畑の中にあるひなびたキャッスル・シティー駅 | そこから667番のバスを利用 | ほとんど農道の道を進む |
やがて巨大な僧院の廃墟に到着。英国南西部の グラストンベリーにはキリスト教最古の聖堂がある |
遺跡は点在しており、この一帯に 壮麗な建築群があったことが分かる |
「え!?これがそうなの!?」 めちゃくちゃ素朴なアーサーの墓 |
悠久の時の流れを感じているのか、子どもが見入っていた |
ケルトの伝説的英雄。5世紀後半から6世紀初めのブリトン人(ローマン・ケルト)の賢明にして勇敢な君主。6世紀のウェールズの武将、のちブリタニア王。テムズ川中流より侵入してくるアングロ・サクソン人(ゲルマン系)を撃退するため、ウェールズのブリトン諸族をまとめあげ、数々の勝利をあげてキリスト教を擁護したとされる。 父はブリテン王ウーゼル・ペンドラゴン。宝剣エクスカリバーを岩から引き抜いてブリテンの王となる。 アーサーは身分による席順決定を嫌い、騎士たちとの宮廷会議には円卓を使用した。諸国を平定したのちローマ遠征に向かうが、甥モルドレッドが謀叛をおこして王位を奪ったと報を得て帰国。 「カムランの戦」でモルドレッドを倒すが、自らも瀕死の重傷を負いアヴァロン島に去っていく。 別伝説ではブリトン族の王に仕える軍人で、ローマ軍で鍛えられた騎士団を率いてサクソン族をことごとく撃破した。 アーサーを完全に架空の人物とする歴史家もいる一方で、ローマ人撤退後の混乱したイングランドで、アングロ・サクソン人に大打撃を与えたブリトン人の英雄「アーサー」が実在したことを示唆する記録も残る。 アーサー王伝説は中世騎士物語の原型となった。 600年頃、ウェールズの英雄詩『ゴドディン』にアーサーが登場し、これが確認できる最古の文献記録。6世紀末ごろのブリトン人と侵略者サクソン人との戦いを主題にした口承の英雄詩。 800年頃、ウェールズ人の歴史家ネンニウスのラテン語による『ブリトン史』にサクソン人と戦いしばしばこれを敗走せしめた将軍として記録。 1138年、イングランドのジェフリー・オブ・モンマス『ブリテン列王史』でアーサー王伝説として完成された。アーサーはサクソン人を撃退し、ブリテン、アイルランド、アイスランド、ノルウェー、ガリア(フランス)にまたがる大帝国を建設。父ペンドラゴン、魔法使いマーリン、王妃グィネヴィア、エクスカリバー、ティンタジェル城、モードレッドとの最終決戦(カムランの戦い)、アーサー王の死とアヴァロンへの船出、大半のエピソードが既に登場している。ラテン語で書かれており、後のアーサー王物語の原型。同書は人気を博し、国を越えて広まった。 1485年、トーマス=マロリーが様々な形で流布するアーサー伝説を集大成した『アーサー王の死』を出版し、イギリス文学に大きな影響を与えた。 1210年頃、ウォルフラム・フォン・エッシェンバハによるドイツ 聖杯物語の傑作『パルチファル』。ワーグナーのオペラなどに翻案されている。 12世紀のフランスの詩人クレティアン・ド・トロワはランスロットと聖杯を追加し、アーサー王物語を中世騎士道物語の題材の一つとして定着させた。 その実在は碑文などで確証できず事績も伝説でしか伝えられていないが、アーサーの史実性を証明する記述は『カンブリア年代記』、『ブリトン人の歴史』、ギルダス著『ブリタニアの略奪と征服』に断片的に残る。 イギリス南西部グラストンベリーのキリスト教最古の聖堂跡にアーサーのものと伝承される墓がある。 |
高さ150m、一辺の長さは230mとメチャメチャ 巨大!石ひとつで2トン半。それを230万個も積み 上げているのだ。もう何がどうなっているのやら! |
石の高さは人間くらい |
はっきり言って、僕はクフ王に深い思い入れは ない。ピラミッドの建設の為に命を失った名もなき 民衆を哀悼するために、この地へ足を運んだんだ |
はるか5000年前、20万人でこれを作った。アテネに大神殿(パルテノン)が作られたのが2500年前。それでも充分に古代遺跡なのに、さらにその2倍も昔にさかのぼるとは!石を運ぶ道を作るのに10年、土台の地下室にまた10年、さらにもう20年かけて上に石を積み重ねたんだって。クラッときた。 |
吉村作治氏の最新エジプト学から。ピラミッドは奴隷の強制労働で造られたのではなく、農民の“失業対策”。当時のエジプトには奴隷がいなかった。つまり、ナイルの氾濫で土地を失った農民の為の公共事業。住居と食糧が与えられ給料も払われ、造る事に皆が拍手喝采していたという。近年発見された“出勤簿”には遅刻理由に「ビールで二日酔い」と書かれているなど、強制労働とはほど遠い(笑)。ピラミッドが墓かどうかは不明だが、実はスフィンクスの方が200年も昔から先に造られていた。スフィンクスの語源は古代エジプトの“シェプス・アンク”(復活の神)なので、同じ土地に造られたことから再生を象徴する意味があると思われる。スフィンクスはエジプトから欧州に伝わり、ギリシャ(グリフィン)→イラン(ベルセポリスの獅子)→インド(アヨーカ王柱)→中国(紫禁城の獅子)→最後は日本の“狛犬”の原型になったという。神社の狛犬がエジプト文明から来てるというのにビックリ! |
ブラド公 | ブカレスト市内の胸像 | ブラド公が15世紀に築いた砦跡に建っている |
持参した資料を片手に | 「オーッ、ドラキューラ!」 | 「このまま南へ行け!」 | 「逆だ、北へ進め!」 |
なんと、タクシーから降りて、湖に 浮かぶ小島へボートで渡ることに |
このスナゴヴ修道院に墓はあった |
ロウソクが置いてある床の長方形部分がお墓! |
(注:生年は諸説あるため、このコラムの年齢はすべて“おおよそ”です) 対トルコ戦で活躍したルーマニアの国民的英雄。ドラキュラ公・串刺し公ことヴラド3世は、15世紀のワラキア公国(現ルーマニア南部)の君主で、3度ワラキアの領主となった。ルーマニア史では帰属を迫るオスマン帝国に対して果敢に抵抗し、その軍隊を退けた勇将として有名。諸侯の権力が強かったワラキアにあって中央集権化を推し進めた。ヴラド3世は対トルコ戦において、2万人のトルコ人並びにブルガリア人を杭に刺して惨殺したという。 1431年11月10日、トランシルヴァニア地方シギショアラでバサラブ朝ヴラド2世の次男として生まれた。同年、父はハンガリー王国の「ドラゴン騎士団」の団員に叙任されたため、通称ドラクル=竜公と呼ばれる。 父がワラキア公ブラド・ドラクル(Dracul=ドラゴン公)と呼ばれたことから、その息子(小竜公)はドラクレア、ドラキュラ(Dracula=ドラゴン公の子)と呼ばれた。ヴラド3世は、後世にヴラド・ツェペシュ(串刺し公)と呼ばれるが、本人は「ヴラド・ドラキュラ(ヴラディスラウス・ドラクリヤ)」とサインしており、ドラキュラというニックネームを好んで使った。 1436年、5歳の時に父がワラキア公となり、父はバルカン半島へと進出を続けるオスマン帝国に抵抗した。 1442年(11歳)、父はオスマン帝国の第6代皇帝ムラト2世から忠誠心を示すガリポリ(イスタンブールの西)に来るよう命じられ、同行したヴラド3世と弟ラドゥは人質にとられた。こうしてヴラド3世は少年時代をオスマン・トルコで過ごした。 1444年、13歳のときにワラキアを含むバルカン半島連合軍の「ヴァルナ十字軍」がオスマン帝国に敗北し、ワラキアはオスマン帝国に臣従する。 1447年(16歳)、ハンガリーの摂政フニャディ・ヤーノシュ(ハンガリーの英雄)がワラキアに侵攻し、父ヴラド2世と兄が暗殺される。フニャディはヴラド3世の又従兄弟(ヴラディスラフ2世)を支持し、これをワラキア公に据えた。 翌1448年にヴラド3世はオスマン帝国の支援を受け、又従兄弟からワラキア公の座を奪ったが、わずか2か月で又従兄弟に奪還され、母方の伯父ボグダン2世が治めるモルダヴィア公国へ亡命した。ところが3年後の1451年(20歳)、ボグダン2世が暗殺されてしまい、ヴラド3世はトランシルヴァニアに逃れてフニャディの保護を受けた。 1456年(25歳)、ヴラド3世はハンガリーの支援を得てワラキアに侵攻し、又従兄弟を打倒して再びワラキア公に返り咲く。そしてハンガリーと対オスマン同盟を結ぶ一方で、オスマンからの貢納(こうのう、年貢)金の要求を受け入れたことで、スルタン・メフメト2世から君公として承認された。この2度目の公位は6年後まで続き、計3度の公位のうち最も長い期間となった。ヴラド3世は自分の立場を強化するため、謀反を起こす可能性がある貴族など数百から数千の人々を粛清し、トランシルバニアのドイツ人商人(ザクセン商人)の特権を制限して中央権力の強化を図った。この年、フニャディが他界。 1457年(26歳)にはシュテファン3世を支援して、モルダヴィア公に即位させることに成功したが、まもなくシュテファン3世とはドナウ河口の要衝キリアの帰属を巡って争う。 1459年(28歳)、ヴラド3世はワラキア内の大貴族を粛清して権力を掌握し、中央集権化を進めて直轄軍を編成した。 ※ワラキア公国は土着の豪族による連合政権であったが、ヴラドの祖父ミルチャ老公が公権を強化した。老公は公国の独立を守るためにハンガリーと同盟を結んでオスマン帝国と戦った。老公の死後、その息子たちと異母兄ダン1世の系統との間の公位争いが激化。君主の権威は失墜し、貴族勢力の専横が著しくなった。それに加えて近隣のオスマン帝国、ハンガリーといった列強からの干渉もあったが、ヴラド3世は祖父や父の意を継いで、君主に権力を集め、中央集権化を目指した。 1460年(29歳)、又従兄弟の息子ダン3世がワラキア公位を狙って挙兵したため、これに返り討ちにし斬首した。 その後、オスマン帝国メフメト2世が貢納金の額を引き上げたため、ヴラド3世はこれを拒否。そして、なおも貢納を要求する使者2人を生きたまま串刺し刑にした。怒ったメフメト2世は大軍を率いてワラキアに侵攻してくる。 ※この1460年ごろ、ヴラド3世の串刺しを目の当たりにしたオスマン帝国の兵士が、トルコ語で「カズィクル・ベイ」(串刺し公)と最初に呼んだ。カズィクル・ベイのルーマニア語訳が「ツェペシュ」であり、後世に「ヴラド・ツェペシュ」の呼び名が生まれた。 1462年(31歳)、6月ヴラド3世は「トゥルゴヴィシュテ(ワラキア首都)の戦い」で、メフメト2世の首を標的とした夜襲をかけ、オスマン帝国軍とその先兵であるブルガリア兵を2万人を串刺しにした。メフメト2世は大量のオスマン帝国兵の「串刺しの森」を見て戦意を失い、陣中に疫病が発生したこともあってワラキアから撤退した。 しかし同年、オスマン帝国はワラキア内の反ブラド派の貴族を集めてヴラド追放に成功する。ヴラド3世はハンガリー王マーチャーシュ1世に援助を求めるためトランシルヴァニアに落ち延びたが、ハンガリー王に幽閉されてしまう。ハンガリー王はヴラドを「オスマン帝国の協力者」とでっちあげて捕らえたのだ。ハンガリー王はその嘘を各国に信じ込ませるため、「ヴラドは無差別に殺し血肉を食らって晩餐を開いた」「田畑を燃やして農民を飢えさせた」と悪行を誇張・捏造して冊子にまとめ配布した。 この頃、最初の妻がポエナリ城の塔から投身自殺している。 1475年夏(44歳)、ヴラド3世は14年間におよぶ幽閉から釈放された。彼はカトリック教国からの支援を得ようとして正教会からカトリックに改宗し、ハンガリー王の妹と結婚したが、この改宗によって正教徒中心であったワラキアの民衆の人心を失う。 1476年(45歳)、ヴラド3世はハンガリーの後援を受けトランシルヴァニア軍を率いてワラキアに進軍し権力を奪還、三度目の公位に返り咲く。そして、対オスマン帝国戦争を再開したが、現ブカレスト近郊でオスマン帝国と戦って戦死した。変装したトルコ人の刺客がヴラドを陣中で殺害したという説、ヴラド3世に敵対するワラキア貴族による暗殺説など、その最期には諸説ある。 オスマン帝国軍は、ヴラド3世の首を塩漬けにしてコンスタンティノープルに持ち帰り晒したという。地元の農民の言い伝えでは、修道院の僧侶がスナゴフの湿地帯でヴラド3世の胴体を見つけスナゴフ修道院に葬られたという。 1897年、没後421年を経て、アイルランドの作家ブラム・ストーカーによって小説『ドラキュラ』に登場するドラキュラ伯爵のモデルとされた。 オスマン帝国の攻勢に諸国が苦しめられるなか、小国ワラキアが長年にわたってオスマン帝国の侵略に抵抗できたのは、勇猛と軍略に優れたヴラド3世がよく抗戦したためであり、現在はルーマニアを守った英雄とされている。 ヴラド3世はオスマン帝国軍だけでなく、自国の反対派大貴族や犯罪者も生きたまま杭に刺して処刑したという。この時代は他国でも重罪を犯した農民は串刺しにされるケースがあったが、ヴラド3世は通常なら斬首される貴族まで串刺しにした。 ヴラド3世には、有力貴族を招待して酒宴を開き、油断した貴族らを皆殺しにしたとか、伝染病の抑止として病人やロマ(ジプシー)を焼き殺したという残酷な話も伝わるが、どこまでが本当かわからない。というのも、ハンガリー王がブラド3世を逮捕幽閉する口実として流した中傷、プロパガンダが多く混ざっているため。ヴラド3世は公権の強化と中間層の育成によって国制を近代化した。 ※聖書ではサタンは蛇、ドラゴンとして描かれることが多く、ドラゴンと悪魔は同一視されることも多かったため、「ドラゴン公」が「悪魔公」と解釈され、串刺し刑を行う「ドラキュラ公」は「悪魔の子」と見なされる風潮を生んだ。 ※ヴラド3世は嫡男ミフネア悪党公の他、数人の子を持った。直系男子は6代の子孫で断絶した。2006年、ドラキュラ城が国から王家の子孫に返還されたが、ヴラドの一族ではない。また2007年に「ドイツ在住のドラキュラの子孫が死去した」と報じられたが、子孫の女性がとった養子であり血縁はない。 ※東欧においてブラドは対オスマン帝国戦争の英雄として積極的に肯定されており、貴族を串刺しにしたり、伝染病患者を焼き殺したりした点については治安維持の観点などから肯定的に書かれてきた。 ※英語で吸血鬼を意味するヴァンパイアはスラヴ語の「ヴァンピール」が語源でありセルビア人などスラヴ系民族の伝承からきている。 ※ブラン城がドラキュラ城として知られるが、この城はドイツ騎士団が創建し、ヴラド3世の祖父ミルチャ老公(ワラキア公ブラド1世)が14世紀に居城とした。ヴラド3世の本拠地はブカレストの北西ワラキア領内のトゥルゴヴィシュテ。 |
人影と比べると巨大っぷりがわかる(2008) | 島中にゴロゴロあって普通に触れる |
殆どのモアイは戦乱や津波で倒れている | 「ニョホ」重みで沈んでいるのも多い | モアイ小道 |
昔の墓 | 現在の島民の墓 |
ハチドリ | 宇宙飛行士 | 木 |
巨石の直径は30m、周囲の堀の直径は100m | いくつもある周囲の古墳 |
インド人にとっても観光名所 |
タージ・マハルは宮殿ではなくお墓! 完璧な左右対称(シンメトリー)に思わずウルウル |
人はこんなに小さい |
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(1592-1666)が、36歳で旅立った愛する妃ムムターズ・マハル(1593-1631)の墓として、現ウッタルプラデシュ州アーグラに造営させた。ムムターズ・マハルは本名アルジュマンド・バーヌー・ベーグムとされ、“ムムターズ・マハル”は先代の皇帝から贈られた称号。意味はペルシャ語で「愛でられし宮殿の光」「宮廷の選ばれし者」。タージ・マハルの由来は王妃ムムターズ・マハルのムムが消え、ターズがインド風発音のタージになったという。タージ・マハルを直訳すると「王冠宮殿」。 1593年10月29日、ムムターズ・マハルはペルシア系の大貴族アーサフ・ハーンの娘として生まれた。 1612年、19歳になったムムターズ・マハルは、20歳のムガル帝国の第4代君主ジャハーンギールの皇子フッラム(のちのシャー・ジャハーン)と結婚する。夫に深く愛され、14人の子女をもうけ、男子4人と女子3人が成年まで育った。 1628年(35歳)、夫は第5代君主シャー・ジャハーンとしてアーグラで即位(在位1628-1658)、ムムターズ・マハルは皇妃となる。ムガル帝国は内政面で最安定期を迎え、インド・イスラーム文化の最盛期にあって美術や建築などの華が咲いた。 結婚から19年後、1631年6月17日、夫シャー・ジャハーンのデカン地方遠征に付き従うなか、遠征先で第14子を生んだあと37歳(ウィキ英語版)で早逝した(ウィキ日本語版は4月27日生まれ説の38歳)。 夫は皇妃の死を大いに悲しみ、他界翌年の1632年、彼女の廟としてタージ・マハルの建設に着工。約2万人が動員され、22年の歳月を費やし1653年に完成し、皇妃の死から35年後の1666年に皇帝自身も葬られた。皇妃の死後、皇帝は多くの側室をもうけたが、心の中には常に皇妃の姿があったという。皇帝の計画では、タージ・マハルの側を流れる川の対岸に黒い大理石の自分の霊廟を建設する予定だったというが、タージ・マハルの地下で2人の棺が並ぶ光景(ウィキに写真あり)は、両者の強い絆を象徴するようでグッとくる。 タージ・マハルは全体が白大理石で造られ、中央ドームは高さ58m、四方の幅は57mの正方形、四隅をミナレット(尖塔)が囲んでいる。また、外壁にはイスラム教の聖典コーランの教義が刻まれ、イスラム風の庭園が周囲をとりかこんでいる。近くで見ると表面が細かな装飾で覆われていることに目を見張る。壁一面に浮き彫りの花があり、葉っぱの一枚一枚まで精密に刻まれている。 完璧な左右対称(シンメトリー)でどの角度から見ても調和のとれた造形、そして装飾美術の粋を集めた華麗な建物として、 「インド・イスラム建築の最高峰」「世界一美しい墓」と言われている。北インドにのこるムガル帝国時代の墓廟のひとつで1983年に世界遺産登録された。 インド人にとっても人気の観光地であり、みんな、言葉を忘れたように見入っていた。 棺画像はウィキペディアより ※建物の中心に2人の棺が並んでいるのはレプリカで、本物(上画像)は地下。僕が訪れた2007年は、数年前に爆弾テロ騒ぎがあって残念ながら地下に行けず、レプリカの写真撮影すらできなかった。 |
近くで見ると表面が細かな装飾で覆われてて2度ビックリ | みんな、言葉を忘れたように見入っていた | 白以外の石も使われている。足下は全て大理石 |
壁一面に浮き彫りの花 | 葉っぱの一枚一枚まで精密に刻まれている | 夕暮れ時のタージ・マハル |
“赤いタージ・マハル”ともいえる美しさ。安定感があり見飽きない | 赤砂岩に白大理石がはめこまれている | 夕陽に浮かび上がる王の棺(本物は地下) |
アニメ『フランダースの犬』涙の最終回で、ネロが絶命したアントワープのノートルダム教会。とてつもなくデカイ。 |
これが、ネロが夢にまで見た憧れの絵、ルーベンスのキリスト昇架だ!彼はこの前でパトラッシュと共に昇天した。 |
アントワープから路面電車で30分。ネロが住んでいた小さなホーボーケンの町へ。この写真に映っている教会手前の芝生は、かつて墓地だった。ネロとパトラッシュはここへ手厚く葬られたと記されている。 (残念ながら墓碑はない) |
どわーっ!旧墓地で拙者が「ここにネロの墓が…」としんみりたたずんでいると、ネロとパトラッシュの幻影が見えてきたではないか!なんてこった! |
ネロとおじいさんが毎朝アントワープへ向けて牛乳を運んでいた並木道。 |
な、なんと、今度は並木道の途中で、拙者はアロアの幻覚を見た!しかも、ベビーかごを持った母親になっていた! |
並木道の終わりには作品が書かれた頃の風車があった。アロアのモデルが住んでいた家のものを再現。 |
ホーボーケンの観光局前に最近出来た記念碑。実は日本のアニメが数年前にベルギーで放映されるまで、ネロの物語は現地で無名に等しかった。地元のおじさんの話では、なぜこんなさびれた町に観光客が訪れるのか(それも日本人ばかり)、住民は不思議がっていたという。アニメがオンエアされて“納得”したとのこと。 |
