農民出身でありながら、最後は幕府旗本の武士として薩長と戦った近藤勇。剣の達人。 怖そうに見えるが、両頬に笑いエクボがあったという。拳を大きな口に入れるのが特技だった |
近藤局長の生家跡。かつてここには面積約7千平方メートルもの大屋敷があったが、 残念ながら1943年に取り壊された。現在の跡地は屋敷の東南部にあたる(2010) |
生家跡に残っている「近藤勇 産湯の井戸」。 リアルに当時のもの! |
生家跡に隣接して局長を祀る近藤神社が建つ |
天然理心流道場「撥雲館」(はつうんかん)。養子の勇五郎が後継者となり、1933年に他界する まで教えていた。生家跡と道を挟んで建つ。※“撥雲”とは雲を蹴散らすこと。命名は山岡鉄舟! |
近藤らが京都で最初に身を寄せた八木邸。 新選組発祥の地ともいえる |
『新選組屯所遺蹟』 芹沢は八木邸で散った |
壬生寺の境内。ここで沖田や 古参の隊士たちが訓練をした |
壬生寺の近藤勇像 |
近藤の遺髪塔 (壬生塚) |
八木邸の向かいにある前川邸。一般隊士 はこちらに住み、八木邸は幹部が使った |
前川邸。山南が切腹したのはこの建物! (売店のすぐ裏の部屋とのことデス) |
近藤が雨戸に書いた 「勤勉・努力・活動・発展」 (展示パネルより) |
池田屋騒動の発端と なった拷問部屋。 くわばらくわばら… |
庭には顔出しパネルが あった。これで貴殿も新選 組隊士の仲間入り! |
京都市東山区の霊山護国神社にある「古高俊太郎之墓」。1864年、新選組に捕縛された商人・古高は苛烈な拷問を受ける。逆さ吊りにされ足の甲に五寸釘を 打たれ、突き抜けた釘に蝋燭を立てられ火をつけられるというエグさ。古高は耐えきれず隠し持っていた大量の武器弾薬が攘夷派志士のものであると 自白した。これを受けて新選組は池田屋に潜伏する志士を急襲する。事件の翌月、禁門の変の火災が古高の獄舎に迫り、逃亡防止の為に斬首された |
現在の池田屋の前の道。先は三条大橋。 旅籠の池田屋は明治初期まであった |
池田屋跡は貸店舗になってる。以前はパチンコ屋 だったらしい。う〜ん、これは寂しい!(2008) |
2年後に再訪。なんと「池田屋」が復活ッ!09年7月に 海鮮茶屋として開店。東映が内装に協力したとのこと! |
『池田屋騒動之址』の石碑と事件の顛末を記した案内板 |
“誠コース”“土方コース”等々。 龍馬が好きだった軍鶏鍋もあり |
カクテルの名前が「斉藤一」「山南敬助」。近藤は 下戸なのでノンアルコールの名前になっていた(笑) |
池田屋から約150mの賀茂川に架かる三条大橋。その下流側欄干の西から 二つ目の擬宝珠には池田屋騒動時についたとされる三本の刀傷がある(2010) |
京都市左京区岩倉花園町の三縁寺。 池田屋の近くから移転してきた(2010) |
山門脇の石柱「池田屋 事変殉難烈士墳墓」 |
寺墓地の一角に、新選組に斬られた志士たちの墓所が ある。正面の鳥居の奥に宮部鼎蔵と松田重助の墓碑 |
左側に吉田稔麿、杉山松介、北副佶摩、望月亀彌太、石川潤次郎、廣岡浪秀の 6人の合同碑があり、その隣に大高又次郎の碑が建つ(白い石柱) |
右側には後年の改葬時に偶然発見 された宮部と松田の旧墓碑が建っている |
京都の霊山護国神社に ある宮部鼎蔵の墓(2010) |
新選組はこの西本願寺の境内で、大砲を撃ったり 豚を飼って肉を食べ、僧侶たちを激怒させた(オイオイ) |
新選組がいた当時のままの太鼓堂(右手前の建物)。 白人男性2人が見学している。完全に攘夷失敗! |
“禁門の変”で長州藩を撃退した京都御所の蛤御門 | 蛤御門には多数の弾痕(白い部分)が残る |
3番目の屯所跡に建つリーガロイヤルホテル。 ホテルの前に「不動堂尊屯所」の石碑がある |
西本願寺からさらに引っ越したのが、広さ1万平方メートルで 大名屋敷のように立派だったと伝わる「不動堂尊屯所」 |
島原の大門。新選組の隊士達もこの幕府公認 の花街に繰り出し、酒を呑んで恋をした |
島原の提灯 |
角屋(すみや)は幕末の京都で最大の宴会場 だった。芹沢はここで呑んだ夜に粛清された |
知る人ぞ知る新選組記念館。何もかも手作り。2階の天井に傘がぶら下がってるのは、 雨漏り対策とのこと(今にも天井が落ちそう!)。いろんな意味で衝撃的だった |
天満屋事件の場所。“勤王之士中井正五郎受難之地”とある。 旅籠・天満屋で新選組と土佐藩士が激突した |
一番隊組長・沖田総司。命日 のみ公開(東京・専称寺) |
総長・山南敬助 (京都市・光縁寺) |
初代筆頭局長・芹沢鴨 (京都市・壬生寺) |
三番隊組長・斎藤一/藤田家 (会津若松、阿弥陀寺) |
四番隊組長・松原忠司 (京都市・光縁寺) |
六番隊組長・井上源三郎(東京都日野市・宝泉寺)鳥羽・伏見の戦いで戦死。副長助勤(2010) | 宝泉寺境内にある源三郎の顕彰碑 |
七番隊組長・谷三十郎は大阪市の本傳寺に。 三十郎は京都で謎の死を遂げる(2011) |
「谷累代之墓」谷三兄弟の 次男・万太郎の妻方が建立 |
右から2番目が三十郎。左端に近藤勇の養子になった 末弟の谷昌武(周平)の名。次弟の万太郎は右側面に 戒名で、「自證院本覚日遊居士」と刻まれていた |
ちなみにお隣は ○○ホテル・プリンス(汗) |
「大坂旅宿跡」 大阪市天王寺区の萬福寺(ばんふくじ)は新選組の大坂屯所(2014) |
東京・王子の寿徳寺。門の脇に局長のレリーフがある | 石碑には「新選組隊長近藤勇菩提寺」とある |
近藤の墓は各種文献に寿徳寺と書かれているので、住宅街の中に埋もれていたこの寺を30分かけて探し出した。門前の局長の肖像を見て テンションがマックスになったのも束の間、境内にそれらしい墓はない。お寺の方に尋ねたところ「ここにお墓はなく、板橋の駅前に墓だけがある んです」とのこと。グハ〜ッ!まさか寺と墓地が分かれていたとは!(いわゆる境外墓地ってやつだ!) これにはまいった。さぁ板橋へ! |
板橋刑場跡に永倉新八が整備した新選組の墓所(2008)。 近藤は処刑後、首は京へ送られ、胴はここに埋められたという |
局長だけでなく、下っ端の隊士も皆が弔われている |
この小ぶりの石が 近藤局長の墓石! |
近藤と土方、両者の名が刻まれた3.6mの巨大な供養塔 ※側面には源さんたち他の隊員(110名)の名前もある ※本名昌宜だけど、これは宜昌って間違えてる…(汗) |
多数の隊士が祀られた無縁塔 |
新選組二番隊組長・永倉新八の墓。 永倉の本墓は北海道小樽だが、遺言で 分骨され、遺骨と遺髪が納められている |
日本酒とオツマミがあり、小梅ちゃんもあった | ここにも例のレリーフが | 微妙な局長の像 |
元参謀・伊東甲子太郎 (京都市、戒光寺) |
香川敬三(1841-1915)。流山で近藤を捕縛した水戸 藩士。陸援隊に参加後、戊辰戦争で大軍監になった (東京都、青山霊園)2010 |
加納鷲雄(道之助 1839-1902)。元新選組隊士。偽名で 投降した近藤を見破った。大河ラストの「お久しぶり です、加納君」の名シーンが蘇った!(青山霊園)2010 |
天寧寺前の柱に 「嗚呼」とあった |
墓前まで少し距離があり、 道標を頼りに山道を行く |
ジーン。近藤の墓(左)と土方の供養塔が並ぶ。後世の優しい 人が“土方を並べてあげようよ”って提案したんだろうね (>_<) |
法蔵寺の山門。家康は幼少の頃、当寺で勉強したそうだ | 「新撰組隊長・近藤勇首塚」 | 境内の奥に進むと階段の先に赤い「誠」の旗が! |
この寺の39代目住職と近藤局長が親しかったという | 墓前には青い「誠」の旗もたなびいていた | このド迫力!墓と一緒に見るとすごい存在感! |
いったいなぜ局長の墓が愛知県に?寺伝には次のように伝えられている→ 『板橋での処刑後、近親者の依頼を受けた人夫たちが、夜中密かに胴体を掘り出し、三鷹の竜源寺(近藤家の菩提寺)に埋葬した。一方、勇の首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋の西側に晒された。それを同志が三晩目に持ち出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の空義天大和尚(おしょう)に埋葬を頼もうとしたところ、和尚は半年前に三河国法蔵寺に転任していた。法蔵寺は大木が生い茂る山中にあり、隠れ墓を作るのに適していた。かくして埋葬後、世間に悟られぬよう、石碑を土で覆い無縁仏のようにした。近年、石碑から土砂を取り除いたところ、台座に土方たちの名前が見つかった』。けっこう具体的で説得力がある。 |
銅像の右側が墓。建立者の名前が土台にある | よく見ると一番右側に…ゴゴゴゴゴ… | 「土方歳三」とハッキリある! |
局長の胸像は背中に家紋が入ってマス |
近藤家の菩提寺、竜源寺の山門(2010) | 壬生寺や法蔵寺で謁見した局長の胸像がこちらにも! | 本堂の裏、一番手前が近藤家の墓所 |
初巡礼。到着した時はもう真っ暗!(2001) | 3年後。墓前はお花がいっぱい!(2004) | さらに6年後。右から2番目が局長。木が成長しまくり(2010) |
千羽鶴はこれまで局長、沖田、龍馬の墓前のみで確認! | 正面から。「近藤勇墓」と刻まれている(2010) |
墓前の箱にはなんとファンのメッセージ・ノートが!しかも相当な量ッス!(約25冊) | 近藤の首が晒された京都の三条河原。池田屋から近い |
新選組局長。名は昌宜(まさよし)。武蔵国(東京・調布市)の農家、宮川久次郎の三男。幼名、勝五郎。1849年(15歳)、天然理心流3代目宗家・近藤周助の道場(試衛館)に入門して剣術を磨き、盗人退治などで知勇を発揮。周助の望みで近藤家の養子となった。26歳で結婚し、同年に天然理心流4代目家元となる。2年後に長女が誕生。 1863年(29歳)、14代将軍家茂の上洛を警護する「浪士隊」に応募し、門下の土方歳三(1歳年下)、沖田総司(8歳年下)らと共に京に入る(浪士隊は234名)。ところが浪士隊盟主の清河八郎が上洛するやいなや幕府を裏切り「将軍警護より倒幕こそ重要」と主張。感銘を受けた200余名が江戸に戻ってしまう(2ヶ月後、清河は江戸で暗殺される)。 京都に残ったのは近藤たち試衛館の者と、水戸郷士・芹沢鴨ら24人のみ。彼らは壬生(みぶ)村・八木源之丞邸に駐屯した。そして京都守護職、会津藩主・松平容保の配下として「壬生浪士組」を名乗り治安維持活動を行った。同年、会津藩&薩摩藩が攘夷派の長州藩を京都から追い出した宮中クーデター“八月十八日の政変”が勃発。壬生浪士組は御所の警護や長州藩士の捕縛が評価され、会津藩別動隊「新選組」の呼称を拝命した。翌月、乱行の目立った初代局長・芹沢鴨が土方、沖田らに暗殺され、近藤を局長とした強固な組織が完成する。新選組は尊王攘夷運動を繰り広げる尊攘攘夷派志士の取り締まりを強化していく。 元治元年(1864年)6月5日(30歳)、肥後勤王党の熊本藩士・宮部鼎蔵(ていぞう)の同志で商人の古高俊太郎を捕縛。古高が多数の武器弾薬を保管し長州藩と親しかったことから、“鬼の副長”土方歳三が拷問にかけた。それは逆さ吊りにして足の甲に五寸釘を打ち、貫通した釘にロウソクを立て火をつけるという苛烈なもので、古高は「京都御所に火を放ち、混乱に乗じて一橋慶喜(後の15代将軍)・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州に連れ去る」という大胆な計画を自白した。 近藤は直ぐさま過激派志士の捜索を開始、近藤隊10名、土方隊24名の二手に分かれて都を駆け巡る。22時過ぎ、近藤隊が旅館・池田屋に潜伏している尊攘派を発見した(古高捕縛後の対策を練っていた)。事態は火急であり、近藤は土方らの到着を待たずに突入を決定。近藤、沖田、永倉新八、藤堂平助のわずか4名で、志士20数名が潜む屋内に踏み込んだ。藤堂が額を斬られ、沖田が喀血し、一時は近藤と永倉の2人になるも、やがて土方隊が合流。激闘の末に、長州、土佐、熊本藩士ら9名を斬り捨て、4名を捕らえた。新選組側は裏口を守っていた3人が死亡(奥沢栄助は当日死亡、安藤早太郎と新田革左衛門は後日死亡)。翌朝、新選組は諸藩と連携して逃亡した志士の掃討戦を行い、会津藩5名、彦根藩4名、桑名藩2名の死者を出しつつも20余名の捕縛に成功した。新選組は正午に壬生村の屯所まで凱旋し、多くの見物人が沿道を埋めた。 この池田屋事件で御所焼討ち計画を防いだ新選組の名声は都中に広まり、幕府から多額の褒賞金を賜った。 多数の犠牲者を出した長州藩では武闘派の怒りが爆発し、池田屋事件の翌月に挙兵。上洛して禁門の変(蛤御門の変)を起こすが、またしても会津藩&薩摩藩に蹴散らされた。新選組も長州軍を撃退し、大いに活躍する。同年秋、藤堂平助の仲介で北辰一刀流の達人・伊東甲子太郎を参謀として新選組に迎え、伊東の盟友も数名が隊士となった。 1867年(33歳)、新選組隊士105名が幕臣となる。農民出身の近藤が旗本へと登りつめた。目出度いことではあるが、この時期、新選組は分裂の危機にあった。佐幕攘夷派の近藤・土方らと、勤王攘夷派の伊東には、攘夷の方法をめぐって路線の違いがあり、伊東は藤堂平助ら同志14名と共に御陵衛士(高台寺党)を結成して3月に新選組を離脱した。本来であれば脱走者は切腹であるが、薩摩藩の動向を探る“分隊”という形をとり衝突を避けた。新選組の奮闘も時代の流れを止める事はできず、10月に幕府は大政奉還を受け入れ、徳川の治世は終焉を迎える。1ヶ月後の11月15日、京都近江屋にて坂本龍馬が暗殺される。人々は龍馬殺害の犯人を新選組と噂し合ったが、近藤は明確に否定した。 龍馬暗殺の3日後、近藤は伊東との共闘は不可能と判断し御陵衛士の粛清を決行する。剣豪である伊東を歓待し、酔わせた上で隊士に暗殺させ、その遺骸を路上に放置した。これは罠であり、遺骸を引き取りに来た御陵衛士たち(藤堂も)を待ち伏せて斬り捨てた。御陵衛士残党は復讐を誓い、翌12月に伏見街道で近藤を狙撃。右鎖骨上から上斜脊椎の肩にかけ銃創を負った近藤は大坂城で療養することになり、1868年正月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いには参戦できなかった。 その後、江戸に戻り大久保剛と改名し、幕命により甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織する。3月に甲斐国勝沼(山梨県甲州市)で新政府軍と戦い敗北。永倉新八、原田左之助は離別した。近藤はさらに改名して“大久保大和”と名乗り、下総国流山(千葉県流山市)で再起を図るが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され出頭する。近藤はあくまでも“自分は大久保大和である”と名乗っていたが、新政府軍にいた元御陵衛士の加納鷲雄に“近藤勇”と見抜かれ、4月25日に江戸・板橋の刑場で斬首された(土佐藩は龍馬を新選組が殺した思っており斬首にこだわった)。戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。近藤の首は焼酎に浸され、京都に運ばれて三条河原にさらされた。娘は長男久太郎を産み25歳で早逝。久太郎は日露戦争で戦死し、直系の子孫は絶えた。 幕府は次々と志士を捕縛する近藤の手腕に感服し、何度か要職に採り立てようとしたが、近藤は誘いがある度に「逆賊を捕らえるのが仕事であり当たり前のことをしてるだけ。お心遣い下さらなくて結構。私は今のまま新選組隊長でいるのが一番いい」「高い地位は私の任ではないから」と固辞し続けたという。厳格な身分制度の世にあって、百姓として生まれ幕臣として散った、嵐のような33年であった。 【墓について】 近藤の首は三条河原で晒された後に行方不明になったとされているが、それにも諸説があり、全国に6カ所の墓所が確認されている。どこか1カ所が正しいというより、各所に分骨されたのかも知れない。 ・新選組墓所(東京都板橋区)…元処刑場に新選組二番隊組長・永倉新八が墓を建立。首は京へ送られ、胴体はここに埋められたという。ちなみに本名の昌宜が、誤って宜昌と彫られている。 ・竜源寺(東京都三鷹市)…近藤家の菩提寺。養子の勇五郎が刑場から亡骸(胴体)をもらいうけ、生家に近い竜源寺に葬ったという。頭部を竜源寺に葬ったとする説もある。墓前にはたくさんの千羽鶴がある。歴史上の人物で、墓所に千羽鶴があったのは、近藤局長、沖田、龍馬だけでしか見たことがない。また、墓前には約25冊ものメッセージ・ノートがあった。 ・天寧寺(福島県会津若松市)…天寧寺の裏山に、会津藩が建てた墓がある。京都三条大橋下流に晒された首を何者かが持ち去り当地に埋めたといい、土方らが会津に来た時にこの墓に参詣している。土方が遺体の一部を葬ったとも。今は近藤の墓(左)と土方の供養塔が並ぶ。後世の優しい人が“土方を並べてあげようよ”って提案したんだろう。 ・壬生塚(京都市中京区)…新選組の最初の屯所、八木邸のそば。遺髪を埋葬。 ・法蔵寺(愛知県岡崎市)…勇と懇意だった僧侶が埋葬した首塚。なぜ局長の墓が愛知県に?寺伝には次のように伝えられている。