※今回の天草四郎編の執筆にあたり“徹底的”に島原の乱を調べあげた。たった一ヶ所(原城)で約4万人の人々が虐殺されたこの一揆は、江戸時代最大の反乱というよりは、日本史上における未曾有の大事件ということが分かった。烈風伝27の巻、追いつめられた農民たちの声なき声を聞いて欲しい。 世界巡礼烈風伝・27の巻 (9日目) 『3万7千人の墓標〜原城跡』(前編) 一両編成の島原鉄道に乗り、諌早駅から2時間以上かけて原城駅に到着した。途中、雲仙普賢岳を真横に眺めながらの旅路だった。駅員に原城の方向を聞こうと思ったら、最近リストラで無人駅になったみたいで、僕は誰に尋ねることも出来ず途方に暮れた。 駅前で誰かが通るのを待ってみた。しかし底抜けに田舎で猫一匹姿を見せず、結局小林多喜二の時と同じで、付近の民家の呼び鈴を鳴らしてまわることになった。 教えてもらった道を約20分歩くと、幕府軍側の武士の墓や“ホネカミ地蔵”という両軍の共同埋葬跡が次第に現れ始めた。 やがて海に突き出た崖の上に城の石垣が見えて来た。そして、そこには遠方からでもハッキリと見える、10メートルはゆうに越えるであろう巨大な純白の十字架が、天に向かってドーンとそびえていた…。 さて、この烈風伝は今から天草四郎の物語に突入していくが、まず彼がリーダーとなった島原の乱がなぜ起きたのかという歴史的背景から、切り込んで行こうと思う。 (1549年) キリスト教が九州に伝来。度重なる凶作など、現世に希望を持てなくなった農民の間で爆発的に信仰が広まる。やがて武士の中にもキリスト教に帰依する者が出始め、島原を治める有馬氏や天草を治めた小西氏など、大名のトップまでもが信者となり、こうした大名はキリシタン大名と呼ばれた。 (1600年) 関ヶ原の合戦で西軍についた小西氏が斬首される(彼はキリスト教徒なので自害しなかった)。天草地方の領主は反キリシタンの寺沢氏に代わった。 (1613年) 主君への忠誠より神への絶対的忠誠を誓うキリスト教徒は、徳川幕府の脅威の対象となり、全国に禁教令が発布される。多数の宣教師や信者が国外追放となる。 (1614年) 島原地方は領主の有馬氏がキリシタン大名であった為、全国一の熱狂的キリスト教徒の巣窟といわれていた。このため幕府は有馬氏を宮崎に移し、かわりに奈良から松倉氏を新領主として派遣した。 この松倉氏が、それはもう最悪の藩主だった。メチャクチャ見栄っ張りで島原藩は実質4万石の財政なのに10万石クラスの豪壮な城を建てさせ、さらに城下町も近隣の12万石の唐津城下より大規模だったというから、領民への労役と重税は相当なものだった。 松倉氏が定めた税は多岐に渡り、家に棚をつけたら「棚税」、窓をつけたら「窓税」、子が出来たら「頭税」、囲炉裏(いろり)を作れば「囲炉裏税」、挙げ句の果てには死者を埋葬した時の「穴税」まで制定した。 特に年貢については、3倍に水増しした検地を行ない、それを基に年貢を課すという極悪非道ぶりで、領民は文字通り食うや食わずの生活を強いられた。 (1621年) 松倉氏が将軍家光よりキリシタンを根絶やしにしろとの厳命を受ける。弾圧はさらに加速し、他の信徒の名を自白しない者や改宗を拒む者は、雲仙の火口へ生きたまま投げ込まれたり、火あぶりに処せられたりと、苛烈な拷問と処刑が日常的に行われた。 (1622年) 天草地方に天草四郎(本名益田四郎時貞、洗礼名ジェロニモ)が生まれる。父はキリシタンの前藩主・小西氏の家臣だった。 (1634〜1637年) そこへきて、この4年に渡る凶作の連続。凶作でも年貢の量は変わらず、餓死者が相次ぐ。そして年貢の引き下げが行なわれるどころか、逆に取り立ては非情さを増した。 キリシタンに限らず年貢を払えない者に対しても、ありとあらゆる残虐な行為が繰り広げられた。