2002 | 2005 | 2015 |
作曲家サリエリは映画『アマデウス』で一躍有名になった! |
イタリア・レニャーゴ生まれの作曲家。華麗なオペラで成功し、神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕えるカペルマイスター(宮廷楽長)として36年間もヨーロッパ楽壇の頂点に立つ。 ベートーヴェン(1770-1827)、シューベルト(1797-1828)からリスト(1811-1886)まで育てた名教育家で、しかも弟子からは一切謝礼を取らなかったという。また、失職した音楽家や遺族のために慈善コンサートを毎年開催した。1793年1月2日、サリエリはモーツァルトの遺作『レクイエム』を初演している。1820年代に入り、「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流れた。当時の音楽界はロッシーニを旗印とするイタリア派と、ドイツ音楽を掲げるドイツ派が対立し、その中で宮廷楽長を長年独占するイタリア人サリエリが標的にされたと考えられる。1825年に74歳で他界。 没後、名前も作品も忘れられたが、1979年にサリエリとモーツァルトを描いた戯曲『アマデウス』、1984年にその映画版『アマデウス』で取り上げられ、他界から150年を経て再び“時の人”となった。21世紀に入ってからは音楽家として再評価され始め、2009年からは生地レニャーゴでサリエリ・オペラ音楽祭が毎年開催されるようになった。 ウィーン中央墓地で彼の墓前に立って最初に出た言葉は「哀れサリエリ!」だった。なぜか。かつては宮廷楽長であったのに、同じ墓地に眠っているベートーヴェンやシューベルト、ブラームス、ヨハン・シュトラウスといった巨匠から遠く引き離され、墓地の一番壁際の、それも真後ろに市電が走っていて、騒音でまったく魂が安らげない場所に埋葬されていたからだ(写真の背後に市電のパンタグラフが写っている)。 ベートーヴェンは筆談メモに「ウィーンはモーツァルトがサリエリに毒殺されたという噂でもちきりです」と書き記しており、サリエリはロッシーニから「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられたこともあるという。こうしたことから、サリエリは生前にモーツァルト毒殺犯として相当な嫌疑がかけられていたことがわかる。 ウィーン中央墓地が開設されたのは1874年であり、サリエリの他界から半世紀が経っている。つまり、サリエリの墓はどこからか改葬されてきた。その段階でも楽聖エリアに彼の墓が築かれなかったのは、例の噂が影響していると思われ不憫でならない。なんとか彼を作曲家が集まる楽聖エリアに改葬できないだろうか。 |
※動画があります!サリエリの墓(4秒) |
1周約3kmの外堀。ずっと奥まで続いている… | ドヒーッ!これはもう墓ではなく山だぁ〜ッ!! ※2万体もの埴輪が発見された。 |
サン=ドニ大聖堂(2018) | 王家の霊廟だけあって荘厳だ | 素晴らしいステンド・グラス |
聖堂内のアントワネット&ルイ16世の彫像 | 中央左がアントワネット、右がルイ16世 | フラッシュなし(2002) |
2018年、16年ぶりに再訪 | 日テレの照明さんが明るく照らしてくれた | 近年は彼女の名誉回復の動きが |
処刑された革命広場(現コンコルド広場) | 彼女がここで死んだと銘板にあった |
フランス国王ルイ16世の妃。1755年11月2日、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘(四女)としてウィーンに生まれる。ハプスブルク家とフランス・ブルボン家の結びつきを強化するた
め、1770年5月、14歳のときに1歳年上のブルボン家の王太子ルイと結婚する。この政略結婚の挙式はベルサイユで行われた。2人の間には女子2人、男子2人が生まれたが、一男(ルイ17世)一女(マリー・テレーズ)が成長した。
1774年(19歳)、20歳になったルイはフランス国王として即位。アントワネットは行政の人事にしばしば口を挟んだことから、宮廷内部に多くの敵をつくった。敵対者は男性関係についての噂や浪費癖などのスキャンダルを外部に流したことか ら、民衆の間で彼女の悪評がひろがり、「赤字夫人」「オーストリア女」と呼ばれ、国王の失政は王妃のせいにされた。彼女の発言と伝わる「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」は別人のものだ。 1785年(30歳)、王妃をめぐる無実の詐欺事件である「首飾り事件」が起きる。ラ・モット伯爵夫人ら詐欺集団は、アントワネットの名を騙って宝石を騙し取ったことが発覚。この事件の黒幕が王妃であると噂になり、国民の反発は決定的となっ た。また、伯爵夫人と愛人関係(同性愛)という事実無根の噂も広まった。 1789年(34歳)、フランス革命が勃発。アントワネットはウィーン宮廷と秘密交渉を進めて兄である神聖ローマ皇帝レオポルト2世に救援を求め、外国軍隊のフランス侵入を期待した。彼女は反革命勢力を形成し、ミラボー、ラ・ファイエットら 立憲王制派との接近をも拒んだ。同年、民衆がベルサイユに行進した十月事件でパリに移される。 1791年(36歳)、6月に一家でパリ脱出をはかったところ、フランス北東部バレンヌで捕らえられパリに戻された(バレンヌ逃亡事件)。 1792年(37歳)、4月からの革命戦争に王権の勢威を賭けたが、王宮襲撃の八月十日事件によって監獄(タンプル塔)に幽閉され、王制廃止、共和制成立となった。 1793年1月21日、ルイ16世が断頭台で処刑される。8月コンシェルジュリ監獄に移され、アントワネットは侮辱的な裁判を経て、反逆罪のかどで死刑を宣告された。 処刑直前にアントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残す。「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」。彼女は髪を短く刈り取られ、両手を後ろ手に縛られ肥桶の荷 車で革命広場に送られた。最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまったときの「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ」。 10月16日12時15分、ギロチンが落とされ断頭台の露と消えた。享年37。息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けた。 王妃の遺体は集団墓地(マドレーヌ墓地)に葬られたが、王党派の地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んで密かに目印とした。やがて王政復古となり、ルイ18世が兄夫婦の遺体の捜索を命じ、1815年1月21日、アントワネット の亡骸は歴代フランス国王が眠るパリ北部のサン=ドニ大聖堂の地下に夫のルイ16世と一緒に改葬された。 息子(次男)のルイ17世は幼児期に兄が病死し王太子(ドーファン)となる。1789年、彼が4歳のときにフランス革命が勃発。国王一家は共にタンプル塔に幽閉され、革命4年後に両親は処刑された。8歳のルイ17世は塔の屋上を散歩した際に見 つけた花を摘み、花好きの母のために無人と知らずに母の部屋の前にそっと置いたという。両親を失った後は、少年にとって書くこともおぞましい凄惨な日々となった。トイレも窓も玩具もない部屋に2年間閉じ込められ、後見人や看守から日常 的に暴力をふるわれ、性的虐待も行われた。他界3カ月前に診察した医師の報告書「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で、最も残忍な仕打ちを受けたのだ。私には元に戻すことができない。な んたる犯罪だ!」。そしてルイ17世は解放されることなく10歳で病死した。最後まで母が処刑されたことを知らず、死後に独房から墨で書かれた「ママ、あのね…」という言葉と花の絵が見つかった。 ルイ17世の遺体は共同墓地のサン・マルグリット墓地に葬られたが、検視官ペルタンが心臓をハンカチに包み、コートに入れて持ち出した。ペルタンは蒸留ワインのアルコールを塗って自宅の書棚に隠していたが、アルコールは蒸発し心臓は石の ごとく硬くなり、現在はサン=ドニの両親の墓の側に納められている。 ※アントワネットはスウェーデン貴族H.フェルセンを愛していた。フェルセン宛の手紙「最後にどうしてもお伝えしたいことがあります。私は狂おしいまでにあなたを愛しています。あなたを愛おしいと思わないときはありません」。2020年、イ ンクで塗りつぶされていたアントワネットとフェルセンの手紙の文字が、最新科学によって解読された。処刑前のアントワネットの走り書きされた最後のメッセージは「私の心はあなた(フェルセン)のもの」。 フェルセンはアントワネットの死後、生涯独身を貫いた。フェルセンから妹への手紙「私の生きる理由。愛してやまなかった女性。彼女のためなら千回でも命を差し出すことが出来た。その人はもういない。つらく、苦しい。これからどうやって 生きていけばよいのか」。 アントワネット他界の17年後、スウェーデン王太子の葬儀の日、王太子の毒殺にフェルセンが関与したという噂が流れたため、フェルセンは激怒した暴徒に襲われ、裸にされて剣で突かれ、踏みつけられ、全裸の遺体は地面を引きずり回された。 |
