世界巡礼烈風伝〜南北朝鮮半島の巻


《韓国編》第4回

●世界遺産・宗廟(李氏朝鮮王朝の墓)


宿から飛び出した僕は地下鉄に乗り込み、昨日のリベンジを果たすべく宗廟に向かった。宗廟の前に広がる公園は囲碁愛好家の溜まり場らしく、年配の方がワンサカ。好勝負をしている板の周辺には黒山のような人だかりが出来ていた。真剣バトルの緊迫したオーラが満ちた公園を突破し、いよいよ宗廟に入る。

午前9時過ぎ。晴天だがそれほど暑くなく、朝の日差しが気持ち良い。宗廟は自然公園みたいなもので、敷地面積は東京ドーム4個分。あちこちに林や池がある。10分ほど歩くと、敷地のド真ン中にある大きな朱塗りの建物に着いた。これが正殿と呼ばれる世界遺産に指定された李氏朝鮮王朝の霊廟だ。
第1回でも少し触れたが、李王朝は26代に渡り500年以上も続いた歴史上稀に見る長期政権だったので、歴代の国王の棺を順番に並べて納めるうちに、霊廟が平屋のようにどんどん横長になっていき、屋根は全長100メートル以上もあろうかという大変な長さになっていた。正殿の前面には大きな赤い列柱が等間隔に25本立ち並んでおり、ガイドブックには王朝の永遠性を視覚的に表していると書かれていた。

意外だったのは人の少なさだ。首都の中心にある世界遺産なんだから、観光客でごった返しているだろうと予想していた。がらんとしているのは、世界遺産とはいえやはり墓だから?
※祖先崇拝の強い儒教社会では、宗廟は国家の代名詞であり、重要な儀式はすべてここで行われる。こうした東洋思想の象徴として世界遺産に指定された。
皇帝の位牌を祀る場所を宗廟というので、朝鮮より中国の方が宗廟の数は圧倒的に多い。

封建時代の国王には大抵ロクな連中がいない。が、『賢帝』と呼ばれ民衆に愛された王もなかにはいた。それが李朝の第4代世宗(せいそう)だ。

世宗は1397年生まれ。即位は21歳の時。学問を良く修めた彼は、帝位に就くと、まず法律改正に着手。収穫の豊凶によって税率を変え、凶作年の農民の不安を取り除いた。続いて全国に測雨器を設置して農業政策の参考にし、多くの貯水池を設けて干ばつに対応した。
世宗は文化面でも手腕を発揮。139巻にも及ぶ長大な歴史書を完成させ、最新の地理書を編纂させた。なかでも世宗最大の文化的功績は、1446年(死の4年前)、49歳の時に制定したハングル文字だ。これは日本でいうひらがなの様なもので、庶民にとって覚えることが難しかった「漢字」に代わる、簡単で画期的な文字の誕生だった。外交面でも対馬に倭寇(日本の海賊)退治の船を出し、貿易ルートを確保したりと成果を挙げている。

実際今でも世宗はとても人気があり、1万ウォン札にその肖像が印刷されている。世宗と同時代の日本は室町。時代感覚でいえば、お札に足利尊氏の肖像が載るようなものか。日本の紙幣に、信長、秀吉、家康ら昔の人物が描かれることはないと思うので、世宗の様に600年の時を越えて人々に愛されてるのは感動的だった。
(それを考えると旧一万円札の聖徳太子はすごい。1400年前の人物だ)
僕は彼の棺が納められている場所に一礼し、そういった感想を墓トークで喋っていた。

観光客は少ないと書いたけど、それでも正殿に着いたときは10名ほどの小グループがいた。だが、やがて彼らも立ち去り僕は独りぼっちになった。
正殿の手前には『月台』と呼ばれる運動場ほどの広大な祭壇(白い石が敷き詰められている広場といったものがあったが、その面積に人が誰もいないと、ここは現世なのか、あの世なのか、境界が分からなくなるような感覚に包まれる。僕は月台の真ん中に腰を下ろし、少し目を閉じて月夜に青白く照らされた周囲の光景を想像してみた。石庭はさぞかし美しかろう。

