思想家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

思想家(海外)コーナー

37名


安 重根の墓
聖ヴァレンタインの墓
ヴォルテールの墓
エラスムスの墓
ガンジーの墓
鑑真和上の墓
キリストの墓
キング牧師の墓
聖キアラ“クララ”の墓
クロポトキンの墓
チェ・ゲバラの墓
三蔵法師の墓
釈迦の墓
ジャンヌ・ダルクの墓
チトーの墓
ディドロの墓
マザー・テレサの墓
ヨハネ・パウロ2世の墓
アンネ・フランクの墓

聖フランチェスコの墓
プルードンの墓
聖ペテロの墓
ペドロ・クラベールの墓
聖トマス・モアの墓
トロツキーの墓
フェノロサの墓
マキャベリの墓
マルコムXの墓
フライ・マルティンの墓
モンテスキューの墓
ブリガム・ヤングの墓
『洗礼者』聖ヨハネの墓
ジャン・ジャック・ルソーの墓
マルチン・ルターの墓
レーニンの墓
聖ローザの墓
ロメロ大司教の墓


パリ・コミューン蜂起市民たちの墓



★チェ・ゲバラ/Che Guevara 1928.6.14-1967.10.9 (キューバ、サンタクララ 39歳)2000
Guevara Mausoleum, Santa Clara, Cuba

  

『1960年頃、世界で一番かっこいい男がチェ・ゲバラだった』(ジョン・レノン)
『チェ・ゲバラは20世紀で最も完璧な人間だ』(サルトル)

左が運転手のホセ、右がお調子者のカルロス ゲバラの墓は高さ20mを超えていた!

内部は撮影禁止だけどキューバ観光局の
サイトなどに画像がアップされている
ゲバラはキューバ革命で共に戦った同志たちと一緒に眠っている。
墓標の大きさが仲間と同じで、特別扱いじゃないのがゲバラらしい

1950年代のキューバは米国の属国同然で、土地、電話、電力、鉄道すべての利権がアメリカ資本の手に渡り、首都ハバナはマフィアが横行する無法の歓楽街となっていた。腐敗したキューバ軍事独裁政権を倒すべく立ち上がったのがゲバラやカストロたち革命軍。しかし当初の革命軍はわずかに17名!一方の政府軍は2万人。誰もが革命軍の敗北を予想したが、ゲバラは政府軍の意表をつく様々な作戦を立案し、ものの見事に勝利を勝ち取り革命を成功させる(時に30歳)。
しかし、ゲバラが本当にすごいのはここから!彼は国家の要人として約束された地位を投げ捨て、キューバを去ったのだ。貧困と搾取に苦しんでいる新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かった。いったん権力を手にした革命家が、自らその地位を放棄して新たな闘いへ身を投じた例が他にあるだろうか?67年10月、ボリビア山中でCIAのゲバラ追跡部隊に指揮された国軍に彼は捕らえられ、酔っ払った兵士に全身に弾を撃ち込まれ処刑された。39歳の若さだった。97年7月、ゲバラの骨がボリビアで見つかり、遺骨はキューバに空輸され国葬が行われた。
『最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ』(チェ・ゲバラ)
『真の革命は愛という偉大な感情によって導かれる』(同ゲバラ)


僕はキューバの首都ハバナから闇タクシーに乗り、ゲバラが眠る300km離れた地方都市サンタクララへ向かった。東京〜名古屋ほどの距離だ。往復9時間半。国営タクシーは300ドルだが、悪党が無許可でころがしている闇タクシーは135ドル。相場の半額以下だ。選択の余地なし!ここは、法の眼をくぐるほかあるまいッ!
※この激動の熱血巡礼の詳細は以下の巡礼ルポへ!

「もし我々が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、『その通りだ!』と」(チェ・ゲバラ)

(詳細はゲバラの巡礼ルポにて)



★“釈迦”ゴータマ・シッダールタ/“Sakhya Muni” Gautama Siddhartha
B.C.463(565?560?).4.8-383(485?480?).2.15 (インド、サールナート&デリー/奈良、斑鳩 80歳)2000
New Delhi Museum, New Delhi, India




デリーの国立博物館にて なんと!釈迦の舎利(遺骨)! 事実上、この博物館がお墓ということに
これが釈迦の骨であることや、分骨の経緯を記した当時の碑文と共に、釈迦の故郷で発掘されたッ!








大抵の人はびっくりして立ちすくむ この大小2個の容器に納骨されていた 側にあった骨の拡大写真。ひょえ〜!
















直径28m、高さ43mという巨大なダメーク・ストゥーパ(仏塔)。“ダメーク“の意味は「法の
仲介」。ストゥーパには釈迦の骨(仏舎利)が納められている。下段が石で上段がレンガ。
壁面は細かなレリーフ 右下の人間と大きさを比べて欲しい







5人の修行者に行った初めての説法を再現。この時、
森に住む鹿たちも一緒に説法を聞いたという
「サールナート(鹿野苑)」だけあって鹿が多い。
奈良で鹿が大切にされるのも説法を受けたから
めっさワンパクな子どもたち(笑)








八角形という珍しいチャウカーンディ・ストゥーパ(サールナート) シルエットが非常に美しい 門にあった法輪(チャクラ)

ガンダーラで発掘された釈迦像。めっさカッコイイ!! 奥に見える山に釈迦は修行でこもっていた!(スジャータ村)







この菩提樹の下で釈迦は悟った!
(ブッダガヤ)
黄金の布が敷かれた場所に釈迦は座っていたッ!

高さ52m(!)のマハーボーディ寺院。
手前に見えるのはストゥーパだ

●日泰寺(にったいじ)〜タイから日本にやってきた釈迦の御真骨



名古屋市の日泰寺。タイ国王から贈られた仏舎利
(釈迦の骨)を安置する為、1904年に創建された
各宗派が仏舎利を取り合いにならぬよう、日泰寺
はどの宗派にも属さない単立寺院になっている
仏舎利は本堂から少し離れた奉安塔の
中。手前にリアルな入滅像が横たわる



「釈尊御真骨奉安塔」 仏舎利はこの奥、高さ15mのガンダーラ式の塔の中 土台だけチラッと見えている。ありがたや!(2010)

北インド、現ネパールの小国カピラバストゥ(千葉県サイズ)の釈迦族の王子、釈迦牟尼(むに=聖者)。本名ゴータマ・シッダールタ(ゴータマは“最上の牛”、シッダールタは“目的”の意)。仏教界では「釈尊」(釈迦牟尼世尊)という。“悟りを得た者”という意の「仏陀(ブッダ)」とも呼ばれる。父は国王・浄飯王(じょうぼんのう)、母は妃の摩耶夫人(まやぶにん、マーヤ)。伝承では、摩耶夫人がお産で実家に里帰りする途中、ルンビニー園で産気づき右脇から(!)産まれたとされている。しかも釈迦はいきなり7歩進んで、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」(世界にこの命は一つだけ、だからこそ全ての生命に価値があり尊い)と宣言したという。
※仏教では4月8日に釈迦誕生を祝う儀式を「花祭り」「灌仏会(かんぶつえ)」と呼ぶ。釈迦の仏像(赤ちゃんだけど立ってる)に甘茶をかけて祝福する。

  第一声が「天上天下唯我独尊ッス!」。さすがは釈迦だぜ!

摩耶夫人は出産の影響で体調を崩し、釈迦は生後1週間で母を失う。王は後妻に摩耶夫人の妹を迎えた。釈迦は16歳で結婚、長男ラーフラをもうける。17歳の時、郊外に出かける為に東南西北の城門を通過すると、その度に門外で老人、病人、死人、出家者を見かけ、これをきっかけに人生の苦しみをどうすれば克服できるのか悩み始め、ついに29歳で王子の身分を捨て出家した。彼を連れ戻す為に5人の従者が追いかけて来たが、5人は王子の胸中を知って行動を共にするようになった。

釈迦は当初、2人の仙人のもとで思想を学んだが、どの教えも彼を満足させず、釈迦は5人の修行仲間と共に苦行に突入した。しかし、体を痛めつけたり断食をしても悟りに至る事はなく、“何事も極端に走るのではなく中道が肝心”と苦行の無意味さに気づき、35歳で6年続けた苦行を止めた。他の苦行者は彼を脱落者として嘲笑した。
釈迦はネーランジャラー河の岸辺で村娘スジャータが作ってくれた“牛乳がゆ”を食べて体力を回復させると、ガヤー村の菩提樹の下で静かに座禅を組んで瞑想に入った。悪魔が悟りを妨害する為に大軍を送ったが、釈迦はこれをことごとく調伏し、瞑想開始から49日後の12月8日未明に悟りを開き、彼は「菩薩(修行者)」から「仏陀(覚醒者)」となった。ガヤー村は後に仏陀が悟った場所として“ブッダガヤ”と呼ばれるようになる。
※魔物を打ち倒して悟りを得たことを、仏教では「降魔成道(ごうまじょうどう)」という。これを祝い12月8日には成道会(え)が行なわれる。

  釈迦苦行像(ラホール博物館)。ここまで苦行した!お腹ペコペコ!
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●釈迦の悟り
釈迦は「苦」を克服する為に何を悟ったのか。結論から言うと「執着を捨てろ」ということ。

世のすべてのものは移ろいゆく。恋愛感情や若さがそうであるように、どんなに「今のまま変わらないで」と願っても、いっさいが例外なく変化していく。人は世界が常に変化しつつある「無常」なものと頭で分かっていながら、欲望が心に生まれると「無常」として受け止められなくなる。煩悩(欲望)が判断を誤らせ、永遠に変化しない「常なるもの」と錯覚させる。そして、相手の心変わりを非難しては嘆き、失ってしまった物をいつまでも惜しみ悔やむ。
釈迦は“縁”をキーワードにして、「苦」の根源に迫った。結果、万物が変化するという事実を認めない「無知」が「迷い」を生み、迷いが「欲望」を生み、欲望が「執着」を生み、執着が「苦しみ」を生むとする結論に至った。
「無常」という真実をあるがままに受け入れることでしか心の平安(悟り)は得られないのだから、心が勝手に真実を曲げて解釈しないようにしっかりと現実を直視し、すべてのものに対する執着を断てと釈迦は説いた。
釈迦は「無常」を受け入れた時に、初めて人は解脱(げだつ)できるとした。
※解脱…煩悩の苦しみを克服して安らいだ自由な境地に至ること。また解脱には「輪廻から解放される」という意味もある。以下に続く。
 
●輪廻(りんね)転生について
仏教では各人の業(ごう、カルマ=善悪の行為)によって魂が六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)を輪廻するとされている。輪廻している魂は「迷いの状態」とされ、果てしのない再生から解脱する(自由になる)事を仏教は究極目標にしている。解脱を目指して善業を積む--これは来世にもっと善良な魂となる為に、現在の生活で善業を行なおうという前向きな思想だ。ところが現代(特に新興宗教)では、「前世の行いが悪かった」「祖先の大罪のせいだ」と過去の業ばかりを脅迫まがいに強調し、善行の理由が過去の禊(みそぎ)になっている。この場合、前世の業で人生は定まっており、現世ではどんな努力も無駄という考えに陥りやすくなる。過去をことさら重視せず、現在の自分を見て、よりよい魂となる為に善い行いをするべきだろう。
※魂が死後に生まれ変わるという考え方は、古代ギリシャでプラトンやピタゴラスも説いており、釈迦の誕生以前からインドにあった思想だ。
 
●すべて空なり
仏教の「空」は虚無を意味する空ではない。人の命は肉親と繋がっているだけではなく、これまで食べてきた全ての命とも、日光や水、酸素を生む植物、この宇宙にある全てのものと繋がっており、誰しも他から切り離されては存在できず、あらゆる物質と溶け合っているという、極めて深い感動的な意味での「空」だ。この世の全てが巨大なひとつの生命であること、これを一文字で表したものが「空」だ。ゆえに「色即是空、空即是色」(世の全てが空であり、空はまた世の全てである)となる。※あなたは私であり、私はあなたであり、鳥も、花も、星も、道端の石ころまで同じ存在である…グッとくるね。

   「ハッ!」悟りの瞬間!(手塚治虫『ブッダ』愛蔵版4巻から)


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釈迦はブッダガヤで悟った後、さらに49日間禅を組んだまま悟りの法悦の余韻にひたり、人生はここに極まったとして何も食べず死を選ぼうとした。するとインド神話の創造神・梵天(ぼんてん)が目の前に現れ、彼に「悟りの内容を人に伝え広めなさい」と3回告げたという。釈迦は伝道にあたり、最初に5人の苦行仲間がいるバラナシ郊外へ向かい、サールナートの鹿野苑(ろくやおん)で初の説法“初転法輪(しょてんぼうりん)”を行なった。
当初は釈迦を馬鹿にしていた彼らは教えに感銘を受け、初の仏教教団(サンガ)を結成した。他の宗教者が弟子を引き連れて加わる現象も続き、教団はすぐに千人以上になった。

続けて古代インドの強国、マガダ国のビンビサーラ王が帰依(入信)したことを皮切りにコーサラ国など諸国の王にも帰依する者が出てくる。釈迦は弟子の人材にも恵まれ、二大弟子となる舎利弗(しゃりほつ)、目連(もくれん)が教団に加わった。

40歳の時に父が死去し、故郷へ10年ぶりに戻って説法を行なうと、これに感動した妻や息子ラーフラ、いとこの阿難(あなんだ)、提婆達多(だいばだった)らが出家して弟子に加わった。釈迦がブッダガヤで悟りを得てほんの5年ほどで、基本的な伝道環境の大半が整い、教団の秩序を保つ為に様々な戒律が定められていく。
 
諸王や大商人には経済的な援助を申し出る者も現れ、説法道場や安居(あんご)の場として最初の仏教寺院となった祇園精舎(コーサラ国の首都シュラーバスティーに設立)や竹林精舎(マガタ国の首都ラージャグリハに設立)を寄進した。釈迦は以降45年間、1250人の弟子とガンジス川中流地域でひたすら伝道活動を続けてゆく。
※安居…釈迦はたとえ昆虫であれ殺生を禁じており、雨期に出歩くと虫や小動物を意図せず傷つけてしまうこともあるから、一門は1ヶ所に集って小屋を建て、3ヶ月の雨期が終わるのを、勉強会を開きながら待った。この集いを安居という。死の前年の安居は祇園精舎で開かれたと記録されている。
 
73歳、釈迦を手厚く保護してくれたマガダ国ビンビサーラ王が息子の阿闍世(あじゃせ)に殺害された。即位した阿闍世は自分の行いを激しく後悔し、阿闍世は父以上の仏教の保護者になっていく。
そして80歳。精力的に説法を続けてきた釈迦だが、さすがに体力も落ち、旅先で食中毒にかかった。豚肉料理またはキノコによるものと言われている。釈迦はクシナガラ郊外の沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で、頭を北、顔を西に向け横たわると、高弟や信者たちが見守る中、「悲しまなくていい…私が説いた教えと戒律が、死後にお前たちの師となろう。ただ一切は過ぎていく。怠ることなく修行を完成しなさい」と最期に語って入滅(他界)した。
※仏教では釈迦の死を涅槃(ねはん、吹き消されたという意味)と呼び、2月15日の涅槃会で釈迦を追悼している。涅槃には“煩悩の火が吹き消された状態”という意味もあり、この場合は悟りの境地を指す。元々はサンスクリット語の「ニルバーナ」であり、涅槃はその当て字。

   長谷川等伯筆の『仏涅槃図』。動物までが号泣している!

