カジポン・タイムズ外伝〜世界巡礼烈風伝97 大江戸2001編 《十返舎一九の巻》 2001年9月8日午後4時。朝鮮半島の旅を終え海路で帰国した僕は、東京・隅田川の河口にある晴海港で入国手続きを済ませると、旅の全荷物を担いだまま、その足で築地・月島の東陽院に眠る江戸後期の人気戯作者・十返舎一九の墓を目指すことにした。 長旅の疲れから、すぐに大阪の我が隠れ里“残月庵”へ帰還し骨を休めたいところだったが、そう何度も東京に出てくる金がないことを考えると、この機に一人でも多くの恩人に挨拶しておきたかったのだ! 地図上の東陽院は港から直線距離にして約700m。“10分で到着”というのが当初の目算だった。 「むおおっ!」 天候は激最悪。よりによって、関東と九州に2つの台風がダブルで接近しており、僕は歩き始めた瞬間、吹き荒れる風と叩き付ける雨のデュエットを、全身で満喫することになった。だが、墓マイラー歴15年、あらゆる状況下で墓参を敢行出来るよう、メンタル面の修行は終えている。ゴルゴの如く沈着冷静に荷物を下ろすと、手際よくカッパを装着した。 「な〜に、10分、10分。たいしたことないさ」 …30分後、僕の雨中の行軍は続いていた。勝どき橋から海側の月島一帯には、運河が縦横無尽に走っているが、架かっている橋が少ない。目の前に見えている対岸になかなか渡れないのだ! その間も容赦なく雨は降り続け、濡れたバッグパックは“子泣きジジイ”の如くみるみる重さを増し、肩ヒモが肉にギリギリと食い込んだ。その姿は、一見して二宮金次郎ハード・コア・バージョン、二見して貨物船の船底から出てきた密航者という様相であった。 僕は焦った!通常、寺の閉門は17時。既に時刻は16時35分を指していた。最寄りの橋を通行人に尋ねたくとも、付近は倉庫街で人影がなく悲壮感がこみ上げた。仕方なく、少々危険だが道の真ん中に躍り出て、遠くからこちらに向かってくる乗用車に“オーイ!”と両手を大きく振り、車の前方を遮る過激な手段に出た。かくして、車は止まった。 運転手は30代後半だろうか、眼鏡をかけ背広を着た男性で、カー・ステレオから山崎まさよしの曲が大音量で流れていた。僕が運転席の窓をコンコン叩くと、ボリュームを下げてくれたものの、怯えるような目をして窓を開けてくれない。 「すみません、道に迷いまして!」 満面の笑顔で大声で叫んだのだが、ますます相手に不信感を与えたようだった。住宅街で道を尋ねられるならともかく、台風が近づいているというのに、波止場近くの倉庫街で大きな荷物を背負った男が道に迷うという状況は、確かに怪しかった。 僕が両腕で橋を作って「ハシ!ハシ!」と連呼していると、彼はその方向を黙って人差し指で示してくれた。結局、男性の声を聞くことなく車は去って行った…。 率直に言って、僕は不審に満ちた視線を浴びることに慣れている。それも、国内、国外を問わずにだ。残念ながら世界の墓マイラー人口はまだまだ少ないし、墓地自体が観光地から離れている場合が多く、足しげく墓参しても、地元住民にさえなかなか認知されない。早く「ヨッ、墓マイラー!精が出るね!」と陽気な声がかかる時代が来て欲しいものだ。 (ま、今の車の男性は僕を巡礼者とは知らないけど) 僕は、黎明(れいめい)橋という手塚治虫系の美しくポエジーな名前の橋を、鼻息荒くダッシュで渡り、寺の方角へドタドタ疾走した。やがてその町内に着いたが、どこにも寺らしき大きな屋根が見えない。その時、目に飛び込んだのは消防署!おお、ナイス・タイミングッ!消防署員なら付近の地図がケモノ道に至るまで、全員脳内ハードディスクに書き込まれているはず! ポンプ車の側で3人の屈強な男たちが談笑していたので、僕は汗と雨でグシャグシャの顔をタオルで拭きつつ歩み寄った。実際、寺のすぐ近くまで来ていたようで、彼らは3人がかりで即答してくれた。 16時50分、目的地に到着。その途端、雨は小降りになった(人生そんなもの)。 「こ、こ、これって寺なのか?」 東陽院は鉄筋3階建てで壁面は薄茶色、どう見てもただのコーポ(ミニハイツ)にしか見えなかった。よく見ると、道路に面した正門横に墓石が一基あり、中央区教育委員会が“十返舎一九墓”と記した看板を側に立てていた。 「おお〜っ、一九殿!」 僕は側に駆け寄るなり荷を解いてカメラを取り出し、すぐさま激写タイムに入った。普段は墓前で作品に感動させてもらったお礼や感想を言うソウルトークを交わした後に、ゆっくりブロマイドを撮るのだが、今回は雨天で暗くなるのが早いのと、ちょうど小雨なのとで、先にシャッターを切りまくった。 “うおっ、この角度は渋い!いや、この少し下からってのもいい!まてまて、もうちょっと離れた方が全体が良く分かるか。でも、そうすると背後に電柱が入ってしまい風情がなくなる。一九は江戸っ子だから、小粋な感じを出さないと…” などと試行錯誤しながら撮っていると、思わず僕の指先が凍りついた。墓石と信じ込んで写していたが、その石には“十返舎一九墓所”と彫られているではないか! “これは一体…墓所ということは、まさか別に墓があるというのか!?” とはいえ、寺の敷地を覗いてみても、そこには駐車場しかない(くどいようだが、本当に普通のコーポなのだ)。 “やはり、今見ている目の前の石碑が一九の墓なのだろう…しかし、墓所と刻まれた墓なんか前例がないぞ?すると、この教育委員会の看板はフェイクか?JAROに報告か?ウーム…” これではラチがあかないので、ここは直接住職に尋ねてみる事にした。 だが、一階の玄関前に行き、インターホンを押しかけて一瞬躊躇(ちゅうちょ)してしまった。既に17時20分。仮に敷地のどこかに墓があったとしても、閉門時間を過ぎているので今日はもう墓参不可能だろうし、何よりドアの向こうから煮物の良い匂いがしてきて、自分が晩御飯のお邪魔をする場違いな存在に思えて来たのだ(っていうか、事実その通り)。 “…ここはひとつ、ただの墓参者ではないことをアピールせねば!” 読者諸氏は「墓前で手を合わせたい」と普通に言えばいいと思うだろう。しかし、そう言ったが為に「時間外です」「忙しいので」「親族以外はお断り」と、巡礼拒否されるという辛酸を、これまで何度舐めてきたことか! 僕は念入りにプランを練った。まず、門の脇にあるのが一九の墓かどうかを確認する。墓が別の場所にあった場合は… “自分は大学のゼミで江戸文化を調べており、研究にまつわる文学碑や旧跡を訪ねて大阪から来た。その最後のとっておきに一九の墓参を考えていたが、慣れぬ土地と豪雨で思いのほか移動に時間がかかり、こんな時刻になってしまった。しかも、レポートの提出期限が迫ってて、どうしても今夜の新幹線で帰らなければならない。なんとか今から墓参させて下さいッ!” 完璧な作戦だ。我ながら、まったくツケ入る隙がない。一応、ゼミ(十歳はサバを読みすぎか)と新幹線以外は全部ホントのことだし…。 何度か喋る練習をした後、緊張に指先を震わせながらインターホンのボタンを押した! インターホンの向こうからは女性の声。住職の奥さんらしい。僕がたたみ掛けるように話し始めると、最初に墓の場所を尋ねた時点で、 「一九さんのお墓はこの建物の中です。ちょっと待ってて下さい」 と通話が切れた。僕はカッパを脱ぎ、慌てて身だしなみを整える。玄関の鍵を開けたのは住職本人で(50歳前後だろうか)、今夜はもう外へ出る予定がないのか、ジャージ姿というラフないでたちだった。 「どうぞ上へ」 「ハ、ハイ!」 玄関で靴を脱ぎ上がらせてもらう。しかし、墓は?僕はキョトンとしながら、住職の後を着いて行った。廊下を歩きながら、“どこまで行くんだろう”と思っていると、一番奥に薄暗い階段があり、今度はそれを上り始めた。 「あ、あの、一九さんの墓参なんですけど…」 「すぐこの上に墓があるんですよ」 「!?」 階段を上がりきると、ほんとに2階が墓地になっていた!これまで色んな墓地を訪ねてきたが、屋内の、それも2階に墓石がズラリと並んでいる光景を見たのは初めてだった。 「このスリッパを使いなさい」 墓地は床面がコンクリートなので、住職はスリッパを貸してくれた。僕がいつまでも驚いてるので、住職は簡単な寺の歴史を話し始めた。 「この寺は元々浅草にあったんじゃが、関東大震災で壊滅的被害を受けてしまってなぁ。再興しようとすると“街中にお墓があると陰気”という役所の意向で、こんな郊外へ追い出されてしまった。だが、ここでも土地不足なのと墓を見えないようにしてくれという周辺の声で、このように屋内型の墓地になってしまったんじゃ」 なるほど、そういう事情だったのか。お寺も大変だね。墓地は陰気どころか、墓を見ると“人生は一度きりだから精一杯生きるんだ!”と、励まされる気がするんだけどなぁ。(自分を含め)大抵の人は自分がいつか死ぬということを忘れがちなので、死を考える良い機会だと思うんだけど…。 さて、十返舎一九だ。彼の墓は階段に一番近い場所にあった。さすがはセレブ。住職は“まあ、好きなだけいなさい”と言って階段を降りて行った。建物の中なので、風もなく虫もいない。 「静かだ…」 冷たい墓石に包囲されて一人になると、その静けさが際立った。 