ビミョ〜な墓だ。そもそもマザーグースは人ではなく童謡集の俗称のはず。しかし墓は1690年と彫られており、アメリカ独立(1783年)より約百年も前。新興国家としては最古級クラスだし、作者の墓であれば古さ的に説得力充分。当時は英国の植民地、英米で童話が広まったのも話が合う。ドクロに天使の羽という不気味さもマザーグースの墓って雰囲気にピッタリだよね。 | アメリカは古都の多い東海岸と、新しく開拓された西海岸では墓地の雰囲気が随分違う。西海岸はモダンな真新しいプレート式の墓ばかり。でも、歴史の古いボストンは写真のように石盤型のゴシック・ホラーのような墓がある。墓地に十字架が全く見当たらないのが興味深い。※最近は『Mother Goose』という題名ではなく『Rhymes』と呼んでいる本が多いとのこと。 |
〔ボストンのトリビア〕ボストンのあるマサチューセッツ州一帯の6つの州はアメリカで最も古い地域になり、1614年にやってきたロンドンの商人がニューイングランドと名付けた。1636年にはアメリカ最古の大学であるハーバード大学の前身となる学校が設立されている。1775年にアメリカ独立戦争が始まった場所もマサチューセッツ州。1700年の時点ではボストンがアメリカ最大の都市だった。中心部には「グラナリー墓地」という有名な墓地があり、アメリカ独立運動のきっかけとなった「ボストン茶会事件」のリーダー、サミュエル・アダムズや、独立宣言に最初に署名したジョン・ハンコックなど、アメリカ人が必ず歴史の授業で習う独立の英雄が多く眠っている。お墓参りをしている人もたくさんいるが、僕は庶民のお墓に釘付けだった。アメリカは若い国ゆえ1800年より古いお墓をあまり見かけないが、この墓地は1660年に設立され17世紀のお墓がいくつかあり、さすがはボストンだと感動した。びっくりしたのは、ほとんどの市民の墓に、天使の羽が生えたドクロのレリーフがあったこと!「どうして不気味な死の天使を彫るんだろう」と疑問に思って周囲の人に訊いたら、「ドクロは死の象徴、羽は魂が天に昇ることの象徴なんだ」と教えてくれた。なるほど! ※日本では怖いイメージのあるドクロだけど、メキシコではお祭りの主役になるなど、世界では平等や再生の象徴など縁起のよい意味合いもある |
2000年 ハチ公の墓を横から | 2002年 墓を正面から | 2010年 英語の手紙があった! |
墓域全景。中央が飼い主・上野博士の墓、 右手前(竹垣の背後)がハチ公の墓 |
こう見るとハチ公像はけっこうデカい。 像の左横の人、鞄とか寅さんっぽい |
晩年のハチ公 |
秋田犬。八人兄弟。母の名は「ゴマ(胡麻)」、父の名は「オオシナイ(大子内)」。1924年(大正13年)、三重出身の農業土木学者、東大農学部教授の上野英三郎(ひでさぶろう/1872-1925)博士は、生後50日の秋田犬の仔犬を家族に迎え、ハチと名づけ可愛がっていた。翌年、上野博士は教授会の会議後に脳溢血で倒れ53歳で急逝。ハチは寂しさから3日間何も食べなかった。その後、飼い主が次々と変わり、最終的に上野宅に出入りしていた植木職人・小林菊三郎が預かった。博士の他界から2年が経った頃から、ハチは代々木の小林家から渋谷駅前に通うようになる。帰らぬ主人を10年近く渋谷駅前で待ち続けた。ハチは有名になるまで子どもにいじめられたり、屋台の店主から邪険に扱われ、ある時は渋谷駅の駅員の室から墨で眼鏡を書かれ八の字髯をつけられて悠々と出て来たという。
1932年、そんなハチを哀れに思った日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉が新聞に寄稿した文章が「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、広く知られるようになった。人々の態度は激変し、餌を持ってハチに集まるようになった。 1934年、渋谷駅前にハチ公像が完成し、除幕式にハチも参列する。同年、映画『あるぷす大将』に出演、銀幕デビューを飾る。 https://www.youtube.com/watch?v=JNsukeNKpsY (画質が悪いけど判別できる) 1935年3月8日、癌により他界。享年11。ハチ公像の周囲はたくさんの花環で埋まり、人々はハチを追悼した。ハチの身体は国立科学館に寄贈され、身体ははく製に、骨は上野博士の墓前に埋葬された。 1944年、戦局悪化に伴いハチ公像が金属供出されて倉庫に保管される。 1945年5月、東京が空襲されハチ公像の作者安藤照が戦災死。さらに玉音放送の前日、1945年8月14日にハチ公像は鉄道省で溶解され機関車の部品となった。 1948年8月15日、安藤の息子で彫刻家の安藤士(たけし)がハチ公像を再建。その半月後、来日したヘレン・ケラーがハチ公像に触れた。 ※上野博士の故郷・津市久居元町の法専寺にも博士の墓碑。同町の小戸木神社にも記念碑。 ※近鉄久居駅東口の緑の風公園に、上野博士とハチ公が並ぶ銅像あり。 ※野犬と間違われて何度も保健所に捕まり、その都度、ハチを知っている警官に助けられて命拾いした。 |
清凉寺境内の源融の墓(2002) | 8年後に再巡礼。右手前の案内板が消えていた(2010) | 彼こそが光源氏のモデルという(2010) |
嵯峨天皇の12男。左大臣の地位まで昇ったが、藤原基経(日本初の関白)との政治権力争いを嫌い、876年頃(54歳)から8年間ほど自邸に引籠もった。美男子で知られ、紫式部が『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルにしたという。融は風流人であり、宮城県塩釜の風景をイメージして六条河原院(東本願寺渉成園)を造営した。この河原院には後に融の亡霊が現れたことが『今昔物語』に記されている。右京区の別荘跡には嵯峨釈迦堂・清凉寺が建ち、融の姿を模した阿弥陀如来座像が安置されているほか、境内には融の墓がある。源融が宇治に持っていた別荘が、後に藤原頼通によって平等院とされた。 |
ハンナ・チャップリンの墓 |
ちなみにこちらは同墓地のチャップリンの息子の墓 ※2番目の妻リタ・グレイとの子 |
小豆島・土庄港の“二十四の瞳”像 | 小豆島南東の“二十四の瞳”映画村 |
光ってます…(2005) | ウットリしています… | ええ、光っていますとも… |
4年後、この時はシルクハットの中に花が入っていた。下半身のある部分が光っているのは、 いつ頃からか手で触れると恋がかなうという噂が流れ始め、パリの女性たちが触っていくため。 不謹慎、みだら過ぎるという理由で、墓が高い柵で囲われていた時代もあったらしい。(2009) |
ナポレオン3世の第2帝政に真っ向から対決を挑んだ共和派のラ・マルセイエーズ紙の最年少記者。21歳で射殺された。本名イヴァン・サルマン。時計職人の弟子だったが、ジャーナリストに転向して各紙を渡り歩き、1869年12月19日(21歳)、前月に創刊したばかりのラ・マルセイエーズ紙に所属した。ラ・マルセイエーズ紙は反帝政キャンペーンを全面的に展開する反体制新聞の急先鋒。「ラ・マルセイエーズ紙は帝国海軍の鋼鉄艦に体当たりする水雷艇であった。乗組員達は決死の覚悟であった。我々の信条はいとも簡単明瞭、分かりきっていた。帝国を撃沈することにあった」(パスカル・グルーセ)。同紙の主宰アンリ・ロシュフォールのことを目の仇にしていたのが、ナポレオン一世の甥(弟リュシアンの子)、ピエール・ボナパルトだ。ピエールはナポレオン一族が手を焼く粗暴な男で、論戦の挙句の果てにロシュフォールに決闘を申し込んだ。一方、ピエールはコルシカ島の反体制新聞ラ・ルヴァンシュ紙とも対立しており、同紙のパリ代表者パスカル・グルーセからの果たし状を、グルーセと交流のあるラ・マルセイエーズ紙のヴィクトール・ノワールが代理人となってピエール邸に届けた。ピエールにとって最大の敵はロシュフォールであったため、パスカル・グルーセのことは眼中になく、その代理人ノワールを口汚く侮辱した。両者は口論となり、激高したピエールがその場でノワールを射殺した。ノワールはまだ21歳で、2日後に結婚式を控えていた。
入社したて(まだ3週間)のノワールの悲報を聞いたロシュフォールは、ラ・マルセイエーズ紙を通して市民に呼びかけた。「我がフランスは18年もの間、ナポレオン一族という殺し屋どもの血みどろの手で牛耳られてきたが、連中は共和主義者たちを一斉射撃することに飽きたらず、今や彼らを卑劣な罠でおびき寄せ、私邸において殺害しようとしている。フランスの人民よ、もういい加減にしろ、とは思わぬか」。事件の2日後、ノワールの民衆葬が行われ、約20万もの人々が街頭を埋め尽くした。葬列の内乱化を恐れた当局は10万の軍隊を投入した。射殺犯のピエールは皇帝の身内ゆえ無罪となり、フランス各地でナポレオン3世を批判する共和派の大規模デモが発生。ロシュフォールは民衆を煽動した罪で逮捕され、ラ・マルセイエーズ紙は創刊から約半年で弾圧を受けて廃刊となった。だが、ナポレオン3世もプロイセンとの戦争に敗れるなどして、ノワールの死の8ヶ月後に退位し帝政は崩壊した。翌1871年3月、民衆蜂起によってパリに自治政府(パリ・コミューン)が樹立された。
ヴィクトール・ノワールは射殺された際に、決闘状を突きつける役柄を引き受けたことから正装をしていた。友人達が亡骸と対面した時も、服は乱れずネクタイも手袋もそのままで、ただ心臓の部分だけが鮮血に染まっていた。穏やかな死に顔を見た友人は、大きな赤子が眠っているように感じたという。パリの墓の上のヴィクトール・ノワール像が正装なのはそういう経緯からだ。パリには今でも「ヴィクトール・ノワール」の名を冠した並木通りがある。
●参考資料(PDFファイル)、エンカルタ百科事典 |
桃太郎の墓が香川県にある--最初にこの話を知った時はトンデモ伝説のひとつと思って聞き流していたけど、調べてみると墓のある土地が「鬼無(きなし)」と呼ばれていることが分かり、好奇心が抑えられず現地へ足を運んでみた。実在したのであれば、民衆を救ったヒーローに巡礼しない訳にはいかない!