釈迦の死を悲嘆したマガダ国王・阿闍世は、釈迦の教えが誤って一人歩きをしないように、本当に釈迦が言ったことと、言ってないことをハッキリさせる為、釈迦の弟子500人(五百羅漢)を集めて教えを合議によってまとめさせた。これを“結集(けつじゅう)”という。彼らは互いの記憶を検証しながら聖典を編纂した。二大弟子の舎利弗、目連は既に他界していたので、教団二代目の大迦葉(だいかしょう)が座長となり、釈迦生前の秘書役・阿難がお経(説法)を、床屋出身の陽気なムードメーカー・優波離(うぱり)が律(教団の戒律)を編集主任となってまとめた。教義を一本化する為にこうした結集は後年にも行なわれ、100年後に700人が集まった第2回結集が、200年後にアショーカ王の下で1000人が集まった第3回結集が、2世紀頃にカニシュカ王が500人を集めた第4回結集が開催されたと伝わっている。弟子達のこうした努力の結実が、今に伝わる数々の経典である。

釈迦の亡骸は火葬され、舎利(しゃり、遺骨)は周辺8大国の王たちの求めで分けられた。各舎利はストゥーバと呼ばれる供養塔に納められ、遺骨以外にも髪や爪、所持品を納めた塔が建てられ、これら全てが崇拝の対象になった。
B.C.250年頃、インド史上最大の名君アショーカ王は、仏教を広めるためにストゥーバから仏舎利を取り出し、それを8万4千個に分けて同数のストゥーバを建てた。ちなみに、ストゥーバという言葉は日本に伝わった時に卒塔婆(そとうば)と置き換えられる。現代で卒塔婆といえば墓石の背後に立てる供養板のことをいうが、当初は大陸からもたらされた仏舎利を祀る供養塔=墓を指した。※五重塔などの“塔”という字は、「卒塔婆」の“塔”からきている。“塔”は墓なのだ。
供養塔は時が経つにつれ、遠くからでも見えるように高くなっていく。塔のてっぺんが舎利の納められたストゥーバだ。つまり、塔はてっぺんを遠くの人に見せるものであり、そこから下はただの付け足しともいえる。

世界最古の木造建築として、ユネスコの世界遺産に日本で最初に登録された法隆寺は、五重塔のてっぺんと内部中心の柱の2ヶ所に仏舎利が納骨されている。…しかし本当に釈迦本人の骨が、はるばる海を渡って奈良までやって来たのだろうか。僕は失礼とは思ったが、恐る恐る法隆寺でお坊さんに尋ねてみた。疑って反省。インドからどんなルートで奈良まで来たのか、また、舎利が分骨を重ねて小さくなっていく過程を詳細に記した巻物が現存するそうだ。遺骨は米粒ほどの大きさで、毎年元旦から3日間、午後1時に仏舎利を前にして「舎利講」という公開法要をしているとのこと。思わず高さ31.5mの巨大な墓に手を合わせた。


●仏像について
仏像が出現したのは入滅後500年以上経ってから。これは釈迦が「私の姿を拝んでどうしようというのか」と偶像を否定したことによる。また、仏陀となった偉大な釈迦の姿は、もはや人の手で表現できないと思われていた。それゆえ、人々は釈迦の象徴として法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現。インド国旗の中央にも描かれている)や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石。姿がNGなので足跡を拝んだ)、菩提樹などを礼拝していた。
500年も仏像を造らずにいた人々が仏像を彫り始める…いったい、その当時何が起こったのか。原因はイランやアフガン一帯を支配していた戦闘騎馬民族クシャーン帝国の大侵略だった。クシャーンのカニシュカ王は残酷無慈悲でインド北部に虐殺と破壊の嵐が吹き荒れた。人々は山中に逃げ込み、クシャーンの軍隊が通過するのを息を殺して待ち続ける。この時、精神的に極限まで追い詰められ、心の拠り所としたものが仏教であり、目に見えてすがれるものとして、藁をも掴む思いで刻み始めたのが釈迦像だった。
征服者カニシュカ王はやがて釈迦の教えに触れて心を入れ替え、仏教の大保護者として歴史に名を残すようになる。王は帝国内の貨幣に釈迦像と「ブッダ」の名を刻印した。また当時の遺跡からはカニシュカ王の頭上に釈迦が鎮座する図柄の壷なども発見されている(これはかなり感動的。カニシュカが完全に釈迦に身を委ねている)。
初期の仏像がギリシャ彫刻のように彫りが深いのは、B.C.330年頃にアレキサンダー大王の遠征軍がペルシャを越え北インドまで制圧し、ギリシャ美術を持ち込んだ為だ。
(オススメ仏像/イケメンズ)
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※仏教徒は釈迦の誕生、降魔成道、初転法輪、入滅を4大事件に選び、これらに縁のある地、ルンビニー園、ブッダガヤー、鹿野苑、クシナガラを四大聖地に定めている。
※十大弟子の目連は地獄に落ちた母親を神通力で救ったという。これが故事となり、死後の肉親を迎える「お盆」(盂蘭盆会、うらぼんえ)が始まった。
※入滅百年後、教団は大分裂した。戒律が僧侶の財産を所有禁止にしていたことから、お布施の金銭を認めるかどうかで、“否定派”の上座部仏教(旧名・小乗仏教)と“容認派”の大乗仏教(多数派なので大乗)に大分裂した。厳格な否定派は、上座に坐す長老が多かったので「上座部」と呼ばれるようになった。
※祇園精舎は7世紀に三蔵法師が訪れた時には廃墟と化していた。法師の書『大唐西域記』をもとに19世紀にイギリス人カニンガムが発掘した。
※釈迦は「インド菩提樹」の木の下で悟りを開いた。一年中、葉っぱが緑の常緑高木で30mの高さまで生長する。日本のお寺にも白い花をつけるシナノキ科の菩提樹を植えていることがあるけど、両者は全く別の種類で何の類縁関係もない。
※悟りの境地をサンスクリットでボーディという。この当て字が菩提。生き物すべてを薩多(さった)といい、菩提&薩多で「菩薩」となる。悟りの境地にありながら全ての生き物を救うという理想の姿が言葉に込められている。
※生老病死の四苦に、愛する者と別れる愛別離苦、憎む者と出会う怨憎会苦、求めて手に入らない求不得苦、五蘊(ごうん)という肉体&精神から生じる五蘊盛苦の4つの苦を合わせて「四苦八苦」と呼ぶ。“生老病死”で「生」が苦とされるのは、出産の苦しみではなく、輪廻から逃れられずにこの世に生まれたこと自体を「苦」とする考え方からきている。
※アショーカ王は征服戦争を止めて仏教を深く信仰し、病院や貧者の為の宿泊所を建設し、井戸の採掘など、慈善事業を熱心に行なったことから、インド史上もっとも有名な名君となった。
※名古屋の覚王山日泰寺には、タイ王室から譲り受けた確実に釈迦のものとされる舎利が納められ、日本仏教の全宗派が合同で寺を管理している。
http://mujintou.lib.net/dharma/bukkyo/buddhatop.htm ←釈迦の聖地を美しい写真で綴っているサイト

●十大弟子…釈迦の全1250人の弟子の中の高弟10人。(以下、仏師西村公朝さんの一行解説)
舎利弗(しゃりほつ)天才肌の一番弟子/智慧第一
目連(もくれん)もうひとりの高弟、超能力者/神通第一
阿那律(あなりつ)眠らない修行でついに失明/天眼第一(釈迦の従兄弟)
優波離(うばり)もと理髪師の愛嬌者/律第一
富楼那(ふるな)商人あがりで説法上手/説法第一
迦旃延(かせんねん)わかりやすい教えの伝道の達人/論義第一
須菩提(しゅぼだい)“空”をもっともよく理解した人/解空第一
羅羅(らごら)お釈迦さんのひとり息子は荒行者/戒行第一
大迦葉(だいかしょう)教団の二代目は清貧の人/頭陀第一
阿難(あなん)お釈迦さんのハンサムな秘書役/多聞第一

世界最古の木造建築・法隆寺。五重塔の礎石の中に仏舎利が置かれたと記録(593年)されている



★マザー・テレサ/Mother Teresa 1910.8.26-1997.9.5 (インド、カルカッタ 87歳)2007
Mother House Convent, Calcutta, India


「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」(マザー・テレサ)









女性が入ろうとしている場所が入口 ついにマザー・ハウスまでやってきた! 建物の外にはマザーの古い肖像画が並ぶ

静かで美しい中庭。世界中からボランティアが集まる 修道女たち。1階の大部屋中央にマザーの墓はあった 嗚呼、マザー!





マザーの周りで祈る修道女たち。僕が訪れたのは朝9時頃。
たくさんのシスターが次々と祈りを捧げに来ていた
この日は独立記念日。特別に国旗とインドの地図が墓に飾られた

マリーゴールドの花びらで描かれた地図。僭越
ながら中心の「I AM INDIAN」の文字を担当


室内にはマザーと赤ん坊の彫刻があった マザーのスマイル写真 マザーハウスの医療車の運転席はマザーづくし♪






マザーが作った“孤児の家” もっともボランティアが多い 屋上にあがると子ども達の洗濯物がはためいていた

本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ(花のつぼみの意)。旧ユーゴスラビア出身。“マザー”の呼び名は指導的な修道女への敬称で、テレサは修道名。1979年(69歳)にノーベル平和賞を受賞。19歳でインドにわたり修道女として修練を積んだ後、27歳の時にカルカッタのカトリック系女学校の教師(後に校長)になる。1946年(36歳)、「修道院を出て貧者と共に生活せよ」という神の声を聞き、その4年後に修道会『神の愛の宣教者会』を創立。そして1952年(42歳)、孤独死する人を看取る為の“死を待つ貧しい人の家”を開設した。彼女がカルカッタで始めた慈善活動は、死後も遺志を継いだ人々によって世界的規模で展開している。

“目の前で苦しんでいる人を助けてあげたい”このシンプルな思いも、実現するには様々な壁があった。孤児へ食料を与える為に市場を回ると「修道女が物乞いするとは何事か」と教会側から叩かれ、道端に倒れている人を介抱すると「ヒンズーからキリスト教に改宗させる気だ」と周辺住民から批判され、役所から活動拠点の閉鎖命令を受けたり、詐欺事件や人身売買の疑惑騒動(もちろん無実)に巻き込まれたり…。しかし、困難に遭遇する度に溢れるバイタリティと持ち前のユーモア精神(コレ大事)で克服していった。計画実現の為にヴァチカンでローマ法王と直談判するなど、彼女の小さな体のどこからあんなパワーが湧き出てくるのか、驚嘆せずにはいられない。ノーベル平和賞の晩餐会でも「この贅沢な料理は幾らするのか?それを貧困者にまわせるのに」と、常に他者のことしか考えていなかった。トコトン無欲。
旧ユーゴ生れのマザーがインドで没した時、人々はガンジーのように「国葬」で手厚く葬った。

「私たちの行いは大海の一滴に過ぎません。しかし、何もしなければその一滴も永遠に失われます」(マザー・テレサ)

僕が巡礼した8月15日は独立記念日の祝日。マザー・ハウスの見学は木曜以外ならOKと聞いていたけど、祝日はダメかも知れないと実際に行くまで超不安だった(カルカッタの博物館や公共施設は軒並み休みだった)。“マザーに会えますように”と祈りつつ訪問。カルカッタまで本当に遠かっただけに、入口が開いているのを見ただけで、感激で泣きそうになった。

リンク先のブログにボランティアの配属先について詳しい情報が載っています。まずマザー・ハウスで登録し、そこから「死を待つ人の家」や孤児の施設に配属されるとのこと。
※外部ブログを見ていると、木曜でも1階の墓所には入れるみたいです。2階のミサを行う部屋はダメ。



★安 重根/An Jukon 1879.9.2-1910.3.26 (宮城県、栗原市、大林寺 30歳)2012
★千葉 十七/Toshichi Chiba 1885-1934.12.17 (宮城県、栗原市、大林寺 49歳)2012







看守の関東軍
上等兵千葉十七
伊藤博文を暗殺し
処刑された安重根
千葉十七の菩提寺、宮城の大林寺。千葉は当初
暗殺犯の安を憎んでいたが、敬意を抱くようになった

 




大林寺の本堂前に建つ記念碑。処刑前の安の絶筆「為国献身軍人本分」
(国の為に身を捧ぐるは軍人の本分なり)が、自筆を拡大して彫られている
“旅順獄中”

記念碑にキムチとマッコリが供えられていた


 
本堂裏手の墓地に眠る千葉夫妻 『初代千葉十七夫婦之墓』

 

墓前にも安の絶筆(遺墨)碑があり、安の手形も彫られている。指が欠けているのは
安が同志と薬指を切り、その血で国旗に「大韓独立」の文字を書き染めたから
遺墨の石碑の背後に由来が。千葉夫妻の
養子が1994年に供養で建立。撰文第26世
真っ赤な夕陽が反射。
下半分はハングル文字

1909年10月26日、初代韓国統監・伊藤博文がハルビン駅で安重根(アン・ジュングン、30歳)に撃たれ絶命する。安はロシア官憲に取り押さえられ、日本側に引き渡された。安はもともと親日家で、日露戦争で日本が勝つと“アジアが西欧を倒した”“日本はアジアの希望”と喝采を贈っていた。ところが、日露戦争後の日本は、韓国に内政干渉し、外交権を奪い、皇帝を退位させ軍や警察まで解散させた。深く失望した安は、独立運動のためロシアへ亡命して「大韓義軍」を組織し、同志と共に薬指を切り、その血で国旗に大韓独立の文字を書き染める筋金入りの抗日活動家になった。

暗殺事件後、安は取り調べに際し、伊藤暗殺に至った理由を述べた。「韓国皇帝を廃位させたこと」「韓国の軍隊を解散させたこと」「義兵鎮圧に際し多数の良民を殺害させたこと」「不平等条約を結ばせたこと」「韓国の学校教科書を焼却させたこと」「韓国人民に新聞購読を禁じたこと」等々。その中には「(伊藤らが)明治天皇の父君(孝明天皇)を暗殺したことは韓国民みなが知っている」という驚愕の理由も含まれている。
翌年2月、事件から4ヶ月後に死刑判決が下る。安は母から「あなたの死はあなた一人のものではなく、韓国民の怒りを背負っている。控訴をすればそれは命乞いになってしまう」と手紙を受け取り控訴しなかった。

※安の怒りは逆の立場にすると理解しやすい→「日本の天皇を廃位させたこと」「日本の軍隊を解散させたこと」「義勇兵の鎮圧に際し多数の市民を殺害したこと」「不平等条約を結ばせたこと」「日本の学校教科書を焼却させたこと」「日本国民に新聞購読を禁じたこと」等々。

当初、暗殺犯の安を憎んでいた日本人看守の千葉十七(関東軍上等兵)は、安が主張する“日本の非”は韓国人からすれば筋が通っていること(幕末に異国脅威を訴え、攘夷に燃える勤王の志士と通じるものがあった)、「国の平和とは、貧しくても人々が独立して生きていけることだ」という安の信念に心を動かされ、会話を通して人柄や思想に共感を覚えた。そして安は旅順監獄(現・大連)で「東洋平和論」を書きあげる。

死刑執行は判決の翌月、3月26日。安は絞首刑の直前、千葉に「為国献身軍人本分」(国の為に身を捧ぐるは軍人の本分なり)と書き贈り、最後に「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語った。ときに、安31歳、千葉25歳。千葉は帰国後もこの書を大切にし、安の冥福を祈る日々を過ごす。
また、安は裁判担当の日本側検事を「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆させたほか、旅順監獄の刑務所長・栗原貞吉も安の人となりに共鳴し、法院長や裁判長に“助命嘆願”を書いたり、煙草等を差し入れ、処刑前日には絹の白装束を贈っている。執行後、栗原所長は安の死に胸を痛めて故郷広島に帰ったという。安の処刑を知った孫文は、追慕詩「100年生きることはできなくても、死んでから1000年生きるだろう」を贈った。

安は二人の弟に「祖国が独立するまでは遺体をハルビン公園に仮葬して欲しい」と頼んだが、安の墓地が朝鮮独立の聖地になることを恐れた日本政府は、秘密裏に刑務所の共同墓地に埋葬した。結果、今日まで遺骨は見つかっていない。1970年、ソウル市内に安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が建設された。

千葉十七の墓がある宮城県栗原市の大林寺には安の顕彰碑が建立され、毎年日韓合同で安重根・千葉十七夫妻の供養が執り行われている。安の正確な埋葬場所も遺骨も不明のため、大林寺境内の顕彰碑を供養塔としたい(法要も行われている)。

※晩年の伊藤博文は日韓併合に傾いていたが、それでも政府内では併合慎重派だった。安は伊藤を暗殺したことで、結果的には併合を加速させ、処刑5カ月後に大韓帝国は地図上から消滅してしまう。

※2008年に安が獄中で使った硯(すずり)が見つかり大林寺に奉納された。硯の裏には「庚戌3月 於旅順獄 安重根」と刻まれており、3月26日に旅順監獄で処刑される直前まで使用した物とみられる。処刑前に安は千葉に書「為国献身軍人本分」「日韓友誼(ゆうぎ)善作紹介」を贈っており、その遺墨に使われた硯だろう。千葉は2人の友情の証として遺墨を故郷で大切に保管し、安の生誕100周年にあたる1979年に子孫が韓国へ返還。かの地で国宝に指定された。この硯も韓国では間違いなく国宝級。硯を発見したのは埼玉の古い硯の収集家。旧満州鉄道のコレクションの中にあった。収集家いわく「安重根の魂のこもった品だから、硯に刻まれた思いを大事にしてくれる場に寄贈しようと思った」。そして千葉十七と安の法要を毎年営む大林寺に、安が使用したとみられる墨片と一緒に08年4月に奉納したとのこと。



★キリスト/Jesus Christ B.C.4-A.D.30.4.3 (イスラエル、エルサレム 33歳)1994
Church of the Holy Sepulchre, Jerusalem, Israel
※Basilica of the Holy Blood, Bruges, Belgiumの説もあり






墓所前の大行列 棺のフタが外されていた(二重底になっている)
名前のイエスは「救う者」、キリストは「救い主」という意味。僕は旧約聖書の神の残酷性(“汝殺すなかれ”と定めながら洪水や硫黄の雨で大量殺戮している)に閉口しているが、キリストはその真摯な言動がハートにガンガン響いてくるので、人間として大好きだ!墓はゴルゴダの丘に建てられた聖墳墓教会の第14区にある(“ゴルゴダ”はヘブライ語で頭蓋骨の意味)。聖墳墓教会はカトリック教会、アルメニア教会、ギリシャ正教会、コプト教会に共同管理されている。聖書にはキリストが死後3日目に復活したと記されており、当然墓は空っぽだ。

※古代ローマ時代の偉大な歴史家タキツスは、イエスがピラトによって処刑されたと断言している(イエスは実在)。
※エルサレム旧市街の聖墳墓教会は、紀元後33年頃にキリストの遺体が安置されたとされる岩窟の上に、19世紀に建てられた聖堂。

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※2016年10月、聖墳墓教会にある「キリストの墓」が、修復作業の専門家によって少なくとも2世紀ぶりに開かれた。修復作業と考古学調査のため、墓の大理石の厚板を3日間にわたって取り外した。厚板を動かしたのは、火災を受けて1810年以前に行われた前回の修復作業以来。修復プロジェクトは2017年3月の復活祭頃に完了する予定。


AFP通信カメラマン、ガリ・ティボン氏の撮った写真が貴重すぎる!→
霊廟の全景。修復の足場が組まれている キリストの墓を覆う石板を取り外す






墓の側にキリストのレリーフ これが初めて撮影された墓の内部!!

  



★マハトマ・ガンジー/Mohandas "Mahatma" Gandhi 1869.10.2-1948.1.30 (インド、ガンジス河&ロス、サンタモニカ 78歳)2000
Cremated, Ashes scattered, Ashes scattered in the Holy Triveni Sangam at Allahabad



聖なるガンジス河。彼の遺灰はガンジスのほか各地に撒かれた バラナシはヒンドゥー教シヴァ神の聖地。早朝から沐浴する人がいっぱい


ガンジーが暗殺された場所は彼の記念館になっている(デリー)
中庭まで足跡が続き、階段を上がって7歩目で銃撃された 最後の言葉「おお神よ!」が刻まれている





ガンジーの部屋を再現。糸車が手前にある 記念館のあちこちにガンジーの言葉があった 超笑ってるガンジー!



