作曲家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

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★83名


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●映画音楽ほか

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ジョルジュ・ドルリューの墓
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アーヴィング・バーリンの墓
ビクター・ヤングの墓

音楽家への巡礼は、英語が通じない国でも、メロディーを口ずさむことで誰を探しているのか相手に伝わることも多く、まさに「音楽は言葉の壁を越える」、だね。



★ベートーヴェン/Ludwig van Beethoven 1770.12.16-1827.3.26 (オーストリア、ウィーン 56歳)1989&94&2002&05&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group 32 A, Number 29












都会的でハンサム

でも本当はもっと素朴

第九や荘厳ミサを完成させた頃

散歩中に「田園交響曲」
の構想を育む
ベートーヴェンの生家
(ドイツ・ボン)















ウィーンに現存する住居。彼の
部屋は5階の窓が開いている所
ドアのノブに触って
「間接握手」だッ!
ベートーヴェンのピアノと胸像。窓の向こうは大学だ(撮影許可済)


路線38Aで彼が遺書を書いた
ハイリゲンシュタットへ
通称エロイカ・ハウス

窓から美しい庭が見える

デスマスク…ぐっすん


別のベートーヴェン・ハウス。彼は引越し魔
(70回以上!)だったのでウィーン中に家がある
エロイカの楽譜。ナポレオンの名前
がグチャグチャに消されているッ!

●ウィーン:シューベルトパークのベートーヴェン最初の墓



現シューベルトパークはかつてヴェーリング地区墓地が
あった。ベートーヴェンは最初にここへ葬られた(2015)
ベートーヴェン(奥)とシューベルト
の墓石だけが改葬後も残された
ベートーヴェンの墓は
メトロノームの形をしている

●ウィーン:中央墓地のベートーヴェンの墓

“ベートーヴェン詣で”の行列!(2015)

左からベートーヴェン、モーツアルト(記念碑)、
シューベルト。鼻血が出そう…
世界中からファンが会いに来る












2002 夕陽の中にたたずむベートーヴェン

台座には「ヴェーリング地区墓地にあった
最初の墓石を模して造られた」と説明文
2005 小雨の中の彼

2015 墓前の花壇が立派に!




石柱に「32A」。ここが楽聖地区だ! 「グーテン・モルゲン!(おはよう)」夢のような散歩道 「はじめまして、ベートーヴェンさん」(2015)


「モーツァルトは誰でも理解できる。しかしベートーヴェンを理解するには優れた感受性が必要だ。失恋などで悲しみのどん底にいなければならない」〜シューベルト
「ベートーヴェンの曲は“これしかない”という音が後に続くから完璧なのだ」〜レナード・バーンスタイン(指揮者)
「今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ!我々は自らを支配していない。始めから決定されてあることは、そうなる他はない。さあ、そうなるがよい!そして私に出来ることは何か?運命以上のものになることだ!」(ベートーヴェン)

“楽聖”ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 。僕はかつて同じ人類の中に彼がいたという一点をもって、人間が地球に誕生したことは無意味ではなかったと確信している。ベートーヴェン以前の音楽家は、皆が王室や貴族に仕え、作品といえば注文に応じて書く式典用の音楽が大半だった。だが、平民出身で進歩的なリベラル(自由主義者)のベートーヴェンは、そのような主従関係を拒否し、一部の貴族のために作曲するのではなく、全人類に向けて作品を生み出した。自身の内面から湧き上がる創作の欲求に従い音楽を書いた。単なる娯楽としての音楽ではなく、「苦悩を突き抜け歓喜へ至れ」と人間讃歌をうたいあげた。個々の音符から見えてくるものは“そうあらねばならぬか?そうあらねばならぬ!”という鋼鉄の意志。古典派の堅固な構成とロマン派の劇的な展開が化学反応を起こし、安定感と創造的破壊のせめぎ合いが生む緊張感にシビレ、法悦(エクスタシー)とも言うべき快楽を与えてくれる。限りなく深い世界愛と、権力者の理不尽な抑圧に立ち向かう人道主義に裏打ちされた楽曲は、まさに“楽聖”の名にふさわしい。

ベートーヴェンは9曲の偉大な交響曲、7曲の協奏曲(5曲がピアノ協奏曲)、32曲のピアノ・ソナタ、17曲の弦楽四重奏曲、10曲のバイオリン・ソナタ、5曲のチェロ・ソナタ、2曲のミサ曲、オペラ「フィデリオ」、その他、138曲もの作品を生み出した巨人(タイタン)。同じ人間が作ったものとは思えず、僕にとっては存在そのものが神話に近い。
その一方で、親しみを感じる人間味のあるエピソードも多数残している。ベートーヴェンは決して“天才”ではなかった。天才とはモーツァルトのように楽譜に向かう前に既に頭の中で曲が完成している者のことをいい(モーツァルトの楽譜は殆ど修正した跡がない)、ベートーヴェンのようにひとつのメロディーを書くだけで延々と書き直したりはしない。『運命』の第2楽章には8度も旋律が書き直された(貼り直された)箇所があり、しかもそれを剥がしていくと8枚目と元の旋律が同じだったりする。有名な『運命』の冒頭もさんざん試行錯誤して下書きを繰り返したものだ。散歩中に書き付けた紙切れやメモ、ノートのスケッチは7000点以上にのぼる。
不器用な彼は作曲中、他の一切の用事が出来ず、ピアノの上にはカビの生えたパンが皿に乗っており、ピアノの下では簡易トイレが大爆発していた(雇ったメイドは片っ端から逃げ出した)。そんな環境で『エリーゼのために』や『月光』など美しい珠玉の傑作が生まれるんだから面白い。大好物はパンを入れて煮込んだスープ、魚料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたもの、そしてハンガリーの極甘口トカイワイン。コーヒーは自分で豆60粒をピッタリ数えて淹れるこだわりを持っていた。
神経質なほど“引越し魔”で、ウィーン滞在の35年間で79回も転居したという記録が残っている。他にも、人道主義的理想を掲げた大傑作の第九の直後に『なくした小銭への怒り』という珍曲を作ってるのも人間っぽくて良い!

1812年、テプリツェ(現チェコ北部)でゲーテと腕を組んで散歩中(当時ベートーヴェン42歳、ゲーテ63歳)に、オーストリア皇后やルドルフ大公(皇帝レオポルト2世の子)の一行と遭遇した時のこと。ゲーテは腕を解くと、脱帽し通りの脇から最敬礼で一行を見送った。ベートーヴェンいわく「私は帽子をしっかりかぶり、外套のボタンをかけ、腕組みをしたまま、堂々と頭を上げて行列を突っ切った」「おべっか使いの臣下どもが両側に人垣を作っていたが、ルドルフ大公は私に対して帽子をとり、皇后は真っ先に挨拶した」(クルト・バーレン著『音楽家の恋文』)。逆に大公一行から挨拶されたベートーヴェン。この出来事を他人に伝えるベートーヴェンの手紙は辛辣だ「行列がゲーテの前を行進した時は、本当に可笑しくなってしまいました。彼は帽子をとり、深く頭を下げて脇に立っていました。それから私はゲーテにお説教をしてやりました。容赦せず彼の罪を全部非難しました」。21歳も年下の男から道端で激しく説教されるゲーテの気持ちはいかほどだったろう…。ベートーヴェンは後援者のリヒノフスキー侯爵に対してさえ「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎないが、私が今あるのは私自身の努力によってだ」と書き送っている。
厳格な封建社会にあって貴族に唾を吐きかける無敵ぶりと、耳が聞こえなくなるという不運にもかかわらず、“運命が決まってるならそうなるがよい、こっちは運命の上を行くだけだ”(聴覚を失ってもさらに作曲を続ける)と、逆に運命の女神に闘争宣言を叩き付け、血祭りに上げてしまう恐るべき精神力。歩く活火山のようなパワフルさ。めちゃくちゃカッコイイ!

ベートーヴェンの作品が後世の作曲家に与えた影響は絶大で、ブラームスは40代になるまで交響曲が書けなかった。ワーグナーは「この世には既にあの9つの交響曲があるのに、このうえ交響曲を作る意味があるのか」と立ち尽くし、ベートーヴェンが開拓しなかった楽劇の道に進んだ(ベートーヴェンのオペラは1作品しかない)。また、『運命』が交響曲第5番であったことから、多くの作曲家が自身の第5番に並々ならぬ気合いを入れ、チャイコフスキー、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、ドヴォルザーク(「新世界より」は旧5番)などが名曲を残している。ブラームスは4番までしかない。

●その激動の生涯
1770年12月16日、ケルン選帝侯の城下町ボンに生まれる。身長167cmでがっしり体型。肌は浅黒。弟子のチェルニー(教則本で有名)は、ベートーヴェンの第一印象を「ロビンソン・クルーソー」「黒髪が頭の周りでモジャモジャ逆立っている」と表現している。後年は服装に無頓着だったためホームレスと誤認逮捕され、ウィーン市長が謝罪するなんてこともあった。
祖父(オランダ人)は宮廷楽長、父も宮廷楽団の歌手であったが酒に溺れてしまい、祖父が家計を援助していた。母は宮廷料理人の娘。3歳で祖父が他界すると生活が困窮し、翌年から父はベートーヴェンをモーツァルトのような神童にして一稼ぎしようと苛烈なスパルタ教育を行う。10歳で小学校を退学し、12歳で作曲家ネーフェに師事。14歳、正式に宮廷オルガニストに任じられる。1787年(17歳)、音楽の都ウィーンを旅行してモーツァルト(当時31歳、ベートーヴェンとは14歳差)を訪問し、ピアノの腕前を高く評価される。この時、「今にこの若者は世の話題をさらうだろう」と予言されたとも。弟子入りが認められたが、母の結核が悪化しボンに帰郷、その死を看取る。

  ボンに眠る優しいお母さんマリア(2015)

1789年(19歳)、妻を失った父はさらに酒量が増えアルコール依存症で失職。ベートーヴェンが宮廷楽師となって家計を支え2人の弟の世話をした。同年、フランスでは民衆が王政を打ち倒す革命が起き、青年ベートーヴェンも大いに刺激を受けた。この頃、ベートーヴェンは教養の不足を感じボン大学聴講生となっていた。大学で文豪シラーの詩「歓喜に寄す」と出会って胸を打たれ、約30年後に第九の歌詞にしている。
1790年に20歳で書いた「皇帝ヨーゼフ2世を悼むカンタータ」は、師ネーフェやベートーヴェンの後援者ワルトシュタイン伯らの心を動かし、“この才気ある若者を是非ウィーンに送ってモーツァルトの弟子にしよう”という運動が起きる。だが翌年にモーツァルトが35歳で早逝してしまい、1792年(22歳)、後援者たちはウィーンで活躍していた高名な作曲家ハイドン(当時60歳)にベートーヴェンを弟子入りさせた(弟子入り資金は後援者が負担)。同年、酒乱の父が他界。ハイドンはあまりに多忙でろくに指導できず、ベートーヴェンは不満を抱いて宮廷楽長サリエリなど複数の作曲家を師に持った。
※ある時ハイドンから「ハイドンの教え子」と楽譜に書くよう命じられ、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と拒否したという。

1795年(25歳)、『ピアノ協奏曲第1番』『ピアノ協奏曲第2番』が完成(順番は第2番が先)。ベートーヴェンは慈善コンサートで自作のピアノ協奏曲を演奏し、これが大きな話題を呼んだ。さらに即興演奏の名手として人々を魅了。青年ベートーヴェンは作曲家としてより、天才ピアニストとして音楽好きのウィーン貴族たちから喝采を浴びた。一躍社交界の花形となり、楽譜出版社からの収入も増えていき、ボンに残していた2人の弟を呼び寄せた。当時、音楽家の地位は低く、あのモーツァルトでさえ貴族からは使用人扱いで、貧困の中で没し亡骸は共同墓地に埋蔵された。だが、モーツァルトの死から10年が経つと楽譜の出版市場が拡大し、ベートーヴェンはフリーの音楽家として暮らしていくことが可能になった。
※チャイコフスキー「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番のアンダンテ、あの短い楽章ほど豊かな霊感に満ちた曲を私は知りません。それを聴く度に肌寒さを覚えて青ざめるくらいです」

名声を得て得意絶頂のベートーヴェンだったが、人生が突如暗転する。1798年(28歳)、聴覚障害の最初の兆候が現れると次第に症状が悪化していった。音楽家にとって聴覚を失うことは致命的。他人にバレないようにするため、交際を避け家に引きこもるようになった。同年、ピアノソナタ第8番『悲愴』を作曲。1800年(30歳)、明るく活気に満ちた交響曲第1番を書き上げるが、まだベートーヴェンの個性は薄くモーツァルトやハイドンに近い。1801年(31歳)、弟子でイタリアの伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディ(16歳)に捧げたピアノソナタ第14番『月光』を作曲。ベートーヴェンは彼女に恋し、身分の差に苦しむ。
転地療養のため夏はウィーン郊外の静かなハイリゲンシュタットで過ごしていたが、1802年(32歳)、不安と絶望が頂点に達し「ハイリゲンシュタットの遺書」を2人の弟に執筆した。自殺を考えたが、芸術に引き留められたという切実な文章だ。
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『ハイリゲンシュタットの遺書/わが弟たちカール(とヨハンへ)』※原文は長文ゆえ今井顕氏の訳とNHK『その時歴史が動いた』を参考に抜粋要約。

私が意地悪く、強情で、人嫌いのように見えたとしても、人はその本当の原因を知らぬのだ。私の心と魂は、子供の頃から優しさと、大きな夢をなしとげる意欲で満たされて生きてきた。
だが6年前から不治の病に冒されたことに思いを馳せてみて欲しい。回復するのでは、という希望は毎年打ち砕かれ、この病はついに慢性のものとなってしまった。
情熱に満ち活発な性格で、社交好きなこの私が、もはや孤立し、孤独に生きなければならないのだ。
「もっと大きな声で叫んで下さい、私は耳が聞こえないのです」、などと人々にはとても言えなかった。
他の人に比べてずっと優れていなくてはならぬはずの感覚が衰えているなどと人に知らせられようか…おお、私にはできない。だから、私が引きこもる姿を見ても許して欲しい。
こうして自分が世捨て人のように誤解される不幸は私を二重に苦しめる。

交友による気晴らし、洗練された会話、意見の交換など、私にはもう許されないのだ。どうしても避けられない時にだけ人中には出るが、私はまるで島流しにされたかのように生活しなければならない。
人の輪に近づくとどうしようもない恐れ、自分の状態を悟られてしまうのではないか、という心配が私をさいなむ。
医者の言葉に従って、この半年ほどは田舎で暮らしてみた。そばに佇む人には遠くの笛の音が聞こえるのに、私には何も聞こえない。人には羊飼いの歌声が聞こえているのに、私にはやはり何も聞こえないとは、何と言う屈辱だろう。こんな出来事に絶望し、あと一歩で自ら命を絶つところだった。

自ら命を絶たんとした私を引き止めたものは、ただひとつ“芸術”であった。自分が使命を自覚している仕事(作曲)をやり遂げないで、この世を捨てるのは卑怯に思われた。その為、このみじめで不安定な肉体を引きずって生きていく。
私が自分の案内者として選ぶべきは“忍耐”だと人は言う。だからそうする。願わくば、不幸に耐えようとする決意が長く持ちこたえてくれればよい。もしも病状が良くならなくても私の覚悟はできている。自分を不幸だと思っている人間は、自分と同じ1人の不幸な者が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家、価値ある人間の列に加えられんがため、全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すことができるだろう。

L. V. Beethoven 1802年10月6日
ハイリゲンシュタットにて
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“私を生につなぎ止めているのは芸術だ。内なるものを表現し尽くすまでは、死ねない”。精神の危機を克服した瞬間だ。この言葉の通り、ベートーヴェンの創作欲は遺書の脱稿後から大爆発する。パリの有名ピアノ製作者から最新型のピアノ(グランド・ピアノ)を贈られ、その幅広い音域やペダル装置が芸術家魂をさらに奮い立たせた。ベートーヴェンはこのピアノを手に入れると、さっそく特性を生かしたスケール感のあるソナタ=後援者ワルトシュタイン伯に捧げたピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」(1803)を書き上げている。そして、1804年に英雄交響曲を完成させたのを皮切りに、10年間に6つの交響曲の他、ピアノやヴァイオリンの優れた協奏曲を次々と作曲した。この10年間は後世の音楽愛好家から「英雄の時代」と呼ばれ、作家ロマン・ロランは特に1806〜08年を「傑作の森」と呼んだ。

【“英雄の時代”10年】

●1804年(34歳)
2年をかけて交響曲第3番『英雄(エロイカ)』を完成(初演は翌年)。平民出身のベートーヴェンはフランス革命を熱烈に支持しており、同じ平民のナポレオンが欧州の王政諸国を次々と打ち負かしていることを喜んだ。そしてナポレオンのため英雄交響曲を作曲し、楽譜の表紙には“ボナパルトへ捧ぐ”と献辞を記した。ところが、フランスに送る段になって「ナポレオン、自ら皇帝就任」の報が届き、ベートーヴェンは「畜生!ヤツもただ権力にしがみつく俗物に過ぎなかった!」と怒り狂った。そして献辞を穴が開くまで掻き消し、“かつて英雄だった男の思い出に”と書き替えた(ボロボロになった表紙は今も残っており、ブチ切れぶりがよく分かる)。
だが、ベートーヴェンは英雄交響曲の内容を書き直すことはなかった。この曲はナポレオンという1人の英雄を表現したものではなく、全ての人間が持つ英雄的側面や、ベートーヴェンがハイリゲンシュタットで経験した芸術家としての覚悟を音楽に昇華した作品だからだ。従来の一般的な交響曲が30分程度であるのに対し、「英雄」は50分を超える前人未踏の大曲であり、壮大なコーダ(結尾)が聴衆を圧倒した。人々は音楽が持つ強烈な生命力に驚愕した。現実の苦悩を突き抜けて創造の歓喜へと到達した芸術家の魂の記録であり、“これからも生き続けていく”という決意表明だ。魂の新生、ここにあり。英雄交響曲はモーツァルトやハイドンといった古典派から、シューベルトやメンデルスゾーン、ドヴォルザークらロマン派への橋渡しとなった。
●1805年(35歳)
唯一完成したオペラ『フィデリオ』を作曲。題材はフランス革命で実際に起きた事件からとられた。政治犯を救出する物語であり、ベートーヴェンのリベラルな政治的立場が窺える。大変な難産の末に生まれた作品で、ベートーヴェンは自分にオペラは向いておらず、本領は交響曲にあると痛感する。だが、作品の評価は徐々にあがり、11年後(1814年)の上演では当時17歳のシューベルトが教科書を売り払ってチケットを購入したという。
●1806年(36歳)
ベートーヴェンの内省的で情感のこもった作品群はさらに進化。鬱屈した情念が吹き荒れるピアノソナタ第23番『熱情』や、後にメンデルスゾーン、ブラームスと合わせて3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれるヴァイオリン協奏曲ニ長調が書かれる。弦楽四重奏曲にもラズモフスキー・シリーズの名曲を残す。
●1807年(37歳)
交響曲第4番、ピアノ協奏曲第4番、ミサ曲ハ長調。
●1808年(38歳)
1808年12月22日、交響曲第5番『運命』と第6番『田園』が同日にウィーンで初演された。『英雄』や『運命』で描かれた“苦悩を突き抜け歓喜へ至る”という姿勢がベートーヴェン作品の基軸となる。ベートーヴェンは『運命』で音楽史上初めて交響曲にトロンボーンやピッコロを導入し、後の作曲家に受け継がれていく。
●1809年(39歳)
ナポレオン軍のウィーン再占領の混乱下で完成したピアノ協奏曲第5番『皇帝』は、その雄大で輝ける響きから感極まった聴衆が「皇帝(フランツ1世)万歳」と叫んだという。※この「皇帝」はナポレオンのことではないし、フランツ1世も関係ないらしい。後世の音楽ファンが「ピアノ協奏曲の皇帝的存在」と讃えたもの。
●1810年(40歳)
ピアノ小品『エリーゼのために』。ベートーヴェンが愛したテレーゼ・マルファッティに捧げられた。これも悲恋に終わった。
●1811年(41歳)
ピアノ三重奏曲第7番『大公』。優雅で気品のある当曲は、ベートーヴェンを最後まで金銭的に援助し続けたパトロン兼弟子のルドルフ大公に捧げられた。
●1812年(42歳)
この年に書かれ翌年初演された交響曲第7番はベートーヴェンの交響曲の中で最もリズミカルであり、後年ワーグナーは“舞踏の聖化”と讃えた。
●1813年(43歳)
交響曲『ウェリントンの勝利』を発表。本作はフランス民謡をイギリス国歌が覆す(仏敗北)という分かりやすさでウィーン市民から絶大な人気を集めた。現在は殆ど演奏されないが、ベートーヴェンにとって生前最大のヒットとなった。
●1814年(44歳)
交響曲第8番が完成。演奏時間が25分前後と短く、モーツァルトやハイドンの時代の古典スタイル。だが旋律はロマン派のそれであり小品ながら意欲作。52小節もフォルティッシモが続いたり、当時では異例のfff(フォルテフォルティッシモ/トリプル・フォルテ)やpppも登場する。

この後、難聴が急速に進み、人前での演奏会はこの年にピアノ三重奏曲『大公』初演でピアノを弾いた場が最後になった(耳が聞こえない為ピアノを大きく弾きすぎた)。第九初演の1824年まで10年間ほど大スランプに陥り、交響曲を書くペンがピタリと止まる。この間に特筆すべき作品は後述する数曲しかない。40代半ばから他界するまでの10年間は聴力を殆ど失っていたことも関係するだろう。次第に奇行が増え、神経性である持病の腹痛と下痢にも苦しめられた。
1815年(45歳)、実弟が死去し、9歳の遺児カールの養育権を得るべくその母と5年後まで裁判で争うことになる。
1818年、絶不調のベートーヴェンのもとに、ロンドンのピアノ会社から73鍵6オクターヴの大型ピアノが贈られた。ベートーヴェンはこのピアノの表現能力を極限まで引き出すことを決意し、「50年後の人間なら弾ける」と語ってピアノソナタ第29番『ハンマークラヴィーア』(約45分の大曲)を完成させた。
1820年(50歳)、有力パトロンのルドルフ大公の仲介もあって、ようやく甥っ子の養育権を勝ち取り後見人となったが、14歳という思春期になっていたカールはベートーヴェンと激しく衝突した。翌年、ナポレオン死去の報が届くとベートーヴェンは“英雄”第2楽章を引き合いに「私はとうの昔にやつの葬送曲を書いている」と皮肉った。
この1820年のベートーヴェンの家事日記が人間味があって面白い→「4月17日、コックを雇う。5月16日(わずか1ヶ月後)コックを首にする。5月30日、家政婦を雇う。7月1日、新しいコックを雇う。7月28日、コック逃げる。8月28日、家政婦辞める。9月9日、お手伝いを雇う。10月22日、お手伝い辞める。12月12日、コックを雇う。12月18日(たった6日後)コック辞める」。こういう具合に何年間も続く。だが、ベートーヴェンは自分にも厳しかった。ある時演奏会が絶賛されたのを読んでこう語った「私のように常に自分の限界を意識している者が、こんなに絶賛されるととても不思議な感じです」。
1822年(52歳)、最後のピアノソナタ3曲「第30番」「第31番」「第32番」と、宗教曲『ミサ・ソレムニス』を作曲。「第32番」の第2楽章は宇宙に静かに瞬く星々の如き崇高さ!

1824年(54歳)、5月7日にウィーンで交響曲第9番の初演が行われる。第8番から10年が経っていた。この頃、ウィーンではロッシーニの喜劇など軽いタッチの音楽が流行しており、ベートーヴェンは自分の重厚な作風は受け入れられないと感じ、第九初演をベルリンで行おうとした。この動きを知ったウィーンの文化人は「どうかウィーンで初演を!」と連名の嘆願書を作成しベートーヴェンを感動させた。嘆願書には「『ウェリントンの勝利』の栄光を今一度」という文言が添えられていた。
この第9番の初演には細心の注意が必要だった。当時のウィーンではフランス革命の波及を恐れた皇帝が、王政や身分制度に反対する者を次々と秘密警察に逮捕させ大弾圧を行なっていた。平民出身のベートーヴェンもまた平等な社会を求め、危険思想の持ち主と見なされ当局にマークされていた。ベートーヴェンは知人への手紙で“自分の思想を大声で話せない。そんなことをすれば、たちまち警察に拘留されてしまう”と憂いた。また、筆談帳にレストランでの友人との次の会話が残っている「ご注意下さい、変装した警官が様子をうかがっています」。
ベートーヴェンは言論の自由のない社会への抵抗と、自由・平等・博愛の精神を込め、反体制詩人シラーの詩にメロディーを付けた(シラーはフランス革命派から“フランス市民”の称号を1792年に与えられるほど革命理念に共鳴した自由主義者)。クライマックスで「 引き裂かれた世界を汝(市民)の力が再び結び合わせ、その優しい翼を休めるところ全ての人々は兄弟となる」と高らかに歌い上げ、貴族や平民など人間を分けず、身分制度を超えた兄弟愛で人類が結ばれることをうたった。当局の検閲を怖れたベートーヴェンの秘書は、歌詞の内容を伏せて演奏会の許可をとった。権力者から要注意人物とされた作曲家のコンサートにもかかわらず、初演には大勢のウィーン市民が足を運んだ。
ステージではベートーヴェン自身が指揮棒を握ったが、聴覚の問題があるためもう1人のウムラウフという指揮者がベートーヴェンの後ろに立ち、演奏者はそちらに合わせた。演奏が終わって聴衆から大喝采が巻き起こるが、ベートーヴェンはそれに気づかず、失敗したと感じて振り向かなかった。見かねてアルト歌手のウンガーが歩み寄り、ベートーヴェンの手をとって振り向かせ巨匠は魂が聴衆に届いたことを知った。演奏後に何度もアンコールの喝采が続いたが、聴衆が5回目の喝采を行った時、劇場に潜んでいた当局の人間が人々を制止した。当時、皇帝への喝采は3回と決められており、それ以上は不敬罪となるからだ。

第9番完成後、ベートーヴェンの楽曲は極めて個人的な性格を強め、最晩年となる1824年から1826年に書かれた孤高の傑作、5曲の弦楽四重奏曲で現世に対する達観の境地へ分け入った。この当時、作曲家は依頼を受けて曲作りをしたが、ベートーヴェンは弦楽四重奏曲の最後の2曲を自発的に書き上げた。死の前年に書かれた弦楽四重奏曲第14番について、これを聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と述べた。

1826年(56歳)、ベートーヴェンは養育していた甥カールと将来の進路を巡って激しく対立(カールは軍人志望、ベートーヴェンは芸術家にしたかった)。カールは伯父からの独占的な愛情に息が詰まり、ピストル自殺をはかった。弾丸は頭部にめり込んだが、奇跡的に一命を取り留める。この事件にベートーヴェンはショックを受け、すっかり気弱になっていく。同年12月、肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど体力が低下。何度も腹水を取り除く手術が行われたが快方に向かわなかった。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま、翌1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えた。最期の言葉はラテン語で「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」。

1827年3月29日、集会の自由が制限されるなか、ウィーンのヴェーリング地区墓地(1769年開設)で執り行われたベートーヴェンの葬儀に2万人もの市民(当時の人口は約25万人)が参列し、臨終の家から教会に至る道を埋めた。宮廷からは一輪の花も、一人の弔問もなかった。墓地に着き、オーストリアの偉大な詩人グリルパルツァーの弔辞を俳優が墓前で読み上げた。「彼は芸術家であった。しかし同時に一人の人間であった。あらゆる意味で最も高貴な人間であった。世間を避けたので彼は敵意に満ちていると言われた。感情を避けたので無情の人と言われた。愛情が深かっただけに、世間に対抗する武器を持たなかった。だからこそ世間を逃れたのである。己の全てを同胞に捧げたが、代わりに得るものは何もなかった。だからこそ身を引いたのだ。己の分身を見つけることが出来ず一人のままでいた。しかし死ぬまで父親のような心を持ち続けた。彼はこうして生き、そして死んだ。そして永遠に存在し続ける。ここ(墓地)までついてきた者たちよ、悲しみを抑えなさい。我々は彼を亡くしたのでなく得たのである。生身の人間は永遠の命を得ることはできない。死んで初めて永遠の世界の門を通ることが出来るのだ。お前たちが嘆き悲しんでいる人は、今、最も偉大な人々の仲間入りをし、もう永遠に傷つけられることがないのである。心痛のまま、しかし落ち着きをもって家路につきなさい。今後、彼の作品の嵐のような力強さに圧倒された時、またそれらに対する意気込みが次の世代に受け継がれた時、今日のこの日を思い出しなさい。彼が埋められた時、我々は一緒にいたのだ。彼が亡くなった時、我々は泣いたのだ」。
翌年、シューベルトが31歳の若さで病没し、本人の遺言に従ってベートーヴェンのすぐ側(3つ隣り)に墓が造られた。その後、人口増加による都市計画が立案されヴェーリング地区墓地の閉鎖が決定。没後51年の1888年6月22日、ベートーヴェンの遺骸は掘り起こされ、新たに造成されたウィーン中央墓地の名誉墓地(楽聖特別区)に改葬された。ウィーン市の南端に位置する中央墓地は300万人以上が眠るヨーロッパ屈指の巨大墓地。その中の名誉墓地に埋葬されることはウィーンの芸術家にとって最高の栄誉とされている。

遺書は死の3日前に書かれていた。「私は今、喜んで死を受け入れます。運命は残酷でしたが、終わりのない苦しみからやっと解放されるからです。いつでも用意はできています。私は勇気をもって死を迎えます。さようなら。私が死んでも私のことを忘れないで下さい。覚えてもらうだけのことはしたと思います。どうしたら人々を幸福にできるか、ずっと考えていたのですから。さようなら」。

●墓巡礼
墓参のために初めてウィーン中央墓地を訪れたのは1989年。当時22歳の僕は休学してアルバイトで貯めた資金で、欧州一周の墓巡礼に出発した。中央墓地はシュテファン寺院や王宮のあるウイーン中心部から南東約7キロに位置する。路面電車71番に30分ほど揺られ、目の前に巨大な墓地が見えてきた。“もうすぐルートヴィヒに会える!”、そう胸を高鳴らせて降車しかけると、他の乗客が「ノー、ノー」「ネクスト」と言っている。中央墓地は面積250ヘクタール(甲子園球場約65個分)、33万の墓所を擁し、年間約2千万人が訪れるヨーロッパ最大級の墓地。1871年に市内5箇所にあった墓地をひとつにまとめて開設された。その途方もない広大さゆえ、路面電車の停留所が端から端まで4つもあった。
ベートーヴェンら作曲家が眠る“楽聖特別区”は、第2門から目指すのが最短。ゲートを超えて案内地図を確認し、プラタナスの並木道をダッシュ!200mほど進むと左手に“聖地”が。「ここだ…第32区A!」。クラシック・ファンが卒倒しそうな光景がそこにあった。
区域の中心には、ベートーヴェン、モーツアルト(墓石のみ記念碑として移転)、シューベルト、ヨハン・シュトラウス2世、ブラームスの墓が順番に並んでいる。ちょうど団体さんが帰っていくところで、思いがけなくベートーヴェンと1対1になった。生み出した作品世界があまりに巨大すぎて、同じ人間というより、どこか架空の英雄のような非現実感があったベートーヴェン。だが目の前に彼は眠っている。「本当だった!嘘じゃなかった!ベートーヴェンは確かにいた!」。周囲に誰もいないため、思わず身を投げ出し「ダンケ・シェーン!(ありがとう!)」と落涙。側面から墓石に手を触れた瞬間、全身に電気が走るアートサンダーに打たれた。9つのシンフォニー、ピアノ・ソナタ第32番、皇帝、悲愴ソナタ、大フーガ等々、人生の糧となる様々な楽曲のお礼を言った。5分後、他の墓参者が来たので後方に下がり、離れた場所から1時間ほど語りかけた。同じ空間に身を置く至福!
ベートーヴェンの墓はメトロノーム型で、真ん中に黄金の竪琴のレリーフがある。メトロノームはベートーヴェンの晩年に発明され、特許申請者メルツェル本人が持参し使い方を教えてくれた。難聴のベートーヴェンでも振り子を見れば目で速度が分かるため、手に入れてとても喜んだという。ベートーヴェンは、作曲の速度指示にメトロノームを利用した最初の音楽家となった。
ちなみに、初巡礼で撮った写真は悲しいことに一枚も残っていない。墓参の後、南仏アルルで荷物を盗まれ、貴重なフィルムも消えてしまった。帰国後、仕事に追われ消耗する日々の中で、再びベートーヴェンに会いたい気持ちがつのり、5年後の1994年に再訪。さらに2002年、05年と貯金しては巡礼を重ね、やがてベートーヴェンの誕生日に結婚。初墓参から四半世紀、2015年に長年の夢だった妻と子を初めて墓前で紹介し、「こうして今があるのはあなたの音楽のお陰です」と心からの謝意。人生の壁にぶつかったときは、ベートーヴェンの音楽と言葉、人類愛が勇気をくれた。これからも命が続く限り、墓参を続けていきたい。

●ベートーヴェン語録
「行為の動機が重要であって結果は関係ない。精神生活が旺盛なら結果を考慮しないし、貧困と不幸は単に事柄の結果であるにすぎない」
「愛しいあなたに誇れる作品を書こう」
「田舎ではどの樹木も“聖なるかな、聖なるかな”と私に話し掛けているようだ。森の中の恍惚!」
「音楽とは啓示であり新しい美酒である」

●指揮者バーンスタイン、ベートーヴェンLOVEを吠える

・「ベートーヴェンとはどういう人物だったのか。一方では巨匠として愛され、求められ、賞賛されていた。しかし他方では偏屈な怪物の姿が浮かび上がってくる。友達もなく、寄ってくるのはパトロンと腰巾着ばかり。エネルギッシュでいつも好きな田舎を歩いていたかと思うと、慢性の鬱病、気管支炎、肝臓障害を患っていた。女性が大好きだったのに恋人はいなかった。甥カールを愛するあまり、あやうく死に追いやるところだった。この上ない崇高な心を持っていたかと思うと、出版社には厳しく、時には卑劣な条件を出した。そしてこれこそが極め付けの矛盾だが、この発育不全で病的で偏屈で苦悩に満ちた男の中に天使の声が宿っていたのだ」

・「ベートーヴェンはどんな時代の作曲家よりも優れた能力がある。主題の後にくる一番ふさわしい音を見つける能力だ。つまり次に来るべき音が何かが分かっていなければならない。その音以外考えられないということを納得させる力だ。納得できるまで書いては消し、書いては消しと、20回も書き直したパッセージもある。こうした苦闘を一生続けた。どの楽章も、どの交響曲も、どの協奏曲も、どのソナタも、常に完璧さを追及し、これ以外にはないというまで書き直していった。これはこの偉大な芸術家の神秘性を解く唯一のカギだ。ベートーヴェンは必然的な音の追究に一生を捧げた。どうしてこんなことをしたのか彼自身も分からなかっただろう。一風変わった生き方かも知れない。しかしその結果を考えるとそうでもない気がする。ベートーヴェンは我々に信じられるものを残してくれた。決して我々の期待を裏切らないものがあるとすれば、それはベートーヴェンの音楽だ」

・「ベートーヴェンの作品は、メロディ、和声、対位法、色彩感、オーケストレーション、どれをとっても欠陥だらけだ。それぞれの要素は何の変哲もない。彼は一生かけても満足なフーガを書けなかった。オーケストレーションは最悪で、トランペットが目立ってしまって、他の楽器がかき消されている。では何に惹かれるのか?それは型だ。ベートーヴェンの場合は型こそすべてだ。型は結局、次にどの音を持って来るかで決まる。ベートーヴェンの場合、その選択が完璧なのだ。まるで神と連絡を取りながら音を決めていったようだ。モーツァルトでさえこうはいかなかった。次に何が来るかは全く予想出来ないが、これしかないという音を選んでいる。どれもそれ以外考えられない音で、それゆえに完璧な型を作っている。どうしてこのようなことが出来たのか誰にも分からない。ベートーヴェンは一音一音搾り出すようにして書いている。部屋に閉じこもったまま気がおかしくなるくらい集中した。彼は心の中の氷山の一角しか表現できないと悩んだ。部屋は散らかし放題、食事は3日間手つかず、ピアノの下には一杯になったままの便器。しょっちゅう引っ越しをし、落ち着ける場所を探した。楽譜の下書きを見れば彼がどんなに苦しんだか分かるだろう。こうしてやっと完成した曲は神様が口述したかのようだ。これこそがベートーヴェンの素晴らしさなのだ。しかしこの必然性の追究の為、彼の人生はめちゃくちゃだった」

●ワーグナーのベートーヴェン賛歌
「ベートーヴェンの交響曲第5番“運命”終楽章は、ホルンとトランペットの音だけから成り立つ行進曲の簡潔なメロディーが、それ自身の単純さの巨大さゆえに我々の魂を震撼させる。時には嵐に蹂躙され、時には繊細な微風に吹き払われて、ようやく雲間から太陽が壮麗に輝き出すのを見るように、我々を不安定で待ちきれぬ気持ちにさせておく引き延ばし戦術によって、この楽章の感動は絶大なのだ」「交響曲第7番終楽章は、驚くべき音の渦巻きの回転の中に、新しい惑星が生まれるのを眺めるようだ」
「数年前に行われたベートーヴェンの遺体検分では、全骨格と同様に、まったく尋常ならざる厚みと堅さを持った頭蓋骨であることが分かったのだ。このようにして自然は極度に繊細な脳を保護したのであった。そこで、その脳はひたすら内側を向き、何物にも妨害されぬ落ち着きの中で、あの偉大な心の世界の熟視に励んだということなのであろう」
「(かつて音楽家の身分は低く)ハイドンはいわば宮廷付きの芸人であり、それで生涯を通したのである。だがベートーヴェンは、友人や支持者(パトロン)たちに年金を、もはや彼の作曲した作品の報酬としてではなく、彼がこの世界でなにものにも妨げられずに仕事に打ち込めるよう、日常の生活費として要求したのである。そこで音楽家の生涯として、ここに初めて数人の好意ある高貴な人物が、求められた意味どおりに独立したベートーヴェンのために年金を贈るという事態が実現した。先にモーツァルトもそうなる可能性があったが、彼の方は若くして疲れ果て、病を得て生命を終えてしまった」

●友よ、第九のサビを歌おうではないか!
Freude, schoner Gotterfunken,
フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン 喜びよ 神々の散らす美しい火花よ
Tochter aus Elysium,
トホテル アゥス エリージウム 楽園からやって来た娘よ
Wir betreten feuertrunken,
ヴィル ベトレテン フォイエルトルンケン わたしたちは 炎の情熱に酔いしれて
Himmlische, dein Heiligtum!
ヒムリッシェ ダイ ハイリトム 天高きあなたの聖殿に踏み入ろう
Deine Zauber binden wieder,
ダイネ ツァーベル ビンデン ヴィーデル 世の時流がむごく引き裂いた者を
was die Mode streng geteilt
バス ディー モーデ シュトレン ゲタイル あなたの神秘なる力は再び結びつける
alle Menshen werden Bruder,
アーレ メンシェン ベルデン ブリューデル その柔らかな翼に抱かれ
wo dein sanfter Flugel weilt.
ボー ダイ ザンフテル フリューゲル ヴァイト 人々はみな兄弟となる
※他の歌詞も「我が抱擁を受けよ全人類よ!」「我がこの口づけを全世界に!」「太陽が天の軌道を進むように、君たちは自分の信じた道を進め。勝利の道を歩む英雄のように!」など超ポジティブ。

●なぜ年末になると第九を演奏するのか?理由は2説ある。
その1…1943年、戦況が悪化する中、学生にも徴兵令が下り始めた。徴兵された東京芸大音楽部の学生たちは、入隊間近の12月初旬に繰上げ卒業式音楽会で『第九』の第4楽章を演奏した。出征した多くの学生が死に、終戦後、生還した者たちで「別れ際に演奏した『第九』をもう一度演奏しよう」ということになった。つまり、“暮れの第九”の始まりは、戦場で散った若き音大生の魂を慰める鎮魂歌(レクイエム)だったんだ。
その2…N響は1927年から第九を演奏レパートリーに持っていたが、年末の演奏が定番化したのは終戦直後の混乱期から。食糧不足など厳しい生活を送っていた楽員たちは、年越しの費用を稼ぐために12月は『第九』を演奏する機会が増えた。なぜなら『第九』は曲そのものに人気があるうえ、合唱団員が多く出演するためその家族や友人がチケットを買ってくれ、確実な収入が保障されているからだ。同様の理由で“年末の第九”が、プロ、アマを問わず定着していった。現在国内の12月の第九演奏会は150回を超えている。※近年の海外の「年末第九」の習慣は日本から(ドイツは例外)。

※メトロノームは1812年(ベートーヴェン42歳)にオランダ人ウィンケルが発明し、4年後(1816年)にドイツのJ.N.メルツェルが上下に振り子をつけて改良、ギリシャ語のメトロン(拍、韻律)とノモス(規準)を合わせた造語メトロノームの名で特許をとった。ベートーヴェンより2歳年下という同世代のメルツェル。彼はベートーヴェンに会ってメトロノームを披露し歓迎された。
※ファン・ゴッホ(van Gogh)のように、ベートーヴェンも姓に“van”がついているのは祖父がネーデルラント出身だから。祖父の代にボンに移住した。貴族を表す「von(フォン)」とは異なる。
※死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年(42歳)の手紙が3通発見された。ベートーヴェンは生涯独身だったが、いつも身分違いの貴族女性や既婚女性という、手が届かない相手に恋をしていた。「不滅の恋人」は長年謎だったが、フランクフルトの商人の妻で4児の母アントニエ・ブレンターノ説が最有力。手紙には恋の煩悶が綴られており、結局はベートーヴェンが自ら身を退いている。
※臨終の家はショッテン門の北側、奉納教会の斜め裏手。入口にベートーヴェンの顔のレリーフがはめ込まれている。葬儀が行われたのはアルザー通りに面する聖三位一体教会。ここにもベートーヴェンのブロンズレリーフがある。
※秘書のシントラーは第九公演の申請手続きを行うなど、身寄りのないベートーヴェンの世話を一身に引き受け助けたが、著作伝記『ベートーヴェンの生涯』の捏造部分と内容を合わせるため、ベートーヴェンが晩年約10年間に書き込んだ数百冊にのぼる貴重な筆談ノートを、半数以上も廃棄処分にして“証拠隠滅”を計る暴挙を行っている。
※CDの収録時間が74分という中途半端な時間になった理由は第九にある。ソニーがCDを開発中に、1枚に録音できる長さを盛田会長が友人の指揮者カラヤンに相談した際、カラヤンは第九が全曲入る長さ=74分を求めてそう決定した。カラヤンは「これで第九をA面、B面と中断されずに聴ける」と大いに喜んだという。
※交響曲第5番を「運命」と呼んでいるのは日本だけ(汗)。
※ベートーヴェンは作曲の際、ほうきの柄の片側を歯で噛み、もう片方をピアノに入れて振動で音を聞くこともあったという。
※「(最晩年の“大フーガ”は)絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲」(ストラヴィンスキー)
※映画『アマデウス』で有名になったアントニオ・サリエリは、ベートーヴェンにイタリア語歌曲の作曲法を教えた。ベートーヴェンはサリエリを慕い、イタリア語歌曲を作曲する場合は必ず助言を求めていたという。サリエリがモーツァルトを毒殺したという噂がウィーンに流れた時は、筆談帳で胸を痛めている。
※日本人でも日本の業者を通してウィーン中央墓地に眠ることが出来る(300万円〜1000万)。
※「ベートーヴェンの9曲の交響曲があるのに、それ以上に必要なのでしょうか」(ブラームスは43歳まで交響曲を書けなかった)
※「交響曲第7番は舞踏の神化だ」(ワーグナー)

聴覚を失っていく絶望感からハイリゲンシュタットで自殺さえ考えた1802年の秋。32歳のあの日、彼が芸術の存在によって命を断たなかったおかげで、後に『運命』や『第九』が生まれ、今、僕らが聴くことができる。生きていればこそだ。ダンケ・シェーン(ありがとう)、ベートーヴェン!

  ベートーヴェンの遺髪(許可を得て撮影)

※最初の埋葬場所はウィーンのWahringer Friedhof(Defunct)。


8月の朝7時だと、このようにドラマチックな朝陽が背後に!


1994 2002 2005 2015
マイ・ゴッド、ベートーヴェン大先生の足元にひれ伏してキスをする。うう…ありがたき幸せ!この瞬間、天にも昇る
歓喜の絶頂にあり、文字通り失神寸前。もう、どこへでもついて行きます、ベートーヴェン大明神さまーッ!!
(実は1989年にも巡礼して同様の写真を撮ったんだけど…南仏で荷物を全部盗まれフィルムも無くなった!トホホ)


※なんと動画あり!ウィーン中央墓地(5秒)
ベートーヴェン、モーツァルトの記念碑、シューベルト、
ヨハン・シュトラウス、ブラームスが並んでて壮観!



★ワーグナー/Wilhelm Richard Wagner 1813.5.22-1883.2.13 (ドイツ、バイロイト 69歳)2002
Plot at his Family's Home, Bayreuth, Germany

 

ワグネリアン(ワーグナー・ファン)の聖地、
“あの”バイロイト祝祭劇場の前にて!


「ハハーッ!!ひらにーッ!!」


ワーグナーが晩年住んでた家がそのまま博物館に
なっている。その裏庭に彼と妻コジマが眠っている。





なんと墓はノッペラボウ!何も刻まれてないのでこれが
墓だと気づかず、周囲をずっと探していた。博物館の職員
になぜ名前が彫られていないか尋ねると「自分の家の庭
だから名前を彫る必要ないでしょう?」とのこと。確かに
(笑)。今まで500人以上墓参してきたけど、まったく何も
彫られてない墓石を見たのは、後にも先にもこれっきり!

庭番が教えてくれたワーグナーの愛犬の墓!彼の墓
のすぐ側の茂みにあった。なんか胸がキューンとなった。
ワーグナーって近寄りがたいイメージがあったけど、
こういうの見ると一気に親しみが湧くよ。こういうのが
あるから墓巡礼はやめられない。実に良い墓を見た。
家の中には彼の愛用していたピアノが!おそらく妻の
父リストも使用しただろう。タイマー撮影で悦に入る。



詩と音楽と劇の融合に生涯を捧げ、従来の音楽優先のオペラではなく、詩や劇が音楽の犠牲にならないる総合芸術「楽劇」を創始完成させた“楽劇王”リヒャルト・ワーグナー。ワーグナーは1813年5月22日に、ナポレオン軍占領下のザクセン王国ライプツィヒで生まれた。第9子。身長167cm。父は警察の書記でワーグナーが洗礼を受けた後に他界、母は父の友人(実父説あり)と再婚した。一家はみんな音楽好きで作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826/代表曲『魔弾の射手』『舞踏への勧誘』)と親交があった。この環境でワーグナーも音楽に関心を持ったが、モーツァルトやリストのような神童ではなく、ピアノの稽古も熱心ではなかった。11歳の頃から演劇の面白さに目覚め、シェイクスピア劇に熱中する。14歳のときにベートーヴェンが他界。翌年、ベートーヴェンの音楽に感動して音楽家を目指すようになる。ほとんど独学で作曲技法を身に付けたワーグナーは、最初にピアノ作品を作曲し始め、17歳のときにベートーヴェンの交響曲第9番をピアノ版に編曲して楽譜出版社に持ち込んだが刊行を断られた。
18歳でライプツィヒ大学に進み音楽と哲学を学ぶも中退。1832年(19歳)、生涯で完成させた唯一の交響曲、『交響曲第1番ハ長調』を書きあげる。10代とは思えない堂々とした作品だが、ワーグナーは「この世には既にあの(ベートーヴェンの)9つの交響曲があるのに、このうえ交響曲を作る意味があるのか」と立ち尽くし、もはやベートーヴェンの手で発達の余地なきまでに完成した交響曲を書くことをやめ、ベートーヴェンが開拓しなかったオペラの道に進んだ。
同年に最初の歌劇『婚礼』の台本を書きあげて作曲したが、このオペラは周囲から内容が暗すぎると否定され、未完のまま放棄された。

1833年(20歳)、中部ドイツ・ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者に就任。オペラ作曲家の夢を捨てきれず、同年に妖精の愛を描いたウェーバー風の全3幕の『妖精』を作曲する。この年、ゲヴァントハウスで『交響曲第1番』の初演が実現。
翌1834年(21歳)、マクデブルクの劇団指揮者に就任すると4歳年上の花形女優ミンナ・プラーナーと恋に落ちた。翌年のミンナ宛の手紙には「神にかけて(公演中の)ベルリンへ行き、力ずくで君を連れ去る。乙女よ!乙女よ!君ほどに愛された者はいない!」「君と別れてからもう24時間以上たってしまった」「感覚はほとんど力を失い、子どものように涙を流してすすり泣くばかり」など情熱的な言葉が飛び交う。
1836年(23歳)、3番目のオペラ『恋愛禁制〜パレルモの修道女』を作曲。イタリアの恋愛禁止令をめぐる騒動を描き、ワーグナーの数少ない喜劇となった。この年、劇団が解散しミンナが新たにケーニヒスベルク(現ロシア)の劇団員となったため、ワーグナーははるばる彼女を追っかけて11月24日に同地で結婚した。「苦悩といたわりとが結びつける絆より固い絆などあろうか?それが我々を一つにしているのだ。君はわが妻なのだ!」。結婚の数日後、ワーグナーは借金のことで法廷に立たされ、少しでも監獄行きを逃れようと年齢を若くいって弁明した。
1837年(24歳)、結婚半年後、ミンナは夫の浪費癖に呆れたのか、幼い娘を連れてドレスデンの実家に帰り、ワーグナーは妻子を追いかけて関係修復を行っている。その後、リガ(現ラトビア)の劇場指揮者となった。リガではオペラ『リエンツィ』の台本と第2幕までの音楽を書きあげた。
ワーグナーは地方都市の歌劇場を転々とするうちに借金がかさみ、1839年(26歳)、債権者から逃げるためミンナと一緒に夜逃げ同然で船に乗った。ワーグナーはロンドンに向かう海上で猛烈な暴風雨に遭遇し、この体験が後の『さまよえるオランダ人』を生む。ワーグナーはロンドンに8日間滞在して極秘裏にフランスに入った。パリでは10歳年上のベルリオーズ(1803-1869)が標題音楽を開拓していることを知り感銘を受ける。貧乏生活に耐えながら3年間パリに滞在し、このパリ時代にオペラ『リエンツィ』『さまよえるオランダ人』を作曲、文筆家として“若い作曲家がウィーンのベートーヴェンを訪ねて会話する”という小説『ベートーヴェンまいり』、“パリで挫折した老作曲家の愚痴”を描いた『パリ客死』を著した。
1842年(29歳)、2年前に完成していたオペラ『リエンツィ』の初演の機会を探していたワーグナーは、ドレスデン宮廷歌劇場で上演に漕ぎつける。リエンツィは14世紀のローマの政治家で、貴族の暴政から民衆を解放した護民官。後に貴族の反乱や民衆の暴動でリエンツィら主要人物はみんな殺される。第5幕のアリア「リエンツィの祈り」が有名。この当時、欧州は革命の機運が高まっており、政治的な『リエンツィ』の初演は観客の熱狂を呼び大成功となった。ドレスデンでは以後30年間に『リエンツィ』が100回も上演された。『リエンツィ』の成功を受けてワーグナーはドレスデンに移住し、パリを去った。
翌1843年(30歳)、ドレスデン宮廷歌劇場の指揮者に就任し生活が安定する。同年、ドレスデンにて全3幕のオペラ『さまよえるオランダ人』上演。神罰で不死の呪いをかけられたオランダ人船長が、幽霊船に乗って愛による贖罪の力を求めてさまよう物語。純愛を証明するために乙女ゼンタが死に、オランダ人船長とゼンタは浄化され昇天していく。このオペラでは以後のワーグナー作品を貫く「愛、死、救済」が描かれ、音楽面でもワーグナーの特徴となる金管楽器の響きが強調されている。また、この年にグリムの『ドイツ神話』を読んで12世紀の叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を知り、後年、大規模オペラの着想となっていく。

1845年(32歳)10月19日、ドレスデンにて全3幕のロマンティック・オペラ『タンホイザー』(正式名「タンホイザーとワルトブルクの歌合戦」)初演。禁断の地で愛欲の女神ヴェーヌス(ヴィーナス)におぼれたタンホイザーはローマに懺悔の巡礼にむかうが、教皇は「あまりに罪は重く、私の杖が二度と緑に芽吹くことがないのと同じく、お前は永遠に救済されない」と破門を宣告される。清純な恋人エリーザベト(ワルトブルク領主の姪)が命と引き換えにタンホイザーの赦しを神に乞い、亡骸の側でタンホイザーも死ぬ。彼女の犠牲で教皇の杖が芽吹く奇跡がおこり、タンホイザーの罪は赦された。劇中の『夕星の歌』は、タンホイザーの親友ウォルフラムがエリーザベトへの秘めた想いを込めたバリトン独唱の傑作アリアとして知られる。
『タンホイザー』は管弦楽や合唱を効果的に使った作品だが、『リエンツィ』のようなドラマチックな史劇を期待していた聴衆は内容に戸惑い、期待外れと反発し、2回目の上演で聴衆は半分に激減、8日間で打ち切られた。後年、再演を重ねているうちに次第に評価が高まった。
1846年(33歳)、ワーグナーは復活祭に合わせた恒例の演奏会で、当時は演奏機会が少なかったベートーベンの『第九』を取り上げ、これによって『第九』は人々に名曲として認知されるようになった。
1848年(35歳)、ワイマールで宮廷楽長をしていた作曲家リストが『タンホイザー』を上演。リストはワーグナー音楽の熱烈な支持者となり両者は生涯の友情を結ぶ。同年、全3幕のオペラ『ローエングリン』が完成するが、『タンホイザー』の騒動に嫌気をさしたドレスデン宮廷歌劇場の支配人は、批評家や観客の反応を懸念して上演を拒否した。この年、『ニーベルンゲンの歌』にもとづいた超大作『ニーベルングの指環』の台本を書き始める。

2年前からヨーロッパでは農産物の不作で民衆が貧困に苦しんでおり、1848年2月、パリの労働者は社会改革を求めて武装し、バリケードを築いた。国王ルイ・フィリップは退位、議会は共和制を宣言し、社会主義者や労働者も参加した臨時政府が組織された。だが4月の普通選挙で貧困階層を代表する候補が敗北し、6月にパリの労働者が蜂起するも政府軍に鎮圧され、半年後の大統領選でナポレオン1世の甥ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)が選出されて帝政に向かって行く。
ドイツにパリの革命の情報が伝わると、1848年3月にベルリンでも政府に不満を持った学生・市民と軍隊が衝突した。この48年革命は、英国と北欧以外の全ヨーロッパで一斉に起き「諸国民の春」といわれた。だが社会主義運動に驚いた商工業者や知識人は保守的な勢力と妥協し、各国君主によって鎮圧されていく。
1849年(36歳)、当時の保守的な空気に不満を持っていたワーグナーは革命思想に共鳴、芸術のための社会改革を求めていた。そして「いかなる形の政府もやがて抑圧への道をたどる」と語るロシアの革命家・無政府主義者バクーニンと交流する。ワーグナーはバクーニンらとドレスデン五月蜂起に参加するが革命運動は失敗、ワーグナーは指名手配となってしまう。仲間が大勢逮捕されたため、ワイマールにいたリストを頼って偽造旅券と逃走資金の援助を受け、チューリヒへと逃亡、亡命した。改革の熱は持続し、ここから4年間は音楽よりも著作活動に専念、理想的芸術を様々な論文にしていく。

1850年(37歳)、リストは海外亡命中のワーグナーにエールを送るために、完成から2年が経っていた最後のロマンティック・オペラ『ローエングリン』をワイマールで初演する。舞台は10世紀前半のアントワープ(現ベルギー)近郊の河畔。魔女の陰謀で弟殺しの疑惑をかけられた領主の娘エルザを助ける為に、謎の騎士が白鳥に曳かれた小舟で現れる。騎士は正体を質問しないという約束でエルザを助けるが、エルザは魔女にそそのかされて結婚式の夜に身分を尋ねてしまう。翌朝、騎士は人々の前で自分の正体が聖杯の守護長パーシヴァルの息子ローエングリンと明かす(ローエングリンはアーサー王伝説のドイツ版に登場する英雄)。キリストの血を受けた聖杯を守る騎士は、身分を知られると人々の間から去らねばならぬ掟がある。エルザの弟は魔女によって白鳥に変えられていたことが分かるが、時すでに遅し、ローエングリンは立ち去ってしまい、エルザは絶望して息絶える。劇中の「第1幕への前奏曲」「第3幕への前奏曲」「婚礼の合唱(結婚行進曲)」は独立して演奏されるほど高い人気を集め、主要人物固有のテーマ曲=「ライトモティーフ(示導動機)」の導入は、のちの楽劇につながる試みとなった。
リストは初演後にワーグナーに向けて「君の『ローエングリン』は始めから終わりまで崇高な作品だ。少なくないところで私は心底から涙を流したほどだ」と手紙に書いた。『ローエングリン』は人気作となり、ドイツ各地で上演され、亡命中のワーグナーは「“ローエングリーン”を観ていないドイツ人は私だけだ」と嘆き、なんとか自分の目で観たいと願う。だが、結局見られたのは11年も経った1861年、ウィーン宮廷歌劇場の公演だった。この舞台はヨハン・シュトラウス2世の尽力で実現した。
https://www.youtube.com/watch?v=X_g9QFOTA6E

同じ1850年、ワーグナーは問題となる論文『音楽におけるユダヤ性』をK・フライゲダンク( 「自由思想」の意)の変名で『新音楽時報』に発表した。ワーグナーはメンデ
ルスゾーンやマイアベーアなどユダヤ人音楽家の功績を認めながらも、「ユダヤ人は創造できず模倣ばかり」「強欲、金儲け主義」「メンデルスゾーンはライプツィヒをユダヤ音楽の町にした」「容貌や喋り方が嫌」と糾弾。差別的な中傷が含まれた反ユダヤ主義の論文に、リストらワーグナーの友人はなぜユダヤ人を攻撃するのかと戸惑った。しかも不思議なことに、ワーグナーはこの論文を出す一方で多数のユダヤ人(指揮者、ピアニスト、音楽評論家)と親交を結んでおり、60歳頃の自伝ではパリ時代にユダヤ人言語学者と交流した思い出を「わが人生における最も美しき友情の一つ」にあげている。借金まみれで夜逃げ経験のあるワーグナーが、貸金など金融で成功しているユダヤ人を憎悪した「逆恨み説」、母がワーグナーを身ごもった頃から“関係”のあった継父の名がユダヤ人に多いガイアーであり、ワーグナー自身がユダヤ系の可能性があるため一種の「近親憎悪説」などがる。ワーグナーは15歳までリヒャルト・ガイアーを名乗っていた。
※論文発表の19年後に大幅加筆して実名で再版しており、こだわりがあるのは間違いない。かと思えば、ユダヤ系のヨハン・シュトラウス2世を「最高の音楽的頭脳」と呼び『美しく青きドナウ』や『酒、女、歌』などのワルツを好んでいた。晩年のバイロイト音楽祭で最後の楽劇『パルジファル』の世界初演を、ユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィに任せている。ワーグナーという人物の大いなる謎だ。

1851年、ワーグナーの創作欲はスイスでの亡命生活中も燃え続け、神話を題材にした『ニーベルングの指環』の台本を書き進めていく。ワーグナーは4部作の「指環」の台本を逆順で書いた。まず第4作『神々の黄昏』の原型を書き、次に物語を理解しやすくするために第3作『ジークフリート』を書き、満足できずに第2作『ワルキューレ』を書き足し、さらに『ラインの黄金』を書き加えた。神話を選んだ理由は、それが普遍的真理だから。ギリシャ神話、北欧神話など、愛や憎しみなど時代を超越したテーマを描く神話こそがドラマの頂点とワーグナーは考えた。
この年、著書『歌劇と戯曲』を著し、ワーグナーは音楽、演劇、視覚芸術などを統合した「総合芸術」論を展開した。この考えを具体化した以降のワーグナー作品は「楽劇」と呼称され、それまでのオペラとは区別された。ワーグナー以前の大半のオペラは、アリア、二重唱、レチタティーボ、間奏曲、フィナーレを約束事のように並べるだけだった。楽劇はアリアやレチタティーボの区切りを「ライトモティーフ(示導動機)」などで繋ぎ、音楽がとぎれずに進行していった。
1852年(39歳)、チューリヒで豪商オットー・ウェーゼンドンクと24歳の美しい妻マティルデ(1828-1902)と知りあう。マティルデはワーグナーにとって芸術的霊感となり、大いに創造活動を刺激した。
1853年(40歳)、『ラインの黄金』の作曲に着手し、翌年完成。続けて『ワルキューレ』の作曲に入る際、ワーグナーはスコアの片隅に“マティルデに祝福あれ”を意味する「G・S・M」(Gesegnet sei Mathilde)と書き込んだ。
『ワルキューレ』は1856年(43歳)の暮れに完成した。
1857年(44歳)4月、パトロンとなったウェーゼンドンクがマティルデの提案でチューリヒ郊外の自邸の隣家を借り、ワーグナーに「作曲しやすい静かな別荘」として提供する。ワーグナーは妻ミンナと移り住んだ。マティルデはワーグナーを崇拝しており、この引っ越しの後、2人はすぐに不倫関係となった。44歳と29歳、この禁断の愛は音楽史を変えるほどの作品を生むことになる。ワーグナーは別荘に入った4カ月後の8月、作曲中の『ニーベルングの指環』四部作の『ジークフリート』のペンをいったん置き、『トリスタンとイゾルデ』の台本執筆を開始した。ワーグナーはこの3年前にリスト宛の手紙に「私はこれまで一度も愛の幸福を味わったことがないため、あらゆる夢の中でも最も美しいこの主題のために一つの記念碑を打ち立て、そこで愛の耽溺のきわみを表現したいと思ったのです。こうして『トリスタンとイゾルデ』の構想を得ました」と報告しており、マティルデとの関係がスイッチを押したのは確実だ。…死によって愛を完遂しようとする恋人たちの物語。9月に台本が完成するとマティルダに捧げ、すぐに作曲に取り掛かった。
ワーグナーのマティルダ宛の手紙「9月18日に私は『トリスタンとイゾルデ』の台本を完成し、最終幕をあなたのところにお持ちしました。あなたは私をソファの前の椅子に座らせ、優しく抱擁してこう言いました。『もうこれ以上の望みはありませんわ!』。この日、このとき、私は新しく生まれたのです」。
※『ジークフリート』作曲の一時中断は他にも理由がある。(1)『ローエングリン』初演から7年間、何も新作を発表しておらず「このままでは音楽界から忘れ去られる」という危機感。(2)『指環』の構想が四部作に拡大したことで全曲完成の見通しが立たず、完成しても上演・出版のあてがない点。
※『音楽家の恋文』の著者クルト・パーレンはワーグナーとマティルデの不倫について次のように感慨をもって記している。「この陶酔は『ワルキューレ』の狂おしい情熱の嵐の原動力となり、かつて作られたなかで最も強烈な愛のドラマ、『トリスタンとイゾルデ』の着想を与えることになった。そのような一篇の田園詩から、誰がこの二つの記念碑以上のものを残せようか?」。

1858年(45歳)、ワーグナーは楽劇『トリスタンとイゾルデ』の作曲と並行して、マティルデが書いた5編の詩に音楽をつけた連作歌曲『ウェーゼンドンク歌曲集』を作曲。マティルデの誕生日に歌曲の一部をオーケストラ用にしてプレゼントした。この歌曲の3曲目と5曲目の旋律は『トリスタンとイゾルデ』にも使用されている。4月にトリスタンの第1幕が完成。ワーグナーは「このような作曲は、いまだかつてなかった」と自賛。その直後(4月7日)に大事件が起きる。ミンナがワーグナーからマティルデ宛てのラブレターを手に入れ、不倫が発覚したのだ。ヴェーゼンドンク夫妻は離婚を望んでおらず、話し合いの結果、ワーグナー夫妻がチューリヒを出ていくことになった。8月、ワーグナーはヴェネツィアに向かい、ミンナはドレスデンの実家に帰った。オットー・ヴェーゼンドンクはワーグナーが妻に手を出したにもかかわらず、ワグネリアンとして音楽に心酔しており、半年間のヴェネツィア滞在費を負担した。
1859年(46歳)、3月にトリスタンの第2幕が完成。マティルデ宛の手紙に「私の芸術の最高峰」と記す。その後、スイス・ルツェルンのホテルで作曲に集中し、6月5日に第3幕の前半が仕上がりマティルデに記す。「ねぇ君!最愛の君!これは恐るべき話だ。この巨匠はまたもや立派なものを作り上げた!すぐに仕上がったばかりの幕の前半を演奏してみて、かつて愛する神が、万事よしとわかった時に言ったのと同じことを、私も言わずにはいられなかった!私には、私を賞賛してくれる人々はいない。ちょうどあの時、約6千年前、(天地創造を終えた)神がそうだったように」。そして8月6日に第3幕を完成させ、直後に「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだ。マティルデはイゾルデとして理想化され、音楽を通して永遠の命を吹き込まれた。曲を知った近代的指揮法の創始者ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)は知人の音楽誌編集長に「私はあなたに、このオペラがこれまでの音楽全般の頂点に位置しているということを断言いたします」と書いた。
同年、『トリスタンとイゾルデ』を歌いこなせる歌手を探すためパリに移住。すると、ナポレオン3世から『タンホイザー』上演の勅命が下った。ワーグナーは台本をフランス語に訳し、劇場側からの要望でフランスではオペラに必須のバレエ音楽をつけ加え、197回にわたってリハーサルを行った。ところが、慣習に従わず第2幕ではなく第1幕にバレエを入れたため、踊り子目当てで第2幕から観劇した若い貴族達が怒って騒ぎ出し、初日の公演は収拾がつかなくなった。上演中の妨害は、2回目、3回目とエスカレート、ラッパや鞭など持ち込んでの嘲笑、怒号の嵐となり、ワーグナーは『タンホイザー』の公演を打ち切った。

1862年(49歳)、恩赦によってワーグナーの国外追放令が解除されて法的に亡命者ではなくなり、プロイセンに帰国。ドレスデンのミンナと再会できたが、これを最後に2人は会うことはなかった。この年、ワーグナーは指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻でリストの娘である25歳のコジマ(1837-1930)と出会う。コジマは哲学者ニーチェが絶賛するほど教養と優れた感受性を持っており、ワーグナーは自分の年齢の半分のコジマにたちまち魅了された。コジマは二児の母であったが、少女時代からワーグナーのファンであり、彼女もまた惹かれていった。ビューローはワーグナーの崇拝者だったことから、妻の不倫を暗黙のうちに了承していたとの説もある。同年、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかる。