《讃岐地方に残る伝承は実に興味深かった》
『古事記』『記紀』には第7代孝霊天皇の子、キビツヒコ兄弟が播磨(兵庫)から西へ進み吉備(岡山)を平定したとある。兄の名は大吉備津日子命(オオ“キビツヒコ”ノミコト)、弟は若日子建吉備津日子命(ワカヒコタケ“キビツヒコ”ノミコト。別名、稚武彦命/ワカタケヒコノミコト。第8皇子)。『日本書紀』でも吉備津彦が大和朝廷から四道将軍の一人として西道に派遣されたとある。兄は陸路を、弟は海路を進んだことから、瀬戸内を荒らしまわった海賊=鬼を滅ぼした弟が桃太郎のモデルという。
事の起こりは稚武彦命が讃岐国に暮らす姉・倭迹々日百襲媛命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)を訪ねた時のこと。本津川をドンブラコと進んでいた彼は、川辺で洗濯をしていた美しい娘(宇佐津彦の子孫)に一目惚れし、婿養子として彼女と共に暮らすことになった。
当時は高松港沖の女木(めぎ)島&男木(おぎ)島を拠点に海賊(鬼)たちが暴れまくっていて、恐怖に脅える民衆の姿を見て義憤に駆られた稚武彦命は、海賊の征伐を決意。この討伐隊の構成は、弓矢の名人が多い雉ヶ谷(鬼無町佐料)の住民たち、火や土を巧みに操る陶工の集落・陶(すえ)村(綾南町)猿王の住人たち、航海術に優れた岡山・犬島の住民たちという陸海空の三軍だった。
※この戦の兄・吉備津彦命からの援助を“きび団子”=軍資金とする解釈もある。
稚武彦命は生島湾(高松市の西)付近の泉へ水汲みに来た海賊の子分を捕らえ、鬼ヶ島(女木島)のアジトへ案内させた。最初の海戦では“犬”の見事な操舵術で敵を圧倒し、陸戦では“雉”の弓矢攻撃でひるんだ敵を“猿”が火攻めにした。島中央部の岩窟(現存、奥行き450m)に逃げこんだ海賊はついに稚武彦命に降伏。稚武彦命は民衆が奪われた宝物を取り返して凱旋した。 後日、海賊達は逆襲したものの返り討ちにあってとうとう全滅した。彼らの屍を埋めた塚が現在の“鬼ヶ塚”で、最終決戦の地は鬼が完全に滅んだことから鬼無と呼ばれるようになった。
この鬼退治(海賊征伐)の逸話は、886年から6年間讃岐守に就いていた菅原道真が漁師より聞き及び、各地に伝えたという。
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正式名:鬼無桃太郎駅。この土地で 鬼が退治されたので鬼無というらしい |
ギャフ!ホームの上ではゲーム『桃太郎電鉄』 のキャラがお出迎え。貨車がベンチになってた |
桃太郎が眠る神社は「駅から2つ目の信号を右」 とのことだけど、信号、見えないッス…。車が はねる水を浴びながら、テクテク歩き続けた |
なんと!鬼無を流れている本津川の川辺に「おばあさんの洗濯場」が! |
ここを巨大桃が流れてきたのか…!? |
おばあさんが使った梯子(笑) ※桃ではなく「おーいお茶」がドンブラコ |
『桃太郎神社前』というバス停があったが、 時刻表もなく観光ガイドにも載ってなかった |
この看板は新しい!ずっと案内板 がなく不安だったけど一安心 |
ハンター警報。 ちょっとビビッた |
ガイドブックには『桃太郎の家』とあったが近所 の人は「え?そうなの?」。知名度は低いようだ |
「桃太郎神社」。この道の奥だ |
桃太郎神社の鳥居が見えてきた! |
かつて神社の南方には“柴山”があったそうだ (今は削られて老人ホームになっている) |
熊野権現・桃太郎神社 |
神社前に設置された『鬼無』解説文。「桃太郎は孝霊天皇第八皇子の稚武彦命(わかたけひこのみこと)」 と断言。そして「地方開拓のためこの地へ来られ、鬼が島(高松港外)で海賊を平定、鬼塚、犬、猿、雉の墓 なども残されています」。“学説は諸説云々”じゃなく、これくらいスパッと言い切ってくれると気持ち良い(笑) |
桃太郎神社を鳥居正面から望む! |
本殿の前には観光地によくある「顔出しパネル」があった。 だがしかし、顔の位置が高すぎて子どもは無理(笑) |
神社の名に桃の絵が描かれている! |
『桃太郎の凱旋』を彫った境内のレリーフ。宝物を取り返している。レリーフの左右には桃! | いよいよ墓へ。本殿の左後方に墓所がある |
2006年はここで超ドシャ降りに!ま、前が、見えぬ…! | 雨宿りすること小一時間。ようやく雨が上がった | こちらは4年後の再巡礼。この時は良い天気♪(2010) |
墓前の案内石碑「桃太郎の 遺跡。桃太郎・爺婆犬猿雉之墓」 |
お爺さんとお婆さんの墓! |
桃太郎と家来たちの墓!(2010) |
これが桃太郎の墓だ! 「左堂神」と刻まれている |
左から雉(キジ)、猿、桃太郎、犬の墓。墓前の木札のおかげで誰の墓か分かった | 雉ヶ谷/雉 | 陶村/猿 | 犬島/犬 |
※「犬」は岡山県犬島の住人、「猿」は香川県綾川町陶の陶芸師猿王(さるおう)、「雉」は鬼無町雉ヶ谷の住人とのこと! |
鬼ヶ島の戦いで敗北した鬼達は、当地で再戦を挑み完全に滅び去ったという。 その鬼達を供養したのが“鬼ヶ塚”だ。桃太郎の墓、鬼ヶ塚、洗濯場、桃太郎の家、 地名の“鬼無”…何もかもが伝説の信憑性を高めている!(☆o☆) |
写真左奥に見える女木(めぎ)島は別名 “鬼ヶ島”。島中央の洞窟が瀬戸内を荒らす 海賊のアジトと言われる。手前の男木島には 逃亡した鬼の副将が隠れた洞窟がある(06) |
こちらはJR岡山駅前の桃太郎像 | 肩のキジの他にハトも頭にお供(笑) |
※桃トリビア…日本神話の時代から桃は魔除けの聖なる果実とされている。『古事記』にはイザナギノミコトが黄泉の国から逃げ帰る際に、追って来た黄泉の魔物たちに黄泉比良坂(よもつひらさか)で3個の桃を投げて撃退したエピソードがある。桃はイザナギから神名・大神実命(オオカムヅミノミコト)を与えられ、桃太郎神社の祭神となった。
※鬼トリビア…鬼は鬼門からやって来るとされる。鬼門とは丑寅(北東)の方角。牛の如く角を生やし、虎模様の腰巻をしているのは“丑寅”を象徴しているという。
※桃太郎神社は愛知県犬山市や宮城県桃生郡河南町にもある。犬山の神社には桃の形の鳥居があり、桃太郎一行や鬼の人形が30体以上も境内に並んでテーマパーク状態。ご利益は「悪は去る(猿)、病いは去ぬ(犬)、災いは来じ(雉)」というもの。桃太郎の逸話は各地に残るが、多くが桃を食べたお爺さんとお婆さんが若返って夜の営みを再開、桃太郎を生んだという艶っぽい物語になっている。国定教科書に採用された明治20年、それでは教育的にマズいということで「桃から生まれた桃太郎」に変更された。
※岡山県では兄の大吉備津彦命を桃太郎と呼んでいる。兄もまた吉備の山賊=鬼を退治しているので間違ってはいない。兄の墓は茶臼山古墳と呼ばれ、吉備中山の山頂にある。ただ、岡山・吉備津神社の社伝では、大吉備津彦命の寿命が281歳、岡山名品の桃の栽培開始は明治以降、「黍(きび)団子」は“吉備”だけでなく全国で普通に食されたという点など、ビミョ〜なものがある。大和朝廷と渡来人の武力衝突が御伽噺になったとする説もあり。
※桃太郎=稚武彦命説を調査し体系づけたのは小学校教師の橋本仙太郎。1930年の「四国民報」(現・四国新聞)で同氏の論文『童話「桃太郎」の発祥地は讃岐の鬼無』が発表され話題を呼んだ。
※姉・倭迹々日百襲媛命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)は巫女であり、奈良桜井の箸墓古墳に眠っている(讃岐から大和へ戻ったのだろう)。巫女の為の巨大古墳は例がなく、天皇でさえ彼女に政事のあり方を伺っていたことから“卑弥呼”とする説が根強い(年代も近い)。仮にそうであれば、桃太郎は卑弥呼の弟というちょっと面白いことになる。百襲媛(モモソヒメ)の弟なので桃太郎と呼ばれるようになったいう説もある。
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帰りに鬼無の讃岐うどん屋で。巨大ナスビの天ぷらがついて300円強。コシがありメチャウマだった! |
玉手箱を開けて老人になった太郎。室町時代の『御伽草子』(おとぎぞうし)から |
浦島町! | 浦島丘! | 亀住町!公民館に浦島地蔵がある | 浦島町内会掲示板! |
浦島公園を発見 | お約束の亀! | 謎の古代壁画 | 超リアルな肖像画(笑) |
浦島小学校 | 校庭の巨大亀型すべり台 | 太郎人気は国際的 | 浦島丘中学校 |
東神奈川駅の近くにある成仏寺。ローマ字 で有名な米国人ヘボンが本堂に住んでいた |
成仏寺の庭には亀の形に石が配置されている |
「竜宮が恋しい」と太郎が 腰掛けて泣いた「涙石」 |
付近の鉄柱は全部亀! |
地図に「龍宮橋」とあったので“これはスッゲー観光名所なハズ!”と たどり着いたら、めっさ超フツーの橋。ガクッ。地元の人に慰められた |
橋の反対側は「龍宮橋」の文字さえツタで覆われて見えなかった。 横浜市はまったくこの橋に興味をもっていないようだった… |
太郎ゆかりの慶運寺。門前の石碑が江戸時代の浮世絵に 描かれており(右図)、古くから観光の名所だったようだ |
巨大石碑には「浦島観世音浦島寺」と刻まれていた。 側の看板にも「うらしま寺」と併記されている |
石碑を背負う巨大な亀。耳と巨大な尾が 付いていることから聖獣の亀趺(きふ)だろう |
慶運寺の本堂。当地は幕末に フランス領事館が置かれていた |
境内には浦島父子塔が建つ。この寺には太郎が龍宮城から持ち帰ったという亀乗 浦島観音立像が現存し(写真は境内の看板から)、12年に一度、子の年に開帳される |
そして、ついに墓のある蓮法寺に到着! | 石庭には石亀が泳いでいた(笑) |
浦島父子の墓所。どちらの供養塔が太郎かは、文献が残って おらず、住職も分からないという。敷地には漁師たちの墓がある |
中央の亀塚はとても愛嬌のある顔 (*^o^*) この地は漁師の町だった |
慶運寺の浦島観音を写した石仏。 漁師が拝むと大漁になるとのこと |