城へ呼び出された年貢未納者は、手足を縛られ蓑(みの)を着せられ、火をつけられた。熱さのあまりもだえる様が踊っているように見えたので、役人たちはそれを「蓑踊り」と言って楽しんだというからシャレになってない。 また当時の文献に「籠詰(かごづめ)」という刑罰も載っている。 『百姓の与三左衛門は、年貢を納めきれず幾らかの未納米があった。役人たちは、ならばかわりにと息子の嫁を臨月でお腹が大きくなっていたにも関わらず引っ立てていき、初冬の冷たい川の中へ籠詰で数日間そのままにさらした。やがて6日目に嫁は籠の中で出産、衰弱した母子は共に不憫な最後を遂げた。』 農民にはもう、黙って死ぬか、戦って死ぬかの、どちらかしか道が残されていなかった。 『3万7千人の墓標〜原城跡』(後編) (1637年10月25日) ついに島原で最初の一揆が勃発した! 秋になったが凶作で米が収穫できず、多くの農家が年貢米を確保できなかったからだ。蜂起した島原の農民はまず地元の悪代官を殺したあと、鎮圧に来た藩兵を破って逆に島原城を包囲した。 一方、天草藩でも島原に呼応し領民が「最後の審判が来た」と起ち上がる。こちらも鎮圧軍を破った一揆軍が藩側を籠城に追い込んだ。 天草側のリーダーは天草四郎。彼はまだ16歳の少年だった。そんな若者が一揆の指導者に選ばれたのは、彼が様々な奇跡を行なったので、人々が彼を天使と信じていたからと言われている。 海の上を歩いたり、秋に桜を咲かせたり、雀がとまった枝を折っても雀が逃げなかったなど、各種の伝説がある。中でも有名なのが、皆の前で鳩に手の平へ卵を産ませ、卵の中から聖書の経文を取り出したエピソードだ。 彼が起ち上がったと聞いて、たった一晩で一揆軍は1万人に膨れ上がったという。 (11月8日) 一揆発生の第一報が江戸に届く。この一揆を甘く見ていた幕府側は、近隣の細川・鍋島両藩に出兵させることで鎮圧できると考えた。幕府側統一軍の総大将に、家康公以来の忠臣板倉重昌が指名された。 (11月下旬) 接近する幕府軍との決戦に備え、島原と天草の一揆軍は合流し、南と西が海に面した断崖絶壁の上に建ち、天然の要塞とも言える原城に続々と入城した(四郎の入城は12月3日)。その数3万7千人。一揆に参加した農民がみな原城に入ったため、島原南部と天草の村は人っ子一人いない廃村になった。 (12月上旬) 板倉率いる幕府軍が島原に到着。島原・天草両藩の軍、鍋島・細川からの協力軍と共に、原城の攻略にとりかかった。対する一揆軍も四郎を総大将とし、その下に鉄砲大将・侍大将・奉行などの幹部を置いて組織をしっかりと固め、万全の態勢で迎え撃った。 幕府軍はなかなか足並みが揃わなかった。総大将の板倉が僅か1、5万石の小大名だった為、細川軍も鍋島軍もこのような小大名の言うことなど全く聞かず、それぞれが勝手な動きばかりしていた。そこを付け入られて一揆軍に連敗を重ね、結局攻略は全く進まなかったのだ。 (12月下旬) ここに来て幕府もこれはただごとではないということにようやく気付く。将軍家光は自ら決断を下し、腹心中の腹心、老中の策士・松平信綱を援軍として派遣した。動員した兵力は一揆軍の3倍以上の12万人で、関ヶ原の際の東軍兵力を上回る超大軍になった。 (1638年元旦) この知らせを聞いた総大将板倉は苦しい立場に追い込まれた。最初に派遣されて以来敗戦が続いているところに、超大物の「援軍」がやってくる。これでは武士としての面目が立たない。板倉は討ち死にする決心をし、援軍が到着する直前の1月1日、手勢の兵を率いて無謀な城突入作戦を敢行。望み通り討ち死にした。この元旦の戦闘における幕府軍の死者は4000人、対する一揆側の死者はわずか100人だった。 (1月4日) 白い羽織袴を着込み額に十字架を縛り付けている美少年の、強烈なカリスマが当地を支配していることを島原入りした信綱は知り、強引に攻めてもそう簡単には落ちないと即断し、長期戦に転じた。作戦は「干し殺し」だった。 信綱は城を包囲して兵糧責めにする一方、トンネルを掘って侵入を試みたり、オランダ船で海上から射撃を加えたり、甲賀忍者を城内に潜入させて、城内にわずかに残る食糧を盗み出させたりと、あらゆる策を実行した。そして城の回りに土俵を積み上げ、決戦時に突撃しやすいようにしていった。 (2月27日) 小戦闘で倒した一揆軍の農民の腹を割くと、中には芝や海草のようなものしか入っておらず、信綱は機が熟したと判断。怒涛の総攻撃を開始する。弾薬の尽きた一揆軍は鍋のフタまで振りかざして戦ったが、火を放たれて城内はパニック状態になる。 (2月28日) 総攻撃の翌日、ついに落城。 約半年の攻防戦は終わった。 幕府軍には家光から女子供でも全員殺害せよ、との厳命が下っていた。一揆軍は約4万人といっても、そこには多くの女性や子供、老人が含まれており、3分の2が非戦闘員だった。城内で大虐殺が行われ、一揆に参加した3万7千人は皆殺しにされた。戦闘後、一揆軍の男子1万人が獄門となり、首を原城にさらされたという。海を見晴らすのどかな原城に1万の首が並んだ様は、まさしく地獄絵巻だったろう。この決戦で幕府側も千人以上の死者を出した。 四郎の首は細川軍が討ち取り、長崎でさらし首となった。 おびただしい死体の群を前にして、41歳の信綱は厳しい表情で立ち続けていたという。 (戦後処理) 暴政を行ない、一揆の原因を作った島原藩主松倉氏は、大名としては異例中の異例である斬首に処された。天草藩主の寺沢氏も領地は没収。結局寺沢氏は責任を取って切腹した。また攻防戦の時に命令に従わなかった各藩主も処分を受ける。 乱後、島原南部と天草にはほとんど農民がいなくなり、幕府は各藩に強制的に人数割をして農民を移住させた。藩によってはくじ引きで移住者を決めたところもあった。 しぶしぶ移住してきた者は現地に来て大喜びした。幕府がこの土地の農民の年貢を島原の乱以前と比べて6分の1(!)にし、大変優遇したからである。幕府がどれだけこの一帯の民衆を恐れていたかが分かる。噂は急速に広まり、近隣の諸藩から非合法に流入してくる者が増えたが、支配層はそれをまた黙認したため、50年後には豊かな農村が復興した。 年貢が軽減されていた上に、古い因習のない新しい村が構築され、日本国内で最も自由な村が生まれたのだ。 この戦後処理を見る限り、約4万の命はムダではなかったと信じたい。 四郎の墓参をしている時、陽光にきらめく青い海や、付近の田園風景があまりに穏やかなので、自分が悲劇の地に立っているとはなかなか思えなかった。しかし、ちょっと散策すると城跡のあちこちに無縁墓があるのが分かり、徐々に事件の重みが全身に伝わってきた。 遠路はるばるこの地へ来たのは、四郎に会いたかったこともあるが、3万7千人という途方もない大勢の人が、自分の信念の為に亡くなった場所で手を合わせたかったからだ。信念の為に殉ずる…そうした行為を無条件に美化するつもりはないが、“自分であること”を貫き通した彼らに、心から頭が下がった。 帰りの駅で列車を待ってる時に、地元のおじいさんから色々と話を聞いた。おじいさんが子供の時は、原城跡に数え切れないほどの人魂がよく出ていたこと、本丸跡の土の中からものすごい量の人骨が今だに発掘されることなどを…。 この乱の翌1639年、幕府はポルトガルと通商を断ち、日本は一気に鎖国へと進んでいった。 (P.S.)この時一揆軍が掲げた聖旗は、ヴァチカンによって十字軍旗、ジャンヌ・ダルク旗と並ぶキリスト教3大聖旗に選定されている。 |
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