1864年(51歳)、この年、借金地獄のワーグナーの人生が一変する。18歳の若きルートヴィヒ2世(1845-1886)がバイエルン国王に即位すると、ワグネリアン(熱狂的なワーグナー・ファン)の国王はワーグナーをバイエルンに招き、なんとワーグナーの負債の全てを肩代わりしてくれた。そればかりか高額の援助金まで支給してくれた。この幸運をもたらしてくれたのは『ローエングリン』だった。ルートヴィヒが幼児期を過ごしたホーエンシュワンガウ城は中世ドイツの白鳥の騎士ローエングリンの伝説の地。そして6年前、ワーグナーが亡命中にミュンヘンで上演された『ローエングリン』を15歳で観た皇太子ルートヴィヒは、そのロマンあふれる作品世界に魅了され、ワーグナー芸術の虜になった。即位後、王は国会財政が傾くほどワーグナーに入れ込んでいく。

1865年(52歳)、4月にワーグナーとコジマの間に長女イゾルデが生まれる。
同年6月10日、完成から6年間上演機会がなかった全3幕の楽劇『トリスタンとイゾルデ』が、ルートヴィヒ2世の命令によりミュンヘン宮廷歌劇場で初演された。指揮はハンス・フォン・ビューローでワーグナー自身が演出した。
物語の舞台は中世初頭の欧州。アイルランドの王女イゾルデはイングランド南西端コーンウォール王国のマルケ王の妃となるべく船で海を渡る。船の舵を取るのはマルケ王の甥トリスタン。イゾルデは治療の秘術の持ち主で、かつて重傷のトリスタンを救ったことがあった。このケガは、イゾルデの婚約者モロルトがコーンウォールを属国扱いしたため、トリスタンが決闘を挑んで倒した際のものだった。つまり、イゾルデにとってトリスタンは婚約者を殺した仇。だが、イゾルデはトリスタンの治療を通して互いの心に愛が芽生えたと信じており、トリスタンが主君の妃にするため彼女を送り届けていることを裏切りと非難し、心中を迫る。トリスタンは覚悟を決め、2人で毒薬を飲み干すが、それはイゾルデの侍女ブランゲーネがすり替えた愛の妙薬、惚れ薬だった。力強く抱き合うトリスタンとイゾルデを乗せて、船がコーンウォールに到着する。イゾルデはマルケ王の妃となった後もトリスタンのことを想い続けており、2人は夜闇の中で密会した。トリスタンの動きを怪しんだ友人メーロトに案内されたマルケ王は逢い引きの現場を目撃し、マルケ王に忠誠を誓うトリスタンは苦悩、自分からメーロトの剣に身を投げ深手を負う。トリスタンの従者がフランスにあるトリスタンの城にトリスタンを運び込み、治療のためイゾルデを呼び寄せる。イゾルデはトリスタンの妻となるため全てを捨ててやって来たが、トリスタンは彼女の姿を見て歓喜した後に息絶えた。そこに媚薬の顛末を聞かされたマルケ王が、2人の仲を赦すためにイゾルデを追って現れる。マルケ王はトリスタンの亡骸を見て嘆き、イゾルデはトリスタンに寄り添い、永遠の愛を歌いながら静かに息を引き取る。
※ちなみにトリスタンは『アーサー王伝説』の中では“円卓の騎士”の一人に数えられ、最強の騎士ランスロットと並ぶ武勇の持ち主とされている。

ワーグナーがスイス亡命時代にマティルデと重ねた情事が生んだ濃密なロマンティシズムは、情熱的な愛をテーマとした『トリスタンとイゾルデ』として実を結んだ。「愛の二重唱」に見られる、寄せては返す大波のような音のうねりは“愛の法悦”を感じさせ、聴衆は音の中に溺れ、深く沈み込むことで、 愛の究極の賛美を体感した。もともとイゾルデもトリス
タンも死ぬつもりで薬を飲んでおり、愛と死は表裏一体として描かれている。そのまま第1幕で死んでいても心中という極限的な感情表現であり、4時間半という長大な上演時間の間中、死の気配を感じながら愛に酔う目眩のするような作品となった。

音楽史において『トリスタンとイゾルテ』は後世の音楽の“調性崩壊”につながるトリガー(引き金)となっており、発表前後で歴史が分けられるほど大きな影響を与える作品となった。不協和音を解放して半音階進行を徹底し、「第1幕への前奏曲」冒頭に使われた定まらない調性、不安定な和音は「トリスタン和音」と呼ばれるようになる。また、「心の動きは絶えず陰影をはらみながら微妙に変化する」という考えから音楽の流れが途切れることを嫌ったワーグナーは、画期的な「無限旋律」を導入した。
従来のオペラは、序曲、アリア、重唱、合唱、間奏曲がそれぞれ独立し、音楽に“切れ目”があったが、ワーグナーは途切れのない無限旋律で一つの音楽作品へと発展させた。例えば、曲の終わりに終止感のある和音を使うのをわざとやめて、音楽が先へ先へと流れる印象を与えたり、一つの旋律が終わらないうちに新しい旋律が始まるように工夫した。劇中歌では第二幕の長大な「愛の二重唱」と、イゾルデの侍女が歌う美しい「見張りの歌」、クライマックスの「イゾルデの愛の死」が名歌として知られる。本作のトリスタン役は難役として有名で、輝かしい高音とバリトン並の低音域が同時に要求され、官能的な甘美さ、高貴な雰囲気、細やかな心理表現を持ち合わせ、さらにハードな第2幕の後、イゾルデ役は第3幕で休憩できるのにトリスタンは一人舞台を任されるという、人間離れした持久力が必要とされる。
この年、ワーグナーは聖杯伝説が好きなルートヴィヒ2世のために全3幕の舞台神聖祝典劇『パルジファル』の台本を書き始めている(完成は17年後)。

1866年(53歳)、別居中の妻ミンナが病により他界。享年57歳。彼女は没する16日前に、ワーグナーをかばってデマ報道の抗議声明を新聞に出している。「真実に栄光を。某紙における誤った記事に対し、私はここに真実に忠実に申し上げる。私は現在まで、別居中の夫リヒャルト・ワーグナーから扶助を受けている。この扶助により、私は十分な、不安のない生活をしている。ドレスデン、1月9日 ミンナ・
ワーグナー」。
同年、ルートヴィヒ2世や宮廷貴族がワーグナーと人妻であるコジマの関係を良く思っていないため、ミュンヘンから離れて再びスイスに亡命し、ルツェルン郊外トリープシェンで同棲生活を始めた。
1867年(54歳)、完成に5年の歳月を費やしたコミック・オペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を書きあげる。同年、次女エーファ誕生。
1868年(55歳)、ミュンヘンで全3幕の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』初演。初期の『恋愛禁制』をのぞくと、ワーグナーにとって唯一の喜劇的作品になる。マイスタージンガーとは中世ドイツの市民階級にいた文芸、音楽運動のメンバーのこと。軽い喜歌劇を書きたいと考えたワーグナーが、実在したマイスタージンガー、ニュルンベルクの詩人ハンス・ザックスを題材に選んだ。またもや構想は膨らみ、公演時間は休憩時間を入れて6時間という最大規模の大作となった。まったく「軽い喜歌劇」ではない。
舞台は16世紀半ばのドイツ・ニュルンベルク。マイスタージンガーの歌合戦が開催されることになり、優勝者には金細工師ポーグナーの評判の娘エバが与えられることになる。エバと相思相愛の騎士ワルターは歌合戦に出場するため、マイスタージンガーの試験を受けるが、市役所の書記ベックメッサーの妨害で失格する。靴屋の親方でマイスタージンガーのハンス・ザックスは、エバを愛しながらも若いワルターの自由奔放な歌に魅力を感じ、彼を応援する。ザックスからアドバイスを受けたワルターは優勝してマイスタージンガーになり、エバとも結婚、人々が「神聖ローマ帝国が滅んでもドイツの芸術は残る」と芸術やハンス・ザックスを讃える盛大な合唱の中で幕となる。
超肉食系のワーグナーも50代後半になり、この楽劇ではザックスが若者にエバをゆずって「諦念」の思想を示している。また、ワルターの自由な歌を排除しようとするベックメッサー(ワーグナーを敵視した音楽批評家ハンスリックがモデル)を通して保守的な俗物主義を風刺した。前作トリスタンから一転した明るい喜劇であり、音楽は晴れやかな長調が支配し今も人気が高い。「第1幕への前奏曲」「愛の洗礼式」「ヨハネ祭の場面」が有名。
マイスタージンガーの初演後に12年間中断していた『ジークフリート』の作曲を再開する。
この年、31歳年下の若き哲学者ニーチェ(1844-1900/当時24歳)とライプツィヒで出会う。ニーチェは18歳の時には既に『トリスタンとイゾルデ』の楽譜を買っていた熱烈なワグネリアンであり、これを機にスイスのワーグナー邸に23回も足を運んだ。ニーチェはマイスタージンガーの序曲を特に気に入り、「全神経組織が反応し、これほどまでに恍惚とした感情を体験したことがない」と感動。そしてワーグナーという人物を「現代最高の天才、気高く高貴な生命、深く心を揺さぶる人間性」と讃えた。バイロイト祝祭劇場の壮大な建設計画を聞いて心を躍らせると同時に、「指環」がニーチェの好きな古代ギリシャ演劇をモデルにしていることも彼を感激させた。また、夫人コジマの崇拝者にもなり、1870年に『悲劇の誕生』の原型の論文手稿を彼女の誕生日に贈った。

1869年(56歳)、ルートヴィヒ2世の要請で『ラインの黄金』をミュンヘンで初演。ワーグナーは全4部作が完成した後に連続上演したかったが、ルートヴィヒ2世の「楽しみで待ちきれない」という要望(というか命令)で、先行して『ラインの黄金』を披露することになった(ワーグナーに無断で上演したとも)。同年、コジマはビューローと正式に離婚する。長男ジークフリート誕生。
1870年(57歳)、ワーグナーはコジマと再婚し、彼女とビューローとの二児も引き取った。ビューローはワーグナーと決別し、楽壇ではワーグナー派と敵対していたブラームス派に加わっていく。同年、ミュンヘン宮廷劇場で『ワルキューレ』が初演される。コジマ33歳の誕生日である12月25日の朝、彼女のために密かに作曲した美しい管弦楽曲『ジークフリート牧歌』がワーグナーの友人たちによって演奏された。楽士たちは寝室の横の階段に並びワーグナーが2階から指揮し、コジマはこの音楽で目覚めた。
この年、「ベートーヴェン生誕100年セレモニー」がウィーンで催され、ワーグナーは講演することになっていたが、出席者名簿にブラームスの名を見つけて出席を拒否する。
1871年、『ジークフリート』完成。この年、プロイセン王ヴィルヘルム1世は普仏戦争に勝利してドイツ北部を統一させ、初代ドイツ皇帝に即位する。
1872年(59歳)、バイロイトに移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが自身の作品上演を目的として設計した全館が木造のオペラハウス「バイロイト祝祭劇場」(現リヒァルト・ワーグナー・フェストシュピールハウス)の建築を始める。自分の誕生日(5月22日)に合わせた祝典劇場の定礎式で、ワーグナーはベートーヴェン『第九』の歴史的演奏を行った。ワーグナーは不倫略奪婚の件でコジマの父リストと2年間絶縁状態にあったが、この年ワーグナー夫妻の熱心な招きに応じてリストがバイロイトを訪問したとで和解に至った。夏から『指環』4部作最後の『神々の黄昏』の作曲を開始。
ニーチェ(28歳)が第一作『悲劇の誕生』を発表、同書でギリシャ悲劇を「楽劇」として果敢に再生させようとするワーグナーを賛美し、「バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー」を天才の系譜と評してワーグナーを喜ばせた。
1874年(61歳)、『神々の黄昏』を書きあげる。これで26年前の1848年から書き始めてライフワークとなっていた『ニーベルングの指環』4部作がすべて完成した。この年、ワーグナー邸を訪問したニーチェがブラームスのピアノ曲を弾き、アンチ・ブラームスのワーグナーを激怒させる。

1876年(63歳)、楽劇上演の理想的環境を追求した「バイロイト祝祭劇場」が完成。ワーグナーは観客を舞台に集中させるためオーケストラ・ピットを舞台下に設けており、客席から指揮者もオーケストラも見えないという非常に特殊な構造になっている。指揮者がいつ現れたか分からないため最初の拍手もなく、音楽が突然空気を満たす。舞台だけに観客を集中させるため、一般のオペラハウスに恒例の側面の座席もない。場内の彫刻を廃し、椅子の装飾をなくして硬い木製にすることで、客席も共鳴板の役割を持つようになった。硬い椅子は座り心地が悪いが、これは観客を眠らせないためのワーグナーのアイデアでもある。また、譜面台の照明が隠れるため完全な暗闇を作ることができる。

1876年8月13日から17日までバイロイト音楽祭が開催され、上演に4日、約15時間を要する『ニーベルングの指環』(正式名は序夜つき3部作)の、初の通し上演が華々しくおこなわれた。客席にはルートヴィヒ2世やリストの他に、チャイコフスキー、ブルックナーらもいた。
ワーグナーが四半世紀をかけて作詞、作曲した『ニーベルングの指環/Der Ring desNibelungen』は、13世紀初頭の中世ドイツ英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』や北欧の英雄伝説『ウォルスンガ・サガ』、古代北欧歌謡集『エッダ』を題材にして創作された。ワーグナー音楽の特色である、特定のイメージを表す“ライトモティーフ”(示導動機)や無限旋律など独自の技法が物語の展開に効果的に使用され、音楽史において他に類をみない壮大な作品となっている。過去のオペラ作品には必ずあった合唱パートが『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』にはないのも革命的だった。

※ワーグナーの代名詞ともいえる「ライトモティーフ」は、簡単に言えば主要人物のテーマ曲。主人公を象徴する固定のメロディー(ライトモティーフ)が流れると、主人公の登場やその運命を暗示する。ライトモティーフは、ドラマの展開に応じてリズムや音程などを変えて何度も繰り返し登場する。ワーグナー以前はベルリオーズが効果的に使用。ライトモティーフは人物以外にも特定の場所や出来事に使われ、『指環』四部作には計82個のライトモティーフがあり、そのうち34個が『ラインの黄金』に現れ、22個が『ヴァルキューレ』に、18個が『ジークフリート』に、8個が『神々の黄昏』に新たに現れる。『神々の黄昏』は前作までのモティーフの繰り返しを含めると42個に達する。ワーグナーはこれらのライトモティーフを複雑に絡み合わせ、ドラマをより劇的なものにした。この手法はワーグナー以後のオペラや交響詩に広くみられるようになった。ただし、ワーグナー自身は「ライトモティーフ」という言葉を使わずに「案内人」と表現している。

『指環』四部作の舞台は神話時代。手にした者は世界を支配できるというラインの黄金から作られた「ニーベルングの指環」をめぐり、天上、地上、地下それぞれの世界で、小人族(ニーベルング)、ヴァルハラの神々(ヴォータン)、巨人族(ファーフナー)、英雄ジークフリートらが争う。『ラインの黄金』ではヴォータン率いる神々とアルベリヒらニーベルング族の争い、『ワルキューレ』ではヴォータンが人間に生ませた兄妹ジークムントとジークリンデの愛と、ヴォータンと娘ブリュンヒルデの親子愛、『ジークフリート』では英雄ジークフリートとブリュンヒルデの愛、『神々の黄昏』ではジークフリートの死による神々の世界の終焉までが描かれる。
※ワーグナーの希望は4夜連続の通し上演だが、音楽史上最大規模の作品であり、演奏家・聴衆の疲労を考慮して近年はバイロイトでも2日の休みを入れた6日間で上演されている。

【ニーベルングの指環】

●序夜『ラインの黄金/Das Rheingold』(全1幕/2時間40分)1854年完成…ライン川の水底で、ラインの黄金の見張り役の乙女3人が泳いでいるところへ、“ニーベルング族”の醜い小人アルベリヒが現れる。乙女から「この黄金から作った指輪を持つ者は世界を支配できる。愛の喜びを断念した者だけが指輪の魔力を得ることができる」と聞いたアルベリヒは黄金を奪い去り、ラインの黄金で作られた指環の力で地下のニーベルング族を支配する。
天上界では神々の長ヴォータン(北欧神話のオーディン)が妻フリッカの妹で美の女神フライアを報酬に、巨人族の兄弟に居城ヴァルハラを建設させた。ところがフライアは巨人族に身を捧げることを拒否。火の神で策略家のローゲ(北欧神話のロキ)は、フライアの代わりにラインの黄金を巨人族に渡すことを提案、ヴォータンと地下のニーベルング族の国へ向かう。ローゲは言葉巧みにアルベリヒを捕縛し、天上界に連行する。ヴォータンはアルベリヒから解放の条件としてラインの黄金を奪い、アルベリヒは「これを持つ者に死を与えよ!」と指環に呪いをかけた。知恵の女神エルダ(次作ブリュンヒルデの母)が警告し、ヴォータンは渋々指環を巨人たちに与える。すると指環を手に入れた巨人たちは財宝を巡って争い、弟が兄を殺してしまう。神々は指環の呪いに恐怖する。神々はヴァルハラに入城、ローゲは神々の没落を見通し、炎となってすべてを焼き尽くしてしまおうと独白する。ラインでは黄金を奪われた乙女たちが嘆く「ラインの黄金!涙の結晶!月光のため息!…再びライン河の水底で光っておくれ!上のお城が待っているのは、いつわりの日々。呪われよ!呪われよ!」。
劇中の曲では「神々のワルハラ城への入場」が有名。

※当時、合唱がないオペラ(楽劇)はとても珍しいものだった。
https://www.youtube.com/watch?v=3ZP-yXsNV2E&t=10s
https://www.youtube.com/watch?v=nPs9u0475QE&list=PLhCFlEaRDDRwgIVF-Skxc-RZ04UfvwpuX


●第1夜『ワルキューレ/Die Walkure』(全3幕/3時間50分)1856年完成…神々の長ヴォータンは巨人族に渡した「世界を支配する力を持つニーベルングの指環」を何とか取り戻したいと願い、また指環が野心家アルベリヒのもとに戻ることを恐れるが、自分自身は「契約」を司る神であり、手放した指環を自分の手で奪い返すことは許されなかった。そこでヴォータンは「神々の意志から自由な人間に指環を奪わせる」という作戦を思いつく。地上で人間の女との間に双子の兄妹をもうけ、兄妹にヴェルゼと名乗ったことから、兄妹はヴェルズングと呼ばれる。一方、指環がアルベリヒに戻った時の戦いに備えて、ヴァルハラの防御力を高めるため、愛娘ブリュンヒルデら9人のワルキューレを育てて地上の戦場に派遣し、戦死した人間の勇者の魂をヴァルハラに集めさせていた。
ある嵐の夜、ヴォータンが人間に生ませたヴェルズング族の若者ジークムントは、戦いに傷つき見知らぬ館の中に倒れ込む。そこはヴェルズング族の宿敵フンディングと妻ジークリンデの家であった。ジークリンデはジークムントに水を与え、不思議と互いに惹かれ合うのを感じた。フンディングは敵対民族のジークムントに「ひと晩は客人として扱うが翌日は決闘だ」と告げる。ジークリンデは夫に眠り薬を飲ませてジークムントを逃がす。2人は生い立ちを語り合い、幼い頃に行き別れた兄妹であることを知る。ジークムントはヴォータンが用意した剣をトネリコの木から引き抜き、これを「ノートゥング」(苦難・危急)と名付けた。2人は兄妹でありながら愛する気持ちを抑えられず、一緒にフンディングの館から逃亡した。
天上界ヴァルハラではヴォータンがワルキューレの長姉、愛娘のブリュンヒルデにジークムントに勝利を与えるよう命じる。だが、ヴォータンの妻フリッカ(結婚の守護神)はフンディングに同情し、ジークムントがやった略奪婚とジークリンデの不倫、タブーである兄妹の結婚を非難する。ヴォータンはフリッカに反論できずジークムントを倒すことを誓わされたが、ブリュンヒルデはジークムント殺害という命令の変更に戸惑う。ジークムントがジークリンデを想う真っ直ぐな愛に感動したブリュンヒルデは、父の命令に背いてジークムントを決闘で勝たせようとした。だがヴォータンが現れてノートゥング(剣)を破壊し、武器を失ったジークムントはフンディングに殺された。ショックで気絶したジークリンデをブリュンヒルデは愛馬グラーネに乗せて連れ去り、妹のワルキューレたちに助けを求める。ジークリンデは死んだジークムントの後を追おうとするが、お腹にジークムントの子供を宿していることを知り、生きる希望を取り戻す。ブリュンヒルデはやがて生まれてくる子の名をジークフリートと名づけた。
ヴォータンはブリュンヒルデが自分の意を汲んでジークムントの味方をしたと分かっていたが、命令違反を放置するわけにはいかず、苦渋の決断で彼女をヴァルハラ城から追放し、神性を奪って無防備なまま眠らせ、最初に覚ました男のものとなることを宣告する。そしてブリュンヒルデの願いを聞き入れて、眠る彼女のまわりに火を放ち、臆病者が近づけないようにした。ヴォータンは「さらば、勇敢で気高いわが子よ」とブリュンヒルデの眼に接吻して眠らせ、火の神ローゲを呼び出し、娘のまわりを炎で囲ませた。「わが槍の切っ先を恐れる者は、けっしてこの炎を踏み越えるな!」と叫んでヴォータンは立ち去る。
劇中の曲では「冬の嵐は過ぎ去り」「君こそは春」「ワルキューレの騎行」「ウォータンの告別」が有名。

※『ワルキューレ』は四部作の中でも特に人気が高い。ジークムントとジークリンデの悲恋、第3幕冒頭のワルキューレの騎行のスペクタクル感、ヴォータンとブリュンヒルデの父娘の愛情エピソードなど聴きどころが多い。ブリュンヒルデ役はオーケストラに負けない最高度にドラマティックな声と、長丁場を歌い切るだけのスタミナが要求される難役として知られる。「(ブリュンヒルデ役は)肉体的には大変な役でまるでマラソンです。喉ではなく体が疲れるのです。足、膝、背中…」(デボラ・ポラスキー)ソプラノ歌手
https://www.youtube.com/watch?v=1nuu9Rr1o9w

●第2夜『ジークフリート/Siegfried』(全3幕/4時間)1871年完成…ジークフリートの成長物語。ブリュンヒルデに救われたジークリンデは森の奥に逃れ、ジークフリートを産んで息絶えた。たまたまその場にいた地底人ニーベルング族の小人ミーメ(北欧神話のレギン)はジークフリートを育てる。ミーメはかつて兄アルベルヒ(『ラインの黄金』冒頭で黄金を盗んだ者)に虐待されており兄を憎んでいた。大蛇(ドラゴン)に変身した巨人族ファーフナーが護っている「世界を支配できる指環」を、ミーメはジークフリートを使って奪取しようと考える。怖いもの知らずのジークフリートは、父の形見の剣「ノートゥング」を鍛えなおし、大蛇ファーフナーを倒して指環を手に入れる。ジークフリートは大蛇の血をなめて小鳥の言葉が分かるようになり、小鳥からの情報でミーメの陰謀を知る。指環を狙って自分を毒殺しようとするミーメを返り討ちにしたジークフリートは、小鳥から聞いたブリュンヒルデが眠る岩山を目指す。途中で神々の長ヴォータンと出会うが、ジークフリートはヴォータンを祖父とは知らず、また父ジークムントの仇(父の決闘に介入して武器を破壊したのはヴォータン)であることから戦いを挑み、ヴォータンの槍を一撃で叩き折る。ヴォータンは孫の力に驚く一方、頼もしく成長していることに満足して立ち去った。
ジークフリートは燃えさかる炎を突破しブリュンヒルデを接吻で目覚めさせる。彼女は神性をはく奪され普通の人間になったことに不安を抱いたが、ジークフリートのストレートな求愛に感動し、2人は永遠の愛を誓い合うのであった。
劇中の曲では「ノートゥング! ノートゥング!」「森のささやき」「ブリュンヒルデの目覚め」が有名。

※登場人物は8人しかおらず四部作中では最も少ない。
※ジークフリート役は超人的な「ヘルデンテノール」が要求される。「ヘルデン(Helden)」は独語で「英雄」の意。ワーグナー作品で英雄役を演じるのに適した声質を持つテノールを指す。
https://www.youtube.com/watch?v=7Y2-aiKrvAw
https://www.youtube.com/watch?v=uOjBYl7l1qw

●第3夜『神々の黄昏/Gotterdammerung』(全3幕/4時間30分)1874年完成…知恵の女神エルダ(ブリュンヒルデの母)の3人の娘、「運命の女神」ノルン三姉妹が未来を占い、神々の終末(ラグナロク)が近いことを悟る。ジークフリートは愛の証しとして「世界を支配できる指環」を妻ブリュンヒルデに贈り、彼女は愛馬グラーネを夫ジークフリートに贈る。新たな冒険に旅立つ夫をブリュンヒルデが見送る。間奏曲『ジークフリートのラインへの旅』が流れる。
一方、ライン河畔のギービヒ家の館ではブルグント王国(ブルゴーニュ※かつてフランスとスイスにまたがっていた国)の一族、当主のグンター、妹のグートルーネ、家臣で異母兄弟のハーゲンが家の名声を高める方法を話し合う。ハーゲンは地底人ニーベルンゲン族のアルベリヒが人間の女に生ませた息子であり、彼は父から指輪を奪った者を憎んでいる。
ハーゲンは、グンターとブリュンヒルデ、グートルーネとジークフリートの結婚を提案する。まずジークフリートに忘れ薬を飲ませてグートルーネと婚約させ、ジークフリートにブリュンヒルデを連れて来させるという計略を立てた。館に招待されたジークフリートは忘れ薬の入った酒を飲んで記憶を失い、目の前のグートルーネに夢中になる。ジークフリートはグンターと義兄弟の誓いを交わし、グンターがブリュンヒルデを妻に欲していると聞くと彼女を連れてくると約束した。その頃、ブリュンヒルデのもとをワルキューレの妹がやってきて、「父ヴォータン(神々の長)はヴァルハラ城で無気力に過ごし、神々の終焉を待っている。神々を救うために指環をラインの乙女たちに返して欲しい」と頼みに来た。だがブリュンヒルデは愛の証である指環を渡すことができなかった。その後、見知らぬ男(実は変装したジークフリート)にブリュンヒルデは無理やり連れ去られ、指輪も奪われる。
ハーゲンが二組の婚礼のために家来を呼び集め、四部作で初めて合唱が登場。ギービヒ家の館に着いたブリュンヒルデは、ジークフリートがグートルーネと結婚しようとしていることに愕然とする。さらに彼の指に指環があったことから、一同の前でジークフリートの裏切りを訴えた。ジークフリートは潔白であることを槍に宣誓し、ブリュンヒルデはそれを偽誓と非難。グンターは家来の前で誘拐計画が露見し面目を失った。ハーゲンはブリュンヒルデの味方をするふりをして彼女に接近、不死身のジークフリートの急所が背中であることを聞き出す。ジークフリートは背中を敵に見せない勇者だから、背中が神力で護られていなかった。
翌日、ハーゲンとグンターから狩りに呼び出されたジークフリートは、“記憶が戻る薬”を飲まされ、自分がブリュンヒルデの夫であったことを思い出し、一同に明かす。ハーゲンはすぐさまジークフリートの背中に槍を突き立て「偽誓を罰した」と言いのけ、瀕死のジークフリートはブリュンヒルデを讃えながら息絶えた。間奏曲『ジークフリートの葬送行進曲』が流れる。
ジークフリートのことを愛していたグートルーネは、ジークフリートの死を聞かされショックを受け、兄グンターやハーゲンたちを責めたてた。指環の権利をめぐってグンターとハーゲンが争い始め、ハーゲンがグンターを倒す。そこへブリュンヒルデが登場し、ラインの乙女たちから聞いた真相を語る。ラインの河畔でジークフリートが火葬され、彼女はジークフリートの気高さ讃えて指環をラインの乙女たちに返すと宣言、自身も愛馬グラーネと共に火葬の炎の中に身を投じた。炎が広がり、ギービヒの館も炎上するなか、ライン川が氾濫しラインの乙女たちがハーゲンを川底へ引きずり込む。指環はついにラインの乙女たちのもとへ戻った。火はやがて天上界に達し、ヴァルハラ城と神々を焼き尽くす。何もかもが炎に包まれて崩壊し、神々の黄昏となる。(北欧神話ではこの世界の終末ラグナロクで古い神が死に、愛と平和の新しい支配が始まる。海中から新世界が浮上し、光の神バルドルが冥界から甦るという)
劇中の曲では「ジークフリートのラインへの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「ブリュンヒルデの自己犠牲」が有名。

※上昇志向の強いハーゲンは悪の魅力に富むアンチ・ヒーローであり、劇的なバス役としてドイツ・オペラの最高峰とされる。
※原案ではハッピーエンドだった。死後のジークフリートがヴァルハラに入って神々が栄えるというもの。
※ワルキューレの手でヴァルハラ城に運ばれた勇者たちは、昼は訓練、夜は祝宴という日々を過ごす。
※ワーグナーは中世の叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を原作のひとつにしているが、人物設定を大きく変えている。叙事詩では、ジークフリートはネーデルランドの王子、ブリュンヒルデはアイスランドの女王、グンターはブルグント王国の王、ハーゲンはアルベリヒの息子ではなくグンター王の重臣。
※『神々の黄昏』は、四部作の中で台本が最初に書かれたが、作曲は最後にされている。そのため音楽は円熟期の素晴らしい響きに満ちている。
※北欧神話はキリスト教が布教される以前の北欧の古代の英雄、神、世界の始まりと終わりに関する神話。北欧神話は9〜13世紀にかけて北ゲルマン人の間で韻文によって伝えられた『古エッダ』、13世紀にアイスランド学者によって詩学の入門書として書かれた『新エッダ』、12〜14世紀に書かれた散文物語『サガ』に記録されている。
天地がない太古の時代、熱風と霜がぶつかり、溶けた滴から巨人ユミルが誕生した。ユミルの汗から男女の巨人が生まれ、ユミルが塩からい石をなめると人間のブーリが出てきた。巨人の娘とブーリの息子ボルが結ばれ、アース神族となるオーディン、ビリ、ベーの3人の男子が生まれる。3人はユミルを殺し、亡骸から大地を、血から海を、骨から岩を、髪から草を、頭蓋骨から天を、脳みそから雲を創造した。アース神族は世界の中心のアースガルズ(アスガルド)に住み、そこには巨大なイグドラシル=トネリコの大樹がそびえ、枝は天に達していた。3本の根はオーディンらアース神族と、巨人族と、ニブルヘイム(ニーベルング)の世界に繋がり、それぞれに泉があり、3つの泉の運命の女神3人が、神々と人間の運命をさだめた。
世界や人類を創造した最高神オーディンは、片目と引き換えに知恵を授かった。オーディンは8本足の馬「スレイプニル」、槍の「グングニル」、黄金の腕輪「ドラウプニル」を宝として持つ。オーディンは地上の女神3人を妻にもち、大地の女神ヨルズとの間に雷神トール(ソー)が生まれた。トールはアース神族きっての力持ちであり、どんな敵も必ず倒して手元に戻る魔法の槌ミョルニルを駆使。雷鳴は戦うトールの戦車の音といわれる。ちなみに英語のThursday(木曜日)は「トールの日」の意味で、Friday(金曜日)は美の女神フレイヤを讃えた「フレイヤの日」の意味。アース神族のトールやバン神族のフレイヤらは、巨人族と壮絶な戦いを繰り広げていく。
冥府の女王ヘル(ヘラ)は悪の精霊ロキと女巨人アングルボザの娘。世界を支える聖なるトネリコの木「イグドラシル」の3本の根のひとつの下に住む。オーディンによって死者の国ニブルヘイム(ニーベルング)の支配権を与えられた。冥府ニブルヘイムは彼女の名のヘルとも呼ばれ、英語のhell(地獄)となった。
https://www.youtube.com/watch?v=Y2uESjCC1Ws
https://www.youtube.com/watch?v=dM9CHYgpAYg

−−4夜連続でワーグナー自身が演出した『ニーベルンゲンの指環』の初演は、残念ながら納得のいくクオリティに達せず再上演を望んだが、多額の負債もあって生前に果たせなかった。初演の大赤字は深刻で、ワーグナーは鬱になり、6年後まで音楽祭は開かれず、『指環』に至っては20年後の1896年まで上演されなかった。
この初演はニーチェを戸惑わせた。ニーチェの目には、かつては革命運動に加わり世界の変革を求め続けていたワーグナーが、パトロンの王族や貴族にチヤホヤされて悦に入っている姿に堕落を感じ、音楽も俗化していくように感じられた。そして失望のあまり「指環」上演の途中で劇場を抜け出してしまう。またニーチェはキリスト教を嫌っており、ワーグナーがキリストにまつわる“聖杯伝説”を題材に次回作『パルジファル』の台本を書いたことに反発した。ニーチェは古代の人間はギリシャの人々のように健康で明るい精神を持っていたのに、キリスト教が赤ん坊にまで原罪を押しつけて全人類を罪人とし、人間本来の活力を奪ったと批判。キリスト教が存在しなければ、人間はもっと健康かつ精神的に明るかったはずと考えた。
1876年が最後の対面となり、同年ニーチェは評論『バイロイトにおけるワーグナー』を発表してワーグナーへの疑念を書き、2年後(1878年)の『人間的な、あまりにも人間的な』で明確にワーグナーを俗物と批判し、両者は訣別した。コジマはニーチェの変節に憤慨し、知人宛の手紙に「あれほど惨めな男は見たことがありません。初めて会った時から、ニーチェは病に苦しむ病人でした」と書いた。
一方、ニーチェは晩年の自伝『この人を見よ』(1888)でコジマを次のように讃えている。「私が自分と同等の人間であると認めている唯一の場合が存在する。私はそれを深い感謝の念を籠めて告白する。コージマ・ワーグナー夫人は比類ないまでに最高の高貴な天性の持ち主である」。また、晩年のニーチェは好んでワーグナーの思い出話を語り、話の最後を「私はワーグナーを愛していた」と結んだという。

1882年(69歳)、第2回バイロイト音楽祭でワーグナーが「舞台神聖祝祭劇」と名付けた全3幕の『パルジファル』が初演された。物語はキリストの血を受けた聖杯の伝説にもとづく。ワーグナーの楽劇では最も重厚であり、初演に際して全幕の拍手を禁じた(現在もバイロイトでは第1幕の終わりで拍手をしてはならない)。本作はバイロイト祝祭劇場の特殊な音響への配慮がなされており、ワーグナーはバイロイト以外での上演を禁じている。7月30日の初演はヘルマン・レーヴィが指揮したが、8月29日の最終公演はワーグナー自身が指揮し、これが生涯最後の演奏となった。

『パルジファル』の舞台は10世紀頃の中世スペイン北部モンサルヴァート。その昔、“聖杯”(キリストの最後の晩餐で使われ十字架上のキリストの血を受けた器)を守るモンサルヴァート城のアンフォルタス王は、魔法使いクリングゾルの呪いを受けた女性クンドリーに誘惑されて聖槍(せいそう、十字架上のキリストを突いた槍)を奪われ、その聖槍によって負傷した。以後、アンフォルタス王の傷は治癒せず、官能への憧れと罪への苦痛が王を責め立てた。そこに「神に選ばれた清らかな愚者が現れるのをを待て」と神託が下る。
ある日、王に仕える老騎士グルネマンツのもとに、白鳥を弓矢で射た若者(パルジファル)が引き立てられる。若者は何かの理由で自分の名前も覚えていない。グルネマンツに説教された若者は白鳥を狙ったことを反省し弓矢を折った。グルネマンツは「この若者こそ神託の愚者かも」と聖杯の儀式を見せるために寺院へ導く。ところが若者は儀式の意味が分からず、失望したグルネマンツは若者を追い出した。
若者が魔法使いクリングゾルの魔城に近づくと、クリングゾルはクンドリーに「あの若者を誘惑せよ」と命じる。だが、若者は「“愚”という楯」を持っており容易に支配されなかった。クリングゾルは魔法で若者に美しい庭園を見せ、魔女たちに官能的な誘惑の合唱をさせる。だが若者の心は奪われない。そこでクンドリーが絶世の美女になって「パルジファル!」と呼びかけ、若者は自身がパルジファルであることを思い出す。クンドリーが母親の愛を語ると、パルジファルは自分がアーサー王の騎士になることを夢みて旅に出て故郷に母を1人置き去りにし、母が心労で死に至ったことを後悔する。心の隙を狙ってクンドリーが接吻するが、パルジファルは虜にはならず、彼は官能と戦ったアンフォルタス王の苦悩を理解した。クンドリーでは誘惑できぬと悟ったクリングゾルが姿を現し、自ら聖槍をパルジファルに投げつけるが、パルジファルは頭上で聖槍を受け止め、十字を切ると花園の魔法が解け、魔城も崩壊した。
数年後、グルネマンツが騎士となったパルジファルに洗礼を施す。儀式後、パルジファルが聖水をクンドリーの頭上にふりかけ、クンドリーは初めて泣くということを知り、魔法使いの呪いが解けた。3人が聖杯の寺院に向かうと、先頃没した先王ティトゥレルの棺と、病床のアンフォルタス王が騎士たちに運び込まれる。王は「もはや自分に資格がない」と聖杯の儀式を拒否、そして自身の不治の槍傷を指し、「悩める罪人(私)に死を与えよ!」と叫ぶ。パルジファルは「汝を傷つけた槍のみが、傷を癒すことが出来る」といい、聖槍の穂先を王の傷に当てると、不治の傷はすぐに治癒され王は快復した。パルジファルは新王に就くことを宣言、聖杯を高く掲げ祈りを捧げると、「救済者に救済を!」と合唱が歌うなか聖杯が輝きを放つ。これらの奇跡を見届けたクンドリーは呪いから解放されて息絶える。パルジファルはアンフォルタス王やグルネマンツに祝福を与えた。
劇中の曲では「聖杯行進曲」「花の乙女たちの踊り」「聖金曜日の奇跡」が有名。

※聖杯の説明補足。イエスの処刑後、アリマタヤのヨセフ(イエスの父ヨセフとは別のユダヤ人)がローマ総督ピラトに願い出てイエスの遺体を引き取り、亜麻布で巻いて香料と共に墓(洞窟)に葬った。ヨセフはイエスの傷口から流れる血を受けた杯を聖杯として保管した。後に聖杯は英国に運ばれ、ヨセフの子孫の手で代々護られてきた。この聖杯に罪人が近づくと、失明したり口がきけなくなるという。
※伝説によれば聖杯探索の旅に出発したアーサー王の騎士のうち、発見に成功したのはランスロットの子ガラードただひとりという。
※パルジファルが主人公となった最初の作品は、12世紀の仏の詩人クレティアン・ド・トロワによる未完の物語詩『ペルスバル、または聖杯物語』。作中でパルジファルは聖杯を発見し、聖杯の管理者の瀕死の傷をいやす(治癒の部分はワーグナーも同じ)。
※聖杯探索の物語は、キリスト教に改宗したケルト人の説話から登場人物を借り、キリスト教の世界観を広める推進力として利用された。
※『パルジファル』に多用されるライトモティーフ「聖杯の動機」は古い教会音楽「ドレスデン・アーメン」のもの。メンデルスゾーンも交響曲第5番『宗教改革』で使っている。
※『パルジファル』はキリスト教の救済思想を反映しており、これが原因となってキリスト教嫌いのニーチェは後にワーグナーと訣別した。
https://www.youtube.com/watch?v=NxNqMnYc21Q
https://www.youtube.com/watch?v=NxNqMnYc21Q

その後、ワーグナーは健康状態が悪化、ベネツィアに転地療養を試みたが、論文『人間における女性的なるものについて』の執筆中に、以前から患っていた心臓発作が起き、1883年2月13日に急死した。享年69歳。「女性の純愛による救済」を描き続けたワーグナー。コジマはベッドに横たえられたワーグナーの亡骸を一日中抱きかかえていたという。14作のオペラ・楽劇が遺された。5日後に遺体がバイロイトの私邸ヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬された。

ワーグナーの訃報を聞いたルートヴィヒ2世は「死体は私のものだ」と泣き崩れたという。同い年のイタリアのオペラ王、ヴェルディの手紙「私は昨日その訃報を読んだとき、あまりの驚きに立ちすくんだまま、しばらくはものも言えずにいました。我々は偉大な人物を失ったのです!彼の名前は芸術の歴史にもっとも巨大な存在として残ることでしょう」。ライバルとされたブラームスは訃報に接し、弔意を表して合唱の練習を打ち切った。ブルックナーは敬愛するワーグナーの死を予感し、哀悼の音楽として『交響曲第7番』の第2楽章を作曲している最中に訃報を受け取り、最後のコーダを書きあげた。
ルートヴィヒ2世はワーグナーの楽劇を「私たちの作品」と呼び、リンダーホーフ城内には『タンホイザー』ゆかりの「ヴェーヌス(ヴィーナス)の洞窟」を作らせ、ローエングリンのコスプレで人工池の船に揺られ、国家財政が傾くほどの国費を投じてノイシュヴァンシュタイン(新しい石の白鳥)城を築城した。この城の内部は至る所にワーグナーの音楽にちなんだローエングリン伝説やタンホイザー伝説の装飾画が描かれている。

ワーグナー他界3年後の1886年、ノイシュヴァンシュタイン城の居住環境が整いルートヴィヒ2世が移住。この年、バイエルン政府は王室公債を乱発して借金を積み重ねていたルートヴィヒ2世を統治能力にかけると判断し、形式的な精神病鑑定にかけ禁治産宣告の決定をした。精神病の診断が下された王は6月12日にノイシュバンシュタイン城からベルク宮殿に移されて軟禁され、翌日の6月13日夜、侍医グッデンと共にシュタルンベルク湖畔を散歩中に謎の水死をとげた。享年41歳。王がノイシュヴァンシュタイン城に居住した期間はわずか172日間だった。他界2日後(15日)、王の身体はミュンヘンに移され、6月19日に王宮から聖ミヒャエル教会へ運ばれ、王家の地下墓所に安置された。訃報を聞いたオーストリアのエリーザベト皇后「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」。ミュンヘン留学中の森鴎外はこの事件を題材に日本人の画学生がルートヴィヒ2世と出会う『うたかたの記』をあらわした。
国の経済を破綻寸前まで追い込んだルートヴィヒ2世は「狂王」「メルヘン王」の烙印を押され、国家運営の能力には恵まれなかったが、祖父王ルートヴィヒ1世、父王マクシミリアン2世と共にミュンヘンをベルリンにならぶドイツの文化的中心都市に育てあげた。王が築城した「ノイシュヴァンシュタイン城」は中世の騎士の居城を、「ヘレンキームゼー宮殿」はフランスのベルサイユ宮殿を、「リンダーホーフ宮殿」は同じくベルサイユのトリアノン宮殿を模している。ヘレンキームゼー宮殿は湖上の島を買い取って建設された。ノイシュヴァンシュタイン城は王の死の直後から観光施設として一般公開された。これらの美しい城は、現在バイエルン州を世界的な観光地とし、その繁栄に寄与している。
※ノイシュヴァンシュタイン(新しい石の白鳥)城は南ドイツ・バイエルン州にある城。標高964mに位置。城内にはワーグナーの楽劇に関する絵画が多数飾られており、中世の城の幻想的雰囲気にあふれ、ロマンチック街道の終点になっている。

コジマは1906年までバイロイト音楽祭を取り仕切り、作品の再演に尽力した。彼女は『リエンツィ』までを習作(練習作品)と見なし、上演演目を『さまよえるオランダ人』以降に限定した。コジマ引退後は作曲家・指揮者でもあった息子ジークフリート(1869-1930)が 1908年から音楽祭の終身芸術監督となって運営し、舞台演出も手が
けた。コジマは1930年4月1日に他界した。92歳の長寿だった。その4カ月後にジークフリートも心臓発作により61歳で急逝する。これを受けてジークフリートの妻ヴィニフレート(当時33歳、1897-1980)が音楽祭の後継者となった。折しもドイツではヒトラーが台頭。ジークフリートはナチスとは距離を置いていたが、ヴィニフレートはヒトラーと公私ともに親しくなった。結果、祝祭劇場はナチス政権の国家的庇護を受けることになり、ナチスと蜜月の母に怒った長女フリーデリント(1918-1991)はドイツを出てアメリカに亡命した。大戦後、ヴィニフレートはナチス接近を批判され祝祭劇場から追放された。そして敗戦から6年を経た1951年に、フルトヴェングラー指揮による伝説の第九演奏でバイロイト音楽祭は再開された。祝祭劇場はジークフリートの長男で演出担当のヴィーラント(1917-1966)と、運営担当の弟ヴォルフガング(1919-2010)というワーグナーの孫たちの共同体制となり、音楽祭は回を重ねていった。ヴィーラントの演出は、資金不足を逆手に取った極端に簡略化した舞台装置と照明による工夫が、批評家から「斬新である」と高い評価を得た。ヴィーラントが49歳で急逝した後はウォルフガングが一人で総監督に就き、以後のバイロイト運営を強権的に主導、2008年に80歳を前に引退し、ワーグナーのひ孫に当たる娘のエファ(先妻との娘)とカタリーナ(後妻との娘)が共同で総監督を務めている。

ワーグナーはオペラの作曲だけでなく、台本を書き、劇場の建築や大道具にも携わり、世界観に統一性を持たせてひとつの総合芸術「楽劇」にまとめ上げた。ライトモティーフや無限旋律を巧みに使用し、「指環」では合唱のないオペラという冒険も行った。音楽界はワーグナーの誕生以前と以後で大きく変わり、音楽家たちは壮大なワーグナー作品に影響を受け、交響曲はブルックナーやマーラーのように雄大になっていった。人格的には心が狭く攻撃的で、平気で借金を踏み倒す問題面もあったが、生み出された音楽は誰にも書けなかったものばかり。圧倒的スケールで音楽を聴く喜び(快楽といっていい)を極限まで体験させてくれ、音楽史にこの天才がいた幸運を感じずにはいられない。

「私は音楽史上まれに見る天才で、私より優れた作曲家はベートーヴェンだけだ」(ワーグナー)
「ワーグナーの作品ほど感情に訴えかける音楽はありません。他の追随を許しません」(スティーブン・ホーキング)科学者
「ワーグナーの音楽は阿片である」(ボードレール)詩人
「ワーグナーの反ユダヤ的姿勢は、恐ろしく嫌悪すべきものですが、時代の反映だったという面も…。当時のドイツのナショナリストは大抵反ユダヤだったのです」(ダニエル・バレンボイム)ユダヤ人指揮者
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【墓巡礼】
ドイツ中部に位置する人口約7万人の小さな街バイロイト。この街には毎夏「バイロイト音楽祭」のシーズンになると人口を優に超える10万人ものワーグナー信者=ワグネリアンが世界中からやってくる。この街にはワーグナーが自作専用のオペラハウスとして建てたバイロイト祝祭劇場と、ワーグナー夫妻の墓、そして「交響詩」創始者であり19世紀最大のピアニスト、フランツ・リストの墓がある。この3箇所はバイロイト駅からは北、西、南とバラバラの方角になるが、どこも1km強という近くにあり、自分の足だけですべて巡礼できる。2002年7月、朝6時半に街外れのユースホステルを出発。まずはワーグナーが1876年の?落としで『ニーベルンゲンの指輪』四部作を初めて連続上演し、フルトヴェングラーが1951年に超ドラマチックな第九を演奏したバイロイト祝祭劇場に向かった。丘の上にある劇場には駅から真っ直ぐ道が伸びており、天上界のヴァルハラに向かっていくよう。ここに来ることを「バイロイト詣で」と呼ぶのは、参道のような坂道を一直線に上っていくこともあるのだろう。劇場に到着するとまだ7時。ガラスに額を押しつけると、客席の扉が開いているのが見え、「あの先に夢の世界があるのか」と胸が高鳴った。
次に向かったのはリストが眠る市立墓地。バイロイトの街をてくてく歩き、人に道を尋ねながら到着した。「ピアノの魔術師」の異名を持つリストは1811年にハンガリーで生まれた。早くから神童と知られ、晩年のベートーヴェンは演奏後の少年リストを抱きあげてキスを贈った。20歳の時に天才バイオリン奏者パガニーニの公演に衝撃をうけ、超絶技巧を駆使した「ピアノのパガニーニ」になることを決意。リストは幼い頃から指を伸ばす練習をしており、人さし指は11cm、中指は12cmもあり(筆者は7.8cm)、「ド」から高い「ソ」まで軽々と押さえることができた。数年後、リストは文字通り全欧を“征服”した。美貌の持ち主でもあったリストは、各地で「リストマニア」と呼ばれる女性に囲まれ、ステージに投げられた花束の中で演奏した。一方、マナー違反には厳しく、ロシアのニコライ1世に向かって「陛下が話しているうちは私も演奏が出来ません」と叩きつけた。36歳のときに人妻と駆け落ちし、彼女から「才能を作曲活動に注ぐべき」と説得され、華やかな舞台から引退し「交響詩」を創始した。晩年のピアノ曲『エステ荘の噴水』でドビュッシーの印象主義を先取りし、「無調」を標題にした音楽史上初の作品『無調のバガテル』まで書いた。1886年にバイロイト音楽祭で『トリスタンとイゾルデ』を鑑賞後、心筋梗塞で急死する。享年75歳。
クラシック作曲家は数あれど、「リストマニア」「ワグネリアン」のように、コアなファンを表す言葉を持つ人物はごくわずか。両者のカリスマ性がよくわかる。リストの霊廟は白いチャペルで気品があり、彼のイメージと合っていた。「ラ・カンパネラ」や「愛の夢」の御礼を伝える。最後にワーグナーの墓へ。彼はリストの娘コジマと結婚しており、現在「リヒャルト・ワーグナー博物館」として公開されている居館跡の裏庭に眠る。僕は墓石をすぐに発見できず、庭師さんに尋ねると「目の前だよ」。なんと、何も文字がないノッペラボウの石が墓だった。「自分の家の庭だから名前を彫る必要がない」とのこと。感慨深く夫妻の墓を見つめていると、庭師さんが「こっちに来い」。教えてくれたのは愛犬の墓だった。とても可愛がっていたという。近寄りがたいイメージのあるワーグナーが少し身近になった。
ワーグナーが劇場建設と音楽祭を計画し、悲劇の王ルートヴィヒ2世が資金を出し、リストが音楽祭を楽しんだ後に旅立ったバイロイト。この小さな街に、数百年先の夏も、世界中から音楽ファンが集まり続けるのだろう。

※アンチ・ワーグナーの言葉で最も辛辣なものはクララ・シューマン(シューマン夫人)の日記だろう。『トリスタンとイゾルデ』を観劇したその夜の感想が凄まじい。「それは、私が今までに見たり聴いたりしたものの中で最高に忌わしい代物だった。まったくのところ一晩中あのような愛の気違い沙汰を、人間としての品位の感覚という感覚のすべてが損なわれてしまいそうになるまで、ジッと座って見聞きし、聴衆ばかりか音楽家たちまでがそれに歓喜しているのを見るなどとは、私の芸術家生活中、最も悲しい体験だった」「まったくトリスタンが死ぬまでに約40分もかかるのでうんざり」「世の中がみんな馬鹿になったのか?それとも私が馬鹿なのだろうか?オペラの題材は私には非常に酷いものに思えた。媚薬の一服によって惹き起こされた狂気の愛、そんな恋人たちにどうして興味が持てるというのだろう」。
※ワーグナーには自らの専用列車を仕立てるなど病的な浪費癖があり、当時の高所得者の年収5年分に当たる額を1ヶ月で使い果たしたこともあった。支援者からの借金も踏み倒した。ワーグナー「作曲家に出資する以上のお金の使い方など何があるというのか」。
※ワーグナーが作り上げた「楽劇」は音楽、演劇、美術、文学の総合芸術であり音楽は全体の一部。それに対し、ブラームスなど新古典派は徹底した「純粋音楽」を目指した。生前ウィーンではベートーヴェンの正統な後継者と見られていたブラームスを熱愛する『ブラームス派』と、ワーグナーの官能美に頭がヒートした急進的な『ワーグナー派』との間で衝突が絶えず、その波紋は王宮にまで及んだという。ごひいきの作曲家のコンサートの後、興奮した一群が敵対する側のたむろ場となっているパブを焼き討ちするなどかなり過激だった。ブラームス派はワーグナー派に対し「下品、悪趣味、大袈裟すぎ」と攻め、ワーグナー派はブラームス派に「化石、カビまみれ、退屈」とやり返していた。
※ブラームスとは犬猿の仲だったが、ある時ワーグナーはブラームスの作品『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』をブラームス自身の演奏で聴く機会があり、その才能を「(ヘンデルの)古い様式でも、本当に出来る人にかかると、いろいろなことが出来るものだ」と評価している。一方、ブラームスも友人にこう書いている。「いまワーグナーが当地(ウィーン)にいる。そして僕はワグネリアン(ワーグナーファン)ということになるだろう。当地の音楽家がワーグナー作品に軽率に反発しているのを見ると、思慮ある人間としてはワグネリアンになる」。
※ワーグナーが没した際に、ブラームスは追悼の月桂冠を送ったが、ワーグナーの妻コジマはこれに戸惑った「ブラームスは私たちの芸術の友ではなかったはず」。一方のワーグナーも、ブラームスがヘンデルの作品をもとにした変奏曲を弾いているのを聴き、「古い様式でも、本当に出来る人の手にかかると、いろいろなことが可能なものだ」と評価している。そもそもブラームスが20歳も年下ということもあり、ワーグナーは存在を気にもとめていなかった。また2人とも信仰する神(ベートーヴェン)が同じだった。
※1826年にイギリスで客死したウェーバーの遺骨を、1844年にドレスデンへ移葬する際に、ワーグナーが式典の演出を担当した。ワーグナーはウェーバーを尊敬しており、葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲、そして追悼演説を行った。
※ヒトラー率いるナチス・ドイツはワーグナーの音楽を最大限に利用。中でも国威発揚のために『ローエングリン』第3幕のハインリヒ王による演説「ドイツの国土のためにドイツの剣をとれ!」が様々な機会で使われた。チャップリンは映画『独裁者』の中でヒンケル(ヒトラー)が風船の地球儀をもて遊ぶ場面とラストシーンで「第1幕への前奏曲」を流している。ナチス宣伝相ゲッベルスはプロパガンダにワーグナーを多用し、ナチスのニュルンベルク党大会ではマイスタージンガーの前奏曲が演奏された。現在、イスラエルではワーグナーの作品を演奏することはタブーに近い。また、欧米においてワーグナーの「音楽」を賞賛することは許されても、「人物」を賞賛することはユダヤ人差別と見なされる。
※ドビュッシーは『トリスタンとイゾルデ』の影響から脱するために『ペレアスとメリザンド』を作曲した。
※「バイロイト祝祭劇場」は閑静な住宅街の外れの丘の上にある。1876年に「ニーベルングの指環」の初演で柿落としが行われた後、毎年7月末から8月末まで約1ヶ月にわたって「バイロイト音楽祭」が開催され、『さまよえるオランダ人』以降のワーグナーの歌劇と楽劇が上演されている。バイロイト音楽祭の切符入手は郵便による申込と抽選で行うが、非常に人気が高いために入手まで最低8年は申込み続けなければならないと言われている。
※バイロイト祝祭劇場に行くことが「バイロイト詣で」と呼ばれるように、ワグネリアンのワーグナー観賞は信仰に近いものがある。
※ワーグナー自身はこの『指環』4部作を「舞台祝祭劇」(Buhnenfestspiel)としており「楽劇」(musik drama)と呼ばれることには異議を唱えていた。
※ワーグナー自身はライトモティーフという語はつかっていない。
※ワーグナーが楽劇『ニーベルングの指環』を完成させられたのも、バイロイト祝祭歌劇場を建設できたのも、すべてルートヴィヒ2世のおかげ!
※若い頃のワーグナーは偽名を使って自分の作品を絶賛する手紙を新聞社に送ることもあった。
※ワーグナーは「ニーベルングの指環」でハープを6台も使うよう指定している。
※ワーグナーは犬とオウムを飼うなど動物好きで、動物実験に反対する投書を寄稿している。
※リヒャルト・ワーグナー祝祭歌劇場はガイドツアーで見学可能。実施は1〜4月と9月〜12月。火?日曜日の10:00、14:00の2回。
※祝祭歌劇場は今もクーラーがなく、暑さでダウンする人に備えて外で救急車が待機している。オーケストラピットは客席から見えない構造になっているため、楽団員はTシャツや短パンで演奏し、指揮者は終演後に大急ぎで正装に着替えて舞台挨拶に出るとのこと。

〔参考資料〕『大作曲家は語る』(小林利之編/東京創元社)、『名曲事典』(音楽之友社)、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『中央・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社新書)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、オペラ名曲辞典(http://www.music-tel.com/ez2/o/index.html /吉田 真)、ウィキペディアほか。



★バッハ/Johann Sebastian Bach 1685.3.21-1750.7.28 (ドイツ、ライプチヒ 65歳)1989&94&2015
Thomaskirche (Saint Thomas' Church), Leipzig, Germany

  

ライプチヒの聖トーマス教会前の“音楽の父”バッハ像。かっこいい! 近所にある昔からのバッハ像


聖トーマス教会 中央の祭壇に向かって歩いて行くと… ロープの向こうにお墓! 大バッハ様だーッ!




1994年 2015年 「Gせんじょうのアリアがすきです」※彼が生まれて
来たとき、分娩室に“G線上のアリア”が流れていた
「JOHANN SEBASTIAN BACH」とだけ
刻まれ、生没年は彫られていない

パイプオルガンでバッハを演奏していた。バッハは聖トーマス教会のオルガン奏者だった なんとステンドグラスにバッハ。聖人と同じ存在!