浦島太郎の物語は数ある昔話の中でも非常に古くから伝わっており、『日本書紀』や『万葉集』という最古級の文献に登場している。
古文書に出てくる彼の名前は水江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)。『日本書紀』雄略紀や丹後国『風土記』、905年に編纂された『延喜式神名帳』の“浦嶋神社(宇良神社)”の項を総合すると、丹波国与謝郡(京都北部)の筒川の漁師、浦嶋子は478年7月7日に姿を消し、それから347年後の825年に帰ってきたという。当時の淳和天皇はこの話にたいそう驚き、浦嶋子を筒川大明神と名付け、勅命を受けた小野篁(たかむら)が浦嶋神社を造営し嶋子を祀ったとのことだ。※この神社は京都府伊根町(旧・筒川)に現存する。篁は小野妹子の子孫で小野小町の祖父。 初期の浦島物語は現在知られているものと少し異なっている。ある日、浦嶋子が大亀を釣り上げると、亀は美しい乙女に変身して自分が海神の娘・亀姫(乙姫)であること、以前から漁をする嶋子に恋していたことを告げ、“夫婦となって愛し合いましょう”と告白した。愛を受け入れた嶋子は遠く海を越えて蓬莱山(伝説の理想郷)に案内され、宴の夜に2人は結ばれる。室町時代の『御伽草子』の頃から蓬莱山が龍宮城として定着し、さらに1910年(明治43年)に国定教科書に載った際に、出会いの場面が“女性から告白するのは不謹慎”とされ、浜辺で子供達にイジメられていた亀を助けた恩返しに龍宮城へ案内される物語に、大幅に書き換えられた。
蓬莱山で御馳走を食べ、歌い踊りながら亀姫と幸せに暮らしていた浦嶋子だが、3年目になると故郷の父母が気になり始め、「少しの間だけ帰らせて欲しい」と亀姫を説得した。亀姫は「必ず戻って来るという証にこの玉手箱を大切に持ち、けっして開けないで下さいね」と箱を渡した。
※玉手箱は女性の命ともいえる櫛や化粧道具を納めるもの。これを大事にするのは浮気をしないということ。
さて、浦嶋子が故郷の筒川の里に戻ってみると付近の様子が一変しており、両親どころか家も消えている。村人との会話で、既に300年も経っていた事が分かり彼は絶句。猛烈な孤独感に襲われると亀姫が恋しくなって、思わず玉手箱を開けてしまう。白い雲が立ちのぼり途端に彼は白髪の老人になってしまい、涙を流しながらどこかへ去って行ったという。万葉集(巻九)のオチはもっと悲惨で、“箱を開ければ世界が元に戻るかも”と思って開けたところ、一気に老いてそのまま絶命してしまう。
『風土記』版は最後に“後の人が作った歌”を紹介している--「水の江の 浦嶋の子が 玉匣(たまくしげ、玉手箱) 開けずありせば またもあはましを」(浦嶋子は玉手箱を開けさせしなければまた会えたのに)
さて、なぜ浦島太郎の墓が横浜にあるのか。物語の舞台となった京都の丹後半島とはあまりに遠い。しかし、神奈川には実に様々な言い伝えがある。伝承では太郎の父親は元々相模国(神奈川)の人間で、赴任先の丹後で太郎が誕生したという。亀姫の一件があって300年後に戻って来た太郎は父が故郷に眠っている事を知り、竜宮城のお土産の観音菩薩像を背負って墓参の為に神奈川を目指した。今の横浜市浦島丘で急に背中の観音様が重くなり、そこが父の眠る場所と悟ったという。そして菩提を弔うために観福寿寺(通称・浦島寺)を建て、本尊として観音菩薩像を安置した。
異説では龍宮城から戻った太郎が“両親に会いたい”と観音菩薩に祈ると、夢の中で“私を背負い関東へ行け”とお告げを受ける。太郎は三浦半島で浦島家の9代後の子孫から、横浜市浦島丘に両親の墓があると知らされたという。
戦国期の浦島一族は神奈川で成功し、小田原北条氏の治世では浦島和泉と呼ばれ、江戸時代の記録(新編相模国風土記稿)にも浦島清五郎という大庄屋がいて、丹後国の浦島家の子孫と記されている。
明治元年に観福寿寺は火災で焼け落ちたが、太郎が納めた亀乗聖観世音立像は無事に運び出され、付近の慶運寺に安置され現在に至る。
★先述したように浦島伝説の記録が古いこともあって、太郎ゆかりの地は国内に116カ所(!)も伝えられている。 ●丹後半島の伊根町の浦島神社には玉手箱が現存している。ただし、中身は煙ではなく室町時代の化粧道具。太郎が龍宮城から帰ってきた時の「龍穴」も伝わる。近隣の網野町には、浦嶋子の名を冠した「島児(しまこ)神社」があり、太郎と乙姫が出会ったとされる場所には、彼女を祀った西浦島神社がある。
●香川県西部の荘内半島・詫間町も浦島関連地として有名。町の伝承では、太郎の父は“与作”、母は“おしも”、生里が太郎の生地とされている。太郎が亀を救ったとされる海岸には浦島神社があり、玉手箱を開けた場所は“箱浦”と呼ばれ、そこに浦島父子の墓がある。亀は沖合いの粟島に葬られといい、亀戎社が建つ(いつかコチラにも墓参したい!)。
●長野県南部、上松町の木曽川上流の景勝地・寝覚ノ床には故郷を捨てた太郎が訪れ、この地で玉手箱を開けたという。老人になった太郎は長い夢が終わり目覚めたように感じたことから“寝覚ノ床”の名がついた。同地には浦島大明神を祀った浦島堂や、太郎がうたた寝した床岩も伝わっている。
●九州の浦島伝説では龍宮城が「琉球城」とされ、沖縄に渡ったことになっている。薩摩半島の最南端の岬には乙姫を祀る龍宮神社もある。龍宮と琉球は響きが似ており、これも面白い。 【世界各地に“戻って来たら未来になってた”というオチの物語がある】
●『洞庭湖の竜女』(中国)。作品の舞台は海ではなく湖だが、姫に渡された玉手箱を開けると白い煙が出てきて老人になる展開までそっくり。最後は煙を浴びた主人公が湖のほとりで野垂れ死ぬ。合掌。
●『鯉を放ち龍女を得る』(韓国)。日本版では玉手箱の用途がハッキリしないが、韓国版では箱に呪文を唱えると、海が割れ龍宮城から陸に続く道が現れる。陸で箱を開けた為に使用不能になり、龍宮城に戻れなくなる。
●『ギンガモール』(フランス)。騎士が理想郷から故郷へ戻ったら、既に300年経ってたというのが一緒。玉手箱でなく、リンゴを食べて老人になっちゃうのが欧州っぽい。 ●『不死の国』(ロシア)。こちらも理想郷に300年滞在している(300年というのは特別な数字なのかも)。望郷の念に取りつかれた主人公は「故郷が恋しくてたまらない。若さや永遠の命は、もうこの胸を熱くしない」と故郷へ戻るが、親も友人も愛する人は全て他界していて絶句する。永遠の命が必ずしも幸せではないというメッセージが哲学的。 ●一番ブッ飛んだ説は日本発の「宇宙旅行」説。風土記の中で浦嶋子が蓬莱山で昴(すばる、プレアデス星団)と畢(あめふり、牡牛座)という名前の童と会っていること、アインシュタインの理論によると物体が光速に近づくほど時間のスピードが遅くなることから、亀型のUFOに載った太郎が帰ってきた時に地球の時間が先に進んでいたというのだ。 ※龍宮城の周囲には春夏秋冬が同時に存在したという。季節が移ろわない=時間が止まっていることの暗示だ。 ※丹後から神奈川へ向かう旅路で、玉手箱を開いた場所が“箱根”という説もある。 ※浦嶋子の祖先は月読命(ツキヨミノミコト)とも言われている。月読命は天照(アマテラス)大神の弟でスサノオノミコトの兄。
※浦島関連の主な参考サイト
http://enkan.fc2web.com/minwa/urasima/00.html |
一陽斎豊国の金太郎 |
歌川国芳の金太郎 |
酒匂川・足柄大橋の リアル・プロポーション金太郎 |
阪急宝塚線「ひばりがおかはなやしき」駅 |
駅からバスで10分の満願寺に眠る |
創建は奈良時代(728年頃)と非常に古い | 寺は室町時代に一度戦乱で消失した |
境内には金太郎、熊、ウサギのパネルがあった。ウサギはかなりテンションが高い(笑) |
金太郎は坂田金時の幼名。墓への案内板はちょっとホラー・タッチ。熊の絵もかなり微妙… |
付近にあった源氏武士団の墓 | 寺の裏山の、奥へ、奥へといざなわれて行く |
これが金太郎の墓だ!扉に鍵がかかっていたので、お寺に内部を聞いたところ何も入ってないらしい |
金太郎は実在した平安末期の猛将・坂田金時の幼名だ。駿河国(静岡県小山町)出身。金太郎は足柄(がら)山の山姥に育てられ、血色が良いため顔も全身も非常に赤かったという。熊を相撲で放り投げ、大木を引き抜く怪力の持ち主。山中の動物たちを手なずけて遊び、江戸期の絵本や浄瑠璃の中で“快童丸”と呼ばれている。
成長した金太郎は足柄峠で、この当時都で最強の武将と言われた源頼光(948-1021)と出会う。頼光は東国から都へ戻る途中だった。金太郎の腕力と器量に惚れた頼光は彼を臣下として召抱え“金時”の名を授ける。『今昔物語集』によると金時は頼光配下の平貞道、平季武と並んで器量と武勇に長じた三人衆として名を連ねている。室町時代の『御伽草子』では、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光と共に「頼光四天王」と呼ばれ、都を荒らす鬼・酒呑童子一味を退治する討伐隊に加わり、頼光が成敗するのを助けたという。その一方、東国で手柄をたてた勇猛な金時が、賀茂の祭(葵祭)で初めて牛車に乗り、車酔いでヘロヘロになったというユーモラスな逸話も伝わる。 ※頼光の命を受けて諸国で強者を探していた碓井貞光(うすいのさだみつ、四天王の一人)に、金時はスカウトされたという説もある。 金時が他界したとき、力自慢で弓や馬術の名手だった彼の死は各方面から惜しまれ、摂政・藤原道長の日記(御堂関白記)の1017年8月24日分にも「相撲使の公時(きんとき)が死んだという。近衛兵の最強の男として日頃から噂になっていたので、彼の死を皆が憐れんでいる」と刻まれている。
金時の主君・源頼光は平安時代中期に初めて源氏武士団を形成した源満仲の息子。本拠地が兵庫県川西市多田(かつての摂津国)にあったので武士団は摂津源氏・多田源氏と呼ばれる。彼らは主に宮中の警備を担当した。金時の墓所は多田源氏ゆかりの川西市・満願寺にあり、同寺には源氏の墓が多い。
