荒木村重の墓 池田輝政の墓 大友宗麟の墓 可児才蔵の墓 黒田如水の墓 小早川隆景の墓 柴田勝家の墓 島津義久の墓 高山右近の墓 立花道雪の墓 長宗我部信親の墓 |
長宗我部元親の墓 豊臣秀次の墓 豊臣秀長の墓 豊臣秀吉の墓 丹羽長秀の墓 蜂須賀小六の墓 北条氏政の墓 堀秀政の墓 |
農民出身の足軽から天下人へ |
『豊太閤御誕地』と門柱に彫られた 名古屋市の常泉寺。山号は“太閤山” |
境内には秀吉像が建ち、 その右後方に産湯の井戸がある |
『豊太閤産湯の井戸』。清水が溢れ出ている. この常泉寺は秀吉の依頼で建立された |
秀吉像は武将の姿ではなく、気品のある 関白の姿だった。※靴まで履いていた |
小田原城攻めに向かう秀吉は当地に立ち寄り、 魔除けの効果を持つというヒイラギを植えていった (このヒイラギは5代目とのこと) |
生誕地は「名古屋市の中村公園」という説もあり、 足を運ぶとこの石碑『豊公誕生之地』が建っていた |
『日吉丸と仲間たち』。日吉丸は秀吉の幼名だ。 この彫刻群も中村公園の敷地にある |
夕陽に照らされる大阪城。深く巨大な堀、見あげるような高い石垣、黒と金の天守、まさに豊臣の栄光の象徴!(2003) |
秀吉が没した京都の伏見桃山城。通常は黒を使う部分が朱色になっており絢爛さが漂う(2009) |
1994 高野山の豊臣家墓所。母・なか、弟・秀長夫妻、 姉・とも(秀次母)、長男・鶴松、淀殿(生前墓)が並ぶ |
2005 11年後に再訪、特に変化ナシ | 2009 さらに4年後。千羽鶴や花が供えてあった! |
秀吉の墓は前方の阿弥陀ヶ峰の山頂! | 麓から頂上(標高196m)まで石段が続く | 石段の数は実に565段!ジョークとしか思えない |
「つ…着いたのか!?」 違った! いったん平地になっただけ! |
まるで天国への階段だ… |
頂上付近から振り返って撮影。左画像の中央を拡大したのが右画像。人があんなに小さい! ※かつて秀吉は中腹のこの唐門付近に埋葬されていたが、明治期に山上へ改葬された |
やっと豊国廟(ほうこくびょう)に到着!(2001) |
9年後。季節が異なるとこんなに表情が変わる(2010) |
墓石の巨大五輪塔は高さ約10mとド迫力! ※形は大徳寺総見院の信長墓がモデル |
いにしえの都を見つめている | 実は右手後方から墓前に行ける | 人間と比較すると巨大さが分かる |
妻・ねねの墓。京都の高台寺にある彼女の霊屋。この建物自体がお墓。ねねは地下2mに安置されている |
尾張(愛知県)出身。幼名は木下日吉丸。父は百姓だが織田信秀(信長の父)の鉄砲足軽の経験もある。8歳で父をなくし母が再婚。弟秀長と、後に家康の妻となる妹が生まれた。1551年(15歳)、縫い針を売って旅費をつくりながら浜松に出る。移動中の浜松城主が秀吉を見つけ「あそこに異様なものがいる。猿かと思えば人、人かと思えば猿じゃ。誰か見て来い」これが縁で奉公することになった(なんちゅうキッカケ!)。1554年(18歳)、次に仕えた先が信長。秀吉は名を藤吉郎に改め草履取り(信長の草履を持ってお供をする係)になった。28歳で“ねね”(北政所)と結婚。信長は秀吉を猿呼ばわりしていたと伝えられるが、信長がねねにあてた手紙では、猿ではなく「禿鼠(はげねずみ)」と呼んでいる(こっちの方がヒドイ)。秀吉は何でもよく気が利き、冬の寒い日には信長の草履を懐に入れて温めていたという。33歳、京都奉行の任に就く。34歳、信長&家康と共に浅井&朝倉を姉川で討つ。37歳、浅井父子を滅ぼす。先輩家臣・柴田勝家と丹羽長秀の名から一字ずつ貰って姓を羽柴に改名。浅井の旧領を与えられ、翌年に近江長浜の城主となる。続いて播磨(兵庫)を与えられた。39歳、長篠の合戦で武田軍を破る。以後7年間、信長に大軍を任され各地を平定。 1582年(46歳)。本能寺の変で信長と長男信忠が討たれると、中国征伐で岡山にいた秀吉はすぐに毛利と和睦して引き返し、摂津山崎の合戦で明智光秀を討伐した。信長の跡継ぎ問題が起こると、秀吉は信長の孫秀信を推したのに対し、柴田勝家・滝川一益は信長の三男信孝を擁立。翌年、賤ヶ岳(しずがたけ、滋賀)で両者は激突し、勝家と信孝は自害した。信長の次男信雄は当初は秀吉と協力して滝川一益を討ったが、次第に家康と接近。1584年、秀吉軍と家康軍は小牧・長久手で向き合うが互いに譲らず、持久戦を嫌った秀吉が和睦した。同年、大阪城を築城。1585年(49歳)、四国に兵を送って長曾我部をくだし、朝廷最高の官職・関白の座を手に入れ、同時に豊臣の姓を賜わる。続いて北陸の佐々成政を、翌1587年に九州の島津義久をくだす。当地で長崎がキリスト教会の領地と化していることを知り激怒、キリスト教を禁教とし宣教師を国外に追放した。 この年は京都に贅の限りを尽くした大邸宅・聚楽第が完成しており、10月には北野天満宮で大茶湯(おおちゃのゆ)が開催されている。これは、企画が秀吉、演出が利休という日本史上最大のお茶会だった。公家や武士だけでなく、百姓や町民も身分に関係なく参加を許されたというから、まさに国民的行事。当日設けられた茶席は実に800ヶ所以上!(タイムマシンで見に行きたいッ!) 1588年全国に刀狩を発令、兵農分離を進める。信長と違って神仏を尊んでいた彼は、廃墟となった比叡山延暦寺を再興し、京都に奈良より大きな大仏を造営した(大仏は地震で崩れて残ってない。残念!)。「刀狩」は、この大仏を造るため釘にするという名目で行なわれた。※一揆の防止という理由なら、刀狩はスムーズにいかなかっただろう。 1590年、関東を支配していた一大勢力・北条氏を小田原に討ち、東北の伊達政宗が従属を表明したことで、ついに全国を統一した。天下取りに成功した者は足利尊氏以来250年ぶり。信長の死から8年後、秀吉54歳の時であった。 しかし翌1591年、跡継ぎに考えていた側室の淀殿の子・鶴松が2歳で亡くなり、さらに秀吉を陰ながら支えてきた弟秀長が他界する。秀長は温厚な性格で人望もあり、傲慢な秀吉を諌(いさ)めることが出来る唯一の人間だった。鶴松、秀長の死で後継者に悩んだ秀吉は、姉の子の秀次を関白に置き、自身は太閤となった。この年、茶の湯で対立した利休に切腹を命じている。 ※なぜ秀吉は幕府を開かなかったのか?それは“開けなかった”からだ。幕府を開けるのは征夷大将軍だけ。そしてこの征夷大将軍になれるのは源氏か平氏の姓を持つ武士だけだった。秀吉は素性がハッキリせず、そのため朝廷は最後までその官位を与えなかった。やむなく秀吉は公家となり最高位の関白を狙ったのだった。 1592年(56歳)、「戦争よりも交易を」と朝鮮侵略に強く反対していた秀長の死の2ヵ月後、秀吉は諸大名に朝鮮出兵を命ずる。この年にも、秀吉に忠告できる貴重な存在だった母親・大政所が没している。1593年、淀殿(信長の妹の子)が秀頼を出産。こうなると秀次(27歳)の存在がうとましくなり、1595年(59歳)、謀反の疑いをかけて切腹に追い込み、その一族郎党30名を幼児まで皆殺しにした。翌年には国外退去に応じなかった宣教師26名を長崎で磔にするなど、非情さに拍車がかかっていく。 1598年(62歳)、5歳の息子・秀頼の身を案じながら伏見城で病没する。辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波の事も 夢のまた夢」。この最後の“夢のまた夢”が切ない。戒名「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」。 翌1599年、天皇は秀吉に豊国大明神の神号を授けた。秀吉の亡骸は遺言に従い京都市東山区の阿弥陀ヶ峰(標高196m)の中腹に埋葬され、そこに豊国(ほうこく)廟が建てられ、麓には秀吉を祭神とする豊国(とよくに)神社が建立された。 1615年に大坂の陣で豊臣が滅亡すると、徳川は豊臣に関するものを全て抹消すべく、秀吉関連の建築物を徹底的に破却していった。豊国神社を取り壊す際、秀吉の妻おね(約70歳)から「これだけは壊さないで」と直訴され、これではさすがに家康も鬼になれず、“取り壊さないが今後は修理しない”という条件で自然風化させることにした(参考サイト)。 それから265年、明治の世になり侯爵・黒田長成(黒田官兵衛の子孫)が中心となって豊国神社再建の運動を展開、まずは豊国神社が1880年(明治13年)に方広寺の大仏殿跡に再興された。そして秀吉300年忌となる1897年に、阿弥陀ヶ峰の頂上に高さ10mの巨大な五輪塔が置かれ豊国廟が再建された。この4年後に秀吉の遺骨と思われる大甕(おおがめ)が偶然発掘され、豊国廟に埋め戻されている。 ●秀吉の墓
豊国廟(ほうこくびょう) 京都府京都市東山区
高野山・奥の院 和歌山県伊都郡高野町※豊臣家後方。1940年に豊公会が建てた五輪塔。正面に「豊臣太閤秀吉公之墓」。内部に衣冠束帯姿の木像が納められているらしい。
不動院(安国寺) 広島県広島市※遺髪墓
俊龍寺 山口県山口市※毛利輝元が秀吉から拝領した甲冑を納めた。室町ラスト将軍足利義昭の供養墓も。
豊国神社の馬塚(秀吉供養塔)※江戸期の人々にとっての秀吉墓。馬塚の名は近辺の地名「馬町」による。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 秀吉は明智光秀を討った直後から、新たな土地を征服するとすぐに検地を行ない、従来は土地台帳の書面のみで設定されていた年貢を、実際の測定で生産条件を考慮し、等級を上・中・下・下々に分けて生産高を算定。荘園制度を解体し、年貢制度を堅固なものにし(年貢率は6割強、キツイ)、次に商工業の発展の為に平安時代中期以来の約600年ぶりに金銭を鋳造し、貨幣制度を確立させた。 このように秀吉は優れた政治家・戦略家であったが、生涯最大の愚行はやはり朝鮮出兵。秀吉が派兵した兵力は実に30万人。関が原の戦いの東西全軍が18万人だったことを考えると、どれだけ大規模な派兵だったのかよく分かる(秀吉の最終目的は中国・明の征服だった)。 当時世界最高水準の種子島銃を装備した秀吉軍は半島南部の釜山から上陸した後、わずか1ヶ月でソウルを陥落した。だが、楽勝と思っていたところに明の大軍が朝鮮側の援軍で加わり、いっきに戦況は悪化した。結局、秀吉の病死(京都伏見城にて他界)と共にこの無益な出兵は終わった。 朝鮮半島は秀吉の他にも元寇の際に元軍に侵略されたが、秀吉が根強く憎まれているのは秀吉軍の残虐性にあった。九州で本陣を構えていた秀吉は、戦場で活躍した武将に恩賞を与える際、その功績を証明する為に、討ち取った敵の首を塩漬けにして、自分のもとへ送るよう命じていた。ところが、戦乱が長引くにつれてその数があまりに多くなったので、かさばる首ではなく鼻を切って送るよう指示を変更したのだ。加藤清正は自軍の兵士に一人当たり3個ずつの鼻切りを命じ、配下の武将は「兵士、農民、男女の区別なく殺し、生まれたばかりの幼児さえ殺した。残らず鼻をそいで本陣まで送った」と記録している。生きた人間の鼻まで切り落としたため、乱の後しばらくは鼻の欠けた人が全土にいたという。韓国では今でも「恐い」という時に「耳鼻郁」(イビヤ)という言葉を使うが、語源は秀吉軍の行為なのだ。 ※韓国では歴代最低の日本人に選ばれた秀吉。日本に送られた10万人分の鼻は秀吉を祀る京都・豊国神社前に埋められ『耳塚』(鼻塚)と呼ばれている。