ライプチヒのAlter Johannisfriedhof(2015) ここがバッハの最初の埋葬地 後妻アンナはこの地下のどこかに眠っている





次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハが眠るハンブルクの聖マイケル教会。
聖マイケル教会の天使像はめちゃカッコイイ。扉が閉じており墓前に行けなかった(2015)
聖マイケル教会のルター像


ロンドン郊外のセント・パンクラス・オールド教会墓地 末子のヨハン・クリスティアン・バッハの巨大墓 バッハ家では唯一のオペラ作曲家(2015)

「地球外の文明に人類が贈るべき物は?」と問われた生物学者ルイス・トマスはこう答えた。「バッハの全集だ。自慢しすぎだろうが…」。実際、1977年に打ち上げられた惑星探査機ボイジャーに搭載された黄金のレコードには、収録された世界の音楽27曲のうち、クラシックから選ばれた7曲中、3曲までもがバッハの作品だ。カール・リヒター指揮&ミュンヘン・バッハ管弦楽団の『ブランデンブルク協奏曲第2番第1楽章』、アルテュール・グリュミオーの演奏による『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ第3番ガヴォット』、グレン・グールドがピアノを弾いた『平均律クラヴィーア曲集第2巻 前奏曲とフーガ』がセレクトされた。ちなみに他の4曲は、モーツァルトの『魔笛“夜の女王のアリア”』、ベートーヴェンの『運命第1楽章』『弦楽四重奏曲第13番第5楽章』、ストラビンスキーの『春の祭典〜生贄の踊り』。いまボイジャー1号は太陽系の外へ出て星間飛行中。
宇宙飛行士の毛利衛さんも、スペースシャトルから地球を見たときに頭の中をバッハの音楽が流れたといい、バッハ作品から感じる崇高さ、秩序感が宇宙と高い親和性を持つのだろう。

かつてバッハの墓を訪れるのは容易ではなかった。バッハ終焉の地ライプツィヒは、ドイツ統合前の東ドイツ側に位置し共産圏。“鉄のカーテン”の向こうに墓があった。僕が初巡礼したのは1989年の7月。11月にベルリンの壁が崩壊しているので、その4カ月前ということになる。西独フランクフルトから、まず飛び地の領土で米英仏管理下の西ベルリンへ。夜行列車の車内で東独の通過ビザを入国管理官に発行してもらい、西ベルリンのツォー(動物園)駅で下車。次に地下鉄で東ベルリンに移動し、強制両替と引き換えに1日ビザを発行してもらった。続いて、1日ビザを滞在ビザに切り替えてもらうためライゼビューロー(国営旅行公社)へ。僕の目的地はライプツィヒと、『第九』で詩が引用されたシラーが眠るワイマール。外国人の移動には制約があり、鉄道切符の購入には行き先のホテルの予約証明書が必要だった。そのライゼビューローが指定した外国人向けホテルの料金がとにかく高い!当時でも200マルク(約1万5千円)以上した。夏のヨーロッパ主要都市の巨大駅は、寝袋で眠る学生旅行者でごった返しており(現在と違って夜中に駅から閉め出されなかった)、僕も学生だったから節約のために駅舎をメインの宿にしていた。それゆえ、「に、に、200マルク!?」と素っ頓狂な声で値段を聞き直したことを覚えている。

夜になってライプツィヒに到着した僕は、分不相応な駅前のホテルに宿泊し、翌朝荷物を預けて聖トーマス教会に向かった。駅からは徒歩10分の距離。東ドイツ名物の“紙でできた乗用車”トラバントを横目に歩き続けると、バッハがオルガン奏者や聖歌隊長を務めた聖トーマス教会が見えてきた。「おお〜!これが、あの!」。バッハ・ファンの聖地にやってきたという興奮を胸に中へ入ると、いきなりパイプオルガンの音色に包まれた。バッハの名曲『パッサカリアとフーガ』を演奏していた!感動で鳥肌が立ち、思わず立ちすくむ。しばし聴き惚れた後、我に返って墓を探し始めた。祭壇の方に人が集まっていたので近づくと、人々の視線の先に大バッハの墓があった!ちょうど『パッサカリアとフーガ』がクライマックスの盛り上がりに達し、目にバッハの墓、耳からはバッハの音楽と、僕はもう卒倒せんばかりだった。

−−ドイツ、フランス、イタリアのバロック音楽をまとめ上げた統合者、“音楽の父”ヨハン・セバスティアン・バッハは1685年3月21日、ドイツ中部チューリンゲン地方のアイゼナハで8人兄弟の末っ子として生まれた。同年にヘンデルも生まれている。バッハ一族は200年にわたる著名な音楽家の家系であり、4代前のファイト・バッハから孫世代まで7代にわたって53人以上の音楽家を輩出した。
少年バッハは宮廷楽師の父から音楽の手ほどきを受けていたが、10歳で父が他界。前年に母も没しており、作曲家パッヘルベル(代表曲『カノン』)の弟子でオルガン奏者の長兄に引き取られた。兄は独・仏・伊の様々な作曲家の楽譜を所持しており、バッハは兄が大切にしている楽譜をこっそり持ち出し、半年の間、月明かりのもとで写譜したという。こうして筆写することで作曲法を独学で習得していった。
アイゼナハはルターがカトリック権力から逃れ、聖書を独語に訳し讃美歌を書いた土地。バッハの宗教心も篤いものになった。1700年(15歳)、バッハはリューネブルクの教会の少年聖歌隊に入りボーイ・ソプラノとして生活を自立。声変わりの後、18歳でワイマール公の宮廷楽団のバイオリン奏者となった。4カ月後、アルンシュタットの教会(現バッハ教会)の正式オルガン奏者として採用され、人々は18歳の若者の高いオルガン演奏技術に目を見張った。

1705年(20歳)、バッハは少年時代から憧れていたデンマーク出身の名オルガン奏者・作曲家のブクステフーデを訪ねるため1カ月の休暇をとり、ハンザ同盟の盟主リューベック(北ドイツ)に向かった。貧しかったバッハはアルンシュタットから約400km(東京〜神戸に匹敵)の道のりを歩いて行った。ブクステフーデは演奏中に音を途切れさせ、無音の中で聴衆が緊張して待っていると再び弾き始めるというドラマチックなことをしていた。バッハはブクステフーデに魅入られ、予定を2カ月もオーバーして同地に滞在し続けた。ブクステフーデは2年後に70歳で没しており、間近で演奏や作曲の技術に触れたのは貴重な体験となった。アルンシュタットに戻ると休暇をオーバーしたことや、礼拝時のオルガン伴奏に大胆な装飾音を混ぜ、普通に讃美歌を歌いたい信者を耳慣れない音で混乱させていると教会当局から激しく叱責された。他にもファゴット奏者を侮辱して剣を抜く騒ぎを起こしたことや、礼拝中に酒場に行ったり、聖歌隊席に見知らぬ若い女性(後に夫人となるマリア・バルバラ)を入れたと非難された。つまり20歳の男であり、やんちゃだった。

1707年(22歳)、又従妹で1つ年上のマリア・バルバラ・バッハと結婚。7人の子をもうけ、長男フリーデマンと次男エマヌエルは有名な作曲家になったが、長女をのぞく4人は早逝した。ミュールハウゼンの教会オルガニストを経て、翌1708年(23歳)に再びワイマール宮廷楽団のバイオリン奏者となり、同時に宮廷礼拝堂のオルガン奏者にもなった。バッハは自分好みにオルガンを改造し、多数のオルガン作品を作曲していく。同年『トッカータとフーガ ニ短調』を作曲、1710年(25歳)頃に8小節の変奏を20回繰り返す大曲『パッサカリアとフーガ』を書くなど、ワイマール滞在の9年間に約30曲のカンタータや多数のオルガン曲を作った。コラール前奏曲『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』もこの時期の作品。

1713年(28歳)、バッハより7歳年上のイタリア人作曲家ヴィヴァルディ(1678〜1741)の楽譜に触れ、曲を劇的に始める方法を学んだ。またイタリア音楽の明るく伸び伸びとした明快さに感銘を受けた。ワイマールでの給与に不満を持っていたバッハは、ヘンデルの出身地ハレで教会オルガニストの内定をもらう。翌1714年(29歳)、バッハを手放したくなかったワイマールの領主ヴィルヘルム・エルンストはバッハを宮廷楽団の楽師長(宮廷楽長、副楽長に次ぐ3番目の地位)に昇進させ、これを受けてバッハはワイマールに留まることにした。この頃、バッハの名はオルガン演奏の名手としてドイツ全土に知れ渡り、各地でオルガン鑑定人としてオルガン建造のアドバイスも行った。ドレスデンでは高名なオルガン奏者のフランス人と腕くらべをすることになったが、相手は負けることを恐れて勝負当日に姿を消した。
ワイマール領主とその甥エルンスト・アウグストは仲が悪かったが、甥は留学先のオランダで外国人作曲家の楽譜を大量に入手していたので(先のヴィヴァルディの楽譜も甥が所持)、バッハは領主の「甥と交流するな」という命令を無視して親交を持った。

1717年(32歳)、ワイマールでなかなか宮廷楽長になれず、しかもバッハからは無能に見えた人物が新楽長になったため転職を決意。より待遇の良い職場を探した結果、エルンスト・アウグスト夫人の兄で音楽愛好家のケーテン侯レオポルトから好待遇で招かれ、ワイマール領主に辞職を申し出た。領主はバッハが無断で求職活動していたことに憤慨し、バッハを1ヶ月間投獄したうえで解任した。晴れてケーテン宮廷に転職したバッハは、聖歌隊指揮者と宮廷楽長を6年間務めた。バッハが後に「(ケーテンの6年は)わが生涯の最良の時代だった」と振り返っているように、名手が揃った17人の宮廷楽団、高い年俸など最高の環境が用意され、作曲に専念することが出来た。ケーテン侯が教会音楽を重視しない改革派であったゆえ、バッハは教会音楽ではない『ヴァイオリン協奏曲』など多くの世俗器楽曲も手がけた。

1720年(35歳)、バッハが領主に随行して2ヶ月間保養地カールスバート(現チェコ)を訪れている間に、妻マリアが急死。バッハが帰宅すると既に埋葬も終わっており、衝撃を受ける。悲しみに打たれながら、この年、『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』(計6曲。パルティータ第2番終曲の“シャコンヌ”が有名)、『無伴奏チェロ組曲』、『半音階的幻奏曲とフーガ』、『2つのヴァイオリンのための協奏曲』など傑作を書きあげ、自身の感情を吐露した。
翌1721年(36歳)、4人の子を抱えていたバッハは16歳年下で20歳の宮廷ソプラノ歌手アンナ・マグダレーナ・ウィルケン(1701-1760)と再婚、バッハが没するまでアンナとの結婚生活は約30年続いた。彼女は優れた歌手であり、他の宮廷楽団員の10倍の給料をもらっており、バッハは澄んだソプラノに聴き惚れた。彼女の父も音楽家であり、アンナは10代前半からバッハの弟子だった(1713年にバッハが書いた『4声の無限カノン』に12歳のアンナの直筆が残っている)。他界するまで楽譜の清書や写譜を手伝うと同時に、バッハの一部の曲を作曲していた。結婚から約20年で13人の子をもうけ(7人は早逝)、その一方で先妻マリアの遺児たちを我が子のように育て上げた。
同年、3年前から手がけていた6曲からなる協奏曲『ブランデンブルク協奏曲』が完成。この曲は各曲で楽器編成が異なり、それぞれの楽器が持つ固有の音色を巧みに活かし、相乗効果で素晴らしい響きを生んだ。また、複雑な和声を組み合わせるなど、バッハの比類ない作曲技術が発揮された器楽の代表作となった。中でも優雅な対位法の第3番とチェンバロが派手に駆けめぐる第5番は特に優れている。

このケーテン時代からバッハはアンナや子どもたちのために音楽帳を作り始め、『フランス組曲』を含む『アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラビア小曲集(音楽帳)』を妻のために書き、『インベンション』を含む『ウィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラビア小曲集』を長男のために書き贈った。
1722年(37歳)、すべての長・短調を用いた前奏曲とフーガで構成され、後世の音楽家から“音楽の旧約聖書”とも例えられる鍵盤楽曲『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』を完成(第2巻は22年後の1744年に完成、各24曲)。バッハは第1巻の巻頭に「音楽を志す若い人々のために」と書き込み、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、近代のバルトーク、カザルスも毎日この曲集を弾いた。“ピアノの詩人”ショパンは、自身の演奏時の癖を矯正するためこの曲集を引き続け、恋人ジョルジュ・サンドとマジョルカ島に渡った際は『平均律クラヴィーア曲集』の楽譜だけを持ち込んだ。
※ケーテン時代、もしくは後のライプツィヒ時代に『管弦楽組曲』(全4曲)が書かれた。第2組曲は悲劇的な短調であり早逝した子どもの影響が見られる。第3組曲の第2楽章「アリア」は編曲者アウグスト・ウィルヘルミの脚色でピアノ伴奏付きの『G線上のアリア』として親しまれている。

1723年(38歳)、ケーテン領主の新たな妃が音楽嫌いだったことから、宮廷楽団の予算が縮小され始め、大家族を抱えていたバッハは“子どもの教育にも良い”と大学都市ライプツィヒに移住。以降、他界まで27年間を同地ですごす。ライプツィヒでは聖トーマス教会付属学校のカントル(音楽監督)に就き、聖歌隊長もこなし、市の音楽監督にもなったが、バッハは楽才に見合った敬意を周囲からあまり払われず、バッハの方も市の音楽水準に不満で「歌唱要員のうち17人は歌える。20人は訓練次第、17人は用なしだ」と断じている。賛美歌を選ぶ権利について聖職会議と争い、市参事会とは合唱隊員の採用をめぐって衝突し、諸方面と報酬の件で度々揉め事も起こした。
だが、バッハの創作意欲は消えることなく燃え続け、着任から数年間、日曜礼拝に合わせてカンタータを毎週作曲するなど200以上の教会カンタータを書いたほか、王がカトリックであったことから、宮廷作曲家を目指してカトリックのミサ曲も作曲した。『マニフィカト』(1723)、『ヨハネ受難曲』(1724)、『クリスマス・オラトリオ』(1734)など大曲がライプツィヒ時代に生まれた。中でも1727年(42歳)にライプツィヒ中の教会合唱団と音楽家を集めて聖トーマス教会で初演した約3時間の『マタイ受難曲』はバッハの宗教音楽の頂点を極め、2部68曲をもってキリストの受難を見事に描きあげた。1735年(50歳)、チェンバロ独奏の『イタリア協奏曲』を発表、好評を得る。

1736年(51歳)にポーランド王兼ザクセン侯の宮廷作曲家に就任。1739年頃、演奏者の名人芸が炸裂する『チェンバロ協奏曲第1番』を作曲。1741年(56歳)、鍵盤楽曲の『ゴルトベルク変奏曲』を発表。この曲はアリアと30の変奏で構成され、バッハの豊かな詩情と高度な技術が存分に発揮された名品となった。ある不眠症の伯爵のために、バッハの弟子でもあった若き14歳の天才チェンバロ奏者ゴルトベルクがこの曲を演奏したことで知られる(1956年にグレン・グールドがデビュー盤にゴルトベルク変奏曲を選び、世界的大ヒットとなって一気に曲が認知された)。
1747年(62歳)、次男カールがベルリンで仕えていた35歳の若きプロイセン王・フリードリヒ大王(1712-1786)の宮廷を訪れ、大王と交流する。大王はフルートの名手で作曲も行ったことからバッハを感嘆させた。大王はバッハに主題を与えて即興演奏を求め、これをきっかけに曲集『音楽の捧げもの』が生まれた。
1749年(64歳)、脳卒中で昏倒し、以前から悩まされていた眼病が急激に悪化、失明状態になる。アンナが目の代わりとなって聞き書きし、バッハ合唱曲の最高傑作『ミサ曲 ロ短調』が完成。この約2時間の大作はバッハが最後に完成させた曲となった(全曲が演奏されたのは死後100年が経過してから)。
翌1750年、目の手術に失敗し、後遺症などで体力を奪われ、7月18日に再び脳卒中の発作を起こし、10日後の7月28日午後8時15分に没した。享年65歳。1000を超える作品を遺した。絶筆となった『フーガの技法』はバッハの対位法技法の集大成であり、同じ主題を使った16のフーガと4つのカノンで構成され、シンプルな主題を組合せて誰も到達できなかった音の構築物を誕生させた。『フーガの技法』は死後に未完成のまま出版された。

他界から3日後、1750年7月31日にバッハはライプツィヒ市街の東部にある現在の旧ヨハニス墓地(Alter Johannisfriedhof)に埋葬され、後年アンナも同墓地に眠った。その後、バッハが約100年にわたって忘れ去られている間に墓の位置が不明になり、献花に訪れたシューマンが墓にたどり着けず途方に暮れるという有り様だった。没後144年(1894年)に遺骨が調査され、バッハの頭蓋骨が鑑定によって判明し、1900年から墓地を管理するヨハニス教会に安置された。そして第二次大戦の空襲で教会が倒壊したため、1949年に柩が聖トーマス教会の内陣に改葬された。翌1950年7月28日、バッハの200回忌当日に銅板(墓碑)が置かれた。

近代人として最初に音楽で自己を表現したバッハ。現在では信じ難いことだが、バッハの死後、その名は急速に忘れ去られた。対位法を重視したバッハの音楽は、単旋律の和声音楽が主流になっていく中で、人々から時代遅れの古くさいものに思われた。バッハは作曲家ではなくオルガン奏者として扱われ、作品が注目される機会はなかった。その中で、モーツァルトやベートーベン、ショパン、シューマン、リストといった一部の音楽家はバッハ作品の真価を見抜き、ベートーヴェンは部屋にバッハの肖像画を飾っていた。特にメンデルスゾーン(1809〜1847)はバッハ普及の使命感に燃え、バッハの死から約80年後、1829年にベルリンで若干20歳にして自らの指揮で『マタイ受難曲』の復活上演(102年ぶり)を行い、これをきっかけに忘れられていた作品群に光が当たるようになった。没後100年の1850年にバッハ協会が設立され、作品の発掘がすすめられ46巻の「バッハ全集」が刊行された。生誕330年となる2015年、『ミサ曲 ロ短調』の直筆楽譜がユネスコ記憶遺産に登録された。

先妻マリアとの間に五男二女7人の子をもうけたが4人は幼くして他界。長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach,1710-1784「ハレのバッハ」)は父に溺愛され充実した音楽教育を受け、才能にも恵まれたが、高慢さから人望はなく、父の死後は職に就けず各地を放浪、貧しさから父の作品を自作と偽ったり、父の自筆譜の多くを売却して行方知れずにしてしまった。貧困の中、ベルリンにて73歳で死去した。

次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (Carl Philipp Emanuel Bach,1714-1788「ハンブルクのバッハ」)は名付け親である作曲家テレマン(父の友人)から多くを学び、24歳からプロイセンのフリードリヒ大王(当初は皇太子)にベルリンで仕えた。54歳からは拠点をハンブルクに移し多数の宗教音楽を書いた。甘美で洗練されたクラヴィーア・ソナタも多く遺しており、ハイドンやベートーヴェンに大きな影響を与えるなど、生前は父よりも有名になり、バッハ一族の中で誰よりも成功を収めた。モーツァルトはエマヌエルの異母弟クリスティアン・バッハと親しかったが、エマヌエルの楽曲を編曲しており「彼(エマヌエル)は父であり、われわれは子供だ」と称えている。墓所はハンブルクの聖マイケル教会。

後妻アンナ・マクダレーナとの間に生まれた六男七女13人のうち7人は早逝。第9子のヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(Johann Christoph Friedrich Bach, 1732-1795「ビュッケブルクのバッハ」)はビュッケブルク宮廷楽団のコンサートマスターに就いた。その息子ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ(バッハの孫)は作曲家になり、音楽家バッハ一族の最後を飾った。

11男で末子のヨハン・クリスティアン・バッハ(Johann Christian Bach,1735-1782「ロンドンのバッハ」)は、父の死亡時に未成年の15歳であったことから裕福な異母兄(次男)カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(当時36歳)に引き取られた。クリスティアンはイタリア歌劇に魅了されミラノで音楽修行を積み、25歳で最初のオペラを発表し生涯に約50曲のオペラを書くなど、バッハ家では唯一のオペラ作曲家となり生前に国際的な名声を得た。27歳で渡英し他界まで20年間ロンドンを拠点とする。アンナの子の中では音楽家として最も社会的に成功し、ロンドンではヘンデルの後継者と見なされ、イングランド王妃専属の音楽家となった。“ジョン・クリスティアン・バック”は当時のイギリスで最も有名な音楽家であり、ロンドンを訪れた少年モーツァルトと交流し影響を与えた(華やかな表現を伝授)。1782年に46歳で急逝し、ロンドン郊外のセント・パンクラス・オールド教会に埋葬された。26歳のモーツァルトは「音楽界にとっての損失」と嘆いた。

バッハは計20人の子どものうち11人に先立たれたが、成人した4人の息子はみな音楽家として活動した。
バッハの死後、息子たちは新天地を求めてライプツィヒを離れたが、49歳のアンナは未婚の娘2人とそのまま同居を続けた。当時の慣習では未亡人や未婚女性は市当局からの支援や寄付などで生活をおくった。10年後、1760年にアンナが亡くなったとき、死亡登録簿には「物乞いの女性 アンナ・マグダレーナ59歳 故ヨハン・セバスチャン・バッハ氏の
妻」と記されており、“物乞い”と見なされていたことに胸の痛みを覚える。

バッハの書いた詩(!)を紹介

『煙』
パイプをくゆらし時を過ごせば
悲しい灰色の絵に思いが及ぶ
自分がパイプと同じだと気づかされる
かぐわしい煙の後は灰が残るのみ
この私も土にかえるのだ
灰色の絵は崩れ落ちて2つに割れ
私は己の運命の軽さを思う

−−数々の名曲を後世に遺してくれたバッハ。“JOHANN SEBASTIAN BACH”と名前だけが刻まれた墓に「ダンケ・シェーン(ありがとうございます)」と感謝の言葉を伝えた後、聖トーマス教会に向き合って建っているバッハ博物館へ。18世紀に建てられたバッハの友人の商人ボーゼ邸が博物館として利用されている。同館にはバッハとアンナの棺から発見された遺品、貴重な自筆譜、手紙、バッハが弾いたパイプオルガンの演奏台、当時の楽器などが展示されており、食い入るように見入った。作曲家の自筆譜は、ペンを手に五線譜と向き合う巨匠の姿がリアルに思い浮かべられ、作品を聴くのとは異なる感動がある。

その後、1994年の再巡礼を経て2015年に3度目の墓参を行った。私事になるが、これは特に重要な巡礼だった。息子が生まれる際、妻は高齢の出産で陣痛開始から18時間経っても出産に至らず、分娩台で苦しんでいた。僕はとっさに胎教で毎日聴かせていたバッハの特製CDを流すことを思い立ち、大急ぎで家に取りに帰った。CDの冒頭には『G線上のアリア』が入っている。病院に戻り、分娩室のスピーカーから曲を流すと、バッハの音楽に導かれるように5分もしないうちにオンギャーと赤ん坊が産まれた!18時間半にわたる出産が無事に終わったのはバッハのお陰だ。ちなみにその日は父の葬式で、僕は葬儀場から産婦人科に駆け付けるという信じ難い体験をした。そして息子が5歳になったとき、小学校にあがる前に家族にとって大恩人のバッハに御礼を言うために聖トーマス教会を訪れたのだった。教会に入ったとき、偶然にも胎教CDの2曲目に入れたコラール前奏曲『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』が演奏され、“この曲は!”と思わず妻子と目を見合わせた。聖トーマス教会のパイプオルガンは2000年の教会修復時に新設されたものだが、バッハが生きた18世紀ドイツの音色が忠実に再現されており、まさにバッハが座った場所と同じ所でオルガン奏者が演奏していて、後ろ姿からバッハもかくあらんと250年前に思いを馳せた。
墓参後、聖トーマス教会の内部を見て歩くと、ステンドグラスにバッハ像と、バッハの音楽を復活させたメンデルスゾーン像があることに気づいた。聖人のごとくステンドグラスの中で輝く2人に改めて頭を垂れた。

僕はクラシックファンの会話の中で、一度たりともバッハの悪口を聞いたことがない。ベートーヴェンやモーツァルトが苦手という人はいたけど、バッハに関しては誰もが「いいよね」。それはベートーヴェンのカミナリ説教やモーツァルトの勝手な独り言(それはそれで良いんだけど)のように、叱られてる感じや無視されてる感じを味わうことがないからかも。
バッハの音楽は秩序そのものであり普遍性を感じる。それは彼の“呼吸音”を聴いてるかのよう。呼吸音には何も主張はないが、生きていることは確実に分かる。聴いているときに自分が一人ではないように思える。バッハの心音と言ってもいい。他人の鼓動の音を聞くことは、人を落ち着かせ穏やかな気持ちにさせる。
聖トーマス教会は頭上からほぼ1日中パイプオルガンが鳴り響いている。バッハが作曲した音楽をオルガンで聴きながら、本人に巡礼ができる…僕が訪れた墓の中で最も素晴らしい環境で対面できた墓だった。


《バッハをめぐる言葉を特集》

「神が神であるごとく、バッハはバッハなのだ」(ベルリオーズ)
「バッハのピアノ曲はどこにも音符を書き込むことが出来ない。真に完全なのだ」(キース・ジャレット)ジャズ・ピアニスト
「バッハの音楽は世界のあらゆる人種をつなぐ絆。いうならば全人類の為のフォルクローレ(民謡)だ」(エイトル・ヴィラ=ロボス)南米最大のブラジル人作曲家
「バッハの音楽は宇宙へと目を開いてくれます。ひとたびバッハを体験をすれば、この世の生にはなにがしかの意味があることに気づきます」(ヘルムート・ヴァルヒャ)盲目のオルガン奏者
「音楽家たちが、自らの仕事にかかる前に、凡庸に陥らないために、まず祈らなければならないこの慈愛にあふれる神」(ドビュッシー)
「バッハは和声の不滅の神」(ベートーヴェン)
「 ヘンデル、バッハ、グルック、モーツァルト、ハイドンの肖像画が私の部屋にある。それらは、私が求める忍耐力を得るのに助けとなるだろう」(ベートーヴェン)
「私の確信するところでは、バッハには到底かないません。彼は桁違いです」(シューマン)
「芸術の半神であり、あらゆる音楽の根源」(シューマン)
「バッハは音楽史上、空前の奇跡」(ワーグナー)
「バッハを勉強しなさい。ピアノ上達のためには一番の方法です」(ショパン)
「バッハの作品ほど深みがあり、秩序だった音楽はありません。理知的で精緻でありながら、引き込まれるような魔力と情感に溢れています」(アンドラーシュ・シフ)
「バッハの音楽は“型破り”と“安定”が合体している」(あるバッハ研究者)
「敬虔な音楽がある所には常に神が存在する」(バッハ)

「『マタイ受難曲』の随所で私は胸をつかれ震えおののきます。取り乱して泣いたりしないよう、いつも身構えながら聴くのが“神よあわれみたまえ”です。思い出しただけで涙が出てきます。一体なぜなのか…。そこではいわば、こんな状況が描かれています。「裏切るだろう」と言われていた人間が、ある悪夢のような夜に、まさに予言通り裏切ってしまう。そして許しを請うのです。その心情をバイオリンが静かに語り始めます。無神論者やユダヤ教徒でも、西洋の人間ならキリスト受難の物語は知っています。それは人々の心に深く浸透しています。ある意味でこれほど劇的なドラマはなく、読む度に心を打たれるのです。聖職者はこう言うかも知れない。「真実に触れ、内なる信仰が甦るからです」と。しかし信仰ゆえに心打たれるのではありません。人は苦しみながら生き、いつかは死ぬという普遍的真理のゆえです」(演出家ジョナサン・ミラー)

音楽評論家の故・吉田秀和氏がバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を語る。「これを聴き出して、私はこの不条理の世界(現世)にも何かの秩序があり得るのではないかという気がしてきた。この音楽が続く限り、心が静まり、ひとつの宇宙的秩序とでもいうべきものが存在する気がする」
当時94歳の吉田氏が人生と音楽を振り返って。「どういう曲が一番胸に染みてくるかというと、それはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンだね。つまるところは、この3人だなぁ。僕は女房が死んだ時に音楽が一時受け付けられない時があって…(音楽というのは)あまりに訴えかけてくる力の強い、他の人の声。だから、ちょっと休んで自分の中に一人でいたいと思った。それでも、そのうち何かで寂しくなって、音が欲しくなって、いろんなものをかけてみた。どれも邪魔をしたけど、バッハは邪魔しなかった」

2016年9月にEテレ『N響ほっとコンサート』がオンエアされた際、対談コーナーで指揮者の広上淳一さんとN響コンサートマスターの篠崎史紀(愛称まろ)さんの音楽トーク。(広上さん)「どんな演奏がつたない子のバッハでも、どんな名手のバッハでも僕は聴けるんだよね」(まろさん)「同じ価値があるんだよ。生命の重みと同じなんだ」(広上さん)「バッハは万人に音楽の贈り物をしてくれたんだ」(まろさん)「偉大なる作曲家のもと万人が平等である、ってことだよね」。

※バッハ他界から52年後、伝記作家のヨハン・ニコラウス・フォルケルが長男フリーデマン、次男エマヌエルから情報を得て1802年に最初のバッハ伝を出版した。
※バッハが書いたドイツ語の教会カンタータは約250曲あったが、約50曲の楽譜が失われ約200曲しか残っていない。世界のどこかに眠っているはず…。『マタイ受難曲』の2年後に書かれた『マルコ受難曲』は台本のみが現存している。どんな音楽だったのだろう。
※バッハはお金を節約するために自分で五線を引いていた。ライプツィヒ時代は生活が苦しく、「人が死なないので私の葬儀収入が減った」というダークな発言も残っている。
※コラールはルターがつくったシンプルな讃歌をもとにした讃美歌。カンタータは、独唱、合唱、アリア、レチタティーボ(叙唱)などからなる器楽伴奏付きの声楽曲で、小規模なオペラともいえる。バッハの教会カンタータはまず合唱とオーケストラで開始され、独唱と伴奏によるレチタティーボとアリアが交互に繰り返され、最後にコラールで締めくくられる形式が多い。バッハのカンタータは歌詞に音楽が密接に寄り添い、歌詞は深い信仰心に支えられている。
※“ディープ・パープル”のギタリスト、リッチー・ブラックモアとキーボードのジョン・ロードはバッハの曲のコード進行をハイウェイ・スター等の楽曲で引用。
※ライプツィヒ大学図書館が『マタイ受難曲』の手書き楽譜を所蔵している。無伴奏チェロ組曲はバッハ直筆の楽譜が残っていない。
※不可解なことに、バッハがアンナに書いた手紙が1枚も残っていない。1730年代に描かれたはずの彼女の肖像画もない。アンナが作曲に深く関わっていたことを知られたくない者に意図的に破棄された可能性がある。
※ドイツ語の“Bach”は“小川”の意。気むずかし屋のベートーヴェンがジョークを言った記録がある。「大作曲家バッハはバッハ(小川)と呼ばれるべきではない。むしろ大海と呼ばれるべきだ」。
※バッハ最初の埋葬地、 旧ヨハニス墓地には奥の区画にワーグナーの母ヨハンナ(1778〜1848)と姉ロザリー(1803〜1837)の墓碑が現存。
※聖トーマス教会の祭壇の洗礼盤はバッハの子ども達だけでなく、ワーグナーの洗礼でも使われた。
※メンデルスゾーンは師がバッハ直系の弟子筋であり、一族にはバッハの孫弟子がいたことから、子ども時代からバッハ作品に触れていた。メンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』の歴史的復活上演がなければバッハは忘れられたままだった可能性があり、音楽ファンはメンデルスゾーンに感謝せねば。
※2008年、ナチの弾圧で破壊されたメンデルスゾーン像が聖トーマス教会前に復元された。
※当時の欧州ではイタリア、イギリスで国際的に活躍したヘンデルの方が、バッハよりもはるかに有名だった。バッハは地方作曲家の一人に過ぎず、同い年のヘンデルとの面会を切望していたが、その願いは残念ながら実現しなかった。
※バッハ博物館は2010年に改装され展示スペースが2倍になった。

【参考資料】音楽ドキュメンタリー『BBC Great Composers(1997)』、『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『ミセス・バッハ』(イギリス・グラスゴーフィルム)、『名曲事典』(音楽之友社)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、ライプツィヒ観光局HPほか。



★モーツァルト/Wolfgang Amadeus Mozart 1756.1.27-1791.12.5 (オーストリア、ウィーン 35歳)1994&2005&15
Saint Marxer Friedhof Cemetery, Vienna, Wien, Austria

作曲時、ペンを握る前に頭の中
で曲は完成。書き写すだけ!
薄っすらと涙を浮かべている
ようにも見える晩年の肖像
長生きしていればどんな
世界に到達していただろう

●生誕地ザルツブルク(オーストリア)



モーツァルトの生家。
4階に17歳まで住んでいた

父レオポルドは家族でこの家に引っ越し。
8部屋もある。生家の徒歩圏内

父レオポルド(右)、妻コンスタンツェ(中央)など
近親者の墓。ザルツブルク・聖セバスチャン教会
(2015)
姉ナンネルはコンスタンツェと
仲が悪く別の教会墓地に眠る
(ザンクト・ペーター教会)

〔レオポルト・モーツァルト〕 Leopold Mozart(1719.11.14-1787.5.28)モーツァルトの父。この父あってこそのモーツァルト。史上初のバイオリン教則本を書いた音楽理論家でザルツブルクの宮廷副楽長。息子の楽才を早くから見抜き、6歳にして女帝マリア・テレジアの御前演奏会を実現。7歳から3年半にわたって、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス(ルイ15世の御前)、イギリス、スイスに演奏旅行させ、各地の最先端の音楽を吸収させた。神童モーツァルトがロンドンの演奏会(3時間)で得た収入は、レオポルトの年収の8年分に匹敵したという。

●プラハ(チェコ)

  

プラハのベルトラムカ(モーツァルト博物館)には彼が愛用したピアノ、遺髪などが展示されているッ!
※この館で歌劇ドン・ジョバンニが作曲された


●ウィーン


イケメン・モーツァルト像 ウィーンの王宮広場にあり記念写真スポット(2002) この角度がバツグンに良い!

ザンクト・マルクス墓地はトラムの「ザ
ンクト・マルクス」駅より、ひとつ終点に
近い方から降りた方が圧倒的に近い
停留所の側のマンション背後
に線路がある。橋の下を目指そう
すると線路を横断できる隙間が
あるので、これを抜けると墓地!







ザンクト・マルクス墓地正門 入って左に案内地図がある 179番が彼の墓 墓の手前にあった案内板

正門からまっすぐテクテク歩く すると左手にポツンと単独の墓 他人の墓3人分をかき集めて造ったという 『W.A.MOAZART』と刻まれている



1994 初巡礼 2005 ピンクの花 2015 赤い花
周囲に墓はなく、このエリアはモーツァルトだけの為にあった!破格の待遇!

1994年、墓地にはなぜか“野良孔雀”がいて驚いた。鳩や雀で
はなく、クジャクだ。他にも目撃者がいるので、ここの名物らしい
ウィーンのモーツァルトの家(フィガロ・ハウス)は生誕250年とな
る06年にリニューアル・オープンするべく改装中だった(05年)

●楽聖墓地(ウィーン中央墓地)



左からベートーヴェン、モーツァルトの最初の墓石、シューベルト。
モーツァルトは墓石のみがザンクト・マルクス墓地からここへ移設
正面に彼の肖像画
(2015)
悲しみの女神像が手に持っているのは
モーツァルトの遺作『レクイエム』の楽譜だ

 
ウィーン楽聖墓地のケッヘルの墓。彼がモーツァルトの楽譜を年代順に整理してくれた。ごくろうさま!

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日、神聖ローマ帝国領(現オーストリア)ザルツブルクに生まれる。人間的にはひょうきんな性格で、姉への手紙の末尾には「相変わらずマヌケなヴォルフガングより」などと記していた。
父のレオポルド・モーツァルトはザルツブルク大司教付きのバイオリニスト・作曲家。モーツァルトは3歳でピアノ(チェンバロ)を弾き始め、自分で和音を探して見つけては喜んでいた。4歳になって父から本格的にレッスンを受けるとすぐに楽才を発揮し、メヌエットや小曲を弾きこなした。初めての作曲は5歳(1761年1月末)のときで、ピアノのレッスン中に即興で演奏した約20秒の『アンダンテ・ハ長調』を父が楽譜帳に書きとめた。
1762年(6歳)、モーツァルトと姉ナンネルは父に連れられてミュンヘンやウィーンを訪れ、父は各地で息子の神童ぶりを披露した。ウィーンのシェーンブルン宮殿では、神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアの前で姉と共に御前演奏を行う。この時、モーツァルトは宮殿の床に滑って転んでしまった。起き上がるのを助けてくれたのは、テレジアの当時7歳の末娘マリー・アントワネット。モーツァルトは彼女にこう言ったという「君は優しい人だね、大きくなったらボクのお嫁さんにしてあげるよ」。
7歳から10歳まで家族全員で長期旅行を行い、文豪ゲーテはフランクフルトで7歳のモーツァルトの演奏を聴き、“その演奏はラファエロの絵画、シェイクスピアの文学に匹敵する”と感嘆した。ロンドンを訪れたモーツァルトはバッハの子クリスティアンから華やかな音楽表現を学ぶ。モーツァルトはこれらの旅と平行して、わずか8歳で『交響曲第1番』を作曲し、11歳で最初のオペラ『アポロとヒアキントス』を作曲した。
一部の大人たちは「父親が作曲をしているのでは」と疑いを持ち、本当に一人で作曲しているのか一週間監視して曲を書かせたり、初見の楽譜をすぐに弾けるか検証したり、年齢を誤魔化していないか確認のために洗礼抄本を取り寄せるなどしたが、モーツァルトは疑いを全てはね除けて神童であることを証明した。
11歳から13歳までの2度目のウィーン旅行では天然痘にかかるが一命を取り留めた。
1769年、13歳で宮廷楽団のコンサートマスターに就任。年末から初めてのイタリア旅行に出発し、ローマ教皇から黄金の軍騎士勲章を授与される名誉を授かった(音楽家としては200年ぶり)。
1770年(14歳)の春、ローマ・ヴァチカンで門外不出の二重合唱曲『ミゼレーレ』(作曲グレゴリオ・アレグリ)を聴いた。この曲は、楽譜持ち出し禁止、写譜禁止、楽譜を書くことも禁止、システィーナ礼拝堂以外で演奏してもアウトで、禁を破れば“破門”となる、秘曲中の秘曲といえる作品だ。『ミゼレーレ』は9声部(9つのパート)が10分以上も重なりあい、絡みあう複雑なもの。だが、モーツァルトは一発で記憶し、宿に帰って楽譜に書き起こして人々を驚嘆させた(2日後、校正のため再び聴いて完全版にした)。翌年に『ミゼレーレ』の楽譜が出版されると、少年モーツァルトはローマ教皇クレメンス14世に呼び出された。だが、教皇はモーツァルトを破門にせず、逆にその驚異的な才能を褒め称えた。ヴァチカンは『ミゼレーレ』の禁令を撤廃した。
※『ミゼレーレ』(14分50秒) https://www.youtube.com/watch?v=36Y_ztEW1NE
 
同年秋、ミラノにてオペラ『ポントの王ミトリダーテ』を自身の指揮で初演し大成功をおさめ、モーツァルトは14歳という若さで不動の名声を築いた(ちなみにこの年にベートーヴェンが生まれている)。そして、翌年、翌々年と新作オペラ上演のためイタリアを訪れた。この間、故郷のザルツブルグでは新司教コロレードが着任。モーツァルトは有給の宮廷楽団コンサートマスターとなった(それまでは無給)。17歳、父と3度目のウィーン旅行を行う一方、翌年にかけて10代の交響曲の傑作となる、交響曲第24番、第25番(映画『アマデウス』の冒頭で流れ一躍有名に。18歳の作品)、第29番を作曲した。
モーツァルトは性格の合わないザルツブルグの司教と対立して職を辞し、1777年(21歳)、充実した音楽的環境と報酬を期待して母アンナとマンハイム・パリ旅行に出発した。この道中、父の故郷アウクスブルクで、いとこのマリア・アンナ・テークラ=“ベーズレ”(いとこちゃん)と初めて男女の仲となり、モーツァルトは彼女に宛て有名な「ベーズレ書簡」をのこしている。
 
※絶対に音楽の教科書に載ることがないモーツァルトの横顔、それはオゲレツちゃん(汗)。21歳の青年モーツァルトが19歳の従妹ベーズレに宛てた『ベーズレ書簡』より。(以下、全て海老沢敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集から)
「お休みなさい。花壇のなかにバリバリッとウ○コをなさい。ぐっすりお眠りよ。お尻を口のなかにつっこんで。(略)ありゃ、お尻が火のように燃えてきたぞ、こりゃ一体なにごとだ!きっとウ○コちゃんのお出ましだな?(略)でも、なんだか焦げるような匂いがする」
家族への手紙の中にも
「小生はズボンにウ○コをたれましょう」「おケツでも嗅ぎやがれ」「僕らがその上にチン座しますタマは別として」「くそったれ=ローデンルの主任司祭ディビターリは、人へのお手本として、彼の女給仕のお尻をなめた」
といった言葉が“普通に”飛び交っている…。
ただこれらは下品ではあるものの、原文のドイツ語では韻を踏んで音楽的な響きがある。
 
「だから、必ず来てよ。でないと、クソくらえだ。来てくれたら、ぼくが御みずからあなたにご挨拶し(コン・プリメンティーレン)、あなたのお尻に封印し(ペチーレン)、両手に口づけし(キュッセン)、臀部小銃を発射し(シーセン)、あなたを抱擁し(アンブラシーレン)、前からも後からも浣腸し(クリスティーレン)、あなたからの借りをすっかり一毛のこらず返済し(ベッアーレン)、勇ましいおならをとどろかし(エアシャレン)、ひょっとすると何かを落下(ファレン)させるかもね。」…詩人だ。
こんな曲もある→6声の声楽曲『Leck mich im Arsch(俺のケ○をなめろ) K.231』
https://www.youtube.com/watch?v=S9MN2WeqFY8 (2分21秒) タイトルは「このクソッタレ」的な言い回し。歌詞はともかく後半のハーモニーが素晴らしい。
 
当時のマンハイムは欧州を代表する音楽都市であり、マンハイム楽派の作曲家は交響曲の構成を従来の3楽章から4楽章形式に変えた。モーツァルトは同地で大いに影響を受ける。また、ソプラノ歌手アロイジア・ヴェーバーに恋心を燃やすが失恋し、1778年(22歳)、父に命じられてパリに半年間滞在した。パリでは優美な『フルートとハープのための協奏曲』『交響曲第31番』など数点を書きあるが、現地で母が他界してしまう。翌1779年、就職活動に失敗し、2年ぶりにザルツブルクに帰郷。宮廷オルガニストとして復職した。
1780年(24歳)、ミュンヘン宮廷の招待を受けて同地にてオペラを書き、上演も好評だったが、翌年にザルツブルク大司教コロレードから職務怠慢を叱責されたうえ、大司教の従臣に足蹴にされる侮辱を受けた。怒ったモーツァルトはザルツブルクと決別し、ウィーン定住を決断する。宮廷の職を離れ、フリーの音楽家としてウィーンで活動を始めたモーツァルトは、定職がないため借家にすみ、貴族相手の音楽教師や演奏会、楽譜出版で生計を立てた。
1782年(26歳)、モーツァルトはかつて失恋したアロイジア・ヴェーバーの妹コンスタンツェと結婚。これは良家の子女と結婚させようとした父の反対を押し切ってのことだった。1783年(27歳)、リンツ滞在中に交響曲第36番『リンツ』を4日で書き上げる。帰郷後、『大ミサ曲ハ短調』を上演。同年、『トルコ行進曲』も作曲。1784年、ウィーンの一等地に引っ越し(現フィガロハウス)、秘密結社のフリーメーソンに加盟した。
 
人生最後の10年を過ごしたウィーンにおいて、モーツァルトの才能はさらに開花し、1786年(30歳)に喜劇『フィガロの結婚』、翌年に色事師ドン・フアンの死を描いた『ドン・ジョバンニ』、晩年に『魔笛』という3大オペラを生み出している。また、交響曲の分野でも、1788年(32歳)に3大交響曲である第39番、40番、41番『ジュピター』を1カ月半という驚愕の短期間で仕上げている(一曲あたり2週間)。また、17曲にのぼるピアノ協奏曲、弦楽セレナード『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(1787)などの傑作も、借金苦の中で完成した。
モーツァルトの手紙によると、まずは頭の中で第1楽章を作曲し、それを譜面に書き起しながら第2楽章を頭の中で作曲、続いて第2楽章を書きながら頭の中で第3楽章を作曲していたという。
 
1787年(31歳)に神聖ローマ帝国皇室・宮廷作曲家の称号を得たものの、この頃から経済状態が極度に悪化していった。これはモーツァルトが書きたい音楽と、聴衆(貴族)が求める音楽の間にギャップが生まれ、次第にウィーンにおけるモーツァルトの人気が下火になっていったためだ。
モーツァルトが活躍した18世紀は、音楽家は地位が低く尊重されていなかった。貴族のサロンの演奏会などで常に新曲を要求されたにもかかわらず、演奏はBGM扱いでお茶&おしゃべりに夢中、貴族たちはまともに聞いていなかった。作曲家の苦悩や人間性を音楽に反映する土壌はなく、求められたのはただただ心地よい音楽、親しみやすく聞きやすい音楽だった。モーツァルトはそれが我慢ならず、聴衆にもっとハイレベルな要求をした。「聴き手が何も分からないか、分かろうとしないか、僕の弾くものに共感できないような連中なら、僕はまったく喜びをなくしてしまう」(父への手紙)。“もっと新しいことに挑戦したい”というモーツァルトの想いは、24歳年上の当時の大作曲家で“交響曲の父”と呼ばれるハイドンに捧げた6つの弦楽四重奏曲、通称“ハイドンセット”に顕著に表れている。
このハイドンセットは、速筆で知られるモーツァルトが2年もの月日をかけて完成させたもので、楽譜には何カ所も書き直した跡がある。モーツァルトの自筆譜は美しく修正が少ないイメージがあるが、このハイドンセット6曲は、ベートーヴェンのような“生みの苦しみ”が見て取れる。彼自身、この力作に次の献辞を添えている「親愛なる友ハイドンへ捧げる〜わが6人(6曲)の息子、辛苦の結晶を最愛の友に委ねます」「(ハイドンの)庇護と指導のもとにあらんことを」。パトロンの貴族にではなく、敬愛する先輩作曲家に捧げた曲であり、そこから「本当はこういう曲を書きたかった」「ハイドンさんなら分かってくれるはず」という思いがにじんでいる。
ハイドンセットには当時の常識ではあり得ない“不協和音”を入れた作品があり、出版時に楽譜を手にした人から「間違いが多い」と破り捨てられたという話も伝わっている。1785年、モーツァルトはハイドンを自宅に招待し、自らヴィオラを弾いてこの曲を披露した。ハイドンは感銘を受け、同席したレオポルドに「神と私の名誉にかけて申し上げる。あなたのご子息は、私の知る、あるいは評判で知っている、全ての作曲家のうちで最も偉大な方です。彼は優れた趣味を持ち、さらには、最も優れた作曲の知識を持っています」と心から才能を讃えた。
だが、個性や芸術性を込めたモーツァルトの音楽は、人々から「難解」「とても疲れる」と思われ、かつては予約者でいっぱいだった演奏会が、一人しか予約者がいない日もあった。モーツァルトは“分かりにくい音楽は必要とされなない”という「時代の壁」にぶつかり苦しんだ。「今時は、何事につけても、本物は決して知られていないし、評価もされません。喝采を浴びるためには誰もが真似して歌えるような、分かりやすいものを書くしかないのです」(父への手紙)。モーツァルトは分かりやすい音楽と、自分が表現したい音楽との隔たりに悩みながら、ギリギリの妥協点を探して音楽性を高めていった。
貧困の理由としては、他にモーツァルト夫妻の浪費癖や、宮廷楽長アントニオ・サリエリらがモーツァルトの才能に脅威を感じて演奏会を妨害したため収入が激減したとする説もある。
 
1788年(32歳)の手紙には作曲家としての誇りが書かれている。「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だった頃から、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。ぼくが幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」。
1789年(33歳)、フランス革命が勃発。フランスでは市民が国が動かすようになった。2年後の最後のオペラ『魔笛』はウィーン市民でも分かるように通例のイタリア語ではなくドイツ語で書かれ、劇場も郊外の民間劇場だった。そこには“オペラを貴族のものから市民のものに”という思いがあったのかも。貴族の隣に市民が座ってオペラを楽しむなど、半世紀前には考えられなかった。
1791年7月(死の5カ月前)、過労から健康を損ねていたモーツァルトのもとを、灰色の服をまとった謎の男が訪れ、『レクイエム』(鎮魂ミサ曲)の作曲を依頼した(正体は音楽愛好家ワルゼック・シュトゥバッハ伯爵。亡き妻に捧げるために依頼)。モーツァルトは11月20日から2週間ベッドで寝込み、死の4時間前までペンを握り『レクイエム』の作曲を続けたが、第6曲「ラクリモサ(涙の日)」を8小節書いたところで力尽きた。12月5日午前0時55分永眠。享年35歳。臨終に立ち会った義理の妹ゾフィーいわく「最後には口で『レクイエム』のティンパニーの音を出そうとしていました。私の耳には今でもその音が聞こえます」。レクイエムは弟子のジュースマイヤーらによって完成された。臨終前に聖職者が来るのを拒んだことから、終油の儀は受けていない。
没後50年目の1841年、故郷ザルツブルグに国際モーツァルテウム財団が設立され、翌年のモーツァルト像の除幕式には、モーツァルトの息子2人が列席した。そして死から71年を経た1862年、オーストリアのモーツァルト研究家ルートウィヒ・フォン・ケッヘルが作品目録を作成し、全作品にケッヘル番号=通し番号をつけた(現在は1964年の第6版を使用)。
 
モーツァルト家は経済的に困窮し、墓すら建てる余裕がなく、その亡骸はウィーン市門外のサンクト・マルクス墓地に埋葬された。映画『アマデウス』にも彼の死体袋が貧民用の「第三等」共同墓地(ただの穴)に無造作に投げ込まれ、伝染病防止の為に石灰をかけられるシーンが出てくる。後日、共同墓地にはモーツァルトを顕彰した記念碑が建てられた。
死から10年後、埋葬地は別用途で使うために掘り起こされ、その際にかつてモーツァルトを埋葬し、どの身体がモーツァルトかを知っていた墓掘り人が頭蓋骨を保存した。それは様々な人の手を転々とした後、1902年に国際モーツァルテウム財団が保管することになる。2004年、頭蓋骨の真偽論争に決着を着ける為、ウィーン医科大学教授らの研究チームが、ザルツブルグに眠る伯母や姪の遺骨を掘り出し、DNA鑑定をすることになった。結果が生誕250年の2006年に発表され、残念ながら別人だったものの、新たな謎が生まれた。伯母と姪の遺骨同士は縁戚関係にないことが判明したのだ。頭蓋骨はまだモーツァルト本人の可能性が残っている。
没後100年にあたる1891年には、ベートーヴェンやシューベルトが眠るウィーン中央墓地にモーツァルトの記念碑が移動し、この際にサンクト・マルクス墓地側の埋葬候補地が分からなくなったという。現在、“この墓地のどこかにモーツァルトは眠っている”という認識の上で墓が建てられている。
 
「ウィーンはモーツァルトがサリエリに毒殺されたという噂でもちきりです」(ベートーヴェンの筆談メモ)。モーツァルトの死因については100説以上あり、真相は謎だ。宮廷音楽長のイタリア人作曲家アントニオ・サリエリが才能に嫉妬して毒を盛ったという噂をベートーヴェンが聞いている。有力な死因は幼少期の長い旅行生活で罹ったリウマチ熱だが、モーツァルト自身は死の5カ月前に“毒殺されかけている”と妻に訴えている。「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」。没後39年、ロシアの作家プーシキンは戯曲『モーツァルトとサリエリ』を発表した。いずれにせよ、死者に捧げる『レクイエム』の作曲中に死んだことに何か運命的なものを感じる。
モーツァルト夫妻には子どもが6人生まれたが、4人が早世。成人できた2人は生涯独身で子どもがいなかったため直系の子孫はいない。
「死は厳密に言えば、僕らの人生の真の最終目標ですから、数年来、僕は人間のこの真実の最上の友と非常に親しくなっています。その結果、死の姿は僕にとって、もはや恐ろしくないばかりか、大いに心を慰めてもくれます」(病床の父に送った手紙)
 
モーツァルトの人生は35年10ヶ月と9日だが、そのうち10年2ヶ月と8日は旅をしていた(約3700日)。その距離、実に2万キロ。これは地球半周に匹敵する。6歳から19歳まで、父レオポルドは毎年のようにモーツァルトをヨーロッパ各地に連れ出し、多種多様な音楽に触れさせた。その結果、優美で繊細、かつ深みのある作風になった。モーツァルトは美しいメロディーラインを重視するイタリア気質と、厳格な構成と対位法を重んじるドイツ気質の両方を持つようになり、シンプルな均整美を持つ従来の古典派音楽を土台にしつつ、次世代の劇的なロマン派の要素も先取りしていた。フランス革命もあり、晩年の客層は貴族から市民に変わり始めていた。死の直前に完成した『魔笛』は大衆性と芸術性が見事に融合されており、興行的にも大成功した。妻への手紙「たった今オペラから戻ったところ。いつものように超満員だった。僕が一番嬉しかったのは静かな賛同だ!このオペラの評価が日ごとに高まっているのがよく分かる」。モーツァルトが長生きしていたら、どんな作品を書いていただろう。それを聞けなかったのは本当に残念だし人類の損失だ。
モーツァルトの曲は大半が宮廷用、もしくは貴族のお抱えオーケストラ用であったため、単純に聴いてて楽しい曲が多い。だが、そこには「幸せ」と「悲しみ」が同時に存在している。注文に従って明るい曲を書き続けていたが、実生活は就職口を求めて何年も続いた過酷な旅、身分差別の屈辱、旅先での母の死、子ども4人に先立たれる悲劇、膨大な借金…。
僕は悩み多き20歳頃、重厚なベートーヴェンに比べて、軽快な曲の多いモーツァルトに反発していた。でもその後、人生が辛いときに暗い曲を書くのは簡単だ、人生が苦しいのに明るい曲を書き続けたのはスゴイと思うようになった。モーツァルトはいかなる場合でも歌うことを忘れない。辛いときこそ笑顔。だからこそクラシック・ファンは彼の“陽気な曲”をこよなく愛し、今日もCDの電源を入れる。
 
 ※モーツァルトの基本タイムスケジュール→6時起床/7時作曲/9時ピアノレッスン(指導)/18時演奏会・遊び/22時作曲/25時半就寝。睡眠時間は4時間半。
※完成させた最後の曲は小カンタータ『我々の喜びを高らかに告げよ』。歌詞は「♪高らかに僕らの喜びを告げよ/音楽の楽しい響きを拡げよ/兄弟1人1人の心よ/その壁のこだまを受け取れよ」。この曲についてモーツァルトは「これまでだって良いものを書いてきた。だが、これ以上うまく書けたことはない。今夜のカンタータこそ僕の最高傑作だ」と語っている。
※作品数は少ないけど短調の暗い曲もある。それらはどれも陰影に富み、深く胸に響く名曲揃い。哀愁を帯びた旋律が聴く者の胸に迫る。
※モーツァルトは交響曲第41番『ジュピター』を作曲した後、まだ3年間生きていたのに、新しい交響曲を書かなかった。ジュピターの終楽章には、なんと彼が8つの時に作った交響曲第1番と同じメロディーが登場する。これはモーツァルト自身が、「シンフォニーではやりたい事を全てやった」と満足していたのかも知れない。
※絶対王政のこの時代、音楽家の地位は非常に低く、モーツァルトも宮廷では召使い同然の扱いしか受けなかった。彼は風刺オペラ「フィガロの結婚」でバカ貴族を笑い者にしたが、台本を書いた元神父ロレンツォ・ダ・ポンテは国外追放、モーツァルトも一時期宮廷の仕事を干されてしまう。
※手紙は5ヶ国語を使い分けて書かれている。
※ウィキには「検死によると身長は163cm」とあるけど、僕が昔読んだ新聞記事には148cmとあった。
※ビリヤードが大好きで、自宅にビリヤード台を置き、その上で作曲したこともある。
※オペラの作曲に関して、モーツァルトの天才ぶりが分かるエピソードが残っている。締切り前夜にうっかり眠ってしまったモーツァルトは、当日の朝、妻のコンスタンツェに叫んだ。
「しまった!コンスタンツェ、眠ってしまった!」
「あなた、あと2時間しかないわよ」
「なんだ、2時間もあるのか」
そしてあっという間に書き上げてしまった。既に頭の中に完璧な譜面が出来上がっているので、後はそれを書き写すだけでよかったのだ。
※1787年4月、31歳のモーツァルトはウィーンの自邸を訪れた16歳のベートーヴェンと会っている。目の前でベートーヴェンのピアノ演奏を聴き、この青年の将来の成功を確信したという。
※文献によってはモーツァルトが英国訪問時にバッハと会ったと書かれているけど、モーツァルトはバッハの死後6年後に生れているので、彼が会ったのはバッハの息子クリスチアン。
※日本でモーツァルト協会が設立されたのは1955年。
※1920年、リヒャルト・シュトラウスらの呼びかけでザルツブルク音楽祭が企画され、今でも毎年夏に開催されている。
※「旅をしない人はまったく哀れな人間です。凡庸な才能の人間は、旅をしようとしまいと凡庸なままです。でも、優れた才能の人はいつも同じ場所にいればダメになります」(1778/モーツァルト、父への手紙)
 
「私はモーツァルトの曲に触れて、神を信じるようになった」(ゲオルグ・ショルティ)指揮者
「モーツァルトの音楽は、あたかも天国の記憶のようだ」(小林秀雄)文芸評論家
「モーツァルトの悲しさは疾走する。涙は追いつけない」(小林秀雄)
「その音楽は宇宙にずっと昔から存在していて、彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ」(アインシュタイン)
「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」(アインシュタイン)
「人生の生き甲斐とはジュピターの第2楽章だ」(ウディ・アレン)
「(もし有力者が彼の才能を理解できるのなら)多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」(ハイドン)※モーツァルトより24歳年上。
「私にとってモーツァルトこそが音楽の世界におけるすべての美の最高峰だ。彼こそ理想の音楽美と呼ばれるものを感じさせ、歓喜のあまり私に涙させ、感激に全身を震撼させることができる。とりわけ私の好きな作品は17歳で知った『ドン・ジョバンニ』だ。この曲を通じて、私は音楽とは何か、ということを学んだ。それまで私はイタリア・オペラを通して音楽は陽気な楽しいものと思っていた。(略)バッハ、ヘンデル、グルック、ハイドンら四大作曲家たちはモーツァルトに追い抜かれてしまった。彼らは、モーツァルトという太陽によってかき消された星たち、といったところであろう」(チャイコフスキー)※『ドン・ジョバンニ』のクライマックスは陽気さや楽しさではなく“恐怖”が支配しており、なおかつ感動的という離れ技をモーツァルトが披露。

●なんとモーツァルトの生誕250周年を祝って、故郷オーストリア・ザルツブルクの国際モーツァルテウム財団全楽譜を無料で公開した。もちろん印刷も自由!作品番号で検索可能なので、有名な交響曲第40番(作品番号K.550)ならKVの後に「550」と入力するだけで楽譜が出てくる。5歳で書いた最初の曲“アンダンテ・ハ長調”なら「1a」でOK。ウィキペディアの「楽曲一覧」がジャンル別に整理されて作品番号も載っているので、これと併せて検索をかけるのがグッド。それにしても、700曲以上もあるモーツァルトの曲を全部アップするなんて、どんなに膨大な作業時間を要したのだろう!



★チャイコフスキー/Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840.4.25-1893.10.25 (ロシア、ペテルブルグ 53歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation
本名:Pyotr Tchaikovski

著名人が多く眠るアレクサンドル・ネフスキー修道院 修道院のチフヴィン墓地の前で画家が絵を売っていた



2005年。この時は赤い花が多かった 4年後。写真では分り難いけど、紫の花が多くなってた(2009) 2体の天使が寄り添う


天使の左腕に献花してあった
(2005)
胸像付きの墓は、光が差すとグッとドラマチックになる。この写真を
撮る為に1時間近く太陽が出るのを待った。待って大正解!(2009)

19世紀ロシアを代表する作曲家。叙情と哀愁の作曲家チャイコフスキーは、1840年5月7日、モスクワから1000km東に位置するウラル地方ボトキンスクに生まれた。父は鉱山技師。母は14歳のときにコレラで没した。青年期は父の望みでサンクトペテルブルクの法律学校に進んだ。19歳で法務省に入ったが、以前から音楽が大好きで、特にモーツァルトの歌心とグリンカの民族性に心酔していたことから、1861年(21歳)に知人の紹介でロシア音楽協会の音楽教室(後のペテルブルク音楽院)に入学、リストと並び称される大ピアニストのアントン・ルビンシテインに師事した。本格的に音楽を学んだチャイコフスキーは23歳で法務省を辞職し、音楽一本に専念していく(大作曲家の中では音楽家としてのスタートは遅い)。

1866年(26歳)、師の弟で同じく作曲家兼ピアニストのニコライ・ルビンシテインが創設したモスクワ音楽院に招かれ、和声の教授に就任。チャイコフスキーは教壇に立ちながら作曲を続け、同年、『交響曲第1番“冬の日の幻想”』を作曲。以降11年間の教職時代に作曲家としての名声が決定づけられていく。1868年(28歳)、音楽院で知り合った劇作家の台本を使いオペラ第1作『地方長官』を作曲。この年、ロシア音楽に根ざした国民楽派の“ロシア5人組”、モデスト・ムソルグスキー(1839-1881)、アレクサンドル・ボロディン(1833-1887)、ミリイ・バラキレフ(1837-1910)、ツェーザリ・キュイ(1835-1918)、ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)と知り合い、チャイコフスキー(西欧派)の楽曲にもロシア風の曲調が増えるなど大いに刺激を受けた。同年オペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ちるが翌年破局。
1869年(29歳)、シェイクスピアに題材をとった幻想序曲『ロメオとジュリエット』を書き、ドラマチックな戯曲世界と登場人物を見事に音楽で表現する。1871年(31歳)、人気の“アンダンテ・カンタービレ”を含む『弦楽四重奏曲第1番』、1872年(32歳)『交響曲第2番“小ロシア”』を作曲。1875年(35歳)、代表作のひとつとなる『ピアノ協奏曲第1番』を書き上げ、ニコライ・ルビンシテインに献呈したが、ルビンシテインから「演奏不可能の難曲」と酷評された。チャイコフスキーは落胆し、改定してドイツの指揮者兼ピアニスト、ハンス・フォン・ビューローに献呈。ビューローは作品を気に入り、同年のアメリカ演奏旅行で初演し大成功させた。その後、ルビンシテインはチャイコフスキーに酷評を詫びている。

1876年(36歳)、鉄道王・富豪の未亡人メック夫人(45歳)との風変わりな交流が始まる。楽才に惚れた夫人は6000ルーブルの年金提供を申し出、14年後に夫人が経済的理由で援助を打ち切るまで続いた。両者は数千枚にのぼる文通だけの関係で、1度きりの偶然の出会いをのぞき、まったく顔を合わせることがなかった。このメック夫人の援助のお陰で教職を辞して作曲活動に集中でき、イタリアやフランスに滞在しながら傑作を書き続けた。
1877年(37歳)、バレエ音楽の最高峰『白鳥の湖』初演。シリアスな音楽が舞踊音楽のために書かれたのは、グルックのオペラ・バレエ以来、100数十年ぶりだった。『白鳥の湖』は現代では大人気の演目だが、ボリショイ劇場の初演は平凡な振り付け、ダンサーとオーケストラの練習不足もあって大不評で、お蔵入りになってしまう(他界2年後、初演から18年後に振付師のプティパが再演して大ヒット)。同年、交響曲第4番をメック夫人に捧げる。文豪トルストイ(当時49歳)との交流も始まった。
この頃、チャイコフスキーが同性愛者であることが噂になり、当時のロシアではタブーだったことから、噂を打ち消すべく、愛を告白されたモスクワ音楽院の学生アントニナ・ミリューコワと結婚した。だが、結婚生活は最初からつまづき、精神を病んだチャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図り、医師の指導もあって早々に離婚、スイスで保養した。
1878年(38歳)、『バイオリン協奏曲』を作曲(この曲も当時の有名バイオリニストに「演奏不可能」と初演を断られている)。オペラ『エフゲニー・オネーギン』完成。1879年、ウクライナ・ブライロフで偶然メック夫人と遭遇する。
1880年(40歳)、敬愛するモーツァルトの「セレナード第13番(アイネ・クライネ・ナハトムジーク)」に着想を得た『弦楽セレナード』を作曲。同年、対ナポレオン戦争のロシア勝利を東方正教会の聖歌やロシア民謡を交えて描いた大序曲『1812年』が完成。翌年、ニコライ・ルビンシテインが他界し、一周忌に死を悼んで『ピアノ三重奏曲(偉大な芸術家の思い出)』を初演。1885年『マンフレッド交響曲』完成、モスクワ郊外に居を定める。

1888年(48歳)、壮大なフィナーレの『交響曲第5番』を作曲。 この年の手紙「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番のアンダンテ、あの短い楽章ほど豊かな霊感に満ちた曲を私は知りません。それを聴く度に肌寒さを覚えて青ざめるくらいです」「ベートーヴェンの音楽様式は(歴史的に)幾度も模倣されました。たとえばブラームス、彼の作品などまさにベートーヴェンのカリカチュア(戯画)なのではないかと思います。見せかけの深遠さと力の誇示こそ厳に忌むべきものではないでしょうか」。
翌年、バレエ音楽『眠れる森の美女』完成。手紙に交響曲第6番の構想を記す「私は創作の最後を飾るべき荘厳な交響曲を作曲しようと張り切っている」。

1890年(50歳)、オペラの代表作『スペードの女王』を作曲。同年、メック夫人からの財政援助が打ち切られる(夫人がドビュッシーに夢中になった)。
1887年から1891年まで、欧州や米国の主要都市で自らの指揮による自作演奏会を催し大きな成功を収める。
1892年(52歳)、クリスマス・イブの物語、バレエ音楽『くるみ割り人形』を書き上げ、12月にサンクトペテルブルクで初演。以降、欧米ではクリスマス・シーズンの定番演目となっていく。

1893年、チャイコフスキー最後の年。2月、「新しい交響曲は標題音楽で、その標題は誰にも謎とされ、物議をかもすだろう。私は曲想を練りながらさ迷い、断腸の思いから何度も泣いた。今まで書いたどの作品よりもこれを愛している。自分の最後の交響曲がここに完成をみたこと、そして鎮魂曲にも似た気分にかられることは、私自身を少なからず当惑させる」。オリジナル楽譜の最初のページには「神よお助け下さい」、最後のページには「神よ、心から感謝します。私はついにこの曲を書き終えました」と記した。
5月、グリーグやサン=サーンスらと共にケンブリッジ大学音楽協会から名誉博士号を授与される。10月28日、サンクトペテルブルクで指揮台に立ち交響曲第6番の初演を果たす。終楽章は辞世の歌だった。聴衆の反応は冷ややかでチャイコフスキーを失望させたが、手紙にこう書いた。「この曲は不成功とは言わないまでも、聴衆にはいささか奇異な印象を与えたようだ。しかし私自身は、私のどの作品よりもこの曲に対して誇りを持っている」。
チャイコフスキーにとって、交響曲第6番は人生の全てを注ぎ込んだ告白であり、人生そのものだった。「この曲は私の全作品の中で最高のもの」と出来映えを確信していた。初演の2日後、交響曲第6番は弟によって『悲愴』と名づけられた。11月2日、芝居の観劇後にイタリアン・レストラン“ライナー”で会食した際、当時はコレラが流行していたのにボーイの反対を押し切ってネヴァ川の水をグラスで飲み干し、コレラに感染。下痢と嘔吐で苦しみ4日後、つまり『悲愴』初演からわずか9日後の11月6日に、コレラと併発した肺水腫で急死した。享年53歳。臨終の場には弟2人など16人が立ち会い、チャイコフスキーは死の直前に周囲の者を見渡したという。ロシア皇帝アレクサンドル3世は、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂にてチャイコフスキーの国葬を執り行った。ネフスキー修道院のチフヴィン墓地に、チャイコフスキーの胸像に二人の天使が寄り添う墓が建立された。

ところで、公式記録の死因はコレラだが、当時から服毒自殺、自殺強要説が噂されてきた。通常、コレラ患者は厳しく隔離されるのに、16人も臨終に立ち会ったのはなぜか。遺体は葬儀の前に消毒されたというが、鉛の棺に密封されることもなく、遺体が2日間も市民に公開・安置され、多数の葬儀参列者が遺体に触れたり、キスまでしていたことの違和感。
1978年、ソ連の音楽学者アレクサンドラ・オルロヴァは次の説を発表し衝撃を与えた。チャイコフスキーは法律学校時代に同性愛に目覚めた。そしてある貴族(皇帝と縁続きの侯爵)の甥に宛てたチャイコフスキーの恋文から同性愛関係が発覚し、怒ったこの貴族から皇帝アレクサンドル3世に手紙で訴えられた。当時のロシアでは同性愛は重大な背徳行為。皇帝から問題の解決を任された検事総長はチャイコフスキーの法律学校時代の同窓生であり、同窓生グループは“秘密法廷”を開廷した。そして、国民的英雄チャイコフスキーの“不名誉”が公になることを恐れ、名誉を守るため砒素による服毒自殺を求めると決定した。チャイコフスキーは説得され、青ざめながらこれに同意。11月5日に砒素が届き、翌6日、毒をあおいで4時間後に死亡した。この説は世界でセンセーションを巻き起こし母国では非難され、オルロヴァ女史は米国に亡命する。
一方、自殺説に対して1988年に研究家アレクサンドル・ポズナンスキーが反論。死亡時のカルテなどを調査した結果、砒素ではなくコレラが死因と結論づけた。だがどの推論も決定的でなく、英語版のウィキペディアでは「死因は不明」となっている。

チャイコフスキーの楽曲は抒情的でメランコリーな旋律や民謡風の舞曲が、色彩豊かなオーケストレーションで展開し、聴く者を深く魅了する。3大バレエ音楽の『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『眠りの森の美女』はチャイコフスキーにとっての3大ではなく、全バレエ音楽を対象にした“3大”だ。

※1958年から4年おきにチャイコフスキー国際コンクールがモスクワで開かれている。ショパンコンクール(ポーランド)、エリザベート王妃国際音楽コンクール(ベルギー)と並ぶ世界3大コンクールのひとつ。
※コレラの潜伏期間は2時間から5日。治療しなければ数時間で死に至ることもある。
※ドイツの医学実験では、うつ病患者が悲愴交響曲を聴くと症状が悪化したとのこと。
※『白鳥の湖』の日本初演は1946年、帝国劇場の東京バレエ団公演。
※チャイコフスキーのワーグナー評「彼の様式は原則的に私の心を動かしませんし、人間としても嫌悪を抱かせます。しかし、彼の並外れた音楽的才能は認めざるを得ません。彼の才能は『ローエングリン』において最も如実に示されております。このオペラは彼の創作の金字塔であり続けるでしょう。ただ、これ以後、彼の才能は下降し始め、この男の悪魔的高慢がその足下を掘り崩してしまったのです」

●墓所はペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー修道院のチフヴィン墓地。最寄り駅は地下鉄プローシャチ・アリェクサンドラ・ネフスカヴァ駅。
チャイコフスキーの隣にボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、グリンカが眠る。




★マーラー/Gustav Mahler 1860.7.7-1911.5.18 (オーストリア、ウィーン郊外 50歳)1994&2005&15
Grinzinger Friedhof, Vienna, Wien, Austria

ヒュー・グラントのようなカッコよさ。気品のある優男って感じ 生前は指揮者として有名だった 50歳で他界 運命の女性、アルマ

●アッター湖畔の作曲小屋(オーストリア)

ホテル・フェッティンガーで鍵を借りる 仕事小屋。ビーチパラソルと合わぬ 鍵にはト音記号の飾りが ここで交響曲第2番「復活」等が生まれた!