『板橋での処刑後、近親者の依頼を受けた人夫たちが、夜中に胴体を掘り出し、三鷹の竜源寺に埋葬した。一方、勇の首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋の西側に晒された。それを同志が三晩目に持ち出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の空義天大和尚(おしょう)に埋葬を頼もうとしたところ、和尚は半年前に三河国法蔵寺に転任していた。法蔵寺は大木が生い茂る山中にあり、隠れ墓を作るのに適していた。かくして埋葬後、世間に悟られぬよう、石碑を土で覆い無縁仏のようにした。近年、石碑から土砂を取り除いたところ、台座に土方たちの名前が見つかった』。けっこう具体的で説得力がある。 ・高国寺(山形県米沢市)…首塚。米沢で織物業を営む従兄弟の近藤金太郎が晒されていた勇の首を盗み出し、板橋の刑場から7kmほど北の赤羽近くの河原で焼いた後、紙に包んで米沢に持ち帰り、高国寺(鍛治町)の近藤家墓地に埋葬したという(金太郎の孫・利三郎が残した「覚書」による)。 西郷や龍馬を愛する僕がなぜ新選組の墓を訪れるのか。簡単だ。討幕派、幕府派ともにその思想こそ違えども、自分の命を勘定に入れず、真に国や社会を憂いて生き抜いた連中だからだ。考えてみれば、あの時代はどの陣営に属していようと行動した者は、ほとんど非業の死をとげている。吉田松陰を無残に処刑した井伊直弼は暗殺され、志士を血祭りにあげた新選組も壊滅し、西郷を討った大久保利通も殺された。生き残ったのは世渡りのうまい大商人だけだ。 【 新選組局中法度 】 一. 士道に背きまじきこと 二. 局を脱するを許さず 三. 勝手に金策いたしべからず 四. 勝手に訴訟取り扱うべからず 五. 私の闘争を許さず 右の条々あい背き候者は切腹申しつくべき候なり 【 新選組・組織構成表 】 局長・近藤勇(天然理心流) 副長・土方歳三(天然理心流) 総長・山南敬助(北辰一刀流) 参謀・伊東甲子太郎(北辰一刀流) 一番隊・沖田総司(天然理心流) 二番隊・永倉新八(神道無念流) 三番隊・斎藤一(一刀流) 四番隊・松原忠司(関口流) 五番隊・武田観柳斎(北辰一刀流) 六番隊・井上源三郎(天然理心流) 七番隊・谷三十郎(新陰流) 八番隊・藤堂平助(北辰一刀流) 九番隊・鈴木三樹三郎(北辰一刀流) 十番隊・原田左之助(宝蔵院流) ※志士の恨みを買った近藤は何度も命を狙われた。ある時、志士十数人に待ち伏せされたが、彼は逆に「お前たちに死の贈り物をしよう」と叫んで斬りまくり、暗殺者たちは逃げ去ったという。 ※新選組の全隊士は456人。 ※池田屋事件は、有能な志士が一掃されて維新が数年遅れたという説と、逆に志士たちに怒りを生み維新を早めたという説がある。 ※写真の近藤は怖そうに見えるが、両頬に笑いエクボがあったという。拳を大きな口に入れるのが特技だったが、これは敬愛する加藤清正の特技をあやかったもの。 ※剣術の師匠、近藤周助いわく「気迫で人を倒すのが彼の剣法だ」。 ※愛刀は講談のセリフ「今宵の虎徹は血に餓えている」で知られる“虎徹”。近藤の虎徹は偽物という説もある。 ※忠臣蔵の大石内蔵助を尊敬しており、赤穂浪士を真似て新選組の隊服をデザインしたという。 ※生家は太平洋戦争中の調布飛行場延長工事で取り壊された。 ※壬生村屯所となった前川邸には近藤が「勤勉・努力・活動・発展」と書いた雨戸が現存する。 ※「新選組」は「新撰組」とも表記されるけど、新選組の公印や近藤勇の書状では“しんにょう”になっており「新選組」が相応しい。 |
上野公園にある彰義(しょうぎ)隊の墓。新選組解散後は彰義隊に合流して薩長と戦った者もいた(2008) |
京都・壬生の八木邸お茶席にあったこのポスター、3枚とも超欲しいんですけど!!(☆o☆) |
カリスマ性バツグン! | 現代なら俳優になれそうなイケメン |
生家近くの高幡不動尊(東京都日野市) | 高幡不動尊に建つ超カッコいい土方歳三像!男も惚れるぜ! |
歳三の生家は1846年の大洪水で被害を受け、300m西に移築された。現在「土方歳三資料館」として遺品等を公開しているが、 近年の新選組ブームで来客が増えすぎ、今は毎月第1&第3日曜日の正午〜16時という4時間のみの開館となっている。 ※大阪から日野市まで行って閉まっていたので涙目に… |
土方家の菩提寺・石田寺(日野市) | 境内にある土方歳三顕彰碑 |
画面中央が歳三の墓(2009) |
土方一族の墓所の一角に眠る |
墓前に肖像写真があったけど、 変色して可哀相なことに… |
こちらは9年前(2000年)の墓! この3ヶ月後に建て直されたので 今となっては貴重な写真だ |
「鳥羽伏見戦跡碑」。当地から歴史が変わった!(2010) |
薩摩の砲声を機に両軍が最初に激突した小枝橋 | 小枝橋は近年の拡張工事でグンと大きくなった |
小枝橋のすぐ近くにある鳥羽離宮公園に建つ「鳥羽伏見の戦い (戊辰戦争)勃発の地」碑。生垣で解説の下半分が読めません… |
新選組は会津藩と幕府軍の間に布陣! ※鳥羽離宮公園の解説板より(2010) |
薩摩藩の本営があった伏見の城南宮 (2010) |
函館市内の称名寺 | 歳三と新選組隊士の供養塔 | 供養塔の手前には千羽鶴や墓参ノートがあった |
函館どっくの入口付近。新選組が守備した 弁天岬台場の砲台陣地は公園になっていた |
「弁天岬台場跡」。この案内板がなければ ここが激戦地だったとはまず分からない |
五稜郭から箱館中心部に続く一本木の関門 |
「土方歳三最後之地」。歳三は弁天岬砲台で
孤立した仲間を救出するためここから出撃した |
午前10時頃、一本木関門において 腹部に銃弾を受けて戦死した |
戊辰戦争で決戦の舞台となった五稜郭。 近年“五稜郭タワー”が高くなったので、 美しい五稜郭の全容が見渡せる |
五稜郭の敷地には土饅頭が幾つもあり、管理事務所に 隣接するこの木の根元からも人骨が出て来たとのこと。 歳三たちもこのように葬られたと見られている |
五稜郭の中心に復元中の 箱館奉行所(2010年完成予定) |
五稜郭タワー。60mだったのが 06年に107mにリニューアルされた |
タワーの1階に大砲と歳三の銅像がある |
生誕地の銅像と異なり こちらは晩年の洋装 |
タワーの展望台には五稜郭の歴史がフィギュアで解説されている。 この『土方歳三最期の突撃』は鬼神の如き表情で引き込まれる |
ツーショットで撮られまくり だった歳三の座像 |
函館の碧血(へっけつ)碑 (1998) |
箱館に散った旧幕府軍約800名の慰霊碑。中国の故事 は「義に殉じた血は3年後に碧色に変わる」と伝える |
明治8年に榎本武揚らが 供養のため建立(2009) |
泣く子も黙る新選組の鬼の副長。本名義豊。雅号は豊玉。現・東京都日野市の農家に生れる。幼くして両親を亡くし、次兄に育てられた。11歳で上野の呉服商松坂屋に丁稚奉公に出るが番頭と衝突して帰郷、家伝の打身薬「石田散薬」の行商を手伝う。23歳の時に天然理心流剣術の師範に入門し、近藤勇と同門となる。1863年(28歳)、14代徳川家茂の上洛を警護する浪士隊に近藤や沖田らと参加。京都では新選組を組織し副長となる。陣中法度や局中法度など厳しい隊規を定め、違反者は容赦なく斬り捨てた。入京の半年後、傍若無人であった初代局長・芹沢鴨を暗殺。2代目局長の近藤を助けて京都の警備に当たった。1864年(29歳)の池田屋事件で諸藩の倒幕派志士を一掃し、新選組の名は世間に轟く。
大政奉還の翌年、明治元年(33歳)。戊辰戦争の初戦となる鳥羽・伏見の戦では、負傷した近藤に代わって隊を指揮するが敗れて江戸に戻る。その後、名を内藤隼人と改名し、近藤らと甲陽鎮撫隊を組織して山梨県勝沼で維新軍と戦うが、その圧倒的火力の前に敗北。捕われた近藤を助けようと土方は勝海舟を頼るが、願いかなわず近藤は斬首。一ヵ月後には弟のように可愛がっていた沖田も結核で病没する。その後、土方は小山、宇都宮、会津と各地を転戦し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流、蝦夷地に渡った。
1969年(34歳)、箱館に成立した蝦夷島政府で陸軍奉行並に選任される。同年5月、土方は維新軍との最終決戦となった箱館五稜郭の戦いで、旧幕府軍が降伏する直前に「ここで降伏しては、地下の近藤に合わせる顔がない」と一人敵地に突撃を敢行し、異国橋付近で腹部に銃弾を受けて戦死した。最後まで背中に新選組の『誠』を背負って戦い抜いたのだ。土方は戦死の6日前に自らの死を覚悟して、写真や毛髪等の遺品を小姓の市村鉄之助に託し、郷里・日野に届けさせていた。 この函館における最終決戦で戦死した旧幕府軍幹部は、土方たった1人。残りの閣僚は上手く世を渡って、後に明治新政府に仕えるなどした。土方と近藤の友情、その出会いから別れまで9年。農家に生まれ、己の武士道を貫いた土方歳三はこのように生き、そして散っていった。武士よりも、武士らしく。「歳三は、鋭敏沈勇、百事を為す雷の如し。近藤に誤なきは、歳三ありたればなり」(幕府典医)。
※新選組の前身、新徴組隊士の証言 「土方は近藤と共に名高いが、彼は温厚の君子で、近藤のような覇気はなかったが、近藤と非常に仲良しで、近藤を兄として敬っていた。近藤も、土方がいなかったら、或いは勤王党の者に不意の襲撃を受け、もっと早く京都で殺されていたかも知れぬが、土方が細心の注意を払って、近藤に余り無謀なことをさせなかったから、近藤の命もあれだけ続いたのだろうと思う。土方がおらねば、近藤は部下を御する才が欠けているから、新選組はもっと早く分裂したろうが、土方が近藤と隊員との間の連鎖となって、よく隊員等の面倒をみていたから、うまくいったのだ。土方とは対座しても決していやな感じがせず、まことに親しみのある人物だという感じがした。」 ※二本松藩士の証言 「色は青白い方、身体もまた大ならず、漆のような髪を長ごう振り乱してある、ざっと言えば、一個の美男子と申すべき相貌に覚えました」 ●墓巡礼記
墓は故郷日野市の石田(せきでん)寺にあり、土方一族の墓所の一角に眠っている。田舎者で武士ですらない人間が、天下国家を左右する渦の中に飛び込み、命果てるまで戦い抜く…しかも、時流とは全く逆の方へ向かって。幕府がどれほど死に体であっても、自らの立場の正当性を顧みることもなく突っ走っていく姿は、理屈ばかり優先される現代にあってなんと鮮烈に映ることか。墓前で冥福を祈って、ふと目を開くと墓前の写真が視界に飛び込み、僕は合わせた手に力が入った。 |
新選組の元参謀。近藤らとの 路線違いから御陵衛士となる |
新選組を脱退後、粛清された4人。左から 毛内監物、伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄 |
脱退後は孝明天皇の御陵を守って いたので「宮内省」の文字が見える |
2年後に再訪。ガーン!柵が出来て墓前に行けず! | 鍵がかかっていたので柵の隙間から撮影(2010) |
『伊東甲子太郎外数名殉難之跡』 襲撃を受けた伊東はこの寺まで逃げて息絶えたという |
事件があった油小路の地名はそのまま残っている |
こちらは京都東山・高台寺の「御陵衛士屯所跡」。彼らは“高台寺党”とも呼ばれた |
新選組参謀、御陵衛士盟主。常陸生まれ。最初の名は鈴木大蔵。水戸で学び強い勤王思想を持つ。江戸に出て北辰一刀流の伊東道場に入門すると、剣才を発揮し跡継ぎを任されるほどの腕前となる。1864年(29歳)、同門で新選組8番隊組長を務めていた藤堂平助から説得されて新選組に入隊し京都へ上る。新選組には粗野な荒くれ者が多かった為、インテリで弁が立ち、伊東道場の道場主という文武両道の彼を、「欲しかった人材」として近藤は歓迎し、いきなり参謀かつ文学師範という破格の待遇で抜擢した。しかし、外国を排斥する攘夷という思想では新選組と一致していた伊東だが、あくまでも幕府に忠誠を誓う新選組と、倒幕を視野に入れた勤王思想を持っていた伊東は次第に対立し、入隊から3年後の1867年3月に新選組を離脱する。伊東は御陵衛士(高台寺党)を結成し、伊東道場出身の新選組隊士(藤堂平助を含む)が行動を共にした。伊東は国力がないままでは攘夷不可能と見て、やがて積極的開国と富国強兵が必要と考えるようになる。
伊東らが新選組を離脱してから8ヶ月後。新政府の構想を練る伊東の粛清を近藤は決定。伊東が優れた剣術の持ち主なので、まずは近藤の妾宅にて伊東を酒に酔わせ、帰宅途中の油小路で相馬主計、大石鍬次郎ら隊士数名に暗殺させた。伊東の亡骸はわざと道端に放置され、御陵衛士の面々が収容に来たところを新選組が待ち伏せして襲いかかった(藤堂死亡)。※こういうところ、近藤は鬼になるよね…。
死から半世紀を経た1918年、朝廷は伊東に従五位を贈った。墓は当初新選組ゆかりの光縁寺に造られたが、4ヶ月後に御陵衛士たちが戒光寺に改葬した。諱は武明。
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御陵衛士たちの墓所(2008) |
元々は新選組8番隊組長だったが、 離脱後に新選組に粛清された |
戦死! |
隣は元新選組参謀・伊東甲子太郎 | 2年後。柵ができた理由は甲子太郎の項で(2010) |
新選組8番隊組長。江戸生まれ。小柄で美男子、剣術(北辰一刀流)にも学問にも長けたと伝わる。近藤、土方、沖田、山南らとは新選組結成当時からの同志。池田屋事件では最初に斬り込んだ4人の1人で、事件後は幕府から近藤、土方につぐ褒賞金を下賜されたというから、凄まじい活躍だったことが分かる(額を負傷しながらも刀がボロボロになるまで戦ったという)。しかし、総長の山南が切腹するなど粛清が吹き荒れる新選組の中で、隊の方向性に疑問を感じたのか、1867年3月に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく、参謀の伊東甲子太郎らと共に新選組を離脱している。 それから8ヶ月後の同年11月18日、下京区の油小路で御陵衛士たちは新選組の襲撃を受けた。この粛清の前に近藤は永倉新八に「藤堂だけは生かしておきたい」と語ったが、新入りで事情を知らない新選組隊士・三浦常三郎が藤堂の顔面を縦に斬りつけ、藤堂は即死した。諱は宜虎(よしとら)。 事実上、辞世の句となった歌は「益荒男の七世をかけて誓ひてし ことばたがはじ大君のため」。墓は同日に油小路で殺害された伊東甲子太郎、毛内監物、服部武雄らと並んで建つ。(隣は甲子太郎) |
芹沢鴨と平山五郎は共に 水戸藩出身の新選組幹部 |
同じ夜に土方たちに 粛清された |
花街の角屋(すみや)。芹沢はここで 酒を呑んだ夜に八木邸で絶命した |
芹沢の斜め前には勘定方で切腹 した河合耆三郎の巨大墓がある |
水戸藩浪士、新選組初代筆頭局長。神道無念流免許皆伝。トレードマークは「盡忠報國の士、芹澤鴨」と刻まれた鉄扇。1863年(36歳)2月、清河八郎の呼びかけで将軍警護の為に結成された浪士組に参加。剣術道場・試衛館の近藤勇、土方、沖田、山南たちも加わり京へ向う。上洛後、壬生の八木邸に宿を取る。ところが、浪士組結成の目的が将軍警護ではなく攘夷の決行部隊と判明。江戸に帰還するというので芹沢と近藤は脱退して京都に残った。残留メンバーは芹沢ら水戸グループ5人と近藤グループ8人の計13人。彼らは京都を警護する会津藩の庇護を受け、八木邸を屯所として「壬生浪士組」を結成し、芹沢が筆頭局長に就任した。八月十八日の政変を機に会津藩は壬生浪士組を新選組と命名。酒乱の芹沢は、酔っ払っては店を破壊し、一般人に暴行を加え、芸妓の髪を無理やり切るなど狼藉三昧。近藤らは新選組の綱紀粛正を理由に『新選組局中法度』を決め、違反者は例外なく切腹とした。同年9月13日、近藤は芹沢グループのナンバー2、新見錦を狼藉の法度違反として切腹させる。翌日、朝廷が芹沢の逮捕命令を出し、会津藩は近藤に芹沢暗殺の密命を下した。
暗殺の決行は9月18日の夜。その日、近藤は大宴会を島原・角屋で催し、芹沢グループを泥酔させた。深夜、八木邸に戻って眠りこける芹沢たちの部屋に、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助の4人が押し入り、最初に副長助勤の平山五郎の首をはね、芹沢に襲いかかった。芹沢は八木家の家人の部屋に逃げ込むが、文机につまずいて転んだところをメッタ斬りにされた(愛妾のお梅も殺害)。この事件は表向きには長州藩の犯行とされ、翌々日に芹沢と平山の葬儀が盛大に執り行われた。諱は光幹。
※平山五郎は花火の暴発で片眼を失い隻眼だった。 ※芹沢の墓の側にある河合耆三郎(きさぶろう)は、新選組の財布を管理している勘定方。何らかの金銭トラブルが原因で切腹させられた。息子の切腹を知った耆三郎の両親は新選組の非情を咎め、激しく怒り、新選組が光縁寺に建てた墓とは別に、立派な巨大墓を壬生塚に建てて耆三郎の菩提を弔った。 |
壬生塚には以下の隊士7名の合祀墓もある ●阿比類鋭三郎…壬生浪士組隊士。剣豪千葉周作の弟に弟子入り。病死? ●田中伊織…命日が副長・新見錦と同じなので、田中伊織=新見錦っぽい ●野口健司…副長助勤。芹沢派として理由不明の切腹 ●奥沢栄助…伍長。池田屋事件で戦死 ●安藤早太郎…副長助勤。野口健司を介錯。池田屋事件で戦死 ●新田革左衛門…平隊士。池田屋事件で戦死 ●葛山武八郎…伍長。永倉・原田の造反事件で見せしめの切腹 |