デリーのこの火葬場(「ラージガート」)で亡骸は荼毘に デリーを流れるヤムナ川。ここにも遺灰は流された

 
米国アトランタのキング牧師博物館の前にはガンジーの銅像が立っている(2009)

ロスのこの寺院はガンジーの墓を祀る為だけに作られた 左の門の奥にはガンジーの遺灰を納めた棺が!(2000)
なぜインドで暗殺されたガンジーの墓がロサンゼルスに!?最初に海外のサイトでこの情報を知った時、十中八九ガゼネタだろうと踏んでいた。しかし、本当にお墓があった!ガンジーの友人でヨガの高名な導師パラマハンサ・ヨガナンダが、譲り受けた遺灰の一部をこの地に寺院を建てて弔った。ハリウッド郊外のサンタモニカにある、とても静かで美しい寺院だった!

「私は失望するといつも思う。歴史を見れば真実と愛は常に勝利を収めた。暴君や残忍な為政者もいた。一時は彼らは無敵にさえ見える。だが結局は滅びている。それを思う」。1869年にインド西部の名家に生まれたモハンダス・カラムチャンド・ガンジーは、13歳で結婚。19歳の時に弁護士を目指して英国留学し、3年後に帰国。24歳(1893年)、商社の顧問弁護士として赴任した南アフリカで人生を変える屈辱的な体験をする。1等車に乗っていたところ、インド人(有色人種)であることを理由に、車掌の手で列車から突き落とされたのだ。しかも当時の南アでは、アジア人登録法によってインド人移民者は指紋押捺が義務づけられ、キリスト教徒以外の婚姻は認められなかった。ガンジーは「我々は犯罪者ではない」と、政府が携帯を義務づけた身分証を燃やして激しく抗議する。結果、彼は反政府的との理由で警官に殴打され何度も投獄された。この差別反対闘争は約20年間も続き、最終的に政府が譲歩してインド人の差別待遇を撤廃した。
この運動の中で、移民者の中には“俺たちを侮辱する役人を殺せ”と気炎を上げる過激な連中もいた。ガンジーは明確に非暴力・非服従の方針を打ち出し語りかける「何をされようと、我々は攻撃しない、殺しもしない。だが絶対に指紋を押さない。そのため投獄、罰金、財産没収もあるでしょう。しかし、我々が与えぬ限り、自尊心は奪えません!負けてはなりません。彼らは無慈悲に責め、骨を砕き、殺すこともあるでしょう。だが、彼らは我々の死体を手に入れても服従は手に出来ません!」。
※青年ガンジーが非暴力思想に至ったのは、いわく「ヒンドゥー教本来の精神は非暴力であり、またキリスト教(山上の教訓)でも、仏教でも非暴力が説かれており、さらにトルストイの平和主義にも影響を受けた」とのこと。

ガンジーの非暴力運動(アヒンサー)は母国インドにも伝わり、1915年(46歳)に帰国した彼は英雄として迎えられ、詩人タゴールは“マハトマ”(偉大な魂)と呼んだ。そして独立運動を展開中の国民会議に加わり祖国を見て周るなか、チャンパランなど地方の貧窮ぶりに強い衝撃を受ける。英国人の大地主が高額の地代を農民に要求するため、多くのインド人が極貧に苦しんでいた。1919年、英国はインド独立の気運を封じる為に、集会の禁止、令状なしの逮捕や裁判抜きの投獄を合法化する圧力法(ローラット法)を制定。国民会議の武闘派はガンジーに対し「非暴力という消極的抵抗では解決できない」と非難するが、「私は消極的なものを主張したことはない。相手に絶対に従わない、これは極めて積極的なことだ。テロは圧政を正当化する。彼らの心を変えるのだ」と反論。そして平和的に植民地政府や英国企業に大ダメージを与える方法として、インド全土にストライキを呼びかけ英国の統治に反旗を翻した。このストライキ作戦が起爆剤となってさらに独立運動が熱を帯びた。焦った英国は弾圧を強化。英国軍のダイヤー将軍はストの3日後に北西部の小都市アムリツァールにて、“集会禁止令の徹底のため”、独立運動で広場に集まった約1万の市民に対して警告なしの一斉射撃(1650発)を加え、死者374名、負傷者1142名という大虐殺を行った。※しかもこの集会では平和的に「もし我々が暴動を起こせば我々は悪者となる。彼らの殴打に耐えれば彼らが悪者だ。我々は怒りに耐える勇気を持たねばならない」と説いていた。
虐殺事件について厳重抗議を申し入れたガンジーに対し、英国はヒンズーとムスリム(イスラム教徒)の対立を引き合いに出した。「英国の統治なしではこの国は無秩序となる」「たとえ未熟でも自分の政府を持ちたいのです。外国の支配よりはね」「我々英国人が去るとでも?」「はい。結局は出て行きます。インド人の協力なしで10万の英国人に3億5千万のインド人は支配できませんから。我々は実行します--平和的、非暴力的に、非協力を。去った方が利口ですよ」。
しかし、英国のなりふり構わぬ圧政に激怒した一部の民衆は暴徒化し、警察署が焼討ちされ約20名の警官が殺されてしまう。「非服従運動はまだ早かったのか」ガンジーはすぐさま全活動を停止した。周囲からは「運動の継続を!せっかく全インドが動き出したのに」と声があがるが「どの方向に?殺人と流血による自由は要らん」と、“全てのインド人が武力闘争をやめるまで断食をする”と宣言、3日後人々の胸にガンジーの声が届き暴徒は武器を置いた。同年、ガンジーは独立運動を煽ったとして投獄され懲役6年の判決を受ける。

「英国人の憎悪を増す暴力は使わず、しかも断固たる態度を取る」。1930年、ガンジーは一時停止していた独立運動を再開させる。中断から8年が経ち既に61歳になっていた。再開のきっかけは“塩”だ。塩は人間が生きる為に必ず必要なものだけど、英国政府はインド人が塩を生産したり販売することを法律で禁止じ、自分達が塩を専売していた。英国にとって塩は植民地の大切な収入源であり、また“支配者”として生存に不可欠なものを押さえておくことに価値があった。ガンジーは“なぜ自分の国で塩を作ることを他国の人間に禁止されねばならぬのか”と憤り、インド人の手で塩を作ることを公然と宣言、海岸まで385キロの道のりを約3週間をかけて歩いた。『塩の行進』と呼ばれるこの製塩運動は全土に広まり500万人が参加。各地の海岸で非合法の塩が売られ、英国支配に対する抵抗運動の象徴となった。インド人によって新たに設立された製塩所は英国に取り上げられ、工場の門は英国軍が封鎖した。民衆は“これは我々の製塩所だ”と、列を作って門に行進し、先頭から順番に警棒で殴打された。前を進む者が頭を割られ流血しても、後の者が黙って進み出てまた殴打された。誰一人、軍隊に殴り返さなかった。人々は「マハトマのために」を合言葉に非暴力を貫いた(ドキュメンタリーでこの命がけの映像を見た人もいると思う)。現場にいた海外のジャーナリストは次のように記す「西洋人がいかに精神的優位を誇ろうと敗北は決定的だ。インドは必ず独立する。彼らは残虐と弾圧をすべて甘受しつつ、頭も下げず退却もしないからだ」。ガンジーは続けて英国製の綿製品の不買運動を呼びかけ、“自分達で糸を紡ぎインドの服を着よう”と自ら率先して糸車を廻し続けた。一連の不服従運動でガンジーは罪に問われ、後に初代首相となるネルーを含め6千人が投獄された。

翌年に釈放されたガンジーは、ロンドンに渡って独立の直接交渉に入る(英国でチャップリンはガンジーと“機械文明の負の側面”を語り合い映画『モダンタイムス』の着想を得たという)。そしてインド国内ではインド人同士の深刻な差別、カースト制度からも除外されたアウト・カーストの人々をハリジャン(神の子)と名付け救済運動をスタートさせる。第二次大戦が勃発すると、戦争反対を訴えるガンジーは幽閉された。1942年(73歳)、ガンジーは日本に対して以下の声明を発表する。「帝国主義に対する私たちの反抗は英国人に危害を加えるという意味ではありません。私たちは彼らを改心させようとしているのです。この非武装の闘いには外国からの援助を必要とはしません。もし私たちが英国の苦境に乗じて好機を掴もうと思っているのなら、既に大戦が勃発すると同時に行動を起こしていたはずです。日本はインドの解放・独立を熱望していられるとのことですが、それは日本による無慈悲な中国侵略と矛盾しています。あなたがたが、もしインドから快く歓迎されるものと信じていられるなら、幻滅の悲哀を感じることになると、思い違いのないようお断りしておきましょう」(詳細は後記)

世界大戦が終結すると、英国はこれ以上インドを植民地にすることは不可能と断念。「たった一人の粗末な白衣をまとった小男にイギリスが敗れた」(チャーチル)。そしてガンジーは独立に向けた最終段階に入る。イスラム教徒とヒンズー教徒の和睦だ。英国にとっては宗派が対立している方が“治安維持”を名目に植民地支配を継続でき好都合。それゆえイスラム側に権利拡大の揺さぶりをかけ戦争にも参戦させていた(インドでは今も対立を煽った英国に怒ってる人が多い)。
ガンジーは新しい国旗にも和解の願いを込めた。三色旗のオレンジ色はヒンズーを、緑はイスラムを、白は平和を表し、国旗の中心にはブッダの精神を生かそうという願いを込めて法輪(チャクラ)が置かれた。法輪は仏教を厚く擁護した古代アショカ王の象徴だ。しかし、ガンジーの力を持ってしても両宗派の融和は不可能だった。1947年8月、150年に及ぶ英国支配に打ち勝った悲願の独立は達成されたが、西インドはパキスタン(イスラム国)とて分裂した。

独立後、印パ国境の衝突が全土に飛び火し、各地でイスラムとヒンズーが殺し合う悲惨な状態になった。悲嘆に暮れたガンジーは、「全ての民衆が武器を捨てるまで」という無期限の断食をカルカッタで行なう。78歳の老人はどんどん衰弱していき、新聞には“死の断食”と報道された。数日後、「このままではマハトマが死んでしまう」と人々は我に返り、悲劇の衝突は収まった。翌1948年1月30日、宗教融和を訴えてパキスタンを訪れようとした矢先、夕べの祈りの際に極右ヒンズー教徒の青年に正面から3発の凶弾を浴びた。暗殺の理由は「イスラムに対して弱腰すぎる」というものだった。ガンジーは倒れながら「おお神よ!」とつぶやき絶命した。葬儀には250万を越える民衆が集まり、母なるガンジスに遺灰は流された。アインシュタインは「将来の人々はとても信じないだろう。このような人間が地球上に実在したことを」と追悼した。
ガンジーが暗殺される前に残した次の詩は遺言詩となった--「束縛があるからこそ 私は飛べるのだ/悲しみがあるからこそ 高く舞い上がれるのだ/逆境があるからこそ 私は走れるのだ/涙があるからこそ 私は前に進めるのだ」。

※1937年以降ノーベル平和賞の候補に5回なったが、ガンジーは毎回これを固辞して受賞しなかった。
※南アフリカのダーバン沖にもガンジーの遺灰の一部が流された。
※ガンジーは毎週月曜日を“沈黙の日”として筆談しか行わなかった。
※初代首相ネールの娘インディラ・ガンジーは、彼女の夫フェローズの姓が偶然ガンジーだっただけで、マハトマ・ガンジーとは何の関係ない。しかし、インド国民でさえネールとマハトマの一族が姻戚関係にあると誤解している者は多いという。

【ガンジー名言集】
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
「明日死ぬと思って生きよ。永遠に生きるつもりで学べ」

Victory attained by violence is tantamount to a defeat, for it is momentary.
「暴力によって得た勝利は敗北に等しい。それはつかの間のものだから」

Non-violence is the first article of my faith. It is also the last article of my creed.
「非暴力は私の信念の第一章であり、また私の信条の最終章でもある」

「世界に変化を望むならば、自らがその変化の一部となれ」
You should be the change that you want to see in the world.

An eye for an eye makes the whole world blind.
「“目には目を”で行けば、やがて全世界が盲目になってしまう」

You must not lose faith in humanity. Humanity is an ocean; if a few drops of the ocean are dirty, the ocean does not become dirty.
「人間性への信頼を失ってはならない。人間性とは大海のようなものである。(負の感情や一部の悪党で)ほんの少し汚れても、海全体が汚れることはない」

The weak can never forgive. Forgiveness is the attribute of the strong.
「弱者ほど相手を許すことができない。許すということは強さの証だ」

All my actions have their rise in my inalienable love of mankind.
「私の全行動は人類への奪うことのできない愛から生じる」

Earth provides enough to satisfy every man’s need, but not every man’s greed.
「地球はすべての人の必要を満たすものを与えてくれる。それはすべての人の欲を満たすものではない」
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「真理は永遠であるため、そこから出される歓喜もまた永遠です」
「握り拳と握手はできない」
「非暴力とは、悪を行う人間の意志におとなしく服従することではなく、暴力者の意志に対して全霊で立ち向かうことである」
「良心の問題に関しては、多数決の法則は適用されない」
「自分で投げ捨てさえしなければ、誰も私達の自尊心を奪う事はできない」
「燃え続ける信念の炎は、我々に光を与えるだけでなく周囲をも照らす」
「偉大な人を見よ!彼らは常に一人立つ」
「ヨーロッパは神の、あるいはキリスト教の精神を表さず、むしろサタンの精神を表している--これは私の信念である。そしてサタンの成功が最大になるのは、「神の名において」と、その口に神の名をのせて現れる時である」
「「私はイエスは愛するが、イエスの精神を実践しない教会は愛さない」
「どの宗教でも言ってることは同じで簡単な真理です--“汝の隣人を愛せよ”」
「重要なのは行為そのものであり結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、生きているうちに分かるとは限らない。正しいと信ずることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ」


ガンジー『すべての日本人に』(1942年7月26日発表)
 
※インド国境に迫る日本軍に対して武力による勝利の空しさを説き、帝国主義戦争の停止を求めた公開状。(一部略)
 
最初に私は、貴方がた日本人に悪意を持っている訳ではありませんが、貴方がたが中国に加えている攻撃を極度に嫌っている事を、はっきり申し上げておかなければなりません。貴方がたは崇高な高みから帝国主義的な野望にまで堕してしまわれたのです。貴方がたはその野心の実現に失敗し、ただアジア解体の張本人になり果てるかもしれません。かくして、知らず知らずのうちに、貴方がたは世界連邦と兄弟愛--それらなくしては人類に希望はありえないのですが--を妨げる事になるでしょう。
 
今から50年あまり前に、私は18歳の青年としてロンドンに留学していましたが、今は亡きサー・エドウィン・アーノルドの著作を通して、日本民族の多くの優れた資質を賞讃する事を学びました。楽しい思い出を背景に持っておりますだけに、私にはどうしても理由のないものに思われる貴方がたの中国に対する攻撃のことや、報道が信頼できるなら、あの偉大な古い歴史をもつ国土を貴方がたが無慈悲にも蹂躙(じゅうりん)している事を思う度に、私は深い悲しみを覚えます。世界の列強と肩を並べたいというのは、貴方がたの立派な野望でありました。けれども、貴方がたの中国に対する侵略や枢軸国との同盟は、確かにそうした野心が昂じた不当な逸脱だったのです。
その国の古典文芸を貴方がたが摂取されてきた、あの偉大な古い国の民族が貴方がたの隣人であるという事実に、貴方がたが誇りを感じていられるものとばかり思っていました。お互いの歴史・伝統・文芸を理解し合うことは、貴方がた両国民を友人として結びつけこそすれ、今日のように敵同士にするはずはありません。
 
帝国主義に対する私たちの反抗は、イギリス人に危害を加えるという意味ではありません。私たちは彼らを改心させようとしているのです。それは英国支配に対する非武装の反乱です。今やこの国の有力な政党は、外国人の支配者たちと、決死の、それでいて友好的な闘いを交えているのです。  しかしこの闘いには、外国からの援助を必要とはしません。聞くところでは、貴方がたのインド攻撃が差し迫っているというこの機会を捉えて、私たちが連合国を窮地に追いやっていると言うふうに伝えられているそうですが、それは由々しい誤報です。もし私たちがイギリスの苦境に乗じて好機を掴もうと思っているのなら、既に三年前に大戦が勃発すると同時に行動を起こしていたはずです。
インドから英国勢力の撤退を要求する私たちの運動を、どんな事があっても誤解して貰ってはなりません。実際、伝えられるとおり、貴方がたがインドの独立を熱望していられることを信じてよければ、イギリスがインドの独立を承認した場合、貴方がたはインド攻撃の口実を失うはずです。さらに、伝えられるところの貴方がたの(米英への)宣戦布告は、貴方がたの無慈悲な中国侵略と矛盾しています。
 
貴方がたが、もしインドから快く歓迎されるものと信じていられるなら、幻滅の悲哀を感じることになるだろうという事実について、思い違いのないようお断りしておきましょう。イギリスの撤退を要求する運動の目的と狙いは、インドを解放にすることによって、イギリスの帝国主義であろうと、ドイツのナチズムであろうと、あるいは貴方がた日本の型(タイプ)のものであろうと、一切の軍国主義的・帝国主義的野心に抵抗する準備をインドが整える事にあります。もし私たちがそれを実行に移さなければ、私たちは、非暴力こそ軍国主義精神や野心の唯一の解毒剤であることを信じていながら、世界の軍国主義化をただ傍観しているだけの卑怯者になり果てるでありましょう。
 
貴方がたから私の訴えに応えを期待するのは、イギリスから応えを得るよりも遥かに望み薄です。イギリス人は正義感を失ってはいませんし、また彼らの方でも私を知ってくれていると思います。これまで私が読んだ全てのものは、貴方がたはいかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない、ただ剣にのみ耳を貸す民族だと語っています。その様に考えるのは貴方がたを甚だしく誤解している事でありますように、そして、私が貴方がたの心の正しい琴線に触れる事が出来ますようにと、どんなにか念じている事でしょう!
ともかく、私は人間性には互いに反応し合うものがあるとの不滅の信念を抱いています。その信念の力の故に、私はインドで今にも乗り出そうとしている運動を考えています。そして、貴方がたにこの訴えをするよう私をうながしたのも、他ならぬその信念です。
貴方がたの友であり、その幸いを祈る者である  M.K.ガンジー



★ キング牧師/Martin Luther King,Jr 1929.1.15-1968.4.4 (USA、アトランタ 39歳)2000&09
Martin Luther King, Jr. Center, Atlanta, Fulton County, Georgia, USA

  
“I have a dream.That one day on the red hills of Georgia. the sons of former slaves and
the sons of former slave-owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.”