…静かだ。遠くの蝉の鳴き声しか聞こえない。宗廟は市内中心部にあり、一歩外に出ると交通ラッシュが待っているのだが、その凄まじい喧騒を思うと、静まり返った正殿周辺はまるで時間が停止した異世界だった。


《韓国編》第5回

月台という癒し空間(?)に身を浸した後、宗廟の奥にある王宮『昌慶宮』(チャンギョングン)を訪れた。この王宮は秀吉軍の兵火に焼かれて後年に再建されたものだが、“弘化門”と名付けられた正門だけは焼失を免れて現存していると聞き知り、500年前からこの国の歴史を目撃してきた門をひとめ見たくなったのだ。

秀吉による文禄の役(1592)、慶長の役(1597)という2度に渡る朝鮮侵略について、僕は授業で年号を覚えた程度で素通りしたのだが、ソウル市内のあちこちに対秀吉戦で名をあげた英雄の像があるのを見て、文禄・慶長の役に関する、自分と韓国の人たちとの温度差に驚いた。

帰国後、文献を調べ、京都にある『耳塚』の存在を知って言葉を失った。
順を追って書こう。

日本と朝鮮半島の関係は、古来から李朝成立後200年までずっと良好だった。百済と大和朝廷は親密な仲だったし、室町時代には世宗の頃から通信使の往来が始まっている。こうした長い期間をかけて築き上げた友好関係を台無しにしたのが、半島の南半分を焦土と化した秀吉の朝鮮出兵だった。

秀吉が派兵した軍は2つの戦乱をあわせて30万人。この後、関が原の戦いに参加した東西の全軍が18万人だったことを考えると、どれだけ大規模の軍を派兵したのかよく分かる。(秀吉の最終目的は明の征服だった)

当時世界最高水準にあった種子島銃を装備した秀吉軍に対し、200年も太平の世にあった朝鮮軍は装備が劣り(鉄砲隊そのものがなかった)、統制も取れず、島津、毛利、小早川、加藤清正など、戦国の乱世を生き延びた武士たちの敵ではなかった。
南部の釜山から上陸した秀吉軍は一気に進撃し、わずか1ヶ月でソウルを陥落した。

しかし、当初は飛ぶ鳥を落とす勢いで進軍した秀吉軍も、やがて大砲を装備した明の大軍が、朝鮮軍の援軍に加わってからは、苦戦の連続になった。

また陸の上では連敗していた朝鮮軍だが、海戦では天才軍師・李舜臣(イ・スンシン)のもと、連戦連勝を続けていた。李舜臣は船体を鉄板で覆った亀甲船を考案し、秀吉軍の鉄砲を無力化した。さらに船の周囲に大砲を設置し、攻防共に長けた当時世界最強の戦闘艦を完成させた。亀甲船は10隻でも日本水軍100隻以上の力を発揮した為、日本水軍は視界に亀甲船が見えると蜘蛛の子を散らすように逃げたという。戦乱の末期に、李舜臣は島津軍狙撃部隊の一斉射撃により戦死した。最後の言葉は「私の死を秘密にして戦え」だった。
潮の満ち引きや、海岸線の地形を利用した、李舜臣の臨機応変な戦術は、本来敵である黒田長政や小西行長からも絶賛されている。現在韓国全土に300体以上も李舜臣像があり、文字通り韓国史上最大の英雄だろう。

※日露戦争終結後の祝勝会の席で、海軍大将の東郷元帥は「イギリスのネルソン提督と李舜臣に並ぶ」と褒め称えられた。すると元帥は「(ナポレオンを破った)ネルソン提督はともかく、自分は名将・李将軍にはとても及ばない」と賛辞を返上した。時代や国籍を超えて賞賛された、この逸話はすごい。

文禄・慶長の役はどちらも秀吉軍が後半は敗走していたが、最終的に秀吉自身が病に没したことで日本側が全面撤退し、幕を閉じた。停戦を挟んだ6年間の戦乱が終わり、秀吉軍が去った直後のソウルの様子を、明国軍に従軍した儒学者の柳成龍が書き残している。
「公共の建物はすべて廃墟となり、民衆は飢え痩せさらばえ、顔が鬼のようだった。死人や馬の死骸があちこちにさらされ、悪臭が城内に満ち、行き交う人々は呼吸が出来なかった」
ソウルの人口は半減し、田畑は荒れ果て、耕地面積は3分の1に激減した。