大河ドラマのせいで「山南さん」と 言っただけでウルウルっすよ… |
表面はかなり痛みが 激しい。可哀相…! |
山南と同じ墓に河合、柴田、施山、 石川という他の隊士も合葬 |
近くには四番隊組長の 松原忠司らの墓もあった |
新選組総長。仙台藩出身。新選組の屯所があった壬生では「親切者は山南、松原(※四番隊組長)」という言葉が明治初期まで残っていたといい、温厚な人柄が偲ばれる。また北辰一刀流の門人で文武両道の人だった。
近藤勇がまだ江戸の天然理心流道場・試衛館で剣術を指南していた頃、山南は他流試合を挑んで敗北。その際、近藤の人間の大きさに感服して試衛館の人々(土方、沖田等)と行動を共にするようになる。1863年(30歳)、将軍警護の為に上洛し壬生浪士組のメンバーになった。それから半年後の9月、酒飲みで乱暴狼藉を繰り返す初代筆頭局長の芹沢鴨の暗殺に参加。壬生浪士組は新選組となり、組織再編で局長近藤、総長山南、副長土方という序列になった。 翌年、江戸からインテリの伊東甲子太郎らが入隊すると、近藤は山南よりも上位となる参謀職にいきなり伊東を置いた。この頃、手狭になった屯所を西本願寺へ変更する計画が立ち、山南は殺生を禁じる寺院に屯所を置くことを反対したが近藤・土方に却下された。それから3ヶ月後、山南は胸に思うところがあったのか、「江戸へ行く」と置き手紙を書いて組を脱走した。山南は追っ手の沖田に追いつかれて屯所に戻され、前川邸で切腹となった。山南の希望で介錯は沖田が務めた。山南には人望があり多くの隊士から慕われており、鬼の副長の土方でさえ涙に濡れたと伝えられている。 ●山南と合葬されていた隊士 河合耆三郎…勘定方。隊のお金をめぐる何らかのトラブルで切腹 柴田彦三郎…平隊士。脱走して捕まって切腹 施山多喜人…平隊士。人妻との不倫を咎められ切腹 石川三郎…死因不明 ●付近の墓に葬られていた隊士 松原忠司…四番隊組長だったが、自分が斬った男の妻と親しくなり、土方に咎められて切腹(心中説もアリ) 田内知…愛人の浮気相手に斬られて助けを呼んだことが士道不覚悟で切腹 桜井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉の3人は理由分からず。普通に病気かも? |
龍馬暗殺の真犯人はいまだに学界でも論争中なのに、この「会津武家屋敷」という 歴史ミュージアムは、大々的に犯人を佐々木只三郎と断定していた。 r(^_^;) |
「会津出身見廻組輿頭 佐々木只三郎之墓」 |
只三郎の横は「戊辰戦争戦没者供養塔」 |
“佐々木只三郎”と何とか見える。 和歌山の墓地から改装された |
京都見廻組隊士。1833年に会津にて会津藩士の三男として出生。奥義を究めた神道精武流は、幕府講武所の剣術師範を勤めるほどの腕前。なかでも小太刀の技を得意とし「小太刀をとっては日本一」と称された。 1862年(29歳)、この頃京都は攘夷派志士の吹き溜まりとなり、従来から治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは手に負えなくなっていた。幕府は庄内藩の郷士・清河八郎が献策した「浪人集団による治安維持組織」の結成に踏みきり、只三郎は江戸で清河八郎と『浪士組』(新選組の前身)の隊士を募集する。 1863年(30歳)、第14代徳川家茂が将軍としては229年ぶりに上洛することになり、同年2月に浪士組234名が将軍に先立って上洛した。ところが到着するやいなや、清河八郎が「浪士組結成の真意は将軍警護ではなく朝廷のために尊皇攘夷を実行することであり、その目的のため江戸へ帰還する」と宣言、ほとんどの隊士を連れ帰ってしまう。一方、近藤勇、土方歳三、沖田総司ら13名が反発して京都に留まったため、只三郎は近藤らの身分を安定させるため京都守護職・松平容保(かたもり)の管理下となるよう取り計らい、後に新選組が誕生した。 江戸に戻った清河八郎は、横浜の外国人居留地の焼き打ちを計画するなど先鋭化。只三郎は京都守護職・松平容保(会津藩主)の密命をうけ、4月13日(焼き打ち決行2日前)に麻布一の橋で清河八郎を暗殺した(享年32)。暗殺を実行したのは只三郎、窪田泉太郎ら6名。 1864年(31歳)、4月に松平容保の配下として正規の治安維持組織、京都見廻組が結成される。見廻組は備中浅尾藩主・蒔田廣孝(まいたひろたか)率いる相模守組200人と、下総国飯笹領主・松平康正率いる出雲守組200人で構成され、只三郎は相模守組の与頭(隊長)となった。隊士が幕臣(旗本、御家人)で構成された見廻組は、主に御所や二条城周辺などの官庁エリアを管轄とした。一方、非正規組織(会津藩預かり)の新選組は町人や農民を含んだ浪士で構成され、祇園や三条などの歓楽街を管轄とした。24人で発足した新選組は最盛期に200人となる。両者は共に反幕府勢力を厳しく取り締まり、志士から恐れられた。同年7月の禁門の変では長州藩士と戦闘。 1867年(34歳)、大政奉還後、只三郎は寺田屋事件で指名手配となっていた土佐藩の坂本龍馬を殺害するため、剣術に優れた今井信郎、渡辺吉太郎、渡辺篤、桂早之助、世良敏朗、高橋安次郎の6人を選抜。11月15日、京都近江屋に潜伏していた龍馬・中岡慎太郎を襲撃した。 1868年、戊辰戦争が勃発すると、鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として加わり、先鋒として薩摩藩兵らと鳥羽街道で交戦。見廻組には銃がなく苦戦し、1月6日に樟葉(枚方付近)で腰を撃たれて重傷を負う。只三郎は和歌山に運ばれ6日後に紀三井寺で他界した。享年35歳。戒名「賢浄院殿義岳亮雄居士」。没する前、会津藩士の兄・手代木直右衛門から「貴様は今までずいぶん人を斬って来たのだから、これくらいの苦しみは当然だろう」と言われ苦笑したという。 1870年、戊辰戦争で捕虜になった元見廻組隊士・今井信郎が「7人で龍馬を暗殺した」と証言。同じく元見廻組隊士・渡辺吉太郎は遺言の中で「刺客団は佐々木唯(只)三郎、渡辺一郎、世良俊郎、今井信郎ほか計6名、斬ったのは佐々木」と語った。今井の証言は刺客団が7人だったり4人だったり、また自身が見張り役だったり、龍馬を斬っていたりと一貫性がない。今井が龍馬を斬ったと告白した時、土佐藩士・谷干城(たてき)は「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と激怒したという。ちなみに、近江屋に駆けつけた陸援隊の田中光顕は、重傷の中岡から「実行犯は2名」と聞いている。 当初、只三郎の墓は和歌山市の紀三井寺山腹に造られたが、1973年頃に墓石が真っ二つに割れ倒壊しているのが発見された(墓の上部は草むらから出て来た)。坂本龍馬ファンの恨みが爆発したと噂され、会津藩士の血を引く作家・早乙女貢(みつぐ)らがこの事態を憂い、会津若松市の武家屋敷内に只三郎の倒壊墓を改葬した。後日、和歌山にも新しい墓が再建されたが、只三郎は会津生まれであり、結果として故郷に墓が改葬されて良かったのかも。 |
明治維新の火付け役 | 生家跡は駐車場に。この松だけが残っている | 清河八郎を祀る清河神社(2014) |
11/29に訪問すると既に本殿は冬支度 | 鳥居横に八郎の座像があったけど、雪よけの中にあり顔しか見えず |
清河八郎記念館。没後100年に開館 | 一歩遅かった!記念館裏の石碑もカバーが | 父母宛ての長い自筆書状(撮影許可済) |
浪士隊名簿!右から近藤、山南、平山、沖田、長倉、 野口、原田、土方、藤堂、平間!(撮影許可済) |
徳富蘇峰筆の巨大な「維新回天偉業之魁」!下は 「勤王志士寄書屏風」。圧巻の自筆書大集合(許可済) |
記念館の入口で 迎えてくれた八郎さん |
菩提寺の歓喜寺。山門のすぐ目の前が線路! | 境内の斉藤家墓所。向かって右側奥が八郎夫妻 | 右が八郎、左が獄死した愛妻・お蓮 | 山岡鉄舟の筆! |
東京伝通院に残る改装前の墓(2010) | 右隣(写真奥)は作家の佐藤春夫が眠る | 左から、お蓮、八郎、実家の斉藤家の墓 |
明治維新の火付け役となった尊攘派志士。清川八郎とも(最後は清河)。出羽国清川村(現山形県庄内町)出身で父は庄内藩郷士。本名斎藤正明。16歳のときに東北巡遊中の後の(尊攘派)天誅組総裁・藤本鉄石と出会い影響を受ける。1847年(17歳)、江戸にあがり当時の最高学府である古学派・東条一堂の塾生となる。のち西日本を叔父と遊歴し、21歳で江戸に戻り千葉周作(北辰一刀流開祖)に剣術を学び、翌年には朱子学者安積艮斎(あさかごんさい)に師事。北辰一刀流の免許皆伝を得た八郎は、1854年(24歳)、剣術と学問を一人で教える江戸で唯一の文武塾「清河塾」を開いた。1855年(25歳)、母を連れ、半年をかけて東海、近畿、中国、関東を巡る大旅行を敢行し『西遊草』にまとめた。 1860年(30歳)、「桜田門外の変」が勃発すると尊王攘夷運動に傾倒。日本の将来を憂いた幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)、松岡万(よろず)、薩摩藩の伊牟田(いむた)尚平(後に詰め腹)、益満(ますみつ)休之助(上野戦争で戦死)らが清河塾に集まり始め、清河を盟主として15名の「虎尾(こび)の会」(“国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない”という意味を込めた)を結成する。 ※尊皇攘夷…外国人を日本から追い出し、天皇を中心に国内をまとめて事に当たるというもの。 「虎尾の会」メンバーらは米国領事官ハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケン暗殺を行ったことで八郎は幕府に監視され、また、翌1861年(31歳)に幕府の罠によって侮辱してきた幕府の手先を斬り捨てたことから、幕吏に追われる身となった。これに連座して「虎尾の会」の仲間や弟、妻・お蓮が投獄されてしまう。八郎は各地に潜伏しながら倒幕運動を続け、九州では真木和泉(久留米藩士、後に「禁門の変」で死亡)や平野国臣(福岡藩士、後に「生野の変」で捕らわれ処刑)らと親交をむすび、1862年(32歳)、島津久光の上京を利用して京都所司代襲撃を計画する。しかし、八郎が倒幕派と思っていた島津久光の本心は公武合体であり、同志が「寺田屋事件」で粛正され計画は失敗する。 八郎は江戸に戻り、山岡鉄舟を通して政事総裁職の“幕末四賢侯”福井藩主・松平慶永(春嶽)に、(1)攘夷断行(2)浪士組を結成し参加者は過去の罪を大赦(3)才覚ある人物を重用、これらを訴えた『急務三策』を建白。翌1863年、主張が認められて幕府は将軍・徳川家茂上洛の護衛として『浪士組』(新選組や新徴組の前身)の編成を許可。大赦によって八郎や獄中の「虎尾の会」同志は自由の身となったが、妻は拷問を受け獄死しており嘆き悲しんだ。八郎は234名の浪士組を率いて京都郊外の壬生(みぶ)に駐屯すると、同夜に浪士組を集めて「我々の真の目的は将軍警護ではなく、天皇のため、日本のために動く尊王攘夷の先鋒にある!」と宣言した。八郎は困惑する浪士を説得し血判を集め、翌日に京都御所へ提出。この上表文が受理され、なんと天皇から勅諚(天皇のお言葉)を賜った。 下級武士が天皇から勅諚をもらうなど前代未聞の出来事だった。しかし、幕府の意向に逆らって関白の鷹司輔熙(すけひろ)に攘夷を建白したことから、攘夷に反対した佐幕派の近藤勇らと対立。浪士組取締役の幕臣・鵜殿鳩翁(うどの きゅうおう)は八郎や共鳴者200名を江戸に戻したが、近藤勇・土方歳三・芹沢鴨ら13名は京に残留し、後に新選組となった。 八郎は江戸でも過激な攘夷運動を続け、横浜の外国人居留地の焼き打ちを計画。八郎の指導力、カリスマ性を恐れた幕府から命を狙われ、決行2日前に麻布一の橋で京都守護職松平容保の密命をうけた刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎ら6名に暗殺された。享年32。浪士組の上洛からわずか1ヶ月半の死であった。八郎の首は現場に駆けつけた「虎尾の会」の同志・石坂周造(宗順)が取り戻し鉄舟宅へ運び込む(石坂の妻の姉が山岡鉄舟夫人だった)。鉄舟は私邸に近い伝通院(文京区)に葬り、自ら墓石を建てて供養した。6年後の1869年、八郎の母の強い意向により弟・熊三郎の手で故郷歓喜寺の齋藤家墓所に改葬され、妻・お蓮の隣に眠っている。墓標は山岡鉄舟筆。贈正四位。 1933年(没後70年)、庄内町清川に清河神社が建立され祭神となる。1962年、没後百年記念事業として「清河八郎記念館」が故郷に建設され、書簡など多数の遺品が展示されている(冬期休館)。1979年、山形出身の作家藤沢周平が八郎を主人公にした小説「回天の門」を発表し、八郎の存在を世間に広めた。 「虎尾の会」結成から暗殺まで3年。幕府を手玉にとって真の目的が攘夷である浪士組を結成するなど、行動力の塊であった八郎。短い人生を駆け抜け、維新に火をつけて逝った。倒幕を決定づけた薩長同盟(1866)は死の3年後である。 暗殺当日に詠んだとされる歌 『魁がけて またさきがけん 死出(しで)の山 まよいはせまじ 皇(すめらぎ)の道』 『砕けても また砕けても よる波は 岩角をしも 打ち砕くらむ』 ※徳富蘇峰は清河八郎を「維新回天偉業の魁」と讃えた。 ※妻・お蓮の名は、八郎が泥に咲く花“蓮”に例えて名付けた。 ※八郎を斬った佐々木只三郎らは後に坂本龍馬を斬ったといわれている。 ※没後、幕府は浪士組を新徴組に再編し、江戸市中の警戒にあたらせた。 |
戦場でも悠々と三味線を弾いていた豪傑! | 京都市東山区元吉町。この付近に滞在(2010) |
下関の東行庵にある晋作の墓。木戸孝允いわく「高杉、俺もお前のように自由に暴れてみたかった」(2000) | 付近の墓は奇兵隊隊員のものばかり! |
こちらは萩にある晋作の墓(2006) | 同じく萩の生誕地と、晋作の初湯の井戸(2006) |
さらに京都・霊山護国神社にも墓がある (2006) |
右から晋作、来島(きじま)又兵衛、久坂義助(玄瑞)、寺島忠三郎、入江九市、 有吉熊次郎。晋作以外は全員が「禁門の変」で戦死、又は自刃している(2010) |
「男は常に男(あなた)を目指す!」。晋作の墓を巡礼し、 熱く吠える若者たち。怖い晋作の似顔絵があった(2006) ※2014年の改修事業で石板は使用され現存せず |
長州藩の討幕運動指導者。奇兵隊を創設。萩出身。諱は春風(はるかぜ)、通称は晋作。字は東行。変名を谷 潜蔵。柳生新陰流剣術免許皆伝。父は長州藩士。長男で妹は3人。1852年(13歳)、藩校明倫館に入校するが物足りなく、1857年(18歳)、吉田松陰の松下村塾に入門する。松陰から高く人物を評価され、高杉(18歳)、久坂玄瑞(17歳)、吉田稔麿(16歳)、入江九一(20歳)は松下村塾四天王と呼ばれた。翌年、藩命で江戸に遊学中に攘夷派を弾圧する「安政の大獄」が始まり、松陰が逮捕。1859年(20歳)、獄舎の松陰を見舞って世話をするが、帰藩命令が出て萩に帰る途中で松陰は処刑(享年29)された。翌年、山口町奉行・井上平右衛門の次女・まさと結婚。
※松陰は処刑直前に獄中から高杉に次の手紙を記した。「死は好むものでもなく、また、憎むべきものでもない。世の中には、生きながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。つまり小生の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ」。この手紙は以後の高杉の行動指針となる。
1861年(22歳)、世子君(藩主の子/毛利定広)の小姓役となり、海軍修練のため藩が建造した西洋式帆船「丙辰丸(へいしんまる)」に乗船し江戸へ渡る。東北にも赴き、佐久間象山や横井小楠と交流。
1862年(23歳)、藩命により幕府使節随行員として五代友厚らと長崎から上海へ渡航。そして白人にアゴでこき使われる中国の人々を見て愕然とする。大国と思っていた清が欧米の植民地となりつつあった。中国革命の先駆となった太平天国の乱なども見聞して2カ月後に帰国。高杉は「薩摩藩は既に生麦事件で英国人を斬殺して攘夷の実績があるのに、長州はまだ公武合体を説いている。何とか攘夷の成果を出さねば」と、横浜で外国公使の襲撃計画を練る。しかし、計画が久坂玄瑞→武市半平太→土佐藩主・山内容堂→長州藩主・毛利定広と伝わり、謹慎を命ぜられる。高杉、久坂らは攘夷派の結束を固めるため「御楯組」を結成し、同年暮れに同志たちと建設中のイギリス公使館を焼き打ちにした。
だが、高杉は短絡的な尊攘運動に違和感を感じ始め、1863年(24歳)3月、藩へ10年間の暇を願って剃髪し、東行(とうぎょう)と称した。