1963年8月28日、人種差別撤廃を求めた20万人が行なったワシントン大行進において、キング牧師はリンカーン記念堂でこう高らかに演説した。
「私は夢見ている。いつの日か、ジョージア州の赤い丘の上で、かつての奴隷の子達と、かつての奴隷所有者の子達が、兄弟愛というテーブルで席を共にできることを。私は夢見ている。いつの日か、不正と抑圧という熱で苦しんでいる不毛の州、ミシシッピーでさえ自由と正義というオアシスに変わることを。私は夢見ている。いつの日か、私の4人の子ども達が肌の色ではなく人物の内容によって判断される国に住むことを!」

アラバマ州の黒人デモに放水を浴びせかける市当局

白人の罵声の中での抵抗運動

黒人専用席に座ることを拒否し
頭にビールをかけられる女性








1963年4月12日、アラバマ州バーミングハムの
抗議デモで市警に逮捕されたキング牧師
キング牧師にかけられた手錠

獄中のキング牧師。独居房に
1週間投獄されていた




1968年4月4日、テネシー州メンフィスのモーテル「ロレアンヌ」の
バルコニーで白人の右翼活動家に暗殺された
倒れたキング牧師と犯人が
いた方向を指さす側近たち
キング牧師の葬列。狙撃犯のジェームズ・アール・レイは
強盗の常習犯でもあり、刑務所を事件前年に脱獄していた





アトランタのキング牧師の生家。お墓のすぐ
近くだ。見学ツアーの子供が続々と到着!
生家前で出会ったスウェーデン人の若者。
左の青年はオバマTシャツ(パロ)を着ていた
若きキング牧師。ちょっとスリム

故郷アトランタにあるキング牧師の墓域全景


キング牧師の墓。「ついに自由を得た」とあった(2000) 約10年後に再訪。墓が大きくなっていた!(2009) 2006年に他界したコレット夫人と共に眠る


アトランタのキング記念館入口。愛娘を抱っこするキング牧師。すごく良い写真! キング記念館の前には非暴力の象徴、ガンジー像が立つ とても子煩悩だったキング牧師

 
キング記念館には民衆の人形が窓から差し込む光に向かって歩いている。
彼らの目線の先、窓の外にはキング牧師の墓がある!
お墓の前で写真を撮る巡礼者。
順番待ちが出来るほど墓参者が多い





キング記念館にある、思わず感動した全身ミラー。扉には「世の不正義を終わらせる
ことができる指導者は誰か?扉を開けて未来の指導者を見よう」と書かれている!
葬儀の日、キング牧師の棺を載せていた荷車




記念館の時計は暗殺された
午後6時ごろで止まっている
売店にあったキング&オバマTシャツ。
「DREAM FORWARD」の言葉に感動
全米のあちこちにキング牧師通りがある


「長生き出来るかどうかなど、今の私にはどうでもいい!私は皆さんと一緒に行けないかも
しれないが、ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう」(暗殺前日の演説から)

1964年にノーベル平和賞を受賞。非暴力で黒人の公民権運動を推し進め、最後は人種差別の根強い南部メンフィスで白人の
凶弾に倒れた。亡骸は生家のあるアトランタに埋葬され、墓のそばにはキング牧師の戦いを記録した博物館が建てられた。
黒人の子どもが遠足でいっぱい来てたけど、白人の姿は外国人旅行者以外、見事なまでに皆無だった…。ウーム。

「(ベトナムで)今米国は一人の敵を殺すために50万ドル使っているが、貧しい人の地位向上のためにたった53ドルしか支出していない」(キング牧師)
「第一歩を信じよ。階段全てを見る必要はない。とにかく最初の一歩を踏み出せ」(キング牧師)















視界の彼方まで続く20万の人の波。キング牧師やカメラマンの表情からも
会場の興奮が伝わってくる。この翌年、人種平等をうたった公民権法が成立した!
1968年メキシコ・オリンピックにて。直前にキング牧師
が暗殺され、無言で追悼&怒りの拳をあげる黒人選手

Darkness cannot drive out darkness;
闇は闇を追い払えない;
only light can do that.
ただ光だけがそれをなし得る。
Hate cannot drive out hate;
憎しみはヘイトを追い払えない。
only love can do that.
ただ愛だけがそれをなし得る。
Hate multiplies hate,
憎しみはヘイトを加速させ、
violence multiplies violence,
暴力はさらなる暴力を生み、
and toughness multiplies toughness
そして強情が強情を呼ぶ、
in a descending spiral of destruction....
破滅のらせんを下りながら…。
The chain reaction of evil --
悪の連鎖−
hate begetting hate,
憎しみを生む憎しみ、
wars producing more wars --
さらに多くの戦争を生む戦争−
must be broken,
打ち倒さねばならない、
or we shall be plunged
さもないと、我々は急落されるだろう
into the dark abyss of annihilation.
絶滅の暗く深い穴に。
 
Dr. Martin Luther King, Jr.
Strength To Love, 1963/愛のための力



The ultimate weakness of violence is that it is a descending spiral,
暴力の決定的な弱さは、それが下降するらせんだからです、
begetting the very thing it seeks to destroy.
破壊しようとして、まさに暴力を生んでしまうのです。
Instead of diminishing evil, it multiplies it.
悪を減らす代わりに、暴力は暴力を増やします。
Through violence you may murder the liar,
暴力を通して、あなたはうそつきを殺害するかもしれません、
but you cannot murder the lie, nor establish the truth.
しかし、あなたはうそを消すこともできないし、真実を証明することもできません。
Through violence you may murder the hater,
暴力を通して、あなたは憎悪する者を殺害するかもしれません、
but you do not murder hate.
しかし、あなたは憎しみを消すことはできません。
In fact, violence merely increases hate.
実際、暴力は単に憎しみを増やすだけです。
So it goes.
そしてそれが続いていく。
Returning violence for violence multiplies violence,
暴力に暴力を返すことは、さらに暴力を増やします、
adding deeper darkness to a night already devoid of stars.
すでに星のない暗い夜を、さらに深い漆黒の闇にしてしまうことです。
Darkness cannot drive out darkness;
闇は闇を追い払えない;
only light can do that.
ただ光だけがそれをなし得る。
Hate cannot drive out hate;
憎しみはヘイトを追い払えない。
only love can do that.
ただ愛だけがそれをなし得る。

Dr. Martin Luther King, Jr. リンク



★レーニン/Vladimir Lenin 1870.4.22-1924.1.21 (ロシア、モスクワ 53歳)1987&2005
Red Square, Moscow, Russian Federation


レーニンは真面目な写真が
多いので、笑顔の写真は貴重
好々爺のような優しい表情。
これもなんかイメージ変わる
歴史を変えた男。まさか死後に
スターリンの独裁国になろうとは
亡命先では変装してた。
誰か分からん!(笑)
街角で民衆に向かって
熱弁を振るうレーニン

  

名前は「レナ川の人」の意。地下活動の間に使った偽名は、バシル、カルポフ、リヒテル、フレイなど約150個に及ぶ。
ロシア革命の指導者となり、最後は暗殺された(犯人はスターリンという説アリ)。赤の広場の廟にホルマリン漬けで眠っている。
この墓を最初に訪れたのは87年。当時は「ソ連」だったので今と国旗が違う(写真右上に赤旗がたなびいてる)。



夜更けまで人通りが絶えない



★アンネ・フランク/Anne Frank 1929.6.12-1945.3.31 (ドイツ、ベルゲン・ベルゼン 15歳)2005
※本名はAnnaliese Frank、亡くなったのは3月初めor3月12日と証言する生存者もいる
Mass Grave at Bergen-Belsen, Lower Saxony, Germany



夢は作家だった。アンネはオランダを代表する人物として有名だが、出身はドイツ・フランクフルト。
亡命時に無国籍となってそのまま死んだので、どの国家の国籍も市民権も持っていない。


〔アムステルダムの隠れ家〕





アムステルダムにある隠れ家。密告
でここからアウシュビッツへ送られた
(行列のある建物。見学可能)
隠れ家の正面には運河が流れている


側にあったアンネ
の追悼モニュメント


〔アウシュビッツ強制収容所〕

『働けば自由になる』と書かれた門 高圧電流が流れていた鉄条網 藁敷きのベッドにすし詰めにされていた

髪の毛 クツ メガネ そして使用済みの毒ガス缶

不気味なガス室。居住区から離れている

この部屋で大量に人が殺されたと思うと、10秒
いるだけで気が狂いそうになった。息ができない!
ガス室に隣接している焼却室。額から冷たい
汗が吹き出て、頭痛と吐き気に襲われた

〔ベルゲン・ベルゼン強制収容所〕

アンネはアウシュビッツからベルゲン・ベルゼンへ移送され、ここが終焉の地となった






収容所入口のモニュメント この塚には2500人が埋葬されている こちらは5000人!言葉が出ない…





姉マーゴットとアンネの墓には世界中の人々からメッセージが寄せられていた。どうか安らかに。

1929年6月12日、アンネ・フランクはユダヤ人銀行家の次女としてドイツ・フランクフルトに生まれる。姉のマルゴット・フランク(マルゴー)は3歳年上。1932年、反ユダヤ主義を掲げるナチ党が国会で最大議席を獲得。翌1933年(4歳)、1月にナチ党の党首アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任。アンネの父オットーはこのままドイツにいては深刻な迫害を受けると判断、フランク家は知り合いを頼ってオランダのアムステルダムに移住した。オットーは同地で食品会社「オペクタ商会」を経営する。1934年(5歳)、アンネは子どもの自主性を徹底して尊重する自由教育で知られる(時間割さえない)モンテッソーリ・スクールの付属幼稚園に入学。翌年、同スクールに進学した。個性を育む革新的な学校で、アンネはドイツからの亡命者という同じ境遇の少女ハンネリ・ホースラル(ハンネ)と仲良くなった。同年、ドイツではニュルンベルク法が施行されユダヤ系と非ユダヤ系の結婚が禁じられる。
1938年(9歳)、父オットーはアムステルダムに香辛料を扱う「ペクタコン商会」を設立。同年、母エーディトの実家が経営する商社が、強制的にドイツ系企業に買収される「アーリア化」の憂き目に遭い、財産を失ったアンネの祖母(72歳)がフランク家に加わった。アンネはこのお婆ちゃんが大好きだった。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発。8カ月後の1940年5月10日、ドイツ軍はオランダに雪崩れ込んだ。政府閣僚は英国に逃亡し、オランダ軍はドイツ軍に屈服。ドイツ軍侵攻からたった5日でオランダ政府は正式に降伏文書に調印し、全土を占領された。
占領当初のナチスは、まだオランダ以外との戦争が残っていた為、ユダヤ人を目立って弾圧することなく、穏やかな統治を行っていた。だが、同5月下旬にベルギーが降伏し、翌月にはフランスまでもが屈服。戦局が一段落したことで、ナチスはオランダでも反ユダヤ主義をあらわにしていく。
オランダ降伏の2カ月後(1940年7月)、オランダ国籍を持たない亡命ユダヤ人に対して氏名・住所の登録が命じられた。10月、ユダヤ人企業に登録が義務付けられる。オットーは「アーリア化」を防ぐためにオランダ人従業員を仮の所有者とする偽装会社「ヒース商会」を設立した。
1941年(12歳)1月、ユダヤ人は映画館に入れなくなり、ハリウッドスターの切り抜き写真を集めていた映画ファンのアンネはとても悲しんだ。5月、ユダヤ人はホテル、公園、プールなど公共施設への立ち入りを禁止される。アンネはプール禁止で日焼けができなくなったことを手紙で嘆いた。8月、ユダヤ人はユダヤ人学校に通うことが強制され、アンネはモンテッソーリ・スクールに行けなくなった。ユダヤ人学校で新しい友人ジャクリーヌと出会ったアンネは、お泊まりでジャクリーヌの家に遊びに行く際、“旅行気分を出すために”少ない荷物でもスーツケースで訪問したという。

1942年(13歳)1月、同居していた祖母が癌で病没。お婆ちゃんっ子のアンネは悲しみに打ちひしがれる。4月、ユダヤ人は黄色いダビデの星を付けることが義務付けられた(既にドイツやポーランドでは実施されていた)。
6月12日、アンネは13歳の誕生日プレゼントとして、赤と白のチェック模様が表紙のサイン帳を父からもらった。アンネは日記をつけることにし、さっそく同日にこう記した「あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね」。空想好きのアンネは日記帳を架空の親友と見なして「キティー」(当時の人気小説の主人公の名前?)と呼び、“彼女”に手紙を書くという形でペンを走らせた。
日記を付け始めて半月が経った6月末、ユダヤ人外出制限命令が施行される。これによって、ユダヤ人の夜間外出は禁じられ(20時〜6時)、非ユダヤ人を訪問したり、訪問を受けることも禁止された。アンネは親友宅にお泊まりに行くことも、ユダヤ人以外の友達の家を訪れることも出来なくなった。

この頃になると、ユダヤ人を強制労働させるための“ユダヤ人狩り”が大っぴらに行われるようになり、英国BBC放送は「ユダヤ人はポーランドへ連行されて虐殺される」と報道していた。身の危険を察知したオットーは、4階建ての会社の建物を改築して、3階と4階、そして屋根裏に隠し部屋「後ろの家」を作った(「後ろの家」は最初にオランダでアンネの日記が刊行された際のタイトル)。入口は会社3階の本棚の後ろの隠し扉だった。
7月5日、姉マルゴーにナチス親衛隊から「明日ユダヤ人移民センターへ出頭せよ」と召集命令が届いた。この令状はアムステルダムの15歳から16歳のユダヤ人数千人に一斉に出されたもので、行き先はドイツ国内の強制労働収容所だった。オットーはマルゴーを守るため「後ろの家」に潜伏することを決断。翌朝7時45分、アンネたちは家を出た。オットーはスイス亡命を匂わせる手紙を知人に残したことから、近所では「スイスに逃げたらしい」と噂が広まった。
7月6日にフランク家が「後ろの家」に隠れた後、7月13日に同じユダヤ人で会社の相談役だったヘルマン・ファン・ペルスの3人家族&猫が合流し、4カ月後(11月)には歯科医のフリッツ・プフェファーが加わり、計8人が2年間共同生活を行った。
隠れ家には「カーテンを開けてはならない」など厳重なルールがあり、会社の一般従業員に水流の音でバレないよう、トイレの使用は会社が無人になる早朝と夕方以降に限られた。病気になっても病院に行けないため、アンネがインフルエンザになった時は、大人たち全員で懸命に看病して乗り切った。

「後ろの家」は3階にフランク家の部屋、プフェファーの部屋、洗面台とトイレがあり、4階にはリビングルーム、ファン・ペルス夫妻の部屋、ファン・ペルス家の長男ペーター(16歳、アンネの3歳年上)の部屋があった。食料や日用品を「後ろの家」に運び込む役を引き受けてくれたのは、会社の非ユダヤ人社員であったミープ・ヒース、ヨハンネス・クレイマン、ヴィクトール・クーフレル、ベップ・フォスキュイルら。食料は屋根裏部屋に貯蔵された。
狭い密室空間に8人が暮らすことで、閉塞感から気短になり、些細なことで衝突が起きることもあった。アンネは反抗期の難しい年頃であり、母親と度々喧嘩をしたが、一方で「お母さんは私の気持ちを分かっていないけれど、私だってお母さんの気持を分かっていないわ」と日記で反省を綴った。アンネは御転婆(おてんば)タイプの自分よりも、物静かで優等生タイプの姉を母が愛していると思い込んでおり、オットーが誤解を解くため骨を折った。一方、8人は家庭内のいさかいや家族同士の対立を深刻化させないため、誕生日はもちろん、ささいなことでも互いに祝い合うなど、積極的に良い空気を作る努力を続けた(みんなで服を交換して変装し、お腹を抱えて笑い転げた話なども日記にある)。

この潜伏生活において、アンネにとって最大の事件はペーターと恋仲になったことだ。当初のアンネはペーターを低く評価しており、日記に登場するのは初対面から1ヶ月後、内容は「グズで不器用」「遊んでも面白くなさそう」と散々だった。その後も「彼を相手にする人はいない」など突き放していたが、1年半が経った頃から、「彼は人一倍シャイなだけ」と寛容になり、続いて異性として意識するようになり、ついには「朝早くから夜遅くまで、ペーターのことを考えるばかりで他のことは手に付きません。寝るときは彼の面影をまぶたに描きながら眠り、彼のことを夢に見、目を覚ました時にも彼が私を見つめているのを感じます」(1944年2月27日)と記すまでに至る。
そして1944年4月16日、ファーストキスの思い出が綴られる。「昨日の日付を覚えておいて下さい。私の一生の、とても重要な日です。どんな女の子にとっても、初めてキスされた日といえば記念すべき日でしょう?」。ペーターは18歳、アンネは15歳。2人は公認の仲になったが、永遠の別れが近づいていた。
キスを記したその翌月、5月25日に野菜を確保してくれていた八百屋の主人ファン・フーフェンが、別のユダヤ人2人を匿っていたことが発覚しゲシュタポ(秘密警察)に連行された。「後ろの家」の食糧事情は悪化し、1週間に1、2種類の食事しか食べられなくなった。だが、どんなに状況が悪化してもアンネは希望を捨てなかった。別れの前月、1944年7月15日の日記には「いろんなことがあるけれど、私はまだ人間は心の底では善良なのだと信じています」と記した。この後、7月21日、8月1日に日記を書き、それが最後となった。

