世界巡礼烈風伝・80
《エルサルバドル編》

★暗殺された聖職者ロメロ


ジャマイカでボブ・マーリィの墓参を終えた僕は、パナマ運河を突破して中南米のエルサルバドルへ向かった。

エルサルバドル。国名の意味は“聖なる救世主”。四国ほどの面積しかない小国だ。しかし国名の平和的なイメージとは裏腹に、この国では80年代初頭から92年まで、死者7万5千人という凄惨な内戦が繰り広げられた。
さらに内戦終結後も首都サンサルバドルを中心に、内戦で出回った銃を使用した武装集団の店舗襲撃、誘拐等の凶悪犯罪が多発、そのうえ度重なる大地震で道路が寸断し行政は大混乱している。
それゆえ現在日本の外務省からは『観光旅行延期勧告』が出されており、この勧告はもうかれこれ15年間も出っ放しだ。

また、外務省のHPには現地で蔓延してる病気として、アメーバ赤痢、肝炎、デング熱、狂犬病、破傷風、マラリアなどが羅列されており、特に破傷風については『小さな傷でも注意を要します』という念の押しよう。
滞在時の宿についても『入口に必ず銃を所持するガードマンがいる所に泊まって下さい』。
だが、この国には何が何でも巡礼せねばならぬ人がいた…オスカル・ロメロ大司教その人だ。

●軍とたたかう神父たち


簡単にロメロと内戦の話をしよう。フルネームはオスカル・アルヌルフォ・ロメロ・イ・ガルダメス。
70年代、軍事政権下のエルサルバドルは軍部と富裕層が結びつき、極端な貧富の差を生んでいた。少数の人間がほとんどの富を独占している一方で労働者は低賃金に喘いでいたが、中でも農民の生活は悲惨の極みだった。少数の大地主に農民たちの半数が土地を奪われ、彼らは飢餓に苦しんでいた。畑がコーヒー農場になったのだ。
栄養失調で徐々に死に向かう毎日は、多くの農民にこう思わせた。
「飢えで死ぬより、弾丸に当たって死ぬほうがましだ」と。

やがて農民たちは立ち上がった。
この時に彼らを応援したのが地方のカトリック教会だった。神父たちは礼拝に集まった農民たちに社会の公平と正義を強く訴え、彼らを人間の権利について目覚めさせた。また、農園主が農民たちにまともな給料を払わぬことに激しく抗議した。

77年にロメロは国内聖職者の最高位である首都の大司教に就任する。軍事政権や富裕層から支持されて選ばれた理由は、彼が“本の虫”で現実にうとく、政治や社会問題に波風をたてそうにない内気な人物だったからだ。つまり、ロメロは教会の中で最も保守的な人物と政財界からみなされていたのだ。
実際、その頃ロメロは地方の神父たちが社会運動に身を投じることに否定的で、教会活動以外のことを神父が行なう事に眉をひそめていた。ロメロは軍部=右派テロ組織=富裕層という構造的な不正義に気づいていなかったのだ。
ところが以下の事が立て続けに起こり、彼はこれらの事件をきっかけに穏健派から大転回する。

・不正な選挙が行なわれ、将軍が大統領の座についた。1万人の民衆が抗議集会を開くが、多くの参加者が軍に捕らえられ虐殺された。
・農民支持を公言していた神父が右派テロの凶弾に倒れ、彼の葬儀に参列した神父も殺されてしまった。また神父と行動を共にしていた農民数百人も「行方不明」になる。
・右派テロ組織は莫大な活動資金を持っており全土で活動した。そのスローガンは『愛国者になろう。農民支持の神父を殺せ!』だった。
・ロメロ大司教の就任から5ヶ月の間に、8人の司祭が国外追放、7人が再入国拒否、2人が投獄され、3人が拷問され、2人が殺される。
・20万人規模の反政府デモに軍が発砲。多数の市民が撃ち殺された。

ロメロは軍事政府が右派テロリストを逮捕せず野放しにしている現状を見てとり、死んだ神父の10万人追悼ミサで、ついにこう宣言した。
「神父を殺した犯人の徹底した捜査をやらないかぎり、軍事政府のすべての行事に教会は参加しない!」
ロメロは大統領就任式への出席を拒否。支配層は追悼ミサそのものに反対していたので、両者の対立は決定的となった。

79年秋。ロメロはラジオで民衆には団結する権利があることを強調し、武装蜂起した農民を賞賛する一方で、政府内のキリスト教系の政治家には弾圧に関する責任をとるよう促し、そうしないなら彼らも同類とみなすと声明を出した。
ロメロは自分が殺されることを覚悟で発言を繰り返した。