う〜ん、日吉丸→木下籐吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉と、実力で天下人へ登りつめていく過程の彼は、僕も大好きなんだけどなぁ…。墓所の豊国廟は標高196mの阿弥陀ヶ峰の山頂にある。麓から墓前に続く石段は実に565段!この大階段は大河ドラマ『秀吉』のオープニングにも使われた。かなり急斜面で言語を絶するハードさなので、充分にアキレス腱を伸ばしてから墓参して欲しい。登拝券は大人100円。券売所の係員が不在の時は、石段下の柵に設置している「志納金箱」に納めるように。 ※秀吉の右手は親指が2本あり全部で6本あったとのこと。 ※現存する手紙だけでも数千通という、“超”筆まめだった秀吉。妻“ねね”に書き送った手紙がいい。戦場を転戦しながら記したもので「戦さ続きで白髪だらけになってしまいました。夫婦になって20年、何も恥ずかしがる必要はないのですが、やはりこの頭で会うのが気詰まりです」というもの。こういう秀吉はカワイイ! |
京都妙心寺にある秀吉の子・鶴松の霊廟(墓)。廟は改装中だった (2008) |
名古屋臨海鉄道・荒子駅前の『前田利家公初陣之像』。なかなかカッコイイ。利家は槍の名手だった(2009) |
利家を祀る尾山神社。鳥居とステンドグラスの組合せ が斬新。日本初の避雷針を備えた建物(2010) |
境内の「利家公金鯰尾(なまずおなり)兜」。兜だけの彫像 って珍しい。利家の兜はインパクトがある形だもんなぁ |
尾山神社の「藩祖前田利家公像」。信長に仕えていた若い頃の利家。 利家は別名「槍の又左」。この像も長い槍を手に持っている(2010) |
サンタのように背負っている大きな袋は「母衣」(ほろ)。 中に竹籠が入った布で、背後からの矢を防ぐ。伝令兵 だけが使用。名誉の一方、目立つため狙われる危険な役 |
左端に利家像、右端に“まつ”のレリーフが並ぶ | 「お松の方像」。大河ドラマ『利家とまつ』を記念して2002年に建立されたとのこと(2010) |
金沢城の前田利家像。凛々しい!(2010) | 金鯰尾兜がよく似合う | この角度が一番カッコイイ |
雪の金沢城(2009) | 本丸跡 | 兼六園の「唐崎の松」 |
夏の金沢城(2010) | 北陸といえど真夏の城址はめちゃ暑い |
名古屋市中川区にある冨士大権現天満天神宮。かつて、ここに 利家の父・利昌が築城した荒子城があり、利家はこの地に生まれた |
境内にある『前田利家生誕の地』の赤い旗。そして左画像の奥に 見える巨大な石碑が右画像の『前田利家卿誕生之遺址』(2009) |
同じく中川区の速念寺。山門前に『前田城址』の石碑。利家が 生まれたのは荒子城ではなく、こちらの前田城という説もある |
速念寺の本堂の屋根は、なんと利家の兜の形!戦国武将の兜をモチーフにした お寺は全国でもここだけじゃないだろうか!?さすがは前田氏発祥の地! |
墓地の敷地は広いけど、随所に“前田家墓地”の案内が出ているので迷わない | 十分注意しろと言われても…怖いよ |
左上の青い区域が全部前田家! 山中には前田一族の墓が約70基もある |
山全体が広大な墓地。前田家の墓所は 山頂に近いため、だんだんヘロヘロに… |
墓参したのは12月30日。野田山の あちこちに雪が積もっていた |
「ここから先には前田家墓地参道があり 静粛に願います」と注意書きがあった |
『加賀藩前田家墓地』こんなに眠っている | あの鳥居の場所が利家の墓! | ゴゴゴゴゴ… | 『前田利家卿墓所』 |
古墳のような利家の墓!前田家は菅原道真の子孫 ゆえ『筑前守菅原朝臣利家之墓』とあった(2001) |
8年後に再巡礼。前回は6月、今回は12月、季節によって墳墓の緑の量が異なる(2009) |
利家に隣接している夫人(まつ)の墓。こちらもデカい | 墓標には『菅原朝臣松子之墓』と彫られているようだった | 背後から見た利家(右)&まつ(左) |
利家の兄・利久。野田山に最初に埋葬された | 利久は信長の命令で家督を利家に譲った | 3代利常の墓。加賀藩繁栄の基礎を築いた |
豪姫の墓に続く雪道 |
豪姫は利家の四女。秀吉の養子になった (2009) |
夫が西軍の宇喜多秀家であった為、徳川の目を気に してか、利家とまつから少し離れた所に墓があった |
こちらは2001年の初巡礼時 |
金沢市の宝円寺。利家の葬儀はここで行なわれた。 ここには利家の遺髪を納めた墓「御髪堂」がある |
死の前月、利家は家康に直談判する前に、自画像を 描き髪を切り住職に託した。髪はここに深く埋められた |
和歌山・高野山の「加賀前田家墓所」。 奥の院墓地の入口付近にある(2009) |
富山県高岡市の瑞龍寺(国宝)。四男・利常が創建 | 土砂降り!右が利家、左は何と信長! | 待つこと1時間、やっと晴れた!(2008) |
金沢(加賀)藩主前田氏の祖。尾張国出身。幼名、犬千代。槍の名手で異名は「槍の又左」。若い頃の利家は傾奇者で、約6m半の異様に長い朱色の槍を携え、毛皮や派手な女性用の着物を身にまとい、周囲に喧嘩をふっかけながら町中をのし歩いていた。1551年(14歳)、美貌の小姓として織田信長の側近となり、成長して柴田勝家の配下で活躍。生涯に38回の戦に参戦し、顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込むなど大暴れ。1560年(23歳)の桶狭間をはじめ、姉川、本願寺戦、ことごとく武功を重ね信長も絶賛した(ただし長篠の合戦では調子に乗って武田軍を追撃し、返り討ちで足を斬られ死にかけた)。
1581年(43歳)、能登七尾城主となる。その翌年、本能寺の変が起きる。利家は四女の豪姫が秀吉の養女になっていたこともあり、1583年(45歳)の賤ヶ岳の戦では、柴田勝家側から秀吉側に寝返って秀吉を勝利に導いた。この功で秀吉から加増され加賀金沢城主となる。豊臣政権では家康と肩をならべる重鎮となり、九州や関東平定に大軍で参加して秀吉の天下統一を助けた。晩年の秀吉から五大老に選ばれて秀頼の後見人となったが、秀吉の死の約半年後に利家も後を追うように病死した。利家は豪傑の一方で几帳面な部分があり、死の床で息を吹き返し、遺産相続の争いが起きないように勘定を決済してから死んだという。また、妻まつが危篤寸前の利家に「あなたは多くの人を殺めてきたので、死後が心配です」と自分が縫った白装束を着せようとすると、利家はそれを拒み、「ワシは理由なく人を殺したことがないから大丈夫。もし地獄に行ったら閻魔を相手に一暴れしてやる」と言いのけたという。この利家の死で豊臣政権の勢力バランスが崩れ、家康が増長し、翌年に関ヶ原の戦いが起きた。 ※1558年に利家が21歳で結婚した時、花嫁の松はまだ11歳だった。 ※千利休や織田有楽斎から利家は茶を学び、天下三茄子の一つ「富士茄子」を所有。
※利家はキリシタン大名の高山右近が持つ築城術や科学知識を高く評価し、禁教令で右近が高槻城を追われると、3万石と屋敷を与えて庇護した。子の利長もまた右近を重用し、金沢城の整備を命じている。 ※義理の甥の前田慶次は利家の5歳年下。慶次郎が領地から飛び出した時、利家は管理不行き届きの罰として水風呂に入れられた(笑)。
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秀吉の弟。秀長の死に際し、秀吉は「片腕を失った」と泣き崩れた。温厚で無欲な性格から人望を集め、豊臣政権のまとめ役だった。傲慢な秀吉を諌(いさ)める事が出来る数少ない人間で、文字通り“秀吉の良心”だった。朝鮮出兵に関しては「むやみに外国と争い、人馬や兵糧を費やすのは愚かなこと。むしろ平和に交易を行うことが富国の一番の道」と強く反対していた。秀長が他界してからは、2ヵ月後に朝鮮を侵略するわ、利休を切腹させるわ、秀次一族を子どもまで皆殺しにするわ、もうメチャクチャ。秀長が長生きしていれば、豊臣政権はもっと延命し、老いた家康の天下取りはなかったかもしれない。 |
勝家は西光寺に帰依し、自身でここを菩提寺とした。 左端に見える梅の木は勝家が生前に愛したもの(2008) |
勝家は戦国一の美女と伝わるお市と共に眠る。 でも石廟の中は2人きりってわけじゃなさそうだ |
たぶん中央が勝家と思う。墓石が ひしめき合って、お市が分からない |
高野山の墓。案内柱が朽ちて墓に倒れかかっており胸が痛んだ。公の名は「柴田 修理勝家」。思わず“誰か修理したってくれ!”とツッコミを入れたくなった(2005) |
4年後。いまだ放置…(2009) |
大阪・天鷲寺(てんじゅうじ) | 天鷲寺の裏通りに寺墓地 | なんとこの寺に勝家とお市の供養塔が。子孫が大阪に移住し柴田徳翁家が建立(2014) |
●柴田勝家…安土桃山時代の武将。尾張出身。妻は戦国一の美女、信長の妹・お市。官職は修理亮(しゅりのすけ)。通称権六郎。信長の父信秀のころからの重臣。はじめ信長でなく弟の信行をたてようとして失敗、後に赦されて信長に仕え、北陸方面の経営をまかされた。篭城に際して自ら水がめを割って水を絶ち、背水の陣で戦ったことから「瓶割り柴田」「鬼柴田」と呼ばれる。猛将として知られるが領地で検地、新田開発を行なうなど内政でも手腕を発揮し、善政を敷いた(領地の面積は織田家最大)。信長の後継争いで、信長の三男・信孝と謀って秀吉を倒すべく挙兵したが「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦」に敗れ、越前北ノ庄城(福井市)で妻と自害する。辞世の句「夏の夜の 夢路儚き 後の名を 雲井にあげよ 山不如」。 ●お市…戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。 1547年、尾張守護代・清洲織田家三奉行の一人である“尾張の虎”織田信秀(1510-1551)の五女として尾張に生まれる。母は土田御前。名は市(いち)、通称は小谷の方(おだにのかた)。兄の信長は1534年生まれであり13歳差。お市は “戦国一の美女”と伝わる。父は今川義元・斎藤氏と度々争った。 1549年、信長(15歳)が美濃国を領した斎藤道三の娘・濃姫をめとり斎藤氏と和睦する。 1551年、お市が4歳のときに父信秀は他界(享年41)。 1556年(9歳)、斎藤道三が長子の義龍と戦い長良川で敗死。 1560年(13歳)、信長(26)が「桶狭間の戦い」で今川義元を討ち取り、天下にその名を轟かせる。 同年、北近江の守護・浅井長政(1545-1573)は15歳で軍を率い、南近江の守護・六角軍を相手に見事な戦い振りを披露。これより前、浅井家初代亮政(長政の祖父)が築いた領地を二代・久政(長政父)が六角氏に奪われていたため、浅井家の重臣は弱腰の久政を追放し、嫡男の長政を当主にたてた。 1564年、長政と正室=六角氏の家臣平井定武(さだたけ)の娘との間に、嫡男・浅井万福丸が生まれる。 1568年(もしくは1567年秋)、お市(21)は兄信長の上洛のための布石となり、都に近い戦国大名である近江国(北近江)小谷城(滋賀県東浅井郡)の城主・浅井長政(23)に嫁ぐ(継室)。数え22歳というお市の結婚は当時では遅く、信長はお市を「切り札」として確保していたのだろう。 同盟を結ぶための政略結婚ではあったが、2人は気持ちが通じて愛を育み、3女に恵まれる。お市の輿入れにあたって、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したという。この頃長政は「賢政」という名前であったが、結婚に際して信長の一字を拝領し、長政と改名したとも。長政は主家である六角家臣・平井定武の娘を離縁し平井家に送り返したという(もしくは婚約がなされていたが、これを破談してお市を受け入れた)。 浅井は朝倉と3代前から同盟関係だったが、織田と朝倉は不仲だったことから、長政は信長に対して「織田は朝倉に進軍せず」と約束させた。 同年夏、越前国に滞在していた15代将軍足利義昭は、一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せた。 