楽譜や手紙もあった(2015) 窓の外を見ると… 美しいアッター湖!最高の眺望 マーラーも息抜きで湖に入ったか


トラム38線で行く

なだらかな坂道の先に墓地がある

妻アルマはマーラーと並んで
おらず斜めに背中合わせ…




1994 2005 墓域全体がドッシリ安定している 2015 頭上の葉っぱが消えていた

  
「やがて私の時代が来る」(マーラー)。ユダヤ人として差別を受けていたマーラーは、生前に「私の墓を訪れる者は、
既に私が何者か知っている者だ」と述べ、墓は生没年も肩書きもない、名前オンリーのクールなものに(2015)

 
よく見ると墓石の側面にコインがビッシリと挟まっていた(2015)

「私は三重の意味で無国籍者だった。オーストリアではボヘミア生まれとして、ドイツではオーストリア人として、世界ではユダヤ人として。どこでも歓迎されたことはなかった」(マーラー)

後期ロマン派交響曲の頂点を極め、20世紀の作曲家に多大な影響を与えたオーストリアの作曲で指揮者のグスタフ・マーラーは、1860年7月7日、ボヘミアの小村カリシュト(現チェコのカリシュテ)に生まれた。14人兄弟の2番目。このうち9人が早逝しており、幼少期から死と葬送行進曲がマーラーの身近にあった。ユダヤ人の両親は居酒屋を営み、マーラーは幼い頃から酒場で農民の民謡や軍隊音楽など様々な歌に触れた。こうした音楽はマーラーの血肉となり、後の音楽に反映される。家の近くには兵舎があり戦争を象徴するラッパの響きも身近だった。最初の作曲は6歳の時に書いたポルカ(ボヘミアの舞曲)。

ユダヤ人ながらカトリック教会の合唱団員だった少年マーラーは、父に楽才を見出され15歳のときにウィーン音楽院(現ウィーン国立音大)に進学する。同年、仲が良かった盲目の弟エルンストが病死。1876年(16歳)、マーラーの現存する唯一の室内楽となるピアノ四重奏曲を作曲した。この年、ウィーン音楽院でピアノ曲の作曲部門と演奏部門の一等賞に輝く。
1877年(17歳)、ブルックナー(当時53歳)の和声学の講義を受けたことをきっかけに、年齢差を越えた親交が始まる。この年マーラーはブルックナーの交響曲第3番の初演を聴き、深く感動したことをブルックナーに伝えた。演奏会自体は不評だったことから、ブルックナーはマーラーの賛辞を大いに喜び、同曲のピアノ編曲を36歳も年下の彼に依頼し、これは後に出版された。

音楽院を卒業後、1880年(20歳)に温泉保養地バート・ハルの小劇場で夏のオペレッタ指揮者となる。だが、マーラーはかねてからワーグナーに心酔しており、指揮者よりも作曲家を目指していた。そこで自ら作詞も手がけた最初の自信作、カンタータ『嘆きの歌』を完成させ、ウィーン楽友協会の作曲コンクール「ベートーヴェン賞」に出品した。結果、独創性が評価されずに落選したことから、作曲よりも指揮をして身を立てることにする。マーラーいわく「賞金を獲得していたら指揮者にならずに済んだ」。
1883年9月(23歳)、カッセル王立劇場の楽長に就任。翌年、音楽祭でベートーヴェンの『第9交響曲』を指揮し好評を得る。この当時、指揮者は“作曲家が生きていたらこうするはず”と、作曲家の意図を汲みつつ、楽器の進化や演奏技術の進歩による修正を加えて演奏することが高評価の条件だった。マーラーの作曲に対する情熱は消えておらず、24歳から交響曲第1番の作曲に取り掛かる。

1885年(25歳)、青眼のソプラノ歌手に失恋したマーラーは、かなわぬ恋をうたった自作詩による歌曲集『さすらう若人の歌』を完成。26歳、ライプツィヒ歌劇場の楽長となる。1888年(28歳)に民謡詩集にもとづく歌曲集『子どもの不思議な角笛』を書きあげた。さらにこの年、『さすらう若人の歌』の旋律を取り入れた『交響曲第1番・巨人』の初稿を4年がかりで完成させている。この作品は夜明けの森を出発した英雄の旅と成長を描いた。
秋にブダペスト王立歌劇場の芸術監督に就任。翌年、『巨人』を初演するが、第1楽章だけでモーツァルトの交響曲1曲分の長さがあったことに聴衆は困惑、演奏面では楽団員に難し過ぎ、批評家にも不評で大失敗となる。マーラー「初演の数日後、歩いていると皆が私を変人と思って避けた」。この年、父と母を立て続けに亡くす。一方、マーラーの指揮者としての名声はどんどん高まり、1890年(30歳)、ブダペストで上演された『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたブラームス(当時57歳)は、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語った。31歳、ハンブルク歌劇場の楽長となる。

1894年(34歳)、夏の休暇を使って6年前から書き続けていた『交響曲第2番・復活』を完成。この作品はマーラーがオーストリアのアッター湖畔の小村シュタインバッハに建てた最初の作曲小屋で完成した。同地にはマーラーが“交響的宇宙”と読んだ厳かな静けさがあり、大自然が形作る宇宙を『復活』に凝縮させた。『復活』の冒頭は『巨人』の英雄の葬礼から始まり、終楽章のクライマックスにマーラーは次の言葉を原詩に付け加えた「再び生きるために死ぬのだ」。
※マーラーは交響曲第2番の終楽章に適した歌詞を苦心して探し続けた。聖書を全巻読んでも見つけることが出来なかったが、ハンブルグで名指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀に参列した際に、ドイツの詩人クロプシュトックの『復活』賛歌を聞き、第2番の歌詞に使うことを決心、詩にインスピレーションを受けて壮大な最終楽章を完成させた。葬儀での出来事をマーラーは友人に語る。「(クロプシュトックの詩が)あたかも稲妻のように私の身体を貫き、曲の全体の形が私の前に、はっきりと明らかな姿で現れました。創作する者はかくのごとき『稲妻』を待つこと。まさしく『聖なる受胎』を待つことなのです」。

翌年、マーラーが音楽の才能を認めて応援していた弟オットーが21歳の若さでピストル自殺しショックを受ける。36歳、作曲小屋で8年の歳月を費やして『交響曲第3番』を書きあげた。この作品は演奏に約100分を要し、自作で最も長いものとなった。マーラーは第1楽章にアッター湖畔の景色を全て描き出したという。
1897年(37歳)、欧州主要都市の歌劇場で演奏会のたびに評価を高めていったマーラーは、指揮者として最高との名誉となるウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の芸術監督となった。マーラーは数年前から経済的理由によりこの名門宮廷歌劇場に職を求めていたが、ユダヤ人であることが障害になっていた。マーラーは職を得るためにユダヤ教から国教(キリスト教)に改宗した。洗礼を受け教会から出たマーラーは知人の批評家に会いこう言った「なに、上着を換えただけさ(中身は同じ)」。マーラーは特定の宗教を信じず、宇宙の創造主たる神のみを信じていた。

マーラーが着任した世紀末ウィーンは才能ある芸術家であふれ、保守的なウィーン芸術家組合から画家クリムトに率いられた実験的な芸術家集団が離脱し“分離派”が生まれたばかりだった。マーラーは分離派のロラーに宮廷歌劇場の舞台装置を依頼しこれを刷新。そして、当時劇場から雇われた人間が客席で“さくら”となってヤラセの拍手やブラヴォーをしていたのを“悪習”として廃した。また、長時間のワーグナー作品はカットされることが多かったため、ノーカットで上演するため尽力した。これらマーラーの改革姿勢は、シェーンベルクら前衛音楽家たちを勇気づけた。
翌1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。その後、退任までの10年間にウィーンを世界屈指のオペラの中心地に育て上げた。
※ワーグナーは反ユダヤ主義の作曲家だが、マーラーはユダヤ人でありながらワーグナー作品を愛聴していた。ユダヤ人の知人が「ワーグナーなんか聴いてたまるか」と吐き捨てた時、マーラーはこう言った「でも牛肉を食べても、人は牛にはならないでしょう?」。

1900年(40歳)、南オーストリア・ヴェルター湖岸マイアーニックに建てた2番目の作曲小屋で『交響曲第4番』を完成。小屋にはピアノ一台とバッハの楽譜、そしてゲーテやカントの全集があった。創作中は毎朝6時に小屋に“出勤”し、マーラーが人を避けたためメイドはマーラーと異なる小道を歩いて食事を運んだ。
※「マーラーの音楽はどの交響曲のどの一瞬たりとも邪魔が入っては書けない。例えば“食事ですよ!”という一言で霊感は去ってしまう」(ケン・ラッセル)
※「マーラーの第4番は天上の愛を夢見る牧歌である」(ブルーノ・ワルター)

1901年(41歳)、マーラーが指揮したオペラは毎日新聞で取り上げられ、ウィーンで皇帝に次ぐ有名人となった。だが、マーラーがプログラムに若い30代のリヒャルト・シュトラウスの作品や自分自身の作品を組み込んだり、ベートーヴェンやシューマンの交響曲を編曲して演奏したことから、ウィーンの保守的な批評家・聴衆から「ユダヤの猿」「音楽の狂人」など猛烈なバッシングを受け、マーラーは3年間務めたウィーン・フィルの指揮者を4月に辞任した(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。マーラーの自作交響曲は世間では不評だったが、作曲活動は充実しており最盛期に入っていた。そして新たに交響曲第5番に着手した。

11月、マーラーは知人の解剖学者のサロンで“ウィーンいちの美貌”と芸術家たちの注目の的だった22歳の女性作曲家アルマ・シントラー(1879?1964)と出会う。実父は著名な風景画家で、彼女はピアノも上手かった。10代の頃から社交界の花形で、いつも男たちに囲まれていた。クリムト(当時35歳)は17歳のアルマに夢中になり、アルマ一家の引っ越し先や保養先イタリアにまで現れた。クリムトはアルマのファーストキスを奪うことは出来たが、アルマの父親がこれ以上の2人の接近を許さなかった。当時のクリムトは三つ叉をかけており、うち2人の女性が妊娠していたからだ。彼女の音楽の師である新進作曲家ツェムリンスキーもこの美しい弟子に魅了された。アルマはツェムリンスキーの指導で歌曲を作曲している。マーラーもすぐに「知的で面白い」と彼女の虜になったが、自身の外見は美男とは言い難く、身長もアルマより低かった。何より19歳も年上だった。だが、アルマには天才を見抜く本能があり、“マーラーこそウィーン最高の音楽家”と確信し、批評家からの悪評も知った上で求愛を受け入れた。

交際が始まると、マーラーは熱烈なラブレターを書き綴った。「次にお会いできる日をまるで少年のように指折り数えています」(11月28日)、「私に手紙を書くときは、隣りに私が座っていて、あなたがお喋りするのだと思って気楽に書いて下さい。あなたがどのように過ごしているのか、一つ一つを常に知りたいのです。(略)万歳!たった今、待ちわびていたあなたの手紙が届きました!続きを書く前に先に読もう。力が湧いてきたぞ!これほどあなたの言葉を求めていたのです!(略)どんなに騒音だらけで自分の声すら聞こえなくとも、ただひとつ、決して消えることのない、心の中の声だけは聞こえる…ただ一言の声だけが…愛している、アルマ!」(12月9日)、「心から愛する少女よ!私は自分が愛するのと同じだけ愛されるという幸福に、人生で出会えようとは夢想だにしなかった」(12月15日)、「今日僕は門番をとても困らせ、何度も邪魔をしてしまった。あなたからの手紙が届くに違いないと思って、朝から夕方までずっと期待していたのです。(略)人間というものは、離れて一週間で手紙なしではもはや一日も耐えられない状態になりうるのです」(12月16日)、「リヒャルト・シュトラウスの時代は終わり、やがて私の時代が来る。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!」(翌年2月)。

1902年(42歳)3月9日、マーラーとアルマは出会いから4カ月で結婚した。そしてマイアーニックの作曲小屋では『交響曲第5番』が完成する。美しく深い精神性をたたえた第4楽章のアダージェットはアルマへの恋文として書かれ、楽譜の表紙には「私の愛しいアルムシ(アルマの愛称)、私の勇気ある、そして忠実なる伴侶に」と記された。11月には長女マリア・アンナも生まれてマーラーは幸福の絶頂にあった。だが、不安症のマーラーはあまりに幸せなためにその幸福を失う恐怖におびえた。第5番も、そして続く第6番、第7番も冒頭は葬送行進曲で始まった。同年、ドイツの初期ロマン派詩人リュッケルトの詩による『亡き子をしのぶ歌』を作曲。内容は愛児を亡くした父親の悲嘆をうたったものであり、アルマは「子どもを前に不吉だ」と作曲に反対した。だが、マーラーは原詩に描かれた愛児への情に強く胸を打たれ作曲に踏み切った。

『亡き子をしのぶ歌』
※作者の詩人リュッケルトは半月の間に2人の子に先立たれている

今、朝日が昇ろうとしている
まるで昨夜の不幸など何もなかったかのように
その不幸は私だけに起こったことで
太陽の光は普段と変わりがない
わが家の小さな可愛らしい明かりが消えただけだ

お前のあの暗い眼差しは
今にして思い当たるが
そのときは運命の霧に閉ざされて見えなかった
それはもうじきあの世に行くのだから
今のうちにもっと見ておいてと言うようだったね

お母さんがドアを開けて入ってくるとき
私はいつも一緒について入ってくるお前を振り向いていた
今でもお母さんがロウソクの明かりで入ってくるとき
後ろにお前の姿が見える

しばしば、私は考える、あの子らはちょっとそこまで遊びに行っているだけだと
間もなく家に帰ってくるだろう
天気も良いし何も気にすることはない
子どもらはただ散歩に行っているにすぎないのだから

子どもらは私たちより先に散歩に行っているだけ
私たちは子どもらに追いつく、あの太陽の輝く高みの上で
あの高みの上では、一日がうるわしいのだ

こんな天気でも
こんな嵐でも
あの子らは嵐に脅えることなく
天国で神の御手(みて)に包まれて
安らかに
安らかに
眠っているのだ
母の膝元で眠るように

1903年(43歳)、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与される。次女アンナ・ユスティーネが誕生。
1904年(44歳)、10月にドイツ・ケルンでマーラー自身の指揮により交響曲第5番が初演されたが、聴衆の反応は否定的でマーラーを失望させた。アルマへの手紙「私の死後50年経ってから、私の交響曲を初演できればよいのに!今からライン河のほとりを散歩してくる。この河だけが、初演の後も私を怪物呼ばわりすることもなく、悠然とわが道を進んで行くただ一人のケルンの男だ!」。
同年、ウィーンにシェーンベルクとツェムリンスキーが設立した「創造的音楽家協会」の名誉会長に就任。マイアーニックの作曲小屋では、未来に対する悲しい予感、運命への切迫感を叩きつけた『交響曲第6番・悲劇的』を書き上げた。終楽章では運命を表すハンマーの一撃が聴く者を襲った。翌年『交響曲第7番』を完成。
※作曲家コリン・マシューズ「第6番は長い間僕にとって聴きたくない音楽でした。強烈すぎて、生で聴こうものなら心臓麻痺を起こしそうで…終楽章は特に圧倒的です。僕はこの曲をもう20年も聴いていません。ただ思い浮かべるだけで十分なのです」

1907年(47歳)、『交響曲第8番・千人の交響曲』を完成。この曲の完成はマーラーに大きな自信を与えた。弟子メンゲルベルクへの手紙に喜びを綴っている「これは私のこれまでのどの作品にも勝り、内容においても形式においても比類のないものです。ここでは宇宙全体が歌い奏でるのです。それは人間の声ではなくて、惑星と太陽の音楽なのです」。別の友人には「今までの私のすべての交響曲は、この交響曲に対する序曲に過ぎなかった。今までの作品はいずれも自分の主観的な悲劇に帰結したけれども、この曲は偉大な歓喜を与えるものだ」と書き送っている。
だが、この直後に長女マリア・アンナが感染症(ジフテリア)のため5歳で他界してしまう。『亡き子をしのぶ歌』初演の2年後だった。打ちのめされたマーラーは葬儀の手配など何もかもを妻に任せて、自分を慰めるために1人で山に出かけた。「『亡き子をしのぶ歌』は、私の子供が死んだと想定して書いたのだ。もし私が本当に私の娘を失ったあとであったなら、私はこれらの歌を書けたはずがない」。

不幸は続く。娘の死後、マーラーは心臓病と診断された。これまで戯画で風刺されるほど大きな身振りでタクトを振っていた指揮スタイルは、「ほとんど不気味で静かな絵画のようだった」(ワルター)と語られるように変化してゆく。
指揮者として国際的名声を手に入れたマーラーだったが、欧州に反ユダヤ主義が広まり、差別的な音楽評論家たちの不当な攻撃が激化していった。新聞は反ユダヤ運動を展開し、マーラーを「自作の宣伝に明け暮れている」と中傷した。そしてユダヤ人排斥の嵐の中でウィーン国立歌劇場監督を辞任する。背景には作曲に専念したい気持ちもあったし、歌手までも差別的態度をとることに嫌気がさしたのもあった。また、マーラーの頑固な性格による厳しすぎるリハーサルなど、高圧的な指導に対する楽団員の反発もあった。
最愛の娘を失い、天職の職場を追われ、心臓を病んで医者から好きな山歩きを控えろと言われ、マーラーは悲しみの奥底に落ち込んでいった。
そんな折り、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から“招きたい”と連絡があった。マーラーは自分が病に倒れた後、家族のためにお金が必要と思い、アメリカへ渡る決心をする。12月の朝、マーラーとアルマがウィーンの駅に姿を見せると、ウィーン中の文化人が見送りに集まっていた。心ある知識人はマーラーの不在を「文化の悲劇」と呼んだ。汽車が出発するとクリムトは一言呟いた「去ったのだ」。クリムトはマーラーに象徴される芸術文化を革新するエネルギーが、ウィーンから別の世界に去ったと理解した。

翌年、米国での新生活は早くもトラブルに見舞われた。メトロポリタン歌劇場の支配人が新しくなり、イタリアから気鋭の指揮者トスカニーニを呼んだのだ。マーラーは「指揮者は1人で十分」と憤慨して劇場を去った。一時欧州に戻って李白など中国の詩をドイツ語訳した歌詞に曲を付けた6楽章の交響曲を完成。ベートーヴェンもシューベルトもブルックナーも第9番の後に没しているため、マーラーは不吉な“9番”を避け、この声楽付きの交響曲を『大地の歌』と名付けた。別れの歌ではあるが、失意のうちに終わるのではなく、回帰する世界と一体となり輝がしく消えていく仏教的世界観を描いた。
「飲めるときに存分に飲むことは、この世のどんな財産よりも尊いのだ。生は暗く、死も暗い。青空と大地は永久にゆるぎなく在り続ける。だが100年と生きられない人生は、やがて墓場で月の光を浴びるだろう。いざ盃を取れ、今こそ飲むときだ。生は暗く、死も暗い。」(『大地の歌』第1曲)
「わが心は疲れ、明かりは消えた。嗚呼、休息が欲しい。いかにこの孤独に泣いたことか。わが心の秋は長すぎる。愛の太陽はこの苦しい涙を乾かすべくもう一度照ってはくれないのか?」(第2曲)
「人生が一幕の夢に過ぎぬのなら、好んで苦労をする必要はない。飲めるだけ飲もう。春がなんだ!それよりもほろ酔い気分こそ楽しい」(第5曲)
「太陽は山に暮れ、谷には夕闇が迫る。月が東の空に昇り、そよ風が爽やかだ。世界は休息に入る。私は友の来訪を待ちわびた。やって来た彼は馬から降りて別れの盃を差し出す。友は浮世に見切りを付けて山に入るのだと言う。/私の心は安らぎて、その時を待ち受ける。愛しき大地に春が来て、また新しく緑と花が満ちる。永遠に…永遠に…」(第6曲)

1909年(49歳)、経済的理由から再度渡米し、ニューヨーク・フィルの指揮者に就任する。初めてオペラと無縁の仕事だった。同年、夏の休暇はオーストリア・トーブラッハ(現イタリア領)に建てた3番目の作曲小屋にこもり、2ヶ月で『交響曲第9番』を完成させた。もはやジンクスに抗わず「第9番」をつけたこの曲では、生の渇望と死への期待が同時に描かれた。マーラーは自身の健康が急激に衰えていくのを感じ、死を予感し、死に憧れ、ついには死を賛美するようになった。終楽章の最後の小節にはマーラー自身が「ersterbend(死に絶えるように)」と書き込んでいる。
第9番には『亡き子をしのぶ歌』から“今日はよく晴れて(お墓のある)あそこの丘も輝いている”という歌詞の旋律が引用されている。交響曲の最後で日に照らされた亡き子の墓を描いていることから、2年前に失った娘へのレクイエムともいえる。
この年、パリでロダンの彫刻のモデルになり、秋にアメリカへ。
※トマス・ハンプソン(バリトン歌手)「交響曲第9番は、人間の限られた時間の消滅を最も見事に表現した作品。終楽章では人生の時を刻むような一定のリズムから解き放たれ、大気の一部となるのです。リズムが刻まれることで我々は自分をつなぎとめ均衡を保つことができます。終楽章では我々は均衡を失い、別の世界へと浮遊していくのです。人間とは何か、生とは何かという思いに打たれます」。
※ワルター「第9番は死を予感する者の悲劇的で絶望的な別れの曲だ」。
※シェーンベルク「マーラーの交響曲『第9番』はひとつの限界であるように思われます。そこを越えようとする者は、死ぬ他はないのです」。

1910年4月、アルマは献身ばかり求めるマーラーとの生活上のストレスからアルコール依存症になった。6月、療養所に入って治療しているうちに、27歳の若い建築家ヴァルター・グロピウス(1883-1969)と恋に落ちる。グロピウスは後に工芸学校「バウハウス」を創立し、近代建築の四大巨匠(グロピウス、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ)に名を連ねる人物。この不倫はグロピウスが間違ってマーラー宛に恋文を出したことで発覚した。アルマは謝らず、逆に8年間の抑圧の日々がいかに辛かったかを訴え、グロピウスと密会を続けた。マーラーは自らの非を認め、妻を失う不安にかられて神経症になり、8月に精神分析医フロイトの診察を受けた。フロイトからは「強迫観念を捨てよ」とアドバイスされた。マーラーはアルマに作曲活動を禁じていたことを反省し、関心を取り戻すために彼女が作曲した歌曲を出版社に持ち込んだ。9月、ミュンヘンにて自らの指揮で交響曲第8番を初演し、生涯最高の大成功を収める。
※公演先のミュンヘンから書いたアルマへの切羽詰まった手紙が残っている。「わが愛する、気の狂うほど愛するアルムシ!信じて欲しい、僕は恋わずらいなんだ!嗚呼、ありがたい、たった今君の手紙を2通受け取った!これで息が出来る。30分ほど至福に包まれていた。だが今はもう耐えられない。一週間も君がいなかったら僕は死んでしまう」。

1911年2月、アメリカで倒れたマーラーは感染性心内膜炎と診断された。アルマに「(ウィーンに)帰郷したい」と頼み、病をおしてウィーンに戻る。死の床では「私がいなくなった後、誰がシェーンベルクのために力を貸してくれるだろう」と後輩作曲家を心配した。5月18日、敗血症で他界。享年50歳。最期の言葉は「モーツァルトル!」(=モーツァルトの愛称形)だった。
前年から取り組んでいた交響曲第10番は、第2楽章まで完成し未完となった。作曲中にアルマの不倫騒動が起きたこともあり、第10番は胸を裂くような不協和音が長く奏でられる。楽譜には終楽章の末尾に「お前のために生き、お前のために死ぬ!」「アルムシ!(アルマの愛称)」というマーラーの叫びにも似た書き込みがある。マーラーが世を去った後、世界からロマン派の残光が消えていった。
マーラーの亡骸は長女が眠るウィーンのグリンツィング墓地に埋葬された。マーラーは生前に自身の墓について語っていた。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」。さんざんユダヤの猿だの狂人だのと叩かれてきたマーラーであり、自分の音楽の理解者しか墓を訪れないと考えていた。この言葉を尊重し、墓石には生没年も肩書きもなく「GUSTAV MAHLER」という名前だけが刻まれている。この墓はアルマの依頼で工芸家ヨーゼフ・ホフマンが制作した。
※「マーラーは自分を貫きました。時流に迎合せず、自分の魂の声に従って作曲しました。その途中で音楽ごと消えたのです」(作家エドワード・セカソン)

音楽史において交響曲はベートーヴェンで人間表現の頂点に達し、シューベルト、シューマンと下降線をたどり、ワーグナーは「この世には既にあの9つの交響曲があるのに、このうえ交響曲を作る意味があるのか」と交響曲のペンを置き、一世代後のブルックナー、そして「ベートーヴェンのまねになってしまうのではないか…」と悩み続け交響曲第1番の完成が40代になったブラームス(ベートーヴェン他界6年後に出生)の作品によって、交響曲という分野における人類の開拓の歩みはいったん終わったかに見えた。だがブラームス誕生の約30年後に生まれたマーラーがベートーヴェンと同じ9曲の傑作交響曲(10番は未完)を生み出し新たな扉を開いた。マーラーの声楽的な交響曲は大半が1時間を超える大曲であるにもかかわらず、緻密で多彩な管弦楽法が駆使された驚異的な作品だ。マーラーは民族的な旋律をベースに独自の作風を築き、目を見張る大規模編成、ベートーヴェン第九以来となる声楽の導入、厭世的な人生観の音楽的告白などで、その名を不動のものとした。また、マンドリンやカウベル(牛の鈴)、チェレスタ、鉄琴、木琴、ハーモニウム(足踏みオルガン)など多種多様な楽器の活用によって20世紀音楽を予見させた。交響曲第6番では大型ハンマーや鞭も使用された。

アルマはマーラーとは同じ墓地に眠っているが2人の墓は離れている。未亡人となったアルマはその後どうなったのか。
マーラー他界の翌1912年、画家のオスカー・ココシュカ(1886-1980)が肖像画を依頼されてアルマの自宅を訪れた。この年ココシュカは26歳、アルマは33歳。アルマがココシュカのためにピアノで『トリスタンとイゾルデ』を弾いていると、ココシュカが発作的にアルマを抱擁して家を飛び出した。翌日、プロポーズの手紙を出したココシュカに、アルマは「傑作を描けば結婚してあげる」と返答した。2人は深い関係になり、1913年にイタリアを旅行に行った。翌年、ココシュカは代表作となる『風の花嫁』(1914)で愛し合う両者を描いた。アルマは妊娠したがココシュカとの子を求めず中絶し、破れかぶれになったココシュカは第一次世界大戦に志願し出征した。
アルマは独占欲の強いココシュカが嫌になり、画家のアトリエに入ってそれまで自分が出した手紙を奪い返した。そしてグロピウスとよりを戻し1915年に36歳で再婚、翌年に娘マノンを産んだ。ココシュカは戦争で頭部を負傷。帰還するとアルマは別の男と結婚しており打ちひしがれた。1917年、精神を病んだココシュカは人形制作者にアルマの等身大の裸体人形を作ってもらう。注文書にはデッサンを添え、歯、舌、陰部まで完璧に仕上げるよう要求した。服を着せ、外出の際には馬車に乗せ、食事、オペラ、映画、どこへ行くにも人形を連れていき2人分の代金を払った。ずっとアルマに精神を支配されていたが、1922年に酔った勢いで人形の頭を割り、この人形とのいびつな関係に終止符が打たれた。

一方、アルマはグロピウスも出征したことから、その間に11歳年下の若手作家フランツ・ウェルフェル(1890-1945)と不倫関係になった。これにグロピウスが気づき、かつて自分が苦しませたマーラーと同じ地獄を体験することになった。結局、結婚生活は破綻し離婚。10年後の1929年、アルマはウェルフェルと再々婚する(アルマ50歳、ウェルフェル39歳)。1935年、マノンがポリオにより19歳で夭折。作曲家アルバン・ベルクはマノンを追悼するヴァイオリン協奏曲を作曲した。
1938年、ナチスドイツがオーストリア併合すると、ユダヤ人のウェルフェルはアルマとフランスに逃れ、さらに米国に亡命した。そしてカリフォルニアで音楽サロンを主宰し、ストラヴィンスキー、シェーンベルクなど、ヨーロッパからの多くの亡命作曲家を受け入れた。ウェルフェルは19世紀フランスの聖女を描いた小説『聖少女』でベストセラー作家になったが、1945年に心筋梗塞のため54歳で急死する。
4年後の1949年、カリフォルニアで暮らすアルマの70歳の誕生日に外国から電報が届いた。差出人はココシュカ。そこには36年前の絵のことが書かれていた。「僕たちは『風の花嫁』のなかで永遠に結ばれている」。アルマは戦後も芸術家サロンを開き、米国のマスコミはアルマが、マーラー(音楽)、グロピウス(建築)、ココシュカ(絵画)、ウェルフェル(文学)の4人にインスピレーションを与えたことから「4大芸術の未亡人」と呼んだ。アルマは1964年に85歳で他界。ココシュカはそこから16年生きて94歳まで長寿した。彼はマーラー夫婦の関係者の中で最も長生きし、1980年に没した。
※晩年のアルマの回想「マーラーの音楽は好みじゃなかったし、グロピウスの建築はよく分からず、ウェルフェルの小説には興味が湧かなかったけれど、ココシュカの絵だけはいつも感動させられた」。

〔マーラーと僕〕
僕が初めてマーラーの音楽に触れたのは、1980年代前半のウイスキーのCMだった。当時高校生の僕は映画少年で『日曜洋画劇場』を毎週観ていた。同番組ではサントリー・ローヤルのアート志向が強いCMが流れ、ガウディの建築などが登場した。ある時、音楽に合わせて中国の墨絵が動き出すユニークな演出のCMが流れ、BGMに使用されたマーラー『大地の歌』の東洋風メロディーに心惹かれた。ほぼ同時期に名画座でリバイバル上映されたヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』を観て、劇中に何度も登場する“アダージェット”の美しさに忘我の境地を味わった。さらに1985年に公開された黒澤監督『乱』の予告編で、交響曲第1番第3楽章の哀愁を帯びたメロディーに心を奪われ、ラジオで聴いた『復活』『千人の交響曲』の壮大で宇宙的なサウンドに圧倒された。
そんなある日、ラジオのクラシック番組で“無人島に3曲持って行けるとしたらどれか”を話し合っていて、出演者の結論がベートーヴェン『第九』、バッハ『マタイ受難曲』、そしてマーラーの『交響曲第9番』(なかでも終楽章)ということになった。僕はまだマーラーの9番を未聴だったので、高校の音楽準備室にあったワルター指揮コロンビア交響楽団のレコードを聴いた。ワルターはマーラの直弟子だ。初めて聴いた第四楽章はのっけから“これはただ事ではない”と思わせる終末感があり、マーラーについて語られる「真剣に死を恐れ、死に憧れた」という相反する2つの感情に直に触れた気がした。“なんて危険な音楽なんだ、しかも恐ろしく美しい…”。中盤のハープは天国に続く階段を昇る足音に聴こえた。マーラーが楽譜の最後に“死滅していくように”と書き込んだ終楽章は、おそらくこの世に存在する音楽の中で最も彼岸に近いもの。これほど美しく、儚く、音符の影に“死”の存在を感じる作品を他に知らない。この曲は、精神状態が不安定なときに聴けば、おそらく帰って来られなくなる−−。フラフラになり、虫の息のようになって聴き終わったが、数日後にまた聴きたくなった。マーラーには中毒性があった。既に唯一無二の音楽世界の虜になっていた。そして今度は音楽準備室の小型スピーカーではなく、音楽室の特大スピーカーで聴きたくなった。1人で聴いて失神すると危ないので、クラシック・ファンの友人Kと2人で吹奏楽部の部活動がない日を選んで音楽室に入った。夕闇が迫る音楽室で終楽章に再びレコードの針を下ろした。僕も友人も団地住まい、そして共に恋に破れた直後だった。家では出せない大音量でマーラーに触れ、あまりの感動に2人とも帰り道に言葉をまともに発することが出来ず、握手だけして別れた。

僕の人生にはもうひとつ、決して忘れることができないマーラー第9番の音がある。1985年9月3日、大阪・フェスティバルホールで聴いたレナード・バーンスタイン指揮によるイスラエル・フィルの演奏だ。根性でチケットを手に入れ、高校生ゆえ2階最後列の学生席で観賞した。「あのバーンスタインが!いま目の前でマーラーを!」。一音たりとも聴き逃すまいと、全神経をステージに向けた。マエストロの棒が動く…それはもう鬼気迫る演奏だった。あの世で音が鳴っているような錯覚に陥った。終楽章は、ただただ、涙、涙、涙…。終演後、幕が下りて他のお客が帰っても、僕を含む20名ほどがステージ前に集まり立ったまま拍手を続けていた。すると、着替えを終えて黒マントを着たバーンスタインが最後にもう一度ひょっこり出てきてくれた!演奏中は最後列で視界の彼方にいたバーンスタインが、今わずか2mの距離に!卒倒しかけた。マエストロは拍手に応え、優しい笑顔で僕らに手を挙げてくれた。この5年後にバーンスタインは亡くなっている。
音楽室で聴いたワルターの音、生演奏に鳥肌が立ったバーンスタインの音、どちらも40年以上前の思い出だが、いまだに身体の芯でその時に聴いたマーラーの音が共鳴している。

〔墓巡礼〕
マーラーの自然に対する深い感情移入や、人間の魂の根源を探究する姿勢、各々の民族と文化への敬意に大いに感銘を受けると共に、作品世界に濃厚に漂う終末感や人生に対する徒労感が、“マーラーは分かってくれている”と敗残兵の傷を癒やす。人生には「この曲と出会えただけでも生まれて来たモトをとった」と感じる音楽がいくつかある。マーラーの交響曲第9番終楽章はまさにそんな曲のひとつ。病的繊細さや陰気さも突き抜けると快楽に至る。心が傷つきボロボロになっているときは、友人が何も言わずただ隣にいてくれるだけで嬉しいもの。そんな風に感じていたので、いつか墓参りをしたいとずっと思っていた。
最初にマーラーの墓前を訪れたのは1994年、27歳のとき。彼はウィーンに眠っているが、ベートーヴェンやシューベルトなどクラシックの巨星が大集合しているウィーン中央墓地から遠く離れた、市の中心部を挟んで反対側約7km北西の小さなグリンツィンク墓地に眠っている。墓地にはトラム38番で行け、「An den langen Luessen」停留所で下車し、左手の緩やかな
坂道をまっすぐ5分くらい上ると墓地正門に突き当たる。左手、6グループの7−1が彼の墓。生け垣に囲まれている。墓地の管理事務所は正門左だけど、墓地内の案内図が充実しているため、管理人さんに場所を聞かなくても自分で探し出せる。
マーラーとアルマの墓は離れた場所で背中合わせになっている。再々婚しているアルマは、再婚相手との娘マノンと同じ墓に眠っている。アルマにぞっこんだったマーラーとしては隣接して眠りたいだろうけど、亡命先のアメリカで他界したアルマが、このウィーンの外れにある小さな墓地に眠っているだけでも救いになるのでは。マーラーは「やがて私の時代が来る」と言った。人間の分断が叫ばれる現代にあって、孤独感や傷心に寄り添う彼の音楽は救済であり解放だ。今やマーラーは大人気でコンサートはどこも満員。「あなたの言った通りになりましたよ」と墓前で手を合わせ感謝した。
※「演奏の質に関わらず、マーラーの交響曲ならコンサートホールは必ず満員になる。現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、愛、苦悩、恐れ、混沌といった現代社会の特徴が現れているからだろう」(ゲオルク・ショルティ)。
※この地域はベートーヴェンが遺書を書いたハイリゲンシュタットと隣接しているので、ベートーヴェンの家にもぜひ足を運ぼう。

〔作曲小屋訪問〕
マーラーが中部オーストリア・ザルツブルクの東方約40kmのアッター湖畔に建てた最初の作曲小屋は、傑作『交響曲第2番“復活”』が書かれた場所であり、かねてから訪問したいと思っていた。アッター湖は青く澄み渡り、遠くにはチロルの山々も見え、素晴らしい環境だった。作曲小屋は近くのホテル『Gasthaus Fottinger(ガストハウス フェッティンガー)』が管理
しており、希望者は無料で見学ができる。ホテルのカウンターで大きなト音記号のキーホルダーがついた鍵を借り、いざ湖畔の作曲小屋へ。近づいて驚いたのは周囲のビーチパラソル。白壁の小さな作曲小屋は、現在リゾート・キャンプ場のド真ン中に位置し、周囲で多勢の人が休暇を楽しんでいた。所狭しとキャンピングカーが並んでいる。小屋の中には愛用のピアノや自筆楽譜、手紙など遺品が展示されていた。僕がそれらを見ていると、白髪の紳士が小屋に入ってきた。聞けば昨日も、一昨日もここに来たという。名前はジョージさん、ニューヨーク在住とのこと。
ジョージさんは心からマーラーを崇拝していた。
「私は悲しい」とジョージさん。「どうしてですか?」「周りを見ただろう?こんなに観光客が多いのに、皆この小屋を無視している。ここは、あのマーラーの聖地なんだぞ?私はNYから来てるんだ。遠いNYから…。どうしてもっと見学しないんだ。マーラーに無関心な人がこんなに多いなんて…」。その後もジョージさんは「テリブル!ホラブル!(恐ろしいことだ!)」を連発していた。僕は作曲小屋に置かれていたファンの交流ノートを手に取った。そこには誰もがマーラーに感謝の言葉を綴っていた。「大丈夫、こんなに愛されていますよ!」「そうだな、君も日本から来たしな」「そうですよ!それに…それに…」。最後は笑顔になったジョージさんと握手。

  ジョージさんと風

〔マーラー語録〕
・「私にとって交響曲とはあらゆる技法を尽くして自分自身と向き合うことだ」
・「私の全生涯は大いなる望郷だった」

〔マーラー評〕
「マーラーの音楽を聴くと高い次元で生まれ変わった気がします。音楽は最も魔力のある芸術であり、マーラーは最高の魔術師です」(ケン・ラッセル)映画監督
「マーラーはあらゆる形式の破壊者。彼の交響曲は詩であり世界の創造です」(ゲオルグ・ショルティ)指揮者
「マーラーの音楽を聴くと生きることの意味を問わずにはいられません」(トマス・ハンプソン)バリトン歌手
「マーラーは真の美を見つけます。醜いとされるものもその真の姿は美しいと」(シャルロッテ・ヘレカント)メゾ・ソプラノ歌手

※弟子に指揮者のウィレム・メンゲルベルク(1871-1951)、ブルーノ・ワルター(1876-1962)、オットー・クレンペラー(1885-1973)。メンゲルベルクは師マーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は彼しかいない」と讃えられ、1920年にマーラー管弦楽作品の全曲を演奏するなど作品普及に努めた。クレンペラー「マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています」。
※マーラーのブルックナーに対する崇敬の念は生涯変わらず、ブルックナーの交響曲を出版しようとした出版社のためにマーラーは費用を肩代わりし、自らの多額の印税を放棄した。
※マーラーとの間に生まれた次女アンナ・ユスティーネは彫刻家になり、ナチの迫害を逃れイギリスに亡命。生涯に5回結婚した。
※マーラーの妹ユスティーネはウィーン・フィルのコンサートマスター、アルノルト・ロゼと結婚。夫婦の娘がアウシュヴィッツで死んだ名バイオリニスト、アルマ・ロゼ。
※マーラーは14歳年下のオーストリアの作曲家シェーンベルク(1874-1951)の才能を高く評価した。1907年、シェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番の初演に際し、最前列で野次を飛ばす男にマーラーは「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と相手を制しケンカになりかけた。室内交響曲第1番の初演では、途中で席を立つ聴衆に「静かにしろ!」と一喝、演奏後はシェーンベルクに対するブーイングの嵐のなか聴衆がいなくなるまで拍手を続けた。当時マーラーは47歳、シェーンベルクは33歳。コンサートから帰宅したマーラーは妻にこう言った「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」。
※マーラーはドストエフスキーを愛読し、中でも『カラマーゾフの兄弟』を特に気に入っていた。
※交響曲第1番の副題『巨人』はジャン・パウルの小説に由来する。
※マーラーは譜面に手を入れることが多かった。オリジナル絶対主義の指揮者トスカニーニは、マーラーがメトロポリタン歌劇場に残した手書き修正入りの譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!」と激怒した。
※交響曲第4番・5番や歌曲をマーラー自身が弾いたピアノロールが残されている。
※クリムトの『ベートーヴェン・フリーズ』にはマーラーをモデルとした人物(金色の甲冑を身に着けた男)が描かれている。

  

※1902年、マーラーは第15回分離派展のオープニングに宮廷歌劇場の管楽器奏者を連れて参加し、ベートーヴェン第九の終楽章を編曲して演奏した。
※音大時代の同級生にフーゴー・ヴォルフがいた。
※トーマス・マンの小説『ベニスに死す』の主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは、マーラーにインスピレーションを得て創作された。映画版では原作にはない「アルフレッド」という名のシェーンベルクを思わせる人物を登場させ、音楽論を戦わせている。
※マーラーの交響曲第5番の“アダージェット”は、ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』に使用されて一躍有名になった。ハリウッドの試写会でこの映画が上映された際、あるプロデューサーが作曲者の名を尋ねた。誰かが「マーラーです」と教えると、そのプロデューサーはこう即答した「彼と契約だ!」。

『大地の歌/サントリーローヤルCM』
https://www.youtube.com/watch?v=3-h_kaEnNKg

〔参考資料〕音楽ドキュメンタリー『BBC Great Composers(1997)』、『中欧・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社)、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、名曲事典(音楽之友社)、世界人物事典(旺文社)、エンカルタ総合大百科(マイクロソフト)、ウィキペディアほか。

他人が何かに感動している姿を見ることで、「え!そんなにいいの!」と、それまで興味がなかったコトに自分も関心を抱くことが人生にはある。例えば雑誌のビートルズ特集を読んでピンと来なくても、友人が「このビートルズのCDは最高。毎日聴いてる」と涙を浮かべてアルバムを握りしめるのを見て、一気に興味が沸くというように。僕の場合、仏像、バレエ、能、スケート、その他多くの分野が、他人の感動がきっかけで自分まで好きになったものだ。“この人と出会ってなかったら、ずっとこの感激を知らないままだったかも”、何度そう思うことがあったか!ここからが本題。動画サイトのyoutubeには個人のビデオ映像も数多くアップされている。その中に海外の一人の青年が、作曲家マーラーの交響曲第8番を聴く自分の姿を撮影したものがあった。楽器を演奏している姿ではなく、聴いている姿というのが何ともユニークな発想だ。そんなものを見て何が面白いのか疑問に思われるだろう。これが最高に良いッ!どんなに分厚いマーラー解説本よりも、この5分間の彼の姿が雄弁にマーラーの魅力を伝えている!青年の感動っぷりはハタから見れば尋常じゃないんだけど、実はクラシック・ファン、中でもマーラーのファンは、他人の目がない場所で一人で聴いている時は、誰でも彼と同じ状態になっていると断言していい!最近は漫画『のだめカンタービレ』がドラマ&アニメになってクラシックの普及に大きく貢献しているけど、彼の姿もそれに負けないくらい多くの人にクラシックの魅力を語ってくれると思う!マーラーの曲は1時間を超える大曲が多い。特に交響曲第8番はオーケストラが2、3団体分&合唱団つきの特大編成で、総勢千人の交響曲。歌詞はドイツ語だけど別の動画でフィナーレに日本語訳が入った演奏(7分42秒)がアップされている。最初は退屈かも知れないけど、2分24秒のとこからラストまでの盛り上がりは超エキサイティングなので最後まで聴いて欲しい。「♪永遠に女性的なものが我らを引いて(天へ)昇らせる」のメロディーは至福の極み!これを聴いて歌詞が分かったうえで、『青年、マーラーを聴く』(5分27秒、青年の登場は1分35秒から)を見て欲しい!可能な限り大ボリュームで!彼の表情、手の動き、体の揺れ、全てが音楽と一体化しているのが分かると思うッ!2つの動画を合わせても13分。この13分には価値あり!ビバ・クラシック!ビバ・マーラー!


マーラーとランチ♪



★ブルックナー/Anton Josef Bruckner 1824.9.4-1896.10.11 (オーストリア、リンツ郊外、 72歳)1994&2002&15
Saint Florian Church, Linz, Oberosterreich, Austria

〔1994年の巡礼〕









求道者ブルックナー


ウィーン市立公園の遊歩道に沿ってブルックナー像、
シューベルト像、金色のヨハン・シュトラウス2世像などが立つ
※この公園はウィーン初の市立公園として1862年に完成
リンツまで行ったのに墓所のザンクト・フローリアン修道院に向かう
バスの本数が少なく、旅程の関係で断念。その後、生家と思った
「ブルックナーハウス」を訪れるとコンサートホールでまたショック

〔2002年の巡礼〕

今回は朝7時にタクシーで向かった

リンツ駅から20分ほど丘陵地帯を抜けていく

ザンクト・フローリアン修道院。バッハと同様にブルック
ナーも自らがオルガニストをした教会に葬られている


入口近くの床にブルックナーの名!

「うおお、やっと会えました」と感涙にむせぶ

この時は、まさかこれが墓ではない
などとは、知るよしも無かった

〔2005年の衝撃〕


(撮影:このみさん/2005.3)

2005年にサイト読者の方から「カジポンさんが巡礼したのはただの記念碑で、本物の墓は地下墓地にありますよ」と衝撃のメールを頂いた。
礼拝堂の右手に地下に降りる階段があるといい、メールには僕が見たこともないブルックナーの棺の画像が添付されていた。ショックすぎる。


〔2015年の巡礼〕


 
ザンクト・フローリアン修道院よ、私は帰ってきた! 前回、勘違いした記念碑。誰だってお墓と間違うよ…

あらためて天井画や装飾に圧倒された

ブルックナーが愛したオルガン。当時オーストリアで最大の大きさを
誇っており、約100年間その栄誉を保持していた。墓はこの真下に

今度こそ会えた!ついに会えたぁあああ!
※ちなみに後方はカタコンベで6000人分のシャレコウベ
フラッシュなし
※ガイドツアーでのみ行けます
フラッシュあり
(奇跡が起きてこの巡礼は成功。詳細は本文に)

オーストリアの作曲家・オルガン奏者。後期ロマン派。宇宙全体が鳴り響くような壮大な音世界と、コラール(讃美歌)風の和音で奏でられる旋律、1時間を超える永遠の如き演奏時間で知られる。敬虔なクリスチャンで宗教音楽も多数残した。
1824年9月4日、アントン・ブルックナーはオーストリア帝国リンツ近郊の田舎町アンスフェルデンに生まれた。父は小学校教師で村のオルガン奏者でもあった。3歳のときにウィーンでベートーヴェンが他界、翌年にシューベルトが没している。父からオルガンを学んだブルックナーは早くから楽才を発揮し、10歳にして父の代役で教会オルガンを弾いていた。12歳で父を失い、13歳になるとリンツ近郊にそびえ立つ壮麗なザンクト・フローリアン修道院の聖歌隊に入った。1840年(16歳)、リンツで小学校の補助教員免許を取得し、翌年から教壇に立つ。1849年(25歳)に最初の宗教曲を作曲。1851年(27歳)にザンクト・フローリアンの正式オルガン奏者となった。この修道院のオルガンは、1774年に完成し、1886年まで100年近くも国内最大のオルガンだった。この年、初めて結婚を願い16歳のルイーゼ嬢に告白するが失恋。1854年(30歳)、自作の『荘厳ミサ』の上演成功を機に教師を辞め、創作活動に本腰を入れる。1856年(32歳)に栄誉あるリンツ大聖堂のオルガン奏者試験に合格し、作曲法を学ぶために5年間ウィーンに通いながら1868年まで12年間その任をつとめた。
このリンツ時代に複数のミサ曲を書きあげる一方、ブルックナーの胸中にはベートーヴェンやシューベルトのように交響曲を書きたいという夢があった。40歳頃から11歳年上の作曲家ワーグナーに傾倒し、地道に作曲を学んで1866年(42歳)に『交響曲第1番』を完成させた。同年、ベートーヴェンの第九を聴き深く感動する。17歳のヨゼフィーネ嬢に「私は希望を持っていいのでしょうか、それとも諦めるしかないのでしょうか」とプロポーズするも2人目の失恋。

1868年(44歳)にウィーン国立音楽院の教授に就任し、68歳になるまで24年にわたって対位法・和声法・オルガンを教え、生徒のマーラーらに多大な影響を与えた。また、宮廷礼拝堂オルガン奏者もつとめた。1869年カロリーネ嬢(17歳)に3人目の失恋。ウィーンに出て4年、1872年に『交響曲第2番』を作曲。1873年(49歳)、当時60歳のワーグナーに会うために『交響曲第3番“ワーグナー”』を携えてバイロイトを訪れ、同作を献呈、ワーグナーの好評を得た。ブルックナーはこの行動をはじめ、日頃からワーグナーの崇拝者と公言していたことから、反ワーグナー派で9歳年下のブラームスや音楽評論家ハンスリックらに敵視され、発表する作品が常に酷評されるようになる。
1874年(50歳)、作曲家として鳴かず飛ばずのブルックナーは“勝負曲”として力を注いだ『交響曲第4番ロマンティック』を書きあげ、そこから初演まで6年がかりで改訂を続けた。苦労が実を結び、初演は大成功となり、楽章が終わるごとに拍手が起き、ブルックナーは何度も客席に答礼したという。この曲は冒頭で弦のトレモロが原始霧を描いて始まる。作曲家自身の解説によると「中世の城に夜明けのラッパが響き、城門が開いて白馬に乗った騎士たちが森へ駆けて行く。森のささやき、鳥の鳴き声…」という、中世への憧れを前面に出したものとなった。

1875年(51歳)、ウィーン大学で音楽理論の講義を開始。1876年(52歳)、対位法に優れた『交響曲第5番』を作曲。同年、第1回バイロイト音楽祭に出席し、ワーグナーの『ニーベルングの指環』初演を観劇、大いに刺激を受けて交響曲第1〜5番の大幅改訂に着手する。この頃、ブルックナーへの批評家のバッシングが頂点に達しており、中立的な音楽家は巻き込まれることを恐れてブルックナーに近寄らなかった。1877年(53歳)、その孤立の中で交響曲第3番を初演するも大不評で打ちのめされる。だが17歳のマーラーはこの初演に深く感動し、ブルックナーにその旨を伝えた。ブルックナーはマーラーの賛辞を大いに喜び、同曲のピアノ編曲を36歳も年下のマーラーに依頼、後に出版された。1879年(55歳)、室内楽の傑作『弦楽五重奏曲』を作曲。

50代後半になると教職や音楽活動で高い収入を得るようになり、生活の安定と共に作品も円熟期に入った。とはいえ1881年(57歳)に『交響曲第6番』を完成させるもブルックナー叩きの逆風の中で全曲を披露できず、全曲の初演は没後にマーラーが行うまで待たねばならなかった。第6番はブルックナーが改訂しなかった唯一の交響曲だ。同年、後期ロマン派宗教曲の最高峰と賞賛され、“神なる御身を我らはたたえ”(Te
Deum laudamus)の歌詞ではじまる宗教合唱曲『テ・デウム』を作曲。初演から高い評価を得て、生前に30回も演奏された。
1883年、敬愛するワーグナーの死を予感し、哀悼の音楽として第2楽章を書いた『交響曲第7番』を作曲。そして実際に、第2楽章のクライマックスを作曲中にワーグナーの訃報を受け、最後のコーダを書きあげた。翌年、ウィーンで第7番が初演され大成功を収め、ある演奏会では第2楽章が3回もアンコールされたという。第7番は『テ・デウム』と共にブルックナーに大きな名声を与えた。
※名指揮者ニキシュはブルックナーの第7番の初演を成功させるべく、あらかじめ批評家達を招いてピアノで聴かせた。招待された作曲家ヘルツォーゲンベルクの夫人エリーザベトは反ブルックナー派であり、初演後にその体験を師ブラームスに「強制的におこなわれた種痘(事前にワクチンを投与する免疫療法)みたいにブルックナーの音楽を無理やり押しつけられた」と書いている。これに対するブラームスの返事「おそらくあなたは、あのブルックナーの交響曲が怒濤のごとく鳴り渡るなかを、最後までじっと我慢していなくてはならなかったというのに、初演後にみんなが語る賞賛の言葉を耳にして、自分の耳と判断を信頼しとおせなくなったのです。でも、同じ意見の人を知っていますし、それはそれで良いではありませんか」。

1885年マリー嬢(17歳)に4人目の失恋。2人で劇場へ出かけたり、マリーがブルックナーに自身の写真を贈る仲になっていたが、61歳と17歳の差は厳しいものがあり、ブルックナーの「私の身も心も永遠に貴女のものです」という言葉は彼女の心に届かなかった。
1887年(63歳)、3年をかけて『交響曲第8番』を完成させたが、弟子や周囲が困惑の表情を見せたために自ら改訂に取り掛かり、その勢いで交響曲第1〜4にも手を入れた(第二次改訂)。1889年リーナ嬢(18歳)に5人目の失恋。翌年ヴィースナー嬢(17歳)に6人目の失恋。

1891年(67歳)、ウィーン大学に名誉博士の称号を贈られ、御礼に改訂が終わった交響曲第1番を献呈した。同年、公演先のベルリンで病に伏し、ホテルで静養する。この時、看病してくれたホテルの小間使いイーダ・ブッシュ嬢(19歳)との間に愛が生まれ、ブルックナーは快復後に指環を購入し、彼女はこれを受け取ってくれた。ついに恋が成就するかに見えたが、彼女がプロテスタントであることが分かり、ブルックナーがカトリックへの改宗を求めた結果、彼女は指環を送り返してきた。7人目の失恋。この傷心から逃れるためか、同年にミーナ嬢(18歳)に恋するも8人目の失恋。
1892年(68歳)、改訂を重ねた努力もあって第8番初演は大成功を収め、同曲を楽譜出版の費用を負担したフランツ・ヨーゼフ帝に捧げた。同年、アンナ嬢(16歳)に人生最後の愛の告白をするも9人目の失恋。1893年(69歳)、完成作としては最後の作品となったカンタータ『ヘルゴラント』を作曲。

晩年のブルックナーは多くの人々から尊敬を集めるなか心臓を病み、1896年10月11日、『交響曲第9番』(ベートーヴェン第九と同じニ短調)の第3楽章を作曲中にベルベデーレ宮殿内の住居で心不全のため他界した。享年72歳。葬儀は楽友協会の南向かいにあるカールス教会で行われた。ブルックナーは晩年にこう言い残した。「第9番は愛する神に捧げるために書いた。仮に未完のまま終わるようなことがあれば、最後に私の“テ・デウム”(宗教合唱曲)を演奏してもらいたい。それが作曲の動機に相応しい」。翌年、ブラームスも没した。偶然か因果関係があるのか分からないか、9回重ねた失恋と同じ数の至高の交響曲がこの世に残った。
ブルックナーの亡骸は遺言によって、彼がこよなく愛したザンクト・フローリアン修道院の超巨大パイプオルガンの真下に安置された。リンツ大聖堂やウィーンのオルガンではなく、20代の頃に最初に公式オルガン奏者になった思い出のオルガン。彼はその重厚な音色に惚れ込み、ウィーンに出た後もこのオルガンを弾くために時々修道院を訪れていた。現在、当オルガンは「ブルックナー・オルガン」と呼ばれている。

作曲に挑む際のブルックナーの性格は、良く言えば柔軟性があり、悪く言えば優柔不断であり、周囲の意見を聞きながらオリジナルの楽譜にどんどん手を加えた。しかも、楽譜が出版される際に弟子たちが「このままでは長大すぎて演奏されない」と危惧して短くカットすることが多かった。他者の関与を排除した原典版を復元するため、他界33年後の1929年に「国際ブルックナー協会」がウィーンで創設され、オーストリアの音楽学者ロベルト・ハース(1886-1960)が中心になって研究を進めた。ところが戦後になってハースがナチ党の元メンバーだったことが問題になりプロジェクトから追放され、作業を引き継いだウィーン出身の音楽学者レオポルト・ノヴァーク(1904-1991)がハースの校訂をすべてやり直した原典版を刊行。結果、「ハース版」(旧全集)、「ノヴァーク版」(新全集)の2種類の原典版が存在することになった。校訂作業は今も続いており、複数のノヴァーク版への批判版が刊行されている。オーストリア国立図書館にはブルックナーの遺言で寄贈された「遺贈稿」も存在する。要するに大混乱状態。指揮者によっては好みでハース版とノヴァーク版をミックスして演奏しているケースすらある。

音楽で宇宙の深淵に誘うブルックナー。音と音の間には大気に満ちる宇宙の“気”を感じる。同時にまた、壮大な音の大聖堂を建築していく過程に向き合っている感覚にもなる。彼は生涯にわたってとても信心深いローマ・カトリック教徒だった。少年時代から修道院で聖歌を歌い、晩年まで教会にオルガン奏者として仕えていたことから、オーケストラの音色はオルガン的な色彩を放っている。ワーグナーの音楽と教会音楽の独自の融合に成功した。
当時の作曲家にとって良いオペラを書くことが成功への近道だったが、ブルックナーは声楽が得意分野であったにもかかわらず、オペラを1曲も作らず、求道者のように宗教音楽を書き続けた。そんな生真面目ともいえるブルックナーだが、形式が整ったブラームスの作品と比較すると、彼の作品は形式から解放され自由に展開しており、冒険者としての大胆な横顔を見せている。第1楽章に3つの主題を入れるなど演奏時間に1時間を要する作品を作り続けたが、魂の浄化にはこの長い時間が必須と考えたのだろう。

【墓巡礼】
ブルックナーの墓参りは3度目の挑戦でようやく墓前に到達できたという波乱に満ちたものだった。最初の巡礼は1994年。まだネット普及前のことで、僕はブルックナーゆかりのオーストリア・リンツにさえ行けば、墓所のあるザンクト・フローリアン修道院に行けると思っていた。夏の午後3時にリンツ駅に着き、修道院方面のバス停を探して時刻表を見て驚いた。数時間に1本しかなく、しかもバスが出た直後だった。次の便に乗れても修道院の閉門時間に間に合うか分からなかった。当時20代ゆえタクシーという贅沢な選択肢は頭に微塵も浮かばず、「よし、歩いて行くか!」と腹をくくる。ところが、観光案内所で地図を調べると12kmも離れていることが判明。ガーン、やはり到着が夕刻になり閉門している。落ち込んでいると『ブルックナー・ハウス』という建物を地図上に発見した。「これは生家か?お墓が無理ならせめて生家に…」。だが、現地に行って固まった。ブルックナー・ハウスの正体はコンサートホールだった!ドナウ河に面したガラス張りの巨大建築を前にしばし立ちすくむ。ブルックナー生誕150周年を記念して1974年に建てられたという。毎年9月にブルックナー音楽祭が開催されているとか…。旅程に余裕がなく断腸の思いでリンツを後にした。
再巡礼は8年後の2002年。30代半ばであり今回はタクシー代を用意して夜のリンツ駅に降り立った。ユースホステルで1泊し、朝7時にタクシーで出発。郊外の丘陵地帯を走り抜け、20分ほどで念願のザンクト・フローリアン修道院に到着した。まだブルックナーが眠る礼拝堂は門が閉まっていた。8時に開門されるらしく付近を散策。7時50分に再び礼拝堂に行くと既に入れるようになっていた。巡礼者は僕1人のみ。内部の絢爛豪華なゴシック彫刻や天井画に圧倒される。ブルックナーの名が刻まれた墓碑は、入ってすぐの場所、僕の“足下”にあった。キリスト教圏には、生前に人を踏みつけてしまったことの懺悔の意味を込め、あえて人々の通り道に墓を造って“踏んでもらう”風習がある。「生真面目なブルックナーらしいな」と膝を着いて手を置き、名曲を思い浮かべながら「ダンケ・シェーン(ありがとう)」と感謝を伝え、ひとときを過ごす。30分間誰も入って来ず、広い礼拝堂にあって音楽史の巨人を独占する至福…。そして、リンツ駅に向かう8時半のバスに乗るためバス停へ。ちなみに9時半から12時半までバスはない。その意味でも早朝に来ておいて良かった。
日本に帰国した僕は、リベンジを果たせた興奮を胸にホームページにお墓画像をアップした。それからしばらくして驚愕のメールが届いた。「カジポンさんが巡礼したのはブルックナーの記念碑で、本当のお墓は地下墓地にあります。堂内の右手に地下に降りる階段があるんですよ」。メールには見たこともないブルックナーの棺の写真が添付されていた。ギャアアアア!!な、な、なんだってぇええええええ!?もう日本に帰って来ちゃったよ!!うわあああああー!!
…月日は流れ、13年後の2015年。コツコツ巡礼資金を貯め、40代後半になった僕はドイツでレンタカーを借り欧州巡礼を敢行。だが、途中で車上荒らしにあって国際運転免許証を盗まれ、いったん帰国して免許証を再発行、ドイツに戻って再度レンタカーでオーストリアに入り、3度目のリンツ訪問を果たした。
実は、大きな不安を抱えての“イチかバチか”のザンクト・フローリアン修道院再訪だった。というのも、公式サイトによると、「所要1時間の有料ガイドツアーに参加しないと地下墓地に行けず、しかもツアー実施は11時、13時、15時の限定3回、参加者10人以上、5月1日〜10月11日(命日)までの期間限定、料金は約千円」というとんでもないハードルの高さ。途中の道路渋滞もあって僕が着いたのは16時半。時間、参加人数(僕1人)、どちらもアウトだった。
「わかっているさ…ブルックナーとは縁がない…。だけど、16時閉門じゃなかっただけでも有難い。礼拝堂には入れるようだし、あの記念碑にもう一度挨拶しておこう…」。中に入ると7、8人が天井画や祭壇の装飾を鑑賞していたが、閉門時間が近いのかすぐに僕ひとりになった。夕陽が差し込む聖堂でブルックナーに思いを馳せていると、修道士さんが戸締まりに来た。僕はダメ元でブルックナーへの熱い気持ちを訴えた。13年前に間違えて記念碑を巡礼し、これが2度目の訪問である事、交響曲第7番の第2楽章や、第8番終楽章の素晴らしさを力説した。“ブルックナーさんに一言御礼が言いたい”と話しているうちにガチで涙声に。すると修道士さんは「私も第8番が好きです。わかりました。特別にガイドをしましょう。少し待っていて下さい」と信じられない言葉!!修道士さんは祭壇のロウソクの灯を消して周った後、「さあ、私について来て下さい」。鍵束を取り出して地下に続く扉を開け、階段を降りていった。そこには広い回廊があり、修道士さんは歩きながら「ブルックナーの作品は教会で聴くとさらに良いんですよ」「第8番は第3楽章もいいですね」と語っていた。回廊の一番奥に巨匠の棺があった。

  

  

「3分だけ時間を下さい、ブルックナーに御礼を言わせて下さい」と願うと、修道士さんはニッコリして“どうぞ”と手で合図してくれた。「写真を撮っても良いですよ」と言ってくれたのも嬉しかった。ブルックナーの棺は遺言によって、パイプオルガンの真下に置かれている。「ずっとこのオルガンの音を聴いていたい」という彼の願いは聞き届けられた。毎日、頭上から降り注ぐ美しい音色に包まれてこのうえなく幸せだろう。
墓参後、「夢が叶いました。まだ信じられない思いです」と感激を伝えると、修道士さんは優しい声でこう言った。「ミラクルは世界に溢れています。この出会いもその一つですね」。

【ブルックナー・ファンが名付けた愛すべき特徴】
・ブルックナー開始
冒頭を弦楽器のトレモロ(原始霧)で開始する手法。交響曲第2、4、7、8、9番に登場。
・ブルックナー・リズム
ダン・ダン、ダ・ダ・ダという2+3のリズムの反復
・ブルックナー休止
全楽器が演奏を止め、仕切り直してまったく異なる楽想のメロディーを始める。
・ブルックナー・ユニゾン
管弦楽がみんなで同じメロディーを一斉に弾く。超シンプルな世界。
・ブルックナー終止
管弦楽の音のうねりが重なっていきカタルシスのあるフィナーレを迎える。
・ブルックナー・リピート
同じことを何度も何度も繰り返す。とにかく、くどい。そしてそこが良い。

※一度眠って目が覚めたらまだ同じ楽章だったなんてのはザラ。
※『音楽の友』の“あなたが嫌いな作曲家”アンケートの結果が衝撃的。2006年(1)ブルックナー(2)武満徹(3)ワーグナー。2011年(1)ブルックナー(2)マーラー(3)ワーグナー。2014年(1)ブルックナー(2)マーラー(3)メシアン。な、な、何かの間違いと信じたい…。
※ブルックナーの交響曲は20世紀前半までドイツ語圏でしか評価されていなかった。1959年にカラヤンが来日公演で『交響曲第8番』を取り上げた際、日本側は“ブルックナーで客が入るのか”と懸念し、モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』も加えてもらったという。
※ブルックナーとブラームスは相容れなかったが、『交響曲第1番』を40代に入ってから作曲した点で共通している。
※戦後のオーストリアで、ブルックナーの肖像は紙幣や硬貨になった。
※求婚の相手が常に若い女性であったのは、そこに何かしら純粋なものを見出していたのだろう。
※宗教音楽に大規模管弦楽を伴う『ミサ・ソレムニス』『レクイエム』『テ・デウム』などを残す一方、オペラ作品を1曲も書いていない。吹奏楽曲として『行進曲変ホ長調』、トロンボーンアンサンブルの『エクアール』がある。
※ブルックナーの名演はフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、チェリビダッケなどが知られる。指揮者のロジェストヴェンスキーはマーラーが編曲した交響曲第4番も含めたすべての稿を演奏した全集を録音した唯一の指揮者。
※日本人指揮者で最初にブルックナー交響曲全集を録音したのは朝比奈隆。
※音楽学者・広瀬大介「ブルックナーはアドバイスを受けて自作に手を入れたが、最後は自分の個性で周りを納得させた。時代に迎合しない潔さ、強さがある。個性が輝いている」
※脳科学者・茂木健一郎「60過ぎのクラシック通の方が“ありとあらゆる作曲家のシンフォニーを聴いてきたけど、いや〜最後はブルックナーだよね”とおっしゃったので、ずっとその意味を考えています」。

参考資料→『名曲事典』(音楽之友社)、NHK『ららら♪クラシック』、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)ほか。



★ブラームス/Johannes Brahms 1833.5.7-1897.4.3 (オーストリア、ウィーン 63歳)1989&94&2002&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria/Plot: Group 32 A, Number 26

  

ウィーン・レッセル公園のブラームス像 向かいにムジークフェライン(ウィーン楽友協会)が建つ


2005 1994 2002
ブラームスはシューマンの妻クララに
惚れ、彼女が亡くなって1年も経たず
に彼も世を去った。生涯独身だった
頭を抱え込んだ物憂げなブラームス像が置かれた墓。
深遠で哲学的な彼の音楽が墓からも聴こえてきそうだ

隣の墓は親友ヨハン・シュトラウスU世。重厚な音楽を得意
としたブラームスだが、彼は軽快なワルツを魔法のように
作り出すヨハンに心から敬意と友情を抱いていたのだった

  
2015年は早朝に訪れたところ、こんなにドラマチックな光が。スポットライトを浴びるようにブラームスが輝いていた

ヨハネス・ブラームスは、バッハ、ベートーヴェンと並ぶ「ドイツ3大B」の一人。1833年5月7日、北部ハンブルクの下町に生まれる。父は市立劇場のコントラバス奏者。母は父より17歳も年上で教養人だった。ブラームスは7歳からピアノを学び、家計を支えるために13歳頃からレストランや居酒屋でピアノを演奏し始める。保守的な作曲家マルクスセンに作曲を学び、バッハとベートーヴェンを徹底的に教え込まれた。完璧主義者のブラームスは、作曲したものは最終稿だけを残し、初稿やスケッチを破棄した。また完成作であっても19歳以前に書いた作品のすべてを自己批判から燃やしてしまった。いわく「ヴァイオリンソナタ3曲、弦楽四重奏曲20曲以上を焼き捨てた」。

1853年、二十歳の時にハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニのピアノ伴奏者となり、レメーニからジプシー音楽を教えてもらい、これが後の『ハンガリー舞曲』に結実した。レメーニとの演奏旅行中、2つ年上でこちらもハンガリー出身の名ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)と知りあい才能を認められた。ヨアヒムは19世紀後半の最も優れたヴァイオリニストの一人で、リストが指揮者をしたワイマール宮廷管弦楽団のコンサート・マスターだった。
その後、ヨアヒムの紹介でまずフランツ・リストに会い、同年9月30日、デュッセルドルフに住む作曲家ロベルト・シューマン(当時43歳、ブラームスは23歳年下)の私邸を訪れた。ブラームスが自作のピアノソナタを弾き出すと、シューマンは才能に驚いてすぐに妻のクララを呼びに行き「彼は天才だ、もう一度最初から弾いてくれ」と頼んだ。翌月、その興奮を胸に音楽評論のペンを10年ぶりに執り、かつて主筆を務めていた雑誌『新音楽時報』に寄稿、「新しい道」と題してブラームスを熱烈に賞賛し、名を広く楽壇に紹介した。ブラームスはシューマン夫妻に感謝と敬愛を抱き、夫妻からのエールと友情を支えに作曲に取り組んだ。

翌年、シューマン家に悲劇が起きる。シューマンは20代前半から精神を病み始め、前年に指揮台で棒を振り上げたまま固まって演奏を開始できないという事件があった。ブラームスが出会ったときは急速に症状が悪化する過程にあり、年明けから幻聴、幻覚に襲われていた。シューマンは「頭の中でラの音が鳴りっぱなしで新聞も読めない」と苦しみを訴え、クララは日記に「かわいそうなロベルト、彼にはどんな音も音楽に聞こえ、これが止まらなければ気が狂ってしまうというのです」と記す。
ブラームスはしばらくシューマン家に滞在していたが、彼が小旅行に出かけていた1854年2月27日、クララが医師と話し合っている間にシューマンはガウンとスリッパのままで家を抜け出し、真冬のライン川に身を投げた。たまたま落下を目撃した漁師に助けられ、シューマンは一命を取り留める。知らせを聞いたブラームスが旅を切り上げてデュッセルドルフに戻ると、シューマンは自身の希望でボン近郊の精神病院に入院した。