朝鮮半島は秀吉の他にも元寇の際に元軍に侵略されたが、秀吉が根強く憎まれているのは秀吉軍の残虐性にあった。九州で本陣を構えていた秀吉は、戦場で活躍した武将に恩賞を与える際、その功績を証明する為に、討ち取った敵の首を塩漬けにして、自分のもとへ送るよう命じていた。ところが、戦乱が長引くにつれてその数があまりに多くなったので、かさばる首ではなく鼻を切って送るよう指示を変更したのだ。
記録では加藤清正は自軍の兵士に一人当たり3個ずつの鼻切りを命じ、部下の本山安政は
「兵士、農民、男女の区別なく殺し、生まれたばかりの幼児さえ殺した。残らず鼻をそいで本陣まで送った」
と記録している。
生きた人間の鼻まで切り落としたため、乱の後しばらくは鼻の欠けた人が全土にいたという。韓国では今でも「恐い」という時に「耳鼻郁」(イビヤ)という言葉を使うと本で読んだが、語源は秀吉軍とのことだった。実に400年前の恐怖体験が言葉として残っているとは!国民全体がトラウマになるほど凄まじいものだったのだろう。
日本に送られた10万人分の鼻は秀吉を祀る京都・豊国神社前に埋められ、なぜか鼻を埋めているのに『耳塚』と呼ばれている。
※昨年この『耳塚』を訪れた。塚というより小山といえるほどの大きさだった。

それから300年後。1910年8月22日に韓国併合条約を締結した夜、朝鮮総監・寺内正毅は
「小早川、加藤、小西らが世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」
と得意げに詠んだ。
一方、当時24才の石川啄木は、こう憂いを詠った。
「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」

さらに戦後の1953年、韓国の初代大統領李承晩が初めて訪日した際のこと。首相の吉田茂が「韓国にはまだ虎がいますか」と問いかけると、李承晩大統領はこう答えた---
「加藤清正が全部殺してしまったので1頭もいなくなった」


昌慶宮の中を歩いていると、結婚式を挙げてきた直後とみられるウェディング・ドレス&白タキシードのカップルが何組か記念撮影をしている光景に出くわした。どうやらこの王宮は新婚さんが写真を撮りに来る定番コースらしい。幸せそうな2人に、思わずこちらも気持ちがほころぶ。

“弘化門”は想像していたより遥かに大きく、高さ10mを越えようかという木造2層構造の門で、瓦屋根を左右に広げ、古(いにしえ)からの威容を誇っていた。過酷な歴史を考えると、首都にありながらよく500年も焼け落ちなかったものだと、畏敬の念を感じながら黙して語らぬ古門に僕は見入っていた。


《韓国編》第6回〜最終回

昌慶宮を後にした僕は、今回の最後の観光先であるソウルのシンボル、“光化門”に足を向けた。光化門は李氏朝鮮王朝の最古かつ最大の王宮『景福宮』の正門だ。光化門は国立博物館のすぐ近くにあったので、僕は前日に見ているはずなんだけど、どうやら仏像でウットリとトリップしていたらしく、はっきりと覚えていなかった…。


●ソウルで焼き鳥を焼く!

移動ルートは昨日とほとんど同じなので、この日も焼き鳥(正確に言うと鳥肉と野菜のバーベキュー)を買おうと、屋台に立ち寄った。屋台の親父さん(40代?渡哲也に似ている)は僕のことを覚えていて、何か笑顔でしきりに話し掛けてきてくれるけど、残念だが韓国語で分からない。前日と違って奥さんがいたので、「コイツは昨日も来たよ」みたいなことを言ってたのだと思う。
なんとか少しでも交流しようと思い、会話辞典を引きながら「美味しい」「最高」と言いつつ焼き鳥を指差すと、女将さんは笑顔で僕の腕を取り、屋台の厨房に引き込んだ。
「うおっ!」
ジェスチャーから察するに、どうやら自分で作れと言っているようだ。主人はただ笑って見ている。で、見よう見まねで串に材料を通して火で炙り、チリソースとケチャップのあいのこのようなタレを付けて1本作った。