1944年8月4日午前10時半頃、「後ろの家」がある会社に、ゲシュタポのカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長と複数のオランダ人私服警官が乗り込んだ。ゲシュタポは隠れ家の入口が本棚の後ろにあることを知っていた。誰かが匿名で密告したのだ。最初に3階にいた母エーディトが拘束され、次にアンネとマルゴーが拘束され、さらに4階のファン・ペルス夫妻とプフェファーが拘束された。最後に屋根裏でペーターに英語を教えていたオットーが見つかった。ゲシュタポは8人を集めると貴重品を押収し、「5分で準備をしろ」と命じた。高圧的なゲシュタポは、オットーが第一次世界大戦のドイツ砲兵連隊の将校(中尉)で一級鉄十字章を受章していることを知って態度が軟化し、「ゆっくりでいい」と荷造りを待った。潜伏ユダヤ人の協力者だったクーフレルとクレイマンも一緒に連行されたが女性従業員は逮捕されなかった。ミープ・ヒースは家宅捜索で荒らされた「後ろの家」に入り、そこでアンネの日記帳を見つけた。彼女はその日記を戦後まで大切に保存した。

ゲシュタポ本部でオットーたちは他のユダヤ人の潜伏情報を尋問され、翌日に拘置所へ移された。逮捕4日後、8人のユダヤ人はヴェステルボルク通過収容所(オランダ)へ移送され、男性は丸刈り、女性は短髪にされた。アンネは電池の分解作業を命じられた。ヴェステルボルクでアンネと知り合ったリーンチェ・ブリレスレイペル(Lientje Brilleslijper)いわく「収容所ではアンネとマルゴーはいつもお母さんのそばにいて、アンネはお母さんの腕にしがみついていました」。そして約1ヶ月後、9月3日にポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所行きの列車に乗せられた。
3日後、ビルケナウに到着すると同時に男女が分けられ、アンネは父親と引き離された。オットーら男性が収容されたアウシュヴィッツと、女性と子どもがいるビルケナウは3キロ離れており、父娘は二度と再会できなかった。続いて、ナチス医師たちが労働能力による「選別」を実施。隠れ家メンバー8人は全員が労働可能と認定されたが、一緒に送られたユダヤ人1019人のうち、約半数の549人がガス室送りとなった(ペーターの父親は翌月ガス室に送られた)。アンネは短髪から丸刈りにされ、左腕に囚人ナンバーを刺青された。生還者のローザ・ド・ヴィンテルは、ビルケナウでもアンネたち3人が固まって生活し、アンネの母が自分のパンを娘たちに分け与えているのを見ている。

ドイツは1943年2月にスターリングラードでソ連軍に敗れて以来敗戦を繰り返し、次第にアウシュヴィッツにもソ連軍が近づいて来た。アンネが当地に来て52日目となる1944年10月28日、アウシュヴィッツからの撤収を進めていたナチスは、囚人の一部をドイツ国内のベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送ることを決めた。生体実験により“死の天使”の異名を持つナチス医師、ヨーゼフ・メンゲレ親衛隊大尉が選別を行い、アンネとマルゴーを含む3千人がベルゲン・ベルゼンへ送られた。ローザ・ド・ヴィンテル談「15歳と18歳、痩せこけて、裸でしたが、それでも堂々として選別デスクに向かいました。アンネはマルゴーを励まし、マルゴーは背筋をしっかり伸ばして、ライトの中を進みました」。アウシュビッツに残されたアンネの母は約2カ月半後(1945年1月6日)に44歳で餓死しており、この選別が今生の別れとなった。

ドイツ北部に位置するベルゲン・ベルゼンは約800kmも離れており、移動は4日を要した。ベルゲン・ベルゼン強制収容所は快復可能な病人や高齢者が主に送られたため「休養収容所」と呼ばれていたが、実態は様々な伝染病が蔓延する劣悪な衛生状態だった。アンネが到着する前は半年ほど結核が流行し、1944年11月の到着時は赤痢が流行していた。最終的にはチフスが流行しアンネたちを苦しめた。だが、最大の死因は餓死。戦争末期で食糧事情が悪かったうえ、アンネが到着した頃の囚人数は約1万5千人だったのが、その後続々と各地から囚人が送られ、3カ月後には5万人にまで膨れあがっていた。ベルゲン・ベルゼンでアンネ姉妹と再会したリーンチェ・ブリレスレイペルは、リーンチェの姉ヤニーを入れた4人で、いつも空想のご馳走メニューを話し合っていた。アンネは「私にはまだ学ばなくちゃいけないことがたくさんある」と語っていたという。

11月末にペーターの母親アウグステが移送されてきてアンネたちと再会し、生存を喜び合った。アウグステはアンネのアムステルダム時代の親友ハンネが別区画にいることを伝えた。後にハンネはベルゲン・ベルゼンから生還しており、有刺鉄線越しにアンネと再会したこと、互いの無事に涙を流し合ったこと、その後も3、4回会ったが、翌年2月末頃からアンネの姿を見かけなくなったと語っている。これらの証言から、1945年2月末から3月末までの間に姉妹がチフスにかかり、まず姉のマルゴットが息を引き取り、数日後にアンネも絶命したと推測される。死亡日を特定できないため、オランダ赤十字は1945年3月31日とした。その翌月、4月15日に英軍がベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放した(ナチス親衛隊は3日前に逃亡)。あと1ヶ月生き延びていれば、アンネは解放されていた…。
一方、アンネと恋仲だったペーターも解放直前に命が尽きた。1945年1月17日(アウシュヴィッツをソ連軍が解放する10日前)、ペーターはアウシュビッツ(ポーランド)からマウトハウゼン強制収容所(オーストリア)まで約500kmの「死の行進」をさせられた。なんとかたどり着いたが、マウトハウゼンは極めて死亡率が高い収容所であり、1945年5月5日、アメリカ軍がマウトハウゼン収容所を解放したまさにその当日、ペーターは18年の生涯を終えた。

アウシュビッツにいた父オットーは、身長180cm、52kgというやせ細った身体になっていたが、1945年1月27日にソ連軍の手で助け出された。「後ろの家」で生活した8人のうち、唯一の生存者となった。妻子の生存を信じて消息を調べていたオットーは、ポーランド南部の街で再会したローザ・ド・ヴィンテルから、ビルケナウ収容所で妻のエーディトが死んだことを知らされた。打ちのめされながら、6月にアムステルダムに戻って、なおも娘たちの情報を集め続けた。翌月、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で娘たちの最期を知る女性ヤニー・ブリレスレイペル(リーンチェの姉)の存在を知らされた。7月18日、ヤニーを訪ねたオットーは、娘たちの運命を聞かされて椅子から崩れ落ちた。絶望するオットーに、兄は次の手紙を送った「短い間とはいえ家族で幸せに暮らせた。彼女たちはもう苦しんではいない。生きること、絶望しないこと、愛する者たちの思い出を大事にすること、それがお前の役目だ」。
アンネの日記を保管していた支援者のミープ・ヒースは、落ち込んでいたオットーに「アンネのお父さんへの形見です」と日記帳を渡した。娘の生き生きとした心情の吐露に胸を打たれたオットーは、アンネがこの日記の出版を夢見ていたこと、その為に登場人物の名前まで変えていることを知り、世に出すべく奔走する。そして1947年6月25日、アンネの他界から2年3カ月を経て、オランダ語による初版が出版された。

みずみずしい感受性と、冷静な観察力をもって、隠れ家での生活を2年にわたって綴ったアンネの日記は、純粋な魂によるナチスのユダヤ人迫害に対する告発として大きな話題となり、1950年にドイツ語版とフランス語版、1952年に英語版と日本語版が刊行され、その後も60以上の言語に翻訳され2500万部を超える世界的ベストセラーとなった。1955年にニューヨークで舞台化され、1957年には映画化された。同年、隠れ家のある建物が再開発で取り壊されそうになり、アムステルダム市民は保存のための「アンネ・フランク財団」を設立。3年後、財団は集まった基金をもとに博物館「アンネ・フランクの家」として一般公開した。オットーは母と姉が暮らすスイスに移住し、生涯にわたって民族間の不寛容・差別の防止に取り組み、1980年8月19日に91歳で他界した。アンネの著作物はオットーの遺言で全てオランダ政府に遺贈され、2009年に『アンネの日記』はユネスコによって「世界の記憶」に登録された。

アンネにしろペーターにしろ、あとほんの少し生きていたら解放されていた。アンネは解放後の夢としてジャーナリストに憧れていた。15歳の少女とは思えないほど、深い洞察力を持っていたアンネ。彼女はまた、ユーモアの大切さも認識していた。もしその夢が叶っていたら、どれほど多くの人の心を掴む文章を書いていただろう。
「ここでキティー(日記)に約束しましょう。どんなことがあっても、前向きに生きてみせると。涙をのんで、困難のなかに道を見いだしてみせると」(アンネ・フランク/1943年10月30日)。

●アンネの言葉
「わたしの望みは、死んでからもなお生き続けること! その意味で、神様がこの(文章の)才能を与えてくださったことに感謝しています。このように自分を開花させ、文章を書き、自分のなかにあるすべてを、それによって表現できるだけの才能を!」(1944年4月5日)
「いつの日か、ジャーナリストか作家になれるでしょうか。そうなりたい。是非そうなりたい。なぜなら、書くことによって、新たにすべてを把握し直すことができるからです。わたしの想念、わたしの思想、わたしの夢、ことごとくを」(1944年4月5日)
「どんな不幸のなかにも美しいものが残っている。美しいもののことを考えれば、しあわせになれる」(日付確認中)

※2014年2月に関東の図書館で『アンネの日記』が300冊も破られる事件があった。人種差別の犠牲になった15歳の少女の生命が生かされていないことに衝撃を受けた。犯人は動機を「アンネ自身が書いたものではないと批判したかった」と供述している。馬鹿げた意見であるが、欧州でもホロコースト否認論者が度々騒動を起こしてきた。これらの言い掛かりはすべて論破されている。
・「アンネは架空の人物である」→“ナチ・ハンター”のサイモン・ヴィーゼンタール(1908-2005)がアンネを捕まえたナチス親衛隊ジルバーバウアーを探し出した。ジルバーバウアーは自分が逮捕したと証言。逮捕状況も一致した。
・「アンネの日記は捏造。戦後に普及したボールペンが使用されている」→ボールペン部分は筆跡鑑定を行った人物の母親が調査中にボールペンを使ってしまっただけ。原本はオランダ国立戦時資料研究所が科学的調査を実施し、使用された紙・インク・糊は執筆当時のオランダで入手可能なものと裏付けられた。
・「日記はゴーストライターが書いた」→1990年、ハンブルク地方裁判所は原本の筆跡がアンネ本人のものであると結論。筆跡鑑定が終わっている原本が公開されている。確かに編集の過程では、存命中の人間のプライバシーに対する配慮や、性的な記述の削除、文法上の間違いを正すための修正など、一部に他者の手が入っているが、全体の内容はアンネ自身のものに忠実であり、1960年と1981年の2度の文書鑑定において「編集作業は日記のオリジナリティーを損なうものではない」と判断されている。また、現在では初版の際に父親が削除した個人的な部分が増補され公になっている。
※アンネは日記以外にも数編の短編小説を残している。タイトルは『じゃがいも騒動』『悪者!』『カーチェ』『管理人の一家』『エーファの見た夢』など。
※密告者は分かっていない。倉庫係ヴィレム・ファン・マーレン、掃除婦レナ・ハルトホを疑う説がある。
※ネルソン・マンデラは『アンネの日記』を読み、常に希望を失わなかったアンネの生き方に励まされたという。

〔参考資料〕アンネの日記(文春文庫/深町真理子訳)、世界人物事典(旺文社)、エンカルタ総合大百科(マイクロソフト)、ブリタニカ国際大百科事典(ブリタニカ)、ウィキペディア、ほか。



★『洗礼者』聖ヨハネ/Saint John the Baptist 1.6.24-30.8.29 (シリア、ダマスカス&フランス、アミアン 29歳)1994&2005
Cathedral de Notre Dame, Amiens, France
Omaya Mosque, Damascus, Syria [headless body]
頭部はシリア、HomsのIbn El-Walid Mosqueという説もアリ












アミアンのノートルダム寺院の威容。
欧州にはこんな大建築がゴロゴロある
寺院内の一角に、何か光ってる部屋が。
よ〜し、近づいてみよう…
ドシェーッ!!聖ヨハネの首!しかも
記録通り、銀の皿に載っているーッ!
聖人中の聖人が、こんな状態で
公開されてるのも衝撃的だった



こちらはダマスカスの墓。どうやら胴体はこちらのようだ(スミマセン、リアルで…)

キリストに洗礼を施した聖ヨハネの首塚。ヨハネはサロメ姫によって首をはねられた。このウマイヤ・モスクは周囲の壁が280mの世界最大のモスクだ。元々ヨハネ教会だったのが708年にモスクへ改築された。キリスト教の超VIPの墓が世界最大のモスクの中にあるというのがおもしろい。ちなみにこのモスクに隣接している神学校の中にアラブ世界最大の英雄サラディンの墓がある。僕は最近この事実を知り地団駄を踏んだ。知ってたら絶対に行ったのに。 (T_T) ウルウル
※ヨハネの名はヘブライ語で「主は恵み深い」の意。英語読みではJohn(ジョン)になる。



★ ロメロ大司教/Oscar Romero 1917.8.15-1980.3.24 (エルサルバドル、サンサルバドル 62歳)2001
Divine Savior of the World Cathedral (Catedral Met), San Salvador, El Salvador

誠実さと意思の強さを秘めた穏やかな笑顔 ゲバラと並ぶラテンアメリカ最大の現代のヒーロー

フルネームはオスカル・アルヌルフォ・ロメロ・イ・ガルダメス。ロメロ大司教はエルサルバドルの軍事独裁政府に対して民主化を訴え、ノーベル平和賞候補になりながらも、軍によって暗殺された中南米社会の英雄だ。
79年秋。ロメロ大司教は軍事政権の大統領就任式への出席を拒否。ラジオで民衆には団結する権利があることを強調し、武装蜂起した農民を賞賛する一方で、政府内のキリスト教系の政治家には弾圧に関する責任をとるよう促し、そうしないなら彼らも同類とみなすと声明を出した。ロメロは自分が殺されることを覚悟で発言を繰り返した。
「次々と脅迫状が私に届くが、もう黙ることは出来ない。私が伝えることは貧しい人たちから聞いたことであり、彼らは私の預言者なのだ」
「神のみ名において、民衆への弾圧をやめるよう私は軍事政府に命令する!」
「神父やシスターが殺されることは、ある意味では喜ばしいことであります。人々が殺されているのに、神父やシスターが守られているならば、本当の教会ではない。むしろ殺されることは良い印です。人々と歩みを共にし、一緒にいるからです」
1980年3月23日、暗殺の前日。彼はラジオを通じて、軍人たちに向かってメッセージを送った。
「貴方たちは人を殺す命令を受けても、従う義務はありません。貴方たちは自分の兄弟姉妹を殺しています。自分の良心に従って殺すのをやめなさい。“汝殺すなかれ”、神の法に反する命令に従う必要はないのです」
翌24日、オスカル・ロメロ大司教はミサの最中に軍の極右グループによって射殺された。ほぼ即死だった。ミサ中の聖職者が祭壇で暗殺されることは2千年のローマ・カトリック史でも前代未聞のことだ。

ロメロ大司教は「20世紀の殉教者10人」の1人として、ウェストミンスター寺院(ロンドン)の西扉に胸像が飾られている。

※現在のエルサルバドルは内戦が終結したとはいえ、銃が社会に広く出回っており首都の治安は最悪!巡礼については以下のルポへ。

(ロメロ大司教の巡礼ルポ)



★ヴォルテール/Voltaire 1694.11.21-1778.5.30 (パリ、パンテオン 83歳)2002
The Pantheon, Paris, France

 

『私は貴方の意見には反対だ。しかし、貴方がそれを言う権利を、私は命にかけて守る』
なんて素晴らしい言葉なんだろう!史上最大の啓蒙思想家ヴォルテール。彼のこの言葉を
人類がもっと深く噛み締めるなら、もう絶対に戦争なんか起こり得ないのに!!本名フランソワ・マリー・アルエ。




★マルチン・ルター/Martin Luther 1483.11.10-1546.2.18 (ドイツ、ウィッテンベルク 62歳)2002
Castle Church, Wittenberg, Germany

仰天!ルターといえばプロテスタントの創始者。僕はヴァチカンのように街中は巡礼観光客で溢れかえってると思っていた。なのに駅から続くメインストリートには、猫一匹いない。 ルターが眠る教会。
付近を静寂が包む…。

腐敗しきった巨大権力に身ひとつで立ち向かった
命知らずのルター。彼の勇気をもっと称えるべきだ!
(こじんまりとした素朴な墓に胸を打たれた…!)