一方、久坂たちは2カ月後(5/10)に下関で外国船砲撃を敢行。これが米仏の報復を呼び惨敗した(下関戦争)。翌月、藩は難局を乗り切るため高杉を引っ張り出して下関防御を任せる。高杉は郷土防衛のため藩士、農民、町民から志願兵を集めた非正規軍「奇兵隊」を結成する。2千人の奇兵隊は200隊で構成され、商人の「朝市隊」、猟師の「遊撃隊」、力士の「力士隊」など様々で、神社の神主たちによる「神威隊」というものまであった(“奇兵”とは藩の正規兵に対する名でゲリラ的な意味もあった)。
1863年(24歳)、京都において“長州排除”を目的に薩摩藩と会津藩が結託したクーデター『文久三年八月十八日の政変』が起き、長州勢力は都から追放されてしまう。
1864年(25歳)、高杉は藩内に噴出した京都出兵論に反対して脱藩し、都を視察。帰藩後、脱藩の罪で投獄された。6月に池田屋事件が起き、松陰門下の吉田稔麿が討死にするなど、多数の志士が死傷した。7月には「禁門の変」が勃発し、長州は朝敵となった挙げ句、久坂玄瑞も入江九一もこの戦いで自刃し、松下村塾四天王は高杉ただ1人になった。
「禁門の変」の翌月、英仏米蘭の四国艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠される事態が起き、高杉は罪を赦され和議交渉を任される。
10月、「禁門の変」の制裁で幕府による長州征伐の危機が迫り、藩内でも攘夷派への弾圧が始まったため、身の危険を感じた高杉は北九州へ潜伏。だが、攘夷派の家老が次々と処刑されていることを知って“藩存亡の危機”と、戦うことを決意。12月15日夜、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて下関の功山寺で挙兵した。これに奇兵隊諸隊も加わり、3カ月の攻防の後、1865年3月に佐幕派の頭目・椋梨藤太(むくなしとうた)らを排斥し、藩政の主導権を手に入れた。 高杉にとって、最大の問題は間近に迫った第2次長州征伐の対策だった。防衛の軍備を整える必要があり、また倒幕には宿敵である薩摩との軍事同盟が不可欠だった。高杉、桂小五郎、井上聞多、伊藤俊輔らは、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元を仲介に薩摩に接近。そして1866年(27歳)、年明けの京都薩摩藩邸にて薩長同盟が締結された(この2日後、龍馬は寺田屋で捕縛されかけたが、高杉から上海で購入したピストルを護身用にもらっていたので逃げることができた)。
長州軍は命中率が高く射程の長い最新型ライフルのミニエー銃で装備を近代化し、藩兵や奇兵隊は天才用兵家の大村益次郎に徹底的に鍛えられた。その努力もあって、6月から始まった第2次長州征伐では、誰もが無謀と思っていた長州一藩VS幕府軍との戦いに勝利を収め、高杉はこの戦争の潮流を決めた小倉方面の戦闘で武功をあげた。幕府の権威は長州征伐の失敗で地に墜ち、いよいよ倒幕というところで、高杉の肺結核が悪化する。要職をしりぞき、桜山で療養生活を余儀なくされた。
慶応3年(1867年)4月14日、27歳7カ月の若さで下関にて他界。墓所は下関の東行庵。生涯に300を超える歌を詠んだ高杉の辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」。幕府が政権を朝廷に返上する「大政奉還」は、あと半年に迫っていた。
※遺品に組み立て式の「道中三味線」があり、傷だらけであったことから戦場に持参したと思われる。 ※ひょうきんな高杉は、三味線片手に自作の奇兵隊テーマ曲を歌って城下町を練り歩いた。『♪聞いて恐ろし〜見てイヤらしい〜添うて嬉しい〜奇兵隊〜』。 ※「おもしろきこともなき世をおもしろく」には、彼を看病していた野村望東尼(愛妾・おうの)が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたと伝わる。
※伊藤博文いわく「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然(がいぜん/愕然)として、敢えて正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」。
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雄大な桜島。西郷、大久保、小松、篤姫の心の情景だ | 上野公園の西郷さん | 夕陽に染まる桜島 |
鹿児島市内の「西郷隆盛君誕生之地」。 100mちょいの距離に大久保誕生之地がある |
共研公園の「西郷南州翁宅地跡」。 29歳から住む。斉彬と出会い、 遠島事件など激動の日々を送る |
鹿児島市南州寺にある僧・月照の墓。西郷と月照 は2人で入水自殺をし、西郷だけが生き残った |
京都市中京区の薩摩藩邸跡。手狭に なると現・同志社大の敷地にも 建った。1864年の蛤御門の変で焼失 |
鹿児島市内のド真ン中で直立不動。 観光客が次々と来てはパチリ。実は この銅像、小松帯刀像と向き合っている |
上野の西郷さんに比べると かなりイカつい感じ! |
「西南戦争の銃弾跡」。この場所には薩摩藩の私学校があった。生徒たちが武装蜂起したのが西南戦争の始まりだ |
西南の役で最大の激戦地となった田原坂 両軍の弾丸が空中でぶつかるほど飛び交った |
墓地の感動的な歌碑「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」(勝海舟) |
鹿児島・城山の「西郷洞窟」。田原坂から敗走した西郷は、 郷里に戻って最後の5日間を洞窟でに身を隠し次の手を考えた |
「西郷隆盛終焉の地」。西郷が“もうここいらでよか”と自決した場所だ |
中央が西郷。西郷を慕う若者たちが周囲を囲んでいる | ヒマワリと西郷どん | 今の日本をどう思っているだろう |
2000年の巡礼。この時は前日に桜島が噴火して墓地に火山灰が積もっていた! | 西南戦争で散った西郷軍の墓前からのぞむ桜島 |
JR田町駅近くの『江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見の地』碑。 かつて当地は海岸に面しており薩摩藩邸があった(2009) |
妻・西郷糸子の墓 (青山霊園) |
勝海舟の墓所に隣接している西郷を祀る神社。勝は西郷の人間性に惚れ込み、西南戦争で西郷が死ぬと心から悲しんだ。 そして西郷を称える為に、西郷の書いた漢詩を建碑し、さらに没後5年目に神社を建て追慕した。神社や碑文は勝が生前に 自分の墓と並べて欲しいと希望していたことから、勝の死から14年後(1913年)に移転され、両雄は再会した |
京都市上京区の「薩摩藩邸跡」。現在は同志社大学が建つ(2010) | 左の薩摩藩邸跡の近くにある「薩藩戦死者墓」。蛤御門の変や戊辰戦争で散った72名を合葬 |
薩摩藩の大久保利通、長州藩の木戸孝允らと共に維新の三傑と呼ばれる西郷隆盛。文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町にて下級武士・西郷隆盛(父子同名)の長男として薩摩に生まれた。通称は吉之助、号は南洲(なんしゅう)。身長182cm体重109kgという当時では規格外の巨体だった。
兄弟のうち次弟・吉二郎は戊辰戦争で戦死、四弟・小兵衛は西南戦争で戦死、三弟・従道(元帥海軍大将)だけが明治政府で活躍した。大山巌(元帥陸軍大将)は従弟。後に西郷の命を奪うことになる大久保は同じ町内で育った幼なじみ。 1839年(11歳)、西郷は友人の喧嘩を仲裁しようとして刀で右腕内側の神経を切られ、右腕で刀を握れなくなったころから、学問に励むようになった。1841年(13歳)、元服し西郷吉之介隆永(たかなが)と名乗る。 1844年、16歳で農政系役所の書記として出仕。この頃、薩摩藩では、藩主・島津斉興の跡目を巡って、正室の子・斉彬(なりあきら)派と、側室の子・久光派との間で対立が起きていた。斉彬は諸外国の事情に通じ進歩的な思想を持ち、藩政改革派の藩士から尊敬されていたが、保守的な斉興は久光を溺愛、1850年(22歳)、斉彬派の家臣は切腹、追放など大粛清されてしまう。友人の大久保は父が島流しとなり、本人も免職処分となったため、西郷が困窮を助けた。 この薩摩のお家騒動に幕府が動き、藩主交代の勧告が出された。1851年(23歳)、新藩主に斉彬が就任。斉彬はさっそく藩の大改革に着手。蒸気船の製造、汽車の研究、製鉄用溶鉱炉の設置、ガラスの製造、ガス灯の設置、電信機の設置、農作物の品種改良等々、猛烈な勢いで改革を推進した。斉彬が江戸時代随一の名君といわれる由縁だ。斉彬は開国して富国強兵を行い、日・清・韓の三国同盟で欧米列強に対抗する構想まで持っていた。 斉彬は藩士たちに改革のアイデアがあればどんどん意見書を出すよう求めた。西郷は農民が重税に苦しんでいること、お家騒動で処罰された斉彬派藩士が謹慎を解かれていない理不尽さを意見書に書いた。これが斉彬の目に留まり、西郷は最初の参勤交代のメンバーに抜擢された。同年、斉彬の密命で台湾に入り、琉球人のふりをして偵察を半年間続けた。 1852年(24歳)、伊集院須賀と結婚したが、同年に祖父、父、母が立て続けに他界。1853年(25歳)、12月にペリーの黒船が浦賀に来航し国内は大混乱となる。 1854年(26歳)、斉彬の江戸参勤に従い江戸に上り水戸藩の儒学者・藤田東湖と会う。西郷家は極度の貧困状態になり、心配した妻の実家から結婚2年目に離縁させられた。二弟の吉二郎が一家の面倒を見る。翌年、西郷家の家督を継承。越前藩士・橋本左内と会い感銘を受ける。 1856年(28歳)、武田耕雲斎と交流。暮れに第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚した。斉彬は篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、列強に対処するための開国と富国強兵を考えていた。 1857年(29歳)5月、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任。翌月、井伊は独断で日米修好通商条約に調印し、次いで紀州藩主・徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定した。修好通商条約を諸藩や朝廷に相談せず結んだことに対して各地で反発が起き、外圧が迫る日本をひとつにまとめあげるため、斉彬は3段階の大胆な構想を立てた。(1)薩摩から兵を率いて京都に入る(2)朝廷から幕政改革の命令を受ける(3)強大な兵力を背景に井伊直弼を中心とする幕府に改革を迫る、というものだ。 1858年(30歳)、西郷は先に都へ入り朝廷への工作を開始したが、そこへ斉彬急死の悲報が舞い込む。薩摩では斉彬の弟・島津久光の子・忠義が家督を相続し、久光が後見人となったが、藩の実権は斉彬の父・斉興が握った。江戸では井伊大老が反体制派の大弾圧「安政の大獄」を開始、9月に志士の梅田雲浜が捕縛された。以降、幕府に逆らう者は根こそぎ逮捕され、吉田松陰、橋本左内ら多数が処刑されていく。身の危険を感じた西郷は、親友の京都清水寺の住職・月照と共に鹿児島へ脱出する。だが、薩摩は保守的な斉興のもと状況が一変。近代工業は廃止され、西郷には捕縛命令が出ていた。西郷と月照は進退極まり、鹿児島湾へ身を投げた。入水に気付いた乗船者、福岡藩士・平野国臣(後に生野の変で武装蜂起)らに西郷は引き上げられたが、月照は絶命。西郷はひとり生還したことを恥じ、手紙に「私は今や土中の死骨で、忍ぶべからざる恥を忍んでいる身の上だ」と記す。 その後、西郷は「自分一人だけが生き残ったのは、まだやり残した使命があり、天によって助けられたのだ」と悟る。西郷への処罰は、奄美大島へ島流しと決まった(安政の大獄による幕府の捕り方から奄美大島にかくまったという見方もある。現に扶持米は6石から12石に加増され、留守家族に援助金が与えられた)。 1859年(31歳)、奄美大島に到着し空家で自炊を開始。大久保ら友人からは書簡や慰問品が届いた。11月、孤独に苦しむなか、島の名家の娘・愛加那(あいがな)を島妻とし翌年に息子菊次郎(後の京都市市長)が誕生する。 1860年(32歳)3月、恐怖政治を行っていた井伊大老が江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士ら18人に暗殺される。大老は将軍職の次に権威がある最高職。幕府の威光は地に落ちた。その頃、薩摩では島津斉興が亡くなり、新藩主に18歳の島津忠義が就き、実権を父・久光が握っていた。久光は自分も異母兄(斉彬)のように公武融和を主導し表舞台に出たいと考え、兵を率いて上京し幕府に独断政治をやめよと進言する計画を立てた。だが薩摩藩には京都を知る人材が乏しく、藩中央にいた大久保は「上京ブレーンとして西郷が欠かせぬ、流刑先から呼び戻すべき」と強く提案し、西郷は薩摩に戻れることになった。1861年(33歳)の暮れ、島妻は鹿児島へ連れ出せない規則があったため、妻子が暮らしていけるよう算段した後に別れた。 1862年(34歳)、西郷は3年ぶりに薩摩の大地を踏み、幕府の監視対象にならぬよう名前を(奄美大島で3年暮らしたゆえ)大島三右衛門に改名した。 帰郷してすぐに久光から呼び出された西郷は、上京の中止を訴えた。今や京都は血気盛んな脱藩志士の吹き溜まりと化しており、大藩の薩摩が上京すれば志士を刺激し収拾がつかなくなると考えた。また、久光は人望がなく“地ゴロ”(田舎者)だから朝廷は動かないと言いのけ、久光の気分を害した。西郷は「先発隊として下関(長州)で情報収集し、久光本隊を待て」と命じられ、村田新八と渋々出発する。懸念した通り、薩摩が倒幕に踏み切ったと勘違いした急進派が続々と京都に集結し始めた。西郷は軽はずみな行動を戒めるため独断で都に入り説得を試みる。事情を知らない久光は待機命令違反に激怒し、西郷を捕縛した。 3月、久光は朝廷から上京の許可がないまま、京を目指して薩摩兵1000人の大軍を率いて出発、小銃100挺と野戦砲4門をたずさえていた。 折しも、西郷不在の京都では、急進派浪士の動きが活発になり、暴走を懸念した孝明天皇から久光に「浪士鎮撫(ちんぶ)のため京に滞在すべし」と勅命が下る。久光は大義名分を得て入京した(卒兵上京)。 その1週間後、急進派の薩摩藩士ら20数人が船宿・寺田屋に集結する。久光は急進派の暴発を恐れ、藩兵に「解散せぬ時はそれ相応の処置を取れ」と厳命して向かわせた。藩兵は主君に逆らえない。薩摩藩の同胞が互いに斬り合う悲惨な寺田屋騒動となり、有馬新七ら急進派全員が捕縛もしくは斬殺された。藩士は犠牲になったが、久光は治安優先の態度を幕府・朝廷の相方から評価された。 一方、捕縛された西郷は知行や家財を没収され、同年、奄美大島よりさらに遠い終身流刑地・沖永良部島に流された(兄弟も全員失職)。道中、徳之島で奄美大島からやってきた愛加那と子どもに再会し、しばし喜びあう。8月、沖永良部島に到着。 島の牢は風雨にさらされ、死ぬのを待つだけの流刑であったが、2カ月後に理解者が自費で座敷牢を作ってくれ待遇が改善された。西郷は塾を開き、沖永良部の人々に勉学を教えた。 1864年(36歳)、久光はもう一度公武合体を薩摩が主導して名をあげたいと願い動き出す。薩摩の家老・小松帯刀や大久保らから「人望の厚い西郷しかこの混乱に対応できない」と久光は説得され、西郷は鹿児島に呼び戻された。吉井友実(ともざね)・西郷従道が沖永良部島まで迎えに来てくれた。 6月、都では「新選組」が旅館に集まった攘夷派志士7名を斬り殺し、20数名を捕縛した「池田屋事件」が勃発。多数の藩士が犠牲になった長州藩は倒幕の気運が一層高まり軍を都へ進ませた。京都防衛を任されていた会津藩は薩摩藩に出兵を要求、長州軍は御所を守る薩摩軍に襲いかかったが、西郷が采配する薩摩は強く、長州は兵を退いた(禁門の変)。長州は久坂玄瑞、真木保臣、来島又兵衛など多くの人材を失い、薩摩・会津を憎悪し「薩奸会賊」と呼んだ。当時13歳の明治天皇は宮中に銃弾が飛び込み気絶したという。 京都で長州軍を撃退し勢いに乗った幕府は、7月に倒幕派の吹き溜まりと化した長州征伐命令を出したが、西郷は“列強の脅威が迫るなか内戦を起こしている場合でない”と丸腰で長州に乗り込み、高杉晋作を説得して降伏案(禁門の変で上京した三家老の切腹、四参謀の斬首)を承諾させた。秋、西郷吉之助に改名。 ところが翌1865年(37歳)、幕府は降伏案が生ぬるいと考え第二次長州征伐を発令。西郷は「長州が恭順の意を示しているのに攻撃しようとする幕府は許せん」と怒髪天を突き出兵を拒否する。“禁門の変”で大活躍した薩摩軍の武力を当てにしていた幕府は予想外の事態に動揺する。同年、西郷は家老座書役の次女で22歳の岩山糸子(1843-1922)と再婚。両者は15歳差。 1866年(38歳)、西郷は土佐藩の脱藩浪人・坂本龍馬に促され、「いずれ滅亡する幕府と手を組むより、我らの手で日本の運命を切り開こう」と長州・桂小五郎(木戸孝允)に薩長同盟を申し込んだ。最強の軍事力を持つ薩摩藩と、外国船に大砲をブチ込む武闘派の長州藩。この軍事同盟で倒幕が現実味を帯びてくる。西郷は寺田屋で幕吏に襲撃された龍馬を薩摩藩邸にかくまった。 第二次長州征伐は長州が兵数で劣っていたが、薩摩藩ルートで密輸入した新式銃&大砲で徹底的に近代化しており、幕府軍に連戦連勝。