シューマン家には子どもが7人おり、クララは心身共に疲労していたため、ブラームスは3年にわたって献身的に一家を助けていく。このときブラームス21歳、クララは35歳。ブラームスにとって、知的で優しく、欧州で最高の女性ピアニストだったクララは理想の女性だった。ブラームスは心惹かれたが、恩人のシューマンは闘病中であり、クララは人妻であり、人として自分の気持ちを抑えねばならなかった。とはいえ21歳の若者、想いを完全には隠せない。1854年12月、ハンブルクの実家に帰郷中のブラームスはクララに手紙を書く。「僕は千夜一夜物語(第2話)を書き写します。そこに僕の思いが最も明瞭に描写されているのです。−−おお、我が女王よ、あなたの手紙は憧れと熱望に痛めつけられた魂に香油をまき、引き裂かれ病んだ心を癒やしてくれた。(略)神よ、手紙を送る代わりに直接口でこう繰り返すことを許し給え。“あなたへの愛のために死んでしまいそうだ”と」。
翌年(22歳)夏の手紙。「わが愛する友よ。今日はずっとピアノを弾いたり読書をしながら絶えずあなたのことを考えていました。僕はいつもあなたのことを考えています。あなたのお手紙を待っています。近況を伝える手紙、それが欲しくてたまらないのです」。
想いを口に出すことが禁じられた若者。誰にも言えない。ブラームスはこの年、大きな作品を1曲も作曲できなかった。医師はシューマンの神経を刺激しないよう家族に面会を許さなかったが、友人のブラームスやヨアヒムは許可された。ある日、シューマンとブラームスがワインを飲んでいると、シューマンは突然「毒が入っている」と床に流してしまった。その後、食事を拒否してやせ衰えていった。
この1855年、ブラームスはハンブルクでシューマンの『マンフレッド序曲』を聴き、感動して自らも交響曲を書こうとした。だが、ペンを持つとベートーヴェンの傑作の存在が重圧となった。ブラームスいわく「ベートーヴェンの9曲の交響曲があるのに、それ以上に必要なのでしょうか」「僕は交響曲を書かないだろう。いつも後ろで行進している巨人(ベートーヴェン)の足音を聞いたら…」。

1856年4月、クララは生活費を稼ぐためにイギリスに3カ月間の演奏旅行に出発し、留守宅をブラームスが守った。クララ出発前のブラームスの手紙は、これまで「あなた」と書いていたのが、より近しい「君」に変化している。「健康に気をつけて、演奏会が成功しますように。演奏旅行はこれが最後になればよいのですが。この旅行が美しい夏と共に君の慰めになりますように。そんな夏を2人で過ごしたいものです」。この手紙を受け取ったクララの日記。「彼の気持ちを拒絶することができないが、私は彼を息子のように愛しているのだ。それも心から」。
6月、ブラームスがシューマンの見舞いに行くと足が腫れ上がって寝たきりになっていた。翌月、クララがドイツに戻ると病院から容体悪化の電報が届く。病院に駆け付けると、シューマンはクララに微笑みかけ、自由がきかない体で必死に腕を回した。クララの回想「私はそれを決して忘れません。世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」。 その2日後、1856年7月29日午後4時シューマン永眠。享年46歳。葬儀ではブラームスら友人が棺を担いだ。葬儀の2カ月後、クララは子ども達を連れて実母が暮らすベルリンに転居し、ブラームスとシューマン家が家族同然だった3年間が終わった。この年もブラームスは長い曲をひとつも書いていない。ブラームスは23歳、クララは37歳になった。
その後、クララと生涯に渡って親交を重ねたが、ブラームスはシューマンを心から尊敬しており、彼女への想いを友情に変わらせた。「クララのためにたくさんのことをしてあげたい、絶えず愛しい人と呼んでいたい」、その気持ちは一線を超えることはなかった。

1857年(24歳)、デトモルト侯国の宮廷劇場の指揮者に任命され、3年間在任。その後、演奏旅行でドイツやスイス各地をまわった。
1858年(25歳)の夏、美しい声を持つ大学教授の娘アガーテ・フォン・シーボルト(「シーボルト事件」のフィリップ・シーボルトの親類)と出会い恋心に火がつく。その年のうちに婚約し、指輪をはめた肖像画を描かせ、周囲はゴールイン間近と考えた。ところが翌年、ブラームスの方から破談にした。当時のブラームスは作品発表の度に非難と冷淡さで迎えられていた。それが我慢できたのは、自分の作品に自信があり、評価はいずれ変わるとわかっていたからだ。だが、「心配げな妻の前に出て公演の失敗を言い訳することは耐えられなかった」。そして「僕は君を愛していますが、結婚という束縛には耐えられません」と書いた。アガーテの回想「私はいかなる犠牲を払っても彼を失いたくないと願いましたが、最後には泣いて、泣いて、別れの手紙を書きました」。ブラームスはウィーンの後半生35年をひとりで暮らした。
1859年(26歳)、ピアノに内なる感情を叩きつけた『ピアノ協奏曲第1番』(完成は2年前)を自身の演奏で初演し、これが最初の公開演奏となった。この曲は、ライン川にシューマンが入水した際の衝撃(第1楽章)や、音楽で描いたクララの穏やかな肖像画(第2楽章)など、それまでの人生が集約されていた。だが、この曲は当時流行していた名人芸の見せ場など派手さがなかったため、退屈した聴衆から野次を浴びた。ヨアヒムへの手紙「僕はただわが道を行くだけです。それにつけても野次の多さよ!」。
1860年(27歳)、甘美な旋律の第2楽章で知られる『弦楽六重奏曲第1番』を書きあげ、クララの誕生日にピアノ編曲版をプレゼントした。弦楽六重奏という分野は過去の巨匠が未開拓の分野であったことから、若いブラームスは伸び伸びと作曲できた。

1862年(29歳)、ウィーンに移り、翌年合唱団の指揮者となったが1年で辞任し作曲活動に集中する。1865年(32歳)にアガーテとの別れを描いた『弦楽録重奏曲第2番』を作曲。この曲で「恋から解放された」という。同年、母が他界。
1868年(35歳)、母と恩人シューマンの死を悼んだ7部構成の『ドイツ・レクイエム』がブレーメンで初演されて大成功をおさめ、ブラームスの名がヨーロッパ全土に知れ渡った。『ドイツ・レクイエム』の歌詞はカトリック教会の伝統的なラテン語の典礼文ではなく、プロテスタントのルターによるドイツ語訳聖書をテキストにしている。
1869年(36歳)、シューマンの三女ユーリエ・シューマン(24歳)の結婚が決まり、密かに好意を感じていたブラームスは、ショックを受けてシューマン家への来訪回数が減る。ユーリエに対する恋慕はクララも気づいていなかった。
1872年(39歳)、父が他界。この年、名誉あるウィーン楽友協会の芸術監督に就任したが、楽譜出版の収入だけで十分に暮らすことができたため、作曲に専念するべく3年後に辞任した。

ブラームスは30代の間は本格的な交響曲に挑まず、ピアノのための作品とオーケストラ伴奏つきの合唱曲を中心に書いてきたが、1873年、40歳になって交響曲の準備を始める。まずは管弦楽曲『ハイドンの主題による変奏曲』を作曲した。そして室内楽でも新たな一歩を踏み出す。弦楽四重奏の分野はベートーヴェンが16曲の傑作を残しており、そのプレッシャーから40歳になるまで曲を公開できなかったが、この年『弦楽四重奏曲第1番』を発表した。
1875年(42歳)、オーストリア国家奨学金の選考委員を担当しチェコのドボルザークの存在を知る。数々の豊かな旋律に感嘆し、「ドボルザークがゴミ箱に捨てたメロディーを繋ぐだけで交響曲が一曲書けるだろう」と絶賛した。

1876年(43歳)、ブラームスは着想から21年もの歳月をかけた壮大な『交響曲第1番』をついに完成させた。ワーグナーやリストら同時代の作曲家は交響曲を時代遅れと考え、総合芸術の壮大な「楽劇」や標題音楽の交響詩で新時代を築いていたが、ブラームスはこれに反発し、ベートーヴェン以来かえりみられなかった古典派の形式・伝統を復活させた。聴衆の中でベートーヴェンの遺伝子を受け継いだ交響曲を待ち望んでいた者は喝采をあげた。指揮者ハンス・フォン・ビューローは交響曲第1番を讃えて「ベートーヴェンの交響曲第10番だ」と評した。

翌1877年(44歳)、南オーストリアの湖畔で作曲した牧歌的な『交響曲第2番』が完成。“ブラームスの田園交響曲”と呼ばれるこの曲はわずか3カ月で書かれた。ブラームスは湖畔の町ペルチャッハについてこう記している。「ここでは旋律があまりにもたくさん生まれ、散歩の時など踏み潰さないように気をつけねばならないほどです」。
1878年(45歳)、親友ヨアヒムのために取り組んだ『バイオリン協奏曲』が完成し、初演は成功に終わったが、技巧的で明るさより渋みが支配したことから「バイオリンに挑戦する協奏曲」と一部から酷評された。後にシベリウスはこの曲の交響的な響きに衝撃を受け、自作を全面的に書き直したという。この年から15年の間に夏のイタリアに8回滞在して作曲を行った。
1879年、クララが特に好んでいたブラームスの歌曲“雨の歌”を引用した『ヴァイオリンソナタ第1番“雨の歌”』を作曲し、クララへの思慕の念を込めた。同年、嫉妬深いヨアヒムが自分の妻とブラームスの関係を疑い、両者は疎遠となる。1880年(47歳)、大学から名誉博士号授与の知らせを受け、感謝の印にドイツの学生歌をとりいれた陽気な『大学祝典序曲』を作曲した。また、沈痛な『悲劇的序曲』という性格の異なる序曲も書いている。

翌1881年、後にブラームスの評伝を書いたワルター・ニーマン(1876?1953)が「ピアニストの汗と血を要求する至難の協奏曲、演奏者はピアニストの妙技を捨て労働者となる」と語った大曲『ピアノ協奏曲第2番』を発表。同曲は従来の一般的な3楽章形式の協奏曲ではなく4楽章で構成されており“ピアノ交響曲”とも呼ばれる。
1883年(50歳)、“英雄交響曲”と呼ばれる『交響曲第3番』が完成。初演はアンチ・ブラームス派の妨害を受けたが成功、ロシアでは第3楽章を、ライプツィヒでは終楽章をアンコール、中部マイニンゲンでは全曲丸ごとのアンコールを求められた。

同年ワーグナーが没した際に、ブラームスは追悼の月桂冠を送ったが、ワーグナーの妻コジマはこれに戸惑った「ブラームスは私たちの芸術の友ではなかったはず」。それというのも、当時の音楽界はワーグナーやリストを中心とする新ドイツ派と、ブラームスを中心とする新古典派が激しく論争していたからだ。ワーグナーが作り上げた「楽劇」は音楽、演劇、美術、文学の総合芸術であり音楽は全体の一部。それに対し、ブラームスなど新古典派は徹底した「純粋音楽」を目指した。ウィーンではワーグナー派とブラームス派が酒場で取っ組み合いのケンカをするほど対立していた。だが、仲が悪いのは両者の支持者だけで、ブラームス本人はかつて友人にこう書いている。「いまワーグナーが当地(ウィーン)にいる。そして僕はワグネリアン(ワーグナーファン)ということになるだろう。当地の音楽家がワーグナー作品に軽率に反発しているのを見ると、思慮ある人間としてはワグネリアンになる」。
一方のワーグナーも、ブラームスがヘンデルの作品をもとにした変奏曲を弾いているのを聴き、「古い様式でも、本当に出来る人の手にかかると、いろいろなことが可能なものだ」と評価している。そもそもブラームスが20歳も年下ということもあり、ワーグナーは存在を気にもとめていなかった。また2人とも信仰する神(ベートーヴェン)が同じだった。
この年、23歳年下のアルト歌手ヘルミーネ・シュピースに惹かれ、彼女もブラームスのもとを訪れたりしたが、今回も結婚に踏み切れなかった。「結婚すればよかったと思うこともある。しかし適齢期のころは地位がなく、今では遅すぎる」。

1885年(52歳)、最後の交響曲となった重厚な『交響曲第4番』を生み出した。曲全体の渋さを自認しており、友人のハンス・フォン・ビューローに「このサクランボは甘くないから君にはおそらく食えたしろものではないだろう」と手紙に綴った。
1887年(54歳)、最後の協奏曲となる『バイオリンとチェロのための協奏曲』が完成。クララの私邸で試演され、一時期不和だったブラームスとヨアヒムがこの日の演奏で仲直りしたことから、喜んだクララは日記に「和解の協奏曲」と記した。この年は交響曲第4番の指揮を巡って対立していたビューローとも仲直りできた。ブラームスがビューローにモーツァルト『魔笛』の“もう会えないのでしょうか?”のメロディーが書かれたカードを送ったからだ。以後、没するまで10年間はピアノ曲とクラリネットの室内楽しか書いていない。

1888年(55歳)、クララがリウマチを抱え経済的に困っていたため、独身で金銭的に余裕があったブラームスは手紙で援助を申し出る。「あなたをこの問題で悩ませたくない。いくらでも援助できるのです。匿名でお金を送ってもいいし、シューマン基金に振り込んでもいい、どうか希望の方法を教えて下さい」。ブラームスは質素な生活を好み、クララだけでなく、匿名で多くの若い音楽家を支援していた。同年、チャイコフスキーとグリークがブラームスを訪問。7歳年下のチャイコフスキーは、ブラームスと会うまで「詩情が欠け深遠さを装っている」と辛口の見解を示していたが、実際に会って評価は一転、2人で演奏会を聴きに行ったり食事をとるほど意気投合した。
1889年(56歳)、エジソンの代理人の依頼を受けて史上初の録音(レコーディング)を行い、ブラームスはピアノ演奏で『ハンガリー舞曲第1番』とヨーゼフ・シュトラウスのポルカ『とんぼ』を吹き込んだ。
1891年(58歳)、前年から老いによる創作意欲の減少を感じていたブラームスだが、クラリネットの名手リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に触発されて『クラリネット三重奏曲』と、発表後たちまち大人気となった『クラリネット五重奏曲』を書きあげた。
1892年(59歳)、ゆったりしたテンポ、透明感のある和声のピアノ小品『三つの間奏曲』を作曲。
1893年(60歳)、ピアノ小品集『ピアノのための6つの小品』をクララに献呈。さらに最後のピアノ独奏作品となった『4つの小品』を完成。いずれも晩年の作曲家の孤高と宗教的諦観をにじませた作品となった。

1896年、歌曲『4つの厳粛な歌』を作曲(旋律が童謡“黄金虫”と似ている)。同年3月、クララがフランクフルトの自宅で倒れる。2カ月後の5月21日、脳溢血の発作でクララが他界した。享年76歳。クララの絶筆はブラームスの誕生日を祝う手紙だった。ブラームスは地方の保養地にいたため、クララの死を伝える電報はウィーン経由で2日も遅れて届いた。慌てたブラームスはフランクフルト方面の列車に飛び乗る。夜中に乗り換えが必要だったが、乗務員のミスで各駅停車で遠回りすることになってしまう。フランクフルトに着くと葬儀が終わっていて、クララの遺体はシューマンの墓があるボンに移されていた。彼女を追いかけてさらに列車に乗るブラームス。そうしてクララの棺が埋葬される直前に立ち会うことができ、棺に土をかけることだけはできた。この時の約40時間の列車の移動がブラームスの体調を崩す大きな原因のひとつになった。ブラームスは墓前で長くたたずんだ後、友人の家で追悼の曲として『4つの厳粛なる歌』を弾いて別れの儀式とした。

同年10月11日、ウィーンで72歳のブルックナーが他界。葬儀会場で扉の側にいたブラームスは「次は私が棺桶に入るよ」と呟いた。ブラームスはワーグナーに傾倒したブルックナーの音楽を「交響的大蛇」と批判したこともあったが、名オルガニストとして一目置いていた。共通の友人が食事の席をもうけた際、ブラームスとブルックナーが同じレストランの肉団子が好物とわかり、ブルックナーの「ブラームス博士!この店の肉団子こそ我々の共通点ですな!」という言葉で打ち解けた。ちなみにブラームスとブルックナーはオペラを書かなかったのも共通している。

クララを失い、打ちのめされたブラームスは肝臓癌が一気に悪化し、彼女の死から1年も経たない(11カ月後)翌1897年4月3日、後を追うようにウィーンのカールガッセ4番地のアパートで息絶えた。享年63歳。盛大な葬儀の後、亡骸は1871年に開かれたウィーン中央墓地の第32A区“楽聖特別区”に埋葬され、3年後に親友の“ワルツ王”ヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)が隣りに眠った(シュトラウスは8歳年上だが73歳まで生きた)。ブラームスとシュトラウスはまったく作風が異なるが、互いに尊敬し合う良き理解者だった。シュトラウスの作品は批評家から「現代的すぎる」「ワルツの鎮魂曲」と酷評されていたが、ベートーヴェンの正統後継者と見られていたブラームスが「シュトラウスの音楽こそウィーンの血であり、ベートーヴェン、シューベルトの直系」と支持を表明したことで、批評家は「シュトラウスは最も素晴らしいバレエを書ける現代唯一の作曲家」と讃えるようになった。ブラームスがシュトラウス夫人に贈った扇には、シュトラウスの『美しく青きドナウ』の旋律と共に「遺憾ながらこの曲はブラームスの作にあらず」と書かれていた。
ブラームスの墓は、楽譜を眺めながら右手を頭につけ思案するブラームスの胸像が据えられている。後背の石板には男女の裸像が彫られた。墓の斜め前には、彼が崇拝していたベートーヴェンとシューベルトが眠っている。

19世紀後半のヨーロッパ音楽界はワーグナーの圧倒的な影響下にあったが、ブラームスはヴェルディと並んでワーグナーの影響力に屈しなかった数少ない作曲家の一人だ。ベートーヴェンなどウィーン古典派の流れをくむ彼は、楽曲に「統一感」を持たせることを何よりも重視し、作品は堅牢な構造を持った。ワーグナーなど同時代の傾向に反して、突然の転調や、耳慣れない和声を闇雲に追わなかった。古典派の形式を堅固に踏襲しており新古典派と呼ぶに相応しい。だがそれはあくまでも形式の話。当時の人には時代遅れに見える作風だが、内面的な情熱、豊かな叙情性、厚みのある響き、ロマン主義ならではの感情の高まりが随所にあり、最大の後期ロマン派と言っていい。主要な管弦楽作品は4つの交響曲、2つのピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲。大半の曲は室内楽曲、器楽曲、声楽曲で、300曲以上の歌曲や合唱曲を書いている。手を出さなかったのは、オペラと交響詩のみ。霧深い北ドイツを思わせる、渋く、厚く、曇りがちの音楽。枯淡で飾り気のない素朴さ、味わい深さが、今なお多くのコアなファンを生み続けている。


「ブラームスの作品は年齢を重ねるごとに余分な部分が減って素朴さが増している」(フルトヴェングラー)
「最後の4つのピアノ曲で古典派から続いたソナタの時代は終わった」(アインシュタイン)
「ブラームスが創造したものは無能力のメランコリーに過ぎない」(ニーチェ)

※ブラームスが14歳も年上のクララを女性として意識したのは、父が17歳年上の母と結婚したことも関係しているだろう。
※ブラームスの生家は1943年7月のハンブルク空襲で焼け落ち、記念碑のみ残る。
※「反ユダヤ主義は狂気の沙汰だ」(ブラームス)
※ブラームスとヨハン・シュトラウス2世のツーショット記念写真が現存。
※晩年の欧州はジャポニズム(日本ブーム)が起き、1890年頃に琴の演奏を聴き、日本の民謡集の楽譜に書き込んでいる。
※ピアノ協奏曲第2番の第3楽章が美しい。
※ブラームスはベートーヴェンの後継者と見なされているが、バッハ全集を購読し、モーツァルトやハイドンの自筆稿を集めるなど、他の作曲家も熱心に研究している。
※ウィーンの森を散策する際はキャンディを持参して子どもたちに与えたりした。
※ブラームスは他人の作品を厳しく批評したため、ワーグナーやフーゴ・ヴォルフなど敵が少なくなかった。
※部屋にはベートーヴェン像と、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの像が飾られていた。
※ブラームスはある貴族から贈られたモーツァルトの「交響曲第40番」の自筆譜を生涯大切に所持していた。
※ウィキペディアのブラームスの項目に、1889年12月2日録音のブラームスの演奏『ハンガリー舞曲第1番』がアップされている。100年以上前の演奏が聴け感無量。
※ウィーン中央墓地は面積250ヘクタール(甲子園球場約65個分)、33万の墓所を擁し、年間約2千万人が訪れるヨーロッパ最大級の墓地。1871年に市内5箇所にあった墓地をひとつにまとめて開設された。その途方もない広大さゆえ、路面電車の停留所が端から端まで4つもある。ウイーン中心部から南東約7キロに位置し、路面電車71番で約30分。

〔参考資料〕『中欧・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社)『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、『尚美学園大学芸術情報学部紀要第6号 クララ・シューマン』ほか。

学生時代は過激なワグネリアンだった自分も、歳をとった最近は、古寺で枯山水を楽しむようにブラームスの室内楽に浸ってばかり。
あの枯淡の極致とでもいおうか、セピア色の音色がたまらない。“キング・オブ・いぶし銀”にどっぷり。お〜い、コブ茶のおかわりをおくれ〜。



★フォーレ/Gabriel Urbain Faure 1845.5.12-1924.11.4 (パリ、パッシー 79歳)2002&09
Cimetiere de Passy, Paris, France Plot: Division 15

 





2002 シンプルな墓 2009 墓地の敷地が狭く、フォーレの周囲は墓石がひしめき合っている

フランス近代の最大の作曲家の一人。ガブリエル・フォーレは、1845年5月12日にスペイン国境に近い南仏アリエージュ県のパミエに生まれた。6人兄弟の末っ子。父は小学校教師。家族は音楽と縁がなかったが、少年フォーレは教会のオルガンを即興で弾いたことから才能を見出され、9歳のときに前年開校したばかりのパリのニデルメイエール宗教音楽学校に入学した。1861年(16歳)、校長のニデルメイエールが他界すると、作曲家サン=サーンスが教師として赴任、フォーレはピアノと作曲を師事した。サン=サーンスは宗教音楽学校の正規授業には含まれていない、ショパン、リスト、シューマン、ワーグナーなどの音楽にも触れる機会を与えた。

1865年(20歳)、音楽学校の卒業作品として合唱曲『ラシーヌ賛歌』を作曲する。17世紀フランスの劇作家ジャン・ラシーヌの宗教詩に基づいて作曲されたこの作品は、作曲部門で一等賞を獲得した。同年、卒業後に旅先のレンヌで教会オルガニストに4年間採用される。この頃から、歌曲集『3つの歌』を作曲し始め、内容の異なる4つの『3つの歌』が1875年まで書かれた。
1870年(25歳)、プロイセンとの間に普仏戦争が勃発すると、フォーレは歩兵部隊に志願。仏軍は苦戦し、皇帝ナポレオン三世が前線で捕虜になった。パリは包囲され砲弾が撃ち込まれる。この頃に書かれた『3つの歌』第3集に収められた『夢のあとに』は、イタリア詩の訳詩に曲をつけた切なくメランコリックな名歌で、後世に歌い継がれるものになった。
1871年(26歳)、フォーレはサン=サーンス、セザール・フランクらが呼びかけた「フランス国民音楽協会」の設立に参加する。この協会は、フランスの作曲家の未刊作品に初演の場を与えんとするものだった。フォーレ「本当のことをいうと、1870年以前には、私はソナタや四重奏曲を書きたいとは思っていなかった。当時は、若い作曲家の作品が演奏される場などなかったからだ。サン=サーンスが国民音楽協会を設立した大きな目的は、まさに若い作曲家たちの作品を演奏することにあったのであり、私もそのために室内楽曲を作るようになったのです」
同年、フランスはプロイセンに降伏。パリ・コミューン革命が3月に起きたが2カ月後に鎮圧された。
この頃からフォーレはパリの名士が集うヴィアルド家(夫人ポーリーヌ・ヴィアルドは有名声楽家)や実業家カミーユ・クレール一家の芸術サロンに出入りし始め、日曜日に催される音楽会のために多くの声楽作品を書いた。フォーレはサロンで出会ったヴィアルドの娘マリアンヌと恋に落ちる。
1874年(29歳)、サン=サーンスの後任でマドレーヌ寺院のオルガン奏者に就任。
1876年(31歳)、フォーレはピアノ曲や歌曲以外で初の本格的な作品『ヴァイオリンソナタ第1番』を作曲。この作品はフランス室内楽の初期の傑作のひとつとなった。当時のパリはオペラがもてはやされ、室内楽は注目されなかったが、のびやかな筆致の生き生きとしたヴァイオリンソナタの初演は大成功を収めた。聴衆のアンコールに応えて第3楽章が2回も演奏された。恋人マリアンヌとの恋愛が音楽に反映され、幸福な気持ちが聴衆に伝わった。
フォーレの手紙「演奏会は予想以上の成功でした。サン=サーンスは私に、子供が成長して自分の手元を離れてゆく時に覚える母親の悲しみを今晩味わったと言いました」。サン=サーンスは音楽誌に「フォーレ氏は、一躍巨匠の域にまで達した」と寄稿。それまで室内楽ソナタの不毛の地であったフランス楽壇は、フォーレがこの分野を開拓したことで、多くの作曲家が後に続くようになる。
1877年(32歳)、サン=サーンスのオペラ『サムソンとデリラ』初演を観るためワイマールを訪れ、晩年のフランツ・リスト(1811-1886)に面会、感激する。フォーレの才能を認めたリストは、後に「尊敬と愛情をこめて」と写真に書いてフォーレに贈った。7月、マリアンヌと婚約。ところが同年10月に婚約を一方的に破棄される。
1879年(34歳)、『 ピアノ四重奏第1番』が完成。フォーレは室内楽の刷新を目指し、独自のものを生み出さんと、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの四重奏というマイナーな編成を選んだ。初演はヴァイオリンソナタに続いて成功を収めた。同年、『ピアノと管弦楽のためのバラード』を作曲。この曲は最後にピアノがハープのように音を奏で、爽やかな余韻を残す優れた作品。ヴァイオリンソナタと共に初期器楽曲の代表的作品。
この年、失恋の傷心を癒やさんと、ワーグナーの楽劇を観るために2度ドイツを訪れ『ニーベルングの指環』4部作をすべて観賞した。
1880年(37歳)、チェロ独奏と管弦楽のための『エレジー』を作曲。胸が張り裂けんばかりの恋の絶望と傷心が音楽に現れている。
1883年(38歳)、彫刻家の娘マリー・フルミエと結婚。息子エマニュエル(1883-1971)誕生。
1884年(39歳)、『4つの歌』を作曲。第4曲「イスパハンのばら」が美しい。
1885年(40歳)、父が他界。この頃から成熟期に入り、それまでの優しさや繊細さに、構築感、激しさ、緊張感が加わっていく。
1886年(41歳)、様々な旋律がほとばしる傑作『ピアノ四重奏曲第2番』が完成、フォーレの作品に肯定的なドイツの指揮者ハンス・フォン・ビューローに献呈した。第3楽章(アダージョ楽章)は幼いころに故郷の渓谷で聞いた遠い鐘の音の思い出という。この楽章について妻への手紙に記している。「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」。
1887年、秋に『レクイエム』の作曲を開始、作曲中に母が他界し、ペン先が加速する。同年、甘美な管弦楽曲『パヴァーヌ』を作曲。また、ヴェルレーヌの詩を題材に歌曲『月の光』を書く。
1888年(43歳)、代表作の一つとなる『レクイエム』が完成し、モーツァルト、ヴェルディの作品とともに「三大レクイエム」に数えられる。フォーレの言葉 「長い間画一的な葬儀のオルガン伴奏をつと
めた結果がここ(『レクエイム』)に現れている。私はうんざりして何かほかのことをしてみたかったのだ」。フォーレは自身のレクイエムから、カトリックの死者のためのミサでは必須の「怒りの日」を削ったため、そのため「死の恐ろしさが表現されていない」と批判され、マドレーヌ寺院での初演時に司祭から苦言が出た。後年のフォーレの手紙「私のレクイエムは、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます。しかし、私には、死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというより、むしろ永遠の至福の喜びに満ちた開放感に他なりません」。ちなみにマドレーヌ寺院の合唱団は男性限定であったためソプラノ独唱の「ピエ・イェス」はボーイソプラノを念頭にした音域で書かれている。
この年、ドイツ・バイロイト音楽祭でワーグナーの『ニュルンベルグのマイスタージンガー』『パルジファル』を観賞、後者に「身体の奥底から感動した」という。
翌年、次男フィリップ(1889-1954)誕生。
1890年(45歳)、レジオン・ドヌール五等勲章を受賞。
1891年(46歳)、詩人ヴェルレーヌ(1844-1896※フォーレは1歳年下)の詩にのせた歌曲集『5つのヴェネツィアの歌』を作曲。
1892年(47歳)、妻マリーを通じて親しくなった30歳の銀行家夫人、歌手のエンマ・バルダック(1862-1934)に創作欲を刺激され、ヴェルレーヌが婚約者に書いた詩を使った9曲の歌曲集『優しい歌』を作曲し始める。
1894年(49歳)、歌曲集『優しい歌』が完成。フォーレとエンマ・バルダックは愛人関係になっていた。フォーレの回想「『優しい歌』ほど自発的に書けた作品はなかった」。
1895年(50歳)、主題と11の変奏からなるピアノ曲『主題と変奏』が完成。ピアニストのコルトー「音楽的な豊かさ、表現の深さ、器楽的内容の質の高さからして、あらゆる時代のピアノ音楽のうち、希有で最も高貴な記念碑のひとつ」。
1896年(51歳)、マスネの後任でパリ音楽院の作曲科教授になり、生徒のラヴェルやデュカスに作曲法を教えた。この年、名誉あるマドレーヌ大聖堂の合唱隊長兼主席オルガン奏者にも任じられた。
1897年(52歳)、ピアノ連弾の組曲『ドリー』が完成。「ドリー」とはエンマ・バルダックの幼い娘、エレーヌ(1892年生まれ、当時5歳)の愛称で、エレーヌにこの曲集を献呈している。誕生日祝いにフォーレが書いてきた曲を収録し、1歳「子守歌」、2歳「ミ・ア・ウ」(エレーヌが兄ラウルを「ムッシュー・ラウル」と呼ぶ時の幼児言葉)、3歳「ドリーの庭」、4歳「キティー・ヴァルス」(ラウルの飼い犬ケティの描写)と続き、これに「優しさ」「スペインの踊り」を加えて全6曲とした。1曲目の「子守歌」は揺れるゆりかごを描写するような旋律で知られる。エレーヌをフォーレの子と見る研究者も多い。
1898年(53歳)、イギリスの女優からメーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』の付随音楽を依頼され作曲。多忙につきオーケストレーションを弟子が手伝った。19の小品で構成され、後にさらに「前奏曲」「糸を紡ぐ女」「メリザンドの歌」「シシリエンヌ」「メリザンドの死」の5曲を抜粋して管弦楽用の組曲とした。「シシリエンヌ」(シシリアーノ、シチリア舞曲)だけは5年前に未完となった別のオペラのものだが、『ペレアスとメリザンド』では最も有名な曲となった。ちなみに、ドビュッシーが同名のオペラを初演したのは4年後の1902年。
1900年(55歳)、ギリシア悲劇に基づく全3幕のオペラ『プロメテ』初演。吹奏楽に編曲され1万人の観客を集めた野外劇場で上演された。その際、ハーピストの娘と親密になり一緒に旅行するなど愛人関係になる。
1903年(58歳)、室内楽についてのフォーレの手紙「このジャンルはたしかに重要なものです。真の音楽、一人の人格のもっとも真摯な自己表現というものは、管弦楽か、あるいは室内楽を通じてのみ実現できると思っています」。
この年の夏から次第に聴力を失う。しかも高音と低音がピッチの違う音として聞こえフォーレを悩ませた。
1904年(59歳)、フォーレは創作の苦悩を妻宛の手紙に記す「曲を作ると言うことはなんと大変なことなのか…。そして、自分を天才だと思い込んで、つまらない作品にも満足できるような人々はどれほど幸せなことだろう!私はそういった人たちを羨ましく思います」「へとへとになるまで仕事をしたというのに(…)全く、何もできなかった!厚い壁が立ちふさがっている」。この年、ドビュッシーがエレーヌ(ドリー)の兄ラウル・バルダックのピアノ教師となり、教え子の母であるエンマ・バルダックと親密になり、エンマはラウルとエレーヌを捨ててドビュッシーと駆け落ちしてしまう。
1905年(60歳)、作曲家デュボワの後任でパリ音楽院の院長に就任し、オルガニストとしての活動をやめて学院運営に専念する。作曲は年2ヶ月の休暇中に集中して行った。15年にわたる院長在任中に様々な改革を断行し、教授と生徒の癒着を阻止するため、入学審査を外部の者に行わせた。
1906年(61歳)、情感にあふれた『ピアノ五重奏曲第1番』を作曲。3年をかけ、推敲に推敲を重ねた労作だった。
1908年(63歳)、「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ」と次男に伝える。
1913年(68歳)、ギリシア叙事詩『オデュッセイア』を基にした全3幕のオペラ『ペネロープ』初演。フォーレが休暇中に5年をかけて書き進めたものだが、サン=サーンスを戸惑わせた。いわく「調が定まらず不協和音が続くのは慣れない。『プロメテ』が懐かしい」。
1914年(69歳)、第一次世界大戦が勃発。
1917年(72歳)、『ヴァイオリンソナタ第2番』を作曲。第一次世界大戦の只中、第1番から42年後に作曲された。同年、『チェロ・ソナタ第1番』完成。荒々しい激情で始まり、明るく歌いあげて終わる楽曲。
1918年(73歳)、第1次世界大戦下のパリでドビュッシーが他界。享年55歳。
1919年(74歳)、ヴェルレーヌの詩集を下敷きにした喜劇の付随音楽『マスクとベルガマスク』を作曲。…といっても、全8曲のうち新曲は2曲であり後は過去作品を利用。
1920年(75歳)、聴覚障害のため15年間務めてきたパリ音楽院の院長を退任。妻への手紙「作曲に専念できることを思えば、職務の重荷を取り除いてくれたこの運命(聴覚障害)には感謝しなければなりません。これまで学校の仕事のことについてあなたに愚痴をこぼしたことはありませんでしたが、ここは面倒なことで一杯です」。同年、2等レジヨン・ドヌール勲章を受章。
1921年(76歳)、フォーレの室内音楽の最高傑作と讃えられる『ピアノ五重奏曲第2番』を作曲。五重奏曲は16年ぶり。冒頭が大河のように始まり、人生の喜びと悲しみが込められた楽曲は、初演で熱狂的な喝采を受け、会場にいた次男はその様子を記している。「曲が進むにつれて(聴衆の)興奮はいよいよ高まったが、それには、まだこれだけのものを書けるこの老人を、不当に無視してきたのではなかろうかという悔恨の気持ちが混じっていた。最後の和音が鳴り終わるころには、聴衆は総立ちになっていた」。同曲は20歳年下の作曲家、友人ポール・デュカス(1865-1935)に献呈され、自筆譜はフォーレの肖像画を描いた画家ジョン・シンガー・サージェントに贈られた。
同年『チェロソナタ第2番』を作曲。第2楽章はナポレオン1世没後100年記念式典に際して仏政府から委嘱された『葬送歌』を編曲したもの。この年、師サン=サーンスが他界。享年86歳。
1922年(77歳)、創作欲の減退に悩み、妻へ記す。「老いよ、消え失せろ!」「私の才能は涸れてしまったのでしょうか…」。その後、夏にフォーレ・フェスティバルが開催されたことを喜び、創作欲を取り戻した。
1923年(78歳)、『ピアノ三重奏曲』を作曲。再演時はチェロのパブロ・カザルス、ピアノのアルフレッド・コルトー、ヴァイオリンのジャック・ティボーという名手(カザルス三重奏団※20世紀前半を代表するピアノ三重奏団)が奏でた。秋から最後の作品となる『弦楽四重奏曲』の作曲に着手する。
妻への手紙。「これ(弦楽四重奏)はベートーヴェンによって知られるようになった分野で、彼以外の人はみな恐れて、あまり手を付けていません。ためらってきました。サン=サーンスもそうで、それに取り組んだのはようやく晩年になってのことでした。そして彼の場合も、他の作曲分野のようにはうまくいきませんでした。そんなわけで、今度は私が恐れる番だとおっしゃるかもしれませんね…。だからそのことについては誰にも話してはいないのです。これからも目標に手が届くようになるまで、話すつもりはありません。『お仕事をなさっていますか』と聞かれても、私は図々しく『いいえ』と答えています。だから誰にもいわないでください」(1923年9月9日)
同年、1等レジヨン・ドヌール勲章を受章。
1924年、『弦楽四重奏曲』が9月に完成する。フォーレにとってピアノを含まない唯一の室内楽作品。一般的に弦楽四重奏は4楽章形式だが、フォーレは3楽章形式にした。そのことについて妻に記している。「昨晩、終楽章を仕上げました。これで四重奏曲は完成です。第1楽章と第2楽章の間にちょっとした新たな楽章を入れようという考えが起こらなければの話ですが…。しかし必ずしも必要なものではないので、少なくとも今のところは苦労してそれを追求する気はありません」(1924年9月12日)
1924年11月4日、『弦楽四重奏曲』の完成から2か月後、フォーレは肺炎のためパリで他界した。享年79歳。死の2日前、二人の息子に次の言葉を残した。「私がこの世を去ったら、私の作品がいわんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ…。おそらく時間が解決してくれるだろう…。心を悩ましたり、深く悲しんだりしてはいけない。それは、サン=サーンスや他の人々にも訪れた運命なのだから…。忘れられる時は必ず来る…。そのようなことは取るに足らないことなのだ。私は出来る限りのことをした…後は神の思し召しに従うまで…」。
他界4日後、フランス政府はフォーレを国葬とすることに決め、ゆかりのマドレーヌ教会で葬儀が執り行われ『レクイエム』が演奏された。亡骸はパリのパッシー墓地に葬られた。翌年、パリ国立音楽院で『弦楽四重奏曲』が初演された。没後5年、友人の作曲家アンドレ・メサジェが隣に葬られた。

フォーレは大掛かりなシンフォニーよりも小規模編成の楽曲を好み、歌曲やピアノ小品など室内楽作品に名曲が多い。当時のヨーロッパ音楽界はドイツ・ロマン派に席巻されていたが、フォーレは悲喜を強調したドイツ音楽の感情表現より、内面へ沈み込む控えめな抒情性を好んだ。そして師サン・サーンスとフランス風に洗練された気品の高い器楽曲の作曲につとめ、晩年になるにつれストイックな作風に進んでいった。フランス楽壇においてサン=サーンス、セザール・フランクからドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しの役目をした。

〔墓巡礼〕
フォーレはエッフェル塔に最も近い墓地、トロカデロ広場に面したパッシー墓地に眠っている。最寄り駅はメトロのトロカデロ駅。墓地の入口事務所で地図をもらえる。フォーレの墓は15区にあり、妻フルニエの親族と共に永眠。作曲された聖歌のような作品とは逆に、フォーレは女性に対していわゆる肉食系であったが、妻への手紙が晩年に至るまでたくさん残されており、妻が大きな存在であったことは確かだ。それにしても、フォーレの墓がドビュッシー夫妻と同じ墓地、しかもすぐ隣りのブロックにあるのは偶然だろうか。フォーレはドビュッシーの後に没している。ドビュッシー夫人のエンマはかつてフォーレの愛人で両者は子(ドリー)をなしたと噂されている。もしもフォーレが自分の意思でパッシー墓地を希望したのならエンマを念頭に?深読みし過ぎか。ミシェル・コルボが指揮したフォーレの『レクイエム』は聴く度に深い感動に包まれ、これまでに何度聴いたか分からない。20代後半の頃、この曲を市民合唱団がやると知って即座に入団し歌いもした。お陰でラテン語の歌詞を覚えており、墓前で感謝を込め『レクイエム』の一節を歌い、彼に捧げた。

※名前のフランス語の発音は「フォレ」に近い。しかも「レ」にアクセントがある。
※『ヴァイオリンソナタ第1番』を1928年に聴いた作曲家フランシス・プーランク「ここ50年間の間に書かれたヴァイオリンソナタの中で、これ以上の曲は思い浮かばない」。
※フォーレは生涯にわたって多くのピアノ曲を作った。中でも『舟歌』を13曲も書いている。これほど多くの舟歌を作曲したのは、有名作曲家ではフォーレだけ。
※フォーレはエンマ・バルダックの娘エレーヌにピアノ組曲『ドリー』を書き、ドビュッシーはエンマ・バルダックとの間に生まれた彼の娘シュシュにピアノ組曲『子供の領分』を書いている。2つの曲は文字通り“姉妹曲”といえる。
※リストはフォーレの『ピアノとオーケストラのためのバラード』を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。

戦時中の空襲の日々を振り返って--「台所の裏に穴を掘り、そこにいっぱい本を詰め込んだブリキの缶を入れ、さらに何重もの紙で包んで板を重ねてくくったフォーレのレコード・アルバムを重ね、その上に土を盛った。(終戦という)そんな日の来ることに確信を持っていたわけではない。しかしもし、これをゆっくり聴ける日が来た時、これがなかったら、取り返しのつかない悲しみと後悔を味わうことになるだろうと考えたからだ」(吉田秀和)音楽評論家



★ショパン/Fryderyk Chopin 1810.3.1-1849.10.17 (ポーランド、ワルシャワ&パリ、ペール・ラシェーズ 39歳)1989&02&05&09&15
Holy Cross Church, Warsaw, Poland (heart)
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France Division 11(Body)

ショパン19歳 ショパン25歳 ジョルジュ・サンドとショパン ショパン37歳

●ワルシャワ


ショパンの心臓を納める聖十字架教会。正面のキリスト像はかなりドラマチック(2005)

手前左の柱の中に“心臓”が入っている 巡礼者が後を絶たない




ワルシャワの巨大ショパン像。なかなか悩ましい表情をしている

●パリ


 
パリ・オペラ座に近いヴァンドーム広場
(2009)
その広場に面した12番地に1780年創業の宝石商ショーメ(Chaumet)がある。
この2階で、ショパンは39歳の若さで帰らぬ人となった

パリのショパンの墓(1989)
13年後。手前の植木鉢が増えた(2002)
その3年後、植木鉢がまた増えた(2005)

初巡礼から20年目。正面に巨大な
植木鉢が左右に2個置かれ、柵には
ポーランド旗のリボンが巻かれてた(09)
手前の門には“F・C”とある
(2009)






すごい人気ぶりだ 白髪の男性がショパンの墓を解説していた 次から次へと人がやってくる

物言わぬ墓石が故人の想いや生涯を伝えることがある。フランス・パリとポーランド・ワルシャワの2箇所に分かれたショパンの墓は彼の人生の縮図だ。“ピアノの詩人”ショパンは1810年3月1日、ポーランド・ワルシャワ近郊のジェラゾワ・ウォラ村に生まれた。父はフランス人、母はポーランド人。6歳でピアノを習い始め、演奏、作曲の両方に早熟の才を発揮、7歳でポロネーズ(ポーランド風の舞曲)を作曲し出版された。翌年8歳にして最初の公開演奏会をワルシャワで行い、15歳で「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛される。
1826年(16歳)、ワルシャワ音楽院に入学(翌年ウィーンではベートーヴェンが死去)。3年後に同音楽院を“首席”で卒業し、1829年(19歳)ウィーンの演奏会で公式にピアニスト・デビューを飾る。この演奏会では、17歳のときに作曲した『ラ・チ・ダレム変奏曲』(モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の『お手をどうぞ』による変奏曲)が評判になり数ヶ月後に出版された。

1830年(20歳)、ウィーンを音楽活動の本拠地とするため、故郷の友人たちと別れの演奏会をワルシャワの国立劇場で開き、自身が“美しい春の夜の月光を浴びながらの瞑想”とたとえた『ピアノ協奏曲第1番』(作曲順は第2番が先)を初演した。旅立ちは11月2日。ところが、ウィーンに到着したショパンの耳に、祖国ポーランドで11月29日にロシア支配に対する武装反乱「11月蜂起」が勃発したとのニュースが飛び込む。ポーランドはショパンが生まれる15年前、1795年にロシア、プロイセン、オーストリアの3国に割譲され地図から“消滅”していた。ロシアはポーランド市民から出版の自由を奪い検閲を導入し、独立を目指す愛国者はロシア秘密警察に逮捕された。圧政に抵抗する蜂起軍にショパンの親友も加わり、蜂起軍は約3倍のロシア軍相手に奮戦する。
だが、オーストリアもロシア同様に旧ポーランド領を支配していたことから、ウィーンの世論はロシア寄りで、ショパンは反ポーランドの風に晒された。翌1831年(21歳)、演奏会も楽譜の出版もままならぬ状況となり、フランスに活躍の場を求めることを決心。パリに向かう旅路で、「11月蜂起」が約1年の戦闘を経て失敗に終わったことを知る(死傷者4万人)。ドイツ・シュトゥットガルトでショパンは書き記す「父さん!母さん!姉妹たち、友人よ!僕の大切な皆はどこにいるのか」「ただ、ため息をし、絶望をピアノに向かって吐き出すばかりで気が狂いそうだ」「嗚呼、神はなぜ復讐しないのか!神よ、あなたはロシア人どもの犯罪を山ほどご覧になったはずでは。それとも、あなたご自身がロシア人なのですか?」「孤独!完全な孤独!僕のみじめさは筆舌に尽くし難い。僕の心はやっと耐えている。僕が故郷で味わった喜びや、沢山の楽しみのことを考えると胸が張り裂けそうだ」。同年、ショパンはこの激情をピアノに叩き付け『革命エチュード』が生まれた。年末にシューマンは自身が編集する音楽誌で『ラ・チ・ダレム変奏曲』を取り上げ、「諸君、帽子を脱ぎたまえ!天才だ」と絶賛した。

1832年(22歳)、パリ到着の翌年2月26日のパリデビュー演奏会で『ピアノ協奏曲第1番』を披露し好評を得、著名な批評家から「この若者は前代未聞の独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げた」と讃えられた。ショパンは「作曲家兼ピアニスト兼ピアノ教師」として知名度を上げ、生徒がヨーロッパ中から集まり経済的に安定した。詩人ハイネ、作曲家リストやベルリオーズ、文豪バルザック、画家ドラクロワらと親しく交流し、ドラクロワはショパンに演奏して欲しくて、わざわざピアノを購入してアトリエに置いた。23歳、ひとつ年下のフランツ・リストとバッハの協奏曲を共演。
1835年(25歳)、現チェコ領カルロヴィ・ヴァリで両親と再会するが、結果的にこれが最後の対面となる。この年、ドレスデンでポーランド人貴族の16歳の令嬢マリアと恋に落ち、街を去る際に傑作『別れのワルツ』(ワルツ第9番変イ長調)を作曲。翌年に26歳でプロポーズし承諾を得た。
この年はショパンの前に人生を大きく変える人物が現れた。リストの愛人マリー・ダグー(ワーグナーの妻コジマの母)の家で開かれたサロンを訪れた際に女流作家ジョルジュ・サンド(本名オーロール・デュドヴァン 1804-1876)と出
会ったのた。当時32歳のサンドはショパンより6歳年上で、男女同権運動家、フェミニストの自由恋愛主義者。18歳で男爵と結婚するも夫の平凡さに閉口し、27歳の時に夫と2人の子を置いて単身パリに出た。文壇で成功する一方、リスト、バルザック、ユゴー、詩人ミュッセ、思想家カール・マルクスらと華やかに交流し、ズボン姿で葉巻を手に持つ男装の才女として社交界の注目を集めていた。サンドはすぐさまショパンとその音楽に夢中になったが、ショパンの方は友人に「なんて不快な女なんだ、あれで本当に女なのか?」と酷評した。
翌年、婚約者マリアの親がショパンの結核を知ってこれを懸念し、彼は婚約破棄を通告された。ショパンは深く傷つき、マリアからもらったバラの花と彼女の手紙を紙包みにまとめ、その上に「Moja bieda(我が哀しみ)」と記
した。

1838年(28歳)、ショパンはサンドと数度の出会いを重ね、日記に想いを書き込んだ。「私の演奏中、ピアノの上にかがみ込んだ彼女の眼差しは燃え上がり、私はその炎に焼かれた。…私は彼女の虜になった。オーロール、なんと魅力的な名前なのか」。だが、恋愛に慎重なショパンは感情を表に出さず、サンドは知人に打ち明ける。「ショパンの強固な意志、並外れた貞操感に私はうっとりし、ますます彼が欲しくなったわ。彼をそうさせた恋人が過去にいたのなら、そんな女はみんな縛り首にすればいい」。この知人はショパンの気持ちを知っていたので両者の橋渡しとなった。初対面から2年後、ショパンとサンドは交際を始めた。ドラクロワはこのカップルの絵を描き、サンドは画家にこう語った。「もし神様があと1時間しか命を与えてくれなくても、私は嘆きません。私は真の幸福を体験したのですから」。

パリ社交界は好奇の目で2人を見つめ、サンドの派手な男性遍歴もあって人々は好き勝手に噂を流した。2人は他人に煩わされない静かな環境を求め、またショパンの結核療養をかねて、11月に温暖なバルセロナ沖のスペイン領マジョルカ島に渡った(サンドの子ども2人も一緒)。ショパンは美しい自然に感動し書き記す「植物園の温室のようなたくさんの植物、トルコブルーに輝く空、瑠璃色の海、エメラルドグリーンの山、なんと素晴らしいのか」。島にはバッハの『平均律クラヴィーア曲集・24の前奏曲とフーガ』の楽譜だけを持ち込み、代表作のひとつとなる『24の前奏曲集』を完成させた。『軍隊ポロネーズ』、『バラード第2番』、無調音楽の先駆け『スケルツォ第3番』も形になった。だが、同年は異常気象で長雨が続き、暖かいはずのマジョルカ島は凍え始め、病状はかえって悪化。宿にしていた修道院の僧房は冷え切り、島の医者はショパンに死の宣告をし、保守的な島民は夫婦ではない2人に敵意を向けるようになった。結局、滞在を3カ月で切り上げ、翌1839年2月に島を去る。
一行はバルセロナでショパンの快復を待ち、中部フランス・ノアンのサンドの別荘で夏を過ごした。以降7年間、夏はノアンで作曲に集中、他の季節はパリで活動するようになった。ショパンの日記「オーロールのためだけに生きたい。私が奏でる最も甘美なメロディーは、彼女ひとりだけに弾いているものだ」。
サンドはショパンを“かわいい人”“3番目の子ども”と呼んで献身的に介護し、この同棲期間に、『英雄ポロネーズ』、『舟歌』、『幻想曲』、『ピアノソナタ第2番・葬送』、『バラード第4番』等、多数の傑作が書かれた。だが、サンドは次第にショパンの過度な嫉妬心に息苦しさを覚え、一方ショパンはサンドが2人の関係を暴露した小説『ルクレツィア・フロリアーニ』を書いたことに反発し、交際から9年後の1847年(37歳)についに破局する。

サンドと別れたショパンは心身ともに疲れ果て、鬱状態となって作曲への気力を失い、急速に衰弱していく。ピアニストとしての人気に陰りが見え、弟子の数は減っていった。「僕は草や木のように日々をぼんやり送っている。じっと生涯の終わりを待っているのだ」。翌1848年2月、パリで演奏会を開くがプログラム最後の『舟歌』を疲労のために弾き切ることができず、これがパリのラスト公演となった。同月パリは2月革命が勃発しており、治安の混乱が拡大し、多くの市民が街から避難した。ショパンはスコットランド人の弟子兼秘書のジェーン・スターリングの勧めで、パリを離れて英国に渡った。貴族のスターリングは師の旅行費のすべてを負担した。5月にヴィクトリア女王の御前演奏という名誉を授かり、晩夏にスターリングの実家があるスコットランドに移るが、英語が話せないショパンはストレスで健康が悪化した。10月、死の接近を感じたショパンは遺言をしたためる。「もしもどこかで急死するようなことになれば、私の原稿を処分して欲しい」。11月、ロンドンで生涯最後の公開演奏=ポーランド難民の慈善演奏会を行ったが、聴衆はダンスを目的に集まっておりショパンは心身共に消耗し、パリに戻った。英国旅行のタイトな日程はショパンの体力を大きく削った。生活費や診察代にも窮するようになり、家具や所持品を売り払った。
1849年に入ると体調をさらに崩し、姉ルドヴィカにポーランドからパリへ出てきてもらう。9月、スターリングの援助でヴァンドーム広場に面したきれいなアパートに転居したが、肺結核は重症化する。サンドの子は見舞い来てくれたが本人は訪れず、「“私の腕の中で息を引き取らせあげる”と約束したのに」とショパンは嘆いた。10月17日の深夜「もう何も感じない」と医者に告げて絶命した。享年39。姉や友人ら7人が死の床に付き添った。サンドの娘ソランジュの夫、彫刻家オーギュスト・クレサンジェがショパンのデスマスクと、美しい音楽を紡ぎ出した左手の型を取った。

パリのマドレーヌ寺院で葬儀が執り行われ、ショパンの遺言によってモーツァルトのレクイエムが演奏された。マドレーヌ寺院は通常女性歌手が合唱に加わることを許可しなかったが、ショパンに敬意を表して例外的に認められた。葬儀では他にショパンの「前奏曲集」から第4番ホ短調と第6番ロ短調がオルガンで演奏された。約3000人が参列したがサンドはいなかった。パリ中心部のマドレーヌ寺院から、東端のペール・ラシェーズ墓地まで約5キロ。ドラクロワや音楽家仲間が交代で棺を担ぎ、姉ルドヴィカが寄り添った。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬される際には、ショパンの「葬送行進曲」が管弦楽に編曲されて演奏された。棺の上には彼が終生大切に持っていた故郷ポーランドの土が撒かれたという。
ショパンは20歳で祖国を出て以来、ずっと帰国の日を夢見ていたが、占領者ロシアはショパンの帰国がポーランド民衆の独立運動を刺激することを恐れて入国を許可しなかった。ショパンは遺言で「せめて心臓はワルシャワに戻して欲しい」と願っており、姉ルドヴィカは弟を憐れんで葬儀の前に心臓を取り出し、スカートの中に隠してロシア兵の目をかすめポーランドに持ち込み、ワルシャワの聖十字架教会の石柱に納めた。心臓は壺の中でコニャックに浸されている。この柱には「あなたの宝となる場所にあなたの心もある」(マタイ伝第6章21)と刻まれている。

一方で、パリでは1周忌にあたる1850年10月17日に、クレサンジェが設計したショパンの墓の記念彫刻が除幕された。音楽神の叙情詩の女神エウテルペーが壊れた竪琴の上で涙を流す姿がそこにあった。台座にはショパンの横顔が彫られ、手前の門にはイニシャルの“F・C”が装飾された。これら墓石の制作費、葬儀費用、姉ルドヴィカの帰国費用などすべてを弟子のジェーン・スターリングが提供した。彼女は心から師を想っていた。

ショパンが没したのは、サンドとの別離からわずか2年後だった。死後、遺品からショパンが13年前に「我が哀しみ」と書いた紙包みが見つかり、婚約が流れたマリアの手紙の束とバラの花が出てきた。また、ショパンは日記にサンドの髪の束を挟んでいた。サンドはショパンの死後27年間生き、72歳の誕生日直前に他界した。
祖国ポーランドが120年以上もの外国支配から解放され、独立を取り戻したのは第一次世界大戦終結後の1918年。ショパンの死から約70年が経っていた。第二次世界大戦ではナチスが聖十字架教会の3分の1をダイナマイトで破壊し、ショパンの心臓が入った壷も奪われてしまったが、終戦後に教会は修復されてショパンの命日に心臓が戻された。この時に演奏されたのは、ショパンがポーランド独立の暁に披露しようと考えていた軍隊ポロネーズだった。

生涯の作品数は約200曲。大半が詩情あふれるピアノ曲で、マズルカ55曲、エチュード27曲、前奏曲24曲、ノクターン19曲、ポロネーズ13曲、ピアノ協奏曲2曲、ピアノ・ソナタ3曲等々。チェロや歌曲もある。祖国ポーランドへの強い愛国心を抱きながら、政情の不安定さから再び故郷の土を踏むことが出来なかったショパン。彼は「その背後に 思想無くして、真の音楽は無い」と語っ
ており、望郷の念は作品に色濃く反映されている。ショパンの作品は生前から“ガラス細工のような音楽”と例えられていたが、祖国を武力制圧した列強への怒りなどショパンの持つ激しさをシューマンは見抜き、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」と評していた。
ショパンの音楽家人生がポロネーズで始まりマズルカで終わったことはいかにも象徴的だ。最初の作品である“ポロネーズ”の意味は「ポーランド風」、また、最後の作品“マズルカ”(ゆっくりしたテンポの4分の3拍子)もまたポーランド各地に伝承される民族舞曲だ。どちらも母国に関するもの。遺言通りに心臓が故郷に帰ることが出来て本当に良かった。故人の非常に強い思いがこもった墓であり、ワルシャワ市民はこの墓を大切にし、心臓が入った柱は特別に照明で照らされている。

〔墓巡礼〕
音楽は世界語とよく言われる。たとえポーランド語が読めなくても、ショパンが音という言葉で魂に直接語りかけてくるので、200年前に生まれた彼の繊細な心の動きが丸ごと伝わってくる。その静かなピアノ曲はプライベートな告白を耳元で聴いているようだ。美しい音楽をたくさん遺してくれただけでなく、音楽を通して異国の人間と心を重ねることができると教えてくれたショパンに直接感謝を伝えたい、そう思って1989年の夏に初めてパリの墓地を訪れた。彼の墓はポーランドにもあったが、学生アルバイトの身では旅費が限られており、まずはフランスの墓を巡礼した。
パリの地下を疾走するメトロ3号線に乗ってペール・ラシェーズ駅で降りると、地上に出てすぐ墓地があった。このパリ最大の墓地は、ブルボン王朝の最盛期を築いた“太陽王”ルイ14世の専属司祭、ラ・シェーズ神父の名を冠しており、ショパンが生まれる6年前、1804年に開設された。面積は43ヘクタールというから甲子園球場の約11倍にあたる。この広い敷地に約7万基の墓が建ち、年間数十万人が訪れており、世界で最も訪問者の多い墓地と言われている。ショパンの墓を自力で探し出すのは不可能ゆえ、付近の売店で墓地マップを購入した。地図を広げると、作曲家ビゼー、画家のモジリアニやドラクロワ、作家のオスカー・ワイルド、プルースト、バルザック、他にも“ドアーズ”のジム・モリソンやエディット・ピアフなど、そうそうたる名前が目に飛び込んできた。ショパンの墓は97区域あるうちの第11区。ゲートから比較的近いエリアと分かり胸を撫で下ろす。地図を見ながら「こんなに墓石があってたどり着けるのか」と不安になったが、その心配は杞憂だった。ショパンの墓前は世界中の巡礼者であふれており、50m手前からそこに彼が眠っていることが分かった。順番を待ち、墓前に立つ。故郷に帰る日を夢見ながら当地で没した彼にポーランド語で御礼を言いたく、パスポートに挟んでおいたメモを取り出した。「バルゾ・ヂェンクィエン(本当にありがとう)」、そう伝えてしばし黙想。この墓参で最も印象に残ったのは墓に結びつけられていた赤と白のリボン。ショパンの祖国ポーランドの国旗の色だ。

ショパンが生きていた時代、ポーランドは列強諸国に割譲され地図から消えていた。占領者ロシアは知名度のあるショパンの帰国で独立運動が刺激されることを恐れ、彼の帰郷を最後まで許さなかった。そして遺言で心臓が密かに母国へ…。
「これはもう、ポーランドまで墓参に行くしかない」。帰国後、ショパンの熱い郷土愛を知るにつれ、聖十字架教会に行きたいとの思いが年々強くなり、パリ巡礼の16年後、2005年についにワルシャワを訪れた。チェコから国際列車で到着し、その日は夕方で教会が閉まっていたので、大きなショパン像で知られるワジェンキ公園へ。市民の憩いの場であり、ショパン像の前をヨチヨチ歩く子どもに癒やされた。翌日、路面電車で知り合ったヴィロンスカという美しい名前のお婆さんが教会へ案内して下さった。停留所でヴィロンスカさんに最低限のポーランド語で「ショパン、ハカ、ドコ」と尋ねたのがきっかけ。僕は方向を指差してもらうつもりだったけど、お婆ちゃんは僕がポーランド語を知っていると思い込み、畳み掛けるように話しかけてきた。“簡単な英語で”と書いた紙を見せると、「ウェルカム・ポーランド」。なおもポーランド語のマシンガントークが続き、やがて“ついて来い”というジェスチャーがあったので、聖十字架教会に向かうと思いきや、なぜかお婆さんのアパートでお昼ご飯を食べることになった。しかも、最後に野菜、パン、ソーセージのお弁当まで持たせてくれた!ヴィロンスカさんは僕を教会前まで案内すると「後は大丈夫ね!」みたいなことを言って、パッと手をあげて立ち去った。なんてサバサバした気持ちの良いお婆ちゃんなんだろう。教会に入り、心臓が納められた柱へ。墓碑には「あなたの宝となる場所にあなたの心もある」(マタイ伝)と刻まれていた。“ようやくここに戻ることが出来たんですね”と、上部にあるショパンの胸像を見つめた。ショパン、ヴィロンスカさん、バルゾ・ヂェンクィエン!