ものを作るという作業は楽しい。すぐに僕は焼き鳥作りの「虜」になった。
人通りの激しい往来だったうえ、お昼が近づいていたので、客はけっこうひんぱんに来る。いつの間にか、親父さんが材料を切り、女将さんが串に刺し、僕はそれを焼いていた。
“なんで僕はソウルの繁華街で焼き鳥を焼いているのだ?”
“今起きていることは現実なのだろうか?”
そんなことを時折考えながら、クルクルと焦げないように串を回転させていた。焼くのは単純作業で誰でも出来るんだけど、作り置きしていた焼き鳥がはけて、最初に自分が作った焼き鳥が売れた瞬間、思わず親父さん夫婦の方を振り向いた。
僕が訴えるような目をしていたのだろうか、2人は言葉が通じないので暖かい目で“うんうん”とうなずいていた。常連客らしき人が来ると、当然僕のことでツッコミが入り、夫婦はお客さんと盛り上がっている。

なんというか、異国の地で言葉が分からなくても、同じものを一緒に作り出していると、その共同作業を通じていっきに互いの距離が近くなるように感じた。この一体感は向き合って会話をしているとき以上かも、とさえ思う。

正確に時間を計っていたわけではないので、実際は15分前後の短い間の出来事だったと思うが、感覚的には2時間くらいそこにいた気がした。
屋台を立ち去るときに、そもそもの目的だった焼き鳥を1本買おうとすると(本当はもう見てるだけでお腹がいっぱいになってた)、お金はいいから、と3本の焼き鳥を手渡された。食べきれないと思いつつもやはり嬉しく、最後に夫婦の写真を撮らせて貰うと、女将さんがもう一度厨房に立てと言い、そこでタレを持った僕とダンナのツーショットを撮ってくれた。(今も、その写真を眺めながらこのキーを叩いている)


光化門に着くと、それは昌慶宮の弘化門よりも、さらにもうひとまわり巨大だった。最初に建てられたのは1395年だが、その後、秀吉軍に焼かれ、朝鮮戦争でも土台を残して焼失し、現在の姿は復元された3代目のものだ。
光化門は3つの門で出来ており、真ん中の門は国王が、右の門は文官、そして左の門は武官が出入りしたと言われている。それらア−チ型をした3つの門の上に2階建ての楼閣を構えた雄大なシルエットは、王朝時代の最も美しい楼門と称えられており、韓国では歴史文化遺跡建造物に指定されている。

この門の大きな特徴は、門に掲げられた門名だ。韓国では古い門には名前が漢字で掲げられているのが普通だが、この門は珍しくハングルで記されている。それもそのはずで、光化門の名付け親は、先に紹介したハングルの創案者の第4代世宗王である。


●光化門と柳宗悦(やなぎむねよし)

この光化門にまつわる、1人の日本人のドラマがある。民芸学者の柳宗悦だ。(現在普通に使っている“民芸品”という言葉は柳の造語である)
柳は1889年の東京生まれ。志賀直哉や武者小路たちと雑誌『白樺』を創刊し、そこで美術の啓蒙に努めていた。柳こそが初めて日本人にゴッホの存在を本格的に知らしめた人物だ。
※板画家の棟方志功が白樺誌上で衝撃を受けたゴッホの“ひまわり”は柳が掲載したもの。

彼は民芸&美学者の立場から文化の多様性を重んじ、日本政府がアジアを同化させようとした動きに抵抗し、沖縄や朝鮮の独自の文化、生活様式を尊重せよと生涯に渡って運動していた。
そもそものきっかけは、柳が韓国併合の6年後、27歳の時に初めて半島を旅した時、朝鮮の優れた陶芸作品に強く心を動かされたことだった。超高温で焼かれ、ガラスのように引締められた白磁や青磁といった李朝の磁器は、手のこんだ装飾もあって現在でも特に美しい磁器として世界的に名高い。柳はこの深遠な磁器の輝きに心を奪われた。

