこがバス停じゃなくてもね。 9時ごろ、念願のサンチアゴに到着した。 サンチアゴのバスターミナルは市の中心から離れていたが、地下鉄1本でスムーズに移動できた。地下鉄はメチャ安で、仮に終点まで乗っても30円だった。 僕は墓地に一番近い『モネダ』駅で降り、タクシーを簡単につかまえられそうな市内最大の観光スポット、モネダ宮殿を目指した。 さすがは首都、ものすごい人込みだ。しかも大阪並の早足。道を尋ねたかったが相手がガンダムのシャアのようなスピードなので話し掛けられない…。オロオロしているうちに、路上でパンを売ってた50才位のおじさんが目に止まったので、“ハロー”と手を小さく振りながら接近した。 ちなみに朝のバルパからここまで、地下鉄駅を含め何人もの人と会話したが誰一人英語を喋れなかった。看板などもスペイン語オンリー。ブエノスアイレス以上にパントマイムの技量が試された。 「セニョール!ドンデ・エスタ・モネダ?」(おっちゃん、モネダどこ?) 「ペラペーラ、ペラペラペーラ、ペラペラ…」(不明) 僕はおじさんの会話を聞いても分からんので、彼が方向を指し示した時の指の動きをひたすら目に焼き付けていた。で、おじさんが話し終わると、 「こう、こう、こう行って、こうですね!」 と指先をカクンカクンしながら確認し、コースを把握した。 5分後、モネダ宮殿の前に立つ。快晴。 この宮殿こそが、アジェンデが空爆を受け自害した大統領府なのである。周辺の古いビルには未だに弾痕が残っていた。しばし、たたずむ。僕が立っていた宮殿前広場は美しい公園に整備されていて、犬の散歩をしている人や、ジョギングをしている人がすぐそばを横切っていった。 さて、タクシーだ。 海外には“ぼったくり”がポリシーの極悪運転手がけっこういるので、タクシーを選ぶ際に多くの選択肢を持つことは、非常に重要な事だ(僕は必ず人相を見て運転手を選んでいる)。モネダ周辺には予測した通りタクシーがウヨウヨいてホッとした。 ラテンのタクシーは急発進、急ブレーキ、急旋回と3拍子が揃っている。なんていったって、チリのタクシーメーターにはスピード狂のマッド・ドライバーから乗客の安全を守る為に、スピード監視アラームがついていて、時速100kmを越えてアラームが“カコーン、カコーン”と鳴ると、その間はメーターが上がらない様に出来ているのだから! こんなシステムを導入することが、何よりもタクシーの公道レースの現状を雄弁に物語っている。 僕は必死でJ・トラボルタやニコラス・ケイジ系の優しい瞳の運ちゃんを探し出し乗車した。 渋滞の市内中心街を北上しマポーチョ川を越え、サンチアゴで最も広い、というより、おそらくチリ最大の国民墓地に到着した。タクシーは15分ほど走ったが料金はたったの2ドルほど。ちょっと感動。 国民墓地は20万人クラスの巨大墓地で、自力でビクトルと会うことは絶対に不可能だと確信し、まっすぐ管理人室に向かった。ギターを弾く真似をしながら“ハラ!ハラ!ハラ!”と名前を連呼すると、マリオのようなヒゲをした管理人のおじさんは、アジア人珍入者を12秒ほどジッと見つめた後、“オーッ、ハラ!”と合点し、壁にかかったボロボロの案内地図を指差して、ハラの墓までの道順を教えてくれた。 ハラは墓地の入口から一番遠い最果ての地に埋葬されていることが分かり、気合を入れて表へ出た。 「ハチョ〜ッ!」 歩き始めてすぐにめまいを覚えた。管理人は墓地中央の通路を一番奥まで歩き、どんつきを左に曲がれと言った(ように思えた)が、とにかく呆れるほど広大な面積を持つ墓地で、入口から延々とまっすぐ伸びるメインストリートは、果てが靄(もや)にかすんで見えなかった! 墓地は正門付近から順に金持ち地帯、中産階級地帯、貧民区と別れており、虐殺されたハラは貧民区よりさらに奥というからどんな墓か想像がつかなかった。上流階級ゾーンではひとつの墓の高さが5〜8mもあり墓に彫刻が施してあった。中間層の墓は高さ50cmほどの霊廟(遺影入れ)プラス十字架、貧困層の墓は単純に鉄の棒を十字架の形に曲げたものが地に刺さっているだけだった。これだけ同じ敷地で墓の見てくれに格差のある墓地も珍しい。特に貧民区の最深部は雑草で十字架が見えないほど荒れていた。 てくてく歩くうちに、金持ちゾーンと中流ゾーンの境界付近にそびえ立つ、白い巨大な石塔が目に入った。