お市の輿入れから5カ月、秋に入って信長は上洛を開始した。道中、反抗する六角氏を攻撃し、長政の敵である六角氏の勢力は南近江の甲賀郡まで撤退した。長政は六角氏から領地を奪還、近江の大半を支配し、浅井の名誉を挽回した。 1569年(22歳)、お市が長女の浅井茶々(のちの淀殿)を産む。のちに太閤秀吉の側室となる。 1570年(23歳)、お市が次女の浅井初(あざい はつ/常高院)を産む。のちに若狭小浜藩の藩主京極高次の正室となる。浅井と織田に緊張関係が生じても、子どもが生まれており夫婦仲は良かったようだ。 輿入れ2年後が経ったこの年、夫と信長が戦うという想像もしなかった事態に。最初に兄信長が、夫長政と交わした「朝倉不戦の誓い」を破った。5月24日、信長と家康の連合軍3万が越前国(福井県)の朝倉義景を攻撃するため京を出陣。同29日に朝倉領に侵攻し、翌日には金ヶ崎城を落とすなど、織田軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していった。 浅井と朝倉は3代の付き合いがあり、信長が浅井との約束を破って朝倉を攻め始めると、長政は朝倉との義理を重んじ、信長と戦う覚悟を決める。浅井軍は背後から信長を急襲した。信長は義弟が裏切ったという情報が入っても、当初は「虚説たるべき」(『信長公記』)と述べ、敵による揺さぶりと断じていたが、次々に入る知らせで事実と判明し驚愕する。このままでは越前と北近江からの挟撃を受けるため撤退を決意。殿軍を務めた明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、信長はかろうじて京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。『朝倉家記』にはお市の方が信長に袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いで届けて“袋の鼠”と暗に知らせたとするが、これは後世の創作と見られている。ただし、別の方法で兄に危機を知らせた可能性は十分にある。 信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、6月3日京へ逃げ延びた。信長の供はわずか十人程度であったという。朽木元綱は当初信長を殺すつもりでいたが、松永久秀に説得され翻意した。その意味で松永は信長の恩人だ。 2カ月後の7月30日(旧暦6月28日)、信長は浅井を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。浅井・朝倉連合軍1万8千人と織田・徳川連合軍2万9千人が激しくぶつかり姉川は川面が赤く染まったという。「姉川の戦い」は織田・徳川連合軍が勝利をおさめた。この戦いで浅井軍は織田軍の備え13段のうち11段まで崩す猛攻を見せたが、側面の朝倉があまりに弱かった為にそこから突かれ敗れた。合戦後、信長に脅威を覚えた三好三人衆や本願寺が挙兵し、反信長の意志を示し「信長包囲網」が出来ていく。それから3年ほど、浅井長政は武田信玄や宗教勢力と組んで信長に対抗し続ける。 またこの頃、長政は側室との間に、茶々とお初の異母弟となる三男、浅井井頼(いより)=作庵を授かっている。 1571年秋、浅井氏と協力関係にあった延暦寺が信長の比叡山焼き討ちにあい壊滅。 1573年(26歳)8月、織田軍に3年も攻められるなか、お市は三女のお江(小督 (おごう)、江与(えよ))=崇源院(すうげんいん)を産む。通常、実家と嫁ぎ先が敵対関係になった場合は、妻は離縁されて国許へ送り返されるが、長政はそうしなかった。 9月16日、一乗谷が織田軍に攻め滅ぼされ朝倉義景が自刃。 9月24日(旧暦8月28日)、居城の小谷城(兵500)が信長の包囲攻撃を受けるなか、長政は妻子を城外へ脱出させる。お市は長政を深く愛しており、長政が「生きて私の菩提を弔って欲しい」と頼んでも「一緒に死なせて」ときかず、「娘達のためにも生きて欲しい」という言葉で説得されて城を出た。お市は信長に長政の助命を嘆願、信長は義弟へ最後の情けとして、大和一国を与えるという破格の降伏勧告を出した。だが、長政は降伏を拒絶し、さらに2日徹底抗戦を続ける。9月26日(旧暦9月1日)、城兵200を率いて最後の攻撃を行い、返り討ちにあって総崩れとなり、撤退先の屋敷で自害した(享年28)。墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。 お市と三姉妹は、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられた。以前は弟の織田信包(のぶかね)の伊勢上野城に身を寄せたとされていた。 また、同じく城を脱出した10歳の万福丸は、乳父と琵琶湖北の余呉湖(よごこ)のほとりで匿われていたが、信長の命を受けた秀吉軍に見つかり関ヶ原で串刺し刑にされた。 翌1574年(27歳)の正月、信長は長政、久政(長政父)、朝倉義景の頭蓋骨に金箔を施し、割って裏返すと酒を注いで呑んだと伝えられている。これを残酷とする説と、敵将への敬意の念があったことを表したとする説がある。 同年、長島一向一揆との戦いで織田信次が戦死したことから、お市と娘たちは信長の岐阜城に移った。お市は長政の菩提を弔うために出家を望んだが信長は許さなかった。その後、お市は8年間再婚せず。 1579年(32歳)、信長は荒木村重の裏切りと逃亡に激怒し、有岡城に残された村重の妻子など122人を見せしめに処刑した。これは、「女性は助ける」という戦国の作法を破る前代未聞のことだった。 1582年(35歳)、6月21日(旧暦6月2日)の「本能寺の変」で信長が家臣の明智光秀に討たれたる大事件が起きる。 同年7月16日(旧暦6月27日)の織田家後継者を決める清洲会議によって、お市は織田家の老臣・柴田勝家(60歳/1522-1583)と再婚し、娘達とともに越前国北ノ庄(きたのしょう)城へ移った。この結婚は三男信孝(お市の甥)が考えた秀吉に対抗するための作戦という。清洲会議では、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と、嫡男信忠の子である三法師(織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が生じた。 婚儀は本能寺の変の4か月後の9月6日(旧暦8月20日)に、信孝の居城岐阜城において行われた。同年、お市は勝家の勧めにより、京都妙心寺で信長の百箇日法要を営んだ。織田家の人間として気丈にふるまった。 1583年、4月近江国賤ヶ岳(しずがたけ/滋賀県木之本町)の周辺で勝家軍と秀吉軍が激突。秀吉子飼いの福島正則、加藤清正らが功名をあげ賤ヶ岳七本槍(しちほんやり)とのちに呼ばれる。 勝家はやぶれて敗走し、6月14日(旧暦4月24日)に北庄城を秀吉軍に包囲された。北ノ庄城の城兵は200人しかいないが7度も切り込んだという。お市は城を出るようにとの勝家の説得も受け容れず、3人の娘を秀吉?住職?に預け、夫と共に城を爆発させて自害した。遺体は見つからず。享年36。 お市は娘たちの行く末を案じ、秀吉に直筆の書状を送って3人の身柄の保障を求めた。 勝家の辞世「夏の夜の 夢路儚き 後の名を 雲井にあげよ 山不如」。(わが一生は夏の夜の夢のごとく儚かったが、ホトトギスよ後世にわが名をあの雲まで高く上げておくれ) お市の辞世「さらぬだに うち寝(ぬ)る程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公(ほととぎす)哉」(ただでさえもう寝る頃合いなのに、夏の夜に夢路へと誘い鳴くホトトギスのようですね) ※ホトトギスは死出の山(冥途の険しい山)から飛んでくるという伝説がある。 北ノ庄城落城後、秀吉が三姉妹を安土城に入城させ、その後は織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたとも。長女のお茶々はのちに秀吉の側室(淀殿)、次女お初は京極高次(たかつぐ)の正室(常高院)、3女お江与は徳川秀忠の正室(崇源院)となり、それぞれが豊臣・徳川家の興亡に深くかかわった。多くの子を成した江により、血筋は現在に至るまで続いている。 宣教師ルイス・フロイスによると、勝家、お市の最期の様子が今に伝わるのは、話術に長けた1人の老女に2人の最期を語り継ぐよう逃がしたからとのこと。 その後、美濃の織田信孝も自殺し、北伊勢の滝川一益は降伏、秀吉の全国制覇の基礎がきずかれた。 同年から2年間、浅井井頼は秀吉の養子・於次丸(おつぎまる)秀勝(信長四男)に仕える。 1586年に於次丸秀勝は17歳で没し、井頼は秀吉の弟秀長(1541-1591)に仕える。 1587年、お初(17)は秀吉の計らいで、浅井家の主筋にあたる京極家の当主・京極高次と結婚する。 1591年に秀長が没し、井頼は秀長のあとに大和郡山に入城した増田長盛(ました ながもり)に仕え、三千石をもらう。 1600年、関ヶ原の戦いに際し、お初の夫・京極高次は、西軍を足止めした功績で若狭一国(若狭小浜8万5000石)を与えられる。一方、浅井井頼は西軍・生駒親正(ちかまさ)の隊に属した。 1609年、お初は京極高次と死別し、剃髪・出家して常高院と号す。常高院は豊臣方の使者として、徳川方との対立を収めるべく奔走した。 1614年、大坂冬の陣で井頼は親族(淀は異母姉)である豊臣側として大坂城に入った。冬の陣の講和は、常高院(初)と徳川側の阿茶局が両家の和議に尽力した。 1615年6月4日、淀殿は秀頼と共に大坂城で自害した。享年46。夏の陣の大坂城落城後に井頼は大坂を脱出し浪人となる(45歳くらいか)。その後、姉の常高院(初)を頼って若狭国小浜藩の京極忠高の家臣となって出家、「浅井作庵」と名乗った。客分待遇で500石の知行を与えられたとも。 1626年11月3日、崇源院(江)が53歳で他界。亡くなる少し前に常高院は江戸で再会し、対談したという。※お江の最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられた。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子は姉茶々の猶子に。3度目の婚姻相手が後に第2代将軍となった徳川秀忠。お江は家光を産んでいる。 1633年9月30日、常高院が京極忠高の江戸屋敷にて63歳で他界。墓所は若狭(福井県小浜市)の常高寺。同寺には常高院が他界1ヶ月前に書いた遺言状の写しがあり、弟の作庵について「(さくあんのこと)いまさらすてられ候ハぬ」「いままでのごとく御め(目)かけ候て給わり候べく候」と気にかけ、くれぐれも頼むと願っていた。お初は父長政の血を守っていた。常高寺の墓所は、常高院の石塔を中心に、仕えていた尼僧達の石塔が会席する形をとって並んでいる。 1634年、京極氏は出雲松江藩に国替えし、京極高次の供養等も出雲に移されたが、常高寺は若狭に残された。以後、京極家が出雲、播磨、讃岐へと国替えになっても、その庇護を受け続けた。 1661年、作庵は他界(91歳)。香川県丸亀市の京極家の菩提寺である玄要寺の過去帳に「禅徳院殿実岩道意居士 京極作庵公」とあり、墓も同地のいずこかと思われる。 ※淀殿は父・長政の十七回忌、母・市の七回忌の法要を秀吉に願い、菩提を弔うために両親の肖像画を描かせた。この肖像画は(高野山 持明院)に伝えられている。 ※小谷城の陥落から36年後、茶々は秀吉に願い出て高野山に両親の肖像画を奉納した。お市は、切れ目が美しい、凜とした姿。 ※お市は生涯の中で、「(夫が兄を裏切る決意を固めた際に)実家を選ぶか、浅井を選ぶか」「(小谷城の落城時に)長政と自害するか、生き延びるか」「(北ノ庄城の落城時に)勝家と自害するか、生き延びるか」と、3度も究極の選択をしている。 ※大阪天王寺区の天鷲寺(てんじゅうじ)にも勝家・お市の供養塔がある。子孫が大阪に移住し柴田徳翁家が建立した。 ※お市の子孫は豊臣、徳川、前田、皇族へ。 ※小谷城の発掘調査で食器がいっぱい出土しており、頻繁に楽しい宴をしていたようだ。 ※京都の養源院には小谷城の落城時に江に与えられた弁財天がある。江が長政の菩提を弔う。浅井長政の孫が徳川家光であり、結果的にその血は天下人となっている。 墓所は福井市内の柴田勝家の菩提寺、天台宗「西光寺」。一乗谷にあったのを勝家が北ノ庄に移転させ自身の菩提寺にしたという。 勝家とお市の合祀墓と一緒に勝家の子・柴田孫次郎、勝家の甥・柴田勝景(丸岡城主)の供養塔もある。慶長年間(1596-1615)に、戦国武将の山中長俊(ながとし/1547-1607)が寄進。長俊は元々勝家の家老で3000石を与えられていた。勝家の死後は丹羽長秀に仕え、1585年に秀吉に召し出され右筆(書記)となった。墓の傍らに北ノ庄城の礎石あり。 お市の孫は茶々の子に豊臣秀頼(1593-1615)。江の子に豊臣完子(さだこ)(1592-1658父は江の二番目の夫・豊臣秀勝(秀次の弟)。九条家当主・関白の九条幸家に嫁ぐ)、千姫(1597-1666秀忠長女)、徳川家光(1604-1651秀忠次男)、徳川和子(まさこ)(1607-1678秀忠五女)など。徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は女帝・明正(めいしょう)天皇となった。また、今上(きんじょう)天皇の先祖に当たる人物でもある。 お市の墓所は西光寺(福井県福井市)。菩提寺は自性院(福井県福井市)、幡岳寺(滋賀県高島市)。戒名は自性院微妙浄法大姉、東禅院殿直伝貞正大姉(自性院照月宗貞とも伝わる)。小谷山山頂に旧跡。 |
秀次が幽閉された高野山の金剛峯寺 | この「柳の間」で秀次は自刃した(撮影許可あり) |
京都、瑞泉寺。秀次の墓を左右から一族が挟む(2005) | 3歳の子の墓は見てて辛かった。秀吉は鬼ッス | 5年後。工事の足場が組まれていた(2010) |
境内には秀次関連の資料コーナーがあった。そこには全員の肖像画も…(涙) |
高野山の光台院の裏山にも墓がある(2013) | お坊さんが案内して下さった | 斜面を登ると柵が見えてきた |
秀次公の墓所!特別な空間に | 説明板には「(秀次の)遺骸を葬りし所、即ち此墓なり」 |
秀次は秀吉の甥(母が秀吉の姉)にあたる。当初は秀吉に重用され後継者と目されていたが、秀吉に秀頼が生まれたことでうとまれ始めた。挙げ句に「謀反を企んだ」と因縁をつけられ、高野山にて切腹に追い込まれる。 秀次の首は謀反人として京都三条河原に晒され、その首の前で秀次と関係のある者、妾から3歳の子どもまで39名が斬首された。遺体はひとつの穴に投げ入れられ“畜生塚”と名付けられる。 秀次の住居・聚楽第は即日取り壊された。晩年の秀吉は完全にイカれている。メチャクチャだ。京都・瑞泉寺は、後年秀次たちを弔うために川べりに建てられた寺だ。 |
黒田家墓所・夏(緑がまぶしい) 広大な墓所に如水や歴代福岡藩主の巨大墓が並ぶ |
黒田家墓所・冬(全然雰囲気が違う!) 1950年まではこのさらに5倍の面積だったという |
どっしりと重厚な崇福寺の山門 | 黒田家墓所を守る門 | 墓所の門の鍵は本堂で記帳して借りる |
なんと高さ5.8m!大きな焦げ茶色の墓石(2009) | 「福岡藩始祖 黒田如水公墓碑」 | 代々の福岡藩主がズラリと並ぶ |
表面いっぱいに如水の功績が 赤い文字で書かれている(2008) |
如水の墓は完成当初のもの。 左隣は嫡子の長政。こちらは作り直された様子 |
大徳寺龍光院。ここにも墓があるが拝観謝絶だった。 戒名の「龍光院如水円清」が寺名に反映されている |
こちらは高野山の「筑前黒田家墓」(2009) | 高野山の別区画にある「筑前黒田家墓所」(2009) |
通称、黒田官兵衛、諱は黒田孝高(よしたか)。豊臣秀吉の天下統一を助けた名軍師。姫路生まれ。最初は播州の小大名・小寺政職に仕え、1567年(21歳)に姫路城代となる。1569年(23歳)、如水は300人の手勢で10倍の赤松政秀軍3000人に奇襲をかけて退け、1576年(30歳)には500人の兵でこれまた10倍の毛利小早川水軍・浦宗勝の兵5000人を撃退した。長篠の戦いで信長が勝つと、如水は主君を説得して信長に従属する。1578年(32歳)、信長を裏切り有岡城に籠城する荒木村重に開城するよう説得に向かうも、村重に捕縛され土牢に入れられてしまう。信長は戻ってこない如水を寝返ったと早合点し、人質にとっていた如水の子・長政を処刑するよう秀吉軍師・竹中半兵衛に命じた。しかし半兵衛は別人の首を差し出し長政を救う。1年後に有岡城から救出された如水は半兵衛に感謝し、黒田家の家紋に竹中家の家紋を用いた(如水はこの獄中生活で足を痛め乗馬不能になり、以後の合戦は輿上から指揮)。信長は生きていた如水に1万石を与え、如水は秀吉の参謀となった。
1581年(35歳)、秀吉は鳥取城攻略に際し如水発案の飢餓作戦にて3ヶ月で落城させる。翌1582年(36歳)、備中高松城の毛利攻略でも水攻めの方法を立案して降伏に追い込んだ。この時、本能寺で信長が光秀に討たれるという大事件が勃発。動揺する秀吉に対し、如水は「御運が開かれる機会が参りましたな」と言い、これを聞いて秀吉は如水が怖くなったという。その後も如水は賤ヶ岳の戦いで奮戦し、1585年(39歳)、四国遠征で長宗我部元親を打ち倒した。翌々年の九州平定でも手腕を発揮。しかし、如水が秀吉の天下統一に貢献したにも拘わらず、如水を遠隔地の九州・中津城主(大分県)に置き12万石しか与えなかった。 ある時、秀吉は家臣に誰が次に天下を治めるか問いかけた。家臣たちは家康や前田利家をあげたが、秀吉は“官兵衛(如水)がその気になれば自分が生きているうちに天下を取られる”と言った。「官兵衛殿はたった10万石の大名でありませんか」と驚く家臣たちに、「お前らは奴の本当の力量を分かっとらん。奴に100万石を与えた途端に天下を奪ってしまうだろう」と秀吉は語った。この話を聞いた官兵衛は秀吉に消されることを警戒し、野心がないことを示すために43歳で家督を子の長政に譲って隠居する。だが、如水の才覚を必要とする秀吉は、隠居後の如水を引っ張り出して小田原攻めや朝鮮へ従軍させた。実際、如水は小田原城の北条氏を説得して無血開城させ、朝鮮では亀甲車の設計に関わるなど貢献する。 ※如水は高山右近の影響で洗礼を受け、洗礼名は「ドン・シメオン」。隠居後に号を“如水”にしたことについて、ルイス・フロイスいわく「官兵衛は剃髪し、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては今や水泡が消え去るように去って行ったと言いながら、ジョスイ、すなわち水の如し、と自ら名乗った」。号の由来はもう一つあり、旧約聖書のモーゼの後継者ジョシュアとも。 1600年(54歳)の関ヶ原の戦では子の長政が家康の養女と結婚していたので東軍につき、如水は九州内で西軍(大友義統)と戦った。兵の多くが関ヶ原に派遣されていたので、如水は領内の農民に大金を払って部隊を急遽編成し、西軍側の拠点を次々と落としていった。長政の方も関ヶ原で奮戦したことから、合戦後に「勲功第一」と褒め称えられ、筑前国(福岡)52万3000石を与えられた。如水は長政と共に福岡城に移って隠居生活を送り、1604年、上洛時に京都伏見藩邸で57年の人生を終えた。辞世の句「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。遺訓は「人に媚びず、富貴を望まず」。
晩年の如水は深くキリスト教に傾倒していたようだ。没する直前にキリスト教の祈祷文やロザリオ(数珠)を持ってこさせて胸に置き(1)亡骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと(2)子の長政が領内の神父たちを大切にすること(3)イエズス会に2,000タエス(約320石=約3200万円)を与えること、そう言い残した。そして優秀な家臣を長政に遺すために殉死を禁じた。博多の葬儀では宣教師たちが礼を尽くしてくれたため、長政は遺言より多い米500石(約5千万円)を贈った。 その後、長政は京都の大徳寺に父の菩提を弔うために、当時大徳寺の最大の塔頭となる龍光院を建立。大阪の如水屋敷にあった茶室“密庵”(みったん)を移築し、現在国宝に指定されている。 黒田家墓所は以前は崇福寺が管理し、墓参の際に記帳して門の鍵を借りていたが、2014年の大河『軍師官兵衛』を機に墓所が福岡市に寄贈され、今は市が黒田家墓所を管理している。土日祝の10時〜16時まで墓所の北門が開放されており巡礼可能。 ※黒田如水(官兵衛)と竹中半兵衛(重治)は秀吉の2大軍師として“両兵衛”“二兵衛”と称された。
※NHK『その時歴史が動いた』では、関ヶ原の合戦が長引けば、如水は九州を統一して天下取りに動いたと解説していた。
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智将として知られる | 居城の山城・新高山(にいたかやま)城跡 |
米山寺はJR本郷駅から3km。墓所は近所の別の敷地 | 小早川氏歴代の墓が2列に並んでいる(右端手前が隆景) | 隆景の墓は堂々とした宝篋印塔 |
こちらは京都市北区の大徳寺黄梅院。ここにも墓がある |
左から骭ウ、吉川元春、小早川隆景の毛利三兄弟。 墓前の石柱には兄弟を代表して『小早川隆景卿墓』とあった |
苔が良い感じについていた |
毛利元就の三男。兄は毛利隆元(長男)、吉川元春(次男)。竹原小早川家の当主・小早川興景が1543年に死去した際、後継ぎがいなかった為に10歳の隆景が養子となった。14歳の初陣で敵の支城を落とす。小早川家は毛利一門の水軍部隊を担当し、瀬戸内に勢力を伸ばした。1555年(22歳)の厳島の戦いでも、村上水軍を味方に引き入れ大内水軍を破る武功をあげている。元就、骭ウが他界した後は、元春と共に毛利本家の当主・輝元をバックアップ。主に元春が軍事を、隆景が政治面を担当した。1575年頃から織田軍の中国侵攻が始まり、隆景が山陽で、元春が山陰で防御線を引いて戦った。1576年の織田軍との海戦には勝利したが、その後に織田軍が恐怖の鉄甲船を建造、リベンジされた。さらに1582年には備中高松城が水攻めにあう。戦力が拮抗する中、本能寺の変が起きる。京都に向う秀吉を背後から追撃しようとする元春を、隆景は「信長の死に乗ずるのは卑怯である」と思い止まらせた。このことが後に秀吉からの信望をあつくすることになった(毛利の領地のみ太閤検地が免除され、五大老に2人抜擢)。秀吉いわく「日ノ本の国は西方は隆景に東方は家康に任せれば安泰」。
以降、秀吉の四国征伐、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵にすべて従軍し、1593年(60歳)には立花宗茂と組んで明軍を碧蹄館の戦いで打ち破った。帰国後は毛利輝元と共に五大老の一人に選ばれたが、病気のために1595年(62歳)に養子の小早川秀秋に家督を譲り三原に隠居した。1597年、脳卒中で他界。黒田如水は訃報を聞き「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆いた。
※毛利家の菩提寺となっている大徳寺黄梅院の名は、隆景の戒名「黄梅院泰雲紹閑」からきている。 ※実子がいなかったが妻を愛し側室を置かなかった。 ※「自分以外で天下を治める者がいるとすれば、黒田如水か小早川の隆景よ」(秀吉)
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戦国最強の島津軍を率いて九州の覇者となった(2008) | こちらは高野山の「薩摩島津家墓所」(2009) |
島津氏第16代当主。九州を制覇した名将。父は島津貴久。長男・義久、次男・義弘、三男・歳久、四男・家久の四兄弟の長男で「総領の義久、武勇の義弘、智謀の歳久、兵法の家久」と称えられる。1566年(33歳)、薩摩三州の統一を目指す父・貴久と共に大隅地方を平定し家督を継承。1572年(39歳)、日向の伊東軍3000人が島津に侵攻してくると、義弘が300人でこれを奇襲して撃破(木崎原の戦い)。10倍の敵を倒したことからこの戦は「九州の桶狭間」といわれる。伊東氏は豊後の大友宗麟の元へ亡命し、島津氏の悲願だった、薩摩、大隅、日向の三州統一がついに達成された。1578年(45歳)、九州3強(島津、大友、龍造寺)の一角・大友宗麟が43000という大軍を率いて日向に侵攻し、家久が籠城する高城を包囲した(高城・耳川の戦い)。義久は2万の兵で大友軍に奇襲をかけ、川を越えてくる敵を次々と伏兵で討ち取る「釣り野伏せ」戦法を使い、大打撃を与えて敗走させた。大友氏が弱体化すると、これをチャンスとばかりに肥前の龍造寺隆信が暴れ出し、龍造寺から離反した有馬晴信が島津氏に援軍を要請してきた。1584年(51歳)、義久は家久を総大将とした島津軍を派遣。龍造寺軍2万5000に対して、島津・有馬の連合軍は5000しかいなかったが、家久は龍造寺の大軍を湿地帯の島原・沖田畷に誘い込んで脚を奪い、少数ゆえの機動力を生かして龍造寺隆信の首級をあげる大勝利を収めた。※龍造寺隆信は蒲池鎮並謀殺事件で自らの家臣からも既に信頼を失っていた。
島原での勝利を受けて、肥後の隈部氏、筑前の秋月氏、筑後の筑紫氏らが戦わずして支配下に入り、九州統一は目前になった。あとは大友氏だけ。ところが、大友宗麟は大坂城に足を運び、秀吉に援軍を要請していた。そして秀吉から「以後九州での戦を禁止する」と書状が届く。1586年(53歳)、島津四兄弟のうち3人が抗戦を主張するなか、作戦参謀の歳久だけは「農民から体一つで身を興した秀吉は只者ではない」と和平を説いたが、義久はこれを一蹴して、3万の義弘軍(副将・歳久)を肥後側から、1万の家久軍を日向側から豊後に進軍させた。義弘軍は大友側の支城で激しい抵抗を受けて進軍速度が落ち、家久軍だけで大友氏の本拠地を攻めることになった。そして、もう少しで大友氏を落とせるというその時に、豊臣連合軍の先発隊6000(長宗我部元親、信親、十河存保、仙石秀久等)が援軍として駆けつける。戸次川の両岸で向き合う双方。“戸次川の戦い”の火ぶたが切って落とされると、島津と長宗我部という血の気の多い両軍を中心に大激突・大混戦となる。敵味方4000もの死者が出たこの合戦は、長宗我部信親、十河存保という大物が討死し、豊臣連合軍は指揮系統が崩壊。家久軍が激勝した。
しかし、島津氏の大躍進はここまでだった。1587年(54歳)、豊臣秀吉率いる12万というとんでもない大軍が九州に上陸すると、義弘軍&家久軍は大友攻めを中止せざるをえなくなり、逆に大友軍から追撃されることに。九州諸大名は続々と豊臣方に下った。島津軍も反撃したが、秀吉の弟、智将・豊臣秀長の前に敗退を余儀なくされた。南九州に豊臣軍が迫ると、家久は開城して降伏(同年、家久病死)。義久自身も剃髪・出家して秀吉と会い降伏。秀吉は義久に対して薩摩国だけの支配を認めた。ところが義弘と歳久は刀を収めなかった。義久は弟たちに降伏を命じ、説得を受けて義弘は降伏するが、かつて和平を説いていた歳久が「一度戦いを始めたからには降伏しない」とあくまでも拒否。それどころか、秀吉軍を狭路に誘い込み、関白秀吉の駕籠(かご)に矢を6本も射かける乾坤一擲の逆襲をする。信長の後継者争いをしていた頃ならまだしも、ほぼ天下を手中にした秀吉に対して矢を射る豪胆さ。それから5年後の1592年(59歳)。島津氏が刀狩りや朝鮮出兵に非協力的であったり、歳久の家臣が一揆に参加したことから、秀吉は謀反人の代表として歳久の首を義久に要求。義久は泣く泣く歳久追討令を出した。義久軍は歳久を追い詰めたが、主君の弟を殺すことにためらいがあって手を出せない。歳久は自害しようとしたが病に冒されて手元が定まらないので、義久軍に「早く来て俺の首をとれ」と告げ自ら討たれた。歳久の遺書には「何らやましいところはないが謀反を疑われた以上、島津家安泰のために切腹する。家臣たちが承服しないので武士の本分を貫くべく交戦するが、これは兄に対して弓を引こうというものではない」とあった。四兄弟は、義久と義弘だけになった。
義久は領国運営のため朝鮮に行かなかったが、義弘が文禄・慶長の役で鬼神の如く大奮戦。特に1598年の泗川(しせん)の戦いでは、明軍・朝鮮軍の巨大連合軍20万人を、わずか7000人で叩きのめし、島津側の記録では敵兵約4万人を討ち取り、敗北した明国の記録に至っては戦死者約8万人となっている。家康は「前代未聞の大勝利」と仰天した。秀吉の死去で出兵が中止になると、軍功を評価され加増された。
1600年(67歳)、関ヶ原の戦いで義弘は西軍として参戦。しかし義久は義弘からの援軍要請を黙殺した。合戦が始まり西軍敗北が決定的になると、義弘は家康本陣の側を駆け抜ける“中央突破”で戦場を脱出する。関ヶ原で義弘が率いた1500人のうち生存者はたったの80数名。義弘と兵の信頼関係はあつく、多くの兵が義弘を逃がす為に盾となって突撃していったからだ。合戦後、義久は家康に対して「あれは義弘が勝手にやったこと」とし、義弘の子・忠恒が謝罪をしに上洛したことから、西軍側の多くが所領を激減される中で、島津家だけは改易を免れ殆どノー・ペナルティーだった。1602年(69歳)、義久は自身に男児がいなかったことから忠恒に家督を譲って正式に隠居した。
1609年(76歳)、忠恒は兵3000、軍船100隻を率いて琉球を侵略。これまで平和的に貿易してきたので義久は反対したが、忠恒は聞かなかった。その2年後、義久は病死する。享年77歳。
※忠恒は琉球から外交権を奪い、薩摩藩はアジアとの貿易で莫大な利益を得る。この金が260年後に幕府を倒す軍資金になった。
※祖父・島津忠良の兄弟評。「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」。 ※家康と義久が対面した時、手腕を褒める家康に、「弟たちや家臣団を派兵して勝利を収めただけで、自分の働きなどひとつもない」と義久が言うと、「自らが動かずして、勝つことこそ大将の鑑よ」と家康は感心した。また、別の機会に耳川の合戦について詳細を聞いた家康は「楠木正成に負けずとも劣らない義久の采配ぶり」と感服したという。
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2008 | 2009 |
美濃国出身。美少年で13歳の時に織田信長の側近(小姓)となる。森蘭丸が現れるまで信長のお気に入りだった秀政は、16歳で将軍足利義昭が住む本圀寺・普請奉行を任されたほか、各種奉行職を歴任する。1575年(22歳)の越前一向一揆討伐、1577年の紀伊雑賀討伐戦、1581年の伊賀攻めに参戦した。1582年(29歳)に本能寺の変で信長が散った後は、秀吉の家臣として山崎の戦いで奮戦。明智光秀の娘婿・明智秀満(左馬助)を坂本城に追い込むと、秀満は家宝を秀政の家老直政に譲って自害した。 柴田勝家戦、小牧・長久手の戦い、四国攻めでも軍功をあげる。特に1587年(34歳)の九州攻めでは、先発隊として連戦連勝を収め、捕虜の島津兵50余名に「勝ち続けてヘトヘトなので、薩摩の城はこれからはせめてもう3日は持ちこたえてくれ。その間に人馬を休ませたいのだ」と伝言を託して解放したという。1590年の小田原攻めでも活躍し、早川口まで攻め込んだが疫病に冒され陣中で急死する。享年37歳。秀吉は小田原征伐後に関東を秀政に与えるつもりだったので嘆き悲しんだ。享年37歳。墓は福井県北之庄の長慶寺から新潟県春日山の林泉寺に改葬された。 |
モダンなデザインの『高槻城跡』 | 城跡に建つ右近像(1972年建立)。石川県にもあったので後述! |
高槻城下にある右近ゆかりの教会(カトリック高槻教会)。中に入ると天井の高さに驚く。 同教会の敷地には豊川悦司似の右近像が建っている→ |
1965年の右近逝去350年祭に際して、イタリア・カララ産の
大理石を使いイタリアの工房で作成された。当時の教皇パウロ 6世代理・バチカン公使により祝別を受けたというから本格的だ |
JR羽咋(はくい)駅の前にはズズズ石がある! |
そしてッ!駅前ロータリーの外れには ジョジョ立ちで有名なゴゴゴ石がッ! |
羽咋駅から北鉄能登バスの富来(とぎ)行きに乗車。 約30分で「末吉」に着く。約15分歩いて右近公園へ! |
めちゃくちゃカッコイイ右近像! 剣が十字架withキリストになっている! |
高山右近記念公園!銅像は高槻城のものと 同じ。でも、周囲に何もないので大きく見える |
なんて凛々しいお顔! ※1999年に建立 |
マントがよく似合う。 しかも足が長い! |
公園から100mくらいのとこに目印 | この路地から山に入る | 山中では本当に墓があるのか不安になるけど、案内に従う | どんどん登っていく |
すると少し開けた場所に、隠れ墓の如く小さな十字架が! | 新しい花が挿してある。これこそまさに… | 右近の墓!戦国武将の十字架墓だ! |
安土桃山時代のキリシタン大名。徳川家康をして「右近の手兵一千を、他の将の一万の兵より恐れる」と言わしめた戦術家であり、築城術に長けた建築家。また、利休の高弟(利休七哲)として茶を究めた教養豊かな茶人でもあった。1586年には秀吉と利休を茶会に招いている。
本名、高山友祥(ともなが)、長房。通称、右近、彦五郎。摂津国高山の出身。父がイエズス会宣教師の話に感銘を受けキリシタンとなり、右近も1564年に12歳で受洗した。洗礼名はジュスト(ポルトガル語で“正義の人”)。荒木村重につかえ、1573年に21歳で高槻城主となる。1578年(26歳)、主君村重が織田信長に反旗を翻すと、右近は村重を思い止まらせる為に自分の母や息子を村重のもとへ人質として送り説得したが、村重は耳を貸さなかった。一方、高槻城に迫った信長は、右近に対し「開城せねば畿内の宣教師・キリシタンを皆殺しにして全ての教会を破壊する」と脅迫。開城すれば村重の元にいる母や息子が危険、しなければ信長によって地獄がもたらされる(6年前に延暦寺は焼討ちにあっている)。苦悩した右近は多くのキリシタンの人命を選び、衣一枚で信長の前に出て降伏した(幸いにも村重は人質を殺さなかった)。喜んだ信長は右近にとって倍の領地となる4万石を与えた。 本能寺の変の後は秀吉につかえ、1585年(33歳)にこれまでの戦功が認められ播磨国明石6万石を拝領する。右近は教会の建設や布教に精を出すが、この2年後(1587年)に秀吉が「宣教師は20日以内に国外退去せよ」と伴天連追放令を出し、右近に棄教を迫った。右近があくまでもキリスト教を捨てなかった為、怒った秀吉は領地・財産を全て没収した。翌年、右近の優れた才覚を惜しんだ前田利家・利長父子は、右近を客として加賀に迎えこれを保護する。右近は金沢城の修築や高岡城の設計に手腕を発揮し、期待に応えた。しかし、1614年(62歳)に江戸幕府が徹底したキリスト教禁令を発令し、右近は妻子や内藤如安ら信者と共にルソン島マニラへ追放されてしまう。フィリピン総督フアン・デ・シルバは宣教師の報告で既に右近の存在を知っており、マニラの人々は悲運の聖者として熱狂的に右近を歓迎した。だが、慣れない気候で体調を崩した右近は、到着から40日後に熱病のために息を引き取った。マニラでは全市をあげての壮大な葬儀が聖アンナ教会で執り行われた。
