井伊直虎の墓 今川義元の墓 上杉謙信の墓 織田信長の墓 吉川元春の墓 吉川経家の墓 雑賀孫市の墓 斎藤道三の墓 斎藤利三の墓 島津貴久の墓 陶晴賢の墓 滝川一益の墓 武田勝頼の墓 |
竹中半兵衛の墓 筒井順慶の墓 長尾為景の墓 濃姫の墓 馬場信春の墓 別所長治の墓 北条氏康の墓 百八人塚 松永久秀の墓 毛利隆元の墓 毛利元就の墓 森蘭丸の墓 |
JR安土駅前の信長像。ハハーッ! |
武将の銅像は騎馬像が多く、この様に 能を舞っているものは非常に珍しい |
大河ドラマのオープニングみたい! |
足下の解説板は、英語、スペイン語、 伊語、ポルトガル語の四カ国語表記 |
JR岐阜駅前に09年秋に新設された黄金の信長像!日本刀ではなく火縄銃を 持っている武将像は初めてかも!?もし全身黄金の秀吉像があれば下品に 見えるかも知れないけど、なぜか信長ならめっちゃカッコ良く感じるのが不思議 |
上半身の鎧は先進的思考の信長らしく西洋の甲冑っぽい。 っていうか、この位置から見ると、目の錯覚でビルの屋上に 建っているようだ(笑) ※前日に完成したばかり。ラッキー! |
教科書に出ている信長像 |
宣教師が描いた信長像。 最も実像に近いとされている |
RS2『信長の野望・革新』 |
『勝幡城址』。愛知県稲沢市平和町にある。 名古屋鉄道津島線「勝幡駅」下車徒歩約10分 |
勝幡城址を示す碑文はもう1カ所ある。こちらは木碑だ。 日光川の河岸に建っていた |
城址内の石碑「織田弾正忠信定古城跡」。 “弾正”は今でいう警察機構 |
夕日に映える名古屋(那古野)城 |
二の丸跡。この付近で信長は生まれたとも伝わる |
桶狭間の古戦場(愛知県)。この地で今川氏に歴史的 勝利をおさめ、信長は破竹の進撃を開始する |
信長が前城主・斎藤龍興を追放し稲葉山(金華山)山頂に修築した岐阜城。 初めて見た時「なんちゅう場所にあるんだ!」と驚愕した(左上写真の頂上) |
『織田信長居館跡』。金華山(岐阜城)の西麓にある。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが その壮麗さに感嘆したという。発掘調査は現在も続いてる(公式ページ)。 ちなみに「岐阜」という名前を当地に付けたのは信長だ。それ以前は“井口”(いのくち)だった |
居館跡に隣接して建設中だった信長の 資料館(?)※2009年9月の時点 |
ノーッ!楽しみにしていた『若き日の 織田信長像』にブルーシートが!(涙) ※居館跡からこっちへ移設されたようだ |
『安土城址』 | 標高199mの安土山。かつて、この上に巨城があった | CG再現だとこんな感じ!(『信長の館』) | 麓にも石碑がある |
JR安土駅前の『安土町城郭資料館』には20分の1スケールの安土城がそびえる。 宣教師が「これほど豪華な城は欧州にも存在しない」と感嘆した五層七重の名城! |
うおお!まさかの真っ二つ! |
天守にはあのお方が! | 内部は障壁画や襖まで再現されている | 真ん中に入って心ゆくまで鑑賞できる |
こちらは同じ安土町にある『信長の館』 | なんと焼失した安土城の天守を実物大で再現! |
右端の人間と比較すると 天守の巨大さが分かる |
日本政府は国家予算を投入して 早急に全階を再建して欲しい!(真顔) |
最上階の部屋!こんな空間に信長がいたのか。 レプリカと分かっていても緊張していまう |
この門は奇跡的に消失を免れた | 安土城の天守閣まで405段。往復40分〜1時間かかる | かなり急な箇所もありチビッコには厳しい |
仰天したのは“仏など信じぬ”と言わんばかりに、多数の 石仏が階段に使用されていたこと。踏めと言いたいのか? |
仏が頭を左に横になっているのが分かるだろうか? 神仏を恐れなかった天魔・信長ならでは |
この仏教徒にとって神聖な仏足石は 城の石垣の中に混じっていたという |
二の丸跡にある信長廟入口 |
巨大な信長の墓。この廟には一周忌の法要後に 秀吉が信長の太刀や烏帽子を納めた(2008) |
翌年、快晴の日に再巡礼。信長の墓だけが 真っ白に光って不思議な光景に(2009) |
安土山の頂上に到着。天守跡から望む | 遠くに写っているのは琵琶湖っす! | 約420年前に信長もこの景色を見ていたのか |
かつての第六天魔王の居城も、 今は子ども達の楽しい遠足コースだ |
信長が1578年に建てた浄厳院(浄土宗)。法華宗 VS浄土宗の「安土問答」が行なわれたのはここ! |
桃山時代のセミナリヨ(神学校)跡。 安土城の落城と共にこの建物も灰となった |
近江八幡の西光寺 | なんとこの墓には遺歯(信長の歯)が入っている! | 歴女さんのコップ? |
岐阜市崇福寺の信長父子墓。本能寺の変からわずか 4日後に側室・お鍋が遺品や位牌を送り届けた |
父子の位牌が安置された崇福寺の位牌堂(2008) |
高野山の「織田信長公」墓(1994) 行方不明だったが1970年に発見された |
同じく高野山(2005)。板の文字が「織田信長墓所」 と変わっている。ここ10年の間に交換されたようだ |
さらに4年後、2009年。なんと音声ガイド(80)が導入されていた。 信長も草葉の陰でテクノロジーの進化に驚いているだろう |
大阪堺市の本源院。公開されていないが、ここにも信長父子の墓があるという(2003) |
富山県高岡市の瑞龍寺。建物の大半が国宝だ | 信長の分骨墓 | 暴風雨!左奥から信忠、信長側室、信長、前田利家 |
JR芝川駅から北に4km、静岡の山奥 |
西山本門寺の周辺はのどかな山村だ |
墓所はこの本堂の裏手。京都からこんなに 離れた場所に本当に信長の墓が?ドキドキ… |
境内に信長の首塚への ルートを記した看板を発見! |
なんと、このヒイラギの大樹そのものが信長の墓だった! この地に信長の首が埋葬された経緯は寺伝によると下記の通り↓ |
目印の石碑『信長公首塚』。 ヒイラギの右手前にあった |
(1)信長は囲碁名人・本因坊算砂(さんさ)の腕前に惚れ込み、光秀が謀反を起こす前夜に本能寺で御前試合をさせた。
(2)西山本門寺の第18世住職・日順上人の父は原宗安(志摩守)。本能寺が攻撃を受けた時に、原宗安の父と兄は信長を守っていたが“もはやこれまで”と自刃。炎上する本能寺から、原宗安は父と兄の首の他に、親交のあった算砂の指示で信長の首も持ち出した(原宗安自身が信長を介錯したという説もある)。
(3)3人の首は駿河(静岡)まで密かに運ばれ、信長の首は西山本門寺に納められた。そして首塚が築かれ、魔除けの力があると信じられているヒイラギを算砂が植えた。
(4)その後、日順上人(原宗安の子)は過去帳に本因坊日海(算砂)、織田信長の法号を記し、手厚く回向していた。 (5)首塚のヒイラギは樹齢400年以上の古木で時代的にも一致する。
ここまで詳しい話が寺に残っていると、首塚の存在がリアルに感じられる。
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ヒイラギの根元にお酒が供えられていた |
通常は墓石の背後にある卒塔婆が、ヒイラギの根元に立てかけられていた。 ちなみにこの巨木の根元の周囲は4.6mもある |
2代目のヒイラギもスクスク成長中 |
信長の葬儀のため秀吉が大徳寺に建立した総見院の織田一族の墓。“総見院”は信長の戒名「総見院 殿大相国一品泰巌大居士」から。毎年秋に特別公開される。左から、秀雄(信雄長男)、信雄(信長次男)、 信長、信忠(信長長男)、秀勝(信長4男)、信高(信長七男)、信好(信長十男)。右写真は信長の墓 |
上記の信長一族の墓は、不届き者が台座に登らないように、四隅を猫の看板が守っている。この猫、 目がガラス玉でいかにも「見張ってるぜ〜」とアピール。猫が番人の墓は他に見たことがなく珍しい(2008) |
妙心寺玉鳳院の墓(原則非公開)。長い交渉の末、ついに墓参 &撮影許可を頂く。左が信長父子、右は何と旧敵の武田家! |
奥が長男信忠、手前が信長の墓。 重臣の滝川一益が建立した(2008) |
大事件の舞台となった本能寺。寺名の札に注目。一度全焼したので“火は去れ” という意味から、“能”の文字は右側が“ヒ×2”ではなく“去”になっている(2008) |
移転前に本能寺があった場所は現在老人ホーム。 その前は小学校だった(スクールゾーンの看板のみ残る) |
改装前の本能寺本堂。天正17(1589)年、秀吉に よる区画整理で当地に移された(2001年撮影) |
本堂は平成20年5月8日から長期の大改修に入って いる。工事の終了は平成24年4月1日だ(2008) |
うお!改修の終了はまだ2年先と思っていたら、 もう本堂正面の足場は撤去されていた(2010) |
信長の墓は境内の奥にある※写真の門の背後 (2001) |
立派な信長の墓。三男・信孝が集めた遺骨が葬られたと いう。かつての本能寺は約4万uもの敷地があった(2008) ※信長愛用の太刀が納められているとも |
隣は本能寺の変で死んだ家臣の合葬墓。 「明智が者と見え申し候」と告げた森蘭丸の名も |
大雲院。信長父子と石川 五右衛門が同じ墓地! |
信長父子の墓。死の5年後に 正親町天皇の勅命で建立(1999) |
右側が信長、左側が信忠という 変わったスタイルの合葬墓(2010) |
大雲院は信忠の戒名「大雲院殿三品 羽林仙厳大居士」に因んで名づけられた |
京都市上京区の阿弥陀寺(2008) | 僕はこの阿弥陀寺が、最も信憑性が高いと思う(2010) | 信長の“本廟”とアピール |
阿弥陀寺に残る 織田軍の旗 |
阿弥陀寺の清玉上人が記した過去帳。右端が総見院(信長)。左から8人目に、信長が 寵愛した小姓・森蘭丸の名が見え、ここでは親しみを込めて「森おらん」と書かれている。 これは、信長が日頃「おらん」と呼んでいたことを清玉上人が知っていたからだろう。 こういう所からも、信長と清玉上人の親密さが伝わってくる(画像は絵葉書より) |
安土桃山時代の第107代後陽成天皇 の直筆で「総見院」と書かれた勅額 (ちょくがく)。秀吉建立の大徳寺 総見院ではなく、この阿弥陀寺にある |
阿弥陀寺本堂にて、左から信忠像、信長像、そして 信長の実兄・信広像。信長像前に「本能寺の変」で散った 家臣の名がギッシリと彫り込まれた位牌が立っている |
信忠像の前にある位牌は、右から 森蘭丸、坊丸、力丸の森三兄弟。 この信忠像はけっこうイケメン |
本堂の全景。本尊は大きな阿弥陀如来。火災の時に 首に斧を入れ「頭部だけでも」と脱出させたという。世に 仏頭のみが残る仏像は、多くの場合救出されたからだ |
阿弥陀寺墓地の織田軍墓所全景(2010) | 三男の信孝が建てた信長父子の墓。手前に「信長信忠討死衆墓所」の石柱(2005) |
左から信忠、信長、一段下がって三男の信孝(2005) | 夕陽の中の3人(2010) | 側面には「天正十年」とある(2008) |
墓前の石灯籠は天正13年建立(信長3回忌)。信長の側近だった森家家臣の 青木家が寄進したものだ。初冬に墓参すると周囲は紅葉になっていた(2008) |
うっすら「総見院…」と判別できる |
墓所の左側に並ぶ森蘭丸、力丸、坊丸の墓 | 信長父子の背中に小さな3つの墓 | 信長父子の周囲には家臣たちの墓がいっぱい |
幼名吉法師。尾張の那古野(名古屋)城の城主、織田信秀の子。生まれた城は那古野城、勝幡城の2説がある。妹はお市の方(市の娘は豊臣家として散った淀君)。家系は尾張守護代の清洲織田氏の三奉行のひとつ。 1546年、12歳で元服(成人式)して信長を名乗る。14歳の時に美濃の斎藤道三と父が同盟し、その証として道三の娘と結婚。17歳で父が病死、家督を継く。若い頃の信長は服装や行動が奇天烈で、大通りを人の肩にもたれ掛かって栗や柿を手掴みにして食い歩くなど、「大ウツケ(頭がカラッポ)」と世間から呆れられていた。父の葬式に髪を派手な紐で縛り、袴もつけず着流しで現れ、仏前に進み出るといきなりお香を鷲づかみにし、位牌に投げつけて帰る傍若無人さでひんしゅくを買った。 それだけではない。信長は父の病気が回復するであろうと保証した祈祷師・仏僧らを、“虚偽を申し立てた”として寺院に監禁し、外から戸を締め「今や自らの生命に念を入れて偶像に祈るがよい」と言い放ち、鉄砲隊に包囲させ射撃命令を下した。信長は生き残った仏僧を指さし、憤激して言った。「あそこにいる欺瞞者どもは、民衆を欺き、己れを偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしい。予はすでに幾度も彼らをすべて殺害し殱滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、また人民に同情しておればこそ、予を煩わせはするが、彼らを放任しているのである」と。合理的主義者の信長は神仏の存在を全く認めていなかった。 翌年18歳の信長は天下取りに向けて動き出す。まずは自国尾張を統一せねばならない。最初に清須の坂井大膳を攻め、19歳で主家の織田信友を倒し、23歳には野心家だった弟信行を暗殺し、最後は尾張守護代家の岩倉織田氏を滅ぼし25歳で尾張を統一した。 この間、19歳の時に亡き父に仕えていた重臣平手政秀が、信長の素行を諫(いさ)める為に切腹するという事件があった。尾張が統一された時、側近たちは「ここまで強大になるとも知らず平手政秀が自害したのは浅薄でした」とお世辞を言うと、信長は「こうやって弓矢を執れるのは、みな政秀が諫死したおかげだ!わしが自分の恥を悔やんで過ちを改めたからだ!古今に比類ない政秀を、短慮と言う貴様らの気持ちが口惜しいわ!」と顔色を変えて激怒した。 1560年(26歳)、桶狭間で休息中の駿河・今川義元の大軍2万5千を、たった2千の兵で奇襲攻撃し見事に勝利。これによって信長の武勇は全国に広まった。※桶狭間への出陣前、信長は「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか」と舞った。 翌々年、今川から独立した三河の徳川家康と同盟。清洲から小牧へと本拠を移し美濃(岐阜)に侵攻する。美濃の斉藤道三は子の義龍に討たれており、既に同盟は廃されていた。33歳、7年をかけて斎藤氏を滅ぼすと、本拠地を尾張小牧から稲葉山城に移し、「天下布武」(武家の政権を以て天下を支配する)の印を使い始める。 34歳、足利義昭を奉じて京都に入り、義昭を15代将軍にして室町幕府を再興するが、事実上の権力は信長にあり、義昭との関係は悪化した。 信長の勢力拡大に不満を持つ将軍義昭は、武田、朝倉、浅井、毛利、三好ら諸大名や、石山本願寺、比叡山延暦寺などの宗教勢力に呼びかけて、信長包囲網づくりを進める。これに対抗して信長は家康に援軍を要請。 1570年(36歳)7月30日(旧暦6月28日)、浅井&朝倉両軍に近江姉川の戦で勝利すると、両氏に味方した延暦寺を翌年(1571年9月30日)焼き討ちし、僧侶、一般人を問わず男女約4千人を皆殺しにした。 1572年(38歳)11月8日(旧暦10月3日)、戦国最強と言われた甲斐の武田信玄が京都に向けて進軍を開始、家康の領国へ侵攻。 1573年1月25日(旧暦前年12月22日)武田軍は強く、遠江三方原(みかたがはら)の戦において織田・徳川連合軍は完敗!ところが5月に何と信玄が結核で急死。武田軍は甲斐に引き返し信長・家康は命を繋いだ。 同年8月15日(旧暦7月18日)京都宇治で挙兵した将軍義昭を追放し、この日、室町幕府は滅亡する。 9月、越前まで進み未決着だった朝倉氏を16日(旧暦8月20日)に討ち取ると、10日後の26日に浅井氏を近江小谷(おだに)城で滅ぼす。 1575年(41歳)、三河長篠の合戦では3千挺の鉄砲を用意(当時は海外にもこんな軍隊はない)。信玄の子勝頼が率いる武田騎馬軍を粉砕し、近代戦の幕をきる。これで東国からの侵攻の懸念が消えた。翌年に天下統一の拠点として7重の大天守閣を持つ安土城の造築をスタート。長男信忠に織田家の家督を譲り、自身は安土に移った。43歳、秀吉を中国攻めに出陣させ、西国の雄・毛利氏との対決が始まる。織田軍の勢力拡大と共に朝廷の位は正二位右大臣まで上がったが、もはや覇業に朝廷権力は無用と、1578年(44歳)、全ての官職を返上した。
しかし、信長にとっての最大の敵は戦国大名ではなく、死を恐れぬ一向宗の門徒たちであり、難攻不落の城、総本山・石山本願寺だった(跡地は大坂城になっている)。石山戦争は1570年に始まり、石山から顕如が退去する80年(本能寺の2年前)まで10年間も続いたのだ。この過程で信長は、一向一揆を徹底的に弾圧した。伊勢長島の一揆では男女2万人(!)を焼き殺し、100年続いていた越前の一向一揆を攻撃した際は、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。その数、4万人。彼は自身の手紙の中で「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。見せたいほどだ。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」と書き記している。鬼も震える冷酷非情。だが他の支配地では領民に善政を行なっており、石山戦争の初期に兄信広と、可愛がっていた弟信興と秀成を失ったことが、狂気じみた残酷さの背景にあることを付け加えておく。最終的には鉄板装甲の巨大軍船を建造して本願寺側の毛利水軍を木津川河口の戦でくだし、大阪湾の制海権を掌握、本願寺の援軍を断ってこれを屈伏させ、畿内を完全に支配した。 1581年(47歳)、京都で軍事パレードの馬揃(うまぞろえ)を挙行し、覇王信長の力を天下に見せ付けた。家臣団の構成は、北国方面・柴田勝家、丹波、丹後方面・明智光秀、関東方面・滝川一益、中国方面・羽柴秀吉、対本願寺戦・佐久間信盛。 そして、運命の1582年があける。この年も快進撃は続いていた。3月に武田領国へ侵攻、甲斐天目山で勝頼にとどめを刺し、関東上野まで本州中央部を支配下に治めた。5月には三男信孝を四国に遠征させる。一方、毛利を攻め落とせないでいた秀吉に、援軍として明智光秀を向かわせた。さらに6月1日、自らも対毛利戦に参戦すべく進軍する途中で本能寺に宿をとった。東の武田は既に滅び、西の毛利と四国の制圧も目前であり、年内の天下統一は時間の問題だった。 ところが!2日未明、1万3千の軍勢に突然襲撃される。信長側は180名。本能寺の境内では若い小姓たちが戦ったが、たちまち数十名が討死。信長は鉄砲の音で部屋を出た。「これは謀反か!攻め手は誰じゃ!」。敵が寺の中に突入して来る。蘭丸が答えた「明智が者と見え申し候!」。“光秀!”火矢が放たれ本能寺は燃え上がる。「是非に及ばず(何を言っても仕方がない)」。信長は数本の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ったが、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番理解している…最も信頼していた部下なのだから。信長は炎上する本能寺の奥の間に入ると、孤独に腹を切った。覇権の夢はついえた。 ※信長暗殺の真の黒幕は誰か?光秀と公家には深い親交があったことから、近年では朝廷と見る意見が多い。延暦寺焼き討ちでは天皇が認定した国師(高僧)が焼かれ、本能寺の変の2ヶ月前にも国師快川和尚が信長の敵を匿った罪で焼き殺されている。国師を殺すと言うことは、天皇を全く恐れていないと言うこと。信長は室町幕府を潰した時に、暦を元亀から天正へ勝手に改暦しており、官位も返上している。光秀謀反の前月には天皇が信長に勅使を送り幕府開設を勧めるが、これも無視された。信長はルイス・フロイスら宣教師から聞いた欧州の絶対王政を目指しており、国王になるつもりだったのだ。その為には天皇を殺し(王は2人もいらない)、朝廷公家を滅ぼす。皇室はこれを阻止せんが為に光秀を利用し信長を葬ったという。 信長は武闘派として知られるが、内政でも様々な改革を推し進めた。経済発展のカンフル剤として課税を免除した楽市・楽座を設定し、流通をよくする為に関所を廃止、政教分離の徹底、検地、刀狩など新政策を次々と実行した。外国文化への好奇心が強く、式典の際はビロードのマントと西洋の帽子を着用し、側近には彌介(やすけ)と名付けた黒人もいた。信長はまた、茶の湯、能楽、鷹狩り、相撲などをよく好んだ。茶の湯は政治にも利用し、千利休&今井宗久らを召抱えて、家臣に茶の湯の開催権や茶器を恩賞として与えた。命令、規律は絶対であり、家臣は信長の一声で飛び散る様に従った。その一方で、秀吉の妻(ねね)へ夫婦喧嘩仲裁の手紙を書くなど、面倒見が良い一面もあった。 ●信長からねねへの手紙 「ねねさん、先日は私に会いに来てくれて有難う。持って来てくれた土産の数々には目を奪われるほどで心から感謝申し上げます。それにしても、あなたはますます美しくなっているので驚きました。にもかかわらず秀吉はあなたのことを不満に思っているとのこと、これは言語道断です。あなたのような素晴らしい女性は何処を探してもいるはずもなく、『禿鼠(はげねずみ、秀吉のこと)』には二度と得ることが出来ないからです。だから、あなたも気持ちをほがらかに、妻としてどっしりと構えて、嫉妬などしない方がいいですよ。秀吉には私から何かと意見を述べてもいいのですが、彼の世話をするのはあなたの役目だということも忘れないように」 ●イエズス会宣教師ルイス・フロイス『日本史』より(信長を身近で見ていた者の非常に貴重な資料!) 彼は中くらいの背丈で、華奢(きゃしゃ)な体型であり、声は高く、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。彼の睡眠は短く早朝に起床した。貪欲でなく、よく決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。 彼はほとんど家臣の忠言に従わず、一同から深く畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の取扱いは実に率直で、自らの見解に尊大であった。彼は他の大名をすべて軽蔑し、頭の上から話をした。そして人々は絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己れに背いても心気広濶、忍耐強かった。 彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。 彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることの指図に非常に良心的で、対談の際、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤(ひせん)の者とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることを甚だ好んだ。何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当ってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。 美濃の国で見た全てのものの中で、最も私を驚嘆せしめましたのは、この国主(信長)が如何に異常な仕方、また驚くべき用意をもって家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありました。即ち、彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らは極めて兇暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにしてただちに消え去りました。そして彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名が極めて抑揚のある声で返事しました。彼の一報告を伝達する者は、それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るように行かねばならぬと言って差支えがありません。都では大いに評価される天皇の最大の寵臣のような者でも、信長と語る際には顔を地に着けて行なうのであり、彼の前で眼を上げる者は誰もおりません。 ●本能寺後、秀吉の信長評 「公は勇将であったが、良将ではなかった。剛が柔に勝つ事はよく知っておられたが、柔が剛を制する事をご存知ではなかった。一度背いた者があると、信長公はその者への怒りがいつまでも収まらず、一族縁者まとめて皆殺しになされた。降伏する者さえも躊躇なく殺すため、信長公への敵討ちはいつまでたっても絶えることがなかった。これは信長公の人間としての器量が狭かったせいであろう。強さや怖さで人に恐れられはしても、敬愛されることはない。例えて言えば信長公は虎や狼のようなもの。人は自分が噛み殺されるのを防ぐために、猛獣を殺そうとするであろう」 ●墓について 信長墓と伝えられるものは京都だけでも本能寺、阿弥陀寺、大雲院、建仁寺、聖隣寺、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院と7ヶ所あり、他にも和歌山・高野山(1970年に供養塔を発見)、滋賀・安土城二の丸跡(一周忌の法要後に秀吉が信長の太刀や烏帽子を納めた)、大阪・堺の南宋寺本源院(信忠も一緒)、富山・瑞龍寺(前田利長が信長父子の分骨を納めた)、岐阜・崇福寺(信長父子の遺品を側室・お鍋が寺内に埋め位牌を安置)、静岡・西山本門寺(本能寺の変の前夜に信長の前で御前試合をした囲碁名人・本因坊算砂が作らせた首塚。ヒイラギの木が植えられている)、熊本県八代市の泰厳寺(今は中学校の校庭)など、全国に最低でも20ヶ所以上ある。信長を祀った神社も各地に存在する。 京都市上京区の阿弥陀寺の寺伝(『信長公阿弥陀寺由緒之記録』)によると、信長が帰依したことから親交のあった阿弥陀寺住職・清玉上人は、光秀が本能寺を攻めたと聞いて、約20人の僧侶を連れていち早く駆けつけた。 ※清玉上人…信長の異母兄・信広は今川戦で行軍中に道端で苦しむ妊婦を介抱した。女性(父信秀の側室説あり)は産気づき赤ん坊を産んで他界する。赤ん坊は信長の義兄弟として育てられ13歳で出家、修行を経て清玉上人となり、1555年に19歳の若さで近江国坂本(現大津市)に阿弥陀寺を創建した。その後、帰依を得た信長の上洛に合わせて都に移築。1570年には正親町天皇が祈願する勅願所とされ塔頭11寺院の巨大寺院になった。1574年に信広は長島一向一揆との戦いの中で戦死、清玉上人は阿弥陀寺に信広の墓を建てた。 本能寺の表門は明智軍がいたので裏道から入ると、既に本堂に火が放たれ信長は自刃した後だった。境内裏の竹林で十数人の家臣が火を焚いていたので事情を聞くと「絶対に死骸を敵に渡すなという公の遺言だったが、周囲を包囲され遺骸と共に脱出するのは不可能であり、やむなく火葬して隠したうえで各自切腹するつもりだ」と言う。信長の火葬中だったのだ。上人は「ここで自害するより信長公の為に敵と戦って死ぬべきではないか。私と信長公には縁があり、火葬はもちろん将来も追悼供養をするので後は任せて欲しい」と提案すると、家臣達は大いに喜んで門前の敵に向っていった。上人は信長の遺骨を法衣に隠し、本能寺の僧侶たちが逃げるのに紛れて脱出に成功した(明智軍は僧侶や女子には手を出さなかった)。その後、阿弥陀寺に帰って遺骨を埋葬したという。光秀がいくら捜索しても信長の骨が出て来なかったのは、既に上人が持ち去った後だったからだ。 一方、信長の嫡男・信忠が同夜に二条城で自刃し、死骸が敵に渡らぬよう火中へ投じられたことを知った清玉上人は、なんとか骨を拾おうと画策する。そして翌日の午後2時頃に七条河原で休息する光秀の元へ“陣中見舞い”として餅や焼き飯を持参し、「本能寺と二条城の戦死者の中に檀家の者が多いので、遺骨を阿弥陀寺に葬りたい」と願い出た。光秀は上人の志に胸を打たれ、申し出を許可。上人は多数の寺僧を引き連れて信忠や本能寺の戦死者112人の死骸を引き取って阿弥陀寺に運び込み、数日後に信長父子と家臣達の葬儀を行った。(阿弥陀寺は坂本で創建された。坂本といえば光秀の坂本城があった場所。その意味でも、光秀は清玉上人に心を許したのかも知れない) その後、「山崎の合戦」で光秀を倒して京都に入った秀吉は、信長の遺骨が阿弥陀寺にあることを知る。そして、秀吉は自分の力を内外に示すため、葬儀を阿弥陀寺で行うと清玉上人に告げた。上人は「既に法事は終わっているのでご心配なく」と秀吉の要求を拒否。驚いた秀吉は、法事料として300石の朱印を提示し、永代墓所供養のため寺領も与えると申し出たが、上人はこれらも断固として受け取らなかった。 秀吉は3度も使者を出して葬儀をさせて欲しいと願うがすべて拒否され激怒する。だが、清玉上人は天皇から直々に東大寺再建の大勧進職の勅命を受けた名僧であり、秀吉といえども強硬手段はとれなかった。 秀吉はやむなく、新たに大徳寺の境内に寺を建立し、信長の戒名をとって「総見院」と名付け、遺骸の代わりに信長の木像を彫ってこれを盛大に弔った。 天下を獲った秀吉は、本能寺から3年後(1585年)に清玉上人が没すると、阿弥陀寺への報復を開始。都市改造計画を理由に移転させ、寺領を8分の1まで削ったという。困窮した阿弥陀寺を森家(森蘭丸の親族)が支援し続けたおかげで、寺は存続することが出来た。 1917年、信長に正一位が追贈されることになり、宮内庁は調査を通して阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると結論づけ、勅使を派遣した。 ※秀吉が一周忌の法要のため大徳寺に総見院を建てたという説もある。しかし、総見院の資料では1582年建立、つまり本能寺の変の年になっている。一周忌なら1583年でないとおかしい。このあたり、ど〜なっとるのか!? 秀吉に最後まで屈しなかった清玉上人(阿弥陀寺) ※寺伝以外の記録でも、公卿の山科言経(ときつね)の日記の中で、本能寺の変から約1ヶ月後の7月11日に「阿弥陀寺に参り信長や織田家家臣達を弔った」と記され、さらに9月8日に阿弥陀寺で百ヶ日追善供養が催されことが書き残されている。 ※遺骨は三男の信孝によって集めらたとする説もある。 ※亀丘林幸若『敦盛』(信長が桶狭間合戦の出陣前に舞った)
思えば此の世は 常の住処にあらず