特に士気の高い奇兵隊(高杉隊)は無敵だった。結局、長州優勢のまま7月に将軍家茂が大坂城で病死したため停戦となった。同年、嫡男・寅太郎が誕生。 1867年(39歳)、新たな将軍職に徳川慶喜が就任する(半年後に高杉は肺結核の為に27歳で死去)。慶喜は政権さえ朝廷に返上すれば、薩長軍が江戸に侵攻する大義名分が消えると考え、10月14日、土佐藩が提案した『大政奉還』を受け入れ国政を放棄した。これによって形式上は徳川の治世に終止符が打たれる。この翌月、11月15日に幕府派の恨みをかった龍馬は暗殺された(享年31)。 大政奉還から2ヶ月後の12月9日、西郷や大久保は幕府の復活を完全に阻止するため、京都御所に入って有力藩による新政府樹立を宣言。王政復古の大号令で、幕府、摂政、関白の全てが廃止され、同時に慶喜の領地没収、及び官位剥奪が決定された。こうして幕府は政治的に息の根を止められた。残る問題は依然として慶喜が持っている巨大な軍事力だった。慶喜は御所にいる西郷たちをけん制する為に、約1万5千という大勢の幕府兵と共に大阪城にいた。京都にいる薩長の両軍は約5千。幕府軍はその3倍。 1868年(40歳)、新政府樹立から約3週間後の1月3日、慶喜は意を決し京へ向けて進撃を開始、戊辰戦争が勃発する。鳥羽街道では薩摩軍が、伏見街道では長州軍が迎え撃った。圧倒的兵力差に新政府軍の苦戦が予想されたが、幕府軍の銃は装填(そうてん)に時間がかかる旧式銃だったのに対し、新政府軍の武装は連射可能な最新式の銃。たった2日間で幕府軍は6千の兵を失いバラバラに敗走した。慶喜は海上から江戸へ逃亡すると、江戸城へは戻らず上野の寛永寺に引きこもった。 江戸に着いた新政府軍は慶喜に腹を切らせるべく多摩川沿いに陣を敷く。江戸総攻撃の前日、慶喜不在の江戸城を任されていた旧幕府軍総裁・勝海舟は降伏の嘆願書を持って西郷に面会を求めてきた。4年前に西郷は勝を訪ねており、その際、幕臣の勝が堕落した幕政を批判したことから、西郷は大久保への手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と報告している。 会談では勝が慶喜助命の確約があれば江戸城を明け渡すと告げ、西郷は提案をのんだ。江戸総攻撃はすんでの所で回避された。勝の回想「西郷は終始背筋を真っ直ぐ伸ばして座り、両手は膝の上にきっちりと乗せていた。戦勝者の威光で敗軍の将を軽蔑するような態度は少しもなかった」。 4月11日、江戸城無血開城。14年前の安政の大獄以来、この日を見ることなく散っていった、松陰、晋作、龍馬を始め多くの志士たちの悲願がついに達成された。その後、維新軍は会津藩や奥羽越列藩同盟との戦いに臨みこれを打ち破った。 1869年(41歳)、5月18日に旧幕府軍が最後に立てこもった箱館・五稜郭が開城。江戸城開城から1年で戊辰戦争は終結し、徳川幕政は名実共に終焉する。西郷は東京残留の命を断って新政府に加わらず、鹿児島の片田舎で農夫のような田園生活を送った。同年、王政復古の章典で正三位に叙せられ、その際に西郷の代理を務めた親友の吉井友実が、誤って父の名「隆盛」を届け出たことから、西郷は隆盛を名乗るようになった。 1870年(42歳)、新政府は各藩の派閥争いや役人の汚職で急速に民衆の支持を失ったことから、西郷を呼び戻すため新政府のトップ2人(大久保と岩倉具視)が鹿児島に乗込んだ。官僚の腐敗をひととおり聞いた西郷は、“これでは維新で倒れていった同志達に面目が立たない”と嘆き、上京に同意、参議として復職した。 新政府は明治維新の総仕上げに取り掛かる。近代国家を目指す為には封建制度との訣別が必要だった。各藩がバラバラに領地を治めるのではなく、中央政府が日本全体を統治する廃藩置県が必要だった。藩を廃することは武士や農民という身分制度の廃止につながる。鎌倉時代から700年続いた武士による領民支配という封建制度そのものを否定する点で、倒幕よりも遥かに過激な革命だった。明治維新は幕府に対するクーデターだが、廃藩置県は全藩に対するクーデターだった。 1871年(43歳)7月、抜打ちで廃藩置県を発布。施行直後の蜂起・反乱に備え、発布に先駆けて各藩主に“御親兵”(御所を護衛する明治政府直属の軍隊)として兵力を供出させて武力を削ぎ、さらに西郷と大久保は薩摩藩兵を、木戸は長州藩兵を、板垣は土佐藩兵を密かに全国へ展開させて睨みをきかせた。諸藩の武士は地位と財産を瞬時に奪い去られて絶句する。農民には田畑があり、商工業者は手に職を持っていたが、廃藩で多くの武士は自活する手だてがないまま世間に放り出された(当初は国家予算の40%を注ぎ込んで録を支給していたが、財政安定の為に年々支給額を切り下げていった)。ヤケクソになった久光は鹿児島湾に無数の船を浮かべ、花火を打ち上げさせてウップンを晴らしたという。 廃藩置県の4ヶ月後、大久保、木戸、岩倉たち新政府の首脳は、西郷に留守を任せて2年間の海外視察&条約改正の旅に出発した。岩倉使節団は総勢100人の大使節団だった。留守政府を預かった西郷はすぐさま改革に乗り出し、様々な政策を実現させた。人身売買禁止令、太陽暦の採用、学制の制定と女学校の設立、陸軍省・海軍省の設置、裁判所の設置、国立銀行開設、キリスト教解禁、警察制度の整備、田畑売買の解禁、抽選による徴兵制、士族による“切り捨て”の禁止、公園の制定、地租改正条例等々。新政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどを、西郷はこの2年でやってしまった。 新政府をさんざん悩ませていた農民一揆や反政府運動は、西郷統治下ではほとんど起こらなかった。福沢諭吉いわく「あの2年間は自由平等の気風に満ちた最良の時期だった。それまでのように正しい者が処罰され、悪がはびこることもなかった」。 江戸時代、朝鮮は日本と同様に鎖国政策をとっていたが、両国にはささやかな交流があった。だが幕府が黒船騒動で開国したことで、朝鮮は国交断絶を正式に通告する。明治初年、新政府は国交復活に向けて対馬の宗氏を使者として送ったが、国書の文面に清国皇帝が格下の者に使う言葉が含まれており(単なる知識不足で悪意はない)、国書の受け取りを拒否された。頭を抱えた新政府は外務省高官ら外交のトップを派遣したが首都にさえ入れず、メンツを丸潰にされた特使たちは激烈な征韓論=朝鮮討伐を唱え始め、政府要人は武力による釜山港開港に傾いた。 1873年(45歳)、釜山で日本人居留民と現地民に緊張感が高まり、一触即発の危機と報告が届く。外務省は居留民の引き揚げか、武力を使って朝鮮に修好条約調印を迫るか、新政府に選択を迫った。閣僚から居留民保護のため派兵すべしと声があがったが、西郷は「派兵すれば朝鮮は侵略を受けたと考える。外務省の役人より、もっと高い位の責任ある全権大使を派遣するべきだ。これまでは役人だから相手も地方官吏にしか対応させなかったのではないか」と論じた。そして“自分が丸腰で行く”と主張。西郷が渡航の準備を進めていると、大久保・岩倉ら洋行組が帰国した。洋行組は「交渉失敗の結果戦争になる恐れがある。今は外国と戦争をする力がなく、朝鮮使節派遣は延期すべき」と猛反対。西郷は“戦争をしないために平和的使節を派遣する”と主張するも、「今は内政優先」と木戸孝允・大久保利通・大隈重信ら参議が辞表を提出して派遣に反対し、公家出身の岩倉は朝廷サイドから圧力をかけ西郷の派遣案を潰した。役人の汚職追放が遅々として進まぬことへの怒りも加わり、西郷は辞表を叩き付け薩摩の農夫暮らしに戻る。西郷派の板垣退助、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎ら参議も辞職した。新政府で要職に就いていた桐野利秋、篠原国幹、別府晋介など多くの薩摩藩出身者が西郷を慕って鹿児島へ帰った。政治家・軍人・官僚、その数600名余にのぼる(明治六年政変)。 大久保は外国で圧倒的な工業生産力を目の当たりにして焦っていた。早急に近代化を図らねば欧米の植民地にされかねないと考えた。一方、新政府に自らの腐敗構造を正す自浄能力がないと判断した西郷は、再革命の必要性を痛感していた。西郷は貧しい下級士族たちの為に私学校を設立し、武術を教え田畑を開墾させた。 1874年2月、閣議で台湾征討が決定し、反対した木戸は参議を辞めた。西郷も反対したが三弟・西郷従道が台湾征討軍の都督となったため、やむなく兵約800名を送る。 1876年(48歳)に「廃刀令」が出されると、“武士の魂”である刀を失ったことで士族に自殺者が相次ぐ。佐賀の乱、神風連の乱(熊本県士族)、秋月の乱(福岡県士族)、萩の乱など不平士族の反乱が続いたが、単発的な反乱であったため即座に政府軍に鎮圧された。 新政府は大きな軍事力を持ったまま独立国家状態にあった鹿児島を警戒し、西郷暗殺の密命を受けた24名の偵察団が送り込まれた。同時に新政府は、鹿児島にあった陸軍火薬庫から武器・弾薬を他県に移送しようとした。これが西南戦争勃発の直接のきっかけとなる。私学校生徒は移送を阻止し、捕らえた密偵から「西郷刺殺」という暗殺命令を知り驚愕した(「視察(偵察)」と「刺殺」の誤解という説も)。 1877年1月31日、一部の私学校生徒が鹿児島各地の陸軍火薬庫を襲撃し、鹿児島市内は騒然となる。知らせを受けた西郷は絶句した。明らかに時期尚早だった。混乱を収めるには生徒を出頭させるしかないが、陸軍施設を襲った以上、生徒はただでは済まされない。西郷は腹を決めた。「おはんらがその気なら、オイ(自分)の身体は差し上げ申そう」。 西郷は「政府に尋問の筋これあり」(政府を断罪する理由が我らにある)と挙兵理由を掲げ、東京へ進軍を開始。一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、桐野が総司令を兼ねた。西郷は再維新に向けて他県でも蜂起する者が現れることを期待したが、もはや士族たちに起ち上がる気力は残っていなかった。 薩軍3万に対し政府軍は倍の6万。薩軍は高防御の熊本城で足止めをくらい、田原坂(たばるざか)での大激戦を経て、大分方面へ転戦した。薩軍の戦死者1万5千人に対し、政府軍は1万7千人も犠牲者を出していたが、政府軍は徴兵制度で無尽蔵に兵を補充できる為、薩軍は次第に劣勢となる。他県に連携した蜂起が起きぬことを悟った西郷は、これ以上の抵抗は無意味と判断し宮崎で軍の解散を決定する。薩軍の幹部は死に場所を求めて鹿児島に引き返した。このとき、宮崎・鹿児島の山岳部を約10日をかけて踏破している。 鹿児島に入った西郷らは、山道が険しく防御に適した城山を占領し陣地を敷く。約3週間後、政府軍は城山を完全に包囲して集中砲火を浴びせた。政府軍には西郷を慕う者も多く、城山総攻撃の前夜に軍楽隊が城山に向けて葬送曲を演奏した(現在も自衛隊の吹奏楽団が同日同場所で葬送曲を演奏)。 1877年9月24日午前4時。「同じ死ぬなら前へ進んで死のう」と、桐野利秋(中村半次郎)、村田新八、池上四郎など薩軍幹部ら約40名は政府軍に向かって下山し始めた。次々と銃弾に倒れていくなか、西郷も腰と足に弾を受け立てなくなった。西郷は傍らの別府晋介に「晋どん、もうここいらでよか」と告げ、襟を正して坐し、東(皇居)に向かって遙拝した。別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫び西郷の首を落とす。日本最後の内戦は終結し、西郷隆盛は49年の波乱の生涯を終えた。戒名は「南州寺殿威徳隆盛大居士」。浄光明寺跡で総指揮を執った山縣有朋が亡骸の検分を行い、西郷は同地に仮埋葬され木標が建てられた(現・南洲神社の鳥居附近)。 翌日の新聞は「賊軍の首領・西郷を成敗」と書き、明治の学校で子どもたちは“卑しき反乱軍の大罪人、西郷”と教えられた。西郷の死を聞いた福沢諭吉は「西郷一人、なぜ生かせなかったのか…」と嘆き、明治天皇は「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らした。 2年後、西郷は仮埋葬墓から南洲墓地に改葬された。西郷の首は仲間が折田正助邸門前に埋めていたが、これも手厚く葬られた。他界12年後の1889年、西郷は大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され正三位を追贈された。 勝海舟は西郷の書いた漢詩を建碑し、没後5年目に西郷を祀る神社を建て追慕した。勝は生前に西郷関連の碑文や神社を「自分の墓と並べて欲しい」と希望していたことから、勝の死後にその願いが叶えられた。 倒幕を果たし維新三傑と呼ばれた西郷、大久保、木戸。長州の木戸は西郷の死の4ヶ月前、脳病の為に45歳で病死、西郷軍討伐を命じた大久保自身も、西郷の死から1年も経たぬうちに不平士族の暗殺集団によって惨殺された。享年49歳。明治維新の立役者3人は、維新からわずか10年で全員が死んでしまった。 ●墓巡礼 西郷の墓所は鹿児島市の南洲墓地。初巡礼の際は西鹿児島駅前からバスを利用したが、墓地はバス停から少し離れており道路からは死角になる丘の上にあり少し迷った。2度目は同駅のレンタサイクル店で電動アシスト自転車を借りた。この自転車がチョ〜便利!広い市内を快走し、城山の史跡巡りなど登り坂もドンドン上がれる!南洲墓地には門がなく、24時間誰でも自由に西郷どんと会える。墓地の長い階段を登ると足下に鹿児島市内が一望でき、桜島の堂々たる勇姿が見えた。墓地には西郷の墓を中心にして、西南戦争で散った生徒たちの墓が400基ほど立ち並んでいる。郷土を愛した彼らにとって、ここより素晴らしい場所は他にないと思った。多くの墓に故人の生涯を記した説明板があり、彼らが鹿児島の人々から愛されているのがよく伝わってきた。墓地には勝海舟が西郷の死を嘆いた歌碑があり胸が熱くなった−−「濡れぎぬを 干さんともせず 子どもらの なすがまに まに 果てし君かな」(海舟)。 ※初巡礼時、前日に桜島の小さな噴火があり、墓地全面を火山灰が覆った。地面はフカフカ。辛かったのがコンタクトレンズ!目に激痛が走りまくった。コンタクトの人、万一に備え絶対に眼鏡を持っていった方がいいです! ●西郷語録 龍馬評「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」 「人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」 「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」 「敬天愛人」 ※西郷隆盛を祀る南洲神社は、鹿児島市、山形県酒田市、宮崎県都城市、沖永良部島にある。 ※西郷は西南戦争後も中国に逃れて生きているという噂が広まった。 ※祖先は藤原鎌足。糸子夫人との間に、寅太郎、午次郎、酉三の3人の子をもうけ、先妻・愛加那の子・菊次郎、お菊を引き取った。寅太郎の子・西郷吉之助は法務大臣になった。 ※陶芸家の西郷隆文は奄美大島で生まれた菊次郎の四男・隆泰の子。同島で生まれた2人目の子・お菊は大山巌の弟と結婚した。 ※大河ドラマでは1990年の『翔ぶが如く』で西田敏行が、2018年の『西郷どん』(せごどん)では鈴木亮平が西郷を演じている。 ※エドアルド・キヨッソーネが描いた西郷の肖像画は、顔が似ていた実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟・大山巌の顔の下半分を合成して描き、親戚関係者の考証を得て完成させたもの。 ※上野公園の西郷隆盛像は高村光雲作。犬は後藤貞行が彫った。西郷と面識があった板垣退助は、上野の銅像に不満を持ち、洋画家の光永眠雷に指示して新たな肖像画を描かせた。その写真版の印刷物を岡山県立記録資料館が所蔵している。 ※西郷屋敷の隣家に住んでいた肥後直熊が西郷没後50年祭のおりに描いた絵が最もよく似ているといわれる。 ※西郷隆盛は幕末の陽明学者・大塩平八郎を慕い、大塩の書『洗心洞剳記』を愛読、手書きの書き込みをたくさん入れていた。 ※西郷は郷土の名物、黒豚の肉が大好物で、肉入り野菜炒めを特に好んだ。 ※坂本龍馬「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」 ※藤田東湖「吾従来色々の人にも会って見たが、今日西郷に会ふて、其人格の偉大、比すべきものを見出す能はず」 ※西郷松子(四弟・小兵衛妻)「時々よそから帰って来られて機嫌のよい時には、歌を歌って聞かせるといって歌われました。歌はあまりじょうずではありませんでした。時には煙草盆をひっくり返して、その底を叩いて調子を取り、軍談を聞かされました。この軍談がたりがお得意でした。これは京都や江戸の寄席で覚えられたものだそうです」「月照さんの命日などにも、隆盛さんは、一切精進で肴や肉を食べられませんでした」 ※黒歴史…西南戦争で市街地が燃えてしまった熊本県では、西郷は現在でも侵略者として扱われている。九州新幹線鹿児島ルート全線開通の際もマスコット「西郷どーん」を熊本駅で使えず「くまモン」が使用された。 ※重要参照リンク『敬天愛人』さん |
鹿児島中央駅で借りた電動式のレンタサイクル。広い鹿児島 の街を疾走できたのは君のおかげ!城山や多賀山公園の 上り坂だって君の電動パワーで楽勝だった。本当にありがとう! |
