世界巡礼烈風伝・24の巻 (8日目その2) 『ひまわりの側で〜夏目雅子』 白血病のため27歳で夭折した女優夏目雅子(1957〜1985)。中原中也の次は防府市に永眠する彼女の墓を巡礼した。 防府駅から徒歩で南へ向かうと丘の上に大楽寺がある。彼女のいる寺墓地は小規模だったので、自力で探そうと試みるが一向に見つからず、観念して和尚に質問しに行った。 分からなくて当然だった!初めて知ったが、夏目というのは本名ではなかったのだ。西山と彫られた墓が彼女の墓だった! 感動的な墓であった。 親族が彼女の墓の手前の区画を購入したのだろうか?ひまわりが大好きだった彼女の為に、そこはひまわり畑になっていた。つまり、少し距離をとって彼女の墓と対峙すると、あたかも咲き乱れるひまわり畑の中に墓石がたたずんでいる様に見えるのだ。 墓には普通お線香や和菓子が添えられているが、彼女の墓にはマニキュアなどの化粧用品とノンカロリーのアップルジュースなんかが添えられていて、実に女性的な墓だった。また、それは同時に、あまりに早く逝ってしまった彼女の哀しみを代弁しているようにも見えた。 日本映画が衰退していく中、登場するだけで画面が引き締まる“これぞ映画女優”と呼べる人もいなくなった。清楚であり、しかも妖艶さを内に秘めた彼女を、“日本映画界最後の女優”としてあげる者は少なくない(もちろん、僕もその一人だ)。 『風雲児!高杉晋作』 “動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し”と言われた、長州藩士高杉晋作は明治維新のスイッチを押した男だ。 1839年萩に生まれる。16歳で結婚。19歳の時、吉田松陰(3の巻で紹介)の門下生となる。 幕府に反抗して死罪に問われた師の松陰は、29歳で処刑される直前に、獄中から当時20歳の晋作宛に以下の手紙を記した。 『死は好むものでもなく、また、憎むべきものでもない。世の中には、生きながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。つまり小生の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ』 この手紙は以後の晋作の行動指針となる。 23歳になった彼は藩の代表として上海を視察、その際に欧州の白人にアゴ先でこき使われる中国の人々を見て愕然とする。 “あの大国がまるで奴隷国家になっている…目先のことしか考えぬ徳川幕府に任せていては、日本も同じ運命をたどってしまう…!” 帰国後、手始めに品川のイギリス大使館を焼き討ちする。翌年藩を欧州の軍事力から守るために、百姓や町人たちの中で“武士が頼りにならぬ以上、自分たちが長州を守るしかない”と考える有志に武器を持たせ“奇兵隊”を組織した。 一方、奇兵隊結成は“武器は武士だけの物”という保守的な藩士から猛反発を受け、以降の彼は幾度も命を狙われることになったが。 騎兵隊ではなく“奇”兵隊というネーミングに晋作のシャレッ気が表れている。2千人の奇兵隊は200隊で構成され、内訳は商人の「朝市隊」、猟師の「遊撃隊」、力士の「力士隊」など実に様々で、果ては神社の神主たちによる「神威隊」というものまであった。 ひょうきんな晋作は三味線片手に、自作の奇兵隊テーマ曲を歌って城下町を練り歩いた。こんな歌だ。 『♪聞いて恐ろし〜見てイヤらしい〜添うて嬉しい〜奇兵隊〜』 その後、長州藩は下関砲台を中心に何度も外国勢力と衝突を繰り返して行く。しかし、晋作のターゲットは徐々に海外の軍隊から、脳細胞が硬直化して時代の先が全く読めぬ徳川幕府に移っていった。 そして1864年12月15日(晋作25歳)、全国に先駆け、ついに幕府に対して刀を抜く決心をする。 しかし敵は巨大な幕府軍。晋作についてくる他の藩士はいなかった。決起当日、彼の元に馳せ参じたのは僅か80人の奇兵隊員だけだった。 だが晋作は不敵に笑う。 「80人。こんなけいれば、充分じゃ!」 確かにそうだった。80人集まったという噂はすぐに藩全体に流れ、日頃から彼の倒幕への熱い思いを聞いたものの迷っていた連中は、ポンと背中を押された感じになり、80人が200人に、200人が3000人になり、晋作の息のかかった奇兵隊員だけでなく、やがて藩ぐるみで徳川300年に反旗をひるがえすことになる。 最新銃器を薩摩藩のフリをしてイギリスから密輸入し、それらを完全配備した奇兵隊を晋作自らが指揮をして、幕府軍相手に勝ちまくった(3500人の奇兵隊が10万の幕府軍を打ち破ったことも!)。 その後は歴史が示す通り。最初晋作が一人で起こした行動は、アッという間に日本全体を巻き込む“うねり”になっていったのだ。 …始めに彼を「明治維新のスイッチを押した男」と書いたのはこういう訳だ。 しかし運命の女神は非情だ。大政奉還まであと8ヶ月という時に彼は肺結核で散った。生涯に300を超える歌を詠んだ彼の、最後の辞世の句は 「おもしろきこともなき世をおもしろく…」 で、上句を詠んだところで生き絶えた。 ここまできて病に破れ、非常に無念だったと思う。走りながら考える…これが彼の人生だった。 享年27歳。くしくも前述の夏目雅子と同じだ(さらに何と奥さんは高杉“雅子”!)。 墓は山陽本線小月駅からバスで。彼の号である東行を冠した“東行庵”に晋作は眠っている。付近の墓はそのすべてが奇兵隊員のものだった。 |
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