草の葉におく白露 水に宿る月より猶あやし 金谷に花を詠じ 栄華はさきを立って 無常の風にさそはるる 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先だって 有為の雲に隠れり 人間五十年 下天の中をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか滅せぬ者のあるべきか 人間五十年 下天の中をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか滅せぬ者のあるべきか ※弟の長益は有楽斎の号で大茶人となった。 |
信長は朝廷をないがしろにしていたにもかかわらず、建勲神社の説明文は異常なほど信長への大絶賛。 『贈・太政大臣正一位織田信長公 織田信長公は戦火の巷と化した応仁の大乱に終止符を打ち、民衆を疲弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え、新秩序を確立して日本史に近代の黎明を告げ、西洋を動かす力の源を追求し、悠然として東西文化交流を実行した。明治天皇より特に建勲の神号を賜い、別格官幣社に列せられ、ここ船岡山に大主の神として永遠に奉斎されている』 太政大臣は左大臣・右大臣より上位にある最高位の官職。信長は生前に官位を“無用”と返上しているのに、それでもなお死後に太政大臣を贈るとは。しかも建勲神社は御所や二条城を見下ろせる船岡山にある。これほどの朝廷のへりくだり方は、信長のタタリを恐れ、神にすることで裏切りの怒りを封じようとしているとしか思えない。 |
京都市内北部にある建勲神社 | 織田家の家紋・織田木瓜 | 狛犬の台座にも織田木瓜 |
建勲神社の本殿 |
戦国時代は考えられなかった皇室 の菊紋と織田木瓜のツーショット! |
船岡山からは市内が一望できる |
あえて謀反者となり「天魔」を討つ! 今こそ光秀を再評価すべし!! |
『信長の野望・オンライン』 智将・光秀ここに見参! |
『戦国無双』版は超イケメン ゲーム史上最高美麗武将 |
坂本城跡の光秀像。 左絵とのギャップが… |
秀吉との雌雄を決する「山崎の合戦」で、光秀が本陣 を構えた勝龍寺城。娘ガラシアが嫁いだ細川家の城だ |
城壁には鉄砲隊用の覗き穴がズラリとある (2010) |
敗北を悟った光秀は、近江で再起を 図るべく北門から脱出したという |
光秀が討たれた京都・小栗栖の「明智藪」 (伏見区・醍醐 2008) |
住宅地に接して先が見えないほど藪が生い茂る |
どんな思いでこの道を 敗走したのだろう |
大津市坂本の本墓(2002) | 京都市東山区、光秀の首塚。遺言で知恩院の近くに(2005) | 京都市伏見区、光秀の胴塚(2008)※ぶどう農家の木に隣接している |
京都府亀岡市の谷性寺(2010) |
谷性寺にも光秀の首塚がある。光秀を介錯した 側近の溝尾茂朝が、首を持ち帰って埋葬したという |
高野山の墓(1994) |
同じく高野山、白い案内柱が新調されていた(2005) |
下段が縦に大きく割れている。何回造っても 割れるという。「信長の呪い」という噂!(2009) |
5月15日の“落ち着き”膳(到着後の軽い膳)〜 カニ、鮒鮨、アワビ、タコ、鯉汁ほか計6膳 |
5月16日の朝飯膳〜ヒバリ丸焼き、カレイ、鯛汁、 イカ、鱒の焼き物、薄皮饅頭、ビワほか計5膳 |
5月16日の夕膳〜サザエ、エビの舟盛、鯨汁、 くらげ、数の子、湯漬け、羊かんほか計8膳 |
現在の岐阜県可児(かに)出身、明智城主の子。明智氏は美濃守護・土岐(とき)氏の分家。はじめは斎藤道三に仕えた。1556年(28歳)、道三とその子・斎藤義龍(よしたつ)の争いが勃発した際に、道三側についたことから明智城を義龍に攻撃され、一族の多くが討死した。光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたという。
※煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり体中に痕が残ったことから、煕子の父は姉とソックリな妹を嫁がせようとした。しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたという。当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に(家康は21人)、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。 やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられた。1563年(35歳)、100名の鉄砲隊が部下になる。射撃演習の模範として通常の倍近い距離の的に100発撃って全弾命中させ、しかも68発が中心の星を撃ち抜くスゴ腕を見せた。1566年(38歳)、13代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(29歳)が朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・細川藤孝(※要記憶)と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなる。 ●夢を抱いて信長のもとへ〜この男に賭ける! 義昭は足利幕府の復興を願っていたが、朝倉義景には天下を取る器量も野心もなかったことから、義昭は朝倉氏に見切りをつけて、桶狭間の戦以来、勢いに乗っている織田信長(33歳)を頼ることにした。1567年、義昭に見込まれた光秀は付き従う形で朝倉家を去り、両者の仲介者として信長の家臣となる。天下を狙う信長にとって足利家が手駒になるのはオイシイ話。さっそく翌年(1568)に信長は義昭を奉じて上洛し、14代義栄(よしひで)を追い出して15代将軍義昭を擁立した。40歳の光秀は、義昭の将軍就任を見届けて万感の思いだった。光秀は朝倉家で「鉄砲撃ち」をしていた自分を重用してくれた義昭に深く感謝しており、これで恩が返せたと思った。 こうして光秀は、信長の家臣であり、室町幕府の幕臣でもあるという、実に特殊な環境に身を置くことになった。 光秀は荒くれ者が多い織田氏家臣団の中にあって、和歌や茶の湯をよくした珍しい教養人。京都に入った光秀は、朝廷との交渉役となって信長を支え、積極的に公家との連歌会にも参加して歌を詠んだ。そして秀吉をはじめ重臣4人で京都奉行の政務に当たった。注目すべきは、まだ信長に仕えて2年目の光秀が、織田家生え抜きの古参武将と同等の扱いを受けていること。いかに信長が6歳年上の光秀のことを高く評価していたかが分かる。 しかし、間もなく光秀が苦悩する事態に。1570年(42歳)、信長は義昭のことを最初から操り人形と思っていたので、『書状を発する場合には信長の検閲・許可を得ること』『天下のことは信長に任せよ』など脅迫的な書状を送り約束させる。信長からの締め付けが強くなるにつれ、義昭は影響力を排して自立したいと熱望するようになり、諸大名に「上洛して信長をけん制せよ」と促した。この呼びかけに応えて浅井・朝倉が挙兵し、本願寺や延暦寺など宗教勢力も反信長勢に回る。 6月、『姉川の戦い』。浅井・朝倉軍VS織田・徳川軍。両軍の死者は2500人を超え、負傷者は数知れず。この凄惨な戦いで姉川は水が真っ赤に染まったという。光秀にとって朝倉義景は浪人時代に召抱えてくれた元主君。それも、ほんの3年前の事だ。非情な戦国の世とはいえ、辛い戦いだった(救いだったのは、徳川軍が朝倉軍を担当し、自軍は浅井攻めになったこと)。織田軍は激戦を制し、敵は敗走した。 ※参考…この時点での有名武将の年齢は光秀42、信長36、秀吉34、家康28(若い) 1571年7月、光秀は信長から滋賀郡を与えられ、琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始する(信長は築城費に黄金千両を与える)。これは織田家にとって大事件だった。光秀は初めて自分の城を持っただけではない。織田に来て僅か4年の彼が、家臣団の中で初めて一国一城の武将となったのだ(NO.2の秀吉でさえ長浜城を持つのは3年後)。光秀の喜びは計り知れない「織田に来て良かった…」。坂本城は琵琶湖の水を引き入れた美城で、宣教師ルイス・フロイスは後に「信長の安土城の次に天下に知られた名城が明智の城だった」と絶賛している。 ●信長、「天魔」となる
9月、信長の家臣団は思わず耳を疑い、それが“本気”と知って青ざめた…「(中立を守らぬ)比叡山を焼き払え」というのだ。しかも、お堂に火を放つだけでなく、僧侶、一般人、老人も子供も皆殺しにしろという。仏罰を恐れる家臣たちに「叡山の愚僧どもは、魚鳥を食らい、賄賂を求め、女を抱き、出家者にあるまじき輩じゃ」と殺戮を厳命。叡山に顔見知りが多くいた光秀は抗議する「確かに堕落した僧侶もいますが全員ではありません。真面目に修行に励んでいる者もたくさんいます」。信長は完全無視。家臣は信長の命令に逆らえるはずもなく(さもないと自分が斬られる)、織田軍は延暦寺を襲った。最澄による開山から約800年。叡山の寺院は軒並み灰燼と化し、男女約3千人が虐殺され、犬までが殺されたという。この焼き討ちは4日間続いた。諸大名がこれを批判し、武田信玄は「信長は天魔の変化である」と糾弾した。(“なんてことだ…”光秀謀反10秒前) 「信長は何をしでかすか分からん」。将軍義昭はこれ以上信長の権力が巨大化することを危惧し、武力対決への準備を進める。光秀は義昭直属の幕臣として、「今の信長公には絶対に勝てませぬ」と恭順するよう何度も説得したが、衝突は避けられぬことを悟る。同年暮れ、ついに義昭に暇を請い幕府を去った。 1572年、信長が最も恐れていた戦国最強大名・甲斐の武田信玄が動く。上洛を開始した信玄は「三方ヶ原の戦い」で家康を軽くひねり潰し、愛知まで迫る。 1573年(45歳)。正月、義昭はほくそ笑んでいた。「フフ…信長包囲網は完成した。信玄が来れば信長も終わりだ」。事実、信長は絶体絶命だった。東に信玄、西に毛利、南に三好・松永ら大阪勢、北に抵抗を続ける浅井・朝倉、しかも北陸には“闘神”上杉が無傷で控えていた。3月、「信玄接近中」の知らせに舞い上がった義昭は、上洛を待ちきれずに信長へ宣戦布告する。ところが翌月、信玄が病死!7月、義昭が立て篭もる城への攻撃に、光秀も加わるよう命じられた(これは辛い)。大軍に攻められ義昭は降伏。さすがに信長も将軍は斬らなかったが、京から追放した。ここに237年続いた足利政権は終焉を迎えた。光秀が身を粉にして復興させた室町幕府は主君信長の手で滅亡した。(“私の努力は何だったのだ…”光秀謀反9秒前) 8月、信長は3年前の「姉川の戦い」で敗走した朝倉・浅井両氏を完全に滅ぼす。浅井長政は信長の妹お市と結婚しており、長政は妻と娘の茶々(淀君)らを城から脱出させた後、徹底抗戦し自害した。 同年、信長は正親町(おおぎまち)天皇に「元号を変えよ」と前代未聞の要求を突きつけた。信長は自分が天皇より力があることを見せ付ける為に、天皇交代時の神事“改元”を命じたのだ。一人の戦国武将が元号を自由に出来る、朝廷はそんな前例を残したくなかったが、天皇は改元せねば殺される(天皇が死ねば自動的に改元される)と思い震え上がった。そして年号は元亀から「天正」へ改元された。信長は幕府を滅ぼしたこの年を“元年”にしたかったのだろう。 数ヵ月後に天皇は信長に従三位の位を授与すると、信長は官位が低いと激怒した。そしてなんと、正倉院に入って皇室の宝物中の宝物、香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り取った。信長から届けられた木片を見て、天皇は「不覚にも正倉院を開けられてしまった」と悔しさを記す。天皇は抗議の意味を込めて、その木片を信長と対立している毛利氏に贈った。 ●信長、暴走止まらず…!
1574年、信長に招かれ正月の宴に参加した重臣達は腰を抜かす。「昨年は浅井・朝倉の討伐、誠に大儀であった。ものども、祝い酒じゃ!」。家臣達の前に並べられたのは、金箔で化粧された黄金色に輝く浅井父子と朝倉義景3人の頭蓋骨!信長はその頭部を割って裏返し、これに酒を注いで呑めと言う。しかも、光秀の前に回されたのは朝倉氏。「どうした光秀、呑めんのか」「こ…これは、そ、それがしの、かつての主君であり…」。信長はこういう悪趣味を強要する一面があった。“信長公は…狂っている!”。(“この男は危険すぎる…”光秀謀反8秒前) 実際、比叡山の焼き討ち以来、「天魔」「魔王」と呼ばれるほど信長の残虐度は加速し、狂気を帯び始める。特に一向一揆への弾圧は苛烈を極め、同年9月の伊勢長島において、降伏を認める振りをして、投降してきた一向宗徒2万人を柵で囲み、老人、女性、幼児も関係なく、全員を焼き殺した。文字通り騙し討ちである。土地に子孫を残さぬこの作戦は「根切り」と言われた。 ※信長は4年前に伊勢の一向衆に愛する弟・信興を殺され、怨みまくっていた。「姉川の戦い」直後で弟に援軍を送れず、見殺しにしたという自責の念が、この2万人大虐殺に繋がった。 信長最悪の殺戮は越前で起きた。この地は100年間も一向宗徒が独立国を作っていたので、住民全員を一揆衆と認定し、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。その数は信長に届けられた首の数だけでも12250とされ、総計4万人にのぼるという(うち3万は信長が越後に入って僅か5日間で殺されている)。信長は手紙にこう記した「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。見せたいほどだ。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」。 ※越前で発掘された当時の瓦に、こんな言葉が刻まれていた「後世の人々に伝えて欲しい。信長軍は生きたままの千人を、はりつけ、または油で釜ゆでに処した」。(“これは人間のすることではない”光秀謀反7秒前) 1575年5月(47歳)、信長は3千挺の鉄砲を用意して「長篠の合戦」に挑み、信玄の子・勝頼が率いる武田騎馬軍を粉砕。射撃の名手の光秀は大いに武功をあげた。翌月、光秀は丹波国(兵庫・京都の一帯)を与えられ攻略を開始。10月、四国の長宗我部元親から光秀に書状が届く。元親は信長が四国へ攻めてくる前に友好関係を築こうとして、子の命名を信長に求め、「仲介者になって欲しい」と心頼みにしてきたのだ。頼られると弱い光秀は「承知した、安心なされ」。信長は「信」(長宗我部信親)の一字を与え、四国において元親が戦で手に入れた土地を保証すると伝えた。 1576年、信長は安土城に入城(城の石垣には地蔵仏や墓石も混じっており、信長が神仏を全く恐れていないことが分かる)。4月、大坂・石山本願寺の攻略戦(天王寺砦の戦)にて信長は鉄砲で足を撃たれる。石山本願寺は数千丁の鉄砲で武装した堅牢な要塞寺で信長は陥落に10年かかった。光秀も何度か援軍に向かっている。信長が撃たれたのは最前線に立っていた証拠。多くの大名が後方の安全な場所から指示を出していたのとは正反対で、家臣たちはそんな信長にカリスマを感じていた。(“やはり公は他の腑抜け大名とは違う”謀反8秒前に戻る) ※この年、光秀は重い病を患い、自身は快復したものの妻煕子(ひろこ)が看病疲れにより他界してしまう。20代の頃から苦楽を共にした愛妻の死に光秀は悲嘆し、妻が眠る近江坂本・西教寺を手厚く庇護した。現在の同寺の山門は坂本城から移築されたもの。 1577年、光秀は大和・信貴山城に籠城する松永久秀(ひさひで)を信忠(信長の子)と共に攻略。久秀は2度も信長を裏切っており、普通なら「一族皆殺し」となるはずだが、信長は久秀の所有する名物茶釜「平蜘蛛釜」を交換条件に命を救うと提案した。久秀は主君(三好家)を滅ぼし、将軍(13代義輝)を暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き討ちして大仏の首を落とした男。仏罰が当たると言われ「ただの木と鉄の塊に過ぎん」と言いのけた。ルール無用っぷりに信長はウマが合うと思ったのだろう。久秀は織田軍に降伏せず、最期は「信長にこの白髪頭も平蜘蛛釜もやらん!」と平蜘蛛釜に火薬を詰めて首に巻き、釜もろとも爆死、天守を吹っ飛ばした。 ●光秀奔走/されど命は救えず
1578年(50歳)、3月に上杉謙信が急死。これで一気に信長は天下取りに近づいた。翌月、信長は「もう朝廷の力など必要なし」と右大臣の官職を放棄。8月、光秀の三女・玉子(ガラシア)が細川忠興に嫁ぐ。忠興は光秀の朝倉時代からの盟友・細川藤孝の息子だ。11月、今度は逆に長女・倫子が離別されて戻って来た。倫子が嫁いだ先は荒木村重の息子。村重は信長配下の勇将だが、彼の部下が攻略中の石山本願寺に裏で兵糧を送っていたことが発覚し窮地に陥った。信長が詫びを聞き入れるとも思えず、「どうせ腹を切らされるなら反逆を」と謀反を起こし籠城した。つまり、村重は自分の裏切りで光秀に迷惑がかかるといけないので、決起の前に息子夫婦を離縁させ倫子を送り返したのだ。光秀は怒る信長を説得し、城を無血開城するなら城内の人間の命を助けるという条件を引き出した。ところが、村重は1年間の籠城後に城を抜け出すと毛利のもとへ逃げていった(毛利にいる足利義昭とも連絡を取っていた)。 信長は村重を対毛利の主要武将として考えていただけに、よりによって毛利へ寝返ったと聞いて激怒。裏切り者への見せしめとして、村重の一族37人を六条河原で斬首、女房衆(侍女)の120人を磔、侍女の子どもや若侍ら512人を4件の家に閉じ込めて焼き殺した。助命を願う者が最後に頼りとしたのは光秀。彼のもとに「拙者の命と妻の命を引き換えに」と荒木方の武将が駆け込むと、光秀は「武士の情けを」と信長に取り次いだが、なんと彼らは夫婦共に処刑され、光秀は絶句した。(“公には慈悲という心がないのか…!”再び謀反7秒前) ※荒木村重はその後自嘲して「荒木道糞(どうふん)」と名乗る。秀吉に拾われ、利休の弟子(利休七哲)となる数奇な運命を送った。 1579年、光秀は近畿各地を転戦しつつ、4年越しでついに丹波国の波多野秀治を下して畿内を平定した。しかし払った犠牲は大きかった。波多野氏を降伏させた際、投降後の身の安全を保証する為に自分の母親を人質として相手の城へ入れた。ところが、信長は勝手に波多野氏を処刑してしまう。怒った波多野氏の家臣達は光秀の母を磔にした。(“母上…申し訳ありませぬ!”光秀謀反6秒前) 同年、信長は家康の妻&長男信康が武田氏と内通していると疑い、家康に殺せと命じた。これは信康の嫁(信長の娘)と姑の対立が生んだ悲劇で実際には無実だった。しかし、家康は「魔王」信長の要求に抵抗できず、愛する妻子を殺すことに(この件で「家康は光秀以上に信長を恨んでいた」とする歴史家もいる)。 ●戦国のリストラ断行
1580年(52歳)、10年の長きにわたった「石山合戦」が終結。本願寺11代顕如は寺から退去した。徹底抗戦を訴える長男を絶縁して次男に跡を継がせた結果、本願寺は東西に分裂。戦後処理が一段落すると、信長は家臣団の“リストラ”を断行した。たとえ父の代から仕えていようと、成果を挙げない武将は任務怠慢として織田家を追放した。対象となったのは佐久間信盛父子、林通勝(秀貞)、安藤守就、丹羽右近の5人。林通勝の直接の“罪状”は、24年前に織田家の後継者を選ぶ時に、通勝が弟の信行を支持したこと。家臣たちは「24年も昔のことを理由に通勝殿が…明日は我が身だ」「30年忠勤に励んでも家臣(佐久間)に情をかけぬのか…」と衝撃を受け、戦々恐々となる。(光秀謀反5秒前?) ※なぜ「5秒前」に“?”がつくかと言えば、この事件で信長の光秀への高評価がハッキリしたから。例えば本願寺攻めを担当した佐久間父子に突きつけた通告文はこうだ。 ・確かに本願寺は強敵だが、攻めることも調略もせず、無駄に時間を浪費した。 ・私は家督を継いで30年になるが、貴殿の功名を一度も聞いたことがない。 ・ケチで欲が深く、有能な家臣を召抱えないからこうなるのだ。 ・武力が不足していれば、調略するなり、応援を頼むなり、何か方法があろう。 ・それにひきかえ、丹波での明智光秀の働きは目覚しく天下に面目を施し、秀吉の武功も比類なし。池田恒興は少禄にも関らず摂津を迅速に支配し天下の覚えを得た。柴田勝家もまた右に同じ。 ・どこかの強敵を倒してこれまでの汚名を返上するか、討死すべし。 ・いっそのこと父子共ども髪を剃って高野山に移り住め。 注目すべきは光秀が単純に褒められているだけではなく、その順位だ。無数の家臣がいる織田家にあって、光秀は筆頭で称賛され、次に秀吉、恒興&勝家と続いている。信長の光秀に対する評価と信頼は、それほど絶大なものだった。ただしこの書状は信長の自筆で直接佐久間父子に届いているので、光秀は文面を見ていない可能性が高い。(本能寺まであと1年10ヶ月) 1581年(53歳)、正月に光秀は坂本城で連歌会やお茶会を主催している(光秀は連歌をこよなく愛し、24回の催行が確認されている)。2月、信長は京都で軍事パレードの馬揃(うまぞろえ)を挙行し、“覇王信長”の力を天下に見せ付けた。信長はわざわざ宮廷の側に430mX110mの大通りを造って、“朝廷など一捻りじゃ”と軍事的圧力をかけた。光秀はこの重要行事の運営を任される栄誉を授かり、見事この任務を全うする。ここにも信長の光秀に対する満幅の信頼が見て取れる。(“信長公は私を認めて下さっている…!”光秀謀反6秒前に戻る) 信長は荒木村重の一族皆殺しから2年を経てなお怒りが収まらず、旧家臣を探し出しては斬っていた。8月、高野山が村重の残党をかくまっていたとして、高野山の僧侶を数百人も虐殺する。(“叡山に続き高野山までも…酷い…”再び謀反5秒前) 同年、一揆の鎮圧で人口10万の伊賀に4万の兵を送り、ここでも大殺戮。 ※参考…この時点での有名武将の年齢は光秀53、信長47、秀吉45、家康39 ●運命の年、1582年〜『神格化宣言』
そして、歴史に残る1582年の幕が開ける。3月(本能寺の3ヶ月前)、光秀は甲斐征討に従軍。武田勝頼は「長篠の合戦」以後も抵抗していた。迫り来る織田軍に対し、武田家重臣の真田昌幸(幸村の父)は群馬の昌幸の城まで撤退して交戦するよう進言したが、勝頼はこれを却下。最期は部下の裏切りにあい自刃した。勝頼をいよいよ追い詰めた時に光秀が感じ入って「我々も骨を負った甲斐があった」と言うと、信長は余程機嫌が悪かったのか「貴様が甲斐で何をしたのか」と激高し、光秀の頭を欄干に打ち付け諸将の前で恥をかかせた。 戦い終わって武田家の墓所・恵林寺の僧が勝頼の亡骸を供養すると、信長はこれに怒って寺を放火し、僧侶150余人を焼き殺した。燃え盛る炎の中で同寺の国師(高僧)・快川紹喜(かいせんじょうき)は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放って果てたという。(“死者を弔ったから殺すとは鬼の所業だ…”光秀謀反4.5秒前) ※国師は天皇の師。天皇が認定した国師を殺すことは、天皇の権威など全く意に関していないということ。 4月、信長は安土城から琵琶湖の竹生島参詣に向かう。往復で80km以上あり、城の侍女たちは信長が一泊してくると思い、皆が緊張感から解放された。ところが信長は疾風の如く参詣を終え日帰りで帰って来た。お城はパニック(原文には「仰天限りなし」とある)。本丸で勤めているはずの侍女が二の丸にいたり、一部の者は城下町でショッピングしたり桑実寺にお参りに行っている。信長の癇癪玉が炸裂。外出した侍女たちを縛り上げて皆殺しにて、彼女達の助命を願った桑実寺の長老まで一緒に斬殺した。(“敵兵を斬るならともかく安土の侍女を…狂気だ”光秀謀反4秒前) 5月7日(本能寺まで26日)、長宗我部元親は引き続き光秀を介して織田家に砂糖や特産品を贈っていたが、信長は元親との約束を撤回して『四国征討』を決定する。総大将は三男・信孝。長宗我部に対して「安心なされ」と言っていた光秀のメンツは丸潰れになった。しかも元親の妻は光秀の重臣・斎藤利三の妹。(“武士に二言なし!”光秀謀反3秒前) ※斎藤利三(としみつ)は元々同じ織田家の稲葉一鉄に仕えていたが、性格が合わず浪人となった。そこを光秀が重臣として迎えると、一鉄は急に利三が惜しく なり、信長に仲介を頼んで取り戻そうとした。「光秀よ、利三を一鉄に返してやれ」「私は一国を失っても大切な家臣を手放すつもりはありませぬ」「わしの命 令が聞けぬのか!」。信長は立ち上がって光秀の髪を掴むと床の上を引きずり回し、「聞けぬのか!聞けぬのか!」と廊下の柱に何度も頭を打ちつける。「き… 聞けませぬ…」。刀を手にかけた信長を「刀はいけません」と周囲が止めに入った。利三はそこまで自分を思ってくれる光秀に感動し、本能寺後も最後まで明智 軍に残ったため秀吉に斬首された。この利三の娘・福があの春日局だ。春日局は父を討った豊臣家が大坂の陣で滅亡し、さぞかし嬉しかったろう。 5月12日(あと21日)、信長は自身の誕生日に『神格化宣言』を発布した。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによると、信長は宣教師から聞いた欧州型の絶対王政を目指していたが、この頃には君主を超えて「神」として礼拝されることを望むようになり、自身の神格化を始めたという。キリスト教徒のフロイスはこれを“冒涜的な欲望”と記している。具体的には、安土城内に巨大な石『梵山』を安置して「今よりこの石を私と思って拝め」と諸大名や家臣・領民に強制した。信長が命じればただの石が神になるのだ。また、安土に信長を本尊とする総見寺を建立して信長像を置き、神仏を拝まず信長を拝めと朝廷にも命じてきた。これらは朝廷の宗教的権威への挑戦であり、目に見える形で自身が天皇の上位にあると宣言したに等しい。 ※NHK『英雄の選択』によると、最新発掘調査により、安土桃山城の天守閣の側から天皇のすまいである“清涼殿”の建築跡が見つかった。都にある清涼殿と同じ構造であり、信長は安土に帝を迎え、天守のてっぺんから眼下の皇居を見下ろすつもりだったようだ。安土を訪れた諸武将は、建物の配置からも、朝廷をひれ伏せさせる信長の絶対権力を理解したであろう。 信長は総見寺に“信長を拝めばこんな御利益や功徳がある”と木札を掲げた。内容は「貧しい者は金持ちになり、子宝にも恵まれ、病人はたちまち治って80歳まで長生きする。信長を信じぬ者は来世でも滅亡する。我が誕生日を聖日とし必ず寺に参詣せよ」。信長は「神」だから、国師や比叡・高野山の僧を虐殺しても平気なのだ。 …狂っている。信長が自身を「神」と言い出したことで、朝廷はいよいよ自分たちが滅ぼされると恐れただろう。「神」は2人もいらないからだ。ここに至り、朝廷は光秀に接近し、信長を葬り去るよう命じたと考えるのは容易に想像できる。かつて信長に上洛を促した光秀もまた、「私がこの怪物を育てた以上、この手で始末するしかない」と責任を感じ、自分一人が反逆者の汚名を被ることで「狂気」の幕引きを考えていたのかも知れない。 5月15日(あと18日)、家康が安土城を訪れる。事前に接待役を命じられていた光秀は、手を尽くして山海の珍味を取り寄せ3日間家康をもてなした。そこへ毛利征伐で中国方面に向かった秀吉から援軍要請が入る。現在戦闘中の岡山・高松城の救援に毛利の大軍が上って来るというのだ。信長は「一気に九州まで平らげるまたとない機会」と喜び、光秀を接待役から外して坂本城へ戻し、秀吉の援軍へ向かう準備をさせた。家康はこの後、「変」の当日まで京や堺の見物で関西にいた。 ※この接待に関しては、入念に準備したのに突然中国遠征を命じられ恨みを抱いたとか、宴に用意した魚が腐っていて、信長が小姓の森蘭丸(17歳)に光秀の頭を叩かせたという説もあり、これを謀反の理由にする歴史家がいるが、自分は否定的。光秀はそんな理由で主君を討つ小物ではない。 5月21日(あと12日)、信長から正式な出陣命令が下る。その内容が光秀や重臣を愕然とさせた。「丹波、山城(京都)、坂本などの領地を召し上げ、代わりに毛利の所領を与える」というものだった。信長にしてみれば「それくらいの意気込みで毛利と戦え」「お前ならすぐに毛利の土地を切り取れる」、そんな激励のメッセージだったのだろう。これまでの重用ぶりを見ても、“武勇を誇る家臣は幾らでも交換がきくが、光秀は光秀であり、代わりはない”と誰よりも認識していたはずだ。しかし信長の横暴ぶりを見続けた光秀は、もう前向きに考えることが出来なかった。領国経営に誠意をもって努めていた兵庫〜滋賀一帯の領地を全て没収し、まだ手に入れてもいない毛利の土地を国とせよとは…。(“もはや、公にはついて行けぬ”光秀謀反2秒前) ●あえて謀反者となり「天魔」を討つ 5月28日(あと5日)、坂本城を出陣した光秀は愛宕神社に参詣。建前は対毛利との戦勝祈願。そのまま神社に泊まり、人生最後の連歌会を開いた。光秀は発句をこう詠んだ。 『時は今 雨が下(した)しる 五月哉』 “時”は明智の本家“土岐”氏。“雨”は天(あめ)。つまり「土岐氏が今こそ天下を取る五月なり」。(光秀謀反1秒前) これに出席者の歌が続く。 『水上まさる、庭の松山』西ノ坊行祐(僧侶最高位) “みなかみ”=“皆の神(朝廷)”が活躍を松(待つ) 『花落つる、流れの末をせきとめて』里村紹巴(連歌界の第一人者) “花”は栄華を誇る信長、花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい 『風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮』大善院宥源(光秀の旧知) 信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ) この連歌会に集まったのは天皇の側近クラスばかり。光秀の謀反は突発的なものではなく、事前に複数の人物が知りエールを送っていた。光秀はこれらの歌を神前に納める。5月29日、信長は中国地方を目指して安土城を出発。有力武将は皆各地で戦闘中であり、信長一行は約150騎と小姓が30人、約180名しかいなかった。 6月1日(あと1日)、信長一行は本能寺に到着。なぜ本能寺なのか?信長は当時の三大茶器の2つを所有していたが、この日は本能寺に残りの一つを持つ博多の茶人・島井宗室が来るので、お互いの自慢のコレクションを一堂に会そうというのだ。信長は大量の名物茶器を持ち込んでおり、京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れた(信長は本能寺へ茶器でおびき出されたようなもの。三大茶碗の2つを所有していれば、あと1つも見たいだろう)。夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し、深夜まで碁の腕前を披露した。算砂らが帰った後、本能寺には信長、小姓、護衛の一部の100人ほどが宿泊した。丸腰も同然だった。 同夜10時頃、光秀は明智左馬助ら重臣に信長を討つ決意を告げる。信長が他将と合流すれば暗殺のチャンスはなくなる。決行は今しかない。彼らは命運を共にすることを血判状で誓った。京を越えていた明智軍1万3千の馬首が東向きに並んだ「敵は本能寺にあり!」。(光秀謀反0.01秒前!) 6月2日『本能寺の変』。桂川を越えた明智軍は、明け方に本能寺の包囲を終えた。前列には鉄砲隊がズラリと並ぶ。14年前、朝倉氏と別れて義昭と信長の仲介者となったことから全てが始まった。以来、幕府が滅びても、母が死んでも、僧侶を斬ってでも、織田家臣団のトップとして忠節を尽くしてきた。その自分が主君を討つ。光秀は深く息を吸い、そして叫んだ。 「撃てーッ!」。“ときの声”があがり、四方から怒涛の一斉射撃が始まった。(ちゅど〜ん!光秀謀反決行!) ※攻撃は6時頃。夏場の6時といえばすっかり明るくなっている。時代劇では夜襲で描かれているが間違いのようだ。光秀軍の大部分は、自分たちが「家康」を襲撃すると思っていたという説がある。