その後、右近の長男・十次郎(十字架から命名)の子のうち1人がマニラから密かに帰国し、志賀町末吉に医者を開業。その子孫も医者をしていたが、あまりにキリシタンへの迫害が酷いために北海道へ移り住む。信教の自由が実現した大正初期に能登の七尾湾沿いに戻り、最終的に現羽咋郡志賀町代田に定住した。右近の墓が羽咋にあるのはその為だ。右近の次男・亮之進はまだ幼かったことから、大友宗麟の嫡子義統(よしむね)がこれを憐れみ、九州で幕府から隠し育てた(こちらの子孫は大分県にいる)。
※右近の人徳に惚れていた蒲生氏郷や黒田孝高は、影響を受けて受洗した。細川ガラシアがキリシタンになったのも、夫の忠興から右近の話を聞いたことがきっかけだった。 ※当時2万5千人の領民のうち、1万8千人(約72%)がキリシタンになった。 |
鹿児島湾の岸に建つ「ザビエル上陸記念碑」 |
ザビエル飛行形態!(2008) | 15世お尚・東堂忍室の墓 | 隠れキリシタンの墓 |
1549年8月15日、キリスト教伝来。すべてはここから始まった |
鹿児島・福昌寺跡。住職がザビエルの友人だったこと から、境内最深部の山中にキリシタンの隠れ墓がある |
この角度だと、ドラえもんと高山 右近像のコラボになるデス |
JR宝達駅の近くで見かけた気になるアピール 「モーゼが眠る町 宝達志水町」(石川県) |
池田輝政の墓所はびっくりするほど山奥にある! |
JR吉永駅。墓方面のバスがなくタクシー出動 |
どんどん山に入っていく |
運転手さん「車が行けるのは途中まで。携帯の 電波が届かないので90分後に迎えに来ますね」 |
和意谷(わいだに)の池田家墓所の入口。 ここから徒歩で30分とのこと |
ギャー!歴代藩主は一カ所じゃなくバラバラの山に 眠っている!「七のお山」まであるんですけど(激汗) |
日没に間に合うのか? 懐中電灯なんか持ってないよ |
「ヒョエ〜!」困った、というか恐怖だったのが、時々あった分かれ道。どっちに行けば良かとですか!? 迷ってる間にも太陽は沈んでいくので、運を天に任せてとにかく前進した |
今は保護区の情報が 欲しいんじゃあないッ! |
欲しいのはこういう情報だッ!ちなみに輝政公は“一のお山”、名君・光政は“三のお山”っす |
見るからにヤバそうなキノコたち…遭難したら食べちゃっていいのかな?(キノコに詳しい方、ご教示されたし!) |
山林のトンネル! | うおお、何か見えてきた! | お墓の守護神、亀趺(きふ)がキターッ! |
“西国将軍”池田輝政公に謁見! | この古墳のような盛り土がお墓。ド迫力! | のべ11万人が山中の墓域整備に動員されたという |
JR姫路駅の前。既に感電 | 今の姫路城は輝政が大改築させたもの! | 城の最高傑作。日本の世界遺産第1号だ! | 別名、白鷺城。ホント、どこから見ても美しい!(2003) |
安土桃山時代の武将。通称、三左衛門尉。現愛知県出身。父に従って最初は織田信長に仕え、16歳で軍功をあげ信長から名馬をもらう。本能寺の変後は豊臣秀吉の家臣となった。1584年、父と長兄が「小牧・長久手の戦」で揃って討死した為、20歳で家督を継ぐ。大垣城主、岐阜城主を経て、東三河15万石余を領した。1594年(30歳)、家康の娘と結婚。秀吉没後は三成とソリが合わず、1600年(36歳)の関ヶ原の戦では東軍に入り先陣争いを展開した。合戦後、家康から播磨52万石を拝領し、輝政は自らの居城となる姫路城の大改造に翌年から着手する(工期8年)。 1603年に備前が次男に、1610年には淡路が三男に与えられ、輝政の弟は鳥取を治めていたことから、池田氏は播磨、備前、淡路、鳥取を支配した計92万石の巨大大名となった。このことから輝政は「西国将軍」とも呼ばれる。1613年、姫路にて急逝。享年48歳。寡黙な男だったと伝わる。 |
巡礼完了!ふうう、間に合った! | こちらは高野山の「岡山池田家墓所」(2009) | 同じく高野山の「鳥取池田家墓所」(2009) |
没後400年に完成「長宗我部元親公銅像」(高知市) | 数ある武将像の中でもトップクラスの格好良さ! | 初陣の像。後ろ姿だけでご飯3杯いけます! |
「元親公への手紙」コーナー | どの角度から見てもキマッてる! | 元親公の足下には四国全土の地図が描かれている! |
四国の覇者ここに眠る | 『戦国BASARA』で女性ファン急増! | 墓前には日本酒が7本もあった |
土佐の戦国大名。現高知県南国市を本拠とした長宗我部国親の子。家系は遠く秦の始皇帝に繋がる秦河勝(はた・かわかつ)の血筋とされる。1560年(22歳)、元親は初陣で槍を振り回し“鬼若子”と呼ばれる武功をあげ、翌月の父の急死をうけ家督を継承する。1574年(36歳)、一条兼定を追い出し土佐一国をほぼ平定。それからは四国全土の制圧を目指し、阿波の三好氏、讃岐の十河氏と次々倒し、11年後の1585年(47歳)に伊予の河野氏を破り、ついに四国77万石を支配する覇者となる。
ところがその喜びも束の間、数週間後に秀吉が10万の大軍で四国攻めを開始し、讃岐から宇喜多軍、伊予から毛利(吉川、小早川)軍、阿波から秀長軍が同時に侵攻してきた。長宗我部の城は各地で落ち、元親は泣く泣く降伏。秀吉は土佐一国の支配しか認めず、元親のこの10年の努力は水泡と化した。1586年(48歳)、秀吉の九州征伐に嫡男信親と従軍し、島津軍の猛攻に晒されていた豊後・大友宗麟の救援に向かう。この時の「戸次川の戦い」で、後継者として期待していた元親の最愛の子・信親が22歳で戦死してしまう。元親が受けた悲しみは尋常ではなく、心が折れ別人のようになってしまう。2年後に家督相続に四男・盛親を指名した際、これに反対し次男や三男を支持した家臣を皆殺しにした。 1590年(52歳)、小田原攻めに参戦。その後の朝鮮侵攻にも出陣する。関ヶ原合戦の前年に京都伏見で没し、火葬後に遺骨が土佐に送られ、天甫寺山(てんぽじやま)に葬られた。晩年の元親は暴走したが、相対的には武勇に優れていただけでなく、検地を行ない分国法「長宗我部元親百箇条」を定めるなど領国経営に努め、和歌や茶の湯を好んだ文化人でもあった。 ※側室は明智光秀の妹の娘。山崎の戦いの後は斎藤利三の娘・福(春日局)を匿った。
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雪蹊寺は四国霊場では2か所しかない禅寺 のうちの一つ。元親が臨済宗に改宗した |
長宗我部が遠く秦の始皇帝の家系を示すかの 如く、雪蹊寺裏の「秦神社」の祭神は元親・信親だ |
まだ22歳だった |
戸次川の戦いで壮絶な死を遂げた信親。墓前の花は英字新聞にくるまれていた。 戦国武将と英字新聞という組み合わせが妙に新鮮だった |
土佐の戦国大名・長宗我部元親の嫡男。母は明智光秀の重臣・斎藤利三の義理の妹。信長から「信」の一字を与えられた。子供の頃から利発で父から深く愛され、四国制覇を目指す父に従い各地を転戦した。1585年(20歳)、長宗我部氏は悲願の四国平定を達成するが、直後に秀吉の四国征伐を受けて敗北し、領土は土佐一国に激減する。翌1586年に秀吉が九州征伐を始めると、長宗我部氏は先発隊に回され、島津軍の猛攻に晒されていた豊後・大友宗麟の救援に向かう。長宗我部父子は兵3000で出陣し、「戸次川の戦い」で強敵・島津家久の軍と激突する。元々兵力差は島津軍の方が倍近くあったうえ、開戦すると豊臣勢の総指揮官・仙石秀久が功を焦って壊滅したことから指揮系統が麻痺、乱戦になだれ込む。 島津兵は非常に士気が高く、四国では長宗我部の宿敵だった十河家当主・十河存保が討死、信親と桑名隊の兵2000は包囲・分断され、信親自身が刀を握って戦う最悪の状況になった。信親は信長から賜った左文字の銘刀を手に奮戦したが、戦力の差はいかんともしがたく、とうとう島津の鈴木内膳に討ち取られてしまう。まだ22歳の若さだった。後方にいた父・元親は無事に退却出来たものの、信親の重臣はことごとく散り、部隊の戦死率は7割以上という凄絶な戦いだった。合戦後、敵将島津家久は信親の勇戦ぶりに敬意を表し、遺骸を丁重に元親のもとへ送り届けた。元親は信親をまともに見ることが出来ず泣き崩れたと伝えられる。 |
川向こうの筆山が山内家の墓所(2008) | 墓所入口。普段は非公開なので緊張! | 足下が危険な道は入れない | この階段を上りきった所に墓がある! |
山内家の墓所は一般には非公開となっている。この日は山内家の子孫の方に特別に許可を頂き、墓所を開門&案内して頂いた!(本当に有り難うございました!) この墓所には初代から18代までの山内家当主の墓がある。ここ一カ所に1605年という江戸初期から平成までの墓があるんだ。400年間に墓がどんな風に変わっていったのかが分かるという意味でも、文化的価値が計り知れない聖域だ! ※15代豊信は東京で亡くなったので1人だけ品川に墓がある。 |
激感動!初代一豊(かつとよ・1605没)の墓! ※卵塔型は禅宗の僧侶に多く、戦国武将にも好まれた |
墓所の一番高い場所から子孫を見守っている |
人が横に立つと巨大さが分かる! |
安土桃山時代の戦国武将。初代土佐藩主。現愛知県出身。一豊が生まれた頃の山内家の主君は、岩倉織田氏の当主・織田信安(信安の妻は信長の父の妹)。岩倉織田氏は同族の信長と対立し、1559年(14歳)に信長から攻撃され滅ぼされた。一豊の父や兄は討死し、山内家は離散。一豊は岐阜や滋賀一帯を流浪する。信長は仇だったがカリスマ性があり、1570年前後(25歳頃)に一豊は信長に仕えるようになった。一豊は織田軍団の中で秀吉の配下に入り、姉川の戦いで初陣を飾る。1573年(28歳)の朝倉攻めでは頬に矢が刺さりながらも奮戦し400石を与えられた。この頃、妻・千代と結婚。1577年(32歳)には兵庫県赤穂に2000石を拝領した。1581年(36歳)、織田軍が京都で行なった軍事パレード(馬揃え)では、天下の名馬を買うために妻千代がへそくりを出して協力。信長がこの馬に目を止め一豊は出世のきっかけを掴んだ。
一豊は秀吉と共に各地を転戦し、信長没後も秀吉の天下取りに従軍して戦功をあげた。1585年(40歳)に若狭国高浜城主となって念願の城を持ち、続いて2万石の近江長浜城主となり、1590年(45歳)、小田原攻めに参戦し、秀吉から遠江掛川城5万石を与えられる。秀吉の死後、1600年(55歳)の関ヶ原の戦いでは率先して東軍につき家康を大いに喜ばせた。合戦後、一豊は土佐20万石に大加増され、ついに一国を治める大名にのぼり詰めた。1605年、一豊は高知城にて、信長、秀吉、家康の三傑に仕えるという波乱に満ちた人生を終えた。享年60歳。 高知城で息を引き取った ※“一豊”の読み方は、子孫が「かつとよ」と読んでおり、学界でも「かつとよ」が定説になっている。
※山内氏が土佐藩主になった為に、一豊が連れてきた家臣と、それまで長宗我部氏に仕えていた家臣との間に、同じ土佐藩士の間で身分差別が生まれてしまった。200年後にこの下級武士(郷士)の階層から出て来たのが坂本龍馬だ。※一豊は民衆が食中毒にならないように、カツオを刺身で食べることを禁止すると、人々表面だけを火に炙って「これは刺身じゃありません」と言い張って食べた。これがカツオのタタキの始まり。
※一豊と千代の夫婦は、大河ドラマ『功名が辻』の主人公として一躍有名になった! |
4代豊昌(とよまさ・1700没) | 5代豊房(とよふさ・1706没)石灯籠4個タイプ | 10代豊策(とよかず・1825没) |
