世界巡礼烈風伝・29の巻
(9日目その3)

『文科系剣豪・宮本武蔵』


原城を後にした僕は、島原半島から対岸の熊本市まで島原湾を高速艇でイッキに横断した。JRだと熊本に入るのに佐賀経由で半日かかるところを、この高速艇はわずか30分で僕らをブッ届けてくれる。しかも650円というハッピー・プライスでだ。

出航後、遠ざかる島原を最後にひとめ見ようと後部甲板に出ると、目前に雲仙普賢岳がドドーンとそそり立ち、あらためてその狂暴な威圧感に息を呑んだ。
この日は8月9日。航海中にちょうど正午となり、長崎を発った船内では多くの乗客がお昼のNHKニュースに見入っていた。

熊本港からバスで熊本駅へ。そこから大分まで九州を横断する豊肥本線に乗車し、約20分で武蔵塚駅に到着した。途中、地図で熊本城の方向を調べ必死で窓に貼り付いて目をこらすも天守閣すら見えず、隣りにいた男子中学生に“お城はいずこ?”とクエスチョン。
「お城はビルのずっと向こうタイ」
とつぶらな瞳で指摘される。大阪城のように列車から呆視できるロケーションではなかったのだ。

駅を出るとそこは午後2時の猛暑。車道に沿って15分ほど歩くと、目的地の武蔵塚公園に着いた。ここに剣豪宮本武蔵が眠っている。

武蔵の生涯については実像を伝える資料が乏しく、多くの伝説が後世の文人(吉川英治など)によって作り出された。とはいえ、古文書の研究によって等身大の姿がけっこう分かってきている。

江戸初期の剣豪で播磨出身(出生地は諸説あり)。父親は十手使いの達人であり、武蔵も若い頃から全国を武者修行してまわった。13歳から他流試合をおこない、京都で剣士・吉岡清十郎に、奈良で槍の名手宝蔵院に、伊賀で鎖鎌の達人宍戸梅軒に、江戸で柳生一派の大瀬戸隼人たちをことごとく打ち破る。そして1612年、20代の最後に下関の巌流島(船島)で佐々木小次郎との一戦に勝利し、これをもって果たし合いから身を退く。この有名な小次郎との戦いは、江戸時代に早くも歌舞伎や浄瑠璃で描かれている。13〜29歳の決闘の総計は60試合。武蔵は二刀を活用した二天一流兵法を編み出して、そのすべての対戦に勝利した。

だが、それだけの腕を持っていても、武蔵にはなかなか諸大名から剣術指南役の声が掛からなかった。17歳の時に関ヶ原の戦に西軍として出陣した経歴が、徳川の治世でネックになっていたのだ。31歳で大坂冬の陣及び夏の陣に続けて参戦し、53歳で島原の乱にも出陣し武功をあげたが人生の転機とならず、1640年、56歳になってようやく熊本藩に客分として招かれ生活の安定を得た。以降、彼は藩主細川忠利(細川ガラシアの長男)の求めでもあった兵法書の執筆に励む。翌年『兵法三十五箇条』を書き上げ、59歳からは岩戸山観音で坐禅の日々に入り、二天一流の兵法を地水火風空の五輪にたとえて奥義を説いた『五輪書』を完成させる。没する直前に自戒の書『独行道』21箇条を残し、61歳で永眠した。
※僕は初めて『独行道』に触れた時、19番目の項「仏神を尊び、仏神を頼らず」にキョーレツに胸を打たれた。衝撃的だったと言ってもいい。これは僕に“仏神を頼らない”という宗教観を植えつけた。死を目前にした人間がこのような言葉を書き記す…この武蔵の強さにハートがしびれまくった!

出世街道から外れていた彼は、自分の魂を見つめる禅世界に傾倒し“剣禅一致”の境地に到達する。書や連歌、茶の湯や金細工の腕もなかなかと聞くが、中でも『枯木鳴げき図』『鵜図』などの水墨画はイブシ銀の味わいがあり、実にもって魅力的!その確かな技巧は趣味という範囲を越えたものだ。

墓所は熊本駅から車道に沿って15分ほど歩いた武蔵塚公園にある。そこはかつて参勤交代の沿道で、彼の遺体は本人の希望で、鎧兜など甲冑を着込んだ出陣時の正装で「立ったまま」埋葬された。武蔵は浪人生活を送っていた自分を召抱えてくれた細川氏を、死後も見守り続けるつもりだったんだ。武蔵塚公園は林や池のある美しい公園で入場は無料。園内には大きな墓の他に、二刀流の武蔵の銅像、五輪書の解説コーナー、『独行道』21箇条の全文を直筆から起こした碑などがある。
※武蔵の墓は熊本だけで島崎、泰勝寺、八代城内、岩戸観音にあり、他県では岡山の宮本村、千葉の徳願寺、名古屋の新福寺、小倉の延命寺にもある。延命寺の墓碑は養子の宮本伊織が建立した。


タイマーで記念撮影したが何か物足りない。駅の近くまで帰った時に道端でゴミのペットボトルを2本発見し、ピーンとひらめいた。列車の時間が迫っていたが拾い上げて墓に猛ダッシュで戻り、“ペットボトル二天流”で彼とツーショトを撮りなおした。満足のいく激写に成功し、有頂天で駅に駆け込み列車に飛び乗った。


(P.S.)小説『宮本武蔵』では、ただの荒武者だった武蔵に禅の道を指導した沢庵和尚。横浜のTさんが沢庵和尚の遺言を郵送して下さっていたのでここに紹介します。

『自分の葬式をするな。香典は一切貰うな。亡骸は夜に密かに担ぎ出し、野外に埋めて二度と参ってはならぬ。墓も作るな。朝廷から号を受けるな、位牌もいらぬ、法事もするな。』

これほど徹底的に孤高な遺書を今までに見たことない。“二度と墓に来るな”という遺言に、人はここまで悟れるものなのかと絶句した。沢庵は弟子に印可(悟りの証明書)をあえて出さず、自らの代で自分の教えを絶法とした。まるで思考する疾風だ。
(沢庵殿すまぬ!拙者は墓参したばかりか写真をバシバシと7、8枚も撮りまくり、しかも墓前の居心地が良かったので再び会いに行こうと思っているのだ!)

(P.S.2)五輪書の五輪とはオリンピックではなく、地、水、火、風、空っす。


      


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