13000対100。本能寺の境内では若い小姓たちが戦ったが、たちまち数十名が討死。信長は鉄砲の音で部屋を出た。「これは謀反か!攻め手は誰じゃ!」。敵が寺の中に突入して来る。蘭丸が答えた「明智が者と見え申し候!」。“光秀!”火矢が放たれ本能寺は燃え上がる。「是非に及ばず(何を言っても仕方がない)」。信長は数本の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ったが、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番理解している…最も信頼していた部下なのだから。信長は炎上する本能寺の奥の間に入ると、孤独に腹を切った。 午前7時、明智軍の別働隊が二条御所を攻め長男信忠を自刃させた(信長の弟・織田有楽斎は脱出)。 本能寺は2時間ほどで鎮火し、信長や蘭丸の遺体が焼け跡から見つかった。謀反人としてのイメージダウンを避ける為に信長の首は晒さず、“遺体未発見”としておき、織田家と縁のある阿弥陀寺の清玉和尚を呼んで丁重に葬るよう頼んだ。(後日、秀吉が再三にわたって阿弥陀寺に信長の遺骸を渡すよう圧力をかけたが、亡骸を手に入れることで政治的に有利な立場を築こうという魂胆が明白なので、最後まで引き渡さなかった) 光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、すぐさま「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、共闘を求める書状を送る。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し、速攻で自国へ帰った。 ●そして最後の戦いへ
6月3日、遠方の武将達は信長の死を知らず、柴田勝家はこの日も上杉方の魚津城(富山)を落としている。夜になって、毛利・小早川の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、「本能寺の変」を秀吉が知ることになる。翌日、秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦。勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。5日、光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。後継者争いの最初の被害者だ。 午後2時、俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる(秀吉は“変”から10日で全軍を京都に戻した)。 安土城に入った光秀は、信長が貯めた金銀財宝を家臣達に分け与えた。同日、興福寺から祝儀を受ける(仏敵・信長を倒した御礼か)。6日、光秀は上杉に援軍を依頼。7日、朝廷から祝儀を受ける。8日、京へ移動。 6月9日、信長に反感を抱く諸将は多いはずなのに、一向に援軍が現れず光秀は焦り始める。どの武将も秀吉や勝家と戦いたくなかったし、信長が魔王でも「主君殺し」を認めれば、自分も部下に討たれることを容認するようなものだからだ。光秀が最もショックだったのは細川父子の離反。旧知の細川藤孝とガラシアの夫・忠興は、当然自分に味方すると思っていたのが、なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきた。細川家存続を選んで親友光秀を裏切った藤孝は「自分に武士の資格はない」と、頭を剃って出家したのだ(以後、幽斎を名乗る)。忠興はガラシアを辺境に幽閉した。 光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた「貴殿が髪を切ったことは理解できる…。この上はせめて家臣だけでも協力してほしい。50日から100日で近国を平定し、その後に私は引退するつもりだ」。 引退。光秀は人々の上に君臨したいという野望や征服欲の為に信長を討ったのではない。娘ガラシアが後に隠れキリシタンとなった背景には、このように夫と舅が実父を見捨てたことへの、癒されぬ深い悲しみがあった。 10日(「変」から一週間)、光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えず、彼は完全に孤立した。11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。12日、秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉方に占領されていた。※天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。 13日、『山崎の戦い』。秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた信孝の軍も加わり、4万に膨れ上がった。一方、光秀は手勢の部隊に僅かに3千が増えただけの1万6千。光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで「光秀公の為なら死ねる」と強い結束力で結ばれており、圧倒的な差にもかかわらず一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。戦闘開始から3時間後の午後7時。圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅した。 「我が隊は本当によくやってくれた」光秀は撤退命令を出し、再起を図るべく坂本城、そして安土城を目指す。堅牢な安土城にさえたどり着ければ、勝機は残されていた。“あの城で籠城戦に持ち込み戦が長期化すれば、犬猿の仲の秀吉と勝家が抗争を始めて自滅し、さらには上杉や毛利の援軍も駆けつけるだろう…大丈夫!まだまだ戦える!”。 しかし、天は光秀を見放した。同日深夜、大雨。小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを13騎で敗走中していたところ、落武者狩りをしていた土民(百姓)・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。長兵衛はそのまま逃げた。光秀は致命傷を負っており、家臣に介錯を頼んで自害した。享年54。その場で2名が後を追って殉死。 14日朝、村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋(桔梗、ききょう)入りの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したという。安土城を預かっていた明智左馬助(25歳、光秀の長女倫子の再婚相手、明智姓に改姓)は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形。 15日、坂本城は秀吉の大軍に包囲される。「我らもここまでか」左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。左馬助は“国行の名刀”“吉光の脇差”“虚堂の名筆(墨跡)”等を蒲団に包むと秀吉軍に大声で呼びかけた。「この道具は私の物ではなく天下の道具である!燃やすわけにはいかぬ故、渡したく思う!」と送り届けさせた。「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」左馬助は城に火を放ち自刃した。 光秀の首はこの翌々日(17日)に本能寺に晒され、明智の謀反はここに終わった。 自分の家臣全員を大切にした光秀は、戦死者の葬儀に当たって、侍大将も下っ端の足軽も同額の葬儀費用を出している。足軽だからといって、命の値段に差をつけたりしないのだ。 光秀は無防備な信長を急襲したことから卑怯者と呼ばれ、「主君殺し」と非難されることも少なくない。雑誌の“好きな英雄ベスト”を見ても、信長が1位になることは多々あれど、光秀がベスト10に入ることは少ない(32位というのも見たことがある…)。しかし領国では税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、歌を詠み茶の湯を愛する風流人であり、また生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という、文武両道の名将だった。側室もなく妻一人を愛し、敗将の命を救う為に奔走する心優しき男。織田家だけでなく、朝廷からも、幕府からも必要とされた大人物だった。物静かで教養人の光秀は、エネルギッシュで破天荒な性格の信長にとって、退屈で面白くない男であったハズ。それでも家臣団のトップとして重用するほど、才覚に優れた英傑だったのだ。 ●通説の6つの謀反理由を光秀ファンとして検証 ・『野望説』…光秀が天下取りを狙った。→細川父子への手紙のように、一連の光秀の言動から考えて野望はあり得ない。却下。 ・『恐怖心説』…重臣・佐久間信盛のリストラをきっかけに、結果を出さねば追放されると不安になった。→武勲挙げまくりの光秀と比べること事態がおかしい。却下。 ・『四国説』…本能寺急襲が四国遠征軍の出港予定日という点に注目。光秀は長宗我部の仲介となって信長と交渉していたので、侍の筋を通す為に謀反したというもの。事実、四国遠征は中止になった→複数原因のひとつとして採用 ・『積年の恨み説』…人質となった母の死、丹波・近江などの領地没収の他、細かいことでは、髪が薄いことを「きんかん頭」とオチョクられた、酒が呑めずに断ると「ならばこれを呑め」と口に刀を突きつけられた、公衆の面前で髪のマゲを掴まれ引きずられた、等々枚挙に暇なし。→恨んで当然。 ・『足利義昭黒幕説』…かつての主君・義昭の指令。→義昭に長年仕えていた細川藤孝が味方になっていない。却下。 ・『朝廷黒幕説』…皇室が滅ぼされると思った朝廷から指令→光秀は連歌会や茶会で公家と親交が深く、実に説得力あり。そしてこれが事実なら、暗殺後に朝廷がバックにいることを書けばもっと味方が増えたのに、謀反の汚名を朝廷に着せない為に、一言も書かなかったことになる。天晴れというほかない。 この朝廷黒幕説は、家康、秀吉の“見てみぬふり”説も生んでいる。朝廷と光秀が暗殺を企てている事を知り、両者はすぐに行動をとれるよう準備していたというのだ。信長の死で誰が一番得をしたのか?後に天下人になったこの2人だ。信長がいる限り、家康も秀吉も天下を取れずに死んでいたのは確か。“信長の仇・明智を討った家臣”秀吉の発言力は格段に強まった。家康には信長に妻子の命を奪われた恨みがある。家康は事件当日に早くも信長の死を知っており、秀吉も翌日に気づいてる。そして家康は三河へ、秀吉は京都へすぐに戻った。幾らなんでも手際が良すぎる。 じゃあ、光秀は利用された挙句に殺されたのか?僕は“確実に死んだ”と確証が持てない。光秀の死をめぐる秀吉側の記録は矛盾だらけなのだ。 ●光秀、生き延びたり?〜第2の人生「天海」
・大雨の闇夜の竹やぶで、光秀の顔も知らぬ土民・中村長兵衛が、どうやって馬で移動する彼を本人と認識したのか?また、頭の切れる光秀が、追っ手対策の影武者を用意しておらぬハズがなく、それを土民が見抜けるのか? ・長兵衛はどうやって13人の家臣に気づかれずに接近し、正確に一撃で光秀の脇腹を竹槍で刺せたのか? ・しかも、その後の寛永年間の調査で、百姓「中村長兵衛」を知る村人は小栗栖にいなかった。村の英雄のはずでは? ・秀吉が光秀の首を確認したのは4日後。6月(新暦では7月)の蒸し暑さの中で顔が判別できたのか? ・明智本家の地盤、岐阜・美山町には影武者「荒木山城守行信」が身代わりなったと伝承されている。 ・光秀の側で殉死したと伝えられている2人の家臣は、その後も生きて細川家に仕えている(当時の家伝に名前あり)。1人なら何かの偶然としても2人ともというのはおかしい。しかも細川は光秀の親友だ。 ・光秀が討たれた小栗栖は天皇の側近の領地。領主の公家は生き残った明智一族の世話をするほど光秀と親しい。この土地ではどんな工作も可能だ。 では死んだのが影武者として、光秀はどうなったのか?実は出家して「南光坊天海」と改名し、徳川家の筆頭ブレーンになったという噂が。これを単純にトンデモ話と笑い飛ばせない奇妙な一致が多々あるのだ。 ※南光坊天海…家康、秀忠、家光の三代に仕えた実在の天台宗僧侶。比叡山から江戸へ出た。絶大な権力を持ち将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と呼ばれた。様々な学問に加え陰陽道や風水にも通じていたことから、将軍家の霊廟・日光東照宮や上野の寛永寺を創建し、江戸の町並み(都市計画)を練るなどして、107歳の長寿で他界した。 ・光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には光秀の位牌&木像が安置されている。南光坊天海が没後に朝廷から贈られた名前(号)は「慈眼大師」。大師号の僧侶は平安時代以来700年ぶり。空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということか。 ・南光坊天海の墓は日光が有名だが、実は滋賀坂本にもある。光秀の本拠地であり、光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所だ。しかも天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)まで建っている。明智一族の終焉の地に、天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。 ・2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。 ・年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。 ・比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。この石灯籠は長寿院から移転。同院に拓本もある。
・家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤利三は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような人選。まして家光の母は信長の妹お市の娘・江。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤(&光秀)に恩があったのか。※しかも表向きは公募制で選ばれたことになっている。 ・家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている。 ・日光の華厳の滝が見える平地は「明智平(だいら)」と呼ばれており、名付けたのは天海。なぜ徳川の聖地に明智の名が?(異説では元々“明地平”であり、訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったと伝わる) ・山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、山崎の戦いで光秀を裏切った筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されている。 ・明智光秀の孫の織田昌澄(光秀四女の子と、信長弟・信行の嫡男信澄との子)は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されている。 ・天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だ。なぜなのか。 ・家康の死後の名は「東照大権現」だが、当初は“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」であったからだ。 ・家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋。しかもこの武士像は寅の毛皮の上に座っている。寅は家康の干支であり、文字通り家康を“尻に敷いて”いる。また、門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている。どうして徳川を守護するように明智の家紋が密かに混じっているのか。※追記。この家紋説に関しては、桔梗より織田家の家紋・織田木瓜の方が近いことが後日に判明。詳細はページ末にて。 これらには反論もある。例えば「天海の鎧は大坂の陣で着用したのだろう」や「桔梗紋は他にも太田道潅や加藤清正らが使っている」と言うように。しかし、道潅の桔梗は花弁が細い“細桔梗”であり同じ桔梗でも形が全然違うし、第一光秀以外の桔梗紋の武士が「寅」の上に座って許されるハズがない。一つ二つの一致なら「偶然に決まってる」と笑えるが、土民に竹槍で刺された話から死後の「慈眼大師」の命名まで見渡すと、光秀死亡説が100%真実とは思えなくなる。 山崎合戦後、“光秀”が比叡山に出家したのも合点が行く。合戦で、一族、家臣の多くが死んでしまい、その霊を供養したかったのだろう。また比叡山の方も、天魔・信長を討ってくれた「英雄」を手厚く迎えた(光秀が石灯篭を寄進したのは彼が世話になった寺)。 時が流れて“天海”が江戸で初めて家康と会った時の記録も意味深だ「初対面の2人は、まるで旧知の間柄の如く人を遠ざけ、密室で4時間も親しく語り合った。大御所(家康)が初対面の相手と人払いして話し込んだ前例がなく、側近達は“これはどういうことか”と目を丸くした」。 ※天海が関東を活躍の場に選んだのは顔が知られてないから。晩年の秀吉は甥・秀次の一族を幼児まで皆殺しにしたり、朝鮮侵略を行なうなどトチ狂っていたので、天海は信長の悪夢が甦り「早く豊臣を滅ぼし家康に天下を任せよう」と徳川政権の基盤確立に奔走したと推察。 『家康・家光・天海 御影額』…秀忠がいないのに天海がいる!どれほど徳川にとって重要人物かが分かる。 ●墓 光秀や左馬助の墓は滋賀坂本の西教寺にある。ちなみに天海の墓も歩いていける場所にある。光秀の墓は高野山や明智と縁のある岐阜・山県市にもあり、さらに首塚が京都・知恩院の近くにある。これは小栗栖で討たれた時の遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたのだろう。 ※山崎の合戦で死んだのは光秀の影武者「荒木山城守行信」という伝承もある。光秀は荒木に深く感謝するため「荒深」という名で余生を送り、関ヶ原合戦で東軍につこうとして道中の洪水で溺死、荒木吉兵衛(荒木の子)が光秀の亡骸を岐阜県山県市西洞に葬ったとする墓が現存している。 ※『明智軍記』が光秀の死から百年後に書かれていることを理由に、光秀の母の死、近江・丹波の召し上げ、家康接待事件、武田征伐での欄干事件などを“創作”とする意見もあるが、『明智軍記』には事実も書かれており、「絶対に事実ではない」と断言できるもの以外はここに採用。また「叡山焼き討ち」に関しても、“光秀が周辺土豪に根回しをした書状があるから反対説は嘘”という歴史家がいるけど、根回し(事前通告)をせねばさらに事態が混乱する訳で、それをもって「反対してない」と決め付けるのはどうか。 ※光秀の天下は12日間(三日天下ではない)。 ※坂本龍馬の生家には「坂本城を守っていた明智左馬助の末裔(土佐まで落ち延びた)が坂本家」との伝承が伝わるという。坂本家の家紋は明智と同じ桔梗紋。 ※フロイスいわく、信長は毛利を平定し日本66カ国を支配した後は、「一大艦隊を編成して中国大陸を征服し、自分は日本を出てこの国は子に与える」と言い放っていた。戦争は日本で終わらない…光秀でなくとも、戦続きで疲れ切った家臣達は、目の前が真っ暗になっただろう(これも謀反の原因に加えて良いかもしれない)。 |
なぜ徳川家の聖地・東照宮を入口(陽明門)で守る武士の着物に、明智家の桔梗紋が入っているのか!? しかも家康の干支の「寅」の上に座っている!これほどの権力を持つ桔梗紋の人物とは!? |
織田木瓜(もっこう) | 拡大! | 明智の桔梗紋 |
1.天下を統一した徳川を“見守る”という形でかつての主君・信長を復活させることで、本能寺の赦しを得ようとしていた。 2.木瓜紋は日本神話の荒神スサノオノミコトの神紋(織田家は神官出身)。神威を借りて家康の廟を守護している。 3.唐では木瓜紋が官服に用いられていた。つまり織田や明智とは無関係に、従者が身につける紋様として普及していた。 |
※2021年追記。大河『麒麟がくる』全話見ました。光秀役の長谷川博己さんは素晴らしい演技だった。 信長も新しい信長像を楽しめたし音楽もよかった。沢尻エリカの不祥事による放映延期、コロナ禍による まさかの撮影中断、様々なアクシデントを超えて44回放送したことには拍手。…でも、姉川、長篠といった 重要合戦がほぼナレーションで終わり、最後の山崎の合戦までカットされたのは衝撃的でござった。 光秀はナレ死で片付けられ、主人公の最期の言葉すら聞けないなんて、放送前は想像もしなかった。 このドラマ、けっして尺が足りなかったわけではない。お駒、東庵など架空の人物を長時間かけて 描いていた。それだけに、なぜ架空キャラばかり活躍させたのか、モヤモヤは一向に晴れず…。 |
『森蘭丸邸址』 安土城の天守の近くにある |
「森蘭丸源長定墓」 阿弥陀寺にて |
森三兄弟。左から蘭丸(成利)、力丸(長氏)、坊丸(長隆)。 名前が刻まれた台座は後世に作られたもの |
三兄弟の正面には信長&信忠の墓所がある! 側近中の側近として、死してなお仕える三兄弟 |
この墓は1945年の岐阜大空襲でいったん焼失したが、1975年に墓の碑文が発見されて無事再建された。 墓の上の説明版には「本能寺の変で信長と共に討死した濃姫の遺髪を家臣の1人が当地に逃れて埋蔵した」 とあった(この場合享年47歳)。他の文献には本能寺以降も生きていた記録があり、最期は謎に包まれている |
こちらは京都大徳寺総見院の墓。 奥の五輪塔が濃姫、手前の岩が 側室“お鍋の方”の墓。お鍋の方は スケートの織田選手の祖先 |
織田信長の正室。父は斎藤道三。母は明智光継の娘(光秀の従兄妹?)。諱は帰蝶(きちょう)。1549年、14歳で信長と結婚。尾張平定後の祝宴で濃姫が家臣団にアワビを振舞うなど、しっかり者の良妻と伝えられる。本能寺の変の翌年、秀吉主催の一周忌に不満があったのか、濃姫は自身が主催した一周忌を執り行っている。法名は「養華院殿要津妙玄大姉」。信長との間に実子はおらず、嫡男・信忠は側室の子とされる。 |
“美濃のマムシ”道三 | 嫡男の義龍 | 幾多のドラマを生んだ稲葉山城(岐阜城) |
周囲の開発が進んでも住民はこの塚を守ってきた | 『斎藤道三公塚』とある | きれいな花が供えられていた |
親子2代で“国盗り”に成功した典型的な下剋上の成り上がり者。美濃国(岐阜県)の大名斎藤氏の初代当主。異名は「美濃の蝮(まむし)」。元々、道三の父・新左衛門尉は京都妙覚寺の僧侶だった。美濃に渡って守護・土岐氏の重臣・長井氏に仕えた新左衛門尉は、みるみる頭角を現し自らも長井姓を名のるようになる。1533年(39歳)、父の他界を受け道三は家督を継承。そして、長井氏の惣領(一族の長)を殺害して職を奪い、さらに守護の土岐次郎を尾張国に追放すると、次郎の弟頼芸(よりのり)を守護に擁立した。1537年(43歳)頃に守護代の斎藤氏を継いで斎藤利政を名のった。
1541年(47歳)、勢力の拡大を狙う道三は頼芸の弟(土岐頼満)を毒殺し、これをきっかけに頼芸とも衝突。翌年には頼芸父子を尾張国へ追放し、一時的に美濃国を支配した。これに対して、織田氏の援助を受けた頼芸と、朝倉氏の援助を受けた頼純(頼芸の兄の子)がタッグを組んで反撃を開始。道三は美濃の一部を奪われる。また、1547年(53歳)に織田信秀(信長の父)が大軍で道三の居城・稲葉山城を攻めた。だが、道三はこれを加納口の戦いで返り討ちにした。同年に頼純が病死。道三は織田氏と和平を結び、翌年に娘の濃姫(帰蝶)を信長の元へ嫁がせ、地盤を確かなものとする。1552年(58歳)、再び頼芸を尾張国へ追放したことで、悲願だった美濃国の完全平定を成し遂げた(家督継承から約20年)。
とはいえ、道三のやり方は何でもアリの連続。源平合戦で尾張の長田忠致が旧主君の源義朝を謀殺した故事になぞらえ、道三が美濃を平定した際に、稲葉山城の門には次の落書きが刻まれた「主を斬り、婿を殺すは身の(美濃)おはり(尾張)。昔は長田、今は山城」。
2年後(60歳)に家督を子の義龍(よしたつ)に譲って隠居。常在寺に出家し道三を号した(それまでは斎藤利政)。だが、道三は義龍の弟たちを溺愛したことから、廃嫡を恐れた義龍は家督継承の翌年に弟たちを殺害する(これについては道三の実子ではないことを知った義龍が道三の実子2人を殺害し、道三に戦を仕掛けたという見方もある)。
1556年、長良川を挟んで道三軍と義龍軍は合戦となった。下克上でのし上がった道三を支持する兵は殆どおらず、義龍軍17500に対し道三軍は2500。信長の援軍は間に合わず、道三は敵兵に組み付かれ、スネを斬られ、鼻を削がれ、首を落とされた。享年62歳。当初、道三の墓は崇福寺の西南に築かれたが、長良川の洪水で何度も流され、死から約300年後の1837年に齋藤家の菩提寺・常在寺の住職が当地に移して石碑を建て現在に至る。 ※義龍は道三の死の5年後(1561)に33歳で急死。若年で家督を継いだ龍興(義龍の子)は放蕩し、家臣の竹中半兵衛が稲葉城を乗っ取り、お灸を据えた(半兵衛は半年後に返還)。1567年、信長の攻撃で稲葉城は落城。龍興は朝倉氏の元に身を寄せ、1573年、朝倉軍VS織田軍の合戦に従軍し戦死した。享年25歳。 ※かつては道三の生涯が父のものとごっちゃに考えられていた。司馬遼太郎原作の大河ドラマ『国盗り物語』(1973)も油売りから身を起こし美濃国を手に入れた道三として描かれている。この大河の前年から、岐阜市では毎年4月に『道三まつり』が催されている。
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とても温厚そうな謙信像 | PS2『信長の野望・革新』 | PS2『戦国無双』 | 上越市春日山の謙信像 |
『春日山城跡案内図』。山が丸ごと城と化している | 看板に「本丸まで30分、車では登れません!!」 | ひたすら登っていく。なんちゅう場所に城を…! |
二の丸跡から本丸を望む。頂上までもうすぐ | 『天地人』のおかげで凄い人の数! | 謙信が戦勝祈願した毘沙門堂。内部には毘沙門天 |
『天守閣址』 | 『史跡 春日山城址』 | 『本丸址』 |
本丸址の人だかり。皆が見ているのは次の景色 | 春日山は標高180m。本丸からは領地が遠くまで見渡せ、日本海もよく見える(左奥) |
春日山城跡から領民の暮らしを見守る謙信公 | 最初に謙信が埋葬されたのは、春日山城のここらしい(2009) |
『直江兼続宅址』 毘沙門堂の近くにある | 春日山城跡の春日山神社 | 神社本殿には大河で謙信を演じたGacktが |
春日山・林泉寺の重厚な山門。謙信の祖父・長尾能景が建立した長尾氏の菩提寺だ | 「謙信公御墓所入口」の石柱。ここを登っていく |
「上杉謙信公の御墓」(2008) 周囲は苔むしておりワビ・サビを感じる墓だ |
後方の巨大五輪塔は後世のものだろう。墓前に 1本だけ日本酒が置かれていたのが渋かった |
ソウルトーク中も墓参者が次々とやって来た。 謙信公の人気は増すばかり(2009) |
「川中島戦死者供養塔」(2008) | 謙信の墓の近くに建っている(2009) |
1994 高野山の謙信廟は改修中だった |
2005 改修完了。ライバル・信玄と謙信の墓はすぐ近く |
2009 時間が止まっている。『風林火山』『天地人』と上杉に スポットが当たる大河があったが、ここではどこ吹く風 |
4度目で初めて晴天の木洩れ陽(2013) | 扉の隙間から内部を覗くと石塔が見えた! |
栃尾は長尾景虎時代に旗挙げした土地。 謙信が建立した常安寺の境内が秋葉公園 になっており、そこに大きな謙信公像が建つ |
秋葉公園の「虎千代(謙信の幼名)の隠れ岩」。 8歳頃、刺客の襲撃から逃れるために、庶民の 子どもと服を取り替えてこの岩陰に隠れたという |
秋葉公園近くの栃尾美術館(新潟県長岡市)。 前庭に謙信像、裏庭にお墓がある |
騎乗の謙信公(2013) | まさか美術館の裏庭に謙信の廟所がるとは | 謙信の墓。後方の山にかつて栃尾城があった |
こちらは山形県米沢市の上杉家廟所。秋の午後の日差しがドラマチックだった(2009) |
その中心に眠るのが謙信!(2008) | 奥の方にある謙信公の墓石。1601年に越後から米沢城へ移されたが1876年に当地へ(2009) |
