世界巡礼烈風伝・26の巻 (8日目その4) 『いざ、島原へ!』 下関、小倉を経由し博多に着いたのが午後7時半過ぎ。佐賀に9時ごろ到着して、最終列車で11時に島原半島への玄関口といえる諫早(いさはや)市にたどり着く。長崎本線の各停はとにかく遅い。ちょっと進んでは特急と通過の待ち合わせで、乗客にとっては忍耐力を養う鍛練の場であった。乗客、といっても3両編成で3人しか乗っていなかったが。 諫早で島原鉄道の最終に連結してるかと思いきや、島鉄の最終は2時間も前の9時過ぎだった。始発は7時前。野宿しても良かったが、小雨がパラついていたし、むせ返るほどの強烈な湿気は不快指数200%、しかも駅周辺には悪党どもが徘徊していた。僕は一応3千円台の安宿を探し、もし見つからなければ野宿と心に決めた。 とりあえず街中を散策してビジネスホテルの相場を見たが、大体が5千円強で問題外。やみくもに歩いてもラチがあかないので、夜の世界に詳しいであろう居酒屋の従業員のお兄さんをとっつかまえて尋ねてみた。 彼が教えてくれたのは『ビジネスホテル蛇の目』。1泊4200円で目標の3千円台までもう一息だった。 時計の針は11時半を指していた。すでに大半の宿は入口の照明を消しており、これ以上遅くなると宿泊代をどうこういう以前に、チェックイン自体が不可能になりそうだった。僕はアセッた。 追いつめられたネズミのような気持ちで蛇の目ホテルのドアを開け、応対に出たオカミさんに人間的プライドをすべて捨てこう尋ねた。 「スミマセン!この街にここより安い宿がありますか?3千円台の。僕、貧乏なんです〜う!」と。 この質問に対し、東京ならおそらく 「存じ上げません。ヨソ様の宿泊費は分かりかねます。」でツーンって感じだろうし、大阪なら 「何言ってまんねん、ウチが1番安いに決まってまんがな!」とハッタリをかけてくるだろう。しかし九州は違った。オカミさんが奥の方へ引き下がったと思ったら、何やら話し声が聞こえてきた。 「あなたちょっと起きて。おもてにもっと安い宿がないか尋ねている人がいるんだけど…」 すると眠っていた御主人が、起きて電話をかけ始めた。 「あの〜すみません、つかぬ事をお伺いしますが、今晩一名まだ宿泊可能でしょうか?そうですか、満員ですか…有難うございました。」 と僕の代わりに問い合わせてくれてるのが聞こえてきた。 「次のとこにかけてみるか…」 もう僕は充分だった。この優しさには仰天した。そこまでしてもらえたら何も言うことはない。 「(アワワ)ぜひここに泊めて下さい!もうけっこうです!どうしてもここに泊まりたいんです!」 このホテルが仮に1泊2万であろうと僕は泊まっていただろう。奥から出てきた御主人は俳優のロビン・ウィリアムズそっくり。とても優しい目をしていた。 「ウチは4200円だけどいいんですか?」 「ハイ、いいです!」 宿帳に名前を記入しながら雑談をして、御主人に島原のユースに泊まるつもりが間に合わなかったことなどを話してると、 「私もね、若いじぶんは全国のユ−スを渡り歩いてたもんですよ。え〜と、3900円になります。」 「!?」 御主人は3千円台にしてくれたのだった。 翌朝は快晴。島鉄の始発に乗り天草四郎の眠る原城に向かった。 P.S.烈風伝21の巻の高橋竹山について、北海道在住のTさんからこんなお便りが届きました。本人から許可を得ましたので転載させて頂きます。なおここでいう“ジァン・ジァン”は前衛的な地下小劇場の名前で、“岩木”は竹山の代表曲のタイトルです。 「無償の労作をいつも感激しながら読ませていただいてます。21の巻は私の大好きな、竹山。彼の演奏を初めて聞いたのは、26年前、渋谷のジァン・ジァンでした。仕事で上京し、夜には芝居を見漁っていた合間に、ふと入って聞いた津軽三味線。小さな小屋の、わずかな聴衆を前に彼の語った“中じょんがら”に涙がとまらなかったのを憶えています。戦後の辛い門付け生活の中で、板で支え、ひもで縛った三味線を引きながら語り歩いた中じょんがら節は、彼自身 『これは、俺達の生活の歌だ、労働歌だ。』 …と。私は、その日聴いた中じょんがらが、他のどんな魅力のある彼の演奏(札幌の大きな会場で堂々と弾き上げた“岩木”の迫力)にもまして、今も鮮烈に耳に残っています。竹山編、本当に有難う。御自愛を…」 |
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