ルターは元修道女のカタリナ・フォン・ボラと結婚したので、神父と異なり、牧師は結婚アリという伝統を作った。また自ら賛美歌を作曲した。




★ジャンヌ・ダルク/Sainte Jeanne d'Arc 1412.1.6-1431.5.30 (フランス、ルーアン 19歳)2002
Cremated, Ashes scattered, Ashes scattered in the Seine River

15世紀初頭、フランスの農家の娘ジャンヌ・ダルクは「神の声」を聞き、当時イギリス軍の侵略を受けていた祖国フランスを救う為に立ち上がった。少女ジャンヌの活躍はフランス軍の士気を高め、祖国に勝利をもたらす原動力となる。しかし、神がかったカリスマを秘めたジャンヌは“魔女”として疑われ、最後は理不尽な宗教裁判の末に「異端者」として火あぶりにかけられた(まだ19歳だったのに!)。後年、ヴァチカンは彼女の名誉を回復し、正式に聖女の列に加えたのであった。





ジャンヌが火刑された場所には、天を突く
ような巨大な十字架が建てられている。
彼女は火刑後、この雄大なセーヌ川に流された。



★聖フランチェスコ/Saint Francis of Assisi 1181-1226.10.3 (イタリア、アッシジ 45歳)1994
Basilica of Saint Francis of Assisi, Assisi, Umbria, Umbria, Italy



本名ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone)。豪商の息子に生まれたが、財を投げ打って神に仕えた。極限まで質素で慎ましやかな信仰スタイルは、多くの熱心なキリスト教徒のハートを掴み、現在フランチェスコ派は一大勢力となっている。伝記映画『ブラザー・サン、シスター・ムーン』が素晴らしい。 マザー・テレサはフランチェスコの生涯を知って修道女になった。※サンフランシスコの名前の由来にもなっている!



★マルコムX/Malcolm "Malik Shabazz" X 1925.5.19-1965.2.21 (USA、NY郊外 39歳)2000&09
Ferncliff Cemetery and Mausoleum, Hartsdale, Westchester County, New York, USA

  
キング牧師とのレアなツーショット写真!



2000 2009 マルコムだけ花があり遠くからでも分かった


ケニアのスラムで見つけたマルコムを讃える落書き
マルコムはイスラム教徒だったので、自分が巡礼した時、ちょうどムスリムの親子が墓参に来ていた。

本名マルコム・リトル(Malcolm Little)。黒人解放運動指導者。黒人至上主義を説き、非暴力主義のキング牧師よりも先鋭的で過激だった。“リトル”の姓を「X」としたのは奴隷主が先祖に付けた名前だからだ。先祖がアフリカから連行される前の本当の名前はわからないので、その怒りを名前に刻む為に、未知数を表す「X」を名乗った。名付けたのはネイション・オブ・イスラムの指導者イライジャ=ムハマド。ニューヨークで演説中に3人の男から銃撃され、顔や胸に20発の弾丸を浴びて死亡。
『権利を守るための暴力は、行動する“知性”である』(マルコムX)



★聖トマス・モア/Thomas More 1478.2.7-1535.6.6 (イギリス、ロンドン塔 57歳)2005
Tower of London, London, England


かつては牢獄であり、国王の政敵などが処刑
されたロンドン塔。数々の悲劇の舞台である
塔内のこの教会の背後(壁沿い)にトマス・モアの墓が
ある。残念ながら一般人の立入は禁止されていた
テムズ川の河岸に彼の彫像が
あったので、こちらも巡礼した

人文主義者。カトリック教会による平和主義と社会正義を求め、1516年(38歳)に理想郷を描いた『ユートピア』を刊行した。ヘンリー8世と対立し処刑される。



★フェノロサ/Ernest Fenollosa 1853.2.18-1908.9.21 (滋賀県、大津市、三井寺・法明院 55歳)2002
Otsu City, Shiga, Japan


来日当時、20代半ばの彼 悲惨な状況だった日本美術を全身全霊で再興した!


三井寺本堂から法明院に続く自然歩道 法明院の山門が見えてきた! 味のある字体で書かれた案内板


山林の中にたたずむフェノロサ 梵字が刻まれた墓石 「有難うございました!」日本美術の大恩人に感謝!

アーネスト・F・フェノロサ。米国の日本美術研究家。マサチューセッツ州セーラム(現ダンバース)出身。日本に黒船が来航した1853年に生まれた。13歳の時に母が病没。1870年に17歳でハーバード大学に入学して哲学を学び、4年後に首席で卒業した(卒業時の成績は99点!)。その頃から徐々に絵画に興味を持ち始め、24歳でボストン美術館に新設された絵画学校に入学する。
1878年(25歳)、父が世間に馴染めずに自殺。両親を失って放心状態の彼の耳に入ったのが、ハーバード大に出された東大の求人情報だった(前年に渡日して教鞭をとっていた動物学者エドワード・モースが募集)。キリスト教社会では自殺が神の冒涜にあたり、父のことで社会の冷たい風に晒された彼は、この求人情報に運命的なものを感じ、同年夏に新天地・JAPANに渡った。9月から東大で哲学や経済学を教える。
※当時の日本は先進国の欧米に追いつく為に、学者・技術者・軍人などの多くの欧米人を「お雇い外国人」として高給で雇い入れていた。ピーク時の1874年は500人以上が招かれ、明治期全体では3千人にのぼった。しかし、1877年の西南戦争で財政難に陥り、次第にその数は減っていく。ちなみにフェノロサが来日する直前に大久保利通が暗殺されている。

フェノロサは来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と記した。彼は古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅した。

やがて彼はショックを受ける。日本人が日本美術を大切にしていないことに。明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。写楽、北斎、歌麿の名画に日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派、土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。特に最悪の状況だったのが仏像・仏画。明治天皇や神道に“権威”を与える為に、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で破棄されていた。また全国の大寺院は寺領を没収されて一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど追い詰められていた。財政難の地方では最初から寺領を狙って廃寺が行なわれるケースも多々あった。

※廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)…日本人の手で日本文化を破壊した最悪の愚行。1868年、明治維新の直後に神仏分離令が発布され、各地の寺院、仏像が次々と破壊された。約8年間も弾圧が続き、全国に10万以上あった寺は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われた(薩摩では一時期全寺が潰される苛烈なものだった)。地方の行政官は中央政府に手柄(成果)を報告して出世しようと廃寺の数を競った。
今では信じ難いが、『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、寺領の没収と同時にすべての僧が神官に転職させられ、せっかく戦国時代の兵火から復興した伽藍を再び破壊し、三重塔や五重塔が250円で売りに出された。また塀が取り払われ境内は鹿が遊ぶ奈良公園となり、最終的には誰もいない無住の荒れ寺となってしまった。五重塔は焼かれる直前に周辺住民が火事を恐れて阻止したという。また、別の寺では政府役人の前で僧侶が菩薩像を頭から斧で叩き割って薪(たきぎ)にしたという話もあるほど、仏教界は狂気染みた暴力に晒された。

フェノロサは寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がった。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に素晴らしいかを事あるごとに熱弁した。1880年(27歳)、長男カノーが誕生。名の由来はもちろん“狩野”だ。同年、フェノロサは文部省に掛け合って美術取調委員となり、学生の岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始した。
こうした活動を通してさらに日本美術の魅力の虜になった彼は、考えを一歩前進させる---“浮世絵や仏像など過去の作品ばかり振り返っていてはダメだ。日本人は新しく芸術を生み出すべきだ!”。

1881年(28歳)、滅亡寸前の日本画の復興を決意したフェノロサは、日本画家たちに覚醒を求める講演を行なう。「日本画の簡潔さは“美”そのもの。手先の技巧に走った西洋画の混沌に勝ります」「日本にしかない芸術があるのです!」。西洋文明へのコンプレックスに支配されていた日本人はビックリ。新政府は日本が芸術の世界では一等国と勇気づけられ、フェノロサの演説を印刷して全国に配布した。

1882年(29歳)。日本画の第1回コンクール(内国絵画共進会)の審査員として招かれたフェノロサは、会場の隅に展示されていた『布袋図』(七福神)の奔放でおおらかな世界に見入った。作者は狩野芳崖(ほうがい)。粗末な紙に描かれていた。もっと芳崖の作品を見たくなった彼は、自分の足で家を探し出して訪問する。ところが芳崖は面会を拒否!「お断りだ!毛唐(けとう)なんかに絵が分かるか!」。
※この時芳崖は54歳。彼はかつて天才絵師として狩野派画塾のリーダーを務めた男。好奇心旺盛で他派の絵も学び師匠と大喧嘩、その“法外”さから芳崖と名乗った。20代で山口・長府藩のお抱え絵師となったが維新のあおりを受け40歳を過ぎて失職。今は貧困のどん底で、陶器の下絵塗りで生計を立てていた。

芳崖はフェノロサをただの物好きな外国人程度にしか思っていなかった。しかし彼は翌日もやって来た「どうか話を聞いて下さい!」。芳崖は鑑識眼を試すために毛利家に伝わる古い絵を見せてみた。フェノロサは作品の見所を完璧に語り尽くした。彼は芳崖の目を真っ直ぐに見て力説する。「あなたはもう一度筆をとるべきです!日本美術は大切な宝なのです!あなたほど優れた才能を持っている方が絵を描かないのは国家の悲劇です!」。
芳崖は言葉が出ない。さらにフェノロサは続ける。「今後、あなたが描いた絵は必ず全て買い取ります。迷惑でなければ、絵に専念できる家も提供させて下さい」。芳崖は日本人が見向きもしない自分の絵を、親子ほども年の離れたアメリカ人が必死でその価値を説くことに激しく感動した。2人は固い握手を交わし、フェノロサはこの翌年から芳崖に生活費の支給を始めた。

1883年、フェノロサは日本人が愛する“幽玄”の精神を学ぶ為に能楽師の梅若実に入門する。
1884年(31歳)、彼は政府の宝物調査団に任命され、文部省職員となっていた岡倉天心と、再び奈良や京都の古社寺を歴訪する。この調査の最大の目的は法隆寺・夢殿の開扉。内部には千年前の創建時から『救世(くせ)観音像』(等身大の聖徳太子像)があるものの、住職でさえ見ることができない“絶対秘仏”だった。法隆寺の僧侶達は、「開扉すると地震が襲いこの世が滅びます」と抵抗したが、フェノロサは政府の許可証を掲げて「鍵を開けて下さい!」と迫った。押し問答を経てようやく夢殿に入ると、僧侶達は恐怖のあまり皆逃げていった。観音像は布でグルグル巻きにされている。

フェノロサは記す--「長年使用されなかった鍵が、錠前の中で音を立てた時の感激は、何時までも忘れることが出来ない。厨子(仏像のお堂)の扉を開くと、木綿の布を包帯のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。布は約450mもあり、これを解きほぐすだけでも容易ではない。ついに巻きつけてある最後の覆いがハラリと落ちると、この驚嘆すべき世界に比類のない彫像は、数世紀を経て我々の眼前に姿を現したのである」。救世観音は穏やかに微笑んでいた!立ち会った者はその美しさに驚嘆し声を失う。世界は滅ばなかった。
※現在、春と秋に救世観音が特別公開されるのはフェノロサのおかげ!

 
衣の裾が天女の羽衣の如く左右に広がる美しい「救世観音像」

この年、彼は有志を募って「鑑画(かんが)会」を結成。会の主旨は「あらゆる方法を駆使して日本美術を復活させる」こと。“昔は良かった”という骨董品の研究ではなく、伝統にのっとった上で、新時代の日本美術を生み出そうとした。
32歳、救世観音と出会った翌年、フェノロサはキリスト教を捨て仏教徒となった。滋賀・三井寺(園城寺)にて受戒し諦信の法名を授かった。
※彼が仏教に帰依した背景として、仏法や仏教美術への純粋な感動があったのはもちろんだが、故郷の“事件”も遠因にあるだろう。彼の生地セーラムは、1692年に西洋史上悪名高い魔女裁判で約200名の女性が告発され、25名が処刑・拷問死したという狂信的に保守的な町だ。セーラムの風土への嫌悪感が仏教に関心を向けさせたのかも知れない。

1886年、58歳の芳崖はフェノロサと出会ってから4年の間、日本画に西洋画の遠近法や陰影法を融合させるなど、日本画の革新を目指して日々格闘していた。フェノロサの文化財調査に同行し、1ヶ月に50箇所も奈良の寺々を巡り、毎夜その日に見た仏像を思い出してはスケッチした。そして彼は8ヶ月をかけて芳崖=フェノロサ組の力作『仁王捉鬼図』を完成させる。この仁王の絵で芳崖は日本画の色の限界を超えた。画面全体が色彩にあふれ、文字通り色の洪水なのだ。この当時、西洋では印象派が花盛り。「日本画の数の限られた色数の顔料(絵の具)では、油絵の豊かな色には対抗できない」そう考えたフェノロサは、芳崖の為に海外から化学合成で作られた鮮やかな顔料を取り寄せた(特にイエロー)。この作品は大きな話題を呼び、若い画家たちを刺激した。
同年、フェノロサ、天心らは欧米の美術界の現状を調査する為に渡航する。

次の年、芳崖の妻が逝去した。尊大、横柄と言われた芳崖だが、彼は8つ年下の妻にだけは頭が上がらず「観音様」と呼んでいた。芳崖は死に打ちひしがれ絵筆が止まってしまう。帰国したフェノロサはそんな彼に「この絵をもう一度描いてみてはどうですか」と1枚の作品を見せる。それは3年前に芳崖がパリ万博に出品した「観音図」。フランスで個人所有になっていたものを彼が買い戻してきたものだった。芳崖の心の中で、妻と菩薩の2人の観音、西洋画のマリアが融合した。彼は伊画家・ジョルジョーネの「聖母子像」の模写を試みるなど、仏画での聖母子像に挑んだ。芳崖は1年をかけて『悲母観音像』を描き上げ、完成4日後に肺病で亡くなった。凄絶な人生だった。※この絵は芳崖が最後に金粉を撒いたので柔らかく金色に輝いている。

 
反骨の画家・狩野芳崖と、切手になった『悲母観音像』

1888年(35歳)、岡倉天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感。そして日本初の芸術教育機関、東京美術学校(現・東京芸大)を設立し初代校長となった。フェノロサは副校長に就き、美術史を講義する。※東京芸大の敷地には開校の由来を刻んだ石碑があり、フェノロサの姿が描かれている。

1890年(37歳)、ボストン美術館に日本美術部が新設されフェノロサのもとへ「学芸員になって欲しい」と依頼が届く。折りしも日本政府との契約が満期終了となり、彼は帰国の途に就く。日本政府はこれまでの労をねぎらい勲三等を授与した。同年、ボストン美術館東洋美術部長に就任し、日本美術の紹介に尽力する。1893年、シカゴ万博で審査委員を担当。
1896年(43歳)、2度目の来日。東京高等師範学校教授となる。この年、夫人と共に三井寺・法明院を訪ねた。法明院は彼を仏門に導いた和尚が前住職を務めている。フェノロサは法明院の茶室「時雨亭」で寝起きし、同院には今でも愛用の地球儀、望遠鏡、蓄音機などが保存されている。

1897年、これまでのフェノロサの調査を元にして、文化財を国宝に指定して保護する「古社寺保存法」が制定!※フェノロサは60カ所以上の社寺、約450品目の美術品を調査した。
1898年(45歳)、3度目の来日。上野で『浮世絵展覧会』を開催し、英文付きの目録を作成し自ら解説を書いた。能楽論を執筆。
1901年(48歳)、『北斎展』開催のため来日。これが最後の日本訪問となった。
1908年、ロンドンで開催された国際美術会議にアメリカ代表委員として出席し、滞在中に心臓発作で急死した。享年55歳。戒名は「玄智院明徹諦信居士」。彼は生前に「墓は法明院に」と願っており、翌年、分骨された遺骨が三井寺・法明院に埋葬された。眼下には琵琶湖が広がる。

※フェノロサについて「貴重な日本美術を海外へ流出させた」と批判する意見がある。日本に残っていれば100%国宝指定を受けていた作品は、尾形光琳『松島図屏風』、雪舟『花鳥図屏風』、住吉慶恩『平治物語絵巻』、伝狩野永徳『龍虎図屏風』など。しかし、どんな資格があって日本人が彼を批判できるのか?流出させたのは日本人自身だ。フェノロサは日本人が気づかなかった“美”を日本画に見出し、価値が分かるから購入したのであり、彼が集めた2万点の美術品はボストン美術館が大切に所蔵・展示している。

日本人は自らの手で仏像を破壊し、古寺を廃材にした。寺宝や浮世絵が古美術商の店頭に並んでいても日本人は買わなかったし、誰も美術品と思わず欲しなかった。そんな自分達のことを棚に上げて、フェノロサを非難するなんてちょっと酷すぎる。来日した医師ビゲローは書く「維新後に名品が大量に市場にでたのは、二つの原因による。ひとつは経済的に困窮した貴族層が値段の見境なく売り出したこと、もう一つは日本人の間に極端な外国崇拝があること」。フェノロサも天心に呟く「日本人が売るから買い求めるのですが、本当にもったいないことです…」。

フェノロサは日本の美術や文化を単なる酔狂やポーズで好んでいたのではなく、本気で愛していた。能楽を習い、茶室に滞在し、改宗して仏教徒にまでなった。日本美術への眼識の高さは名匠さえ唸らせるものであり、日本美術界の未来まで考えて美大開校の為に奔走するなど、その愛情の注ぎ方は極めて熱く誠実なものだった。
彼は日本政府に美術品を収蔵する施設として帝国博物館の設立を訴え、西洋一辺倒の日本人に「日本美術の素晴らしさに気づいて欲しい」と心から願って活動した。その行動の核に純粋さがあったからこそ、頑固者の芳崖は彼を受け入れた。岡倉天心との古寺調査は国宝誕生のきっかけとなったし、海外に日本美術の魅力を紹介することで日本の国際的地位を高めてくれた。フェノロサは日本美術にとって、ひいては日本国の恩人と断言できる!