上杉家の歴代当主の墓(廟)が110mにわたってズラリと並ぶ。かなりの迫力! |
上杉神社(米沢城址)の謙信像 |
『史跡 上杉謙信公御堂跡』 江戸期に謙信の遺骸を安置した御堂が、この米沢城 南東隅にあった。遺骸は越後→米沢城→そして1876年に上杉神社へ移動した(09) |
越後守護代・春日山城主(新潟・上越市)、長尾為景の子。自ら毘沙門天(びしゃもんてん、仏法の守護神・四天王の中で最強)の転生と信じて「毘」を旗印とし、比類ない勇猛さから「越後の龍」と呼ばれた。名前は長尾景虎(平景虎)→上杉政虎(藤原政虎)→上杉輝虎→上杉謙信(出家後)と次々変わった(虎は寅年生まれから)。 幼児期にわんぱくが過ぎて寺に預けられると、力試しに墓石を倒すなど寺でも手に負えず、住職は「この子は僧には向いてません」と手紙を書いて嘆いた。そんな12歳の折に父が病没。彼は子どもながらに親に迷惑を掛けっ放しだったと反省し、心を入れ替え、その後は僧侶になるべく修行に励んだ。父の没後、兄・晴景が家督を継いだが求心力に欠け、重臣の中から謀反・反乱が相次ぎ、謙信は武将として城に呼び戻された。若い謙信をなめていた家臣たちは、13歳にして見事な采配で反乱を治め、初陣を飾った彼を見直した。その後も戦場に出ては謙信が大活躍するので急速に人望が高まり、周囲の画策もあって18歳の時に兄から家督を譲られ、1550年、20歳にして越後の国主となった。 謙信の武門の名声と共に、義を重んずる人柄・人徳が諸国に伝わると、彼を頼って逃げて来る武将も出てくる。謙信の戦は「頼ってきた武将の領地を奪い返してあげる」という戦いが大半。一般の大名のように領土拡大の野心から武器を取ることがない稀有な存在だった。そして1553年(23歳)、甲斐の武田信玄の信濃侵攻で、領土を奪われた村上氏、高梨氏らの援軍として、川中島(長野市南部)で武田軍と向かい合った。 ●川中島の戦い〜謙信は12年間に5回信玄と対決した 1553年第1回(23歳、信玄32歳)…信濃・高梨氏が信玄の侵略を受け謙信に応援を要請。信玄は直接対決を避け、小競り合いの後に両軍撤退。 1555年第2回(25歳)…武田軍と上杉軍は犀川を挟み3キロの地点で向き合う。先に渡河すると矢の雨が降るので、両軍は4ヶ月も向き合う持久戦となった。兵糧も馬鹿にならず、信玄は駿河の今川義元に仲介を求め両軍撤退。 1557年第3回(27歳)…冬のうちに武田軍が上杉方の城を攻略。冬は雪で援軍を出せない謙信は「姑息なことを!」と怒り心頭。春になって南下すると、武田軍は戦わずに撤収した(“冬期はこっちが優位なんだぜ”とアピールする信玄の心理戦か)。 1561年第4回(31歳、信玄40歳)…この4回目が一般に「川中島の戦い」と言われる激戦。上杉軍1万3千、武田軍2万人が総力戦を行なった。信玄は海津城を本拠とし、謙信は妻女山(さいじょさん)に陣を張った。9月9日夜、信玄は軍を二手に分け、別働隊1万2千に妻女山を奇襲させた。信玄の作戦は、奇襲に驚いて上杉軍が下山してきた所を、麓から本隊8千で挟撃するというもの(キツツキ作戦)。だが謙信は信玄の策を見抜き、奇襲を受ける前に先手を打って下山した。しかも、武田軍をあざむく為にかがり火を多く焚き、まだ山中にいると思わせて。この時の上杉軍の統率のとれた行動は特筆に価する。1万3千もの兵が完全に気配を消して移動したのだ(渡河までしてる)。謙信は全軍に会話を禁止させ、全ての馬に薪を噛ませて嘶(いなな)けぬようにした。 翌朝、武田軍は仰天した。川中島名物の濃霧が晴れると、上杉軍が武田軍本隊の目の前にいるではないか。上杉側も霧の中の移動だったので、目の前が敵本陣とは思っていなかった。戦場は大混戦になる。 武田側は軍を分割したことが裏目になり(別働隊はまだ山中)、武田軍ナンバー2の副将・武田信繁(信玄の弟)をはじめ、山本勘助らが戦死。さらには謙信が武田の本陣に突入し、謙信が馬上から信玄を3度斬りつけ、信玄が軍配団扇で防ぐという、大将同士の一騎打ちまで起きた。戦の後に信玄が軍配を調べると刀傷が7箇所もあったという(『上杉家御年譜』)。武田軍が崩壊寸前になった時に別働隊が戻って来て参戦。ギリギリで形勢は逆転し、謙信は退却した。この時代、戦いが不利となれば即撤退、或は和睦したものだが、霧によって乱戦になったことで死傷者の数が爆発的に増え、戦闘に参加した両軍3万3千のうち2万7千、実に7割の兵が死傷(死者約6千)する凄絶な戦いとなった。 1564年第5回…両軍が2ヶ月間対峙、後に撤退した。足掛け12年にわたった因縁の対決はこれが最後になった。 謙信の太刀を軍配で受ける信玄(川中島) この間の出来事として記しておきたいのは、第2回川中島合戦後の謙信の出家宣言。信玄との対決だけでもヘトヘトなのに、家臣の内輪もめや反乱が続くので、26歳の彼は俗世が嫌になり、突然「私はもう城を出て僧侶になる!」と越後を去って、和歌山の高野山に入ってしまった。仰天・動揺したのは家臣たち。謙信が去れば隙を狙って他国が攻めて来るだろう。内輪もめしている場合じゃない。「もうワガママ言いません、喧嘩もせず皆で従います」と誓約書を書いて説得し、城に帰って来てもらった。この一件は“国主より一介の僧侶がいい”という謙信の権力への無欲さを示すものであり、家臣団は「我らが全力で殿を支えよう」と結束が強くなった。31歳、強敵・北条氏康に追われた関東管領・上杉憲政(謙信の養父)の為に、大軍で小田原城を攻めた。この時の働きで彼が関東管領職を継ぐ事になり、姓が長尾から上杉に変わった。 川中島で謙信との対決にコリゴリした信玄は、ターゲットを信濃から駿河・今川氏に変え戦闘を開始する。この時、今川勢は武田側に塩が入らぬよう「塩止め」を行なった。謙信が武田側に送った文面が素晴らしい。 「近隣の諸将(今川と北条)は貴殿の領国に塩を入れるのを差し止めていると聞きました。これは真に卑怯千万な行為です。正面から貴殿と戦う力がないからでしょう。私は何度でも運を天に任せて貴殿との決着を戦いによって決めようと思っていますので、塩はどんなことをしてもお届けしましょう。手形で必要なだけお取り寄せ下さい。もし(塩売りが足元を見て)高値で送るようなことがありましたら、重ねておっしゃって下さい。厳重に処罰いたします」 この約束通り、後日、越後から武田側に莫大な量の塩が送られた、これが「敵に塩を送る」の故事となった。 ※出家騒動に見られるように謙信の仏門への思いはかなり本気で、青年時代は曹洞宗・林泉寺で禅を学び、上洛した際は臨済宗・大徳寺に参禅し、後年は高野山の金剛峰寺で灌頂(かんじょう、師が免許皆伝を認めた弟子の頭上に水を注ぐ重要な仏教儀式)を受け、大僧都の位階を授かっている。 ●信長と対抗 1570年(40歳)、巨大な武田勢と対抗する為に、謙信はこれまで戦ってきた北条氏康と和睦し、氏康の七男・氏秀を養子として迎えた。謙信は氏秀を寵愛し自身の幼名・景虎の名を与え厚遇した。 1571年、都では信長の権勢を恐れた15代将軍足利義昭が、諸国に信長討伐を呼びかけ始める。翌年、この要請を請け、戦国最強の武田騎馬軍が京へ向かって進軍を開始、家康を蹴散らして突き進んだ。ところが1573年(43歳)、長年の宿敵・信玄があっけなく病没する。この結果、武田勢より織田勢の方が危険になった。一方、信長は信玄と引き分けた謙信を恐れており、自分には謙信と争うつもりがないことをアピールする為に、狩野永徳が描いた『洛中洛外図屏風』を贈るなど同盟維持に努めた(この屏風は現在国宝になっている。屏風中央下の室町幕府の将軍邸前には、今まさに到着せんとする謙信の一行が描かれており、それは信長からの“謙信と共に天下を治めたい”とするメッセージだった)。 信玄亡き後、唯一信長と互角に対抗できる謙信に、足利義昭はしきりに決起(上洛)を要請した。上杉家は多年にわたって室町幕府に仕えており、義を大切にする謙信はついに京都を目指す決心をした。謙信は信長との同盟を破棄し、一向一揆で謙信を悩ませてきた本願寺顕如と和睦する。本願寺にしても、仏法を大切にする謙信より、神も仏も関係ない信長の方が脅威だった。 謙信はまず上洛ルートにあって織田家に従属する能登・七尾の畠山氏を2万の兵で攻めた。翌1577年(47歳)、籠城戦を続ける畠山氏は信長に援軍を求め、信長は柴田勝家を総大将にした先発隊1万8千を送り、その後に自らも大軍を率いて北上した。ところが長期の籠城で七尾城は伝染病が蔓延し、畠山氏は病死。落城したことを知らずに進軍していた先発隊は、途中で勝家と秀吉が喧嘩になって、秀吉が戦列から離れ動揺する。 加賀に入って落城を知った勝家は、撤退の途中に手取川(石川県南部)の側で陣を張った。上杉軍はまだ遠くにいると思って、戦の用意もせず油断していたところ、長距離を馬で駆け抜けてきた上杉精鋭騎馬軍団が夜襲をかけた。慌てた織田勢は滝川一益隊、丹羽長秀隊と総崩れになり、手取川を敗走する時に、そこでは討たれ、ここでは人馬が流されるなど、2千名の死傷者を出したという。快勝した謙信は加賀国の大半を信長から奪った。※後続の信長も追撃を受け、負傷しながら側近数十騎と共に美濃まで逃げ帰ったという説もある。 現在の手取川 1578年1月、関東の北条氏征伐、そして信長への総攻撃を開始する為、謙信はいったん越後に戻って支配下の全領国に動員をかけた。3月、万全の態勢が整い、いよいよ出陣が迫ってきたその矢先、居城の春日山城にて脳卒中で倒れ、昏睡状態のまま5日後に他界した。信玄と同様、あとほんの少し生きていたら歴史を変えたであろう無念の死であった。享年47歳。 ※謙信は梅干を酒の肴にして、毎日ドンブリ鉢で酒を呑む超酒豪で高血圧だった(北陸は酒が美味しいもんね)。 ※辞世の句は「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」。 「毘」「龍」の軍旗が京の都をはためく事はついになかった。 ●とにかく謙信はカッコイイ 戦国武将たちは、ある時は「家」を守る為に、またある時は領土を求める野心や名声欲から戦った。しかし、上杉謙信は違った。誤解を恐れずに言うならば、謙信“だけ”が違った。彼が戦場に立つのは『正義感』のため。川中島の戦いも、関東への出兵も、信玄の侵略や北条の圧力で逃げてきた者を助けるという「正義の実現」の為の戦いだった。 領土獲得戦争は農民を苦しめるだけと心から憎んだ。仏教に通じ、深い信仰心から、戦場でも兜を被らず僧侶の姿だった。悪鬼を調伏する毘沙門天を崇拝し、戦場で「毘」の旗をはためかせた。相手が戦国最強の信玄であろうと関東の覇者北条であろうと、謙信は正義の鉄槌を下す為に出陣してゆく。しかもそれは、相手を全滅させる為ではなく、不当な支配をさせぬよう追い払う為。 川中島で1万3千の大軍を、夜闇のなか神の如き統率力で武田勢に気づかせず渡河させた。末端の兵まで完璧に指示が行き届いているのだ。優れた洞察力で敵の行動の先を読み、稲妻のように素早く軍を動かし、「車懸かりの陣」のような各種戦術を駆使し、多くの戦場で勝利を手に入れた。 謙信が国主となった約30年間、越後の領土はほとんど増えていない。人助けの戦は勝っても家臣たちに莫大な恩賞が待っているわけではない。それでも家臣が「謙信の為ならいつでも死ねる」と従ったのは、間違いなく彼のカリスマに依るものであり、それを育んだのが、宿敵でも窮地の時は塩を送り、命乞いをした者は決して殺さぬ深い慈悲の心と、敵をも感動させる謙信の「人間」の大きさだろう。 謙信の人徳は、強敵たちの言葉が雄弁に語っている。北条氏康は言う「あの男は一旦恩を受けると骨になっても義理を通す。若い武将の手本にさせたい」。そして武田信玄は息子・勝頼へ次の遺言を残した「上杉謙信とは和議を結べ。謙信は男の中の男、真(まこと)の武将だ。困った時は奴を頼って、必ず甲斐を存続させろ。あの男は自分を頼る相手を決して見放すことはできない。上杉謙信とはそんな男だ」。 〔墓〕 謙信の墓は複数ある。 ・上杉家廟所(山形県米沢市) ・春日山林泉寺(新潟県上越市) ・栃尾美術館の庭(新潟県長岡市) ・高野山(和歌山県) 上杉家の伝承によると、謙信の遺骸は甲冑をつけ甕(かめ)に密封され、最初は春日山城(新潟県上越市)内の不識院に葬られ、春日山林泉寺に供養塔が建立されたらしい。その後、上杉家が転封されたため、春日山から若松城(会津)を経て山形の米沢城へ移され、1876年(明治9年)に現在の歴代藩主が眠る上杉家廟所(1872年創建、米沢城本丸跡/山形県米沢市)に3度目の改葬がなされたという。 別説に、謙信は仏法を重んじたので高野山の墓が正式という説もある。この説では高野山から林泉寺に分骨され、そこから米沢の上杉家廟所に移されたことに。それゆえ、二代景勝から八代重定までは火葬となり高野山へ納骨されたという。九代治憲から十二代斉定までは上杉家廟所にそのまま土葬されている。 上杉家の子孫は上杉神社=上杉家廟所が本墓という認識。その他、栃尾美術館の前庭(新潟県長岡市)にも謙信の供養塔が残されている。 ※直江兼続の活躍を描いた大河『天地人』放送時に、高野山で発掘調査をした結果、景勝と兼続夫妻の遺骨が見つかった。景勝の本墓は高野山であり、どうやら上杉神社の景勝〜重定は遺髪墓のようだ。
※戦国トリビア。当時の合戦は、兵士の大半が農民なので、田植えが終わった頃に開戦し、遅くとも稲刈りには終わっている。っていうか、終わらせないと翌年の戦の兵糧が手に入らない。 ※越後は米の大産地であり、水田の少ない甲斐と違って、他国を侵略する必要がなかった。これは謙信の幸運だった。 ※ゲーム『信長の野望』に出てくる謙信は、戦闘力98、采配100の史上最強大名! ※謙信は「生涯不犯」を貫き結婚しなかった。新井白石は「軍神の加護を得る為に色欲を断った」としているが、昔から男色説、女性説の諸説が囁かれている。男色説の根拠は「京都関白の娘・絶姫が男装して義経の舞を観せると身を乗り出して夢中になったのに、それが女性と分かった瞬間、興醒めして帰ってしまった」「12歳から14歳の美少年ばかり集めた少年親衛隊を創設した」云々。主な女性説は「スペイン国王宛に書かれた手紙に“景勝(謙信の甥)の叔母”と記載されている」「当時の歌に“(謙信は)男も及ばぬ大力無双”という歌詞がある」「遺品の着物に赤色が多く男物に見えない」「1ヶ月ごとに腹痛になり合戦中に兵を引いて部屋に篭った」「謙信の死因を婦人病“大虫”と記載する文献が実在する」等々。 ※謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って2年間激しく争い、最終的に「御館(おたて)の乱」で景虎が討死した。この内乱で重臣が離反し、信長は能登・加賀・越中など北陸地方を奪い返した。上杉氏は謙信没後3年で大きく衰退する。その後、景勝と直江兼続が奮闘して120万石を要するまで復興したが、関ヶ原の戦いで西軍になったので、一気に30万石へ減封された。 |
ちなみに林泉寺の墓地には“風流大名”(好色大名)、榊原政岑(さかきばらまさみね)も眠っている。享保の改革の真っ最中に倹約令を無視して新吉原の遊女・高尾太夫を1800両で身請け、彼女のために3000両の豪華酒宴を開き、将軍吉宗を激怒させた。政岑は姫路から越後高田に懲罰転封され、その後は一変して倹約、新田開墾、灌漑工事、貧農の援助など、領民のために善政を行ない暗君から名君となったが29歳で病没した。
※姫路藩主の頃、神社の祭礼に浴衣姿で参加することを民衆に許したことが「ゆかた祭り」の起源となった。 |
JR甲府駅前の武田信玄公像。ドッシリとして非常に存在感がある(2008) |
長谷川等伯筆の信玄 | 信玄の自画像(典厩寺) | RS2『信長の野望・革新』から | 軍旗「風林火山」 |
武田ファンの聖地・恵林寺 | 風林火山の軍旗がはためく(快川国師の書) | 境内には父・信虎の墓もあった |
信玄公墓所! | 大きな墓が待っていた!夫婦墓や親子墓に見えるけど、 どちらも信玄の墓!100年忌の際に建立された供養塔 |
右は五輪塔、左は宝篋印塔で、形が違う。 同じ人間の墓が並ぶのは珍しいなぁ |
信玄廟の背後には武田家臣団の供養塔が建つ |
山県昌景、馬場信房、内藤昌豊、高坂昌信など全員集合! ※リンク先のブログに詳細あります |
甲府市・円光院に眠る三条夫人(信玄正室) |
「疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠(りゃく)すること火の 如く、動かざること山の如し」 火葬塚の前には風林火山の旗がたなびいている |
甲府市岩窪町の火葬塚。 ここで荼毘に付された |
この墓所は土屋昌次(武田二十四将の1人)の邸宅跡にある。記録では信玄の遺言通り3年間死を秘し、土屋氏の邸内で火葬した後、3年後に恵林寺に改葬したという。約200年後の江戸中期(1779年)に甲府代官が発掘したところ、地中の石棺に信玄の戒名と命日が刻まれていたという。驚いた代官は元通りに埋め、墓域を整備したと伝えられる。 |
父・信虎が武田家の菩提寺とした大泉寺(甲府市) | 墓はこの墓所のお堂の裏手にあり死角にある | 右奥から信玄、信虎、勝頼の墓が3代並ぶ |
1994 高野山にある分骨墓。三回忌に建立 | 2005 高野山再び。左が信玄、右が勝頼 | 2009 15年前にあった案内柱はどこへ? |
こちらは京都妙心寺玉鳳院の墓。手前の4基が武田家、奥の 2基はなんと宿敵の織田信長父子!(信長は左から2番目) ※通常非公開 |
信玄は右から2番目。3番目が勝頼だ。織田家と 墓が並ぶとは夢にも思わなかっただろう(あっちで 豪快に酒を酌み交わしているかも知れないね) |
本名晴信、出家して信玄と号した。源氏。1541年、あまりに残虐な性格で家臣の支持を失った父・信虎を駿河へ追放し、20歳にして甲斐国の当主となった。信虎が追い出された事を領民は「百姓も侍も出家も、男も女も、限りなく喜び満足した」と記録している。翌年から隣国・信濃へ侵攻を開始、着々と領地を拡大していく(一日で36個の城を落としたこともあったという)。1553年(32歳)、生涯のライバルとなる越後の上杉謙信(信玄より9歳年下)と、川中島(長野市)で最初の戦が行なわれる。38歳で出家し晴信は信玄と改名した。 ●川中島の戦い 「川中島の戦」は計5回行なわれ、どれもが武田軍に侵攻された国から、救援要請を受けた上杉軍が出撃するパターンだった。最も有名なのが1561年(40歳)の第4次合戦で、武田軍2万人、上杉軍1万3千が総力戦を行なった。信玄は海津城を本拠とし、謙信は妻女山(さいじょさん)に陣を張った。9月9日夜、信玄は軍を二手に分け、別働隊1万2千に妻女山を奇襲させた。彼の作戦は、この攻撃に驚いて下山してきた上杉軍を、下から本隊8千で挟撃するというもの(キツツキ作戦)。だが謙信は信玄の策を見抜き、奇襲を受ける前に下山した。しかも、武田軍をあざむく為にかがり火を多く焚き、まだ山中にいると思わせて。翌朝、武田軍は仰天した。川中島名物の濃霧が晴れると、上杉軍が武田軍本隊の目の前にいるではないか。上杉側も霧の為に予定より接近し過ぎ、戦場は大混戦になる。 武田側は軍を分割したことが裏目になり(別働隊はまだ山中)、武田軍ナンバー2の副将・武田信繁(信玄の弟)をはじめ、山本勘助らが戦死。さらには謙信が武田の本陣に突入し、謙信が馬上から信玄を3度斬りつけ、信玄が軍配団扇で防ぐという、大将同士の一騎打ちまで起きた。この軍配を後で調べると7つも刀傷があったという(『上杉家御年譜』)。武田軍が崩壊寸前になった時に別働隊が戻って来て参戦。ギリギリで形勢は逆転し、謙信は退却した。この時代、戦いが不利となれば即撤退、或は和睦したものだが、霧によって乱戦になったことで死傷者の数が爆発的に増え、戦闘に参加した両軍3万3千のうち2万7千、実に7割の兵が死傷(死者約6千)する凄絶な戦いとなった。 ※戦死した弟・信繁は「我が隊は玉砕覚悟で敵を防ぐゆえ援軍無用。兄の勝利を願う」と伝令を送り散っていった。信玄は弟の遺体にすがって泣き崩れ、家臣の真田昌幸は敬慕の念から次男の名を信繁(後の真田幸村)と名づけた。武田軍は戦に勝ったが、もし信繁が生きていれば、後の武田氏の早期滅亡は防げたと言われている。 その後、信玄はターゲットを変えて飛騨や西上野へと侵攻。桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれると、今川氏との同盟を破棄して駿河を支配した(47歳)。翌年からは北条氏の小田原城を攻める。信玄は甲斐領主となって30年で、信濃、駿河、上野、遠江他の広域を支配するようになった。この頃、信長は京都に入って権力を急速に強化しており、室町幕府最後の15代将軍・足利義昭が信長の圧力を嫌って「信長討つべし」と諸国に発令。信玄は信長包囲網の中心勢力として動き出す。 一方、信長は信玄を心から恐れていた。彼は「信玄だけは敵に回したくない」と、年7回も使者を出して機嫌を伺ったり、信玄好みの南蛮頭巾など贈り物を沢山届けた。さらには長男・信忠と信玄の娘との婚姻を希望するなど、良好な関係を維持するよう苦心した。 1572年10月(51歳)。ついに信玄は念願の天下取りに動く。彼は戦国最強の武田騎馬軍3万を率いて京へ進軍を開始した。甲斐不在時の根回しも充分。後方の北条氏とは婚姻関係を結び、謙信に対しては本願寺顕如(信玄夫人の妹の夫)に上杉領で一向一揆を起こしてもらった。背後の憂いを断った、満を持しての決起だった。 武田軍は破竹の勢いで京都への進路上にある徳川の城を落としながら前進する。ただし、あくまでも目的は上洛であり、家康の居城・浜松城を無視して、その側を通り過ぎた。この時、家康は30歳。信玄は家康を子ども扱いしており、彼は葛藤する。武田の巨大な軍勢に勝てるわけがない。だが、このまま何もせず素通りさせては、諸大名から腰抜け呼ばわりされ、家臣からも馬鹿にされる。ここはもう運を天に任せて戦うしかない。「者ども出陣の用意を!」家康は背後から武田軍を追いかけた。 ●三方ヶ原の戦い 12月22日午後3時、静岡の三方ヶ原(みかたがはら)。徳川家康・信長(援軍)の連合軍1万VS武田軍3万の戦いの火蓋が切って落とされた。といっても、実力差は歴然としており、信玄が総攻撃の号令を出し、家康本陣へ勝頼軍(信玄の息子)や猛将・山県昌景が突撃すると、援軍の織田勢は逃げ、アッという間に連合軍は総崩れになった。「殿、早くお逃げ下さい!」本陣を突かれた家康の家臣が馬を用意して退却を促す。“これほど歯が立たんとは…!”敵は殺到しており悔やんでる暇はない。家康は浜松城へ向けて一目散に敗走した。城までは7キロ。すぐに追撃部隊が迫って来た。家康の後方では家臣たちが彼を逃がす為に壁となって倒れていく。 間一髪で浜松城へたどり着いた家康は、奇策を命じる。城兵に門を開けっ放しにしてかがり火を焚けと言うのだ。家康を追ってきた武田軍の山県隊と馬場隊は、「なぜ我らが来るのを知りながら城門を開放しているのか。これは罠に違いない」と突入をためらった。そこへ家康軍本隊が引き上げてきたので、追撃部隊は撤収した。命からがら逃げ帰った家康は、すぐに絵師を呼び、怯えきった自分の姿を描かせた。そして自戒の意味を込めて死ぬまで側に置いていたという。 ※普通の武将なら勝ち戦の後に誇らしげな姿を描かせるところ、家康は敗北時の悲惨な姿を描かせた。この辺り、やはり家康は並ではない。この後、若き家康は諸大名から“あの信玄と戦った男”として称えられた。ただし、家康は三方ヶ原の敗走時にあまりの恐怖から脱糞してしまい、家臣に「これは腰に付けていた焼き味噌をこぼしたのじゃ!」と言い訳する場面もあった(笑)。 武田軍は翌1573年1月、三河(愛知)に進攻する。ここまで来れば都までもう一息。片や信長は気が気でない。信長は和睦を申し込んだが、信玄は当然これを拒否。武田の天下は時間の問題だと誰もが思っていた。だがしかし!2月に入って信玄は病に伏してしまう。進軍はストップ。翌月になっても病状は改善せず、無念の撤退を開始する。そして4月12日、甲斐へ戻る途中に長野・阿智村(駒場)で息を引き取った。病名は結核とも、胃癌とも言われている(徳川方の狙撃説もアリ)。享年51歳。 戒名は法性院機山信玄。辞世の句は「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。 信玄は勝頼へ次の遺言を残した。「敵に攻め込まれぬよう、影武者を立てわしの死を3年は隠せ。その間に兵を訓練し防御を固め、必ず天下を取れ。上杉謙信とは和議を結べ。謙信は男の中の男、真の武将。困った時は奴を頼って、必ず甲斐を存続させろ。あの男は自分を頼る相手を見放すことはできない。上杉謙信とはそんな男だ」。 その謙信は、食膳に向かっている時に信玄の訃報を聞き、思わず箸を落とした。「公は長年の宿敵ではあったが、稀に見る名将だった。惜しい武将をなくしたものよ」と静かに男泣きしたという。謙信はライバルの為に3日間喪に服し、城内での音楽等を禁止した。謙信の家臣達が「今こそ武田を攻め込む好機ですぞ」と主張すると「まだ20代の若い勝頼を突くのは大人げない」とこれを退けた。※謙信は5年後に他界した。 ●『風林火山』〜究極の戦の達人 「甲斐に敵を入れるなどあり得ぬから城など不要じゃ」と、信玄は城を一つも造らなかった。また「人こそがまことの城なのだ」とも考えていた。「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇(あだ)は敵なり」と言い、情けこそが民を繋ぎ国を守るとした。そして言葉通りに堀がひとつあるだけの館に住んでいたので「お館さま」と呼ばれていた。実際、信玄の存命中に隣国が侵入したことは一度もなく、戦闘は常に武田からの攻撃だった。初陣から最後の三河国野田城の合戦まで、信玄の戦績は72戦49勝3敗20引分け。生涯の「勝率&分け率」は実に9割5分8厘!神懸った数字だが、これを実現したのが信玄だ。敗戦は30歳頃に戦った信濃・村上義清軍が最後。それ以後20年以上負けていない。これは彼が“戦って勝利を掴む”のではなく、完璧な計略と工作で、“勝つことが決定した後に戦った”からだ。 武田騎馬隊が戦場でひるがえした軍旗に刻まれた文言は『其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山』、略して『風林火山』。古代中国の兵法書『孫子』(B.C.480)を熟読した信玄が、同書から選んだ言葉だ。「疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」の意。また連戦連勝の信玄は自らに驕りが生じないように「軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」と己を戒めた。 ●戦もスゴイが内政もスゴイ! 風林火山の軍旗や「甲斐の虎」の呼び名から、信玄は戦ばかりしている武闘派のイメージがあるけど、他の大名に先駆けて26歳で法令集『甲州法度之次第』(喧嘩両成敗、土地売買の禁止等)を制定して領内の秩序を維持し、「甲斐国の最大の敵は自然災害である」と、頻繁に氾濫する暴れ川・釜無(かまなし)川に堤防(信玄堤)を築く治水工事を行なって甲府盆地を洪水から救い、検地を行ない新田を開墾して米を増産した。また、金山を開発して日本初の金貨(甲州金)を製造、貨幣経済を発展させ、甲府に城下町を建設した。さらには、積極的に道路を建設し宿駅伝馬制など交通網を整備するなど、後世に徳川幕府が見本とするほど内政に手腕を発揮した。 信玄はまた、仏教を熱心に学び、書、絵画、詩歌もよくした。特に歌集『武田晴信朝臣百首和歌』が伝わるほど、こよなく和歌を愛した文武両道の人だった。最後に信玄の和歌を2首紹介! ・「うちなびく水かげ草の露のまも 契はつきぬ星合のそら」 “風に揺れる水辺の草から露が落ちるように儚く短い時間だった。七夕(星合)の夜明けと共に2人の時は終わってしまうのか” ・「霞より心もゆらぐ春の日に 野辺のひばりは雲になくなり」 “霞が漂い心がまどろむ春の光の中、野原のひばりが雲の間に消えて行ったよ” ●墓所※信州駒場(現・長野県阿智村)で他界 遺言で「死を3年秘匿せよ」と命じたことから亡骸の行方がハッキリせず、伝承火葬地が3箇所、墓は7箇所以上にのぼる。 信玄墓(火葬塚/魔縁塚) 山梨県甲府市岩窪町 恵林寺 山梨県※墓石は100年忌の際に建立された供養塔ではあるが、当寺は信玄の菩提寺であり葬儀も行われ、子の勝頼がつつじヶ崎の館から納骨したと伝わる。 諏訪湖 長野県※信玄の亡骸は遺言に従い諏訪湖に水葬されたとも言われており、信州大など研究チームが湖底調査をした結果、家紋と同じ菱形の穴がソナーに反応という。残念ながら追加調査はヘドロで確認できず。ただし昔の器や文字の書かれた石が見つかり、さらなる調査が待たれる。 高野山 和歌山県 妙心寺 京都 大泉寺 山梨県※信虎も 長岳寺 長野県・駒場) 裏山の火葬塚から灰を運んでつくった灰塚供養塔、馬場信春の墓も。 竜雲寺 長野県 火葬地伝承「信玄公遺骨出土の地」、武田ゆかりの北高禅師の墓も。 福田寺(ふくでんじ) 愛知県 こちらも馬場信春の墓がセット。 ●その他 武田神社※「つつじヶ崎」館跡 甲府市古府中町2611 積翠寺(せきすいじ) 産湯井戸や産湯天神。甲府市上積翠寺町984 円光院 甲府市※正室三条夫人の墓所。1779年に信玄の戒名と年月の銘文がある棺を甲府代官が発掘したという。 ※信玄の没後、勝頼は「父は病気で隠居した」ことにして、3年後に葬儀を盛大に行なった(もうとっくにバレていたけど)。 ※信玄の本墓は山梨県の恵林寺(塩山市)。墓は他にも大泉寺、愛知県福田寺、京都妙心寺、長野県の長岳寺、竜雲寺にあり、終焉の地の長野県下伊那郡根羽村横旗には供養塔が建つ。 ※戦国トリビア。この時代は大半の大名が夜の相手(衆道)の美少年を連れていた。有名なのが信玄の小姓・高坂昌信(16の時に信玄に一目惚れされた)。信玄は他の少年との浮気がバレ、嫉妬してスネた昌信にこんな手紙を書いている--「浮気して本当にすまなかった。でも何もなかったんだ。信じて欲しい。嘘なら神罰でも何でも受ける。愛してるのはお前だけだ」。織田信長と前田利家・蒲生氏郷・森蘭丸、秀吉と三成、家康と井伊直政、上杉謙信と直江兼続も、その関係と言われている。 ※信玄の黒歴史(1)…調べててビビッたのが1547年、26歳の時の東信濃・志賀城攻め。若さゆえの非情さか、信玄は攻防戦の過程で捕らえた3千人を処刑し、夜間の内に全員の首を棚に掛け並べた。夜が明けて、城内の敵兵が見たもの…それは友軍の首が城の四方を取り囲んでいる地獄絵だった。敵は震え上がって戦意を喪失。降伏後、男たちは鉱山に送られ、女性や子どもは全員が売り飛ばされた。逆らう者は容赦しないという見せしめとはいえ、くわばらくわばら…。(信長なら普通の数字だけど)//信玄の黒歴史(2)…今川氏の駿河へ信玄が侵攻しようとした時、これに反発したのが信玄の長男・武田義信。彼は今川義元の娘婿だったので駿河侵攻を企む父を批判した。だが甲斐は海に面しておらず、信玄はどうしても海沿いの領土が欲しかった。彼は義信に謀反の嫌疑をかけて幽閉し、ついには我が子を自害に追い込んだ。 ※信玄の菩提寺・恵林寺は、織田に敗れた嫡子・勝頼の亡骸を引き取り供養を行った。信長はこれに怒って寺を放火し、僧侶150余人を焼き殺す。燃え盛る炎の中で同寺の高僧・快川紹喜は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放って果てたという。 「夏山の遠きこずえの涼しさを野中の水の緑にぞ見る」(勝頼) ※長野県の善光寺では信玄と謙信の位牌が仲良く並んでいる。 |