  ヴィロンスカさんのアパートにて

※「最高の先生は、自分の耳だ。自分の耳が許さない音を、弾いてはいけない」(ショパン)
※ショパンの作品は戦乱で多くの自筆譜が失われ、未知の作品も多数ある。もったいない!
※ショパン他界の14年後、1863年に旧ポーランド・リトアニア共和国領で発生した対ロシアの一月蜂起で、心ないロシア軍の兵士によってショパンの遺品のピアノ(10代後半のショパンが弾いていた)がワルシャワの建物の2階から投げ出された。
※ショパンの葬儀で演奏された「前奏曲集」の第4番ホ短調は映画『ファイブ・イージー・ピーセス』の中で若きジャック・ニコルソンが弾いている。
※ショパンは生涯に約30回しか一般聴衆を相手に演奏会を開いていない。彼が好んだのは自宅で開いたサロンで少人数の友人を相手に演奏することだった。伝記作家いわく「できるだけ公の場に出なかったショパンが、ピアニストとして最大級の名声を獲得していたことは特殊なことである」。
※11歳のときにワルシャワ来訪中のロシア皇帝アレクサンドル1世の御前で演奏を披露している。
※ピアニストの登龍門「ショパン国際ピアノ・コンクール」(1927〜)は国際音楽コンクールの中では最古かつ最高権威。5年に一度開催され、命日にモーツァルトのレクイエムがワルシャワ・フィルによって演奏された後、翌日から本選が始まる。本選ではショパンのピアノ協奏曲第1番or第2番が課題になっている。
※繊細で神経質なイメージがあるけど、モノマネや漫画が得意でユーモアがあり、学生時代はクラスの人気者だった。
※パリのショパンの墓の3つ右隣に、“ピアノの化身”と言われたジャズ・ピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニが眠っている。
※ショパンの伝記が書籍によって混乱しているのは、戦後にポーランドの音楽研究家が大量の(ショパンの)ニセ手紙を発表したため。この研究家は自殺したが、1960年代まで手紙が本物と信じられ多くの書籍が引用し、現在に至るまで内容が虚実不明のまま一人歩きしている。



ワルシャワのユースホテルの職員イェージー君はドラゴンボールの大ファン!2人で一緒に「かめはめ波」!!(2005)



★ヴェルディ/Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 1813.10.10-1901.1.27 (イタリア、ミラノ 87歳)2002
Casa di Reposo per Musicisti, Milan, Lombardia, Italy

  


ジュゼッペ・ヴェルディはイタリアの作曲家。イタリア・オペラ最高峰の楽曲を多数作曲。ドイツ・オペラの雄ワーグナーとは同い年。1813年10月10日に北イタリア・ブッセート(パルマ県)近郊の小村ロンコーレで生まれた。父は小さな居酒屋の経営者。8歳のときに中古の小型チェンバロをプレゼントされ、少年ヴェルディはすっかり夢中になって一日中弾き続けた。小型チェンバロが壊れた際、修理をした職人がヴェルディの演奏に胸を打たれ、蓋の裏に「少年の優れた音楽の資質が、私への代金だ」と書き、代金を請求しなかった。
父と親交のあった音楽好きの商人バレッツィは、ヴェルディの演奏能力に驚き、音楽の才能を伸ばすよう父に助言、ヴェルディは10歳からブッセートで音楽教育をうけた。17歳頃からバレッツィ家に住み、1歳年下のマルゲリータ・バレッツィにピアノを教えながら愛を育んでいく。
1832年(19歳)、ヴェルディは音楽の中心地ミラノ留学に憧れ、奨学金を受け、バレッツィの援助も受けて6月に移住した。だがミラノ音楽院の入学資格年齢を4歳も超えていたために入学を拒否され、ミラノ在住の音楽教師ラヴィーニャの個人指導をあおいだ。ラヴィーニャはスカラ座で作曲と演奏を担当しており、ヴェルディは様々な演劇を鑑賞させてもらった。
1833年(20歳)、ブッセートにもどって音楽愛好協会の指揮者に就任。22歳のときにマルゲリータと結婚した。1837年(24歳)、長女ヴィルジーニアが、翌年に長男イチリオが誕生。だが長女は間もなく病死した。25歳、音楽家として勝負するために再度ミラノに出る。
1839年(26歳)、オペラの処女作『オベルト』がスカラ座で初演されることになり喜んだが、リハーサルの最中に長男が1歳で病死し打ちのめされる。11月に初日を迎えた『オベルト』は好評で14回も上演された。楽譜の売上げもよく、今後2年間でオペラ3本を書く契約が結ばれ、ヴェルディはこれでようやく妻をラクにしてあげられると胸を撫で下ろした。ところが翌1840年(27歳)、マルゲリータまでもが26歳という若さで病死する。妻子全員を失いどん底の気持ちなのに、契約を果たすため笑える喜歌劇を書かねばならない。完成した『一日だけの王様』は失敗に終わり、わずか1回の公演で打ち切られた。ヴェルディはショックのあまり作曲の筆を折り、音楽の世界から去ろうとした。

才能を惜しんだスカラ座の支配人メレッリは、ヴェルディに旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を無理やり渡し励ました。その日、ヴェルディは心が折れたまま帰宅し、自宅で台本を放り出したところ、たまたま「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」というセリフが眼に入った。この言葉に感銘を受けて作曲意欲を取り戻し、一年かけてこれを完成。
1842年(29歳)3月9日、入念なリハーサルを経てスカラ座で『ナブッコ』は初日を迎えた。当時の北イタリアはオーストリア支配下にあったことから、観客はバビロンの捕虜となったユダヤ人に境遇を重ね、劇場は異様な熱気に包まれた。特に第3幕のユダヤ人の合唱「いけ、わが思いよ、金色の翼にのって」は人々を興奮させ、当時禁止されていたアンコールの声まで上がった。『ナブッコ』は秋公演でスカラ座公演回数の新記録57回を叩き出し、ヴェルディは29歳で時代の寵児となり、「いけ、わが思いよ、金色の翼にのって」は第二の国歌と呼ばれるまでになった。支配人メレッリはヴェルディに白紙の小切手を渡したという。

1843年(30歳)、4作目となる愛国オペラ『ロンバルディ』が続けてヒットしたことから、ヴェルディのもとに各地の劇場から新作の注文が舞い込んだ。中でもスカラ座のライバル、ヴェネツィア・フェニーチェ劇場の支配人モチェニーゴ侯爵が「ナブッコの報酬の3倍」という好条件を提示したことから契約を結んだ。
1844年(31歳)、ヴェルディは5作目にヴィクトル・ユーゴー原作の悲劇『エルナニ』(死の角笛)を選択。台本を若手のピアーヴェが担当した。リウマチに苦しみながら作曲し、出演者をヴェルディが選んで初演を成功させた。続いて北アジアの遊牧騎馬民族フン族の王が滅ぶさまを描いた『アルツィーラ』を上演、こちらも好評だったが、いよいよ過労がピークとなり、医者からは休養を取るように指導された。
1846年(33歳)、数ヶ月の休養をとり、じっくりとシェイクスピアの『マクベス』をオペラ化する構想を練る。音楽と演劇の融合を重視し、徹底した時代考証を行い、実力のない歌手を交代させた。この時代はまだオペラの演出家がいないため、ヴェルディ自身が演出にあたり、『マクベス』は150回を越えるリハーサルを行った。翌1847年の初演では38回もカーテンコールに答えた。
同年夏、ヴェルディは『ナブッコ』で難役を歌った2歳年下のソプラノ歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1815-1897)と同棲を始める。ジュゼッピーナは美貌と澄んだ歌声で崇拝者に囲まれていたが、声量の衰えから前年に歌手を引退していた。フランス語に堪能なジュゼッピーナは、フランス公演やパリの社交界でヴェルディのサポートを行い、優れた人脈を持つ有能な個人秘書でもあった。恋多きジュゼッピーナはこれまでに共演者との間に3人の私生児を産み、さらにスカラ座の支配人メレッリの愛人でもあったが、ヴェルディは過去にこだわらなかった。愛人を奪われたメレッリは憤慨し、ヴェルディとスカラ座は疎遠になる。
1848年(35歳)、先輩オペラ作曲家ドニゼッティが50歳で病死。ヴェルディはイタリア・オペラ界を一身に担うことになった。

1849年(36歳)、都市部でコレラが流行したことからヴェルディはジュゼッピーナを伴って故郷ブッセートに帰った。田舎の保守的な人々は“スキャンダルな元プリマ・ドンナ”に冷淡に接し、ジュゼッピーナが日曜礼拝で教会を訪れると人々は席を立ったという。同年、陰謀による悲恋と死を描いたオペラ『ルイザ・ミラー』を作曲、話題になる。
1851年(38歳)、プレイボーイのマントバ公爵につかえる道化リゴレットの苦悩と、公爵を愛してしまった娘ジルダの悲劇を描いた中期の傑作オペラ『リゴレット』完成。ユーゴーの原作戯曲は、好色で卑劣な王が登場するため検閲で不穏当とされ、フランスで上演禁止になっていたことから、物語の場所と時代を変更することでヴェネツィア当局を説得した。
劇中のカンツォーネ(歌曲)「女心の歌」(風の中の 羽根のように  いつも変わる女心)は初演直後から街中で歌われ大人気曲に。ヴェネチア中のゴンドラ乗りが口ずさんだという。ヴェルディ自身、この歌のヒットを確信していたため、初日までメロディーを徹底して秘密にし、歌手やオーケストラ団員には初演の数時間前に楽譜を渡した。『リゴレット』は3月に初演され20回以上も再演された。ユーゴーは原作の改変に不満だったが、第3幕の4重唱に感嘆し「舞台で4人同時に台詞を言わせて、個々の台詞の意味を観客に理解させるのは芝居では不可能だ」と語った。ヴェルディは切れ目のない重唱で緊張感を維持し、劇的な筋と音楽で観客を圧倒した。

経済的には豊かになったがジュゼッピーナに対する周囲の偏見は極めて厳しく、2人は冷たい視線に耐えかねて郊外のサンターガタに農園を購入しそこに引きこもった。12年前の処女作『オベルト』以降、年に1作以上のペースで作曲を続けてきたヴェルディだったが、自分のペースで仕事ができる環境になり、また農園の管理も忙しかったため、1852年はオペラを発表しなかった。
1853年(40歳)1月、ローマにて最後のベルカント・オペラ『イル・トロヴァトーレ(吟遊詩人)』初演。三角関係、復讐と呪い、陰気で荒唐無稽な物語だが、美しい音楽に満ちあふれており大当たり、パリ、ロンドン、ニューヨークで再演された。本作の「見よ、恐ろしい炎を」ではテノール歌手の“高音ハイC”が大きな見せ場となっている。ヴェルディ「西インド諸島でもアフリカの真ん中でも、私の『イル・トロヴァトーレ』を聴くことはできます」。

1853年3月、『イル・トロヴァトーレ』の翌々月、早くも次のオペラ『椿姫』がヴェネチアで発表された。『椿姫』は小デュマの小説をオペラ化。原題La traviata(ラ・トラヴィアータ)の意味は“道を
踏み外した者”。青年貴族アルフレードと教養のある高級娼婦ビオレッタ(実在したリストの弟子マリー・デュプレシス)の悲恋を甘美かつ華やか、ときには力強い旋律で描きあげ、19世紀を代表するイタリア・オペラのひとつになった。『椿姫』は後の『アイーダ』と並ぶ数少ないヴェルディの女性主人公のオペラであり、「乾杯の歌」「ああ、そは彼の人か」「花から花へ」など名歌が多い。ビオレッタの幻覚が描かれる第三幕は、はかなさの極致。ただ、初演では肺結核で薄命のビオレッタ役があまりに健康的過ぎて客席から失笑が漏れ、リハーサル不足もあってわずか2回の公演で打ち切られる歴史的失敗となった。それでもヴェルディは本作に自信を持っていたことから、配役を変えて2カ月後に同地で再演、賞賛を浴びリベンジを果たした。

『リゴレット』『イル・トロバトーレ』『椿姫』によって、ヴェルディの名はイタリアから世界へ広まったが、ヴェルディはジュゼッピーナと農作業の日々を楽しむことが増えた。
1857年(44歳)、完全新作としては『椿姫』から4年ぶりとなる『シモン・ボッカネグラ』を発表。主人公が毒殺される悲劇であり、歌よりも朗読を重視した野心作だった。
1859年(46歳)、ローマにて『仮面舞踏会』初演。啓蒙専制君主スウェーデン王グスタフ3世が仮面舞踏会で暗殺された事件を題材にしたが、王の暗殺という内容が検閲対象となり、舞台をアメリカに変え、グスタフ3世をボストン総督に、暗殺者の肩書きや名前を変更、凶器をピストルから短剣に変えることで上演に漕ぎ着けた。劇中、ボストン総督は誤解により暗殺されるが寛大さを知らしめて死ぬ。感動した観客は「Viva
VERDI」(ヴェルディ万歳)と讃えて、この言葉を街中に落書きしたが、そこにはもう一つの意味があった。当時はイタリア統一を目指すサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が民衆から支持されており、イタリア統一運動のスローガン「Viva
Vittorio Emanuele Re D'Italia(イタリアの王ヴィットーリオ・エマヌエーレ万歳)」が、頭文字を繋げると「Viva VERDI」になった。結果、人々はヴェルディを統一と愛国のシンボル
とみなすようになった。
ヴェルディは聴衆の熱狂が音楽への正当な評価ではないと感じ、「もうオペラは書かぬ」と田舎の農場に引きこもり、同年8月、ヴェルディはジュゼッピーナとの13年間の同棲状態を終わらせ正式に結婚式を挙げた。ときにヴェルディ45歳、ジュゼッピーナ43歳。参列者は馬車の御者と教会の鐘守の2人だけだった。

1861年(48歳)、統一イタリア王国が誕生。ヴェルディは統一運動の英雄・初代首相カヴールから説得されて下院議員にしぶしぶ立候補したところ当選。任期中の4年間、特に政治活動はしなかった。
1862年(49歳)、ロシアから初めてオファーが舞い込み11月にロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場にて3年ぶりの新作『運命の力』を初演。この初演版は、主要な登場人物が全員死ぬうえ、目の前で愛する女性を殺された主人公が聖職者(修道院長)に「馬鹿野郎!」(Imbecille )と怒りをぶつけ、最期に崖の上で「私は地獄からの使者だ!人類
なんか絶滅しろ!」と叫んで投身自殺する。この凄まじいラストシーンによって、悲劇の多いヴェルディ作品の中でも陰惨さが突き抜けていた。聖職者への冒涜が物議をかもしたこともあり、7年後(1869)のスカラ座公演では主人公が生き残るという改訂を加え、こちらは幅広く受け入れられた。その後、再びサンターガタの農場に引っ込み農場経営に情熱を注ぐ。
※『運命の力 オリジナル版ラスト』
https://www.youtube.com/watch?v=XpddNUIYgaU

1867年(54歳)、パリ万博記念のオペラ制作をパリ・オペラ座から依頼されペンをとり、5年ぶりの大規模な新作オペラ『ドン・カルロ』(23作目)をパリにて初演。 スペインの皇太子ドン・カルロをめぐる権
力と宗教、愛と友情が織りなす歴史物語で、シラーの戯曲を題材にした。初演はフランス皇帝ナポレオン3世夫妻の御前公演だったが、本筋と無関係なバレエが挿入されたり、観客が終電に間に合うように筋がカットされた不本意なものとなり、新聞で酷評されたことからヴェルディはその後オペラ座からの依頼を二度と引き受けなかった。1868年(55歳)、敬愛する19歳年上のロッシーニ(1792-1868)が他界。
※音楽による性格描写が大きく進歩した『仮面舞踏会』『運命の力』『ドン・カルロ』を中期の三大傑作とも。

1871年(58歳)、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼があり、4年ぶりの大作『アイーダ』をクリスマスイブにカイロで初演。当初は新作に消極的なヴェルディだったが、依頼主が「引き受けないならグノーかワーグナーに頼む」と揺さぶりをかけ、「ワーグナー」という言葉でライバル心を焚き付けられたヴェルディは仕事を引き受けた。ファラオ時代の古代エジプト衣裳や当時の信仰を調査し、これまでの集大成となる『オペラ』を全力で完成させた。
古代エジプトとエチオピアの争いを背景に、エジプトの若い将軍ラダメスと奴隷となったエチオピアの王女アイーダの悲恋を描く。女性が主役になるのは『椿姫』以来。軍の機密をもらしたラダメスは反逆者として地下牢に生き埋めにされ、アイーダも運命を共にする。2人の死は官能的な生との別れで終え、これまでの絶望のみの死とは異なった。最も有名な曲はラダメスがエチオピア王を倒して勝利の凱旋をする第2幕の「凱旋行進曲」。ヴェルディはこのオペラのために開発された長いバルブを持つアイーダ・トランペット6本を使い、凱旋の壮麗さを強調した。楽器の特性を活かした多彩な管弦楽、壮大でダイナミックな合唱が融合し、「清きアイーダ」「勝ちて帰れ」「おお、わが祖国」など名アリアも多い。エキゾチックなバレエ・シーンもあり、『アイーダ』はヴェルディのオペラの中で最高の人気をほこるようになる。

初演は成功したが誤算がひとつあった。指揮者として想定していた当時イタリアで最も高名なオペラ指揮者アンジェロ・マリアーニから指揮を断わられたのだ。これはマリアーニの婚約者のボヘミア出身ソプラノ歌手テレーザ・シュトルツ(1834-1902)が、2年前の改訂版『運命の力』の上演準備中にヴェルディと愛人関係になり、マリアーニが激怒したため。マリアーニは婚約を破棄し、ヴェルディに当てつけるようにイタリアでワーグナーを普及した。一方、ヴェルディは『アイーダ』のスカラ座上演に際して、アイーダ役のシュトルツのために「おお、我が祖国」を加え大喝采を浴びた。ナポリ初演では、ヴェルディに妻ジュゼッピーナと21歳年下の愛人シュトルツが付き添ったためゴシップネタとなった。ジュゼッピーナはスキャンダルから夫を守るため、困惑しながらもシュトルツをヴェルディ夫妻の共通の親友として受け入れた。この奇妙な三角関係は生涯続いた。また、ヴェルディ夫婦は子どもに恵まれなかったため、この頃に遠縁の娘マリアを養女としている。

1873年(60歳)、弦楽四重奏曲を作曲。1874年(61歳)、ヴェルディが人生で最も敬愛していた小説家、イタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニの一周忌のために傑作『レクイエム』を作曲し追悼した。初演は教会、再演はスカラ座で行われた。新聞評は「モーツァルトのレクイエム以来の傑作」「絶叫するばかりのコーラス、怒号の連続」と評価が割れたが、20歳年下のブラームス(1833-1897)は「これは天才の作品だ」と評価。当初は皮肉を言っていた大指揮者ハンス・フォン・ビューローも「どんな下手な楽団員の手で演奏されても、涙が出るほど感動させられた」と前言を撤回した。フランス政府からは同国の最高勲章レジオンドヌール勲章を贈られ、著作権料収入は途方もないものになった。農場経営も調子が良く、敷地は倍に、小作人は十数人になった。
翌年、高額納税者ゆえ上院議員に任命されたが議会には出ず、熱心に慈善活動を行い、奨学金の充実、橋の建設、病院建設に取り組み、多額の寄付も行った。ヴェルディは完全に音楽から離れて「ピアノの蓋を開けない」期間が5年間続いた。

1880年、67歳のヴェルディに宛てた65歳のジュゼッピーナからの手紙。「“アイーダ”と“レクイエム”を評価しない人がいても落ち着いて。世間ってそんなものなのです。私はお邪魔虫にならず、あなたが一番必要なときに側に行き、どんなにあなたを愛し、尊敬しているかをささやくわ。あなたの芸術はもうこれ以上ないほど高まったのです。仕事の締めくくりには喜劇が待っているでしょう。うんと長生きしましょう。フェティド(腐敗)が、おっと言い間違えたわ、フェティ(ヴェルディを敵視した音楽学者)がカンシャクで死ぬほどに。キスと抱擁を送ります。きちんと食事をとって下さいね。早く会えますように。こんなにも愛しています。…私ったらなんてお馬鹿さんなことを書いたのかしら」。ジュゼッピーナは戦友にも似た真の理解者だった。

1883年(70歳)、ワーグナーが死去。才能を認めていたライバルの死に「悲しい、悲しい、悲しい…。その名は芸術の歴史に偉大なる足跡を残した」と書き残す。かつてヴェルディは、ワーグナーの『ローエングリン』のイタリア初演を観るためにボローニャまで足を運んだこともあった。

1887年(74歳)2月、『アイーダ』以来、16年ぶりとなる新作オペラ『オテロ』がスカラ座で初演された。ヴェルディはシェークスピア四大悲劇の戯曲「オセロー」を題材に選び、7年がかりで作曲した。『オテロ』は40年前の『マクベス』から目指してきた音楽と演劇の融合の頂点に君臨する作品となった。『オテロ』は観客が途中で拍手を入れにくいように音楽が構成されており、そこからもこれまで以上に演劇を重視する姿勢が見える。一方、音楽表現も進化しており、冒頭の凄まじい嵐の描写で、のっけから聴衆の気持ちを掴んだ。ヴェネツィア領キプロスの総督オテロには誠実な妻デズデモーナがいたが、側近イアーゴーからデズデモーナの不倫をほのめかされ、嫉妬に狂って妻を絞殺、直後に無実と悟って短刀で自刃する。ヴェルディはオテロ役の歌手に死亡シーンを実演してみせ、舞台に倒れ込んだ瞬間にみんなが驚いて駆け寄ったという。愛する者を信じ抜けなかった男、オテロの悲劇。迫真の舞台に聴衆は沸き立ち、当時スカラ座のチェロ演奏だった20歳前のトスカニーニは、帰宅後に母親をたたき起こして感動を熱弁した。
ヴェルディはここからの6年間は、大農場事業主として農夫の仕事に没頭し、同時に植林、病院建設など慈善事業に邁進した。ヴェルディはかねてから引退した音楽家仲間が貧困の中で世を去る姿に心を痛めており、老いた音楽家が心安らかに過ごせる老人ホーム『カーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムジチスティ(音楽家のための憩いの家)』の建設に情熱をかけるようになる。

1893年、ヴェルディは高齢の80歳となっていたが、台本作家アッリーゴ・ボーイトはまだヴェルディの創造の泉は尽きていないと確信、新作に乗り気でないヴェルディを説得するため、若い頃の失敗作を引き合いに出した。ヴェルディは悲劇では名をあげたが、喜劇は27歳のときに書いて酷評された『一日だけの王様』が一本あるだけだった。同作は妻子を失う中で書きあげた作品であり、そのような状態で良い喜劇が書けるはずがなかった。
そこでボーイトはシェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』を題材に提案、「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくりましょう」と説得、ヴェルディの心を掴んだ。『ファルスタッフ』を書きあげたヴェルディは、「行け、お前の道を行けるところまで。永久に誇り高き愉快なる小悪党、さらば!」と書いた。2月、スカラ座で最後のオペラにして66年ぶりの喜歌劇『ファルスタッフ』初演。壮大な音楽で聴衆を圧倒するのではなく、小気味好い軽快な音楽表現で話を進め、フーガをもちいた終幕で太鼓腹のファルスタッフが「最後に笑えばいいのさ」「人生、これすべて冗談」と陽気に締めくくった。『ファルスタッフ』はすべての喜歌劇の頂点をなす作品と讃えられ、ヴェルディは作曲家として最初につまづいた喜劇に、人生の最後でリベンジした。
1896年(83歳)、「音楽家の憩いの家」の設計図が完成。約80室の部屋には100人の音楽家が生活できた。ヴェルディ夫妻はここに自分たちの墓所を作りたいと希望したが、法律では許されなかった。ヴェルディは国王からの大勲章を辞退するかわりに、「音楽家の憩いの家」の墓所への埋葬許可を求めた。

1897年(84歳)、ヴェルディが書いた新旧の美しく壮麗な聖歌「アヴェ・マリア」「スターバト・マーテル(悲しみの聖母/中世の詩)」「処女マリアへの讃歌(ダンテの詩)」「テ・デウム」を『聖歌四篇』にまとめる。このうち「スターバト・マーテル」は妻ジュゼッピーナの健康を願って書かれたもので遺作となった。11月、ジュゼッピーナが肺炎で他界し、ミラノの記念墓地に埋葬された。彼女は遺言で「毎年50組の貧困家庭を助ける基金の設立」を定めていた。3年後、ヴェルディも老いを感じ取り遺書を作成し、孤児院の支援や苦学生への奨学金の援助など細かい指示を残した。
1900年、ヴェルディはプッチーニについて「万歳、トスカ!」と讃えるハガキをシュトルツに書いている。

1901年1月、ヴェルディはミラノの定宿グランドホテル・エ・デ・ミランで脳溢血をおこし昏倒した。意識不明の状態が1週間続き、王族から市民まで誰もが巨匠を心配し、ホテルには見舞いの手紙がたくさん届けられた。ホテルの前には騒音防止の藁が敷き詰められた。1月27日午前2時45分、26曲のオペラを残しヴェルディは人生の幕を下ろした。享年87歳。最後を養女マリアが看取った。
遺言で「葬儀は簡素に行い、遺体は“憩いの家”の礼拝堂に安置してほしい」と望んだが、墓地以外への埋葬許可はなかなか降りず、亡骸は許可が出るまでミラノ記念墓地のジュゼッピーナの隣りに安置された。かくして他界1カ月後に夫妻の棺が「憩いの家」に運ばれ、その際に盛大な国葬が執り行われた。出棺時に『ナブッコ』の「行けわが想いよ、黄金の翼にのって」が歌われ、トスカニーニが一般民衆を加えた8000人の合唱を指揮した。沿道では国民的英雄を見送るため30万人が参列したという。かくしてヴェルディの亡骸はジュゼッピーナと共に「憩いの家」の中庭の礼拝堂に安置された。ヴェルディ他界の翌年、後を追うようテレーザ・シュトルツもミラノで亡くなった(享年78歳)。

ヴェルディが私財をはたき、「私が造った最も美しい作品」と語った音楽家専用老人ホーム『Casa di Riposa per Musicisti(音楽家憩いの家)』は、他界の翌年にオープンし
た。最初の50年は著作権の収入が「憩いの家」の運営資金となり、著作権が切れてからは、入居者の年金の一部と寄付金で運営されている。ネット情報によると、楽器練習室、礼拝堂、レストラン、病院まで完備しており、現在50人以上が生活。近所に音大生の寮があり、身の回りの世話をすれば安く寮に住める制度があるとのこと。施設では演奏会も催され、住人は無料で観賞できる。近年、音大生も入居可能になり、数十人の若い学生が共に暮らしている。家賃の安さと音楽練習室に惹かれ100人待ちという。

ヴェルディ没後、イタリア最高峰の音楽大学、ミラノ音楽院(1808年創立)が校名を「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院」に変えた。ヴェルディ存命中は、本人が抵抗して改名できなかった。同校からはジャコモ・プッチーニ、アッリーゴ・ボーイト、ピエトロ・マスカーニ、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、マウリツィオ・ポリーニ、クラウディオ・アバド、リッカルド・ムーティ、リッカルド・シャイーらが巣立った。
ヴェルディは700万リラ(今の約40億円)の資産を残した。その半分を相続した養女マリアの子孫が、現在サンターガタの「ヴェルディ博物館」を維持、公開している。

ヴェルディは歌手の名人芸を見せることにこだわった従来のイタリア・オペラを、劇として筋のとおったものにし、音楽に一貫性を持たせたるよう改革した。ヴェルディの真骨頂は音楽による性格表現であり、オペラの歌詞はワーグナーの楽劇の台本よりずっと深味がある。
まだ演出家がいなかった時代であり、同い年のヴェルディとワーグナーは、作曲家自身が舞台装置・演出に至るまで公演に全面関与した点で似ている。ロッシーニ時代のオペラで多用された歌手の技量に依存するベルカントではなく、話し言葉のイントネーションで歌うレチタティーヴォを中心に据えて劇を重視したのも、ヴェルディとワーグナーだ。

〔作品メモ〕
●第1期 『オベルト』『ナブッコ』〜『アッティラ』…時流を反映した愛国路線
●第2期 『マクベス』『リゴレット』『イル・トロバトーレ』『椿姫』…単純な善悪の対立ではない細かな心理描写を重視、ベルカントからレチタティーヴォに。
●第3期 『シチリアの晩鐘』『シモン・ボッカネグラ』『仮面舞踏会』『運命の力』『ドン・カルロ』『アイーダ』…大規模なグランド・オペラ導入、多国籍オペラ。『シチリアの晩鐘』は暴政に耐えかねた島民の反乱を扱った。
●第4期 『オテロ』『ファルスタッフ』…音楽と演劇の融合

【墓巡礼】
2002年に巡礼。目的地が墓地でも教会でもなく、ヴェルディ自身が建てた音楽家専用の老人ホーム『音楽家憩いの家』という点で唯一無二の墓参だった。建物は地下鉄Buonarroti駅のすぐ側にある。憩いの家の中庭にある礼拝堂に入ると、ヴェルディは奥さんと並んで眠っていた。正面左手にヴェルディ、右手にジュゼッピーナの墓。26歳で没した先妻マルゲリータの墓もここに移される計画だったが、故郷ロンコーレの墓を掘り起こしても遺骨が残っていなかったため、結婚指輪など遺品がヴェルディの墓に一緒に納められた。墓の周囲には大きな宗教画の壁画が描かれている。テレーザ・シュトルツの墓の場所は情報が錯綜し、「夫妻の棺の奥の一段下がったところの棺」「夫妻の墓の間の花輪のレリーフの墓石の下に養女やテレーザが眠る」「夫妻の墓から数メートル離れた床」「憩いの家のバルコニーに眠る」「ミラノ記念墓地に墓」など様々。僕自身は夫妻の墓しか気づかなかったので、もう一度確認しに行く必要がある。とにもかくにも、先妻の墓も事実上ここであり、ヴェルディは彼が愛した3人の女性と永眠しているということだ。
世に成功を収めた音楽家で、若手音楽家のための教育機関を作った人は多い。でも、不遇な音楽家仲間の老後の暮らしを心配して養老院を建てた人物はヴェルディしか知らない。成功しなかったり、様々な事情で孤独になった音楽家のことを考えて私財をはたき、行動を起こした人は他にいるのだろうか。憩いの家の敷地にいると、ヴェルディの温かい心と優しさが伝わってくる。人情家で人の気持ちが分かるからこそ、あんなにも多くの人の心を動かす作品を生み出せた。そして奥さんのジュゼッピーナもよくヴェルディを支えた。いろいろ心労もあったと思う。彼女の「ヴェルディのような人はヴェルディのように書くべきなのです」 という言葉には、すべてを理解し包み込むような響きがあ
る。
ヴェルディ夫妻に感謝の言葉を捧げている間、憩いの家からピアノやバイオリンを練習する音が聴こえていた。弾いているのは引退した音楽家だろうか、それとも老人達と共に暮らしている音大生だろうか。夫妻もこうして毎日音楽を聴いているのだと思うと、ここに墓を造ることにこだわった夫妻の気持ちが分かった。墓地になくてここにあるもの、それが音楽だ。

※ヴェルディは立て続けに新作オペラを書いていた時期を、休み無く働き続ける船を漕ぐ奴隷にたとえ「ガレー船の年月」と回顧している。
※「憩いの家」に面したミケランジェロ・ブオナロッティ広場には大きなヴェルディ像が建つ。パレルモにヴェルディの胸像あり。
※他界の前月、ヴェルディはミラノ訪問前に養女マリアに「自分の身に何かあれば初期作品が入った手文庫と私的な手紙や書類は燃やすように」と命じた。
※いわゆる三大レクイエムは、モーツァルト、フォーレ、ヴェルディの作品。
※ヴェルディの“三大荒唐無稽オペラ”は『エルナーニ』『イル・トロヴァトーレ』『運命の力』。「トロヴァトーレ」では勇ましく出陣した人物が次幕冒頭でいきなり牢屋に放り込まれている。「運命の力」は主な登場人物が全員死んでしまうという、文字通り運命の力の前では為す術がない物語だ。
※“有名オペラの初演三大失敗”とされるのはヴェルディ『椿姫』、ビゼー『カルメン』、プッチーニ『蝶々夫人』。
※長年、苦楽を共にしたジュゼッピーナに宛てた手紙は、私生活に踏み込まれるのを嫌ったヴェルディがすべて燃やしたので残っていない。
※NYメトロポリタン歌劇場では1898年から1945年まで48シーズン連続で『アイーダ』が上演された。2006年2月までの通算上演回数は1093回で第2位。第1位はプッチーニ『ラ・ボエーム』の1,178回。
※1912年、エジプト・クフ王のピラミッドの麓で『アイーダ』が野外公演された。
※『アイーダ』の日本初演は1941年。1989年の東京ドーム落成記念でも上演された。
※2003年、宝塚歌劇団星組が『アイーダ』を『王家に捧ぐ歌』と改題して舞台化。アメリカのイラク攻撃など時事問題を絡めた反戦メッセージを全面に押し出した意欲作。
※少年時代に弾いた小型チェンバロ(スピネット)は「憩いの家」に展示されているとのこと。
※オペラ誕生以来、オペラでは基本的に不倫ドラマが描かれてきた。
※ヴェルディ以前はバリトンとバスは分かれていなかった。
※ミラノ記念墓地にヴェルディの胸像がある。同墓地には台本作家アルリーゴ・ボーイトやトスカニーニ、ホロヴィッツが眠る。礼拝堂内には作家マンゾーニの墓がある。
※ヴェルディ没後、イタリア・オペラはフランスの自然主義に刺激されてヴェリズモ(写実主義)になった。
※ヴェルディは出版社から依頼された伝記を断った。
※「憩いの家」は映画『トスカの接吻』の舞台となった。
※1895年、ドイツの若手作曲家リヒャルト・シュトラウスからファンレターが届いた。頑張ってイタリア語で書いていた。
※ヴェルディの夢はシェイクスピア『リア王』のオペラ化だったが、これは最後まで実現しなかった。
※『椿姫』のモデルとなったマリー・デュプレシスの墓はパリのペール・ラシューズ墓地にある。彼女には百万長者のパトロンが7人もいた。そして夜になると椿を手にモンマルトルの劇場に現れたという。作家のデュマ・フィスは彼女と愛し合い、マリーが23歳で他界した後に小説『椿姫』を書いた。
※妻ジュゼッピーナ「ヴェルディのような人はヴェルディのように書くべきなのです」



★シューベルト/Franz Peter Schubert 1797.1.31-1828.11.19 (オーストリア、ウィーン 31歳)1989&94&02&05&15
Zentralfriedhof, Vienna, Wien, Austria



若き日のシューベルト。
けっこうカッコ良い!
わずか31年でシューベルト
のメトロノームは止まった




ウィーン中央墓地にて(1994) もっと長生きして欲しかった!(2002) 手に本物の花を握っていた(2005)

早朝のシューベルト(2015) お昼ごろのシューベルト(2015)









シューベルトの墓(右端)は、遺言通り彼が
ファンだったベートーヴェン(左端)の隣りに
埋葬されている。よかったね、シューベルト!
シューベルトの生家


彼が夭折したアパート



墓巡礼を続ける中で、最も胸を打たれることのひとつに、墓を通して故人が周囲からどれほど愛されていたか知ることがある。600以上の歌曲を遺した“歌曲王”シューベルトは、生涯宮廷に縁がなく、貴族のパトロン(後援者)もいなかったが、代わりにボヘミアン的な多くの友人たちが音楽活動を支えてくれた。19歳から他界するまで住所不定のまま友人の家を泊まり歩いた知られざる元祖ヒッピーだ。ウィーン出身でウィーンで死んだ生粋のウィーンっ子。
初期ドイツ・ロマン派の代表的作曲家の一人、フランツ・シューベルトは1797年1月31日、オーストリア・ウィーン郊外で生まれた(当時ベートーヴェン27歳、モーツァルトは6年前に他界)。父親は小学校の教員。11歳のときに宮廷礼拝堂の少年聖歌隊員となり、宮廷歌手を養成する寄宿制神学校(ウィーン楽友協会音楽院の前身校)に入った。そこでイタリアの作曲家・宮廷楽長サリエリから学び、学生オーケストラでバイオリンを担当。1811年(14歳)から歌曲(リート)を書き始め、作品は好評を得たが、声変わりをしたことから聖歌隊をやめて小学校教師の道へ進む。16歳で交響曲第1番を作曲するなど、シューベルトの才能に気づいていた同級生らは、貧しい彼を助けるために自分達の小銭を持ち寄って五線紙を提供するなど、熱心に創作活動を応援した。
1814年、17歳で最初のオペラ『悪魔の悦楽城』と最初の『ミサ曲ヘ長調』を書き、ゲーテの『ファウスト』を題材にした名歌『糸を紡ぐグレートヒェン』を作曲。
1815年(18歳)、交響曲第2番と第3番、数曲の室内楽曲を書き上げ、有名な『魔王』『野ばら』など146曲もの歌曲を作曲した(1日で8曲を書いた日もあった)。有名な逸話がある。ある日、シューベルトはレストランで仲間と食事中に突然歌曲の旋律が浮かび、素早くメニューの裏に音符を書き記した。後日、友人がその曲を歌うと、シューベルトは「良い歌じゃないか。それは誰の歌?」とレストランの一件を忘却していたという。
1816年(19歳)、友人から「教職を辞めて作曲活動に専念するべき」と提案があり、居候のための部屋も用意してもらえたことから、教師生活に別れを告げた。以降、他界するまで友人たちの家に身を寄せることになる。この年、交響曲第4番「悲劇的」と第5番、そして約100曲の歌曲が書かれた。シューベルトには収入がなかったが、周囲には多くの芸術家や音楽愛好者が集まり、新作を聴くための夜会“シューベルティアーデ(シューベルト・サークル)”が催された。シューベルティアーデのメンバーは、各々が食料を提供したり楽譜やペンを用意し、献身的にシューベルトを支えた。声楽家はシューベルトの曲を積極的に取り上げ、裕福な者は自邸を自由に使わせた。シューベルトは毎朝起床と同時に作曲を始め、14時まで五線譜に向かい、遅めの昼食を摂った後に散歩に出かけ、帰宅後は再び作曲に戻った。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」(シューベルト)。

1817年(20歳)、歌曲『鱒(ます)』を作曲。この歌は2年後にピアノ五重奏曲でも使用される。マティアス・クラウディウスの詩をもとにした歌曲『死と乙女』を作曲。この詩は、病の床に伏す乙女と、死神の対話を描いたもの。歌い手は乙女と死神の2役を演じ、最初に死に怯える乙女、次に死神の歌と続く。「去りなさい、恐ろしい死神よ。私はまだ若いわ、さあ行って。どうか私に触れないで!」。死神に触れる事=死である為、彼女は必死で抗おうとする。メロディーも激しく揺れ動く。一瞬静寂に包まれると、次に鬼火が暗闇にゆらめき、そこから細い銀の川の流れのような、この世のものと思えないメロディーに変わる。「…手を差し出すのだ、美しく優しい生き物よ。私は味方だ。罰しに来たのではない。勇気を出せ。恐れることはない。私の腕の中で静かに眠りなさい」。死神は乙女に永遠の若さを与えてやると誘惑する。死ねば人々の記憶の中でずっと若いままだ。やがて、乙女にとって死への不安は憧れに変わり、最後に連れ去られてしまう(なんと恐ろしく、また危険な誘惑に満ちた曲か)。
1818年(21歳)、イタリア風の序曲が初めてコンサートで演奏され、夏は貴族家庭から音楽教師として招待された。
1819年(22歳)、歌曲の最初の公演が行われる。
1820年(23歳)、自由主義者の親友が政治犯として逮捕され、巻き添えでシューベルトも逮捕、拘留される。ウィーンは反動保守政治家メッテルニヒの支配下にあった。間もなく釈放されたが、親友はウィーンを追放されシューベルトは深く傷つく。「美だけが人間を生涯感激させるのは真実だが、美の光が他のいっさいのものを明るくすることは絶対にない」。シューベルトは勇気を振り絞り、追放された友人が書いた詩に音楽をつけて抵抗した。同年、シューベルトは楽譜の刊行を希望して出版社と交渉するが、どこも反応は冷淡で失望する。
1821年(24歳)、作品1として『魔王』が予約出版に成功し評判をよぶ。
1822年(25歳)、南部シュタイアーマルク州の音楽協会の名誉会員に推挙され、その御礼に代表作のひとつとなる交響曲第7番ロ短調『未完成』を作曲した。この交響曲は独創的なオーケストラの音色や転調、鮮やかな和声、歌謡的なメロディー、豊かな表現力により、古典派からロマン派への道を開いた。通常の半分、第2楽章までしかないため“未完成”とされているが、その比類なき美しさから2つの楽章をもって完璧な作品となっている(シューベルト本人も“これで良し”とペンを置いたのかも知れない)。同年、ピアノの連弾曲を出版するに当たって、尊敬しているベートーヴェンに献呈。
1823年(26歳)、3歳年上の詩人ヴィルヘルム・ミュラーの詩による20曲の失恋歌曲集『美しき水車小屋の娘』を書く(ミュラーは4年後に心臓発作で急死。享年32)。付随音楽『ロザムンデ』を作曲。そして晩年まで取り組んでいたピアノ曲集『楽興の時』を書き始めた。
1824年(27歳)、健康の悪化にともない、未来に悲観的になったシューベルトは、歌曲『死と乙女』の旋律を使用した、全楽章が短調という弦楽四重奏曲第14番を作曲。
1825年(28歳)、英詩人ウォルター・スコットの詩にもとづく『エレンの歌』を作曲し、後にこの中の第3番が『アヴェ・マリア』として愛されていく。この年、シューベルトは『グムンデン・ガスタイン交響曲』を作曲したと手紙の記録にあるが、現在に至るまで楽譜が見つかっておらず幻の交響曲となっている(『グレート』の草稿という説もあり)。

1827年(30歳)、貧困の中で有名な『菩提樹』を含んだ24曲の失恋歌曲集『冬の旅』を完成させる。この歌曲の作曲中、同年3月26日、ベートーヴェンが56歳で他界した。病床のベートーヴェンはシューベルトの『美しき水車小屋の娘』を好んで口ずさんだという。シューベルトは27歳年上の巨匠を心から崇拝し、街で姿を見かけるとこっそり後をついて歩いた。ベートーヴェンが死の前年に書いた「弦楽四重奏曲第14番」を聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と胸を震わせた。お見舞いのためにベートーヴェンの家を友人と訪れたが、あまりの緊張で何も喋れなかったという。ベートーヴェンの葬列ではたいまつを持つ役を引き受け、棺の横を行進した。葬儀の後、友人たちと訪れた酒場で「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとり、友人たちは不吉な予感にとらわれた。死は翌年に迫っていた。
1828年、シューベルトはベートーヴェンの一周忌にあたる3月26日に、生涯でただ一度のコンサートを楽友協会ホールで催した。同年、演奏1時間の苦心の大作、交響曲第8(旧9)番『グレート』を完成させ、ウィーンの音楽愛好家協会に上演を依頼したが、「作品規模が大きすぎる」と断られた。死の1カ月前に書かれた『弦楽五重奏曲ハ長調』は、演奏に約50分を要する大曲で、繊細なメロディーラインと溢れる叙情性により最後の傑作となった。他にも、ピアノソナタ3曲(第19〜21番)を作曲するなど創作欲は尽きなかったが、秋にチフスに感染し急激に衰弱した。11月12日、親友に宛てた手紙に「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と苦しみを訴え、これが最後の手紙となった。高熱に浮かされ「ここにはもうベートーヴェンがいない」と嘆き、一週間後の11月19日午後3時、兄の家で夭折した。最後の言葉は他界前日の「これが、僕の最期だ」。享年31歳。最晩年に書かれた未発表の14の歌曲(うち6曲はハイネの詩)は、死の翌年に『白鳥の歌』と題され出版された。
生涯自分の住居を持たず、貧しくとも友情に恵まれたシューベルト。その遺言は、「ベートーヴェンの側で眠りたい」だった。兄や友人たちはこの遺言を実現するため、地元の教会ではなく、わざわざベートーヴェンが眠るウィーン・ヴェーリング地区の教会で葬儀を行った。そして各方面に交渉し、努力が実ってベートーヴェンの墓の側(3つ隣り)に埋葬された。貧困の中で没したシューベルトは、所持品をすべて売っても埋葬費用の5分の1に満たず、兄が少ない生活費を削って費用を工面した。

他界10年後、シューベルトを尊敬していた作曲家シューマンが、墓参りのためにウィーンを訪れた後、シューベルトの話を親しかった人々から聞くために、兄フェルディナントの家を訪問した。そして遺稿や遺品を見せてもらった際に、『グレート(大ハ長調交響曲)』の楽譜に気づいた。驚嘆したシューマンは楽譜をライプチヒのオーケストラに送ることを薦め、1839年3月21日、ライプチヒ・ゲヴァントハウスの定期演奏会でメンデルスゾーン指揮によって歴史的初演が行われた。もしシューマンが見つけていなかったら『ガスタイン交響曲』のように行方不明になっていたかも知れない。1865年には、ウィーンの宮廷指揮者ヘルベックが40年以上も埃に埋もれていた『未完成交響曲』の楽譜を発見している。
その翌々年、1867年にウィーン旅行中のジョージ・グローヴとアーサー・サリヴァンが、シューベルトの7曲の交響曲、ロザムンデ、ミサ曲、オペラ、室内楽曲、大量の歌曲を発見した。一般聴衆は長年シューベルトに無関心だったが、これを機に世間から注目が集まりだした。

他界から半世紀後、都市開発によってヴェーリング墓地の閉鎖が決まると、新しく郊外に開設されたウィーン中央墓地にシューベルトとベートーヴェンの遺骸が改葬された(1888年)。シューベルトの遺骨が掘り起こされたとき、その場に立ち会った作曲家ブルックナーは、感極まって頭蓋骨に接吻したという。改葬先ではベートーヴェンの右隣りにシューベルトの墓が造られた。ヴェーリング墓地は公園として整備されたが、シューベルトを愛する人々が旧墓石の保存運動を展開し、公園の一角にベートーヴェンの墓と共に残された。知名度からいえば、ベートーヴェンが圧倒的に上だったが、同地はベートーヴェン公園ではなくシューベルト公園と呼ばれており、そこからも支持者がどれほど熱い想いで運動していたかが分かる。
1927年、シューベルト没後百年国際作曲コンクールが開催され、この時から歌曲や交響曲以外の作品(ピアノソナタなど)も光を浴び始めた。ヴァルター・ギーゼキングは最初にシューベルトのピアノ・ソナタの魅力に気づいたピアニストの一人だ。

シューベルトは生前にメディアのトップを飾るような大成功とは縁がなく、親しい詩人や歌手など仲間うちのサークルで才能を認められる存在だった。現存する楽譜では14曲の交響曲の作曲を試み、6曲が未完成となっていることが分かっているが、自作の交響曲が演奏されるのを一度も聴くこともなく31年間の短い生涯を終えた。五線譜にインクのしみを付けたことが無いほどの速筆で、20歳たらずの年齢で早くも歌曲の代表作を書き、それらの歌曲は文学と音楽の両要素が絶妙なバランスで融合している。多数のピアノ・ソナタ、室内楽曲、オペラ、ミサ曲、何より600曲以上もの歌曲を世に送り、ロマン派時代を代表する作曲家のひとりとなった。古典派の目指した調和や抑制とは正反対となる、ロマン派の詩情豊かで憧憬に満ちた、ときに神秘的、ときに感情的な世界を探究した。作曲活動の初期はモーツァルトやベートーヴェンの強い影響下にあり、そこから脱しようと苦闘していたが、次第にシューベルトならではの美しく色彩的な和声を強調した新しい響きを生み出していった。ベートーヴェンでもモーツァルトでもない真のシューベルトとなった。
シューベルトが書いた約1000曲もの作品群は、1951年にオーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュが目録(ドイチュ番号)で整理した。交響曲の作品番号は、1951年の段階では第7番ホ長調、第8番「未完成」、第9番「ザ・グレート」とされていた。没後135年となる1963年、ドイツ・カッセルに「国際シューベルト協会」が創設され、それまで混乱がみられた作品番号の整理を開始。1978年、国際シューベルト協会は、第7番「未完成」、第8番「ザ・グレート」と番号の繰り上げを行った。

【墓巡礼】
芸術家は気難しい、いわゆる“偏屈”と呼ばれる人も多いけれど、シューベルトはその温厚で優しい性格から、多くの友人がいたし、彼を助けようと思わせる魅力があった。これほど友人たちに愛された音楽家を他に知らない。僕自身、5度墓参している。初めてウィーン中央墓地の楽聖エリアを訪れたとき、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、ブラームスの墓とモーツァルトの旧墓が並ぶ光景に圧倒された。人類の奇跡ともいうべき天才がズラリ。遺言が実現して、大好きなベートーヴェンの隣りに眠っているシューベルトの墓を見ると、“良かったですね、シューベルトさん”と思わず声を掛けてしまう。墓石には、神が右手の月桂冠をシューベルトの頭に授けようとしている姿が彫られている。ちなみに、改葬前の旧墓にはブロンズ胸像に劇作家グリルパルツァーの言葉「音楽はここに豊かな至宝と、それよりもさらに尊い希望を葬った」が刻まれている。
彼が31歳で世を去らず、80歳まで長寿していたら、いったいどれほど多くの美しい歌曲や交響曲がこの世界に溢れていたか。31歳でも約千曲。おそらく作品群は2千曲、3千曲に達していただろう…。だが、もしもシューベルトが存在していなかったら、歌曲も交響曲もすべてゼロだった。たとえ31年という短い年月であっても、彼が生まれてこの世にいたこと、その奇跡に人類の一員として心から感謝したい。

※こんな会話の記録がある。「シューベルトさん、貴方の音楽はどうしてどれも悲しげなのですか?」「幸せな音楽というものが、この世にあるのですか?」
※シューベルト存命中に交響曲・オペラなど大型作品は楽譜が出版されなかったため、自筆譜の記号がアクセントなのかデクレッシェンドなのか判別不可能という例が少なくなく、『未完成交響曲』の管楽器の音楽記号の解釈は、いまだ指揮者によって異なっている。僕の学生時代、『未完成』はまだ第8番と教科書に載っていたし、大半のレコードも第8番だった。
※生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。
※死因については、他界の前月にレストランで出された魚料理で腸チフスになったとする説、梅毒治療を通して水銀中毒になったという説など複数ある。
※シューベルトの歌曲はゲーテの詩を基にしたものが最も多いが、同時代の無名の詩人の作品も積極的に取り上げている。文学的な知識欲が旺盛だった。歌曲は、ベルリオーズ、リスト、ブラームス、オッフェンバック、ブリテンなど後世の作曲家が、管弦楽版に編曲している。
※ゲーテに歌曲の楽譜を友人が送ったが、残念ながら送り返されてしまった。ゲーテは『魔王』のようにあまり劇的すぎるものを好まなかったようだ。
※シューベルトの音楽は2種類に分けられる。“野ばら”“アヴェ・マリア”など清らかで美しい調べの白シューベルトと、歌曲集“冬の旅”など挫折、さすらい、死の影に支配された黒シューベルト。没する直前のピアノ・ソナタは、聴いているとあの世への旅というものを体験できる。
※シューベルトに始まったドイツ歌曲の系譜は、シューマン、ブラームス、ヴォルフ、マーラー、R・シュトラウスに繋がっていく。
※「シューベルトの曲は喜びと同じくらい、悲しみがある」(吉田秀和・音楽評論家)



★プッチーニ/Giacomo Puccini 1858.12.22-1924.11.29 (イタリア、トレ・デル・ラーゴ 65歳)2002
Puccini Estate Grounds, Torre del Lago (Near Viareggio), Italy


墓は自宅プライベート・チャペルの中にあった 中は撮影禁止(これは絵葉書)

ジャコモ・プッチーニは1858年12月22日、中部イタリア・トスカーナ地方のルッカに生まれた。プッチーニ家は代々、地元の教会音楽家。5歳のときに父が没し、叔父に育てられた。成長して教会オルガニストになったが、18歳のときにピサでヴェルディの傑作オペラ『アイーダ』を観てオペラ作曲家を志すようになる。
1880年、22歳のときに音楽学校の卒業制作として5曲からなる約50分の大曲『グロリア・ミサ』(正式名称「4声のミサ曲」)を作曲。高い完成度に感心した親類の援助を受けて、同年から3年間イタリア最高峰のミラノ音楽院で学び、ポンキエッリらに師事。苦学生ゆえ家賃を節約するため、後に作曲家となるマスカーニ(代表作『カヴァレリア・ルスティカーナ』)と共同生活を続け、25歳で卒業した。1884年(26歳)にコンクール用に書きあげたオペラ処女作『妖精ヴィッリ』を発表。内容は婚約者を捨てた若い男が妖精に呪い殺されるというもの。コンクールには落選したが、地元劇場で初演されると聴衆から喝采され、カーテン・コールは18回に及んだ。
この年、プッチーニは友人の妻エルヴィラに歌のレッスンをしているうちに不倫関係となり、子を宿してしまった。2人は駆け落ちし長男アントニオが生まれる。
翌年、『妖精ヴィッリ』がオペラの殿堂ミラノ・スカラ座でも上演され、この成功をきっかけに大手の楽譜出版社リコルディから作曲依頼をうけた。そして私生活で母と弟に死別しながら、1889年(31歳)に第2作『エドガール』を書きあげる。若さによる過ちで恋人が死ぬ悲劇。美しい旋律は評価されたが、台本が酷評され初演は失敗に終わった。その後、作曲家自身の手で大幅に改訂された。

1891年(33歳)、トスカーナ地方トッレ・デル・ラーゴの湖畔に別荘を借り(後に購入)、以降没するまで33年にわたって自宅兼仕事場とした。
1893年(35歳)、第3作『マノン・レスコー』をトリノで初演。魔性の女マノンと若者デ・グリューの破滅的な恋を描き、ルイジアナの荒野をさまよい死んでいくラストが衝撃を与えた。初演から高く評価され、プッチーニは気鋭の天才作曲家と認知された。この『マノン・レスコー』で組んだ2人の台本作家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザは、その後に『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』を生み、希代のヒットメーカーとなっていく。

1896年(38歳)、トリノにて全4幕の『ラ・ボエーム』をトスカニーニの指揮で初演。“ボエーム”とはボヘミアン、芸術家気質の風来坊のこと。1830年のクリスマスイブ、パリの下町で暮らす貧しい若者たち、詩人ロドルフォ、画家マルチェロ、音楽家ショナール、哲学者コッリーネの貧乏芸術家4人の友情物語をベースに、ロドルフォと肺病のお針子ミミの悲恋、ミミの死を流麗なメロディーで描いた。ロドルフォのアリア「冷たい手を」のほか、美しい重唱ががちりばめられている。当初の反応はいまいちだったが、聴衆は音楽の中にプッチーニならではの魅力的で哀愁を帯びた旋律美を見出し、再演のたびに人気が増していった。今やプッチーニの最高傑作に位置づけられ、NYメトロポリタン歌劇場では通算上演回数第1位に輝いている。

1900年(42歳)、ローマで全3幕の『トスカ』を発表。フランスの名女優サラ・ベルナールのために書かれた戯曲をオペラ化した。プッチーニは5年前にフィレンツェでベルナールの舞台を観て、強く心を揺さぶられた。時代はナポレオンが欧州に台頭し政情不安定だった1800年のローマ。青年画家のカバラドッシは、脱獄した政治犯(共和主義者)の友人をかくまったことから、警視総監のスカルピアに逮捕され、拷問をうけ、銃殺刑が決定する。カバラドッシの恋人で歌手のトスカは、助命のためにスカルピアと交渉するが、トスカは「自分の女になれ」と迫るスカルピアを刺殺、カバラドッシは銃殺され、トスカはサンタンジェロ城(ローマ教皇領の牢獄)から身を投げる。拷問などの激しい暴力描写、主役3人がみんな死んでしまう凄絶なストーリー、緊張感があり扇情的な音楽がセンセーションを呼び、「歌に生き、恋に生き」「星は光りぬ」などの珠玉のアリアもあって、聴衆は熱狂的に『トスカ』を支持した。『ラ・ボエーム』と並ぶプッチーニの代表作であると共に、イタリア・オペラの最高傑作のひとつに数えられる。
同年、汽車で知り合った女学生と情事のトラブルになり、女学生は「もらったラブレターを公表して裁判を起こす」とプッチーニを責めた。プッチーニをスキャンダルから守るため、友人の台本作家、プッチーニの姉妹らが一丸となって女学生と交渉し、なんとか和解に至った。「もし私が恋をしなくなったら、その時は葬ってほしい」(プッチーニ)。
1903年(45歳)、新しいもの好きのプッチーニは、自動車を手に入れて乗り回し、事故を起こして脚を骨折した。

1904年(46歳)、若き日の駆け落ちから約四半世紀、トッレ・デル・ラーゴでエルヴィラと正式に結婚式を挙げる。翌月、ミラノ・スカラ座で全2幕の『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』を発表。アメリカ海軍士官ピンカートンに対する芸者の蝶々さんの純愛を描いた。舞台は明治時代の長崎。没落士族の令嬢で芸者となった15歳の蝶々さんは、キリスト教に改宗までしてアメリカ海軍士官ピンカートンと結婚する。ピンカートンはこの結婚を軽く考え、現地妻として蝶々さんを見ており、3年の任務が終わるとアメリカに帰国した。ピンカートンとの間に青い瞳の男の子をもうけた蝶々さんは、毎日港に入る船を調べ、夫の帰宅を夢見て「ある晴れた日に」を歌う。別れから3年、ついに夫のエイブラハム・リンカーン号が入港する。蝶々さんと下女のスズキは大喜びで家の中を花で飾り、花嫁衣装の着物を着て、子どもと一緒に帰宅を待った。ところが、ピンカートンは新しい“正式な妻”ケイトを連れて来訪し、蝶々さんの子どもは引き取られることになった。蝶々さんは、婚礼時に父からもらった切腹のための短刀を取り出し、「名誉を失う前に名誉の中で死のう」と自刃する。ピンカートンは自身の愚行を悔悟した。
作曲の際にプッチーニは民謡など日本の音楽を調べ、風俗習慣や宗教に関する資料を熱心に集めた。日本大使夫人にも会って日本の事情を聞き、パリ万博で渡欧していた川上貞奴にも会ったという。その努力は、劇中に織り込まれた「さくらさくら」「君が代」などの日本の旋律に反映されている(当時の欧州はジャポニスムが流行)。第2幕の蝶々さんのアリア「ある晴れた日に」が最も有名だが、第1幕の愛の二重唱「可愛がってくださいね」は極めてハーモニーが美しく、プッチーニが書いた二重唱の最高峰と言われている。ただし、蝶々さん役はソプラノ歌手にとって中低音域に重点を置いた歌唱を求められるため「ソプラノ殺し」とも言われる。
『蝶々夫人』の初演は、プッチーニのライバル達が組織した集団による上演妨害や、第2幕の長すぎる上演時間などで歴史的失敗となった。その後、数回の改訂を経て成功、現在第6版が決定版として上演されている。『蝶々夫人』は管弦楽がこれまでより色彩的になり声楽とも調和している。プッチーニはこの作品でヴェルディが開拓したロマン派オペラの後継者と世に認められた。
1906年(48歳)、信頼していた台本作家のひとりジャコーザが他界。翌年。メトロポリタン歌劇場の招きでアメリカ訪問。

1909年(51歳)、私生活で大事件が起きる。プッチーニの妻エルヴィラが、美人の使用人ドーリア・マンフレーディとプッチーニの関係を疑い、ドーリアをいじめ始めた。プッチーニは不倫しておらずエルヴェラの誤解だったが、ドーリアは数か月にわたって公衆の面前で罵倒され、とうとう服毒自殺してしまう。このときプッチーニはローマに滞在しており家にいなかった。エルヴィラはドーリアの遺族から告発されて有罪となったが、大金での示談が成立して刑務所行きは免れた。プッチーニは自宅の前の湖を小舟で漕いでいるときに音楽のインスピレーションが沸くため、帰宅してエルヴィラと住み続けるしかなかった。ドーリアは家族に宛てた遺書の中で、「プッチーニさんにはまったく責任がなく、夫人だけが私を苦しめた」と記していたが、エルヴィラは死の責任が夫にあると責め続けた。このドーリア・マンフレーディ事件で、同時期の作曲活動は止まっていた。

1910年(52歳)、アメリカ西部を舞台にしたオペラ『西部の娘』をニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初演。チケットの取引価格は30倍まで高騰した。アメリカ人の好みに合わせた内容で、劇の最後に男女が新天地に向けて旅立つというプッチーニ作品には珍しいハッピーエンド。『西武の娘』は初演が成功した数少ないオペラの一つになった。ただ、他の作品に比べて簡単に口ずさめるアリアがなく、人気は尻すぼみになっていった。1912年(54歳)、作曲活動の恩人リコルディ社・社主ジューリオが他界。
1915年(57歳)、トッレ・デル・ラーゴに近いヴィアレッジョに土地を購入し新居を建設。この頃、プッチーニはドイツの男爵夫人ヨゼフィーネと深い付き合いをしていたが、同時にハンガリー人の女性にも恋文を送っている。自宅の郵便受けは妻に見張られたいたので、親友の住所を教えて女性たちの返事を受け取っていた。
1917年(59歳)にフランスを舞台にした『つばめ』(La Rondine/ラ・ロンディーヌ)をモンテ・カルロのカジノ歌劇場で初演。主人公は真実の恋に憧れるパリの裕福な銀行家の愛人マグダ。つばめのように海を渡って恋を成就させるが、その恋を美しい思い出にして、再び海を渡って元の巣(昔の生活)に帰る。同じパリを舞台にした『ラ・ボエーム』の貧困学生とまったく異なる、オペレッタのように軽妙な上流社会の物語。アリア「ドレッタの美しい夢」が有名だが、第一次世界大戦の最中であり、欧州はオペラどころではなかった。

1918年(60歳)に短い1幕の3編『外套(Il tabarro)』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』からなる『三部作』を書いた。それぞれダンテ『新曲』の地獄篇、煉獄篇、天国篇に相当。3作品は同じ12月14日にメトロポリタン歌劇場で初演された。1本目の『外套』はセーヌ河畔の荷物船の老船長が若妻の不倫相手の若者を絞殺するショッキングなもの。イタリア初演を見たトスカニーニは「最低のこけおどしの芝居」と終演と同時に席を立ち、残りの2作を聴かなかった。これにプッチーニは激怒し死の前年まで疎遠になった。背景には第一次世界大戦をめぐるプッチーニ(新ドイツ)とトスカニーニ(嫌独派)の立場の違いもあった。
2本目の『修道女アンジェリカ』は未婚で出産したアンジェリカが贖罪のため修道院に入り、その後わが子が5歳で病死したことを知ったことで絶望から毒をあおる。キリスト教では自殺は大罪だったが聖母マリアに許され、天国から迎えに来た息子の前で息絶える。プッチーニは3部作の中で本作に最も自信をもっていたが、初演は「フィナーレの聖母マリアの登場はクリスマス・カードのように陳腐」と酷評され、すっかり落ち込んでしまった。

『ジャンニ・スキッキ』はプッチーニが書いた唯一の喜劇オペラ。貧しい田舎の中年男ジャンニ・スキッキが大富豪の遺産を巡る騒動で知恵を働かせ、まんまと遺産をゲットし娘の恋も成就をさせてしまう様子をコミカルに描いた。最も有名なアリアはスキッキの娘ラウレッタが歌う「わたしのお父さん」。彼女は「もし好きな人と結婚できないなら、わたしはアルノ川に身投げするから」と脅迫し、スキッキは一肌脱ぐ。ラストでスキッキは観客に向かってこう言う。「紳士、淑女の皆様。ブオーゾの遺産にこれより良い使い途があるでしょうか。この悪戯のおかげで私は地獄行きになりました。当然の報いです。でも皆さん、もし今晩を楽しくお過ごし頂けたのなら、あの偉大なダンテ先生のお許しを頂いた上で、私に情状酌量というわけにはいかないでしょうか」。次作『トゥーランドット』が未完で終ったため、プッチーニの手で完成した最後のオペラとなった。『ジャンニ・スキッキ』は他の2作と異なり、初演をした米国でもイタリアでも文句なしの大絶賛となった。
1921年、ヴィアレッジョの新居に転居。
1922年(63歳)、気晴らしのつもりで欧州のドライブ旅行に出かけたところ、ドイツでアヒル肉の骨が咽に刺さり、外科医に除去してもらう。翌年、ヘビースモーカーのプッチーニは喉頭癌になっていることが判明する。
1924年11月29日、癌のラジウム治療で滞在していたブリュッセルで手術後に合併症を起こし、心臓発作で急死した。享年65歳。女性心理を知り尽くし、女性の切実な想いをメロディーにのせてきたプッチーニだが、病院のベッドの側に女性は誰もおらず息子だけが見送った。最後のオペラ『トゥーランドット』は召使リューが自刃したところで絶筆となり、その先の23ページのスケッチが遺された。

2年後の1926年、未完のまま遺されていた『トゥーランドット』を親友アルファーノ(作曲家、トリノ音楽院教授)が完成させ、ミラノ・スカラ座で初演された。この初演は国家的イベントになり、ムッソリーニ首相も臨席する予定だったが、国家元首の臨席時に演奏されることとなっていたファシスト党党歌の演奏をトスカニーニが拒否したため、ムッソリーニの出席は取止めになった。また、プッチーニの絶筆部分でトスカニーニは突然演奏をやめ、観客に「マエストロはここで筆を絶ちました」と述べて舞台を去り、2日目になって補完版がラストまで上演された。
古代中国の北京・紫禁城を舞台に、男性不信のトゥーランドット姫の氷のように冷たい心を、ダッタン国の王子カラフが愛で溶かすまでを描いている。途中、カラフの召使いのリューが、自刃することでカラフへの愛を示しトゥーランドットの心を動かす。
トゥーランドットはオーケストラのスペクタクル的な響きが特徴であるため、トゥーランドット役はそのオーケストラの分厚い響きや民衆の合唱に負けないだけの、場を完全に支配する人間離れした高音域を長時間歌い続けねばならず、ソプラノ歌手の最大の難役の一つになっている。トゥーランドットとカラフの謎の掛け合いで、カラフの歌うアリア「誰も寝てはならぬ」が人気曲となった。
同年、プッチーニの息子アントニオが、父の亡骸をミラノのプッチーニ家の墓から、父が愛着をもって暮らしていたトッレ・デル・ラーゴの自宅兼仕事場に再埋葬した。

プッチーニは大小12本のオペラを残した。45歳先輩のヴェルディ(1813-1901)の26曲、66歳先輩のロッシーニ(1792-1868)の39曲に比べてかなり少ないのは、時間をかけて台本を練り上げたから。ヴェルディは国家の存亡といった壮大な題材もオペラで扱ったが、プッチーニは「私に書ける音楽は小さなことをあつかったものばかりだ」と、スケールの小さな庶民の物語を主に書いていた。
イタリア・オペラの伝統(歌唱法)を重んじつつ、劇的な展開と緻密な描写、豊かなオーケストレーションに手腕を発揮したプッチーニ。なかでも、一度聴いたら忘れられない優美な旋律の数々はプッチーニの名を後世まで輝かせ、ヴェルディ以来最大のオペラ作曲家といわれるまでになった。

【墓巡礼】
2002年にイタリアを訪れ、プッチーニの墓に巡礼した。彼の墓は33年暮らしたトッレ・デル・ラーゴの自宅兼仕事場、今は子孫が運営するプッチーニ記念館(Villa Museo Puccini)の中にある。トッレ・デル・
ラーゴは斜塔で有名なピサから約15kmの距離。記念館はマッサチュッコリ湖の湖畔に建っていた。40分おきにある見学ツアーに入った者だけが、プライベート・チャペルの中にある墓に墓参できる。このチャペルは息子アントニオが父の書斎を改造して教会にしたとのこと。僕を入れて6人で回った。イギリス人の3人家族とスペイン人の中年夫婦。みんなマエストロの遺品に見入り、スペインの夫婦は墓前で十字を切っていた。印象に残ったのは外の風景。湖面はとても穏やかで、犬を連れた老夫婦が湖畔を散歩している。穏やかな時間が流れており、ここに小舟を浮かべると確かに良いメロディーが天から降ってきそうだ。旅行者の僕ですら離れがたい土地だった。
僕はピサからバスを使ったけど、記念館から約1.5km(徒歩20分)のヴィアレッジョ(Viareggio)に鉄道駅「Stazione di Torre del Lago Puccini」があるので、そこからバスを使った方が便
利っぽい。毎年夏になるとプッチーニ記念館前の湖畔で「プッチーニ音楽祭」(1930〜)が開催され、世界中からオペラファンが集まる。

※生誕地ルッカの旧市街にプッチーニの生家が残り、プッチーニ博物館となっている。また、ペスカーリア(Pescaglia)にプッチーニ記念館があり、キアートリのプッチーニの別荘(Villa Ginori-Lisci)は音楽学センターに
なっている。
※プッチーニの音楽はヴェルディに比べて分かりやすかったため、同時代の批評家は「お涙頂戴オペラをほめると馬鹿にされる」とでも思ったのか、一般大衆の人気に比べて、作品と距離を置いていた批評家が多い。
※プッチーニの“ご当地三部作”は、日本が舞台の『蝶々夫人』、アメリカが舞台の『西部の娘』、中国が舞台の『トゥーランドット』。
※蝶々さんのモデルは幕末のイギリス商人トーマス・グラバーの妻ツルと有力視されてきた。ツルは長崎の武士の出身で、蝶の紋付を着用し「蝶々さん」と呼ばれていた。
※『蝶々夫人』の小説原作者ロングは、オペラ化を喜んで「あの子が美しくかつ哀しい歌を歌って帰ってくる」と記した。
※蝶々さんは原作小説では自刃しない。現代の価値観から見れば植民地主義時代の偏見、人種差別的な要素も含む。とはいえ、米国人からすればピンカートンの背信は米国軍人を貶めているともとれる。
※『エドガール』のオリジナル・スコアは第二次世界大戦の戦災で失われたと思われていたが、プッチーニの孫娘シモネッタ・プッチーニが大切に保管していたことが分かり、近年は初演版が上演されることもある。
※“三部作”のうち『ジャンニ・スキッキ』以外は不人気であるため、上演ではマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』、レオンカヴァッロの『道化師』など、他の作曲家の1幕オペラとペアにされることが多い。
※プッチーニはシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を傑作と呼ぶなど前衛音楽に理解があり、それをラヴェルは評価していた。
※20世紀最大のオペラ歌手マリア・カラスの現存映像はトスカ第2幕だけ。1958年パリ・オペラ座、1964年コベントガーデンの舞台。
※カルーゾーの後継者といわれたイタリアのテノール歌手ベニアミーノ・ジーリ(1890-1957)はボエームのロドルフォ役を得意とした。その歌声は、力強さとメランコリックな優美さをかねそなええいた。ベル・カント唱法の典型。
※器楽曲では弦楽四重奏『菊の花(Crisantemi)』が美しい。他に管弦楽曲『交響的前奏曲』『交響的奇想曲』がある。 https://www.youtube.com/watch?v=_VmdEViPk4s




★リヒャルト・シュトラウス/Richard Georg Strauss 1864.6.11-1949.9.8 (ドイツ、ガルミッシュ 85歳)2002
Richard Strauss Villa, Garmisch, Germany

リヒャルト・シュトラウスはその雄大な音楽にふさわしく、チロル地方に近いドイツ南部のアルプスに抱かれていた。

大きな荷物を背負って坂道を登るのは大変なので、
地元の旅行案内所で預かってもらった。(奥の黒い奴)
村ハズレにある教会墓地を目指す。さすがはアルプス、
空気が上手い。街中の巡礼と違って、どんなに歩いても
なかなか疲れなかった。青空と緑が目に沁みる墓参だ。
なんとも、のどかな墓地。小さな墓地とはいえ意外に
墓が多く、墓地内の略図を旅行案内所で描いてもらっ
ていなかったら、墓探しは困難を極めていただろう。
どの墓も個性豊かでかわいらしい、田舎の墓地。
あたたかい陽射しが優しく彼らを包み込む。
ハイジに出てきそうな噴水!とっても冷たかった! 墓地の向こうには山々の大パノラマが見える。
ついに憧れのR・シュトラウスに謁見!! R・シュトラウスの背後にも雄大な山並みが。
ほんと、素晴らしい場所に彼は眠っていた!!