※聖林寺の十一面観音もまた、フェノロサによって1887年に秘仏の封印が解かれた。
※最終的に日本政府が美術品の輸出に歯止めをかけたのは1933年。すでに膨大な美術品が流失した後だった。
※明治期に浮世絵の第一級品が大量に流失し、今の日本には殆ど残っていない。しかし、膨大な数の浮世絵が西洋に流れたからこそ、モネやゴッホもそれらを所有し、大きなジャポニズムの流れが築かれた。
※文献によっては彼が芳崖を知ったのは1884年の第2回絵画共進会出品作『桜下勇駒図』『雪山暮景図』とする説もあるが、83年に生活を援助し、84年には芳崖が古寺調査に同行するほど親密になっていることから、やはり出会いは82年・第1回のようだ。
※1895年の日清戦争の勝利から明治政府は狂っていく。フェノロサなど海外の日本美術の愛好家は、花鳥を愛で和歌を詠む日本人と、熱病にとりつかれた様に戦争に突入していく日本人の姿とのギャップに当惑した。
※欧州で最初に日本文化を広めたのはオランダ商館の医師シーボルト。彼は日本滞在時に収集したものを1830年にオランダの自宅で公開し、日本文化が広まっていくきっかけとなった。本格的に日本美術が紹介されたのは1862年のロンドン万博で日本館の出展作業(漆器239点など総数600点以上)に関った英国の外交官(初代駐日英国公使)ラザフォード・オールコックの著作『大君の都』(1863)。彼は「日本の美術工芸品はヨーロッパの最高水準の製品に匹敵する」と記した。オルコックは1860年(まだ江戸時代)に外国人として初めて富士山にも登頂している。



★鑑真和上/Ganjin Wajyo 688-763.5.6 (奈良県、奈良市、唐招提寺 75歳)2000&10

 
死の2ヶ月前に制作された、リアルな鑑真和上座像(国宝)




1998年、鑑真の唐招提寺が世界遺産に認定 唐招提寺の創建は759年。約1250年も昔! 受戒のための最も神聖な場所、戒壇堂

本尊を安置する大きな金堂 鑑真和上の墓所へ続く道。木漏れ日が良い感じ こちらが墓所の入口。ちょっと緊張

森林浴をしながら真っ直ぐ進むと墓前に出る まるで京都の苔寺のような美しさ


初巡礼時。石段の上にお墓(2000) 10年後に再訪。和上さま、お久しぶりです!(2010) 墓前には巡礼者がいっぱい!

和上のお墓のアップ。墓所は唐招提寺境内の北東に位置する(2010) 背後からも撮影。この角度だと山中に見える

   
平城遷都1300年祭の目玉として復元された、実物大・遣唐使船!飛鳥・奈良時代の渡航は命がけ!(2010)


唐の僧で、日本律宗の開祖。上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身。701年、13歳の時に父に連れられ大雲寺を訪れた際、仏像を見ているうちに身体の奥底から感動が込み上げてきて出家したという。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。そんなある日、鑑真のもとへ2人の日本人僧侶が面会を求めてきた。
 
《“名僧”探して苦節10年〜ガンバレ栄叡(ようえい)!ファイトだ普照(ふしょう)!》

「戒律」という言葉には2つの意味があり、各自が自分で心に誓うものを「戒」、僧侶同士が互いに誓う教団の規則を「律」という。奈良時代初期、日本の仏教界にはまだ公の戒律がなく、僧侶は納税の義務が免除されたことから、重税に苦しむ庶民はどんどん僧侶になっていた。朝廷は税収の減少に頭を悩ませていたが、国策として仏教を信奉している以上、僧を弾圧する訳にもいかない。とはいえ“にわか僧侶”たちには仏法を学ぶ姿勢もなく、風紀は乱れまくっており由々しき事態だった。
 
仏教の先進国・唐では、新たに僧を志す者は、10人以上の僧の前で「律」を誓う儀式『授戒』を経て、正式に僧として認められた。この制度を朝廷は日本に導入しようと画策する。つまり、国家が認めた授戒師から受戒した者だけを僧に公認すれば、一気に僧の数が激減するし、僧侶個々人の質も高くなると考えたのだ。
ところが国内には正式な授戒の仏法を知る者が誰もいなかった。そこで興福寺の2名の僧侶、栄叡と普照が「遣唐使船で渡航し、授戒を詳しく知る名僧を連れて来るべし」と勅命を受けた。
当時、遣唐使は文字通り命がけだった。派遣された12回のうち、無事に往復できたのは5回だけ。半分以上が遭難していた。不安はあったが、世の荒廃を憂いた2人は勇気を出して乗船した。特に栄叡は農家出身で重税の厳しさも分かっており、日本の仏教界に行動規範となる「律」が導入されれば、節度ある生き方が美徳とされ、朝廷にも良い影響が広がって善政に繋がり、社会が良くなって欲しいと願った。
 
733年、2人を乗せた第9次遣唐使は無事に大陸に到着したが、それからが大変だった。唐は国民の出国を禁じており、密出国の最高刑は死罪だった。国法を破ってまで日本に来てくれる名僧など簡単には見つからず、遭難の危険がある渡航には弟子や周囲が反対した。壁にぶつかって行き詰まり、苦悩する栄叡と普照。しかし、もっと大変な知らせが届いた。予算不足で次の遣唐使が来ないというのだ!「あり得ない!」激しく動揺しながらも、とにかく授戒師を探し続ける2人。唐の各地をさすらい、7年目には極度のホームシックから任務を諦めて帰国方法を模索した。それでも踏ん張って9年目に入った時に、2人は過去4万人に授戒を授けてきた名僧・鑑真の存在を知る。鑑真は仏道を究めていただけでなく、貧民や病人の救済など社会活動に力を注ぎ、民衆から大師として仰がれていた。「うがー!もう、この人しかいないッ!」。
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鑑真には多くの高弟(こうてい、トップクラスの弟子)がいて、各々の高弟がさらに千人規模の弟子をもっていた。栄叡と普照は最初から鑑真に渡日を懇願したのではなく、高弟の中から誰かを授戒師として遣わせて欲しいと熱望した。2人の叫びに近い思いを聞いて鑑真は強く心を動かされ、弟子たちに渡日の希望者を尋ねた。しかし、弟子達は生命の危険を心配して沈黙する。「ならば、私が行きましょう」。驚き反対する弟子達に鑑真は続けて言う「仏法の為に生命を惜しむことがあろうか。お前達が行かないのなら私が行く!」。師の揺るがぬ決意を聞き、弟子21人が随行することになった。すでに鑑真は54歳。さっそく海を渡る準備を進めた。
 
ところが!せっかく鑑真という素晴らしい名僧の快諾を得ながら、彼らはなかなか日本へ帰れなかった。隣国の日本があまりに遠かった!唐の第6代皇帝玄宗は鑑真の人徳を惜しんで渡日を許さなかった。必然的に、出国は極秘作戦となる。東シナ海を越えるのも命がけだが、出国するまでがまた大変だった。
 
《6度の渡日大作戦〜挑戦と挫折の11年》
 
・第1回…743年(55歳)。上海南方の霊峰・天台山に参詣するフリをして日本に進路をとる作戦を立てるが、渡航を迷っていた弟子が密告。しかも「日本人僧の正体は海賊」というトンデモ情報を港の役人に流した為に、栄叡と普照は検挙され4ヵ月を獄中で過ごす。
・第2回…744年(56歳)。頑丈な軍用船を購入し、仏像や仏典を山ほど積み込み、彫工、石工など85人の技術者・職人を乗せて出航!→暴風雨で遭難。船体を修理し再び外洋に挑むも座礁。寧波(ニンポー)付近へ無念のリターンとなった。
・第3回…744年。態勢を整えて再び出航しようとしたところ、鑑真の渡日を惜しむ何者かの密告で、栄叡が再び投獄され失敗。鑑真は栄叡を助ける為に奔走し、最終的に栄叡は「病死扱い」で獄中から救出された。
・第4回…744年。長江近辺からの出航は監視が厳しく困難となり、福州(台湾の対岸)から渡航しようと南下する。しかし、またしても弟子が鑑真を引留める為に当局へ密告。鑑真は官憲に捉えられ揚州まで送還される。一方、栄叡と普照は逃亡し南京以西の内陸部に潜伏する。
・第5回…748年(60歳)。ブラックリストに載っていた栄叡たちは依然監視下にあったが、隙をついて出航する。この時は極悪巨大暴風雨の直撃を受け、半月間も漂流し、遠く海南島(ベトナム沖)まで流されてしまう。そして悲惨なことに、揚州に引き返す途中で、過酷な旅と南方の酷暑で体力を消耗した栄叡が他界する。遣唐使船で大陸に来て15年、ここまで頑張って来たが、栄叡はついに祖国の地を踏めなかった。親友・普照や鑑真は彼の死を心の底から悲しみ、鑑真自身もまた眼病で失明してしまう。
・第6回…753年(65歳)。ついに日本から20年ぶりに第10回遣唐使がやって来た!日本側は帰国便で鑑真と弟子5人を非合法で連れ出す作戦に出る。遣唐使船は4隻600人の大船団。「1隻でも日本にたどり着ければ仏法を伝授できるように」と鑑真らは別れて乗船した。ところが出航直前になって、唐側官憲の厳重な警戒を恐れた遣唐大使が「やばい!絶対バレる」と鑑真らを下船させてしまう。だがこの時、副大使が独断でコッソリ自分の船に鑑真一行を乗せた(お手柄!)。
11月16日出航。沖縄、種子島と東シナ海を北上していく。嵐に遭遇して大使の船は南洋に流されたが、副大使の船は持ちこたえ、1ヶ月後の12月20日に鑑真と普照は薩摩の地を踏んだ。第1回の密航計画から11年、6度目の正直で悲願が達成された。
 
翌754年2月4日(66歳)、鑑真は大阪難波、京都を経て平城京に到着!行く先々で熱烈な歓迎を受けた。鑑真は朝廷から仏教行政の最高指導者“大僧都”に任命される。4月、東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇ら440名に国内初となる授戒を行なう。755年(67歳)、常設の授戒施設となる東大寺戒壇院を建立。戒壇院の地下には仏舎利(釈迦の遺骨、米粒ほどの大きさ)が埋められており、ここで250項目の規律を守ることを誓い受戒した者だけを国は僧侶と認めた。これで乱れていた仏教界の風紀は劇的に改善された。
 
…だが、鑑真と朝廷の蜜月はこの時がピークだった。鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではない。正しく仏法を伝えた上で、多くの僧を輩出するつもりだった。彼は全国各地に戒壇を造る為に仏舎利を3000粒も持参していた。一方、朝廷の本心は税金逃れの出家をストップさせること。両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われた。鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知る。あの命をかけた渡航や栄叡の死は何だったのか。「こんなハズでは…」既に70歳。海を渡って唐に戻る体力はなかった。
 
759年(71歳)、そんな鑑真の境遇を知った心ある人が、彼に土地を寄進してくれた。鑑真は私寺となる『唐招提寺』を開き戒壇を造る。「招提」は“自由に修行する僧侶”という意。この非公式な戒壇で授戒を受けても、国からは正規の僧とは見なされなかったが、鑑真を慕う者は次々と寺にやって来た。鑑真はまた、社会福祉施設・悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど、積極的に貧民の救済に取り組んだ。
※同寺の敷地から鑑真の時代の食器が発掘され、そこには位のない一般僧侶を表す「大衆」の文字が書かれていた。
 
763年3月、弟子の忍基は日本初の肖像彫刻となる鑑真の彫像を彫り上げた。その2ヵ月後、鑑真は永遠の眠りにつく。西に向って結跏趺坐(けっかふざ、座禅)したまま息を引取ったという。享年75歳。来日から10年、唐招提寺創建から4年目の春だった。中国にいた54歳のあの日、2人の日本人僧侶が面会に来るまで、異国の私寺に骨を埋めることになるとは想像もしなかっただろう。今でも鑑真の弟子達は唐招提寺から全国へ布教の為に巣立っている。1250年前、こんな聖者が日本にいた。

 
※鑑真一行が乗り合わせた第10回遣唐使の帰国便4隻はまさに運命の分かれ道。大使の旗艦は南方マレー半島まで暴風に流され、漂着後は地元民と全く言葉が通じず、乗船者約200人の大半が殺された。
※帰国後の普照は東大寺、西大寺に入る。旅をしていた時の辛い飢餓体験からか、759年(帰国6年後)、旅人の為に都郊外の街道に果樹を植えるよう朝廷に進言している。
※761年、九州の大宰府・観世音寺と東国の下野国(栃木県)薬師寺にも戒壇が置かれ、日本の東西で受戒が可能になった。
※2010年まで唐招提寺は本尊を安置する金堂の解体修理が行なわれている。
※鑑真が中国で住職を務めていた揚州・大明寺は1966年に文化大革命で破壊され僧侶は追放された。その14年後、奈良の唐招提寺から国宝・鑑真和上座像が荒廃した大明寺に「里帰り」として運ばれた。この彫刻を拝観する為に21万人が訪れ、これを機に100名の僧侶が大明寺に戻って、立派に再建された。鑑真は千年以上経っても、まだ仏法に貢献しまくりだ。



1200年が経った今も人々に慕われている




★ジャン・ジャック・ルソー/Jean-Jacques Rousseau 1712.6.28-1778.7.2 (パリ、パンテオン 66歳)2002
The Pantheon, Paris, France

 

『私たちはいわば2回この世に生まれる。1回目は存在する為に、2回目は生きる為に』
『長生きをした人とは、単に長期間この世に滞在した人ではなく、多くの様々な人生を体験した人だ』
共にルソーの言葉だ。彼は偉大な思想家であるが、実は童謡「むすんでひらいて」の作曲者でもある。




★聖ペテロ/Saint Peter **.6.29-59or64.**.** (ヴァチカン市国)2005
Saint Peter's Basilica, Vatican City, Lazio, Italy





2013年11月、聖ペテロの遺骨
が入った聖遺物箱を初公開
正面からサン・ピエトロ大聖堂を望む

サンタンジェロ城方面から


  

ペルニーニ作の巨大な黒い天蓋の地下にペテロの墓がある

初代ローマ法王。十二使徒の中心人物ペテロ。本名シモン。イエスは逮捕の前日(最後の晩餐の後)、「他の弟子が裏切っても私は絶対に師を裏切りません」というペテロに対し「あなたは明朝までに三度、私のことを知らないと言うだろう」と予言する。果たして、ペテロは師が逮捕された時に逃げ去り、逃亡中エルサレムの市民に「キリストの弟子にあなたと似ている人がいた」と言われても「そんな人は知らない、会った事もない」と三度嘘をついた。三度目の嘘の直後に雄鶏が鳴き、ペテロはイエスの言葉を思い出して号泣した。ペテロは師が処刑された後、熱烈に布教に励み、最後は異教徒として「逆さ十字」の磔にあい処刑された。現在ローマ法王の住居でありカトリックの総本山であるヴァチカンのサン・ピエトロ(聖ペテロ)大寺院は、このペテロの墓の上に建てられたものだ。

※イエスはケファ(アラム語で岩)というニックネームをペテロにつけた。



★チトー/Josip Broz Tito 1892.5.7-1980.5.4(セルビア、ベオグラード 87歳)2005
House of Flowers Mausoleum, Belgrade, Serbia
※生年は5.25説アリ
  

NATO軍による空爆の傷跡が生々しく残る首都ベオグラード。爆風で窓ガラスが吹き飛んだ建物もいっぱい…。

  

内戦、虐殺、空爆という最悪の形で崩壊してしまったユーゴスラビア。建国者チトーは墓の下で何を思っているだろう。




★クロポトキン/Peter Alexeievich Kropotkin 1842.12.9-1921.2.8 (ロシア、モスクワ 78歳)2005
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation



人間の相互信頼をもとにした善意によるアナーキズムを提唱した。

「民衆が常にその後に従って行くのは、世間の人の皮肉や迫害など問題にもしないで、自分の目にだけ見える
目標をひたすら見つめながら、まっしぐらに前進して行くような人だ」(クロポトキン/『ツルゲーネフの思い出』から)




★玄奘(げんじょう)三蔵
/Sanzo Genjyo 602-664.2.5 (奈良県、奈良市、薬師寺 62歳)2004
※三蔵法師の名で知られる

 







“傘付ランドセル”で大量のお経を背負っている玄奘 夏目雅子の美麗・三蔵法師 中国・西安の玄奘像

 

屋根にある『不東』とは天竺に辿り着くまで、どんなに辛くても
東(中国)には引き返さないぞという決意表明だ。カッコイイ!
墓所の玄奘三蔵像は、経典を翻訳している姿を
彫ったもので、右手に筆、左手にお経を手にしている

唐の僧侶で名は陳玄奘(げんじょう)。「玄奘」は出家名。小説「西遊記」の三蔵法師のモデル。色白で超美形の僧侶だったという。“三蔵法師”は個人の名ではなく、お経の三蔵(釈迦の教えの“経蔵”・守るべき戒律“律蔵”・経と律の研究書“論蔵”)を修得した僧侶に与えられる称号。でもあまりに玄奘の功績が偉大だったので、彼が三蔵法師の代名詞になった。