その美貌ゆえ、信玄とはワケアリだった高坂弾正の墓(長野市松代町) 川中島の「キツツキ戦法」で別働隊を指揮した |
駅名だけでテンションがあがる! | 臨場感たっぷりに第4次川中島合戦を解説 | 1561年の激戦地、川中島八幡原(はちまんばら) |
軍配で謙信の刀を受ける信玄 | 上杉謙信が名馬・放生(ほうしょう)を駆り武田本陣を急襲! | 謙信は顔が毘沙門天と化していた! |
「三太刀七太刀之跡」 信玄が謙信から受けた刀は 三太刀なのに、なぜか軍配には 7箇所も傷があったという |
本陣に斬り込んだ謙信をみすみす 取り逃がした悔しさから、武田軍の 原大隅が槍を突き刺したと伝わる石 (真ん中に穴が開いている!) |
「甲越直戦地」と刻まれた首塚。第4次川中島合戦は濃霧のために両軍が接近しすぎ、一度の 戦で6千余人が死ぬという未曾有の激戦となった。合戦後、武田側の海津城主・高坂弾正は、 付近の戦死者を敵味方の区別なく集めて手厚く葬った。これを知った謙信はいたく感激し、 武田で塩が不足すると「我信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と塩を送り、 埋葬の恩に報いた。昔は多くの首塚があったが、現存する大きな塚は2箇所を残すのみだ |
川中島の典厩寺は、両軍戦死者の追善供養を 目的とした寺。ゆえに武田と上杉の両軍旗が並ぶ |
典厩寺に眠る信玄の実弟・武田信繁の墓。信繁は謙信さえ 一目置く文武両道の将だが、信玄を守って壮絶な死を遂げた |
「信繁公の首清め井戸」 敵から 信繁の首を奪還して清めた井戸 |
ちなみに典厩寺には日本最大 となる5mの閻魔像がいる |
「胴合橋」 勘助の家来が敵から勘助の首を奪い返し 胴と首を合わせた場所。生々しい名前っすね(汗) |
武田軍が本陣を築く為に渡った千曲(ちくま)川 |
千曲川の堤防沿いの、えっ、こんなとこに!? というような場所に墓がある |
墓所には記帳コーナーや無人の売店があった |
大河ドラマで墓参者が激増した |
「山本道鬼居士墓」 |
こちらは富士市・医王寺にある勘助の供養塔(2009) | 墓誌には勘助の半生と大河ドラマの話題が | 存在感のある勘助像 |
甲斐武田の軍学書『甲陽軍鑑』(高坂昌信)に記された名軍師。武田二十四将&武田五名臣の一人。出家後の名は道鬼斎。出身は現・愛知県豊川市牛久保町とも、静岡県富士宮市山本とも言われる。色黒で顔は醜く、片眼(隻眼)で足が不自由という異形の容貌だったという。26歳で武者修行に出た勘助は10年にわたって全国を巡り、用兵術や築城術など兵法を極めていった(天文にも長けた)。37歳の時に今川義元に仕官を願ったが、義元は勘助の外観に抵抗を感じて登用しなかった。1543年(50歳)、ようやく兵法家としての名声が伝わり始め、築城の達人を求めていた当時22歳の甲斐国主・武田信玄(晴信)から知行100貫という破格の待遇で招かれた。初対面の際に勘助の才に惚れた信玄は知行を200貫に倍増する。武田の旧臣からは勘助への妬みや誹謗があったが、登用直後から信濃国で九つの城を落とすなど大手柄をあげて周囲に認められた。信濃国・村上義清との激戦では、勘助の機転(陽動作戦)で敗北寸前の状況から大逆転し、この功績で勘助は足軽大将に抜擢された(知行も800貫に)。勘助は築城でも求められた才を発揮し、高遠城、小諸城、海津城を築き、特に海津城城主の高坂昌信は居城を「武略の粋が極められている」と絶賛した。また、信玄は勘助の意見を受けて国内法となる「甲州法度之次第」を制定し領内の秩序を維持した。 1561年の第4次川中島の戦いにおいて、勘助は軍を二手に分けて上杉軍を背後から突く「キツツキ戦法」を立案。しかし、謙信はこの策を見抜いて先に兵を動かし、武田の本陣へ「車懸りの陣」(回転陣形)で襲いかかった。武田軍は二手に分かれていたので本隊の兵力が上杉1万3000に対して8千しかなく窮地に追い込まれる。謙信の猛攻を受けて武田側は信玄の弟で人格者の名将・武田信繁が討死し、多くの武将が散っていった。勘助は責任を取って敵に突撃し、獅子奮迅の戦いを見せて13騎を倒したが、上杉の柿崎景家隊から無数の槍で攻め立てられて落馬し、ついに坂木磯八の手で首を取られた。それから14年後に、勘助の子・勘蔵も長篠の戦いで家康本陣に単騎で突撃して戦死する。 「山本道鬼居士」と刻まれた勘助の墓は川中島古戦場に近い千曲川の土手下に建つ(松代町柴)。この墓は信玄に出会うまでの勘助の人生の如く放浪している。当初の墓は千曲川の川辺にあったが洪水の被害を受け、1624年に千曲川沿いの松原に移され、さらに1739年に“寺に葬ってやらないと可哀相”と松代藩真田氏家老が私財を投じて、信玄ゆかりの阿弥陀堂境内(現在地)に遺骨と共に移された。その阿弥陀堂もまた昭和初期の堤防工事で移転し、今は勘助の墓だけがポツンと残っている。墓石の左右と背後には勘助の経歴が彫られている。生誕地の愛知県豊川市にも遺髪墓が建つ。 ※戦国期の文献では『甲陽軍鑑』にしか名前が登場しないことから架空の人物と疑われてきたが、近年(1969年)、北海道で発見された武田信玄書状に「山本菅助」の名があり実在説が有力に。信玄が他国領主へ宛てて書いた文面には「作戦の詳細は山本勘助が口上でお伝えします」とあり、勘助が信玄から大きな信任を得ていたことが伺える。 ※海軍大将の山本五十六は勘助と同じ家系とのこと。 ※勘で山をはる「ヤマカン」は“山”本“勘”助からきているという説がある。 |
JR甲斐大和駅のホームにて(2008) |
甲斐大和駅にはロッカーがない、 タクシーもない、バスは4時間に1本… |
全荷物を背負って歩くしかない! すぐ横を空荷のダンプが猛スピードで突っ切る |
秘境に行くのか… |
だんだん景色が変わってきた |
川辺に追悼碑が。勝頼や夫人が自害した後に、 夫人の侍女16名が側の川で殉死したらしい… |
木に隠れてるけど下に川がある。 徐々に終焉の地の悲壮感が漂ってきた |
景徳院前の「首洗い池」 生々しすぎるぜ |
ここにあった首洗い池で勝頼 の首を洗った。武田の家紋入り |
歩くこと約45分、ついに 景徳院の山門に到着! |
境内の外れにあった「没頭地蔵尊」。別名“首無し地蔵”。その名の通り、お地蔵さんの 首がありません…。ここに勝頼、北条夫人(19歳)、信勝(16歳)の体を葬ったとのこと |
境内の「生害石」。生害石とは武将が「この石の上で死ぬ」と選んだ場所。ここで勝頼は自害した。 新羅三郎義光以来、28代495年の武田家の歴史がここに終わりを告げた※“生害石”を見たのは初めて! |
勝頼の墓は1775年に200年遠忌として建立された。 後で紹介する法泉寺が首塚なら、こちらは胴塚になる |
左から信勝、勝頼、北条夫人。過去に2度 火災に包まれ、墓石はヒビだらけだ |
上部がかなり破損して いた。これは可哀相 |
甲府市、法泉寺の墓。同寺第3世快岳禅師が京都から勝頼の首を運び出し、密かにここへ埋めて目印に 山桜を植えたという。この山桜は甲府近郊に自生するものとは異なる種類で、奈良吉野山の桜と同種のものだ |
織田軍は勝頼を供養した恵林寺(塩山市)の僧侶を この山門に集めて焼き殺し、全山に火を付けた |
炎の中で快川国師は「滅却心頭火自凉」(しんとう めっきゃくすれば、ひおのずからすずし)と辞世 |
快川(かいせん)国師ら僧侶約150人の骨を埋葬。 信長は比叡山といい僧侶に容赦がない(2008) |
信玄の後継者となった勝頼は、父が落とせなかった高天神城を落とすなど、父の時代よりも領地を広げた実力者であり、信長をして「勝頼は表裏をわきまえた武将であり、油断ならぬ敵である」と言わしめた男。しかし常に父と比較され叩かれるので、もっと大戦果をあげて古参の家臣に認められたいと功を焦った。この血気は信玄の死から2年後の『長篠の戦い』(1575)で裏目に出た。織田・徳川連合軍が“馬防柵”を作って待機する光景に、「あんな陣形は見たことがない。何かの策略であり戦は延期しましょう」と重臣達が提案するのを「臆病者!」と怒り、3千人の鉄砲隊(千人が三段になって発砲した)に向かって無謀な突撃命令を繰り返し、武田騎馬軍1万5千のうち、生還者が僅か3千という壊滅的な打撃を受けた。 この戦で信玄時代の名将たち(山県昌景・馬場信房・内藤昌豊・真田信網・原昌胤他)がことごとく戦死した。彼らは「このまま自分の目で武田家滅亡を見るよりも、いま華々しく散って信玄殿の御恩に報いよう」と互いに酒を酌交わして出撃した(鎧兜が赤一色という“赤備え”の山県昌景隊は、全滅するまで13回も突撃を繰り返した。山県は17発も弾を浴びていたという。彼は三方ヶ原の戦で、家康をして「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ。危うく命を落とすところであった」と言わしめた男)。 勝頼はこの後も7年間生き延びたが、最期は織田・徳川連合軍の攻勢で山中を逃亡し一族と共に自害した。 自害する直前に、勝頼は嫡男・信勝に家督を相続させる儀式を行なった。本来であれば他の大名や公卿が列席する前で行なうものだが、最後まで生き残った数名の家臣を前に家督継承を宣言した。まだ16歳だった信勝は家督を継ぎ成人となり、武田家最後の当主として旅立った。 ※勝頼の亡骸は信玄の菩提寺・恵林寺が引き取り供養を行った。同寺の高僧・快川紹喜(かいせんじょうき)は、信長に敵対した近江の六角義賢(佐々木承禎/しょうてい)を匿い逃亡させたことがあり、怒った信長は信忠に命じて恵林寺全山を焼き払い、僧侶150余人を山門に集めて焼き殺した。燃え盛る炎の中で快川国師はこう辞世の句を詠んだ--「心頭滅却すれば火もまた涼し」。 「夏山の遠きこずえの涼しさを野中の水の緑にぞ見る」(勝頼) |
1570年6月28日、激戦の地となった姉川 |
浅井・朝倉連合軍1万8千人と織田・徳川連合軍2万9千人が激しくぶつかり 姉川は川面が赤く染まったという。川岸には“血川”という地名まであった |
徳勝寺の長政の墓 | 浅井三代が並ぶ。左から長政、祖父の亮政(初代当主)、父の久政 | すぐ背後は巨大マンション |
浅井家初代亮政(長政の祖父)が築いた領地を二代・久政が六角氏に奪われたので、浅井家の重臣は弱腰の久政を追放し、1560年、まだ15歳の長政を当主にたてた。長政は六角氏を抑えて領地を奪還し、浅井の名誉を挽回。1568年(23歳)、織田信長の妹で美しいお市を妻にむかえて信長と同盟を結ぶ。元々、浅井は朝倉と同盟関係だったが、織田と朝倉は不仲だったことから、長政は信長に対して「織田は朝倉に進軍せず」と約束させた。織田と結んで勢いに乗る長政は六角氏を完全に駆逐し、近江の大半を支配する。しかし、信長が約束を破って朝倉を攻め始めると、長政は朝倉との義理を重んじてこれを支援、信長と対立する。1570年(25歳)、姉川の戦いで、浅井・朝倉連合軍は織田・徳川連合軍に敗北。この戦いで浅井軍が織田軍の備え13段のうち11段まで崩す猛攻を見せたにもかかわらず、側面の朝倉があまりに弱かった為にそこから突かれ敗れたのであった。 それから3年ほど、武田信玄や宗教勢力と組んで信長に対抗し続けるが、1573年(28歳)、居城の小谷城が信長の包囲攻撃を受け、妻子を脱出させた後に自害した。信長にとって長政は妹の夫であり、新たに領地を与えるという破格の降伏勧告を出したが、長政は名誉を重んじて腹を切った。翌年の正月に、信長は長政、久政、朝倉義景の頭蓋骨に金箔を施し、割って裏返すと酒を注いで呑んだと伝えられている。 ※お市は深く長政を愛しており、共に死ぬと言ってきかなかったのを、長政が説得して脱出させた。ちなみに長政の長女は後に秀吉の側室となるあの茶々=淀君だ。また、3女は徳川秀忠の妻となった。 |
福井駅からバスで約30分。一乗谷朝倉氏遺跡の入口 | 朝倉義景の墓。北陸は豪雪の為か石廟が多い | 林の中に墓所がある |
一帯はめちゃくちゃ自然が豊か | 付近に武家屋敷が復元され見学可能 | この広大な面積に朝倉義景の館があった |
越前の戦国大名。朝倉孝景の子。1548年に父が他界し、15歳で家督をつぐ。1565年(32歳)、京都で松永久秀による“将軍殺し”(足利義輝死亡)が起き、逃れてきた足利義昭を一乗谷に迎えた。義昭は義景に上洛を促すが非協力的なので、家臣の明智光秀と共に織田信長の元へ去ってしまう。上洛に成功した信長が義景に従属を求めてきたが、義景はこれを拒否したことにより信長の最初のターゲットとなる。その後、信長に対抗するために、浅井長政、本願寺、武田信玄などと協力して信長包囲網を築くが、1570年(37歳)に近江の姉川の戦で織田・徳川連合軍に大敗。1573年にはついに本拠地一乗谷を信長に侵攻され、逃亡先の賢松寺(福井県大野市)で自害した。享年39歳。武将としては何度も信長に勝つ好機を逃すトホホぶりをさらけ出したが(あまりのヘタレさに家臣は逃げ、武田信玄はマジギレ)、一乗谷に京風の文化の城下町を築くなど、文化人としては高く評価されている。
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あの日、今川軍が本陣をはっていた高徳院 | 名古屋市からも近い桶狭間古戦場公園。高徳院の前にある | 義元が戦死した場所を示す石柱 |
古戦場の片隅にある義元の墓。 1876年まで墓石がなく塚だけだった |
『今川治部大輔義元墓』 きれいな花が供えられていた |
300忌に建立された供養塔。仏式 の戒名が彫られている(高徳院) |
浄土宗の高僧徳本行者が今川・ 織田両軍の戦死者を弔った小塔 |
駿河今川家第9代当主。今川氏親の子。五男だったことから、4歳で仏門に出される。兄たちが病死したことから1536年に17歳で家督を相続。武田・北条との婚姻関係による同盟、軍事組織の改革、産業をおこしての領国経営、外征の成功という多方面に才を発揮して、今川氏を東海一の大勢力に成長させた。しかし、1560年(41歳)に2万2千の大軍を率いて尾張に侵攻した際、桶狭間の陣中で休息中に信長の兵3千人の奇襲を受けて討ち取られた。義元の死後、名門今川氏は急速に衰退し、他界からわずか8年後に滅亡したのでおじゃる。 公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたことや、4歳から17歳まで仏門に入っていた為、武芸はイマイチと思われていたが、桶狭間の戦いでは自ら抜刀して最初に襲ってきた信長の家臣の膝を斬りつけて撃退、最後は敵の指を食い千切って絶命するなど大暴れしている。また、戦場で騎乗せずに輿に乗っていたことからヘタレと見られていたが、これも当時は今川家が足利将軍家の分家であり特別に輿に乗ることを許可されたことから、権威を誇示する意味合いがあっただけで、義元は普通に騎乗できる。正室の定恵院は武田信玄の姉。 |
なんと400年以上も歴史がある墓地! |
久秀父子の合葬墓碑 |
『妙久寺殿祐雪大居士』(中央) 右の「高岳院久通居士」は 信貴山城で戦死した嫡男・久通 |
後世の平蜘蛛釜(by楽天) ※本当に蜘蛛が這いつくばった様だ |
北条早雲、斎藤道三と並ぶ日本三大梟雄(きょうゆう)、はたまた「戦国三悪人」。父も出生地も不明。1540年(30歳)、三好長慶(ながよし)に仕えると実務家として手腕を振るい、1553年に長慶の畿内制覇を実現させる。信頼を得た久秀は長慶の娘と結婚。1559年(49歳)、長慶の任命で大和国信貴山城に移り、翌年には大和一国を統一した。1562年(52歳)、多聞山城を築城し居城とする。一方、三好長慶には3人の弟がいたが、十河一存(そごうかずまさ)、実休と相次いで死に、嫡男・義興(よしおき)まで先立つなど、度重なる不幸で衰弱する(実休以外は久秀の謀殺とも言われている)。さらに久秀は、残った長慶の弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を葬るべく、“冬康に謀反の疑いあり”と長慶に吹き込み、まんまと冬康を自害に追い込んだ。こうして久秀は三好家の家臣でありながら、主家を上回る権力を持つようになる。1564年(54歳)に長慶が他界すると、久秀は長慶の幼い養子・義継の後見人となった。1565年(55歳)、久秀は三好一族の有力者3人“三好三人衆”と共に、なんと室町13代将軍・足利義輝を攻め滅ぼした。その後、三好三人衆と対立し、1567年に三好三人衆が陣をはった東大寺を大仏ごと焼き払った。
1568年(58歳)、信長が上洛すると抵抗せずに天下の名茶器「九十九髪茄子」を差し出し、大和一国の支配を任される。浅井長政の裏切りで信長が死にかけた時は、撤退の道を確保して信長を救った。しかし、信玄・毛利など信長包囲網が固まり出すと、1573年(59歳)に15代将軍・足利義昭と同盟して信長を裏切った。ところがすぐに信玄が病死し、義昭が京を追われて室町幕府が滅亡したことから、久秀は多聞山城を差し出して信長に降伏せざるを得なかった。しばらくは織田軍の一角として石山本願寺の攻略戦に参加していたが、1577年(67歳)に上杉・毛利ら反信長勢と連携して再度反逆し、大和信貴山城に立て籠もった。信長は嫡男・信忠を総大将に冠した大軍で信貴山城を包囲させる。 信長は裏切り者は一族ごと抹殺する男だが、二度も久秀が裏切っているにもかかわらず、久秀の所有する名物茶釜「平蜘蛛釜」と交換に命を救うという異例の条件を提示した。ところが久秀はこれを拒絶。その結果、人質として信長のもとにいた久秀の息子2人は処刑された。やがて城攻めが始まると、「信長にこの白髪頭も平蜘蛛釜もやらん!」と平蜘蛛釜に火薬を詰めて首に巻き、釜もろとも爆死。信貴山城の天守を吹き飛ばした。前代未聞の衝撃的な最期だった。享年68歳。 ※ウィキには「平蜘蛛を天守閣で叩き割り、城に火をかけた」とあり爆死の記述がない。え〜。 黒焦げの首級は安土に送られ、胴体はは筒井順慶が奈良県北葛城郡王寺町本町の片岡山達磨寺に葬ったという。 その後、子孫が400年以上も歴史を持つ旧本圀(ほんこく)寺・妙恵会墓地に墓を建立。本圀寺の檀徒だった久秀は、松永家の祖先の菩提のために、本圀寺の墓地としてこの土地を寄付。久秀の屋敷跡がそのまま墓地となった。昭和になって、寺院は京都山科区御陵に移転し、墓地だけが残った。 主君(三好家)を滅ぼし、将軍(13代義輝)を暗殺し、東大寺を焼き討ちして大仏の首を落とした秀久。仏罰が当たると言われ「ただの木と鉄の塊に過ぎん」と言いのけた。久秀に対する信長の寛容さは、比叡山を焼いた自分とルール無用っぷりが似ていて、どこか共感したのかも知れない。信長は久秀を家康に紹介する際、こう語ったという--「この老人は全く油断ができない。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍暗殺。三つ目は東大寺大仏の焼討である。常人では一つとして成せないことを三つも成した男よ」。 ※奈良県生駒郡三郷町にも供養塔がある。 ※久秀は1566年(56歳)に三好三人衆と戦っていた頃、日本で最初に「クリスマスだから」と休戦を命じた変わった記録を持つ(→これは単に家臣のキリシタンが敵のキリシタン兵と一緒にミサをしただけらしい)。また、千利休の師匠・武野紹鴎(じょうおう)から茶を学んでおり、連歌もよくした教養人でもあった。 ※久秀が爆死したのは、偶然にも10年前に彼が大仏を焼いた時と同じ10月10日だった。
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毛利元就像 |
「史蹟 郡山城址」 ここから本丸までまだ徒歩で 30分以上かかる(JR吉田口駅から約10km) |
郡山城は全山が城郭となった巨大な山城。 270以上の遺構が残る。日本百名城にも選出。 1540年には3万の尼子軍を退ける堅牢ぶりを発揮 |
「毛利元就火葬場跡」 初七日の法会の後 この地で元就の亡骸は荼毘に附された |
居館跡の「三矢の訓跡」。 3本の矢の話を記念 |
「毛利元就公墓所参道」 ここから元就の墓、そして郡山城本丸へと山道が始まる。 1591年に輝元が広島城に拠点を移すまで、毛利氏は1336年から約250年間も居城としていた |
郡山城の初代城主・毛利時親から 8代豊元までが合葬された円墳(右端) |
左から興元(元就の兄)、幸松丸(興元の 子)、そして元就の長男・骭ウの夫人 |
元就の葬儀を行なった 高僧、ショウガク禅師の墓 |
毛利家の墓域の奥の方に元就が眠る | この巨木が元就の墓!墓標のかわりにハリイブキ=白樫(シラカシ)が植えられた。 現在は枯れている右側の白色の木が植えられたものだそう |
「本丸登山口」。城に行くのに“登山”とな!? | 往復40分の行程。ゼーハーゼーハー | 二の丸跡。ここまで来ればもうすぐ | 山頂(標高390m)にある「御本丸跡」!疲れた |
『毛利元就公霊所』 | 大きな五輪塔の毛利元就夫妻の墓。手前が元就(2008) | 夫妻の側には無数の毛利家のお墓 |
中国地方の戦国大名。毛利元就は安芸郡山(あきこおりやま/広島県安芸高田市吉田町)を本拠とし、中国地方のほぼ全てを制圧した名将。戦術より計略にすぐれた武将で稀代の策略家。性格は細心・慎重。陶晴賢・大内義長・尼子義久らを滅ぼし、山陰・山陽10か国を領有する戦国大名となった。毛利氏はもと安芸国(広島県)の土豪で、元就は第12代当主。正式な姓名は、大江元就(おおえのもとなり)。毛利氏の本姓「大江」は貴族で源頼朝の側近だった大江広元の子・大江季光(すえみつ/1202-1247)が、領地の相模国(神奈川)毛利荘を苗字にしたことに始まる。家紋は一文字三星紋。
1497年4月16日、周防国・長門国の守護大名・大内氏の勢力下である安芸吉田荘の国人領主・毛利弘元(1468-1506)を父に次男として生まれる。正室である母は毛利氏の重臣である福原広俊の娘。幼名松寿丸、のち少輔次郎と称した。 1500年(3歳)、幕府管領・細川政元によって将軍の座を追われた前将軍・足利義稙(よしたね/1466-1523)を、大内義興(よしおき)が保護して周防国山口に迎え入れたことで、応仁の乱で戦った大内氏と細川氏の対立が再燃。父毛利弘元は両者からの協力要請から逃れるため32歳で隠居を決意し、松寿丸(元就)の4歳年上の兄・興元(おきもと/1493-1516/当時7歳)に家督を譲る。これにともない、松寿丸は父に連れられて多治比(たじひ)の猿掛(さるがけ)城(安芸高田市吉田町)に移り住む。 1501年(4歳)、実母が他界。 1506年(9歳)、父・弘元が心労による酒毒で他界(38歳)。13歳の兄の興元は、大内義興に3ヶ条の起請文(きしょうもん)を提出して大内氏へ服属する態度を明確にした。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣(後見役)の井上元盛によって所領を横領され追い出されてしまう。その後、父の側室だった多治比の大方殿(“大方殿”は大名夫人の尊称)の土居屋敷に身を寄せた。この大方殿はおそらく父の継室、養母の杉大方(すぎのおおかた)で、幼少の松寿丸を不憫に思い、夫(弘元)の死後も実家に帰らず、若いのに再婚もせず、松寿丸の養育に専念した。松寿丸は杉大方にすがるように生きたという。また、この頃に杉大方は松寿丸に朝日を拝む念仏信仰を教え、元就は終生この朝の念仏を欠かさなかったといわれる。 1508年(11歳)、大内義興が将軍足利義稙を奉じて京都に出陣し、大内氏の影響下にあった毛利や安芸武田氏=旧安芸守護の猛将・武田元繁(1467- 1517/当時41歳)ら諸勢力もこれに付き従った。大内義興は上洛後、足利義稙を将軍職に復帰させると自身も管領代として京都に留まった。武田元繁も駐留を続けていたが、大内氏当主と主力が不在の安芸国では、厳島神主家で後継者を巡る内紛が発生する。 1511年(14歳)、杉大方の主導で松寿丸(元就)は元服。多治比元就を名乗って分家を立て、多治比殿と呼ばれるようになったが、所領は300貫ほどの小さなものだった。 同年夏、畿内にいた兄・興元(当時18歳)や安芸北東部の国衆らは、幕府管領代の大内義興に従って足利義澄や細川澄元らと戦っていたが、大内側が劣勢に立ったために無断で帰国し、国衆一揆を起こす。ところが、彼らが抜けたすぐ後に敵の足利義澄が病死。これを受けて大内義興が尼子経久と共に反転攻勢をかけ、義澄派を壊滅させた(船岡山合戦)。大内義興を裏切った興元は、時流を読み間違えた形となり、酒に頼り始める。 1515年(15歳)、勢力拡大を求める尼子経久の策略により安芸国で紛争が続発。上洛中の大内義興は安芸国の混乱を鎮めるために「項羽」とも謳われた勇将、旧守護・武田元繁(当時48歳)を帰国させる。しかし武田元繁は大内氏に奪われた安芸国主の座の奪還を狙っていた。 帰国後、元繁は大内氏の主力不在を好機と見て、尼子経久の弟の娘を妻に迎え、尼子の支援を受けて大内義興からの独立を宣言、挙兵する。大内義興は毛利興元と吉川元経に武田領の有田城の攻撃を命令、興元はこれに従い再び大内の傘下に戻る。この時、武田元繁は安芸南西部の重要拠点・桜尾城(厳島神社で有名な宮島の対岸にある)を攻めていたため、守備兵の少ない有田城は陥落した。 1516年(19歳)、元就の兄・興元が近隣の国人との合戦を繰り返すなか、9月21日(旧暦8月25日)に酒害(しゅがい)により陣中で病死する(享年23)。毛利氏の家督は1歳の嫡男・幸松丸(こうまつまる/1515-1523)が継ぎ、叔父の元就が19歳ながら後見役として支えた。こうして事実上、元就が毛利家の舵取りを任される。元就はまだ戦場を知らず、家中は動揺しており、旧守護の武田元繁はこれを好機と見た。元繁は有田城を奪還するため大内氏勢力圏への攻勢を強め、小勢力の毛利氏や吉川氏は苦しい立場になる。大内氏は主力を京都に展開しており、援軍は望めなかった…。 1517年(20歳)、山県郡今田城に進出した武田元繁は近隣の国人衆に服属を呼び掛け、5000以上の大軍となった。同年秋、元繁は大内方の有田城を包囲。元就は有田城の救援のため、吉川元経と共に挙兵、これが初陣となる。元就は吉田郡山城へ救援を要請し、異母弟の相合元綱(あいおう もとつな)や毛利本家の700騎、加えて吉川氏の援軍300騎と合流して武田軍に対抗する。元就と相合元綱は年も近く、非常に仲が良かった。11月5日(旧暦10月22日)、有田へ進軍した毛利・吉川連合軍は、兵数約5倍もの武田軍を相手に奮戦。渡河する武田軍に向けて毛利軍が弓の一斉射撃を行い、武田元繁は矢を受けて討ち死にした(享年50)。 元就が兵力で圧倒的に劣りながら初陣で旧守護の武田元繁を討ち取ったことで、その名は一躍有名になり、 “有田中井手の戦い”は「西国の桶狭間」といわれるようになる。京に在陣する大内義興は元就の存在を初めて知り、感状を与えた。 1518年(21歳)、尼子経久は反旗を翻した出雲・磨石(とぎし)城(別名阿用城)の城主・桜井宗的を討つため、智勇に優れた嫡男・尼子政久(1488-1518)を総大将とした大軍を派遣。政久は得意の笛の音で味方の兵を鼓舞し、城攻めを行ったが、笛の音が聞こえるほうに城兵が放った矢の一本が政久の喉に当たり即死する(30歳)。経久は政久の死を悲しみ、復讐として次男・国久へ磨石城を猛攻するよう命じ、城兵は降伏すら許されず虐殺された。経久は政久の系統が断絶することを惜しみ、のちに政久の嫡男・晴久に家督を譲った。 【尼子勢時代(尼子経久)】 1521年(24歳)、元就は尼子氏に勢いがあると判断し、大内氏を見限って尼子氏に従属する。この決断に反対した毛利家臣を元就は容赦なく鎮圧した。同年、幸松丸の外祖父であった高橋久光が備後国の三吉氏との戦いで戦死。享年62。 1523年(26歳)、元就は3月に尼子経久の命を受けて大内氏の厳島支配の拠点、桜尾城攻略を武田軍と実施。5月に尼子経久が一万にものぼる大軍で安芸に向かう。元就(満26歳)は尼子経久(満65歳)と初めて対面。その後、毛利家と吉川家で安芸国の大内氏の要衝、堅牢な鏡山城を攻略する。元就は大内氏の安芸国の二大拠点を一気に攻略したことで、毛利家中での信望を集めた。一方、毛利家当主の8歳の幸松丸は、鏡山城攻略戦に参加した際、敵将の首実検を嫌がったにもかかわらず、家臣達が無理やり立ち合わせて生首を見せたことでショックを受け、翌月に病死する。 元就は兄・興元や甥の幸松丸が早く他界したことから、志道広良をはじめとする重臣たち推されて26歳で安芸高田郡吉田の国人領主として家督を継ぎ、「毛利元就」と名乗る。9月19日(旧暦8月10日)、元就は吉田郡山城に入城した。 尼子経久は毛利の家督相続に介入を試みたが元就に防がれた。尼子氏は元就の才覚を警戒し、毛利氏が力を付けすぎないよう褒美をあまり与えないようにした。そのため両者の関係が悪化していく。 一方、大内義興は周防に帰国し安芸国を取り返そうと動き出す。大内氏は尼子経久と敵対する伯耆国守護の山名澄之と同盟を結び、伯耆国の大部分が反尼子となった。経久ら尼子軍は伯耆対応のために出雲国への帰国を余儀なくされる。 同年、元就の長男・隆元(1523-1563)が生まれており、この頃に安芸国の国人・吉川国経の2歳年下の娘(法名「妙玖」みょうきゅう/1499-1546)を妻に迎えている。 1524年(27歳)、元就の家督相続に不満を持った渡辺勝・坂広秀ら一部の家臣団は、弟の相合元綱を担ぎ上げて元就の誅殺を計画。元綱らは「元就暗殺後に尼子豊久を幸松丸の養子とし、執政・志道広良を解任、相合元綱を執政に」と、企てる。