近づいてみると、なんとそれはアジェンデ大統領の墓だった!彼は死後も独裁者ピノチェトから目の敵にされていたので、長くその亡骸は地方に葬られていたのだが、軍事政権が倒れ民主化が達成された時に首都サンチアゴに移送されてきたのだった。 アジェンデが眠っている場所はこの国民墓地のメインストリートのほぼ中央。軍部から国賊呼ばわりされていた彼だが、人々がどれだけ元大統領を慕っていたか美しい墓を見ればすぐに分かった。 自らの信念の為に散っていったアジェンデに手を合わせ、 「今からあなたの友人ビクトル・ハラに会いに行きます」 と告げ、その場を後にした。 (つづく)次号こそハラに謁見! 虐殺された歌手、ビクトル・ハラ/その生き様(4) 強い陽射の中、墓地を奥へ奥へとひたすら進むこと30分。枯草だらけで荒野のような貧民区を通り抜けた所に、ようやくどんつきの壁が見えてきた。塀の高さは約3m、そしてそこは…なんと“壁そのもの”が墓になっていた! 幅50cmほどの墓がタテ1列に5人ずつ積み重ねられ、それが視界の彼方までズラ〜ッと並んでいたのだ。 “こ、こ、この無数の墓の中から本当に彼を見つけられるのか!?” 一瞬躊躇したが、とにもかくにも壁面を一墓ずつチェックし始めた。僕は“5、6時間はかかるな”と覚悟を決めた。 探し始めて5分が経過した頃、20mほど先の壁際に緑色の立札が立っていることに気付いた。もしやと思って駆け寄ると、そこにはまさしく 『ビクトル・ハラ、ここに眠る』 と記されていた!その案内板の背後の塀に急いで目を向けると、確かに上から2段目の墓にビクトル・ハラと名が刻まれていた…! クーデター直後の混乱の中で埋葬されたためか、ハラの墓には十字架の絵も碑文もなく、名前と生没年だけが記されていた。それは一切装飾のないコンクリートの地味な墓だった。 墓前には空き瓶が3本置かれ、それぞれに花がさされていた。 …僕が感動したのは、後からファンがそうしたのだろうか、墓の下に紙が貼られ、そこに彼を追悼する様々なメッセージが書き込まれていたことだ。しかも周りをよく見れば、側に生えていた樹の幹にも、墓の手前のベンチの側面にも、彼を愛したファンの熱いメッセージが至る所に刻まれていた…!皆のハラを想う温かい感情の渦に足が震えた。 (彼の周囲の墓は大半が軍事政権の犠牲者なのだろうか、ゲバラの肖像画が描かれていたものもあった)
ビクトル・ハラは34年の短い人生だった。おりしも僕は今年34才。同年なればこそ、この巡礼には特別の感慨があった。ハラはあの時スタジアムで、抵抗歌を歌わずおとなしく従順にしていれば、あるいは虐殺まではされなかったかも知れない。しかし、彼は歌わずにはいられなかった。 なぜか。 おそらく“ここで今歌うために俺は生まれてきたのだ”という思いが、彼の全身を稲妻の如く貫いたんじゃないだろうか。彼は生きる姿勢として歌手を選んだ。それは流行歌を歌うためではく、虐げられた人々の代弁者としての歌を歌うためだ。つまり、今ここで歌わなければ、こういう状況下でこそ歌わなければ、自分の存在意義を自身が否定することになると確信したのだろう。 仮に沈黙を守って生き延びても、それは彼にとっては自死に等しいと感じたのだと思う。 特に最後の最後、両腕を折られた後にさらに歌い続けたのは、歌は銃器に勝るという強烈な信念があったからではないだろうか。自分の身を守ることも大切だが、生命というものは、独裁者の下で「生かされる」状況ではなく、民主主義があって初めて輝くものだと彼は感じていたのだと思う。 ハラの墓に来るまでは、彼と会ったらこんなことを喋ろう、あんなことも喋ろうと思っていたんだけど、実際にいざ墓前に立ってみるとこの一言しか言えなかった。 「ムーチャス・グラシアス」(本当にありがとう) 墓マイラーとなって15年。これほど立ち去り難い墓はそう滅多にない。 ハラの墓から歩き始めた時、僕はヘミングウェイの“老人と海”に出てきた 『私は殺されることはあっても負けることはない』 という言葉を思い出した。 (完) ※ハラのCDは日本でも1枚だけ発売されていた。現在廃盤のもよう。(T_T) ウルウル 『ビクトル・ハラ/人間であることの歌(ベスト15)』SC−3125 発売元OMAGATOKI |
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