最後に食べた「しろくまアイス」 の美味しさったら、もう…! (2008年8月5日) |
有馬が「おい(俺)ごと刺せ!」 と叫んだ寺田屋の壁はここ。 剣先が2寸(6cm)突き破った |
西郷は薩摩藩士が互いに斬り合う悲劇に胸を痛め、 命を散らした9名の墓を大黒寺に建てたという (この寺の近所に薩摩藩邸があった) |
右端が有馬新七の墓。 明治維新は有馬の死で 始まったともいえる |
骨の髄まで尊皇攘夷 | 萩の松陰墓所に眠る |
京都市の霊山護国神社にも墓がある。右から、久坂義助(玄瑞)、 寺島忠三郎、入江九市、有吉熊次郎。全員が「禁門の変」で死亡 |
同じく霊山護国神社。右から高杉晋作、 来島(きじま)又兵衛、久坂玄瑞 |
長州藩・尊王攘夷派の中心人物。玄端は号であり、名は通武(みちたけ)、通称義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文(ふみ)。身長約180cmの長身で、声は美声と伝わる。藩医の次男。13歳で母が他界、翌年(1854年)に兄と父を相次いで亡くして家族を失い、14歳で久坂家の家督をつぎ藩医となった。玄瑞は藩校や医学所でよく学び、成績優秀につき藩費で寄宿舎に入ることができた。 1856年(16歳)、九州に遊学し、熊本で宮部鼎蔵を訪ねた際に、尊王論者・思想家の吉田松陰(当時26歳)の門下になることを強く勧められた。1857年、松陰の松下村塾に入塾すると、人々は玄瑞の秀才に感嘆し、高杉晋作と共に「村塾の双璧」と讃えた。また、玄瑞(17歳)、高杉(18歳)、入江九一(20歳)、吉田稔麿(16歳)らは「松門四天王」といわれた。松陰は久坂を長州第一の俊才と認め、同年暮れに妹の文(14歳)を玄瑞に嫁がせた。※「久坂玄瑞は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才だ」(吉田松陰「文妹の久坂氏へ嫁ぐに贈る言」) 1858年(18歳)、玄瑞は江戸に遊学して大村益次郎から蘭学を学ぶ。この年、攘夷派を弾圧する「安政の大獄」が始まり、幕政を批判してきた松陰は捕らえられ、野山獄に収監される。松陰は翌年10月27日に斬首された(享年29)。この後、玄瑞が塾をまとめ、尊王攘夷運動の先頭に立っていく。 1861年(21歳)、長州藩直目付の長井雅楽(うた)が『航海遠略策』で藩論を開国・公武合体論に傾けさせると、翌年に玄瑞は長井の弾劾書を藩主に提出した。以降も反長井の活動を続けたため謹慎処分を受ける。この謹慎中に尊皇攘夷を論じた『廻瀾條議』『解腕痴言』の二冊を書き、これを読んだ藩主を攘夷派に引き込むことに成功した(のちに長井は自刃を命ぜられる)。 1862年(22歳)、攘夷派の結束を固めるため「御楯組」を結成し、高杉らと品川に新築中のイギリス公使館を焼き打ちにする。 1863年(23歳)、外国船砲撃の準備のため下関の光明寺にて50人の光明寺党を結成し、これが「奇兵隊」の前身となった。玄瑞らは5月10日から外国船砲撃を敢行した。同年、長州の影響力を都から排除せんと、薩摩と会津が結託してクーデターを起こし(文久3年8月18日の政変)、長州勢力は京都から一掃される。長州では家老の国司(くにし)信濃や遊撃軍の来島(きじま)又兵衛らから「武力をもって京都に入り長州の無実を訴えよ」と強硬策が噴出し、玄瑞はこれを穏健派の木戸孝允らと押さえ、都での長州藩の失地回復に尽力した。 1864年6月5日、志士が集まる池田屋に新選組が斬り込み、志士9人が斬り捨てられ、翌朝の市中掃討も含めて攘夷派20人以上が捕縛される大事件が起きる。多くの長州藩士が犠牲になり、志士たちの幕府への怒りが爆発。事ここに至り、玄瑞は長州軍諸隊を率いて京都山崎の天王山に陣をひいた。ただしこれは武力攻撃が目的ではなく、藩主の名誉、長州藩の罪の回復を願う嘆願書を幾度も出すためだった。しかし武闘派の来島又兵衛が開戦を避ける玄瑞を卑怯者と罵り、自分だけでも京に斬り込むといい、最年長で参謀格の真木和泉も来島に賛同したことから、長州軍の御所への進軍が始まった。元治元年7月19日、ここに「禁門の変」が勃発する。 ※玄瑞と来島の激論はウィキペディアに詳しい→ 来島又兵衛「進軍を躊躇するのは何たる事だ」 久坂「今回の件は、もともと、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。(略)今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが」 来島「卑怯者!医者坊主などに戦争のことがわかるか。もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一手をもって、悪人を退治する」 真木和泉「来島君に同意を表す」 「禁門の変」における戦力比は、長州軍2000人に対して幕府側は2〜3万であり、長州は圧倒的に不利だった。されど長州兵は士気が高く、来島又兵衛は会津藩兵を打ち破る寸前まで進撃した。だが薩摩藩の強力な援軍が到着し、西郷の指揮で来島が狙撃され、長州側は総崩れになった。玄瑞は攘夷派公卿の鷹司輔煕(たかつかさ すけひろ)の邸宅に入り、輔煕に朝廷に申し 開きをする機会を与えて欲しいと切願するが、輔煕は立ち去ってしまう。玄瑞たちは敵に包囲され鷹司邸は火に包まれた。玄瑞は入江九一らに「いかなる手段によってもこの囲みを突破して世子君(藩主の子/毛利定広)に京都に近づかないよう御注進してほしい」と託し、寺島忠三郎と刺し違えて自刃した。享年24。 ※玄瑞の妻・文は松陰の元門下生・楫取素彦(かとり もとひこ)と再婚し、玄瑞の死から半世紀以上、1921年まで生きた。 |
佐賀士族を率いた | 墓地入口の一角に江藤家の墓所がある | 「江藤新平君之墓」 |
なんと95歳まで生きた維新志士 |
護国寺本堂右手にある光顕の墓所 | 『従一位勲一等 田中光顕之墓』 | 右が光顕、左は田中家累代の墓 |
土佐藩士。通称顕助。武市半平太に心酔して土佐勤王党に参加し、19歳で藩の重臣・吉田東洋暗殺にかかわる。1863年(20歳)、土佐勤王党が弾圧されると翌年に脱藩し、高杉晋作の弟子となる。新選組に追われながらも薩長同盟に貢献。第二次長州征伐に際して長州藩の軍艦で幕府軍と戦った。その後、土佐の陸援隊に入隊。1867年(24歳)、龍馬と陸援隊の隊長・中岡慎太郎が襲撃されると、光顕はいち早く近江屋に駆けつけて瀕死の中岡から暗殺の様子を聞く。光顕は陸援隊副隊長となり戊辰戦争で奮戦した。 維新後は新政府の要職を歴任し、日露戦争時に皇后が「枕辺に立つ龍馬の夢」を見た際に、龍馬の写真を見せて確認をとった。1909年(66歳)、収賄疑惑の責任をとって政界を引退し、故郷の桂浜に龍馬の巨大な銅像を建て、武市半平太の遺族を支援する。短命な志士が多いなか、光顕は95歳と群を抜く長寿で、晩年まで維新志士の業績を伝えることに努力した。 |
蜂起後に都で政変が起きて、あれよあれよという間に天誅組は義軍から逆賊に立場が逆転していた…どうしてこうなった! |
同じ墓地に建つ天誅組40名の合葬墓。一つの墓に40名…あまりに痛ましい… |
京都三条の「吉村寅太郎寓居之址」。左隣には武市半平太が住んでいた |
倒幕の急先鋒「天誅組」の総裁。土佐高岡郡津野山郷の庄屋(地主)の長男。土佐藩士。12歳で父の跡を継いで庄屋となった。剣術を武市半平太に学び尊攘思想に目覚める。1861年(24歳)、武市が結成した土佐勤王党に加盟し、吉村はますます尊皇攘夷にのめり込んでいった。翌年2月、武市の手紙を長州の久坂玄瑞に届けに行き、九州で福岡藩の平野国臣と出会った。平野国臣は志士の中でも最も急進的な人物であり、吉村は平野から京都での浪士蜂起計画(伏見義挙)を聞かされる。帰藩した吉村は武市にその話をして、「土佐勤王党も脱藩して蜂起計画に加わるべき」と主張したが、武市は「土佐藩全体を攘夷派にさせることが先決」と、蜂起参加を拒否した。吉村は納得できず脱藩。伏見を目指して上京する。しかし、4月23日に伏見の旅籠「寺田屋」で、薩摩の急進派志士・有馬新七ら攘夷派が、公武合体派の薩摩藩主・島津久光の命を受けた鎮圧部隊によって粛清されてしまう。吉村はこの“寺田屋騒動”に連座して捕まり、土佐に送還され、8カ月間入牢する。
1863年(26歳)、14代将軍・徳川家茂が上洛し、朝廷から5月10日をもって外国勢を排除する攘夷の決行を幕府は約束させられた。5月10日、全国で長州藩だけが約束を守って下関で外国船を砲撃した。8月13日に攘夷派公卿筆頭の三条実美(さねとみ)らが画策して大和行幸の詔(天皇が神武天皇陵のある大和国で攘夷を祈願する)が発せられると、吉村たち急進的攘夷派は“帝が動く”と沸き立ち、同志39人で「天誅組」を結成した。土佐の吉村、三河の松本奎堂(けいどう)、岡山の藤本鉄石の3人が総裁となり、孝明天皇の妃の弟で攘夷急進派の公卿・中山忠光(19歳)が主将についた。本陣は歴史的に尊皇の地である吉野の桜井寺。そして攘夷の流れを全国に広める先駆けとして、8月17日に武力による最初の討幕運動「天誅組の変」を起こした。 天誅組は最初に五条代官所を襲撃し「五條御政府」の樹立を宣言。五条を朝廷領として年貢半減を布告した。士気高く、意気揚々の天誅組であったが、京都では大変な事が起きていた。天誅組蜂起の翌日、公武合体派の薩摩藩と会津藩がクーデターを起こし、京都から攘夷派の公卿とその後ろ盾の長州藩を追放してしまったのだ(文久三年八月十八日の政変)。これによって天皇の大和行幸は中止になり、武力蜂起と天皇による攘夷祈願という連携作戦は水泡に帰した。天誅組はアッという間に孤立してしまった。幕府の討伐軍が押し寄せるのは確実。政変で長州勢の支援が期待できないため、吉村らは付近の十津川郷士に挙兵が義挙であると説得し、1000人をかき集めた。大量の兵糧が必要であり、近くの高取藩に協力を要請したところ、高取藩はこれを拒否。怒った天誅組は8月26日に高取城を攻撃するが、十津川郷士はほとんどが戦闘を知らぬ農民であり、1200対200という大きな兵力差があるにもかかわらず、高取城から砲撃を受けてすぐに敗走してしまった。 吉村は自軍の不甲斐なさに憤慨し、少数の決死隊で高取城に夜襲をかける。その際、不意に敵方の偵察隊と遭遇し、パニックになった味方の誤射が吉村の下腹部に当たり重傷を負う。その後も天誅組は吉野の各地で大軍を相手に奮戦するが、9月2日に驚愕の事態となった。こともあろうか孝明天皇から追討令が出されてしまったのだ。孝明天皇は周囲から攘夷派が消え、公武合体に傾いていた。追討令によって、大将の中山忠光は逆賊となり、天誅組は賊軍、朝敵となった。十津川郷士は朝敵の汚名を恐れて離反。少数になった天誅組は、三重・新宮方面から海上へ脱出すべく山中を転戦、9月24日に鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と最後の戦闘となり、25日に総裁の藤本鉄石が紀州藩本陣に斬り込み玉砕、松本奎堂は失明して自刃、誤射の傷が悪化してカゴで運ばれていた吉村は27日に津藩兵に見つかり射殺された。ここに天誅組は壊滅した。享年26。辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」。死の14年後、1877年に名誉が回復され、1881年に武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られた。 ※大将の中山忠光は島波間らに守られて包囲を突破し、かろうじて長州にたどり着くことが出来たが、翌年長州藩の佐幕派に暗殺された。
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日本最初の官寺・四天王寺。 623年に聖徳太子が建立 |
境内奥の英霊堂。この左脇に墓地の入口 |
高橋父子の墓所全景。墓参予定の方は この位置関係を参考に |
初めて巡礼した際、墓石の文字にびっくり。 「怨霊消滅」、こんな墓は見たことがない |
墓石の裏側を見ると、以前の墓は損壊が激しかった為、 1987年に茨城県の人が再建したと彫られていた |
側面に高橋父子の名。当初から 「怨霊消滅」とあったのかは不明 |
水戸藩改革派屈指の秀才。桜田門外の変の首謀者の一人。藤田東湖に学び、尊王攘夷論に傾倒。1839年、25歳で家督を継ぐ。藩主・徳川斉昭に抜擢され、27歳で藩主の側近・奥右筆に任命された。 1844年(30歳)、善政で農民から慕われていた名君・斉昭が、幕府から冤罪で隠退・謹慎処分を受けたことから、多一郎は江戸で赦免(しゃめん)を訴える。この行動を問われ蟄居に処せられたが、1849年(35歳)に斉昭が許され、多一郎も藩政に復帰した。1855年(41歳)、奥右筆頭取に昇進し改革派の中心となる。 1858年(44歳)7月、斉昭が大老に就任した井伊直弼と対立して蟄居を命じられ安政の大獄が始まると、多一郎は金子孫二郎らと大老打倒に向けて動き出す。住谷寅之介、関鉄之介らを土佐藩や長州藩に派遣して諸藩との連携を画策した。翌年には具体的に井伊大老の暗殺計画を金子孫二郎や薩摩藩士・有村雄助らと練り、大老の暗殺と同時に薩摩藩兵が上洛する段取りを決めた(前年に急死した薩摩藩主・島津斉彬は井伊大老に反発し、藩兵5000人を率いた上洛を計画していた)。多一郎は幕府側の捕縛の手が迫っている事を感じ、また、決起予定の薩摩藩兵と大阪で合流するため脱藩し、子の庄左衛門と大阪に潜伏した。 安政7年(1860年)3月3日、桜田門外で関鉄之介ら実行グループ18名が井伊大老暗殺に成功。大阪の高橋父子は喜び、上京する薩摩藩兵を待っていたが、薩摩で新たに実権を握った島津久光が倒幕に消極的で薩摩藩兵の上洛計画は頓挫した。逆に幕吏から潜伏地を探知され、追跡されて四天王寺近辺の茶店春日屋まで逃亡。“もはやこれまで”と覚悟を決めて四天王寺の門をくぐり、自刃のため寺侍・小川欣司兵衛宅の奥座敷を借り受け、後始末の費用に62両(約500万)を差し出し、祖先が武田信玄から拝領した名刀を故郷へ届けるよう言い残して切腹。享年46。父の死を見届けた庄左衛門もその場で自決した。享年18。庄左衛門の辞世の句「今さらに 何をか言わめ 言わずとも 尽くす心は 神や知るらむ」。 欣司兵衛は四天王寺に墓を建てた。水戸の常磐共有墓地にも墓あり。 |
小島・木村両家の墓域。正面奥が総三の姉の夫・木村敬弘の墓。その左手前の小さな墓が相楽総三(小島将満)夫婦の墓 |
高い理想を持って維新に参加した のに“偽官軍”と呼ばれるなんて… |
夫婦揃って明治元年に 死んでいるのが可哀相 |
正面「赤報隊隊長 正五位 相楽総三之墓所」 背面「慶応四年三月三日 長野県下諏訪にて没す」 |
尊攘派志士。本名、小島四郎左衛門将満、通称四郎。相楽総三は変名。父は下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士。江戸出身。1861年(22歳)に志士となり、東国各地で同志を集め、1863年に赤城山挙兵を計画するも失敗。翌年、水戸藩尊攘派の天狗党による筑波山挙兵(天狗党の乱)に加わるが意見の相違があり離脱。1866年(27歳)、京入り。翌1867年、薩摩藩・西郷隆盛の密命をうけて江戸薩摩藩邸を拠点とする浪士隊を結成。相楽総三の変名で総裁に就任した。浪士隊の任務は幕府側に“先に手を出させる”こと。薩摩はそれによって、大政奉還で失った幕府武力討伐の大義を得ようとした。総三は江戸で治安を撹乱し、挑発にのった幕府軍(屯所を襲撃された庄内藩)が薩摩藩邸を焼き討ちし、作戦は成功した。これをきっかけとして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。 京都に逃れていた総三は、再度西郷の命を受けて赤報隊(東征軍の先鋒隊)の結成に参加、1番隊隊長となる(全3隊)。総三は庶民の為に新政府に提言した年貢半減令が採用されて喜び、新政を布告しながら東山道を進軍した。ところが、新政府は軍資金が不足し、年貢半減令を取り消した上で、赤報隊に引き返すよう命令。総三率いる1番隊がこれを無視して官軍先鋒嚮導隊(きょうどうたい)の名で進軍したことから、偽官軍として捕縛され、同年3月3日、官軍参謀・進藤帯刀によって信濃国下諏訪で斬首された。 妻・照子は総三の訃報を聞き、息子を総三の姉に託して自害。総三の首級は親交があった国学者・飯田武郷の手で盗み出され、青山霊園立山墓地に眠る。孫の木村亀太郎の努力で名誉が回復され、1928年に正五位が贈られた。 ※墓石は正面に「明治元戌辰年 三月三日 天忠院教誉道順居士/鏡松院操誉妙麗大姉 明治元戌辰年 七月十四日」とあり、右側面に「小嶋将満墓」と本名が彫られている。 ※青山霊園の西側にある飛び地、立山地区は入口が分かり難かったけれど、2011年秋にスロープ付きの大きな坂道ができて墓参しやすくなった! |
吉祥寺の墓地に広い面積の榎本家墓所がある |
「海軍中将子爵榎本武揚墓」と彫られている |
なんと子孫の方が解説!「武揚の文字は初代連合艦隊 司令長官の伊東祐享(すけゆき)が書いたんです」 |