しかし、忍びの報告で謀反を察知した元就が先手を打ち、自らの手で渡辺勝を粛清、坂広秀の居城を攻め殺害、志道の部隊を派遣して猛将相合元綱を討ち取った(船山城の戦い)。仲が良かった弟ゆえに、元就にはつらい選択だったが、この処断により家中は安定した。元就は元綱の子の生命までは奪わず、のちに備後の敷名家を与えた。 同年春、尼子経久は大内義興に奪われた西伯耆(ほうき)を奪還するため伯耆国米子城に入り、14000の大軍で伯耆侵攻を開始する。一方、大内義興も安芸奪還に動き出し、25000もの兵で安芸への侵攻を始めた。この戦いは義興の嫡男大内義隆(1507-1551/当時17歳)の初陣でもあり、大内軍は安芸武田氏に襲いかかった。当主・武田光和は諸城を落とされながらも居城である堅牢な佐東銀山城で猛攻に耐え(第一次佐東銀山城の戦い)、西伯耆を回復した尼子経久の援軍を待った。元就は尼子軍から加勢を求められ、大内軍の背後から夜襲をかけ大打撃を与える。大内軍の陶興房は義隆の初陣に泥を塗らないために撤退した。 【大内勢時代】 1525年(28歳)、元就は相次ぐ尼子氏の陰謀(毛利氏への家中介入未遂など)に不信感を抱き、寝返りの機会を伺っていたところ、2月に陶興房(大内軍)の調略を受けて尼子氏と関係を断ち、4年ぶりに大内義興の傘下となった。翌月に陶興房は安芸東部への侵攻を開始し、元就もこれに協力。大内軍は一気に安芸東部の奪回に成功し、尼子氏による安芸支配はわずか2年で終結した。 ※元就は勢力維持のために大内・尼子の間での絶妙なバランスを保ち続けた。1524年の「佐東銀山城の戦い」では尼子方として戦ったが、直後に元就の家督継承問題に尼子経久が介入したため、尼子氏に対する不信を抱き、翌年に大内氏の元に帰参した。両陣営の対立が続くなか、尼子の勢力は衰え、その間に毛利氏が勢力を拡大した。 【大内義興→大内義隆】 1529年(32歳)、1月(旧暦では前年12月)に大内義興が満51歳で病没し、22歳の嫡男・義隆(1507-1551)が家督を継ぎ、周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前6か国の守護職に任じられる。 一方、元就は安芸石見(いわみ)国人(こくじん)領主連合を率いていた毛利幸松丸の外戚・高橋氏一族を滅ぼし、安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。 1530年(33歳)、次男の元春が生まれる。同年、尼子氏に内紛「塩冶興久(えんやおきひさ)の乱」が起き、大内義隆は尼子経久と塩冶興久の両陣営から支援を求められた。両者共倒れを狙う義隆は劣勢であった経久側を支持。その影響で一時的に尼子氏と大内氏の間に和睦が成立する。 ※塩冶興久(えんやおきひさ)の乱…出雲守護・尼子経久の三男で、出雲源氏の嫡流である塩冶(えんや)氏の養子となった塩冶興久は、塩冶氏の権益を維持する必要もあり、出雲大社など反尼子諸勢力との結び付きを強めていく。そして1530年、興久は父・経久の統治に不満を抱き、出雲西部・南部の有力国人を率いて反乱を起こし、出雲国を二分しての全面対決に至った。塩冶興久は善戦するも、4年後に敗北し自害した。 同年、その一方で大内氏も北九州の覇権をめぐって出兵を開始、豊後国(大分)の大友氏や筑前国(福岡北西部)の少弐(しょうに)氏らと争った。少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大内氏は大敗を喫した(田手畷の戦い)。大友義鑑は大内氏と同盟を結んでいたが、これ以上の北九州への拡大を恐れていた為に小弐氏と手を結んだ。 【尼子と義兄弟】 1531年(34歳)、元就は尼子氏の南下を防ぐ頼みの綱の大内勢が九州出兵でいなくなったため、尼子氏に攻められないために、尼子氏とうまくやっていくしかなかった。年頭挨拶を行うと同時に、吉川氏を通じて尼子氏に接近し、「尼子詮久(晴久)(1514-1561/当時17歳)と兄弟契約を結びたい」とし、義兄弟の契りを結んだ。前年の大内・尼子の和睦がこれを可能にした。 1533年(36歳)、三男の隆景が生まれる。尼子勢の熊谷氏が毛利方につき、また白井・香川・己斐の諸氏まで武田を離れ、尼子勢は内部から崩壊し始めた。 1535年(38歳)、隣国備後の多賀山通続を攻め降伏させる。 【尼子経久→尼子詮久(晴久)】 1537年(40歳)、尼子経久が79歳で隠居し、尼子氏の家督を元就の義兄弟、23歳の尼子詮久(あきひさ、のち晴久)が継ぐ。一方、元就は長男の毛利隆元(14歳)を人質として大内氏へ差し出し関係を強化し、大内氏の傘下に加わっている立場を明確にした。 1539年(42歳)、血気盛んな詮久は、元就が尼子氏から離反したことに怒り、毛利氏討伐を決定。同年、大内では陶晴賢が父の跡を継いで大内義隆の重臣となり、周防守護代となる。 【吉田郡山城の戦い】 1540年(43歳)、毛利打倒を掲げた尼子軍が安芸侵攻を開始、元就は詮久(晴久)が率いる大軍3万に本拠地・吉田郡山城を包囲された。元就はこれを3千の寡兵で籠城して迎え撃ち、戦いは年を越えた(吉田郡山城の戦い)。 1541年(44歳)、吉田郡山城の毛利方は、家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏(宍戸隆家は元就の娘婿)らの協力、そして遅れて到着した総大将・陶隆房(陶晴賢)率いる大内氏の援軍を得て反撃を開始、尼子軍を撃退した。同年、安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山(かなやま)城は落城し、信実は出雲へと逃亡、領主としての安芸武田氏は滅亡した。元就は安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築く。 元就は「吉田郡山城の戦い」の顛末を記録した文書を幕府に提出(毛利元就郡山籠城日記)し、管幕府領・細川晴元から最大限の称賛を受け、安芸国の中心的存在となった。尼子氏と大内氏の立場が逆転したこの戦いにより、大内方に鞍替えした主要な国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が提出される。 同年11月、尼子経久が満82歳で病没。この機に乗じ尼子氏を叩こうとした大内義隆により、室町幕府から尼子討伐の綸旨が出されるなど、尼子氏は窮地に追い込まれた。 1542年(45歳)、陶隆房は出雲遠征を主張し、大内義隆(当時35歳)の出陣を促し、兵1万5千で尼子氏の最強の山城・月山富田城に向かい包囲戦となる(第1次月山富田城の戦い)。元就「力攻めなど無理である。たとえ日本全土の軍勢をもってしてもこの城をたやすく落とせないだろう」。 1543年(46歳)、3月から月山富田城で攻防戦が始まるが、大内軍は尼子氏の所領に深入りし過ぎて補給線が寸断されるなど、戦闘集団・新宮党を率いる敵将・尼子国久(経久の次男)のゲリラ戦に苦しめられる。4月末に大内勢の吉川興経ら国人衆が寝返り、5月に大内義隆は全軍撤退を決意、大敗に終わる(第1次月山富田城の戦い)。元就と隆元は敗走中に大内軍の殿軍を命じられ、死を覚悟するほどの危機にあったが、家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとして戦死、この犠牲により九死に一生を得て安芸に帰還した。 この撤退中に大内義隆の養嗣子・晴持(はるもち/義隆の妹、一条房冬室の子)が船の転覆で溺死(19歳)。継嗣を失った義隆は、翌年に妹(先の妹と別)婿である豊後国(ぶんごこく、大分県)大友氏の20代当主・大友義鑑(よしあき)の11歳の次男・塩乙丸(元服後に大友晴英/1532-1557)を猶子とした。 大内義隆は1年4ヶ月の大遠征に敗れ、寵愛していた晴持を失い、以降、軍事面に興味を示さなくなる。文化に傾倒し、文治派の相良武任(さがら・たけとう)を重用したことから、武断派の陶隆房と義隆は不仲になってゆく。一方、尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ、最盛期を創出していく。 1544年(47歳)、元就は安芸(あき、広島西部)と備後(びんご、広島東部)で勢力拡大を図る。まず、強力な水軍を持つ備後の竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を出した。既に小早川家には元就の姪(兄・興元の娘)が嫁いでおり、前当主の小早川興景は「吉田郡山城の戦い」で援軍に駆けつけるなど元就と親密な仲だった。3年前に興景は子もなく没していたため、小早川家の家臣団から徳寿丸を養子にしたいと要望を受けたことも理由。 1545年(48歳)、元就の正室・妙玖(みょうきゅう)が郡山城内で死去。享年47。元就は郡山城の麓、毛利家の吉田館近くに妙玖をまつって妙玖庵とした(墓所は不明)。子の隆元に宛てた手紙に「妙玖がこの世にいてくれたらと、いまは語りかける相手もなく、ただ心ひそかに亡き妻のことばかりを思うのだ」と記す。相次いで養母・杉大方を亡くした。杉大方の法名は順徳妙孝大姉で、多治比猿掛城跡の近くに杉大方の墓と伝わる墓所が残る(毛利元就墓の約4km西)。 同年、大内義隆に実子・大内義尊(よしたか/1545-1551)が生まれたため、大友晴英(塩乙丸)は猶子関係を解消され豊後国に帰国した。陶隆房は義尊誕生を契機に相楽武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を奪還する。 1546年(49歳)、数え50歳となった元就が隠居を表明し、隆元が毛利家当主となる。ただし、実権は元就がほぼ握っていた。 1547年(50歳)、妻・妙玖の実家であり、安芸の有力国人で石見口を押さえる吉川(きっかわ)氏のもとへ、次男の元春を送りこむ。吉川氏14代当主の吉川興経(おきつね)は新参の家臣団を重用していたため、吉川一族や重臣と対立し、家中は混乱していた。そこで反興経派は、元就に12代当主だった吉川国経(くにつね、妙玖の父)の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子にしたいと申し出た。元就は吉川家の再三の要求に応じて元春を養子に出し、興経は家臣団によって強制的に隠居させられた(興経は3年後に殺害される)。 1548年(51歳)、元就は備後国へ出陣し、陶隆房らとともに神辺(かんなべ)城を攻撃、翌年に落城し毛利の勢力下に入れる(神辺合戦)。同年、陶隆房は相楽武任ら文治派の巻き返しを受けて再び大内家中枢から排除された。 1549年(52歳)、大内家では7年前に当主の大内義隆が月山富田城で大敗して以来、戦に関心を持たなくなっており、陶隆房を中心にした武断派と相良武任を中心とした文治派の対立が続いていた。 【安芸一国を支配】 1550年(53歳)、元就は大内義隆とともに先の「月山富田城の戦い」で当主・小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題に介入。新当主・小早川繁平(1542-1574、当時8歳)が幼少かつ病弱・盲目であったため、大内氏は「繁平では尼子氏の侵攻を防げない」と判断、「繁平が尼子氏と内通した」として身柄を拘禁し、これに反対する家臣・田坂全慶らを誅殺した。そして、元就の三男・小早川隆景を繁平の妹と結婚させた上で、翌年に沼田小早川氏の家督を継がせた。これにより、元就は小早川氏の水軍を手に入れ、小早川・吉川の「毛利両川体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになる。最終的に小早川繁平は出家に追い込まれた。ちなみに、小早川氏は鎌倉時代以来、沼田と竹原に分かれていたのが隆景の結婚で再統一されたものの、隆景夫妻には実子ができず、のちにその養子になった小早川秀秋も1602年に実子なく21歳で病没したため、断絶に至った(明治時代に毛利公爵家の分家として再興)。 同年11月、元就は将来の禍根を断つため、吉川興経とその一家を熊谷氏に命じて殺害した。またこの年、不服従の目立つ重臣の老臣・井上元兼(もとかね)一族30名の誅伐(ちゅうばつ)を断行し、これを契機に家中に対する絶対権を確立し権力基盤を整えた。 こうして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。 この年、陶隆房は大内氏の武断派重臣・内藤興盛(おきもり)らと結んで相楽武任を暗殺しようとするが、事前に察知されて義隆の詰問を受けることとなり、大内家での立場を失った。 同年、豊後国(ぶんごこく、大分県)大友氏の20代当主・大友義鑑(よしあき)が正室の子である嫡男・義鎮(よししげ、宗麟/1530-1587)を廃嫡して側室の子である三男の塩市丸を後継者にしようと画策。このため、大友氏内部では義鎮派と塩市丸派に分裂しお家騒動に発展する。義鑑は義鎮派の重臣を次々と誅殺したが、2月26日(旧暦2月10日)、大友館の二階で就寝していた義鑑と塩市丸は義鎮派に逆襲され、塩市丸は死亡。重傷を負った義鑑も2日後に没した。その死後、戸次鑑連(べっき あきつら、立花道雪)ら家臣が義鎮を擁立し、家督を継承させた。 「二階崩れの変」を受け、陶隆房(晴賢)は主君の大内義隆を追い落として義鎮(宗麟)の弟・大友晴英を大内氏の家督とすることを決意し、義鎮に了解をとりつけた。 ※義鎮(宗麟)の生母は周防大内氏の第15代当主・大内義興の娘とも言われ、「二階崩れの変」は家中からの大内氏の勢力排除のために計画されたとも。 1551年(54歳)1月、相楽武任は陶隆房(晴賢)との対立による責任を大内義隆に追及されることを恐れて「陶隆房と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は(豊前(ぶぜん、福岡東部)の守護代)杉重矩(しげのり)にある」と讒訴(ざんそ)する。文治派を擁護する義隆と武断派の隆房の対立は決定的となり、身の危険を感じた相楽武任は周防から出奔した。 9月28日(旧暦8月28日)、陶隆房は挙兵して山口を攻撃し、9月30日(旧暦9月1日)には長門大寧寺(たいねいじ)において義隆を自害に追い込み(満43歳)、翌日に助命を条件に捕虜とした義隆の6歳の嫡男・義尊も殺害した(大寧寺の変)。さらに、陶隆房は野上房忠(ふさただ)に命じて筑前国を攻め、相楽武任や筑前の守護代・杉興運(おきゆき)らも殺害した。陶隆房は2年後には謀反の責任を杉重矩に転化して、自己を合理化して政権を確立するため重矩も殺害し、首級を義隆の霊に捧げるとして山口で晒し首にしている。このクーデターで西国随一の戦国大名とまで称された大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。 謀反後、陶隆房は名を晴賢(はるかた)に改名、豊後国大友氏の当主・大友義鑑の次男(大友宗麟の異母弟)で大内義隆の養子だった19歳の大友晴英(はるひで、塩乙丸)を、大内氏の第17代当主として迎え、晴英は大内義長(よしなが)の名で擁立された。 大内義長は陶晴賢の傀儡当主ではあったが、元就ら大内氏傘下の国人領主は引き続き義長に仕えた。 元就と晴賢は11年前の吉田郡山城合戦の盟友であり、晴賢は安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を元就に与えた。元就は隆房の謀反に同調し、安芸国内の大内義隆支持派の国人衆を攻撃、安芸・備後(びんご)の諸城を落として支配を広げる。 その後も、大内の家督を継いだ大内義長と、実権を握った陶晴賢に従い、大内氏に臣従する毛利氏の関係は従来通りに維持されていた。 1553年(56歳)、元就は尼子方の備後の諸城を落とし、尼子晴久の安芸侵入を大内氏の家臣、江良房栄らと撃退した。毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶晴賢は、元就に支配権の返上を要求。元就はこれを拒否し両者の対立が広がっていたところに、10月、亡き大内義隆から厚く信任を受けていた石見国津和野の国人・吉見正頼(よしみ まさより/1513-1588※正室は義隆の姉)が「陶打倒」を掲げて挙兵、陶晴賢に叛旗を翻した。“主君の敵討ち”という大義名分を掲げる正頼に対して晴賢は苦戦を強いられた。 同年2月、元就の子・隆元の嫡男で、のちに毛利氏の14代当主となる毛利輝元(1553-1625)が誕生。この元就の孫は、成長後に豊臣政権五大老の一人となり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となり、また長州藩の藩祖となっている。 1554年(57歳)、3月から8月にかけて大内義長と陶晴賢の軍勢は、吉見正頼の居城、石見国三本松城(津和野城)城を攻めた(三本松城の戦い)。元就は晴賢から吉見討伐の参陣を求められたが、嫡男・隆元(1523-1563/当時30歳)の反対もあって出兵をためらい、しびれを切らした晴賢が安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣した。これは安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を元就に与えるとした約束に反しており、隆元は父元就に対して「毛利と陶の盟約が終わった」と訣別を迫る。隆元はかねてから父に岳父・義隆(隆元の妻は、義隆の養女)の敵討ちを主張していた。ここに至り、元就は晴賢との断交を決断する。とはいえ、当時の大内軍3万人に対して毛利軍は5千人であり、6分の1しかなかった。元就は晴賢の家臣を内応させたうえで、その謀反を晴賢に知らせて争わせるなど、得意の謀略で大内軍の弱体化を図った。 6月11日(旧暦5月12日)、元就はついに周防国の大内義長・陶晴賢と断交、決別して挙兵に踏み切った。これを防芸引分(ぼうげいひきわけ)と呼ぶ。元就は大内・陶の主力が石見三本松城に釘付けにされている間に、先手を取って金山・桜尾等の諸城を奪っていった。驚いた晴賢は、安芸に家臣の宮川房長と兵3千を急行させるが、元就はこれを撃破する。毛利氏は「大内義隆の弔い合戦」と称して交通の重要拠点、厳島(いつくしま)まで占領し、陶氏との対決に備えて厳島の宮尾城など広島湾周辺の諸城や水軍の守りを固めた(一説には、元就は厳島へ晴賢軍をおびき出すために宮尾城を強化したという)。晴賢は三本松城を落としきれず、秋に吉見正頼と和睦を結ぶ。 同年、出雲では尼子晴久が家中統一のため叔父の尼子国久(尼子経久次男)と子の誠久らを粛清する。 【厳島合戦】 1555年(58歳)10月6日(旧暦9月21日)、毛利氏の反逆に激怒した陶晴賢は、周防・長門・豊前・筑前などの軍勢2万を自ら引き連れて岩国(山口)から出陣、500艘の船団で厳島に向かい、翌朝に上陸、海辺にあって見晴らしの良い“塔の岡”に本陣を置く。晴賢は毛利が修築した宮尾城(城兵500)の水の手(水源)を断つ作戦に出た。3日後、陶軍の厳島上陸の報を受けた毛利軍は佐東銀山城を出陣、水軍の基地でもある草津城(広島市西区)に着陣した。元就・隆元率いる毛利軍は、吉川元春の軍勢、水軍を率いる小早川隆景勢とその傘下の因島村上氏、安芸国人衆など、兵4千、軍船は200艘に満たず、元就は草津城で援軍を待った。この間に、救援を待つ宮尾城は堀を埋められ、水源も断たれ、元就は焦る。 10月13日(旧暦9月28日)、村上水軍200?300艘が毛利軍の救援に駆けつけ、元就は草津城を出て全軍を前進。周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方に付いたことで、水軍力の差で優位に立った。 10月15日(旧暦9月30日)、元就は「風雨こそ天の加護」と、夕刻に暴風雨の中を出陣。元就と子の隆元、吉川元春らの率いる第1軍(毛利本隊)・小早川隆景を大将に宮尾城兵と合流する第2軍(小早川隊)・水軍の第3軍(村上水軍)に分かれて厳島に渡海し、本隊は21時頃に厳島東岸の浜辺へ上陸した。その際、元就は全ての軍船を返すように命じて背水の陣の決意を将兵に示した。 一方、第2軍は厳島神社大鳥居の近くまで近づき、「筑前から加勢に来たので陶殿にお目通りする」と称して上陸した。第3軍・村上水軍の船団は沖合で待機し、開戦を待つ。 10月16日(旧暦10月1日)、卯の刻(6時)に毛利軍の奇襲が始まる。敵は(最大で)約5倍、本隊は鬨の声を上げて陶軍の背後(厳島神社後方の紅葉谷側)を駆け下り、これに呼応して別働隊(小早川隊)と宮尾城籠城兵も陶本陣のある塔の岡を駆け上った。沖合に待機していた村上水軍は前夜の暴風雨で油断していた陶水軍を焼き払った。陶軍は狭い島内に大軍がひしめいて進退もままならず、総崩れとなった。 毛利軍に挟撃されて陶方の将兵たちは我先と島から脱出しようとして、舟を奪い合い沈没したり、溺死したりする者が続出。晴賢は当初の上陸地点の大元浦まで辿り着くも、脱出に使える舟は無かった。僅かな近習に守られた晴賢は、さらに西の大江浦まで逃げたがやはり舟は無く、晴賢は伊香賀房明の介錯によって自刃して果てた。晴賢に最期まで付き添った、房明、柿並隆正、山崎隆方の3名は、晴賢の首を山中に隠した後に自害した。厳島合戦の主な戦闘は14時にはほぼ終結した。元就は敗残兵を探すため山狩りを命じる。『吉田物語』の記述では、この戦いで討たれた陶兵は4,780人にのぼり、捕虜も3000余人とされる 4日後に毛利軍は晴賢の草履取りだった少年を捕らえ、助命と引き替えに、晴賢の首級の隠し場所を聞き出した。毛利軍は対岸の桜尾城に凱旋、同城で首実検が行われ、元就は「主君を討って八虐を犯した逆臣である」として晴賢の首を鞭で3度叩いた。晴賢の首は洞雲寺(廿日市市)に葬られる。 ★厳島は島全体が信仰の対象とされる厳島神社の神域であり、元就は死者を全て対岸(大野)に運び出し、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせた。また、血で汚れた厳島神社の社殿から回廊に至るまで全てを潮水で洗い流して清めさせ、合戦翌日から7日間に渡り神楽などを奉納し、万部経会(まんぶきょうえ)を行って死者の冥福を祈った。その後、大内氏は衰退の一途を辿っていく。 ※「厳島合戦」については、江戸時代に香川景継が編纂・執筆した軍記物『陰徳太平記』が元になっており、毛利氏に都合の良いよう史実とは異なる部分が多々あるとされ、内容は注意が必要。 1556年(59歳)、毛利氏は尼子晴久率いる25,000人に攻撃され忍原(おしばら/島根県大田市)で大敗、石見銀山は尼子氏のものとなる(忍原崩れ)。その後、毛利氏は石見銀山の奪取を何度か企てるも敗北し、6年後に取り返した。 1557年(60歳)、大内氏の内紛を好機とみた元就は、晴賢によって擁立されていた大内氏の当主・大内義長(一時義隆の養子となっていた)を5月に勝山城で自害に追い込み、大名としての大内氏は滅亡に至った。その後、毛利氏は大内氏の領国2国(周防・長門)を併合して大大名となり、さらに博多と石見銀山(どちらも大内氏支配下)の権益を狙って、九州の大友氏や山陰の尼子氏との抗争を開始する。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。山口の陥落など、これらの戦いに石見国の国人・吉見正頼がよく協力し、大内氏が滅ぶと正頼は元就の家臣となり、元就は正頼の清廉な性格を厚く信頼した。 都では正親町天皇が践祚(せんそ、皇位継承)し、元就はその即位料・御服費用として二千五十九貫四百文を進献し、即位式を実現させた功績により、毛利氏は中央との繋がりを強化する。これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である。 安芸の一国人領主から、五ヶ国を領有する中国地方の領主に成り上がった毛利氏。同年11月、元就は毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三子にあてて一族団結を説く直筆書状『三子教訓状(さんしきょうくんじょう)』を勝栄寺(現・山口県周南市)で書く。書状の長さは約3mに及び、14条に渡って子に諭している。元就自身は「思いのまま綴った」「急いで書いた」としているが、誤字脱字は少なく、読み手を意識した文章であり、何度も下書きをした上で魂を込めて書きあげたものと思われる。 息子たちに一致協力して毛利宗家を末永く盛り立てていくようにと兄弟間の団結の重要性を説いた背景には、元就が仲の良かった弟・相合元綱と争いあうことになった悲劇が大きく影響しているとされる。子ども達はこの教えをよく守り、長男隆元の死後も次男の吉川元春と三男の小早川隆景が「毛利両川」(りょうせん)と呼ばれるほどの結束を見せて毛利本家を守った。教訓状には亡き妻の追善や、政略結婚で嫁がせた次女への気配りもあり元就の優しさが伝わる。ただ、この教訓状に有名な「三本の矢」についての記述がなく、ここにあるとするのは間違い。 第三条 三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。 第四条 隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また(他家に入った)元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。 第五条 隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。 第七条 亡き母、妙玖に対するみんなの追善も供養も、これに、過ぎたるものはないであろう。 第八条 五龍城主の宍戸隆家に嫁いだ一女(政略婚をさせた次女)のことを自分は不憫に思っているので、三人共どうか私と同じ気持ちになって、その一代の間は三人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、そのときは三人を恨むであろう。 同年暮れ、元就以下12人の主だった安芸国人領主が「傘連判状」を結ぶ。円形に連判することで上下関係を明らかにせず、国人領主皆が対等の立場にあることを示した。実子が当主である吉川・小早川両氏といえども主従関係にはなかった。署名は時計回りに、毛利元就、吉川元春、阿曽沼広秀、毛利隆元、宍戸隆家、天野元定、天野隆誠、出羽元祐、天野隆重、小早川隆景、平賀広相、熊谷信直の12名。 1560年(63歳)、長男の隆元が安芸国守護に任じられ、毛利氏は土豪の集団的盟主という立場から脱却し、安芸統一が完成した。 1561年(64歳)1月、尼子晴久が47歳で急逝し、尼子氏は動揺。21歳の嫡男、尼子義久(1540- 1610)が跡を継ぐ。 1562年(65歳)、元就は晴久を失った出雲に侵攻を開始、調略で尼子氏から石見銀山の奪還を果たす。尼子義久は難攻不落の名城・月山富田(とだ)城(島根県安来市)に籠城し、尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃つ。 1563年(66歳)8月22日(旧暦8月4日)に、長男隆元が尼子攻めのため出雲へ出陣途中、佐々部(高宮町)にて40歳の若さで急死する。その前日、隆元は毛利氏傘下の備後国人・和智誠春の宿所に招かれ饗応を受けており、死因は食傷とも、毒殺ともいわれる。のちに元就の意向で、和智誠春と、隆元に近侍した赤川元保は誅殺された。毛利の家督は隆元の嫡子・幸鶴丸(輝元、元就の孫)が継承したが、まだ満10歳の若さであったため、元就が後見して政治・軍事を執行する二頭体制が敷かれた。 元就は「隆元の供養は尼子家退治より他にない」と弔い合戦を大義名分に戦いを続行、同年、元就は尼子十旗の一である白鹿城を攻略。 1564年(67歳)、隆元の菩提を弔うため、元就や元春、隆景が常栄寺(じょうえいじ)を建立、寺には正親町(おおぎまち)天皇執筆の「常栄広刹禅寺」の額が掲げられた。(後年、常栄寺は山口に移転) 1565年(68歳)、3月元就は輝元とともに3万5千で出雲に侵攻し、4月に月山富田城を包囲して兵糧攻めを行う(第二次月山富田城の戦い)。籠城する尼子軍は1万。元就はかつて月山富田城攻めで敗戦した戦訓を活かし、今回は智謀を駆使した。城内の食料を早々に消耗させるため、当初は投降した敵兵を皆殺しにして見せしめにした。並行して尼子軍の内部崩壊を誘う離間策を巡らせ、疑心暗鬼となった義久は尼子氏四家老の一人・宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊が加速する。この機に元就は逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した(落城は翌年)。 同年、幸鶴丸が吉田郡山城で元服し、将軍・足利義輝の諱一字を拝領して、輝元と名乗る。毛利氏の当主は代々、守護大名配下の国人領主として元服したが、輝元は将軍より偏諱を与えられる、つまり「国家の支配者」として元服しており、元就の代において毛利氏の地位が大きく向上したことが裏付けられる。 【中国全域10ヵ国を支配する戦国大名の雄に】 1566年(69歳)、2月に元就は長期の出雲出陣の疲労からか大病を患ったが、将軍・足利義輝が見舞いのために派遣した名医・曲直瀬道三(まなせ どうさん)の治療で全快した。毛利の総攻め開始から1年7カ月、11月に月山富田城の尼子勢は籠城を継続できなくなり義久は降伏、戦国大名としての尼子氏は滅亡した。家臣は義久の処刑を求めたが、元就は「助けてやるのが武士たる者の法」(弓矢の法)として義久を助命する。難攻不落の月山富田城を落とした政治的効果は絶大で、中国地方の豪族たちから信頼を得るようになった。元就は備後(びんご)・石見・出雲・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)を平定。これによって、元就は一代にして、中国全域となる山陽・山陰、西は長門から東は備中(びっちゅう)・因幡(いなば)まで10ヵ国(豊前(ぶぜん/北九州)・伊予(四国)の一部含む)を支配する戦国大名の雄となった。 1567年(70歳)、1月に最後の息子である九男・才菊丸(後の秀包(ひでかね))が継室・乃美大方との間に誕生。元就は輝元が数え15歳となったため隠居しようとしたが、輝元から隠居しないように懇願されたため断念。 1568年(71歳)、豊前の大友氏(大友義鎮)攻撃の軍をおこす。 1569年(72歳)、6月に山中鹿介幸盛率いる尼子再興軍(尼子残党軍)が尼子勝久(尼子誠久の子)を擁立したうえ但馬の山名祐豊の支援を受けて出雲へと侵入。