「次々と脅迫状が私に届くが、もう黙ることは出来ない。私が伝えることは貧しい人たちから聞いたことであり、彼らは私の預言者なのだ」
「神のみ名において、民衆への弾圧をやめるよう私は軍事政府に命令する!」
「神父やシスターが殺されることは、ある意味では喜ばしいことであります。人々が殺されているのに、神父やシスターが守られているならば、本当の教会ではない。むしろ殺されることは良い印です。人々と歩みを共にし、一緒にいるからです」

1980年3月23日。暗殺の前日。この頃、ロメロはノーベル平和賞の候補になっていた。
彼はラジオを通じて、軍人たちに向かってメッセージを送った。
「貴方たちは人を殺す命令を受けても、従う義務はありません。貴方たちは自分の兄弟姉妹を殺しています。自分の良心に従って殺すのをやめなさい。“汝殺すなかれ”、神の法に反する命令に従う必要はないのです」

翌24日、オスカル・ロメロ大司教はミサの最中に軍の極右グループによって射殺された。ほぼ即死だった。ミサ中の聖職者が祭壇で暗殺されることは2千年のローマ・カトリック史でも前代未聞のことだ。
実はその数日前から、テロリストはテレビでロメロの死を予告していた。周囲の人間はこの日のミサを取りやめるよう強くすすめたが、ロメロは頑として聞き入れなかった。彼はこの結末を覚悟していたのだろう。

「ロメロの葬儀に参加するなら身の安全は保障しない」
このような脅迫が軍事政権から出された。しかし8万の民衆が、死を覚悟して葬列に参加した。軍部は容赦なく発砲、200人以上の犠牲者が出た。この暴挙に対し労働者はストを決行。なんと企業の90%が営業を止めた。国民の9割が命をかけて抗議の意志表示をした!
そう、人々は本当にオスカル・ロメロを敬愛していたのだ…。

★暗殺された聖職者ロメロ〜その2


2001年7月30日。
首都サンサルバドルに眠るロメロ大司教に墓参すべく、まず船でエルサルバドル西海岸の港町アカフトラから入国。頭上の太陽はこれでもかというくらい燃えさかり、肌に当たる日差しは熱さを超えて痛かった。

アカフトラはひなびた町で、市場や広場ではのんびりと時間が流れていた。ぶらぶらと市場を散策してると、店番をしているジイサンたちが暇つぶしに話しかけてくる。スペイン語だし、もちろん何を言ってるのかさっぱり分からない。一通り話を聞き終わるとアメ玉をくれた。34にもなってアメ玉を貰うとは思わなかったが(童顔のせい?)、とにかくその場でピョンピョン跳ねて喜びを表現した。
夜は危険かもしれないが、少なくとも昼間は“観光旅行延期勧告”が出ているようには思えなかった。

しかし…問題は首都だ。
ガイドブックには、白昼から強盗が徘徊し腕時計や貴金属を身につけてると『ご自由におとり下さい』状態になると書かれており、手口についてもイヤリングは耳たぶごと引きちぎられたりとかなり荒っぽい。
公共バスの車内でさえそんな事件が続発するということなので、普段は単独で巡礼する僕も、さすがに旅行会社の首都見学ツアーを利用した。ラッキーなことに、ロメロ大司教が眠る大聖堂がコースに含まれているツアーがあったので飛びついたんだ。
首都までは片道2時間。コーヒー農場を突っ切って行く。途中の山道ではトラックと乗用車が崖から転落し、人だかりが出来ていた。

すれ違うエルサルバドルの公共バスは外観がメチャクチャ派手!元々は白いボディだったんだろうけど、黄緑やオレンジ、水色を使って太陽や自由の女神など様々な絵が描かれており、変わりダネでは蜘蛛の巣や、ドクロの海賊旗なんてペイントもあった。海賊旗を掲げてる市バスなんか、モロ危なそう(笑)。

徐々に首都が近づくにつれ、今回の墓参について治安とは別のことが心配になってきた。確かに観光コースには大聖堂が含まれているが、敷地内の墓地を訪れるなんてツアーには含まれていない。個人旅行と違い、ツアーの場合は自由時間が殆どゼロに等しい。果たして他の客が大聖堂内部を見学してるわずかの間に、墓地へ辿り着いてロメロの墓石を探し出すことが出来るのか…僕のミジンコより小さなハートは不安で潰れそうになった。