1919年の「三・一独立運動」の弾圧で朝鮮の人々に多くの死者が出ると、柳はすぐさま武力に頼った植民地政策を強く批判し、日本の新聞に論文『朝鮮人を思う』を寄せた。

「余は朝鮮について知識のある日本の識者の思想が、深みもなく温か味もないのを知り、隣人の為にしばし涙ぐんだ。日本の古美術は朝鮮に恩を受けたのである。法隆寺や奈良の博物館を訪れた人はその事実を熟知している。我々が今国宝として海外に誇るものは、殆ど大陸の恩恵を受けないものはないだろう。しかし今日の日本は報いるのに朝鮮芸術の破壊をもってしたのである。余は世界芸術に立派な位置を占める朝鮮の名誉を保留するのが日本の行なうべき正当な人道であると思う」

これは日本国内のみならず、独立運動を経て創刊が許可された韓国の東亜日報に転載され、半島でも大きな反響を呼んだ。
またこの頃、日本側が朝鮮を支配するための統治機関、朝鮮総督府の建物を王宮(景福宮)内に建設する計画が持ち上がり、建設の邪魔になる光化門が破壊、撤去される方針が発表された。
この計画を知った柳は、雑誌へ『失われんとする一朝鮮建築のために』(1922)と題する以下の声明を発表した。

「光化門よ、光化門よ、お前の命が消えんとしている。お前がかつてこの世にいたという記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。どうしたらいいのであろうか。私は想い惑っている。むごいノミや無常の槌がお前の体を少しずつ破壊し始める日はもう遠くないのだ」

併合した国の王宮を壊し、そのド真ン中に植民地支配の為の管理機関を建設するという、現地の国民の神経を逆なでするようなことは、中世以前ならともかく、近代ではほとんど聞かない。
結局、柳らの強い反対運動が成果をあげ、1926年、光化門は破壊されずに移転されることとなった。
その代償として、柳は“危険人物”として渡航の際に警察の尾行がつくようになってしまったが。

3年後の1929年、朝鮮工芸への関心をさらに深めた彼は、ついにソウルに朝鮮民族美術館を開設するに至った。


現在、観光客は光化門の下を自由に行き来することが出来るので(もちろん、王専用の真ん中の門も)、僕は焼失、再建、そして移転と、歴史に翻弄されてきた門に手を触れ、3度目の再建が必要となる事態が来ぬよう祈った。


●再び仁川へ〜そして帰国

13時。これで予定していたすべての観光を終え、あとは船が停泊している仁川港へ戻るだけだ。僕は地下鉄光化門駅に向かって歩き出した。光化門から真っ直ぐのびる道は、“世宗路”と呼ばれるソウル最大の大通り。
駅の近くにある18mの巨大銅像は軍神・李舜臣。でかい。国内の李舜臣像はすべて日本の方向を向いているという。うーむ。

駅の構内に降りたが、これから1時間近く乗るわけだし、まずは水分を補給しておこうと、ジュースの自動販売機(紙コップのやつね)の前に並んだ。
4、5人いた列の最後尾につくと、前にいる50歳前後のパーマを当てたおばさんから韓国語で話し掛けられた。思わずアウアウしていると「ジャパニーズ?」と聞かれ、イエスと返事すると、おばさんは大阪に妹が住んでいると言い、先日一緒にUSJに行って来たばかりだと興奮気味に英語で話を続けた。おばさんはUSJをたいそうエンジョイしたようで、僕にもアトラクションの感想を求めてきたが、こっちは大阪在住なのに未訪問で再びアウアウしていると、“早く行った方が良い”と強く勧められた。

「どれにする?」
おばさんは自分がジュースを買う前に、先に僕に聞いてきた。いまいち、状況が分からなかったが、
「コ、コ、コーラ、プリーズ」
というと、ダイエットかノーマルかを尋ねられ、ノーマルと答えると
「ウェルカム・トゥ・ソウル!」
そう言っておごってくれた!クーッ、めちゃくちゃ良いおばさんだった。感動!


