世界巡礼烈風伝・25の巻
(8日目その3)
『玉砕!田中絹代』
高杉晋作の墓から鉄道駅に戻る次のバスは1時間15分後だった。1時間15分!付近の茶店で徒歩ならどれくらいかかるか尋ねたら、山をひとつ越えて1時間だという返事。15分という貴重な時間を節約する為に、僕はバスを待たずに峠を越える決心をした。
で、山越え前に“とりあえず”エネルギーを補給しようと、茶店のメニューで気になった『名物!青梅ソフトクリーム』という、すっぱいアイスを食していると、ちょうど茶店に顔を出してた地元のおばさんが、
「あんた歩いて峠を越える気かい?あたしゃ今から車で街に降りるとこだし、長府駅でよかったら乗せてってあげるよ」 「よ、よ、よろしくお願いしますっ!」
まさか日本で逆ヒッチされるとは想像もしなかったので、4WDの後部座席に乗ってからも最初は戸惑っていたが、炎天下の中で踏破するはずだった山道を、ガンガンにクーラーの効いた車内で一瞬のうちに越えた時、僕の目にはハンドルを握るおばさんがまるで菩薩様のように見え、そのパーマ頭の背後で思わず手を合わせた。
長府から往年の大スターであり、日本最初の女流映画監督でもある田中絹代の墓参の為に下関に向かった。萩方面の俊寛の墓を先に行く方が効率はいいのだが、野ざらしで門限のない俊寛と違って寺墓地にある絹代さんの墓は17時というタイムリミットがあったのだ。
15時半、下関に到着。一目散に交番を目指し、寺へのルートを尋ねた。交番には4人の年配の警官がいた。 「ほう、田中絹代の墓!あんな昔の女優さんが好きなのか?」
そんなリアクションの後、2人の警官が“確かあの寺墓地は移転したと聞いたが…”と不吉なセリフを吐き、交番からお寺に“ファンの人がここに来とるんじゃが”と電話で直接問い合わせてくれた。
「君、残念だったな。やはりとうの昔に墓はよそへ移っとる。中央霊園ちゅうて、今からじゃあ到底門限に間に合わんぞ。」 「ウギャーッ」
号沈した。朝の中原中也に続き、本日2度目のトンチキ情報だった。情報源は平凡社から昨年発行された『あの人のお墓』。カーッ、まったく楽しませてくれるぜ!
交番を出た僕は、目にうっすらと涙を浮かべ、美祢(みね)線に乗換える為に厚狭駅までバックした。
『悲劇の僧、俊寛(しゅんかん)』
平安の末期1177年晩春のある夜、京都東山の鹿ヶ谷の山荘に6人の男が密かに集まった。 『平家にあらずんば人にあらず』(平清盛)
こう語り、おごり高ぶる平家一門を打倒する為の秘密集会だった。ところが、策を講じているうちに恐ろしくなった一人が清盛に密告、それぞれが死罪もしくは島流しという宣告を受けた。
高僧の俊寛は僧侶だった為か処刑されず、他の2名と共に喜界島(きかいがしま、現在の硫黄島)へ流されることとなった。
1143年生まれの俊寛は当時34歳。処刑をまぬがれたといっても、九州のはるか南方に浮かぶ喜界島は、当時“鳥も通わぬこの世の果て”と言われており、彼らにとっては死罪に等しかった。
彼ら3人は喜界島で激しい望郷の思いに駆られる。そのうちの一人が切実な故郷への気持を和歌に託して、千枚の板に書いては海に流し始めた。
『薩摩がた 沖の小島に 我ありと 親には告げよ やへの潮風』 “潮風よ、私は薩摩の沖の小島に生きていると親に知らせてくれ” 『思いやれ しばしと思う 旅だにも なお古里は 恋しきものを』
“短い旅でも故郷が恋しいのに、島でどんなに都へ帰りたがってるか思いやって下さい”