4代豊昌の亀趺(きふ)碑 顔はどことなく愛嬌がある | 11代豊興(とよおき・1809没)の亀趺碑 こちらは任侠系のゴツイ顔! |
16代豊範(とよのり・1886没) 墓前の石柱が今にも倒れそうでかなり危険(汗) | 神道形式。仏教と違って戒名はない |
左側が17代豊景(とよかげ・1957没)。隣は夫人だ | 18代豊秋(2003没)完全に現代墓 |
【歴代の山内家当主〜墓石の様式別まとめ】 ・卵塔型…初代、2代 ・笠付型…3代、4代(亀趺付)、5代、6代、7代(亀趺付)、8代、9代(亀趺付)、10代、11代(亀趺付)、13代、14代 ・神道形式…12代、15代、16代 ・現代墓…17代、18代 |
妙心寺大通院は原則非公開。この時は 大河ドラマに合わせた特別公開だった(2006) |
山内夫婦は境内奥にある御廟に眠る。 公開最終日でたくさん巡礼者がいた |
左が千代、右が一豊。墓石の背後に肖像画が掛かっている |
妻の千代は「内助の功」で夫を助けた賢妻。当時は女性の墓を小さく造るのが一般的だけど、住職さんいわく「千代が才女であったこと、また夫婦が深く愛し合っていたことから、同じ大きさの墓になった」とのこと。 |
義理の息子・湘南宗化の墓 |
本堂にある湘南宗化像 |
死後も2人から離れない家臣たち。 霊廟に隣接して眠っている |
関ヶ原合戦前に密書を届けた 孫作の墓は、遺言で千代の側に |
どうやら仲間由紀恵と上川 隆也が妙心寺に来たらしい |
こちらは岐阜城の手前にある石碑『山内一豊と千代・ 婚礼の地』。信長の岐阜入城と共に一豊もこの地へ(2009) |
JR津久見駅前の宗麟像 | 戦国の十字軍を率いて地上の天国を築こうとした(宗麟公園) |
戦国武将の墓とは思えないモダンな美しさ! こんな墓の大名は見たことがない |
十字架入りの棺には宗麟の名前の他に 洗礼名「ドン・フランシスコ」も刻まれている |
キリシタン弾圧を恐れて作られた 仏式の墓。葬式も仏式にやり直した |
この角度からだと仏式墓と洋式墓の両方が見える! |
菩提寺の京都大徳寺・瑞峯院の 枯山水は十字架の形を作っている |
こちらは瑞峯院にある大友夫妻の墓。 “瑞峯院”は宗麟の戒名だ |
キリシタン大名。本名大友義鎮(よししげ)。洗礼名はザビエルにあやかったドン・フランシスコ(普蘭師司怙)。一時は九州6カ国を支配し、幕府より守護職・九州探題職を任ぜられるなど、九州最強の大名だった。宗麟は貿易目当てで教会を保護していたが、ミサ曲で感動したことをきっかけに熱心なキリシタンとなり、領地に無鹿(ムジカ=ミュージック)という地名まで付けた。しかし、キリシタン王国の理想郷建設を目前とした1578年(48歳)に、薩摩の島津義久に日向(耳川の戦い)で大敗し、龍造寺軍や秋月軍の侵攻も受けて一気に衰退していった。家臣団も反キリスト者と宗教対立が起き分裂。最期は豊後1国を維持するのが精一杯だった。
宗麟の葬儀はキリスト教式に行われたが、秀吉がキリシタン弾圧を始めた為に、子の義統は仏式の葬儀をやり直し、墓も仏式に改めた。1977年、大分市長の発案で新たにキリスト教式の墓に改葬された。
※日本で初めて大砲(国崩し)を使ったのは宗麟。火薬も自分達で作った。
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悲劇の舞台となった有岡城跡 | 墨染寺の山門 |
この九重の層塔が村重の 墓と伝えられている |
女郎塚。信長に虐殺された 有岡城の女房たちの塚 |
女郎塚と村重の墓は墓地の一角に並んでいる |
信長に反逆した武将。織田軍に居城の有岡城(伊丹城)を包囲された村重は一年にわたって籠城。食料が尽きると、村重は単身城を脱出した。残された家臣たちは、非情な信長によって惨殺された。この時殺されたのは、有岡城の女房衆が122人、村重一族と重臣の家族が36人。後者は京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。信長はこれでもまだ怒りが収まらず、逃亡した村重の家臣を匿っていた高野山金剛峯寺の僧侶たち数百人を見せしめに殺した(信長は比叡山の焼討ちが有名だけど高野山でも殺している)。信長死後、村重は妻子を見捨てて生き延びたことを恥じ、名を「道糞」(どうふん)と名乗った。茶の教養があり利休七哲の1人。 |
道雪が愛した立花山 | その麓に道雪が眠る梅岳寺がある | 本堂左の細道の先に墓所 |
道雪の墓所! | 右端から、道雪、母の養孝院、重臣の薦野増時 | 道雪は家臣たちにめっさ尊敬されていた! |
こちらは婿養子の宗成が父道雪の菩提を弔う為に建立 した福岡柳川市の福厳寺。本堂裏に立花家の墓所がある |
奥の墓が道雪。手前は宗成だ(福厳寺) |
こちらは高野山の「筑後柳川立花家墓所」(2009) |
豊後・大友氏配下の名将。落雷のため若い頃に半身不随となり、戦場では輿の上で指揮をとっていた。落雷時に雷(雷神)を斬った刀を“雷切”と呼んで持っていたという。主君の大友宗麟が悪政を行った時は「大友の政治は無道である」と書き送り、たとえ相手が主君でも過ちを正面から批判した。道雪は日頃から「弱い兵などおらず、いればそれは大将の責任だ」と家臣を大切にしていた為、部下から絶大な信頼を得ていた。晩年はたった1人の愛娘・ァ千代(ぎんちよ)に家督を譲り、彼女は戦国時代では珍しい女性の武将として立花山の城主となった。
病に倒れた道雪の亡骸は養子の宗茂が立花山麓の梅岳寺に埋葬した。秀吉の九州平定で宗茂が功を挙げて所領が柳川に移り、柳川で新たに菩提寺を建立した後も、宗茂は道雪母子の遺骨を埋めた梅岳寺の墓を残した。 3つの墓石が並んでいる梅岳寺の墓は感動的だ。真ん中は最初に道雪が建てた実母の墓(梅岳寺はもともと母の菩提寺として建立された)。右端が道雪。では左端は誰か?なんと血縁者ではなく道雪の重臣・薦野(こもの)増時。通常であれば恩賞として石高や茶器を希望するところ、薦野増時は恩賞として死後は道雪の側に眠る権利を希望したのだった。いかに道雪が家臣に慕われていたかが墓を通して伝わってくる。
※道雪本人は生前に立花姓ではなく、戸次鑑連(べっき・あきつら)、戸次道雪と名乗っていた。 |
左端が龍造寺隆信。“肥前の熊”と呼ばれた | 石塔の中段が宝篋印塔のように天を向く珍しい形 |
同墓地に眠る隆信の養女・安子姫。 夫の波多源親が朝鮮出兵中に、姫の 美貌に惚れた秀吉が手込めにしよう としたので、なんと焼け火箸を顔に当て 貞節を全うした。秀吉のアホタレッ! |
隆信の嫡男・政家 |
左が隆信の孫・高房。鍋島氏が実権を手にした後、 幕府に権力移行を直訴したが果たせず、錯乱の末に 妻を殺して自害を試み、その傷が死因とも伝わる |
島津義久、大友宗麟と並ぶ九州三強の一人。娘婿をだまし討ちにするなど、家臣たちがドン引きするほど、裏切り、謀殺、何でもありの暴れん坊。大友勢を破るも、島津・有馬氏の連合軍と沖田畷で戦いで討ち取られた。重臣に智将・鍋島直茂がいる。隆信の父が敵に殺されると、実母は鍋島直茂の父の後妻になったことから、2人は義兄弟となった。 |
村上水軍のリーダー |
最寄り駅はJR大畠(おおはたけ)駅。“最寄り”と いってもここから車で大島大橋を渡り1時間かかる |
内海で穏やかな瀬戸内海。この島々を日本最大の海賊・村上水軍が支配していた |
「名物・海賊料理」。どんなメニューか気になる | 現在、村上武吉の子孫は島内で「村上酒店」を経営していた。武具が残っているとのこと |
「いつでも出せるぜ!」21世紀版・村上水軍の基地 | 墓所はこの山の中 | 「村上武吉公永眠の地」の石碑 |
元正寺の裏手に墓地があった。武吉は一番手前 |
土壁に囲まれているので分かりやすい。多くの有名武将の墓が行方不明になっているなか、 こうして今も武吉の墓石があるのは、地元の人が彼を愛し、墓所を守ってきたからだ |
墓地から降りると木立の奥に瀬戸内海が見えた | 瀬戸の島々に神が降臨!奇跡の一枚! | 大島から戻る途中で日没になった |
島の反対側には1826年に博物学者シーボル トが降り立った「シーボルト上陸の地」がある |
山口の県道のガードレールは特産品の 「夏みかん」色に全部塗られている! |
戦国期に自由を愛する海賊・海の大名として“村上水軍”を率いた瀬戸内の覇者、村上武吉(能島武吉とも)。イエズス会宣教師ルイス・フロイスは彼を「日本最大の海賊」と評した。1555年(22歳)、毛利元就VS陶晴賢の「厳島の戦い」では毛利勢につき勝利に貢献したことで周防(すおう)大島を与えられる。村上水軍は瀬戸内の要所の城を抑え、通行料をとることで大いに繁栄した。1576年(43歳)、第一次木津川口の戦いでは、快進撃を続けていた信長軍を破るという快挙を為す。ただし、2年後の第二次木津川口の戦いでは、信長勢の九鬼水軍(伊勢志摩の九鬼嘉隆軍)が完成させた6隻の巨大鉄甲船=水上要塞に手痛い敗北を喫している。信長の死後は海賊禁止令を出した秀吉に反発した。一方、武吉は徳川にも荷担せず、関ヶ原の戦いでは西軍につく。家督を継いだ長男・元吉はこの戦で戦死。徳川幕府に瀬戸内の制海権を奪われ村上水軍は壊滅した。その4年後(1604年)、武吉は生涯を閉じる。晩年は僧侶となった。海賊といっても武吉はただの無法者ではなく、数多くの連歌を詠む教養人で、日露戦争で日本海軍が参考にした水軍の兵法書『村上舟戦要法』を記している。また、信長、秀吉、家康の懐柔策をはねつけ、あくまでも毛利との義を重んじた男だった。法号は大仙寺覚甫元正。
墓は館跡に次男・景親が建立。武吉の妻は中国人と伝わっている。 |
「ミソ地蔵の才蔵寺」 住宅街にあり迷いまくった! |
才蔵寺はこの階段の上 |
可児才蔵の住居跡が寺に。 この湧き水は今も出てくる |
寺の境内に立つ才蔵の銅像。十文字槍を自在に操った。寺は参勤交代の 道に近く、古来より武将たちが馬から下り、水と花を墓前に供えたという。 |
可児才蔵の墓所。「かにさいざう藤原吉長」と彫られている。頭上には家紋の笹の葉。 「私が死ねば当地に埋め墓石を建てよ。死後3日内に墓の背後に竹が生えるだろうから、 首より上を病む者は、その竹の葉に願えば治癒するだろう」と遺言を残した。 果たして、竹は生え、願いがかなった者が才蔵の好物であった味噌を供えるようになった |
墓前のミソ地蔵。味噌を供える風習は今も残っ ている。ミソ地蔵の背後に山の如く積まれて いるのが祈願成就に感謝した奉納味噌だ |
美濃国可児郡出身。十文字槍の宝蔵院流槍術の開祖、興福寺の覚禅房・胤栄(いんえい)に槍術を学んだ勇将。合戦では倒した敵が多すぎて首級を持ち運べない為、鎧の背に笹を差した笹の葉を相手の口に入れて目印にしたことから「笹の才蔵」と呼ばれていた(本名は藤原吉長)。 1567年(13歳)、主君の斎藤氏が信長に滅ぼされ、信長の重臣だった柴田勝家、明智光秀、前田利家に順番に仕えていく。1583年(29歳)、当時の主君・織田信孝(三男)が秀吉に敗れて自刃。これを受けて秀次(秀吉の甥)の家臣となった。翌年、秀次が「小牧・長久手の戦い」で家康に敗れると、徒歩で逃げていた秀次を馬で追い越しさっさと戦場を離れ(逃走中の秀次に馬を貸せといわれた才蔵いわく「雨の日の傘ゆえ譲れません」)、佐々成政の家臣となる。 最後の主君は福島正則。小田原攻めでは敵の北条氏規に「あの武将は誰か」と言わしめる活躍をした。1600年(46歳)、関ヶ原の戦場で福島軍の斬り込み隊長となり、敵の首級を17もあげ、家康から称賛された(「笹の才蔵」は家康がつけた異名とも言われる)。合戦後、安芸国・広島藩に加増移封された主君と共に広島へ同行し、藩の槍術指南となる。晩年は才入と号し仏門に入った。1613年(59歳)、生前の予言通り、愛宕権現の縁日の日に甲冑を着たまま座った状態で息をひきとった。主君が斎藤龍興→柴田勝家→明智光秀→前田利家→織田信孝→豊臣秀次→佐々成政→福島正則と次々と変わる波乱の人生だった。 |