さて、その後、列車に乗ってからが大変だった。
往路と同じ路線の列車に乗ったから、眠ってるうちに終点の仁川に着くと思い、良い気分で鼻ちょうちんを作っていたら、終点で『水源』という駅名を見て絶句。西に向かって走り出した列車が、いつの間にか南に下っていたのだ。どうやら同じホームから行き先の異なる2種類の列車が走っていたらしく、分岐ポイントまで3分の2の距離をバックせねばならなくなった。そこから、再び仁川行きに乗り換えることになる。
もう大パニック。この上何かヘタをすりゃ、もう船の出航に間に合わない。とにかく慎重の上にも慎重に列車を乗り継ぎ、仁川を目指した。目はギンギンだ。

※韓国の列車では次々と物売りの人(一般市民)がやってくる。商品は電池、鉛筆、電球、タオルなど。そんなの売れるのかな〜と思って観察していると、これがなぜかけっこう売れる。欧州や南米でもそういう車内の物売りを見て来たけど、韓国が売れ行きはダントツ。僕が思うに、“同じスーパーで買うなら、がんばってるあの人のを買ってあげよう”という雰囲気が車内にあるとみた。

乗り継いだ列車は満席で座る場所がなかった。歩きどうしだったので
“これはかなり辛いかも…”
と思いつつグッタリと扉にもたれかかっていると、前髪をピッチリ分けた真面目そうな青年が、これまた韓国語で話し掛けてきた。手首を指差しているので、どうやら時間を訊いているらしい。僕は直接腕時計を見てもらった。
「アイム・ジャパニーズ」
「オー、ソーリー!」
それがきっかけで、僕らは『歩き方』に載っている韓国料理の写真を見ながら、どれが美味しいかなどをイージー・イングリッシュで語り合った。

彼の名はリー君といい、26才のエンジニアだ。すでに結婚していて、なるほど落ち着いていると思った。しばらく列車が走っていると、途中、リー君のすぐ側の座席が空いた。彼は
「ユー・シット・ダウン・プリーズ」
と言うが、僕も遠慮して譲りあってたら、買い物帰りのおばさんがそそくさと座ってしまった。クスッと2人で肩をすくめて笑う。

「ディス・イズ・マイ・アドレス」
リー君はそう言うと、持っていた本のしおりを半分に切って、僕にアドレスを書き始めた。どうやら、彼は降りる駅が近づいているようだ。彼のペンは途中でインクが出にくくなったので、僕は自分のペンを使ってもらい、こっちも予備のペンでアドレスを書いた(彼が降りる頃には2人とも並んで座っていた)。
可笑しいのはここから。
無事にアドレスを交換し、握手をして別れ、座席からホームを見ると、なぜか彼が再び乗り込もうとしている。何かあったのかと思い、思わずこっちも席を立ってドアに向かうと、飛び乗って来たリー君が、ボールペンのキャップを差し出した。そう、彼は僕にペンのキャップを返しに戻って来たのだ。なんと律儀な!
だが、運命は非情だ。急いで降りかけたリー君の目の前で扉がクローズド。しかも僕は席を立ったので、再び座る場所がなくなっていた。

一瞬の間を置いて2人とも同時に吹き出した。大爆笑。周囲の乗客には奇異に見えてたと思うけど、そのまま駅ひとつ分ずっと笑っていた。次の駅でこれ以上ないというくらい固い握手をして、今度こそ本当に別れた。
列車が動き出すと、リー君はホームの上で恥ずかしそうに少し手をあげ、ずっと見送ってくれていた。そんな彼を見て、ソウルで列車を乗り間違えて、本当に良かったと思った。
(やはり旅の醍醐味は人との出会いだからね)

船には、かなり際どかったがなんとか無事に乗ることができ、3日後の9月8日14時ごろ、東京・晴海へ入港した。台風が近づきつつあり雨模様だったが、僕は下船後、旅の全荷物を担いだまま、その足でまっすぐ築地・月島に眠っているという江戸の戯作者、東海道中膝栗毛を書いた十返舎一九の墓に向かった。
…が、この先を記すのはまた別の機会にしよう。


こうして人生三十四年目にして訪れた隣国の旅は終わった。北朝鮮、韓国ともに人々の悲願は分断された祖国の統一だ。実際に両国を見て、あまりにも社会体制が異なるので、“こりゃ容易には行かんぞ”と感じたが、外国人の僕なら出会えるリー君や北朝鮮の徐さんが、同じ言葉を話す同一民族、隣人同士でありながら顔を合わせることが出来ない今の状況は、やはりまともじゃない。
彼らがソウルや平壌の街角で普通に出会える日が訪れることを心から願っている。





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