※源満仲の墓は3kmほど北の多田神社。正月の3日間だけ墓参可能。高野山にも墓があり、同山最古の供養塔らしい。 金時の死には異説がある。九州・筑紫国への遠征の途中、美作国勝田荘(岡山県勝央町)で豪雪にあって進路を阻まれ、熱病の為に1110年12月15日、55歳で他界したという。地元民は金時の豪傑を讃えて金時塚に祠を建て、この祠は後に栗柄神社に祀られた。当地では今も“金時まつり”が催されている。一方、富山県大沢野町にも金時と伝わる墓があり、町には子孫を名乗る坂田公時さんが住んでいる(代々、公時の名を受け継ぐそうだ)。
金太郎は死後1000年を経た現在、五月人形のモデルとなって親しまれ、男の子の節句に“気は優しくて力持ち”の金太郎のようにスクスク育って欲しいと願いを込め、親は熊にまたがった彼の姿を飾っている。
※酒呑童子(しゅてんどうじ)…日本最強の鬼。丹波国に拠点を持ち、人肉を喰らう。白面金毛九尾の狐(玉藻前)、大天狗(崇徳天皇)と並び日本三大悪妖怪とされ、手下には茨木童子を筆頭に多くの鬼がいた。最後は体がシビれる神便鬼毒酒を源頼光に飲まされ首を斬られた。陰陽師・安部晴明も戦っている。 ※1673年、初代市川団十郎は13歳で歌舞伎『四天王幼立(おさなだち)』の初舞台を踏み、この時の役柄が坂田金時だった。団十郎は顔に派手な隈取を描き、まさかり(大斧)を担いで酒呑童子を相手に大立ち回りを演じ、やんやの大喝采を浴びた。市川家の代名詞となる「荒事」はこの金時役から。また1712年には、近松門左衛門が金時の活躍を描いた浄瑠璃『嫗(こもち)山姥』を発表し、大ヒットとなった。こうして庶民の間に広く金時ヒーロー伝説が広まっていった。
【各地の伝説】 ・神奈川県箱根町…金太郎が山姥と住んでいた金時山(足柄峠)、猪の鼻を折って埋めた猪鼻神社 ・宮城県村田町…金太郎の生地という蝦夷岩、姥が子守しながら歩いた子守沢 ・長野県八坂村…熊と遊んだ熊穴、産湯となった池、大姥山、誕生した洞窟 ・長野県南木曽…金時岩、金時の遊び場、足跡石 ・静岡県小山町…山姥が金太郎を生んだ子産田、金時の足跡石、金時の爪切り地蔵 ・高知県日高村…金太郎と山姥がすんだ山姥洞、金太郎が投げた大石 ・岡山県勝田郡勝央町…金太郎の終焉地 ※本来の山姥は鬼女ではなく山の神に仕える女であり、金太郎は「山の生命力の化身」と考える研究者もいる。
【金太郎トリビア】 ・かき氷などで小豆は金時と呼ばれるが、これは肌が赤かった坂田金時からきている。 ・「きんぴらゴボウ」の語源は息子の坂田金平。硬くて辛いゴボウに金平の勇猛さを見てとったとも、金平がゴボウを食べて滋養をつけたとも、歌舞伎で金平を演じた役者の髪型が刻みゴボウの形だったとも言われている。 ・「♪まさかりかついだ金太郎」の童謡は1900年に刊行された「幼年唱歌」に載り、子供たちにとって馴染みのキャラクターになった。
・金太郎飴は江戸時代中期に発明された。
・週刊少年ジャンプの『銀魂』の主人公・坂田銀時の名は坂田金時のパロディ。
・桃太郎や浦島太郎の元となった物語が日本書紀など古代の文献にあるのに対し、金太郎は紫式部と同時代に生きていたことになり、昔話の中では比較的新しい主人公だ。
※源氏嫡流(ちゃくりゅう、正統後継者)…9世紀初頭、嵯峨天皇は増えすぎた皇族が朝廷財政を圧迫しているとして、30数名の皇族を一気に臣下(民間)に降ろした。この時、皇子達に与えた姓が「源」で、彼らは嵯峨源氏と呼ばれる。この中の源融(とおる)は光源氏のモデルとなった。次代の天皇も次々と臣籍降下を行なった為、最終的に源氏は21流にもなる。最も有名なのは清和天皇の皇子達=清和源氏。坂田金時の主君・源頼光は清和源氏の血統だ。本拠地を摂津国に定めて初の武士団を作った彼らは清和源氏の中の「摂津源氏」として勢力を伸ばし、源氏嫡流となった。しかし、血を受け継いだ頼政一族は平清盛に滅ぼされてしまう。だが、清和源氏には頼光の弟・頼信の流れを汲む「河内源氏」が健在だった。彼らは平家から逃れて全国へ散らばり、その中の源頼朝が鎌倉幕府を開いて源氏嫡流を名乗ったことから、河内源氏が嫡流となった。頼朝一族が3代で滅びた後、室町幕府を開いた足利氏も元は河内源氏(清和源氏)だ。
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スヌーピーの金太郎人形。顔は可愛いけどまさかりを持つとシュール(ジェイソン化している、汗) |
かぐや姫伝説の発祥の地と思われる富士市には、昔から次の伝承が残っている。 「延暦年中(782〜805年)、籠畑(かごばたけ)の地に籠を作ることを仕事とした翁夫婦が住んでいた。ある日、翁が竹の中から一寸あまりの少女を授かった。少女は大変美しく育ち“かぐや”と名付けられた。美女の噂を聞いた国司(地方官)は宝物を持って姫を邸に招いたが応じなかったので、自ら姫のもとへ押しかけて数年を共に暮らした。ある時、姫は国司に暇をもらい、富士山の“仙洞(せんどう)へ帰りたい”と願うがこれを許されず、箱を1個おいて国司のもとを去って行った。国司は深く悲しみ、姫の後を追って富士山の山頂に登ったところ、そこには大池があり、池には宮殿があった。出て来た姫はもはや人間ではなく天女になっていた。すっかり容姿の変わった姫を見た国司は、絶望のあまり姫の残した箱を抱えて池に身を投げて死んでしまった」 別の伝説では、姫が残した箱には不老不死の妙薬が入っていたが、悲しんでそれを富士山の頂上で焼いたことから、不死=不二(富士)となったという。富士山の麓にはかつて大きな湖だったと思われる湿地帯(浮島沼)があり、大池はそのことを指すのかも。 |
平安時代の地名(竹採公園にて) |
931年(平安時代中期)に源順がまとめた辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によると、現在の富士市の比奈一帯(吉永地区)には、『かぐや姫』を思わせる地名が数多く載っている。画像の地図で色が付いている土地名の由来は次の通り。 ・見返し(青色)…かぐや姫が富士山に向かいながら、翁夫婦が恋しくて何度も見返した“見返し坂” ・天上(黄色)…天上と名付けられた高台で、かぐや姫が富士山に登る所(昔はこの場所から頂上まで続く一本道があったという) ・赫夜姫/かぐやひめ(ピンク)…姫と国司が住んだ所 ・竹採塚、籠畑/かごばたけ(オレンジ)…竹採翁が住み、竹籠を作っていた所。姫を授かったのもここ※現在の竹採公園 ・権現原(緑)…寒竹翁(作竹翁)が竹を採った所※寒竹翁は別のかぐや姫伝説に登場する翁 |
初めて乗った岳南鉄道 | 当地は「姫名郷(ひなのごう)」と呼ばれた | 竹採公園。比奈駅の北1.5km、吉原第3中学の南側 |
竹採翁の竹採屋敷がここにあったという。子孫の岡田氏の 敷地の一部が公園に。確かに美しい竹林が待っていた |
今の竹林は大陸からの孟宗竹(モウソウチク)が多い けれど、以前は日本原産の苦竹の竹林だったらしい |
管理人さんが案内して下さった。 たくさん資料を頂いた。めっちゃ良い人! |
これが竹採塚!石には小さく『竹採姫』と彫られている | 『竹採姫』 | “塚”というからは墓だと思って来たんだけど… |
伝説通りなら、富士山そのものが、かぐや姫の墓ということか? |
富士市内には浅間神社が約24社ある。浅間神社といえば祭神は基本的に木花咲耶姫命だけど、かぐや姫関連の神社が8社もある。 滝川浅間神社…竹採翁を祀る 今宮浅間神社…竹採婆を祀る 飯盛浅間神社…姫の下女を祀る 富知六所浅間神社…赫夜姫を祀る 寒竹権現浅間神社…寒竹翁(作竹翁)と香久耶姫伝承 愛鷹山頂愛鷹明神…竹採翁を祀る。翁は鷹を愛した 須津犬飼明神…竹採婆を祀る。婆は犬を愛した 富士山美女二人…赫夜姫と富士浅間大菩薩(木花咲耶姫) 冒頭に紹介した比奈地域の地名といい、この地域には古代にかぐや姫伝説のもとになった何かしらの故事が実際にあったことは確実だろう! |
関川河口西岸に供養塔が並ぶ | 地元の人がきれいな花を供えていた |
写真の奥に海が見えている | 海岸まですぐ近く。海を越えれば佐渡島だ |
家臣の陰謀で筑紫に流された父親、陸奥領主・岩城判官正氏に会うために、安寿(あんじゅ)姫と厨子(ずし)王丸の姉弟は、乳母や母と一緒に旅に出た。しかし、途中の越後直江津で人買いに騙されて、姉弟は丹後の山椒大夫の元へ売られ、母は佐渡島へ売り渡されてしまう。奴隷として虐待される苦難の日々。1313年、安寿姫(16歳)は弟の厨子王丸(13歳)を逃がすために犠牲となって死に、厨子王丸は脱走に成功。出世して朝廷に父の無罪を認めさせ岩城家再興を果たす。そして、安寿姫の仇討ちで人買い連中を倒し、厨子王丸は佐渡島へ渡り母と再会した。供養塔は母子が引き離されたという直江津・関川河口の西岸に建っている。姉弟の物語は浄瑠璃などで語られ伝説化した。 |
「黄泉の国への入口 黄泉比良坂(よもつひらざか)」。本当にこんな案内板がある | 空もソレっぽい雰囲気に… |
日本神話では魔物を「桃」で撃退 したとあるが、確かに生えてた… |
黄泉比良坂の遠景。右手に門、左奥が黄泉の国 |
桃がなかったので柿で代用。 もしもの時はこれで…(汗) |
イザナギはここからイザナミを迎えに行ったのか | 魔物が出てこられないよう巨石で道を防いでいる |
揖夜(いや)神社。境内に入るだけで妙に緊張した |
名前に“夜”が入るって 天照大神と正反対っすね |
白い紙を地面に突き刺すとか、 馴染みのない祈りの形にドギマギ |
石灯籠を亀が背負ってるんだけど、首が切断されてる…ママン! | 山中の暗闇へと続いていく鳥居… | 狛犬の顔、溶けてますが(涙) |
この小山がイザナミの墓と伝えられている。宮内庁が立入禁止にしていた | 付近には八百万の神々が集う神魂神社(国宝)が建つ |