彼のオペラ『サロメ』は完成当初、あまりに背徳的な描写があるという理由で、上演禁止に追い込まれたセンセーショナルな作品だ。
また、弦楽器のみで演奏される『変容』は、世紀末の闇と混沌が包み込んでくるような曲で、マジで魂を抜き取られそうになる。


●リヒャルト・シュトラウス作曲「4つの最後の歌」から“夕映えの中で”
(Im Abendrot/詩:アイヒェンドルフ)

私たちは苦しみにつけ喜びにつけ手に手をとって歩んできた
そして今 さすらうのをやめ静かな丘で休んでいる
周りの谷は沈み 空には闇が近づいている
二羽のヒバリだけが夢を追いつつ 夕もやの中を昇っている
こっちにおいで ヒバリたちはさえずらせておこう
もうすぐ眠りの時が近づくから
二人きりの寂しさの中 はぐれないようにしよう
ああ 広々とした静かな安らぎよ
こんなにも深い夕映えに包まれ
歩み疲れた私たちがいる
これがもしかすると死なのだろうか



★グリーグ/Edvard Grieg 1843.6.15-1907.9.4 (ノルウェー、ベルゲン 64歳)2005&09
Ashes sealed in the side of a cliff projecting over the fjord at Troldhaugen(his home)

 

オスロからフィヨルド地帯へ!ノルウェー西端にグリーグの眠るベルゲンがある











墓はグリーグの家(今は博物館)の裏手、海岸沿いにある。
家に至る道の美しいこと!林が夕陽を浴びて輝いていた
これがグリーグ・ハウス

そしてグリーグ像
















裏庭を下ると海岸がある

海が見えてきた!

なんとー!彼の棺は海に面した崖にめり込んでいた!
こんな場所にある墓なんて見たことないッ!ブッ飛んだぜーッ!!


墓前には美しい景観が広がっていた。崖の高さなら見晴らしもいいだろう。なんて幸せなお墓なんだろーか!

ノルウェーの作曲家。近代北欧音楽の代表者の一人で、抒情的で民族性に豊んだ音楽を生み出した。代表作に「ピアノ協奏曲イ短調」、組曲「ペール=ギュント」。



★ドビュッシー/Claude Achille Debussy 1862.8.22-1918.3.25 (パリ、パッシー 55歳)2002&09
Cimetiere de Passy, Paris, France Plot: Division14






1884年(22歳) 1908年(46歳) 駆け落ち相手のエンマ夫人 14歳で夭折した愛娘のシュシュと


2002 実にスッキリとした墓 なんて書いてあるんだろう? 2009 7年後。墓がシンプルなだけに目立った変化なし





“C”と“D”をデザイン化したサインがオシャレ 背後に家族3人の名前が 改葬前の旧墓。現存せず(ペール・ラシェーズ墓地)

独創的な和声法を導入し、印象主義音楽を書いて20世紀音楽の扉を開いたフランスの作曲家。ロマン主義音楽の行き詰まりを打開し、多くの作曲家に影響を与えた。
ドビュッシーは1862年8月22日にパリ西郊のサンジェルマンアンレーで生まれた。5人兄弟の長男。両親は陶器店を経営。3歳のときに遠くミュンヘンでワーグナー(1813-1883)の楽劇『トリスタンとイゾルデ』が初演され、音楽界の革命となる「調整崩壊」の引き金が引かれた。少年ドビュッシーは小学校に行かず母から基礎教養を学ぶ。
8歳のときにプロイセンとの間に普仏戦争が勃発、パリは包囲攻撃されフランスは敗北する。
1871年(9歳)、父がパリ・コミューンの革命運動に加わり投獄される。この牢獄で、父は詩人ヴェルレーヌの義兄のシャンソン作曲家シヴリーと知り合う。シヴリーの母はショパン門下生のモーテ・ド・フルールヴィユ夫人(ヴェルレーヌの義母)。釈放後、父はシヴリーの口利きでフルールヴィユ夫人に無償でドビュッシーのピアノ教師になってもらった。一年間でドビュッシーの才能はみるみる開花し、1872年(10歳)、パリ音楽院はドビュッシーの演奏力を認め入学を許可する。以降12年間にわたって音楽院で学んだ。
※父が革命に参加して逮捕されてなければドビュッシーの音楽院入学もなかったわけで、人生というのはつくづく分からないもの。

1880年(18歳)、苦学生のドビュッシーは上流社会の声楽教室でピアノ伴奏のアルバイトを始め、そこで18歳年上の美しいヴァニエ夫人(32歳)に魅了された。以降、約10年間ヴァニエ夫人に憧れ続ける。また、この年から3年間、夏の3カ月はチャイコフスキーの有名なパトロン、フォン・メック夫人のお抱えピアニストとして子ども達にピアノを教えるようになった。彼は一家のヴァカンスに同行し、フィレンツェ、ベネツィア、ウィーン、モスクワをまわり、ロシアではチャイコフスキーやロシア五人組の作品に接した。フォン・メック夫人が秋にチャイコフスキーに出した手紙「あの子(ドビュッシー)が帰ってしまうのが残念です。彼の音楽は私をとても喜ばせてくれましたし、それに心の優しい子でしたから」。最終的にドビュッシーがメック夫人の娘(13歳とも)に想いを寄せたことで解雇された。
1883年(21歳)、ワーグナーが69歳で他界。
1884年(22歳)、新進作曲家の登竜門、ローマ賞コンクールに提出したカンタータ『放蕩息子』が第1位に輝く。この賞の受章者は、最大3年間のローマ留学と新作の提出が義務づけられていた。翌年ローマに出発。
1887年(25歳)、ヴァニエ夫人と不倫関係になり熱を上げていたドビュッシーは、パリから遠く離れてローマで暮らすことが耐えられず、留学を2年で切り上げて2月に帰国する。この年、ボッティチェリの名画『春』にインスピレーションを得た交響組曲『春』を作曲。また、ドビュッシーは学校教育を受けなくとも鋭い感受性で難解なマラルメの詩を理解できたことから、マラルメ邸で開かれるサロンに音楽家としてただ1人参加を許された。

1888年(26歳)、学生時代からワーグナーに傾倒していたドビュッシーは、かねてから夢見ていたドイツ・バイロイトに2年連続で行き、ワーグナー音楽の祭典で楽劇(オペラ)を聴く。ドビュッシーはワーグナー作品があまりに感情過多に感じ、フランスの作曲家として、ドイツ音楽にはない新たな方向性のオペラを開拓する必要性を感じる。
この年、後にピアノの人気曲となる分散和音を多用した『アラベスク第1番』を作曲。アラベスクの意味は“アラビア風”。幾何学的文様を反復して作られたイスラム美術の一様式で、モスクの壁面装飾などに見られる。
1889年(27歳)、パリの万国博覧会でインドネシアのガムラン、カンボジアの音楽など東洋のリズムや旋法に触れ、西洋音楽の約束事に縛られない楽想の啓示を得る。前年にはエリック・サティ(1866-1925)がピアノ曲『ジムノペディ』を酒場で初演し、調性や拍子のない音楽に進もうとしていた。また、ロシア語会話のリズム・抑揚を歌曲に取り入れたムソルグスキー(1839-1881)のオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』も創作の導火線となった。音楽以外にも、当時パリで花開いた印象派絵画や日本の浮世絵がイマジネーションを刺激した。
ヴァニエ夫人への憧れは次第に薄れ、この年、お針子の可愛いパリ娘、“緑の目のガビィ”と彼が呼んだガブリエル・デュポンと同棲を始める。

1890年代に入るとドビュッシーの作品は演奏回数が増え、賛否を巻き起こしながら作曲家として認められていく。
1890年(28歳)、ドビュッシーの音楽で最も有名なピアノ作品「月の光」をふくむピアノ曲集『ベルガマスク組曲』を作曲。ベルガマスクは“ベルガモの”という意味。ベルガモはイタリア北部・アルプス山麓の歴史都市の名前。ヴェルレーヌの詩『月の光』の中に「ベルガマスク」という言葉が出てくるため、ドビュッシーの着想のもとになっている。フォーレ(1845-1924 )も同じ詩に刺激され、ドビュッシーよりも3年早く「月の光」を書いている。この組曲はヴァニエ夫人に献呈された。
同年、 夢幻的な雰囲気をたたえたピアノ独奏曲の小品『夢想』を作曲。経済的な苦しさから必要に迫られて書いた作品だが、後に人気曲の一つとなる。
1893年(31歳)、唯一の『弦楽四重奏曲』を作曲。同年、オペラ『ペレアスとメリザンド』の作曲に着手。この革新的作品は完成まで数年を要する。

1894年(32歳)、これまでピアノ曲を中心に書いてきたが、管弦楽法に自信が出てきたため、フランスの象徴派詩人マラルメ(1842-1898)の詩『半獣神の午後』に着想を得た作品に挑む。そして、出世作となる管弦楽曲『牧神の午後への前奏曲』を完成させた。詩の内容は「暑い夏の物憂い午後、森陰に眠っていた牧神が水浴に向かうニンフ(水の精)たちを見る。牧神は愛の女神ヴィナスを抱く法悦の幻想に浸りつつ、森の静寂の中で再びウトウトと眠りにつく」というもの。ドビュッシーは文字を音楽にするのではなく、この詩への“前奏曲”として、詩全体が持つ幻想的、官能的な空気の印象をスケッチした。楽器編成を木管、弦、ハープに絞ることで独特の浮遊感を出し、牧神の象徴「パンの笛」をイメージする楽器としてフルートを重用、けだるさという独自の世界を作り出した。敏感な若い芸術家たちはドビュッシーが快挙を成したことに気づき、音楽面でドイツロマン派に圧倒されていたフランスからの強烈な一撃と讃えた。初演は2度もアンコールに応えるなど大成功に終わり、この1曲でドビュッシーはフランス楽壇の英雄となり、本作はフランス印象派音楽を代表する作品のひとつとなった。作曲家ラヴェル(1875-1937)いわく「私は最初に牧神を聴いたとき、初めて真の音楽とは何かを悟った」。
1899年(37歳)、耽美主義で知られるアメリカの画家ホイッスラーの『青と銀色のノクターン』に着想を得た管弦楽曲『夜想曲』を作曲。「雲」「祭」「シレーヌ」の3曲で構成される。「雲」はセーヌ川の上空をゆっくり流れて消えていく雲を描写。「祭」は行列の賑やかな盛り上がりを描写。「シレーヌ」はギリシャ神話に登場する頭が女性で体が鳥という海の怪物で「セイレーン」とも呼ばれる。美声で船乗りの心を奪って難破させ、集団で襲って来る。演奏では月光をゆらゆらと反射する海面を表す管弦楽と、シレーヌを表す女声合唱(ヴォカリーズ)が融合し、妖しくも美しい作品となっている。
この年、10年もの間苦楽を共にし、献身的にドビュッシーを支えてきたガビィと別れて、彼女の友人でモデル業をしていた金髪のリリー・テクシエと結婚する。リリーは話し上手で愛情にあふれていた。ショックを受けたガビィはピストルで自殺未遂を起こす。

1902年(40歳)4月30日、ベルギーの作家メーテルリンクの戯曲にもとづく全五幕の『ペレアスとメリザンド』初演。ドビュッシーが完成させた唯一のオペラであり、9年の歳月をかけて書きあげた。この作品は言葉が持っている自然な抑揚、つまりフランス語の抑揚の変化がそのまま音の高低やリズムのテンポに反映され、「歌う」というより「語る」ような旋律となっており、「音楽とドラマの完璧な結婚」と讃えられた。独特の透明感のある和声法を駆使し、夢の世界の出来事のような原作の世界観を見事に表現した。
ドビュッシーはワーグナー『トリスタンとイゾルデ』の影響下から脱するため、アンチテーゼとして『ペレアスとメリザンド』を作曲した。ワーグナーの特徴である、やたら大げさな節回しや、物語を分かりやすくするためとはいえ過度に繰り返されるライトモティーフ(人物や事物の固有テーマ音楽)の“くどさ”を排除した。ハイライトのペレアスが愛を告白する場面では「ジュ・テーム(私は愛している)」=「レ・シ♭」のたった2音しか使っておらず、ドビュッシーは「もしワーグナーだったらここで長大なアリアが出てくるだろう」と語っている。ちなみに、『ペレアスとメリザンド』にはオペラの代名詞ともいえるアリアが、第3幕第1場でメリザンドがア・カペラで歌う「私は日曜の正午の生まれ」のわずか一曲しか登場しない。
ドビュッシーにとって『ペレアスとメリザンド』の初演は、原作者メーテルリンクとの衝突という苦難を乗り越えてのものだった。初演に際し、メーテルリンクは愛人かつ歌手のジョルジェット・ルブラン(“怪盗ルパン”の作者モーリス・ルブランの妹)をメリザンド役に要求。だがドビュッシーはイギリス人歌手を起用し、メーテルリンクを怒らせた。初演の7年前にドビュッシーはメーテルリンクから改変許可を手紙で得ていたが、歌手の件で憤慨したメーテルリンクは「あれは白紙委任状ではない」と主張するなど圧力をかけてきた。メーテルリンクはドビュッシーに暴行を加えようと計画したり、初演の2週間前に『フィガロ』紙(フランス最古の新聞)に「派手な失敗を望む」と声明を載せた。

※『ペレアスとメリザンド』…禁断の恋の物語。時代は中世ヨーロッパ、架空のアルモンド王国が舞台。ある日、老王アルケルの孫ゴローは狩りに出て森で迷い、泉のほとりで遠い国の王女メリザンドと出会う。ゴローは髪が長く美しい彼女に心を奪われ、妻として迎え城に戻る。城の泉の側でゴローの弟ペレアスが兄との馴れそめをメリザンドに尋ねると、彼女は恥じらい結婚指輪をいじってるうちに水中に落としてしまった。その夜、狩りで落馬したゴローは、自分を看病する妻の指に指輪がないことに気づき咎める。彼女は「海辺に貝拾いに行って落とした」と嘘をつき、ゴローは「弟と一緒に海辺を探せ」と命じた。夜、城の塔の上でメリザンドが歌いながら髪をすかしているとペレアスがやってくる。2人は互いに手を伸ばし触れようとするが届かず、彼女の長い髪が垂れ下がった。ペレアスが髪を抱き恍惚としていると、ゴローが通りかかってペレアスをたしなめ、翌日に「彼女は妊娠しており、あまり近づかないように」と警告した。その夜、ゴローが先妻の子にメリザンドの寝室の様子を探らせると、ペレアスが彼女の部屋にいることが分かり動揺する。
ペレアスは兄の言葉に従い、翌日遠くへ旅立つ決心をした。ペレアスとメリザンドは最後にもう一度夜の泉のほとりで逢い引きすることを約束する。その後、城の中で老王アルケルとメリザンドが話していると、嫉妬に駆られたゴローがやってきて彼女の髪を掴んで引きずり回して罵った。夜になり、出発前のペアレスがメリザンドに初めて愛を告白し、彼女も同じ想いを伝えて抱き合う。陰で2人を見ていたゴローは剣を抜きペレアスを刺し殺し、メリザンドも傷つけた。その後、ゴローは自らの行為を後悔し、死の床に横たわるメリザンドに許しを乞う。別室で落ち込むゴローを老王アルケルが慰め「お前には魂というものがわかっていない」と諭している最中、メリザンドは誰に看取られることもなく静かに息を引き取った。老王アルケルは悲嘆に暮れるゴローに赤ん坊を見せ「今度はこの子が生きる番だ」と語る。

『ペレアスとメリザンド』でさらなる国際的名声を獲得したドビュッシーは、翌1903年から1910年の7年間を主にピアノ曲の創作に当てた。彼はピアノを打楽器的に扱うこれまでの手法を捨て、デリケートな表現の可能性を追求し、芸術的な高みを目指した。
1903年(41歳)、ピアノ曲集『版画』を作曲。第1曲「塔(パゴダ)」はインドシナの民族音楽を模倣したもの。打楽器ガムランをイメージさせアジアを暗示。第2曲「グラナダの夕べ」はアラビア音階(マカーム)を利用し、ギターを掻き鳴らすような旋律でスペイン情緒を表現。スペインの作曲家ファリャいわく「1小節たりともスペイン民謡は含まれていないのに、作品全体の細部にわたってスペインを見事に描き切っている」。第3曲「雨の庭」はフランスの童謡が引用され、フランスの庭園に降り注ぐ雨が描写されている。
1904年(42歳)、ドビュッシーは裕福な銀行家の妻エンマ・バルダックの虜になる。彼女は同じ42歳。洗練された教養人で、人を惹き付ける魅力を持っていた。エンマは作曲家フォーレの愛人で、長男はフォーレとの不義の子とも噂された。ドビュッシーはこの長男にピアノを教えることになり、母親のエンマと親密になった。6月、ドビュッシーはエンマから贈られた花の礼状を書く。「この花を生きた唇のように抱きしめたことをお許し下さい」。
エンマとの出会いがもたらした官能と高揚感は、ピアノ独奏曲『喜びの島』となった。喜びの島とは、愛の女神ヴィーナスが誕生したエーゲ海のシテール島(キティラ島)のこと。グレゴリオ聖歌の教会旋法を活用しながら装飾音、リズム変化など技巧を駆使し、色彩豊かで細かな音を連ね、幻想的な愛の歓びを表現した。
この年の秋、ドビュッシーは彼を5年間支えてきた妻リリーを捨て、エンマもまた夫と2人の子を捨て、両者は駆け落ちした。エンマのお腹にはドビュッシーの子どもがいた。
リリーはこの衝撃に耐えられなかった。彼女はパリのコンコルド広場でかつてのガビィと同様にピストルで自殺をはかった。2人の女性を自殺未遂に追い込んだことは大きなスキャンダルとなり、多くの友人がドビュッシーから離れていった。ラヴェルはドビュッシーを師と仰ぎながらもリリーを気の毒に思い、生活費を援助していたと伝わる。世間は駆け落ちを批判し、「金持ちになったドビュッシーにはもう良い曲はかけまい」と噂した。パリに居づらくなった2人は一時的にイギリス南岸に逃れ、ドビュッシーはそこでひたむきに自己の芸術の完成を目指した。

1905年(43歳)3月、ドーヴァー海峡に面した英南部イーストボーンの海辺で、近代音楽史上最も重要な作品の1つであり、3年の歳月をかけた管弦楽曲『海〜管弦楽のための3つの交響的素描』が完成する。全体は「海の夜明けから真昼まで」「波の戯れ」「風と海の対話」の3曲で構成されている。海の情景を表した標題音楽であるが、ドビュッシーはロマン派の標題音楽とは異なり、音の断片的なスケッチを使って「雰囲気」そのものを表現しようとした。葛飾北斎の『冨嶽三十六景〜神奈川沖浪裏』が出版されたスコアの表紙に使用され、ドビュッシーの家にもこの大波の浮世絵が飾られているように、北斎の浮世絵にインスピレーションを受けてこの印象主義音楽を代表する作品を書いた。
同じ年、ピアノ曲『映像』第1集を作曲。「水に映る影」「ラモーをたたえて」「動き」で構成。「水に映る影」は水面のきらめきが音で表現され人気が高く、極めて高い演奏力が必要とされる。
ドビュッシーはこの年に前妻リリー・テクシエと正式に離婚し、エンマと再婚。そして出産のためにイギリスからパリに戻り、10月30日、43歳にして初めて一人娘のクロード=エマを授かった。ドビュッシーは歓喜し、愛娘を「シュシュ」(キャベツちゃん)と呼んで溺愛した。
1907年(45歳)、ピアノ曲『映像』第2集を作曲。「葉ずえを渡る鐘」「荒れた寺にかかる月(そして月は廃寺に落ちる)」「金色の魚(錦鯉)」で構成。3曲目の錦鯉は日本の漆器盆に金粉で描かれた鯉に触発されたもの。
同年、妻の叔父が彼女の相続権を奪ったことから、一家は経済的に苦しくなる。以降、ドビュッシーは生活費を稼ぐために、世界大戦が始まるまで7年にわたって自作の指揮者兼ピアニストとして欧州各国へ10回の演奏旅行を行うことになった。

1908年(46歳)、ピアノ小品集『子どもの領分』を作曲。当時3歳のシュシュのために書かれた。6つの小品は「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」「象の子守歌」「人形へのセレナード」「雪は踊っている」「小さな羊飼い」「ゴリウォーグのケークウォーク」で構成されている。第1曲はクレメンティのピアノ練習曲集「グラドゥス・アド・パルナッスム」に挑戦するシュシュが、退屈な練習に閉口する心理を表現。指づかい(運指)の運動になるため、ドビュッシーはこの曲を「毎朝、朝食前に弾くべき曲」と考えていた。第4曲「雪は踊っている」は窓辺で子供たちがしんしんと積もる雪を見ていると、雪の妖精が舞い降りてくるというもの。第6曲「ゴリウォーグのケークウォーク」は、黒人の男の子の人形ゴリウォーグが当時パリのモンパルナス地区で流行していた黒人のダンス“ケークウォーク”を踊ったもの。同年、初めて指揮に挑戦。
1909年(47歳)、直腸ガンを発症。
1910年(48歳)、12曲からなるピアノ小品集『前奏曲集』第1集を作曲。古代ギリシャやイタリアなど各国の舞曲のような曲集。優しい旋律の第8曲「亜麻色の髪の乙女」と、高い芸術性を誇る第10曲「沈める寺」は特に人気が高い。「亜麻色の髪の乙女」のモチーフは最初に同棲したガビィと言われている。後者の第10曲は、ケルト族の伝説に登場する海に沈んだ大聖堂の浮上と、再度の水没を描く。霧の中から大聖堂が少しずつ現れ、聖歌を響かせた後に沈んでいくという、短いながらも壮大な作品となっている。ドビュッシー後期の重要作品。
ドビュッシーは欧州の演奏旅行先から妻子によく手紙を書いた。娘は5歳の可愛い盛り。この年はウィーンから「シュシュにはもうお人形を買ったよ」と報告、ハンガリー・ブダペストでは宿のグチを妻に書いている。「私は窓の外が建物という小さな悲しい部屋に入れられてしまった。しくしく泣くことしか使い道のない部屋だ。私は支配人を呼び、私を自殺に追いやりたいのですか、と言ってやった。その甲斐あってバスルーム付きの良い部屋になったよ」。

1911年、『管弦楽のための映像』を作曲。スコットランド風の「ジーグ」、スペイン風の「イベリア」、フランス風の「春のロンド」の3曲で構成。それぞれ民族音楽風で、単独演奏されることもある『イベリア』事体も「街の道と田舎の道」「夜の薫り」「祭りの日の朝」の3曲で構成されている。「春のロンド」にはフランスの童謡「嫌な天気だから、もう森へは行かない」が使われている。
同年、音楽劇・聖史劇の『聖セバスティアンの殉教』が完成。初演時にユダヤ人女性が主役を演じたことに憤慨したパリ大司教がカトリック信徒に観劇禁止令を出した。
この年、ドビュッシーの友人で作曲家のアンドレ・カプレ(1878-1925)が『子供の領分』をピアノ曲からオーケストラ用に編曲。ちなみにカプレは第一次世界大戦従軍中に毒ガスを吸って神経を冒され46歳で他界している。

1912年(50歳)、ディアギレフが主宰するロシア・バレエ団「バレエ・リュス」が『牧神の午後への前奏曲』を使った「牧神の午後」を上演。主演も務めたニジンスキーの振り付けは、露骨な性的表現が物議をかもした。冒頭で牧神は岩の上で葡萄を食べている。そこへ7人のニンフが現れ水浴を始め、欲情した牧神は嬉々としてニンフを誘惑しようとするが、みんな牧神を恐れて逃げ出してしまう。牧神はニンフが残したヴェールを手に入れて喜び、岩の上にヴェールを敷いてうつ伏せになり、下腹部に手を置いて自慰を思わせる動作の後、腰を痙攣させて絶頂に達した。−−このようにスキャンダラスな振付は前代未聞であり、幕が降りると拍手とブーイングが同時に巻き起こった。問題のラスト以外でも、この舞台はダンサーが古代ギリシャの壺絵のように正面を向かない平面的な動きに終始し、またニジンスキーならではの優雅な跳躍がなかったことも観客を当惑させた。ディアギレフは観客に舞台の素晴らしさを理解させるため、最初からもう1度演技させた。
翌日の『フィガロ』紙は編集長が『牧神の午後』を「常軌を逸した見世物」と痛罵。この酷評に怒ったディアギレフは、彫刻家ロダンと画家ルドンが『牧神の午後』を擁護した文章を手にフィガロ編集部に乗り込んだ。ルドンは「マラルメにこの舞台を見せたい」、ロダンは「ニジンスキーの演技は古代画のような美しさ」と讃えた。2回目の上演からは警察が立会うなど、この騒動が宣伝になって『牧神の午後』の公演チケットは毎回完売となる。(初演後、ラストの表現はマイルドに変更されている)

1913年(51歳)、ピアノ小品集『前奏曲集』第2集を作曲。第1巻と同じく12曲からなり、これで合計24曲、つまりバッハの『平均律クラヴィーア曲集』やショパンの『24の前奏曲』と同じく24曲の前奏曲集となった(ただし24の調性はない)。第2集は第1集以上にドビュッシーの独創性が発揮されている。第1曲はストラヴィンスキーのバレエ音楽『ペトルーシュカ』に感銘を受けて書いた「霧」、第3曲はアルハンブラ宮殿の門をイメージした「ヴィーノ(ワイン)の門」、第4曲は『ピーター・パン』の挿絵から着想を得た「妖精達はあでやかな踊り子」、第9曲の「ピクウィック殿をたたえて」は、ディケンズの小説の主人公をコミカルに描き、イギリス国歌「神よ女王を守りたまえ」を引用している。第10曲「カノープ」は古代エジプトの壺(カノープ)から導かれる悲しみの感情。最後の第12曲「花火」は7月14日のフランス革命記念日の情景で、遠くの賑わいに始まり、夜空に花火があがりフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が流れる。
この年、演奏旅行で遠方のロシアを訪れ、孤独感から山のように手紙と電報を妻エンマに送った。この時代、列車の中で電報を受け取るシステムがあったが、クロード・ドビュッシーの“クロード”がロシアでは女性名ゆえ、車掌は最初に女性客全員に聞いてまわるため、なかなか受け取れなかったという。モスクワからの手紙「今日は4時間練習した。休憩は5分間だけ。もうヘトヘトで、脚は棒のようだし、頭はドラム缶のようだ。君を抱きしめる力が残っていればいいが、でも君はいないし…」。ペテルブルクからの電報「二つの練習の合間に君にわが愛情のすべてを送る」。

1914年(52歳)、2月にローマで書いた妻への手紙「君の哀れな、年老いたクロードは、とても孤独で君を必要としている。かわいい愛する人よ」。7月28日、第一次世界大戦が勃発。戦争が始まったことで以降の演奏旅行はなくなった。
1915年(53歳)、ドビュッシーにとって唯一の『チェロソナタ』を作曲。
1917年(55歳)、最後の作品となる『ヴァイオリン・ソナタ』を作曲。5月5日、パリにてドビュッシー自身のピアノ伴奏で初演され、これが公に姿を現した最後の機会になった。
1918年3月25日 、第1次世界大戦下のパリで他界。享年55歳。4日後に葬儀があり、最初の墓所ペール・ラシェーズ墓地に眠った。同年11月、終戦。1908年からポーの怪奇幻想小説を元にしたオペラ『アッシャー家の崩壊』の制作に取り組んでいたが、台本だけが完成し、音楽は未完の絶筆となった。
1919年、他界の翌年、愛娘のシュシュがジフテリアに感染し、わずか14歳で旅立った。ドビュッシーの墓はパッシー墓地に改葬された
1920年、少年時代から親友だった作曲家デュカスは、ドビュッシーの追悼のために『牧神の午後への前奏曲』の冒頭を引用したピアノ曲『牧神の遥かな嘆き』を作曲する。
1934年、妻エンマが72歳で他界。ドビュッシー、エンマ、シュシュの3人が同じ墓にて16年ぶりに再会。
1977年、他界から59年後に生前は未出版だったピアノ曲集『忘れられた映像』が出版される。作曲されたのは1894年(『牧神の午後への前奏曲』を書いた年)。「レント」「ルーヴルの思い出」「もう森へは行かない」の3曲で構成され、出版社がこのタイトルをつけた。

音の響きの中に瞬間的イメージをとらえようとしたドビュッシー。調性をあいまいにすることで、夢幻の世界で浮遊する雰囲気を出し、従来の和声法ではなく新たな和声を使って感覚的な音の響きを求めた。現代音楽の様々な技法を先取ることで現代音楽の扉を開く。そして何より、ドビュッシーは音楽上のしきたりにとらわれず、アイデアや技法を果敢に試みる姿勢を通して、後世の作曲家たちに音楽的冒険に挑む勇気を与えた。

〔ドビュッシーの言葉〕
「言葉で表現できなくなったとき、音楽が始まる」
「音楽の本質は形式にあるのではなく色とリズムを持った時間なのだ」

〔墓巡礼〕
ドビュッシーは家族と共にエッフェル塔のすぐ側、トロカデロ広場に面するシャイヨ宮の近くで眠っている。当初はパリ最大のペール・ラシェーズ墓地(1804年開園)に埋葬されていたが、他界翌年(1919年)にパリ16区のパッシー墓地(1820年開園)に改葬された。最寄り駅はメトロのトロカデロ駅。パッシー墓地の入口事務所で地図をもらえる。ドビュッシーの墓は14区画の3列ほど中に入った所。正面はドビュッシーの名前しかないが、背面に妻子の名が刻まれている。左斜め方向の隣りブロックにフォーレの墓がある。
その音楽は、透明かつ繊細、叙情感あふれ、女性に大人気のドビュッシー。だが私生活は2人の女性を自殺未遂に追いやるなど手放しで讃えるのが難しい人物。とはいえ、生み出されたものは音楽史を変えてしまうほどの作品であり、最後の伴侶となったエンマは同い年の中年女性、けっして若い美人女性に走った訳ではない。かろうじて、そこはフォローできる…ということにしておこう。エンマも43歳で出産という高齢出産によく耐えた。そして14歳で早逝した可哀想なシュシュ…。墓の背面に彫られた3人の名前を見て、一家が共に生きたのは10年強と短かったけど、今こうして同じ場所で時を過ごしているのを見ると胸に来るものがあった。

※当時の批評家たちは印象派の画家の絵にたとえて印象主義音楽と呼んだ。
※「印象主義」という言葉はもともと絵画で登場したもので、当初は「印象だけで描き、中身はスカスカ」という“悪口”目的で使われていた。それゆえドビュッシー自身は印象主義という言葉を好まず、自身を象徴派として位置づけていた。
※指揮者ブーレーズ「『牧神』のフルートあるいは『雲』のイングリッシュホルン以後、音楽は今までとは違ったやり方で息づく」
※作曲家メシアンは少年時代のクリスマス・プレゼントに『ペレアスとメリザンド』の楽譜をもらい夢中になったという。作風に大きな影響を受けた。
※ストラビンスキー「私や私と同世代の作曲家たちは、最も多くのものをドビュッシーに負っている」
※ジャン・コクトー「ドビュッシーが一生涯頭の中に隠しておいたただ一人の敵はサティであったのだ」※敵というかライバル
※墓碑銘は“C”と“D”をデザイン化したサインがオシャレ。



★ビバルディ/Antonio Vivaldi 1678.3.4-1741.7.28 (オーストリア、ウィーン 63歳)2002
Vienna University of Technology, Vienna, Wien, Austria



悲惨!かつてビバルディが埋葬されていた墓は消えていた!

 

誰もが一度は耳にする名曲『四季』の作曲者でありながら、その晩年は不遇だったようで、故郷ベネチィアを遠く離れた
ウィーンの貧民墓地に葬られた。しかも墓地の上には、現在ウィーン工科大学が建っている。大学の壁面に、
かつてこの地に彼が埋葬されたことを示す小さなプレートがあるが、これに気づき立ち止まる人は殆どいない。


孤児院で教師をしていた彼が作った曲の大半は、生徒達のために書かれたもの。ケンカにならぬよう各楽器ごとに見せ場があるだけでなく、
他人と共同する楽しさを教える為にアンサンブルの魅力が存分に発揮されている。それが理由なのか、彼の曲は聴いていて全く退屈しない。



★ラヴェル/Maurice Joseph Ravel 1875.3.7-1937.12.28 (フランス、パリ郊外 62歳)2002&09
Cimetiere de Levallois-Perret, Paris, France

  


2002 大雨だった 2009 正門をくぐって右前方に眠っている

「オーケストラの魔術師」、フランス近代音楽の鬼才。20世紀の音楽に多大な影響を与えたフランス印象派の作曲家。精緻な作風はストラビンスキーに「スイス製の時計のように精密な音楽」と評された。1875年3月7日、スペイン国境に近い南仏ピレネー地方ののシブールで生まれる。父ジョセフはスイス系、母マリーはスペイン系で、幼少期のラヴェルは母が歌うスペイン民謡を聴きながら育った。音楽好きの父の影響で7歳からピアノを始める。
1889年、ラヴェルに音楽の才能を見出した両親は、息子が音楽の道に進むことを応援し、14歳の彼をパリ音楽院に送り出した。同年、パリ万国博覧会でインドネシアのガムランなどアジアの民族音楽を聴き、西洋と異なる音階や和音に刺激を受けた。13歳年上のドビュッシー(当時27歳/1862-1918)もこの万博で芸術の霊感を得ている。なお、この前年(1888年)に22歳のエリック・サティがピアノ曲『3つのジムノペディ』を、2年後に『グノシエンヌ』を作曲しており、調性や拍子、小節線のない音楽に進み始めている。
1891年(16歳)、音楽院の予科から本科に移籍し、ピアノと和声学を学ぶ。
1893年(18歳)頃、現存する最初のピアノ曲『グロテスクなセレナード』(原題はセレナードのみ)を作曲。各フレーズがすぐに中断されるため、ラヴェエルはグロテスクと形容した。
1895年(20歳)、ピアノ独奏曲『古風なメヌエット』を作曲し、これが最初の出版作品となった。彼は実質的なデビュー作であるこの曲に愛着を持ち続けていたらしく、作曲から30年以上も経ってから管弦楽化している。同年、本科に入ってここまで何の賞も獲ることができず、学則に従って音楽院を中退する。
1898年(23歳)、音楽院に再入学し、作曲をフォーレに師事、その作品に強く影響を受ける。必修科目のフーガは音楽院院長のデュボアが教えていたが、ラヴェルは0点をつけられ、聴講生としてフォーレのクラスに残った。フォーレはラヴェルの個性を自由に伸ばし、音の色彩に対するラヴェルの鋭い感覚に磨きをかけた。この年、国民音楽協会の演奏会で作曲家として公式デビューを果たす。

1899年(24歳)、ピアノ曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』を作曲。パヴァーヌとは16世紀のヨーロッパの宮廷で親しまれていた行列舞踏のこと。ラヴェルは「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」と語っており、曲名からイメージする王女の死を悼むものではない。ラヴェルがルーヴル美術館で観賞したベラスケス作のマルガリータ王女の肖像画にインスピレーションを得たという。古風な旋律に古いスペインへのノスタルジーが込められている。この曲はパトロンのポリニャック公爵夫人に捧げられた。
1900年(25歳)、新進作曲家の登竜門「ローマ賞」に挑むが落選。入賞できなかったために音楽院のクラスを除籍される。
1901年(26歳)、聴講生として再びフォーレに師事。ピアノ曲『水の戯れ』(原題の意味は“噴水”)を作曲しフォーレに献呈する。ラヴェルは譜面の冒頭にレニエの詩「河の神は水にくすぐられて笑う」を引用した。古典派のソナタの構造をなぞりつつ、輝かしい音色で噴水のきらめきを技巧的に描写し、並行和声の多用という当時斬新な試みがされており、ピアノ技法に新時代を切り開いた。ラヴェルの精密、精巧なピアノ技法が完全に開花した金字塔的な作品であり、一般的にピアノ音楽の印象主義の幕開けとして認知されているドビュッシーの組曲『版画』(1903)よりも、ラヴェルの方が2年も先んじている。このように『水の戯れ』は先輩のドビュッシーにも大きな影響を及ぼしたが、サン=サーンスからは「不協和音に満ちた作品」と酷評された。同年、2回目のローマ賞に挑み、カンタータ『ミラ』で3位に入賞。
1902年(27歳)、3回目のローマ賞挑戦は本選に入賞できず。
1903年(28歳)、『弦楽四重奏曲』を作曲しフォーレに捧げた。ラヴェルは10年前にドビュッシーが作曲した弦楽四重奏曲に啓発され、この作品を書きあげた。ドビュッシーは最大限の賛辞を贈る。「音楽の神々の名とわが名にかけて、一音符たりとも変える必要がない完璧な作品です」。同年、4回目のローマ賞挑戦も本選に入賞できず。
1904年(29歳)、ラヴェルの代表的な声楽曲の一つ、管弦楽伴奏歌曲集『シェヘラザード』を作曲。ソプラノ用の声楽曲で第1曲「アジア」、第2曲「魔法の笛」、第3曲「つれない人」の3曲で構成されている。ラヴェル特有の色彩感のある管弦楽法が発揮され、当時のフランス音楽界の代表的な保守派さえ「ラヴェル氏の作品中で最良のもの」と価値を認めた。この年、ドビュッシーが銀行家の妻(フォーレの愛人)と駆け落ちし、ドビュッシーの妻リリーがパリのコンコルド広場でピストルで自殺をはかる。ラヴェルはドビュッシーを音楽家として尊敬しながらもリリーを気の毒に思い、彼女の生活費を援助した。同年はローマ賞への応募を見送る。

1905年(30歳)、音楽史に名を残す「ラヴェル事件」が起きる。ローマ賞の応募資格は30歳までであり、この年がラヴェルにとって同賞の最後の挑戦となった。ところが、結果は大賞どころか予選段階で落選してしまう。学校側はラヴェルの前衛的な作品に対する反感から、最終試験の受験を拒否したのだ。既に『水の戯れ』や『亡き王女のためのパヴァーヌ』などを発表し、「国民音楽協会」の演奏会で才能を認められていたラヴェルが予選落ちしたことは大きな波紋を呼び、作家ロマン・ロランら知識人がラヴェル擁護の抗議文を書いた。しかも、この時の本選に進んだ6名全員が音楽院の作曲科教授かつ審査員のシャルル・ルヌヴー門下生であったことがコンクールの公正さの点からも問題視された。パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれ、後任にラヴェルの師フォーレが就き、音楽院改革が始まる。フランス音楽界において、ローマ賞を逃し続けたラヴェルの作品は、パリ音楽院のトップの椅子と同じ価値を持つまでになっていた。
同年、音楽院を卒業し、ピアノ組曲『鏡』を作曲。「蛾」「悲しげな鳥たち」「海原の小舟」「道化師の朝の歌」「鐘の谷」の5曲で構成。「海原の小舟」では『水の戯れ』に続いて水の表現に挑んだ。「道化師の朝の歌」は単独で演奏されることも多い。この2曲は後に管弦楽に編曲された。
この年に作曲されたハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲『序奏とアレグロ』は、現代のハープの原型となったエラール社のペダル付きハープの普及のために同社より依嘱された室内楽曲で、ハープ協奏曲ともいえる。現在、NHKがBSの『クラシック倶楽部』でオープニングテーマとして使用している。
同じくこの年のピアノ曲『ソナチネ』は、雑誌が主催した作曲コンクールのために書き上げたもので、ラヴェルだけが入選した。彼は古典的な形式を現代的に復興させた。
※「ソナチネ」とは「小さいソナタ」の意。

1907年(32歳)、1幕のオペラ『スペインの時』を作曲。時計屋の浮気な妻と彼女に言い寄る2人の間男のドタバタ喜劇。この年、前年に

第二ラヴェル事件。1906年作曲した歌曲集《博物誌》が聴衆にもドビュッシーにも批判され、マスメディアを賑わす。


1908年(33歳)、習作をのぞく最初の管弦楽曲『スペイン狂詩曲』を作曲。高い評価を得て、初期の出世作となる。第1曲「夜への前奏曲」、第2曲「マラゲーニャ」、第3曲「ハバネラ」、第4曲「祭り」の4曲で構成。第1曲の主題が各曲に再登場する(ハバネラを除く。この曲だけ旧作の再利用)。マラゲーニャはスペインの民族ダンス、終曲では祭の日の賑やかな市場が色彩豊かに描かれる。初演ではアンコールに応えて「マラゲーニャ」が演奏された。この曲を聴いたスペインの作曲家ファリャは「スペイン人以上にスペイン的だ」と感嘆した。同年、父が他界。
※『スペイン狂詩曲』 https://www.youtube.com/watch?v=2rEc_vksrnc

同年、ラヴェル初期のピアノ曲の最高傑作であり、演奏に超絶技巧が求められるピアノ組曲『夜のガスパール』を作曲。フランスの詩人ルイ・ベルトランの遺作詩集(1842年刊行)から題材を得て、第1曲「オンディーヌ」、第2曲「絞首台」、第3曲「スカルボ」の組曲とした。形式は古典的なピアノ・ソナタを意識しつつ、標題音楽でもあり、和音には印象派のエッセンスが入っており、これらが高次元で融合している。
「オンディーヌ」は水の精。人間の男に恋をし、結婚して湖の王になってくれと告白するが、男に断られるとしばらく泣いた後に大声で笑い、豪雨の中を消え去る。『水の戯れ』、『洋上の小舟』(『鏡』)と合わせて“水3部作”と呼ばれる。「絞首台」は冒頭から最後まで葬送の鐘が鳴り響き、風の音や死者のすすり泣きがそこに混じる。「スカルボ」は自由に飛び回る小悪魔を描く。ラヴェルは「スカルポ」について、当時“難曲の中の難曲”として知られたバラキレフの『イスラメイ』を上回る超絶技巧を要求しており、友人に「『夜のガスパール』の作曲の目標は、『イスラメイ』以上の難曲を書き上げること」と話している。急速な連打音やアルペジオの複雑な運指が演奏者を青ざめさせる。
『夜のガスパール』から「スカルポ」
https://www.youtube.com/watch?v=hKgcHjq1xKQ#t=14m28s (約10分)
バラキレフ「イスラメイ」楽譜つき https://www.youtube.com/watch?v=chN3b-WQmik
(7分51秒)
バラキレフ「イスラメイ」演奏映像、ラストスパート
https://www.youtube.com/watch?v=O5raMK4Z9co#t=4m59s //
https://www.youtube.com/watch?v=O5raMK4Z9co#t=6m35s

1909年(34歳)、「フランス音楽の創造」を掲げる国民音楽協会が保守化したことから、ラヴェルは同協会を退会し、自身が中心となって独立音楽協会を結成した。初代総裁に恩師フォーレが就任。独立音楽協会は「現代的な音楽の創造を支持すること」を目標とする。役員にはシェーンベルク、ファリャ、ストラヴィンスキーらが名を連ねた。
1910年(35歳)、「マザー・グース」を題材にしたピアノ連弾用の組曲『マ・メール・ロワ(マザーグース)』を作曲。子ども好きのラヴェルが友人夫妻の幼い姉弟のために書き、独立音楽協会の第1回演奏会で初演された。第1曲「眠れる森の美女のパヴァーヌ」、第2曲「親指小僧」、第3曲「パゴダ(中国製の首振り陶器人形)の女王レドロネット」、第4曲「美女と野獣の対話」、第5曲「妖精の園」。第5曲は眠りについた王女が王子の口づけで目を覚ますシーンが華やかに描かれ終曲となる。
同年、『亡き王女のためのパヴァーヌ』を管弦楽に編曲。
1911年(36歳)、8曲のワルツからなるピアノ独奏曲『優雅で感傷的なワルツ』を作曲。独立音楽協会で初演された際に作曲者の名を伏せ、演奏後に作曲者を当てるユニークな企画が催され、サティと回答する人もいた。同年、『マ・メール・ロワ』を管弦楽曲に編曲。終曲「妖精の園」に素晴らしいオーケストレーションが施され、壮麗な大団円で締めくくられる。

1912年(37歳)、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者ディアギレフの依頼を受け、印象主義的なバレエ音楽『ダフニスとクロエ』(全3場)を作曲。初演の振付はフォーキン、ダフニスをニジンスキー、クロエをタマーラ・カルサヴィナが演じた。物語は古代ギリシアの神聖な森のはずれにある牧場が舞台。第1部「パンの神とニンフの祭壇の前」では羊飼いのダフニスとクロエの踊り、海賊によるクロエの拉致、3人のニンフとパンの神の登場、夜想曲などが描かれる。第2部「海賊ブリュアクシスの陣営」では、海賊たちの戦いの踊り、クロエの優しい踊り、パンの神によるクロエの救出が描かれる。第3部「再び祭壇の前」では、壮大な森の夜明けの描写から始まり、ダフニスとクロエの再会、2人の愛の踊り(無言劇)が全員の踊りに発展し、歓喜の渦の中でフィナーレとなる。
組曲版はラヴェル自身がバレエ音楽から一部分を抜粋したもので第1組曲(第1部と2部の抜粋)と第2組曲(第3部の音楽)がある。ラヴェルはこのバレエ音楽を「3部からなる舞踏交響曲」と形容。現在、『ボレロ』『スペイン狂詩曲』と並ぶコンサートの人気曲となっている。
※舞台『ダフニスとクロエ 第3部』
https://www.youtube.com/watch?v=0_N60WyJcLM#t=41m02s
同年、『マ・メール・ロワ』をバレエ用に前奏曲、間奏曲など新曲を足して管弦楽曲化。ディアギレフによって初演された。

1914年(39歳)、ヴァイオリン、チェロ、ピアノの『ピアノ三重奏曲』を作曲。7月、第一次世界大戦が勃発。ラヴェルは10月に陸軍の野戦病院の運転手として従軍。翌年3月に志願兵となって第13砲兵連隊のトラック運転手として従軍し、砲弾の下をかいくぐって資材を輸送した(ここで戦死していれば「ボレロ」は存在しなかった)。
1916年(41歳)、健康を害してパリに帰還し、翌年に除隊。
1917年(42歳)、ラヴェルは18世紀フランスの音楽や伝統に敬意の念を込め、そして大戦で散った友人たちへのレクイエムとして最後のピアノ独奏曲『クープランの墓』(正確な訳は「クープランを偲んで」)を作曲。若い頃はドビュッシーの作風に惹かれていたラヴェルだが、音楽の構造や様式に簡潔さを求めて次第に18世紀フランスの古典的音楽に傾倒していった。中でもクラヴサン(ハープシコード)音楽の大家フランソワ・クープラン(1668-1733)を尊敬し、18世紀の音楽全般を称える気持ちを音楽にする。「プレリュード(前奏曲)」「フーガ」「フォルラーヌ」「リゴドン」「メヌエット」「トッカータ」の6曲で構成され、各曲が第一次世界大戦で戦死した知人たちへの思い出に捧げられている。「トッカータ」は同音連打を多用したピアノ曲の最高峰のひとつ。初演後、意地悪な反ラヴェル派の批評家はこう評した。「『クープランの墓』は大変結構だった。だがクープラン作曲の『ラヴェルの墓』だったらもっと結構だったに違いない」。
この年、最愛の母が76歳で他界。母の死はラヴェルにとって人生最大の悲しみであり、心に大きな空洞ができて創作意欲が消えてしまう。実質的に3年間も新曲を書けなくなってしまった。1919年(44歳)に『クープランの墓』から「前奏曲」「フォルラーヌ」「メヌエット」「リゴードン」の4曲を抜粋して管弦楽版に編曲したが、同年の暮れの手紙に「(3年が経っても)日ごとに絶望が深くなっていく」と綴っている。

1920年(45歳)、3年前にディアギレフから新しいバレエ音楽の作曲を依頼されていたことから、久々の新作となる管弦楽のための舞踏詩『ラ・ヴァルス(ワルツ)』を作曲する。19世紀末のウィンナ・ワルツへの讃歌であり、ワルツの聖化を目指した。ラヴェルは曲の内容をこう解説する。「渦巻く雲の中から、ワルツを踊る男女がかすかに浮かび上がって来よう。雲が次第に晴れ上がる。と、A部において、渦巻く群集で埋め尽くされたダンス会場が現れ、その光景が少しずつ描かれていく。B部のフォルティッシモでシャンデリアの光がさんざめく。1855年ごろのオーストリア宮廷が舞台である」。
※僕はこの曲を聴く度に「なんで冒頭はこんなにモヤモヤした音なんだろう」と違和感を持っていたけど、ラヴェルの「渦巻く雲」という解説を読んで合点がいった。
ラヴェルは『ラ・ヴァルス』を書きあげたものの、翌年は1曲も完成作がなく、以前と比べて創作ペースが大幅に落ちる(年に1、2曲)。この年、栄誉あるレジオンドヌール勲章叙勲者にノミネートされたが、ラヴェルがこれを拒否したために問題になり、政府はラヴェルへの叙勲を撤回した。
1921年(46歳)、パリ近郊のモンフォール=ラモリー(パリの西50km)にベルヴェデール荘を構え終身の自宅とした。

1922年(47歳)、ラヴェルは40年前に他界したロシアのムソルグスキー(1839-1881)が作曲したピアノ組曲『展覧会の絵』(1874)を管弦楽へと編曲する。依頼者は指揮者クーセヴィツキーで、彼はラヴェルの編曲版をパリのオペラ座で初演し、これによって『展覧会の絵』は世界的に知られるようになった。当時、フランスの音楽家には和音を多用するムソルグスキーの作曲法を評価する動きがあり、ラヴェルにとってもやり甲斐のある仕事だった。ラヴェルの編曲はトランペットの印象的なファンファーレで始まり、最後の壮大な“キエフの大門”まで華やかな色彩で彩られ、「オーケストラの魔術師」の手腕が存分に発揮されている。ラヴェルの手で半世紀ほど眠っていた『展覧会の絵』に新たな生命が吹き込まれ、ムソルグスキーが時代を越えて甦った。
1924年(49歳)、ロンドンのラヴェル祭のために狂詩曲『ツィガーヌ』(ロマ、ジプシーの意)を作曲。当時31歳のハンガリー人女性で名ヴァイオリニストのイェリー(1893-1966)に献呈。この数年前、イェリーはサロンで一晩中ラヴェルからのリクエストでハンガリーのロマ音楽を弾かされたことがあった。ラヴェルはパガニーニの難曲『24の奇想曲』を上回る超絶技巧を求める作品を書くためにギリギリまで推敲を重ね、イェリーが『ツィガーヌ』の楽譜を受け取ったのは初演3日前であったという。

1925年(50歳)、オペラ『子供と魔法』(全1幕)を作曲。台本を女性作家コレットが書いた。オペラとバレエが融合しており、ラヴェルは本作を「ファンタジー・リリック(幻想的オペラ)」と呼んだ。物語は、宿題をやらずに遊んでいた7歳の少年が母親に叱られ、罰として砂糖抜きの紅茶とバターの塗っていないパンを与えられる。母が去った後に部屋でカンシャクを起こした少年は「僕はとっても意地悪なんだ!」と、八つ当たりで部屋にあるポットやカップを叩き割り、ペットのリスをペン先で突いたり、暖炉の灰を掻き回し、大時計の振り子を外し、壁紙や本を破る。すると、部屋中の物に突然魂が宿って動き出し、「よくもやってくれたな」と少年を責め立て追いかけ回す。少年が後悔して庭に出ると、そこでは様々な動物が仲良くしており、少年は孤独感に包まれる。ケガをしたリスを見つけて介抱し、そのまま眠る少年。動物たちは「彼は傷の手当てをした」と少年を家に運び、「彼はおりこうです。非常に優しくて、良い子です」と去って行く。目覚めた少年は母親に手を差し伸べて「ママ!」と呼び幕が降りる。

この年、サティが59歳で他界。ラヴェルは晩年のサティを世話していた。世間は最初に並行和音を多く用いた作曲家をドビュッシーと見ていたが、ラヴェルは自身が処女作『グロテスクなセレナード』でドビュッシーよりも先に並行和音を駆使しており、それはサティから影響を受けた技法で、サティこそ最も敬意を払われるべきと訴えていた。ラヴェル「(サティは)いまや四半世紀以上も前に、知る人ぞ知る大胆な音楽を先駆けて編み出した天才です」。
1927年(52歳)、5年がかりで無駄な音符を削っていた最後の室内楽曲『ヴァイオリン・ソナタ』が完成し、親友の女性ヴァイオリニスト、エレーヌ・ジュルダン=モランジュ(1892-1961)に献呈する。モランジュは10年前の1917年(彼女は当時25歳)からラヴェルと親交を結び、求婚されたが断ったという。彼女はラヴェルの家の近くに住み、彼が他界するまで20年にわたって最も親密な友人だった。第2楽章にはジャズのリズムが取り入れられ、高い技巧が必要な終楽章はヴァイオリン奏者の見せ場となっている。

1928年(53歳)、バレエ演者のイダ・ルビンシテインの依頼を受け、ラヴェルの代表曲となる管弦楽曲『ボレロ』を作曲。“ボレロ”はスペインで18世紀に生まれた3/4拍子の民族舞踊のこと。軽やかな動きからvolar(ボラー/飛ぶ)が語源という説もある。バレエの舞台はセビリアの酒場。一人の踊り子が、舞台で軽く練習しているうちに興が乗って振りが大きくなり、最初はそっぽを向いていた客たちが、最後は一緒に踊り出す。スペイン人役のバレエ曲として書かれた本作は、延々と同じリズムが続くなか、たった2種類のメロディーが何度も繰り返される単純な構造にもかかわらず、次々と異なる楽器構成でメロディーが奏でられ、次第に全体の音量と音圧が増していくなど、オーケストレーションの見事な運用で聴く者を飽きさせない魔法のような作品に仕上がった。ラヴェルは旋律の単調さから世界の一流オーケストラが演奏を拒否すると考えていたため、パリ・オペラ座で初演された後に様々なオーケストラが取り上げる人気曲となったことに驚いた。
同年、初めてアメリカを訪問し、自作を指揮しながら4カ月にわたって演奏旅行を行った。25都市に大歓迎で迎えられ、NYではスタンディングオベーションも起きた。同時にラヴェルはジャズや黒人霊歌に直接触れ、大いに刺激を受ける。オーケストレーションのコツについてガーシュウィンに尋ねられたラヴェルは「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」と答えたという。ラヴェルはアメリカの作曲家に「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」と語った。

1929年(54歳)、34年前に書いたデビュー作のピアノ独奏曲『古風なメヌエット』を管弦楽化。
1930年(55歳)、第1次世界大戦に従軍して右腕をうしなったウィーンのピアニスト、パウル・ビトゲンシュタイン(1887-1961/哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの兄)のため『左手のためのピアノ協奏曲』を作曲。以降、左手のみで活動するピアニストの重要なレパートリーなる。単一楽章の3部構成で、2部ではピアノがジャズ的に演奏される。同年、ラヴェル本人が『ボレロ』を指揮し録音を行う。演奏はコンセール・ラムルー管弦楽団。指揮者によってテンポは異なるが、ラヴェルは1秒刻みで演奏する17分を望んでいた。翌年には早くも日本で初演されている。
※『左手のためのピアノ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=1T8KlSOG4CM
(楽章の表示あり)

1931年(56歳)、世界ツアーで自身がソリストとなる楽曲の必要性を感じ、『ピアノ協奏曲』を作曲。ラヴェルは「モーツァルトやサン=サーンスと同じような美意識」に基づいて作曲したといい、明るく華やかな作風は、『左手のためのピアノ協奏曲』の重厚さとは対照的。第2楽章はラヴェル作品屈指の美しさを誇り、終楽章には息詰まる興奮がある。ラヴェルの健康状態の悪化で世界ツアーの規模は欧州20都市に縮小されたが、ピアノ協奏曲は各地で喝采を呼び、アンコールで輝かしい終楽章がもう一度演奏されたという。モーツァルトから現代ジャズまでの縮図となった作品。
1932年(57歳)、ラヴェルは5年ほど前から軽度の言語・記憶障害に悩まされていたが、パリでタクシーに乗車中に交通事故に遭い、脳疾患が深刻化する。
1933年(58歳)、3曲からなるオーケストラ伴奏の連作歌曲『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』を作曲。第1曲「空想的な歌」、第2曲「英雄的な歌(叙事詩風の歌)」、第3曲「酒の歌」。これ以降、ラヴェルは脳疾患のため文字や記号を思い出せないなど作曲が不可能となり、この歌曲が最後の作品となる。同年11月にパリで『ボレロ』を指揮したが、既に自分のサインも書けなくなっており、これが最後の演奏会となった。
過去の記憶を失ったラヴェルは『亡き王女のためのパヴァーヌ』を聴いて、かつて「大胆さに欠けて貧相な形式」と自ら褒めることがなかったこの作品を、「この素晴らしい曲は誰の曲だい?」と尋ねたという。
1934年(59歳)、周囲の勧めでフランスを離れてスイス・モンペルランで療養する。
1936年(61歳)、入退院を繰り返す。ラヴェルは他人との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座っていることが増えた。
1937年11月、『ダフニスとクロエ』を聴いたラヴェルは楽屋を訪れた友人の前で泣き崩れた。「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」。そしてオペラ『ジャンヌ・ダルク』の構想を語り、「頭の中ではもう完成しているし音も聴こえている」と無念さを訴えた。
その翌月、脳の開頭手術を受けるも、腫瘍も出血も発見されず失敗に終わり、昏睡状態のまま手術から11日後の12月28日にパリで他界した。享年62歳。病床のラヴェルを見舞った友人に葬儀にはストラヴィンスキー、ミヨー、プーランクらが参列した。
ラヴェルの亡骸はパリ近郊西北のルヴァロワ=ペレに埋葬された。

1960年、弟のエドゥワールが他界し、晩婚で子どもがいなかったためラヴェル家の血筋は途絶えた。
1961年、モーリス・ベジャールが振付を行ったバレエ『ボレロ』が初演され、以降の大人気演目となる。1979年にダンサーのジョルジュ・ドンが演じ、当代一のボレロ踊りとして栄光を手に入れた。
1981年、映画『愛と哀しみのボレロ』(クロード・ルルーシュ監督)公開。
1984年、サラエボオリンピックのアイスダンスでイギリスのジェーン・トービルとクリストファー・ディーンのペアが『ボレロ』を使用し、五輪史上初めて9人の審判全員が満点をつけ金メダルを獲得した。

〔墓巡礼〕
彼のような人を天才と言うのだろう。オーケストラの楽器の特性をすべて熟知し、その響きを自由自在に操った。印象派の音の目新しさから前衛に思われがちだが、モーツァルト、クープラン、ラモーなど古典の作曲家を生涯崇拝し、『ソナチネ』で古典的な形式を現代的に復興させた。その一方、世界各地の音楽に興味を抱き、スペイン音楽を『スペイン狂詩曲』『ボレロ』で、ウィーン音楽を『ラ・ヴァルス』『高雅にして感傷的なワルツ』で、ジプシーの音楽を『チガーヌ』で、アメリカのジャズを『ピアノ協奏曲』などで取り入れ、それら全部をフランス的な洗練された趣味の良さで消化し、エレガントなラヴェルのサウンドとしてまとめあげた。
初めてラヴェルを墓参したのは2002年。パリの国鉄サン・ラザール駅から2駅乗って、北西部のクリシー・ルヴァロワ(Clichy Levallois)駅で下車。当地ルヴァロワにはかつてラヴェルの弟の家があり、彼はそこに仕事部屋を用意してもらっていた(ラヴェルのモンフォールの自宅がパリから西に約50kmも離れているため)。鉄道駅から北西に700メートル歩くとルヴァロワ・ペレ墓地が見えてきた(ネット情報に最寄り駅は地下鉄3番線Pont de Levallois - Becon駅とあるけど、たぶん国鉄駅もほぼ同じ距離)。歩いている時にパラパラと小雨が降り始め、管理人事務所でラヴェルのお墓の位置を聞いているうちにドシャ降りになってしまった。
すぐに止むと思って事務所で雨宿りさせてもらったら、管理人のおばさん(英語を話せる人だった)がコーヒーを入れて下さった。なかなか雨脚は弱くならない。やがて管理人さんとの世間話も尽きた。すると管理人さんは「そうだ!」という表情をして、ラヴェルが死去した際の“埋葬証明書”を見せてくれ、「墓参の記念に」とコピーまでとってくれた!偉人の埋葬証明書をもらったのは初めて。やがて小雨になり、丁寧に御礼を言って墓に向かった。
ラヴェルの墓は正門に近く、メインストリートの右寄りにあった。彼は両親や弟エドゥワールと一緒に眠っており、墓石の中央にラヴェル、右上に母、左上に父、下に弟の名が彫られていた。ラヴェル家の血筋は1960年に他界したラヴェルの弟で途絶えているはずだけど、墓前に植物が綺麗に植えられている。彼のファンなど有志によるものか、墓地や行政の配慮か。いずれにせよ、子孫がいなくても人々の手できちんと整備され、守られ続けていることが嬉しかった。

※『ボレロ』で小太鼓が叩く2小節のフレーズの繰り返しは、実に169回!
※1人で家の中にいるときもスーツとネクタイを着用していた。
※パリ郊外、イヴリーヌ県モンフォール=ラモーリーのラヴェルの最後の家は、そのまま保存され『モーリス・ラヴェル博物館』として公開されている。作曲に使ったピアノや浮世絵のコレクションなどを展示。ここで『ボレロ』『ピアノ協奏曲』『左手のためのピアノ協奏曲』などが作曲され、『展覧会の絵』が編曲された。
※ラヴェル「エドヴァルド・グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」
※ドビュッシーの印象主義から出発したが、フランス古典主義の精神を近代的な感覚で再生したのであり、ドビュッシーの印象派の音楽とは本質的に異なる。
※ラヴェルはドビュッシーの「グラナダの夕べ」(『版画』第2曲)を自作「ハバネラ」の盗作と感じていた。
※無神論者であったため、西洋の作曲家にしては珍しく宗教音楽が1曲もない。同性愛者であったとも。

バレエ『ボレロ』…1928年、バレリーナのイダ・ルビンシュタインが「スペイン人役のバレエ曲を作って下さい」とモーリス・ラヴェルに作曲を依頼し、音楽史に残る名曲が完成した。作品のコンセプトは“スペイン・セビリアのタブラオ(居酒屋)で1人のロマ(ジプシー)の女がテーブルに乗り、周囲の男たちを挑発する”というもの。初演は同年11月22日のパリ・オペラ座。振付けを担当したのはニジンスキーの妹、ブロニスラヴァ・ニジンスカだった。それから32年後、1960年にモーリス・ベジャールがユーゴのバレリーナ、デュスカ・シフニオスに振り付けたものが、現在の有名な『ボレロ』だ。

ベジャールの演出では、円形の赤いテーブルの上で「メロディ」役を1人の女性ダンサーが踊り、周囲では「リズム」役を男性のコール・ド(群舞)が踊った。リズムたちは、最初は離れた場所で椅子に座っている。メロディが静かに踊り始めてもソッポを向いているが、やがてメロディの振りが激しく情熱的になっていくと、1人、2人と我慢しきれなくなって立ち上がり、メロディを女神の如く讃えるように踊り出す。次第にメロディとリズムは響きあうように熱狂していき、官能と興奮のピークで全エネルギーを放出して倒れ伏す。全15分。※円形のテーブルを卵子とする解釈もある。確かにラストに男たちがテーブルを取り囲む姿は受胎を思わせる。さすれば、新たな命を産み出す生命賛歌であり、『ボレロ』はいっそう感動的に見える。

物語の展開上、当初は女性だけがメロディを踊っていたが、やがてジョルジュ・ドンというアルゼンチン出身の素晴らしい男性ダンサーが現れ、ベジャールはドンをメロディに抜擢、この試みは大成功を収める。そして映画『愛と哀しみのボレロ』(1981)のクライマックスでドンの踊りが映し出され、ボレロは世界的に有名になった。それからの約10年、ドンは各国でボレロを踊るが、あまりにドン=ボレロのイメージが強くなり過ぎた為、「過去から自由になりたい」とドンはボレロを封印する(日本公演は1990年が最後。僕は23歳の時に大阪フェスティバルホールで鑑賞)。それからすぐ、92年にドンはエイズの為に45歳で他界した。※YouTube『ジョルジュ・ドンのボレロ』(8分41秒のハイライト。クライマックスは3分50秒から)

数々のダンサーが『ボレロ』を踊ることを熱望したが、ベジャールが彼の芸術を理解し体現できると認めた人間しか許さないため、僕の知る限り、女性で踊ったのは、マイヤ・プリセツカヤ、シルヴィ・ギエム、ショナ・ミルク、マリシア・ハイデ、マリ=クロード・ピエトラガラ、デュスカ・シフニオス、上野水香の7人、男性はジョルジュ・ドンを筆頭に、パトリック・デュポン、シャルル・ジュドー、エリック・ヴ=アン、リチャード・クラガン、高岸直樹、首藤康之、後藤晴雄の8人、計15人だけ(他にもいたらスミマセン!)。ベジャールが他界したのは07年11月22日。奇しくもボレロの初演と同じ日だった。

ボレロ研究で参考にさせて頂いたこちらのサイトによると、男性群舞の衣装は、初期は居酒屋に集う水夫をイメージし、縞柄シャツを着て首にミニ・スカーフを巻いていた。現在上半身が裸なのは、(1)波打つ裸体が音楽を視覚的に表現する(2)「裸体こそが最も美しい衣装」(三宅一生談)。また、話題のバレエ漫画『昴』にはこんなセリフが出てくるらしい→「ダンサーには二種類しかない。『ボレロ』を踊ることが許されたダンサーとそうでないダンサー」。クーッ、かっこいい!

※1987年に2つのテーブルを前後に並べた「二人ボレロ」という珍しい舞台があったそうだ(シュツットガルト・バレエ団公演、メロディはマリシア・ハイデ&リチャード・クラガン)。うっわー、めっさ興味をそそられるんだけど、映像が残っていないのかな!?