さらに豊後の大友宗麟氏の支援をうけた大内輝弘が周防(山口)に相次いで攻め入ってきたが、毛利氏はこれを撃退した。元春、隆景らがよく働き、大友氏とも和睦しつつ、尼子再興軍を退けた。ただし、大友氏と和睦したため、大内家の富の源泉となっていた博多の支配権を譲る結果になる。 1571年7月6日(旧暦6月14日)巳の刻(午前10時頃)、その前日に元就は吉田郡山城で激しい腹痛を起こして危篤に陥り、輝元らの平定戦が続くなか満74歳で郡山城に病没した。死因は老衰とも、食道癌ともいわれている。元就の死を三男の隆景と、孫の輝元が見届けた。このとき吉川元春41歳、小早川隆景38歳。隆景は直ちに、長兄・隆元亡きあと事実上のトップであり出雲出陣中の元春に死去を伝えたが、元春は尼子勝久の勢力を抑えるため帰国を断念し、葬儀など後事は輝元が隆景ほか重臣の宍戸隆家、熊谷信直、福原貞俊、口羽通良らと協議して執り行うことになった。 家督そのものはすでに嫡孫の輝元が継承済であったが、元就の死で二頭体制は終了する。輝元は18歳であったため、吉川元春が輝元の補佐を吉見正頼に依頼。輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受けて親政を開始した。 ※「三矢(さんし)の訓(おし)え」について。晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げ、息子たちはこの教えに従う事を誓った…との有名なエピソードは、長男の隆元が元就より8年も早く亡くなっていること、元就の死亡時に次男の元春は出雲で山中幸盛ら尼子再興軍と戦っていたことから、現実にはあり得ないもの。ただし、まったくの嘘というわけではなく、江戸時代に編纂された「前橋旧蔵聞書」(幕府の重臣・酒井家に伝わる)に、死に際の元就が小早川隆景など大勢の子どもたち」(4年前に第12子が誕生)を呼び集め「1本の矢では簡単に折れるが、多数の矢を束ねると容易に折れないので、皆がよく心を一つにすれば毛利家が破られることはない」と教えたエピソードが記載されている。ここでは史実通り、隆元と元春の名は出てこない。元就は14年前に記した書状『三子教訓状』で3人が協力し合うよう命じており、ふたつの逸話が混ざって「三矢の訓え」になったのだろう。 11年後の1582年、本能寺の変で織田信長(1534-1582)が他界。 ★1591年、広島城が築城され、毛利氏は1336年から約250年間も居城としていた郡山城から去り、広島城に移る。以後、広島が政治・経済の中心地に。 1598年、豊臣秀吉(1536-1598)が61歳で他界。 1600年、関ヶ原の戦いが勃発し、毛利輝元(当時47歳)が石田三成の意を受け西軍の総大将となる。西軍敗北の結果、毛利氏は中国全域にわたっていた領国(120万5千石)をわずか防長二か国(長州藩・現在の山口県)約30万石に減封(げんぽう)された。先行きの不安から家中が動揺するなか、輝元は危機を乗り切るために祖父元就の『三子教訓状』を家臣の前で読み上げた。この輝元の行動により、『三子教訓状』は後世に知られるようになった。広島には尾張国清洲より福島正則が入った。郡山城は廃城に。 1603年、徳川幕府成立。 1615年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。 1616年、徳川家康(1542-1616)が73歳で他界。 1619年、福島正則が洪水で破損した広島城を無断改修した武家諸法度違反により信濃へ転封(てんぽう)。故・浅野長政(豊臣五奉行)の次男浅野長晟(ながあきら)が安芸1国・備後8郡の国主大名として入封(にゅうほう)した。 1625年6月2日、毛利輝元が72歳で他界。 1869年、朝廷は明治維新における長州藩の功績から元就を祀る神社に「豊栄神社」の神号を贈り、1908年には元就に正一位の位階が追贈された。 毛利氏が支配した主な城は、安芸国、長門国、備後国、備中国、周防国、出雲国、石見国、因幡国、播磨国、豊前国、筑前国の10か国にまたがる。元就は大内氏・尼子氏という強大な勢力の間隙で戦い抜く優れた情勢分析と果断さを持っていた。両陣営を上手く渡り歩きながら、次男の元春を安芸の有力国人で石見口を押さえる吉川(きっかわ)氏へ、そして三男の隆景を備後(びんご/広島東部)の小早川氏へ養子入りさせ、安芸と備後で勢力を拡大させた。そして養家に目を向けがちな元春・隆景に毛利家をおろそかにしてはならぬと厳命し、「毛利両川(りょうせん)体制」で元春・隆景に嫡子隆元・嫡孫輝元を補佐させた。 毛利氏は国人(こくじん)領主出身であり、もともと対等の関係にあった国衆(くにしゅう)の支配に元就は苦心した。支配の統一的原則がないまま版図が急激に拡大したため、検地などを通じた知行(ちぎょう)制の整備、五人奉行制とよばれる官僚機構を通じた行政支配の充実などを図り、特に養子・婚姻による有力家臣との縁組政策を多用して支配力を強化した。元就は性格が非常に細心・慎重で、子に盛んに訓戒を与えている。身内が酒で早世したことから自身は下戸となり、孫の輝元にも飲酒がすぎぬよう小さい器で飲めと戒めた書状が残っている。 軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を使って国人領主から一代にして中国地方一帯、周防 (すおう) ・長門より備中・備後・石見 (いわみ) を平定し、戦国大名にのし上がった計略に優れた知将であった。 〔墓巡礼〕 一代で西日本最大の戦国大名となりその名を広く知られるようになった毛利元就。1571年7月6日(旧暦6月14日)、元就の遺体は他界の夜に毛利氏の菩提所である大通院(現存せず)に移され、初七日である7月12日(旧暦6月20日)に葬儀が大通院で執り行われ、法会後に遺体は吉田郡山城の西麓にある三日市で、竹原妙法寺(現・西方寺)の住持・嘯岳鼎虎(しょうがくていこ)禅師を導師に荼毘に付された(禅宗に帰依していたので火葬になった)。その後、7月16日(旧暦6月24日)に輝元により大通院の境内に築いた仮墓に遺骨が埋葬された。8月18日(旧暦7月28日)には元就追善のため、小早川隆景は安芸国の仏通寺において僧衆300人が列席する盛大な仏事を執り行い、織田信長は使僧を派遣して弔問した。 翌1572年、孫の輝元によって元就の菩提寺として洞春寺(とうしゅんじ)が吉田の城内に創建され嘯岳禅師が開山となり、境内に墓が建てられた(注:「三回忌(1573年)に洞春寺が建立された」という文献が多いが、洞春寺HPも、『考證 洞春寺由緒書』も1572年建立説。つまり「1573年に三回忌をやった」が正しい。のちに洞春寺は山口に移転したが、墓所は残った。 ※西暦は一般に1582年10月4日まではユリウス暦、次の日からはグレゴリオ暦が採用される。元就の命日、元亀2年は1571年なので本来はユリウス歴(7月6日)が使用されるべきだがだが、グレゴリオ暦で変換すると7月16日に。墓前祭は後者の日付を採用し、毎年7月16日に神式の「毛利元就公墓前祭」が開かれている。多くのメディアが7月16日を「元就の命日」と記しているが、ユリウス暦では7月6日(ウィキはこれ)が命日なので要注意。 ※1870年の毛利元就300回忌に向けて、1868年(明治元年)に元就の墓所が改修され、翌1869年に毛利氏一族の墓所が整備された。このときに旧暦6月14日に墓前祭が行われており、(葬儀の日でも納骨日でもなく)命日を記念して墓前祭が始まったことがわかる。ただし、まだ明治初期であり、計算間違いでグレゴリウス歴を適用し、のちに7月16日になってしまったようだ。 元就の墓所がある郡山城跡は南北朝時代の 1336年(建武3年)に毛利時親が吉田に入った後、時期は不明だが郡山東南麓に築かれた。16世紀中頃に毛利元就が城域を全山に拡大し、1591年に孫の輝元が広島城を築き移るまで毛利氏の本拠城だった。標高390m、比高約200mの山頂に本丸、二の丸、三の丸を構え、四方に延びる峰には200以上の郭があり、全山を城郭化した大規模な山城。麓から本丸跡まで往復40分の行程。 元就の居館「御里屋敷」が、城の南西麓にあったといい、伝御里屋敷跡 (現・少年自然の家)の脇に元就像あり。その100m南東に「三本の矢」の伝説を記念して戦後に建てられた「三矢の訓跡碑」。伝御里屋敷跡の北50mに「伝元就火葬場跡」。伝御里屋敷跡の北東200mに元就の墓所に続く参道があり、手前の嫡男隆元(40歳で急死)の菩提寺・常栄寺跡に「毛利隆元墓所」があり、墓石と塚が石柵に守られている(1862年の300回忌に長州藩が建立)。 ★参道入口から200m北にある元就の墓所は上下二段に分かれており、下段には1869年(明治2年)、毛利氏27代当主・毛利敬親(たかちか)の代に作られた「毛利一族墓所」があり、右端に吉田毛利氏の初代時親から8代豊元(元就祖父)までの合墓を築く。その左の石柵内に左から元就の兄興元、興元の長子幸松丸、隆元夫人の墓が並ぶ(周辺地域から集められた)。 墓所上段に「毛利元就墓所」と「百万一心(ひゃくまんいっしん)碑」が建つ。「百万一心碑」は、元就が郡山城を拡張する際の伝説で、当時のならわしである人柱に女児がされそうになったとき、元就は「そんなことはよせ。私が石に百万一心と書くから、それを彫って人柱のかわりに埋めよ」と、礎石に「百万一心」と彫らせ、「人の命は尊いもの、城の堅は人の和で、協同なくしては城を守れない」とこれを埋めさせたといわれている。結果、拡張工事はうまくいった。「百万一心」の文字は「一日一力一心(いちにちいちりきいっしん)」と読めるように配してあることから、「一日一日を、一人一人が力を合わせて、心を一つにして事を行えばうまくいく」ことを、教えたものと伝わる。現在の碑は1931年に建立された。 元就の墓には、墓標として「ハリイブキ」(槇柏(しんぱく)、白檀樹)が植えられた。石ではなく樹木の墓標はとても珍しい。ハリイブキは外国の名木(中国崑崙山原種の木)であり日本にわずかしかなく、おそらく植えたのは洞春寺の開山、嘯岳禅師。かつては当墓所と鎌倉の建長寺と円覚寺の3本しか日本にないと語られた時期もあったという。江戸時代に枯れてしまい、1829年に漢学者の頼山陽(らいさんよう)が元就墓所を訪れて書いた詩「吉田駅詩(よしだえきし)」に枯れたことに示す描写がある。 地元では、ハリイブキに芽が出ると吉田が再び栄えるという伝承があり、(下記ブログによると)1864年に枯れ木から芽(おそらく付近のシラカシの木の芽)が出て、その年の5月に安芸国広島新田藩(3万石※ただし領地なし)7代、最後の藩主・浅野長厚(ながあつ/1843-1873)の事実上の居城となる屋敷「御本館」が吉田郡山城の麓に築かれている。これは前年に浅野長厚が幕府から長州藩毛利氏に備えるために建築を命じられたもの。吉田陣屋は約3,000坪もの地に濠を廻らせ物見櫓を備えた大規模なもので、このお陰で吉田の町は賑やかになった。当時、隣の長州藩から多くの藩士が藩祖と位置付ける毛利元就の墓参りで吉田を訪れており、地元の民衆も元就墓所の絵図を土産として販売するなど長州藩士を歓迎した。3年後(1867年)、大政奉還により浅野氏は吉田を去り、1869年、版籍奉還の際に支藩の広島新田藩は本家と所領を合併し廃藩となる。 ※ハリイブキが幕末に芽が出たことを記したブログ https://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=832%3Cbr%20/%3E ※吉田陣屋の成り立ち(中国新聞) https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/38261 元就の墓所は代々毛利氏が管理し、江戸時代に入って安芸国広島藩の第5代藩主・浅野吉長(1681-1752※藩政改革に成功した広島藩中興の名君)が石玉垣や石燈龍を寄進した(墓所の前域に並ぶ)。石灯籠には地元吉田村に生まれた江戸時代後期の眼科医で西洋眼科の始祖・土生玄碩(はぶ げんせき/1762-1848)が寄進したものもある。 ※土生玄碩…はじめ広島藩の藩医で、のち江戸に出て開業し眼科医として有名になり、11代将軍徳川家斉に招かれ幕府の奥医師を拝命。外藩の一藩医から異例の出世を遂げたが、オランダ医師シーボルトから白内障手術に必要な瞳孔を広げる薬(ベラドンナ)を手に入れるため、紋服を外国人に贈ることは国禁にもかかわらず「同胞万民の病苦を救うため」と着ていた将軍拝領の三つ葉葵の紋服を差し出した。後日シーボルト事件が起きた際にこの件が発覚し、官禄を奪われ10年近く投獄される。12代将軍家慶(いえよし)の眼病を息子が治療した功績で釈放され、再び江戸に眼科を開業して巨万の富を築き、満86年の長寿を生きた(築地本願寺に墓石あり)。 毛利家墓所の上には高さ2.7メートルの宝筐印塔「嘯岳(しょうがく)禅師墓」が建つ。臨済宗の嘯岳禅師は2度も明に渡って修業を積み、京都の建仁寺や南禅寺に歴住していたが、元就の要請により竹原妙法寺の住職となり、先述したように元就の葬儀で導師を務め、菩提寺・洞春寺の開山となっている。 この吉田郡山城跡(大通院跡)の他にも、京都の大徳寺・黄梅院に一般非公開の元就の墓がある。 ★毛利氏領国では、女性の資産が、その本人ばかりか嫡男にも相続されるなど、女性の財産所有権および相続権が認められていた。 ※元就は11歳から、毎朝、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえていた。 ※“三子教訓状”を含む「毛利家文書」は重要文化財に指定されており山口県防府市の毛利博物館に収蔵されている。 ※安芸高田少年自然の家に「三矢の訓碑」が建つ。 ※毛利水軍は、その後の大友氏・尼子氏との戦いのみならず、後の織田信長との戦いでも大きな貢献を果たすことになる。 ※毛利博物館には元就着用の甲冑、色々威(いろいろおどし)腹巻が残る。三鍬形をつけた兜(かぶと)と大袖付き。紅、白、紫といった組糸によって、甲冑を構成する札をつなぎとめ、うつくしくみせていることから「色々威(いろいろおどし)」という。室町後期。 ※晩年の元就は、戦乱に果てた敵味方の兵士の英霊を供養するため法華経1000部を読誦した。 ※元就が京より観世太夫を招いて能狂言を催したという臨済宗の大寺「興禅寺」の跡地は、現在郡山公園となっている。 ※嫡男・隆元は愛妻家で、武将としては珍しく側室を持たず妻1人を愛し抜いた。「たいした事は起きていないが(部下が)吉田に戻ると言うので手紙を書いた」という戦場から妻に出した手紙も残っている。 ※元就は信仰篤く文芸も愛好し、歌集に《春霞集(しゅんかしゅう)》がある。 ※元就の長女は高橋氏人質となり高橋氏滅亡の際に処刑されている。 ※元就「智、万人に勝(すぐ)れ、天下の治乱盛衰に心を用うる者は、世に真の友は一人もあるべからず」 ※1997年にNHKの大河ドラマ『毛利元就』が製作された。元就役は中村橋之助。元就の自筆が題字として採用されたため、スタッフの一人として元就自身がクレジットされている。 ※広島のサッカークラブ「サンフレッチェ」は日本語の「三」とイタリア語で矢を意味する「フレッチェ」を繋げたもの(三本の矢)。 ※郡山山麓の清神社は毛利氏の祈願所で、拝殿と本殿が一体となった珍しい造り。サンフレッチェ広島が毎年必勝祈願に訪れる神社 ※武田信玄の軍師山本勘助が『甲陽軍鑑』で元就のことを「源義光公の時代以来、この世に戦巧者といえば楠木正成を除いて、他には毛利元就しかおりません」と評している。 ※地元の伝・杉大方の墓が本物である可能性として(1)乳母の墓伝説(2)多治比の猿掛城の麓(城外)に墓があること(史実でも少年元就とともに城を出ている)(3)墓のある場所が道路沿いとはいえよく陽のあたる一等地にあること(山に挟まれているのに日陰にならない)があげられる。 |
荘厳な雰囲気に圧倒される | 歴代の毛利家・萩藩主たち | 重臣が献上した石灯籠の数はなんと500基! |
墓前の亀趺(きふ、亀型の台石)に故人の行跡を刻んだ碑文があった(亀の顔は全部違う!) ※中国では古来から亀を聖なる動物と見ていて、儒教の教典『礼記』(らいき)の 礼運篇では高貴な動物として“龍、麒麟、鳳凰、亀”の4つをあげている。 |
こちらは高野山の「長州 毛利家墓所」(2005) |
高野山の別区画にある「山口毛利家墓所」。崩壊が 進み危険なのでロープが張られていた(2009) |
骭ウの墓所への登り口 | この石段を登っていくと墓所だ |
小さな古墳のような石垣つきの立派な墓。 毛利氏の本拠地、郡山城の麓に眠っている |
「大膳大夫従四位下大江骭ウ 朝臣之墓」〜官位と本名だ |
父・元就から長男・骭ウの墓所まで徒歩5分。親子 なんだから、隣接して墓を作ってあげればいいのに |
こちらは京都市北区の大徳寺黄梅院 |
左から骭ウ、吉川元春、小早川隆景の毛利三兄弟 | 謎の急死(2008) |
名将・毛利元就の嫡男で、『三本の矢』の逸話に登場する毛利三兄弟の長男(次男・吉川元春、三男・小早川隆景)。1546年に23歳で家督を相続。教養人で戦を好まなかったが、1555年(32歳)の厳島合戦では、兵の士気を鼓舞するために、暴風雨のなか父元就の制止を振り切り最初に軍船へ乗り込んだという。この戦での勝利が毛利氏繁栄の土台となった。1563年、尼子氏の攻略のために出雲に向う途中で、備後の和智誠春が用意した宴の後に急死。食中毒か毒殺の可能性が高い。怒った元就は和智誠春を殺害した。骭ウの死を受け、毛利家の家督は骭ウの嫡男・輝元が継いだ(輝元は後に豊臣五大老となる)。幕末の思想家、吉田松陰は骭ウをこう表した「素行は端正で、敵に臨んで勇決する、仁孝に篤き良将であった。その生涯は、まさに平重盛の如く」。
※武将としては珍しく側室を持たず、妻1人を愛し抜いた。「たいした事は起きていないが(部下が)吉田に戻ると言うので手紙を書いた」という戦場から妻に出した手紙も残っている。
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JR吉田口駅から40kmもあり巡礼には車が必要 | 墓の周辺はのどかな山村がずっと続く | 広島・山口の中部一帯は民家の屋根が赤茶色 |
「史跡吉川氏城館跡 吉川元春館跡」 1583年、53歳の元春が隠居所として建てた |
広大な元春の居館跡。湯殿、馬小屋、便所、色々と 発掘されている。西側(画像奥)の林に墓がある |
居館跡では台所が復元されていた (第3日曜のみカマドに火が入る。ラッキー!) |
木立の中を歩くと吉川家の墓所が見えてきた! |
木製の門をくぐると、左から元長、元春と墓が並んでいた。 元長は元春の長男で、元春の死の翌年に病で他界した |
墓石と石柵が近すぎて名前が 見えな〜い!設計ミス? |
元春の墓前には巡礼メッセージを残せる「墓参帳」が箱に入っていた。ノートは6冊目だった! | この角度なら隙間から名前が! |
こちらは京都市北区の大徳寺黄梅院。ここにも墓がある | 左から骭ウ、吉川元春、小早川隆景の毛利三兄弟 (2008) | なぜか1人だけ小さい |
こちらは高野山の「周防岩国・吉川家墓所」(2009) |
毛利元就の次男で山陰地方の司令官。生涯戦績は76戦64勝12分、つまり一度も敗れたことのない猛将だ。初陣は1540年(10歳)の対尼子戦。1547年(17歳)、父元就は元春を吉川興経の養子に送り込み、3年後に興経を隠居させ元春を吉川氏当主にした。さらに元就は興経と実子を殺害し完全乗っ取りに成功する。そして、1555年(25歳)に厳島の戦いで毛利は歴史的勝利を収め、1566年(36歳)には尼子氏を降伏させ長き戦いに決着を付けた(後に再興軍と戦闘、これも勝利)。1571年に元就が他界すると、まだ18歳だった本家当主・甥の輝元を弟・小早川隆景と共にサポート。織田信長が頭角を現してからは秀吉率いる中国遠征軍と戦った。秀吉との橋津川の戦いに際し、元春は自軍の退路を断つべく橋を落として背水の陣を敷く。最初から死ぬ気100%の兵を“死兵”といい、これにビビッた秀吉は「死兵に当たるべからず」と撤退した。
1582年(52歳)に本能寺の変が起き、秀吉が天下人になると元春はこれを嫌って隠居した。1586年、秀吉からの強い圧力を受けて九州攻めに参加するなか小倉で病没。内臓に持病があったが、黒田如水が用意してくれた九州では珍しい鮭の料理を食べ(断り切れなくて?)、病が悪化したという。 墓は元春が隠居用に作らせた吉川館に隣接する海応寺跡(広島県山県郡北広島町)。
※吉川晃司は子孫。
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『史蹟 蒲池鎮並夫人外百八人/塩塚落城殉難之地』と 石碑にある。悲劇の運命をたどった108人を悼む |
付近に『塩塚城址』の石柱と城オブジェがある |
筑後十五城の蒲池鎮並(かまちしげなみ)の妻・玉鶴姫は“肥前の熊”龍造寺隆信の娘。龍造寺隆信は16歳の時に政争に巻き込まれて故郷を脱出した際、蒲池鎮並の父親に助けられており、蒲池氏が龍造寺家再興の恩人であることから、娘の玉鶴姫を嫁がせていた。その後、龍造寺隆信が筑後の一部を攻めた時、妻の父親ということで鎮並も協力したが、龍造寺の残虐な性格とあくなき領土支配欲に「もう、ついていけませぬ」と離反。怒った龍造寺は、鎮並の居城で名城として知られる柳川城を攻撃。だが防御性に優れた柳川城は龍造寺2万の軍勢でも落とせず和睦を結ぶ。
後日、鎮並が島津氏に接近したことで危機感を抱いた龍造寺は、「蒲池と龍造寺との和解の宴を催すので招待したい」と鎮並に伝えた。鎮並は罠を警戒して当初は断っていたが、義父が和解したいと言ってるのを断り続けることも出来ず、重臣たちが「行ってはなりませぬ」と制止するのを振り切って、先鋭部隊の200人を連れ肥前に向かった。鎮並は佐賀城で龍造寺の息子・政家から歓迎されるが、翌日5月29日に鬼父・龍造寺隆信の大軍の襲撃を受ける。200人で必死に反撃するも、最期は全員が討死して鎮並も自決し、34歳で散った(1581年)。龍造寺はさっそく柳川城への総攻撃を開始。家臣に下した命令は、かつて龍造寺を助けてくれた恩人、「蒲池一族の抹殺」だった。さすがにこのメチャクチャな命令には龍造寺の家臣も「戦国の世とはいえ非情すぎる」と絶句し、中には龍造寺四天王の百武賢兼のように、攻撃命令に反して最後まで出陣しなかった者もいた。
一方、夫・鎮並の帰りを待っていた玉鶴姫は、自分の父が卑劣な手で夫を殺害したことを知り、龍造寺家には戻らずに鎮並の後を追い塩塚城で自害した。この時、玉鶴姫の侍女108人も命を共にする。 龍造寺隆信の蒲池一族に対する無惨な仕打ちは、龍造寺の人望を一気に落とし、同盟者も不信感を抱いて去っていった。龍造寺は鎮並謀殺の3年後に、島津家久&離反した有馬晴信の連合軍に討ち取られ、龍造寺の兵は主君の亡骸を戦場に放置したまま逃げ去ったという。 ※ちなみに松田聖子は蒲池氏の子孫! |
“島津の英主”ここに眠る | 墓前の花立てに島津の家紋 |
“島津の英主”と称えられる島津氏第15代当主。実父は島津氏の分家でありながら、島津氏の中興の祖となった島津忠良。貴久は本家の第14代島津勝久の子供が早逝したことから12歳で養子に迎えられ、本家の家督を継いだ。その後、この家督継承に不満を持った薩州家の島津実久らが旗揚げして島津家は身内で戦となる。貴久は一時居城を追われるほど窮地に陥るが、1533年(19歳)に初陣を勝利で飾り本格的に反撃を開始。その後も勝ち続けて1550年(36歳)に鹿児島へ入った。それから6年をかけて大隅を攻略して薩摩、大隅両国を統一。1566年(52歳)、長男の義久に家督を譲って隠居。1571年に他界する。享年57歳。
貴久は琉球国王(11代尚元)と条約を結んで諸外国と貿易し経済を活性化させた。種子島氏が銃の国産化に成功し、またポルトガルからも銃を輸入しており、実戦(VS入来院氏)に初めて鉄砲を投入した戦国大名とされている。子供たち4人は全員が優秀で「総領の義久、武勇の義弘、智謀の歳久、兵法の家久」と賞賛されている。 ※お墓の右隣には長男・義久が眠っている。 |
順慶の墓はお堂(重要文化財)の中にある | 格子の隙間から墓(五輪塔)が見える |
「ノラ猫が住みついて困っています。 絶対にエサを与えないで下さい」 |
って、お前のことか〜!(笑) ※守り神に見えなくもない。神社の狛犬ならぬ狛猫か |
墓前はブルボンのお菓子や餅焼き網? に載った賽銭などちょっとしたカオス |
高野山にも墓がある(2009) | ちなみに右隣の墓は“あの”織田信長! |
洞雲寺は曹洞宗の禅院 | 裏山が墓地になっている。墓石多数! | 下剋上を象徴する猛将・陶晴賢の墓は中腹にある |
元々は周防大内氏の重臣。1540年(19歳)、尼子晴久から吉田郡山城を攻められた毛利元就を助ける為に出陣し、尼子軍を撃退する華々しい戦果を挙げた(第1次吉田郡山城の戦い)。1542年、今度は大内側から尼子軍を攻めたが、返り討ちにあってしまう。この敗戦で領土獲得戦争に嫌気が差した大内義隆を、晴賢は“腰抜け”と見下し、1551年(30歳)に主君殺しを決行。主君父子を自刃させて領地を奪い、新しく義隆の養子・大内義長を当主に擁立した。
その後、家臣団で権力争いをしている内に国力が傾き、周辺国につけ込まれる隙が生じ、毛利元就からの侵攻を許してしまう。最期は厳島の戦いで毛利軍から本陣を奇襲され、また毛利勢の村上水軍に退路を断たれ、逃亡中に“もはやこれまで”と腹を切った。残忍な猛将と伝わるが、自分の兵糧を部下に与え、自身は干芋を食べていたという、兵思いの逸話も残っている。辞世の句は「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」。 |
「我に七難八苦を与え給え」 (島根県・月山富田城) |
京都市左京区の金戒光明寺にある鹿之助の墓(五輪塔)。 鹿之助の左隣は尼子家の家臣・亀井茲矩(これのり) (2010) |
鹿之助は風光明媚な広島・鞆(とも)の浦に眠る (『崖の上のポニョ』の舞台になった) |
彼の首塚は静観寺の山門前にポツンとある。 町の中央を走る道路脇ゆえ、よく目立つ |
ちょうど秋祭の最中で、鹿之助の墓前 を「坂本龍馬」の神輿が通った(笑) |
お墓の前に賽銭箱があるのを初めて見たッス | 墓の右隣に『山中鹿之介首塚』の石柱が立つ | 巡礼者が説明板を熱心に読んでいた |
尼子氏の重臣で何度も一騎打ちに勝利した闘将。「山陰の麒麟児」。トレードマークは三日月と鹿の角の兜。本名は山中幸盛だが、講談で有名になった鹿之助の名が墓にも刻まれている。1563年(18歳)、毛利軍に追撃される尼子倫久を守る殿軍で活躍。2年後には尼子義久の居城・月山富田城を毛利元就の攻撃から守ったが、翌年に尼子氏は毛利氏にひれ伏し滅亡する。以降、鹿之助は生涯にわたって主家の再興を画策、三日月に「願わくば我に七難八苦を与え給え」と願をかけ奮闘した。
1568年(23歳)、鹿之助は尼子勝久(大名・経久の次男・国久の孫)を擁立して尼子氏の復活を目論み出雲を制圧する。しかし、兵が民衆に略奪など乱暴狼藉を働き地方豪族からの支持を失い、3年後には毛利元就の次男・吉川元春に滅ぼされた。元春に捕まった鹿之助は腹痛のふりをして便所から逃亡したという。1572年(27歳)、鹿之助は信長の力を借りて2度目の尼子氏再興に挑む。因幡国の複数の城を配下に治め、尼子氏の復権が成功したかに見えたが、信長が毛利との決定的対立を避ける為に尼子氏と距離を置くようになり、また家臣の毛利への寝返りもあって再び居城を失った。
1577年(32歳)、織田軍の先鋒として中国攻略で戦いながら上月城を拠点に尼子氏の再興を図るが、“尼子憎し”の毛利軍の猛攻を受けて尼子勝久は自刃、鹿之助は降伏する。この時、鹿之助は主君に対し「必ず私が尼子を再興するので安心して自害されよ」と誓ったという。どこまでも主君に忠義を尽くす姿は敵将からも評価され、毛利家当主の毛利輝元も面会を希望したが、かつて鹿之助に脱走された苦い経験を持つ吉川元春は、輝元への護送中に再逃亡を恐れて現・岡山県高梁市の“阿井の渡”で鹿之助を斬首した。 鹿之助の首は広島・鞆要害(鞆の浦)に亡命政権=鞆幕府を開いていた15代足利義昭に送られ首実検にされ、その後地元の人々が首塚を築いた。胴体は絶命地に近い観泉寺住職が同寺に埋葬した。また生き残った尼子氏の家臣・亀井茲矩(これのり、鹿之助の義弟)が、鹿之助の菩提を弔う為に幸盛寺を建立し境内に墓を造っている。 ※長男の家系は大坂の商人となって大成功し、豪商鴻池財閥の始祖となった。彼らは仇敵の毛利氏とは絶対に取引しなかったという。
※島根では悲運の武将として人気がある鹿之助だが、鳥取では尼子再興資金の為に略奪を行なったとして評判がすこぶる悪い。
※鹿之助や尼子氏の史跡関係サイトではコチラが参考になります! |
長治の首は秀吉から信長に送られ首実検 された。夫人まで犠牲になったのが切ない |
自刃の際、長治はここ雲龍寺の住職に後を託した。 住職は夫妻の首を貰い受け、当地に手厚く葬った |
右が長治、左が夫人の首塚。自らが命を差し出し、 城兵の命を救った夫婦は、今も地元民に慕われている |
こちらは胴塚のある法界寺 | 法界寺境内にある別所長治の騎馬像 | 『別所氏家臣墓所』 |
長治の霊廟は周辺が工事中だった | 霊廟の扉をあけると胴塚があった |
1570年、父・別所安治の病死を受け12歳の長治が家督を継ぐ。以前から信長に従属していた別所氏は、織田軍の中国地方侵攻作戦(毛利攻め)が始まると、(1)元々毛利氏と別所氏は仲が良い(2)領地に信長と対立する浄土真宗の門徒が多い(3)名門の別所氏にとって、織田軍の中国方面司令官が農民上がりの秀吉であることに納得できない、こうしたことが背景となって丹波の波多野氏(長治の妻は波多野秀治の妹)と協力して信長に反旗を翻した。伊丹でも荒木村重が謀反を起こすなど周辺勢力が同調したことで、東播磨は反織田一色となる。 1578年(20歳)、秀吉の攻撃を長治は三木城に籠城して迎え撃った。約7500人もの人間が三木城に入り、援軍・毛利軍の到着を待った。ところが三木城と毛利軍の中間に位置する宇喜多氏が信長側にまわってしまい、毛利軍は三木城に近づけなくなった。さらに秀吉は三木城周辺の支城を徹底的に落とし、別所氏の補給ラインをズタズタにした(「三木の干し殺し」戦法)。籠城から1年10ヶ月が経った1580年(22歳)、食糧は完全に底をつき城内は地獄と化す。援軍の当てもなく、長治は籠城を断念。降伏条件として、妻子や兄弟など一族の命と引き換えに兵士たちの命を助けるという約束を秀吉と交わし自刃した。辞世の句は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」。