知識人としても高評価 | 東日本大震災前の墓参時。手前の石灯籠の台座が埋まっている | 左側の墓は榎本夫人「慧鏡院殿皓林珂月大姉」 |
幕末・明治期の軍人・政治家。江戸生れの幕臣。通称釜次郎。号は梁川。父は伊能忠敬の弟子。幕府直轄の教学機関・昌平坂(しょうへいざか)学問所で幼少から儒学・漢学を学び、ジョン万次郎の私塾では英語を学ぶ。19歳の時、箱館奉行従者として樺太探検に参加。1856年(20歳)に長崎の海軍伝習所に入所し西洋の学問を学んだ。2年後に江戸築地の海軍操練所教授となり、26歳のときに赤松則良(日本造船の父)・西周(思想家)らとオランダへ留学して航海術・機関学・国際法などを習得。5年後の1867年(31歳)、新造軍艦の開陽丸と一緒に帰国した。同年、大政奉還。 翌年、海軍副総裁に就任し、幕府軍VS維新軍の戊辰戦争が始まると阿波沖海戦で薩摩藩海軍に勝利した。江戸開城の際は武闘派の海軍副総裁として軍艦引き渡しを拒否し、8艦から成る旧幕府の軍艦を率いて江戸を脱出。約2千名で奥羽越列藩同盟の支援に向かう。奥羽越列藩同盟の崩壊後、仙台で土方歳三ら旧新選組や彰義隊の残党約2500名を吸収し、北上して箱館・五稜郭を攻略&制圧。12月、「蝦夷島政府」を樹立した。1869年(33歳)、箱館戦争において最後まで抗戦を続けるも、箱館湾海戦で全艦喪失し、猛攻を受けて降伏。敵である蝦夷征討軍・海陸軍総参謀の黒田了介(清隆)は、榎本を「皇国無二の才」と認めて助命嘆願活動を展開、処刑は回避され投獄となった。3年後に赦免され開拓使として開拓調査を行い、1874年(38歳)、豊富な国際法知識を買われ海軍中将・特命全権公使として駐露公使に任じられた。1875年(39歳)に樺太・千島交換条約を締結し、シベリアを馬車で横断して3年後に帰国。その後、約20年にわたって海軍卿、逓信相、文相、外相、農商務相などの要職を務めた。農商務相時代に足尾鉱毒事件の現地視察を行い、企業と地元民の間の私的な事件とみなしてきた従来の政府の対応を改め、国が対応すべき公害であると宣言。鉱毒調査委員会を設置し、「知らずにいたことの責任」を理由に農商務相を辞任した。晩年10年間は四季の草花を愛で1908年に他界。享年72。義理・人情に厚く、民衆から「明治最良の官僚」と讃えられた。 ※1891年(55歳)、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)を創設し自ら学長となった。 ※初代逓信大臣を務めた際に、「Tに棒を一本加えて“〒”にしたらどうだ」と提案。 ※榎本の長男は黒田清隆の娘と結婚している。 ※妻は蘭方医・林洞海の娘たつ。 ※福澤諭吉「江戸城が無血開城された後も降参せず、必敗決死の忠勇で函館に篭もり最後まで戦った天晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府側も罪を憎んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談である。勝敗は兵家の常で先述のことから元より咎めるべきではないが、ただ一つ榎本に事故的瑕疵があるとすれば、ただただ榎本を慕って戦い榎本のために死んでいった武士たちの人情に照らせば、その榎本が生き残って敵に仕官したとなれば、もし死者たちに霊があれば必ず地下に大不平を鳴らすだろう」 ※山田風太郎「もし彼が五稜郭で死んでいたら、源義経や楠木正成と並んで日本史上の一大ヒーローとして末長く語り伝えられたであろう。しかし本人は『幕臣上がりにしてはよくやった』と案外満足して死んだのかもしれない」。 |
快速“あいづライナー”は赤くてカッコイイ | 会津若松の駅前には白虎隊の銅像が! |
維新軍との決戦の地となった若松城(鶴ヶ城) | 飯盛山の墓地への参道 |
一列に並ぶ19人の白虎隊隊士の墓 | 「自刃 永瀬雄治 十六歳」とある | 次々と墓参者が訪れ線香の煙が絶えることはない |
白虎隊墓所の全景(2008) | 唯一の生存者・飯沼貞吉 | 夕陽にたたずむ白虎隊 |
会津藩戦死者の墓所の門には徳川の葵紋があった。義に散った人々だ(2008) | 身元不明も多く「戦死者」とある |
会津藩戦死者の遺骸は西軍の命で放置されたまま触ることさえ許されなかった。民衆の嘆願で 終戦4ヶ月後に埋葬の許可が下り、会津若松市の阿弥陀寺には1300人の遺骸が埋葬された。 |
会津若松の西軍墓地。会津戦争では西軍側にも被害が出た。この西軍墓地には 十余藩174人の墓がある。墓地の門には薩摩、長州、土佐など複数の紋が入って いる。家紋がこのように並んだ墓地を見たのは初めて。諸藩の連合軍ならでは |
薩摩藩戦死者の墓。右後方は 長州藩、左後方は備州藩。 (2008) |
会津藩の少年兵士隊。若い19人が自刃した白虎隊の悲劇で知られる。会津藩では年齢別に部隊編成されており、16〜17歳の白虎隊、18〜35歳の朱雀隊、36〜49歳の青竜隊、50歳以上の玄武隊と、それぞれに呼称があった。白虎隊の内訳は計6中隊343名。白虎隊は本来予備兵力であり、装備も旧式銃で極めて貧弱だった。 1868年8月に新政府軍が会津へ侵攻を開始すると、その圧倒的な物量の前に重要拠点の守備隊は崩壊、若松城(鶴ヶ城)を死守するため本来は城下防衛の役目の白虎隊も前線に投入せざるをえなくなった。士気は高かったが、最新鋭の武器を揃えた新政府軍に歯が立たず、戸ノ口原の戦に出陣した二番隊・白虎士中隊37名は敗走、8月23日に負傷者を抱えた20名が郊外の飯盛山に逃げ込んだ。 彼らは会津市中が煙に包まれているのを見て、「敵に捕まり生き恥をさらす訳にはいかぬ」と集団自決を決行した。このうち、1人だけ喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)は、刃先が骨の部分に当たって上手く貫けず、何度か突いてるうちに気を失い一命を取り留めた。その後、一番隊など生き残った白虎隊士は若松城に入って西本丸を守り、1カ月の籠城戦を戦った。 維新後、飯沼は電信技士となり、日清戦争に陸軍歩兵大尉として従軍、拳銃を渡されたが「自分は白虎隊として死んだ身である」として携帯しなかったという。飯沼は1931年に77歳で没し、晩年になって手記『白虎隊顛末略記』などで飯盛山の悲劇を証言、世の人々が白虎隊の悲運を知ることになった。 飯沼の遺骨は遺言によって飯盛山の白虎隊の墓所(仲間と少し離れた場所)に分骨された。 ※士中二番隊の隊士・酒井峰冶も生き残り、没後の1993年に酒井家の仏壇から『戊辰戦争実歴談』が発見され、戸ノ口原の戦闘の様子が記されていた。 僕は若い頃、龍馬や西郷の視点のみで幕末を見て、新政府軍を善玉、会津藩を抵抗勢力、そんな風にとらえていた。なんと薄っぺらい認識であったか。 |
鎖国を終わらせた男 | 日本上陸地(久里浜)にあるダンディな銅像 | 当時の肖像画。天狗だ! |
函館のペリー広場に立つ『ペリー提督来航記念碑』。1854年、ペリーは開港される函館港を下検分する為に5隻の艦船を率いて来航。 これを契機に五稜郭が築造された。2002年に建立されたこのペリー像はかなり良いデキ!3方向から激写! |
京浜急行電鉄の浦賀駅 |
横須賀市久里浜のペリー公園 |
有名な狂歌「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」 |
ペリーたちが上陸したのはこの久里浜の海岸。 すぐ側にペリー公園がある |
ペリー公園のびくっりするほど巨大な上陸記念碑。 右後方の建物はペリー記念館。なんと入場無料だ |
「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」 背後は英文で書かれていた |
ペリー記念館のジオラマに見入った! | ナレーション&効果音付きで臨場感たっぷり | 江戸時代に描かれた黒船。煙突は火山のようだ(笑) |
ロードアイランド州にあるペリー提督一族の墓域。海軍で代々活躍してきた名門だ(2009) |
ドドーンと重厚感のあるペリーの墓! | 墓碑に海軍の指揮官であったことが書かれている | こちらは海軍が作ったペリーの追悼墓 |
日本を砲艦外交で開国(開港)させたアメリカの海軍軍人。 1794年4月10日、ロードアイランド州サウス・キングストンに海軍軍人の3男として生まれる。身長190cm以上の巨体で海軍でのあだ名は「熊おやじ」。祖父は医師だが、父クリストファー(1761-1818)は海軍大尉、男兄弟5人も全員海軍という軍人一家。長兄のオリバー・ハザード・ペリー(1785-1819)は海軍の英雄。母サラはスコットランド独立戦争の英雄ウィリアム・ウォレスの子孫。 1809年、14歳9か月で士官候補生の辞令を受けアメリカ海軍に入隊、以後、西インド、地中海、アフリカなど各地に勤務し海賊鎮圧などに従事していく。 1812年(18歳)、米英戦争に2人の兄と参加。 1813年(19歳)、兄のオリバー海軍大佐は英米戦争の「エリー湖の戦い」で米艦隊を指揮、敵6隻を沈めることなく全艦拿捕して勝利し海軍の英雄となった。オリバーから上官への有名な伝言「将軍閣下 我々は敵と遭遇し、全 てを捕獲した。2隻のシップ、2隻のブリッグ、スクーナーとスループが1隻ずつである。大きな尊敬を込めて、足下 O.H. ペリー」。 1819年(25歳)、兄オリバーがベネズエラ遠征で黄熱病により33歳で他界。 1833年(39歳)にNYのブルックリン海軍工廠(こうしょう)の造船場長に就任。蒸気船を主力とする海軍力の強化を説く。 1837年(43歳)にアメリカ海軍最初の蒸気船フルトン2世号を建造し艦長となる(ウィキには2隻目の蒸気船とある)。同年、海軍最高位である大佐に昇進(当時は大佐が特別任務で提督・代将になり、平時には再び大佐に戻った)。 1841年(47歳)、海軍工廠の司令官となり(ウィキは1840年)、ミシシッピ号(後に黒船として来航)、ミズーリ号など蒸気船3隻を建造。海軍教育の改革に尽力し、灯台施設の改良にあたるなど海軍近代化の基礎を築き、「蒸気船海軍の父」と称えられた。 1843年(49歳)、アフリカ艦隊司令長官に就任。アフリカ沿岸の奴隷貿易取締りを行う。 1846年(52歳)、メキシコ湾艦隊副司令官(翌年司令官)及びミシシッピ号艦長としてアメリカ・メキシコ戦争に参加し戦果をあげる。 1851年(57歳)、ペリーは日本遠征の独自計画を海軍長官に提出。「任務成功のためには4隻の軍艦が必要」「威圧のため3隻は大型の蒸気軍艦であること」「恐怖に訴える方が友好に訴えるより多くの利点がある」「オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき」とした。ペリーは日本にキリスト教文明をもたらすことが米国の歴史的使命と確信、来日前には周到に日本についての調査研究を行った。 1852年(58歳)には東インド艦隊司令長官に就任、日本開国の使命を与えられ、同年11月にフリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした東インド艦隊が米国東海岸バージニア州ノーフォーク港を出発した。艦隊は南アのケープタウン、セイロン、シンガポール、マカオ、香港、上海、琉球を経由しながら日本へ向かう。 1853年7月8日(59歳/嘉永6年6月3日)、旗艦サスケハナ号(乗員300名/全長76m、排水量3824トン、装備10インチ砲3門、8インチ砲6門)、ミシシッピ号(蒸汽船3230トン)、プリマス号(帆船889トン※サスケハナの4分の1程度)、サラトガ号(帆船896トン)の軍艦4隻を率いて浦賀に入港し、突如現れた黒船に日本は上を下への大騒ぎになった。長崎に向かえという江戸幕府に対し、ペリーは威圧的に開港を迫り、老中に相当する閣僚クラスとの面会を要求。来航6日目の7月14日、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、浦賀奉行の戸田氏栄(うじよし)と井戸弘道にフィルモア大統領の親書(国書)を渡すことに成功する。強く開国を要求したが、幕府から翌年までの猶予を求められ、日本側の回答を約束させてひきあげ琉球へ寄港した。同年10月30日、独断で小笠原島を占領する。その後、いったん中国に退去した。 翌1854年(60歳)2月13日に再度来航し、今度は旗艦サスケハナ号以下7隻の軍艦を率いて、いきなり江戸湾金沢沖(横浜沖)に入って示威行動をとり、幕府を狼狽させた。 3月31日、老中阿部正弘は林?(あきら)大学頭(だいがくのかみ)と、江戸町奉行の井戸覚弘(さとひろ)を全権代表とし、石炭・食料の供給、遭難船員の救助は認めるが通商には応じられないと回答。 ペリーはあっさりこれを了承し、下田・箱館の開港と最恵国待遇、領事駐在、漂流民保護などを定めた日米和親条約(神奈川条約)を下田で締結した。これにより200年以上つづいた鎖国がやぶられることになった。帰途、琉球王国と通商条約を調印、香港に戻る。体調不良により艦隊指揮権を譲り、イギリス船でインド洋を渡り、欧州を鉄道で横断して英国から大西洋を渡り、1855年1月11日(ウィキは12日)にニューヨークに帰国した。その10日後にミシシッピ号も帰国している。 1856年(62歳)、政府の委嘱で『ペリー提督日本遠征記』を執筆し、「こうした日本人の気質を見ると、この興味深い国の前途は、なんと有望であることか!」と記述。日本の経済大国化とアメリカとの通商競争を予言する。 1857年、63歳で海軍を退役。 1858年3月4日、ニューヨークで死去。享年63歳。日本を発って4年後だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあり、娘アンナと共に眠る。 ペリー日本遠征の公式記d録として、フランシス・ホークスを編纂主幹として1856〜1860年に刊行された遠征記3巻『ペルリ提督日本遠征記』。ロジャー・ピノーによって1968年に刊行された『ペリー日本遠征私日記』がある。 ※最近の教科書は“鎖国”という表現に否定的で、それと共に「開国」は「開港」に変わりつつある。幕府は松前(アイヌ)、対馬(中国)、長崎(オランダ)、薩摩(琉球)で貿易を行っており、長崎ではアメリカからも毛皮などを輸入していた。 ※来航時に幕府へ電信機と模型機関車(4分の1の大きさの蒸気機関車で実際にレールを走る)を献上した。 ※孫のカルブレイス・ペリー・ロジャース(1879-1912)は1911年にライト兄弟から飛行機の操縦を習い、同年32歳で初のアメリカ大陸横断飛行に成功。6,700Kmを49日かけて横断したが10数回の墜落によって機体はの部品もほとんど取りかえられた。 出発時のものは垂直尾翼と翼間支柱2本だけであり、交換した主翼は18枚、脚は20本、エンジンは2台といい、もはや別の飛行機だった。翌年、カリフォルニアのエアショーで事故死。享年33歳。墓所はペンシルベニア州ピッツバーグのアラゲイニー墓地。 ※ペリー提督の甥の息子の孫に同名の生物学者マシュー・カルブレイス・ペリーがいる。米国地質調査所に勤め、海鳥の生態調査が専門。2009年日米交流団体の一員として来日している。 ※兄オリバーの孫トーマス・サージェント・ペリーは慶應義塾大学の英文学教師となった。トーマスの娘アリスは駐日米国大使ジョセフ・グルーの妻。 |