やがてサンサルバドル市内に入ったことが車外の様子で分かった。道沿いの店舗の前に、武装したガードマンが数多く見られるようになったからだ。武装、といってもピストルではない。ショットガンや機関銃だ(汗)。そうしたガードマンが銀行や宝石店だけでなく、マクドナルドやガソリンスタンドなんかを“ごく普通に”守っているのだ!
高級住宅街では、どの家も高い塀に囲まれて中が見えず、塀の上には渦巻状の鉄線が張り巡らされていた。でも鉄線には肝心のトゲトゲがないのでガイドのおじさん(エルサルバドル人、40才位?)に“あれで意味があるんですか?”と尋ねたら、彼は親指をグッと立て
「超スペシャルな高圧電流が流れているから大丈夫」
との返事。ギャフン。そうした光景が治安の状態を雄弁に物語っていた。

やがて念願の大聖堂が見えて来た。白亜の外壁にはカラフルなタイルがモザイクとして埋め込まれている。
大聖堂はデンジャラスな首都中心街の中でも、最悪の危険地帯と言われているバリオス広場に面している。
我々ツアー客は緊迫した面持ちでバスを降りた。

正直言ってどれくらい自分たちが犯罪の危機に直面しているのか分からなかった。時間が正午頃だったせいか広場に悪党の気配はなく、屋台でアイスを買ってる人がいたり、木陰のベンチで寝てる人がいたり、ハトが手持ち無沙汰にウロウロしているだけだった。
確かに現地の人々は防犯の為に、腕時計を外している人が多いし、女性は貴金属を身につけていなかったが。

皆でゾロゾロと聖堂に入る前に僕は素早くガイドに駆け寄り、墓地の方角を尋ねた。彼の話によると、どうやらロメロは一般にイメージしているような墓場に埋葬されているのではなく、教会の地下霊廟で永遠の眠りについているようだった。
「10分で帰って来ます!」
僕は他の参加者に頭を下げて墓参の旨を話し、聖堂の門をくぐるなり地下へ続く扉を開け大慌てで降りて行った。
霊廟はかなり広く、一瞬発見が可能か不安になったが、意外と簡単に彼のもとへ辿り着けた(彼の墓しかそこにはなかった)。霊廟の奥に身の丈ほどある大きな石棺が安置されており、そこにオスカル・ロメロと刻まれていた。石棺の上は花籠で埋め尽くされていて、周囲の壁には多くの人々の手で、ロメロへの追悼メッセージや絵があちこちに書かれていた。

石棺の背後の壁には、生前のロメロを撮った1枚のカラー写真が貼られていた。僕は写真の前で動けなくなった!それまで文献でしか彼を知らず、初めて顔を見たというそれだけの理由ではない。
髪はロマンス・グレー、黒ぶちの眼鏡をかけた彼は、実に優しく穏やかに笑っていた。それは僕がこれまでに見た笑顔の中で、人間の表情がしうる、最も慈愛に満ちた笑顔だった。そして微笑みと共にその瞳からは、どんな弾圧にも屈しないぞという強靭な意思、不屈の精神がビシビシ伝わってきた。
僕は全身がショートし、しばし棒立ちになった。

その後、ヨロヨロと石棺に歩み寄ると片膝をつき、右手で棺の側面に触れてみた。そして、彼に自分の気持を感謝の言葉と共に伝えた…ずっと会いたかったこと、彼の勇気ある行動に深く感銘を受けたこと、その他色々な気持を。

我に帰ると、約束の時間を過ぎていた。泡食ってダッシュしかけたとき、ガイドがツアー客の皆にロメロのことを解説しながら霊廟へやって来たのでホッと胸を撫で下ろした。

サンサルバドルの帰りに街中の雑貨屋に入ると、ロメロ大司教のレリーフや木像が売られていた。政府からは敵視されていた彼だが、暗殺から20年を経た今も民衆に愛され、抵抗運動のシンボルとして人々の心の中に生き続けていると、つくづく実感したのであった。

【ロメロ大司教は現在、20世紀の殉教者として南米一帯はもちろん、全世界のキリスト教圏で最も有名な聖職者となっている。近年カトリックの総本山、ヴァチカンでは“聖人(セイント)”の称号を贈る作業に入っている】

(P.S.)
エルサルバドルは海岸線が山岳地帯に沿っており素晴らしい景観だ。熱帯ならではの豊富な果物にも恵まれている。そして何よりラテンの人々は底抜けに陽気だ。心から歌や踊りを愛している。内戦や治安の悪さばかりが取り沙汰される国だけど、犯罪に会わぬよう気をつけて旅をしていれば、絶対にこの国の印象は良くなると思う(ツアーのガイドもそのことを一番強調していた)。