名鉄・青塚駅前の蓮華寺の道標 | 『蜂須賀城址』。小六の生誕地だ。中央の巨大石碑には「蜂須賀小六正勝公碑」と刻まれている |
蓮華寺本堂。墓所はこの裏手だ | どんどん進む。途中で右に墓地があるけどまだ先 | 最深部に丘があるので登る。すると… |
いたーッ!斜面に沿って墓があった |
文字がかすれて殆ど判別が不能だけど、蜂須賀 親子2人分(小六、家政)の戒名が彫られている |
右側の「福聚寺良巌浄張 大居士」が小六だ! |
墓所跡が大阪市天王寺区の吉祥寺に(2014) | 正面に「蜂須賀正勝顕彰之碑」、側面に戒名 |
こちらは高野山の「阿波徳島・蜂須賀家墓所」(2009) |
尾張国蜂須賀村(愛知県美和町)出身。父は土豪。斎藤道三、尾張岩倉城主・織田信賢、犬山城主・織田信清などに仕えた後、1558年(32歳)頃からは信長の重臣・秀吉に仕え、対外交渉に才能を発揮し参謀となっていく。1573年(47歳)、近江国長浜に秀吉から所領を拝領し、1581年(55歳)に播磨の龍野城主(5万3千石)となる。1582年(56歳)、本能寺の変が起きた時は、黒田官兵衛と共に備中高松城にて開城の説得を担当していた。その後も、山崎の合戦、賤ヶ岳の戦い、四国攻めで軍功をあげた。
1585年(59歳)、ついに阿波一国を与えられたが、小六は終生秀吉の側近でありたいと願いこれを許され、長男の蜂須賀家政に阿波を譲った。小六は翌年に60歳で病死していることから、死期を悟って中央で秀吉の側にいたかったのかも知れない。 墓所は愛知県の蓮華寺の他に、徳島市下助任町の興源寺や、徳島市眉山町にも建つ。法名は福聚寺良巌浄張大居士。 ※秀吉の父が小六の父の配下だったことから、秀吉が信長に仕える前は、秀吉の方が小六に仕えていたという説もある。
※秀吉の参謀としては、小六は竹中半兵衛より18歳、黒田官兵衛より20歳も年上になるが、両者の軍才を認めて意見を尊重していた。
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氏政像。打倒秀吉! | 後北条氏の拠点・小田原城 |
小田原駅前の商店街の一角に墓所がある | 右奥の大きな五輪塔は氏政夫人、中央の小さな 五輪塔が氏政たち。夫人の方が大きいって珍しい |
向かって右が氏政、左が氏政の弟・氏照。 なんとも可愛らしいミニ五輪塔だ |
墓前の平たい石は“生害石”と呼ばれ、この石の 上で氏政、氏照が自刃したと伝承されている |
関東大震災で墓所が埋没 し、翌年に有志が復元した ことを記した石碑が建つ |
氏政が民のことをいつも思っていたことから、 「ここにお参りすると幸せな出会いがある」と 噂され、願いが叶うと鈴を納めるようになった。 墓前は鈴だらけ。幸せになった人がいっぱい! |
こちらは箱根の早雲寺。ここには歴代北条氏が眠る | 4代氏政 | 向かって右から、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直 |
相模(さがみ)国、小田原を拠点とした後北条氏の4代当主。父は3代北条氏康、母は7代今川氏親の娘。1554年(16歳)、北条、武田、今川の三国同盟が成立。この時、氏政は武田信玄の娘を正室とし、5年後に21歳で家督を継いだ。
1561年(23歳)、上杉謙信の大軍の侵攻を受けるも、関東一の堅城・小田原城に籠城し防ぎきった。同年、謙信が川中島の戦いで兵力を消耗した好機を狙って北条勢は反撃を開始。謙信に支配された領地を取り戻した。しかし、1567年(29歳)の里見氏との「三船山の戦い」では内通者が出て大敗を喫す。2年後に信玄が同盟を破棄して小田原に攻め入るが、再び小田原城の籠城作戦ではね返した。1570年(32歳)、北条氏は上杉氏と同盟し、氏政の弟(後の上杉景虎)が養子として差し出される。 1571年(33歳)、父・氏康が他界し、“謙信より信玄を味方にする方が得策”という遺言に従って信玄と同盟し謙信に向かった。1577年(39歳)、氏政は娘を里見義頼に嫁がせ旧敵の里見氏と和解。翌年、謙信が急死すると越後では後継者争いが勃発した。これに敗北した弟の景虎は自刃。信玄、謙信が世を去ると、氏政は家康や信長との関係を強化して関東制圧を目指す。 1580年(42歳)、次男の氏直に家督を譲り後見役となる(長男は早逝)。1582年、武田氏は信長軍に滅ぼされ、氏政の妹は夫の武田勝頼と共に自害した。翌年、家康の娘・督姫が5代当主になった氏直に嫁ぐ。その後も北条氏は勢力を伸ばし続け、1585年(47歳)には相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部まで領土とし、240万石という繁栄のピークを築いた。 1587年、秀吉が関東・奥羽地方に向けて大名間の私闘を禁じた惣無事令(そうぶじれい)を発布。1589年(51歳)、氏政の弟・氏邦に仕える猪俣邦憲(くにのり)が、真田氏の名胡桃城を奪取したことから、秀吉は惣無事令違反として小田原征伐を決定する。氏直は既に名胡桃城を真田氏に返還したこと、氏政や氏直は奪取を命令しておらず真田側の城主が北条に寝返っただけと再三にわたり弁明したが、プライドの問題から上洛して服従の姿勢を見せることはなかった。 翌1590年、全国から集まった秀吉軍22万の大軍が北条領に攻め入った。氏政・氏直親子は謙信や信玄を撤退させた時と同様に小田原籠城でしのごうとしたが、100日間の包囲で領民の生活をこれ以上犠牲に出来ぬと考え、氏直が「この命と引き換えに全将兵の助けて欲しい」と降伏した。秀吉は北条討伐のけじめとして、氏政、氏照、松田憲秀(宿老)、大道寺政繁(宿老)の4人に切腹を命じ、氏直は家康の娘婿であることを考慮されて助命となり高野山に流された。氏政の辞世の句は、「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」。
北条早雲が1493年に下克上で伊豆国を支配したことを皮切りに始まった、97年間に及ぶ後北条氏の関東制覇の戦いはここに終わった。享年52歳。 ※小田原城の落城から約半年後に氏直は赦免され、高野山から解放される。そして1年が経った頃には関東に1万石を与えられて大名として復活した。だがしかし、そのわずか3ヶ月後に疱瘡となり大坂で病死した。享年29歳。氏直の遺領の4割を氏政の弟・氏規(うじのり)が継ぎ、その子孫が河内国狭山1万石の大名となった。
※結果的に後北条氏を滅ぼしたことから氏政の評価は低いが、早雲、氏綱、氏康と先代の3人が名君ばかりゆえ比較され損をしている部分がある。織田氏のように兄弟間で戦をすることもなく、夫人(信玄の娘)を深く愛し、武田との対立で泣く泣く夫人と離縁した後、武田と再同盟した際は一番に妻の遺骨を貰い受けて手厚く葬ったと伝えられる。 |
早雲寺の5代氏直の墓 | こちらは高野山の「小田原北條家墓所」(2009) |
「賤ヶ岳七本槍」の1人 |
脇坂家の菩提寺、妙心寺隣華院。表札が“脇坂”! |
左端に並んでいるのが歴代脇坂家の墓。奥に映る 建物は保育園。子ども達の明るい声が響く墓地! |
安治の墓は一番右端!お寺の方に案内 して頂くと、戒名だけが彫られていた |
背後からパチリ。安治の墓は最も保育園に近い。 彼もなごみまくりじゃないだろーか (*^v^*) |
「賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍」の最年長武将。当初は浅井長政に仕えていたが、1573年(19歳)に浅井氏が滅亡。織田方に降り明智光秀配下の中堅武将として武功を挙げる。その勇猛さは敵将“丹波の赤鬼”赤井直正を感心させ、貂の皮の槍鞘を贈られたと伝えられる。その後、秀吉配下となって赤母衣を賜った。
1582年(28歳)、本能寺の変。1583年(29歳)、秀吉と柴田勝家が衝突し「賤ヶ岳の戦い」が勃発。この合戦で安治は、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則、片桐且元らと共に「賤ヶ岳七本槍」として武名を轟かせた。さらに、小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐など各地の戦場で活躍。朝鮮出兵では、朝鮮水軍の名将・李舜臣と激戦を繰り広げた。これらの功績により、3万3千石の大名となった。
1600年(46歳)、関ヶ原の戦いに際して、安治は東軍に加わるつもりだったが、大阪滞在中に石田三成が挙兵してしまい、成り行きで西軍側に約1000名の兵を率いて参戦した。正午頃、小早川秀秋が裏切ったことから、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱と共に脇坂軍も寝返った。 1609年(55歳)、伊予大洲藩5万3500石に加増移封。1614年(60歳)、大坂の陣が開戦すると、豊臣に恩を感じていた安治は中立を決め込んで参加しなかった。これによって徳川に睨まれたことから、冬の陣の翌年に隠居し、京都で剃髪した。1626年に72歳で他界。安治が創建した妙心寺の塔頭隣華院は4代安照まで脇坂家の菩提寺になった。家紋は「輪違い」。
※江戸幕府から家系図提出の命令が下った際、正直な安治は“昔のことは分からん”と父の代からの系図を作り、「北南それとも知らずこの糸の ゆかりばかりの末の藤原」という和歌を付けて提出し、その風流さで家光を唸らせた。
※安治は中書(中務少輔)を務め、京都・伏見に屋敷を構えていた。安治の別名「中書(ちゅうじょう)さま」から、脇坂屋敷があった一帯を「中書島」と呼ぶようになった。
※龍野神社には賤ヶ岳の戦いで使われた十文字槍が収められている。
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右が長秀、左は次男の長正 |
尾張出身。柴田勝家、滝川一益、明智光秀と並ぶ信長四天王の一人。“鬼五郎左”の異名を持ち、「柴田・丹羽の双璧」といわれた。信長に近江佐和山城を与えられる。本能寺の変後は秀吉と共に光秀を討ち、賤ヶ岳の戦に功を立て柴田勝家が滅びると、越前北ノ庄を居城とした。死因は胃癌。秀吉の独裁を止めることができなかったことを信長旧臣として悔い、切腹して内臓の癌病巣を秀吉に送りつけたという説もある。子孫は二本松藩主として明治時代を迎えており、四天王の家系で江戸時代の大名家として残ったのは長秀のみ。戒名は「総光寺大隣宗徳」。 |
墓所の中央付近 | 墓石には「平野家累代之墓」とあった(2010) |
京都市伏見区宝塔寺の供養塔(右) | うっすらと「長泰」がトップに(2012) |
賤ヶ岳の七本槍の1人。20歳から羽柴秀吉に仕える。23歳の時に本能寺の変が起き、1583年(24歳)柴田勝家と雌雄を決する「賤ヶ岳の戦い」で武勲をあげ、加藤清正、福島正則、片桐且元らと共に“賤ヶ岳の七本槍"と称賛された。翌年の「小牧・長久手の戦い」でも奮戦し、大和国に5千石の知行を与えられる。 1600年(41歳)関ヶ原の戦いで東軍に属して徳川秀忠に従うが、秀忠軍は真田討伐に手こずり関ヶ原に遅参。10年以上秀忠に仕えたが、1615年(56歳)の大坂の陣では豊臣方につこうとして家康に直訴するも認められず、江戸の留守を任された。3代家光の代まで生きた。 墓所の泉岳寺は、家康の命で建てられた由緒ある寺。 |
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