※雲龍寺では命日の1月17日に法要があり、飢餓に苦しんだ城兵が藁まで食べたことから、藁に見立てたうどんが出される。一方、法界寺では4月17日に三木合戦を伝承する「三木合戦絵解き」が催されている。
※降伏時に長治の子が落ち延び、八木藩主となったという説がある。
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その男、知謀神の如し! (『竹中氏陣屋跡』にて) |
『竹中氏陣屋跡』は半兵衛が本拠とした菩提山城の 麓にある。半兵衛没後に嫡男・重門が移り住んだ |
戦国BASARAではブッ飛んだ 容姿になっていた半兵衛 |
禅幢寺(ぜんどうじ)の山門。ここから関ヶ原まですぐ | 半兵衛の菩提所であることを大きくアピール! | でも墓地の案内板は見えにくい(汗) |
禅幢寺の墓地の奥に眠っている | 彼の墓は小さな廟で守られている | 墓石の形は五輪塔だった | 周囲には竹中氏の墓が点在 |
こちらは兵庫の墓。地元でも有名だ | 三木市平井山観光ぶどう園の敷地に墓所がある | この平井山に半兵衛の陣があった |
墓を維持する為に昔から一帯が“村山”として残され、 命日は村の老若男女が仕事を休んで供養し続けている |
『竹中半兵衛重治墓』 |
墓所の隣にはキウイフルーツ! |
こっちの墓は観光マップにも載っておらず、“知る人 ぞ知る”ものだ。志染町の栄運寺の手前の山にある |
左の看板を見つけて分け入った。だが、 5分ほど登っても墓の気配がしない |
途中から見たこともない大量のクモの巣が行く手を 阻んだ!木の枝を拾って、掻き分けつつ前進 |
おや…?何か見えてきたぞ…!?でも、周囲は 何ヶ月も人が訪れた様子はなく、怖い映画っぽい… |
あうう…この祠(ほこら)が半兵衛の墓なのか? でも、内部の木札には「男女不別」云々とあり、 竹中半兵衛の“た”の字もない。謎だ… |
確認の為に栄運寺本堂を訪ね、祠のデジカメ画像 を見て頂くと「これは違うよ」。ギャフン!いわく、 “右の分かれ道の方”。そんなのあったっけ? しかも「マムシが出て危険だから、棒で大きな 音を出しながら行きなさい」とのこと。ウッワー! |
これを杖にするのか! うおおお!二刀流で 再び山中へ!! |
右の杖はクモの巣用に、左の杖は地面の落葉をガサガサ 鳴らしてマムシ除けに使った!こんな誰もいない場所で 咬まれたらすぐに助けを呼べないよ〜(涙)。今度は “右の方”を気にしながら進むと、黄色い壁の廃墟があった |
でも明らかに墓ではない。 しかも廃墟の主は 巨大蜘蛛!ノーッ! |
真剣にビビッたので書いておく。例の祠の先にまだこんな道があった。そう、これを道というならば道だ。 時間は17時10分。陽はずいぶん傾き、山中はどんどん暗くなる。僕は“分かれ道”までは何としても 行きたかった。せっかく三木市まで来たんだ。だが、この道に入ってしばらくすると、東西南北が まったく分からなくなった。どの景色もまったく同じに見えた。背後を振り返ると、道も消え ていた(細道なので混ざってしまった)。“きっとこちらから来たハズ”と思って戻った時に、真新しい クモの巣を見つけた時のショック!通った道ならクモの巣は潰れているハズ。今や、クモの巣が 下山ルートの唯一の道標となった。うっとうしかったクモの巣が、逆に命を救ってくれるとは! マムシ、遭難、日没、ケータイは圏外、ほとんど半泣きで山を脱出。再び栄運寺の本堂へ。 “分かれ道”は祠周辺なのか?黄色い廃墟が墓と関係あるのか?帰る前にもう一度だけ尋ねたかった |
栄運寺に行くと“墓の場所に詳しい近所の人”を 紹介して下さった。こちらの農家の方はとても 優しく、わざわざ山へ一緒に入って下さった! (蛇が冬眠する季節に来た方がいいと助言頂きました) |
お2人の後をついていく。僕が探していた、例の “分かれ道”は、登り始めてスグの場所にあった! あまりに手前過ぎて見逃していたぁああ! |
半兵衛の墓に到着!まさに“隠れ墓”。地元の人いわく 「徳川の世になった時に、近隣の村人は豊臣の武将の 墓が荒らされると考え、ぶどう園の墓を囮で残し、 この山中に本物の墓を造って弔ってきたのでは」 |
うっすらと右端に「天正七年」、 左端に「六月十三日」と見える。 これは半兵衛の命日と同じ! |
てっぺんの傘が神戸の地震の 時に落下してしまったとの事 |
墓の側に小さな塚があり、これは 半兵衛の馬の墓という説がある |
墓参が終わり山から出ると、“かめはめ波”みたいな 夕陽になっていた。誰もマムシに咬まれなくて良かった |
秀吉の右腕となり「知謀神の如し」と称された名参謀。黒田官兵衛(孝高)と共に戦国期を代表する軍師で、古代中国の天才軍師・陳平になぞらえて、2人は「両兵衛」「二兵衛」と讃えられた(「今楠木」とも)。半兵衛は秀吉より7歳年下で、容貌は痩身で婦人のようだった。父は美濃斎藤氏の家臣、岩手城主・竹中重元。1560年(16歳)、父の他界をうけて家督を継ぎ、菩提山城主として斎藤義龍(道三の子)に仕えた。翌年に義龍が逝去し、まだ13歳の斎藤龍興(義龍の子)が新たな主君となる。直後に義龍の死を好機と見て隣国から信長軍が侵攻してきたが、半兵衛が伏兵戦法で防ぎきった。2年後の織田勢の攻撃も退けたが、肝心の主君は酒や色に溺れて指導力はゼロ。1564年(20歳)、主君の放蕩に怒った半兵衛は、龍興の居城であり難攻不落といわれていた稲葉山城(岐阜城)を、わずか16人で1日のうちに制圧した。“稲葉山城奪取”の報を聞いた信長は、半兵衛に「美濃国半分を与える」と城の明け渡しを要求してきたが、提案を拒否して半年後に稲葉山城を主君に返した(このことから龍興にお灸を据える為の奪取と思われる)。この後、斉藤氏のもとを去り浅井長政の配下となったが、ソリが合わなかったのか約1年で故郷に帰っている。 1567年(23歳)、ついに斉藤氏は信長に滅ぼされる。信長は有能な半兵衛を家臣にしたくて秀吉に勧誘させた。半兵衛は何度断っても諦めない秀吉に根負けし、“信長ではなく貴殿(秀吉)になら仕えても良い”と語ったという。織田軍の浅井攻めでは、かつて築いた浅井側との人脈を活かして、一部を織田勢に寝返らせた。1575年(31歳)、長篠の戦いでは武田勢の陽動作戦を見抜き、コロリと引っかかった秀吉を救った。以後、中国地方攻略軍の司令官となった秀吉に同行し、宇喜多勢の城を落城させるなど軍功をあげる。
1578年(34歳)、信長に反旗を翻して有岡城に籠城した荒木村重に対し、開城の説得に行った黒田官兵衛が戻って来ないという事態が勃発。これは官兵衛が捕縛され牢に繋がれたからであるが、短気な信長は官兵衛も裏切ったと思い込み、官兵衛の嫡男・松寿丸=黒田長政(当時10歳)の殺害を秀吉に命じた。官兵衛を深く信頼していた半兵衛は、“官兵衛が裏切るわけがない”と秀吉に訴え、別人の首を送らせて松寿丸をかくまった。1年後に救出された官兵衛はこのことを知って半兵衛に感謝し、竹中の家紋を貰い受けた。
1579年春、半兵衛は別所長治が籠城する播磨三木城の攻略中に肺病となり倒れる。秀吉は療養を命じて京都に送ったが、半兵衛は戦況を心配し「戦場で死ぬことが武士の本望なり」と秀吉に懇願。秀吉はこの願いを聞き届け、三木城の本陣に半兵衛を戻した。それからほどなくして半兵衛は息を引き取った(発病から2ヶ月)。臨終に際して半兵衛は「必ず秀吉が天下人になる」と予言して果てた。享年34歳。諱は重虎。秀吉は半兵衛の亡骸にとりすがり、その手をとって「これから誰に先鋒をまかせればいいのか。お先真っ暗だ」と、人目をはばからず号泣したという。そして秀吉は半兵衛の最後の助言に従い、兵糧攻めを行なって三木城を落とした。この無血開城戦法は半兵衛亡き後の秀吉の定番となる。半兵衛の死から3年後(1582)に本能寺で信長は散り、後継者争いを制した秀吉は北条氏を滅ぼして天下を統一した(1590)。それは半兵衛の予言から11年後のことだった。
※遺骸は三木城攻略軍の陣地に埋葬されたが、1587年(死の8年後)、半兵衛の嫡男・重門が菩提を弔う為に三木から美濃に改葬した。
※古文書『武功夜話』には半兵衛について「その才温雅にして慈眼あり学才あって軍書に詳しい」「泰然自若の構え」と記されている。
※ある時、秀吉が半兵衛の貧相な馬を見て“オヌシほどの人物であれば、もっと良い馬に乗るべきだ”と諭すと、「名馬を手に入れると、実戦で馬が気になり戦機を逃がします」と答えたという。
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1941年に黒田家が奉納した鳥居 | この大きな銀杏は黒田長政が当地を去る時に植えた |
竹中氏陣屋にほど近い「五明稲荷神社」は半兵衛が黒田官兵衛の嫡男・松寿丸(黒田長政)を信長から かくまった場所と伝えられている。もし松寿丸が斬られていれば、当然ながらその子孫は存在しなかった。 救出から約360年後に、黒田家の子孫が半兵衛の旧領に感謝を込めて鳥居を奉納したことにグッときた |
和歌山市駅前にドーンと「ようこそ和歌山〜戦国の鉄砲大将雑賀孫市の街へ」 | 粋なアウトロー(戦国無双2) |
市内の専光寺には孫市が血のついた槍を洗ったと伝わる「血槍洗い手水鉢」がある | 紀州55万石・和歌山城(8代吉宗の故郷) |
孫市の居城跡、平井中央公園(斜面の上) | 公園内はけっこう広い | そしてこちらは居館跡と伝わる場所(フェンスの所) |
孫市が眠る蓮乗寺。なんと住職のお名前は「鈴木」!雑賀衆の子孫っす! |
1589年(天正17年)建立の墓碑を九世住職が1832年に建て替えた | 法名は「釋法誓」 |
数千丁の鉄砲で武装した戦国最強の傭兵軍団、雑賀衆のリーダー。鈴木孫一とも。雑賀“孫市”、鈴木“孫一”でちょっとややこしい。愛用の火縄銃「ヤタガラス」を駆使。石山本願寺に味方し、信長軍を相手に退かなかった。雑賀衆の頭目は代々“孫一”を名乗るため、鈴木重意(佐大夫)、鈴木重兼(別名平井孫一、重意の子)、鈴木重秀、鈴木重朝の活躍が1人の人物に融合しているようだ。三重県熊野市にも供養塔があり、こちらは終焉の地と伝わっている。
※後の孫一、鈴木重朝が関ヶ原の前哨戦で伏見城の鳥居元忠を討ち取っている。関ヶ原後は水戸藩に仕官した。
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氏康は領民に慕われた名君だった | 後北条氏の拠点・小田原城 |
後北条氏の菩提寺、箱根の早雲寺 | 3代氏康の墓 | 向かって右から、早雲、氏綱、氏康(!)、氏政、氏直 |
後北条氏第3代。「相模(さがみ)の虎」「相模の獅子」と讃えられる関東の戦国大名。父は2代北条氏綱。1541年(26歳)、氏綱が他界し家督を継承。1546年(31歳)、北条氏の川越城が古河公方(こがくぼう、幕府の統治機関)の足利晴氏と扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)両上杉氏の連合軍8万の大軍に包囲された。北条軍は1万にも満たず、絶体絶命の危機だった。氏康は両上杉・足利連合軍に“領土を返す”と手紙を送って油断させ夜襲をかけた(河越夜戦)。織田信長の桶狭間、毛利元就の厳島と並ぶ戦国三大奇襲作戦となったこの攻撃は大勝利をもたらし、扇谷上杉氏の当主・上杉朝定を討ち取り扇谷上杉氏を滅亡させた。1552年(37歳)、関東管領の山内・上杉憲政(のりまさ)を上野から越後へ追い出して関東全域を支配下に収める。さらに氏康は古河公方・晴氏に圧力をかけ、家督を足利義氏(氏康の甥)に譲らせ、体制を盤石なものとした。
1554年(39歳)、氏康の娘を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、武田信玄の娘を氏康の子・氏政の正室に迎え、甲相駿三国同盟を締結させる。1559年(44歳)、長男は早逝しているため、家督を次男の氏政に譲って氏康は後見人になった。翌年、桶狭間で今川義元が討たれ状勢が流動化する。1561年(46歳)には、長尾景虎(上杉謙信)の大軍による小田原攻めを防ぎきった。1567年(52歳)、氏政&氏照(氏康の三男)に里見を攻略させたが、娘婿の太田氏資が戦死するなど、里見軍の罠にかかった氏政が大敗し上総南半を失う(三船山合戦)。
翌1568年(53歳)、今川氏が衰退し、里見氏に北条氏が敗れたことから、武田信玄は三国同盟を破棄して駿河侵攻を開始。今川氏真は駿河から追放され小田原に亡命する(今川氏真は北条氏康の娘婿)。氏康が隠居するまでは破竹の進撃を続けていた北条氏だが、敵対する上杉氏、武田氏、里見氏に三方向を囲まれてはさすがに持たない。この存亡の危機に際し、氏康は謙信との和平を模索する。その結果、北条氏が北条三郎(上杉景虎)を人質として差し出し、上杉氏も柿崎晴家を人質に出すことで同盟が結ばれた。また、氏康は徳川とも関係を密にし、信玄を駿河から撤退させることに成功する。 1569年(54歳)、武田軍が北条の領地に侵攻開始。氏康は堅牢な小田原城にて籠城戦で迎え撃つ。あまりの被害の大きさに武田軍はわずか4日で小田原城攻略を断念して撤退した。だが、武田軍の脅威は去っていない。氏康は謙信より信玄の方が危険と判断し、武田氏との同盟を急ぐ。 1571年、前年からの病が悪化して死期を悟った氏康は、「謙信との同盟を破棄して信玄と結べ」と遺言を残し他界した。享年56歳。氏康は善政を行ない領民から慕われていた為、逝去を知った小田原の人々は皆泣き崩れたと伝えられる。氏康の遺言に従い、死の2ヶ月後に北条と武田は再同盟した。 北条氏は最初に長槍部隊を編成するなど強力な歩兵隊を持つだけでなく、騎馬部隊が軍の11%に達し、これは武田軍の8%を上回っていた。また、忍者の風魔一族を巧みに活用した。氏康は自身が出陣した大きな戦では無敗であり(背中に傷を受けたことがない)、関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど軍才があった。 領国経営についても特筆すべき様々なものがある。日本初の上水道(小田原早川上水)を敷設し、城下はゴミ一つ落ちていないと記録されるほど美しい都市であった。そして職人・文化人を全国から呼び寄せ小田原を東国一の都市に発展させた。氏康は足利学校で軍略を学び、歌もよく詠んだ教養人。初代早雲以来、後北条氏は領民の負担減に積極的で、棟別銭(税金)が武田領で200文であったのに対し、北条氏は50文に設定し、さらに氏康の代で税制改革を断行し35文まで下げた(凶作や飢饉の年には年貢を免除するケースもあった)。また、目安箱を設置し、領民は誰でも不法を訴える事ができた。検地の実施、伝馬制&貨幣制度の確立など内政面の尽力は枚挙に暇がない。こうして氏康は後北条氏の全盛期を築き上げた。 ※「太守・氏康は、表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服している。まことに当代無双の覇王である」「(小田原は)町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」(当時36歳の氏康に接見した南禅寺の僧・東嶺智旺) ※「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家法を発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し、大いに北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」(北条記) |
春日山・林泉寺の重厚な山門。謙信の祖父・長尾能景が建立した長尾氏の菩提寺だ | 「謙信公御墓所入口」の石柱。ここを登っていく |
渋く苔むした為景の墓 | 左が長尾為景、右が長尾能景(よしかげ) |
越後国の戦国大名で上杉謙信の父。本姓は平氏。越後長尾氏7代当主。1486年に生まれ、父は越後守護代の長尾能景(よしかげ)。
1506年(20歳)、一向一揆との「般若野の戦い」で父が42歳で戦死し、為景が家督を継ぎ越後守護代となる。翌年、為景の謀反を疑い討伐の準備をしていた主君、守護・上杉房能(ふさよし)を奇襲し、自刃させる。この下剋上には、「房能(主君)が見捨てたから父が戦死した」と思っていた為景にとって復讐の意味もあった。為景は房能の養子・上杉定実(さだざね)を守護に擁立し、幕府から上杉定実の越後守護就任を認められ、為景は定実の補助を命じられた。 1509年(23歳)、房能の実兄、関東管領・上杉顕定(あきさだ)とその子・憲房が為景に対して報復討伐を開始。顕定らが大軍で越後に侵入すると、為景は定実と共に佐渡へ逃亡した。翌年、佐渡で兵を揃えた為景は総攻撃を開始、顕定を討ち取って下克上の代表格に名を連ねる。顕定の子憲房いわく「長尾為景は二代の主君を殺害した天下に例のない奸雄である」。 1521年(35歳)、為景は無碍光衆禁止令(むげこうしゅうきんしれい)を出し、一向宗を禁じた。 為景は朝廷や室町幕府など権威を尊重して献金を行い、信濃守となったほか、越後守護上杉氏とは異なる「長尾」という新たな家を作り上げて守護の権威からの自立を図った。 その後、為景は越中や加賀国に転戦して勢力を拡大したが、晩年は定実の実弟・上条定憲など越後国内の国人領主の反乱に苦しめられ、1536年(1540年説あり)に50歳で隠居に追い込まれた。子の晴景(はるかげ/1509-1553)が27歳(もしくは31歳)で越後長尾氏8代当主に就き、春日山城主となると共に越後守護代を補任される。 1542年1月10日に為景は56歳で他界。上越市林泉寺に墓所があり、また、富山県砺波市には一向一揆に敗れた長尾為景のものとされる長尾塚が残されている。 長女の仙洞院は長尾政景正室で上杉景勝の生母。側室・古志長尾家の娘が為景の四男・上杉謙信(長尾景虎/1530-1578)を生む。 1544年、晴景をあなどった越後の豪族が謀反を起こし、その弟の景虎(謙信、当時14歳)の栃尾城に攻め寄せたが、景虎は初陣にして見事に撃退した(栃尾城の戦い)。反乱を鎮めた景虎の名声が高まると、家臣の一部が景虎擁立を望む(晴景の嫡子・猿千代は早世していた)ようになり、長尾家は家中分裂の危機を迎える。 1548年、晴景は定実の仲介のもとに、景虎を養子とした上で家督を譲って隠退。景虎は春日山城に入り18歳で家督を相続し、守護代となる。 1550年、定実が死去し、室町幕府第13代将軍・足利義輝より景虎が越後国主となる。これに反発した一族の長尾政景(景虎の姉の夫)が反乱を起こすも、翌年に景虎はこれを鎮圧し満21歳で越後統一を成し遂げた。 |
室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えていたが、1565年(35歳)、義輝が松永久秀に暗殺されてしまう。この時、軟禁中の義昭を救出した。義昭と信長の橋渡し役となり、義昭の15代将軍就任後、信長から摂津国芥川山城、高槻城を与えられる。さらに、キリシタンの惟政がイエズス会の宣教師ルイス・フロイスと信長の会見を仲介した。1571年、三好三人衆と組んだ池田知正との「白井河原の戦い」で中川清秀に討ち取られた。約150年後、高槻城を享保年間(1716-36)に改修した際、墓石が見つかり伊勢寺に移された。 |
「斎藤内蔵助利三墓」とある | 右隣は絵師で親友の海北友松。明智の謀反人として晒し首になった利三を友松が手厚く葬った |
美濃の武家の名門、斉藤氏の一族。通称内蔵助。妻は稲葉一鉄の娘で、末娘は福(春日局)。当初は斎藤道三の嫡男・義龍に仕えていたが、稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると稲葉氏の家臣となった。だが一鉄とは性格が合わず、1580年(46歳)に喧嘩別れして浪人となる。明智光秀は利三を明智秀満(左馬助)と並ぶ重臣として迎え、1万石の丹波黒井城主とした。 利三の働きを見た一鉄は彼が惜しくなり、信長に仲介を頼んで取り戻そうとした。「利三を一鉄に返せ」と迫る信長に、「私は一国を失っても大切な家臣を手放すつもりはありませぬ」「人がこだわるほどの良い家臣を持たねば大きな手柄を挙げられませぬ」と拒絶。激高した信長は光秀の髪を掴んで引きずり回し、廊下の柱に何度も頭を打ちつけた。頑として折れない光秀に、信長が刀を抜こうとしたことから周囲が止めに入った。利三はそこまで自分を思ってくれる光秀に感動し、本能寺の変では光秀の決起を支えた。 ※利三の妹は四国の覇者、長宗我部元親の妻。本能寺の変が織田軍の四国攻めの直前だったことから、これを止めさせる為に光秀と謀叛を画策したのかも知れない。 その後、秀吉軍と対決した山崎の合戦では先鋒として活躍。力及ばず敗走し、近江堅田で捉えられる。六条河原で斬首となり、光秀と共に本能寺で晒された。享年48歳。利三の首は親友の絵師、海北友松が真如堂(真正極楽寺)に葬り、今も2人の墓は並んでいる。茶の湯をよくし、文武両道の名将だった。 ※利三の死後、末娘の福は小早川秀秋の家臣・稲葉重通の養女となり、後に第3代徳川家光の乳母・春日局となって大奥を統率し江戸城で権勢を奮った。 |
織田四天王の1人 | 左隣は信長の長男・信忠。武田攻略のペアだ! | 2人の左後方にズラリと並ぶ墓が、娘婿の津田一族 |
柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀と並ぶ「織田四天王」の1人。甲賀出身ゆえ忍者説もある。特技は鉄砲。30歳頃には信長の家臣になっていた。後に蟹江城主。一益は家康との同盟に知略を発揮する一方で、長島一向一揆、石山本願寺合戦、雑賀攻め、伊賀攻めなどに参陣し武功を挙げた。1582年(57歳)、武田征伐に際して信長の嫡男・信忠の軍監として活躍し、武田勝頼を討ち取った。この功績によって、一益は信長から上野一国と信濃二郡を与えられたが、「領地ではなく茶器(珠光小茄子)が欲しかった」とガックリ落ち込んだという。
同年6月、本能寺で信長が死亡。後継者争いには北条の大軍の侵攻を受けて戦っていた為に参加できなかった。秀吉と柴田勝家が衝突すると勝家側についたが、賤ヶ岳の戦いで勝家が滅ぼされ、一益も降伏に追い込まれた。小牧・長久手の戦いで秀吉に起用されるも家康から開城させられる。失意のなか、越前で没する。信長からは「進むも退くも滝川」と戦上手を讃えられた。 一益の娘の夫・津田秀政は、自身が創建した長興院(妙心寺)に一益と織田一族を弔う供養塔を建てた。 |
武田3代に仕えた武田家の重臣。山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊と並ぶ武田四天王の一人。初陣から40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いで戦死するまでかすり傷ひとつ負わなかった。1568年(53歳)、信玄の駿河国侵攻の際、今川氏が収集した財宝が焼失するのを惜しんだ信玄が宝物を運び出すよう指示したことから、信春は「貪欲な武将として後世の物笑いになる」と、周囲の制止も聞かずに財宝を再び火中に投げ込んだ。 1573年(58歳)、信玄の他界後は山県と共に重臣筆頭として勝頼を補佐。1575年の「長篠の戦い」で撤退を進言するが拒否され、武田軍は大敗。殿軍を務めていた信春は勝頼の退却を見届けた後、反転して追撃してきた織田軍と戦い討ち死にした。その最期を『信長公記』は「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評した。豊川(寒狭川)沿いの出沢(すざわ)が戦死の地とされているが、墓所は長篠城址に近い新城市長篠字西野々の住宅地にある。 |
吉川経家が籠城した鳥取城跡 |
大規模な石垣が現存。鳥取市内が一望できる |
子どもが小さくここまでしか行けなかったけど 山頂の本丸に行けば砂丘が見えるんだって! |
1993年、鳥取城正面入口に経家の銅像が建立 | 凛々しい良い顔! | 鳥取県民のヒーロー |
墓所は公園の中にあり整備されている | 大木の木陰の下に眠る | 右側の五輪塔が経家の墓 |
吉川経家は毛利家臣・石見吉川氏当主、吉川経安の子。14歳のときに父と共に尼子勢力5千を福光城で迎撃、武勇をあげる。1581年(34歳)、信長配下の秀吉軍(中国討伐軍)2万が因幡国(鳥取)まで侵攻。毛利元就の次男・吉川元春は、鳥取城の守備のため、吉川一門で文武に名高い経家を派遣、経安は城兵約2千名と籠城した。経家は自ら首桶を用意して乗り込むという決死の覚悟であった。 鳥取城の兵糧は1ヶ月分しか備蓄が無く、秀吉・黒田官兵衛が作った厳重な包囲によって、城内は“干からびて”いった。3カ月後には餓死者が出始め、死肉を食べるという惨状となる。4カ月目、経家は自らの命と引き換えに城兵と領民の命を救うことを条件に降伏。秀吉は“武人の鑑である”と経家に感服し、「自刃は重臣2人(徹底抗戦を訴えた森下道誉・中村春続)でよく、経家まで死ぬことはない」と伝えたが、経家は“すべての責は私にある”と腹を切った。享年34。 秀吉は経家の首級を見て「哀れなる義士かな」とむせび泣いたという。 |
井伊家の始祖・井伊共保出生の地 | 平安時代、共保はこの井戸の側に捨てられていた | 今も水が湧いている |
井戸の側には大老・井伊直弼が当地で詠んだ 「わきいづる 岩井の水のそこ清み くもりなき世の影ぞ見えつつ」の歌碑がある |
直虎が晩年を過ごした菩提寺・妙雲寺。非公開の寺 だったが、直虎の位牌が発見され、また大河ドラマを 機に、2016年4月から一般公開が始まった! |
発見された直虎の位牌。命日もあっている。 戒名は「妙雲院殿月船祐圓大姉(げっせんゆうえんだいし)」。 “月船”ってめちゃくちゃロマンティックな戒名っすね |
都田川の堤防の側に直親の墓がある(2016) | 『井伊直虎ゆかりの地』ののぼり旗! | 直虎の許嫁。28歳の若さで今川に謀殺された |
今川への謀反の疑いで自刃した井伊直満と弟・直義 | 井伊谷城跡に続く道は工事中だった(2016) | 井伊家の菩提寺・龍潭寺 |
『桶狭間戦死者之墓』 | “井伊谷三人衆”の近藤康用 | 同じく菅沼忠久 | 同じく鈴木重時 |
龍潭寺にて。右奥から直虎の母、直虎、23代直親、 直親夫人、直親夫婦の子で養子となった24代直政 |
右端が井伊家初代の井伊共保(ともやす)、 その左が直虎の父で桶狭間に散った22代直盛 |
かつて許嫁(いいなずけ)だった直虎(右)と、非業の死を 遂げた直親(左)が、お墓になって並んでおり胸熱… |
遠江井伊谷の領主。井伊直盛の娘、次郎法師。徳政令実施を命する書状に「次郎直虎」の署名があり、また曾祖父・井伊直平から養子・井伊直政の幼少期までを記録した『井伊家伝記』に「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領(当主)に生候間」とあり、実在が確定している。 1536年頃に出生。父・直盛には男子がいなかったため、婿養子として父の従兄弟・井伊直満の子、直親(なおちか)を迎える予定だった。1544年(8歳)、今川の協力者小野政直の密告により今川義元への謀反の疑いで直満が弟・直義と共に自刃に追い込まれた。身に危険が迫った直親は信濃に逃亡し、許嫁の直虎は龍潭寺にて出家、次郎法師を名乗る。10年後に直親は今川氏に許されて井伊に戻るが、信濃亡命中に井伊家分家・奥山朝利の娘を正室に迎えており、直虎は結婚できなかった。 1560年(24歳)、桶狭間の戦いで父が討たれ、後を継いだ直親も2年後に小野政次(政直の子。道好)の密告で今川氏真に殺害された(享年28)。1563年(27歳)、今度は曾祖父の井伊直平が今川の命令で出陣し死亡、翌年には井伊の重臣たちが戦死し、井伊家は存亡の危機に陥る。1565年(29歳)、もはや後継者が次郎法師しかいないため、井伊家菩提寺・龍潭寺の住職、南渓瑞聞と次郎法師の母親が相談し、次郎法師を還俗させて井伊の当主に擁立した。次郎法師は“女地頭(領主)”と呼ばれた。 1568年(32歳)、居城・井伊谷城を小野政次に奪われるが、これに反発した鈴木重時、近藤康用、菅沼忠久ら“井伊谷三人衆”に三河国の徳川家康が加勢。1570年(34歳)、8年前に井伊直親が謀殺された際の小野政次の密告を理由に、家康は政次を処刑した。 1572年(36歳)、戦国最強とうたわれる武田軍の侵攻を受け、井伊谷城を武田方の山県昌景に開城、自身は徳川の浜松城に逃れた。その後、徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いなどで武田勢に連敗していたが、信玄が病に倒れたため、1573年(37歳)に井伊谷城の奪還に成功する。直虎は直親の遺児・虎松(直政)を養子として育てあげ、1575年(39歳)、直政は15歳で家康の家臣となり300石を与えられた。 天正10年6月2日、本能寺の変で信長が討たれ、その2カ月後の天正10年(1582年)8月26日に直虎は46歳で他界した。墓は少女の頃に出家した龍潭寺にあり、許嫁の直親の墓と2人で並んでいる。井伊の家督は直政が継いだ。この後、直政は旧武田の赤備えの軍を率いる猛将“井伊の赤鬼”となり小牧・長久手の戦いで大暴れ、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政と並ぶ徳川四天王の1人に名を連ねていく。 ※2016年に井伊美術館の井伊達夫館長が「井伊直虎は別人の男性」と発表。新史料『守安公書記』を検証した結果、今川氏家臣・関口氏経の息子(次郎法師の従兄弟)を「井伊次郎」と名乗らせて当主としたという。これに対する反論は(1)新史料は直虎の死から150年も後の江戸中期(1735年)に書かれている(2)次郎法師がいるのに誰かが「井伊次郎」を名乗るのは考えにくい(3)肝心の「井伊次郎」が直虎という直接的な記述がない、というもの。 龍潭寺境内の井伊氏一族の墓。左から直政、おひよ、直親、直虎、祐椿尼。 ※妙雲寺の本堂から遠く離れた井伊谷にも宝篋印塔があるらしい(妙雲寺に行ったのに気づかなかった!わーん!)。 |
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