《烈風伝番外編》

●エルサルバドルの悪夢〜ロメロ大司教の暗殺後


1980年の軍部によるロメロ大司教の暗殺は、民衆の怒りを呼ぶ。反政府ゲリラの数は爆発的に増え、全土で本格的に軍事政権との内戦が始まった。

この時、蜂起した民衆は思いも寄らぬ事態に直面する。超大国アメリカが介入してきたのだ。当時の大統領は超タカ派のレーガン。米国は民主化を叫ぶ農民ゲリラを共産的だと決めつけ、“共産主義の魔の手から守る”為に、軍事政権への強固な支持を宣言、すぐさま最新武装ヘリや100億円の軍事援助など、強力な支援計画を実行した。米国にとってはエルサルバドルの軍部がどれほど腐敗していようと、民衆が何を願おうと、そんなものは反共政策から見ればどうでもいいことだったのだ。

米国は50名を越える軍事顧問団を送り込む。その多くは民衆弾圧やテロ、拷問の専門家で、活動家や農民をかくまう教会や聖職者は最大の標的となった。
これにはエルサルバドルの駐在大使も米本国に反論する…
『原因は失業、飢え、不公正であり、思想の問題ではありません』
しかしレーガンはその報告書を完全に無視した。

米国の支援を受けて勢いづいた右派テロ組織によって、反体制派のジャーナリスト、弁護士、組合活動家などは片っ端から暗殺され、その殺し方も首や手、局部を切り落とすなど異常なものだった。ロメロが暗殺される前の犠牲者は1ヶ月あたり数百の単位だったが、死後は千人単位に跳ね上がった。
少しでも農民ゲリラの疑いをかけられた民衆は次々に捕らえられ、バラバラにされたむごたらしい姿で、道端やごみ捨て場、海岸に捨てられた。首都の食肉工場では親が反政府運動をしている可能性のある若者や子供83人が、見せしめの為に首を切り落とされるという痛々しい事件も発生した。
(他にも凶悪な虐殺が多数あったが、残忍過ぎてちょっと書けない)

国連人権委員会の発表では、ロメロが死んだこの年の上半期だけで9250人が殺害されている。つまり毎日50人ずつ殺された計算だ。
エルサルバドルの良心と言われていた国立大学の学長も暗殺され、大学は無期限閉鎖に追い込まれた。
都会ではゲリラの根拠地と思われた貧困者の住宅密集地が空から無差別爆撃を受け、地上からも無数のロケット砲が打ち込まれた。こうした爆撃で少なくとも700人が死亡、5万人が家を失なっている。

この狂気の軍事政権に米国はさらに150億円の追加援助を行なっただけでなく、米国へ命からがら逃げてきた市民活動家らの政治亡命を認めず、なんとエルサルバドルへ強制送還したのだ。ジャーナリストのサンタナ・チリノも強制送還された一人で、2ヵ月後、首なし死体となって発見された。

国境沿いのスンプル河では、河を渡ろうとする人々が軍の機銃掃射にあい600人が犠牲となり、他の地区でも国境を越えて逃げようとした女性や子供約千名が虐殺された。
特筆すべき問題は、これらの作戦が米国の指揮の下で行われたということだ。
レーガンはこれを左翼によるデマ宣伝と否定し、国務次官は「虐殺されたとの証拠はまったくない」と議会で証言したが、スンプル河の虐殺ではNGO団体がエルサルバドル軍に指示する米軍事顧問団を目撃しており、後者の事件も現場にいたCBS記者が米軍が作戦に参加していたことを確認している。

これらの真相が明らかになったのは内戦終結後のことだ。国連の真相究明委員会が現地調査を行った結果、この様な恐るべき集団虐殺が明らかになった。

1992年に軍とゲリラ間で和平が成立し、ゲリラが政治に参加するようになったが、一握りの人間による富の独占は相変わらず続き、全人口の6割の人々が一日1ドル以下の生活を強いられている。

首都サンサルバドルのド真ン中で、僕は赤いスプレーで書き殴られたこんな落書きを見た…
『NO USA NO DOLLAR!』
アメリカの罪は深い。

※ロメロ大司教は「20世紀の殉教者10人」の1人として、ウェストミンスター寺院(ロンドン)の西扉に胸像が飾られている。

(完)



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