これらの歌のひとつが奇跡的に広島の厳島に流れ着く。厳島には清盛が信奉する厳島神社があった。京の都に彼らへの同情論が起こったのと、安徳天皇をお腹に身ごもった清盛の娘徳子が物の怪(もののけ)に取付かれ床に臥し、陰陽師(おんみょうじ)が物の怪の正体は流人の生霊だと指摘した為、清盛は彼らに特赦を伝える使者を送った。
許しが出て大喜びする3人。しかし文面をよく読むと俊寛の名だけが記されていない。清盛は鹿ヶ谷の極秘会合でアジトを提供した俊寛を許さなかったのだ。
平家物語に俊寛との別れの情景が詳しく描かれている。
『僧は乗っては降り、降りては乗って自分も連れ帰ってほしそうでした。やがて船が浜を離れ始めると、僧は船の後部にしがみ付いて泳いでいます。
「とうとうこの俊寛を捨てておしまいになるのか。これほど薄情だとは思わなかった。普段の友情も今は何の役にもたたぬのか!」
僧は仲間2人を責め立てましたが、2人とてどうすることも出来ません。やがて役人が船にかかった僧の手を払いのけました。浜に戻った僧はあらん限りの声で叫びました。
「ああ、待ってくれ!せめて、せめて九州の地まで乗せて行ってくれーっ!」
その後、僧は泣きながら島の高所に駆け上がり、岩の上で沖に向かってなおも最後まで手招きしていました』
都から遠く離れた絶海の孤島でも、今まで不満や悲しみを3人で互いに慰め励まし合ってきたからこそ、精神の均衡を保てたことを彼は痛切に感じていたので、一人ぼっちになることを極度に恐れたのだった。そして…彼はやはりその後1年しか生きることが出来なかった。生きる気力を失い、衰弱死したのである。
1179年、俊寛36歳の年であった。
俊寛の息子・有王丸(従者という説もアリ)は薩摩の漁民に小船を出してもらって遺骨を本土に持ち帰ったが、京へ戻る途中に現在の山口県長門湯本にさしかかった時、突然父の遺骨が重さを増し、そこを安住の地に希望していると悟って、手厚く埋葬したのだった。
長門湯本には有名な湯本温泉があったが、そこへ乗り入れるJR美祢線は超ド級ローカル線。昼間は2時間に1本、車両は一両だけ、車掌がおらず運転手一人のワンマン列車だ。動き出す時の振動がものすごく、まるで戦車に乗っているかのような錯覚を味わった。
とはいえ景色は最高だ。豊かな自然もさることながら、この一帯の家屋は屋根瓦がレンガ色で統一されており、それはもう美しいのなんの。機会があればぜひ美祢線を御利用頂きたい。
さて、無人の湯本駅で下車した僕は、町外れの俊寛の墓を目指して温泉街を突き抜けた。良い感じにひなびた木造の旅館がたくさんあり、あきらかにこの土地を墓参だけで通過するのは馬鹿げていた。1泊8千円ほどで泊まれるはずだった。しかし、その8千円が失業者の僕には痛恨の出費になり…いや、よそう、ここでこんな話を書くのは!
俊寛、そう俊寛の墓だ。墓は川沿いの小山のてっぺんにあり、塚という印象だった。
俊寛といえば「置いてきぼり」「待ちぼうけ」がキーワード。目の前でバスや列車が発車した時や、惚れた女性が「そのうち電話するから」と社交辞令で言ったのを真に受けて待ち続けていた時など、日常生活の様々な局面で俊寛のことを思い出す僕は(平家打倒とはあまりにレベルが違うが…)、以前から彼に言いようのない親しみを覚えており、墓前に立った時に 「アア、友よ!分かる、分かるなあ、その気持ち!」 こう叫んだのであった。
P.S.能の演目『俊寛』は、極限状況の人間の弱さを描いた深刻な“劇能”で舞いの場面は存在しない。踊り手は数ある能面の中から『俊寛』専用の面を使用する。舞台の最後は遠ざかる船と俊寛の絶望が切実に胸に迫り、幕が下がってからも正気に戻るのに時間が必要だ。
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