河南省出身。四人兄弟の末子。10歳で父を亡くし、洛陽(ルオヤン)で出家生活をしていた次兄に引取られる。615年、13歳で彼も出家し浄土寺で学ぶ。618年(16歳)、学問の為に兄と長安(現・西安)へ赴くが、時代は隋から唐への移行期にあたり戦乱の真っ只中。講義どころではなかったので、蜀(劉備が建国、現・四川省)の都・成都で修行に入り、同地で622年(20歳)受戒する。翌年、唐の支配が安定したことを受けて長安に戻り大覚寺で学ぶ。洛陽を出てから5年ほど各地で高僧に師事したが、その過程で師匠の自説(経の解釈)がそれぞれ大きく異なることに玄奘は混乱した。
「かくなるうえは、釈迦の真の教えを知る為に、仏教発祥の地・天竺(インド)を訪れ、直接お経の原文を調べるしかないッ!」。玄奘はこう決心したが、当時の唐は鎖国政策をとっており国を出られない。彼は何度も嘆願書を出したが認められず、629年、ついに国禁を破って同志40名と密出国した。時に玄奘27歳。
※サイト読者の方より→陳舜臣『竺への道』(朝日文庫)によると、当初嘆願書を出したメンバーは次第に脱落し、天竺に向かって旅立ったのは玄奘一人だけで、
長安から秦州までは秦州の僧侶・孝達と同行しているとのこと。厳密に出国といえる玉門関を越えるときは完全に一人という話です。

地図上では中国から南西に行けばすぐインドがあるけど、当時はチベットやヒマラヤを越えてインドに行くルートはなかった。だから思いっきり中央アジアを迂回して現在のタジキスタン、アフガニスタン、パキスタンと南下し、西側からインドに入るしかなかった。長安を出発した玄奘はシルクロードを使い敦煌を越えて西域に入り、灼熱の砂漠タクラマカン(ウイグル語で“入ったら出られない”の意。面積は日本列島に匹敵)を進み、標高7439mのポベーダ峰を始め4000〜6000m級の山々や氷河が連なる極寒の天山山脈を越え、山崩れや急流に遭遇し、盗賊や猛獣に襲われながら、ひたすら天竺を目指した。2年後、旅を続けているのは玄奘ただ1人だけという過酷さだった。
 
玄奘がシルクロードの貿易国家・高昌(トルファン)に入った時、熱心な仏教徒の王に請われて仏法を説いたことがあった。深く胸を打たれた王は、長く滞在するよう強く引き止めた。先を急ぐ玄奘は“帰途なら3年間講義しましょう”と約束。感激した王は、天竺往復20年分の費用や周辺国への紹介状(24ヶ国分)を書いた。このように、“長安から天竺までお経を求める旅”がいかに困難か分かっている者は、玄奘の志に感動して協力を惜しまなかったという。
※帰途、玄奘が約束を果たそうとすると高昌国は既に滅亡していた。諸行無常の響きあり…。
 
632年(30歳)、3年を経てついにインド・マガダ国ナーランダ寺院に到着。ここで仏教学者・無著(むじゃく)がまとめた各種仏典を学び、635年(33歳)からは、釈迦のゆかりの地を次々と巡って仏典を収集した。玄奘は北インドの支配者バルダナ王から丁重にもてなされ、現地の名僧のもとで勉強した後、膨大な量の経典を引っ提げて故国への帰途についた。出発時に鎖国を破った玄奘だが、唐の皇帝からは帰国の勅許(特別許可)が出ていた。
※唐の第2代皇帝太宗(たいそう)は善政を行なった名君とされ、その治世は年号から「貞観の治(じょうがんのち)」と賞賛されている。
 
帰路も山を越え砂漠を越え、大変な苦労の連続だったが、657部の経典、150粒の尊い仏舎利(釈迦の遺骨)、8体の仏像を執念で運んだ。やがて唐の国境に差し掛かった時、玄奘は感動に打ち震えた…皇帝太宗が派遣した使者が到着を待っていたのだ。それだけじゃない。長安に着くまで、玄奘は行く先々で民衆から盛大に祝福されたのだ。かつて密出国した彼が、今は国をあげて大歓迎されていた。645年(43歳)、玄奘は16年ぶりに長安の土を踏む。※日本では大化の改新の年だ。
128ヶ国を通過し、3万キロを歩いて持ち帰った宝は弘福寺に安置し、玄奘は太宗に謁見した。皇帝は玄奘の聡明さに感嘆し、ぜひ国政に加わって欲しいと要請したが、「仏典の原文(サンスクリット)を中国語へ翻訳するのは、残りの人生を全て捧げても完結するか分からない」と玄奘は固辞した。これを受けて、太宗は玄奘が翻訳事業に集中できるよう国家的支援を約束した。
 
その後20年間、玄奘は死の直前まで、文字通り明けても暮れても翻訳し続けた。そして、今に伝わる最も有名なお経『般若心経』のベースとなった『大般若経』600巻の訳を完成させた翌年、62歳で没した。葬儀の夜、玄奘を慕って約3万人もの人々が墓の周囲で世を明かしたという。彼が翻訳した経典数は実に約1300巻にも及んだ。玄奘の翻訳はその正確さから高い評価を受け、彼より前の仏典の翻訳は“旧訳”、以後の翻訳を“新訳”と区別するようになった。
 

1942年、南京を占領していた日本軍が玄奘の骨を納めた古墳を発見した(墓碑銘で分かった)。遺骨は中国側と分骨され、南京の玄武山、西安南郊の興教寺、埼玉県岩槻市の慈恩寺、奈良の薬師寺に納められた。薬師寺では1991年に建立された八角堂・玄奘三蔵院に頭頂骨が安置されており、このお堂の屋根には『不東』と書かれた額が掛けられている。これは「天竺に着くまで、どんなに辛くても東(中国)には引き返さないぞ」という玄奘の決意表明だ。カ、カッコイイ!
 
※旅の記録は12巻の『大唐西域記(だいとうさいいきき)』として翌年残され、インド各地の寺院に仏足石があったことを記すなど、当時の中央アジアの様子を伝えるかけがえのない資料となった。
※玄奘は法相宗の始祖となり、奈良の薬師寺と興福寺が大本山になっている。
※玄奘が孫悟空、沙悟浄、猪八戒らに助けられつつ天竺を目指す『西遊記』は呉承恩(ごしょうおん)が明代に創作した全100話の物語。日本でも江戸時代から既に親しまれていた。1978年TVドラマ『西遊記』でガンダーラという地名を多くの日本人が知ることになった。




★聖キアラ(クララ)/St.Clarab(Saint Agnes of Assisi)1194.7.16 or 94-1253.8.11 (イタリア、アッシジ 59歳)1994
Basilica of Saint Clare, Assisi, Umbria, Umbria, Italy
※キアラは伊語。独語でクララ。生年は1193、1198説アリ。



聖フランチェスコと共にキリスト教の布教に務めた修道女。アッシジで彼女が過ごした修道院には
現在もキアラが作った美しい花壇が、中庭に残っている。「ハイジ」でクララと名付けたゼーゼマンさん
の念頭に、聖キアラの存在があったことは想像に難くない。棺の上にはキアラの像が横たわっていた。




★ディドロ/Denis Diderot 1713.10.5-1784.7.31 (フランス、パリ 70歳)2005
Church of Saint-Roch, Paris, France

 

この教会の中に墓があったことは確かなんだけど、フランス革命の時に彼の墓は破壊されたんだって。
ひどいよ、ディドロはいいヤツなのに…。パリのパンテオンに記念碑あり。




★エラスムス/Desiderius Erasmus 1466.10.27or28-1536.7.12 (スイス、バーゼル 69歳)2005
Cathedral of Basle, Basel, Switzerland
※生年は1467、1469説アリ。混乱!



本名はErasmo de Rotterdam Erasmus。腐敗したローマ教会を鋭く批判しつつも、教会の自浄力を信じていた。



★マキャベリ/Nicolo Machiavelli 1469.5.3-1527.6.22 (イタリア、フィレンツェ 58歳)1994&2004
Santa Croce Church, Florence, Toscana, Italy





1994 2004
マキャベリは強者中心主義として民主主義の敵のように言われてるが、列強の武力による
威嚇から国土を守るため、あえて鬼になったのだ。ミケランジェロの側に彼は眠っている。

「私が行きたいのは地獄であり、天国ではない。地獄へ行けば、歴代の教皇、国王、皇太子と一緒になれるだろうが、天国には乞食と修道士と使徒しかいないのだから」(マキャベリ)




★ヨハネ・パウロ2世/Pope John Paul II 1920.5.18-2005.4.2(ヴァチカン、サン・ピエトロ大寺院 84歳)2005
Saint Peter's Basilica, Vatican City, Lazio, Italy
本名:Karol Josef Wojtyla












「神の名を語って戦争をするな」と、
ブッシュを批判した勇気ある法王だった
あり得ない人の波

法王の故郷ポーランドで
見かけた銅像(クラコフにて)

ヴァチカンの地下に眠るヨハネ・パウロ2世。まだ亡くなって3ヵ月ということもあり、墓前まですごい長蛇の列だった(軽く1時間待ち)。
本名カロル・ユゼフ・ヴォイティワ。最後の言葉は「父なる神の家に行かせてほしい」というポーランド語であったと伝えられている。

ヨハネ・パウロ2世は1978年に法王に選出されると、さっそく翌年にガリレオ裁判の正当性の検討を命じた。そして13年後(1992年)、
ヴァチカンとして公式にガリレオの無罪を発表し、故人に謝罪した。ガリレオは死後350年を経て、ヨハネ・パウロ2世のおかげで破門を解かれた。




★トロツキー/Leon Trotsky 1879.11.7-1940.8.21(メキシコ、メキシコ・シティー 60歳)2003
The Leon Trotsky Museum, Mexico, Distrito Federal, Mexico

 

本名レフ・ダビドビチ・ブロンシテイン。ウクライナ出身。社会変革運動の中で何度も投獄と脱走を繰り返し、レーニンと一緒にロシア革命を成功させて英雄となるが、レーニン死後に権力を掌握したスターリンによってソビエトから追放される。トロツキーはスターリンが支配するソ連を「特権的官僚に支配された堕落した労働者国家」と批判を展開していたが、亡命先のメキシコでスターリンの手先に暗殺された。女流画家のフリーダ・カーロと親交があった。



★ブリガム・ヤング/Brigham Young 1801.6.1-1877.8.29 (USA、ソルトレイク・シティ 76歳)2000
Mormon Pioneer Memorial, Salt Lake City, Salt Lake County, Utah, USA



モルモン教徒の大聖人。僕はモルモンの信者ではないが、迫害を受けても自分の信念を曲げなかった
ブリガム・ヤングには敬意を持っている。ここソルトレイク・シティにはモルモン教の総本山もある。




★聖ヴァレンタイン司教/Saint Valentine ?-273.2.14 (アイルランド、ダブリン)2002
Whitefriars Street Church, Dublin, Dublin, Ireland



日本ではチョコレートの年間消費量の実に4分の1が、このたった一日に消費される

当初、「あんたのせいで毎年2月14日に孤独地獄を味わされた」と文句を言う為に墓参したんだ。ところがこの教会の神父さんがめちゃくちゃ良い人で、「遠い国からやって来た貴方への私からの贈り物です」と聖ヴァレンタインのキーホルダーを2つもくれた!いっきに聖ヴァレンタインへの好感度が極限までアップし、そのキーホルダーは今でも自分のカバンにぶら下げている。あの優しい神父さんに引き合わせてくれて本当にありがとうございますッ!

ローマ帝国の皇帝クラウディウス2世は、ローマでの兵士の結婚禁止令を出した。妻が故郷にいては遠征した兵士の士気が下がるからだ。それでも命がけで密かに兵士を結婚させていたヴァレンタイン司教は捕らえられ、ルペルカリア祭に捧げる生贄として2月14日に処刑された。



★聖ローザ(サンタ・ロッサ)/Santa Rosa 1586.4.20-1617.8.24(ペルー、リマ 31歳)2002
Iglesia de Santo Domingo, Lima, Peru
本名:Isabel Flores Oliva



サント・ドミンゴ教会に眠る聖ローザ(サンタロッサ)ことロサ・デ・サンタ・マリアの墓。
ペルーを代表する聖者だ。彼女はリマで生まれ、貧しい人々の為に人生を捧げ、31歳で
他界した。墓前には名前にちなみバラの花びらがいっぱい!(バラのように美しかったという)


道に迷った時に助けてくれたリマの若者たち



★フライ・マルティン/Fray Martin 1579.12.9-1639.11.3(ペルー、リマ 59歳)2002
Convent of the Holy Rosary, Lima, Peru


教会の中で「非白人」の聖者像を見たのはこれが始めて。
手に握った箒は、身分が低かったことを示している
箒(ほうき)には子供たちの
写真が何枚も貼られていた

本名サン・マルティン・デ・ポールレ。「フライ」は修道士の称号のこと。とてもリマっ子に親しまれている。




★ペドロ・クラベール/Peter Claver 1580.6.26-1654.9.8 (コロンビア、カルタヘナ 74歳)2003
Saint Peter Claver Church, Cartagena de Indias, Colombia


カルタヘナは世界遺産に指定されているコロンビアの古都 町の広場でくつろぐ「激シブ」のじーさんたち




サン・ペドロ・クラベール
教会の祭壇にお墓がある
なんとミイラになって公開されていた!
こういう感覚は日本にないので仰天した
教会の外観(左の高い建物)。
付近は古い歴史地区だ


ミイラの状態がそのまま見えるのは衝撃的 仰向けの頭部。日本では考えられない墓

サン・ペドロは身分や人種による差別に対し、公然と反対した聖職者だ。
※十二使徒の聖ペテロとは別人




★パリ・コミューン蜂起市民たちの墓/Communard's Wall (Mur des Federees) -1871.5.28 (パリ、ペール・ラシェーズ)2005
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France

 

軍隊に追われた市民たちはペール・ラシェーズ墓地に逃げ込み、この壁に追い詰められて処刑された



★ピエール・ジョセフ・プルードン/Pierre Joseph Proudhon 1809.1.15-1865.1.19 (パリ、モンパルナス 56歳)2009
Cimetiere de Montparnasse , Paris, France






プルードン家 墓は鎖と銀色のたいまつで守られている

フランスの社会思想家。無政府主義(アナーキズム)の父。何度投獄されても権力と戦い続けた。



★シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー/Charles-Louis de Montesquieu 1689.1.18-1755.2.10 (フランス、パリ 66歳)2009
L'eglise Saint-Sulpice, Paris, France







こに眠っていると言われているが… 雲海の聖母子に光が当たる

ダ・ヴィンチ・コードにも出てくるサン・シュルピス教会。モンテスキューの墓はここという情報があったのだが、
教会内の墓を調べても、また教会関係者に尋ねても、モンテスキューの墓は見つからなかった。
僕の探し方が悪かったのか?うーん、謎だ。仕方がないので、建物全体を墓と見なして遙拝した。
【追記】サイト読者のTさんから、「教会の人に聞いたところ、“確かにモンテスキューのお墓はここにあったが
革命の混乱のさなかに失われてしまった”と仰っていました」と情報を頂きました。有難うございました!
※メトロの「Saint-Sulpice」駅から東へ200m。



●ゾフィー・ショル/Sophia Scholl 1921.5.9-1943.2.22(ドイツ、ミュンヘン 21歳)2015
●ハンス・ショル/Hans Scholl 1918.9.22-1943.2.22(ドイツ、ミュンヘン 24歳)2015

Friedhof am Perlacher Forst, Munich (Munchen), Munchener Stadtkreis, Bavaria
(Bayern), Germany//Plot: Section 73, row 1, grave 18/19

  
ドイツ人の立場からヒトラー打倒を訴え、21歳でギロチン刑になったミュンヘン大の学生







彼女が反ナチのビラを撒いたミュンヘン大 入口の前にゾフィーを紹介したパネルが! 映画ロケでも使われた大学構内 玄関ホールのゾフィー像
映画『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』予告編(2分14秒)

大学前の広場に打倒ヒトラーのビラ ビラは当時を再現したモニュメントだ 大学の正門前にもたくさんのビラ 紙に見えるけど石で出来ていた




ゾフィー(右)と兄ハンスの墓。兄妹の十字架が
ひとつに繋がっている!墓地の奥の方に眠る
右側に1人だけ十字架があるのは、同じ日に
処刑された同志クリストフ・プロープスト
兄妹の十字架の足下には石板がある。左が
ハンス、右がゾフィー。花立てには白バラ!







抵抗の象徴である白バラは墓の上にも プロープストは23歳だった 同志アレクサンダー・シュモレル(25)も刑死 学生を応援したクルト・フーバー教授も刑死

ゾフィー・ショルはミュンヘン大学の女学生(21歳)。非暴力の反ナチス運動=白バラ抵抗運動の主要メンバーの一人。同組織は兄のハンス・ショル(24歳)がリーダー。1943年2月18日(スターリングラード敗戦の翌月)、大学構内で反政府ビラを撒くところをナチ党員の大学職員に発見され、兄と共にゲシュタポに引き渡された。翌日にはハンスの家から手紙が見つかったメンバー、クリストフ・プロープスト(23歳、3児の父)もビラ作成の罪で逮捕された。逮捕の4日後の2月22日、「国家反逆罪」に問われた3人は、民族裁判所で「利敵行為でドイツの防衛力の破壊を試みた」と死刑判決を受け、即日(夕方5時)ギロチン処刑された。

同年、白バラ・メンバーでミュンヘンの壁に「ヒトラー打倒」のペンキ書きをした学生ヴィリー・グラーフ(25)やアレクサンダー・シュモレル(25)も死刑になり、相談役のクルト・フーバー教授(49)もギロチン台に消えた。彼らは尋問で他の協力者について口を割らなかった。青年学生らは東部戦線の地獄を体験した帰還兵であり、ナチスのヨーロッパ支配を否定。プロープストの未亡人・孤児へ援助を与えた者たちも逮捕され、半年〜10年の懲役に処せられた。
ゾフィーたちが撒いたビラは、後に連合国がドイツ降伏を呼びかける際のビラとして使われた。現在、ドイツの学校で最も多い校名は"Geschwister-Scholl-Schule"(ショル兄妹学校)とのこと。
※ミュンヘン大学前にビラ型の記念碑!



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墓(日)、grave(英)、tombe(仏)、grab(独)、tomba(伊)、tumba(西)、sepultura(ポル)
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