日本神話の女神。「古事記」では伊邪那美命、「日本書紀」では伊弉冉尊と記されている。神世七代の最後にイザナギと一緒に現れ、2神はまず最初に淡路島を生み、続けて四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬島、佐渡島、本州と、次々に日本列島を生んでいった。そして、山や海、草木などあらゆる自然物と森羅万象の神々を生んだ。イザナミは最後に火の神・カグツチを生み落とすが、このとき陰部に火傷を負い死んでしまう。
イザナミに会いたくて黄泉国(よみのくに)まで追いかけていったイザナギは、「私を見てはいけません」という禁を破って彼女を見てしまう。イザナミは既に体が腐敗してウジがわいていた。怯えきったイザナギが逃げ出すと、見られたことを恥じたイザナミは怒り、魔物の群れが彼を追いかけた。イザナギは桃を魔物にぶつけながら黄泉国の入口まで逃げ切り、両世界を結ぶ黄泉比良坂(よもつひらさか)を大きな千引の石(ちびきのいわ)で塞いだ。追って来たイザナミが石の反対側から「あなたの国の人を1日に1000人殺す」と呪いをかけると、イザナギは「それでは私は1日に1500人生もう」と答えた。 黄泉国から生還したイザナギが穢(けがれ)をはらう禊(みそぎ)で体を洗ったところ、左目からアマテラス(天照大神)が生まれた。さらにツクヨミノミコト、スサノオノミコトも誕生し、この三柱の神を三貴子(さんきし)という。イザナミの墓の伝承地は、島根県安来市の比婆山や船通山の北の御墓山、三重県熊野市有馬など各地にあるが、宮内庁はその中で唯一、八雲村(松江市)の神納山を最有力候補として「陵墓参考地」に認定している。 ※古事記には黄泉比良坂の場所を「出雲国の伊賦夜(いふや)坂」としており、島根県出雲地方の揖屋(いや)を指すと思われる。
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怖すぎる名前 | 草原をかき分けて丘を登っていくと… | 凶首塚古墳があった!岩の部屋の中に小さな鳥居だけがある… |
宇佐八幡宮の西側に『凶首塚』という、文字だけでブルッちまう塚がある。伝承によると、720年に“大隅の隼人”らの「隼人の乱」を鎮圧した朝廷軍が、勝利の証拠として隼人の首級100個を持ち帰り、当地に埋葬したらしい。その後、凶作や疫病の被害を受けたことから、人々がタタリを恐れて近くに百体神社を建て霊を慰めると、隼人の怒りは鎮められたという。※名前を変えてあげた方が良いと思うよ〜。 |
鹿児島県のJR隼人駅。駅の近くに「隼人塚」があるのが電車から見えた! |
この小さな島アマジンに琉球民族の祖先が眠る | 満潮でも歩いて渡れるようになっている | アマミチューの墓 |
岩の中に階段がある | 実に荘厳な空気 | 毎年正月、ノロ(祝女)により祭祀が執り行われる |
沖縄中部の東側に位置する、うるま市の浜比嘉島(はまひがじま)。その東方海岸にアマンジと呼ばれる岩屋の小島があり、ここに琉球民族の始祖といわれる女神アマミチュ−の墓がある。日本神話ではイザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉冉尊)から大和民族が始まったとされているが、沖縄では女神アマミチューと男神シルミチューから琉球民族が始まったとされている。 ※こういうことからも「日本は単一民族」的な発言を閣僚がすると脱力してしまう。 |
シルミチュー神に会いに 階段をずっと上っていく |
浜比嘉島の南側に女神アマミチューと男神シルミ
チューが住んだ洞穴(どうけつ)がある。シルミチュー は“シディーン”(生まれる)と“チュ”(人)の合成語だ |
周囲はとても静かで、霊場なら ではの独特の緊張感があった |
女狭穂(めさほ)塚陵墓参考地 | 伝承ではコノハナサクヤヒメとされている | 林の奥が全部古墳になっている |
日本神話の女神。子のホオリノミコトの孫が初代天皇・神武天皇にあたる。「古事記」の木花之佐久夜毘売、「日本書紀」の木花開耶姫。山の神オオヤマツミノカミ(大山祇神)の娘で、コノハナは桜の花。アマテラスなど神々が住む天上界・高天原(たかまがはら)より降臨したニニギノミコトは、笠沙の岬(鹿児島県南さつま市笠沙町)でコノハナサクヤビメに一目惚れ&結婚する。サクヤビメが一晩で懐妊したことから、ニニギが他の神の子ではと疑うので、彼女は無実を証明する為に「本当の子なら何があろうと無事に産めるはず」と誓約して産屋に火を放ち、火中でホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、神武天皇の祖父)の3神を無事に生んだ。出産祝いで父オオヤマツミが天舐酒(アマノタムケザケ、甘酒)を造ったことから、父娘は酒造の神ともされる。また、オオヤマツミは山の神であり、サクヤビメに富士山を譲ってあげた。火中出産によって火の神とされたサクヤビメは、富士山に鎮座し各地の浅間(せんげん)神社の祭神となった。安産の神、子育ての神でもある。 |
宮内庁による、『男狭穂(おさほ)塚・女狭穂 (めさほ)塚 陵墓参考地』の案内板 |
男狭穂塚はニニギノミコト、女狭穂塚はコノハナサクヤビメ の墓と伝わる。円墳の男狭穂塚を卑弥呼の墓とする説も |
宮内庁が立入禁止にしており望遠で撮影。分り難いけど この林の奥がニニギノミコトの墓。土が盛り上がってる |
少し離れた場所から。おそらく右の山がニニギノミコト、 左の山がコノハナサクヤビメのハズ! |
日本神話の神。農業の神。子のホオリノミコトの孫が初代天皇・神武天皇にあたる。ニニギの父はアマテラスオオミカミ(天照大神)の子・天忍穂耳尊、母は高木神の娘・栲幡千千姫命の子。兄は天火明命(アメノホアカリ)。ニニギは天上界・高天原(たかばまはら)からアマテラスの命令で葦原中国(人間界)を統治する目的で、日向国(宮崎県)の高千穂峰に“三種の神器”を持って降臨する。そして笠沙の岬(鹿児島南さつま市県笠沙町)でオオヤマツミ(大山祇神)の娘・コノハナサクヤビメ(木花之開耶姫)に一目惚れ&求婚する。サクヤビメの父オオヤマツミは大いに喜び、一緒に姉のイワナガヒメ(石長比売)も差し出した。するとニニギは醜い姉を送り返してしまう。オオヤマツミは「もしイワナガヒメを妻にしていれば命は岩の如く永遠のものになっていたのに…。サクヤビメだけを妻にすれば木の花が咲くように繁栄しても、命は花のように短いだろう」と告げる。天皇の寿命が神々のように長くないのはこの為だ。サクヤビメがたった一夜で懐妊したので、ニニギは他の神の子ではと疑う。サクヤビメは無実を証明する為に「本当の子なら何があろうと無事に産めるはず」と誓約して産屋に火を放ち、火中でホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、神武天皇の祖父)の3神を生んだ。
※埋葬地の「筑紫の日向の可愛の山陵」伝承地は南九州各地に所在。宮内庁は宮崎県東臼杵郡北川町の可愛岳(えのだけ)の古墳を「可愛山陵伝承地」とし、西都原古墳群の男狭穂塚を「可愛山陵参考地」と定めた。
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犬のフン!?あのう…お墓なんですけれど! | 子どもの遊び場と化し、誰でも頂上に登れてしまう | っていうか、ゴミ捨て場が隣接しているのはヒドイ! |
河童の池。干からびてるけど…(汗) | 河童は実在したッ!! | 3匹の河童に戒名がついてる | 墓前に夫婦河童♪ |
お寺の屋根の上に“水”! | 円応寺は火難水難除けの御利益で知られる | 非常に珍しい“水”の字が入った瓦。“水文瓦”という |
江戸中期に寂玄(じゃくげん)上人が河童たちを仏道に入らせ、修行を終えた河童の頭目3匹に戒名を授けた。河童たちには人間の名もあり、岡本宇兵衛(本誉覚圓信士)・竹本三太夫(本誉覚心信士)・蔵本要助(本誉覚源信士)という。 河童たちは戒名の恩返しに寺を火災から守ることを約束し 以後は近所で火事が起きると瓦に刻まれた「水」の字からスプリンクラーのように放水されて寺を助けたと伝わる。寺では今でも法要時に河童たちの回向を行なっている。 |
墓石に刻まれているのは“EMPEROR”! 「合衆国初代皇帝ノートン1世」 |
本物のチョコケーキ |
左奥が皇帝、右手前が奥さん。その墓碑には EMPRESS(皇后)と彫られていた! |
人間時代のジャミラ(注) | 棲星怪獣となってしまったジャミラ | ウルトラマンに殺害される |
ジャミラの墓参りをする科特隊。縦に並び順番に語りかけているようだ | フランス語で墓碑が刻まれている |
宇宙飛行士ジャミラは事故に遭ってある惑星に不時着したが、宇宙開発競争の中、科学のために人間を犠牲にしたことを隠すために事故は伏せられた。ジャミラは助けを待つ間に、100万度の高熱火炎を吐く怪獣と化す(腕力はインド象5000倍)。 その後、ジャミラは救助を出さずに自分を見捨てた人間たちに復讐するため地球に帰還、国際平和会議を襲撃する。 科学特捜隊パリ本部は、国際平和会議を成功させるため、「ジャミラの正体を明かすことなく、宇宙から来た一匹の怪獣として秘密裏に葬り去れ」と命令。 科特隊のイデ隊員は「ジャミラは言ってみりゃ俺たちの先輩じゃないか!そんな人と戦えっていうのか」と猛抗議し、さらに「俺たちだっていつジャミラと同じ運命になるか知れないんだ」と訴え、武器を投げ捨てた。 最終的にウルトラマンがジャミラの弱点である水をかけて“退治”。泥の中でのた打ち回るジャミラは、国際会議場の万国旗をなぎ倒し、断末魔をあげた。 ジャミラの死後、国際会議場の傍らには墓標が建てられ、墓碑に《人類の夢と科学の発展の為に死んだ戦士の魂、ここに眠る》 と刻まれる。墓参したムラマツ隊長は「ジャミラ許してくれ、だけどいいだろう、こうして地球の土になれるんだから…お前の故郷、地球の土だよ」と追悼。 一方、墓碑を読んだイデ隊員は沈黙し、心の中でこうつぶやく。「犠牲者はいつもそうだ…。文句だけは美しいけれど…」。 |
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