アメリカ先住民で合衆国の武力征服に最後まで組織的抵抗を行ったアパッチ族の戦士。「最後のアパッチ族族長」として有名だが、正しくは酋長でも指導者でもなく1人の戦士であり、アパッチの男たちはジェロニモ個人を慕って抵抗戦を共にした(とはいえ大半の百科事典には最後の“アパッチ族首長”とある)。ジェロニモは首長ではないが、戦闘時のリーダーとしていつでも30から50人のアパッチを指揮していた(英語ウィキにはそう書いている。日本語ウィキには「軍事的な指導をしたこともない」とあるが)。 本名ゴヤスレイ(Goyathlay)で“あくびをする人”の意。チアリカーワ・アパッチ族のシャーマン(予言者、祈祷師)。“ジェロニモ”はメキシコ人のつけたあだ名「ヘロニモ(ジェローム)」の英語読み。身長は約1m70cm。 1685年、スペイン人入植地に対する初期のアパッチ襲撃に対抗するために、メキシコのチワワ州ヤノスにプレシディオ(スペイン軍駐屯地)が建設される。アパッチ族の価値観では古来から略奪は美徳であった(その意味では北欧ヴァイキングと似ているかも)。 1820年から1835年だけで約5000人のメキシコ人がアパッチ襲撃で死亡し100の入植地が破壊された。 1829年6月16日、ジェロニモが当時メキシコ領だったアリゾナ州クリフトンのノドヨン峡谷に生まれる。 1835年(6歳)、メキシコ政府はアパッチ族の頭の皮一枚に対し、男で100ペソ、女なら50ペソ、子供なら25ペソの賞金を懸ける。 1837年(8歳)、アパッチ族によるメキシコ人への本格的な報復襲撃が始まる。 1845年、当時メキシコ領のテキサスが合衆国の28番目の州として併合される。 1846年、テキサスを併合されたメキシコがアメリカに宣戦し戦争が勃発。2年後にアメリカがメキシコを破る。メキシコは領土の半分を失い、アメリカはカリフォルニア州、アリゾナ州などを得て白人の入植が始まった。 1848年、19歳でアロペと結婚(ウィキに「ジェロニモ17歳で結婚」とあるが1829年生まれなので違うと思う)。アロペ(17歳)は9人の妻の最初の女性であり3人の子を授かる。この頃からアパッチの土地にも白人入植者が現れジェロニモは戦い始める。 1851年、「アパッチ戦争」を開始する。 1858年(29歳)、メキシコ北部のチワワ州がアパッチ族に「和平協定」を申し出た。内容は「年4回、軍駐屯地にて、毛布、布地、トウモロコシの粉、アパッチ族の大好物の酒(メスカル)を支給する」というもの。ジェロニモらがこの和平協定を信じてメキシコ北部ヤーノス村に到着すると、メキシコ側から大歓待を受けた。これはアパッチ族を油断させるメキシコ軍の罠であり、滞在3日目(3月5日)にアパッチ族の野営をソノラ州の軍政長官ホセ・マリア・カラスコ将軍が400名の兵で包囲、皆殺し目的の「ヤーノスの虐殺」を行った。アパッチ族は130人が殺害され、婦女子90人が捕虜となり、ジェロニモは妻アロペ、老母、3人の幼い子どもを殺された。ジェロニモは不在で守ることができなかった。温厚だった彼の性格は激変、メキシコ人を呪い復讐の鬼と化す。ジェロニモは家族の遺品をすべて焼くと、アパッチの各支族から戦士を募る役目を引き受けた。自身はネドニ・アパッチ族出身、亡き妻はミンブレス・アパッチ族であり、アパッチ連合軍がここに生まれた。 1859年(30歳)、ジェロニモは「彼らがしたことを今度は我々がやり返す」とソノラ州アリズペで反撃を開始。白旗を持ってメキシコ軍を油断させ、出迎えた騎兵8人を殺すと彼らの頭の皮を剥いだ。銃弾を恐れずナイフを武器に暴れ狂うジェロニモの姿に、メキシコ人が思わず守護聖人ジェロニモ(聖ヒエロニムス)の名を叫び、彼の名は「ジェロニモ」となった。アリズペの戦いの後、チアリカーワ(チリカワ)・アパッチ族の女性を新たに妻としチアリカーワの戦士となった。 1861年(32歳)、アメリカで南北戦争が勃発。 1865年(36歳)、南北戦争が北軍の勝利で終結。奴隷解放は実現したが黒人差別問題は残された。 1873年(44歳)、メキシコ人は再びアパッチを攻撃。数か月の戦いの後、両者は平和条約の締結を決めた。条件合意後、メキシコ軍はアパッチにメスカルを与え、酔っている間に20人のアパッチを殺害した。 1876年(47歳)、アメリカ政府がチアリカーワ族をニューメキシコ州サンカルロスへ強制移住させたことに怒りソノーラを襲撃、。以降、神出鬼没の山岳ゲリラとなって10年にわたり頑強に戦う。先住地アリゾナ、ニューメキシコ地方に進出した白人に対して激しく抵抗し、白人入植地の襲撃を繰り返した。ジェロニモは白人入植者の間で「これまで住んでいた最悪のインディアン」の称号を得た。 同年6月、カスター将軍率いる第7騎兵隊264名が北部モンタナ州の「リトルビッグホーンの戦い」で、シッティング・ブルとクレージー・ホースに率いられたスー族・シャイアン族連合軍1800名以上と戦い全滅する。南のアパッチ族と、北のスー族は先住民抵抗勢力の象徴となった。 1882年(53歳)、ソノーラを襲撃。 1883年(54歳)、メキシコ政府はアメリカがジェロニモ討伐を目的とした米軍をメキシコに入れることを許可。 1884年(55歳)、ジェロニモは一隊を率いてメキシコ、アリゾナ、ニューメキシコ一帯で暴れ回り、住民を恐怖させた。 1885年(56歳)、白人に対し最後の抵抗を試みる。米国陸軍のジョージ・クルック将軍は従順なアパッチ族によるアパッチ部隊を編成し、ジェロニモ団の隠れ場所を発見させた。ジェロニモらは同族に裏切られたことに落胆した。 1886年(57歳)1月、ジェロニモ団はクルック将軍に発見され多数の馬を奪われる。彼らは士気が落ち、降伏の交渉に同意した。3月、メキシコのシエラマドレ山地でジェロニモ団39名はクルックに投降する。だが、国境を越えて米国に入ると皆殺しにされるとジェロニモは密告を受け、夜中に全員が保留地から脱出した。 クルック将軍は任務を解かれ、新たにネルソン・マイル将軍がジェロニモ団を追跡した。半年後の9月4日、アリゾナ州スケルトンキャニオンでジェロニモは正式に降伏した。これは米軍の交渉役がアパッチ語を話し、アパッチの伝統と価値に精通し、敬意を払っていたためだ。ジェロニモはアパッチを絶え間なく追跡した米側の粘り強さを認めた。 ※「ブリタニカ国際大百科事典」には「ジェロニモと24人の戦士はN.マイルズ准将指揮の5000人の陸軍兵と数千の民兵に包囲されシエラマドレで降伏した」とある。おかしい。メキシコのシエラマドレではなくアリゾナ州スケルトンキャニオン(英語版ウィキ)では? ソノラの知事は、ジェロニモが捕縛される最後の5か月で、16人のアパッチ戦士が約500?600人のメキシコ人を虐殺したと主張した。 その後、テキサス、フロリダ、アラバマへと身柄を移された。アリゾナの当局はジェロニモを裁判にかけて死罪にしたかったが、移送が早く裁判を開けなかった。米政府はアパッチの子供たち数百人をアリゾナ州の居留地からペンシルベニア州の工業学校に移したが、3分の1以上が結核ですぐに死んだ。 1894年(65歳)、ジェロニモを含むチリカワ族はオクラホマ州のアパッチ・インディアン捕虜収容所=シル砦(フォート・シル)に移住させられた。ジェロニモは捕虜のまま農業と牧畜に従事し、キリスト教の洗礼も受けいれた。 1898年(69歳)、ネブラスカ州オマハで開催された国際展示会で展示される。民衆はアパッチ戦争で有名な伝説の先住民をひと目見ようと押しかけた。ジェロニモは自分の写真、弓と矢、シャツのボタン、さらには帽子を売ってお金を稼いだ。 1904年(75歳)、セントルイス万国博覧会などで人間動物園として展示される。ジェロニモはここでも伝統的な服を着て写真を撮り、工芸品を販売した。ジェロニモ「博覧会に参加して良かった。多くの興味深いものを見て、白人の多くを学びました。彼らはとても親切で平和な人々です。私がフェアにいた間、誰も私を傷つけようとしませんでした。これがメキシコであれば、私は自身を守ることを強いられたに違いありません」。その後、「ワイルドウエストショー」に出演し野蛮人として描かれたが、ショーはジェロニモに多くの富をもたらした。 1905年(76歳)、セオドア・ルーズベルト大統領の就任パレードに伝統的衣装を着て参列。その後、ジェロニモは「アリゾナの故郷に帰りたい」と大統領に訴えたが、ルーズベルトは過去の民間人殺戮をあげて断った。 1906年(77歳)、思い出を口述筆記させた「ジェロニモの語る生涯の物語」を出版。 1909年2月17日に、ジェロニモはシル砦で肺炎のため79歳の生涯を閉じた。虜囚生活10年目だった。最後の言葉は「私は決して降伏するべきではなかった。生きている最後の男になるまで戦うべきだった」。生まれ故郷へ帰りたいという願いは叶えられなかった。 1928年、陸軍はジェロニモの遺骨の盗難を防ぐため、墓をコンクリートで覆って石碑を建てた。 ※アパッチ族の格言「神の名は無意味、世界にとって本当の神は愛なのだ」。 ※再婚相手との間に、チーハシュキシュ、ナナサスティス、ジヤー、シェガ、シュツハシェ、イーテッダ、タアイズスラス、アズールと数人を授かる。 ※ウィキには「アパッチ族にとって、策略は勇気に勝るとされ、夜陰に乗じて牧場から牛や馬をさらうという手法は部族の美徳とされていた」とあり。 |
墓参を通してサウスダコタの雄大な自然に抱かれ、心身共に生き返った気がしたよ〜 |
白人と戦ったスー族の指導者 | 騎兵隊を襲撃し、カスターの死を預言した | 罠にはまり最後は暗殺された |
TATANKA(タタンカ)の意味はブル、つまりバッファロー。映画 『ダンス・ウィズ・ウルブズ』で有名になったスー族の言葉だ |
ブル像の視線の先には湖が広がっている |
スー族と騎兵隊が戦った古戦場フォート・ロビンソン | 古戦場の池に朝陽が反射する | この大地をスー族の戦士クレイジー・ホースが疾走した |
フォート・ロビンソン(ロビンソン要塞)の看板と騎兵隊の宿舎 | 周囲を複雑な岩場に囲まれた自然の要害だ |
復元された白人の裁判所。この前でクレイジー・ホースは処刑判決を受け銃剣で刺殺された | 「クレイジー・ホースはここで殺された」とある |
【幕末重要キーワード】
・尊皇攘夷運動(そんのうじょうい)運動…“尊皇”は天皇を深く尊ぶこと、“攘夷”は夷狄(いてき=野蛮な異民族)を排除すること。開国反対。天皇の認可なしで西洋列強と条約を結んだ幕府と対立。長州藩が最も過激。武士にとって徳川打倒は明智光秀のような主君裏切りとなるが、天皇のために戦っているという理由付けで倒幕を正当化できた。
・公武合体運動…徳川14代将軍家茂と孝明天皇の妹・和宮が結婚したように、天皇と幕府とを一体化させることで従来の幕府独裁政治を修正しつつ、幕府支配を維持しようとする政治路線。尊皇攘夷運動と対立。薩摩藩、土佐藩など多くの勢力が主張した。
・安政の大獄…大老・井伊直弼による尊皇攘夷派の粛清、思想弾圧。
・勤王(きんのう)の志士…朝廷のために倒幕を目指す運動家。単に“志士”とも。
・新選組…幕府の治安維持組織。剣豪いっぱい。京都守護職・会津藩の管理下にある。
・佐幕(さばく)派…幕府派。体制維持派。
・朝敵…朝廷にそむく賊。逆賊。武士が最も恐れるレッテル。武士にとって朝廷側の軍勢である“官軍”になることが重要だった。
・六角獄舎…京都にあった未決囚用の牢獄。拷問、粗末な食事、病気で生きて出られる保証なし。数々の悲劇の舞台。
・松下村塾(しょうかそんじゅく)…長州藩士・思想家の吉田松陰(1830-1859)の私塾。高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など攘夷派の志士を多数輩出。松陰は兵学、洋学に通じ、黒船で密航を計るなど大胆。「安政の大獄」に連座し斬首。享年29。
・脱藩…武士が藩をぬけ出して浪人となること。これで移動の自由が手に入った(藩士は諸国の移動に藩の許可が必要だった)。なにより自分の行動で藩に迷惑をかけずに済む。ただし脱藩は最悪死罪。
・天誅組…尊王攘夷派の過激派グループ。1862年、武力による最初の討幕運動を開始(天誅組の変)。
・文久三年八月十八日の政変(1863年)…公武合体派の薩摩藩と会津藩が、攘夷派の長州勢力を京都から追い出すために起こしたクーデター。
・禁門の変/蛤御門の変(1864年)…長州藩が形勢挽回のため京都に出兵、天皇を長州に連れ去ろうとしたことから京都御所の蛤御門が戦場になった(長州としては天皇に自分たちの尊皇の志を伝えたかったが、前年の政変で御所に近づくことすら出来なかったので、長州の地にお連れして説明しようとした)。
【幕末主要事件年表】
海外では1842年に清国が阿片戦争でイギリスに敗北し、香港を奪われる。強国のはずの清国が破れたことに幕府は驚愕。
●嘉永六年(1853)
7.8 ペリーが黒船で浦賀に来航!
●安政五年(1858)
6.4 彦根藩の井伊直弼が大老に就任。
7.29 幕府が独断で日米修好通商条約調印。下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港。
9.17 井伊大老による尊皇攘夷派の粛清「安政の大獄」が始まる。逮捕者150人以上。
●安政六年(1859)
9.23 「安政の大獄」の第一次断罪で水戸藩士・茅根(ちの)伊予之介らが刑死。
11.1 「安政の大獄」の第二次断罪で儒学者・頼三樹三郎らが刑死。
11.21
「安政の大獄」の第三次断罪で長州藩士・吉田松陰らが刑死。一年で斬首されたのは8人。40人が島流しや追放となり獄死者も多かった。
万延元年(1860)
3.3
桜田門外の変。「安政の大獄」などの弾圧政策を憎んだ水戸・薩摩の浪士ら18人が桜田門外で直弼を暗殺。
●文久元年(1861)
10.20 幕府は難局を公武合体で乗り越えるべく、孝明天皇の妹・和宮と14代将軍家茂との婚姻を実現させる。孝明天皇は和宮降嫁の条件として、幕府に「異国との通商条約の破棄」を要請。それは不可能なので、幕府は「貿易で積極的に海外に進出し異国を従わせる」という論法で孝明天皇を納得させた。
●文久二年(1862)
4.23 薩摩藩の急進派が藩主によって粛清される(寺田屋事件)
11.24 都の治安維持のため、会津藩主・松平容保(かたもり)が京都守護職に着任。
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●文久三年(1863)
3.13 京都守護職に属する警備隊、「新選組」を近藤勇らが結成。尊王攘夷派の摘発にあたった。
5.10
長州藩が攘夷を実行。関門海峡を通る外国船に砲撃を行った。翌月、米仏艦隊の猛攻を受け、軍事力の圧倒的な差を痛感する。
7.2
鹿児島湾にて薩英戦争が勃発。薩摩は英国艦隊の大砲の威力を思い知る。長州と薩摩は次第に攘夷路線から離れ、むしろ外国から最新武器を手に入れることで倒幕を目指していく(薩摩が完全に倒幕に舵を切るのは3年後。“攘夷”を言い続けるのは、倒幕の口実に使えるから)。
8.17
武力による最初の討幕運動「天誅組の変」が勃発。天誅組は、吉村寅太郎(土佐出身)・松本奎堂(けいどう/三河出身)・藤本鉄石(岡山出身)の3人が総裁、孝明天皇の妃の弟で攘夷急進派の公卿・中山忠光(19歳)が主将。神武天皇陵のある奈良大和を拠点に蜂起し、人心を倒幕に向かせるために五条代官所を襲撃し「五條御政府」の樹立を宣言。五条を朝廷領として年貢半減を布告した。
8.18
朝廷政治が尊攘急進派公卿・三条実美(さねとみ)らにリードされる現状に不満を抱いた孝明天皇と、公武合体派の会津・薩摩両藩は、急進派公卿と彼らの後ろ盾の長州藩を朝廷・京都から排除するため、急進派公卿の参内(さんだい:宮中出仕)停止、長州藩の京都御所の警備解任を決定。尊攘派公卿7人は長州藩士と共に長州に逃れた(七卿都落ち)。この政変により、天誅組は朝敵とみなされ、たった1日で義軍から賊軍へ。9月2日には朝廷から追討命令まで出されてしまう。天誅組には、室町時代の南朝以来、尊皇の伝統がある吉野・十津川(とつがわ)郷士1000人が加わっていたが、朝敵の汚名を恐れて離脱。蜂起から1ヶ月が過ぎた9月24日、諸藩兵1万3千に攻撃され天誅組は壊滅した。
10.12
「生野の変」勃発。天誅組の志に共鳴した尊攘派志士・平野国臣(くにおみ)が、都落ちした公卿・沢宣嘉(のぶよし)を擁して挙兵。討幕を目指して但馬国の生野代官所(兵庫県朝来市)を占拠する。一時は農民2000人の兵力となったが、南から姫路藩、北から出石(いずし)藩の兵に挟撃され、3日後に壊滅した。平野は京都に護送された。
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●元治(げんじ)元年(1864)
6.5
新選組が池田屋に斬り込み9人の志士を斬り捨て、4名を捕縛。翌朝の市中掃討でさらに20数人を捕縛した。京都の尊攘派は全滅に近い打撃を受けたが、これで逆に尊攘派は団結する。司馬遼太郎「この事件がなかったら薩長土肥主力の明治維新は永遠にこなかったであろう」。
7.19
「禁門の変」(蛤御門の変)勃発。池田屋事件に激高した長州藩は、形勢挽回のため京都に出兵。名目は「奸臣(かんしん:悪い家来)から帝をお救いする」というもの。御所を警備する会津・薩摩との激戦に長州は敗北し、久坂玄瑞など有能な藩士を多く失った。
7.20
「禁門の変」で起きた火災が都に広がり、六角牢にも火の手が迫った。脱走を恐れた町奉行は午後2時から約3時間の間に37人の志士を斬首。5分に1人という速さであり、「生野の変」の平野国臣も未決のまま処刑された。結局、火は牢に達せず、幕府側暴挙の汚名だけが残った。
7.21
「禁門の変」(蛤御門の変)に破れた神官・真木和泉(まき・いずみ)ら17人が天王山で自決(爆死)。
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●慶応元年(1865)
土佐勤王党が処断され、武市半平太は切腹(前代未聞の誰も為しえなかった三文字割腹)。
●慶応二年(1866)
1.21 薩長同盟締結。龍馬がパイプ役になり、犬猿の仲だった薩摩と長州が軍事同盟を結ぶ。
1.23 龍馬が寺田屋で捕縛されかけ、負傷するも間一髪で脱出成功。
●慶応三年(1867)
10.14 大政奉還。徳川慶喜が政権を朝廷に返上。
11.15 龍馬と中岡慎太郎が近江屋で暗殺される。
●明治元年(1868)
1.3 戊辰戦争が始まる。
5.10
明治天皇から維新目前に倒れた志士の御霊を京都東山に祀ることが命ぜられ、霊山護国神社が創建される(靖国神社より古い)。
●明治2年(1869)
5.18 箱館五稜郭で榎本武揚ら旧幕臣が降服し、戊辰戦争が終結。
6.29 大村益次郎の提案で靖国神社の前身「東京招魂社」が創建される。
●明治10年(1877)
西南戦争(2月〜9月)。明治政府に対する不平士族の反乱。西郷隆盛らが再維新を訴えて蜂起。これが国内で最後の内戦となった。
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