一九の墓は、本名・重田の名で建てられており、墓石の側面には辞世の句(あの世への旅立ちにあたっての句)が刻まれていた。この句が最高だった! 『この世をば ドリャお暇と線香の 煙と共にハイさようなら』 「ドリャ」というのは、立ち上がる時の掛け声。煙と共にハイさようならとは、まさに“渾身の力を抜いた”見事な歌詠みだ。巡礼を通して、今まで多くの辞世の句に出会ってきたが、この一九の一句(シャレじゃないよ)が最もサバサバした名句だと思う! 葬式のエピソードがまたスゴイ。なんと彼は遺言で棺に花火を仕込ませ、葬儀に集まった人々の度肝を抜いたというのだ。 一体、この十返舎一九とは、どんな男だったのか? 1765年、現在の静岡市に生まれた一九(本名・重田貞一)は、江戸→大阪→江戸と奉公先を転々とする。30歳の時に奉公していた江戸の製本屋で、彼の文才に気付いた店主に勧められ執筆活動を開始。毎年20作ほど書きまくってる内に、“弥次・喜多”というデコボコ・コンビが江戸から伊勢に至る珍道中を描いた『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』が空前のベストセラーとなる。時に一九、37歳。20代の頃に東海道を往復した体験が作品に活かされたのだ。 『東海道中膝栗毛』がブレイクしたのは、「弥次さん喜多さん」という主役の2人が、旅先で次々と巻き起こすトンマな騒動が面白いだけでなく、各地の名景や特産品、方言等の風俗が、実に鮮烈かつ詳細に書き込まれており、“そこを訪れたらこれを食べなきゃ始まらない”といった旅行ガイドブックとしての実用性があったからだ(元祖“地球の歩き方”というところか)。 当時は庶民階層にも、ようやく経済的なゆとりが少しずつ生まれ、寺社参りなど“旅”が娯楽の一部になり始めていて、そんな時代背景も一九に味方した。ユーモラスな失敗談の間に“安倍川餅”“ういろう餅”など、具体的に未知の情報が挿入される“膝栗毛”は、大いに庶民の好奇心をくすぐった。 弥次喜多の2人は自分たちのドジを笑い飛ばしながら、底抜けの脳天気さで、明るく愉快に旅を続けて行く。旅を楽しくする最大の秘訣は、どんな事態に遭遇しても常に“陽気であり続ける”ことだ。ぶっちゃけ、それ以外のことはたいして重要ではない。そこがちゃんと描かれているのがいい。 風刺描写なども大衆に受け、調子に乗った一九は“膝栗毛”の2年後に、秀吉をヘビ、信長をナメクジにたとえた『化物太平記』を書き上げるが、これは“武士階級を侮辱し過ぎ”と幕府を激怒させ、50日間の手鎖(手錠)生活、出版元は罰金、作品絶版という刑をくらった。しかし、これは逆に庶民の一九人気をさらに高めるものとなり、膝栗毛シリーズは続編に続編を重ね、21年に渡る超ロング・シリーズとなった。 (ちなみに弥次喜多は一九の死後も他の作家の手で旅を続け、明治に書かれた“西洋道中膝栗毛”では、ついにロンドンの万国博覧会まで2人は見てくることに…) 晩年の一九は長年の深酒がたたって体がボロボロになり、1831年、66歳で生を終えた。生涯に残した著作は約400作。これは、江戸時代の作家としては最大の作品量である。 ソウルトークに入った僕は、羨望の眼(まなこ)で一九御大の墓石を見つめていた。一九は日本文学史上、原稿料だけで生計をたてた最初の人物だからだ〜っ!(切実な話で申し訳ない)。貧乏文芸研究家の僕にとって、彼はもう眩しすぎるくらい憧れの対象であり、そのヒット作が旅行記だったというのもあいまって、烈風伝を書いてる僕は墓石を煎じて飲みたいくらいの勢いで墓前にひざまずいていた。 一九の前でその文才をたっぷり賞賛し、若干の悪態をついた後、時計を見ると、いつの間にか18時半になっていた。玄関に戻る途中、住職一家が居間で夕食を食べているのが見えたので、“帰ります”という意味で頭を下げた。すると、住職の奥さんが御丁寧にわざわざ玄関まで見送りに来てくださった。 外へ出ると、もうすっかり夜のとばりが降りていた。道路に出て東陽院を振り返ると、その2階に墓地があるなんて信じられなかった。 その後、翌日は丸一日巡礼に当てる予定だったので、そのまま上野に住んでる友人宅へ乗り込んだ。旅の話をするうちに、雨に打たれて疲れていたせいか、僕は知らぬ間に鼻ちょうちんを作っていた。 (つづく)翌朝、漫画家界の風雲児となる前に三十路になってしまった、知る人ぞ知る、知らぬ人は全く知らない、漂泊のドグサレ漫画家・S氏と合流! |
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