★ドヴォルザーク/Antonin Leopold Dvorak 1841.9.8-1904.5.1 (チェコ、プラハ 62歳)1994&2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

1994 墓地の壁沿いに眠る 2005 お久しぶりです!墓の両脇の柱がオシャレ

チェコの偉人が大集合したヴィシュフラド墓地(元は古城だった)にドボォルザークは眠っている。モルダウ川が近い。
彼の楽曲の土臭さが大好き。親近感ありまくり。メロディーラインは詩情に溢れ、どの曲も退屈という言葉とは無縁だ。
流れるようなメロディーを考えることが苦手だったブラームスは、親友のドヴォルザークの才能を終生羨ましがっていたという。
「ドヴォルザークがダメだと思ってゴミ箱に捨てた楽譜の断片で自分は一曲書ける」(ブラームス)

※ドヴォルザークは筋金入りの“鉄っちゃん”(鉄道オタク)。音大で講座中に列車の通過時間になると授業を中断して観に行ったという。
「本物の機関車が手に入るのだったら、これまで自分が創った曲の全てと取り替えてもいいのに…」(ドヴォルザーク)



★ムソルグスキー/Modest Petrovich Mussorgsky 1839.3.21-1881.3.28 (ロシア、ペテルブルグ 42歳)1987&05&09
Alexander Nevsky Monastery, St. Petersburg, Russian Federation

    
若きムソルグスキー   合い言葉は「民衆の中へ!」 死の3週間前(レーピン画)
「芸術家は未来を信じる。自分自身が未来に生きるゆえに」(ムソルグスキー)



2005 チャイコフスキーのすぐ側 2009 画家レーピンが彼を埋葬した 墓参は6月上旬の15時半。木漏れ日がちょうど顔に当たって立体感が出た



両側面の足下に、代表作の
名前が彫られた石板がある
歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』の楽譜が正面に刻まれている。第1幕第1場の修道僧ピーメンの歌。
歌詞の意味は 「そうして正教徒の子孫達は知るだろう、故郷の地の過去の運命を!」

※墓石の楽譜について、「"展覧会の絵"研究会」を参照しました。同サイトによると墓の裏面には生没年が記載されており、
その生年が間違っているらしい(僕は未確認、不覚!)。当時は魔よけのため生年月日を偽る習慣があり、本人も勘違いしていたらしい。


 
墓のデザインで目をひいたのは、下の方がピアノの鍵盤になっていたこと!音楽家にふさわしい墓!

作曲家ムソルグスキーと画家ガルトマン(ハルトマン)は「芸術の真の目的は民衆の生活を描くこと」「富裕層の為の芸術ではなく民衆の為の芸術を!」と高い理想を胸に頑張っていたが、なかなか世間から認められず、世渡り下手で友達も少なかった。ムソルグスキーは批評家から「素人同然」と酷評され、ガルトマンも「空想の絵だけ描けて現実の物は描けない」と仲間から嘲笑された。だが、ムソルグスキーは帝政ロシア末期の暗い時代の中でも、明るさを忘れないガルトマンの画風を高く評価していた。理解者がお互いだけという状況で、2人は両者の存在が掛け替えのないものになっていく。だが1873年、出会いから3年目にガルトマンは動脈瘤で急死。まだ39歳の若さだった。訃報の電報を受け取ったムソルグスキーは倒れ込む「たった2行の知らせが僕を打ちのめした。僕はベッドに倒れ込み、そのまま翌日まで起き上がることが出来なかった」。ガルトマンと最後に出会った時(1ヶ月前)の記憶をムソルグスキーは手紙にこう記している「ガルトマンが突然街角でうずくまった。今から思えば、あれは心臓発作だったんだ。だが僕は全く気付かなかった。なんて愚かだったのだろう。もし気付いていれば何かしてやれたのに」。一方、ガルトマンもこの時の気持を絶筆の手紙に残している「僕はあの時、死が近いことを感じ、とても取り乱してしまった。なのにムソルグスキーはとても親切にしてくれた。ムソルグスキーは僕にとっていつも神様みたいな存在だった」。

  無二の親友だったガルトマン 

ガルトマンの他界から半年後、ロシア美術アカデミーで催された遺作展を訪れた彼は、親友の絵に再会して深く心を動かされる。「僕の心の中でガルトマンが熱く沸騰している。音と思想が空気の中に漂い、僕はそれを見つめ紙の上に書き記す」。ムソルグスキーは親友の400点の絵から10点を選び、それをモチーフに音楽をつけた。これが有名な『展覧会の絵』だ。曲と曲の間には「プロムナード」(仏語で“散歩”の意)が流れ、ムソルグスキー本人が会場を歩いている様子が描写されている。特筆したいのは第4曲の「ヴィドロ」。この重厚なメロディーの曲は、「ヴィドロ」がポーランド語で“牛”を指すことから、長く「牛車」の描写と思われてきた。ムソルグスキーも手紙に「ヴィドロ、これは“牛車”という意味にしておこう」と記している。わざわざ含みを持たせているのは、「ヴィドロ」には「家畜のように虐げられた民衆」というもう一つの意味があったからだ。ガルトマンが描いた「ヴィドロ」の元絵は、ロシア支配下のポーランドで実際に起きた民衆蜂起の絵で、その絵では軍隊に弾圧された民衆がギロチン刑にされていた。ガルトマンはポーランド旅行の時に処刑の現場に出くわし、強烈な体験を描きとめたのだ。ロシア皇帝の圧政が続く時代、抑圧されたポーランドの民衆への同情を表明した知識人は次々と投獄されており、ムソルグスキーは権力に対する命がけの抵抗歌として第4曲「ヴィドロ」を書いたんだ(日本の音楽教育の現場では、いまだに「ヴィドロは牛車が遠くからやってきて、目の前を通り、去っていく様子」と教えている。違〜う!)。フィナーレの第10曲「キエフの大門」は最も感動的な曲。これはロシア発祥の地・古都キエフで廃墟になっていた大門(11世紀にロシア最初の統一王朝が作った門)の再建案が公募された時、ガルトマンがデザインした絵だ。それは鳴り響く釣り鐘やロシア民族の誇りを表す「兜(かぶと)型」の屋根がついた美しいもの。この門の絵にムソルグスキーは壮麗なメロディーをつけた。しかもクライマックス直前には、華やかな「キエフの大門」の中に「プロムナード」(=ムソルグスキー)のメロディーを入れた込んだ!つまり、ムソルグスキーは楽譜の中でガルトマンと再会を果たしたんだ!ガルトマンやムソルグスキーが夢見た明るい理想のロシアの中で、2人の魂が溶け合っている!(これは泣く!)。ムソルグスキーは『展覧会の絵』の楽譜に「ガルトマンの思い出に」と刻んだ。
ガルトマンの死後、それまでも深酒をしていたムソルグスキーはますます酒に溺れ、アルコールでボロボロになり8年後に42歳で亡くなった。ムソルグスキーの肖像画を描いたレーピンいわく「洗練された紳士だった男が、持ち物を全て売り払って安酒場に入り浸っている。ボロを着て酒で顔が膨れあがった男。本当にこれが私の知るムソルグスキーなのだろうか」。

亡き親友の為に作曲したピアノ組曲『展覧会の絵』は生前に発表されることはなかったが、半世紀後に作曲家ラヴェル(@ボレロ)の手でオーケストラ化され、今や世界の人々に愛される名曲になっている。ロシアでさえ無名の画家だったガルトマン、不遇のまま死んだムソルグスキー。しかし人間は死んだからって終わりじゃない。両者の魂は芸術に姿を変えて世紀を超え、130年後を生きる僕らの心に届き、さらにまたこれからも人類が生き続ける限り受け継がれていくだろう。『展覧会の絵』を聴けばいつだって彼らに会える。
※『展覧会の絵』のモチーフになった絵は、革命や戦争で散逸し、長い間10枚のうち半数しか判明していなかった。残りの絵は“海外へ流出した”“独ソ戦で燃えた”と噂されていた。ところが、1991年にNHKの調査チームと作曲家の故・團伊玖磨さんがロシアに渡って、不明だった残りの5枚の絵を執念ですべて発見!ロシア人の研究者でさえ果たせなかった快挙だ。これは世界的&人類史的に見ても、芸術という分野でNHKが果たした最大の功績だと思う!

ピアノ版、オケ版が入って千円と良心的(Ama

(参考資料)NHK『革命に消えた絵画』、NHK『名曲探偵アマデウス』ほか



★ラフマニノフ/Sergei Vasilievitch Rachmaninoff 1873.4.2-1943.3.28 (USA、NY郊外 69歳)2000&09
Kensico Cemetery, Valhalla, Westchester County, New York, USA

  




2000 2009 背後の木々が少しスッキリ ロシア正教の十字架



十字架前の墓標に“セルゲイ&ナタリー”とあった この角度から見るのが好き。カッコイイ!

彼が精神病棟でリハビリの為に作曲した「ピアノ協奏曲第2番」は、クラシック史上に残る美しい名曲となった。
この墓地は世界一親切な墓地だった!広大な墓地だったので職員が自家用車で墓の場所まで連れてってくれ、
帰りは最寄の鉄道駅まで送ってくれた。こちらは何も頼んでいないにも関わらずだ。あ、あり得ない!
※ラフマニノフはロシア生まれ。後に米国へ亡命した。本名の綴りは“Rachmaninov”。




★ビゼー/Georges Bizet 1838.10.25-1875.6.3 (パリ、ペール・ラシェーズ 36歳)1989&02&05&09&15
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France






傑作『カルメン』を作曲! 1989 初巡礼 2002 墓上にはビゼー像が建つ

 
2005 この時もまだビゼー像がある。優しげな瞳

2009 ぐおー!どこのどいつじゃ、胸像を持ち去った野郎は!
そりゃ、僕だって欲しかった。が、持って行っちゃイカンだろう!
2015 いまだ胸像戻らず!

※胸像は2006年11月に他の5体と共に何者かに盗まれたが、後に発見され現在は墓地が保管しているとのこと。レプリカでも良いので置いて欲しい…。

ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日にパリで生まれた。母はピアニスト、父は声楽教師という音楽家の家庭ゆえ、幼い頃から音楽に親しみ、9歳で名門パリ音楽院に入学した。グノーに師事。1855年、17歳で『交響曲ハ長調』を作曲。若々しく伸びやかなシンフォニーであるが、当時のフランスはオペラしか音楽と認められず、交響曲のような純音楽は発表する機会がなかったため、この曲は生前に演奏されず、初演は実に作品完成から80年も経った1935年だった。
https://www.youtube.com/watch?v=ioi6XXXfF3M 『交響曲ハ長調』
18歳の時に若い芸術家の登竜門ローマ大賞(1663-1968)に応募。ローマ大賞は30歳以下の若者への奨学金付留学制度で、音楽、建築、絵画、彫刻、版画の5部門について王立アカデミーが最優秀者を選び、イタリアへ国費留学させるというもの。ビゼーは最優秀になったが年少のため2位扱いになり、翌年(19歳)にあらためてローマ大賞に輝き1860年(22歳)までイタリアに留学した。当時の音楽界ではオペラが最も価値あるものと思われていたので、オペラの本場であるイタリアに行くことは若い作曲家の夢だった。
1859年(21歳)、イタリア滞在中のビゼーのもとへ、ビゼーより2年遅れてローマ賞を獲得した、1歳年上の作曲家エルネスト・ギロー(1837-1892)が訪ねて来た。一足先に留学していたビゼーはギローを歓迎し、2人は1カ月の間一緒にイタリアを旅行した。ビゼーは母への手紙に綴る「旅先でギローとモーツァルトを一日中歌っていました。素晴らしい旅の友を得て僕は幸せです」。2人の友情は生涯続いた。

23歳、帰国後のビゼーは作曲家であり大ピアニストのリスト(当時50歳)の目の前でピアノを弾く機会があった。リストが「この曲(リストの新作)を弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローしかいない」と断言した曲を、ビゼーは初見で完璧に弾きこなし、仰天したリストが「弾けるのは3人だった。そして若い君の方が、音が輝いている」と讃えた。
だが、ビゼーはピアニストではなく、あくまでもオペラ作曲家を目指していた。1863年(25歳)、嫉妬による破滅を描いた歌劇『真珠採り』が初演されると、巨匠ベルリオーズ(1803-1869)が「ビゼーがいかに素晴らしいピアニストであったとしても、このオペラを聴けば誰もが彼を作曲家と認めないわけにはいかないだろう」といち早く絶賛した。一方、他の批評家や新聞評は冷淡で、以降に発表した約10曲のオペラは晩年の作品をのぞいてどれも大きな話題にはならなかった。ビゼーの才能を見抜いた劇場支配人レオン・カルヴァーヨ(カルヴァロ)は、落ち込むビゼーを励まし続けた。
27歳のときに才女かつ高級娼婦という年上の女性セレスト・モガドールにぞっこんになり、彼女が歌うハバネラ(スペインの流行歌)に聴き惚れ、後に『カルメン』にハバネラを入れた。30歳、交響組曲『ローマ』完成。
1869年(31歳)、作曲の恩師ジャック・アレヴィ(1799-1862)の娘、ジュヌヴィエーヴ・アレヴィと結婚。この頃からビゼーは持病の扁桃炎が悪化、耳を痛め作曲の筆が鈍った。親友ギローはビゼーを支え勇気づけた。

1872年(34歳)、フランス人作家ドーデの戯曲『アルルの女』につけた付随音楽(劇伴音楽)が話題になり、ビゼーの名が初めてパリっ子に広く知られた。『アルルの女』のストーリーは男が嫉妬で身投げする暗い内容もあって不評だったが、音楽は高く評価されたため、ビゼーは使用された全27曲から演奏会用に4曲を選んで組曲にした。オーケストラの編成にサックスが入っており、クラシックの有名曲の中では最初のサックス登場作品となっている。ちなみに原作者ドーデは初演の不評に落ち込み「一気に200歳も年をとったような気分」と嘆いたが、劇場支配人カルヴァーヨは「これこそ劇と音楽が完全に一致した作品」と大いに満足した。
『アルルの女』はオペラではなく舞台演劇であったため、ビゼーはなんとか作曲家の最高ステータスであるオペラ作曲家として成功したいと熱望し、翌年から1年をかけて『カルメン』の作曲に取りかかる。
※『カルメン』…原作はフランスの作家メリメの小説「カルメン」(1845)。タバコ工場で働くロマ(ジプシー)の女カルメンは、他の女工を喧嘩で傷つけ監獄に連行される。カルメンは伍長ドン・ホセを虜にして逃がしてもらい、ホセはカルメンの夫を刺殺して2人は一緒になった。その後、自由奔放で移り気なカルメンは新たに闘牛士エスカミーリョに夢中になり、嫉妬に狂ったホセに刺し殺される(その後、原作ではホセは絞首刑となる)。

1875年3月、渾身の力作『カルメン』が完成し初演を迎えた。当初予定されていたカルメン役の歌手が「ふしだらな女の役は嫌だ」と出演を拒否するなど、苦労を超えての初日だった。喝采を期待していたビゼーだが、ヒロインが貴族の令嬢ではなくタバコ工場の労働者ということで華やかさに欠け、またヒロイン役が一般的なソプラノ歌手ではなくメゾソプラノ歌手という点も観客を戸惑わせた。何より観客の反発を受けたのはカルメンの奔放な性格だった。19世紀のパリでオペラを観に来る上流階級は女性に貞淑さを求めており、自分の意思で恋をし、工場で働いて自立し、平気で男を捨てるという姿は、あまりに過激な女性像に映った。従来のオペラのヒロインは、最初は悪女でも最後に改心してハッピーエンドというのが主流だった。それゆえ、「悪女が自分の意思を貫き通し、最後は殺されてしまう。こんな野蛮なオペラはない」と非難ごうごうになった(後にカルメンは自立した現代的な女性と見られるようになっていく)。
『カルメン』初演の不評は、ビゼーを深く失望させた。『カルメン』は3カ月で33回上演されるなど、決して失敗作ではなかったが、初演は「卑わいだ」「不愉快だ」と酷評され、もっと大きな成功を期待していたビゼーは心労で体調を崩してしまう。そして初演から3ヶ月後、1875年6月3日に敗血症(細菌感染症)と心臓発作のため36歳という若さで他界した。ギローは親友の急死に打ちのめされる。その4カ月後、10月に『カルメン』はウィーンで上演され大成功を収め、欧州各地でビゼーの名は高まっていく。

『カルメン』は音楽に無駄な音が一音もなく、ドラマチックな展開と音楽の盛り上がりが完全に一致している。闘牛場を舞台にしたクライマックスは、闘牛士の勝利を讃える観客の歓声と、カルメンとホセの悲劇とのコントラストが見事としか言いようがない。恋愛沙汰の殺人を含む恐ろしい内容でありながら、けっしてセンセーショナルな内容に依存せず、堅実に人間ドラマを描ききった。ビゼーの優れた劇的表現は、19世紀末のベリズモ(現実派)・オペラに多大な影響を与え、リアル路線オペラの先駆けとなった。主人公が他者を殺めるプッチーニの『トスカ』より、『カルメン』は25年も早く作られている。
2歳年下のチャイコフスキーはビゼーの死の5年後にこう記している「昨夜、仕事の疲れを休める為にビゼーの『カルメン』を全曲弾いた。傑作という言葉の意味をいかんなく発揮した楽曲だ。今後10年の間に世界で一番人気のあるオペラになるだろう」。ドビュッシーやサン=サーンスもビゼーを絶賛し、哲学者ニーチェは『カルメン』を20回も観たという。チャイコフスキーの予言は的中し、『カルメン』は初演から130年以上が経った今でも、世界各地で常に上演され続けている大人気演目となった。

他界3年後の1878年、舞台『アルルの女』が再演され絶賛される。翌年、『アルルの女』の付随音楽は芝居がなければ演奏されない音楽であるため、親友ギローは「このまま埋もれていくのは惜しい」と感じた4曲を選んで管弦楽版にアレンジし、有名なファランドールを含む『アルルの女・第2組曲』にした。若い頃にイタリア旅行で育んだビゼーとギローの友情は、『アルルの女』の名旋律を甦らせ、音楽を聴く喜びを後世の僕らに与えてくれた。彼らの友情に乾杯。

※ビゼーの死後、妻ジュヌヴィエーヴは息子ジャックを連れて再婚し、サロンの花形となった。ジャックは作家マルセル・プルーストの友人で、プルーストは小説『失われた時を求めて』執筆の際にジュヌヴィエーヴをゲルマント公爵夫人のモデルとした。

〔墓巡礼〕
ビゼーはフランスで最も有名な墓地、パリのペール・ラシェーズ墓地に眠っている。最初に巡礼したのは1989年。広大な墓地ゆえ、地図を片手に迷いながら墓前にたどり着いた。立派なブロンズの胸像があり、ビゼーに直接語りかけているような気持ちに。彼は優しい顔立ちだから、見つめていると癒やされる。以降、2002年、2005年と、この胸像&墓に「お久しぶりです」と挨拶していた。ところが、2009年に4度目の墓参をしたところ、なぜか胸像が消えてお墓の上は空っぽに!訳が分からず墓地の事務所で「どうしたのですか」と尋ねたら、2006年11月に同じ墓地のジム・モリソン(ドアーズのヴォーカル)など他の5体の胸像と共に、何者かに盗まれたという。後日発見され、現在は墓地が保管しているとのこと。泥棒よ、何てことをしてくれたんだ。そりゃあ、欲しいのは分かる。僕だってビゼーの胸像と暮らしたい。だけど、盗んじゃイカンだろ!お陰で、2015年の時点でまだ胸像は戻されず、とても寂しい状態に…。

『カルメン』(前奏曲/2分26秒)レヴァイン指揮/メトロポリタン歌劇場管弦楽団(めっさ爽快!)



★サティ/Erik Satie 1866.5.17-1925.7.1 (フランス、パリ郊外 59歳)2002
Cimetiere d'Arcueil, Arcueil, France

 
恋人ヴァラドンが
描いた若き日のサティ
映画『幕間』に登場した裁判年のサティ。山高帽、雨傘、眼鏡がトレードマーク。
劇中でサティはパリ市街を砲撃しようとしている

孤高の天才作曲家サティの墓

「ここに並外れた音楽家が 優しき心を
持つ男が 希有な市民が眠る」
清掃車の兄ちゃんたちに墓地の道順を尋ねたら、
なんと清掃車で墓地の近くまで送ってくれた!
※墓碑銘の“市民”は、フランスにおいては革命を起こした“市民”という重要な意味を持つ

現代の音楽への扉を開いた「音楽界の異端児」、エリック・サティはフランスの作曲家。トレードマークは黒いコートと帽子、丸眼鏡、そして晴れの日でも手に雨傘。この傘は憎い批評家を攻撃する時に文字通り“武器”にもなった。酒場の演奏で生計を立て、安アパートで没するまで暮らした。
1866年5月17日、北部の港町オンフルールに生まれる。4人兄妹の長男。父は海運業を営んでいたが、4歳の時に仕事を変えパリに移住。6歳で母と下の妹を失い、子ども達は故郷の祖父母に預けられた。8歳のとき、サティがパイプオルガンを聴くために教会に入り浸る姿を見て、祖父は教会のオルガン奏者から音楽を学ばせた。1878年、祖母が海で謎の溺死。12歳で母も祖母も失ったサティは、パリで楽譜出版業を手がける父のもとへ戻される。
1879年(13歳)、名門のパリ音楽院に入学。同校はオペラばかり重視し、サティが好きな器楽曲を冷遇、違和感を覚えながら歳月を重ね、アカデミックな教育やロマン主義への反発が強まっていく。
1886年(20歳)、ピアノ曲『4つのオジーヴ(尖弓形)』を作曲。パリ音楽院に通い始めて7年目。歩兵連隊に入るも気管支炎にかかり1年で除隊。サティは音楽院が「退屈すぎる」と復学せず退学する。

1887年(21歳)、モンマルトルの小さなシャンソン酒場『黒猫(シャ・ノワール)』のピアノ弾きになる。この店はプルースト、ヴェルレーヌ、ゾラ、モーパッサンら作家の集う文学酒場でもあった。
1888年(22歳)、芸術家が集うモンマルトルの自由な空気がサティの創作力となり、社会や音楽のルールから解き放たれた名曲、サティ音楽の代名詞となるピアノ曲『3つのジムノペディ』を作曲した。初演は『黒猫』。物憂げで哀愁を帯びた独特の旋律がゆったりとしたテンポで奏でられた。「ジムノペディ」の語源となったジムノペディアは、古代ギリシャで行われていた神々を讃える儀式で、大勢の裸身の青少年がアポロンやバッカス像の前で何日も歌い踊った。サティはこの祭典を描いた古代ギリシャの壺の絵からインスピレーションを得たという。各曲へのサティの指示は、第1番「ゆっくりと苦しみをもって」、第2番「ゆっくりと悲しさをこめて」、第3番「ゆっくりと厳粛に」。
1889年(23歳)、パリ万博でルーマニアや日本の音楽を知る。
1890年(24歳)、全6曲のピアノ曲『グノシエンヌ』を作曲。第1番〜第3番は『3つのグノシエンヌ』として有名。「知る」という意味のギリシア語の動詞「グノリステ」から、サティが造語「グノシエンヌ」を考えた。別説で語源は古代クレタ島にあった古都「グノーソス宮」とも。曲調はパリ万博で触れた異国音楽の影響で『ジムノペディ』より東洋的になっている。
『グノシエンヌ』の楽譜には拍子記号どころか小節線すらなく、表現は演奏者の自由意志に任されているが、各曲にサティから演奏者へ助言が記されている(第5番のみ小節線あり)。サティの注意書きは、第1番「思考の隅で…あなた自身を頼りに」、第2番「外出するな…驕りたかぶるな」、第3番「先見の明をもって…頭を開いて」等々。
この年、『黒猫』で秘密結社「カトリック・薔薇十字教団」を主宰する神秘小説家ペラダンと出会う。サティはグレゴリオ聖歌など教会の単旋聖歌に惹かれていく。
1891年(25歳)、『黒猫』の経営者と喧嘩、同店のピアニストを辞める。「薔薇十字教団」の聖歌隊長に任命され、『薔薇十字教団の最初の思想』を作曲。この年、4歳年上のドビュッシー(1862-1918)と親交を結ぶ。

1892年(26歳)、モンマルトルの画家シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938※ユトリロの母)がサティの肖像画を描く。ヴァラドンの元彼はロートレックだが、ユトリロの父はルノアールという説もある。彼女はドガに絵を学んだ。同年、『薔薇十字教団のファンファーレ』を書いた後、ペラダンの傲慢さに閉口し、教団を脱会。「新アテネ・カフェ」のピアニストになる。
1893年(27歳)、1月から1歳年上のシュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、これが生涯で唯一の恋愛となった。サティは彼女に300通を超える熱烈な手紙を書くが、ヴァラドンはすぐにサティに退屈し、もらったラブレターを開封もしなかったという(サティはラブレターを書いたまま出さなかったという説もある)。ヴァラドンの恋心はサティの友人の大金持ちに移り、同年6月20日、屈辱を感じたサティは交際6カ月で絶交した。トラウマになるほど心が傷つき、没するまでの32年間、二度と女性に触れることはなかった。そればかりか、他者と深く交流することを避け、友人さえ臨終の時までアパートの自室に招き入れなかったという。
同年、自宅でキリスト教の新宗派「主イエスに導かれる芸術のメトロポリタン教会」を設立し、司祭かつ唯一の信徒となる。
1894年(28歳)、ピアノ曲『天国の英雄的な門への前奏曲』を作曲し、「この作品をエリック・サティに献呈する」と自分で自分に献呈した。
1895年(29歳)、“世界一長いピアノ音楽”である『ヴェクサシオン』を作曲。題名の意味は「嫌がらせ」。約1分(52拍)のメロディーを840回繰り返すという気の遠くなる作品。速度指定がなく過去の公演の演奏時間は18時間から25時間。サティの注釈は「このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためには、大いなる静寂の中で、真剣に身動きしないことを、あらかじめ心構えしておくべきであろう」。
1897年(31歳)、友人ドビュッシーがサティのために『ジムノペディ』の第1番と第3番を管弦楽曲に編曲。
1898年(32歳)、モンマルトルに別れを告げ、パリ南部の田舎町アルクイユのアパートに住む。引っ越しの際、彼の荷物は手押し車一台に収まったという。このアパートで蚊に悩まされながら没するまで27年間を暮らす。その後もモンマルトルで度々シャンソン歌手のピアノ演奏を引き受けたが、その時はアルクイユとモンマルトルの距離10km(片道2時間)を徒歩でテクテク往復した。
1900年(34歳)、人気シャンソン歌手ダルティのためにシャンソン『ジュ・トゥ・ヴー(お前が欲しい)』を作曲。
1901年(35歳)、『ピカデリー』を作曲。副題は「マーチ」。アメリカの黒人が白人のまねをして踊ったケークウォーク風の楽曲。
1902年(36歳)、作曲家協会から、わずかながら著作権料を初めて受け取る。同年、ドビュッシーが先進的なオペラ『ペレアスとメリザンド』を作曲し、サティは衝撃を受ける。同オペラは「音楽とドラマの完璧な結婚」と讃えられ、透明感のある和声法で夢の世界の出来事のような原作の世界観を見事に表現した。

1903年(37歳)、ドビュッシーから「形式も大事にした方が良い」というアドバイスを受け、サティには珍しく調性や拍子を持つ全7曲のピアノ曲『梨の形をした3つの小品』を作曲。なぜ7曲なのに3の小品とつけたかは不明。フランス語の“西洋梨”には「まぬけ」の意味がある。
詩人ジャン・コクトーいわく「印象派の音楽家たちは梨を十二に切って、その十二切れの一つ一つに詩の題をつける。ところが、サティは十二の詩を作って、その全体に『梨の形をした曲』という題をつけた。」
1904年(38歳)、指揮者・ピアニストでドビュッシー作品の初演で知られるカミーユ・シュヴィヤールの演奏会場で、日頃からサティに批判的な音楽評論家・作家のヴィリー(本名アンリ・ゴーティエ=ヴィラール/1859-1931※作家コレットの夫)とケンカになり警察沙汰になる。事の起こりは12年前の1892年。サティが前年に発表した付随音楽『星たちの息子』に対してヴィリーが「キャバレーで弾いてる元ピアニスト」「ナーバスすぎる」「蛇口のセールスマン」などとこき下ろし、怒ったサティ(当時26歳)が公開書簡で「頭の鈍い売文野郎」「文芸界のゴミ溜めの一部」とやり返し舌戦が激化。この年シュヴィヤールの演奏会で鉢合わせになったサティはヴィリーの帽子を地面に投げつけ、ヴィリーが杖で殴りかかるという事態に発展した。「雨傘で決闘した」という話もあり、おそらくヴィリーの杖VSサティの雨傘という状況になったのだろう。この騒動でサティは警察に連行され、生涯にわたって批評を忌み嫌うようになった。
1905年(39歳)、音楽の基礎理論を学ぶ必要を感じ、パリの私立音楽学校スコラ・カントルム(1894年設立)に入学し、若者たちに交じって対位法を学ぶ。この学校はオペラ一辺倒のパリ音楽院に対抗するため開校しており、反骨心の固まりであるサティの性格に合った。サティは通学のために身なりを整え、黒のスーツをスマートに着こなした。
1908年(42歳)、スコラ・カントルムを“最優秀”で卒業。左翼思想からアルクイユの急進社会主義委員会に加わる。
1911年(45歳)、ラヴェルが演奏会でサティの『ジムノペディ』などを取り上げ、次第にパリの音楽界でサティの存在が知られ始める。
1912年(46歳)、ピアノ曲『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』を作曲。題名で作品を判断しようとする人々への警告として奇抜なタイトルにした。「内奥の声」「犬儒派的牧歌」「犬の歌」「友情をもって」の4曲で構成。出版社にこの楽譜の出版を拒否されたことから、同じ年に『犬のためのぶよぶよした“真”の前奏曲』を作曲。「きつい叱責」「家に一人」「お遊び」の3曲で構成。

1913年(47歳)、海洋生物をモチーフにしたピアノ曲『ひからびた胎児』を作曲。「ナマコの胎児」「甲殻類の胎児」「柄眼類の胎児」の3曲で構成。1曲目の演奏の心がけとしてサティは「歯の痛いナイチンゲール(小鳥)のように」と指示している。2曲目はショパン「葬送行進曲」のパロディだが、サティは「シューベルトのマズルカからの引用」とトボけている。3曲目は完全終止の和音が18回繰り返され、サティいわく「作曲者による強制的な終止形」で終わるというパロディ精神に満ちた作品。
同年、『古い金貨と古い鎧』を作曲。「金を扱う商人の家で:13世紀のヴェニス」「鎧の踊り:ギリシャ時代」「キムブリ族の敗退:悪夢」の3曲で構成。第3曲の最後に演奏者をのけぞらせる“267回繰り返し”が待っている。これはシャルル10世の長い退屈な戴冠式を描いており、約10秒の同じ旋律を45分ほど聞かされることになる。18年前(1895年)に書いた840回繰り返しの『ヴェクサシオン(嫌がらせ)』を彷彿させる。
この年はサティが台本を書いた1幕の喜歌劇『メドゥーサの罠』(全7曲)も作曲している。伝統的な形式美に反抗したダダイズム劇。物語は、メデューズ男爵が娘フリゼットとの結婚を願い出た青年アストルフォに、人物を見極めるため罠を仕掛けようとするもの。場面転換の際に機械仕掛けの猿の7つの踊りがサティの音楽と共に挿入される。
https://www.youtube.com/watch?v=D2Q6dd1yK-E
この年、ドビュッシーの紹介でストラビンスキーと出会う。
1914年(48歳)、20枚の風俗画にピアノの小品を1曲ずつ添えるという婦人高級雑誌の企画に協力し、ピアノ小曲集『スポーツと気晴らし』(序曲を入れ全21曲)を作曲。雑誌社は当初売れっ子のストラビンスキーに作曲を依頼したが、契約金額が高額で断念。代わりにサティに依頼したところ、逆にサティは「こんなに貰えない」と抵抗、自分への報酬を“値下げ交渉”して仕事を請け負った。この曲集も楽譜に調号がなく、小節線が存在しない。序曲「食欲をそそらないコラール」に続いて様々な小品が続くが、異色は第16曲「タンゴ」。ダルセーニョ記号によって永遠に繰り返され、厳密には終わりのない作品になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=rA-y3MdZcmM
1915年(49歳)、ヴァイオリンとピアノのための小品集『右や左に見えるもの〜眼鏡無しで』を作曲。「偽善的なコラール」「暗中模索のフーガ」「筋肉質なファンタジー」の3曲で構成。この年、ジャン・コクトーと知り合う。

1916年(50歳)、バレエ音楽『パラード』を作曲。「コラール」「赤いカーテンの前奏曲」「中国の手品師」「アメリカの少女」「軽業師」「終曲」の6曲で構成。初演は翌年。
1917年(51歳)、ディアギレフが率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)が全1幕の『パラード』を初演。台本を28歳の詩人ジャン・コクトー(1889-1963)、美術・衣装を36歳のパブロ・ピカソ(1881-1973)、音楽を51歳のサティが担当するという、時代の最先端をいく芸術家の合作であり大いに話題を呼んだ。物語は日曜日の見世物小屋のテント前で、軽業師らが客寄せの芸を披露し、マネージャーが客を呼び込むというもの。ピカソがデザインした2人のマネージャーは口がラッパになっているなど、ピカソの絵から抜け出てきたような奇抜なデザインとなっている。獅子舞のように2人の人間が入った馬がコミカルな動きで笑いを誘う。サティはタイプライター、ラジオの雑音、サイレン、ピストル、発電機、空きビンを叩く音など、生活音をそのまま音楽に取り込んでおり現代音楽を先取りしている。初演時のプログラムに詩人アポリネールは「この作品が聴衆に快い驚きを与えることになるだろう」と寄せた。第一次世界大戦の真っ只中であり、このような公演を不謹慎とみる者は抗議し、初演はヤジと喝采が混じり合って騒然となった。サティは『パラード』を非難した批評家に抗議の手紙を書き、その内容が問題となって侮辱罪および名誉毀損で警察に拘留されたが、コクトーら友人の尽力で大事に至らなかった。一方、『パラード』は若手作曲家たち、ミヨー、オネゲル、オーリック、プーランク、デュレ、タイユフェールらフランス「6人組」を大いに刺激した。サティは「6人組」の尊敬を集め、彼もまた「6人組」の音楽を積極的に世に紹介した。
同年、全3楽章の『官僚的なソナチネ』を作曲。ソナチネのピアノ教本で有名なクレメンティの作品をパロディ化したもの。官僚の出勤から帰宅までをイメージ。
1918年(52歳)、プラトンの対話編にもとづくソプラノとオーケストラのための交響的ドラマ『ソクラテス』を作曲。サティがプラトンの著作の仏語訳からテクストを抜粋した。
1919年(53歳)、『5つの夜想曲』を作曲。同年パリのダダの芸術家たちと交流し、自身もメンバーとなる。

1920年(54歳)、室内楽曲『家具の音楽』を作曲。家具のようにそこにあっても日常生活を妨げない音楽、意識的に聴かれることのない音楽を目指した。「県知事の私室の壁紙」「錬鉄の綴れ織り」「音のタイル張り舗道」の3曲で構成。ギャラリーで実験的に演奏した際、プログラムに「休憩時に演奏される音楽をどうぞお聴きになりませんように」と注意書きを添えたにもかかわらず、演奏が始まると人々は曲に興味を示して聴く態度を見せたため、サティが「おしゃべりを続けて!」と呼びかけたという。結局人々は聴き入ってしまい“計画”は失敗に終わった。この「生活の中に溶け込む音楽」という思想が、後にBGMやイージー・リスニング、アンビエントミュージック(環境音楽)を生むことになった。作曲家ダリウス・ミヨーいわく「(6人組の)オーリックとプーランクはこういうサティの提案に失望したが、私はとても面白いと思ったので、サティに協力して、バルバザンジュ・ギャラリーで行なわれたコンサートで実験してみた」。
1921年(55歳)、フランス共産党が結党され、サティはすぐさまアルクイユ支部の党員となった。
1924年(58歳)、サティの最後の作品となるシュルレアリスム・バレエ『本日休演(ルラーシュ)』の音楽を作曲。シャンゼリゼ劇場でスウェーデン・バレエが上演し、370枚も反射鏡がはられた眩しい舞台の上で、ダンサーが即興で台本を考えて振付を行った。バレエの途中で映画『幕間』が上映され、映像の冒頭に最晩年のサティ(雨傘を持っている)と画家フランシス・ピカビア(横尾忠則が敬愛)が登場しパリに大砲を撃ち込む。その後、前衛美術家マルセル・デュシャンと写真家マン・レイがチェスをやり、髭モジャのプリマドンナが登場し、ラクダが引っ張る霊柩車に葬儀参列者がスキップでついていき、棺から飛び出したダンサーのジャン・ボルランが出演者全員を魔法のステッキで消すという、シュールの極致といった世界が繰り広げられる。監督は後に仏映画の巨匠となる当時26歳のルネ・クレール(1898-1981)でこれが第2作。ドビュッシーは“ついて行けない”と思ったらしい。いつもなら味方のジャン・コクトーも「もし、こんな馬鹿騒ぎだということを知っていたら、子供達でも連れて来るのだった」と手厳しい。ドビュッシー、コクトー、「6人組」のオーリックやプーランクがサティから離れ、孤立していく。
『幕間』 https://www.youtube.com/watch?v=sNmxvRt4Rg8 (14分)

1925年7月1日午後8時、パリの聖ジョゼフ病院にて肝硬変のため他界。享年59歳。棺はアルクイユの公共墓地に埋葬された。彫刻家ブランクーシが造形にかかわったサティの墓はとてもシンプルなデザインで、次の石板が設置された『Ici repose un musicien immense,un homme de coeur,un citoyen d'exception(ここに並外れた音楽家が 優しき心を持つ男が 希有な市民が眠る)』。晩年のサティは「年老いた共産主義者」を自称。他界後、遺品の整理でサティのアパートを訪れた友人たちは100本以上という大量の雨傘を見つけた。同時代の作家モーリス・サックスは記す。「エリック・サティは死んだ!不幸にも、あまりにも早くこの世を去った。貧困と安酒のために…。異論の余地のないのは、彼が今日のフランスの音楽家の先達だということである」。

日本ではサティの音楽が没後半世紀以上も知られていなかったが、1951年に作曲家・伊福部昭(『ゴジラ』で知られる)が著作『音楽入門』に「人類が生みえたことを神に誇ってもよいほどの傑作」と讃えた。
他界38年後の1963年に、840回繰り返し演奏される『ヴェクサシオン 』が、ジョン・ケージら10人のピアニストと2人の助っ人によって初演された。18時から演奏が始まり、終わったのは翌日の午後12時40分だった。この年、ルイ・マル監督のフランス映画『鬼火』でジムノペディが使用され、これをきっかけにサティが世界的に知られるようになる。

楽譜から「調性」「拍子」「小節線」を廃止することを“発明”したサティ。調号の表記は捨てられ、臨時記号は1音符ごとに振られた。『家具の音楽』のように観賞を目的としない音楽も手がけ、環境音楽、BGMの開祖となった。また、「ヴェクサシオン」の15時間に及ぶ840回の繰り返し、「古い金貨と古い鎧」の267回の繰り返し、「スポーツと気晴らし」第16曲「タンゴ」の永遠の繰り返しは、ミニマル・ミュージックの先駆けとなる。楽器以外のタイプライターやサイレンを音楽に組み込んだ点では、現代音楽の祖ともいえる。そして聴衆に対しては、曲名にこだわることをからかうように、「梨の形をした三つの小品」「彼のジャム付きパンを失敬する食べ方」「輪回し遊びの輪をこっちのものにするために、彼の足のウオノメを利用すること」「官僚的なソナチネ」「快い絶望」「いやらしい気取り屋の3つの高雅なワルツ」「コ・クオの少年時代(1)ココアを指につけてなめちゃだめよ」「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」など奇妙な題名のピアノ曲を量産した。
流行りのロマン主義の重々しいドラマチックな音楽や、過度に複雑化していく楽曲に反逆し、独特の和声で澄みきった情感や静けさを紡いだ作風は、先輩のドビュッシーや年下のラヴェルに影響を与え、サティがグレゴリオ聖歌の教会旋法を作品に取り込むと、それをヒントにドビュッシーやラヴェルも教会旋法を扱って表現の幅を広げ、従来と異なる風景の音空間を築くことに成功した。
ミヨーら「6人組」の若い革新的な作曲家たちは、音楽の無限の可能性を知った。ワーグナーが『トリスタンとイゾルデ』で行った調性崩壊は3度集積の和声の範囲内であったが、サティは3度集積を使わずに自由で複雑な和音を書き込み、和声面で音楽史上に大変化をもたらした。
「人間の環境の中で、音楽は自然に存在するべきだ」。サティにとって、音楽はコンサートホールで行儀正しく聴くだけのものではなく、壁紙や椅子と同じように日々の暮らしで役立つものだった。音楽史に大きく貢献し、若手作曲家から師と仰がれたサティだが、水道も電気もない安アパートで「もう2日間、何も食べていない」と記す極貧生活を送り、モンマルトルの酒場でピアノを弾いて生計をたてた。アカデミズムに対して皮肉な言動をとり続け、社交界など華やかな世界からは相手にされなかったが、それを気にも留めず自分の年齢の半分ほどの新進芸術家たちと時間を過ごした。ラヴェルやコクトーが老いたサティの面倒をみ、サロンの帰りは10km先のアルクイユまで誰かが車で送った。その音楽は豊かなユーモアと鋭い風刺を同時に含み、あらゆる既成の権威に反発した反骨の作曲家だった。
「肝腎なのはレジオン・ドヌール勲章を拒絶することではないんだよ。なんとしても勲章など受けるような仕事をしないでいることが必要なんだ」(サティ)

〔サティ評〕(ツイッターのサティbotから)
ストラビンスキー「サティは、私がかつて知ったひとの中で、たしかに、一番変人だったが、そればかりでなく一番めずらしい、一番エスプリにとんだひとだった。私は彼が大好きだった。」
ジョン・ケージ「サティは自分自身の損得や人気といったことには無関心だった。だからサティには笑うことも、泣くことも、それを自分で選ぶことができた。」
ジャン・コクトー「サティのような人間の、底知れぬオリジナリティは、若い音楽家たちに彼ら自身のオリジナリティを放棄しなくてもいいという教訓をあたえる。」
坂口安吾「サティはいつも聴衆の先に立っていた。聴衆がようやく彼を理解しはじめると、彼は忽然と、もう一歩先へ身を躍らせれてしまう。そして彼は生涯ほがらかに落伍者の生活を続けた。」
モーリス・ラヴェル「いまや四半世紀以上も前に、知る人ぞ知る大胆な音楽を先駆けて編み出した天才。」

〔墓巡礼〕
サティの墓参をしたのは2003年。ガイドブックやネットではサティが眠る墓地の正確な場所が分からず、パリの観光案内所の中でもひときわ大きく資料が揃っていそうな、凱旋門の側の観光案内所に早朝から訪れた。「朝イチ訪問」は墓マイラーの鉄則だ。なぜなら、質問がホテルや美術館の場所のようにすぐ分かるものではなく、「墓地」というマニアックな内容であるため、観光客の多い昼ごろに質問すると、ちょっと調べただけで「わからない」と言われるからだ。それゆえ、気合いを入れて調べてもらうためには、職員にまだ心の余裕がある朝イチに行く必要がある。
駆け出しの墓マイラーだった頃、観光案内所で自分の後ろに行列ができ、「時間がかかりすぎる」と舌打ちの嵐を浴びたことがあり、「す、す、すみません」といったん列の最後尾に並び直すようなこともしていた。その経験から、サティの墓所を調べる時は、「ソーリー・アイ・ニード・ロングタイム」と書いたダンボール紙を用意して背後の足下に置いた。凱旋門そばの案内所はカウンターが複数あるため、サティの墓の調査中、僕の後ろには誰も並ばなかった!舌打ち、いっさいなし!案内所のおばさんはぶ厚い資料を調べ、「これだわ!サティの墓を見つけた!パリの外、アルクイユのようね」と、郊外を走るRER(高速鉄道)の路線マップを僕に渡し、「この丸印をつけた駅で降りて。町に墓地がいくつかあるから誰かに聞いてね」と言われた。ありがとう、それだけ分かれば充分です!僕はパリからRERのB4線に乗って10km南のアルクイユへ。
Laplace駅で降り、駅前で何人か尋ねた。ところが誰もサティの墓地を知らない。「さて、どうしたものか」。思案していると、目の前に清掃車が止まった。「そうだ!街中を走っている彼らなら知っているかも!」。屈強な3人のお兄さんたちに質問すると「おぉ、サティの墓か!知ってるぜ!」「だが墓地まで1kmある。口で説明するのはややこしいから一緒に行ってやる」。なんと、作業をやめて僕を墓地まで送ってくれるという。「ここに掴まれ」と言われ、清掃車の後部ステップに立ってバーに掴まり、キョトンとする通行人に挨拶しながら墓地に直行。正門に到着すると、思いのほか墓地が広くて面食らったが、「サティの墓は斜面の下の方にあるぜ!」と教えてもらい胸を撫で下ろす。走り去る車の窓から掛けられた次の言葉が、15年経った今も耳に心地良く響いている。「Satie is good!(サティはいいよなっ!)」。

※アルクイユにはサティが最後に住んでいた三角形のアパートが現存している。2階の窓下にそれを示すプレートが掛かっている。
※アルクイユで酔っ払い、溝の中で寝ていたこともあったという。
※サティは絵を描くことを好んだらしく、デッサンや似顔絵が残っている。
※白いものしか食べず、冬でもハンモックで寝たという。
※サティの『スポーツと気晴らし』中の第16曲「タンゴ」のように、ダルセーニョ(D.S.)記号でセーニョに戻り、永遠に繰り返しされる曲としては、他にショパンのマズルカ(作品7-5や作品68-4)や、ジョン・ケージの「オルガン2/ASLSP」がある。後者は2001年からドイツの教会で自動化されたオルガンが演奏中だ。演奏時間はオルガンの寿命を考えて639年に設定され、演奏終了は2640年9月5日の予定。



★リスト/Franz Liszt 1811.10.22-1886.7.31 (ドイツ、バイロイト 74歳)2002
Alter Friedhof, Bayreuth, Germany

   

白亜のチャペルの中に眠っている。※若き日のこのイケメンぶりを見よ!



ワイマールにあるリストの家。他の見学客がいなかったので、なんと管理人さんがリストのピアノを弾かせてくれた!

「ピアノの魔術師」の異名を持つ19世紀最大のピアニストであり、近代交響曲の真髄「交響詩」の創始者でもある作曲家のフランツ・リストは、1811年10月22日にハンガリー・ショプロン近郊のライディング村に生まれた。アマチュア音楽家の父に6歳からピアノを教えてもらい9歳でコンサート・デビュー。この演奏会の成功で数人のハンガリー貴族から6年間の奨学金を約束され、11歳でウィーンに出た。そしてウィーン音楽院に入り、ピアノをチェルニーに、音楽理論をイタリア人作曲家サリエリに学んだ。1823年(12歳)、ウィーンで3回目の演奏会を開いたところ、神童の噂を聞いた晩年のベートーヴェンが列席し、演奏後に少年リストを抱きあげてキスを贈ったという。1824年(13歳)、パリでソロ・リサイタルを行い大成功をおさめ、早々にピアニストとしての名声を確立した。同年、歌劇『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したがこちらは4回のみに終わった。

リストは13歳から25歳までパリに12年間滞在し、現地でショパン、ベルリオーズなどの作曲家、作家のユゴー、詩人のラマルティーヌやハイネなど多くの著名人と知りあった。1827年(16歳)、父親とベートーヴェンが他界。
1831年(20歳)、イタリアの天才バイオリニスト、パガニーニによるパリ公演に衝撃をうけ、超絶技巧を駆使した「ピアノのパガニーニ」になることを決意する。
1833年(22歳)、パリで出会った6歳年上のダグー伯爵夫人マリー(父は亡命フランス貴族)と恋に落ちる。28歳のマリーは家も夫も捨ててリストのもとに走った。翌年のリストの手紙「この神々しい愛の震えはどこから来るのか、それはあなたからだ。妹よ、天使よ、女性よ、マリーよ!」。2人はスイスへ逃げ同棲関係を6年間続け、3人の子をもうけた。次女のコジマはドイツの名指揮者ハンス・フォン・ビューローと結婚、その後に作曲家ワーグナーの妻となった。

1838年(27歳)、シューマンの可愛いピアノ曲集『子供の情景』に感動し、シューマンに「この曲のおかげで私は生涯最大の喜びを味わうことができました」「週に2、3回は娘のために弾いています」「しばしば第1曲を20回も弾かされ、ちっとも先に進みません」と手紙を書いた。同年、ドナウ川水害でチャリティー・コンサートを催し、ブダペストに多額の災害救助金を寄付する。
1839年(28歳)、マリーと子どもたちをスイスに残し、ヨーロッパ各地へのコンサート・ツアーに出発する。リストの公演先は、北はモスクワから南はリスボンまで、西はダブリンから東はイスタンブールにまでおよび、各地でリスト・フィーバーを起こし、文字通り全欧を“征服”した。憧れのパガニーニをしのぐ人気を集めて「ピアノのソロ・リサイタル」という興行形態を最初に確立した音楽家となった。ベルリンでは3カ月間に20回以上の演奏会を行ったが、その度に会場に入れない聴衆が増えて大騒ぎになった。
美貌の持ち主でもあったリストは、各地で「リストマニア」と呼ばれるグルーピー(熱狂的女性ファン)に囲まれるアイドル的存在であり、客席からステージに投げられた花束の中で演奏し、演奏会場では女性ファンの失神者が続出した。
一方、聴衆のマナー違反には手厳しく、ロシアで演奏した際に自分の演奏を聴かないニコライ1世に向かって「陛下が話しているうちは私も演奏が出来ない」と叩きつけた。ツアー初年のウィーンからマリーへの手紙「皇后がシューベルトの歌曲を望まれ私は“アヴェ・マリア”を弾いた。ところがザクセンの公女が2小節目で咳を始め、そのまま20小節も咳をやめず私は激怒した」。
人々はリストの超絶技巧に感嘆し、「リストは指が6本ある」という噂が広く信じられ、楽屋に「指を見せて欲しい」というファンが現れた。実際、そんな噂が流れるほど指が長かった。リストは幼い頃から指を伸ばす練習をしており、人さし指は11センチ、中指は12センチもあり(筆者は7.8cm)、12度の音程、つまり「ド」から高い「ソ」まで軽々と押さえることができた。
1840年(29歳)、「リストマニア」との度重なる放蕩や、貴族であるマリーとの身分の違いなどもあって、次第にマリーは愛情が冷めていく。リストからマリーへの手紙「“永久に完全に一人きりでいること以外、何も望みません”、これは君が言った言葉だ。あの献身の6年間がこのような結果をもたらすとは!」。
1844年(33歳)マリーとの同棲を解消する。別離から2年後、マリーは女流作家となりダニエル・ステルンの筆名で小説を書き、作中でリストのことを“しみったれた男”とコテンパンにこきおろした。
1847年(36歳)、演奏先のウクライナ公国キエフで現地の大地主の娘、カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人(当時28歳)と出会う。高い教養と豊かな感性を持つカロリーネは、17歳のときに結婚した退屈な夫のもと刺激のない日々を送っていた。慈善コンサートを通して2人は出会い、互いを運命の人と確信した。カロリーネは恵まれた生活、社交界、祖国、すべてを捨てた。この頃のリストの手紙「これまで私の人生は“来たるべき人を待つ”という、果てしない待望の中で心臓は石と化していた。しかし今は石から泉があふれている。愛するカロリーネ、私が欲しているのはあなただけだ。あなたは我が魂の中の魂なのだ」。当時は厳格なキリスト教社会であり、周囲は内縁関係となった2人に冷たかった。リストはそれでもカロリーネを同棲相手に切望した。

1848年(37歳)、リストはコンサート・ピアニストとして人気絶頂にあったが、「才能を作曲活動に注ぐべき」というカロリーネの説得を受け入れ、8年間続けてきた演奏旅行と華やかな舞台から引退し、ワイマール大公の宮廷楽長(指揮者)に就任した。実際、リストが作曲した主要作品はここから約10年間のワイマール時代に生まれており、カロリーネの助言は正しかったといえる。リストはカロリーネに出会ってから生活態度が大きく変わり、生真面目な仕事人間に生まれ変わった。旅先でリストマニアと情事に浸ることもなく、ワイマールで作曲と後進の育成に専念した。
同年、ラマルティーヌの詩『4つのエレマン』中の「愛、苦悩、闘争、人生のすべては終局である死の前奏曲にすぎない」に着想を得た交響詩『前奏曲(レ・プレリュード)』を作曲。リストはベルリオーズの『幻想交響曲』など標題交響曲の影響を受け、全曲をつらぬく中心的な主題=固定楽想の手法をさらに発展させた新たなジャンル「交響詩」(リスト命名)を創始した。単一楽章の交響詩は絵画、詩、戯曲、自然の風景など音楽外の題材に着想を得ており、「物語性」を重視。19世紀後半にジャンルとして定着し、リストは『オルフェウス』『ハムレット』『マゼッパ』など13曲の交響詩を書いている。後にドボルザーク、シベリウス、スメタナ、リヒャルト・シュトラウス、チャイコフスキーらもリストを手本として交響詩を作曲した。彼らは幅広い表現力が必要な交響詩を通して、効果的な響きを追求し、和声法と楽器法を飛躍的に発展させていった。
※ベートーヴェンの「運命」「英雄」「月光」などの標題は後世の人間が付けた通称であり、19世紀前半まで標題がつく音楽は珍しかった。ベルリオーズが1830年の『幻想交響曲』(原題『ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲』)で標題にこだわり、リストがそのスタイルを交響詩で発展させたことは、音楽史において極めて大きな意味を持つ。

宮廷楽長としてのリストは、ワーグナーやベルリオーズ、自分の作品を積極的に取り上げ、就任年にさっそくワーグナーの楽劇『タンホイザー』をワイマールで上演している。『タンホイザー』は3年前にドレスデン初演されたが不評であったため、リストが救いの手をのばして再演の機会をもうけ、再評価の道を開いた。リストは「楽劇」の熱烈な支持者となりワーグナーと生涯の友情を結ぶ。ワイマールはリストの手で世界有数の音楽都市として知られるようになり、ドイツ後期ロマン派音楽の中心地となった。
一方、強烈な上昇志向を持ち、皮肉屋の一面があったリストは、この年にシューマン家でやらかしている。リストはシューマン夫妻の結婚式に駆け付けるほど親しく交流していたが、6月にシューマン家を訪問した際に、年上のシューマンがセッティングした晩餐会を2時間も遅刻したうえ、シューマンの親友かつ前年に若死にしたメンデルスゾーンの批判を始めた。怒りの沸点に達したシューマンはリストの両肩を鷲掴みにし、「そんな風にいえるあなたは、いったいどれほどの人間なのだ?」と叫び部屋を出ていった。リストはシューマン夫人クララに謝罪した。「ご主人は、私がきつい言葉を冷静に受け止めることができたただ一人の相手です」。この騒動にもかかわらず、リストはシューマンの作品を積極的に演奏し続け、後にシューマンはリスト宛の手紙に「大切なことは絶えず努力し、向上することです」と書いて水に流した。ちなみにシューマンはリストの勧めで室内楽を書き始めている。

1849年(38歳)、『ピアノ協奏曲第1番』『同第2番』 が完成。『第1番』は6年後にベルリオーズ指揮、リスト自身のピアノ演奏で初演されている。『第1番』はトライアングルが活躍することから、アンチ・リストの音楽評論家ハンスリックから「トライアングル交響曲」と揶揄された。この年、民主化革命に参加して警察に追われていたワーグナーがリストを頼ってきたため、逃亡資金を渡してスイスに逃がしている。
1850年、ワーグナーが2年前に完成させたが初演機会のなかった楽劇『ローエングリン』をワイマールで初演。同年、自身の3つの歌曲をピアノ曲にした『愛の夢』(3つの夜想曲)を書く。ロマンティックな第3番「おお、愛しうる限り愛せ」が特に有名。
1851年(40歳)、『パガニーニによる大練習曲』を作曲。この曲の第3番が人気曲の「ラ・カンパネラ(伊語の“鐘”)」。右手が鐘の音色を高音で表現し、左手が激しい跳躍を繰り返す難曲で、左手は移動距離が46cmに達する箇所もある。また薬指と小指のトリルなど高度な技巧を要求される。
1852年(41歳)、2度の改訂を経て超人的なテクニックを要求するピアノのための12の練習曲『超絶技巧練習曲』第3稿を出版、ツェルニーに献呈した。
1853年(42歳)、ピアノ独奏用の15曲の『ハンガリー狂詩曲』を作曲(30年後に4曲追加)。第2番は映画版『トムとジェリー“ピアノ・コンサート”』(アカデミー賞受賞)に使用されるなど有名。
1854年(43歳)、カロリーネへの手紙に記す。「芸術とは人類の心臓であり、学問は脳、産業は手、商業は足、政治は胃である」。1856年『ダンテ交響曲』、1857年『ファウスト交響曲』を作曲。
1859年(48歳)、11年間務めていたワイマールの宮廷楽長を辞任。
1861年(50歳)、リストとカロリーネは出会いから14年が経った。なんとか正式な結婚をするために、カロリーネはローマに足を運び、教皇庁にロシアの夫との婚姻無効を認めてもらった。そしてリスト50歳の誕生日当日に結婚式を挙げる準備を整え、前日に2人で聖体拝領を受け、“さぁ結婚”となったそのときに、ローマ法王から式の延期を命じられた。不運にもたまたまローマにカロリーネの親族が訪れており、結婚の異議申し立てをしたのだ。結局、結婚は実現しなかった。
カロリーネは「神学の道を歩ませるために、この結婚に神様が反対していらっしゃる」と考えるようになり、そのままローマで宗教者となった。1865年(54歳)、リストもまた神学を研究するためローマの修道院に入り、黒衣をまとい在俗の聖職者となった。当時、衰退していた教会の宗教音楽を復興するチェチーリア運動(音楽の守護聖人/殉教者・聖セシリアの名が由来)が起きており、リストの作品も聖書を題材にしたオラトリオや『レクイエム』などキリスト教に関するものが増える。リストとカロリーネは別々に宗教生活を送ったが、精神的な結びつきはより深くなり、21年後にリストが没するまで文通が続いた。
1869年(58歳)、ワイマールからの強い要望で同地に戻り後進の指導にあたる。
1871年以後は、ローマ、ワイマール、ブダペストを往来しながら指揮、教職、作曲活動を行い、ワーグナーの作品の普及に尽力する。また、この頃より作品から調性感が薄らいでいく。
1877年(66歳)、約30年前(1848年)から3期にわたって書き重ねていたピアノ小品集『巡礼の年』が完成(第1年1848〜54、第2年1837〜49、第3年1867〜77)。この作品は『エステ荘の噴水』(1877)のように自然の風景を描写した曲を含み、ドビュッシーの印象主義を先取りしている。後にこの曲を聴いたドビュッシーは顔色(がんしょく)を失ったという。1883年(72歳)、ワーグナーが69歳で他界。

リストは1880年以降、5分以上の曲をほとんど書かず、内容は洗練され深化した。先進性もあり、1885年(74歳)に「無調」を標題にした史上初の作品『無調のバガテル(小品)』を書き、前衛の無調音楽に到達した(ただし、後のシェーンベルクらが目指した12音音楽ではない)。その翌年、1886年7月31日にバイロイトのワーグナー音楽祭で楽劇『トリスタンとイゾルデ』を鑑賞後、気道閉塞と心筋梗塞で急死した。享年75歳。
パートナーのカロリーネはカトリックであり、プロテスタントの土地バイロイトでの埋葬に反対したが、娘コジマ(ワーグナー夫人)の強い希望でバイロイトの市立墓地に霊廟が建てられた。翌年3月、リスト他界の8カ月後に後を追うようにカロリーネもローマで世を去った(享年68歳)。リストの霊廟は第二次世界大戦時に連合軍の空襲を受けて倒壊し、戦後は屋根もなく一枚の石板(墓石)が残るのみだったが、1978年に霊廟が再建された。
リストの作品は多数の改訂稿があるため作品総数は1400曲を超える。未確認の作品も400曲以上あるといわれている。リストの死後、いまだリストを超えるピアニストは現れていない。

目のくらむような多彩な響きをピアノ曲に与え、世界最高のピアニストとして欧州の楽壇に君臨し、指揮者としてワーグナーの音楽を世界に知らしめ、作曲家として約350曲もの作品を書き、8巻の著作をあらわした天才リスト。400人をこえる弟子を指導し、無名時代のベルリオーズやワーグナーを金銭と精神面で支援した。晩年はリストが好んだ他の作曲家の作品を200曲以上も編曲し、新たな可能性を引きだしている。
リストは複雑な半音階的和声を駆使するなど和声法の改革者であり、「ライトモティーフ(示導動機)」という主題を変容させる技法を発展させた。これら半音階的和声とライトモティーフはワーグナーやリヒャルト・シュトラウスに絶大な影響を与えた。後年の独創的な和声は、シェーンベルク、バルトークなど20世紀音楽の前兆となっている。リストが創始した交響詩は、発表当時はあまり理解されなかったが、後にリヒャルト・シュトラウスの手でこの様式は実を結んだ。
リストはカロリーネと出会っていなければ、作曲に本腰を入れず名人芸を見せるだけのピアニストとして人生の大半を終えていたかもしれない。カロリーネが作曲家リストを作ったのであり、後世の音楽ファンはカロリーネに感謝しなければ。

※リストはピアノ指導者としてマスタークラス(公開レッスン)を考案した。
※クラシック作曲家は数あれど、特定の作曲家のファンを指す言葉があるのは、ワーグナーファンの「ワグネリアン」、リストファンの「リストマニア」くらいでは。他にあったとしてもこの2つの呼び名ほど知名度はない。両者のカリスマ性がわかる。
※リストは編曲者としても極めて優れた才能を持っている。ベートーヴェンの9つ交響曲すべてをピアノ用に編曲したほか、ベルリオーズの幻想交響曲、ワーグナーのタンホイザー序曲、モーツァルトのドン・ジョヴァンニもアレンジしている。
※リストの演奏を聴いてあまりの衝撃に気絶する観客がいた。リスト自身ものめり込みすぎて演奏中に気絶したという。
※リストは予備のピアノを含めて3台のピアノを用意して演奏をすることもあった。リストの演奏はとても激情的で力強かっため、演奏中にピアノのハンマーが壊れたり弦が切れたることが度々あったからだ。現在、スタインウェイ、ベヒシュタインと並ぶ「ピアノ製造御三家」のベーゼンドルファーは、リストの演奏に耐えたことで有名になった。
※リストが初見で唯一弾けなかった曲がショパンの『12の練習曲 作品10』(第3番「別れの曲」、第12番「革命」が有名)。リストはパリを去って特訓し、数週間後に戻ると弾きこなせるようになっていた。ショパンはリストを讃えてこの曲を献呈した。
※天才ゆえ技巧に走りすぎるリストに対し、音楽観の違いに戸惑う音楽家も少なくない。女性のピアニストとしては当時欧州トップだったクララ・ヴィーク(シューマン夫人)は、当初こそリストの演奏に衝撃を受けて号泣していたが、演奏家は作曲家の意図を尊重した演奏をすべきと考え、リストの自由に装飾する演奏スタイルを好まず「リストはピアノの粉砕者」と評している。メンデルスゾーンは自身のピアノ協奏曲をリストが初見で完璧に弾くのを見て、「人生の中で最高の演奏だった」「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」と手紙に記している。2回目の演奏からはリストが譜面にない即興をたくさん盛り込んだためだ。
※演奏中のリストを描いたものに楽譜や鍵盤を見て弾いているものが1枚もない。
※交響詩を創始したリストは、音楽史上ではワーグナーらの新ドイツ派に分類され、標題のない絶対音楽にこだわったブラームスや音楽評論家ハンスリックと距離を置いた。
※ピアノ教育者のツェルニーはたとえ優秀な生徒でも高額な謝礼を払えなければ指導を打ち切ったが、リストは才能を感じる者だけを弟子とし、無料で指導を行った。当時の音楽家はピアノの個人レッスンを貴重な収入源と見なしていたが、リストは芸術家が演奏以外で巨額の収入を得ることに否定的だった。
※教育者としてのリストは、生徒に自分の真似を強要せず、逆に生徒の個性を伸ばすことに重きを置き、オリジナリティを求めさせた。
※“リストの弟子”と嘘をついていたピアニストを家に招待し、自分の前で演奏させてこう言ったという「これで私が教えたことになる」。
※リストはまだ無名だったグリーグが書き上げた『ピアノ協奏曲イ短調』を初見で弾きこなしてグリーグを賞賛した。また、スメタナの才能を認めて資金援助を行っている。
※作品番号はイギリスの作曲家ハンフリー・サールが分類した曲目別の目録、サール番号(S.)がよく使われる。
※アイゼナハのヴァルトブルク城にはリストがオラトリオ『聖エリーザベトの伝説』を指揮した祝宴の広間、『タンホイザー』歌合戦の壁画、ルターが新約聖書を翻訳した部屋などがある。またバッハハウス、ルターの家もある。
※ワイマールには1869年〜1886年まで住んだ家が「リストの家」として公開されており、2階のサロンにグランドピアノがある。ワイマール憲法が採択された国民劇場はリスト、シューマン、ワーグナーたちが活躍した劇場。
※バイロイトでリストが没した最期の家「リスト博物館」が、ワーグナー博物館(ヴァーンフリート荘)に隣接。また、ワーグナー博物館にはリストの遺体が一度置かれた音楽の間がある。リスト博物館の外隅にリストの胸像がある。
※1975年のケン・ラッセル監督の映画『リストマニア』(主演ロジャー・ダルトリー)はリストを扱った伝記映画。
※静岡出身のピアニスト・内田光子(英国籍)は、リストの弟子ハンス・フォン・ビューローの弟子のハインリヒ・バルトの弟子のヴィルヘルム・ケンプの弟子=玄孫(やしゃご)弟子にあたる。またリストの晩年の弟子エミール・フォン・ザウアーの弟子の  ステファン・アスケナーゼからもマルタ・アルゲリッチと共に学んでおり、
この系譜では内田はリストのひ孫弟子となる。さらに内田はリストの最後の弟子の一人アレクサンドル・ジローティの弟子のニキータ・マガロフの弟子でもあり、こちらの系譜でもひ孫弟子となる。




★メンデルスゾーン/Felix Mendelssohn-Bartholdy 1809.2.3-1847.11.4 (ドイツ、ベルリン 38歳)2002
Dreifaltigkeitsfriedhof I, Berlin, Germany



メンデルスゾーン家の墓所。彼らは町の名士だった。 実は94年にも訪れていたが、赤の他人のメンデルスゾーン
さんに巡礼していた。完全に人マチガイ。大雨の中を、ズブ
濡れになって2時間かけて探し当てたのに…。墓前で超喜ん
でるだけに、この写真は自分にとって涙なくしては見れない。

メンデルスゾーンの曲はどれもメロディーが大変美しく、何時間聴いても苦にならないッス。




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